青木氏氏 研究室
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  [No.381] Re:「青木氏の伝統 56−4」−青木氏の歴史観 29−4」
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/04/30(Thu) 15:13:57


「青木氏の伝統 56−3」−「青木氏の歴史観−29−3」の末尾
>
> (注釈 「紀州雑賀忍者と伊勢伊賀忍者」
> この「左右の忍者衆」による「勢力争い」が無かったのかである。
> 上記の注釈の通り、「紀州雑賀忍者・紀州藩」が「紀の川の紀北域・伊勢神宮の最後の遷宮社の日前宮社の宮前地区・南地区・中地区の郷」に居て、「紀伊山脈」を境にして伊勢側の全く「反対の位置・100k・北東30度」に「伊勢伊賀忍者・幕府」が居たのだ。
> つまり、「紀伊山脈北部域の山陵」を隔てて左右に「忍者勢力」が活躍していた事に成る。
> そして、「紀伊山脈の南部域」には「平家の原士衆」が勢力圏としていた事に成る。
> この「南部域の左・西域」は「紀州藩」が抑え、「北部域の左・西域」も「紀州藩」が抑えていた事に成る。
> 右域は「伊勢伊賀忍者・幕府」であった。
> そして、前段でも論じた様に「伊勢青木氏」は古来よりこの「伊賀との関係」を深く持っていた。
> 更に、これも前段で論じた様に、「京平家の落人」は「桓武平家」であり、「伊勢青木氏との関係」を古来より持っていた。
> 「伊賀」は、この「桓武平家の里・桓武天皇の母・光仁天皇の妃高野新笠の里」である。
> だから、「紀伊山脈南部域」に住んでいた「平家落人の郷士衆」は「北部伊賀衆」との「繋がり・絆」もあったのだ。
> 江戸初期の殖産には大いに貢献した。
> それ故に、「江戸期前の紀伊半島」も「江戸期の紀伊半島」も「京平家の落人」を基軸として「繋がり」を持っていて、一声出せば「彼等の三つ衆」の「郷士衆・忍者衆・原士衆」は「伊勢シンジケート」して動いたのである。
> 要するに、北部の左に「雑賀」、右に「伊賀」、南部の左に「平家落人郷士」、右には「伊勢郷士」、そして最南端は「熊野六宮司勢力」で「惣国」を固めていたのだ。
> それには、この「五つの惣国衆」を固めていたのは、矢張り、「伊勢青木氏の財政的支援」があったのだ。
> 前段でも論じた様に、故に、「近江職人を匿った事」は当然の事して、「京平家の落人の支援」や「信長の伊賀攻めの救出」や「紀州門徒衆を匿った事」や、最後は「明治初期に掛けての伊勢騒動を支援した事」等を挙げれば暇がない位である。
> 「紀伊半島」は全てこの「五つの何らかの絆」で繋がっていたのだ。)
>
> 詳細の検証は更に次段に続く。
>


「青木氏の伝統 56−4」−「青木氏の歴史観−29−4」

「前段56−3」で「注釈」が多く続いて「歴史の経緯」は敢えて前後しているが基に戻す。
前段で「側面的な詳細論・経緯」があって本論で論じ切れないのでその部分の詳細に付いて明らかにする「不詳文の事」にある。
そこで先ず、「国衆」としての「準備期間(前期 後期)」の事である。
前期の事は前段でも論じたが、その「後半の事」である。

(注釈 「国衆南下の後半」
改めて「源平の戦いの石橋山」で潰されてから「三野王の裔の(aの族)」とその裔の「(a−1の一部)」は滅亡した。
長い間潜んでいた「加茂・木曽の信濃シンジケート(信濃シンジケート)」の「美濃の青木氏の「浄橋・飽波」の「末裔(a−1)と(a−2)」の「一部・伊勢の裔系の集団」と、その血縁関係を持っていた「伊勢の裔系・美濃の者等(a−2)」と、それに追随した「官僚族等(bとc)・原士」等を集めた「血縁族集団」と、この「二つの集団」を「額田を拠点」に形成していた。
所謂、これが国衆南下の「後半の準備期間」であって、これが「美濃額田の所縁集団」の事であった。
そして、「渥美湾」を「額田」と「伊川津」で縦に結ぶ“「直線勢力圏・縦の陸路」”を「伊勢青木氏と額田青木氏の背景」で、「超近代的な武力集団・銃」として徐々に構築して支配しようとして「計画」を進めていた。
そこで、「下準備・前期」を終えてからの「室町期の末期」と成ってからは、上記した「美濃額田の所縁集団」の「二つの集団・国衆」を「額田一色」に一同に呼び寄せる機会を伺いこれを実行した。
要するに、これが350年間の「歴史的な集結」であった。
取り分け、危険な「下剋上と戦乱の様子」の中を伺っていたのである。
これを資料から観ると、この時、ここが後期の「周囲の土豪」や「小国衆」との「小競り合い」の「予備戦」があった地域であった。
この戦略は、「周囲の勢力」を全体的に抑え込むのでは無く、「幅の狭い縦の陸路」の“「直線的な勢力圏の構築」”に限定していたのであった。
ここには、当時にあったこの付近には、土豪等が抑える近道の“「商業通路」”の様な「自由な通行券・注釈」の様な「山稜の道」があったらしい。
これは「一般道」では無く、「一定の物資輸送」や「兵の移動路」の様な「土豪」が抑えて安全を保障する「商業道の物・近道」であったらしい。
三河の海から美濃を通じて信濃に通ずる“「商業通路」”であった。
「記録」に依れば、前段でも論じて来た様に、その「美濃の国衆」の中では「経済力」と「戦力差」に依って「戦い」にはそもそも成らなかったのではないかと観られる。
寧ろ、「党の様な軽い連合体の様な形」で「合力を申し合わせていた事」が書かれている。
彼らの「額田青木氏の国衆」は、元々、「別の面」での「美濃と信濃路間」の「一種のシンジケート・党」であった。
その近くにいた「周囲の土豪」や「小国衆」はこの事に付いて充分に知っていたらしい。
何せ元々、「原士」として活躍し武装している「美濃の額田の所縁集団」の「二つの集団・国衆」であった。
この「額田の青木氏の国衆」には、背後には「伊勢と信濃の青木氏抑止力」と「秀郷流青木氏の青木氏族」を控えているのだ。
従って、この事を知っていたこの「商業通路」の「土豪集団等」は戦わなかった。
寧ろ、彼らに執っては近づいていた方が全ての面で利得であった。
依って、比較的に簡単に東三河の山際にあったこの「商業道路の縦の陸路1」は構築出来た事が判っている。
もし、構築するのに戦い等で苦労していれば何らかの形で「青木氏の資料」に記録されている筈であるが何も発見されない。
明らかに「記録の通り」である事が判る。)

(注釈 「「商業通路の検証」
現在でも「北陸道」に沿って弘前から新潟を経由して富山まで「本道」とは別に「商業道」としての古路が遺されている。
これには実は面白い実話がある。
前段でも論じた様に、室町時代に「秀吉」は奥州結城氏・永嶋氏等の北陸勢を攻めた時、これを護るために「背後」を「伊勢の秀郷流青木氏」が「結城永嶋氏」と協力しながら追尾した事が記録に遺っている。
この時、「秀吉側」は家臣の多くを戦死させ無理攻めをして早く片付けようとしてが間に合わず、慌てて「北陸道本道」を通ると周囲から攻められるし、「食料不足の危険」から密かにこの「商業道」を使って何とか大阪に逃げ延びたとする実話の記録が遺されている。
この様に、この頃、“「商業道」”と成るものが周囲の土豪衆に依って密かに造られていたのである。
この「商業道」には常に「シンジケート」が抑えていた「専門道」であって、“「利権・通行料」”さえを払えば通れるのである。
この様な商業道は各地にあって土豪等に依って抑えられていたし、「通行料」を払う事で安全に使用できたのだ。
この様な「避難道」の様な当に探訪によれば要するに“「野道」”であった。
この「縦の陸路1」の「探訪の印象」では、矢張り「山際の農道」である事から、「田の周囲」から攻められても直ぐに迎撃対応でき、「山からの攻撃」には「山岳側面防御」で護れる。
後は元住んでいた「山間部・R152・Rは2ルートあった様だ」から「伊那・茅野・信濃」までは「活動の地元」であったから問題は無いと観察できた。
そこに「美濃の額田青木氏の銃」があれば問題は全く無い。
ところが、この「予備戦の途中」でこの問題は起こったのだ。
それは「織田勢力」に依って益々“「神明社の破壊」”が起こり、「伊勢」を含む「近江」でも関西の各地でも起こった。
「神明社」を含む「宗教勢力の排除」が各地で徹底して開始された。
そこで「伊勢」は決断したのである。
これで、「幅の狭い縦の陸路1」の“「直線勢力圏の構築」が急務であって、「商業通路」の「利権を持つ東三河の土豪連」は「信長方」に付かなかった為に、何とか「命綱」は「伊勢湾と渥美湾間」の「船の航路」にして、兎も角も、「縦の陸路1」で再び「信濃間ルーツ」を再構築できた。
後は資料に依れば、「銃の護衛」を着ければ「東三河の山際」の「商業通路」は信濃―三河間は通れたらしい。
確かに「神明社の陸の情報網」は消されたが「南の渥美湾」に到達できる様に成ったのだ。
元の「一色域」に近い「額田・端浪」には「美濃の所縁集団・二つの集団・南下国衆」を終結させ、「額田青木氏とその一党」として結成させた。
美濃国衆に留まらずに「南下する為の国衆の結成」であった。
そして、この「額田青木氏・蒲郡青木氏」の中で「伊勢の裔系のa−2」と「血縁性を持つ官僚集団」を渥美半島に差し向けた。
そして「伊川津青木氏・吉田青木氏等の四家」として「渥美湾」に再興を成し遂げたのだ。
「渥美」には、経緯としてはそもそも、「情報網の元」と成っていた「奈良期の古来より神明社」があり、伊勢より「柏紋の神職青木氏」を派遣して定住していたが、ここに相当早期に先ず「額田青木氏等」の「国衆の家族」を移し、その後に「国衆」が移動した事に成ったのだ。
然し、国衆として南下して観ると、この「二つの美濃族の勢力」、つまり、「額田青木氏」と「伊川津青木氏の四家」とには違う事が起こった。
この事もあって、「一つの勢力」としてまとめる事に努力しなければならなかった事が判ったのだ。
この事が記されている。
そこには明らかに次の事が違っていたとある。
この“「額田青木氏・蒲郡青木氏」”は、つまり「加茂木曽の山間部」に逃げ込んだ「元美濃族系」の「伊勢青木氏の裔系族・「(a−1)と(a−2)の一部の族」である。
ところが、二つ記されている資料からの観ると、「額田青木氏」とその後の「蒲郡青木氏」との違いには、次の「二つの説」が有って記録的にははっきりしないが、然し乍ら、筆者は、その一説の前記でも論じた様に、後で東三河の端の「商業通路」では無く、「額田」から「蒲郡」に「縦」に「ルート2」を新たに作って南下して「統一して国衆」として定住したものであると考えている。
筆者はこれを「縦の陸路2」と呼んでいる。
つまり、「東三河の商業道の縦の陸路1」と「額田から蒲郡までの縦の陸路2」があった事に成る。
この「縦の陸路2」は「商業道」では無かったらしい。
要するに、この「二つの縦の陸路」のこの「期間差」がどの程度であったかである。
この「信濃の青木村」から塩尻を経由し、縦の「ルート2上」には直線状に「青木村」もあり「神明社」もあり「清光院」もあり現在もある。
この歴史を調べれば判るが、先ずこの「神明社」は奈良期からである。
この「縦の陸路2」の「神明社」には「古来の神明社の構え」が遺されているのだ。
この「神明社」が奈良期頃に存在したとすれば、「古跡の田原の神明社」と同様に「神職」が定住していた事から、同時期に近いと考えられる。
青木の地名も遺され、現在も岡崎に村もあるのだ。
何故ならば、この「神明社」には「古来の慣習」が遺されていて、「神明社の廻りの六方向」に「山神社」が「子神」として祭司されていて、現在は二方向と成って遺されている。
この事から、「神明社」と「青木」は証拠として確定できる。
然し、「清光院」は「浄橋と飽波後の時代」と成る為に、同時期とは確定できないが、「平安期末期か鎌倉期」である事には間違いはない。
相当な前から住んでいた事に成る。
何故、「蒲郡」かに付いては何も物語るものはないが、何か考えられるとしたら「伊勢水軍の泊」か「伊勢屋の事務所」の様なものが考えられるが判らない。
「蒲郡」の「桑名と伊川津の距離的な事」や「岡崎市の青木町の直線的距離的な事」かであるが、近くに「蒲郡の近隣2社の神明社」があり、「青木町の神明社」との「繋がり」を考えれば何も無かったとは考え難い。
少なくとも、「伊勢の柏紋の神職」が奈良期からここに定住していた筈である。
そうすると、この状況からも同時に移動したのでは無く、論理的にはこの「二か所」に向かって別々に「渥美の伊川津青木氏・四家」の一団は東三河の山際の「商業通路1」を通じて移動していた事に成る。
そして、「縦の陸路2」の方は「額田青木氏」が移動し、依って、この「蒲郡に移動した事」に成ったのだ。
「縦の陸路2」の「岡崎の青木村」に定住しなかったかは恐らくは初期の目的は「渥美湾の制海権」の確保にあった事から「蒲郡」としたと成るだろう。
その証拠に、「蒲郡」はこの「縦の陸路2の岡崎の青木村」とは直線で当に寸分も違わない「真北」に位置するのだ。
そして、ここは古来より「石切り場の運び出し港」なのである。
故に、此処を伊勢水軍の大船が入る事が出来る「伊勢と伊川津と信濃との連絡事務所」として選んだのだ。
さて、この前提で、その後の「裔系の統一」が次の様であった。
そうする事で、「蒲郡の青木氏」を「主家」として、「伊川津青木氏・四家」を支配下に置く形態を執ったと観ている。
前者が「a−1族」で「額田端浪一色に居た主家」で、「浄橋と飽波の直系の裔系」とした。
後者が「前者の血縁族の裔系」の「a−2族」とした。
前者と後者に当時、「美濃の官僚族」であった「bとc族」が配置された。
この「bとc族」には「300年」と云う長い間に「家紋」から観て「血縁性」が一部に認められる。
従って、この「美濃の官僚族」であった「bとc族」は、この「血縁性と縁故の絆・源氏化」に依って滅亡した「三野王系・a」との二つに分かれたのだ。
そして、「後者の青木氏」にはその「血縁の系類」に合わせて「渥美の四家青木氏」を構築させた。
これには「伊勢」からの「指示成り発言」があったと考えられる。
以上と成る。
そうでなければ「後の史実」とは「時系列」で一致しないのだ。)

(注釈 「伊川津青木氏四家のその後」
其の後に、「美濃の南下国衆の二氏:(額田青木氏の蒲郡青木氏・指揮)」と「(伊川津青木氏の吉田青木氏等の四家)」には、「松平氏」と共に「国衆」として参加して共に戦う事に成ったのだ。
然し、「準備期間の後期」の「予備戦」と観られる「初戦」が「第一次の吉田城の戦い」であって、ここから「国衆」が開始されたとされる。
これ以外に「定住地の吉田」が「武田軍」に攻められると云う理由が他に見つからない。
「三野王」に多少の所縁が、「額田青木氏・蒲郡青木氏」には少なくとも在ったとしても、取り分け、「伊川津青木氏四家の吉田青木氏等」にはそれが薄い筈である。
何れも奈良期に繋がる「青木氏」であるとしても、「350年の間」には「青木氏としての違い」は起こっている筈である。
その結果がここに出たのである。
それを物語る記録があって、この事から、一つは、「室町期末期」には「額田青木氏の蒲郡青木氏」の一部が“危なく成った桑名”を護る為にも「三河」から「桑名」に向かったとする記録がある。
その二つは、先ず「蒲郡青木氏」は「松平国衆」から離れたとあり、続いて、「伊川津青木氏四家」も離れた形の行の表現と成っている。
どうも同時に、これに依ると「三方ヶ原の戦い後」に直ちに一斉に離れた様では無かったらしい。
「多少のタイムラグA」があったと観える。
その「タイムラグA」は、「地元3土豪・国衆・四国」との間には「伊川津七党の絆の問題」があった事から、この「タイムラグA」はこの「時間差」によるものでは無いかと観ている。
つまり「3土豪間の絆」をどう処理するかであったろう。
この「時間差」はどれ位かは判らないが、そもそも「青木氏」の中では「伊勢の指揮の許・蒲郡青木氏」の中で決まるが、「地元土豪・3氏の間の説得」をどうするか「話し合いの時間差」が必要であったか、「蒲郡青木氏」が行う「陸運業の体制固めの時間差」なのかは判らない。
「蒲郡青木氏」には、「松平氏や土豪との絆」は全く無かった事からそうすると「伊川津七党の関係」の「解決待ちの時間差」であった筈である。
この「3土豪の戦い後の状況」から鑑みて、「土豪間の話し合い・本家と分家の路線問題」に決着が着かなかった事が「行」から読み取れる。
「資料の深読み込み」から「筆者の印象」では、“二つあった”のではと観ている。
それは、一つは「伊川津の土豪・4氏」を陸運業に引き入れる事の賛否、二つは「bとc族の引き入れる事の賛否」にあって、「蒲郡青木氏からの異論」があったと観ている。
それは「伊川津の地元土豪」は前段でも論じた様に「4氏」である。
結成当初の初期は「6土豪」であったが抜けて行って「4土豪」に成り、最後は「3土豪」と成った。
然し、参加しているのは「3氏/4」であるからだ。
“1氏が離れたと云う事・西郷氏・武蔵国衆”に成る。
恐らくは、この「1氏」は資料に全く出て来ない「西郷氏」であったと観られる。
この「西郷氏」とには「戦い」にも参加しなかった事が判るが、「国衆の中」で何かあったと考えられるが判らない。
これの「話し合い」に時間が掛かったのであろう。
結果として、「青木氏側」から観て観ると、この「話し合い」に最初に出された「蒲郡青木氏の二つの意見」は引き下げられた事に成っている。
「青木氏だけの陸運業」と「七党の解消と早期決着」であった事は判っている。
「土豪3氏の国衆の本家」は「松平氏の准家臣扱い」と成った。
この事から、この関係を陸運業の中に持ち込む事を嫌ったのだ。
だから、「武士を捨てた分家筋が加わる事」に成って引き下げたと成ったと考えられる。)

(注釈 「七党の脱党の西郷氏」
「伊川津七党」から逸早く抜けた事に成る「西郷氏」は、鎌倉幕府の相模の低い官吏族の一つで、室町期に入り後に勢力を伸ばし相模から各地の国衆として流れ、一部が「三河の伊川津」に入った族である。
又、鎌倉期末期にはその一部はその主家と共に南九州に流れたとされている。
これが「鹿児島」で「勢力」を持っていた「薩摩の土豪・島津氏」の家臣として仕えて、その後、前段でも論じたが、「島津氏は次第に勢力」を持ち「南九州」を制していた「日向肝付氏」と戦い、更に次第に勢力を伸ばし、最終は肝付氏に一国を与え血縁して家老に迎えて決着を着けた「島津氏」である。
この中に「相模の西郷氏の末裔」が家臣として入り込み居たのである。
要するに、何故に「不毛の地」の「伊川津」に入り込んだかは判らないが、この「国衆」の一族である。
筆者は、ここから「世間の動き」を観ていたのでは無いかと考えていて、故に、「武田の動き」の活発さから「伊川津」を出たのでは無いかと考えられる。
「伊川津」から何処へ入ったかは判らない。
それは「国衆」をより良い条件で受け入れてくれる所に流れたと考えられ、そうなれば、当時、勢力を大きくさせる為に「国衆」を受け入れていたのは「伊川津の西の今川氏」の「東三河」と成ろう。
然し、この「東三河」から出て尾張全域を攻めた「今川氏・1560年」も織田信長に依って潰された。
恐らくは、この時に「伊川津の西郷国衆一族」は滅びたと観られる。
況や、「伊川津七党の3土豪の国衆」は、非弱な三河は尾張と今川の中間に居て、未だそんなに長い間の国衆では無かったし、土地も不毛であって、「国衆としての特典」は固着する程に無かった筈である。
恐らくは、「別の目的」で南下移動してきた「美濃の国衆の青木氏」とは違って「他の3土豪」も境遇は「西郷氏」と同じでは無かったかと考えられる。
然し、「今川」が潰れた後は「三河松平氏」はその流れの中にあるこの「3土豪」に何とか「伊川津」に留め置く為にも“「准家臣扱い・大久保氏」”をしたと云う経緯の事に成るのであろう。
それが前段の論の経緯を経て、そして、答えから先に説いて置くと、全てが「准家臣扱い」に納得するかは何時の世も同じで、その「経緯」から嫌って逃れた者等と「伊川津青木氏四家」の両者も一つと成って「陸運業」を始めたと云う事に成ったのだ。
だから、「二つの条件」を下げて「伊勢・蒲郡」は納得をしたのである。
これは歴史的に「氏是や慣習仕来り掟」から観て珍しい事であったが、納得をしたのである。
以後、明治期まで全く問題は起こらなかったのだ。
寧ろ、明治35年の松阪の伊勢屋の失火倒産解体時の少し後の時期に、この3つの内の二つの土豪分家は独立して「陸運業」を営んでいるのだ。
その「過去のシンジケートの繋がり」と「国衆の銃の武力」を使って「江戸期の初期」には「大陸運業」に成ったとあり、上記の様に現在も続いている。
「伊勢と信濃と伊豆の商い」を「陸」から支えたとある。
遡れば「江戸初期」は未だ「陸運」は何処でも未だ盗賊山賊等で危険であって、各地には「盗賊や山賊や海賊」が散在していが、ところが「彼らの力」に逆らう「盗賊や山賊や海賊」の輩は無かったらしい。
それは「シンジケートの横の繋がり」と「国衆の銃の武力」であって、何はともあれ「伊川津四家の青木氏の陸運」は元は「美濃忍者の原士」でもあった。
それだけに“仲間に入れて貰う”と云うのは在っても襲う馬鹿は居ないだろう。
故を以てか、益々、「組織」は大きく成っていたとしている。
これには記録があって、伊川津の陸運業で勢力圏の宿場まで着いたが、そこで差配頭が宿で次の宿場までの安全の為の密かな話し合いをしていたとあり、この様な形で北陸までの経路を造り上げていたらしい。
その事に依るのか「伊勢青木氏の資料と商記録添書」を総合的に読み解くと、「三河」より東が「吉田青木氏等四家」、三河より西が「蒲郡青木氏」の領域として故意的かは判らないが分けられていた様である。
ところが、江戸期に入ると、これが“二つに成った”とあるのだ。
“二つにしたのか二つに分裂したのか”は判らないが、これも読み解くと、「昔の慣習」から上手く「割墨」をしていた事も観えて来る。
つまり、この事から意味する処は、「巨大化した事」に依り「効率化を図る為」に、「西と東の陸運業」にした考えられる。
つまり、今で云うファンドのグループ化であろう。
ここで、「上記の先答え」から次の「二つの疑問」が湧く。
前段でも論じた事ではあるが、次の様に成る。
「一つ目」は、何故に「蒲郡青木氏」の一部が、“危なく成った桑名”を護る為に「三河」から「桑名」に向かったのかであり、そして、その後どうしたのかである。
「二つ目」は、何故に「蒲郡青木氏」は、三方ヶ原後に「松平国衆」から離れたが「吉田青木氏等」も離れたのかである。
この「二つの疑問」を解決していない。
実は上記の「疑問の答えの記録」が遺っているのだ。
「一つ目」は、「美濃額田の蒲郡青木氏」は、前段でも、且つ、上記でも論じた様に「桑名の額田」に「出自元」として大きく強く関わっていたからである。
つまり、奈良期の「桑名殿の孫」の「美濃の額田の裔系の祖」の「浄橋と飽波」である。
つまり、「彼らの血筋」には「伊勢」のこの母の「二人の流れ」が強くあって、それが「記憶」「伝統」から「母方始祖」としていた「意識」が強く持ち得て在ったという事である。
「男系の祖」の「三野王の所縁」と云うよりは、「伊勢の所縁・女系」の方が強く在ったのであって、故に、「一色」を地名として名残を遺した事なのである。
元より、奈良期末期から「妻嫁制度に依る女系氏族」として「青木氏族」は「四家」を構成していた。
「蒲郡青木氏」の「一部」は、その為に“伊勢を護るために帰った”という事に成る。
其の後は、彼らは「掟」に依り「桑名殿の四家の家人」と成った事に成っている。
其の後の伝承では、この“「家人の立場」”で、密かに「江戸期初期の神明社引き渡し」を拒み、依然として荒廃した後の「元の位置」に密かに“「祠」”を遺して「桑名殿一族と氏族」で昭和期まで祭司していた事が記載されているし、「氏人」に依って現在も祭司されているのだ。
そもそも「青木氏族」には、“「家人の立場」”には、幾つかあるが「額田の裔としての立場」を利用してか、「家人の立場」を利用してかは判らないが、「幕府の目」を欺いていた事は確実である。
江戸期は「殖産の関係」からも「家康のお定め書」からも「多くの事」は黙認されていて、この事も「紀州藩の黙認」があったと口伝で聞いている。
「一つ目」は、何れにしても「伊勢桑名の裔系」で「家内の掟の範囲」による「掟の事」に過ぎないのである。
「二つ目」は、前段でも論じている「青木氏格式の国衆の立場」と「松平氏の旗本との嫉妬怨嗟の軋轢」であった事が書かれている。
後に述べるが、「第一次吉田城の戦い」「一言坂の戦い・偵察隊」「二俣城の戦い」から「三方ヶ原の戦い」にこの「旗本との嫉妬怨嗟の軋轢」が諸に表に出ていて、記録にも明確に遺つている。
その為にも「蒲郡」から一部が引き上げて、残りの者で「事務所程度の存在」としていた事も判っている。
要するに経緯としては「伊川津の青木氏」は「伊勢青木氏の初期の目的達成」が成され、「伊勢屋の商いの延長」として「陸運業」と成った事で、「蒲郡」と連絡を取りながら「商い」を続けたのだ。
そして、「伊豆までの生命線」を「陸と船」で復元したのだ。)

(注釈 「二つの縦の陸路の創設」
では、先ず前段でも論じたがはっきり云える事は、上記の「元美濃の額田と伊川津の二氏」は「伊勢と信濃青木氏の要請・経済的支援」と共に、「伊勢秀郷流青木氏の背景」の“保護下にも入っていた”と云う事である。
注釈すべきは、「1510年〜1570年」まで続いた「小峰氏と白川結城氏」の「一族内紛」に乗じて「信長・秀吉」が動き、最終は「秀吉」に依る「1590年の奥州仕置き」で事を治めた。
この時に、「伊勢秀郷流青木氏・梵純・試作銃保持」が「背後」を突いて「白川結城氏の裔」を救い出し「結城永嶋」に連れ戻した事件があった。
この前提で論を進める。
従って、この事から「額田青木氏」だけはその「国衆」としての成った「初期の目的」を果たしている訳であるし、論理的に遺る理由は、元より「三河」そのものに“「国衆」”として遺る理由は何も無かったと云えるのだ。
そもそも、何れも「(a−1)(a−2)の族」であった事に依って、「桑名の浄橋飽波の伊勢の裔系」である以上は、これは「四掟での妻嫁制度に於ける女系」で深く繋がる「伊勢秀郷流青木氏の背景の保護下」に入る事が出来る所以でもあるのだ。
然し、ところが「a−1の裔系」では無く「a−2の裔系」である以上は、「渥美青木氏」と「伊川津青木氏」と「田原青木氏」と「吉田青木氏」の要するに“「渥美四家」”は、“「伊勢桑名」に帰る”と云うその所以は元より薄い。
必然的に「蒲郡の額田青木氏」には、その「初期の目的・縦の陸路1」が一応は達すれば、その「松平氏の保護下」に入る必要性は最早全く無く、「伊勢青木氏の桑名殿の膝下}に先ずは帰る事になるだろう。
つまり、「母系出自元」の「伊勢桑名」の目指すその「初期の目的」が達成されたのであれば、故に、最も早くて“「1560年頃」”に「今川弱体化の頃合い」を観て上記の様に一部が先ずは帰る事にはなるだろう。
だから、「蒲郡青木氏」の一部が「桑名に帰った事」に成っているのだ。
ところが再び、其の後に「陸運業」を興し、先ず「旧領地・一色地域」から縦に「蒲郡」までに直線的に「勢力地・縦の陸路2・南下時の通路」を「独自の商業道」として改めて確実に安全な道として構築し直した事に成ろう。
これが、時系列から観て「三河国衆」に正式に成った「間の無い頃」の「1560年頃〜1565年迄」であった事に成る。
これが「東の山際の商業陸路1」の後に成るのだ。
そうすると「東の山際の商業道・縦の陸路1」は元々土豪に依って作り上げられていた「陸路」であり、それを「東三河国衆」として「無許可で使える短絡路」として設定したのであろう。
東からは金銭で造り上げた既存の「商業道・縦の陸路1」を、西からは新たに造り上げた勢力に依る「縦の陸路2・南下進軍路」を少し遅れて設定した事に成る。
これは「信濃との関係を繋ぐ縦の陸路2」であって「当初の目的」の一つであった。
但し、この「縦の陸路2」は、調査に依れば、「伊勢青木氏の神明社の古跡地・岡崎」で、「岡崎と蒲郡」はその「神職定住地」であって、これを改めて強化して繋いだとされているのだ。
「伊川津の田原の古跡神明社」と同じで古跡神明社は田原に定住地は豊橋にあったと同じ様に岡崎の古跡神明社と青木村と蒲郡にも僅かながらの定住地としていた事に成る。
それは「大船」が着く港に奈良期から別に居を構えていた事に成る。
「神明社」のある「岡崎の青木村」も「田原の青木村」も「神職の生活」を支援する伊勢からの港が必要であったと云う事に成る。
故に、その史実を承知していれば「南下後・1560年の頃」に直ぐに出来る仕草であった様だ。
恐らくは、これは当初からの「伊勢の情報と作戦・復元」であったと考えられる。
そして、この旧来からの「二つの縦の陸路の構築」は「国衆の銃と財力の威力」に保障されたものであったろう。
そうすると「初期の目的」が達成されていたのだ。
だとすれば、「1573年」まで「国衆を続ける理由」は、完全では無いが最早無くなっていた筈であるが、然し、其の後も「12年間」も続けた。
これは何故なのか理解しにくい処である。
その一つは、未だ「戦乱」は終わっていなく不安定で何時「二つの陸路」が崩されるかも知れないと云う恐れがあった。
従って、これには「松平氏と織田氏への牽制」にあったのだ。
「縦の陸路2」は、西の「織田氏の勢力圏」の東末端重複部にあった。
「商業道の縦の陸路1」は、東の東三河の「今川氏の勢力圏」の西末端の重複部にあった。
これには、両者に対する牽制として、“「300丁の銃の脅威・抑止力」”を「国衆」として見せ着けて置く必要があったのだ。
そうする事で「戦国の世」の中で「二つの陸路」を維持でき「信濃との連携」が取れている事に成るのだ。
さて、それに就いてであるが、“「300丁の銃の脅威・抑止力」”だけでは済まなかった事が記されている。
それを「裏打ち」するだけのもっと“大きい背景・「秀郷一門の背景」”が必要であってそれには問題があった。
ところが、一方、「伊川津の七党」の彼らには、一応、“「秀郷一門の背景下」には入っている”が、その“「保護下の入り方」”に問題があって完全では無かったのである。
それは「地元の土豪勢力」と「七党を形成した事」もあったのだが、「格式等の立場」の違う彼らには要するに「一つの文句・言い分」があった。
主に「額田青木氏(a−1)と、(a−2)」の中には、「一部の配下」として、「加茂木曽の山間部」に潜み「シンジケート」を形成していて長い間働いていたが、その「原士の元・奈良期から平安期」は、そもそも「低位の官僚族(bとc)」が組み込まれていたのであった。
この事を「地元の土豪勢力」から観れば、この「保護下の入り方」に血縁性も低く間接的に「保護下」にただ入っていただけの事に結果として観えた事に成っていたのであろう。
これを「伊川津四家として見做す事」に不満をもっていた事が「伊勢の資料の行」から読み取れる。
要するに、「土豪3氏」は「低位の官僚族(bとc)」を感覚的に別として捉えていた事に成る。
然し、一方では「伊川津青木氏四家」の中の族として「青木氏側」では捉えていた。
ここに「地元の土豪勢力」との差が出ていた事に成る。
この「感覚差」が“「秀郷一門の背景下」にあって「揺らぎ」が生まれたのだ。
この「行の事」から鑑みれば、「地元の土豪勢力」に執っては、「伊川津青木氏四家」の先には「秀郷一門の背景下」がちらついていた事を意味する。
「伊川津青木氏四家」だけでは信用せずに「伊川津七党」だけで構築していた訳では無く「影の一党・秀郷一門の背景」」を後ろに描いていた事に成る。
何故ならば、「4土豪」の内の「2党」は関東から移動してきた「国衆」であって、「秀郷一門の背景」を事前に充分に承知していた筈である。
そもそも「秀郷一門の背景」は、室町中期までは「伊勢長嶋」まで「関東屋形」として勢力を維持していたが、室町期中期以降は、元の関東に勢力圏は押し戻されたのだ。
桃山時代まで「秀郷一門の背景」は関東域でも未だ厳然として維持していた。
この時期の「伊勢秀郷流青木梵純」の「陸奥の結城氏救い出し」でもその勢力は未だ健在していた事にも成るし、「秀吉」に依って関東に移封された徳川氏が地元の「藤原朝臣」を名乗っていた事でも判る。
「伊勢青木氏の威力」は、飽く迄も「抑止力とその財力」であっても、「4土豪」には「武力の背景の感覚」を強く持ち続けていて、「彼等の感覚」の中には色濃くまだ残っていたのだ。
それ故に、「近代銃」を持っていても未だその「銃の感覚」が強くなく、「軍力に頼る感覚」が勝り「伊川津七党」を組んでも若干心もとないものを持っていた事に成ろう。
この様に「細かい歴史観」としては、「伊勢青木氏の秀郷一門の背景」に「何某かの魅力」を感じていた事に成る。
そもそもこの事は「額田青木氏・蒲郡青木氏」の「南下国衆の指揮官」であった事もあって、無理のない処かも知れない。
更に遡れば、この地域まで「武蔵秀郷流主要五氏」の「青木氏族の永嶋氏の勢力圏」であったのだから「秀郷一門の背景下」を期待するのもこれまた「仕方のない事」かも知れない。
寧ろ、厳しく見れば「格式社会の中」では、「地元土豪」等は時代が進んだ事に依って”「国衆」”と云う力のある誰でもが立身出世できるものが戦乱の世の中に新たに生まれ、彼等から観れば、従って「官僚族(bとc)」を「同格程度の官僚族類」だと観ていた可能性もある。
逆に「元官僚族類」は格式からすれば「新撰姓氏禄」に記載にある様に「諸蕃」に類する「諡号族」である。
「官僚族(bとc)」側は相当に下と観ていただろう。
平安期は彼等土豪は「元官僚族類の支配下」にあった「庶民」であった。
全国的に観れば、「土豪の中」には「元官僚族類」から成った者も居たが、この「渥美半島の室町期後半」の最後まで生き残った「4土豪」の「戸田、牧野、馬場、西郷」はその多くはその出自を遡れば格式とすれば全く下の農民であった。
然し乍ら、狭い不毛の「伊川津」に住む以上は、この「地元4土豪」は、元を質せば、室町期中期では血縁性は別として、一時期は「何らかの永嶋族との関係性」を持った「片喰州浜の永嶋系秀郷一門下」であった事には間違いはないだろう。
ところがこれは「家紋類」にも現れるが、家紋詐称は明治初期にも起こっているが、「江戸初期の国印状発行」の際には、「公然とした虚偽搾取」が多く起こったので「史実」かどうかは判らない。
この事を前提に「伊川津七党」の地元の「片喰州浜系の家紋類系」が多い事からでも判る。
「家紋=血縁と云う論理」に成るのでよく調べると実は一部が異なるのだ。
つまり、似せていると云う事だ。
因みに、片喰紋類には「125紋」あり、州浜紋類には「43紋」もあるのだ。
「三河」に関わる「3土豪の家紋」は、この中には無く、あるのは「渥美半島の田原藩主」の「大久保氏」の片喰紋」と、「東三河の酒井氏」の「酒井片喰紋」での二つであり、恐らくはこの「3土豪」のものは、この二つに類似し「大久保片喰系の類似紋類」と、もう一つが「酒井片喰系の類似紋類」と云える。江戸期初期に合わして類似紋にしたと云うことである。
これは「国印状取得の為の搾取の疑い」は充分にあるが、元よりの土豪族の「本多氏の片喰紋類」もある。
何れも元の「秀郷流一門の家紋類系」の固有のものなのであるのだ。
「准家臣扱い」から「松平氏の譜代家臣」になり「大久保・本多氏・田原城」と「酒井氏・吉田城」に組み込まれた事に依って、最終は江戸期に「国印状発行」に際し系譜搾取の為に「類似紋を使う事」を幕府から暗黙の中で黙認されたと考えられる。
尚、「州浜紋」はそもそも「秀郷一門・青木氏系」に従って「陸奥」から来た血縁を受けた「常陸小田氏系の家紋」と成っている。
鎌倉期に秀郷一門の勢力の「西への伸長」にともない「関東屋形」として「三河域」に一部の「支流子孫・卑属」を史実として遺したものである。
江戸期の「戸田氏の家紋」は「国印状発行」で正式に決めた家紋は「六曜紋」で、「牧野氏」は「丸に三柏」と成っているが、室町期の家紋は上記の類似紋であった。
そうすると、この「本多氏と酒井氏」が「片喰州浜紋類」を使った事で「秀郷流一門への憧れ」を持っていた事に成り、その中でもこの「家紋類の傾向」としては「伊勢秀郷流青木氏と伊勢藤氏」の方が「関係性・憧れ」は高いと云う事に成るだろう。
この上記の事から、矢張り、「3土豪の本家筋」は「資料の読み取り」の通り「秀郷一門への背景」を強く意識していた事は否定できない。
この様な「資料」に基づけば何気なく読むと気が着かないが「文章の行」を注意深く読み解くと、“この時にこんな表現は使わないだろう”として観れば、故に、“憧れの様なもの”以上のものが強くあった事が伺える。
だとすると、この件で観ると、寧ろ、「土豪等の利害の考え方」が「本家筋」と「分家筋」の考え方が異なり、「分家筋」に執っては“「一族から抜け出す」”と云うよりは「秀郷流青木氏の背景」の持つ「伊川津青木氏四家の中」の“「保護下」”に入っていた方が「得策」であると考えていたのであろう。
現実に、これがどのような経過であったかは確定はできないが、「下記の注釈」から「本家筋」は「松平氏の保護下に進んで入って行った事」でも判る。
この様に「伊川津青木氏四家」には「党」を形成する上で「以外な悩み」があった事に成る。
故に、「伊勢と蒲郡」は「陸運業」を立ち上げる時に、後々問題に成る事であったので、この一点も気にしたのでは無いか。
現実に、前段でも論じたが「額田青木氏の南下国衆の指揮」を執った「伊勢秀郷流青木氏」は「岡崎」から「開発業」を手広く始めている。
これはこの「開発業」を受け入れたのは「秀郷流一門の背景」が地元に色濃く出て来た証拠でもある。
ところが「分家筋」は「読み」の通り相当に後に「低禄の本家筋・准家臣扱い」より潤った事を意味する。
要するに、拒絶されずに「伊勢秀郷流青木氏が住む世界・地域」の地盤がこの三河域にも「広げられる地盤」があった事に成る。
「秀郷一門」は平安期から鎌倉期を経て室町期中期頃まではより良い執政を敷いていた事に成ろうし、取り分け「永嶋氏」は「関東屋形」としてリードし一門に貢献したのである。
「永嶋氏」は四国の徳島と淡路にも「片喰州浜の多くの子孫」を遺したのだ。
これが江戸期まで続いたと云う事なのだ。
そこで,例として挙げると「牧野氏の出自説」には、大まかには二説あり、共に共通点は四国で「阿波説」と「讃岐説」に基づいている。
然し、「牧野の姓」の論処は、四国での「牧野・イ」と三河の「牧野・ロ」に分かれていて、前者は「室町期・応仁の乱」、後者は「鎌倉期・承久の乱」の事に成っている。
「前者・イ」は、「讃岐」から出て来て「乱の功績」に基づかず「三河牧野村」に根付いたとする説であるので、元は「牧野」では無かった事に成る。
「後者・ロ」は、「阿波」から出て来て「乱の功績」で「三河宝飯郡」の「牧野村の地頭」と成って「牧野の姓」を名乗ったとしているので、元はこれも「牧野」では無かった事に成る。
従って、何れも「牧野氏」では無かった事に成り、違いは「讃岐」と「阿波」の違差にある。
「二つの姓」から「元の姓」が明確に成っていない事と、「武士」であったとすれば「姓」を持てば「家紋」を持つ事に成る。
この「家紋」を持っていないか、この「家紋」が明確に成っていないので、当時の殆どの「農民の立身出世」が起こった時期の「農民」であったと観られる。
そこで「讃岐」か「阿波」かであるが、筆者は、「彼等・牧野氏」が江戸期に「三河の豊橋」に「讃岐神社」を造っている事から、「讃岐」から一度は「阿波」に移り、その後に「三河」に入つた「国衆団」であったとも考えている。
そもそも、「国衆」とは、弱い地域に移動しながらそこを略幕して住み着き土豪と成り、「うだつ」が上がらなければ、又別の地域に移動して行く武力集団で必ずしも土着の土豪と云う事ではない。
「後者・ロ」は余りにも「史実」に合わせて矛盾なくしての後勘で「出自系」で造り上げていて疑問である。
現実に乱世ではこの様に上手く行かないし、上手く行けば「不毛の伊川津」には流れ着かないであろう。
間違いなく江戸期に成ってからの「後付け」であろう。
筆者の説は「前者のイ」であり、「姓の出自」は「農民」であり、三河の「牧野村の庄屋牧野氏」を「何らかの形」、即ち、当時横行した「血縁か奪剥」で名乗ったものであろう。
室町期末期の国衆の殆どはこのタイプであった。
「農民の立身出世」で「応仁の乱時」の乱世の「流れ者説」を採っている。
因みに、公然としてその出自を公表している「当時の状況」を物語る有名な「土佐藩主の山内氏」も同然である。
「家紋」を観ても四国には無い「三柏紋」は可笑しいし、そもそも各地に分布している「20に近い牧野一族の家紋」がそもそも全く統一されていないし、この一族の中には「前者・イ」を元としているものもある。
又、「三柏紋類系」には無いものもあり、且つ、「家紋200選」にも全く無いのだ。
明らかに「国印状発行と系譜」には、武士と成る以上は何が何でも定めなければならないもので、そうでなければ「国印状」は出ず「武士」には成れない。
この「牧野氏」等は「新撰姓氏禄の諡号」の族系には無く、依ってその発祥は「阿波の農民」であった事」に成る。
前段でも論じたが「後者・ロ」の現地は、「四国」を東西に分けて、東に「秀郷流一門と藤原利仁流一門とその青木氏」、西は「讃岐青木氏と讃岐藤氏の定住地」である。
少なくとも「其処の民」であったのであろう。
それ故に、「秀郷一門に対する憧れ」が根底にあった筈である。
そこで念の為に、仮に秀郷一門に血縁的に関わっていれば「主要八氏」であれば、「361氏の家紋類」と、「青木氏」であれば「116氏の家紋類」が、「一定の規則」で江戸期の墓所に刻まれている筈である。
現実に「現地調査の問題1」では、江戸期前後のものと考えられる「墓所」を確認した。
「明治期の墓所」は、「苗字令・督促令」に依って掟が護られなくなったので、信用は出来ないし墓石も違うので容易に取捨選択できる。
それによれば「片喰・州浜の家紋類」の「江戸初期頃の物」と思われる「青木氏の墓紋」が確かに刻まれてはいるが、然し、完全な秀郷一門のものではない様だ。
流石に、この「美濃の一色の西域にある墓所」では、最早、「三野王族の(a)族」は滅亡して「笹竜胆紋」は無い。
「伊川津の青木氏」と名乗る以上は「(a−2)の族」の一部が、「(a−1)」と「尊属血縁性」を持ち「青木氏の掟」に依り「女系」で「青木氏」を興して名乗った事に成る。
従って、「尊属」であれば「笹竜胆紋」となるし、「女系」に依って「姓・卑属」を出さない掟である事から伊川津では神明社の「賜紋の神紋の柏紋」以外には無い筈である。
結果は「伊川津の墓所」では、歴史的経緯から「古来の古跡神明社」を頼って移住した事もあって、「神明社の柏紋類」が殆どである。
つまり、「額田の一色」では「笹竜胆紋」の象徴の下で、「a−1族の裔」は兎も角も、「a−2の裔族」は敢えて「家紋」を「象徴紋」だけとして定め別に持つ事をしなかった事に成る。
然し、「南下国衆」として「a−1の裔系の蒲郡青木氏」と離れ「伊川津域」に移動し「伊川津四家・a−2」を構築した以上は、所縁の「賜紋の神紋の柏紋」を使う事には同じ「伊勢の裔系」である以上は何ら問題は無いし、奈良期の元から定住していた「伊勢の神職」との血縁も「四掟」から考えても興っていると考えられる。
次は「現地検証の問題2」は、「伊川津青木氏四家・a−2」に付き従った「bとcの官僚族」の墓所が「田原市加治町」に「真宗の寺・匿名」としてある。
此処には、「18の真宗の寺」があって、その内の二つと観られる。
この寺から「真南1kの所」に「真宗の西光寺」があり、況や「秀郷流青木氏の所縁」の繋がりを物語っているが、恐らくは、この「二つの真宗寺」に江戸期前までは「彼等の菩提寺」として分散していたと考えられる。
美濃の「bとcの官僚族・諸蕃諡号雑姓・第1の姓族」に位置する族の「家紋」には、「過去のある特徴」があって、「最大48種」の「草に関わる紋様と色」から出来ている。
これは当時は、「草・しき」で以て表す「官僚族の格式を表す仕来り」、或いは「掟」であったのだ。
これを観る事で、「階級や属姓」等を簡単に判別できる仕組みであったのだ。
元々、この「官僚族の殆ど」は奈良期の「中国からの渡来人」で構成されていて約8割を占めていて後漢等から持ち込まれた「官僚の仕組み」である。
「日本書紀」にもこの事が書かれていて、「官僚族が知識を多く持つ渡来人」で占められている事に「天武天皇」は憂いていて、制度を造って「倭人の官僚族」を育てる様に命じている。
これを基に最初は「家紋」と云うよりは「位階身分の判別紋・草」として扱われ、次第にそれが「家紋」と成って行ったのだ。
この判別から「諡号では無い第二の姓族」と違って、「諡号を持つbとcの官僚族・諸蕃雑姓・第1の姓族・440族」には、この「草・しき」による“「判別紋」”を持っていたのである。
これを格を細かくは、「12類族」に分類でき、「大まかな格」には「8類族」に分けられ、「計20類族の格」でこの「分析」から確認できるのだ。
全体では「440の判別紋」がある。
これは「血縁性」に関わらず「位階身分格式」に依って分けられている。
念の為に「諡号」に含まない要するに「第二の姓族」にはこれは無い。
「伊川津青木氏四家」の近隣にこの「美濃の官僚族」であった「彼等の新たな菩提寺」は「2寺」存在するのだ。
奈良期では「五都計画」の一つであった事から、朝廷から派遣され勢井治安等を管理する「低位の官僚族」ではあるが、判別から観れば「中位下の判別紋」に成ろう。
中位格式以上は「都に帰る事・遙任制度」に成っていた。
この判別に含む家紋が刻まれているので確認できる。
この「現地検証の問題3」では、「上記の類似紋」が実に多いのだが、先ずは「3土豪の姓族の本家筋の家紋」にあるが、「伊勢の裔系の家紋」は元より「秀郷流青木氏の家紋類」には無く、仮にあっても墓石も江戸期前後の慣習のものと違っているので、明治以降のものであって俄かに信じ難い。
「墓所の家紋」から「片喰州浜紋の秀郷流一門」とは正式に明確に混じっていない事が判る。)

(注釈 「3土豪の不毛の地の環境」
「諡号を持つbとcの官僚族・諸蕃雑姓・第1の姓族・440族」のは内の五都の美濃に派遣されていた者らは確かに「伊勢裔系」の「保護下に入っていた事」は判るが、此処で多少の疑問が残る。
それは、江戸期には「三河の松平氏」、つまり、「幕府の徳川氏」は彼等3氏の本家筋を「准家臣扱い」から「譜代家臣」として最終は扱った。
この「保護下に入っていた最終の三氏」は、“一体誰なのか”に成る。
これを確認調査した。
「渥美の定住地」の伊川津域範囲、「家紋と墓所と宗派」とを細かく調べた。
何を導き出そうとしていたかと云うと、「本家、分家、傍系、支流の関係」である。
この「渥美湾の範囲」で「地形土壌」から、先ずその「土壌」が根本と成り、それがどれだけの家臣等を養えるかである。
調べると成ると、江戸期の資料と成り「江戸期の資料」には搾取偏纂が必ず伴うが、この「搾取のエラー」を取り除くには、生きて行く為に必要とする「絶対条件」の「地形土壌」で検証する必要がある。
これ以上は絶対と成り得る「人の糧」は得られないからである。
1説では、江戸初期には「田原藩と大久保氏」でも判るが、「12000石とする説」もあるが、これは実質無理であろう。
精々、「5000石以内・1石時代」であろう。
この「12000石」は、この「三土豪」を「国衆」から「准家臣」、そして“譜代までに取り立てる為”に仕立てた「虚偽の石高」であろう。
探訪から「古来の地形地質」から、ここは「真砂の多い土壌」であって、花崗岩の土壌は米は不作である。
実質は、「漁獲等の産物」を加えた「合算石高」であって、「米高」は「5000石以内」であるだろう。
前段でも論じた「伊川津四家の人数」は「1500人程度・蒲郡500人」の様に、「1石1人/年の原則」から「伊川津青木氏四氏・1500石最低/5000石」であり、これを「伊勢からの支援」で「糧」は成り立っていた事に成る。
ここに、元々は「阿波や相模や越後」から入った「国衆」があって、そこに「4氏・最大6氏」が入った経緯である。
その「6土豪の族人数・約6000石最低」を加えれば、「計7500石/5000石」ではその「差1500石」は明らかに足りない。
ここでは「渥美と伊川津と田原と吉田域・1500石」と「6土豪分」では足りない上に、更に「豊橋と豊川の青木氏・800石」が必要で、これで「差2300石分」が不足し生きて行くには無理である。
総合結果は「7500石/5000」と成り、精々、「本家位の人数」に限る事には成る。
「子孫拡大原理」の「4nの2乗の原理」から観ても、「分家、傍系、支流」が「武士」として生きて行くには到底難しい。
現実に、最終にはこの「3土豪・元」と成り得たが、これ等は元からの「定住民・原住民」では無かった。
四国や関東から立身出世を夢見て、無理に“弱い地域処”に押し寄せて来た各地からの「農民族で構成された国衆」であった。
それ故に、恐らくは室町期初期には生きて行く為の争いが史実の通り長い間この渥美半島域で起こったのだ。
最終的に遺った「土豪3氏」の代表の一つが「牧野氏」であって、この「牧野村」に入って横領して「牧野氏」を名乗ったのではあるが、同然に争いに勝った「戸田氏」も「鎌倉期信濃大河内村」より「国衆」として「尾張国海部郡戸田村」に移動した来た集団であったが、上記した様にこの中部域は全国各地、主に「5地域・阿波や越後や相模や信濃や美濃」に一時的に分散して流れ込み、そこから、又更にこの中から、そもそも「脆弱な渥美」に「国衆」として流れ込んで来た族である。
東三河域のこの「地域・宝飯・豊川、渥美・豊橋、八名・豊橋」に武力を以て「土豪」として割り込み住み着いたものである。
そもそも、「国衆と成った土豪」と「青木氏四家の国衆」とは、時代的に「青木氏の方」が「古跡神明社の伊勢青木氏神職」の事の所縁もあって、「吉田域以西」ではより早期に、つまり、「家族・1530年代」には神職裔系として入っている事に成るのだ。
「古跡神明社」とすれば、「奈良期」であり、「伊川津の国衆」に執ってみれば感覚的には“「原住民」”に相当するのだ。
「国衆であった4土豪」に執っては、当初は舐めてかかっていただろうが、突然に「伊勢周り」の「美濃の伊勢の裔系」の家族が移り住んで来た事に驚いたであろう。
そして、暫くして「東回り・縦の陸路1」で「青木氏四家の国衆」のとんでも無い近代銃で武装した大集団が、押し寄せて来た事に成ったのである。
彼等の執っては従って“「後から来た国衆」”とは観ていなかった可能性がある。
突然に神職族が膨張したと観ていて、故に「戦い」も無く入れて円滑に「伊川津七党」を結成できたのである。
「戦いの記録」は全く発見されていない。
「国衆」としても少なくとも「前段で論じた通り「1550年・南下期〜1560年前・吉田期」前には入っている事に成るので、大した違いは無い。
そこで、だとすると「疑問」が一つ起こる。
「渥美の土豪等」が、この「古跡神明社の所縁」で「額田の南下国衆」の「家族」が「伊勢経由」で前もって入ったとして、これ等の土豪に潰される可能性もあった筈である。
それは、「渥美の国衆土豪等」が何時頃入ったかに関わって来る。
「額田の南下国衆」の「家族」は、前段でも検証した様に、入らなければならない時期があって入っている。
それが「1540年前頃」に「美濃の空白期」があって、これを見計らって入っている。
それが、3回に分けて入っているが、これが「1500年前後の頃」である。
「渥美の国衆土豪等」の系譜では、“「江戸期の資料」”に依ると「1430年頃〜1450年頃代」だとしている。
そうすると、「50〜70年程度の差」がある。
ところが、ここには上記した様に「江戸期の資料」には「国印状取得の搾取偏纂の問題」があって一概に信用できないのだ。
恐らくは、この年代は、「戸田村や牧野村の原住民」と成っている「庄屋の発祥年代」であって、必ずしも彼等の「渥美の入植出自年代」では無いのだ。
「戸田村の戸田氏」や「牧野村の牧野氏」の家を乗っ取って名乗っているので、「渥美の入植出自年代」はこれより後に成る。
そもそも、「1430年代」は「室町幕府の力」がまだ強く、「関東制覇」に於いて“「結城合戦・秀郷一門」”を興し、「室町幕府」と「結城氏ら関東の諸豪族」との間の戦いが勃発した時期である。
この時、「敗退した多くの土豪」が「国衆」として中部域に流れて来たのだ。
「1430年代」までのここは、先ず「半島外」は、”「海食崖」”と呼ばれ浸食されていた地域で全く使えず、「湾内の内海」は、中部域から「大陸帰化人の由来」に依って「新しい技術」を持ち込まれた。
「奈良期からの陶器や瓦」を焼いた“「渥美窯」”と呼ばれていたものがあって現在でも出土している。
古来には「六連(むつれ)」や「百々(どうどう)」と呼ばれていたのである。
要するに此処は、「真砂の沼地」で米より「真砂と粘土の混在地域」であったのだ。
ところが、上記の“「結城合戦」”の「敗退した多くの土豪」等が関東から流れて来て米の採れない地域を何とか住めるようにした“「歴史的経緯」”を持つ地域なのだ。
「江戸期の搾取偏纂」によるものであって、決して「讃岐の農民や阿波の農民」や「信濃大河内の農民」ではないのだ。
「上記の疑問」の「額田青木氏等の家族の安全」は、時系列から「敗退した多くの土豪」等との関係があって、奈良期からの”「古跡神明社」の「神職裔系家族」”として敬っていた事から確保されていたのだ。
それは「室町幕府」には、「密教浄土宗の原理主義の白旗派」を「浄土宗」として認めさせ、「伊勢裔系族」を”「律宗族」”として認めさせた。
この事からも彼等土豪等は敬った事から従ったのである。
更には元々、彼らは「関東の秀郷一門の傍系支流族」に従っていた血縁した土豪であったからだろうし、讃岐でも「秀郷流讃岐青木」が確固たる勢力を持ち定住していたのだ。
故に、何よりの証拠としての「彼等の菩提寺」の“「西光寺」”が「古跡神明社」の直ぐ近くの「田原」に並んで存在するのだ。

(注釈 「5000石の検証」
そこで上記の検証の通り、この「3氏の土豪」と「青木氏の四家・1500人」が検証の通り「渥美郡域」で生きて行くには、この「5000石以内」では限られていて「本家程度」と成る。
此の検証から、“「額田青木氏」と共に陸運業”に結果として加わったのは「分家筋一門」に成る。
恐らくは、「陸運業に転身する前」のこの「三氏の土豪」は「戦い」で参戦して生きて行けたが、「三方ヶ原」より「陸運業」に転身した後の「少しの期間・準備期間と話し合い期間」では、「渥美湾域の青木氏の護衛・蒲郡青木氏」の支援を「糧」として「伊勢の支援」で生きていた事に成った事が判る。
それは「商記録」の中の「運搬の支払い状況・伊勢水軍の動き」が一時的に活発化しているのでこれで読み取れる。
その意味でも、この「糧の少なさ」を解決する為には、「土豪3氏」の中での「話し合い」には時間が掛かっていたと考えられる。
つまり、上記の「タイムラグ」は、要するに「青木氏側だけの問題では無かった事」に成る。
そこに、「女系の伊勢裔系」との「格式の事」でも問題があったらしく、それが「松平氏の旗本・西三河」とは、「銃の有無・戦力」に関わらず、「格式に対する相当な軋轢」があったらしい事も判っている。
「土豪3氏等」もこの狭間に絡んでていて、「本家筋」は「三河側」に着いたとしても「分家筋」は「最後の糧」には、「三河側の旗本」が補償してくれる訳でも無し、充分にない限りは生き抜けなかったと考えられる。
「三河松平氏の今後の事」を考えると、戦乱の中では「分家筋」は最前線で間違いなく犠牲に成り命を落とす事は必定と観ていたのであろう。
この「格式差・律宗族」と「戦力差・銃」がある「伊勢の裔系側・陸運業」に着く方が得策と見た事に成り、其の侭では「三河での発言力」では「分家筋」は「本家筋」に従うしかなく間違いなく「削がれる立場」には成ると観た事に成る。
兎も角も、これは言葉にしなくても「三河の旗本」は闇雲に「自ら卑下していた事」に成ろう。
然し、因みに「国衆離脱・1573年」でも「伊勢に直ぐに帰る事」はせずに蒲郡に一部が残ったのだ。
分家の土豪等は本家に追随するのでは無く、「三河旗本・大久保・本多氏系・田原城主・1564年・〜1590年関東」が入ったが、それでも「伊川津・国衆1560年・家族1530年頃」に其の侭に居着く事に成るのだ。
普通は本家に逆らった場合は居られないのが「氏家制度の掟」であるが、それでも居られたのは奈良期から居た「伊川津の神職族の裔系」に組み込まれた事によるのであろう。
「神明社に対する敬い」は当時は未だ「民衆の間」では絶対に「犯しべからずの立場」に居たのだ。
江戸初期から幕府に引き渡されてから荒廃し変わったのだ。
それだけに御蔭で美濃安全だけは保たれていた。
その「大久保・本多氏の旗本」とは、結局は「国衆の9年間」として「陸運業の21年間」の「付き合い」と成り、合わせて「30年間」と成った。
つまり、その「嫉妬怨嗟の旗本」とは「大久保・本多氏とその家臣」であった事に成るのだ。
この「大久保・本多氏」は藩主と成ると同時に「東三河軍制の吉田城の酒井氏」の配下に入ったのだが、経緯から三河元来からの保守的な旗本だけに「額田青木氏等」には軋轢があったと考えられる。
ところが更に不幸かこの軋轢の中で「額田の南下国衆」の「300の銃隊」も「東三河軍制下」に入れられ、同時期に「武田軍の南下」に伴い急遽「吉田城」に「編入・1565年」を命じらると云う事が起こつたのだ。
注釈だが、筆者は条件として「渥美湾の制海権の確保の役目」として「特別任務」が与えられていたのでは無いかとみているのだ。これが約束であったと観ているのだ。
そして、ところがこの「約束むを違えて皮肉にも「南下国衆の初戦」の「第1期の吉田城の戦い」に引っ張り出された事と成って、「武田軍」を押し返す程の勲功を挙げたのだ。
「蒲郡青木氏と伊川津青木氏四家の国衆離脱」とこの“「5000石の影響」”が「周囲の行動」を根本的に替えさせたのだ。
因みに、この「5000石」に付いて、“「大久保」に「家康」が「7000貫の所領」を与えた”としている詳細な重要な記録があり、これを説としているものがある。
この説では、「1貫=2石の説」では14000石、「1貫=1石の説」で7000石と成る。
「時代と地域」に依って「1貫で買える米量」が替わるので「7000石〜14000石」と云う事に成る。
この「時代と地域」では、「7000石程度」であるが、当時は威力を示す為に多めに云うのが慣習であった事から、それを咀嚼すると「5000石」であった可能性がある。
況してや“「石高」”で云うのでは無く、“「貫高」”で与えたとすると“「海産物等」”も含めての「石高」であった事に成る。
ここは、上記した様に「黒潮の海食崖」の域にあって「海産物の高」は元より高かった。
要するに、間違いなく米高は「5000石程度であった事」に成る。
そもそも、彼等の“「旗本」”とは言え戦国の世の民から出た「第二の姓族」である。
然し、一方の彼らの“「額田の南下国衆」”は「諡号の第一の姓族」である。
然し乍ら、「第二の姓族」に執っては、“出世を前提とする「国衆」と成った限り”は、一族を護る為にも「意見」を通す事が「最大の安全」に近づき、且つ、一門を率いる「指揮官」はそうする事が疑い無く当然の「義務」であって、これ等の事は充分に予想できる事で「何時の人の世」も間違いなくそうなるだろう。
然し、「額田青木氏の南下国衆」は違ったのだ。
何方が、「格式」を前面に押し出していたかは記録からは判らない。
筆者は、「青木氏の氏是」もある事でも判る様に「格式」は世間に押し出さず自然を護り通す掟がある。
従って、世間がどう受け取るかにあって、「勲功」か何かで何もない処から格式を得た訳で無いのであって与えられた格式ではない。
故にこれが「青木氏の氏是」の基源に成っているのだ。
元から「旗本側」に強く「卑下の意識」があったと考えている。
それは次の注釈に論じる「状況証拠・目的」からである。)

(注釈 「疑念の検証」
そもそも、「本幹・本命」とも云える“「神明社の遮断」”が「信長」に依って成された事から、結局はこの「命」に係わる「本幹の復元策」として、「信濃青木氏」と共に、「蒲郡と吉田」に結束して「国衆」として入って、「渥美湾までの縦の防護ライン」を形成したのである。
つまり、「渥美湾の制海権と支配力の確保・信長に水軍はない」と「信濃まで縦の陸路の連絡網」を「縦のライン構築(専用商業道)」を成し遂げたのである。
結果として「伊勢」から「渥美湾」から「伊豆」までの「陸路と水路の復元」も出来た事に成った。
改めて「3土豪の国衆」との「国衆としての目的」がそもそもが異なっていたのだ。
この様な関係にあっても、「伊川津七党の青木氏・吉田青木氏等四家」とは「彼らの独立性・3土豪の国衆」も担保してしながらも「不思議な関係」にあったのだ。
上記した「伊川津七党の土豪」のこの「土豪の国衆3氏」は、「松平氏の伸長」と共に「松平の准家臣・後に譜代家臣に格上げ」と成って、互いに護りあい「一族の安全」や「渥美湾の支配力」の関わりを担保していた事も七党にはあったのだ。
故に、上記した様に「額田青木氏・蒲郡青木氏」が「彼等土豪3氏」を「陸運業に加える事」、又、「出自元との関係性を担保する事」に当初は反対したのだ。
前段で論じた様に、「松平氏との関係性」を敢えて「組織の中に引き込む事」に“「大きな疑念」”を抱いていたのである。
つまり、これは「青木氏の氏是の考慮」にあった。
「伊勢も信濃」も同じ意見であったと考えられる。
結果として、この“「疑念」”は後に捨てた事に依って、「吉田城や一言坂や三方ヶ原の勲功」があって江戸期に「家康の天下統一」が成されて、更には「陸運業」や「開拓業」や「殖産業」で゜三河発展」に貢献した。
尚且つ、「伊勢の権威」を尊重し、「本能寺の変」の「堺からの逃亡」にも貢献し、「家康お気に入りの紀州藩主頼宜」に貢献している等の諸々が事の「家康の意識」に訴えて、この“伊勢の事お構いなし”の「お定め書」の発行に成った。
結局はこれを獲得でき、その後の「紀州藩・二万両の債権・2度の勘定方指導」にも貢献したのである。
然し、其の後に「紀州藩」はこの「家康のお定め書」を認めているのに、「三河旗本」は依然として何と「吉宗の享保期」までこれを認め様としなかったのだ。
遂には、「吉宗と伊勢青木氏との関係・親代わり・後見人」を知っていながら「伊勢の幕府役所」の「山田奉行所の難癖」で「二度」も「伊勢」との「係争事件」を起こしているのだ。
他にも前段でも論じた様に、「信濃」でも難癖の「同じ事件」が起こり、「吉宗」はこの「山田奉行所の件」も旗本側に着いた。
これが元で最後は「吉宗」とも決別したのだ。
“如何に執念深いか”と「伊勢」では資料や口伝に遺す程に「戒め」として観ていたらしい。
つまり、この「旗本疑念」を掘り下げれば、この点を持っていて、「伊勢側と蒲郡青木氏」は「陸運業の運営」に“「善い事」が起こらない”と観ての「不吉な疑念」であったのでは無いかと筆者は観ている。)

(注釈 「紀州藩との繋がりの効果」
然し乍ら、その疑念は明治初期に消えた。
その後、因みに「伊勢青木氏」は「紀州藩との繋がり」を「伊勢加納氏」と共に復興させて、「支援」をしながら、「大正14年」まで「紀州徳川氏」が「伊豆」で絶えるまで「親密な関係」は記録からも続いていた。
その証拠に「明治期初期」からは、依頼されて「絵画、俳句、和歌、茶道、華道等の諸芸全般」の「人としての嗜み・上級な教養」の「特別教授」として務めた事が記録として遺され、「多くの逸話」などの「口伝」でも祖父から聞き及んでいる。
中でも幕中から幕末に掛けて恒例的に藩主と多くの紀州藩家臣を一同に集めてこれ等の会を催していた事も遺されていて、この「恒例企画」が「祖父の代」の明治期まで続いていたとされる。
紀州徳川氏は東京にも「邸宅・事務所」を設け「紀州との往来」をしていて、最終、「商い・財団」を興し、倒産して伊豆に一人籠もって子孫を遺さず紀州松平氏は絶えて恒例企画は中止したとある。
この時、大正14年であったと祖父から口伝で伝えられている。
この中には、取り分け「財務」に関して幕末まで「勘定方指導」をしていた関係もあって上記の明治維新政府に大活躍した元紀州藩主の「陸奥宗光とその父との二人続けての交流」の事も含まれていたとある。
これで「江戸初期前後の事や享保期の事」に就いては「伊勢」では、最早、「疑念」には拘っていなかった事が判る。
これは「青木氏一族の伝統」の「家訓10訓」で「拘り」は厳しく戒めているからだろう。
この「拘りの前提」と成る「大きな疑念」や「土豪3氏の話し合い」の「解決の経緯のタイムラグ」は、確かに在ったが、その為にそもそも「伊川津七党の青木氏四家・吉田青木氏等」が脱退したり崩れりすれば、再び「伊豆陸路」は間違い無く崩れる事に成っていたであろう。
そうした中での、「上記の注釈」で説明する「額田青木氏」であって、その「答え」は最後まで遺ったのである。
後勘から観れば、この時も「青木氏の路」を読み間違えていなかったのだ。
後世に遺る「青木氏の歴史観」が成立していたのである。)


> 「青木氏の伝統 57」−「青木氏の歴史観−30」に続く。



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