青木氏氏 研究室
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  • 福管理人[副管理人]より -
    青木氏には未だ埋もれた大変多くの歴史的史実があります。これを掘り起こし、研究し、「ご先祖の生き様」を網羅させたいと思います。
    そして、それを我等の子孫の「未来の青木氏」にその史実の遺産を遺そうと考えます。
    現代医学の遺伝学でも証明されている様に、「現在の自分」は「過去の自分」であり、子孫は「未来の自分」であります。
    つまり、「歴史の史実」を求めることは埋もれた「過去、現在、未来」3世の「自分を見つめる事」に成ります。
    その簡単な行為が、「先祖に対する尊厳」と強いては「自分への尊厳」と成ります。
    この「二つの尊厳」は「青木氏の伝統」と成り、「日本人の心の伝統」に繋がります。
    この意味から、青木氏に関する数少ない史料を探求して、その研究結果をこの「青木氏氏 研究室」で「全国の青木さん」に提供したいと考えています。
    そして、それを更に個々の青木さんの「ルーツ探求」の基史料としたいと考え、「青木ルーツ掲示板」を設けています。
    どうぞ全国の青木さん、その他ルーツ、歴史に興味がある方、お気軽に青木ルーツ掲示板までお便りください。お待ちしております。

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      [No.350] Re:「青木氏の伝統 31」−「青木氏の歴史観−4」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/02/18(Sat) 14:44:16  

    > 「伝統シリーズー30」の末尾


    > (注釈 本論で論じている「弥生祭りや五月祭り」や「祭祀偶像」、「氏上」、「御師」、「偏諱」、「達親」、「組合」等に至るまでの「青木氏の古来の慣習仕来り掟の意味合い」が、世間に伝わる事に依って、その「意味合い」のみならず「呼称」までもそっくり換わっている。
    >
    > これを物語るものは何と云っても、「伊勢」で「青木氏心魂」としての”「准の立場」”であった。
    >これに基づく「氏上と氏人の関係」が維持されたものあった。
    > それの代表、つまり”「准の立場」”を物語るものが”「仏施の質」”であった。
    >これは同時に「氏上と氏人の関係」を「証明する行為」であって、「青木氏以外」には行っていなかったものであった。

    > この「青木氏の習慣」が、「伊勢」から「江戸」に持ち込まれて”「伊勢屋の質」”と呼ばれる様には成ったが、「質に対する語源の変化」で、「伊勢の行為」は理解できてはいたか、然し、「江戸の質」には、一時、”「准の立場」”と同様に”「青木氏の歴史観の知恵」”にまでは及ばなかった。
    > 然し、「江戸の質」に至るまでの意味としては、普通の「品質を意味する質」や「質屋の質」としてしか考えず、当初、“まさか江戸までは“の「先入観」が強く理解ができていなかった。
    > この「准の立場」も「単なる准の意味」(次の格)としてか理解が無かったし同様であった。
    >
    > 果たして、“「改革と質屋」にはどの様な関係があるのかな“と疑問であったが、「享保雛の研究」からの事で、「雛の語源の意味」が「青木氏の古式慣習」の一つであるので、調べた処、中国の書にも「質」と「准」のこの「基の意味合い」があった。
    > この事から「青木氏」だけが伊勢で行って来た奈良期からの「准の立場」の「氏上と氏人」の関係には、「仏施の質」が介在していた事を資料の一つの行にある事を知った事に依る。
    > だとすると、“「江戸の質」にもあり得る“と「発想の転換」で、これで「奈良期の疑問」と「江戸の疑問」が同時に解けた所以でもあるが、時代に依って「語源」がそもそも変わるのは、「青木氏の歴史観」を論じる上では実に「苦労の種」でもある。
    >
    > この事で、うっかり其の侭で論じると「矛盾する様な論調」と成る事が多いのには苦労している。
    > これが「古式性の伝統」を論じる難しさにあり、「モニター」を受けて頂いている方からも指摘の多い処でもある。
    > 筆者本人はつい判った感覚で書いて仕舞っている処に問題がある。
    > この「准の立場」や「質」や「青木氏心魂」等は典型的なテーマでもある。
    >

    「伝統シリーズ31」に続く


    さて、前段に続けて、「青木氏に関わた伊勢衆」の「商業組合」の「商人等の指導役」(伊勢)の「御師(おんし)」(”おし”では無い)は、「組合札」(金券 現在の紙幣)を発効するまでに成長するして事に成った。
    (現在でも一部伊勢では、「独特の金券制度」として残っている。そこで、これらの「予備知識」として明治初期までの「青木氏の独特の伝統」で以て「青木氏の歴史観」としてそもそも重要な事を述べて来た。

    これが「青木氏の古式慣習」の”「仏施の質」”に現れているので「青木氏の心魂」に付いて更に論じる。

    この「青木氏の心魂」がよく表れている最後のものは、明治初期におこった「伊勢暴動」であった。
    この「伊勢暴動」は、急に起こった訳では無く、当然に、政治的な変化も然る事乍ら、上記で論じた江戸期の「政治矛盾」に耐えきれなくなっての「最後の破裂」であった。
    「青木氏と吉宗」が何とか少しでもこの「四つの政治矛盾」を正そうとして頑張って来た。
    然し、その後の為政者には、この「四つの政治矛盾」に付いての認識が全く無かった。

    「維新政府」のその後もその「矛盾の認識」はあって正そうとして動き始めたが、ところが終局は「貴族院と云う勢力組織」がこれを阻んだ。
    そして、「維新政府」もこの「貴族院」に諂うという「矛盾」を見せた。
    結局は、「江戸幕府」も「維新政府」も、この「四つの矛盾」と云う点では変わりはなかった。

    そこで起こしたのが、矢張り、「伊勢松阪」からでの「伊勢暴動」であった。

    この「伊勢暴動」は、「青木氏の奮闘」の努力で、歴史上で政府が「一揆の主張」を認めたのは初めてである。
    この変革には終局は成功したが、この「伊勢暴動」で疲弊した農民を救う為に、「青木氏」は、率先して「農地権」(北勢)の多くを手放した。

    それにも拘らず、更には、農地外の「地権、株権の放出」をも放出したにも関わらず、それでは再興せずに、限界に踏ん張って「伊勢」を救おうとした。

    それが成し得たのは、前段に論じた様に、「明治三大殖産事業」(A)(B)(C)を「全財産」を投げ打って「興業化」した事なのであった。

    これを後勘から観ると、この時の「北勢」の農地外の「他の株権や地権の放出」は、この時期としては必要性が無かったと理解できる。
    然し、現実には積極的に放出している。
    確かに、「北勢の米農地の地権の放出」は、「明治政府の強い方針」でもあったし、当時の「政治話題」にも成っていた事でもあり、時代性も変わった事でもあったから理解できる。
    そもそも、奈良期からの「氏上と氏人の関係」から土地は、「氏人に戻すと云う理念」は理解できるし、「正しかった措置」だったと理解できる。

    然し、「株権と他の地権」(水軍等)では、上記する様な「氏上と氏人の関係」は無かった事が「資料の存在」からも伺える。
    確かに、「1025年の総合商社」への「商い転換」から室町期頃までの「社会の混乱」から「氏上と氏人の関係」の関係性はより強化された事は否めない。
    然し、“「信頼と尊敬」の「1200歳の人間の同志の関係性」”までは「僅かな資料の行」からも判断して無かったと考えられる。

    故に、「他の株権や他の地権」の「放出」には、“放出に至る何かがあった”としか筆者には思えないのである。
    それを次ぎに検証して観る。

    その前に、1800年頃から幕末までの間で、「伊勢水軍の海運業」や「シンジケートの陸運業」等の「7割利権株」を放出して「海陸の運輸業」として独立させていた事は認める。
    それ以上の「地権と利権の放出」(主に南勢と東勢)は理解できない。
    この「放出」は、「青木氏の心魂」での発露では無かった事は確実である。
    何故なら、戦略上、時期的にも好ましくない。

    この「原因の研究」には、そもそもその元に成る資料の発見に苦労した。
    「南勢域」からは資料は、「旧領地」であった事もあって「本領安堵」の地域とされていた事からも資料は遺されているのだが、「東勢域」には資料は殆どないのである。
    取り分け、この明治初期の「伊勢暴動」では、主に「北勢の事」であり、それが「員弁、桑田」と広がり、遂には「美濃」に移り「信濃」に拡がったものである。
    全て「青木氏の古来の定住地」の「所縁の地」であった。

    そこで「筆者の論」では、次ぎの二つの事が考えられる。

    先ずは、「5年間の伊勢暴動」には「農民の糧」と成る「経済的裏付け」が無ければ成り立つ話では決して無い。
    当然に不満があれば“何でも騒げばよい“と云う事では無い。
    騒ぐ以上はその「経済的な裏付け」が無くてはならない。
    その「糧の裏付け」を頼むには「氏上」以上には無い筈である。
    「青木氏」が否とすれば出来る話では決して無い。

    さて、「青木氏」としては「北勢の農地権」を無償放出して、「氏人の物」としたところには「氏人」に当然に「直接の租税」が掛かる事に成る。
    然し、それが「地租改正」で、今までの「米の収穫量」に対する「租税」では無く、「農地権」を無償放出した地価(3%)に掛かる税と成った。
    つまり、氏人の農民には何より、「地権放出」と「租税の変更」が重なった事にある。
    そして、それが悪しくも「一種の増税」であった。

    今までは「青木氏」が、「地権者」として納税して対応していたが、「地権者」を変えた事で農民、つまり、「氏人の直接の難題」と成って仕舞ったのである。
    「伊勢と信濃の青木氏」としては放置できない仕儀と成った。
    そして不幸か「騒ぎ」が大きく成って仕舞った。長く続く事に成った。
    「地権」を放出する事で、“自分たちの事は自分達で”の「自作農」と成って、「氏上と氏人の関係」も薄らぐ事にも必然的に成る。
    「氏上と氏人の関係」で護られて来た“「伝統」”は薄らぐ事も間違いは無いだろう。

    然し、今までは「氏上さま」であった「青木氏」が壁に成っていたが、「氏人の農民」が「地権者」に成った以上は、「氏人」であった農民は、「暴動」「騒ぎ」を興す事で、主張し「先行きの糧の補償」を何処かに求めねばならない事に成る。

    では、「青木氏側」には、この「暴動」が長引けば、果たして、この「北勢の氏人」の「全員の生活の補償」を出来るのかと云う疑問があった。
    江戸末期の「商業組合の解散」と「7割利権放出」(水軍)等をしたばかりの状況の中では、果たして、「適切な手立て」はあるかである。

    「北勢の氏人(うじと)」の「全員の生活の補償」から「信濃域までの補償」は到底に無理である事は顕である。
    だとすると、どうするかであろう。
    出来る事は只一つ、「青木氏」としては「地権と利権の放出(売却)」をして「資金源の確保」に走る以外にはない。
    そうすると「売却」と成れば、主に「南勢と東勢」の「地権と利権の放出」と成る。
    「西勢域」と「中央域」は奔域であり「殖産上」から放出は出来ない。

    丁度、「南紀の郷士頭の家の記録」には、この時期に「青木氏」が江戸期末期まで持っていた「殖産の利権」の行の事が特段に書かれている。
    其れに依れば、恐らくは、「伊勢暴動の事態」の為に「南勢の郷士頭」に「説明」か「同意」を求めたのではないかと考えられる。
    この後に「売却された」と観られる。

    (注釈 祖父が興した仮名の「忘備録」に口伝方式で詳細に記述がある。
    その時の「経緯の立場」を後世に明記したものと考えられる。)

    この時のものは、前段の「商業組合」で論じた「江戸期の殖産の利権」が対象であったと観られる。
    「地権と利権の放出」(主に南勢と東勢)で、「氏人(うじと)」であった「彼等の経済的な裏付け」(上記疑問の「全員の生活の補償」)をこれで採ったと考えられる。

    然し、時期的に「地権と利権の放出」(主に南勢と東勢)が同じであると云う事と、「南勢の郷士頭」の資料の土地に関する行からその状況証拠と、祖父が書き記した忘備録だけであるが、確定するその証拠は何も見つからない。

    この明治初期から明治15年頃までの代は、「曾祖父と祖父の代」であって「青木氏の由来書の復元」に取り組み始めた「忘備録(未完成:由来書の復元)」は信用出来る。

    この時期の少し前に、実は曾祖父の長兄と次兄との間で「青木氏で路線争い」(四家の中で)が起こり、「意見の違い」から長兄が「福家の跡目」は自分であるとして、「大日如来坐像」を「鎌倉の菩提寺」より「伊勢の菩提寺」に戻した。
    (これは「青木氏の禁じ手」であった。)

    (注釈 「大日如来坐像」は「伊勢」が「幕末の戦乱と混乱」に巻き込まれる事が予測され、一時、同族の「伊豆の青木氏の菩提寺」に預けた。
    当時、「維新軍」と「幕府軍」は伊勢か名古屋付近で衝突すると予測されていたし、「維新軍」は丁度、伊勢付近で偽の「錦の御旗」を作成して「討幕の形」をやっと出来上がったと云う経緯もあった。
    それには「維新軍」として、「紀州藩と尾張藩の壁」を突破しなければならない「戦略上の宿命」があった。)

    (注釈 「鳥羽伏見の戦い」の三日目に「幕府軍」は「伊勢」に駐留していたが「維新軍」との衝突は何とか西に向けて動いて難を逃れた。尾張藩は7日目に恭順)

    何れにしても、この戦略に打ち勝つには、「錦の御旗」を掲げる事で、「維新政府」>「幕府」の勢力図を決定着ける伊勢域は重要な地域でもあった。
    「伊勢」は、この様に「不入不倫の権の聖域」が危ぶまれていたのである。

    更には、「伊勢暴動」も「不満」が溜まりに溜まっていて爆発は予測されていた事でもあって、大事を取って「青木氏の象徴」の「大日如来坐像」等は、「青木氏の禁じ手」を破って、“鎌倉に移す”と云う事に決定したと云う事である。
    それと、「打つ手」は打っていたが、下記に論じるが、「討幕派」の中で、“「献納金者」”+“「協力推進者」”>=“「伊勢暴動の立役者」”の関係で、逆転してどの様に転ぶかは「青木氏側」では不透明であった。
    その時の「万全の手立て」ではあったらしい。
    それは、「維新政府の出方」のみならず、「青木氏側の路線争いの成行き」も懸念されていたのである。
    然し、この様な状況の中で、結局、長兄は病死した後、次兄が「福家の跡目者」である事の証として、「伊豆菩提寺」より「大日如来坐像」を基の伊勢の「福家の母屋」に移した。
    (現在は依ってある所に祭祀して厳重に保管している。)

    ところが、この次兄も病死し、結局、三男であった筆者の曾祖父が幕末に「福家の跡目」に納まってこれを若い祖父が補佐して「青木氏で路線争い」は収拾した事が祖父の筆字で明確に書かれている。

    矢張り、「青木氏の心魂」の「氏人への最後の絆」に付いて、「地権と利権の放出」(主に南勢と東勢)を成すべきかの「意見の違い」が興った事を如実に示す証拠でもある。
    これは、「伊勢の郷士衆」以上の一族郎党で議論と成った証拠であり、「南勢の郷士頭」の家に遺された「手紙資料」がその時の「福家の路線争いの結末」が書かれたものであった。
    「伊勢郷士衆」には「伊勢暴動」に加担する事に対して、矢張り、反対が多かった事が記されている。

    (注釈 この資料の書主は「福家」では無い。「祖父の忘備録」に依れば反対したのは次兄であったが、曾祖父の三男は、「青木氏」として長兄が押し進めた以上、最早、この段階で中止できないとして腹を決め路線を継承したのである。
    父は大きく成って祖父からこの時の経緯を聞いたとの事で、そこの詳細は口伝で筆者に伝わっている。)

    「祖父の口伝」の趣旨は、“「青木氏の象徴」の「大日如来坐像」に対して必要以上に関わるな“と云う「戒め」だけであった。
    “納める処に収めて置くことが必要で動かしてはならぬ。”、“動かすと「氏」には災いが及ぶ”とする「固い戒め」であり、これは当に「青木氏の氏是」である。

    そもそも、前段で論じた様に、「春日真人族―志紀真人族」の「青木氏の象徴物」を「動かす」と云う事は、「何かの事」で「世に憚る事」から「動かす事」に成っている。
    「何も無い所」に「青木氏の象徴物」の「大日如来坐像」を態々、「動かす根拠」は生まれ得ない。
    恐らくは、この「戒め」は「青木氏の象徴物」に限って「戒め」ているのではなく、「世に憚る事」つまりは、“「維新軍」と「幕府軍」との何れにも加担してはならない“と云う事であったと筈である。

    ところが、決着の着いた維新には、“「献納金者」”+“「協力推進者」”>=“「伊勢暴動の立役者」”の関係で関わっている。
    これが果たして、「青木氏の氏是」を破った事に成るのであろうか。

    この時の幕末から明治初期の最後の経緯が克明に判る事件で、これが「青木氏の心魂」の「氏人への最後の絆」であった。

    結局は、「北勢と南勢と東勢」の「青木氏の地権」はこれで消え、残すは「西勢と中央域の地権」だけと成った。

    (注釈 「四家の摂津堺店」の堺域でも「摂津青木村」があり、「可成りの農地権」も持っていた事で「暴動」が飛び火した。)

    (注釈 「北勢と南勢と東勢」の関係が変えた事で、それまで「氏人や郷士」が南勢や北勢から荷車を引き山を越え谷を越えて来た「運動会」とか、一か月に及ぶ「始祖祭り」とかに松阪を訪れた事は次第に消えたと記されていて、「青木氏の古式伝統」は「四家の範囲」で護られる様に成った。)

    もう一つの事は、上記した“「献納金者」”+“「協力推進者」”>=“「伊勢暴動の立役者」”の関係で関わっているとして、これが果たして、「青木氏の氏是」を破った事に成るのであろうか。
    この事を後勘の為に検証しておく必要がある。

    それは何に於いても”「維新政府への献納金」”である。
    これが「青木氏」に執ってどの様なものであったかと云う事に成る。

    「維新政府への献納金」は、この時期、多くの「豪商」に求めていた有名な「維新政府の施政」であった。
    前段の様な立場を持つ「青木氏」もいの一番に例外なく求められた筈である。
    この苦しい時期の「献納金の工面」であろう。

    幕末には、紀州藩の二度目の「勘定方指導」を務めたが、この時に「藩財政の立て直し」の為に“「前貸金」(引当金)”として拠出していた。
    これが上記の様に「幕府」が無く成り、「紀州藩」も無く成り、「伊勢支藩」も無く成り、「不当金」と成って仕舞った事が「商記録」と「忘備録」にある。
    実にダメージが大きかった事が克明に描かれている。

    其処に“「維新政府の献納金」”である。
    「青木氏」としては、立場上、「賜姓族」であると云う事から「献納金」は是非の事無く納める事しか無く成る。
    況して、「伊勢暴動の裏の影役者」である事は、周知の事で「矛盾の行為」であった。
    何とかこれをうまく納めないと、それこそ「青木氏の氏是」を出自以来で始めて破り、且つ、「暴動の裏の煽動指導者」の「汚名」を残す事に成り得る。
    お恐らくは、「氏」を遺す事も儘ならなかった筈である。(結果として見事に納める。下記)

    「地租改正」と連動して「維新政府」が断行しようとした“「農地解放の協力推進者」”であって、それを進めた事に依って、その結果として、「自作農」にした「農民」が、不得意な「金納の納税者」と成って仕舞って、「状況の理解」が浅い事から「租税の不満」が表に出る事に成って仕舞った問題でもあった。
    前段でも論じたが、「米納」から「金納」に切り換える事は、前段で論じた様に、「政治体制の四つの矛盾」の「幕府解決策」の一つであった。
    享保期から積極的に「青木氏」が取り組んで来た「政治課題」と「経済課題」であった。
    しかし、明治期初期にこの時期を得て「自作農」を率先して進めてきたが、「氏人の農民」には「充分な説得」が成されていなかった事が露出したと云う事であった。

    ここでは、“「献納金者」”であって“「協力推進者」”であって“「暴動の立役者」”でもあると云う「二律背反」の隠す事の出来ない事実が起こって仕舞っていたのでもある。
    難しい「綱渡り」である。
    「綱渡り」と云うよりは当に「手品」であろう。
    然し、かっと云って「青木氏」としては、何れ上記の「三つの者」は、“「避ける事の出来ない役」”であった。
    「避けられない宿命」、或は、「時代のうねりの流れ」に引っ張られていたと云う事であった。
    最早、「青木氏の意志」に依るものでは無かった筈で「逃れる事の出来ない宿命」であった。

    この「宿命」は、次ぎの様な数式論の様に「金子に代わる不思議な流れ」であった。
    今までは無かった「時代の流れ」であった。

    「紀州藩前貸金」+「維新政府献納金」+「暴動支援金」>=「青木氏の宿命金」

    以上の様に、何れもが「宿命金の返納」とはならない「金子」(帰ってこない金)が、一度に用立てる必要性に迫られていて、これは「青木氏の浮沈」を左右する事でもあった。
    これの「意見の違い」で、「信濃の青木氏」も巻き込んで豪商と成っていた「六つ青木氏全体」での議論の渦中にあった。

    「維新政府」としては「青木氏」のこの動きを次ぎの様な数式論として観ていたと考えられる。

    “「献納金者」”+“「協力推進者」”>=“「暴動の立役者」”

    この「二つの数式論」が「二足の草鞋策」を敷く「豪商の六つの青木氏」を苦しめていたのである。

    確かに、この数式論から“「暴動の立役者」”は、「地租改正の障害」と成る事であって、「維新政府」にとっては、本来であれば、間違いなく「青木氏の捕縛」であろう。
    然し、「青木氏の捕縛」は記録では無かった。
    其れは、上記の数式の中にあったからである。

    「紀州藩前貸金」+「維新政府献納金」+「暴動支援金」>=「青木氏の宿命金」

    この数式論が「青木氏の捕縛」を救った。
    これだけの「宿命の負荷」が掛かれば、「地権と利権の放出」(主に南勢と東勢)は逃れられない。
    然し、この「三つの金」は「商い」で取り戻せる事が出来ない金でもある。
    この時、「伊勢の福家」では「倒産」を覚悟した事らしい。
    或は、「汚名」を被り「氏の滅亡」を覚悟したらしい。

    注釈として、この時、現実に「氏人であった捕縛者」がどうなったか気に成るが、「青木氏の記録」に依れば、次ぎの様であった。

    「伊勢北部」での全体は8000人程度以下で、その内、直接の「氏人であった捕縛者」は150人、関係者では400人程度で、「南勢の氏人の捕縛者」を入れると合計600人程度と記されている。
    そして、「重要な事」は、この「600人弱の捕縛者」は、「青木氏」が保証人と成って直ぐに解放されている。
    (公的な記録にもある。)
    「伊勢」での全関係者は800人程度と記載されている。
    祖父の文章の「行」から、「600人の氏人の解放交渉」を裏で行った様子である。
    全体の暴動の捕縛者は5万人であった。

    「青木氏」としては、“今のやるだけの事はやった”と云う表現である。

    そこで、重要な「青木氏の歴史観」は、注釈の「600人の氏人の解放交渉」の「行の意味」である。
    ところが、「北勢と南勢の氏人の数」からすると、少ない。
    別の記録から正式な「氏人」は全戸主1000人強居たと記されている。
    当時の「青木村」にして見ると、「5村から6村」に相当するが少ない。

    参加した「北勢域の員弁と桑名」の「氏人の村の数」と、後追いで参加した「南勢の尾鷲域」の「氏人の村の数」からすると何故か少ない。

    そうとすると、「人数」から考察すると、「捕縛されなかった氏人」と「暴動に参加しなかった氏人」が400人−35%もいた事に成る。
    参加したが「捕縛されなかった氏人」は、「村集団」で行動していたので居なかった事に成る。
    記録から、“状況が新たに変化して、50人が再び新たに参加した”とあるので、「解放された人」は「保証人の立場」を崩す事に成るから先ず「再参加」は無いだろう。

    これが「暴動に参加しなかった氏人」の内の50/400人と成ると、合わせて「250人の参加」と云う事に成る。
    (「捕縛されなかった氏人」は150人)
    丁度、「全氏人数(戸主)」の「40%−250人」が参加した事に成る。

    全て農地解放前は、地権の持たない「小作農」で有ったので、これは「参加しなかった人」、つまり、「意見の違う人がいた事」に成る。
    然し、況や、“新たに”「地権者」に成る事を拒んだ人”が居た事に成る。”
    即ち、“「氏人」で居たいとする人”が、「6割」も居た事に成る。
    この事が重要である。
    これが、「氏人の村数」の少なさに繋がっている事に成り数理的に納得出来る。

    唯、「行」では「村単位での行動」と成っているので、「村全体」が参加しなかったのか、又は、「村の氏人の一部」が参加しなかったのかは判らない。

    要は「維新の地権」を新たに持った「氏人の数」が、「地権」を持った事は良かったが、突然に「米価」から「税」が慣れない「地価」に変換されて、「貨幣」に疎かった事で「金納」に成った事の「戸惑い」が「不満」を持った事である。
    その為で、依って「維新の新たな地権」を持った「氏人」が全て参加している事に成る。

    然し、そもそも、「郷士衆」を除き、「青木氏の村」には元より「地権」の持った「青木氏の氏人(地主・地権者)」は居なかったので、結論は「村全体の行動」では無かった事が判る。
    それぞれの「村の一部の参加」は、つまりは、「維新の地権」を持った全ての「氏人」」であった事に成る。
    云い換えれば、「維新の地権を持つ事を拒んだ氏人」が多く居た事に成る。
    (つまり、これを”「6割組」”と書かれている。)

    従って、「北勢と南勢の一部の青木村」には、維新に依って、有史来、初めて「地権者の氏人」(「4割組 a」)と「地権者では無い氏人」(「6割組 b」)が混在した事を意味する。
    これでは全ての「青木村」には、ややこしい関係が新たに生まれていた事に成る。
    「地権者に成った氏人」は、最早、基本的には「氏人」では無く成る。

    つまり、「青木村」には「氏人を続ける者」と「氏人を続けない者」の「混在状況」が発生した事に成り、「複雑な人間関係」が生まれていた事を意味する。

    「青木村」でありながら、「維新の地権者」に成った者は、果たして「青木村」に居られるかの疑問が残る。

    然し、「村の土地の地権者」と成った以上は、「青木村」に住む事に成る矛盾が生まれる。
    「4割組のa」と「6割組のb」が上手くやれるのかの問題である。
    これは「氏人との意志の選択」から生まれた「村の難題」であった。

    然し、「6割組のb」が存在しながら「青木氏」は、「4割組のa」の暴動の「経済的背景」と成っている。
    そして、彼等を救出している。

    道義上(「人」の行うべき「正道」)は、「維新の地権者」にしたが、「悠久の氏人」であったとする事から「青木氏」には「4割組のa」に対する責任もある。
    然し、信義上(「真心」で「約束」を守り、「相手」に「役」を果たす事)では、最早、「氏人」で無く成った者等であって、「悠久の静かな村」に問題を持ち込んだのである事からも、“自分の事は自分でせよ”として、「6割組のb」は釈然としないであろう。

    「6割組のb」と「4割組のa」は全くの他人では無く何らかの縁者関係にあった。
    この様な時には、“「4割組のa」を見放すのか、支援するのか“は、最終的には、「氏上の青木氏」の「福家の判断」に任される事には成るだろう。
    「救出している」のであるから、「青木氏の心魂」が働いた事に成る。

    「祖父の筆」では、「救出と云う事」と「暴動の円満解決」を自慢話に成らない様に、この事を暗示していたのである。

    結局は、上記の「金の数式論」と「者の数式論」が効を奏して、先ず「参加者の600人」を救い出したのである。
    然し、次ぎは「汚名の払拭」と「暴動の円満解決」の為の「手立て」であった。
    この「二つの手立て」は関連していた。

    それには「汚名の払拭」は、「暴動の名目」を変えて行く事でもある。
    この為に「参加者400人」(「4割組のa」)を「ある方向 下記」に説得する事にあった。

    ここで、「青木氏の歴史観」として「汚名の払拭」と「暴動の名目」のこれを理解する為に「青木氏」の独特な「事務的な伝統」を記して置く。

    (注釈 「汚名の払拭」と「暴動の名目」の策は、「参加者400人」(「4割組のa」)の「説得策」を始めとして「名目策」等は、「時代の先取り」としても「政府の面目」も建てた見事なものであった。
    それは下記に論じる。)

    その前に、この“祖父の暗示”に関して、“何故に暗示したのか“と云うと云う事であるが、それは「青木氏の古式伝統」にあった。
    普通なら、“記録に遺すのだからはっきりと書けばよい”と成る。
    ところが、此処に「青木氏の慣習仕来り掟」の「古式豊かな配慮の伝統」があった。
    祖父もこの「古式慣習」で育った事もあって、「忘備録」などにはこの「暗示」が好く使われている。

    そもそも、この「古式伝統」には、先ず、手紙等の文章は、“「祐筆」”が居て、素案・原案を作成し、それを「認める作法」である。

    (注釈 “文章を認める“と云う言葉が有るが、この”認める(したためる)”は下記の「仕来り」から「語源」が来ている。)

    一つ目は、「青木氏」には、「神明社の柏紋の禰宜」と、「氏の菩提寺の達親」の「二つの役職」があった。
    この“「祐筆の役目」”を古来より“「青木氏の仕来りの伝統」”として務めていた。

    二つ目は、上記の様な詳細な機微に関する内容は、直接的に書き込むと云う事は行わず、機微を匂わせるものと成る。
    これを「美徳とする慣習」が古来より在った。

    この慣習は、「志紀真人族」としての「賜姓五役の格式」を汚さない為にこの「祐筆の制」を執ったと観られる。
    “「春日真人族の後裔」で「志紀真人族」とはあの程度か“と云われない為の「氏の防備」であって、それが「慣習仕来り掟の伝統」と成ったものであろう。
    むしろ、「氏族の範」としての「朝廷」が求めるものであったとも考えられる。

    書き記す証拠はないが、他の古式伝統から租借して「格式と範とする概念」が強かった事は否めない。

    この「格式と範」としては、直接的に書き込む事は「無粋」として、その「人間力」や「人格」を疑われ軽蔑されたのである。
    少なくとも、「四家制度」の「福家を務める者」は、この概念を強く持ち得ていなければならない事を求められた。

    さて、この「祐筆」を務めた原案に対して、「福家」はそれ以上に「チェック能力」を要求され、「原案訂正の能力」を要求された。
    その為に、「朝廷や上位」に出すものは、「禰宜」が、「四家や郷士衆や縁籍」に出すには、「達親」が務めた。

    中でも、朝廷から「神紋の柏紋」を特別に有する「青木氏」の「身内の禰宜」は、「青木氏の顔」として観られ、「禰宜」が作成する文面は、「青木氏の品格」を評価されるものとして扱われた。
    この為に「四家制度」の中で育てられた中から“「優等生」”が成ると云う「仕来り」であった。
    従って、「柏紋の禰宜」に成れるには「極めて名誉な事」であって、「青木氏」の中だけでは無く世間に対しても名誉であった。

    朝廷などに出向く際には、この「笹竜胆紋」を「総紋」として「柏紋の禰宜の青木氏」は、「福家」に同行して朝廷などでもトップクラスの扱い(従三位)を受けた。

    (注釈 朝廷で天皇に控えて拝謁できるが発言は出来ない格式で、発言が叶うのは正三位からである。)

    従って、この「祐筆を務める禰宜」は、「青木氏」は元より「故事伝来の知識」に長じていなければならないし、「書体の良悪」も重要であった。

    「四家制度」の「祐筆を務める達親」は、「氏人の事の詳細」や「氏全体の古式の慣習仕来り掟」に長じ、一種の「歴史官僚の様な役目」でもあった。
    従って、「祐筆を務める禰宜」と共に、「青木氏の祭祀等の準備」も進める役目を負っていたのである。

    (注釈 古い資料を読み取ると云う事は、この“文面から租借する能力”を要求される事で、当然に「青木氏の古式歴史観」も把握していなければ、なかなか理解が難しいのである。
    筆者が本論中でよく「・・・の行・・」と表現するはこの事にある。
    「禰宜」と「達親」の仕事は目が廻る程に忙しかったと記されている。)

    歴史的には、「祐筆」は、朝廷や公家や武家などが使う呼称であった。
    一方、同じ「右筆」は、室町幕府から使われた呼称で、後の大大名はこの「右筆」を使った。
    ただ、小公家は自筆を専らとしたが、「祐筆」と「右筆」とには時代性もあるが、前者は「歴史・慣例・慣習・仕来り等の知識能力」、後者は主に「識字能力」に重点が置かれていた。

    これは「発行する相手」に左右されていた事から、「祐筆(書籍官)」と「右筆」(代筆者)」との呼称の呼び方と意味が多少異なっていた。

    これは奈良期から「識字能力と歴史や慣例の知識の能力」の程度に左右した為に起こったが、取り分け、「皇族賜姓臣下族」であった事に依り「青木氏」に執っては「歴史・慣例・慣習・仕来りの知識能力」に重点が置かれていて、自筆もするが、その意味で明治期まで“「祐筆」・(「執筆務」)”の呼称が使われていた。

    これ等の祐筆に付いての歴史は重要な「青木氏の歴史観」である。

    前段で論じた様に、これは「志紀真人族」の「賜姓臣下族」を構成する数少なく生き残った「氏族」であった事もあって、「青木氏」の「郷士から氏人」までの長い歴史の持つ「氏」を構成するには、「歴史・慣例・慣習・仕来りの知識能力」が重要であって、「賜姓五役」に大きく左右していた事を物語っている。

    従って、この上記した「見放しか支援か」の差配と、「汚名の払拭」と「暴動の名目」の差配を間違うと大変な事に成っていた事を物語っている。
    この「歴史・慣例・慣習・仕来りの知識能力」を間違いなく持ち続けるには、「祐筆」を「禰宜と達親」に分けて、この時には「執筆務」を採って居た事が判る。

    「歴史・慣例・慣習・仕来りの知識能力」、即ち、「書籍役」(1)のみならず、「催事役」(2)の祭祀祝事の「催事全般」も担っていた事が書かれている。
    時には、「郷士から氏人」までの「調整役」(3)も担っていた事が判る。

    前段で論じた神明社の「御師役」(4)や、シンジケートとの「連絡役」(5)や各地との「情報伝達役」(6)中には、「神明社」を通じて「氏人」の「薬師役(医務役)」(7)も演じた事が書かれている。
    上記した様に「仏施の質役」(8)も務めていたのである。

    「書籍役」(1)
    「催事役」(2)
    「調整役」(3)
    「御師役」(4)
    「連絡役」(5)
    「情報伝達役」(6)
    「薬師役(医務役)」(7)
    「仏施の質役」(8)


    (注釈 これでは確かに飛びぬけて優秀で無くては「役」は成し得ないだろう。
    各地の「笹竜胆紋と柏紋の青木氏末裔」は伝統的にこの知識を持つ末裔であった。
    従って、4年か5年に一度赴任地から帰勢する仕組みで、その後また別の赴任地の神明社に出向く制度を執っていて、「豊かな情報と高い経験」とを収得して全役目を全うさせる仕組みであった。)

    (注釈 黒田藩の始祖父は、近江佐々木の支流末裔にして、「近江系の摂津青木氏」との血縁を持ちその所縁あって「神明社の7」を務め、5と6も務めていた。
    その事が出世の糸口と成った。)

    注釈として、一時、この“「執筆務・(秘書役)」(4)”の呼称を使っていた事があるらしい。
    正しい呼称かは判らないが、「執筆務・(秘書役)」を「しっぴつむ」とし乍らも、「祐筆」にかけて「しゅうひつ」(衆筆)と呼んでいたとする記録もある。

    「氏人側」からの呼び名であった可能性が有るので、“「衆筆」”の意味は大変その「役目柄」が良く判る。

    さて、この「6割の氏人」は、昭和20年の「進駐軍の命令」で「農地解放」が日本全国一斉に行われたが、この時にこの「6割の氏人」が「地権者」に成ったとすれば、父の口伝に一致する。
    記録と口伝が一致する事に成る。

    故に、前記した「曾祖父の長兄と次兄の意見の違い」が、「伊勢郷士衆」までを巻き込んで起こったが、その「原因の背景」は、これで完全に理解が着く。
    「全国の青木氏」、取り分け、「六地域の青木氏」ではこの様な事が起こっていた。
    前段で論じた様に、その例として、瀬戸内で全国的に「廻船業」を営んでいた「青木氏の記録」を見ると、分家筋の「安芸の青木氏」との間で「路線騒動」が起こっていたが書かれている。

    「伊勢の暴動」は、「信濃青木氏」が「伊勢青木氏」と同じ行動を採った事で「信濃」まで広まったが、「信濃青木氏」も同じ苦労をした事が良く判る。

    (注釈 記録を見ると、飛び火的に貰い火の様に「青木氏の六地域」にも広がったが、伊勢信濃程には大きくはならなかった。)

    尚、この「地租改正の暴動」は、「秀郷流青木氏の定住地」である「茨城や千葉」まで飛火した。
    然し、「鎌倉伊豆域」や「神奈川横浜域」では不思議に起こっていない。
    この地域は、「二つの青木氏」が存在する地域でもある。

    この事は、明治期には、「秀郷流青木氏」も「氏子への地権の移動」を「青木氏の定住地」の「茨城や千葉」では行っていた事が判る。

    ところが、「本家本元の武蔵」や「鎌倉伊豆域」や「神奈川横浜域」のこの地域の「青木氏」は積極的では無く、「貴族院の方針」に従った事に成るのだろう。
    「享保の改革」の時も積極的では無く、一時反目し合った事もあった。
    不思議な原因はまたもや判らない。

    「武蔵藤氏」が一族こぞって「幕府の官僚族」に成った事が原因しているのかもしれない。

    故に、この事も在って、安定した「伊豆(鎌倉)」に伊勢から「大日如来坐像」を移した事も一つの要素と成る事が判る。

    前段でも論じたが、「享保の改革」で「犬猿の仲」と成っていたが、「伊豆青木氏の宗家」は「鎌倉」に別荘を持っていた事から、密かに「伊豆青木氏宗家の判断」ではその後に「鎌倉」に安置したと記されている。

    この事では、次ぎの事が読み取れる。
    先ず、一つ目には、「維新の時期」には、既に、「伊勢との関係」が修復されていた事を示す事に成る。
    更に二つ目には、「秀郷流青木氏116氏」の殆どは、「維新の地権の放出」に応じずに「氏人を地権者」にはしなかった事に成る。
    又、三つ目には、事前に「鎌倉伊豆域」や「神奈川横浜域」の態度も把握できていた事に成る。

    「幕府軍」と「維新軍」の「衝突の可能性」から、「神奈川横浜域」との中間地でもあって「鎌倉の方」が“いざ”という時には守備の点で両方から護れると観て安全と考えたとしている。

    (注釈 現在も鎌倉には「伊豆宗家」が「大きな屋敷」を構えて定住している。)


    そこで、何故、「秀郷流青木氏116氏」の殆どは、「維新の地権の放出」をしなかったのかの疑問である。
    それは、「武蔵藤氏の官僚族」の事もあるが、更にこれを突き詰めると、「青木氏の心魂」の所以に依るものとも考えられる。
    何れも、「氏人との関係」は平安期から長い。
    唯、異なる事は「伊勢と信濃域」は「朝廷との歴史性」に依る所が大きい。
    云い換えれば、良し悪しは別として「賜姓臣下族としての感覚」の差にあった事に成る。
    矢張り、「朝廷との繋がり」の強い「伊勢域信濃域と云う地理性」に依る事がこの感覚から逃れ得なかった事に成る。
    つまりは、この「地理性」から来る自然に構築される“「氏人との絆の差」“であろう。
    それが、上記した「6割の氏人」と「4割の地権者」との“「選択差」”に表れたと考えられる。
    この「選択差」=「絆の差」と成ったと考えられる。

    それは、“氏人が地権者に成る事を好まなかったのか、”将又、“地権者にする事を好まなかったのか”は判らない。
    「絆の差」を強く持つ「伊勢域や信濃域」では、「6割の氏人」:「4割の地権者」を「6:4」であったとすると、「6割の氏人」:「4割の地権者」は「8:2」位以上の関係性を維持していたと考えられる。
    とすると、“「氏人」を「地権者」にする事を好まなかった” と“「氏人」が地権者に成る事を好まなかった”の「両方の決断」であった事が考えられる。

    これは「地価制」や「金納制」に成る事に依る「リスク」を「先読み」しての事であったかも知れない。

    そうすると、「武蔵」はさて置き、「茨城と千葉」は、「秀郷流一族一門」や「青木氏族」の中でも「結城氏の永嶋氏の地域」である。
    この本家本元の秀郷流一門の最大名門の「結城永嶋氏」は、「伊勢藤氏の伊勢長嶋氏」を含む「伊勢秀郷流青木氏」との血縁性も高い処であり、「秀吉の時」の「陸奥攻め」と「結城攻め」に救ってくれた恩を認識して「伊勢の影響」を強く受けていたとも考えられる。

    その根拠は次の事にある。
    注釈として、前段でも論じたが、「秀吉の陸奥攻め」の時に、「伊勢秀郷流青木氏」は伊勢から出て「秀吉の背後」を襲った事で「陸奥結城氏系永嶋氏」を救い、その後、「結城氏一族」を護る為に軍を結城に廻し救った経緯がある。

    又、朝廷「京近江の公家」との血縁性を強く持つ「伊勢秀郷流青木氏」でもあって、「青木氏族の永嶋氏」も同様であった。
    秀郷一門の中でも同族意識が高かった。
    恐らくは、これらの所以が強く働いたものと考えられる。

    結局は、「氏上と氏人の関係」も、この「選択差」=「絆の差」と成ったと考えられる。


    さて況や、この事柄(歴史的情報)を「祐筆・御師」等の働きから適格に読み切った事から、「鎌倉伊豆域」や「神奈川横浜域」の態度も判った事に成る。
    「読み切る事の情報」は、上記で論じた「1から8の役」を果たす「祐筆・御師」(神明社)が集めた事に成る。
    当然に享保期に起こった「伊豆との蟠りの解決」もこの「神明社の役目」であった事に成る。

    さて、これで「伊勢暴動」は、この様に何とか乗り切った。
    然し、注釈として、「紀州藩前貸金」+「維新政府献納金」+「暴動支援金」>=「青木氏の宿命金」の環境の中で、この状況でも「四家」は、「パッキン」と呼ばれる「紙箱等の殖産」や「酒造米改良の殖産」は続けている。

    この「殖産」を「6割の氏人の副業」として彼等を護ったのであるが、「4割の地権者」の中には、上記の数式論で「氏上の行く末」を見限った「氏人」も多かったとする資料の行もある。

    その意味でも頑張った甲斐があって、通称、「パッキン」(紙箱)は、その後、時代と共に爆発的な発展を遂げた。
    段ボール等を含む各種の「家内業の紙箱業」ではあったが、「6割の氏人」を何とか護ろうとしたのである。

    「青木氏の歴史観」として「各種の紙箱」の発祥は「青木氏の殖産」からである。
    これで明治に成っても「氏上と氏人の関係」を何とか保ち、再び力を取り戻したが、「江戸期の力 500万石」は最早無かった。

    確かに、この状態は明治35年まで続いたが、ところが「松阪の火事出火元の賠償程度」で「福家」は倒産した。

    (注釈 賠償程度で倒産するとは考え難い。財力以外の何かが働いたと観ている。
    然し、祖父は「福家」だけの倒産を実行した。
    筆者は「祖父の忘備録の行」から下記の事から「責任説」を採っている。)

    「紀州藩前貸金」+「維新政府献納金」+「暴動支援金」>=「青木氏の宿命金」

    以上の数式論で、結果として兄弟が「路線争い」したが、「火災による災禍」を興した事から充分な継承が出来なかった事に対する「福家の責任」を執ったと観ている。
    従って、「福家の資産」のみを処分したと考えられる。

    そこで、「郷土史研究家」で元郷士の話では、その後、祖父の弟に当たる分家・即ち、四家は、「松阪、玉城、射和地域」では、“「徳宗家」”として地域の人からも信頼されていた事が伝わっている。
    これは明治期に成っても「伊勢の殖産」で多くの人を救ったとしての事であった。

    そもそも、“「徳宗家」”とは、専ら平安期以降に良く使われた用語で、「宗家」に代わって人々にその「徳」を果たしたとする浄土宗系宗派に用いられ、取り分け、「徳」を重視する「禅宗」等に使われた「仏教用語」である。

    古くから「浄土宗の密教の宗教概念」が浸透している伊勢では、「古式慣習の概念」として未だ明治期までも用いられていた事を物語るものである。
    ところが、鎌倉期後半の頃から、この慣習を利用して良く似た意味で、これを用いてその後に、鎌倉幕府の「源氏の権威」を継承しようとして、“「得宗家」”として「総家の執権北条一族の呼称」に使って「一族の権威」を表した。

    一般には、この事からこの「得宗家」が使われるが、元来、「古式概念」からすると京、近江、伊勢等で使われていた「浄土宗系の仏教用語」の“「徳宗家」”が語源と成る。
    これも「古式慣習の伝統」である。

    その“「徳宗家」”と呼ばれていたが、この呼称が「氏上さま」「御師様」等と呼ばれていた中で、何時頃から「伊勢の民」に呼ばれていたか資料が見つからない。
    然し、「浄土宗系の仏教用語」である事と、「平安期からの古式慣習」であったとする事は確かである事から、「和紙を始めとする殖産」を通じて「全ての郷士衆」から呼ばれていた事に成る。
    故に、「郷土史研究家」の郷士であった家の資料に出ていた事に成る。

    一時は、「500万石以上の財力」を誇ったが、「享保期の事」(伊勢屋の質等の出財)も含めて上記の事等で「体力」が極めて弱っていた証拠でもあるが、然し乍ら、「覚悟」は正夢と成ったのである。

    (注釈 享保前と幕末期の二度の「紀州藩指導方」の事もあってか、大正14年15代の紀州徳川家の没日まで極めて親密な関係が続いた。
    「祖父の忘備録」でも解るが、最後の二代に渡る徳川氏との親交を表す数通の手紙が現在も遺されている。)

    この事に付いての「青木氏の歴史観」を遺す経緯が実はあるのだ。
    それを下記に論じる。

    そもそも、紀州藩は「維新政府の方針」に従わず「廃藩置県」をより先行して、「県郡制の実施」と、「無益高制(藩主や藩士に払う家禄を10分の1に削減)を実施」等を行った。
    紀州藩は、これに加えて、更に、「藩政改革」として「藩治制度の三政策」を強引に実行した。
    これに驚いた「維新政府」は大反対した。

    つまり、この「県郡制と無益高制の二つの政策」と「藩治三政策」を“何故、実行したのか”と云う事が「青木氏の歴史観」に大きく関わってくるのである。

    これでは判り難いが、前段でも論じたが、この幕末から「多くの高額借財」を抱えていた「藩主」の経理一切が藩政に大きく影響していた。

    そこで「藩主」を含む一切の俸禄を1/10にした上で、更に「藩主」の「徳川氏の経理」を新たにして「藩」とは切り離した。
    そして、完全に「藩政」からも分離した。
    そして、それを実行した上で、最後に「藩」そのものを廃したのである。
    これが「県郡制」なのである。
    「藩」は突如無く成ったと云う事である。
    そして、「無益高制」で「藩士」であった者の「給与」を殆ど無くして辞めさせる様にした。
    続けてこれらの手続きは「2年間」の間に行われたのである。
    その上で、「経理問題の処置」を実行した。

    この為に、「藩主の借財」は、「個人の新別経理」に成って仕舞った。
    「藩主としての責任」を問える「経理の相手」が「新しく別の無関係の経理相手」に成った為に無く成ったのである。
    つまり、「藩の借財」は、「藩」が無く成る事」と、「藩主としての借財責任」も無く成る事で、「不当りの棒引き状態」として無く成る仕組みであった。
    これで、「貸し手側」は何処にも返済を求める相手が無く成った。
    恥も外聞もない明らかに「道義に反する騙し討ち」である。
    この事で「江戸期からの一切の借財」等は、「騙し討ち」で「棒引き状態」と成った。
    当然に、「青木氏等の商人の前貸金の返済」は霧消に至った。

    (注釈 ある「紀州藩に大きく関係した豪商」(伊勢小津)からの借財も同じ事に成った事が、江戸期に豪商と成った紀州藩所縁の「豪商の自家伝」に、この時の心情と経営の苦しさが綴られている。
    それには、“元々紀州藩の御蔭を以って「商財」を成したが、「商い」が出来なく成るも「元の無一文の状態」に成るだけで何の変化はない”とした負け惜しみの文面である。
    「青木氏」とは少し違うが、「伊勢青木氏」と同じ様に呆れてこの時の「覚悟」を示している。)

    「維新政府の処置」では、「棒引き不当りの不満」が、「伊勢暴動の不満」と連動して「全国的な暴動」に発展しないかとの懸念が強く持っていて、取り敢えず「紀州藩の藩治制度の三政策」に反対をして2年間様子を観たのである。
    然し、「二人の伊勢商人」等は上記の覚悟を示した事で「伊勢暴動」だけで終わった。
    ところが、この「伊勢暴動」には「青木氏の歴史観」を遺すだけの大きな「意味」があった。

    当に、何度も重複させるが、次ぎの二つの数式論の状態が「青木氏の破綻」を導いた。

    「紀州藩前貸金」+「維新政府献納金」+「暴動支援金」>=「青木氏の宿命金」
    “「献納金者」”+“「協力推進者」”>=“「暴動の立役者」”

    この状況の中で、同時に、「紀州藩の藩治改革」が進められて、この「数式の状況」が示す様に「青木氏」には「金と者の強力な流れ」が起こっていたのである。
    「伊勢青木氏(伊勢の紙問屋)」としては、紀州藩所縁の「豪商の自家伝」の行の「心情」に成り得ていたかは疑問である。
    (理由があって口伝と資料では成っていない。)
    「享保の改革」後の1780年以降の幕府の「商業組合の締め出し策」と、幕末の「第二次勘定方指導の貸付金不当」が在り、この“「心情」“とは違ったのである。

    其れは、上記した「紀州藩所縁の豪商」の抱える「土台」が、「氏上と氏人の関係」などでは無く、単なる「商い上の貸付借財問題」だった。
    然し、「青木氏」では比較に成らない程に「人、時、場所」の「三相の意味合い」の「享保の改革」も然り、「勘定方指導」も然り、「吉宗育ての親」も然り、これ等の「関り具合」が「ケタ違い」であった。
    そうした中で、「青木氏の心魂」で対応した事は、“「心魂」”と云う意味では「伊勢暴動」も同じではあった。

    所謂、最早、ギリギリの処の「心情」<「心魂」で乗り越えたと云う処であろう。

    注釈として、何故ならば、「棒引き不当りの不満」は、「心情」<「心魂」と「上記の数式論」から観ても、その思いや不満は「伊勢暴動の経済的支援」にも繋がっていたのではないかと観ているが、「証拠書き」は見つからない。
    何かの理由で消されている様である。
    唯、「青木氏」としては「妥協の心魂」から、上記する「強かな紀州藩の行動」には止む無く容認して応じたものの、一方の「青木氏の心魂」では、騙された以上は「怒り心頭」で、これでは済まされなかった。

    つまり、「伊勢暴動の経済的支援」は、「心情」だけでは済まされず「青木氏」も「強かな心魂」で応じた事を意味する。

    重要な注釈
    “「強かな心魂」で応じた事“の理由は次ぎの事にあって、「青木氏」は「妥協の心魂」では事を流石に穏便に済ます事が出来なかった。
    それは紀州藩が採った次ぎの三策に在った。

    そもそも、江戸時代の「独立性の藩政」は、「朝廷」から政権を奪い、朝廷の生活を、土塀が崩れても修復できないまでの困窮に追い込んだ事で、「西の政権の朝廷」と江戸幕府の関係は「犬猿の仲」であった。
    従って、幕府がこの藩の「独立性の藩政」を「西の政権」が持つ「国体の認証業務」から意地でも認めなかった。
    従って、本来は、250年野間に於いても「正規の制度上」のものでは無かったものである。

    (「西の政権」と「江戸幕府」との「犬猿の仲」は、徳川氏が江戸に幕府を開くに当たって、幕府を開く条件の「征夷大将軍」と「武家の棟梁」の「格式授与」を要求した。
    室町幕府は、「足利源氏」である事からこの「二つの格式授与」はすんなりと与えた。然し、徳川氏は姓族である事から、慣例上、征夷大将軍は何とか与えたが、「武家の棟梁」は頑として与えなかった。これでは徳川氏の政権は幕府としての格式権威が失墜する。そこで、何とか認めさせるために「天皇家の経済封鎖」をした。然し、認めなかった。そこで底をついた朝廷は「武家の長者」と云う典範には無い「新しい格式権威」を持ち出して授与した。
    何とか幕府は開けたが、これ以後、「国家の認証業務」を行う「西の政権」として遺して「犬猿の仲」と成った。
    この時、「青木氏」は裏で経済的に「献納金」で支えていたのである。)

    従って、驚くべきか250年続いた「独立性の藩政」は、明治期に成って初めて「追認の形」で正式に認めたものである。
    ところが、現実には、この江戸期250年間は「独立性した藩政」で行われたが、何とその政治元の御三家であった「紀州藩」だけは「非正規の政治自治体」を理由にした。
    従って、江戸期250年間は、この「訳有の独立性藩政」であった事を理由に持ちだして、これを理由にして、「紀州藩」は、「維新政府の反対」を押し切ってでも、“制度上に無い藩”とする事を理由にしてた。

    今に成って「追認」を受ける直前(1871年)に「藩政制」を先行して勝手に廃止した。
    結局は、「追認」を受けてしまうと「大義」と成る「大きな理由づけ」にはならなくなる。
    「紀州藩の独断」の「驚きの手品」であった。

    どう云う事かと云うと、これは「ある目的」、つまり、「商人」から借りていた「上記の借財の解消」(藩の借財 徳川氏の借財から逃れる手段)の為に「借財を持つ藩」を廃止する“「口実」”に過ぎなかった。

    “「本来は制度上は無かった」”と云う事を理由づけとして、“「追認の形で正式に認めた」”と云う理由づけとするのは、明らかに“「朝廷」が認めていなかった”として、だから“廃止するのだ”として「理由づけにした事」に過ぎない。
    何をともあれ、これを「紀州藩」が唱えて実行したところに意味がある。
    これで「廃止」できれば、天下に対して“「棒引き不当り」の「正統な理屈」”は生まれるからである。

    この“「棒引き不当りの理屈」”が出来れば、先行して「廃藩置県」で済ませれば、紀州では「暴動無し」で済む戦略であったし、「維新後の徳川氏」は「氏の破綻」から逃れられて「借財」からも逃れられ安定する。

    つまり、これで上記の通り「四つの奇策」と成った。

    先ずは「藩主」を含む一切の俸禄を1/10にした。
    その上で、更に「藩主」の「徳川氏の経理」を新たにして「藩」とは切り離した。
    そして、完全に「藩政の経理」も新たにして分離した。

    「二つの経理」を別にしたのには理由があった。
    「幕府」は「藩」に対して「命令」を伝える時、「藩」に対してではなく、「藩主個人宛て」に出していた。

    これは、「幕府」が「独立性の藩政」を朝廷から認められていなかった事を意識しての事であって、「領地」を統治する「藩」は、組織上は正式に存在しない事を意味していた。
    これを開幕以来、「幕府の徳川氏」はこの事を知っていた事にも成る。

    況して、上記する様に「開幕の条件」の一つが欠けていた事もあって、各藩には、“「何々藩の藩士・・・」である。“と云う呼称はしてはならないとする通達を発し慣習にさせた。
    つまり、「何々氏・・之守の家来・・である」とさせている。

    これも、本来は朝廷の国家体制の認証を得ていない事を知っての事であって「藩」そのものは無い事を意識しての事であった。
    先ずこの上で、この上記の「三つの奇策」を実行した。
    その上で、最後に「四つ目の奇策」の「不正規な藩」そのものを廃した。
    以上の「四つの奇策」を講じたのである。

    旧政のものは、最早、無い事に成る事から、「莫大な貸付(最低でも6万両)」は「理窟の通った理由の奇策」が成立して「不当り」に成った。

    この事に付いて「紀州藩と紀州徳川氏」には最早、「誠意」は無かった。

    (注釈 故に、本来であれば、「藩」の「臣」で”「藩臣」”と成る筈だが、藩主個人の「家」の「家来」であった事から「家臣」とは云う事に成っていた。
    つまり、武士たちは皆、この「独立性の藩政」が「朝廷(「西の政権)」が認めた「正式な政治体制」では無い事のこの事をよく知っていた事に成る。)

    (注釈 もう一つその理屈があった。
    「青木氏の三つ発祥源」を継承した「武家貴族」の「賜姓源氏や桓武平氏」に与えた。
    「徳川氏」は「姓族」である為にこの「資格継承」を有していない。
    それは「開幕の資格」の「武家の棟梁」を、「征夷大将軍」だけは渋々認めたが、「朝廷」は頑として絶対に認めなかった。
    朝廷は、徳川氏が「姓族」であり、且つ「武家の資格」も持たない事も含めて、伝統を護った。
    然し、「朝廷の生活源」を押えられた事からその圧力に屈して、「武家の棟梁」では無く、「武家の長者」として代替した。
    「征夷大将軍」は平安期には既に全国統一を果たしているので、既に「有名無実」であり「飾り」にしか過ぎない。
    要は「武家の棟梁」である事が「開幕の根拠」である事に成る。
    重要な事は、上記の様にこれを朝廷は認めなかったので、徳川幕府は「西の政権の認証」が無い事から、「正規の藩政制度」が取れなかったのである。
    従って、そこで「朝廷の官位」で呼ぶ「何々氏・・之守の家来・・である」とさせていれば、例えば「松平伊豆守の家臣」であれば”「伊豆守」”とする「国の守護」の「家臣」で理屈は通る。
    「66国の肩書」を朝廷より金品を渡して貰って正当な家臣と成れるようにした。
    従って、江戸期には権威の無い金品で決まる為に何重にも重複する「・・守」が沢山出た。
    中には、江戸中期以降は、「国主並み」でもないのに金品で「・・守」が生まれ乱立した。  
    これが、 「金品有無のステイタス」にも成った。)


    >以下 「伝統シリーズ 32」に続く


      [No.349] Re:「青木氏の伝統 30」−「青木氏の歴史観−3」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/01/19(Thu) 14:36:46  

    >「伝統シリーズー29」の末尾

    >この様に、「同祖同縁の血縁」と「四家の血縁」の「二段構え」で「血流」を豊かにしていた様である。

    >但し、「秀郷流宗家との血縁関係」は、「五家五流」は「笹竜胆紋(象徴紋)」を変紋しない事から、「家紋分析」では「柏紋」と「目結紋」とから、「秀郷宗家」と「佐々木氏」と血縁関係があった事が判るが、資料からは見つからない。

    >「永嶋氏・長沼氏・進藤氏・長谷川氏の青木氏族」とは「佐々木氏の研究資料」からは確認できる。

    >これは「枝葉末端の武家藤原氏」の「武蔵藤氏の秀郷(俵藤太)」に執っては「摂関家」と肩を並べる「武家藤氏」として「勢力拡大の最大のチャンス」であった。

    >「東の乱」を契機に、この「補完策」に依って「二つの青木氏」に内政の「賜姓五役」は進み、「志紀真人族系」の「皇族賜姓臣下族の青木氏」は、「二足の草鞋策」も相まって「皇親族であった失った部分」を完全に補足したのである。

    >「円融天皇」の「青木氏の補完策」としては、「天皇家、賜姓臣下族青木氏,秀郷流青木氏」の三者に執っては“「藤原秀郷流青木氏の創設」”は難しい時期に於いても完全に成功したのである。

    >これも「青木氏」が「生き遺れた重要な歴史観」の一つである。


    以下に「伝統シリーズー30」続く。


    さて、ここで重要な注釈があり、「青木氏の歴史観」として先に論じて置く。

    それは、”「准」”と云う用語である。

    そもそも、上記した様に、「連動する氏の役」から「青木氏」での「氏上」は、前段でも論じている様に、そもそも「朝廷の格式」を用いる事からも「氏上」として成り得ている。
    だが、ところが資料によると、古来より「氏人の差配者」の中には、「氏上」、即ち、「朝廷に仕える官人」に准ずるものとして、「氏上」と「氏人」の間には”「准氏上の人」”と呼称する者が居た様である。

    この「使用の傾向」は、「皇族賜姓族」だけには観られるが、それは「朝廷認可」の下にでは無く「青木氏の慣習仕来り掟」の中で以後用いられていた事が考えられる。

    つまり、「皇族賜姓臣下族」には、この“「准の使用」”を慣例として朝廷が永代認可していたと考えられる。
    それは「皇族賜姓臣下族」に限られて「特別な格式を与える事」を目的としての一代的な個人の呼称手段として“「准」”が用いられていた様なのである。
    これは、「氏上」と云う扱いよりは、「青木氏」は「賜姓五役」として朝廷の重要な役目の「紙屋院」(国産の紙等の関係品を開発する役目)を担っていた事から、この「青木氏部」の「職能の長」に対して「格式」を与える為に「准の使用」を朝廷は敢えて「氏人」に認めたと考えられる。
    本来は無い事である。

    (注釈 この“「准」”は、「嵯峨期の詔勅」に伴う「青木氏の慣習に関する禁令」の一つであったが、例えば、「坂上氏」の父の「阿多倍王」は「准の使用」を特別に許され、その事から「桓武天皇・山部王」に依って「後付」で「高尊王・平望王」にして「准大臣」と呼称する事を許された経緯が遺されている。)
    従って、中国から輸入される悪質の紙では無く、未だ開発されていなかった「良質な和紙」を何とか「国内産」にする事が出来ないかと、「国家的プロジェクト」を試みた。それは単に担当した「紙屋院」の「青木氏の氏人」に掛かっていた事に成る。
    それ故に、「准」に「相当する役目」と観られていたからである。)

    注釈として、前段でも論じたが、そもそも、「阿多倍王」は「後漢の国」の時の呼称であり、「大和王朝の格式」を得るには上記した様に「第四世王の王名」を持つ事が必要に成る。
    「後付」で「高尊王・平望王」と授与して大臣に成り得る格式を与えたものである。
    それが「青木氏」に使用する事を認めていた同じ「役職の格式」のものを、坂上氏の始祖に、「征夷の国家目標」を担う事からも、この”「准大臣」”として「役職の格式」を与えたのである。

    「山部王・桓武天皇」は、「伊勢王 施基皇子」の「四男白壁王・光仁天皇」と「高野新笠」の子供で、 「高野新笠」は「阿多倍王の孫娘」である。

    (注釈 これは「敏達天皇の孫の芽純王の娘」(四世)との血縁に伴って、この“「准」”を使う事を正式に許されたものであるが、これは格式上の認可であって、本質は「国家目標」の達成の勲功にあった。)

    他に「藤原道長との政争」を繰り返した「藤原伊周事件」では、「伊周の復権」にはこの”「准」”を使う事で利用され、後に「朝廷内の人事の便宜上格式」として用いられる「正式制度」の様に成った。

    注釈としては、「皇族賜姓臣下族」では、「氏内の権威付」に「人事手段」として“「准」”を用いていた。
    この「嵯峨期詔勅に依る禁令」の「青木氏の慣習仕来り掟」として用いられていた“「准の慣習」”が室町期に一般社会に伝わったと考えられる。

    そもそも、この“「准」”を付けての“「三司」”の間の「格式」を表現する方法として用いていたが、元はと云えば「中国の官僚制度」で用いられていたがそれから来ている。
    そもそも、この“「三司」”とは、「太政大臣」と「左大臣」と「右大臣」の事である。

    正式には、実際には権限としてはこの「三司」等ではないが、この“「准」“は「三司並の格式」を有するとする便宜上の位階等の時に使う「否正式手段の事」であった。
    各種の格式や位階の者が持つ権限としては、この「准の呼称」を獲得されれば、”「三司」に関わる立場”として使用する事が出来る様に成った。

    平安期には後に、「便利な呼称」として用いられた。
    従って、「三司」等に成り得る「真人族」や「朝臣族」や「臣連族」等が、許可を得てこの便利な「准の仕来り」を盛んに使ったのである。

    つまり、上記する「春日真人族から志紀真人族」の「志貴皇子とその後裔」は、「賜姓五役」を賜り、天智期や天武期には「皇親族」として「皇太子」に代わって実務を執った「氏」である事から、所謂、その「三司」の“「准」に相当する役務から、「中国の官僚制度の慣例」に従って、この“「准」”を使う事を特例として「氏の中」で許されたのである。

    これを許された「青木氏」では、「従四位」以上に相当する「公家族」「官人族」「臣下族」の「三司に准ずる立場」として当にこの”「准」”を使った。
    況や、従って、一般の還俗した「真人氏族」にはこの役職の格式の手段は認められていなかった。

    「賜姓五役」とその「浄大一位の永代格式」を持つ「青木氏族」にだけ認められていた「准」なのである。


    そこで、青木氏にはどのように使われていたのかと云うと、「青木氏の資料」に観られるこの“「准の人」”に任じられたこの「氏人の差配人」とは、実は次の様な人であった。

    「四家制度」に依って何らかの理由で「郷士の縁籍筋」と成った「青木氏の者」が、「郷士衆頭」を長年務め功績のあった者であって、縁籍筋では「青木氏」を興している者ではある。
    そして、「四家}の「氏上の一員」に服する事が叶わず、「准氏上の人」としてその功績を称えたと考えられる。

    (注釈 唯、この「青木氏」を興したこの末裔は後にこの「四家」に組み込まれている。
    「青木氏」の「准」は、朝廷の中で使う「青木氏の格式」を示す手段以外に、「青木氏」の「氏上と氏人」の中でも使われていたと云う事であった事に成る。)
    この資料の存在期から判断して、「青木氏」の中での「准の使用」は、室町期中期の頃であったと考えられる。

    つまりは、その「一つの集団の統率者・差配者」は、「氏上の宗家」が司ったとする地域社会の構成員であった事に成る。
    (「家人」・「青木氏部」等)

    ところが、平安期中期に成ってからは、荘園制が拡大し開発した荘園を維持する事が「二つの理由」で困難と成った。
    それは、荘園経営の「税の負担」と「荘園の防御」では問題が出た。
    「高位な氏」で「軍事力と政治力」のある「大きな氏」に頼って名義を借り、いざという時には助けて狙うと云う行動に出て、この「二つの課題」を解決して荘園を維持したのである。
    以後、この「名義貸し荘園制」が起こり続けそれが主体と成った。
    荘園主等に執っては「自らの氏」を護ってくれるのは、直接、氏と関係の無い「高位の名義名の氏」であった事から、そこには「氏」に「上」が着くと、「単なる身分の上下を示す主従関係」の用語と社会の中で変わって仕舞った。

    (注釈 この問題の「荘園制」が起こると、「氏の上」と「氏の人」との間には「絆」に基づく関係は無く成り希薄に成り、主に「上」と「人」との間は「利害に基づく関係」へと変わったのである。
    従って、「青木氏」=「神明社・守護神」=「氏人」=「500社の神明社」の構成の様に、問題の荘園には上記する「青木氏の様な関係」が基より無かった関係であった。
    この“「名義貸し」”が主体と成って、「上と人との絆の関係」は「平安期末期の高位の社会」には最早、消えた。)

    (注釈 平安期末期の前段で論じた様に「三人の天皇」はこの事に憂いていた。)

    然し、「伊勢」は聖域であった事から「奈良期の伝統」を「春日真人族と志紀真人族の青木氏」等は「他の真人族」が行う「名義貸しの荘園制」から頑なに護った事で「荘園制の影響」は少なかったのである。)

    然し、この期には「青木氏」は、自らの氏の中で「殖産」「商い」を進めた。
    この事から、「絆の無い荘園制」を敢えて持たなかった事から、平安期初期までの「氏上と氏人の関係」を「伝統」として持ち続けた。
    従って、「青木氏」では、この大化期からの存在(647年発祥)を示す事から、「氏上」は社会が荘園制が進んでも、“「元来の意味」“を持ち続けていたのである。


    さて、仮に、青木氏の中に「上下関係」にあるとしたならば、「氏の上」であれば、用語上は決して「氏の人」を「氏の下」として定めていた筈で、“「氏人」の呼称”とは成っていない筈である。
    従って、「青木の氏」の中では、「氏の村人(人)」は、語源の通り「氏の人」は「氏の子」の意味をし、平安期以降の「身分上下」を意味するものでは元より無かったのである。
    これは前段で論じた「青木氏の概念」の「三分の利の概念」にも一致する。

    (注釈として、上記した朝廷の中の事は判るとして、そもそも「青木氏」とはどういうものかである。
    前段で論じたが、そもそも、「人」は湖などの「水に関わる場所」に集まり、その周囲で集団で生活する様に成った時、その集団の中に“「屯倉(みやけ)」”と云う「営倉」(「神明造り」の営倉:会議所の様なもの)を造り、そこに「人」は集まって来て、その様な集団が幾つも出来た。
    その“「血縁の個体集団」”が、何時しか「氏」と成り、そこに「住む者」を「氏人(うじと)」と云い、その「氏人(うじと)」の中から「秀でた者」を「先導者」として選び、その「先導者」を「氏上(うじのかみ)」と呼称する様に成った。
    この「集団の人」は相互に血縁し、幾つかの「血縁集団」が集まって、また一つの大集団が出来た。
    この「一つの血縁集団」の集まりが「五つの集団」にと集約して行った。
    この「集団」が枝葉化して個々の呼称の単位を「姓」と云う「小集団」へと再び変化していった。
    これを奈良期では、この関西地域に於いて「五つの集団」の「連合政権」を構成して、この「連合政権」が「初期の氏」として認め呼称する様に成ったのである。)

    (注釈 「七つの民族」に依って構成している以上、各地に「連合政権」が確立した。
    これが遂には「融合単一民族」と成った。
    この時期が一つのパラメータとして表現できる“「渡来人」”の言葉が書物から消えたのは平安初期からである。
    この頃に世界で珍しい「7つの民族の融合化」が完成した事に成る。
    この時に、上記の「氏族の枝葉の者」と「支配形態に所属する姓の者」との差別化が起こったのである。)

    この「連合政権の指導者(大王家−天皇家)」と「五つの集団の先導者」との「血縁族の末孫」が独立して、初めて「氏姓制度の法」の下で「氏姓」が構成された。
    これが「青木氏の原点」でもある。

    況や、「准の立場」を認められた「氏の上」として初めて朝廷より法の下で認められた上記の「構成の氏」、所謂、「春日真人―族志紀真人族」と成り、その後の「八色の姓制度」(684年)で「志紀真人族」でありながら「賜姓族」で「朝臣族」として「臣下族」と成り、その「准の立場」を持つ「氏族」の”「伊勢の氏人」”の人に限らず「五家五流」の「青木氏の氏人」として認められた。
    此処で、「准の立場」の「氏上」も然ることながら「准の立場」の人として「氏人」の呼称は認められた。)

    この「青木氏」の「氏上さま」の呼称に関わらず、同じ関係を示す呼称が奈良期にはもう一つあって、それはこの「准の立場」の「青木氏の立位置」が良く判る呼称でもある。
    それは前段でも何度も論じたが、当初、奈良期よりそれは、「准の立場」を持ちながら「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」に携わる「格式呼称」の“「御師様」(おしさま)”と云う呼称でも呼ばれていたのであり、これは「氏上」(うじかみ)と同じ語源を意味するものであった。

    この「氏上」は、「氏」に関わる全ての「氏人(青木村)」を含む一族一門郎党の中での呼称であり、「御師(おし)」は、この“「氏人を指導する人」の呼称”でもあった。
    取り分け、「氏人」が構成する「青木氏部」からの呼称として多く使われたのであった。
    この特別な他氏には決してない「御師様の呼称」は、「准の立場」を併せ持つ事にこそ由来するのである。

    前段でも何度も色々な角度から論じているが、この「指導」をより効果的にする為に、「氏上」に代わって、その「指導の範囲」を区分して担当する制度に変えたのである。
    その「指導者」は、「青木氏部」に大きく絡む事から「神明社の神職」(准の格式)が担当したが、そもそも「祖先神の神明社の神職」は、「准の格式」、況や「笹竜胆紋」を「象徴紋」とし、朝廷が認める「神木の柏紋」を特別に持つ事を許され、所謂、「准の青木氏」で、従って、「准の立場」を確立させる「四家制度から特に選ばれた者」であった。

    この「青木氏部」の必要とする処には、「柏紋の神職の青木氏」が必ず存在し、「柏紋の神職の青木氏」の必要とする処には、必ず「青木氏部」が存在すると云う実に親密な関係にあった。
    それだけに、「氏の人々」からも信頼され尊敬されている立場(准の格式)であった。
    この様に「青木氏」を代表する「准の格式」を示す由緒ある「柏紋」でもあった。

    (注釈 それ故に「青木氏部の人」と「柏紋の神職の人」との「血縁関係」が特に成立していた。
    「隅立て目結文様類」(「隅切り文様」含む)や「釘抜き紋様類」等の「職能紋の青木氏」は、主にこの「血縁関係の青木氏」である。)

    取り分け、「准の格式」に裏打ちされたこれらの「職能の文様(柏文様 目結文様)」は、「正倉院」にも記録されている「由緒ある職能の文様」であり、これをこの「職能紋の青木氏」(青木氏部)が専門に使う事を許されて、「継承」を義務付けられていたのである。

    「賜紋」であって「神木」の「柏文様」の使用は、「神明社の神職」の「御師(おし)」の称号と共に、この時に与えられたものである。

    「神紋の柏紋様」と共に、「皇族賜姓臣下族の青木氏」に執っては、本来、「笹竜胆紋」の「象徴紋」以外には、上記の「志紀真人族の氏」を構成する以上は、他の文様を持たず、故に「姓族と姓名」を持たない。

    従って、当然に「家紋」と云うものを持たないのだが、この由緒ある「職能の紋様」の「氏人」も「笹竜胆紋」を「氏」の「象徴紋(総紋)」として、数少ない「准の立場」に裏打ちされた由緒ある「副紋扱いの氏紋」として継承しているのである。

    (注釈 「皇族賜姓臣下族の青木氏」を補完すると云う立場から一切の格式などが同じとする以上は、「藤原秀郷流青木氏」(下り藤紋)も、本来は正式には「家紋」とは云わず「副紋」と呼称する。
    本来は、「秀郷流青木氏」に限り、「姓名」もなく一切「氏名」に本来は従い「姓名」は持たないのである。)

    (注釈 「秀郷流青木氏の116氏」は、「総紋」として「下がり藤紋」(総宗家系族紋)があり、その「総紋の中央」に「副紋」を書き込んだ「主紋(宗家系族紋)」を持ち、更に、支流族は「副紋」を個別に持ち、傍系族も「支流紋」を持って表す。
    この「総紋−副紋−支流紋」に従うが、但し、「支流紋」は「副紋の格式」を下げない範囲とするとしている。
    一般に「総宗本家筋」の「総紋」以外は、「宗家筋」は「総紋」の「下がり藤紋」の中央に「副紋」を入れて使う事を主流とする。

    況や、この「文様の構造」は「准の立場」にある為に「下り藤紋」から離れない事を掟としたのである。
    然し、更に、本来は無いとする「枝葉族の支流筋」と成ると、「副紋部位の紋」以下の格式の紋は使えない慣習と成っている。

    然し、「24地域―116氏」とも成ると、血縁関係上、「枝葉族の支流族」は止む無く出てしまうので、この条件が付帯された。
    この慣習も「賜姓補完族の准の格式の立場」を保つ事から来ている。) 

             
    (注釈 前段でも論じたが、「柏紋」の「神木の柏」を表す万葉歌があるので紹介する。
    “家に居れば筍(け)に盛る飯(いい)の草枕 旅にしあれば柏(椎)の葉に盛る” と詠まれている。
    そもそも、 「筍(け)」は「筍の皮葉」の事で、本当は木茶碗の食器だが、馬鹿を装う事を「筍の皮」でその苦しさを現し、「椎」は“しい“と詠み食器であるが、「椎の葉」は細く小さくて食器としては使えない。
    矛盾する苦しい環境を表現したのである。
    そして、「飯」の“いい”と「椎」の“しい”でかけ読みし、「椎」では無く「柏」を用いて“しい”と仮詠みした。
    そこで、実は「椎の実」は「当時の食糧」で、この「椎の実」は食料でもあって、実を蒸して「神に捧げる仕来り」が有った。
    細くて小さい葉で以て心寂しさを詠んだものである。
    そして、今度はこの“しい”を「柏」として、「柏の大葉」の上に「干した米飯」の“いい(蒸した乾燥米の呼び名」“を載せて旅先では食べた。
    「柏の大葉」で以て「朝廷の優雅な生活」を思い出させ、朝廷で使われる「神木の柏」で以て自らの正当性を主張し、信頼する「人を疑う儚さ」と何時か命を絶たなければならない我が身の「旅の苦しさ」を表現した。
    この様に「筍、椎、柏,飯」等に意味を載せて詠んだ見事な「奈良期の名歌」である。
    「有間皇子」の殿上人がその身上を憂いて呼んだ名歌である。)

    この様に「神木」である「柏」(柏紋の神紋で朝廷が容認する文様)の大葉の上に神に捧げる食べ物(乾燥米)を載せて祀る「神明社」の「神への仕来り」にかけた歌が出て来る。 
    見事に当時の神木の「柏の意味」の事が書かれている。

    ここでは「柏」は朝廷の祭祀で使われる「神木」である。
    この様に「柏」には当時は「格式」を持ち「神木」として扱われていた。
    これを「准の立場」にある「青木氏の神職の禰宜の特別文様」と指定したのである。
    当時は、「笹竜胆紋」に「柏紋」の「青木氏」は、「准の立場」の「最大の格式」を持つ「文様の族」と見られていた。

    参考として、この「最高の文様」を持つ「神明社の指導者(神職の禰宜)」の「御師(おし)」に付いては、江戸の「享保の改革」以降は、「吉宗」が「幕府の職能部」を組織化する為に、この「御師制度」(おしせいど)と云うものを敷いた。
    (ここでも青木氏だけの制度が用いられた。)

    ところが、この時から、本来の「御師制度」は「別の意味」に変化した。
    そして、これが更には、「神明社の神職に関わる者」が「情報収集者の役目」も演じた事から、この者を「御師(おし」」と呼ばれる様に成った。

    遂には、江戸期1800年代以降には「伊勢の松阪の射和の商人等」に依って、この「制度」が導入され「商人の指導役」として、「御師(おんし)」と呼ばれて、更に「別の意味」に執り変えられる事が起こった。
    この「商業組合」の「商人の指導役」の「御師(おんし)」は、「組合札」(金券 現在の紙幣)を発効するまでに成った。
    (現在でも一部伊勢では独特の金券制度として残っている。)

    そこで、これらの予備知識で以て「青木氏の歴史観」としてそもそも重要な事は、次の事にあった。

    最初は平安期の「皇祖神の子神」の「神明社の神職」に「御師制度」は使われたのだが、“「青木氏の神職(柏紋)」(「神仏同源」)“は、その手段の一つとして、前段より論じている“「仏施の質」”(奈良期)を「福家」に代わって執り行っていた。
    そして、「青木氏の村人・氏人」を「神職としての役目」から全国にある「500社の神明社」で「食糧」を与え、「職業」に就かせ、「人生の生き方」まで導いた。

    この事(“「青木氏の仏施の質」”)から、「仏道を説き人々を正道に導く人」の仏教用語を「導人=導師」と記し、“どうし“から陰陽の呼称で”おうし“」と呼称され、それからは「御師」(おし)と呼ばれる様に成ったとしている。

    そこで、この“「青木氏の仏施の質」”は、「春日王」を基に「志紀真人族と後裔」と成った事から、その「賜姓族の役務」として取り入れられ、「五家五流の後裔」(神明社)と「補完族の裔」(春日社)が行ったとされる。
    それを催した“「青木氏の仏施の質」”が行われた「神明社の広場」や菩提寺の「清光寺と西光寺の広場」で行われる様に成ったが、この「仏施の質」の「名残」として「各地の祭り」が遺されている。
    その一つが、「神明社系」で行われる”「施」”としての”「餅撒き」”等であり、「説」としての「法話講」等であったり、「導き」としての「仕事の斡旋」等があった。
    「法話講」では、景品を与えた「氏人」による今でいう親睦を深める運動会や相撲大会などが行われていた。
    それらが時代を経て形を変えて「祭りの行事」として遺されている。

    (注釈 余り知られていないが、「戦い等の賄人」や「大きな催しなどの手小」や「河川改修工事」や「殖産地造成」や「新田の開墾」など「手小」、挙句は「大工の手伝い」をまとめて積極的に斡旋していたのは人と地理に詳しい「神職や住職」等であった。
    「神職や住職」は上記した様に「氏人の人別帳」も作成していた為に「氏人の生活」までを隅々まで掌握していた。)

    (注釈 江戸期では、「手配師」は非合法な仕事斡旋人や、「請負師」は大工などの職人を斡旋人、「口入れ屋」は庶民の仕事の斡旋人、閑散期の農民等の一時的な仕事を仲介するのが「神職や住職」であった。)

    唯、この時に「御師」(おし)は、“「仏施の質」”を行って導いたが、「仏施の質」とは元はと云えば「仏教の施」であった。
    注釈として、前段で論じたが、「中国の金山寺」などの「古寺」で行われていた「施」が日本にも「仏教伝来」と共に伝わった。
    「古代密教の浄土宗の青木氏」が「賜姓五役」の一つとして「仏施の質」を採用したもので、その「伝統」は明治初期まで伝統として維持され、「享保の改革」などにも用いられた。
    況や、「青木氏」は、「神仏同源の概念」を持ち得ていた事に由来する。

    この様な、「賜姓五役」とは云え、「三司」が行う「政治的な施策」までを担うのは、この「准の立場」に依る所以でもある。

    上記する様に、「青木氏の憲法」と云われる「概念」にも通じ、「三分の利」の「概念」にも通ずるものである。

    然し乍ら、「青木氏」は、これを主に「神明社の神職」の「御師(おし) 柏紋」が行った。
    どちらかと云えば、「仏施の質」では無く「神施の質」とも云える。
    「仏施の質」ともなれば、各地の定住地にある「氏の菩提寺」(密教)と成る。
    これでは、その寺数から「氏人」に充分に「仏施の質」が広まらない。
    況や、奈良期からの「氏の構成員」である「氏人」を護れない。
    そこで、「氏」は「神明社」と云う下で、「青木氏=神明社・守護神=氏人」である限りは、「仏の導き」よりは「500社の神明社の構成」に依って導かれていた。

    そこで、本来からの「神仏同源」(習合)を旨とする概念」から拘る事無く、主に「神明社の神職」の「御師(おし)」が、朝廷より「神木の柏紋」を賜って「神施の質」を「皇祖神の子神」としてその責を負ったのである。
    元々、「青木氏」には、従って「神仏同源」である以上は、「神道と仏道」の「区分けの感覚」が少なかったと考えられる。
    それは、上記した様に、「青木氏の出自」の基と成る「准の立場」に大きく影響していると考えられる。

    「自然神」を基とする「皇祖神の子神の祖先神」は「神道」であり、一方で「密教の古代浄土宗」で「仏道」を保って来た。
    そして、この何れもを差配するのは、「福家」であった。
    取り分け、「仏道」は「青木氏だけの教え」に基づく「密教」で、その出自から独特の「達親制度」と云うものを敷いていた。
    前代でも論じた様に、上記した様に「神道」も「御師制度」と云うものを敷いていた。
    従って、「神職」の柏紋の「青木氏」であって、「住職」も笹竜胆紋の「青木氏」から出たものであって、「他の宗教」に全く左右されないものであった。
    これ等は、「志紀真人族」で「賜姓臣下族」と云う「出自の格式」がその様な形に導いたものと考えられる。
    これに加えて、三司に匹敵する「准の立場」にあった事に由来する。

    「神仏同源(習合)」と云うよりは、必然的に「神道」は「仏道」に左右され、「仏道」は「神道」に左右された考え方の「青木氏の概念」として確立したと考えられる。
    然し、何れにも偏らないと云うよりは、やや「神道」>「仏道」にあった事は否めないだろう。

    その一つの形が、政治職の「三司」に基づく「准の立場」の格式ある「柏紋の神職」があるかと思うと、格式のある「柏紋の住職」もあると云う不思議な事が起こっているのである。
    関東にこの「柏紋の住職」が多い。

    依って、「仏施の質」は「賜姓五役」と云う役からも「神職の役」と成っていたのである。
    「仏道」の「柏紋の住職」のあるところは「仏施の質」は「住職の役」が多い。
    「関東と北陸域」は「春日社」が多く、「西光寺」が多い所以でもある。
    それは、「500社と云う神明社の分布」に左右されている。


    次ぎに、この全国の「青木氏に関わる定住地」にある「神明社の500社(466社)」には、その数だけの意味だけでは無く、この「500社にある地域」に「御師」が居た事を示す数値であって、その数値はそれだけにきめ細やかに「氏の人」に親身に成って「導人=導師」から「御師(おし)」を敷いていた事を物語るものである。
    これは明らかに「氏上と氏人」の間には、「上下の関係」では無く、「親子孫の関係」にあった事を示す所以でもある。

    前段でも論じたことであるが、時には、「戦乱」等に掻き廻されたり、行き詰った「人生」に「越前の逃避地の神明社」に「青木氏」が多く逃げ込んだが、当に、この時に「神明社の御師(おし)」は「仏施の質」(上記の青木氏の掟にも関係する)として戸惑う「氏の全者」を救う為に大いに働いて食と職を与え世を説き再人生の道に導いた。

    上記で論じた「越前商人の酒造家」等はこの典型的な事例である。
    「神明社500社」の「数」も然ること乍ら「分布」から観ても、「五家五流賜姓青木氏」のみならず同格式を持つ補完役の「賜姓秀郷流青木氏」を含む全国の「二つの青木氏」には、この「奈良期からの古式の御師制度」が敷かれていた事を示している。
    この事は「青木氏の守護神」の「祖先神の神明社」に関わる事から、「氏上と氏人の関係」も「古式の慣習仕来りと掟」として伝統的に敷かれていた事を物語るものである。

    (注釈 「藤原秀郷流青木氏」も「春日神社」が守護神であり乍ら、その出自から「神明社」も「副神」の「守護神」として崇めていた。
    取り分け、「伊勢秀郷流青木氏」に関わった一門の地域には、「藤原氏の定住地」では無いにも関わらず、「春日神社」がある。
    この「春日社」があるにも関わらず「神明社」も存在する。
    これは、この事を証明している。)

    これは「伊勢秀郷流青木氏」は長い歴史の中で「春日神社<神明社の感覚」、或は、「主神<副神の感覚」にあって、その「末裔の血縁先」もその傾向にあったと考えられる。
    従って、よりその「古式に基づく慣習仕来り掟」が尊重されていたと観られる証拠でもある。

    元来の大化期からの「氏上の役目」として「村人を導く人の御師」であるとしてこの様に呼ばれていたものである。
    従って、「氏上」であって、その「御師の元締め」から「御師様」と呼ばれていたのである。
    この様に呼ばれるには100年程度の「絆」では無理であろう。
    所謂、互いに「仙人」を超えた「1200歳の人間同士の絆」が構築していたからである。
    「1200歳の人間」は、腰の曲がった白髪頭では無く、常に進化した直立の黒髪の「1200歳の人間」として生きて来た者の“同志“なのである。
    「信頼と尊敬」の「1200歳の人間の同志」なのである。

    これが、「准の立場」を保った“「青木氏心魂」の所以”なのである。
    故に、明治の伊勢や信濃や美濃などで起こった一揆にも「青木氏心魂」は我が身の事として支えたのである。
    この関係を観ても、「氏上側の災難の連続」に依って祖父の代から途切れた「1200歳の人間」の関係は、「40代目の筆者」には、「青木氏心魂」は最早、無い所以でもある。

    (注釈 本論で論じている「弥生祭りや五月祭り」や「祭祀偶像」、「氏上」、「御師」、「偏諱」、「達親」、「組合」等に至るまでの「青木氏の古来の慣習仕来り掟の意味合い」が、世間に伝わる事に依って、その「意味合い」のみならず「呼称」までもそっくり換わっている。

    これを物語るものは何と云っても、「伊勢」で「青木氏心魂」としての「准の立場」の「氏上と氏人の関係」であった。
    それを物語るものが、「仏施の質」であって、この「氏上と氏人の関係」を証明する行為であって、「青木氏以外」には行っていなかったものであった。
    これが「伊勢」から「江戸」に持ち込まれて”「伊勢屋の質」”と呼ばれる様には成ったが、「質に対する語源の変化」で、「伊勢の行為」は理解できていたが「江戸の質」には一時、「准の立場」と同様に「青木氏の歴史観」の知恵は及ばなかった。
    然し、「江戸の質」に至るまでの意味としては、普通の「品質を意味する質」や「質屋の質」としてしか、当初、“まさか江戸までは“の先入観から理解ができていなかった。
    この「准の立場」も「単なる准の意味」(次の格)としてか理解が無かったし同様であった。

    果たして、“「改革と質屋」にはどの様な関係があるのかな“と疑問であったが、「享保雛の研究」からの事で、「雛の語源の意味」が「青木氏の古式慣習」の一つであるので、調べた処、中国の書にも「質」と「准」のこの「基の意味合い」があった。
    この事から「青木氏」だけが伊勢で行って来た奈良期からの「准の立場」の「氏上と氏人」の関係には、「仏施の質」が介在していた事を資料の一つの行にある事を知った事に依る。
    だとすると、“「江戸の質」にもあり得る“と発想の転換で、これで「奈良期の疑問」と「江戸の疑問」が同時に解けた所以でもあるが、時代に依って「語源」がそもそも変わるのは、「青木氏の歴史観」を論じる上では実に「苦労の種」でもある。

    この事で、うっかり其の侭で論じると「矛盾する様な論調」と成る事が多いのには苦労している。
    これが「古式性の伝統」を論じる難しさにあり、「モニター」を受けて頂いている方からも指摘の多い処でもある。
    筆者本人はつい判った感覚で書いて仕舞っている処に問題がある。
    この「准の立場」や「質」や「青木氏心魂」等は典型的なテーマでもある。




    「伝統シリーズ 31」に続く


      [No.348] Re:「青木氏の伝統 29」−「青木氏の歴史観−2」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2016/12/18(Sun) 11:47:46  

    > 「伝統シリーズ−28」の末尾。


    >これを物語るものは何と云っても、「伊勢」で「青木氏の心魂」としての「氏上と氏人の関係」であった。
    >それを物語るものが「仏施の質」であって、この「氏上と氏人の関係」を証明する行為であって「青木氏以外」には行っていなかったものであった。
    >これが「伊勢」から「江戸」に持ち込まれて「伊勢屋の質」と呼ばれる様には成ったが、「質に対する語源の変化」で、「伊勢の行為」は理解できていたが「江戸の質」には一時、「青木氏の歴史観」の知恵は及ばなかった。
    >然し、「江戸の質」に至るまでの意味としては、普通の「品質を意味する質」や「質屋の質」としてしか、当初、“まさか江戸までは“の先入観から理解ができていなかった。

    >果たして、“「改革と質屋」にはどの様な関係があるのかな“と疑問であったが、「享保雛の研究」からの事で、「雛の語源の意味」が「青木氏の古式慣習」の一つであるので、調べた処、中国の書にもこの「基の意味合い」があって、「青木氏」だけが伊勢で行って来た奈良期からの「氏上と氏人」の関係には、「仏施の質」が介在していた事を資料の一つの行にある事を知った事に依る。
    >だとすると、“「江戸の質」にもあり得る“と発想の転換で、これで「江戸の疑問」が解けた所以でもあるが、時代に依って語源がそもそも変わるのは、「青木氏の歴史観」を論じる上では実に「苦労の種」でもある。

    >この事で、うっかり其の侭で論じると「矛盾する様な論調」と成る事が多いのには苦労している。
    >これが「古式性の伝統」を論じる難しさにあり、「モニター」を受けて頂いている方からも指摘の多い処でもある。
    >筆者本人はつい判った感覚で書いて仕舞っている処に問題がある。



    「伝統シリーズ−29」に続く。


    「享保の改革」に関する「青木氏の歴史観」は、暫くとどめておくとして、次ぎに、この「改革」の中心と成っていた“「射和組」と「松阪組」”がどの様になっていたのかを掘り下げて置く必要がある。
    そこで、先ずは、伊勢でのこの「射和組」と「松阪組」の「青木氏との関係」「加納氏との関係」は血縁的にはどの様に成っていたのか気に成るところでもある。
    この事は、「伊勢衆」の「郷士衆」との「繋がり具合」を証明する事にも成り、江戸以降の「伊勢の生様」が良く判る事にも成る。

    そもそも、この事で「全国の青木氏」が定住する地域で同じ様な事が少なくとも起こっていた事であり、取り分け「商業」をベースに「二足の草鞋策」を成功させていた「15地域」ではこの様な「地域性のある出来事」が起こっていた事が地域毎に遺されている資料でも判る。
    これは特異な事では無いのであり、「青木氏の歴史観」が増幅させられる事でもある。

    ただ、「二足の草鞋策」を敷いていたこれらの地域では、次ぎの様な事があった筈で、「研究の過程」では常に痛感する事であった。
    何よりもその「15地域の商業組合」には、必ず”「商業」”と地域の特徴を生かしたで”「殖産」”を必ず敷いていた。
    所謂、共通点であり、この時代ま慣習としては珍しい事であり、現在で云う「生産から販売のシステム」である。

    この共通点は、平安期初期の朝廷の「紙屋院での余剰品」を「部市場」に販売した時から始まったものであり、この「殖産(生産)と商い(販売)」は、925年の頃から始まったとされている。
    その50年後頃には「秀郷流青木氏の補完」を受けて更に拡大したもので、“日本広し“と云えどもどの商業にも無いシステムであった。
    そもそも、これ程古い悠久の歴史を持っている「商い」は無い筈である。

    単純に「生産者」から「物」を購入してそれを「販売する」のではなく、「地域」に「根」を下ろし、自らが「商業の進展」「時代の要求」に合わせて、「殖産」で「生産」も拡大させるという「商業と興業」の「組み合わせのシステム」である。

    そして、この”「殖産」”が拡大すればするほどに「青木氏族の民]の「氏子衆」は潤うと云う連動性を持っていた。
    この「氏子衆」は、「享保の改革」で論じた様に、中には「仏施の質」を受けて「農業」の傍ら、家に「仕事小屋」を作り、「田畑勝手作の令」の枠を掻い潜り、他の村からも「人」を集めて「下請けの村工場」まで営んだと書かれている。
    それは前段でも論じた「氏上と氏子の関係」、「古式伝統の維持」の上に立っている。
    それを重厚にする為に「商業の組合」で固めた方式である。

    そこで、その典型的な「殖産」の事例として、次ぎの様なものがある。
    伊勢の「射和組」には、「殖産」として“「金山寺味噌」”をベースに“「醤油」”も手掛けていた事が判っていて、この“「日本最初の発祥地でもある醤油」”は、元は「紀州湯浅地区」が「生産地」である。
    この「醤油つくり」が「紀州藩の肝いり」で「松阪」にも移した事に成っている。

    注釈として、「伊勢」で行われた「殖産の事例」としては、次ぎの様なものがある。

    そもそも「醤油」は、次ぎの様な経緯で産まれた。
    「金山寺味噌」と云う「紀州名産」が古来よりあって、中国から僧侶が持ち込み、中国金山寺で「僧侶の副食の精進料理」として食されていた。
    「味噌」と云う言葉があるが、「みそ製造」と同じ方法で作られ、その中には、当然に「豆」と共に麦や茄子や胡瓜等の実野菜も一緒に漬けられて重石を載せて暫く麹菌で発酵させてから豆と共に食するものである。
    “「味噌」であるけれども「味噌」では無い“と云う風な要するに当時の「副食」であった。
    これを漬けている時、この「漬け樽」から「薄茶色い透明色の液体」が出ていた。
    これを食した時に実に美味い味を出す事が判り、「僧侶」がこれを集めて精進料理に加えたところ、抜群の味を出した事から、「檀家衆」が興味を示し、この「うま味の液体」だけを造る事にして、販売したところ爆発的に売れ、これに「醤油」と名付けて販売した。
    これが「紀州湯浅」で生産され、後に、これを吉宗が「商業組合」として「関東の野田」にも移したのが「野田醤油の発祥」である。
    上記で詳しく論じなかったが,これも「伊勢紀州の殖産興業」の一つである。

    当然に、この「湯浅の殖産」から隣の「伊勢の殖産」にも「青木氏」は直ぐ用いたのである。
    この「湯浅の醤油」の製造元と成った「伊勢紀州に広く分布する郷士」の一つ「玉置氏」とは、「伊勢の紙問屋の家」(伊勢青木氏)は二度も縁者関係にあった事は判っている。
    この「紀州の郷士」の「玉置氏の末裔」が、「伊勢」にこの「醤油の殖産」の為に、「伊勢」に移って指導した。(この末裔が「伊勢郷士」と成った。)

    この意味では、「伊勢郷士」とは「青木氏とは繋がり」を持っていたが、「射和商人」の代表的な商人の「富山氏 国分氏」(伊勢衆の郷士)との「繋がり」は不思議に伝えられていない。
    伝えられていないと云うよりは“「記録が消失した」“と云う事に成るだろう。

    恐らくは、これは「吉宗の御側用人4000石の加納氏」が営む「加納屋」との関係が在ったがこの新宮にある「加納氏の分家筋」に遺された資料の関係から判る。
    そこで、この「加納氏」も「青木氏」と共に「育て親」と成るには、「御側用人の立場」だけでは成し得ず、矢張り、「青木氏の指導」の下で「二足の草鞋策」(加納屋 商業組合)で「殖産」をするしか無くこれに取り組んだのである。

    実は、「伊勢商人 紙問屋 伊勢青木氏」とは、この「加納氏の加納屋」とは何度も血縁関係を結んでいる。
    この様に「商い」を含め、「紀州徳川氏との関係」(加納氏は紀州藩家臣 青木氏と共に「吉宗育親」)を軸に深い親交があった。
    筆者の父の祖母、つまり、筆者が曾孫に成るが、加納氏本家から嫁している。
    その意味では、加納氏と関係のある「射和商人」(伊勢郷士)との間接的な関係にあった事は否めない。

    前段でも論じた様に、「射和組の商い」は、そもそも、「紀州藩」と「青木氏」や「加納氏」の「肝いり」で「殖産」し「商い」にしたのであるから、女系で繋がっている事は充分に考えられる。
    ところが「射和商人」が江戸の「享保の改革」には余り登場しないのは、前段で論じた通りで「商業組合」に「不参加」であった事からであるが、これだけ「家との繋がり」のある中で、思えばこれも「伊勢人」としては、「伊勢の不思議な現象」の一つとも受け止められる。

    同じ「不参加の組」の伊勢に来た「近江組」も「享保の改革の恩恵」を受けて1765年代に江戸に参加したのに、それでも「射和組」は江戸に参加していないのである。
    確かに「青木氏との確執」もあって「不参加」を決め込んでいた「近江組」も「江戸の伊勢屋の成功」を観て、“それじゃー我々も“と勇んで「過去の確執」を乗り越えて、「商い」に徹して「助成」を受けて成功した。

    確かに、前段で論じた様に、「頑固な門徒衆」を抱えていて思う様に行かない事は判るし、「近江組」の商人と違い「性根」は根っからの「武士」である事もあって、その伊勢武士の感覚が先行して「商い」に徹すると云う事にも成らないだろう。
    筆者側に資料記録が少ないのも、確かに「出火焼失」もあるが、これには何か腑に落ちない。
    それは「伊勢射和の南」に流れる「櫛田川の河川敷」で行った「米殖産」だけの資料はあるのだが、何なにか疑問である。

    矢張り、“「武士」であると云う概念”が表に出てそれに縛られる事が強かったとも取れる。
    郷土史によると、「射和地区」の「商い」の「商業組合全体」で留まった事が判っている。
    「二足の草鞋策」を採っている事から「武士」である事には変わりはないので、その「武士の誇り」は捨てきれない共通する集団であった事から、「射和の結束力」は相当なもので、この「江戸初期からの商店街」の街並みと慣習(御師講の仕来り おんしこう)が現在も古式豊かに遺されている。
    これが「疑問や不思議の根源」ではないかと云える。

    と云うのは、「松阪組」の「紙問屋」は「紙関係」は勿論の事、「リサイクルや骨董品」などまでの「総合商社」を営んでいた。
    それには「殖産」を調べれば判る。
    どの様な「殖産」を興していたかは次ぎの通りで、先ずは地元の大きく成った“「伊勢殖産10品」”と呼ばれていたものには次ぎのものがあった。

    ・「伊勢殖産10品」

    「伊勢和紙」
    「紙箱などの紙製品」
    「伊勢米」
    「伊勢絹」
    「伊勢醤油」
    「伊勢陶器」
    「伊勢白粉」
    「伊勢豆紛」
    「伊勢木綿」
    「伊勢酒」
    「伊勢菜種油」

    但し、「紀州藤白墨」と「紀州硯石」は、室町期までは「天皇家の専売」から、江戸期には「徳川氏の専売」の「専売殖産品」と成っていて、一度、「専売先」に収めた後に、「余剰品」を市場に販売する「部市場方式」を採っていた。所謂、「国営」と云う処であろうか。

    以上の「伊勢殖産10品」は、「青木氏の殖産」として扱ってはいたが、摂津と近江の他国の豪商も一部で関わっていた事が判っている。
    又、中には、伊勢人の中で「紙問屋の青木氏」との連携での「二次殖産」の形(現在の外注)も確認できる。
    「他国の商人」は「伊勢の特産」では無く、主にも全国的に通常品としての需要の多い「菜種油」や「木綿」に需要を何とか賄う事の為に「直接の殖産の形」ではなくとも「何らかの関係」で関わっていた事は否めない。

    この他には主に「紀州の殖産」に関わったものとして「南伊勢」には次ぎのものがあった。
    歴史的には平安期からのものが殆どである。

    ・「紀州殖産五品」

    「伊勢墨」 初期は和歌山県海南市藤白地区から次第に日高地方に生産は移動した。
    「紫硯」 初期は上記の海南市の山岳から主に日高川沿いに生産地域は変化した。
    「伊勢炭」 生産手法は、「伊勢墨」と同じで、紀州名産の「姥樫木」から作る「備長炭」である。
    「線毛筆」 南紀の新宮地域とその山域から伊勢南部域の村郡に家内工業的に分布した。
    「青庭石」 高級庭石として紀伊山脈全域に分布し生産された。

    何れも「紀伊山脈の山質」に関わる「産品」で、これを応用して「殖産」は進められていた。
    中には、昭和20年代まで生産されたものもある。
    そもそも、紀伊山脈は海底より迫り上がって出来た「古い山脈」で、その為に硬質の「黒硯石」や「青石」や「紫石」が採れる。
    従って、「石英岩石」も多く、中には石英の結晶の「水晶」も「飾石」や「印鑑石」としても「殖産」されていた事が資料からも判っている。(我家に当時の古い現品保管)
    庭石などの目的で「青石」を切り出した際に出来る粉からそれを集めて「石と石の接着剤(現在の「セメント」)」も少量ではあるが生産されていた。

    (注釈 ・「紀州殖産五品」はもとよりセメントも昭和20年代までトツプメーカに依って生産されていた。)

    これらの「古代遺産」の「現物」は保存されているが、何らかの説明の資料や記録関係のものが遺されていれば良いのだが、焼失で無く成っている。
    従って、更に、より詳しく辿る事が残念ながらなかなか出来ず、「伊勢殖産10品」や「紀州殖産五品」等の販売だけに関わった「肝心な射和組との血縁関係」を確実には立証出来ない。
    これ等を「射和組」には「二次殖産」としても関わっていた事は判っている。
    取り分けこれらの・「紀州殖産五品」の殖産の産品は、大量販売は無理で、故に江戸に出なかった事も考えられる。

    そもそも、1000年以上も古くは「奈良末期」から、鎌倉期から江戸期までの言葉として、為政者達からは、“「伊勢の事お構いなしの定」”に依って護られていたので、「為政の影響」もあまり無かった筈である。

    「古の血縁関係の立証」とは別に、「伊勢」と云う少ない「土地の郷士との関係」を深く持っていた事は確認できているし、この「射和の伊勢郷士」との関係も掴めているので、「青木氏」を背景に、上記した様に、この「射和郷士」が江戸初期に「商い」を始めた事も判っている。

    (注釈 そもそも、“「伊勢の事お構いなしの御定」”とは、「天智期の詔勅」と「嵯峨期の詔勅」で与えられた「不入不倫の権」の事が基本に成って、江戸幕府等からも「伊勢」で興る「問題」についての「政治的な処置」に対しては、特別に「優遇処置」を講じる事の「御定書」が改めて出されていた。この事を為政者にはこの様に呼称されていた。前段記済。)

    恐らくは、「射和郷士」とは、「伊賀氏、北畠氏」等の滅亡した「豪族の家臣」が殆どこの「郷士」であった。
    この中で「室町期末期の戦乱」で家は飛散し、「青木氏の保護」の下で「伊勢シンジケート」の中で「生活の糧」を得て何とか生き残ったが、その末裔が「商い」に転じて「射和商人」(門徒衆含む)と成り得て、20氏程度が「子孫」を繋いだと観られる。

    従って、「事の流れ」から云えば、この「伊勢全体の郷士集団」(伊賀郷士含む)とは、古くから親交が有って、「四家の青木氏の末裔」が、「四家制度」に従って“「家人」”に成って、これらの「郷士族」と血縁していた事が充分に推測できる。

    依って、更には、これらの「伊勢郷士」は、平安期の「清和源氏の河内勢力」の関西域の「勢力拡大」の「混乱」もあって、「青木氏の伊勢シンジケート」に入って身を護った。
    この様な背景で「伊勢シンジケート」を構成していたので、恐らくは、元は「伊勢郷士」であってその中でも名を残した「富山氏」とか「国分氏」とかは、状況証拠から鑑みて、「血縁の繋がり」を持っていた事は間違いはないと考えられる。

    そもそも「江戸期の商人」の元を辿れば、殆どが「郷士」であった。
    取り分け、「伊勢商人の松阪商人」は少なく成った「郷士」であった。(伊勢シンジケートが原因)

    この様に、江戸初期には、伊勢に上記した様な事件があって、「青木氏の伊勢シンジケート」を構成していた「郷士衆」、つまり、「伊勢衆」は「青木氏の援護」の下で、「商い」を始めた事が判っている。
    その「商い」は、全て「青木氏の総合商社」が扱っていた事も判っている。
    恐らくは、記録にある“「この時の事」”(「室町末期の混乱」から「江戸初期の安定期への移行」の事を言っている)が“契機”と成って、“「射和組」”として編成されたものである。

    これらの記録の一つとして、「伊勢の歴史的なの功績」を遺した「伊勢藤氏の伊藤氏」は、平安期の「古来の藤原氏」で、この地に定住していた氏である
    そもそも、その始祖は「伊勢守」の「藤原の基景」で、「藤原秀郷の八代目」に当たる。
    この「伊藤氏の末裔」が書き遺したものには、この“「射和商人の事」”が書かれている。

    実は、この「伊勢の伊藤氏本家」(伊勢の藤氏で伊藤氏)筋とは、「筆者の伊勢青木氏」とは血縁関係にあった事は承知していて、その末裔は義理の従兄弟であった事も承知している。
    諸々の「青木氏の口伝と記録」に依れば、この「伊藤氏」が「射和組」に関係していた事も承知している。
    ところが、前段で論じた様に、「射和組の家筋」からの「記録」は把握しているが、如何せん、“「青木氏側の遺品」“には、「口伝」はあるにしても「射和組」に関する”「確証する資料証拠」“は見つからない。
    これは恐らくは原因は「明治35年の出火焼失」であろう。

    これに関連する「伊勢陶器」等の「先祖の遺物」は多く遺されているにも関わらず、何か「遺された手がかり」もあるかも知れないが未だ紐解く暇がなく立証できていない。
    依って、本サイトでは「青木氏の歴史観」としては、筆者も“「射和の関係」”はそれまで余り触れなかった事柄であった。

    然し、“「伝統」”と云う点から、判る範囲で敢えて書き遺しておく事にした。
    「伝統シリーズ」では、既に、一部では触れてはいるが、そこで、もう少し「射和商人、射和組」を論じて置く。
    それは,何も「伊勢の事」だけの話では無く、「全国の青木氏」にも「15地域に商業組合」を広めたが、この事から「郷氏としての同じ伝統」を引き継いでいる事もあって、ほぼ「同様の事」が起こっていた筈であるからだ。
    故に、その結果を、「伝統シリーズ」に反映させたいと考える。

    「伊勢青木氏の系譜と添書」の殆どが「明治35年の出火」で消失してしまったので、曾祖父や祖父の遺した「忘備録(仮称)」での確認と、「伊勢紀州郷士衆等の関連氏の資料」から成る。
    これだけでは不充分で「青木氏側」からの「射和の関係」が、現在では最早、掴め切れない。
    実は、前段にも書き記したが、「射和組との関係」があった事は、充分に判っている。
    然し、この焼失や消失による「資料不足」にて、どうしても全体を明確にするところには辿り着けないで、状況証拠にては推論は立つが、それを解明する「確証」も掴めない事がある。

    その原因としては、「青木氏側」のみならず、「伊勢郷士側」も「室町期の混乱」で、この世の事と思えない「殺戮と焼失と消失の混乱」からそれ以上に資料は激減していている筈である。
    この時期は、「記録・資料の保存」の主な殆どは、菩提寺や神明社などが、前段で論じた様に、祐筆等を務めていた為に担っていた。
    従って、それは、「室町期の混乱」に依って、周囲の“「伝統」“と云う「意識概念」が低下して、恐らくは、疑う事無く「記録壊滅」であった筈である。

    この「室町期末期の事」のみならず、「明治期初期の混乱期」や「昭和初期の戦争に依る混乱期」等の「社会の外的な原因」に依るものと、現在でも、違う意味で「社会の内的な原因による混乱期」もあって、「伝統と云う概念」の「意識低下」が起こっている。
    そして、「著作権や個人情報」の様な「法的拘束力」に依っても、更に「意識低下」が起こり、尚且つ、「調査や原稿の執筆」にも表現が左右されて難しく成っている。
    現在ではこれらの原因で、世代を一つ超えると、最早、口伝等の「無形情報」や「物的情報」さえも「価値意識」が低下して完全に無く成っているだろう。

    この侭に放置すれば、多分、論じる限界を超える。
    「青木氏の研究」の中の「伊勢地区の研究」を何としても十分にして置きたいと考えているが、如何せん“「伊勢衆の事」の資料”が、「商記録」と「口述」と「伊勢と紀州の郷士衆の遺品」以外に見つからない。
    有っても「江戸初期の搾取偏纂」の「半強制的な仕儀」(「黒印状」が原因)のものしか無く、信頼に値しない。
    「青木氏側」ではある程度の繋がりの事は判るが、「射和組」の「郷士側」の確かなものが見つからない。

    (注釈 京都には実に“「古い古美術商」”があって、「青木氏」も長い付き合いの合った「京商人」でもあるが、この歴史書の様な「古い古美術商」は「ヤフー」にも投稿してHPを持っているが、その「研究」では「伊勢の事」は充分に知っている筈であるが「ある部分」で詳細を欠いている。)

    この原因は、取り分け、「射和」に関してはその本筋の原因は判っている。
    「織田氏の伊勢三乱」に依って、「修羅の様な戦場」と成った事から大きな影響を受けた「伊勢衆」の基には「遺された資料関係」が少ない事から来ている。
    そもそも、因みに「織田氏と伊勢衆との戦い」は、上記した様に、両者ともに公的記録で明らかにされている様に、「村が6割全滅」「2万の織田軍が9割全滅」「伊勢寺の僧侶の7割が死亡」「村民6000人が死亡」する等の「激しい戦い」と成った。
    「ゲリラ戦」が主体と成っての「醜い戦い」であったので、それに対抗する為に「織田軍側」は、相手がはっきりしない事から、徹底した「焼き払い戦法」を使った。

    この時、丁度、「石山本願寺の戦い」も同じ「紀州、河内、大和、伊勢地域」でも、「一揆とゲリラ戦」が起こっていた。
    「織田軍側」は、この「二つの戦いの区別」もつかなくなっていた。
    「伊勢」では、“「焼き払い作戦」”で多くの「農民」や少ない「郷士衆」が滅亡したし、「郷士に関する記録」も消失した。
    その後、これでは終わらなかった。

    それは秀吉に依る“「紀州征伐」”が更に起こった。
    徹底した“「郷士狩り」”と云う事を遣って退けると云う事が起ったのである。
    更には、「武力の反抗」を無くす意味から「郷士等の刀狩り」も行われ、彼らの「生活の余力」を無くす目的からも「検地」も行われ、「伊勢郷士衆」は、「武器」や「土地」を奪われ「丸裸」に成った。

    この事が、「郷氏」に及ばず、取り分け、「織田軍や秀吉」に攻められて農民や庶民が「街並み」の中まで逃げ込んで来た事で、これを殲滅させる為には無関係の者との区別が着かない事で「街並みの焼き払い作戦」や逃げ込み先の「寺」などを取り囲みの「焼き払い作戦」を実行した。
    燻し逃げだされて出て来る者は容赦なく殲滅すると云う酷戦に成った経験を持っている。
    これが原因して「射和組の遺された資料と記録関係」は例外なく消滅したのである。
    口伝に依ると、「伊勢の紙問屋」の「玉城の職人長屋や蔵処」にも逃げ込んだが、流石に「青木氏」には攻撃は無かったと伝えられている。
    大義的には、「天皇家の祖のお伊勢さま」を攻めるという避難を免れない事を恐れたからではないかと考えられるが、注釈として 唯、「青木氏の菩提寺」に逃げ込んだ者らは門前で責められて被害を受けた。

    (注釈 中まで攻込まなかった。「伊勢の藤原秀郷流青木との関係」の深い「伊勢攻め大将の「秀郷流近江藤原氏の蒲生氏郷」の関係)も有った。)

    「青木氏」が「伊勢の経済」を担っていた事を租借して、これに被害を与える事は避けたと口伝では伝えられているが、もう一つあったと考えている。
    筆者は、確かに「経済力の懸念」もあるが、別にも、前段で論じた様に、影で動く「武力勢力」の“「伊勢のシンジケートの力」が、これ以上に動くと”「逆効果」”と成る”と「織田氏側」は観たのではないかと推測している。
    「青木氏」を背景に「伊勢シンジケート」と「伊賀者」との「共同作戦に依る武力」を持った「ゲリラ戦」が起こると困ると考えた事にもあるだろう。

    (注釈 彼等には「足利氏の10万の軍」を餓死させた戦歴を持っている。)
    その意味でも「射和の存続」が殲滅までに至らずに働いたのである。

    (注釈 明治期に成って「伊勢の射和の事」に付いて「江戸中期頃の復元」が試みられたが、参考とした資料に搾取が在ってこれを基にした為に可成り矛盾が多い。)

    その後、最早、追い込まれた「射和」は、これでは生きて行けないと成り、結局、「伊勢四衆」と呼ばれる「青木氏」等が援護して、庶民も含む生き残った者等(「戦いに参戦した射和郷士」)にも「土地のものを活かした殖産」に加える事にしたのである。
    室町期末期には「青木氏」にも残念ながら防ぎ切れなかったのだが、「伊勢の射和組」にはこの様な「辛い歴史」を持っていたのである。


    注釈として、前段でも論じたが「本格的な戦い」を避けなければならない「青木氏の氏是」の「縛り」もあった。
    それでも半分は「青木氏の氏是」を破った「最大限の影の戦い」にした「名張の戦い」や「伊賀の戦い」の「救出作戦」が在った。

    「射和」も「人の子」であり、矢張り、人情的には江戸初期前後に護ってくれる筈の「青木氏に対する多少の怨念」があったと考えられ否定は出来ない。

    然し、前段で論じた様に、これ以後には、20年後に「紀州藩の初代頼宣」も「援護の手」を差し伸べて、「青木氏」と共に、要するに、“伊勢を復活させるべく取り組み”が始まったのである。
    そして、この「伊勢の殖産」を生き残った「伊勢衆の射和郷士」等にもやらせたところまでは記録から判る。

    「青木氏に対する多少の怨念」は、この「殖産と興業化」で多少は霧消したとも考えられる。
    それでも「商業組合」に参加しなかった事から考えると、この「青木氏に対する多少の怨念」は未だ多少は引きずっていて、その“「怨念」“は「享保期の直前」の「紀州藩吉宗入城」まであった事にも成る。
    つまり、「吉宗」は、この「青木氏に対する怨念」に対して「紀州藩藩主」と「将軍」に成った時にもこの事を充分に知って居た事に成る。

    「吉宗」は、「伊勢の紙問屋と伊勢青木氏」に対しても、「江戸の商業組合」を指揮する上でも、何とかやり易くする為に、前段で論じた様に、「家康のお達し」に重ねて“「伊勢の事お構いなしの御定」”の「慣例の継承と強化」を指示したのである。
    この一例が前段でも論じた「伊勢奈良奉行時代」(山田奉行)の「大岡越前守の行」に成ったのである。

    「青木氏」は、江戸期に成っても地域別に分けると次ぎの「殖産と興業」を興している。

    「殖産地域−1」 伊賀地区、脇坂地区、上田地区、
    「殖産地域−2」 名張地区、松坂地区、四日市地区、
    「殖産地域−3」 員弁地区、桑名地区、
    「殖産地域−4」 射和地区、玉城地区、
    「殖産地域−5」 長嶋地区、新宮地区、尾鷲地区

    以上の5地域等にこの「江戸期の殖産」は分布している。

    「青木氏」が地主(地権者)として「紀州藩からの利権」を得て、ここには「青木氏の四家」「青木氏部」「青木氏の家人」「青木氏と関係する伊勢郷士衆」の一族一門と、「青木村の農民と職人」が定住しているが、この地区毎に土地に適した上記の「伊勢殖産10品」の殖産を進めたのである。

    この「殖産地域−4」の「射和地区」は、「櫛田川の水」を利用した「殖産」を、「室町期末期の混乱」から「伊勢復興」を兼ねて先ず進めたとある。
    それが、主には「伊勢殖産10品」の中で「射和地区」では次ぎの殖産であった。
    「射和の主殖産」
    (1)良質な水と川土に適する白粉花からの「白粉」
    (2)良質な水を活かした「醤油」
    (3)粘土質の土壌を活かした「陶器」
    (4)水車を生かした「粉の生産」
    (5)水分を多く含んだ土壌を好む「楮」と「和紙」

    以上をこの地域の地理性を生かした「殖産」にし、それを「青木氏」と共に「興業」にして販売するシステムまでを構築したのである。

    従って、この「職人と商人」を「伊勢商人」の「松阪商人」の中でも「射和職人、射和商人」と呼ばれた。

    これを「後押し」したのが「青木氏」であって、その為に、「徳川氏」から「青木氏」が古来より持っていた上記した「広大な土地の利権(地主) 5万石分」を“「本領安堵された」“とする考え方が「青木氏の記録と口伝」の中で読み取れる。

    (注釈 恐らくは、「青木氏側」では、この様な「暗黙の了解説(本領安堵の目的)」があるので、特に、「伊賀の一部」と「南紀勢域」は元より「遠祖地」であることから、其れに相当する行為であったと観られる。)

    それは「紀州藩飛び地領」に「紀州藩の財力」(現実に使えなかった)を使わずに、「青木氏らの財力」を使う事の方が「郷士衆の少ない伊勢域」では、「総合的に得策」と観たのではないかと考えられる。

    つまりは、「青木氏側」ではその「見返り」として「本領安堵策」と成ったと考えていたのである。
    それを判断しその方向に仕向けたのが、同族の「伊勢の秀郷流青木氏」で「紀州藩の官僚軍団」であった。

    (注釈 充分な「下打ち合わせ」は「二つの青木氏」の中では有ったと観られる。
    そもそも、放って置いてもその様に成る環境でもあった。)

    (注釈 その代わりにこれ等を司る代償として、家臣では無かったが、「青木氏 郷氏」に紀州藩から“「12人扶持米の礼米」”を初代頼宣より支給されている事が何よりの証拠である。
    「青木氏」に執っては斯くたる「礼米」ではないが、徳川氏としては「建前」を採ったと考えられる。)

    つまり、「青木氏」は「室町期からの紙文化」の影響で「250万石以上の財力」(総合 500万石)を持っていたとされる中でのこの“「扶持米」”である。
    上記の事を物語る「形式上の礼米」であった事を物語る。

    そこで注釈として、この「礼米」は これは「紀州藩」が「伊勢青木氏」をどの様に見ていたかを示す一つのパラメータとなる。
    この“「12扶持米の礼米」”から、どの様な「扱い」であったかを考察して観ると、次ぎの様に成る。

    江戸期の「扶持米」の計算は、「一人当たりの米換算」で、「五合/日」と定められていた。

    そうすると、次の様に成る。
    「一石七斗七升/年」= 「4.5俵/年」と成る。
    4.5俵・12人=54表=21.6石

    「青木氏の礼米」の程度は、「お礼程度の礼米」である。

    比較対象として、上記した様に、「下級武士の最低の生活」では、次の様に成る。
    「75俵−28両−37石」で、通常で最低「150石」必要と成る。(経費除く)
    「青木氏の礼米の22石  54俵」を「役職の手当」として観れば、「54/75俵」で7割と成る。
    「役職の手当」だけで「下級武士並」の俸禄に値する。

    当時の江戸の「旗本の扶持米」は、“「五人扶持米」”が最高級の「役職手当」で、現在で云えば「五人扶持」は大企業の次長か課長クラスである。

    其れから観ると、「12人扶持」は、次の様に成る。
    (12−54):(5−22.5)で約2.5倍である。
    5人扶持=22.5俵:8.5両:11石である。
    (1両―6−10万円MAX)であるとすると、「勘定方の指導役の公職」としては可成り高く扱われていた事に成る。

    つまり、現在の「役職の手当」として観れば、あるとして専務か社長クラスとなると考察される。

    「勘定奉行」(財政を担当する重役)を指導するのであるから、「扱い」としては納得出来る。

    然し、此処で問題なのは、この「礼米」が利益になるかと云うと、逆で、「青木氏」に執ってはそれ以上の何倍もの「出費」が起こる。
    当に、これは、「礼」に対する「米」が結局は「青木氏の出費(品)」であったが、これを「紀州徳川氏」は目論んでいたかは不詳ではある。
    「伊勢藤氏の家臣団」がある事から「単なる礼米」と観ている。

    さて、この「礼米程度」が「家臣の知行」に相当する事としても、上記した「地域の土地の利権」を保証する「本領安堵」を受けている事から、仮に「出費」であったとしてもそれは大した問題ではない。
    恐らくは、出費の「勘定方の指導」をし、更に同時に、私財を投資して「殖産と興業」をするには、この「5万石の本領安堵」の「以上の出費」であった筈である。
    然し、「私財」であるので問題では無い。
    それを更に賄えるものとして、この「殖産と興業」に依って生み出される「青木氏の商い」が在った。

    この状況はどの程度のものであったかと云うと、そもそも「紀州藩の家老」は、当時は南紀の「支藩田辺藩1万石(この時は「城代の田所氏」等で観る)」であったが、これと「同じ扱い方」であった事に成る。
    参考として「地権では5万石扱い」と成っている。
    恐らくは、「紀州藩飛び地領」の「伊勢松阪域」も、「飛び地領」と呼称されていて「準支藩扱い」で、且つ、「支藩の田辺藩」と同じく「家老扱い並」として、「青木氏」に任していた事に成る。
    上記で論じたが、“「江戸初期に5万石以上の扱いを受けていた」”とするのは、この事から来ていると考察できる。

    「総合的な扱い」としては、上記した土地の「本領安堵分」を面積にして「米の石高」を推計して勘案すると、「1万石以上」を遥かに超えていたのでは無かったかと考えられる。
    そもそも「国の石高」とは、「米の収穫量」のみならず「殖産の生産高」も米換算で表現される。
    本論は「殖産」を論じている様に、その「殖産」の多くは「青木氏(「伊勢紙屋」)」の殖産」に関わっているので、「紀州藩の伊勢松阪分の18万石分」の公式分より「10万石」が「米の殖産」等で増産された事から、「28万石」の内の「殖産分」は、6割を遥かに超えていた事に成る。

    下記の面積計算からすると、「5万石扱いの大名格」と成るのだが、故に、幕府でも「享保の改革」の時には「吉宗」に直言できる立場とした「青木氏の永代の格式」は別としても、元々、石高でも「布衣着用」を許されていた事でも判る。

    「青木氏」の「江戸期の商い」を含めた「全資産」は「250万石以上(株等含む総資産額 500万石)」と云われていた事から、「土地の利権分」としては、面積比で観て、「石高の四割」を基準に考えると、「5万石程度以上」のものには遥かに成っていたと推計出来る。

    これは、上記の「扶持米から見た扱い」からも判るし、「本領安堵分」から見た「5万石」と成るが、依って、これが「紀州藩」から受けていた「扱いの根拠」と成り得る。
    「石高換算」では、「紀州藩55万石」から観ての「扱い額」としては、「1/10程度の意味」を持っていた事に成る。

    実質は「1/2」と成るが、「青木氏の全資産」から観ると「紀州藩」(幕府借財)を遥かに超えていた事に成り、「郷氏の所以」としての立場が解る。

    (注釈 「明治初期の地租改正」で、この「本領安堵分の農耕の土地」は、全て「青木氏の絆青木氏」と、その下に働いていた農民に「無償下げ渡し」と成った。
    しかし、この時、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」も、農民に依る「維新政府の租税」の扱いに対する不満で、「伊勢と信濃の農民」が5年間も「伊勢動乱」を起こしたのだが、前段でも何度も論じた様に、この動乱の「経済的背景」と成っていた。
    「信濃」でも「同じ伝統と環境」であった事から「動乱」が起こったが、「全国の青木氏の姿勢」が良く判る出来事である。
    明治後も「養蚕」や「早場米の更なる研究」等で「農民の殖産」を自費で続けた事が伊勢市の記録にも遺されている。)

    つまり、「武士の扶持米」では、「知行分」に加算して「役職の手当」として支給されたが、「伊勢青木氏」は「紀州藩家臣」では無く「奈良期から賜姓臣下族」の「永代郷氏」であった。
    つまり、「超大地主の利権を持つ者」であった為、「知行分」は無い。

    そもそも「地主」は、土地から取れる「石高の4割」が「地主の取り分」で、6割は「租税」として治める仕組み(四公六民の制)であった。
    この事から「郷氏」とは、「平安期」までの「以前の元土地の領主」であった「身分格式ある氏族」を云う。
    そもそも、室町期中期より出自した「否認証の姓族」と違って、前段で論じた「氏族」とは、前段手も論じた様に、嵯峨期未完の「新撰姓氏緑」で分けられている様に、朝廷より認められた「公認族の事」を云い、室町期に勃興した武力を背景とした「姓族の豪族」に仕官せずに、平安期からの朝廷より認められていた「地権」をベースに「土地の郷士等」をまとめていた「氏で纏まる身分格式の族」を云う。

    そして、この「郷士」とは、主には「室町期中期から勃興した姓族」(1)で、小さい「土地の利権」を持つ「小地主身分」の「土豪」で江戸期の庄屋や名主や村主等がこれに当たる。
    「伊勢の青木氏」に関わる「伊勢郷士衆」は、「室町中期より多く発祥した姓族」(1)や、「連族の枝葉末裔の姓族」(2)とは異なり、「青木氏に関わる純然たる郷士の姓族」(3)である。

    ところが「伊勢」と「近江」では、殆どは、「不入不倫の権」で保護されていた為に、この「室町期の勃興の郷士」より前の「平安期の郷士(2)(3)」であって、何れも「郷氏」と共に生き抜いて来た「郷士衆」であり「姓族」にしても格式は上位にあり異なる。

    当然に、中には“「小郷氏」“と呼称される者もあり、この者は平安期には元は「郷氏の家人(家臣)」(青木氏)であって、“一定の永代格式(従六位)を持った郷士”も「伊勢、近江、美濃、甲斐、武蔵」には多かった。

    (注釈 この“「小郷氏」“の多くは「郷氏家人」を続けた。
    取り分け、「伊勢と近江」には、正式な「永代格式(従六位)」を持つ“「小郷氏」“の「郷士」が多く居た。

    江戸時代初期には、一部には、この「室町期以前の姓族の郷士(2)(3)」を“「武士」では無い“とする「姓族の仕官した武士側(1)」から起こる「嫉み」から来る「不思議な風潮」も起こった。)

    つまり、注釈にある様に、「仕官した姓族(1)」と「仕官しなかった姓族(2)(3)」との「差」で「身分」を仕切ろうとした。
    上記の「三種の姓族(1)(2)(3)」の内、「室町期中期からの姓族(1)」だけを認め、極めて少なく名った数少ない他の「格式のある姓族(2)(3)」を認めようとしなかったのである。

    注釈 平安初期の「新撰姓氏緑」には次ぎの様に成っている。
    「真人族」は40族(同系族44族)
    「朝臣族」は39族(同系族含み45族)
    「宿祢族」は7族(同系族含み16族)
    「臣族」は3族(同系族含み40族)
    「連族」は3族(同系族含み22族)

    これ等は「宿祢族」、「臣族」、「連族」は(2の姓族)に所属し、「真人族」、「朝臣族」は(3の姓族)に所属する。

    (注釈 「同系族含み」とは、「同縁同祖系」を含めたものを示す。但し、「真人族」と「朝臣族」はは「氏族」である為に「姓」を持たない。
    唯、この「二つの族」の「女系族」と、「男系継承」が不可能と成り、「他氏から養子」を取り二代続きで「男系継承」が不可能と成った事で「女系族」と成り、「他姓」を持つ事に成った「姓族」がある。
    これらの「女系族の姓族」が後に「元の氏名」を興して男系に継がせる事で「女系に依る同縁同祖族」が出来上がった。
    「新撰姓氏録」は、そもそも「編集未完の記録」であり、この「女系の同縁同祖」を入れているかは不明である。
    唯、「男系に依る同縁同祖」で纏められている欄には無く、散文的に各所の欄の中に飛散している状況で、これが「女系の同縁同祖」であると観られる。
    「宿祢族」、「臣族」、「連族」の(2の姓族)に所属する族に観られ、「真人族」、「朝臣族」は(3の姓族)に所属する族には観られない。
    故に、「宿祢族」、「臣族」、「連族」の(2の姓族)には同系族が極端に増加している。
    本来であれば纏めての「記録物」と成るが、それが区分けして更にまとめあげるべき処まで編集としは何とか来ていた事が判る。
    一時、消えて計画であったが、何とか形にしたいとの政治的決断での「編集途中の録物」としたことが判っている。

    これは「嵯峨期の状況」を示すが、ところが此処から大きく時代は変化して、何れ「皇別五族」と云われる族も激減する。
    「真人族」、「朝臣族」は(3の姓族)に所属する族は、聖武期には「春日真人族―志紀真人族」(青木氏−井上内親王 光仁天皇 追尊の春日宮天皇)を遺して、「直系の真人族」は「第四世族内の同縁同祖」が「女系の男系族」と成り遂には滅亡する事に成る。

    「第五世族以降」の「第七世族」までの「宿祢族」、「臣族」、「連族」の(2の姓族)の通称“「皇別13族―同縁同祖族78族」“も「下剋上と戦乱」で室町期中期には「正式系統」が霧消するまでに激減した。

    因みに、その程度は前段でも何度も論じたが、「概要の傾向」で云えば、「正式な氏族」かそれに纏わる「姓族」(2の族と3の族)の合計として、平安末期には40程度に、鎌倉期には80程度から一時一気に増えて200程度に、室町期中期には40程度に、室町期末期には20程度に、江戸期には10程度も満たない状況と成っていた。
    この差がこの「江戸の議論」を産んだのである。

    その根拠には、次ぎの事がある。
    「仕官した姓族」は、「藩主」に仕え「家臣」に成った。
    「仕官しなかった姓族」は、「郷氏」との関係で「家人」に成った。

    「仕官した姓族」は、「俸禄」に糧を求めた。
    「仕官しなかった姓族」は、「殖産と農業」に糧を求めた。
    主張した彼等はこの差で仕切ろうとしたのである。

    然し、現実は、「仕官した姓族」の糧では、生き残りは成り立たず、結局は「半農の様な糧」に成っていた。
    「仕官しなかった姓族」の糧では、「殖産と農業」であった事から「殖産」が成功裏に成ると生活は逆に豊かに成り、果ては「二足の草鞋策」で「商い」も営み、その差は逆に「武士力の差」にまで現れる様に成ったのである。

    更に、次ぎの事の差が起こった。
    「仕官しなかった姓族」の「郷士」等は、その「主」が「永代格式をもつ藩主以上の遥か上位の身分格式」(位階は従四位下以上 正三位まで 浄大一位)を持っていた事。
    「仕官した姓族」の「主」よりもむしろ「上位の郷士」であると云う説が起こった。

    以上の事から「藩主仕官派説」は弱まったのである。

    資料からの読み取りでは、上記の30地域の「仕官しなかった姓族」等には、「平安期の郷士の血縁族」に成って居た事から「位階六位の格式の筋目」を自覚していた様である。

    或は、上記した様に、地域に依っては中には「伊勢」や「讃岐」の様に「平安期からの郷士」もあり、その中には自らも“「小郷氏」”と呼称される様に「永代の身分格式」(位階六位まで)を持っていた事もあり、更には、この「平安期の氏族の郷士」と「室町期の姓族の郷士」の両者の間で格式が近いと云う事もあって“「地域内での血縁族」”も広がった。
    従って、「仕官派の姓族」の「勃興族の立場」は、逆転して仕舞っていて「主張する立場」が本来は無く成っていた。
    「仕官した姓族」は、むしろ世評は「身分格式は低い武士」と成り矛盾する事と成ったのである。

    そこで、この「仕官派説」は完全に消えて、「全郷士」は「武士とする説」に帰化し特化したのである。

    当初の「仕官派説」の武士は、全国の殆どの地域を占めていた事から一時この説が高まったのだが、上記した様に、「新撰姓氏録」等に記載されている「郷氏が存在する地域」は、そもそも「近江、伊勢、信濃、(美濃)、甲斐、武蔵」と、その「関連地域 30地域程度」に限定されていた為に発言力は弱かった。

    結局は、上記の様な経緯を経て「郷士の立場」は逆転して仕舞って、遂には、世評では「仕官派の姓族」の立場は低く観られ続けたのである。
    つまりは、これは江戸時代には、「黒印状の発行」と共に「権威主義」が起こり、上記の様に「姓族」を「仕分け」して「武士族」を限定したが、ところがこの「権威主義」が進むと、逆に「古来の格式」が重んじられて限定するどころかその「立場」は逆転したのである。

    (注釈 「近江域」と「美濃域」は、「源平の争い」で平安期の早い時期に「土岐氏系青木氏」と共に「氏族」と「姓族」は完全滅亡した。
    「近江」は「遠祖同族の佐々木氏と青木氏」の援護を受けて「傍系支流」が何とか継承した。
    「近江」も近江で敗退し美濃でも敗退し、この時には一族は滅亡したが「佐々木氏系青木氏」から「近江青木氏」を女系で復興させた事と、「近江青木氏の支流末家」が再び「摂津」で生き延びてある程度で復興した。)

    そもそも「幕府家臣団」は、関東の「藤原秀郷流の幕臣」で占められていた事から、上記の論説を張り主張し、結局は「全郷士」は「武士とする説」に収束し特化したのである。
    唯、此処では、「氏族の郷氏」は、「新撰姓氏緑」にある様に「永代の身分格式」を正規に持つ「朝廷より認可された氏族」であって、「無冠無位の低い姓族」では無い事から論外として議論に成らなかった。

    むしろ、前段でも論じたが、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府も、取り分け、江戸幕府は戦乱で数少なく成った「権威と象徴を持った数少ない氏族である郷氏」を保護し、むしろ、政策上、“社会に「権威」を醸成し相乗をさせて安定させ様として”、その「権威族」として祭り上げたのである。

    (注釈 生き残ったのは「古式伝統」を持った「朝臣族」の「賜姓臣下族」の「青木氏や佐々木氏や藤原氏」等で、流石に「真人族」の「氏名」は「志紀真人族」の「青木氏以外」には出て来ない。
    「青木氏」は「真人族」でありながら、「朝臣族」で、「賜姓臣下族」の「武家族」、「佐々木氏」は「朝臣族」の「賜姓臣下族」の「武家族」、「藤原氏」は「賜姓臣下族」の「公家族」(秀郷流青木氏含む)と成る。
    前段でも詳しく論じているが、「永代格式」では、「青木氏」=「藤原氏」<「佐々木氏」と云う事に成るだろう。
    唯、嵯峨期以降に出自した「源氏族」は後裔の11家は完全滅亡で、「橘氏」は一時滅亡して「傍系支流族」で立ち上げた為に「権威造策」には採用を見送られた。(橘丸紋付支流 資料には観られない。)
    「嵯峨期の詔勅」で、何度も論じたが、「真人族の氏名」は「青木氏」を名乗る事と成っていた為であり、彼らに独自に「青木氏を興す力」は全く無く、これ等は「五家五流の跡目」に入った。)

    前段でも論じたが、この時に採った政策の一つの例として、「青木氏の氏名」を農民から身を興した下級武士階級の「姓族」が、「嵯峨期禁令」を破って江戸初期に名乗ったので、この者等に対して「姓の青木」を「別の姓名」に変更する様に江戸幕府は命じて「青城氏等の姓名」が生まれた。

    この事と同時に江戸幕府は「系譜由来等を作る事」をも命じて、「武士」であると云う事を証明する為に「黒印状発行の条件」としたのであるが、この時、江戸幕府は「搾取偏纂の系譜」には無視し容認の姿勢を採った。

    (注釈 農民から伸し上がった者には系譜などは元より無い。そこで地元の神社や寺社などに地域の氏族や郷氏等の「古豪の系譜」に脚色を加えて系譜を搾取偏纂して「黒印状」を獲得して武士と成った。これだけは幕府は容認した。)

    従って、現在に於いて「系譜からルーツ」を辿ると、前段でも論じた様に、「氏族」の「郷氏青木氏の歴史観」と対照するとあり得ない矛盾する事が生まれるのである。








    「伝統シリーズ−31」に続く。

    そこで、更に、論じて置かなければならない事が「青木氏の歴史観」としてある。
    それは、取り分け、“「家人」”に関わる「歴史観」である。

    この事を認知して置けば、この「矛盾」を見抜く事が出来るし、自らのルーツの「正しいロマン」を醸成できる事に成るだろう。
    この明治期まで「青木氏」に仕えた「小郷氏」等の事を「青木氏」では、「四家制度」の中で“「家人」”と呼んでいた。
    この“「家人」”には、「青木氏」の「職能部の頭」(青木氏部)には娘を嫁がせて、その生まれた嗣子の一人に今度は実家の「青木氏」を名乗らせて、「四家制度」の一員とする“「家人の青木氏」”が在った。
    又、この「職能部の頭」にも「青木氏」を「縁続き」(嫁ぎ先)で名乗らせる“「家人の青木氏」(「職能家紋で変化を付けた)”も在った。

    (注釈 前段でも詳細に論じてはいるが改めて概要を記すと、「四家制度」では「男系女系」の差が無く「孫域」までを、「孫」と云う概念が無く、「青木氏嗣子の子供」として定められていて「福家」で「共同」で育てた。)

    奈良期からの「賜姓族の臣下族の慣習」では、この“「家人」“に付いては「家来」と呼ばず氏族としての護らなくてはならない理由があって“「家人」”と呼んでいたのである。
    これは、幾つかの「血縁と所縁」で結ばれた“「同族の家」”が集まり一つの“「氏」”と云う大きい「集団形体」で「枝葉の姓」を作らず構成する事から、そこでの何らかの「薄い血縁」や「所縁のある者」で厳しく言えば「主従関係」、或は、緩く言えば「統率関係」が構築されていた。

    従って、一種の「契約」に依る「無血縁の臣」(無縁)で構成されているのでは無く、「血縁族・所縁族の人」で構成される事を意味する事から“「家人」”と呼ばれたのである。
    つまりは、「氏」と云う形で構成される「下支えの構成族」(家)の「一つの族」の事である。
    そして、この「主従の者」を「氏と云う形の人」として、朝廷はこれを「統一した氏族」として「公認する仕組み」であった。
    これが、「姓族」と異なる「氏族」の所以もである。
    要するに、「家人」は「朝廷の認証族(氏族)」の「准認証族」(准氏族)とも云える。
    この形が形成されていなければ、それは「氏族」とは認証はされない仕組みであった。
    前段で論じた「新撰姓氏録」の記載する処でもある。

    (注釈 そもそも、何故、「山部王の桓武天皇」の平安初期の直ぐ後に子供の「嵯峨天皇」が、このここに至って「新撰姓氏録」を編集したかが判る。
    「聖武天皇」の「直系族」に「男系族」が無く成り不継承と成り、唯一人の「井上内親王」のみと成った事から、唯一遺されていた「春日真人族の第四世族の志紀真人族」の「白壁王 光仁天皇」と婚姻させて「正統性」を何とか確保した。本来は「真人族」でありながらも、「第六位皇子」である事から「第四世族までの王族」をも捨て「皇族賜姓臣下族」と成り,「皇親族」として「賜姓五役」を務める事に成った。
    つまり、「格式の継承」から観れば、「継承権」があって「継承権」を捨てた立場に成った「唯一の氏族」であった。
    依って、「継承権」では“「准の立場」”にはあった。
    これで、「青木氏の准の使用許可」の意味合いが良く判る事でもある。

    そこで、この「准の立場」から「白壁王の光仁天皇」と「施基皇子の追尊 春日宮天皇」の子が「山部王」の「桓武天皇」と成り、「施基皇子」からは曾孫の「嵯峨天皇の継承」と成った。
    そこで、「嵯峨天皇」は、「天皇家の正統性」を整理する意味からも複雑化した「真人族」と「朝臣族」を系譜化しようと試みた。
    もっと云えば、複雑化していた「皇族系の系譜」を見直して「格式」を明確にし、主に「継承権のない朝臣族」、並びに元は「真人族でない朝臣族」との「系譜上の区分け」を試みたと考えられる。
    この「区分け」でそれは「正統性」を意味する事に成り、「志紀真人族の青木氏」の「三司」の「准の使用根拠」にも成り得ると考えたのではないか。

    「嵯峨天皇」は、「天智天皇」が定めたものを「嵯峨期の詔勅」を改めて出し直し事に伴って、その“今は「准の立場」であるが、本来は「准」でないとする「先祖の正統性」を100年後の今に明確にしたい”と云う考え方の下にその「証明書」を作ろうとしたと考えられる。

    そこで或る処までは「系譜化」は出来たが、さらに整理に至るまでには未だ期間と難しさが掛かることから一度は頓挫したが、何としても形の上でこの「証明書」を作り上げたいとして、所謂、「新撰」として「未整理状態」で“「広布」“をしたと云う処ではないかと云える。

    この「新撰の意味」は、この「未整理の範囲」でも、所謂、「証明書」には何とか成り得るとして、改めて「広布する範囲」として認めた処にそこに意味(ある種の思惑)があったと考えられる。
    従って、「新撰の意味」と「准の意味」は、判り易く云うと“「公布」”では無く、“「広布」”であった事に成る。

    と云う事は、何故、この「新撰姓氏録」を、態々、この時期に「頓挫しかけたもの」を、又、「未整理のもの」を出そうとしたのかである。
    「頓挫や未整理」であるのなら慌てずにそのままに後に引き継いでも良かった筈である。
    実は、この時期に朝廷内では、この「継承権の議論」と云うか、「藤原氏の勢力拡大」も狙ってこの「継承権の話」が出ていたのである。

    それは、父である「桓武天皇」と兄で先代天皇の「平城天皇」を向こうに廻して「ある種の軋轢(皇位継承)」があった事が記録(「続日本記の削除問題」)として伝えられている。
    これが「大事件」まで発展した。

    注釈 本来は、「実子」の「平城天皇の子供」が「継承権」を持つが、「嵯峨天皇」は「直系」の「志紀真人族の血筋」を引く自分にあるとした。
    「皇位継承」のみならず「青木氏の歴史観」に大きく左右した「施政の事(監察使等)」でも、この「処置の仕方」に付いての「軋轢」もあって、結局は、この「監察使」を「嵯峨天皇」は廃止して更に軋轢は拡大した。
    この事等を含めて「父と兄と藤原氏」と対立して「薬子の変・平城上皇の変」が起ったのである。

    (注釈 「監察使」とは、「天皇直属の参議」で、「桓武天皇の勘解由使」から「平城天皇の監察使」、そして、「嵯峨天皇の参議」と変化した。
    元々は、「天皇の代官」として「天皇の直接の意向」を背景に「政治と軍事と経済」の施策に直接に力を発揮する「令外官の事」で、これを元は「参議官」が務めていた。
    然し、「二人の天皇」は、更に詳細に渡り強化する為に「勘解由使と監察使」のこの制度を設けた。
    つまり、これが天智期から引き継いだ「皇親政治の制度」であり、「青木氏」等が「賜姓五役」(令外官)として務めた。
    然し、これを「嵯峨天皇」は廃止したのである。
    これが前段でも論じた「嵯峨天皇の詔勅」と云う形で表に出たのである。
    況や、「皇親族の青木氏」を廃止し、その為に、「単なる役目の無い賜姓族」として「源氏」と云う「氏族」に換えた。
    そして、以後、「皇位継承」から外れ排出される「真人族」には「青木氏」を名乗る事を許した。これが「賜姓臣下族」として自活する「五家五流青木氏の跡目」などに入る事を認めた。
    この「監察使」は「勅命」を受けて「皇位継承の問題等の整理」にも関わったのである。
    「二人の天皇」は、「監察使」からの整理した報告から“「実子制度」”を主張したが、これを嫌った「嵯峨天皇」は「天智天皇と天武天皇」が定めた「第四世族内」の「第四位皇子内の継承権」を“「直系制度」”として理解してこれを主張した。
    「天智天皇」から「弟の天武天皇」、「天武天皇」から「妹の持統天皇」の様に「第四世族内の第四位皇子内の継承権」を原則に、“「最優先の二世族」の「直系族」が存在した場合は、「皇位継承権」を保持する“と主張したのである。
    要するに、“「内」”と云う語句を優先したのである。
    つまり、“「第四位皇子・皇子で、第四位皇子」までならだれでも良い”という論調を採用しなかった。

    「平城天皇」は、これ等の事を暗黙の「約束の下」に弟を「皇太子」として次期天皇として指名した。
    ところが、「退位」の後、弟の「嵯峨天皇」が、約束通りに「皇太子」を甥に指名しなかった。
    そこで、「復位」しようとして「薬子の変・平城上皇の変」が起こり失敗に至る。
    「平城上皇派」は立場を失って旧都に戻る。
    そこで、「嵯峨天皇」は異母弟を皇太子(淳和天皇)に指名した。)

    この「注釈の経緯」を観ても、この時、全ゆる面から「皇位継承」を巡る「宮廷内部の論争とそれに伴う紛争」が起こったのである。
    その「論争と紛争の一つ」と成ったのは、「聖武天皇の時」に起こった様に、又、「直系性の継承問題」であった。
    “継承者が不在と成った時に、「准」の「第四世族の春日真人族」とその系列の「志紀真人族、第六位皇子」 「浄大一位の格式の持つ氏」の「直系」の我にある”としたのである。

    「敏達天皇系(春日真人族)」から「第四世族の志紀真人族」の直系の自分に「継承権」があるとし、「平城天皇の子供」には、「天智天皇」が定めた「四世族内制」に従えば、“「平城天皇の子供」には無い”と結論付けたのであろう。
    故に、「直系族の第四世族」の“より「直系」”である異母弟を皇太子(淳和天皇)に指名したし、自分も「直系制」を用いた。

    この事で、「志紀真人族」の「直系族」が「天皇家の系譜」として、以後、引き継がれて行く事に成るが、「嵯峨期以降から鎌倉期後期(38代から95代の57代)」までの「天皇家の系譜」を観てみると、「大化期に定めた考え方」に沿い、ほぼ「半分」はこの“「内」の「直系制」“を重視する原則に従っている。
    57代中20代が「直系制」であるが、但し、「実子制」では、(57−20)から「女系や后妃嬪や四世族」等の「本来の実子」ではない歴代を除くと、丁度、「半分」と成る。

    然し、「実子制」では、「実子」が存在しても、「実子の条件(若輩、能力、意思、血縁、格式、嫡子順、后妃嬪、妾子、人格)」が附添されていて、この事が左右して必ずしも「天皇」に成り得ていない。
    この事から考えると、「本来の嗣子」とされる「実子」では無く「実子制」は半分以下に成る。

    これには、上記の様に、上記の条件が叶えば、一度は「実子族」で継承しても必ず「直系族」がいると「継承権」を戻して「天皇」と成り得ている。
    この様に「直系族」「直系制」が「考え方の主導」と成っていた事から、平安初期の“「内」の「直系制」“を打ち砕く事で、有利に「藤原氏の勢力拡大」を目論み、この「薬子の変」とも云われる様に、「薬子の実家先」の「藤原氏の台頭」(仲成)が絡んでいたのである。

    (注釈 直系制であれば横に継承権を移動させる。ここではいろいろな「后妃嬪妾」の氏族から血縁が入る。然し、この直系制は延々には続かせることは兄弟の数が不足すれば一度、縦、つまり、「実子」に移動させねばならない。そして、又、「直系制」に戻す事が基本と成る。これを繰り返す。(血流の点では都合がよい。)
    この事では「摂関家の藤原氏の勢力」は強く成らない。実子制であればこそ強く成り得る。
    ここに勢力争いが起こった。「摂関家の力」が強く成れば「天皇の力」は外戚から牽制されて弱く成るは道理である。
    一種、「実子制の継続」は藤原氏の娘嗣子を次ぎ込み続ける事に成る。
    従って、形の上からは「天皇の地位」を乗っ取った事にも成り得る。
    基本的にはこの「争い」である。)

    つまりは、この「直系制」があると、「八色の姓制」で「藤原氏外の婚姻([新撰姓氏録]の真人族)」が成立する事が起こり、「斎蔵の摂関家の藤原氏」は、「外戚」であっても「永代の朝臣族」である限りは、常に「継続する勢力拡大」は成し得ない事に成る。
    下手をすると、「斎蔵の勢力」もこれらの「真人族(后妃嬪)」に奪われる危険性を孕んでいたのである。(宇多天皇(59代 890年代)から藤原氏外戚が170年間続く)

    「嵯峨天皇」が、何とか「新撰姓氏録」を出す事で、「准の立場」も含めて「継承権のある真人族」を明確に、「外戚」は兎も角も「朝臣族である藤原氏の立場」を明確にしブロックして「天皇家の保全」を保とうとしたとも考えられる。
    「外戚」で堀を埋め今度は「本丸」の「天皇の立場」も奪われる可能性を危惧したのではないかと考えられる。
    それは、「嵯峨天皇」の祖父と曾祖父(志紀真人族で賜姓族)が、「准の立場」で、且つ「臣下族の立場」でも「天皇」に成り得たとすれば、「外戚(摂関家)」も「准」と「公家の立場」であるとする理屈を付ければ「天皇」に成り得るとする考えが争いの中に充分にあったと考えられる。
    これは上記した様にまさしく「真人族の確定」と「新撰姓氏録の広布」と「准の使用」と「直系族の掟」と「皇親族の廃止」の施策は筋が通っている事に成る。

    現実に、「藤原氏外の婚姻」の「後三条天皇(71代 1070年代)」からは明確にこの現象が起こった。
    然し、この時期は、「直系族」が居ながらも「実子制」を三代続けて行うが、ところがそこからは「直系制の傾向」がしばらく続く。
    つまり、「藤原氏外の血縁」が三代で出来上がり、そこからは「直系制」で行けば完全に「藤原氏外の血縁族」が「天皇家」に続いた事に成る。
    言い換えれば、「藤原氏の外戚の勢力」は弱くなったと云う事を意味する。

    そこで、しかし、この直前の「円融天皇(64代 970−990年代)」は、「藤原氏の外戚の勢力」は強く成った頃を見計らって、態々、「青木氏」は既に「皇親族」から外されていながらも「青木氏の補完策」として「藤原秀郷流青木氏」を創設したのである。

    これは“何故なのか不思議”な事である。
    実は、これには「青木氏」に執っての重要な「歴史観の意味」を持っているのである。

    つまりは、「実子族」が続く「藤原氏の外戚」とする「天皇」の最中に、そもそも、「藤原氏」を外戚とする「円融天皇」に依って「青木氏の補完策」が取られている。

    この“何故なのか”の答えは、これは少なくとも「摂関家の内部勢力争い」に振り回され、「政治の主導権」を握られていて、「天皇が考える政治の遅滞」を恐れて「青木氏の秘書役」を以って密かに「内政の進行」を強化したのである。

    そこで「青木氏」を元の「皇親族」として「参議にする事」は、「藤原外戚が拒む事」が起こるし、下手をすれば「青木氏との争い」とも成り得るので、「賜姓臣下族」を其の侭に引き出す事を止めて、「東の武蔵の勢力拡大中」の「秀郷流藤原氏」を利用したと考えられる。

    これには、「二つの理由」があった。
    それは、一つ目は、東の「将門の乱」の「功績の条件」に貴族(位階従四位下)を要求した事。
    二つ目は、「武蔵藤氏」は「西の摂関家」に対して反抗していた事。
    実は、この「反抗」を示す事例として、「藤原氏の総紋」の「下がり藤紋」は「下がる」を忌み嫌い「上り藤紋」に変紋したが、「枝葉末端の武家藤原氏」の「武蔵藤氏の秀郷(俵藤太)」はこれに従わなかった。
    この「二つの事」に目を付けて、「円融天皇」は「青木氏の格式と同じ扱い」を条件にして「青木氏補完役」を「累代第三子」がその義務を負う事を命じたのである。

    注釈として、この「秀郷流の青木氏」が絶えることが無い様に「宗家から累代第三子」が「秀郷流青木氏の跡目」を引き継ぐ事を命じた。

    「賜姓臣下族の五家五流」から「藤原秀郷流青木氏」に、「秀郷流青木氏」から「五家五流青木氏」にどの様に血縁を結んだかを調べる要素は、実は「墓所」にある。
    「系譜」には四家から「娘の嫁家先」の明記が無く、その「添付書」にしか無い。
    ところがその詳細を書いた「添付書」は、一族が先祖の詳しい史実を知る為に書かれたもので主に秘蔵が「仕来り」で相互の事が解けない。

    そこで、「二つの青木氏」には、その「浄土密教の慣習」としては「本墓所」とは別に「女墓」があり、ここに「累代の妃嬪」が刻まれている。
    これを相互に付き合わせれば凡よその事は判る。
    「女墓」には慣習として「戒名と俗名」とが刻まれている。
    この「俗名」を「相互の突き合せ」で婚姻が判る。
    最近では難しいが「総宗本家」程度しかなく、調べた範囲では、概しては「賜姓臣下族から3」、「秀郷流から5」の割合程度で相互に女系で血縁関係が成立している。

    格式も同役も同じである事から婚姻は成立しやすいし、その様に「円融期以後の朝廷」は「二つの青木氏」に仕向けたと考えられる。
    何故ならば、中には「嵯峨源氏」からも「摂津系清和源氏」からも「跡目血縁」が、「近江佐々木氏」からも「女系血縁」、「近江佐々木氏系青木氏」からも「同祖血縁」、「五家五流間の青木氏」からの「同祖血縁」が起こっている。

    これらには「仲人」が立つが、「天皇の意」を汲んだ「朝廷の参議どころ」でなくては「仲人の格式」は成り立たない。
    況や、「朝廷(天皇)」は「青木氏の血縁」を強化して、より強固に「賜姓五役」を遂行させたと考える。

    「源氏(嵯峨源氏・摂津源氏)」⟶「五家五流(四家)」⟷「秀郷流主要五氏」⟷「佐々木氏(青木氏)」⟷「五家五流(四家)」⟵「徳川氏(江戸期)」

    以上の血縁関係が、「施基皇子」を同祖同縁とする「直系制」が取られた平安末期まで出来上がっていた。

    (注釈として、これが「四家の範囲」で行われた。それ故に、男女に関わらず「孫域」までを子供として集めて、此処から「娘」は嫁家させ、上記の範囲で「血縁」を結んでいた。
    「男子の嗣子」は、概して「四家20家内」に納まっていた様ではあるが、「跡目」では無く「養子」と云う形で「郷士家」に移動している。
    そこで「男子」が多く生まれた場合は、「青木氏」を興し、「四家」に戻すと云う形式を採っていた様である。
    更には、「縁者、況や四家20家外での娘や曾孫」は、「郷士関係との血縁」に稼せられていた。)

    この様に、「同祖同縁の血縁」と「四家の血縁」の「二段構え」で「血流」を豊かにしていた様である。

    但し、「秀郷流宗家との血縁関係」は、「五家五流」は「笹竜胆紋(象徴紋)」を変紋しない事から、「家紋分析」では「柏紋」と「目結紋」とから、「秀郷宗家」と「佐々木氏」と血縁関係があった事が判るが、資料からは見つからない。
    「永嶋氏・長沼氏・進藤氏・長谷川氏の青木氏族」とは「佐々木氏の研究資料」からは確認できる。

    これは「枝葉末端の武家藤原氏」の「武蔵藤氏の秀郷(俵藤太)」に執っては「摂関家」と肩を並べる「武家藤氏」として「勢力拡大の最大のチャンス」であった。

    「東の乱」を契機に、この「補完策」に依って「二つの青木氏」に内政の「賜姓五役」は進み、「志紀真人族系」の「皇族賜姓臣下族の青木氏」は、「二足の草鞋策」も相まって「皇親族であった失った部分」を完全に補足したのである。

    「円融天皇」の「青木氏の補完策」としては、「天皇家、賜姓臣下族青木氏,秀郷流青木氏」の三者に執っては“「藤原秀郷流青木氏の創設」”は難しい時期に於いても完全に成功したのである。

    これも「青木氏」が「生き遺れた重要な歴史観」の一つである。






    「伝統シリーズ−30に続く





      [No.347] Re:「青木氏の伝統 28」−「青木氏の歴史観−1」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2016/11/18(Fri) 13:58:30  

    > 「伝統シリーズ−27」の末尾。

    (注釈 それには、この「和紙に合う墨」とそれに「耐え得る硯石」と「良質の筆」の開発にあった。
    取り敢えず、「925年頃」に「和紙」から本格生産に入り、「紙屋院の役職所」を務めこれを通じて「余剰品」を「賜姓族」としての「資金力の捻出」の為に、「二足の草鞋策」で「市場販売の許可」も出て、販売を手掛け、遂には「1025年」には「総合商社」としてこれらを中国に輸出するまでに成った。
    次ぎの段階として「墨と硯と筆の開発」に入ったとされている。
    此処までに約100年程度かかっている。
    更に「良質な理想的な墨硯」は、何と「後醍醐天皇」自らが「熊野詣」の途中で「紀州の藤白地区と日高地区」で発見したと書かれている。
    「青木氏」は「朝廷専売」でこれらの「殖産」に取り組んだ。)


    それが、前段で論じて来たこれらが“「連動する伝統」”であって、「春日真人族」から引き継いだ「志紀真人族の氏」として生き残った所以でもある。
    この「二流から成る氏の伝統」は青木氏には連動しているのである。
    然し、「皇親政治」は廃止され生き残りが難しく成った平安末期からは、前段でも論じている様に、“「二つの青木氏」の「補完関係」”が成立しそれが大きく働いたのである。
    そして、「円融天皇」により「賜姓族」「臣下族」「朝臣族」と成った「藤原秀郷流青木氏(始祖 千国)」より「賜姓五役の補完」を受けた事から「二足の草鞋策」は、本格稼働して「氏の生き残り」は果たせる事の基が築かれた。

    (注釈 多くの「偽称の氏」には、この上記の様な「氏の担保するべき連動性」、即ち、「連動する伝統」が無く欠ける。判明は簡単である。)

    (注釈 「嵯峨期の詔勅の禁令」で「二つの青木氏」だけが「氏名」を「村名」と出来る。
    つまり、これは「春日真人族と志紀真人族」だけが「氏名」を「村名」と出来る由来であり、追尊の「春日宮天皇」の後裔とする事を根拠としている。
    後は、”全て地名に由来するべし”とする事を「嵯峨天皇」が「天智天皇の禁令」に対応して更に追禁した事に由来する。)



    伝統シリーズ28に続く。


    ここで重要な注釈があり、「青木氏の歴史観」として論じて置く。
    それは、「准」と云う用語である。
    そもそも、上記した様に、「連動する氏の役」から「青木氏」での「氏上」は、前段でも論じている様に、そもそも「朝廷の格式」を用いる事からも「氏上」として成り得ているのだが、ところが資料によると、古来より「氏人の差配者」の中には、「氏上」、即ち、「朝廷に仕える官人」に准ずるものとして「氏上」と「氏人」の間には「准氏上の人」と呼称するものが居た様である。

    この使用の傾向は「皇族賜姓族」だけには観られるが、それは「朝廷認可」の下にでは無く「青木氏の慣習仕来り掟」の中で以後用いられていた事が考えられる。

    つまり、「皇族賜姓臣下族」には、この“「准の使用」”を慣例として朝廷が永代認可していたと考えられる。
    それは「皇族賜姓臣下族」に限られて、「特別な格式を与える事」を目的としての一代的な個人の呼称手段として“「准」”が用いられていた様なのである。
    これは、「氏上」と云う「格式扱い」よりは、「青木氏」は「賜姓五役」として「朝廷の重要な役目」の「紙屋院」(国産の紙等の関係品を開発する役目)を担っていた事から、この「青木氏部」の「職能の長」に対して「格式」を与える為に「准の使用」を朝廷は敢えて「氏人」に認めたと考えられる。
    本来は無い事である。

    (注釈 この“「准」”は、「嵯峨期の詔勅」に伴う「青木氏の慣習に関する禁令」の一つであったが、例えば、「坂上氏」の父の「阿多倍王」は、「准の使用」を特別に許された。
    その事から「桓武天皇・山部王」に依って「後付」で「高尊王・平望王」にして「准大臣」と呼称する事を許された経緯が遺されている。)

    注釈として、前段でも論じたが、そもそも、「阿多倍王」は「後漢の国」の時の呼称であり、「大和王朝の格式」を得るには上記した様に「第四世王の王名」を持つ事が必要に成る。
    「後付」で「高尊王・平望王」と授与して、「大臣」に成り得る格式を「高尊王・平望王」に与えたものである。
    つまり、それが「青木氏」に使用する事を認めていたものをこの「准大臣」として与えたのである。
    そもそも、「山部王・桓武天皇」は、「伊勢王 施基皇子」の「四男白壁王・光仁天皇」と、「高野新笠」の子供である。
    「高野新笠」は「高尊王・平望王」の「阿多倍王の孫娘」である。
    従って、この”「准」”を使う事には「阿多倍王」には何の問題も無かった。


    (注釈 これは「敏達天皇の孫芽純王の娘」との血縁に伴って、この“「准」”を使う事を正式に許されたものである。
    「八色姓制度」に依って「皇族の娘との婚姻」には格式が必要で、この為にこの「准」を用いて「大臣の格式」を与えたと考えられる。
    唯、「桓武天皇」による「後付」かは判らない。
    「高尊王・平望王」は「後付」である事は判っているので、これに合わせて「准」も「王」と「准大臣」の「格式」で、「桓武天皇の母方の出自」の為の「仕来り」を整えたと考えられる。
    「阿多倍の長男」の「征夷大将軍 坂上田村麿」とは、従って、「桓武天皇]は兄弟の様に付き合っていた事が判っている。)

    他に「藤原道長との政争」を繰り返した「藤原伊周事件」では、「伊周の復権」にはこの「准」を使う事で利用され、後に「朝廷内の人事の便宜上格式」として用いられる「正式制度」の様に成った。

    (注釈 「皇族賜姓臣下族」では、「氏内の権威付」に「人事手段」として“「准」”を用いていた。
    この“「准の慣習」”が室町期に一般社会に伝わったと考えられる。)

    この“「准」”を付けて“「三司」”の間の「格式」を表現する方法として、元は「中国の官僚制度」で用いられたがそれから来ている。
    そもそも、この“「三司」”とは、「太政大臣」と「左大臣」と「右大臣」の事である。
    正式には「三司」等ではないが、“「准」“は「三司並の格式」を有するとする便宜上の位等の時に使う否正式手段の事である。
    各種の格式や位階の「三司」に関わる立場として使用する事が出来る様に成った。
    従って、「三司」等に成り得る「真人族」や「朝臣族」や「臣連族」等が、この便利な「准の仕来り」を盛んに使ったのである。

    つまり、前段で論じた「春日真人族から志紀真人族」の「志貴皇子とその後裔」は「賜姓五役」を賜り、天智期や天武期には「皇親族」として「皇太子」に代わって実務を執った「氏」である事から、所謂、その三司の“「准」に相当する役務から、「中国の官僚制度の慣例」に従って、この“「准」”を使う事を特例として氏の中で許された。
    これを許された「青木氏」では、従四位に相当する「公家族」「官人族」「臣下族」の「三司に准ずる立場」として当に「准」を使った。
    況や、一般の「真人氏族」には認められていなかった。

    「青木氏の資料」に観られるこの“「准の人」”に任じられたこの「氏人の差配人」とは、次の様な人であった。
    「四家制度」に依って何らかの理由で「郷士の縁籍筋」と成った者が、「郷士衆頭」を長年務め功績のあった者であって、縁籍筋では「青木氏」を興している者ではあるが、四家の氏上の一員に服する事が叶わず、「准氏上の人」としてその功績を称えたと考えられる。
    (唯、この「青木氏」を興したこの末裔は後にこの「四家」に組み込まれている。
    「青木氏」の「氏上と氏人」の中で使われた。


    その「一つの集団の統率者・差配者」は、「氏上の宗家」が司ったとする地域社会の構成員であった事に成る。(「家人」・「青木氏部」)
    ところが、平安期中期に成ってからは、荘園制が拡大し開発した荘園を維持する事が「二つの理由」で困難と成った。
    それは、荘園経営の「税の負担」と「荘園の防御」では問題が出た。
    「高位な氏」で「軍事力と政治力」のある「大きな氏」に頼って名義を借り、いざという時には助けて貰うと云う行動に出て、この「二つの課題」を解決して荘園を維持したのである。
    以後、この「名義貸し荘園制」が起こり続けそれが主体と成った。
    荘園主等に執っては「自らの氏」を護ってくれるのは、直接、氏と関係の無い「高位の名義名の氏」であった事から、そこには「氏」に「上」が着くと、「単なる身分の上下を示す主従関係」の用語と社会の中で変わって仕舞った。

    (注釈 この問題の荘園制が起こると、「氏の上」と「氏の人」との間には「絆」に基づく関係は無く成り希薄に成り、主に「上」と「人」との間は「利害に基づく関係」へと変わったのである。
    従って、「青木氏」=「神明社・守護神」=「氏人」=「500社の神明社」の構成の様に、問題の荘園には、上記する「青木氏の様な関係」が基より無かった関係であった。
    この“「名義貸し」”が主体と成って、「上と人との絆の関係」は高位の社会には最早消えた。

    (注釈 前段で論じた様に「三人の天皇」はこの事に憂いていた。)

    然し、「伊勢」は聖域であった事から、「奈良期の伝統」を「春日真人族と志紀真人族の青木氏」等は「他の真人族」が行う「名義貸しの荘園制」から頑なに護った事で「荘園制の影響」は少なかったのである。)

    然し、「青木氏」は、自らの氏の中で「殖産」「商い」を進めた。
    この事から、「絆の無い荘園制」を敢えて持たなかった事から、平安期初期までの「氏上と氏人の関係」を「伝統」として持ち続けた。
    従って、「青木氏」では、この大化期からの存在(647年発祥)を示す事から、「氏上」は社会が荘園制が進んでも、“「元来の意味」“を持ち続けていたのである。

    さて、仮に上下関係にあるとしたならば、「氏の上」であれば、用語上は決して「氏の人」を「氏の下」として定め“「氏人」の呼称”とは成っていない筈である。
    従って、「青木の氏」の中では、「氏の村人(人)」は、語源の通り「氏の人」は「氏の子」の意味をし、平安期以降の「身分上下」を意味するものでは元より無かったのである。
    これは青木氏の「三分の利の概念」にも一致する。

    (注釈として、上記した「朝廷の中の事」は判るとして、そもそも「青木氏」とはどういうものかである。 
    前段で論じたが、そもそも、「人」は湖などの「水に関わる場所」に集まり、その周囲で集団で生活する様に成った時、その集団の中に“「屯倉(みやけ)」”と云う営倉を造り、そこに「人」は集まって来て、その様な集団が幾つも出来た。
    その“「血縁の個体集団」”が何時しか「氏」と成り、そこに「住む者」を「氏人(うじと)」と云い、その「氏人(うじと)」の中から「秀でた者」を「先導者」として選び、その「先導者」を「氏上(うじのかみ)」と呼称する様に成った。
    この「集団の人」は相互に血縁し、幾つかの「血縁集団」が集まって、また一つの大集団が出来た。
    この「一つの血縁集団」の集まりが「五つの集団」にと集約して行った。
    この集団が枝葉化して「個々の呼称の単位」を「姓」と云う「小集団」へと再び変化していった。
    これを奈良期では、この関西地域に於いて「五つの集団」の「連合政権」を構成して、この「連合政権」が「初期の氏」として認め呼称する様に成ったのである。)

    (注釈 日本は「七つの民族」に依って構成している以上、各地に「連合政権」が確立した。
    これが遂には「融合単一民族」と成った。
    “「渡来人」”の言葉が書物から消えたのは平安初期からである。)

    この「連合政権の指導者(大王家−天皇家)」と「五つの集団の先導者」との「血縁族の末孫」が独立して、初めて「氏姓制度の法」の下で「氏姓」が構成された。
    これが「青木氏の原点」でもある。

    況や、「氏の上」として初めて朝廷より法の下で認められた上記の「構成の氏」、況や「春日真人―族志紀真人族」と成り、その後の「八色の姓制度」(684年)で「朝臣族」として「臣下族」と成り、その「氏族」の「伊勢の氏人」として認められた。)

    この「青木氏」の「氏上さま」の呼称に関わらず、同じ関係を示す呼称が奈良期にはもう一つあって、「青木氏の立位置」が良く判る呼称である。
    前段でも何度も論じたが、当初、奈良期より、それは“「御師様」(おしさま)”と云う呼称でも呼ばれていたのである。
    これは「氏上」(うじかみ)と同じ語源を意味するものであった。
    この「氏上」は、「氏」に関わる全ての「氏人(青木村)」を含む一族一門郎党の中での呼称であり、「御師(おし)」は、本来、この“「氏人を指導する人」の呼称”であった。
    取り分け、「氏人」の「青木氏部」からの呼称として多く使われたのであった。

    前段でも何度も色々な角度から論じているが、この「指導」をより効果的にする為に、「氏上」に代わって、その「指導の範囲」を区分して担当する制度に変えたのである。
    その「指導者」は、「青木氏部」に大きく絡む事から「神明社の神職」が担当したが、そもそも「祖先神の神明社の神職」は、「笹竜胆紋」を「象徴紋」とし、朝廷が認める「神木の柏紋」を特別に持つ「青木氏」で、「四家制度から特に選ばれた者」であった。

    この「青木氏部」の必要とする処には「柏紋の神職の青木氏」が必ず存在し、「柏紋の神職の青木氏」の必要とする処には必ず「青木氏部」が存在すると云う実に親密な関係にあった。
    それだけに、氏の人々からも信頼され尊敬されている立場であった。
    この様に「青木氏」を代表する「柏紋」であった。

    (注釈 「青木氏部の人」と「柏紋の神職の人」との血縁関係が特に成立していた。
    「隅立て目結文様類」や「釘抜き紋様類」等の「職能紋の青木氏」は、主にこの「血縁関係の青木氏」である。)

    これらの「職能の文様(柏文様 目結文様)」は、「正倉院」にも記録されている「由緒ある職能の文様」であり、これをこの「職能紋の青木氏」(青木氏部)が専門に使う事を許されて、「継承」を義務付けられていたのである。

    賜紋で神木の「柏文様」の使用は、「神明社の神職」の「御師(おし)」の称号と共にこの時に与えられたものである。

    「神紋の柏紋様」と共に、「皇族賜姓臣下族の青木氏」に執っては、本来、笹竜胆紋の「象徴紋」以外には、上記の「志紀真人族の氏」を構成する以上は、他の文様を持たず、故に「姓族と姓名」を持たない。

    従って、当然に「家紋」と云うものを持たないのだが、この「職能の紋様」の「氏人」も「笹竜胆紋」を「氏」の「象徴紋(総紋)」として、数少ない由緒ある「副紋扱いの氏紋」として継承しているのである。

    (注釈 「皇族賜姓臣下族の青木氏」を補完すると云う立場から一切の格式などが同じとする以上は、「藤原秀郷流青木氏」も、本来は正式には「家紋」とは云わず「副紋」と呼称する。
    「姓名」もなく一切「氏名」に本来は従い「姓名」は持たない。)

    (注釈 「秀郷流青木氏の116氏」は、「総紋」として「下がり藤紋」(総宗家系族紋)があり、その「総紋の中央」に「副紋」を書き込んだ「主紋(宗家系族紋)」を持津。
    更に、支流族は「副紋」を個別に持ち、傍系族も「支流紋」を持って表す。
    「総紋−副紋−支流紋」に従うが、但し、「支流紋」は「副紋の格式」を下げない範囲とする。
    一般に「総宗本家筋」の「総紋」以外は、「宗家筋」は「総紋」の「下がり藤紋」の中央に「副紋」を入れて使う事を主流とした。
    然し、更に、本来は無いとする「枝葉族の支流筋」と成ると、「副紋部位の紋」以下の格式の紋は使えない慣習と成っている。
    「24地域―116氏」とも成ると、血縁関係上、「枝葉族の支流族」は止む無く出てしまうので、この条件が付帯された。
    この慣習は「賜姓補完族の格式の立場」を保つ事から来ている。) 

             
    (注釈 前段でも論じたが、「柏紋」の「神木の柏」を表す万葉歌があるので紹介する。
      “家に居れば筍(け)に盛る飯(いい)の草枕 旅にしあれば柏(椎)の葉に盛る” 
    と詠まれている。
    そもそも、 「筍(け)」は「筍の皮葉」の事で、本当は木茶碗の食器だが、馬鹿を装う事を「筍の皮」でその苦しさを現し、「椎」は“しい“と詠み食器であるが、「椎の葉」は細く小さくて食器としては使えない。
    「飯」の“いい”と「椎」の“しい”でかけ読みし、「椎」では無く「柏」を用いて“しい”と仮詠みした。
    そこで、実は「椎の実」は「当時の食糧」で、この「椎の実」は食料でもあって、実を蒸して「神に捧げる仕来り」が有った。
    細くて小さい葉で以て心寂しさを詠んだものである。
    そして、今度はこの“しい”を「柏」として、「柏の大葉」の上に「干した米飯」の“いい(蒸した乾燥米の呼び名」“を載せて旅先では食べた。
    「柏の大葉」で以て「朝廷の優雅な生活」を思い出させ、朝廷で使われる「神木の柏」で以て自らの正当性を主張し、信頼する「人を疑う儚さ」と何時か命を絶たなければならない我が身の「旅の苦しさ」を表現した。
    この様に「筍、椎、柏,飯」等に意味を載せて詠んだ見事な名歌である。
    「有間皇子」の殿上人がその身上を憂いて呼んだ名歌である。)

    この様に「神木」である「柏」(柏紋の神紋で朝廷が容認する文様)の大葉の上に神に捧げる食べ物(乾燥米)を載せて祀る「神明社」の「神への仕来り」にかけた歌が出て来る。 
    見事に当時の「柏の意味」の事が書かれている。

    ここでは「柏」は朝廷の祭祀で使われる「神木」である。
    この様に「柏」には当時は「格式」を持ち「神木」として扱われていた。
    これを「青木氏の神職の禰宜の特別文様」と指定したのである。
    当時は、「笹竜胆紋」に「柏紋」の「青木氏」は、「最大の格式」を持つ「文様の族」と見られていた。

    参考として、この最高の文様を持つ「神明社の指導者(神職の禰宜)」の「御師(おし)」に付いては、江戸の「享保の改革」以降は、「吉宗」が「幕府の職能部」を組織化する為に、この「御師制度」(おしせいど)と云うものを敷いた。(ここでも青木氏だけの制度が用いられた。)

    ところが、この時から、本来の「御師制度」は「別の意味」に変化した。
    そして、これが更には、「神明社の神職に関わる者」が「情報収集者の役目」も演じた事から、この者を「御師(おし」」と呼ばれる様に成った。

    遂には、江戸期1800年代以降には「伊勢の松阪の射和の商人等」に依って、この「制度」が導入され「商人の指導役」として、「御師(おんし)」と呼ばれて、更に「別の意味」に執り変えられる事が起こった。
    この「商業組合」の「商人の指導役」の「御師(おんし)」は「組合札」(金券 現在の紙幣)を発効するまでに成った。(現在でも一部伊勢では独特の金券制度として残っている。

    そこで、これらの予備知識で以て「青木氏の歴史観」としてそもそも重要な事は、次の事にあった。
    最初は平安期の「皇祖神の子神」の「神明社の神職」に「御師制度」は使われたのだが、“「青木氏の神職(柏紋)」“は、その手段の一つとして、前段より論じている“「仏施の質」”(奈良期)を「福家」に代わって執り行っていた。
    そして、「青木氏の村人・氏人」を「神職としての役目」から全国にある「500社の神明社」で「食糧」を与え「職業」に就かせ「人生の生き方」まで導いた。

    この事(“「青木氏の仏施の質」”)から、「仏道を説き人々を正道に導く人」の仏教用語を「導人=導師」と記し、 “どうし“から陰陽の呼称で”おうし“」と呼称され、それから「御師」(おし)と呼ばれる様に成ったとしている。

    そこで、この“「青木氏の仏施の質」”は、「春日王」を基に「志紀真人族と後裔」と成った事から、その「賜姓族の役務」として取り入れられ、「五家五流の後裔」(神明社)と「補完族の裔」(春日社)が行ったとされる。
    それを催した“「青木氏の仏施の質」”が行われた「神明社の広場」や「菩提寺の清光寺と西光寺の広場」で行われる様に成ったが、この「仏施の質」の「名残」として「各地の祭り」が遺されている。
    その一つが、「神明社系」で行われる「施」としての「餅撒き講」等であり、「説」としての「法話講」等であったり、「導き」としての「仕事の斡旋」等があった。
    「法話講」では、景品を与えた「氏人」による今でいう親睦を深める運動会や相撲大会などが行われていた。
    それらが時代を経て形を変えて祭りの行事として遺されている。

    (注釈 余り知られていないが、「戦い等の賄人」や「大きな催しなどの手小」や「河川改修工事」や「殖産地造成」や「新田の開墾」など「手小」、挙句は「大工の手伝い」をまとめて積極的に斡旋していたのは人と地理に詳しい「神職や住職」等であった。
    「神職や住職」は、上記した様に「氏人の人別帳」も作成していた為に「氏人の生活」までを隅々まで掌握していた。)

    (注釈 江戸期では、「手配師」は非合法な仕事斡旋人や、「請負師」は大工などの職人を斡旋人、「口入れ屋」は庶民の仕事の斡旋人、閑散期の農民等の一時的な仕事を仲介するのが神職や住職であった。)

    唯、この時に「御師」(おし)は、“「仏施の質」”を行って導いたが、「仏施の質」とは元はと云えば「仏教の施」であった。
    注釈として、前段で論じたが、「中国の金山寺」などの「古寺」で行われていた「施」が日本にも「仏教伝来」と共に伝わった。
    「古代密教の浄土宗の青木氏」が、”「賜姓五役」”の一つとして”「仏施の質」”を採用したもので、その「伝統」は明治初期まで伝統として維持され、「享保の改革」などにも用いられた。
    上記する様に、「青木氏の憲法」と云われる「概念」にも通じ、”「三分の利」の「概念」”にも通ずるものである。

    然し乍ら、「青木氏」は、これを主に「神明社の神職」の「御師(おし) 柏紋」が行った。
    どちらかと云えば、”「仏施の質」”では無く”「神施の質」”とも云える。
    ”「仏施の質」”ともなれば、各地の定住地にある「氏の菩提寺」(密教)と成る。
    これでは、その寺数から「氏人」に充分に”「仏施の質」”が広まらない。
    況や、奈良期からの「氏の構成員」である「氏人」を護れない。
    そこで、「氏」は「神明社」と云う下で、「青木氏=神明社・守護神=氏人」である限りは、「仏の導き」よりは「500社の神明社の構成」に依って導かれていた。

    そこで、本来からの「神仏習合を旨とする概念」から拘る事無く、主に「神明社の神職」の「御師(おし)」が、朝廷より「神木の柏紋」を賜って「神施の質」を「皇祖神の子神」としてその責を負ったのである。
    元々、「青木氏」には、「神道と仏道」の「区分けの感覚」が少なかった様に考えられる。
    それは、上記した様に、「青木氏の出自」に大きく影響していると考えられる。
    「自然神」を基とする「皇祖神の子神の祖先神」は「神道」であり、一方で「密教の古代浄土宗」で「仏道」を保って来た。
    そして、この何れもを差配するのは、「福家」であった。

    取り分け、「仏道」は「青木氏だけの教え」に基づく「密教」で、その出自から独特の「達親制度」と云うものを敷いていた。
    前段でも論じた様に、上記した様に「神道」でも「御師制度」と云うものを敷いていた。
    従って、「神職」の柏紋の「青木氏」であって、「住職」も笹竜胆紋の「青木氏」から出たものであって、「他の宗教」に全く左右されないものであった。
    これ等は、「志紀真人族」で「賜姓臣下族」と云う「出自の格式」が、その様な形に導いたものと考えられる。

    そもそも、「神仏習合」と云うよりは、必然的に「神道」は「仏道」に左右され、「仏道」は「神道」に左右された考え方の概念を確立したと考えられる。
    何れにも偏らないと云うよりは、やや「神道」>「仏道」にあった事は否めないだろう。
    その一つの形が、格式ある「柏紋の神職」があるかと思うと、格式のある「柏紋の住職」もあると云う不思議な事が起こっているのである。
    関東にこの「柏紋の住職」が多いのはこの事によるだろう。

    依って、”「仏施の質」”は、”「賜姓五役」”と云う役からも”「神職の役」”と成っていたのである。
    「仏道」の「柏紋の住職」のあるところは「仏施の質」は「住職の役」が多い。
    「関東と北陸域」は「春日社」が多く、「西光寺」が多い所以でもある。
    それは、「500社と云う神明社の分布」に左右されている。


    次ぎに、この全国の「青木氏に関わる定住地」にある「神明社の500社(466社)」には、その数だけの意味だけでは無く、この「500社にある地域」に”「御師」”が居た事を示す数値であって、その数値はそれだけにきめ細やかに「氏の人」に親身に成って「導人=導師」から「御師(おし)」を敷いていた事を物語るものである。
    これは明らかに「氏上と氏人」の間には、「上下の関係」では無く、「親子孫の関係」にあった事を示す所以でもある。

    前段でも論じたことであるが、時には、「戦乱」等に掻き廻されたり、行き詰った「人生」に「越前の逃避地の神明社」に「青木氏」が多く逃げ込んだが、当に、この時に「神明社の御師(おし)」は「仏施の質」(上記の青木氏の掟にも関係する)として戸惑う「氏の全者」を救う為に大いに働いて食と職を与え世を説き再人生の道に導いた。

    上記で論じた「越前商人の酒造家」等はこの典型的な事例である。
    「神明社500社」の「数」も然ること乍ら「分布」から観ても、「五家五流賜姓青木氏」のみならず同格式を持つ補完役の「賜姓秀郷流青木氏」を含む全国の「二つの青木氏」には、この「奈良期からの古式の御師制度」が敷かれていた事を示している。
    この事は「青木氏の守護神」の「祖先神の神明社」に関わる事から、「氏上と氏人の関係」も「古式の慣習仕来りと掟」として伝統的に敷かれていた事を物語るものである。

    (注釈 「藤原秀郷流青木氏」も「春日神社」が守護神であり乍ら、その出自から「神明社」も「副神」の「守護神」として崇めていた。
    取り分け、「伊勢秀郷流青木氏」に関わった一門の地域には、「春日神社」があるにも関わらず「神明社」も存在する。
    「伊勢秀郷流青木氏」は、長い歴史の中で「春日神社<神明社の感覚」、或は、「主神<副神の感覚」にあって、その「末裔の血縁先」もその傾向にあったと考えられる。
    従って、よりその「古式に基づく慣習仕来り掟」が尊重されていたと観られる証拠でもある。)

    元来の大化期からの「氏上の役目」として「村人を導く人の御師」であるとしてこの様に呼ばれていたものである。
    従って、「氏上」であって、その「御師の元締め」から「御師様」と呼ばれていたのである。
    この様に呼ばれるには100年程度の「絆」では無理であろう。
    所謂、互いに仙人を超えた「1200歳の人間同士の絆」が構築していたからである。
    「1200歳の人間」は、腰の曲がった白髪頭では無く、常に進化した直立の黒髪の「1200歳の人間」として生きて来た者の“同志“なのである。
    「信頼と尊敬」の「1200歳の人間の同志」なのである。

    これが、“「青木氏の心魂」の所以”なのである。
    故に、明治の伊勢や信濃美濃などで起こった一揆にも「青木氏の心魂」は我が身の事として支えたのである。
    この関係を観ても、「氏上側の災難の連続」に依って祖父の代から途切れた「1200歳の人間」の関係は、「40代目の筆者」には、「青木氏心魂」は最早、無い所以でもある。

    (注釈 本論で論じている「弥生祭りや五月祭り」や「祭祀偶像」、「氏上」、「御師」、「偏諱」、「達親」、「組合」等に至るまでの「青木氏の古来の慣習仕来り掟の意味合い」が、世間に伝わる事に依って、その「意味合い」のみならず「呼称」までもそっくり換わっている。

    これを物語るものは何と云っても、「伊勢」で「青木氏の心魂」としての「氏上と氏人の関係」であった。
    それを物語るものが「仏施の質」であって、この「氏上と氏人の関係」を証明する行為であって「青木氏以外」には行っていなかったものであった。
    これが「伊勢」から「江戸」に持ち込まれて「伊勢屋の質」と呼ばれる様には成ったが、「質に対する語源の変化」で、「伊勢の行為」は理解できていたが「江戸の質」には一時、「青木氏の歴史観」の知恵は及ばなかった。
    然し、「江戸の質」に至るまでの意味としては、普通の「品質を意味する質」や「質屋の質」としてしか、当初、“まさか江戸までは“の先入観から理解ができていなかった。

    果たして、“「改革と質屋」にはどの様な関係があるのかな“と疑問であったが、「享保雛の研究」からの事で、「雛の語源の意味」が「青木氏の古式慣習」の一つであるので、調べた処、中国の書にもこの「基の意味合い」があって、「青木氏」だけが伊勢で行って来た奈良期からの「氏上と氏人」の関係には、「仏施の質」が介在していた事を資料の一つの行にある事を知った事に依る。
    だとすると、“「江戸の質」にもあり得る“と発想の転換で、これで「江戸の疑問」が解けた所以でもあるが、時代に依って語源がそもそも変わるのは、「青木氏の歴史観」を論じる上では実に「苦労の種」でもある。

    この事で、うっかり其の侭で論じると「矛盾する様な論調」と成る事が多いのには苦労している。
    これが「古式性の伝統」を論じる難しさにあり、「モニター」を受けて頂いている方からも指摘の多い処でもある。
    筆者本人はつい判った感覚で書いて仕舞っている処に問題がある。
    この”「青木氏の心魂」”等は典型的なテーマでもある。



    > 「伝統シリーズ」−29に続く
    >


      [No.346] Re:「青木氏の伝統 27」−「伝統と青木氏の変化」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2016/10/23(Sun) 07:57:18  

    「伝統シリーズ−26」の末尾。

    > これらの事から検証すると、後勘として、「如来の意志」にはこの上記の疑問に対して次ぎの様な答を出している。
    >
    > 果たして、後勘から観て、1760年以降の「如来の意志」は何だったのであろうか。
    > 恐らくは、“「善悪の条理相対の理」”に勝る何かが発生したと考えられる。
    >
    > そもそも「青木氏」が伝統として引き継いでいる「青木氏の慣習仕来り掟」の類は、「祖先神から来る概念」と古代仏教の「浄土密教」から来る概念」であって、この「掟」も当然に「青木氏だけに存在する概念」である。
    > この「青木氏の概念」が受け入れられる土壌に何か変化を興したと云う事に成る。
    > つまり、“「善悪の条理相対の理」”の「青木氏の密教掟」の「如来の意志」が、正統に果たされる「社会構造」が変化したと云う事であろう。
    >
    > 上記の注釈の中にその答と成る「共通の傾向」が潜んでいる。
    >
    > では、“「善悪の条理相対の理」”の「青木氏の密教掟」が,況や「如来の意志」が正統に働く社会とはどの様な社会であろうか。
    > それは、より深く繋がる“「絆社会」”である筈である。
    > “「絆社会」”であるからこそ「青木氏の密教掟」を護り、「人の上に立つ者」は「人」に「善」を尽くす、「力量等のある者」は「下の者」に「施し」を成す。
    > これに対して「下の者」は「上の者」に「信頼と尊敬の念」で返す。
    > 「上の者」は、この「信頼と尊敬」を得てこれで「組織や役」を果たす事が出来る。
    > この「相乗関係」が成立して社会は成り立つ。
    > 故に、それには「青木氏の密教掟」を護ろうとして自らを律する。
    > 自らを律する為に「青木氏の密教掟」の類を護る。
    > 自らを律しない者には、「人」は“「善悪の条理相対の理」”の中で“「信頼と尊敬」”を獲得は出来得ない。
    > 「下の者」と「上の者」共に“「絆」”と云う“「信頼と尊敬」”の上に成り立ち、その“「絆」”は“「個々の利」”では無く、“「組織と云う利」”に叶う事で“「個々の利」”を得ようとする社会である事に成る。
    > 最低限に於いて、この社会は、「組織の利」>「個々の利」の関係が成立している事に成る。
    > これを観て“「善悪の条理相対の理」”による「如来の意志」は定まる。
    > つまり、これには「個々の意志」をより尊重する「より強い自由社会」には成り立ちにくい条理にある。
    > 従って、「組織の利」<「個々の利」の関係が進むと「如来の意志」は変わる。
    >
    > では、上記の通り「如来の意志」が変化し出した「享保の改革」の後半は、「イロハの商業組合」で改革を進めた。
    > 況や、これは“「絆社会」”が減退している中での、更に「江戸の社会」の「自由の先取り」である。
    > 「江戸の民」は「青木氏」等が行う「仏施の質」に対しても「伊勢の仏施の質」では最早なく、そこに「生まれる絆」は云わずとも減退していた。
    > その「江戸の絆」は、「組織の利」<「個々の利」の関係にあったからこそ成り立っていたのである。
    > 密かに「自由の先取り」が進んでいた事に成る。
    >
    > 「自由の先取り」=「組織の利」=<「個々の利」の関係=「江戸の絆」
    >
    > この関係をより江戸で成したのは皮肉にも「青木氏」である事に成る。
    > 故に、「如来の意志」は「青木氏」に働いたのである。
    >
    > この進化と観られる“「自由の先取り」”が、幕末に掛け江戸から全国に伝播し、享保期より「自由の先取り」はより進んで次ぎの様な関係が拡がったのである。
    > 「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係=「江戸の絆」
    >
    > 故に、「組織の利」>「個々の利」の関係にて成り立つ「江戸幕府」は弱体化して、遂には、「自由の先取り」を政治方針とする「維新政府」と成り得たのである。
    > 「自由の先取り」を政治方針とする「維新政府」が進むと、必然的に「絆社会」は減退する。
    >
    > 後勘として検証して見るならば、明治初期から明治9年に掛けて維新政府に対して「伊勢動乱」(裏で青木氏は経済的支援)で反動したが、その後、逆に「地権放棄」に観られる様に「青木氏」自らもこの方針に積極的に賛同した。
    > 明治初期の青木氏の「地権放棄」は、当に、農民の「個々の利」を認める行為である。
    > それを自らが「伊勢動乱の経済的支援」をすると云う事は「自由の先取り」を進めた事に成り、「組織の利」>「個々の利」の関係を保ちながら、「矛盾」を進めた事に成る。
    >
    > 当然の結果として、「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係が進んで、「如来の意志」は正統に反映しなくなったと後勘としては解釈できる。
    > これは「青木氏」自らが興した、或は、招いた現象とも云える。
    >
    > 故に、「西洋文化の概念」が益々導入され、その為にその傾向が強く成った明治20年頃から「衰退」が起こったと云う事であったと考えられる。
    > そして、どんどん進む“「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係”は、戦後、更に昭和20年の敗戦と占領下で「欧米の自由文化」が入り進み、遂には、「福家」は「倒産」の憂き目を受けた。
    >
    > “「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係”が進む中では別の道を選択するべきであった事が考えられる。
    > つまり、享保期では「仏施の質」にあり、明治期には「伊勢動乱」(裏で青木氏は経済的支援)の「対応」が間違えていた事に成る。
    >
    > 上記の様に、「二足の草鞋」で商いをする多くの「全国の青木氏」には、この昭和20年頃を境に「如来の意志」は、“「善悪の条理相対の理の概念」”を果たすも正統に享受され得なく成ったと「後勘の評価」はできる。
    >
    > “「自由の先取り」=「組織の利」>「個々の利」の関係” − A
    > “「善悪の条理相対の理」”の概念“ − B
    >
    > この「ABの二つの関係」は崩れ、Aは変化してBだけが残る結果と成ったと考えられ、そのBも「組織の概念」では無く、「個人の概念」の範囲に留まったと成る。
    > つまり、「Bにまつわる伝統の一つ」は消えたのである。
    > そもそも「古式伝統」が消える過程とはこの様なものである。
    > 従って、「祖父の代」までを以って「氏としての掟」(多くの「伝統」。即ち、奈良期からの慣習仕来り掟)は霧消に期した。
    >
    > 後勘として「享保期後半」からの「伊勢と信濃と甲斐と讃岐の状況」の「青木氏」を以って論じたが、多くの「全国の青木氏」は、「賜姓族」として置かれている「悠久の伝統ある環境や立場」などがほぼ同じであった事から、これに類する様な「憂き目」を受けていた事が間違いは無い事が云える。
    > 故に、後勘の現在で観れば、多くの「青木氏にあるべき古式伝統」が上記で論じた同様の過程を経て完全に近い程に霧消しているのである。
    >
    > その中で「伊勢と信濃と伊豆の青木氏」には、「伝統の形跡」が記録としても何とか遺されていたのである。
    >
    > (注釈 本サイトに何とか「伝統の記録」を投稿し論じて遺しているが、「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係が、ますます進み「青木氏の密教掟」(古式伝統)も無く成る。
    > 従って、「如来の意志」も働かず「伊勢」も含めてこれからは「全国の個々の青木氏」には「伝統維持と習慣仕来り掟の解明」は相当に難しい事が判る。)
    >
    > その「古式伝統」の「維持管理の難点」の一つは、その「伝統」が「周囲の伝統」と比べて「違和感」を感ずるほどに「古式豊かである事」が難点である。
    > この「難点」を克服し維持するには、「それ相当の経済力」と「勇気やる気」を必要とする。
    > 先ず、その特異な「古式伝統」を継承し得る「環境・場所」が確保し得ないであろう。
    > この「周囲の伝統」と違う為に、周囲からは気宇の目で見られ「伝統の特異性の周囲の理解」が得にくい。
    > 筆者もこの二点に苦労した。
    >
    > この状況は現在に於いても変わる事は無く益々難しく成るであろうが、筆者は内家で行っていても家の者にも理解が得にくい事がある。
    > 合理的に考えて「周囲の伝統」と違う為に何でそこまでやらなくてはと云う疑問もあるらしい。
    > そもそも「伝統」とは「合理的に」とはいかないところがあるのだが。
    > 良い悪いは別として、最早、“悠久の歴史を持つ日本でも「数少ない氏族の青木氏」である“と云う感覚は、明治から戦後の昭和の混乱期の間に親族には消えているのである。
    > 「口伝」さえも受け付けない。「時代」と云うものはそう云うものであろう。
    > 故に、中々読んで貰えないが「文書」に遺して何時しか「子孫にロマンを与える事」としている。
    >
    > 幸いサイトのカウンターで観れば、現在では、“年間で全国の5割近い青木さん”に読んでもらえている事には成る。
    > ヤフーHPとサイトHPで観ると、延べ「約老若220万人の青木さん」に読んでもらっていた事に成る。
    > これは「全国の青木さん」には充分に洩れなく読んでもらえている事に成る数字だろう。
    >
    > 「伝統維持」は難しく成るも、「ロマンとしての青木氏歴史観」には、なんと「青木氏」のみならず読者は「青木氏族」にまでに広がっている。



    「伝統シリーズ−27」に続く。


    「伊勢の民」は上記の殖産で潤っていたのに、江戸末期から明治初期(14年に終わる)に掛けて、「農民の不満」が拡大し、有名な「伊勢一揆」(内容としては暴動)が起こっていた。
    つまり、「殖産の潤い」では無く、「政府の農民に対する税の掛け方」に「農民の不満」を持ったのである。
    「明治初期の地租改正」で「農地に対する税率と納税方式(地価税と金納)」が変更された。
    この時、「自作農」を目的として「地主である青木氏の米農地」を「氏人の農民」に下げ渡した。
    維新政府が提案した「農地解放」である。

    注釈として、「伊勢の青木氏」では、この米策の「農地解放」に対して「一戸」に対して最低「二反(600坪)」をベースに無償下げ渡しを行ったと記されている。
    実際は「三反程度(約1000坪)以内」であったらしい。
    「全国の青木氏」では、ほぼこれに沿っていたとされる。
    生活最低の農地面積は「二反(副業含む)」であって、この事から明治期から“「二反百姓」”と云う「揶揄の言葉」が生まれた。

    これでは生活に潤いが無い為に副業をしていた。
    この「副業」は「青木氏」が興す「殖産の手小」で賄ったと記されている。
    一戸はこの「二反」を耕作し得る家族構成であった事からも「二反」と成った。
    この中から、「殖産の副業」で蓄えを造り、「廃農の土地」を買い取り「5反百姓(1500坪)」と呼ばれ、「農業」で何とか生きて行ける「農家」と成ったと記されている。
    最大で「一戸10反(3000坪)農家」が生まれたらしい。
    中には、この「一戸10反(3000坪)農家」は、前段でも論じた様に、「青木氏」が興した第二次の「早酒米」と「醸造技術」を継承し、「酒米」に切り換えて「酒造業」でも成功した者も居たらしい。
    (豪農の基準として最低「2町分」)

    この様に「米価の安定化」の為にも、「紙屋」が金融をしてこの「酒米と酒造」を伊勢で広めて殖産した事が書かれている。
    又、「小作農」では「青木氏」と共に生きて行けたが、矢張り、「自立農家」と成ると「税」等を始めとして問題も多く「廃農」する者が増え、この「廃農者」は「青木氏の殖産」の「職人」で生きる事に成ったとも記されている。
    この「農家と職人」の仲介は「青木氏」が取り持った。

    因みに、「伊勢青木氏」の場合の譲渡した小作地は、大正期の前の明治期(45年)の範囲では「小作地の約9割」に達した。
    「農地」に対して占める「小作地の1割合」は、「青木氏の作地」で、この「作人」は「青木氏の雇人」か「作人」(畑やその他が在った為)を選んだ事と成った。
    従って、全体の畑などを含む耕作地は10%に激減した。(殖産用は別)
    畑地も含めると、「全耕地面積の半分以上」(残りは殖産地など)が「小作地」であったが、この農家の割合も約半数から1割程度まで漸減して減少した。
    と云うのも、この「約半数の農家」が、“「小作農」を選ぶか”は直ぐには態度を示さずに時間がかかった。
    つまり、「自作農」となると「多くの負担」が圧し掛かるからである。
    取り分け、世間でも問題と成っていた「税」に対する不安が強く在り、「青木氏」を頼った方が良いとする選択もあったからである。
    故に、「自作農」や「小作人」の侭や「雇人」や「作人」の「四つの選択肢」を「伊勢青木氏」は用意した事に成る。
    直ぐに急激に何時からと区切り「自作農」にしたという事では無かった。
    この為に、この様に環境が次第に変化して行く事から、迫り来る「概念の崩壊」(伝統の崩壊)には、“無頓着と成っていた事”が祖父や曾祖父には起こっていたのではないかとも考えられる。
    故に、この結果、これを評価して「地権者や地主と云う概念」は崩壊に近かったと「青木氏に関係する資料類」では幾つか明記してあるのであろう。
    これは「痛恨の極み」としての反省の意味なのかは判断が付かない。
    曾祖父は別として、世の成行きを判断するのに卓越した祖父には“反省”とは考えにくいし、その様な口伝は無い。

    つまり、「氏人との地主制度」は、完全に崩壊し、明治後、「伊勢の青木村」は「自作農」が殆どと成った。
    江戸期からの全国の「農地の地権者(地主)」は、昭和20年までの「正式な農地解放」まで殆どが「地権者の侭」であったとされている。
    後継者や飢饉等の問題で「自然放棄」の理由で、「地権」を止む無く維持出来ず後退して行った者もあるが、明治期に、これらを除いて自発的に農地解放した江戸期までの地権者は数件しか見当たらない。
    (但し、豪商などが権利だけを持つ地主は除く。)

    江戸期中期から勃興した豪商等は「自然放棄の農地」や「経営難に成った農地」の「買い取り」を「商いの手段」として積極的に買い取った。
    つまり幕末から明治期に起こった「名義だけの地権者」である。
    結局は、明治期の「農地解放策の地権放棄」は「小作農」から「自作農」に変化しても、状況の変化に対応できずに結局は「地主が変わった事」と、「絆」の無い別の者の「雇人に成った事」の違いで、「税」は豪商が治めるという事に成っただけの事である。
    はっきりと云えることは「青木氏」の様な「氏上−氏人の絆社会」は消え単なる「地主と小作人」と成り、そこには“「絆」は消えた”であろう。

    明治期の「農地解放策の地権放棄」は、時間がかかったのは確かに「青木氏の判断」の事もあったが、「氏子の判断」もあった事も云える。
    上記の理由もあったが、「氏子(小作人)の根底」には“「絆」は消える。”の心配があったのではないか。
    悠久の歴史を持っている「親子兄弟の様な関係」を持っていた「氏上―氏人の絆社会」を消える事を恐れていた。
    これでは「氏が構成する地域の大きい伝統」は消え、最後には「氏が持つ小さい伝統」さえも消え去ると云う事に成る。

    そもそも、前段でも論じたが、”「伝統」”と云うものは「周囲の氏人との関係」が深かった事を論じたが、この比率関係では、最早、どう考えても「伝統維持」は困難である。
    この時、「福家」は「伝統維持」と「農地解放」の「二者択一の苦しい選択」をした事に成る。
    この「伝統崩壊」が、どの様な事に結び付くかは租借できなかったとは後勘として到底思えない。
    然し、明治初期には「農地解放」を率先して選んだのである。
    恐らくは、“農民の幸せの為だ”と「国策の矛盾の解消」の為と信じてである。
    前段で論じた様に、一時的には、初期には公的には「伊勢一揆ー伊勢暴動ー伊勢騒動」として扱われるような「伊勢暴動」が起こるが、“「農民の幸せの為」と「国策の矛盾の解消」”で進んだ。
    勿論、諸新貫徹で、この「一揆」を「暴動」にし、最後には「デモ」にし、遂には伊勢に貢献したとして「朝廷」から「感謝状」を二度も賜る仕儀と成っている。
    (詳細は下記 「国策の矛盾の解消」は享保期からの取り組み政策であった。)

    後勘としては、「伝統」は衰退したが、少なくとも“農民の幸せの為だ”は正しかったと云う事に成る。
    故に、「氏存続」を左右する事の「大犠牲」を敢えて選んだ「青木氏」であるからこそ、「氏上さま」とか「御師様」に、そして、明治期の「農地解放策の地権放棄」では、最早、「氏上さま」でも無く成り、「御師様」でも無く成ったにも関わらず、今度は新たな尊敬の呼称の“「徳宗家」”に成ったのであろう。
    「小作農の人」から「自作農の人」を選んだ「元氏人達」は、本来なら放置されても良い関係に成っていたにも関わらず、続けて「明治期の殖産で受ける恩」に対して「徳宗家の呼称」で返したのである。

    (注釈 明治期の「農地解放策の地権放棄」(明治7年)は、大地主である貴族院の反対を受け廃案には成ったが、「明治期の青木氏」は政府に同調して「農地権」を農民に放棄し続けた。)
    (明治2−明治35年の期間)

    そもそも、明治期の「農地解放策の地権放棄」にはこの「貴族院」に問題があった。
    「貴族院」(1890年−1947年)とは、「明治初期の社会」を権威付けする必要に迫られ、それまで公家族であった者と大名であった諸侯に対して「華族制度」(1869年 明治2年−1947年)という「権威組織」を作った。
    (実質は1927年頃で崩壊した。)
    それらの「貴族院」に対して、後に、「議会の特権(拒否権等)」を与えたものである。
    これは「伊藤博文の策」であったが、明治15年頃(1882年)からこの「華族の範囲」を不満分子を押える為にも安易に広げすぎ、又、「財産の特権」などを与え過ぎた事から、庶民の反発を招き、昭和2年頃で破綻して長続きはしなかった。)

    ここで、考えてみると、何か変である。
    この時に執った「維新政府」の政策には「矛盾」があった。
    明治期の「農地解放策の地権放棄」(1869年 地租改正に伴う策)を要求しながら、一方で大地権者であった者を持ち上げて階級制度の復活の「華族制度(1869年)」を創設した。
    この「華族制度」を作り「議会の拒否権」と「特権(財産権の保全)」を与えて仕舞えば、明治期の「農地解放策の地権放棄」は地主である以上はしなくなる事は必定である。
    (現実に貴族院の地権者たちは議会で拒否、現地で「農民の反発」を恐れてより厳しく対応した。
    「地権放棄」などは100%しなかった。)
    一方で「農地解放策の地権放棄」を叫び、一方では「議会の拒否権」と「特権(財産権の保全)」を与えて仕舞えば、“遣らない”と云っている事に過ぎない。
    この事は当然に農民にも判る。
    少なくとも「青木氏」の「青木村の農民」は、「自作農」を躊躇した。
    しかし、「青木氏」は「自作農」ではないが、「小作人」と云う「古い体質の関係性」を改善しようとして、政府に関係なく”「雇人」や「作人」”と云う対応で積極的に進めた。
    そこで、「自作農」を選ばず「青木氏」に残った「氏人の侭の小作人」には、「青木氏」に残る上は、「会社組織的な関係性」に近づけたのである。

    何れも「自作農」にしても、「雇人や作人」にしても、共通して「近代的な関係性」にある。
    これは「享保の改革」の「江戸の伊勢屋」が採った「仏施の質」と同じであった事が書かれた行があってある意味で認識している。
    この事から、この時の「伊勢の青木氏」は、「商業組合」と同じの“「自由性」”をやはり追い求めていた事が判る。
    つまり、「氏人」には次第に「自由性の高い自作農」に近づけて行く「次善策」であった事に成る。
    もっと云えば、上記の「維新政府の矛盾」から観て、最早、維新政府とは関係なく、前段で論じた「青木氏独自の信念」に基づき“「自由性」”を確保する“「氏人の自作農」”を進めた事に成る。
    そもそも、前段で論じた様に確かに維新政府に青木氏は協力し同調した。
    (果たして「協力同調」か気になる。)
    ところが、上記の「維新政府の矛盾の政策」の「貴族院制度」を打ち出した。
    「維新政府の仕打ち」はこれだけでは無かった。
    それは、つまり、前段で論じた「税の変更」であった。
    それまでの変動制の高い「米価」から、変動制の低い「金価」に変更した上で、地価に基づき更に「税率」をも変えたのである。

    思いの侭である。
    これでは急激に変化する体制に驚き、且つ、増え始めた「自作農の農民」と「元郷士で小さい地主」であった田畑を持つ者等は、不満を募らせていた。
    要するに、「税収入の安定策と高値安定策」の「税二策」を同時に打ち出したのである。
    「自作農」を推し進める「青木氏」に執っては、「小作人」の「自作農」を選んだ「氏人」を騙した形に成った。
    堪えがたき仕儀と成った。
    幾ら協力や同調したと云っても「矛盾政策と税二策」には、「裏切り感、或は、怒り感」は強く成った。
    これには暫くは抑えていたが、遂には「自作農の不満」は爆発した。
    この「維新政府」の「矛盾政策と税二策」に対して「青木氏」は、この「裏切り感、或は、怒り感」から「自作農の不満」に同調した。
    それが、「伊勢暴動」で「暴動の経済面の支援」に出た。(詳細は下記)
    「裏切り感、或は、怒り感」の表れとして「維新政府」に対する「矛盾政策に対する警告」であった。

    ここで、念の為に、最早、「天皇」を中心とするも「薩長土肥の維新政府」であり、且つ、「体制」は異なり「賜姓五役」は、「献納金」を納めるも形式上からは、“終わっていた”とする「認識感覚」は排除出来なかった事を追伸しておく必要がある。

    そこに、「矛盾政策と税二策」と「自作農の不満爆発」と「伊勢暴動」である。
    「伊勢暴動」で「暴動の経済面の支援」をする以上は、「青木氏」としての「理路整然とした信念の支援」であるべきとの姿勢を貫かねばならない。
    それが上記した「伊勢暴動の経緯」と成って表れたのである。
    この「薩長土肥の維新政府」の「矛盾政策」を除いて、明治期には解決は出来たとすれば、最早、「維新政府」とも「離縁の仕儀」と成ろう。
    ここで、明治期の「農地解放策の地権放棄」も進み「永代の青木氏の賜姓五役」は完全に終わった。
    況や、「氏上と氏人の関係」は終わって、「雇人と作人の関係」の「自由性のある関係」へと変化させたのである。

    (注釈 「青木氏での呼称」では、”「雇人」”とは、「雇用契約」で「社員」であり、”「作人」”とは、「受注契約」で「契約社員」か「外注」であろう。)

    筆者は,この明治期の「農地解放策の地権放棄」を進めるには、何も無い土壌の処に「自由性の強い策」を「青木氏単独」で打ち出すには政府の批判を免れられない。
    そこで、その策のタイミングを見計らっていたのではないかと観ている。
    「維新政府前の政策綱領」が洩れて来て「大方の策」を読み込めていたと観られる。
    そこで、悠久の歴史を持つ「氏上と氏人の関係」を、この際に「雇人と作人の関係」の「自由性のある関係」へと改善する機会にしたと云う事であったと観ている。
    その証拠に、農業ではない「職能集団の青木氏部」も「雇人と作人の関係」の「自由性のある関係」へと改善している。

    当然に、「雇人と作人の関係」には賛否両論が起こった筈である。
    「残りたい者」の中には「雇人や作人の選択」が出来て完全に残りたい者は雇人に、少し離れたくて自由の効く状態にしたい者には「作人」で最低限に形は変わるが残れる。
    完全に青木氏から離れたいとする者には「自作農」を選べば良い事に成る。
    この「地権放棄」に関係する者には「郷士」も居たし「農民」も居た。
    当然に「各々の立場」も異なる事や、「青木氏との関係性」の強弱の者も居た事だし、稀に見る「悠久の歴史」を持つ以上は「多種多様」であろう。

    従って、この多種多様の中で、この「雇人と作人の関係」の「自由性のある関係」へと「体制の改善」から「自作農」へと、止む無く一歩進めたと云う処ではないかと観ていて、それには未だ「封建制の概念」の強かった「農民社会」では行き成り「自作農」と云う事は難しかった。
    そこで、「伊勢の青木氏」は維新政府の「地租改正の成行き」を観て、“「協力と同調」“をしている様に実行したと云う事では無いか。
    この時、「伊勢」では地権放棄に関わらず「農民等の不穏」な「不満の動き」があって、「伊勢青木氏」としては、「伊勢の民」を“いざ”と云う時には「救う手立て」の為に「協力と同調」の「戦略上の姿勢」を採ったと観ていて、「献納金」もその手立ての一環であったのであろうと観ている。

    この様に「青木氏に関わった資料の行」とは少し違う見方をしている。
    だとすると、何故、直近の事であるのにこの「行」に成ったのかと云う事に成る。
    余談ではあるが、追記して置く。
    それは、「伊勢暴動から感謝状を受けるまで経緯」の「大義」を採ったと云う事ではないか。
    「大義」としては決して間違ってはいない。
    確かに、筆者の上記の説にも「現実観の小議」はあるし、「伊勢暴動から感謝状を受けるまでの経緯」の「流れの経緯」にも「大義」が存在する。
    だとすると、「遺す資料」には当然に名誉と成った「大義の方」を書き込む事に成る仕儀であろう。

    さて、話を戻して、何故ならば、「雇人と作人の関係」の「自由性のある関係」は悠久の歴史を持つ「氏上と氏人の関係」は依然として保たれるが、ところが「自作農への関係性」は保てなくなる。
    この保てなく成る事や消える事へのリスクは大きく成る。
    それが、現実のものと成って「矛盾政策と税二策」と「自作農の不満爆発」と「伊勢暴動」に発展してしまったとする経緯であり、躍起になって「火消しに努めた」とする経緯である。
    「祖父からの口伝」では聞こえて来ないが、前段でも長く論じたが、「古式伝統の仏施の質」がそれを物語っている。

    つまり、筆者は「イロハの商業組合」と云う事も然ることながら、「古式伝統の仏施の質」の範囲を概念としては超えていないと観る。
    筆者の目からは、この時の「自作農」はこの範囲を超えていて、俗に言い換えれば、周囲を壊す“「やけくそ」”である。
    「青木氏」と「祖父と曾祖父」はその様な人物ではそもそも無かった。

    この事は、「伊勢での事」ではあるが、「全国の青木氏」にも言える経緯であり、取り分け、前段で述べた関東北陸地域の六地域や、関西・中国圏の「三地域の青木氏」には間違いなく起こっていた経緯であった筈である。
    ただ、伊勢の様に暴動までに至っていたかの違いであろう。
    その証拠に昭和20年前後を境にこれらの「青木氏」は間違いなく衰退している特有「特有の歴史観」を共有している。

    前段でも論じたが、「讃岐青木氏」や「安芸の青木氏」や「米子青木氏」(阿波の青木氏)は大豪商であったにも拘らず、焦って明治期の蝦夷地開発等に手を出した末に失敗し衰退した経緯の証拠を持っている。
    明らかに、「幕末の組合の締め付け策」と「矛盾政策と税二策」と「自作農の不満爆発」と「地域の騒動」から来る「歴史的な事象」の「四つの原因」である事が良く判る。

    後勘からすると、これらの直近の事を捉えても、「古式伝統」を維持しながらも、一方では「自由性の強い氏」であったと観える。

    そもそも、明治期の「農地解放策の地権放棄」は、これは“「自由性の強い氏」”であったからこそ彼等農民に執っては「莫大な財産」が無償で獲得できたのである。
    「地権放棄」にしても、「自由性の強い氏」にしても、必ずしも「無条件放棄」とするかは別問題である。
    そもそも、上記した様に、「雇人や作人」が基本として「自作農の選択肢」を出した経緯を持っているとすると、「自作農」を無償とすると「雇人や作人」との間には不平等が生まれる。
    本来であれば、それ相当の「条件を付けると云う事」が普通である。
    しかし、「無償であった」とすると、「雇人や作人」との間の契約には「補正する手続き」以外には無く成る。
    それは、「小作人契約(関係)」を一度破棄し、その上で「雇人や作人」の契約を交わすと云う事に成る。
    この時の「契約破棄の退職金」か「再契約の契約金」かで補填する事で「不平等」は無くせる。
    「自作農」の選択肢を選んだ者には、「無償財産権」を分与による譲渡契約した事に成る。

    さて、そうすると「自作農」と成った者には、普通なら「不満」など起こる筈がないであろう。
    何せ「青木氏の地権放棄」で無償獲得しているのである。
    そもそも、「自作農の人」には、「氏上と氏人の関係」を完全破棄するので「断腸の決断」をしたのは、「氏人」の「自作農を選んだ農民」では無く「青木氏」の方であるだろう。
    然し、ところが「青木氏の方」が、むしろ「向後の農民」の行く末に、上記の「四つの原因」が絡んでこないか心配を寄せていたのである。
    (この「青木氏の心配」は的中した。)
    それの根拠に成ったのが、「自作農」の人には、“無償での獲得なのだから、「税比率」程度は、我慢するであろう”と政府は踏んでいたのを「氏上の青木氏」は読み込めていたからである。
    前段で論じた事と上記した「維新政府の矛盾策」が聞こえて来ていたからである。
    ところが、“いざ納める”と成ると「自作農の農民」は我慢しなかった。

    そこで「自作農」はどの様な「税負担」を追っていたかを知る必要がある。
    その前に先ずは「過去の伊勢」での「地権者の青木氏」では、「地権の青木氏」は「7の内4、農民は3、政府は3」が基本で、「青木氏」が「地権者」として税納していた制度であった。
    各地域の藩では、前段で論じた様に、「税制度」、取り分け「税率」は異なっていたし、又、「地権者」に依っても「藩の税率」での中で地主、或は「地権者」と「小作人」との分ける比率も異なっていた。

    兎も角も、多くの農民は「小作農」(6割)が主体で、そもそも直接、農民に当たる制度の中では無かった。

    そもそも前段でも論じた様に、「自作農」が増えたのには、不純な訳があった。
    前段でも論じた様に、享保前からの「田畑の売買禁止令」や「質地流の売買禁止令」等に対する抜け道が横行、所謂、「質」に関する「抜け道」が元禄の頃から茶飯事の様に横行していたのである。

    (注釈 「地権者」、又は、「自作農の者」は、不況から土地を担保に質融を受け、期限内に返納できない場合に「土地の質流れ」を起こした。
    この「江戸社会の根幹」である「米作地」の「土地の売買」を禁止して混乱を避けようとした。
    これに対して「売買」は可能にしても「返却期限」を過ぎても「地権者の移動」は禁止し、無期限に返納出来た時点で「地権」を戻すと云う応急策を敷いた。
    ところが、これでは「質屋」と「買い取りの豪商等」にはメリットは無かった。
    そこで、彼らは「裏策」を使って「禁令逃れ」が横行させたので、政治の根幹と成る土地の混乱を招き、経済はますます疲弊した。
    そこで、享保の改革では、幕府は「発想の転換」を遣って退け「土地に関する三策」の「緩和策」を講じたのである。

    つまり、経済活性化の為に「売買」そのものを許可した。
    その為に「農地」は「商品」として売買され、その結果、売買によって「商品の土地」は細分化され金のある農民は金額に応じて「農地」を購入する傾向が起こった。
    所謂、「不動産投資(不動産バブル策)」である。
    そして、商品化の為に地権者が変わり、その結果、細分化に依って「自作農」が増え始めた。
    これを「吉宗の享保期」に依って「土地に関する質流れ等の利権と保護」の「土地改革」から豪商等に依って買い取られた「放棄されていた農地」には、「転売」などが起こり豪農等が細分化して買い取りをした。

    そもそも、「秀吉検地」からの「一地一作の原則の制」が緩和された事から、又、「長男の農地継承権」から、「自作農」としての次男三男が「商品と成った農地」を何らかの形で獲得して持てる様に成って行った。

    (注釈 それまでは「一地一作の制」に従って、農家の次男三男は農業を継承出来ず「武家の奴役」や「農家の手伝い」などで生き延びていた現状であった。)

    最初には、形体としては、この農地を耕作する「半自作農」が多く起こり、幕末の直近期から上記に論じた「青木氏の策」と同様に、大地権者の小作農[小作人]の待遇変換(随時受注契約方式)が起こった。
    この頃から「商品の土地の細分化」と上記の「小作農の待遇変換」が進み徐々に「完全自作農」が増えて行ったのである。

    それまでは、そもそも農業は人口的に「自作農」(2割)(小作農6割)は、庄屋や名主の村主などの「郷士身分の者」が多かった。
    そして、「青木氏の様な大地主の地権者」は「1割強」であった。
    この下に働く「小作農」は「6割強」の分と合わせると、「伊勢」では地権的には全体の「8割」を占めていた事に成る。
    その「地権の8割分」の内で、「青木氏の分」は、「5万石の郷氏」と呼ばれた所以から、「全体の2割強」を占めていたされていた。
    「伊勢青木氏の分」としては、これ以外に多くの「殖産」を興していた事の分と、それに伴う利用地の「殖産地や畑地」など作地等も含めると、南勢から北勢までの「4割程度の地権者」であったと云う事に成る。

    故に、元より「伊勢郷氏」として南勢の旧領地から員弁桑名の北勢までの広範囲に地権を持っていた所以なのである。

    つまり、「地権者の伊勢青木氏」は、これを「伊勢11万石(海産物なども含む・享保期の紀州藩領分)」の内の4割程度を占めていたとされていた。
    この中の「伊勢の小作人」では、伊勢人口は当時約49万人(明治6年:58万)と成っている事から、「2割」は10万人と云う事に成る。
    従って、この内の4割分の「4万人の氏人の小作人」が「青木氏の氏人」であったと云える。

    (注釈 つまり、今風に云えば、「4万人の青木農業ホールディング」であった事に成る。
    つまり、「雇人や作人」に変換した事は、明治期の初期では、江戸期の「青木の氏上と氏人」の侭で「青木氏部」以外には、「固有名詞」の呼称は特に記載はなく、後の「伊勢暴動」が解決した4年後に「雇人や作人の関係」の「青木農業法人」とした資料の記載が見つかっている。
    注釈として、前段でも論じたが、この時、「水運部」「職能部」「警備部・シンジケート」等の多くが独立して会社を設立した。)

    さて、記録が見付からない事から正確には判らないが、上記の「伊勢の小作人の変化」(伊勢一般)では、「5割の小作農」が「1割に成った」とする資料から推測すると次ぎの様に成る、

    この内の「青木氏」の中で、この「自作農の選択肢」を選んだ「青木氏の氏人の数」は、「青木氏」では9割近い「氏人」が「小作農の雇人や作人」を選んだ。
    この事も含めて、1割程度弱以下と考えられる。
    これは「殖産地等の耕作地分」も含んでいるので、少なくとも「400人程度弱の半分以下」ではなかったと推測できる。

    唯、この記録は、明治35年の出火で人別帳類消失しているが、この「自作農に成った氏人の多くは、「名張−松阪」より始まって「以北の地域」で主に起こっていた事が資料の行で判る。
    これが「伊勢暴動の経緯」に一致している。

    従って、この事から、何故、この「以北の地域」で「氏人」が強いて「自作農の選択肢」を選んだのかと云う事である。

    これでは「青木氏側」から観る判断としては、次の様に成る。

    先ずは、「福家領域」から離れた「四家領域」であった事であろう。
    次には、「米作面積が大きい平野部域」であった事であろう。
    更には、「南勢」の旧領地との強い関係性」より「北勢」は「自由性」が強かった事であろう。
    最後には、「隣国性の影響」が働いて旧来より美濃や信濃からの「情報性」が強かった事であろう。

    これ等、“四つの事が連動して総合的に働いた”と云うことであろう。

    ところで、注釈として、「作付面積の収穫量」に応じての「地権下げ渡し」で、上記の事柄が働き、最低反を上記の「2反 600坪」として計算され行われた様であるが、何故、この様に実に「小さい小作農」が多かったのかと云う事である。
    実は、この事に付いて「伊勢青木氏」には「大きな意味」があった。

    恐らくは、「伊勢青木氏」は、「一地一作の令」に従わず、次男三男にも「小作農」をさせる策を確実に採っていた事が云える。
    この事に付いてあらゆる資料には明確に記載は流石にないが、「伊勢」には、前段でも論じた様に、他国に比べて周囲には武家や郷士(1/10以下)が極めて少なかった事が、次男三男の就職先と成る「武家の奴役などの職」が全体を賄える程に無かった。

    この事から、伊勢青木氏は「殖産」を手広く行っていた事から「殖産地の新規開墾」などの「便宜的な理由」を使って「土地」を細分化してでも「氏人」を救わなければならない。
    そこで、これらの理由を使って「青木村の中の次男三男の小作届」を出していたと考えられる。
    当然に、「殖産」に依って「彼等の生活」をある程度賄えるようにはしてはいたが、それだけでは充分ではなく、「小作農」が出来る様に、「殖産地などの土地開墾の必要性」に絡めていた。
    この事から「米作も含んだ土地の新規開墾」もあって賄えるようにしていたのである。
    「米作」としての「届出」であるかは別で、「一部の資料の行」には“「混作地」”の用語が出て来る。
    「畑地」としても主に使うが収穫によっては「米作地」としても使う事があると云う「便宜的な方便」であった。
    この“「畑地混作地」”として「小作農」を新規に作り出し「届出」すれば事は済む。
    兎も角も、先ずは上記の「2反 600坪」の「次男三男の小作農地」を正式に確保できることである。
    後は、生活を賄える為にはどうするかである。
    それは、「殖産」であり、長男の「手伝い」、「商い」の手伝い等の間口は何とか賄える。
    その為には享保期前まで引き継がれた「一地一作の令」が障害であった。
    その意味で「伊勢青木氏」としては、容易に土地の事情などから「小さい小作人」を作る事が出来たのである。
    むしろ、“「小さい小作人」が増えた“と云う事の方が正しいだろう。

    これの証拠と成る「行」は、上記の「雇人と作人の選択肢」である。
    「雇人」は兎も角も、「作人」が法人化の要素の一つに成っている事である。
    つまり、「随時雇用契約」である。
    他に仕事を持ちながらも、耕作地の管理維持や農繁期などの必要時に専属的に「青木氏の雇人」に成って農業に従事してもらう契約である。
    米納や金納も各種あった様で、中には「仏施の質」の「代替労働」としても使われていた様である。
    次男三男が、「青木氏の殖産の雇人」のみならず、「紙屋の雇人」に成る者や、「農業」を捨て「青木氏の商い」に見習いに入り、その後に「商い」を始めると云う「氏人」もいた様である。
    この関係が相当量にあったと云う事は、上記の策の為に「小さい小作農」が起こっていたと云う事にも成る。

    「青木氏」としては「氏上さま」と崇められる立場である以上は、“「二反農家の小作人」”でも「随時雇用契約」で生活が何とか賄える様な仕組みを「一地一作の令」に反してでも親として作り上げていたのである。
    これらの「小さい小作農の人」の多くが、実は「200人程度弱」の「自作農の選択肢」を選んだのである。

    (注釈 この「小さい小作農 2反 600坪」の正確な比率が「自作農の選択肢」の中で占めていたかは消失で判らないが、上記の「一地一作の令」を無視して迄の戦略上から考えて、氏人農家の次男三男の家族構成の数が青木村地域では、前段で論じた様に、地域の就職環境(郷士衆が少ない)が良く無かった事から無視できなかった事に成る。
    従って、「郷氏」として「氏人」を護る必要があったので、比率としては「200人程度弱」の過半数は遥かに超えていたと考えられる。)

    先ずは、小さくても“「自作農」に成れる”と云う人間の本来持っている「独立心」が芽を興したのである。
    誰しも「独立心」を興しても生活が成り立たなければ、「行動」を起こさない。
    それには、「自作農」に成ると確かに「大事な絆」が切れ、「氏人」とは無縁に成る事にはなるが、関係性が低下しても「青木氏」の中で生きていられれば、“「随時雇用契約」で生活が何とか賄える様な仕組み“があった事に依り「行動」に移したのである。
    彼等の多くには、「小さい小作農」として、「税」など出来る限り自分の事は自分でやり、これ以上は「氏上さま」には迷惑はかけられないとする「独立心の発露」であった。
    (累代の口伝の言分からによる。)
    これは「青木氏への信頼と尊敬の概念」の所以であろう。

    ここに「青木氏の所以」の大きな意味が観える。

    (注釈 「太閤検地」と「江戸(正保・元禄・天保)三期の検地」との四度の検地が行われ、これにより「一地一作の令」を基本にされた。一つの土地に一人の作人が継承するとし、「土地の細分化」を避ける事を目的とし、且つ、「転売」を避ける事を目的として長男が継承権を持った制度である。

    「一地一作の令」を廃止して「自作農」などの「土地に関する継承権」を自由に持たす必要からの「明治6年の検地」とで、5度にわたり全国的に正確に行われたが、「享保の改革」ではこの制度は緩和され後に一部廃止された。
    この「享保改革の過程」が、伊勢では「長年の小作農対策の苦労」が反映して「大きな引き金」になっているのである。
    どの様な事であったのかと云うと、次の様な経緯である。
    「繰り返される災害」や「低廉な政治政策」によって極度に疲弊している「国内経済」を発展させなければならない「緊急の課題」が「吉宗等」に課せられていた。
    (上記の底をついた「御蔵米」)

    「緊急の課題」のこれには、「国体の米本位の基幹」による政治制度に矛盾が社会に露出していた。
    これを解決するには、“「自由な経済構造」”が必要であって、それに執っては、最も解決しなければならない「一地一作の令」が、明らかに“「弊害」”であると認識していた事を意味する。
    江戸幕府開幕以来、人口は増加し、その元としていた「米による基幹政治制度」の米の使用量も増大する。
    当然に、この「米」に纏わる豪商が生まれ、これらが既得権力を握る。政治を握る幕府では無かった「矛盾の1」である。

    ところが、社会は人口増加に伴い貨幣経済が起こり、社会は「米本位の体制」でありながら「貨幣本位」が主役を握ると云う「矛盾の2」が生まれる。

    政治は「米本位」と経済は「金銀」による「貨幣本位」と云う事である。
    尚、更に、この「矛盾の2」に輪を掛けたのは、「矛盾の3」の「税」は「米」であって貨幣では無かった。

    更に、相乗の「矛盾の4」は、「貨幣本位」にしている「大口」は、「藩の米の貨幣への換算」であった。


    これだけの矛盾を孕んでしまった政治は成り立たない。益々、傷を大きくする。
    幕府は戦わずして倒幕と成る。(御蔵米は113両で既に享保前は破綻)

    この「四つの矛盾の認識」を持っていた「伊勢青木氏」からすれば、「享保の改革」で先ず最初に手を付けた“「米相場制」”に対して「経済論」から攻めた上で、並行してやらなくてはならない「社会の変革の策」があった。

    とすれば、それは上記した「三つの質策の金融緩和令」であった。
    伊勢での経験とその認識を通して、その結果として、先ず出て来るのが“「小作農対策」”であると認識していた。
    「享保の改革」としてそれを押し進めるには、前段でも論じた様に、「三つの質策の金融緩和令(1722年−1730年)」であってそれを採用して実行したのである。

    (注釈 「三つの質策の金融緩和令(1722年−1730年)」は、「伝統シリーズ−21,22を参照」の事。
    「質取扱い覚の令」や「質流れの禁止令」や「質流地の売買禁止令」である。)

    それは、前段で論じた様に、「享保の改革」で「吉宗―青木氏」が始めた「米相場制(1696年淀屋開設−1730年堂島公認 )」に持ち込み、安定させたその上で「米価制による税」であった。
    それまでは収穫が低い場合の高騰、豊作で米価が低い場合の低価では、その“「差額」”は、「伊勢の伊勢地権者であった青木氏」がその時の決められた「米価」に換算して「金納」で補填していた。

    「地権者」としても「伊勢青木氏」としては、兼ねがね、この何れにしても起こる“「差額分」”の「金納に対する経済システム」に疑問を持っていたのではないかと考えられる。
    ところが、当然に享保前の幕府としても、この「矛盾」を抱え先ず解決する必要に迫られていたにも関わらず放置し、更には上記の「四つの矛盾」の認識にも欠けていた。

    「米価」を基幹(米本位)としての政治体制である以上、幕府の収納米(金)は、収穫の高い時は高く、低い時は最低額は確保する体制で無ければ、「基幹」は、「じり貧」と成るは必定である。

    実際には、この不足分を補う為の「幕府御蔵米の金額」は、記録によると、“113両まで落ち込んだ”と云われている。
    つまり、「幕府御蔵米」で考えれば、経済的には「江戸幕府」は破綻したと云う事に成る。
    記録では、“引き継いだ「吉宗」はこの事に焦った”と記録にあり、周囲の全ての高級官僚と激論に成ったとされる。
    この「反対派の老中職」の官僚を全て排除して、自らブレーン(青木六兵衛とその息子)と共にこの「政治体制の四つの矛盾」に取り組み始めたのである。
    そして、老中職には身内(水野忠之)を置きながらも、後は実務は殆ど自らが「激務の執務」を採ったと記録されている。
    そりが故に、彼の周りには書類や資料の山であったと記されている。

    つまり、前段でも論じている様に、この時の「経済ブレーン」が「布衣着用の伊勢と信濃の青木氏」等であったと云う事である。
    「伊勢・信濃」から呼び寄せた経済知識のある者等と、伊勢で共に育った「青木六兵衛」等を呼び寄せて密かに会議を開いていたと記録されている。

    さて、その時に執った策(「米価八策」)は次ぎの通りである。

    「米を使う酒造業」
    「空米取引(先物信用取引)の容認」
    「米価高値引き上げ」
    「一定価格の米相場の買米令」
    「飢饉に備えた囲米」
    「特定地域に集中を防止する廻米制限令」
    「米引上令」
    「定免法」

    以上の「米価八策」等を行った。

    これを伊勢の資料では“「米価八策」”と呼んだと記録されている。

    この“「米価八策」”を実行するに当たり“「ある事情」”があって、その事を「伊勢青木氏」は、「紙問屋長兵衛の商人」としての顔で、この淀屋や堂島の「米操作の裏事情(ある事情)」を充分に把握していた。

    (注釈 この「淀屋と堂島の裏事情」は「伊勢の紙問屋」で育った関係上で充分に吉宗も承知していた。自分で“「米価八策」”の直接の実行の指揮を執った。)

    その当時まで「米」は、先ず「大阪の淀屋市場」(f藩が発行する米札)に集まり、「十数人の仲買人」に依って差配されていて、幕府は口出しが出来なかった。

    (注釈 淀屋は米相場の初期 堂島は幕府公認後の後期)

    そこで、堂島に開設所を開き、そこに「相場令」を出して「口出し」をする事にし、江戸からも「八人の仲買人(札差)」を入れて「米相場」を開くようにした。
    ここで、予想通りに大阪と江戸の仲買人の権力争いが起こった。
    そこで、「大阪の堂島の仲買人」が、「大きな権力」を握っていた事を知っていた「吉宗等」は、知っている「彼らの弱点」を突いて黙らせた。

    注釈 「堂島の開設所の米取引の仕組み」
    当時、大坂の淀屋には全国の年貢米が集まっていた。
    この米の取引の会所では、「土地の地権」と同じく「米の所有権」を表す「藩札」が発行されていた。
    この取引には、「正米取引」(現物取引 本年分)という取引があった。
    それが進み、「帳合米取引」があって「帳簿上の米の取引」(先物取引 来年分)も行えるようにした。
    これには、「藩札」を「金貨」で決済する様にし,「銀」も使われる様にして「敷銀」と呼称される「銀貨」を使えるようにして「先物」を取引させ「米取引」を活発化させた。

    この「敷銀」とは、一定の予測銀貨を預ける。
    そこで、その「先物の米」が出来た時の「現物の米」との「差額分」を決済する様にした。
    「藩」は、この「米取引」を中心に一挙に「貨幣経済」が進んだために、「現物支給」から「貨幣に換える必要」が起こった。
    これを「幕府の令」で徹底させる事に出た。

    そこで、「藩米倉」に収める米を、この「堂島の取引所」に「上記の注釈の方法」で出して「税」として扱われた「米」を「金銀に兌換させる仕組み」を1730年に堂島に開設したのである。
    それまでは、「藩の米倉」から出して金貨の必要に応じて淀屋で「競り」にかけて直接販売していた。

    その意味で堂島は、現在の取引経済と類似する取引所ではあったが、何処にでも利の生まれる処には利権の組織が生まれる。
    此処に発生する「裏事情」、つまり、「仲買」と「米価の決定」の「仲買の裏」があった。
    これを「二足の草鞋策」で「紙等の問屋」と「総合貿易商」と「殖産組織の経営者」で、且つ、「5万石の地権者」でもあった事からも充分に裏事情は掌握していたのである。
    むしろ、「摂津堺と伊勢松阪」では「米仲買人に対する発言力」も持っていた。

    (注釈 この事は、堂島での大船廻送についての遺手紙の文章の行から読み取れるし、淀屋での金銀の不足から仲買人に対する金融のやり取りの行の記録もある。)

    そこで、「開設した堂島」に対してのその一策は、具体的には次ぎの通りである。

    先ずは、「江戸米札差八人衆」に「米回収の権限」(買米権・買占権)を与えた。(裏作−1)
    幕府のある江戸に「大量の米」が集まり「米の取引」を堂島とは別に起こさせた。(裏作−2)
    次に、各藩に米の取引を金銀の兌換に換えさせる「通用令」を出した(裏作−3)
    更に、各藩にこの「江戸八人衆」に依頼する様に「買米令」を出した。(裏作−4)

    (注釈 江戸の「札差八人衆」とは、各藩の税米を金銀に換える為に販売や運搬などの作業を藩に代わって細部の作業を一手に引き受ける事をし、「仲買権」も持つ公認の米の総合代理業者である。)

    大阪に対して打った「四つの打開策の裏作」に依って、これで幕府のある「江戸」に米に依る金銀の金銭が集まり始め、「大阪」には金銀が無く成って仕舞う経緯が此れで起こった。

    この「四つの打開策」(裏作−1)(裏作−2)(裏作−3)(裏作−4)を打ち出した結果、「大阪の仲買人」は力を削がれ勢いを無くし、結局は妥協して江戸と幕府の云う事を聞くように成った。
    取り敢えず、「米相場」は「二極体制」を吉宗等は敷いたが、結局は、大阪には金銀の貨幣が無く成り、取引は縮小し、江戸は逆に江戸に金銀が集まり拡大した。

    恐らくは、“金銀の貨幣の扱い量を大阪から江戸に移す大戦略“の事が、「吉宗と青木氏」の「裏策の目的」(幕府の本来の姿)であったと云う事が資料から読み取れる。

    そこで、この「吉宗等」は、次ぎの策として「米相場制」を上記の如く敷いた事に依って進んだ「貨幣経済」に対して、引き続いて「享保の貨幣改鋳」(1718年)に取り掛かった。
    当初、この改鋳は不評で、「正徳の改鋳」(1711年−1715年)との差があって効果は上がらなかった。
    然し、市場は吉宗の幕府を信頼して次第に流通し始め次ぎの様に変化していった。

    中頃には米価 1石=銀35匁が、米価 1石=銀45匁に、更には、1796年の頃には、 米価 1石=銀60匁まで上昇した。

    これで「米価の高め誘導」が常態化し、「物価の安定化」を起こし、この良好な期間が何と経済的に観ると、稀に見る「約80年間以上」も果たし「裏策の目的」は大成功した。
    世界的に観ても、「物価安定」が80年以上続いた記録は少ない。

    これで、基幹は「米本位」ではあるが、この上記の「四つの矛盾」を和らげるためにも、兎に角も「米相場制」を利用して「半本貨制」を敷いた。
    そして、それを「幕府」が存在する江戸に引き寄せたのである。

    決して「米相場の創設」そのものが目的では無かったのであって、この事に依って「米本位の年貢」の「米」は「高値安定」と成り、幕府の財政は1735年頃には立ち直った。
    何と、「御蔵米」にして「113両」から「100万両」に成ったのである。

    そこで、この「裏策の目的」の実行の為のタイミングを見計らって、「上記の米価八策の政策」を矢継ぎ早に何とか打ち出して敷いたのである。

    つまりは、各藩は「米」で年貢を取り、それを大阪(淀屋−堂島)で金銭(金銀)に換えると云う「体制矛盾」が生まれ始めていた事を、この“「米価八策」と「四つの打開策」”に依って「吉宗と青木氏」は何とか進む「体制矛盾」を平準化させたのである。

    それならば、「取引所」が出来て「貨幣経済」に成ったとすれば、「米」を「年貢」として「標準米価」で先ず査定して、その分を先ず年貢として受け取り、それを堂島でタイミングを見て売り捌き、その「米相場>標準価格」の差額で利益を獲得する様にすれば、更に「利益」が上がる。
    そうすれば、少なくとも「貨幣経済」に合致している事に成り、「藩の矛盾」は最低限に軽減される筈である。
    「変動相場」にせずに「固定年貢」にした侭で、それさえもしなかった為に「体制矛盾」は大きく成る。
    然し、「標準米価」にすれば双方に利益が起こるがそれをもしなかった。
    「豊作の時」も「不作の時」も「固定年貢」に拘ったのである。
    「豊作の時」は「豊作分}を取り込み、「不作の時」は「不足分」を「年貢」を上げて賄うでは、「堂島の相場取引」=「貨幣経済」の「時代の流れ」に対応できていなく無策であった。
    「不作時」や「災害時」に「標準差額分の取り崩し」と「相場から得た差額分」の「二つ利益分」で補填せずに「年貢」を上げたのでは不満が募るは必定である。


    そこで、この事に付いて、これを認識していた「吉宗」等が如何に苦労していたかの様子が判るが、これを物語る「青木氏等」には興味ある資料が江戸で見つかった。
    吉宗死後の遺品の中には、夜も眠らずに「資料まとめ」をしていて、「米価八策の資料・まとめの原案」等が「本人の自筆」で大量に遺されていたのである。
    「青木氏等のブレーン」と共に、激務の中で一切の側近を交えずに、このデータを下に夜中でも密談していた事がこの発見された資料からも判っている。
    「青木氏側」にも「六兵衛とその息子等」が住んでいた当時の「江戸屋敷の資料」からもこの傾向は読み取れる事が出来る。
    又、前段でも何度も論じたが、この事が「近江佐々木氏」の「宗家の研究資料」の「青木氏族の段」の中からも見つかっている。

    この事が重要で、「近江佐々木氏の資料」の中にあると云うこの事は、果たして何を意味するかと云う事である。

    “「近江佐々木氏」も、なかなか外に洩れないこの「秘密情報の事」を知っていた“と云う事である。
    と云う事は、「近江佐々木氏」(始祖は川島皇子)は、親族の「近江佐々木氏系青木氏」が「二足の草鞋策」を敷いていた事から知っていたと云うことである。
    前段でも「商業組合」で論じた様に、「伊勢や信濃や越前や越後」の「二足の草鞋策」を敷いていた「六地域の青木氏」と共に、「吉宗の経済ブレーン」に参加していた事を示す事に成る。
    大阪の「淀屋−堂島」の「裏事情」に熟知していた「佐々木氏系青木氏」等も、「吉宗等」と共にこの「牙城」を崩すのに「あらゆる人脈」を使って動員して何とか崩そうとしていた事が判る。
    これは当に「奈良期ー平安期初期」の「青木氏の皇親政治」に似ている。

    基幹の「米本位の政治体制」の進む「矛盾」を少しでも「修正」して「経済活動を活発(商い)」にする必要があると認識していた事に成る。
    其れには、何としても先ずは、“「淀屋−堂島」を変える“と云う事に「佐々木氏共々一族」は突き進んだと云う事に成る。

    (注釈 「近江佐々木氏系青木氏」は、“「江戸出店」”をしていた事から、「布衣着用の伊勢青木氏」が「調整役」と成り、「江戸相談」は可能だった。
    唯、「近江佐々木氏系青木氏」の“「江戸出店」”は、「伊勢青木氏の資料」では「享保の後期」と成っているが、この「佐々木氏の資料」では「享保初期」と成っている。
    果たして、“「江戸出店」”であったのかは疑問の残る処である。
    これは「佐々木氏の資料」と「青木氏の資料」の「記録目的」が異なっている事から、差が出ていると観られる。
    「近江佐々木氏系青木氏」は、この「吉宗経済顧問の依頼[ブレーン]の為に「近江佐々木氏宗家」の「江戸屋敷出仕」であった可能性がある。)

    (注釈 ここで、「青木氏の歴史観」として前段でも何度も論じたが注意して置くことがある。
    「佐々木氏」は、そもそも「近江蒲生の土豪の出自」で「宇多源氏説」を唱える説が多い。
    先ず一つは、この「宇多天皇」の皇子数は確かに嗣子や妾子を含めて多いとされ、現実に近江に一人の皇子が流れた事は史実である。
    然し、数えると近江源氏を唱える者が「383氏」にまで成る事は100%ない。
    これだけもあればそもそも「天皇家の財政」が持たないし、況してや、「嵯峨期の詔勅」で”皇子数を減らせ”と云う「詔勅」が下っている中で、そんな事をすれば「天皇の立場」が無く成る。
    前段でも論じたが、「天皇家や皇族の妻」は、格式とで身分で「四階級」に分かれていて、これに格式身分に合わない者の子は「妾子」となり、厳格に護られて朝廷に入れないしきたりであった。
    又、ある程度の身分の「妾」でも簡単には天皇家の中に入れない仕組みであった。
    依って、現実には、認められている「四階級の四妻」に最大でも子供が5人程度いる範囲で留まる。)

    (注釈 そうなると、その否認定の王等も含めて「皇位継承の真人族」か「賜姓臣下族に成れない者」等は、「嵯峨期の詔勅令」を使って「賜姓臣下族」に成るか「門跡者」に成るか「比叡山僧侶」に成るしかない。
    前段でも論じたが、「第二世第七位皇子族」や「四世族か五世族以上}は坂東に各地に散る事に成っていた。
    その為にその裔数は増えるが、又、その末端の支流傍系族が出来るが、「朝廷の認証」が無ければ名乗れないし「源氏」は名乗れない。
    「源氏」は「青木氏」と同様に「姓」を持たない掟であるので「姓名」を名乗る源氏は偽称である。
    従って、「川島皇子の佐々木氏」の末裔を除き、「宇多源氏」は矛盾のある偽偏纂の他説も極めて多い氏族で殆ど「偽呼称」である。
    依って、正式な天皇に依る「賜姓族」では無く、勝手に皇子であると名乗って本来の「近江佐々木氏」を搾取した者が殆どである。
    本来は、そもそも、「賜姓族の朝臣族」は、つまり、「皇子の臣下族」は、その格式を汚す事から「分家や支流」を作らないし、「氏名」を名乗って「姓名」を名乗らないのが掟であり、当然に「家紋」や「副紋」なども無く、「変紋」もしないのが掟である。
    あくまでも、「賜姓族朝臣の臣下族」の「高貴な格式」を示す天皇より賜った「象徴紋」だけを一族は保つ掟と成っているのである。)

    (注釈 次ぎに、「宇多源氏説」も疑問で、「近江佐々木氏」は、そもそも天智天皇の「第二世ぞ第七位の皇子の川島皇子」が「始祖」であって、「天智天皇の賜姓」と「天武天皇の追認」より特例を以って「近江佐々木」の地名の「佐々木」の「賜姓」を受けた正式な「皇族賜姓臣下族」であり、「日本書紀」にもこの事が書かれている。
    「宇多天皇」が始祖ではない。
    「宇多源氏説」は、「嵯峨期の詔勅」に依って、直接に「賜姓」を受けずに「朝臣の臣下族」を名乗った氏族」で、「宇多源氏」の「皇子」は確かにいたが、「賜姓源氏」と成るには通説程にそんなに簡単に成れる訳でもなく、一人の天皇に一人皇子の賜姓が原則である。
    従って、その天皇の源氏を名乗るとすると、「賜姓」では嵯峨期詔勅を使った賜姓の無い源氏が殆どで、依って、正しくは源氏では無い。
    従って、又、源氏は源平合戦などで殆ど滅亡したし、そもそも近江説も別ルーツであり、通説の殆どはこの事を混同している。
    この様に「源氏」を名乗る中でも「賜姓を受けた源氏」と「賜姓の無い源氏」もある。
    殆どはこの賜姓の無い勝手に名乗った「妾子の皇子の源氏」か、室町期と江戸期に起こった土豪等が名乗った「格式詐称の偽源氏」である。
    その殆どは、妾子の皇子が流れ着いたとか、旅の途中で現地孫を遺したとかの記録的保証のない事を理由にした詐称である。
    「皇子」でも賜姓を受けるには相当な者でなくては受けられなかった。
    因みに、「清和源氏の経基」は、「清和天皇」の子供でなく「清和天皇」は祖父に当たる嗣子で、父より賜姓が受けられないので、祖父に賜姓を受けられるように何度も懇願して無理やり賜姓を受けられた経緯を以っている。
    この「賜姓源氏」に成れない「源氏になりたい皇子」は、「嵯峨期の詔勅」を使って勝手に名乗る以外には無く、この場合は経済的保証は詔勅の言に依って何も無い。
    従って、殆どは比叡山の門跡院の僧侶や善光寺の僧侶に成った。
    「賜姓ではない源氏」を名乗った皇子も末路は殆どは僧侶であった。
    通説はこの辺の判別は殆ど出来ていない。)

    (注釈 この様に「源氏」を名乗れるほどに皇子には自力で生きて行く「生活・経済力」は全く無く、殆どは「偽者」で周囲の土豪等の「土豪」がこれを上手く使って家柄をよく見せる為に搾取したものである。
    この様に偽称や偽偏纂は、主に江戸初期の権威政策の「黒印状」を獲得するための策偽称であったのである。
    その系譜を作る裏の専門家も横行したのである。
    だから、「正式な賜姓族」が持つ「慣習仕来り掟格式」とに矛盾が生まれるのである。
    取り分け、訳と事情があって、宇多と清和の源氏説はこの偽者が多い。
    「賜姓源氏」として認められたものには「11流11家」があるが、この賜姓源氏は「賜姓臣下族青木氏」との血縁で「青木氏族」が形成されていて「5流5家」があって合わせて、「16流16家」と成る。
    この11家の内の生き延びた「正規の賜姓源氏」は、室町末期までには絶滅している。
    多くは門跡院の僧侶に成って子孫を遺さず絶滅した。)

    (注釈 この「正式な近江佐々木氏」の「室町期末期の家康との繋がり」から「江戸期の旗本説」も中にはあるが、この正式な本流の「近江の宗家」は、「始祖川島皇子」の「近江佐々木氏系青木氏」の「二足の草鞋策」で助けられた。
    この頃には、やっと江戸に屋敷を構えられ程までに再興を果たして、「極度の弱体」を抜け出していた事が判っている。
    前段でも論じたが、この「近江佐々木氏一族一門」は、源平合戦で近江と美濃で二度の痛手を受けていて、室町期中期には「始祖川島皇子の近江佐々木氏」の「近江宗家」は研究論文より相当に衰退していた事が判っている。)

    前段でも論じたが、近江には二流の「秀郷流近江藤原氏」がある事から、その後に何らかの「血縁の繋がり」から「家康との接点」を持ったと観られる。

    (注釈 伊勢の「二つの青木氏」(四日市殿)が持った様に。恐らくは徳川氏は「権威確立策」から、この格式が「最高の近江佐々木氏宗家(浄広一位)」を江戸に呼び寄せて、家康か吉宗が「縁続き策」か何かで「権威創設策」に利用した可能性がある。)

    (注釈 権威としては、前段でも論じたが、「日本書紀」も然ることながら、「嵯峨朝」が作成した「新撰姓氏緑」には「49 川島皇子の氏」と「38 青木氏の春日王[施基皇子の子]の氏」が記載されている。 
    注意として、「敏達天皇の春日皇子」のルーツの記載もあり、これは「光仁天皇」の父の「施基皇子」が後刻に「春日宮天皇」として追尊され祀られた事から、作者の「嵯峨天皇」が曾祖父を権威付ける為に別ルートで「敏達皇子の春日皇子系」を作り上げ、これを「施基皇子の子の春日王」のルーツと“「同祖」”として態々追記した上で掲載したものである。
    「敏達天皇の直系の第四世族」が「天智天皇」である。この「天智天皇の皇子」が「志貴皇子」である。)

    その為に、この「近江佐々木氏」の「江戸の住い」が、この「家康の接点」からの「武家屋敷」なのか「近江佐々木氏系青木氏」の「商家屋敷」であったかは詳細は判らないが、あった事ははっきりしている。
    故に、「近江佐々木氏宗家」は、この「吉宗密談の裏事情」を把握していたのであろう。

    この事は、前段でも論じた「六地域の商業組合の青木氏」は、「商業組合」だけではなく、密かに「吉宗の経済顧問(ブレーン)」にも積極的に参加して「意見」を述べ「行動」を起こしていた事を示すものである。
    「近江の佐々木氏系青木氏」から「近江の佐々木氏宗家」にもこの「裏の情報」が密かに入っていた事に成る。
    「近江の佐々木氏宗家」が、「吉宗」等が行うこの「裏事情」を研究資料に載せる程に把握していたとすると、「商家の屋敷」では無かった事に成る。

    「商家の屋敷」であれば知る事は出来ても研究資料としての記録に載せる事が出来るかと云う疑問が残る。

    恐らくは、「近江佐々木氏」が「青木氏族の事」をここまで研究して詳しく書き込む事は無いだろうから、「江戸期にまで生き遺る珍しい氏族」である。
    その「皇族系朝臣の賜姓臣下族」として「新撰姓氏緑」にも記載されている“格式高い「武家の屋敷」”であった事が頷ける。
    「家康か吉宗」かの選択であるが、急激に江戸屋敷が設けられる程には急激すぎる事から考えて、「吉宗」であったと考えていて、「青木氏との関係性」を考えても「江戸」に「宗家」も招いたと考えている。
    恐らくは、「吉宗の行う改革の権威付け」に「青木氏」と共に、周囲の権力をひけらかせて「吉宗」を否定する「煩い高級官僚」を黙らせる為にも利用したと観られる。

    現実に、江戸では老中等は「巨勢の湯殿女の子」と「蔑みの発言」をした記録が乗っていて、この「蔑み」と云うレッテルを張られていた「吉宗」は、意識していて「煩い高級官僚」を黙らせたと考えられる。
    格式の無い者を周囲に集めれば、それこそ蜂の巣を突いた様に成るだろうが、これ以上の格式が無い程の「古い生き遺りの二つの氏族」の「佐々木氏と青木氏」が、“将軍の俺にはブレーンと成る程に繋がっているのだ”と宣言して「改革の邪魔」を排除したのである。

    通説は、「経済的な高い知識の持った顧問の存在」を明確に認めているが、明確に認めている事はその顧問名も知っている筈で、それを態々明示しないのも「通説の吉宗批判説」から来ている。
    ところが中の一説には、「江戸の伊勢屋と伊勢の紙屋の二つの明示」がある。
    これには「本拠の伊勢」から指示に従って遠隔に動いたと記されている。確実である。
    この説の論者は知らないが、「近江佐々木氏の資料」を何らかの関係で持ち得ていたと考えられる。
    実は、「近江佐々木氏」の宗家の方は東京大学(1877年)の教授に成ってこの研究を進めた方がいる。

    (注釈 但し、「武士屋敷」ではない。そもそも「武家」は「公家」に対する「氏族」を形成する「格式用語」で、江戸期には、最早、この呼称の垣根が崩れ、この「姓族の武士」までを「武家」と呼称している。)

    “「武家の屋敷」”であったとする事は、「近江佐々木氏」が苦しい状況の中で何とかより大きく再興して生き残ろうとして、「時の動き」を読み込み「吉宗等が行う裏事情」をより深く獲得していた事に成る。
    「商家の屋敷」であれば、主体は「近江佐々木氏系の青木氏」である以上は、「二足の草鞋策」から「経済的な発展」を期待しての「享保の改革」に臨んでいた事に成る。

    「吉宗」は、「伊勢の紙問屋」で育った関係から知る範囲の経済知識を経験豊かに持ち、且つ、その「裏の事情」と「裏の発言力」を最大に利用していた事を示すものである。
    故に、老中などの側近の世間に疎い者の経済論を聞くに値しない発言に苦々しく思っていた為に、一切(11人)の老中等の者を排除しているが、「吉宗との論戦」で勝つ者はいなかったと伝わっている位である。
    故に、自分より優れた「経済知識」と「世間知識」をもった者(青木氏等の顧問 ブレーン)を周囲に置いて、自らが「激務の実務」を執ったのである。
    それだけに「御蔵米の113両」は、経済的に既に破綻していたのである。
    悠著な事をいっていられない状況であった事は否めないし、豊富な知識を以っているが故に「疎い者の経済論」を聞くに堪えられなかったであろう。

    (注釈 実務を執っていた事は記録からはっきりしている。夜にも密談した事が「伊勢青木氏」の「江戸伊勢屋の記録」の行でも判る。)

    「近江佐々木氏系青木氏」を含めて「六地域の商業組合の青木氏」を直かに随時呼び出して談合し、「淀屋と堂島」を裏から操っていたと考えられる。
    「淀屋と堂島」の「仲買人に依る影の権力」は、「全ゆる弱点」を隅々から突かれれば従う以外には無く成る。(可成り抵抗した事が書かれている。)
    この「攻撃役の顧問(ブレーン)」との「調整連絡役」を「吉宗」と直接面談できる立場の「布衣着用の伊勢青木氏」が背負っていたと云う事に成る。
    「攻撃役の顧問(ブレーン)」には意見だけを述べる事のみならず、「経済界の米の牙城」を崩す事が「四つの矛盾」を解く事に成り、それが「経済界を活性化する事」にも成り、「商人」の彼等は“相当に熱を入れていた事”が「伊勢青木氏の江戸伊勢屋の残記録」からも読み取れる。
    唯単に、「吉宗や伊勢青木氏」の「調整役」に呼ばれて意見だけを述べると云う事では無かったのである。

    「青木氏側」から観ると、上記の事は、世間の通説は確かにこの「顧問・ブレーン説(不詳にしている)」を容認しているが、「享保の改革の全体の通説」と成っている説は単純でそんなに簡単な事では無かった筈で、その意味で大きく異なる。

    だから、「四つの矛盾」に無頓着な周囲の固定観念に拘った「疎い官僚」を排除してまで直接に無理しても実務を執ったのであろう。
    そして、その他の「一般の執務」は、家康の縁続きの「老中水野忠之」に任したのである。
    この結果、「幕府の御蔵米」は、113両から再び100万両(1730年頃)にたった14年間で成ったのである。

    (注釈 開幕400万両 宝永期37万両 享保初期113両 享保期中期100万両)

    これでは、最早、「吉宗の経済論」に直接に論戦で食い付ける者はいなかった事に成る。
    ところがその反面、吉宗没後に世の常とは言え、次第に「吉宗の経済論」に反論する者が出て来た。
    英雄が功績を上げれば上げる程に、没後には否定論が出るのは仕方の無い事ではあるが、世間の「吉宗の通説」も“馬鹿呼ばわりしている通説”は幾つもある。
    その論説を聞き取ると、共通する点は、その通説には「リフレーション経済論」に対する「知識と理解」が無かった事に依る。
    唯、その中でも「二つの通説」は、この「吉宗のリフレーション経済論」を認めている。
    全て「インフレ論」と「デフレ論」に類する策で、これが前段で論じた様に、結局は、その論調からすれば「商業組合」は当然に否定される。
    これが「江戸伊勢屋」の「引き上げの原因」と成った。

    これは「米相場」だけのものではなく、「青木氏の資料」から読み取れる「裏の目的」とされる“金銀の貨幣の扱い量を大阪から江戸に移す大戦略“の事で無ければ、「破綻」に勢いづいた財政を、逆に上向けて、且つ、「100万両御蔵」(14年間)までにはそもそもならない。

    (注釈 殆どの通説はこの辺の論調は無い。「ちまちま経済論」では誰が考えても到底無理である。)

    しかし、そこで、上記の事も踏まえてもう一つ「青木氏の歴史観」としてとしては論じておかねばならない事がある。
    この「享保の時」には、「体制矛盾」の一つでもある“「自作農」”にも未だ「自作農」を進める“「農地解放策」”には手が届いていなかった。
    幕府の記録には、“「自作農」を進める開墾を進める土地が無かった”とか記されている。
    そもそも“無かった”は、後勘からしても、何を根拠に云っているのか不思議でおかしい。
    “無かった“のではなく、”財政的に開墾を進めなかった“が正しい。
    もっと云えば、“進められなかった”のである。
    当然に“財政破綻であった”からである。

    又、合わせて「殖産」も進まなかったと記されているが、これも何を根拠に云っているのか不思議でおかしい。
    然し、享保期には御蔵米が回復した時点(1730年)で、現実には「新田開発令」は出している。
    吉宗は「見立新田十分一の法」と云う令を出して進めた。

    新田開発には「巨額投資」が伴い、且つ、「自然災害の影響に左右」され、「測量の進歩」が無ければ「水の確保」も出来ない。
    却って、逆に経済を悪化させる要因とも成って「大きなリスク」(水害などの自然災害)を伴うものであった。
    殆どの主体は、「民間投資の開発」であって、幕府や藩の主導の開発は、指導者が変わる度に金がかかる為に途中で開発を中止したりして悉く失敗している。
    何とか進めようとして「幕府主導の新田開発(豪農・村)」の代官と成った者には、成功率を上げさせる目的から「利益の1割」を保証すると云うものであったが、却って農民に負担をかけ無計画なものや汚職が生まれ、公的な開発は中止した。
    止む無く「豪商等の財力」に委ねたが興す開発には「小作人」を雇い開発をさせた。
    ところが、江戸期の大阪や江戸の殆どの豪商は、この開発に手を出し失敗しているが倒産する者も多く居た。
    結局は、“「新田開発」をして農民をこれに従事させることで農業を豊かに出来る“と見込んだ策であった。
    これで進む矛盾の一角は解けると観たのである。
    然し、結局は民間の「豪商の小作農」が増えてしまった。

    注釈として、江戸初期から150年間で観れば、50%増しである。
    唯、8万石/年であるが、「農民の過重労働」が増え、「水利の灌漑事業」が遅れ「自然災害」が増え「一地一作の令」の体制を変えない侭にした為に「開発放棄」が殆どであった。
    だとすれば、“「自作農」”を増やし、“きめ細かな管理体制”を敷けば解決する筈なのに、「享保の改革」でも敢えてこの策を取らなかった。
    そこに問題があった。
    享保の改革は、この事で「顧問と吉宗」の間で「大激論」に成った事が他の青木氏や佐々木氏の「民間の資料」からも伺える。
    「体制維持」か「矛盾解決」かの選択であったが、「享保の改革」は大激論の末に次ぎの様な「次善策」を執った。

    上記した「米価八策」にでもその「自作農」を進めるべき「手立て策」は直接に採られていない。

    これは何故なのかである。
    そもそも、当然に「顧問(ブレーン)等」はこの事に充分に承知していた筈である。
    (むしろ、紀州の有能な家臣も含めて、この事を主眼として改革に協力している可能性は否定できない。)
    勿論、“「体制矛盾」”である事のみならず、この“「自作農」”が進む事に依って「農民の裁量性」が増え、それだけに「経済」は根本から活性化する筈である。
    「消費活動」が高まり、「米価の安定」が起こり、「地権の細分化」が起こり、例外の「土地の商品化」が起こり、経済は活性化する。
    当然に、この事で「農業作物の増産」と「作物の多様化」が進む事が考えられる。

    筆者は、顧問等は、この事の“「先取り」”目論んだと観ている。
    それは、「自作農の推進」は、幕府体制としては上記の様に危険を孕む大きな問題を持っている。
    だとすると、それとほぼ同じ程度の経済効果を示す事を考えて、取り敢えず、やれば「体制矛盾」の「緩衝策」には成り得るものを選択した。
    そこで、金のかかる「新田開発」は、結局は多少の収穫が増える事で、社会は先行投資の兆しで人口を逆に増やしてしまい、「小作農」を増やし、且つ、米価は上がり「インフレ」を逆に助長してしまう事に成った。
    遂には諦めて、上記した様に「大激論の次善策」に出た。

    (注釈 結果的には「新田開発」は昭和20年頃まで大きく進まなかった。
    明治期に成っても試みたが、結局は、財源とリスクの狭間で成功しなかった。
    その最大の原因は、「水利に関する灌漑施設の稚拙」により進まなかった。
    何故かと云うと、日本の地形は、そもそも「山間部と平地」と「河川敷と干拓地」で出来ている。
    この為に「山間部と平地」は“「棚田」”と成り、「河川敷と干拓地」は「水害と塩害」の障害を持っていた。
    従って、この「地形の欠点」に打ち勝つための「水利に関する灌漑」が非常に難しかった。
    これは現在でも同じであるが、この問題を昭和20年頃以降に解決したのは“「科学技術の進歩」”により「灌漑技術」が飛躍的に進んだ事に依るものであった。)

    そこで「吉宗等」は、寛永20年に出された「田畑勝手作禁止令」を緩めて、そこで、次善策が講じられた。
    それが享保20年に出した“「田畑勝手作仕法」”である。
    議論の末の「次善策」として、つまり、「米作地」に「外の農産物」を植え付ける事を許したのである。
    これもやって見なければ判らない「大きな賭け」であった。
    これは、「米の収穫量」が低下する事への懸念であり、一種大きな危険であった。
    然し、ところが、既に、「民間の地権者」の間では「米作」では生きて行けないので、既成事実化していた。
    現実に、人口が増えるのに逆に主食の「米の収穫量」は低下し始め、餓死者も出る程であって農民や庶民には幕府と藩に対して不満が溜まっていた。

    それは、農産物によっては、「他の農産物の価格」が人口増加に依って「米」より上回った事に依り、その分を「儲け分」から支払う事が起こっていた。
    各藩も危険を承知で黙認した。
    最早、「米本位の体制」は、他の農産物の販売による金銭化で「金納システム」が大きく汎用化して黙認されていたのである。
    (矛盾の進行から体制崩壊は近づいていた。)
    そこで、激論と成った「自作農」には、この状況では危険が大きい事、否、むしろ、この状況だからこそ「自作農」を進めるべきだとする意見の衝突が起こった。
    この事から、当面、「体制の崩壊」だけは避ける事で一致し、兎も角も、慌てた「吉宗等」は、上記した「田畑勝手作仕法」で「金納システム」の“「先取り」”したのである。
    こうする事で、「次善策」として「自作農とよく似た体制」を考え出した。

    つまり、これが「米の耕作地」に「他の農産物」を作ると云う事は、「地権」は除き「農民の土地に対する裁量権」を最低限に保証し確保すると云う事に成る。
    当然に、何でも良いと云う事では無く「儲かる物」の「作付け」を行う事に成った。
    これを市場に出す事で金銭が獲得できる。
    後の問題は、「地権者(地主)」が「作付け」を認めるかにあり、「米納」で不足する分は「金納」で補える事であれば認める事は自明の事である。

    何と、これは「青木氏」に執っては、上記した様に、「殖産地の名目」を「混合作」で「自作農」を増やしていた奇策と一致する。
    激論はここに納まったのである。
    注釈として、この「伊勢の経験策」を提案したのである。
    そこで、これを「矛盾の解決の次善策」として全国に法令として発した。

    そこで、「他の農産物」と云っても、「儲かる物」でなければ帳尻は合わない。
    思い思いに別のもの作物を作っては「儲け」には成り難い。
    当然に、地権者は「儲かる殖産品」を通して、「作付け」を推奨する事に成り易い。
    何はさておき、“売る、裁くと成り儲けを出す“と成るとそう簡単ではない。
    何時の世も当然の如く「販売、運送、営業、警護」等の経費が掛かる。
    この「中間管理費の経費」までを含めれば、これを一人で行う事は不可能であり、且つ,儲ける事は到底無理である。
    況して、当時の「仲買システムの社会」では、先ず「農業」をし、一方で販売は片手間には出来ない事である。
    この「仲買システム」を農民一人が崩す事は出来る訳がない。

    但し、崩す事が出来る者がいる。
    それは「地権者の地主、氏上さま」で吉宗の顧問衆の「青木氏等」である。
    ただ単なる地権者に成った「投機的な商人」でも無理であった。

    (注釈 この江戸期の事例が記録として残っている。現在も存在する「日本最大の豪商」は「新田開発」も行い、「地権者」に成って「田畑勝手作仕法」も手掛けて、これを投機として扱いこれに大失敗している。)

    現在の様に「農業組合」が在って何もかもやってくれると云う環境ではない。
    況してや「小作農」と成ると、そこまでは「裁量権」は無い。
    必然的に「よく売れる農産物の殖産品」と成り、結果としては、財力と販売力等を持つ「豪商の地権者」や「郷氏等の大地主」に成る。
    「自作農」にしろ「小作農」にしろばらばらに自分が勝手に作って直接の路地販売で売ると云う事もあろうが、この程度の事は前法令(「田畑勝手作禁止令」)を破棄して逆の法令を作る目的の計算の中には入らない。
    「田畑勝手作仕法」の「裏の目的」は、上記の「新田開発」が進まない以上は、後は「殖産を高める事」が目的以外には無かったのであった。
    米作以外には江戸時代には、「殖産品」としては「綿や菜種や楮や黍粟や甘薯や甘蔗」があり、畑作の農産品の「野菜類」(人口増加の為の増産)であった。


    筆者は、この「体制矛盾」の「自作農」を進めると、以上の事から、“幕府体制が危うくなるとの危惧”を持っていて結論に至っていなかったと考えているのである。

    それは、「地権」である。
    「地権」を広く認めると「藩の独立性」が保てなくなると危惧していたのである。
    藩は「領主さま」である。
    その「藩国の最大の地権者」で在るからで、「地権」に対する「税」としては「対価」は獲得は出来るが、「地権」を認めている以上は、「土地」に対する「細部の支配権」は及び難く、ある程度の任してしまう以外にはない。
    「強権」を発動して「地権」を停止させれば、「税に対する見返り」と「領民の反発」は免れない。
    彼らの「裁量権」があるから、「税」が増える訳で、「強権」を発動すれば、税は下がる。
    歴史の中で、この「強権」を発動して成功した例はない。
    典型的な例は土佐山内氏であり、末代まで悪評が残った大名である。
    何より「細分化」と「商品化」に依って、「地権の細分化」が誘発されると「領主の裁量権」が低下する事は明らかで、「認可制」にせざるを得ない。
    自らの「裁量権の低下」と、経済効果による「税収の増加」を天秤にかける事に成る。
    難しい「舵取り」と成ろう。
    それだけの危険性を領主は担保するかであり、上記した様に固定観念の高い領主はしない。
    「吉宗」も躊躇して「顧問の勧め」に結局は応じなかった事に成る。議論は白熱した。

    そこで、この様な「享保の経緯」を持った侭に「自作農策」については、前段で論じた様に、結局は、明治期に成って維新政府と共に、正式に実行したという過程を持っているのである。
    「伊勢青木氏」は、“「地租改正」”と共に、“「農地解放策」”は連動させる「維新政府の方針」でもあったが、然し、“「何かの理由」“を以って同調し協力した。

    (注釈 上記した様に、「享保期の議論」の経緯もあり「持論」でもあったが、それ以上の「何かの理由」があった。)

    然し、これは当然に「貴族院等の大地主」に猛反対されていた“「農地解放策」”であった。
    ところが「維新政府」に従い、率先して積極的に「賛成の立場」を執り、同調し協力して「自作農の選択肢」を選んだ者等に対して「農地の地権放出」をした形となっている。

    (注釈 これも上記の「新田開発」と同じ様に、その後に、この殆どの「地主らの反対」を押し切って、第二次大戦後(昭和20年)に、連合軍の意向を受けた議会は、「国民の自由性」を拘束しているとして、「農地解放:自作農創設特別処置法」を強行した。)

    (注釈 「新田開発」には殆どの「青木氏」は積極的態度を採っていない。
    それは「殖産」と云う事で“殖産地を造成する”と云う方針で臨んでいた。
    「新田開発」は主に「米作」であって「自作農」と云う方針には一致せず、「小作農」を増やす事に成る。
    あくまでも「体制矛盾」に成らない「殖産」に主眼を置いていた。)

    従って、「農地の地権放出」をした形を採った「伊勢」では、「農地権」を持った「自作農の郷士衆」のみならず、「小作農」から多くの「自作農」に成った農民にも「地租改正」で「税の直接の納入義務」が発生したのである。
    それを「維新政府」は、最初、「地価の3%の金納」として「平均反の収穫」を前提として全農民に政府は申し渡したのである。
    つまり、「維新政府の思惑」は、当然の様に「より安定した租税収入」を期待したのである。
    その理由は、地域や年度で「固定に近い地価」と、収穫量で「変動する米価」とのズレが大きかった事が所以していたのである。

    享保期から設定された“「米相場制」”で云えば、旧来の概して農民が6、政府が4の「獲得比率」であったが、「米相場制」を採ったにも関わらず、未だ「金納方式」ではこの比率を維持されていなかったのであった。

    注釈として、「享保期の米相場制策」に対して、上記と前段でも論じた様に、「布衣着用の勘定方指導の青木氏等」と「吉宗」が採った政策措置にはここに論理性が若干欠けていた。
    “欠けていた”と云う事は無いと思うが、「米相場制の創設策」は米量を介入操作しての「米価の安定」が図られる事から良いとしても、これをやる以上は少なくとも「対の政策」として、「米納制」から「米価制の金納制」に切り替えて「貨幣価値」の「貨幣流通性などの事」が経済論としては必要であった。
    然し、当時の他の体制(米基幹経済)では、この「米価制の金納制」に切り換えて耐えられる事は出来なかった筈である。

    (注釈 前段でも論じた様に、幕府は財政的に困窮していて暴動が起こった場合に抑え込む軍事力を維持出来ずに崩壊するは必定で、その上に飢饉が連発し庶民は喘いでいた。
    実際に「矛盾解決の必要性」は感じていても到底出来なかった筈である。
    然し、「「青木氏等の顧問(ブレーン)」は、この経済効果の大きいこれを「主改革」と位置付けて実行してほしい政策であった事に成る。
    「ブレーン」の中には、「吉宗」とお目見えできない紀州藩家臣の「伊勢藤氏の家柄の優秀な者」も居た事が書かれているので、相当に「二足の草鞋策」を敷く「青木氏等」と激論に成ったと考えられる。
    恐らくは、この「激論」は、「青木氏の屋敷」で開催されていた様で、それを「吉宗」に報告していたと考えられる。)

    従って、取り敢えず「事前の策」としては、「米相場制策」に留めて「時間的猶予」を待ったと云う事であろう。
    依って、出来なかったと云う事ではないかと判断される。
    つまり、過去の「青木氏との小作比率関係」が維持されない事と成って仕舞った

    維新政府が「安定した財源確保」を狙った事から、出来る限り「農民」では無い「青木氏等の地権者」からでは無く、「農地権」を農民に引き渡す様にして政府は安定性を確保しようとしたのである。
    ところが、「地価」を低く見積る事は当然の事ではあるが、「自作農」の「地価の申告率」が「相場の地価」に達しない場合が多く、その場合は「政府が示す地価」を以って強制とした。

    これに反動する者等は、元は「納税者」では無かった「小作農」であった「農民」等は、これに対して「変動する収穫量」とのズレが大きかった地域では「大騒ぎ」と成った。
    そこで維新政府は、「妥協策」として「地価の申告制」のみならず、「税」そのものも「農民の地権者の申告制」を導入した。
    それに依って、「租税制度」に“「申告制」”が加えられる様に成り、一時納まりを見せた。

    然し、ここで、この「収穫量の申告制」に「政府の見立て」との間に大きな差違が生じ、上手く行か無かった。
    そこで「維新政府」は、再び「政府指定制」に変更した。

    「政府指定額」と「申告制」の誤差の「租税の不足分」は、「労働」などに依り「代納制」を採用し、「労働か金銭で補う仕組み」に変えた。
    「租税制度」=「申告制」(地価・指定税)+「代納制」(金納 労働)
    以上の図式が敷かれたのである。

    この図式が、更に「不満の火に油」と成り、「伊勢暴動」が起こり、何と完全解決までには約5年間(明治14年終結)も続いたのである。

    これ、即ち、この「伊勢暴動」を経済的に精神的に支えたのが、何と「元地権者」であった「伊勢と信濃の賜姓青木氏」であった。

    (注釈 「享保期の議論」の「体制矛盾の解決」や「自作農策の経緯」もあり、何故、支えたのかは判る。)

    さて、ここで伊勢を始として顧問と成った「青木氏」が、どの様にこれらの事を内部的に取り扱っていたのかを知っておく必要がある。
    それは答えから先に、「青木氏の心魂」と云うものがあったと云う事である。
    「青木氏」に関わる者の「統一した行動指針」と云うものがあったと云う事である。
    それは、次に論じる「三つの事」にあった。

    そもそも、明治期に成ってその「農地権」を率先して放出した「青木氏の心魂」としては、前段と上記した様に、経済的には「仏施の質」に代表されれる「商業組合」であり、政治的には「米価八策」や「田畑勝手作仕法」であり、これらが「江戸の改革」を成し遂げられた所以でもあった。
    これは全て「悠久の固い絆」で結ばれた「青木氏の氏族の民」にあるとして、「未来の事」を考えて、これ即ち「農地権の放出」が「本来の採るべき姿」と考えた事にある。

    これは、「商業組合」や「江戸の伊勢屋の仏施の質」等や「政治に関する吉宗の顧問役」にも、その「前段の掟」に依って生まれる概念にも、“「青木氏の心魂」”と云うものが現れている。
    手紙等の資料の行に観ると、これを敢えて、“「青木氏の心魂」(前段の掟)”と名付けていた様である。
    「青木氏の氏是」や「青木氏の家訓10訓」と共に、幾つかの資料の一部の「行」にこの表現が観られる。

    所謂、一部、この「三つ」は、今で云う“「青木氏の憲法」”の様に捉えられていた様である。

    「青木氏の憲法」=「青木氏の心魂」(前段の掟)+「青木氏の氏是」+「青木氏の家訓10訓」

    「青木氏の根幹に関わる四家制度」は、この「青木氏の憲法」(「青木氏の心魂 前段の掟」、「青木氏の氏是」、「青木氏の家訓10訓」)を基に「意志と行動」が統一されていた様で、「命令と罰則」は「四家制度の福家」が差配していた様である。
    その時の根拠は、「50程度に成る慣習仕来り掟」は別として、それらしきものは何故か見つかっていない。
    ただ、発祥から1200年以上も経っているが、「氏の律と令」と成るものを作るには無理であったのか、将又、敢えて作る事をしなかったのかは判らない。

    然し、注釈として、筆者は、“敢えて作らなかった”とする説を採っている。
    「行動指針となる基本概念」は氏族一門や氏人には定め求めるが、詳細な「律や令」の法で固く縛る事を避けたと観ている。

    ではどうしていたかと云うと、「御師制度」と云うものがあった事から、これに依って夫々の「職能頭の差配(郷士衆頭)」が働き、これを「四家制度の福家」が「最高裁の判事の様な役割」の差配をしていたと観られる。
    兎にも角にも、「四家制度」は、悠久の時を維持された完成された制度であったのだろう。

    (注釈 これ等の事を書き記す「祐筆役」は、前段でも論じたが、「達親制度」であった事からも「菩提寺の住職」が務めていた為に、判例に成る様な事が書かれた“「古書」“が見付かる筈であるが、焼失した菩提寺に一切保存されていた可能性がある。
    「青木氏」に関する殆どの事の行節は、今まで「郷士衆頭の家」には見つかるが、この件では見つからないのは「菩提寺保存」が原因していると観られる。)

    では、一概に“「青木氏の心魂 前段の掟」」“とは云えども、そう簡単に成せる精神では無い。
    これには、相手のある事で、相手も何がしかの「青木氏」に対する「太い絆」の様なものが無ければ成り立つ話では無い。
    前段でも論じたが、「氏上と氏人の関係」がこの「青木氏の心魂」と成る「太い絆」を作り上げていた。

    青木氏福家40代の筆者には、「青木氏の氏是」と「家訓10訓」は大いに理解され、これが何時の世にも生きる「真理」で「筋目」である事は納得出来るし、それで生きて来た。
    然し乍ら、最早、この「青木氏の心魂 前段の掟」」は無い。

    では、何故、累代の先代は、この「青木氏の心魂」に成り得たのかと云う疑問である。
    これは何も「青木氏の偽善的行為」の論を展開する心算では無い。
    そんな事をしても意味が無い。これこそ、「青木氏の氏是」である。

    それは次ぎの事にそれが表れている。
    先ず、上記の「農地権」の時の取り分の配分は長く「4:3:3」であった。
    この事からも「青木氏の心魂 前段の掟」が理解できる。
    「農民の3」に対して「地権分の取り分」は「4」であって、「3」が生活に必要とする絶対分量分であるとすると、4−3=1は脱穀や苗分や水路などの管理費などの「諸経費分」であるので、取り過ぎでは無く、明らかに「3の均等配分 (3分の利)」の考え方に成る。
    もし、「利」を上げようとすれば、世間並みの「5:2:3」と云う事に成るだろうが、然し、明治初期まで1200年以上はこの比「4:3:3」の“「3分の利」”であった。
    「青木氏の心魂」を数字的に表すとすれば、この様に成り、この“「三分の利」”は前段から論じる「青木氏」を見事に物語っている。

    記録から推測すると、「青木氏」では殆どこの“「三分の利」”の概念で統一されていた様である。

    そこで、「享保期に議論」の末に定めた「五公五民の場合の青木氏」の扱い方は、次の様に成る。
    「一公」増える事に対して、「青木氏の氏人の負担」を極力軽減する策として、上記で論じた様に旧来から採用していたが、今度は大手を拡げて「田畑勝手作仕法(1735年)」を利用して「殖産」で対応した事が資料から判る。

    つまり、紙箱や楮和紙や菜種油や木綿の「生産の内職」と、他の農産物で儲けるられる「砂糖にする甘薯」や「酒にする甘蔗」などの「農産物の作付け殖産」であった。
    これ等の「殖産」で「一公以上の利益」が上がったと記されている。


    注釈として、享保期に「吉宗」は、それまでの「四公六民」から「五公五民」に変更した所以も、顧問と成っている「青木氏」等のこの「三分の利の考え方」を採用したと観ている。

    そもそも、「四公六民」は「自作農」の場合であって、「小作農」の場合の普通は、「六民」を「4:2」であった。
    つまり、「4:4:2の取り分」であった。
    然し、当時、生きる為には最低「3」が必要であった。
    その為に内職や粟などの穀物類で「生活の質」を落として維持されていたとしている。
    ところが「青木氏」では「小作農」は、旧来よりの「三分の利」を基に「3」を「取り分」としていた。
    そもそも、「青木氏の小作農」は、他の豪商などの「勝手方地権者の小作農」と異なり、「絆のある氏人」であって、単なる「小作人」では無かった。

    (注釈 江戸期からの「多くの諺」にこの「三分の理」を唱えるものがある。
    これは「青木氏」等が持つ「三分の利の概念」が「享保の改革」の過程を通じて世間に広まったのではないかと考えられる。)

    其れは、封建社会の中で平等性の高い「三分の利の概念」を基に、「身分や立場」を大きく「二つ割」にするとすれば、「五公五民の概念」が生まれる。

    この概念を以ってすれば、「公の立場 (三)」に「民の主立場 (三)」と「民の従の立場 (三)」の様に「三つ割」にするとしては、“「三分の理」”が生まれる。
    残りの「一理」は”「賄いの理」”である。

    この”「賄いの理」”は、この「三者」の何れに所属させるかは、その事の内容にも依るが、「税」としは「賄い」は「公」に所属する。
    この意味で、“「四公六民」”の「六民」をこの「三分の理」で解釈すれば、「民の主立場 (三)」と「民の従の立場 (三)」で、「公」は「賄い分」とで四分と成る。
    後は「三分の理」を原則としながらも、「六民の分け方」に従う事に成り、これは「民の主立場」の者の「考え方」に左右する。

    「五公五民」と「四公六民」とには、「六民」とすると「民の主立場」の者が、享保期前の様に経済状況が悪化した場合には、多くが「地権だけの商人」の「小作農」と成った事で、この「三分の理」に従わず「四分」、又は、「五分」の取り分を強行した。
    これが「農民の生活」を極度に圧迫させる事と成った。
    農業に無関係な「地権だけの商人」、況や「勝手方地権者」にこの行為を抑制させる策であった。

    「勝手方地権者の行為」のこれを観ていた顧問等は、この「三分の理」を「幕府の考え方」であるとして衆知に至らしめ、先ずは、護らせる事が「五公五民とする策」を成功させる事に在った。
    且つ、これが「自作農」に成らない「第一に解決しなければならない障害」と成っていると理解していたのである。

    そこで、「五公五民」の法令(1728年)と、「三分の理(「三分一米納令」1722年)」の概念の「二つの法策」を以って「平均的平等の概念」を幕府は示したのである。

    これは封建社会の中で、「政治政策」は、当に「身分格式権威の政策」の中で、「経済政策」だけが”「平均的平等の概念」”を敷くと云う事は、「士農工商の民」は「驚きの事」であったと考えられる。

    その「驚き」とは、次の様な事であった。
    上記の「諺」から、「士農」は兎も角も、「工商」は理解し直ぐに取り入れたのである。
    問題は「士」であった。
    「農」は「三分の理」が認められれば問題は無い。
    一割にも満たない人口の「工商」は、そもそも無税であり、経済が活性化すればそれに越した事は無いし、むしろ望んでいた事であった。
    後は「士」の集団の「藩」は、「三分の理」が認められれば、「四公」、又は「五公」とすれど「三分の理」で「賄い分」が確かに藩に入る計算には成る。
    「四公」の時(正徳)までは、この「賄い分」を幕府は藩にあるとして補償していた。
    ところが、「五公」の時(享保)は、一見「公」が「一分」を多く「取り分」とした様には観える。
    然し、「民」も「五公」である。
    これは明らかに「平等の取り分」であり、後は「民の中の問題」であるとすると、「田畑勝手策仕法」を認めれば「民の中の矛盾問題」は明確に解決する。
    とすると、後は、「賄い分の扱い」であり、当然に「公」に成る。

    ところが、この「賄い分」はその「賄い分」の内容に依る。
    「自然災害」が多発すると「農地の復興費高騰」や「生活環境」や「政治環境」が悪化した状況では「農地の放棄」等が起こり、「一分の賄い分」では成り立たない。
    又、「悪循環」を繰り返す事に成り好ましくない。
    そうすると、結果として「賄い分の引き上げ」を「公の藩」は狙う事に成る。
    ここに、「顧問等と吉宗の狙い」があった。

    「民の五分」を安定させ、生活と収穫率を安定させる為には、この「賄い分の引き上げ」を阻止する事で、何とか財政を保とうとして「藩の緊縮策」が行われる事に成る。
    その阻止策が、「五公五民の策(1728年)」を打ち出す前に、諸藩に「三分の理」を「政治の概念」としても、先ず徹底させる事にあった。

    それが、「青木氏等」が悠久の時を経て維持して来た「三分の利の概念」を「三分の理策の周知」と、それを基にした、即ち、法令の「三分一米納令 (1722年)」で統一させて「賄い分の引き上げ」を阻止したのである。

    これで、諸藩は、この思いがけない「馴染みのない三分の理」に従う以外には無く、「緊縮財政」に入る以外には無く成って仕舞った。
    その策で統一された後に、「諸範の緊縮財政下」で「五公五民の策(1728年)」の「米価の次善策」の本策を打ち出した。
    一見すると、諸藩は「五公」の「内部の仕組み」を読み込めず喜んだ筈であり、「五公五民の策」は反対を受けずにすんなりと浸透した。
    「青木氏等の顧問」と「吉宗の思惑」の通りの「効果てき面」であった。

    次ぎにこの「本策」を打ち出した上で、上記した「田畑勝手作仕法(1735年)」を認めたのである。

    (注釈 上記の通り「青木氏」では、既に「殖産」を名目に、「一地一作の令」の「逃れ策」として次男三男の「小作農地の確保」と「就職の救済策」と「生活の補填策」として「米の耕作地の田地」を有効的に活用していた。
    これを改革の「矛盾解決の政策」に用いたのである。)

    これには、当然に、この「二つの法策」(「三分一米納令」と「五公五民」)を以って「平均的平等の概念」を示した上で、「田畑勝手作仕法」を発令して「二者で一分を補い合う概念」を提示したのである。
     
    この「二つの法策」で以て、「民の主立場(「地権だけの商人」の者は、「民の従立場(小作人)」の者に対して「最低限の生活」の“「三分の利」”を認めざるを得なく成った。
    これに依って「矛盾の一端」を何とか緩やかにして解こうとしたのである。

    決して、通説にある様に“「税」を上げた“と云う事では無かった。
    「経済政策での三分の理」であったとすれば「三分の利」と成る。
    然し、此処で敢えて経済政策に「三分の理」と明示したのは、”政治も「三分の利」の概念にせよ”として「理」を使って暗示したのである。


    「青木氏の資料」では、“「三分の理」”では無く、“「三分の利」”と明記している。
    ここに意味があった。
    そもそも、この“「三分の利」”には、「平均的平等の概念」として次の様に記載されている。

    資料から可成り古い時期(平安末期 925年頃)に定められた概念ではないかと考えられる。
    そもそも、それを解釈すると、「理屈」の「理」にある様に全てが理窟の通りに社会は出来ていないとする概念を悠久の時を経て持ち得ていた。
    上記した様に、「青木氏の憲法的位置づけ」の「三つの是」に示される様に、「主源」は「理」は認めるものとしても、細部の「従源」は「利」に通ずるものとして理解されると記されている。
    これは、「青木氏の氏是」にも「・・・に晒す事無かれ何れ一利なし]「されど・・・にも憚る事無かれ、何れ一利なし・・」と表現されている。
    この「青木氏の氏是」の通り、下記の出自を持つ「賜姓臣下族」で「賜姓五役」を役務としながらも「一理」とは決して表現していない。
    本来であれば、「一理」とするであろう。

    「経済と政治」は、取り分け、突き詰めるとこの「利の原理」に従っているとする説が表現されているのである。

    (注釈 「青木氏の憲法」とは、「青木氏の心魂 前段の掟」、「青木氏の氏是」、「青木氏の家訓10訓」)

    これは「青木氏」が、この「経済と政治の世界」に身を委ねていて、「軍事」は「シンジケート」に任せている事で生き延びられて来たし、その上での上記の「青木氏憲法」と成るものが成立している所以である。
    この「シンジケート」と云えども、突き詰めれば「経済での結び付きと信頼」であった。
    故に、この「悠久の歴史」を持つ環境下での「利の概念」であった。

    これ等を「顧問」として「吉宗」に主張したものと考えられるし、「吉宗」も「六兵衛」と同じ環境下で育った事から「同じ考え方」を持っていた筈であり、この「三分の理」に基づき「税対策」などは行われた。

    (注釈 上記した様に、「定免法」と「買米令」を間に時を得て発して上記の策を勢いづけた。)

    この時に、身分や格式や階級や主従の関係制度が最も強かった江戸時代の社会に、この「三分の理」が分け入る様に勢いよく浸透していったのである。
    ある意味で、「三分の理」が浸透する社会とすれば、”「平均的な平等論」”や前段で論じた”「商業組合による自由論」”が、元々、「顧問と吉宗等」は、兎も角も、庶民にも基礎的な考え方が強くあったのではないかと考えられる。
    故に、「下記の諺」を遺す様に浸透していったのである。

    ここに、因みに「青木氏の歴史観」として「青木氏」の悠久の歴史を得た“「三分の利の論」”が生きているのである。

    (参考 この時、江戸社会に広まった類似語を提示すると以下の通りとなる)
    泥棒にも三分の道理
    盗人にも五分の理
    乞食にも三つの理屈
    盗人にも一理屈
    柄の無い所に柄をすげる
    藪の頭にも理屈がつく
    理窟と軟膏は何処柄でも着く

    以上、これだけの事が江戸社会に広まった。

    これを観れば、最早、「庶民の常識」と成っていたのであり、身分や格式や階級や主従の関係制度の中で、この「常識化した概念」とうまく折り合いを就けていた事に成る。

    ”「平均的な平等や自由の概念」”が、「五公五民と三分の理」の「二つの政策」の施行で「吉宗や顧問」らに依って、更に、次ぎの世にも「三分の理の概念」が色濃く潜在化させた事に成るだろう。

    (注釈 これは「青木氏の歴史観」として絶対に知っておかなければならないものであり、取り分け、これだけ社会に「基本概念」を植え付けたのにも関わらず知られていないのが、この「三分の理」であって、これを法制化して1722年に発効させたのが「三分一米納令」である。
    これは現在の「平等と自由の概念」と成るものであったのだ。)

    そこで、「米国の自由と平等の概念」と「日本の自由と平等の概念」が何となく違う感覚を持つのは、この事によると観られる。
    況や、この「三分の理」の「平均的な平等や自由の概念」が、この違う感覚の原因と考えられる。
    とすると、“米国から持ち込まれた”と云うよりは「日本独自の概念」であるとも云える。
    その起源は、下記の注釈に示す様に、奈良期から「氏上と氏人」に依って培われた「春日真人族から志紀真人族」の「後裔」の「氏族の青木氏」に引き継がれて来たものであったのだ。

    突き詰めると、「青木氏の心魂」として捉えられる「三分の利の概念」と「前段の掟」と云うものに付いては、これが“何故、続けられたか”と云う事にも成る。

    筆者は、「青木氏の考え方」を示す「注釈の数字の概念」を維持したこの“「1200年」”に答えがあると観ている。
    この「1200年」が「青木氏の心魂 前段の掟」を「一つの形」に築き上げたのであろう。

    「伊勢」は、何度も論じている様に、「不入不倫の権」で、“伊勢の事お構いなし”で護られて来た所以であろう。
    確かに、「北畠氏の介入」と「織田氏の浸蝕」の100年間近くは「不入不倫の権」は犯された。
    江戸期は有名な「家康の言」の“伊勢の事お構いなし”で再び戻った。

    (注釈 「不入」は、「江戸期の本領安堵策」があった事に依って適度にその義務を負った。)

    但し、「100年の介入浸蝕」が有ったとしても、「伊勢の民との絆」には傷は流石に着かず、安寧であった。

    「1200年の期間」は「地権の農民」との間は、最早、「絆=家族」であった筈である。
    「家族以上のもの」があるとすると、それが「青木氏と民」との間には流れていたのではないか。
    「家族の絆」でもせいぜい100年以内である。
    それが「1200年と云う長い期間の家族」である。
    「青木氏」は、莫大な「土地の地権者」として農民等の「民の戸籍簿」を造る義務を負っていた。
    その「民の戸籍簿・人別帳」は、苗字を持たない事から、元来、ルーツは無いが「青木氏」がある程度の「繋がり」を帳簿の中から持ち得ていて、これが「1200年間の繋がり」と成ると「青木氏の帳簿」は最早、役所以上でもあった。

    「100年の親子」では無く、それを超えて「1200年の子々孫々」の関係以上にあった筈である。
    「伊勢の民」の個々の家の「小さい歴史」も承知していたのである。
    「1200年の間」は、伊勢はある程度の範囲で護られ、この関係は途切れた事は無かったのである。
    “「途切れた事」“が無かった事から得られる「土地の潤い」から、「伊勢の民」の“「生活の面」”は護られた。
    としても、世間では当時の「村人」は、野武士等の攻撃や戦乱時の破壊が有って、簡単に安心して居られる環境の状況では無かったし、これに依って家族は破壊された事もあった。

    然し、この「伊勢」は、前段でも論じたが「青木氏の経済的支援と信頼関係と商い輸送の職務」とで結ばれた「伊勢シンジケート」で彼等を護っていたのである。
    従って、家族の“「安全の面」”はある程度に護られていた。
    この“「伊勢家族の絆」”は、1200年間絶える事無く護られていたのである。
    そもそも、「伊勢」では「襲う者」はあまり無く、襲うと逆に「伊勢シンジケート」に潰されると云う恐怖があって「ならず者」は避けたとされる。
    (注釈 伊勢を護る事は「元伊勢王の施基皇子の志紀真人族」の「賜姓五役の役」でもあった。)
    これが、「伊勢神宮の治安の前提」と成っていた。
    村人の「生活と安全」がある程度に確保されていれば、後は生まれるものは「家族以上の絆」であり、それは「完全な信頼と尊敬」で構築されていた筈で、その「村人の心根」は“「氏上さま」の呼称”でそれを如実に表している。

    その呼称は、「神社」に対して「氏子」が使う「氏神さま」では無いのだ。
    恐らくは、この呼称を1200年も使っていた事から、「村人」の「信頼と尊敬」は「神社の聖域」を超えていたと観られる。
    然し乍ら、かと言って無神論者達では無かったのであって、「氏上と氏人」が信心する神社はあった。
    況や「神明社」である。
    それは「氏上の青木氏=神明社・守護神=氏人」の関係にあった。

    (全青木氏の出自の注釈) 
    (前段でも論じたが、「皇族賜姓臣下族の青木氏」の出自は、「施基皇子(春日宮天皇 追尊)の孫」の「後裔」である。
    この「施基皇子の第六子」の「白壁王(光仁天皇)の子」の「山部王」の「桓武天皇」で、この「桓武天皇の子」の「第二子の嵯峨天皇」が発布した「詔勅」に伴い作成した「新撰姓氏緑」には、次の事が記載されている。

    「皇族 38」の「伊勢王」の「施基皇子の子」の「春日王一族」の後裔(青木氏)で、「春日真人族の裔」と記載されている。
    更に、その血縁にある「敏達天皇の曾孫族」が遺した「末裔の直系氏族」で、「敏達天皇の子の春日皇子」と同縁同祖関係にあると記載されている。
    そして、「春日真人族の後裔」に至ると記載されている。
    つまり、「敏達天皇の孫が舒明天皇」 「舒明天皇の子」が「天智天皇」 「天智天皇の子」が「施基皇子」であり、[天智天皇の第二世族の第六位皇子 浄大一位]で、「敏達天皇の直系第四世族」である。

    所謂、「第四世族」のここまでが「春日真人族」である。
    「天智天皇」は「大化改新」で正式に「第六世族」から「第四世族」までを「直系の後裔」と定めて変更した。
    つまり、「真人族の皇子」、或は、「朝臣族の王位」の範囲とした。

    注釈として、天皇が即位する度に、「第六世族」以降は「皇族の真人族」と「朝臣族と賜姓族と臣下族」の権利を失い都を離れる。
    所謂、「坂東八平氏」等がこれに当たる。

    但し、「第四世族」までを「皇子や王位の権利」を有し、「第五世族位」は次第に従う事を「天智天皇」は定めた。
    それまでは「第六世族」までは王位、第七世族は「皇位」を離れ「民」と成る。
    更に、更に厳しく皇子数に依って「第四位皇子迄」を「真人族」とし、「第六位皇子迄」を「賜姓族」と「臣下族」の「朝臣族」と成り得る。
    唯、「朝臣族」、「賜姓族」、「臣下族」、「王位族」の「皇族系四族」は、「天皇の意」に従う「天皇家の仕来り」であった。
    決して、希望すれば成れる事ではなく、自動的に成れる制度でも無く、「最優秀な適格者」が「指名される仕来り」であった。

    そもそも、注釈として、「施基皇子」は「天智天皇の第二世族」(敏達天皇の直系族の春日真人族の第四世族)にして「第七位皇子」であったが、「建皇子」が没して「第六位皇子」と成った。
    従って、「天智天皇の第二世族」でありながらも、「第六位皇子」として「賜姓族」と成り「臣下族」の「朝臣族」と成って、「皇親政治」に参画した。
    「敏達天皇の第四世族」である事からすると、「春日真人族の皇子」としての権利も有し、「賜姓臣下族」としての「志紀真人族」の「二つの立場」を持ち、且つ、「八色の姓制度」では「皇太子」を超え、前段で論じたが、「天武天皇」に次ぐ「浄大一位」の位に位置して「天武天皇」に代わって皇太子をさて置き「皇親政治」を差配した。
    「施基皇子」は「賜姓臣下族」とは成ったが、どの50程ある真人族より格式一切が上位にあった。

    (注釈 恐らく、後に追尊の「春日宮天皇」と成った以後、これ程の高い立場を持った皇子は居ない。)

    (注釈 この「施基皇子」は、後に「賜姓臣下族 751年」と成る。別名は志紀真人:施基真人:志貴真人である。)

    尚、「天智天皇の第八位皇子」の「川島皇子」は、特例を以って「賜姓族」を受け「臣下族」の「朝臣族」に列せられた。
    「天智天皇」の代に世族の第七位皇子であった事から「賜姓」は受けたが、「真人族」では無く「49の春原朝臣族」と「53の淡海朝臣族」の「同縁同祖族」である。
    「近江佐々木」の地名を採って「後裔の姓」は「近江佐々木氏」とした。全国佐々木氏の始祖である。
    この「佐々木氏と青木氏」の「二つの血縁筋の後裔」が上記した「近江佐々木氏系青木氏」である。

    (注釈 この「賜姓臣下族」と成った事で、「春日真人族」から系列を離れた為に、「志紀真人族」として列せられた。
    その事で、「施基皇子の第二子」が「春日王」。
    「春日王の母」は「託紀皇女−天武天皇の皇女」であり、「春日真人族」を同祖とした「青木氏」は「施基皇子の子の春日王の後裔」と成った。
    更に,「春日真人族」としての「施基皇子」が、追尊で「春日宮天皇」と成った事でもあって、「施基皇子の後裔の青木氏」は、「志紀真人族」の「春日王の後裔」と変更された。)

    (注釈 尚、「施基皇子の第六子」の「賜姓臣下族の末裔」としての「白壁王」は、「聖武天皇の皇子」が絶えた為に「井上内親王」を「后」として「他戸王」を産み、「春日真人族の直系の男系天皇」として「賜姓臣下族」から特例を以って「天皇」と成った。
    この「敏達天皇第五世族」の「光仁天皇」は「在位770年−782年」で、「光仁天皇の皇子」の「山部王」が「志紀真人族」(春日真人族の後裔)として「桓武天皇」として即位した。
    「施基皇子」は、「春日宮天皇」(後刻 皇位追尊770年 光仁天皇)と追尊され命名された。
    この事で、再び、「賜姓臣下族の志紀真人族」から「春日真人族の系列の天皇」と扱われた。
    これは「青木氏の記録」とほぼ一致する。

    (注釈 「後裔」とは、「枝葉族」を含む「末裔」とは異なり、直系で直ぐ後の裔を表現し「氏族」を表す。
    「青木氏が後裔」と成る。
    これより枝葉の「氏名の裔」が拡がるが、前段で論じた様に、「青木氏」では、「四家制度」と成り、ある範囲で「氏裔」は留まる仕組みを執っている。)

    (注釈 伊勢は上記の事として、古記録に遺るが、「近江、美濃、信濃、甲斐の青木氏」は、「天智天皇期の皇族の改革」と「嵯峨天皇の皇族の改革」の「二つの皇族改革」により発生した「真人族や朝臣族や王位」から外れた「皇子皇女」の内、「志紀真人族」の「春日王の後裔」の「青木氏」として、「青木氏」に入り「跡目」を継承し、「青木氏」を絶やさずに「皇位系五家五流」で継承して行った。(従って「姓名」は無く「氏名」だけの継承と成る。)
    この例外として、「真人族や朝臣族や王位」の同皇位資格を持つ「正規の賜姓源氏」からも「五流の青木氏の跡目」に入った記録がある。
    又、正規に皇位ではないが、「二つの改革」での同資格を持つ女系で繋がる「藤原秀郷流青木氏116氏」からも「青木氏の跡目」に入った幾つかの記録がある。
    「伊勢青木氏」では、前段でも論じたが、この「両流の氏裔」の「青木氏の事」を「四日市殿」と呼んでいた。)

    (注釈 但し、「新撰姓氏録」は「新撰」とある事から、「氏姓禄」としては完成されておらず、原稿状態で頓挫し、取り敢えず、この状態で後日に「表紙目次録」だけをまとめたものである。
    従って、「皇子と王との区別」や「同名の判別」も出来ていなく、「真人族、朝臣族 賜姓族、臣下族、王位族、皇族」の要り混じった「縁籍族の区分け」や、「同縁や同祖や区分け」も充分では無く、使うには可成りの努力がいる。)

    (注釈 別冊 「新撰姓氏緑」の目次では、「天智天皇系の春日王の末裔」として記録され、「皇族賜姓臣下族」で纏められたものでは、上記の注釈の通り、「志紀真人」として正規に出て来る。
    これは「始祖の施基皇子」が「春日宮天皇」と「光仁天皇」により追尊された事に依り、「姓氏緑としては、「施基皇子」の「春日王の後裔」と記されたもの。)

    (注釈 この「春日真人族」とは、「敏達天皇から天智天皇期」まで皇族の中で“「春日真人族」”として呼ばれ、当時は最高で最大の権力を誇った族で、そこから引き続き平安期の「嵯峨天皇期」まで“「志紀真人族」”として呼ばれ、“「皇親族」”として「政治の場」でも勢力を誇った。
    ところが、「嵯峨期の詔勅」が出され、「真人族」は政治の場からは離れ勢力が衰え、「賜姓族」も「源氏」と呼称する事に成り、「皇族で賜姓族」でありながらも賜姓源氏と成ると皇族の真人族を離れ一段下の「朝臣族」で「完全な臣下族」と成り、「真人族」から「朝臣族」と臣籍した。
    「賜姓五役」の様な役目は持たず、「武家」を構成するのみの「臣下族」で、依って職位を巡って源平が争い多くは絶えた。)

    (注釈 「嵯峨期の詔勅」で、「志紀真人族系の青木氏族」は、以後、「賜姓」は無く成り、「皇族の皇子皇女」が「氏」では無く「姓」を持ち、「皇族を離れる際」に名乗る「姓名」として用いられる事と定められた。
    結局、平安期末期まで「25皇子と18皇女」が「皇族」を離れたが、「嵯峨期詔勅」を使った最終、「賜姓臣下族」ではない「青木氏の姓族名」を遺したのは、僅かに「5姓族」に留まり、証拠を残す事が出来たのは正式には「2姓族」と成る。
    この内で、奈良期の高位の系列の立場を持った皇子(妾子は除外された)は「五流の青木氏」の跡目に入った。)(詳細は前段参照)

    (注釈 この内の「源氏」は「11家」であったが、室町期末期では、「姓族」は兎も角も、単独で「氏族」を形成したのは全く無く、「氏族」を遺した上記した「皇族賜姓臣下族の青木氏との血縁」で「姓族」と成っているが、恐らくは、「5姓」以上には及ばないだろう。
    後は「京の門跡院」と「比叡山寺」と「信濃善光寺」などの「僧侶」と「斎宮」と成って絶えた。
    この中で、最も多いのが「嵯峨天皇期」で、系譜に載らない妾子等や源姓も入れて「17皇子13皇女」が臣籍したが、戦乱や政争や経済的困窮や跡目不在で完全に絶えた。)

    (注釈 「春日真人族」で「志紀真人族」の「賜姓族臣下族の青木氏」は、前段で論じた様に「五家五流」であるが、ただ「近江と美濃」は「青木氏の氏是」を破り「源平合戦」で敗退して「氏」は衰退させ、江戸期に「氏の末端の傍系」が何とか「氏族」は兎も角も、前段でも論じたが、「青木氏等の援助」に依り、「姓」を何とか興して遺す事に成功した。)

    (注釈 藤原秀郷流青木氏は、958年「円融天皇」に依って「春日真人族」で「志紀真人族」の「賜姓族臣下族の青木氏」の「賜姓五役」を補完する目的で、特別に「真人族外」より「賜姓青木氏」を受け、「賜姓族臣下族の青木氏」と格式官位官職一切を同じとして出自し、「全国24地域」に「116氏の氏族」を形成した。
    相互に母系族の同縁同族の関係にあり、従って、「慣習仕来り掟」は類似し「同行動」を執った。詳細は前段参照。)



    それ故に、判り易く云えば次ぎの様な関係にあった。

    「青木氏と信頼と尊敬の関係」=「神明社との信頼と尊敬の関係」

    「1200年の親と子と孫の関係」=「青木氏の守護神」=「青木村の民の守護神」

    以上の数式にあった。

    「1200年の親と子と孫の関係」である限り、「青木氏の守護神」は「青木村の民の守護神」でもあった事に成る。
    その関係は、「青木氏=神明社・守護神=氏人」の単なる関係では無かったのである。
    その数式の成り立つ「守護神の神明社」は、前段でも論じたが何と全国青木氏の定住地に「500社と云う数の神明社」である。
    如何に「氏人」との間に洩れなく「青木氏=神明社・守護神=氏人」の関係を敷いていたかを示す確実な証拠である。

    (注釈 「氏族」は藤原氏の様に春日神社、「姓族」は道祖神社、民は稲荷神社等と個々に大なり小なり何等かの「独自の守護神」を持ち得ていた。
    取り分け、民と民から興した「姓族の道祖神」では、殊更に社屋を構えず道端の至るところに小さい塑像を据えて花を手向けて祭祀し、蜜社性を採らなかった。)


    現実に1200年も生きる人間はいないが、「村人」と「青木氏」の間には、互いに何十代も変わる事無く、「人」で引き継がれて互いの「信頼と尊敬の絆」を護った。
    そして、そこには相互に「伝統」と云うものが有った。
    これを途切れる事の無い様に「青木氏=神明社・守護神=氏人」=「500社の神明社」が敷かれていたのである。

    (参考 正しく青木氏が建設と維持管理に関わったとされる神明系社 合計 564社)

    内訳 
    神明社 180
    神明宮 126
    神明神社 143
    大神宮 24
    神社 29
    皇大神社17 
    其の他 44

    ・「青木氏と守護神(神明社)−2参照」

    但し、皇大神社 17 其の他 44を除くと合計503社  

    後は、江戸期初期以降のものであるが、この「神明社564社」も江戸初期に江戸幕府に引き渡した。その後、江戸幕府の財政難から社屋は荒廃した。)

    最早、この段階では「1200年生きた一人の人間」、況や、「1200歳の人間」が構築されていたと同じと考えられる。
    最早、これがこの世に現存する「氏上と氏子」であったのであろう。
    「青木氏」と云う「氏の親」に護られた「氏の子」であった。
    この「氏上」の「上」は意味合いとして「親」であった。
    所謂、「親と子」であったと示す呼称なのである。

    それが前段で論じた「青木氏の数ある掟」(「善悪の条理 相対の理」や「三分の利」等)の「概念の礎」に成っていた。

    そもそも、上記した(注釈)の“「氏の上」”は、「大化の改新」以後は朝廷によって任命され、「宗家」として“「氏人」”を統率して朝廷に仕え、その集団が「氏神の祭祀」、「叙位の推薦」、「処罰」などを司り、一定の「政治上の地位」を世襲したとするのが用語の語源で、この集団の「氏の宗家」を“「氏の上」”として容認した。

    依って、この大化期から平安期初期までは「氏上」と「氏人」には、確たる「上下の身分関係」ではそもそも無かったのであって、「氏人」(「家人」や「青木氏部民」含む)も集団の一員として”「朝廷に仕える准人」”であった。
    (平安末期からの荘園制で上下関係が生まれた。)
    当に「氏上」とは云うが、「姓上」とは云わないのはここから来ている。
    況や、「氏上」、或は「氏」には「氏人」がいるが、「姓」には「姓人」はいない。

    上記した(注釈)の「春日真人族」や「志紀真人族」の「氏」の「青木氏」には「大勢の氏人」がいるのである。
    これ等の「氏人」と共に「賜姓臣下族としての役(賜姓五役)」が求められる。
    「賜姓五役」が求められれば「青木氏部」が要る。
    「青木氏部」の「氏人」がいるから「固有の氏の村」が要る。
    「固有の氏の村」があるからこそ「氏」を護る「守護神」が要る。
    「天皇が賜姓した氏」であるから、「守護神」は「皇祖神の子神」の「祖先神」と成る。
    「祖先神」と成る以上は祀る「社」が要る。
    「社」があれば特定の「子神の神明社」が要る。
    「子神の神明社」があれば、「特定の神職」が要る。
    「特定の神職」が要れば「格式」を持つ。
    「格式」を持つ「神職」には、「志紀真人族」の示す「象徴紋笹竜胆」と「神職の格式紋柏紋」を授かる。
    そして「氏」から出す「神職」を出し、これを扱う「氏の方式」が要る。
    「氏から神職」を出すから「格式制度の達親」が要る。
    「神明社」があれば「氏の菩提寺」が要る。
    「氏の菩提寺」があれば「氏」の「大日如来像菩薩」が要る。
    「氏の如来像」があれば「密教」が要る。
    「密教」があればこの様に「連動する氏の役」が限りなく出る。
    全ゆる事に「賜姓の氏としての格式」の「連動する氏の役」が求められる。
    この格式にあった「慣習と仕来りと掟」(50程度)が定まる。

    この事は「春日真人族」から「志紀真人族」に成り、「賜姓臣下した時」よりその格式と伝統を汚さず護ろうとして「全ての事」が連動して起こり繋がる。
    この”「繋がる事」”で一つが欠ければ「全てが崩れ去る運命」にある。

    この所謂、「連動の鎖」を護る為に「伝統と云う接着剤」で繋げる。
    「氏上と氏人」が、この「接着剤」を「1200年の信頼に基づく絆」と云うもので囲うが、須らく「相互の概念」は同様の事と成り得る。
    これが、“「平均的平等と自由」”に基づく“「三分の理」”に通ずる“「伝統的な概念」”なのである。

    この様に「志紀真人族の氏」を構成する以上は、上記に連動する様に「氏人の為」にも逃れられない「義務」があり、これを「連動する事柄」が「担保」できない以上は、例え「氏の賜姓」を受けても消える以外には無く成る。

    これを「嵯峨期の詔勅と禁令」にこの事を明確に記しているのである。

    これを担保するのが、「紙屋院」として朝廷より開発を任された「賜姓族としての役」、即ち、「国産の和紙」を研究開発し、生産する事から始まった「二足の草鞋策」であった。
    この「二足の草鞋策」に「氏上と氏人」は懸命に「氏を遺す力」として懸命に取り組んだのである。

    室町期まで関連する役処として「朝廷の絵処院」、後の「絵処預」の支配もしていた。
    (結果として、この時の選択が「遺す力」と成った。)

    (注釈 前段でも論じたが、この「二つの役目柄(紙屋院と絵処院)」から、それまで中国から[苦土参の墨」が滲む質の悪い薄茶色の紙を輸入していた。
    これを何とか国産で出来ないかを模索し、「材料の発見」、その「適地の選出」、「栽培方法」、「紙にするまでの生産方法」、「使用に耐えうる紙質の改良」、「紙の色合い」、「墨との兼ね合い」、「保存の方法」、「生産体制の確立」等に、「氏上と氏人」が総出で手分けして懸命に取り組んだ。
    「天皇」自らも良い紙材が無いかを手分けして各地に出向いたとする記録が残っている位であった。
    結局、何処にもあって「繁殖力と生産力」が良い「楮」に成った。
    然し、これだけでは未だ解決には至らなかった。詳細は「伝統」ー4又は7参照)

    (注釈 それには、この「和紙に合う墨」とそれに「絶え得る硯石」と「良質の筆」の開発にあった。
    取り敢えず、「925年頃」に「和紙」から本格生産に入り、「紙屋院の役職所」を通じて「余剰品」を「賜姓族」としての「資金力」を作り出す為に、「二足の草鞋策」で「市場販売の許可」も出て手掛け、遂には「1025年」には「総合商社」としてこれらを中国に輸出するまでに成った。
    次ぎの段階として「墨と硯と筆の開発」に入ったとされている。
    此処までに約100年程度かかっている。
    更に「良質な理想的な墨硯」は、何と「後醍醐天皇」自らが「熊野詣」の途中で「紀州の藤白地区と日高地区」で発見したと書かれている。「青木氏」は「朝廷専売」でこれらの殖産に取り組んだ。)


    それが、前段で論じて来たこれらが“「連動する伝統」”であって、「春日真人族」から引き継いだ「志紀真人族の氏」として生き残った所以でもある。
    この「二流から成る氏の伝統」は連動しているのである。
    然し、「皇親政治」は廃止され生き残りが難しく成った平安末期からは、前段でも論じている様に、“「二つの青木氏」の「補完関係」”が大きく働いたのである。
    そして、「円融天皇」により「賜姓族」「臣下族」「朝臣族」と成った「藤原秀郷流青木氏(始祖 千国)」より「賜姓五役の補完」を受けた事から「二足の草鞋策」は、本格稼働して「氏の生き残り」は果たせる事の基が築かれた。

    (注釈 多くの「偽称の氏」には、この上記の様な「氏の担保するべき連動性」、即ち、「伝統」が無く欠ける。判明は簡単である。)

    (注釈 「嵯峨期の詔勅の禁令」で「二つの青木氏」だけが「氏名」を「村名」と出来る。
    つまり、これは「春日真人族と志紀真人族」だけが「氏名」を「村名」と出来る由来であり、追尊の「春日宮天皇」の後裔とする事を根拠としている。
    後は全て地名に由来するべしとする事を「嵯峨天皇」が「天智天皇の禁令」に対して更に追禁した事に由来する。)



    > 「伝統シリーズ」−28に続く


      [No.345] Re:「青木氏の伝統 26」−「伊勢と古式伝統」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2016/09/11(Sun) 08:13:16  



    > 「伝統シリーズ−25」の末尾。
    >
    >
    > 注釈として、この「伊勢郷士衆」との血縁では、現在の研究では、「青木氏」からの「娘嫁ぎ先」と「家人跡目先」としては「五氏」(・印)が確認できる。
    >
    > 「青木氏へ嫁入り先」は、確実には全て確認が取れないが、ほぼ同じ程度の「六氏」で,大正末期までの「長い付き合い」(親交)のあった「伊勢郷士」は血縁の有無は別として「五氏」が確認できている。
    > (恐らくは血縁はしている。江戸期中期で計11氏)
    > 然し、更に資料が見つかれば、少なくとも「伊賀郷士衆等11氏(18氏)」とは、清蓮寺などの資料からと、その前後の経緯から観て何らかの関係があった事が頷ける。
    > (室町期からでは計29氏)
    >
    > (注釈 平安期と鎌倉期の状態は度重なる消失で資料が見つからないので状況証拠以外には掴み切れない。)
    >
    > 伊勢の「櫛田川」を挟んで、「射和」の南側の玉城村(現在の玉城市)の全域は、「伊勢青木氏」が大地主(地権者)で、「伊勢紙屋の蔵群」と「松坂組の職人の職場と長屋群」と「射和組の職人の職場と長屋群」として成り立っていた。
    > この状態は、「農地」では無かったことから、上記で論じた様に、「資産・地権」として筆者祖父の代の明治35年(38年頃)まで続いた。
    >
    > 実は、「伊勢松阪」は、江戸期から明治期まで、「数十件以上の大火」として扱われる「火災」は何と「6度の大火」に見舞われた。
    > 従って、縁籍関係のこの種の資料は特段に遺らないし何らかの方法で追跡が困難に成っているのである。
    >
    > (注釈 これは上記した中央構造線の「地形上の吹き降ろしの影響」で大火が起こり易い。
    > この内の1件は「青木氏の伊勢紙屋」からの松阪の出火元に成る。)
    >
    > (注釈 この為に「古来の資料」が残念ながら多く消失しているが、「商記録」は別であった事と「菩提寺」や関係する「郷士衆の家」には「末梢の記録」が細かく遺されている事から、「充分な読み込み」をすれば「青木氏の歴史観」と繋ぎ合わせての経緯が生まれる。)
    >
    > 江戸末期にも2度の「大火」に見舞われ、「室町期末期の戦乱」に依る「焼き討ち」からも「大火」に依る「伊勢庶民の感覚」は、大火には特別なものがあり大変なものであった。
    > それだけに、商家界隈の何度も繰り返される「災難」には、そこから何とか立ち直ろうとする気概が強く、「伊勢四衆」の「生き残りの二氏」(二つの血縁青木氏)が立ち上がったのである。
    > (伊藤氏一族と伊賀氏一族は衰退)
    >
    > 江戸期までに生き残った「氏族」の「伊勢秀郷流青木氏」は、「紀州藩の官僚」として、「伊勢青木氏」は「郷氏の地主」として、「豪商」として、「殖産」を新たに興し立て直らせようとした。
    > 其れには、上記した「室町期末期の殺戮」と「度重なる大火」で「伊勢衆」は、上記の様に激減して仕舞ったのである。
    >
    > “「紀州藩の記録」”に依れば、この「伊勢衆」が他国に比べて特に少ない事を理由に、「伊勢の二つの青木氏」との「談合」を再三にしていた事があり、“「青木氏の年譜」”にもこの事が一部記載されている。
    >
    > 注釈として、「伊勢」の生き残りの「郷士衆」は、同じ時期の「土佐郷士数」の「全階級500」に比べて、50程度である。
    > 何と1/50に過ぎない。
    >
    > 「伊勢三乱」に参加した「郷士数」は、記録から凡そ「35程度」で、それが、最終は20以下に成っている。
    > 「伊賀の乱」に参加した「郷士衆35」が、前段でも論じた様に、清蓮寺城からの「青木氏に依る救出劇」で生き残ったのは何と最終11氏(18説)と記録されている。
    > (殆どは何らかの縁者関係にあった。)
    >
    > (注釈 普通は、その地域の「歴史的な経緯」も左右するが、原則の平安期からの「四六の原則」により「一国五郡制」であるので、一郡に興せる「郷士数」はせいぜい「25から30程度」が生存競争により限界と成る。
    > そうすると、藩主と成った者は、これでは元より「規定の家臣数」では賄えない事から、一国に「郷士数」は150程度に拡がりこれが限界数と成る。
    > これでは、藩主に課せられた「責任兵数」では足りない事に成る。
    > そこで、既定の格式を下げた“「準下士」”として「農民から傭兵方式」を採用する事に成るのである。
    > これでこの約3倍が用意される事に成る。
    > ただ、これには、「人様」を用意するに当たり “「ある仕来り」”が有って、「傭兵と成る者」(“「準下士」”)、つまり、主に「農民」には、“「元郷士」”であったとする証明が必要であった。
    > これを扱う「専門の仲介人」の「斡旋職業」が存在した。
    > これらが、この“「証明」”を作り上げて藩主に届けられたが、殆どは搾取であった。
    > 藩主もこの事は充分に承知していて「暗黙の了解」であった。
    > そこで始めから、紀州伊勢地域にはこの様な「傭兵軍団」が各地に編成していたのであった。
    >
    > 有名なのは「関西域」では、大きい「傭兵軍団」を職としているものとしては、次ぎの通りである。
    > 伊賀軍団、甲賀軍団、雑賀軍団、根来軍団、柳生軍団、河内軍団、十津川軍団、龍神軍団、橋本軍団、日高軍団、北山軍団と、「熊野六軍団」等
    > 以上の各地の“「郷士衆」”から成る「17軍団」があった。
    > 紀州伊勢はこの様な背景から実に傭兵軍団の多い地域である事が判る。
    > (臨時的に農民を集めた炊事などの雑務を担当する農兵の「農兵軍団」は除く。)
    >
    > 他に、「伊勢紀州域」では、重要な水軍による「傭兵の軍団」が次ぎの様にあった。
    > 熊野水軍、伊勢水軍、紀伊水軍、摂津水軍、堺水軍、と別格で駿河水軍
    > 以上の「水軍の傭兵軍団」の「五軍団」が在った。
    >
    > (注釈 「鎌倉期、室町期の戦い」までは、戦略上、「水軍の軍団」が無ければ、“戦いは負ける”と云われていた程に「重要な戦力」であった。
    > 「駿河水軍」は、関東域の水軍と成るが、資料から「平安期からの戦歴」を観ると、「関西域の戦い」に参加している傾向にあり、これはこの「駿河水軍」は「源氏方水軍」と云われ、「青木氏」(伊勢水軍と摂津水軍)とは、「青木氏の平安末期の跡目」に入った「摂津源氏の源京綱」との繋がりから大いに関係のあった水軍である。
    > 伊勢青木氏の同族一門の伊豆青木氏との血縁関係もあって、その勢力は「青木氏」を平安期から伝統的に補完していたのである。)
    >
    > 恐らくは、天皇自ら出向いて来る事は無かったと観られるが、代行の「縁籍筋の公家族」がこの“「権益」”を演じたと観られる。
    >
    > (注釈 "朝廷の「権益(ごんえき)」"の「代行役」は、何度も縁籍筋と成っている京の「叶氏筋」では無かったかと考えられる。
    > その証拠に筆者の祖母は、「京の公家族」の末裔の「叶氏の出自」である。)
    >
    > 恐らくは、江戸幕府は「嵯峨期の詔勅と禁令」を破って、“「家康」”が「青木氏等の賜姓臣下族の慣習や仕来り」を“「権威造り」”の為に利用して「幕府権威造り」の為に真似たとも考えられる。
    >
    > (注釈 徳川幕府は開幕以来一貫して権威造りの政策を実行した経緯がある。
    > 例えば、「三河の勃興姓族」でありながら強引に「藤原姓を名乗る」、「源氏姓を名乗る」、「征夷大将軍の頭領の称号事件」など数多くある。)
    >
    > ”「姓族の武士家」が行う「偏諱の催事」“としても「権威造りの制度」としたのである。
    > この事(「姓族の通名」)が、結果として、広く他の大名などにも受け入れられて引き継がれる様に成ったものである。
    >
    > 江戸幕府は、「朝廷との関係」が上手く行っていなかった事から、この「偏諱 (へんき)」を「吉宗の偏諱」を通じて利用して、「幕府自らの権威」を造り上げ高め、「朝廷の権威」に頼る事の無い様にした政策の一つである。
    > 「大名の跡目」などの時にも、この「武士様の偏諱」の「偏諱 (へんき)」に近い事をして「権威付け」をしたと観られる。
    >
    > これには、江戸幕府には、“「ある目的」”があって、無暗に与えるのでは無く、「幕府の意向」に沿って実現した者に、この「武士様の偏諱の儀式」を行って、その「見返り」に「幕府の権威名」を貰ったと云う事にして、従わせて行く政策を展開したのである。
    > 実に安価安易で行えて貰った大名側は、一種の「幕府のお墨付き」を貰ったとして「勢いづく事」に成る政策と成ったのである。
    >
    > 筆者は、この“「ある目的」“のこの「表の目的」は、上記した様に、「幕府の権威造り」に利用された事もあるが、「裏の目的」は、「紀州藩」への「幕府の意向」を”「ある決断」“で実行させた事への「信任状の意味」もあったと観ている。
    > 幕府主導でこれを表裏一体として連動させたと云う事であろう。




    「伝統シリーズ−26」に続く。

    この様に、「偏諱(へんき)」を知る事で、「偏諱(へんき)」で「吉宗」が「幕府(綱吉)」からどの様に観られていたか、扱われていたかが良く判る催事であった事が判るのである。

    そこで、「偏諱(へんき)」の持つ意味から考えると、「紀州藩の世継ぎ」に付いて“「家臣団のある決断」”にも可成り影響した事は確かであった。

    実は、この「偏諱(へんき)」(1705年10月)で、歴史的に「青木氏の歴史観」が変わる事が起こるのである。
    「吉宗 頼方・源六」は、1705年10月に「偏諱(へんき)」を受けたのだが、そうすると、ところが、歴史的に、この「偏諱(へんき)」で「吉宗 頼方・源六」は江戸に居たとする説に成るのだ。
    そうすると、この「江戸滞在の説」に成ると、「紀州藩の世継ぎ」の“「ある決断」”の意味合いが変わって来る。
    つまり、「吉宗(頼方・源六)」が、“紀州か伊勢に居なかった”と云う事に成る。
    “「ある決断」”の実行時には、現地の紀州に居ると云う事は戦略上、先ずあり得ない。
    戦略上では、「伊勢滞在」で無くてはならない。
    ところが、1705年の8月と9月に後継の二人の兄弟が急逝しているとすると、この直後(3月後)の1706年1月には、慣例に従わずに早くも幕府から「偏諱 へんき」を受けている。
    そして、「吉宗」は、その直後に「親王家の伏見宮家」から正室(1710年の死別)を迎えている。

    つまり、この経緯から「偏諱(へんき)」を受けた直後には、江戸から飛んで返して「婚儀の準備」の為に紀州か伊勢に居た事に成る。
    この事から、「喪中開け(1706年10月)」の直後に、「伊勢神宮」にて式典を行った事から紀州では無く「伊勢」に戻って居た事にも成る。
    兎も角も、慣例に従わず何事も矢継ぎ早である。

    そうすると、「紀州藩主」としての承認を受ける「黒印状授与」と、「権威付け」の「偏諱(へんき)」の前(1705年6月)と後(1706年10月)には「伊勢」に居た事に成る。
    この「伊勢」に居れば、“「紀州殿談合」(1705年6月)”の「伊勢青木氏の商記録年譜」から考えても非公式でも“「参加」“はしている事になるだろう。
    問題はその「参加の形」であろう。
    然し乍ら、“「ある決断」”の実行時は、書類の形式上では、“既に江戸に居た”と云う事に成っている。
    (形式上の書類の記録では「江戸滞在の形」を偏纂した。)
    しかし、「藩主」に成る者として、「ある決断の実行」を知らないと云う訳には行かないであろう。
    “「知らない」”は形式上では「家臣の謀反」と成り得る。
    「家臣の謀反」の形は、「幕府」に執って見逃し固い。例え御三家と云えども「取潰し」である
    従って、ただ、“「知る範囲」“で良いだけで、「実行の参加」は必要が無く、むしろ「現場」にいない事の方が「アリバイ」が求められ戦略上は良い事に成る。
    如何なる理由や原因があろうとも、記録的、書類的には「三者共に病気原因」で済ませる事に成る。

    注釈としては、「ある決断」の実行時から「4年以上も時間」を置いた「吉宗入城」は1710年である。
    この「長さ」は「黒印状授与」と「偏諱 へんき」を受けた藩主としては「尋常な期間 (4年)」では無い。
    先ず普通はあり得ないだろう。
    これを理由に騒ぎ立てる御三家も居たのである。
    前段でも論じたが紀州藩は、この時期は「財政上の破綻」に近く、この環境の時が時だけに藩主が入城しないのはおかしい。
    其れも上記した様に矢継ぎ早に慣例を無視して短期間で藩主に成っているのである。
    “「ある思惑」“が働き、紀州には居たくない、或は、居ない方が良いとする戦略が働いたと観られる。

    そこで、この“「家臣団のある決断」”とは、「三代藩主(1705年」と四代目の継承者の廃嫡)」であったと考えられる。
    この決断に至ったのは、「紀州殿談合」での中での参加者の意見から、前段で論じた「紀州藩の困窮」を救うには、「藩主の判断力」とその「政治的背景」を改善する以外には、最早、「25/55万石の困窮破綻」の状況下では方法は無い。
    これを解決するには、“「廃嫡」以外には無い”として、「伊勢藤氏」等を交えた家臣団の中で談合後に決断したともとれる。
    問題は、“「廃嫡の形」をどの様にして遺すか“であろう。

    (注釈 上記の「郷士頭の遺留手紙」から 一部の文章の行からこの事を匂わしていたと推測される。
    事の内容である事から秘匿を旨とする事であるので、“間接的な匂わし”で書いたと考えられる。)

    「25/55万石の困窮破綻」の紀州藩の「財政破綻」ともなれば、「吉宗育ての親の青木氏」が「吉宗・頼方源六の背景」と成っている以上では、且つ,家臣の彼らが「伊勢藤氏の同族」である以上では、先ず何はともあれやる事は、「青木氏」と「伊勢の紙屋」の「財力と地域力」に先ず頼る以外には方法は無い筈である。
    (「青木氏の紙屋」以外には「25/55万石の破綻」を救える商人は100%居ない。)

    そこで、「ある決断の実行」までの「応急策」として、「伊勢の紙屋」から「3年分6万両の借財」の契約を取り付ける事にあり、これを受けて、且つ、「優秀な吉宗」の「跡目の継承」を成し遂げる事と、「財力と地域力」の「青木氏」に依る紀州藩の「勘定方の指導」のこの「二策」を引き入れようとしたと考えられる。(現実に引き入れている。)
    其れには、当然に能力の無い「公家族系の二人の兄弟の存在が問題」に成り、“「廃嫡」“と余儀なく成るのは、当然の成行きである。(上記の「病気説と疲労説」は疑問)
    むしろ、考えない方が、実行しない方が「愚者の家臣団」であっておかしい事である。

    そもそも、江戸の当時としては、混乱後の「藩の安定」を図る上で、この様な「藩主の廃嫡」は珍しい事では無く、この「厳しい時期」には各藩で最も盛んに起こっていた。
    現実には、上記した様に、この時期には特に多くの「藩主廃嫡」が起こっていて「御三家の尾張藩や水戸藩」でも起こっている位の事である。

    例えば、次ぎの様に「御三家の尾張藩や水戸藩」を除いて、主だったところで「藩主の廃嫡」が起こっている。

    注釈として、大藩としては次ぎの通りである。

    尾張藩と水戸藩
    黒田藩(1655年)、
    西條藩(1705年)、
    岩代藩(1708年、1665年)、
    島津藩(1704年)
    以上等の様に大藩でもこの時期に集中して起こっており、矢張り、「経済的な行き詰まり」から「藩主の能力」に疑問があって家臣団が裏で合作している。

    取り分け、関西域では、小藩としてでも次ぎの通りである。
    「和歌山藩」「岸和田藩」
    「淀藩」「膳所藩」「彦根藩」
    「大和郡山藩」「明石藩」
    「姫路藩」「篠山藩」
    以上等にも起こっている。

    当時は、藩主の死亡原因の多くは、「病気」などの理由にされているが、後勘の研究で資料などが見つかり全て「厳しい廃嫡」であった事が判って居る。
    少ないが見本の様な「尾張藩」の様に「蟄居や隠居」で丸く納めて済ました事件もある。
    そもそも「紀州藩」だけは、「御三家の尾張藩や水戸藩」と同じ様な事が現実に起こっていて、後勘として公的に記録されているのに、紀州藩だけは公的な「後勘の評価」を受けていない。

    これは何故かである。
    これには、上記の様に、「幕府の偏諱」や「吉宗の廃嫡前後の配慮」等があって、記録が少ない事が云える。
    上記の廃嫡が起こった藩と異なる処は、実行した「紀州藩の伊勢藤氏の家臣団と伊勢青木氏」が居た処にあり、従って、流れから「後処理」をした事に依るのであろう。

    然し、「青木氏」等の家臣では無い関わりの強かった「関係者の遺料」には間接表現ではあるが遺されている。
    「伊勢藤氏の家臣団」は、事と次第に依っては「氏の名誉」にも関わる事であり、“遺料を遺す事を極力避けた”と観られる。
    と云う事は、この“「ある決断」”は、家老の重臣などを除いた「伊勢藤氏の家臣団」の上位の一部で行われた可能性が有るからだ。
    と云う事は、重臣が反対する可能性があった事が考えられ、それは二人の継承者に執っては「役柄の権益」に左右する事柄であった。
    その証拠に「嫡外子扱い」であった「吉宗藩主」と成った後には、これらの支藩の藩主と成っていた家臣の重臣等には「お役御免」が起こっている。
    「青木氏の勘定方指導」として入り、且つ、「借財」を受けた以上は重臣に執っては「施政方針」に従えない事もあり、退く以外には無い事に追い込まれるだろう事は判る。

    (注釈 中には「御屋敷族」から「御長屋族」に成った重臣も居る位である。ある支藩では立て続けに3人の支藩藩主が変わると云う事も起こっている。
    これは人事上の事が起こっていた証拠である。
    「吉宗」が江戸に将軍と成って下向した直後に、「青木氏」から指導を受けていた「勘定奉行」が突然に反発して勝手な事を発言して問題と成る等の事が起こっている。)

    上記の「二つの談合」に「二つの青木氏」が介在しての末に「善後策」を講じて密かに行われたと観られる。
    何時か「御三家の尾張藩や水戸藩」の様に、「尾張藩」は明明白白の行動を採り、藩主の経緯からも隠し切れない事であったが、取り分け、紀州藩と同じ様な経緯を辿りながら水戸藩の様に後勘で解明される事もあろう。
    此処では「青木氏の歴史観」の中で検証して置く。

    (注釈 前段でも論じたが、「光貞没後(1705年没)」の「四ケ月の間」にこの「三人」は続けて死亡している。
    死亡の原因説は疑問であり、これは恐らくは「廃嫡の後始末策の説」であろう。)

    故に、その後の「光貞没後5年」を経過しての宝永7年(1710年)の4月に「紀州入城」を果たした「吉宗」は、談合の「予定の善後策の計画」の通りに実際に直ちに「藩政改革」に着手した。
    これは「事前準備」が無ければ成せる事では無い。
    そもそも、上記した様に、「紀州藩の土台」が直ぐに改革を成せる状況の中には無かった。

    況して、合わせて次ぎの事が起こっていたのである。
    注釈として重複するが、1707年の宝永地震(南海トラフトの連動の地震災害)、宝永噴火、宝永富士噴火、長門地震、1708年にも「宝永地震」の余震と連続して1年間に5個の地震に依って伊勢紀州に大被害をもたらした災害があった。
    こんな場合は、本来なら藩主自ら出向いて積極的に指揮を執る事が常道である。
    それでこそ、「藩主としての信認」が得られる。
    この“不思議”と成るのは、この様に「災害後の3年後」まで直ぐには紀州に戻っていない事である。
    普通なら間違いなく非常時であるから戻るであろう。何故なのかである。
    これなら領民からも不満が出るであろう。
    注釈として、果たして不満が出ていたのかである。その事で意味合いが違ってくる。
    ところが、不思議に8年程度の間は不満は出なかった。
    この時、前段でも論じたが、紀州藩は伊勢から先ずは「2万両の借財」で被害対策は打った。
    そして、「青木氏の勘定方指導」の下で「殖産事業の強化」と「農民の税の強化と質素倹約を奨励」で凌いだ事もあり、少し遅れて問題の「1716年山中一揆」が起こった。

    (注釈 この「一揆」にはこの時期の「紀州藩の為政の状況」を示すある特徴があった。下記)

    その前に注釈として、この時の「災害の被害」は、何と25万石/55万石の被害であった。
    国の財政の半分の被害に成った。
    伊勢からの「借財2万両」では当座は凌げるが“焼け石に水”であった。
    当時は「災害と飢饉」(実態は施政の財政難も基本にあった。)であったので、 この時の少し後の「享保改革」で吉宗は、「経済の規準」が変動する「米の価格」であった事から、これを「統制された価格相場」にする為に「米相場制」を先ずは難波大阪に「相場施設」を造り始めて敷いた。
    当時は「災害と飢饉」の中での「米相場」が確定する様に成ったので、 この時の「米相場制の状況」を用いて換算が出来るので、経済換算の計算では、次ぎの様に成る。
    1石−5円、 被害は125万円、 1両−6万円相当 被害額は、小判21万両と成る。
    つまり、「当座の借財」の比は、2/21万両で 「当座の借財」は被害額に対して1/10である。
    これを三回に分けての計6万両では、1/4対策費である。
    残りの15万両は、結局は「殖産と増税と節約」でやり繰りする事に成った。 

    これが8年で完済したのであるが、この時の勘定奉行の自信に満ちた「有名な問題発言」が遺されている。
    それは、“農民と油菜は絞れば絞る程に出る“と発言し、批判を受けた有名な紀州事件であった。

    これは「後世の為政者」には語り継がれた「有名な神尾発言」と呼ばれるものである。
    残りの15万両は、「和紙の増産」と「油菜の殖産(紀州藩の殖産主体)」が4割、「増税は3割」、「節約は3割」としたと書かれている。
    それには、「増税策」は、「災害と飢饉」の為に“「微税」”としたと書かれている。
    「油菜殖産策」は、この頃から稲などの農産物に壊滅的な「害虫被害」が多発した。
    前段でも論じたが、紀州では偶然に、これにはある事がきっかけで「油菜の散布」が効く事が判り、その為に増産を奨励して各国に販売した経緯と重なった。
    この「油菜の販売と散布」は、「紀州藩財政立て直し」にも大効果をもたらし、「害虫被害」では、関西圏と山陽圏では大効果を発揮した事が記録で判っている。

    暫くは、この対策で凌げたが、矢張り、増税は微税ではあったが、飢饉の最中の増税であった事からも不満が蓄積していた。
    従って、「吉宗」が将軍に成って江戸(1716年)に出た後に堰を切った様に「紀州での一揆」(1716年)は起こった。
    この「一揆・騒動」が起こった事からこれは明らかに「不満蓄積」はあった事に成る。
    しかし、この「不満」に対しても、事前に「青木氏や紀州伊勢の郷士衆等」が不満を抑えるべく紀州にも「殖産策」を講じてはいた。
    ところが、「青木氏や紀州伊勢の郷士衆等」が吉宗に同行し、「勘定方指導」も引き上げた事もあって、「伊勢」は別として「紀州での殖産策の対策」はどうしても手薄に成った。

    (実は、上記の疑問としては、「青木氏」が勘定方指導していた「勘定奉行の神尾の発言記録」と「青木氏の商年譜の記録」に依れば、確かに「和紙と楮の増産」と「菜種油の殖産」が記録されている。)

    (注釈 紀州はリアス式で山間部が多く耕作地が少なく記録に載らない争いや騒ぎや騒動や暴動や一揆が多発した地域で、且つ、この様な事に郷士衆や農民の反発心が強い地域で、地域の郷土史にはこれらの口伝が伝えられていて表に出て来ないものが多い。
    田畑の細目の争いや池の水争いや堰の管理の仕方等から藩や役所の扱い方や政治のやり方まで起こっていた。
    本件も藩政に文句を付けたものであるので、資料では定義に従って「一揆」と書き記されているが、実態は「騒動」である。
    1716年頃のものは「一揆」と云うよりは「不満の騒ぎ」である。
    但し、地名から「山中一揆」と書き記したが、広島の同名の「日本最大の一揆」と同名と成るので変更する。)

    これに依って「増税分」を賄える様に工夫していた事に成る。
    この時の「増税の不満」は、次第に“「藩の政治姿勢」を改めてほしい“とのスローガンに代わって、これを藩は素直に聞き入れて「山中一揆」は解決した。
    それは「勘定奉行の神尾発言」の影響に対しての事であった。
    それは、吉宗の「紀州の改革政策」は、前段で論じた様に、「リフレーション政策」であったが、次ぎの藩主(第六代徳川宗直で、「吉宗従弟」、支藩西条藩)は、「災害と飢饉」の復興中でありながらも、この「神尾発言」にも観られる様に「インフレーション政策」に転じた事もあって、その政策に対して農民に大きな影響を与える事も起こって来た。
    それで、「一揆・騒動」は、“「吉宗のリフレーション政策」を継承する様に”と「一揆・騒動」の「スローガン」を突然に換えたのである。
    つまり、紀州で手薄に成った「殖産と節約の政策」に戻す様に要求したのである。

    (注釈 この「神尾発言」には、意味が在って、「増税と油菜の効果」の発言は、「リフレーション策」での施策前提であったのに、そうでは無く、“「インフレーション策」だ”と無知識に云っている。
    「神尾発言」は、要は「吉宗と青木氏批判」をしたと解釈できる。
    周囲から“自分の実績だ”と主張している事と解釈されていた。
    吉宗の後に入った「藩主」もこれを容認し「インフレーション策」を推進した。)

    この「一揆(騒動)」は、「インフレーション策」としての政策に対する不満で当初は議論されたが、この「神尾発言」から「一揆(騒動)」は「紀州藩の為政方針の批判」に変わった。
    そもそも、紀州は地形的な関係から「米策」を基本とする事では元の状態に戻るので、「吉宗ー青木氏」等が行った「殖産を基本とする政策」を変えないでほしいとの訴状で、要するに”「吉宗時の政策」を続けてほしい”との訴状に変わった。
    紀州には、「三大河川流域の平野部」と「紀伊山脈の山間部」とでは「根本的な考え方」が違う事から、「山間部の流域」からこの「騒ぎ」が起こった。
    この「山間部の流域」では「殖産」に適していた事から「殖産政策」を護ってほしいとの訴えが強かった。
    この「殖産」を行えるには「青木氏の支援」が絶対必須で、「青木氏」が「勘定方指導から引き揚げた後の事」に心配が及び、且つ、「享保の改革」に総力を向ければ「伊勢紀州への支援」は手薄に成るとの心配があった。
    更には、「不当な神尾発言」と「交代した藩主への実績の無さ」への「不信感」が募り、四つの事が重なり「一揆・騒ぎ」は広まって仕舞ったのである。

    以上の様な地理的環境を持っていた事から、「吉宗入城」の前から体質的なものとして「不満」は燻っていた。
    (秀吉の「紀州狩り」の時の令にある様に、この時は「紀州門徒衆」を中心としたが、基より土壌的、或は体質的に直接この不満を訴える癖を持っていた。)
    従って、「将軍」に成る為に江戸下向の後には、山間部の各地で上記のこの「四つの事の落差」から「一揆・騒動」の「不満爆発」は充分に予測できた。

    1705年10月には、「藩主」には、上記の通り、取りあえず「跡目継承手続き上」(黒印状と偏諱)から成ったが、この「不満の爆発」の矛先に成る事を避ける為に、直ぐに恣意的に「和歌山」に入る事を避けたと観られる。
    そして、この間に上記の「殖産策」の二手を打った事に成る。
    この不満が同時に下記の疑念に火が着く事を避けた事にも成る。

    それには一つには、「廃嫡を実行した家臣団を引き付ける目論見」があったと観られる。
    二つには、「廃嫡」に関わって「同時三人逝去の疑念払拭」を図ったとも一般的には考えられる。
    然し、この「二つの思惑」だけで“「吉宗の入城」をいつまでも押し留める事”は、この場合は論理的に不可能である。

    事は「非常事態」であり、「決済」は「家老」に任せば何とかなるとしても、何にしても先立つものは先ず無い。
    先ずは「藩主」と成った以上は、「打つべき手」は「借財の算段」である。
    これには、上記した様に、「応急策」として「伊勢の紙屋」から「3年分6万両の借財」の契約を受けた事に成って、その内の「2万両の借財」が着いた。

    然し、それにしてもおかしい。「青木氏の商年譜」によると、“その直前の1706年初期頃(3月頃)に一度入ろうとした形跡”が観られる。(婚姻の前)

    「光貞」からすれば「裳に服する期間」の2月前、四代目からすると6ケ月前であるから、「入城の為の諸々の準備」に入ったとも考えられる。
    ところが、丁度、裳が明けた時から1年後には、上記の「宝永の大災害」(1707年10月)が起こって仕舞って「大混乱」が起こり、「入城処の話」では無く成って中止に成ったと先ずは考えられる。
    そこで大筋では「吉宗」は、「入城」を先送りして、とりあえず「青木氏からの借財」を先ずは成立させてから、そこで家臣団に委ね「入城時期」を見計らったと考えられる。

    「吉宗入城を遅らす事」に対して、これには大きくは「青木氏等の戦略」(家臣団も含む)が間違いなくあったと観られる。
    「吉宗入城」を単に4年も遅らす事は、家臣団も黙っている事は無い筈で、それが可能に成ったのには“何かの妥当な理由”があったからこそ成し得た事である。

    戦略上は、「青木氏」に執ってこの事は、“「借財」だけで事は済むのか”と云う話である。
    「藩主」に成った以上は、「吉宗育ての親」としても、「借財貸手」としても、「地域力を持つ郷氏」としても、「地域の安定」を保つ意味としても、「経済対策」としても絶対に放置できない問題であった。
    「青木氏」として「本格的な戦略」を立てて臨む必要に迫られていた事は確実である。
    簡単に云えば、“吉宗の紀州藩の藩主に代わって財政的に再生の差配する必要に迫られていた”のである。

    ところが、それはなかなか難しい問題でもあった。
    この時期は、内では、上記で論じた様に、「15地域の商業組合」を広めている最中でもあった。
    “何かの妥当な理由”としては、“吉宗の紀州藩の藩主に代わって財政的に再生の差配をする必要か、「15地域の商業組合」の推進かの選択の判断に迫られていて、「伊勢」を離れる事は暫くは出来なかったと云う事であった筈である。
    本格的には、「4年後の入城」の後の事として、その前に、「2万両」で「応急の手立て」をし伊勢から差配する事に成ったと観られる。
    この為に「青木氏」としても「財政的」にも「陣容的」としても恐らくは限界にあって、余裕は無く「育ての親」としても「吉宗の入城」を「取り仕切る余裕」は先ず無かったと観られる。
    そこで、取りあえずは、「財政的な支援」として「借財6万両の内の2万両」を貸与だけは「手立て」をした。

    ところがそこで、災害中に先ずこの”「2万両の搬入」(a)”をどの様にして紀州藩に運ぶかに在る。

    (注釈 上記した様に、「青木氏」への「借財の返済」は、「吉宗」の「江戸入城後の2年後」までに完了している。
    「紀州藩の勘定方指導」で「紀州藩財政立て直し」に入って8年後である。)

    然し、これは当然に、”「吉宗の入城」(b)”と共に、セットでやらなければ成らない。
    取り分け、”「勘定方指導の役」(c)”は完全なセットでもある。
    だとすると、そこまでの「勘定方指導の役」(c)の余裕は「青木氏」には無かったと考えられる。

    そこで、これらの意味合い(a)(b)(c)を示す「資料の探索」をした。
    直接に関連する内容ではないが、これらを物語る「二つの資料」が見つかった。
    先ず一つは、「青木氏の商年譜」には、1706年3月頃に「摂津堺店」の船一艘が「堺摂津港」から出て「和歌山港」に入港している。
    これに付いては、先ずは考えられる事は、「2万両借財」を紀州藩に運び手続きを済ます事(1)であったと観られる。

    それだけでは無かったと考えられる。
    この「入港」が「吉宗の入城」の準備(2)なのか、「元禄大地震」(1703年11月)の影響で「支援物資の搬送」(3)なのか、将又、「入城に付いての今後の打ち合わせ」(4)かは良く判らないが、何か慌ただしい。

    答は状況証拠から観て「4つの事」(1)(2)(3)(4)の全てであったと考えられる。
    大きく分ければ、(1)(3)−(2)(4)で二つに分けられる。

    それを示す事としては、「伊勢」では無く“「摂津堺店」が動いている事”である。
    (1)と(4)は直ぐに対策を講じて実行に移さなくてはならない事である。
    そうなれば、「堺」は低い一山の山越で和歌山に近く、港にすれば隣港し、船を持ち支援調達し、その日の内に行動を移せるとすれば、誰が考えても「摂津堺店」であり、元より「伊勢」では無かった。

    当時の状況を考えれば、「青木氏」が採るべき行動としては、「妥当な事」で確実に関連している資料である。

    もう一つは、「南紀の旧領地」の「郷士衆頭」の家の資料には、「伊勢シンジケート」が、「山伝い」に「西の和歌山の隣の河内」と、「南紀州の串本」(紀伊半島南端)に動いている。
    この「二つの動き」から、恐らくは、「伊勢シンジケート」が「支援物資」を「伊勢」から山伝いに「津波の被害」の大きい河内に届け、最も地震の被害を直接受けた串本(青木氏の遠祖地)にも「支援物資」を届けたと観られる。

    (注釈 前段で論じた様に、「河内シンジケート」は「伊勢シンジケート」とは連携していた。)

    何故ならば、「河内シンジケート」(紀伊水軍と繋がる)に、先ず伊勢路伝いに「支援物資」を届けて、そこから彼等の「海の勢力」で「海伝い」に和歌山に運ぶ算段であったと観られる。
    それには、「伊勢」から直接に「和歌山ルート」は、「山越え」があり震災後で危険が多く非常時には無理困難が多い事があった。

    況や、これで(1)(3)−(2)(4)の中でも(1)(3)であった事が判る。

    この(1)(3)−(2)(4)を物語る「二つの資料」から観ても、つまり、「伊勢」では「15地域の商業組合」の仕事に、“「入城準備」と「支援物資」”とが重なり、到底、「勘定方指導」までは手配に入れなかった事が良く判る。

    「船の動き」では、「吉宗」と「青木氏」と「伊勢の紙屋」と「伊勢郷士衆」等の関係者も山伝いに「和歌山」に入り、この「入城準備」に入った和歌山港に集まり、家臣団と共に「談合の末」に延期を決めたと観られる。

    何故、“「摂津堺店」の船一艘なのか“と云う事であるが、緊急時の為に「摂津堺店」に応援を求めていて、がけ崩れや道路寸断などで危険で、山伝いの関係者の陸の至急の移動が困難であった。(上記通り5災害が連続した状況)
    「伊勢」より山一つ越えた隣の「堺」からの方が都合が良かったので、全ての差配を「摂津堺店」に任したと観られる。
    従って、「和歌山港の入港」は「吉宗入城の準備」の(2)と(4)であったと考えられる。

    結局は、(4)の中で(2)が検討される事に成り、(2)が無いと成ると、(4)に付いての「今後の戦略」を立てなければならない事に成る。
    当然に、「青木氏と紙屋と伊勢郷士衆」等の「伊勢側の者」が執るべき事は、先ずは「殖産に向けての準備」(4−1)である。
    この「殖産の準備の談合」に参加していた「紀州殿」の採るべき事(4−2)は只一つである。

    そこで、この「二つの行動」(4−1)(4−2)が合致して「紀州藩救済」の事は成立する事に成る。
    それが、「紀州殿のある決断」に繋がる事と成った。
    そこで、この「二つの事」(4−1)(4−2)が合致した事を確認した上で、「伊勢の紙屋」がそれに応えて“毅然と動いた”と云う事であろう。

    (注釈 この談合の「吉宗の参加」は「非公式の参加」であったと観ている。
    「公式」にしろ「非公式」の参加のどちらにしても「苦渋の容認」あった筈で、「紀州殿のある決断」は、「談合の結果」の「終末の唯一の判断」ではあったと考えられる。
    況や、“それしか無かった”と云う事であったろう。
    「吉宗決断」はそれを予測しての「暗黙の了解」であった事に成る。)

    この様な状況で「伊勢の紙屋と青木氏」は動かない方が変で、「吉宗」も「青木氏」を頼るしか無かった筈である。

    (注釈 本来は「福家」には祖父の話では「詳細な資料」が在ったとされているが焼失している。
    「口伝」では「南紀の旧領地の郷士の家(水軍の家筋)」に「大筋の話」で遺されている。
    この「口伝」では「伊勢水軍」と「紀伊水軍」は、「二つの震災」で幕府の指示で、公に成った資料に依れば、「東回り廻船の緊急配船」に廻ったと伝えられている。)

    (注釈 前段でも論じたが、「水軍の配船」は、「廻船の緊急時」には対策として幕府の事前の承認が在った。
    つまりは、「伊勢の山田奉行所」の「七箇条のお墨付き」があった。)

    この注釈から考えると、と云う事は、“「動かせる船」は限られる”と云う事に成り、「摂津堺店」の船が「堺港」から動いたと成る証拠でもある。

    確かに、兎も角も、全国的にも「郷士の力」は、「戦乱後と経済の疲弊」が原因して非常に少なく成り、弱体化した「伊勢衆の力」をこの「殖産」で興す必要があった。
    一挙両得であった。

    そこで、何故、紀州藩は、「本領の紀州」に対して「殖産」を積極的に呼びかけずに、「飛び地領の伊勢」に対して呼びかけたのかと云う疑問がある。

    それは次ぎの事に依る。
    一つ目の理由は、「青木氏の総合的な地域力」の大きさに在ったからである。
    二つ目の理由は、「藩主」と成った「吉宗の育ての親」であったからである。
    三つ目の理由は、「家臣団の郷で縁籍筋」である。
    四つ目の理由は、「苦肉の策の廃嫡」である。
    五つ目の理由は、「殖産の適切地域」である。(リアス式地形から平野部に対して山間部の比率が大きい)
    六つ目の理由は、「青木氏は郷氏」である。(紀州には「氏族の郷氏」は無い。)

    (注釈 他に「紀州豪商」が在ったとしても「氏族の郷氏」では無い事から、民間が紀州藩を救う事等の「義務」は無い。
    そもそも、「氏族の郷氏」は、地域の「奈良平安期の王」の「古来の主」でもあり、その「地域を救う義務」は藩主に次いであった。
    況して、所謂、「武士の社会」に成ったとしても、朝廷から「賜姓五役」として永代に努めなければならない「賜姓族」でもあって、その自負は持ち続けていた。

    (注釈 朝廷の「西の政権」が続く以上は永代の役目である。
    江戸時代もその「西の政権」としての「権役」は朝廷業務に限られるが、幕府より役人が派遣されて正式には「西の政権」と云う呼称で存続はしていた。
    室町期から江戸期にかけて朝廷の「西の政権」は弱体化したが、制度としては“「西の政権」(朝廷の政権)”として存在し続け、特定の範囲での政治を行い幕府から監視役が派遣されていた。
    唯、幕府推薦にて官位官職の権威付けの授与程度の事であり現実には困窮の環境下にはあった。
    そもそも、前段でも論じている様に“「賜姓族」”としては、その意味で「臣下」したのであって、この“衰退した「西の政権」”とは云え続く限りは、又、「青木氏」に与えられた゜賜姓族」に伴う官位官職格式が永代とされている以上は、「青木氏としての考え方」では、その内容は兎も角も、少なくとも「特定地域の伊勢」では“「賜姓五役」”は続く事に成る。
    従って、時の政権が「東の幕府」に成ったとしても密かに続けていたし、この「青木氏の西の政権への影行動」を鎌倉と室町と江戸の三つの幕府は黙認していた。

    重要な注釈として 「青木氏」の「西の政権への影行動」に対して「青木氏への圧政の記録」は見つからない。
    仮に時の政権からの「圧政」があれば「青木氏」は現在までの氏存続は無いだろう。
    「500万石」と云われる程の「二足の草鞋策」を敷きながら、これを「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社500社」に上る建設と維持費等に使用しながらも、「西の政権への影行動」を含む“「「賜姓五役の財源」”としても用いた。
    然、これが「公然の役として行う立場」にあって、それを「青木氏の氏是」として守り続け、出過ぎずに「影行動」として維持する姿勢であったからこそ幕府は黙認した。
    そして、「西の政権の息根」を必要以上に止める事無く維持出来得れば、「幕府」に執っては政治的に経済的にも逆に都合が良かった筈である。
    故に、三つの幕府からの「青木氏への圧政」は無かったのである。

    (注釈 「青木氏の影行動」の「献納金」の経理上の記録は松阪の大火で焼失して記録は無いが、「影行動の有無」の行の一節はある。
    上記の数式論の通りで、「西の政権への献納金」と「紀州藩への貸付金」との両方で抑えて置けば「青木氏への圧政」は無い。)

    これには「青木氏」が採った姿勢として“「公然の役として行う立場」”が大きく左右していた。
    その「立場」は、100年程度の立場では無く、江戸期で観れば「1000年を超える立場」であった。
    この「立場」を否定でき得る政権は無かった筈である。
    最早、これ「1000年を超える立場」は、朝廷の様な「政治的権威」では無かったが「完全な歴史的権威」であった。
    この「1000年を超える立場」の「権威」を否定すれば、「幕府の自らの立場の短さ」から「自らの権威」を無くす結果とも成り兼ねなかったからである。
    所謂、社会が認める大見栄をきって”「影行動を行える大義」”が其処に存在したからである。

    そもそも、例えば「後鳥羽上皇」が「朝廷の権威」を再び高める為に「不満の御家人」を集めて「承久の乱」を興したが、果たして“この「戦いの財源」は何処から出たのか”と云う事から考えても、どこかからかこの「相当な戦いの財源」が出ていたからこそ「乱」が起こせたのである。
    では「不満の御家人」がその「戦いの財源」を出し得たか、そもそも「財源と成る物」を幕府から与えられなかったからこそ「不満の根源」と成っているのである。
    つまり、何れかから出ていた事に成る。では何処から出ていたのか。
    「政権奪還の戦い」に失敗すれば、「上皇の朝廷」は生きて行く財源が枯渇する。
    それこそ霧消するのにその心配なく実行した。
    現実に「幕府の圧政」が加えながらも生き延びて存続している。
    何処かから「影の財源」が流れていたからである。
    これが少なくとも「伊勢青木氏の財源」であったと説いている。
    幕府が「西の政権の息根」を完全に止めようとすれば、「青木氏の影行動」を止めさせれば良かった筈である。

    然し、「三つの幕府」ともにそれを敢えてしなかった。何故かである。

    その概念から云えば、「朝廷=権威」の概念である。
    その「権威の朝廷」を崩せば、自らの「幕府の権威」付けるものが無く成る。
    そうするとその「権威付け」は「恐怖の武力」以外にはない。
    自らの「幕府の権威」を貯めて支配性を維持させるとすれば、幕府より「高い権威性」を持つ「朝廷」を崩す事は先ず得策では無い。
    かと言って高める事も得策では無い。
    況や、数式論にすれば次ぎの様に成る。

    「朝廷」>「氏族の賜姓源氏と執権」>「源氏傍系支流族足利氏」>「権威性の無い姓族の徳川氏」>「姓族」

    以上と成り、「朝廷の権威性」をより必要とした。

    この「朝廷の権威性」は、何も施政上はより強力なもので無くても「象徴的な権威性」で良い筈である。
    自らがその「象徴的な権威性」を領して「幕府」と云う「軍事的な権威性」で補完出来る。
    「象徴的な権威性」を利用でき得ればその範囲で存在して居れば「為政」は元来成り立つ。
    後は、「軍事的な権威性」に補足する「習慣仕来り掟等の権威性」を「朝廷」やそれに類する「賜姓族」から獲得すれば、次ぎの数式論は成立する。

    「象徴的な権威性」=「軍事的な権威性」+「習慣仕来り掟等の権威性」

    以上の数式論の概念が成り立つとすれば、「最低限の朝廷の存続」と補完的な「青木氏等の影行動」が必要に成る。

    さて、これが上記の“「三つの幕府」ともにそれを敢えてしなかった。
    これが”何故かである。”の答えに成る。

    だから、「徳川氏」は、”「青木氏の偏諱」”に代表する「慣習仕来り掟の採用」を「幕府仕様」に換えて行ったと云う事である。
    ただ、一人この概念を持たなかった人物が居た。それは「織田信長」であった。
    「軍事的な権威性」だけに頼った。
    要するに「軍事的な権威性」だけに頼った「共和制の国家体制」であった。
    だから「青木氏の存立」に影響した「伊勢三乱」が起こったのである。
    然し、多少の「朝廷の権威性」の感覚は持っていた証拠もある。
    それは「北勢の北畠氏の乗っ取り」である。

    「朝廷の学問処」を務める「北畠氏」は、永代に「不入不倫の権」で護られていた無防備な伊勢に武力で簡単に浸食し、「朝廷の権威」を笠に「御所」等と呼称して館を造り、「公家武家の権威」を披歴した。
    これを「織田信長」は、手っ取り早く「伊勢」を統括する為に利用したが、伝統高い特異な伊勢では、取り分け、突然に侵入して来た地元に「絆の薄い北畠氏」では、”「織田の思惑」”は上手く行かなかった
    結局は「伊勢三乱」と成ったのだが、前段でも論じた様に、「青木氏」は、初めてこの時に「氏の危険性」を感じて「二度の武力」で応じた所以でもある。

    その意味でも、「皇族賜姓臣下族」としての「悠久の権威性」を持つ「青木氏の氏是」は納得出来る。
    「氏是」を無視し表に出る行動を採れば、上記の幕府や信長の様にこれを利用する者が現れ、必然的に「影行動」は表に出る事は必定で、そうなれば「影行動」では最早無く成り、「幕府黙認」は成立しなくなる危険を孕んでいる。
    これを「公然の役として行う立場」であった平安期が終わり、鎌倉期と室町期と江戸期に成っても続けて来たのである。

    上記の様な経緯を持っている事を前提に基の話に戻して、これだけの理由が整えば、誰が考えても「吉宗の居所」は「伊勢滞在」と成るだろう。
    「紀州」、「江戸」、「京」に居るよりも「伊勢」に居る事の方が全ての戦略の上では得策である事は明白である。
    「伊勢と紀州」は、「戦乱後の混乱状態」からやっと脱した時期でもあり、且つ、上記した様に、紀州では「10万両の借財 55万石の1/2の財政」=「廃藩寸前の財政」の状況下に陥っていれば無理である。
    この「頼みの綱」は、結局は,誰が考えても「飛び地領」の“「青木氏の地域力(500万石程度)」”と云う事に成る。

    (注釈 前段で詳しく論じたが、誰が考えても困窮して人に頼らなくてはならない時に、傍に金に成る樹の「豪商」が居れば誰もが利用する。
    又、利用しない方がおかしい。況してや「育ての親」である。)

    そこで、この「伊勢の特異な環境」に「本腰」を入れたのが、そもそも、前段でも論じたが、最初に取り組んだのは「初代頼宣」(家康)であって、次には「五代目吉宗」と成ったのである。
    何れも成功している。
    前段で論じた様にこの様な殖産で繋がる「協調の経緯」を歴然と持っている。
    そして、紀州藩の「二人の藩主」が取り組んだのは、それが,「青木氏」と共に”「殖産」”のみならず、“「有機的に動く新しい殖産」を興す事”であった。

    それは、つまり、個々の「青木氏の殖産」を、平安期から築いてきた「総合商」と結び着けた前段で論じた”(イ)(ロ)(ハ)の「商業組合方式」”であったのだ。
    それを「特定地域の伊勢」から“「紀州域にも波及させる」“と云う事であって、異なる所は、その「波及手段」としては”「紀州藩勘定方指導」”と成った事であろう。
    それ以外には、「紀州への波及手段」はない。

    注釈として、重要な事は「単なる波及手段」と云う事には成らない。
    そこで、これらの「殖産」を進化させて「御師制度」等や「提携商人」や「金融制度」や「運搬と護衛」等の制度等を加えて紀州で使える様にする必要があって、それを「一つの制度」として組み立てる必要があったのである。
    ところがこれには、悠久の時を得た「絆のある伊勢」では無い事もあって、”「相当な容力」”が要求された。
    当然に、その「準備期間」が充分に必要であって、それには先ずは「伊勢の絆力」を使って「紀州」に「繋ぎの土壌」を作らなければならない。

    総じて、「郷士衆の勢力圏」で細かく構成している当時の社会体制で出来ている以上は簡単では無い。
    当時の社会は、藩主や家臣から農民に直接に繋がっていた訳ではない。
    その間には、「郷氏」が在れば「郷氏」に、無ければ「郷士」が介在して農民との連携社会が出来ていた。
    「紀州」は「伊勢」では無い事から「郷氏」は無い。
    それに代わるものとしてあるとすれば「熊野宮司族六氏」くらいである。(紀州は「門徒衆の勢い」も江戸期以前より強く秀吉も施政の邪魔として「紀州狩り」を実行して手を焼いた位である。)
    この下に「紀州郷士」が介在した構造を持っていたが、「熊野宮司族六氏」の下の「郷士」は発言権の問題で殖産には使えない。
    だとすると、「熊野宮司族六氏」の一つ「日高氏」の勢力北限域は熊野神社第一藤白神社の鳥居地区までこの社領勢力圏であるが、凡そ日高地区から外れた有田地域以北と云う事に成る。

    つまり、その「繋ぎの土壌」と成り得るのには、伊勢側も紀州側も土地に根付く「郷士衆」であった。
    その上で、それには「青木氏の紙屋の商記録」と「郷士衆の家の遺手紙」から観て、「伊勢郷士衆」と「紀州郷士衆」の「連携の話し合い」が持たれていた様である。
    この「青木氏側からの資料」である為に「紀州藩の関り具合」が良く判らない。
    「紀州藩での資格」の参加は、兎も角も、家臣団とも成っている「伊勢藤氏の介在」はあり得たのではないか。
    恐らくは、上記の「手紙の存在とその内容」から判断して、「南勢の旧領地の郷士頭」が「紀州の郷士頭」に「談合話し」を持ち込んだ様である。

    問題は「南勢の旧領地の郷士頭」がどの様な経路を通じて「紀州の郷士衆頭」に話しを通したのかは、調査したが資料的なものは見つからない。
    確かに、この「南勢」は地理的に紀州に最も近い。
    「伊勢」との間には紀伊山脈が憚っていて「南勢」が地理的に近い事に成る。
    然し、この間には「熊野神社宮司勢力の六氏」が日高地域当たりまで伸長している。
    その「神職勢力」を飛び越えて、そこから、「南紀」から「紀北」に掛けての「紀州郷士衆の勢力」に「繋がり」を持つとすると、山伝いに「伊勢シンジケート」しかない。
    然し、実際は「南勢の旧領地の郷士衆頭」が動いている。
    確かに「殖産の談合」としては「伊勢シンジケート」では無理であろう。
    前段でも論じたが、「北山郷士衆団」や「戸津川郷士衆団」や「熊野六郷士団」や「熊野水軍」や「伊勢水軍」等があるが、「殖産」としてはこれらは全て「山間部の勢力」であり、既に「和紙楮の殖産」は南紀までの域で敷いているし、現実的には新たな殖産を大々的に進めるのは地形的に地理的に無理である。

    最も、考えやすいのは、「紀北まで勢力」を持ち「地元郷士への支配力」を持つのは「熊野神社の広大な社領域」を持っていた「日高氏」ではあるが、然し、所詮は「熊野宮司族」である。
    「殖産」には縁は無く、「自らの経済力」で生きられる。
    「紀州藩云々の話」には載って来る事は先ずない。

    後は、「近江秀郷流の脩行系青木氏」の紀州残存の中紀から紀北域に分布する「末裔の郷士族」か、「秀吉の紀紀州門徒狩り」で「青木氏」が何とか救ったが、この紀北から南紀に分布する「門徒衆の郷士衆」(紀州は門徒衆が多い)等がある。

    前段でも論じたが、この「紀州門徒衆」の過激な一部は、「伊勢の射和地域」に保護して「仏施の質」で「商い」に導いたが、恐らくは、「南勢の旧領地の郷士衆頭」は、この「宗教の繋がり」で「門徒衆との繋がり」を持ったのではないかと観ている。

    その根拠は、上記した様に、「吉宗江戸下向」の直後に起こった「郷士と農民の騒動・暴動(4日)」がある。
    (紀州は公の記録に載らない「騒ぎや騒動や暴動」は頻発していた地域。)
    注釈して、そもそも、紀州藩は吉宗の跡に新しい引き継ぎの考え方の違う藩主(支藩の二代目の従弟)が就き、逆に「青木氏」がこの紀州から手を引くと云う前提であった。
    前段でも論じたが、この「伊勢の郷士衆」を引き連れての「吉宗江戸同行」である限り、「紀州での殖産事業」から手を引く事は必定で、困った「紀州の郷士衆」等は「吉宗の施策の継続」を願って居た。
    ところが新しい違う事をする新藩主に不満をぶつけた事件の様な事件であった。
    この「郷士衆と農民の騒動・暴動」の「最初の不満」は、多くは「税に対する不満」であったが、騒動・暴動の最後には「吉宗施策の継続」を「訴え」としたものに成った。
    新藩主はこれを便宜的に認めて宥め終わらせたが、実際は「継続」はしなかったどころか「先導者の郷士衆」を捉えて斬罪した。
    これで「紀州郷士衆」からは更に信用を失ったし、そして、紀州藩の新藩主は、大口を叩きながら、又、恒常的な「借財の財政」に戻って仕舞ったのである。

    (注釈 その後、「青木氏」が引き上げた「紀州藩の殖産」は、「青木氏」が引き上げてからでも、「菜種」は蜜柑畑で作れるが、これを集めて搾り菜種油や肥料などにし、それを堺店を通じて販売ルーツに載せる事には財力が必要で殖産は大きく後退したと記されている。)

    (注釈 「堺店」には青木氏等が投資し経営していたとする「搾油工場と肥料工場と販売拠点」があった。
    その後、この「堺店」が引き継ぎ1765年代には、別の伊勢商人に販売権利を移した事が判っている。
    その後、国内向けに継承し主に江戸に運んだ事が記録されている。
    これを境に室町期末期(1669年文献 テンプラ 輸入品)頃から使用が起こったが、上記の殖産で国内産で大量に使える様に成った事で「江戸文化」では享保の前後から「天ぷらの食文化 1720年頃」が進んだ。)

    (注釈 この「紀州藩借財」は幕末まで引きずり、結局は上記した様に、再び「青木氏」が「勘定方指導」に入る始末である。
    「享保の改革」で1780年に江戸より引き上げて、丁度、100年後の事である。
    この辺からは、「青木氏と紀州藩との関係」は詳細に記録でも口伝でも判り、「頼宣以来の親密な関係」に戻る。)

    これは「門徒衆との繋がり」を示すもので、続く「騒動・暴動」は明らかに「門徒衆の郷士集団と農民集団」であった事から判る。

    この様に、「紀州を救う殖産」には「絆のある伊勢」と違い紆余曲折の時期が在った。
    そもそも、有機的に動く”「新しい殖産」を興す事”と、それを“「進化させた制度」“に「仕上げた時期」と、その「実行のキッカケの時期」は、4年後のこの時(上記した「吉宗入城」を果たした時)であったと考えている。

    つまり、紀州殖産には「四年間の準備」が掛かった事に成る。
    この「吉宗入城の2年前頃」から、「南勢の郷士衆頭の家の記録」で観ると「紀州殖産」は始まっていた様で、恐らくは、「吉宗入城時」を「記録上の起点」にしたと考えられる。
    つまり、「紀州殖産品」は、「青木氏の販売ルート」に載せる必要がある事から、この殖産品を貯蔵し、販路を造り、正式な拡販に持ち込むには時間が掛かって「吉宗入城時期」と重なったと観られる。
    恐らくは、この事から「紀州殖産品」は主に「中国への輸出」であった事が判り、その為には「殖産品」(油菜)を先ず大量に確保する必要があった。
    貯蔵の蔵倉が必要に成った。堺摂津店の記録に観ると、「貯蔵庫の造営費」としての細目の記載はないが「殖産準備金」の大枠での合切の形で記録が2年前に観られる。
    この間、前段でも論じたが、“「青木氏の殖産」”であったことから「殖産品への対価手立て」は「青木氏」が負っていて、後は「輸出品の実績」(菜種油と記録 人気商品の大量輸出の記録)に関わった。

    「吉宗入城後」は、輸出以外にも関西域の国内にも販売し、「農薬散布材」としてもトップ商品に成っていた事からも記録上はこの時期を選んだと観られる。

    前段でも論じたが、当初、油菜の薬剤散布の使用は、幕府は麦作に影響するとして関東では1880年頃まで禁止していた。
    唯、関西域と中国域では、当時、大被害を興していた「害虫被害の散布材」に効くとして黙認した事と、江戸初期頃から中国料理が広まり国産需要が高まった事とで、何をともあれこれを見越して御三家の「紀州藩生き残り策の殖産策」に用いられた事である。
    それまでは需要も無く中国からの輸入に頼っていたが、ところが「青木氏」はこれを殖産にして、逆に中国に輸出するとする戦略に換えて勝負に出たのである。
    先ず「害虫被害策の散布済」がきっかけで、そこに「食文化の変化」が起こり、「青木氏の読み」は見事に当たった。

    (注釈 「油の食文化」は「青木氏」が宣伝とプレゼンで恣意的に興したのでは無いかと考えられる。
    それでなくてはマスコミや宣伝媒体がそれほど発達していない中でこれほどに短期間で起こる事は先ず無いであろう。現在でも難し程である。)

    国内的にも「享保から正徳」(7−8年程度)に掛けて国内でも超爆発的に成ったのである。
    (実質は伝わる期間としては3ー5年以内程度である。)
    唯、享保に入る前は、「薬剤散布の使用」を黙認させたと云え「幕府の禁止令」が在って、「青木氏」は「紀州郷士衆」と談合して、この「苦肉の対策」を採った。
    それは、何故解るかと云うと、「害虫被害」を受けている「ミカン畑」にそれまでは肥料として天草(寒天に使う)を撒いていたが、この海草の「天草」が、前段でも論じた様に「寒天」として爆発的に商品と成り、記録から観ると止む無くこの代わりにこの「油菜」を撒いた事が判っていてこのから来ている。
    これであれば、幕府禁令に抵触しない。
    そこで、幕府黙認する中で、この「油菜」(1)と「菜種油」(2)を殖産した。
    そして、その記録に観ると、「搾粕」を蜜柑畑に捨てたところ害虫は死滅したのである。

    ところが「青木氏」はこの事に抜かりは無かった。
    これを喧伝して「害虫被害散布材」(3)として関西で販売して解決させこれでも大当たりした。
    「菜種油」(2)は良品質に改良して、中国に逆輸出し、国内需要にも対応したのである。
    幕府は黙認どころかむしろその才に驚き「吉宗」に注目し始めたのである。

    直ぐに幕府は、紀州に見習ってミカン産地の静岡地域にもこの禁令を解き、形式的には全国的には1785年に正式に解いた。
    「油菜の搾油技術」を開発し、その工場を伊勢と大阪(堺)に建設して本格的に稼働させたのである。
    この時期が4年後であった。

    (伊予、讃岐、安芸まで「天草寒天」と「蜜柑畑」と「油菜搾粕」と「菜種油」の環境条件が一致していた為に瞬く間に広まった記録されている。)

    そもそも、「伊勢藤氏の青木氏族」が家臣と成っている「紀州藩」を救うには、「頼みの綱」の「青木氏」が、「伊勢の殖産」のみならず、これを更に確実に「15地域」に広げて、その「パイ」を大きくして、戦略的に「成功要素」を先ずは確実のものとする事であった。

    その「紀州の4年の成功体験」を元にもっと大きいもの(享保改革)を救う為にも、先ず紀州藩を「伊勢の殖産」で救い、更に、6年後には、これを1716年に江戸に持ち込んだと云う事(「享保の改革」)である。
    つまりは、この「紀州の4年の成功体験」は、元より「享保の改革」までの「政治的な概念」を「吉宗」は当初から伊勢で「経済学的な概念」として既に持ち得ていたのでは無いかと考えられる。
    (故に青木氏は育ての親としても賛同し後押ししたと考えられる。)
    この「政治的で経済学的な概念」を実現するには、先ずはその基と成るのは「abcのイロハの商業組合」の「経済論」であって、この「経済論」を「リフレーション政策」に置いていたと云う事である。
    その「リフレーション策」は、前段でも論じた「仏施の質の策」で「経済の基本」を興す事に在った。
    (幕府はこの「吉宗の様子」を伺っていたと云う事であろうし、それが基で「将軍職の話」が出たのである。)
    それはつまり、「江戸様の殖産」であり、吉宗に「江戸様の殖産」をやらせようと考えたのである。故に将軍劇が全く例外中の紀州から以って来る将軍劇が起こった。それでなくては「綱吉とのお目見え」や「偏諱」などの例外を起こす理由にはならない。

    そもそも、伊勢や紀州等と違い郷士衆などの殖産を興す”核部分に成り得る「中核」”は全く江戸には無い。
    そこで、その「中核」と成る「核」を「商業組合」と「仏施の質」で興し、「伊勢の殖産」に相当するものとしたと云う事である。

    「伊勢の殖産」=「改革」=「江戸の仏施の質」
    「郷士衆」=「殖産の担手」=「庶民」
    「地場産」=「殖産の核」=「商い」
    「青木氏」=「殖産の資」=「質の担保」

    以上の数式の位置づけに成る概念なのである。
    伊勢で教育を密かに受けこの概念を作り上げていた事に成る。

    唯、以上の様に江戸には「殖産の基」に成る物が無かった。

    恐らくは、この様に江戸には「殖産の基」に成る物が無いところから、この「数式に基づく経済論」を既に構築していたと云う事は、相当に当初より「吉宗と青木氏」は、事前に「論理的な経済論」を練って持っていた事を示すだろう。

    返して云えば、「将軍論」、又は「幕府立直し論」は「御三家としての吉宗」は持っていた事に成る。
    その証拠に「将軍」と成って直ぐに”「経済の基本」”と成っていた「米価値」を「相場制」に変革したが、この時の苦労話が詳細に記録されている。
    この記録から観て、確固たる経済論は持っていた事が判る。

    「経済の基本」を「米相場」の改革をし、それを「中核」と成る「核」を「商業組合」と「仏施の質」に置いたと云う事である。
    これは一部の市場を特定のものに任すのではなく、ニーズに応じた市場に任し、それを幕府がある程度に監視管理して米価値をある範囲に留める基本政策である。
    これは「インフレ策」と「デフレ策」の間の「リフレ策」に外ならないのである。
    これに「中核」と成る「核」を「商業組合」と「仏施の質」に置いて誘導すると云う政策であった。
    中々に「難しい専門的な経済論」であってこれを理解する者は青木氏以外には吉宗の周囲には少なかった。

    ところが、この「リフレ策」を進める中で、「米相場改革」しても「米に依る藩の財政」を圧迫している「障害」と成る事がここにあった。
    その一つは「参勤交代制」が「藩財政」に大きく圧し掛かっていて、この「米相場制」が当初機能しなかった。
    そこで、「吉宗ー青木氏」はこの「リフレ策の政策矛盾」を次ぎの方法で解決した。

    1 それは先ず「障害」と成っていた参勤の交代期間を短縮する代わりに、一万石に付き米100石を幕府に献納する条件を付けた。
    2 次に、「交代の者」の内容等も緩和する事にして、その代わりに「献納米(換算の献納金)」を幕府に俱納する条件を付けた。
    3 「米と貨幣の関係」を「藩負担の軽減」で「相場制」の中で一定に成る様にした。

    以上の「三つの条件」を付けて享保の幕府が藩財政を誘導した。

    この様に、「経済の根幹」を「リフレーション経済論」に変える為に採った「米の相場制」に観られる様に、それが、この「10年程度の経緯」を観ても、この様な「論理的な経済論」は持ち得ていた事が判る。
    然し乍ら、「論理的な経済論」を持っていたから全て積極的かなと思われていたが、ところが発見された「遺資料の行」の一節に愚痴の様に書かれている事を鑑みても、以外に“青木氏には余裕が無かったとする説”は間違いなく成り立つ。

    「青木氏の末裔」としての見方は、「吉宗と云う人物に関わった宿命」から責任を感じて「賜姓五役の範囲」から離れていても“走りに走った”と云う言葉に成る。
    「賜姓五役の責任」を「青木氏が負う範囲」は、伊勢域に及ぶ殖産興業の範囲であると考えられる。

    (注釈 江戸期には「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の建設と維持等は江戸幕府に引き渡したので、その役目は地域としては「伊勢域の範囲」に留まる。
    従って、「紀州藩の改革」までは良しとしても、「江戸の改革」は論外であり、「吉宗との関り」からの事に成る。)

    前段で論じたその「吉宗との関わり」でありながらも、「1780年以降の幕府の仕打ち」から江戸を引き上げたが、「青木氏」は憔悴していた事は事実であった。
    ただ、その後、「幕末の紀州藩の勘定方指導」を再び受けた事は、この範囲までが限界範囲と考えていた事が判る。
    ここでも他一名の伊勢出身の江戸豪商と共に、紀州藩立て直しへの貸付金2万両はまたもや不当りに成る。

    末裔として後勘は、先祖の「愚痴の行」は理解できるし、筆者も「享保の改革」までの事を論じているが、実は釈然としないのである。
    そもそも、末裔の後勘としては納得出来ない事がある。
    あれほど青木氏の氏是を頑なに護り通しておきながら、この時の福家はここにきて”何故、氏是を護らなかったのか”である。
    「青木氏の氏是」からすると、「享保の改革」は確実に「青木氏の氏是」から逸脱している。
    「青木氏の氏是」に逸脱してるからこそ「世の条理」で「幕府の仕打ち」や「貸付不当り」が起こると云う事に成ったのである。
    釈然としないが果たして、この事を「後勘」でどの様に考えるかにある。

    「青木氏の氏是」を曲解したか。
    「青木氏の氏是」を無視したか。

    諸範の事情により、1000年以上の長い間の「青木氏の氏是」であり「福家」に選ばれた賢者でもある事から「曲解」は無いだろう。
    後は「無視」である。
    この「無視」には色々の「無視」がある。
    「無視」をしなくてはならない状況に「戦略上の流れ」に落至った事が挙げられる。
    何せ「最大の憲法一条」である。
    この「憲法一条」<「戦略上の流れ」と云う事に成ったと云う事に成る。

    何か証拠と成る資料か文章の行が無いか研究したが、答えは祖父の明治期まで福家はこれを検証していない。
    祖父は父の口伝からこれを是認している様であり、「未完成の忘備緑(仮称)」にも「否定の行」は無い。
    筆者は、”「吉宗の養育」が「戦略上の流れ」を変えた”と観ている。

    末尾に「戦略上の流れ」に対して、”走りに走り過ぎた”と「後勘の評価」しているが、要するに、”無視して走り過ぎた”のである。
    其の大きな走り過ぎた失敗は、前段でも論じたが、「仏施の質」にあって、「江戸様の仏施の質(2800店舗)」が原因していると観ている。
    この「失敗」にあって、”「江戸様」は無かった”と考えている。

    注釈として 唯、名誉の為に云うが、「商い」の為に 「青木氏」が「吉宗」を「将軍」にし積極的に「享保の改革」まで走ったと云う事では決して無い。それは「青木氏の仏施の質」が全てを物語る。やる以上は事を構えるが「青木氏の掟」であり、「青木氏の氏是」の範囲を頑なに護ったと云う姿勢であった事は否めない。
    「伊勢」は「伊勢」で歴然と構え、“江戸に伊勢屋を出した”と云う姿勢と云う


    風に考えた様である。この言い分は納得出来る。
    然し、では「青木氏」は“幕府政治に関わったのはどうなのか”である。
    明らかに間違いなく「布衣着用の政治的身分」である。
    これが「青木氏の氏是」に反する。
    それも、「六地域の青木氏」を「江戸の商業組合の商い」までに呼び込んでいる事は納得出来るが、「勘定方指導の補助役」に引き込んでいるのは「青木氏の氏是」に反する。

    そもそも、更に注釈として、「伊勢」は、江戸期末期には2度の大火に見舞われていたが、明治期に入ると一番の大火は「明治26年の大火」もある。
    ところが、更に、その9年後の明治35年には「青木氏の元締めの紙屋の家」から失火して、「松阪の大火」に成って仕舞ったのである。
    末裔としては、“走りに走った上に未ださらに走った”と云う感じがする。
    そして、「世の条理の洗礼」を見事に受けている。

    「末裔の後勘」としては、「青木氏の氏是」の範囲を護っていれば、受けなくても良い「洗礼」で在った様に感じられる。

    と云うのも、「青木氏の氏是」と共に、「青木氏密教」(古代浄土宗)から来るある「青木氏」ならではの「ある掟」が有った。

    それは、次ぎの「青木氏の重要な掟」である。
    「青木氏の心魂の概念」を根底から作り上げていた奈良期からの「悠久の概念」である。

    “「善悪の条理相対の理」”

    以上の「密教の掟」と云うものがある。

    「人生の精神の有り様」を説いている「掟」である。
    「賜姓臣下族の有り様」を厳しく戒めていた「密教浄土宗」から来る「掟」である。
    前段でも論じた「嵯峨期の詔勅の禁令」に「青木氏の慣習仕来り掟」(全50程度)を民は真似てはならないとする禁令であるが、その中の一つにこの「難しい掟」が有る。

    この説を判り易く租借すると次ぎの様に成るだろう。
    「人」には無限に「善と悪」が備わっている訳ではない。
    「人」が受ける「善と悪」は「有限の範囲」にあって、「相対の関係」にある。
    つまり、「人」は「善」を成せばその分「悪」は減る。
    同様に、「人」は「悪」を成せばその分「善」は減る。
    「人」は「善」を多く成すと、何時しか「如来」はその「善量」に見合う「幸」を与え、「悪量」を減らし、「人」は「悪」を多く成せば、何時しか「如来」はその「悪量」に見合う「不幸」を与え、「善量」は減る。
    「人」は個々に異なる「性の質」を持ち得る事から、その「人」の「幸と不幸」の「咎」は「如来」が決める。
    その「性の質」はその「人の前世(先祖)」のものを引き継ぐ。
    「如来」はこの「二つの世界」のその「人の善悪」を陵駕している。
    その上の「如来の差配」として享受しなければならない。
    況や、「人」の自らの「現世の善悪の行為」のみならず「前世の善悪の行為」を「如来」より授かる。

    「仏教」ではこれを「因果応報」と説いている事であろう。
    (「因果応報論」は「禅宗」が興る頃に確立した概念である。)
    唯、「青木氏」では「賜姓五役」を務める「賜姓族」として、況や「四家の者」としてあるにはより徹底した「行動の規範の概念」に置かねばならないとした。
    依って、来世の者の「善悪の相対」は「幸と不幸」に左右するが故に、「人」は斯くあるべきでこの「掟」に努めなければならない。

    難しい文章を筆者なりに租借すれば、以上の様な事であると考えられる。

    「皇族賜姓臣下族」、「賜姓五役」、「氏上」、「御師頭差配」、「郷氏」、「四家制度」、「福家」、「商業組合]、等、「青木氏」に課せられた立場は全て「組織の長」である。
    この「組織の長」のあるべき姿は、「人の信頼」を勝ち得る事に「一義」がある。
    この「一義」を成し得ない者は「組織の長」に成り得ない。
    「青木氏」である限りはこの宿命から逃れ得ない。
    この「組織の長」に成り得るには、“「善悪の条理相対の理」”に務めなくてはならない。
    取り分け、「皇族賜姓臣下族、賜姓五役」を成す者は“「善悪の条理相対の理」”の「人」であらねばならない。
    “「善悪の条理相対の理」”を会得する者は自ずと「人の真の信頼」を勝ち得る。

    簡単に云えば、低俗な「我欲」を張り通し、「人」に嫌な思いをさせ続ける者は、その分「自らの善」を失い、何時しか「如来」が其の者に病気等の「不幸」を招き入れる。
    この為には、“「人としての悟り」を得よ”と云う事であろう。

    前段でも論じた事であるが、「青木氏」は「浄土宗密教」であって、自らの氏から住職を出し、「達親」で運営して氏人を導く。
    然し、この「掟」を更に発展させる為に、「曹洞宗との関係」も深く持っていた。
    これは、この「掟の厳しさ」に「人」を到達させるには、別の方法として、それには”「座禅」にある”として「禅宗」に寄与して居た事が判っている。
    永平寺の高僧が長期に逗留し、悟りの得たとされるものの「書画や彫刻」など特に「家宝」として遺されている。
    そもそも、筆者の代まで家には“「禅僧の高僧」が長逗留すると云う形式“の慣習を室町期から採っていた。

    (注釈 この為に永平寺の高僧が逗留中に「禅僧の書画の遺品」が多く遺されている。)

    「青木氏」の「四家」の中で、この様な“「善悪の条理相対の理」”を始めとして「慣習仕来り掟」を会得させる為に「福家」で共同生活で育てられるが、この「掟」に依って育てられた「四家の一員」に成り得なかった者が現実に居た様で、これらの者は郷士衆等の養子に入るという事が起こったのはこの「掟の処置」であったのではないかと考えられる。
    そして、その「戒め」として「青木氏の系譜上」に表れない者として厳しい「掟の処置」を受けたらしい。
    唯、逆に、この者が何らかの縁を得てその子孫に「優れた者」が現れた場合には、その縁筋で「四家」とは別に「青木氏」を興させて、その上で「四家」に入れて育てられると云う事の救済策もあったらしい。

    さて、ここまでの末裔の後勘として、“「善悪の条理相対の理」”の「青木氏の密教掟」があって、その「掟の概念」が「青木氏の氏是」を超えて「享保の改革」と云う道にまで「青木氏」を導いた原因はこれだと考えていて、ではその結果はと云うと、「如来の意志」は、明治期の初めまでに下記注釈の様な事も含めて「氏」に執って「幸」を授かったかと云うとそうでは無かった。
    「伊勢」に於いては「殖産」を通じて「伊勢の民」の為にこの「青木氏の密教掟」を護り働いた。
    そして、その「民の心」として「氏上様、御師様」と呼ばれて崇められた。
    「皇族賜姓臣下族」や「賜姓五役族」であるかどうかは別として、当に「伊勢の郷氏」であった事が云える。
    当然に「如来の意志」により「幸」を授かり、「伊勢三乱」も乗り越える事が出来て「氏の発展」は目覚ましいものであった。
    1716年まで何一つ氏としての「不幸」は無く、「如来の意志」は「悪量」を減らしたものであった。

    ところが、長い期間の考察の後勘としてでは、「吉宗没後の10年程度」を経て1760年頃からは「掟を破る事」が無いにしても、前段でも論じたが、この「掟の基本」とも成る“「仏施の質」”を敷いていたにも関わらず「如来の意志」は厳しいものに傾いた。
    「青木氏の後勘」とするには、何か「如来の意志」に反する「悪行の至り」はあったのかと疑問を持ち納得の行かないところである。
    後勘としても、公的記録でも「享保の改革」を成し遂げて「江戸の民」を「幸せ」に導いた筈で、「江戸向行」には「掟」を破る事は無かったと結論付けられる。

    尚、第38代の祖父の代(昭和20年没)までは力は低下しながらも、この「青木氏の密教掟」を頑なに護ったが、続けて世の中に先駆けて「明治維新の地権放棄」をして「民」に尽くした。
    そして、前段で論じた様に、「維新時の殖産」では別に”「徳宗家」”とも呼ばれていた位であった。
    然し、”「如来の意志は厳しかった」”と「青木氏の後勘としての評価」としている。

    (注釈、余計な事ではあるが、最早、父の代よりこの「青木氏の密教掟」は明確に無い。
    “無い”と云うよりは、明治期の「如来の意志」に従いその力をも失った。
    唯、この悠久の時を得たこの「青木氏の密教掟の概念」をそれなりに父に教えられ、筆者も “「善悪の条理相対の理」”の個人の「小さい人生観」として信じて未だ持ち得ている。
    依って、「氏」としての「青木氏の後勘の評価」は、別として、「人」として、子孫を残し健康で普通の幸で居られるは「如来の意志」であるだろうし、後世に悪量を遺す事無く幸いに居られている。)

    (注釈 昭和までの記録を観ると、伊勢は凡そ10年から20年に一回程度に大火に見舞われている。
    これは「特異な地域」、況や、中央構造線の中部山脈から真正面に吹き降ろす事に依る「フェーン現象」なのではある。
    左右の山脈の裂け目の中央の地形から北から吹き降ろしの強い乾燥風が吹く位置にある。
    この時、折しも風が強く、その「風向きの影響」でこの川沿いの間近まで一筋に累焼したと記録されている。
    この事も「地形」と捉えて仕舞えばそれまでで、「地形」から来る被害は「備え方」に依っても異なる筈である。
    要は「人の心の持ち様」で被害は変わる。
    この世の事は何事も斯くの如しの様であろう。)

    だとすれば、この「被害」は、「青木氏と云う立場」であればこそ、「青木氏の密教掟」に従い「如来の意志」と云う事に成る。
    上下の注釈の全ては事ほど左様である。

    (注釈 「明治26年の伊勢大火」の後の「明治35年の松阪大火」は、局地的にダメージが大きく、「櫛田川」を隔てて北側の「射和地区」は、寸前でこの火災から免れた。
    しかし、この為に現在も「古い商家の街並み」(殖産品売買を担う商人群)が遺されているのである。
    結局、「松阪の北側」は一部地域が消失したので、「松阪の家の街並み」や、「歴史的な商家群」は消えて仕舞った。
    櫛田川南域の玉城地区の職能群家屋は遺された。)

    この「射和地区」も含めて、「伊勢青木氏」は、「地租改正」で「本領安堵地の5万石」(地権)に相当する「農地の下げ渡し」を行った。
    その後の「弱体期」でもあったが、しかし、「松阪の火災の被害」に対して火元として”全財産(地権)を投げ売って賠償した”と記録されている。
    明治期にも襲った「最後の決め手の衰退期」であった。
    ”火災は貰い損”としているが、この事からすると「最後の決め手の衰退期」であったにせよ、「如来の意志」であったにせよ、「氏」としての「青木氏の後勘の評価」は落としてはいない。
    「賠償の決断」は、後世への“「善悪の条理相対の理” (青木氏の密教掟)の概念」を護った事に成る。

    (注釈 念の為に前段でも論じたが、「江戸幕府期の青木氏」、即ち、「伊勢郷氏」としての「本領安堵地」が、「伊勢域の農地5万石」で紀州藩55万石の内37万石が紀州域、28万石は伊勢域、伊勢域全体が55万石で、この28万石の内5万石が「地権」として「青木氏の農地」と「楮や桑の畑地」であった。
    「農地外の地権域」は「3000石程度の地権」であったとされている。
    「紀州藩」からすると「支藩並の地権」(5万3千石)を持っていた事に成る。
    この様な「支藩並みの地権」(5万3千石)を持っていた「郷氏」は、日本全国でも江戸期では「公家族の藤原一族」と「藤原秀郷一門の青木氏や工藤氏や結城氏や斉藤氏や進藤氏や長谷川氏や永嶋氏や長沼氏」、や「近江佐々木氏系一族」等、少ない。
    これらの「氏族の郷氏」は全ては奈良期や平安期からの「氏族の郷氏10氏」にも満たない。
    この「賠償の決断」は、上記の立場よりも「後世への配慮」を優先した事に成り、既に、明治35年は「賜姓五役の立場」も終わりに成っていた。)

    (注釈 前段でも何度も論じているが、尚、鎌倉期末期にはこの「氏族」は、「80氏の氏族」が存在した。
    室町期末期には下剋上と戦乱でと20氏以下程度に激減している。
    江戸期初期直前では11氏で、明治期には5氏程度に激減している。
    「皇親族の青木氏族」では「神職の青木氏」と「神職の佐々木氏」が「社領」として持っていた。)

    その為に「福家筋の商い」(長兵衛)は、次ぎの影響を受けた。

    「江戸の伊勢屋解散」(a)、
    「江戸の引き上げ」(b)
    「江戸末期の組合解散令」(c)
    「伊勢商業組合の解散」(d)、
    明治初期の「地租改正」(e)、
    「農地の地権放出」(f)、
    「松阪失火元」(g)、
    「地主3000石の地権」も「売却賠償」(h)、

    以上、ここで「如来の意志」に従い「伊勢の紙屋と青木氏」は完全に「倒産 福家(明治35年10月)」をした。

    然りながら、これだけの「伊勢青木氏」に避ける事が出来ない「負の災禍」が一度に伴えば、奈良期から続いた「商い」は流石に耐えきれなかった。
    大阪にも堺と摂津等にも店が在り、遺されていた「船等の資産」や「一部の株」を売却して、それを元に、ここを拠点として再び「四家(分家筋)の商い」(高右衛門一家と作左衛門一家)は出直したと記されている。

    又、「江戸出店に応じた六地域」や後半に「江戸出店に応じた讃岐青木氏」の「青木氏」に付いては、口伝により明治20年頃を境に衰退に向いたと伝えられている。
    「商い」だけで応じた訳では無い筈で、前段の「イロハの商業組合」に加入したと云う事から考えても、この「青木氏の密教掟の概念」に従った事も充分に考えられる。

    果たして、後勘から観て、1760年以降の「如来の意志」は何だったのであろうか。
    恐らくは、“「善悪の条理相対の理」”に勝る何かが発生したしか考えられない。

    (注釈 「伊勢藤氏の伊勢青木氏の一族一門」は、「紀州藩の解体」で浪々の身に成りながら、その後、「資産」を活かして江戸期に興した「殖産の企業」を継承し、「企業家」として立ち直ったと口伝で伝わる。「賜姓長野青木氏」も同様である事が確認出来た。
    然し、概ね後勘として、「青木氏」を研究する中で、記録や資料や口伝等の遺産の状況を考察すると、全ての「青木氏」に云える事は、明治20年から30年頃から衰退期が顕著に開始し、昭和20年頃に「地域力」は無く成り、「独特の慣習仕来り掟等」の「古式伝統」は失われ、「普通の氏」の範囲に戻っている事が云える。
    現在では、記録や資料や口伝等の遺産さえ無く成り、「ルーツの如何」さえ喪失している現状である。)

    (注釈 江戸の「享保の改革」に参加した「四つの地域の青木氏」は、1785年以降の「商業組合に対する軋轢」と「政治的失敗で経済的失速」が起こって大打撃を受けたのだが、その後の動向が記録的に気に成る。
    「讃岐青木氏」は江戸と京都から引き揚げ北海道の開拓に手を出し昭和20年期に遂に倒産した。
    「賜姓甲斐青木氏」は農業に戻り、「伊豆青木氏」と「相模青木氏」は小さいながらも商業を続けている。
    「賜姓越前青木氏」に付いては「酒造業の蔵元」に、「秀郷流越後青木氏」は江戸の店を引き上げて「大米農家等」に戻った事が確認出来ている。)

    (注釈 116氏にも成った「秀郷流青木氏の存在」は、24地域での現存は確認出来ているが、その後の子孫の行方は不明で、従って、「悠久の伝統」(資料、口伝、慣習、仕来り、掟等)は完全に消失している。)

    (注釈 ただ、この時、この“「松阪の商業組合組織」”は、その“責任を果たす為に一度解体した“と記されている。
    伊勢のこの組織は、「青木氏7割株の株権」を放出して商家、運輸業、廻船業、金融業等にそれぞれ独立した。
    つまり、この意味は、「松阪組」と「射和組」は、“グループ化して居た事”を意味している事に成る。
    現在の形で云えば、「青木ホールディング」として成り立っていて、その「元締め」の「紙屋の資産力」が「松阪組の商家賠償」(一部玉城区の資産等は残った)で無く成った事と、失火元の責任を執って、一度、「福家筋」は解体した事に成ったが、「四家筋」は現在も神戸と大阪に遺る。
    前段で論じた様に、その「地域力」は「明治維新の地権放出」と「藩貸付不当り」と「伊勢騒動の援助」等で史上の最悪状態に成っていた。)

    (注釈 明治35年倒産から一代置いて宗家筋の福家筋は、筆者で40代目である。
    祖父の代に一時、筆者の叔母の家に本家の籍を移したが叔母の筋目は直ぐに絶えて祖父の処に戻る。)

    注釈として、江戸期では主に下記の(a)(b)(c)、明治期では、(A)(B)(C)の殖産を興している。
    「青木氏の四家(分家)筋」が、次ぎの事を興している。

    信濃から導入した「養蚕の殖産の興業化」ー(A)
    「紀州湯浅」から持ち込んだ「醤油の醸造化」ー(B)
    明治文化の発展で奈良期からの「和紙の殖産」で「紙箱の殖産興業」ー(C)

    収穫を高める「早場米の更なる開発」ー(a)
    越前より迎えた杜氏に依り杜氏を育て「本格的酒造米の開発」ー(b)
    越前から持ち込んだ「酒造の興業化」ー(c)

    以上二つの殖産を拡げ更に成功に導いた。

    これらの「殖産」を続けた大正期でも、依然として伊勢には「青木村」という「テリトリー地区」があって、この「殖産」で人々は潤い賑わったと伝わる。
    この事が「地域の歴史書」にも遺されている次第である。

    (注釈 前段で何度も論じて来たが、「青木氏」は「賜姓族の慣習仕来り掟」から奈良期より「分家」とは呼ばず「四家」と呼び「本家」は「福家」と呼んでいた。
    「家紋」も「家紋」と呼ばずに「象徴紋」と呼んだ。
    「賜姓五家五流青木氏」は、「笹竜胆紋」で変紋せず、「賜姓秀郷流青木氏」は「下り藤紋」が「総紋」で「副紋形式」を採用した。
    多くは「下り藤紋」の中に「副紋」を埋める「中入り紋」を使った。
    この全国の「藤氏の青木氏」は、御三家を含む全て徳川氏の家臣・御家人・旗本に成っているが、明治後は御三家が「職業紹介所」成る事業を興し、家臣の就職に活躍し、御三家筋が興した自己の事業の社員にも成っているが多くは倒産の憂き目を受けている。)

    以上は「伊勢に戻った青木氏」である

    これらの事から検証すると、後勘として、「如来の意志」にはこの上記の疑問に対して次ぎの様な答を出している。

    果たして、後勘から観て、1760年以降の「如来の意志」は何だったのであろうか。
    恐らくは、“「善悪の条理相対の理」”に勝る何かが発生したと考えられる。

    そもそも「青木氏」が伝統として引き継いでいる「青木氏の慣習仕来り掟」の類は、「祖先神から来る概念」と古代仏教の「浄土密教」から来る概念」であって、この「掟」も当然に「青木氏だけに存在する概念」である。
    この「青木氏の概念」が受け入れられる土壌に何か変化を興したと云う事に成る。
    つまり、“「善悪の条理相対の理」”の「青木氏の密教掟」の「如来の意志」が、正統に果たされる「社会構造」が変化したと云う事であろう。

    上記の注釈の中にその答と成る「共通の傾向」が潜んでいる。

    では、“「善悪の条理相対の理」”の「青木氏の密教掟」が,況や「如来の意志」が正統に働く社会とはどの様な社会であろうか。
    それは、より深く繋がる“「絆社会」”である筈である。
    “「絆社会」”であるからこそ「青木氏の密教掟」を護り、「人の上に立つ者」は「人」に「善」を尽くす、「力量等のある者」は「下の者」に「施し」を成す。
    これに対して「下の者」は「上の者」に「信頼と尊敬の念」で返す。
    「上の者」は、この「信頼と尊敬」を得てこれで「組織や役」を果たす事が出来る。
    この「相乗関係」が成立して社会は成り立つ。
    故に、それには「青木氏の密教掟」を護ろうとして自らを律する。
    自らを律する為に「青木氏の密教掟」の類を護る。
    自らを律しない者には、「人」は“「善悪の条理相対の理」”の中で“「信頼と尊敬」”を獲得は出来得ない。
    「下の者」と「上の者」共に“「絆」”と云う“「信頼と尊敬」”の上に成り立ち、その“「絆」”は“「個々の利」”では無く、“「組織と云う利」”に叶う事で“「個々の利」”を得ようとする社会である事に成る。
    最低限に於いて、この社会は、「組織の利」>「個々の利」の関係が成立している事に成る。
    これを観て“「善悪の条理相対の理」”による「如来の意志」は定まる。
    つまり、これには「個々の意志」をより尊重する「より強い自由社会」には成り立ちにくい条理にある。
    従って、「組織の利」<「個々の利」の関係が進むと「如来の意志」は変わる。

    では、上記の通り「如来の意志」が変化し出した「享保の改革」の後半は、「イロハの商業組合」で改革を進めた。
    況や、これは“「絆社会」”が減退している中での、更に「江戸の社会」の「自由の先取り」である。
    「江戸の民」は「青木氏」等が行う「仏施の質」に対しても「伊勢の仏施の質」では最早なく、そこに「生まれる絆」は云わずとも減退していた。
    その「江戸の絆」は、「組織の利」<「個々の利」の関係にあったからこそ成り立っていたのである。
    密かに「自由の先取り」が進んでいた事に成る。

    「自由の先取り」=「組織の利」=<「個々の利」の関係=「江戸の絆」

    この関係をより江戸で成したのは皮肉にも「青木氏」である事に成る。
    故に、「如来の意志」は「青木氏」に働いたのである。

    この進化と観られる“「自由の先取り」”が、幕末に掛け江戸から全国に伝播し、享保期より「自由の先取り」はより進んで次ぎの様な関係が拡がったのである。
    「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係=「江戸の絆」

    故に、「組織の利」>「個々の利」の関係にて成り立つ「江戸幕府」は弱体化して、遂には、「自由の先取り」を政治方針とする「維新政府」と成り得たのである。
    「自由の先取り」を政治方針とする「維新政府」が進むと、必然的に「絆社会」は減退する。

    後勘として検証して見るならば、明治初期から明治9年に掛けて維新政府に対して「伊勢動乱」(裏で青木氏は経済的支援)で反動したが、その後、逆に「地権放棄」に観られる様に「青木氏」自らもこの方針に積極的に賛同した。
    明治初期の青木氏の「地権放棄」は、当に、農民の「個々の利」を認める行為である。
    それを自らが「伊勢動乱の経済的支援」をすると云う事は「自由の先取り」を進めた事に成り、「組織の利」>「個々の利」の関係を保ちながら、「矛盾」を進めた事に成る。

    当然の結果として、「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係が進んで、「如来の意志」は正統に反映しなくなったと後勘としては解釈できる。
    これは「青木氏」自らが興した、或は、招いた現象とも云える。

    故に、「西洋文化の概念」が益々導入され、その為にその傾向が強く成った明治20年頃から「衰退」が起こったと云う事であったと考えられる。
    そして、どんどん進む“「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係”は、戦後、更に昭和20年の敗戦と占領下で「欧米の自由文化」が入り進み、遂には、「福家」は「倒産」の憂き目を受けた。

    “「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係”が進む中では別の道を選択するべきであった事が考えられる。
    つまり、享保期では「仏施の質」にあり、明治期には「伊勢動乱」(裏で青木氏は経済的支援)の「対応」が間違えていた事に成る。

    上記の様に、「二足の草鞋」で商いをする多くの「全国の青木氏」には、この昭和20年頃を境に「如来の意志」は、“「善悪の条理相対の理の概念」”を果たすも正統に享受され得なく成ったと「後勘の評価」はできる。

    “「自由の先取り」=「組織の利」>「個々の利」の関係” − A
    “「善悪の条理相対の理」”の概念“ − B

    この「ABの二つの関係」は崩れ、Aは変化してBだけが残る結果と成ったと考えられ、そのBも「組織の概念」では無く、「個人の概念」の範囲に留まったと成る。
    つまり、「Bにまつわる伝統の一つ」は消えたのである。
    そもそも「古式伝統」が消える過程とはこの様なものである。
    従って、「祖父の代」までを以って「氏としての掟」(多くの「伝統」。即ち、奈良期からの慣習仕来り掟)は霧消に期した。

    後勘として「享保期後半」からの「伊勢と信濃と甲斐と讃岐の状況」の「青木氏」を以って論じたが、多くの「全国の青木氏」は、「賜姓族」として置かれている「悠久の伝統ある環境や立場」などがほぼ同じであった事から、これに類する様な「憂き目」を受けていた事が間違いは無い事が云える。
    故に、後勘の現在で観れば、多くの「青木氏にあるべき古式伝統」が上記で論じた同様の過程を経て完全に近い程に霧消しているのである。

    その中で「伊勢と信濃と伊豆の青木氏」には、「伝統の形跡」が記録としても何とか遺されていたのである。

    (注釈 本サイトに何とか「伝統の記録」を投稿し論じて遺しているが、「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係が、ますます進み「青木氏の密教掟」(古式伝統)も無く成る。
    従って、「如来の意志」も働かず「伊勢」も含めてこれからは「全国の個々の青木氏」には「伝統維持と習慣仕来り掟の解明」は相当に難しい事が判る。)

    その「古式伝統」の「維持管理の難点」の一つは、その「伝統」が「周囲の伝統」と比べて「違和感」を感ずるほどに「古式豊かである事」が難点である。
    この「難点」を克服し維持するには、「それ相当の経済力」と「勇気やる気」を必要とする。
    先ず、その特異な「古式伝統」を継承し得る「環境・場所」が確保し得ないであろう。
    この「周囲の伝統」と違う為に、周囲からは気宇の目で見られ「伝統の特異性の周囲の理解」が得にくい。
    筆者もこの二点に苦労した。

    この状況は現在に於いても変わる事は無く益々難しく成るであろうが、筆者は内家で行っていても家の者にも理解が得にくい事がある。
    合理的に考えて「周囲の伝統」と違う為に何でそこまでやらなくてはと云う疑問もあるらしい。
    そもそも「伝統」とは「合理的に」とはいかないところがあるのだが。
    良い悪いは別として、最早、“悠久の歴史を持つ日本でも「数少ない氏族の青木氏」である“と云う感覚は、明治から戦後の昭和の混乱期の間に親族には消えているのである。
    「口伝」さえも受け付けない。「時代」と云うものはそう云うものであろう。
    故に、中々読んで貰えないが「文書」に遺して何時しか「子孫にロマンを与える事」としている。

    幸いサイトのカウンターで観れば、現在では、“年間で全国の5割近い青木さん”に読んでもらえている事には成る。
    ヤフーHPとサイトHPで観ると、延べ「約老若220万人の青木さん」に読んでもらっていた事に成る。
    これは「全国の青木さん」には充分に洩れなく読んでもらえている事に成る数字だろう。

    「伝統維持」は難しく成るも、「ロマンとしての青木氏歴史観」には、なんと「青木氏」のみならず読者は「青木氏族」にまでに広がっている。


    > 「伝統シリーズ」−27に続く


      [No.343] Re:「青木氏の伝統 25」−「「伊勢殖産と古式伝統」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2016/08/05(Fri) 07:44:33  

    >>伝統シリーズ23の末尾

    > > 「殖産」を興してそれを「システム化」して「経済」に結び付けて「藩政」が潤っていたのに、これを抑え込んで仕舞った事から、この影響を受けた「下級武士」は、「飢え」に喘いで仕舞った。
    > > その事から、田畑を耕し農業で産物を密かに売ると云う事で生き延びた。
    > >
    > > 「郷士の武士」も「仕官の武士」も「郷士」に真似て生きる事しか無く成り同じに成って仕舞った。
    > > むしろ、「殖産」を興した「郷士の方」が遥かに潤っていた事が記録されている。
    > >
    > > そして、今度は、享保期の「質流地禁止令」では、対象者が「仕官している下級武士」であった事から、幕府としては充分な対応は出来なくなっていたのである。
    > >
    > > ところが、「武士の農産物等の販売」には、各職能の「組合の壁」と云うものがあって、「自由」が利かず、結局、「農民の寄合」に入れて貰う等の事や、「農民の名義」を借りる等の事で対応した。
    > >
    > > 「幕府」のこの逆に跳ね返って来た思いも依らぬ「失政」に付いて、「藩」もただ観て見ぬ振りして黙認するのみであった。
    > > しかし、「紀州藩」の様に密かに裏で奨励した藩もあった位であった。
    > >
    > > この事から、「職能から販売までの商業組合」も「寄合組織」に変更して、自らも救い、地域の「下級武士や農民」らも救う事で「絆を基本とする寄合組織」に変更して生き延びた。
    > >
    > > 唯、この「寄合組織」では「発展」は望めないが「維持」は可能であった。
    > > それには、上記の「新−1から9までの副効果」までは幕府は潰しに掛かれなかった。
    > > 「新−2、3、5、7、9」は流石に「株権」を保障の前提としていた事もあって低迷した。
    > >
    > > 所謂、「新−1から9」の基本に成った幾つかの制度と組み合わせた「親商法」が、享保―宝暦―明和時代に掛けて「伊勢の紙屋」と「江戸の伊勢屋」の「青木氏」が興した「商業組合」の「新しい改革商法」(1716年から1788年まで)へと繋がったのである。
    > >
    > > この経緯は、「伊勢の紙屋」が「伊勢の商業組合」を興してからは明和期(1788年頃)までの「185年間の悪戦苦闘の歴史」に成る。
    > >
    > > これ等の事は、「青木氏」だけの「重要な知っておくべき青木氏の歴史観」である。
    >


    >伝統シリーズ24の末尾

    > 実に“可憐でシンプルな花”と云うイメージを持つ。
    > 「花と樹」で例えれば、云うまでも無く「象徴紋」にも成っている“「竜胆の花」”と「青木の樹」である。
    >
    > 前段でも論じたが、この“「竜胆の花」の様であれ、「青木の樹」の様であれ“として「賜語」を遺し「賜姓」したのは「天智天皇」である。
    > その「竜胆の花の印象」と「咲く環境の持つ印象」と「青木の樹の様な力強さ」が、「青木氏の氏是」とも成っているのである。
    > 「二つの青木氏」はこれを護り続けて来たのである。
    >
    > 因みに、参考として、大化期から江戸期までの間には、次ぎの様な「改革」を成し遂げている。
    > 全てではないが、思いつくままに拾い出してみる。
    >
    > 「自然神の継承」、「祖先神の創設と継承」、「神明社の創設と継承」、「浄土宗密教の創設と開始」、「侍の創設と開始」、「武家の創設と開始」、「国策氏の創設と開始」、「賜姓族の開始」、「氏族の開始」、「皇親族の開始」、「貿易の開始」、「総合商の開始」、「和紙、硯墨の開発」、「商業の開始」、「殖産・興業の開始」、「米・早場米の開発」、「養蚕の普及」、「紙加工の開発」、「商業組合の開始」、「徒弟制度の開始」、「暖簾分け制度の開始」、「質屋の創設と開始」、「職能部の開始」、「海陸の運輸業と護衛業の創設」等の全て「創始者」であった。
    >
    > (文化面で「青木氏の慣習や仕来りや掟」が世に出て催事に成った事等は、「伝統シリーズ」でその都度、機会に触れて記述しているがその数知れない。)
    >
    > この様に“「歴史に遺せる多くの大改革」”を成した。
    >
    > これら一々に独特の「青木氏の文化」が生まれ、それを「伊勢青木氏」等や「郷士の職能部」が其の文化を「庶民用」に改良して、「殖産」にして、「仏施の質」として世の中に出す。
    > この行為を江戸で一機に咲かせたのである。
    > その複合の「仏施の質」が「享保雛」であったと説いている。
    >
    > 上記の様に、日本で最初に起こった「大火改新」で産まれた「青木氏」は、「二つの青木氏」の「命運」を掛けて「社会」の為に「江戸期の経済改革」の最後の「享保改革」(「リフレーション政策の創設」)に取り組んだのである。
    > これは、何をか況や、「青木氏の氏是」と「家訓10訓」のベースにも成っている「青木氏の浄土宗密教」の「般若心経の教え」を護っていた事からの発起である。



    「伝統シリーズ−25」に続く。

    「伊勢殖産と古式伝統」

    「伊勢殖産と古式伝統」が連動して出来たこの「伊勢文化」を「享保の改革」の為に持ち込んだ「江戸の伊勢屋」に話しを戻す。
    この為にも、その前に「青木氏の歴史観」としての「伊勢殖産と古式伝統」を詳しく考察して置く必要がある。

    この「伊勢の殖産事業の背景」には、次ぎの様な経緯があった。
    そもそも、「青木氏の伝統」と云うものを理解するには、その前後に起こった「背景や経緯」を理解した上での事であって、「正しい伝統」はその時に獲得できる。
    「伝統」に限らず「物事」とは、その「前後の背景と経緯」を理解しなければ「正しい結果」を獲得できない。

    「歴史」と云うキーワードで云えば、それは「三相の人時場」(青木氏密教の説)に左右される“「歴史観」”と云うものである。
    そこで、此処ではその「人」に関わる歴史観である。

    「人」、即ち、“「伊勢出身の他の豪商」との関係に付いても論じて置く必要がある。
    実は、この関係が複雑で難しいのである。

    伊勢の中での「柵」(しがらみ)が見えて来て、それが「江戸の伊勢屋」の事に左右して来ているのである。
    従って、前段で論じて来た様に、そこで「江戸の伊勢屋」と共に、他の“「伊勢出身の他の豪商」等の事をも“組み込んで論じる必要があると考えられる。
    ところがその場合は、「伊勢の青木氏」から観ると、この“「青木氏の歴史観」との一致が起こらない「典型的な事象」であった“と云う事である。
    その意味で,不思議に思うかも知れないが、この新しい「青木氏の歴史観」(「背景と経緯」−「伝統」)を獲得する為にも、次の事を敢えて重複して詳しく列記する。

    それには享保期の「江戸」では無く「伊勢」に問題があった。
    「江戸の初期」の「伊勢の背景と経緯」のそれには「大きな政治的な意味合い」が関わっていた。
    そこで、政治の中心人物と成った“「伊勢の吉宗」”は、謂わば、その「功績」(紀州藩を藩制改革を断行して救った。)を買われて、番外から将軍に成り得たと云っても過言では無い。
    其れは、そもそも、この“「伊勢の吉宗」”は、「二代目の藩主」の「湯殿女」(巨勢氏)から生まれた「番外の子 嗣子外」であった。

    (注釈 前段で論じた様に、奈良期は「応神大王」を中心としての「ヤマト政権」は、「五つの豪族の連合政権」であったが、その中の一つが「巨勢氏」(巨勢族)で在った。
    現在でも、紀州紀ノ川沿いの北紀州東部に定住している。)

    そこで、二代目の「紀州藩主」は、これに「養育係の加納氏」を付けてその養育係の郷の伊勢に隠して預けた。

    (注釈 「公家族出身の二人の兄弟」が居たが、それぞれの「お付きの家臣争い」が当時は強く命の危険性があった。)

    其れが「養育係の下級武士」の「100石の加納氏(4000石の御側用人と成る)」であった。

    (注釈 頼宣入城時(1619年頃)に家臣と成った「加納氏」は、前段で論じた様に「伊勢藤氏の末裔の支流傍系族」の「大量の仕官事件」が起こり、この事が原因で頼宣に「謀反嫌疑」が掛かった。
    然し、その時に「伊勢藤氏」(青木氏含む)は「紀州徳川氏の家臣」と成った。)

    注釈として、そこでこの紀州藩家臣と成った「加納氏の身分」がどの様な位置にあったかを先ず知っておくことが必要である。
    事に大きく左右するのでこれから論じる。

    其れには先ず、そもそも、“「一石一年一人食の原則」”と云うものが昔からあって、その原則から、「最低五間間口の武家屋敷の家持ち」が「下級武士の上位」の身分とされていた。
    その原則では、当時は、最低で「150石」が必要であった。

    (注釈 但し、諸々の家臣に課せられた義務を果たすには、150石では済まず200石から250石は総合で必要とされた。これが下級家臣の俸禄の規準であった。)

    この原則から観て、「若い加納氏 100石」には預けられても「吉宗 (源六)」を「育てる能力」は当初から全く無かった。
    災害と飢饉で藩財政も逼迫し、幕府から2万両の借財で食いつないでいた状況であって、到底、養育費は出せない状況であった。
    結果として、「家康−頼宣」と伊勢で関係を保っていた「郷氏の伊勢青木氏」が、「養育」のこれら全てを支えたのであるが、当初からその心算では無く、且つ、「家臣」でも無い「伊勢郷氏の青木氏」が養育係を務める事は本来は出来ず、「伊勢藤氏の末裔」の「100石の加納氏」に形式上は預けた形を執っていた。
    そもそも、慣例から云えば、「伊勢」に持ち込まれた問題の解決は「伊勢郷氏の役目」でもあり、「伊勢藤氏との絆」からも、江戸初期の「家康との付き合い」もあって、この件は青木氏に執っては放置できる事では無かった。

    その「歴史観」の一つを述べる。

    因みに、「伊勢の郷士」で「紀州藩の家臣」に成った家に遺された資料をまとめると、当時の「下級武士の家計」は次ぎの様であった。

    「最低収入」では、家臣の「俸禄の高」は、「70俵−28石−21両」+「5人扶持−9石−7両」 計 「28両(札差変換)−37石」が「年収(標準と観られる)」であったと記されている。
    各藩の勢力に依っても異なるが、これが「紀州藩の規準」であったらしい。

    「最低支出 (武士長屋住 家族3人 家人1人)」では、その内訳は次の通りであった。
    生活費 3000文〜4000文=1両〜1.5両
    諸経費 2000文=0.5両〜1両   
    家人給金等 4両(最低 男仕一人、女仕一人雇用)
    衣服費 2両
    交際費 4両
    その他 2両
    合計 14〜15両

    (注釈 江戸社会は武士の「身分と格式」に応じて「慣習仕来り掟」が定められていて、「家人等の雇人」も「国内の経済対策」の為に「御定書」で決められていた。)

    実際は、これが役人等を務める「下級武士の生きる為の最低額」であった様で、「武士」ともなれば後継の為に男子が必要と成り、男子の子供を産む事に成り、産めなければ親族から養子を取る事にもなるので、それには「金子」が必要であって、これには「貯蓄」等もあってこれでは済まない事に成る。
    当時は、このほぼこの2倍が必要であって、28両≒29両と成り、これが「ぎりぎりの生活」であった。
    前段でも論じたが、この不足分は家族に依る「借田畑の工作と内職」(「農民の寄合形式」に参加)で凌いだ。
    従って、これらの「慣習仕来り掟」に関わる余計な事が町方の「町人」には無かった事から、生活は「町方の普通の者」より悪かった事が書かれている。

    従って、この一段上の「家持身分」では、当時の「普通の標準」は、「家族6人 家人5人」/(家族3人 家人1人)=4倍と成り、最低で37石・4=148石が必要と成った家計であった。

    この事から「伊勢の加納氏」(100石)は、この様に「吉宗 (源六)」を「隠し子」の様に「嫡外子」として預けられたが,養育して行く能力は当初から全く無かった。
    二代藩主もこの事は充分に承知であった筈で極秘に預けたと云う事に成るから、当然に、当初から「援護者」を当初から期待していた事を示す。
    従って、「伊勢域」の一切の差配は、“「郷氏の役務」”であった事から「伊勢青木氏」が支援し養育したとある。

    (注釈 平安期の「南勢の旧領地」の一部が、江戸初期に幕府から本領安堵されたのはこの「郷氏の役務の所以」の一つとも観られる。
    況や、この「南勢の旧領地」には「和紙に関わる楮生産」と「和紙生産と紙の殖産」を進めていた。
    上記手紙の主の「母方縁者の郷士頭」と、その「一族郎党」の定住地でもあって「不入不倫の権の影響」でも護られていた。
    それ故に「青木氏」に執っては重要な資料が遺されていた。)

    (注釈 紀州藩からは「隠子」で「嫡外子」であった事から援助は無かった。
    この時期、紀州藩は財政難から幕府から「10万両の借財」に取り分け喘いでいた時期でもあって、借財は藩財政の半分に達していた。
    その事から援助は元々全く出せる状況では無かったし、隠していた事から出せなかった所以でもある。)

    そもそも、「伊勢の青木氏」は、「奈良期からの郷氏」である事には間違いは無く、その役務の所以と云えばそうでもあるが、「隠子の嫡外子」であるとするならば「郷氏の役務」かとも成る。
    果たして、“何の義理も無いのに何故に養育したのか“と云う疑問が湧く。
    「資料」は明確に書いていないが、先ず「青木氏の口伝」に依ると、前段で論じた様に、その背景と成った「江戸初期の家康との二度の談合」と、その後の「頼宣までの諸々の付き合い」で、「政治的な厚遇」と「商いを続けるための経済的厚遇」を受けたが、何よりも“「本領安堵された事への義理返し」(伊勢での「氏存続と現状維持」)”であったと口伝で強くその恩義に付いて伝えられていた。
    その口伝の中での“「源六殿養育」の一節”であったが、「源六殿と六左衛門の稚児逸話」も遺されていたらしい。

    (注釈 「伊勢藤氏の末裔の加納氏と伊勢青木氏」は「伊勢藤氏や伊勢秀郷流青木氏等」により「数度の母方縁籍関係」にあり、筆者の父方曾祖母は加納氏の娘である。
    「加納氏」は、その後、生計を立てる為に、「青木氏の指導」の下で「二足の草鞋策」の「商家の加納屋」(青木氏の殖産事業)を立てて「養育能力」を高めた。)

    その後は、その「意味合い」が、上記した様に、「吉宗将軍擁立」と「享保の改革」までへと変化して行った事に成る。
    その経緯が下記に記した通りであるが、この経緯に青木氏が関係する問題(事件)があった。

    前段で論じたが、「伊勢青木氏」が「家康―頼宣との親交」があった事から、頼まれて伊勢で「養育掛かり」を務め、経済的支援をし、「藩主として持つべき能力」、取り分け「経済的な知識」等を「青木氏の商いの仕事」を通じて実地に教え込んだ。
    ところが、二代目後の「紀州藩の跡目」で揉める中、三代目と四代目(公家出自)の二人が僅か半年間を経て没し、この間、「吉宗 源六」の生誕から僅か21年であった。

    (注釈 青木氏の資料では、父病死後、三ケ月で兄の一人は病死、見舞いの弟は江戸からの旅の疲れで、父病死後半年後(兄病死後3ケ月)に没したとする理由に成っている。
    これは「藩内の廃嫡騒動」の所以と観られる。)

    其の結果として、例外的に、上記した様に、その「資質と能力」を買われて22歳で、「越前葛野藩の三万石割譲の扶持藩主」 「紀州藩の支藩」から「紀州藩の五代目」に、この時、「松平氏から養子の話」が出ていたが、「葛野藩の経緯」からも「綱吉の意向」も陰にあって偶然に話しは着いた。
    実は「綱吉の意向」が問題なのである。
    実質の処は、3ケ月ごとに藩主三人が没した事は、「吉宗」は「光貞の跡目」の「三代目」である事に成る。

    (注釈 「越前葛野藩」の件は、松阪定住で、「准支藩扱い」で、一万石以上は「大名扱い」ではあるが「吉宗資格無し」で、元は「嗣子外扱い」であったが、「部屋住み」から「世継権」を持つ立場にしても貰った事を意味する。
    「大名城」を構える事を許されない「陣屋館」の「越前葛野藩」の影響が「紀州藩」に大きい影響を与えていた。)

    そこで、この様な経緯の中で藩主と成ったか「上記の改革」を推進し成果が上がった。
    ところが、ここで徳川氏の「将軍家の世継ぎの問題」が浮かび上がった。
    ところが「将軍家の世継ぎ」もなかなか決まらず、突如、「紀州藩の吉宗・頼方」の名が挙がった。
    折しも、「経済政策の失政」と「大きな飢饉」が続き社会は酷く疲弊していた。
    其れを救えるのは、「紀州藩財政を立て直した功績 10万両返済」を買われて「将軍」に成った。
    「青木氏等」はその財力で「吉宗・頼方・源六」を将軍に押し上げたのである。
    ここで、「享保の改革」の「質素倹約」と「殖産興業」と「組織改革」を実行する「リフレーション政策」を提唱した。
    しかし、「御三家」等から大反対が出た。
    周囲は「インフレーション政策案」が主流であった。
    そこで、これらを説得するには、「紀州藩」を「モデル」にして、先ずは「紀州藩財政」をこの「リフレーション政策」で立て直す事であった。

    (注釈 紀州藩は、1707年と1708年の二度に渡り「M7クラスの南海地震」の大地震に見舞われて、その対応費用に「藩財政の半分の拠出」を余儀なくされ財政は破綻で困窮していた。)

    これには、注釈の様な「不慮な災難」があって、「育て親の伊勢の紙問屋青木長兵衛」に依頼して、「紀州藩勘定方」の「指導役」を依頼し「藩財政の立て直し」を実施した。
    その後、1716年頃までに「借財等の返済」は完了し何とか持ち直した。
    それまでの前藩主の「幕府借用の計10万両の返済」を成し、「家中差上金の賦課」、「藩札の停止」、藩内各地で甚大な被害を発生させていた「1707,8年の災害の復旧費」などで悪化していた「藩財政の完全な再建」を果たした。

    何とこの間、1707−1710年からの8年間で「藩財政の立て直し」を成し遂げたのである。
    これを観た「幕府」を始めとして各藩は、「驚きと羨望の目」で「青木氏が行う商業組合に依る対策」を見たのである。
    この時、「紀州藩の結果」だけでは無く、「15地域にも改革」は進んでいたのであった。
    然し、「享保の改革」の実行の為に、「青木氏」は紀州藩から一部が江戸向行の為に1716年に引き上げたが、「伊勢青木氏」が「紀州藩勘定方指導」から手を引いた少し後の1730年頃前を境に、「血縁の無い支藩」からの「養子の藩主」が行った「三貨制度の普及」等により、藩の信用が無い中で「藩札再発行」や「銅銭鋳造」等の「経済対策」を採ったものだから、あまり効果は無くて逆に悪影響を及ぼし藩財政は再び酷く下降した。

    それは、「青木氏の勘定方指導」の「リフレーション政策」を継承せずに、積極的な「インフレ政策」を採った事から起こった事である。
    そして、遂には1740年頃から再び「藩財政55万石」は1/2程度(32万石)に極端に悪化したのである。

    (注釈 「災害と震災と飢饉」の時には、「25/55万石の財政状況」であったが、災害や飢饉でもないのにそれに近い財政状況と成って仕舞っていた。
    これは完全な「藩主の失政」である。
    そこで、結局は、この「失政」を回復させられない侭に、窮地に陥り「幕末」に「青木氏」が請われて再び伊勢より出向して「紀州藩の勘定方指導」をして立て直した。
    この時の「藩主とのやり取り」を書いた手紙等が遺されている。
    つまり、紀州藩は初代頼宣期と吉宗期と幕末期以外は藩財政は全て失政であって借財に喘いだ。)

    1716年に成って、一方、幕府方では伊勢で兄弟の様に共に育った「青木六兵衛左衛門」を下向させて「布衣着用」(将軍に直接面談できる大名格)を許し、「享保の改革」(商業組合での改革)を主導させたのである。

    (注釈 家臣が周りにいない時は、兄弟の様に呼び合っていたと口伝で伝えられている。)

    そして、上記で論じた様に、この「伊勢の改革」を「江戸の改革」へと移す事に成ったのである。
    結果は、上記に論じた様に成功し、その「リフレーション政策」の効果を証明した。
    これを観て「反対派」は沈黙して、大反対をしていた「尾張藩藩主」(旗頭は継友)などは立場が無く成り、恥じて酒に酔いつぶれて家臣団からも信頼を失い、遂には暗殺直前に自ら蟄居して仕舞ったのである。
    これを「勢い」にして「反対派」を抑え込み「享保の改革」は、「上記の様な経緯」を経て更に進んだのである。

    ここで注釈として、更に「青木氏の歴史観」として、次ぎの事を知っておく必要があり、余り知られていない「重要な事」がある。

    そもそも、“「紀州藩支藩の越前葛野藩」(幕府からの扶持 吉宗の知行地)”は、「青木氏」とは全く無関係では無かったのである。

    実は、この「越前の葛野」は、前段でも論じた様に、奈良期から「皇族賜姓族臣下族の青木氏等の逃避地」で、「現在の越前市地域」」にあって、ここに「神明社」を他国に比べてより多く創建し,ここに青木氏一門を匿い保護していた地域であった。

    (注釈 「五家五流賜姓青木氏」内に起こる「一切の混乱」に際する「避難・逃避の地」として定められていた場所で、ここにその救済の手配を担う「神明社」を多く配置して体制を整えて「仏施の質」として構築された制度の地である。)

    (注釈 「仏施の質」とは、本来は「青木氏の菩提寺」が行う「質」ではあるが、守護神の神明社がこれに代わって行っていた。
    菩提寺は古来より密教であった事から、本寺と分寺が原則であって定住地には数が少ない事から神明社が前段で論じた様な制度で行っていた。
    然し、「青木氏の資料」の行では「仏施の質」と表現されている。「社施の質」とは成っていない。)

    主にこの「逃避地」(越前国丹生郡等 3万石 実質4万石に 葛野域館)で生き残る為に、問題を起こした「五家五流の皇親族の青木氏一族」を「仏施の質」により葛野域のここに導き保護し、「青木氏の商い」を通じて「商人」と成って、多くの「青木氏」は長く生き延びさせた当に当該地域であった。
    その末裔が「越前商人」の一部を形成していたのである。

    紀州藩跡目の「二人の兄弟」からの身の危険を感じる程に「吉宗 頼方・源六」には「激しい軋轢」があって、この時は「吉宗 頼方・源六」」は、紀州藩の「伊勢松阪」に匿われていた。
    (「嫡外子」に扱われた。)
    「伊勢松阪」は生まれた幼少の頃から滞在していたので、この「逃避地」(葛野域)との関係は「親代わりの青木氏」から聞いて充分に承知していた。

    敢えて、「幕府」は、所縁ある「越前の国」は幕府に執っては「重要な政治経済軍事の要衝地」でもあり米所でもある。
    此処を敢えて割譲してまで、“「嫡外子」に扱われている「吉宗・頼方・源六」”までに新たに「葛野藩三万石」(「支藩扱い」の「陣屋館造り」)を、態々、作り、「知行地」として授与したのだが、これも「吉宗・頼方・源六」が望んだ理由は、「青木氏の所縁」からものとして考えての事であり、その「証拠」である。

    (注釈 実は、これには「歴史的に記録」があって、「先代頼宣」が「謀反の嫌疑」を「三代目将軍の家光」に掛けられてからは、二代目までは幕府とは「疎遠の状態」であった。
    そこで、これを修復する為に紀州藩の「二代目光貞と世継ぎ二人」が「五代目綱吉」に江戸に招かれたが、その時,“「吉宗・頼方・源六」”は「付き添い」として同行し、「会見の間」では無く「控えの間」で「跡目外嗣子」(「部屋住み))の扱いで控えていた。
    ところが「将軍綱吉」は、「吉宗」が「経済学」等の「博学の徒」である事を知っていたので、その「吉宗・頼方・源六の人物」に興味を持ち密かに「面会」を特別に許した。

    (注釈 周囲が驚くほどに特段に「経済学」に優れていた事が公的資料から判っていて評判に成っていた。
    これを将軍「綱吉」は事前に老中や側用人から聞いていたとある。
    将軍に成っても周囲にこれを超える家臣はいなかったとされている。)

    「他の兄弟二人」では無く、「綱吉」はこの「吉宗・頼方・源六の人物」を認めた結果、「知行」を与える事を特別に決めた。
    これは「二人の兄弟」を差し置いてであり、「嫡子外扱い」と成っているにも拘らず兄弟には立場は無かった。
    (次兄にも直ぐ後に同地に与えた。)
    「紀州藩」を通じて藩外の「遠国特別支藩」として「要望通り」の「葛野の所領」(知行地)の「越前割譲」が認められた経緯を持っているのである。

    そして、此処を「紀州藩の支藩扱い(「陣屋館造り」」」としたのも、この“「古来の逃避地」”を持っていた“「青木氏との関係」”からではないかと考えられる。
    そこで、「吉宗 頼方・源六」は、「知行」を幕府から特別に与えられるとして、敢えてこの「越前の所縁地」の「葛野」を指定要望したのではないかと推測される。

    つまり、「伊勢」に居て培った知識から、「知行地」の「安定した土地柄」は、“「商い」にある”と考えていたからであって、その「知行地」を思う様に管理するには、「育て親の青木氏」の一門が「商い」で栄えている事は何かと行政上都合が良いと観ていたのである。
    そうで無ければ、態々、幕府は新しく「知行地」(扶持)を造る事も無い筈で、遠国の「葛野」でも無かった筈である。
    この「葛野」には、この様な「所縁」があったのである。

    (注釈 この葛野は将軍に成った後に越前に返却した。)

    つまり、この「伊勢」には、江戸期に「紀州藩の吉宗同意」の下で、この育った「松阪商人」を「青木氏」と共に、「松坂組」と「射和組(後期の殖産)」とに分離させ、編成させて、「職能分業の組合組織」(商業組合)を造り「経済の活性化」に成功させたのである。
    (近江組は不参加)
    この通称、「松阪商人(「松坂組」と「射和組」と「近江組)には、実は、これには数人のもう一つの「葛野商人(越前商人)」が組み込まれていたのである。

    「陣屋館造り」の「葛野支藩」から「吉宗と青木氏」に“「招かれた商人」”として加わっていた。
    前段で論じた様に、越前の「青木氏の商人」は、中でも「越前商人」と呼ばれる者の仲間入りをしていたのが、「酒造業」(越前酒)を営んで大成功していた。
    それは「近江青木氏」で、秀吉の家臣であった越前八万石「青木一矩と久矩」の子孫も「天下分け目の戦い」で「福井葛野」に逃げ込んだ事は判っている。
    「葛野商人」はこの末裔と観られる。

    江戸初期の当時は、“「四大杜氏」”と云われた「丹後杜氏」、「丹波杜氏」、「但馬杜氏」に並んで「越前杜氏」が在った。
    そこで、この「越前杜氏」を雇って「青木一矩(逃亡二か月後没)」の子の「俊矩」は「酒造業」等を手広く商って成功した。
    そして、「越前の酒問屋の豪商」と成り、”「越前商人」”と呼ばれる様に成った。

    この「越前青木氏の酒造業」の「二人の商人達」(越前杜氏含む越前商人)を招き、この「酒造り」を「伊勢米の殖産」として「伊勢」で持ち込んだ張本人達であった。

    (注釈 この「伊勢の酒造りの殖産」を新しく起こすには、この「越前の職人」を「伊勢」に招く必要がある。
    それには、ここを「支藩」として「吉宗の知行地」にする必要があって、それを思惑に幕府に掛け合ったのであろう。
    取り分け、「杜氏等の職人」等は、「他国の移動」は当時は厳禁されていた。
    何故かと云うと、それは元より「領民」は、「藩主の支配下」にあり勝手な移動は「国抜け」と云う斬罪になり、且つ、「杜氏等の高い能力」の技能者は、取り分け、国のその権益を護る為に「国の殖産」が他国に流れる事を禁止していた。
    中でも、「関西の四大杜氏」の「杜氏」は厳禁であって、「国で開発した殖産」は「国の宝」と観られていた。)

    「青木氏」は、前段で論じた様に,「信濃青木氏」から学び「米の新種と早場米の開発」(江戸初期)に成功したが、「余剰米と成った米」を「酒造に生かす事」を考えての処置であった。

    この「葛野」を「吉宗知行地の所領」と要望したのには、上記した様に、この「越前の酒造業」を「所縁のある葛野」から「伊勢」に持ち込む「吉宗と青木氏の戦略」で在ったと観られる。

    と云う事は、「吉宗と青木氏」は、伊勢に「酒造業の殖産」(伊勢酒米の大和)を興そうとしたとすると、「伊勢の殖産」のみならず、ここの「伊勢の経済力」を背景に「将軍」に成れるかは「時の運」が左右する事は必定ではある。
    然し、これは少なくとも、「疲弊する全国の経済」と「幕府の経済知識の治政」に大いに疑問を持っていた証拠である。
    「御三家」として何とかしたいと云う「気概」は、「嫡子外」でありながらも持っていた可能性が有る。
    むしろ、「嫡外子扱い」で育ったからこそ持ち得た「気概」であっただろう。
    少なくとも、幕府に「紀州藩の影響力」を誇示して幕府を動かしたかったと云う「気概」は持っていた事は、この「葛野の一件」でも伺える事である。
    (その様に「資質と知識」の持った「養育」を「青木氏」はした事は確実である。)

    「吉宗」が「堅実な性格」であったと云う事は、そもそも「青木氏の家訓」と「氏是」に通じているからであり、上記した様に、「伊勢商人の気質」に通じている事でもあった。

    上記のaとcの「江戸出店と商業組合の不参加の商人」が、後の1760年代に「江戸出店」を果たすが、この「江戸出店」を果たすには「新たな売り」にする「伊勢の殖産品」が必要で、ただ単に江戸に出れば成功すると云う甘いものでは無かった。
    この時の「商い」には、上記した「新たな殖産」を興した「伊勢の酒」と、伊勢伝統品の「伊勢の白子木綿」と、紀州伊勢でも起こった害虫全国被害にミカン畑に「搾りかす油」をまいたところ大効果があり、これを逆手に「殖産商品」とした「南勢の菜種油」”が主であった事が判っている。

    (注釈 この事は「墫廻船」と「菱垣廻船」の「積荷資料」にも記載有る。)

    取り分け、上記した様に、1745年以降の「樽廻船」の「酒」には、この“「伊勢の酒」”があった事が判って居る。

    (注釈 「灘の酒」等は特に厳格に管理されていて「廻船の搬送」は「樽廻船」として限定されていた。)

    この事は、「吉宗知行地の葛野」から招いた「葛野商人」に依って興った「伊勢の酒造業」は、1697年から凡そ50年で江戸に販売できるまでに育った事に成る。
    「酒に適合する米の生産」から始まり、「酒造販売」に至るまでの工程としては、納得出来る期間である。
    前段で論じた「信濃から学んだ米の生産」は、「伊勢に合した米種」も然ること乍ら、「酒に合う米種」に改造する事にそもそも「所期の目的」があったのではないかと考えられる。
    故に、確かに「伊勢の難しい気候」に合わした「米の増産」もあるが、「日本初の早場米」(青木氏が開発した「早稲光」、或は、「光稲」)には、「良酒に合った伊勢米」にするには「季節的な理由」が在って「早場米」にしたのではないかとも考えられる。

    注釈として、「伊勢」は地形的に「中部山脈」と「中国山脈」の中央構造線の「中間の切れ目」から吹き降ろす山瀬(やませ)に依って「伊勢平野」は常に荒れる。
    平均気温は15度前後と「低温域」と成り、又、「堆積平野」であるが為に「砂泥岩質の土壌」で出来ているし、この事に依る「海水堆積」が起こり、従って「米の生産」は古来より全く難しかった。
    これを「寒冷地の盆地の信濃」から「米の生産」を学び、上記の土壌に適した「米種の開発」に「青木氏の資産」(殖産)を投入して取り組んだ。
    更には、「やませの低温域」の季節を避けた「全国初の早場米」まで開発した。

    そこで「酒米種」にするには、「低温米」は甘みが在ってまろやかであるが、「海水の浸み込み」を起こす「砂泥岩質の土壌」が問題であったらしく、これに「合わせた米種」にするのには大変に苦労した事が「青木氏の資料」の一部に書かれている。

    この資料から読み取ると、概して云うと、「砂泥岩質の土壌」は低温に成ると、「土壌の水分量」が低下して、「米質」が脆く、「粘り性」が低下するとの事で、結局は、激しく成る「やませの時期」を後ろにずらして、海水の浸透期をずらし、早めに「種植え」をし、「米質が出来る時期」に、要するに地形から来る「山瀬 やませ」に合せる事で収穫すると云う試みを重ねた。
    この結果、前段で論じた適合した「早場米」が出来上がったと云う事である。
    これが「酒米種」にも一致させたと云う事であった様である。
    この「早場米」が同じ気候と土壌を持つ信濃より西域の「大阪平野」や「灘平野」や「美濃平野」までに広まった原因である事が書かれている。(事実と一致している。)

    そこで、更に調べた結果、「幕末の前頃」の1780年末から1800年前半代に開発された“「伊勢錦」”、と、その後の“「山田錦」”は「伊勢の酒米」として開発された。
    然し、、その「伊勢の酒米」の全ての元と成ったのは「多気郡」で開発された幻となっていた“「大和」”であった。

    1700年代後半期に開発されたとするこの“「酒米の大和」”は、1700年代初期に多気郡で開発された「日本初の殖産による早場米」(「早稲光」、或は、「光稲」)より改良された上記の“「酒米」”と書かれている。
    そして、この「早季種米」に観られる「米の味」から、“「芳醇な味」の「早稲光の米質」”に一致している事が判る。

    この越前から呼び寄せて造った「伊勢酒」(伊勢錦と山田錦)の元と成った「伊勢の酒米」の“「大和」”も、「芳醇な味」を醸す「酒米」として生産されていたものである。
    その後、近畿圏に多く生産される様に成った事でも一致しているのである。

    この”「早稲光」”から開発された”「酒米の大和」”は、昭和初期には完全に消えた“「幻の米」”として最近、「伊勢」で復元したと伝わっている。
    「50年の経過」を経て「酒造販売」に至る開発された時期から考察しても、この「早場米」の「早稲光」を先祖に持つ“「大和」”の「酒米」を使って造った「伊勢酒」(青木氏の殖産事業)である事には先ず間違いは無いだろう。(明治35年の資料の焼失 口伝)

    そこで「陣屋の葛野藩(1705年)」は、「吉宗将軍(1716年)」と成った後の1725年頃に最終「廃藩−越前藩返却」の経緯と成るが、この「20年間の短期間の知行地藩主」であった事から、「葛野藩割譲」と「酒造業の伊勢移入」は、明らかに「吉宗−青木」側の「当初からの戦略的な計画」であった事に成る。

    当時は「酒造技術」は「藩財政」の安定した「財源の要」とも成るもので、その為に酒造元を持つ藩は技能と技術は厳しい管理の下で「門外不出」であった。
    当時は上記した様に「四大杜氏の関係」から、各藩は何とかしてこの「四大杜氏」から人を招いて「藩財政の安定化」の為に「酒造業」を興そうと懸命に成っていた。
    「四大杜氏」は徒弟制度で組織されていて、簡単に「難しい酒造技術」が流出する事は出来なく独自の努力にも財源と技術に限界があって、喉から手が出る程であった。

    この「越前杜氏」の持つ「酒造技術」を伊勢に持ち込み「殖産」として「伊勢酒」を造るには、この酒造地域元の「葛野」を支配下に治める必要がある。それ以外には無い。
    とすると、松阪で育った「吉宗・頼方」は「伊勢殖産で酒造業」をより図る必要があると認識する。
    そうするには、この「葛野」は、「青木氏の所縁の土地」でもあり、且つ、「酒造業で成功した近江青木氏の青木俊矩の葛野」でもある。

    ここをどんな形でも良いから、「吉宗の扶持の知行地」に最低で作り上げれば出来る事に成る。
    後は、「早場米」の「早稲光」の経験を活かして「酒米」に改良する事が出来れば、同族の「青木俊矩の葛野」の「越前杜氏」の出番で酒造は直ぐに「青木氏の殖産」に移せる。

    注釈として、「綱吉」も当初からの「吉宗頼方の戦略的な計画」であるこの事を「側近の大久保氏」から知らされていて大方は察知していたのではないか。
    「記録」には「側近大久保」は「高い経済学知識」のある「嫡外子の吉宗・頼方」に興味を持った所以を「綱吉」に取り次いだとする記録が遺されている。
    この“「高い経済学知識」“とするのはこれらの事に在ったのではないかと観られる。
    葛野の「頼方知行地付与の件」での「申し出」では、「御三家」の紀州藩安定の為には必要と認めていたと考えられる。
    幕府としては、「紀州藩の安定」は戦略上欠かせない条件でもあると考えた事からの配慮と考えられる。
    そもそも、「紀州藩」は元は「浅野藩の不毛の領地」であり、「越前国の様に経済的な戦略的地域」ではなく軍事的地域と見做されていた事も事実である。

    そもそも、この「殖産」を営む「伊勢商人」とは、「松阪組」と「射和組」と「葛野組」と「日野組(松阪組と会津組)」と成るのだが、その組は次ぎの様に成っている。

    「松阪組」には、氏姓名としては、「青木氏の商業組合」や「殖産で拡がった組」や「縁故関係組(「加納氏」等)」がある。
    「葛野組」には、数は少ないが「葛野青木氏」等の「酒米の殖産組」と「杜氏等の酒造組」がある。
    「日野組」には、元の「近江組」が一度日野に戻るが、その後、「松阪戻組」と「会津組」の二流に成る。

    前段でも論じた様に、秀吉に依る「氏郷の移封」で二分流し、「松阪戻組」が「射和組」と合流する事に成る。

    これらを主導する「射和組」の「伊勢郷士衆11氏」(筆者説18氏)に付いて論じて置く。

    この「射和組」には、氏姓名としては、「・玉置氏、富山氏、国分氏、森田氏、河村氏、山下氏、新川氏、三井氏、下村氏、竹川氏」、所謂、射和組の「伊勢郷士衆11氏」(筆者説18氏)が確認できる。
    これに前段でも論じたが「門徒衆」が加わる。

    (注釈 但し、「日野組」の「松阪戻組」と「射和組の門徒衆」の二派は「青木氏」と行動を共にしなかった。)

    以上等の「伊勢郷士衆11氏」(筆者説18氏)が中心と成って繁栄させたのである。
    この「射和組」には、伊勢紀州の「門徒衆」が入る。

    注釈として、この「射和組」に加え、全体の「伊勢郷士衆」は次ぎの通りである。

    清水、山尾、辻、・佐々木、・加納、・小林、 満田、中村、福岡、西田、島、松山、家喜、喜早、本城、福西、谷村、徳山、金子、友田、藤村、滝野、千賀地、吉住、村田、新川、
    (紀州は除く 最大時の計26氏)

    「親交・縁籍先」の五氏
    清水「松阪組」 山尾「松阪組」 辻「松阪組」 三井氏「射和組」 下村氏「射和組」

    「娘嫁先」と「家人跡目先」の確認できる五氏
    ・佐々木「松阪組」 ・加納「松阪組」 ・小林「松阪組」 ・玉置氏「射和組」 ・小野田氏「射和組」

    注釈として、この「伊勢郷士衆」との血縁では、現在の研究では、「青木氏」からの「娘嫁ぎ先」と「家人跡目先」としては「五氏」(・印)が確認できる。

    「青木氏へ嫁入り先」は、確実には全て確認が取れないが、ほぼ同じ程度の「六氏」で,大正末期までの「長い付き合い」(親交)のあった「伊勢郷士」は血縁の有無は別として「五氏」が確認できている。
    (恐らくは血縁はしている。江戸期中期で計11氏)
    然し、更に資料が見つかれば、少なくとも「伊賀郷士衆等11氏(18氏)」とは、清蓮寺などの資料からと、その前後の経緯から観て何らかの関係があった事が頷ける。
    (室町期からでは計29氏)

    (注釈 平安期と鎌倉期の状態は度重なる消失で資料が見つからないので状況証拠以外には掴み切れない。)

    伊勢の「櫛田川」を挟んで、「射和」の南側の玉城村(現在の玉城市)の全域は、「伊勢青木氏」が大地主(地権者)で、「伊勢紙屋の蔵群」と「松坂組の職人の職場と長屋群」と「射和組の職人の職場と長屋群」として成り立っていた。
    この状態は、「農地」では無かったことから、上記で論じた様に、「資産・地権」として筆者祖父の代の明治35年(38年頃)まで続いた。

    実は、「伊勢松阪」は、江戸期から明治期まで、「数十件以上の大火」として扱われる「火災」は何と「6度の大火」に見舞われた。
    従って、縁籍関係のこの種の資料は特段に遺らないし何らかの方法で追跡が困難に成っているのである。

    (注釈 これは上記した中央構造線の「地形上の吹き降ろしの影響」で大火が起こり易い。
    この内の1件は「青木氏の伊勢紙屋」からの松阪の出火元に成る。)

    (注釈 この為に「古来の資料」が残念ながら多く消失しているが、「商記録」は別であった事と「菩提寺」や関係する「郷士衆の家」には「末梢の記録」が細かく遺されている事から、「充分な読み込み」をすれば「青木氏の歴史観」と繋ぎ合わせての経緯が生まれる。)

    江戸末期にも2度の「大火」に見舞われ、「室町期末期の戦乱」に依る「焼き討ち」からも「大火」に依る「伊勢庶民の感覚」は、大火には特別なものがあり大変なものであった。
    それだけに、商家界隈の何度も繰り返される「災難」には、そこから何とか立ち直ろうとする気概が強く、「伊勢四衆」の「生き残りの二氏」(二つの血縁青木氏)が立ち上がったのである。
    (伊藤氏一族と伊賀氏一族は衰退)

    江戸期までに生き残った「氏族」の「伊勢秀郷流青木氏」は、「紀州藩の官僚」として、「伊勢青木氏」は「郷氏の地主」として、「豪商」として、「殖産」を新たに興し立て直らせようとした。
    其れには、上記した「室町期末期の殺戮」と「度重なる大火」で「伊勢衆」は、上記の様に激減して仕舞ったのである。

    “「紀州藩の記録」”に依れば、この「伊勢衆」が他国に比べて特に少ない事を理由に、「伊勢の二つの青木氏」との「談合」を再三にしていた事があり、“「青木氏の年譜」”にもこの事が一部記載されている。

    注釈として、「伊勢」の生き残りの「郷士衆」は、同じ時期の「土佐郷士数」の「全階級500」に比べて、50程度である。
    何と1/50に過ぎない。

    「伊勢三乱」に参加した「郷士数」は、記録から凡そ「35程度」で、それが、最終は20以下に成っている。
    「伊賀の乱」に参加した「郷士衆35」が、前段でも論じた様に、清蓮寺城からの「青木氏に依る救出劇」で生き残ったのは何と最終11氏(18説)と記録されている。
    (殆どは何らかの縁者関係にあった。)

    (注釈 普通は、その地域の「歴史的な経緯」も左右するが、原則の平安期からの「四六の原則」により「一国五郡制」であるので、一郡に興せる「郷士数」はせいぜい「25から30程度」が生存競争により限界と成る。
    そうすると、藩主と成った者は、これでは元より「規定の家臣数」では賄えない事から、一国に「郷士数」は150程度に拡がりこれが限界数と成る。
    これでは、藩主に課せられた「責任兵数」では足りない事に成る。
    そこで、既定の格式を下げた“「準下士」”として「農民から傭兵方式」を採用する事に成るのである。
    これでこの約3倍が用意される事に成る。
    ただ、これには、「人様」を用意するに当たり “「ある仕来り」”が有って、「傭兵と成る者」(“「準下士」”)、つまり、主に「農民」には、“「元郷士」”であったとする証明が必要であった。
    これを扱う「専門の仲介人」の「斡旋職業」が存在した。
    これらが、この“「証明」”を作り上げて藩主に届けられたが、殆どは搾取であった。
    藩主もこの事は充分に承知していて「暗黙の了解」であった。
    そこで始めから、紀州伊勢地域にはこの様な「傭兵軍団」が各地に編成していたのであった。

    有名なのは「関西域」では、大きい「傭兵軍団」を職としているものとしては、次ぎの通りである。
    伊賀軍団、甲賀軍団、雑賀軍団、根来軍団、柳生軍団、河内軍団、十津川軍団、龍神軍団、橋本軍団、日高軍団、北山軍団と、「熊野六軍団」等
    以上の各地の“「郷士衆」”から成る「17軍団」があった。
    紀州伊勢はこの様な背景から実に傭兵軍団の多い地域である事が判る。
    (臨時的に農民を集めた炊事などの雑務を担当する農兵の「農兵軍団」は除く。)

    他に、「伊勢紀州域」では、重要な水軍による「傭兵の軍団」が次ぎの様にあった。
    熊野水軍、伊勢水軍、紀伊水軍、摂津水軍、堺水軍、と別格で駿河水軍
    以上の「水軍の傭兵軍団」の「五軍団」が在った。

    (注釈 「鎌倉期、室町期の戦い」までは、戦略上、「水軍の軍団」が無ければ、“戦いは負ける”と云われていた程に「重要な戦力」であった。
    「駿河水軍」は、関東域の水軍と成るが、資料から「平安期からの戦歴」を観ると、「関西域の戦い」に参加している傾向にあり、これはこの「駿河水軍」は「源氏方水軍」と云われ、「青木氏」(伊勢水軍と摂津水軍)とは、「青木氏の平安末期の跡目」に入った「摂津源氏の源京綱」との繋がりから大いに関係のあった水軍である。
    伊勢青木氏の同族一門の伊豆青木氏との血縁関係もあって、その勢力は「青木氏」を平安期から伝統的に補完していたのである。)

    そもそも、「水軍」とは、港域の海域を封鎖し、「食料の搬送」に敵味方に大きく影響し、「港からの攻込み」で側面を突かれる事があって、圧力を掛ける戦術にも成る事で水軍を確保する事は必須に重要視されていた。
    更には、その意味でこの「水軍を持てる軍力」は、当然に「姓族」では先ず無く、「氏族」を構成する集団で無くては持てない状況であった。
    この様な「水軍」を持てるには結局はどうするかであって、「絆柵」の中で持てる「軍事力」であった。
    其れには況や“「歴史」”が左右するものと成る。
    「青木氏」はその意味で関西では、「郷氏」乍ら、この「五軍団」との強い絆柵を持っていた。其れに「陸の水軍」とも云える「シンジケート」を持っていたと成ると、例え、「不入不倫の権」で護られていたとしても、その「影の脅威」は「姓族」の大豪族の比では無かった。)

    「青木氏」では,九州の黒田藩に傭兵していた「日向青木軍団」、自由軍団の中部域の「伊川津七党の青木軍団」や関東域の「武蔵七党の丹治氏系青木氏の軍団」がある。
    中国域の地方では、「讃岐青木氏系」の「出雲亀甲軍団」、関東では「武蔵丹生党軍団」がある。
    これらは全て組織化された「郷士身分」の「表の組織」である。

    「伊勢」は、この事から観ると、この「軍団の影の脅威」があって、明らかに矢張り全国の平均より1/3と少ない事が判る。むしろ少なくても良かったのである。
    丁度、「青木氏の同族」で親交を最大にしていた水軍の無い「信濃」では、この「平均の郷士数500」であった。
    重要な事としては、「伊勢」は1/3であった事から、この様に少ないだけに「強い絆柵」で繋がった「伊勢水軍」「摂津水軍」や「伊勢シンジケート」と云う「影の組織」で固まっていたのである。
    前段でも論じたが、「シンジケート」とは、平安期から室町期に戦乱で敗退して山岳地に逃亡した「武士衆」で、中には勢力を持ちなおして「郷士」と成った者もあって、それらが「生活の糧」として「青木氏等の豪商」と繋がり、契約をして経済的に生き残った。

    (注釈 完全な経済的支援をする。常時は「荷駄の護衛」や「地域住民の護衛や警備」を担当し、「戦い」と成ると戦闘員として働く「影の軍団」である。
    資料を観ると、この水陸の「軍団の活動」は目が廻る位に煩忙であったらしい。)

    それが各地に存在する「少数の集団」であった事から、上記の「傭兵軍団」には参加せずに、「伊勢シンジケート」に組み込まれて「青木氏から経済的な裏付け」を取って、“「戦いそのものの傭兵の仕事」”では無く、“「経済的な傭兵の仕事」”を選び、それを「生きる糧・仕事」として働いたのである。

    時には、元は名だたる「氏族の郷士」もいて、「武家」であった事からも「護衛や威圧」等の「武力的な仕事」も伴わせて働いた。紀州藩などの家臣の道を態々選ばなかった。
    「郷氏の各地に持つ地権」を「護る役目」を負って、そこで土地活用して生きる道を選んだのである。
    主には、上記の藩主では無く、「青木氏」等の「大郷氏の護衛役の軍団」が中心であった。
    「郷氏」は「地権」を大きく持つ「古来の地主の格式のある武家」で、また勃興してきた「姓族の藩主」とは違った経済的背景を持った、況や“「地域力」”を持っていた「影の大勢力」であった。そこに水軍等を持っていたのであるから、「姓族の藩主」は下手をすると潰されると云う脅威が在った。

    (注釈 前段で論じたが、勃興してきた「姓族の藩主」の「山内氏」はこれに悩まされた典型的な事例である。)

    (注釈 江戸期は、「藩主の石高」に応じて参戦する兵数が決められているが、これを全て家臣(上士)では賄えきれない。
    そこで、「下士」として「土豪の郷士」を「二つの身分」に分けて抱えた。
    この事を実行したのが彼の有名な処世実に長けた藩、江戸期に出世した「土佐藩」である。
    この新興の土佐藩は、標準的な「495の郷士数」であった。
    この事から「伊勢」は如何に少なかったかは判る。)

    同じく元農民から出世した「自由郷士」の「伊勢の藤堂氏(55万石)」も、「土佐藩」と同じ環境に置かれていた事から、「伊勢の郷士衆」が少ない故に、農民からも「下級の郷士」として扱い、“元郷士であった事を証明できるもの“があれば、「郷士の下士身分」として臨時採用した。
    恐らくは、土佐藩(49万石)と石高は同じ程度であった事が伺えるが、そもそも戦乱で滅亡したと云う事よりも、元よりそれに見合う「伊勢郷士」は、室町期中期から興った「姓族の郷士」としては「伊勢」には極めて少なかったのである。
    これは「姓族」が少ない事も含めて「奈良期からの不入不倫の権」で護られた「遷宮地伊勢の歴史的な環境」から生まれた現象である事に成る。

    (注釈 筆者説では、戦乱に関わらず伊勢は最大70程度以下で、 矢張り、元々、歴史的に「聖地」とされていた事もあって生きる糧と成る「殖産」も少なかった事に依ると観られる。
    それは「不入不倫の権」で護られていて、ここで「武力」を発揮して周囲を押え「土豪」と成り、遂には「郷士」と成るには出来なかった環境にあった事が云える。
    何故ならば,「聖地」で有るが故に、成ろうとすれば、それは「逆賊の罪」に曝されるからである。
    依って「伊勢衆」と呼ばれる「郷士衆」と違い、「天正期末の伊勢郷士」と呼ばれる多くは、上記した「伊勢御所時代」を強引に築いた「公家武家の北畠時代」からの「各地から集めた郷士」であり歴史は浅い。)

    「公家大名」と成った北畠氏は、上記の通り「武力を持たない事が原則の公家」で在るが故に、従って、各地から家臣を急ごしらえで募った事は有名で、関東の秀郷一門の名門の「工藤氏」等も家臣に成っている位である。
    その「工藤氏」等も「北畠氏」がその勢力を関東中部地域に伸ばした時に滅ぼした「氏族」であり、それだけにこの「伊勢」には「歴史の長い郷士衆」は少ないのである。
    それだけに室町期中期頃からの「伊勢郷士」と呼ばれる「土地の土豪」から育った同じ「郷士」で有っても「青木氏との付き合い関係」も少ない「伊勢の郷士」もあるのである。

    「紀州藩の記録」には、その「意味合い」としては、伊勢では、“「郷士」が少ない故に反対運動や騒動が無く、やり易いと云う事もあって、「彼等の糧」を確保する為にも「伊勢の郷士」等に影響する”「土地」“とか、”「水」“を利用した”「殖産」“を進めるべき”との意味合いの文略がよく観える。
    「土地」が、「勢力拡大の道具」として使わず、事を構える事無く「本領安堵」されている「青木氏」に執っても同じ考えであった事が、これはこの時期に何度も繰り返されている「談合」の意味からでも判る。

    そもそも、上記した「郷氏の地域力」を有史来を持っている事から「伊勢の事」を考えている「青木氏」を「本領安堵」する以外には無かったとは思われる。
    然し、それにしても「伊勢の国力」を高めるには、「伊勢衆」と「伊勢郷士」の「二つの郷士の力」を結集した「殖産と興業」が必要であった。
    従って、その「力の源」に成るには、「新しい藩主」にしても「地域力」を持つ「郷氏の青木氏」にしても、矢張り、「少ない郷士の力」を使う以外には方法は無かった。
    その「二つの郷士」が室町期末期の戦乱で激減し、その僅かに遺された「伊勢郷士」も、「伊勢シンジケート」の中に存在したと云う“ジレンマ”にあった。

    元々、上記した「紀州藩との関係」から観ても、結局は「郷氏の青木氏」が前面に出る事しかなく、「伊勢シンジケートの郷士」から観ても、頼れるには「藩主」では無く、矢張り、“「実質的な地域力」”を持った「郷氏の伊勢青木氏」であった。
    然し、その期待を背に、この「郷氏の伊勢青木氏」も「自らの力」だけでは“不安”であったと観られ、当然の事ではあると思われるが、「古来の親族」の“「信濃青木氏」”に「助け」を更に求めた事にも成る。

    と云う事は、「伊勢」は、「室町末期の伊勢三乱」の「戦乱の影響」を強く受けていた事だが、「親族の信濃」はその意味では中部地域であった事から、「信濃青木氏」は「郷氏」であって「国衆」では無かった事から伊勢程ではなかった事に成る。

    そこで、紀州藩から「5万石相当の支藩的扱い」を受けていた“「地域力」”を持つ「郷氏の伊勢青木氏」は、「前段や上段や上記の背景」であったが、ところが、この当時、「伊勢の殖産」を紀州藩自らが進めるには下記の「諸範の事情」から無理であった。

    何故ならば、上記した様に「財政的な問題」を大きく抱えていた。
    (「10万両の借財 55万石の1/2の財政」=廃藩寸前の財政)

    その中での「青木氏の商年譜」のこの時期(二代目後半と三代目初期)の記録(1705年6月)には、“「紀州殿談合」”と記されている部分が在る。

    (注釈 この「談合」の「殿」とは、書き方から「藩主」とは限らない模様で、 藩主就任1年後 喪中開け後の事である事から活発に動く事は無理であった筈である。
    これは「19歳の源六殿」の意味合いが強い。)

    この記録にある様に、“「殖産」”で“「紀州藩立直し」”を「青木氏」が主張する様に、「伊勢青木氏」の「経済力」と「地域力」と「二つの郷士の土豪を動かす能力」を期待しての”「伊勢殖産」に対する談合“では無かったかと考えられる。
    揉め事を避ける意味でも「伊勢と紀州の民」を動かしての「殖産」に対する「紀州藩の同意」を事前に獲得する戦略の「談合」であったと考えられる。

    前段で論じた様に、これは「初代頼宣と五代目吉宗の持論」でもあったが、「二代目光貞」も、この”「殖産」“を、「吉宗」を「伊勢青木氏」に預ける位である事から、主張していた事にも成る。

    注釈として、確定する資料が無く、筆者の「青木氏の歴史観」と「状況証拠に依る推測」の範囲を超えないが、場合に依っては、密かに「幼児の吉宗・頼方(源六」」を隠す様に「伊勢」に預けた時から、「二代目の光貞」はこの「腹つもり」であった事が考えられる。

    “「殖産」”に依って「紀州伊勢を立て直すしか方法」は無く、それを「青木氏の財力」と「藩主に相当する地域力」を使っての「殖産」を考えていたとも取れる。
    何故ならば、この「考えて実行に移した時期」が、伊勢(1684年)に預けられてから22年後に「“偶然?」が重なり「藩主」に成る”のだが、この「吉宗19歳の後頃」では無かったかと考えられる。

    実は、「藩財政の悪化」以外に「外部要因」として、この時に、“「元禄大地震」(1703年)”が起こっていて幕府は火の車に成った。火の車以上であろう。
    これで「紀州藩」も幕府から「毎年2万両の借財」をしていたが、この借財が出来なく成って仕舞った。
    ところが、紀州藩に「殖産」を興して立て直す必要に迫られたが、その「殖産を興す財力」は、最早、元より無かった。
    そこで、「青木氏の財力と地域力」に目を付け、そこに「吉宗 頼方 源六殿」が居る事で19歳に成った「吉宗 源六殿」により経済的な知識を付けさせて、より「青木氏」との「育ての親の関係」を深くさせて、何時しか「殖産」を興しての「藩政」を任せようと考えたと観られる。
    ところが、「藩政」は公家系の知識力の無い「二人の兄弟」が継承する事に成っていた。
    これでは「改革」は出来ないで藩は潰れる当に瀬戸際に至っていた。

    そこで、「二代目の光貞」は、「嫡子外扱い」としていた「吉宗の源六殿を藩政に据える密かな遺言」を遺していたのではないかと「状況証拠の積み立て」から考えられる。
    それを「御育用人の加納氏」と1697年に葛野藩主に成った「吉宗(頼方 源六)14歳」に伝えていたのではないかと考えられる。

    この時1697年、光貞と兄弟二人は、綱吉に拝謁を受けた。
    そして、嫡子外と云う事で、「吉宗(頼方)」が控えの間に、ところが老中の「大久保忠朝」に特別に便宜が働いた。
    この事で「父親の光貞」は、「吉宗(頼方)」が幕府に認められたと解釈し、更に「先の事」に暗示が掛けられたと解釈したと観られる。
    そして、特別拝謁から8年後、「元禄大地震」の2年後に光貞(1705年5月)は没したのだが、
    そもそも、紀州藩の支藩は6藩あり,その内、「越前国の葛野藩」1697年は吉宗に、「越前国高森藩」1697年は、次男の頼職に割譲、後は時代は異なっていて家臣や家老が納めている。
    つまり、「葛野」は「吉宗(頼方)」に、「高森」は「頼職」に、ところがこの「高森域」は「頼職」が短期間の紀州藩主と成った時に返却し、一部は「吉宗(頼方)14歳」が受け取っている。
    (短期間の知行地 高森支藩)

    「嫡子外扱い」でありながらも、「頼職の兄」と知行が同高で、予想外にも、破格の扱いで“兄より厚遇を受けた“と「光貞」は受け取り、「吉宗(頼方)14歳」を”「紀州藩の跡目」にと暗に「綱吉」に諭された“と受け取ったと観られる。
    故に、注釈として、紀州藩では次ぎの様な「不思議な事」が起こったのである。

    「二代目光貞」は1705年5月没と、「三代目頼教」は1705年8月没と、「四代目頼職」は1705年9月没と成っている。
    二代目と三代目は「病気説」、四代目は1月後に江戸から駆けつけて「疲労説」、 三代目はそれまでは元気で、病名不明の突然死は疑問である。
    四代目は江戸から船で最速で3日の船便を使えば着く。
    三日で着いたとしているので船便である。従って、死亡する程疲労はないし若い。

    (注釈 陸旅では15日所要する。「見舞い」には間に合わない。)

    況して、「江戸」から「伊勢」に旅して疲労で死んだとは前代未聞で、そもそも「伊勢参りの慣習」もある位なのに、事も不思議である。「付焼刃理由説」に外ならない

    何度も記するが、其処に、「追い打ち」をかける様に、1707年と1708年の紀州沖の「宝永大地震」が起こって仕舞った。
    何と「25万石/55万石の災禍」と成ったとされている。

    最早、これで紀州藩は「財政破綻」で間違いなく「廃藩」に成る。
    これでは「幕府」は困った。従って、拝謁時の「幕府の意向」を強力に推し進めて来た。
    そこで「郷氏の青木氏」は、藩主に代わって独自に「伊勢紀州の郷士衆」等を集めて談合している(1705年)。
    その前に前段でも論じたが、中でも「紀州藩」は立藩時にそもそも「伊勢藤氏の青木氏族」等を「家臣の大半」にしている。
    この事から、そこで焦った縁籍関係にある「伊勢紀州の郷士衆家臣団」と「青木氏族の紀州家臣団」は、上記の件(幕府の意向)もある事から“「ある決断」”をしたと考えられる。

    これらを受けて、次ぎの様な事が課題と成った。
    問題は、次ぎの事で談合が進められた。

    「10万両の借財」と「未曽有の災禍」で、藩は崩壊寸前、現藩主の能力で切り抜けるられるか。
    拝謁時の「幕府の意向」を推し進めるにはどうするか、
    推し進めた場合のリスクをどう処置するか、
    誰がどの様に「ある決断」を実行するか、
    決行した場合の援助体制をどうするか、

    以上を課題として「縁故の家臣団」は「青木氏」を巻き込んで「松阪」で検討されたと考えられる。
    「二つの青木氏」が、この“「談合」”を実行したと云う事は、ある程度の“「ある決断」”の実行を容認し、その後の「支援援護」も覚悟しての事であろう。
    「ある決断」を実行するかどうかと云う事は、最早、そのレベルでは無かった筈である。
    “「ある決断」”を1705年に実行されたと云う事であろう。
    “「ある決断」”を実行するについては、目だった事は逆効果で幕府が観ている中では、政治である以上はその建前を作り上げなくてはならない。
    しかし、「事を荒立てる事」は、幕府に執っては「お家騒動の形」で逆に処分をしなくてはならない口実に成る。
    最悪でも「世間の見本藩」にも置かれている「幕府の御三家」としては絶対に避けなければならない事である。
    暗に示した「幕府の意向」である限りは、無難な形で、且つ、円滑に措置する事が課せられている。
    ともなれば、その措置は決まって来る。
    「嫡外子」であって「知行地」を受けたとしても、「吉宗・頼方・源六」を他の兄弟二人を飛び越えて、行き成り「紀州藩主」に仕立てる訳には行かない。
    仮に”「ある決断」”が、「廃嫡」しかないとしても、先ず、「跡目の形」を二人の兄弟に取らせた上での事に成る。
    二代目光貞没後、三代目、四代目を跡目継承させた上で五代目の跡目として「吉宗・頼方・源六」が継承すると云う形に導かねばならない。
    これで世間と幕府を納得させられる事に成るし、御三家としての立場を保てるし、「幕府の意向」を実現できる。

    では、その”「ある決断」”の「理由づけ」と「時期」が問題と成る。
    この「時期」は、上記の通り切羽詰まって猶予は全く無い。
    恐らくは、密かに幕府老中からの「秘かな催促」が在ったであろう。
    「理由」は、世間の藩の廃嫡で使われるのは「病死届」「隠居届」が主流であった。
    そこで「紀州藩」は二人を廃嫡しなければならない事から、「尾張藩の家臣団」が行った「隠居届」は出来ない。
    遺されるは「病死届」、然し、三人目は「理由づけ」として幕府は無難で円滑である事を見込んでる以上は、「幕府届出」には三人ともに“「病死」”と云う事には成らない。
    故に、「苦肉の策」で聞いた事のない様な記録にも無い「理由づけ」の“「疲労死」”で済ましたのであろう。

    この「ある決断」は、1705年の5月8月9月と成ったと考えられる。

    (注釈 今でも和歌山城の城下には、「伊勢藤氏の青木氏族」の家臣であった青木家が多いし、藩に馬等で通える範囲の近隣の市町村にも多く、如何にも定住地であったかの様に拡大している。
    彼等の家筋の家紋分析では全て「伊勢藤氏」の「秀郷流青木氏の末裔」である。)

    そこで注釈として、この“「談合」”に付いて参考と成るものがあった。
    この「談合」に参加した「郷士頭の家の遺資料」には、この「談合」の直後に「御城役の縁籍の者(本家)」で催事が在って、その催事に対する返礼の手紙の中に“「城の行く末を案じている内容」”が書かれているものがあった。
    この事に依ると、この家臣もこの「談合」に参加していたらしいのだが、詳細は書かれていないが、“城では可成り緊迫した状況”の中にあった事が判る。
    この「青木氏の商年譜」に書かれている“「紀州殿談合」”には「吉宗・頼方・源六」が参加していたかは充分な確認が取れないが「非公式の参加」は先ず間違いは無いだろう。

    そこで注釈として、 この「紀州殿」とは、果たして“どの様な意味なのか”と云う事に成る。
    当時、伊勢と紀州の郷士間の呼称には、「伊勢衆の郷士」には「伊勢殿」と、「紀州の郷士」には「紀州殿」と云う一般呼称の方法が在った。
    「紀州殿」とは、伊勢から観れば、紀州に居る紀州藩の家臣と成っている「郷士」、即ち、「紀州の郷士」と、紀州に居て家臣と成った「伊勢の郷士」の事を表現した呼称である。
    従って、「吉宗 頼方・源六」がこの「談合」に直接に参加していたかは疑問である。

    然し、次ぎの記録から江戸に居たとも取れるが、「伊勢」に居たとも成っている。
    藩主に就任する際(1705年10月)に、幕府から呼び出しがあり、「藩主の黒印状授与」と合わせて「仕来り」に依り、「綱吉」より“「偏諱(へんき)」”として「綱吉の吉の通名」(1705年12月)を与えて「吉宗」とする様に「改名」を命じられた事が記録として在り、この時は「江戸」に居たと考えられる。
    これからすると、未だ藩主にも成っていない部屋住みが次兄の要る江戸にいる事は無い。
    従って「伊勢」に居た事に成る。
    「紀州」には藩主と成った4年後に入国しているので「伊勢」に居た事に成る。

    そこで、此処で、重要な事が起こっているのである。
    それは、「青木氏の歴史観」と紀州藩に執って見逃せない事柄である。
    先ずは、それを先に論じて置く。

    重要な注釈 (偏諱 へんき)
    この「偏諱 へんき」と云う言葉には、「青木氏の歴史観」に執って前段で論じた「青木氏」しか引き継がれていない「達親」と同様に、実は、この“「偏諱(へんき)」”も元は「青木氏だけの慣習」であったのである。

    江戸期では武士の家柄では、これに代わるものとして“「通名」”と呼ばれるものがあるが、中には「武士出の豪商」なども「世襲名」の「襲名」という言葉でこの「通名的」に使う様に成った。
    ただ「通名」や「世襲名」のこれらには、これを実行するに儀式的で一つの伝統的な慣例なものでは無い処が異なる。

    然し、この“「偏諱(へんき)」”の根源は、「青木氏等の皇族賜姓族臣下族」が、「通称の通名」に一定のシステムを加えて奈良期から引き継がれて来た実に古式豊かな「古い仕来り」なのである。

    「天智天皇」が「大化の改新」で定めた「第四世族の第六位皇子」が臣下する際に、天皇から「皇族賜姓族臣下族」に対して、「氏名」、「象徴紋」、「守護神」、「神木の氏木」、「官位官職」等の「象徴」を与えたが、この一つとして、「氏名」に続く、「権威の仕来り名」も与えた。
    これが“「偏諱(へんき)」”と呼ばれた儀式だが、「皇族賜姓族臣下族」だけの「儀式・仕来り」で在った。
    そして、この“「偏諱(へんき)」”も含めて、「嵯峨期の詔勅」に伴う「禁令」に従って「青木氏」が行う「慣習仕来り掟」を真似てはならないとする事が発せられた。
    「青木氏の氏名の使用とその慣習仕来り掟」と同様にこの“「偏諱(へんき)」”もその一つであった。
    況や、それは、「賜姓」に伴う「一つの仕来り」であった。

    「賜姓」は「氏名」(姓)であり、それに続く“「偏諱(へんき)」”は「名」であり、古来ではこの「名」を「二つの使い分け」をした。
    それには、「字名(あざな)」も一つであって、「賜姓」を権威付ける為に設けられた「仕来り」であった。
    「賜姓」と共に使われる“「偏諱(へんき)」”のこの“「字名(あざな)」”は、室町期末期頃からはその「人の愛称」として“「あだな」”として用いられる様に成った。
    例えば、「正規の偏諱名」で呼称する事を憚れる時は、「院殿などの屋敷名」や「町名」や「通路名」や「門跡名」等が使われた。
    「嵯峨期の禁令」などでは一般にはこの「字名」も使われる事無く、「公家」等がこの「字名」を使ってよく呼称された。

    この“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”が、その「賜姓」と共に護られて来た「青木氏の古式伝統」なのである。
    「天皇等の上位の者」、即ち、「権威者」が、自らの「名」、或は“「字名(あざな)」”の一字を「世襲名」の一字に加えて名乗らせると云う方法の儀式である。
    この「賜姓」に続く「催事」のものである限り「正式な催事・儀式」として、「賜姓」に関連する“「偏諱(へんき)」”と呼ばれる「仕来り」を敷いていたのである。
    平安期末期までに天皇より「賜姓」を受けた「高位の者」は、この“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”の「仕来り」に従う義務があった。

    20程度から始まったものが最大時は200もあった「正式認証の氏族の賜姓族」は、室町期末期には壊滅状態で、この“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”の「仕来り」に従う義務に従って催事を執り行うだけの「氏力」を持っていたのは、筆者の研究では「青木氏と藤原氏と佐々木氏」等を除くと、たった「4氏の氏族の賜姓族」に留まっている。

    この様な「皇族賜姓臣下族」等の用いる「慣習」や「仕来りや掟」を「嵯峨期の詔勅」と当時に出された禁令で、この「皇族賜姓族臣下族」の“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”も含めて「氏名、象徴紋、守護神、神木の氏木、氏名の村名、氏名の地名」等を使う事を一般に禁止していた。
    この禁令の原則は明治3年に解除されるまで護られていた。

    ところが、室町期中期頃から将軍や大豪族等の家で「嵯峨期の禁令」が、中でもこの“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”が護られなくなった。
    むしろ、末期にはこの“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”を利用して衰退した室町幕府の権威の継続に利用されたのである。
    これが変化して一般の武士社会に広まったと考えられる。

    さて、そこでこの“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”に付いてどの様に利用したのかと云う点である。

    そこで、「青木氏」を「育ての親」としている「頼方」を江戸に呼び寄せて、「綱吉の吉の字」を与えて「吉宗」とする催事を態々儀式として興したのである。
    この「偏諱(へんき)の儀式」と云うものがどの様なものであるかが判れば、「偏諱」そのものが行われた事が、「幕府の意向」を「紀州藩に対しての態度」を如実に物語るものであるかが解る事なのである。
    普通は、「偏諱(へんき)の儀式」が「嵯峨期の禁令」が掛かっている以上は、無視してまで矢鱈と「将軍」が周りに頻繁に行われない催事なのである。

    実は、注釈として、この「綱吉」の行った「偏諱の儀式」には、ある「思惑」があった事が判るのである。
    それは「幕府」のみならず「紀州藩」の社会への「権威」と云うものを見せつける目的があったと観られ、禁令と成っている「賜姓臣下族」の行う「古式豊かな偏諱儀式」を行える格式を「幕府と紀州藩」は持ったのだと云うデモンストレーション(示威誇示意識)を天下に指示すと云う思惑があったのである。
    また「紀州藩」で起こった上記する「廃嫡」に観られた「ある決断」の事件(急逝事件)を穏便に納めると云う思惑もあったのである。

    然し、現実に「幕府」は他の二人の兄弟に「母方公家」にあったにも関わらず行わず、公然と「頼方」に対してだけ「偏諱 へんき」は行ったのである。
    然し、他の親兄弟に対してたとえ「藩主」に成ったとしてもこの「偏諱 へんき」は行っていないのである。
    だとすると行う以上は、何がしかの「大義名分」が整っていなければ、「将軍家」と云えども「禁令無視」は社会に対して出来ない催事の「偏諱(へんき)の儀式行事」である。
    「令」を護らせる立場の者が自ら「令」を破る事は出来ない。

    そこで先ず次ぎの条件を整えたと思われる。
    (A)「催事主」は、「武士の長者」で筆頭の将軍の「徳川氏宗家」
    (B)「吉宗育親」は、「皇族賜姓族臣下族」の「青木氏」
    (C)「授与者」は、嫡外子であったが「紀州藩の藩主」に成った「徳川頼方」

    つまり、「征夷大将軍」「皇族賜姓族臣下族」「賜姓族育親の子頼方」で「偏諱の仕来り」の「三つの条件」は整っている事に成る。
    これで「嵯峨期禁令」を破る事には成らない条件が整うのみならず「権威を指し示す格式」を幕府が持った事をも意味する。

    そこで、そもそも、「吉宗」の「宗の字」の「偏諱」は、「育ての親の伊勢青木氏」の祖で「摂津源氏源頼光四家」の「宗家頼政」の「子仲綱の子の三男京綱」が「青木氏の跡目」に1180年に跡目に入っている。
    この「頼光四家」の「偏諱」(通名)が「宗」である。
    この「育親の筋目」を使って「宗」を以って「吉宗」と特別に偏諱したと観られる。
    ところが、これには、故意的に一つ「偏諱の仕来り」に従っていない事が在った。
    これは「高級武士」で行う”「通名」”の「仕来り」にも従っていないのである。
    これにはある意味を持っているのだ。故意に従っていないのである。
    それは「親役の名」の「下字(後字)」を「前字」にしないと云う奈良期からの「鉄則の仕来り」である。
    この「鉄則の仕来り」を護らなかった事は、“一体何を示すか”と云うと、“お前は俺の下に在る者だ“と「見下している態度」と成る。
    そもそも、この「偏諱 へんき」と云う「名誉な儀式」が「見下しの儀式」と成っているのである。

    何故なのかである。
    それは「綱吉」の「吉」が「吉宗」の前に来ている。
    ”「偏諱 へんき」”や”「通名」”の「仕来り」から、本来であれば、格式から“「宗綱」”が筋であって、譲っても「綱宗」となる筈である。
    これでは「偏諱 へんき」では無くて、普通の武士慣習の親子の命名時に行う作法に過ぎない事に成り、態々、「偏諱として儀式」を行う事では無い。
    然し、現実は「偏諱 へんき」として行われたと記録されているのだ
    つまりは、表には「偏諱の仕来りの儀式」を見せて、世間には”「権威」”を誇示し、裏では“将軍家が上なんだ”と誇示したかったと云う事と一説では取れるであろう。
    良く云えば、これは“「綱吉の子供」の様にして「破格の扱い」にした“と示すものでもあって、「紀州藩」では「嫡子外の扱い」を受けていたにも関わらず、「葛野藩割譲」と同様に極めて名誉と周囲から観られていた筈である。
    「嫡子外の呼び出し」や「控えの間からの拝謁」や「葛野藩の割譲」やこの「偏諱 へんき」の好意や配慮から考えると、「綱吉の子供説」も充分に考えられる事であろう。
    何れかと問われれば、簡単に云えば「両方の意味合い」を以って、“政治的に利用した”と云う事であろう。

    この「偏諱(へんき)」とは、云い換えれば上記した様に、そもそも、元は「賜姓族」等の「皇位族」の中で行われる「跡目継承の慣習」の催事で、上位の者が「氏の一族」である事を証明する為に跡目時に「一族の通名」の一時を与えて「跡目名」とすると決められた「慣習と仕来り」でもある。
    それで以って世の中に宣言する一つの手段でもあった。
    この「偏諱(へんき)」は、「青木氏」も「官位官職を表す世襲名」と共に「朝廷の奈良期」から続くもので、前段で論じた様に“「達親」”に続く極めて“「古い伝統」”である。
    そもそも、この「偏諱(へんき)」は、「青木氏」等の「氏族の臣下族」の中で「仕来り」として「特定の高位格式」の範囲で「古式伝統」として密かに引き継がれて来たものであった。

    然し、何処で漏れたかは判らないが、恐らくは足利幕府と考えられるが、この慣習に似た「通名」と云う呼称で、この慣習が室町期の中頃から大名と成った「姓族の武士」等にも用いられる様に成った。
    室町期中期から発祥しした「権威や伝統」を持たない「姓族」であった事もあって、「室町幕府」の採った「偏諱」に似せたこの「通名」は効果が大きかった。
    恐らくは、上記の通りこの慣習が世間に知られて一部変更が加えられて伝わったのには、室町幕府の「賜姓源氏」であった「足利氏の勢力」が低下した事から、採った苦肉の策に外ならない。
    「足利氏」が、この「偏諱(へんき)」を使って臣下に名を与えて「将軍の権威」を保った事から来ていると観られている。

    丁度、幕府が「官位官職」を朝廷に推薦申請して授与して「臣下族」を引き付ける目的として用いられる様に成ったと同じである。

    (注釈として、「偏諱(へんき)」が「足利氏」に用いられていた事は「清和河内源氏の氏族」であった事から来ている。
    ただ「清和源氏」には、「本流四家の摂津源氏」と「支流頼宣系の河内源氏」に分けられるが、本来は「本流の宗家筋 (摂津源氏頼光系四家」」で維持されて行くものであるが、「頼宣の支流系」にもこの「偏諱(へんき)」が敷かれていた事に成る。
    それも、「本流の信濃足利氏」では無く、「関東の足利氏」に引き継がれていた事に成る。
    つまり、「宗家筋」と云う枠を超えて「分家筋」にまでも、この「偏諱(へんき)」だけでは無くそれに伴うこの「古式の仕来りや慣習」が正確に引き継がれて来た事を示している。
    従って、この「仕来り」そのものの原点は、“「賜姓」”から来ている「一連の仕来り」であった事から、唯、「賜姓族」ではない「足利氏」が「賜姓源氏の河内末裔」であるので、況して、本来であれば「宗家四家」の「摂津源氏」が「賜姓の仕来り」を引き継いで入る事には成るが、この室町期には、最早、「臣下族」だけである事の理由で、この「偏諱(へんき)」を使う事に成って居た事を示す。
    「偏諱(へんき)」を使う事には問題は別にない。
    この「偏諱(へんき)」の「仕来り慣習」を「源氏」であり「嵯峨期の禁令」には触れない事から引き継いではいけないと云う事は無いので、それは「清和源氏」の中での伝統の問題である。)

    (注釈 執権北条氏の鎌倉幕府は、「賜姓族」では無く、「皇族第七位族の坂東八平氏族」の支流族である事から、この慣習と仕来りは「嵯峨期の禁令」で使えない。)

    (注釈 「嵯峨期の詔勅」での「青木氏」の後の「臣下族の源氏」には、正式には「賜姓」を受けた「11家11流」あり、「賜姓」を受けないで「源氏」を名乗った皇位族も多く在る。)

    そこで、この様に「偏諱(へんき)の儀式性」がどの様なものであったかを理解する事で、「綱吉」が「頼方」に行った「偏諱の目的」が良く観えて来る。
    その前に、この「偏諱(へんき)」に付いて「青木氏」に伝わる「偏諱の儀式性」では、次ぎの様に成る。

    先ず、「偏諱の儀式性」としては次ぎの「三つの基本条件」が成立している事である。

    即ち、「第一の基本条件」である。
    次ぎの「三つの役務環境」がある権威を以って整っている事である。
    「権威役をする者」と、「親役をする者」と、「子役に成る者」とを先ず決める事を定める。

    更に、「第二の基本条件」である。
    次ぎの「三つの基本環境」が成立している事である。
    基本環境の1
    「15歳以上に成った事」に合せる事(一種の成人式)」とで「四家の一員」として認められる事に成れる時に行う。
    基本環境の2
    「大きい実績を氏にもたらした事(功績式)」で「四家」に成れて、「四家制度の16家」の一家を構えられる時に行う。
    基本環境の3
    「四家」の中から「福家」に選ばれて「氏族」を率いる時に行う。

    最後に、「第三の基本条件」である。
    更に、次ぎの「三つの基本儀式」が成立している事である。
    基本儀式の1
    「偏諱」の「授与の記念物」には「短刀一式」を授与する事
    基本儀式の2
    「烏帽子とその蔡装服(礼服・儀式)一式」を授与する事
    基本儀式の3
    下記の「五つの名」を授与する事
    以上の基本儀式が先ず決められている。

    この基本儀式のが成立した上で、次ぎの「名(字名)の作法」が行われる。
    名の「前字」は、「氏の福家」に伝わる「権威の名」、
    名の「後字」は、「四家の長」に伝わる「伝統の名」
    以上を与える。

    念の為に前段で論じたが、「青木氏」には次ぎの「名(字名)の呼称の変化」をさせる習慣を持っていた。
    「幼名」 15歳以下の呼び名
    「俗名」 15歳以上未婚時の呼び名
    「通名」 四家の一員と成った時の呼び名(既婚)
    「跡名」 四家と成った時の「跡目名」で「偏諱」で与えられた呼び名(字名)
    「格名」 氏族が持つ朝廷より与えられた永代の「格式名」があり「福家」が引き継ぐ公の呼び名。

    以上が資料から取りまとめた「三つの基本条件」である。

    付帯する条件として次ぎの事が書かれている。
    ・「行われる時期」
    これらの「偏諱の儀式」は、口伝に依れば、平安期から鎌倉期末頃まではその都度行われていた様である。
    然し、室町期に入ると戦乱期でもあった事からか、上記の「弥生祭り 五月祭り」の「一つの祭祀二つの催事」で合わせて行われていた様である。
    この時、祭りの後期の「五月祭り」に合わせて、上記の条件下で「偏諱式」が行われたと伝えられている。
    ・「行われる場所」
    これらの「偏諱式」は「一族の長」である「福家」が行い、一族の郎党が一堂に集まり、「偏諱の条件」がすべて整う「始祖祭り」でもある「弥生祭り 五月祭り」に合わせて「偏諱式」を執り行う様に成った。
    ・「行われる具」
    上記の「偏諱の儀式」が、後期の「五月祭り」に行われる事に成った事から、「短刀一式(格式)」や「烏帽子(役務)」と「蔡服一式(制服)」を与える等の「三つの儀式性」が併用して行われていた。

    これは「四家制度」の中で「家人や縁籍や周囲の伊勢衆」に対して、その「存在の確認と権威とその責務の有無を明示する手段」でもあった。

    ・「飾短刀一式(格式)」とは、現在で云えば、「職位」を示す「制具」の様なもので、「短刀」に個別に装飾が施されて、その「格式や身分」を表す「色文様を用いた装飾」でこの「職位」を明確に表した。(八色姓の制)
    ・「烏帽子(役務)」とは、現在で云えば、「職務」を示す「制帽」の様なもので、どの部署に所属するかを明示する手段で、「烏帽子」の右に色識別して表示した。
    ・「蔡服一式(制服)」とは、現在で云えば、「職場」に合した統一した「制服」の様なもので、冠婚葬祭の様な「一切の催事」の際に服し表した。

    以上の「偏諱の儀式」にこれら「三つの儀式制」が加えられた。
    これらの「偏諱に伴う儀式性」は、「朝廷で行われている儀式性」を全面的ではないが、「青木氏」の「賜姓五役」をより確実に履行推進する為の「四家制度」の中で、これに合う様に編集してある程度踏襲していたものである事が判る。

    この「偏諱の儀式」として用いられた「三つの儀式性の伝統」の事から観て、後に、世間には簡略化されて「男の節句」と受け取られ何らかの形で世間に広まったと考えられる。


    さて、「室町幕府と江戸幕府」は、この上記の「偏諱の仕来りの儀式性」を「武士様」に編集してそれを以ってして行う事にしたのである。

    (注釈 室町幕府と江戸幕府の「偏諱の使い方」、況や「偏諱の儀式性」が異なっている。
    これは上記した様に「清和源氏の支流族」と「徳川氏の姓族」との差の違いからであろう。)

    その為には、“「朝廷(権役)」”を利用して「偏諱」を使い「儀式的」として「権威を示す慣習」として「将軍(親益)」に引き継がれ、その“「授者(子益)」”にして、「朝廷の賜姓儀式」に代わる「幕府の偏諱儀式」を形式的に政治的に用いる様にして与える様に恐らくは成ったものであろう。


    ここで「重要な注釈」として、次ぎの事柄がある。
    この「偏諱の青木氏の資料」には、「親役・子役」とあるもの、別に「親益・子益」と書かれたものも有って、「元の本来」の目的は、この書かれた内容の古さから“「役」”では無く、“「益」”と云う「語源」に在ったと思われる。

    つまり、そもそも、後に使われた「役の意味」の“「役割」”と云う意味では無く、“「益」”の元の語源は「中国の八卦(論理的な占い)」から来ていて、“「ふえる」「めぐみ」「ために」”から来ていて、“「めぐみをもたらす」”や“「ためになる」”の意味に使われていた。

    この「偏諱の親や子」に成る事が、“自らの恵みに成る事”であり、“自らの為に成る事である“の意味が儀式的に強く、「親に成る者」も「子に成る者」も周囲に対して「親・子」に成れる事が「権威や名誉」を獲得する儀式でもあった事を示していたのである。
    この「偏諱の儀式性」の意味する事から、「単なる役目」とする意味では無かった事が判る。

    「権役(ごんえき)」は、既に、その「権威や名誉」を何度も獲得している者が司る「仕来り」であった。
    普通は、一族一門の「長の福家」が司るが、中には、縁籍関係の「公家」に依頼して司っている記録もあり、その上記の「偏諱の条件」にも依るのではないかと考えられる。

    上記にある様に、この「偏諱(へんき)」には、上記の「偏諱の儀式性」の一つでその「15歳の成人」に成った事を祝う「烏帽子式」と、「四家の一員」に成った事で「蔡服一式」(衣冠の儀/青木氏では「蔡装の儀」)を着せられる儀式も兼ねていて、この時も「烏帽子親」、「烏帽子子」と云う“「益」”があって、世間でこの「烏帽子親」、「烏帽子子」と後に呼ばれた事も、この「偏諱の中の儀式」から来たものであると考えられる。

    「短刀一式」(束帯の儀/青木氏では「帯刀の儀」)は、15歳に成った事で、一人前の「賜姓臣下族」の「賜姓五役」を務める「武家侍」に成った事を証明する儀式で、その「侍の心魂」として「短刀(飾太刀)」を「烏帽子と蔡装」と共に帯刀する事が出来る様に成った事も祭祀する儀式であった。
    そもそも、この“「飾太刀」”と呼ばれる「短刀」は、朝廷では皇族や高位の者が「儀式様」に携える刀であって、「飾太刀の帯刀」のこれを認められる事は、「氏の象徴紋」と共にその者の「権威と格式身分」の「証明の象徴物」としてあるとしたもので、「帯刀の儀式」には用いられた。

    ところが、平安末期に至ると「皇族下俗者」や「臣下族等の高位の者」が多く成り、その結果、その貧富とその財力に差が出ると、「儀仗用太刀」として極めて限られた「賜姓族」などにのみ用いられる様に成った。

    (注釈 この「飾太刀の短刀」とは武士の脇差の事では無い。刀の形も帯刀の仕方も異なる。
    朝廷では「飾太刀」は「長刀」であり武士の様に腰に差すものでは無く、「飾紐で携え形式」のものである。
    この「飾太刀」では無く同じく紐で携える「飾短刀」としている。これは朝廷に儀式の模倣に対して「賜姓臣下族」としての分を弁えた形を採ったものである。
    他の資料にも「皇族武官」がこの「飾短刀」を儀式の際に携えて用いている事が書かれている。恐らくは、これは「八色姓の制」に沿った「朝臣族」(皇族賜姓臣下族)の「当時の仕来り」であったと観られる。)

    (注釈 前段でも論じたが、この「儀式性の観点」から検証すると、平安末期では、「賜姓源氏」では11流11家、「賜姓族」で40氏、「賜姓族」では無い「貴族源氏族」は18家、「皇族下俗者と還俗者」は男系族25家で女系族8家、「門跡族」は不詳数であった。
    但し、男系族と女系族の内18家が「青木氏」を名乗り、「五家五流青木氏の跡目」に入った。
    鎌倉期には、幕府のある程度の財政的な保護が成され多少の増加傾向にはあったが、室町期には激減し、江戸期に至っては、政策として「西の朝廷」への弱体化を謀って「経済的締め付け」もあって合計で数える程に満たない数と成った。
    その数は筆者の調べた範囲では、江戸期初期には「青木氏」を含めて5氏以内に留まっている。
    この時の「古式の伝統」も、この「激しい変異」に伴って変化し、僅かに遺されたこの「氏族」の中では殆ど消滅した傾向にある。
    消滅したのには、主に「子孫の減少、伝統の伝承力、経済力」にある。
    但し、これには「姓族」の「偽類の儀式性」は含まず。)

    (注釈 江戸期の近江の人剣豪の佐々木小次郎は、お家再興を願って仕官先を求めて全国行脚の旅に出た事が佐々木氏の資料等で判っている。
    これは当に「僅かに遺された氏族」のこの「近江佐々木氏」の「激しい変異」に見舞われていた典型的な事象である。
    この同じ「近江佐々木氏系の黒田氏」の始祖も室町期末期に神明社と関わりを持ちながら「薬売り」として行脚の旅に出ている事象も同じで、「黒田藩」として再興を遂げた伝統継承の成功例である。
    近江佐々木氏の多くは黒田藩家臣団として加わって再興したが、佐々木小次郎の佐々木氏の宗家筋は江戸期に成っても再興は成らなかった事に成る。)

    注釈にある様に、「佐々木氏の生き残りの足掻き」とは別に、これらが「青木氏の氏の存続」が成されて、何とか「古式の伝統」として維持され、「青木氏の偏諱の儀式性」に伝わっていたのである。

    「衣冠束帯」は「朝廷儀式」だが、「青木氏」は「三つの発祥源」であった事から「蔡装の儀」と上記の「帯刀の儀」として二つに分離されて呼称されていて「武家様の儀式」に成っていた。
    尚、注釈として、朝廷が行う「朝廷の衣冠束帯」も「文官様と武官様」に分かれていた。
    この「青木氏の儀式性」は、勿論、「文官様」ではないが、かと言って「武官様」でも無く、「四家制度」に依る「賜姓五役」としての役目を果たす目的から「武家様」に編集されている様である。

    (注釈 「武家様」とは「公家」に対する「武家格式」で呼称される「氏族」で、室町中期後の姓族の武士では無い。)

    さて、室町期と江戸期の「二つの幕府」は、この「偏諱の名授与」を採用した事から、「朝廷の衣冠束帯」の「武官様」を選ばずに「青木氏」の「蔡装の儀」と「帯刀の儀」として「武家様の儀式」の本体を採用した事に成るが、江戸幕府はより「武士様」であろう。
    「武官様」では無く「武家様」でもない“「武士様」”とも云える事と成った事で、よりこの「儀式性」が庶民に近づいた事から、それが基と成って世間に世襲名や通名としての慣習が広まったと考えられる。

    注釈として、「衣冠の儀」とは、本来、“「宮中の装束(ぎぬ)」”で「勤務服」として用いられたもので「青木氏」ではこの「装束(ぎぬ)」を用いたものを「蔡装の儀」と呼んでいた。

    (注釈 江戸幕府では、将軍に面接出来る身分を「布衣着用(きぬい着用)」が条件と成っていて、この武士の「布衣(きぬい)」は、この朝廷の「装束(ぎぬ)」から来ている。
    「青木氏」は「三つの発祥源」と「賜姓五役」の身分格式を持ち、「永代浄大一位の格式家」である事で「天皇との拝謁」が叶うが、幕府でも「享保の改革」の時は、この「布衣着用(きぬい着用)」の資格を持ち将軍と面談していた。
    この「布衣着用(きぬい着用)」は、限られた「上位の姓族の大名格」に許されていた「特別の権限」である。)

    「帯刀の儀」とは、種々の儀式に用いる「装束(ぎぬ)の礼服」で「武家様」があった。
    この「武家様」を用いて一人前に成ったとする象徴として合わせて上記の「飾短刀(飾太刀)」の「帯刀」を許されるが、この儀式を「青木氏」ではこれを「帯刀の儀」と呼んでいた。

    この事から、「偏諱の儀式」の呼称は、「呼称名・字名」を与える事のみならず「烏帽子式」、「帯装式」(「蔡装」)、「帯刀式」を兼ねていた事が判る総称であった。

    何をか況や、前段で論じた「五月祭りの人形」は、「三つの発祥源」のこの「侍の象徴の姿」を現していたものである事が判る。
    故に、江戸初期に福家は、「毘沙門天像」から「武者人形偶像」に変えたのも、上記する様に「偏諱の儀式性」でも解る様に、「本来の目的」に帰する事の「青木氏としての所以」でもあった。

    そもそも、この「偏諱(へんき)」から来た「姓族」の「武士衆の慣習」が本格的になったのには、この室町期末期に使っていた「青木氏等の四家制度の慣習」の中での「偏諱とその儀式」だけを真似たものである事から来ていると当初は思われていた。
    ところが、この「姓族」の「武士衆の慣習」を良く調べて観ると、足利幕府が用いた「偏諱(へんき)の儀式性」に良く類似する事が判った。
    それは上記した一連性を持つ「青木氏の儀式性」が無く、「名の偏諱」だけのものに成っている事である。
    これが江戸期の中頃には、室町期中期頃から発祥した「武士階級の姓族」(海部姓が始め)には、既に「三世代以上の歴史性」が生まれ、子孫末裔の“「跡目の問題」”も出て来ていたのである。
    そこで、新たに上記の「儀式的な習慣」を削ぎ落し無くして、簡素に「高級武士の通名制度」として「跡目の世襲の仕来り」として用いられる様に成って行ったのが経緯である。

    この時に、幕府はこの「偏諱(へんき)」を次ぎの事に結び付けて利用したのである。
    それは姓族が勃興して大名と成り、その「大名」の「跡目承認」を示す“「黒印状の授与」”と、これと連動して、この「偏諱(へんき)」と呼ばれる“「通名の授与」”の「二つ催事」を「仕来り」とする事に成って行ったのである。

    幕府は、大名に発行する“「黒印状」”のみならず、“「偏諱(へんき)」”で「名」を与えられる事で名誉として、「幕府との繋がり」の強さを誇示する「一種のお墨付き」の様なものを与えて「幕府の権威性」を謀った。
    それが御三家の「紀州藩」の「吉宗の偏諱」が最初としたのである。

    この時の室町期末期から江戸期にかけて、「青木氏の偏諱」をする「四家の者」に対しては、同時に「朝廷」から永代に授与された「官位官職の世襲名」も与えていた事が起こっている。
    唯、この記録で観ると、「青木氏」は、「八色姓の制」では「氏の格式」では「浄大一位」で、官位官職は「左衛門上佐 正二位」であるが、中には記録によると「福家」以外の16家の中の四人に対して「右衛門上尉 従四位」と「民部正」(民部上尉)とする者もあって、特別に朝廷に申請して「一代限りの官位官職」が与えられたものが有った様である。

    当時の幕府の朝廷への軋轢状況から観て、朝廷は経済的に困窮していたので、永代の最高位の官位官職を以っていながら、この「一代限りの官位官職」を受けているのは、密かに「賜姓臣下族青木氏」として「朝廷の経済的援助」をしていた事からの授与であろう事が容易に解る。これを「偏諱の儀式」に乗じて便宜をはかっていたのでは無かったかと考えられる。

    (注釈 「青木氏」以外に持ち得ていない「伊勢王」の「始祖の施基皇子」が持っていた「浄大一位の永代格式」(青木氏の四家制度の「福家」が持つ)として持っている。
    従って、この「偏諱の儀式」に於いても“「権益(ごんえき)」”として、「四家制度の福家」に成る者が25−30年程度に一度は起こり得る訳である事から、「福家に成る者」の“「権益(ごんえき)」”を務められる者としては、永代格式以上の「朝廷」で無ければこの儀式は成り立たない事に成る。
    そこで、「青木氏」に執っては「偏諱の仕来りの儀式」を続ける以上は、密かに「朝廷」に対して支援を続けておく必要があり、「賜姓臣下族」であると云う事も含めて「絶対的な避けられない支援の義務」があった筈である。
    其れには、「浄大一位」の「青木氏の永代格式」が無ければ、幾ら「義務」だからと云っても「格式」を重んじる朝廷としては、「青木氏の要請」(”「権益(ごんえき)」”)に応じる事は先ず無かったと観られる。
    「福家」以外に歴代で四人もの「右衛門上尉 従四位」や「民部正」(民部上尉)等の「官位官職」を受けている事がそれを物語っている。
    恐らくは、天皇自ら出向いて来る事は無かったと観られるが、代行の「縁籍筋の公家族」がこの“「権益」”を演じたと観られる。

    (注釈 "朝廷の「権益(ごんえき)」"の「代行役」は、何度も縁籍筋と成っている京の「叶氏筋」では無かったかと考えられる。
    その証拠に筆者の祖母は、「京の公家族」の末裔の「叶氏の出自」である。)

    恐らくは、江戸幕府は「嵯峨期の詔勅と禁令」を破って、“「家康」”が「青木氏等の賜姓臣下族の慣習や仕来り」を“「権威造り」”の為に利用して「幕府権威造り」の為に真似たとも考えられる。

    (注釈 徳川幕府は開幕依頼一貫して権威造りの政策を実行した経緯がある。
    例えば、「三河の勃興姓族」でありながら強引に「藤原姓を名乗る」、「源氏姓を名乗る」、「征夷大将軍の頭領の称号事件」など数多くある。)

    ”「姓族の武士家」が行う「偏諱の催事」“としても「権威造りの制度」としたのである。
    この事(「姓族の通名」)が、結果として、広く他の大名などにも受け入れられて引き継がれる様に成ったものである。

    江戸幕府は、「朝廷との関係」が上手く行っていなかった事から、この「偏諱 (へんき)」を「吉宗の偏諱」を通じて利用して、「幕府自らの権威」を造り上げ高め、「朝廷の権威」に頼る事の無い様にした政策の一つである。
    「大名の跡目」などの時にも、この「武士様の偏諱」の「偏諱 (へんき)」に近い事をして「権威付け」をしたと観られる。

    これには、江戸幕府には、“「ある目的」”があって、無暗に与えるのでは無く、「幕府の意向」に沿って実現した者に、この「武士様の偏諱の儀式」を行って、その「見返り」に「幕府の権威名」を貰ったと云う事にして、従わせて行く政策を展開したのである。
    実に安価安易で行えて貰った大名側は、一種の「幕府のお墨付き」を貰ったとして「勢いづく事」に成る政策と成ったのである。

    筆者は、この“「ある目的」“のこの「表の目的」は、上記した様に、「幕府の権威造り」に利用された事もあるが、「裏の目的」は、「紀州藩」への「幕府の意向」を”「ある決断」“で実行させた事への「信任状の意味」もあったと観ている。
    幕府主導でこれを表裏一体として連動させたと云う事であろう。

    >
    > 「伝統シリーズ」−26に続く
    >
    >


      [No.342] Re:「青木氏の伝統 24」−「享保後の課題」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2016/07/02(Sat) 14:20:14  

    >伝統シリーズ23の末尾

    > 「殖産」を興してそれを「システム化」して「経済」に結び付けて「藩政」が潤っていたのに、これを抑え込んで仕舞った事から、この影響を受けた「下級武士」は、「飢え」に喘いで仕舞った。
    > その事から、田畑を耕し農業で産物を密かに売ると云う事で生き延びた。
    >
    > 「郷士の武士」も「仕官の武士」も「郷士」に真似て生きる事しか無く成り同じに成って仕舞った。
    > むしろ、「殖産」を興した「郷士の方」が遥かに潤っていた事が記録されている。
    >
    > そして、今度は、享保期の「質流地禁止令」では、対象者が「仕官している下級武士」であった事から、幕府としては充分な対応は出来なくなっていたのである。
    >
    > ところが、「武士の農産物等の販売」には、各職能の「組合の壁」と云うものがあって、「自由」が利かず、結局、「農民の寄合」に入れて貰う等の事や、「農民の名義」を借りる等の事で対応した。
    >
    > 「幕府」のこの逆に跳ね返って来た思いも依らぬ「失政」に付いて、「藩」もただ観て見ぬ振りして黙認するのみであった。
    > しかし、「紀州藩」の様に密かに裏で奨励した藩もあった位であった。
    >
    > この事から、「職能から販売までの商業組合」も「寄合組織」に変更して、自らも救い、地域の「下級武士や農民」らも救う事で「絆を基本とする寄合組織」に変更して生き延びた。
    >
    > 唯、この「寄合組織」では「発展」は望めないが「維持」は可能であった。
    > それには、上記の「新−1から9までの副効果」までは幕府は潰しに掛かれなかった。
    > 「新−2、3、5、7、9」は流石に「株権」を保障の前提としていた事もあって低迷した。
    >
    > 所謂、「新−1から9」の基本に成った幾つかの制度と組み合わせた「親商法」が、享保―宝暦―明和時代に掛けて「伊勢の紙屋」と「江戸の伊勢屋」の「青木氏」が興した「商業組合」の「新しい改革商法」(1716年から1788年まで)へと繋がったのである。
    >
    > この経緯は、「伊勢の紙屋」が「伊勢の商業組合」を興してからは明和期(1788年頃)までの「185年間の悪戦苦闘の歴史」に成る。
    >
    > これ等の事は、「青木氏」だけの「重要な知っておくべき青木氏の歴史観」である。


    「伝統シリーズ」−24に続く


    注釈として、次ぎの内情であった。
    紀州藩主では、吉宗後は全く縁の薄い6代「宗直」が藩主に成る。
    享保飢饉で紀州藩55万石の半分を損出している。
    この時、「幕府借料2万両」(計10万両の幕府借財)で一時凌いだが、その後の「借料」と共に「返済財政」で藩主13代まで続く。
    「江戸の活況」と「紀州藩財政」は逆の状況に在った。

    (注釈 四代藩主の吉宗時は、「伊勢の商業組合の活況」で今までの「借財10万両」を完済した。その後五代目は借財を続ける。)

    (注釈 この為に「14代の幕末時」に請われて再び「青木氏は紀州藩勘定方指導」に入り立て直した。)

    この状況の中で「紀州藩」を頼りにする事が出来ず、「紀州藩」としては少しでも生産量を高めなければならない状況下にもあった。
    従って、民を動かす事の「紀州郷士」の「徒対策」を了解するかはかなり難しい状況の中にあった。
    且つ、「紀州郷士の生活」も「疲弊の境」にあって難しい事であった。

    (注釈 吉宗没後は、「青木氏の勘定方指導の役」も解けて「幕府の力」を借りられる状況には1765年前後は最早無かった。)

    つまり、これをどう見るかに依るもので、むしろ、“「経済を活性化させる起爆剤」”とする議論と,この“「疲弊の状況」を更に悪化させる“とする議論が、対立したと資料の一部から読み取れる。
    従って、「紀州郷士の徒対策」の課題は、「紀州藩から了解されたとする記録」は、どうしても発見されない。

    この事から、この伊勢での「課題の解決」の「談合」は、資料の一端では“議論百出”であったとしている。
    この表現から考えて、結局、記録が無い事から、江戸への“「充分な搬送対策」”は伊勢と紀州では取れなかったと観られる。

    ところが「各種の関係する資料」から考察すると、この「対策」として使われたと観られる“ある変化”が一つこの時期にあった。
    それは、前段でも論じたが、「伊勢青木氏」と「付き合い」の深かった瀬戸内を制していた「讃岐青木氏の大廻船業」が、古来の「日本海周りの廻船」(「北前船の西廻り」)に加えて、江戸初期には「太平洋周りの廻船」(「東廻りの航路」)を申請して新許可が出ている。

    これは、大間から釜石より江戸を経由し、松阪に寄港して堺摂津を経て瀬戸内に入る帆船航路は,「江戸の経済」が活性化して「人の往来」も活発に成ると、「陸路」よりも「水路」の方が短期間で移動出来るとして、享保期には「便利な航路」として認可されたのである。

    何にせよ「江戸の活性化」を高めるには根幹と成る「運輸の面」では、伊勢側では”「対策なし」”では成り立たない話である事から、この「太平洋周りの廻船」(「東廻りの航路」 荷物以外に人も運ぶ)の「航路の廻船」を敢えて使ったと観られる。
    然し、これには難題があった。

    と云うのは、当時は、「廻船」には「過当競争に依る廃船」を避ける為に「積み荷に対して幕府の条件」が付けられていたのである。
    つまり、「統制令」(下記)があって「自由」では無かったのである。
    「伊勢青木氏」の「伊勢の紙屋」が使いたいとしても、少量であれば問題も無いだろうが船全体を使う量の「積み荷」では許可は出ない。
    「量」のみならず積荷の「質」と「種」も制限されていたのである。

    恐らくは、「伊勢の青木氏」は、「伊勢の紙屋」を代表して、「青木氏」としては「話し」を通して“「讃岐青木氏」に「話」を付けた”と観られる。
    この「海運の課題」は「享保の改革」と「15地域の商業組合」の浮沈に関わる事であり、「氏浮沈」に繋がる等の事が「状況証拠的」(下記)に考えられる。

    何故ならば,当時の「海運」は、「幕府の監視」の「強い統制下」にあって、「荷積み」が過剰に成ると「船主側」から自動的に「排除される権限」を与えられる「仕組み」に成っていた。
    この様な事では、「水運」は不安定に成り好ましくない事から、「伊勢青木氏」としては「話」を通す以外には無かった。
    「伊勢の紙屋」としてでは「商いの範囲」で処理されるが、「同族の氏としての話」として持ち込んですれば、「讃岐の青木氏」の廻船業は無下に処理する事は出来ないと観たと考えられる。
    つまり、「伊勢の氏存亡の危機」と受け取る事に成る。

    「荷積みの種類」までも下記の様に、原則的に“「届け出通り」”に統制されていたのである。
    従って、追加して認可を得るには、「荷主と荷種と荷量と荷先」が特定して固定している事が条件であった事から、これを「幕府」が認証するに足りるかの「裁定審査」が必要であった。

    当然の結果として、「享保の改革」(1765年前頃)に期する事の内容であった事と、「吉宗」と「勘定方指導の青木氏」と「江戸の伊勢屋」であった事から、「荷主と荷種と荷量と荷先」は完全に補償された。
    尚且つ、その「廻船主」は「同族の讃岐青木氏」と成れば「無条件」での通常の「荷積み」として扱われる様に「特別許可」されたと観られる。

    実は、それには「特別の優遇と成る条件」が歴史的に「伊勢」にはあったのである。
    これは「青木氏の歴史観」として重要な事である。

    それは、次ぎの事である。
    家康が1603年に青木氏に対して次ぎの裁定を下している。
    「伊勢神宮の警備・遷宮の監督」
    「特別に伊勢国幕府領の支配」
    「伊勢鳥羽港、並びに関西圏の監視」

    以上の「三つの役」を目的として次ぎの裁定を下した。
    幕府の“「伊勢奉行所」(山田奉行所)”を特別に設置する事。

    以上で全国に先駆けて幕府が未だ開かれていない時に、既に、「伊勢」には特別に設置の裁定を下した。

    この1603年は、家康が「正二位内大臣兼右大臣」に叙任され、「征夷大将軍」に任じられた年であって、「実質の開幕」は、「260余りの武家大名と主従関係」を結び統率するに至った時期である。
    家康没後の「1600年代の後半」に確立された。

    この“「伊勢奉行所」(山田奉行所)”が中部以西を管轄する様に成ったが、後にこれを観て、“「遠国奉行所」”と呼ばれる「13カ所」(伊勢含む)を設置する様に成った。
    全国の「統率」に至った「1600年代後半」に定められたものである。
    依って、「家康」が特別に設置した「伊勢奉行所(山田奉行所 1603年)」は、唯一の「特別の権威」を持った“「特別の奉行所」(下記)“であったのである。
    後に、「伊勢奉行所(山田奉行所)」は、“「遠国奉行所」”に組み入れられたが、その「権威」と「権限」は遥かに上格に位置づけられていた。

    実は、これには「青木氏と特別な関係」があった。
    江戸初期の「青木氏と家康の談合(1603年と1605年)」時に設置が決まったもので、「伊勢青木氏」より「今後の商いの拡大」を予測して設置を要望したのではないかと考えられる。

    その証拠としては、次ぎの事が挙げられる。
    ・「遠国奉行所」としては、最も早く設置した事。(後に遠国奉行所に成る。)
    ・伊勢以外の「遠国奉行所」は「幕府直轄領」の範囲を前提としていた事。
    ・「伊勢奉行所」は「湾港の奉行総括権」も兼ねていたものである事。
    ・他の奉行所とは異なり「幕府」と云うよりは「家康」が定めた唯一の「特別奉行所」であった事。
    ・この名称として、特別に“「山田奉行所」”と正式に呼称された事。
    ・直轄領名の「伊勢奉行所」(後の俗称)”とは未だ成っていなかった事。

    「遠国の奉行所」として、「幕府(征夷大将軍)の特権」を与え、「行政の特別総括権」を以てして当たって設置されていたのである。
    その中でも“「伊勢奉行所」(山田奉行所)”は、特別に他の奉行所には無い“「海運権のを総括権」”を持っていたのである。
    (大阪、京都、駿府、長崎、堺、新潟等の12地域の設置理由は以上であった。)

    依って、この「青木氏からの念願」(「紀州郷士の徒の対策」の課題)の“「運輸の特別許可」”は直ぐに認可されたのである。
    要するに、“「伊勢奉行所」(山田奉行所)”の“「お墨付き」”である。
    従って、後の時期に設置された「12地域」の「遠国奉行所」は、この「お墨付き」に従う立場にあった。
    況して、「海運に関する許可書」であれば、問答無用であった。

    筆者の観る処では、上記の「享保の談合」で対策を採れなかった事を観て、所縁のある「伊勢奉行所」が「調停」に乗り出したのではないかと思われる。
    それを得て“「讃岐青木氏」に「伊勢の青木氏」が了解を取る事に動いた”と考えている。

    「談合の記録」しかないところを観ると、当初は「伊勢の商業組合」として何とか「解決策」を見出そうとして動いたが、「運輸の対策」が結局は取れなかったのであろう。
    そこで、この問題は放置される事では無いので、「伊勢の紙屋」から「伊勢青木氏」が引き取って「行政上の問題」として対策を取る事に動いた。
    「伊勢奉行所」に「対案」を持ち込んで「行政上」で結論を導き出したと考えられるのである。

    それは、次ぎの理由に依る。
    確実な折衝した資料が見つからないが、「商記録」から「船の動き」に変化がある。
    「享保の談合後」に「堺摂津店」が「松阪」に態々船を帰港させている。
    その船が再び摂津を経由して瀬戸内に向かっている。
    これは「荷積み」も考えられるが、それならば「摂津」を経由するかの疑問がある。
    「普通の荷積み」であれば、松阪からの「定期便」に使われている「常用の松阪用二艘」や「常用の伊勢水軍の船」を使う筈である。
    態々、「堺摂津用の船」を呼び寄せる事は先ずは無い。

    「堺摂津用の船」を呼び寄せる理由が発生した事が考えられる。
    その「船」が一度、「摂津」に戻り、再び「瀬戸内」に出航しているのは変である。
    「松阪」からの「荷積み」ならば「陸送」で摂津に向かい、そこから「瀬戸内」に向かう事が都合は良くて済む。
    何故ならば、紀伊半島を一周しなければならない実に「地形上の不都合」が「松阪」にはあった。
    故に、堺摂津港を「自前船の帰港先」と成っている所以の一つである。

    つまり、「瀬戸内」の「讃岐廻船問屋の者」を伴い、「堺摂津店の者」を呼び寄せ、松阪で協議、奉行所とも協議、幕府とも協議、「一連の手続き」を経て、「お墨付き」を受ける事に成功、その足で関係者代表全員が讃岐に出向いて「最終調印」に漕ぎ着けた。
    以上とする経緯と観るのが妥当であろう。

    注釈として、重要で、江戸初期の「船の運航」には「幕府」が定める “「原則7ケ条の御定書」”と云うものがあって、「手続き」や「船の運航」には厳しく定められていた。
    この上に“「奉行所の掟」”が課せられていた。
    取り分け、この「定めの手続き」を怠ると刑罰が科せられた。
    従って、「充分な証明と手続き」を「初期の段階」から行う事が義務付けられていた。
    “書類を出して済”と云う事では無かったのである。
    況して、「東廻り航路」には厳しかったのである。

    その為には、この様な“関係者全員が出頭すると云う形式”が採られていたのである。
    むしろ、「大口の積み荷主側」には「大きな義務」であった。
    この為に、「大勢の関係者」が一度に陸で旅するよりは現実的である。

    因みに、江戸初期の「江戸−大阪間」は、最速の帆船は、積荷無で最速3日、積荷有で最速12日、最遅で27日、平均で15日であったと記されている。
    (注釈 徒歩では15日−20日−500キロ)

    「江戸初期の帆船」で「紀州廻り」で「松阪から讃岐」までで、「丁度、699<=700キロ」であった。
    「積荷無」で最速で4.5日、「徒歩」で最短22日と成る。

    上記の仕事を熟すには、「不定期な充分な時間」が必要と成り、その為には「大勢の関係者」を「一度に最速最短で移動搬送すると云う条件」には、1/5で済む「調達船」の「船の搬送」以外には無い事に成る。
    これが、堺摂津港から「特別に調達船」を廻した理由と考えられる。

    これは「享保の改革」の「成否に関わる問題」である事から、他の「遠国奉行所」は「口出し無用」と成っていたと観られる。

    それが「伊勢の商業組合組織」が、「荷積み」に対して“一部廻船を独占する事が充分に起こる事”から、これに対する“「特別許可」”の要る厳しい「東廻り廻船対策」であった。

    当然に、“一部廻船を独占する事が充分に起こる事”は「讃岐青木氏の了解」も必要であった。
    つまり、「青木氏の判断」だけでは出来ない関係者が充分に協議を必要とする“「政治的解決策」”であったのである。
    故に、「海運奉行権」を持つ“「伊勢奉行所の調停」”が無い事では成し得ない解決であったからと観ている。

    下記するが、何と「紀伊水軍」や「熊野水軍」を緊急時に「太平洋周りの廻船」(「東廻りの航路」)に廻す事等の対策を取るまでには、上記の「令」もある事も然ること乍ら、充分に関係者全員が協議する必要性は絶対にあった。
    これらを最速で一度にまとめて移動させるには、「紀州周り」の「調達船」以外には無かったと観られる。

    (注釈 「瀬戸内域」には「湾港の海運権」を持つ“「遠国奉行所」”はそもそも無かった。
    この事から「伊勢奉行所」、即ち「山田奉行所の許可」を得る事で済んだ。)

    そもそも、江戸時代には、それを物語る事があって、メインの「北前船の西廻り」と「東廻りの航路」があって、他にその内容別に「北国廻船」や「浦廻船」が在った。
    以上、主に「四つの廻船航路」があった。

    中でも、他に上記の「荷物の内容」で分離した「大阪―江戸間の廻船」としては、「菱垣廻船と墫廻船」とに分けられていた。
    これを加えると「六つの廻船航路」と成る。

    ところが、「荷物の内容別」にすると「経営の波」が起こる事から、途中からはこの「決まり」は護られなかった。
    「幕府の7ケ条御定書」は形骸化したのである。
    結局は、「激しい競合」が起こって常態化して仕舞った。
    取り分け、1730年に関西から江戸に「灘酒だけを運ぶ墫廻船」が生まれたが、それだけでは成り立たない事が起こり、その後に「墫廻船」は酒以外も運んだ。
    ところが、1770年には、「幕府」は、これを見兼ねて「過当競争」に依って「廻船」そのものが無く成る事を避ける為に、これを「排除の観点」から、これを見兼ねて再び厳しく「積荷の分離」が定められた。

    再び、「樽廻船」は「酒だけ」と成って、「菱垣廻船」は「関西の綿糸」と、後には上記した「伊勢の白子湊木綿」などの「その他」と改めて決められる事に成った。

    ところが、幕末近くの「天保期」に成って、「競合」から「両廻りの廻船」は「経営難」に陥り、幕府の裁定で「菱垣廻船」の方を押えて「株仲間」(組合株)から外されて廃止が決まった。
    これは、天保期には、既に、この「江戸の活況」は低下していた事を物語るものである。

    この「天保期」までは、この「大阪―江戸間」の「便利な菱垣廻船」の「廻船の荷積」が満載と成ると、「紀州からの配船」(熊野/紀伊水軍)をして運営する事を特別に許可されていた。
    依って、「使う側」からは便宜が効いて享保期から明和期までは「便利な菱垣廻船」として繁栄を来した。(天保期には廃止)
    これは、「海運奉行権」を持つ“「伊勢奉行所の調停」の「緊急対応策」であった。

    この時期の荷には、「便利な菱垣廻船」は1765年代頃から“「伊勢木綿」と「伊勢菜種油」と「地酒」と「豆粉」”等を主に運んだとされる記録がある。
    「伊勢の紙屋」は、この「菱垣廻船」を1765年に江戸に出店した「商人グループ近江」(松阪派)が使う様に手配したが、そして1843年までの期間を使用したがその後は経済も疲弊して廻船は無く成った。(伊勢屋は江戸を引き払った。)
    そして、この「菱垣廻船」には、「開始から天保期(1843年)の廃止」に至るまでの「120年の間」は,廃止に成るまで臨時的に補助的に、“「紀州からの配船」(紀伊水軍と熊野水軍)”を「特別許可」を得て暫くは使われた模様である。

    これは傍には「摂津水軍も瀬戸内水軍」も在りながら、態々、「紀伊水軍」等を指名して廻す事を許可しているのは、「紀伊と伊勢の積荷の産物」(「伊勢木綿」と「伊勢菜種油」等の殖産品)を運ぶ目的があった事から来ている。

    (注釈 「紀伊水軍」を「積荷過剰」と成った時点で廻す権利を「太平洋廻船」に特別許可をしていた。)

    この様に「地域限定している事」からも,明らかに「享保期(吉宗)」から「明和期(家治 吉宗の孫)」までの間に、「吉宗の経済改革」(実質1781年まで「享保の改革」)は継承され推進した事の証に成る。
    そして、これは「吉宗後の血縁族の将軍」(家重 家治) の幕府(家重)が背後で配慮した処置であったとも充分に考えられる。

    (注釈 1788年からの「水戸藩養子系の幕府」の「寛政の改革」は失敗した。)

    これは明らかに次ぎの事が云える。
    「伊勢のcの組」の分は許可の要らない「便利な菱垣廻船」を単独に使ったと観られる。
    「伊勢のaの組」の分は「讃岐青木氏」の「東廻りの航路」を「特別許可」で使ったのである。

    (注釈 元禄期の「浅野家断絶時の「家財買い取り」と「家臣の分配金」は「伊勢青木氏の紙屋」が行ったが、この時に「千石船三隻」を摂津から廻したが、「瀬戸内」を支配していた「讃岐青木氏の協力(船と金銭と交渉)」を得ている記録がある。)

    この様に「商い」を興そうとすると、解決しなければならない「土地、資材、店、雇用、生活、運搬」の「業務と資金」の課題は、単独では到底解決し得ない柵があって、これに依って上記した様に解決したのである。
    況や、「生活と土地」と「店と雇用」と「資材と運搬」の課題であり、「「生活と土地」は「伊勢の紙屋と江戸の伊勢屋」の連携で「小伝馬町」に、「店と雇用」は、「江戸の伊勢屋」の「名義借り」にて「内店組」として、「資材と運搬」は「伊勢の青木氏」と「山田奉行所」と「讃岐青木氏」の調整で、「青木氏の殖産品」を「商人グループ近江(松阪派」」の「知恵と努力」で「江戸」で売り捌く事が出来たのである。

    上記した様に、その後の「短編の報告書」には、「江戸の伊勢屋の質」の「町方の質」には、先ずは、初期の「立ち上げ段階」は、“「伊勢者」の「信用貸付」(「商業組合人」)”が主体と成っていた様で、その後に「利潤」が出た処で“「手形貸付」”にし、「商い」が活況した時期には物の「担保貸付」に切り換えた事が書かれている。

    1740年代前半から、江戸にやっと「本格的な活況」が生まれ、「店子」とは別に「一般の町方」もこの「商業組合」に参加して「伊勢屋の質屋」で「融資と指導等」を受ける事が起こった模様である。

    この“「町方」”と云う表現には、「完全な町方」と云う意味が在るかは釈然としないが、「商業組合」に務めた「江戸の者」が、「一人前」に成り、改めて「組合員」に成り、「暖簾分け制度」で独立して行く者に対する「融資と指導等」であったと判断される。
    これを“「町方」”と表現したと観られる。

    その「担保貸付」で「7割の割賦 下記」を返して行く事で、「願株の組合員」に有能で頑張れば成れたのである。

    (注釈 普通は、”「願株」”や”「御免株」”を持つ組合員の「名義借り」や「架空名義」で組合員に成る。)

    実は、この“「町方」”の表現には、重要な意味合いが潜んでいる。
    「青木氏の歴史観」には、この「重要な意味合い」が“「町方との関り」”には潜んでいるのである。

    それは次ぎの事で判るのである。
    この“「町方」”の「組合員」に成った者に対しては、中には、「店の現物」の“「商品担保」(現物担保)”もあった様で、何とか頑張らせようとする「知恵」を絞った興味深い「商い戦術」が伊勢に遺された資料から観える。
    「全体の利益」に「担保利率」を総合的に負荷するのでは無く、「担保」に成っている「商品」が売れれば売れる程に「担保」が少なく成って行く原理を使った様で、一つの商品に「担保の利率の適度な返金分」を当てて、“頑張れば自動的に担保が減ると云う仕組み“を考えたのである。
    担保が無い町方の者に「暖簾分け」で「店」を持たせ、「伊勢商法」で「一人前」にして行くには「完全な信用貸付」もあったが、「信用」を前提として、売れた商品の利益の中から一品ごとに形だけの利率分を引く事で、担保は自然と消えて行くと云う「安心感」を利用して「やる気」を引き出していたのである。

    「店」を新たに持つ者に執っては「担保」と云うものがどれだけ気に成るものであるかを知った上でのシステムである事が判る。
    返して云えば、当初は確かに「暖簾分け」の人物であると云う事から「完全な信用貸付」であったが、これでは「担保」と云うものに対する意識が無く成り、「緊張感」が低下して成功に導く事がなかなか難しかったらしく、苦労していたのである。
    そこで考えられた手法であった。

    これは、「伊勢屋の質屋」(江戸の伊勢屋)が考えたのだが、“「やる気」”を起こさせる事に主眼が置かれていた事が判る「仕組み」である。
    「利潤」を「伊勢屋の質屋」が求めるのでは無く、先ずは、“「商い」を発展させる事”に主眼が置かれていた事がこの事でも判るのである。
    この「担保方式のシステム」は、上記の「AからFの特徴」をより効果的にさせられる事に気づいた事であったと観られる。
    「単なる品を売り買いする商人」では無く、「一つの経済的哲学を持った商人」を創りたかったのである。
    それが「長続きする商業組合」と成るからである。
    “「享保の改革」が本物と成る事を期待していた“のであって、「伊勢商法」とも云える「伊勢商業組合の確立」にあったのである。

    この「伊勢商法」とも云える「伊勢商業組合」では、“「機関車(先導車)の商人」が頑張れば、必然的に「殖産の職能部門」も活性化して行き安定し潤う“と云う「商業概念」を確立させていたのである。

    この「商業概念を確立」の為に、次ぎのシステムが敷かれていた。
    この上記の「商人の仕組み」に合わせて、「殖産の職能部門」が「商人の生産要求」に応えられる様に、「一つの仕組み」が設けられていた様である。

    それは、「商人」が直接に「殖産の職能部門」に「生産量」(注文量)を要求するのでは無く、その「扱い」として「手続き」として、その「商品の組合」に「注文量(仕入量)」を先ず申し込む。
    これを「組合」が、その「商品」を扱う他の商店の「注文量(仕入量)」と合わせて、「合算量」を「江戸の伊勢屋」(総本店)に連絡をする。
    「江戸の伊勢屋」は、この「合算量」の上に「加算量」を加えた上で「職能集団の組合」に発注する。
    「職能集団の組合」は、規模に応じた量を「組合員」に伝達して個々の「職人の生産量」は決まる事に成る。

    つまり、“「江戸の伊勢屋」が発注すると云う形“を採り、”その責任を「江戸の伊勢屋」が負う“と云うシステムに成る。
    ”その責任を「江戸の伊勢屋」が負う“と云う「システム」である限り「伊勢屋の質屋」は「信用貸付」が「当然の事」にも成る理屈に成る。
    百々の詰まりは「責任を負うところ」は「江戸の伊勢屋」であった。

    この結果、「江戸の伊勢屋」は、結果的に「全ての商業組合」の「全ての商品」を扱う事に成り、「総合商社」と成り、「売り上げ情報」が確実に掴め、その「大商い」が構築される。
    これで、「商業組合」の「全ての状況」を「把握する事」が出来て、情報では「弱い組合」には「梃入れ」をすると云う事も可能に成り、それで「金融先」を見極めて「組合の業界」を誘導する事(AからF)に成って、「伊勢屋の質屋」が動く事に成る。
    この結果、AからFの「伊勢屋の質屋」が「2800」も数多く出来た所以なのである。

    この「梃入れ」が、それぞれの「経営状況」に合わす事に成る事から、上記の様に、(A)から(F)の「取り組み」が起こる事に成るのである。

    「江戸の伊勢屋」がこれに依って“総合商社化する”と、当然に「江戸の伊勢屋本体」も「一つの商店」として「利益」を挙げる必要性から、“「貿易」と云う手段に出る事“に成る。
    「商業組合からの薄利」を求めるのではなく、“「貿易」”と云う大きな手段で「利益」を挙げ、「商業組合の補償」としたのである。

    この“「貿易」”は、「国内経済」(商業組合)に左右されないで、「生産量」を安定して「商業組合」に出す事が可能に成る。
    強いては、「量」のみならず、「質」も経営が安定して向上させる事にも成り、「質」だけではなく、「人を育てる事の仕組み」も充実する事にも繋がるのである。

    これで、「享保の改革」はこのシステムに依って全体的に回り始めたのである。

    (注釈 逆に云えば、これが弱点と成る。つまり、「江戸の伊勢屋」の「貿易」が何らかの原因で縮小するか無く成るかに依って、「江戸」のみの「市場能力の範囲」と成り、次第に「活況」は低下する論理と成る。
    「将軍吉宗」と「青木氏」と「伊勢の紙屋」や「江戸の伊勢屋」はこれに賭けたと観られる。)

    ところが上記した様に、1781年から露に出て来た幕府の「商業組合の抑制策」に依って「江戸の引き上げ」を開始して「伊勢」等で行う様に成った事で、「江戸の活況」は低下し「インフレ不況」に進んだのである。

    そこで、前段でも論じたが、そもそも、この「総合商社化」は、「伊勢」で既に平安期の1025年頃に始めていて、「宗貿易」を始めている。
    「江戸」に出て始めた事ではそもそも無い。“貿易”のパイを江戸様に拡げたと云う事に成る。
    「伊勢」で、「和紙と紙製品」を中心に始めたのであって、この時には既に「伊勢」には「商業組合」の様な「原型の組織」が出来ていた事に成る。
    それでなくては「大量の和紙製品」をまとめて販売する事は出来ない。
    この時は未だ、「自由市場」では無く、職能を部単位で組織し、朝廷を主にして一部で公家勢力が自らこの「部組織」を持っていて、この「部(べ)」で出来た商品を朝廷に収め、朝廷より「余剰品」が下げ降ろされた余剰品の物を市場に掛ける仕組みであった。

    「青木氏」は「自らの青木氏部の職能集団」を持つ事が許された唯一の賜姓族で皇親族であった。
    江戸期にも「青木氏」はまだこの「職能集団」を形を変えて持っていた。(青木氏部)
    それが、前段でも論じたが、江戸初期までは“「青木氏部」”と呼ばれていたのだが、これが、江戸期初期からは、「神明社」等を幕府に収納する等の事が起こってから、「青木氏部」の「大勢の職能者」が「神明社」から外れた。
    そして、先ずは「青木氏部」が「伊勢の紙屋」の中で、「幕府」などから神明社修復に対する「受注を受ける仕組み」が起こり、これが土台と成って「青木氏部」の「幕府−青木氏」間の「職能別に商業組合化」へと変化したのである。

    (注釈 然し、「神明社」に関わっていた神職を始めとして「職能部の人々」は、江戸幕府が困窮を極めた為に影響を受けて、「社殿修復」は愚か生活も侭ならない様に成った。
    この為、「商業組合」で「互助組織」を作り、「神明社外の仕事(造船・造形・大工・人形)」も熟したと記録されている。
    中には「神職」は、元より「伊勢シンジケート」に関わっていた事から諜報業や搬送業に関わっている。)

    この「伊勢シンジケートの組織」や「伊勢水軍等」も含めた「青木氏部の組織」が、更には、江戸期初期には独立をさせて「組合」を組織(御免株の株権化した組織)して、「伊勢の紙屋」が「7割の株」を持つ「株権組織」(「御免株))が出来上がったのである。

    (注釈 前段で論じた様に、「家康との二度の談合」とは、この一連の話し合いであって、「青木氏の提案」により、「家康」は、「青木氏部の解体」とそれを「新しく組織化する提案」に対して、これを潰さずにむしろ推進させる事に認可したのである。
    この時に「神明社」などは幕府に移転させたのである。)

    (注釈 最終的には、明治初期に「地権」を含む「地租改正等の資産に関する法令」により、「伊勢青木氏」と「伊勢の紙屋」は、これらの「商業組合の株権」を全て廃棄して完全独立する事に至った。後記)

    この江戸期初期の「独立した組織」が、前段で論じた“「商業組合」”と云う形にして、更に、「(イ)(ロ)(ハ)の自由性」を担保させて、新たに「伊勢から紀州の関係する郷士衆」もこれに加わり、これに「御師制度」を組み込んで組織化を成したと云う事である。

    これを「伊勢」に主体を置いて、この組織を一部移して江戸に移動させたのである。
    この時、拠点と成る「伊勢の紙屋」の代わりに、「江戸の伊勢屋」としたと云う事に成る。
    ただ、ここで大きく違ったのが、「伊勢屋の質屋」(AからF)であった。
    この事から来る苦労が伴ったのである。

    そもそも「伊勢」は元より奈良期からの本来の「質の基盤」(「仏施の質」)が出来上がっていたが、「江戸」には無かったのである。

    重要な注釈として、 重複するが、本来、「質」とは、元は6世紀頃に中国の仏教寺が困窮を極める信徒に対して食事を与え、職を与えて、人として導き施しを行う行為の事を呼ばれていた。
    我が国では「青木氏等の皇族賜姓臣下族」に依って奈良期から行われていた「密教浄土宗の仏教行事」を指す。
    これを「青木氏独自の催事」として長く「仕来り」として「伊勢の民」に成して来たものなのである。

    ところが時代が進み、「青木氏の仕来り」とは別に、その使い方に変化が起こり、この事から「質の意」が”「元の意味」”を成す言葉」と成り、その後には更には”「成り立ちを表す言葉」”にも成り語源と「異なる言葉」へと変化して行った。
    そもそも、「伊勢屋の質屋」が江戸で「質行為」を行うまでは主に”「土倉」”と呼ばれていた。

    従って、伊勢だけで行う「質」は「青木氏だけの仏施の古式伝統」と成り得たのである。

    この時に、「江戸」で発せられたのが、「江戸の町方」に出した「質流れ禁止令」(土倉・銭屋)であるが、これは、実は、幕府に執っては、前政権の“「質取扱い覚」”の「令」での「質流れの緩和策」で社会問題を起こしていた。
    これが「享保の改革の進捗」の一つの阻害要因に成っていた。
    この事に困った事からでもあるが、そこで、享保期には上記の全国に発した「農地」を対象としたものにも「質流地禁止令」も合わせて出したのであった。

    上記する様に、当時、「質」と云うものに対する概念が、「享保期の為政者の概念」と「前政権までの為政者の概念」とは根本的に異なっていたと云う事であった。

    「享保期の為政者の概念」=江戸の伊勢屋の質屋が行う仏教的発想の質行為
    「前政権までの為政者の概念」=土倉が取る代替担保や銭屋が金融の担保行為

    然し、上記した様に、AからFの「伊勢屋の質屋」は、「享保前の経済低迷の質屋(土倉)」から、「享保後の経済活況の質屋」に変わっていたのであったから、実質的には「AからFの令」は余り意味が無く、「町方」にも出した「質流れ禁止令」は、上記の事もあるが、主には江戸での「伊豆相模との争い」を避ける要領であった事が良く判る。

    実は、この”「伊豆相模との争い」”とは、金融に関する土倉銭屋行為の既存経済と、享保期の商業組合による伊勢屋質屋の新経済との混在する江戸社会の中で、如何にもその代表戦の様相を呈する様に成って仕舞った。
    「伊豆相模等に代表された勢力」と、「江戸の商業組合の伊勢屋勢力」との「二つの勢力争い」が起こっていたのである。

    この「二つの勢力争い」があったと云う事は、「AからFを行う質屋」では、つまり、「商業組合」の中での「組合員」に成った「暖簾分け」の者の中では、「質取扱い覚」”の「令」や「質流れ禁止令」や「質流地禁止令」があって「既存経済のシステム」に頼る事が出来ない為に、職能から販売までの一切の工程は「伊勢」から持ち込んだ「独自の殖産システム」で運営されていた。
    取り分け、その「発注と販売の責任」は「伊勢屋」が総括して持ち、一つの市場の中の組合員同士の「市場の奪い合い」は避けていた。
    その為に必要な市場のその代替は「海外に広く販路」(伊勢屋・貿易)を設けた。
    つまり、「富のシステム」で工程は出来上がっていた。

    この過当競争の無い「富のモシステム」とするならば、「伊豆相模」が行う「既存の経済システム」とその「銭屋の金融」に持つ市場に「障害と弊害」は起こらないし、新たに「江戸の伊勢屋の商業組合」が入ったとしても「市場の許す最低限の範囲」であった事に成る。

    “それなのに、何故、「伊豆相模」は必要以上に騒いだのか”である。
    (伊勢側から観ると騒いだと成る。)
    その“騒いだ”の答えは、“「恐怖感」”であったと観られる。
    「伊勢と紀州での商業組合の実績」が、「伊豆相模」を除いた「14地域の実績」が脳裏に在り、それが「余りの凄さ」に戸惑い、“江戸に来れば”と云う思いがあり、結果として「恐怖感」に結び付いたと考えられる。
    確かに、この「恐怖感に結び付く原因」を持っていた事は否めない事に成る。

    (注釈 その頃の「伊豆相模」は「銭屋」や「土倉」に代表されるこれを基本とする室町期からの既存の商慣習の古い経済体制を敷いていた事が原因している。)

    然し、この程度では幾ら何でも三つもの「令」は出さないであろう。
    少なくとも“形式上でも「令」を出すだけの事“が起こっていた事を示すものである。

    これは、「情報」が入っている「伊豆相模」だけでは無く、情報の持たない「江戸の既存経済の商人達」も同様に「恐怖感」は図り知れないものがあって、当に「パニック」に陥ち至っていた事が判る。
    取り分け、「銭屋」と「土倉」だけには相当な実質の影響が風潮に依って一時的にあったと考えられる。

    誰が考えても、上記した様に、「伊勢の14万石の経済増加」と「紀州藩の10万両返済」と「14地域の活性化」を聞けば、その経済勢力に「恐怖感」を抱かない方がおかしい。
    恐らくは、「江戸の伊勢屋」「伊勢屋の質屋」には、「嫌がらせ」や「デマ風潮」や「邪魔行為」が横行していたと観られる。

    (注釈 佐々木氏の資料の中に、この時の風潮が風刺的に如実に描かれている。)

    現に、この「騒ぎ」を見兼ねて出された「質流地禁止令」が誤解された。
    何と江戸組の「越後の国」の何と「武士を含む半分の民」が反対運動を起こし「大騒動」に参加した事に成っている。
    従って、この江戸での「嫌がらせ」や「デマ風潮」や「邪魔行為」が「越後」には伝わって居た事が判る。

    この「大騒動」には、“誤解に依るものである事”が判っているので、他の普通の一揆や騒動と違って、騒動解決の為の「説得の役人」が江戸から態々派遣されているのである。
    ところが、越前藩や幕府現地役人や幕府からも派遣されたが、“「役人の説得」に直ぐに応じなかった”と成っているので、「江戸の伊勢屋」「伊勢屋の質屋」に対する「嫌がらせ」や「デマ風潮」や「邪魔行為」が想像を絶していた事が判る。

    ここまでの騒ぎに成るには「特定の煽動行為」が無くてはなら無い筈で、既存の「江戸商人の影の抵抗」があった事が云える。
    其れも「15地域」であって、且つ、騒動の起こる事が最も低い「伊勢」に次ぐ「越後」である。
    良し悪しに関わらず、「二つの伊勢屋の動き」を抑え込む為のもので、裏で「反対勢力」(「江戸商人の影の抵抗」)が効果的な場所を狙ったとしか思えないのである。

    (注釈 前段で論じた様に、「保守的な官僚」を含めた「商業組合の進出」に対する「反対勢力」が動いた事が資料からの分析で判っている。)

    現実に、吉宗没後の1760年代には「執政田沼の冥加金に依る抑制策」、1780年代には「執政水野の禁止令」と「反対勢力」は勢いを吹き返した。

    そもそも、この「令」は、元の目的は「伊豆相模」の勢力等を宥めるのみならず、「江戸商人の騒ぎ」を納める為の令でもあったのであるから充分に考えられる。

    このややこしい「三つの令」は、結局は、1年後と5年後に廃止に成り、元の1695年に出された「田畑売買の禁令」も緩和する事で1731年頃までで完全に納まったくらいである。
    この間、何と15年間であった。

    「土倉や銭屋」で出た担保物件が、金銭の持つ「商業組合の商人」に渡る事で「土地と市場」が寡占状態に成らない無い様に配慮した令の目的であった。

    「江戸の伊勢屋の質」は「商業組合」の中で、「暖簾分け制度に依る融資」であって「庶民生活の融資」はしなかったし、「暖簾分け」での実質担保は採らなかった。
    この「質」が危険視された。
    出された「令」は、「商業組合」が「質」に依ってこれらの土地を含む担保の売買を禁止しているのである。
    庶民に執って「担保を買う事」を奨励するのであればいざ知らず、禁止しているのである。

    これを心配した庶民を保護した法令の目的であったのに、「丹波域三国」と「越後域三国」で逆に騒がれたのである。


    然し、この事が元で、伊勢と伊豆の双方の感情の行き違いが起こり、互いの「信用」を失い「伊勢と伊豆」は、平安期から全くの同族縁籍でありながらも、明治期まで「完全な絶縁状態」と成って仕舞っていた。
    (神明社の「御師、祐筆」が両者を取り持って解決し、「青木氏の奈良期からの賜物の護り本尊」の「大日如来坐像」を一時預かりして貰ている。)

    (注釈 この事に付いて「青木氏四家の口伝」に遺る。
    これは取りも直さず伊勢側から観れば「伊豆相模」が裏で煽ったと解釈した事を意味する。)

    そもそも、“「伊勢屋の質屋」”が有名な「江戸の名物」として、“「江戸の犬の糞に伊勢屋の質屋」”に例えられている様に風刺する目的から、この時に生まれた模様である。
    逆に観れば、風刺が出る程に「伊勢屋の本店」の「資金融資」に依り、「商品の商い」に限らず「質屋」の「質の事態」も「暖簾分けの各店舗」も大きく運営されていた事が判る風刺である。


    注釈として、 話は逸れるが、この頃の「江戸の伊勢屋」を示す物が先祖遺品の中にあったので、当時の“「江戸の伊勢屋の理解」“を深める為にも、少しこの事に触れて置きたい。

    それは、“「古今雛の京雛人形」”に、”「江戸の享保雛人形」”と云う風に呼ばれて、これも当時の世評を反映する様に有名であった。

    この「江戸の享保雛人形」、通称、“「享保雛」”とは、「伊勢の紙屋」が「紙の殖産」として「京雛の習慣」を「江戸仕様」に改造して、「伊勢松阪」から持ち込んで「江戸で職能集団」で拡げた事からこの様に呼ばれる様に成った。

    現在の「雛祭り」の「雛段」は、この時から興った「江戸の享保の慣習」なのである。

    その意味で、”「箱雛」の「京雛」”に対して、“「雛壇」の「享保雛」”は、一つのこの時の「江戸の商業組合」を物語るものなのである。

    現在は、何処でも“「雛壇」の「享保雛」”が一般的であるが、筆者の家では、この時の「享保雛」の「人形」が保存されていたが、明治35年に松阪大火で焼失した。
    然し、「雛祭り」と云えば違っていた。

    可成り大きい「三尺雛」(90センチ)と呼ばれるほどの「箱雛」の「京雛」は現在も遺されている。
    この「箱雛」は「単体の雛人形」で「御雛と女雛の二体」から成り立っている。
    それが「装飾された雛箱」に入っている事から「箱雛」と呼ばれていた。

    この様な祭祀をする「専用の飾床」があって、中央に先祖を祭祀する「仏間」と、先祖の遺品などを飾る「床間」が右にあって、左にこの雛箱に毛氈の掛物を掛けてその上に「御雛と女雛の二体」が飾られ、高い「対の燈篭」と、高脚の「着いた梵燈」が設けられ、高瓶に菱餅と甘酒を捧げ、右の大花瓶には「桃花」を生ける。中央には祭り専用の「黒檀火鉢」が備わる。
    この「黒檀火鉢」で香木を焚いて、人は集まる。
    嫁ぎ先親族の人々が遣って来ては、一月間に入れ代わり立ち代わり香木を焚く事が起こり、隣の仏間に線香と蝋燭が灯される事か続く。

    「飾床」の敷居には、「注連縄」が飾られ「象徴紋」の入った「紫色の幔幕」が張られ、祭りの初期は「甘酒」(弥生雛)が振舞われ、後半には「抹茶」(五月雛)が振舞われた。
    そして、「仏間」の前の右に「毘沙門天像」と左右に「対の高燭台」が設けられる。
    仏間の左には元より「対の高燭台」ともに「大日如来坐像」が安置されている。
    全てが「床」には無く「机上の高さ」にあり、「祖先神の親神」の「皇祖神の主神」の「自然神の祭祀方法」の手順に一切沿っていると考えられる。

    江戸の当時の庶民が、持てる「雛人形の箱雛」では未だ無かった様であるし、この祭祀もこの様に現在の様ではなかった。
    これが「青木氏の習慣仕来り掟」に古くから遺されて「一つの祭祀の二つの催事」を維持されていたものである。
    これを、“三月に一ケ月間も飾る習慣”であって、「女子の節句祭り(庶民化)」と云う事では無く、娘の「婚家一族」を中心に「四家一族」も「福家」に呼び寄せて、“「一族繁栄円満の祭り」”として、その際の「格式象徴物」として「雛人形の箱雛」は用いられて行われていた様である。

    前段でも論じたが、「四家制度」の”孫域までを「子供」として一同に育てる「仕来り」”に沿ったもので、「女子」と云うよりは元より“「女系祭祀」”と云う目的が元々強かったものである。

    (注釈 「青木氏」には、前段でも論じたが「青木氏家訓10訓」にもある様に「女系意識の概念」が強い。)

    この全国の「青木氏」等が行っていた古式豊かなこの「弥生雛祭り」が、享保期には「吉宗と青木氏と伊勢屋」が江戸に広げ、それが世間に拡がりこの「上記の祭祀」が簡略化し庶民化し変化して華やかに「雛壇」に成り、「祭り」が「女子の祭り」と成ったと観られる。
    (吉宗は伊勢で育っていたのでこの「青木氏の催事」を良く知っている。)

    何をともあれ、「伊勢和紙加工に於ける殖産」を広める為に「弥生雛祭り」に託けて江戸に持ち込んだものが、「享保雛」と云う形で普及させて広まったものである。

    この「弥生雛祭り」の古式豊かな「正式な祭祀」は、「全国青木氏」では、「伊勢」「京」「近江」の三地域のみならず、大正14年まで正式に行われていた記録が遺されているが、その後は衰退し一族の孫域まで呼び寄せた“「子供孫祭り」”の様な「子供の成長を祝う目的」の「小規模な単なる「お祝い事」に変化したものであった。
    この「お祝い事」は昭和半ばまで続いた。

    この昭和の時は、「享保雛の影響」を逆に受けて「京雛の箱雛」を用いた「雛壇の無い状態」ではあったが、「弥生雛祭り」(女子)と「五月雛祭り」(男子)の「二つの祝事」に成り、且つ、分割していたのである。

    同じ「儀式の祭事」が「伊勢秀郷流青木氏」や「近江佐々木氏系青木氏」でも行われていた事が記録として遺されているが、ただ「箱雛に依る催事」は遺されていたかまでは不明である。

    更に、この「雛祭り」は、上記の三月の祭りに加えて五月には、同じ「箱雛」で、江戸期には「義経と弁慶(侍と臣)」(モデル化)で、室町期では「毘沙門天像」を模写したと観られる大きな「二体の武者人形」を同じように飾り、「四家一族」と「婚家一族」に加えて、家人郎党全員を集めての「儀式の祭事」(“「五月雛祭り」”)が行われていた。
    この時の祭事は、同様に「四家制度」に沿ったもので「一族発展の祭り」(男子の子孫存続)として「三月の祭り」(“「弥生雛祭り」”)に続けて行われていた様である。
    「祭祀の期間」は同じ一ケ月間であり、この間は「弥生雛祭り」の「雛人形」なども飾り続けて仕舞わない仕来りである。
    そもそも、「伊勢青木氏の口伝」によれば、“「弥生雛祭り」と「五月雛祭り」”の「箱雛の人形」を飾る目的が何であったかと云うと、本来は、“ある事を「擬人化したもの(格式の象徴物化)」”であって、「五月雛祭り」に付いては「四家制度」の思想から来る「健全な子や孫」(「男子や女子」)を表すものとして祀られていた事が判る。
    然し、“「弥生雛祭り」に付いては、”ある事を「擬人化したもの(格式の象徴物化)」“と云う事が口伝ではっきりしている。

    然し乍ら、この“「弥生雛祭り」と「五月雛祭り」”との間には筆者には何か釈然としないものがあった。

    実は、筆者の「口伝」の記憶では、「三月祭り」(「弥生雛祭り」)から「五月祭り」(「五月雛祭り」)まで連続して行われていたとの「口伝記憶」(先祖の言い伝え)がある。
    これは「二つの催事」では無く、「一つの祭祀の二つの催事」としての口伝による記憶が強い。
    これは「旧暦の弥生」は新暦の3月下旬−5月初旬と成る事から、奈良期の古来の「弥生雛祭り」が元々の「祭りの期間」であったと考えられる。
    これが新暦に成った事でより三月と五月の「二つの催事感覚」に何時しか勝手に成って仕舞ったと観られる。

    二つの「三月祭り」(弥生雛祭り)から「五月祭り」(五月雛祭り)は、“ある事を「擬人化したもの(格式の象徴物化)」である”事の「古い催事」である。
    この限りは、元々継続した「一つの祭り」であった筈で、その目的から考えて「弥生雛祭り」が原型であったと考えられる。
    「青木氏」は、古くから独自にこの「古の伝統」を維持していた事に成る。

    「二つの催事感覚」、取り分け、その中でも「五月祭り(五月雛祭り)」がはっきりと分離したのは、享保期の「伊勢殖産」に依って「享保雛」が出来た事から独立させて販路を拡大させようとした。
    この事から、二つに恣意的に分けられたと観られる。
    それが明治以降の新暦で、伊勢でも分離しての催事感覚に疑問を持たれない侭に当然の様に「二つの催事感覚」に成ったと観られる。

    (注釈 然し「口伝」による元来のこの「催事の目的」からすると「二つの祭祀感覚」はおかしい。
    これが釈然としない事であったが、「青木氏」が行う「弥生雛祭り」の目的と、その内容が、「絵」とで行う様な「祝事」ではそもそも無く、先祖への「尊敬の念」を認識させる「祭祀の催事」である。)

    従って、「享保雛」の「雛段」に依る「庶民の二つに成った祝事」は、「青木氏の祭祀」(「弥生雛祭り」)とは異なっているのである。
    つまり、その「異なり」とは、そもそも、「祭祀」と「祝事」に依る違いである。

    (注釈 現在でも「京と近江」と、取り分け、伊勢域の「老舗での雛祭り」では、「青木氏」の「一つの祭祀の二つの催事」と似ているところがある。
    これも矢張り、一ケ月間行う慣習で、「雛壇」の様なものが無く、”「供物」や「幔幕」や「注連縄」”もあって、この期間はこの「三つ」を降ろさない「仕来り」で、現在でも異なっている事が判っている。)

    この「青木氏の二つの催事」は、即ち、「三月祭り(弥生雛祭り)」と「五月祭り(五月雛祭り)」は、何れも昭和半ばまで小規模ながら続けられていた。

    然し、この上記の “ある事”とは、次ぎの事である。
    「四家制度」の前提と成る「皇族賜姓臣下族」としての「賜姓五役」を忘れさせない為の「格式象徴物」を擬人化させての「青木氏独自の古来催事」であった。
    以上と「口伝」で伝えられていて、又、その「催事の内容(祭祀)」からも筆者も理解している。
    従って、根本は、「祝事」では無く、「祭祀」なのであった。

    これが室町期の「室町文化」、即ち、“「紙文化」”と云われる位に栄えた事から「500万石」と云う「巨万の富」を獲得したが、これを同じ「二足の草鞋策」を敷く「青木氏」の「伊勢の紙屋」としての「仕来り」として捉えて、京や伊勢や近江の藤原氏系や佐々木氏系の「二足の草鞋の老舗の商家の習慣」としても採用され拡がったものであろう。
    それが、江戸には「青木氏の殖産」で享保期に拡がったと云う事であろう。
    唯、この時は「塑像」では無く、「雛人形」で広めたと云う事であろう。
    それが当然の結果として、庶民に広げる限りは「祭祀」では無く「祝事」となり、「三月祭り(弥生雛祭り)」と「五月祭り(五月雛祭り)」の「二つの祝事」に変化したと考えられる。

    江戸では、これに依り「新しい祝い事」として「二つの祭り」を作り出し、「享保雛」と「雛壇」と云う二つの新しい「雛人形」の形体を作り出したのである。

    これも「青木氏の慣習」が「伊勢和紙加工の殖産」(射和衆 室町期の紙文化)を通じて江戸に広がったからである。

    注釈として、そして、この「三月祭り(弥生雛祭り)」と「五月祭り(五月雛祭り)」の「青木氏の慣習」が、この時に、「商業組合」の「職能部門」も「融資と指導等」を受けて「暖簾分け制度」、所謂、「伊勢屋の質」で拡大して行ったのである。
    この江戸に広まった「伊勢屋の質」が、同時に「伊勢和紙加工の殖産」(射和衆)に連動しているのである。
    況や、「江戸の伊勢屋の質」(「享保雛」)も、「伊勢の紙屋の質」も、何れにも「伊勢和紙加工の殖産」が介在していたのである。
    そして、それには奈良期からの「青木氏の慣習」が、「江戸の経済」の“「拡がりの媒体」”と成っていたと説いている。

    「慣習も奈良期」、「和紙も奈良期」であり、「享保の文化」は、この二つを取り入れた「天皇家の様相を模写した雛人形」と云う事に成ったのである。

    そもそも,「雛人形の歴史」には,次の様な歴史を持っていた。
    下記の事を理解していないと、この「像の事」は好く理解しえない。

    ・「形代」(かたしろ)と云うものがあって,その「人形」(ひとがた)に「災い」を担ってもらって災難をさけると云う風習で、古来の祈願はこれが主体であった。

    ・「天児」(男子 あまがつ)・「這子」(女子 (ほうこ)と云う祈願方法は、「人形の原型」と云われ、その人形(ひとがた)に対して「願い」を込める方法である。
    これが発展してより「ひとがた」に近い形が表現されて、平安期頃には「人形(にんぎょう)」と呼ばれる様に成った。

    ・「立雛(紙雛・たちびな)」と云う「色紙」で細工表現した「人形(にんぎょう)」から発展した「親王人形」を作り、それに「ある目的」を持たせて「祭祀人形」や「祝事人形」というものを創った。
    この「ある目的」をより真実に近づけ「擬人化偶像」を成して慣習化を果たした。
    然し、「祭祀人形」は、特定階級に催され「天児系・あまがつ」の「擬人化偶像の流れ」に、「祝事人形」は有る範囲の庶民に催され「形代系」の「人形(にんぎょう)」へと進んだ。
    況や、「人形(ひとがた)」から「人形(にんぎょう)」へ変化したが、更には、目的を持たせ装飾させた「雛形(ひながた)」への分岐時代であった。

    ・「内裏雛(室町雛・だいりひな)」として「ある目的」が固定化して「親王人形」(しんのうにんぎょう)と呼ばれる現象が起こり、これが形式化して「立雛(たちびな)」が創造化された。
    且つ、この「立雛」が「親王の雛人形」が複数化して飾られる様に成った。
    「室町文化の紙文化」が、飛躍的に発展して「庶民化」に依って「祝事の人形化」がより進んだ。
    ここで、初めて室町期末期頃には正式に「雛人形(ひなにんぎょう)」と呼ばれる様に成った。

    ・「寛永雛」とあるが、そもそも、これは「内裏雛」に含まれ、「立雛」では無く「座雛・すわりびな」で作られたものである。
    「内裏雛」までは関西での文化であったが、開幕に依って江戸に向けて「江戸十組問屋」等の多くの「関西商人」が江戸に移住し「関西文化」を持ち込んだ。

    その時、この「内裏雛」が持ち込まれ、やや「江戸風」に仕上げられた事から、「寛永雛・かんえいびな」と呼ばれる様に成り、「京文化や近江文化や伊勢文化」を思い出す「祝事の専用雛」として扱われた。
    参勤交代で江戸に集まる「武士階級」からも、又、広くこの慣習を真似た「商人などの庶民階級」にまで催された。
    この時に使われたものを「寛政雛」と呼んでいた。

    唯、この「寛政雛」には、「人形・にんぎょう」としての装飾などには大きな変化は無く、「関西の風習」が「江戸の風習」にも成りつつあって広がった事の意味から「寛政雛」と呼ばれた。
    最早、「人形・ひとがた」の慣習の影は無かった。
    「雛人形」に対して特別の「幕府の締め付け」があって、且つ、国政も極貧状態で質素が求められた時代であって、大きな発展は起こらなかった。

    従って、分類上では次ぎの「享保雛」で扱われている。

    ・「享保雛」は「内裏雛」(親王雛)が華やかに成り、「寛政雛」とは比べものにならない程に独特の「江戸庶民文化の花」を咲かせた。
    「内裏雛」の「雛人形」は複数化し、大型化し、雛壇化し、装飾具化し、更には、幾つかの「親王雛」では無い「女官雛」等の「有職雛」が生まれる等に発展した。
    全く異なる「内裏雛」の「雛人形」が生まれ、それが更に進化を遂げたのである。

    この余りの進化は、逆に関西に流れ着き、何時しかその「享保の雛人形」を使った「祝事」は華やかで庶民的であった事から、「関西の内裏雛」に取って代わられたのである。
    従って、幕末の「関西内裏雛」には「関東内裏雛」と混在する期間が続き、「青木氏等の慣習」として維持されていた「立雛」は、「特定の階級と地域」にのみ維持されるものと成った。

    (注釈 これ以後、明治期まで、遂には朝廷の官位官職の「有職雛」や「古今雛」が追加されて華やかさが拡大し、関西にも逆波及し定着して仕舞ったのである。
    幕府は懸命に成って、質素に祝う様に「御触れ」を出すが最早止まらなかった。
    現在では、この逆波及の本論の「享保雛」が定着し、元の「内裏雛」さえも完全に忘れ去られているし、「立雛」等は存在さえ「文化の記憶外」に成っている。)

    「京雛」と「近江雛」と「伊勢雛」の少しづつ異なる「立雛」は、勿論の事、形代(かたしろ)、「天児」(男子 あまがつ)や「這子」(女子 (ほうこ)の「祭祀や祝事の祈願方法」の「人形と雛の歴史」は学問的にも消えかかっている。
    この事は、実に「青木氏の歴史観」として大事な事であり、「享保の改革」に執っては関連して前期した事を認識して置く必要である。

    つまり、「祭祀人形」は特定階級に催され「天児系(あまがつ)」の「擬人化偶像の流れ」に、又、「祝事人形」は有る範囲の庶民に催され「形代系(かたしろ)」の「人形(にんぎょう)」へと進んだ。
    この様に「人形(ひとがた)」から「人形(にんぎょう)」へと変化したが、更には、「祝事の目的」を持たせた事に依って装飾させた「雛形(ひながた)」へと進んだ分岐時代でもあった。

    つまり、「青木氏の祭祀」は、「立雛」とは呼称するものの「雛」では無く、その真の姿は「人形(にんぎょう)」で、「祭祀人形」は特定階級に催され、何時しか「天児系」の「擬人化偶像の流れ」に居た「古式豊かな青木氏だけの慣習仕来り」に成っていたのである。
    この「三月祭り(弥生雛祭り)」と「五月祭り(五月雛祭り)」の「青木氏」の「一つの祭祀に二つの催事」の慣習は、「弥生雛祭り」の「御雛と女雛」(正しくは親王人形)と呼ばれていたが、実は「人形(にんぎょう)」に依って作り上げられていたのである。

    (注釈 「雛」の呼称の原因は、室町期頃の「立雛への進化の影響」と考えられる。
    当初は「弥生祭り」と「五月祭り」と呼ばれていた様であり、室町期末期から江戸期初期に入ってから「雛」が着く呼称と成ったと口伝と資料の一端からと伺える。)

    当然に「五月祭り(五月雛祭り)」の「毘沙門天像」は、「雛」では無い事は当然の事として、奈良期には「木彫像」の「擬人化偶像」(鞍作部止利作)での祭祀であった。
    然し、室町期には「時代性」を強く反映して「塑像の特徴」を活かした「擬人化偶像」で祭祀されていたのである。

    この「時代性」とは、「下剋上と戦乱期の乱世」で、且つ、この時期は乱世でありながらも「伊勢」は「不入不倫の権」で護られていた事や、室町文化で「巨万の富」を得た事から、「二つの青木氏の子孫拡大」(四家制度)は大きかった。

    従って、最早、権威ある「木彫像」では「鞍作部の衰退」もあり、無理とも成る。
    当然に拡大する「枝葉の子孫」の数に合わせるにも「子孫に与える像」は、「木彫像」では間に合わなく成り、「塑像」でなくては出来なかったと考えられる。
    「乱世による損傷」も充分に考えられ、修理や量産の効く「塑像」に換えたと考えられる。

    この古式豊かなこの「祭祀の慣習」は調べた範囲では、これに近い状態を「青木氏」と共に、「京」「近江」「伊勢」の藤原氏や佐々木氏等を祖とする数える程の“「老舗の商家」”のみで、昭和の時代まで維持していたと云う事である。

    (注釈 伊勢では特定地域でも現在も遺されているが大半は元は老舗商家だったと云う。)

    「老舗の商家」しかこの「古式の慣習」が文書にさえも遺されていない。
    これは恐らくは、「立雛」さえも確認できない事から考慮すると、江戸期には、最早、「氏族」が其処まで衰退した事からだと観られる。

    (注釈 「姓族」が主体を占めた。この「姓族」を以って「武士と云う環境」に成った。その為に擬人化像や偶像は衰退し「氏族の古式伝統」は消えた。)

    何はともあれ、この典型的な現象は、それまでこの「古式慣習の文化」を維持していた階級であったのに、室町期末期に近江、京の関西域、伊勢、美濃域の中部域、土佐、讃岐、伊予、阿波の四国域、周防、安芸、伯耆の中国域に“「武家貴族」”が生まれて「貴族公家の勢力」を盛り返した。
    然し、50−80年程度でこれらも短命で「姓族」に圧せられて、完全消滅して逆に共倒れして、「伝統」を保持していた可能性のある「郷士衆数」までも減らして仕舞ったのである。

    この“消滅して数を減らした”と云う事が、多少なりとも痕跡を遺す筈であるが、「古式の慣習の痕跡」さえも無くす事に成って仕舞ったと考えられる。

    それも、この「四つの地域」は、そもそも「古式の慣習」を維持していた「氏族の枝葉末裔の生存域」(家紋分析)であって、そこにこの「武家貴族」が安易に浸食し、安易に「貴族や公家」が「武家」としての力を持つ事が出来たのである。
    この原因は、平安期末期から鎌倉期初期の「荘園制の弊害」であって、他の血気盛んな「新興姓族」の中に浸食する事は極めて危険であった事から、「西の政権」の「朝廷力」を吹き返す為に採った「安易な苦肉の手段」であった。


    (注釈 これらの「武家貴族」と呼ばれる者の貴族や公家衆等は、「平安期の荘園制の名義貸主」であったが、それを根拠に貴族や公家衆等が室町の戦乱期で失職した武士を雇い、自ら「武家貴族」を名乗り、その勢力を使って過去の「名義貸し」を根拠に土地を奪い取った現象が各地で起こったものである。)

    と云う事は、この現象が原因して、この「四つ地域の地元勢力、即ち、郷士勢力」さえも滅亡すると云う事に成り、当然に「古式の慣習」(祭祀の慣習)そのものが消え去る事と成ったのである。

    (注釈 「弥生祭り」「五月祭り」は、「天児」(男子 あまがつ)・「這子」(女子 (ほうこ)と云う「祈願方法」に起因していて、奈良期、或は平安期からの「郷士衆」である場合は、この「祭祀の伝統」を保持していた。
    この時代の「郷士衆」は、全て藤原氏、佐々木氏、源氏、平氏、青木氏等の「賜姓臣下族」で拡がった「母方族系」も含む枝葉の傍系支流族の末裔であった。
    この「四つ地域」に、前段で論じている様に、それぞれの「荘園制等の名義貸し」や「血縁の定着理由」が在って主に分布していたのである。)

    唯、この中でも、前段でも論じたが、数少ない「伊勢郷士衆」は、その元を質せば「母方の武家貴族」にも類し、「郷氏」でもある地元の「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢藤氏一門」は、「武家貴族の浸食」に耐え抜いた。

    伊勢は、「京の北畠氏」が「武家貴族」と成り、一時、奈良、伊勢、美濃域、果てには西関東に浸食し、一時は、”「御所」”と呼ばれる程に勢力を持ったが、遂には平家の傍系末裔の尾張の織田氏に押し返され潰された。
    然し,前段で論じた様に、「皇族賜姓臣下族の伊勢青木氏」の「不入不倫の権の笠」に入り、「縁者関係」を理由に「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢藤氏一門」には手が出せないと云う事が発生し生き残った。
    そして、その結果、”「青木氏の古式の慣習」”は何とか遺ったのである。

    (注釈 「皇族臣下族青木氏」の補完役を「円融天皇」時に「藤原秀郷」は命じられ、且つ、「青木氏の母方系」である事を理由に「同等の格式身分」を補償して、一族の第三子(千国)に永代継承する事を認め「青木氏の賜姓」を授けた。
    これが「24地域−116氏」に拡がり、秀郷一門の「第二の宗家」と呼ばれて拡大する。)

    中でも「伊勢秀郷流青木氏」は、「皇族臣下族青木氏の補完役」の中心に居て深い血縁関係にあり、秀郷一門にも「独自の古い慣習」が在りながらも「皇族臣下族青木氏」の「古式の慣習」をも保持していた。
    取り分け、中でも「皇族臣下族青木氏」の「四日市殿」は、江戸時代には「最高の格式」を持つ「融合族青木氏」であった。

    そこで、「青木氏」の「四家制度」の前提と成っている「皇族賜姓臣下族」としての「賜姓五役」を忘れさせない為に「格式象徴物」を作り「擬人化偶像」させて祭祀した。
    それを「特定の期間」に祭祀する「青木氏独自の古来催事」であるとする前提には、「三月祭り(弥生雛祭り)」と「五月祭り(五月雛祭り)」との間には「重要な独特の繋がり」が「五月祭り(五月雛祭り)」側に在った事に成るのである。

    では、その“「重要な独特の繋がり」とは一体何であるのか“と云う事に成る。

    そこで、そもそも、「五月祭り(五月雛祭り)」には、口伝によると、室町期には何故か「毘沙門天像」であったが、これが「五月祭り(五月雛祭り)」の祭祀目的と成っている。
    これが“「重要な独特の繋がり」である事に成る。
    その“何故か”の「毘沙門天の根拠」が判れば、「一つの祭祀の二つの催事」であった事が判るし、次ぎの様に伝えられている「口伝」も納得のいく処である。

    そもそも、別論でも論じたが、日本では「四天王の一尊」として扱われた場合は、“「多聞天」”で、「独尊像」として扱われた場合は、“「毘沙門天」”であり、「武神」としての「臣下族」の「守護神」として祀られていた。

    (注釈 「三つの発祥源」として、「青木氏」がこの「武神の祭祀役」を唯一に持つ「特有の氏族」である。前段等で論じた事が大きく歴史観として出て来る。)

    「賜姓族五家五流の青木氏」では、この「一つの祭祀の二つの催事」の中の「偶像擬人化物」として「毘沙門天像」が位置している。

    (注釈 「藤原秀郷流青木氏」では、上記注釈でも記述したが「皇族賜姓臣下族」ではあるが、守護神は「春日神社」、主菩提寺は「西光寺」、始祖は「藤原鎌足」、家紋は「下がり藤紋」、「賜姓五家五流青木氏」の「補完族」で「母方族」である。
    この事から「毘沙門天」は「武神」「戎神」「尚武神」の「守護神」では本来無い。
    但し、「四日市殿」と「秀郷流伊勢青木氏」は「青木氏融合族」である事から両方の慣習を持つ。)

    つまり、「一つの祭祀の二つの催事」の形体を観ると、「三月祭り(弥生雛祭り)」の目的は、次ぎの通りであった。
    「皇族賜姓臣下族」としての役である「賜姓五役」を忘れさせない為に、それを与えてくれた始祖を擬人化させた「格式象徴物」の「偶像」を作り、一族にそれを「青木氏始祖」として崇めさせる掟である。
    青木氏末裔に長く崇めさせるに至っては、又、守護させる為には、その「青木氏の意志」を最大限に具現化し、偶像化したものを「格式象徴物の偶像」に添える事で必要であって、それを「定期的な祭祀の形」で慣習化して遺す事にあった。

    その「崇め護る意志」を表したのが「独尊像の毘沙門天像」であって、これを「格式象徴物の偶像」の横に配置した形態に成っていた。

    (注釈 筆者が知る口伝範囲では、実際は、仏間の前面左に「大日如来坐像」、全面左に対の形で「毘沙門天像」が配置されていた様に聞き及んでいた。
    然し、ところが資料に依れば「格式象徴物の偶像」の右横と成っている。
    室町期末期の「秀吉に依る門徒衆狩り」で、人々は「青木氏の菩提寺と屋敷」に逃げ込めば秀吉は手出しはしないだろうとして列を成して逃げ込んで来た事が伊勢の記録で判っている。
    この時、秀吉は武力を使えず「青木氏の菩提寺と屋敷」に「火付け」で応じた。
    この時、「伊勢シンジケート」は「青木氏の菩提寺と屋敷」とを取り囲み人々を護ったとあり、「秀吉軍(門徒衆狩り)」は近寄れず、結局は全面破壊に至らず「青木氏の菩提寺と屋敷」は一部損傷で終わった事が記録されている。)

    この注釈の様に、護る「伊勢シンジケート」の間で武力沙汰になれば朝廷を擁護する秀吉に執っては、“松阪殿にお構いなし“の「不入不倫の権」を犯した事に成り腹立たしくも好ましい事では無かった。

    但し、この「松阪の災禍」で「格式象徴物の偶像」と、「大日如来坐像」と、「毘沙門天像」を屋敷の外に一度救い出したが、口伝に依れば、「毘沙門天像」だけは「塑像」であって重い事もあって損傷し、再び「災禍の中」に放り込んだと伝えられている。

    この後の江戸初期前後に、この事が理由と成って反省して「塑像」では無く、「毘沙門天像」は「義経像(武者像)」をモデルにした様な現存の「武者偶像人形」(三尺像)にした事が伝えられている。

    ところが、現在は「格式象徴物の偶像」の右横に「武者偶像人形」が配置される習慣と成っている。
    これは、この祭祀が終われば、この「二つの偶像」は安全を期して土蔵に仕舞う仕来りであった事からこの配置に変更したと考えられる。

    「大日如来坐像」は仏間に常設して祭祀している事から、口伝よりも資料が「正しい仕来り」であった事が解る。
    これは「二つの祭祀に一つの催事」に合して「古式仕来り」を江戸期に修正した事に成る。

    「大日如来坐像」は「格式象徴物の偶像」よりも上格である事から、「毘沙門天像」を仏間に対に配置したと云う事であろう。
    そもそも「大日如来坐像」も「毘沙門天像」も「仏像」であり、「格式象徴物の偶像」と「武者偶像人形」は擬人化の「偶像」であり、「仏像」では無い。
    つまりは、この概念に”伝統を変更した”と云う事である。

    注釈として、「武者偶像人形」に変更した根拠には、「二つの青木氏」は「皇族賜姓臣下族」ではあるが、平安末期の「以仁王の乱」の直前1182年頃、「源頼政の第三氏孫京綱」が跡目に入るし、「信濃青木氏」にも同時期に「源光国の子の源実国」が跡目に入った事で、「青木氏と源氏の同族融合族」と成った。

    この事で、「武者偶像人形」に換える事には、「江戸初期の青木氏第23代目頃の青木氏末裔」は「問題無し」としたと考えられる。

    これを未来永劫に「氏の生きる目的」として忘れさせない為の「一つの祭祀の二つの催事」であった。

    唯、問題は「毘沙門天像」の「三つの格式」をどう見たのかと云う事が気に成る。
    それが下記に論じる「三つの格式」を持たしているのである。

    そもそも、「毘沙門天」を詳しく探れば解る。
    「毘沙門信仰の発祥」は、平安時代の鞍馬寺で、鞍馬は北陸の若狭と山陰の丹波と京都とを結ぶ交通の要衝でもあり、古くから市場が栄え庶民の間でも、「武神」に依らずとも「毘沙門天」の神格である「財福の神」という面も強まった。
    更に、本来の「武神」と「財福神」以外にも、九世紀頃からは「正月のお祓い行事」として、「疫病を祓う役」と「無病息災の神」という一面が加わった。
    平安時代末期には「商いの神」の「戎神」ともされ、「武神の甲冑の毘沙門天」は主流であるが、この姿の「戎神」の古い形態も起った。
    「財福の神」としての「毘沙門天」は、室町期中期には「大黒神」にならぶ人気を誇るようになった。
    室町期末期には、インド伝来の「武神の毘沙門天」は、「日本独自の信仰」として「七福神の一尊」ともされ、江戸時代以降は「尚武様」として特に「尚武(勝負)神」にも崇められた。

    この様に「庶民の仏教の信仰」も加わり、「武神」、「財福神」、「無病息災の神」、「戎神」、「七福神」、「尚武神」とも崇められる事は「青木氏」に執っても得策であった。

    この事から、「青木氏」は「五月祭り(五月雛祭り)」には、「毘沙門天像の塑像」を「三つの発祥源」として「武神」に、「二足の草鞋策」から「戎神」に、「土地の氏上御師」として「尚武神」に崇めて、「格式象徴物」を護る為にも配置して祭祀していた事が解る。
    これは当に「格式象徴物」に対して「賜姓五役」を果たす為に護侍している「青木氏の姿」を表現している事にも成る。

    この「毘沙門天像」には、基本的に「七像型」があり、右手には法棒、左手には宝塔を持つ基本像があるが、どの像であったかは現在は判っていない。
    唯、「賜姓五役」を司る事から「武神」「戎神」「尚武神」の「三表現の毘沙門天塑像」と成ると、右に「法棒」(イ)と、左に「宝塔」(ロ)と、光背に「操舵輪」(ハ)と、足元に「邪鬼」(ニ)で、立姿は鎧姿(ホ)の塑像と成る筈である。

    現在、全国に遺されている「毘沙門天像」には、「七像型」の範囲で初期には、「60程度の造形」(型式に拘らなければ絵まで入れると江戸期までのものを入れると数万像ある)があるが、当時はその「氏族」の「七像型の範囲」で主張をして造形を鞍作部に依頼する習慣が許された。
    その為にも「依頼主の主張の自由性」が効く「塑像」が主体と成っていた。

    室町期までは少なくとも上記の「三月祭り(弥生雛祭り)」を基本に「五月祭り(五月雛祭り)」が「青木氏」の「二つの祭祀に一つの催事」であったとすると、(イ)から(ホ)の条件が備わっていた筈である。
    現在は室町期の類焼で正確な立像姿は判らない。

    イロハニホで描かれた「曼荼羅絵の毘沙門天像」が「近江の寺」にあるが、これに近いものであったと考えられる。
    口伝によると、奈良期の「青木氏」の賜姓を受け臣下族と成った時の「大日如来坐像」と「笹竜胆文様の象徴紋」と「氏神木の青木の樹」と共に、「鞍作部止利作の木彫り」の「毘沙門天像の賜物」と伝えられていた。

    「青木氏」には、元より「鞍作部止利作」の「黒檀に依る大木像造」の「賜物の大日如来坐像」が現在も保有している事から、この時に合わせて受けた「毘沙門天像の木彫賜物」であったと観られる。
    その「室町期の模擬像」の「塑像」として保有していたと伝えられていた。

    (注釈 「原型の毘沙門天像」の「木彫像の賜物」は、原因は不詳であるが、鎌倉末期に損傷し類焼したと伝えられている。
    「近江」と「美濃」にも「塑像」はあった筈で、「青木氏の氏是」に反して「源平合戦」の近江と富士川の戦いで滅亡した事で消滅した。
    「甲斐の塑像」(源源光系)も衰退した事で消滅している可能性は高い。

    「信濃青木氏」が所有した「毘沙門天像の塑像」の如何は現在も掴めていないが、下剋上と戦乱で損失したと観られる。
    その後、「塑像」を作りしが「不入不倫の権」に護られていた事から「伊勢青木氏」の四家が共有していたのではとも考えられる。
    然し、これは「室町期初期に再現された塑像の模擬像」であって、その「塑像の模擬像」も「伊勢三乱」でも焼失している。
    この時に「信濃青木氏の毘沙門天像」は類焼したと考えられる。

    その後は、この「塑像」は、遂には、江戸期初期の「武者偶像人形」(義経像)と、それを護侍する「弁慶像の雛型人形」に変化している。

    (注釈 「弁慶像の雛型人形」の「武者偶像人形」は「江戸期の後付」と観られる。
    恐らくは、これは江戸歌舞伎の勧進帳十七番で有名と成り、「五月雛人形」として作られる様に成った。
    ただ、「「武者偶像人形」(義経像)」とは「造り」が異なる。

    「義経像モデルの「武者偶像人形」は「箱雛」としてあったが、その後に、明治期に「弁慶像の雛型人形」は、「後付のガラス箱」に収め直されている。
    この事から、「特注特大の雛人形」の三尺物、普通は一尺半以下として作られている様である事から、時期が同じでは無く兎に角は「後付」であろう。

    「義経像モデルの「武者偶像人形」は、「箱雛」では、「毘沙門天像」に比べて「三格神」の意味合いが薄く成る。
    この事から、その「意味合い」を強める思惑から、当時、「八幡大菩薩」が「姓族の武士」の「護り本尊」として崇められていたので、「弁慶像」を添える事で「武神と尚武神」の「三格神」を強化したと観られる。

    そもそも、取り分け、11の「賜姓臣下族」の中でも、「清和源氏」と「桓武平氏」は、この「八幡大菩薩」を「武神格」として崇め、その「義経像」を江戸期には「八幡神」の「武神格」に祭り上げた。
    元々、この「八幡神」は、「天皇家」の「始祖応神天皇の神霊」であって、「皇祖神の伊勢神宮」に準じる神格を以って守護神の宇佐神社と石清水神社に与えたものである。

    従って、「神仏融合」の「八幡と菩薩」は準ずる神格として、「武神の毘沙門天」に継ぐ「日本固有姓族の武神格」として新たに造り上げたのである。

    そこで「皇祖神の子神の祖先神」を守護神とする「青木氏」としては、この認識の上に立って「毘沙門天」に換わって、「武者偶像人形」を「武神」とする事に踏み切ったと考えられる。

    (注釈 そもそも「塑像」は、同じ物を幾つも造る時に用いる手法で藁や木枠を基本に粘土で塗り固め外側を色付けする手法であり、又、模擬像や修復が容易である。
    「毘沙門天像」等の複雑な像に良く用いられるし、金属像にする時の鋳型にもする多様性の手法でもある。)

    室町期初期からの「下剋上と戦乱」を反映して、「青木氏」では「氏の安寧」を祈願して護る「守護神像」を偶像擬人化した「大きな雛人形」であったと口伝されている。
    その「偶像擬人化像」のモデルと成ったのは、実在の「大蔵種材」だと伝えられている説もあるが、「青木氏」との間の直接的な関連性は無い事からこの説は疑問視されている。

    ところが、別の一説には、「坂之上田村麿像」であるとする説もあり、「施基皇子」の四男の「白壁王の光仁天皇」の妻の「高野新笠」の叔父に当たり、「山部王の桓武天皇」の母方の曾祖父に当たる事から、この説が「青木氏と関連性」があり、経緯から一部納得は出来るが確定は出来ない。

    口伝に依れば、上記した様に、江戸期初期には「義経像のモデル」の「武者偶像人形」を模写し、「弁慶像」を付帯させて模写したものと変化していたと伝えられている。
    これには理由があって、平安末期(1182年)の「摂津源氏四家の源頼政」の三男京綱が「伊勢青木氏の跡目」に入った事から、「河内源氏」の「源頼信系の義経」をモデルにして「氏の護り本尊」として「偶像化した」ものを創ったとも伝えられている。

    江戸期には社会が安定期と成った事から「毘沙門天像」から変えたとする説もあり、現在は、この義経に似せた「義経像」(モデル武者偶像人形)と成っている。
    「義経像」(モデル武者偶像人形)とするには、この「大きな雛人形」の横には「弁慶像」が付添させている事からその様な説に成っている。
    (但し、「弁慶像」は後から付け添えたものかも知れない。)
    尚、「毘沙門天像」から「義経像」(武家侍のモデルした像)の「武者偶像人形」に変わった原因、書き記されたものが無い処から「伝統」を変えた原因は焼失かも知れないが本当の処は判らない。
    理窟としては、上記の認識に執って換えたと云う事と観られる。

    唯、当初は、「三月祭り(弥生雛祭り)」が原型で「一つの祭祀」であった事から、「弥生雛の御雛」は「天智天皇」とその妻の「越道郎女」を「女雛」に模写して擬人化した像を「箱雛」にしている。

    念の為に、但し、「雛」との呼称は、明治前後の呼称の様で、「御雛女雛」は「御祖様」(おしさま)と呼称していた様である。
    この「御祖様」は四家の中で使われる呼称で、「御師様(おしさま)」との違いは、「青木側」では「御師様」は呼ばれる側としてはあり得ず使わない。
    唯、「青木氏の神格」として、「社職の物事の発声方法」は古来より異なっていて、例えば、「あおき」の場合は「うぉーきぃ」と云う風に韻に籠って発声する“「韻法と云う発声」”を「古来の慣習」として祭祀に関する言葉には用いていた。
    つまり、「古代の神」に接する際の発声は、つまり、「神明神社の詔」等は、この「母音四音のアオウエ」と「父韻八韻のチイキミシリヒニ」の組合せで「子音三十二韻法」で言葉が作り上げられる「古代の発声法」である。
    主に「父韻」の後に「母音」を着ける発声が行われていたが、祭祀に関わる名等の場合はこの逆の発声にも成る。

    この「御祖様」は、「うおーしウさま」、或は、「うおーそオさま」と発声される事から、「おしウさま」か、又は、「おそオさま」に聞き取れたもので、「そ」>「し」で聞き取りに依っては「そ」<「し」に取れる事にも成っていた。

    (注釈 伊勢では、「祖」は「始の意」を持つ事から「そ」<「し」であった様である。
    恐らくは、「祖先神」の「御師様(おしさま)」があった事から、「字」の使い方で「始」では無く、「祖」を使っての発音は「韻法」で用いていたと考えられる。)

    従って、「御師様」とは呼称は異なっていた。
    「全国の青木氏」は、守護神を「祖先神」としている事から、この御師の頭で「神職の禰宜」であった事から、況や、これも「祭祀用語」であった事から、恐らくは、平安期には「うおーしウさま」と呼称されていた筈である。


    その箱雛の「御雛女雛」、即ち「御祖様(おしさま)」の二体に侍する「毘沙門天像」(「義経像」)であった事から、「毘沙門天像(仏像)」より「義経像」に似した「武者偶像人形」の方が「皇族賜姓臣下族」を表す意味からも正しい。

    従って、室町期に本来あった筈の「毘沙門天像二体(一体は信濃青木氏分の所蔵)」は、伊勢三乱の松阪焼失で無くし、江戸初期前後頃まで其の侭にし、上記の認識に依り「義経像モデル」の「武者偶像人形」に造り変えたとする説が理解できる。

    「雛人形」は、顔と姿が時代の変化を受けて異なっているので、その事からこの「義経像」に似した「武者偶像人形」は納得出来る。
    (江戸初期の福家が認識して変えた。)
    それから以後に、「三月祭り(弥生雛祭り)」と「五月祭り(五月雛祭り)」の「一つの祭祀に二つの催事」が、「四家とその一族郎党」と「血縁関係の伊勢郷士衆」等が執り行う“「二つの祝事」”の形に変化して行ったと考えられる。

    この時から「雛の呼称」が使われた可能性が有るが、「四家の福家」ではあくまでも「一つの祭祀に二つの催事」であった様である。
    「青木氏」に関わる全ての関係者を取りまとめる手段として利用したと考えられる。

    恐らくは、江戸初期頃は、その意味でも「厳しい環境」に置かれていた事が、上段でも論じている様に、「伊勢の結束」を優先したのであり、その為にも「祭祀の偶像」も替え、「祭祀目的」も緩め呼称までも変える戦術に出た。
    そして、「享保の改革」へと進む「戦略の筋道」を付けたと考えられる。
    江戸初期の事で前段でも論じた様に、「第23代の信定」とそれを支える「秀郷流青木氏」の「忠元」の働きがあったのだ。

    それには、上記の「三格式」は、上記した様に、最早、「武神」のみを以って良しとしたと考えられる。

    そもそも、「戎神」は「二足の草鞋策」の所以であって、「伊勢の紙屋」の範疇として割り切り、「青木氏の祭祀の目的」から除外して「伊勢の紙屋の祭祀目的」だけに切り換えたと考えられる。

    実は、何と、この「祭祀目的に切り換え」には手を打っているのである。
    それは、この時、「青木信定」は、この「切り換え」時に「稲荷神」を「伊勢の紙屋」に採用しているのである。

    この稲荷神の事は「伝統―5」で詳細を論じているが、その歴史的な一部を次ぎに重複させる。

    「稲荷信仰体」
    この「稲荷信仰体」は、自然の生活の中から生まれて来たもので、仏教の様に、概念の論理化された中での作法ものではない。
    依って、「3世紀の卑弥呼の時代」から既に存在して居たと筆者はみている。
    出雲から出た「弥生信仰の作法」では無く、それは「縄文信仰に近い作法」であるからだ。
    つまり、土壌から這い出て来た「庶民信仰」と云うか「農民信仰」があった。
    それは、「古代仏教」より少し前の古来より受け継がれて来た「古い信仰体」で、後に「伊勢神宮の外宮」の「豊受大御神」に影響をもたらし受け継がれてきた「民の信仰体」であるからだ。
    むしろ、この「古い信仰体」は時代性から観て、「豊受大御神」よりやや早い時期に発祥している。

    実は、この事に付いて書かれた「豊受大御神の定説」によれば、次ぎの様に成っている。

    「雄略天皇」の時に、天皇の夢に「天照大御神(内宮祭神)」が現れ、”「自分一人では食事が安らかにできない。”
    その夢の中で、”丹波国の「等由気大神(とようけのおおかみ)」を近くに呼び寄せるように”と神託した”とある。
    そこで、同年、”内宮に近い山田の地に「豊受大御神」を迎えた。”とある。
    つまり、現在の外宮である。

    そもそも、この説は”神代の時代の話”で「後付」の話である事は判る。
    ただ、ここで、矛盾が一つある。
    そもそも、伏見の神社系の「稲荷信仰」は、「豊宇気毘売命(とようけびめ)」等の五主神格としている。
    この「稲荷の豊宇気毘売命」と「稲荷の等由気大神」とは同神である。
    依って「等由気大神」を勧請したのであるから、「稲荷神」の方が先と成る。

    以上の様に、「稲荷信仰」は飛鳥期からの庶民の「農工商の営み」の神であり、大淀の地に生まれた何と「伊勢神宮の外宮」以前の神格なのである。
    この認識を持っていた「福家の信定」と「伊勢藤氏の忠元」は、「印−中」と経由して来た仏神の「毘沙門天の三神格」の「戎神」に代えて、“「日本古来」”の「皇祖神の子神」の「祖先神」と共に、「豊受大御神」の祖神の「豊宇気毘売命(とようけびめ)」を祭祀したと云う事に成る。

    上記で論じている様に、「信定と忠元」は「二つの青木氏の慣習」を統一して全てを“「日本古来」”と云う認識に立って、上記した「古式の習慣」の「青木氏の伝統」を思い切って切り換えて、「伊勢衆の結束」を図る事が必要だと考えた事に成る。


    以上、当時の「青木氏の歴史観」を深めた処で、話しを元に戻して、「江戸の伊勢屋」の「質に関する事」に戻る。

    「江戸の伊勢屋」は上記の様な「古式慣習の伝統」を持って江戸に臨み、「商業組合」を通じて“「職能部の質」”として普及させようとしたのである。
    それが上記する「箱雛の慣習」から「庶民の享保雛」へと作り直して華やかにして、簡単に作れる職業を普及させて、庶民に「質」を広める事に依りそこから生まれる「職」を「江戸の民」に与えたのである。
    あくまでも「青木氏の質」(仏施の質)であった。
    この「伊勢屋の質」は、「金融」のみならずむしろこの「質」に重点を置いていた。

    唯、ところが、これらの事が書かれた報告書の様な商業記録の“「伊勢の資料」”には、1731年頃には“「質業の利潤」“が生まれていたと云う風な行は不思議に無い。
    これは「江戸の伊勢屋の質」(「享保雛」等)に依って、「利潤の元」を作り出そうとして懸命に広げられたものである事が判る。
    本来であれば、「質素倹約」を旨とする「伊勢型商い」であれば、兎も角も「+」であろうが「−」の「利潤」であろうが、“書かれていない”と云う事は疑問である。

    つまり、これは当初から、この時期の「享保の改革」(改革期間は1716−1788年頃まで)の中程まで少なくとも「−利潤」を覚悟した営業であった事を物語るものでは無いかと考えられる。
    即ち、その意味で「質」は「享保の改革を成功させる先行投資」と考えられる。

    (注釈 前段で論じた様に、此処で云う「質」とは、現在の「質の意」では無く、中国の古代の仏教寺が行った「仏施の質」の語源にある。)

    本来は、「伊勢屋の質業」のこれは「江戸の商業組合」の「商い」を活発化させる為の「戦略的な手立て」であって、活発化させる事で「原資」は獲得できると考えていたのか、云える事は未だ「享保の改革」の中程では「投資的段階」であって、未だ「自発的活況」を得ていなかったと云う事であろう。

    (注釈 但し、上記した様に、「貿易」に依って「江戸の伊勢屋」の収支は取れていたと観られる。
    従って、「江戸の活況の収支」は、初期段階(1731年頃まで)は「先行投資」であったらしく、そこから次第に伸び始め1741年頃からの改革中期では「収支バランス」は取れ始めたと考えられる。
    それ以後は、活況(1741年−1765年頃)を呈した事はあらゆる資料からも判る。

    況や、「伊勢」から持ち込んだ「職能部の活躍」に依って「伊勢屋の質」が成功したことを示す。
    前段でも論じたが、「伊勢」から「商業組合」が江戸に移動する時、各種の「商人集団」は当然の事として、紀州伊勢の郷士衆の「職能部の集団の百余人」と記している資料を観て、この伊勢屋の数に一時不思議さを感じた。
    “「職能」を江戸に拡げる事”は良く判るが、然し、その意味で、“この何故この数なのか”と云う「不思議さ」を良く考察すると次ぎの資料の行が観られる。
    南勢の「青木氏の旧領地」の「郷士頭の家」で見つかった「取り纏めの依頼と説得の手紙」からその「本質」が読み取れる。

    「極貧の経済」から「江戸の経済」を高める「事の本質」は、突き詰めると「商人の活躍」と云うよりは、“「職能部の質」”にあると説いている。

    つまり、“「職能」をどの様に広めるか”、その“江戸の庶民に対しての広め方“に掛かっていると観ていた事を示すものであった。
    そもそも、「江戸の庶民」と云うものに対する評価を「紀州伊勢の者」等は、“異質で難しい”と受け取っていた証であろう。
    “どの様に難しいのか”と云う事であるが、紀州伊勢域の様に長い歴史の年月の中で、血縁や主従や同族や仲間などの「何らかの絆」で固く結ばれていて、「事を成す時」はその「絆」で成せる容易さがあるし、「事の成就」が比較的に容易であった。
    然し、「江戸」にはこれが無く比較的に「絆」は希薄である。

    むしろ「良し悪し」は別として、開幕に依って各地から集まって来た地域である事から“「個人性」が尊重される環境にある”と認識していた事であろう。
    「商いを広める」、或は、「自由な商業組合を広める」と云う面では、“逆に都合が良い環境である”と観ていた様である。
    ところが然し乍ら、“「職能」”と云う面では、「技能伝承の徒弟制度」の等の事があって、この「個人性の環境」では難しいと理解していたと云う事であろう。

    前段でも論じた「イロハの自由性を持つ商業組合」に於いてでさえもなかなか理解されず、「職能の広がり」には何らかの工夫が絶対的に必要と理解していた事である。

    其処に、前段でも論じた様に、「商い」には室町期からの「古い貸付売り」で、新しい「店舗販売」は遅れていたし、「職能」も全国から商品を仕入れてそれを売ると云う形態であった事から、希薄で「独自の殖産」の定着は無かった。
    享保前の江戸には、”「殖産に依る職能」”と云う概念は未だ広まっていなかった。

    何はともあれは、「商人」は享保の直前に「江戸十組問屋」等を形成している様に、「地方」、取り分け、関西や中国地域からの者であったとすると、必然的に課題は、「職能の伝達方法」である事に成り、「難しい課題」と成るは必定であった。
    然し、その「殖産の職能」を広めないと、「単なる商い」ではそれはそれで良いが、「江戸の享保の改革」ともなれば「組織的な職能の伝達方法の制度」を持ち込まなければ成し得ない。
    それも難しい「江戸庶民と云う曲者」を相手にする事である。

    そこで、考え出されたのが、「伊勢」で奈良期から「青木氏の浄土密教」が行っていた”「仏施の質」”にあり、これと連動させて「伊勢の殖産と興業」に用いていて、大いに成果を上げていた。
    この制度を「仏施」そのものでは無く、「商業組合の質」(伊勢屋の質)にする事にあると考えていたのである。

    (注釈 手紙は、その為には「伊勢の殖産の職能力」を落とさずに、「江戸庶民への広め方」を成し得るには「派遣する人材の選出」にあり、「数の事」もあるので「取り纏め」に付いて宜しく頼むと云う行であった。
    伊勢の各地の郷士頭に事前にこの旨の事を説得していたと考えられる。)

    上記した様に、この様に「古式豊かな伊勢の独特の慣習」が「享保の改革」に繋がっていたのである。

    注釈として、この為からもその前に「青木氏だけの慣習」、「伊勢紙屋の慣習」から脱皮して「伊勢衆」に理解される「二つの祭祀」、或は、「二つの祝事」に換える必要があった。
    「伊勢衆の結束」を図り「改革」に繋げて行くには、その「伊勢衆と云う集団」の「格式象徴物」が必要と成る。
    即ち、「伊勢衆の心の御旗」としたのが、上記した「大日如来像」「格式象徴物の擬人化偶像」と「武者偶像」の「三つの偶像」であったのであろう。

    この「享保期の頃」までは「商人」と云えども出自は、「郷士の武士」であり、取り分け、「伊勢」は奈良期からの「何らかの絆」で結ばれた数少ない「氏族に繋がる格式ある郷士衆」であって、他の地域の「姓族郷士」とは異なっていた。
    それだけに「三つの偶像」が、彼等には「伊勢衆の心の御旗」は絶対に必要であった。
    「伊勢商人」に成ったとしても、「職能部の頭」に成ったとしても、「伊勢郷士」であると云う「誇り」を忘れない為にも、自らの「三つの偶像」は必要であったのである。
    取り分け、「江戸」に出るともなれば尚更の事であったと考えられる。

    故に「江戸引き揚げ」の時も「商人」として残る事無く「伊勢」にきっぱりと引き上げているのである。

    前段でも論じた様に、「伊勢」では「庶民の出自」の「商人の出現」は、1750年頃以降の「小津屋」からである。
    他の地域の「姓族郷士の商人」は、1760年代と成ろうが、多くは1765年頃が殆どである。

    実は、上記の「南勢の郷士頭の手紙」の一節の行には、文脈を要約すると、“・・・我ら伊勢者の誇りとして「如来様」の下に「源六様(吉宗)」を支え申そうでは無いか。・・と訴えている。
    「伊勢」では、「頼方や吉宗」では無く、預けられた時の「源六の幼名」で呼ばれていた事が判る。

    以上の事から、次ぎの様な経緯の数式論が成立していた事に成る。
    最早、「伊勢文化の応用」に外ならない。

    「古式豊かな伊勢の独特の慣習」*「伊勢屋の質」=「享保の改革」
    「古式豊かな伊勢の独特の習慣」+「郷士衆の職能部」=「享保の庶民文化」

    以上の図式が描かれていると云っても過言では無い。

    この「伊勢屋の質」(伊勢屋の仏施」)についての初期段階の収支バランスを物語る明確な資料があったとは考えられるが、江戸より1781年頃に引き揚げた事もあって、「江戸の資料」は「伊勢」では流石に見つからない。

    では、“「自発的活況の状態」に入ったのは何時頃であったのか”と云うと、「江戸の伊勢屋の質」の「金融対策」で、活況が本格的に成ったのは、結局は,「土地を含む担保の質流れ売買禁止令」(農村と町方に出された二つの禁止令)の“「緩和策」”を打ち出された10年後の矢張り1741年頃であった事に成る。

    「資料の内容」から1731年頃より10年後と成り、改革開始から25年後と成る。
    「享保の改革」の開始の1716年から、改革が続けられた1788年まで72年間、上向き始めてから57年間、自発的活況が47年間、欠損期間は6年間、準備期間は2年間、計画立案期間は10年間、合わせて、82年間と成り、「商業組合の開始」からは182年間と成る。

    この「伊勢屋の質」の「中間報告の資料」から、「享保の経済」が上向き始めた時期(1731年頃)を見計らって、”今は「−利潤」ではあるが、必ず「質の屋」(金融業・コンサルタント)として成り立つ”との事の行の「報告内容」であったのである。

    現実に、「182年間」のこの「読み」は流石に当たっていたのである。

    “時代を大きく動かした”と云う点では、“「稀に見る氏」”であった事に成る。
    この事で、「青木氏の氏是」と「改革の戦略的理由」に依り「青木氏」を表には出さなかった。
    然し、現実には、江戸期中程には、「青木氏」が、最早、“「氏族」”としても“「稀に見る氏」”とも成っていた事にも成る。

    「大化期647年発祥からの使命」は、あくまでも持ち続け、「楮和紙の開発」から始まって「古式豊かな伊勢の独特の慣習」*「伊勢屋の質」=「享保の改革」で、遂に1731年には「商業組合」と云う「改革の花」を再び咲かせたのである。

    これまで上記した様に、「青木氏」は「新しい花」(和紙開発)を手掛けての連続であった。

    実に“可憐でシンプルな花”と云うイメージを持つ。
    「花と樹」で例えれば、云うまでも無く「象徴紋」にも成っている“「竜胆の花」”と「青木の樹」である。

    前段でも論じたが、この“「竜胆の花」の様であれ、「青木の樹」の様であれ“として「賜語」を遺し「賜姓」したのは「天智天皇」である。
    その「竜胆の花の印象」と「咲く環境の持つ印象」と「青木の樹の様な力強さ」が、「青木氏の氏是」とも成っているのである。
    「二つの青木氏」はこれを護り続けて来たのである。

    因みに、参考として、大化期から江戸期までの間には、次ぎの様な「改革」を成し遂げている。
    全てではないが、思いつくままに拾い出してみる。

    「自然神の継承」、「祖先神の創設と継承」、「神明社の創設と継承」、「浄土宗密教の創設と開始」、「侍の創設と開始」、「武家の創設と開始」、「国策氏の創設と開始」、「賜姓族の開始」、「氏族の開始」、「皇親族の開始」、「貿易の開始」、「総合商の開始」、「和紙、硯墨の開発」、「商業の開始」、「殖産・興業の開始」、「米・早場米の開発」、「養蚕の普及」、「紙加工の開発」、「商業組合の開始」、「徒弟制度の開始」、「暖簾分け制度の開始」、「質屋の創設と開始」、「職能部の開始」、「海陸の運輸業と護衛業の創設」等の全て「創始者」であった。

    (文化面で「青木氏の慣習や仕来りや掟」が世に出て催事に成った事等は、「伝統シリーズ」でその都度、機会に触れて記述しているがその数知れない。)

    この様に“「歴史に遺せる多くの大改革」”を成した。

    これら一々に独特の「青木氏の文化」が生まれ、それを「伊勢青木氏」等や「郷士の職能部」が其の文化を「庶民用」に改良して、「殖産」にして、「仏施の質」として世の中に出す。
    この行為を江戸で一機に咲かせたのである。
    その複合の「仏施の質」が「享保雛」であったと説いている。

    上記の様に、日本で最初に起こった「大火改新」で産まれた「青木氏」は、「二つの青木氏」の「命運」を掛けて「社会」の為に「江戸期の経済改革」の最後の「享保改革」(「リフレーション政策の創設」)に取り組んだのである。
    これは、何をか況や、「青木氏の氏是」と「家訓10訓」のベースにも成っている「青木氏の浄土宗密教」の「般若心経の教え」を護っていた事からの発起である。


    > 以下 「伝統シリーズー25」に続く。


      [No.341] Re:「青木氏の伝統 23」−「伊勢屋の引揚げ」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2016/06/01(Wed) 14:08:40  

    >伝統シリーズ22の末尾

    > 「殖産」を興してそれを「システム化」して「経済」に結び付けて「藩政」が潤っていたのに、これを抑え込んで仕舞った事から、この影響を受けた「下級武士」は、「飢え」に喘いで仕舞った。
    > その事から、田畑を耕し農業で産物を密かに売ると云う事で生き延びた。
    >
    > 「郷士の武士」も「仕官の武士」も「郷士」に真似て生きる事しか無く成り同じに成って仕舞った。
    > むしろ、「殖産」を興した「郷士の方」が遥かに潤っていた事が記録されている。
    >
    > そして、今度は、享保期の「質流地禁止令」では、対象者が「仕官している下級武士」であった事から、幕府としては充分な対応は出来なくなっていたのである。
    >
    > ところが、「武士の農産物等の販売」には、各職能の「組合の壁」と云うものがあって、「自由」が利かず、結局、「農民の寄合」に入れて貰う等の事や、「農民の名義」を借りる等の事で対応した。
    >
    > 「幕府」のこの逆に跳ね返って来た思いも依らぬ「失政」に付いて、「藩」もただ観て見ぬ振りして黙認するのみであった。
    > しかし、「紀州藩」の様に密かに裏で奨励した藩もあった位であった。
    >
    > この事から、「職能から販売までの商業組合」も「寄合組織」に変更して、自らも救い、地域の「下級武士や農民」らも救う事で「絆を基本とする寄合組織」に変更して生き延びた。
    >
    > 唯、この「寄合組織」では「発展」は望めないが「維持」は可能であった。
    > それには、上記の「新−1から9までの副効果」までは幕府は潰しに掛かれなかった。
    > 「新−2、3、5、7、9」は流石に「株権」を保障の前提としていた事もあって低迷した。
    >
    > 所謂、「新−1から9」の基本に成った幾つかの制度と組み合わせた「親商法」が、享保―宝暦―明和時代に掛けて「伊勢の紙屋」と「江戸の伊勢屋」の「青木氏」が興した「商業組合」の「新しい改革商法」(1716年から1788年まで)へと繋がったのである。
    >
    > この経緯は、「伊勢の紙屋」が「伊勢の商業組合」を興してからは明和期(1788年頃)までの「185年間の悪戦苦闘の歴史」に成る。
    >
    > これ等の事は、「青木氏」だけの「重要な知っておくべき青木氏の歴史観」である。



    「伝統シリーズ」−23に続く

    唯、「青木氏の歴史観」として、更にここで追記して置きたいことがある。
    それは1765年以降には、「商業組合」に入らない上記の「新しい改革商法」の先導者の一つ“「伊勢商人」(「松阪商人」とは別に)”と呼ばれる豪商が他にも出た。

    この「豪商」に伸し上がった者等は「伊勢の商業組合」に加入していなかったのである。
    そして、「享保の改革」が成功した1765年頃を境に江戸に出て、要するに上記の1から9の「新しい改革商法」に参入して成功を納めた者等である。

    従って、この何人かの「豪商等」に付いても、「商業組合との絡み」と「青木氏との絡み」で論じたかったが、下記に考察する様に、この「豪商等」が主張する系譜や由来等の「歴史観」が史実と全く一致しないので中止した。

    是非に、取り分け前段の“「江戸の商業組合」の「新しい改革商法」”との「絡み」が在る事から是非に論じたかったが、無理に論じると「史実との矛盾」が生まれる事に成るので割愛したものである。
    取りあえずは概要を触れて置く事とする。

    そもそも、「伊勢」は室町期末期には、前段でも論じた様に、「近江の秀郷流藤原氏の蒲生氏郷」が治めた。
    「近江」は「蒲生氏郷の出自郷」であった事から、「近江から商人」を伊勢に呼び集めたが、この内、「豪商」と成り得た者等は、多くは「藤原氏末裔」を先祖と名乗っている。
    然し、その根拠は全く無い。
    端的に云えば、「蒲生氏郷」に呼び集められた事から、それをネタに家系を良く見せる為に「藤原氏末裔」としたと観られる。
    そこで、彼等の「先祖の移動」に付いて調べて観たが、大方は次ぎの様な筋書きに従っている。
    共通する「近江商人の移動経路」
    『近江0−松阪0』−『京1』―『近江1』―『松阪1』―『江戸1』―『松阪2』−『京2』−『松阪3』−『江戸2』−『名古屋・京3』

    これを観ると、何故か「京と松阪と江戸」を繰り返して移動している。
    先ず、『京1』に付いては、「近江0」で「蒲生氏郷」に「松阪0」に招かれた後、「氏郷」が移封と成った後に、一度、「京」に出ている。
    この事は歴史的に意味を持っていて重要である。
    伊勢にある幾つかの「郷土の史」の記録に依れば、この「京」の記録の部分は無く、彼等の「系譜上」からの記録だけである。
    其処の「京」から、更に元の「近江」に戻って、再び「松阪1」に戻っている。
    この『京1』―『近江1』―『松阪1』が、先ず、「共通の系譜」と「郷土の史」と異なっている点である。

    さて、注釈として此処に「筆者の疑問点」があって、下記に“「作為的な出来事」があった”としている「着眼点」である。

    概して、以上として移動しているが、「近江から松阪」に当初は、系譜が主張する“「武士」”では無く間違いなく、“「商人」”として移動しているのである事から、ところが、何故か、「青木氏の商記録の年譜」には出て来ないと云う疑問点なのである。
    『京1』―『近江1』―『松阪1』の移動の事と、「商記録年譜」に出て来ない事の「二つの事」から租借すると“「作為的なある出来事」“が浮かび上がる。

    仮に主張する“「造られた由来書」”の通りとすると、「二つの青木氏」の何れかの記録には出て来なければならないが不思議に出て来ない。
    「伊勢の青木氏」、或は「伊勢の紙屋」のミスに依るものかは調べたがそうでもないらしい。
    何か、伊勢紀州の関係する全域に遺資料や口伝や逸話らしきものがあるかと観て調べたが何故か確証するものは無い。

    そこで、取り分け、“「大名格の武士」”であったとしている「豪商」等の事に付いては、もしそうであるとすると、「伊勢の歴史の記録」の中にも出て来る筈であるが無い。
    これらの「豪商系譜」に依れば、だとすると、殆どは「藤原秀郷流青木氏」との関わりは“「親族」”に当たる事に成るがその記録は無い。
    「主張する内容」であれば、「伊勢藤氏」(青木氏、伊藤氏、長嶋氏、藤原氏の四氏)の中にも出て来なければならないし、室町期末期には「松阪の高級武士」であったとすれば、後に一族の者が「紀州藩」に抱えられていた可能性が高い筈なのに全くそうでは無い。
    この「伊勢の史実」の「青木氏の歴史観」が完全に無視されている。

    その中の「筆頭と見做される豪商の系譜」では、「親政族の伊勢青木氏」とも、「伊勢藤原氏との縁籍」とも主張している。
    とすると、これまた「伊勢」に江戸期まで居るのであれば、「付き合い」は無い事は絶対に無い。
    又、「伊勢の動乱」の時は、室町幕府の「主要な家臣」であったとしている事は、前段までに論じた「松阪の経緯」には全く合わない。
    且つ、「藤原氏」と「源氏族」の“「二つの賜姓族」の「氏族の出自」を主張した系譜を持つ“としながらも、「商人」でもあったのであるから「二足の草鞋策」を採った以上は、その出自は「朝廷承認」に依る“「氏族」”で無ければならないが、記録には出て来ない。
    況して、“態々、何で格式の低い方の「姓族名」にしたのか“と云うのも「青木氏の歴史観」に全く合わない。
    むしろ、「姓名」は江戸初期前後の当時の「格式を求める社会慣習」から逆であった筈である。
    当時の高位族の「慣習仕来り掟」に合致しない主張である。

    更には、ある「豪商」の家の「家紋」が“「目結紋」”等としていて、“「近江佐々木氏族」と同じと主張している事”に付いて、主張の“「公家貴族の藤原氏(近江族)」で在る“としながらも、一方で”「賜姓族の源氏」(清和源氏 河内族)と主張する“共通する不思議さも目立つ。
    そんな「二つの青木氏」以外に「完全皇族賜姓の氏族の系譜」は、この「伊勢地域」には他にあり得るのか。
    然し、名は完全な「姓名」であり、上記の様に系譜では「氏族」だとすると、豪族の「伊勢郷氏」だったと成って仕舞っているのである。
    考え着くのは、「北畠氏」ではあるが有名な歴史上の「室町期の氏族名」である。

    だとすると、「清和源氏」の「家紋」が「象徴紋」の分類では無い「目結紋」とはおかしいし、貴族の斎蔵族が「目結紋」は全くあり得えず理解できない。

    そして、その宗派が「真宗」であるとしているが、この「二つの氏族」とするならば「浄土宗」か少なくとも「天台宗」である筈である。
    「宗派」も「家紋」も「格式」も何もかも「慣習仕来り掟」に合致しないし、門徒系の「真宗」は前段でも論じた様に明治初期であり、「時代性」が全く一致していない。
    この様に「家紋と格式と宗派」等が一致しないし、「時代性」も一致しない。
    この経緯から“「真宗」”としている事から、幕末か明治初期の「後付系譜」に成る。

    そもそも、「近江佐々木氏」は、大化期の「伊勢の施基皇子」の弟の「近江の川島皇子」の「近江の賜姓族」であるので、「象徴紋」(賜姓紋)である以上は変紋をしない「笹竜胆紋」の筈である。
    なのに「目結紋等の佐々木氏」は、「不詳の傍系支流族」(江戸期の氏姓譜の史書にある第三佐々木氏)の「家紋」となる事にも無理がある。

    何にしても“「河内族」”であるとしていながら“「近江族」”と云うのも「歴史観」が理解できない程に矛盾だらけである。
    又、「氏族と姓族の混同」が系譜で混在しているが、この「族の違い」の「歴史観の認識」が無かった事に成る。
    「武士」として存在して居たのは、全て室町期中期から発祥した「姓族」のみであると認識していた事に成る。

    これでは、“一体どうなっているのか”と云う疑問が湧き、江戸期中期頃から明治初期までに流行った「寄せ集めの後付系譜」の“「総花説」”に成っている事には「解決し得ない矛盾」が多いのも事実である。

    これは、後に“「氏郷に伊勢に招かれた商人者」“であるとして、1765年以降頃に「豪商」に成った暁に、その流れを汲む一族一門で有るかの様に「蒲生氏郷一門の系譜」に肖り無理に真似たとも観られる。

    (注釈 伊勢に同伴した「家臣の二足の草鞋策」か「近江商人」か。「氏郷」は源氏の血筋を母方に持つ「藤原秀郷一門の近江藤原氏」である。)

    何はともあれ、「時期」は同じなので「伊勢」を「商業組合」で仕切っていた「青木氏の資料」の中には出て来ないのは何よりの不思議である。

    (注釈 「伊勢紀州」は、取り分け伊勢松阪域は、前段でも論じている様に、そもそも「奈良の古来」より「悠久の歴史と絆」で深く結ばれた“「特殊な地域」”であり、上記の様な他の地域で起こる様な搾取の出自で飾る事の事態が難しい地域であった。
    この地域は農民の末端まで知り尽くした“戸籍簿の様な地域”であった。
    “何処の誰かわからない”と云う風な理屈が通る「場所柄」では全く無かったのである。
    搾取偏纂するのであれば、江戸では通ずるかもしれない感覚で「歴史観の無視」で作られたものである事は一目瞭然で判る。)

    何れにしても「近江から来た者」としても、少なくとも、最低で「伊勢の商業組合」の中には出て来ても良いと思うが無い。

    この事に付いて筆者は、豪商等の「類似する系譜論」から観て、何かこの時にこの様にしなければ成らない“「作為的な出来事」があった“のではないかとも観ているのである。

    では、その“「作為的な出来事」があった“とするのは何なのかである。
    「上記の矛盾」を背景に、「京1」−「近江1」−「松阪1」の移動の事と、「商記録年譜」に出て来ない事の「二つの事」を解決でき得る「筋書き」は唯一つである。


    「青木氏の資料」と「史実」と突き合わせて考察すると、江戸期末期に成った「豪商」等は、次ぎの様に成る。
    そもそも、「蒲生氏郷」は、「近江日野城主」、次に「伊勢松阪城主」、最後に「陸奥黒川城主」(「会津鶴ヶ城主」42−92万石)で移封する事に成った。
    この時、「伊勢の松阪城主」の時に、「近江」より”「日野の商人」”を確かに呼び寄せた。
    そして、「陸奥の黒川城主」(会津鶴ヶ城主)に成った時に、この”「日野の商人」”と”「松阪の商人」”を引き連れて、或は「会津」に呼び寄せて「楽市楽座」を開設した事が有名で間違いなく記録されている史実である。

    つまり、この事から、「松阪」に呼び寄せられた「近江の商人」は、その後、二派に分かれた事を意味する。
    一つは、「氏郷」に従って「会津に移動した派」(会津派)と、二つは、「京」に移動し後に「近江日野に戻った商人の派」(日野派)があった事に成る。

    問題は、この「近江日野に戻った商人」(日野派)が、「陸奥会津」に移動した可能性と、又、「伊勢松阪」(松阪派)に戻った可能性が有る事に成る。

    筆者の検証では、次ぎの様に検証している。
    直接、松阪から「氏郷の移封」に従って「会津」に移動したのでは無く、一端「京」に移動した後に「近江日野」に移動し、その後に、「会津に移動した派」(会津派)と「伊勢松阪に移動した派」(松阪派)に成ったと考えている。
    つまり、「日野派」=「会津派」であって、これと「松阪派」の二派に別れた事に成る。

    ・1568年前の頃に「蒲生氏郷の政策」で「近江」より「商人」を呼び寄せて「伊勢」に移動させて「座の開設」をした。(実際は1588年)
    ・1590年過ぎ頃に「蒲生氏郷の移封」で一度「京」を経由して「近江日野に戻った商人」(日野派)を「会津」に呼び寄せて「楽市楽座」を開設した。(実際は1592年)
    ・1620年前頃(頼宣入城の頃)には、「松阪派」は「伊勢の松阪」で「松阪の楽市楽座」で「木綿等の加工品販売の小商い」をした。(実際は1630年)
    ・1635年前後頃に「江戸」に現在で云うと「小売業の店」を開いた模様とする。(実際は1675年頃)
    然し、この時の開幕後の初期の江戸移動では失敗して「松阪」に戻る。
    ・1765年頃に再び「江戸」に出て「新副効果1−9」に参加してこの商法で「伊勢の殖産」の「木綿や酒」等を販売して大成功を納めてここで初めて「豪商」と成る。

    (注釈 重複 前段末尾に論じた「江戸商業組合の新副効果」を見計らって参加(1765年頃)したのである。
    新−1 “「店舗販売」”が起こる。
    新−2 “「御師制度の徒弟制度」”が起こる。
    新−3 “「暖簾分け制度」”が起こる。
    新−4 “「関連店舗の連携店」”が起こる。
    新−5 “「チェーンストア」”が生まれる。
    新−6 “「バーゲンセール商法」”が起こる。
    新−7 “「金銭を融通するシステム」”として「金融業の質屋制度」が起こる。
    新−8 “「三貨制度」の「貨幣経済」”が進んだ。
    新−9 “「商品の開発」”の機運が進んだ。
    「享保の改革」の成功の「新副効果」に乗じて江戸に出て成功した豪商達である。)

    (注釈 この時期は江戸の初期頃で、この様な商法は江戸では許されなかったし、そもそも無かった。それ故に、この「新副効果」に依って成功して「豪商」と成り得たとすると、その系譜は
    “累々の系譜で作り上げた”と云うよりは、「極めて低質な周囲の者」等の相当の後の時代の時期の「後付行為」では無いかと観られる。
    当時は「搾取の系譜」は「金のある者」が専門の「寺や神社等に頼み込んで作っていた為にこの様な余りの「ずれ込み」は無かった筈である。)

    この説も「時代のずれ」があり、系譜に無理に合わしたと観られる。
    現実には江戸での移動で成功を納めて豪商と成り得て、世間に知れ渡ったのは少なくとも1765年頃以降の事である。
    その知れ渡った原因は、「上記の新副効果」に参加して“「換わった商法」で成功を納めた”とする事にあった。

    とすると、上記の「系譜の事」は兎も角も、此処で“ある史実との整合性”を検証する必要がある。
    それは、“「吉宗と継友」の「経済論争」”の時(1720年−1745年)の事である。
    これには、彼等(「1765年豪商」とする)は、「継友側の経済論」に味方して「名古屋と京に商店」を出して移動したとする説が、系譜上では「有名な史実」として捉えられてこれが「一般説」に成っているのである。
    然し、もし、この「有名な史実の一般説」が事実だとすると、「吉宗と継友」の「経済論争」時(1720年−1745年)には、既に江戸で成功して「豪商」であった事に成る。
    未だ、「吉宗の享保の改革」を始めた頃には、既に「豪商」であった事に成る。
    つまり、そうすると「享保前」(1716年)には「伊勢の豪商」であった事に成るので、「伊勢豪商」に成るには「何かの商い」に成功して財を成してそれから最低でも15年から20年は必要である。
    とすると、逆算して既に1700年頃には「相当な商人」であって、江戸初期の頃(1665年頃)に既に「近江の商人」では無く、「一般説」が云う「伊勢商人」と成っていた事に成る。

    つまり、「蒲生氏郷」が「近江」より「近江商人」を呼び寄せてから「70年後の頃」には「伊勢商人」であった事に成る。
    然し、そうすると、この「70年後の頃」には、上記の「共通する近江商人の移動経路」の時系列では次ぎの様に成る。
    『近江0−松阪0』−『京1』−『近江2』−『松阪1』−『江戸1』−『松阪2』−『京2』−『松阪3』−『江戸2』−『名古屋・京3』

    『近江0−松阪0』 =1568年頃
    『京1』−『近江1』−『松阪1』=1595年頃
    『江戸1』=1615年頃
    『松阪2』=1635年頃
    『京2』−『松阪3』=1710年頃
    『江戸2』=1765年頃
    『名古屋・京3』=1775年頃

    「享保の改革」の開始は1716年頃とすると、「吉宗と継友の経済論争」中に「名古屋出店」と、その後の「京出店」と成ると、『松阪1』=1590年頃か、『江戸1』=1615年頃に成る。
    この時、「江戸」より「名古屋出店」と成っているので、『江戸1』=1615年頃と成り、この時は未だ論争前の事で「享保改革の100年前」と云う事に成り、時代性が明らかに一致しない。
    少なくとも「名古屋出店」が成し得るには、『名古屋・京3』=1775年頃しか無く、それでも時代的に少なくとも“+120年位以上のずれ”が出る。
    「松阪派の系譜」と「時系列」と「一般説」には修正出来ない「大きなずれ」がある。

    「松阪派の系譜」の『京1』−『近江1』−『松阪1』=1595年頃に付いては恐らくは信憑性があり正しいと考えられる。
    それは、「氏郷」に近江より呼ばれ、「氏郷移封」(1590年)で陸奥に移動する事に成った事で、彼等は「松阪」に居づらく成ったと考えられる。
    それは、前段でも論じた様に、当然に地元には大和で最初と見做される「和紙の開発と殖産と販売」を職務として担った「商人の祖」でもあって、平安期には「宋貿易」まで手掛けた「青木氏等の松阪商人」でもあって、厳然として奈良期からの「悠久の歴史」を以って「商い」を納めて来ていたのである。
    況してや、「伊勢秀郷流青木氏」で「藤原秀郷の末裔」の「蒲生左衛門太夫高郷」の末裔であり、この「高郷」は「氏郷の曾祖父」に当たり、この高郷末男が「青木玄蕃允梵純」であり血縁先の親族でもある。

    そもそも、そこに、「氏郷」は「近江」から、態々、「近江の商人」(1588年)を招いたのである。
    この“「松阪」“と云う「特殊な環境」に“「商人」を招いた“とする事が問題視とされる。
    上記の様に、「招いた事」は事実でありながらも、又、これだけの関係に在りながらも、「記録」がそもそも遺されていない事はそれだけに「あまり良い関係」には無かった事を物語るものと見做される。
    「1600以降の商業組合」にも参加していないのである事から少なくとも良い関係にあったとは言い難い。
    そうなれば、「招かれた近江の商人」は「氏郷を頼り」に「商い」を広めていた事に成り、とすれば、「近江派」と「松阪派」の「派閥に近い勢力圏」が出来ていた筈で、「青木氏」が勢力圏を作らなくても「近江派」の“「彼ら」“が、それに応じて「松阪派」の“「周囲」“が作って仕舞う「事の流れ」と成るだろう。
    1568年(1588年 +20年)から1590年ではあるが、「商人を招いた時」からは22年、その前の「伊勢三乱」からの関係を加えると30年、「秀郷流伊勢青木氏玄審」の頃からの関係で「氏郷」が認知していた頃からでは60年と成るので、“「派閥に近い勢力圏」”が充分に出来ていた事に成る。

    (注釈 「松阪在留期間22年」としながらも充分に在り得る筈であるが、「招かれた近江の商人」との血縁関係を示す物さえも出て来ない。格式差からか判らないが不思議である。)

    そうなれば“「頼りの氏郷」”が移封で「松阪」に居なくなるとすると、“近江に戻るか”、“氏郷に同行するか”、“松阪に残留するか”の選択が迫られる事と成る事は必定だろう。

    「上記の系譜」で論じた様に、“「近江の商人との記録」が無い“ところを見ると、「松阪残留組」は無かった事を物語る事に成る。
    「系譜の主張」の「近江帰参組」と、記録が示す「氏郷同行組」に成った事に成る。
    「京」から「近江」までの経過は、「氏郷」が会津に城郭を決めて「楽市楽座の縄張り準備」が整うまでの「経過期間」と成るだろう。

    結局は、「1590年の移封」からの「会津鶴ヶ城(黒川城の改名)」の増改築開始1592年の第一期完成3年間であって1595年、第二期工事までは1611年完で21年間である。
    (徳川政権確立1615年の前の1611年には意味を持っている。)
    「楽市楽座の縄張り準備」が整うまでには、最低で「3年」で最大でも「5年」は要するであろう。
    従って、直ぐに呼び寄せられる状況では無かった事が判る。
    これが『京1』−『近江1』の「経過期間」と見做されるが、従って、『京1』−『近江1』−『会津』=1595年頃から1597年頃と云う経緯が成立する。
    (移封後の「氏郷没」の「会津の蒲生氏」は、「お家騒動」で結局は転封した1598年までと成る。)

    場合に依っては、呼び寄せられる期間としては、完全に「徳川氏の勢力下」に傾くまでのものとしては、『京1』−『近江1』−『会津』=1598年頃と云う「経過期間 最大8年」までも成立する状況下にあったとは考えられない。
    「蒲生氏の氏神」の「近江の若松森」に因んで「若松」と名付け「松阪」と同じく「商業に依る城郭」としたのだが、この事から、「松阪の近江の商人」は、大半は一時「近江」に戻ったと観られ、松阪からの「氏郷同行組」は「伊達氏」を排除しての上記の築城状況から観て無かったと観られる。

    「氏郷の移封の目的」は、「広域陸奥の警戒」と「伊達氏の警戒」にあって、「築城」が完成するまでの期間は危険であった筈で、「秀吉」もこの時の状況を「氏郷」に諭す様に現地で語っている位である。
    「氏郷の現地の記録」には、「近江」は勿論の事、“「松阪」からも呼び寄せた“と記されているのだが、「松阪の彼等の系譜」では、上記した様に、『京1』−『近江1』−『松阪1』の行から
    この「近江」には、新たに「近江」から「会津」に呼び寄せた「近江商人0」と、『京1』−『近江1』の「近江商人1」があって、“「松阪」からも呼び寄せた“の「松阪」は「近江商人1」を指している事に成る。
    そして、『京1』−『近江1』の「近江商人1」の全てが「会津」に行かず、一部再び「松阪」に戻った組があった事を指す事に成る。
    「松阪」に戻った組が更に「会津」に出向いたとする考え方は、「松阪の彼等の系譜」の何れの中にも「会津の氏郷との行」には一切観られないし、次ぎの理由でも証明できる。

    前段で論じた様に、1600年以降の松阪は商業組合を結成して頼宣入城の1619年には一応の成功を納め15地域に拡大していた時期でもあった。
    この「商業組合」を観た「松阪派の系譜」の『京1』−『近江1』−『松阪1』=1595年頃は、「松阪」に再び戻ったのであり、一方では「会津」での新たな「楽市楽座」に期待して『京1』−『近江1』−『会津』=1595年頃に移動したと云う事に成ったのである。

    この「江戸出店の商業組合」に入らなかったこの「松阪派の豪商」等は、その後に力を貯めて江戸での新副効果に期待して、再び、現実には1765年頃以降に江戸に出店したのである。
    “+120年位以上のずれ”は、この豪商(「1765年豪商」)等の「搾取の系譜」に合わせて、“「史実」までを「系譜」に合わせた“と成っている事に成る。
    そこで、この「一般説」が“「史実」までを「系譜」に合わせた事”と成っているが、それにしても”何かそれに見合うもの“が無ければならない。
    「間違い」を起こしたのか、「恣意的」に設えたのかは判らないが何かあった筈である。
    つまり、1716年から1720年頃に都合のよい何かがあったのではないかと云う事に成る。
    この時、既にそれなりに「店を大きく構えられる商人」であった事に成るので、時代的には「1700年の頃の商人」と成る。
    「豪商」とまでは行かなくとも利用できる業績を上げていた「商人連」が居た事に成る。
    そうなれば、この元禄の政治と経済が極貧の状態で、江戸に出て来ていた豪商らは輸送費の低減と、江戸の薄利多売の過当競争を避けて、組合を創って「利益の確保」に躍起と成っていた。
    そこで「荷積主」等は、経費の大半を占める輸送の統一化を図る為に“「江戸十組問屋」(1694年)”と呼ばれる「関西商人の積荷主の組合い」(10商家)が結成された。

    それが次ぎの商人である。
    泉屋平右衛門、大阪屋伊兵衛、小津屋清左衛門(小津氏)
    桝屋源之助,井筒屋善治郎,大坂屋孫八,駿河屋長兵衛。絹川屋茂兵衛。三河屋長九郎,山崎屋勘兵衛,池田屋喜右衛門,笹屋豊次郎、岩出屋惣兵衛、井筒屋伝右衛門,枡屋喜右衛門
    次ぎの組である
    塗物店組(塗物類),内店組(絹布・太物・繰綿・小間物・雛人形)
    通町組(小間物・太物・荒物・塗物・打物),薬種店組(薬種類),釘店組(釘・鉄・鍋物類)
    綿店組(綿),表店組(畳表・青筵,河岸組(水油・繰綿)
    紙店組(紙・蝋燭),酒店組(酒類)

    他に、この時期に活動した商人
    紀伊国屋、讃岐屋、越後屋、長谷川 長井
    (注釈 この時「浅野家の問題」が勃発した。)

    ところが、これに対抗して、前段で論じた政治と経済低迷の中で「元禄期の廻船問屋の商人」等は、経済低迷で「積荷の競合」に依る倒産を避ける為に、廻船問屋の大阪と江戸に「廻船二十四組」と呼称される「廻船問屋の組合」が組織された。
    然し、この「廻船問屋の組合」は「享保の改革」までには10問屋に激減していたのである。

    そもそも、「享保の改革」の直前までは各の如しで「極貧経済」で、そもそも「名古屋」に店を構える等の事の余裕は無く不可能な事であった。
    「極貧の経済」であったから、この様な組を作って当面の利益を確保して「競合倒産」を避けたのである。
    遠隔地に出店が可能とするほぼこれが江戸の当時の「豪商」と呼ばれる者等であった。

    そこで、このリストから仮に「一般説」に該当する商人と成れば、「伊勢と江戸と綿・酒・紙」をキーワードとすると、「小津屋清左衛門」だけと云う事に成る。
    この「小津屋清左衛門」のある系譜に依れば、「北畠家の媒臣」で北畠滅亡後、江戸に出て1653年頃に大伝馬町に「商い」を営み、伊勢の和紙と繰綿業で利益を挙げ豪商と成ったとある。

    (注釈 この説は、1658年に伊勢松阪本町に住んだとする記録と矛盾する。)

    一方の系譜では、松阪の近郊の小津村から「油屋源右衛門」という商人が松阪に移り住んで、小津姓を名乗って、 一族の者の中で「小津」を家名とする人が多く出たといわれている資料説もあるので、1765年代後と成る。
    この説によれば、この「小津姓」を名乗った「初代の油屋源右衛門」より店子であった「清左衛門」は融通を受け、「商い」を始め1658年に衣料店を本町に構え、その後の44年後の1711年頃に「商い」の為に江戸に出たとしている。
    その後に「商い」は「店前商法」で成功を納め、1755年に「紀州藩御用達」と成り、「15人扶持」を与えられる。
    この時、「初代清左衛門」より四代目である。

    「小津村」の町人の「油屋源右衛門」が最初に名乗り、その後の誼で清左衛門が小津姓を引き継ぎ名乗ったと成っていて、その出自が矛盾なく記述されている。
    そうすると、先ず町人の身分で「小津姓」を名乗れるには、つまり、町人が「苗字帯刀」(15人扶持米)を許されるには、「紀州藩御用達」(1755年)の後に許される事(或は明治初期)に成った後の事と成るので、「北畠家媒臣説」の1716年代の江戸の「小津清左衛門」の呼称は時期的にずれて早すぎて矛盾する事に成る。
    この段階では「小津屋清左衛門」が正しいのであって、時代的には「小津姓」は「清左衛門」の四代目後(1756年)が名乗れる姓であった事に成る。
    従って、「商人」として成功を納めた時期が1755年前後と成り、1716年代には未だ豪商とは成っていない。

    (注釈 この説では「一戸の商人」に成るまでの経緯に付いて謙虚に苦労した経緯が書かれていて、「由来」には通所に観られる「歴史観の誇張」が無い。)

    「本説の町人説」は時代性と出所を明確にしているが、「北畠家媒臣説」は時代性等の根拠は薄く疑問である。
    「町人説」では、「紀州藩 江戸御用達」と成った時の事と、紀州藩に依って「豪商」に成れた事が詳しく書かれていて、「享保の改革」後の1760年代後半に「商人」としてやっと成功を納めたが、紀州藩の度重なる「御用達の御用金拠出」には大店が成り立たない程に相当無理をしたと如実に書かれている。
    唯、“「紀州藩の御用商人」として「大商い」が出来て、「商人」として成功したとして感謝している”としている。
    この恩に報いる為にも「御用金」を無理して出したとした記述も観える。


    つまり、「近江派」や「松阪派」では無い「松阪商人」は出店可能な「小津屋」であり、矢張り、この「小津屋」も享保後であり、「近江の商人」の「松阪派」が江戸に出た1765年頃とほぼ一致する。
    従って、この「松阪出自の小津屋」も「名古屋出店」は「物理的」に起こり得ない事に成る。
    記述から観ても、仮に時代性が一致したとしても世話に成ったとしている以上は紀州藩を裏切って、論争中の尾張藩の名古屋に出店する事は先ず無いだろう。

    上記の「近江派」の「松阪派」に属していたとする「江戸の越後屋」では「時代性の疑問」があって論じ難いが、「1673年出店」で「店前売り・掛け値なし定価売り」の商法で成功している事から、成功時期を明確にしていないが、上記の「新副効果1−9」に依って成功しているので、この新商法が生まれたのは1760年代と成り、この後に「新副効果1−9」の「商業組合方式」に習って、「京」にあくまでも衣料呉服の“「仕入れ店」“を設けたのであって「販売店」ではなかった。
    従って、「一般説」が強調する「吉宗−継友論争期」の「名古屋出店」は、「越後屋も含めての「近江の松阪派」では起こり得ないのである。

    「伊勢」では資料からの読み取りでは、「伊勢商人」や「射和商人」としての「扱い」では良ければ何か出て来る筈であるが、「郷士の家に遺る手紙資料」等に依れば、「松阪派」は、“人の評判は確かに悪かった様”(「付き合い」が少ない。)で何も出て来ないのである。
    又、何処かで「青木氏の商記録」と「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢藤氏」の資料の中にも出て来なければならないが出て来ない所以である。

    “「作為的な出来事」”があった事と、「資料との突き合せ」が出来ない事のこの二つに付いて、これは一体、何故なのかであると云う疑問点の結論は、「松阪の商業組合」と「会津の楽市楽座」が共に興った事に依り、それに合わせての「出来事」と云う事に成る。

    そこで、唯、一つ気に成る事が「郷士の家」の「手紙の資料」等の中にあって、「射和地区」の「射和商人」としての“「伊勢郷士衆」の「扱い」”で、「・・・郷士三井殿・・・」の表現で「郷士の姓名」が1件出て来る。
    これとの確実な相関関係が取れないが、要するに、「近江人か伊勢人の出自なのかの判別」で「答え」は決まるが、これでは「近江人」としながらも「伊勢人の出自」と成っている。
    そして「伊勢人の出自」では、その文面の行から「伊勢の松阪郷士衆」と成ると、下記の様に資料的にはっきりしている「伊勢郷士衆 20(18→11)衆」に、文面が正しいとすればこの「新たな郷士」が一つ加わる事に成り、「青木氏の記録」とも一致して来ない事に成る。

    (注釈 「伊勢の出自」では、“訳が判らない”と云う事は、「不入不倫の権」で護られていて「変わらない悠久の歴史」を以っている為に先ず無い。)

    「幾つかの説」で公に主張されている「豪商等の由来書」と成るものは、“果たして真実か“の疑問が湧くが、上記の様にそれも余りの矛盾で確認が出来ない。

    従って、次ぎに考えられ事としては、「伊勢の松阪郷士衆」で無ければ、「射和商人の郷士」と成るが、この多くは「松阪の郷士頭」の中での「差配事」であるのでこの説は無理と成る。

    そうすると残るは、その中でも「射和商人」に加わった“「門徒衆」”と云う事に成る。
    “「射和商人」に加わった「門徒衆」”と成れば、前段で論じた様に、「室町期以前の歴史」では、「論理的矛盾」が土台的に在り過ぎて無理である。
    然し、「江戸期初期からの歴史」では、上記した様に後に「豪商」と成り得た事は事実であるので「江戸期の遍歴」はほぼあり得るが、主張する「時代性」だけではとも多少のズレがあってもほぼ一致して来るが系譜姓を絡めると大きく差が出て仕舞う事に成る。
    そこで、彼らがこの「江戸期初期からの歴史」での「射和商人」に加わった“「門徒衆」”とすれば、「射和の・・郷士三井殿・・・」も「時代性と系譜姓」での「歴史観」からある程度で納得出来る。
    つまり、前段で論じた様に、系譜姓を無視すれば「射和商人と成った門徒衆」が、“「射和の郷士」に加えられる事と成った”としている事で一致させられる。
    そこで、では果たして“「彼の頑な門徒衆」“に正式に加えられたかは別である。
    この“加えられる”と云う事が、“一緒に仕事をする様に成った”とする意味なのか、“正式に「郷士衆」に加えられた”とする意味なのかは、この「射和の・・郷士三井殿・・・」の「書き様」では定かでは無い。
    普通に考えれば、元々「門徒衆」は「北紀の郷士」である事から“郷士衆に加えられた”とする「書き様」には成るだろう。

    従って、前段でも論じたが、この事を「悠久の歴史」を持つ「伊勢郷士衆」が、後に江戸期に生まれた“「伊勢の殖産事業の背景」”と成った「門徒衆」を、“「射和商人」として認めた“のであるから、これ以上は,「伊勢郷士衆」の中の“「射和郷士」としても彼等を認めていた“と云う事でも理解はできる。
    「突き合せの記録」が見つからないのは、恐らくは、正式な“「射和郷士」”ではそもそも無く、「扱い上」を“「射和郷士並」”としたと観られる。

    これは前段で論じた様に、「四日市殿の門徒衆との経緯」を論じたが、この事からも、「門徒衆」の“「扱い」”には充分に気を使っていた事からも、“「射和郷士並説」”としては良く判る。

    さて、そうすると、“「作為的な出来事」”があった事と、“「資料との突き合せが出来ない事」”の関連する二つに付いての疑問であるが、筆者は現在、状況証拠から次ぎの様に推論している。

    ところがこの「推論」を証明するものが未だ充分に発見されない。
    その「推論」とは、先ず、“「作為的な出来事」”ではあるが、この事が原因して“「資料との突き合せが出来ない事」”に繋がっていると観ている。

    では、その“「作為的な出来事」”とは、具体的には次ぎの様に分析できる。
    (A)「青木氏」が始めた「商業組合」に参加しなかった「商人グループ」が居た事
    (B)「商人グループ」とは「氏郷」が招いた「近江」から来た「商人グループ近江」であった事
    (C)「通称 伊勢商人」には「商人グルーブ近江」と「商人グループ伊勢」に別れていた事
    (D)「商人グループ近江」には「奈良、難波域」と「京、近江域」の「商人衆」が背景であった事
    (E)「商人グループ伊勢」には「松阪域全域」と「伊勢紀州域」の「郷士衆」が背景であった事
    (F)「商人グループ伊勢」>「商人グループ近江」のはっきりした関係にあった事
    (G)「商人グループ近江」は「近江郷士」の「外様格式」で、1600年前豊臣政権時代の商人、
    (H)「商人グループ伊勢」は「伊勢郷士」の「譜代格式」で、1600年後徳川政権時代の商人

    以上の事から、「商人グループ近江」(近江派と松阪派)は、江戸初期に「商人グループ伊勢」が興した「商業組合」には参加せず、互いに「商い」に依る「近江−伊勢の勢力争い」が伊勢で起こっていたと観られる。
    その結果、明らかに(D)(E)(F)の関係で、「商人グループ近江」は江戸期(1760年代まで)には衰退したと観られる。
    (注釈 上記に論じた「氏郷の陸奥会津移封」に依る原因)

    「商人グループ近江」は、上記でも論じたが、“「商業組合」に参加せず“と云うよりは、むしろ、この状況下では”参加出来なかった“と判断できる。
    其処に、「吉宗と青木氏との関係」が更に構築された結果、上記の様に、『近江0−松阪0』−『京1』−『近江2』−『松阪1』−『江戸1』−『松阪2』−『京2』−『松阪3』−『江戸2』−『名古屋・京3』の様な「松阪−江戸」の「二度の遍歴」の経緯を「商人グループ近江」は共通して持つ事に成ったと観られる。

    つまり、「越後屋」等を目標にしていたが、衰退して江戸には出たものの未だ江戸には充分に“自由”が受け入れられる商環境では無かった。
    そこで、失敗して再び「江戸」から「松阪」に戻った時には、「三井氏等の記録」や「門徒衆の資料」では殆ど「商人」では無かった模様である。
    「武士」を捨てて「松阪」でも大変苦しい貧困の生活状況で暫くして「小間物屋」等を営んだと成っている。
    そもそも、1600年頃から1840年頃までの期間では、“郷士や浪人の「下級武士」等が「商い」を営む”には、前段でも論じたが、「座、組合、寄合、株、等の障壁」が在ってなかなか難しく、殆どは農産物で凌いだが、多くは“「名義借り」や「架空名義」“で「寄合」に入れて貰ったり、農民に助けて貰っていた。
    簡単に店を構える事は難しかったので、その事から、「名義借り」や「架空名義」で「商い」をした事から、その「貸手の名義人」や「架空名義(実在)の系譜」を搾取や偏纂して系譜を作ったとするのが普通の事であった。

    (注釈 「名義借り」は実在する商い等の「権力者」の名を賃貸借りする方法。
    「架空名義」は商いとは直接無関係な実在する「世話人」等の名義を賃貸する方法。
    1781年以降は、「商業組合」の組織に対して「幕府の抑圧策と解散令」が出た事から、何らかの形で殆どはこの何れかに入らないと難しく成っていた。
    従って、「保護される組合」にはなかなか入れずに「農民の村郷寄合」に入れて貰う事が多く起こった。この為に結局は「半農民」に成る者が増えたのである。
    「彼等の系譜」はこれを隠すための搾取偏纂であった。)

    そこで、“「小間物屋」を営んだ”とした場合でも、「半農民」では無く、“「名義借り」(半商人)か「架空名義」(半武士)”で「寄合か組合」に入り、営んだ事に成る。
    これが「極貧状況」でいた時の伊勢のみならず関西での現実であった。
    この様な「半農民」「半商人」「半武士」の歴史観が構築される「特徴ある時代背景」があった事から、上記で論じている系譜は殆どは疑問視と成るのである。
    それを押し通すだけの力が、『京1』−『近江2』−『松阪1』の「浮浪の日々」の「氏郷移封後の彼等」の中にあったとは到底考えられない。在れば『京1』−『近江2』−『松阪1』のこの「浮浪の日々」は起こり得ないのである。

    そうすると、前段でも論じた様に、1765年代以降は「組合」への「幕府の抑圧策」が次第に強まり、「小間物屋」から大きくする事は相当に難しかった筈である。
    彼等の系譜では、年代を伏せて簡単に主張しているが、何にしても大きな成功を納めるには“何かの準備されたチャンスに載ること”以外には無かった筈である。
    それが「享保の改革」での「新副効果1−9」であると論じている。
    1600年頃から1840年頃までの期間では、“「店」を構える“と云うよりは、普通では、殆どは”「行商」“と云う程度であった筈である。
    故に、この「障壁の狭間」で生きようとすると、同じ「江戸−松阪への遍歴」を二度も繰り返したのではないかと考えられる。

    (注釈 そもそも、何度も論じているが、「享保改革前」は、「政治と経済が極貧の状態」であって、「彼等の系譜」が主張している様には行かなかったのである。
    「新副効果1−9」が「享保の改革」で敷かれたからこそ成し得た事で、だからこそそれを恐れて「冥加金制度」や「商業組合禁止令」で、勢いづく商人を観て抑えにかかったのである。)

    ところが、これとは反対に、「商人グループ伊勢」が、「15地域でも商業組合」を拡げ、更には「吉宗」を「将軍」に仕立てた上に、「享保の改革」で「商人グループ伊勢」の「商業組合」は江戸に出て大活躍した。(1745年頃を頂点に活躍)

    これを観た「商人グループ近江」の一部は、この時より「地場産業の青木氏が始めた殖産商い」で「伊勢」で再び潤い、15年−20年程近く後で、資金を貯めて再び、「商人グループ近江」として単独で江戸に出て行ったと成る。

    注釈として、「伊勢の商業組合」とは別に、「青木氏の資産と差配」で興している伊勢の“「青木氏の殖産」”があったので、この「青木氏の殖産」に関わると、上記の「商障壁」は無いので「商業組合」とは別に成る。
    「青木氏の認可」、つまり、「伊勢青木氏」の「伊勢の紙屋の販売」を手伝うと云う形(名義借り)で「商い」は出来た。(木綿、地酒、養蚕、豆等があった。)
    「1600年−1899年」まで青木氏独自で数多くの新しい「伊勢殖産」を独自に興し続けていた。
    要するに、これらは未だ「殖産」を興したばかりの物で興業化に至っていない産物で、伊勢で「商業組合化出来なかった殖産」が、“「青木氏の殖産」”として維持し続けたのである。
    (後の幕末期には江戸に持ち込まれた物もある。)
    取り分け、1781年以降の「抑圧策と解散令」で、全て「商業組合方式 1605年」から、再び、「1605年前の商形式」の「青木氏殖産方式」に切り替えている。

    唯、この時(1760年前頃)、「商人グループ近江」は何れも「豪商」では無く、全てこれらの殖産品を扱う「貧困の小間物屋」等であった。
    上記した様に、この時(1760年前頃)には、「享保の改革」の江戸では、「商人グループ伊勢」の努力に依って、「江戸の商業組合」で画期的に「環境変化」(「新副効果1−9」)を興していて、“「自由」”にして“「知恵」”を働かせば「商い」として成功する「柵の少ない土壌環境」が出来上がっていたのである。

    この「自由な商いの環境」を観て、これを観た「松阪」に帰っていた元の「商人グループ近江」(松阪派)は、“「自由と知恵と商い」”を以て「江戸」に再び挑戦したと云う事に成ったと考えられる。

    それが「直接販売」の「店頭販売(店前販売)」で、これに加えて「銭兌換」で「小間物屋」等の「路上販売」の「小売安売り商法」(木綿の衣類 地酒 豆粉)を展開したのである。
    「商業組合の自由」をベースに、更に、当時としては「自由性を発揮した画期的な商法」(上記 「新副効果1−9」)で挑んだのである。
    これが「江戸の庶民」に大当たりして成功を納めたが、これだけでは「商人グループ近江」の一部は納まらなかった。この成功を元手に次ぎの手を打った。
    それが「商人グループ伊勢」が始めた“「江戸の暖簾商法」”を真似た“「チェーンストア商法」”であった。

    ここで、この「商法」に失敗した「商人グループ近江」の一部は脱落し、伊勢からは「小津屋」(松阪町人)や「越後屋」(近江派の松阪派)を始めとする「数人の豪商」と成った。

    この経緯から、上段で論じた様に、より発展して生き残る為には、上記する様に「商人グループ近江」の「数人の豪商等」は、「吉宗―継友の経済論争」に乗じて“「継友側に参画する」(インフレ策)“と云う「大掛け」をした。

    (注釈 「チェーンストア商法」であった事から、この「商法」で拡大させるには「インフレ策を採る尾張側」に味方したと観られる。
    つまり、「吉宗のリフレーション策」には同調しなかった。
    元々、「商業組合」に参画しない「商人グループ近江」であったから、同調は無い事は判るが、「伊勢」では、「青木氏殖産」で生き延び、それを元手に江戸で成功を成したが、「義理≠商い」の「変わり目」は「青木氏」に執っては間尺に合わない。)

    そして、「名古屋と京に出店する事の経緯」(尾張御三家の背景で)に繋がったのである。
    故に、「総合の商業組合商法」に参画せずとも、これで「独自の商法」を構築して居て、この状況が成功する「商環境」は、「享保の改革」の後期(田沼の組合抑圧策期)の「1765年前後の時期」であって、故に、+「10−30年」の「タイムラグ」が起こっているのである。

    ところが、「商業組合」に依って「格式」が保障されない事から、成功した暁の後刻に「暖簾」に合わせて「豪商の格式」を作り上げる環境が起こった。
    結局、共通する様な上記(“「名義借り」か「架空名義」の系譜搾取”)の様な「商人グループ近江の系譜由来」を作り上げたと云う事だと観られる。
    従って、“「作為的な出来事」”とは、上記の事(「名義借り」か「架空名義」の系譜搾取)であった。

    この事が原因して「青木氏」の“「資料との突き合せが出来ない事」”に成ったと考えられる。
    「商業組合」として江戸に出る120年後の時点での「商人グループ近江」は衰退期であった事から伊勢記録には出て来なかったのである。
    その結果、この時、「江戸出店組商人」等の「出世頭」で「リーダー役の越後屋」(出店時期が異なる)の「由来書」に真似て作ったとも考えられる。
    この様な「搾取の系譜」が出来る事には、「当時の社会風潮」であった事から全く疑問が無く、当然の結果として「氏郷」に招かれた「近江出自の者」である限りは起こる事は当然であって、上記する様に「矛盾」を大きく孕んだ「共通する様な系譜」が出来たと考えられる。
    従って、「矛盾」を大きく孕んだ「共通する様な系譜」では論じられないのである。
    何はともあれ、下記の共通する「近江商人の移動経路」である
    『近江0−松阪0』−『京1』―『近江1』―『松阪1』―『江戸1』―『松阪2』−『京2』−『松阪3』−『江戸2』−『名古屋・京3』の様な共通する「複雑な移動経緯」がそれを大きく物語るものである。

    この結果から、「吉宗−継友論争」で「商人グループ近江」は過去の(A)から(H)の背景があっての因縁(恨み辛みも含む)が、その「名古屋・京の出店」に指し向けたとも考えられる。
    唯、前記でも論じたが彼らが主張する「享保期の名古屋の出店」は検証できなかったが、
    「京の出店」は「商人グループ近江」である以上は元の故郷と成るので当然の事とも考えられ、呉服や酒等の「仕入先店」として是非に必要であって現実に検証で出店は記録されている。

    この推論をベースとすると、上記で論じた“「射和商人」に加わった「門徒衆」”とすれば、「射和の・・郷士三井殿・・・」も「歴史観」からも納得出来る。
    とするとこの一説は、上記の移動経緯の「松阪」―『江戸』の「直前の事」、つまり、「名義借り」や「架空名義」を語っている事に成る。
    「商人グループ近江」が何とか生き残る為に、当時の「商慣習」から「射和衆」としての「名義借り」や「架空名義」で「商い」をしていた事から、「扱い」を「射和の・・郷士三井殿・・・」の「射和郷士並」にしていた事に成る。
    そうしなければ「限られた範囲の生産量」の「仕入れ」である以上は勝手には領域を犯す事に成って出来ない慣習であった。
    この感覚は、即ち、”「射和郷士並の扱い」“が「四日市殿の経緯」で明治期まで引きずられていた事を示す。

    (注釈 当時は、生産をする「作り手集団」も「売り手集団」に依って「生活の保全」を約束されている限りは「飛び込みの買い手」は排除する慣習であった。
    取り分け「伊勢」は奈良期より「作り手集団」も「売り手集団」の結束が強く、それが発展して江戸初期に「商業組合」に発展した日本で最も古い株組合で形成されていたのである。
    特記として置くことは、前段からも論じている様に、「青木氏の歴史観」として「青木氏の伊勢の紙屋」はこの両方を「青木氏部」と云う形で奈良期から持っていた。)

    この事に付いての一般説の問題は、「商人グループ近江」は、「近江人の商人」か「伊勢人の商人(門徒衆)」かの論議では、矢張り、この議論でも起こるが、良く区分けせずに「近江人の商人」(越後屋等)の中には「伊勢の商人」(小津屋等)が含まれて議論されていたと云う事である。
    中には、「商業組合の商人」迄も同じ括りで「商人グループ近江」「近江人」(「松阪派)として喧伝して「松阪派」を必要以上に「伝統のある商人」であるかの様に誇張している説があって、「伊勢商人(松阪派)」と「松阪商人(商行組合)」と「射和商人(門徒衆含む)」を区別しないこの「一般説」もこの類である。

    (注釈 「名義借り」や「架空名義」の慣習の中にあった為に、上記する「歴史観の問題」を起こしている「一般説」は、「伊勢商人(松阪派)」を「松阪商人(商行組合)」と「射和商人(門徒衆含む)」までを同じ「伊勢商人」と観て仕舞う間違いを起こしている可能性がある。)

    そもそも、「商人グループ近江」とは、“全てが「近江人」(「松阪派))か”と云うと、“そうでは無かった事”は記録からでも判る。
    先ずは、「伊勢の商業組合」には、“「近江人の商人」(「松阪派))”は、当然の事として、つまり、先ずは、“「門徒衆の商人」(射和衆の商人、小津屋等の商人)”も参加しなかったと云う事が判る。
    この伊勢で救われ「青木氏の殖産商人」と成った「門徒衆」が参加しなかった事は、この「門徒衆」が「商人グループ近江」に加わっていた事は充分に考えられる。
    それは、「門徒の宗派」での繋がりであったと考えられる。
    要するに、“行動を共にする”と云う意味での「グループ」であって遺された記録を補完している。
    “行動を共にする”と云う事は、“「伊勢の商業組合」に参加しない“と云う行動を選んだことに成る。 
    この“参加しない”と云う事が、この「門徒衆」が組合化していない「殖産」に従事して居た事もあるが、「組合化の有無」とは別に、“江戸に向けての商業組合の行動に行動を共にしなかった”と云う事の方が主であろう。
    「記録の意味合い」からすると、判り易く言えば、“参加に反対した”と云う事では無いかと考えられる。

    (注釈 「射和の研究資料」の中に「江戸初期からの射和の商人の街並み」を頑なに遺したとある。「秀吉の圧政」から「紀州の門徒衆」を「青木氏と伊勢郷士衆」が救い出して射和に保護したものであるが、従って、「門徒衆」は「射和地区」では古くは無い。)

    その後、“この射和域を護ったとする”には、論理的にこの射和での「定住年数」から無理があり、従って、「江戸への移動」は、一族全員が江戸に移動(国抜け)と云う事では無いので、未だ「近江人の子孫」や「門徒衆の子孫」を遺しきれるほどに拡大し充実していない事からも物理的ら江戸への移動は困難で不可能である。
    従って、参加せずに残ったからこそ明治期まで射和の江戸初期からの「古い商店街」は遺されたのである。

    それは,又、前段でも論じたが、「門徒衆の強い宗教的概念」にもあったからである。
    「(イ)(ロ)(ハ)の自由を前提」とする「商業組合の概念」には,本来は「浄土真宗の概念」は一致しない事でもあった。
    もし、「浄土宗密教の色即是空の解釈」の「拘り無くす事」では、「自由を前提とする商業組合の概念」は成り立つが、「門徒衆」の「浄土真宗の概念」の「一念発起」からすると、「拘りを持って意志を貫くとする考え方を優先するのであるから、未だ成功していない「射和での商いの成功」を先ずは選択するであろう。
    従って、記録と一致して、“「近江人の商人」と観られていた「門徒衆」“は、商業組合に参加せず、且つ、「残留組」を間違いなく記録と一致して選択したと考えられる。

    そもそも、「門徒衆」には、前段でも論じたが、彼らには「浄土真宗の概念」から特段に「集団性」を強く持っていて、この「集団性の概念」がある事で、「移動や移住」は避けられる「足枷」と成る。
    彼らに執っては、この理由から結果として、“「江戸移動」”は先ず避ける事に成る。
    更には、「江戸と云う土地柄」は彼らには「避ける地域」と成り得ただろう。

    依って、彼等は“参加しなかった”のであり、「参加しなかった事」に依り、「松阪派の近江人」と同じ行動を採った事で、伊勢での「商人グループ近江」の「近江人」と「門徒衆」の「伊勢で繋がり」も生まれる事は必定となったのである。

    これに依って“「近江人の商人」と観る「門徒衆」“の説が生まれたのである。
    そもそも、「門徒衆」と同じ様に「商人グループ近江」の「近江人(松阪派)」は、「商業組合」に参加せず、「伊勢郷士衆」とも「深い馴染み」の「繫がり」が起こらず、「時代の変化」で衰退して仕舞って、「伊勢」では「苦難の生活」を送る事に現実には成って仕舞ったのである。
    「射和の門徒衆」も「伊勢郷士衆」に救われたが、なかなか「馴染み」が起こらず、時々その生きる為の「概念の違い」から、或は「慣習差」から揉めることにも成っていた事は前段でも論じて事実でもある。

    この様に「射和の門徒衆」と「近江人の商人」の両者は良く似た境遇にあった事から、“互いに助け合っていた”とも観られる。
    それが、「射和の・・郷士三井殿・・・」の「互助」に関する“やや心情的な手紙の内容”に成っていたと観られる。(「手紙の内容」を個人情報により詳細に伝えられないが)
    この「射和の・・郷士三井殿・・・」の文面に付いては、その意味で「射和の門徒衆」は「近江人の商人」を「同じ郷士」と認識していた事に成る。

    因みに「松阪派」の江戸で豪族と成った「ある家の系譜、由来書」には、“近江より1568年に松阪に逃避した”とある。
    1588年代に「蒲生氏郷」は「松阪」に「近江商人」を呼び寄せている。
    つまり、「20年前の話」に成り年代がずれている。
    普通はこの様な事は“「国抜け」“となつて「一族斬首の刑」で起こらない。
    普通は届け出て許可を得て、移動後は「5年程度」で戻らなくてはならない事に成っている。
    内容では、この許可の要る“移動”では無く、「国抜け」の“逃避”に近い引っ越しの様な表現に成っている。

    最初の江戸にこのある一族の長兄と次男は1635年に出店(小間物屋)して、一時成功して、次男は1649年に母看護で松阪に戻るとある。
    このある家は、この時、1649年に「松阪」で「武士」を捨て「町人」として「商い」(「名義借り」)をしたとしている。
    次男病死後の同年に、三男も1649年に松阪に戻り、「母看護」と「松阪の商い(小間物)」を続ける。 (後に小銭貸業を営む)
    この三男は「江戸に出て1673年に「長兄の跡」をとり、再び「江戸店」を継承(呉服屋)したとする。

    この経緯からすると、次ぎの様に成る。
    「武士であった事」
    武士が「二足の草鞋策」を採る場合は、「名義借り」か「架空名義」で「商い」を始められるが、何の繋がりも面識もない他の国の伊勢では無理である。
    ・「1568年に松阪に出た事」
    その松阪は、「伊勢三乱」が完了して統治できる状況に成って初めて1588年に「蒲生氏郷」が座を松阪に広める為に近江より「商人」を呼び寄せたが、その20年前と成ると、松阪に呼び寄せる前に松阪に来た事に成るし、この時は町中そのものが混乱中の混乱で到底、凡そ「商い」など無理な状況であって、「武士であった事」の「自由の行動」は不可能でこの疑問も含めてそもそも無理である。
    況して、「北畠の家臣」であったとしている事なのに、この時、北畠氏は一時の勢力は低下するも1630年に正式に滅亡しているが、1568年頃は未だ健在であって「二足の草鞋策」は出来ない状況であった筈である。
    要するに全く「歴史観」が成立していない。

    ・「1649年に松阪に戻った事」
    1619年は「頼宣入城」で、松阪もやっと落ち着きを取り戻し始めた時期でもある。
    その前の1590年に、『京1』−『近江1』−『松阪1』の行の事があるから1620年頃には既に江戸にいた事に成る。
    こんな時期にそれだけに「金子を貯め込む程の商いに余裕」があったのかと云う事に成り、この時期に金子あったとするならば、何も『松阪1』に立ち寄らず『近江1』から「江戸」に出れば良い事である。
    そもそも、「松阪」で金子が貯められたとしたら、それを放り投げて『京1』−『近江1』−『松阪1』の行は起こらないし、「商人」である限りはしない行為である。
    『近江0−松阪0』は、「22年間の短期間」であって、金子を大きく貯める程の「近江人の商い」に大成功を納めた訳ではない。
    逆算すると、『近江1』から『松阪1』に入ったらすぐに、又、江戸に出たと云う事に成る。
    「松阪」に入った根拠は、そもそも「商業組合」に依る「松阪の活況」が魅力で「会津派」には参加せずに戻ったのに直ぐに江戸に出ると云う事が疑問である。
    徳川氏が天下をとり正式に開幕した時の江戸は確かに「未知の期待」が広がっていた。
    決して活況であったと云う事では無い。
    「江戸」に出かけるとしても海千山千の「未知の期待」である以上は「大きな賭け」である。
    「商人」が出かける以上は、江戸期の市場環境には「販売の仕入れ元」を確保した上での事で成り立つ話であり、『京1』−『近江1』−『松阪1』−『江戸』では、尚更、「繰綿業販売」であるので無理なのである。
    この状況を捉えて「商いの系譜」も時代性に合わせて、“「長い伝統ある商い系譜」“を作り上げる為に「江戸の商い」を開始した事にして脚色偏纂したと観られる。
    前段で論じた様に、幕府が「黒印状」を発効する条件とした事で「武士の系譜」にも起こった様に、この時期には権威と云う事が社会的なテーマと成っていた様に、どの「豪商の系譜」にも洩れなく観られる様に、「商い」を始めた「始祖」を“権威付ける脚色”から後付で偏纂したのである。
    「商いの系譜」を「時代性」に合わせている事は、相当後の事では出来ないし、「自由の行動性」の概念をベースに「系譜」を作り上げている時代の二つからその時期と成れば、明治期の苗字令後の15年頃の中程に起こった「庶民の出自誇張の搾取」の現象期と観られる。

    ・「許可なく江戸に出た事」
    現在の時代の様に、「自由行動性」が許されている充分に社会では無かったのに、「自由行動性」が許されている様に自由に出入りしている。
    況してや、仕官しないで「土着の生業」で生計を立てているのに「郷士」と書かずに「武士」だとしているにも関わらず、更に自由に移動している。
    江戸社会には武家や公家のみならず農民(慶安御触書)にも法度を定めて厳しく管理監視下に置いていたし、全ての庶民にも「共同体」(寄合制)を作らせて「行動指針の様な規則」を作りその中で管理監視下に置いていたのである。

    (注釈 村には「庄屋」(名主−関東・肝煎−東北)の「村三役」を置き、街中には「町名主」(或は「家持」)を置いて奉行所の下で行政を行っていて、この「ある家の系譜」の様に主張する様な「自由」は決して無く、ある規則の範囲での自由であって厳しい管理下に置かれていたのである。罰則も命を落とす程の厳しいものであった。
    取り分け、「国抜け」は「一族斬首の刑」とも取れる文脈で記されているし、現実には記録がある。
    従って、この様な「系譜の主張」は先ず起こらないし、「商人」などの庶民は特に原則4−5年で先ず一度国元に戻らなければならなかった。
    この様な主張は明治期に成らなければ出来なかった事である。
    恐らくは、成功後に何度か偏纂され、やや後の「明治期の中程」に大きく偏纂されたと観られる。)

    (注釈 農民の行動を規制する為に「1649年慶安御定書」が定められたが、この前にもそれの元と成る規範が各郷村に在って庄屋らに依って運営されていたが、これを慶安期にまとめて整理する事を幕府では行ったが、これが評判が良く各藩に広まって終局は正式に幕府の御定書と成った。)

    ・「江戸で勝手に呉服商を営んだ事」
    町人にも上記の管理監視下にあり、「商い」だからと云って自由に観えて勝手に出来る事では無かった。
    取り分け、「商人」は物を売ると成ると「製品」を「仕入れる」と云う事から始める必要がある。
    然し、当時は生産体制があふれる程の量では無く、その為に組織を作って管理され、その手段として何重にも「卸問屋組織」を作り、安定して「商い」が出来る様に常に監視されていたのである。(この日本独特の問屋制度の組織は昭和期まで続いた。)
    つまり、「生産力の絶対量」が在りその中から“「仕入れる」”と云うと先ずは組員に成る必要があり、「名義借り」や「架空名義貸し」等の処置をして株組員に成り、「信頼」を得て始めて「卸問屋」から「仕入れる事」が出来るのである。
    中でも、「呉服や酒や繰綿」などの様に生産に加工を伴う商品は管理監視が厳しく、「仕入れ店」を設け「卸問屋」との固い信頼関係を構築する必要があった。
    取り分け、江戸は「呉服や酒や繰綿」とかの「加工品」は他の国から運んでくる必要があって、前段でも論じたが、これに「輸送の利権」を獲得する必要があり、「廻船」を使っての「船輸送」では「組合」だけでは無く「幕府の管理監視」の中で運営されていたので、この組合にも「入り株権」を獲得し幕府の「認可」も受けなければならなかったのである。
    これは武器輸送などにも使われる恐れの「謀反の懸念」や、市場の「製品の偏り」を無くして江戸の「市場バランス」を保つ事にも繋がる事にも成り、従って、政治性と連動していた事もあって幕府の目が光り厳しく管理されていたのである。
    中には、これを護らなかった豪商が居て取り潰しに成った記録もある位であった。
    従って、「豪商」と成り得るにはこの政治システムと経済システムに加入しなければ、最低限で「豪商」には成り得ない様に「政治的な枠」が填められていた。
    享保期後の「執政田沼の抑制策」や「執政水野の禁止令」などの様に豪商が多く成って寡占状態に成る事を警戒されていたのである。
    享保期前でも「質地流売買禁止令」の様に商人がこれを買い占めて土地の「地権」が商人に渡る事を恐れていたのである。
    “呉服商を営んだ“とすると、この幕府に依って填められた「絶対的な難枠」を超える必要があって、系譜に主張する様に簡単に「商い」は出来なかった。
    この「絶対的な難枠」を超えるには、『京1』−『近江1』−『松阪1』−『江戸1』から、『松阪1』が松阪派1611年頃であった事は、会津の「会津派の記録」から判るので、そこから蓄財して信頼を得て上記する数々の利権を獲得して江戸に出て江戸の利権を獲得して商いをするには最低でも100年は掛かる。
    1711年頃以降の出店と成り、上記する様にその様な活動の記録も無いし、「伊勢の商業組合」にも享保期の江戸の商業組合にも参加していないで江戸に出る事は不可能である。
    結局は、「伊勢側の記録」から「1765年頃の江戸出店」がやっと始まった事に成る。
    つまり、120年が掛かっている事に成り極端な時代性のズレが有る事に成る。
    それには、伊勢での「名義借り」か「架空名義」の「最大の課題」をクリヤーする必要が無ければこの120年でも成し得ない。
    では、この「最大の課題」の「名義借り」か「架空名義」は、誰かと成れば、唯一人伊勢の「紙屋長兵衛(伊勢青木氏が保証人)」「総合商の問屋」の「お墨付き」以外には無い筈である。
    これさえあれば「仕入先」と「各種利権」は獲得できる。
    「総合商の問屋」の「お墨付き」で江戸でも「新副効果1−9」に参加すれば全て解決する。


    以上等に詳細に見ると「歴史観」と一致しない事が起こり、この「ある家」の主張する系譜と時代性を合わせて検証すると「蒲生氏郷の近江商人」では無い事に成って仕舞う。
    又、更には、「享保の改革」(1716年)の「商人グループ近江」、及び「商人グループ伊勢」の何れの「商家」でも無い事にも成る。
    然し、「松阪から出ている事」は事実であるとすると、何処かに「後付の脚色の矛盾」があった事に成る。
    この様に「総合商の問屋」の「お墨付き」で江戸でも「新副効果1−9」に参加して「商い」が成立したのだが、然し、これを明記しないで置く為には「松阪派」として戻った1611年頃から1765年までの江戸出店期までの空間期間を、「自立自助に依る商人としての努力」の系譜を作り上げる事が必要と成り、「ある家」の「主張する系譜」を後付でこの空間期間を無理に偏纂したと云う事に成る
    其処には、上記の様に「誇張」も「時代性」も「慣習」も「記録」との整合性等の歴史観にも矛盾する事に成ったと云う事だ。
    「主張する系譜」をどの様に作るかは、その「家」の自由であるが、「青木氏」側で折角の伊勢出との「繫がり」が確認できるのに真摯に論じようとすると、矛盾が露出して仕舞う事に成る。

    そこでもう少し掘り下げて論じて観る。
    そもそも、「商業組合」に参加しなかった組には、次ぎの様に成る。
    a 「商人グループ近江」(「商人グループ近江」)
    b 「射和商人の門徒衆」(「商人グループ伊勢」)
    c 「単独の商人(小津屋等)」(「伊勢商業組合」に不参加組)

    結局は、「射和の・・郷士三井殿・・・」の文面は、bとcの関係の中からのものと見做され、早期、つまり、1568年(正しくは1588年)に松阪に移動していると主張している事から、正式に「武士」を捨てた時期が共通する様な系譜から読み取ると、81年後の1649年頃であるので、1610年代の約50年後頃には、「門徒衆」からは、未だ「射和の郷士」と観られていた事に成る。
    更に、依って、4代から5代後の150年後の1716年頃の江戸出店期には、既に、「代換わり」も著しい事から「武士」を完全に捨てていた事に成る。
    現実に「射和の門徒衆」も江戸初期1640年代頃に武士を捨てていた。

    唯、「ある家」の系譜に付いては、上記した様に“「伊勢郷士」の「正規の射和衆」であったか”は別問題ではある。
    「伊勢青木氏と伊勢郷士衆」が興した「伊勢殖産」の“「白子湊の木綿(伊勢の殖産品)」”を江戸で扱った「越後屋」等(他10店)に関しては、「商人グループ近江」と同じ様な行動を採りながらも、「享保の改革」の活況(1765年)を利用して更に発展させた云う事に成る。

    そこで、「吉宗―継友論争」は、別としても、本論とは別に論じる必要がある。
    唯、「商業組合」を推進している「青木氏」に執っては、aとbとcが起こる事は何事にもこの世の条理ではあるが、「氏」を上げての「難儀な事」ではあった。
    然し、江戸に「江戸店の伊勢屋」を出しながら、「江戸の拠点の伊勢屋」を経営する中で、「彼らとの付き合い」では非常に「苦労の種」であったと考えられる。
    つまり、この「a、b、c」は、この時代では「15地域」を成功裏に収めていた事は事実でありながら、未だ、「商業組合」と云う概念に「賛成できない勢力」が相当あった事を物語るものであるからだ。

    然し、実態は上記した様に、「賛成できない勢力」であっても,そこは「格式の青木氏」では無く「伊勢の紙屋」の「商人」ならではの事で、その「成功」に魅力を感じて「単独で参加する勢力」が現れたと解釈したのである。
    何れにしても結局は,「失敗した商人」はあったにしても、「京に出た者」、「江戸に残った者」、「伊勢に残った者」が在って、「商人としての路」を歩めた事は「青木氏」に執っては良かったと考えられる。
    普通ならば、戦略上大事業を成す上で「大きい障害」と成るのは必定で、「伊勢」を実質上で「経済的に導いていた力」を以ってすれば、これらの「賛成できない勢力」を何らかの形で潰していたとするのが、戦乱後100年程度しか経っていない当時の社会慣習からは常道であった筈である。

    然し、「賛成できない勢力」に対する “「青木氏の姿勢」”が、古来からの持ち続けた、“排除するのではなく、「見守り、その流れに導く」“とする「姿勢」にあった事には、「青木氏としての誇り」を感じる。
    結局は、当に、“「江戸の経済の改革の流れ」”に「伊勢のa、b、c」を導く事にあったのである。
    「青木氏」自らは、「伊勢」に居て「紙屋問屋」の「商い」を営み、「伊勢郷士衆」と共に「商業組合」を推進しながら、江戸には「次男六兵衛」を送り、「幕内」では「享保の改革」を主導し、幕外では「青木氏」を伏せて「伊勢屋」を主導して「江戸の経済」を改革したのである。
    その「伊勢」を拠点とする限りは、「伊勢残存組のa、b、c」に対しては「直接の感覚」で接しなければならない苦難が在った。

    恐らくは、「伊勢残存組のa、b、c」だがらと云って「伊勢の紙屋(青木氏)」が「伊勢の郷氏」である限りは放置する訳には行かず“「説得」”を続けて試みたと考えられる。
    場合に依っては、aの「江戸戻り組」に対しては、記録は消えているが、「商いの援助」をしたと観られる。
    「伊勢」が「拠点」である以上は、「伊勢の商いの低下」は「江戸の伊勢屋の低下」に繋がり、「幕外の政策」は破綻する事も充分に懸念される事であった。
    それ故に、「享保の改革」の1746年までの「改革中の間(1741年が活況期点)」では無く、「1756年以降の成功」が確定した時期を見計らっての「aとcの江戸再出店が集中した」と成っているのである。
    この“集中”とは、下記にも論じるが、出店と成ればそう簡単な事では無いし一店ならいざ知らず“集中しているところ“を見ると、「保証人に成る事」や「名義貸し等」の便宜を図る事を提示して説得に掛かる以外に起こり得ないであろう。
    況してや、更には、執政田沼等の「江戸商業組合への圧政」(冥加金の抑圧策)があって、彼らが嫌う組合に入らなくても冥加金を納められれば「単独で商い」が出来ると云う環境に成りつつある時期でもあった。(一商人でこの冥加金を納める事には未だ無理な状況であった。)

    これは、何も「商業組合の享保の改革」に載らなくても、「改革成功後の江戸の商い」に参加する事でも成り立つ話であって、依って、辛抱強く“「説得をする事」”と“「流れに載せる事」”にあったのである。

    それには、唯、「商い」をするには、先ずは“「資金」”が前提であって、「困窮する伊勢の小間物屋」では“「江戸出店」”は簡単に成り立つ事では決してない。
    “「説得をする事」”と“「流れに載せる事」”だけではそれほどに生易しい事では無い。
    「伊勢」から遠い活況している「江戸」に対して、「大商い」を成すには「土地、資材、店、資金、雇用、生活、運搬、情報」等の条件を満たす事を成すには「仕入先確保」や「名義借り」も含めて全て“「資金」“なしでは決して成り立たない。
    それには、“「資金」“を供給するには”「金融」“に外ならない。
    “「金融」”と云っても、「元手」が無い事では成り立たない。
    (小津屋が江戸で成功したのは油屋源右衛門の融資を受けたと書いている。)
    そこで、この「金融」をどうしたのかと云う問題がある。
    これには「伊勢の殖産で資金を貯めた」とする説もあるが、確かに「資金」は貯めたのであろう事は資料からも否めない。
    「江戸の伊勢屋」に対して指示して“「質屋」”に指導させて彼等の「金融手段」(「白子組の内店組)としたとも考えられるのであるが、それには先ず「組合」に入る必要があって無理であろう。

    (注釈 伊勢では「商業組合」に入らなかった事から、「江戸の伊勢屋」の「AからFの指導」は拒絶する筈である)

    “組合に入らないとか“、“名義借りしない“と成ると、そうすると残るは旧来からの「銭屋」か「土倉」を利用する事に成るしかない。
    ここで、利用したとする「面白い史実」が江戸で起こっていたのである。
    それは、江戸では「質素倹約令」で木綿が不足し、「木綿」、或は「木綿古着」が「銭屋」か「土倉」で「質草」として珍重され高値で引き取られる事が起こっていたのである。

    因みに、高値で取り扱われる根拠があったのであるが、ここで「伊勢の紙屋」「江戸の伊勢屋」に関わる事に重要な“「青木氏の歴史観」”がこの「木綿の事」にあった。
    それをここで論じて置く。
    江戸初期(享保期初期)頃では、活況で関西圏から木綿を集める“「引請問屋」”と云うものが難波や伊勢にあって、それを江戸に送る“「江戸積問屋」”と云うものの二つの問屋があった。
    伊勢から江戸に出た「木綿問屋」には、この二組があって、先ず初期には、“「江戸積問屋」”から集めた「木綿」を扱う「江戸の伝馬町」に、“「伝馬町組」”と云われる「伊勢青木氏」の「伊勢の紙屋」等が営む「商業組合の木綿問屋」があった。
    「伝馬町」に「大の字」を付けて“「大伝馬町」”と呼ばれる程に「商業組合の木綿問屋街」を形成していた。
    況や、“「伝馬町」”と云えば“「木綿問屋」”の問屋街の事であった。

    その後の後期(1765年−1780年)頃には、上記した伊勢から出て来た“「十組問屋」”の一つで呼ばれる“「内店組の白子組」”と云う「江戸の木綿問屋」が出来た。
    この「内店組の白子組」は1800年代に上記に論じた高額(年間1000両)の「冥加金」を幕府に納めて「商いの問屋権利」(内店方式)を買い取っていた

    そこで、この「大伝馬町組」が「江戸の伊勢屋」等の「江戸の商業組合」の「木綿関係の問屋」(「御免株」を取得)であって、「内店組の白子組」が「伊勢の殖産の白子木綿」(「小伝馬町))を出した「江戸の木綿問屋」(10店)であった。
    (この「商業組合」の「木綿地域」を「伝馬町組」と総称されていた。)

    つまり、「殖産の白子組」の「内店組」とは、「商業組合員」(「御免株」「願株」)に入らない上記の「伊勢屋等の名義」を借りて出店する「名義借り商人」の「商人グループ近江」の「江戸出店組の事」である。
    要するに、「御免株」「願株」以外にこれらの「店の権利」の“「名義借り」で出店する「支店扱い」”での店が1765年以降に起こった「第三の店」の事である。

    取り分け、「伝馬町組」(「小伝馬町」と「大伝馬町」の総称)が扱う木綿以上に、「江戸社会の活況」で「木綿」が「需要と供給のバランス」と「幕府の質素倹約令」により、「木綿衣類」が多く使用される事に成り不足して「高値扱い」されていた。
    「古着」を元に戻して綿糸にして再生すると云う職業(繰綿業)も江戸では活況した。
    この綿糸類を「質草」にして集めて「土倉」も利益を挙げる程に成っていたのである。
    これに「銭の兌換屋」の「銭屋」も参加すると云う現象が起こった程である。
    そこで、上記のa−「商人グループ近江」は、関西圏でこの「木綿古着」を集めて江戸に送ったと云う事に成る。
    現実に「商人グループ近江」の資料によると、「木綿古着」を送って「土倉」と「銭屋」で「資金」にしたとある事は史実である。
    これが、「資金を貯めた」とする説の根拠に成っているのであろう。
    然し、土倉であり銭屋である以上それ以上の資金は獲得は出来ない筈で店を興す資金には成り得ない。(伊勢屋の資金源をあくまで隠す為にも「こじつけた」と観られる。)

    それには、この「綿古着」を「土倉」「銭屋」に入れて「質草」にして「当座の資金」を得ていた事は否めないが、この事のみならず未だ「伊勢殖産の産物」であった「白子湊木綿」(白子綿)も送る事で「販売での資金源」としていた事に成る。
    つまり、唯、これでは“「当座資金源」”の程度である。
    これでは「伊勢」から出て江戸で「大口商いの仕入金」は出来ないし、「冥加金」も納められないし、「名義借り賃」も払えないし、だとすると問題は“「運用資金源」”はどうするかである。

    「運用資金源」の「資金」と「金融」は、「改革の司令塔の拠点」と成っている「伊勢の紙屋」が「江戸の伊勢屋」に供給し指示したとしても、他の「土地、資材、店、雇用、生活、運搬」はどうするかの問題もある。

    (注釈 当時は「海運」に関しては幕府に依って統制されていて、大口の積荷や船便や船主を勝手に選ぶ事は出来ない「令による仕組み」で「届出」と「許可」を取る仕組みであった。下記)

    これに付いては、下記に論じる「金融業務」に入る前提として、彼等の「運用資金源」として「江戸の伊勢屋」と「伊勢屋の質」が後口の江戸出店の彼等に「相談」に載っていた事が判って居る。
    と云う事は、この上記の「当座資金の獲得」で取りあえず江戸に出たが、「土地、資材、店、雇用、生活、運搬の問題」と「運用資金の調達」で「江戸の伊勢屋」に掛け合っていた事に成り、「司令塔の拠点」と成っている「伊勢の紙屋」に指示を仰いだと云う事に成る。

    (注釈 然し、上記の「第三の店」(「名義借り」)の「内店組・支店扱い」に対するものであって、「願株などの組合員」には成っていない。)

    「土地、資材、店、雇用、生活、運搬」の「業務と資金」は、「幕府の許可」を得ていて、既に、「伊勢の紙屋」と「江戸の伊勢屋」がその権利を持っている事で、“「彼等の相談」”は、「第三の店」の「内店組・支店扱い」(「名義借り」)で処置する事が出来るので左程難しい事では無かった様である。

    享保期の「改革期後半期」には、上記した様に、「商業組合の寡占」が「寡占不況」を招いていると云う幕府の判断もあって、「厳しい冥加金献納」等の抑制策で、「販売に依る商い」にも「届出と保証人」と、場合に依っては「冥加金前納の認可」が必要と成っていた事もあったのである。

    「伊勢」では、「商人グループ近江(松阪派)」は「反組合の行動」を採ったにも拘らず、その彼等に対して「伊勢の紙屋」は「江戸の伊勢屋」に対して「相談を受ける事の指示」を出している。
    この様に「商人グループ近江(松阪派)」に対しては、上記の様に、「小伝馬町の二つの問屋組」で出店前の(松阪派)には「伊勢の紙屋」と、出店後(松阪派)には「伊勢屋の本店」と、出店中(松阪派)には「伊勢屋の質屋」で対応していた事が判って居る。

    これは「総司令の伊勢の紙屋」は、「商人グループ近江(松阪派)」の“「反組合の行動」”を超越して居た事に成る。
    未だ、「殖産の木綿」や「殖産の地酒」や「殖産の豆粉」等が「組合化に至っていない殖産品」であって、それを「伊勢青木氏」としては、兎も角も、「伊勢の紙屋」の「商い」として観れば、彼らの努力に依って、“江戸に出せる事”での「利点の判断」を優先した事にも成る。

    下記に論じる「江戸の伊勢屋」からの「伊勢の紙屋への報告書」では、「資金と金融の指示」に対しての“「経過報告の返書」”があった。
    然し、この返書の中の一行には、上記の様にこの「相談業務と斡旋業務」に関する「簡単な業務報告」が成されている。
    取り分け、“「資材と運搬」が難題”として取り上げている。
    「江戸の伊勢屋」の「商業組合の資材」みならず「江戸出店」を説得し斡旋した組の分(「商人グループ近江」(松阪派))までの“「大量の資材」の「運搬能力」”とその“「過程の安全性の確保」”に苦慮している事が書かれている。

    (注釈 この手紙の内容が既に在ると云う事は、その「流れ」からすると1765年頃には当面、「伊勢の紙屋」の「海運能力と陸運能力」と、「株権利」と「幕府許可」を初期の段階で当面の策として「商人グループ近江」(松阪派))用としても利用していた事を物語る事に成る。
    1760年代には「海運と陸運」に関して未だ完全に解決に至っていない。
    この時期に「江戸十組問屋」(1749)年が設立され、大阪で廻船二十四組問屋が設立されたが、この段階では「商人グループ近江(松阪派)」は十組問屋の中には系譜では既に連ねていなければならないが1749年では名は連ねていない。)

    これを担当していたのが、陸運担当の「伊勢信濃シンジケート」ではあったが、確かにこの“「大量の資材」の「運搬能力」”に付いては、「伊勢の商業組合の範囲」と「江戸の伊勢屋と商業組合の範囲」での能力の限界の範囲にあった。
    これが可成り難題であった様で、享保期の「初期段階1730年代」までは、社会には未だ相当の「運送の危険性」を大きく孕んでいた模様である。
    「中期段階1745年頃」を経てから、「a、cの出店期」の「後半期の1760年代」では危険性に於いては可成り収まってはいた。

    然し、この報告書は、「伊勢屋の質屋問題」などの事に付いて述べられていたのは1731年の頃であったが、この時のたった一行に指摘されていたのが、この「搬送問題」であった。
    その頃には、「aとcの江戸出店問題」が未だ起こっていない時期(1765年前)にも,それでも既に「搬送人員と搬送危険性」には問題があった様である。
    この時は、これに対する対策(堺摂津の三船の応急対応)は取られていた様であったが、この時に指摘されていた事が更に起こると成ると、「伊勢信濃域の中での事」では済まなく成ったらしい。

    そこで、「伊勢の紙屋」では、どの様に対策したのかを調べると、この時期の「青木氏の商年譜」に「伊勢郷士頭と紀州郷士頭」(シンジケートの差配頭が参加か)全員を集めての「談合(1762年)」を行っている。
    この年代は、「a、cの出店組の初期段階」、取り分け、「aに付いての初期段階」であった。
    「商年譜」なので詳細は判らないが、これがその時の「搬送人員様と搬送危険性」の問題については、「江戸の伊勢屋」と「商業組合の搬送」だけの「工程能力」が限界に在ると云う事が判るが、これに「aの工程」が加わると無理である事は判っていて、その為に「工程能力の向上」に付いての解決策を模索していたのではないかと観られる。

    (注釈 「伊勢郷士頭」等の家を含めて「江戸報告」が何か無いかを調べたが出て来ない。
    何れかに在ったと思われる形跡(口伝)があったが、資料が三度消失しているので見つからない。)

    大きくは「伊勢水軍の能力(大船21隻所有)」に、上記で論じた様に、頼っていた事が判るので、この「水運の能力」が限界に来ていたと云う事では無いかと考えられる。
    1730年代までの「初期の運送能力」は、「商業組合の江戸出店」が、「将軍擁立」当初からの計画であった事から、事前に「水運能力の向上」を図った事が判って居る。

    (注釈 「水運能力の向上」は、「造船と水夫の仕様」で数年の期間が必要である。
    元禄期までには、「伊勢の紙屋」独自に「三隻の千石船(堺摂津港係留)」を所有していたが、享保初期には、「松阪係留の船二隻」の資料が発見されているが、この大きさは判らない。
    計五隻である。
    この船は主に「貿易」に使っていた様で、「江戸用」では無かったと考えられる。)

    従って、“「水運能力」”だけではなく、より“「陸運の能力」”も早急に上げる必要があって、「郷士頭」に遺された手紙の資料によると“「伊勢衆」(この様に表現 「伊勢シンジケートの頭衆」の事か)“を集めて「談合」をしたと観られる。

    ある文面からの推測ではあるが、陸運の「伊勢郷士の徒」は、上記でも論じたが、既に、「享保の江戸出店」の「初期の段階」から就労していた。
    従って、「余裕な徒」は無かった筈である。
    そこで、次ぎに頼れるのは「南伊勢の民」と繋がりを持つ「紀州郷士の徒」に「協力を仰ぐ算段」であったと観る。
    それには「紀州藩の了解」が必要と成る。
    故に、充分に「伊勢」で検討する必要があって、“それを「交渉する郷士頭」を誰にするか”を検討するに付いて集めたと考えられる。

    ところが、この「aとcの出店期」には次ぎの事が起こっていて難題であった。
    先ず、「吉宗が没した後(1751年没)」に成るし、「商業組合への圧政」が徐々に始まった時期でもあった。

    (注釈 「吉宗の血縁族」は「没後二代続き」まで「三代目は水戸藩養子」である。)

    従って、江戸同行で活躍していた「200人の家臣団」と「次男青木六兵衛」や「伊勢郷士衆」(別動隊)等が、伊勢に「帰参の検討」(1781年開始)を考え始めた時期でもあった。
    1765年前後より15年程度の期間は、「江戸の伊勢屋」と「勘定方指導の青木氏」では難しい時期でもあった。






    > 以下「伝統シリーズー24」


      [No.340] Re:「青木氏の伝統 22」−「江戸の伊勢屋」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2016/04/29(Fri) 11:12:33  

    >伝統シリーズ21の末尾


    >兎も角も、「伊勢」では、「祖父の話」では、詳しくした「先祖伝来の由来書」成るものが「福家の青木氏」に在って、累代で「追い書」されていた事が判って居るので、「伊豆」と「越後」と「越前」にも在る筈であるから、「青木氏の歴史観」は更に広がる筈である。(伊勢は松阪大火で消失)
    >然し、これも「時間と時代との競争」であろう。

    >(注釈 「近江佐々木氏」の「青木氏に関する研究論文」が大いに役立っている。)

    >取り分け、「勘定方指導」と「江戸の伊勢屋」で動いた「享保の改革」の詳細については、「青木氏族」にしかわからないの“「誉れ」”には成るが、「伊豆、越前、越後」にも在るとは思われるが、「伊勢信濃側」から兎も角も判る範囲でまとめて続けて投稿して置く。


    以下「伝統シリーズー22」


    さて、「質流れ」の「令」は、当初、「青木氏」に関わらず「新しい商業組合の商法」と「古来からの商法」の混在する江戸での“「争い」”を避ける為に対策されたものであった。
    然し、皮肉にも「青木氏」に対しては、「江戸の名物」とされる「伊勢屋の金融業の質屋」が多かった事から、「質流れ」に関する要領を示した「令」を発した。
    (改革中期以降は主に市民の土地の地権や家屋の物的担保が多かった。)
    これは「享保の改革の活況化」が始まった中では、「阻害要因」に成らない様に、「不必要な混乱」を避ける為にも当初特段に発せられたものであった。

    ところが、享保期前の政権の失政で、主に「15地域の各地」でも同様な事が起こり始め、取り分け、「経済の疲弊」により「広大な土地の地権」が「質担保」と成っていたのである。
    この事により、この事から「商業組合」で成功していた「15地域の商人」の多くがこの「質流れ」に成った「地権の担保買い取り人」と成って居た事もあって、「社会の混乱」を避ける為にも、要するに「農地の地権」に対する「質流地禁止令」と成って仕舞ったのである。

    これが、「当初の発令の目的」に対する理解が幸いに得られ、結局は、「改革」に影響しない程度に収束して行き、「地権の令」は1年後に廃止と成ったのである。
    然し、幕府は、改めて「問題点の部分の要領」(下記)を決め直して、「元令の修正」を5年後に図り、更に「令」を緩和した事に依って何れの「質流れ問題」も実体経済に納まったのである。

    そこで、「質流れ問題」の基と成った「伊豆と相模」側にも、誰にも主張する事が出来ないもう一つの「人生の悲哀」を感じる「役目」が課せられていたのである。

    ・「伊豆と相模」の「伊豆」には、前段や上記した様に「伊勢―信濃の関係」と同じく、“「伊豆−相模」の関係”に在ったのである。
    筆者は、「伊豆」を語る時には、特別に論じて置かなければ成らない“「青木氏だけの歴史観」”があって、これ無くして「真意」が伝わらないし、「正しい青木氏の歴史観」が構築され得ないと考える。

    「伊豆」は「信濃」と同じく、「もう一つの目的」があったと観ている。
    それは、未だ江戸期初期の事である。
    上記で論じた「密教論の概念」の6か7の位置に居たとすると、“「血縁と云う概念」”も未だ強かった時期でもあった。
    それ故に、「信濃」も「伊豆」も、“この「概念を護る役目」を果たした”と観るのが妥当であろう。
    「江戸」に出て「新しい商法」が「江戸」で成功するかは、「新しい商業組合の商法」と「古来からの商法」の混在する「江戸」ではそもそも「完全な未知数」であった。
    「完全な未知数」と云うよりは、江戸では、吸収する土壌はあったにせよ、“「庶民金融」の「銭屋」”が発達していたとすると,むしろ、“「危険」“と云った方が適切な事であった。
    そんな中その事から、「信濃と伊豆の同族」(笹竜胆紋族)は、この「江戸の事」に於いても密かに“「この役目(人生の悲哀」を感じる「役目)”を懸命に果たそうとしたと考えられる。

    要するに成果を求める事が出来ない「賜姓五役」の“「子孫存続の務め」”である。
    これは人間に課せられた逃れ得ない「諸行無常の務め」である。
    尚更に、「青木氏」には「無常の役」と成ろう。
    他氏には「理解され得ない役」、或は「古式豊かな概念」であろう。

    現実に、その証拠と成る「笹竜胆紋」は、「伊豆と信濃の青木村」には、明治期33年の頃でも「青木村の村全体」で遺されているのである。

    (注釈 家筋・墓所・神社・菩提寺が笹竜胆紋である。「賜姓五役」の“「子孫存続の務め」”)

    そもそも、“「青木村の村全体」”と云う事は、この“「賜姓族」”と云う「存続概念」が無ければ、「1100年間の継続」と云う事は絶対に起こらない事である。

    “「将軍擁立と商業組合」を江戸で起こす”と云う事は、「一種の大賭け」であって、下手をすると「子孫滅亡の憂き目」も受ける事にも成り得る。

    (注釈 最悪の場合の「青木氏」を出さないその為の“「伊勢屋」”の屋号でもあった。
    先祖が営々と築いてきた「1千年の歴史の青木氏」に汚名を着せる事は絶対に避けなければならない宿命であった。)

    その中での事として、「信濃と伊豆の役目」の事は、決して見逃してはならない「青木氏の生き様の姿」を示しているものである。
    (相模は武蔵宗家の一端)

    「伊勢の紙屋」と「江戸の伊勢屋」の「屋号」しか出ずに様々な「公に成る記録」に遺されないのは、「皇親族・賜姓族」と云う“「格式」“を護ろうとする、且つ、“日本で一つしかない氏族”と云う「古式概念」からの事であった。
    依って、「本領や旧領地」を除いて、“「青木氏」”と云う「氏の名」を「公に晒す事」は「氏是」で憚られたのである。

    (注釈 「青木氏の氏是」 “日本で一つしかない氏族”と云う事で、「青木氏以外」には、最早、“理解はされ得ない概念”と成っている。
    否、「伝統」が、希薄に成って忘却し消えて、“何を無駄な事を”と「青木氏」でも理解され得ない事とも成っている事もあり得る。
    現在では、「身分とか格式」とか云うものでは無く、「単なる伝統の継承(ロマン)」を期待しているのだが。
    明治期中頃までは単なる「ロマン」では無かった。「生きる為の概念」の一つであった。)

    「15地域」の「地域の商業組合」と云う「自由を前提」とするものから進んで、上記で論じている「江戸」での「幕府の享保の改革」に用いられた「公的な商業組合」に成った状況下でも、「違和感」を感じる程に「賜姓族の氏の古式概念」が護られていたのである。
    この“「賜姓族の氏の古式概念」が護られていた“とするのは、江戸の当時としても、明らかに「二律相反」であった事に成る。

    (注釈 この事は「佐々木氏の資料」にも論じられている。
    この資料から観れば「幕閣の三役」の「累代家柄」でありながらも、“奈良期からの氏族を遺す”と云う「古式概念」とにも社会との間に「乖離」が生まれていた事を示す証拠である。
    「氏が持つ古式概念」と「社会が持つ概念」とには明確な「乖離」が生まれ始めていたのである。
    「近江佐々木氏」も同じ「乖離」に対する疑念を持っていた事を意味する。
    「自由を前提とする商業組合」を改革の中心に据えて「江戸の経済」を変えようとしている「青木氏」なのである。
    「完全な概念の矛盾」が佐々木氏以上に青木氏にはあった事が頷ける。)

    当然に、「江戸の社会」では、「古式概念」を護ろうとする「保守の概念」が一方でより無意識に働く事は云うまでも無い。
    況してや、「賜姓族」であると云う「氏族存続を役目」として生まれて来ている族であるとすると尚更であろう。

    これは、同じ同族である「秀郷流青木氏」との「二つの青木氏」の持つ宿命の「二律相反の掟」であった。
    最早、この享保期では、現実に日本には「二律相反の掟」を持っているのは「二つの青木氏」しか存続していなかったのである。
    関東の「賜姓族秀郷流青木氏」や「賜姓族近江佐々木氏」等は、逸早く「家臣の路」を選んだが、「皇族賜姓族青木氏」は「賜姓族の路」を外さず「郷氏の路」を選んだ。
    そして、「徳川家の家臣」では無いのに「商業組合」と「享保の改革」に突き進んだ。
    「二律相反」処の話では無い。これは「完全矛盾」そのものであろう。

    そもそも、室町期初期では「40の氏族」、室町期末期には「20の氏族」が、江戸初期には急激に「12の氏族」を切り,200年が経った享保期には無理に考えても、「血縁性」を維持していると云う事では「4の氏族」に成っていたのである。
    最大時は鎌倉期の200が何時しかその内の「賜姓族」は「二つの青木氏」だけと成り得ていた。

    調べた範囲では、他の「氏族」では、「氏族」としての「格式の慣習」は一応は保たれていたが、“「氏族」のあり得る「慣習仕来り掟」を維持せず”の名ばかりの「姓化した氏族」であった。
    取り分け、「家紋(象徴紋は変紋しない)」は、確実に変化していて、「氏族」としての最低条件の「血流」と「家紋」と「氏名」と「古式習慣」では無かった。

    この様な「数少ない氏族]と成った中で、「古式概念と伝統」を維持していた「信濃」と「伊豆と相模」が、前段で論じた「四家制度」で「伊勢と武蔵」の「伝統」をも護っていたのである。
    周囲の氏族が衰退、滅亡、断絶、姓化して行く中で、持ち堪えようと懸命に護ろうとしていたと観られる。
    そんな苦しい環境の中で、「享保の改革」の[商業組合」が江戸に来ると云う事である。
    最早、「伊豆と相模と武蔵」の関東勢は「終わりか」と考えたかもしれない。
    その「攻め手」の「伊勢側の勢い」では同じ意識を持つ同族では処置の仕様がない。

    恐らくは、この事は「伊勢側」では知っていた筈で、[護ろうとする戦略」が異なっていたと云う事であろう。
    「攻めて護ろうとする戦略」と、「固めて護ろうとする戦略」の違い差であったのである。

    従って、「攻めて護ろうとする戦略」を採る「伊勢側」に執っては、「自由を前提とする商業組合」の「中心の位置」にありながらも「世間」には、決して「青木氏」を表には“出さなかった”のである。
    “出せなかった”と云う事が真実であろう。
    出せば「江戸の商業組合」と「江戸での享保の改革」は、「庶民性の強かった江戸」では、「強い反発」を招き崩れていたと考えられるし、「青木氏」も「唯一つの氏族」では無く成っていたとも観られる。
    「固めて護ろうとする戦略」とする「同族」が江戸にいる限りは、醜い「同族争い」が起こり「青木氏の氏是」は護れなかった事に成っていた筈である。

    それだけに、「伊勢側の信濃と武蔵側の相模」と、「何れにも属する伊豆」の三者は、「共倒れの同族争い」を避ける様に必死で「影の役処」を護り通したのである。

    (注釈 「伊勢−信濃−伊豆」は完全な同一ルートの完全な一族であり、相模とも血縁を持つ。 その「相模」は四日市殿と同じで青木氏同士の融合族でもある。)

    それだけでも「伊豆と相模」は、取り分け、「武蔵」は、「自由な商業組合」には参加する事は概念的にもあり得ない事と成る。
    これは“「伝統の生き様」”の一つからでもあった。

    当然に、これは前段でも論じた事ではあるが、要は「商業組合」が推進している中でも、絶対に「青木氏の氏是」に固く縛られていたのである。
    それが、「伊豆、相模、武蔵」との、「共倒れの同族争い」を避ける要でもあった。
    当然にして、直接触れる「江戸庶民」にもであり、それは”「江戸の伊勢屋」”が精一杯の線で、「伊勢の紙屋」や「勘定方指導の青木氏」は論外であった。
    (現実には、「佐々木氏の資料」や「公の記録」に遺されているので洩れていた事に成る。)

    そもそも、当時の江戸の「享保の改革前の商法」は、「商業組合」とは{真逆の商法」であった。
    主に“「縁故」”を頼りに「営業」を拡げ、大名や御家人・旗本の家等に出向いての「店開き」をして注文を取り、年に「二回の付払いの商法」が主流であった。
    概して云えば、「伊豆相模の商法」は「商業組合」を一方で組ながらも、一面では一族(361氏)の大縁故を頼りにした「古式商法」にも頼っていたのである。

    「藤原氏と青木氏と佐々木氏の一族一門」をコネにして「古式商法」で、「商業組合」にせずとも充分に成り立つ社会の中に居た。
    これが、「享保の改革の商業組合」で庶民を巻き込んで「自由性」が高まった事から、この「縁故商法」は影を潜め始めたのである。
    一時、江戸は「混在する状況」が続き、明和期の頃の1765年頃から「菓子商」などの“「個別商法」”でなくては出来ない“「自由な商い」“が拡がりを見せた。
    逆に、この「古式商法」の“「縁故商法」”は無く成って行ったのである。

    つまり、「自由店舗」の「店舗先販売」(「個別商法」)が一般的に主流に成った事で、それも原因して「青木氏」を隠して「同屋号の支店」を拡げて「営業力」を高めたと考えられる事も出来る。
    (しかし、これが「成功要因」の一つに成った。)
    これに依って、「越後屋の商法」であった“「縁故商法」”では出来ない「自由店舗」の「店舗先販売」(「個別商法」)の“「バーゲセール商法」”と“「チェーンストア商法」”が当たり、京都や名古屋や大阪などにも出店する「別の形の大豪商」が出現したのである。
    (現在のコンビニ商法に類似の勢いに近い。)
    これは、即ち、「自由性」の高い「商業組合の発展」がもたらした結果であって、「江戸」は「画期的な発展」と成った。
    然し、この様に“「商業の改革」”が、「享保の改革」の中で「将軍擁立時の約束」の通り達成されたのである。

    (注釈 「大きな賭け」であった。失敗すれば必ず叩かれ、「青木氏」そのものが存続は難しく成っていた。「青木氏の歴史観」はここで消えていた筈である。)

    筆者は、「伊豆と相模武蔵の問題」を解決できたのには、この“「質流れ禁止令」”が、両者が生き残れたその“「象徴」”であったと観ている。

    つまり、“「江戸の名物」”と呼ばれた“「伊勢屋の質屋」”が多かったと云う事が“「享保の象徴」“を物語っていると観ている。

    そもそも、注釈としてこの“「質流れ禁止令」”の発端と成った「伊勢屋の質屋」に付いて特に先に詳しく論じて置く必要がある。

    この「令」の出す以前は、“「質業の商いの屋」”は、通称は“「土倉」(「石倉」)”と呼ばれていたのである。
    この事から、態々、「土倉」(「石倉」)と云う呼称が在りながらも、「土倉」の呼称が無く成り、“「質屋」”と呼ぶ様に成った経緯の意味が良く判る。
    そして、この「令の持つ意味」や「質屋の仕事内容」も変わっていた事も良く判る。

    この様に“「土倉」(「石倉」)”から“「質屋」”に成った経緯の事からも、“多かった”と云うよりは、正しくは“多くした”とする方が適切であった。(理由は下記)
    “「土倉」(「石倉」)”に無い“「異なった新しい内容」”を持っていたからこそ、それを認めて“違う”と認識して、江戸の庶民は、別に“「質屋」”と表現したと云う事に成る。

    (注釈 結果として、江戸の庶民は「質屋」と呼称する事には成ったが、「呼称の元」に成ったのは”「質屋」”では無く”「伊勢屋」”である。故に呼称は”「伊勢屋の質屋」”なのである。下記)

    当時の感覚では、“「違う」“は「質屋」を意味していた事に成る。
    その“「違う」“の内容は何なのかである。「青木氏の歴史観」に執っては実に重要な事なのである。

    それは「違うの根拠」を下記に詳細を論じるが、つまり、ベースには次ぎの関係が働いていたのである。

    「金融」→「土倉」≠「違う」≠「質屋」
    「江戸の商業組合」=「伊勢屋の質屋」=「質流れ禁止令」=「享保の象徴」

    以上の数式論が働いたのである。

    何故ならば、この「令」は「短期間の単なる令」ではあったが、享保期前には「土倉」で、未だ未開発部門の“「質屋」”(金融業)であって、「常套手段」としての「庶民の経済的手段」では未だなかった。

    注釈として、そもそも、この「土倉」とは、「担保」を預けて「金銭」を借りると云う「単なる金融業」で「銭屋」とは「一種の共同体」であった。

    そのシステムは、「質受」を得る時には「担保受け」と「利子を支払う仕組み」で、「担保」の保管期間を過ぎると「質流」として他に「売却」する仕組みであった。
    その「担保」を保管する「倉庫」が「土の倉」、或は「石の倉」であったことから鎌倉期末期からこの呼称と成った。
    この「一時的な短期金融」の「単なる当座の金融の仕組み」であった。
    (現在の質屋と類似する)

    ところが、享保の「伊勢屋の行った質屋」は、
    「土倉」の上(A)に、
    「組合業」(B)と、
    「銀行業」(C)と、
    「相談業」(D)と、
    「教育業」(E)と、
    「保険業」(F)と
    以上を組み込んだものであった。

    しかし、「享保の改革」が進み、「自由な商業組合」を形成した以上は、必然的に当然の事として、「自由の概念」の下に「新しい形の投資」が起こった。
    そして、この形の「金融の流れ」(A−B−C−D−E−F)が活発に成り始めた。

    (注釈 “「新しい形の投資」が起こり“と表現したが、”興した“が適切である。理由は下記)

    これを観た「享保の改革」を「市中町方」で進める”「江戸の伊勢屋」”は、これを支える為に「次ぎの手」を打った。

    「商い」に対する“「総合的なノウハウ」“を持つ「総合商・貿易商・金融業の伊勢屋」(指令は「伊勢の紙屋」)は、”「担保を取って融資する金融業」“から”「融資し担保を取る金融業」“に変換したのである。

    所謂、「商いを広める経済」を活発化させる「融資業の伊勢屋の質屋」を当然の事として江戸に広めようとした。
    これは当に妥当な「経済的な理屈」であった。

    この「総合商・貿易商・金融業」の「江戸の伊勢屋」が行う目的には、未だ「江戸人」に執って“「不慣れな自由」”を前提とする“「商業組合」の「商い」”を拡げる為でもあった。
    元々、その商業組合が根付く土壌が無い江戸市中に、「根付かせる」にはその「組合人」に対する“「商法の伝授」”が必要でそれが主目的であった。

    先ず、これ、即ち、「教育手段」が主体(「商法の伝授」)であって,この「商い」を興す場合、それに伴う当然に必要と成る“「貸付融資」”に主体が在った。

    つまり、“「担保」”で利益を挙げる事は、「商い」としてはその後の話であった。
    未だ、「両替商」も存在する事の中であり、況して、「金銭の預け借り貸し」を前提とする「銀行的発想」(明治期)だけでも無かった。

    「江戸の伊勢屋」が営む「伊勢屋の質屋」は、その為に、初期は“「信用貸付」”が主体であって、「育てる事」が目的であって、「教育手段」=「商法の伝授」でもあった。
    この「伊勢屋の質屋の影響」が江戸にどう出るかは、“「商業組合の経済」”に及ぼす「良悪の内容の事」から考えると、「未知数」で「未経験の部分」が多かった。
    「伊勢以上」の「全く新しい経験」であった筈で、「江戸の伊勢屋」は、勿論の事、「享保の改革」を主導する「吉宗と青木氏」にとっても、あくまでも「経済理論上の領域」でしか無かった。
    資料は見つかっていないが、「吉宗と六兵衛と伊勢屋」は何度も集まって非公式に「充分な検討」を加えたと考えられる。
    (「佐々木氏の資料」からも読み取れる。)
    それは況して、「銭屋を基本とする既存経済」がある中での理論であった事が原因していたのである。
    「銭屋の如何」で「江戸の経済」は大混乱に陥る事も充分に考えられた。
    「江戸の伊勢屋」と「勘定方指導としての青木氏」に執っては、「既存の銭屋」を活かしての「質屋の金融」である事が大前提であった。

    これは極めて難しい経済理論であった事が判る。
    当に「未知数」で「未経験の部分」である。
    そこでこの「三者」は考えた挙句に「ある事」をこの「伊勢屋の質屋の仕組み」(上記BからF)に付け加えたのである。
    これが「画期的な手段」であった。現在でも画期的である。
    それは、要するに判り易く言えば、”「組合式コンサルタント金融」”であった。
    この”「組合式コンサルタント金融」”の初期には、“「信用貸付」”であった事から“「商い」”を育てる事に主眼が置かれていた。(詳細下記)
    これは、この「享保時代の経済の有様」を物語る「重要な金融要素」であって「パラメータ」であった。

    この事から考えると、結果として、「享保期」は、「町方」に喜ばれる「良質の経済手段」であった事に成るのだ。

    もし「良質の経済手段」であったとするならば、それはどの程度であったかを検証すると次ぎの様に成る。

    それを顕著に物語る事がある。“「江戸の伊勢屋の質屋」と「犬の糞」”は”「江戸名物」“と庶民から呼ばれ、「江戸川柳」にも出て来る程であった。
    ここで、この事に付いて更に検証して観ると次ぎの様に成る。

    遺された記録から、その「質屋の数」も全体で「2800軒弱」であって、「江戸の伊勢屋」が経営する「伊勢屋の質屋」は、その7割程度以上であったとしている事から、「約1950軒」と成る。
    残りは、江戸の伊勢屋の質屋では無い質屋であった事に成る。
    実は、この残りの質屋に付いては訳があって下記に別に論じる。
    江戸には、「江戸の民100万人」と俗に呼ばれている。
    恐らくは、無宿者を除けば「80万人弱」であったとしているので、80万/2800 ≒286 80万/1950≒410 と成る。
    そうすると、「江戸の質屋一軒」に対して庶民286人から410人の範囲を対象にする程の驚くべき「質屋の数」であった事に成る。
    つまり、云い換えれば、「一町」に対して「3から4軒」があった事に成る。

    これでは普通の経済状況ではどう考えても多すぎて経営は無理であろうが、存在したのは事実である。
    とすると、その無理を成し得る程に経済収支が極めて盛んであった事に成る。
    当に、パラメータであった。

    そこで、「全国の人口」は「4000万人」と云われていた事から、「主要国66国」と観て、平均で「一国に55万人」、そうすると、江戸は25万人以上が単純平均より多い事に成る。(支藩小藩含まず)
    然し、大小の国の「国の石高差」から観ると、平均で32万石から33万石が平均であった。

    江戸期は「1石−1年−1人の原則」に従っていたので、当時は「バイアス最大10万」があったとされていて、「人口比」(55万人)と「石高比」(33万石)が一致せずに「平均通り」には成っていない。
    平均比では22万石、或は、22万人の差額が生まれる。

    ところが、「江戸」は80万人(無宿 100万人)に対して、「実質の石高」は102万石であった。
    「1石−1年−1人の原則」に合致するので、平均比で「+25万人分」多いのに無理な都市では無かった事が判る。

    (注釈 「幕府」は、直轄領を含めて450万石(享保期)で、武蔵、伊豆,相模、上野、下野、上総、下総の7国から成り立っていて、250万石であった。
    「家康」が実際に支配していたのは、当初は全体で100万石で、後に200万石に、綱吉時は400万石、吉宗時は450万石、最終は463万石に成った。
    後の213万石分は家臣に分け与えた。
    その「江戸」の範囲では「102万石」であった。)

    (注釈 分布は、関東103万石、畿内68万石、東海道73万石、北陸28万、東北37万石、中国41万、 四国九州12万石と成っている。
    これに御家人と旗本領が存在し、300万石、大名領貸地と奉行支配領とで、概して合算石領は800万石であった。)

    従って、(無宿100万人・80万人−102石 「1石−1年−1人の原則」に合致)の「江戸」には石高では、平均差での人口では、「最大47万人」は多い事に成る。
    然し、「単純平均差25万人」にすると、「バイアス最大10万(人・石)」で「35万人目安」と定められる。

    そうすると「江戸の質屋 1軒」に対して、286人から410人の範囲では、「35万人−47万人」として、最大で「35万/286人」と「47万/410人」では、「1250軒から1150軒」分である筈である。
    これに対して、「江戸の質屋」(2800軒 伊勢屋の質屋1980軒)は、全国平均より明らかに多い事に成る。

    「江戸の質屋 1軒比」は、「多い事を前提」としている数字なので、恐らくは「平均」に対して1150軒/国の程度以下と見做され、2800軒/1150軒=2.5倍と成る。
    「人口比」=「石高比」であった事からでは、80万人/33万人=2.5倍と成る。

    従って、「質屋比」=「人口比」=「石高比」=2.5倍であった事に成り、検証は2.5倍で一致する。

    「質屋」としては、全国平均は、上記した様に、関西と関東の経済機構が異なっていたので、実際は、「関西<関東」と成る。
    この差が「バイアス10万」(人・石)とされていたので、関西では、550軒程度、関東では、900軒程度(土倉含む)であったと観られる。

    (注釈 関西では主に「土倉」が主体であった。地方に依って、「石倉」と呼んでいる地域もある。)

    注釈として、この「吉宗時の250万石」は、土地面積が同じであるのに、綱吉時より「+50万石」の「幕府財政力」が20%も増加していることが判る。

    「享保の改革」で「市場の力の活性化」を成しただけではなく、「幕府の財政力」も増やしたのである。
    「家康の時期」からすると、これも2.5倍に成る。

    これで異常なほどに如何に「江戸の質屋」(伊勢屋の質屋 AからF)が多かったかが判る。
    更に云えば、経済が活性化していた証拠でもある。
    最早、「享保のリフレーション経済」は「伊勢屋の質屋経済」と云っても過言では無かった。

    注釈として、1765年以降には、3割弱程度の内には「伊勢屋の質屋」ではない「質屋 A 土倉」が再生したとあるが、この3割の店舗と云うのは「町方の衣服」などが「質担保が主流」であった事から、当に「町方金融」であった筈である。
    公的記録説は「土倉と質」との判別が付いていない様で、これは元から存在した「土倉」ではないかと観られる。

    多くは「屋号」を「伊勢屋の質屋」に肖って先ずは何らかの理由があって「伊勢屋」に変更したと観られる。(下記)

    結局は、BからFでは無い「一般金融の町方金融」は、「850軒程度−950人/軒」であった事に成る。

    これでは、逆に間違いなく「過当競争」と成り得る筈で、倒産して淘汰される数になった筈であるが、淘汰の結果がこの数字であるのだ。
    この数字が保たれたと云う事は、享保時代には如何に経済が活性化していたかは判る。

    享保期前の疲弊した経済の中では、「土倉」の「質入れ」で事を凌いだにしても「質流れ禁止令」があれば「買戻し」が無い限りは「質業」は成り立たない話である。
    従って、現実に成り立たなかったが、これは「享保期の活況化」の中でこそ成り立ったのである。

    上記した様に、江戸期には三度全国の全国石高調査をしているが、1633年、1644年、1702年では、「最大100万石差−70年間」と成っていて、この差は主に生産高の増大では無く、
    絵図面による「申告調査の査定差」に依るものであった。
    ところが、享保期の改革期間40年とすると、実質の「+50万石」も生産増加させている。
    何と一国以上の石高(平均32万石)を増やしたのである。
    この様に「享保期前の石高」では全く変化していない事から、“経済が疲弊し続けていた事”が判る。

    上記の数字は、「商業組合方式」に依る「享保の経済」が如何に「活況」を末端まで取り戻したかの「パラメータ」と成る。
    つまり、如何に「良質の経済手段」であったかを物語る事の証明と成り得る。

    故に、「初期の信用貸付」で「損失」を興しても経済を活況させ得れば、後期は「地権などの物的担保」で「損失」は取り戻せる理屈と成っていたのである。

    ところが、「青木氏の伊勢屋の質屋」は、「本来の目的」から「損失覚悟」で市場に金銭を放出したのである。
    この「金銭・金融」は「指令所の伊勢の財産放出」(伊勢の紙屋)であった事に成る。

    これだけの「財貨」を市場に放出出来る者は、享保前の不況から居なかった筈で、15地域に「商業組合」を構築した「伊勢の青木氏・伊勢の紙屋」しか無かった筈である。

    これは、「伊勢屋の質屋」が行った事は、一見して「初期の段階」では明らかに「インフレ政策」である。
    「リフレーション策」では無い様に観える。

    ところが、これには一つだけ違っていた。
    それは、”「質屋」(AからF)”である。

    単純に「市場活性化」の為に、元より「金銭」を放出するだけでは無く、「質屋」と云う「金融−担保」の“「質草」”を取る事に在った。
    この「土倉」に無い“「ある種の質草」“に意味があったのである。
    「初期の段階」では、確かに「信用貸付」で放出したが、これには実は「ある手立て」を講じて居た事が判って居る。
    それは、一件毎に“「商い指導」”をしていたと云う事であった。
    「本拠の本店の伊勢屋」が行っていた事が資料より判って居る。

    つまりは、本拠本店の“「伊勢屋」”の“「AからFの質屋」”なのであって、故に、根本的に「土倉(A)」と違うところから、“「伊勢屋の質屋」”と呼ばれた所以なのである。
    「伊勢屋の質屋」「質屋の伊勢屋」と態々呼ばれる確固たる理由があったのである。

    これには「単なる屋号」だけでは無かったのであり、「伊勢屋が経営する質屋 (AからF)」に意味があって、1765年以降の「質屋の伊勢屋」の意味では決して無かったのである。

    この意味から、「信用貸付」の対象は、「生活に困った事からの質屋」では無く、新たに「商い」をする、或は、「拡張すると云う商い」や「生産を増大する」や「人を雇う」等に対して「融資」をし、その「信用貸付」の代償として「商業組合の組合人に成る事」を前提としていた事が判っている。

    融資しこの「組合人」に成る以上は、放漫経営で倒産と云う事は防がねばならない。
    当然に、「未知の江戸商業組合」である以上は、その「商法を教えて導くと云う手段」を採っていたのである。
    その「訓練」として「教材」として、全ての「職能集団を含む商業組合」である限りは、その「商い」に関わる「仕入れ」から「販売」等までは、この「組合の中」で保障される事になり、「商い」は安定する事に成る。

    その「教育と訓練と指導」を受けて頑張りに依って“「商い」”が安定すれば「利益」が出て、「利息分」は当然に支払える事に成る。
    又、「教育と訓練と指導」の成績が良い場合に依っては、「融資」を放免して「暖簾分け」と云う手段で「グループ企業の伊勢屋ホールディング」を形成する一員にも成れる仕組みでもあった。

    これは、「販売の商い」だけではなく、その元に成る「商品」を作る「職能集団」にも適用される仕組みであって、「販売の商い」だけが先行しても「商品」を作る職能の工程も同じように成らなければ成り立つ話では無い。
    「職人を育てる」と云う事でも同じなのであった。
    その「組合人」に成った彼らに“金融をするというシステム”を広く構築したのである。
    その為に、江戸は「匠の町」と呼ばれる様に成った。
    念の為にこの「匠の職人」の「姓名」(家紋)を調べると、「伊勢紀州の姓名や家紋」が多いのは、この「享保の時の職能集団」の所以なのである。(下記に列記)

    この様に、「単なる金融業」では無く、「コンサルタントも行う金融業」で、「商業組合の組合員」として扱われ、「商い」を裏で支える「教育機関と補償機関」の役目も「伊勢屋の本店」は担っていたのである。
    だから、“「土倉」「石倉」”では無く、“「質屋」”なのであって、本来は「伊勢屋が営む質屋」には先ずこの意味を成していた。

    ここで、上記の事もそうであるが、もう一つこれに関連して「青木氏の歴史観」として知っておくべき重要な事がある。
    前段の「達親の論」の処でも、一部を論じたが、これに繋がっている「重要な歴史観」なのである。

    本来、この「質の語源」は、中国の五世紀初めに仏教寺が行った「仏事」から来ている。
    その「仏事の事柄」から、“「形あるもの」”という行為の語源から発していて、その仏事行為を”「質」”と呼んだとされている。
    その”「質と云う仏事行為」”が、後に大和では「物」とか「本元」とか「内容」とかに広域に広がって行った言葉である。
    その元は全てこの”「形ある物」”の言葉から来ているのである。
    そこで「仏教伝来」によって、「五世紀の大和」でも、この「仏事行為」が「青木氏」等の「氏族の主宰する密教」に依って行われる様に成った。

    この「寺が行う密教の仏事」とは、「貧困の民」を集めてに食事を与え、職を与え、心を癒し導き、「人」として自立さる事であった。
    これを「質」と「奈良期の仏教界」では呼ばれていた。
    つまり、“「人」”として“「形あるもの」”に導く事、所謂、“「人」として本来あるべき姿にする事“と云う意味の事で、「人の質」を作り上げると云う事から、この「仏事行為」を「質」と呼ばれる事と成った所以なのである。

    これは「密教の古代浄土の教え」であり、「仏教行為」を行うに当たり、「密教の富裕者」(福家)から「浄財」を得て続けられた「質」であった。
    この「質の考え方」を「皇族賜姓族の青木氏」の「密教の教え」の中に継承されていたのである。
    この「浄財」を「青木氏の達親」(「青木氏の密教浄土宗」)が行っていた。

    (注釈 「青木氏」は一族から「仏教僧侶」を出し、その「青木氏の僧侶達」で「古代浄土の教え(浄土宗の原型)」を解釈して「青木氏密教論」を作り出し、一族一門を導く役目を負っていて、その「密教の仏事」の「とりまとめ役」の「達親」(一族総代)を務めるのが「福家・宗家」であった。

    「青木氏の記録」では、この「質に依る仏事行為」は、鎌倉期後期まで続けられていた事が判って居て、公的に成っている仏教の「密教の達親」に依る「仏事行為の質」の記録も鎌倉期末期と成っている。
    然し、「青木氏の密教」の中では「青木氏の慣習」としては生きていたが、他氏の密教では「下剋上と戦乱」にて「質の仏事行為」は衰退したと記録されている。

    そもそも、依って、元来は、この”「質」”とは「金融手段」そのものを意味するものでは無く、室町期末期まではほぼ消えていた言葉の意味であった。
    江戸期初期に入り、「密教」を廃止させる「顕教令」で、世間にはこの「密教の仏事行為と達親」は無く成った事に成った。
    然し、「青木氏」の中では「密教」は密かに維持され、「質による仏事行為」と「達親の慣習」は維持されていた。
    中でも「伊勢の二つの青木氏」の中では、取り分け、維持され「伊勢紀州域の本領域」には、この慣習が江戸末期まで敷かれていた事が判っている。

    「伊勢の商業組合」の根源は、この「密教の達親」に依る”「質による仏事行為」”であったと考えている。

    (注釈 前段でも論じたが、年に一度、伊勢紀州の全本領から松阪の菩提寺と福家に集まって運動会の様な大集会を行った事は判っているが、この「質の行為」によるものから「密教慣習」として維持されていたものであった。
    それには、「中国の寺」が「質の仏事行為」として行った慣習の中に、記録に依れば、寺に民が大勢一度に何度も集まって慈善行為をしたと記録されているので一致している。
    この荷車に積む程の「土産物」を持たすなどの事をした「松阪での大運動会」が「質に依る仏事行為の祭事」であった事に成る。)

    「伊勢屋の質屋」の“「AからFの行為」“が、即ち、”「形あるもの」“にして行く「工程の行為」であって、これが「質・しち」が持つ「正しい意味の事」であって、「5世紀頃の密教浄土宗寺」が「氏の民」に行っていた「救済事業」(質と呼んでいた)から来た言葉であることは間違いは無い。

    これを「商業組合」と共に「伊勢」から「江戸」にも持ち込み、「商業組合」と組み合わせた施策として江戸市中に敷いたのである。
    それには、「銭屋」と「土倉」と云う既存の「金融構造」を壊さない様に考えた挙句の施策であって、故に、上記で論じた様に、異常なほどの数(2800)の「伊勢屋の質屋」が江戸市中に50年の間に急激に拡げたのである。

    筆者は、ところで、店舗数は、当初は「店開き」での「2800店舗」では無かったと観ている。
    つまり、「江戸の伊勢屋」そのものが、各地でこの「仏事行為の質」を開催した事から始まったと観ていて、その内に、「質効果が高い地域」から「伊勢屋の店舗」を出して行く形に変えたからこそ“「伊勢屋の質」”と呼称される様に成ったと考えられる。
    各地に拡販した「伊勢屋店舗に依る質」が“「伊勢屋の質屋」”の呼称に変わったと考えられる。
    「単なる仏事行為の質」と「商業組合」との「組み合わせ」の結果として「質・屋」としての表現に変わったと成る。

    「伊勢の紙屋」等の「青木氏密教の質」は、奈良期から長い間の土地に根付いた「共通の慣習」として、又、「伊勢郷氏の役」として果たして来たものであって、その「質の結果」として強い“「伊勢絆」”が生まれ、「郷士衆や本領民の賛同」も得られて「商業組合」なども成す事が出来た。
    然し、“「商業組合」”を押し出した“「江戸」”には根幹と成るこの“「絆」”が無かった。
    「江戸の伊勢屋」との間には全く“「江戸絆」“が無かった。
    異質の「江戸」に「商業組合」を敷いて「享保の改革」を成すには、“「江戸絆造り」”が必要であった。
    「江戸の伊勢屋」は、先ず「仏事行為の質」の“「伊勢概念」”で「江戸の民」に合った“「江戸絆造り」”を試みようとした。
    「商業組合」を通じて、上記のAからFに依る事で“「質」”を敷いて溶け込んで“「質の絆」”を試みたのである。
    上記した様に、「青木氏経済論」のみならず「青木氏概念論」としても「異質の江戸の民」に於いても“「伊勢概念」”は浸透し、最早、“「伊勢概念」”は“「江戸概念」”と成り得て、難しいと観られた「享保の改革」でも“「江戸絆」”が構築されたのである。
    これは“「伊勢の質」”では、「伊勢」の表は「青木氏」で、裏は「紙屋」であった。
    ところが“「江戸の質」”では、「江戸」の表は「伊勢屋」で、裏は「青木氏」であった。

    要するに「青木氏の位置」を逆転させていた。
    これは、まさしく上記の「青木氏の氏是」にもよるが、「異質の江戸の民」には「江戸絆」としては「青木氏」は馴染まないし、馴染む所縁は「青木氏」には全く無い。
    当然に、「江戸の反対勢力」は、この辺の“馴染まないし、馴染む所縁は全く無い”を信じて、“何時かは失敗するだろう”と観ていた。
    これは、「青木氏」のみならず「吉宗」にも向けられていた事が反対勢力と観られる商家に記録として遺されている。
    「江戸の反対勢力」は「異質の江戸」には「商業組合」は「経済論」のみならず「概念論」としても“「絆の概念」として浸透しない“と観て多寡を括っていたのである。

    ところが、「反対勢力側」からすると、“「思いがけない秘策」が持ち込まれた”と云う事であったろう。
    それが、「仏事行為の密教の質行為」であった事は、彼等にとっては概念外で理解外の「未知の事」であった。
    既に「氏族の密教」の中であって、「姓族の顕教」には無い事でもあり、且つ、「質の慣習」としても遺されているものであれば別だが、既に鎌倉期には消えている「特定の慣習」であった。
    然し、「15地域の密教の青木氏」に執っては、極めて氏の中では当たり前の「古来からの絆構築の慣習」であったが、「江戸の反対勢力」にとっては思いも依らない「発想行為」であったのだ。
    唯、この事は、「伊豆と相模と武蔵の青木氏」は「氏の慣習」としては知り得ていた。
    然し、「銭屋と土倉」の中での「既存経済」として発展してきていて、上記した様に参画していない立場では黙秘する以外に無かった筈である。
    「伊豆と相模と武蔵の青木氏」に執ってもまさか「生活の一部」に成っているこの「仏事行為の質」までを敷いて来るとまでは思わなかった筈である。
    これを敷かれた時には、「伊豆と相模と武蔵の青木氏」のみならず「江戸反対勢力」も“勝負は決まった”と考えた筈である。

    この“「江戸絆造り」”は、これより進み、“「伊勢絆」”とは違った“「江戸絆」”が一挙に進み始め、1740年頃までには「江戸庶民」の間には、完全に“「江戸気質」”と云う形で“「独自の絆」”が「江戸文化」として“「江戸概念」”として確立していたのである。
    約25年程で大急激に広がった事を示し、まさしく「すごい事」であって「江戸市中町方」に大賛同を如何に得ていたかが解る。
    それが、この頃に詠まれた「江戸川柳」にまでにも遺されて読まれる程に成っていたし、流行語としても庶民の中に浸透した“江戸の名物 「伊勢屋の質屋」と「犬の糞」”である。

    ところが、吉宗没後の1788年以降は、「江戸の伊勢屋」から離れた処で、一般が「伊勢屋を真似た金融業」を出したのだが、この上記の「意味合い」が全て削除されている「単なる質屋」(Aの土倉に誤解した)に変わって行った事が遺された資料から判っている。
    その為に、「リフレーション」に必要な「経済サイクル」が無く成り、安定を崩し、「リフレーション」から「インフレーションへ」と変化して行ったのである。
    これが、吉宗没後(1761年)は、「享保の改革」(1751年)の「路線の勢い」は1781年頃まで続いた。
    然し、ところがこの時期から伊勢から来た「青木氏や郷士衆や一部家臣団」が伊勢紀州に引き上げ始め約7割が帰省して仕舞ったのである。

    (注釈 1781年頃から1788年頃までに7割もの「改革」に携わって来た者等の民間と家臣が一斉に帰省して仕舞うと云う現象はどうみてもおかしい。
    取り分け、「吉宗」が見込んだ「孫の家治」が晩年に政治を放り出し田沼に任した事に疑問が残る。
    普通なら残る筈であろうし、不思議な事は「紀州藩」も「紀州改革」に成る様に正式にこれらの者の帰国後の専門職を生かした「適切な職場」を用意していた。
    何かがあった筈である。)

    吉宗没後、「吉宗の改革意志」を引き継いだ「家重(1760年)−家治(1786年)」と二代続いたが、取り分け、「家治」は「吉宗」に直接に経済の教育を受けた。
    然し、晩年に成って「田沼意次」に政治を任せ、「株権」で出来ている「商業組合から冥加金」を取るなどして「折角の商業」を低迷させ、経済状況は更に悪化させ失政した。
    結局は「意志薄弱な家治」は「改革意志」を体現しない「一橋家」より養子を迎えて「家斉」(1787−1837)に任した結果、遂には、1788年以降には「経済不況」に陥ったのである。

    それは「吉宗の後」を引き継いだ「幕府」には、「享保の改革」の「商業組合の根底」にはこの「伊勢概念の伊勢絆の質」から変化した「江戸概念の江戸絆の質」が存在していた事を充分に理解できていなかったのである。(記録に遺されている。)
    故に、この記録から租借すると、一見して「伊勢屋の質」の策は、「吉宗以降の為政者」には“市場に金銭を放出するだけなら「インフレーション政策」だけ“と観られていた様で、執政の田沼は「冥加金」を採って「商業組合の動き」を抑え込んだし、続けて執政の水野(1841年)はインフレに成るのは「商業組合の独占」に依る原因として「商業組合の解散」を命じたのである。

    然し、「吉宗の享保の改革」では、「AからFのコンサルタント等も行う金融業」で、「商業組合の組合員」を育てて、「販売と消費」の「バランス」を重視する「リフレへション政策」であって、それを強化される結果と成っていたのが「江戸絆の構築策」であった。
    然し、この事が、「商業組合方式」は、未だ、矢張り、治政の後継者には「思考外の事」であって、「能力外の事」でもあり、「理解外の経済理論」であった事から理解されていなかったのである。
    当然に、この理論を見落とせば、堰を切った様に「インフレーション」に走るは必定であって、現実に間違いなく不況に陥ったのである。
    享保期前の1640年から1670年頃は、「楽市楽座の組合」の株権に依る経済が幕府の脅威に成るとして「願株」に対して統制する様に動き遂には「株権の禁令」を発していたのである。
    ところが、享保期は逆転して、禁止されていた「願株」(届出の民間株)に加えて、「低い冥加金」を納める「御免株」(幕府の承認株)も認めて奨励した歴史を持っていたのである。

    そうして、上記の組合の禁令政策の傾向の事から、「政治の方向」は1788年以降は、幕府は「家斉」を擁して「水戸藩の影響力」(インフレ策派)に入れ替わった事が、「帰省派」が起こった最大の原因と観られる。
    この事に依って、「江戸の景気」は1781年、「全国の景気」は1788年を境に急激に低下したのである。
    従って、上記の疑問の答えは、「リフレーション策派」が「田沼政治」の時から一掃されると云う力が働いたと観られる。
    上記した様に、この時の「紀州藩の対応」も不思議であるが、この時には未だ「吉宗の血縁を持つ藩主」であった事から、「インフレーション派」の水戸藩の一橋家が「将軍家」と成った時点で「紀州藩」は態度を明確に決めたと云う事であった。
    結局、江戸執行組の者は、“「家臣の引き上げ」”の帰省を正式に実行したと云う事に成った。

    この「家臣団の引き上げ」が起こる前に、「勘定方指導」の「青木氏一団」も引き上げに伴って、「江戸の伊勢屋」の一団と「郷士衆の一団」も引き上げる事と成った。
    江戸に残ったとされる3割は、「吉宗の田保家と保科家の家臣」として残留した「若い末裔」であった。
    又、「伊勢屋を任せた家人」としての「若い末裔」であった。
    更に、「職能集団の差配頭の郷士衆」として「若い末裔」であった様である。
    「江戸の伊勢屋」では、終局、「江戸末期の1840年後半」(株権に依る商業組合の禁止)に規模を縮小して、「125年間の江戸の歴史」を閉じている。(幕末1866年)

    この事から考えると、「江戸の伊勢屋」の「商業組合」は「商いとしての主店」では無かった事に成る。
    そうするとあくまでも、「伊勢の紙屋」が存在する限りは、“「享保の改革で江戸で日本を救った」“と云う事に成るだろう。

    この様に成ると、現在の「日本銀行的な役目」以上の「政経的な事」も「民間の商家」の「伊勢の紙屋」と「青木氏の伊勢屋」と「伊勢屋の質屋」が“「幕府」に代わって果たしていた”と云う事に成る。
    とすると、「青木氏の伊勢屋」を引けば、つまり“「日本銀行」”が無く成った経済は成り立たなく成るのは必定である。
    それが「家斉後の幕末までの政治と経済の衰退」に繋がった事に成る。

    もう少し話しを戻して、これに追随し、「京」や「難波」等もこれに見習って発展する様に成って、「1740年−1766年前後」には、遂に時期は今として、“「京の出店」の「6地域−3組」”が本格的に動いたのである。
    記録を観ると、この時期から様子が変わり“「本格的出店攻勢」“に出たのである。
    取り分け、「讃岐青木氏」には顕著であった。

    つまり、上記の“「伊勢屋の質」”に依って“「江戸絆」”が確立した時期に動いた事に成る。
    この様に、この「京の出店の時期」で観て見ると、少しずれていて享保期の1741年頃から1766年頃の出店が多い。

    ここで「京の老舗名店」の由来を調べると、次ぎの様に成っている。
    「6地域−3組」に関わる老舗はこの時期前半に集中している。
    これは間違いなく「江戸の様子」を観ていた事に成る。
    「讃岐青木氏」は、直接に「伊勢の紙屋」との「専用廻船」を借りての「江戸輸送」をしている事から、「100%の生情報」を持っていたのである。
    逆に云えば、15年程度遅れている事から観ると、「江戸の反対勢力」と同じ理由で「江戸の成功」を当然とは考えられるが若干疑っていた事にも成る。

    これは、「教育手段」=「商法伝授」が浸透して整い一段落して、次ぎの段階の「活用手段」(手形貸付)へと移行期に入った時期でもあった。

    移行期
    「教育手段」(信用貸付)=「商法伝授」→「活用手段」(手形貸付)=「商法実地」

    つまり、「伊勢屋の質」が効果を発揮し始めた時期でもあった。
    「組合員の教育」が整い「暖簾分け制度」も軌道に乗り始めた時期でもあった。

    これは全国的な改革の波及が進み、その成果が「京」にも「難波」にも少し出始めたと観たと云う事にも成る。

    因みに、江戸で「伊勢屋の質」が効果を発揮して大きく影響を受けたのが、「6地域−3組」であったが、この現象を顕著に表した「讃岐青木氏」を例にしてその影響具合を論じて観る。

    唯、「讃岐青木氏の京出店」には、論じて置かねばならない不思議な事があった。

    それは、「商業組合の単独の京主店」である事は前記で述べたが、「出店の商売種」が違っていた。

    普通は、“「瀬戸内三白」や「瀬戸内三品」を活かしての出店”と先ずは考えるが違っている。

    それは、「和菓子」等の今まで云う、所謂、「チェーン店」(商業組合の連携店)である。
    (個人情報 詳細不記載)

    これは“「瀬戸内三白」や「瀬戸内三品」”からは予想が着かない。

    これは、“何故なのかである。“
    「瀬戸内三白」や「瀬戸内三品」は上記した様に、「需要と供給の関係」からこれ以上に「商い」する事には意味が無いし無理が伴う。
    何故ならば、既に、江戸期に起こった「地域別出荷」に沿って「需要>供給」に成っていた事から、「出荷出店」は「商業組合」に無理な生産を強いる事に成るである。
    従って、「出店の商品種」を調べて観ると、「京出店」が「瀬戸内三白」や「瀬戸内三品」そのものでも無く、又、これを完全に生かしたものからも「京出店」されてはいないのである。

    この「京出店」した“「チェーン店」(商業組合の「関連店舗の連携店」)”の「菓子本舗」の大元(老舗元 296年)に成った店舗は、何と、”瀬戸内の「海産物の加工品」(天草 寒天商品)”からであった。

    そして、「老舗の年数」を追う毎に、それ(寒天)を多く使う「菓子製品」に店舗拡大が拡がった様である。

    これらの店舗は、「屋号」を同じにして、その「関連店舗の連携店」を「商業組合員」(主に讃岐と安芸 伊予は一店舗)が受け持つシステムに成っていた様である。

    (注釈 「関連店舗の連携店」とは、「ある品」を基にそれを使った関連する「各種の商品」を開発して連携付けて出店した店舗群の事)

    確かに「同屋号」ではあるが、「扱い品」も関連はするが異なっているし、何より「関連店舗の連携店」の店主が「讃岐青木氏一族」(寒天店の最老舗296年から和菓子店舗265年)だけでは占めてはいない事である。

    唯、結果としては「店舗拡大」では、「讃岐」は「安芸と伊予」の「商業組合との連携」を図ったと観られる。

    そこで、もう一度この「関連店舗の連携店」(チェーン店)の個々の「扱い商品」を良く観て見ると、次ぎの様に成っている。

    「瀬戸内三白」(「砂糖、綿、塩」)の「砂糖・塩」と、「瀬戸内三品」(「胡麻、大豆、煙草」)の「胡麻と豆粉」が生かされる商品と成っている。

    「砂糖・塩」が基本調味料に、「米粉」を基本に「胡麻粉と豆粉」が原材料にした商品群で、これに「寒天」が「つなぎ材」と成っている。

    (注釈 「寒天」を「単一商品」として「ハチミツ」や「酢」や「醤油」や「胡麻」や「きな粉」や「カツオブ粉」等の各種の調味料を塗した商品を大元店で出していて、当時として「大ヒット商品」と成った事が絵画や川柳や狂句等にまで詠まれているのである。)

    そもそも、「寒天」そのものは、「トコロテン」(心太)から改良されたもので、残る記録では、京伏見の旅館で1685−1690年頃に商品化されたと一般に云われている。
    然し、この説は「後付説」の商い上の「偽飾説」であろう。

    それは、「天草の歴史」を調べれば違うと云う事が直ぐに判る。

    そもそも、その「天草(テングサ)」は、平安期の初めころから使われていた「海草(海藻)」で「江戸の末期」までは当初は”「肥料」”に使われていたのである。

    当時は、“「平安言葉」が遺る地域”、況や、“「京の文化の影響を受けた地域」”、即ち、 「瀬戸内全域」、と「紀州伊勢奈良域」では、「天草」の事を“「てぐさ」”や“「おごのり」”と呼ばれていた。
    古代の三史書の「延喜式目録」にも記録されている事である。

    つまり、この「平安言葉が遺る地域」が「良質の天草生息地」であったからこそ、この古い「てぐさ」や「おごのり」の言葉が遺されて来たのである。
    上記の「天草−心太−寒天の経緯」の通り、“「肥料」”として土地に捲かれていた「天草」が次第に変化して「雨水と寒暖差」で「心太」(産地では“ごり”と呼称 ゲル状より固めの「植物性たんぱく質」)の様に成っていたものを工夫して「困窮時の食料」として「瀬戸内全域」、と「紀州伊勢奈良域」では一時、使われたりしていたとある。

    そもそも、この「天草」は江戸期までは日本全国で、関西域では「紀州伊勢域」が、関東域では「伊豆半島域」が良質の「主要の天草生産地」で、「黒潮の流れる暖流域」が生産地であった。
    ここは、云わずとも「二つの青木氏の本領地」である。

    (注釈 「天草」に付いての「口伝や資料や伝説や慣習や経験や資料や商品」の宝庫で「二つの青木氏」が情報として持つ以上の氏は無い。
    筆者の幼少の頃の「天草」には、「自家製の肥料」に、「自家製の天草から心太」にして食する等は珍しい事では無かった。
    寒天以外にも多くの使い道は有った。
    平安期から「蜜柑、柿、桃、筍等の主産地」であった事から、これらの「畑の下地」に「肥料」として理に叶っている事から昭和期まで盛んに使われていた。)

    この「黒潮の流れる暖流域」の「主要の天草生産地」では、この「享保期前の50年前」から起こった“「飢饉」”にも食された事が記録や口伝で判っている。

    そこで、江戸期に成ってこれを「各地の庶民」は「料理」に使える様に色々と工夫して試みたらしい。
    その「試み」が良かったと観られ、各地に広がり「食」に煩い「京の庶民」にも人気に成った。

    この「試み」で、“臭みも無く極めて総合的な栄養が豊富であった事”から瞬く間に好まれたが、その海産物の「天草」の「第二の生産地」の「瀬戸内の三地域」では、これを契機に紀州伊勢(肥料)に代わって「食料用の良質の生産」に着手した。
    そして、「株権(願株 冥加金)」に依る「商業組合」を結成して大量生産を開始した。

    この「安定した量産」を期するため「三地域」が集まった「連合の商業組合(株権)」を結成して、遂には、この「勢い」に載って1720年頃に「寒天の専門店」を「京伏見」に出した。
    これが、少し遅れて「吉宗や青木氏の要請」に応じた「出店の経緯」であった様である。

    つまり、「吉宗や青木氏の要請」(1716年前)から、「食料用の良質の生産」に着手し、「株」に依る「商業組合」を結成して「大量生産を開始」し、出店までに先ず4年掛かった事に成る。
    そして、「関連店舗の連携店の出店」までにはそれより2年を要した事と成る。
    合わせて計6年である。
    唯のこれは単なる「寒天店」では無く、上記した様に「寒天」に更に工夫を加えた「寒天菓子」として出したのである。


    これが大ヒット(1740年頃)したのだが、「讃岐青木氏」が先ず出資して「讃岐屋」を伏見に出した。
    (合わせて計22年経過と成っている。)
    この時、この栄養豊富な「寒天」を「京の有名な萬福寺」など各地の「寺の精進料理」にも使われる事に成り、この話は瞬く間に広がり「寒天の勢い」は最早、「京」だけに留まらなかった。
    (ここまで計14年掛かっている。ピーク時までにはここから8年後である。)
    1780年頃境には「生産地」に関しても海に面した「寒天の材料(天草)」としては、「瀬戸内摂津域」から「南関東域や東北域(生産地の三郡)」にも拡大したのである。

    (注釈 ピーク時1740年から約40年後で、この関東以北への遅れた理由は「肥料」であった事に成る。)

    その結果、関東でも取り分け「伊豆地方」にも良く産出して「肥料」として使用していた事から、この「京や難波」まで広がった「寒天のブーム」を観た幕府は、ここで、関西域とはやや遅れて「天草の肥料としての使用」(1780年頃)を全国的に「全面的に使用制限の令」を出したのである。

    (注釈 幕府の禁令を出す位であるから、幕府は「寒天ブーム」で米に代わる「主要な食糧」と成る事に注目した。
    中でも「伊豆相模域の青木氏」等が扱う「伊豆地方」は、関東では「最大の肥料生産地」であって、「肥料の商いの対象 商業組合」と成っていて「使用禁令」を出すのが遅れて1798年頃にやっと「禁令」に従った記録が遺っている。
    関東向けに「畑肥料」としての出荷もあったが、地元の「蜜柑等の肥料」には欠かせなかった理由もあった。)

    「京文化」や「難波の商文化」の影響を受けていた「関西以西の地域」では、早くて1725年頃からは地域ごとに「肥料使用の禁令」が出ていた。
    この様に「肥料から食品の寒天」に成った事で、関東や東北部でも「原材料の産地拡大」で、「讃岐屋」は、時期を見計らい「天草肥料全面禁止令」が出された直後の1800年頃には「江戸」にも「関連店舗の連携店」の出店をしているのである。
    これは「伊豆の肥料使用の禁令」が発せられた事を見計らっての「江戸出店」と成ったと普通は考えられる。
    この時期は、既に「江戸の伊勢屋」と「青木氏と伊勢郷士衆」と「紀州家臣団」等は引き上げた後であった。
    この時に合わせて「伊豆相模の組」と「讃岐屋の組」の青木氏が連携したのかと云う発想が生まれる。
    と云うのは、「関連店舗の連携店」の「江戸出店」をするには、安定した大量の「天草」から「寒天」に仕上げた原材料が必要である。
    瀬戸内からは「江戸用」に「原材料」を横取りする事は、量と距離と共に確実に無理であった筈である。
    そうなると「調達先」を「一族の相模」に求める事は普通はあり得る。
    年代も1年も空かずして、且つ、一度に「関連店舗の連携店」のチェーン店の出店をしている事は、関東に対して「800年の昔の怨念」を捨てて「原材料調達」で確実に談合したと観られる。
    然し、この件については両者に資料がありそうで何故か見つからない。

    そもそも、「瀬戸内の3地域の商業組合」は、1722年前後のこの時期を逃さず「京や摂津」に「関連店舗の連携店」(チェーン店)を「讃岐屋の同屋号」で出店して、この「チャンス」を逃さなかったのである。
    その意味で関東に於いても逃す事は無いであろう。
    その「勢い」は、「伊勢の紙屋」(青木氏 松阪摂津堺店の商記録)が「外国貿易」で出荷される程に成り、当時、“「100万石商品」”と呼ばれるに至っていたのである。

    それにしても、1740年頃を「京出店」を成功させて、その「勢い」をピークに持ち込んでいるが、「江戸出店」が1800年とは遅すぎる。
    普通なら、この“「勢い」を逃さないのが「商い」である”とするならば、戦略上は少なくとも1745年頃には「出店の段取り」が付いて「江戸出店」は果たしているだろう。
    況して、1745年頃は「享保の改革」を「江戸の伊勢屋」が軌道に乗せる事に成功している。
    チャンスとしてはこれほどのタイミングは無いだろう。
    然し、“60年後”とはこれまた遅すぎる。

    確かに、「江戸への怨念」(1)や「天草−心太の原材料」の「調達の問題」(2)もあっただろうが、それにしても“何か変で遅すぎる”と感じる。
    この上記の「二つの問題」(1、2)の他に、“「肥料」と云う「地域感覚」(3)”が働いていたと観ている。

    もう一つは、「執政の田沼」が、「インフレ要因」は「株権の商業組合」にあるとするとする説を採った事から圧力(4)を加えたが、この事が原因している事も考えられる。

    “「肥料」と云う「地域感覚」(3)”では、関西地域は「余り拘りがない性癖」に比べて、関東地域では「肥料」は“食料に出来ない“と云う「強い庶民等の拘り」が強かったと云う事も考えられる。
    だから、1788年以降「インフレーション」に入り景気が悪く成り、「肥料の天草」を改良すれば「有望な食糧(植物性タンパク質)」と成り得る事を関西域で実証している事を観て、この「拘り」を捨てさせる為に、敢えて最も遅れて「関東一の生産地の伊豆」に「制限令」では無く、“「全面禁止令」”を発したのであると考えられる。
    “「全面禁止令」であると「肥料」としては使えない“と云う説破詰まった問題が起こる事を承知の上で”背に腹は代えられない“と云う「緊迫の令」であった事に成る。

    (注釈 この為の解決策として、「3年間の税の軽減適用」と、「天草肥料」から「干鰯や菜種油粕」の「肥料の転換奨励」で対応していた事が書かれている。)

    実は、享保から寛政期に掛けて関西以西の各地で「イナゴ大被害」が蔓延し、米の収穫が著しく低下した。
    特に紀州や瀬戸内沿岸部の地域では飢饉が発生した。
    そこで、「クジラ油や菜種油や魚油」の「油散布」で凌いだところ「イナゴ被害」は軽減した事が記録されている。
    そして、この時の経験から、この「搾粕」を肥料として使う事にも成功して相乗効果を果たしたとある。
    取り分け、この「イナゴ被害」の大きかった「瀬戸内一帯の飢饉」では、“天草を肥料から食料にする”という発想が瀬戸内ではより強く働いたと考えられる。
    「瀬戸内全域」と「紀州伊勢奈良域」は、早くから「肥料も心太も寒天」も含めて重要な「商いの対象」として扱っていた事からも禁令は発せられていた。

    取り分け、当時の「紀州伊勢の天草生産量」は記録にも残る様に桁が外れている。
    「伊勢の紙屋」等の動きに依って「新たな殖産」として「商業組合」(天草肥料)も結成して生産量も「肥料用」としては飛躍的に増大していた。
    一部では「寒天用」もあった筈で、「イナゴ被害」で「米の収穫量」が落ちて喘いでいたが、肥料としては紀州から調達出来て、代替食料としての「瀬戸内用の天草」は、、全て「寒天用」に廻しても成り立つ状況下にはあった。

    実は、「伊勢の商記録」(1783年)の中に、「江戸帰りの郷士衆」の「働き先」として「伊勢海産物の殖産」が記録されている。
    恐らくは、「伊勢」では以前から「肥料」として生産していたものであって、これに「伊勢の紙屋」はこの殖産に投資して「江戸帰りの彼等の受け入れ先」としても、この「天草から寒天までの殖産」の事を推し進めたが、この事を意味していると考えられる。

    (注釈 「青木氏の殖産」として資本投資して商品として販売する方法を採ったが、「商業組合」にしていない。あくまでも「青木氏が興した殖産」であった。)

    合わせて「紀州藩」も「江戸帰りの家臣団」を「伊勢」に廻しているのである。
    この殖産の何をさせたかは判らないが、この事で下記にも論じるが、この「殖産」であったと考えられる。

    (注釈 幕末にも「伊勢の紙屋」は「紀州藩の勘定方指導」を再び務め藩財政を救っている。
    この時、「坂本龍馬の海援隊の商船」を間違えて沈めて仕舞った事で賠償を求められていたが、賠償する程に回復していた。)

    (注釈 「萬福寺」の「隠元和尚」は、インゲン豆の名付け親 「瀬戸内の大豆」の「加工品発展の基礎」を築いた人物でもある。寒天とインゲンや大豆と組み合わせる精進料理にも使われて更にヒットした。有名な隠元和尚の名を使った事もヒットに繋がった事もある。
    名付け親の隠元和尚から「寒い空に晒す天草の心太」から「寒天」と名付けたとされる説がある。)

    これで、「讃岐と伊予と安芸の三商業組合」の「主材料」を安定して供給して、それを使った「加工品の関連商品」を個々に開発して「京と難波と江戸」で連携していた事に成る。
    これが「6地域−3組」の「商業組合方式(株方式) 関連店舗の連携店方式」であった。
    明らかに「江戸の伊勢屋」の「4地域−2組」との「商業組合方式(会員方式)」 職能集団方式」とは根本的に全く異なっている。

    そこで、上記の経緯は兎も角も、“何故、「屋号」(讃岐屋)を同じにしたか”と云う疑問が起こる。

    最終、先ず、「讃岐の商業組合」が背景と成って「讃岐青木氏」が「京」に動き、地盤が出来た処で「商業組合」が組合として動き、続けて「伊予と安芸」の「商業組合」が「加工品店舗」を「関連加工商品」で出店して「同屋号の連携で食品の菓子店舗」を拡大させた事が確かに判る。

    (注釈 「享保の改革後」は、「冥加金」を納めた「願株」の「商業組合」であった。
    参考として、 同屋号の「関連店舗の連携店」の中で、“「安芸の讃岐うどん」”もその代表の一つである。
    “「讃岐うどん」”なのに「安芸の讃岐うどん」と成っているが、実は、この時の「関連店舗の連携店」に依って「讃岐屋」の組合に参加した「安芸の店」が、“讃岐産のうどん”を味付けや添え物などで「一つの加工品」として営んだ事が「京や難波」と云う「宣伝経済圏」で名が広がった事からこの様な呼称と成った典型的な代表例の所以である。)

    これは1722年頃に「京」に先ず「讃岐青木氏」(寒天商品)が出店し、1740年頃からは「商業組合方式」が採用され拡大し、各地の「連携店方式」で1766年頃に最盛期と成った事に成る。
    この様に「6地域−3組の商業組合」は「江戸の商業組合」とは、結局、全く異なる「商業組合方式の活用戦略」と成っている。
    当然に、上記した様に「越後越前の組」は残存したが、「江戸の伊勢屋」の1781年からの「伊勢引き上げ」で、「出店目的」と「商いの目的」が違っていた事に成る。
    「江戸の伊勢屋」は「青木氏の役」として「吉宗の為政」に協力した事に成る。
    「吉宗の前」の「為政の失政」から国を救う為に「15地域の商業組合」を以て働いたのである。

    結局は、「6地域−3組の商業方式」の「讃岐屋」と、「4地域−2組の商業方式」の「伊勢屋」の東西の特徴を活かした「二極構造」で経済を立て直した事に成るのである。

    突き詰めれば、「江戸の伊勢屋」は「伊勢の紙屋」の「組合の移動」だが、「京の讃岐屋」は「讃岐の讃岐屋」の「組合の出店」であったから「組合の移動」は無かったと云う事に成る。
    つまり、両組は「商業方式」と「その目的」が根本的に異なっていた事に成る。

    参考 「15地域」
    讃岐、伊予、安芸、尾張、駿河、伊豆、相模、越前、若狭、越後、米子、阿波、筑前、肥前、陸奥(伊勢 紀州は除く)

    「京の讃岐屋」も確かに「商業組合の讃岐屋」であったが、「江戸の伊勢屋」も「商業組合の伊勢屋」で何れも「青木氏」を表に出す戦略方法では無かった事には違いは無い。
    上記の様に、「江戸の伊勢屋」の金融業(AからF)は、「単なる質屋」(A)の金融業とは根本的に異なるが、裏に「青木氏」が存在する事を隠して「同屋号の支店」を拡げて「営業力」を高めたが、これには実際に次ぎの方法が採用された。

    「讃岐屋」は「商業組合」の「元から店主」(構成員の出店)そのものであった事から、「店の責任」は「店主側」に元より有って「店の運営の仕方」も店主側に在った。
    唯、「原材料の仕入れ」は、「組合に依る一括仕入れ方式」で運営される方式であって、「讃岐屋」として「商業組合の株権」により構成していた。
    「讃岐屋」の「関連店舗の連携店」には、「暖簾分け制度の採用」や「株権の措置」については、個々の連携店の自由の裁量範囲に任される事であったが、下記に論じる「江戸の伊勢屋の質」が行った「江戸での商業組合」では、先ず「株権を有しない組合員の出店」に成った上で、それは「店員の暖簾分け出店」であった。

    「伊勢から出て来た職能別の商業組合の組合員(構成員)」は、「株権を持つ構成員」であって、江戸の「質の指導」で新たに「暖簾分け制度」などで「認可された店員」が、独立して「組合員」として「構成員が作る組合」には先ず入るのだが、この「江戸の組合員」に成った者には「株権の持つ構成員の組合員」には本来成らない仕組みであった。
    但し、空席の出た「限られた株権」(「親方株」)を「構成員の継承者」として取得し購入しない限りは、要するに「構成員の組合員」には成らない仕組みであった。

    (注釈 「商業組合」に敷かれた「御師制度」は、「組合」を「維持し管理監督する制度」であるが、上記の江戸で「新規組合員に成る者」は、この御師の支配下で「知識や技能」を始め「慣習仕来り掟」の指導管理管轄を厳しく受ける仕組みに成っていた。)

    「江戸の伊勢屋」と「質屋の伊勢屋」も同じで、この「店員」の「暖簾分け制度」に依って拡げたのである。
    従って、「讃岐屋の仕組み」の「関連店舗の連携店」での拡大とは異なっていた。

    (注釈 上記の「仕組み」で人材を育てた。「店員」は「暖簾分け出店」を受ける場合は、「組合員」に成った上での事で、又、新規に出店を希望し融資を受ける者である場合は、先ずは「店員」に成り「見習い経験」をして「組合」に加入する「仕組み」であった。
    「見習経験−認可−組合員−出店−指導」のプロセスが要領であった。)

    ここで実は、「伊勢屋の屋号」が上記した様なシステムで「2800輔」と成ってはいるが、”その内の「3割程度」に付いては疑問である”と観ていると上記したが、公的記録では、“一般が店舗詐称した“とする説にしている。
    この説には合理性が欠けていて納得出来ない。
    これに付いて改めて検証して観た。
    そこで、先ず、”そう簡単に「店舗名詐称」が出来たのか”と云う事である。
    僅か1−3%では無く、「3割もの搾取の伊勢屋の質屋」が出れば「経営の方針」の違いから「享保の改革の信用問題」にも繋がるし、江戸の伊勢屋」にしても「青木氏」にしても放置する事は絶対に出来ない筈である。
    「江戸の慣習」が其処まで、「簡単に詐称を許す社会」であったのか、又、「伊勢屋の力がそれを簡単に許す程度」であったのか、「享保政治の影の力」として「布衣の役の勘定方指導の青木六兵衛」が許し得るか、「享保の改革」を進める上で「吉宗(1761年没)」はそれを許す事が出来るのか等々考えた場合、「享保の改革」の戦略上は先ずあり得ない事と判断できる。

    だとすると、“これは一体何なのか”である。
    そこで、最も解明のポイントに成るのは、この「暖簾分け以外」の「出店の制度」に付いてであると観ている。
    そこで、更に調べたところ、次ぎの様な結論と成る。

    唯、享保期後の宝暦明和後(1770年頃以降)には、「商業組合」に入らないで「一般の庶民」、つまり、「3割程度の店舗」は、「店舗名詐称」が出来ないと成れば、「暖簾分け制度」から“「外れた者」”であったかも知れないと観て調べた。
    この「店舗名詐称」とするものが、“ある時期に集中して”、この「伊勢屋」の「屋号」を“正式な許可なく”使って、“「店」を持っていた事”が多く起こっていた事が判ったのである。
    そこで、幾ら「店舗名詐称」としても、“3割もの詐称が一度に集中して起こるか”の問題が出る。

    これには「江戸の犬の糞と伊勢屋の質屋」の有名な川柳に相当する数(上記2800店舗)のこの“「伊勢屋」”の名(1781年頃から江戸撤退)に肖ろうとする「表れ」での意味があった事は否めないが、それだけに“「伊勢屋」”は、或は、“「伊勢商人」”は「憧れの的」や「庶民の目標」にも成って居た事を示すものでもある。
    確かにこれは頷けるが、唯、だからと云って、1770年から1781年の“「10年程度の間」に一度に集中するか”と云う事である。

    「店舗名詐称」が起こるとすれば、江戸撤退前後の1781年以降と成る事から、次ぎの様に成る。

    そこで、「3割」とすれば「約640店舗」で、10年間−「64店舗/1年」で建設したと成る。
    では、「7割」の「2160店舗」は、1716年から1770年の54年間の間に、平均的に仮に建設されたとすると、54年−「40店舗/1年」で建設したと成る。

    「3割」−「64店舗/1年」:「7割」−「40店舗/1年」

    この理屈は成り立たない。一般説を唱えている説はこの理屈である。

    そもそも最も経済力のある処で、「7割」−「40店舗/1年」でありながら、「3割」−「64店舗/1年」は「最も経済力の無く成った時期」である。
    「3割」−「64店舗/1年」である。
    個人にそんな“「伊勢屋以上の1.5倍」もの「経済力」はあったのか“と云う事に成る。
    明らかに「一般説の論理」は成り立たない矛盾である。

    然し、現実には集中して起こっている。では何なのか。
    とすると、一般説の「自然発生的な事」では無く、”何かの「作為的な事」で起こった”と観る事が妥当である。

    先ず、第一義的に「拠点」と成った「江戸の伊勢屋の総本舗」は、「伊勢屋の呼称」が“活性化に繋がる事”である限りは、“「伊勢屋の屋号の使用」”については、考え方として作為的にはこれを拒まなかったのであろう。
    恐らくは、この頃、つまり1770年頃から、「享保の改革」は「成功裏」に終わり、「江戸の伊勢屋の総本舗」は1781年頃から伊勢などに引き揚げ始めている事から、時間的にはこの時期頃から“「引き上げの準備」”に入っていたと観られる。

    そこで、「引き上げの準備」としては、先ず手掛けなければならない事は、先ずは「資産整理」である。
    つまり、「暖簾分け」の「伊勢屋」と「質屋」の整理に入る事である。

    つまり、この“「3割の店」“の「3割」−「64店舗/1年」(7割が譲渡)が、「「資産整理の対象」(資本引上)と成った店である。

    その後の事は、取り分け「伊勢屋の屋号」の使用に付いては、特に拒まず、「経営の継続」は自由にしたのではないかと考えられる。

    この「資産整理の対象」(資本引上)と成った「3割」−「64店舗/1年」の店に付いては、“「株権」の「有無と比率」”で判別した様である。

    そこで、「商業組合の構成員(親方株)の本店」は、「御免株」が定める「組合株の株権の令」に従い、店側が「7割株」を保有し、「3割株」が「伊勢屋総本舗」が所有していた事か判っている。

    つまり、「「資産整理の対象(資本引上)と成った店」は、「江戸での暖簾分け出店」で、上記の「質」に依って経営途中の「伊勢屋ローン支払い中の店」であった事に成る。

    「7割ローン払済店」は、「3割の株権の無償譲渡」で独立した。
    「ローン未払店」では、7割に達する「残存分の店側買い取り」で、「3割の株権の無償譲渡」をした。
    「残存分店側買い取り」が出来なかった店は「資産整理の対象」とした。
    但し、この「資産整理の対象とした店舗」には、「10年間の猶予期間」を与えた。

    資料から読み取ると以上と成っている。

    これが“集中的に発生した「伊勢屋」”の「店舗名詐称」と観られたもので、「「資産整理の3割店の伊勢屋」(「3割」−「64店舗/1年」)であると考えられる。

    所謂、「10年間の間の資産整理」の準備期間中に出た純然とした“「伊勢屋」”であって、全て「元々の暖簾分け制度」に依って出来た「伊勢屋」であった事に成る。

    従って、上記の通りで「一般説」は全く当たらない。

    (注釈 この様に前段からも何度も論じて来たが、「青木氏」が関わった事で詳細部分に付いては「青木氏」自らが論じないと俗説化されていて「真実の青木氏の歴史観」はなかなか引き出せず「一般説」で終わって仕舞う事が多いが解る。
    「青木氏に関わる事」だけでも「青木氏の歴史観」として遺したい。)

    その後の「10年間の猶予期間」の状況に付いては、システムとしては判っているが、経理上の事であり「伊勢の紙屋への支払い」と成るが、「松阪の大火」で焼失してこの事に付いての「直接の記録」が無い。
    その事からその後の詳細は良く判らない。
    況や、「残存分の店側買い取り」の「ローン」は果たして済んだのかは判らない。
    「支払済」で「組合員」に成ったかはその後の「3割の店舗」に付いては判らない。
    その後の「幕府」の「組合」に付いての対応は、禁令も含めて厳しいものであった事からも、この「3割の店舗」の事は気にかかる。
    「佐々木氏等の由来書」によると、「近江佐々木氏」一族一門の系列が手掛けた「佐々木氏の店舗」の殆どは「寄合」に移行したらしいが、遂には「明治初期の政府の施策」で閉店に追い込まれた事が書かれている。
    この事からも、「青木氏」の「3割の店舗」も、「7割の店舗」は引き上げている事からも、頼る所も無く寄合も侭ならず難しい事に成ったと考えられる。

    「伊勢−信濃」や「越前−越後」での「地元の商業組合」は、健全であった以上、「商慣習」から考えて「支払い済み」に成ったと考えたいが督促そのものが可能であったかは疑問であると観られる。

    上記の記録資料は、この「3割店の事」に付いて直接に触れて書いた資料のものでは無く、「商業組合の構成」の事に付いて触れた資料から判断したものである。
    時系列的に観て、その資料の総合的状況から割り出した結論である。

    そもそも、その判断根拠の一つには、前段と上記で論じた様に、「享保期前の大店」は、全てと云って良い程に「中級武士階級以上」に依る「二足の草鞋策の商い」が殆どであった。

    ところが、享保期後は、「江戸の商業組合の自由商法」の前提で、「市民」の「徒弟制度」から起こる“「暖簾分け」”と云う制度を作って成り立った。
    そして、次第に「市民」が上記の「質制度」に依って「商い」を覚え、「能力のある者」は「経済的力」を得て「構成員の親方株」を買い取り、「商業組合」の中でも上位の位置に来て組織を動かす様に成長したのである。
    最早、「江戸の伊勢屋」の「地元引上期」の1781年頃には「郷氏衆>市民衆」の比率に“「逆転現象」“が起こっていたのである。
    「郷氏衆<市民衆」の比率に成っていたのである。

    確かにこの「逆転現象」が起こってはいたが、幕府の「商業組合への抑圧策」が厳しく成っていた時期でもあった。

    上記の「伊勢屋の屋号」を正式に引き継いだ「7割」の中には、「暖簾分け制度」で「市民」から成った「伊勢屋」は、「全部」とはいかずとも「4割程度(/7割)以上の相当数の店」に成っていた事に成るらしい。

    「江戸の商業組合」を「伊勢の範囲」で観ると、この事は「武士、つまり、郷士衆」が「二足の草鞋」で確かに「3割」(/7割)は残っていた事に成る。

    然し、「7割−1960(2800)もの伊勢屋の店舗」の「元からの店舗」、つまりは、「伊勢郷士衆の店舗数(親方株の構成員)」は、「1割程度(200人)(/3割)」である筈(伊勢から江戸への第一次二次の移動団は200人と成っている。)である。
    そうすると、残りの2割(/3割)は、「郷士衆の末裔」で拡げた店舗と成る。

    そこで、1781年頃の「地元引上期の整理状況」から観ると、「伊勢屋の否正式店舗の3割」も加えると、「暖簾分けの正式店舗の4割」とで、「市民の伊勢屋」は結局は合わせて「7割」であったと云う事に成る。

    「武士の伊勢屋」:「市民の伊勢屋」=3 : 7 であった事に成る。

    これは「江戸の伊勢屋」から観たと云う比ではあるが、「商いの屋号」を使わなかった「職能集団の加工」から「商品の販売」までの“「商業組合」”として観ても取り分け大きな違いの要素はなかったので同じである。

    唯、「職能集団の加工部門」の「商業組合」には、厳しく「御師制度」が敷かれていた事から、元より「郷士衆配下」の「伊勢の家人」が多く、比較的に「郷士衆」が少なかった事もあるので、次ぎの様に成る。

    「武士の商業組合」:「市民の商業組合」=2 : 8

    結論としては以上の比と云う事に成るだろう。

    「青木氏の氏是」に依って“「青木氏」が表に出ないと云う事の手段”に対して、「商業組合の対策」では、次ぎの対策を採った。

    “「御師制度」の「徒弟制度」”(1)と、上記した“「暖簾分け制度」”(2)

    以上の「新しい制度」(「二つの組織体」)を作り上げて維持したのである。

    その事から、それが原因して“「庶民」からの「出店」”が多く起こった事にも成るのである。
    当然の事乍ら、恣意的と云うか戦略的と云うかその様に仕向けたのである。

    然し乍ら、この事で「江戸の経済」が活性化して「享保の改革」は進んだのであって、その意味でも「自由」を据えて「青木氏の出現」は抑えたのである。
    上記する様に、「青木氏と吉宗」は、それまでの慣習であった「郷士衆の武士による商いの慣習」からの「市民の商いに切り換える経済社会」が必要であると考えていた。
    だから、「江戸の伊勢屋」の可成り「質制度」に依って「変革」は果たしたものの「武士の商業組合」:「市民の商業組合」=2 : 8の数式論では未だ不足であると考えていたのである。

    従って、1650−1700年の享保期前の頃では、この進みつつある「商人の組合」の勢いは、先ず“「幕府の脅威」”と受け取られた。
    ”「自由」を身に着けた「町方台頭」が、遂には「町方の経済」が「武士の政治」を超える”と云う「未知の恐怖」があったと考えられる。

    そして、この「未知の恐怖」から、“「願株」”で「冥加金」を賦課して抑制し様とした。
    最終の享保期前には、「会号式の組合」には「禁止令」が出された経緯があった。

    ところが、この「未知の恐怖」から、一転して「享保期」は、前段や上記でも論じている様に、逆に、「吉宗の幕府」は、新しい(イ)(ロ)(ハ)の「商業組合」を奨励し、「願株権式」(届出制度)に加えて「御免株権式」(認可制度)とを設けて二段階に分けて本制度化した。

    上記の「一般の暖簾分け」の「市民の店舗」の多くは、この「願株」(上記の7割)であり、「構成員の親方株の店舗」は「御免株」であった。
    「株権」に「権威」を付加させたのである。

    但し、「跡目継承」で「郷士衆」等が持つ「親方株」を継承した場合は、「御免株」の「組合店舗」と成り得た。

    「郷士衆の末裔」の跡目は、「御免株」の継承と成るが、「跡目末裔」に欠けた場合では、「店員の優れた者」が継承した場合は、殆どは「養子策」にて届け出て「御免株」を取得した様である。

    全く関係の無い家筋からの「養子策の跡目継承」には「許可」は出なかったし、「御師制度の許可」を前提としていたので、「組合」に対しても「お披露目の式」もする等衆目が認める「優秀な者」以外には「幕府」もこの「許可」を出さなかった。

    「暖簾分け制度」に依って起こる「一代限り」の「組合員の願株」に付いても「届出」に依るもので、「幕府の認可制」では無かったので余計な干渉は無かったが、これに代わって「商業組合」と「御師制度の監視」と「3割株権」を有する「江戸の伊勢屋の総宗本家」の干渉を受けていた。

    何れにしても「江戸の伊勢屋の総宗本家」や「享保期の幕府」は、「御免株」では「商業組合」の累代の「世襲制」に依って「質の低下」を招く事を極力嫌ったのである。

    「願株」に付いても「一代限り」ではあるが、資料から読み取ると同じく「質の低下」を嫌った様である。

    ところが、更に一転して享保後の1770年頃からの「執政田沼」に依って、「インフレ不況の原因」は、”「享保改革の商業組合」の「経済の独占」に在る”として「冥加金の献納策」で厳しい抑制策が採られた。
    「執政田沼」のその根拠は、「享保期前の未知の恐怖」(経済>政治)では無かった。

    恐らくは、享保期に比して「経済」が急激に低下して仕舞って、その「責任の転嫁」を「商業組合」に押し付けた上で、「冥加金」まで取ると云う「離れ業」を成し遂げたのである。

    遂には、その「論調の傾向」を受けて続けて、次ぎのステップに移行させると云う政策を「執政水野の天保期」では遣って退けた。

    要するに、「執政水野」は、今度はその一切の原因は「株権」にあるのだとして、「商業組合の存在」は兎も角も、「一切の株権式の商業組合」の「解散」を命じたのである。

    注釈として、この様に”猫の目の様に変わる幕府”に対して、これでは「江戸の伊勢屋」(青木氏)は「江戸での存続」は不可能と成った。
    遺された「江戸の伊勢屋」等は、取り敢えずは平安期から鎌倉に採られていた「寄合形式」で何とか逃げようとした。

    この「寄合形式」とは「農民の組合」として遺されていたもので、多くはこの「名義を借りると云う窮策」に出て存続を図った。

    「享保の改革」の「(イ)(ロ)(ハ)の商業組合」は、この様な「禁令」の全く逆の「二つの狭間」にあって、成長した経済であったのであった。

    この結果として、苦しい場面に知恵を出した事により、新たに「副効果」として次ぎの様な「新しい事」が起こった。

    新−1 “「店舗販売」”が起こる。
    新−2 “「御師制度の徒弟制度」”が起こる。
    新−3 “「暖簾分け制度」”が起こる。
    新−4 “「関連店舗の連携店」”が起こる。
    新−5 “「チェーンストア」”が生まれる。
    新−6 “「バーゲンセール商法」”が起こる。
    新−7 “「金銭を融通するシステム」”として「金融業の質屋制度」が起こる。
    新−8 “「三貨制度」の「貨幣経済」”が進んだ。
    新−9 “「商品の開発」”の機運が進んだ。

    以上も何と歴史的に「新しいシステム」が、”「市民参加の組合」”に依って「江戸の社会」に「副効果」として始動し始めたのである。

    殆ど、社会の根底には「古式概念」がまだ強い「江戸の社会」ではあったが、何と「現在の経済システム」に近づいていたのである。
    これでは活性化しない方がおかしいものと成った。

    注釈として 然し、「江戸の商業組合」には、この様に留意して置く重要な「青木氏の歴史観」があるのだ。

    この「新しい商システム」に対して、「宝暦明和」以降から「幕末まで」の「執政の為政者」には、この「新しいシステム」が、“幕府を脅かす”とか“不況の原因”と見做されて、現実にはこれも抑圧を受けた。

    「享保後の幕府」は、全ての事に直ぐには「抑圧策」が現実には採れない事から、「商業組合」を構成している「株権」に対して「解散を含む抑圧策」で規制する事に至った。

    ところが、この結果、「商業組合」は、注釈の通り“「寄合」”と云うやり方に換えて「知恵」を出して何としても存続を図った。

    そもそも、この事は「幕府」としては思いも依らない事ではあった。
    この“「寄合」”とは、平安末期から鎌倉期に用いられた組織であって、その後、室町期末期までは新たに「座」に変化して、江戸期には「株」(願株と御免株)に変化して、幕末期には、止む無く「一村郷にある農民組織」に見習って、再び「商業組合」は“「寄合」”に戻したのである。

    これには、実は、理由があって、「宝暦明和」後に「不況」と成った事で、その影響が、実は、皮肉にも最も「仕官の下級武士」に出て仕舞ったのである。
    これも「寄合に逃げた事」と同じく「幕府の計算違い」でもあった。

    享保後の幕府が主張する「商業組合」や「株権の寡占」で経済が低下したとする主張は違っていたと云う事に成り、「間違った政治」を敷いた事がその歪が最も弱い所に出たと云う事であろう。
    商家の中で育った「吉宗」と違って「リフレーション経済」と云う「学問的な知識」にその後の為政者は完全に不足していた事から起こった事である。
    当時としては彼等に執っては、”止む終えない”と云えばそうであるかも知れない。
    それほどに「吉宗等の経済学の知識」が如何に高かったかを物語るものである。

    「殖産」を興してそれを「システム化」して「経済」に結び付けて「藩政」が潤っていたのに、これを抑え込んで仕舞った事から、この影響を受けた「下級武士」は、「飢え」に喘いで仕舞った。
    その事から、田畑を耕し農業で産物を密かに売ると云う事で生き延びた。

    「郷士の武士」も「仕官の武士」も「郷士」に真似て生きる事しか無く成り同じに成って仕舞った。
    むしろ、「殖産」を興した「郷士の方」が遥かに潤っていた事が記録されている。

    そして、今度は、享保期の「質流地禁止令」では、対象者が「仕官している下級武士」であった事から、幕府としては充分な対応は出来なくなっていたのである。

    ところが、「武士の農産物等の販売」には、各職能の「組合の壁」と云うものがあって、「自由」が利かず、結局、「農民の寄合」に入れて貰う等の事や、「農民の名義」を借りる等の事で対応した。

    「幕府」のこの逆に跳ね返って来た思いも依らぬ「失政」に付いて、「藩」もただ観て見ぬ振りして黙認するのみであった。
    しかし、「紀州藩」の様に密かに裏で奨励した藩もあった位であった。

    この事から、「職能から販売までの商業組合」も「寄合組織」に変更して、自らも救い、地域の「下級武士や農民」らも救う事で「絆を基本とする寄合組織」に変更して生き延びた。

    唯、この「寄合組織」では「発展」は望めないが「維持」は可能であった。
    それには、上記の「新−1から9までの副効果」までは幕府は潰しに掛かれなかった。
    「新−2、3、5、7、9」は流石に「株権」を保障の前提としていた事もあって低迷した。

    所謂、「新−1から9」の基本に成った幾つかの制度と組み合わせた「親商法」が、享保―宝暦―明和時代に掛けて「伊勢の紙屋」と「江戸の伊勢屋」の「青木氏」が興した「商業組合」の「新しい改革商法」(1716年から1788年まで)へと繋がったのである。

    仔の経緯は、「伊勢の紙屋」が「伊勢の商業組合」を興してからは明和期(1788年頃)までの「185年間の悪戦苦闘の歴史」に成る。

    これ等の事は、「青木氏」だけの「重要な知っておくべき青木氏の歴史観」である。

    伝統シリーズ−23に続く。


      [No.339] Re:「青木氏の伝統 21」−「江戸の商業組合」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2016/03/20(Sun) 11:46:43  

    >伝統シリーズ20の末尾


    >それは、(イ)(ロ)(ハ)の「商業組合」とすると“「子孫の出店」”は、「自由」とする「発想外の事」と成り得て、兎も角も、全てとは言い難いが、「出店」として可能な「時代期間」と「江戸地区」を限定して考察すれば、「関係者の出店・暖簾分け」であった可能性が強く、現在で云う“「チェーンストア」”であった可能性が強い。

    >(注釈 現実に「青木氏として氏名に関わる事」は、「享保の改革」を主導している理由から表に出せなかった。
    >江戸に同行した「江戸の青木六兵衛」とその子供二代に渡りが「吉宗」に仕えたが、この「佐々木氏の資料」からこの事の注意が読み取れる。)

    >特に「総合商社」から発展した”「伊勢屋の質屋」”が多いと云う事は、“「江戸の名物」”と云われた位に多いのはこの事を証明する。
    >上記した「越後騒動の原因」と成ったのには、「質流地禁止令」が「江戸の金融問題」で出したのではあるが、「商業組合」として多く「江戸店」を出している越後国にも波及して、この「所以の事」から来ているものとも観ている。
    >「伊勢屋の質屋」は、「享保の改革」を「商いや利益」と云うよりは金融面から支えた「金融システムの構築]に目的があった。


    「青木氏の伝統 21」−「江戸の商業組合」


    下記の「15地域」では、上記の確認の取れている「江戸出店」の「4店」(下記)の範囲に限らず、資料的に観ても少なくとも次の「15地域」の中からも動いたと考えられる。
    その「経緯や所縁」から観て「吉宗や青木氏の呼びかけ」に動いたと観られる。

    「江戸出店」の「4地域−2組」
    「越前、若狭」(皇親族賜姓青木氏)
    「越後、駿河」(秀郷流賜姓青木氏)
    以上の「2氏―4地域」の「商業組合」が参加した。

    「京出店」の「8地域−4組」
    「讃岐」や「伊予」
    「米子」や「安芸」
    「尾張」や「阿波」
    「伊豆」や「相模」

    以上の「8地域−4組」からも江戸に出店している筈であるが“完全な確認”は取れない。
    ところが、この「8地域−4組」は、どうも「特別な動き」をしている様である。
    そこで、「8地域」を「地産型」で観て見ると、概ね、これも次ぎの様に分けられる。
    「讃岐と伊予」
    「米子と安芸」
    「阿波と尾張」

    「別枠組」
    「伊豆と相模」
    以上の「8地域−4組」は、“「地産型」”ではあるが、更に考察すると「別枠組」に分けられる。

    兎も角も「地産型」で、且つ「特別な動き」をしたとして観ると、以上の「4組」に分けられる。
    但し、「京出店」の事、「6地域−3組の出自」の事の「二つ事由」が異なる「伊豆と相模」(下記)はこの事由以外に特別に論じなくてはならない事柄があって「別枠」に成る。

    ところが、この先ず「地産傾向」で観て見ると、「特別な動き」は「6地域−3組の出自」で「江戸」よりは「京」に出店している傾向にあった。

    これには意味が存在している事に成る。
    それは、“「吉宗の江戸出店の呼びかけ」“が「15地域」にあったにも関わらず、“「京に出店」をした“と云う事は、場合に依っては下手をすると「幕府反抗」と捉えられ兼ねない事に成る。
    「幕府反抗」に及ぶ程の事は「吉宗や伊勢青木氏」との間には無かった筈である。
    とするとこれは、“何を意味しているのか”疑問が残る。
    又、「伊豆 相模」が江戸のお膝元であるにも関わらず“「別枠組」”に成っていると云う事には,“何かがあった事”にも成る。
    つまり、この「京出店組」と「別枠組」には「吉宗−伊勢青木氏」との間で確実に何かがあった事に成る。
    その何かを分析する事が出来れば、この時の“「15地域」がどの様な動きを示したか”が判る

    そこで、その「出店の特徴」に付いて観て見ると、「6地域−3組」は、“「地元特産の出店」”であって、その最も多いのは“「地元特産品を加工した加工品」”であって、主に「和菓子」と「呉服」と「小間物」と「海産物」の“「加工品」”である。
    つまり、“「原材料」”を持ち込むのでは無く、加工した“「完成品」”である事から、先ず、“「消費」”を目的とした”「販売戦略」であった事”が良く判る。
    「否原材料−完成品」=「消費−販売−個人戦略」→「商店」の構図が描ける。

    これは、明らかに全ての「職能集団」が動く「商業組合方式」での「江戸出店型」では無い事を意味している。
    先ずは「商業組合の戦略」が根本的に違っていた事に成る。

    ところが、一方のその対象と成る“「江戸出店型」”では、「原材料から加工」までのあらゆる「職種の統合的で総合的な出店」と成り、それに伴う「職能部(職人)の移動」であった事から、“「産業全体」“で“「商業組合」”を形成しての「出店」であった事に成る。
    「原材料」−「加工」−「職能」−「組合」−「販売」=「組合戦略」→「商店」+「金融」の構図と成る。
    上記の「個人戦略」に対して「組合戦略」であった事に成る。
    「江戸出店型」=「組合戦略」=「経済機構戦略」であった事に成る。

    ところが、この「8地域−4組」の「伊豆 相模」の一つを除いては、「6地域−3組」は“「加工品」で「京出店」”と成っている。

    「江戸出店型」の全ての「職能集団」が動く「商業組合方式」ではなく、それをしないで済む「商い」であった事に成る。
    明らかに違っているのであるから、「吉宗−伊勢青木氏」はそれで納得した事を意味している。
    「享保の改革」の根幹を左右する「商業組合方式」であるのにも関わらず「大きな問題」に成らずに「納得した」と云う事は、「リフレーション政策」に執ってそれなりの「経済的な根拠」が他に有ったと云う事に成る。

    それには、特徴として次ぎの「4つの要素」が働いている様だ。
    つまり、「6地域−3組」の“「加工品」で「京出店」”の持つ次ぎの「共通点」である。
    距離的な要素
    出店先の要素
    運送上の要素、
    所縁の要素

    以上の「共通点」の「4つの要素」が主な事に成り、それが“強く働いた”と云う事に成る。
    この事は「職能集団」が動く「商業組合方式」を「押しのけるだけの力」が働いたと成るのだろう。
    「商業組合方式」<「押しのけるだけの力」
    と云う図式が出来上がっていた事に成る。
    “これに納得した”と云う事に先ずは普通は成り得る。

    前者の「江戸出店」の「4地域−2組」は、所謂、「職能集団」が動く「商業組合方式」の“「商業組合の江戸出店」”であったが、この「伊豆と相模」を除く「6地域−3組」は、上記の「江戸出店」とは明らかに根本的に異なっていた事に成る。

    ところが、この後の「6地域−3組」(「伊豆と相模」除く)は、「吉宗の要請」でありながら、且つ、「商業組合」を持ちながら、“「商業組合」では無い「京出店」”であって、「商業組合の江戸出店」では無かったのである。
    従って、「8地域−4組」の「6地域−3組」(「伊豆と相模」除く)には、“「商業組合」では無い「京出店」”には、“「吉宗の要請」”を跳ね除けるだけの共通する「相当な理由」があったと云う事に成る。
    「幕府反抗」と成りかねない「6地域−3組」のそれが上記の「共通点」の「4つの要素」であった事に成る。
    簡単に云えば,「吉宗」は次ぎの「4つの要素」の「理由」に“納得した”と云う事に成る。
    この「納得」とは、「享保の改革」の根幹を左右する「商業組合方式」に反しないと考えた事に成る。
    更に云えば、「リフレーション政策」に執ってそれなりの「経済的な根拠」があって、「4つの要素」の「理由」が「納得」と云う事に至ったのである。
    では、どの様な理由なのかである。ここに付いて検証して観る。
    「距離的な要素」に付いて
    「6地域−3組」(「伊豆と相模」除く)の地域から江戸に出るには距離が在り過ぎる。
    江戸までの「公道」を通ったとして、瀬戸内から京まで約233k 江戸まで692kである。
    因みに、松阪から江戸まで441kと成る。
    この「松阪から江戸」までの距離441kは、“「吉宗」に同行する”と云う絶対的な必然性があった。
    そもそも、自発的意思により「松阪の青木氏」には「選択の余地」は無いが、ところが「讃岐青木氏」にはあったのである。
    だとすると、江戸期のこの距離692kは「吉宗招請」と云えど「躊躇する距離」ではあった事に成る。
    況して、瀬戸内から京は233kの1/3である。
    先ず、先々江戸の経済が未だどの様に成るかは判らない状況にあったからこそ、当時の運輸環境から観てこの3倍は思考外にあってより躊躇することであろう。
    「越後や越前」と違って、その途中には「摂津、京、難波」と云う「大経済圏」が控えている。
    「越後や越前」には「江戸」に出る以外には周囲には「経済圏」と云う選択肢はないが彼等にはあった。

    取り分け、前段でも論じたが、「讃岐藤氏」の「讃岐青木氏」には「純友の乱」の様に平安期より“政権に従わない”と云う「独立気風」があった。
    この「独立気風」には、ただ単なる去勢では無く、古来からの「瀬戸内の経済力」と「地形的な軍事力」と「政治的な地域力」にある程度に「裏打ち」されていた事があった。
    取り分け、「人の事」であり、「平安期の怨念」からも逃れられなくもあって更に躊躇する事であろう。
    「具体的な理由」として、「選択しなかった要素」には次ぎの様な事が挙げられる。

    「出店先の要素」に付いて
    「出店先」は、平安期からの「最大消費地の京」であったとすると、「江戸リスク」を大きく負ってまで出るとする判断は、「相当な強制力」の無い限りは生まれないだろう。
    “「摂津、京、難波」と云う「大経済圏」”で事は充分に足りる。
    この事が、「リフレーション政策」に執ってそれなりの「経済的な根拠」に成っていたと考えられる。
    「経済の解る吉宗」に執っては、“「江戸一極集中」“と云う事では無く、「摂津、京、難波」と云う「大経済圏」”の「二極構造の経済圏」を描いていた事に成る。
    そもそも「吉宗」は、「将軍」に成った後にしても「幕府の権力や軍事力」を使っての「経済」に対して「強制力」を根本的には使わなかった。
    況して、この事の「吉宗要請」は、「将軍」に成る前の「準備段階」であった事から、「吉宗要請」は根本的には元より「青木氏一族」に対する「協力要請」であった事に成る。
    「強制力」を使えない「青木氏」に対して、「リフレーション政策」に執ってそれなりの「経済的な根拠」が成り立っていれば、「納得」どころかその様に要請して居た事も考えられる程である。
    尚且つ、根本的には「伊勢青木氏」を通じての「吉宗要請」であったので、「讃岐気質の風習」から考えても「6地域−3組の讃岐側」では、「距離の要素」と共に「出先店」にも躊躇する事に成った事は間違いは無いであろう。

    この様に「距離」と「出店先」の「二つの要素」からも、「江戸」(新参の消費地)か「京」(旧来の消費地)かと成れば疑う事無く「京」と成るであろう。
    「江戸」に出て「伊勢や越前や越後の青木氏」と共に「新しい経済圏」を作る事には越した事は無いが、「一極集中政策」が「リフレーション政策」に合致するのかと云う事を考えた場合は、そうで無いと云う事は直ぐにでも解る事柄である。
    そもそも、論理的には「リフレーション策」は、“「バランス」”を取る事に「経済政策の根本」が在る。
    と成ると「江戸一極集中策」は「激しい経済格差」を生む欠点がある。
    「激しい経済格差」は「バランス」を崩す。
    この様な経済論は元より基本中の基本であり「吉宗−伊勢青木氏」は判って居た筈である。
    当然の事として、「二極構造論」を取る方に舵を切る事に成る筈である。

    「運送上の要素」については、
    そもそも、瀬戸内の「讃岐青木氏」をベースとする「6地域−3組」であれば、「瀬戸内廻船」の外回りの「太平洋航路」を認可された「青木氏族」でもある。
    運送上の防御等の「リスク」は少ないし、「コスト」は問題と成らないであろう。
    唯、「リスクとコスト」に問題は無いとしてもその「商品の如何」に関わる事に成る。

    ここは,要するに「瀬戸内」である。
    江戸期のものとしては「海産物と酒」が主商品と成るだろう。
    「讃岐と伊予」「米子と安芸」の「江戸期の産物」で出品出来るものには、「海産物と酒」を基本にして、当時、世間では、“「瀬戸内三白」“(讃岐、伊予、安芸の地域)と呼ばれていたものがあって、”「砂糖、綿、塩」”が主流であった。
    それに二次的には「胡麻、大豆、煙草」の“「瀬戸内三品」”と呼ばれる物があって盛んに他国に売られていたのである。
    “それを超えて敢えて江戸に”と云う発想は直ぐには生まれないであろう事は充分に判る。
    それには、「江戸期の社会の慣習或は掟」として「特別な理由」があった。
    それには「海陸の運送能力」が「幕府の政治的戦略」に大きく関わっていたからである。
    阿波には、“「阿波味噌」”があって、尾張には、“「宮重大根」”があって、これらは、当時、関西では有名で“「江戸期の出品物」”であった事が記録されている。

    そもそも、“「瀬戸内三白」”にしろ、“「瀬戸内三品」”にしろ、職能全体を「江戸には移せない商品」であって、「現地での加工品」に「仕上げての出荷」を余儀なくされるものであった。

    「商業組合」として「職能部門から販売部門」までの「一連の移動」はその「藩経済の浮沈」に関わるものであって、「加工品」にして対価を獲得する事が当時の「当然の販売手法」であった。
    元より“「人」は藩に所属するもの“であって”勝手な人の移動“は藩経済の低下を脅かす事にも成り、依って「国抜け罪」として極刑に処される掟があった。
    従って、「瀬戸内三白」等の十八番の「物の移動」のみならず、「商業組合」としての「人の一連の移動」は原則としては一般的に無理な事であった。


    「阿波と尾張」では、「江戸への出品」は下記の理由で無理であったのである。
    “「阿波の味噌」”は、紀州人が阿波に移したものと考えられていて、阿波の生産は遅れて江戸期中期からのものであって、その「味噌と醤油」そのものは「開発元の紀州特産品」であって、それを「伊勢の商業組合」が「享保の改革」で「野田に殖産」していて、そこで生産され始めたものでもあった。
    この様に「味噌と醤油」は、「享保期の典型的な商業組合の殖産」であったので、この事から後発の「阿波の味噌と醤油」は「関西圏商品」と成っていたのである。
    そもそも、「味噌と醤油」は、当時の最大珍味で唯一の調味料として、需要に供給が追い付かず常態化していて、この様に必然的に「供給の塗り分け」が成されていたのである。
    この事を度外視しての論調は成り立たない。

    “「瀬戸内三白」”にしろ、“「瀬戸内三品」”にしても、急激な江戸の「享保の経済発展」に需要と供給が充分に追いつかず、更には、搬送能力にも廻船能力は元より、品物に依って廻船が限定されていて、どの廻船に積載しても良いと云う事では無く、更には過剰積載も船主側に拒否権が認められていて厳しく監視されていたのである。
    「船主側」がこれを護らないと廻船権と株券も剥奪されると云う事が現実にも起こったのである。
    “忙しい”からと云って、“勝手に別に船便を調達する事“も出来なかったのである。

    そもそも、「水運」には「一種の統制経済の様なシステム」を採っていたのである。
    それは、「市場の勢い」に任すと強い者が水運を独占して「江戸の経済」にバランスを大きく欠く事に成り混乱する。
    且つ、これを押えれば幕府も倒せると云う手段とも成っていたのである。
    それだけに「水運の権利」を株権で統制して「規制と制限」を掛けて安定を図っていたのである。

    何度も前段や上記で論じている様に、「瀬戸内三白」等の十八番の「物の移動」のみならず、「商業組合」としての「人の一連の移動」は無理な事が出来たのは、「吉宗と伊勢青木氏」が江戸に「商業組合」を移すにしても、この「搬送能力」を「陸運と海運」を独自に持っていた事からこそ独自に出来た事でもあった。
    堺摂津に三隻の大船と享保期には伊勢に三隻の新造船と伊勢水軍の株権、陸送は「伊勢信濃シンジケート」と独自持つ能力であったからこそ成し得た事であって、他地域の商業組合にはその能力は無かったのである。
    野田に伊勢郷士の玉置氏等に依って「味噌と醤油の殖産」を移したのも「商業組合の殖産」と云う事のみならず、「需要と供給の問題解決の意図」もあったと考えられるし、更には「搬送能力」の「陸運と海運の独自能力」の所以があったからと考えるのが妥当であろう。

    同然に「尾張大根」は、「現地生産」が基本であって、既に、江戸にも対抗する“「江戸三白」”と呼ばれるものがあって、それは「大根」、「米 」、「豆腐」であって、元より他国に積極的に販売されていた商品でもあった。
    「江戸大根」は関東ローム層で培われる“「大蔵大根」”で有名であって、この為にこの「尾張大根」の競合先は矢張り関西方面での販売先とされていたのである。
    この様に、「距離」と「出店先」の要素からも、「輸送上の要素」からも「江戸への主店」は不可能であった。
    この「三つの要素」の「無理」を“押し出すだけの理由”は生まれていなかった。

    「所縁の要素」の要素に付いて
    「所縁」は、前段の「伝統シリーズ」で論じて来た事であって、最早、語るに値しないであろう。
    「商業組合」としての「京主店」では,むしろ、江戸期初期の頃の社会構造からも「最大のメリット」と成るだろう。
    「吉宗と伊勢青木氏」は「ごり押し」は出来なかったと観られる。
    この要素一つ執ってしても,これを無視するだけの理由は無かった。
    そもそも、この「所縁」は“「伝統」”そのものである。
    「自らの過去」を示す「伝統」を壊してまで「京」に出る事は決して無い。
    むしろ、逆に「京」を発展させて「伝統」を護ろうとするだろう。
    「商業組合」が付いて来ない事でもあって、到底、「説得」は論外で、「説得」に依って逆効果を招いてしまう事に成る事は租借して承知している事でもある。
    但し、「自由を前提」とするか限りの話である。
    「伊勢の商業組合」は、上記の通り(イ)(ロ)(ハ)の自由を前提としての改革案である。
    この事に依って,「伝統」は「犠牲」を負う。
    「伊勢」では、この犠牲を負ってまでも立ち上がらなくてはならないのは、「破壊と荒廃」が室町期に起こされて仕舞ったからである。

    勿論、「伊勢」は「京」に“勝るとも劣らない「伝統の国」”であった。
    では、この「伝統」にしがみ付いて其の侭にしていれば戻るのかと云う「ジレンマ」があった。
    何にせよ、その「伝統の先端」を走っていたのは「青木氏」で在る。
    「伝統」を護ろうとするのが普通であった筈で、故にこの「伊勢を主導する青木氏」が「自由な商業組合」を発案して訴えたのである。
    この「青木氏の発案」に対して「伊勢衆」は果たして反対をするだろうか。
    当初は「伊勢衆」は疑心暗儀であった事は否めないであろう。
    しかし、賛同をした。「家康」も「頼宣」も「吉宗」も共に賛同したのである。
    故に「15地域」も動いたのであって、「讃岐青木氏」等も動く事は示したと観られる。
    しかし、それを押し留める「4つの要素の理由」と次に論じる「五つ目の要素」に力が働いたのである。
    何をか況や、それは、国内でのある程度の改革は成し得たとしても、「京と江戸の違い」に在った。

    「四つの要素」の何れに執っても「江戸に押し出すに足りる要素」は無かったのである。

    何れにしても「江戸出店」と成るには、「江戸の活況 1745年代頃」が確定的と成った処で、上記の「4つの要素」を乗り越えての出店と成るだろう。
    現実に、1765年代末に単位で出店している。

    「四つの要素」があったとしても、この「享保の改革開始の時」に合わせて、では、“「京出店」を何故に、この時に成しているのか”、これが疑問と成るであろう。
    単に「四つの要素」だけで動いたとは思えない。
    もし「京」を選ぶのであれば、普通は「享保の改革」(1788年終了)が全国に波及しての時期(1765年−1770年)を選ぶ事に成るだろう。

    筆者は、「江戸出店」は、「吉宗と伊勢青木氏」等の伊勢組等には、上記の通り無理である事が理解されたが、「6地域−3組」(「伊豆と相模」除く)側としては、「吉宗と伊勢青木氏」等への縁者としての「義理と仁義」が在る。
    これは、「当時の社会慣習」としては無視できなかったと観られる。
    取り分け、この「6地域−3組」(「伊豆と相模」除く)をリードしていた「讃岐青木氏」は「伊勢青木氏」とは深い縁者関係にあった。
    果たして「協力要請」を無下に無視できるか。
    上記に論じた様に、「当時の社会概念」から絶対に出来なかったと考えている。

    そこで、出店を「東の江戸」に対して「西の京」を選んだと考えられる。
    この「二つの間」には「難波」を中心に「摂津堺」と「伊勢」の経済圏を持っている。
    「東の江戸」と「西の京」の二つを発展させれば、一つのラインの「誘導経済圏」が生まれる。
    「伊勢」と「江戸」の中間に一つの経済圏(「伊豆と相模」)を置くことで「東の江戸」と「西の京」の「経済ライン」は成立する。
    そうする事には、「京出店」が必須条件として必要に成る。

    この戦略からすると、「6地域−3組」(「伊豆と相模」)の「自発的意思」に依るものでは無く成る。
    「4つの理由」を理解した上で、「吉宗と伊勢青木氏」が説得に掛かったと観る方が適切である。
    或は、「談合」の中で「4つの理由」を知った上で、「時期」を「享保期」に合わせて「京出店」したとも考えられる。
    そうすると、「伊勢の商年譜」には「何らかの談合の記録」があったと観られるが見つからない。
    「堺摂津店」での事であったのかもと考えられる。
    「堺摂津店」は、現在も何とか「紙問屋」として明治期の分家筋によって存在して居るが、「何らかの談合の記録」に相当するものが無いとの事であった。
    (子孫の歴史的意識の低下で整理されて“無く成った“が正しい様である。)
    「元禄期の浅野家の始末」(1703−5年)で前段でも論じた様に「廻船問屋の讃岐青木氏との協力」があった事から、それから、僅か10年近くの事である。
    そもそも何らかのそれを物語る記録資料が無い事の方がおかしい。
    「讃岐青木氏」は、そもそも「商い」と云うよりは「廻船問屋」が主体であった事もあるが、「紀州藩」が単独で進めたと云う事も無いし、「何かの形」である筈である。

    唯、筆者の家には、この時代のものとされる「大きな京人形」(三月用と五月用の箱型二体)があって、恐らくは、この朽ちかけた「箱の添え書き」を観ると送られたと思える物である。

    (注釈 「京人形」には「箱型と雛壇型」とがあるが、この「雛壇型」は享保の改革期に出て来たもので「享保雛」と呼ばれる人形が階段上に沢山並べられるタイプで、「箱型」は左右単体の大雛を単に飾る習慣があってそれ以前の古来からのタイプである。)

    これで時代性等が解るので、従って、「讃岐青木氏」から享保期直前に送られたものである事が判る。
    「箱型京人形二体」を送られる位の何らかの強い関係性を持っていた事は確実で、「商記録の年譜」には不思議に無いが、「青木氏要請」に応じて「京」に店を出した事は「京での店名」と共に「京人形」でも物語れる。

    故に、「商業組合の江戸出店」は、その中心と成った「伊勢紙屋の青木氏」が「吉宗」と共に組んだ「改革戦略」であった事から、「江戸改革の中心」と成った「江戸の伊勢屋」(青木氏」)の「総合商・貿易商・金融業」が「商業組合の江戸出店」の全体を支えた事に成るのである。

    だとすると、この「4つの要素の理由」に依って起こった「讃岐青木氏」等の「京出店」が、「4つの要素の理由」以外に「商業組合の出店形式」でも無かったのには、“「江戸での伊勢屋役」”を演じる位の「二足の草鞋策の氏」がいなかった事にも論理的には成る。
    “果たして、そうであったのか”と云う疑問である。
    否、“「氏」がいなかった事”では無い筈である。
    「讃岐藤氏の讃岐青木氏」は「伊勢青木氏」とも「親密な氏の関係」と「商いの関係」を保っていて、その「保持勢力」は「伊勢青木氏」に「相当する程の勢力」を持っていた事は前段でも論じた。

    では、「商業組合」として出る以上は、それを取りまとめる「氏の存在」はある筈で、それは「15地域の青木氏」にも同じ様に在った事は論じるまでも無い。
    “では何であったのか”と云うと、前期の通り、“「原材料」では無く、加工した“「完成品」”である事から、先ず、“「消費」を目的とした「販売戦略」であった事。“が原因している。

    地元で、「商業組合」を形成していながら、その「完成品」を出している以上は、「商業組合全体」を送り込む必要は無かった事に成る。
    当然に距離的等の「四つの要素」でも無かった事に成る。
    且つ、「京」が古来より主に「消費地」でもあったことから、「職能集団の移動」又は「商業組合全体」を受け付ける「土壌力」でも無かった事にも成る。

    「土壌力・伝統」これは「絶対的な五つ目の要素」と成るだろう。
    「絶対的な五つ目の要素」とは、これを出す事は,「京」と云うものをそもそも壊す事にも成って仕舞う。
    「商業組合」が“「自由と云う前提」”に在る限りは、“「伝統」”と云うものに対して「根底からの破壊」に繋がる「悪の要素」とも成り得るし、避けなければならない「絶対の禁じ手」である。
    「商業組合の出店」は、兎も角も、“「自由と云う前提」”が“「伝統と云う事」“では困るのである。

    現実に、1470年代から存在した「京」に存在する“「会合衆」”も一種の商業組合の形である。
    然し、「京の伝統」と云うものに馴染んだ形の「会合衆」であって、“「自由と云う前提」”では無かった。
    「100年程度の歴史」しかない「江戸」との「根本的な大きな相違点」である。
    “「伝統」”を活かしての“「京出店」”が必要であった。
    この結果、“「京出店」”するとしても、元々は「伝統の消費地」である以上は、「商業組合」を取りまとめる「氏の必要性」は元より無く成る。

    現実に出て来ない。
    「京出店」の「6地域−3組」の「3組」(「伊豆と相模」除く)には、調べるが店名は出るとしても「氏名」がどうしても出て来ない。
    但し、「江戸出店」の「2組」にも専門的には記録確認は出来るが、基本的には「江戸の地」にも「氏名」が出て来ないのである。
    「江戸の伊勢屋」と屋号を明確にしながらも、敢えて、然し、「伊勢屋の青木氏」は表に出そうとしなかった。

    この「氏名の疑問の答え」は、そもそも、「伊勢の紙屋」では無く「江戸の伊勢屋」を名乗ったのには、この「青木氏の氏是」と「改革の政治的配慮」が働いていたのである。
    「青木氏の氏是」に付いては、前段で論じた通りで、根本的に何れの場合に於いても「氏名」を出さない事が「氏是」と定められている。
    依って、この理由からも公に出さない事に成る。
    もう一つの「改革の政治的配慮」に付いては、改革の背後で、“「青木氏が主導している」“と云う事が判れば、「江戸の民」は「青木氏の独善の利得」を疑って「改革」そのものは進まない事は必定である。

    例えば、取り分け、「江戸の伊勢屋」は「青木氏」と成る事は絶対に避けなければならない。
    「吉宗の勘定方指導は青木氏の六兵衛」であり、「伊勢屋も青木氏」と云う事に成ればどうしても「青木氏の為にある」と人は悪く観て仕舞う。
    それは、況して、矢張り、「享保の改革の手段」の「商業組合」が「自由を前提としている事」から来ると成ると、“「青木氏」が政治と経済に介在する事は「自由」か、否、牛耳っている“と成るは必定である。
    「単なる商い」と成れば、「自由を前提としている事」には異論は起こらないであろう。
    何故ならば、「商い」は元来より「自由」である事に外ならないし、それでなくては発展しない。
    ただ、「改革の手段」としての「商業組合」ともなれば、そこは充分な配慮が必要で異なる。
    まして、「単なる社会」の中での改革を唱っている訳では無く、時の「幕府」が主導する主改革である。

    ただ出すのは、唯一“「吉宗」”だけである。人々はこれは“吉宗が行う改革なのだ”と成る。
    故に、「中興の祖 吉宗」と呼ばれた所以である。
    これは、上記の事もあるが、「江戸ならではの事」(庶民混在の地)でもあって、「氏名」を出す事は「禁じ手中の禁じ手」であった。

    然し、「佐々木氏の研究論文」の中には、「青木氏の遺された資料」よりも「享保の政治と経済の青木氏」が詳しく論じられている。又、「江戸の青木氏の論」の中でも述べられている。
    これは、どう云う事なのか、ある部門には漏れていた事に成る。
    その「ある部門」とは、「高級官僚」であった事に成る。
    「藤原秀郷流一門一族」は江戸幕府に御家人と成って多く仕官した。
    この中に、「縁籍の佐々木氏」が居たのである。その一族は「将軍の書記官」の役柄を務めていたのである。
    この家に遺された資料等から主にまとめられて論じられた論文であった事が判ったのである。

    因みに、将軍の書記官役には、次ぎの様な三役職が在る。
    「奥祐筆」、「御小姓頭」、「小納戸役」が先ずある。
    これらは「従五位下諸大夫の官位」を獲得できる「家柄身分の者」である事で、永代身分の家柄の者か、或は朝廷に金銭献納で幕府の認可を受けると、一代限りの一般の大名身分相当の扱いと成る。
    旗本では最上位に成れ、同役としては「幕府の布衣の役」は六位相当の官位で旗本上位の家柄に成れる事にあった。
    官位獲得は先ずは「幕府の推薦」もあり誰でもと云う事では無く中々認可は下りないが、何れも将軍と直接面談し、他の幕閣などとの調整役や記録や保管などの重要書類の事務役目を担っていた。将軍の密命で動く事が多く出張等の忙しい役柄であった。
    「青木六兵衛」は「永代従三位上」の官位を持っていたが、六位に相当する勘定方指導の「布衣の役」を与えた。
    「官位の届」を幕府に出す事で認められる仕組みであったことから、恐らくは、家臣では無かったが、「将軍」の「三役の立場」に居た事から、同族の多い周囲と合わせて敢えて「従五位下諸大夫の官位」の処遇で認められたと考えられる。
    「加納氏の側用人」と同じ役柄でもあった事が判って居る。
    この記録を遺した「佐々木氏」の縁籍は、「近江の佐々木氏の出自」で「永代従四位下」の官位を持ち「御家人」で「代々三役の家柄」(小姓、納戸、祐筆)であった事が書かれている。
    その為に、記録が遺ったと観られる。
    逆に「三役」(小姓、納戸、祐筆)であった事から「情報の秘匿」が護られたと観られる。
    「青木六兵衛」(勘定方の布衣の役)とは同じ一族で同じ「三役の役職関係」の中にあった事から「青木氏」が持つ情報より詳細が記録されていたと考えられる。
    「江戸の伊勢屋」との関係も有った事から「役務上から出入り」があった事が充分に考えられる。
    実は、この「三役」(小姓、納戸、祐筆)には「江戸市中見廻り役の特権」が与えられ、「将軍外出」に同行したり、市中情報を「将軍」に伝えて特命を受けて秘密裏に処置する「露払いの役務権限」を有していた。
    故に、「情報源」や「情報伝達」として「勘定方指導の布衣役の六兵衛」は元より「同役の佐々木氏縁籍の者」や「吉宗自身」も「江戸の伊勢屋への出入り」は充分にあった筈である。

    この様に考察すると、「江戸」との「根本的な大きな相違点」があった事は頷けるが、次ぎの年譜を良く観て見ると「別の根本的な事」がある事が判る。
    「前の4地域−2組」の「商業組合の江戸出店」と、「後の6地域−3組」の「京出店」とには、次ぎの様に「年譜」が物語っている様に、“「何かの影響」”が大きく働いていたのである。

    注釈 「金融の年譜」
    江戸初期1601年頃に「貨幣制度の整備」に着手
    江戸で金座銀座で鋳造と貨幣制度開始
    1609年に「三貨制度」の開始
    1636年に「三貨制度」が完成
    既存貨幣制度の併用の拡大 (本両替)
    量替(1%)制度の開始と拡大 (脇両替)
    1700年頃に「市場経済」の開始
    1710年頃は、「本位貨幣制度」の拡大せず 概念なし。
    「本両替」は「両替屋」― 「金銀兌換 大阪地域 大名・豪商の利用」
    「脇両替」は「銭屋」― 「銭交換  江戸地域 農民・町人の利用」
    1715年頃に、「併用の両替」が「京」に誕生。
    1718年頃に、主に大阪で「両替組合」を形成して成長。
    1730年頃に、両替屋は「両替株」として全国公認 600人に。
    1736年頃に、江戸の「本両替組合」は僅か16人/600  「銭両替組(三組両替)」は27人
    1755年頃に、「銭両替組」が「伊勢屋の質屋」の始めた「質屋」も兼務を開始。
    1765年頃に、江戸と関東を始として「質屋」が全国に拡大

    この「金融の年譜」で観る様に、確かに「享保の改革」で「新しい経済」が起こり始めた事が判るが、ところが、ここで“「不思議の事(“「何かの影響」”)」”が起こっていた事が判る。
    それは、「金銀の両替制度」が、先ずは「江戸」に始まる筈であるが、“「何かの理由」”でそうは成らなかったのである。
    この新しい「金銀の両替制度」が根付かなかったのは、それは何故なのかである。
    この疑問が重要である。

    「享保の江戸」は、未だ「既存の銭による経済」が一般的で、“「金座銀座の鋳造所」”が出来たにも関わらず、「金銀交換の貨幣経済」(両替経済)が江戸には余り根付かず、僅か16人と全体の2.5%と極めて低い状況であった。(江戸の人口比に比べて余りにも低すぎる。)
    これは“「銭屋」”が行う「銭(銅銭)」による「既存の経済」が変わらなかったのだが、この理由は作為的に急に“「質屋経済」“が拡がった事にあった。

    つまり、これには「享保の改革」の根幹の「商業組合」には「金融制度」が大きく左右する。
    「リフレーション経済」には「需要と供給」を始めとして、“全て「バランス」を取る事を前提”とする為に、「金融」に於いても放置すると「デフレ」と「インフレ」の何れかに傾く事に成る。
    そこで、“適量の管理された金融策”が求められる事に成る。
    その必要性から「江戸の伊勢屋」が「質屋」というものを作為的に急いで敷いたのである。

    「富裕層」だけでは無く、「銭」を使う「庶民層」までが使える「金融システム」が求められたのである。
    従って、「江戸」には、この「商業組合」が入る事で、次ぎのシステムが構築されたのである。

    「既存経済」+「質屋経済」=「金融システム」

    以上の構造が新しく構築されたのである。
    これが“「江戸の伊勢屋の質屋」”であって、「江戸の名物」と呼ばれて有名な事に成った所以なのであった。

    筆者は、この図式の金融システムが、「江戸の社会」が“求めた“と云うよりは”論理的に必要“と求めて作為的に”敷いた”と云う方が正しかったのではないかと考えている。
    「既存経済」=「金融システム」で放っておけば、上記の構造が出来るかと云う疑問である。
    放置していると発展する方向に在れば「インフレーションの方向」に走るのが常道の経済論理で無理であろう。
    それを押えて、「商業組合」で作意的に「リフレーション」に導こうとすれば、「自動車のハンドル操作」に匹敵する操作が必要である。
    それが「質屋の特質」を生かした「金融操作」と成り、「両替屋の特質」では無理な論理と成る。

    「単なる質屋の金融」では意味が無い筈で、未経験の「新しい商業組合」と云う経済行動で「リフレーション」を興そうとしているのであれば、要するに“「伊勢屋の質屋」”で無ければならない筈で、「江戸の伊勢屋」の「作為的な経済操作」であったとも考えられる。

    (注釈 放置していた場合に果たして金融を充分に行える商家が出現したかと云う疑問があるが、享保前の江戸の経済状況からは商家は無かった。)

    「二つ目の疑問」は、では、“何故、この「金融システム」が出来上がったのか”である。

    それは、「難波と江戸と京都」の「経済状況の違い差」に依って起こった事に成る。
    突き詰めれば、答えは“「商業組合の発展」”の差にあった。
    「難波」は、「周囲の地域」から「産物」が入り、それを基に売買を前提とする“「商業経済」”を中心として発展した経済である。
    「江戸」は、周囲全体を巻き込んだ「総合産業」を基にして、“「殖産経済」”を中心として発展した経済である。
    「京」は、主に古来よりの「大消費地」で「消費経済」を中心に発展した経済である。

    そもそも、「難波」は「会合衆」が発達した地域で、「自由な商業組合」が馴染まなかったし、大口の「大名と豪商」を相手としていた事から、「会合衆」から「三貨制度の両替屋」が発達した。
    とすると、「江戸」には、論理的には「庶民」が作り上げた経済であって、それに適した「商業組合」が適した事に成る。
    それが“「経済状況の違い差」”と成って表れた事に成る。
    これが「銭屋と両替屋の数の差」と成って表れている。

    そうなると、「江戸の銭屋だけの力」だけと成ると、「自由な商業組合」が発達すると、「庶民の金融」は遅れて成り立たなくなる。
    そこで、下記で論じるが、「融資し物的担保を取る金融業」が必要に成る。
    これが「江戸の伊勢屋の質屋」であった。

    この論理からすると、論理的には金融業の「両替屋」は、「江戸」には「商業組合」が確立した以上は適しない事に成る。江戸には元より「銭屋の金融」であった。
    「殖産に依る商業組合」に必要なのは、前記した様に「金融業」の“「質屋」”と云う事に成る。
    これが、上記の「二つの疑問」の答えで、“「両替屋」”と“「質屋+銭屋」”の「金融業の違い」と成って表れたのである。
    当然に、この「違い差」が「経済システム(土壌差)」に表れる事に成ったのである。

    この「享保の江戸」には、本論の「商業組合方式」が、「総合産業と殖産産業」の中に組み込まれた事で、「士農工商の全ての民」が平均に使える「自由経済」が必要に成った。
    この為には、「金銀銅の三貨の両替経済」は、「特定の金融システム」(豪商の手段)で有るので使えない。
    それには、誰でもが使える「銭(銅銭)」に基づく「兌換の経済市場」が最適である事に成る。
    そこに、この「商業組合の自由概念」が組み込まれたのであるから、「豪商」などが使う「三貨の両替屋」では無く、庶民誰でもが自由に直ぐ使える“「銭屋」”が必然的に発達する事に成る。
    では“、「質屋」の金融業はどうであったのか“が疑問と成る。

    そうすると、「金融のやり取り」には、“全ての民が自由で平等に使えるシステム”が必要であって、そうだとすると、これに合わせて「金銭を融通するシステム」の「質屋の金融」が経済的な論理としては必然的に発達する事に成り得る。
    “必然的に発達する事に成り得る”のであれば、庶民がこの“「質屋」”をどう扱うかの発想が必要に成る。

    「江戸」との「根本的な大きな相違点」(“「質屋」”をどう扱うかの発想)はここに出て来ていたのである。

    さて、ところが、「商業組合」と云う観点から観ると、「伊豆と相模」、「讃岐と伊予」、「米子と安芸」、「阿波と尾張」の四組は地元には「商業組合」を構築したにも関わらず「商業組合の出店」では無かったのである。
    当然に「商業組合」で無ければ、この“「質屋」”をどう扱うかの発想は生まれなかったのである。
    「経済システムの発想」が違ったと云う事に成る。

    上記の「四つの要素の理由」でも「商業組合の方式」が合わなかった事は判るし、「上記の金融年譜」でも明らかに「難波と江戸の経済の中間」を採っている。
    そうすると「商業組合」としては合わない事は判るが、それでは“「出店の合意形成」”が整わなかったのか、或は、「商業組合」にその能力に未だ欠けていたのかと云う疑問点の事も念の為に検証しなれば成らない。

    そこで、筆者は、その規模から考察すると、先ず「讃岐と伊予」に付いては、その「出店能力」は充分にあったと観ていて、前段でも何度も論じたが、“瀬戸内を制する者は国を制する”と云われた程の「経済的な宝庫の地域」である。
    「讃岐と伊予」は「廻船業」を主体として「総合職種」を営んでいた事から、前段でも論じたが、「伊勢域以上の総合能力」を充分に持ち得ていたと考えられる。

    然し、ここで「青木氏の歴史観」として、古来より「讃岐藤氏」は、「藤原純友の乱」以来より「関東域への嫌悪感」を潜在的に持っていた。
    故に、その意味でも最も近く縁故のある「消費地の京」を積極的に選んだとも考えられる。
    少なくとも「選択肢」の一つには位置づけられていた事は考えられる。

    四国域は前段で論じた様に、そもそも、江戸よりは「京との関係」を古来より深く持っている地域でもあったことから、「京の消費地」は「第二次と第三次の消費地」であった。
    然し、「江戸の消費地」は「第一次から第四次の総合の消費地」であった事から、「京」への「商業組合全体での出店」とは成らない論理に成る。
    依って、「讃岐と伊予」と「米子と安芸」と「阿波と尾張」は、上記の「四つの要素の理由」とは別に、職能部門の含まない「単数の販売組合の出店」と成り、「消費地の特徴」から「加工完成品の出店」と成ったと考えられる。

    上記の金融年譜の「京」は、難波と異なり平安期より「本両替(金銀 大阪 大名・豪商)」と、「脇両替(銭屋 銭 江戸 町人)」の古来からの「両方が併存する経済圏」であった事からも、明らかでそれを物語っているので、それに適合する「京」を選択したのである。
    これは経済理論として大きな理由でもある。
    これを無視した出店はあり得ないであろう。

    当然に、この「讃岐藤氏の商法」の影響を受け、且つ、「讃岐と伊予」の一族一門の「米子と安芸」は、「京」に出て「讃岐と伊予」と“タッグ”を組んだと観られる。
    つまりは、「伊勢の商業組合」の「江戸の庶民の商い」を中心とする「組み方」と、「讃岐」の「京の氏の商い」を中心とする「組み方」とが存在していた事に成る。
    そして、この「二つの組み方」は根本的に異なっていた事に成る。

    果たして、この関係を解消して押し切ってまで「総合の商業組合」として「江戸出店」を選んだろうか。そんなことは考え難い。
    取り分け、この「京との所縁と柵」を破る前に、「地理的なハンディー」(運搬に関する無理 下記)が別に在る。
    故に、江戸の「総合の商業組合商法」では無く、地域別(京・名古屋)の「単位の商業組合の商法」を採ったと云う事に成る。

    当然に、「阿波と尾張」の組の「阿波」は,そもそも、「片喰族と剣片喰族の一族」であり、「尾張藤氏の出自族」の「青木氏」である。
    前段でも論じた様に、「讃岐と伊予」と同じ様に、「京」との繋がりが強い地域であって、室町期には「公家武家の西園寺氏」等が席巻した地域でもあり、且つ、この地域は古来より「公家の血縁族の地域」でもあり、「政争の逃避地」でもあった。
    この「繋がりの無い江戸」より、「繋がりの強い地域」を求めて「京」に動いたと観られる。
    その地域別の「単位の商業組合の商法」は、「讃岐と伊予」や「米子と安芸」に並ぶ結果と成るは必定である。
    恐らくは、「讃岐と伊予」や「米子と安芸」と、それに加えて「阿波と尾張」の3組は,地域別の「単位の商業組合の商法」で連携した事が充分に考えられる。

    故に、「伊勢」「越後」「越前」「若狭」の“「江戸の出店の4地域−2組」”とは別に成ったのである。「讃岐と伊予」や「米子と安芸」や「阿波と尾張」とが、不思議に“「京の出店の6地域−3組」“と云う事に成って行って、「商法」も同じと成ったと考えられる。

    「古来の縁故」からの考察でも“「京の出店の6地域−3組」”と成り、不思議にこの様に分けられるのである。
    この当時の「訪問販売」と「付け制度」とその「金融制度」から考えると、「京出店」は「江戸出店」よりは数段に最適であった事に成る。
    例え「吉宗と伊勢青木氏の要請」があったとしても、これではどんな無理をしてでも“「江戸出店」”はあり得ず考え難い。

    ところが、ここで“「江戸の出店の4地域−2組」”とは、行動を共にしなかったこれまた不思議な「伊豆と相模」が在った。

    この「伊豆と相模」は、「源の頼光」以来の本領地で、「伊豆」は「伊勢と信濃の青木氏」がここに子孫を廻して「護衛役」として配置した地域でもある。
    (注釈 前段でも論じているが、「伊勢と信濃の青木氏」は「清和源氏」の「摂津の頼光系四家」とは母方で養子縁組もしている唯一血縁族で、その縁から「護衛役」を受け持った。)

    そして、この「相模」は、「藤原秀郷流青木氏の定住地」で、ここに「諏訪族青木氏」と「武田氏系青木氏」と「武田氏系諏訪族青木氏」の三氏が、「甲斐の武田氏」が滅亡時に逃避して来て「藤原秀郷流青木氏」を頼って定住した各氏の「青木氏の集結の土地柄」でもあった。

    この経緯から、江戸期のこの時期に於いては、この「伊豆の二つの同族の青木氏」(伊勢と信濃)と、「相模の四つの青木氏」の「六つの同族血縁」が成されていて、その長い所縁から「伊豆と相模の青木氏」は「地域」も同じで「所縁」も同じであった事に依り「同じ行動」を採った。
    「江戸出店」と「京出店」があったにも関わらず何れにも参加しなかった。

    ところが、「江戸」を中心とする「総合の商業組合商法」に参画せずに、「京」を代表する地域別の「単位の商業組合商法」にも参画していないのであるが、それどころではなく、「独自の方法」を採ったのである。
    明らかに、“「江戸の出店の4地域−2組」”( 江戸の「総合の商業組合商法」)、 “「京の出店の6地域−3組」” (京の「単位の商業組合商法」)の二つに分けられる。
    しかし、これとは「別の行動」を採った「伊豆と相模の青木氏」の1組があったと云う事に成る。

    当然に、「15地域」の「伊豆と相模」は「主要な商いの二地域」でもあって、「商業組合」は成されていた。
    「吉宗」の「江戸店の呼びかけ」に対して、「伊勢信濃との古の縁故」が厳然と在りながら、“何故、「伊勢」や「越後」の「組」に入る事をしなかったのかである。
    「入る事」は、充分に可能で有ったし、何処から観ても、“入って当然”と見做される位置に在った。
    「15地域」の中でも、“最もリスクが無くメリット”が多い「伊豆と相模」の筈であった。
    筆者も懸命に研究したが証拠と成る資料があまり出て来ない。

    江戸期に於いても「伊豆と相模」は、そもそも、「伊勢信濃」以上に「大青木村」を形成し、「笹竜胆紋」を厳然と護る「平安期」からの「純血性」に近い「青木氏」で在った。
    “「伊豆と相模」の関係”は、当に“「伊勢と信濃」の関係”と同じであった。

    その前に現実に、「伊勢」や「越後」等の「総合の商業組合商法」の「組」に、“何故か「信濃」が入っていない事”に気付くであろう。
    これが「伊豆相模」に通ずる答えに成るのである。
    つまり、「伊勢と信濃」は、前段でも論じた様に、「伊勢―信濃」の関係にあって“「一身一体」の関係”にあったからである。
    「伊勢」より始めた「商業組合」は「伊勢―信濃」の関係で行われていたのである。
    「信濃」は「伊勢の補完関係の役目」を、」伊勢」は「信濃の補完の役目」を奈良期の古来より務めていた。
    「氏の存立」や「商業の発展」にしても古来より継続されていてその役目を長く担っていた。
    何事も“助け助けられての親族関係”にあった。
    従って、「四家制度」にも観られる様に、“「一体」”に成る事に依って「氏の存立条件」を高めていたのである。

    要するに、「享保改革」の「商業組合」は、そもそも「江戸の伊勢屋」は「江戸の信濃屋」であっても良かったのである。
    然し、「伊勢」が「吉宗」との関りから主導し、「信濃」が「護り役」に廻ったのである。
    どちらか一方が「主導役」になれば、片方は「護り役」に徹する。
    明治期までこの関係が続けられていて,明治9年から明治13年まで続いた「伊勢騒動」にも「信濃」が「護り役」に共に動いたと記録として遺されている。
    「信濃」は何と奈良期より1360年間以上にこの役目に徹していたのである。
    これと同じで、「伊豆と相模」の関係も、この「伊勢と信濃の関係」と同じ状況を江戸期まで維持していたのである。

    そこで問題は、この「伊豆と相模」の関係が、江戸の「伊勢と信濃」の関係にどの様に繋がっていたのかである。
    結論から先にはっきり云うと、“答えが出て来なかった“と云う事に成ろう。
    唯、「繋がり」としては一つあった。
    そもそも、「伊豆」は兎も角も、「相模」は既に江戸に近く、武蔵入間を中心に横浜神奈川を半径とする「秀郷流青木氏の宗家の圏内」に在った。
    注釈として、「相模」は、単独の「相模」を意味するものでは無く、「宗家武蔵」でもあり、「宗家の二足の草鞋策」を「補完する役目」を負っていた事で、「武蔵と相模」の意味として表現している。「伊勢と信濃との関係」と同じであった。

    現実に、この「4地域−2組」に地元の本元の「江戸」である所に、“「信濃」“と同じ様に、“「武蔵」”も出て来ない事に気づくであろう。
    「相模の商業組合」は、「海産物とお茶」を主体とした「商いの商業組合」を古来より構築していた。
    当然に、以前より他の論文でも論じている様に、「平安期の秀郷流一門」である限り、“江戸を中心としての「商い」“を鎌倉期初期から堅持していたのであった。
    家康以前からの400年前に遡る話でもある。
    この事は多くの記録に遺る事で、江戸が栄えてからもその栄に沿って拡大していたのである。

    態々、江戸を中心とする「総合の商業組合の商法」に参画せずとも、元々「地元の江戸」に「地域別」の「単位の商業組合の商法」を構築して居て、全く、態々,江戸に移す事の必要性が無く、「武蔵の宗家」と共に既に出来ていたのである。

    要するに簡単に云えば、当に、“「地元」”なのであって、「総合の商業組合の商法」は古来からの関係をむしろ壊す事に成り、「得策」ではそもそも無かったのである。
    どちらかと云うと、「武蔵」にしても「伊豆と相模」にしても「総合の商業組合の商法」は、“明らかに迷惑”と云える立場にあった。
    「メリットが多い」と云う話だけではそもそも無かった。
    その逆で、「商業組合の江戸出店」が出て来る事の事態が「最悪のリスク」と成っていたのである。

    「江戸」が、「総合の商業組合の商法」で発展すれば、仮に、「武蔵と伊豆と相模の領域範囲」に入って来なければ、それは其れでむしろ「得策」であるが、当初は大いに懸念される事であった。
    故に、「伊勢の秀郷流青木氏」が共に「商業組合」を推し進めるべく江戸に出ようとしている中に於いても、更には「紀州藩家臣」と成っていたにも拘らず、「関係性」も特段に持った記録が無かったのである。
    確かに、「江戸の家臣団の官僚族」は、「武蔵宗家の秀郷一門の親族」でもあった。
    にも関わらず「大きな関係性」を物語るものが観えないのである。

    これは何か相当に「苦い思い」を宗家側が持っていた事にも成る。
    筆者は、これはこの「江戸出店に関わる事」であったと観ている。
    「伊勢や15地域の商業組合」に留まっている範囲では問題が何も無かったが、「幕府の政策」として押し出されれば、確実に武蔵一帯の「既存の商形態」は確実に破壊される。
    「武蔵の一族」にして見れば、「痛し痒し」で、場合に依っては、出方を間違えれば「氏存続の根幹」を揺るがしかねない事にも成る。

    江戸の「総合の商業組合の商法」の組は、この「伊豆と武蔵の相模」の関係の領域の範囲を崩さなければ“「争い」を起こさないで済む“と云う”「暗黙の事前判断」“があったのである。
    当然に、この様に成れば、“「談合」を持った”とする資料か何かがある筈であるが、直接的な確かなものは未だ見つからない。
    唯、この享保前の1714年から1716年までの間に「談合」と云えないが、「江戸」に動いている資料が「二つ」ある。

    「一つ目」は、「吉宗」が、「嫡子外」として冷たく扱われていながら、「父兄弟と将軍綱吉との面会」に同行し「家来の控えの間」に居た。(1697年)
    これより「江戸参府」は「1710年後」まで四回行われていて、「紀州帰還」は三回行われている。江戸と紀州の在籍期間は各々3年と云う事に成って史実と一致している。
    この事から「13年の間」には「3年に一回」は「帰還と参府」を繰り返していた事に成る。
    「参府四回」と「帰還三回」の間に「1709年末−1710年後」に江戸に出向いている事に成る。
    何故、未だ無視された「控えの間の人」でありながら、三回も何故に「江戸滞在」に出ていたのかである。
    「葛野藩の藩主」であった事も考えられるが、「陣屋館の形式」で家臣が15人ほど出向いて納めていた形式上の藩主で「紀州藩の支藩扱い」であった。
    要するに、「吉宗の食い扶持藩」と云うものであって、三万石乍ら無役である。
    つまり、単なる参勤交代では無く「何かの目的」で「江戸」に出向いていた事が判る。

    「二つ目」は、「伊勢の紙屋」から二人、「江戸」に出向いている。
    (1711年前頃 資料の記載が「宝永」か「宝暦」かは一部朽ちて判別できないが流れから「宝永」と考える。)
    恐らくは、一人目は、その表現から息子の「福家の青木六兵衛」と観られる。
    二人目は、人物の詳しい表現が無いが、「四日市殿」であると観られる。
    この二人は「吉宗」にこの時に同行したのかは良くは判らない。
    合わせて、「吉宗の事の一つ目の資料」と「青木氏の二つ目の資料」の接点は有るのか無いのかは、確定する資料は見つからない。

    唯、「一つ目(1710年後頃)」と「二つ目(1711年前頃)」には、何かの意味があつた事に成るが、「時期的には同じ」であったが、「同じ行動」であったかは判らない。

    この「二つ目の資料」は、「伊勢郷士衆」で「郷士頭」を務めた「遠縁の家」に遺されたものである。
    「青木氏の福家」との間で交わされたもので、虫に食われて朽ちかけた「連絡文の様な書類」である。
    この「連絡文の様な書類」の一部に書かれている文面から何とか読み取ったものである。
    この「縁籍のある郷士頭」も「何かの理由」で同行する事に成っていて、その「打ち合わせ」の「連絡文」ではないかと観られる。

    可成り前から、「吉宗」の「藩主擁立」か「将軍擁立」に向けて「青木氏と紀州藩」は密かに動いていた事は論じたが、その時に「青木氏」の中で「談合している事」は小記録からも判っている。
    この「談合の後」に、その前に、未だ「享保の改革」が始まっていない時期に、“江戸で何かが起こったか”、或は、密かに交わした「武蔵入間宗家」に向けた書類に対する「返書」が来て、それに対する説明をする必要に迫られていたとも考えられる。
    筆者は後者であると観ている。

    唯、検証して観ると、一つの鍵は、“「四日市殿」”が出向く事に成っている様なので、これを租借すると、単なる説明では無い事は判る。
    “何で四日市殿?“と云う事に成る。
    考えられる事は、それは“「四日市殿の家筋格式」”を利用して、同行する事に成って「郷士頭」に連絡をして来た文脈と観られる。

    「四日市殿の家筋格式」は前段でも論じたが、「初代紀州藩頼宣」の時に「徳川氏」より「立葵紋の使用」と「水戸藩孫の勝姫娘との血縁」を結んだ「徳川氏の縁籍筋」の家柄と成ったのである。
    前段でも論じたが、「立葵紋」は「徳川氏の格式紋」として、「信濃善光寺」と「伊勢青木氏の四日市殿」にしか使用を認めていない家紋で、徳川氏宗家以外は一切使用を禁じている「最高格式紋」である。
    「格式」としては江戸期では、「笹竜胆紋」に匹敵させている「最高の立葵紋の青木氏」で在ることから、この「縁籍の格式」を「青木氏」が是が非でも「利用しなければならない状況」が起こった事を示すものと先ずは解釈できる。

    次ぎに、「次男の六兵衛の同行」であるが、「六兵衛」は共に育った「吉宗の幼友達」である。
    これから考えれば、「嫡子外吉宗」、「継の間の吉宗」に同行したとも考えられるが、一方で「商業組合」を最も説明できる者とも考えられる。

    更に、上記の「二つの事」に合わせて、三つ目として「縁籍の郷士頭」をどの様に捉えるかである。
    「伊勢の商業組合」と「職能集団の実態の状況」を最も把握している「郷士頭」が補佐として同行すると云う事に成ると、“「説得工作の戦略」”とも考えられる。

    この「三つの事」をこの1710年前後の時期の「伊勢の状況」とを総合的に考え合わすと、次ぎの様に成るのではないかと判断される。

    「四日市殿」の格式を使って「徳川氏宗家へのコンタクトと幕閣への裏工作」として働いた。
    「青木六兵衛」に依って「吉宗代行として秀郷流宗家への裏工作と経済対策の説明」に出向いた。
    その上で、「伊勢の商業組合」と「職能集団の実態の状況」を最も把握している「郷士頭」が補佐として同行すると云う「説得工作の戦略」を採ったのではと読み取れる。

    この「四日市殿の裏工作」から、「立葵紋」を利用して、「吉宗の幕閣や大奥お目見え」と繋がったのではないかとも考えられるが、これは少し年代がずれていて後の5年程後に成る。

    将軍綱吉は、没年1709年2月で、丁度、その1年後の将軍家宣(没年1712年11月)の少し前の時期と成る。
    「三年の治政」で「綱吉の悪政の修正」に務めた。「三代急逝去の時」である。
    1710年後から1711年前頃とすると、徳川宗や家幕閣の中で「政治」「経済]「世継ぎ」の問題で紛糾していた時期でもある。

    別の資料からは2年前(1714年)からの「幕府への説得工作の戦略」を展開したと成っている。
    ところがこの資料からだと、幕府への「説得工作の戦略」は4年前(1711年前)と成るので、少し早すぎる事に成る。(当初、この説を採っていた。)

    とすると、残るは、「武蔵入間宗家」への「説得工作の戦略」の説に成る。
    その内容は、「商業組合に対する参加」に関する「説得工作」であった事に成る。
    「享保の改革」とは別に、その前の“「15地域の一員」”に加わる様に、「伊豆と相模と宗家」への「商業組合に対する参加」を要請した事に成る。
    つまり、そうすると、この段階で、“「地元」”と云う事も含めて、上記した様に、「武蔵」を始め「伊豆相模」の「経済に対する特殊事情」を考慮していた事を示すものと成る。

    「青木六兵衛」と「郷士頭」は「全体の説明役」と「伊豆の説得役」に、「四日市殿」は秀郷一門との「パイプ役」に働いた事に成る。
    「四日市殿」は、「伊勢青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」との「融合血縁族」である。
    取り分け、この「四日市殿」には「大きな役目」があって、「秀郷一門の説得」には、「江戸の経済」に大きく影響する事から「幕閣」と「幕府高級官僚族」と成っている「一族一門の説得」と、「秀郷一門宗家の説得」と、「相模の説得」に掛かったと考えられる。

    結果として、一応の説得は出来たが、その範囲は、「相模と伊豆」に限定したものであった。
    この時の事が、上記の「伊勢側」の“「暗黙の事前判断」“と成っていたと観られる。

    つまり、「江戸」に出ていざ改革を開始しようとした時に,「江戸への進出」には応じていなかった事に成る。
    「伊勢側」では、“説得に応じた”と受け取ったが、その後に「武蔵−伊豆相模」側か、「幕閣官僚」側に“「蒸し返しの反対論」”が出た事もあり得る。
    “「伊勢側」の“「暗黙の事前判断」“があったとする説は、「二つ目の資料」が見つかった事で「武蔵宗家−伊豆相模の説得説」に成ったのであるが、仮に、”「伊勢側」の“「暗黙の事前判断」“が無かったと成ると、強引に「享保の改革」の為に「伊勢の青木氏」は「江戸」に出て行けないであろう。
    それこそ、「争い」と成る。
    確かに、後の「将軍吉宗擁立」では、“「幕閣官僚の反対」”があった事は明白である事からも、恐らくは、後日に異議を唱えたのは、「幕閣官僚の反対」であった事は直ぐに判る。
    「立葵紋の四日市殿の説得」には、流石に「反対の声」を直ちに上げる事は難しかったのは判る。
    「武蔵宗家−伊豆相模の説得」は出来たと観て、一行は伊勢に戻ったのであろう。
    「説得失敗」であれば、「何らかの談合」が伊勢で成されていて、且つ、「何らかの資料」が遺されていてもおかしくは無い筈であるが無い。
    「15地域の商業組合の確立」は成功したと判断していた事に成る。

    然し、「武蔵宗家−伊豆相模」側では、「武蔵宗家−伊豆相模」の「後日の異議」が発覚して、結局は形式上は、「江戸」には直接持ち込まずに「伊豆相模の範囲」で「一応の最低限の形」は整えた事に成る。
    故に、何の行動も無しで「伊勢側」もその心算でいた事に成る。
    1716年に蓋を開けてびっくりと云う処であったと観られる。
    恐らくは、いざ、1716年に江戸に出て見ると、上記の様に、「武蔵−伊豆相模」は“食い違っていた”と云う事であろう。
    大いに慌てたと観られる。大きな誤算であった事に成る。
    結局は、「融合政策」に切り換えるほかは無かったと成ろう。
    「裏の実態」は、そこで、慌てて談合して、“争いに成らない様に要領を定めた”と云う事に成ったのでは無いかと考えられる。
    それが少し後で「吉宗の幕府」が出した「質流れ禁止令」と成ったと考えられる。

    江戸に出した“「江戸町方の質流れ禁止令」”から、全国に向けても“「質流地禁止令」”を発したが思わぬ騒動と成った。
    そこで、1年後に廃止したが、その代わりに、当然に、「吉宗の経済学の博識」から、この影響が他国に伝播する事を恐れて「葛野藩の割譲地」は“越前返却”として治めたと観られる。
    現実に、この騒動は「15地域」の「越後」から一員の「越前方向」にも伝播しつつあったし、近隣の丹波北域でも防ぎきれずに起こって仕舞った。
    そこで、「吉宗」は、“否を認める事の姿勢“として、「葛野藩の割譲地の返却」(3万石から4万石に質流地で増額に成っていた)として「返却手段」で治めたと観られる。

    実は、「葛野藩の石高」は、当初の扶持米としての割譲時は「3万石」であったが、前政権の「質地取扱の覚」の令で一時的に「質流れ」を緩和した。
    これで「騒ぎ」が起こったのであるが、この為の緩和で地権が放出されて葛野藩は4万石に増額していた。

    (注釈 当時は、各地に起こる改革も何もしないで増える「支藩等の石高」に対して、葛野藩も一種の「質流れの象徴」の様に観られてしまっていた。享保の改革推進を進める吉宗としては真逆の事に成る現象が各地で起こって仕舞ったし、我が身も疑われて慌てた。)

    そこで、「吉宗」は「否の証拠」と成る「葛野藩」を「越前藩」に返却をし、「質地取扱の覚」(1695年発令)も、「質流地禁止令」(1722年発令 1723年廃止)も廃止したのである。
    これで各地で起こり始めていた騒動は納まった。

    確かに「騒動」は納まったが、「伊勢」−「伊豆相模との問題」は納まった訳では無かった。
    この侭で行けば、間違いなく「争い」が起こっていた筈であった。
    この「争い」ともなれば「伊勢」と「伊豆相模」の「醜い同族争い」とも成り得る。

    そこで、「町方」に多く出現させ始めていた“「江戸の伊勢屋」”の多くは、「江戸の名物」の“「金融業の伊勢屋の質屋」”であった事からも、「質流れの禁止令」( 「元の裏の目的」 「町方対象) 「要領書的な通達」)は、「武蔵と伊豆−相模の領域」を犯さない為にも発行されたものであった事が判る。
    (前段で論じた鎌倉期から江戸初期にまでの間を経て確立していた「商い地盤」を崩されたくなかった。)
    つまり、元を質せば“「犯す」“のは、”「金融の領域」“からであって、その「質流れ」の「担保の権利買取」の事で起こる問題で、それを防止する「要領」であった。
    「担保の権利買取」は、旧来からの「銭屋経済」で生き残ろうとしていたのであった事から確かに「伊豆、相模、武蔵」に執っては明らかに困る。

    商取引上では、「自由を前提とする商業組合方式」である限りは、公然と「武蔵と伊豆−相模の領域」は保護できない。
    そこで、その起こる寸前の手前で「取扱要領」を決めたと云う事に成る。

    「伊豆や武蔵や相模」などからは影響を強く受けていて、その「改革の勢い」で「質流れ」「手形」等を発行する事は多発していた。
    そこで、これらを「江戸の伊勢屋の質屋」が「質流れ」で買い取る事は、「伊豆や武蔵の相模」の「地権」等の財産を獲得する事に成り、この「領域の範囲」を明らかに超える事に成る。
    「氏存続」も危うい事にも成る。
    従って、「形振り構わない不必要な反発」を受けない様に、これを「伊勢側」に約束させる事を前提としていた「質流れの禁止令」の事に成って行ったのである。

    これで「伊勢」−「伊豆相模との問題」は争わずに収まりが一応は着いた。
    「享保の改革」が進む保証が採れた事に成った。
    つまり、「質屋の金融経済の経済」と、「銭屋の既存金融の経済」の“「共存」“は一応は成立したのである。
    突き詰めれば、江戸には「両替制度の経済機構」が入りにくい「新しい経済機構」(銭屋と質屋)が出来た事に成る。
    然し、新しい経済構造が出来上がりつつあったが、未だ“「融合」”と云う処までには至っていなかった。
    それには、“「質屋金融」“に伴って起こる“「担保」”と云う処に問題が未だ在った。

    この「享保期の当初の担保」は、「新しい町方の金融」を育てると云う「当初の目的」があって、未だ「地権」のみならず多彩に及んでいた事が判っていて、その多くは、“育てる事を目的”とする「信用貸付」(町方貸付)が多かった事が書かれている。

    ところが、“「暗黙の事前判断」“の「食い違いの事件」で、「伊勢側」と「伊豆相模側」との互いの「信用」は戻ってはいなかった。
    「信用貸付」である以上は、「商業組合」の「組合人」としての「伊勢側の信用貸付」が「伊豆相模の側」には起こり難かったのである。
    それ故に、「銭屋による既存金融」の中にも居た事もあって、尚更に“「江戸出店」”は起こらなかった。
    この傾向は1788年までの「享保改革のリフレーション政策」が続いた間は、遂に戻らなかった事に成る。
    「初期の信用貸付」から「物的担保」に移行しても結局は戻らなかったのである。
    結論的には、“「共存」”は起こっても“「融合」”は起こらなかった。
    「伊勢信濃側」と「伊豆相模側」の関係も親族でありながらも、“「心の融合」”は明治期までも起こらなかったのである。
    「食い違いの事件」は「相当な不信感」を招いた事に成る。

    “「共存」”に依って「一応の安定」が得られた事から、「幕府」は、後にこの様子を観た結果、この要領(ルール)が護られていると判断し、取り敢えずは、“問題が起こらない事”を確認した事で、5年後に「令」を撤廃した。
    つまり、この「5年後」には、先ず「共存」が出来上がった事に成り、“「伊勢側」の“「暗黙の事前判断」“の「食い違いの事件」は、”「要領(ルール)」“に依って解決した事に成った。
    これは「伊勢の紙屋」と「江戸の伊勢屋」と「勘定方指導の青木氏」の三方で「情報のやり取り」があった事を示している。

    (注釈 「伊勢青木氏側」にはこの事に関する限りの記録は六度の火災で全消失。 「伊勢側の関係者」には上記の「二つ目の資料」だけ在り。“「暗黙の事前判断」“の内容と、「食い違いの事件」の内容は「商記録」で無い事から無い。「伊豆相模」までの調査は充分に出来ていない。「武蔵入間」に関しては、先の戦争や大地震等の自然災禍に依る影響か不思議に資料記録は一切無く、「伝統」も「菩提寺」も無い様な状況下で、伊勢側と佐々木氏の資料に頼る状況下にある。)

    しかし、ところが思いがけなく、「商業組合」の活発な「越後」に於いて、「町方」では無く、「農地」に対して出していた「令」に依って、「1722年の越後大騒動」(他二か所)が起こって仕舞った。

    (注釈 この農地対象の「質流地禁止令」は1年後廃止した。 基に成った俗称「質流れの禁止令」は5年後廃止した。)
    (注釈 元々は「質地取扱の覚」で「享保期前の1695年」に発し、「禁止」から一転して「質流れ」を認める「覚令」であった。
    混乱を招いた根源である。
    豪商や豪農や大名や高級武士が新たな地権者と成って益々利益を挙げた。
    「騒動の混乱」は「大きな格差」を招いた事が根本の原因であった。)

    注釈の通りにこの「令の経緯」は極めて複雑で、次ぎの様に成っていた。
    江戸初期の「田畑永代売買禁止令」 →町方対象の「質流れの禁止令」 →農民対象の「質地取扱の覚」 →農民等の「質流地禁止令」 →「田畑永代売買禁止令の緩和令」

    以上が概要の遍歴である。
    全て、「享保前の失政、悪政,稚政の付け」である。

    この「越後騒動」(1722年)は、発令当初に、「誤解に依る大騒動」が起こって仕舞ったと云う事であって、且つ、「江戸での状況」も改善された事で、その後の解決期間を経て、「令」は中止されたのである。
    この「令の事」は、“「暗黙の事前判断」“の内容と、「食い違いの事件」で「醜い同族争い」が江戸でも初期の頃は起こり始めていた事を示している。
    単純に円滑に「商業組合」が浸透して行ったと云う事で決して無かった。
    「享保の改革」を全国の「青木氏」から観た形で検証はして何とか描いているが、「同族争い」までして相当に苦労した事が判る。

    (注釈 「談合」に入った形跡資料は見つからない。相当な不信感があった事が判る。当然に「商業組合)に対する「妨害や邪魔な行為」があった事が考えられる。それを押し切ったのが「伊勢山の質屋」であって、それに対する「リスク」を最低限に抑える為の「質流れの禁止令」の「要領書」であった事に成る。「青木六兵衛」から聞いて「幕府の吉宗」もこの「争い」を承知して気にしていた事が判る。)

    この苦労が我々末裔に執っては何の影響もなく、今やロマンに過ぎないが、これ程に苦労して改革を背中に背負って果たしてどれだけの意味が在るのか疑問にも成る。

    1788年以後は「青木氏と郷士衆」は紀州に引き下がって江戸での「ギクシャク」は納まったが、結局は、「次政権のインフレ策の失政」で「青木氏の功績」は霧消してしまったのである。
    たった、72年間の夢幻かと成る。当に「諸行無常の極まり」である。
    筆者は、掘れ起こせば掘り起こす程強い「空虚感」を抱くばかりである。
    研究すればする程に、深く入れば入る程に、解き明かしてもその意味合いを他氏には理解され得ない事で、たった一つに成って仕舞った孤独な「遺された氏族の悲哀」を噛み締める事もある。
    取り分け、この江戸の「伊豆相模」での事では強く感じる。

    然し、この「部分の事」を解き明かして「青木氏の歴史観」にして置くのは、「青木氏」しか無く、他氏はしないであろう。
    「商業組合と享保の改革」をより詳しくして遺すのは「歴史家」には出来ない研究事で、資料の持つ「青木氏」にだけ出来る事である。

    恐らくは、「江戸の伊勢屋」も「伊勢の紙屋」も「江戸の六兵衛」も「伊勢紀州の郷士衆」も1790年の頃には感じ取っていた感傷であったであろう事が判る。
    「越後、越前の青木氏」も同じであった事であろう。

    江戸期前には「各地の青木氏の家」にもっと資料が遺されていた事が考えられ、現在でも「伝統」を護り「青木村」を形成している「伊豆」と「越後」にも遺されているものと考えられる。
    今後の課題ではあるが「資料」が多く見つかれば「青木氏の歴史観」はもっと広がる事が間違いは無い。

    兎も角も、「伊勢」では、「祖父の話」では、詳しくした「先祖伝来の由来書」成るものが「福家の青木氏」に在って、累代で「追い書」されていた事が判って居るので、「伊豆」と「越後」と「越前」にも在る筈であるから、「青木氏の歴史観」は更に広がる筈である。(伊勢は松阪大火で消失)
    然し、「時間と時代との競争」であろう。

    (注釈 「近江佐々木氏」の「青木氏に関する研究論文」が大いに役立っている。)

    取り分け、「勘定方指導」と「江戸の伊勢屋」で動いた「享保の改革」の詳細については、「青木氏族」にしかわからないの“「誉れ」”には成るが、「伊豆、越前、越後」にも在るとは思われるが、「伊勢信濃側」から兎も角も判る範囲でまとめて続けて投稿して置く。




    >この詳細は、 「伝統―22」に続く。


      [No.338] Re:「青木氏の伝統 20」−「商業組合」の発展 
         投稿者:福管理人   投稿日:2016/02/09(Tue) 09:17:21  

    :「青木氏の伝統 19」の末尾


    > 他には「武力的な援護」、「政治的な援護」と成るのだが、「青木氏の氏是」に依って「歯止め」が掛かっていて、直接の「武力的な援護」は無く、「経済的援護」の他に、「青木氏」が持つ「シンジケートに関わる援護」が多い傾向である。
    > この「シンジケートの援護」であるが、「直接的な武力衝突」では無く、平穏時は「家族の身辺警護や食料の安全輸送」等に関わっていた模様である。
    > 「一揆」を先ず根絶やしするには、為政者側の採る最初の作戦は、先ずは、「補給食料の断絶」や「家族への脅迫」や「調略作戦」から始まり、「武力に依る掃討作戦」は最後の手段であった。
    > その前のこの作戦に「援護の対応していた役目」は、「郷士頭の家に遺る手紙」の資料から読み取ると、「青木氏」からの指示に基づき、その役目が危険であった事からこの「シンジケート」が手足と成って大いに働いていた様である。
    >
    > 「政治的な援護」の関りでは、「シンジケート」と関係していて、“「一揆後の立て直し援護」”と云った「援護の関り具合」に徹していた事が判る。
    > 特に、「江戸期末期のシンジケート」は、時代と共に変化して「抑止力」と云うよりは「職能集団」と云った様変わりした「重要な役目柄」を演じていた事が判って居て、支配下に置いていた「伊勢水軍」の「職能集団」は、「海上輸送」で働き、各地域に配置していた武装集団は、「陸送輸送と警備担当」で働き、「大工等の職能部」は、神明社等を江戸幕府に引き渡した後は幕府から「関連企業」として受注を受けてこれを修理管理する事に働いていた。
    >
    > そして、明治期中期には、伊勢に於ける「青木氏のシンジケート」は、これら全てを解散して「企業」として独立させる手段を採った。
    > 伊勢以外にも、例えば、「讃岐青木氏」の様に、本体は「商い部門」を瀬戸内に遺しながらも、「廻船業」として「新規航路」を作り、最終、蝦夷地にも支店を置いて大いに栄え、昭和20年まで続いていた。
    >
    > この様な例の様に、時代と共に体質変化させて生き延びていて、「青木氏の15地域」では、「伊勢、信濃,讃岐」は、勿論の事、有名な処では「新潟」や「富山」や「鳥取」等、多くは少なくとも昭和の初め頃まで「商業組合と提携商人」と共に存続した事が判っている。
    >
    > 要するに、江戸期末期に成っても依然として「賜姓族」として頑なに「地域の住民」を「賜姓五役」の「殖産や興業」に導いて、「商業組合と提携商人」は「本来の一揆の意味合い」としての貢献をしている。
    >
    > これらは前段の「伝統シリーズ」でも「関わり具合」を論じてはいるが、本論は「商業組合と提携商人」としての「15地域の青木氏の生き様」を「伊勢の例」を下に焦点を当てて論じた。
    > これらの事は、決して、伊勢域だけの事では無く、「15地域」では、「商業組合と提携商人の組織」を形成する以上は、ほぼ同じ様な事が起こっていたのである。
    > それを前提にご理解頂きたい。
    >
    > 次段は、矢張り、伊勢を以って、この「提携型商人」の「射和商人」に付いて例として詳しく論じる。




    「伝統シリーズ−20」


    そこで、江戸初期からの関係として、前段から論じている「青木氏と郷士衆と門徒衆との関係」で成立したのは「松阪商人と射和商人の商業組合」の経緯である。
    この様な関係の経緯が時代毎に形を変えて上記の「一揆」には背後に必ずあった。

    つまり、そこには上記の「関り具合」とは「別の媒体」としては、「青木氏の定住地」から発祥した有名な地域の「・・・商人」があった。
    そもそも、「射和」(いわ)とは、現在では、「伊勢松阪の南域」に位置し、「玉城地域」との川を隔てた北側の処にある「古い町並みの地域」の事である。
    この地域は、従って、この“「力の背景」”を得て「歴史の荒波」を得ても消失する事も無く、江戸期を経ても何と現存しているのである。
    (当初の「古い街並み」そのものも遺っている。)
    改めて、その「商業組合の拠点」となった「伊勢松阪」は、奈良期の古来よりの「伊勢青木氏の定住地」であった。
    然し、戦乱後の室町期末期には、「秀吉の許可」を得て「蒲生氏郷の本領安堵策」で旧領も含めて認められた為に幸いに「安堵の経過」を経た。
    これが「青木氏が関わる地域」の「伝統」を維持出来た大きな要素の一つであった。

    「郷士衆や民」との「心のつながり」が悠久の時からのものとして維持出来たのである。
    それは、前段で論じた「紀州伊勢で起こった一揆の関係」で証明できる。
    この「心のつながり」が霧消して居れば、「青木氏」に「経済的背景と成る力」が在ったとしても、「一揆」までの援護をしていたかは大いに疑問である。
    恐らくは、この事(本領安堵)が無ければ心は霧消していたと観られる。
    その“「遺った心」”が此れから論じる“「商業組合と御師制度」”を結び付けて維持する事に成功したと考えられる。
    唯、「松阪の氏郷の商業策」として「城郭整備」の為に移動し、「伊勢松阪の屋敷町」の9番地から11番地の「広大な3地域」を与えられ、そこを「青木氏の商業拠点」としたと伝えられている。

    「蒲生氏郷」は、この1588年に飯高郡矢川庄四五百森(よいほのもり)で松阪城建築に伴い特別な「楽市楽座」と呼ばれる概念で「町の縄張り」も行った。
    この時、「氏郷」は、寺社などの商業に関わらないものは町の外側に配置した。
    そこで、戦乱を前提に町筋を直線ではなく“町角”を要所に造り“道幅”を変えて一度に多くの“敵兵”が攻め込めないようにした。
    そして、「伊勢郷氏」や「伊勢郷士衆」や「伊勢商人」を強制的に移住させて「特殊な城下町」(湊町)を作り上げた。

    (注釈 近江より「近江商人 日野町」を呼び寄せてまで「商人の町造り」をした。これが下記に論じる問題を起こした.)

    そもそも、「伊勢松阪」は「伊勢神宮のお膝元」である事から、古来より「不入不倫の権」で護られ、城等を建築する事を「朝廷政権」、所謂、「西の政権」が室町期まで禁じていたが、「信長」に依ってこの慣例は破られていた。
    現在で云う“「商業テナント」”を「街の中心」に据え、その周囲に近江より呼び寄せた「家臣集団」や伊勢の「主だった郷氏や郷士衆」や「主だった町衆」に敷地を与え「商業都市域の住宅街」を築き、当時としては画期的な“「特殊な城下町」”の基礎を構築したのである。

    (注釈 唯、江戸期に入り「紀州藩の飛び地領」と成った事から、この「庶民の町屋構造」(西十町東九町)が不便と成り廃棄し廃藩をした。
    その後、条理性のある「紀州藩武士の屋敷町構造」(殿町)に造り換えられた。この「屋敷町」には紀州藩支藩の田辺藩の家臣が赴任した。)

    「青木氏」には、この「特殊な城下町」に与えられた3区画も、依然として紀州藩より安堵とされた。
    そこで引き続き、与えられた区画のここを「商業組合の拠点」としても使われる様に成ったのである。
    「紀州藩の安堵目的」には、事前の「談合の結果」(2度)として、「荒廃した伊勢の発展」の為に、「状況証拠と商業記録」だけで確定した記録が遺されてはいないが、「商業拠点」(青木氏提案)とする事があったと観られる。
    そして、その「提案」に基づき、そこを、主に「伊賀和紙を扱う総合商社の紙屋」の下屋敷(拠点)にしたと考えられる。

    注釈として、この時、「紀州藩」は不便な角部のある「幅狭の街並み」を態々と変えている。
    この意味する処は何であったのかが問題である。
    「何らかの目的」があってこそ「改善」をしたのである。
    「金銭」をつぎ込んでここに新たに別に「西棟10戸 東棟9戸の家臣、即ち、紀州藩家老田所氏の家臣の武家屋敷町 一戸 間口5間 奥行5間」に編成し直した。
    「青木氏の一区画300坪」とされているが、何と武士屋敷比35倍 「福家の一部住居」にも成っていた。

    これは、明らかに「青木氏の提案」、即ち「商業組合の実現」を企画しての変更であったと観られる。
    それでなくては、こんな「家臣の武家屋敷町」の真ん中に「強大な敷地の屋敷」を幾ら「旧来の郷氏」であったとしても与える事は無いであろう。

    前段でも論じたが、「二足の草鞋策」で、「伊賀和紙」(伊勢和紙とも云う)を奈良期から殖産し興業化して作り始め、正式には925年頃に「商い」を営み、更に1025年頃には「総合商社の豪商」となり、歴史にも出て来る位の「商い」を松阪で営んでいた。(前段で論じた。)
    そして、江戸期には、「紀州徳川藩」の「勘定方」を指導し、「吉宗」に同行して「享保の改革」(青木六兵衛)にも参加して、その「商法」を活かしていた。
    江戸時代には、従って、地元の“「伊勢」“は「紀州藩飛び地領」として、特に力を入れ「松阪商人と射和商人などの伊勢商人」を多く輩出させた地域でもある。

    ここまで「紀州徳川氏との関係」を成すには、根本に「何らかの特別な話し合い」が無くては無し得る事では無い。
    この関係が「家康との談合時」の「商業組合の提案」にあったと観ている。
    「西の大阪」に対して、「家康」と「青木氏」の両者は、「荒廃する伊勢」を立て直すには、「伊勢」には「試験的な自由な商業都市の実現」を目指したと観られる。
    この事が次ぎに明らかに成る。

    実は、前段の「商業組合」と共に、“「御師制度」”と云う「職能集団の組織制度」を「江戸幕府組織」に「吉宗」は持ち込み採用したが、この事に付いて特段で論じる必要がある。
    そもそも、この“「御師制度」”とは、元は奈良期からの「伊勢神宮の職能集団の制度」であった。
    そして、「伊勢神宮の皇祖神」の「子神の祖先神」(青木氏の守護神)の「神明社の神職」(青木氏族と佐々木氏族)などがこの「御師」(おし)に選ばれていた。
    ところが、「御師の首魁の青木氏」は、この「御師制度」を「青木氏」の中にも持ち込んで、「二足の草鞋策」の維持に活用していたのである。
    当然に、この「商業組合」の組織等にもこの「御師制度」を適用したのである。

    前段で論じた(イ)(ロ)(ハ)の{身分・格式・職種」等の不必要な垣根を取り除いた”「自由な組織体」”にこの「御師制度」を適用したのである。
    一見して矛盾する制度であるが、然し、その矛盾すると観られていた「御師制度」は、この「商業組合」に生きたのである。

    では、”これは何故なのか”である。
    それは、”「自由」”であるが故に、”完全に放置すれば飛散する”はこの世の条理である。
    何処かで“飛散を止める仕組み”が必要であって、それは「内部の飛散」では無く、外側、況や、“「外郭の飛散」を留める仕組み”が必要であった。
    「職能別」にまとめて放置すると、初期の段階では纏まるが、暫くすると“喉元過ぎれば熱さ知らず”の例えの通り、ある一つの職能別集団に何時かは「独立の機運」が蔓延して他の職能別集団との連携が上手く採れなくなる。
    こうなると「全体の商業組合の効果」は半減低下し、何時かは離散するが条理であり、これが「自由を前提とする組織の欠点」でもある。
    だとすると、“外に離散する事”を先ずは防げばよいと云う事に成る。
    そうすれば、「外郭の範囲」の中で多少の「自由」は阻害されたとしても纏まる事が出来る。これがこの世の習いの条理である。
    つまり、突き詰めれば、その「疎外のリスク」が「全体の享受メリット」に比して極小であれば組織は成り立つ。

    「離散防止の役目」=「疎外のリスク」<「全体の享受メリット」=「御師制度」

    この世は以上の数式論が成り立つ。

    この「離散防止の役目」を果たしたのが「御師制度」であった。

    この「単なる御師制度」では駄目であった様である工夫が成されている。
    そもそも、この「商業組合」に持ち込んだ「御師制度」は、資料から読み取るに、可成り初期段階に持ち込まれていたと観られる。

    幾ら「自由」の「商業組合」とは云え、「社会の自由」は「封建制度と氏家制度」とで出来ている限りふ「個人の概念」”は制限される範囲に在ったし、現在の様にそもそも体質的にそう「自由な発想の概念」を持ち合わせていなかった筈で、「社会全般の概念」がそうであった筈である。
    むしろ、どちらかと云うと、「古式豊かな概念」の中に、他の者達より「新しい自由な概念」をより多く持ち合わせていたと云う事であろう。
    この「新しい自由な概念」なるものは、現在の発想する「自由な概念」と云うものでは無く、「商業」と云うものから発展した概念であったと観られる。

    伊勢には、昔から、”「近江泥棒に伊勢乞食」”と言う言葉が遺されている。
    つまり、「近江商人」は“「がめつい商法」”、に対して「伊勢商人」は、「質素倹約の商法」の意味で呼ばれていた。
    元より、この「質素倹約の商法」の“「商い」”をより豊かにするには、「質素倹約」の「固定概念」に捉われていては「商い」は成り立たない。
    “「商い」”と云うものは、そもそもその「自由の原点」から発想されているものである。
    この「質素倹約の商法」の「商いの概念」の中で発育した範囲からの“「自由概念」”であったと観られる。

    当に、奈良期から行われていた「外国との貿易」はこの概念の範囲からのものであった筈である。

    「質素倹約商法」+「自由」=「伊勢商法」+「商業組合」

    以上の関係式が成り立つ商法であった。

    遺された手紙の中の一節を読み取ると、「質素倹約の商法」の中での「商業組合」は、丁度、現在で云えば、”「産業別と職能別の共同連合会」の形式”に似ていると考えられる。
    これに適合させた「御師制度」が、「単なる御師制度」では無かったと云う事の“もう一つの策”で有ったと観られる。

    「質素倹約の商法」+「自由」=「伊勢商法」+「商業組合」+「御師制度」

    この会、即ち、「御師制度」が「自由」から起こる“外郭の飛散を留める仕組み”を果たしていたと云う事に成る。

    では、“一体、「商業組合と御師制度の関係」がどの様な仕組みに成っていたのか“と云う事である。
    これが、”「単なる御師制度」では無かった“とする他の”もう一つの策“とは、「産業別と職能別の共同の連合会の様な類似形式の上に、この「個々の組織の頭」に”伊勢紀州の「郷士衆」を置いた”と云う事であった。

    「質素倹約商法」+「自由」+「郷士衆」=「伊勢商法」+「商業組合」+「御師制度」

    「個々の職能の組織の職人」をその「共同連合会の様な形式」と成っていた会の「会頭」に置くのでは無く、その「職能の責任者(差配頭)」としてその「地域の郷士」を置いて、その「組織」を纏めさせ「全体の生産工程」をも差配させていた模様である。

    そしてこの「郷士の家人」がこの「事務的な実務」を担っていた事が判って居る。
    この「郷士家人」とは、その「職能者の家筋の者」であった様である。
    そして、身分格式を問わず「職能者全員」は「下級武士を含む農工の民」の広い範囲で構成されていたのである。
    ここで「職能集団がまとまる糸筋」なるものを作り上げていた事に成る。

    この「伊勢紀州の郷士」には、前段で論じた様に、“「郷士頭」”があって、「商業組合」とは別に、「青木氏との関係」で繋がっていた。
    この事から、この“「郷士頭」”は、「青木氏四家との関係」と「職能集団の差配頭の郷士との関係」と「20近くあった青木氏部の頭」と「門徒衆との関係の頭」としての“「五つの責任」”を負っていた事に成る。

    この様に前段でも論じたが、この「下部組織の長」と観られる“「郷士頭」”は実に重責な位置を維持していた事に成る。
    この「郷士頭」は、資料の中では“「郷士頭」”と書かれているが、普通の呼称は、単に“「・・の長」等”と氏名を着けて「敬愛の意味」を込めて呼ばれていた模様である。
    故に、現存する幾つかの「郷士頭の家筋」には、現在までも「青木氏の生き様」を証明し得る重要な手紙などの資料と成るものが保存されていたのである。

    (注釈 筆者幼少の頃には南勢と南紀のこの何軒かの「郷士頭の家:縁者」に何日も泊まる旅をした事を覚えている。
    中には現在でも南紀の老舗大旅館を営んでいる。)

    これらの資料によると、年に「二度の全体会議(戦略会議)」と成る集会があり、上記の「五つの責任」の「組織」のそれぞれの部門集会は「四度の会議(営業会議)」が催され、それぞれの「職能部門の会議(工程会議)」は「毎月」に行われていた事に成っている。

    ところが年に一度、秋の頃に「祭りの様な集会」が、「伊勢松阪青木氏の福家の屋敷と菩提寺」であって、「土産物」を貰って帰る等の催しの祭事で、職能者の作業者全員(組合員)が参加した様で、「遠祖地のある南紀」からも「伊勢松阪」までも二日掛けても参加している。
    要するに、「伊勢運動会」であり、「二つある菩提寺」は「てんてこ舞い」であったと記されている。

    この事は,「五つの責任」に加えて次ぎの「六つの組織」で構成されていた。
    「青木氏の四家組織」(A)
    「商業組合の組織」(B)
    「御師制度の組織」(C)
    「紀州伊勢郷士衆の組織」(D)と、
    「郷士頭」が世話をしていた「門徒衆との組織」(E)

    更には、次ぎの組織が加えられる。
    「神明社の連携」と「伊勢信濃シンジケート組織」(F)

    以上が有機的に関係を維持し動いていたと云う事を示している。

    これが「商業組合」を効果的に存続させていた事の大きな要因であった。

    当然に、この「六つの組織」で「15地域との関係」にも連携が取れ易かったのである。
    「15地域」にもこれとほぼ似た組織形態を採っていた事が「越後青木氏」や「越前青木氏」の資料からも判っている。
    この「15地域との関係」は「伊勢青木氏四家」が責任を持って維持していたのである。
    「伊勢青木氏四家」が持つ組織を更に活用した「重層的な組織」を作り上げていた。
    この「情報のやり取り」は「神明社」が行い、「連絡と搬送と護衛」は「伊勢信濃シンジケート」が行っていたのである。

    そこで、「江戸幕府の組織」にこの“「御師制度」”を敷いたのには、次ぎの複雑な経緯の事があった。
    若い時に伊勢で見聞きして経験していた「吉宗」が持ち込んだのには、ただ単に官僚が管轄する「職能集団の統括」と云う事の目的だけでは無く、「インフレ策」と「デフレ策」の中間とする「リフレーション」を目標とする「享保改革」には、“欠かせない制度“であったのだ。

    そもそも、既に、開幕後100年近くも経っていて、官僚が管轄する幕府の職能集団の統括手段は前からもあって、遜色なくそれなりに機能していた。
    それなのに新たに、この「御師制度」を態々、採用しているのには、「改革」である以上はそれを押しのけて“採用しなければならない必然性”があった事に成る。
    むしろ、上記した様に、“「鷹司信子や天英院等の期待」“を背負って、“「商業組合の功績」を背景に世の中を変えられる”と云う事で「将軍」に成った以上は、“是が非でも”実行せねばならない「施策の一つ」でもあった。

    それは概して、次ぎの関係式が成り立っていた。

    「質素倹約商法」+「自由」+「郷士衆」=「伊勢商法」+「商業組合」+「御師制度」

    以上の基本関係式の上に次ぎの数式論を展開させたのである。

    「リフレーション策」=「享保改革」=「商業組合」=「御師制度の関係」

    以上の「完全な二つの数式」と云っても過言では無かった。

    それは「吉宗」に同行した「青木氏」が、前段で論じた「15地域」に採用している「商業組合」なる「改革的組織」を幕府の中に持ち込んで、“「リフレーション」で改革を進めようとする”には、上記した様に是非に必要とする「政策手段」であったのである。
    要するに、伊勢紀州から始めて「15地域」に広めて成功した「商業組合と御師制度」を持ち込み、それを「リフレーション政策の基軸」に据えたのである。

    その証拠には、「将軍」に成る為に行列をして江戸に向けて移動する隊とは別に、記録によると“「青木氏の別動隊」”として同行した中に、「御師制度の郷士頭」が数名参加している。
    そこで疑問は、”何で「御師制度の郷士頭」が参加しているのか”である。

    本来なら必要無い筈であるが、初めからその心算であった事を物語っている。
    つまり、「上記の関係式」を描いての事であった事に成る。

    況や、「将軍」に成る前提(鷹司信子や天英院等の期待)として据えていた事に成る。
    確かに説得に納得した「鷹司信子や天英院等の期待」もあったが、筆者は、“宗家外からの将軍”と云う事に捉われて反対する「幕閣」を、ある理屈で「抑え込む手段」でもあったとも観ている。

    (注釈 この内の「郷士頭」の1名が「隅切り角桔梗紋の職能青木氏」(「青木氏部」)を名乗って江戸に子孫を遺している。
    明らかに「伊勢の職能集団」が同行していた証拠である。)

    江戸初期1600年頃に松阪に「商業組合の拠点」を構え、「商業組合と提携商人の改革」を始めて、頼宣入城(1619年)を経て「商業組合」が「15地域」で成功しての成長期から、1716年までには約100年の「改革の熟成期間」があって、既に、この「システム」は確立して「15地域」を結ぶ「一つの商業圏」を構成して隆盛期に入っていた時期でもあった。
    (1603年に家康は「征夷大将軍」に成る。)
    ところが、この時期の享保期の前の「元禄期から宝永期」までは、「天変地異の飢饉」などが異常なまでに多発し、この為に経済が疲弊し庶民は飢餓していた。
    合わせて、政治は次ぎの様に「失政」を重ねていた。

    そこで「享保の前までの幕府」は,成熟していない”「三貨制度」”の下で「貨幣の鋳造比率」を変える等で逃げようとした。
    然し、ところがこれが「逆効果]と成り、「15地域の経済圏」を除く他の地域の経済は、極めて疲弊し最悪の状況下であった。
    むしろ、「幕府]はどうしていいか判らないと云う状況下に陥っていた。
    ところが、「15地域」は違っていた。
    従って、この「15地域の経済圏」は、隆盛を極め周囲から「譫妄の的」であって、周囲は「一揆」とは成らずとも「騒動」が各地で多発していた。
    当然に、御三家の紀州藩は「吉宗」を盛り立てて「青木氏の勘定方指導」で経済も然ること乍ら「民の心」も平癒に成っていたのであった。

    (注釈 どの程度の紀州藩の「善政」かと云うと、何と前政の「幕府からの借財10万両の返済」を一挙に成し遂げたのである。)

    前段で論じた様に、「1619年頼宣入城」までは「紀州」は周囲と異なり「錯乱に近い状況」であったのに、この「商業組合の改革」で「殖産事業」が進み「豊潤な改革」で発展を遂げていたのである。
    (前段で論じた下記の「一揆年譜」参照)

    幕府の一部(鷹司信子と天英院)には、これを観て、「解決し得る次ぎの為政者]と成る「将軍」には、この「善政を成している伊勢紀州」から、又、「15地域を改革して成功裏に収めていた青木氏」が「親代わり」に成っている「吉宗」を適任として「周囲の反対」を押し切ってでも「将軍」に押し出したと思われる。

    注釈として、公説の一説では、「家康との世代的近さ」や「綱吉の家系被弱」により「将軍」に成ったとされているが、真因は決まっていない。
    社会はそんな説の様な生易しい状況では無かった。

    市場では「後継者の決め方」では「幕府」は潰れるとさえ思われていて、ある「東西の二つの大大名」が「不穏な動き」を現実にしていたのである。
    確かに「綱吉から綱継」まで続いて「三代急逝」が続いて偶然に起こったのであるが、そうであるとしたら、「御三家」と云う範囲の事では無くても他の「近親の松平氏」でも成り得る。
    (筆者は[不穏な動き]を察知した幕閣による暗殺と観ている。)

    そもそも、渦中の「尾張藩」は、元々は「紀州藩」と「水戸藩」を差し置いて「御三家の筆頭格」と位置付けられていた家柄で正式に格式も上位であった。
    且つ、「将軍宗家」より次々と「養子」を入れて、「宗家血縁の筆頭家柄」として存続されていたものである。
    尚又、「尾張藩」はこの務めを果たすべく“「御連枝族」”という特別の「分家族」を置き、「尾張藩の宗家」に「世継ぎ」が欠けた場合は、この「御連枝族」から充足する仕組みに成っていた。
    且つ、「将軍家]から「庸氏族]が次ぎつから次へと「養子」が入る慣習に従っていた事から、その後に「将軍家」に戻すと云う組織が出来上がっていたのである。
    絶対に「将軍家宗家の血筋」を男系女系に関わらず引き継ぐ事の出来る体制にあったのである。

    これでは、「御三家」と云えども「水戸藩」と「紀州藩」は、実質は一種の「飾りの様な立場」にあった。
    その為に、取り分け、「水戸藩」は事前に「初代遺訓」として、初めから「御意見番の立場」を護る事を云い伝えられていたのである。
    又、その「尾張藩」では、「水戸藩」と同じ様に、「初代遺訓(「一族秘訓)」があって、“「王命に依って催さるる事」”とされていた。
    これを護っていた「家臣団」には、“初代の家系からは将軍をだせない”と云う不満が強く、「維新の戦い」の際は官軍側に付いた「謂れの結果」となったのである。
    「紀州藩」にしても、前段で論じた様に、「将軍家」から「紀州藩初代頼宣」が「謀反人の家」と云うレッテルを張られてしまった経緯があって、“尾張藩の様に将軍家との血縁のつながり”を持つ事が出来なかった。
    「尾張藩の家臣団の不満」と同じ様に、「紀州藩の家臣団」と成った「藤原秀郷一門(伊勢藤氏等)」から成る伊勢紀州の「郷士衆の家臣団」にも只ならぬ警戒心が強かったのである。

    この事から、この「掟」とも成っていた「慣習の基元」にある「尾張藩」を跳ね除けて「紀州藩」と成ったのである。
    「尾張藩の継友」や家系には「将軍」に成るに決定的な欠陥があった訳でも何でもない。
    むしろ、「三代急逝の偶然」があった後であり、この時にこそ「家康の遺訓」に従い“存在する藩”であって「成るべくして成れる立場」にあった。
    ところが、これらの条件を覆して「古い慣習掟」を崩してまでも、「紀州藩」に「将軍が廻る事等の要素」は上記する以外にはこの段階では全くは無かったのである。
    どちらかと云うと、「当然に成るべき立場」にあって、「尾張藩」に執っては当に「晴天の霹靂」と云える出来事ではあった。

    これでは、普通に考えても、藩主側は兎も角も、元からの「家臣団」には更に「強い遺恨」が残るのは必定で、遺らない方が氏家制度の中では無気力と批判されても仕方がない諸行であろう。
    現実には、「尾張藩」には幕末まで将軍を出す事は無かった。

    「吉宗」が行う「享保の改革」に、上記した様に真っ向から反対した「尾張藩の姿勢」は、この「経緯の事」から来ていると考えられる。
    従って、この「二つの説」では、この「幕府」としても、況して、“「宗家」”と云う意味を持つ「家系の形式」を採っている「徳川氏」である限りは、この上記する「重要な慣習・掟」をも完全に無視した説にも成っている。
    況して、「家康の遺訓」では、それまでは嫡子は子供の誰でも選んで据えても良い事に成っていて、要するに、原則、“「宗家」で「嫡男」は「長男」と云う慣習“を決めたのは家康そのものであった。

    「お万の方」がこの「家康]に「世継ぎ」で”「争い」になっている事“を相談した時に「家康」がこの原則を始めて作った人物である。
    それ以後、これに従って、大名格を始として「武士の家」の「世継ぎ争い」を避ける為にこの「原則の慣習」を護り始めた事に成ったのである。
    従って、「徳川宗家」は「尾張藩」に「純然とした初代の尾張藩血筋」を継承するのでは無く、「将軍家の血筋」を「養子」として事前に何度も入れて、万が一の場合に「将軍家に戻す仕来り」を作って置いたのである。

    (注釈 「伊勢青木氏」と1600年の初め頃に二度に渡り「家康と談合」を重ねたが、この時に「青木氏」の「四家制度」を知って「御三家の制度」にして模擬したと観ている。
    その「将軍家」が「福家」とし、「御三家」が残りの「三家」とし、「尾張藩」には「将軍家血筋の養子家」、即ち、前段で論じた様に、「青木氏」の「孫域」までを「福家の世継ぎ」の「“子供”の仕来り」を類似させて、「徳川氏の仕来り」を作り上げたと観ている。)

    この経緯から,「長男」であるかは別として、“「宗家」”と云う「本血筋を護り通す本家の家筋」を定めたのであるから、「徳川氏」が絶対に護らなければならない「家康遺訓」にも反する事に成っているのである。
    この事からこの「二つの説」は実に付け焼刃の具体性に欠ける説と成る。
    もっと云い換えれば、これらの「二つの説」では“誰でも良かった”と云う事に成り得る。
    そんな生易しい世継ぎの事では無かった。

    あるとすれば、「綱吉(五代)」が行う当時の「幕府の政治状況」、取り分け、「経済状況」と「幕府の財政状況」は「瀕死の床」に在った。

    (注釈 四代綱家は、多くの学者を登用して「政治的には多くの令制」を敷いて安定したが経済は全く疲弊していた。
    「五代目の綱吉」は人物が良すぎて周囲に左右されてこの「政治」さえも低下させてしまった。)

    そもそも、「吉宗」が、“「幕府中興の祖」”と云われている限りは、この「二つの説の論説」とは一致せず、この「将軍擁立説」は兎も角もおかしい。
    唯、共通する事としては、「二つの説」は、「吉宗」が”紀州藩財政を立て直した“と云う事には否定はしていない。

    上記する様に、「吉宗」は伊勢に育ち「青木氏と加納氏」が「親代わり」に成って22歳まで育てられて、「青木氏の商業活動」などの事に関わって見聞して経験を拡げて来た。
    大変真面目で、論理性が強く、「経済の成り立ち」や「社会構造の成り立ち」や「歴史」などにも強く興味を持った「堅実な人物]で、「頭の回転の速い機敏な性格」であったと「青木氏」には伝えられている。
    ところが、この「紀州藩」でも藩主と成るべき者が、これまた父、兄、次兄と不思議に三代続いて急逝して、成るべき立場に無かった身分の低い「吉宗」(嫡子外)に「藩主の座」が廻って来る運命にあって、「時代」が「吉宗」を「将軍」まで押し上げるべく動いた事では事実である。
    この為に、他の兄弟と共に、態々、紀州の膝元に置かず、殆ど付き人となった下級家臣の実家先の「伊勢加納氏(祖先は伊勢秀郷一門の郷士衆)」と「二つの伊勢青木氏」に隠す様に預けた経緯を持っていたのである。
    確かにこんな「二度の急逝の偶然」は考え難い。
    設えたにしても起こり得ない“「偶然」”でもある。(今回は真因説は不問)
    幾ら何でもこの“「二つの偶然」”が、“「将軍」にする”と云う事だけでは現実の世の中では起こらない。
    この“「二つの偶然」”を利用して、それなりの「根拠」と「財力」とを以って「人」が動けば成し得るものである。
    決してこの“「単なる偶然」”だけでは成し得ない。

    この図式には、古来より次ぎの数式が成り立つ。

    「偶然(運)」+「根拠(実績)」+「財力(背景)」+「地域力(基盤)」+「人(知力)」=「目的」(将軍)

    以上の数式論が必ず働いている。例外はない。

    但し、この“「二つの偶然」”を「動かす力」が必要なのである。
    「動かす力」には上記の「六つの要素」が働く。

    この「六つの要素」が大きければ大きい程に「目的」を「叶える力」は大きく成り成就する。
    要するに、「吉宗」にはこの「六つの要素」が極めて高かった事を示している。

    要素−1 「偶然(運)」=「二度の急逝」
    要素−2 「根拠(実績)」=「15地域の商業組合策」
    要素−3 「財力(背景)」=「青木氏の500万両の経済力」
    要素−4 「地域力(基盤)」=「御三家」
    要素−5 「人(知力)」=「郷士衆と御師制度」
    要素−6 「目的」(将軍)=「改革の理想」

    「全国の青木氏」はこの「二つの偶然」等の「六つ要素」の高さを観て、「総力」を挙げて“「吉宗」を「将軍」に”と「尾張藩の慣習・掟のある事の経緯」を知りながらも、現実には八方手を尽くして押し出した。
    この時、“紀州藩から将軍に“と云う事があったのかと云う事で持つ意味が違うが、この記録は未だ見つからない。

    筆者は、「頼宣謀反の経緯」があって、未だ、「紀州藩主四代の吉宗」(三代四代は急逝で実質三代 年数では100年間 実質は頼宣1671年−光貞1705年 10年間程度の経過期間)までである。
    従って、この「遺恨」は全く消えていないと観ていて、「水戸藩」と同じく、この段階では「尾張藩の慣習・掟のある事の経緯」を知っていれば、“紀州藩から将軍を”と云う発想は、先ずは官僚からは普通では起こらないだろうと観ている。

    「吉宗の意志」では、「将軍」に成ろうとするは「意志と行動」は,「吉宗の発言や行状の記録」から無かった様である。

    「吉宗と官僚」からは無かったとすると、“「周囲の人」”と成って来る。
    そうすると、「青木氏等の郷士衆」と「伊勢藤氏の青木氏を含む秀郷一門」であった事に成る。

    依って、上記の数式論から、「要素−2345」と成り、この「4/6の事」は「周囲の要素」で占めている事に成る。

    「紀州藩の家臣団の官僚」が、「4/6の事」から “将軍に押し出すと云う事”は無理と云う判断と成り得て先ず無い事は判る。

    「吉宗が持つ要素」は、「要素−1と6」と成る。

    ところが、次ぎの様に働く筈である。

    「要素−4」では、「地域力(基盤)」=「御三家」では、次ぎの様に成る。
    「家臣団の賛同」が得られない事(基盤)
    「尾張藩の慣習・掟のある事の経緯」の事(御三家)、

    「要素−6」では、次ぎの様に成る。
    「目的と成る改革」を実行するには、これを「支える周囲」を含む「地域の力」(青木氏)の事

    以上の「三つの事」から、「吉宗自身」には幾らかのものはあったと考えられるが充分には備わっていない。

    結局は、「要素−6」が「決めて」と成るが、この「要素−6」はそもそも「個人」でそもそも成し得ない。
    「家臣団、青木氏、郷士衆」、も含めて、“「周囲の力」”で「具体的」に作り上げられるものである。
    とすると、「吉宗の持つ要素」は「要素−1」だけと成るが、実際はそうでは無かった。

    確かに、「吉宗」には、記録によると、上記の通りの「器」としての資質では、人より「行動的」で、「判断力」が良く、「調整力」を持ち、「理解力」は特段優れ、「公平性」のある「持ち主」で、「人の話をよく聞く事」にあったと成る。
    つまり、「人」を動かす「大きな組織集団の頭目資質」があったと云う事に成る。

    故に、「要素−1」の「偶然」と、この「持って生まれた性格」が一致したのではないかと観られる。
    ところが、唯、この「継友」にもこの「要素−1」の「偶然」が「吉宗」と同じく尾張藩に起こっているのである。

    矢張り、兄の四代、甥の五代がこれも不思議に急逝していて、「部屋住み」であった「継友」に廻って来て第六代藩主と成った経緯を持っている。

    「違っている点」が決定的に在った。
    それは、混乱期に「将軍として成り得るの資質」にあった。
    「継友」は異常なまでも「ケチで短慮」あって、尾張でも”「切干大根」”のあだ名があって有名な事であった。
    この事があって、その質にあらずとして不満を持つ「在来の家臣団と重臣」は「遺訓」を理由にして、上記した様に「筆頭の将軍継承藩」であり乍ら、就任運動を全くしなかった。

    何と「不文律な行動]も多く在り、その「資質」から家臣と庶民から信望が無かったのであり、その為に母方は公家で在りながらも「官位の申請(大納言)」もしなかった為に「将軍に成り得る資格」を失って仕舞ったのである。
    家臣と重臣から全く反抗されていたのである。
    つまり、「要素−6」は無かったとされている。

    しかし、反面、一部擁立派はこの批判に抗する為に、「綱吉の放漫財政」を質す事無く、尾張藩では逆にこれを補う為に家臣の俸給と強引な人員整理を実行し出費を抑えて黒字を残した。
    しかし、家臣からは完全に賛同と支持を失った。

    「家人」や「家臣」が犠牲に成るこの強引な「財政立直し」であって、「市場の経済的改革」を経て市場から得た税の獲得では無かった。
    ただ一人(異母弟)の「将軍擁立派」が誉めそやした「名古屋と云う局部的で一時的な実績」であって、況や「ケチと短気」から来る単なる「緊縮財政」を採っただけであった。
    これで、「市場の力」を温存した為に、名古屋だけには緊縮財政での金が落ちて確かに名古屋は発展し人口も増えたし、「吉宗の享保の改革」で圧迫を受けた「江戸商人」の「三井家の越後屋」も後に名古屋で「インフレ策」を採る「継友」に協力をした。
    ここは、「江戸商人」の「三井家の越後屋」で一見して「要素−3」には成るが、あくまでも、「経済的利益での結び付き」であり、決して「親代わりの立場」と「吉宗の資質」と「家臣の賛同と支持」を得てでの「強い結びつき」では無かった。


    その「資質」を「周囲の者」(「要素−6」 青木氏等)が見抜いて、先ずは押し出したと成る。
    この「性格的な資質」は、「吉宗」の「生みの親の母(湯殿女)」からのものであった。
    先天的には母親の郷の「紀州巨勢氏」と、後天的には伊勢の「育ての親」の「青木氏と加納氏」から形成されたものであろう。

    (注釈 「秀郷一門の伊勢郷士」であった「付人の加納氏」も「二足の草鞋策」で「加納屋」を営む。)

    そこで、「継友」と「吉宗」には、「尾張藩」と「紀州藩」とには、“一体何が違ったのか”と云う疑問が出る。
    上記の「六つの要素」で比較して観ると、結局はその違いは次ぎの結果と成り得る。

    要素−1 「偶然(運)」=「二度の急逝」
    要素−2 「根拠(実績)」=「15地域の商業組合策」
    要素−3 「財力(背景)」=「青木氏の500万両の経済力」
    要素−4 「地域力(基盤)」=「御三家」
    要素−5 「人(知力)」=「郷士衆と御師制度」
    要素−6 「目的」(将軍)=「改革の理想」

    「吉宗」  「継友」
    要素−1 「吉宗」<「継友」
    要素−2 「吉宗」>「継友」
    要素−3 「吉宗」>「継友」
    要素−4 「吉宗」<「継友」
    要素−5 「吉宗」>「継友」
    要素−6 「吉宗」=「継友」

    そこで、「吉宗側」では「要素−5」、「継友側」では「要素−4」は比べ物にならない程に相互に差違がある。
    確かに、「要素−1」の「偶然(運)」では、吉宗には「紀州藩での三代急逝」があったが、これは吉宗が藩主に成れたと云う事に外ならない。(継友にもあった。)

    従って、この「六つの要素」の比較に入れたと云う事であって「将軍」に直接的な要因とはならない。

    吉宗自身としては別として、「吉宗側の周囲(要素−6)」に執っては「要素−1」は大きく働くと観た筈である。
    そうすると、「継友側」に「要素−4」の上記した経緯がある事に依り、「要素−1」は「継友側」に有利に働く事に成る。
    結局、「吉宗側」に「要素−2」と「要素−3」が有利と成る。

    但し、「要素−5」は「要素−2」と「要素−3」に連動している。
    従って、「要素−5」と「要素−4」の差違は、「要素−5」の「吉宗側」に有利に働く事に成る。
    これは「吉宗の周囲要素」と成る事から、「要素−6」に連動する事に成る。

    (「要素−2」+「要素−3」)←(「要素−5」+「要素−6」)

    以上の数式論が起こって、「鷹司信子と天英院」は「説得」に応じたのであろう。
    「幕閣」は「要素−4」だけでは「ごり押し」は無理と考え、「抵抗」をこの数式論から緩め、遂には、「鷹司信子と天英院の説得劇」で、「将来の事」から不利と観て、最終的に“黙った”と云う事に成る。

    その「押し出す根拠」は、「青木氏等が行う経済改革」を経験していて「親代わり」に成って紀州藩(勘定方指導)を,そして、周囲も、遂には“幕府を”と成って、世間や経済に弱い筈の「鷹司信子や天英院」の幕政から遠く離れた女性陣に、この現状の世間の最悪の経済状況を説き知らしめ、改善し改革するには、「上記の実績」を説き「経済説論」を強力に陰から訴えたのであろう。

    故に、そうで無ければ、常に「保守性の強い宗家論」に引きずられる幕府を変える事等は先ず考え難い。
    両説の二説であるなら、「綱吉の後の処」でも良かった筈である。

    偶然にも、五、六、七代と宗家には三代続いて不思議に急逝すると云う事が起こった。
    一時的には幕府には決定する嗣子が無く成り、「世継ぎの決定者」は「遺族の女性陣と幕閣」と云う事に成る。
    そうすると「幕閣」は、持論の「宗家論」が難しいと云う事に成れば、必然的に「将軍継承者」は、上記した様に遺訓に依り「ご意見番」に徹する「水戸家」は兎も角も「尾張家」から持ってこようとするは必然である。
    決して「謀反の嫌疑」を掛けられた「紀州藩」と成る事は無い。

    この時に、「幕閣」は、「尾張藩(継友)」を押し出す以上は、上記の「偶然(運)」+「根拠(実績)」+「財力(背景)」+「地域力(基盤)」+「人(知力)」=「目的」(将軍)の図式の比較が必然的に行われる事に成る。
    然し、「吉宗」が持つこれに優越する「継承対象者」が尾張藩に無ければ、「要素−4」の「家康の遺訓」と成る“「御三家論」の展開”では、最早、難しく成ったのである。

    その前に、この侭では「世間の不満」を背景に「北と南の雄藩」が動き「戦乱」に戻り、“「江戸幕府」が危ない”とも観たのではないかと思われる。(現実に動きが在った。)

    結局、それには「幕府」や「幕閣」も、“現状を打破し脱し改革に至るまでの道筋の状態”に出来る事が「最大の対策」と成る。
    果たして、「幕府」や「幕閣」の持論の「御三家論・宗家論」では「世継ぎ」が叶ったとしても“現状を打破し脱し改革に至るまでの道筋の状態”にするには誰が考えても無理である事は明明白白の状況と成っていた。
    況して、「継友」には「将軍」としての“資質・器に欠けると云う批判”が高ぶる以上は、これを無理押しする事には、「北と南の雄藩」を抑えきれないと観たのであろう。

    上記の図式から観て、「吉宗の優れる処」と「吉宗の背後の力」を認めて「宗家外の吉宗」を敢えて「将軍」にする事を渋々認めたのである。
    結果としては、「御三家論(継友)」<「周囲論(吉宗)」が、“現状を打破し脱し改革に至るまでの道筋の状態”にする事が出来ると観たのである。

    「次の課題」は、「世間に疎い女性の遺族」をどの様に説くかの難題で、それを誰がするかの問題もあった。
    取り分け、「御三家論(継友)」には確固たる現状を打破し得る「経済政策論」が無かった。
    確かに、「吉宗のリフレーション策」に対抗して、「継友」は「インフレーション策」を展開して「享保の改革」を批判した。
    然し、「15地域の様な実績」は無かったし、「信長秀吉」が招いた「伊勢紀州の混乱」(門徒衆)を鎮めただけでは無く、他藩では出来ていなかった難題を事も無げに「青木氏の勘定方指導」で「紀州藩の財政の立て直し」にも成功させ、「商業組合と提携商人」で「15地域の地域経済」までも発展させると云う「離れ業」をも成し遂げた。

    これを観ていた「北と南の雄藩」も矛先を納めるしか無かった。
    当然に、「北と南の雄藩」は納まるとしたら、最後は“「次の課題」”と成る。
    この手順を間違わずに踏めば納まり、“現状を打破し脱し改革に至るまでの道筋の状態”を論じられる「吉宗論」に傾く。
    「紀州藩の重臣」と「全国の青木氏」がこれを担う事に成るだろう。

    これを支えるのが拠点と成っている「商業組合と提携商人」と殖産を推し進める職能の「御師制度の伊勢紀州の郷士衆」である。
    上段でも論じたが、これを担ったのが実績をベースに「財力と説得力」を持つ「二つの伊勢青木氏」にしかない。
    何と「二つの伊勢青木氏」は押し出した。
    そして、“世間や経済に弱い筈の「鷹司信子や天英院」の「幕政から遠く離れた大奥女性陣」”の説得に成功させたのである。
    これで、「抵抗勢力」は「継友」だけと成り得て、「将軍資質」に欠け「家臣の信頼」を失っている藩主は「ただの人」に成り得る。

    ここまで進むと「後の課題」は、「将軍にする為の吉宗側の段取り」に在った。
    「経済改革の基幹」と成る「商業組合と提携商人」は「15地域」で「100年の実績」で出来ている。
    後は、「御師制度の職能部門」を“「幕政仕様」”にどう仕立てるかその“「下準備」”に在った。

    そこで、“「幕政仕様」”にする為の理解として「御師制度の職能制度」に付いてもう一度論じて置く。
    そもそも、これは全国に配置された500社にも成る「神明社」に関わるあらゆる職能で成り立つ「大職能組織」は、この「職能」を「円滑に運営する方法」として古来から次ぎの(a)と(b)と(c)と(d)が採用されていた。

    「指揮命令系統」(a)
    「職能者養育」(b)
    「情報伝達」(c)
    「資材調達」(d)

    以上を明確にした制度であった。

    然し、室町期にはこれに付随させて次ぎの事(e)(f)を制度に組み込んだ。

    「情報獲得源の組織」(e)
    「シンジケートとの連携」(f)

    以上としても活躍させていた。

    「青木氏」は「伊勢神宮」を始めとする「神明社系」のその「御師の首魁」の位置にあった。
    前段で論じた様に、自らも次ぎの「六つの組織」を奈良期から持っていた。
    “「五家五流の青木氏の連携」(イ)“には、“「神明社等」(ロ)“を建設する“「青木氏部」(ハ)“と云う“「職能集団」(ニ)”、これらを保護すると「シンジケート(ホ)」との以上の「五つの組織」が存在していた。

    ところが、「二足の草鞋策」を本格的に稼働させた時期の925年頃からの平安期には、次ぎの事が加えられた。
    “「和紙殖産」を担う「職能集団」(ヘ)“もこの「青木氏部」に加わった。
    そして、江戸期には本論の“「商業組合の組織」(ト)”に「御師制度」(チ)が加えられた。

    「五家五流の青木氏の連携」(イ)
    「神明社等」(ロ)
    「青木氏部」(ハ)
    「職能集団」(ニ)、
    「シンジケート(ホ)」
    「和紙殖産」を担う「職能集団」(ヘ)
    「商業組合の組織」(ト)
    「御師制度」(チ)

    ところが(イ)に付いて平安中期には「近江と美濃」の「青木氏部」が「地域の抗争」が激化して、これに影響を受けて内部でも抗争が起こり衰退を興したのである。
    唯、これを観た朝廷は、「朝廷の政治と経済」に大きく関わっていた「皇親族」としてのこの「青木氏の組織」を補完する事から、「皇親族青木氏の母方」であった事から「藤原秀郷一門」に青木氏と官位官職の一切を同格として名乗る事を命じたのである。
    結局、残る勢力は「伊勢」と「信濃」と「甲斐」と成ったが、室町期に入ると、複雑な内部抗争が起こり、「甲斐の御師制度と殖産」は弱体して「伊勢と信濃の二流」と成ってしまった。

    「青木氏の御師制度」には、次ぎの様な三つの御師があった。

    「伊勢神宮の御師」(A)
    「青木氏部の御師」(B)
    「商業組合の御師」(C)

    以上を務めていた事に成る。

    この“「3つの御師の組織」“を「江戸幕府の職能集団」(1)に適用して「享保の改革の組織改革」(2)を実行したのである。

    「江戸幕府の職能集団」にこの制度を必要だからと云う事で持ち込むにはそれなりの理由があった。

    それは、「江戸幕府の職能集団」には「江戸商人との関係」を大きく維持していた。
    ところが、この江戸組織は、前段でも論じた様に、(イ)(ロ)(ハ)をベースとする「商業組合の商人」では無かった。
    むしろ、「保守的抵抗勢力」であった。

    この「江戸幕府の官僚集団」がこの「江戸幕府の職能集団」の組織と繋がっている事は、「(イ)(ロ)(ハ)をベースとする商業組合」の「政策的な効果」は出る事は先ず無い。

    この事から、先ず潰される事は必定で、況してや、「御師制度」と成れば尚の事である。
    そうすると、「保守的抵抗勢力」の「職能部の官僚機構」と「江戸商人」を潰す事は経済には効果的では無く、混乱を招くだけで、むしろ今以上に「強烈な抵抗勢力」と成り得る。
    それには、「懐柔策」を採る必要が戦略的には必要であって、何にしても「保守的抵抗勢力」の「江戸商人」を変える事は直接的に換える事は難しい。
    従って、これは別にして、先ずは「職能部の官僚機構」を変える事で、必然的に問題と成る「江戸職人との関係」を軽減させて行くことが出来る。
    そして、この過程で、伊勢紀州からこの専門家を呼び寄せて人事で入れて、その官僚の「職能部門を管理する長に据えて掛からせれば、次第に問題の「官僚機構」は変化を起こし、結果として職人との仲介役と成っている“「江戸商人」”は換わらざるを得ない結果と成り得る。
    (三井家の越後屋名古屋に出店等)

    では、“職能管理部門の長だけを変えれば換わるか“と云うとそんな簡単な事では無い。
    当然にこの「長」は、“職能に熟知している事”は勿論の事として、その下に働く者も熟知し、上記する「御師制度」は勿論の事、「商業組合の経済機構の組織」の事も合わせて熟知している者ではならない。
    だとすると、必然的に、「紀州藩の職能部門の家臣」と、これと連携して働いていた「郷士衆か郷士頭」を呼び寄せて「陪臣」にして、要所々に配置して働かせる事が必要である事に成る。

    上記した様に、先ず「青木氏の別動隊」に「郷士頭」が同行していたのは、この為の先行隊であった事に成り、「吉宗の政治の履歴」を観ると、途中で「大量の紀州家臣団200人」を呼び寄せている。
    この事で、元からいた「幕臣の反対(抵抗)運動」が起こっていて、それを押し切る形で大量に呼び寄せている。
    彼の有名な大岡越前守等はその典型的な人事であった。

    当然に、この「組織改革」には“「反抗勢力」”があり、その形の表れとして“「訴訟」”が起こるであろう。
    現実に、記録を観ると、民間では無く「紀州藩」を相手に「幕府」が訴訟を多く起こしている。

    それも、「御三家の紀州藩」に対してである。
    その多くは、「寺社の領地」、「紀州藩の領地]、「紀州藩重臣の領地」や「伊勢紀州の郷氏の地権」や、挙句は紀州藩が管理する「天領地」の「地権争い」で主に争われている。

    伊勢紀州は古来より「不入不倫の権」で護られていた事から、「遷宮地」でもあり旧来からの「天領地」や「青木氏や伊勢藤氏」等の「郷氏領地の地権」や「天皇家に由来する神社仏閣の領地」「熊野神社等の広大な社領」が戦乱に巻き込まれずに存続し、それが「紀州藩の管理」の下に置かれていた。
    実質は「藩領」としては大きくなかったが、逆にこの事からこれらに対する管理費を投入せずとも「莫大な地権料」は紀州藩に固定的に安定して入る仕組みに成っていた。
    「幕府」はこれを崩す事で“紀州藩を根底から弱める事が出来る”として抵抗して来たのであろう。

    その一角の訴訟を「大岡」は、下記する様に、“「一切松阪有利の慣例」”の慣例を破ってでも、幕府側に裁定を下したのである。
    有名な事である。
    恐らくは、この「抵抗勢力」を弱めるために採った策であったと観られる。

    “「一切松阪有利の慣例」”の慣例に従えば、上記の「訴訟の対象」と成った「地権問題」は紀州藩側に下る事に成り、益々、「幕府の抵抗勢力」は「反抗」を示す事に成り得る。
    ところが、「吉宗」は、この「才知の効いた裁き」を”「大岡裁定」”を高く評価した。

    「人」は変化に対して「不安」を持つ。
    この「不安」を乗り越えてこそ進歩とその後に「改革」は起こる。
    然し、不安其の侭では進歩は無いが、その不安を除こうとして「人」は「訴え」を起こす。
    その「不安」を払拭させる事で乗り越えられるが、それには、「不安の訴えの声」を裁くには、この“「才知」”が事態を変化させて「改革」には「必須の必要条件」であるとして「大岡」を見込んだと観られる。
    この事は、「大岡等の紀州家臣団」は、“「一切松阪有利の慣例」”の「裏側の実態」を熟知しているからこそ成し得た裁定である事に成る。

    その証拠に、この“「一切松阪有利の慣例」”に従わず「見事な裁定」を下した殆どは、「天領地」や「青木氏」や「伊勢藤氏」等の平安期の古からの「郷氏領地の地権」や「天皇家に由来する神社仏閣の領地」と「遷宮地領」の四領地に対してであり、全て減額している。
    明らかに、多くは「二つの青木氏が関わる地権の減額」とその「管理代行地」に成っている。

    「幕府の抵抗勢力」の「反抗」を弱める手段として、「青木氏等の了解」の下で裁定を下したと観られる。
    この事の詳細は、「青木氏」の全ての経緯を書いた「忘備録」は消失して無く成っている為に、残るのは「商業記録」であるが故に詳細は判らないが、不思議に極めて単純に記されているだけである。
    これらの「地権消失」は「青木氏の経済と商業」に大きく左右する事でもあって、当然に「殖産地」と成っている「地領」である事から「商業組合」にも大きく影響を及ぼすものであった。
    然し、この“「単純」”と云うのは「了解した」からこそ「単純」に書き記したと考えられる。

    注釈として 唯、「青木氏の口伝」では、「明治期の地租改正」と共に「2度の地権放棄」で半分に成ったと伝えられているが、これは明らかに“「不満」”であったと観られる。
    そもそも「二つの青木氏」を含む「伊勢紀州の郷氏郷士衆団(家臣含み)」等が主導する新しい商業の「吉宗の改革」である以上は我慢したと観られる。
    この時には「氏郷」や「家康」の{本領安堵策の南紀南勢」の「本領の地権」は殆ど手放したと伝えられている。
    結局は、「二つの青木氏」は北勢域領と成った。

    明治期には「地租改正」でこの残された「北勢域領の地権」も半減した。
    この時、「郷士衆の地権」もその「所有の権利範囲」を限定して、聞くところでは最大で「一畝内=300坪=990m.m」と定められた模様であった。
    一般の「郷士で家臣」であった者の地権範囲は、5間・5間=81m.m=「3LDKに小庭付き」と成った。

    この「幕府の激しさ」を物語るものとしては、紀州藩の筆頭家老の田辺藩の田所氏の藩領と所領にも手を伸ばし,その激しさは尋常では無かった。
    この時の根拠では、伊勢と紀州は「伊勢神宮の膝元」で全国でも「遷宮地」で「遷宮寺社」が最も多いし、従って、「天皇家の天領地」が多く、松阪も代表的な天領地であったが、江戸初期に紀州藩に吸収させて「飛び地領」とした。
    ところが「幕府」はこれらの「遷宮寺社」の全てを「幕府資産」として「幕領」として接収し様とした。
    これに「関連する地領」は当然に幕領と成るとして、「紀州藩領の田辺域」も「天領地」として扱われるとする言い分で訴訟の対象とされた。
    これに依って伊勢紀州に「幕領」を増やす事で「紀州藩」を弱めようとしたのである。
    田辺域は相当量が接収され「大きな犠牲」を負った事は事実であった。

    要するに「大岡裁き」はこれに導き実行したのである。
    然し、「大岡裁きの才知」は、上記の様に、この「地権」を”「細分化」して「均一化」した事”で「幕領分」に接収される範囲を小さく抑えたのである。

    注釈の通り、“「一切松阪有利の慣例」”を崩し、且つ、「幕領の言い分」にも配慮し、「郷士衆の地権」にも配慮したこの「才知」と「調整力」が優れていると観たのである。
    この上で、この様に「大岡才知」の様に、更に、これを“「改革」“に向けて熟知する者が裁いて行く事が必要で、それでなくては”「改革の的」“が外れる。
    つまり、改革の戦略上、“「最大のまとめ役」”と成り得るのである。
    それだけに、「大岡裁きの才知」で、“歴史上に出て来る人物”と成り得たのである。
    (結果は、吉宗が将軍と成った事で紀州藩領とする範囲は回復した。)

    上記する才知無く、唯「法」を以ってして実直に裁くのであれば、「幕臣の官僚」でも無し得る。
    (後に「公事方御定書」の「判例集」を作って「訴訟と審判」の「改革」へと進む「方向性」を定めた。)

    前段でも論じた様に、「伊勢紀州の郷士衆」を紀州藩の「家臣の大半」に据えている「紀州藩士」の熟知する「大岡忠相」が必要であったのだ。

    注釈として、因みに、「大岡忠助」は江戸に生まれる。
    旗本無役(1702年)から出世、元禄地震の「復旧奉行」に、1708年には合わせて「目付」にも成る。
    この後、実家先(祖先は「伊勢藤氏の伊勢郷士衆」)の紀州の「伊勢奉行」に任地就任、1714年まで紀州伊勢の職能部に最も関係する「寺社奉行」も経験している。
    前段と上記でも論じたが、この時期には、“「紀州藩と幕府との間で係争(幕領の故意的な係争)」”が非常に多発しこれを裁く。
    この時まで、奈良期の古来より「不入不倫の権」で「伊勢松阪」は護られていたが、その為にその詔勅令に従って古来より“「一切松阪有利の慣例」”があった。

    ところが、この「慣例」を覆して裁定を下したので、「松阪」で育った「吉宗」は驚き、むしろ、その「心魂と才知」を信じて改革に必要として逆に「吉宗」に見出される。
    この「裁定」で、「伊勢の二つの青木氏」は「大きく本領地権の影響」を受けた事の「商記録」が遺されている。
    「吉宗」が「将軍」と成るに従って江戸に同行。
    江戸赴任後、当に、「職能の長」として“「普請奉行」”と成る。
    「寺社や武家屋敷の職能部門」を専門に指揮し「経済改革」を進めた。

    江戸期には、「寺社」に関する事が現在のゼネコンに当たり、全ての職能に関わるメイン事業であった。
    其れだけに、「普請奉行、寺社奉行」は国土交通省大臣の責に当たる。
    「江戸の三代奉行の筆頭格」で「将軍直属の奉行」として改革をした。
    「大岡」の「普請奉行、寺社奉行」と、「青木氏の布衣着用」の「勘定方指導役」を担っている事は「改革の双頭」を担っている事に成る。
    これらの人事を観ると、「享保の改革」は、1716年から1746年(実質 院政は1751年 改革は1788年まで)とすると、約20人が担当し、「大岡」は第16番目で1739年から1751年と最も「改革の成果」が質される重要な期間の中ほどから担当し、何と「享保の改革」を6年も超えて勤めたのである。

    更には、恐らくは、本来は「大名格の奏者番」を務めた上で「三大奉行」と成るが、ただ一人、例外的に「政治の柵」に左右されない様に「奏者番(現在の官房長官」」を勤めさせず、最終は「1万石の大名格」にし「破格の官位」も与え、「改革」を継続させる意味で吉宗隠居後も「寺社奉行」を務めさせたのである。
    そして、「大岡}を除き19人は最大でも9年、平均でも2年間と云うのが多い中、15年と云う段突の期間を勤めたのである。

    これらの事を観ても、「大岡」を以って周囲に「改革の模範」として見せつけた「政治的配慮」であったと観られる。
    ただ、この為に「裁定」に偏りが起こらない様に「改革の後期」には「改革の方向性」を示す為に「公事方御定書」(現在の判例書)を定めて「改革の統一性」を図った。

    江戸初期に「青木氏」は談合にて、「神明社」は、「伊勢神宮の皇祖神の子神」である事から「500社」に上る「全国の神明社」とその「社領及び資産」を幕府に引き渡した。
    主要な「遷宮」に伴う各地に配置した「公的な神社の社領と資産」、並びに「公的な寺に関する寺領と資産」も幕府は接収したのである。

    ところが、接収したものの江戸初期には全国的に天変地変が多発し、この為に経済が疲弊し、且つ、政治が稚政であった事からも、「伝統」の拠点とも成る「ゼネコンの基」と成る「寺社」は荒廃した。
    この為に慌てた「幕府」は、各藩に「修理令」を出すが、各藩もこれを修理する能力は全く無く荒廃の一途を辿ったのである。
    そこで、政権を引き継いだ「吉宗」は、要するに「ゼネコンの基」と成る「寺社」を復興させ、「商業組合」との連動政策を図った。
    これを維持させる為に、これらの「寺社」には「様々な特権」を与える政策を採った。

    それの一つが、”「寺請制度」”であって、”「商業組合」”の基と成る政策を実行した。

    それには、先ず、この「社寺」を“民衆管理に任せる令”を作り、この「寺社」には“民間の檀家筆頭の補償”を要求した。
    この事を「届制」にして義務化したのである。
    そして、これを「寺社奉行の管轄下」に置いた。
    その上で、この「寺社奉行」には、更には「幕領」を超えて「他藩の領内」までの「訴訟」までも担当させて「改革の障害と成る火種」を消す「大権限」を与えたのである。

    従って、それまでは幕閣下にあった「寺社奉行」は、他藩の不満を押える意味で、「将軍直轄制」にしたのである。
    「寺社領」以外にも、この「制度の効果」を観て、「関東域の民間の領地」までの「訴訟と審判と施工管理の確認」の末端行政までを任せたのである。

    要するに、広大な権限を与えて「訴訟審判の行方」を「施工管理の確認」で徹底的に調べて疎かにしない様に監視したのである。

    この事に依って、「藩領」と「幕領」と「民間域の地権」に広げる事で、「寺社関係の勢い]は再び息を吹き返して、「商業」は活発化して「商業組合の組織」は進んだのである。
    要するに、「幕領と藩領」は当然の事として、「広大な寺社領の管理と運営と維持」を民間化させる事で「寺社」から出る修理や建設などの職能仕事は格段に増え続け、この事でそれを受けて「民間の商業の連合化」を促したのである。

    これだけでは「商業組合の改革」は充分では無く、遂には、加速させる為に「民間の富豪町民」、「寺社富豪領民」、その他の「宗教団体の地権」までに「寺社奉行の権限」を拡げさせたのである。

    しかし、この「見返り」として、「寺社」には、“民間の檀家筆頭の補償”に依って運営させて、「庶民の戸籍管理(人別帳)」と「訴訟と審判の権限」を一部与えて、これに依る「訴訟手数料」などの「金銭報酬力」を持たせたのである。
    これに依って高まった「寺社の管理維持力」で「修理費などの経済的な捻出力」を持たせて、この「修理捻出力」から職能部門を活発化させたのである。

    これを活発化させる為にも、これらを納めていた「名主制度の権限」が分散していたが、この内の「町名主制度」だけを廃止して、“民間の檀家筆頭らに依って「庶民の戸籍管理(人別帳)」と「訴訟と審判の権限」を「寺社」の中に置いて集中させる仕組み(況や、「寺請制度」)を組み立てたのである。

    この事で、「幕府」が行うべき「司法」と「通産」の業務の莫大な事務費を省く事も出来たのである。
    世間には「質素倹約」等を呼びかけ、「税」を「六公四民」を「五公五民」と増税する代わりに「幕府財政の健全化」もこの様に促した。
    挙句は、「結婚、離婚の届け出」や「搬入搬出の届け出制」や「建設修理の届け出制」やこれに伴う「訴訟や審判や施工管理の確認」なども任せて「寺社の持久力」を高めさせて、そこから生まれる「職能の商業」を活発化させたのである。
    これを「寺社奉行が見守る体制(監視体制)」を採ったのである。

    (注釈 大訴訟や難審や長期の訴訟等は奉行が引き取って行った。)

    この事に依って、全ての「民間の民」は、戸籍に関わる事から、他の地に移動するとか旅するとか婚姻で他の地に移動するなどの庶民生活の一切の繁多事務を寺社は担ったのである。
    一種の現在の「簡易裁判所の役」「調停裁判所の役」を担わしたのである。
    この事で全ての庶民は、必ず、何処かの寺社の管理下に入る必要が出て、要するに“「檀家方式」「氏子方式」が生まれたのである。
    この時から、「武士」を除く「庶民」には今までになかった「墓などの慣習」がこの時から起こり、職能は比較に成らない程に拡大した。

    今までは、「1割程度の武士階級の慣習(400万人)」が、結局は全体の残りの9割(3600万人)の慣習と成ったのである。
    全ての民がこの”「慣習」”を持ったことに成るのであるから、「寺の収入」と此れから起こる「職能の産業と商業」は9倍と成った事に成る。
    「慣習」を「特定の武士階級]のものにするのでは無く、平等にして自由に持たせると云う商業組合の概念に合わせたのである。
    この事で、市場は反応して活性化したのである。

    恐らくはこの慣習が、封建社会と云う考え方に拘泥して「武士階級」のものだけのものとしていた場合は、「市場」の中にこの「商業組合]の持つ「自由とする原理」が馴染まなかったであろう。
    全て民が「同じ慣習」とする事に依って活性化したとのである。
    「賢明な吉宗」は「伊勢」での生活の中で経験し、この事を見抜いていたのである。
    故に、この「皆同じ慣習」にする為に、「奉行と寺社と檀家]の改革を手掛けたのである。
    これは全て「リフレーション政策」を敷く為の「商業組合と云う概念」に従っての事であった。

    これに関連して、「享保の幕府」には「経費の節減」と「地権料」と「税としての手数料」の「莫大な収入」が入った。
    この「収入」を「寺社や河川」などの「維持管理費」や「新規や修理工事費用」に捻出した。
    「一公の負荷税分」では、普通では一揆や騒動が起こる程度であった。
    然し、次第に「周囲の環境」が良く成る方向に変化して行く事に納得して、「農民・庶民」は大きく反発を起こさなかった。
    取り分け、これを不満の大きく成る筈の「紀州藩」の様に「武士階級」にも「地権の細分化と均一化」を起こしたのであるから、「姓の枝葉化(分家化)」が起こり、「400万人」は990/81でこの10倍の「職能の産業と商業」が新たに興した事に成る。
    この事で納まったのである。

    この「商業組合」と共に”「経済の復興」”は目覚ましいものがあって、「上級の武士階級」には「地権の減少」で多少の不満があったが懐事情は等しい結果と成って納まった。
    「紀州藩家臣団」の大半は、元は「伊勢紀州の郷士衆」と「伊勢藤氏の郷氏衆」で構成されていた事からも収まったのである。

    この「享保の改革」に結び付けた「驚くべき才知」等を、「吉宗」はこれを他藩にも全国的に見せて「行政指導」で行わせたのである。
    資料の記録では、疲弊していた藩は、「幕府への借財]で何とか急場を凌いでいたが、行政指導に素直に載らない藩には厳しくあった事が判っている。

    各藩は当に疲弊して“窮鼠猫を噛む“の状況下に於いて、”この様にすれば改善するよ”と見本を示した戦略であった。
    現実に「賢臣の居る各藩」は模倣して改善を果たしたが、そうで無い藩は一揆が多発し、遂には、「廃藩や主君廃嫡の憂き目」を受けた。

    この”「寺請制度」”などの”「寺社制度」”で起こる10倍近い全ての職能に関わる事業は、爆発的に活発化した。
    然し、この効果を保ち安定させるには、「一つの職能」の“「まとめ役の制度」”が必要と成る。

    上記した様に、「享保の改革のリフレーション政策」には、「偏り」、即ち「格差」が生まれては成り立たない。

    「リフレーション」は「デフレ」と「インフレ」の中間政策である以上は、全てに「平均化を促す政策」が必要に成る。
    そこで、採ったのが、内郭部は「商業組合」で、外郭部は「御師制度」で纏めようとしたのである。

    全ての“職能に関わる集団”ごとに「組合」を作り、その「組合」に「取りまとめ役」として「御師」を置いて外郭にはみ出て「偏り」「格差」を生み出す行為の無い様に監視し調整し懲罰する役目を各段階(「御師 「寺社」に相当」)を置いた。
    最終は、“「御師頭」(「寺社奉行」に相当)”で纏めさせる制度であった。

    上記した「寺社の組織」と全く同じ事で、「寺社」のこの組織(”「寺請制度」”などの”「寺社制度」”)は、況や、この「御師制度」をそっくりと真似ての制度であった。

    「ゼネコンの寺社組織(基幹部)」→「商業組合(内郭部)」+「御師制度組織(外郭部)」←「幕府内の御師制度」

    「寺社組織」から生まれる「商業」は、「(イ)(ロ)(ハ)の商業組合」で、その「経済活動」から起こる「殖産の職能活動」は「御師制度の組織」であった。
    (下記の「越後騒動」で「殖産商人」として出て来る。)
    そして、これらを更に「幕府内の職能部の御師制度」で「監視する組織」を確立して“「偏りのない格式の産まない改革」“を押し進めたのである。

    概要としてはまとめると、次の「四つの改革」が推し進められたのである。

    「幕府の職能部」から建設と修理の職能の「公共事業」が出て来る事
    「寺社」から建設と修理の職能の「半民間事業」が出て来る事
    「商業組合」から建設と修理の職能の「完全民間事業」が出て来る事
    上記三つから生まれる職能の「殖産企業」から「職能者の雇用」が出て来る事

    注目するべきは、「四番目の殖産企業」であった。
    これも前段で論じた様に、「商業組合」とは別に、「青木氏からの提案」(御師制度)に依るものであった。

    「享保の改革」では、先ずは疲弊していた「既存産業」を“拡大させる事”のみならず、「新規産業」の「殖産」に関わる「興業」が重要な事であった。
    これが、下記する「越後騒動」に「騒ぎ」として出て来たのである。

    特に、江戸時代には、この「伊勢松阪」は「吉宗」が育った土地であり、「青木氏」と「加納氏」が「吉宗のバック」と成って幼子の時から養育し「将軍」に育て上げた。
    江戸時代には、「青木氏の紙屋」と「加納氏の加納屋等」の豪商がより大きく成長し、その元下に育てられた「松阪商人」を多く排出した。

    この「松阪商人」は「江戸幕府」とはその意味で無縁では無かった。
    それは、実は、この「御師制度」と「松阪商人」の「商業組合」と云う「二つのキーワード」で繋がっていたのである。
    これは別個に存在して居た組織では無かった。
    先ず、「商業組合」は前段で論じた様に、(イ)(ロ)(ハ)を前提として“「あらゆる職種」“で構成されていた。
    この“「あらゆる職種」“をまとめあげるには、「何かの制御の組織制度」が無ければ、幾ら「自由」としても「組合」としては成立は出来ない。
    唯、そこには「ある要領(秘訣)」が在って、“無制限に制御すればよい”と云う事では無く、その「ある要領(秘訣)」は“「外郭部」を制御する事”に在る。
    この「範囲」で制御すれば、“「人」が納得する自由”は保たれる。
    これは、「密教の浄土宗」が説くこの世の条理である。
    むしろ「自由」であるからこそ「外郭部」を覆って外には飛び出さない様にしなければ成らない。
    その中での「自由の原則」である。
    “「人」が納得する「自由」”とは、「人時場所の三相」に依って保たれる。

    「人の相」は、江戸時代の人の持つ概念

    「封建社会」では、「身分格式」のある「社会」を当たり前としていた中での“「人の自由」”は左右されて、その「自由の制限度」は大きい。
    「青木氏」の「般若心経の密教論」で判り易く論じると、「人の自由」と「人の不満」の関係は「相対の関係」にあると説いている。
    依って、仮に「完全自由」があるとすると、それを10とし、この「自由」に対する不満を爆発させるポイント(一揆−5>暴動−4>騒動−3>騒ぎ−2>事件−1)を5とし、全く自由がない社会を0ポイントとする。

    そうすると、この「享保初期」は「騒動 −4」は、「起こるか起こらないかの位置」に在り、「自由の制限度」は6でもぎりぎり納得する「自由の概念」を持っていたと云う事に成る。。 

    「時の相」は、戦乱から安定期に入ったその時期

    享保期は、「人の相」では「6の位置」にあるとすると、「時の相」としては、戦乱期は上記の相関論から「一揆」より激しい「人の生存」に直接に関わる期であった事に成り、だから、3であった事に成る。
    「3の戦乱」が終わる事で4と成り、それが、未だやや弱い「5の一揆」が多発する時期であった事に成る。
    これが、「享保の改革」で前期の後始末の政策を打ち出した「初期の段階」では、上記した様に「5の一揆」が納まり、「5の位置」から「6の位置」に格上げされた時期であった事に成る。

    「場所の相」は、疲弊から繁栄に向かおうとする場所

    「各藩の配置」が目まぐるしく変化して、当然に、その「藩主・藩政」も変化して、その「地の領民」に執っては未だ安心した安定した地域では無く、「15地域」の様に、「大きな地域差」が生まれていた時期でもあった。
    取り分け、「幕府」も含めて「各藩の悪政稚政」が目立っていた。
    「人と時の相」と共に、「悪政」で「一揆」の起こっている場所=5、「圧政」で飢餓に苦しむ場所=4(騒動−3)、「稚政」で喘ぐ領民の場所=6(暴動−4)である事から、4〜6の位置に在った。

    これを「享保の改革」で 「前期の後始末の政策」を打ち出した「初期の段階」では、「商業改革と御師制度と幕府改革(寺社奉行等)」で乗り切ろうとした。
    上記した様に、「越後騒動」の様に「各藩政」は「政治の的」を得て、これを真似て改善に向かう事と成った。
    要するに、「場所」としての藩は4〜6から6〜7に向かったのである。

    この様に、「自由の制限範囲」は、6〜7のポイントを維持すれば「民の不満」も無く、「外郭部位」を「抑制する政策」を採れば成り立つ事が判る。
    即ち、その“「あらゆる職種」“に、ある意味で「自由の抑制策」とも成る”「御師制度」“を持ち込めば、「社会と組織」の「まとまり」が着くと云うことが判る。

    その個々の「まとまり」を「御師衆(御師頭)」でまとめて行けば、「郷士衆」(郷士頭)等の調整が出来る事に成る。
    むしろ、「人間社会」では人の「意志」「発露」「尊厳」「思考」「能力」等の「差違」、即ち、況や、「エゴイズム」が在る限りは「完全自由10」はあり得ない。
    当に「争いの世界」か「極楽の世界」に成る。
    依って、現実には「9までの自由」とすると、現実の「6〜7のポイント」で“「御師制度」“を敷く原理には無理は無い事に成る。
    むしろ「必然性」に当たる。

    筆者は「8の自由」はあると考えるが、「諸行無常」の世の中で「9の自由」は現実にはあり得るだろうか。
    「般若心経の解釈」を基本とした「青木氏の密教の浄土宗」の「家訓10訓」などに反映している解説にあるこの論法からすると、“「無い」“と考える。

    その「纏める情報」は、「御師衆の情報源」で採れ、この事で「組合員」が「高い高度な情報」で行動が執れる。
    販売に対する「質・量の調整」、「競争相手への手立て」等もこの「二つの関係」で組み立てられる。

    そもそも「享保改革」とは、在任期間の1716年から1745年の年号に由来するが、宗家以外の「御三家」の「紀州徳川家」から「将軍」に就任した「吉宗」は、先ず、「“先例格式”に捉われない改革」 を実行したのである。

    前段で論じた「商業組合」を「頼宣入城1619年」の安定期から観ると、丁度100年、初期施行期から観ると、120年と成る。
    上記で、丁度、67年間は社会は安定したと論じた。
    その後、“「宗教」”が介在して難題の「一揆」が多発したと論じた。
    この「一揆」の援護が出来る程に「商業組合と提携商人でのシステム」は維持されていた事に成る。

    ところが、「享保の改革」以降は、下記の通り「青木氏」が関わった「一揆」は「天保騒動」まで100年間近くに発生していないのである。
    「青木氏」が関わった可能性のある「一揆」では、80年間、関係の無い「一揆」では45年間は間違いなく起こっていない。
    明らかにこれは「リフレーション政策」を誘導する「商業組合に依る改革」の「享保の改革の成果」が全国的に出た事を示している。

    さて、ところが、唯一、問題と思える事があった。
    唯、これは、「享保期前の社会的経済的な疲弊の影響」で起こった事か、「商業組合の改革」の」金融面での施策」の遅れなのかは判らないが、初期の段階で「農民」たちは「農地」を「質」に入れて凌いだ。
    然し、質に入れるは何時の世の事でもあるが、この状況の問題は「質流れの農地」が多発した事にあった。

    これは当時の武家社会や封建社会の根幹を揺るがす問題であったので困る事になった。
    この「質流れ」が「他藩」や“「商人」”に移る事は、「江戸の社会構造」が崩れる原因と成り、好ましくないとして「農民」を保護する為に「質流れの移動」を禁止した。
    つまり、”「緊急策」としての「質流地禁止令」”(詳細下記)を発行したのである。

    そもそも、この「令」は吉宗の江戸幕府が1721年に発布した法令である。(享保の改革開始は1716年)
    元禄期(1688〜1704)以降、経済が著しく低迷し衰退し「農地」は放棄され荒廃したが,この時、幕府は一定の条件下で「田畑の質流れ」を公認していた。

    そもそも、この施策は、元々は、“「江戸町方の屋敷地」”についての「質地の令」であった。
    にも拘らず、これを享保期には「田畑」にまで適用したものであった。

    ところが,越後などの米どころの地域では、この「令」に付いて誤解で「大騒動」が起こり、批判が高まり1年後に撤回したものである。
    以後、兎も角も、「農地の荒廃」を防止する為に「田畑の質流れ」をも一切禁止するが、その場合は「質地取扱いの方針」を次ぎの様に定めた。

    その内容は参考として概要は次ぎの通りであった。

    (A)「質流れ禁止の方針」に基づき「質地手形」の書き直しを行っう事。
    (B)「質地の小作料」の上限を「貸金」の一割半の「利積り」とし、超過分は「損金」とする事。

    「滞納時の小作料」は、滞納額を一割半の「利積り」で「元金」に加え、「無利子の済崩」の形とし、「元利金の返済」の次第で「質地」を戻させる事。

    (C)1717年以後の「質流の土地」は、先ず「元金」を返済し、「請戻願書」を提出すると、「質流の土地」が「質屋の手元」にある場合に限り請け戻させる事。
    (D)今後、「田畑」を「質入れ」しての「借用金額」は、「田畑値段の2割引」とする事。

    この法令の様に法令規準を変えて厳しくして抑え込もうとした。

    然し乍ら、この「法令」は、昔の幕府の「田畑永代売買禁止令」(1695年)が元に成っていたのである。
    ここに問題があって、基本的に目的とするところは、“「江戸町方の屋敷地」”の「質流れ禁止令」であった。
    これを「農地」にも適用したのが誤りであり、「農地」と「町方」の「土地の価値や慣習」が異なる事から法令に「無理の問題」が起こった。

    そもそも、経済が疲弊して農地が荒廃した中で、生活を護ろうとしても「令」により「農地の売買」が出来ないと成ると、遺される「苦肉の策」は「質」に入れる事しか無く成っていたのが享保期前の現状であった。
    ところが、この「経済」が回復しない享保前は「質流れ」が多発して収拾が着かない事が起こる様に成って仕舞ったのである。
    「農地」に関わらず「町方の土地」さえも連動して同じ現象が起こっていたのである。

    そこで「享保の改革」では,「根幹の土地」に関わる事である為に”「前の失政」”を懸命に防ごうとした。

    「吉宗の幕府」に執っては、とりあえず、この「質流れ」によって有名無実化するのを防ごうとするものであった。
    ところが各地で起こる「1722年の越後騒動」等の混乱が生じたため1723年に直ぐに問題がある事に気付き撤回された。

    ところが、「享保の改革」が進み「改善状況」を観て、今度は幕府は、改めて打つ手を変えて1741年に「質流れの売買禁止令」を基から緩和したのである。

    何故ならば、この時の「商人」には、”「殖産を興す商人」”が多く介在をしていた。
    「経済理論に賢い吉宗」は”「本来の解決策」”はここにあるとしてここに目を付けたのである。

    何故ならば、「15地域の主要地の越後」では、「商業組合」と「提携商人」による「経済発展」から、「殖産」を興そうとする「既存の商人」には、その「殖産」を興す為には「新たな土地(「新地))」が必要であった。
    そこで、「質流地禁止令」が出た以上は、そうするとところが、この「殖産商人」は「天領(藩領 天領)の農地」には手を付けられない。

    この為に「幕府勘定方指導を務める青木氏」は、越後の「商業組合と御師制度の組織」を活用して「幕府策」として「前政の悪政の解消」の為に動いた。

    これを納める為に、「農地」を利用する「越後」の「商業組合」の「殖産商人(越後青木氏と諏訪青木氏)」に「質流れの土地」を買い取る様に進めた。
    ところが、越後の住民の1/3に当たる「理解力」の無くした「過激な農民」が誤解して暴動を起こして仕舞ったのである。
    越後の「殖産商人(青木氏)」も説得に掛かったが、勢いづいた収拾の着かなくなった「一揆」は、捕縛を恐れて周囲の「他藩]に逃げ込んだのである。
    周囲の各藩では、“同じ事の一揆が起こると拙い”として、遂には幕府の指示もあり捕縛をしてしまった。

    所謂、「殖産商人」が「質地」を買い取る事で、「殖産農地」と成って「農民」も」土地」も現状を図られ生きて行ける事に成る筈であった。
    然し、その様に受け取らなかった農民が居て民衆に向かって煽ったのである。

    つまり、貧しさから「農地」を手放し放棄した「無宿者」と成る「農民」も「殖産農民」としてで生きられるとした「幕府の苦肉の対策」であった。
    「地権者」であった「越後青木氏等」は、懸命に「地権主では無い土地の農民」を救おうとして幕府と協力して動いたのである。
    ところが、これを充分な説明を「藩」そのものがしなかった事や、「現地に派遣されていた幕僚」が「過剰な説明(殖産農地の理解が低かった。)」をした事から、その「解釈」を間違えた「農民衆」が暴動を起こし、何と”「質屋」”を襲撃したのである。

    結局は130日目に、再度、「幕府」が直接に「江戸の幕僚」が出向いて充分な説明が成され納まった事件であつた。
    この事から、本来目的の「殖産商人の介在」でほぼ1年後(1623年)にこの令を直ちに廃止した。

    この事でも判る様に、「享保の改革」の初期は、先ずは「前政の影響の始末政治」であって、基盤と成る「農民の保護」を主体として政治を進めた事が良く判る事例の特殊な「一揆」であった。

    この事からより一層に”「農民保護」”の為に、上記の通り、”「寺社政治」”を実行して「組織固め」をした事が判る事例で有って、「税負荷」から来るものでは決して無かった。

    「15地域の主要青木氏定住地」で起こった最も関係のあったこの“「越後騒動」”であるが、「享保の改革」を善く物語る典型的な事例である。
    これは「農民の社会的、政治的、経済的な不満」からのものでは決して無かった。

    「他藩の稚政の悪影響」で起こったものでは、「・1726年津山暴動」や「・1729年岩代農民暴動」や「・1739年元文一揆」の三件があった。
    これも「享保の改革」の「前政治の影響(綱吉)」で起こったものであり、「藩内事情」での「藩政政治の低さからくる失敗」に依る事件であった。

    この“「前政権のツケ」”である「四つの事件」を除けば、何れも1800年代までとして観れば、矢張り100年以上は納まっていると観る事が出来る。

    前段でも論じた「一揆の年譜」から観ても次ぎの様に成っている。

    関わった一揆
    ・1677年郡上一揆
    ・1722年越後騒動
    ・1761年上田騒動・1768年新潟騒動
    ・1836年天保騒動(郡内騒動、甲斐一国騒動)・1814年北越騒動
    ・1842年近江天保一揆

    関わった可能性のある一揆
    (殆どは重税による農民一揆)
    ・1652年小浜一揆・1686年加助騒動・1690年坪谷一揆
    ・1726年津山暴動・1729年岩代農民暴動
    ・1761年伝馬騒動
    ・1781年絹一揆・・1786年宿毛一揆
    ・1842年山城谷一揆

    その他の一揆
    ・1739年元文一揆
    ・1753年摺騒動
    ・1771年虹の松原一揆・1771年虹の松原一揆
    ・1771年大原騒動1793年武左衛門一揆
    ・1804年牛久助郷一揆・1825年赤蓑騒動・1831年長州藩天保一揆
    ・1838年佐渡一国一揆・1847年三閉伊一揆・1856年渋染一揆

    つまり、この100年の期間を維持させられたのは、この「御師制度」がこの「商業組合」に組み込んだ事からなのである。

    一方で、「紀州藩」では、「青木氏」が手掛ける「伊勢和紙」だけでは無く、前段で論じた様に、「伊勢青木氏」の指導の下で、伊勢松阪地区から玉城地区に掛けて「伊勢の土地柄」を生かした「殖産」と「興業」を強力に押し進めた。
    そもそも、注釈として、「享保の改革時」は、紀州の“「地元の藩政」”が上手く行かないのでは「改革の名分」が着かず、立場は無く成る。
    これは最も大事な戦略で、上記に論じた様に「15地域の商業組合の実績」など説得材料として「将軍」に成り得たが、「紀州藩財政の立て直し」の為にも「殖産・興業」で「紀州藩勘定方」を懸命に指導した。

    実は、この時には、奈良期から納めていた「先祖伝来の本領とその地権」を自ら放出すると云う「激痛」もあったし、「不入不倫の権」も実質は破棄されてしまった事にも成った。
    実質は何の利益も無かった完全に足元を掬われた形であった。

    この時の「四家の福家」は苦しい立場であった事は判るし、南勢の遠縁の縁家に遺された資料によれば、矢張り意見が分かれた事が書かれている。
    ところが、唯、多くの資料が遺されていた「郷士頭の家の資料」では、“意気込みさえ感じる事”が読み取れる内容であった。

    “これは一体何なのか”を、この時の関係者の末孫に「関係する口伝等」が在るかも知れないとして意見を聞いて観た。
    まぁ、口伝等を含めて総合すると、伊勢紀州の「旧領地の郷士衆」に執ってみれば、紀州藩の家臣、将又、江戸向行に伴って、“世に出て働ける”と云う武士の気概もあった。
    確かに、「郷士の地権」は減らされた家筋もあるが、「御師制度の頭」と[郷士頭」が調整(金銭に依る地権差額調整)した事が原因していると云う事であった。
    「訴訟の差配」が「標準平均化の前提」に成っていたと観られ、殆どは現状より増えた家筋の方が多いと云う事もあって、結局は「損益の差」は「旧領地の郷士」の中でも“青木氏と血縁を結んだ縁者関係に多く出ていた”と云う事の結論に成った。

    と云う事は、「訴訟の差配」の裏では、表は“「一切松阪有利の慣例」”を破った事にして大義を世間に示し、「金銭に依る地権の差額調整」をして収めたと云う事に成る。
    では、“その財源は何処から出たのか”と云う事に成るが、口伝と資料から読み取ると、“「御師様」と「氏上様」”と云う言葉が出て来る事や、「損益の差」は“青木氏と血縁を結んだ縁者関係に出た。”と云う事なので、これも「青木氏」が負担した事に成る。
    「自らの土地の地権」を放棄した上で、「調整金」も自ら拠出した事に成る。

    しかし、上記した様に、「青木氏の遠縁関係」でも江戸中期から明治初期に掛けて「旅館」を営んだり、「松阪商人」「射和商人」と呼ばれたり、与えられた「農地」を生かした「殖産の商人(前段で論じた養蚕・紙加工・米加工等)」に成る等と云う事があって、“却って豊かに成った”とする結論に落ち着いた。
    確かに「本論の射和商人」はその「典型的な現象」である事は事実である。
    「紀州藩の藩財政」が立ち直ったのも多くは、この「伊勢紀州の郷士衆」の「射和商人」に語られる様に、「郷士衆の不満」は確かに無かった事は頷ける。

    それでなくては、「享保の改革の基盤」と成った位であるから“「藩財政」が立ち直った”とは云わないであろう。

    ところが、筆者は唯一部納得出来ない事があった。
    1716年に「吉宗江戸向行」と成ると、約1年前の1714年にこの「松阪裁定」が下されたとすると、1715年では「将軍擁立運動」は既に行われていた事に成る。
    「青木氏と紀州藩」では、その為の「準備計画」が成されている筈である事から、「郷士衆の江戸同行」(「紀州藩の同行組」と「青木氏の同行組」)に付いて検討されていた事に成る。
    「紀州藩士」は藩命である事から問題ないとして、「青木氏の同行組(別働隊)」の「御師制度の郷士衆」の賛同を得ておく必要がある。
    この為の「納得」を容易にする「下準備の手立て」であった事と考えられる。

    だとすると、上記の通りに「地元の郷士衆や農民」は、兎も角も、「江戸同行組の郷士」は、“その後にどうなったのか”である。
    調べた結果では、「郷士の家」では「郷士家族の家」の全体で江戸に移動した訳ではない事は判って居る。
    「一族の者」を差し向けた事は判っていて、その子孫が江戸に遺って子孫を拡大している事も判って居る。
    判る範囲では、7割近くが地元に戻っている。
    「残りの3割」は、「紀州藩の江戸詰め」で残った事に成っている。
    結局は、「青木氏の別動隊(18の郷士衆と青木氏部)」は伊勢に戻った事に成っている。

    そこで、この「享保の改革」に貢献した「7割の郷士達の帰還組」は果たしてどう成ったのかであって、ところがこの部分に於いては、「紀州藩士」では無かった事から「完全な資料」と成るものが無く良く判っていない。
    (青木氏側では記録消失)
    唯、「郷士家の口伝と一部の資料」に依ると、「紀州藩の家臣」と成って、「熊野、田辺、名張、伊勢三領(松坂・田丸・白子)」の“「六地域」“に配置された事が読み取れる。

    これが事実とすると、伊勢紀州と江戸での“豊富な政治経験を有する者”である事から、“何故、ここに配置したか”の理由がある筈である。

    この「六地域」には一つ共通点がある。
    恐らくはこの「共通点」が原因していると観られる。

    ・「熊野」は、江戸期には日本一有名な「熊野檜の名産地」で「港町」で貿易港
    ・「田辺」は、江戸期には「日本最大の遠洋漁業」の拠点で「港町」で貿易港
    ・「名張」は、大和国と伊勢の国境域の位置しで「青木氏の旧領地」で、古来より伊勢和紙(伊賀和紙)の名産地であった。
    次ぎの「松阪や白子域」を更に発展させるべき「和紙生産の拠点」であった。
    ・「松阪」は、本論の「商業の町」で港町で貿易港
    ・「田丸」は、玉城地区で「射和商人」が住む「商業組合」の元と成る「殖産と商い」の拠点で、「河川と港」を有する便利な地域である。「軍略的要衝地」でもあった。
    ・「白子」は、鈴鹿の南東部に位置し、「伊勢湾の港町」であり、且つ、「伊勢和紙」を利用した「伊勢型紙」で「有名な殖産地域」で、「松阪と田丸」と共に、特別に「藩の保護」を受けて発展した「伝統工芸の町」と「紡績の町」でもあった。

    この「比較対象」として、そこで、何故、紀州の最も大きな良好な大港町である「下津港」と、本城のある「若山港」に配置しなかったのかと云う疑問が湧く。
    この「疑問の答え」が、「江戸戻りの郷士」の「配置された理由」と成る。

    それは、次の通りである。
    ・「下津」は、「港」としては大きいが、此処は「蜜柑の里」で、直ぐに三方が山岳地で周囲は山に囲まれる山岳部で、平地が少ない事に成っていて、それが「地形の所以」で「段々畑の蜜柑の郷」と成っている所以なのである。
    一つ山を越えた隣には、「有田川の大洲域」があるが、浅瀬で湾口としては向かない。
    「殖産と商業」の経済を発展させ得る地形では無い。

    ・「若山」は、港、地形、経済圏、何れも遜色ない要衝地で、紀川大洲の広大な平地を持ち、古来より伊勢に決まる前は「遷宮地」でもあった位に「歴史」にしても寺社仏閣等の数にしても何れの点に執っても伊勢松阪に匹敵する全てに類似の地である。
    依って、古来より製鉄所を有し、鉄砲などの工業生産も盛んで、且つ、堺に隣接し、殖産と商業の経済を発展させ得る最大の地形地域でもある。
    恐らくは、ここに配置しなかった理由は、既に、ここは発展している地域であって、藩のお膝元である事から「人材は豊富」であって、江戸での「彼らの知識と経験」を活かしての「発展」を期待するには既に充分地域であった。

    “「更なる発展」”は、“「紀州藩飛地領」を開発する事が必要“であった事を、この「二つの地域」から比較対象として浮き上がる事が「答え」であった筈である。
    故に、「上記の六領」に配置した事に成ったと観られる。

    この結果を示すデータが在る。
    当初、蒲生氏郷前は「8万石」、蒲生氏期は「12万石」、徳川氏吉宗期は「18万石」、その後の「江戸戻り組」が配置された宝暦から明和期は「22万石」と成っている。
    この「8−12−18−22」/150の「変化の数字}は、伊勢の「紀州藩飛地領」の前段から論じている「商業組合」に依る“「商業と殖産」“に依る”「成果の変化」“を指し示している事に成る。

    何と150年程度で、「紀州藩飛地領(六地域)」では、“「14万石の改革」”が起こったのである。

    では、因みに、この「飛地領の14万石差」とは、“どの程度のものであるか“と云うと次ぎの様に成る。
    「江戸期の大名石高」と比較して観ると、全国186国中の27番目に相当し、伊勢域の大名の石高では、長島は2万石、亀山は6万石、桑名は11万石、津は32.3万石であるから、「飛地領の14万石差」は「驚くべき発展」である。
    伊勢全体の石高は、約55万石と云われていて、(14/55)・100≒25%と成る。

    「飛地領の14万石差 25%」の「商業組合とその殖産」と、これを「まとめる事」の「御師制度の総合効果」はどんなものであったかは、最早、説明を必要としない。
    何と27番目/186の国が一国出来た事に成るのである。

    「享保の改革」の時期中にしても「10万石」(100年)も増やしている事は、前期した様に「他藩の手本」と充分に成り得ていた事に成る。
    これを他藩が観ていたとして、「15地域外」の「真似しない藩」がもし居たとしたら、それは当に“「稚政藩」”であって、この“「稚政藩」(幕閣の抵抗勢力の藩)”を観ると確かに「真似」をしていない。

    この事から、「江戸戻り組」は、その「享保の知識と経験」を活かして、「商業と殖産の地」を更に生かして発展させるには、“「貿易の出来る地域」”を選び、そこで“「海外貿易」”をさせる事の為に明らかに配置したと観られる。
    「飛地領の14万石差」の“「貿易の出来る地域」”は、「販売する商業」とその「商品を生産する殖産」の二つがあるからこそ成し得る手段である。
    そして、その“「貿易」”は「安定した生産」を要求されるが、これは“「御師制度」”で管理して行くことで成り立つ。

    この事から、むしろ、「江戸戻り組の郷士」は、「自発的意思」では無く、「紀州藩」として、紀州藩士に関係する「郷士衆」は、兎も角も、「青木氏の別動隊」の「御師制度の郷士衆」には、是非に、「探しても紀州藩には必要な人材」であった。
    「帰還」は喉から手の出る程の者であって、依って、江戸に掛け合ってでも命じて返したと判断するのが正しいと考えられる。
    故に、「吉宗一族」が「徳川氏の宗家」となる「保科氏」として継承する以上は、10割は難しく、交渉の結果の7割であると観られる。


    その結果、前記の殖産の養蚕や米改良に加え、新たに「和紙に依る紙箱などの紙製品」や「伊勢焼きの陶器」や「白粉等の産物」や「伊勢木綿の生産」を作り出し、「青木氏の紙問屋(総合商社)」からこれらを全国展開して販売し、初代頼宣から第四代藩主と成った「吉宗の頃」には、危機に陥っていた「紀州藩の財政」の立て直しに成功したのである。

    特に「初代頼宣」から引き継いだ「吉宗」は、前期した様に、「青木氏」と共にこの「殖産事業と興業」に力を注ぎ、この育てた「松坂商人(射和商人等)」を江戸に店を構えさせるなどの便宜を図り育て上げたのである。

    因みに、「伊勢の店」以外に、この時の結果として、“「江戸店」”として、主な商人は、「江戸の伊勢屋」(伊勢青木氏の「伊勢の紙屋」)、後に殖産による「松阪木綿」の「越後屋」(近江の人 1679年)、近江から「丹波屋」(近江の人)、「小津屋」(近江の人)の「伊勢商人」が有名である。
    前段と上記した様に、「吉宗」が「商業組合」を江戸に持ち込んだ結果から、歴史に残る大豪商が生まれた。

    そもそも、注釈として、 この“「江戸の伊勢屋」”は、“江戸の名物 犬の糞と伊勢屋” と呼ばれていた程に、江戸時代中期前後の日本で一番多い「商人の屋号」であった。
    享保期初期の「江戸の伊勢屋」は、「伊勢青木氏」(「伊勢の紙屋」)で明和期までの商業記録が完全に遺る。
    「忠臣蔵伝」にも登場する「商人」であった。
    その後の安永期以降には、一度に全国的にこの「屋号」が更に拡がるが「青木氏」とは無関係である。

    しかし、この様に“「江戸の伊勢屋」の屋号”が一番に拡がると云う事は、如何に享保期の「青木氏の商い」が、「15地域」にも広がりを見せ、且つ、“「疲弊」”から脱しさせた「享保の改革」を認めていた事を示す事に成る。
    つまり、これを目の当たりに見た庶民は、“「江戸の伊勢屋」”をその代名詞の様に扱っていたと云う事にも成る。
    「幕府の職能部の御師制度」と「青木氏の御師制度」と「商業組合の発達での御師制度」、「寺社関係の御師制度」等の広範囲に社会に広がった“「商業組合と御師制度」”が、「江戸」のみならず全国の「庶民」にどれだけのインパクトを与えていたかが判るパラメータの「屋号」である。

    この「伊勢屋の屋号」の中には、伊勢紀州域と同じ様に「吉宗」の呼びかけで「15地域」から「江戸店」を出した「青木氏」の判る範囲では4店もあった。

    「伊勢、信濃(総合商・貿易商)」は別として次ぎの4店である。

    「越前、若狭」(皇親族賜姓青木氏)
    「越後、駿河」(秀郷流賜姓青木氏)

    以上の2氏―4地域店の「商業組合」が参加した。

    この「伊勢屋」が、後に子孫に依って次ぎの様に広げられた。
    「越前屋」(酒屋・呉服屋)
    「若狭屋」(海産物屋・小間物屋)
    「越後屋」(穀物屋・小物屋)
    「駿河屋」(粉屋・菓子屋)

    以上の「屋号」と「職種」も拡げたのである。

    ここから「江戸の豪商」が出ているが、この豪商の単独の出店では無く、「原材料の生産」は別として、この「加工職種に関わる職能者」も江戸に同行して「一種のコンビナート」を形成しての「江戸店の出店」であった。

    この「江戸出店」が「商業組合(コンビナート)」であったからこそ未だ成り立つ「商い」であった。

    そもそも、「運輸手段」も発達していないし、社会も疲弊し運送に危険性も大きく、この享保初期の時期に一切を「商品」(加工品)にして遠方から搬送して売り捌くには「経費と危険」が伴い、「大商い」は到底困難であった。
    故に、“「商業組合」“としての行動でなくては成り立たない「商い」であった。

    この結果が江戸に多くのあらゆる職種の職人が集まる社会が構築されたのであって、下記に論じる「庶民経済」の「銭屋と質屋の金融業」が発達した所以でもある。

    (注釈 「江戸の職人」と呼ばれる中には「伊勢紀州の出自の姓名」が多い。「享保の改革」の「商業組合の影響」と観られる。)

    ここには、是非に追記しておかなければならない歴史的に表に出て来ない「影と成っている職能集団」が在った。

    それは、”「運輸の安全」を担う「職能集団」”であった。
    これ無くして絶対に「江戸出店」は無し得ない事であった。

    それは、「シンジケート」であった。
    この「シンジケート」を独自に持ち得ない「大商い」は決して成り立たなかったのである。
    前段でも論じた事ではあるが、「荷駄を護る武力集団」である。
    搬送中は「荷駄と搬送人」を周囲を取り囲むように「旅人」を装って護り、少し離れた場所からも移動しながらも「擁護する形体」を採っていて,国境(シンジケートの勢力圏境)では、「隣のシンジケート」との「渡り交渉」(金銭授受)を着けての搬送であった。
    恐らくは、この「シンジケート」を持っていない「15地域の中の商業組合」は「江戸出店」は不可能であったと考えられる。

    (注釈 従って、地域的な形で「京出店の原因」の一つとも成ったが、つまり、「江戸の伊勢屋」が、この「護衛集団を補完させられる地域」までは「江戸出店」は可能であったと観られる。
    然し、「関西以西」は現実的に不可能であったと観られる。
    伊勢は「摂津堺店」があって「伊勢水軍」を管轄していたし、「讃岐 伊予」や「安芸 米子」も「廻船問屋」を主体としていて「水運」は強く、「淀川」や「日本海」を経しての運搬が可能で有ったが、「陸運」は無理であった事も、京に動いた原因でもあった。)

    以上の「2氏―4地域」の店の「商業組合」の主催者(青木氏)は、「有名なシンジケート」を古来より確かにこれを持ち得ていたのである。
    唯、筆者の観る処では、最大は「伊勢 信濃」の明治期までその機能が遺った「二つのシンジケート」ではあったが、それと同じ様に「2氏―4地域」の「シンジケート」が,「江戸まで護衛力」を成し得る程に充分では無かった。

    この事から、「伊勢 信濃」の「二つのシンジケート」が連携してこれを補完していたと観ている。

    何故ならば、「伊勢 信濃」は「本職としてのシンジケート」としての働きが「地元の商業組合」でも有ったことから、この「シンジケート」を勢力拡大させて「専門の護衛集団」(職能集団)を形成していたのである。

    (注釈 「総合商 貿易商 金融商の伊勢屋」が成し得る護衛集団であった。)

    (注釈 江戸の1760年代後半の頃には、「護衛」のみならず「荷駄の搬送全体」を受け持つ「一種の運送集団」として「商業組合」の中で本格的に位置づけられる様に変化して行った。)

    「江戸の伊勢屋」がこの「裏方の護衛」を差配していた事が判って居る。
    資料では、この「護衛」の事を、未だ「享保期初期の頃」であった事から、「古い概念」が残っていて「裏の影の職能集団」を表に出す事の「弊害」を懸念してか“「護衛」”と云う表現を採っていなかった模様である。
    資料の中には,「去る人(サル 忍者)」と隠語を使って表現されている。


    話しを戻して、ところが、そして、享保後の「宝暦明和期頃」からの後期の「伊勢屋」では、「江戸の伊勢屋」では無く「庶民の屋号(質屋)」と成っている。
    明和期に享保の改革が成功して伊勢より江戸出店して豪商と成った数人の者等が、「利益を追求する金融業」を始めた「質屋の伊勢屋」であった。(次段で詳細に論じる。)

    これは、(イ)(ロ)(ハ)の「商業組合」の所以であって、“「組合」“と云う中での「同屋号の広がり」を見せたものとして解釈できる。

    その意味からしても、この「4店の職種」から観ても、「伊勢屋の総合商」は「質屋の金融業」の様に、全て「元の職種」の「発展先の職種」で店を出している傾向にある。
    「発展先の職種の店」に付いては、その「何らかの子孫」か「関係者の出店・暖簾分け」であるかまでは充分な“確認”が取れていない。
    然し、「享保の改革」で江戸に拡がった「商業組合」としては、享保期から宝暦明和期までの間の「江戸店」の「同屋号の出店」は、「青木氏の子孫の出店」(「暖簾分け制度」である。)では無い。

    それは、(イ)(ロ)(ハ)の「商業組合」とすると“「子孫の出店」”は、「自由」とする「発想外の事」と成り得て、兎も角も、全てとは言い難いが、「出店」として可能な「時代期間」と「江戸地区」を限定して考察すれば、「関係者の出店・暖簾分け」であった可能性が強く、現在で云う“「チェーンストア」”であった可能性が強い。

    (注釈 現実に「青木氏として氏名に関わる事」は、「享保の改革」を主導している理由から表に出せなかった。
    江戸に同行した「江戸の青木六兵衛」とその子供二代に渡りが「吉宗」に仕えたが、この「佐々木氏の資料」からこの事の注意が読み取れる。)

    特に「総合商社」から発展した”「伊勢屋の質屋」”が多いと云う事は、“「江戸の名物」”と云われた位に多いのはこの事を証明する。
    上記した「越後騒動の原因」と成ったのには、「質流地禁止令」が「江戸の金融問題」で出したのではあるが、「商業組合」として多く「江戸店」を出している越後国にも波及して、この「所以の事」から来ているものとも観ている。
    「伊勢屋の質屋」は[享保の改革」を「商いや利益」と云うよりは金融面から支えた「金融システムの構築]に目的があった。


    >この詳細は、 「伝統―21」に続く。


      [No.337] Re:「青木氏の伝統 19」−「商業組合と提携商人」(「青木氏と郷士衆との関係」)」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2015/12/30(Wed) 08:27:51  

    >「青木氏の伝統ー18」の末尾

    > これから察すると、江戸時代では、“「氏の背景力」”と成ったが、この「荷駄頭」と「物見頭」の繋がりで、その「シンジケートの首魁」に連絡を通して、その首魁から、土地の「領主」に話が通り、組織を必要な様に動かした事に成ったらしい。
    > 「伊勢シンジケート」の出自は、多くは、「室町期の豪族」や「土豪族」や「郷士族」が戦いに敗れ、海山に逃亡して「裏の社会」で生き延びた者達であり、これらに「経済的支援」をしてその見返りに警備や運送屋や廻船業や殖産や営業等の手助けを請け負って貰い定期報酬とは別に、その都度の報酬を渡し連携をしていた。
    > 次第に血縁関係も結ばれ、何時しか「青木氏族」の一員化して生き延びた者と、その配下や農民やあらゆる職能の人たちで、江戸期には、「ある程度の経済的潤い」と「必要な力」を持ち合わせて「表の社会」の一員の立場も持ち合わせ乍ら「二つの顔」を以っても働くように成った。
    > この「組織の範囲」(「松阪組」と「射和組」)は、明治期の初めまでの結果として観てみると、美濃から信濃を経由して、諏訪から甲斐の領域までを範囲としていた事か判る。
    >
    > これは「和紙」と「神明社」と「青木氏菩提寺」の関係からは元より、各地に起こった「農民一揆」の「経済的支援」をしていた事の記録からも頷ける。
    > 取り分け、「宗教絡み」の「甲斐百年一揆」と呼ばれる一揆にも「伊勢シンジケート」を通して「経済的支援」をしていた記録からでも判る。
    > 傾向として可成り「中部東域」にそのルートを伸ばしていた事も判る。
    >
    > 中には、「伊豆勢力」(伊勢信濃青木氏族の末裔集団)と、滅亡した「駿河源氏の末裔族」が編成していた「駿河水軍」との連携を持っていた事も記録から読み取れる。
    > これは「伊勢水軍」が、「伊勢シンジケート」の一員であった事からの平安期からの連携が遺ったものと観られる。
    > 連携で云えば、多くの「商い記録」が遺る“「瀬戸内の支配権」”の持つ廻船業を中心とした「秀郷流讃岐青木氏」との連携が目立つ。
    > 「伊勢シンジケート」を全網羅するには、「別の論文」が充分に成り立つのでここでは、下記に「松阪商人」の「(射和商人) 射和組」に付いて触れて置いてこの程度の範囲とする。


    伝統―19

    ・「商業組合と提携商人」(「青木氏と郷士衆との関係」)
    この「商業組合」と「郷士衆との関係」(「射和商人」)に付いては、前段で論じた経緯から観ても、江戸期からの「二つの青木氏」の「生き様」を説くには決して欠かす事の出来ない要素なのである。
    (唯、前段までの「伝統シリーズ」をお読み頂く事がより理解を深められ事に成りますので是非先ずはそちらからお読みください。)

    取り分け「伊勢域」のみならず、「美濃」を除いて「信濃」、「甲斐」、「摂津(近江系)」(美濃と近江は平安末期滅亡)域に定住する「二つの青木氏」と、「武蔵国域」を始めとする「秀郷流青木氏の主要な15地域の青木氏」に執っては、「欠かす事の出来ない要素」又は「伝統」であった。
    江戸初期からこの「射和商人(伝統シリーズ−20)」と同じ立場を持つ「関係商人の集団」が主要な「青木氏定住地」には「青木氏」と連携しながら必ず存在して居たのである。
    他にこの事に付いて「青木氏」の何らかの記録に遺る地域では、この記録から観ると、「連携地域」は「15地域」も在った。
    その下記する「青木氏」が始めた「商業組合」とその「連携商人」は、次ぎの通りである。

    「15地域」
    讃岐、伊予、安芸、尾張、駿河、伊豆、相模、越前、若狭、越後、米子、阿波、筑前、肥前、陸奥(伊勢 紀州は除く)

    以上の「青木氏」に関わる「15地域(A)」に、「青木氏」が自ら「商人」と成ったものも含めて、この“「提携商人」(関係商人の集団)”が存在して居た。

    そもそも、この「15地域」に付いては、”アッそうか“と云う事に成るかも知れないが、それはとんで無い勘違いなのである。
    では、「青木氏」を語る上で “どれだけの意味を持つのか”と疑問を持つが、当時としては他を圧倒する“「大変な地域数」”とその“「大変な地域力」”と「地権力」であった。
    その“「地域数」と「地域力」「地権力」”と云うものに付いて下記に論じて行くが、「商業組合の提携商人と青木氏」とが「地域に与える影響力」は相当なものであったのだ。
    それが、江戸期初期の前後の社会に大きな影響を与えたのであって、これを「青木氏の者」は決して見逃してはならない事なのであり、当に“「江戸期の決定的な伝統」“と云えるのだ。

    あくまでも、これ(「15地域」)の設定は、発見された“何らかの資料・記録を遺している”とする事を前提としているので、遺していない地域もあったので、推測では、「青木氏の出自構成」から観て、「20地域程度(B)」には成ると観られる。
    更に、他の論文でも論じた“「主要青木氏族 8氏の地域」“として観れば、「提携商人」は、全て「8地域」にも在って、計23地域(A−1)、28地域(B−1) と成る考察である。

    そうすると、兎も角も、先ずはこの「15地域」を前提とすると、「特別賜姓族」の「秀郷流青木氏116氏」が大きく定住する“「24地域」“と、「皇族賜姓族五家五流24氏」の”「19地域」“(室町期 最終19地域)とである。
    合わせて43地域中、現在、記録に遺る地域として、「約30%−15地域」に、この“「提携商人」(関係商人の集団)”が確実に存在して居た事に成る。

    この「30%−15地域」の「提携商人」が、「青木氏」と共に“地域に対して“「経済的背景」”と成っていたのである。
    とすると、これを下記に示す通りに、同じ様に地域(21)に対して“「経済的背景」”と成っていた「青木氏」が関わる“「一揆地域」(下記)”と重ねて考察すると、更に「証拠力」が増すだろう。

    そこで、詳細は下記に論じるが、明治期までの”「一揆」”と云う観点からで観ると、「21地域」と成る。

    何故、この”「一揆」”と云うものが「15地域」と同じ様にパラメータに成り得るのかと云うと、”「一揆」”には、”「一揆」”と云うと「空腹」では無し得ない。
    それを実行するには、必ず「経済的背景」が無くては無し得ない。
    つまり、従って、この”「一揆」”も「青木氏」が「経済的背景」と成って援護していた環境下にあって、上記の「提携商人」で観ると「15地域」、「一揆」で観ると「21地域」と成る。(下記)

    これらも「同じ地域環境」で「何らかの形」で強く“「経済的背景」“と成って”「民の行動」を援護していた“のであるから、”この差は一体どうなのか”と云う事に成る。
    依って、これに「青木氏」が関わっていたのであるから、本来であれば数字的には同じ程度である筈である。
    然し、同じ様にこの地域に対して「経済的背景」と成って居乍ら、この差の「6地域」(21−15)は、何で起こっているのかである。
    本来であるならば同じ程度である筈だ。

    結論から云うと、この「6の地域差」は、“「提携商人の定義」の差”であって、つまり、「定義外の形」(下記)で提携していた「商人」が居た事に成る。
    所謂、「定義外の形」,これが他氏には観られない「青木氏」だけに関わる「提携商人の特徴」なのであって、「重要な伝統」の「一つの差」なのである。

    何はともあれ、この「21地域の一揆」とは、上記の「推測の20地域」≒「一揆の21地域」とほぼ既に一致している。

    従って、この「推測とした地域」(定義外の地域)は、上記の通り「5地域」である事に成る。
    つまり、「推測していた地域」が含んでいた事に成る。

    要するに、「推測5地域≒地域差6地域」の「関係差」と成っている。

    恐らくは、この「関係差」が出ていると観られる。

    そうすると、次ぎに、この“「推測とした地域 5地域」”とは、“一体何か”という事に成る。

    その前に、15地域には、「青木氏定住地、即ち、青木村」がある事を述べて置く必要がある。

    然し、この“「青木村」”は、何度も論じているが、そもそも「嵯峨期の詔勅」と、「青木氏」の50程に成る「慣習仕来り掟の使用の禁令」で、この「慣習」の一つと成る「地名」に対して、一般に対して使用を禁じた。
    且つ、「氏名」を元とする「地名の使用」も禁じられていた。
    そして、共に「青木氏の氏名の使用」も禁じられていて、明治3年までこの原則は護られた。

    従って、“「青木村」”があるところには、“「真の青木氏」”が必ず存在し、且つ、この“「商業組合」と「提携商人」”も存在して居たのである。

    この「青木村」の詳細は、「地名地形データベース参照」としては次ぎの様に成る。

    「古史資料ベース」としては、「青木村」は「75地域」、「現地図の地名ベース」では「109地域」である。

    この内訳は次ぎの通りである。

    (注意 現在の都道府県名で呼称するので「地名」が分断している事がある。
    「数字」は必ずしも大きさを示さない。
    「複数」は「青木村」が本家地域と分家地域で「複数の村」があった事を示す。
    「1の数」には、複数地域よりも「広さ」では大きい事もある。)

    青森 1、岩手 2、宮城 17、福島 2、茨城 2、栃木 1、群馬 1、埼玉 3、千葉 3、
    神奈川 1、新潟 5、・富山 1、・長野 8、岐阜 2、静岡 3、愛知 21、滋賀 1、京都 2、
    ・兵庫 3、和歌山 1、鳥取 1、岡山 1、広島 3、山口 1、徳島 4、香川 2、高知 長崎 1、 福岡 4、熊本 1、・宮崎 1、鹿児島 1 

    以上の「101の青木村」が「現在の地名」で在る。

    (注意 「三重 6(地名含む)」と「南和歌山 2」は除く。・印は、「皇族賜姓族青木氏」の「伊勢と信濃と近江」の「商人 2」を含む。 計「全109村」)

    「秀郷流青木氏の特別賜姓族116氏」に、「皇族賜姓族青木氏の19氏」で、「二つの青木氏」とは、そもそも「135氏」である。
    然し、現実には「二つの青木氏」は、室町期末期では最終「121氏」であった事から 現在地名の「全109村」(三重南紀含む)とすると、「青木氏」では「氏=村の関係」があったので、室町期末期では「12の差(121氏−109村)」が出ている。

    平安末期から観ると、「26の差(135−109)」、 古地名では「60の差(135−75)」であるので、「嵯峨期の詔勅と禁令」に依り「青木氏」にだけ限られる「氏=村の関係」から「消滅」が「最大 26村」があったと観る事が出来る。
    この主原因には、「源平合戦」にて「青木氏氏是」に従わず、二度も「戦い」に参加して「近江と美濃と滋賀と駿河の青木村」が消滅した事に在るだろう。

    「青木氏]と云う「特定の氏の共通する村」が全国にこれだけある事の事態が稀を超えて特異である。先ずは無いだろう
    それだけに、この「109村、或は、75村」の持つ意味は計り知れなく大きい。

    兎も角も、現在地名では「青木村」は、正式に「109村」で、江戸期前の地名では「75村」、現在の地名で、「青木氏族」を含めた形で観ると、上記した様に、計23地域(A−1)、28地域(B−1) に成る。
    従って、平安期末期と江戸期初期の両方から観ても、「村の地域」と云う点から少なくとも「26地域」には「青木村」があった事に成る。

    計23地域(A−1)<「村 26地域」<28地域(B−1) 

    唯、考察での問題は、「永嶋氏」の様に、この「青木氏族の絡み」が、“「109村」、或は、「75村」にどれだけ組み込んでいるのか”は,なかなか判定が難しいのである。
    と云うのも、「秀郷流青木氏」の「青木氏族」は、「商業の関係」でも可成り「親密な関係」にあって、分離して判別する事が難しいのである。
    中でも、前段でも論じた様に、「伊勢の長嶋氏」、「薩摩の肝付氏系長嶋氏」等では明らかに「青木氏」と「商業の関係」を持っていた事が資料から判っている。
    そもそも、他の論文でも論じた様に、「青木氏」が「第二の宗家」で「青木氏族」を取り仕切って居た事にあるからである。
    取り分け、筆者が観る処では、「永嶋氏」が最大に「青木氏」と関わっていた事に依ると観ている。

    資料にしても「青木氏と永嶋氏の関係資料」が最も多く在り、且つ、「親密度」も互いに出自が同じで「兼行系」であった事から親交が高かった。
    又、「青木村」の存在する処には、必ず「永嶋氏」が定住している史実が在る事から、更には、主要5氏の中でも「子孫拡大」でも最大である事からで、本論の「提携商人の関係」にしても「商い」で繋がっていたのである。

    (注釈 「永嶋氏」はその意味でも「関東屋形」と呼ばれていた。)

    (注釈 事例として前段でも論じた様に、秀吉から攻められた「結城氏(永嶋氏)」の「陸奥の戦い」にも「伊勢秀郷流青木氏」が、「伊勢長嶋氏」と共に参加して、背後から攻め立てて「永嶋氏系白河結城氏」を秀吉から救っている。
    この戦いは「秀吉最大の失敗」と呼ばれた。)

    前段で論じた様に、その「典型的な証拠」に「伊勢」があり、全ての上記の要素を持っている。
    「佐々木氏の資料」を観ても、「青木氏と永嶋氏の関係」に付いても論じている位である。

    最南端の鹿児島でも「氏」として「二つの青木氏と永嶋氏の関係」があって、「大蔵氏族肝付氏系永嶋氏」が「薩摩藩の御用商人」としても働いていて、「材木商」や「雑貨関係」としても「二つの青木氏」とは“「横の関係」”で繋がっていた事が判って居る。
    関西と中部域で「青木氏との商い関係」でその行動記録がある。
    唯、内容から薩摩側では、「御用商人」が大手を振って「商い」をしているのではなく、特別に配置された、所謂、“「永嶋氏の者」(要するに「本論の提携商人」に成り済ました)”が動き、「姓」(長嶌姓)等を変えても「隠密行動の様な商いの仕方」をしていたと観られる。
    それだけに事態は掴みにくい記録であった。

    (注意 ここでは、兎も角も「青木氏の提携商人」として単独で論じているが、お読み頂く場合は是非に重層してこの“「横の関係」”があったとして幅広く想起しながらご判断頂きたい。)

    (注意 依って,現地名「109村」には、「市町村合併」や「歴史的変化」にても「青木村」、或は、「青木の地名」が、残念ながら少なくとも”「12の消滅」”をさしている事が確認できる。
    これが、上記の「近江と美濃と滋賀と駿河の青木村の消滅」と成るだろう。)

    但し、現在の47度道府県として、この「26地域」(135−109)には、「青木氏」に関わりの無い「青木村」があり、「村」では無い「単なる地名」もあり、明治後の「第三青木氏」の「青木村」もある。
    依って,これ以上の結果とは成らず、「26地域−地域差6地域」と成る。

    この「三つの要素」を取り除くと、江戸期の「66国」中では「75村」と成るから、これも同じ“「26地域の村」”と成る。
    この「26地域」は、「青木氏族」を加味した数字の「28地域」に一致する。
    依って、この「青木村の数」は、明らかにこの「28地域」を超えない事が判る。
    「一揆の地域差6」を勘案すると、「22地域の村」と成る。

    つまり、「26地域から22地域」と成り、この中間として「秀郷流青木氏の定住地」の「青木村」の「24地域」は定まる事に成る。
    これに「皇族賜姓族青木氏」の「青木村 6地域」を加算しても「28地域」を超えない事が判る。
    このデータの信憑性は極めて高い事に成る。

    この「26地域から22地域」の「青木村」には、それぞれの“「青木村の由緒」”があるので、一概には言えない。

    然し、但し、次ぎの6県は「15地域」の中でも特別である。

    愛知 21、宮城 17、長野 8、新潟 5、福島 2、埼玉 3

    以上の6県は、確かに「青木氏の主要地」であることもあって、「複数村/県」で、「多数」あって、大きさも「広大」(地権力)であった。

    この「6県」の「青木村」の持つ「地域力」、又は,「地権力」というものが如何に大きかったかが判る。
    つまりは、「商業組合」「提携商人」の「存在と活動」が半端では無かった事を意味する。

    その「大きさ」の持つ意味を一つの形に表すならば、一種の“「青木氏聖地」の様相を呈していた“と云っても過言では無い模様であった。

    そうすると、これだけ大きければ、「正規の藩主」では無いが、軍事的に、経済的に、政治的にも握っていたのである。
    この「青木氏」が“「民」を援護した”と成ると、伊勢域の「射和商人」の様な「商業集団」を作り、これが「商業組合」を作ったと成ると、「為政者」にとっては「最大の脅威」であった筈である。

    この6県の「江戸初期の藩数」で観て見ると次ぎの様に成る。

    6県の江戸初期の藩数
    愛知 5(尾張藩)
    宮城 2(仙台藩)
    長野 18
    新潟 18
    福島 9
    埼玉 20

    如何に小藩がひしめいているかが判る。
    因みに、御三家の「尾張藩」と、伊達氏の「仙台藩」を除き、6県の「江戸期初期の藩」は以上の様に「小藩」がひしめき合って配置されていた。
    これでは、「青木村の青木氏の地域力」、又は、「地権力」を凌ぐ程の藩は無かった事に成る事は明らかである。

    そこで問題は、「愛知の尾張藩」と成る。
    検証して観ると次ぎの様に成る。

    そもそも、御三家の「紀州藩」と対抗したのは「尾張藩」であった事は有名で、「伊勢青木氏」が吉宗に同行して「享保改革の政策」を押し進めたが、これに異議を唱えたのは「尾張藩」で明治維新まで「伝統的な関係」にあった事は有名である。
    その関係に在りながらも、それでも「地域力」や「地権力」を示す「青木村」は「5村」も在った。

    では、その「5村」とは、1郡に相当し、1郡は1国5郡とすると、「1/5の面積=地権」に「地域力」「地権力」を持っていた事にも成る。
    この「地域力」「地権力」は、例え「藩主」であってもこの“「地権」(地主)”を持つ地域に対しては「治外法権的な意味合い」を持ち、この「地権」に対する税を納めれば「自由な差配」できなかった制度であって、現在の「固定資産税」に近いものであった。
    多くは「青木氏」の様に江戸初期で観れば、平安期からの歴史を持つ「20弱程度の氏族の郷氏」にあった。
    「地権料」を支払う代わりに「土地」に対する「自由権」を補償されていた。
    要するに、民から観れば、先ずは「藩主様」より「地主様」であった。

    この「地権」の無い所は役所に届けて承認を得なければならない。
    そうすると、果たして、この「尾張藩」は、この「1/5の面積=地権」で占められていた事に成る。
    例え藩主であっても自由にはならない地域が1/5あったのである。
    ここに、「商業」から得られる「莫大な経済力」も持ち得ていると成ると、これでは明らかに「藩主以上」と云う事に成る。
    民に執っては、心情的には「経済的」に何だかんだと面倒を看てくれ援助してくれる「地主様」の方が親近感が湧くが、税を採られる「藩主様」では無かった事に成る。
    それが「御三家尾張藩」である。(紀州藩と藩政が違う)
    「自尊心」と「権勢欲」が強い藩主であれば、夜も眠れない事に成るだろう。
    「尾張藩」を除いては最早問題では無い。

    「埼玉の20」は、秀郷一門一族の武蔵の地元である。論外であり、当然の結果であり、「地主様」である。

    これで、他の9県もどの様な状況であったかは推して知るべしで判る筈である。

    では、「紀州藩」が推し進める「商業組合−提携商人策」に対して「藩主側」が反抗し得る立場を持っていたかは疑問である。
    とすると、「反抗勢力の吟味」と云うよりは、下記する「家康のお墨付き」「地士制度策」にどの程度の「効き目」があったかの「検証問題」だけは残る。
    然し、現実には推し進めたところを観ると、矢張り黙認せざるを得なかった事に成る。
    下記する「7年」から推し量ると「最大効果の効き目」があった事に成る。

    況して、「尾張地域の周囲」は、他県と異なり「秀郷一族一門」と「片喰族と州浜族の秀郷流青木氏」で固めていたのであって、「家臣の大半」はこの一族であった事から、なかなか難しかったと考えられる。
    「尾張藩」としても「金子借料の件」もあって「青木氏の豪商」に文句を附ける事などは難しかったと観られる。

    (注釈 「吉宗の経済政策」に尾張藩は異議を唱えたが無謀が過ぎて、結局は「藩主退陣」に追い込まれている。)

    因みに、この「6県の範囲」で観て見ると、「尾張藩」を含めて「72の各藩主」が、これを無理に抑え込もうとした場合は次ぎの様な事が起こる。
    果たして、この様な事をするであろうか。
    それこそ「藩政未了」として幕府から潰されるが落ちであったであろう。

    その「典型的な最大事件」が、同じ江戸期初期に讃岐伊予域の「青木氏の定住地」で起こっていたのである。

    その「典型的な事件」が、「山内一豊の土佐事件」である。歴史的にも有名である。
    「伝統シリーズ」でも論じたが、土佐に平安期の古くから住む「讃岐藤氏の青木氏等」の「郷士や郷氏」が此処に定住している。
    その「地権」や「商業」などの「地域力」「地権力」を持つ「郷氏や郷士」を、思うが侭に「支配権」を獲得しようとして藩主と成った「山内氏」は、これらに対して「武力に依る攻撃態勢」を採った。「自尊心と権勢欲」が強くて夜も眠れなかったのであろう。
    そこで「激しい抵抗戦」が長く起こり、結局は、「最終談合」と云う形で城に一族を含む「郷士と郷氏」の全員を招き入れて、そして何と閉門して「騙し討ちの殲滅作戦」を採り全滅させた事件が起こった。
    これに依り土佐に「抵抗勢力」は無く成ったが,本拠の讃岐域では「讃岐青木氏」は健在であった。
    この遺恨は「讃岐青木氏」に遺った。

    この様に、「移封藩主」と主に「地権を大きく持つ郷氏」との間は「犬猿の仲」であった。
    何処でも例外なくその原因は、藩主に取っては「地権と商業と結びついた地域力や地権力」が邪魔であったのである。
    この「15地域」でも例外では無く、上記の「主要6域」(6県)は当に特別であった。
    この様な事件は「15地域の青木氏」でも例外では無かった。
    むしろ、「地権力と地域力」のみならず、更には、もう一つあった。
    それは“「氏の格式」”には「格段の差」があった為に,「移封藩主」にとっては手の出し様が無かったのである。

    (注釈 この「格式差」が物語る事としては、前段でも論じたが、「伊勢青木氏の口伝」で伝わっている様に、紀州徳川氏の頼宣さえも面談時は、上段の座)を外した作法を採ったくらいのものであったのである。)

    下手をすれば、特に、上記した愛知 21、宮城 17、長野 8、新潟 5、福島 2、埼玉 3の6国では、江戸期初期であっても、藩主側は、未だ「賜姓族」としての「不倫の大権」をかざされて「朝敵の汚名」を被る恐れもあった。

    そこで、その「移封藩主の脅威のレベル」では、「秀郷一門」は,前段でも論じたが、家康が一目置くほどに全国規模で展開する「軍事力」を持っていた中で、「秀郷流青木氏」はその「第二の宗家」と呼ばれる様に「一門の指揮権」を備えながら、「二足の草鞋策」としても「商業」にもその「地域力と地権力の勢力」を振り向けていたのである。

    これに、平安期から「古氏」であった事から、その「広大な土地利権」をも持っている“「郷氏」”でもあったのである。
    そして、それが“「商業組合」”として、“「提携商人」”を作り出して、「軍事力」は元より「経済力」にも「途轍もない幅」を利かせていた事に成る。
    「単なる大名」や「豪族」が、例え「為政者」として「藩主」と成ったとしても、これでは到底、力の及ぶところでは無かった。
    その「青木氏」が幅を絶大に利かした地域が「15地域」もあったと云う事に成る。
    但し、全国の30%程度に、この「勢力」、即ち“「地域力」「地権力」”を誇示して居た事に成る。

    中でも「最大の地域力と地権力」を示しているのが下記の県である。

    愛知 21、宮城 17、長野 8、新潟 5、福島 2、埼玉 3

    その以上の6県は、次ぎの様に成る。

    「尾張(三河)」、「 陸奥(陸前)」、・「信濃」、・[越後]、 「下野(岩代)」・「武蔵の国」

    以上とは成るが、元よりここは「秀郷流青木氏の主要国」でもある。

    如何にこの地域にその“「地域力」「地権力」”が及んでいた事かが判る。

    これで、前段の「秀吉−家康の関係」から関東に移封された「家康」が、採った秀郷一門に敷いた施策の妥当性が良く判り、「武力」では無く、「青木氏の提案」の「商業組合の提携商人の創設」を戦略的にも目論んだ事でも判る。
    山内氏の様に「武力」に依らず、前段でも論じたが、この“「地域力」「地権力」“を利用する”「懐柔策」“に出たのである。
    然し、この“「地域力」「地権力」”に対して、これに対してどんなに大きな「藩主」であっても、公然と軋轢を掛けて潰そうとしても出来ない事であり無理であった。
    この事は、“「商業組合」”の基と成る“「提携商人の創設」”は、「伊勢紀州」から「15地域」に「短期間」で広がった理由でもあった。
    資料の範囲では、最大で観て見ると何と“「7年間」”である。

    この“「7年間」”を吟味すると、先ず「商業組合」を伊勢で始めたのは、「蒲生氏郷」が嵯峨期から禁令で有った地域の松阪に禁令を敢えて破り、先ず「政庁の松阪城」(1588年)を作り、その城下を商業都市化した時に、「青木氏の本領安堵」と共に「屋敷町の3区画」をも与えられた時からである。
    先ず、ここで「商業組合の基礎作り」が始まり、この城郭を引き継いだ「家康」が、この「頼宣」(1619年)に「紀州と伊勢」の統治を任せる直前に、「青木氏との談合」を数度重ねている。

    前々段でも論じた「青木氏の商業年譜」から観て見ると次ぎの様に成っている

    1612年に「合力談合」。
    1614年に「伊勢衆談合」。
    1615年に「伊勢衆動員」。
    1615年に「堺摂津盛況」。
    1619年に「松阪会談」。

    1612年に「夏冬の陣」で「家康の要請」に応じて「談合」で徳川氏に合力する事を決めている。
    既に、「家康」とは既に1603年と1605年にも「談合」があった。
    「頼宣」が紀州藩に正式に入城したのは1619年で、その前から既に「浅野氏の紀州の政情」を調査するなどの“「事前行動」”を、家臣を秘密裏に送って数年前から探って採っている。
    つまり、この事から、「家康」は「夏冬の陣」の頃から「頼宣」にここを任す事を密かに決めていた事に成る。
    勝利したから決めたと云う事では無い事が良く判る。
    つまり、「戦略的地域の要衝」であった事に成る。

    五大老に成り「征夷大将軍」に成った時点で、「徳川氏盤石の礎」を築く為に、「地理性と環境性」(青木氏等の地域力)から判断して、この「紀州伊勢域」に一族を置く事を企てていて、「事前調査」(政情調査)をした事に成る。

    だとすると、この結果から観て、従って、1615年までには「青木氏の提案」を受けている筈である。
    この直前(1613年頃)の時前に、この「青木氏の提案」があったと観られる。

    その後に「家康」が没する1616年までに,この計画は既に進められていた事が年譜から判っている。

    1603年に「伊勢談合」。
    1605年に「松阪面談」。
    1606年に「伊勢談合」。
    1607年に「四家安定」。
    1612年に「合力談合」。

    依って、「初期計画」は1588年頃に始まり、1603年に「伊勢談合」により、1605年「松坂面談」の頃には「暗黙の了解」が得られ、1606年に「伊勢談合」で、伊勢紀州域の郷士衆や商人や農民や職能者に説得工作を開始して、1607年に「四家安定」で氏内が混乱していたが、説得が効を奏して、上記の1612年の「合力談合」では、「伊勢紀州の態勢」は「商業組合」を暗黙で容認する「徳川氏」に決まり、この結果として、家康没直前の1613年後半期には本格稼働させ、「頼宣入城」の1619年で、15地域に「頒布稼働」させ終わって居た頃に成る。
    従って、1612年から1619年の“「7年間」”で大方広め終わっていた事に成る。

    つまり、この期間から観て、“「頼宣入城」までには、整えておく”と云う「密談事項」が家康と在ったと観られる。
    それが、資料からすると、これ以外には談合は無い所から「1612年の時」の「合力談合」で行われていた事に成る。
    「合力」と同時に行われたとすると、「家康」は豊臣側に勝つ事を前提にして事前に打ち合わせていた事に成る。
    「青木氏側」にしても、「合力の見返り」が、“何もない”では周囲を説得し押えられなかったと観られる。

    だから、「1607年の四家安定」とある事に成るから、四家が急激に安定する事は無い筈で、徐々に1612年に向けて「安定」と云う方向に向かって繋がっていったのではないかと観られる。
    これは、明らかに「提案」が、「商いに繋がる事」として、“「合力の見返り」”に在ったと考えられる。

    この「初期計画」から観て、その期間は31年で、「中期計画」までは14年とは成るが、この時期では「商業組合の体制」が、”充実した状態で完全に整った”とは云い難く、それはこの「商業組合の提携商人」の「関わり方」に未だ問題があった様な印象である。

    つまり、“充分では無かった”と関係する各種の資料、取り分け、「越前からの手紙」からの判読で読み取れる。
    “「1619年頼宣入城」までに間に合わす”と云う「大前提」があった事から、「7年」と云う形である程度の上記した様な読みもあったが、それにしても“いざという時の「怪我」”を覚悟で急いだと観られる。
    可成り急いでいるが、この時の「青木氏や郷士衆等の生き様」が読み取れる。

    其れの決定的な証拠としては,下記に論じる“「江戸初期の一揆の様子」”である。

    「江戸初期頃の青木氏」が関わった「一揆」(下記)を抜き出すと次ぎの通りである。
    ・1603年滝山一揆
    ・1608年山代一揆
    ・1614年北山一揆
    ・1615年紀州一揆
    ・1677年郡上一揆

    先ず、1603年の土佐で起きた「滝山一揆」で、上記した「讃岐藤氏の末裔郷士」と「讃岐青木氏」が関わった「郷氏 郷士連」と伊予讃岐を挟み「土佐の農民の一揆」が在った。
    要するにその最終は、上記した「山内一豊の事件」である。
    この「一揆」で「讃岐青木氏」は大きな痛手を負った。
    そして、後々にまでこの遺恨は遺ったのであり、その後に「小競り合いの問題」も伊予と讃岐で起こしている。

    ところが、この後、続いて「讃岐青木氏」に影響を与えたのが年を置かずに起こった1608年の「山代一揆」である。
    そもそも、この1608年の「山代一揆」は、安芸国の国境で起こった「農民の一揆」で、毛利氏の農民に対する重税率(73% 本来は40%程度 四公六民)が異常であった事から3年間も起こったもので、「讃岐青木氏の勢力」が安芸に延び,その「末裔の商人」とその関連する「地域の住民」に影響を与えた。
    結果として、これが「商業的な地盤」に影響を与えるとして重視して、経済的に背後に居たと云われている。

    次ぎには、少し開けて3年後に起こった紀州南紀の1614年の「北山一揆」は,特に「南紀の熊野全域」で起こった「一揆」であり、結局は南紀から南伊勢の全般に拡がった農民を巻き込んだ地域の土豪の「一揆」(乱)であった。
    要するに、「秀吉の紀州征伐の反動」である。
    この反動は「頼宣入城」の直前の何と1619年頃まで続いたのである。

    起こった地域が一般には「南紀」としているが、現実には紀州全域と伊勢全域に影響を及ぼしていた。
    それは、この「一揆」を制圧しようとして派遣された「秀長の掃討軍」(紀州領主)が、伊勢紀州の地場産の「材木の販売」に加担して莫大な利益を上げていた事から事件が拡がったのである。
    「一揆軍討伐」どころか「商い」をしてしまったのである。
    それも最初に派遣された「秀長(秀吉の弟)の討伐軍」、そして、天正の二度目に派遣された秀長家臣の吉川の「紀州征伐の討伐軍」も何と共にである。
    この事で結局は「一揆討伐」はひとまず放置された。
    この不思議な“「猶予期間」”が起こり、更には後に、秀長から改めて討伐を命じられた家臣で「紀州湊の領主」も同じ事に成ってしまった。

    (注釈 この天正末期の行為が「秀吉」に伝わり「弟秀長」は「蟄居」、家臣の吉川は「打ち首」(さらし首)と成って、一揆は一応は挫折した。
    この後の慶長期にも燻り続けていて「北山域山岳部」で直ぐに紀州一揆が再発し起こる。天正期からこの一帯で起こり続けた一揆は「北山一揆」と仮称されてはいるが正式な呼称では無く、総じて「紀州一揆」であり各地に継続して飛び火して行ったものである。)

    これは、“材木販売等が二度も何度もある”というのは“何かおかしい”。何か策略を感じる。

    そこで、この“何かおかしい”を説く為には、前段でも論じたが、次ぎの事を思いだす必要がある。
    この一帯は、そもそも「伊勢青木氏の遠祖地」でもあり、「和紙の素材」等を栽培している地域でもあって、且つ、その地の「南勢の郷士衆」は「伊勢青木氏」に大きく関わっていた事からも、又、所謂、「青木氏部の郷」でもあって、「一揆に加担した南勢郷士衆」が「青木氏」に大きく関わっていた事から「伊勢青木氏」は絶対に放置できなかった。

    一方では、青木氏は「商業組合の問題」も抱えていて“てんてこ舞い”であったが、「一揆」を“後回し”と云う事には成らない出来事であった。
    それだけに、「一揆の経済援助」だけでは済まなかったと考えられる。
    先ず足元を固める事が専決事項であった。
    「青木氏」は、先ず「伊勢シンジケート」を熊野山岳部に動かし牽制して、この「紀州の一揆」を側面から援護しながら「討伐軍」を牽制して一計を案じたと観られる。

    そもそも、これは、最早、紀州で起こった全てこの一連の「一揆」は“「一揆」”と云うレベルでは無かったのである。
    最初は秀長や吉川等の重臣等が多く討ち死にすると云う程のもので、「伊勢シンジケート」に依る山岳部や河川域で起こる「ゲリラ戦」も含めて「完全な軍と軍との戦闘」であった。

    それが、地域を限定した「反抗の一揆」ならば、「伊勢シンジケート」で牽制してまでは行わないだろう。
    要するに、そもそも戦い方が一揆では無い。当に「乱」であった事から、「青木氏」が採るべき事は決まっている。
    それは「否戦闘の常套戦術」である。
    この「常套戦術」が、この「伊勢紀州の地場産」の「材木の販売」等が「青木氏の戦術」であったと観ている。

    当時、記録で観て見ると、「一揆」と時を同じくして、世の中は安定化に向かっていて、材木等の資材が“「大阪堺摂津」“で高騰し始めたのである。
    取り分け、不思議に「紀州の檜の材木」が一挙に高騰し始めたのである。
    当時では、未だ、武士や市民の住宅建設」までの安定期には至っていない。
    にも拘らず「堺摂津域」では高騰している。

    これは「信長の伊勢攻め」の「丸山城の焼失作戦」と明らかに同じ手口である。
    つまり、前段でも論じたが、「伊勢青木氏の商業記録」に遺る史実であるが、「堺摂津の紙屋」が資材を織田軍に調達する役目を請け負ったが、この時に採った「丸山城築城に伴う資材高騰の作戦」があった。
    同じ様に、この時も「信長」の息子の「信雄」が、「信長」に重臣面前で罵倒され蟄居を命じられている。
    つまり、「掃討軍」に「商い」に誘い込み「利益」を挙げさせて、遂には「表沙汰」にして「失脚させる戦法」に出たと観られる。
    両方は全くそっくりである。

    この「青木氏の常套戦術」の其れに依って、起こった「一揆」(乱)に対して「青木氏」としては「短期にして最小限度の被害」に留めようとしたものであったと考えられる。

    これは、1603年から始まり長引いた“「天正の紀州討伐」”に続いて、燻り続け「小競り合い」の続く中で、この1614年に再燃した“「北山一揆」”に続き、再び続いて起こった同じ紀州で別の1615年の「北山域」を含む“「紀州全域の一揆」(紀州一揆と呼称)”は,未だ「紀州征伐」の「憤懣の爆発」が解消せず、「各地の郷士から農民全般」に紀州から伊勢の一部に掛けて全土に拡がった「大一揆」(乱であった)であった。

    そもそも、この「南紀州域と南伊勢域」は、前段でも論じた様に、「龍神域」から「戸津川域」、そして、「北山域」等の「紀伊山脈山岳部」は、「平家落人の里」として鎌倉期からも「有名な山岳地域」で、ここに“「紀州郷士衆」”が住んでいた処である。
    この「地域の農民」と云えども元はれっきとした“「平安鎌倉武士」”である。
    寄せ集めで武士に成った「豊臣家の武士」では無い。
    戦えば、当時も「一騎当千の力を持つ戦闘集団」であった。
    時には常に鍛錬して「傭兵軍団」に成った経歴を持つ。
    (現在でも「戸津川郷士の剣道」と云えば全国優勝する程である。)

    この「一揆側」には、上記の「郷士集団」が結集し「3千の兵力」で当たり、これに「農兵軍 一千」が加わり、更には「「伊勢シンジケートのゲリラ戦闘員 一千」が加わったとされている。

    これは「一揆の戦力」を理解する上で、どれ程の「郷士」が集まったかと云えば、「一人の郷士」に「20人の家人」が居たとして、「150人の郷士」が集まったと云う事に成る。
    前段でも論じたが、この「伊勢紀州域」は、奈良期からの悠久の歴史を持ち、「遷宮のお膝元」として「不倫」で保護されていた事もあって、「争い」は少なく、「郷士衆」も少ないのである。
    他国の平均が500強と論じたが、それから観ると少ない伊勢紀州域ではほとんどの「郷士衆」が参加した事に成る。

    それに、元は「平家家人」であった「元武士の者」等が「農兵」として参加した数が一千とすると、一郷士の下に6人が加勢している事に成る。
    「郷士」も「農業の環境下」にあって、「青木氏に依る殖産」に中心と成って従事していたのであるから、「農兵と成る6人」は、「村の農民」の戸主半数が参加した事に成る。
    「農兵の村の農民」は「村を護る事」から全員が加勢する事は出来ない。

    この「二つの吟味」から、伊勢南域と紀州域とすると、要するに、“「総掛かり」”であった事に成る。
    これに、「伊勢シンジケート」が伊勢紀州域から非常事態として集合した「常時戦闘要員の一千戦力」とすると、「伊勢シンジケート」は、信濃域を除いて、「7軍団」居たとされている。
    各地に配置している「一軍団」に「200人から250人のプロの戦闘員」(伊賀忍者の様な集団)が居たと成っているので、5軍団/7軍団の相当で集合した事に成る。
    「留守居」を置いて「伊勢紀州域の全軍団」がこの時とばかりに集合した事に成る。

    恐らくは、最近、「郷士の家」から発見された手紙に依れば、「信濃域」からも合力している事は確実である。

    (注釈 これらの「物資補給」や「シンジケートの特別手当」などの「賄い」は「青木氏の資力」からの援護に依る。)

    「青木氏」は、片手に「15地域の商業組合の推進」、一方ではこれを覆す程の事が起こったのだが、これを観ると、「500万両と云われる総力」を掛けた事に成る。
    「伊勢水軍」と「熊野水軍」が海部域から牽制して動いたと成っている。
    何れ「一揆掃討軍」とすれば、山岳域と海部域から挟みこまれれば、補給は陸部だけと成る。
    この「陸部の補給」だけでは1万と云われる具の補給は困難で、それを「ゲリラ戦」に持ち込まれれば、「戦費」は嵩み、「掃討」と云う事までは行かないだろう。

    況してや、例え、「一万弱の討伐軍」であったとされているが、“「戦力」”としては「平家落人の一騎当千」から“一揆側の方”が遥かに上であったと観られる。
    (戦い場所を選ば無くてはならない程に切迫し、「河原の野戦」に持ち込もうとしたと書かれている。)
    この事から、秀長の家臣の「湊の住人吉川の戦力」では到底力の及ぶところでは無かったのであって、それだけに出来るだけ「直接的な戦い」を避け,何とか時間を掛けたと観られる。
    そこで、秀吉より督促され焦りを見せた秀長が援軍を出し無理押しを強いたのである。
    それだけに、記録に遺されている様に、重臣とその家臣が多く討ち死にすると云う「天正末期の一揆」にしては前代未聞の“豊臣側に大きな犠牲”が出した事に成っている。

    これを観た「青木氏」は、当然に長期戦になれば遠征側の秀長側に「戦費に対する心配」が必ず起こるとして、この市場で「材木の高騰」を故意的に起こさせて置いて、紙屋が「材木の販売」を持ちかけたと観られる。
    「一揆掃討の作戦中」でありながら、その時に何と膨大な”「数万本(2万本)もの材木」”を売れば、罰せられることぐらいは誰でも判る筈なのに、売却したのである。

    これはどう見てもおかしいし、「掃討軍の戦費」であって明らかに「青木氏が採った戦略」であった事が判る。
    これに載った「秀長と吉川」は、結局は、この件が発覚し秀吉に罰せられたのである。
    こうなれば、「一揆処の話」では無い。

    そもそも、秀長側は、この仮称「北山一揆」の「上記した様な経歴と背景」は既に知っていた筈で、有名な事である以上知ら無い訳は無い。
    何故ならば、上段で論じた様に、この様な事は、既に「秀吉」は「青木氏」との間で「伊勢長嶋の戦い」でも経験しているのであるし、「信雄の丸山城建設の資材暴騰と消失」を目の当たりに経験している事でもある。
    未だ、35年前の話でもある。そう忘れる程の昔では無い。

    それだけに「持久戦」に成る事は承知して居た事で「戦費」が気に成っていたし、「犠牲」も普通の「一揆の範囲」では無い事ぐらいは判って居た筈である。
    秀長は浅野氏の前の紀州領主である。知り過ぎていた筈である。
    そして、この地域が「伊勢青木氏の遠祖地」で「関連地域」である事も重々承知していた筈である。
    背後には「伊勢青木氏」が居る事ぐらいは知っていた筈である。

    同じように「一揆側」にも「戦費の問題」が発生している。
    然し、これを誰かが背後で援護している事ぐらいは判る。だから一揆は続く。
    又、「相当な財力」を持った者である事も判るし、それを出来るのは「地権者」でもあるし、「伊勢青木氏」である事も当然に判る。
    そうすると、ここで“何が起こるか”は予想できた筈で、上記した様に、況して、「青木氏」が持つ「伊勢シンジケート」が動くと「山岳部の補給路」は塞がれる事で犠牲は続出する事ぐらいは判って居た事に成る。
    又、「海部域」も「青木氏」は「二つの水軍」を持っている事ぐらいは判っていた筈で、補給路に問題出る事も判る。
    だから、「一揆側」を積極的には討伐せずに「九州征伐」に出て一時放置したのであって、秀吉の再三の催促に「三度の遠征」と成り、一時は「首謀者の犠牲」で納まったかの様に観えた。

    ところが、放置して「根本的な掃討」としなかった事から、「小競り合い」は永遠と続き、結局は再び大きく成った四度目の1614年と1615年の「紀州一揆」までの「紀州討伐の結果」は長引いて仕舞ったのである。
    これは直接戦に成った処か、前哨戦に成った処からの何処からの状況で観るかに依るが、最大で27年 最小で11年と成る。

    「青木氏側」から観れば、「小競り合い」が続く範囲で治められていたが、結局は、“長引かせてしまった”と観る方が正しいと観られる。
    それは次ぎの年譜でも判る。

    「青木氏の商業年譜」では次ぎの様に成っている。

    1614年に「伊勢衆談合」。
    1615年に「伊勢衆動員」。
    1615年に「堺摂津盛況」。
    1619年に「松阪会談」。
    1620年に「伊勢藤氏談合」。

    上記でも論じたが、“1614年に「伊勢衆談合」”でも判る様に、紀州で起こる先の「三つの一揆」でも判る様に、何とか引き伸ばし「一揆不問」の様な形を採ったと思われたが、結局は、又、「一揆」が起こった事に対してどうするかを一堂に集まって「談合」を進めている。
    当然に、これは「商業組合と一揆」に付いてどうするかを議論したと観られる。
    そして、「一揆の事態」が「小競り合い]から更に拡大した。
    そこで、「商業組合」にも直接影響すると観られた事から、1615年に「伊勢衆動員」が行われた。

    「天正の一揆」で採った「長引かせる戦略」に対して、1614年の「談合の予想」に反して、「商業組合」と「一揆」に、特に「商業組合」の方に何か「事態悪化」が起こったと観られる。
    そこで、兎にも角にも、これらの「一揆」も過激さを増して来た事から、早急に解決する必要に迫られ、「伊勢紀州の伊勢衆の郷士」に「南勢南紀の処置」に、“より援護をする様に”と直接関わる様に督促したのである。
    この時に、「一揆」を主導していた首謀者に対し、「伊勢郷士衆」を動かして不満と成っていた検地に依って起こった「環境悪化」に対して、「青木氏」としては「生活環境の改善」などの事を約束しながら「周囲環境」を整えて置いて、「事態の収拾」と「首謀者自首」を説得したと観られる
    従って、当然に相手側にも引くように圧力を掛ける為に、奥の手の「伊勢シンジケート」も積極的に強力に動かしたのである。
    これで動く事は間違いは無いと観て採った。

    それは「南北朝の足利軍に執った2万の飢餓作戦」でも「戦歴史実」が遺っている様に、この「掃討軍」がどう成るかは直ぐに判る。
    それを実行したのは当にこの「伊勢シンジケート」である。経験者である。
    これで、相手側も、これ(伊勢シンジケート)が動く事は、「補給路」を断たれ、「ゲリラ戦」に持ち込まれるし、事は収拾が着かず「戦費」は莫大に成り、自滅する事は充分に判る。

    つまり、“「伊勢は総力」を上げた“と云う事を相手に示したのである。

    これに依って、“1615年に「堺摂津盛況」“にもある様に、上記でも論じた様に、それが「青木氏の拠点」の「伊勢松阪」では無く、紀州の下津港等で「物資補給」なども行っていた「水軍」など紀州各地に配置して紀州域を管轄する拠点の「堺摂津」で“「盛況」”が起こった事に成ったのである。
    これで「一揆」が終結して、懸念していた「商業組合」にも方向性が戻った事から、再び“「盛況」“を戻した事に成る。

    「平家落人の郷士衆(紀伊山脈の山岳部)」の「一揆場所」と、「門徒衆」が中心と成った日高、有田,名草の郡域の平地域での「一揆場所」に参加していた「門徒衆」等と、これを支援していた「北紀州域」と「北伊勢域」をも含む「伊勢と紀州の全郷士衆」が関わった戦いであった。

    これで上記で論じた様に、「伊勢の商業組合」の「射和域」で生き延びて行くことが本格的に出来る様に成ったのである。

    この間の1603年から1615年まで「上記の戦略」で「紀州の一連の一揆」は何とか下火にさせられたので、「商業組合の推進」は「頼宣入城までの約束」を護る為に進められて行った。

    この「紀州一連」の一揆を無理に区切るとすれば、「計五度の一揆」は、天正期から観ると、何と「31年間と云う期間」を経たのである。

    これは当に“「青木氏の戦略」”であって、結局は、「1619年の頼宣入城」までの直前まで燻り続けたが、「戦略の目的通り」に結局はぎりぎり解決させて、「地域の民」を護り、「最低限の犠牲」で終わらせて、“「商業組合の推進」に本腰を入れられる結果と成った“のである。

    これで「豊臣―徳川の決着」も就き、「家康の目論見」の通りに「筋書き」は動き始めたのである。

    (注釈 この31年の間には、最終局面で、一揆側に「利害に違い」の出た「海側の一揆一団」が調略に会い、「裏切り行為」をし、それが「山岳部の一揆一団」に被害が及ばない様に、この事態を納める為に「山岳部側の一揆側の首謀者」が自首する形で処罰され終わる。
    この時、「一揆の門徒衆」たちは伊勢松阪に救い出す。この時に海側の集団に参加した漁民らが騙し内に会い大きな犠牲を負った。
    然し、「青木氏」の力の及ぶ地域の「全郷士の門徒衆」を保護する為に一時伊勢に移動させて護った。
    この護った「門徒衆の一部」は、頑固に1619年直前まで燻り続けたが、結局は「商業組合の効果」と、当に上記した「頼宣の地士制度」で収まったのである。

    この様に、既に記録にもある様に、根本的には「戦い方」が普通の「反抗勢力の一揆」とは異なっていたのである。

    「伊勢青木氏」は「正式な商業記録」や「郷士家に遺る資料」に遺こされている程に「経済的背景」と成っているのはこの事から来ているのである。

    ところが、これから「伊勢青木氏の関わった地域」には、不思議にも「一揆」としては「62年の間」に「一揆・事件」が起こっていないのである。
    “何故なのか”である。

    それは、「伊勢青木氏」が始めた室町期末期からの「商業組合の効果」が徐々に出始め、「一揆」に関わった「紀州と伊勢の全郷士衆」が、この「商業組合」に参加して、この「商い」に依って潤い始め、これに伴って「殖産」と「興業」が進み、強いては「農民」を始めとして「庶民」までその「潤い」が浸透して行ったのである。
    「青木氏」と深い関係を持っている「伊勢郷士衆」が、故郷に戻った「紀州全域の郷士衆」にこの「商業組合」に参加する様に約束通りに働きかけたと観られる。

    この事、即ち、「商業組合の効果」を「一揆首謀者」に「伊勢郷士衆」は苦汁を呑んで説得したと観られる。当初は「収拾の提案」が画期的であった事からなかなか納得されず、一部の「門徒衆」は1619年まで燻ったが、他の者が潤い始めたのを観て、「頼宣」も「地士制度」でこれを支援していることを観て、参加し始めたので「一揆」は遂に収束したのである。)

    「伊勢郷士の家」に「紀州郷士との手紙のやり取り」の記録が遺されている事から先ず間違いは無い。

    「頼宣入城前」の前には、この様に、「青木氏の存続の成否」が掛かる事が直前で起こり、上記の「青木氏の大決断」の「取り組み」で、解決して、この結果として、何とか「7年と云う短期間」で「商業組合」は進み「効果」を出し始めたのである。

    前段でも論じたが、取り分け、当時、「国外不出の慣例」のあった「米栽培の新技術」を一族の者を特別に派遣して一族の「信濃青木氏」から学び、それを「伊勢紀州域」に広め,「青木氏の投資」の下で研究して、日本で最初に「新品種」と「早場米」を作り出して、これを「商業組合と提携商人のシステム」を活用して「15地域」に広め、年間を通じて農民は潤う事に成った。

    (国外不出の「信濃栽培法の習得」は、その前提に伊勢での「品種改良と早場米の研究」があって、その成果を戻す事で了解が得られたと観られる。)

    又、「紙箱」や「紙用紙」等の「紙製品の殖産と興業」を進めた事に依って、家内工業的に副職として農民は元より庶民までも広く潤う事に成った。
    例えば、前段でも論じたが、「伊勢青木氏」は同族の「信濃青木氏」から進んだ「養蚕や米栽培の技術」を習得して、これを「商業組合の組織」に結び付けた事に依って「15全域」に広まった原因となったのである。
    然し、これを広めるだけでは、この“「潤い」”に繋がらないのは必定で、“「商いの組織」”に結び付ける事があって潤うものである。
    更にはこれでもダメであり、これではその「潤い」は偏る。
    そこで、この「偏り方」を取り除いてこそ,そこに「真の潤い」と「民の安寧」が生まれるのである。
    それがこの「青木氏の目的」とする「商業組合の(イ)(ロ)(ハ)」であって、この目的とする「商業組合の効果」で「民の信頼」が生まれ「底堅い商い」の為に急激に頒布して行ったのである。

    その為に、「青木氏の提案」と「頼宣の事前調査」でと、その後の「商業組合」と合わせて行った「頼宣の地士制度」で「一揆」が起こら無く成る策が、この「商業組合」にある事を頼宣はより深く知ったのである。

    (注釈 この「頼宣からの伝統」が「育て親の青木氏」から「吉宗」は学び「享保の改革」へと結びつく事に成ったのである。「吉宗」が将軍に成った背景はここに在ったと筆者は観ている。
    だから、江戸に同行し、且つ、「紀州藩の勘定方指導の立場」もここに在ったと観ている。)

    つまり、「1619年頼宣入城」より「談合」が進められ、これを契機に“「家康の暗黙の了解」”から“「頼宣の周知の了解」”へと変化して行ったのである。

    その証拠に、“1615年の「堺摂津盛況」”とする「商業記録の年譜」は、何事に付けても、この時の「経済活動の活況ぶり」を表していると観られる。
    因みに、前段でも論じているが、「事前調査」の後、1619年に「頼宣入城」に伴い「伊勢青木氏」は「紀州藩の勘定方指導の役」をも同時に務めたのはこの事から来ている。
    「青木氏と紀州藩」は、敢えて、当時の世間で「禁策」として考えられていた「政経分離策」を採らずに、「政経合併策」を敢えて採ったのである。

    さて、そこで視点を変えてみる事にする。
    これは、「商業組合」を押し通すと、必ず、「為政者」との対立は生まれる事は必定で、地域救済策として、「危険を承知して採った策」で有る以上は、この「政経合併策」は「合理的手法」であった事に成る。
    「デフレーション策」と「インフレーション策」の中間の一種の「リフレーション策」に近い策を採った事に成る。
    多分、「商業システム」としては、「イノベーション策」と成るだろう。

    (注釈 その後も紀州藩では代々この手法を取り続けた。「青木氏」は幕末の「紀州藩の財政立て直し」にも「伊勢郷氏」として「勘定方指導役」を務めた。)

    この時、前段でも論じたが、「伊勢域と紀州域の秀郷流青木氏」とそれに関わる「伊勢郷士衆」「伊賀郷士衆」から「紀州郷士衆」までを含めて家臣に「丸抱え」(幕府から謀反の嫌疑)したのもこの時である。
    この新しい「リフレーション策」を実行する為に大きく観れば「青木氏」に関わる一族を「丸抱え」したともとれる。筆者はそう見ている。

    この様に「伝統シリーズ」の前段等で論じた「個々の要素」に付いての「事柄の関係性」を一つにしてまとめるのは「至難の業」ではあるが、ここに全て通じているのである。

    筆者は、上記したが、そこで「1615年までの伊勢―紀州域で起こった一揆」の裏には、先ず最初の「一揆掃討」が「掃討軍の賄賂問題」で潰れたのは、「二つの伊勢青木氏の裏工作」では無かったかと観ていると論じた。

    前段で論じた様に、これは当に「信長の伊勢攻め」の「信雄の丸山城消失の事件」と同じ手口であるが、「信長の織田―秀吉の豊臣」とは、何と二度に渡り、“「青木氏」の「商い」“に依る同じ手口」に載せられていた事に成る。これは先ず間違いは無いだろう。

    そこで、当然に、下記に論じる様に「商業組合」を推し進め、それと「提携商人を作る事」に対して、これは「リフレーション策」の「イノベーション」と成る(イ)(ロ)(ハ)に繋がる事を述べていた事に成る。

    これを事前に説明をした上で、1603年頃から“「影の要請」(暗黙の了解)”が、「家康」から受けていたとする事は、影で「15地域の各藩主」は、この「噂の情報」は耳に入っていた事である。
    「15地域の藩主」は“「手の出し様」が無かった“が「本音」であったと観られる。
    結局は長く続いていた「一揆」が納まり、「納まった要因」が、この「商業組合」に在ったと「15地域の藩主」は周知した上で、「1619年頼宣入城」で「暗黙」から少し進んで“「商業組合衆知」”と成ったのである。
    全国に先駆けて紀州藩は、これらの事に関連した藩政の“「地士制度」(下記)”と云うものを敷いた事でも証明は充分である。
    これを遣られては、「青木氏の地権力と地域力と不倫権」に、この「商業組合と提携商人策」が加われば、最早、「手の出し様のレベル」では無く、黙認以外には無い筈である。

    この様に、「商業組合を創設した経済力」では、例えば、「伊勢青木氏」は「500万両以上」と云われていた事から考えると、「為政者の勢力」は、たった1/100にも過ぎない事に成る。
    それに度々効果を挙げる「伊勢と信濃のシンジケート」を独自に持っているのであるし、「15地域」の「同族の結束」があり、「青木氏族との横の関係」が密であるとすると、歯を剥いて戦う馬鹿はいないであろう。
    故に、7年と云う“「短期間」“で創設されたのである。

    況して、「室町期末期の戦乱」で「経済的な余裕」は豪族大名には無かったし、むしろ、「重税」で「農民」や地域の「郷士衆」を苦しめていた。
    下手をすると、「一揆」である。
    「一揆」が頻繁に起これば「治政の責任」を幕府から問われる。
    つまり、更には、{藩の財政}を維持するには「青木氏の様な豪商」に借金をせねばならない「絶対的環境」にあって、文句を附ける等の事は到底出来なかった筈である。
    どちらかと云うと、“体制にそぐわないとか、どうのこう“のではなく、兎も角も、何でも好いから「商業組合」で潤って貰って「地域の安定」と「地権から来る税の収入増」を期待するのが「当面の策」であった筈である。

    (注釈 結局は、「権勢」を無理に押し出せば「山内氏の様な事件」に成り、「治政」に怨念が遺る結果と成る。)

    では、“この「15地域」ではどうなっていたのか”と云うと、話しを戻して、そこで、特記すべき地域がある。
    それは先ず、「青木村」の「福岡 4」には、この「要素」が多分に在った。
    領民には、取り分け「商業組合」「提携商人」には深い理解を示し、安定した治政を施した代表的な地域である。
    所謂、「模範的要素」を持っていたのである。
    筑前黒田藩は「如水の軍師」の家筋で、「質素倹約策」「柔軟対応策」を「治政の根幹」に置いていた事、況して、前段でも論じている様に、「近江佐々木氏の支流末裔」で「近江青木氏」とは縁籍関係にあって、更には「黒田氏」は、伊勢神宮の「神職の御師の立場」にもあって「伊勢青木氏」とも「浅からぬ関係」を保持していた。

    (注釈 如水の父の一族末裔は、「二足の草鞋策」を敷いた家柄であったし、「伊勢シンジケート」とも繋がっていた。)

    その事から「摂津店」とも繋がりを持っていて、遠からず“「青木氏族」とも云える縁籍関係”にあった。
    況して、この縁籍関係から「日向青木氏」は、「黒田藩の傭兵軍団(陸海に渡る旗本に近い黒田藩常用傭兵軍団)」を務めていた。

    (注釈 「日向青木氏」は「日向肝付氏」の血筋を持つ「伊勢青木氏京綱」の兄弟末裔である。)

    然し乍ら、「定住地名」が、「江戸期初期の氏姓令の禁令」により、これに従った「筑前」には「青木氏外」の「姓族の青木姓」には、「青城や青樹」(「商業組合から関係族」と観られる。)などに名乗り変える事を命じた事から多いのである。
    従って、筑前には必ずしも「青木村」を使っていない村もある。
    然し又、明治3年と8年の苗字令でも「青木村」(青木氏の「職能の関係族」と観られる。)を付けた「村 3」も存在していた。

    正規には、本来は無いが、「日向青木氏の傭兵軍団」が、江戸時代には「黒田藩の常用傭兵軍団」として働いた事から、その「事務所的な土地、又は館屋敷」に「青木村 1」を付けた事が判って居る。
    この黒田藩は「商業組合 提携商人」には「積極的な治政」を実施した。
    この様に、「黒田氏」は「山内氏」とは「真逆の施政」を敷いた事でも特記に値するのである。

    従って、「遠い九州の頒布」には、7年の間に「商業組合の頒布」が難しい筈であるが、上記の様な事から、本来は「準村扱い」としては、「福岡 1」と成る状況にあったのである。

    この様に、この「109村」の中には、その“「歴史的な由緒」”を充分に検証して判断する必要があって、この様な判別が難しい「青木村」もあるが、結論としては明確に次の事が云える。

    “上記の「推測の20地域」≒「一揆の21地域」とほぼ一致する“に対して、この「青木村 23地域の村」を考察すると、上記の関係式は、次ぎの様に成る。

    「推測の20地域」≒「一揆の21地域」≒「青木村の23地域」

    以上の関係式が成立する。

    以上で、ほぼ一致する事が云え、これで上記の「5地域」と「6地域差」は論じる事は出来る。

    つまり、従って、「青木村」=「青木氏」=「提携商人」と云う完全定義の上に成り立っていた事が出来る。
    そこで、この“「青木村」”を定義の一つとして据えて本論を研究していた。

    然し、その“「青木村」”には、下記に示す様に、重要な「二つの定義外域」があるのである。
    「定義外」としても、「青木氏」に執っては“「氏の特徴を示す伝統」”であるからで、これを度外視出来ないのである。

    定義外域−A

    そもそも、「伝統シリーズ」や「他のテーマ」の論文でも論じている様に、「青木氏の定住地」の基と成る“「青木村」”が在りながら、然し、その「青木村」に「青木氏」が正規に定住しない地域があるのである。
    所謂、この「青木村」に永住定住せずに、「青木村」=「青木氏」=「提携商人」と云う定義の下に、「本領に戻る制度」を持っていた地域に住した「青木氏」が居て、そこに「商人の青木氏」か「提携商人」が在ると云うことである。
    つまり、「準定住地」と云える地域での「別の商人」が在ると云う事である。

    例えば、これに相当する地域とすれば、「肥前−筑前」、「阿波−淡路」、「広域陸奥」、(「紀州」−「伊勢」)の「3地域」などがある。

    但し、「紀州北部の有田区域の「青木村」には、この「青木氏」は最終的に南北朝後に戻らなかった。
    前段で論じた「近江秀郷流脩行系青木氏」で、「南北朝の戦い」で、「青木氏氏是」に従わずにこの「青木氏」は意見が「交戦主戦派」と「消極的派」の二派に分かれ、「青木氏氏是」を破った「主戦派」が敗退して、「讃岐藤氏秀郷流青木氏」を頼って四国に逃避すると云う事が起こった経歴があって、「紀州伊勢の青木村」の一村内でありながらも、「有田の青木村」を捨てたのである。
    然し、一方、「紀州南部域」の「青木村」は、旧来より「青木氏の遠祖地」としてあった事から、「伊勢域」として定義している。

    定義外域−B

    もう一つは、「青木氏」と何らかの関係を持った“「縁者関係」”で、正規の制度に則って「青木氏」を名乗って、後に「準定住地の青木村」の外側の「外郭域」に村を形成して永住した「商人の青木氏」が多く在る。
    これは「否定住地」ではあるが、「職能集団の制度」で「青木氏」を名乗ることを許された「商人の青木氏」が在る。(第三青木氏とは別)
    これは「伝統シリーズ」等でも論じて来た「神明社等の各種の職能集団の差配頭」や、土地の「郷士衆を差配する郷士頭」や、「各地域に出店している商人の差配頭」等は「青木氏」を名乗る事を許可する事を定めていた。
    この中には許可だけでは無く「女系で繋ぐ事」もあって「青木氏組織」を固めていた。
    これらの「差配頭の青木氏」が、その「職能の立場」で「各種の商人」と成っていて、これが「商業組合」を編成してこれらが「経済的背景」と成っていた。

    例えば、これも相当地域とすれば、「安芸−蝦夷」、「讃岐−伊予」、「筑前−筑後」,(「紀州−伊勢」)などの「3地域」がある。

    但し、「紀州と伊勢域」は、上記の「定義と定義外」の2つの何れにも存在して居るので定義の範囲で論じる。
    それだけにこの「紀州と伊勢域」は一つに成って「全ての面」で体制が固まっていた。

    以上の二つの定義外域のAとBは、合わせて結局は「地域差の6域」と成る。

    この定義外域ABの「6域」が、「推測5地域≒地域差6地域」と成っているのである。

    つまりは、「推測の20地域」≒「一揆の21地域」≒「青木村の23地域」
    以上の関係式が成り立つ。

    「推測の20地域」≒「一揆の21地域」)とほぼ一致するとして、故に、上記の「提携商人」で観ると「15地域」、「一揆」で観ると「21地域」と成るとすると、間違いなく「青木氏」は、「提携商人」と共に「経済的背景」として「民の側」に立ち動いていた事を示す事に成る。
    「青木氏」が「二足の草鞋策」を敷いた平安期初期から明治期まで一貫して護り通した「定型の生き様」であり、“「定型の伝統」”なのである。

    この「民」を中心とする”「定型の生き様」と「定型の伝統」”があったからこそ、稀に見る「大きな氏」として、「大きな伝統」を持つ「特異な氏」として、一千有余年を生き遺れたのである。

    これは、そもそも「一種の青木氏が存在し得た定型パターン」と云って良いものであった。
    況や、この「定型パターン」は、「二つの青木氏」がより力を発揮出来る態勢でもあった。
    ここでは、この様な要素の“「商人」”に焦点を当ている。

    「15地域」の「全ての地域」のこの「定型パタンの商人集団」との関係を論じるのは難しいので、「江戸期に観られる定型パターン」の「伊勢の射和商人」を例に次段の下記に取り上げて論じるが、上記の地域でも同じ様に働いていたのである。(何時か詳しく論じる事とする。)

    恐らくは、前段でも論じたが、「伊勢の二つの青木氏」が、江戸初期に「徳川氏との関係」から伊勢で始めた「伊勢松阪の商人組合」(会合衆から新組織を発展)を「原点」として、上記の各地域の「青木氏」にもこの「新しい組織形態」を作り上げた。

    「推測の20地域」≒「一揆の21地域」≒「青木村の23地域」の関係式で、”「7年の短期間」”で広めたと観られる。

    前段で論じた様に、むしろ“広めた”と云うよりは、(「青木氏の形態維持」と云うよりは)、「新しい経済機構の形態維持発展」の為として、「青木氏発案」に依るものではあるが、“「徳川氏の指導要請」(協力要請)”が基盤にあったと観られる。
    その様に、資料から読み取れる。

    この“「徳川氏の指導要請」(協力要請)があった“とした事に付いては、下記で論じるが、これは考えられない程の「画期的な事」であって、「青木氏」に遺されている資料から読み取ると、この資料は、「紀州徳川氏からの手紙」である事から考えると、「紀州藩との内談」で進めたと考えられる。
    つまり,「内談」とは云え、「家臣と成った伊勢秀郷流青木氏等」と「商業組合」を松阪で推進する「賜姓族青木氏」の“一族内々の打ち合わせの形”に成ったと観られる。
    この「1619年の入城予定」の「頼宣」は、事が事だけに「家康からの内諾」を得ていた筈である。
    故に、数年も前の早くから「事前調査」や「地域査定等」を行い、入城後は直ちにこれに関連した「藩政の地士制度」の構築に掛かっている。
    「家康の了解」無くしてこれだけの事は到底無理である。

    と云うのは、何故ならば、この事は「幕府の施政の根本方針」から観て、「公的に指導要請」を出し難い内容であった。
    然し、江戸期初期から暫くして紀州藩が管轄した「伊勢紀州」は、上段でも論じたが、「室町期末期からの「著しい混乱地域」であった。
    (伊勢の多くの地域は「天皇家天領地」であった。)
    取り分け、その理由から「伊勢松阪」は、「紀州藩飛び地領」と成った。
    「地権力と地域力と提携商人」の「郷士郷氏の状況」と、「信長−秀吉の圧政」があった事から、又,「山内氏の事例」もある事から、「事前調査」を綿密に、「頼宣」は紀州と伊勢に対して行っていた。
    普通であるならば、これを解決するには、上記した様に、「信長秀吉の武力に依る強硬策」や「山内氏の様な対抗策」に頼らねば出来ない事と成る。

    この態々「事前調査」をすると云う事は、「反抗の連鎖の繰り返し」と成ると判断した事に成る。

    この「事前調査」は、「青木氏の商業年譜」から観て、「1615年の伊勢談合」があって、その後の1年後の1616年家康没があり、それから「頼宣入城1619年」があって、この1619年に、「1615年の提案」を下に行った「事前調査」を踏まえて、1619年の「松阪会談」として最終的に会談が行われているので、この1年前の1618年の間である事に成る。
    結果として「1617年」と成り、最低、“頼宣入城 「2年前」”と成る。
    この“「2年前」”に、この問題の「事前調査」が行われた事に成る。

    恐らくは、「青木氏の商業年譜」の「伊勢衆動員」(上記の一揆処置や事前調査の協力の事もあって総動員を掛けて事に当った。)はこの事も示しているのではないかと考えられる。

    1615年に「伊勢衆動員」。
    改めて、上記の「二つの事」で「事態の急激な変化」に対応して、改めて事に当たる為に「郷士衆の役割」や「日程や調査」の「家臣団との調整」「作戦調整」等などを綿密に決め計画を進めたと観られる。

    1615年に「堺摂津盛況」。
    前段で論じた様に、「紀州討伐」での「堺摂津の行動」は元より、「討伐軍の賄賂事件」で紀州産の材木などの売買利益の不当獲得(二度の討伐軍の指揮官の秀吉弟秀長と家臣の吉川氏の二人の指揮官が不正利得)で、取引は繁盛した事は盛況原因でもあるが、下記に論じる「商業組合」が動き出した事でも盛況と成った。
    既に進められていた「青木氏の提案」に対して「事前調査」に依って「最終的な紀州藩の協力体制」(1619年に「松阪会談」に向けて)などを打ち合わせたと観られる。

    つまり、「青木氏商業年譜」の年代から観て、「青木氏}から事前に知らされ提案されていた状況を、再確認する事も含めて、「紀州藩」としてそれを解決する方法が無いかとして、「事前調査」を行った。
    ところがこの直前で、紀州域全域に思わぬ「激しい一揆」が再燃し拡大した。
    この事も含めて、事前に改めて「調整談合」を行ったのではある。

    この時、既に「家康との談合」で進めていた「新しい商業組合」を「青木氏の提案」で、先ずはこの「伊勢紀州域」に模索したと観られる。

    そこで、2年前の事前に伊勢紀州の一揆等の混乱状況を調査する家臣は、これを目前に観たと考えられる。
    それが、「頼宣の事前調査」の結果で、「全域の郷士衆」を引き込んで、上記の「(イ)(ロ)(ハ)の商業組合」と組み合わせて、これと連動させる「施策」として導き出したとされるのが、紀州藩の“「地士制度」“と云うものであると考えられる。

    一つは、この紀州藩の“「地士制度」“には、他にも幾つかの施策が組み込まれていて、”「地士制度」“として前段でも論じたもので、一つは「伊勢の青木氏」等を含む全ての「郷士や郷氏」を家臣にして「官僚の中心」に据えた事であり、これを以って「紀州討伐」まであった「武士の不満問題」は解消させたのである。

    二つは、論理的には「庶民の中にあった不満問題」を解決するものとして、これに関わる「本論の青木氏の提案」(商業組合)があった事に成る。

    前段でも論じたこの”「地士制度と商業組合」”は、「武士と庶民の相互間に潜む問題」も補完する「優れもの」であって、「紀州伊勢の混乱」を見事に鎮めた「頼宣の最大の功績」と呼ばれていた。

    「伊勢紀州の秀郷流青木氏等の郷士衆」は、「紀州藩家臣」に殆ど全員据えられたが、「郷氏の賜姓族伊勢青木氏」は、「紀州藩勘定方の指導役」として「地士制度と商業組合」を推進する為に内政面から支えたのである。

    「青木氏の定住地」として資料から確認できる「15地域」、即ち、「推測の20地域」≒「一揆の21地域」≒「青木村の23地域」の関係式には、必ず、この「定型パターン」の「提携商人」の存在が観られる。

    下記に論じる“「独特の関係」(射和商人)”が出来ていた事からも充分にこの事は考えられる。

    この事は、上記の主だった「15地域」の「青木氏の定住地」に在るとすると、この「青木氏の提案」が、伊勢で効果があるとして、江戸初期の混乱期の後の施策として“「地域安定策」”を狙って、各地に「商業組合の頒布」を“暗黙(下記(イ)(ロ)(ハ)が在って公認はできない)”で容認された事に成る。

    下記に示す「江戸期初期の一揆」からも多発していた事が判り、これを「武力」で抑圧させるのでは無く、「青木氏提案に依る奇策」の「安定策」で乗り越えようとした事が良く判る。
    「紀州徳川氏」からの「伊勢青木氏の福家」に出された「数通の手紙」からそれが読み取れるが、それで無ければ、当時としては、各地にこの「商業組合の組織」が拡がる事は、体制上からはこの下記説明の(イ)(ロ)(ハ)“は全く好ましくない事”に成る。

    況して、幕府の御家人や旗本に据えられて、官僚の中心と全国各地に豪族として定住する「秀郷流青木氏」の「二つの青木氏」の地域に対して“頒布”と成ると、誰が考えても余計に危険であった事に成る。

    この時の事を物語るものとして先に例を述べて置く。
    この「複数の手紙」の中には、この“「青木氏の貢献」”に対して「天皇家」に対して紀州藩より「伊勢青木氏」に対して「格式授与の提案」をしていて、これを「青木氏」が「青木氏の氏是」に依って体よく断っている。
    その紀州徳川氏一通目の手紙には、「青木氏の貢献」に付いて、前段で論じた「射和商人」などを例に挙げて“「地域貢献」(前段の殖産と興業)“に付いて書かれている。
    そして、その後の手紙で、朝廷の「賜姓族の役処」の「紙屋院の青木氏」の管轄下にあった「絵師処」としても、自らが描いた「和歌浦と那智熊野を描いた墨絵の南画の絵」を献上する事で解決して献上している。

    天皇家に献上すると云う事はそもそも「素人の絵」は献上する事は無い。
    従って、この事から「紙屋院の紙屋」であった事から、その和紙を扱う関係上で、本職では無かったが、本職に類する程の絵師(土佐派)でもあった事を物語っている。
    口伝では、代々、「紙屋」としての義務資質に相当する「伝統的な役処」であった。

    前段でも論じたが、後に、江戸期末期に土佐に移動した「脩行系青木氏の末裔」でもあった「朝廷絵師の土佐光信」(公家系の青木氏族)に師事して江戸末期には正式に本職とした。
    この頃、「墨絵の南画」は、衰退し朝廷の中でのみ存続していた。

    この事は、「紙屋院の管轄下」としての「絵師処の朝廷絵師」に直接に「青木氏」が務めていた事が判る。
    この「近江脩行系青木氏」は「紀州有田の青木村」にその祖は住していた。

    (注釈 「南北朝の乱」に参加して敗退して移動、「末裔の光信」は、土佐村の「土佐氏の養子」として入った。)

    この為の「天皇家からの返礼」(大臣の内右大臣代書)が紀州徳川氏経由で届いている。
    この時の「複製画」と共に、この「箱入りの返礼書 二通」と「賜品の藤白墨と紫硯石」が遺されている。

    恐らくは、この「絵の献上」の意味する処は、「国策氏の賜姓族」である事の上に、“「青木氏の貢献」”を、“「朝廷」”と云う「権威の象徴」を重ねて使う事で更に権威化させて、「幕府の保守勢力」を抑え込んだと観られる。
    故に、「近江脩行系青木氏」の「土佐光信」の様に「伊勢青木氏」が「絵師処」では無いにしても、「国策氏」としての「紙屋院の伊勢青木氏」が献上する事が出来たのである。

    そこで、先ず、この「商業組合」と「提携商人」と云うものが、“幕府体制上好ましくない“としているのはどの様な事であるかを明確にする。

    本論を理解するには欠かす事の出来ない大変重要な予備知識である。

    「商業組合の内容」
    従って、この「射和商人の背景」と成っている“「伊勢衆の郷士」と「松阪商人」の関係”に付いては、他の「定住地地域の状況」を理解する上でも、是非、ここで明確にしておく必要がある。

    そもそも、その大元は、前段でも論じた様に、「1619年の頼宣入城」の前から「紀州伊勢域の門徒衆」に対して、「青木氏の説得」に応じた者等とを救済し政権から保護した。
    然し、そして、この「救済保護した門徒衆」と「伊勢郷士衆」との「連携や連帯」を興し、これで以てこの「二つの関係」(商業組合と連携商人のシステム)を発展させたものであった。

    そして、その上で彼等(反抗勢力の門徒衆)を“「政権側の圧力」(1619年まで)“から保護する為にも「青木氏」が主導して国内で初めての全く「新しい形態」の”「商業組合」“が構築された事から来ている。

    勿論、「室町期の戦乱期」から「江戸期の安定期」に入る時代に即応した態勢であった事は云うまでも無い。

    要するに、下記で詳細に論じる「一揆」(孟子論の中の漢語:ある勢力から互いに「政治的結社」をして、ある条件の下に一つに成り、我が身を護る集団の事)、即ち、要するに、本来の意味の「鎌倉期に存在した一揆」であり、これを室町期末期から江戸期初期に掛けて新たに改善を加えて創設したものである。
    この「商業組合」は、即ち、この「反抗勢力」を意味しない“「本来の一揆」”の一つの形である。
    これが出来たのは、「青木氏」ならではの事であり、「青木氏」で無ければ出来なかった事である。
    その根拠は下記で瑠々論じるが、「鎌倉期の一揆」と、「江戸初期の一揆」(商業組合)とには、そもそも大きな違いがあった。

    それは下記でも論じるが、“「鎌倉期の一揆」“は、”「階級と身分」“を股が無い「武士だけの軍事的結社」であって、この結社は、「軍事勢力と政治勢力」に対抗したものであった。

    それに比べ、「青木氏」の「江戸初期の一揆」の「青木氏の結社」(商業組合)は、この「階級」や「身分」や「氏」や「姓」や「職業」や「宗教」などの一切の「出自格」(イ)を一切取り除いた事であって、それを“「商業」(ロ)”と云う「経済的結社の自由勢力」(ハ)を使って、「軍事勢力と政治勢力」に対抗したところにあった。

    この“(イ)、(ロ)、(ハ)”が後の「徳川幕府態勢」(氏家制度と封建制度の社会)に執っては“「真逆の体制」“であった。

    「鎌倉期の一揆」には、未だこの(イ)、(ロ)、(ハ)の概念は無かった。
    「諸法度」を定めて、それまでの平安期からの“「氏家制度」”を完成させ、徹底した「身分格式」による“「封建制度」”を敷いた「格式社会」の江戸期としては、この“「商業組合の組織」“は、当に”「逆行する体制」の組織“であって、到底、江戸期としては考える事が出来ないほどの「画期的な事」であった。

    逆に「幕府」に執っては絶対に許す事が出来ない「危険極まりない組織体制」に成る。
    この組織が「力」を持つと、丁度、「明治期の維新勢力」と同じ様相を呈する事に成り得る。
    ところが、これが、江戸期初期に何と「15地域」まで広がったのである。(根拠−1)

    本来なら、これでは放置できない事で、保守派に執っては「幕末の新選組の行動」とも成る事でもあったし、丁度、「反動の象徴」の「一向一揆」が「15地域」に一機に拡がった事にも成り得るので「初期の幕府」は慌てた筈である。
    田舎の一地域の「一向一揆」でも放置しなかった幕府は、体制に影響する(イ)、(ロ)、(ハ)の「商業組合組織」が「15地域」に拡がったと成ると、絶対に放置していなかった事に成る。
    然し、黙認したのである。

    然し乍ら、この「立役者の家康」は、上記した様に、何とこれを、況や「(イ)、(ロ)、(ハ)の「商業組合」を「青木氏」に「暗黙の内」で認めたと云う事なのである。(根拠−2)
    普通で考えればあり得ない事である。

    その頃、未だ、1600年頃からの“「会合衆」”は、20年程度しか経っていない組織で、「大店の商人」(A)に限定していて、「政治勢力」(B)と結託していた組織であった。
    だが、「青木氏の商業組合」(イ)、(ロ),(ハ)は、“結社する商業組合の関係する職能者”までも含めたもので、「青木氏部の職能集団」や「末端の殖産者」(農民や庶民)までも囲い込んだのであった。(根拠−3)

    唯、違う処が実は一つあった。
    それは、「青木氏」が持つ“「シンジケート」”であった。(根拠−4)
    前段でも論じたが、この「シンジケート」は、記録から読み取ると、江戸期では「青木氏部の職能集団」に組していた。(前段の「伊賀の郷士衆」にも話が通ずる事)
    従って、「表向き」は、その主務は、「荷駄護送の職能集団」と「保守勢力」から「青木氏」を初めとして「全組合員」を護る「組合組織の警護役」であった。
    「商業組合」と成った事から「広範囲の職能部」に対する「商品の流通」と「荷駄の搬送」は活発化する。
    これ、即ち、「組合組織の警護役」無くして成り立たないであろう。

    故に、何人も持ち得ない“「シンジケート」”を持つ「青木氏以外」には無し得ない“「商業組合」”であった事も明白である。
    この「職能集団」は、仮に武力で攻撃された場合には、これを「排除する力」を組織的に充分に持ち得ていたのである。

    前段で論じた内容の様に、極めて恐れられていた。
    狙撃以外には武力で対抗してくる組織は無かった筈である。例え幕府でもある。
    その意味で、幕府と保守勢力の体制側は、“「政治的な力」”で阻止する以外には無かった。
    その為には、この遺された手段の“「政治的な力」“を阻害させる為には、推進側(頼宣と青木氏)は、上記した様に”「権威」(絵の献上などに依る「朝廷権威」と上記した様な「家康のお墨付き」)“を使ったと観られる。(根拠−5)

    周囲は、上記した様に、この「新しい商業組合」に対して、「保守的な抵抗勢力」の存在は当然に否定できない。
    ところが世の中の事は一筋縄では行かない。
    例え、「家康や紀州藩」の「暗黙の了解と要請」があったとしても、この「保守的な抵抗勢力」には公然と対処は出来ないであろう。
    先ず、聞く耳を持たないであろう。
    「商業組合の良し悪しの問題」では無く,あくまでも「目的」は「出る杭は討つの保守」なのである。
    事件等が起こって「公の問題」と成った時には、「青木氏」が勝手にやった事だと処理されるが結末だろう。
    それには、何事にも何時の世も初期には、“自らを護る強力な抑止力を持つ警護集団”が必要である。

    況して、大阪では、依然として「会合衆と云う組織」が存在して居るのである。
    この「会合衆」に執ってみれば、明らかにのこの「保守的な抵抗勢力」と云えるし、保守的な周囲も、体制に大きく違っていない「会合衆」の方が容認するであろうし、「幕府の官僚」も政治勢力と組する「会合衆」の方が何かと利得があって都合は良い筈である。
    これは、「(イ)、(ロ),(ハ)の要素」を持っている限りは、絶対に「青木氏」に執っては「公の問題」とは仕難い事に成る。

    丁度、平安期初期の「賜姓五役の国策氏」として“「紙屋院」”をしながら、暗にこれを認めていた「朝廷」と同じであり、況や「青木氏」の「二足の草鞋策」と同じあり、江戸期も「伊勢郷氏」で在って「二足の草鞋策」を続けていた事から起こった「類似現象」と云う事に成る。
    それだけにそれまでの「難しい伝統」は生きて来ている筈である。
    当に、「平安期の紙屋院」と、この「江戸期の商業組合」とは、「新しい事」、即ち、「改革」(イノベーション)に通じて同じである。
    「青木氏の本質」の「伝統」は、ここに在って、依然として遺されていた事に成る。。(根拠−6)

    とすれば、平安期にも在った様に、況や、「幕府官僚」も「保守的な抵抗勢力」と云える。
    ただ違う処は、「天皇の発言の絶対性」と「和紙と云う未開の産物の開発」に携わった事から、官僚に於ける「保守勢力の抵抗勢力の強弱」は比較すれば在った筈である。
    況してや、官僚より数段上位の立場と格式にあった「賜姓五役の国策氏」であった事から大義が青木氏側に在り、当然の事として官僚は黙る事しか無かった事に成る。
    「違う処」とすれば、それは「平安期の社会性の強弱の差」にあった。(根拠−7)

    江戸期は、「会合衆と幕府官僚」が最大の「保守的な抵抗勢力」であった筈である。
    唯、「幕府官僚」に付いては、前段でも論じた様に、官僚の中は「秀郷流青木氏」等が「御家人と上位の旗本衆」で占めていた。
    中々、他の官僚や大名は、大拡げに問題視する事は出来なかったであろう。
    この「歯止め」は効いていたかも知れない。(根拠−9)

    少なくとも、「紀州藩」に於いては、前段の通り、「藩主頼宣」は「伊勢紀州の秀郷流青木氏と伊賀の郷士衆」と、「青木氏が導いた門徒衆」(「仕官」と「商い」に別れた)を「まる抱え」で家臣にして、それを公の形の“「地士制度」”に採用しているのであるから、これが「謀反」と疑われ位であった事から、「紀州藩の官僚」からの「抵抗勢力」は無かったと観られる。
    むしろ、「紀州藩の官僚」は、別の「二つの青木氏の同族同門」の一族が行っている事である以上は、裏で「推進していた行動」を採っていた事は間違いは無い筈である。(根拠−8)
    況して、“「紀州藩勘定方指導」”と云う立場にあったとすれば、「抵抗」どころの話では無く「謀反」と観られるのが落ちであった。

    その証拠に、“「地士制度」”と関連付けた「吉宗の伊勢親代わり」、「紀州藩の勘定方指導役」、「享保改革の立役者」であったのであるから、とすると、ただ一人“「光国の抵抗勢力」と「江戸商人」”であったと考えられる。
    「頼宣謀反の嫌疑」は、「秀郷流青木氏の家臣丸抱え」だけでは無く、筆者は、この各地の「青木氏の定住地」に広がる“「商業組合」”にも確実にあったと観ている。

    然し、「家康の内示」と「頼宣の要請」が陰にあって、これを理由に「直接の攻撃」は出来なかったのであったと観ている。
    これでは「青木氏」も公的に、“「家康」や「紀州藩のお墨付き」がある”とは言い難い事に成る。
    従って、上記した地域には、少なくとも室町期末期からの各地で起こった「顕如の煽動」による「門徒衆の動乱」から来る“「門徒衆」”の事とか、「青木氏と連携を図っていた郷士衆」の事とかの同じ様な“「事件」と「連携関係」“が、各地(「15地域」)の「青木氏定住地」で江戸初期にはあった事が認められる。

    後は、「地域環境に持つ抵抗勢力」であった。
    「商業組合」を浸透させるには、その土壌と成る「地域環境の整備」が必要であって、その先ずやらねばならないのは、「地域の混乱の平癒」であった筈である。
    「伊勢紀州」は、上記の通り、「地域の混乱」は極めていた。
    それ(「地域の混乱」)が、取り分け、“伊勢紀州人は独自性が強い”と云われている原因となっていた“「門徒衆」”であると論じている。

    つまり、判り易く云い切れば、先ずは「青木氏の採った采配」は、「反動性の強い門徒衆」をこの「商業組合」に抱え込んだと云う事なのである。
    明らかに紀州藩に執っては、この事は「体制の弊害処の話」では無く、“「地士制度」”に伴う重要な施策であった筈である。
    場合に依っては、「青木氏の商業組合の(イ)(ロ)(ハ)の反体制性」については、確証は発見されないが、この“「地士制度」の中の「一環政策」”と云う事にして、「幕府の追求」を「頼宣謀反の範囲」で留めてこれを逃れたとも考えられる。

    この「門徒衆」を抱え込んで「地域の混乱を治めた策」としての「商業組合」を創設した形を採り追求をかわしたともとれる。

    唯、一つこの“「地士制度」”に付いて、それら上記で論じた様な事を証明する、或は、物語る「意味合い」がこの呼称に持っている事が判る。

    それは、「地」と「士」と[制度」の字句の意味である。
    先ず、紀州藩の官僚は、“「制度」”と云う風に言葉を選んだことである。
    普通は「策」であろう。
    「制度」と成れば、可成り広域の範囲での複数の政策から成り立つ組織制度で、その体制の根幹を指し示す言葉と成る。
    例えば、「封建制度」と云う風に、然し、「武家諸法度」とかに成れば「策」であり、つまり、政策の範囲である。
    この“「地士制度」”は、そもそも紀州藩での位置づけは「政策」であって、「制度」での定義では必ずしも無い。
    然し、あくまでも“「制度」“と呼称しているのである。
    何かこれに「特別な思惑」が介在している事は明明白白である。

    次に、もっと不思議な事は、「地」と「士」の言葉の使い方である。
    「地」は「地域」「土地」を意味する「環境域の言葉」である。
    「士」は「武士階級」を指し示す「身分域の言葉」である。
    つまり、この「地士」は、“環境域と身分域に付いての制度だ”と云っている事に成る。
    然し、紀州藩は、この「環境域と身分域の事」に付いて全く触れていない。
    “触れてない“と云うよりは、そもそも限定して確定してはっきりとさせていないのである。
    なんの説明も何もない。
    あるのは「地士制度」と云う政策の「言葉の存在」だけである。

    ところがそれには、この「地士制度」には「大きな矛盾」が潜んでいた。
    「環境域と身分域」に付いては、江戸幕府(1600年 征夷大将軍)に「士農工商」の制度(1603年)があって、その詳細を「武家諸法度」(1615年)等で決めている。
    これでは、頼宣(1619年)ははっきりとさせられないであろう。
    況して、この「地士制度」には(イ)(ロ)(ハ)が在る。

    筆者は、上記の論より、これは、先ず「地」は「紀州藩領」、そして「士」は「その紀州藩の環境」の中にいる「定住する武士」、即ち、「郷士、郷氏」を指していると観ている。
    そうすると、この「地士制度」の「士」が、幕府では、そもそも“「士」”は、孔子論に沿って、本来は“定義上は「官僚」”を意味している。(孔子論の定義である。)
    ここには、「郷士 郷氏」と「官僚」との「格式差」、「言葉」の定義の異議が起こっていた。
    ところが、正しくは「士]は、元来、”「領地を持つ大夫」の下で働く職能者”と云う定義であって、そこで、日本の慣習に充てると、この「中国の周時代の大夫階級」に相当するのが「地域の地権」を有していた「郷氏」に当たる。
    そして、この「郷氏」のその下で働く「家人階級」を「士」と云う事に成る。

    そもそも、「士」が「武士域」を指し示す様に成ったのは、「江戸期の前半」(1630年〜1640年頃)であって、未だ、この時期までは”「官僚」に従事する者”だけを指し示していたのである。

    (注釈 この定義は孔子論に基づいているが、日本では平安時代にこの職能の職域の者を「部人」と呼んでいた。)

    (注釈 決して、「幕府]が云うのは、定義上の「地権」を持つ土地の「郷士や郷氏」を差し示すものでは無かった。下剋上で「氏族を含む対象族」が激減した事に依っている。
    中国の周では、「小領主の大夫階級]が「官僚]と成り、その下に「士」が所属して位置していたが、これを無視して「士」が「官僚」と無理に位置付けたのである。)

    そもそも、江戸期では定義を「官僚」としなければ成らない理由があった。
    「姓族」の「士」クラスが台頭して武人(具人)に成り、逆に「氏族の郷氏」が衰退して激減したので、この「士族」(姓族)と呼ばれる者が大半を占めた事から起こったのである。

    (注釈 日本の最初の姓族は室町期初期の安芸の海部姓が最初と観られている。海産物等を作る職能人であった。)

    それを「士」を幕府が定めていない階級の「郷士郷氏の領域」まで、「紀州藩の地士制度」で定めようとしたのであるから、四角四面の「保守派」は黙って居られないであろう。
    「保守派の抵抗」は、この「商業組合(イ)(ロ)(ハ)と、「地士制度」の「士」に付いても追及に及んだのは間違いは無い事である。
    この事からも「謀反の嫌疑」も充分に掛けられたと考えられる。

    前段で論じた「紀州藩の家臣」は、「伊勢紀州の郷士衆」を全て殆ど家臣に仕立てた経緯を説明した。
    ところがここに問題があったのである。

    その問題と云うのは、幕府では「士」は「官僚の定義」と成っている。
    云い換えれば、この「官僚」は元々は「士」である事に成るのに、紀州藩は「士」を家臣にせずに幕府が定める「士」の範囲では未だ定めていない「郷士や郷氏」を大量に家臣にして「官僚」にした事からも「矛盾の問題」が起こったのである。
    況して、その「郷士や郷氏」が「(イ)(ロ)(ハ)の商業組合」を創設し、尚の事、「携帯商人」を仕立てて連携したと成ると看過できないとして「幕府の保守勢力」は騒いだのである。

    ところが、幕府は、1615年に「武家諸法度」を定めた際の数年後に「士農工商」に入らない「郷士郷氏」をどうするのかと云う「矛盾問題」が矢張り勃発してしまった。

    そもそも、「郷士郷氏」は、「悠久の歴史」を持ち「格式、家柄、身分」は奈良期と平安期に定めた身分制度に依って、「士」より遥かに高いと成っていて、朝廷が認証する”「公家」”の“氏を構成する「家」”と共に、本来の”「武家」”は「公家」と「同格の家」であって、平安期より「士」(姓族)では無く“「侍」”の「呼称と格付け」の「身分で氏族」であると成っていた。
    そして、この「侍」は“「天皇にさぶろう者」”として位置づけられ「付き従う=さぶろう」の身分階級として位置付けられていた。

    そもそも、上段で論じたが、「宮廷警護」と共に、「天皇を警護する皇族の賜姓族」が専属で務める権威ある「北面武士の立場」にもあった。
    そもそも、この「士」は、奈良期の「八色制度の階級」や、「表彰や俸給や官位」を与える制度や平安期の「官位格式制度」の範囲には全くは入って来なかった階級であった。

    「侍」は「従五位下」(即ち武家)の身分に最低でもあった。
    「士」には、「官位官職の授与」のみならず「天皇にさぶろう位置」には全く遥かに無かったのである。
    そして、そもそも「士」とは,「侍」(さぶろう者)の下で手足と成って働く”「戦闘員」”の意味を持っていた。
    「侍」(さむらい)が「天皇」に「武」を以って”さぶろう事”から”武の家”であって、”「武家」”と成り得て、「士」には「家」を作る事を認めていなかった。
    「士」はあくまでも”侍の武の代行者”の位置づけに在った。

    「士」とは、そもそも、「阿多倍」が引き連れて来た200万人の「後漢の職能集団」が奈良期に帰化し、その”「職能」”を務めたが、この時に、”朝廷の中で「職能士」”としての”「士」の位置づけ”を行ったものであった。
    故に、「朝廷に詰める士」を以って「孔子論の官僚」と位置づけ、皇族出自の多い「侍」は、そもそも「官僚」では無く、「身分格式の位置づけ 氏家」であった。

    その後、平安初期に阿多倍の「長男の坂上田村麿」が、「桓武天皇の背景」を下に「征夷大将軍」と成った事に依って、「士」が「職能士」だけでは無く、”「武家」にも成り得る者”としての概念が広まったのである。
    その後に、室町期初期に成って「下剋上」が起こり、「士」が「武」に執って代る事を世間に示した事から来ている。
    この時から、「武の立場」と「士の立場」の二つからなる造語の”「武士」”という言葉が生まれた。
    次第に「武」と「士」の融合の階級が起こった結果、「氏族」の「武を持つ武」と、「姓族」の「具を持つ士」との「役務の統一化」が起こったのである。

    ところが、江戸期に「武家諸法度」を決めた際に、“そもそもの「武家」”の持つ意味が、「公家」に准ずる階級であって、「士」が対象とは成り得ていないものであった。
    つまり、正しくは「幕府]が云う”「士」”では無いと云う矛盾で問題視された。

    結局は、この「矛盾」を解決する為に、数年後に「郷士郷氏の武家」を含む「士」をも以って“「武家」”と呼ぶと云う事に成り、“「士」”も“「侍」(さむらい)”とも成ったのである。
    要するに、「武の家」と「士の家」の「身分の区切り」を取り除く「融合策」を採った。
    結果として、「氏族」と「姓族」の融合も起こった。
    つまり、況や「朝廷が認定した氏族」(武家)と、「幕府が黒印状で認定した姓族」(士家)を区分けせずに統一化したのである。

    其処から、江戸期で呼称される「士」の通称の“サムライ”はこの時(1630年代)から呼称される事に成った。
    これは「頼宣入城1619年」の後に見直された事に成って、結局は「整合性]がとれた事に成ったのである。

    「天皇」と「公家」の「公家諸法度」(1615年)を定めるに当たって、この「融合策」を採るしか無かった事に成る。
    そして、これらの「矛盾」もを更に見直して新しい矛盾や問題を抱えていた「公家諸法度」(1632年)と、上記の「武家諸法度の整合性」も含めて密かに見直して制定した。
    これ以後、「整合性」が取れた事から「保守派の抵抗の根拠」の一つは無く成った。

    従って、この間に、この「幕府の保守派」から問題視され警戒された「地士制度」は、従って、燻って議論に成っていた期間を含めて約6年間程度以上(最長12年間)の間に文句を言い続けられた事に成った。
    つまり、この時期を経て「商業組合の頒布」が佳境を呈した時期にあった。

    これが、この見直しによる「融合策」が確立した時期の頃から「保守派の抵抗」に大義が消滅して、「15地域」の「商業組合」も佳境に入ったのである。
    そこで、結局は、「士」は家臣に成った「郷士衆の連」を含む「伊勢紀州の全域」の「郷士衆」を指している事に成って「整合性」が採れて進んだと考えられる。

    「紀州藩の地士制度」の方が正しいと成って,その「妥当性」が認められる事に成った事に対して「士」に対する嫌疑も無く成った。

    然し、未だ保守派は完全に「無駄な抵抗」を諦めなかったのである。
    この時の「抵抗」は,遺された資料では特定はしていないが、青木氏の手紙関係に遺されている文面から読み取ると明らかに関西域では無い事は判るが、これは「幕府の官僚」では無く成り,「江戸域の商業関係の商人」であった様である。
    そもそも、前段で論じた様に、「幕府官僚」の多くは、一族の「関東の秀郷流青木氏」である事から、この「執拗な抵抗」を続けるのは、それ以外の利害に関する官僚族であって、それに「関連する関東域の商人」である事は,「手紙の絡み(抵抗しているとは書いていない)」の中に出て来る「商人名」から判る。
    要するに、関東域の「抵抗の目的」は、「地士制度に基づく関西発祥の新しい商業組合」が関東域の各地に拡大すると、「関東域の商いの商慣習」に「悪い影響」を与えるとする「懸念と嫉妬」に近いものであった。

    これに依って、「士」は、当然に「紀州藩の家臣(官僚)」に成った者も含む事に成り、「地士制度」はある程度の大義を獲得するに至ったのである。
    然し、(イ)(ロ)(ハ)の事があって「商業組合との連動」では完全に疑念は拭えなかった。

    そうすると、その「郷士衆」が持っているあらゆる問題を政策的に解決する上記で説明した様な「総括的な制度」として敷いた事に依る策と成り得た。
    然し、「地士制度の正当性」は、(イ)(ロ)(ハ)の事は除いて明確にしていない以上は「士の定義上」では意味を持った事に成った。

    そして、この「地士制度」は,「限定した形」の採れない「個々の問題の政策」では無い、融通の利く、その都度、追加で定める「政策の手段」であった事から、より抵抗する方向性を変えて来たと考えられる。

    この「地士制度」は、「頼宣の事前調査」や「青木氏の提案等」で「混乱する伊勢紀州と云う環境域」を、何らかの制度、或は、条令に依る「決まり」や、新たな「掟や仕来りや慣習」を以って安定させるシステムを敷くとしたもので、試行して効果あるとした時には、都度、決まり次第に、この「地士制度」の中に組み込んでいった制度として行ったものであったと考えられる。

    これで、「幕府の追求」を逃れたと云うよりは、「余計な口出し」を出させなかったと云う事の方が正しいと考えられる。

    上記に論じた様に、場合に依っては効果的であれば、「商業組合」の様に「幕府体制に反する事」も出て来る事もある筈で、一々紀州藩のする事に“「口出し」”されては伊勢紀州は納まらない筈である。
    全てこの“「地士制度」の中の事である“としておけば、これでこの「地士制度」は”「家康の了解」“を得ていたとして突き跳ねれば、引き下がる事に成る。
    要するに、俗に云えば、“無礼者 下がれ。これが目に入らぬか。”の“「水戸黄門の印籠」”である。
    “権現様の成せる事に口出しするのか”と一括すれば引き下がるのである。
    「家康」に特段で可愛がられた「頼宣」であったからこそ、このゼスチャーで納められたのである。
    其れには、関連する確立した政策が必要で、それを“「地士制度」(印籠)”と名付けて示唆したと考えられる。

    さて、話を戻して、然りながらも、”完全に安定していたか”と云うと、そうでは無く、ある一定期間を経て、下記に記する様に、この「紀州藩」にも例外なく「反抗一揆」はある時期より多発した。
    この“「地士制度」”で、江戸期初期から何とか57年間(1603年からすると73年間)は納められたが、再び、半世紀後に再発したのである。
    では、「地士制度」で「色々の決まり」を作り上げたが、「印籠の効き目」が無く成って来たのかと云う事に成るがそうでは無かった。

    この「地士制度」の効果を発揮している「商業組合」があり、「提携商人」がある「15地域」には、1680年以降では、「7つの一揆」と、関連性の高い一揆が「9つの一揆」が発生した。
    これには、「共通する特徴」があった。
    その特徴が、「時代の変化」で、”ある事”に依って「効き目」が阻害され低く成った事だと観られる。
    果たして、“それは何なのかである。”
    答えから先に云えば、それは、「宗教」である。

    「青木氏」が、「商業組合」を「15地域」に浸透させ、効果を挙げ、約半世紀以上は確かに民に潤いを与えた。
    然し、此処で、如何なることをしてもこの「商業組合の潤い」では解決できない事がある。
    それは”「民の心」”である。
    この「民の心」を「経済的な潤い」で一時的に平癒させても、”「宗教力」”と云うものが強く成れば、”「民の心」”は変化を興す。
    これは「世の常」である。
    ”「宗教力」は強く成った”のである。

    それは、マンネリから来る「支配側の施政の悪さ」からも来ている。
    社会が戦乱から安定すると、支配側には、「利に対する欲」が、「政に対する慣れ」が出てそれが「庶民の生活環境」に圧迫を加える。
    これに対して、「民の心の支えと不満」を「宗教」に求め、「宗教側」もこれに乗じてこれを扇動する環境が起こる。
    「宗教側」は民を救うとしての大義で以て「支配側の悪政」を云い募る。
    結局、この煽動で民は「反抗」と云う形で集団で訴える。
    これが、上記で論じた「一向宗」(浄土真宗系)が大きく動いた事なのである。

    「下級武士」も伴って「民の心」が叶えられるとして「一向宗」は爆発的に拡大した。
    それが、「頼宣入城後」から約60年後の所謂、江戸期の1680年頃からの現象と成って現れたのである。

    そこで、これらの事を理解するには、先ず“「一揆」”と云うものにより理解を深める必要がある。

    そもそも、“「一揆」”とは、現在、一般的に「言葉の意味」として云われているものとは根本的に異なっていたのである。
    それは下記に論じる「一揆」の事からも判る。
    元より、「伊勢と紀州」では、特別に“「門徒衆」”と呼ばれ、この宗徒が恐れられる位に多いところであった。
    それ故に、特別に「門徒勢力」の強かった地域でもあったが、上記した「15地域」の「浄土真宗の布教の強い地域」では、強弱はあるにしてもこの現象(“「事件」と「連携関係」“)が必ず認められる。
    特に、「加賀一揆、越前一揆、鯖江一揆」等の有名な「大小の反抗」は、数えれば限りがないが、全て「青木氏の定住地」の域で起こっている事である。
    「15地域」とは、云い換えれば、「門徒衆の何らかの強い行動」が認められる地域でもある。

    「信長」から引き継いで「秀吉の時代」も、有名な「鯖江の誠照寺の事件」を初め、下記の「紀州勢力」のこの組織化された「門徒衆の勢力」を「根絶やし」にしようとしたものであった。
    取り分け、紀州の北部域では、“「紀州討伐」”と云う形で“「門徒衆」の背景”と成っていた「雑賀衆」と、これと連携していた“「根来衆」”にも攻撃を加えて、歴史上に遺る庶民を巻込んだ「熾烈な作戦」を展開した。
    この「雑賀衆と根来衆と高野山真言宗」とは、下記に論じる一種の「二期の一揆」で結ばれていた。(高野山は僧兵を初め早々と脱退した。)

    この様な事が主要な「青木氏定住地」で起こっていて、「二つの青木氏」の様に、「密教系浄土宗の家」では、反抗勢力の「門徒衆」に陰陽に「経済的な背景」を与えながらも、敢えて、“「密教」”と云う事を表に出さない様にして“憚っていた事”が伝えられている。
    信長後の「門徒衆の勢い」は依然として強く、これを徹底的に削ぐために採った「秀吉の数度の紀州討伐」はあったにせよ、要するに“「門徒衆の反抗」“は、その後(1620年頃まで)も続いていた事を物語っている。

    結局は「門徒衆の反抗」が納まったのは、それまでの政権が採って来た「武力」では無く、「青木氏の提案」、つまり、「飛散した門徒衆」に徒党を組まさずに「商業組合」に囲い込んで「射和商人」と云う「独り立ちの商人」に仕立て上げた事に依って納まり、末端の社会も「徒党の争い」を排除する社会へと変化した事に在った。

    (注釈 「15地域の青木氏定住地」でも、「門徒衆 浄土真宗」と「一向衆の一向宗」の強い反抗があった。)

    伊勢紀州は、「高野山の真言宗」と「伊勢神宮」のお膝元でありながら、又、「根来寺の宗教僧兵」の地域でありながらも、「紀州と伊勢と奈良の土豪集団」は、殆どが「門徒衆」であって、それほどに“「門徒衆」“は強かった「不思議な地域」なのである。

    そもそも、“何が強かったか“と云うと、それは「揉め事などの事件」が起こると、この「門徒衆」の性癖は、”「集団」“で事に当たった事にあってそれが怖かったのである。
    それは、「浄土真宗の最大の教義」にあった事に依る。

    「青木氏」は、「御師様」や「氏上様」と慕われて呼ばれ、「信長−秀吉」から「門徒衆」を保護したりするなど「地域の民」の為に貢献して居た事もあって、“先ずは攻撃はされない”とは観ていた様であったが、それでもその“「集団」“で仕掛けられる事に、「権威を重視する象徴族」であった事から「必要以上の摩擦」を避けていた事がこれでよく判る。

    ところが、こんな中で在りながらも、「伊勢青木氏の四家」の中でも、「四日市殿の末裔」は、何故か特に気にしていた事が伝わっていて、筆者の「福家の家」のみならず「四日市殿」の最近までの口伝にもはっきりと遺っている。
    “密教と発言や慣習を表には出して成らない”とする「口伝」とでも云うか、要するに「戒め」であって、両家や「郷士衆」の家筋にまで伝わっているところを観て見ると、何か激しい「宗教的な揉め事」が江戸中期頃にあったと観られる。(下記)
    不思議にこの「口伝や戒め」の多くは、「員弁殿」や「桑名殿」の伊勢北部域には無く、「名張殿」の西部域と紀州域を含む南部域に観られる現象である。

    ある大きな「二つの事件」から考察して、“これは何か変である。”
    そこで、確実に確証とれるものとしては判ってはいないが、江戸初期からこの期を通じて長い間に“何かの事件”が発生し、つまり、気にしなければ成らないほどの事が起こっていた。
    「門徒衆」を救った側からすると、主に“「四日市殿」の南部域にあった”と観られる。
    ただ「門徒衆側」の方では、「浄土真宗の宗教教義」に没頭している事からすると、当たり前の事であったかも知れない。
    この“没頭する事“、これが「門徒衆」の「最大の教義」であったからである。

    そもそも、この「四日市地域」というのは、この「射和商人」の「家族が住む集合住宅」が集まっていた地域(青木氏の地権地域)でもあった事から、共に同じ所で生活し仕事をする事に成った「門徒衆の商人」も住む事に成った地域でもあった。
    彼等を刺激しない様に、「伊勢郷士衆」から密かに言い渡されていたのではないかとも観られる。
    この口伝が必要以上に明治期まで遺されていると云う事は、その「配慮不足」で、“拗れて折角囲い込んだ「門徒衆」が、再び離散して反動に出るのではないか“と云う懸念が初期の頃に充満していたと観られる。
    そもそも、それは「浄土宗」の「伊勢青木氏」に関わった「20程度の浄土宗徒」の「伊勢郷士衆」からすると、「浄土真宗」は「異教徒」と云う事に成るが、それだけに昔からの「伝説的な事」もあって気にしていたのであろう。

    室町期中期から江戸期初期頃までは、少なくとも「異教徒」は,「身分格式家柄の差」で判別されるので、現在感覚の「異教徒」では無かった。
    この「異教徒」では、歴史観として必要な知識では、本来は、「宗教的な慣習差」で「不必要な争い」を避ける為にある程度の「棲み分け」をしていた。
    正規の慣習の“「棲み分け」”をしていたと云うよりは、一地域にその宗派の布教が広範囲に頒布する事に成る事から、況して、一族で固まる「棲み分け」から、結果として、「宗派の棲み分け」が起こった形に成ったと云う事に成る。


    要するに、民は領主に所属するものとしての概念が確立していて、「国抜け」と云って[自由移住」は認められていなかった事から起こる現象である。
    そこで、この「異教徒」(門徒衆)が玉城地域中心に川を隔てて“「混在する事」”になった事態そのものが江戸初期には「新しい事」であった事からそれだけに気を配っていたのである。
    これは“「混在する事」”が無ければ、「商業組合の(イ)(ロ)(ハ)」と云う組織を成し得ない「商業組合の原則」でもある。
    これは、「異教徒」に対して「青木氏の氏家制度の慣習仕来り」に従わず、この「棲み分けの概念」を無くし、「商業組合」として「同じ域」に囲い込んだ事から起こる「慣習仕来りの摩擦」であったと観られる。

    「一人前の商人」に仕立てようとすれば「異なる域」に住しては、その域や氏や姓の持つ慣習や仕来りや掟に縛られて、自由にその知識やノウハウを教える事は不可能である。
    「青木氏と伊勢郷士衆」に執っては、絶対に乗り越えなければならない「最大の課題」であった事に成る。
    それだけに“「苦しみの口伝」”として長く遺されて来たのであろう。
    当にこれは「青木氏の生き様」の所以が伝わるものである。
    それが「門徒衆の性癖」が、せめて「穏健」であったならば問題も無かったのであろうが、彼らは「最大教義」でもあった「一念一途」から来る「集団抗議」であった事から収まりが着かない事に成っていた事なのである。

    確証は得られないが、調査から観て見ると、更に「浄土真宗」には、下記に示す「浄土宗」との間には、“歴史的なある謂れ”があったと観られる。
    恐らくは、この事も大きく影響していたのではないかと読み取れる。

    それは、そもそも「浄土真宗」には、江戸初期に当時世間を騒がせていた「一向俊聖」が率いる「一向宗」と云う別派が在って、この「一向宗」は、その「教義の所以」から「反抗性」と云うか、世の「理不尽性」に対する姿勢が強くて、各地で集団で「一向一揆」を多発さしていた。
    この門徒は、「浄土宗徒」でありながら、「浄土真宗」の「親鸞の教義」を慕う“「一向衆」”と呼ばれる別派の一派があって、この信徒は「下級武士と農民」に広まり、それ故に本来の「浄土宗信徒」とは違う行動を採っていた。
    この“「一向衆」”に対しては、本来の「門徒衆」とは、この“ある謂れ”があって区別されていた。
    どちらかと云うと、ドラマ的に捉えると、「門徒衆」から云えば、この親鸞を慕う「一向衆」は「異端児」と云う関係にあった。
    「浄土宗徒」からすると「裏切者」であった。
    ところが、この上記の“ある謂れ“を説くには、先に次ぎの事を述べて置かねばならない事に成る。


    そもそも、この「一向宗」には、「二つの流れ」があって、「浄土宗」を発祥源とした「一向宗」と、上記した「浄土真宗」から出自した「一向宗」とがあった。
    この“ある謂れ“には、この経緯が影響したと読み取れる。
    この「一向宗」の本元は、「浄土宗の別派時宗の一向宗」ではあるが、この「一向宗の門徒」には「法然の浄土宗」でありながら、“ある教義”を信じて「親鸞」を慕う「門徒衆」(一向衆)が多く、そこで「浄土宗」からは、この「親鸞信仰」の「浄土宗一向門徒」とは区別して“「一向衆」”と呼ばれ差別していた。
    この呼称を嫌う親鸞の「浄土真宗側」からは、“「一向」”と云う言葉さえも使わず、これを禁句として当初は相手にしなかった。
    この「浄土真宗側」では、“使うと破門する”とまで書かれた文章が遺されているのである。
    この「一向宗」を、「浄土真宗側」の一派は、「信徒」に入れると“「親鸞の教義」を歪める”として嫌ったのである。
    「浄土真宗側」からすると、教義布教の「浄土宗の浸食作戦」であると疑って観て採ったのであろう。
    この思いが手紙としての記録に遺されている。

    元々、「浄土真宗」と、この「浄土宗教義」の「本宗争い」が長く在って、江戸期初期に「家康」は、「密教浄土宗の顕教令」を発する際に、この問題があっては困るので、この「争い」に裁定を下し、この「一向宗」を全体像からは正式な宗派とは認めずに“「浄土真宗一派」”と定めた。
    「顕教令」の為には、「親鸞崇拝の一向衆の信徒」を「浄土宗の信徒」とは認めなかったのである。

    ところが、この「家康裁定」でも、「浄土真宗派の一部」(門徒衆派と一向衆派の両派)は、納得しなかったので明治期までこの「争い」は燻っていたのである。
    この「顕教令」と共に出された「家康裁定」で両方の宗派では一応は騒ぎは収めたが、ところが、「浄土真宗側」の「一向衆」は、浄土真宗の一派の「一向宗」としては認めて貰えなかった事から納得せずに、信徒の下級武士も含んで各地での「農民に対する税に対する圧政」も重なる事にも成って、反発して、要するに、「反抗」を意味する“「一揆」”を各地で起こす様に成ったのである。
    この頃から、“「一揆」”と云う意味合いは、「反抗を意味する一揆」へと変わって行ったのである。

    そこで歴史的に注意しなければ成らないのは、この“「一揆」”が元々の「浄土真宗」の「門徒衆」と、「浄土真宗系」の「一向衆」の二つによる「一揆」が起こっていた事である。
    上記の“何か変だ”とするのはここに在った。
    つまりは、伊勢を始めとする「15地域の青木氏」は、“一体,「どちらの衆の一揆」を援護していたのか”と云う事である。

    江戸期初期の「家康裁定」では、「浄土真宗の信徒」であるが、室町期末期頃からはこの信徒に依る「農民一揆」が各地で起こっていた。
    その為に長く引きずったこの問題に対して、今度は「明治政府」は、この「一向宗」を宥める為に、この「一向衆の浄土真宗」を単なる“「真宗」”としての呼称で認めて、妥協案の「真宗」と呼称する様に裁定を下した。

    要するに、「密教」を含む「法然の教え」を護る「浄土宗」と、「親鸞の教え」に傾注する「浄土真宗」との「宗教派閥の争い」であって、そこにはその「教えの差」の違いがあった。
    法然の「浄土宗」からすると、親鸞の「浄土真宗側」に走った信徒に憤懣があって圧力を掛ける為に、差別した事にも成る。
    況して、その信徒が全国で“「反抗の一揆」”を起こしたのである。

    この様な行動に出る教義では無い「浄土宗派の密教」は、この「一向宗の行為」を許される事では無かった。
    「浄土宗派側」からすると、“親鸞に傾く裏切り行為”の上に、且つ、“反抗の一揆”までを起こすと云う信じられない事が起こったのである。
    そもそも、「浄土宗」は、江戸初期の家康の「浄土宗の密教」を改宗して誰でもが信心できる「顕教令」を発した事から、爆発的に不満が噴出して起こった事からの事件である。
    その所属には基本的には「江戸期の以前」は、若干の動きはあったが、未だ「浄土宗派の一向宗」であった。
    ところが「浄土真宗」の信徒の一部が、「浄土宗の信徒」に不満を爆発させて「布教戦争」を仕掛けた事から起こったのである。
    そこで、上記した様に、家康の一向宗を「浄土真宗」と裁定をした経緯に発展したのである。
    その事は“「教えの差」”にあるとして、これを嫌う「浄土宗」からは、「浄土真宗」に対する「差別待遇の呼称」として扱った事にあった。

    つまり、そもそも、この“「教えの差」”の“「一向」”とは、一体、“何か”である。
    この“「一向」”と云う言葉には、”一筋に、一途に、一念に“の意味があり、これを「主たる教義」としていたことから起こった事ではある。

    (注釈 教組の「一向俊聖」は、「越後国の草野氏」の末裔の「草野俊聖」の事であり、後に、「一向俊聖」と名乗った。)


    これは、浄土真宗の「一念発起の教義」にある様に、“「集団」「一途」“で事に当たる「浄土真宗の最大教義」に一致していた事から起こったのである。
    「親鸞の教え」の「阿弥陀経」の一節の“「南無阿弥陀仏」と一途に念ずれば、汝は救われる。”の所以である。
    「浄土宗の一向宗の教え」と、「浄土真宗の親鸞の教え」が一致している事から来ているので、「一向衆と云う信徒」が興った事に成ったのである。
    「江戸初期の顕教令」に依って、「密教」から「顕教」に成った事から、この「一向」「一途」「一筋」「一念」が、「庶民の信心の心」を掴んだ事から起こったのである。

    ところが、「浄土宗」は、“全ては「自らの悟り」に通じる“としていて、「顕教」に成って新たに「浄土宗信徒」と成ったが、農兵(半農下級武士)や農民には、この教義は、その生活環境からは現実には生活環境に直結せず、且つ「悟りの教え」は難しいことでもあった。
    然し、そこで、“唯、念仏を一念に念ずる事で幸せが来て極楽浄土に行ける“とするとこんな楽は無いし判り易い。

    元を質せば、前段でも論じたが、「密教」は「大日如来仏」を「宇宙仏」とし、直接、如来が下界に降りて来て民に「教え」を伝え悟らせると云うもので、「顕教」は「盧舎那仏」を「宇宙仏」として、直接下界には降りず、「下界仏の釈迦」を通じて直接、言葉で教えを伝え導くとするものである。
    先ずは上記するここに大きな“「教義の原理の差」”があった。
    「顕教」で「浄土宗信徒」になったものの、結局は「民衆」は、「判り易さ」とこの「安易さ」に引かれた「浄土宗」から離れて行ったと云う処であったと観られる。
    この事から、「浄土宗」は、「顕教」に成ったものの「新しい信徒」は完全に離れて行って衰退の一途と成って、寺は荒れ果てた。
    幕府は寺の修理令を出すが進まなかった。
    残るは、青木氏等の密教を続ける寺のみの現状と成った。
    そこで、高級武士階級に入信を進めて浄土宗は何とか生き残れたのである。

    ところが、その「青木氏の密教」では、「般若心経」を前提として、その「青木氏氏是」や「青木氏家訓10訓」にもその考え方を反映さしている。
    「色即是空 空即是色」「色不異空 空不異色」は、「密教の主教義(概説:「拘りの否定」と「悟りの前提))」として従っている事から、「浄土真宗」と「一向宗」は、到底相容れるものでは無かったのである。
    「時宗派の一向宗」は、「浄土宗系」とするも浄土宗の中では異端扱いと成っていた。

    この為に、江戸期には「顕教」に成っても続けていた「密教派」の「浄土宗の青木氏」には、「浄土真宗」の元来の「門徒衆」からは、「浄土宗」である事と「密教」である事に付いて敵視されたのである。
    当然に、この様な考え方の持たない「密教の青木氏」は、「一向衆」からも「密教」の有り様が「一向宗派の敵」として逆に敵視されたのである。
    各地の「二つの青木氏」は、室町期から「浄土宗派の一向宗の一揆」には「経済的支援」をし、室町末期からの「門徒衆の一揆」や明治期の「一向衆の一揆」(民としての前提)にも「経済的支援」をしながらも、“「密教」”と云う事では、「一向、一途、一筋、一念」で苦しめられたものと考えられる。

    果たして、”「浄土宗派の一向宗の一揆」には「経済的支援」”と「ある手紙の資料」では成っているが、疑問である。
    要するに、”「支援の仕方」”に大きな違いがあったのではないかと考えられる。
    その「支援の違い」が未だ判って居ない。
    「警戒していた宗派」であった事から、「積極性援助」は先ずは考え難いとすると、依頼されるが侭に「周囲との関係上」から「寄付的行為の範囲」で留まったと観られる。

    唯、この「強い懸念」が、「四日市殿の末裔」に強く伝えられていたと観られる。
    つまり、「四日市殿」は、立場上から「一向衆」にしても「門徒衆」にしても「反抗する宗教勢力」には「反対姿勢」を鮮明にしていた事も考えられる。
    どう考えても、確かに「青木氏」に執っては、実に、“間尺に合わない事”ではあった。

    前段でも、又、上記した様に、「地域の民」からは“「氏上様」”と呼称され敬われ、「郷士衆や職能部の人」からは“「御師様」”と呼称され敬われていたが、江戸初期から明治期まで地域や宗派を超えて“「近い存在」”と成ったにも関わらず“「門徒衆」”からは、この「敬いの呼称」は無かったのである。
    本来であれば、有ったと考えられるが、口伝から観て無かった事は、相当に“「密教」”と云う事に対する「懸念の心」や上記した「歴史的な拘り」が「門徒衆」にあった事に成る。

    昭和の初め頃までは、結局、「地域の指導者の所以」として、この「門徒衆」に対しては「密教の発言と慣習や仕来り」には気を使い、出来るだけはその様に振舞ったと「伊勢青木氏の口伝」では伝わっている。

    江戸期に於いては伊勢紀州では門徒衆に対しては明確であったが、「一向衆」に対してはどうであったかは定かでは無い。
    唯、伊勢紀州では前段でも論じた様に「一向衆」が出る土地柄では本来は無く少ない。

    「宗教的な経緯」が経緯だけに幾ら「青木氏」でも「民の為」としても資料を残す程の事は出来なかったと考えられ、依って「資料口伝の類」は見つからないのであろう。
    その前に、上段でも論じた様に、「青木氏」は「郷氏」であり、「地域の地権者」であって、且つ、唯一「氏の青木村」を形成出来る立場にあった事から、独自に「浄土宗の菩提寺」を持つ「氏村」には、「青木氏に関わる郷士衆」やその「職能部の民」は、この菩提寺の下で導かれる事に成っていて、「一向宗の布教」は起こる事は必然的に無かった。

    (注釈 前段に論じた様に「僧侶」は「青木氏」で、祭祀は福家を中心に「達親方式」に依る「青木氏形式」を以って行われていたので、入る余地そのものが無かった。)

    従って、宗徒に関する資料や口伝は勿論の事として無い事に成る。
    「門徒衆」の事に付いては、上記の「特段の経緯」から起こった事であるから、「青木氏」も間尺に合わないとしても大変に気を使った事に成ったのである。

    唯、他に考えられる事として、「江戸初期の顕教令」に従わずに「密教の慣習と伝統」を維持して居た事への配慮に付いては、「紀州徳川氏との親交」から配慮しなければならないが、特段で意識している資料は見つからないのである。
    依って、「門徒衆への配慮」だけと云う事に成る。

    実は、この事に付いて、「江戸初期の浄土宗の顕教令」では、結局は,「浄土宗」は誰でも信心できるとしたが、実際は、“「誰でも」”は、確かに“「誰でも」”ではあったが、「氏族」に限らず「姓族」にも門徒を開いて「特定された高級武士」に限定して入信出来る宗派と結果として成ったのである。
    従って、この「特定される高級武士」の間では、完全とは云わずとも“ある程度の密教性のある浄土宗の教義”が維持された事に成っていたのである。(「達親方式」等)
    この事が、「青木氏の密教の慣習仕来り掟の伝統」に付いては、特段で問題視されなかった事に成った。
    況してや、紀州藩とは上記する「商業組合」や「勘定方指導」や「地士制度」などの連携した関係からも問題視されなかったと考えられる。

    ところが、「四日市殿の末裔の青木氏」には、この事に付いての事が多く伝わっている事から考えると、江戸期初期前後からの出来事では、“何か事件性があったのではないか”と考えられる。
    江戸期初期前後では、「四日市殿」が、前段でも論じた様に、「立葵紋の使用」や「勝姫との血縁」などでも判る様に、「紀州徳川氏との親交」も取り分け深かった事もあって、出来るだけ「密教性」を表に出さない様に「摩擦」を避けていたと観られる。
    取り分け、「門徒衆との事」で「諍い」が起こると、“集団性で動かれる事”があるので、それが表に出て仕舞う結果と成る事に気にしていたのである。
    ここでは、四日市殿に関しては「紀州徳川氏への配慮」は否定できない。
    況して、一筋縄では行かない「門徒衆」の集まった地域の「四日市地域」であるから、他の四家とはこの面では、上記の通り異なった事に成っていたのであろう。

    そもそも、それが、「信長と秀吉の締め付け」で「顕如」が例の如く裏切った事から、「門徒衆」は背景を失い、結局は「青木氏」と「郷士衆」に縋って来た事にあっても、然りながら、伊勢紀州に多い「生粋の門徒衆」には、唯一つ気に入らない事では無かったかと観られる。

    この「口伝の伝わり方」(宗教行事から密教性を覆する態度)から観て、「青木氏」の下に共に仕事をする中で、この“「立場の差」”が表に出て揉め事に成って、“集団で抗議された事”が原因していたかと観られる。
    恐らくは、記録が見つからない程度の事件性であった事で、場合に依っては遺さなかった事も考える。
    実は、この「四日市殿の末裔」のお二人の女性の方が信濃に定住していて、その方の情報では「事件性の事」が家に伝えられていたと聞いているので、筆者は、敢えて“遺さなかった”と観ている。(ルーツ掲示板にもお便りがある。)

    “何も斟酌せずに毅然として「伝統の密教」を表に出して行動すれば“とする考え方もあるが、これは地域住民をリードする「青木氏の立場の所以」とも観られる。
    これも、「色即是空 空即是色」「色不異空 空不異色」、即ち「密教の主教義(概説:拘りの否定)」に繋がったことでもあった事から、「伝統の密教」を必要以上に出さなかった事にあったと観られる。

    (注釈 筆者の家には、この様な事に関する事を書いた鎌倉期末期の「古い長文の漢詩の掛け軸」が遺されている。)

    江戸期には、時代も異なり「500にも上る守護神の神明社」も幕府に引き渡した等もあって、「賜姓族としての立場の緩み」が出ていたのであろう。
    “「緩み」”と云うよりは、“時代性に即した行動“と云う事であったと考えられ、「正しい判断」であったと筆者は考える。
    それが「青木氏の生き様」の一つとして「潜在的な意識」に成っていたのであろう。(今も調べている。)
    しかし、この後も、この「門徒衆の慣習」は、江戸期を通して大正期まで引き継がれていた。
    それだけに、逆に云えば、この「門徒衆と郷士衆」から成る「商業組合」は栄えたのである。
    結局は、上記した様に、この「商業組合」に依って江戸期の初期前後頃には、「一揆の反動」は、一時は80年間近く低下したが、「門徒衆」の「商人化」で「門徒衆の勢い」は戻し、この「勢い」からその「門徒の慣習」も維持されたものと観られる。
    この「門徒衆の商人化」に関わった「青木氏」や「郷士衆」でさえも、“「密教」である事”を憚った模様で手紙と口伝の記録に遺されている。

    そこで、上記した様に、“何か変だ“に付いてであるが、室町期末期に起こった「一向一揆」、明治初期に起こった「一向一揆」に付いて、果たして、全国で起こった「全国の青木氏」が経済的に援護したのは、”どちらの「一向信徒の一揆」であったのか“である。
    要するに検証する上で「三種の一向衆」がある事に成る。
    この何れなのかである。解明して置かないとそうしないと「矛盾」が生まれる。

    その前に、先ず、「一揆」と云う言葉は、中国の孟子論の中に使われている言葉から、平安期に入り、これを鎌倉期に使われた言葉であった。

    第一期
    その言葉は、本来は、武士の小土豪が政治的に結集して[政治連合体]を作って契約した上で互いに護り合う「連合結社」に使われるものであった。
    これを「士一揆」や「徳政一揆」と呼ばれた。
    これには「出雲大社の下に纏まった亀甲集団」などがある。

    第二期
    ところが、室町期に入ると、「戦乱」で「下剋上」が起こり、この「結社の内容」が変化して行って、言葉の内容は,下級武士の政治体制に対する「契約した上での反抗勢力」の言葉として使われる様に成った。
    この時期は「国一揆」や「荘家一揆」と呼ばれた。
    有名な処で「1465年の額田郡一揆」がある。

    第三期
    室町期末期に成ると、下級武士の不満や農民の不満を訴える不契約の烏合集団化した「不満勢力」の言葉として使われた。
    この時期は「百姓一揆」と呼ばれた
    有名な処で、「加賀一向一揆」が在る。

    第四期
    そして、江戸初期になると、更に、この結社が、社会が安定して「武士の結社」の必要性が無く成り、上記した様に、ある「影の大勢力」が背景と成って、「農民や宗徒」に関わる不満から集団化した「不満勢力」の言葉として使われる様に成った。
    この時期は主に「百姓一揆」や「一向一揆」と呼ばれた。
    要するに、上記で論じている一揆である。

    第五期
    最後に、「明治維新の政治体制」が変わり、「社会体制の変化」も起こり、これを嫌う「保守勢力」として結集して、ある「政治的主張」を実現させようとして、士族を失った者や農民らの重租税の改善の集団化したものに使われた。
    「伊勢騒動」などがある。
    この時期は、「地租一揆」や「世直一揆」と呼ばれた。

    この「五つ期の一揆」に付いては、殆ど各地に定住する「二つの青木氏」が関わっている。
    そこで、「青木氏」に何らかの関係で関わった各地の主な一揆を下記すると次ぎの様に成る。

    鎌倉期
    青木氏が関わった主な一揆
    1368年武蔵平一揆、相模平一揆、白旗一揆

    室町期前半期(徳政一揆)
    青木氏が関わった主な一揆
    ・1418年上総本一揆・1465年額田郡一揆・1485年山城国一揆

    その他の一揆
    1428年正長の土一揆・1441年嘉吉の徳政一揆・1462年寛正の土一揆
    1400年大文字一揆・1429年播磨国一揆

    室町期後半期
    青木氏が関わった主な一揆
    ・加賀一向一揆・法華一揆・雑賀一揆・伊賀惣国一揆
    ・1563年三河一向一揆・1587年肥後国人一揆・1585年祖谷山一揆・1586年北山一揆

    その他の一揆
    ・1589年天草国人一揆・1589年葛西大崎一揆
    ・1590年和賀一揆・1590年仙北一揆・1592年梅北一揆・1600年岩崎一揆
    ・1600年浦戸一揆

    江戸期
    青木氏が関わった主な一揆
    ・1603年滝山一揆・1608年山代一揆・1614年北山一揆・1615年紀州一揆
    ・1677年郡上一揆・1722年越後騒動・1761年上田騒動・1768年新潟騒動
    ・1836年天保騒動(郡内騒動、甲斐一国騒動)・1814年北越騒動
    ・1842年近江天保一揆

    関わった可能性のある一揆
    (殆どは重税による農民一揆)
    ・1652年小浜一揆・1686年加助騒動・1690年坪谷一揆
    ・1726年津山暴動・1729年岩代農民暴動・1761年伝馬騒動
    ・1781年絹一揆・・1786年宿毛一揆
    ・1842年山城谷一揆

    その他の一揆
    ・1739年元文一揆・1753年摺騒動
    ・1771年虹の松原一揆・1771年虹の松原一揆
    ・1771年大原騒動1793年武左衛門一揆
    ・1804年牛久助郷一揆・1825年赤蓑騒動・1831年長州藩天保一揆
    ・1838年佐渡一国一揆・1847年三閉伊一揆・1856年渋染一揆

    明治期
    青木氏が関わった主な一揆
    ・1869年ばんどり騒動(富山県)
    ・1872年悌輔騒動(新潟県)
    ・1876年伊勢暴動(三重県)

    その他の一揆
    ・1873年筑前竹槍一揆

    この「五期の一揆」から、「青木氏が関わった一揆」は、次ぎの通りである。
    鎌倉期は第一期である。
    室町期前半では第二期である。
    室町期後半では原則は第三期である。
    但し、室町期後半の前期では、第三期で、後期の第四期に移行する時期と成る。
    江戸期では原則は第四期である。
    但し、江戸期の前期では、第四期で、後期から第五期に移行する時期と成る。
    明治期では初期の第五期である。

    つまり、“何か変だ”とした疑問は、「青木氏」が「経済的背景」として援護したのは、果たしてどの「信徒」であったのかである。

    「浄土真宗の門徒衆」・・・・・・・・鎌倉期・・・・・・・・・・・・・・・・・主に武士階級
    「浄土宗の一向宗の信徒」・・・・室町期前半 室町期後半・・主に武士階級
    「浄土真宗の一向宗の信徒」・・室町期後半・・・・・・・・・・・・・農民階級
    「浄土真宗の門徒衆」・・・・・・・・室町期後半 江戸期前期・・武士階級と農民階級
    「真宗の一向衆」・・・・・・・・・・・・江戸期後半 明治期・・・・・・農民階級

    この記録から完全に判別する事は困難だが、「関わり方」には多く在って、地域に依って異なっているが、“「経済的援護」”としては大方は以上と成っている。

    唯、「江戸期の一揆」に付いては、「家康の顕教令」もあって、「家康裁定」もあって、「商業組合」があって、紀州藩から「商業組合」と共に「15地域の青木氏の定住地」に広がりを見せた「地士制度」などもあった事から、「宗派」に関係なく、“「地域の民衆」を支える為の「経済的行動」”であった事に成る。
    “「地域の民衆」を支える為の「経済的行動」”とは、上記で論じた様に“「商業組合」「提携商人」の考え方”に一致し、この「考え方」が「根底にある理念」であった事に成る。
    これが、長い歴史を持つ継続された「青木氏の理念」であって、継続された「生き様」であった。
    それを顕著に表しているのが,「青木氏」(伊勢青木氏と信濃青木氏)がそれまでの関わり方と違い公然と直接的に関わった明治初期から長く続いて起こった、最後の「1869年ばんどり騒動(富山県)」と「1876年の伊勢暴動」の二つの一揆が大いに物語っていると云える。
    「越後の秀郷流青木氏」が関わった「1872年の悌輔騒動(新潟県)」も同様である。

    他には「武力的な援護」、「政治的な援護」と成るのだが、「青木氏の氏是」に依って「歯止め」が掛かっていて、直接の「武力的な援護」は無く、「経済的援護」の他に、「青木氏」が持つ「シンジケートに関わる援護」が多い傾向である。
    この「シンジケートの援護」であるが、「直接的な武力衝突」では無く、平穏時は「家族の身辺警護や食料の安全輸送」等に関わっていた模様である。
    「一揆」を先ず根絶やしするには、為政者側の採る最初の作戦は、先ずは、「補給食料の断絶」や「家族への脅迫」や「調略作戦」から始まり、「武力に依る掃討作戦」は最後の手段であった。
    その前のこの作戦に「援護の対応していた役目」は、「郷士頭の家に遺る手紙」の資料から読み取ると、「青木氏」からの指示に基づき、その役目が危険であった事からこの「シンジケート」が手足と成って大いに働いていた様である。

    「政治的な援護」の関りでは、「シンジケート」と関係していて、“「一揆後の立て直し援護」”と云った「援護の関り具合」に徹していた事が判る。
    特に、「江戸期末期のシンジケート」は、時代と共に変化して「抑止力」と云うよりは「職能集団」と云った様変わりした「重要な役目柄」を演じていた事が判って居て、支配下に置いていた「伊勢水軍」の「職能集団」は、「海上輸送」で働き、各地域に配置していた武装集団は、「陸送輸送と警備担当」で働き、「大工等の職能部」は、神明社等を江戸幕府に引き渡した後は幕府から「関連企業」として受注を受けてこれを修理管理する事に働いていた。

    そして、明治期中期には、伊勢に於ける「青木氏のシンジケート」は、これら全てを解散して「企業」として独立させる手段を採った。
    伊勢以外にも、例えば、「讃岐青木氏」の様に、本体は「商い部門」を瀬戸内に遺しながらも、「廻船業」として「新規航路」を作り、最終、蝦夷地にも支店を置いて大いに栄え、昭和20年まで続いていた。

    この様な例の様に、時代と共に体質変化させて生き延びていて、「青木氏の15地域」では、「伊勢、信濃,讃岐」は、勿論の事、有名な処では「新潟」や「富山」や「鳥取」等、多くは少なくとも昭和の初め頃まで「商業組合と提携商人」と共に存続した事が判っている。

    要するに、江戸期末期に成っても依然として「賜姓族」として頑なに「地域の住民」を「賜姓五役」の「殖産や興業」に導いて、「商業組合と提携商人」は「本来の一揆の意味合い」としての貢献をしている。

    これらは前段の「伝統シリーズ」でも「関わり具合」を論じてはいるが、本論は「商業組合と提携商人」としての「15地域の青木氏の生き様」を「伊勢の例」を下に焦点を当てて論じた。
    これらの事は、決して、伊勢域だけの事では無く、「15地域」では、「商業組合と提携商人の組織」を形成する以上は、ほぼ同じ様な事が起こっていたのである。
    それを前提にご理解頂きたい。

    次段は、矢張り、伊勢を以って、この「提携型商人」の「射和商人」に付いて例として詳しく論じる。


    「伝統―20」に続く。


      [No.336] Re:「青木氏の伝統 18」−「青木氏の逸話」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2015/10/25(Sun) 07:33:56  

    > >「青木氏の伝統ー17」の末尾

    > (注釈 各地の「青木氏の伝統」に関する資料関係が、青木氏と娘の血縁関係も含めて関係した20程度の「郷士の家」からももっと多く見つかれば、より詳細に「青木氏の広域の生き様」が描ける。
    > 然し、、残念ながら、「伝統」どころか、他氏と異なり多くの「習慣仕来り掟」を持っていたにも関わらず全く消えて仕舞っている状況の様に見受けられる。
    > 各地の神明社にある資料なども探究したが、残念ながら、今は阻まれた次第であった。
    > 然し乍ら、「射和商人」と成った「郷士の家」からの資料、四家からの娘の嫁ぎ先の親族関係と成った郷士の家からの資料、伊藤氏等の「伊勢国衆」の家からの資料等からの情報が論文作成に大きく影響した。
    > 更に、未、「手紙」や「報告書」の形でも遺されていると観られる。)
    >
    > これは、「商い」には、「事件の前後」の「雰囲気・小競り合い」からの「事前情報」が必要であって、それによって、“「商いを動かしていると云う戦略」”も在って、その事を主目として情報を獲得していたのである。
    > その為にも、かなり前から、“伊勢で起こった騒動”に対して「伊勢衆」で前後に“「打ち合わせ 談合」”なども頻繁にしていた事が判る。
    > (明治の終わり頃まで、年に2度の全ての関係する人々が大集合して親睦(運動会)を図っていた事が口伝で伝えられている。)
    > 「商い」に大きく影響する事から、「伊勢シンジケート」や、各地の500にも上る「神明社」からの「情勢分析」の記録として情報が扱われていた事が判る。
    > 何度と「談合」が重ねられている処から「他の伊勢衆」にもこの情報共有が行われていた事も判る。
    > 特に、「伊賀の乱」は「青木氏」も「影の力」として「物資の供給」や「側面攻撃」や「夜間ゲリラ戦」などで合力したが、相当に「事前分析」も施され、長引いた「伊賀の乱」の収束前に紀州に一時避難などもしている。
    > これも「事前情報の結果」であろう。
    >
    > (注釈 「青木氏の口伝」では、この100年間の間に二度に渡り「紀州新宮」に避難している。
    > この「伊賀の乱」後の「新宮避難」は、「基本戦略」上から事前に引いた事は判り確認できるが、もう一つの「新宮避難」が何で避難したかは判らず記録が正確に読み取れなかった。)
    >
    > ただ、この時の「口伝」には「一つの逸話」が伝わっている。重要な判断要素の事に成るので次ぎの段で述べる。
    >

    「伝統−18」

    「青木氏の逸話」
    この避難した人物は、『福家の者』(1)で、“『鉄砲を巧みに熟し』(2)”、“『名人”と村民から呼ばれていた』(3)。
    ある時、家臣を連れた人物が、『領地視察とタカ狩りを兼ねた形で巡視をした』(4)。
    この時、この「福家の者」が猟をして道端で休んでいた。
    そこに、この一行が来て、『福家の者に土下座する様に促した』(5)。
    しかし、家臣の者が、『何度も往来を繰り返したが余りの往来であった事』(6)から、『福家は土下座を中止した』(7)。
    そこで、この『家臣が鉄砲で威嚇した』(8)。
    ところが、「福家の者」が、遠くの場所に居た『主君」の上に実っている「柿の実」を打ち落とした』(9)。
    怒った家臣が『「無礼討」しようとした』(10)。
    ところが、『「福家の従者」と「家臣」との間で「争い」が起こった』(11)。
    これを観ていた「主君らしき者」が、止めて、難なく視察団は引き下がった。
    『三日後に呼び出しが在り』(12)、福家の者は『「家紋付きの乗馬白装束」で出仕した』(13)。
    ところが、門のところで、又、「白装束」を理由に「無礼者」として『「家臣の騒ぎ」と成った』(14)。
    その「騒ぎ」を主君に伝えた。結末は、「主君の者」が門まで出て来て、この騒ぎの事態は逆転してしまった。
    『主君が慌てて下座礼の姿勢を採った』(15)ので、家臣がひっくり変えて驚き、取り敢えず、『主君の姿勢に従って片膝下座の姿勢をした』(16)。
    福家は、この後、『主君の案内で館内に導かれて行った。』(17)、 この様子を家臣の一人の者が、主君から『故事に付いて教えられて』(18)、周囲の家臣に伝えて、「福家の者」が誰であるかを知ったと云う事であった。
    そこで、始めて事態を飲み込めた家臣等は、福家を『客間に通し、主君が座る上座に案内して、その上で改めて「挨拶の礼」を先に執った』(19)。
    その原因は、『「白装束」に「家紋の笹竜胆紋」にあった』(20)。
    ところが、「福家」は上座に座る事を儀礼で辞退したので、押し問答が主君との間で起こった。(21)。
    そこで、共に上座で対面する事に成ったが、下座に控える家臣等は未だ頭を上げなかった。(22)。
    それは、「福家]が敷物を使わなかった事にあった為に、家臣等は挨拶を戻さなかった。(23)。
    「福家」は「儀礼作法」を治めて結局は敷物を用いて落ち着いた。
    この後に「対談」は続いて、今後の多くの事が決められた。(24)。・・・・・。

    この後も、この「逸話」は更に続くが、この後に“「付き合い」は続いたとされる「行りの逸話」”と成っているのである。

    「逸話」はこの後も続く。
    この「逸話」には、そもそも、『・・・』とする部分に意味が持たせて在って、“「青木氏の有り様」等の子孫に伝えるべき「伝統」”がまとめられて読み込まれているのである。
    「逸話」には、子や孫に面白可笑しくして話し聞かせて、「家筋」などを判らせて伝える「重要な手段」で慣習でもあった。

    因みには、“「白装束」”は、皇族位に準ずる「上位の者」が執る「最高礼意の朝廷衣装」での作法であるし、それに「紋付」を付ける事が出来る「家紋」は、「伊勢青木氏」しか使えない「禁紋の笹竜胆紋」であったとして、“そんな家なのだ”とする子孫に識らせる慣習であった。
    この様な事を織り込んでの「過去の青木氏」にだけにある「伝統」を読み込んで伝えているのが、この室町期末期から江戸期初期頃に作られた「口伝に依る逸話」なのである。
    この「逸話」は作られた時期は、確定は出来ないのではっきりと云えないが、「話の前後の内容」から「天正期から江戸初期」に作られたものでは間違いはないかと考えられる。
    実は、「信濃青木氏」でも、これに似た「信濃の逸話」が伝えられている事から、少なくとも「本能寺の変」の後である事が判る。
    この「信濃の逸話」では、良く似た事が「事件の記録」として「外部史実」にも成っている。
    以前にも、記載したが、「信長」が武田氏を滅ぼした後の信濃甲斐巡察の際に起こった事件と類似する。
    それは、重複するが、土豪で郷氏の清和源氏支流末裔が、この時、道端で「信長」を迎えた際に「白装束に乗馬姿」で最高礼に比する「朝廷作法」に則ったもので迎えたのであった。
    それに気が付いき比例無礼として、勘違いした信長は烈火の如く怒り、自ら馬から引き釣り降ろし、叩きのめした。
    朝廷作法に熟した家臣が止めに入り先ずは納まった。
    これに良く似た「信濃の逸話」にもあり、「伊勢の逸話」とある意味で同じ事を伝えようとする「青木氏の意図」ではあったと判断され内容は類似する。
    「信濃」でも何か「儀礼作法の問題」を起こしていたのではないかとも思われる程の事件である。

    この他にも、幾つかの「逸話」があるが、この「逸話」が江戸初期に作られたとすると、この「逸話」には大きな意味を持っている事に成る。
    そもそも、「逸話」がつくられると云うのは、その「逸話の内容」が、その「氏家」に執って極めて重要であるからこそ作られる「氏家社会の重要な慣習」であった。
    これらは、”「青木氏の重要な事」を伝えようとするもの”には、それぞれの「内容の目的」は異なるが、「氏是」「家訓」「口伝」「逸話」「由来書」「等の方法で「全青木氏の仕来り」としてある。
    この「逸話」が作られるくらいである事から、「青木氏」に執っては、この「逸話」に込められた事が如何に大きな事に「青木氏」の中で成っていたかと云う事に成る。
    この「逸話の内容」が、“時事に合わせて「青木氏に執ってシンボル的な事」“ばかりを読み込んでいる。

    つまり、その時期に「青木氏」の中に「シンボル的な出来事」が起こった事を示している事に成る。
    これは、「青木氏氏是」の影響によると観られる。
    前段でも何度も論じたが、「青木氏氏是」を護ろうとすると、「青木氏の行動」を誇示して強く遺す事は難しい。
    「青木氏の事」を”世に晒す事”、「青木氏の事」で、”世に憚る事”を強く戒めている。
    こう成ると、何もしないと云う訳には行かず「逸話」ででも「名誉や権威や格式}等を遺して置く事に成る。

    「悠久の歴史」の中でも、平安初期に桓武天皇に「皇親族」としての存在は、“「律令政治の邪魔」“として圧力を掛けられて起こった「青木氏衰退期」に遺された「氏是」ではあるが、この時に匹敵する程の、「心機一転」を期した青木氏で『総代わり』する程の事がこの天正期に起こったと云う事を物語っている。
    その為に、「青木氏氏是」を護ろうとして「青木氏の子孫」に是非に改めて言い遺そうとして「四家の福家」は作ったのではないかと思われる。
    この人物は「当事者であった信定」であると観ている。
    前段で詳しく論じた「伊勢三乱五戦」の時の扱いに依っては、平安初期に訪れた滅亡に匹敵する程の事が、又、「青木氏に訪れた危機」を感じ採った事の後に作られた「逸話」であったと解釈される。
    この危機から何とか脱した時期の「1600年前後の逸話事」であろう事が判る。
    と云う事は、この時期に、上記の様に、「信長―秀吉―家康」と変化して行く中で、“青木氏の存亡が危うく成る程の事が起こっていた“と云う事に成る。
    「信長―秀吉―家康」は、「存亡の非常事態」が起こり、次第に危険度が低下して、遂には安定し発展の兆しを観たとする経緯を示している。
    この「逸話」は、「安定」に入る時期の直前期の事を伝えているのである。
    遂には、既に時代の社会状況は意味の無い程に著しく変化したが、この事の事を筆者が「解説する役目」を果たした事に成る。

    (注釈 「桓武天皇」は、「伊勢王の施基皇子」の「第六子の白壁王」の「光仁天皇」の子供で、伊賀の「高尊王」の孫娘の「高野新笠」との間に生まれた子供で、「皇位継承者」の少なかった時に天皇に成った。
    「伊勢青木氏」は第一子の「湯原王」の子孫で従兄弟の縁者関係にあった。
    聖武天皇期に男系の皇位継承者が居なくなり、女系天皇が続いた結果、正規に皇位継承者が無く成り、それに「準ずる者」として「施基皇子の子供達」に順番は廻って来た。
    継承者は皇奈良期末期の「皇親政治」の一員であった。)

    この「逸話」から、この天正期に会った事に対して読み取れる事としては、先ず“「福家の人物」”と会ったのは、口伝では「徳川家康」と伝えられているが、「頼宣」(1602年−1671年)が紀州藩主に成ったのは正式には1619年頃に成るが、既に、この前に、「逸話」から観て、「主君」と成っている人物は「家康」であって、「家康」が駿府から「松阪」に来ていたのではないかと思われる。
    この時に、新宮から尾鷲に掛けて紀州を下検分していた可能性があり、その時に、「四家福家の信定」との「逸話の行り」に成って会い、逸話の“「呼び出し」”が松阪であった。
    そこで「談合の予備交渉」が家康と行われたと考えられる。
    この時が1603年と成ると観られる。
    1605年に「伊勢面談」とあるので、「伊勢青木氏」と「徳川氏」の間で「話し合い」をしていた史実(神明社等を徳川氏に譲り渡した)が有るので、この「逸話]の“「福家の者」“は、”1605年に新宮に引いて没した“とする史実から、「青木信定」の「伊勢の戦い」に当たった当事者と云う事に成る。
    この”「松阪での面談」”の終わった後に、新宮で没したと云う事に成る。
    依って、新宮に引いた年数は1603年と成る。
    そうすると、この1619年に新宮に居る「福家」は無いので、「後継者の福家」は、この時は「松阪」に居る事に成る。
    そうすると、紀州藩は1600年に先ず「関ヶ原の勲功」で「浅野氏」に与えられた。
    そして、その後の1619年に「頼宣」に引き継いだ事に成っているので、「福家」が「新宮」に引いた時期は、「伊勢の状況」が安定した時期に成る筈である。
    だから、依って、1601年に「青木氏内の騒ぎ」が安定し、「商い」もそれに合わせて盛り返したのは1602年以降と成る。

    そうすると、前段の「青木氏年譜」の”「伊勢談合」”とある1603年に、「事の始末」を「伊勢衆」等と共に付けた「後始末」の後に成る。
    つまり、1603年の「後始末」の後に「新宮」に隠居した事に成る。
    1603年と成れば、その人物は、伊勢解決後の「秀吉の青木氏家臣説」で“「騒ぎとなった問題の責任」“を採って「四家の人事異動」をした。
    そして、その後に引退していた「信定」と云う事に成る。
    この「信定」は「新宮」に引きさがって2年後の1605年に没している。
    とすると、1605年の「松阪面談」は、「青木氏の守護神と神明社−5」にも論じた「別の寺記録」から“「徳川氏との秘密会談」”を指していると思われるので、この会談が終わった直ぐ後に、「引退した事」に成る。
    その年の内に「新宮」に戻り年末に没した事に成る。
    そうする、この「逸話」に遺された「福家の人物」と「時期」と「場所」は、人物は「信定」で、時期は1603年で、場所は当然に「新宮」と成り、1605年の中頃(逸話の柿の行り)に新宮で家康と会い、その後の直ぐの“「呼び出し」”で、1605年に一度松阪に戻った事に成る。
    その時に家康に面談した後に「四家の継承などの始末」をつけて「新宮」に再び帰って、その年の末の11月末に没した事に成る。

    この「逸話」の内容を分析すると、上記の様に色々な「青木氏の行動の事」が詳細に判って来る。

    この「逸話」の分析を続けると、次ぎの様に更に詳細が観えて来る。
    先ず、「逸話」内の”「馬に紋付き袴の白装束」“には、特別な「皇位の慣習」であり、それには意味があって、先ず一つは「青木氏の家柄」を顕著に伝えている事に成る。
    更に、この「逸話の行り」は、「青木氏の決定的将来」を決めた“「青木氏と徳川氏が面談した事」“を意味しているのであって、”「呼び出し」“とは成っている行りは、「新宮」から「松阪」に出て来るように表現した意味である。
    この「逸話」には漢文的に”「三日」“の行りは、”「直ぐ後」“の事を意味する。
    ”「門前と書院の出来事」(伊勢館)“の行りの意味は、「面談の内容」を指し示す事に成る。
    両氏の「氏と家の事」に付いて、話し合った事を意味している。
    “「鉄砲と柿」”の行りは、手広い商いの「総合商社」と成っていた「二足草鞋策」を意味する。
    これは明確に「青木氏の状況」を伝えている。
    “「猟と民」”の行りは、南伊勢や南紀州が「旧領地や遠祖地」であった事を意味する。
    “領地視察と鷹狩りを兼ねた形で巡視した”とする行りは、次ぎの様な事を意味していたと考えられる。
    それは、「青木氏」が「悠久の歴史」を積み上げた“「賜姓五役のお役御免」”と、その“「社寺一切の財の権利移管」”、“「青木氏が建立した浄土宗寺の密教性の解除と寺引き渡し」”、「伊勢大和紀州域の土地権利の保全安堵」、等々の事に付いて面談した事が判る。
    その後に、「事務的な話し合い」を続けた事が前段の「青木氏年譜」からも判る。
    「寺記録」では、この時に「青木氏との血縁」に関する「秘密裏の話し合い」も持たれた事が表現されている。
    恐らくは、これが「立葵紋の青木氏の事」に成った「話し合いの基」であったと観られる。
    この時に、“「直近に決着を就け様としている問題(夏冬の陣)」“があるのに、「先の事ばかりを話し合う」”と云うのも可笑しなことで、「合力要請の話」は出ていた事は間違いはない。
    “家臣が脅しをかけた道端“の行りは、「青木氏の氏是の姿勢」を物語っていて、何事にも動じず、媚びず、阿ず、晒さず、憚らず、の姿勢を毅然と持つ事を諭している。
    「信定」没後の1年後の、1606年には“「伊勢談合」”とあるが、1605年の「松阪談合」の後続けられていた「話し合いの結果」が出たところを観て、「向後の事」に付いて、新旧合わせた「伊勢の一切の勢力」が集まって話し合ったと考えられる。
    それが“「伊勢」“と云う表現に成ったと観られる。

    筆者は、1605年の「松阪面談」には、伊勢を纏める事に付いても1年間を通じて事務方で話し合っていたと観られ、それが「伊勢談合」となったと考えられる。
    その結果、「伊勢」を始として、「四家」も合わせて安定したと考えられ、「新四家福家体制」で「青木氏」は進んだと観える。
    其れが、「1607年の表現」と成っていると考えられる。

    「一つの逸話」は、その「氏家の事柄」を「物語風」にして「口伝」で伝える「古来の手段」として観れば、そこにその「氏の前後の歴史観」を加えて解釈すれば、この様に、紐解く事が出来る重要な手段と成り得るのである。

    注釈 そもそも、「青木氏」は、“家康と伊勢松阪で会った事“は、初めてではない。
    「夏の陣」の名古屋で、秀忠を待機中に、「青木氏に対して合力の打診」をしている。
    この事は「青木氏年譜」にもあり、「伊勢衆」と談合して、「合力」とその「内容」を決めて、その答を「次の福家」は「家康」と名古屋城で直接面談して伝えている。
    この事に付いての外部記録もある。
    「家康との面談」が二度もあると云う事は、夏の陣で、書状で「合力要請」が在ったと云う事は、その前に「面識」が在って、“それなりの誼を通じていた事”を意味し、「二度目の書状」で済ませる事が出来たと考えられる。
    「向後の青木氏の立場」のみならず、“直近に起こる決戦の合力”に付いても打ち合わされた事が読み取れる。

    筆者は、全ての「口伝」は、その意味で、“その氏が自らの「氏家の事」の為に自らが証明する事が出来るもの”として重視している。
    しかし、この「逸話」などの「口伝」等は、現代社会では兎角消えがちである。

    この「江戸期の逸話」には、未だ続きがあって、これを紐解けば、更に、「青木氏の伝統」や「先祖の生き様」が未だ浮かび上がって来るのである。
    “「昔の伝統」”を適格に伝える手段で見逃してはならない「四家の伝統」であったのだ。
    この「逸話」は、「青木氏の守護神と神明社」等の論文にも記したが、敢えて、「四家の伝統」として「重要な史実」を掘り起こせる事としてここに記した。
    「本逸話」の『24までの行り』ももっと掘り起こせば、先祖が「逸話に託した事」が読み起こせるかも知れない。

    上記した戦略上では、「北畠氏」にしろ「伊賀氏」にしろ「青木氏」や「伊勢衆」に執ってしてみれば、あくまでも、「伊勢の混乱」を誘引した「招かざる北畠氏」「旧領を奪われた氏」とすると、仮に多少の「付き合い」は合ったにせよ、「命」を賭してまでの「相手」では無く、“「義理立て」の範囲”程度であった。
    あるところでは引くべきが「本道」の「基本戦略」であった事から、「当初の戦略上」に則り、「紀州の遠祖地」に引いた事なのである。

    この「青木氏」に遺されている幾つかの「青木氏逸話」と「青木氏年譜]と「青木氏遺資料」を組み合わせる観ると、「逸話」は「逸話」で無く成る。
    これは明らかな「青木氏史実」である。
    つまり、この「逸話」のある処には、年譜は兎も角も、それを物語る何らかの「青木氏遺資料」も不思議にあり、「青木氏の生き様」が観えて来るのだ。
    「青木氏」も例外では無かった。
    当初、この事に気が付かなかった。”ただある所に在る”と云うものでは無く、「青木氏」の場合だと、「二つの伊勢青木氏」に関係の深かった「郷士衆の家」に在る事が多かった。
    これは、「氏家制度」或は「四家制度」と「郷士制度」と「部による職能制度」云う組織形態が確立していた証拠であろう。
    長い間には災難があって概要は何とか遺せてもそれを証明する資料となると難しい。
    それを”互いに組織を通じて都度やり取りする事”があるから遺資料などとして遺せたのであろう。
    「青木氏には職能の独特の家紋制度」を採っていたので判るのだが、手付かずの職能集団の「部人の家筋」には未だ『重要な遺資料」が眠っていると観られる。
    「職人集団の独特の逸話や口伝」があると観られる。
    これを研究すれば、まだまだ「青木氏」を掘り起こせるだろう。
    取り分け、「横の関係」が詳しく観えて来るかも知れない。
    現在では、これらの「逸話」から”他の地域の青木氏の生き様”も予測する事には成るが、これを具現化出来るかも知れない。
    他の地域の「逸話」も集めてはいるが、「史実の年数」が掴めなくてなかなか難しくて具現化までに至っていない。

    同じく、この直前と観られる“「伊勢衆合」”とあるのは、「青木氏」等を含む「伊勢者」を集めて密かに「氏郷」が「伊賀の乱収束後の戦略」を打ち合わせていた事を物語るのではないと観られる。
    当初の戦略上に則り、「本領安堵」に向けた「お膳立てとその内容」を打ち合わせたと観られる。
    其れが、一度目の“「新宮避難」”(二度目は逸話の行り)と云う形に成ったと考えられるが、ところが「本能寺の変」が起こって、度重ねた「談合」“の「戦略の狂い」がここで狂ったのではないかと観られる。
    それが「秀吉との絡み」で「青木氏の内部」で問題と成って騒ぎが起こった事も読み取れる。

    つまり、「伊勢」に執って、“「秀吉に対する協力体制の如何」“で「意見の違い」が「四家」の中で起こったと観られる。
    この「青木氏年譜」から「青木氏」には「明智光秀の賛否」は当初からなかった事を物語っている。
    結局は、「伊勢収束」後に、「本領安堵」によって、上記する様な「秀吉」に依る「青木氏家臣騒動」が起こって、「青木氏内部」でも混乱していた。
    丁度、その時に、「氏郷」が「奥州転封」(1590年)にて「青木内部」がより不安が広がった事に成っている様子が観える。
    この様に「同族の氏郷の存在」が、「二つの青木氏」の“「内部の重石」”に成っていた事が観える。
    結果、「関ヶ原」(1600年)で「青木氏内部の混乱」が収束し、逆に、「関ヶ原」や「冬夏の陣」で、“軍需に依る「商い」”が繁盛し上向いた事も判る。
    それと共に、その時の「福家」(信定)が病没(1605年)して、「四家方式」で「組織の入れ替え」が起こった。
    この為か、「新しい態勢」で「四家内部の結束」が戻った事が判る。

    「近江の混乱」と書かれているが、これは「蒲生氏の氏郷の跡目の問題」(1600年)で近江が混乱状態(忠元の親の里)に陥っていた事が、「二つの青木氏」にも計り知れない「大きな影響」を与えていた事が判る。
    既に、この時は、縁者でもあり、“「青木氏」を救ってもらったとする感謝の念”と共に、「氏郷」が「奥州に転封後」であったが、「近江伊勢の商い」(摂津店)での影響等も含めて、「商業関係のつながり」にもそれが「大きな憂い」と成って居た事を示している。

    (注釈 秀吉が「蒲生氏郷の才覚」に嫉妬して遠ざけたとする説もあり、これを見抜かれない様に伊勢より知行を倍増、実態は約4倍にして転封したとする説もある。
    この事は充分にあり得る事で、「二つの青木氏」ではこれで騒いだ事も考えられる。
    「氏郷の恩義」だけでは、この「青木氏年譜」に描かないであろうし、「談合」と云う手段を重ねないであろう。
    これは「家臣説」も含めて「秀吉に対する憤懣」が、「伊勢シンジケート」の内部も含めて起こっていた事を示すものであろう。)

    これには、「豊臣−徳川の勢力図」が一挙に変わり、先の起こり得る「夏冬の陣」の混乱も見据えて、可成りに「青木氏の混乱」があった事が判る。
    親睦な「伊勢シンジケート」などからの「突き上げ」が在って、“「北部談」”とあって「談合」を重ねていた様子があり、未だ混乱して居た事が読み取れる。
    現実に、散会していた「伊賀のゲリラ衆」が城を一時的に奪還した記録が外部の別の記録で記録されている。
    この事から、「青木氏」の「伊賀一部の本領安堵を受けた北部域」では、未だ騒がしく成って居た事から、「伊賀北部の郷士」等と談合を成されていた事が判る。
    こんな中で、結局、「氏郷の恩義」に従って、「豊臣側に陣するかの問題」が提起されていた事も判り、「冬夏の陣」の前に、結局、「徳川氏に合力する談合」が成されている。
    「外部記録」では、上記した様に、「家康」が名古屋にて「伊勢衆」に「合力の打診」が成され、この為に、三か月も答えをしなかった事が記録されている。
    「青木氏年譜」の“「四日市談」”の意味が、何を意味しているのかは良くは分からないが、恐らくは、「南域の北畠」と「北域の伊賀」と「東域の長嶋」には、「外部記録」には観られない“不穏な「ゲリラ戦」”が未だ多く各地で散発していたのではないと考えられる。
    それを「伊勢四衆」が集まって”どうするかの談合”をしていた事を意味していると考えられる。
    ここには、“「紙屋」”とだけ「添え書き」されている。

    この事から、「四家」の「四日市殿」が「仲介」で、「紙屋長兵衛」と「秀郷流青木氏の忠元」と「徳川氏との談合」が密かに事前に成されていた事も考えられる。
    「徳川氏合力」に向けて未だ「不安定な伊勢域」の事も踏まえて答えの出せない「伊勢域」では、「合力」そのものも合わせて、“どの様な形の合力”をするかを苦慮して「談合」が行われたとも観られる。
    「四日市談」と云う事は、「四日市殿」とは江戸期直前に新しく加えられた「四家」の一つであり、「忠元家の青木氏」と「信定家の青木氏」との「融合族」ではある。
    この「四日市殿」が「談」と有るので、“何か話を持ち込んで来た事”を意味するとして、「忠元の青木氏」から「四日市殿」に「仲介の話」と成ろう。
    その話は、「武蔵入間宗家の青木氏」からの話と成れば、当然に「関東の徳川氏」からの話を仲介した事に成る。
    この「四日市殿の仲介話」は、当然に、「冬夏の決着」に向けての合力を「二つの青木氏」に通した事であり、「伊勢域の郷士」、つまり、「伊勢シンジケートの合力」を調略して来た事に成る。
    この時期にも、散発的に「ゲリラ戦」が伊勢−紀州−河内域でまだ続いていたと成れば、「伊勢シンジケート」は、未だ、納得していなかった事に成る。

    1583年に「北部談異変」。1583年に「四日市談」。1584年に「伊勢解決」。と「青木氏年譜」の記録にあるのは、「伊勢シンジケート」を最終的に納得させて、それを纏めて「合力」は定まった事を物語る。
    現実に、それ以後、散発していた「ゲリラ戦」は「外部記録」では出て来ない事から収束している事に成る。
    「冬夏の陣」に向けて、「北畠氏、伊賀氏、伊藤氏」の三氏傘下にあった郷士等は、「伊勢の一連の戦い」で各地に散会していたが、再び結集して、「伊勢シンジケート」の保護下に加わり、”再構築した”事を物語る事に成る。
    この為に「ゲリラ戦」が収まった事のみならず、「統制のとれた環境」が伊勢に生まれた事に成る。
    つまり、この談合は、詰まり処は、この「結集」と「合力」の話であった事に成る。
    従って、「青木氏年譜」に“「伊勢解決」”とあるのはこの事を意味しているのであろう。
    この解決に要した期間は、”「北部談異変」”から”「伊勢解決」”までに凡そ10か月程度、「話し合い」に入ってから三か月以上が掛かった事に成る。
    結局、「夏の陣」には、本譜でも、「伊勢シンジケートを動かす談合」をしていて、「伊勢青木氏」の「別のある書」には、「伊勢路」と「大阪と伊勢間」の「沿道の警備」と、「食糧の準備」と、「傭員250人」で合力する事を決定している。
    この「決定事項」に付いて、「松阪」で家康代理人と面談していて、それを代理人が家康に伝えた事が外部記録に記述されている。
    そして、その後に、「四家の福家」と「伊勢秀郷流青木氏の者」(名は不明)が、上記した様に、この「決定事項」を以って「家康と二度目の面談」を「名古屋の館」(城とは書いていない)でした事に成っている。

    注釈として、 「城」では、「家康の勢力図の武の傘下」に入った事に成るし、「青木氏氏是」に依って「武の戦い」は表向き出来ないし、「家柄官位官職」などは「徳川氏より上位」で、衆目上は「権威の象徴」である事から「徳川氏の段取り」として、配慮として「城」では無く『館』を選んだ事に成る。
    記載されている「合力内容」も、見事に「戦いの範囲」を超えていない事が判る。
    そもそも、道理から観てこの様な「合力の差配」は「談合」以外には上手く収まらないであろう。
    この「青木氏」に対して、「二度の面談の徳川氏の配慮」が際立って観える。
    この辺から、“「松坂面談」“を期に、「青木氏側」は、「徳川氏」に対して心底から傾注して行く様子が伺える様に観える。
    「松阪面談」と、この上記の「天正期逸話」には、“江戸期に入る青木氏の立ち位置”が、明確に物語っている。

    筆者は、「1605年の松坂面談」には、上記した事だけでは無く、可成り「人間的な信頼感」が相互に生まれたと観ている。
    「青木氏」に執っては、“「第二期の皇親政治の到来」”とまで心勇んだのではないかと考えている。
    現実に直接的に政治に関わる事は無くしても経済的な関わりを含めて間接的に大いに関わった。
    中には「享保の改革」や「紀州藩の勘定方を指導」するなど「吉宗の親代わり」で育てた等その様に成って行くのである。

    この「紀州藩への関り」に付いては、「逸話や口伝」が多くある。
    「逸話や口伝」を、”敢えて恣意的に遺したものではない”と思われる。
    恐らくは、「四家の福家」が恣意的に遺したのではなく、「四家の周囲や家人や郷士衆や部人衆」の間に「話の話題」として上り、”それが何時しか「物語風」に伝えられ始めた”とするのが「話の本道」と観られる。
    それは、「四家に遺る逸話口伝」と、「家人の家に遺る逸話口伝」と、「郷士衆の家に遺る口伝逸話」と「部人の家」に遺されたものが、その意味するところが不思議に余り違わない事がそれを証明している。
    作り上げられたものと云うよりは、何時しか家に伝わる「話の話題」が、「四家」や「家人」や「郷士衆」や「部人衆」の「家伝や家柄」を示すものとして自然に出来上がっていったと観られる。
    普通はこの家柄などを誇張する手段とする場合は、[誇張や虚偽」が「逸話口伝」に兎角、目立つ。
    これが目立たないのは、「四家、家人、郷士衆、^部人衆」との間柄が大正期まではっきりとしていた事から誇張や虚偽は出来なかったと観られる。
    むしろ、「郷士衆の逸話口伝の話題」には、「射和商人の事」を始めとして「青木氏との関わり」を遺している事が目立つ。
    上記した様に、「郷士衆の家」から発見された史実には、上記した様に「紙産業の殖産拡大」や「農業の改革」や「養蚕業の育成」の事が四家の逸話口伝を証明するかのように多く遺されていた。

    「逸話口伝」と関わりのある事を更に分析を続ける。
    そこで何はともあれ、この「関わりの決定的な証拠」は、“「立葵紋の青木氏の発祥」”が、これを大きく物語っている。
    この事一つで、“「青木氏の全ての立ち位置」”を大きく換えたとも云える。

    (前段の「伝統」で「立葵紋の青木氏の事」を論じているので詳しくは参照)

    ただ、この様に「文章表現」にも、「外部記録」とは相違も観られるが、何も「外部記録」だけで「青木氏」を証明する必要は無く、「青木氏」に其れなりのものを持ち合わせていれば、「青木氏」に執っては意味を持つ。
    大方は、「伊勢」と「青木氏」から観た表現と成ってはいるが、「青木氏の歴史観」をもっと伴わせれば、更なる「逸話の様な事」も持ち込んで、検証すれば史実を掘り起こせる事が出来ると感じられる。
    「無形の伝統」を論じる場合、「青木氏」は「密教」であった事もあり、ただ一つ遺された「賜姓族」であった事もあり、ただ一つの「古代浄土宗」であった事もあり、そこに「生まれた伝統」には、「青木氏」自らが証明しなければならない「宿命」を持っている。
    他氏にはない絶対に無い事のみならず理解されにくい事の”「青木氏だけの伝統」”でもある。
    そこで、少し戻って、「青木氏年譜」から、更にこの”「青木氏だけの伝統」”を甦らせて試る。

    「織田信長」との「面談による話し合い」と観られるのは、“「伊勢和合」”の表現と成っている。
    “「伊勢」”と表現しているのは、「二つの青木氏」(信定と忠元)が、「伊勢衆」を含む「郷士集団」を代表しての事と観られる。
    この時、「信長」と直接会ったか、その場所等は外部記録では不明記である。
    しかし、場所は、“「寺修復」”の事で裏付けられる様に、”「伊勢菩提寺」”で会った事までは、この「青木氏年譜」でも、「寺資料」からも辿れるが、「信長本人」が出て来たかは今は辿れないので判らない。

    もう一つは、「松阪の菩提寺」であろうとは思うが、「津市の分寺」の寺かは今は判らない。
    状況からは、”「修理」”は両方であろうが、「信長面談の場所」は「松阪の菩提寺」であった事が頷ける。
    この“「寺修復」”は、「信長の伊勢三乱」で“ある程度に焼き討ち等で攻撃された事”を意味している。
    然し、筆者は、「有名な激しい殺戮戦」を受けた”「攻撃された避難民」”が、この「二つの寺」に「救い]を求めて逃げ込んだと観ている。
    ある程度の「ゲリラの背後関係」が疑われていた事が読み取れるが、外部記録を参考にして、“「村人3000人が殺戮された」“とする記録もある事から、織田軍の激しい追跡で「ゲリラ」や「村人」が、遂には、「青木氏菩提寺」に逃げ込んだ事もあったと観られる。
    それは、「青木氏の菩提寺」には、「蒲生氏郷」もいる事でもあるし、その「親族の伊勢青木」もいる事でもあるし、「信長」はある程度は「他の寺」よりも、”危害を加えないだろう”と云う「不入不倫の権」の「古来からの風聞」もあった事が影響して、追われた民は逃げ込んだのであろう。
    「信長の激しい殺戮」は、「村人3000人」とすると、「6村」に値し、「1郡」に相当する。

    そもそも、国は「5郡」程度と成っているから、事実とすると、例え様も無い凄い殺戮であった事に成る。
    織田軍も不意を突かれて6000人が死んだと記録されている。
    「総大将の信雄」も討ち死に仕掛けたと記録されている。
    悉く「寺」は焼かれ、記録では僧侶は700人死んだと成っている。
    この数字からは、「伊勢の殆どの寺」が焼かれた事に成る。
    「生き残った村人や兵士の者」が、この「青木氏の菩提氏の寺」に逃げ込んだことを意味していて、そこを焼き払い、燻し出して出て来るものは悉く討ち取られた事に成る。

    僧侶700人と成れば、古来の村郡国は4から5の構成から成り立っていた事から、最大で125村に成り、そこに寺が1村2寺とすると250寺、そこに僧侶が平均4人とすると、7割は殺戮された事に成り、「青木氏菩提寺」に逃げ込んで来る可能性は当然の事として10割と成るだろう。
    「伊勢の寺」の「殆どの寺」は焼かれた事に成る。
    この事から、奈良期から「不倫の権」で護られていた「青木氏菩提寺」を知っていた民衆や兵士は逃げ惑い乍らも護られると観て逃げ込んで来た事は間違いはない。
    「青木氏菩提寺」は、上記した様に悠久の「不倫の権」にあった為に、「信長」でも手は出さないだろうとする「安心感」があったし、「ゲリラ戦」であった事から外に出ない「青木氏」には手を出さないだろうとする信頼も在った。
    唯、「攻める事」はしなくても、“火を放って炙りだそうと脅しをかけた”事は否めない。
    幸い記録から、「寺内の殺戮」は無かった事が寺資料から判る。

    「伊勢の五戦」での「伊勢側での犠牲者」は、「村人3000人、寺関係者等700人」程度等となる。
    これは、当時の村単位500人を前提とすると、何と伊勢北部人口の一割以上に相当するとすると、どれだけ「村人」は逃げ迷ったかは良く判る。
    因みに織田側で、全体で兵士6500人程度の戦死者を出している。
    最早、これは「ゲリラ戦」と云えども、両者は「戦い」から「殺戮修羅」に成っていた事を物語る。
    つまり、「青木氏」が我慢しきれないで「表」に出る可能性のある“際どい戦い”に成っていた事を「青木氏年譜」からでも物語る。
    普通なら表に出て仕舞っていただろう。
    然し、「青木氏の氏是」がこれを押し込んだ。

    「四家」にしても、「織田側」にしても、“何処かで終止符を打つべき時を見つけねばならない“とする考えはあって、「四家」でも議論に成っていた事が「青木氏年譜」でも判る。
    結局は、「四家」では、そこで、強硬派を押えて「秀吉−氏郷の斡旋仲介」を試みたと考えられる。
    その時期が、「北畠氏−伊藤氏−伊賀氏」と続いた「伊勢の最後の態勢」が決まる「伊賀の戦い」(1581年)のその時と観ていた事が判る。
    兎に角iも、会う所の「場所設定」をした事に成るだろう。
    その為にも「青木氏部」で「自ら修復した事」が判るし、“「寺修復」すると云う事”は、どんな形にしろ「信長」が来ると云う事も物語っている。
    この事は、研究中であるが、「影のゲリラ戦」で応戦した「青木氏」であり、「直接敵対した相手」では無い事から、「第三次」と云われる「伊賀の乱」の終了後の1581年10月9日に、「信長」は現実に伊勢に入国して視察している。
    この時に、「秀郷」と共に今後の「伊勢平定」で会っている可能性が充分に有る。
    その意味では、“顔を出す程度”であった可能性が有る。
    戦略的にはこれで良かったのであってそれ以外には無いだろう。
    「伊勢の戦い」で「二つの青木氏」が直接会う大義が「ゲリラ戦」である以上は無い。
    従って、「青木氏年譜」から観て、前後に何らかの「伊勢の談合」を繰り返している事から、「代理の可能性」が高く、「蒲生氏郷」に任して代理と成った可能性が読み取れる。
    「ゲリラ戦」であった事は明明白白なので、その事から考えてそれ以上は、「信長の主戦者」はいない事に成ろう。

    そこで、”「伊勢衆」”で主に構成している「伊勢シンジケート」に発言力を持つ「二つの青木氏」と会って、「会合と云う形」で間接的に話を着けようとした事が「青木氏年譜」の談合の様子で判る。
    「事の次第」を治める為に談じる事を「談合」とすると、「談合」では無く「会合」であった筈である。
    「信長」気に入りの同族の「蒲生氏郷」が全て自然に取り計らっていた事は云うまでも無いからだ。
    当然に従って、「蒲生氏郷」に「青木氏の結論話し」を廻す事が必要と成る事からも、この時期、事前事後に、度々、「伊勢シンジケート」と談合している。

    「伊賀の乱」は、外部資料では、「三次の乱」(伊賀城、比自山城、柏原城)であるが、最後の1581年末の「柏原城攻め」では、「伊勢域全体のゲリラ戦力」で「蒲生氏郷」は虚を突かれて苦戦するも、滝川氏に助けられ、何とか一応は形の上で解決した事が記録されている。
    しかし、これを以って「伊勢周辺の戦い」は兎に角は収束に向かうが、その後も「ゲリラ戦の混乱」が散発的に続いていた事が「青木氏年譜」からも判る。
    外部記録では第三次では終わっているが、更に戦いは続いている事も判る。
    「ゲリラ戦」による「外部記録の柏原奪還戦」からも一致している事が判るので、この事からも、「信長の徹底戦法」とは異なる故に、「蒲生氏郷」であった事が伺える。
    この時に、この「伊勢の指揮官」であったのは「近江蒲生氏郷」であって、「毛利攻め」の為にも、“「伊勢」“を兎も角も安定させる意味でも、「ゲリラ戦」を指揮していた「二つの青木氏」が仕掛ける「信長の影の背後脅威」をも取り除く意味でも、「二つの青木氏」の「縁籍族」の「蒲生氏郷」が最も“談合に最適な人物”として代理したと観られる。
    「信長」除いてこの「氏郷」以外には代理は務まらない。
    「外部記録」に載っていない事、“「四日市談」”や“「伊勢談合」”等が記録されていて、当時の「伊勢の状況」が読み取れる。

    (注釈 「外部記録」が全て正しいとしての推理で理解される方もおられるが、筆者は、「外部記録」の論説は、「我田引水の論調説」が多いと観ていて、それを恣意的に通説化して正当化している傾向が強いと感じている。)

    本論の様に、「内部資料」から観てみると、「外部記録」には矛盾が目立つ事が云える。
    特に、室町期末期から江戸中期までの資料は、幕府が容認する姿勢を見せている様に、権威確立の政治上の配慮から“「搾取偏纂」”が殆どであり、歴間で突き詰めると矛盾が浮き出る。
    通常は、その「外部記録」や「資料」の「信頼性」を100としての論調が殆どだが、まじめな論説者は“「後勘に問う」”としている。

    (注釈 一方の「外部資料」による第三次とする「伊賀攻め」には、一方では、“信長は、「伊賀氏の大将」を「武にある者」は斯くあるべしとして務めたものを誉めそやし許した”として、自説に肯定的に都合よく偏纂している。
    しかし、全く同じ場面を、他方の「外部記録」は、“信長は、村人を含む数千人を皆殺しにした”として、「伊賀氏」を全滅にしたと否定している。
    伊賀氏のみならず「長嶋の戦い」も同じ偏纂が起こっている。)

    (注釈 そもそも、「本願寺石山城外のゲリラ戦」との区別がつかなかった事からの、「伊勢の悲惨な戦い」と成ったと観られる。)
    (注釈 敵対した「三氏殲滅」の「信長の戦い方」は、“誰が敵で味方か判らない「二つのゲリラ戦」の混合であった”為に、敵味方共に全滅に期した事は確かで、後者は正しいのだが、この様に、歴史家の自説を通説化する為の偏纂が目立つ。)
    (注釈 幸い、「青木氏」には、他氏と異なり、何とか搔き集めた「自己資料」も何とか遺されているので、「外部資料との差異」を具に発見できる。依って、「恣意的、故意的な通説化」が見抜けるが、況や、これらの「青木氏年譜」をも踏まえての「本論の論調」と成っている。)
    (注釈 信長自身が「毛利攻め直前」で「武田氏」を滅ぼしたが、未だ「伊勢の事」を放置して「高松攻め」には移動しなかった筈で、この時を境に「当面の打開策」は見出せたと観られる。 しかし、「本能寺の変」(“・「美濃騒動」”)が起こって一時中断し、その後に「氏郷」に「伊勢の収集整理」を任したと成る。「青木氏年譜」の“「美濃騒動」”の表現としたのは、「氏郷の父」が「美濃の守備隊」であった事から間接表現としたと観られる。)

    その後の変の後に、この「面談事」が下で、「権威」のみならず、その「絶大な影の力」をも、「秀吉自信」が取り込み、“ 青木氏と関係ある豊臣家”として誇張して、実のところは、“青木氏族の形で取り込もうとした行為“であって、遂のところは、「本領安堵」を根拠に「秀吉の青木氏家臣説と親族説」の元と成ったと考えられる。

    (注釈 それを、後刻、“「秀吉」“を信望する歴史家が、「青木氏」が反対しない事を知った上で、所謂、上記した矛盾を多く含む「福井逃避説」等を編み出して、「自説」を正当化する為に歪曲して、世間に「通説化」を成し遂げたものであろう。
    「青木氏」からすると、明らかに「歪曲の搾取偏纂」である。)

    そこで、話を戻して、これらに反論する意味でも、「青木氏の立場」をもう少し検証して観る。

    「青木氏の立場の検証」
    つまり、これらの長期戦化した“「ゲリラ戦」”では、四家の”「5つの面 20の顔」”がある事に依って、相手から観れば、”誰が敵かが判らない”と云う事が起こっていた。
    「信長側」では、「本願寺城外のゲリラ戦」か、影で図らう「青木氏のゲリラ戦」のどちらの敵であるのかは判らなかった筈であり、この「周囲の影響」を受けて長期戦に落ち至っていた。
    「信長側」では、1580年に「顕如」が和睦を認めたにも関わらず、納まる筈の「ゲリラ戦」が続く事に疑問を持っていた事に成る。

    (「外部記録」は一つにして論じている。ここにも「人時場所)の「矛盾」が出ている。)

    この時、丁度、「石山本願寺との戦い」が城外戦化して起こっていて、周囲では、「一揆」も頻発して、「石山一揆」(1580年−1581年)なのか、「伊勢衆の反撃」なのか、「紀州衆の反抗」なのか混在して、まさしく”誰が敵なのか”は、「信長側」では判らなくなっていたと観られる。

    (注釈 外部記録から観ると、何れ「ゲリラ」なのかは判別が就かない証拠として、織田側は、「寺僧侶の皆殺し」や「ゲリラ村の村民を皆殺し」にする等の殺戮を繰り返している。
    1562年から1584年までの12年間、特に後半には焦りから激しさを増した。本願寺の顕如が抵抗を止めた結果、これらの全ての「ゲリラ戦」がぴったと止んだかの様に記載されているが、青木氏等の多くの記録では、実際は散発して長く続いていたのである。)

    「青木氏」の「伊勢シンジケート」は、然りとても、「ゲリラ戦」を有効的にする為に、多くの資料から「紀州−伊勢の石山一揆」と連動させていたと考えられ、内部で内通していたと考えられる。

    (注釈 歴史上では、“石山から「檄文」が紀州の「農民信徒集団」に発せられている史実”が見つかっていて、この存在も無視した「外部記録」となっている。紀州の「三つの傭兵軍団」はこの「檄文」に参応して動いている。
    「外部記録の編者の歴史家」が、この「檄文の存在」を知っていれば、「外部記録の様な通説化」の論説には絶対に成らない事に成る。)

    その証拠と成るものを探索した結果、偶然に遺された「商業記録」の一部には、この時期の「堺店」での「船の動き」があって、それが少し状況から観て変である。
    そこで、当時の事の背景を検証して観ると、「青木氏」としては、「河内のシンジケート」と「ゲリラ戦」で連携しょうとすれば、陸では「信長軍の独断上」であり、そうすると、当然に「山間部」を「ゲリラ戦」では使う事に成る。
    そうすると、「織田軍の秀吉」はこの「山間部のゲリラ戦」を突破して「物資の供給」をしなくては成り立たない。
    そうすると、南北朝の足利軍と楠木正成の戦いで、足利軍の10万の中で、この山間部のゲリラ戦で食糧不足に陥り2万の軍勢が餓死寸前と成った戦歴もある。
    「織田軍」は、この戦歴を知っていて油断は出来ない。
    其れには、「陸」は無理であるとすれば、「船」を使う以外には無い。

    中部の「今宮シンジケート」は「陸のシンシンジケート」、「河内シンジケート」も「陸のシンジケート」、そこで、唯一、「港と船」を重要拠点に持つのは「伊勢シンジケート」と成る。
    この「堺港の不思議な船の動き」は、この事から来ていると観られる。
    寄港していた「紀州中部の漁港」は、未だ信長の勢力外で、「伊勢青木氏」の「家人の定住地」にも成る。
    「秀吉の紀州征伐」が1584年に行われて形式上は一応収拾がついているが、伊賀では残存兵が集まり未だ遺っていた。
    この深い下津港のリアス式港に大船は入れられる。
    現在は石油コンビナートの港にも成っている位である。
    ここは、紀州北部の中間地の沿岸道からの「熊野古道の入り口」でもある。
    ここから紀伊山脈の山岳部に入れる。(高野山にも入山可能な港)
    上記した様に、「石山本願寺城外」の「ゲリラ戦」に「浄土真宗の座主の顕如」は、紀州伊勢領域の農民信徒に“「檄文」“を飛ばしているが、この事から、「信長」に対抗する「河内の土豪集団」の「河内シンジケート」は、ここからであれば、この紀州河内一揆に援護が出来る。

    (最初、「河内シンジケート」は、取り分け「傭兵鉄砲集団で雑賀忍者族」等は、上記した様に、「秀吉の仲介」で信長と仲が良かったが、「石山本願寺攻め」等の事からの「路線の違い」から、反抗した。その後最終戦を行い討伐される。)

    これが、「伊勢青木氏」が「堺支店」のここで連携を採っていたと観られる資料である。

    しかし、そもそも「今宮シンジケート」は、戦略上、「秀吉」を強力に援護している事から、情報が漏れる恐れがある。
    「伊勢青木氏」は、「今宮シンジケート」との連携には、秀吉が絡んでいる事は承知していたので、その「動き」には注意を払わなくてはならない筈であり、現実には難しく、連携には、それを示す証拠類は全く見つかっていないし、「青木氏年譜」にも出て来ない。
    「今宮シンジケート」は、郷士土豪などの「武の集団」を使っての行動する集団では無く、「神社系の組織」を主に使って、「土地の氏子集団」と関連の縁故から、「情報」や「斡旋」を裏ルートで行う「シンジケート」である。
    一方、「青木氏」に執っては、全国レベルの500社にもなる日本最大の「神明社と云う直接集団」のみならず、直接的な連携の「武の土豪や郷士との連携」を持っていて、「経済的な連携」も直接に持つ総合的な「シンジケート」であった。
    又、更に広域的にも、「信濃青木氏」と連携する「伊勢シンジケート」であった事や、「甲斐青木氏との繋がり」を持っていた事から、紀州を通して伊勢から東域の横にその「シンジケート網の勢力図」を構築していた。
    従って、「今宮シンジケートの情報と斡旋」は全く必要としていなかったのである。
    むしろ、一部に食い込んでいた範囲であった。

    この様な「背景」の事から、連携はしていなかったと観られる。
    見つからないのは、そもそも、「シンジケートのゲリラ戦」は「秘匿」を前提としているので見つかり難い。
    「今宮シンジケート」は、紀州の「鉄砲製造族で傭兵軍団の雑賀族」や「山岳ゲリラ戦の傭兵軍団の根来族」や「柳生傭兵集団」や「甲賀傭兵軍団」等の傭兵軍団とは、「情報提供」や「斡旋」等の連携を採って居た事は資料から見つかっている。
    だとすると、「伊勢青木氏」が背後から「ゲリラ戦」で「山間部」より攻撃を行うには、どうするか問題である。

    それには極めて効果的な方法がある。
    それは、「伊勢秀郷流青木氏」(忠元)を通じて、「州浜紋、片喰紋、沢潟紋」の中部の「三つの秀郷一門」との連携を採る事が出来る。
    「信長」が最も恐れていた「背後」の“「尾張三勢力」”である。
    (織田軍の美濃守備隊」は「蒲生氏郷の父」)
    “毛利討伐に遠征する信長”の“手薄と成った背後”を、この「尾張三勢力」で突けば簡単に落とされる事を懸念していた。

    (注釈 現実に、織田側で議論している記録がある。
    「美濃岐阜」は、「蒲生氏郷の父親」(賢秀)が護っていた。
    それだけに「伊勢の指揮官の氏郷」に執っては「気に成る勢力」で、その勢力は「秀郷一門の同門の有力三氏」である。
    もし、背後を突かれた場合は、「一族争いの悲惨な戦い」と成る。
    その意味で、親族の「伊勢の忠元」の出方が気に成る。
    先ずは、絶対に刺激しない方が得策である。「信長」も同じ意見であった。)

    幸い「今宮シンジケート」は、“「神社系統」を使ったシンジケート”で、「シンジケート」を維持するには、先ずは「経済力」である。
    その連携に必要とする「経済力」は「今宮シンジケート」には元より無かった。
    依って、その「シンジケートの主力」は直接、「武の土豪集団」を配下にしていない為に、「ゲリラ戦での影の武力」を使う事より、各地の「土豪や傭兵集団」への「諜報活動を主力」としていたのである。
    一種の「裏の斡旋業」であった。
    「河内」と「今宮」は、「裏の斡旋業」のその意味で、「直接的な連携」は「武」で無い事とすれば、「青木氏」に執っては、これは下式の関係構築には都合は良かった。

    「河内シンジケート」←「伊勢シンジケート」→「尾張の三勢力」

    依って、「青木氏面談」に応じたのは、「信長」が、「伊勢−河内のゲリラ戦」を操る「伊勢青木氏」(「伊勢青木信定」)は元より、下記した様に、「伊勢秀郷流青木氏」を直接攻めなかった。
    なのに、「伊勢青木忠元」との“「両者の面談」”に応じたのは、「信長の背後」で、「青木忠元」が「中部の三氏」を操るこの事に在った。
    故に、「秀吉斡旋」(蒲生氏郷が仕切る)の「二名の面談」が起こったのであった。
    「商業取引」からの記録としては、この事に付いての行動は「紀州の中部の漁港」に数度に寄港している事にあった。
    「伊勢青木氏の商い」は、「海鮮業」は営んでいない事から、「紙問屋」を主力とする「総合商社」としては、何でこの港に出向いたのか不思議である。
    それが「伊勢の港」ではない「紀州水軍」のお膝元の紀州下津の極めて馴染みの無い無い港である。
    そもそも、「伊勢」では、その動きは織田側に知られる。
    「今宮シンジケート」から秀吉に情報が洩れ通じる事が起こる。
    元より「シンジケート」に依る「ゲリラ戦」は、その「秘匿性」が主戦術である。
    「伊勢」から離れた地元の「常港の堺」では、その「秘匿行為」を起こしてもそうは目立たない。
    しかし、もし「堺」で「戦いの作戦上の事」は出来ない事があるとすると、後は、一揆への“「物資補給」”と成る。
    それは、「紀州中部の漁港」とする事でも判る。
    紀州の山隣の「河内シンジケート」との連携として考えれば、この「不思議な行動」は納得出来る。

    問題は、秀吉と通じている「今宮シンジケート」との連携である。
    同時期に「石山本願寺城外一揆」や「紀州伊勢の信徒動乱」が起こっている事から、「河内と伊勢のシンジケート」との連動が充分に在ったと観ている。
    「秀吉」は「毛利攻め」の準備で忙しいが、この「戦況の情報」を「今宮シンジケート」から具に入手していたと観られる。

    (注釈 信長を「毛利攻め」に引き出すには、伊勢と大阪と紀州一帯で起こっている背後を脅かされる「ゲリラ戦の解決」が必要であるが、「信長の過激な有岡城の問題」もあった。
    況してや「武田氏」を掃討した直後(1582年3月)でもある。
    「伊勢」も、否、社会も信長に批判的に成っていた筈である。
    下手をすれば、「尾張三勢力」の「藤氏」に間違いなく背後を突かれる。そう簡単では無い事は充分に判る。)

    その「シンジケート」との「内通の目的」は、「青木氏」に執っては、「四家」の「5つの面 20の顔」を使って、「織田軍の軍事品や食料品の調達」に関わり、「調達費の高騰」や「調達品の遅配」や「雑務夫の差配」などで撹乱して、長期戦に持ち込んで「織田軍の枯渇」を狙っていたのである。

    (注釈 上記の五戦の内で、「丸山城の戦い」が、最も完全に「織田軍の枯渇」に成功したが、「長嶋の戦い」では「調達費の高騰」、「清蓮寺城戦い」では「雑務夫の差配」、「伊賀の戦い」では織田軍から「城の兵糧攻め」を受けた為に、「調達品の遅配」で応戦した。
    然し、「影の戦い」は其れなりに成功している。従って「織田軍枯渇の状況」は当に進んでいた。)

    (注釈 「織田軍」へは、「伊勢シンジケート」は「山岳部のゲリラ戦」や「夜間のゲリラ戦」で「疲労戦」を展開した。
    結果として、何れも北畠、伊賀、長嶋も「長期戦」に持ち込み、何れもが「第一次、二次、三次の戦い」と成って長引かせた。
    「織田軍」を苦しめ、「作戦の計画」が狂い、その影響で、「秀吉」が指揮する「毛利攻め」では「著しい狂い」が出て来た。
    秀吉は焦った。何とか「武田氏」は解決したが、「伊勢域」が問題に成っていた。
    以上の事柄が上記の「商い情報資料」からも読み取れる。)

    「青木氏年譜」では、1582年中に「松阪修復」とあるが、その後に1582年に・「美濃騒動」とある。
    「本能寺の変」の直前であり、一体何を意味しているのか疑問である。
    年譜の「伊勢談合」の後である。
    そもそも、「青木氏年譜」が「松阪の事」、つまり、「四家の事」に直接触れているのは珍しい。
    年譜の「伊勢談合」の前に、「ゲリラ戦」も収束の方向にあり、シンジケート内部も納まりも付いて来た時期にあり、「話し合い」も就いた。
    特筆する問題は表向きには見当たらない。
    何か「伊勢シンジケート」からの「極秘の情報」が「松阪」に在って、「四家の福家」が対応策について考えていて、この時、丁度、「シンジケート」から「毛利の高松城支援の失敗(1582年5月/21日)情報」で、その「毛利勢力」に陰りが観えて、“「織田天下の様相」”が明確に成った事の「極秘情報」であったと観られる。
    その直前には「伊勢談合」もあった事も合わせて考えると、“「反織田の方向」”に付いて修復、つまり、“「反織田」は中止する“を「伊勢衆と伊勢シンジケート」にも図った事が成功したと考えるとこの事は納得出来る。
    この検証の問題は、高松城の状況を、逸早くどの様にして「情報」として入手したかの問題である。
    放っておけば1ケ月くらいで入る情報であるが、後勘でみると、年譜からそんな時間は無かった筈で、急いで入手している。

    これは、恐らくは、黒田氏からの情報であったと観ている。
    黒田氏は青木氏守護神の近江神明社の住職の家柄で、近江佐々木氏の支流末裔であり、佐々木とは近江佐々木氏系青木氏があり、元を質せば兄弟の同族であった。故に神明社の親族であったのだが、この黒田氏も「御師」と云う立場から「諜報活動」をしていた事は黒田氏の記録史実から明らかである。
    依って、「神明社」を通じて、「松坂の四家の福家」と「伊勢シンジケート」に、この「毛利の後退」で、“「信長天下の情報」”が逸早く入ったと観ている。
    場合に依っては、「黒田氏」が「伊勢の懸念」が「毛利攻めの信長出陣」の妨げに成っている事を憂慮して、敢えて、「伊勢衆」との和解に動かす為に青木氏側に送った情報ではないかとも考えられる。
    とすれば、「同じ情報」が信長側に届いていなければならない事に成る。“届いていた”と観る。
    故に、「毛利攻め出陣」に対して「信長」が腰を上げた事に成る。
    それで、総指揮官の「織田信雄」が討死に成りかけ、「蒲生氏郷」も全滅の直前に滝川一益に助けられると云う程に、双方に1万人の多くの死者を出す無理押しの「伊賀の激戦」と成ったと観ている。
    そこで、残るは「背後の憂い」を無くする事を目的として、“「伊勢衆との面談」”と成ったと観ている。

    (注釈 ところが、1ケ月後に光秀謀反の異常事態が発生した。
    その前にも石山本願寺は毛利の支援の撹乱戦法化で反抗していたが、その「本願寺」そのものは、紀州域でゲリラ戦が散発していたが、ほぼ1年前に顕如と正式には1580年に敗戦講和していた。
    つまり、大方の「勝負の方向性」が就いた事を意味する。)

    この「ゲリラ戦の伊勢情報」を「秀吉」は、逸早く「今宮シンジケート」から入手していて、“戦況に危機感“を抱いていて、この侭では”「毛利攻め」“の発端を掴めないとして、「青木氏のゲリラ戦の深意」も「今宮シンジケートの情報」から掴めたところで、「伊勢の指揮官の蒲生氏郷」を通じて「青木氏との面談」の合策を先ずは果たし、遂には「信長面談」に持ち込む事に成功したものであると観られる。
    恐らくは、この事で、「伊勢攻めの大将」の「蒲生氏郷との連携」を採った事が読み取れる。

    (注釈 「蒲生氏郷」の「伊勢」は、1568年、1569年、1571年、1574年、1575年、1578年、1579年、1581年、1582年の「伊勢攻め」全てを任されている。
    1583年の「賤ケ岳戦」後に、改めて「秀吉」より「伊勢」を任され、1588年には「松阪城完成」させるも、1590年に陸奥転封に成る。
    1582信長没後に「蒲生氏郷」は「秀吉の配下」に入り「伊勢」を続けて任される。)

    「秀吉の毛利攻め」と「氏郷の伊勢攻め」は、織田氏に執って戦略上は、「最大の相関関係」にあって、「秀吉」は「氏郷」と「交渉」を重ねていた。
    その為に、「氏郷」は第三次の最後の「伊賀問題」の解決直前に、苦肉にも、敵としているも「相互血縁関係」(「氏郷の祖父」と「忠元の父」は兄弟の親族関係」)にあった「伊勢衆との談合」を何度も重ねていた事が「青木氏の年譜」からも判る。

    この資料の解析から観て、丁度、この「四家制度」は、この様に、「ゲリラ撹乱戦法」と「伊勢シンジケート」と云う「特殊な抑止力の組織力」は元より、「青木氏」に“「網を被せた様な役目」”を果たしていた事に成っていた。
    この為に「伊勢三乱の五戦」の戦いの「表の記録」には、「青木氏」は一切出て来ないのはこの事に依る。
    しかし、マニアや小説家を含む「歴史家」の中には、この「裏記録」を持っていて、「青木氏」は出て来る。
    これを調べると、伊勢域の土豪や郷士集団から成る「伊勢シンジケート」を通じての「手紙類」が遺されて、それが、所謂、「歴史家」の手に渡っている事から出て来ている。

    (注釈 現在の「ネット社会」や「歴史マニア」なども含めて、この様な「裏記録」が「表記録」として研究材料に一際広がっている傾向があり、特に、戦国時代と江戸期中期までの資料が出て来る。
    興味深い事で、取り分け、“搾取偏纂で通説化を謀った記録“には、「裏記録の真偽」を確認した上でのその「矛盾」が露出し始めている。
    上記の「本願寺檄文」などは当にそれであろう。
    「古の歴史家」が遺した資料には、この「恣意的な通説化」は行わず、必ず、“後勘に問う。“とする”正しい態度の発言“が徐々に動き始めた気がする。
    ただ、この”「裏記録」が「表記録」に成らなければならない“とする「杓子定規な考え方」は残念ながら筆者は持たない。
    それは本論であれば、”「青木氏の範囲」で留めればよい“し、それは、”「ロマンの範囲」で遺せれば良い“と考えている。
    ”より「歴史観」に富んだもの“で有って欲しいとするもので有る。
    尚且つ、この事に付いて論じられる立場は、「青木氏」にだけしかない。
    「青木氏」にしか出来ないであろう。
    「青木氏」が黙ればその範囲で終わるが、それだけに幸いに「自らが持ち合わせている資料」との「突き合せ」にて、より真実に近い「先祖の生き様と伝統」を遺す事に意味を持っている。)

    ところが「秀吉」だけは、「今宮シンジケート」から、「二つの青木氏の事」を情報入手して知っていた。
    つまり、「織田軍」に執っては、そもそも、「青木氏」が前面に出て戦っている様には観えていなかったのである。
    この様に「青木氏の戦い方」は、“「丸山城の戦い」”の例に観る様に、「四家の20の顔」と「伊勢シンジケート」を使っての徹底した「ゲリラ戦」であった事から、「織田側」では、見分ける事は全く出来なかった筈である。
    何れにしても「織田側」では「不毛の敵」であった。

    (注釈 「青木氏のゲリラ戦法」は、「青木氏の記録」から観ると、「僧侶・神職」、「楽師」、「郷士」、「商人」、「村主・豪農」、「職人・大工」で「織田側」と何らかの形で接している。
    「青木氏の顔」は一切出て来ない。
    「外部資料」では、「北畠氏、伊賀氏、伊藤氏、永嶋氏」の「伊勢四氏」に関わる「伊勢攻め」に出て来る人物は、「僧侶・神職」は二人、「楽師」は一人、「郷士」は三人、「村主」は一人、「豪農」は一人、「職人大工」は二集団、「四氏の家臣」は二人、以上の10人と二集団である。詳細は別途)

    これらの内容は、外部資料から観ると、次ぎの三つに成る。

    (イ)「談合、裏切り、仲介」
    (ロ)「伝言、案内、敗戦処理」
    (ハ)「商談、道案内、城修築」

    以上の三つ内容に関わっている。

    これらの人物は、「青木氏の資料」からは、次ぎの関係種に成る。

    青木氏の「内部」の「20の顔の仮装人物」(A)
    青木氏の「意向」で動いた「関係人物」(B)
    青木氏の「関係」で働いた「郷氏・郷士」(C)

    以上の三パターンに分けられる。

    (A)は、「四家人物」
    (B)は、「四家家人」
    (C)は、「伊勢シンジケート」

    以上で役割を演じていた事が判る。

    外部資料には、次ぎの様に成っている。

    「戦況」 (イ)  に関わった人物は、(C)の「伊勢シンジケート」
    「準戦況」(ロ) に関わった人物は、(B)の「四家家人」
    「戦備」 (ハ) に関わった人物は、(A)の「四家人物」

    以上で、突き合せて観ると完全とはいかないが、以上の傾向であった事が読み取れる。

    外部記録に出て来る(A)(B)(C)の人名は、内部記録にある「伊勢シンジケートの郷士」や「四家の人物」である事が酷似し確認できるので、明らかに「ゲリラ戦」を展開していた事が判る。
    取り分け、「織田軍の軍需品等の調達」には、明確に「伊勢豪商紙屋長兵衛」や「堺の紙屋」の固有名詞が出て来る。
    これらを「駆使してのゲリラ戦」であった事から、結局は、「秀吉−氏郷の青木氏の仲介面談」に繋がったのだが、しかし、「ゲリラ戦」で、戦局は長引いた結果、結局、面談後の直ぐ後の1582年に「本能寺の変」が起こった。
    その後を引き継いだ「秀吉−氏郷」に依って「伊勢の戦い」は打ち切られ、「青木氏」と「一部伊藤氏」は「本領安堵」されて伊勢松阪に戻ったのである。

    (注釈 続けていれば、[殺戮のゲリラ戦]と成るし、「氏郷」としては、縁者関係族である事からも打ち切りたい事の意向と内情の説明をして秀吉を説得したと観られる。)

    現に、1583年から1584年の間の「賤ケ岳戦」と「小牧の戦い」「北の庄戦い」には静かにしていた。
    ゲリラ側がやろうと思えば、秀吉の背後を突けるし、「戦況不利」に成っていたが、そうでは無かった。
    光秀は期待していたかも知れないが、「伊勢衆」は動かなかった事の意味は極めて大きかった。
    「氏郷の説得」にも、事前の「青木氏等処置」も効果的に働いて、それを「伊勢衆の深意」として秀吉は租借し、「殺戮」をも避ける事としてもより大きい「本領安堵の形」へと進んだと観られる。)


    行動としては、「青木氏」と「一部伊藤氏」等は、先ずは南伊勢に近接する紀州新宮に引いていたが、その後に“本領安堵された“と云う事は、秀吉は、”「五戦のゲリラ戦の正体」”を、秀吉に協力した「唯一の情報パイプ」であった「今宮シンジケート」からも知っていた事に成る。
    そして「新宮」に引いていた事そのものが、「秀吉」に執って「本領安堵」し易かったことに成った。
    恐らくは、「近江秀郷一門」の「蒲生氏郷」(「秀郷流伊勢青木氏」の同門縁籍)の意見も入れての行動を採った可能性が高い。

    (注釈 「伊勢秀郷流青木氏」は、「蒲生高郷」の子の「梵純」が「伊勢青木氏の跡目」に入り、その子の「忠元」が引き継ぐ。
    「蒲生氏郷」は、「蒲生高郷」の曾孫に当たる。)

    つまり、「高郷」から観れば、「孫の忠元」と「曾孫の氏郷」の関係で、全くの親類であり、「氏郷の祖父(定秀)」と「忠元の父(梵純」」は兄弟の関係にあった。
    この事が、「伊勢の収拾」に全ての面で大きく関わったのである。
    この関係が無ければ、「二つの青木氏」も「伊勢の戦い」に巻き込まれてどうなっていたかは判らない。
    恐らくは、「伊勢シンジケート」を巻き込んで上記の双方に影響の出る「ゲリラ戦に依る殺戮戦」に成っていたとも考えられる。
    全国に配置されている秀郷一門を巻き込んだ歴史上に遺る最大の戦いと成った可能性がある。
    唯、必ずしも、”青木氏は潰れていた”とは思わない。
    筆者は、勝っていたと観ている。
    ”勝っていた”とすると、”歴史は変わった”と普通は考えられるが、勝は勝が、唯、”天下を差配していた”とは思わない。
    それは「青木氏氏是」にある。
    青木氏は、向かってくる敵を排除するが、結果として「織田氏」を排除する事には成るが、「天下の考え」は全く無かった事から、「織田氏」は負ける事で衰退し、結局は「他の反対勢力」に潰されていた事が考えられる。
    筆者は、その勝者は「徳川氏」であったと観ている。

    結局は、「二つの青木氏」の描いていた絵図通りに成ったのであるが、この程度の絵図の事は覚悟していたと観られる。
    それだけに、上記した様に、「本論の徳川氏との関係」に惑わずに走ったのである。

    つまり、この絵図の為にも、逸話の意味の通り「新宮避難」を実行したのである。
    この絵図の違いは、間に「秀吉」と云う人物が入った事に成るだけである。
    この絵図の塗り替えに「新宮避難」の「絵図の修復」で書き換えたのである。
    その程度のことであったと観られる。
    故に、「青木氏の親族の氏郷」と共謀して「高松城攻めの食糧調達」に合力したのである。
    何も、”秀吉政権に胡麻をすった”と云う事では無かった。
    又、「松阪城の変革」にも「経済的な改革」で協力したのであるが、「伊勢の発展」に尽くす事のいみがあった事に依るだろう。
    「商業組合の結成」に進んだのである。
    何一つ、「秀吉の為」には成っていない。
    むしろ前段でも論じたが、余計な事に多少は振り回された事は否めない。
    何も無かったと云う事は無かろう。

    一時、「青木氏」等は、「北畠氏と伊賀氏の戦乱」を避けて先ずは”新宮に避難した”と見せかけて、「秀吉」に、“「青木氏等」を救う「絶好の口実」を与えた“と観るのが正しい。
    「遠祖地の新宮」に避難したとするのは、あくまでも「四家の福家」の行為であって、「青木氏全体」の事の為では無い事がこれを証明している。
    この「新宮」は「悠久の青木氏の遠祖地」でもある。
    「長嶋攻め」の「伊藤氏」の末裔は、必要以上に「戦い」を避け同調して「青木氏」と共に南伊勢の縁籍地の「尾鷲」に避難した。
    この「避難地」でも「戦い」を避ける「口実の地」である事が判る。

    (注釈 「青木氏年譜」では「伊藤氏」は「青木氏」と打ち合わせている。)

    「蒲生氏郷」が伊勢松阪で採った「武と商の融合城郭都市構想」に「青木氏四家」を救う理由を見出させる事が出来る。
    「避難地」から戻った「四家の福家」は「青木氏年譜」からもこの構想に邁進している。
    これで、「秀吉政権」に対しても一応の対応は出来た事に成り、「避難の口実」は成り立ったのである。
    其処には秀吉に対して「氏郷の調整」が充分に働いていたと観られる。
    「避難」だけの戦略効果だけでは無く、「氏郷の調整」が相伴って効果を発揮したと観られる。

    「四家制度の強み」
    その効果かを発揮したところで、何故、「青木氏」がこの強みを発揮したのかは、その基礎的な無形の要素を見つけるには、逸話や口伝とそれに伴う資料の発覚と分析に在る。
    資料の発覚と分析では、この「無形の事」を描きたせる事は難しい。
    其れには、本論の「逸話と口伝」との照合は「青木氏だけの史実」を浮き彫りにするには「必要不可欠な資料」である事に在る。

    そこで、考察して置く必要があるのは、「ゲリラ戦の長期戦」が続いていた場合、果たして、「伊勢衆」はどうなっていたのか疑問を持つところである。
    つまりは、「四家制度」で持ち堪えていたであろうか。
    結果としては、上記でも論じたが、この“「四家制度」”は、1000年の中で、「二度目の存亡危機」の「青木氏」を救った事に成るのだが、実はその答が明確に出ているのだ。

    それは次ぎの事にある。
    「青木氏」の「逸話や口伝」を照合の為に全て書き出す事は難しい。
    「元禄の時の紙屋の行動」や「室町期末期の豊臣家との夏冬の戦い」や「源平時の青木氏の取り組み具合」等多くある。
    「逸話や口伝」を遺す上で重要である事は承知しているが、如何せん「個人情報」も中には含んでいて公的にする事は憚られる事もある。
    結果として、「逸話口伝」と照合していると云う事でお読み頂きたい。
    取り分け次に論じる、「丸山城の戦い」には二つの小説の様な逸話が遺されている。
    「一つは、「四家の家」と、もう一つは、「郷士衆の家」に伝わる。何故か内容の物語の筋は良く似ている。
    「郷士の家の逸話」は最早小説である。
    この「郷士の家」の誰かが、この「逸話」を「逸話形式」を超えて「小説風」に仕立て直したのではないかと観られる。

    (註釈 この「徳川氏の合力」に際して、「沿道警備」と「沿道食糧準備」に付いて「郷士の家」には「逸話」が遺されていたが、どの様に伝えられていたかは判らない。)


    ・「忠元の行末」
    その後の「秀郷流青木氏」の行く末を決める大事な事が起こっていたのであり、ここで特記しておく必要がある。
    唯、ここで、先に述べておくとすれば、この“「伊勢衆」”の中に、“「不思議な現象」”が起こっていたのである。
    それは、伊勢の「特別賜姓族の秀郷流青木氏」も、“「権威の象徴」の「氏族」”であり、その最も色濃いところに居た。
    にも関わらず、「信長」には、”手厳しい扱い”を受けていないのである。
    「伊勢賜姓青木氏」と「同じ行動」を採っていた。何故なのかである。
    「信長」は、この「伊勢秀郷一族」を攻めた場合、東から「尾張の秀郷一門の州浜族等の三勢力」が背後から襲い掛かられ、南から「紀州の州浜族」が動き、伊勢の「結城長嶋族」も、更には、関東からも秀郷一門の本隊が、西の関西の近江滋賀域からも別働隊が襲い掛かって来る事は必定である。
    もし、この行動が起これば「織田軍」に執っては苦戦していた「伊勢の戦い」と「石山の戦い」を抱えていては、幾ら何でも「織田軍」は耐えられない事は判る。
    まして、何れも、戦績のはっきりとしない「消耗戦のゲリラ戦」であった。

    (注釈 「丸山城の戦い」も然ること乍ら、「南北朝の足利氏との戦い」も「10万の軍」の二万の軍勢に餓死に近い状況を経験させる等させる程の「ゲリラ戦の消耗戦」でも、歴史上は有名であり、その「ゲリラ戦歴の恐ろしさ」は例え「信長」でも充分に知っていた筈である。)

    「第二の宗家」とする「秀郷一門の護衛軍団の青木氏」の「秀郷流大軍団」を相手にするのではなく、「伊勢の戦い」は、要するに、「各個攻撃」と「謀略」で攻め落としたかったのであろう。
    その為にも、「伊勢の特別賜姓族青木氏」と同族と成っている「皇族賜姓族の青木氏」を含めて敢えて攻める事はしなかった。
    その証拠に、信長没後に、秀吉は、“伊勢の長嶋の始末”は一応は就けたものの、親族縁者関係にあった秀郷一門の「近江の蒲生氏郷」を続けて差し向けて、伊勢は“お構いなし”として「本領安堵」したのである。
    「蒲生氏郷」も「伊勢の指揮官」とは云え、敵対する相手の主力は、縁者親族一族といった「本来の味方」そのものであった。
    その意味で、「同族の殺戮」を苦汁を呑みながらも攻めなければ成らなかった事からすると、「秀吉」に味方する事の意味は大きく、続けての「伊勢守護」(27万石/55万石)として、新型の城郭建設などの「伊勢建設」には、「伊勢衆の力」を結集する事に成功したのである。
    ところが、実は、「秀吉自身」に執っては逆であって、この「伊勢衆」の「秀郷一門の恐ろしさ」を良く知っていた。
    それは、この直後(1590年)に、「秀郷一門の勢力」を弱める為に、陸奥勢力(結城一門白河氏)から攻め落としにかかったが、「秀吉の戦歴上」で、慌てて「無理押し」して「最悪の戦死者」を出しても潰した。
    しかし、「背後から白河援護」に迫り来る関東の「結城の秀郷一門」を横目にしながら大阪に慌てて逃げ帰った戦歴を持っていた。
    この時(1590年)、「伊勢の秀郷流青木氏」の「青木玄審允梵純」(忠元の父)成る者が、伊勢から「陸奥応援」に駆け付けていて、「下総結城」からの援軍も近づいた事から、背後を突かれた豊臣軍が、これを察知して軍を本道では無く「北陸道の商道」を使って大阪に慌てて引いた。
    この事を知って、「伊勢青木玄審允」(忠元の父)は「結城」に立ち寄り「伊勢」に戻っている。

    (注釈 「青木玄審允梵純」には、「正没不詳」(1530年―1598年頃)で、「近江蒲生高郷」の子で、「近江一族の跡目争い」から敗れ、遂には「母方の伊勢青木氏」の氏名を名乗って、「伊勢秀郷流青木氏の跡目」を継いだ。
    この子供が上記の跡目の「青木忠元」である。
    「氏郷」とは「高郷」の「孫の忠元 曾孫の氏郷」の「親族」である。
    この事は「二つの伊勢青木氏」に執っては「生き様」から最も重要な要件であった。)

    この事でも、「伊勢秀郷一門」を攻め落とす事は、難しいと観て避け、改めて同門の「近江秀郷一門」(蒲生氏)を差し向けて“「取り込みの作戦」”に出たのである。
    つまり、この「経緯の事」もあって、「伊勢」は、“「お構いなし」”として処理したのである。

    (注釈 “「青木氏」を前面に押し出した戦い方”をしていれば、局面は、放置する事は出来ず、恐らくは間違いなく違った形には成っていただろう。
    しかし、“顔の観えない「商い」を利用した「ゲリラ戦の攪乱消耗戦」”であった為に、且つ、「青木氏氏是」に依って、「権威」を必要以上に利用して、“「時の勢力」に抗する態度“は採らなかった事により、政権側に「本領安堵の機」を与えた可能性が有った。)

    それは、この事に付いて詳しく口伝されていて、且つ、其れらしき諸書があって、これ等の総合的な遺記録から観ると、大きくは”「蒲生氏郷の進言」“にあった事が察せられる。
    「蒲生氏郷」は、「伊勢松阪」に「ヨーロッパ型の商業都市」と「武家を集めた官僚都市」の「融合城郭都市」(1588年)を構築した。
    これは記録から観ると、「経済学者」で「歌人」で「軍略家」で「豪傑」であって、その人柄は「律儀」で、依って、「人望」も極めて高く、誰一人否定するものはいなかったと云わている。
    且つ、家臣の中でも若い頃から最も「難しい信長」に信頼され、婚約して娘を嫁がせた程の「秀才氏郷」も、“没した信長の思想”と一致していたのであった。


    (注釈 「信長自身」が「経済学者」の“「氏郷の考え方」の影響”を受けていたと観られる。
    「青木氏口伝」にも「氏郷の人柄成」は遺されている。)

    その勲功から「知行倍増の目的」からの「1590年奥州転封」の影響は図り得ないほどであった事を物語っている。
    その意味で、“「青木氏の恩人」”とする言葉が遺されているが、「二つの青木氏」は、「本領安堵」のみならず、「青木氏の四家制度」を積極的に容認した人物としても評価していた。
    そして、「伊勢秀郷流青木氏の土台」をも築いた人物としても評価していた。
    それは、後に「頼宣」によって「紀州藩の主要家臣団」に採用される等の“「青木氏拡大の恩人」”としても評価していた。
    「頼宣」も「最高の政治力」を発揮したが、「家康のお膝元に置いて徹底教育を受け信頼されていた「10男の頼宣」は、「青木氏の官僚団」を活用し、その才を発揮した。
    しかし、これが元で「将軍から妬嫉」で謀反の疑いが掛かる程であった。

    「紙屋長兵衛」も「頼宣」よりの依頼で、「紀州藩勘定方指導の役目」を引き受けて、「主要家臣団の秀郷流青木氏」を助けた。

    (注釈 「二つの青木氏」に執っては、この「蒲生氏郷」と「徳川頼宣」は、「青木氏の恩人」とする口伝が遺されている。)

    「不倫の地の伊勢神宮」のお膝元に、この前例のない聖地に「新しい形の城郭都市」の建築を提案し、それだけに「秀吉」はそれを容認した。
    この事は、「信長」も、それなりに「青木氏」に対して容認していた事を示す事にも成り、その為にも、”「商業と武家」の両面を持ち、“「惹け」し「利得」を主張しない「権威の象徴」”としての「青木氏」(「二足の草鞋策」の「伊勢賜姓青木氏」)”を是非にも安堵する事が最適として利用した事を意味するものである。
    勿論、「氏郷」にしてみれば、「親族の伊勢の秀郷流青木氏」と、遠縁に当たる一族の「伊藤氏」と「長嶋の戦い」で敵対はした。
    しかし、本領安堵する事は当然の事として、彼らも「城郭都市構築」に導いた。
    「伊勢の青木氏」は、この「城郭都市」の中心部の三区画(9番から11番区画)をも与えられ、且つ、「南紀州の旧領地」と「北と南伊勢の管財」を含む全ての「本領安堵」の「破格の扱い」を受けたのであった。
    「伊勢秀郷流青木氏」も改めて「東伊勢の本領安堵」(郷氏)を受け「氏郷の配下」に入った。
    つまり、「青木氏の四家制度」(商と武を併せ持つ氏の制度)は、「信長の岐阜城郭都市」に匹敵する「氏郷の伊勢の城郭都市構築」に向けて是非に必要とされ、「四家制度」は「氏郷」に容認され維持されたのである。

    この「氏郷と二つの青木氏」との関係を観ていた「家康」は、開幕時、逆手に取って、「伊勢の秀郷流青木氏」を“「紀州藩の骨格」”に据え、関東では「御家人」「旗本」「幕府官僚」に積極的に取り立てて、自らも「藤原朝臣の姓」を名乗って、“「権威」”を獲得して“取り込んでしまった”くらいでもある。

    (注釈 「伊勢青木氏」は、初代頼宣より「二足の草鞋策」を更に進める事の容認と共に、改めて、臣下ではないが、頼宣より「紀州藩勘定方指導役」を請けた。)

    (注釈 「秀吉」は、「伊勢秀郷流青木氏」をその恐れから家康の様には積極的には無く「取り込み方」が異なった。
    この間、一時期「秀郷流青木氏」は「氏郷配下」に成り得たが「伊勢郷氏」として生きた。)

    秀吉の権勢中は、「関東の青木氏」を含む「秀郷一門」も出来る限り関東より東に追いやった。
    それと同時に、「秀吉」の「徳川氏の関東へ転封」では、この「秀郷一門との調和」が取れないだろうとの「秀吉の見込み」から「徳川氏の衰退」を狙った。
    しかし、「家康」はその逆手を使って「秀郷一門一族」の「取り込み」に成功したのである。
    開幕後は、紀州藩は、「家康の意向」から「伊勢秀郷流青木氏」を従って「紀州藩骨格」に据えたのである。
    これは非常に「重要な事柄」で、これで「伊勢の秀郷流青木氏」は生き延びられて「氏の安穏」は約束されたのであり、歴史上の最大の良好な事件であった。

    この様に、“「伊勢衆」“は護られたのだが、長引いたとしても、戦略上、”「伊勢衆」“を取り込む以外には結果的には無かったと観られる。
    誰にも抗らう事の出来ない“「世の流れ」“はその方に向いたと観られる。
    「北畠氏」の様に、朝廷と繋がり「武力」で「織田勢力」に立ち向かう者が元より居ない「権威の伊勢四衆」であったが、同じ“「権威」”であっても、「比叡山」や「石山本願寺」の様に“「権威」”を楯にその「利権」を護ろうとして抗した者でもあった。
    「織田側」にしてみれば、「北畠氏」と「伊賀氏」と「伊藤氏」は、兎も角も、伊勢には“「嫌う権威」”はあるにせよ“「抵抗勢力」”とは成らなかった。
    且つ、「氏族」を前面に押し出して戦うのではなく、「シンジケート」を使って「ゲリラ戦」の「消耗戦」を仕掛ける戦法であったことから、「雌雄を決する必要性」は織田側にはむしろ無かった事に成る。
    依って、「武力」を前面に押し出した「北畠氏」と「伊賀氏」と「伊藤氏」のみを抑え込み、或は、潰せば、「織田勢」としては、「初期の目的」は達し得て居た事に成る。
    この“「青木氏面談」”と云う行為が「伊勢の方向性の流れ」を決めた事に成る。
    その意味で、「秀吉−氏郷」の“「青木氏面談」“は「伊勢」に於いては大きな意味を持っている。
    「秀吉家臣説」は、その「単なる過程の事」に過ぎないし、利用された“「青木氏四家」”には上記の「青木氏年譜」で観る様に、確かに「騒ぎの種」には成っているが、大きな被害の結果は無かった。

    (注釈 「伊勢の戦い」は、“「青木氏四家」”に執っては、「時の流れ」に引き込まれ、止む無く「時の流れ」に身を任せながらも、“「信長」に依って発奮し強く成り、「秀吉」に依って「流れ」を止める土台を築き、そして、幸いにも「氏郷」に出会った事が、この「流れ」から這い出せる事が出来た。
    そして、「家康」に依って息を吹き返した” と云っても過言では無い。
    江戸期は、更に「紀州藩」に依って、保護の下での「四家制度」では、更に、「商い」を基に250万石以上と云われた財を築き、永遠のパートナーと成った「伊勢シンジケート」と共に大きな成長を遂げた。)

    ・「立葵紋の青木氏の意味」
    この事から、この時の「四家制度」は、次ぎの「三つの機能」を以って、次ぎの様に成って護られたのである。
    (A)「子孫存続」の「安定システム」
    (B)「賜姓五役」の「実行システム」
    (C)「氏の存続」の「防護システム」

    本来の目的(A、B)の外にも、上記の様に、「時代の変化」にも対応する(C)の機能も働いていたのであり、“「流れ」を引き寄せる働き“をしていた事が良く判る。
    但し、上記する「青木氏の氏是」(「権威」を「武器と利得の対象」とはしない)を前提とする事に在った事も見逃せない。

    (“世に晒す事無かれ、何れ一利無し、世に憚る事無かれ、何れ一利無し。”)

    先ずは、(A)の「子孫存続」の「安定システム」では、「子の定義」に依って即座に「跡目」に成ると云う事では無く、「婿養子」と云う形で入る等の「外部からの侵攻」を「防ぐ能力」を保持していた事が判る。
    江戸時代までの社会構造の「氏家制度」の中では、この頻繁に行われていた社会現象の“「婿養子」(婿入り)”は、「青木氏」では「社会の傾向」とは一致せず“「取捨選択される仕組み」”ではあった。
    ただ、必ずしも「青木氏」に執っては排他的なものでは無かったが、上記した“「四家方式」”の中で「純血性」を護りながら、「嗣子」を作り上げ、それを「5つの面 20の顔」の継承者としていた。
    その為に、結果として、下記の注釈の「入り婿:婿養子」制度は、採用されていなかったのである。
    況や、社会とは異なった制度を、“「賜姓族」と云う「権威の象徴」の立場”を護る為に採用して居た事に成る。

    (注釈 室町期では多くは、「嫡子外」は、「部屋住み」か多くは「僧侶」に成る等の風習であったが、下剋上や戦乱に依って、武家社会では、“「横の関係」“が重視され、「縁籍関係」を縦横に組んで、「氏」を護ろうとする「社会構造」に変化して行った時代でもあった。
    云い換えれば、「氏家制度」の成長期とも云える時代でもあって、その為には、「縦横の縁籍関係」を構築する手段として、「嫡子外」の嗣子を“「入り婿制度」:「婿養子」”と呼ばれるもので生かして、社会の中に構築されたのである。)

    前段までにも論じたが、ただ、「四家方式」の内の「子の定義」に関わる「嗣子」は、全てが”「跡目の前提」である”と云う事では無かったが、“「特殊な立場」”にあって、“「四家制度の弱点」”であると云う判断もあった様で、この為に、「一定の距離」を置いてのものとして扱われていた。
    「跡目養子」も「婿養子」も「子の定義」に晒されて、「四家主役の福家」に取捨選択されて、「家」を任される事に成る仕組みで、「現在の人事制度」に類似するものでもあった。
    そして、江戸時代には、この「四家制度」は、むしろ“成長遂げる源”と成って行った。
    明治期の激しい社会構造の中でも、他氏とは異なり成長を遂げた。
    要するに、弱点とする「婿養子の縁組」は、上記の様な「世間の荒波」に晒され、「青木氏氏是」を犯す事にも成りかねない事が起こりやすい事から、避けていたのであった。
    依って、「青木氏氏是」を護る事では、ここで、要するに、“「世間の謀略」”に晒される事は無く成る事に成った。
    「江戸時代の250年」の「安定した存続」はこの事を物語っている。

    逆に云えば、「四家制度の弱点」とも云えたが、「青木氏」を一切断絶させる事も無く、「笹竜胆紋の家紋変更」の事態に成る様な事も一切興らなかった事は、「1440年間の純血性」を護れた事を意味し、“稀に見る氏族”を護った事に成る。
    (明治35年を以ってこの任を解いた。)

    次ぎは、(C)の「氏の存続」の「防護システム」では、「四家方式」の「子の定義」で、先ずは「婿養子」として入ったとしても、その「人物評価」が先に成される等のシステムが働き、上記に論じた事態が起こっても微動だにしなかった。
    況して、これは、「世間の慣習」とは異なり、「四家方式」が在る為に、直接に、”四家を牛耳る”と云う事にはも成らなかったし、周囲とは異なり絶対的な“「本家制度」”を採らない“「青木氏の四家の合議制」”が「防護の根幹」に成っていたのである。
    現在に観る「社会システム」が、「二つの青木氏」に於いては、「奈良期からのシステム」であって、そのシステムが「古い氏家制度」の「封建社会」の中でも、大いに働いていた事を示している。
    恐らくは、「四家制度」に示す“「青木氏の伝統」”は、他に類を見ない「賜姓族」としての「古めかしい氏」であって、「密教」と云う「50程の慣習仕来り掟」に「縛られた概念」を持ち、それを実行し維持して来た「唯一の氏」である。
    然しながら、この様な「新旧を併せ持つ氏」は、“日本広しと云えど無い”と考えられる。
    これは、「封建性の高い氏家制度」の中で、且つ、「密教性の高い概念」を持ちながら、“「四家の合議制」“を採用して居た事は、異質にはなるが、これを“融合していた処”にその強みがあったと観られる。
    一見して論理矛盾とも観られるが、現実には、ここに生き延びている「青木氏」である。

    (注意 1565年から1569年までの「伊勢の織田氏の調略」では、資料では“「入り婿」”と表現されている。
    「戦乱の中」では、「子孫存続」の為には、周囲は「跡目」が不足する状況からこの“「入り婿」“に総力を注いでいた事が読み取れる。
    しかし、「青木氏」では逆に避けていたのである。
    恐らくは、「婿養子」を取り込んでいた場合は、上記する荒波に呑まれて「滅亡の憂き目」を受けていた事は間違いはないだろう。
    その理由は、「青木氏氏是」が壊れ、「シンジケート」が崩壊し、「権威」が低下して、遂には”「四家制度の根幹が崩壊する」”と云う「自然瓦解」が起こった事に成ったと観られる。)

    「青木氏」は、世の「武家社会」とは反対に、“「婿養子」”に頼らず、これを「子の定義での制度」(四家制度)で達成しようとしていたのである。

    最後は、(B)の「賜姓五役」では、「頼宣との松坂の会談」で、全て江戸幕府に引き継がれたが、「徳川氏」に無かった“「権威の象徴」“を作り上げる上でも、「二つの青木氏」を始めとする「伊勢衆二氏」は、国体上で必要であった。
    「徳川氏」は、前段でも論じたが、この「二つの青木氏の権威」を下記の「立葵紋の青木氏」や「勝姫との血縁」等で大いに利用した。
    その証拠に、その後の江戸初期には、伊勢には「立葵紋の青木氏の発祥 二氏」も興り護られた。

    (注釈 「伊勢三乱 五戦」で、“「権威」”を護ったのは、結局は「二つの青木氏」と成った。
    「伊藤氏」の一部が「長嶋の乱」で子孫を遺す目的から一部を尾鷲に引かせて遺した。
    「長嶋氏」も一部を「尾張三勢力」に逃げ込み、それと共に子孫の一部を遺したが、「伊勢四衆」の「伊勢の権威」からは遠ざかった。
    結局は、“「伊勢藤氏」“は「秀郷流青木氏」のみと成った。
    その意味で、「権威の象徴」は、より社会全体から”重きを置かれる結果“と成った。)

    この“重きを置かれる様に成った”上に、更に、“「立葵紋」”と云う「新しい力の権威」が着け備わったのである。
    実は、この“「立葵紋の青木氏」”には、“大変な意味”を持っていたのである。
    江戸初期に発した「葵紋の禁令」では、徳川氏一門以外では、“「立葵紋の使用」は、「伊勢青木氏(四日市殿)」”のみに限られており、「笹竜胆紋」と「下り藤紋」の「二つ権威紋」を「総紋」とする「氏族」でなければ、許されなかったのである。
    “「葵紋」、取り分け「立葵紋」の使用に関しては、例え、「徳川一門」でも使用を禁じる「類似家紋の法度」を発していた。
    それほどの”「徳川氏の権威」“の「家紋文様(格式紋・式紋)」であった。
    「青木氏」がこの格式紋の「立ち葵紋」を使用できるにはそれなりの理由があった。
    それは「立葵紋の経緯」にあった。
    そもそも、この“「立葵紋」”とは、「徳川氏」の最高の「権威象徴紋」(格式紋・式紋類)として位置づけられて作られていて、「笹竜胆紋」(嵯峨期詔勅)と「下がり藤紋」(力の制圧)と同様に同格としての意味合いを持たす事にあった。
    この使用を「全ての姓氏」に対してのみならず、「徳川氏」「松平氏」にも「類似家紋」を含めて一切を禁じた。
    「御三家」にも禁じた文様であった。
    仮に、「徳川本家」から嫁入りをした場合に於いてでさえ、「立葵紋」は一切使えず、特例許可得ても「1年の限度」を以って、「葵紋紋類」さえ使用を禁じた。

    元より、「伊勢衆の二つの伊勢青木氏」との繋がりをも重視して、幕府に秀郷一門を含む「青木氏」の多くの重臣を抱えた「徳川氏」は、「紀州徳川氏との関わり」を“「立葵血縁族」”としても重視させていたのである。
    この「立葵紋の使用」を「伊勢秀郷流青木氏」に特別に許し、「葵紋」と「立葵紋」の「青木氏二氏」を伊勢と云う聖域に発祥させたのである。
    「紀州藩」さえ使えない女系血縁族として「立葵紋の青木氏」が発祥しているのである。

    「立葵紋の伊勢青木氏」は、この様に“徳川氏の青木氏に対する姿勢”が読み取れる行為なのである。
    この為に、「世間の謀略」が在ったとしても、「青木氏の四家制度」では、次ぎの様に扱われていた。

    (イ)「ろ過装置の様な役目」を果たす事に成ってはいた。

    しかし、江戸期に入っては、一層に上記する「徳川氏の保護の背景」もあって、最早、その「四家制度の確実性」は高まったのである。
    この“「立葵紋の青木氏」“の存在する「伊勢衆」と「伊勢域」は、朝廷より、永代で「不入不倫の権」で護られてはいたが、「徳川幕府」に依っても、「不可侵の権」が、これ(立葵紋)に依って与えられた。
    そして、この事は引き続き「安寧の聖域」として定められたことに成った事を意味したのである。

    上記した様に、室町期末期までは、「5の面 20の顔」を持つ「ゲリラ戦」を展開する為に、誰が敵味方かわからなくする方法が採られた。

    (ロ)「網を被せた様な役目」の果たす事にも成った。

    この「(イ)(ロ)の効能」がより働き、「四家制度」と云う「青木氏独特の防御システム」は構築されていたのである。
    そして、この(A)と(C)が次ぎの様な数式で相乗的に働いて、江戸期にも続けて「生き残り効果」は発揮された。

    「青木氏防御システム」=(イ)「ろ過装置の様な役目」+(ロ)「網を被せた様な役目」=(C)
    「生き残り効果」=(A)+(C)=「四家制度」

    この「三つの目的」(ABC)は、「悠久の歴史」を通して、この”「伊勢シンジケート」の存在”が、相互に働き、「(A)+(B)+(C)」の「接着剤の働き」をしていた事に成る。

    (注釈 「伊勢シンジケート」の“「伊勢衆との関係」を持つ事の意味“は、現在感覚で理解しきれないところがあろう。
    現在では「血縁関係」を以ってしても、そこで起こる「親近感」とは比べものには成らないし、恐らくは「理解の外」の事であろう。)

    恐らくは、その感覚の範囲は、「助け合う事」=「知り合いに成る事」であろう。

    しかし、江戸期以前の社会の、つまり、”「氏家制度」“の深意は、何らかの「血縁関係」か、或は、深い「経済関係」を持つ事で繋がる「社会構造」に付いては、時には、”「氏」や「家」や「命」を投げ出しても合力する概念“であって、その上での「相互に助け合う構造」であった。

    つまり、次ぎの様な関係にあった。

    ”「助け合う事」”=“「氏家命の契約」“であった。

    全く異なっている上で、”「伊勢シンジケートの持つ意味」“を昔の「歴史観」として理解が必要である。

    本来の目的(A、B)の外にも、次ぎの様な数式が働いていた。

    ”「助け合う事」”=“「氏家命の契約」“

    所謂、(C)の事も江戸期を通して有機的に上手く働いていたのである。

    要するに、奈良期から江戸期末期まで、この“「四家制度」”には、”「助け合う事」”=“「氏家命の契約」“の”「伊勢シンジケート」“が、「絶対条件」として無くてはならない「防御システム」であった事に成る。

    突き詰めると、「四家制度」とは次の様な数式論と成る。

    「四家制度」=「伊勢シンジケート」+「立葵紋の青木氏」=「氏の背景力」

    以上とも云える。

    この数式論では、「立葵紋の青木氏の勃興」が前提に成っている。

    そもそも、「徳川氏」と「青木氏」には、これに依って“「権威の相互関係」”が生まれていたのである。
    「二つの青木氏」自らが持っていた、江戸期まで “「賜姓族」であったとする名誉“が、氏の“「悠久の権威の象徴」”であった。
    これは、少なくとも「紀州、大和、伊勢の域」では、「氏上さま」「御師様」等と呼ばれ敬われ親しまれて、自他共に認められている事であった。
    その“「権威」”を「徳川氏」に上手く利用され乍ら、逆に、“「徳川氏の武の権威」”を受けながら、「青木氏の権威の象徴」も成り立つと云う “「呉越同舟 一蓮托生の構図」”が出来上がって居た事に成る。
    この構図は、「徳宗家の紙屋」と呼ばれていた様で、地場産業」の育成に私財を投げ出していて、「農業の発展」にでも「早場米の研究」に取り組み、「絹の織物産業」を信濃から持ち込み「地場産業」を大いに発展させて成功させた。
    これは既に江戸期を過ぎて大正末期頃まで続いていた記録が多く遺されている。
    この事で、最近の青木氏の研究で、「天皇家」を通じて「徳川氏」を経由して「感謝状の手紙」が遺されている事が判った。
    恐らくは、何故に「天皇家の感謝状」と云う事に成るのかと云うと、文章から「伊勢の発展」と云う事であった事が判った。
    これに関係する手紙の記録は、三通見付かった。
    一つ目は、「筆者の家」、二つ目は、「青木氏と関係する郷士の家」、三つ目は、「紀州徳川家」からの事前連絡文である。

    因みに、余談であるが、中ても、「筆者の家」の「感謝状の記録」は、在る事は口伝で知っていたが、当初は発見できなかった。
    ところが、引っ越しに際して、仏壇を解体したが、その仏壇の奥の過去帳等を仕舞う物の中から出て来た。
    とても見つかる所では無い。可成り几帳面な性質を持つ家柄であるが、何故か、ここにあったのかは判らない。

    「郷士の家」の記録では、この時の状況と地場産業育成に貢献した事柄が詳しく記載された手紙などを含む資料が廃棄されずに保存されていた。
    この「郷士の家」は、「射和の商家」で、恐らくは、「郷士頭の差配家」であったらしく、地元からの推薦に動いた家であった模様である。
    元々は、「青木氏に関する資料」が多く出て来た家柄であった。

    「紀州徳川氏」とは、前段でも論じているが江戸初期から大正14年(徳川頼倫)まで親交があった。

    「青木氏」の内には、この様に、”「助け合う事」”=“「氏家命の契約」“が働き、外には、徳川氏との “「呉越同舟 一蓮托生の構図」”が働いていたのである。

    “「悠久の青木氏の権威の象徴」”+ “「徳川氏の武の権威」”=「社会の最高権威」

    「天皇の絶対的権威」と「徳川氏の武の権威」との「相互権威」には、一つの「初期の恐れ」が「徳川氏」にあって、「権勢を握った」と云う事で、「社会の反発」が起こり、施政上で「徳川氏の権威」が下位に来て低下を招く恐れがあると懸念された。
    そこで、敢えて、「天皇家の絶対的権威」に変えて、“「悠久の青木氏の権威の象徴」”を緩やかに据えて、そこに同類とする「立葵紋」を加える事で“「徳川氏の権威の仕組み」”を構築しようとしたのである。

    「秀吉」が採った「権威の構築」は、「天皇の絶対的権威」を「豊臣家」と云う背景に押し当てて、その背景で、次ぎの様な数式論に様な「政治体制」を構築した。

    「為政」=「天皇の絶対的権威」+「豊臣家の力の権威」=「権威の構築」

    補足として、「天皇家の末孫氏」や「藤原氏末孫」と搾取して、更には「青木氏」の「伝統の権威」をも利用しようとして闇雲に持とうとしたが、上記した様に、強引に搾取偏纂して失敗したのである。

    しかし、これでは、その「為政=0」の形、況や、「為政者の力」が没すると「長期政権」を望めないとしていたが、「徳川氏」には、「力の権威」は同じ様に持つ事が出来たが、“「伝統の権威」”は未だ無かった。

    「笹竜胆紋」(青木氏)+「立葵紋」(青木氏 藤原氏)=「伝統の権威」

    この数式論の構図を作り上げたのである。

    (注釈 そもそも、「家紋」では、そもそも、“「立」”は、“「たつ」”の意味から、「家紋文様」の上に位置する物として使われ、「立・・・紋」は、その「家紋の権威性」や「発展の縁起性」を着ける時に使われる。 
    この慣習は、葵紋 沢潟紋 梶紋 銀杏紋 杜若紋 枡紋 杉紋 鶴紋 柊紋等の枝葉を拡げた「大きい氏姓の家紋」に多く観られ、主に”「氏姓族の総紋扱い」“として利用された。)

    江戸時代には、上記の数式論に観られる様に、「青木氏側」にしてみれば、「伊勢シンジケート」が無ければ、「立葵紋の青木氏」が無ければ、この「四家制度」は成り立たない構図に成っていたのである。
    故に、その重要な位置にあったからこそ、積極的に「嗣子の余人」を敢えて「家人」として継承させ、「伊勢シンジケート」と血縁させて、「一族性」を確保していたのである。

    (注釈 「伊勢シンジケート」を構成する「伊勢郷士」等を含む各職能部等の「伊勢衆」の多くには、影の「経済的な繋がり」のみならず、「青木氏の血」が流れていて、上記した「伊勢の戦い 三乱五戦」の時には、「姿名」を変えて「敵側」との折衝の「水際の夫」を演じたのである。)

    「四家制度」の中に、「青木氏融合族」の「四日市殿」を組み入れていたのもこの強みに起因する。

    江戸期には、既に、次ぎの様な数式論の」青木氏」が成り立っていた事を示す。
    これは最早、「二つの青木氏」の「完全融合化」が起こって居た事に成る。

    「四家制度」=「伊勢シンジケート」+「立葵紋の青木氏」=「伊勢青木氏」

    「立葵紋の青木氏」=「四日市殿青木氏」=「秀郷流青木氏」

    「二つの青木氏」=「伊勢青木氏」+「秀郷流青木氏」=「融合青木氏」=「四日市殿青木氏」

    (注釈 筆者は、この数式論から観て、むしろ、選抜して「伊勢シンジケート」に成り得る人材を「四家の嗣子」の中から積極的に配置していたと観ている。)

    つまり、最も変化した「伊勢シンジケート」の意味が、江戸期には、「他氏に対する防御の抑止力」から、上記の数式論を維持させる“「氏の背景力」”というものに変化して行ったと観る。

    「防御の抑止力」<「氏の背景力」=「伊勢シンジケート」 

    だからこそ、「徳川氏」に対しては、「損得の利害」は別にして、「吉宗育親」を演じ、裏方で巨額の金銭を使い「将軍」に仕立て、「紀州藩」と「幕府の勘定方」を「250年の間」を主導する等の“「青木氏総力」を挙げての取り組み”に成ったと「累代の四家福家」は考え続けていた事に成る。
    それほどに、「紀州藩初代頼宣」に対する「青木氏の尊敬の念」は大きかった事を意味しているのである。

    (注釈 口伝でも詳しく伝えられていて、筆者の祖父の代の大正14年までの親交であった。多くの親書が遺されている。)

    奈良期初期の「皇親制度」、奈良期末期の「皇親制度」、平安初期の「皇親制度」の三期の経験を経て、その江戸期には、再び花が咲き、姿形は変えたにしても、「政治経済の骨格」を直接的に支えた事に成るだろう。
    この後も、この“「四家制度」“は、「上記のABCシステム」に依って、「室町期の状況」−「江戸期の状況」をも耐え抜けたのである。

    「二つの青木氏」=「青木氏」=「四家制度」と云って過言では無い。

    (注釈 江戸初期以降は、「伊勢シンジケート」は、夫々、「土地柄や生き様」を活かして、「商いの企業」と「海陸の運送・警護業」と「殖産業・農業(和紙」」の“「パートナー」”に当たった事が記録されている。この“「パートナー」”と成り得た“「伊勢シンジケート」”を以ってして、江戸初期には「総合商社」の形が出来上がっていたのである。
    恐らくは、「日本初代の総合商社」であったと観られる。)


    これも、「事の流れ」では、事と次第では、危険視されて潰されていた事も考えられるが、「立葵紋の青木氏の存在」がこれを押し留め、且つ、成長させたと観られる。

    (注釈 「立葵紋と葵紋の青木氏」は、千葉と三重に現存し、「本サイト」を支えて頂いている。)

    何故ならば、平安期から江戸期までの「他の豪族や豪商」には、そもそも、この「血縁族」とも云える“「シンジケート」”を持ち得ていなかったからである。
    「青木氏密教概念」の中にあり乍らも、「商いの概念」が「青木氏の生き様」を大きく左右させ支えた。
    つまりは、時代に即応して“「四家制度」”をより確立させて行ったのである。
    現在から観て、「子の定義」を社員に置き換えて考えれば、「現在の企業」でも成り立つシステムと観られる。
    それだけに「氏家制度」の中では、「最も古い氏」であり乍らも「最も新しい生き方」で有ったと観られる。

    その意味でも、「信長の考え方の概念」には、「流れ」の中では、“敵対はしたが理解していた”と観ているのである。
    江戸の歴史上には、中でも、「元禄の浅野家取潰し」の際には、この「パートナー」の「伊勢シンジケート」が、「四家福家の指示と援護」を得て、多くは「海運業」と成った。
    「世間の目」を気にしていた幕府に代って、難しい「開城と管財の一切の始末」に対して、その「総合商社の特徴」を活かして、混乱の中で瀬戸内の中を配送して、更には、「陸送業」をも運営して「管財の処分」に当たり、穏便に事を運んだ事は、特に有名な事で記録にも遺されている事でもある。
    現在でも通ずる「四家制度の差配」であったろう。

    そこで、“幕府が何故に「伊勢青木氏」にこの「始末」を委託したのか”と云う疑問が起こるだろう。
    「商い記録」では、「紀州徳川氏」からの「紙屋長兵衛」に対しての「委託」であった事が判っている。
    この幕府の最大の事件は、難しい難問であった。
    扱い方に依れば非難が幕府に集中する。
    それを総合的に解決できるのは、「紙屋長兵衛」しかないと観た事に依る。

    その信頼は、江戸初期からの付き合いによるが、何よりも、紀州藩の「立葵紋の青木氏」を全面的に押し出して、幕府であるが、幕府では無いとして、成功裏には、“どうだ 「立葵紋」が解決したのだ” “幕府が解決したのだ“と威勢を張る事に成る。
    それを“総合的に成し得る能力”を持っているのが、唯一日本の中で「立葵紋を持つ伊勢青木氏」なのだ。
    (「信濃善光氏」が「立葵紋」である。)
    「紀州藩の官僚族」の指揮者と成っていた「立葵紋の青木氏」と「四家の四日市殿」と「八代将軍吉宗の育親」で「享保の改革」の主導者であった「四家の紙屋長兵衛」は動いた。
    全ての「取り仕切り」は成功した。
    「世の批判」は起こらず、「幕府の威厳」は“さすが”と持て囃されたのである。

    (注釈 大船 荷台 家人 要員 日数 金銭等の「商い」が記帳されていて、「伊勢シンジケート」の構成員が、転身した「海陸の運送業」、現在の「警備保障業」、「警護・警備業」等の事も兼ねていた事が記されていて、江戸時代でも、「商いの輸送」には未だ大きな危険が伴っていた事が判る。
    そして、家財処理の事、骨董品の取り扱いの事、江戸時代でもリサイクル品の中古転売の事も盛んであった事、金銭交渉等の事件のつながりの末の始末でも興味深い事が記載されている。
    {青木氏}に委託した記録は遺されていないのは、この{商業記録}によるもので、[青木氏の福家}に送られた記録であった事から、「松阪大火」の「消失」で遺されていない。)

    その意味でも、その勲功を成した「伊勢シンジケート」が、形を変えて、“「商いのパートナー」“として働きながらも、江戸時代も更に「四家制度」を支える”「防御システム」(背景力)”として、“「情報活動の面」”でもまだ働いていた事が判るのである。
    「伊勢シンジケート」を構成している「郷士や農民や庶民の集団」、要するに“「伊勢衆」”と呼ばれる集団は、共に潤ったと記録されていて、「物語風の口伝」が遺されていて興味深い。

    (参考 因みに、「商品輸送」に対して、面白い事が書かれていて、多くは大船での搬送であったらしく、止む無く「陸送」の時、例えば、越後に搬送する時、「商品の安全」を図る意味から、別のシンジケートに連絡を取って、陸送の安全を依頼する。
    この時、他の「シンジケート」との打ち合わせは、「陸送する頭目」が「旅の旅館」で密かに「打ち合わせ」金銭授受などの契約をして、搬送時は、別のシンジケートの者が、忍者の様に陸送の周囲に寄り添って見張りを続ける仕組みで、終わるとその影の様に付き目立たない様に従った「忍者の物見」が、いつの間にか消えると云う仕組みであった様である。
    その姿が、色々な姿に身を変えての保護であったらしい。
    イザと云う時には、一斉に何処からか出て来て荷駄を護り、相手を攻撃すると云う当に“「忍者」”であったらしい。
    土地の暴力集団(やくざ)や山賊もあって、実際は危険であったらしい事が書かれている。
    確かに、シンジケートの存在する地域には、必ず「山岳の忍者集団」か「山岳の郷士集団」が存在する。
    伊勢や河内であれば、「伊賀忍者」や「雑賀忍者」や「十津川郷士」や「龍神郷士」の様にである。
    実際には、「荷駄頭」が打ち合わせた「シンジケート」の指揮する「物見頭」の顔しか知らなかったらしい。
    この「物見頭」の周囲には、観えない「十数人の梃子組」がいて護っていたらしい。
    「シンジケート」の中でも、同じ仕組みであったらしく、このシステムで繋いで行く方式を採っていたのである。)

    (注釈 「伊勢シンジケート」の「内部組織」が、状況に応じて、この様なパートナーに合わせて編成され直された様で、これが「輸送業」や「警備業」や「殖産業」や「金融業」や「廻船業」などの「伊勢紙屋長兵衛商店」と「二つの青木氏」の「企業パートナー」(「射和商人」 「射和組」)にも成ったのである。)

    これから察すると、江戸時代では、“「氏の背景力」”と成ったが、この「荷駄頭」と「物見頭」の繋がりで、その「シンジケートの首魁」に連絡を通して、その首魁から、土地の「領主」に話が通り、組織を必要な様に動かした事に成ったらしい。
    「伊勢シンジケート」の出自は、多くは、「室町期の豪族」や「土豪族」や「郷士族」が戦いに敗れ、海山に逃亡して「裏の社会」で生き延びた者達であり、これらに「経済的支援」をしてその見返りに警備や運送屋や廻船業や殖産や営業等の手助けを請け負って貰い定期報酬とは別に、その都度の報酬を渡し連携をしていた。
    次第に血縁関係も結ばれ、何時しか「青木氏族」の一員化して生き延びた者と、その配下や農民やあらゆる職能の人たちで、江戸期には、「ある程度の経済的潤い」と「必要な力」を持ち合わせて「表の社会」の一員の立場も持ち合わせ乍ら「二つの顔」を以っても働くように成った。
    この「組織の範囲」(「松阪組」と「射和組」)は、明治期の初めまでの結果として観てみると、美濃から信濃を経由して、諏訪から甲斐の領域までを範囲としていた事か判る。

    これは「和紙」と「神明社」と「青木氏菩提寺」の関係からは元より、各地に起こった「農民一揆」の「経済的支援」をしていた事の記録からも頷ける。
    取り分け、「宗教絡み」の「甲斐百年一揆」と呼ばれる一揆にも「伊勢シンジケート」を通して「経済的支援」をしていた記録からでも判る。
    傾向として可成り「中部東域」にそのルートを伸ばしていた事も判る。

    中には、「伊豆勢力」(伊勢信濃青木氏族の末裔集団)と、滅亡した「駿河源氏の末裔族」が編成していた「駿河水軍」との連携を持っていた事も記録から読み取れる。
    これは「伊勢水軍」が、「伊勢シンジケート」の一員であった事からの平安期からの連携が遺ったものと観られる。
    連携で云えば、多くの「商い記録」が遺る“「瀬戸内の支配権」”の持つ廻船業を中心とした「秀郷流讃岐青木氏」との連携が目立つ。
    「伊勢シンジケート」を全網羅するには、「別の論文」が充分に成り立つのでここでは、下記に「松阪商人」の「(射和商人) 射和組」に付いて触れて置いてこの程度の範囲とする。



    > 「伝統―19」に続く。


      [No.335] Re:写真技術と色の理論−続編
         投稿者:福管理人   投稿日:2015/09/23(Wed) 10:53:50  
    Re:写真技術と色の理論−続編 (画像サイズ: 792×504 44kB)

    以下は後編の末尾

    >以上 ”目で観た自然美を如何にして綺麗に撮るか”をテーマとしてその影響する写真技術を解説してきました。
    >最後に私は写真を撮る時は何時も「絵」として捉え、日本画、南画のような景観を思い浮かべ被写体を決めています。このポイントが写真が写真だけでは無く成る接点ではないかと思っているのです。
    >「写真技術」と「色理論」が「絵」として変わる点である筈だと考えています。そして、そこに「芸術写真」との接合点が生まれると思うのです。その為には、日本画や南画の誇張の無い自然美溢れる絵を良く見る事も必要です。
    >芸術絵画や芸術写真には、否定するものではありませんが、何かそのものの持つ「趣」と云うものが少ない気がするのです。
    >写真が芸術写真でなければ、それは「趣」を表現して人にその「軽やかな印象」を与え「懐かしき思い出」を引き出すところに意味があると信じているのです。そして、それを最大限に引き出す技法が「自然の摂理」から来るこの「写真技術と色理論」にあるのだと思うのです。

    >そこで、それが意外に多くの問題と云うか技術があるのかを知ってもらったと思います。技術ですので論理的である事は否めません。しかし、何とかより高いところを目指す意思をお持ちであるのなら、何とか繰り返し呼んで頂き少しづつ理解して「経験と訓練」で獲得して頂きたくレポートを致しました。

    >折角ですので、この青木サイトには「一時の癒しの場」として写真館を解説していますから是非一度ご覧ください。
    >最近ではこの館に訪れる人も多く成りましたので、敢えて「昔取った杵柄」で思い出してその資料を史料とすべく遺す事にしたのです。
    >本文は理論を説いていますので難しいとされる方も居られますから、一度に全ての理論を記述するのではなく、何度も同じ論理を繰り返して少しづつ別の要素からの理論を書き足して行く方式を撮りました。従って、散文と成っている事は否めません。
    >理論の言葉や用語も平易にして出来るだけ判りやすく配慮したつもりです。
    >専門的な立場では多少の語弊はあると思いますが、あくまでも上記の趣旨の範囲での技術として頂きます様にお願いします。
    >そうして、この技術を使って撮った写真を写真館に展示して頂ければ幸いです。
    >そこで、その方法は次ぎの方法に依ります。




    以下は続編です。

    さて、問題は「人間の目」が、又は「人間の脳」が、”何故この様な現象を起こすのか”と云う事である。
    それは、「人間の目の発生原因」にある。

    (本論は筆者の専門学域に合わせて多くの関係する学術研究論文を参考にして論理立てたものである。本論域は未だ解明されていない領域が多く、他説もあるが筆者が論理的に納得出来得る研究論文を用いた。)

    そもそも、初期の「ミトコンドリア」には「目と云う機能」は無かった。
    「目」が無かったのではない。「目」のとなる機能の「光を取り込む機能」が「ミトコンドリア」には元より無かったのである。
    (人間の元の生物体をここでは「ミトコンドリア」で表現する)
    何故ならば、「目と云う機能」は、「光」を取り込んで、その「光の差の境界」を認識して「初期的な形」と云う現象を「脳」の中で作り出した事に依る。
    従って、この事に成るには,「ミトコンドリア」に、”外から何かの「ある事件」”から偶然に起こった事に成る筈である。[事変 1]
    そして、ところが、この「光の差の境界」には、上記に論じた様に、太陽から得られたものである以上は、当然に、”「色の差の変化」に置き換わる事”の何かが起こった事に成る筈である。[事変 2]
    その”「色の差の変化」はどの様な範囲であったのか”と云う事も合わせて問題に成る。[事変 3]

    何せ元々はミトコンドリアには無かったものである以上は、「目」として見えるまでの機能、「色」として認識して観えるまでの機能等は、全て新たに作り出さねばならない筈であった事に成る。
    この「3つの事変」を解明するには可成り難しいテーマである。

    そもそも、「他の生命体」とは、「ミトコントリア」から出来た「人間」の場合は、「全体の機能」が違っているところから、取り分け必要なのは、「ミトコンドリア」と云うよりは、「人間の場合」に於いての解明である。
    「他の生命体」に付いても完全に解明されているものは現在でも極めて少ない。
    「他の生命体」の判る範囲は、「人間の場合の解明」に必要とする範囲で解明されている程度のものであるのでこれを利用する。

    現在は、「人間」としてでは無く、「人類」として観て見ると、日本人では、解明されて「7色」と云う事に成るが、果たして、”何故、7色だったのか”と云う事も問題である。
    と云うのは、同じ「人類」でも、「7色」として”観えていない民族”も現実には多いからである。
    ”観えていない”と云う事より、”認識されていない”と云う表現が正しい事であろう。


    では、”綺麗な写真を撮る”と云うテーマから、これらの疑問をより平易に解くとする。
    当然に「人類」の中でも「日本人」と云う事で考える必要がある。

    先ず、この「光」、或は、「色」は、どの様に「人間の脳」に届く事に成ったのかと云う事に成る。
    そして、”何を以って「光」、或は、「色」として捉えて「脳」が認識する事に成ったのか”である。
    上記した様に、「人類」は、兎も角として、元々は、その生命体の「ミトコンドリア」には無かったのである。
    依って、元々無かったものである以上、”何かが外部からの「突然変異」(ある事変)で起こった事”に成る。
    考え方によれば”「突然変異」”と云う表現は正しくは無いだろう。

    それは下記に説く事で判るが、「ミトコンドリア]の中には、中に全く無かったものが入り込んだのであるから、「変異なるもの」を起こしていない。
    ”変異に繋がる進化であるのか”と云う事でも当然に無い。
    つまりは、”ミトコンドリアが「順応」した”と云う表現が正しいであろう。
    先ず、この”順応した”と云う概念を念頭にして解く事に成る。

    そもそも、上記した様に、「太陽の振動磁波」が、外気の空気の「物質」に衝突して、その事に依って「燃焼光」が先ず発生する。
    そして、遂には、それを「生命体」の「目と云う機能」が捉えて”「形」と「色」”として認識した事に始まる。
    つまり、先ず、それには、「生命体」には「太陽の振動磁波」、即ち、「光を取り込む機能」が必要である。
    ”「目と云う機能」”の成り立ちに対する解明である。

    そこで、”何かが入り込んだ”とする以上、「他の生命体」には、”この「機能の基」に成る機能が在った”と云う事に成る。
    「空間」から入ったと云う事では無い。
    では、この世の「自然物」の中で、この「機能」を持ち得ていた「生命体」がただ一つあった。
    それは、「動物」では無く何と”「植物」”である。
    ここが重要で、上記した「3つの事変」の機能を「植物」が持っていた事に成る。
    「動物」から「動物」では無く、全く生体が異なる「植物」から「動物」にである。

    原始の時代には、「植物」以外に「光」を物理的に取り込んで機能させて生きていたものは他には無かった。
    この世の唯一のものであった。
    況や、「太陽の振動磁波」、即ち、「光」を「取り込む機能」を「光合成」として存在した。
    その「光合成の機能」は、周囲から「炭酸ガス」を取り込み、「葉緑素」を作り出し、「酸素」を放出する機能である。
    唯一、この「光に関する直接的機能」を持ち得ていたのは「植物」なのである。
    当にこれは「植物の原理機能」である。

    この「植物の原理機能」が、「探索機能(或は、複眼機能)」を持った生命体」に入った事以外には無い事に成る。

    そもそも、然し乍ら、かと言って、直接、”「光」”そのものを「生命体」に取り込む事は不可能である。
    何故ならば、上記の通り、「太陽の振動磁波」である以上、「高エネルギーを持った振動波」である。
    そして、且つ、「高電位性を持った磁波」でもある。
    到底、「有機物」で出来た「ミトコンドリア」の「生命体」とは云え、飽くまで地球上に存在する限り「電位体」である。
    この「電位体」に、、「高エネルギーを持った振動波」と、「高電位性を持った磁波」を直接簡単に受け入れる事は破壊に繋がることである。
    この「ミトコンドリア」から成る「電位体」と云う観点からも、「光の衝突や燃焼」と「電位による分解」が強力に起こり、到底に耐えうる事は出来ない。
    この「光」に依っては「放射性を強く持つ光」もあり得て”「光リスク」”と成る。

    これらに耐えられ得る”「何らかの媒体」”があって初めて成し得る事である。
    従って、論理的には、そもそも「ミトコンドリア」に入り込む為には、この「光リスク」を”「和らげる媒体」”が絶対に必要である。
    その「媒体」が植物の”「葉緑素体」”と云う事に成る。

    この「植物」が、この「光リスク」を直接に「取り込むリスク」を「和らげる媒体」として持っていたのである。
    何も「ミトコンドリア」が態々「和らげる媒体」を作る必要は無かった。
    ”無かった”と云うよりは、「ミトコンドリア」では「葉緑素体」を作り得なかった。
    そうなれば、「ミトコンドリア」はそれは最早「植物」である。
    その「ミトコンドリア」の「生体の有り様」から観ても判る。
    この”「光リスク」”は、この”地球上に存在する生命体”に執って、最大の”「生存リスク」”であり、これに耐えうる「媒体」は、又は、「器官」はいまだ生まれていない。
    明らかに「ミトコンドリア」が、「自ら生み出した機能」では無い事は証明できる。
    そして、況して、C(炭素)とN(窒素)で出来ている「有機体」である以上は、「高エネルギー」や「高電位」や時には「波長」で分解される事の”「光リスク」”が高く、到底,耐えうる機能や器官を生み出す事は論理的に出来ない筈である。

    従って、”「光」が入った”と云う簡単な定義では無く、”「光」を取り込む為のリスク”を「和らげる媒体」を既に作り上げていた”「葉緑素体」”が、”間違って「ミトコントリア」の中に入った”とする定義に成る。
    ”恣意的に取り込んだ”と云うよりは、”思わずに入って仕舞った”の表現が正しい。
    ”恣意的でない”と云うことは、これ程に「光リスクの緩衝材」と成り得るのであれば、もっと取り込んで「ミトコンドリア」を強くして防御していた筈である。
    ”何らかの事で思わず入り込ん”で、生き延びて、遂には、機能化や器官化を成し遂げたと云う事に成る。

    つまり、この事は「原因性の有無」が議論される事に成る。
    唯一つ云える”「第一の原因」”は「水」である。

    それは”「光のリスク」”を軽減出来て、「葉緑素体」が何らかの形(下記)で偶然に入り込む為には、「水」は「第一の原因」(絶対条件の原因)と成ったのである。
    唯、其れも、”「入り込む」の工程から「光の差による造形」”と云うプロセスの範囲(プロセスA)までである事に成る。

    「目の機能」に至るまでの”「全体の工程」「プロセスX」(プロセス全体)”を云えるものでは無い。
    むしろ、「水」、或は「水中」が障害と成り得るものがある。
    何故ならば、「水中」では「BGRの7色の複数色」と「YMCの光領域」の獲得は論理的に不可能である。
    つまり、「目の機能」を確立した一つの条件、即ち、「脳に依る学習能力」の範囲は不可能と成る。

    この事から、「プロセスX」は、”二段階”で起こった事に成る。
    むしろ、「水中と陸上の変化」の「陸」が”「第二の原因」”とも云える。

    然し、「目と云う機能」に至るまでには、未だこれでは「プロセスX」が余りにも足りない。
    そもそも、「葉緑素体」は「光を吸収する生命体」であって”「目の機能」を持つ生命体”では無い。
    ただ単に「光を取り込む生命体」であった。
    「植物の機能」は、「葉緑素体」−「炭酸ガス」−「光合成」−「酸素」−「葉緑素体」の「プロセスA」を繰り返す事で成長を遂げるのみである。

    この”「光のリスク」”を「和らげる媒体」を持った「プロセスA」が、単に「ミトコンドリア」に入ったと云う事に過ぎない。
    これでは、「目の機能」等と云う「プロセスX」には到底に至らない。
    はっきり言えば、”何かが間違えて「ミトコンドリア」に「異物成るもの」が入った事”に成るだけである。

    問題は、当然に、そこで「ミトコンドリア側」には、”「異物排除の本能」”を発揮する筈である。
    そして、「葉緑素体側」も異体の中で生き延びられる事が出来るのかの大きな疑問もある。

    そもそも、「ミトコンドリアの本能」は、現在も人間の体の中で、「独自のミトコンドリア細胞」(真核細胞)成るものを構成して「人間」の「生命体の細胞」(本体細胞)を護る”「異物排除の働き」”をするものである。

    そうすると、ここで、次ぎの「二つの疑問」が起こる。
    「異物排除」が何故に起こらなかったのか(疑問1)、
    「葉緑素体」が何故に死滅しなかったのか(疑問2)
    以上の「プロセスA」の前の疑問がある。

    この事から解明しなければ「ミトコンドリアの葉緑素体異入説」は成り立たない。

    そこで、その前に、先に解決しておかなければならない事に付いて、次ぎの「大きな疑問」が二つ起こる。

    先ず、一つ目の疑問(疑問3)は、”何故、この「植物の原理機能」の「光合成の機能」が「植物」から「生物」の「ミトコンドリア」の中に入り込んだのか”と云う事に成る。

    次に、二つ目の疑問(疑問4)は、”「葉緑素体」が、何故、「ミトコンドリア」の中で「目」と云う機能に変異したのか”と云う事に成る。

    先ず、「一つ目の疑問」(疑問3)」では、”「入り込む」”がなければ、「ミトコンドリア」には、元よりこの「光合成の機能」は無かった。
    そこで「目の機能」の根本は「光」である事から,「光」と云うキーワードで考えられる事は、ただ一つしかない。
    それは”「水中」”で生きていた「ミトコンドリア」が、何らかの事(「突然変異(ある事件)」)で「細胞」の中に、この「葉緑素体(緑虫)」の一部を”巻き込んで仕舞った”と云う事に成るのである。
    この事に依って、普通の「生物を構成する細胞」では無く、「ミトコンドリアの真核細胞」の中で、当然に、この「(緑虫)の葉緑素体」が「光合成」を始めて仕舞った事と成る。
    これが「疑問3の答え」に成るしか他にない。

    然し、ここで(疑問2)を解決する答えが出て来る。
    「葉緑素体」そのものが「ミトコンドリア」の「真核細胞」の中に”「入り込んだ」”のでは無く、”「葉緑素体」の「成長体」の「単細胞の形」の「緑虫」”で入り込んだと考えられる。
    そうする事で「葉緑素体」は死滅しない。
    何故ならば、「単細胞の緑虫」は、「ミトコンドリアの「真核細胞」と「外形」と[大きさ」と「細胞構成」と「細胞内部」が、何と”酷似している”のである。
    「葉緑素体の死滅」(疑問2)は、同類と観て生きる環境条件が類似した事に依って、起こらなかったと云う事に成る。

    簡単に云えば、殆ど、「ミトコンドリア真核細胞」=「葉緑素体の緑虫の単細胞」であった事に成る。

    当然に、「疑問2」が解決すれば、「ミトコンドリア側」も、「ミトコンドリア真核細胞」=「葉緑素体の緑虫の単細胞」から「疑問1の拒絶反応」は起こらなかった事に成る。
    「疑問1」と「疑問2」は、「疑問3の論理」に依って、同時に、この数式論から解決した事に成る。

    依って、「プロセスA」は、”「単細胞の形」”と”「緑虫」”で成し得る。

    この”「葉緑素体」”のみでは、この「プロセスA」の中のあくまでも「一つの働き」であって、未だ全体の「プロセスA」を起こし得ない。
    其れも”継続して”起こし得ない。

    下記に詳細を論じる事に成るが、この”継続して”が解決のキーワードである。
    ”継続して”は、(異物排除の疑問1)をも更に解決し得る。

    「異物排除」が仮に起こったとしても、次ぎの条件が成立すれば、解決する。

    その「異物排除の速度」と「プロセスA」の「継続の速度」に重要な関係がある事に成る。

    「異物排除」=「異物排除の速度」<「プロセスA」の「継続の速度」

    と成り得れば、”「異物排除」”は瞬時に終わる事に成る。

    何故ならば、「異物排除の速度」は、細胞である限り”限界のある「定速」”である。

    ところが、「プロセスA」の「光合成」、又は、「葉緑素体」の「継続の速度」は、「定速」では無く、「Nの2乗」の「相乗速」である。

    「限界のある定速」<「Nの2乗」の「相乗速」

    以上の数式論では比べものには成らない。

    つまり、「ミトコンドリア」の中での「異物排除の行為」は、”無視できる範囲”として、「プロセスA」は、「Nの2乗」の「相乗速」で起こり続ける事に成る。
    「異物排除の疑問1」と「葉緑素体の死滅の疑問2」はこれで無理なく解決し得る。

    従って、「プロセスA」は、「単細胞の形」と「緑虫」で解決し得る事に成る。

    筆者は、もう一つ大きな原因があったと考えている。

    「疑問1と疑問2」には、「緑虫」の”「単細胞の形」”が大きく働いていたと観ている。

    それは、「ミトコンドリア細胞の形」(真核細胞)と「葉緑素体の緑虫の単細胞の形」(原核細胞)とが極めて酷似している事が原因していると観ている。
    つまり、平易に云えば、”細胞の仲間”と「ミトコンドリア」は観た。以上とする説を採る。
    つまり、「真核細胞」=「原核細胞」である。

    「ミトコンドリア」は、「生体の警察官」で「修理体」である以上は「生体の意志能力」を持っている。
    この「ミトコンドリアの意志」は、「細胞の仲間」と観たのである。
    上記の「真核細胞」=「原核細胞」等の論理が成立したとしても、「ミトコンドリアの意志」が異なれば成し得ない。


    もっと云えば、「ミトコンドリアの生きる環境」と、「緑虫の単細胞の生きる環境」が一致したとも云える。

    そもそも、この”「酷似」”は、「細胞の形」のみならず、”「細胞の内部」”までも酷似するのである。
    ”「細胞内部までも酷似」”が、「ミトコンドリアの意志」を”「細胞仲間」”と観た事に成る。

    これは、”「単細胞」”に所以していると観られる。

    「ミトコンドリア細胞」は、最近の分類では、「真核細胞(真核生物)」と分類されるが、最近の学問までは、「単細胞」の「原核細胞(原核生物)」としても考えられていた事からも明らかである。
    平易に云えば、同類であったと云える。
    つまり、「真核細胞」=「原核細胞」と考えられる。

    「プロセスA」には、或は、「単細胞の形」と「緑虫」には、生存には周囲に「充分な水分」が必要である事から、合わせてこの条件は「ミトコンドリア」と全く同じである。
    つまり、「ミトコンドリア細胞」と「緑虫の単細胞」は「生きる環境条件」が同じ条件であった事に成る。
    (「細胞の形」も極めて類似する所以はここにある。)

    従って、明らかにこの「二つの論理」から「異物排除」等の「ミトコンドリアの拒絶反応」は、比較的に弱かったと云える。
    故に、「緑虫の葉緑素体」は、「ミトコンドリア」の中で定着したと云う事に成る。

    これで、(疑問3)は、(疑問2)(疑問1)を解決する。

    後は、(疑問4)を解明する事に成る。
    この「葉緑素体」が、何故、「ミトコンドリア」の中で”「目」”と云う機能に変異したのか”と云う事に成る。

    この解明は、可成り、複雑な「論理的なプロセス」(プロセスX)を踏んでいる事に成る。
    この「論理的なプロセス」(プロセスX)を次ぎに解く。

    そもそも、「疑問123」を解決し得れば、次ぎは、植物の「葉緑素体」に執っては「異体」である「ミトコンドリア」の中で、”本来無かった機能”の”「光合成」”が起これば、必然的に「葉緑素体」は増え続ける事に成る。
    この事が、「ミトコンドリア」の中で、当然に、「ミトコンドリア細胞」(真核細胞)と、それに順じて”「本体細胞」”は、”「生体反応」”に依って必然的に反応して仕舞う事に成る。
    最も重要なポイントと成る。

    この「ミトコンドリア」は「相乗速」(「Nの2乗」)の「プロセスA」で増え続ける「葉緑素体」に対応して、「二つの細胞類」が増え続けるが、遂には、順応して「異物排除(疑問1)」は無く成り「葉緑素体の量」に比例して対応する事に成って仕舞ったのである。
    つまりは、”「ミトコンドリア」の細胞が順応する”と云う「特異な進化」、或は「特異な変異」が起こったのである。
    未だ、この段階では「進化」とは云えない。「変異」である。

    では、何故、「ミトコンドリア」は、”細胞が順応する”と云う”「特異な変異」を起こしたか”と云う事である。
    それは「ミトコンドリアの生体機能の基本的機能」にあった。

    この「基本的機能」とは、この「葉緑素体」の反応に順応し増え続けた「ミトコンドリア」の中で「特殊な細胞」が、「生体の機能原理」で異物が混入すると、「生体」を護ろうとして、今度は、「生体細胞の異物排除」から、その「異物」を「本体細胞」が取り囲み、”「ミトコンドリア」の一か所に集中させる”と云う事が起こる。
    つまり、「ミトコンドリア」で構成される”「生体の本能動作」”が起こった事と成った。

    (現在の人間の体の中でも、この「独自のDNA」を持ち、「独自の細胞核」を持っている「ミトコンドリア」(真核細胞)は、「人間の細胞」に執って「如何なる細胞に対する異物」或は「如何なる細胞に対する過剰物」に対しても、この様な「防御の生体反応」を示している。)

    平易に云えば,次の様に成る。
    「細胞の情報機能」
    「細胞の警察機能」
    「細胞の消防機能」
    「細胞の再生機能」

    以上の様な働きをしている。

    「細胞集合体」で出来ている「人間の体内」で「独自の真核細胞」としての立場を持ち、あらゆる方法で「細胞」そのものを護っている。

    この4つの「防御の生体反応」に依って「ミトコンドリア」の中では、必然的に”集中させる”と云う事が必然的に起こる。
    そうすると分散飛散する事では起こらないが、更に、”集中的”に成った事でより「増え続けた細胞」は、、遂には、その「葉緑素体の光の吸収過程」で、その”「光の差の違い」”を認識する様な機能を、集中し増える事で強く持つ様に成った。

    この「光の差の違い」は、論理的には一つの「造形」を生み出すが、この時は、この”「造形」”を認識し得る程の「脳領域」は未だ形成し得ていなかった。
    この事から、未だ暫くの期間は、”「造形」”と云えるまでには至ってはいなかったと考えられる。

    「人類の脳の拡大」は、幾つかの段階に分類されるが、この「進化A+進化B」の「学習能力」までの「目の機能の獲得」に依って、最大にして飛躍的に関連的な拡大をしたと考えられている。

    この「目の機能」が完成するまでには、人類が持つ”元来の「複眼機能」”が未だ働いていた。
    この「複眼機能」は「原始脳」と連動していた。
    この時の「脳」は現在の「同じ脳」を使っていたかの疑問は、「原始脳」と左の「中紀帯脳」と云う「脳」を使っていたとする論理もある。(下記)

    そもそも、”「複眼機能」は「原始脳」の連動”と云う機能がメインであった事から、当初は、”「造形」と云う概念”ではなくて、”物質の存在する「光の方向性」と云う程度の概念”であったと推論されている。

    実は、この様な機能で生存している「他の生命体」(下記)も現在ある事から論理づけられている。
    「動物学」では、これを「原始機能」と云われるものである。
    実は、人間も、現在も、この「原始機能の原始脳」を未だ働かずに脳内の隅に持っている。
    恐らくは、従って、この「人間の原始機能の原始脳」を仮に働かせられれば、”「造形方向を指し示す働き」”をすると観られる。

    但し、この「人間の原始脳」は、「人間の複眼機能」と連動していたと考えられていて、下記で論じるがその能力は、”「予知能力」”が主体であった事が考えられている。

    つまり、”「原始脳」の「造形方向を指し示す働き」”と”「複眼機能」の「予知能力」”が連動していたと観られる。
    この「予知能力」は充分ではないが、”「現在の目の機能」に近い働き”をしていたと考えられる。
    この段階では、「脳の拡大」は未だ無かった事から、「色の認識」と「完全な造形の認識」は無かったと考えられている。

    例えば、”何となく判るある造形(イ)”が、”ある方向に在る事(ロ)”を認識して、それが”何であるか(ハ)”を凡そで”予知して(ニ)”、”「個体の行動」(ホ)を起こしていた”と考える事が出来る。
    このイロハから”「蝶の様な反応」”を起こしていたと考えられる。

    「原始の環境」の中では、当初は、ある期間、この程度でも充分な環境であったと考えられる。
    ところが、「生存の著しい環境変化」で、「目の機能」の確立の「プロセスX」では、それでは生存するには済まなく成った事に成る。
    「生存の著しい環境変化」で、「複眼機能の退化」と「原始脳の退化」までの過程が急激に起こったと考えられる。

    ところで、この”「光の差の違いの認識能力」(本来能力)”そのものは、「ミトコンドリア」に入った事で起こったのではなく、「植物」の時より「葉緑素体」には、元来より持ち得ていた機能である。
    従って、「葉緑素体」に持ち得ていた「光の差の違いの認識能力」に対するもは,「ミトコンドリア」には、”「新しく働く機能」”であった事から、これを認識する”何らかの「脳の造成」”が必要と成った。
    この”何等かの「脳の造成」”が、「目の機能の確立(プロセスX)」に大きく繋がった。

    この”何らかの「脳の造成」”には、少なくとも論理的には、上記する「本来能力」以外に、”「三つの能力」に相当する「特殊な脳」に成るもの”が必要であった。

    この「三つの能力」とは次ぎの能力である。

    一つは、「光の差の違い」を受け取る脳 センサーのデータを収集する働き 網膜−「受光能力」

    二つは、それを理解する脳       センサーのデータを理解する働き 右脳−「造形能力」

    三つは、理解したものを整理する脳 理解した「脳データ」を貯蔵する働き 左脳−「学習能力」 

    そもそも「植物の葉」は「光の強さと量」に順応して「光合成」を行っている。
    当然に、「ミトコンドリア」に入った「葉緑素体」にも同じ機能を持つ事に成る。

    そうすると、それに合わせて、上記した「ミトコンドリア」の機能には次ぎの数式論が働いた筈である。

    「細胞の情報機能」(本来能力)+「細胞の警察機能」+「細胞の消防機能」+「細胞の再生機能」=「ミトコンドリア機能」

    以上の「数式論の機能」等とで、当然に、これに次ぎに示す能力に「ミトコンドリア」は順応した。

    順応能力−「順応した細胞」(「造形能力 イ」 「学習能力 ロ」)も持った。

    本来能力−「葉緑素体」と「同じ機能(受光能力 ハ)」を持った。

    この「二つの事(イロハ)」に成ったのである。
    要するに、上記の”「三つの能力」(イロハ)”である。

    この「本来能力」は、兎も角も、上記の「三つの能力」は、ある長い期間を経て、次ぎの変化を遂げた。

    「複眼機能の退化」+「原始脳の退化」=「受光能力」+「造形能力」+「学習能力」

    「受光能力」→「造形能力」→「学習能力」=「目の機能」

    以上の「二つの数式論」の順序でより「高い進化」を遂げた事が考えられている。

    その進化過程としては、次ぎの様に進んだと考えられている。

    「受光能力」には、「光の方向性」の認識本能へと進んだ。 →「進化A」
    「造形能力」には、「生存の為の糧」の認識能力へと進んだ。→「進化B」
    「学習能力」には、「進化の拡充」の認識能力へと進んだ。 →「進化A+進化B」

    上記の「進化の前提」は、何れも”生命体の「生存」”を前提とした「進化」であった。

    その為に、爆発的に「増える細胞」に従って、その「光の差の違い」が”「おぼろげな造形」”として先ず認識する「脳細胞」が生まれた事に成った。

    この休みなく相乗的に起こる「光合成」に合わせて増え続ける「脳細胞」は、「光の方向性の認識」(進化A)から発達して、更には、「造形の学習機能」(進化B)を持つ様に成ったのである。

    この「造形の能力」は次ぎの「二つの細胞」を拡大させた。
    a 「脳細胞(右脳の視葉野)の増加」
    b 「光の差の違いを認識する細胞(目の網膜)の増加」

    以上の「二つの細胞」(a b)で、「造形を受け取る機能」が専用に生まれたのである。

    この「ミトコンドリア」の中で「光合成」を起こす「葉緑素体」と、それに対応し増え続ける「二つの細胞」でより「鮮明な造形」として次第に「右脳」が機能する様に成った。

    遂には、その「二つの細胞の増加」に依って、「7つまでの範囲」の「光の差の違い」を認識するまでに至ったのである。
    然し、これ以上は増え続ける事は起こらなかった。

    何故ならば、元より「太陽の振動磁波」であり、「強力なエネルギー」を持ち、あくまでも「色」までに至るまでには、そこには「光の衝突に依り起こる現象」が発生する事に成る。
    従って、必然的に「光を取り込む機能」には(「二つの細胞」には)限界が生まれる。

    この「特異な二つの細胞」が増え続ければ、益々、「取り込む範囲」は「7つの範囲」を超えると云う範囲では無かった。
    何故ならば、「高エネルギー」を持つ以上は、これを吸収する事に依って過剰と成り、”「有機物」”の「細胞の論理的な破壊」が起こる。

    それは、”CとNで構成された「有機物」”に「論理的な破壊の原因」が必然的に起こるのである。
    当初は、それを取り込み過ぎる事で「細胞の破壊」が続き、其の内に受け入れられる範囲の「ある限界」が出来上がったのである。
    それが、「7色の色範囲」であった。

    ところが、不思議な事に「人類、人種、民族」に依っては”「7色の色範囲」”では無かった。

    (例えば、「白色の輝く環境」や「極寒の環境」で進化したアングロサクソン系の人は、「原則6色」を主張している。
    「日本人」が誰しも認識する「藍色」を彼らは絶対に認識できない。

    そこで、「熱帯の民族」では、その「生活環境」と「自然環境」から、「原色3色」に近く、何と、「赤系」から左に「4色の認識」の範囲と云う事もになっている。
    それこそ、「YMCの光の領域」の認識は到底に無理である。

    この様に人間であるのに、”「画一的で無かった事」”が、「有機物の破壊」が、「初期の色範囲」が決まる頃には既に起こっていた事が証明される。
    依って、各地域の「光の強弱や量」によって、それなりの「有機物の破壊」が起こって「4から6色の認識」が起こったのである。

    この様に「光の衝突に依り起こる現象」は、「地球の地域差」と「生活環境」で異なったのである。
    「赤道域や南北極域」までの「日射量と温度差」は、論理的に「有機物の細胞の破壊差」は異なる。
    「目の機能の細胞量」と、それに「順応した脳の細胞量」が異なっている事が云われている。
    取り分け、「脳のシナプスの回路の量」が、この「目の機能の領域」で低かった事が云えると観られている。
    結局、上記した「環境種」が変わって、遺伝的にこの領域が進化すれば、日本人と同じ様にシナプスは作られると観られている。
    唯、要するに、「遺伝」に関わった検証であるので、時間的な経過は求められる。


    それは、現在でも、「人間」には、「光のリスク」として、「紫外線」などに依るこの「細胞の破壊現象」は起こっている事でも明らかである。
    「太陽光線」(紫外線領域と赤外線領域の光)を直視すれば起こる「光リスク」と同じ事が起こる。
    所謂、「細胞の破壊」である。
    その「他の光線」は、「人間の細胞」を透過して仕舞い、元来より「受け付ける能力」は「ミトコンドリアの細胞」には無かった事に成る。
    結局は、結果として可能な範囲と成ったのは、そもそも「7つの範囲」であり、波長としては400から700ナノの範囲、「光範囲」にして「Y−M−C」、「色」に変換して「B−G−R」の範囲と成った。

    (物質は上記の通りであるが、この”有機物の「細胞の破壊」は何故起こるか”に付いては下記で詳細に論じる。)

    然し、理論的にはあり得ない筈なのに、不思議な事にこの「光領域」(YMC)を現実には獲得している。
    本来は論理的には無理と評価できる範囲である。
    これには「特別の現象」が起こった事が云えるのである。

    論理的な詳細事項は下記で論じるが、「進化のAとB」の「プロセスX」としては先に述べて置くとして、この「Y−M−C」の「光の波長領域」は、兎も角も、当初より単純に取り込む事は出来なかった。
    この事は、「生活環境の変化(水−陸)」に伴う「生存に関する進化」から「ミトコントリア」は、相当に「特別な進化」を遂げた事に成る。
    上記の「進化A」と「進化B」は、勿論の事として、「学習能力(「進化A+進化B」に対する左悩の記憶判断)」とは、明らかに同時期では無い事が判る。
    つまり、次ぎの様に「学習能力期」が二つに分けられる事が起こったと云える。

     「BGRの色域」(学習1)
     「YMCの領域」(学習2)

    以上二つに分けられる。

    詳細は下記に論じるが、先ず、「BGRの色域」(学習1)では、「左脳」を拡大させて「学習能力」を持つ事に先ずは進化した。
    最早、この「光領域(BGRの色域)」は、「葉緑素体の受け得る域」を遥かに超えた結果と成って進化したと云える。
    その証拠には、「左脳」の領域には、耳の直ぐ上の位置に元からあった「脳」と考えられる「中紀帯」と云う部位がある。
    その「中紀帯」のそれ以外の「左脳」は、この「情報を処理」の「学習能力 (学習1)+(学習1)」が原因して拡大したものである。
    少なくとも「BGRの色域」(学習1)の範囲では先ず起こった。

    「ミトコンドリア」の「細胞膜(網膜)」に起こる「光の差の違い」によって起こる「造形情報」は、今度は、「脳細胞の増加」に依って連動した。
    取り分け、「左脳」が起こした「学習能力」によって「7色と云う認識情報(BGR)」を、今度は「右脳」の「脳細胞」が「受け取る能力」を新規に拡大して、連動して構築した事に成った。

    つまり、この時、この「光と色の増加する脳細胞」の機能を補完するものとして、これを「目から受け取った光」と、それに見合った「色にする相関機能」を、「脳の記憶と云う手段」で構築がなされる事が「左脳」で起こったのである。
    直接に”「色」”として入っているものでは無く、「光情報」を「脳」が「色情報」に先ず変換してそれを「色」と云う「感覚意識」として認識していると云う事である。
    長い「左脳」の「記憶の学習能力」に連動して、「入って来る光の差」を区別して、色と云う感覚的なものにした。
    そうすると今度は「右脳」もこれに合わせた「色の判断能力」(識別判断能力)を作り上げた事に成る。
    つまり、これが「左脳の学習能力」なのである。
    ところが、この「左と右の悩の働き差」にある「微妙な領域」(錯覚現象)で「違い」が起こったのである。

    この「左悩の学習能力」で処理された”「色に変換された情報」”を”「右脳」”の特別に作られた場所の”「視葉野」”に”「視神経」”と云う”「特別の伝達線」”を創って送られている事に成る。

    所謂、この「記憶と云う機能」には、その送られて来る「記憶の僅かな差違」に依って、「左脳」には、それまでに無かったより「繊細な学習機能」(補完機能)と云うものを生み出す事が起こった。
    この「学習機能」のそれが、「単なる光」を「色と云うものに変換する機能」と成ったその所以である。

    この時に、起こった「学習のズレ(補完ずれ)」が「本論の問題1」と成るところである。
    平易に云えば、次ぎの様に成る。

    「学習能力」が未だ完ぺきでは無い。
    「補完」が完ぺきでは無い。
    「完璧に補完し得る脳量」を未だ持っていない。
    「目から送る情報」が完ぺきでは無い。
    「目の機能(網膜)」が完ぺきでは無い。

    以上「五つの現象」等で例えられる。

    現在の研究では、この「学習のズレ(補完ずれ)」は、「目の原因」か「脳の原因」かは解明されていない。
    筆者は、「目の原因」<「脳の原因」の説を採っている。

    これを観ると、左脳の「学習能力」を増やし、それに応じて「脳量」が増えれば解決しし得る様に観える。
    然し、「目の機能」がこれに順応するかの問題もある。
    難しいと考えている。
    それは、「光→色→学習の変換」には、「色→学習の過程」は「進化」である事からあり得るだろう。
    然し、「光→色の過程」は、「人間」が恣意的に進化的にも変える事は「不可能の領域」である。
    「人間」がこれに「耐えうる細胞」を持ち得るかの問題に突き当たる。

    「進化」では、これ以上は無理で、「有機物」で成り立つ「人間改造」を成さねば不可能と考えられる。
    突き詰めると、論理的には「ロボット」と成るので、不可能であろう。
    ロボットでもメモリー容量からも無理と成る。
    何故ならば、この世の最大のメモリー容量は、「有機物の細胞」が最大と成っていて、現在、「細胞のメモリーチップ」が研究されている位である。

    例えば、本論の「フェリア理論」とは別に、「目の機能」には次ぎの様な問題がある。

    簡単に平易に論じるとして、目には、次の様な難解な問題を持っている。
    「目」、又は、「左脳」には、次ぎの事が起こっている。

    残像1−「時間残像」
    残像2−「補完残像」
    残像3−「補色残像」
    残像4−「運動残像」

    以上4つの残像と云う「学習のズレ(補完ずれ)」として、「目から入る情報」には論理的では無い”「残像」”と云う現象が起こる。
    その「学習のズレ(補完ずれ)」は次ぎの事を起こす。

    「撹乱1」 「入った情報」は、情報と異なる「逆の情報の現象」が約8秒から15秒位の間、直ぐに消えず情報は遺す現象が起こる事。

    「撹乱2」 「入った情報」は、既に左脳から右脳まで送られて認識した後の現象で、「色の正逆」の「二つの逆の現象」が重複する事が起こる。

    この”「撹乱現象」の「残像」”は、
    「時間の差」(残像1)で
    「色変換」(残像2)の補完で
    「光変換」(残像3)の補色で
    「運動の差」(残像4)で

    以上が起こる事に成る。

    この「撹乱1」と「撹乱2」の「2つの攪乱」は、以上の「4つの変化」(残像1234)の中で起こる事に成る。

    以上、結果として、そうすると、合わせて”「8つの現象の攪乱」”が起こる事に成る。

    これだけ起これば、”脳は不完全”と云える。

    実は、これだけでは無いのである。

    この「入って来る光」にも次ぎの種類がある。
    次ぎの「5つの現象」にもこの「残像」は起こる事に成る。

    透過
    吸収
    反射
    屈折
    干渉

    この「5つの現象」が上記の「8つの現象の攪乱」に全てに関わる事に成る。
    従って、何と、”「40もの撹乱」”が起こる事に成る。

    「透過、吸収」の二つは「入光の変化」を起こしていない。
    「反射、屈折、干渉」の「入光の変化」は「残像」では複雑な現象を起こしてより「人間の脳」を撹乱させる。

    例えば、説明は、「40の撹乱」と云う現象は、”「感覚」”であるので困難であるが、「残像」の周囲には、次ぎの様な事を起こす。

    「照輝現象」(現象1)を起こしたり、
    「暗雲現象」(現象2)を起こしたり、
    「フラシュ現象」(現象3)を起こしたり

    以上の三つの現象が起こす。

    (他にも専門的には幾つかの現象がある。)

    最早、これでは幾ら「脳の学習」があるからと云っても、これでは「学習能力の1と2」では到底に解決できない事は判る。
    然し、「学習能力」では解決できないこの「40の撹乱」は「悪いリスク」だけでは無い。

    例えば、映画などの人間が作った映像は、1秒間で8コマであれば画面に「パラセーション」を起こすが、24コマでは繋がって観える。
    これはこの「残像の時間」を利用したものである。

    然し、「自然の状況」の中では、「40の撹乱現象」と成って表れる。

    これを人間が作った写真やビデオ等には「40の攪乱」(+現象1+現象2+現象3)と成って表れる。
    これでは、人間の脳は、左脳の学習能力が進んだとしても、この範疇では最早、理路整然と解明して修正して補完補足してと云う事は無理であろう事が判る。

    そこで、脳以外の処で、人間の知恵で解析して出来る事がある。
    それは、この中の”「補色残像」”と”「補完残像」”なのであって、可能で有るのなら、その要領を解き明かそうとするのがが本論の問題であるのだ。

    然し、これは”「残像」”と云う範囲の事だけであり、他には、上記した様に、「左脳の学習能力」とは別の次元の問題として、人間には厄介な”「脳の習性」”と云う範囲の事も絡むのである。

    「修正1」 「残像40の攪乱」の修正
    「修正2」 「脳の習性」の修正
    「修正3」 「映像技術」の修正

    以上の「修正123」の事で、人間が作った写真やビデオやテレビ等の「機器映像」では、「脳」とは連動していない事から故意的に修正しなければ成らない事が起こるのである。

    これでは、「芸術映像」では無い限り、”「綺麗」と云う感覚”や”「写実」と云う目的”を到底に解決し得ない。

    その前に、「左右の脳事態」が、「習性」があるので「修正」できるかは疑問である。
    答えは、現実に「学習能力」では、「修正」が出来ないのである。

    故に、上記の「修正1」と「修正2」は、「脳の領域の修正」ではあるが、既に、「撹乱」でこの領域を超えている。
    従って、超えているのであるから、「修正3」が恣意的に働かせる事が必要に成る。

    「照輝現象」
    「暗雲現象」
    「フラッシュ現象」
    「ハレーション現象」

    以上等の「脳以外の処」で「修正3」を技術的に強引にしなければ成らない事に成る。

    これらの「多くの攪乱」は、現在も「脳科学」ではまだその原因は解明されていないのである。

    従って、「機器映像」では、この「修正123」を行うノウハウを獲得する必要がある。

    そのノウハウを獲得する為に本論では、その「発生原因の基礎理論」を説いている。
    然し、此処でも未だ「色領域の事」(BGRの色の範囲)であって、「光の領域の事」(YMC)までの「学習能力の発達」のものでは無い。

    「YMCの光の領域の事」に付いては、「有機物」の「細胞の破壊」に至る「論理外の事」である事から、”「自然の成行き」から来る「学習能力」”の範囲では無かった。
    無理にでも「左脳の学習能力」(学習B)に依って「色変換]を果たさなくてはなら無く成ったのである。

    それは、”何か、生存に関する「特別な事変」”に対応する為に、取り分け「人類」の「ミトコンドリア」は無理と云う説破詰まった形で動いた事に成る。

    そもそも、「BGRの色の領域」」(学習A)では、特に大きな「生存の危機」に関わるものでは無かった。
    従って、時期的には、、「YMCの光の領域の事」(学習B)は、「ミトコンドリア」の「進化の後期」に当たる事変であった事が判る。
    何故ならば、、「BGRの色の領域」のこの時期には,未だ「原始脳と複眼機能」の「連動期,又は、重複期」であった事から、無理にしても「YMCの光の領域の事」は、論理的には必要では無かった筈である。

    従って、「BGRの色の領域」」(学習A)の段階では、”「脳の習性の修正」”と云う問題は生まれていなかった事に成る。

    例えば、「左脳の学習能力」では、「前に記憶されたもの(R−1)」と、「後で記憶されたもの(R−2)」が全く同じ「記憶」であれば、「単一の記憶現象(R−1=R−2)」で「脳の働き」は(=)で終わる。
    然し、(R−1≠R−2)であった場合、その「記憶」の一部の「環境条件の差」に依って「記憶の差違」が多数生まれた事になり、それが何度も繰り返される事で、「同一類系パターン」として認識されるも、その中で「記憶の整理」が行われる。
    その「多くの類似性のある記憶」が整理されると、今度は、そこで「差違ある記憶の情報」が「独自の情報]として生まれる。
    これが所謂、「学習能力」の「学習機能」と成るのである。

    ところが、ここで無理に「光」を「色」に変換する「学習B」を作り上げたとすると、そこには「変換の複雑さ]から「脳の習性」に対応できていない事が起こって仕舞った。
    当に、上記の「補色の攪乱」であった。
    では、下記にこの”「補色の攪乱」”には主にどう云う事が起こるかと云う事を解く。

    「補色の攪乱」
    「脳」には、「目に入る全体の情報」を取りまとめて学習して「一つの色合い」を「右脳」に送るが、ところが「中央部」にこの「YMC」に関する「学習B」の「色合いの物」が存在したとすると、これまでを「一つのBGRの色合い」の中に入れて仕舞うと云う「補色の攪乱」を起こすのである。
    この結果、「全体の色合い」が「中央部の色合い」に加色して「実際と異なる色合い」のものを表現して認識して仕舞うのである。
    「全体部」を主にしていながら、「中央部」を観て判断して仕舞うと云う事は、人間の逃れ得ない「脳の習性」である。

    例えば、今度は、全体が「YMCの光の領域」のもので、中央が「BGRの色領域」あるとすると、論理的にどう云う現象を起こすのかと云う当然の疑問がある。

    実は、ここには、「ある現象理論」が起こっているのである。

    「BGRの色の領域」の「変換感度A」、或は、「補色感度A」
    「YMCの光の領域」の「変換感度B」、或は、「補色感度B」

    この二つには、ある理論が成立する。

    それは次ぎの通りの関係式で成り立つのである。

    「変換感度A」、或は、「補色感度A」:「変換感度B」、或は、「補色感度B」=3:1

    つまり、どう云う事かと云うと、次ぎの様に成る。
    BGR
    イ 「B−G」の色範囲に対して「YMC」は、1/3の影響力
    ロ 「G−R」の色範囲に対して「YMC」は、1/3の影響力
    ハ 「R−B」の色範囲に対して「YMC」は、1/3の影響力

    例えば、イとして、BからGに色変化、或は、「混合色」であったとして、その「色の変化」に対して中央部の「YMCの光の領域」は、其れに対して3/1の程度の範囲でしか敏感に応じると云う事に成る。
    B−Y G−M R−Cの「補色の関係」があるが、「B−G」だからと補色関係のある「Y−M」に対して変化すると云う事である。
    つまりは、”3倍の広い範囲から影響を受ける”と云う事に成る。

    ”3/1で影響は出る”と云う事で、中央部が「Y」だけであるのなら補色の関係にあった「全体部B」の影響を強く受けて加色される事に成る。
    「M」と「C」も同様である。
    と云う事は、”中央部が補色関係に無ければ影響を受けない”と云う事に成る。

    但し、全体の「BGRの色合い」は、中央部の「YMC」の上に”加色される事”は、大なり小なり「脳の習性」であるから避けられない。
    加色されるが、「YMC事態の独自の変化」は、全体に引っ張られて殆ど起こさないと云う事である。

    何故ならば、上記は「幅域の影響」から来る「補色による変化」であるが、、「YMC事態の独自の変化」の場合は、「BGR:YMCの比」の「強弱の影響」を受ける。
    この「全体の影響」を受けた「加色分」を取り除けば、そのままの「Y」なら「Y」で居続けられる事に成る。
    ロとハも同じ働きを起こす。

    「色対色」の影響であれば、この様な事は起こらない。
    「色対光」である所以である。

    さて、そこで、「YMCの光の領域」は「BGRの色の変化」の様に、(1:3)「幅域」を持たない。

    「Y−M−Cの変化」には、3つ合わせても「幅域」が3であり、「BGRの9」に比して変化しても狭い為に殆ど影響は起こらない事に成る。

    この理屈が「綺麗な映像」を撮ろうとすると、利用すれば良い事に成る筈である。9:3で影響が少ないのだから。

    仮に、中央部に「YMCの混合色」が来たとしても、これに対しては全体がBGRのB−Gとすると、YMCのY−Mにしか補色関係が無いから、混合色に対して補色反応を起こして、混合色のYとMに対してその能力の3/1の加色で影響を与える事に成るのである。
    「混合色]であるとすると”変わったかな”と云う程度の事に成る。

    簡単に云えば、扱いとしては、「YMC」は「単一」として扱える。
    中央部付近に、補色であっても「YMC」の何が来ようと「単一」として扱えるのである。

    そこで、この論理から、「上記の逆」の現象の事が起こったとすると、どの様に成るかと云う事に成る。

    全体に「YMCの光の領域」であったとして、中央部に「BGRの色の領域」が来たとしても、「YMC」には「1/3の関係」にある事から、「中央部の色合い」BGRに対しては殆ど影響を及ぼさず変化しない様に観える。
    機器映像からすると、「人間の目」には”観える”と云う事に成るのであろう。
    日本人の様な目には、鋭い人では、1が観えている事に成るであろう。
    現実には「日本人」には多いのである。
    そして、「映像の専門家」であれば、この1が観えて取り除かねば、「専門家の映像」とは言え無い範疇であろう。
    「映像マニア」であれば、むしろ、この1を残しておいた方が味わいがあって良いと一般的には評価される。
    それは、「映像の使い道」の如何に関わるからである。

    要するに、概して感覚的には、「1/3の関係」から「BGR」にはその様な「影響力」が出ないと云う事に成る。

    つまり、「中央部のBGR」(3の影響力)に対して、「全体部のYMC」(1の影響力)の「加色現象」は起こさない程度なのである。

    現実には、「1の影響」は持っているが変化には出て来ない。
    「目」或は「脳」には認識できない程度の事に成る。(一般的に)
    これは、「光から色」に無理に変換した「脳の学習能力」から来ているのである。(日本人の範囲)
    この原理を表しているトップ記載の「色相関図」では、「BGR」は120度、「YMC]は90度の占有領域を占めている。

    つまりは、”「綺麗」”は、上記のこの原理をどの様に使うかである。

    当然に、この時にも、この「補色の攪乱」以外にも、「時の残像の攪乱」も起こっている事には成るが。
    ここで、面倒な事に、この「時の残像」は、「全体の色合い」の「逆の色合い」で残存する事に成る。
    従って、15秒程度は、明らかに「撹乱現象」は起こり続けるのである。

    これは、映像を15秒以上に観る事で、「濁りの無い映像」を「左右の脳」が動作して作り出してくれる事に成り解決し得る。
    従って、専門家とマニアは、「より正しい映像」を獲得する為に、”映像を暫く眺める動作”をするのだ。
    我々も、この、”映像を暫く眺める動作”をすれば、「左右脳が起こす問題」を解決する事になり良い事に成る。

    ここで、この事が理解できたとして、「BGRの色領域」に対して、「YMCの光領域」にはもう一つの理論があるのだ。

    上記は「補色関係」の「幅域」で論じた。
    然し、「BGR」にしても「YMC」にしても、「色」或は「光」にしても”「強弱域」”は持っている。
    では、この関係はどの様な理屈で出来ているのかと云う問題を把握しておく必要がある重要な本論のテーマである。

    中央部の「YMC」に対して、「幅域」では「補色関係」で「BGRの加色現象」を起こすが、「YMC」のそのものの「変換色」に対して、”何か変化を起こさないのか”と云う問題がある。

    実は、この「強弱域」は「人種 民族」によって異なるのである。

    「YMCの混合色」は、加色に依る「光域」なので完全な等比であれば「白」である。
    「BGRの混合色」は、加色に依る「色域]なので完全な等比であれば「黒」である。
    (減色はこの逆に成る)

    厄介な事に、然し、「人種 民族」は、この様に論理的には無い。
    ある程度の範囲で等比では無い。

    そこで、先ず、「日本人」を観て見る。
    元々、「YMC」それぞれの強弱のバイアスは殆ど無い。
    然し、日本人は次ぎの様に、”「僅かにずらした混合色」”を無意識に作る。
    「白」に対して「薄い肌色」を「混合色」として用いる「脳の学習」の「習性」があるのだ。

    もっと云えば、「日本人」は、この「極めて薄い肌色を含む白色」を「白」と主張する「悩の習性」がある。
    「純白」を学問的には「白」であるのにも関わらず「白」とは云わない。
    「映像的」には、この「白色」は「極めて薄い肌色を含む白色」を白と認めるのである。
    これは「趣向的」と云えば、事実、「趣向的」なのだが、上記の論理の通り、「学習機能」が発達している事に成る。
    つまり、「全体と中央の関係」などの「補色能力と補完能力」が進化している事に成る。
    そして、その結果として、「全体的に評価する能力」から「極めて薄い肌色を含む白色」を「白」と評価する事で、上記の問題を出来るだけ起こさない様に進化している事に成る。
    「学問的な純白」は「白」と認めながらも、「目の機能」としての「白」は、「極めて薄い肌色を含む白色」を「白」としたのである。
    「左右脳」が起こす「40の攪乱の解決」には、基本色の「白」を「極めて薄い肌色を含む白色」で解決しようとしたのである。

    要するに、これは確かに「肌色」を含ませる事に依って、「目と脳が起こす上記の問題」を軽減できる。
    上記の相関図では、肌色を含ませる事で、右側のBGRの色の相関域に近づき、Edを上側に引き上げるので、1/3から殆どは映像を感覚的には、綺麗の表現に近づけられる事に成る。
    その意味で、相当に強い肌色を白とする日本人も地域差で起こっている。
    筆者は、これは「進化」である限りは、「目に映る自然環境の差」に依って違っていると観ている。
    それは、「雪の差」ではないかと考えられる。
    「純白」である筈の「雪」を15秒以上直視していると、「肌色の雪」に観えて来るが、これがパラメータに成っていると観られる。
    これは「論理的」である事から、日本人だけの「学習能力の進化」であろう。

    この進化は次ぎの論理式でも証明できる。

    この時、「YMC」は次ぎの関係にある。
    C>M>Y=1.2>1.0>0.8=1
    (Y>M>C=1.0>1.0>1.0=白 )

    ところが、「BGR」は次ぎの関係にある。
    B>G>R=4.2>4.0>3.8=4
    (B>G>R=4.0>4.0>4.0=黒)

    Cは白を、「より白らしく見せる光領域」で、その反対のYは、「より自然らしく見せる光領域」です。
    とすると、MがそのCに近いか、Yに近いかに依って、その映像が「綺麗に目に映るかの変化」を起こす。

    「1.0のM」を、Cに近づければ、白の「極めて薄い肌色を含む白色」に成るので、日本人の進化は論理的に一致している。
    上記の相関図では、日本人の「極めて薄い肌色を含む白色」は、C−M−Yのバランスでは等比の1.0では無く、MがCよりに存在する事に成る。

    「YMC」と「BGR」の上記数式論は共に「人種 民族」によって異なり、中には「YMC」の持ち得ない「人種 民族」もある。

    但し、中には、その比は別として、R>G>Bとする人種民族もある。
    日本人はどちらかと云うと、G>B>Rの傾向を示す。

    これは、”「けばけばしい色合い」を好まない”と云う事であろう。

    以上から、概して、YMC:BGR=1:4 の関係である。

    上記の「色変換の幅域」では、YMC:BGR=1:3 であった。
    この「色変換の強弱域」では、YMC:BGR=1:4 である。

    従って、次ぎの様に働く。
    「全体部BGR」に対して、「中央部YMC」は、全体部からの「加色現象」は中央部に「習性」として起こり得るが、「色の強弱の影響」は、「幅域」とは逆に影響を強く受ける事に成る。
    立えば、全体部が”輝き目立ち”、中央部は”くすみ目立たない”と云う現象を示す事に成る。
    例えば、全体部のBに対して、中央部に補色関係にある「Y」を含む物があったとすると、「B」の4に対して「Y」は1である事から、強く影響を受けて、その「Y」はその「色合いの印象」を激しく変える。

    茂る夏の山々に囲まれて中央部の「紫陽花」は、”くすんで見える”と云う表現である。
    依って、この理論を展開すると、「紫陽花」の様な「YMCの要素」を多く持った花は、バックを森等の「BGの要素体」を背景にしてはならない事に成る。
    つまり、秋の紅葉した山々には、この「YMC」を多く含んでいる。
    この秋の紅葉の山々を背景に、中央に置いた被写体は影響を受けにくい事から、”綺麗に撮れる”と云う事が起こり易い。

    結局、この背景に「YMC」か「BGR」の「存在の如何」を素早く見抜く事にある。

    「印象」と云う事からすると、例えば「明るいY」から「暗いY」に変わる「減色反応」が起こったとする印象を与える。
    色々な印象の色合いを呈する。
    混合も含めて単一のMもCも補色関係の中では同じ現象を示す。


    従って、この逆の「全体部YMC(1)」「中央部 BGR(4)」の場合は、「中央部 BGR」は「全体部YMC」の影響を強弱の点でも受けないと云う現象を示す。
    つまり、「中央部BGR」は、”輝き目立つ”と云う事が起こる。

    ”秋の紅葉の山々に中央部の緑は映える”と云う表現である。

    つまり、この景色には、このBGR:YMC=1:4の関係が働いている事に成る。
    これらは世界標準化された「CCカーブ」には反映されている。

    以上の論理で、左脳は学習して記憶しているのである。
    それが「目に入った情報」をこの様な論理で処理しているのである。

    そこで、人間は、何度もこの撹乱が起こる事でこれを「学習」して、この「15秒の範囲内」で、中央部の加色された「実際と異なる色合い」を修正しようとして、「目の機能」を「中央部」に持って行こうとして脳がすばやく働こうとする。
    その結果、「中央部」の「実際の色合い」の「YMC」に補正する「学習C」が働く様にした。
    この時、「時の残像」も「逆の色合い」(補色)を示していた事から、「YMCの学習C」と一致する事に成り、「脳」は”「正しさ」”を認識する事に成る。
    ”逆に起こる「残像」”と云うことを、この「学習」によって既に認識している「脳」は、比較する対照が起こる事で、”「正しさ」”は認識出来た事に成る。

    つまり、「時の残像の逆の色合い」とは、元は「全体の色合いのBGR」である事から、この「逆」と云う事は、「YMC」と云う事に成るので、結局は、次ぎの様に成る。

    「YMCの学習C」=「時の残像の逆の色合い」

    以上の数式が出来上がる事に成る。

    「人間の脳」は長い期間を経てこの様に学習したのである。
    否、そもそも、「YMCの領域」を認識しない「人種や民族」がある事から、取り分け”「日本人の脳」”が学習したのである。
    但し、この「正しさの情報」が無い時は、「脳の習性」では「修正」は起こらない事に成る。

    現実には、この「正しさの無い状況」は、「自然界」の条件では頻繁にあり得る。
    「BGR」と「YMC」の判定が難しい場合であり、これも学習である限りは起こり得る。
    (取り分け、日本人でなくても「YMCの判定」は難しい。)
    この場合は、「残像の範囲」で「脳」が働けば良いが、そうで無い場合は、「故意的に修正」をしなければ成らない事に成る。

    「環境条件」(温度と湿度等)と「脳の条件」(疲労性)に依っても、常に「残像の範囲8秒から15秒」で出来ない事が常に起こる。
    そして、「人種」は、勿論の事、「人の感性力」に依っても著しく異なる。
    上記した「透過や吸収」等の「光の有り様」の「5つの現象」に依っても異なるとされている。
    結局は、「習性と学習」に大きく関わる事に成る。

    殆どの日本人は、これが出来ると云う事は”早い方”と云う事に成る。
    「学習」である以上、「無意識の中の認識と行為」であり、写真等を撮る場合は、この条件を整える事が恣意的に必要と成る。
    さもなければ、「綺麗」は表現できないことを意味する。

    当然に、人間が作った「映像機器」は、「人種や人類や民族」さえ認識し得ない能力であるので、ここまでの能力を持ち得ていない。
    従って、「機器映像」とする限り故意的に修正しなければ、”「綺麗」”は表現できない事に成る。
    例え、デジタルとしてもである。

    (通常の「目の細胞能力」はデジタルの画素数に変換すると、一概には比較できませんが平均すると、「約400万画素から1200万画素数」とも云われている。
    細胞の細かい部分を使えば数倍には成るでしょう。
    現在は、「映像機器」ではこの5倍は超えている。
    但し、「映像機器の画素数」が増える事は、「目の撹乱」から来る「照輝現象」等には本質は変わっていないから関係が無い。
    然し、本論の問題は「学習能力」と「脳の習性」に関わる事である以上変わらない。)

    恐らくは、現在も未だ未了でありながらも、この上記した難しい現象を学習で獲得している事を考えると、原始には「環境条件の差」が想像も付かない程に学習能力の構築や進化に執って大変に激しいものであったと考えられる。
    勿論、「BGRの色範囲」では、「生存の危機の状態 A」が「普通の状態」であったと成る。
    依って、「YMCの光の領域の事」の「生存の危機の状態 B」は、「生存の危機の状態 A」を遥かに超えた「天変地変」が、「左脳」に「特別な変化」を与える位に、「生存に関する特別な事変」が長期に起こっていた事に成る。

    「YMC」は明らかに、「BGRの学習能力の期間」と異なり、長い進化の後に起こった現象であった事が云える。

    結局は、先ずは、この左脳の「学習機能」により「適格な情報量」が増え「鮮明な造形」と、それに伴う「色の造形(色彩)」が連携して構築されるに至ったのである。
    ところが、「学習能力の事」だけでは済まなかった。
    この時、この「記憶」が飛躍的に相乗的に多く成る事に依って、「右脳」の「光の差の違い」の「光の造形」と、「左脳」での「記憶]で相関し補完する「色の造形」との間には、”「論理的な記憶」”の”「補完ずれ」”が起こる事に成った。(「BGRの色の領域」の補完)

    これに「YMCの光の領域」の「学習能力」も加えられて時期がずれて起こる事に成ったと観られる。
    恐らくは、「右左の脳」には「パニック状態」に成っていたと考えられる。

    「人類」に現在も依然として、この「学習能力の有無と差違」が起こっている現状は、この時の「後遺症」と観られる。
    (本論の結論)
    そうで無ければ、「ミトコンドリア細胞」に「違いがあった事」に成って仕舞う理屈と成る。
    「人類、人種、民族のミトコンドリア機能」としてのそのものは同じである。
    異なるのは「学習能力の有無と差違」にある筈である。(そうで無いとする説もある。)
    依って、この時の「後遺症」と云う事に成り、当然に「後遺症」とすれば、「人類、人種、民族」に依って異なる事が生まれる理屈と成る。

    「左右の脳の細胞」には、「生きる環境」が、「進化AB」に左右する性質はあり得るが、「ミトコンドリア細胞」は人類は無く同じである。
    現在でも、「人類、人種、民族」に依って差違のある現象は、「右左の脳」の「パニック状態」が引き起こした「遺伝的な後遺症」である。

    これが、「脳の中」で起こるどちらとも捉えにくい「光の領域のYMC」の事に加え「色に変換されたBGR」の「補完関係」と「光の領域のYMC」の「補色関係」で起こる二つの現象(補完ずれ 補色ずれ)なのである。

    つまり、先ず、「人類」には、「目で捉えた全体範囲」の像には、「全体」を捉えてその認識状況を全体の細部に宛がうと云う上記した様に厄介な”「脳の習性A」”がある。

    要するに、「像の中央部分」が異なる事の如何に関わらず、「全体印象」で認識して仕舞う「像」と「色(BGR)」に関する習性である。
    「全体」が「中央」と同じ印象とは必ずしも限らないにも拘らず起こす。

    この「像と色」に付いて「実際との補完関係」が採れていない事に成る。
    これは「補完関係」である事から、「事実に関する詳細情報」を、全体を観て、そして、更に中央を観る事(習性B)で左脳に送る事では”「融合現象」”を成して修正させられる事には成る。

    ところが、ここで面倒にも「学習能力の現象」が「人類、人種、民族」に依って、全体を観て、そして、更に中央を観る事の”「習性B」”をしないと云う事があるのである。
    むしろ、”遺伝的に起こさない”が正しい。
    この差は、検証の研究論文では「後遺症の強弱」に左右していると観られる。
    (日本人はこの「習性B」を遺伝的に無意識に起こす。)

    ところが、「補完」は次ぎの習性から成り立っている。
    「習性A] 「(全体を観る)BGR」
    「習性B」 「(中央を観る)YMC」

    「習性C」 「(中央を修正)YMC」習性Aの加色分を外す。
    以上を行う事で「補完ずれの修正」は成立する。

    これは「習性A」が「BGR」(補完関係)と限定しているし、「習性B」は「YMC」(補色関係)と限定している。
    然し、、「YMCの光領域」の「補色関係」には、そもそも、無理に学習した事に依り「完全性」が担保されていないのである。
    依って、”恣意的に別の処”で修正しなければ、「事実に関する詳細情報」は得られないのである。

    それは、上記で論じて来た通り、「YMCの光領域」の「左脳の学習能力」によって「光領域」のものを無理に、「色領域の関係」に修正して送る情報である以上は、或は、其処には、”「補色」”と云う情報処理で行うものである以上は、無理が伴うのは必然である。

    「補色と云う概念」上の事である以上は、決して、「事実に関する詳細情報」の「補完」では出来ない。
    ”「補色」の「色」を”補う”と云う「脳処理」(習性C)”なのである。
    概念の事である以上は「人類、人種、民族」の影響は当然に避けられない。
    「習性A」と「習性B」でも無し得ない事であるのに、到底は「習性C」は無し得ない。

    (日本人はこの「習性C」を、「学習能力」が発達していて、一般的には遺伝的に無意識に起こすが、如何せん「個人差」が生まれる。)

    「光」を無理に[色」に変換する作業に加え、「色」には主観が伴う。
    依って「補完」とは成らず「補色」には無理が伴う。
    「YMCの光の変換色」を、”どの様に脳で定義するか”と云う難しい問題が伴う。

    例えば、「目で捉えた全体範囲(BGR−1)」の「中央付近 A」に、「光の領域の(YMC−1)」の「色合いの持つ物体 a」が来た時に、「記憶の脳」は、「学習機能」で、当然に全体色(BGR−1)の同系として捉えて、より(BGR−1)の「色」に近づけようとして、この(YMC−1)に(BGR−1)が加えられる。
    その結果、この(YMC−1)には(BGR−1)が加えられて(YMC−1)でも無い(BGR−1)でも無い「とんでもない色合い」の「a」が出来て仕舞う事に成る。

    ところが、次ぎに「人間の瞬時の動作」で、この「中央付近 A」を直視する反応を示す。(習性B)
    (「時の残像」で入った情報を認識して、「中央部」が少し違っている事から動作に及ぶと考えられる。習性E)
    そうする、全体範囲(BGR−1)の影響を受けない「中央附近 A」の「真の色合い(YMC−1)」が「認識」される。
    この二つの「認識」を捉えて「脳の学習機能」は「修正」を掛けて、「全体範囲 B」と「中央附近 A」の二つを融合して正しい「真の色合い」の「画面の認識」(習性D)をする。

    然し、上記した様に、これもこの「二つの認識」をした事に依って起こる事であって、「人間の全体の習性は基本的には「全体の認識」で終わる場合が多い。
    これも原始の頃からの「生活環境]から来た「遺伝子化した学習能力」に左右される。
    日本人はこの「二つの認識の習性ABCDE」を持っている。
    恐らくは、春夏秋冬の著しく変化する景色等を観て、この「生活環境」を認識して生存を左右させていた事から来ている。

    但し、全体範囲域を、上記の逆の場合の(YMC−1)に置く事では、この現象はBGR:YMC=1:3 or 1:4の関係が働きその変化を判定しにくい。
    判定しにくい理由は、下記に記述するが、然し、これは未だ何とかなるが、「光領域」を「色領域」に変換する事には「主観」が伴うが、これは論理的に解決し得ない。
    我々日本人は「異常な補色」の配色と捉えても、「人種」に依っては正常、或は、別の色を主張する事にも成る。
    これは「左脳の学習能力」を超えている。

    「補完」に付いても、人種同一と云う事にも成らず、「全体と中央との捉え方の如何」が左右する。

    「左脳」が成し得る学習能力の如何の差
    「左脳」が成し得る学習能力の「光領域の色変換」の如何の差
    「人類の目」が起こす共通する習性癖

    以上の現象を起こす。

    この事から、「脳」は、先ずは「全体の傾向」を捉えて「全体評価して仕舞うと云う習性」を持っている事に成る。
    逆に云えば、「目」に映る「中央附近」を捉えて「最終評価すると云う習性」を持ち得ている事にも成る。
    ”[中央→全体」の「→」のこの場合は、「脳の学習能力」はどうなるのか”と云う「疑問5」が起こる。

    基本的にスタート点が「YMC」であれば、上記で説明した通り、「1:3或は1:4の論理的関係」を超える事はないので余り変化は示さない。

    「全体がYMC」で、「中央がBGR」と云う事も起こるが、この場合は「脳の学習能力」はどうなるのかと云う「疑問6」が起こる。

    然し、上記で説明した通り、「論理的関係の1:3、或は、1:4の関係」で余り変化は示さない。
    唯、上記の場合は遠近感は無い物としての評価である。

    ところが人間には、この「遠近」でも異なる習性があるのだ。

    何故、この様な「二つの評価方法」を採る様に成ったかと云うと、これも高い「学習機能」の結果である。
    これは「人間」には、「物体」を多種多様な見方をしているからであって、これを学習した事に成る。

    それには、例えば次ぎの様な場合がある。

    周囲体を「遠くの物」にして観た時の「遠くの中央の物」の色の評価
    周囲体を「近くの物」にして観た時の「遠くの中央の物」の色の評価
    周囲体を「近くの物」にして観た時の「近くの中央の物」の色の評価
    周囲体を「遠くの物」にして観た時の「近くの中央の物」の色の評価
    周囲体を「中位の物」にして観た時の「中央の物」の色の評価

    原則的には、以上の「5つの場合」に分けられる。(但し、「人の感性」でその原則数は変わる。)

    イ 周囲体が「遠くの物」とする場合は、通常は「周囲体の色合い」を「総合的に観る」、又は「漠然的に観る」と云う傾向にある。(習性E)
    この為に、「遠くの中央の物」には、上記の「補色関係の現象」は起こる事は起こるが端的には出難い。
    ”出難い”と云うよりは、”出る”と云う意識が低い限り出ていても、”それはそんなもの”として認識していないのが普通である。
    ところが、「近くの中央の物」には、周囲体は、「融合色」の「単一性の色合い」を示しているので、「単一色」として端的に出て目立つ。
    これも上記の通りで、それはそんなものとして意識していないのが普通で、この「補色関係」はプロと成れば見抜くであろう。

    取り分け、「YMC」はグレーの所(相関図横軸の中央域)までは、「Y」と「M」と「C」の間の縦の”「色間」”が実に狭い事が特徴である。
    ”「色間」”が狭いと云う事は、「YMCで構成された色合い」に”変化が起こり難い”と云う事で、或は、「色合いの変化」が”目立たない”と云う事にも成る。
    ”「色間」”が広いと云う事は、どれかが先んじて影響を受けて「色合い」が変わり易いと云う事に成る。

    「強弱」がYMC:BGR=1:4であるが、この「色間」に付いては、1をCCカーブでは標準と成っているが、「学習能力」ではYMC:BGR=1:5位である。
    従って、厄介な事に「人種や民族」によって、この「色間」は異なる。

    例えば、赤(R)等の華やかな色を好む民族では、「学習能力」では、R>G>Bとして記憶されている。
    この範囲が「CCカーブ」では1を標準としていても、学習の記憶では、Rを先頭にGでBとしてこの差を5程度の差を持つ様に学習記憶しているのである。
    そうすると、目に映るものはRが先に強く印象に残る事に成る。
    ことほど左様に、YMCは、「CCカーブ」では、標準の1であっても、「色間」はY>M>Cとして記憶されている。
    ところが、1よりやや大きく1.5程度で、「学習記憶」されている事が多いのである。
    そうすると、目に映るものとしての影響が先にYが影響を受ける。
    「YMC」は、元々、この「色間」が低いので、影響は受け難いが、それでもYが受けると云う事に成る。

    「学習能力」では次ぎの様に成る。
    (CCカーブに対比して)

    色間(縦の記憶)
    YMC:BGR=1:5

    色幅(横の記憶)
    YMC:BGR=1:3

    色E(縦横の記憶)
    YMC:BGR=1:4

    「人種 民族」等に依って異なる為に、均一には云えないが、「色間」では「YMC」は「BGR」に比べて論理的にも1/5程度しかない。

    従って、「近くの中央物」にしても「遠くの中央物」にしても、”その影響は無い”とは云えないが少ない事が云える。
    ただ、「YMCの関係」のその「色間」が、普通は、上からY>M>Cの順にある事が多い事から、「Y」に影響を受けている事に成る。

    取り分け、日本人は、「YMCの混合色」を「薄い肌色(薄いピンク色)」を好む傾向がある事から、「Y」に必要以上に影響を受ける事はある意味では好ましくない。

    唯、これは「薄い肌色」のベースに成る「M」と、「中間色のベース」と成る「C」を護らねばならない事からこの様な順序にしている。
    「C」に影響を受けると、Cは[ベース自体」であることから、「修正」が「他の色合い」にも影響して仕舞う事が起こるので護っている。
    「C」の影響は、質感に対して”「肌色系」のものでは無く成って仕舞う。
    従って、「YMCの混合色」、つまり、この「縦の色合い」では”「中間色」”と云うが、この”「中間色」”には、”「単一として端的に目立つ」様”にしているのが、「Y」なのである。

    その程度に依っては、「Y」は「薄い黄色系の日本」では、”「自然色」”に成るので、影響は受けても無い様に観えるのである。
    ”観える”と云うよりは、”そんなものだ”と思い込んでいる傾向が普通であり、「違和感」は余りない。
    然し、影響を受けている事は受けているのだ。
    それを知った上で撮影する事が必要である事に成る。

    全体として、「白」を「極めて薄い肌色を含む白色」としている限り、「Y」の「自然色」には「薄いM」を求める「悩の習性」を持つ事に成る。

    「景色」、即ち、「目に映る映像」を、”全体を観て、中央部を観て”、よく観察する事が必要で、これは「撮影の前のプランニング」である。

    敢えて、距離感で云えば、「望遠レンズ域(普通レンズ域)」と成る。

    ロ 周囲体が「近くの物」とする場合は、人間は、通常は「周囲体の色合い」を「単一的に観る」、又は、「具体的に観る」と云う傾向にある。(習性F)
    この為に、次ぎの様に出る。

    「遠くの中央の物」には、「可成りの色合い変化」で出る。
    「近くの中央の物」には、「完全な色合い変化」で出る。

    何れも写真性は極めて悪い。補正を掛けないと観られない程である。

    これは、「習性F」が働いている以上は、逃れられない。
    この場合は、どの様にして写真を撮るかは「充分な計画」が必要である。
    周囲と中央をどの様に配置するかの「計画なし」では、花などの「綺麗な色合い」の真面な写真は撮れないだろう。
    画面には大きく占めて来る被写体と成ることから”「目立ち」”から逃れられない。
    下記の「CCカーブ」や「YMCの色間」等の知識を良く知らなくてはならない。

    色間(縦の記憶)
    YMC:BGR=1:5

    色幅(横の記憶)
    YMC:BGR=1:3

    色E(縦横の記憶)
    YMC:BGR=1:4

    外部の「自然の映像」は、室内で上記の理論で整えたものと違い、好むと好まざるとも全て「脳の学習能力」に左右されるのである。
    例えば、写真館は主に「グレー方式」(相関図の中央域を背景)で影響を無くして整えている。
    この時の「グレーの程度」は、「コダック18%グレー」と定められている。
    日本人には「やや濃いグレー」と観られていて、「仕上がり具合」が必然的に相関図の右側に来るので「BGRの色合い」を強くし、「西洋的な色合い」に出て仕舞うので、嫌われている。
    そこで、日本では、主に、「YMC方式」を採用して元から「補色補完の影響」を無くそうとしているのである。
    従って、相関図の完全な左域である事から、「日本人好みの柔らかい色合い」の「中間色」が出て来るし、「補色補完の影響」が少ない事から、綺麗さも表現される事に成る。
    当然にこの時に、「極めて薄い肌色を含む白色」を求めているので、全体的にやや薄いマゼンタ傾向(M)には成る。

    唯、この「YMC方式」で影響を無くして整えている場合は、ポスターなどの撮影である。
    観衆の面前に晒すものである以上は、”衆目の批判を避けたい”とする心理が働いている。

    テレビ画面では、相当に金を掛けている番組は、兎も角も、殆ど、フェリアーが出ている。
    到底、綺麗と云う事は云えない。どちらかと云えば、”けばけばしい”であり、「色」より「人の印象に残る事」を目的としている傾向がある。
    日本の「テレビ受像機」では,「高額の機器」は、「恣意的な映像」は別としても、この「CC相関図」をソフト化して修正を掛けてより「綺麗」に見せる様に開発されている。

    距離感で云えば、「マクロレンズ域(普通レンズ域)」と成る。


    ハ 周囲体が「中位の物」とする場合は、イ、又は、ロの何れかで観える傾向を持つ。(習性G)
    傾向としては、「人間の目の視力(1)」に関わることから、何れも「ロの傾向」にある。
    距離感で云えば、「普通レンズ域(マクロレンズでの撮影も含む域)」と成る。



    もっと判り易く云うと、そもそも、「光の領域のYMC」が「学習機能」で起こらなければ、「補完ずれ」は起こらない理屈に成る。
    もっと云うと、「学習機能」が無ければ「補完ずれ」は起こらない。
    然し、如何せん左と右の脳の連携にはその様に動かない。必然的に「学習機能」は働く。
    そもそも、「ミトコントリア」が、どうのこうの出来る事では無い。
    これは「人間のミトコンドリア」だけが持ち得た範囲の「光までの範囲」のものの能力を持ち得て仕舞った事から起こる事なのである。
    つまり、「人間のミトコンドリア」は「BGRの範囲」では終わらなかったのである。

    これは、”何を意味するか”であるが、恐らくは、当初は、当然に「学習能力」の「低い時期」があった。
    そして、先ずは進んだ初期段階はこの範囲であった筈である。
    ところが、「陸」に上がる事が起こる事で、「光と色」の「強さと量の範囲」が格段と変化した事で、急激にこの「学習能力」が拡大した。
    且つ、「水」を介しての「光」に対してであったが、「陸」では「直射光」をこの「目の機能」が受ける事に成った。
    そこで、「光のYMCの領域」までを採り込んで仕舞った。

    「学習能力」が完全に持つまでの間、「BGRの範囲」のみならず「光のYMCの領域」が入ってきて、「混乱状態」が「眼と右左の脳」に起こっていた時期があったと考えられる。
    つまり、「目と右左の脳」に映し出される「視野」の「中央の色具合」は「自然色と異なる色具合」の現象が起こっていたと考えられる。
    そもそも、その前に「白黒説」がある位である。

    この証拠として、従って、「陸」に上がった動物の中でも、特に「節足動物」の様に「目の機能」の異なるものが生まれて、「原始の形」を遺したのではないかと考えられている。
    取り分け、現在でも「複眼機能」を持つ生物は、「昆虫類」に多いのはこの事を説明している。
    (現実に「白黒の色合い」を持った生物もあり多くは「原始生物」に多い。)
    つまり、「節足動物」は、この「混乱状態」に対応した可能性があり、その「複眼機能」の働きは生物によってまちまちである。
    この「複眼機能」には、普通は「単眼の集合体」を「複眼機能]としているが、その「単眼と複眼」の連携機能は殆ど別々の状況にある。
    つまり、「陸」に上がった時の「対応性」が、その生物、取り分け、その「節足動物の生き方」に左右していた事から「複眼機能の違い」が起こっているのである。
    千差万別と云って良い程であって、現在でも判ら無いところが多くある。
    明らかに「生存に関する事変」が起こっている証拠である。
    「人間」も当初は「複眼機能と原始脳」の生物であったし、現在もこの機能の原型を所有している。
    ここで、この「節足動物」に関わらず、「人間」も、この”「複眼機能」”を「額の中央」にかなり長い期間持ち得ていた事が判っている。
    現在も、この「複眼機能」が人間には存在しているのであり、未開の地の山岳民族にはこの機能を持ち合わせて使っている少数民族もある事が判って居る。
    「未開の地」の人間でなくても、「複眼機能の動作」があるかどうかは判って居ないが、「幻覚症状を起こす精神疾患」の中には、この未だ持っているこの「原始脳」が動作している事が検査で判って居る。

    この「複眼機能」は、上記の「三つの進化過程」の「進化A」から「進化B」に足るまで間、機能していたと考えられている。
    「進化過程」のなかで「繋ぎの機能」(補助機能)であったとも考えられている。
    この「複眼機能」の「重複使用の期間の影響」を受けていた事から、「習性A」から「習性F」までの事が脳に遺されてしまったと考えられる。

    ところで、この「複眼機能」は、「前頭葉」の後ろで、「左右大脳の中央下」の「脳幹の上」で「原始脳の傍」にある。
    「大脳」が発達し、「目の機能」の「学習能力」が発達した事で、その「使用の意味合い」が低下して、「左右の大脳」と「前頭葉」が大きく成った事で内側に追いやられた事が判っている。
    現在でも完全に退化したと云う事では無く、「人種」に依っては、未だこの「複眼機能」(原始脳である為に予知能力として働く機能が遺されている)を働かせている。
    このある「限定された地域」がある。

    つまり、「陸」に上がる事に依って、当初は「直射光の悪影響」を、この「複眼機能」と「原始脳」で補完していたと考えられている。

    研究に依って、その機能は「節足動物」の様なものでは無かったと考えられている。
    人間としての生き方にあったと観られている。
    それは、人間の場合は、「網膜」と「右脳の視葉」と「左の記憶脳」を発達させた「単眼機能」に特化している事から、主に「紫外線の左」と「赤外線の右」の「光のリスク」を「複眼機能」で補っていたと考えられている。

    ところが、この「複眼機能」で補完していながら、”何故、面倒な「YMCの領域」を取り込んだのか”ははっきり判っていない。
    無意味に取り込んだ事では無い筈である。
    この世の生物と植物には、次ぎの様な二つの「進化の目的」があった。

    一つは、「生存の防御本能」 敵からより安全に身を護る「進化目的(イ)」
    二つは、「生存の食糧調達」 より適格に食糧調達する為の「進化目的(ロ)」

    以上の二つに分けられる。

    「YMCの領域」を敢えて取り込んでいる以上は、相当な生きる為の「リスク解消の理由」があった筈である。
    「YMCの領域」は、「進化目的(イ)」では無い筈である。
    「人間の敵」が全てこの「光領域の色合い」を持っていたとするならば「進化目的A」であったかも知れないが、そうでは無かった事は論を待つ値しない。

    然し、この時期は、「進化A+進化B」の「学習能力」の後の話に成る。
    従って、「進化目的(ロ)」であった事に成る。

    実は、現在も、この「進化目的ロ」を遺して「基本機能」として持っている「節足動物」がある。
    そして、それを「複眼機能のメイン機能」として持っているのである。
    それは、「蝶類」と「蜂類」と「トンボ類」の全てに観られる機能である。

    それぞれのものは僅か乍ら異なるが持つ「基本機能」は同じである。
    そこで、典型的な類は「蝶類」である。

    「蝶類」は、何と、完全に「光領域」の高エネルギの「紫外線域と赤外線域」までを観る事が出来る。

    これは、”何故か”と云うと、次ぎの事にあった。
    「BGRの色領域」の波長を持つ「花」の「付け根部分」に、実は、「紫外線」と「赤外線」を受け取れる「顎(ガク)」と云う部分がある。

    そもそも、「花の構造」も次ぎの3つに分けられる。
    1「雄しべ 雌しべ」
    2「花弁 胚珠 顎」
    3「花托 花柄」
    以上から成り立っている。

    この2の中の「胚珠 顎」の部分が、「紫外線の吸収」(進化目的ロ)と「赤外線の透過」(進化目的イ)で機能させている。
    この「2の部分」に蜜を貯め込める部分がある。

    「蝶」は、これを天候や光の強弱や遠近に関わらず、ここを適格に素早く観る事で「花の在処」を発見できる。
    そして、その「花」の「糖質の蜜」(生きるに必要とする絶対的必須要素)を獲得できる様に進化しているのである。
    これは蜂類もトンボ類もほぼ同じ進化をしている。

    唯、「蜂」は「蝶」よりも、「赤外線」は元より「赤のR域の能力」さえも持っていないで、「緑のG域の能力」をより優先して持っている様に進化している。
    実は、「蜂」には「赤外線の前後領域」には「大きなリスク」を持っているのである。

    この様に、「複眼機能」を持っている「類」に依っても、その「進化目的ロ」の手段は違っている。

    そうすると、人間の「YMCの領域」の獲得は、「進化目的ロ」の手段として獲得した事が判る。
    つまり、「陸」に上がる事で、「BGRの領域」以上に「YMCの領域」の能力を「進化目的ロ」の為に絶対的に獲得する必要に迫られた事に成る。

    どう云う事かと云うと、次ぎの様に成るだろう。
    食料として「B(ブルー)野菜系類等」を認識する必要があるが、気候や天候や遠近に左右され難い「光領域側のY(イエロー)」を見通す事が出来得れば安定して「進化目的ロ」は達成される。
    更に、「G(グリーン)森林系類等」を認識する必要があるが、同じ環境条件に左右されずに「光領域のM(マゼンタ)」を見通す事が出来得れば、そこには果物等の食糧(進化目的ロ)がより安定して獲得する事が出来得る。
    同様に、「BやG」に比べて、その気候や天候や遠近等の環境条件に最も左右され難い「C(シアン)」を見通す事が出来得れば、絶対栄養素の「R(レッド) 花系類等(蜜 糖質類)」を蝶の様に確実に獲得する事が出来る。
    更には、その「光領域側」の「C(シアン)」は「毒性」を顕示する「光」でもあり、「進化目的ロ」としては、他の二つに比べてこの見通す能力を持つ事は「絶対的な有利性」を有する事に成る。
    より400ナノ附近としての「微細波長」であることからも、「BとG」に比べて比較に成らないほどの有利性が有る。

    むしろ、この「C(シアン)」だけでも良いとも考えられる。
    何故ならば、この「C(シアン:CN)」は、この世の「全ての物質」の「構成要素(C)(N)」に通じていて、この”「色合い」”を見通す事が強く出来得れば、他の「BやG」も見通す事に結び付くのである。
    「生物の構成要素」の炭素(C)と窒素(N)から構成される「シアン:CN」はこの意味を持っている。
    現実に、従って、上記した様に、「蝶」は、この「シアン領域」を通り越して「赤外線」を見通す事が出来るのはここから来ている。

    この「二つの要素(炭素と窒素)」を見通す事が出来得れば、「生きる糧」を獲得できる事を保障されている事に成る所以である。
    「蝶」は「進化目的ロ」で、究極の、何と”「赤外線」”までを「透視する能力」を「複眼機能」を使って獲得する進化を遂げたのである。
    「進化目的ロ」の「典型的見本」とされているのである。

    簡単に例を挙げると、銀杏の葉の黄葉(Y)は虫は食べない。
    何故なのかである。観て判ると云う事である。
    つまり、この(Y)のベースには(C)を強く有しているからで、虫はこれを透視しているのである。
    未だある。「紫陽花の7月頃の葉」は虫は元より動物は愚か人間も「食せず」と云い伝えられている。
    現実に人間も強力な腹痛を起こし危険な状態に至る。
    大昔は、紫陽花の葉や銀杏の葉は、細菌が着かない事から食器として用いられたものであるし、神仏に捧げる食器としても用いられていました。

    これは、「7月の葉」の真緑葉(G)のベースにはこの(C)を強く有している事から、虫はこれを透視しているからである。
    最後の事例として、「キンポウ草」の(Y)の花は、毒性が強く虫は花のみならず葉も食さない。
    これも同様に(Y)のベースには(C)を強く有している事に依る。
    虫は複眼などの器官を発達させてこれを透視している事に成る。

    これらの葉や花を写真にして、この(Y)や(G)の写真から(Cシアン)を抜いて行くと如何に「Cシアン」に左右されているかは良く判る。

    須らく、論じている「写真性」に於いても、この「Cシアンの有り様」を確認する事で全ての「写真性の綺麗」と云う概念を見抜く事が出来るのです。
    且つ、被写体にこれを構成出来得れば、「綺麗」と云う事の賛同は確実に得られる。

    如何に被写体から”「Cシアンの有り様」”を見抜くか、或は、構成するかにかかっていると云っても過言では無い。
    その様に、人間であれば、「記憶の領域」の「学習能力」にはインプットされてしまっている事に成る。
    これは何人も逃れる事の出来ない「無意識領域のシアン概念」である。

    但し、然し、この(YMCの領域)の「認識能力」や「透視能力」は極めて退化しているし、「芸術性」とは異なる事は云うまでもない。
    逆に云えば、「芸術性」の被写体を作るとすれば、「シアン概念」をコントロールする事に成る。
    況や、これは「進化A+進化B」の「学習能力」が如何に低下したかを意味する。
    「学習能力の低下」は、無意識中の事である事から、所謂、退化である。
    「進化目的ロの状況変化」で起こる「左脳の使わない情報」は「退化」へと進む所以である。

    次ぎに、事程左様に、人間の”「複眼機能」”と”「YMCの領域(左脳の学習能力)」”の問題である。
    この「二つの同じような機能」が存在する事は、重複期は別としても、完成期には「進化」からあり得ない。
    そうすると、「左脳の学習能力」の”「退化と進化」”が人間に起こっていた事が判る。

    「人間」に執っては、この”「退化と進化」”が起こったと云う事は、”「進化目的ロ」に何かが起こった事”を意味している事に成る。
    では、それを解明するには、「陸に上がった時期」が、”何時頃であったのか”を読み取る必要がある。
    ところが、この定説はない。「陸」に上ってからの何時頃に、この「YMCの領域]の「認識能力」を取得したのかも判らない。
    然し、凡その事は判る。

    先ず、上記した様に、「人間」には「蝶」と同じ様に「複眼機能」があった事は判っている。
    「蝶]と同じ機能で働いていたかは別であるが、あった事、否、ある事は事実である。
    元より「YMCの領域」を認識できるのであれば、そもそも論理的には「複眼機能」は不要である。
    「複眼機能」が先で、「YMCの領域」が後であった事は「複眼機能」が退化している事実から確実である。

    そうすると、”「YMCの領域」に進化し、「複眼機能」が退化した時期は何時か”と云う事に成る。
    それまで、「進化目的ロ」の為に、「複眼機能」を作り上げて使っていた。
    ところが、これは「退化」と云う意味から、論理的には、その「複眼機能」が「進化目的ロ」の為には徐々に役に立たなく成った事を意味する。

    では、”何故、役立たなくなったのか”と云う事に成る。
    それまでは、この「複眼機能」を使って「進化目的ロ」で「糧」を得ていた。
    然し、この「糧」がこの「複眼機能」で得られにくく成った事に成る。

    それは何故かである。
    これは、上記した「進化目的」のもう一つの”「進化目的イ」”に”「何等かの変化」”を起こした事を意味する。
    この”「何等かの変化」とは何か”である。

    上陸後、次ぎの様な事が起こったと考えられる。
    先ずは、「同じ様な種類の糧」を獲得する能力の持った「生命体」が多く出て来た事を意味する。
    或は、「同じ様な種類の糧」が「気候変動等の要因」で獲得が難しく成った事も意味する。
    或は、「同じ様な種類の糧」に「何らかの異常」が起こった事も意味する。

    恐らくは、この原因が単一では無かった事が判る。

    何故ならば、次ぎの理由が挙げられる。

    「光の領域」の「YMCの領域」と云う「特殊な領域」に進化させた事。
    「特殊な領域」と云う事から、単一では無く「相当な事」が起こっていた事を意味する事。
    「通常の右脳」だけでは無く、「左脳」をも連動させ動作させてた事。
    「連動と動作」だけでは無く、「記憶データ」を貯め、且つ、「学習機能」を作り上げた事。

    これ等の事から、全ての事(「相当な事」)が起こったと考えられる。

    では、”何故、「特殊な領域」に進化させたのか”と云う根拠、或は、理由である。
    それは、「確実な根拠」が自然界に原理として存在した。
    そもそも、人間にとって生命を維持するに「絶対的な要素」として必要なのは「糖質」である。

    「進化目的イ」と「進化目的ロ」を獲得するには、「右脳」と「左脳」をより働かせる事に成ることから「必要糖質量」は大きく成る。
    そうすると、この「右左脳を働かせるエネルギー源」が必要と成る。
    生体的に左右に関わらず「脳」を働かせるには、「糖質」が必要である。
    もっと云えば、この「糖質」を構成するNa(ナトリュウム)が必要と成る。
    この「Naイオン(ナトリュウム)」は、「人間の脳」を動かす「神経細胞の中継点(シナプス)」にこの「Naイオン」を瞬時に飛散させて、その「Naイオン」を媒介して「電子信号」を送る仕組みに成っている。

    そもそも、「脳」は「地球の電荷力」に依って、「人の頭部」の先端にある「脳幹」に「身長」に相当する「電位」を持たせ、それを「電極」にして、その電極から発する電子信号に依って「神経細胞」を刺激して「脳」を働かせる仕組みに成っている。

    従って、この「Naイオン」が無ければ脳は動かない。
    「脳」がより動くと云う事は、「糖質」(肉などの脂肪から分解される糖質 ケトン脂肪は適切)が、つまり、「Naイオン」が必要と成るのである。

    「右脳のYMCの領域の認識」と「左脳の学習機能の蓄積」を起こすには、「絶対的」により「生体」を維持する事のみならず、「Naイオン」をより多く要求される事に成る。

    他の動物よりも著しい「脳の拡大」を起こした人間にとっては、比較に成らないほどの「糖質」を要求される事に成る。
    故に、「Naイオン」を絶対的に獲得しなければならない。
    これには、直接に糖質と成っている「蜜の在処」を、他の動物などの生体以上に、どんな環境下に於いてもより速くより確実により多く「見抜く力(透視力)」を要求される事に成る。

    「肉質」などの分解から得られる「脂肪分 ケトン体」を分解して糖質に変えて「Naイオン」を獲得する事では「脳の糖質」は獲得できるが、これには時間が掛かる。
    「ケトン体の糖質獲得」は、「脳の働き」は遅れて「学習能力」の様な「素早い脳の働き」を賄う事は出来ない。
    又は、ミネラルから「Naイオン」を獲得する方法もあるがこれも同様の理屈が働く。
    この「肉質の脂肪」と「ミネラル」からの「Naイオン」の獲得は、「進化目的イ」に直接左右する事でも「獲得のリスク」は大き過ぎる。
    且つ、「脳」に必要としている「速度と量」には、「進化目的イ」と「進化目的ロ」の「リスク環境」は「原始と現在」と違い「適応力」と云う点ては無理であった。

    従って、この「蜜の在処」には、「進化目的ロ」は「絶対的な条件」であった。
    ところが”「YMCの領域」”でなくては成せ得ない理由の絶対的条件がまたもや存在した。

    それは、殆ど「蜜の在処」と成る「花の付け根」に「紫外線域を吸収させる部分」が在る。
    これを適格にどんな場合でも確認でき得れば確実に「蜜」に在り付ける。
    この「花の付け根部分」は、「紫外線」を「吸収させる事」では、「赤外線」も当然に「透過させる事」に成る。
    結果として、その「付け根部位の色合い」は、必然的に「YMCの色合い」を呈する論理に成る。
    この「部位のYMCの色合い」を逸早く確認出来れば、「他の生体」より先んじて「蜜」に在り付ける事に成る。
    他の生体は、この能力を持ち得ていなければ、絶対的に有利である。
    他の生体のみならず、動物、哺乳動物にも観られない機能であるのだ。
    「YMC」は「人類」だけに観られる機能である。

    この「糧」を得る為に態々、「危険な地域」に出て「命」を落とす危険性も低下する事に成る。
    「進化目的イ」の解決にも成る。
    恐らくは当初はこの目的にあったと観られる。
    何故ならば、この能力を獲得出来る事で、「花の付け根部位の発見」と「蜜の在処」のみならず、「果実の在処」も合わせて発見出来る。
    その「果実」に集まる小動物も狩猟する事が出来る等の「生きるに必要とする糧」をも獲得できる事に成る。
    「進化目的イ」「進化目的ロ」の何れに執っても有利である。

    何故、では,この「花の付け根の部位」に「赤外線」と「紫外線」の吸収し得る部分が在るのかと云う事に成る。
    それは、何れの生体に執っても例外なくその「振動磁波のエネルギー」から受ける「紫外線のリスク」を持っているからである。
    無制限に受ける「紫外線」は、「花などの生体」を破壊させる事にも成り、「花弁を持つ植物」などの防御反応に働いていた。
    「赤外線」は、生体に必ずしも悪い事では無く、良い事もあるが、波長が短い事から受け過ぎると「熱」を必要以上に貯め込む事に成り得る。
    従って、ある程度に透過させる様に働くが、これは「現在の環境」に於いて論じられる事であって、原始では、水中から陸に上がった事で、”「熱リスク」”を強く生体は持っていたと考えられる。
    それは、空気中の「酸素量と粉塵量」に大きく影響していた事が判っている。
    「酸素量」は多く、「粉塵量」は極めて少ない環境であった。

    「酸素量」は、森林に入ると”冷たくヒンヤリする”のは、科学的に植物が出す酸素が酸化反応に依って熱を奪う事から「空気を冷やす能力」を強く持っている。
    ところが「粉塵量」が低いと云う事は、振動磁波が小さいことから「赤外線」は透過して来る。
    従って、この「赤外線」は、この多い「酸素量」に衝突してより高い熱を発するし、粉塵も少なければ衝突する事で消滅せずに透過してくることから「生体」に当たるとより高い熱を発する。

    現在と異なり、水中と陸上との違いもあり、「熱」に対する感度はより敏感でもあり、「冷却性」のある森林の無いところでは、「糧の獲得」の為に「長期間の滞在」は「進化目的イ」も含めて不可能に近い状況であった事が云える。
    これは「生体の生存環境」にも大きく影響していたのである。
    その為には、多くの「陸上の生体」は「赤外線」を受けると透過させる様に働いていた。
    その証拠がある。

    「蝶類]は「赤外線」をむしろ利用して受け入れ、逆に「蜂類」は、この「赤外線」のみならず「赤領域」までも排除しているのである。
    これは、「蜂の糧」の「蜜」に起因している。
    「蜂類」は「蜜」と云う「限定した糧」であった事からより、この唯一の「糧の蜜」を獲得するには、この「赤外線に依る熱(リスク)」を嫌った事にある。
    「蜂類の生態」はこの「熱」を最も嫌うのはこの事から来ている。
    その「蜂類の生きられる熱の限界」は45度である。

    「糖質」は、生体の中で直ぐに熱に代わるが、これを唯一の糧とする以上は、「他からの熱」、即ち「赤外線の熱」を必然的に排除しなければ「体温」は上昇し維持し得ない。
    「蜂の巣箱」を観れば、羽で巣箱の中を冷やしている事からも一目瞭然であり、飛来中の羽の羽搏きにて「熱(赤外線に依る輻射熱)]を必要以上に持たない様にしている。

    ところが「蝶類」は、逆に「赤外線」も観えているのは、特段に巣を持たない事と、その「羽」とその「羽の銀紛」にある。
    「赤外線」を直接体に当たらない様に反射させてリスクを防いでいるのである。
    「赤外線」を認識できる事から来る「糧の獲得」のメリットが大きくリスクは低く成る。

    この「蜂蝶類]に付いては、兎も角も、「人類」はこのリスクの大きく成る領域を避けて、「YMCの領域の範囲」で留めた事に成る。
    逆説的に論じるとすれば、もし、「紫外線」や「赤外線」までも「進化目的イ」+「進化目的ロ」の為に必要とした場合は、蜂類や蝶類の様な機能を持たなくてはなら無く成っていた事を物語る。

    当然に、「複眼機能」も未だ退化させずに額中央に持ち得ていた事も充分に云える。
    従って、「人類の形」ももっと変わっていて、場合に依っては「生存の環境条件の地域さ」で、「人種」でも違っていた事が考えられる。
    現在でも、地域に依っては皮膚の色や頭形なども違っているくらいであるから、「体の皮膚機能」や「手足などの形」も充分に変わっていたことも云える。

    然し、逆説でその様に成っていない事は「人類」は「紫外線 赤外線」は排除した事が云える。
    然し、危険領域である事に変わりはないが、「進化目的ロ」の[糧」の為には、その「直前の光領域(YMCの領域)」を獲得する様に働いた事に成る。
    可成り、「危険領域の光領域」を獲得した事は、「生存」に可成り逼迫していた事が云える。

    筆者は、「危険領域の光領域」の「YMCの領域」を獲得出来た背景には、この”「複眼機能の存在」”が補完していた事があったと観ている。

    唯、この人類の「複眼機能」のそれは「他の生体」の持つ「複眼機能」とは違っていたと考えられている。
    元々、この「現在様」であったのか、変えたのかは判らない。
    この「複眼機能」の持つ生体は、同一では無く千差万別と云われている。
    この事から、「現在様」に変えた事も云えるが、筆者は「現在様の元々説」を採っている。

    「人類」は、主に、「現在様]の”「予知能力」”が主であったと考えられている。

    現在も遺されている「原始脳の機能」から観て、「原始脳」に近い”「予知」”に依って「人の感覚」を研ぎ澄まして、「糧の在処」を見定めていた事が云えるのである。

    恐らくは、「複眼機能」が、この”「予知能力」だけ”であったとするには、「進化目的イ」と「進化目的ロ」が人類には到底に維持出来なくなっていた事が云える。

    筆者は、「小さい人類」、或は、それに近い生体であった頃の「進化目的イ」と[進化目的ロ」を果たすには「予知能力」だけでは無理であって、”他にも在った”と考えている。
    そもそも、人類には、主体は「原始脳」があった事から、「複眼機能」と連携していた事は「予知能力」であったと考えるが、ある程度の”「光の透視能力」も在った”と考えている。
    この「光の透視能力」は、「予知能力」にも通ずるが、これを「予知」するには「何かの媒体」が必ず必要である。
    この”「媒体」”が「光」或は「色」であったと観られる。
    主に「BGRの色域」であったと考えられる。

    つまり、この”「色の領域」をぎりぎりの領域まで広げる進化を遂げた”とする説と考えられる。
    それが結果として、”「YMCの領域」”であった。
    そして、それをより正しく適格に判断するには、”「学習能力」が要求された”と云う事に成る。
    結局は、「人類の複眼機能」は、「色」で全て認識し予知していた事の説に成る。

    「複眼機能」は、この事から「予知能力」であったとする説は納得出来る。
    「光領域」の「YMCの領域」を「光]では無く、「学習能力」によって、”「YMC(イエロ マゼンタ シアン」と云う色域”に変換して獲得したと考えるのが、「進化A」+「進化B」から無理なく論理的と成る。

    この「複眼機能」に頼る事無く、ある程度の「YMCの領域」の「学習能力」が達成された。
    この事から、「複眼機能の予知能力」は、併用しながら退化して行ったと考えられる。

    当然に、「学習能力の拡大」に伴いそれを処理する為に、「右脳」と「左脳」と連動する事に依って「色に関する感情感覚」と「生存の糧」をより確実に得られ多感情感覚が「前頭葉の脳」をも拡大させた。
    その「情報量」より細胞が増大して拡大化した事に成る。

    左右と前から三つの脳が拡大した事に伴い、額中央の複眼機能は中央部に押しやられ、後頭部の運動脳とに挟まれる位置に移動して次第に退化した事に成ったのである。

    この「退化」は、「人種の生存の環境条件での差違い」に依って、異なり、「学習能力の差違」とも成って起った事に成る。

    そうすると、「人種」に依って現在も「差違」がある事は、「複眼機能の退化」><「学習能力の進化」の過程にあるとも云える。

    余談であるが、「Y(イエロ)」は、”黄色”と表現するも適格性には無理は少くない事は兎も角も、より右の光領域に近づく「M(マゼンタ) C(シアン)」は「色の表現」は難しいのはこの事からも判る。
    「Y」は「薄い黄色ポイ」と成るのだが、人種、民族によっては、BGRの色の領域の「7色」の左から「3番目にある黄色」と見分けが付かない。
    ”「光る黄色」”とも表現する。
    「Mのマゼンタ」は ”紫ポイ”と云うが「紫」では無い。
    ”ポイ”である。「薄い紫色ポイ」となるだろう。
    日本人は位の最上位に置き「紫系統」が好きである故に、「共通の理解」がある。

    唯、「M」に関しては、流石、”「光る紫」”は少く無い。
    「紫」自身に「輝き性」が無く、これに”「光る」”は無理と考えられるが、”「輝く薄紫」”と表現する民族もある。
    「光る」も「輝く」も何が違うと思うが、違うらしい。

    然し、ところが、特に、「C(シアン)」は、”シアン”と簡単に表現するが、”ポイ”は無く、「適格表現」の色は無く無理である。
    無理に云えば、”薄い水色ポイ”と成るが、決して「薄い水色」では無い。
    人によって、「人種、民族」に依っては、”薄い水色ポイ”は、理解されず ”「光る白」”とも云う。
    日本人には理解されないが、”「光る白」”の方が正しいかも知れない。

    何故ならば、これらの「YMC」をCPで色補正する時に、「薄黄色ポイ」「薄紫色ポイ」「薄水色ポイ」で画面を観て「自然の色合い」に戻そうとすると、日本人はこの”ポイ”で色調節するのが上手いが、シアンに関しては、”「光る白」”は比較的適格性が有る事は否めない。

    それには、次ぎの根拠が有る。
    この様に、「科学用語」のそのものと同じ「Cシアン CN」に関しては、人種に依って誤解が起こらない様に”シアン”と呼ぶのが普通である。
    須らく、猛毒の「NaCN」は「シアン化ナトリュウム」である。
    「Y」「M」と「C]は異なっている。
    事実、異なっているのである。
    「C」は「BGRの色の領域」を含む全ての「色合いの基本」と成る。
    この”「C」で「色」は何とでも成る。””印象は一度に変わる。”と云われる様に「加色 減色」の何れに於いてでも一変する。

    「M」「Y」は確かにある方向に印象を持って行くが全体を変えるには至らない。
    この”「印象」”は大きく好みに左右してくるので、使うには注意が必要である。
    然し、「C」は違う。この存在を見逃したら「綺麗」は難しい。

    因みに、良く画面には、どうしても「アスファルト道路」が大きく占めて来る事が多い。
    この「アスファルト道路」の「色合い」が悪いと「全体の映像」の「印象」は変わる。
    勿論、「綺麗」は大きく損なう事が多い。実際と違う「色合い」に成っている場合が多い。

    これは、上記した様に、「周囲の色合い」がこの道路に「補完」が働き、持つ「YMC」に補色が掛かっているのである。
    実に多い事例である。
    「全体から来る加色」と「YMCの減色」が起こった事に成る。
    この事例は実に起こり易い。
    従って、「加色」の色を引き、「減色」の色を加える作業が必要に成る。
    そうで無ければ、「綺麗」は不可能で、撮る前に、この補完と補色を良く観乍らアングルを計画する必要がある。
    画面にアスファルト道路を入れる場合は注意が必要であり、Mが左右してくる。

    これで、「YMCの領域」は「学習能力」に依って「左の記憶脳」が補完している事が明らかに判る。
    これが、”光と色の中間色”と呼ばれる所以である。
    故に、「脳の学習機能」の「能力限界」にある為に、本論のテーマの問題を引き起こすのである。

    従って、これは「人類」にしか見られない事から、その時期は、「YMCの領域」と「学習能力」への「完全進化と特化」は、「人類に進化した時」から起こり始めた事に成る。
    その人類でも「学習能力の未了」の「民族差」もある事からも云える。
    そして、”その目的は何か”という上記の疑問は、答えは”「糧」”であって、”「花の蜜」”にあった事に成る。

    この「学習能力」に付いて、現在も進化しているので更に論じる。

    従って、「人間の脳での解決策」が必要である。
    論理的にこれを解決するには、「脳」が起こす論理的な問題の解決する方法を、人間が考え出して、これを「左脳」に教えて記憶させる事で解決する事が出来る筈である。
    あくまでも、「右左の脳の論理性」から来たものであるから、解決し得る事は判る。
    それには、次ぎの「二つの方法」が考えられる事に成る。
    この「二つの方法」を「左脳」に教える事に成る。
    つまり、これが「人間工学」、或は、「光工学」で云う「フェリャー理論」である。

    さて、この「フェリャー理論」をより判り易くより「脳の進化」を促す為に解く。
    「進化目的イ」(生存の敵)や「進化目的ロ」(生存の糧)でも無い、新しい「進化目的ハ」として説く事に成る。
    「進化目的ハ」は、「左脳の学習能力」の「情報の錯誤」として捉えられる事から、この「錯誤」を起こさないにする「より高い学習能力の脳の進化」と云える。
    所謂、”「生存の進化」”と云える。
    解決方法は次ぎの二つに成るだろう。

    色間(縦の記憶)
    YMC:BGR=1:5

    色幅(横の記憶)
    YMC:BGR=1:3

    色E(縦横の記憶)
    YMC:BGR=1:4

    上記した以上の学習能力の論理式から、次ぎの方法が導き出される。

    解決方法 A
    一つは、「Y−M−C」の「光と色の領域」にある範囲に「背景体」を置き、その真ん中に「被写体」を置けば、「光と色の右左の脳の論理的補完現象」を解決する事に成る。

    日本は四季に依って背景体が大きく変化する。
    下記の「解決方法 B」は室内での事と成り、費用も掛かる事から現実的では無い。
    専門のスタジオでの事と成る。

    然し、この方法では、画面の要所要所にこの「YMCの色合い」のものを引き込むアングルを考えるなどすれば簡単に解決する。
    それは景色であろうと、YMCの樹木や花であろうと、人物の服であろうと、白系の建物であろうと、背景体の中に一つ置くだけでも簡単に軽減される。
    更に、これに遠近の差がつけられれば、より効果的である。

    日本は、秋は紅葉で「YMCの色合い]が山全体にいっぱいに成るし、春も趣の違う「YMCの色合い」を示す。
    写真が綺麗に取れるのは木々や花々だけでは無く、この理論に基づいていた環境条件であるのである。


    解決方法 B
    「光の集合体」は「白」、「色の集合体」は「黒」である。
    とすると、この「光と色の補完現象」が「起こし難い色の範囲」に「背景体」を置けば良い事の理屈に成る。

    「光と色の中間色」、即ち、YMCに対して、右側に進んだ「色と色の中間色」、即ち、「白と黒の中間色」とは”「灰色」”と云う事に成る。
    つまり、上記の「論理式の2附近」に置くことで影響の少ない「灰色」は現出される事に成る。

    「学習能力」が覚えている「CCカーブ」を再現してその「灰色」を作り出す事は簡単である。
    これで、「完全」とは云えないが、「論理的補完現象」を最低限に解決する事に成る。
    当然に、未だ、脳では起こらない。

    「解決方法 B」の”「完全で無い」”と云う事はどの様な事かと云う事に成る。
    つまり、”「灰色」とは、何を以って「灰色」とするか”に関わって来る。
    それは「脳」に関わる「良悪を決めにくい人間の主観領域」であるからで、「白ポイ灰色、黒ポイ灰色」が起こるからである。
    これは「主観での範囲」であって「国民性」に依って大きく異なる。
    アジア人は、特に日本人は、「白ポイ灰色」を好む。
    然し、西半球の人は「黒ポイ灰色」を好む。
    そこで、「BGR(三つの原色)」の「色の領域」の「灰色とする範囲」の左(白ー黒)から「18%のポイント KODAC」を万国共通で「灰色」の中心とすると決めた。
    (論理式では2附近)

    この「灰色の中心」(18%グレー)には、「重要な意味」を持っていて「色の趣向」を決める「重要な要素」と成る。
    「18%グレー」の右の「黒ポイ灰色」をより好む人は、従って「7色」の「赤色側」の「色合い」を好む事に成る。
    つまり、そうすると、日本人は当然に「白ポイ灰色」をより好むので、「7色」の「紫色側」の「色合い」を好む事に成る。
    だから、日本では「紫」は「最高位の色」と古来から定められているのである。
    どちらかと云えば、「日本人」は「紫色の範囲」の薄めの「肌色」を好む傾向にある。
    つまり、「綺麗」と云う難しい主観は、論理的にはこの領域で構成された「色合いの構図」のものと成る。

    「綺麗」等に始まる「難しい主観」を色論理的に論理づけた事に成る。
    この「色理論的情報」が好む好まざるに関わらず「右と左の脳の相関記憶情報」として持っている事に成る。
    人は、取り分け日本人は持っている。
    それが「色理論情報の理論」が人種に依ってその”「起点」”がずれている事を意味する。

    この「色理論情報の理論」を「一つの図表」に表したのが、”「CCカーブ」”と云うもので表現されるが、当然に、これをCP化しようとすると、「CCカーブ」は同じにしても、その「カーブの起点」が人種に依って異なる。
    つまり、簡単に云うと、「日本人バージョン」「アメリカ人バージョン」と云う事が生まれる。
    従って、「人種」に依っては、人間であったとしても「目に起こる右脳と網膜の機能」には「強弱」の差と云う事は起こるが、「左脳の補完記憶情報」は、”「遺伝子情報」として入力されている事が少ない”と云う事も起こり得る。
    場合に依っては、”「色理論情報の理論」が殆ど無い”と云う事も起こり得る。
    その意味では、日本人は段突に進化している事に成る。
    つまり、人類として進化している事に成る。
    「学習能力の情報量」が多いと云える事に成る。

    ここで、ところがそうすると、日本人は「解決方法 B」では無くて、主に「解決方法 A」での解決を好む事に成る。
    「色合いの多い事」が原因と観られる。
    日本人に執っては、共通して例外なく「Y−M−C」の「光の融合色」は、概して「薄い肌色系」なのである。
    日本人は、自らの「薄い肌色系」を無意識に好む。
    「極めて薄いピンク色」を好む。
    好むと云うよりは最早、好みの良し悪しの判断基準とするばかりである。

    もし、祖先と両親が日本人でありながら、「濃いピンク色」を好む場合は、それは「有意識」の中の趣向域である。
    「光工学」からすると「拘りの趣向」と捉えられる。又、別の範疇の論議と成る。

    最近は、欧米の影響を受けこの傾向が強く成ったと云われているが、「学習能力の情報域」までは到達していないと考えられ、米国等に感化された「拘りの趣向」と捉えられている。
    「拘り性」が強いかどうかは「芸術性と個性」の「別の問題」である。
    この「芸術性の部分」は排除して更に論じる。

    ここで、”例外が起こらない”と云うのは、「無意識中の学習能力の脳」に支配されている事から起こっている。

    論理的に「光領域と色領域」の中間にある”「光領域の色」”と云われる「Y−M−C」を捉えて「写真にするか」に関わって来る事に成る。
    「写真」で無くても、「景色」でも、「絵」でも同じでこの「趣向」が必ず働く。
    つまり、「無意識」の「右左の連携した脳」が働くのである。
    あくまでも上記した様に逃れえない「遺伝子」にインプットされた「記憶の無意識の脳反応」である。

    後は、その人の”「拘り」”から来る「有意識の趣向」の範囲で評価が起こる。

    さて、「目から受け取る情報」を左右させる事柄は、この上記した原理機能に基づくものである。

    この「原理機能」を打ち破るだけの「芸術性」を発揮しうる才能を持ち得ていれば論外である。
    依って、この趣向は、「無意識の脳反応の趣向」を好むのか、将又、「有意識の趣向の範囲」を好むかに依って異なる。
    写真とすれば、景色とすれば、絵とすればどちらを好むかによって決まる事に成る。

    ここでは、”「綺麗」”とは、「無意識の脳反応」の「美意識」を説いている。
    依って、これらの反映は、「背景体の範囲」と「被写体の範囲」の「二つの要素」の置き方如何(何れも量と位置に左右する関係)に関わって来る事に成る。

    これは「人間の目の機能」であるが、例えば、「蝶」は全く異なっている。
    多くの「単眼」が集まって「複眼機能」を働かしている。
    然し、観えている範囲は、「6つの色域」と「赤外線」と「紫外線」までの完全に「光の領域」までも観えている。
    上記した様に、これは「光を集める能力」に対応して発達した機能で、「花の付け根」の「底の部分」に「蜜庖の部分」に紫外線を吸収する部分がある。

    これを確実に適格に早く安全に見分ける為に発達した「目の能力」である。
    「赤外線」が観える事は、「花の色」をより強く遠くから見極める能力から発達したものと考えられている。

    「蝶類」の「6色」は、より「赤色」に近い方に「見極め能力」が必要な事から「紫」を無くしている。
    然し、人間の様に「YMCの認識能力」は無い様である。
    「目を持つ生命体」は、全て人間と同じでは無く、その生命体の生きるに必要とする能力に限定されている。

    同じ類の「蝶」と「蛾」でも異なり、同じ「複眼機能の持つ「蜂類」は「赤」は観えないし「緑」だけで全てを認識しているのである。

    この様に、生命体の「目の発生原因」が、「光合成を行う葉緑素体」の「細胞への混入」から特別に「目の進化」を興した事から、個々にその生きる為に必要とする異なる機能の範囲を限定した事から特別の「進化の差」を作り上げたのである。

    人間の場合は、他の動物の「目の機能」には無い”「綺麗」”と云う様な「主観の機能」(前頭葉)が融合しているのである。

    これは、「目から得た情報」は、「左の脳」の「色に関する論理的情報」を蓄積して「視神経」を媒介として「右脳」の「視葉」と云う「脳領域」を「進化目的イ」と「進化目的ロ」に依って構築したのである。
    ここに、この左脳の”「論理的情報のズレ」”を興した事に成る。

    これが上記した様に同じ人間でもその能力に「人間差」が出た事に成る。

    ところが上記した様に、この「人類」でも、持ち得ていないと云える程に「人種」に依っても差違がある。
    それは、”「退化」”なのか、”「不進化」”なのかの議論が起こる。
    恐らくは、「人類」としては、当初は「基本」は持ち得ていたが、生活環境の差違により「人種」に依ってその「学習能力の未了」で必要以上に進化しなかったと観られる。
    その「地域性」を観ると、「自然環境」と「生活環境」に大きく左右されている事が判る。
    我々日本人は、他の民族以上に「美的感覚」が優れているのは、この「YMCの領域の学習能力」が高かった事に依ると考えられる。

    現在では、「進化目的イ」の「敵」と「進化目的ロ」の「糧」からの何れのものでも無く成っているが、「YMCの領域の学習能力」は、退化させる事無く、むしろ現在もより進化を遂げているのである。

    最近、江戸時代の「浮世絵の評価」が外国人に高まっているのは、この「YMCの領域の色合い」を「奇異の感覚」で観られている事に外ならず、「YMCの領域の学習能力」の高さを評価されている所以でもある。

    普通であるのなら、上記した様に、主に「進化目的ロの糧」から起因している為に、「退化の憂き目」にある筈の「YMCの領域の色合い」を未だ高く持ち続けている所以でもある。

    筆者は、上記の理論より「日本食ブーム」も「健康食」のみならず、この「YMCの領域の学習能力」の「健康色」の「美的感覚」にもあると観ている。

    「目と脳」は、「補完と補色の機能」を「学習能力」によって行うが、写真などの「機器映像」にはこの学習能力が無い為に「補完と補色」が付き物である。
    これと同じ様に、「学習能力の補完ずれや補色ずれ」がある事からも未だ成し得ていない。
    何時かは成し得る事は考えられる。
    但し、この時は、カメラは人間の脳を超えた事に成る。
    「人間の脳」が考えて作った「カメラの脳」は、論理的には「人間脳」>「カメラ脳」で超えるか疑問である。

    「人間脳」=<「カメラ脳」が起こさせると云う事は、その前に、「人間脳」は「進化拡大した理屈」と成る。
    「学習能力の補完ずれや補色ずれ」は論理的に難しいと考えられるが、「機会映像」は「論理的ずれ」が判っている以上はこれをソフト化出来得れば超える事は可能で有る。

    可成り大きなものとは成ると考えられるが、「チップのメモリー容量」が発達すればソフト化は可能で有る。
    然し、「PCの専用アプリケーション」で「デジタル画像の修正編成」が可能と成っている事からその方向に行くかは疑問である。

    兎にも角にも、「目の機能」が、他の生物が持つ「光合成」からのもので構築されている以上は、「学習能力の補完と補色のずれ」は永久に起こる。

    「左脳」は、次第に「論理ずれ」である以上は、この「学習能力」の「ずれ」を改善して行くことは間違いは無い。
    然し、「目と脳の代理手段の映像機器」の場合は、恣意的にその論理性を理解して修正して行く限りはあり得ない。

    芸術では無い「綺麗な映像」は、この修正に至るまでの「フェリアー理論の知識」をマスターすること以外には無いのである。

    依って、ここに基礎的な事を論じた。後は「フェリーア理論図」を「読み取る事」にあろう。
    なかなか「図の都度の解析」は、理系に秀でる人の範疇に入る事も心配はする。
    文系はご質問頂ければ、可能な範囲で応じたい。


      [No.334] Re:「青木氏の伝統 17」−「伊勢衆の本音戦略」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2015/08/31(Mon) 11:11:14  

    >「青木氏の伝統ー16」の末尾


    > 「比叡山焼き討ち」等に観る様に、「信長」は「武家勢力」を始として、「各地の戦い」には、各地ならではの「条件」を入れ替えて、この[四つの思入れ」に適合するかを確認したのではないかと観られる。
    >各地の戦いの「信長の発言」を考察すると、この傾向が読み取れる。

    >これは、まさしく、「青木氏の氏是」の意味する処でもある。

    >”何時の世も、「青木氏」を世に晒す事無かれ、何れにも一利無し、然れども「青木氏」を世に憚る事無かれ、何れにも一利無し。”

    >「信長」は、”「伊勢者」”の当初から出方を警戒(婿養子の策謀失敗)しながらも、元より”「悠久の歴史」を持つ「伊勢者」”の「伊勢の青木氏を攻める意志」は無かった事を意味する。

    >「この世」の「何事」も、排除されるのは突き詰めれば、「信長」も、「青木氏」もここに来る事を教えている。


    >これ等が、「伝統」を語る上で、「青木氏」に執って忘れてはならない「四家の背景と経緯」である。
    >何れにせよ「我々の先祖の青木氏」は、この中で生きて来たのである。
    >その「生き様」そのものが”「青木氏の伝統」”であった。



    伝統―17


    「伊勢衆の本音戦略」
    そもそも、“何で「伊勢衆」と「伊勢四衆」が「招かざる北畠氏」のこの「行動」に合力したのか”と云う疑問が湧く。
    「青木氏」として、“本気で合力したのか”と云う疑問が湧く。
    「不倫の聖地」に「武」に変身した「公家の北畠氏」が入る事は、「聖地の存続」に「危機」を生じさせる事に成る。
    この事は「武」を背景とする以上は、「争い」は目に見るより明らかであるのに、むしろ、「伊勢衆」「伊勢四衆」に執っては、「平穏な悠久の歴史」を続けて来ただけであった。

    然し、唯単に「悠久の歴史」を続けて来て訳では無い。
    「賜姓五役」として、「三つの発祥源」と「国策氏」としての”「伊勢国」”を作り上げて来た。
    財源的補足としての「二足の草鞋策」や、伊勢国と民を豊かにする為に「和紙殖産」を作り上げ、抑止力としての「伊勢シンジケート」を構築して護って来た。
    「青木氏」に執っては、この苦労を水の泡にする様に、「武」で乱されるのでは、“排除するに値した行為”であった筈ある。
    況して、「悠久の氏是」も在った。

    確かに、「源氏」と云う縁もあったが、それだけで「合力」はするか疑問である。
    「聖地の存続の危機」と云う事に成れば、「縁如何」では解決できない。
    況して、北畠氏が”「源氏」”とはいわれているものの、正規の「賜姓源氏」では無い。
    何より、「悠久の絆」で結ばれた「伊勢衆」の「土地」とその「生活基盤」を「武」で奪った相手でもある。
    「二つの青木氏」は「北畠氏」に対して真当に合力したとは到底思えない。
    そんな「愚人の四家福家」はいないであろう。もし、そうであれば、とっくに滅亡している筈である。
    そもそも、この現状事を認めて仕舞うと「自らの氏の立場」「子孫の行末」も危うく成るは必定である。
    「家訓」もあり、其れ等を「無視する行動」を採るとは到底考えられない。

    とすると、「青木氏」に執っては「抑止力」で対抗する方法もあった筈である。
    然し、”「抑止力」を使った”とする記録が全く見つからない。
    何か変である。「抑止力」を使えない”「何か」”があって、仕方なく”「何か」”が策謀された気配がする。

    然し、現実には、「青木氏年譜」や「口伝」や「添書」や「商記録」などからも”「合力」”は明らかである。
    この「合力の如何」は別として、疑い無く“「合力」”はしているのである。
    ただ、反面、「武による合力」でも無い事も明らかである。
    だとすると、考えられるのは、”「北畠氏の出方」に「青木氏の抑止力」を使えない「大義」があった”事に成る。

    そこで、”どの様な「大義」であったのか、どの様な「合力」”であったのかを明らかにしたい。
    そこから、「二つの青木氏」の「生き様」が観えて来る筈である。

    問題は、「北畠氏」の伊勢での短い期間の「生き様の特徴」に在る。

    鎌倉末期の「建武中興」にて「親房」が勢力拡大、その末裔の「顕房」は、戦国時代に無防備な伊勢の北畠に武力で進出し勢力拡大、遂には「国司」に成るとあるが、この室町期末期の戦国期に「国司」の意味がどけだけあるかは疑問である。
    あるのであれば、室町期は「国守護」であり、「国司」では無い。如何に「天皇家の権威」を利用したかはこれ一つで判る。
    況してや、最大時は「南伊勢五郡の勢力」で、「全伊勢」では無かったし、「勢力」だけが裏打ちされたものであった。
    この「勢力頼み」を利用する事であった。

    然し、「顕房」には、「朝廷との繋がり」は確認できない。
    要するに、衰退している「天皇の権威」を利用した「戦国公家大名」である。

    それは「北畠氏の態度」が次ぎの様な事にまとめられる。

    「特徴 A」− 「御所」と云う館名を盛んに使っている。
    「特徴 B」− 「朝廷」との連携を強くしている。

    この「特徴 A」は、「御所」、即ち、「天皇の意」を戴して、”「伊勢国」を統治している”と云う「戦略」を採った事に成る。 
    次ぎに「特徴 B」は、困窮していた「天皇家」に貢ぎして「パイプ」を作り上げ、「特徴 A」を補完した戦略を採った事に成る。
    要するに、「天皇家」を利用して「伊勢」に侵入した「大義」を作り上げた事にある。

    果たして、「天皇家」が、その様に「北畠氏」に、 ”「密命を出した」”と云う事もあり得るが、これは確認出来ないところである。
    そもそも、「伊勢国」は「皇祖神の聖地」で数少ない「天領地」でもある以上は、その「天領地」から上がる「税」をより高くしようととして「北畠氏」を差し向けたと成る。
    「税」だけで「天皇家]が「皇祖神の聖地」を危険に晒すかの無謀をするかの疑問がある。
    「青木氏」も「税」は納めているが、これを無視する行為を天皇家がするかの疑問がある。
    「巨万の富」で「税」は高く成っている状況の中で、「青木氏」を無視するは自らの首を態々絞める事にも成るがそうするかの疑問がある。
    確かに「北畠氏」は、「村上源氏の流れを汲む源氏」で、「朝廷の学問処」の家柄に在ったが、この密命を下すかの疑問がある。

    「青木氏」は、「特徴A」と「特徴 B」があった事で、これを「北畠氏の大義戦略」であった事から、直ちに「抑止力」などの手が使えなかった事にあったと観られる。

    この為に、青木氏は、次ぎに論じる「青木氏の本音戦略」で対抗した事に成ったのである。

    「北畠氏の大義戦略」><「青木氏の本音戦略」

    「北畠氏の大義戦略」><「青木氏の本音戦略」であったとすると、「青木氏」は「天皇家」から罰せられていた筈であったが罰せられていない。
    とすると、「皇祖神の聖地」を汚す様な「密命」では無かった事に成る事から、後は「合力の有り様」で解明できる。


    「合力の有り様」から観た検証
    “「ゲリラ」“と云う言葉は当時は無いが、資料にも依るが、「撹乱」「調略」「策謀」「知略」の4文字が出て来る。
    そして、「商人の姿」は観えるが、四つも持っていた「四家」の「館城」「寺城」などの表現は「直接的表現」としては無い。
    取り分け、「商記録」には、「伊勢シンジケート」からの情報と観られるものとして、「簡潔に要点を書き記した情報」からも総合すると、”「直接交戦歴」”も浮かんで来ない。

    何よりも、一揆等の行動に「裏からの経済的支援」をしていた事は判り、記録から「紀州」、「伊勢」、「信濃」、「甲斐」の「四大一揆」の事が記載されている。
    中には、この「一揆」に絡んで、「青木氏の密教浄土宗の菩提寺の存亡」に関わっている。
    又、「信濃や甲斐」では、「曹洞宗との争い」に、又、「伊勢や美濃」では、「真言宗との宗教争い」の様な事もあった事が記されている。

    これはつまり、「伊勢丸山城の戦い」や「名張清蓮寺の戦い」の「戦い方」がはっきりしていて明らかに“「ゲリラ戦」をした”と云う事が判る。
    「一揆等の経済的支援」等の戦い方は、一体、”どの様に見るのか”で変わって来る。
    唯、”単なる経済的支援”とは、一方に支援をしている以上は、行かないであろう。
    問題は、後から来た「武力による支配者」に対して、「青木氏」等は苦々しく思っていた事は、長い間、悠久の歴史を伴にして来た「民」がそう簡単に納得したであろうか。
    「悪政」を敷いていたのなら別にして、「悠久の歴史」を共にしていた事は、「悪政」では無かった事に成ろう。
    「土地の権利」は「青木氏」が「地主」として持ち得ていたとしても、「政治の支配権」は「後からの支配者」にある。
    「郷氏」としての地主で無いところは、支配を受ける事に成る以上、「民」は反発をする事は充分に考えられる。
    「経済的支援」をしている事は、「民の生活困窮」では無かった事に成る。
    況して、「地主」である事から、「直接の税」は「青木氏」にある。「税問題」であるのなら「青木氏」との問題である。
    「政治的反発」であった事に成る。
    ”「伊勢に武に依る支配がもたらすリスク」”を嫌ったと云う事に成る。
    従って、「一揆等の経済的支援」は、この「青木氏の背後からの突き上げ」であったと観ている。

    その証拠には、明治9年までの伊勢で起こった一揆を含む一切の動乱には、「青木氏」は「商人の立場」から支援をしている。
    北畠氏等は、背後に青木氏が見え隠れしている事は充分に知っていたと考えられる。
    然し、”手は出せない”と云う柵に縛られていたのである。(「二面作戦」を採った。)
    公然と青木氏として表に出れば又別であろうが、「商人の立場」を利用した事が「商記録」からも判る。
    「長兵衛等の四家の名」を夫々に使っていた事が記録に残されている。

    上記した様に、「招かざる北畠氏」が「採った行動」に対しては、「伊勢の聖地」を「護る役目」のある「青木氏」は、「武に化した北畠氏」を直ぐに排除出来なかった。
    当然に、「武力」を使えない為に「悠久の絆」で結ばれた「土豪や郷士の伊勢衆」を充分に護れなかった。
    それだけに「経済的支援」は伊勢には急務であった。

    それは、次ぎの理由があった。
    (イ)「北畠氏」が南北朝より「朝廷の意」を反映させている事(西の公家政権)
    (ロ)「青木氏」が「氏是」に依って「武」を以って「北畠氏」を排除できない事
    (ハ)悠久来に「賜姓族と云う立場」があり、「直接交戦」が採れない事
    (ニ)「権威の象徴」は崩せない事

    しかし、「二つの青木氏」に執っては、時間が掛かっても、何とかして排除するか弱める事が絶対的に必要である。
    そうすると、「二つの青木氏」に執って考えられる手段は、「直接手段」は出来ないと成れば、取れる手段は、唯一つ「間接手段」しかない。

    ではその「間接手段」と成れば、次ぎの「二つの戦略」に成る。

    戦略1 「北畠氏」を煽り「武」に立たせ、悟られない様に「外部勢力」で弱めさせるか潰させる事
    戦略2 そこで、室町末期の最大勢力の「信長勢力」を招き入れて、弱めさせるか潰させる事

    「第一段階」
    それには、「北畠氏」に「商い」などを通じて取りあえずは「経済的な利得」を得させて「勢い」を持たせる事が必要と成る。
    「信長を引き込む」の戦略の為には、この「勢い」に依って「権威を惹けら課し、その利得を獲得する形」が出来れば、「信長」は必ず来ると判断した。
    この“信長に遣らせる戦略”を第一段階とした。

    その「信長」には「天下布武」で「天下号令の野心」があると踏んだ。そうすれば、「京」には「伊勢」は背後に位置すると「北畠氏」を叩く必要が必ず出て来る。
    その為の「条件づくり」「環境づくり」をする事にあると見込んだ。
    其れには「権威だけを惹けら課す北畠氏」に「経済的潤い」と「軍事的勢い」を付けさせる事が必要である。

    「第二段階」
    そこで、「元伊勢衆」と「伊勢四衆」が結束して、これに当たる方向性を付ける。
    「伊勢青木氏(信定)」は「長野青木氏」等の「全国の青木氏」に呼び掛けて「ゲリラ戦」に応じる様に主に呼びかけると共に、「元伊勢衆」から成る「伊勢シンジケート」と共に、「ゲリラ戦の攪乱消耗戦」を仕掛ける。

    「第三段階」
    当然に、伊賀氏、伊藤氏、長嶋氏等は、領地を奪われる事から「独自の方法」で「信長」に戦いを挑む事に成る。
    そこで“「信長の遣り過ぎ」“を制御する為に、「伊勢青木氏(忠元)」は、「伊勢青木氏(信定)」と共に「ゲリラ戦」を展開しながら、全国の「秀郷一門361氏」に援護を依頼して「信長」に「東の背後圧力」を掛ける事にする。

    「第四段階」
    「信長」は、この「伊勢青木氏(忠元)の行動」を観て、“「伊勢藤氏」”には手を出せない様に仕向ける。
    この事で、「伊勢の戦い」は限定して拡大しない事に成る。

    「第五段階」
    この戦略で、「北畠氏と伊賀氏」が潰れる事で解決して、「信長」を以って、この二氏を弱めさせ潰させる事が出来る。
    この段階で「伊勢シンジケート」の「ゲリラ戦」を引く事とする。
    そこで、「伊勢衆の代表」として「信定と忠元の青木氏の二人」は「織田氏との談合」で決着をつける。

    「第六段階」
    これは、結果として、「本領安堵」を最終目的とする事であり、「元伊勢衆」の「北伊勢の土地」と、「伊賀氏」が支配していた「伊賀の土地」と、「北畠氏」が支配していた「南伊勢の土地」と「東奈良の土地」は帰って来る事に成る。
    これで「所期の目的」は「伊勢者」に執って達成させられ、「伊勢の聖域」は護られる。

    この「六段階の戦略」が、集めた記録から観ると、「元伊勢衆」と「二つの青木氏」の描いた「基本戦略」であった様だ。

    ところが、ここで「戦略の見込み違い」が起こった。

    この”「戦略ズレ」”は、何れにも起こるは必定の事であり、これを「臨機応変」で処理するのが「戦いの常套手段」である。
    「基本戦略」以上を超える「戦略ずれ」は拙いがこの範囲であれば問題がない。

    その「戦略ずれ」とは、「伊藤氏と伊賀氏」の「伊勢藤氏の二氏」が「自らの勢力」を超えて突っ込み過ぎたのである。
    (長嶋氏は室町期の新参であった事から「基本戦略の範囲」を護って激しい交戦態度は避けた。)
    結果として、「長嶋の戦い」が長引いてしまった。

    そこで、止む無く、「二つの青木氏(信定と忠元)」は、”顔を出さない「ゲリラ戦」”で合力する事に成ったのである。
    しかし、「戦略ズレ」を無くす事から、「談合」が進められ、結局、この「伊勢藤氏の両者」は、慌てて、子孫を遺す事を目的で、「伊藤氏」は尾鷲に、 「長嶋氏」(州浜族)は「尾張の秀郷一門」の「三勢力」(州浜族、片喰族、沢潟族)に、軍を引かせて早期に戦いを終わらせた。
    この事で、「ゲリラ戦」が遺る程度に成った。
    この時、「忠元の依頼」もあって、「武蔵の秀郷一門」が「救いの手」を打ったのである。
    事を大きくしない為にも、「軍」を送らず、「名策の窮策」を講じた。

    それは、「尾張三勢力」と「伊勢青木氏(忠元)」で、「信長の背後」を牽制した。
    「信長」に、「信長子飼い」の「伊勢青木氏」と親族である「近江蒲生氏郷」を「伊勢戦域」に就かせる事にあった。

    (注釈 上記した様に、「信長と氏郷」は、「京平家の同じ家筋(揚羽蝶紋)」の末裔で在る。
    且つ、「信長」が其の優れた才覚を認め、家臣の中で最も信頼していた人物で、幼少期から信長の次女の梅姫を婚約させ嫁がせた関係にあった。
    「信長」に執っては、「毛利攻め」の事も有って、「背後」を大きく混乱させ長引かせたく無く、事を穏便に始末したいと考えていた。
    そして、現実には、”「策謀」”に依る各個攻撃に出ていた。

    そこで、「二つの青木氏」は「背後牽制」をして、“早期から「氏郷」を伊勢に引き出す戦略“には成功した。
    そもそも、「忠元の父」と「氏郷の祖父」は兄弟であった事から、この「作戦」は成功して、「伊勢藤氏」の「二勢力」は何とか生き延びたのである。

    (注釈 そもそも、「信長」が、「北畠氏と伊賀氏」を潰せば、その目的は達成している事を物語る。
    もし「伊勢藤氏」を潰す目的であれば、「信長の戦法」であれば、「同族の蒲生氏郷」を差し向ける事はしない筈である。
    「徹底して潰す戦術」を採っている「信長」であれば、「伊勢藤氏の三勢力」を遺さなかった筈である。
    これは、むしろ“潰せなくて”、且つ、“潰す目的が無かった事”を物語る。

    ”「信長の権威への挑戦」”にしても「闇雲の挑戦」では無い事くらいは判るであろう。
    そもそも、「伊勢衆」と「伊勢藤氏」や「伊勢青木氏やシンジケート」には、「信長」に「敵対の意志」はそもそも無かった。
    「後世の子孫」から観て、「信長の行動」に敵対するに値する根拠は何処を探しても見つからない。
    「北畠氏や伊賀氏の行動」に「青木氏の命運」を掛ける程の根拠もなかった筈なのである。
    むしろ、「招かざる者」として位置づけられていた。

    (注釈 伊賀氏には長い歴史の中で幾つかの出自の異なるルーツが生まれた。
    ここで云う「伊賀氏」とは、「藤原北家秀郷一門」の「宗家」で、鎌倉期に「頼朝」より「旧領地の結城の地」を本領安堵され、「結城氏の祖」と成った「朝光」が、その後、鎌倉期に、「伊賀の守護職」を務めた。
    この「現地孫の末裔」が「伊賀氏」を名乗って、その後に鎌倉幕府の中枢に位置した。
    その勢力を最大に伸ばした「氏族」で在る。
    その後に、この末裔が「伊勢伊賀」に住し、伊勢の土豪、郷士を押え勢力を伸ばした。
    厳密には、「伊勢藤氏の四氏」の内の一氏ではあるが、「他の三氏」とは、「秀郷一門」とは云えど、その血縁による「血流性」が低く、若干、その「生き様の方向性」に「武力性」が強く異なっていた。
    時には、「傭兵軍団」等で生き延び、その氏は二派に分かれた。
    その一派が「甲賀族」である。)

    (注釈 従って、「伊勢藤氏四氏」と呼ばれるも「伊勢藤氏三氏」と呼ばれる事もあった。
    この地の前身は、「伊勢京平氏の祖」の「後漢から帰化した阿多倍王」、又は「高尊王」、「平望王」で、朝廷より「伊勢青木氏の土地」の「伊勢北部伊賀地方」を「半国割譲」を受け定住した。
    その子の「国香」と「貞盛」の親子から五代後の「平清盛」に繋がり、その後、清盛は「伊賀の地」を朝廷に返却して「播磨」に移動した。
    然し、この時、一部末裔は、「平家滅亡後」にも「伊賀の地」に遺って、「伊勢青木氏」と共に「和紙」等の殖産を引き継ぎ、「伊賀郷士」等と成って生き延びた。
    この「伊賀氏」には、この「平家の血」も流れているが、その主血流は「秀郷一門流」である。
    主筋は秀郷一門で占められ、「家臣」には、この「平家の血筋」の持つ者、「民」には「後漢の職能部」を祖とする者等から成る。
    「青木氏」とは、取り分け、室町期には、「伊賀氏」に成っても、「奈良期からの絆」で、「和紙殖産」を通じて、この「郷士の家臣や民」との繋がりの方が強かった。)

    従って、この上記の注釈の経緯があるとすれば、「北畠氏や伊賀氏への合力」と云うよりは、“「流れ」の中で仕掛けられた「謀略」程度“と観える。
    そもそも、「青木氏の基本戦略」の範囲では、「北畠氏や伊賀氏への合力」をしたとは云え、上記の「注釈の経緯」もある。
    取り分け、この「二氏」とは「生きる方向性」の事もあり、「信長」を「伊勢」に呼び込む為の「誘導煽動策」に過ぎなかった。
    (青木氏側からの見解)
    そもそも、「伊勢藤氏 四氏」とは云え、鎌倉期の「武力に頼る毛色の違う伊賀氏」、平安期の「武に依る突っ込み過ぎた伊藤氏」、室町期の「武蔵の永嶋氏に頼る長嶋氏」とは違い、同族の「伊勢秀郷流青木氏」とは、血縁はあるにせよ、その「生き様」が根本から異なる。
    又、「青木氏」は「賜姓族」である事も踏まえ、「三氏の顕教」では無く、「密教の概念」をも符合させて、「一族性」を完全一致させる事はそもそも難しかったのである。

    ただ「北畠氏」(1569年没)だけは、「二つの青木氏」に執っては、「本音」では当に“「招かざる者」”であった。
    この「本音」の「招かざる者」との「付き合い」は、結果として、1536年からの「30年間」に及んだ。
    しかし、「実質の付き合い」は、「後半の10年程度」に過ぎ無い。
    前半は、「悠久の絆」で結ばれた「伊勢衆の混乱」を観て、“「旧来の聖地の伊勢」を引っ掻きまわれた”と云う感覚でしか無く、”「付き合いの範囲」を超えていた”と考えられる。

    北畠氏と「後半の10年」は、「過激な戦乱」を呼び込む衰退傾向にあった。
    況や、「二つの青木氏」に執っては、当に、「招かざる者」への「基本戦略の範囲の行動」(上記)であった事に成る。

    「青木氏年譜」によると、中盤の1549年頃に一度、「伊勢の衆」を集めた事が在って、後半の1559年頃に再び衆合している。
    この後に、1560年に「堺支店」に船を廻す記録がある。

    この「3つの記録」から、「北畠氏の動向」を観て、先に「伊勢衆との談合」を進めていて、「基本戦略の策」を講じている事が良く判る。

    ”堺港に船を廻す事”の意味は、恐らくは、“過激化する北畠氏”に悟られぬ様に危険に曝されている「伊勢衆」に「物資の供給」を試みたと観られる。

    依って、この関係も勘案すれば、「四家」は、所謂、「伊勢シンジケート」を使った“顔の観えない「ゲリラ戦」”で応戦する「基本戦略の範囲」で事は進んで行った事に成る。
    然りせば、“「青木氏」を前面に出して敵対していない“と成れば、「信長側」では、「潰しきれない背景」が生まれる。
    且つ、織田側に、”「潰す大義」”も生まれないだろう事が判る。
    況して、“「青木氏の商い」”は、「潰し対象」とは成っていないし、むしろ、織田氏の「軍需品調達」の大店とも成っていた。
    一見して「商い」では「味方」である。
    これが「青木氏の基本戦略の前提」なのである。

    仮に、「賜姓族の青木氏」の正体が表に出て潰されるとしても、「商いの青木氏」が存続して居れば、「賜姓族の青木氏」は、当に「不死鳥」であった事に成る。
    「商いの青木氏」には、其れだけの力は有り余る程に充分に有った。
    況して、“「室町文化の紙文化」”と呼ばれる時代に「巨万の富」を築いていたのである。
    この時には、「伊勢シンジケート」を組み入れれば、“「信長以上の総合力」”であったと観ている。
    要するに、「表の勢力の信長」か「裏の勢力の青木氏」かの「勝負差」であった。
    この「勝負差」では「二つの青木氏」は勝っていた事は明らかである。
    その「勝負差」を以って、“顔の観えない「ゲリラ戦」で来る”と成ると、例え、「信長」でも、人より優れた「軍略家」であったればこそ、“「恐怖の対象」”そのものであった筈である。
    それだけに、「顔の観えないゲリラ戦」に“「窮地発生」“とも成れば、「恐怖」から「過激」(パニック)に走る可能性は充分にあった事は認められる。
    これは「信長」のみならず「青木氏」でも起こり得る「人間の性癖」であり、「上に立つ者の宿命」であろう。

    そもそも、これが「不死鳥」と成るその為の「四家制度」(5つの面 20の顔)でもあった筈である。
    「過激 パニック」を防ぐ「四家制度」(下記 ABCの態勢)であった。

    「北畠氏や伊賀氏への合力」と伝えられる「口伝の戦況」と、「青木氏の商い記録の資料」からでは、次ぎの事が判る。
    「北畠氏本家」が潰された後に「北畠氏の分家」が一族を結集し直した事である。
    これに依れば、”「果敢に挑戦した」”と云う事に成っている。
    勝敗は別として、これは「信長」に挑戦したものであったし、「伊賀氏」も「分家の残存兵力の結集」で最後に果敢に挑んだものであったらしい。
    この「戦いの結末」は、“ゲリラ的に長引いた”とされているので、この事から観察すると、「青木氏の基本戦略」は兎も角も戦略ずれ等もあったが「成功裏」には終わっている。

    兎に角、「青木氏の行動」は、“「徹底したゲリラ戦」”であった事が口伝や資料からでも判る。

    結局は、「青木氏に残される大義」は唯一つである。
    それは、奈良期より「不倫の聖地」とされているところに、不徳にも「不毛の騒ぎ」を持ち込んだ「北畠氏の如何」に在った。
    この「北畠氏」だけに関わらず、“「不倫の聖地への挑戦」”に対する“「悠久の責務」”からの「最大の抵抗」であった事に成る。
    故に、「如何なる場面」や「挑戦の流れ」の中に於いても、「四家制度」と「伊勢シンジケート」を駆使した“「徹底したゲリラ戦」の域を超えなかった”と云う事に成る。
    故に、上記に論じる「基本戦略」を採った事に成る。

    この事を後世から観ても、上記の前後の「戦略と戦況」から観ても、これを“「青木氏の大義」”として捉える事で納得し得る。
    「村上源氏」や「学問処の公家」を標榜する「北畠氏」には、この“「大義」”に欠けていた事を物語る。
    「青木氏」から観れば、”戦国”と云えばそれまでだが、無理やりに”「不倫の聖地」”に「武の勢力」を持ち込んで、「国司面」して「大義」を一時作り上げたに過ぎない。
    故に、”「信長」を以てして「滅亡の憂き目」を受けた”と解釈できる。
    そこで、この「青木氏側の基本戦略」の論調で行けば、“「信長」”は単なる「その使い」であった事に過ぎない事に成る。
    依って、後付の「通説化」は論理的に符合しないのである。

    「青木氏」の史実から観れば、当に次ぎの様に成る。(口伝でも同評価)

    ”「権威」を惹けら課し、「権威の利得」を食む「社会の悪弊」の「排除の使」”と捉えられる。

    上記した様に、その経緯から「多少の過激さ」はあったにせよ、これは「人」が戦う「戦の如何」であり、“理想通り”には行かないのが「世の常道」である。
    その行動に「事の平癒」を急ぐ余り、「若干の過激さ」が伴った事は否めないだろう。
    故に、その“「若干の過激さ」“を以ってして、「通説」の様に「信長」を評価するは疑問である。
    要するに、「青木氏」は、“「伊勢への挑戦」”の“「流れ」“に組み込まれたのである。
    否、”青木氏の基本戦略“に組み込んだのである。

    (注釈 この“「流れ」“には、その前に、次ぎの様な事が起こっていたのである。
    然し、ここにも「石山本願寺の檄文」に依って火が付いた様に起こった「ゲリラ戦」と「一揆」が、「伊勢の三乱 五戦」にも、「上記の戦略」以上の”「思いがけない荒々しさの殺戮」”が、「信長側」にも「伊勢側」にも呼び込んで仕舞ったのである。
    其処に、「秀吉の毛利攻め」にも「信長側」に「焦り」を起こした事が、この「荒々しさの殺戮」へと進んだ事も否めない。
    この「檄文の存在」を通説化した歴史家が認知していれば、この「通説化」は作り得なかったと観られる。)

    そもそも、実際には、1563年頃には、伊勢に動揺が起こり、実記録から観ると、1565年頃から、平定された「伊勢の北畠氏」の多くの「旗下」や「幕下」が、「信長」のこの「策謀の手」で乗っ取られて行った。
    有名な伊勢の「神戸氏の乗っ取り事件」や「工藤氏の乗っ取り事件」等が起こり、次々と「武の伊勢勢力」は「信長」に乗っ取られて「内部崩壊」を起こし始めていたのである。
    あくまでも、「信長」も、「伊勢勢力 北畠氏 西の公家政権再興」に対しては、初期には「撹乱戦法」で潰す事が「所期戦略」であった筈である。
    その「所期戦略」は、全て内部に「内通者」を置き、「武力の攻め落し」では決して無かった。
    上記した「入り婿策」で「乗っ取り」が起こって行ったのである。(青木氏もこの策謀に掛かった。)

    そして、1569年頃を最後に、この「北畠家没落の仕上げ」として「信雄」に依って「北畠氏の内部撹乱戦法」の「初期戦」から始まった。
    「所期の戦略の目的」よりも、「事の次第」が変化して、「氏郷」が指揮する次ぎの「中期戦」の「伊勢三乱」に突入して行ったのである。
    つまり、「青木氏の基本戦略」での範囲ではあったが、「伊藤氏や伊賀氏」等の「伊勢藤氏の武の合力」の「始末戦」に突入したのである。

    「伊勢長嶋攻め 伊藤氏」(1573年)
    「伊勢北畠氏攻め 北畠氏」(1576年)
    「伊勢丸山城攻め 青木氏」(1578年)
    「伊勢伊賀氏攻め 伊賀氏」(1578年 1579年/9 1581年/9 1581年/10)
    「名張清蓮寺攻め 青木氏」(1579年)
    「石山本願寺攻め 顕如」(1578年−1579年−1580年一揆等)
    「紀州征伐」(秀吉) (1585年)

    この時に乗じて、伊勢外に起こっていた「石山本願寺の乱」が長引き、「伊勢−紀州の農民」の信徒に対して、石山側は「檄文」を飛ばした為に、“「城外でのゲリラ戦」”が「伊勢−紀州の周囲」の各地で起こって行った。

    (注釈 この「石山問題」が、「青木氏のゲリラ戦」の「紀州域と東大和域と伊勢域」と重なった為に「青木氏の基本戦略」にも影響を与えて仕舞ったのである。)

    「石山本願寺の乱」と称される「顕如の反抗」は、「毛利側の謀略」であったが、毛利軍が「高松城の支援」に失敗して、結局は、「顕如」に「檄文」を飛ばさて「城外戦」に持ち込んで「信長」を牽制した「長期戦」に持ち込む作戦でもあった。
    これが「伊勢三乱」と重なった為に「三者」に激しさを助長させたのである。
    ただ、「伊勢側」と「毛利側」とには“「連携」”の「実態記録」は発見されていない。

    「城外の紀州信徒一揆」を支援する「河内シンジケート」と「伊勢シンシジケート)間の連携はあった事は、「青木氏年譜」の一部に其れらしき「堺港の配船記録」がある。
    「青木氏の氏是」が有る事から「直接の連携」は無かった筈である。

    「青木氏」は、“「不戦の禁」”を「氏是」としていたが、「上記の婿養子の事件」は、周囲でも「乗っ取り事件」が多発していた様に、実は「青木氏」にも仕掛けられた「記録がある。
    「青木氏側」では、「信長の政略的謀略」として判断していたが、謀略の罠に陥ったのである。

    この“「流れ」”の中で、そもそも、“「悠久の禁」”を破ったのである。
    その意味で、最早、紀伊半島全体が「ゲリラ戦の戦場」と化して仕舞ったのである。

    「青木氏側」では、「伊賀氏と伊藤氏の反抗・合力」、「毛利側と本願寺側」では「檄文に依る城外戦化」のこの「二つの事」が、「青木氏の基本戦略」と異なった事で、「予想外の戦場化」と成って仕舞った。
    これは同時に「信長の基本戦略の狂い」でもあった。
    「青木氏」も「信長」も、「伊賀氏と伊藤氏の反抗」は、「伊勢藤氏」を指揮していた「伊勢秀郷流青木氏」が動かない事から、「伊賀氏と伊藤氏の伊勢藤氏」も動かないだろうとする「読み間違い」がそもそも在った。

    「青木氏年譜」(下記)から観ると、詳細は不詳ではあるが、「青木氏側」では北畠氏の前後に盛んに「談合の意味合い」の持つ“「会合、衆合、談合、衆議、不穏」等の文字が出て来る。
    又、「青木氏」の「船等の廻船」にも活発な記述とも成っている。
    「伊勢シンジケートの情報」で、“何らかの形”で盛んに「談合と準備」が進んでいたと観られる記述が何度も観られる。
    しかし、結果としては、「何度の談合」にも拘らず、“動いてしまった”と云う事でないかと推測される。

    この“動いてしまった“とする原因は、「伊勢藤氏の出自の差」が結果として出て仕舞ったと観られる。
    その「出自の差」とは、「伊藤氏」は「秀郷より九代目基景」が始祖、「伊賀氏」は「秀郷より八代目朝光」が始祖であり、何れも分流族である。
    「第二の宗家」と呼ばれる「秀郷流青木氏の直系族」と比べれば、「高い家柄の藤原氏」と云えども「家柄差」が格段に低いし、その”家柄から来る「生き様の柵」“は殆ど無い。
    要するに、最早、この二氏は「柵の無い武家」であったとも云える。

    恐らくは、何度も「談合」を重ねていた様ではあるが、柵の無い「主戦派・交戦派」と、柵を護ろうとする「保守派・知略派」に意見が分かれた。
    結果として、この二氏は“突っ込み過ぎた“のである。
    新参であった事もあり、「下総の永嶋宗家」の意向も配慮して「長嶋氏」は中間派を採ったと観られる。
    依って、”「信長の権威の象徴への挑戦」”の“「流れ」“の中で、「伊勢四衆」に執っては、最早、避けて通れない事態に陥ったのである。
    これが「青木氏の基本戦略の狂い」と成って、それが「青木氏存亡にかかわる事態」と成って仕舞ったと云う処である。

    これは何も「青木氏側」だけでは無く、「信長側」に執っても、同じく「城外ゲリラ戦と一揆」が「基本戦略に狂い」を生じさせたのである。
    「武」で抗する「北畠氏と伊賀氏」を潰す事で「伊勢の始末」は終わる事と成っていた。
    取り分け、「謀略に依る各個攻撃」で「北畠氏の排除」で終わる筈であった。
    そこに、「本願寺問題」と「伊賀氏の合力」、果てには「伊藤氏の合力」等が計画を狂わしたのである。

    「何れの大義の良悪如何」は、別として、両者に執っては、”「流れ」“の中で、”決着を監る“しか無く成っていたのである。

    (注釈 「四家」は、「信長の権威への挑戦」に対しては、「北畠氏」とは違った受け取り方をしていたのではないかと観ていて、元々「信長への敵対性」は低かったと考えられる。
    それは、「賜姓族」であるとする“「権威の象徴」”では確かにあるにしても、片方では、「商いと云う立場」と云う、“「権威」”とは「真逆の立場」にも在り、それも、厳然と「悠久の歴史」を持つ「併合の立場」にもあったのである。)

    況してや、そもそも、「青木氏の権威」は、「信長が嫌う権威」には無かった。

    “「権威」を以って「惹けら課す事」はせず、「権威」を以って「利得」を獲得する概念“すら無い「氏族」であった。
    当初より「利得の獲得」は、“「商い」と云う「正当な行為」を以って成す概念”を持っている「氏族」である。
    正しく、それが“「賜姓族の権威」”そのものであって、それを構築しているのが「四家制度」で有った。

    “「惹けら課す事」”に付いても、その“「惹ける」”と云う本質は、“「主張する」”の拡大語である。
    だとすると、「商い」は“「品」を以って主張する行為“であり、”「自己」を以って主張する行為”の「惹けら課す事」に一部では確かに通ずる。

    ただ、「氏家制度の社会」、或は、「信長の概念」の中では、”「自己」(権威)を以って主張する行為”の「惹けら課す事」には、強い「抵抗感、強いては罪悪感」があったのであろう。
    「信長」のみならず、「二つの絆青木氏」、「二つの血縁青木氏」、「青木氏の職能部」、「伊勢シンジケート」、「御師 氏上」、「商い」の「四家制度」を敷く「青木氏」も全く「同じ概念」の中にあった。
    「信長」は、特に、この行為が“社会発展に悪弊を及ぼす“、即ち、その「悪弊」とは”「閉鎖性」を誘発する“と考えていたのであった。

    ただ、同時に、「閉鎖性の排除」の姿勢は、”「楽市楽座」“を容認し、推奨する「積極的立場」も採っていた事に通じていて、この姿勢は、「二足の草鞋策」の「青木氏の姿勢、概念」と一致しているのである。

    「事の次第」は、「品」と「自己」にあり、間接的に「品」、直接的に「自己」の「主張の差」による事に成り得る。
    「青木氏」としては、「商品」を以って間接的に「惹け行為」を「正当な行為の概念」として「悠久の時」の中で育まれていたのである。

    「賜姓の権威」については、“「賜姓五役」の実行を熟す事”にあって、「権威」から「利得」を獲得する事には無かった。
    それは、“「四家制度」”がそのものが、「惹けら課す事」と「利得の獲得する事」を阻止する機能(合議制度)を果たしていたのである。
    「信長」も「楽市楽座」を推奨することは、「青木氏の商い」の「正当な行為の概念」に通ずる。

    そもそも、この事から「信長」が標榜する「布武の共和政治」とは、むしろ、「商いの青木氏」とは符号一致する目標でもあったからで、特段に「氏存続に対しての信長への敵対性」は全く無かったと考えられる。
    その意味でも、“氏を前面に押し出す敵対”は採らず、故に、“「流れ」“の範囲で有るが故に、下記に示す敢えて「青木氏」の観えない ”「ゲリラ戦」“を敷いたと観られる。

    「信長の理解」
    では、「招かざる北畠氏」(1569年)が亡びた後に、“「信長」には、何故に、この「青木氏の姿勢」が理解されていなかったのか“と云う率直な疑問が湧く。
    筆者の答えは、残念ながら“理解されていなかった“である。

    何故ならば、その答えは簡単である。
    「商いの青木氏」と「賜姓族の青木氏」とは、悠久の中で結び付けていなかった事が原因であった。

    敢えて、「青木氏」自らが,奈良期からの「悠久の時間」の間を、「商い」と「賜姓」は「別物」として、「公然の事実」とし乍らも演じて来ていた事にあった。
    それは、朝廷から、”「紙屋院」”として「和紙の殖産」とその「普及の役」を命じられた事に在った。
    従って、「商いと云う行為」が分離してのものでは無く、「賜姓五役」に同化して居た事に在った。

    「商いと云う概念」の感覚が、「分離した感覚」に成ったのは江戸期に成ってからで、それまでは、「特定階級が行う職業」(武家)の概念が強かった。
    取り分け、「青木氏」は、「賜姓五役の紙屋院」であった事から、全く「別感覚」は無かったと考えられる。
    「二足の草鞋策」の感覚は、室町期末期までは「氏自体」としては、”薄かった”と考えられる。

    幸か不幸か、「信長」は、その「二足草鞋策」を率先した氏の「平家末裔の出自」であるにも関わらず、残念ながら「理解外」であった事に由来する。
    要するに、「初期の段階」では、「楽市楽座令」を敷くまでは「無知」で有った事に成る。

    (注釈 信長自身は「平家出自の末裔」である事は承知していたと観られる。
    それは、同じ「京平家の血筋」を引く家臣の「近江秀郷一門の末裔蒲生氏郷」を、未だ幼い信長の次女を婚約して於いて、嫁がせる等の「特段の扱い」をしたのは、この「京平家の同じ家」の流れの汲んでいた事にあった。)

    それは、ただ「天正の時代」にしても、「織田氏分家の信長」には、詳細な“「伝統の継承」が途切れていた事”に在った。
    “分家の所以”で有ったのかも知れない。
    そもそも、「織田氏」の「出自氏」とされる先祖の「京平家の清盛」は、当に「三権の権威」と「宋貿易」の「二つの利得」を持ち、且つ、その全ての“「権威」”で以って周囲を威圧させた人物でもある。

    「信長」自らの「出自の先祖」は、“「惹けら課す事」”の“自らが排除しようとしている考え方”を持った「最大の氏族」であった。
    この事すらも放念して居た事に成る。

    この時、同じく「賜姓族」として「青木氏」は、隣の伊勢の守護であって、半国割譲した「伊勢北部伊賀」(平氏実家)とは「隣国の付き合い」をしていた間柄でもあった。
    「青木氏の商い」の「伊賀和紙の殖産」でも深く繋がっていた。
    未だ室町期でも続いていたこの「歴史」さえも忘却していた事に成る。
    依って、「以仁王の乱」の時は、「青木氏の跡目」の「京綱」の兄弟の「二名の助命嘆願」にも応じてくれた「氏族」でもある。
    その“「家の伝統」“は、「清盛の末孫娘」の「高野新笠」は、「青木氏」の始祖の「施基皇子」の「第三男の白壁王」(光仁天皇)の妻でもあり、縁深き間柄にあった。
    そして、「青木氏」と「二足の草鞋策」を採用していた所も同じであり、共に「氏が持つ概念」には極めて「類似性」を持った「縁深き氏族」でもあった。
    しかし、「青木氏」には、この「伝統逸話」は「悠久の時」を経ても伝わっているにも関わらず、「織田氏」、取り分け「信長」には「伝統逸話」は伝承されていない知識なのであった。
    (分家とはこの様なものであるのかと思い知らされる。)

    もしあったとすれば、この様にどの「検証の面」から考えても、「北畠氏壊滅」の為に、「伊勢衆」の「青木氏を攻撃の対象」(内部撹乱)にする根拠はなかったであろう。
    結局は、「青木氏」も「信長」も、「北畠氏や伊賀氏や伊藤氏の掃討」に連れては、この“「流れ」”に沿う以外には無かった事に成る。
    ここに筆者の“「流れ説」”を採る所以でもある。

    しかし、ここでただ一人、「織田側」であった「秀吉」は、伊勢東部に存在した「今宮シンジケート」の一員でもあった「土豪の蜂須賀小六」から、この事を聞いていて承知していたのである。

    (注釈 「秀吉」は、若い頃に一時、「山族土豪の蜂須賀小六」の配下で働いた経歴を持つ。
    「信長」にも後に「鉄砲入手」と、その「技能傭兵集団の雑賀族」にコンタクトするには、「今宮シンジケートの存在」を教え、この「今宮シンジケート」を通じなければ「鉄砲は入手」は出来ない専売品である事を教えた。
    この記録が遺されている。)

    この様に、「秀吉」が「信長」に「商い」には「今宮シンジケートの存在」を説明して居る記録がある。
    その後に、認知して「楽市楽座令」を発したのであり、初期は、”知らなかった事”に成る。
    とすれば、説明して居れば、”「伊勢シンジケートの存在」”をも説明していたとも充分に考えられる。
    「秀吉」がもう少しこの事を信長に早く知らしめていれば「伊賀攻め」は変わっていたかも知れない。


    「秀吉の青木氏出現」
    実は、その証拠と観られる外部記録が在る。
    1581年の末当初に「秀吉の紹介」で、「一名の青木氏」なる者が、「信長]に面会している。
    1583年に秀吉に合力し、秀吉より1598年に厚遇 この「青木氏」が在る。
    これが、この時の「伊勢での経緯」ではないかと推測できる。
    これは「青木氏の経緯」(商記録の年譜)とほぼ一致する。

    但し、「伊勢青木氏」が、「自らの意志」で、「自らが面談した」とする事では無く、記録も無い。(矛盾1)

    これを基に「青木氏側」から検証すると、この”「伊勢攻め」全般に”於いては、“「秀吉執り成し」に依る面談“に依って「本能寺の直前」に解決に向かっていた事に成る。
    これが「秀吉−氏郷」の「伊勢の本領安堵」に繋がったのである。
    確かにこの時に、「紀州」と「伊賀」等の「旧領地」を受けたが、その後、「徳川氏」(1605年頃)に「青木氏の賜姓五役」(神明社等)などと共に「返納の経緯」を辿った。
    この時の談合で、その代わりに、”「家臣扱い」”として「紀州藩初代頼宣」より「扶持米12人分」(1万石弱程度)が付加された事の経緯に成っている。

    この”「秀吉執り成し」”とは、「外部記録」では成っているが、これは“「秀吉の搾取偏纂の行為」“であり、「青木氏」には記録はない(矛盾2)。

    但し、「青木氏の記録」(下記)では、「伊賀の戦い」後に、「蒲生氏郷」との「数度の談合」によって、”「信長の伊賀査察」“の時に、「蒲生氏郷」と共に面談があった。
    ところが、「佐々木氏の別の資料」では、外部記録では「一名」と成ってはいるが、この「二名の青木氏」に成っている(矛盾3)

    夫々「越前北庄八万石」(1)と「丸岡四万石」(3)を受けたと成っている。
    内一人(1)は「秀吉の家臣」と成るも、これも「1年間の俸禄」(1598年から1600年)と成っている。
    この「越前の俸禄」は、1600年に徳川氏(徳川除封禄 巻の一)にて「除封]を受けている。(矛盾4)

    この者の身内が家康の側室で後に本多氏の正室に成るとある。(実際は別の丹治氏系青木氏 )(矛盾5)

    しかし、「もう一つの青木氏」(3)に付いては、外部記録では触れていない(矛盾6)。


    「青木氏の記録」では、この「蒲生氏郷」と共に面談したと成っているのは、この二名(2)(3)である。
    これは「佐々木氏記録」(2)(3)と一致する。
    外部記録(豊臣家の記録)では、この内の「秀吉の家臣」で「縁者」と記録されている「紀伊守」で「越前北庄の人物の記録」(1)が「青木氏」には全く無い(矛盾7)。

    確かに、「没年数」が類似する人物(2)は「青木氏福家」に居た。
    これは「豊臣氏のある思惑」を込めた「形式上の内容」ではないかと観られる。
    更に、実は、他にも極めてこの「人物(1)」の詐称には矛盾が多い。

    何故ならば、「人物(1)」の与えられた「官職」は、確かに「紀伊守」であって、この地は、実際は「伊勢の乱」での「北畠氏の領地」で在る。
    つまり、「北畠氏の南紀州」であった。

    ここは、現実に明治期まで「青木氏」が「大地主」で有って、後に「紀州徳川氏」からも認知されていた。
    確かに、「秀吉」に依って「伊勢の地」を「本領安堵」されたが、この「二つの地」は平安期までは「青木氏の旧領地」でもあり、「青木氏の家人」が「和紙殖産」の為に奈良期から元々代々住み続けていた土地柄でもあった。

    この「南伊勢 南紀州」の地は、「青木氏」では、“「遠祖地」”と呼ばれていた土地でもあって、歴史上は、奈良期と平安期と鎌倉期の三期に伊勢を三分割したもので、平安期中期から朝廷から「半国割譲された土地」でもあった。
    (日本書紀にも明記)
    この「旧領地の遠祖地」も確かに「秀吉」に依って「本領安堵」されたのである。

    この「人物(1)」には、この「紀伊守の官職」を与えて、「北庄藩」を与えたとする「豊臣家の記録」にある。

    しかし、これには疑問がある。
    その与えた時期は、1598年とあるが、この地が「豊臣家の領地」と成った「賤ケ岳の戦い」は1583年である。
    与えたとしても少なくとも、1584年には与えている筈で、それも、15年後の豊臣政権の晩年5年前の「混乱時期」でもある。(矛盾8)。

    更には、その2年後の1600年には、この「俸禄知行」は、たったまる1年で「徳川氏」に除封されて終わっている。
    つまりは、其れも「1年限りの俸禄」であり現実にはあり得ない。(矛盾9)

    仮に「人物(2)」が受けたとしても、この「秀吉の家臣」と成ったとされる「青木氏」(佐々木氏記録の1と2)には、「八万石」や「四万石」ものそれを維持する「武力」と「家臣」を元より持ち合わせていない。
    無理なことである事ははっきり判る。(矛盾10)

    況してや、「豊臣家の記録」には、「何処の青木氏」であるかも記されていない。(矛盾11)

    この時期の「青木氏の出自」は明確である。

    青木氏は、「悠久の歴史」を持っている「氏族」で、「姓族」の様に急に勃興して来た「姓」ではない。
    現に、「伊勢」で戦っていたのである。
    “何処の青木氏か判らない“と云う事は絶対に無い。

    そこで、この「室町期の時期」では、「秀吉」と関係を持てたとする「青木氏」ともなれば、「伊勢の二氏」の 「二つの青木氏」と「信濃、甲斐、讃岐」の「三氏の青木氏」に限られる。

    そこで、上記の「紀伊と伊賀」ともなれば、「紀伊」と「伊賀」に土地を持ち、本領安堵された「伊勢の二氏 青木氏」以外には無い事に成る。

    「近江と美濃」は滅亡していて、「近江」は傍系が摂津で農業、美濃は、完全滅亡の体の状況にあったし、「他の秀郷流青木氏の116氏」は、伊勢を除いてはその対象とは成らない。
    つまり、「豊臣家」が遺したとされるその地理的範囲を超えていてその対象にはならない。

    「丹治氏系青木氏」が確かにあり、「信濃国衆」と成るが、関ヶ原で「徳川氏」に味方して摂津に1万石が与えられている。

    「紀伊守」とする「秀吉の家臣」とされる「人物(1)」は、西軍に味方して除封を受けているので、摂津藩と成った「丹治氏系」では無い。
    この様にこの「人物(1)」の「青木氏の出自」が明確に成らない。(矛盾12)

    何故ならば、秀吉は、「自らの家筋」をよく見せる為に次ぎの様な搾取をしている。

    この「紀伊守とする人物(1)」は、「豊臣家の記録」では「養父の竹阿弥」の「遠縁の青木氏」として記録されている。
    そして、「従兄弟」であるとしていて”「偽系譜」”を作り上げている事に成る。

    (実はこの事は、全くの無根拠ではないのである。下記)

    「青木氏」と云う「賜姓族」の“「出自の権威」”を利用したのであろう。

    この事を理由に、「豊臣家」が作り出した記録に依れば、次ぎの様に成る。
    1578年頃に「秀吉の家臣」と成ったとしている。
    1583年頃に勲功を挙げたとしている。
    1587年頃に突然に引き揚げて、突然に「従五位上左衛門佐」とした事に成っている。

    以上とする3記録が豊臣家に遺されている。

    この事もおかしい。この3つに付いて検証する。

    そもそも、「出自」も判らない人物に、「朝廷の格式式目」の定めでは、この「官位」は絶対に受けられる「官位」では無い。(矛盾13)

    出自格式が良くても、最高でも、「従五位下」が与えられる最高官位であり,官職は「右衛門下尉」が限界と成る。(矛盾14)

    「国家的勲功」が在り、その「勲功」を以って次第に「格式」が高められる様に厳しく定められいる。
    その「身分」に依って「限界の格式」が定められている。
    その「勲功」も「五段階」に定められていて、一足飛びに得られるものでは無い。(矛盾15)

    (参考 「青木氏の守護神と神明社−4」と「古書 類聚三代格等参照」)

    (注釈 因みに、「徳川家康」は、幕府を開くに必要とした官位官職が足りなく、天皇家に食事も出来ない位に貧させ圧力を掛けてやっと無理やりに「公家身分」より低い「従五位下」と、「武家の棟梁」(「武門之棟梁」)の呼称も与えずに、過去にあった「源氏長者」と云う身分を引用し作り出して「征夷大将軍」に成り得る格式がやっと与えられた経緯があった位である。)

    それが、「氏素性」「出自」のはっきりしない「行きずり者」には、先ず「官位官職」はあり得ない。(矛盾16)

    しかし、現実に記録されている事から、少なくとも、“「永代の官位官職を持つ青木氏」”でなくては無理な事に成るのである。
    だとすると、「伊勢の二つの青木氏」と「信濃青木氏」の三氏に限られる。
    「紀州」と「伊賀」と云う事から観ると、明らかに「伊勢の二つの青木氏」と成る。

    しかし、「伊勢の二つの青木氏」か「信濃青木氏」には、永代の「浄大一位 正二位左衛門上佐」と「従四位上左衛門上佐」の家柄であり、既に「永代の官位」を持っている。
    大きなあり得ない[矛盾」である。

    この官位は、そもそも、本来”「宗家筋」”に与えられるもので、「分家筋」の他の地域の青木氏には与えられるものでは無い。
    全く突然に受けられる立場には元来ない。
    況して、「伊勢の乱」の後ともなれば、“「青木氏」”としては、「伊勢の二つの青木氏」以外には、「豊臣家の記録」を確定するに類する氏は無い。
    然し、この事を完全に証明する記録は「二つの青木氏」側にはない。(矛盾17)

    この事から、「豊臣家の家筋」を挙げる為に、それに見合う様に、画策した事に成る。
    第一には、「形式上の官位官職」を作り上げた事
    第二には、「形式上の藩主」とした事
    第三には、「形式上の俸禄」として作り上げた事
    第四には、「身内に家臣一人を仕立てた事

    以上の矛盾だらけの「4つの事」で、「豊臣家」の中で「搾取偏纂の記録」としたものと観られる。

    この「4つの事」で先ずは“権威づけた”と観られる。

    そして、この「4つの事」に見合う類似する青木氏の「人物(2)」を、“家臣一人に仕立て上げた”事に成る。


    「青木氏側の記録」との差は、”「形式上」”に作り上げられた「藩主」と「俸禄」と「竹阿弥」と「官位」と「官職」だけで偽飾したのである。
    後は類似し、時期も伊勢の1565年頃から1600年までの事としての5年の範囲にあるに収めたのである。

    “「繋ぎ」”による“「竹阿弥」”を除けば、四つ共に「青木氏の記録」に対する“「誇張」の範囲”で記録されている事に成る。
    「藩主」は「伊勢衆」、「俸禄」は「大地主」、「官位」は「永代官位」、「官職」は「紀州伊賀の旧領地」から誇張したものである事に成る。


    これで、矛盾は解ける。

    さて、そこで、“「繋ぎ」の「竹阿弥」”の“「能楽師」”に付いては、ある意味を持っている。
    上記した様に、「能楽」「猿楽」等の「楽師」は、古来より「公家」や「賜姓族」の「ステイタス」の趣向であった事から、”「直接の血筋」”とは云わずとも、“「遠縁」”として印象付けたのである。

    つまり、“遠からずとも縁筋”に当たる事があったろうとしたのである。(矛盾18)

    現実に、“遠からずとも縁筋”に当たると搾取した記録が、「二つの青木氏側」には確かに遺されている。

    それは、「秀郷一門の末裔」で、近江の「蒲生左衛門佐大夫高郷」の末男の「青木玄審允梵純」(1548年頃で、母は伊勢青木氏)が居た。
    この末裔で、「青木忠左衛門忠英」(松平氏扶助)なる者は、元は「猿楽」の「春藤源七郎」の弟子で、その「技」を学び、それを以って、一派を率いたと記録されている。

    (「春藤氏」は「公家衆御馳走能組番」で「公家等の階層」の者に「能楽」を教える「楽師役職番」であった。)

    この伝承の一派は、「伊勢秀郷流青木氏の末裔」が代々引き継いで、中には江戸時代の「四代将軍綱吉」に召し出され、「御廊下番」(百五十表)として正式に「徳川幕府の楽師指導方」と成った家柄でもある。

    その意味で、「秀吉の養父」の“「楽師の竹阿弥」”が、「青木氏と遠縁」とする根拠は無いではない。
    この経緯を利用したのである。

    要するに、民衆を信用させる為に必要な信用させられる”「繋ぎ」”を作り上げたのである。


    (注釈 伊勢の「青木長兵衛の四家」も「能楽」を古来より「賜姓族」として嗜む伝統があった。)

    つまり、二人目の「伊勢秀郷流の青木伊賀守忠元」とする「青木玄審允梵純」の子の人物が、「秀吉家臣説」に利用された根拠は、ここにあるのである。


    実は、「伊勢秀郷流青木氏」の「青木忠元」は、「蒲生左衛門佐大夫高郷」の末男の「青木玄審允梵純」(伊勢)の子である。
    更に、その「二代後の末裔」で「青木忠左衛門忠英」は、代々青木氏の「楽師の指導方とその才」を以って、遂には「楽師の師匠」として「徳川氏の正式な楽師指導方」に成った経緯を持っていたのである。
    この事を利用して、「秀吉」は、“養父の「竹阿弥」“と結び付けたのである。

    これで「二人(紀伊守と伊賀守)」を形式上は「家臣」に仕立て、「紀伊守」と「伊賀守」を結び付ける事で「秀吉」が「青木氏との関わり」を搾取偏纂したのである。

    この「身内の者」か「家来」か「青木氏」に仕立て上げられた者の一族が、伊予と讃岐と土佐の西国境に「ある村」(匿名)を与えて住まわせていた事が判って居る。
    この者の一族は、その後の「徳川氏の除封」作業で、この「青木の土地」が没収されて、「青木の地名」と共にその後、一族は行方は判ら無く成っている。

    恐らくは、「北の庄」は豊臣家の所領でダミーとして扱い、この「青木氏」を名乗らせた者には、実際は四国の伊予土佐の国境の西山間部に小さい村を与えて一族を住まわせていた事に成る。

    結局は、「秀吉」は、伊勢の「青木氏の本領安堵」の時の状況に合わせて、「誇張」はするも、「類似性」を持っている事から、これをチャンスに乗じて間違いなく「豊臣家の権威付け」をしたと観られる。

    以上の様に、“誇張に依る「豊臣家の記録」”である事から、「徳川除封禄」では、正式に関ヶ原の1600年の「除封」と云う形で、「徳川氏の力」で、「1年後」に明確にこの搾取の記録を抹消しているのだ。

    そこで、この二人に類するものを「青木氏系譜」から追ってみると、“「紀伊守」”とする者の幾つかの俗名に関する対象者はない。
    「俗名」は異なるが、「没年数と月と死因」が大体一致する者が、四家の中に現実に一人存在する。

    上記 「青木氏の記録」の模擬にされた人物は、「信秀」、或は「信定」である。

    記録の「中心人物」(1)の為に、“「後付」”で出自の無いこの「人物(1)」を正当化させる為に、その良く似た出自を、間違えての搾取偏纂で、後付で“「一矩」“に変えたと観られる。

    ところが、ここで、又、「決定的な間違いの矛盾」を起こしたのである。

    そもそも、この“「一矩」の名”は、「徳川氏」に味方して「家臣」に成り、その勲功で同時期に「摂津麻田藩」を与えられた「丹治氏系青木氏」の通名である。
    本人の有形無形は別として、”豊臣に味方した”として、実際に徳川氏より除封された人物である事から、出自を明確にし良く見せる為に行った「後付」である事が明白である。

    名前と出自を偽作する為に、”「豊臣家に味方」”と”「徳川氏に味方」”のとんでも無い間違いを起こしたのである。

    注釈 「秀吉」が付けた「元々の俗名」は、別資料から「青木秀以(ひでもち)」である。

    「伊勢青木氏」の「信定人物(2)」の最初の俗名「信秀」の「秀」を使って「類似の秀以」としたのではないかと観られる。
    「秀吉」の“「秀」“を使ったとする説もある。

    しかし、兎も角も、”「秀」“を使われた事から、伊勢の「青木氏側」では、”「秀吉の青木氏」“を否定する形を採る為にも、”「信秀」“から”「信定」“と改めたと観られる。

    と云う事は、「秀吉の記録」時には、当初は、この「人物の俗名」が、はっきりとした記載には無かった事にも成る。
    10もある名なので、何れが本当か判らなかった事に成る。

    (注釈 本当は判っていたが、「一矩」とした通説化を謀った人物が、この「秀以の情報」を持っていなかった。)

    依って、「一矩」にして、信憑性を高める為に、「麻田藩の丹治氏系青木氏」の「通名」を「後付」で付けた事に成る。(矛盾19)
     
    (注釈 実は、この人物には「後付」と観られ俗名が何と10もある。詳細下記。これこそが搾取偏纂が行われた証拠である。)

    そもそも、「嵯峨期詔勅」に依って、一般は「青木氏」を名乗る事は禁じられていた。
    然し、この“「秀吉の青木氏」”の名は、出自が明確でなかった事から、この名を使って名乗る事は可能であった。
    この事は「江戸寛政期の歴史書」にも記載されている。
    各地で家柄身分をよく見せる為に江戸期と明治期に名乗った「第三の青木氏」と云われるものである。

    「各地の郷土史」は、これを記載する事で「土地の知名度」と「歴史性」を上げる事と成る。
    従って、この“青木氏の子孫だ”とする形で「俗名」が増えたと観られる。

    更に、「秀郷流伊勢青木氏」の中に、「伊賀守」とする者の「俗名の類似」と「没年数に近い者」が矢張り一人存在する。

    上記の「青木忠元」であるが、上記の“「竹阿弥」”を通じて「青木氏」との「繋ぎの役目」の為に其の侭に使用したと観られる。

    この事から読み取れる事は、「伊勢青木氏の本領安堵の条件」に、“「豊臣家のこの搾取偏纂」を容認する事“が付加されていた事を物語る。

    つまり、別に本領とする地外に、「南伊勢から南紀州の地」と「伊賀の地」の「旧領の本領安堵」した事を根拠に、「豊臣家」の為に「本領安堵の付加した土地」を「紀伊守」と「伊賀守」として、先ず、誇張して「権威づけた」のである。
    ただ、この二名の内の「紀伊守(1)とする「伊勢青木氏の末裔子孫」が、奈良期からの“「福井の青木氏の逃避地」に移動した”とする記録が、後に付加されてある。

    現実に、この「青木氏の子孫」が福井に現存し、「商い」を営んだとする記録が確かに青木氏側にもあり、末裔も現存する。

    これには、「除封」にて、”福井に逃げ込んだとする説“と、”「氏是」を無視したと云う批判説”とが確かにある。
    しかし、更に研究調査を進めた結果、実際には、上記した“「豊臣の記録の範囲」”であり、「青木氏側」では、「豊臣家の知行」を実際に受けていないし、「除封」の5年後にこの本人(信定)は病死にて紀州新宮で没している。(矛盾20)

    上記した「室町期の紙文化」で「巨万の富」を得ていて、250万石以上とも云える「商財」を築き、且つ、「伊勢、紀州の大地主」(家人が奈良期から定住)にあって、「豊臣家の記録」が“「誘い」“であったとしても、”「誘い」“に乗る者は「青木氏」には居なかった筈である。
    むしろ、この“「誘い」”が「青木氏」に「利得」と働くは、論外であって、「賜姓族」「御師様・氏上様」として「悠久の民からの信頼」を失い、「青木氏の悠久の氏是」がある中で、何れの事からも「全くの不利益」と成ろう。
    そんな「愚者」は、そもそも“「四家制度」”の中に存在し得ない。
    それが「四家制度の所以」の一つでもある。(矛盾21)

    「四家福家の批判説」によると、この者が「福井移動説」の元となった。この元福家が福井に移動して商い(酒造業)をしたと観られる。
    この者が「後付」で「出自の明確化」の為に利用されたのである。


    故に、「出自」が出せない者で、除封された者の娘を「家康の側室」(蓮華院)にし、後に「本多氏の正妻」にするかの疑問が遺る。(矛盾22)

    この様に、矛盾が22にも上り、可成りにして「通説化した説」には無理な無茶が目立つ。

    「秀吉」は始めからの「家柄や権威の獲得」の為に、「伊勢青木氏」に関わるかの様な人物を家臣の中に作り出し、それに「伊勢の本領安堵」の時の処理に乗じて、似せて誇張させて「記録」で演じた事に成る。
    その「搾取の人物の娘」を、秀吉から家康は政略的に側室として、後に家臣の本多氏に下げ渡したとする説にした事に成るだろう。
    しかし、この娘は別ルートの「麻田藩の丹治氏系青木氏の娘」である。人質である。

    故に、それに合わせる為に、俗名を「秀以」から丹治氏系の通名の「一矩」に変えたと観られる。(矛盾23)

    そもそも、この「秀吉の家臣説」の「類似する人物」は、「二つの伊勢青木氏」には存在はするが、“この人物に似せた青木氏”を作り出した事に成る。
    ただ、それが、“搾取偏纂した事に依る「無茶な矛盾」が、余りにも出てしまった”と云う事である。

    「秀吉」自信が、初め、“この事に「青木氏」が載ると観ていた”と考える方がおかしく、“「青木氏の権威」“を主張するのであれば、”「青木氏の出自」“が最も大事であり、記録に”不明である事”にした事は、元々、秀吉は、“この事に青木氏は応じる”と観ていなかった事に成る。

    「二つの伊勢青木氏」は、「四家の人物」を、“「家臣」とする事“には、「青木氏氏是」で応じなかった事に成る。
    従って、「搾取偏纂の結末」として、説明の就かない「大矛盾の結果」が起こった。

    故に、「徳川氏」もこの事を事前に充分に承知していて、速やかに1年後に「除封処置」を講じたのである。
    そして、“如何にも血縁づけたかの様に見せかけた「娘」”も、その手には載らないとして速やかに本多氏に“下げ渡した”のである。

    (注釈 「秀吉信望の歴史家」は、「福井逃避説」(下記 矛盾24)と同じく、「通説化」を是認する様に、別の「娘の偽工作話」を作り上げている。)

    ただ、“世に晒す事無かれ、何れ一利無し“の「氏是」から、”前代未聞の事“であった為に、”豊臣家に乗じられた“とする”一族からの批判“が、「青木氏年譜」(商譜)でも、確かに「騒ぎ」が起こっている事でも判るであろう。
    「伊勢青木氏」に執っては、この事態は止むを得ない仕儀ではあるが、この始末をした「福家の末裔」(信定)にしてみれば、「一族の非難」から、“福井に追いやられた”として受け取っている可能性は充分にある事も考えられる。
    この“「隙」“に乗じられたものである。

    これは、現実には、資料より「四家制度」にて、病死にて、制度上、上記した「四家の入れ替わり」が起こった。
    この「利用された青木氏の人物 (信定」」は、「福家の人物」であったが、この「福家の家族」が、「福井への営業所に人事異動した事」が起こったのであった。
    この人事に関する「添書書きの記録」は特段無いが、一族から“秀吉に乗じられた事への非難”から、遠ざけて「非難」から避けさせる為に配慮した事であったのであろう。(後付説の矛盾24)

    この「歴史家の後付」と観られるこの「福井などへの逃避説」は、一部の歴史家の「豊臣家記録」を恣意的に肯定する為に乗じられた事に依る。
    且つ、通説化する為に仕掛けられた搾取偏纂のものであると観られる。

    (秀吉母の出自も信じられな程の脚色搾取偏纂が目立つ事例と同じ偏纂。)(外説 矛盾25)
    これを「逃避説」にすり替える事で、より「家臣説」に深意性を仕立てて正当化しょうとした「後付の論調」と観られる。

    (注釈 この説を読んだ「福井の青木氏末裔」、つまりは、「四家の福家の伊勢青木氏の末裔」が、この「後付説」を読んで「口伝」していたと観られる。
    「福井定住」のこの末裔子孫は、「避難説の口伝」に成っている事を承知している。)

    そもそも、この「福井逃避説」を「後付」するには、この“「福井」”と云う地が、“「青木氏の奈良期からの逃避場所」”であった事を歴史的に知っている者でなければ、作り出せない「後付説」である。(歴史家)

    この関ヶ原後の「逃避場所」を、“「福井」”と云う場所に持ち込めば、「秀吉家臣説の人物(1)」をより「真実化」させられる。
    “如何にも「伊勢青木氏」であるかの様に見せかけられる”として、「搾取偏纂」し「通説化」を謀ろうとしたと観られる。
    「後付説」を脚色した人物は、ある程度の知識の歴史家であった事が云える。

    ところが、「青木氏側の記録」では、上記の様に明確に成っている。
    この「豊臣家」が記録する人物は、「伊勢青木氏等」に存在しない。
    且つ、「避難」では無く、「後付」で「乗じられた人物」の家族に付いては、“「四家人事の移動」”と成っている。

    豊臣政権崩壊後(下記 「青木氏年譜」 1619年)に、「紀州徳川氏の頼宣」と「家康」は、「青木氏の役務返納」(全国神明社や密教寺等の私財の返納事 縁籍問題等)に付いて、初期には家康と、後期には“「伊勢松阪での頼宣との交渉」“を行った事が記録されている。
    この時に合わせて、「伊勢伊賀の本領の認知(大地主と村主)」と合わせて、上記の「除封分に相当する知行分」として、「特別扶持米12人分」と「南紀州の遠祖地」(計1万石弱相当程度)を付加した記録が遺されている。

    (注釈 平安時の「旧領や遠祖地」も含めて「本領安堵」された「青木氏」は、その結果を以って次ぎに「伊勢青木氏」は、「伊勢シンジケート」を構成する「元伊勢衆」の「旧領地の地権」も認めて安堵して「平時の状態」に戻したとある。
    もう一人「人物(3)」の「伊勢秀郷流青木氏」(伊賀守 :忠元)の方は、その後、「御家人」と成って、“「立葵紋の青木氏」”として紀州藩に代々仕えた。
    この事に付いての詳細は、「青木氏の分布と子孫力の−5、16」等を参照の事。)

    もし、豊臣家が記録する“「秀吉の青木氏二氏」“であるとするならば、「除封」も受けている事から、「紀州徳川氏の家臣」には成り得ない。
    そして、況して、“「立葵紋の青木氏」”は到底にあり得ない事に成る。

    通説化には一般には騙せても、歴史の有知識のある者には隠しても隠せない余りにも無理で多くの「論理矛盾」を起こしている。

    (注釈 下記に論じるが、「紀州藩の家臣」は、「伊勢秀郷流青木氏」等を始めとして「伊勢藤氏」と呼ばれる「秀郷一門」をベースにして“「藤氏家臣団」”を「頼宣」は構築した。
    そして、この事が「将軍家の嫉妬」に合い「在らぬ謀反説」で大変な事に成った有名な事件に成った位の事である。)

    この事でも、「二名の青木氏」(紀州守と伊賀守)が記載されているにも関わらず、「豊臣家の記録」では、「紀伊守の人物」(1 :一矩)だけと成っている。
    上記の様な「徳川氏の紀州藩の処置」から観ても、「秀吉家臣説」であればあり得ない事である。

    現実には、二名で在り、[豊臣家の記録]に矛盾する。 
    もう一人(3)の家臣説から観ても矛盾である。(矛盾25)

    明らかに、“「伊勢の本領安堵」の時に、二名が乗じられた事である。
    その経緯は次ぎの様に成るだろう。

    「搾取偏纂の経緯」 
    「秀吉」は、「二名」を家臣化して置いて、内一名(1)を縁籍化した形で家臣の中にその人物を作り上げた。
    この「人物の出自」を「伊勢青木氏」から得られず、「出自不明の架空の青木氏」を、それに見合う「権威の誇張」を付帯して作り上げた上で記録化した。
    ここまでは「秀吉の功罪」である。(矛盾23まで)

    そこで、この「豊臣方の青木氏の人物(1)の娘」とする者を「徳川氏の側室」にした。
    この側室は「梅殿」と呼ばれ、「蓮華院」と称したが、この「娘の出自」は、「丹治氏系青木氏」が、人質として差し出した「麻田藩丹治氏系青木氏の娘」である記録がある。
    全く違う氏の「徳川方の青木氏」である。

    ここからが、通説化為の秀吉信望の歴史家の「後付の説」の矛盾に成る。

    ここで、「豊臣家の記録」に“「説明の就かない後付大矛盾」”が生まれたのである。

    (A)この人物は「豊臣家の家臣」で、「越前北庄八万石大名」で、「徳川氏から除封」とされている。
    (B)この「丹治氏系青木氏」は、逆に、「徳川氏の家臣」で「摂津麻田藩一万石大名」で「徳川氏から俸禄」と成っている。

    明らかに史実が混同している。この「矛盾」は、最早、秀吉には問題はない。
    明らかに「後付の通説化」を謀った時の「歴史家の矛盾」であり、「福井逃避説」と共に、「故意的な矛盾」と観られる。

    この「人物の疑義」には、他に、上記した様に、“「俗名」”が沢山使われている事である。(矛盾26)

    本名 −「秀以」、

    麻田ルーツの偽名類  ー (一矩、一興、重治、重正)、
    通名ルーツの偽名類  ー (勘兵衛、源右衛門)、
    俗称ルーツの偽名類  ー (平輔、磨太)、

    以上等がある。

    前者の「秀以」がこの人物の本当の「俗名」で秀吉の搾取偏纂の結果である人名である。

    先ず、次ぎの様に成る。
    麻田ルーツの二つ目から五つ目までの四つは、「丹治氏系青木氏」(麻田藩)が使っている「通名」の「混同名」
    その後の通名ルーツの二つは、「搾取名」と呼ばれるものである。
    その後俗称ルーツの二つは、「騙名」(かたりな)と呼ばれるものである。

    以上に分けられるのである。

    後ろ四つは、「家柄」をよく見せようとして、非常に良く使われた「江戸初期」か「明治初期」の「騙りの名」の部類で論外である。

    この二つの時期には、公然と「搾取偏纂」が行われた。

    むしろ、幕府は黙認するどころか、武士と成った者は「権威」を持たない「立身出世の姓氏」である事から、「武士の権威付け」の為に、「知行俸禄」を定める「黒印状」を出す事を前提として、この「偏纂」を半強制した経緯があった。

    従って、他にもこの「人物」に群がる様に「騙名」や「偽系譜等」が使われている。

    この人物として見せかけて使ったのであるが、少なくとも「自らの出自」を「丹治系青木氏」と、この「秀吉の青木氏」に搾取した事は明らかである。

    (注釈 江戸期の寛政、寛永期に書かれた「二つの資料」に記載されている「第三青木氏」と呼ばれる「青木氏」は、この「秀吉の青木氏」と、「麻田藩の藩主」と成った「丹治氏系青木氏」の「二つの出自」が多い。
    中に酷いのが有って、この二つに、更に「秀郷流青木氏」と「藤原氏」と「皇族賜姓族青木氏」(二家分)に「江戸期の官位官職」を付けてのやりたい放題の「4つを組み合わせた青木氏」が「地方史書」(下記)に観られる。
    その「地方史書」も流石、気が引けたか「注意の特記」をしているものもある。
    これらの多くは、室町期以降には、取り分け江戸初期には「神社や寺社の秘密の副業」であった。)

    「歴史観のある人」でも、判別が就かないほどに極めて多く酷似するのが、この「騙名」で、これも何れかに矛盾が出る。
    この様に「秀吉の青木氏」には「搾取偏纂の俗名」も然ること乍ら“「騙名」”まで使われている。(外 矛盾27)

    その「矛盾」の代表は宗派である。
    宗派は長い慣習と仕来りと掟があり、「密教と顕教の違い」があり、「密教」でも「古代密教」と「平安密教」の違いがあり、顕教でも大乗仏教との違いもある事からその出自で判る。
    「氏族」と「姓族」からでも、判別が可能で有る。
    この宗派だけは明治以前では絶対に搾取出来ない。

    この「二つの青木氏」であれば、確実に「古代密教」の「浄土宗密教」である。
    しかし、一名(人物 1)の者は「浄土真宗」としている。
    明らかに「後付の矛盾」である。(矛盾 28)

    実は、室町期までは、未だ、「浄土宗」に入信するには、ある「特定の氏」しか入信出来なかった。
    「出自分け」していた事から、認めて貰えない「仕来り」であった。
    要するに、そもそも、「密教」を前提とし、その氏で寺を独自に自主運営していたのである。

    従って、部外者や氏の宗家本家の「認定保障」の無い者には、自らの宗派と出来ない仕組みであった。
    この「仕来り」が、江戸初期に密教の禁止令があって、全て「顕教」と成ったが、表向きは別として、依然として「氏族」と「高級武家」は、この慣習を護った。
    従って、況して、「出自」もはっきりしないし、「青木氏の保障」が無ければ信徒には成れない仕組みであった。

    従って、この氏(「人物 (1)」)が「浄土宗」を宗派とする事は出来なかったのである。
    “出来なかったと云う事“は、「伊勢青木氏の出自」と出来なかった事を意味するのである。
    つまり、「伊勢青木氏の出自」と認められれば、当時の「宗教社会」は、それを基に「浄土宗」に入信出来る仕組みであった。
    つまり、「氏家制度の本家」の「意向の仕来りの所以」である。
    平安期−鎌倉期−室町期から江戸期まで「氏家制度中心の社会」であった。

    この事は、況や、「伊勢青木氏」は認めなかった事を意味する事に成るのである。

    「二つの青木氏」の「361氏」に繋がる者として保障されれば、「浄土宗」に入信できる仕組み、況や「密教」であった。
    これが、「氏家制度の所以」なのである。

    新しく独立して家を興す末裔は、都度出るが、「宗家本家筋」に認めて貰えれば、その氏の一族一門が運営する菩提寺の「達親」と認められる仕組みであった。
    認めて貰えなければ「宗派」のみならず「家紋」も「定住地」も定まらない事になる仕組みである。

    この「二つの青木氏」には、奈良期から「青木氏が定住する地域」には「ある菩提寺名」で「青木氏の専用の寺」が建立されていた。(寺名は秘匿とする)
    「寺名」が正規に伝承されていて達親族であれば「青木氏」を証明される事に成る。

    (注釈 しかし、この仕組みの「密教の浄土宗」は、家康に依って江戸初期に解除され、「密教性の排除」を目的として禁令を発した。
    但し、表向きは完全に解除したが、実態は、秀郷一門等の御家人や高級家臣団の事もあって、「高級武家」等が任意に入信出来る「顕教」で「檀家方式で運営する浄土宗」とした。
    「一つの寺」に「幾つもの氏姓の檀家」が入る方式としたのである。)

    これ以外は、「顕教の浄土真宗」に入信するか、庶民が自由に入信し得る日蓮宗などの宗派に入る事に成るのである。
    従って、殆どの武士は真宗に入信しているのであり、下級武士は日蓮宗に、大きな末裔を持たない公家などは、結局、「顕教的密教」を標榜する「天台宗」か「真言宗」に入信する事に成ったのである。(前段の「伝統10」を参照)

    この事からも、この「宗派の事」だけは変えられない事から「矛盾」は露出しているのである。

    後は、その「偽名」が使われている経緯から、本人外が行った完全な「搾取偏纂の騙名」であると観られるので論外に成るのである。

    この「人物(1)」に、これだけの「騙り」が起こる事は、この「人物の出自」が無い事の「架空」から起こっているものであり、全体としても「豊臣家の搾取偏纂」である事を物語る事でもある。

    ここでも、この「人物の名」でも“(A)と(B)を強引に結び付けた「後付け矛盾」”が生まれているのである。

    (注釈 「丹治氏系青木氏」は、「徳川方」に着き、その功で、「摂津麻田藩1万石」を受けていて、「別系の青木氏」である。
    この「青木氏」は、武蔵の土豪集団の連合体の「武蔵七党」の「丹党」から出た「丹治氏」が、平安期に罪を得て朝廷より関東に配流された「丹治彦王」が、「現地の土豪」との間に生まれた「配流孫」だとしている。
    「嵯峨期の詔勅」に従い、遅れて「室町期」に名乗りを上げた者で、立身出世を夢見て、一時、「信濃の国衆」と成り、その後、甲斐、美濃を経て、関ヶ原の戦いに参戦、関東武蔵を里としている為に、「徳川方」に味方して「摂津麻田」に「領地1万石」を家康より受ける。
    弟に4000石を分けて「武蔵丹治氏系青木氏」と共に「三流の流れ」を作る。
    この「磨田藩支流の弟系」には、上記した「秀吉の青木氏」の「伊予土佐の国境」の「青木の村」をこの磨田藩支流に後に下げ渡された。
    この「丹治氏系青木氏」が「通名」として、「重、一、矩」が使われている。)

    然し乍ら、「搾取人物策」を用いた「豊臣家」は、斯くの如しで「権威」を作り上げようとして、後勘から観ると、矛盾(28)だらけだ。

    然し、ところが、反面、同じ「権威の持たない土豪」であった「松平氏・徳川氏」はその対応が異なった。
    下記の「青木氏の年譜」にもある様に、既に1605年頃から、数度に渡り「青木氏」と談合していた様で在る。
    1620年頃の後には、正式な「勝姫との政略血縁」(立葵紋青木氏)を以って「吊り合いの取れた縁続き」とした。
    「正式な権威の獲得」を「青木氏」と成し得たものである。

    この後、「伊勢の青木氏」(青木長兵衛 福家)は、この「知行付加」(家臣外の知行)を以って、「紙屋長兵衛の商いのノウハウ」を「紀州藩」と「将軍吉宗」に提供した。
    そして、江戸初期から末期まで家臣では無かったが、「紀州藩の勘定指導方の役目」を務めた。
    「初代頼宣の時」、「吉宗の時」、「江戸末期の時」の三期には、直接に人を送り出し、実務の「勘定方」を務めた。
    「吉宗将軍時」には、「吉宗育親」として、「福家の長男六兵衛」は共に育った経緯から、江戸にも向行して「布衣着用の立場」(直接将軍に面談出来る「大名扱い」)で「享保の改革」を主導した。
    この事からも、「徳川氏」は、この“「青木氏との向後の付き合い」“から観て、上記の「秀吉の搾取偏纂」を充分に承知していた事を物語るものである。


    では、何故この様な「流れ」に成ったかと云う事であるが、それは次ぎの様な重大な事象が起こったからである。

    (注釈 実は、上記の“「今宮神社」“には、「大きな意味」を持っていて、平安初期に「疫病平癒祈願の神社」として各地に創建されたが、「室町期の戦乱」に巻き込まれ衰退し荒廃した。
    その為に生き延びる糧として、「全国の社の組織」を使って「シンジケート」を構築して生き延びた。
    この事を知っていて政権獲得の時に、この「今宮シンジケート」の世話になった秀吉は、豊臣政権下に、この全国の「今宮神社の再建」を果たし、京に再び「総社本殿」を創建し保護した事は有名である。
    そして、その更には「末社」としても、更に、”「若宮神社」“を全国の「天皇家の所縁の地」に創建して、”「皇族者の下族の保護地」“を名目に構築し強化した経緯を持っている。
    この時の「今宮神社」は、「秀吉の権勢」を背景に相当な「社勢」を誇った事は有名である。)

    (注釈 中部以西で、社勢を示す様に「今宮神社と若宮神社」は有名である。)

    これは、「青木氏」の「500社に近い神明社組織」を使った「伊勢シンジケート」の「諜報活動」等に習って、秀吉は「今宮神社−若宮神社の組織」を構築して「諜報活動」の拠点ともしたのである。
    この事は、「シンジケートの力」がどれだけのものであるかを「秀吉」は、「青木氏の事」でも「今宮シンジケート」の事でも、承知していた事を示すものである。
    その「伊勢シンジケート」を「青木氏」が持ち、有効活用して「自分以上の陰の勢力」をも持っている事を承知して居た事を示すものである。
    この事からも、この「秀吉の家臣云々の記録」は、“「矛盾の塊」の様であり、勝手なもので有る事を、秀吉自身が充分に承知していた事“を物語るものであるが判る。

    参考として、 実は、「信長−秀吉」の「家臣」と「美濃・尾張」と云うキーワードから研究すると、次ぎの様な資料が「新編美濃志」の記録にある。
    真偽は別として、この記録によると、美濃に「青木刑部卿法印浄憲」、或は、 「加賀右衛門尉藤原直重」なる人物が居て、「美濃安八郡青木村」に住し、土岐氏―斉藤氏―信長―秀吉に仕え、大阪城にて戦死したとある。
    しかし、 この系譜には、“「出自」が混在し、「時代性」の矛盾がある”としているので、「江戸期の史書の青木氏」とは「異流の青木氏」と記されている。

    これから観ると、「官位官職の持てない僧侶」や、「賜姓族の村」や、滅亡した「美濃土岐氏系青木氏」や、あり得ない「美濃の秀郷流青木氏」の末裔や、「北家筋の京藤原氏」や、室町期と江戸期にはあり得ない「二つの官位官職」等、を混合して組み合わせた「青木氏」を作り上げたと観られる。
    「秀吉の青木氏の人物」に似せてはいるが別である。
    この記録の真偽は「美濃志」そのものが云う様に“疑問”である。
    混在が起こる「時代性経緯」から、この郷土史は江戸期初期に偏纂されたもので、この上記した所謂、「秀吉の青木氏」に類似させて家柄をよく見せる為に「偽書と系譜」を作り上げたものである。

    上記した様に、各地の郷土史には、この様な「騙名」の様に「系譜」にも「偽譜」が起こっているのである。
    「美濃志」が、これだけの「矛盾」が在るのに、“良く載せたものだ”と「地方史書」そのものにも驚くがこれが現実なのである。
    それだけに地方に「歴史の所縁」を作りたかったのであろう。

    この地方史や郷土史の編集期の江戸末期にも、これは”「氏家の家柄搾取」”から”「地域の地柄搾取」”も起こって居た事を示す事例である。

    (注釈 「青木氏」と「同族血縁族の近江佐々木氏」の「傍系末裔の黒田氏」も、元は「近江佐々木氏の傍系末孫」で、「青木氏」の「祖先神の神明社」の「御師役の立場」にあった。
    この「神明社」をベースとする「伊勢シンジケートの組織」を使って「独自の諜報活動」をした事も有名である。
    その「黒田氏」を家臣としていた「秀吉」であれば尚更の事で、「青木氏と伊勢シンジケート」の事は充分に承知していた事に成る。 
    更には、事前知識として、「南北朝の戦い」(赤坂千早村の山城戦い)で「多勢の幕府軍」が「伊勢河内シンジケートゲリラ戦」で餓死し敗走した事は、直前の歴史として、「秀吉」のみならず「信長」も事前に「歴史的な史実」として知っていた筈でもある。)

    (注釈 「赤坂楠木氏」は「伊勢河内シンジケート」の一員で、「河内−伊勢−今宮」までの「三シンジケートの連合体」を構成して対抗した戦歴を持っている。)

    その為に、「秀吉」は全て承知していたとすれば、「不承知の信長」生存中は、強力な連合組織から成る「伊勢シンジケート」を持つ「青木氏」の事は知っていたと考えるのが普通ではないか考えられる。
    この「伊勢三乱 五戦」には、全て「合力」し、全て、「伊勢シンジケート」を前面に押し出しての「ゲリラ戦」で応じていたこの事に付いては、この「戦況」の成り行きに付いては、秀吉は、“非常に懸念していた事”であったと考えられる。


    話しを元に戻して、

    ”1581年の末当初に「秀吉の紹介」で、「一名の青木氏」なる者が、「信長]に面会している。”

    以上を論じた。

    この結論として、上記した”「信長との面談の青木氏」”の人物は、誰かと云う事に成る。

    上記した「秀吉の青木氏」論から、”逆説的”に検証すると、「人物(1)」は、「人物(2)」の「信定」であった事に成る。

    何故、この様な「秀吉配慮」をしたのかと云う問題である。

    そうなると、“「二つのシンジケートの連合組織」の「協力体制」”を得ていた時期があった。
    その、「本能寺直前」の時期に「秀吉」は、この事を知らしめて、何とか「信長」にこの「伊勢青木氏」の「人物(2)」と合わせて、速やかに“「事態収拾」“を図ろうとした行為と先ずは考えられる。
    即ち、「高松攻め」の「膠着状態」の時に「秀吉」は、再三に「信長」の元を訪れている。
    つまり、通説では、「信長」に依る武田氏滅亡の直後に、「毛利討伐」に出陣依頼しているのである。
    もし、この通説通りとして、この為にも 伊勢域での“「ゲリラ戦の長期化の伊勢」”を何とか解決しなくてはならない。
    背後が危険と成るし、二兎は到底負えない現状であった。
    依って、この時に「信長−青木氏面談」(1581年末頃 「青木氏の記録」では、1582年初と成る)を図ったと観られる。

    そもそも、「青木氏」に降りかかった”「秀吉の青木氏」の事件”は、「伊勢国の事(紀州討伐)」が一段落して、その後の「豊臣政権樹立」に際し、この時の「所縁」を通じて「人物(1)」を用いて「秀吉の青木氏」を発祥させようとした事に依る。

    この時の「秀吉紹介」に依る「信長面談」(信長−青木氏面談)には、次ぎの説が浮かぶ。
    第1説の「人物(1)」で応じたのか、
    第2説の「人物(2)」(信定)で応じたのか

    第1説か第2説かは何れにしても”信長を納得させられる「面談理由」”が必要である。

    この時は未だ、「秀吉の青木氏」は無い。
    従って、実態は、「人物(1)」=「人物(2)」であるのだが、「青木氏」の”「信長面談」”には、”「何らかの工作」”をした事が「状況証拠」から充分に考察される。
    その”何にか”が判らない。”判らない”と云うよりは、”確定できない”と云う事である。

    考えられる事として、”信長の印象”を和らげる為に、”「秀吉の遠縁仕立て」の「人物(1)」で会した”と云うものである。

    実は、「青木氏年譜(下記)」から次ぎの様な事が読み取れる事が出来る。
    それは、”この時から、秀吉は「秀吉の青木氏」”を考えていた節が有る。
    そもそも、秀吉は、「青木氏の存在」を「蜂須賀小六の配下」であった頃に「今宮シンジケート」の組織の中でいた事から、「シンジケートの横の繫がり」から接触が在った。
    何故ならば、「今宮シンジケート」と「伊勢シンジケート」が連携していた時期がこの時期であった。
    その為に「青木氏の存在」とその詳細を知り得た筈である。
    当然に、それに合わせて「神明社との関係」もそれを通じて知っていた事は充分に考えられる。

    「伊勢シンジケート」と「神明社組織」の「二つの組織の頭]、つまり、「御師」の「二つの伊勢青木氏」と「信濃青木氏」が背後にいる事は充分に知っていたと考えられる。
    知っていたからこそ、「鉄砲入手」の為には、「信長」に「今宮シンジケート」を紹介した記録があるのである。

    この「シンジケートの存在」の「紹介記録」そのものが、「秀吉」の「青木氏の存在」」をも認知して居た事を証明するものである。

    立身出世して行く秀吉に執っては、この時から”「出自誇張」”が必要である事は痛感していた筈である。
    その「最高のシナリオ」は、この「シンジケートの青木氏」であった筈で、「出自の誇張」に選んだと観られる。

    「青木氏」が持つ「悠久の伝統」と「家柄格式」と「民からの信頼」に繋がる事は、周囲に対して「武の権威」では得られない”「温厚な権威」”を獲得する事に成り得る。
    「天皇家や公家や藤原氏」が持つ”「優雅で気高い権威」”とは異なる”「温厚な権威」”をこの時期の秀吉には好んだと観られる。
    現実に、「天皇の落胤」「公家の姻戚」「藤原氏の末裔」の三出自は、後に「偽系譜」で搾取している事は有名である。
    故に、太閤官位を奪取出来た所以でもある。
    従って、何も青木氏との血縁関係を持つ必要は何も無く、要は「青木氏の氏名」を使えれば良い筈であった。
    その”「青木氏の出自」が何処であるか”は系譜上に記載する等の必要性も関係が無い事に成る。
    それが、上記した「長嶋の戦い」から始まって6度に渡る「青木氏との親交」の中から、「定信の青木氏」をモデルに自らが名乗るのではなく、一族の中に「ダミー青木氏」を創り上げられれば「出自誇張の目的」は達成されるのである。

    (注釈 現実に、この”「ダミー青木氏」(遠縁の家臣)”を作り上げて、表向きには「北の庄8万石と紀伊守」を与えて置いて、「伊予今治南部」(青木の里)に小さな所領(寺二つ分程度の敷地)を与えている。1600年の「徳川除封処置」で「里」共々飛散した。)

    これは、”「出自誇張」”のみならず、下記した様に、”「シンジケート確保の魅力」”にも「大きな興味」を持っていた筈である。

    故に、「豊臣政権樹立」後に、「自らの守護神」として先ず「今宮神社」を全国に再興して「自らの守護神」であるかの様に保護した事は有名である。
    そして、その「シンジケート」をも保護し、その「下部組織」として全国に「若宮神社組織」までを作り上げた。
    「青木氏の神明社」の様に、「情報収集源」として大いに利用した事は「誰もが知る歴史記録」の示すところである。
    中でも、この”「若宮神社」”には、多くの貴族を取り込み抱え込み保護して、如何にもルーツであるかの様に「見せ掛けの出自誇張」にも利用した。

    明らかに、この時の「信長面談時頃」から「伊勢シンジケート連携」と「出自誇張の氏」として近づいていたと考えられる。

    「青木氏」の「信長面談」に至るまでの「事前工作」では、どの様にして「青木氏と接触」を果たしたのかの疑問がある。

    これは、実は「蒲生氏郷の記録」にある。
    「蒲生氏郷」は、「伊勢の乱の指揮官」であった事から「伊勢の乱」に付いての「秀吉とのやり取り」が遺されている。
    恐らくは、この時に、同族である「蒲生氏郷」から「青木氏」にコンタクトがあった事が伺える。
    では、”「蒲生氏郷からのお膳立て」かとする”発想も考えられない事は無い。
    然し、絶対に「信長面談のお膳立て」は出来ない。
    それは指揮官と同族と云う立場が邪魔をして、「信長」に良い印象を与える事は無い。
    「怠惰、身贔屓」と受け取られる事は間違いは無い。口を避けても云えない。
    そうすると、「楽市楽座」を「引き合い」に出して、「秀吉」が考えて紹介した事に成る。


    この時は、未だ無かった。「秀吉と青木氏の直接接触」は、1573年「第二次長嶋の戦い 9/26」が最初である。
    「青木氏側」は、この「戦い」で出城建築の為に必要とする「材木」を「買い占め」した事で「掛け合い」に成った事があったが、これが最初である。
    「青木氏の材木買い占め」に対抗して、「秀吉」は窮地に陥り、結局、兵が吉野より材木切り出して吉野谷から流して対抗した記録が遺っている。

    (注釈 「青木氏の記録」にも在り、敵対はしたが既に認知している関係にはあった。)

    以後7年間の「秀吉との接触関係」に付いては「商記録の資料」に次ぎの様な事が書かれている。
    1580年頃に「紀州討伐」と「備中廻船」の2件記述が確実に発見出来る。
    明らかに「接触があった事」を物語る。
    (参考 他に2件関係あるのではと観られる「不明な記述」も在る。)
    ところで、この2件はどの様な接触であったのかを調べた。

    「紀州討伐」では、「伊勢−紀州」の最後の「始末掃討戦」であった。
    「南紀州」には、「青木氏の遠祖地」(和紙楮生産地)が多くあり、「秀吉」と決着を就けた事が「別の資料」に詳細に記録されている。

    (参考 「別の資料」とは、「伊勢青木氏」と関係の深かった「伊勢衆」の主家に「青木氏の手紙」が遺されていた。
    この中の一節に書かれている内容である。「伊勢衆」と談合している事は「青木氏年譜」でも判るが、この時の結果を連絡して合意を求めている手紙である。)

    「備中廻船」(1581年)は、直接表現は無いが「商記録の記述」から「備中攻め」の「資材搬送」であった。

    1568年の「第二次長嶋戦い」では、「商いの形」では「伊勢国衆」に対し「合力の約束」を果たした。
    「青木氏」として「表向き」には、織田勢とは敵対はしていないが、明らかに「商いの形」では敵対はしている。
    堺店から長兵衛が、織田軍から資材調達を請け負い、伊勢に戦いが続いていた事を背景に高騰を理由に圧力を掛け続けた事が記録されている。
    当然に「秀吉」ならば「青木氏の二つの顔」は経験者で知っている。

    然し、その後に和解している。何故、和解に成ったのか不思議である。
    「二つの顔」は知っている「秀吉」が、”何故に和解に応じたか”は解決しておかねばならない疑問である。
    明らかに、秀吉側に何らかの「メリット」があった事に成る。
    つまり、その「メリット」が判れば「和解の疑問」は解ける。

    それは、上記した様に、”「出自誇張」”のみならず”「シンジケート確保の魅力」”に有ったからで在る。
    其れを物語る事は下記に示す”「紀州討伐」”でも明らかに成っている。
    「青木氏」としても、「秀吉の出自誇張」は、この時から感じ執っていた事を物語る。
    直接、間接に関わらず、「何らか縁組」などの話があったのかの詳細は未だ判らない。
    記録の資料が出るとすれば、恐らくは、「伊勢郷士」か「伊勢衆」からであるが資料がまだ見つからない。

    この「秀吉側から観た和解」は、「青木氏の四家問題」となった数年後に発生した”「秀吉の青木氏」”以外には無い。

    両者から観ると、次ぎの事が「和解の主因」であろう。
    この「紀州討伐」は、1577年から1585年までの間に行われた三期に分かれたが、主に”「門徒衆の一揆掃討作戦」”であった。
    相当に色々な複雑な勢力が入り組んでの反抗であって、その「掃討作戦」であった。
    概して、一般には当時は、「門徒衆一揆の掃討作戦」と位置付けられた。

    (注釈 伊勢紀州域では少なくともその様に観られていたのである。「紀州」では,これを「門徒一揆」と呼ばれていた。
    その後、昭和20年頃までの浄土真宗の家筋を普通は、「真宗」と呼称される事が多いが、紀州では「特別な意味合い」を込めた呼称で”「門徒」”と呼ばれる様になった。)

    この反抗は、「石山本願寺の影響」を受けた事が原因で、昔からある「独特の紀州気質」が表に出て来たとされている。
    それは、「伊勢気質」と同様に、”「独立性」が強い気質”に有った。

    この「門徒衆」の主の「石山本願寺の顕如」は、「自らが始めた戦い」から早々に勝手に身の危険から引いてしまった。
    足元をすくわれた「門徒の紀州人」は怒って、この「紀州気質」を出して「反抗姿勢」を採った事が原因していた。
    依って、その立場立場で”反抗”は複雑を極めたのである。

    この「反抗した勢力」は「門徒衆に関係する反抗」であった事から”「門徒一揆」”と地元ではそう呼ばれていた。
    これを整理すると、次ぎの様に整理される。

    この「反抗地域」では、「北紀州」と「南紀州」に分けられる。
    この「反抗内容」では、「織田氏への反抗勢力」と「門徒衆の生活不満勢力」に分けられる。
    この「反抗勢力」では、更に「宗教武装集団」と「国人の武装集団」に分けられる。
    この「国人武装勢集団」は「領国化」と「独立覇権」を狙った勢力に分けられる。
    ところが、「反抗集団の指導者」を除き、全て「隠れ門徒」も含めて「門徒衆」が主で動いた。


    「北紀州の掃討作戦」は次の通りである。
    雑賀衆を中心とする反抗勢力、
    畠山氏の領国化勢力、
    高野山衆の反抗勢力、
    根来衆と雑賀衆の傭兵軍団の反抗勢力、

    「南紀州の掃討作戦」は次の通りである。
    南紀州の農民の門徒衆一揆

    これらは複雑に入り組んでいて、各勢力の反抗明文も多様であったが、「根底の共通点」は、矢張り、「門徒衆」であった。
    ところが、「反抗集団の指導者の思惑」は、別にあり、要するに、”門徒”を利用して「反抗の勢力」を大きくしたのである。

    「武装反抗勢力」の「雑賀衆,根来衆、畠山衆、高野山衆」は、当初は「信長」に傭兵軍団(鉄砲)として雇われ、「信長」の「天下の路」に大きく貢献した程のものであった。
    然し、「石山の戦い」から波及しての「門徒衆」であった事から、1576年末頃から内部分裂で反抗し始めた。
    (第一段階)

    この混乱(1584年頃)を利用して「国衆」の「畠山氏」は、「独立性気質の意識」を表に出して混乱に乗じて紀州を「領国化」し始めた事が発端で、「家臣の門徒衆」もこれを利用して反抗した。
    (第三段階)

    第二段階となった「南紀州」は、「青木氏の遠祖地」であり、「和紙楮生産地」の南紀で散発する「門徒衆の最終掃討作戦」であった。
    この為に、「青木氏」は民の一揆の「経済的な支援」をしていた事から、責任者の立場上、”ある条件”を下に、この何れにも利益の無い一揆を収束させる目的から「秀吉」と話し合った。
    この事から、早期に一揆を収束させたが、この時(1580年)から「秀吉」と親交を深めた事に成っている。
    この時は「伊勢青木氏の顔(信定)」と「紙屋長兵衛の顔」の「二つの顔」での面談であった。
    この事が確かにより「秀吉と親交」を高めた事が「郷士の内資料」から伺える。
    又、その後の「伊勢での青木氏に対する厚遇」でも充分に判る。

    この第二段階の「青木氏との収束策(”ある条件”)」が、第三段階までの「全門徒衆」の一揆に大きく影響を与え収束した。

    (注釈 「紙屋長兵衛」は、全力を挙げてこの「全門徒衆の経済的不満”「ある条件」”」を解決する策を講じたことが「郷士衆と国衆」の「家に遺された手紙」に遺されている。)

    この時の「門徒衆との約束」として、多くの事(”「ある条件」”)が実行された事が記録されている。

    主にその”「ある条件」”とは、次ぎの「四事業」と成っている。

    その「約束一つ」として、”「家内生産」”が出来る様にと、”「各種の紙箱や紙袋」等の殖産”を進めた事が「青木氏の記録」や「郷土史」にも地域貢献した事が記載されている。
    昭和20年代まで、「北伊勢の特産品」であった。

    その「約束二つ」として、この室町期末期の時から、新たに、どの立場の門徒衆も家内工業的に出来る「櫨の実(ナナカマド・ハゼ科)」から作る「ローソク」の生産にも入った事が「商記録」を辿ると記述されているし、「口伝」にも「他記録」にもある。

    その「約束三つ」として、「信濃青木氏」から「養蚕技術」を四家の者が留学して学び、その「養蚕と布衣品の生産」も伊勢紀州域に広めたと「伊勢の郷土史」と「商記録」にも口伝にも記されている。

    ”「ある条件」”の極めつけは、「約束四つ」として、室町期には、未だ「早場米」は無かった。
    ところが、「門徒衆の農民」の為に、「青木氏の莫大な私財」を投入して研究して何とか「早場米」を作り上げる事に日本で最初に成功した。
    この事に付いては、「郷土史」には詳細に記載されている。
    この「早場米」は、「早稲光」、或は、「光稲」と呼ばれていて、「青木氏四家」の「光三郎」の「先祖名」が付けられて呼ばれいて、その後、全国的にこの、「早稲光」、或は、「光稲」は「全国の青木氏」を通じて広まった事が郷土史にも記録されている。
    この事で、「伊勢紀州の門徒衆」のみならず「伊勢紀州の農民」からも大いに尊敬され、昭和初期まで「尊農家」としても郷土史にも記録されていた。

    以上、「第二段階の約束」として、「和紙楮殖産の拡大」は元より、上記の「四事業」を私財を投じて実行した。
    旧来より「御師様」「氏上様」と崇められていたが、更に「門徒衆」からも神の様に崇められ、不満は一掃されて納まったと記述されている。

    (注釈 昭和30年頃まで「蝋燭の生産」は「紀州特産品」であった。
    衰退した現在も紀伊山脈の山にはこの樹木が多く遺っていて、秋山は当に赤黄で一色である。)

    (注釈 現在でも「北紀州域(奈良域から堺や若山までの地域)」には、「紙箱などの紙製品の特産品地域」として遺っている。
    その中には、この時に最初に商人に転身した「門徒武士」の家筋の500年以上にもなる「紙箱の老舗」が現在も顕在して生産している。)

    この流れに沿って、遂には、これを観た多くの「門徒武士」からも、雪崩を切る様に積極的に”「商人の路」”へと「転身」をした。
    これの「受け皿」と成って彼等を導いたのである。
    そして、「青木氏」は、彼らに「商いのイロハ」から教え、独立させて、この「四事業」を専門に扱う多くの「射和商人」に育って上げたのである。
    そして、育った彼等の「四事業」に携わった人々を「商業組合」に入れて保護したのである。

    そこで、筆者は、この「四事業」を成功裏に導く為に、前段で論じた様に、「伊勢松阪」にその「自由な商業組合」を主に創設した、と観ている。
    「四事業の事業種」も然ること乍ら、「武士、民、農民」等の各層からの人々、「自由な立場」での参画、「生産から販売」までの「仕事の内容」を様々にも持つ事から、”「自由」”をモットーに組合を構成する必要に迫られたと観られる。
    更には、恐らくは、「秀吉」手引きの「信長面談」での「楽市楽座の約束」でもあった事と考え合わせていて、”「伊勢復興の策」”としてこの新しい形の「商業組合組織」を構築したと判断している。

    この「趣旨の事」を書いた「青木氏四家」から”「郷士頭」”に宛てた手紙も発見されている。

    当初は、「会合衆」の組合として、伊勢松阪で発足させた形跡(青木氏の資料)があった。
    ところが、「紀州討伐での影響」で、この「四事業」が思わぬ方向へと発展した事から、「伊勢の会合衆」の考え方から「伊勢の自由商業組合」へと舵を切ったと考えられる。
    何れも「大商人だけの会の会合衆」の組織では、最早、成り立たなく成り、そこで「発想の転換」から、彼等を救う為にも上記の云う「全階層」の「自由商いの組合」の組織に変更したのである。
    兎にも角にも、何れも「日本で最初である組織」と成ったのである。

    実は、上記で、”「門徒衆論」”の中で、”「郷士頭」”と書いたが、この「郷士衆」(郷士頭)が、この「紀州討伐」と「四事業の推進」に大いに関わっていたのである。
    決して、本論を解くときに見逃してはならない一点である。
    唯、「伊勢紀州域」の「門徒衆論」に、「郷士衆論」の「絡み」を解くのが難しいのである。
    (実は、当初、試みたが失敗した。整理して挑戦した。)

    この組織以外にも、「青木氏」は、「青木氏」と共に「悠久の歴史」を労苦を共にして築いてきた「伊勢域と紀州域と奈良域」に存在した「20の郷士衆」との「連合組織」も新たに”結成している”のである。
    ”結成している”と云うよりは、「時代の変化」とこの「状況の変化」に合わせて、”結成し直した”と云う方が正しいだろう。

    この組織は、遺された記録には、”「伊勢郷士衆」(「18郷士衆」)”と記載されていて、その原型は、「和紙殖産商い」を始めた925年頃の平安期から始まっている。
    鎌倉期を経由して室町期の「紙文化」と成った頃からは、以前の「助合組織の郷士衆」から、「運命共同体組織の郷士衆」へと変身しているのである。
    資料からは、前段でも論じたが、平安期から「20の郷士衆」から伊勢紀州域は成り立っていたが、前段でも論じた様に、「伊賀の乱」で「二郷士」が「裏切り行為」をした事から「18郷士衆」と成った。
    この「18郷士衆」(中には「18人衆」と記録した資料もある)に「郷士頭」を置いて、一切を取りまとめていた事に成っている。
    この「郷士頭」は、「持ち回り制」を採用していた様で、「郷士頭名」が資料年代で異なっている。

    資料から観ると、この「郷士頭」と「青木氏」が互いに「縦の連絡」を取り合っていた様である。
    然し、かと云って、時々、「頭外の郷士」との「やり取り」も観られるので、ある程度の「専門担当」を決めていたと観られる。
    それを「郷士頭」が全般を取り仕切っていた組織に成る。

    その前に、この「18郷士衆」と「青木氏四家」との関係に付いてもう一度論じて置く。
    「青木氏四家制度」は、「三つの発祥源」と「賜姓五役」と「国策氏」と{皇族賜姓族}の家筋を護る為に、「純血性」を前提として、この「四家制度」を平安期初期の直前に敷いた。
    この時、「四家の福家」から観て「孫域」までを「子供」として扱い、娘の嫁ぎ先の子供(孫)を「正式な跡目権利」を与えて、幼少期から引き取って育てると云う制度を敷いていた。
    この「娘の嫁ぎ先」が、元々は、「伊勢紀州の20の郷士衆」であった。

    従って、この「四家制度」が続く限りは、「「伊勢紀州の20の郷士衆」には、時代毎に「古い縁籍筋」から「新しい縁籍筋」の関係が出来上がる事に成る。
    「古い縁籍筋」が「新しい縁籍筋」に成り得る事は、{四家制度}が「代替わり」する度に当然に起こり得る。
    「伊勢紀州の20の郷士衆」の限られた範囲の中では、この縁籍関係は繰り返される事に成る。

    この時、「超大地主の青木氏四家」から「20の四家」から嫁ぐ娘に対して「地権」を持たして嫁がせる事に成る。
    逆に、「嫁ぎ先の孫」が「20の四家の跡目」に成る事も起こる事から、これを繰り返す事に依って、この「郷士衆の地権」は「重層化した地権」が起こる事に成る。
    この「郷士衆の地権」では、その「地の殖産」を「仕事」として担う事に成る。

    「青木氏四家」には、”「20の四家」”が生まれるが、「四家の地権」の範囲で、それには「四家に与えられた仕事」を直接担う事に成る。
    この「下部組織」として「20の郷士衆」の与えられた「郷士の地権」の範囲で、「仕事」が熟される。
    この「地権の範囲での仕事」は、その「仕事」に従事する「民までの差配」に「責任」を負う事に成る。

    つまり、「青木氏四家」には、結局、「40の仕事」が、「四家地権」と「郷士地権」で動く事に成る。
    但し、「20の郷士衆」の家筋範囲の事は、「青木氏四家」は関知しない。
    その「郷士地権の範囲」の経済力で「子孫」は拡大する事に成る。

    この自由を持つ「20の郷士衆」の「20系譜」から、「青木氏四家」に「新しい血筋」が入る事で「純血の弊害」を無くしていたのである。
    従って、「時代の変化」と「四家の変化」で、「20の郷士衆」の「地権」には差が出て来る事に成る。
    従って、この「20の郷士衆」に執っては、「青木氏四家との関わり具合」の如何は「男女の子孫」を如何に増やすかに関わって居た事に成る。
    且つ、その発展は「四家からの娘嫁」にも大いに関わる事に成っていた。

    この背景にある「20の郷士衆」は、その為には当然に、「紀州伊勢域」の「他家の家臣」と成っている「門徒衆武士」との血縁関係も大いに持つ事に成る。

    前段で論じた様に、「20の郷士衆」が、「伊賀の乱」で合力したのは、主にこの「伊賀氏との血縁関係」が深かった事にあった事を物語る。
    故に、「伊賀氏」が窮地に陥った時に、青木氏は約禁を破ってでも、「織田氏攻撃」に対してはそれまでは「中立姿勢」を保っていたが、「名張の清蓮寺城」から突然に「側面攻撃」で虚を突き一時を稼ぎ、この合力した「18の郷士衆」を”深夜に救い出す”と云う「離れ危険技」を遣ってのけたのである。
    然し、織田軍は、この「二つの青木氏」に対しても、「18の郷士衆」に対しても、一切の「報復処置」は採らなかったのである。
    「一切お構いなし」と成っている。

    更には、「各地に離散した伊賀者追討」と「1年後に伊賀帰参者討伐」も「不問処置」としたのである。
    「一切お構いなし」も「不問処置」になる理由は何も無い。
    あるとすれば、つまり、これは上記した様に、「秀吉手引きによる信長面談」の「約束事にあった事」を物語るものである。

    前段でも論じた「18の郷士衆の救い出し作戦」の根底には、「青木氏との深い繋がり」の所以があったのである。
    この「18の郷士衆」の「伊賀合力」に対しては、上記した様に、「二つの青木氏」とは「運命共同体、一心同体の関係」にあった事から放置出来なかったのである。

    従って、上記した「門徒衆の裏工作での説得」が、「20の個々の郷士」で、その「伊賀合力」に観られる様に、その「広い血縁関係」を利用して「懸命な説得」が行われたのであるし、この説得が効を奏した事に成ったのである。
    そして、今度は、救出された2年後には「18の郷士衆」は、「青木氏援護」の下に立ち直り、何と「門徒衆救出」に出たのである。

    この「門徒衆救出作戦」には、この「門徒衆の武家」と違って、「20郷士衆の武家」側には、「青木氏からの地権基盤」(経済的基盤)を持っていた事から、この「説得」には、暫定処置を講じて一時保護して説得を行い易い力が備わっていた事に成る。
    そこに、「青木氏四家」からの「四事業の裏付け」があれば、「門徒衆武士」としても納得に応じ易い事に成る。
    其の侭では、「秀吉」に殲滅される宿命があったとすれば、「20の郷士衆」との関係を持つ「門徒衆武士」は全て応じた様に記録から読み取れる。

    これを観た血縁の持たない関係の無い「門徒衆武士」も説得に応じて来て、救助した事が判って居る。

    この「紀州討伐」では、実は「門徒衆」と裏で折衝していたのは、この「18の郷士衆」(20から2氏脱退で正式には18に変化)であった。
    この「紀州討伐」の時の「青木氏」が、この時、この「郷士頭」(前田氏)との「手紙のやり取り」(他一通)をしていて、これが詳細に遺っているのである。

    (注釈 「2氏脱退」は「伊賀の乱の裏切り行為」、つまり、「織田軍道案内」からであるが、脱退は青木氏として容認した。
    然し、その「2氏の地権」は青木氏に戻る事から、「青木氏の娘嫁先」のその子孫を保護して続けさせた事に成っている。
    この「脱退2氏の跡目」は外したが、跡目が育つまでの間4年間は不籍にして維持させた事に成っている。
    この「離反行為の2氏」には、「娘嫁関係」が暫く途絶えていて不満があった事が記されている。
    昔は「郷士頭」も務めた家筋であったが、「地権」も小さく成り織田側に付いて「一挙逆転」を狙った事に成っている。)

    この時、要するに、”「門徒衆組織」”を影で収めたのは、この”「18の郷士衆組織」”なのである。
    実は、ここで、前段の補足として、論じて置く事が在って、それは「二つの青木氏」の”「御師制度」”である。

    この「青木氏に関わる職能集団」の「御師制度」には、次ぎの「二つの組織」があった。
    A 青木氏の内部に持つ職能集団−「内御師制度」
    B 青木氏の外部に持つ職能集団−「外御師制度」

    実は、全青木氏は、この二つの制度で構成されていたのである。今までは主に「内御師制度」の中味に付いて論じていたが、「外御師制度」もあったのである。
    前段で、「青木氏の総陣容」は、「88700人」としてその規模を数値にして見て論じて来たが、これには、「外御師制度」を加えての論では無かった。
    何故、論じなかったのかと云うと、下記で論じるが「外御師制度」は、この”「20の郷士衆」”に「差配」を委ねていた事による為で「別枠の論」として敢えてここで論じる。
    「娘嫁先」と「地権」と「郷士頭」と「職能」と「民の集団」と云う「特別の論点」が別にあった事から、外の関係性が強く影響する事から、論が複雑に成る事を避けて、「郷士関係」の処で論じる事としていた。

    (現実には、論じたが、モニターの方から”複雑すぎる”と云うNGが出て失敗した。”複雑”も然ること乍ら”詳細”過ぎる事もあって相当割愛した。ここから次ぎの「18の論」へと分別して随時に論じる事とする。)

    さて、上記Aに付いては前々段で瑠々に論じた「神明社」などを始めとする「四家」が受け持つ”「内御師」”である。
    そこで、問題なのは、このBの「外御師」の「御師制度」は何であったのかは敢えて論じなかった。

    この「外御師制度」とは、実は、この「20の郷士衆」の事である。

    「20の郷士衆」は上記した様に、「郷士頭」を置いて、その「20の郷士衆」の「地権の範囲」で行う仕事に従事する「民の職能集団」を差配していた。
    この職能には、和紙に生産する漉職人、楮を生産する楮職人、紙製品を生産する紙職人、材木を生産する木職人、木製品を作る工職人、農製品を作る農職人等、資料から観ると、凡そ32の職人の集団から構成していた。
    これらを差配するのが、要するに、地権の範囲で担当するのが「20の郷士衆」であったのである。
    つまり、「20郷士衆」=「外御師」であった。
    「地権の範囲」で耕作する農民も商人も含めて「民の職能集団」の「外御師」の中に全て置かれていた。

    それぞれの職能には「外御師」の「御師頭」が置かれていて、その「御師頭」がこの「20郷士衆」が務めていた。
    「御師頭」=「20の各郷士衆」で、この「御師頭」達を「郷士頭」が差配していたのである。

    要するに、この組織は、「各職人のまとめ役」=「御師頭」=「職能集団の組合長」=「各郷士衆」 「各郷士衆の理事長」=「郷士頭」と云う構図に成っていた。

    そして、この「郷士頭」は、「娘嫁先の20の郷士衆」の中で、次ぎの条件で選ばれていた様である。

    最も青木氏との血縁度が高い事
    最近の娘嫁の郷士の家筋である事
    地権範囲と職能種を多く持つ家筋の事

    以上のこの「三つの条件」に適う「郷士の家」から選ばれていた様である。

    「外御師の職能種」が32程度にも及んでいた事から、「20の郷士衆」の範囲では、複数の職能を持つ家筋も起こっていた。
    ここに、上記の「四事業種」の職能が加算されたのである。
    この「四事業」から「職能種」は10程度は増える事に成り、1郷士は平均で2つの職能種を持つ事に成ったと観られる。

    当然に、「外御師制度」を拡充して、この「20の郷士衆」で管理差配して行くことに成る。
    従って、これに見合う「地権」が必要と成り、それを上記した様に、「本領安堵策」を用いて「青木氏の旧領地」が「秀吉」に依って加算加増された所以なのである。


    この様に、伊勢に遺る資料から観ると、この「門徒衆」等が集まる新しい商いの組織の”「自由な商業組合」”の結成に付いては、この「18の郷士衆」と「青木氏」を中心に連携を採っていた事に成る。
    この「門徒衆」などで構成された「自由な商業組合」は、「20の四家」(内御師制度)と「20の郷士衆」(外御師制度)に依って支えられ続けたのである。
    故に、明治期 大正期に成っても遺ったのである。

    「伊勢商人」の中に「新しい商業組合」が構築され、その下にこれらの「青木氏」が始めた”「四事業」”を専門に扱う”「射和商人」”を専門に育てたのである。
    要するに、「計画(四家)から生産(郷士衆)そして販売(門徒衆)までの組織」を一連にして確立したのである。

    「門徒衆」の多い「南紀州」には、「紙文化と云われる室町文化」と相まって、「北紀州地域の紙製品の殖産化」で、「紙文化」が一挙に進んだ事から「和紙の原料」と成る「南紀州での楮の増産」をも大いに進んだ事が記載されていて、我家の口伝にも伝わっている。

    (参考 筆者幼少の頃、父に連れられて、南紀州の「和紙楮殖産」を営む「門徒衆の伊藤分家」に長く滞在宿泊した事があり、その生活雰囲気は今でも脳裏に蘇るし、又、「北紀州の紙製品」の「老舗の岡氏」等を始めとして、「古参門徒衆の家」や「古参郷士衆の家」の様子も、現在は代替わりで親交が途切れている「幼少期の記憶」がある。)

    この為に殆どの「門徒武士」を含む「一般の民」の一揆は早期に収束した。
    つまり、背後に「18の郷士衆」が存在していた事から収まりが着いたのではと考えている。
    だから、盛んに”「郷士頭との手紙のやり取り」”をしていたと考えられる。
    これは、取り分け、農民や民は兎も角も、「武装集団」と絡んでいる「門徒武士の説得」に苦労した事を物語る事に成る。
    これには、日頃から「伊勢紀州武士」として行動する立場と絡から、「郷士衆の説得」がこの問題の解決に絶対的に必要であった事に成る。
    故に、「説得」が、「彼らの矛を収める」だけでは無く、「転身」と云うところにまで突き進んだ事に動いたと云う事であろう。

    「武力集団」側も、流石、この「門徒の家臣」の離反に驚いたは勿論の事、制裁をも加えられなかったのであろう。
    本来なら、命に関わる離反転身である。勿論、説得する郷士側も危ない。
    「門徒衆の家族」や「郷士衆の家族」も護らねばならない。
    何せ相手は「プロの傭兵軍団」「忍者軍団」である。
    相当に用意周到にして、”「手出し」は無いだろう”とする事を承知確認の上で、「説得」に掛かった事が記述されている。

    この「制裁」に出られなかったのは、「戦域」を拡げると背後に「青木氏と18郷士衆」が持つ「伊勢シンジケート」の「同質同格の勢力」が控えていた事にあったからである。
    この時、既に伊賀は滅亡し、浪人と成って各地に離散していた伊賀者は、「20の郷士衆」の手引きで、1年程度で伊賀に戻り、「伊勢シンジケート」の組織の中に加えられて保護されていたのである。
    ところが、歴史では、”「離散した伊賀者」は再び集まって反抗を続けた”と成っているが、個々に集まって来たとしても、「生活の糧の補償」が無ければ、反抗など成し得ない筈である。
    その「補償の裏付け」が、「20の郷士衆」が手引きして、「外御師集団の警護役」として補償としたと記録されているので、間違いは無い。

    筆者は、この資料から、”「20の郷士衆」”の「郷士頭」が中心に成って下記の理由で呼び寄せたと観ている。

    「青木氏の関係族」から見つかった「二つの資料」では、上記の「絡み」から「20の郷士衆」の「御師集団」に夫々組み込まれ、「職人を警護する職能」として働き、いざと云う時には、「伊勢シンジケート」の中でも働いて「糧」を得ると云う形式を採っていた模様である事が判る。
    ”「警護」”と云う「一つの職能集団」を、「青木氏]の中で形成していた様で、「軍」とは別の意味で、あくまでも「外御師組織」の一種の自治的な「警察機構的な組織体」を作っていたと観られる。
    この「伊賀衆」等から成る”「警護職能集団」”が、「門徒衆の家族」や「郷士衆の家族」等を護っていた事が記述されいる。

    「伊賀衆」を助けて保護し、その直ぐ3年後には、今度は「門徒衆救護」に出たのである。
    「青木氏」が出した「郷士頭」の手紙の中には、「門徒衆救護」の為に、早急な手配方を「郷士頭」に依頼している事も書き込まれている。
    如何に緊迫した中で、行われていたかが判る。

    「郷士頭」は、「伊賀衆」と「門徒衆」と立て続けに救護したのであるから、如何に大変な仕事であったかは判る。
    「伊賀衆」は、同じ助けられた者として「門徒衆救護」には大いに力を発揮したと観られる。
    その意味でも、「武力集団側」は当然に知っている事であるので、”「伊賀衆」が背後にある事の「危険性」を大きく感じていた”と考えられる。
    むしろ、”逆にゲリラ戦を仕掛けられる恐怖があった”と観られる。
    その「伊賀者の底力」には、「背後の青木氏」が観えているのである。
    「青木氏の経済力」は前段でも論じた通りで衆知であった。
    「他の勢力族」とは、体質的に異なる当時としては「異質の絶大な勢力」であったからこそ、「武装集団側」には余計に警戒されたと観られる。
    警戒しない方がおかしい事に成る。

    この様に強力に動く「20の郷士衆」が、構成する「外御師」のこの「郷士頭の存在」は、「青木氏」の「外のまとめ役」として無くてはならないものであった事が判る。
    「二足の草鞋策を採る青木氏」は、「外の事」は、この「20の郷士衆」の”「郷士頭」”に「伝言一つ」で済むと云う関係にあった事が判る。
    最早、「20の郷士衆」=「青木氏四家」であった。


    話しを戻して。
    「秀吉」は、この「一連の統治組織」の中での事を観て、この「青木氏に対する信望」を更に高めたと考えられる。

    「室町期の戦乱」の中で、「武力集団」の「大名や豪族」の上に立つ”「三つの発祥源」”であるなら、本来なら「武の威力」を「優先する立場」にあり、それを率先してでも祖の立場を護った筈である。
    然し乍ら、「武」の上位に立ち、「武」を持ちながらも、「武」を使わない稀有な「高い統治組織の青木氏の存在」を改めて知った「秀吉」は、この「秀吉の青木氏発祥」へと突き進む「決定的要因」となったと観られる。

    この事も含めて、後に「秀吉」に依る「旧領地の本領安堵」の決定要因とも成ったと観られる。
    多くの「旧領の本領」を安堵しても、「武」に依らない高い「統治能力」を有する「青木氏」であれば、問題は無く、むしろ、「紀州伊勢域」により「大きな地権」を与えて「地域の繁栄」に貢献させるべきと考えた筈である。
    然し、敢えて「旧領の範囲での本領安堵」だけを受けたのである。
    仮に、「旧領地外に地権」を得たとして、その得た「地権」を前提として「事業」を拡大しても、それに伴う「より良い組織」と「統括統治能力」が育成しなければ、結局はこれを護ろうとして無理に「武」に頼る結果と成り得る。
    これでは「青木氏氏是」に反する繁栄と成り得る。
    「氏是の諭し」に従うは、序に記している「氏是」が求める”「抑止力」にあるとする考え方”にあったからである。

    実際に、資料から観ると、摂津西域、近江一部、名張西域、伊賀北域、南紀西域に、旧領地外の新規領地の安堵の話があった事が読み取れる。
    この「5地域」は、「旧領地のほぼ隣接地域」であるが、然し、現実は受けていない。
    何故なのかは、確定した理由は判らないが、次ぎの事では無かったかと考えられる。

    (イ) 「氏是」を護り「旧領地外の地権」を受ける意志が無かった事。
    (ロ) 「20の郷士衆」の外域と成る事から避けた事。
    (ハ) 「秀吉の思惑」が「旧領地から離れた隣接域(伊勢大和紀州の全域 約1.5倍/旧領地)」にも事業を拡大させて繁栄を図る事にあった事。

    以上にあるとして、内々に断ったとする見方が出来る。

    何れにしても、(ハ)を受けたとしても、(ロ)が届かない事に成ると、「新規の家人」を新たに差し向けねばなら無く成り、「内御師」の中で運営と成る。
    結局、これは「外御師制度」では難しく成り、組織運営に無理と混乱が伴う事が、(イ)の氏是に関わって仕舞う。
    「保守的な思考」が左右したのであろう。
    「商記録の青木氏年譜」に、”1582年末に「伊勢安堵」”。”1584年の「伊勢解決」”。等の記述がある事から観ると、この結論は「青木氏」と「全関係者」で「伊勢の福家」で話し合った結果であろうと思われる。
    その結果を観ると、”更に拡大させる「意志」”と云うよりは、”旧領安堵以上の「欲」”が無かった事に成る。
    「難しい判断」であったと観られる。

    ”何故、「欲」が無かったのか”と云う素朴な疑問が浮かぶ。
    その事で調べたのが、この加増される「地権範囲」が、3倍も4倍も拡大するのには確かに抵抗と成る。当然に「無理と混乱」が伴うし、「旧領地外」の加増される「地権の領民」との間には共有する「歴史と伝統」は無い。
    その地権が「約1.5倍/旧領地 の地権が増える」は、筆者の感覚では、「無理と混乱」の「許容の範囲」であると考えられる。
    その「旧領地外の加増地権」の範囲は、「隣接域」に相当し、「飛び地領]でも無い。
    ”「欲が無い」”は、「青木氏」「家人頭」「内御師衆」のみならず「20の郷士衆」や「外御師衆」や「職人衆」や「シンジケート頭」や「神明社権禰宜頭」にも無かった事に成る。
    この「多くの関係衆」に執って、果たして「地権がより広まる」は、「生活が高まるの条件」なのかにある。
    「衆合しての話し合い」は、結局は、「共通する議題」は、必然的に「地権拡大」=「生活向上」に関わる事に成るだろう。
    と云う事は、取り分けこの談合は「二つの立場」に判れる。
    「青木氏」や「内御師衆」や「20郷士衆」の立場と、「外御師衆」や「職人衆」の「長」の立場に成る。
    この「二つの立場」が集まったのであるから、この「二つの立場の考え方」が、”それ以上の飛躍した生活を望まなかったまでに豊かであった”と云う事にも成る。
    つまり、議論の末は、「地権拡大=生活向上」と云う結論に至らなかった事に成る。

    「旧領地までの拡大」は、”妥当な豊かさである”として否定せずに、必要以上の欲を出さなかった事に成る。
    「旧領地」は、共に1000年以上に生きて来た伝統を遺して来た土地でもあり、当然に否定する者は居ないであろう。
    「旧領地」には、夫々立場で例外の無く「縁者や親籍の一族」が、帰属を希望して200年以上も我慢をして来て、これを否定する者はいない。
    その「旧領地」には、「新たな四事業」が敷かれて、”「近隣の門徒衆」と共に、「旧領地の親族の生活」が潤うのであれば、充分だ”とする考えが支配したのであろう事が判る。
    これは”「欲」が無い”と云うよりは、”「親族の帰属」への満足” 即ち「一族愛」であった。

    その証拠と成ることが一つある。
    それは、「四事業」の一つ未知の「早場米の開発」(早稲光)にある。
    仮に、「旧領地の地権」が回復しても、そこには「青木氏地権全域」に及ぼす「豊かさ」を保つには「主食料の確保」(米の増産)を成し得なければならない必須の条件である。
    それは、新たに必要と成る「門徒衆の食糧分」と、事業拡大に伴う他の地域からの「新たな人員の確保分」も賄ねばならない。
    其の侭では、絶対量は不足する。互いに分けあえば苦しく成るは必定である。然し、「地権範囲」は限定されている。
    と成れば、「二毛作が可能な稲の開発」と云う「未知の難題」に「衆議の議論」は陥ったと観られる。
    そこで、宗家の「青木氏福家の責任」として、「和紙殖産」から未経験のこの開発に取り組んだのである。
    現在の様な「農業試験所」がある訳でも無く、当時としては発想そのものが特異であったし、その様な経験者も無かった。
    「稲の開発」だけでは済まない。「気候や土壌の解明」など全て「未知の世界」である。「青木氏」だけが未知である訳では無い。日本全国未知なのである。
    況して、「戦乱期の中での開発」である。
    「並外れた気力」と「莫大な財力」が無ければ成し得ない。
    「青木氏の衆議」は、この「厳しい未知の選択」を選んだのである。

    「旧領地外の地権拡大」は、「旧領地」と異なり、更にこの問題が伴う事に成り、その意味でも議題は進まなかったのであろう。
    そもそも、「1000年の歴史と伝統」を共にしなかった人を動かす自由度が異なる。
    「成功裏の裏付け」は取れないし、「独立性癖の強い風土癖」も重なって「反発」も覚悟をしなければ成らない。
    「衆議の議論」が紛糾したと観られる。
    「旧領地外の地権拡大」には、この「未知の難題」に議論が傾いたと云う事は、”「欲」が無い”では無く、”「余裕」が無い”と衆議は決まった事に成る。
    それよりは、この”「早場米の開発」”に衆議が決まった事は、”「親族の帰属への満足」「一族愛」を優先するべき”と決まった事にも成る。
    「青木氏福家の責任」を果たす「最大の課題」で「未知の難題」であったことが、「光三郎の家の資料」からも発見されているし、「青木氏の最大の誉れ」としての口伝が伝わっている。


    さて、この様な経緯の中で、多くの「門徒衆」を救ったが、この「青木氏の誘い」に乗らなかった勢力がいた。
    これが、「武装勢力」の「指導者衆」であった。

    然し、唯、雑賀氏と根来氏と畠山氏の「国衆」の「武力集団」だけは完全には解決しなかった。
    この領域の問題は、「青木氏」には無関係であった事から、この「武力集団」だけが浮き上がった形に成った。

    然し、この配下にあった「門徒衆の家臣」等の多くは、「武力集団との争い」から身を引いたのである。
    勇気の要った事であったと観られ、この浪人と成った「門徒衆の家臣集団」を「上記の四事業」へと導いたのである。
    そして、独立させて「専属の商人」(射和商人)として教育して「店」を持たせたのである。

    従って、「秀吉」は、この不満の異なる一揆では無い「武力の反抗集団」に対しては、あくまでも”「戦い」”で臨んだ。
    その事があって「殲滅作戦の方針」で「根絶やし」を図った為に2年程度かかったのである。
    結果は下記の状況で完全解決と成った。

    「青木氏の勧誘」に乗らなかった全ての人々は、家臣を無くし、遂には窮地に陥り、内部で勢力争いが起った。
    最後には「根来寺」に全て逃げ込んだのである。
    そこでも依然と抵抗を緩めなかったのである。
    そこで、「秀吉」は、この「根来寺」に対して民衆を解放する様に再三要求したが抵抗を緩めなかった。
    挙句は、民衆を楯に立て籠ったのである。
    結局、秀吉に依る「根来攻め」が起こり、歴史に遺る「殲滅作戦」が展開され、「反抗勢力」は紀州から完全に霧消した。

    結局は、この「殲滅作戦」を観て恐れを成した高野山の「真言宗騒動」だけは、一時「浮き彫り」には成ったが、これを期に矛を収めた。


    「豊臣政権樹立後」に「伊勢青木氏」に対して、「旧来の伊勢の土地」に加え追加の本領安堵された。
    この地域の全て、奈良期に朝廷の命で半国割譲した土地柄である。日本書紀にも記述がある地域である。


    「伊賀一部」
    「南紀州の遠祖地」 
    「北紀州一部」
    「名張域一部」
    「摂津堺地区一部」
    「伊勢北部地域一部」

    以上等が旧領地の本領安堵された地域で上記の「四事業地域」に匹敵する。

    恐らくは、これは、「秀吉」が、上記の解決の発端は「青木氏」にあるとして、「二つの青木氏」に対して「特段の恩義」を感じて、「南紀州域」は、勿論の事として、「伊勢域」を始めとして「北紀州全域」の「門徒衆の不満」を更に解消する為に、「伊勢青木氏」を政治的に保護した。
    「伊勢青木氏」に依って民衆に「職」を与えさせて、その「経済的安定」を図らせる為の素地を確定させる為にも、「秀吉からの旧来地の本領安堵策」であった事が書かれている。

    「会合衆」から更に発展した日本で最初の「伊勢の自由な商業組合」は、上記したこの「四事業の経緯」からより、”自由さを持つ商業組合”と成って、この「自由商業組合」が発展したのである。
    これが、象徴する”「射和商人」”と呼ばれるものである。

    この為に、「秀吉」は、”「民の門徒騒ぎ」は「一切不問」”として、この「事業の推進」を政治的に図った事が「青木氏の資料」に書かれている。
    前段でも論じたが、「徳川氏」もこの「本領安堵策」を踏襲した為に「伊勢商人」と「射和商人」は江戸末期まで遺ったのである。
    (「徳川氏との談合」は、「500社に及ぶ神明社」と「その領地の返却」で決着した。)


    「備中廻船」では、その結果、「高松攻め」では、「資材調達」を一手に引き受けた事が判る。
    「二つの顔」を持つ「青木氏」は、「秀吉」に執っては、戦略上、極めて都合が良かったと観られる。
    「紀州討伐」では、その[反乱の根本」に成っていた「門徒衆の説得」で事態が大きく進展した事で、個人的にも相当に意気投合していたと観られる。
    「人たらしの秀吉」ならではの事である。
    ”「出自誇張」の腹積もり”は、これをきっかけに「秀吉本気モード」に成ったのはこの時期(「紀州討伐」「備中廻船」「信長面談」)からであろう。
    「第二次長嶋の戦い」後には、未だ無かったが、この直後あたりから意識し出した感じがする。

    そもそも、この為に瀬戸内海と中国道での「毛利氏による補給路断絶作戦」の動きが在った。
    「商記録」(1581年に「摂津会合」。松阪記)によると、「神明社の御師組織」から「摂津の店」が、「毛利氏の動き」としてこの「重要情報(商情報)」を既に把握していた模様である。
    この「事前情報」は「摂津水軍」と「伊勢水軍」にも伝えられていた様で、この為に、「補給の商い」を受けた時に、「摂津の店」で関係者が集まって「事前協議」していた事に成る。
    「秀吉軍の補給」も然ること乍ら、瀬戸内が混乱する中で「商の運搬」も含めて「二つの水軍」が「海路の確保」の為に「抑え込み」に入っていたと観られる。
    名目は「青木氏の商船保護」の「誇示行動」であったらしい。
    この商記録の”「廻船」”の「言葉の意味合い」は、意味が深くこの事から来ていると観られる。
    (「商記録」の「細かい取引内容」を更に詳細に分析すれば、よりはっきりとした「行動の答え」が出て来ると観られる。)

    「秀吉」に執っては歴史上、「毛利進出」は「最大の命題」で「信長の督促」があった状況下で焦っていた。
    然し、「高松攻め」に付いて「秀吉」に執っては、最大の課題は「軍事力」では無かった。
    その危険で弱点であったのは、「中国域の毛利勢」に依る「補給路の断絶作戦」であった。
    この「命題の補給」を「請け負える豪商」はそうは無い。

    その為には、「秀吉」のみならず補給の「豪商」自らも「毛利に対抗できる抑止力」を持ち得ていなければならない。
    又、敵対する「毛利氏」も”「伊勢青木氏と紙屋長兵衛」”を知り得ていなければ「抑止力の効果」は低い。
    と成れば、「摂津や堺にも大店」と「海のシンジケート」と「陸のシンジケート」を持ち、「瀬戸内の讃岐青木氏」との関係を持ち得ていなければならない。
    そうすると、「秀吉の弱点の補給路の弱み」を狙っている周囲勢力を押えられるのは「伊勢青木氏」しかない。
    「毛利氏」が「紙屋長兵衛の実態」を知る得るには、取り分け「讃岐青木氏の存在」が大きく影響した。

    何故ならば、「毛利氏」は強力な「瀬戸内水軍(「平家水軍」からの「陶水軍」を元にした「毛利水軍」、後の「村上水軍」)を保有している。
    この事から、「毛利氏」は「讃岐水軍」(讃岐)も「伊勢水軍」(伊勢 摂津水軍)も古い歴史を持つ水軍である事から、「存在]は勿論の事、その「勢力や位置関係」は充分に承知していた。
    この事からも、「伊勢青木氏、紙屋長兵衛、伊勢シンジケートの存在と実力」も充分に承知していたと考えられる。
    この「二つの青木氏の水軍」がタッグを組まれる事は毛利水軍には辛い事に成る。
    何故ならば、過去に一度戦っている様に、下記の「義経の敗戦の経験」を持っているからだ。

    この「毛利勢を抑え込む目的」で、「戦略上の安全」から”摂津港から海送した”と記されている。
    上記した様に、「瀬戸内の示威行動に依る事前準備」が働いたと考えられる。
    この事は、「伊勢」からでは無く、瀬戸内海の「摂津」から出る事で、「毛利側」に敢えて「補給船団」の「出船」を知らしめる事で牽制する目的があった事に成る。
    そして、「補給」が順調に出来ている事を認識させて、”「毛利の戦意」を低下させる狙い”があったと考えられる。

    仮に、この「補給」を止めようすると、「讃岐青木氏」と「伊勢青木氏」を敵に廻す事に成り、結果として全国にその子孫を拡げ展開している「藤原秀郷軍団」を呼び込んで仕舞う事に成る。
    これは、結果としては戦域が広まる事から「高松攻め」は成功させる事に成る。
    従って、「毛利側」には「戦域拡大」は絶対に得策では無かった。

    従って、この事を意味する事として、「毛利氏側」は「和解条件」として、安国恵瓊が「五国割譲案」を提示した位である。
    「戦域拡大」は戦域拡大は絶対不利と考えていての和解条件であり、出来なかった。

    その為には、「伊勢水軍の護衛船団」(摂津水軍は同族で弱小の商船団)は誇張する意味でも絶対に必要であった。
    これは「水軍力」のみならず「水軍の背景」を誇示しているのである。

    何故ならば、そもそも、「水軍」とは、元来、「横の組織」で出来ているのだ。
    つまり、「伊勢水軍」は、「駿河水軍、熊野水軍、紀伊水軍、摂津水軍」の「横の組織」で構成されている。
    血縁関係も「縦横」に結んでいて、海の上での互いに護り合う「連合軍団」をも構成しているのである。

    (注釈 毛利水軍の前身の平家水軍と戦った義経は、この「五水軍の軍団」を使っての「独自の水軍編成」で戦った事で勝利した。
    この時、義経に反抗的に出ていた「北条氏の相模水軍」を当てにしなかった。)


    (注釈 中でも「紀伊水軍」は、全国の水軍仲間からも恐れられていて、その「尖鋭さ」は有名であって、通常の水軍戦闘方式を取らない事が恐れられ、「ゲリラ戦法」であった。
    この「紀伊水軍」を引き出すと他の水軍は戦力を無くすとまで恐れられていた。)

    ”「伊勢水軍」”を見せる事で、「背後の連合軍団」を想起させる目的があり、更には、「讃岐青木氏」が率いる海部氏等から成る「瀬戸内の讃岐水軍」をも想起しなくてはならない事に成る。
    「伊勢水軍」は、当然に「伊勢青木氏」を想起しているから、先ず「毛利側の補給路攻撃」は控えて来る。

    そして、この「備中の戦い」の時、「伊勢水軍のシンジケート」が「船団の護衛団」として動いた事が書かれている。
    当然に「讃岐青木氏との談合」も読み取れる。
    恐らくは、これでは「毛利軍の得意とする瀬戸内水軍」の「海からの戦略」は容易に手が出せなかったと観られる。

    話題性があって「高松城水攻め」に現在は焦点が当たっているが、現実の作戦上の問題は「秀吉の背後」は弱かったのである。
    「裏切り」が起これば、「秀吉軍]は陸に於いても「内部崩壊」を起こす。
    それは、取り分け、「秀吉軍2万の軍勢」に物資補給するには、「陸路」は「背後の政情不安と勢力」から危険であった。
    一応は敵か味方か判らない「宇喜多氏」は「戦況形成上」では抑えた形で「1万の軍勢」を動かす事に成ってはいたが、何時裏切りが起こるかは判らなかった状況にあった。
    「陸路補給」を採っていたとしたら「秀吉軍弱点」を見せた事に成って、「秀吉軍弱点」を突けば勝てるとして「裏切り」は起こったと考えられる。


    そこで、「独自の水軍」を持たない「秀吉軍」(織田軍)は、「毛利軍」が抑える瀬戸内での「水路による補給路確保」が「最大の弱点」であった。
    この「弱点」を悟られると、各地で「裏切り」が起こり、「東の背後補給路」を断たれて、それこそ「水攻め」どころか、逆に「枯渇攻め」(兵糧攻め)で滅亡する。

    現に、この「高松攻め」の前には、秀吉は「枯渇攻めの鳥取城」「日干し攻めで三木城」で勝利して西に進軍したのである。
    そこで、戦略上、この”「補給路の弱点」が無い”と云うところを敢えて絶対的に誇示する必要があった。
    それは「水路の安全確保」であった。
    ところが、逆に「毛利氏」は「瀬戸内水路の西半分」を押えて得意とする戦法でもあった。
    そこで。本来なら、水軍を味方に付けて、軍略上のバランスを採って、誇示する必要に迫られていた。
    然し、「毛利水軍」に対抗できる味方に出来る水軍は「秀吉」には無かった。
    従って、最低限でもこの”「水路の補給路」”だけでも「毛利水軍に対抗できる勢力」を味方に付けて「物資輸送路の確保」をする絶対的な必要に迫られていた。
    「秀吉」に執っては、軍略以上に余計に誇示する必要に迫られていたのである。
    そんな「商人」がどこに居るのかである。
    ”そんな「商人」”が居たのである。「秀吉」の「紀州討伐の経験の記憶」の中にいたのである。
    それが、「伊勢の青木氏」であった。
    絶対的に上記の「紙屋長兵衛と讃岐青木氏」の「速やかな協力」を得る事に在ったのである。

    筆者は、「信長面談」には、この「問題の解決」には「秀吉」に執っては「信長の前での談合」もあったと考えている。
    その為に、事前に「紙屋長兵衛 伊勢青木氏」の協力を得る必要があるが、「伊勢の問題」を早期に解決しなくては到底に協力は得られない。
    つまり、督促されている「高松攻め」は無し得ないというジレンマに陥ち至ってい事に成る。

    それは、少なくとも、「紙屋長兵衛」と「信定と忠元の伊勢青木氏」とその「配下の郷士衆」に”不必要な危害”を加えない様に進言しなくてはならない状況に陥ち至っていたのである。
    (「水路の補給路確保」のみならず、上記した様に「戦略上の水軍」の「示威行動」にも成り得る特典があった。)
    1581年の「紀州征伐の恩義」や、この「補給路の事」にも成功して、恩に感じた「秀吉」は、自ら進んで”知古に成った”のではないかと考えられる。
    これが、最終的には「信長面談」に繋がって行ったと観ている。

    「青木氏」が求める「悠久の時代」に戻す”「伊勢平穏」”を助け、「秀吉を助ける事」は、「信長」には絶対に不足は無かった筈である。

    然し、独自行動を採る「伊勢衆」(伊賀氏、伊藤氏、長嶋氏、畠山氏等)までの話は出来なかった筈である。

    この「信長面談」が「1581年の高松攻め」の直前である。
    この準備も兼ねて、先ず「長兵衛と談合」し、「氏郷と談合」をし、その結果から、「信長面談の運び」と成ったと観ている。
    「話された議題」は上記の通りである筈である。

    そもそも、「秀吉の青木氏」に付いては、正式には「本能寺の変」後の「伊勢国と紀伊の国の始末後」から正式に出て来た問題であった。
    「1581年の佳境である時期」に「武田氏を滅ぼした後の信長」に会わせるのであるとすると、次ぎの様に成るだろう。

    「秀吉の遠縁仕立て」の「人物(1)」では、「人物(2)」の「信定」ではあるが、其れと判る様に敢えて伏せて、「佳境の意味合い」を悟らせる様に工作した。
    そして、「秀吉配慮」の「ゲリラ戦の長期化の伊勢」の「事態収拾」を信長に間接的に促した。


    第2説の直接に「伊勢の青木氏」として「人物(2)」で会した。
    とすると、何かの面会の理由が必要である。
    それも、”穏便に”である。

    (上記に論じた事を複写)
    ”1581年の末当初に「秀吉の紹介」で、「一名の青木氏」なる者が、「信長」に面会している。”

    この場合は、直接面会の議題の「ゲリラ戦の長期化の伊勢」の「事態収拾」に行き成り入る事に成る。
    この場合、「秀吉の行為」は「信長」に対して”烏滸がましい事”に成る。
    この時期、通説でも判る様に「信長の精神」は過敏に成っていた。
    これを和らげる何かの”「表向きの議題」”が秀吉には必要であった。
    況して、「高松攻めの遅れ」もあった。
    簡単には行かない。それでも面会は断行されたのである。

    上記の様に、裏には思っていても、決して表には出せない「高松攻め問題」もあり、「伊勢の問題の絡み」だけでは無く、”それなりの絶対的な理由”が必要であった筈である。
    そこで、「信長」が1568年に美濃や近江に「楽市楽座の令」を発している事に「秀吉」は着目していた。
    「信長」は、「形や慣習」に捉われずに「新しい形の経済改革」等に積極的考え方を持っていた事を考え合わせた。
    従って、「伊勢」にも「伊勢平定後」には、「楽市楽座の令」を発する為にも、”「ゲリラ戦の長期化の伊勢」に付いて、早期に「事態収拾」を成さしめ、「混乱の後」を豪商「伊勢青木氏」を以って遣らしめる事”を提案したのではないかと考えられる。
    この事で、「伊勢青木氏」を混乱から解放させて、「高松攻めの戦略」に巻き込む事が出来ると考え、その事を「敏い信長」に「悟らせる戦法」を採ったのである。

    「青木氏の資料」と「公的に成っている記録」から総合的に「状況判断」すると、”青木氏に委ねた”と考えられる。
    当然に、悠久の「歴史を持つ伊勢での立場」や旧来からの「郷士」や「伊勢衆」を束ねている事や、「二足の草鞋策」から生まれるその「巨万の富の経済力」を基にして、納めさせれば「不入不倫」で保護されていた「旧来の環境」に戻す事が出来ると見込んでの談合である。

    これは「信長」に執っても「反意のない話」であるし、充分に説得できる「表向きの議題」が出来るし、「関連付けられる議題」でもあった。
    平定後に「徹底した殲滅作戦」を行った「北畠」「伊賀」「長嶋」「伊勢」「紀州」「雑賀」「畠山」「根来」である。
    何れが正しいか悪いかは別として、「皆殺しの殲滅作戦」には、伊勢と紀州には「敵意」を抱いていた事は間違いは無い。
    抱くなと云う方が無理であろう。
    従って、”武力では無い誰か”を以って安定させて居なければ、又、「一揆や反乱」でも起こる事は避けられない。
    これは、後の統一戦略の「九州討伐」を控えて背後が好ましくない。

    「青木氏」と共に「20の郷士衆」を中心に、救出した「門徒衆」「伊賀衆」と共に、「武力集団であった末裔」を「和」を以って接し、「生活の糧」を補償させる事で、「乱世での空しい敵意」は次第に霧消に向かうであろう。
    「一族の氏郷」と「秀吉と信長」は考えたのである。
    この為に、「秀吉」のみならず「本領安堵」は、推測の域を超えないが、「信長」も”「伊勢収拾」後には”と考えていたのではないかと観られる。

    「信長」は「秀吉の案」に全く反意無く完全に同意したと観られる。
    その証拠に、現実に、「伊勢平定」の直後に「秀吉と氏郷」は、松阪に「城郭」を創り、「ヨーロッパ式の商業都市」を構築した。

    (皇祖神の神聖な地を護る為に「城郭」等は禁令で有ったが、敢えて「西洋式の城郭」を創建した。)

    これは、その時の結果を如実に反映させた事に外ならない。

    前段で論じた様に、「青木氏」は「約束通り」に新しく出来た「侍屋敷町(殿町)」の三区画を特別に譲り受けた。
    そして、ここにそれまでの「座」では無く、日本で初めて「解放された自由な商業組合」を構築したのである。
    (現在でもその組合であった「四日市商人」や「射和商人」として遺っている。)

    この「伊勢の後の始末」から鑑みても、明らかに「楽市楽座の令」を議題に、”「ゲリラ戦の長期化の伊勢」の「事態収拾」”を信長に暗示させたと考えられる。

    そこで、「経緯の網羅」は出来たが、次ぎは「青木氏」に執っては、後勘から、この時の「面談に応じた人物」を確定しておかねばならない。

    第1説も「信定」であり、第2説も「信定」ではあるが、間接的か直接的かの何れかである。
    確定は出来ないが、「平定後の伊勢の状況」から鑑みると、筆者は第2説の「人物(2)」の「信定」と談合したと考えている。
    然し、下記の点から第1説の間接的に”「人物(1)」の信定”で面談した可能性が高い。

    そこで、この談合が成立すれば、当然に、この第1説も第2説も「人物(3)」の「忠元」に繋げねば何もならない事には成る。
    然し、この時は、「秀吉」は、「信定」だけを呼んだのであった。

    そもそも、一挙に解決させたいのであれば、両方で会せるのが先ずは”「常道の戦略」”と云うものでは無いか。
    況して、「北畠氏の後始末」より当面は「伊賀の始末問題」と「長嶋の当面問題」に移っている。
    1581年末と成れば、「伊賀の始末問題」と「長嶋の当面問題」の二つを解決させるには、どちらかと云うと、「人物(3)」の「忠元」である筈であった。
    然し、「秀吉の判断」は全く違った。”「信定」”を面談の相手として指定した。
    恐らくは、これは「伊勢の乱の責任者」の「氏郷との談合」の末である事は間違いは無い。
    とすると、「氏郷」も「秀吉」と同じ判断をしていた事を物語る事に成る。
    「常套手段」では無くて、”「何か」”があってこの判断に落ち着いたと云う事である。

    では、その”「何か」”とは、この「何か」を解く必要がある。
    その「解明の糸口」は「人物(1)」の「信定」であれば解ける。
    それは、”「伊賀と長嶋を解決する」”と云う事だけでは無く、”「伊勢全体を解決する」”と云う事に焦点が最早移っていたのであろう。
    ”「伊賀と長嶋を解決する」”と云う事に成れば、その「伊賀長嶋の解決」の「責任者」は「氏郷」である。
    とすると、「秀吉」では無く、「氏郷」がお膳立てしなくてはならない問題で在る。
    「秀吉]が出て来る問題では決して無い。

    況して、”「伊賀長嶋の解決の問題」”を「信長」に直接に「氏郷」が訴える事は、「責任逃避」と成って「信長の叱責」を受ける事にも成りかねない事は明らかである。
    最早、既に、「伊賀散発の騒動」は解決に至るは必定で、「長嶋問題」も第三次で解決する方向に戦略は出来ている。
    敢えて、騒ぎ立てる事は好ましくない。まして、「秀吉」がである。
    その上で、「伊勢をどの様にするかの議題」として面談する事に成ったと考えられる。
    それ以外には唯一つを除いて無い。その唯一つは何かである。

    唯、この為には、「伊賀散発の抵抗」と「長嶋の後始末」は、何れも一族の長の「忠元に責任」がある。
    その為には、「信定」で先ず「伊勢全体の有り様」を討議した上で、この時に、細部に「伊賀と長嶋の最終始末問題」には、「忠元」との面談も必要であった事から後日に必ずセットする面談と成り得る。
    そうで無ければ、この「面談の目的」は達成され得ない。
    その証拠に、「細部の始末問題」として”「紀州討伐」”をも計画されていたのである。

    故に、1581年末の面談は「信定」で「人物(1)」としてお膳立てされたのである。
    つまりは、「唯一の何か」は、「人物(1)」は、”「伊勢紙屋長兵衛」と「青木信定」”であった事に成る。
    故に、「人物(2)」の「青木信定」では無かった。
    それでなくてはこの面談は成立しないし、「信長」から”要領が得ない”として大叱責を受ける事に成るだろう。

    「青木氏の年譜」にも、「信長との面談前後」に「伊勢衆」が集まって数度に談合している事からも判る。
    「事前打ち合わせ」と「事後の報告」であった事に成る。


    その要領の一つとして、「秀吉」がお膳立て手配した「信長との談合」の中では、「忠元との談合」は必ずセットされる要領事には成るだろう。
    「秀吉の高松攻め」の「裏の目的」からすると、「忠元」は秀吉には関係が薄い事に成る。
    然し、「信定」を「高松攻め」に引き出すには、「伊勢安定」が必要と成れば、必須条件で、当事者の「忠元」とも合わせて「伊勢収拾」に向けての談合を「信長」ともセットして置く必要がある。
    ”付帯する必須の条件”としてあった。
    これを”誰がお膳立てしたか”の調査では確定する資料が出ないが、「青木氏の商記録による年譜」からは、「秀吉」がお膳立て手配した「信長との談合」の時に、「伊勢収拾策」の「必須条件」として決まった事と観られる。
    「秀吉」や「信定」や「氏郷」等が、この話が上手く行けばと、”「事前腹積もり」”はしていた事と考えられる。
    と云う事は、この「忠元との面談」の「話を出せる環境」とは、”「聡明な信長」が「秀吉提案の伊勢収拾策」を暗に納得して居た環境”であった事を示す事と成る。

    その証拠は次ぎの事であきらかである。
    「人物(3)」の「忠元との面談」は、間違いなく下記の通りに実行されている。

    それも”4度”もである。
    この”4度と云う回数”に重要な事態を物語る意味を持っている。
    「聡明な信長」は、「秀吉お膳立て手配の談合」の「裏の暗示の意味」を完璧に理解して居た事を意味する。
    前段でも論じたが、後勘から観れば、その「面談のタイミング」が戦略上、適示適切で申し分ない。
    更に云えば、「面談場所」も戦況から観ても実に効果的であり申し分ない。
    「信長」は、「秀吉の暗示」で動いた事は動いたが、明らかに本気である。
    その「信長本気」が、「高松攻め」でなのか「伊勢収拾策」でなのかは、「高松攻め」の前に「光秀謀反」で判ら無く成っているが、「信長」が「青木氏等に採った平穏な伊勢状況」から観て、「伊勢収拾に主眼」にあったと考えられる。
    ”「伊勢収拾策」”を確定して押える事で、”「高松攻め」”は「青木氏」に依って「水路補給」が可能に成れば勝負は決まったものであり、「流れ」の中で解決する。
    つまり、「九州討伐」に向けて”背後を安定させる事”に「主戦略」があったと観られる。
    「高松攻め」は、その「経過の戦い」であって、「主戦」では無い。
    この「高松攻め」を取りあえず収めて置けば、「毛利勢」と「日和見勢」は時間の問題で収まりが着く。

    「讃岐青木氏」と「伊勢青木氏」で「瀬戸内の制海権」を、「織田軍」が「中国地方の2/3の覇権」を押えた事に成り、「九州討伐への道筋」は着く。
    「讃岐青木氏」の「水陸の勢力」とその「商いの経済力」と、「伊勢青木氏」の「水軍力とシンジケート抑止力」と「商いの経済力」とは、「秀吉」のみならず「信長」には「魅力」であった筈である。
    「味方」でも無いし、「合力」でも無い勢力の存在が、”勢力範疇”にある事に、「信長の考え方」と合致したと観られる。
    それは、「信長の楽市楽座の令」の「考え方」が「伊勢収拾策」の全てを証明する。
    この”「面談 4度」”は全てを物語っているのである。

    「人物(3)」の「忠元」は、前段でも論じた様に、「信長との面談」は次ぎの通りであった。
    「伊賀の乱」の第一次と第二次の途中の2期  (第一次は氏郷か、第二次は秀吉か 「忠元の信長面談 1」 )
    「敗残兵の散発乱」の末期             (第三次は、「忠元の信長面談 2」 1581年)
    以上の2度が先ずセットされた。

    「伊勢長嶋収束直前」の時の2度         (「忠元の氏郷面談 3」 1581年−「忠元の信長面談 4」 1582年) 

    下記に記載しているが、この期間の商記録の「青木氏年譜」から観ると、この時の状況が次ぎの様に読み取れる。

    1581年に「摂津会合」。 「瀬戸内海路確保」などの件で関係者を集めて情報交換と今後の打ち合わせをしている。
    1581年に「伊勢衆合」。 「信定の信長面談」を控えて郷士衆等の関係者を集めて打ち合わをせしている。
    1581年に「伊賀騒乱(ホ)」。 この時前後に「氏郷立合い」で「忠元の信長面談 3」をしている。
    1581年に「員弁桑名騒動」。 岐阜に近い伊勢北域で騒ぎが、「忠元本家」の中で意見の違いか。
    1581年に「紀州避難」。  「福家の信定」が一時新宮に引いている。意見集約を図る為か。
    1581年に「本寺修復」。  「面談場所」の為に修復か 「菩提寺」が門徒衆等の逃げ込みで一部災禍あり。
    1582年に「伊賀収束」。  この時前後に「氏郷立合い」で「忠元の信長面談 4」をしている。
    1582年初に「長嶋衆合」。 この時前後に「忠元の信長面談(代理人か) 5」をしている。

    (注釈 「忠元の面談」には、「公的に成っている記録」は兎も角も、「青木氏の資料」のみならず、「佐々木氏の青木氏関連資料」にも、「時期ズレ」「場所ズレ」「内容ズレ」はあるにしても詳細な記載がある。)

    以上の確実には計4度に、確定できない「小面談」もあるが、兎も角は「面談の大小」は別として、公的な資料とが合致する明確なものとしては、「信長」と「岐阜の館」と「伊勢の寺」で談合している事は判っている。

    「伊勢収拾の方向」に向けて進んではいるが、「面談の前後」に「信定の福家」と「忠元の本所」で、”何か騒ぎの様な事”が起こっている事が判る。
    面談には「直接の信長面談」と、「信長の意を伝える氏郷との面談」と、「信長の意を代理人との面談」と、「織田事務方との面談」があった事が判る。

    (注釈 前段でも論じた。「小面談」とは、”この資料は正式にではないが会っているな”と判別出来るもの。
    この「小面談」には、全て「氏郷との面談」が絡んでいて、”「信長」もこの場に居たな”と想起させられるものが多い。
    同じ事が、「信定の場合」もあって、美濃に近い「青木氏の伊勢北域の分寺」と、「伊勢北域の神明社」での面談があったのではと観られるものがある。
    恐らくは、「氏郷」と同席して、岐阜から出かけて来た「代理の者」ではないかと観られるものを含めると、「青木氏や佐々木氏の資料」と合わせると8度に成る。
    これらから観ると、「事務方」と裏で盛んに「伊勢収拾策」に向けて談合している事に成る。)

    この記録は、「忠元の家の実記録資料」は見つからないので含まず、「信定が獲得した情報収集」である。
    「佐々木氏の忠元の記録」は、「近江の佐々木氏系青木氏の家」から見つかった資料と観られる。
    この事は、「青木氏の資料」でも「上記の面談要領説」を証明している事に成る。

    これらは「信長」が「伊勢収拾策」に、”どれだけ本腰を入れていたか”が証明できるものである。

    「ゲリラ戦の長期化の伊勢」の「事態収拾」を成さしめ、且つ、「混乱の後」を「豪商伊勢青木氏」を以って「伊勢平癒策」を遣らしめる事を提案したのである。
    兎に角、先ずは、「楽市楽座の令」”を議題に、”「ゲリラ戦の長期化の伊勢」の「事態収拾」”を信長に暗示させたと考えられる。
    その結果として、「事前打ち合わせ」の「高松攻め」の「備中廻船」が成し得ると考えて面談を実行したのである。
    結果から観て、「聡い信長」であれば、「暗示の委細」を充分に承知していた事に成る。

    (この後に「本能寺の変」が起こるのだが、「青木氏の後勘」から観て、「光秀の愚劣さ」を痛感する。)


    「人物(1)」の「信定と長兵衛」と、「人物(3)」の「忠元」が、「信長」に会い、「今後の伊勢の事」に合意したとすれば、この「談合」は一挙に成立する事と成る。
    実際、その様に成った。


    この様に、「青木氏側」から観れば、「信長の評価」は、「秀吉家康と性格の違う者」との比較から「荒くれ指導者」と考えられる傾向があるが、決してそうでは無いと観られる。
    「青木氏の本音部分を教える密教浄土宗」で云う”「人を観て法を説け」”で行けば、この「信長」も「普通の人」である。
    「秀吉家康の時代」も同じ事で、「人を観て法を説け」の「本音の生き方」をする事で生き残れた。

    一見して、「人を観て法を説く」は、差別意識があって卑怯とも思えるかも知れないが、果たしてこの「差別意識」が生きる事の真理であろうか。
    青木氏は上記した様に、この「人を観て法を説く」での「本音の生き方」をしたが、むしろ、民を救い共に生きたではないか。
    悠久の中で、民と共に生きなかった事は無かった。
    「氏是」を護り、「家訓」を護り、「人を観て法」を説き、「民の側」に立ち助け、「本音の生き方」をしたからである。

    結果として、後勘から観れば、「紆余曲折」はあったにせよ、「二つの青木氏」に執っては、全てその様な「本音の思惑」に沿って運んだ。
    「室町期の混乱期」から、「秀吉−氏郷」の「安定期」を経て、「家康−頼宣−吉宗」と引き継がれて成長期に移り、「伊勢」は「元の平穏」を取り戻した。
    そして、江戸中期以降はより「悠久の歴史]の中で最も発展と繁栄を更に遂げる事と成ったのである。
    これは、「本音の生き方」に所以していた事に成る。
    当に、「和紙と楮の殖産」は勿論の事、上記の「四事業」の事などは、この「本音の生き様」を如実に物語るものである。



    この「経緯の解明」には、主に「商記録」による「青木氏年譜」の分析と関係資料の調査が、高い成果を上げた。
    [前段」と合わせて、「二つの青木氏」の「本音の部分」の「室町期末期の生き様」を解明出来た。


    実は、筆者は裏資料として、「商い記録」をベースとし、他の遺資料と組み合わせて、約100年間のこの伊勢に関わる関係の事柄を抜粋してまとめあげたものを「青木氏年譜」として作り上げてその年譜に込められいる「意味合い」を読み取り、それを検証して常に論文にしている。
    「商い記録」をベースにしての事だけに余計な事が記載されていて、取捨選択してまとめる作業をして作ったものである。
    必ず毎回100年程度に区切って偏纂しているものである。

    この遺資料は「青木氏」に関係する「広域の地域」からの情報を書き印したものである。
    恐らくは、「500社の神明社」や「支店」や「伊勢シンジケート」からの「情報源」で、その目的は“商いに資する事“が目的とされていて、その表現が簡略化して多少暗号化した様な書き方に成っている。
    恐らくは、”観る者が観れば判る範囲の事“として、恣意的に作成し続けられて来たものであろう。
    それを何とか投稿する以上は判り易くするために租借した「裏資料」である。

    実は、「伊勢青木氏」には、この「商い記録」では無い「青木氏」としての”「四家の事」”を詳細に書き遺した本来の「青木氏年譜」が在った。
    「青木氏由来書」と呼ばれていたが、祖父の代の明治35年の「松阪の大火」で消失した。
    「松阪の青木氏菩提寺」(主寺)も消失したが、菩提寺(分寺)は玉城域と津域の二地域にあった為にある程度の資料は遺されている。
    「商記録」は、店が別の地域にあった事から遺ったものである。

    これ以外に、現在も残っている「伊勢衆の末裔」(20家程度)の家からも関係する手紙などの興味深い資料が時々出て来る。
    残念ながら、相当に「消失の憂き目」を受けている。
    筆者も、研究で関係する資料の有無が無いかを問い合わせたりしている。
    本論も数度お願いをして効果を上げた。
    唯、「個人情報」である事から迷惑が掛かる事と成り、理解と賛同を得て「青木氏の範囲」に留める事を約束して公表は避けている。

    これらの資料等からも「青木氏年譜」を作り上げている。
    下記の「青木氏年譜」には、約束を順守する事から全てが書き込まれてはいない。

    「青木氏年譜」(1520年−1625年)

    (注釈 「青木氏の資料」)
    1525年に「丹波会向」。1532年に「摂津会合」。1536年に「南伊勢地」。1538年に「伊勢港」。
    1541年に「摂津廻船」。1549年に「伊勢衆談」。1553年に「南紀衆騒」。1559年に「伊勢衆議」。
    1560年に「堺廻船」。1562年に「伊勢不穏」。1563年から「南伊紀不穏」。1564年に「伊賀騒乱(イ)」。
    1565年に「北畠不穏」。1569年に「北畠騒動」。1573年に「堺不穏」。1573年に「長嶋騒乱」。
    1575年に「伊賀騒乱(ロ)」。1576年に「北畠混乱」。1578年に「丸山騒動」。1578年に「伊賀騒乱(ハ)」。
    1578年に「紀州騒動」。1579年中頃に「堺平穏」。1579年に「伊賀騒乱(ニ)」。1579年に「名張騒動」。
    1579年に「脇坂騒動」。1580年に「清蓮寺騒動」。1580年中に「伊勢紀州一揆」。1580年に「備中廻船」。
    1581年に「摂津会合」。1581年に「伊勢衆合」。1581年に「伊賀騒乱(ホ)」。1581年に「員弁桑名騒動」。
    1581年に「紀州避難」。1581年に「本寺修復」。1582年に「伊賀収束」。1582年初に「長嶋衆合」。
    1582年に「伊勢和合」。1582年中に「松阪修復」。1582年に・「美濃騒動」。1582年末に「伊勢安堵」。
    1583年に「北部談異変」。1583年に「四日市談」。1584年に「伊勢解決」。1588年に「青木混乱」。
    1590年に[青木不定]。1592年に「青木騒動」。1598年に「伊勢騒乱」。1600年に「家内騒動」。
    1600年に「近江騒動」。1601年に「青木安定」。 1602年に「商い盛況」。1603年に「伊勢談合」。
    1605年に「松阪面談」。1606年に「伊勢談合」 1607年に「四家安定」。1612年に「合力談合」。
    1614年に「伊勢衆談合」。1615年に「伊勢衆動員」。1615年に「堺摂津盛況」。1619年に「松阪会談」。
    1620年に「伊勢藤氏談合」。1620年に「旧領安堵合議」。 1621年に「紀州藩方」。
    1622年に「紀州藩縁籍」。・・・・・

    (参考 以上の「青木氏年譜」は「研究室の論文」などを書く時に、その「内容の必要性」に応じて、「青木氏」に遺された「商資料」や」遺産諸書」から編集して使うものであり、本来は記述しない「裏資料」である。
    又、「青木氏の氏是」もあり、投稿するに抵抗があるが、要約しての内容であれば容認できるのではと考えて投稿した。
    「青木氏の中の事」(商いの事も含めて)として、江戸初期までの“「伝統」“としての資料を取りまとめると、この事から「外部史実」と照らし合わせれば、未だ「青木氏の多くの生き様」が蘇るが、先ずは、以上の事と次ぎの事が読み取れる。
    この他にも、この「青木氏年譜」には、“他にも商業の事”が多くの事が書かれていて、本論にまとめて抜粋したが、更に、詳しく内容毎に整理してまとめると、更に「細かい生き様」が読み取れる筈である。)

    (参考 今回の様に、その都度の「必要な年譜」を「・・年譜」として編集しているが、これを一つに整理すると完全な「青木氏年譜」が出来て蘇るが、整理してまとめる年数が足りない。
    今後の研究課題であり、多くは「商い」から観ているので、編集するには、「青木氏」に関する「歴史観に伴った租借」がより可成りの高情報が必要である。
    故意的に「代名詞」が使われず、「間接表現」であり、「現代語」では無いのも進捗の妨げに成る。
    これは当時は「商い情報」の「情報源の秘匿」を護っていたと観られる。)

    ただ、「外部記録資料」を全面的に使った内容は筆者は採らない。
    「青木氏」から観れば、ほぼ「内容」は可成り一致するが、「人ずれ」も「時期ズレ」も「場所ずれ」も観られる。
    これは殆どは、「伊勢シンジケート」からの“「事前情報」”や”「裏情報」”を得ての結果であろう。
    「外部記録」よりも先に騒動が起こっていて、後も、伊勢で起こった何らかの「騒動」が完全に収束状態では無かったことも判る。
    「内容のレベル」も違って、「ゲリラ戦の様相」も違っている。
    「外部資料」に依っては、「ゲリラ戦」は、“遠からずとも縁筋”に当たる事も匂わせる表現をも採っている説も観られる。

    (注釈 各地の「青木氏の伝統」に関する資料関係が、青木氏と娘の血縁関係も含めて関係した20程度の「郷士の家」からももっと多く見つかれば、より詳細に「青木氏の広域の生き様」が描ける。
    然し、、残念ながら、「伝統」どころか、他氏と異なり多くの「習慣仕来り掟」を持っていたにも関わらず全く消えて仕舞っている状況の様に見受けられる。
    各地の神明社にある資料なども探究したが、残念ながら、今は阻まれた次第であった。
    然し乍ら、「射和商人」と成った「郷士の家」からの資料、四家からの娘の嫁ぎ先の親族関係と成った郷士の家からの資料、伊藤氏等の「伊勢国衆」の家からの資料等からの情報が論文作成に大きく影響した。
    更に、未、「手紙」や「報告書」の形でも遺されていると観られる。)

    これは、「商い」には、「事件の前後」の「雰囲気・小競り合い」からの「事前情報」が必要であって、それによって、“「商いを動かしていると云う戦略」”も在って、その事を主目として情報を獲得していたのである。
    その為にも、かなり前から、“伊勢で起こった騒動”に対して「伊勢衆」で前後に“「打ち合わせ 談合」”なども頻繁にしていた事が判る。
    (明治の終わり頃まで、年に2度の全ての関係する人々が大集合して親睦(運動会)を図っていた事が口伝で伝えられている。)
    「商い」に大きく影響する事から、「伊勢シンジケート」や、各地の500にも上る「神明社」からの「情勢分析」の記録として情報が扱われていた事が判る。
    何度と「談合」が重ねられている処から「他の伊勢衆」にもこの情報共有が行われていた事も判る。
    特に、「伊賀の乱」は「青木氏」も「影の力」として「物資の供給」や「側面攻撃」や「夜間ゲリラ戦」などで合力したが、相当に「事前分析」も施され、長引いた「伊賀の乱」の収束前に紀州に一時避難などもしている。
    これも「事前情報の結果」であろう。

    (注釈 「青木氏の口伝」では、この100年間の間に二度に渡り「紀州新宮」に避難している。
    この「伊賀の乱」後の「新宮避難」は、「基本戦略」上から事前に引いた事は判り確認できるが、もう一つの「新宮避難」が何で避難したかは判らず記録が正確に読み取れなかった。)

    ただ、この時の「口伝」には「一つの逸話」が伝わっている。重要な判断要素の事に成るので次ぎの段で述べる。

    「伝統―18」に続く。


      [No.333] Re:「青木氏の伝統 16」−「「四家の背景と経緯」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2015/07/15(Wed) 10:20:03  

    >「青木氏の伝統ー15」の末尾

    >仮にあったとして、「円融天皇期」には、「目論見策の実行中」である事から、この期間は「天皇に対して不敬不遜の不作法な行為」と成り、あり得ない行為である。
    >依って、984年以後の事に成る。そうすると、両者の関係からあり得る合致点は、「貞盛と嫡子四男維衡の前半期」(998年前頃)までの事に成る。
    >ただ、これ以後の「貞盛−維衡」とその族は、「同族争い」と「配流」を何度も繰り返し血縁は不可能である。

    >(注釈 以後の末裔にも年数的、経歴的にも無い。この14年の間の前半行為であり、上記の矛盾を打消し、且つ、「受領家側の経緯の関係」と考え合わせると、その前半期984年から988年に絞られて来る。)


    >「たいら族」と「ひら族」の「混同説の策」も含めて、「歴史的な矛盾」が多い説(後付説:1180年代頃)が生まれる事と同様である。
    >この事の結果を「後付説(氏姓の隆盛期に家系を作り上げる作業を行う)」で補おうとしたのである。

    >(注釈 当時は、この様な「後付説」は、通常化していて、特に江戸期には武家の命に値する”「黒印状」”を獲得する為に公然と行われ、幕府もこれを黙認した。
    >この事を放念してこれらの資料を「是」とした説が多い為に起こる「矛盾」なのである。
    >返して云えば、この「後付説」を「是]として「青木氏]を論ずると,「青木氏」は存在し得ない事に成り得る。)

    >故に、この説の様に「年数の矛盾」等の多説が生まれる所以なのである。
    >本論の様に、事実に即して「青木氏」では、これを無くすべく日々研鑚し「歴史観」を高めて検証している。

    > 「青木氏の伝統ー16」の「四家の背景と経緯」に続く 




    「四家の背景と経緯」

    前段で、「1の天智期の青木氏」との絡みを観乍ら、「2の円融期の青木氏」の「青木氏の発祥」の経緯を室町期末期まで論じた。
    (1と2の青木氏を、以後、「二つの青木氏」又は「二つの血縁青木氏」と表現する。)

    この室町期の時期は、「二つの青木氏」は「商い」のみならず、「賜姓族としての役目」、取り分け「神明社建立」も活動期でもあった。
    しかし、反面では、この社会は、同時に、「下剋上」と、生存競争の激しい「戦乱」の時代でもあった。
    必然的にも、この「激動期」に対応するには、上記した様に、「青木氏」の「四家制度」による「5つの面 20の顔」には「人材」が不足してくる。
    しかし、かと云って、「同族による血縁性の概念」は崩す訳には行かない。
    そうなれば、終局は“「婿養子」”の手立てしか「青木氏」には無く成る。
    ここに所謂、前段で述べた「四家制度」の“「弱みの隙」“が生まれたのである。

    「二つの青木氏」に執っては、実に悩ましい時期であった。
    「二つの青木氏」では、「本所」(伊勢松阪)では、「自由な商いの商業組合」を結成して「巨万の富」を築いていた時期でもあった。
    「相互の血縁」を積極的に進めるにも、そこに「隙間」なるものがが起こり、そこから「四家制度の崩壊」に関わる「菌」が蔓延して仕舞う危険があり、其れには限度があった。
    その対策として採った「四日市の融合青木氏」が発祥している。
    その中でも、未どうしても「四家制度」の「5つの面と20の顔」を護りながらも、何とか「子孫力」を増大し確保しなければならないジレンマに陥っていた。
    「本所の伊勢秀郷流青木氏」は,「四家制度」を「伊勢の秀郷流青木氏の氏内」に採用して側面から「本所役」として支える様にした。
    それにしても、「武蔵の本家」との兼ね合いもあって、「難しい立場」に置かれていた。

    (注釈 「本所」(伊勢 松阪)、「本家」(武蔵 入間)は,その「賜姓五役の役務」の「分けあい」をして、平安期からこの様に呼ばれていた。)

    (注釈 平安時代の同時期から開かれ始めていた「公家や寺や神社や荘園等」で開かれた市の「特権の座」も後には「本所」(ほんじょ)と呼ばれた。
    「青木氏」は自ら殖産と興業を興して、この「座」には組しなかった。)

    (注釈 恐らくは、「伊勢青木氏の本所(ほんどころ)」の呼称は、「秀郷一門の青木氏」が、「武蔵」にでは無く「賜姓五役の役務柄」だけを「伊勢」に「根拠地」を置いた事から呼ばれる様に成った。
    室町期には、この事からこれを真似て、この「特権の座」を”「本所」”と呼ぶように成ったと観られる。)

    (注釈 当初の頃は、「・・・座」と単に呼ばれていたが、後に、室町期には「職能集団の組合」も「座」と呼ばれるものを創った事から「座の数」と「座の種」が拡がった。
    その為に、その事務所等を置く「根拠地」を”「本所」”と呼ばれる様に成ったと観られる。)

    (注釈 ”「本所」”と呼ばせる事やその印象を持たす事に依って「他の勢力」を旧来からの「本所の持つ権威」で排除しようとした。)

    (注釈 「伊勢青木氏の本所」は、「伊勢不入不倫の権」で保護されていた特権を持ち、「国の為に働く五役」を果たす名誉の地域を”「本所」”と呼ばれていた事を物語る。
    各地に「本所」の地名が大変多いが、元来、この「意味合い」を持っていたが、この「本所」も「青木氏の伝統」の形である。)

    (注釈 本来は、「嵯峨期詔勅」に伴う禁令の中に「青木氏の慣習仕来り掟」を真似てはならないとする禁令があり、この禁令に反する事ではあったが、「呼称方法」を変えて護られなかった事に成る。)

    (注釈 「公家や寺や神社や荘園」=「青木氏」と置き、 「楽市の特権の座」=「賜姓五役の役務」と位置付けて、”「本所」”と云う呼称を使った事に成る。
    つまり、「座」は、「本所の呼称」を使う以上は、「公家や寺や神社や荘園」の”「本来の役務」”であると云う事を主張していた事に成る。)

    (注釈 信長の自由な経済活動を奨励する「楽市楽座の令」やそれを推し進めた「秀吉の楽市令」により、旧来の「座の禁令」は実行されたが、「下記に論じる信長が嫌った社会風土」これに対する反発であったと観られる。
    所謂、「座の勢力」は、”「権威の惹けらかし」”と”「その利得を食む勢力」”と映ったのである。
    況や、”「平安時代の荘園制の再来」”と見做されて「禁令」が出たのである。)


    ところが、同じ「自由な商業組合」を追い求めていた「青木氏」のこの“「隙」”に上手く就き行ったのが、“「権威への挑戦」”を標榜するもの「信長」であった。
    これは、そもそも、「武」には「武」を以って応じ、「智」には「知略」を以って抗らう室町期の「信長の謀略」であった。

    古来より伊勢の「二つの青木氏」は、「青木氏の氏是」に依って、“「武」には応じない姿勢”を採ってはいた。
    そこで、「青木氏」は「知略のある武」や「絶大な抑止力」を持ちながらも、絶対に「武」に応じない姿勢を採っていた。
    この応じて来ない相手(青木氏)に対して、「信長」側には「武」で応じる事は、「戦いの大義」が立たない事から、出来ない。
    然し、、そこで、恐らくは、「信長」としては、「知略」を使ったのである。

    この初期の段階(1550年頃)では、「伊勢」を「武」と「知」に依って支配下に入れようとし、未だ「北畠氏側」にあると疑われていたと考えられる。

    先ず、“「婿養子」“で「間接的な撹乱戦法」の「初期戦」を「伊勢域の土豪」を使って味方に引き入れて仕掛けたと観られる。
    その初戦として、「南伊賀」に入り込んだ「武」を用いた「貴族武家の北畠氏」を潰す事から始めた。

    (注釈 青木氏には、周囲の土豪を取り込んで、前段で論じた”「婿養子の策謀」”で仕掛けて来た。
    結果は「青木氏」が直前で見抜き事無きを得た。)

    (注釈 「貴族武家」と成って室町期初期から京から伊勢に浸食して来た「北畠氏」がこの謀略に載せられた。)

    本来、”「武」を禁令とする「貴族・公家」”が、その格式の立場で「武家」と成った[北畠氏」でありながらも、「武を標榜した氏族の弱点」を逆に突いたと云う事であろう。
    その「伸長族の領域」と成って仕舞った「聖なる伊勢域」に対して、「信長」には、「伊勢の二つの青木氏」までもを果たして「潰す気持ち」があっての戦略であったのか興味の湧くところである。

    この「信長の戦略上の深意」に付いて、そこで、それにいち早く、“「青木氏側」は気が付いた”と云う事であろう。

    「青木氏側」にとっては、「子孫存続」の為にも、この「隙に付きいる障害」を早期にこの芽を摘んで置くことが必要であった筈である。

    筆者は、「信長」は、「武には武、知には知の基本戦略」を採っている事から、「伊勢の二つの青木氏」を「潰す事」は考えていなかったと観ている。
    それは、次ぎの事で証明できる。

    「本所の青木氏」には、上記した様に、「信長」は「伊賀守」を「忠元」に任官して家臣にして取り込みを図ったのである。
    「武より知を用いる青木氏」であれば「信長の天下布武の戦略」に害は無い。
    むしろ、「楽市楽座」を敷く「信長」であるとすると、むしろ、既に、組織的に「殖産と興業」を以って「巨万の富」を持つ「二つの青木氏」には、生きて貰わねばならない「政治戦略」があった事に成る。
    それでこそ、「天下布武の戦略」が生きて来る。
    つまり、「信長」にとっては、そもそも、「楽市楽座」は、「天下布武」の”「車の両輪」”の様に”「相対の位置」”にあったのである。

    「信長]の考えの中には、”「天下布武」(武)>=「楽市楽座」(知)の数式論”が成り立っていたと観られる。

    この「忠元」は、「青木氏の氏是」を破ってでも、「二つの青木氏」を体して、この「信長の深意」に逸早く応じたと云う事であった。
    そもそも、”「臣官に就く」”は、「三つの発祥源」と「国策氏」と「賜姓五役」の「役務柄」から護らねばならない宿命の「青木氏の氏是の禁令」である。
    奈良期より「伊勢の郷氏 国人 地主」で有り続ける事が「賜姓五役の遂行の根幹」であった。
    然し、「忠元」は、この”「信長の臣官」”に応じた。それは「禁令」を破ってでも応じなければ成らない「子孫存続の最大の危機」であったからだ。
    「忠元」には、この”「危機感」”は完全に「信長の場合」(天下布武)にはあった。
    然し、忠元は、”「危機感」”と云うよりは、「天下布武」と相対の位置にあった”「楽市楽座」の方に掛けた”のではないかと観ている。
    それが、「二つの青木氏」のむしろ「氏是」であるからだ。況や、「生き残れる道」であったからだ。
    何故ならば、「家訓」にも成っている”「知略」”に関わる事だからである。

    「戦い」に依って起こる「氏のリスク」>「臣官」に成って起こる「氏のリスク」

    以上の数式論をここでは考えた事に成る。

    それは「信長」の上を行く「青木氏の知略」であったと観られる。
    「信長」の”「相対の知略」”に載ったと云う事である。

    何故、上記の数式論の思考をここで敢えて用いたかと云う事は、”「武」と「知」の両方の思考を持つ「信長」”を見抜いていたのである。

    それは、どう云う事かと云えば、そもそも、「青木氏家訓10訓」が教える様に、次ぎの様に成る。

    「武」は”「敵対」”に通じ、「知」は”「共合」”に通ずる。

    以上と悠久の歴史を持つ「青木氏の家訓10の意」は教えている。

    「武」は「武の差」によって相互に「敵対の心」を必然的に産む。
    この「敵対」は、「命の危機」に繋がり、「不幸」に結びつく。

    「知」は「利の差」によって相互に「利対の心」を必然的に産む。
    この「利対」は、「生活の利得」に繋がり、「幸せ」に結びつく。

    依って、「人」はこの「利]を求めようとしては”共に合する事”へと集約に至る。

    然し、「知」は追い求める過ぎると、「武」を使って「大利」を得ようとして「武」に帰する。

    「武と地」は、況や、「善悪」に依らず、「相対の位置」にある。

    所謂、「人の世」は、「知」は「武」の上に立つ。

    以上の事を「青木氏の家訓」は教えている。

    これは、古来からの「青木氏の密教浄土宗の教義」に基づいているのである。

    (注釈 「三つの発祥源」「賜姓五役」「国策氏」に対して、”「二足の草鞋策」の「商いを営む根拠」”に成っている。)

    「二つの青木氏」は、この「青木氏の密教教義」に従って思考し、「信長」を考察したと観られる。

    そこで、「信長の深意、或は翻意」は、「武家社会」であることから「基本戦略」は、「天下布武」としているが、むしろ、この”「知の共合」の考え方に重きを置いている”と見抜いたのである。

    (注釈 通説の「信長評価」は、この「青木氏の様な密教教義」を持ち得ていない事から起こったものと観られる。)

    そもそも、何れの時代にも、”「民族」”と云う単位で「国家や社会」を維持するには、”「武」の「敵対」に通じる社会”を先ず創る。
    その上で、”「知の共合」の社会をより豊かに作り上げるか”に関わる。
    これは”「民族」で構成される社会”である限りは、「人の性」から来る「生存への敵対本能」からは逃れる事は出来ないからである。
    あくまでも、「理想社会」は、所詮、「りそう」なのである。
    ”「理想」”と云う「言葉」があるからこそ、その元には「敵対」があって生まれる言葉である。
    この逆の事も云える。

    つまり、「人の社会」に於いては、より良い、”「知の共合」の社会”を大きくするかに関わっているのであって、「理想の社会」では構成出来得無い。
    ”「理想」”は、あくまでも「良し悪しの判断の基準」とするに留まり、「良し悪しだけで決まる人の社会」では決して無い。
    あくまでも「理想の範囲」で終わる。
    より「「理想に近い社会」と感じるのは、「知の共合の社会」をより豊かに作り上げるかに関わり「理想の程度」では決して無い。

    ”「人の生きる社会」の「組織の主たる者」に成る者には、この「概念」を持ち得ている事が必要である”と説いている。


    つまりは、「忠元」を含む「二つの青木氏」の「長」は、”「信長」も「長」としてのこの「基本的な概念」を持ち得ている”と観て採ったと云う事である。

    (注釈 記録に遺されている「信長の発言」の中に、要約すると、”国が収まれば、世界に旅する”と発言している。
    これは、「世界」の進んだ国には、”「武」<「知」の社会”がある事を知って居た事を意味していると観ている。)

    注釈 
    1576年 北畠氏は滅亡
    1576年 伊勢国を信長支配
    1577年 忠元伊賀守任官
    1577年 伊賀一揆

    前段で論じた様に、「伊賀」に侵入した「足利系の外部勢力」の三氏は、1576年を境に「信長」に依って放逐され滅亡した。
    その後に「伊勢」を支配した時に、「信長」は「実質支配」していた上記の「伊勢秀郷流青木氏の忠元」に「伊賀守」を任官させて家臣として取り込んだ。

    然し、その後に、「伊賀衆」は「伊賀の郷士11衆」と「伊賀住人衆」を巻き込んだ一揆で「ゲリラ戦」(第一次と二次)で反旗を翻した。
    この時、「伊勢」の中では、特に「伊賀の国人衆」が「連合体」を結成して「伊賀域」を治めていた。
    民や僧侶を巻き込んだ「伊賀一揆」が「第一次」で収まったとして「忠元」を任官させたが、「信長」が「燻り抵抗を見せる伊賀者」に見せしめとして激しい「第二次掃討作戦」を展開した。
    この時は「忠元」は苦しい立場に陥った。

    上記する、「武」より「知」に掛けた「忠元」を始めとした「伊勢衆」は、思いもよらぬ方向に流れが進展した”「伊賀」”では窮地に陥っていた。
    「伊勢衆」は「伊賀衆」を説得に掛かったと観られる。
    然し、「事の次第」は、感情的に進み収まりが着かなく成って仕舞った。
    それは、この「伊賀衆」が起こした「感情論の原因」は、地獄の修羅戦と成った「石山本願寺の門徒衆」が、何とこの”「伊賀域」”には多かった事が云える。
    紀伊半島と紀州全体も殆どこの”「門徒衆」”であって、現在でも「門徒衆が多くその慣習の強い地域」でもある。

    この時、「伊勢皇族賜姓青木氏」が「伊勢の抑止力」を使って「援護」に入ったのである。
    これが「丸山城の攪乱作戦」や「比自山城」や「上野城」の「伊勢衆が行った救出作戦」であった。

    恐らくは、「信長」は「伊賀」に「支配権」を持っている「忠元」を「伊賀守」にして収めようとしたが、ところが、[忠元の翻意」に反して、”「忠元」が「織田方」に付いた”と受け取られて、逆に”「裏切り」”と捉えられたと観られる。
    そこで、「門徒の事」もあり、それに煽られて”「伊賀者」”が収まりが着かなく成り、「燻り抵抗」を尚示す様に成ったと観られる。

    (注釈 ”「門徒の事」”とは、「石山本願寺の事変」の3年程度前から起こっていた紀伊半島全域で「門徒衆の信長への抵抗」があった。)

    その為に、其の侭に放置すると、全国で「門徒衆」が尚騒ぐ事と成ると観た「信長」は、見せしめの為に「第二次の殲滅作戦」に「信長」は出たと考えられる。
    実際は、第一次、第二次共に、「伊賀衆」から「裏切者」が出て「織田軍道案内」等を申し出ている。

    (注釈 当時、”「道案内」”とは、「裏切り」の「武士」が使う「換え言葉」であった。
    ある意味で、当時の室町期は戦乱期であって、「裏切りと云う行為」は必ずしも「悪徳の見本」では無く、「生き残り」の為には「最低限の必要不可欠な手段」と認められていた。
    然し、この「裏切りの悪の概念」は、主に「江戸期の安定期」に入ってからは、「武士魂」の「発露の規準」となったものである。)

    これは、「伊勢衆」と「伊賀守」と成った”「忠元の説得」”から動いた事ではないかと観られる。
    この事で場合に依っては、”「伊賀者滅亡」”と云うシナリオも描いていたとも考えられる。
    現実には、第二次は其れに近い「修羅の状態」と成った。
    あらゆる「門徒衆」の「抗した村民」やこれらを「庇護した僧侶」をも殲滅し、「伊賀」だけには収まらず「紀州全域」に及び、更には「堺」から「伊勢松阪」の「伊勢神宮手前」までにその「火の粉」は飛んで来た。
    (寺等の記録あり)
    その「殲滅の被害範囲」と「門徒の勢力域」とがラップする事から、矢張り、”「門徒勢力」”と観ての行為に及んだ事に成っている。

    この事に付いて検証して置く。
    通称、”「門徒勢力」”と現在まで云うが、この「宗教武装勢力」との争いは、1567年頃から1582年頃まで続いたのである。
    もっと云えば、「秀吉の紀州攻め」の「掃討作戦」までの事と成る。

    (参考 「伊賀の戦い」は、第一次は1578年−1579年 第二次は1580年−1581年)

    「石山本願寺の戦い」は、あくまでもその「一本戦」であって、その期間は1570年から1580年と成ってはいるが、そうでは無い。
    然し、比叡山を含む「宗教武装勢力」との戦いの一端であった。
    多説の様には、「一戦い」では無かったのである。
    つまり、上記した様に、「信長」が目指す「天下布武」にせよ、「天下布知」にせよ、この「宗教武装勢力」が二つを実行するには「大障害」と成っていたのである。
    その戦いの中での「伊賀の戦い」と成った。
    疑う事無く、「伊賀者」は、全て「下級武士の宗教」の「門徒信者」である。
    これは、「民の門徒の宗徒」では無く、「忍者と云う武力の専門の勢力の宗徒」である。
    「石山本願寺」の”「宗教武装勢力」”と云うよりは、「伊賀衆」は、一種の「宗教の武装の専門勢力」であった。

    現実に紀州半島の「雑賀傭兵軍団」「根来傭兵軍団」「十津川傭兵軍団」「柳生傭兵軍団」と同じく、伊勢の「伊賀傭兵軍団」と呼称されたものであった。
    「比叡山の僧兵」などと違い、プロ中のプロである。

    「信長の目線」はここにあった。
    依って、このプロ中のプロの「伊賀門徒勢力」への「象徴的戦い」なのである。
    ここを叩いておかないと、「石山本願寺の比」では無いと観たのである。
    「紀州の傭兵軍団」が「伊賀」と結びつけば、不得意な『ゲリラ戦の長期戦」は覚悟しなければなら無く成る。
    「長期戦」は、「宗教との戦い」と成っている以上は、”評判の悪い信長”に執っては極めて不利である。

    唯、「信長」は、この「プロ中プロの伊賀衆軍団」を「感情的敵視」をしていなかったのである。
    「門徒勢力の撲滅」の「象徴的集団」と戦略的立場から観ていただけの事であった。
    その証拠には、その「特殊技能の軍団」の「存在価値」を認めていた。
    何故ならは、「第二次の殲滅作戦」後に、この「伊賀の特殊技能」を「織田軍団」に取り入れる為に、多くを「家臣」として仕官させているのである。
    普通なら、徹底した「掃討作戦」で殲滅させている筈である。
    況して、全国に散った「伊賀者の掃討作戦」もしていないのである。
    1年後に徐々に「伊賀者」が戻ってきたが、これも掃討していない。
    むしろ、戦後に「諜報役の家臣」として重用している。

    何と、「信長」が直接家臣としたのは数名で、この一名が「伊賀の青木氏の五代目」が入っているのである。
    家臣と成った者の殆どは、秀吉などの重臣に家臣として仕官させている。
    中でも「秀吉」や「蒲生氏」とその配下の家臣に特に目立つ。

    普通は「人」であれば、「修羅の戦い」と成って「恨みも憎みも骨髄に達する」に成った筈である。
    にも関わらず、「信長側」は元より、「伊賀者」側も家臣に成ったとする現象には、”戦国時代の何かが働いていた”事を物語る。

    (注釈 明らかに、上記の事は、”信長の伊賀に対する考え方”が現れている現象である。
    以下に論ずる事もこの「歴史観」を以って「青木氏」の方だけはお読み頂きたい。)

    ところが、この「注釈の歴史観」を「伊勢衆と忠元」は読み取っていたかは別として、この「事の流れ」に依っては、異なる方向に走ると観ていたと観られる。
    これは「密教浄土宗」の「伊勢衆」のみならず、「伊賀」を治める「忠元」に執っては、単なる「伊賀の戦い」とは捉えていなかったのである。
    場合に依っては、”「伊賀滅亡」”と云うシナリオも考えたのも当然であった。

    (注釈 後の「青木氏の記録」から「信長の評価」が世間と違っていた事からすると、この段階では,注釈の事は考えていなかった事に成る。
    後刻、戦後に「信長の態度」を観て、この事を理解したと観られる。)

    筆者は、もっと「厳しい心構え」をしていたと考えている。
    そうなった場合、「事の流れ」に抗して「青木氏の氏是の範囲」では収まらない事に成ると観ていたのである。
    「二つの青木氏」と「伊勢衆全体」が、奈良期からの「青木氏の氏是の禁令」を破って、「500万石の勢力」と「伊勢の抑止力」のみならず、「関東の秀郷一門」と「秀郷流青木氏116氏」を巻き込んだ戦いをも覚悟していたと観ている。
    上記した「忠元の伊賀守任官」も{伊賀の戦い」の際中の事である。
    この「氏是」を破ってでも「伊賀守任官」を受けて、「最悪の流れ」(伊勢の伝統の崩壊と伊勢者の滅亡)に成る事を止めようとしたと考えられる。
    逆に、「信長」も同じ事で起こる「最悪事態」を避けようとして、「忠元」を「臣官」させたと云う事も云える。
    この事を考えると、少なくとも、「事の流れ」は[伊賀守任官」だけでは止められず、むしろ、逆に「第二次戦」に成った時に、「信長出方と解決具合」では、「本戦」も覚悟していたと観られる。

    現実に、戦えば全国的な勢力の結集では上回る。
    戦略上では確実に劣るところは無い。むしろ有利であった。
    要は、「戦い方の如何」に関わる事に成る。
    「ゲリラ戦」を駆使する事に成ろう。
    当時の「信長の勢力範囲」は関西に限定され、その拠点は美濃に集中している。
    周囲から「物資の供給」を止め、拠点に「ゲリラ戦」を掛ければ落ちる。
    「信長の弱点」は水軍にある。「海と陸の供給」を止めれば攻略できる。
    「水軍」は「伊勢衆の古来から所縁」から「三つの水軍」(伊勢水軍 駿河水軍 摂津水軍)を擁している。
    従って、「水陸」の補給路をこれで押えれば、物資は「伊勢衆の商いの強み」でもある。

    現に、「丸山の戦い」では、「信長六万の軍事力」では無く、この「物資」を止めて「物資高騰」を高め軍資金を枯渇させ上で、拠点を「ゲリラ戦」で抑えて勝った。

    (注釈 「足利氏との戦い」も「伊勢シンジケート」が「ゲリラ戦」を展開して、10万の軍を枯渇させ2万と云う餓死者を出した。
    この有名な戦史を信長は知っていた筈である。)

    全国的に、これをすれば「信長の軍」は「内部崩壊」を起こす。
    元より「信長軍」は「内部分裂の要因」を潜んだ「軍事力」であった。
    現に、依って、「信長」は、「長期戦」と成り、「物資供給路」は絶たれる事に成る。
    「伊勢シンジケート」は[美濃信濃の範囲」までを「連携の勢力圏」としていた。
    依って、未だ弱かった関西以西から背後を突かれる恐れがある。
    この事があって、「戦域」を関東に拡げる事は出来無い。
    これは「信長」が、「秀郷一門の勢力」の強い関東以東には、実戦に依る手を出さなかった所以でもある。

    恐らくは、「信長」もこの事を考えての範囲の「ギリギリの線」を選んだと観られる。
    最後には、調停工作に応じて停戦したし、各地に散った「伊賀者の掃討作戦」もしなかった。
    終戦後、これらの「伊賀者」は帰ったが、掃討はしなかった。
    手っ取り早く言えば、その火元に成る「伊勢」には手を”出さなかった” 出したくなかったのである。
    伊勢には、煩わしい「不入不倫の権」もあり、「戦いの大義」が採れず手を”出せなかった”のである。
    故に、「伊賀と云う特異な門徒拠点」とも云うべきところだけを突いたのである。
    然し、「伊勢」では、青木氏等が「影」で色々としていた事は其れなりに充分に情報活動で知っていた筈である。
    況して「伊勢衆」は、「北畠氏」(1576年)の時には、明確に「合力」を表明している。
    明らかに「準に抗する勢力」と観えていた筈である。

    従って、「ギリギリの線」の「忠元」も含む「伊勢衆」(青木氏等)には決して手を出していない。
    依って、「ギリギリの線」を護る「信長」に対して、「忠元」も「伊勢衆]も、「ギリギリの線」で直接交戦する姿勢は採らなかったのである。
    明らかに、「信長」は、「忠元と伊勢衆」を除いた全て「抗する者の範囲」に留めたのは、「門徒衆の撲滅」と「伊勢衆の影の抑止力勢力」のこの二つの事から来ていると観られる。

    そこで、それを証明する「伊賀の内情」は次ぎの通りであった。

    第一次は、20郷士の内、18氏参戦 2氏が道案内 下山氏、他1氏
    第二次は、18郷士の内、11氏参戦 4氏が道案内 福地氏、耳須氏、他1氏、滝野氏
    調停役は、「猿楽師」(嶋崎殿の青木氏との関係)の仲介、大倉氏 他介添え役2氏

    (1氏が不明 「調停役」に参加と観られる。)

    この記録から観ると、少なくとも「忠元の言い分」を理解した者は、少なくとも当初9氏はあった事に成る。
    自発的にこの9氏が戦いの裏付けと成る軍資金や物資の補償が無いのに動いたとは到底思えない。
    全体の半分は「忠元の説得」に応じた事に成る。
    結局は、記録にある様に、感情的に成って走り「籠城餓死寸前」と成って、「忠元」と「伊勢衆」が救いに入ったのである。
    その後、「伊勢衆の援護」に伴って「忠元」に味方する者が殆どと成った事で「仲介の段階」に至った事が良く判る。

    ところで、前段で論じた様に、矢張り、ここで「伊賀の青木氏」の”「猿楽師」”がこの記録に出て来るのである。
    これは「青木氏」に執っては極めて重要な事である。
    歴史上の有名な事(「猿楽師の調整役])として、記載されている史実に繋がっているのである。

    実は、この「猿楽」に付いて調べると、そもそも,中国から入り遂には大和で広がり、「大和猿楽」と「近江猿楽」と成った。
    この「大和猿楽」から有名な「観阿弥 世阿弥の時代」と成るが、「大和猿楽」には四座があった。
    ここで、「嶋崎殿の青木氏 伊賀の青木氏」の「五代目」が最初に学んだ事が添書に書かれている。
    「七代目」がこれを高めて「猿楽師範」と成って、「徳川氏の諜報役」として働いた。
    しかし、この「五代目」が同座で「猿楽師の某氏(大倉氏)女系の血縁先」と学んでいた事が添書に記載が在って、後にこの者は「織田氏」に仕官している。
    時を同じくする事から、この「某氏」が「この時の状況」に関わったと観られる。

    前段でも記述したが、この「五代目」もこの少し後の1581年に「織田氏」に仕官している。

    この「五代目」が「信長」に仕官した事にも大きな意味を持っている。
    明らかに上記の事を物語っている。

    「信長」に抗した「伊賀者」を家臣にしているのである。

    この様に、これで明らかに、「伊勢衆」と「忠元」が動いた事が証明できる。


    「嶋崎殿の青木氏」の「猿楽師の調停役」は、この様に「猿楽師の面識」を利用して「信長」に近づいたと観られる。

    (注釈 その後は仕官したが、直接に「信長」に調停を申し出る事は無理であろう。
    この間に「所縁の者」が関わっていたのである。)

    以上の事から、この経緯の事に成っている処を観ると、「忠元」が「仕掛けた戦略」であった事は間違いはないと考えられる。

    実は、この「調停役」と成った背景を更に調べると次ぎの様に成っている。

    この「伊賀」の「嶋崎殿の青木氏(猿楽師範)」を通じて、直接に「信長」に面接してはいない。
    確かに、奈良に住していた「猿楽師(大倉氏)の面識」で「信長への仲介役」を演じた。
    然し、ここで、次ぎの人物が「大倉氏の仲介の意」を受けて「信長」に直接仲介した人物が何とあったのである。

    前々段で論じた「秀吉と信長」に信任の厚かった二人の内の一人である。

    その「仲介者」は、「青木紀伊守一矩」(従五位左衛門佐 越前北庄八万石 1598年)に列せられた者と成っている。

    秀郷一門の伊勢の「青木忠元」は、全く同時期に「伊賀守」(1577年)に任じられていて、「越前坂井郡丸岡四万六千石」に列せられている。

    「青木伊賀守忠元」と「青木紀伊守一矩」は共に「信長」に仕えた。

    重要
    実は、この後、「伊賀の青木氏」の主家の「五代目」の子供の娘(次女)が、この「紀伊守の嗣子の政寿の妻」と成っている。
    更に、この100年後位宝暦九年にも両家は「伊賀青木氏」から「娘女の縁組」をしている。
    然し、この時期は「紀伊守の一族」が、既に,福井に逃避し、「伊賀の青木氏」は江戸に移動していている事に成っている。

    これはどの様な意味を成すのであろうか。

    つまり、「前の血縁」で観ると、添書内容から考察するに、1581年に「伊賀青木氏の五代目」が「織田家」に仕官した後の事である様である。
    この事から、「織田家仕官執り成し」は、この「紀伊守一矩」であった事が判る。
    「信長の仲介役」もこの事で裏付けと成る。

    然し、「後の血縁」で観ると、「伊賀の青木氏」の「主家の系譜枝葉」では、再び江戸(御家人)と越前(商人)との間の取り持ちとも考えられる。
    唯、「奈良の六郷」に[青木一矩の一族子孫」が残留していて、その一族と、故郷の「伊賀の跡目」を再興した「戻り組」とが血縁したのかは詳細は判らない。

    現実に、「主家」であるし、「伊賀の青木氏」は江戸期にも伊賀に定住している事、「大番役」でもある事からも江戸だけでは留まらない。
    恐らくは、添書には”六郷に嫁す”あるところから、江戸からの支持の下で「大和と伊賀の地での縁組」が交わされたと観られる。

    とすると、「伊賀」は,前段で論じた様に、「三氏」と成っていて江戸に移動している事に成っている。
    然し、「伊賀本領」にも留守居役として一家を設けていた事を示す事に成る。
    これで、現実には、現在も「伊賀の青木氏」が現存する事から、この事で証明できる。

    唯、家紋が、前段で論じた様に、「伊賀の青木氏」の主紋の”「一文字紋」である。
    果たして、「伊賀の青木氏の枝葉」の「伊賀」に定住した”「青木氏の立場」”はどの様に成っていたのかは不明である。
    現実的には、”全て「三氏」を江戸に移してしまう”と云う「戦略」は採れないであろう。
    況してや、「大番役」と云う役務から観ても、「本領の役務」も「伊賀」にもそのままに成っている事から、一族を遺すのが筋である。

    とすると、この「系譜」は、「三氏の主家の系譜」から観ているのであるから、確かに「主家の一人」を遺したと考えられる。
    唯、この「伊賀の主家枝葉の格式」には、「伊賀青木氏の格式」は江戸に集中していた事から、再度、格式を高める手段に出たと考えられる。
    恐らくは、この「格式を高めた手段」として、この「主家の系譜」には分析未了であるが、この一つが「女系の嫁」で再び繋いだと観られる。

    そうすると、越前に移動したと観られる「一矩系統(久矩)の一族」のこの”「六郷」”は、普通は「現地残留孫」と考えられる。
    「大和と伊賀の地での縁組」との縁組と成るが、確定はし切れていない。

    と云うのも、そもそも、この”「六郷」”とは、元々、”「一矩一族の呼称」であった”のではないかとも考えられる。
    実際に、この「系譜」には、この”「六郷」”の使用が「三か所」に出て来る。
    何れも、「六郷の十左衛門・・矩」と云う様に代名詞が付いている。
    この事から、「一矩一族(久矩)」が「越前」に移動その後も残留して居た事も考えられる。

    現在、この名張域の「大和 六郷」には、「一矩一族の青木氏の痕跡」は、その後に絶えたと観られて確認できない。

    (注釈 「奈良の六郷地区」は、R25沿いの「名張」の直ぐ左横の地区である。
    「名張」は「皇族賜姓族伊勢青木氏の拠点」であった。
    ここに「清連寺城」の館城があった。「伊賀衆救出作戦の拠点」であった。
    この一帯は「青木氏所縁地域」である。)

    ただ、「大和の六郷」には”絶えた”としても、「六郷」に「一矩の子孫」が居た事は「青木氏の記録」の”「近江青木氏」を庇護した”と云う事が、「青木氏の記録」に明確に有る。
    ”絶えた”の説では無く、”庇護”の説であると考えている。
    つまり、この二つの意味の選択は、「青木氏の商記録」と、「佐々木氏の研究記録」に”「庇護」”と記した意味にあると考えられる。

    元々、この「大和 六郷」の地の持つ意味が大きく左右している筈である。

    そうすると、この「庇護の経路」を検証して観ると次ぎの様な事が云える。

    「庇護の経緯」は、先ず、「本流」は越前に庇護した。
    そして、「残留組」は、「三河 額田」より集め、「大和 六郷」より集めて、最後に「摂津」に庇護した事に成る。

    この「摂津庇護」は次ぎの様に成る。
    先ず、「源平合戦時」に「美濃の富士川の戦い」で、「近江の戦い」で敗れて「美濃の地」に決戦を求めて移動した。
    この「近江青木氏」は、結局、「美濃青木氏 土岐青木氏」と共に滅亡したが、この「生き残り」は「三河 額田」に逃避した。
    この「子孫の家族」等は、「伊勢青木氏」は近江より摂津に庇護した。
    その後、「三河 額田」に逃避した「一矩」が信長に仕官し、出世し「大和 六郷」に子孫を定住させた。
    その後、「北の庄」の「八万石の大名」に成り移動した。
    「関ヶ原の戦い」から続く「冬夏の大阪の陣の敗退」で、「一矩の孫の久矩」等は越前に逃避した。
    その一部末裔を「大和 六郷」に遺した。
    これらの「大和 六郷」に遺された子孫を「摂津」にそっくり「庇護」した事に成る。

    そこで、「近江青木氏」は「源平近江の戦い」の時に敗退したが、一時、「伊勢青木氏」が、ここ「名張の勢力域」の「大和六郷」にその家族を匿った事も考えられる。
    従って、「一矩」は、後に「三河 額田」より仕官後に「大和 六郷」に「三河 額田」で出来た子孫をここに移したと観られる。

    その根拠として、「青木氏の記録」(商記録)では、”「近江青木氏庇護」”と簡単に記載されているだけである。
    「伊勢の商記録」である事から、何も地名も書かずに”「庇護」”とだけ記する以上は「伊勢青木氏の勢力域」に「庇護した事」に成ろう。

    尚、「近江佐々木氏の研究記録」に依れば、「同族縁者の近江青木氏」に付いては、共に戦った。
    この近江での「源平合戦敗退時の庇護」には、”伊勢並びに越前に庇護した”と記されている。
    恐らくは、この「二つの記録」の”「伊勢」”は「名張域」の「大和 六郷」であった事に成ろう。
    故に、その関連から越前までの一連の”「一矩の行動」”に繋がったのである。

    元々、この「大和 六郷」は「近江青木氏」に執っては、あくまでも”「逃避地」”であった事に成る。
    「近江青木氏の定住地」では無かったのである。
    「伊勢青木氏」が採り計らった「逃避地」であった。
    近江は最早、他の勢力圏と成り、無理で「摂津の勢力圏内」に庇護した事に成る。
    従って、”絶えた”のでは無く、全て”そっくり移して庇護”した事に成る。

    「大和 六郷」に”痕跡”が無いのは、「伊勢青木氏」が、江戸期に成って「時勢」が落ち着いたところで、”一族郎党を摂津に移した”と云う事に成る。

    そもそも、「青木氏商記録」や「佐々木氏の研究記録」にこの事が記されている。

    では、この”「摂津」”とは、”どう云う処なのか”と云うと、改めて述べて置く。
    元々、この”「摂津」”とは、「伊勢青木氏」の「大店の二店舗と屋敷」と「伊勢青木氏所有の三隻の千石船」の「堺港」と共に「主係留地」である。
    且つ、「平安期からの遠祖地」で「大地主」である。
    この”「摂津」”には、当然の事として「伊勢青木氏」が平安期から駐留していた。

    「越前の逃避地」と同じく、この”「摂津」”は古来より水軍(伊勢水軍の第二係留地)も備えた”「青木氏の防御の拠点」”でもあった。

    この意味からも「近江」に近い旧来の”「摂津」”に庇護したのである。

    (注釈 歴史的に参考に成る記録によると、この「摂津(伊勢)の青木氏(駿河水軍と伊勢水軍)」と、近江北部から降りて来た「残存の佐々木氏」等が、摂津西の「渡辺水軍」と共に「摂津水軍」を形成して、「義経の壇ノ浦戦い」の時に側面から平家水軍を突いて「戦況」を変えたと記されている。
    味方の「北条軍(梶原氏)の恣意的な邪魔(妬み 嫉み)」を受けて「不利な戦況」と成り得ていた矢先に、この「摂津水軍の側面攻撃」で義経側に形勢が傾いたとする有名な戦史である。
    戦い前の「軍略会議」で義経と梶原氏等が切り合い寸前の激論を交わした。
    この事から、事前に梶原氏等の邪魔が入る事で戦況が悪化する事を予想した義経は、戦略を変えて、「身内の摂津水軍」にこの作戦を命じていたのである。
    これを契機に、義経専属自前の「熊野水軍 紀伊水軍 伊勢水軍 駿河水軍」が「ゲリラ戦の攻撃」に転じて勝利した。
    その後、この「摂津水軍」はこの役目を終了後に戦場から直ちに引いたとされている。

    その様な重要な「青木氏の商業拠点」であって「陸海の防御の拠点」でもあったのである。
    常時は、貿易の「商船団の護衛船」として伊勢と摂津を拠点に働いていた専属の水軍である。

    (注釈 この「ゲリラ戦」とは,「軍船と軍船の弓火矢の戦い」では無く、直接に「軍船」に横付けして「船上」で戦う当に虚を突いた「海賊戦の戦法」の事を云う。
    この「海賊戦」を提案したのが、当時、蛮勇で有名な「紀伊灘の海賊」の「紀伊水軍」であった。
    「義経」は「圧倒的な平家水軍の優勢]から観て、この「紀伊水軍」を味方にするかは「勝敗の決めて」と考えていて何度も説得を試みた事が記されている。
    この「ゲリラ戦」が「紀伊水軍の条件」として味方する事に同意した経緯が記録されている。)

    (注釈 「水軍船団の弱点」の”「側面攻撃」”が「予想外の戦略的な目的」であったと観られる。
    そもそも、逆に船は後退できない為に一度側面攻撃で攻めた後は、自らが的中に突っ込む為に逆に「側面攻撃」を受ける事に成る為に危険度も大きい。)

    (注釈 清和源氏の全青木氏と繋がりを持つ「頼光系四家」もこの「摂津」を拠点としていた。)

    (注釈 「近江佐々木氏」も「源平近江の戦いの敗戦」で、「伊勢青木氏」は家族を近江から救い出して「摂津」に保護している。近江佐々木氏の軍は美濃に移動転戦し滅亡した。
    この経緯が「佐々木氏の研究記録の資料」では詳しく研究されている。)

    (注釈 一矩の長男の「俊矩」は東軍に味方した「前田氏の人質」になった。 越前に逃避した「一矩」は2月後に没する。)


    恐らくは、「近江青木氏の出自」である事から、この”「摂津」”は元より「額田」にても、その後に、添書から読み取るところでは、未だ僅かに「一族残留組」が居て定住していたのではないかと観られる。

    「氏家制度」の中で、「五家五流の宗家の役目」としては、「青木氏の記録 近江氏の庇護(近江,越前、摂津、額田)」の記録にある様に、これには明らかに「伊勢青木氏の仲介」があった。

    (注釈 「大和 六郷」の事に付いては、「豊臣家の淀君に関する資料」の中に、”大和(六郷)よりいずる青木氏なる者(一矩−俊矩−久矩)・・”として面会して、大坂方に味方する事を約している。)

    この事から、「一矩一族」は、この「大和 六郷」にも子孫を遺していた事が判る。

    (注釈 この「大和」は、「家康」が「淀君」に対して「片桐案三案」の,「大阪城退去」を条件に「大和国55万石」を与えるので、そこで「豊臣家」を改に興す様に説得した経緯がある。)


    ここで、この「系譜」に記されているこの事に関する「決定的な事」を記すると、次ぎの様に成る。

    この「一矩一族」に嫁した「伊賀の青木氏」の「主家の子女(娘B)」の母は、「六郷 十左衛門正明の女」と成っている。
    「主家の系譜」では、その夫は「政長」と成っている。つまり、五代目である。


    その夫(政長)は、 十三歳で跡目に成っている。
    その後、江戸初期に、前段で論じた通り、「小姓組」 「西ノ丸勤仕」等と大出世している。
    この「系列の以後」には、他氏からの養子縁組で何代か跡目が継承されている。

    その最初の「婿養子の政行」(六代目か)は、特記すべきは、この者は最高官位は「従五位下 豊前守」叙任と記されている。

    つまり、上記の通り、「伊賀の青木氏」の「主家の子女」(娘B 伊賀の戦い後)が「一矩の一族の嗣子(久矩の子)」に嫁している。

    ところが、その前に、この「娘Bの母親」は、何と「一矩の一族」(久矩かは判らない)から「伊賀の青木氏の主家」に入っているのである。

    「一矩の嗣子」の「娘A」(伊賀の戦い前)が、「伊賀の青木氏の主家」に嫁し、その「娘A」の子の「娘B 次女」を「一矩の嗣子一族の妻」に嫁している事に成る。
    要するに、「相互間に同族血縁」をしていた事に成る。

    次ぎの驚きは、この「娘A」の子供と成った「婿養子の政行」は、「一矩の出自」の「近江青木氏」の「永代官位」を引き継ぎ、「従五位下 豊前守」の「叙任の栄」を受けている。
    これは、”一体、どう云う事なのか”である。


    そこで、この「近江青木氏の永代官位」を「伊賀の青木氏」は、「一矩一族」から、”何故、受け継いだのか”である。
    普通は受け継げない家柄である。
    この者は「六代目」と成るので、当に、江戸初期と成る。

    「一矩一族」は、次ぎの様に判断したのではないかと考えられる。

    越前に逃避した事
    除封を受けた事
    商人に成った事
    五代目で「深い縁続き」に成った事

    以上の事が起こり、”最早、奈良期からの「永代官位」を引き継ぐ格式の意味が消滅した”と考えたのではないかと観られる。

    そこで、「五代目の努力」で「縁続き」と成った事から、この名誉ある「徳川氏の御家人」と成った「伊賀の青木氏」の将来の発展を期して永代官位を移したと考えられる。

    何れも、「近江青木氏」も「四家制度」を敷く家柄、「伊賀青木氏」も秀郷一門下に成り「四家制度」を敷く家柄に成った事から、「青木氏跡目方式」は、男女孫域までの嗣子は差別無く「跡目」と成り得る仕来りである。
    従って、「親子の女系」で「相互血縁」をした事で、「伊賀の青木氏」が「近江青木氏」に成り得る。

    (注釈 婿養子の「政行」は「山角藤兵衛親詮の六男 義父政長の「娘C 長女」を妻としている。
    「娘B]と[娘C」は姉妹である。)

    この「四家制度」で、「娘C」の子は、「近江の青木氏」のみならず「伊賀の青木氏」の正当な「主家の跡目」と成り得る。

    依って、この「青木氏の四家制度の仕来り」から「伊賀の青木氏」は「永代官位」を引き継ぐ事に成った事を意味する。

    (注釈 「豊前守」は名誉官位であった。「永代官位」であるが、その後には「二代」で終わっていて、その後の系譜には官位は不思議に書かれていない。
    恐らく、「大番役」で通した事から、”役柄にその官位そのものの必要性が無い”と末裔は判断して返還したと観られる。むしろ「大番役旗本」には邪魔と考えたのではないかと観られる。)

    この「永代官位移行」で「近江の青木氏」=「伊賀の青木氏」の深い関係が生まれたのである。
    その血縁の「象徴的な手段」としたと考えられる。

    (注釈 「伊賀の青木氏」は、前段で論じた様に、「たいら族」の「貞盛の宗家の跡目」から出自した形を採っているが、[天皇への不敬不遜の至り」から作法的に採った繁盛ルーツである。
    依って、その官位は正式には無い。)

    この二人は「伝統シリーズ]等の論文で何度も論じている「青木氏の話題の人物」である。
    この「青木紀伊守一矩」(従五位左衛門佐 越前北庄八万石)の「青木氏の出自」は確定していないが、近江青木氏である事は上記した様に「青木氏の資料」からは明らかである。

    (注釈 この一族には他説が多く、上手く歴史の事柄を繋ぎ合わせた搾取説が殆どで矛盾だらけであり信用できない。
    「青木氏の資料」から論じている。)

    然し、「官位」や「官職」や「家紋」などから総合的に考察する処では、「1の天智期の近江青木氏」であると観られる。

    この「青木氏」は、「源平合戦」の「美濃の富士川の戦い」の際に滅亡した「近江の皇族賜姓族青木氏」ではないかと考えられている。
    この「青木氏」は、滅亡後、[伊勢の皇族賜姓族青木氏」の末裔とその血縁族が住む「三河国額田郡青木村」に逃避した。
    現地近江に遺された一族の末裔の一部は、一度、近江で過ごし、その後に、摂津に移動して「伊勢青木氏の庇護」の下に入って生き延びた。

    「源平合戦」で各地の「青木氏の庇護」の下に散った残党を「額田の青木氏」が呼び集めて、「信長」に若い頃に仕官(1559年頃)した事に成る。
    その後、上記した様に、「奈良の六郷」と云う処に住まいを構えていたと観られる。

    その時、「1598年前頃の青木氏の中での呼称」は「六郷の紀伊守殿」と上記した様に呼ばれていた模様である。(伊賀の青木氏の系譜)

    (注釈 額田での「若い頃]の信長の「遊び友達」では無かったかと観られる。)

    史実としても、確かに「信長」や「秀吉」にもに重用されて勲功を挙げている。

    この「青木紀伊守一矩」と「青木伊賀守忠元」の二人は、その後、信長死後、「秀吉」にも仕えた。

    ただ、この「青木紀伊守一矩とその子孫(俊矩−久矩)」は、「秀吉の家柄作り」に利用されて、「秀吉の青木氏」の発祥の元に使われた。
    「秀吉」に「我が従兄弟」とも発言される等して、取り込まれ、その「母方末裔」と称して二代目(実質四代目)を秀吉の母方親族と観られる者に継承させて「秀吉の青木氏」を作った。
    この「秀吉の青木氏」のその所領は、豊臣政権中は「伊予」や「土佐」の二郡を所領した。

    然し、「豊臣政権滅亡」にて、この「青木紀伊守一矩」は、徳川氏に依り除封(「徳川除封禄」)され、「青木忠元」と異なり、その結果、その一族(久矩)は福井越前の「青木氏の庇護地」に逃げ込んで商いをして生き延びた事が「青木氏の資料」で判っている。
    (現存している。)
    「忠元」の様に「遠祖地の持ち主」であったならば、除封されたとしても、何らかの「遠祖地の支配権(地権持ち)」に戻されている筈である。
    然し、福井越前に主流が逃避しているところから、「近江青木氏系」の「額田郡」に住していた「遠祖地」を失した「青木氏」である事が判る。

    (注釈 他説は矛盾が多い。「従五位左衛門佐」のこの官位は、「賜姓五役」に役する「皇族賜姓族青木氏」にしか与えられない最高官位で永代官位である。
    そもそも、一地方の土豪の「丹治氏系」には与えられる資格は無いし、「丹治氏系青木氏の説」ならば、越前に逃避する必要が無く、徳川方に味方した勲功で「摂津麻田藩」を家康から与えられている事から逃げる必要も無い。
    そもそも、豊臣方に味方している。
    他の説は,何れにせよ「宗派,家紋、官位、官職」の全てに完全矛盾する。
    そもそも、この「永代官位」は勿論の事、丹治氏はその家柄では無い。)

    (注釈 況して、「丹治氏」ならば麻田藩に加わる事が出来、「除封」は受けず、追われる事は無い。
    他説は後付説で論外)

    この青木氏に執っては忌まわしい「伊賀の戦い」は、結局は、「約3年の戦い」と成るが、「忠元」はこの様に懸命に説得工作に出たと考えられる。


    「本所役の忠元」は、「皇族賜姓族の伊勢青木氏・信濃青木氏」に沿う以上は、「伊勢国人」として、「伊勢郷氏」として生きねばならない宿命に縛られている。
    従って、この「仕来り」から、何れの家臣にも成れない柵があった。
    しかし、「信長」に「抗う事」は「青木の氏是」に反して、”「戦い」”を仕掛けなければならない填めに成る。

    第一次の「丸山の戦い」(1578年−1579年)では、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」の「青木氏の顔」を隠しての「ゲリラ戦」で応じて勝利した。
    然し、何時までもこの姿勢を保つ事は出来ない。
    「伊勢三乱」に発展する事の前に、そこで、「本所の宗家忠元」は、「皇族賜姓族の伊勢青木氏・信濃青木氏」に代わって止む無くこれを受けた。

    つまり、出来る限り「伊勢の青木氏への衝撃」を押えたのである。

    「名張戦、伊賀戦」では、「青木氏の記録」では、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」側は、名張城から「窮地に陥って伊賀者18郷士」を救い出す事に限定して「救出戦」(1581年)で応戦して救出した。
    (この伊賀衆を青木氏の定住する地域の「神明社組織」で保護した事が判っている。)

    「本所役の忠元」は、上記した様に”「紀伊守の仲介」”で何とか難を逃れた経緯があった。

    この様な事もあって、江戸期に成って「家康」から「忠元」は”「除封」”は受けたが、「遠祖地の支配権」は安堵された。
    この時、「伊勢の紙屋の青木氏」の「家康への執り成し」であったと観られ、共に「伊賀と伊勢と紀州と堺と摂津」の一部を「本領安堵」されたのである。
    (前段等で論じた 参照)

    (注釈 「紀伊守」は、平安期に「遠祖地」を失っている事と、”「秀吉との関り具合」”から”敵対した”と観られて許されなかった。
    この「紀伊守の動向」を考察すると、特段に「徳川氏に対しての功罪」は無い。
    「除封の憂き目」を受けるものとして唯一つあった。
    それは、上記の”「秀吉の関り具合」”とは、”「秀吉の青木氏」の事”だが、それが”「豊臣家一族」”と見做されて許されなかったのである。)

    そこで、この様な「秀吉の青木氏」に観られる様な典型的な「家柄格式の引き上げ」の為に利用された”「婿養子」”に類する縁組が「二つの青木氏」にあった。
    これは、「姓族」をはじめとして、他氏の場合は、”「権力」”に裏付けされた”「家柄の吊り合い」”の「引き上げの為の縁組」は、常である。
    然し、「二つの青木氏」の場合は違った。
    それは、”「権威」”に基づく悠久の「歴史と伝統」を持つ”「格式の獲得」”にあった。

    そこで、従って、「伊勢青木氏」を始めとして、他の「二つの青木氏」の調べられる範囲での「系譜添書の内容」から、果たして、どの様に成っていたのかを調べた。


    ここで、その一つの例として、先に一つ疑問があるので、検証して観る。
    それは、上記の様に「近江青木氏と伊賀の青木氏」との血縁は進んだ。
    然し、”「近江青木氏」と「忠元一族」との血縁が何故起こらなかったのか”である。
    実際は、「血縁」が起こっていない。
    普通なら、上記の様に成っているのであれば、「忠元一族との関係」もあったと考えるのが普通であろう。
    確かに、「織田側の重臣」に対し、一方は敵対する「伊賀側の支配者で指揮官」である。
    大見栄きって出来ない事は判る。然し、「伊賀青木氏」とは出来ている。

    何か出来ない理由があって出来なかったのか。「100年後の末裔」にも起こっていない。
    その理由が調べるが記録に出て来ない。

    唯一つ考えられる経緯の事が次ぎの経緯に在る。
    「青木氏の柵具合」が判る出来事であると観られる。

    上記に経緯として、「近江青木氏」の一部を論じたが、「近江の源平合戦」「美濃の源平合戦」の何れにも敗退して滅亡した。
    辛うじて、「一矩の先祖の一族」は「伊勢青木氏」等に依って「額田の青木村」に救出された。
    この時、「近江青木氏」の「滅亡の憂き目」の原因は、「秀郷流青木氏」が、”「近江や美濃」で助けに入らなかった事”が敗退したと受け取っていたと考えられる。
    何れの地にも「秀郷流一族」は存在した。
    況して、「賜姓五役補完」としての役目もある。

    つまり、”「近江青木氏」が「存亡の危機」の時に、その役目を、何故、果たさなかったのか”と云う不満である。

    確かに、その事は云える。
    平家もこの事(出て来ないと云う事)を知った上での「戦い」であった筈である。
    何故ならば、「二つの青木氏」には、「青木氏の氏是」がある事を知っていたからである。
    主導役の「伊勢の皇族賜姓青木氏」が動かなければ、「特別賜姓族の青木氏」も動かないであろう事は誰が考えても判る。
    況して、「近江青木氏系一族」と「美濃青木氏系一族」は「青木氏の氏是」の「奈良期からの禁令」を破った事でもある。
    同族と云いながらも、「氏族」の生きる前提は、「嵯峨期の詔勅」に依って決まっている。
    「賜姓五役」や「三つの発祥源」や「国策氏」等の「生きる目的の為の役務」は与えられていない「氏族」である。
    この「異なる生き方をする源氏」に対して、「同族の賜姓源氏」に引きずられて禁令を破っている。
    後勘の者として観ると、「近江青木氏等」は「氏の歴史的な事柄」を鑑みても、「思考原理」が短慮であり、根本的に間違っている。
    「先祖の伊勢側」もこの様に受け取っていたと観られる。

    これだけでも、当然に同じ考えに立つ「特別賜姓族秀郷流青木氏」も参戦する事は先ず無い事は判る。

    然し、「近江青木氏側」は、”「五家五流]の内の「三家」(甲斐も行動を途中まで行動した)が動いたのだから助けるのは当然であろう”と考えた事に成る。
    つまり、この事は、「近江青木氏」が、「二つの伊勢青木氏」に対して、奈良期から務めて来た”「主導役」”を素直に認めていなかった事に成る。
    そもそも、「四家制度」に依っては、確かに「五家五流」は「平等の格式家柄」にある事は史実である。
    何か特別に「二つの伊勢青木氏側」に「朝廷の賜姓のお墨付き」が在った訳では無い。
    それは「647年の発祥時の経緯」の差だけであり、伊勢の「皇祖神の地の守護の経緯」の違いだけである。
    後は同じである事も事実である。

    「近江」にして見れば、”朝廷との直接の繋がりの場にいた自負”もあった事も事実であろう。
    「青木氏の氏是」にしても、”「危機存亡」の折に「氏是」に拘るのか”と云う考え方もあった様でもある。
    況してや、この”「青木氏の氏是」は、「施基皇子(伊勢青木氏)の遺言」でもあるだけではないか”と考えた事も事実である。
    そもそも、「川島皇子の血筋(近江佐々木氏始祖)」も持つ「近江青木氏」に執っては、「青木氏の氏是」がある事は認めるも、「伊勢青木氏」が思うほどの「絶対性]は無かった事も否めない。
    (資料にもそれと読み取れる一文もある。)
    この点から考察した場合は、末裔としての「後勘の判断」としては、納得はしないにしても「近江青木氏の言い分」は排除でき得ない。
    「二つの伊勢青木氏」もその分での配慮もあったと考えられる。

    然し、雌雄を決して、最悪全ての「青木氏」が「滅亡の憂き目」を受ける事は避けなければならない。
    役務である以上は、「近江青木氏」等の様に、”一か八か”は成り立たないと考えた筈である。
    これは、”「青木氏の問題だけでは無い。事は朝廷まで及ぶ」”と租借していたと考えられる。
    従って、「伊勢側」は、”「知略」を使って遣るだけの事はしよう”と考えた筈である。
    現実に、上記した様に「知略」の限りの「援護と庇護」を行った。


    現実に、記録にある様に、「平家軍」も「信濃域」に転戦していた「軍勢」をこの「美濃の戦い」に呼び寄せての戦いであった。
    これで、場合に依っては「秀郷一門」が出て来る事も予測して「平家軍」も準備はしていた事が判る。
    近江には、「近江の蒲生氏」(後の「伊賀の戦い」の指揮官 西の公家政権の監視役)、「美濃」には、「州浜紋類]と「片喰紋類」の「秀郷流青木氏」が定住地である。
    この「秀郷軍(主軍は青木氏)」が動けば、「平家軍」は明らかに「挟み撃ち」に合う。
    「持久戦」に持ち込まれれば、「平家軍の全軍餓死全滅」である事は間違いは無い。
    故に、そこに至る前に慌てて「富士川合戦」に持ち込んだのである。
    そして、形勢が決まると直ぐに軍を引いたのである。
    当時の「三大組織的軍事力」は、「源氏力、平家力、秀郷流青木氏力」であった。

    「近江青木氏」が考える事とすれば、”何故、「合力」は別としても、「滅亡」までに至らなくても手前での「援護なり救援」が無かったのかである。
    ”あれば、「滅亡」までには至らなかった”と考えていたのではないか。

    況してや、歴史を通してみれば、「伊賀の件」でも、又しても、同僚の秀郷流「蒲生氏郷」が指揮官であった。
    この釈然としないものが代々あったのではないかと考えられる。
    然し、「伊勢側」から観れば、”何を勝手な事を”と成る。

    「関ヶ原戦い」、「大阪の陣」共に助けは無かった事から、又しても「裏切られた感」を持っていたと観られる。
    [富士川の戦い」の時にせよ、「伊賀の戦い]の時にせよ、「大阪三戦」の時にせよ、「徳川除封」の時にせよ、”「賜姓五役」で繋がる青木氏同族”でありながらも、何れも「秀郷一門の合力」は一切無かった。
    「同族青木氏」と観れば、普通は合力程度はある。
    現に、「伊勢の皇族賜姓族の青木氏」の賢明な側面からの「救援と庇護」はあった。
    「人心」としては比較されるは常道である筈である。

    (注釈 「青木氏の氏是」は、「賜姓五役と三つの発祥源と国策氏」の「役務」から、”「他氏への仕官」”は「最も厳しい禁じ手」である。
    あくまでも、”朝廷が認める「永代地権」を持つ「郷士、国人の範囲]で留めなくてはならない。”
    故に、「五家五流青木氏」は、永代の「不入不倫の権」に護られていたのである。 
    この「掟」も「近江青木氏」は「信長秀吉の家臣」と成って破っている。
    「伊勢青木側」から観れば、”何をか況や”である。
    実際も、矢張り、「援護 支援 庇護」はするも、その範囲では一応の「付き合い」はするも、「血縁の範囲」では、出所進退ははっきりしている。
    然し、室町期から江戸期には至っても何も無い事もあり、付き合い難ったのではないだろうか。)

    「史実」として、この様に成るが、調査研究を進めているが、的確な資料は「青木氏」の中では「直接の血縁」と成るものは出て来ない。
    恐らくは、筆者の観方は、「伊勢側」が後に末裔がこれらの歴史を恣意的に”隠した”のではないかと観ている。
    当時の慣習としては、何らかのものがあるのが普通なのであるが無い。

    唯、「忠元側」にして見れば、「賜姓五役の補完」としての「青木氏の氏是」に縛られていた事が在る。
    非常に難しい立場であった事も判る。
    然し、”「伊勢の皇族賜姓族の青木氏」の賢明な側面からの「救援と庇護」(知略)はあった” 程度の事は出来た筈と観られた事も考えられる。
    逆に、この「救援と庇護」が目立った事も考えられる。


    そこで、別の方向で次ぎの研究をした。
    「皇族賜姓族」では、「伊勢青木氏」、「信濃青木氏」、「近江・摂津青木氏」の三氏と、「特別賜姓族」では、「伊勢秀郷流青木氏」、「関東秀郷流入間青木氏」、「讃岐秀郷流青木氏」の三氏に付いて調べた。
    その結果、その「家柄格式」からして、一寸、”「不思議な血縁」”と観られるものがあった。

    それは「本家、分家、支流」の如何に関わらず各所に存在していた。
    特に、その傾向として、秀郷一門一族の中でも、「関東の秀郷流青木氏」に多く存在していたのである。

    むしろ、「秀郷一門宗家」よりも「第二の宗家」と呼ばれていた「青木氏」に起こっている。
    これは、「秀郷一門宗家の血流」を護る為に、防護していたと観られる。

    唯、その中でも”「青木氏の分家筋」”が「青木氏宗家」に代って「他氏との血縁関係」を結び、その「政略的な働き」をしていたと云う事に成っている。
    つまり、「他氏の血流」を入れていると云う事である。
    その「血流の入れ方」には色々な方法があるが、特徴的な方法は、”「婿養子」”が断然に多い。
    この”婿養子”は、「秀郷一門の主要八氏」までが採用している「類似の四家制度」を超えている。
    「四家制度の範囲」に無いところからの”「婿養子」”に成っている。
    添書に書かれている内容からではあるが、ただ、「氏名」からの判断で観ると、「藤原氏北家筋9氏」からは超えていない。


    唯、「類似の四家制度」を厳格に採用している「秀郷一門主要五氏」も、”ある面”で「他氏との血縁関係」の血流を護りながらも適度に行っていた模様である。
    しかし、それには、無規則に行われているのでは無く、ある歯止めの様なものがあった。
    その中でも、その”「婿養子の血縁」”には、”「主要五氏の調整役の進藤氏」”が頻繁に関わっている事が判る。

    この「秀郷一門の主要五氏」の「文行系の進藤氏」は、“他氏との血流を広く入れる役割”を果たしていたと考えられる。

    ところが、その割には、「文行系の進藤氏の本家筋」が、目立って「跡目」に苦労している系譜に成っている。
    矛盾している。これが「不思議の一つ」であるのだ。
    ここには、”何か婿養子の血縁に隠された何があった事””が云える。

    その”隠された何かあった”と云う事が判れば、重要な青木氏の生き様の判断要素に成り、当時の「青木氏が持つ歴史観」と成り得る。

    ”何か不思議”で、先天的に”「女系族」”なのかもしれないが、そもそも、この”「婿養子の跡目」”が頻発している。

    するとこの結果、他氏から入る事に依って”「一族の血流性」”(純血性)が低下して、結果、「子孫力と組織力」が低下していたのであろう事が判る。

    「女系性」が進藤氏の一族枝葉全般に起こる現象でも無い筈である。
    依って、問題は「女系性」では無く、「一族枝葉全般に起こる確定的な現象」と成る。

    それは、そもそも、「四家制度」の様には行かずに、「嗣子のやり繰り」が一族内で効かなくなる傾向があった事に成る。
    その結果、挙句の果てには、「血流性」が三代内で低下する事に成って、「他人性」が増して、”「一族争い」”が起こる事に成った。
    そして、益々、”「跡目継承者が少なく成る現象」“を起こす傾向が頻発して、それが常態化して仕舞った。

    恐らくは、この現象が起こっていた事が判る。

    この傾向は、「文行系の一族」にも観られる現象ではないかと判断できる。
    添書には、娘の嫁子、他氏養子、婿養子、跡目養子、養女、養子等の形であるが、婿養子の血縁が多い事が云える。
    「一族存続の在り方」に付いて一つの「文行系の考え方」が在ったと観られる。
    それが、「文行系進藤氏」の様に、はっきりとして「秀郷一族一門の中での役目」であったかは判らない。

    重要 これが”「婿養子の最大の欠点」”とされていた。

    「調整役」を務めいた「進藤氏一族」が典型的な見本である。「青木氏」はこの「進藤氏」を観てこの事を
    充分に承知していたと観られる。
    その為にも、「主要八氏」内で採用した「伊勢の四家制度」に類似した「秀郷流青木氏の四家制度」の理由の一つと成ったと観られる。

    (注釈 この「進藤氏」に付いては、前段でも「円融期の青木氏発祥」に大きく貢献を受けた事を書いた。)

    そこで、この「秀郷一門」の「調整役の進藤氏」が、この「近江の青木氏」の事に関わっていないか調査した。

    そうすると、この「近江青木氏の血筋」を受けた”「脩行系青木氏」の存在”が出て来たのである。

    実は、この「脩行系青木氏」は、「秀郷一門の4代目文行の流れ」の「文行系の青木氏」である。
    「伊賀の青木氏」と同じく「特別の青木氏」である。
    「秀郷流青木氏」は「4代目兼行系の青木氏」である。
    前段で論じた様に、本来は「青木氏」が出ない仕来りに成っている。
    然し、出ている。
    実は、この「脩行系青木氏」は、ある背景があった。
    京に在し”「公家青木氏」”と云われ「公家の血筋」を引く「青木氏」である。
    この「脩行系青木氏」は、「文行系の進藤氏」の系列に入る系である。
    この「脩行系青木氏」は、「近江青木氏との血筋」を持つ事から、特別に「青木氏」を名乗ったとされる。

    この「公家青木氏の脩行系青木氏」は、南北朝末期まで「紀州北部の大掾位」を務め、「若山3000町歩」を所有していた。
    ところが、南朝に加担した事から「紀州掾の除役」と成った。

    一部は「讃岐秀郷流青木氏」を頼り「伊予土佐域」に逃避、主流は本領の美濃に戻った。
    美濃と三河域を勢域とする主要の「秀郷一門の州浜紋族」である。
    現在も、「和歌山県有田市」にこの「青木村」の地名は残っている。
    ここには「脩行系青木氏」の末裔子孫はある僧侶の一族末裔を除いて定住していない。
    唯、紀州には女系で繋がる傍系土豪の玉置氏等が現存する。
    室町期に在住した「藤原族青木明恵僧侶」が開いた「明恵温泉」で有名な地域である。
    この「青木明恵上人」は、紀州の「藤原族の頭目」として地元の民から慕われ、後に剃髪して上人と成った紀州、伊勢、奈良域では有名な人物である。

    これが、「調整役の進藤氏」の採った「仲介」ではないかと考えている。

    唯、この「近江青木氏の血筋」の受けた「紀州の脩行系青木氏」の「明恵青木氏の発祥期」が「室町期の何時」であるかは確定する資料が無いので現在は判らない。
    「脩行系青木氏」は平安末期である。
    若干、時代性にズレの疑問もあるが、然し、「明恵上人」として存在し、その末裔は有田近隣に遺しているので、この時期の事である事には間違いは無い。

    考えられる事は、この「明恵上人一族」と「忠元の一族」が女系で繋がったかは不明なのである。
    この事が確定されれば、「近江青木氏」と「忠元の青木氏」との関係があった事が証明できる。
    然し、、現在は判らない。

    (注釈 近江青木氏の一矩」が「紀伊守」に任じられたのも、この上記する紀州との所縁から来ている。)

    筆者は、資料有無は別としても,或は消去にしても、「両氏の何らかの血縁」は無かったと観ている。
    上記した様な意識の違いの事も長い歴史の中ではあり得る。
    「進藤氏の仲介」があったとしても近江側が「拘り続けた事」もあり得る。
    何せ「商記録」に出て来ないと云う事は、「伊賀の事件」以後にしても、「一矩末裔一族」は「伊勢青木氏の庇護」の下に「商い」をしているのである。
    共に「商い」をしている立場でもあり、何かがあって当然である。
    ここまでの”「消去」”は無いであろうから、”無い”と云う事は無いのであろう。

    それは、「伊勢青木氏と信濃青木氏」は血縁を繰り返し、「和紙や商い」は元より明治35年まで深い親族付き合いをしていた。
    この事を鑑みると、「近江青木氏」とも”ある”のが当たり前であるが、これは無いのである。

    不思議に、「青木氏の商記録」には「近江青木氏」の事は出て来ない。

    上記に記した様に、「越前」で「商い」を紹介し庇護しているし、直ぐ近くの「商いと防御の拠点の摂津域」にも庇護している。
    何も出て来ないのは「不思議な事」なのである。普通は何かしら出て来る。

    (注釈 史実としては、平安期末期には、滋賀で伊勢の上田郷から出て来た「荒くれ者」が滋賀に残留した「近江青木氏の跡目」の途絶えた「老婆とその娘」の家を襲い、その家を奪い滋賀青木氏を名乗った。
    この近江に帰った本筋の「近江青木氏」が、この搾取の「滋賀青木氏」と「[青木氏奪還戦」を繰り広げ敗退した。
    更に、秀吉の時代に再び、秀吉立ち合いの下で、この「滋賀青木氏」と青木氏奪還戦」を展開し勝利した。
    この時の「近江青木氏」とは、「近江の青木一矩」であった可能性がある。この二件がある。)

    解き明かせない疑問なのである。何か変である。
    越前で「神明社」を通じて「商い」を指導し、紹介して江戸期中期には「大店」を営むまでに成った事も判って居る。
    「近江の青木氏の血筋」を受けている「仲介役の進藤氏系」の「脩行系青木氏」が伊勢近くに居たにも関わらず無いのは不思議なのである。


    上記の様に、「一族一門の血縁」に関しては、その「氏の存続」に大きく関わっている事は判る。
    然し、血縁で解決できない何かも働いている事も「青木氏」の中で起こっていたのである。
    これらの事は、「自然の成り行き」で起こる事は先ず無い。

    一族一門の誰かが、一族一門を繁栄させる為に、仲よく護り合う体制を作り上げる為にも、その役目を演じているのである。

    それが、下記に論じる「秀郷流文行系進藤氏」がこの役目を演じていたのである。

    依って、この「進藤氏の動き」を調べれば、何かが判って来るのである。
    現に、「九州の永嶋氏等」この事から判った事でもある。
    従って、ルーツを調べる時には「進藤氏の動きや系譜」などを調べるのが通例である。

    現に、上記の「脩行系青木氏」はこの「進藤氏系の一族」である。
    このことから多くの事が判るのである。
    「青木氏のルーツ」を調べる時には、この「進藤氏の検証」は欠かせない。
    それにこの「進藤氏の系譜」には,特徴があって、「系譜」よりも「添書」の方が大きいのである。
    従って、一見「系譜」では無く「歴史本」と観える。
    読み込むには漢文の技量も必要として大変である。
    読むだけでも大変なのに、その上にその文章に持つ意味合いなども読み取らねばならないのである。
    「秀郷一門の歴史」を知るには、「古い時代の歴史観」なども会得するには、「佐々木氏の研究資料」と共に「青木氏の参考書」なのである。
    避けて通れない「進藤氏」なのである。


    この「進藤氏の系譜」は、この典型的なパターンを起こしていて、結局、「進藤氏の本家」が二つもある様な現象が起こっている。
    そもそも、血縁を進めるこの”「婿養子」や「嫁子女」“には、この問題が「潜在的」にあり、「四家制度」では、「婿養子」を他氏から積極的には採らない仕来りに成っていた。
    この理由には、更に、”「本家割れ」”のこの事も懸念していたのである。

    「信濃足利氏系青木氏」でも、「信濃足利氏」でも、「甲斐青木氏」でも、「甲斐武田氏系青木氏」でも、「美濃土岐系青木氏」でも起こっている。
    「青木氏族の関係族」にはこの様に起こっているのであるから、一族を上手く取りまとめる役割の族が必要に成っていたのである。
    これが進藤氏と云う事である。

    この「調整役の進藤氏」が強い影響の受けたこの“「婿養子の弱点」”とも云うべき現象を無くす目的から、次ぎの様な手立てを講じていた。

    前段で論じた「円融天皇の目論見策」から、「秀郷一門」の「青木氏宗家」には、“「秀郷一門宗家」の「第三子」を優先的に跡目に入れる事” を、朝廷から「賜姓時」に命じられていた。
    その「跡目」は、“宗家並に守られる仕組み”の中にあったのである。
    この「仕組み」が、「第二の宗家」と呼ばれる所以でもある。
    これで、「婿養子の弱点」を防ぐ事をしていたのである。
    と云う事は、当時の時代の皇位族でも起こっていた事を物語るものであり、「天皇」も知って居た事に成る。

    この様に「氏家が割れる現象」が出れば、「宗家」から強引に跡目廃嫡をしても「跡目」を入れる事で、「氏族の筋目」は又基に戻る事に成る訳である。

    (注釈 「秀郷宗家の出自」と成っている「佐野氏」から跡目を受けていた。佐野氏は秀郷出自氏であり、一門の中でも主要五氏の中でも最高位の位置にいた。)

    「秀郷流青木氏」の「始祖の千国」は、「千常」を嫡子として「秀郷の嗣子の第三子」である。
    この系譜で、四代目の「兼行系の青木氏」に限って、殆ど、「婿養子の跡目」は無い。
    その為に、「116氏」からの「嗣子の跡目」で繋いできている。
    その中に、「秀郷一門宗家筋」から平安期から江戸初期までに「4回程度の跡目」が入っている。

    これは、恐らくは、次ぎの様に成る。

    「母方」で繋がる「賜姓族の補完と云う立場」を護ろうとする意志が働いていた事。
    「第三子の掟」もあり、“「四家」“と同じ様な”「何らかの仕組み」“を採って居た事。

    以上で判る。

    「家紋分析]で観ると、「116氏」と云っても「本家筋」を中心に「跡目」に据えている。
    中には、一度、「本家筋の嗣子」にした上で「青木氏の跡目」に成っている。
    この場合は、「跡目」は「青木氏の本家筋の跡目」に成っている。

    この様に、「秀郷流青木氏の四家方式」は、次ぎの様に成っている。
    「秀郷流青木氏の宗家(本家)」は、「伊勢」の「四家方式の二段方式」に類似していた。
    「伊勢秀郷流青木氏(本所)」は、「本所役」として、「賜姓五役の補完遂行の役目」がある事から、「五家子流の皇族賜姓族青木氏」と同じ「四家方式」に従っていた。


    先ず、「主役の四家」(宗家 主要五氏)がある事。
    その下に繋がる「副役の四家」(本家 主要八氏)がある事。
    以上の「13氏の役柄」は「主役と副役」から構成されている事
    「副役」は「16家」(本来32家 本家筋)から構成される事。
    「主役の四家」と合わせると「計20家」(45家)の範囲で構成される事。

    以上として「四家制度」に「類似する方式」であった事が判る。
    唯、五番目の「計20家」(45家)は実際は厳密に護られていない。

    「秀郷流青木氏」は、この「類似の四家制度」に伊勢以外は一般の氏族と同じく「本家分家制度」を採用していた。
    これが全体で116氏に成る。
    秀郷一門宗家の赴任地に護衛団として同行する事から、赴任地の24地域には現地孫などの枝葉末裔が発祥する。
    この事から、「末裔の枝葉」は拡大するので、「本家−分家−支流−傍系」が必然的に生まれる。
    「45家」が厳密に護られていなかった理由は、「現地孫の枝葉末孫」が原因していた。
    要するに、「現地孫」は「現地の土豪勢力」が主体であった。
    この「現地孫」は、前段で論じた様に、朝廷の「青木氏賜姓の暗黙の条件」であった事から、避けて通れない仕来りであった。
    その為には、必然的に護れないシステムであった事に成る。
    「赴任地」の「土豪の影響」を強く受ける「現地孫」である事から、論理的にも現実に護る事が無理であった事が判る。

    この、現地の役務上から発祥する「末裔枝葉」には「四家制度」は一切採用されていない。

    類似制の「四家制度」は、武蔵入間の「総宗本家−宗家−本家」の範囲までで引き継がれていた。


    この部分を綿密に調べると、類似制の「四家制度」が護れる範囲に於いては、明らかに“不釣り合いな「政略上の血縁」だな“と云う縁組が出て来る。

    「総宗本家−宗家−本家」までは入間に定住する事に成るので、長い期間の「慣習仕来り掟」は護れる。
    然し、これ「以下の枝葉」は現実には上記した様に難しく、この様な、「不釣り合い」の婚姻が生まれたと観られる。
    既に、調べた範囲では、「45家の範囲の末端位」までは影響を受けていた事が判る。
    家紋分析と主要八氏の系譜の添書からはっきりと分析できる。
    恐らくは、時代が進めば、更に「45家」を超えて、「32家」、更には「13家」と進む可能性が有ったと観られる。
    現実に「家紋や系譜」では、最早、辿れない処の江戸末期では、起こっていたのではないかと考えられる。

    故に、116氏もありながら「あらゆる伝統」が不思議に遺されていないのはこの事から来ていると考えられる。
    「ルーツ掲示板のお便り」にもよくこの事が現れている。
    最早、殆どである。

    比較対象として、「四家制度の伝統」を頑なに遺した「伊勢青木氏」と「信濃青木氏(諏訪族含)」と「近江佐々木」には、その”「伝統」”は比較的遺されているのはこの事から来ていると観ている。

    (注釈 「甲斐青木氏」は僅かに子孫を遺したが、「甲斐賜姓族青木氏」は僅かに遺しているが、兎も角も、「武田氏系青木氏」は、「武蔵の鉢形」に家康に集団移住させられた事もあって遺されていない。)
    この「四家制度」が「伝統のパラメータ」と成り得ている。
    依って、この「上記三氏」も恐らくは同じと観られるが、伊勢は、最早、筆者の代で間違いなく「終わり」である。
    「四家の背景」と成る「慣習仕来り掟」と相対の位置にある。
    「伝統の価値観」が全く異なる。個人では支えきれない「事の流れ」の中では仕儀無き事と考える。

    「秀郷流青木氏の系譜の状況」に話しを戻す。

    例えば、この中には、「時の政権」の「京平家」との「直接血縁」に関わる「縁組」らしきものが、五代の内に四代も続けて起こっている事が読み取れる。

    「平家一門からの婿養子の縁組」
    一つは、「関東の京平家筋」(平氏の岡田氏 武蔵青木氏に)
    二つは、「関西の伊勢域筋」(平氏の嶋崎氏 武蔵青木氏に)
    三つは、「京平家の近江域筋」(平氏の本家 蒲生氏経由、伊勢青木氏に)
    四つは、「武蔵の京平家筋」(平氏の本家 千常の宗家経由、武蔵青木氏に)


    以上の四ルーツである。

    ここで、興味深いのは、「三つ目の京平家」から秀郷一門の「近江蒲生氏」に入り、その末裔の一人が「秀郷流伊勢青木氏」に入ったとしている事である。
    そうすると、この人物は下記する「青木玄審梵純」である事に成る。

    先ず、その第一点が、その子孫が前段と上記で論じ、下記でも論じる”「青木忠元」”である事に成る。

    次に、その第二点は、下記するが、「京平氏の支流末裔」の「信長」は、この「京平氏の血筋」を引く「蒲生氏郷」を特段に可愛がった理由がここで一つ観えた事に成る。
    「京平家」の中の「同じ家筋の血筋」を引いていた事である。
    信長の家紋は、総紋を「揚羽蝶紋」にして、美濃の地域に分布する「たいら族」の「織田木瓜紋」である事からも判る。
    この二点が大きく働いていた事に成るのではないかと観られる。


    とすると、この「忠元」は、次ぎの様な関係に成る。
    「京平家A(女系)」−「青木玄審梵純」−「青木忠元」
    「青木玄審梵純」−「蒲生氏郷」
    「京平家A」−「織田信長」

    この三つの式から、次ぎの関係式が生まれる。

    「青木忠元」=「蒲生氏郷」=「織田信長」

    以上の関係式が生まれる。

    以上の系譜から観ると、「伊賀の戦い」の根底が読み取れる。

    前段で論じた「信長」の「青木忠元の扱い方」と「伊賀の戦い方」が明確に読み取れる。

    合わせてこの事で、上記で”「疑問」”と成った「近江青木一矩一族と青木忠元の一族との血縁」が難しかった事がこれで判る。

    (注釈 これは、「調査資料の有無如何」にも左右されているので、四件に関わらず、他にも多く観られる筈である。)

    この「血縁の現象」は、矢張り、主には、「鎌倉期末期から室町期初期」と、「室町期末期から江戸初期」の二期に集中している。

    何れ二期ともに、例外なく”「勃興氏の発祥期」”である。
    「青木氏側」では、「24地域」に定住した「青木氏の跡目」を護る必要から、より“隙間の出る時期”でもあった。
    この事からも符合一致している。

    実は、「青木氏の歴史観」から観て、この4つの”「不思議な血縁」”と観られるものは、次ぎの様に成る。

    鎌倉期末期の「太平記」(1318−1368年)には三か所
    平安末期の「東鑑」(1180−1266年)には二か所
    平安期中期の「承久記」(1221年)には二か所

    以上の事が、「青木氏の事」(生き様)に付いて書かれていて「何かの縁組」があった事が読み取れる。

    他に、「地方の古書」(東作志 因幡志 伊川津志 額田志など)にも”何等かな形”での「青木氏の生き様」が描かれている。

    特に、「伊川津志」や「額田志」は「青木氏の定住地」でもあり、且つ、歴史的にも「額田」は、「青木氏の生き様」の大きく有った処で、「有名な史実」が遺された地域でもある。

    この事が「古書」に態々書かれていると云う事は、それだけに、“青木氏の血縁に掛かる関心”が、「氏家制度」であった為に一般社会にも強かった事を意味している。
    つまり、周囲からは「青木氏」と血縁する事が、“将来を約束された様な「羨望の目」”で見られていた事に成る。

    これらの読み取れる「生き様」から観ても、他氏は、“「青木氏」に何らかの形で取り入った血縁関係に関わるもの”である事が記録されている。

    その多くは、「遠縁」と目される立場の要するに“「縁籍筋」”からである。
    要するに「四家方式」、又は、「本家方式」の”「縁籍筋婿養子」”で入ったと観られる縁組で興った「青木氏」である。

    つまり、「純血性の血縁」と「吊り合いの取れた血縁」を基本にして「縁籍筋の血縁筋」で子孫を繋いでいた事が判る。
    そして、時々、「政略上の婿養子」を“他氏から入れる”と云う「仕来り」で運営されていた事に成る。

    そもそも、「四家制度」とは、ただ恣意的に“「政略的な婿養子」‘を排除したところが異なるだけある。
    そこで、「秀郷流青木氏」の本家筋までは、ほぼ同じ「子孫存続の方式」、況や、「慣習仕来り掟」で「氏」を運営していた事に成る。

    実は、この「四家制度」を敷く「伊勢青木氏」でも、上記した様に、当に、この“サンプル”とも云うべき出来事が現実には系譜を調べると起こっているのである。

    伊勢が混乱に巻き込まれた天正期に、「青木氏の遠縁」が持つ縁籍筋から、この“「政略的な婿養子」”が入っている。
    つまり、「家紋分析」でも判るのだが、完全に「血縁性の無い他氏」で「東隣国の豪族」からである。
    普通、本来は、「四家方式」では、明らかに「縁外」である。対象外の血縁と成り得る。

    ただ、上記の様な「20の顔の問題」があって、この「縁籍外」の形で入ったこの“「婿養子」”は、「放蕩三昧」にて問題を起こした。
    そして、「四家の福家」からの注意も聞かずに、遂には、「四家主役の福家」から「養子縁組」を早期に外されて「追放の処置」を受けている。
    この者は、「青木氏部」を統括する「四家の5の面 20の顔」の一つに組み込まれていた。
    どの「部の者」かは不明であるが、「青木氏部」は、そもそも「技能技術の必要性」から「長年の経験」を必要とし、「欠員」が起こる可能性が高かった事がある。
    そこで、「遠縁」を通してここに付けいられた事に成る。

    恐らくは、調べた範囲では、”「神明社建築」に関わる「絵画の部」”に問題が起こったものと考えられる。
    この者は「職人」で「高い仕事知識を持つ者」が、「他氏]に居て、それが「遠縁筋の配下」に潜入した。
    そして、主家に取り入り、その後に優秀であった事から「四家」に最初は「弟子入りの形」で入った。
    後に“「婿養子の形」“で廻された事に成るらしい。
    この者が放蕩三昧で外された後も、この「養子縁組の青木氏」は、「明治3年の苗字令」で、その末裔は引き続き「青木氏」を名乗っていて「子孫」を拡げている。
    現在も、関西の和歌山南部と大阪のある地域で「伊勢青木氏の末裔」と名乗っている。(元は藤田姓)

    矢張り、これは「自らの家の名声」を高めようとする行為であって、“除名追放された汚名”が在るにも関わらず、「姓名」を基に戻さなかった事が証明されていて、現在でも“末裔だ”とも吹聴している位である。
    「当時の内容」から観て、「福家」も驚くほどの非常に才覚の訊く有能な人物であったらしく、“撹乱して跡目を乗っ取る手順”であったが、上記する“「四家制度」”の「チェック機能」が「四家の青木氏」に働いた。
    そして、この時期に伊勢周囲の他氏の乗っ取り成功例の様には行かなかったと云う事であろう。

    (注釈 9件も伊勢域で興っている。 主に「信長」が郷士や土豪に仕掛けた「伊勢謀略」の「北畠氏関係」で、 歴史上で有名な事件になったのが2件も起こっている。
    この内の1件であった。)

    これは、恐らくは、失敗に終わったのは、“「四家制度の中味」”が充分に理解されていなかった事に成る。
    これは、史実でも明確に成っているが、“「信長の伊勢策謀」”の一つであった事ではあった。
    しかし、失敗したにも関わらず、この除名追放の後、「青木氏」を「姓名」として名乗り続けたのは、その者が「信長の威光」を恐れて、その後も「最低限の策謀」を続けていたと観られる。
    この「四家」に対して、この「策謀」を潰し続けていた事が、「南伊勢」」と、「桑名」と「脇坂」と「上田」の「青木氏」の「三つの出城のある地域等」で、「青木氏の土地の混乱」が同時期に起こされている。

    「南伊勢地域」を含む土地(地主)には、「青木氏の和紙の楮の殖産地」が在った地域である。
    この記録から観ると、「出城・寺城への直接攻撃」が記録の中には無い事から、「伊勢シンジケートの反撃」を恐れての事であった。
    その「攻撃対象」は、「殖産地の畑地の破壊工作」などに向けられての「撹乱」が連発して起こされている。
    「信長」からその様な指示を受けていたと観られる。

    この様に、“「四家方式」”では成り立たない縁籍が、「東隣国」(家紋から信長の影響を受けた土豪)から組まれていてた。
    この排除後も「小さい混乱」が続いているところから、明らかに何らかの「政略的な謀略」が働いていたと観られる。

    「青木氏の四家制度」の中では、「婿養子の策謀失敗」でも判る様に、「乗っ取りに依る内部撹乱戦法」は通用しない事が判って、「乗っ取り」を止め、「家臣を含む北畠氏関係族」に仕向けた様に、「周囲の攪乱戦法」に出て来たと観られる。

    (注釈 実は、先祖は、「信長」には理解を示しながらも、取り分け「秀吉」に対して余り良くない人物評価をしていた様である。
    これが口伝にて良く伝わっている。)

    (注釈 役無き事とは思うが、末裔の筆者の「織田信長」評は、「青木氏由来書」の再現を担った事から「様々な歴史観」が生まれてか、先祖とは異なっている。)

    そもそも、「猪突猛進 直実激情型 無悲無情」と評価され通説化されているが、決してそうでは無意。
    筆者は、元より口伝に依る先祖も、これほどでは無く、“極めて戦略家”であったと観ている。
    その「信長が描く戦略」が、「人の数倍」もの領域までの“「読み計算」”が、頭の中に“絵に観る様”にまとめ描かれていて、これを「凡人」から観れば、それが「異常の領域」と映っていた事であろう。
    「偉人賢人の信長」からすると、 “何でこんな程度の事が判らないか”と観ていた事の、その”「落差の行動」“が通説化したものと観ている。
    「秀吉」はそれを理解していたのであろう。

    通説化した「猪突猛進 直実激情型 無悲無情」の程度の人格を持つ人物が、室町期の戦国の中で、人を動かす事が出来なければ、一土豪の支流から天下を取るまでの者に成る事は不可能である。
    これは現世においても同じである。“「社会の通説化」に論理矛盾”が生まれている。
    その論理から観ると、「明智光秀の堅物」は、通説では逆に「賢者」の様に云われているが、「伊勢青木氏の論理」では”「愚者」“と成る。

    (注釈 関西の言葉で、一々の事は”賢い”のだが、常に結果として良い結果が生み出されない人物の事を、”かしこあっぽ”と云う言葉で呼ばれる。)
     
    故に、「信長」を理解していた”秀吉は天下が採れた“とする論調である。
    確かに、「伊勢の信長仕儀」を具に観れば、通説では成し得ない事が良く判る。
    「信長」に最も信頼された“「蒲生氏郷の治世」”からでも「信長」の考えていた事が良く判る。(下記)
    依って、「二つの伊勢青木氏」は、この“「信長の仕掛け」”に早めに気が付いて手を打った事で難なく終わった。

    この事は、先祖が「信長評」に対して、「稀にみる戦略家」と観ていた事を物語る。
    それだけに「婿養子」を含め「伊勢衆の周囲に起こる事」に付いては、“警戒をしていた”と云う事であろう。
    其れが「早目」と云う処置に出られたと観ている。
    そもそも、「四家制度」から選ばれて、「伊勢シンジケート」から「信頼された福家」である。
    それほどの「愚人」では無かった筈である。
    「通説化の様な人物」ではなかった事を意味するし、もし「通説化の様な人物」であれば、“婿養子”は採らない程度の才覚は充分に持ち得ていた筈である。

    然し、その後は、この「乗っ取り」に依る「撹乱戦法」の「初期戦」から、「名張の清蓮寺城」の「中期戦」に持ち込まれて、最早、手を引く事は出来ずにいた。
    そして、この“「流れ」”に委ねる事以外には無く、「悠久の禁」を破ったのである。

    (注釈 「伊勢シンジケート」を使った「ゲリラ撹乱戦法」を採った。)

    この“「ゲリラ戦法」を採った“と云う事に大きな意味を持つ。
    「通説化の様な人物」であるとすれば、「ゲリラ戦法」は、最早、適応する事は出来ないし通用しない。
    もし、「通説化の様な人物」とすれば、「子孫存続」を前提とすれば、「商いの部」や「青木氏部」を遺したままで、一時、新宮に早急に、”「青木氏」“だけは引く以外には適用する方法は無かった。

    そもそも、「二つの青木氏」は「賜姓族」として、「子孫存続」が「絶対命題での氏是」でもある。
    確かに「三つの発祥源」ではあるが、「武士」の様な「武の仕儀」は採れない立場にある。
    「ゲリラ戦」を採らずに必ず引いた筈である。
    然し、「ゲリラ戦」を採った事は、「通説化の様な人物」ではないと観ていて、先祖は“「戦略家の評価」“を持っていた事に成る。

    「戦略」、即ち、「知略」である。
    「知略」には「知略」を以って応じるが「戦いの常道」である。
    この「ゲリラ戦」には、この様な意味が含まれているのだ。

    実は、この全く同時期に、「村上源氏」(「具平親王」の「公家源氏流」の支流末裔)の「伊勢北畠氏」に「織田信長」の次男の「信雄」が「跡目養子」(1569年)に入った。
    然し、「北畠氏」の内部(1575年)を撹乱して、北畠氏(1576年)を潰している。
    当に「武」では無く「知略」を以ってして応じている。
    この事で、「通説化の人物」では無く、「戦略家」である事に間違いはない。
    つまり、「先祖の判断」は正しかったと観ている。

    そもそも、この「北畠氏の村上源氏」には、他に「致平親王」の正規の「賜姓村上源氏」がある。
    つまり、「嵯峨期詔勅」による「第六位皇子による賜姓族」ではない「公家源氏」で「武家源氏」では無い。
    「公家源氏」である。
    この”「公家源氏」”には、そもそも大きな性質上の意味を持っているのだ。

    この事の意味が、後に「大きな意味」を持つ事に成る。

    「青木氏」はこの事を読み込んでいたと観られる。(下記)

    その後、この「信雄」は「織田氏」に戻している「撹乱の戦法」の有名な事件である。
    室町期末期には、「信長」の“「京の権威」に対する挑戦”、即ち、「比叡山焼き討ち」「石山本願寺攻め」等があった。
    しかし、その前に、この「公家の北畠氏」は、「建武中興」にて伊勢が「不倫の権」で護られている「伊勢」に恣意的に移動した経緯があった。
    そして、「他の土豪勢力」を排除して、遂には「南伊勢国司」(1555年以降 具房)として勢力を張っていた。

    (注釈 当時、鎌倉期から室町期中期までは、西東に「政権」があり、西には「公家政権」、東には「武家政権」と云うものがあった。
    夫々役割を決めて政権を維持していた。然し、実質は「東の武家政権」から人を廻し、監視していた。
    江戸期まで現実にはあったが、「有名無実の状態」であって、上記した「名誉官位の授与」だけのもので、「武家諸法度」で縛られて無力と成った。)

    この「西の公家政権」から「国司」に任じられた「北畠氏」は、この「政権力回復」を狙う「裏工作」と観られていた。

    (注釈 他にも四国なども「武装勢力化した公家」が50年程度の間支配した期間があった。)

    (注釈 鎌倉期から戦国に成って、益々、「天領地」が奪われ減少して行く中で、「聖地の伊勢」は唯一の「天領地」であった。

    そこで、何とかこの「天領地」を護る事の為に、「朝廷の意向」を受けての伊勢移動であった可能性が高い。

    この時期、全国各地で、「公家勢力」に依るこの様な「領地略奪の行動」が起こっていた。
    殆どは、室町期に成って、平安末期に禁止された「荘園制度の名義貸し制度」を利用した「公家側」の無茶な「背任行為」であった。
    室町期の末期に成って、「名義を貸した地方の荘園」であった土地は、「名義貸人」のものだとする一種の「略奪横領」であった。
    この現象が「有力な公家族」によって「朝廷の権威と威光の力」を背景に全国各地で起こった。
    多くは、平安期には天皇や公家等の「名義貸しの土地」も含む、所謂、“「天領地」”が殆どであった。

    本来、「公家」は「武力を持つ事」は「天智期からの禁令」であるが、“室町幕府の統治力の低下“でこの様な現象が起こった。

    そこで、「伊勢神宮の遷宮地」の「伊勢の聖地」は、「伊勢四衆」に依って護られていたが、朝廷は「最後の砦」の伊勢を護る為に、早々と鎌倉期末期に「公家源氏」(北畠氏と呼称)を差し向けた。

    この様に「伊勢」に限らず、「武家社会」に成り、全国各地で「天領地」や「公家地」が益々奪われて行く中で、「天皇の権威」だけでも護れなく成った事から「天皇の意向」を受けた公家自らが武力化して「実質支配」を図ったのである。

    (注釈 この時の潰された伊勢の土豪や郷士等の多くが、「青木氏」の「伊勢シンジケート」に入った。下記)

    ところが、この「伊勢」には、この「北畠氏」とは「生き様」が異なり、且つ、「信長」が嫌うこの“「権威の象徴」”とされる数少ない「氏族」があった。
    即ち、“「伊勢四衆」”が、古来より定住して「聖地」を護る為に集中して居た。
    従って、「後口の衆」と成った「公家で武家を演じる北畠氏」が居る事で、伊勢域は、「紫の色」から「紅の色」に成った。
    この現象を「信長」にも周囲の社会からも観られる事に成って仕舞った可能性が有る。

    「紫の色」は、そもそも「最高権威を指し示す色」で、伊勢は奈良期より”「紫の聖地」”と定められていた。
    その「紫の聖地」が「紅」に変化したと万葉歌にも詠まれ云われていた。
    当時の様子を端的に物語る「色言葉」である。

    其処に、室町末期には、この「特定の権威社会」を潰しに掛かった「信長」が、「伊勢の勢力」北畠氏や六角氏等の排除に掛かったのである。
    その「標的」と見做されたのは、上記の背景で伊勢に入った「北畠氏」であった。

    (注釈 「特定の権威社会」に付いて、“「布武」”を唱える「信長」は、そもそも、“「権威」”そのものを全面否定するのでは無かった。

    それは「権威の支配」の中の“「絶対制」”だけを除き、“「武」を背景とする「共和制に近い支配体制」”を確立させたかったと観ている。

    「朝廷」や「天皇」や「宗教階層」の“「権威」”そのものは認めるも、その「権威」が持つ“「絶対制」”の「排除」を狙ったものである。

    況や、如何なる「共和制」も、結局は、“「上に立つ者の力の権威」”を少なくとも前提としているからで、“全く「権威」の無い処には「国家」は生まれない”が、「現世の条理」であるからだ。
    「人の性:さが」はその様に出来ている。
    この時代までの「社会の権威」は、「人の社会」、況してや「氏家制度」の中では、そもそも必要であっても良い。
    しかし、その「権威」を以ってして “惹けらかし”、“「自らの利得の対象」“とする処に問題があった。

    天正期までは、これを「当たり前の事としての概念」が社会にあった。
    その「当たり前の概念」を良い事の様に利用する階層があった。
    それが、“社会の発展に害を及ぼしている”と「信長」は受け取っていたのであろう。
    (現在社会にも形は変わってはいるが未だ存在する。)

    「信長」は、この事を嫌って、その対象を排除して、その代わりを以って“「布武の権威」”で統制して正しい社会構造を確立しようとしたのである。

    結局は、「明治維新」には、この“「絶対制の権威」”を排除して、“天皇制に観る「形式上の権威」”は妥協として認めるも、上記する“「権威の弊害」”を排除した“「民主の共和制」”が敷かれた。
    後勘からの事として、「信長の目指す社会体制」は正しかったと考えられる。

    「信長」は、更に、これに「楽市楽座」の様に、“「交易社会」”を築こうとしたことが資料からも判る。
    これは、まさしく「天正の300年後」に、“「信長の考え」”に近いもの“が出来上がったとは云える。
    それだけに「300年前」の「凡人愚者」には、当に、“変人奇人の云う事“と受け取られものであって、”「理解の外」“であった事から起こった事であった。
    その現象を短絡的に捉えて”間違った通説化“が起こったものであると考えられる。

    そもそも、「伊勢」は、主に「奈良期からの氏族」である「伊勢青木氏」、「伊勢伊藤氏」、「伊勢秀郷流青木氏」の「伊勢三衆」にて収められていた。
    そして、そこに平安期の「伊勢北畠氏」(天皇家の学問処の家柄)と、鎌倉期の「伊勢伊賀氏」(北条執権と血縁)と、新参の「伊勢長嶋氏」(室町期の「関東屋形」)が参入した構図であった。

    そして、この「六つの氏」から「北畠氏」を除き、「五氏」は江戸期には“「伊勢藤氏」”と呼ばれた。
    しかし、「伊賀氏」の前身を加えて、“「伊勢四衆」”とも云われた時期があった。
    この「伊勢勢力」は、“「伊勢藤氏」”と“「伊勢四衆」”、そして、その配下に生きる「郷士や土豪」の“「伊勢衆」”が存在して居た。
    しかし、この「北畠氏」は,そもそも「朝廷の学問処」でありながら、“「村上源氏の末裔」(実際の「源氏族」では無い)である事”を理由に、“「公家」”が事もあろうに「公家大名」を標榜した。
    そして、あろうことか、「武」を以って伊勢の周囲の他の勢力(伊勢衆)を次々に排除して行ったのである。

    ところが、その「勢いを背景」に、室町期末期には、この「村上源氏の傍系末裔」のこの「公家源氏」は、「伊勢」では「信長の伸長」に対し「武力」を更に伸ばし、それを背景に益々身を護ったのであった。
    そこで、上記する考え方を持つ「武」には「武」で応じる「信長」は、これらの「伊勢藤氏」「伊勢四衆」と「伊勢衆」の「氏姓族」を潰しに掛かった。
    これが有名な「天正の伊勢三乱 五戦」である。

    「信長」の「所期の目的」は、この「武」に方より、「権威の悪弊」を生み出している「象徴たる北畠氏」を排除する事にあった。
    ところが、この「権威の悪弊の北畠氏」に「伊勢四衆」の内の「伊賀氏と伊藤氏」が合力し「信長」に抗したのである。
    そこで、「信長」はこの「伊勢四衆」に初期戦として、「撹乱戦法」で「圧力」を掛けたが、思いも寄らず「伊賀氏と伊藤氏」は引き下がらず「武力戦の激しい戦い」と成ったのである。
    他の「伊勢四衆」の「二つの青木氏」と「新参長嶋氏」は、上記した「青木氏の基本戦略」に基づき徹して“表に顔を出さなかった”のである。

    当に、奈良期からの「悠久の歴史」を持ち、「権威の象徴」の「氏族」であった「二つの青木氏」や、「伊勢藤氏」の過激に成った「伊藤氏」や「伊賀氏」等があった。
    この事で、鎌倉期から伊勢は、「不倫の聖地」で有るにもかかわらず、下記する「招かざる者」の「武の北畠氏参入」に依って、“「策謀の渦」”の中に巻き込まれて行ったのである。

    そもそも、「呼称北畠氏」は、京から移動して“伊勢の北畠に隠居所を設ける”と云う大義で、「不倫の伊勢」に移動して来た事から、「村上源氏の公家支流族」は、「公家」を標榜するも「武家の北畠氏」を名乗った。

    「不倫の伊勢」にあって、乱世にあっても“「太平の地」”を築いて来た。
    この「太平の地 伊勢」を「武」で以って「武家の勢力」を拡大させる事は、赤子の手を捩じるが如しで、極めて容易であると観た。
    そして、ここに“「権威の公家」”から転身して“「富の武家」”の「氏」を興そうとした事が本音なのである。
    そして、南北朝期に乗じて「伊勢全域」、特に、「青木氏」等の「伊勢四衆」か定住する「北伊勢」を極力避け、「南伊勢域」と「大和東域」に渡り「無戦」に近い形で平定して仕舞ったのである。


     「青木氏の本音」
    この時に、多くの「土豪」と「郷士」等は排除された。
    この時に「僧侶」や「修験道師」や「忍者」に身を変えて「伊勢シンジケート」に入り、「経済的背景」を確保して「生活の糧」を得て生き延びた。
    後の「信長の伊勢三乱 五戦」でも生き残った「土豪」や「郷士」までも、又、土地を奪われた「農民や庶民」等までも、二度も「憂き目」を受けて「伊勢−紀州−奈良域」では「壊滅」に近い状態と成った。
    「二つの青木氏」は、その立場から「元伊勢衆」と「悠久の長い付き合い」の「絆関係」にあったことから、「裏ルート」で「経済的支援」を行った。
    そして“「伊勢シンジケート」”で“「元伊勢衆」“を保護した。
    元々、「和紙や殖産」などでも繋がっていて、最早、「青木氏家人と青木氏部」との「血縁関係」でも繋がる”「徒ならぬ絆」“の関係にあった。
    更に、「青木氏」に執っても、これらの「元伊勢衆」が消滅させられる事は「青木氏の衰退」を意味する事に成り、耐えられる事では決して無かった。

    「信長と北畠氏」は、「聖地に住む伊勢衆」全てに執っては絶対に“「招かざる者」”と見做されていた。
    「伊勢シンジケート」の「ゲリラ戦」で応じた「大きな背景」はここにもあった。(下記)
    そして、室町期に成ると、事もあろうか、「招かざる者 北畠氏」は、「不入不倫の権」に守られた「伊勢の聖地」に、何と、ここに「京」に似せて、“「北畠三御所」”と呼称させて「館城」を建築した。
    その結果、「南部の権勢」を誇っていて、遂には、その「財」を朝廷に注ぎ、その朝廷から「南伊勢の郡と大和二郡の五郡の半国司」に任じられる等したのである。
    当に「公家族」が野心の侭に「戦国大名」化したのである。

    ところが、全く「同じ時期」に、全く「同じ方法」で、「同じ理由」で、「同じ事」が、「讃岐秀郷流青木氏」が定住する「伊予、讃岐、土佐地域」にも起こっていた。
    そこで、「京藤原氏」の「公家西園寺氏」が、平安末期から鎌倉期までの間、「伊予の名義荘園主」であったが、それを理由に伊予に乗り込み、強引に「讃岐藤氏」や「郷士」等の土地を押領し、挙句は「武力」を以って「土地」を奪い取って、遂には「伊予の戦国大名」と成った。
    「北畠氏」と寸分違わずそっくりである。

    (注釈 この時代の「京の公家族の背景」であった。西園寺氏、一条氏、二条氏等の「公家族」が各地でこのあらゆる形のこの行動を採った。
    「朝廷」やこの「公家族」から云えば、「天領地とその関連地の奪還」と主張する筈で、室町幕府弱体の「武による権威の低下」で、この主張が表に行動として吹き出して来た現象と捉える事が出来る。
    平安期の状況から観てみれば、その「主張と行動」にはある範囲では理解できる。
    本論は“青木氏から観たもの”として論じている。)

    (注釈 上記した様に、鎌倉時代の中頃から東に「武家政権」、西は「公家政権」が所轄する政治体制が採られた。
    しかし、実際は、「武家」に、「公家族が支配する土地」が奪われる事が多発していた。
    室町期に成っては、京都に置いた「幕府の守護職」や「土地の土豪」等によって、最早、「西域の公家政権」は「有名無実」の事と成った
    それらに依って、公然と「荘園や天領地」とその「管理権」は次々と奪われて行った。)

    室町期末期には、この事を理由にして「公家の力を持つ者」等は各地で「奪還作戦」が展開された。
    「北畠氏」は、この鎌倉末期の変化に対して敏感に反応して、「伊勢地には持つ荘園を護る為に移動した。
    そこに館城を建てて護ろうとし、それが結局は、管理地以外の伊勢域に勢力拡大としたものであった。
    そこに「朝廷の意向:西域の公家政権」を反映する“「御所」”と呼称する「館城:政庁」を三か所も建設したのである。

    この「西域の公家政権」は、江戸期には「幕府の公家諸法度」を作られて、無力化した。
    その上で、形式上だけは江戸時代まで続けられた。
    室町期には、この「有名無実」と成っていた「西域の公家政権」(京)を、「北畠氏の勢力拡大による武力」に依って、“「伊勢」にもう一度、再現復興しようと企てたものである。
    そして、そこに”御所“なるものを造り、ここから”西域に勢力を伸ばそうとした“のである。
    この為に、「北畠氏」は朝廷と連携を図った。
    確定するに必要とする資料が見つからない為に出来ないが、鎌倉期にこの「西域の公家政権」の「監視役」として派遣されたのが秀郷一門の蒲生氏の祖であったことは間違いは無いと観られる。
    「秀郷一門宗家」の「朝光]は、「頼朝」に合力して本領安堵(1192年)され、奈良期からの「遠祖地の結城」の地も戻る等し、自らも前段で『論じた様に「伊賀守」としても務めた。
    この時に一門の者が「京の公家政権の監視役」(初代は脩行 近江掾)としてに配置されたのである。
    (注釈 これが期に後に「秀郷流近江蒲生氏」の祖と成り、その役務柄から更に室町期に足利氏に仕え勢力を伸ばし蒲生[貞秀]氏を名乗る。)

    しかし、そもそも、この「伊勢域」は、ここは奈良期から「皇祖神の聖地」であって、「政治や権力の場」には出来ない。
    この事は、「伊勢の聖地」を護ろうとする「二つの青木氏」に執っては、到底、容認する事は出来なかった。
    当然に、「布武」を標榜する「信長」も、上記する様に、“「権威を惹けら課す者」で「権威の利得を食む者」”としても認めなかった。

    そして、この傾向は、四国にも起こったと云う事なのである。
    この「西域の公家政権」の管轄域の特に四国には、「公家族」のこの「荘園や公領、天領地」が大変多くあった。
    殆どは「土地の武家勢力」によって奪われていた。
    そこで、公家の「一条氏」や「西園寺氏」等が奪還を図ったのである。
    更には、これに便乗した「秀郷一門」の分家筋の“「関東屋形」”と呼ばれた「宇都宮氏」も、同族一門の「讃岐藤氏の讃岐青木氏」が支配する「讃岐」に入った。
    「西園寺氏」と「宇都宮氏」は結託したが、その後に地元の豪族の「長曾我部氏」と「讃岐秀郷流青木氏」の抵抗にあい、攻められて排除され衰退した。
    1584年には、「秀吉の四国攻め」で、何れも最後は掃討され潰される事が起こって50年程度で失敗した。

    尚更、伊勢の「二つの青木氏」は、「信長の深意」がどうあろうと『布武』を唱える限りは警戒をしなくてはならないし、素直に容認する事は出来なかった。
    「北畠氏の目的」は容易に判って居たが、この「聖地」を「政権の場」に引き込まれる事には容認できなかった。
    では何れに味方するかにある。「青木氏]は悩んだ。
    既に、「北畠氏」に関わらず伊勢は「新勢力の三氏」で浸食されている現実がある。
    そもそも、「青木氏の役務と氏是」がある中でどうするかに関わる。

    結局は、追い込まれて表向きは”「北畠氏に合力」(1569年)”と云う形を採ったのである。
    かと云って、この「合力の形」に問題があった。
    本来であれば、「軍」を所定の部署に廻し、「指揮官」が本陣に控える事に成る。
    然し、記録では何れも処置していない。
    然し、「商記録」には「合力した内容」となる事が書かれている。
    「商記録」なので、「戦い準備」に関する「商いの内容」から記述されているとも考えられる。
    この時の商記録の別の記録には、「福家」(指揮官)が新宮(1574年)に移動している事に成っている。
    とすると、「指揮官」が本陣に詰めて控えていない事に成る。
    つまり、「合力」が成り立っていない。

    直前に「信雄の北畠氏の跡目入りの策謀」(1575年)が起こり敢えて控えた事も考えられるが、それにしてもおかしい。

    「北畠氏」と「信長」との「戦いの初期」は、「具房との小競り合い」から観ると、1567年頃から始まっているので、福家が新宮に引く事は「信雄策謀」で引いた事には成らない。

    そもそも、青木氏に執ってみれば、”「合力」”として仕舞えば、「近江青木氏」と同じに成る。
    従って、「青木氏の氏是」に反する。
    そこで、「反しない合力」の姿形を模索する必要があった。

    然し、「抗する者」が、”如何なる者も容赦しない”とする「信長」に対し、どの様に対処するかに「氏是の知略」が当に必要とした。
    ”攻め滅ぼされる”と云う恐怖では無く、「整域」をどの様に護るかに心はあった。
    戦えば、長期戦に持ち込めば先ず負ける事は無いし、この事は過去に「織田軍」に痛いほど示している。
    後は「抑止力」を前面に見せつけた上で、幸いに「信長」が差し向けた「指揮官」が幸いに「青木氏」で繋がる「蒲生氏」であった事から、戦略は決まった。
    「蒲生氏」を差し向けた「信長の翻意」を察した「二つの伊勢青木氏」は、「反しない合力」の姿の「戦略」は決まった。

    それは、「合力」としながらも、一時、「遠祖地の紀伊」の「新宮の地」に「宗家の福家」だけ引く事にして、後は全てを残し、「敗退の体」を作り上げて時期を待つ事にした戦略であった。
    この時に、戦いが本格化したした時(1576年頃)を見計らって「蒲生氏」との間で「裏話」が出来ていた。
    そして、”数年後(1年後)に戻して、本領を安堵する”と云う「取り決め」であった事に成る。

    (注釈 この経緯で考察すると、「商記録」は商上からのものである為に、年数に付いては公表されている「史実の年数」と比べると「緩やか」で記載されている傾向があるが、ほぼ一致して来る。)

    指揮官の「蒲生氏」に執っても事が大事に成らなくて済み「伊勢での役務」は円満に片づけられる。

    (注釈 「信長の思惑」以外に「蒲生氏郷の個人的な思惑」も働いていた。)

    結局、その約束はそっくり護られ、且つ、それ以上に、松阪に城郭を築いた後には、「侍屋敷町(9町12町)」の上位武士が住む一画(9から11区画)を与えられた。

    (注釈 可成り広大な土地に成る。「侍屋敷町(殿町)」である事から、ここには「店」は構えられないことから「屋敷」である。「屋敷」にしては大き過ぎる。)

    「松阪城郭」は、「楽市楽座」に似せて「商業区画」も設けて、ここ松阪に巨万の富を持つ「青木氏の商い場」をも設けて、周囲の「青木氏の配下」の「旧来の商人の拠点 (伊勢商人と射和商人と伊勢伊賀の郷士衆」)とさせたのである。
    ここに、後の「青木氏の動き」(射和商人などの事)を観ていると、「伊勢の商業組合」(「伊勢会合衆」)の様なものを最初に造ったのではないかと観ている。
    これで、「青木氏と蒲生氏」は、経済で「伊勢の復興」を狙ったのである。

    (注釈 「伊勢の商業組合」(「伊勢会合衆」)の歴史的な「創始者説」を証明する資料の発掘に取り組んでいるが、「状況証拠」だけの範囲に留まっている。
    時代背景から考えても、「確定するキーワード」は「大豪商」に成る。
    そうすると、これ以前にこの様な「商業組合的な組織」を「創設し得る古豪商」は数える程も無い。
    この事から、歴史的に「会合衆」は伊勢から始まった事は確定している事も踏まえて、先ず間違いは無いと考えられる。
    その前身と成る”「商業組合の組織作り」”は「蒲生氏郷の手配」で「侍屋敷町」を与えられ事務所を開設した事も青木氏の資料では証明出来ている事も合わせて、「青木氏」と成り得る。)
    上記した様に「伊勢三乱の氏郷との裏工作」でも、松阪発展の為ににて「本領安堵」が約されていた事も証明されている事からも、間違いは無いと考えられる。)

    平安期からの「摂津、堺」に大店を構えていた事から、安土桃山期からの「摂津堺の会合衆」にも参加している事から考えると、ここ「伊勢」に「青木氏」が最初に「伊勢会合衆」を創ったと観られる。

    この「初期の商業組合の組織」は、前段でも論じたが、「伊勢の御師制度」から発想されたものである。

    (注釈 平安期から起こった荘園内の商いの「座」があったが、寺や神社等で営業権を認めてもらって「本所」と云う場所を構築しそこで営む「限定された商い」があった。
    然し、室町期にはこの「座」はあったが、「本所内での統制」を取る為の「組合」であった。
    ”「自由な商業組合 会合衆」”の記録は他に発見されない事から、「伊勢」が最初であると観られる。)

    (註釈 実は、この時、秀吉に依って、実質の廃止令に成る「楽座令 1685年」が出された。
    つまり、寺や神社や荘園を太らすだけの、即ち、「本所」による特権を持った「座」は禁止された。
    この為に「自由な商業組合 会合衆」が見直され発展した。
    この時に秀吉−氏郷の下に松阪でこの「新しい組合」を「青木氏」に依って始めさせたと観られる。)

    その後に、桃山期には、「伊勢会合衆」は、地域を、「商人の出身地別」に二つに分けて、「山田会合衆」と「大湊会合衆(近江商人)」に分離したと観られる。
    つまり、「松坂侍屋敷の三区画を与えられた史実」は、この「伊勢会合衆」を最初に創ったのは「青木氏」であった事を証明する。
    「氏郷」は積極的に「楽市楽座」を築く為に、出身地の近江からも商人を大湊にも集めた。

    その後、この「伊勢の商業組合」は次ぎの様に変化発展した。

    イ 室町期末期(1578年頃)には、「松阪」に「青木氏」を中心とした地元の大小の「松阪商人」を集めて「松阪地区」には、初期に「松坂商人組合」を構築した。
    ロ その後(1582年頃)には、松坂に「商人」に依る自治組織の「会合衆」を最初に構築した。
    ハ 室町期末期(1583年頃)には、玉城の東横の内陸部の「山田地区」には、「青木氏部」から成る地元の「職人等の年寄り」による「自治組織」の「山田会合衆」が構築した。
    ニ その後(1613年頃)には、「松坂会合衆」は、「玉城域」と「射和域」にも「射和商人」を養成して「商人」に依るによる「射和会合衆」を構築した。
    ホ 安土桃山期には、玉城の東横の沿岸部の「大湊地区」には、この「元近江商人」に依る「自治組織」の「大湊会合衆」を構築した。
    ヘ 安土桃山期には、「摂津堺域」にも「商人」による二つの「堺会合衆」を発展させた。

    これらが発展して「伊勢商人」を始めとして、鎌倉期から興した「近江商人」「博多商人」「酒田商人」「伊予商人」「讃岐商人」「越前商人」「阿波商人」「米子商人」「松江商人」「摂津堺商人」等に依る多くの「会合衆」等が出来た。
    これらは、江戸初期には、歴史的に「・・・商人」と呼称される地域には、全て「青木氏の定住地」と成っているのである。

    この特徴には、戦略上の重要な意味があった。
    「秀郷流青木氏の定住地24地域」には、例外なく「・・・商人」(豪商)と呼称されていた事実がある。
    これは「赴任地の定住地」は、「重要域」でもあり、そこから「豪商」が出ていると云う事もあるが、そうでもないのである。
    何故ならば、この「豪商」は全て出自が「武士」である事、多くは「二足の草鞋策」で「商い」を営んでいた。
    室町期から、「豪商」に成るには、その背景を絶対的に必要とする。

    一発勝負で「豪商」とも成り得るが、これは江戸期の安定期の話であり例外として、「商人」は別として[豪商」と成り得るには、この「室町期の戦乱期」では、殆どはその「資本力」や「商品力」や「調達力」や「運送力」や「安全力」等を必要とした。
    これらを担保し得る「バック・背景力」を持っている事が「絶対条件」である。
    それを獲得している事が必要があって、これ無しには「豪商」とは決して成り得なかった。
    取り分け、「戦乱期」では、「運送の安全確保」が必須で、これなしには手広く「商い]は無し得ない社会状況であった。
    「青木氏」は、その「安全確保手段」として、”「伊勢シンジケート」と「神明社組織」”の二つの手段を持ち得ていた。
    これを有機的に使って「輸送の安全確保」を図っていた。

    そもそも、「広域範囲」で「商品」を調達してそれを輸送しなければ「商い」は拡大しない。
    即ち、「商人」には成り得ても”「豪商」”とは成り得ない。
    故に、「安全確保手段」を広域に持ち得ているのは、特に室町期の「商人」の殆どは、「武家の氏族」の「二足の草鞋策」であった。
    但し、「武家」であって、「武士」では無い。

    「シンジケート」では、各地域にある”「シンジケートとの相互連携」”で「安全確保」をして行き、500社に上る「神明社」では、その「安全確保の情報確保」や「神明社間やシンジケート間の調整役」を演じた。
    当然に、この「組織」を使って「商品の情報」も確保していたのである。

    これは「陸送手段」であるが、「海上輸送」の場合の「安全輸送の手段」は、「伊勢水軍」が配下にあり、「青木氏」自らも「千石船の大船三艘」を以って海運し、この「護衛船役」として働いていた事が判っている。
    記録には、”「駿河水軍」”の名が出て来るが、互いに連携して、「伊勢水軍の護衛船」で間に合わない場合は、「駿河水軍」が「護衛船」に入った事が書かれている。
    時には、「荷駄運送」も務めていた模様である。
    江戸期の初期の商記録の中に、「讃岐青木氏が営む廻船業との連携」もあった模様である。
    この事から考えると、独自の「伊勢水軍の護衛船兼輸送船の必要性」が良く判る。

    「青木氏の資料」には、この「輸送中の安全確保の手段(要領)」が実例として詳細に書かれた記録が遺されていて、この組織が有機的に活躍して居た事が判る。

    「護衛役の人数」やその「役目柄の種目と配置」、「金銭のやり取り」の「取り決めや場所柄」まで実に詳細に書かれている。
    「二つの青木氏の二つの組織」を有機的に動かせば「豪商」等何でも出来ると読み取れる。
    本論で論じて来た事が、明らかに、大名ごときでは無いことが良く判る。
    論を待たずとも遥かに超えている。
    況や、「青木氏の実力の如何」が良く判る。
    極論すれば、「佐々木氏」や「青木氏」や「秀郷一門」以外には無いのではないかとも思われる程である。
    「豪商の出自」を調べれば、これを確定できるが、現在ある程度までは調査は進んでいるが論文には仕切れない。

    (注釈 例えば、この輸送の大変さを物語る資料が「伊勢の青木氏の家人」であった家に遺されいる。
    資料には、関東(江戸)に向けて荷駄搬送中、この荷駄には11人の警護の者が付き、6人が「警護頭役」を先頭に「荷駄警護」、5人が各役目を持ち「周辺警護」に関わっていた。
    ところが、駿河山中で盗賊集団に襲われた。10人が戦闘に入り、1人が連携する警戒中のシンジケートに連絡、戦闘の結果、3人が負傷したが殲滅した。
    その後このシンジケートは、この盗賊団根拠地を掃討したのだが、丁度、「シンジケート」と「シンジケート」の境目の地域で襲われたと成っている。
    旅館一室で支払を済ました。とある。
    この荷駄の「警護頭の家人」が「献務禄(報告書)」として書き記したものが遺されている。
    良く、この状況を物語っている。
    この「荷駄頭の名前」が普通では無く、”「俗称」(特別呼称名)”で書かれている。
    この資料を遺した「伊賀武士」の家人は「伊賀青木氏」の配下の「伊賀者」ではないかと予想され、「青木氏家人」であった。
    つまり、これは「伊賀青木氏」が「警護役」を一族として担っていた事を意味する。
    この”「献務禄」”には、当時の事を物語る興味深い事が多く書かれている。
    これ等を使って「室町期の伊勢商人の青木氏」の「豪商の程度」が読み取れる。)

    (参考 豪商程度の概算
    伊勢青木氏とそれに関わった関係族に遺された資料より算出
    (  )内は各資料からの最大値を表す。
    「商い」の関係部門を「四部門」にして限定して算出。

    四家   20部門(青木氏の役数)
    家人   数百人(最大 250人 直接の家人)
    配下   数十名(最大 22人 支配の家人)
          小計a  最大 5500人

    護衛役  数十組(最大 23組)
    一組人  数十名(最大 20人)
          小計b  最大 4300人

    他の役  19役(護衛役×19)
          小計A  最大 81700人

    青木氏部 数十部(最大 12部)
    一部人数 数百人(最大 250人)
          小計B  最大 3000人

    水軍    3+数十隻(最大 24艘)  
          小計C  最大 1500人

    神明社  488社(最大 500社)
          小計D  最大 2500人

    「伊勢青木氏の豪商」=小計A+小計B+小計C+小計D=88700人

    室町期の「青木氏の紙屋長兵衛」の「豪商」と云われる所以は、次ぎの「通りと成る。

    「直接人容」から観ると、結局、最大で「88700人態勢」であった事に成る。

    但し、これ以外に次ぎの部門も加算されるが、算出は出来ない。
    イ 「伊勢シンジケートとの契約」
    ロ 「秀郷流青木氏116氏」からの「本所の役柄の補完援護」
    ハ 「菩提寺関係の人容」
    ニ 「遠祖地の人容」
    ホ 「殖産と興業の人容」

    取り分け、イとロは計り知れない「人容と人様」と成り得る。

    (注釈 何とか論じる事が出来ないかイからホに付いて研究したが、論じるだけの資料が出ない。)

    唯、中でも最高と観られるロの「讃岐青木氏」の「瀬戸内の経済力」(主は廻船業)は比較的に資料が遺されている。
    恐らくは概算では、1/5程度はあったと観られる。

    ロの「関わり具合」を資料から物語るものとして、次ぎの様に成る。
    「商い警護」と「商い情報」に「役目」として関わっていた事が記録されている。
    つまり、「本所補完の範囲」を超えず、「商いの範囲」にも「補完」を上手く適用して運用していた事を示している。
    「ロの青木氏の商人」の場合でも、この範囲を超えていない模様であった。
    恐らくは、この事は資料から読み取るに、各地の「赴任地の護衛役」と云う”「威力」”を周囲に誇示させ、”「危険集団」”に対して「強い抑止力」を働かせていたと観られる。
    その手段として、伊勢との「関連シンジケートの勢力」が届かない範囲では、敢えて何らかの形の「軍事行為」の”「デモンストレーション」”をしていたのであろう。
    これが「資料の書かれていた内容」ではないかと考えると、文章表現と符号一致する。

    (註釈 現在と違い「古文系の文章」は、「直接表現」は良しとせず「間接表現」によってその「文章の持つ意」を知らしめる文章方式であるだけに慣れないと難しい。)

    故に、これが「豪商が生まれる地域=二つの青木氏定住地」と云う数式論が生まれた所以であろう。

    ”「豪商」 「500万石超」”と記されている事から、強ち、誇張では無い事が云える。

    「88700人態勢」と「イからロ」を維持管理するには、逆に「500万石」は必要であろう。

    「88700人態勢」=「500万石」と基準に観て、「研究室の論文」の「青木氏」を論じている。
    (研究室論文の各所に記述 参照)


    因みに、同時期の比較対象として、次ぎの事を参照。

    全国の石高 「3000万石」
    徳川氏の石高 「幕府直轄領 400万石]+「旗本領 400万石」=「800万石」

    最裕福な「加賀藩」の石高 「102万石」(届出高)
    「伊勢国」の石高 「55万石」

    (米石高と産物を加算した石高)


    (注釈 例えば、調査中の中で、「佐々木氏」の出自を持つ「豪商」には、全国的に不思議に「酒造業」が多い。
    何故なのかは確定は出来ないが、恐らくは、”「灘酒」「近江酒」”の歴史(日本書紀等)を辿れば判る。
    これは奈良期から「定住地の米」に関わる「租役と庸役と調役」の賦役を、「佐々木氏」が「守護」としてこれを「活用する役目」から生まれた「酒造」であったと考えられる。
    それが末には「摂津商人」「近江商人」と成って行った。
    これが「青木氏の和紙の経緯」のその「二足の草鞋策」から来ていて、古くから「佐々木氏の氏の組織力」を使って全国展開していたのではと観られる。

    (注釈 そもそも「佐々木氏の研究」に「青木氏の部分」が、多く研究されているのは「同族である事」は元より、古来よりこの様な”「繋がり関係」”を深く持っていた証拠である。)

    この様に、一発勝負や一朝一夜では無し得ない「これらを持ち動かし得る商人」を”「豪商」”と云う。

    (注釈 前段の「伝統シリーズ]と「青木氏の分布と子孫力」の論文にも一端を論じた。)

    これが、更には「赴任地の定住地」に”「豪商」”が生まれる所以なのであった。
    つまり、其れ等は後に組織化されて連携して、「伊勢商人の青木氏」が「担保し得るバック・背景力」と成って行ったのである。

    前段でも何度も論じている「博多商人」「越前商人」等を始として、上記に記述した「地域の商人」は、この「担保し得るバック・背景力」を持った「典型的な豪商」で当に「青木氏」である。
    「商記録」に記載されている地域である。

    つまり、伊勢の「二つの青木氏」が互いに連携しながら、「伊勢の本所」を中心にして、各地の「青木氏定住地の安定化」を謀る事を目的として、戦略的に「二足の草鞋策」を採用して安定化させたのである。
    そして、この「24の商い組織」を使って、「相互間の商い」を発展させ、「青木氏の経済面」での「底上げ」と「氏力強化」を図った事に成る。

    然し、かと云ってすべてが”「豪商」”とは成り得ていず、夫々、記録を観るに各地赴任地の「商人規模」には、大小がある。
    この「商人規模の大小の原因」は、「特段の要因」は確認できない事から、矢張り、この様に「豪商に成り得る条件」が備わっていたとしても「商い力の如何」が影響してい事が観られる。

    この「商い力の如何」とは、「商いに必要とする確固たる考え方」とか「横との繋がり」(立地条件)が必要とする。
    所謂、「伊勢青木氏の和紙に関する殖産と興業」がそれを大きく物語っている。
    これには,「讃岐青木氏」も”「瀬戸内”と云う海産物に関する同じ条件」を確立していた事が云える。
    これらの「商い大小」には、上記する様に、「近江や越前や越後等の豪商」と成り得た「青木氏の共通する条件」であった。

    前段でも論じたが、代表して特筆するは、当時の最大の経済拠点であった「瀬戸内」を中心とした「讃岐青木氏の松山・松江商人」は、「廻船業」等の総合商社を営んでいた。
    それは「蝦夷地域の貿易」や「日本海の内回り船」に加え「太平洋の外回り船」をも始めて許可された江戸期最大の「総合商社」であった。

    上記で論じた「近江青木氏」の「青木一矩と久矩」の子孫も「酒造業」等を手広く商ったこの「豪商」であり、”「越前商人」”と呼ばれる「豪商」と成った一人でもある。
    恐らくは、上記した「近江佐々木氏の酒造業」に観られる様に、この同族の「近江佐々木氏ルーツの背景」を通じて営んだと観られる。

    「青木氏の博多商人」も「ルーツ掲示板」にも論じている「大豪商」である。
    「越後商人」でも歴史的に「秀郷流青木氏の豪商」が有名である。
    中には、港では無い「内陸部の商人」として異色の「諏訪商人の青木氏」がある。
    例を挙げれば、限が無いが、「長崎商人」として「長崎青木氏」からも「豪商」が出ている。
    これ等は、決して自然の形で「豪商」に成ったのではない。
    上記の「室町期からの豪商」等の研究でも判る事ではあるが、明らかに「室町期から江戸期の青木氏の戦略」として敷かれたものである。

    そもそも、歴史を遡れば、「日本書紀」と「二つの歴史書」に次ぎの様な事が記載されている。
    それは、奈良期に「信濃青木氏と諏訪族」は「租」を兌換する為に、「信濃の産物」を駿河の海側に運び、「海側の海産物」と物々交換して、「信濃に持ち帰る商い」をしていた事が書かれている。
    この時に、「信濃側(諏訪)」は「馬部の職能集団」と、海側(駿河)の「磯部等の職能集団」がこれに関わったと記されている。(諏訪商人)
    この奈良期から交易を始めていた事が「日本書紀」等の「歴史書」に書かれている。


    今後、詳細に研究を進めて歴史的に観た「商人シリーズ」で論じられる位の興味深い充分なテーマでもある。

    (注釈 そもそも、この様な「青木氏に関わる史実事」は、「史実」として「歴史上の表」には出て来ない。
    依って、これらの情報を全ての「青木氏に知らしめる術」は生まれない。
    「商業組合や会合衆」の「創始者としての青木氏の貢献」等の重要な事も、「青木氏」自らが研究して子孫に云い伝えなければならない。
    「近江佐々木氏」も「膨大な氏の研究」を成しているが、「歴史上の表」(ネット)には出ていない。
    ただ、「伊勢青木氏や紙屋院」の事で、研究されて脚本家で歴史研究家の某氏等が、「NHK大河ドラマ」の三つのドラマに「青木氏の商人の事」を表している。
    「歴史研究の専門者向け単行本」でも5刊発表されてはいる。
    又、「青木氏」とはルーツでは無縁の「5人の歴史研究家小説家」も「青木氏の研究論文」で公的にしている。

    (注釈 全てこの5刊は、別の研究の過程で、この「青木氏に関わる事」が在って、その時の「青木氏に関わる研究」を別刊で「非買限定版」として「関係者」に有償で発刊したもの。
    「佐々木氏の研究論文」の本体も同様の発刊である。「佐々木氏の青木氏に関する本」も別刊扱い。)

    但し、「ネットに出る事」が「公的」とは決して思わない。
    それは「ネットの根拠」の多くは、「江戸初期頃の搾取偏纂の資料」をベースにして「断定」している為に、「青木氏側」から観れば立ち位置が異なる為に信じ難い。
    その意味で、「歴史研究家の単行本や発刊本」は、その説の論処を明確にした上で論じていて信じられる。
    結局は、「単行本と発刊本」(非売品)は、「青木氏」に執っては極めて貴重である。
    「ネット社会」とも成れば、真の「青木氏の伝統」に関して、そんなに簡単に発表される事はこれからは無いと考えられる。
    依って、”「青木氏の伝統」”が霧消し資料が消失する中で、「青木氏」自らが研究して「青木氏用」に論じること以外には無く、これは宿命である。)


    これ等の「経緯と背景」に依って、そして、この室町期からの「商業」が発展するに従って、江戸期に成って”「信長の楽市楽座」”が組織化され著しく変化したのである。
    そして、「伊勢」を始めとして、全国各地に”「青木氏]が始めた「商業組合」”から発展して、遂には、「職人」や「商人」や「郷士」等のあらゆる階層から成る「自治組織の会合衆」が出来上がった。
    この「自治組織」は、前段でも論じたが、「武家社会」にも発展した。

    この「武家社会の組合的要素」は、「職能別」にその組織の中で発生する問題は組織内で解決させる”と云う制度が徳川幕府に創設された。
    これが”「御師制度」”と云われるものであり、「武士階級」から成る「自治組織」が出来上がったのである。
    これは「伊勢」から持ち込んだ「吉宗」によって「享保の改革」で制度化されたものである。

    (注釈 筆者は、むしろ、この奈良期からある「青木氏の御師制度」が、「伊勢」に関わりの深い「徳川吉宗」によって「幕府の武家」に採用された。
    この事がきっかけで、「武家出自の商人域」に浸透して行ったと観ている。)

    (注釈 「伊勢青木氏」は、「幼少期の伊勢での吉宗の育ての親」で、「家臣」では無いが「享保改革や紀州藩の財政改革」に「布衣着用の身分」(主大名格)で大きく関わった。)

    これ等が、当に「信長」の「天下布武」<「楽市楽座」、所謂、「布武」<「布知」で目指した「理想に近い社会」であった。
    その「信長の思い」を最初に実現させ発展させたのは、何と「蒲生氏郷と二つの青木氏」であった事に成る。
    これを更に発展させたのは「安土桃山期の秀吉−江戸期の家康」と云う事に成る。

    「信長の理想」は、初期の構築段階は、皮肉にも、伊勢混乱の苦労の末に「二つの青木氏」に依って進められた事に成る。
    これは、「信長の理想」を理解し、「青木氏の本音」がこれに一致していた事を物語るものである。

    「会合衆までの経緯」ここに至るこの「生き残り戦略」が、当に”「青木氏の本音」”であった。

    歴史は幸いにも当にその様に成った。

    上記する”「室町期の苦しいトンネル」”を突き出て、「江戸期の青木氏の将来」をここで構築したのである。
    これが、「苦境」を「青木氏の知略」で乗り越える事、況や、これが「二つの青木氏の本音」であった。

    筆者が考察する”「青木氏の本音」”はなかなか言い尽くせないが、上の経緯も含めての事と成る。

    纏めれば、”「武]では無く、 ”「知略」”を使った”「戦略」”に云い尽くせる。
    「武」はあくまでも「抑止力」に留め、「知略」を「補完するツール」とした事にある。
    これが、無傷で「生き残り」を果たした「本音」であったと考えている。

    そもそも、「人時場所」が変われば「本音」も異なるが、変化する何時の世もこの一点だけは「普遍」であり変わらない事を示している。

    然し乍ら、唯、別次元で「或る条件」が働けば、この「戦略の本音」も永代では無い。
    その「或る条件」とは、”「伝統」”が消えると無く成る。
    つまり、”「伝統」と云う土台の上に成り立っている事”に成る。
    そして、この「伝統の内容」も時代毎に代わる。
    従って、「青木氏の本音」を維持するには、”時代毎に代わる事”に対応しなければならない事に成る。
    この「対応」とは、時代に対応した”「体質改善」”である。
    この”「体質改善」”が、”「青木氏の本音」”に従う事に成る。
    これが、上記した様に、「室町期の混乱期」に対応した「二つの青木氏の行動」であった。

    然し、この「対応の変化」も「仕儀無きこと」であって、「変化する」としても少なくともその「伝統の基本」は変えてはならず是が非でも護らなければ、「生き残りの本音」は霧消し得る。

    (注釈 現在の「青木氏の基本伝統」は、最早、護り切れていない。依って、明治期まで先祖が護って来た「青木氏の本音の概念」は霧消している。「伝統シリーズの記録」に遺すのみと成っている。)

    上記で論じた「青木氏に関わった氏族」の「生き様」も、それは其れなりの「生き様」で「良し悪しの前提」とは成り得ない。
    然し、”子孫を如何に遺せたか”は論じられても良い筈である。
    「伊勢の二つの青木氏族」(伊賀の青木氏を含む)は「青木氏の氏是」を頑なに護った「生き様」を示した事は云える。
    これに依って、与えられた「氏の役柄」を果たした事は、”「青木氏の誇り」”であり、”「誇れる伝統」”である。

    そこで、この「時期の伝統」はどんなものであったろうかと云う事に成る。
    それが、「上記の論」である。

    そこで論じたのが「青木氏の経緯と背景」と成るが、続けて、「伝統−17」でも論じる事に成る。


    次ぎに続ける事としても、「伝統−17」を論じる前に、先に述べておかねばならない事が在る。
    そもそも、この時期は、「南北朝の影響」を受けて、「京公家族」の間に、次ぎの様な事が起こっていた。
    この問題を解決しなければ「武」で抑えて掃討をしても何れにも解決には成らない。

    「武による富の獲得の機運」
    「朝廷の天領地の奪還と確保」
    「西域公家政権の復興」

    この時期には以上の反動が起こっていた事を物語るものである。

    上記した様に、況や、「聖地伊勢」も「北畠氏」に依って “撹乱されていた”と観る事が出来るのである。
    「信長」は、この「悪い機運」が広がると社会は、更に乱れるとして潰しに掛かり、その代表者を手厳しく潰す事で、社会に“見せしめ”として抑え込もうとしたとも判断できる。
    況して、「信長」は「天下布武」を標榜していたが、「公家勢力の復興」は「信長」の目指すところと「真逆の行為」であった。

    この“「権威を惹けら課す者」で、「権威の利得を食む者」”とは、「無力化した京の公家政権」と「結託した勢力」の事だと名指していた。
    それだけに「信長の事の次第」は、“厳しく当たった”と云う事に成るたろう。


    「信長の心の中」には、「青木氏の心の中」には、資料を通して具に鑑みるには、次ぎの様な「信念」があったと考えられる。
    これは、何時の世も「天下を治める者」、或は「大きい組織を動かす者」、「指導者たる者」、「上に立つ者」の「孤独の苦しみ」であろう。

    つまり、伊勢の「北畠氏等の横暴」を「信長」が観ていて、これは、当に”「権威の惹けらかし」”と”「その利得の食む勢力」”の何物でもないとした。
    その「北畠氏等の伊勢三氏」(北畠氏と伊賀氏、伊藤氏)が「象徴族」として苦々しく観られていた事を物語るものであった。

    (注釈 但し、「伊勢者C」は、他地域から伸長して来た勢力で”「伊勢者」”では正式には無い。資料には使い分けされず「伊勢者」として扱うものもある。)

    但し、”「伊勢者」”と呼ばれた氏は、時代別に三つに分けられる。
    「伊勢者A」の「青木氏」から観れば、資料から読み取ると「伊勢者BとC」は「別者の意識」があった。

    「伊勢者A」は、「伊賀青木氏を含む二つの青木氏」     江戸初期まで 950年−650年間程度 
    「伊勢者B」は、「北畠氏」「伊藤氏」「伊賀氏」「長嶋氏」   江戸初期まで 150年−100年間程度
    「伊勢者C」は、「仁木氏」「六角氏」「山名氏」         江戸初期まで 100年−50年間程度 

    (注釈 「伊勢者」 「伊勢衆」 「伊勢国人」 「伊勢郷氏」は「歴史的な呼称」(者、衆、人、氏)としてその「範囲差と格式差」により使い分けがされている。)
     

    況して、その勢力が”「聖地の伊勢」”にいると成れば,「信長」は放置する訳には行かないとなった。

    (注釈 筆者の考察では、 ”「信長」は「伊勢者BとC」を”「伊勢者」”としては観ていなかった” と考えている。
    自分と同じ「室町期の伸長勢力」だが、「信長」には「たいら族」の「末裔の自負」があった。
    故に、「名籍の桔梗紋の明智光秀」に対して「織田家の格式」は「上位」と観ていた事から起こる「家柄の確執葛藤」があったと観られる。)
    況してや、この「伊賀域」は、元は祖先の「たいら族の故郷」であったし、「伊勢和紙の殖産」に従事する「残留族]もいる地域でもあった。
    ここを、”「伸長族」に犯されたくなかった”と云う意識も内心あったと観られる。

    「信長」は、上記の鎌倉期からの経緯を観て、当に、この「北畠氏」が、”「権威を惹けらかし利得を食む勢力」”(西域公家政権の復活)と映っていて、“その勢力を先ず潰しに掛かった“と云う所であった。

    しかし、これに対して、”「権威を惹けらかし利得を食む勢力」”(西域公家政権の復活)であるにも関わらず、この事を理解せずに、これに対して、意外にも無暗に「武」で合力し、敵対して来た北伊勢の「伊賀氏」「伊藤氏」等があった。
    「信長」に執っては、これは驚きであって、”間尺が合わない”と感じとったのである。
    況して、世間では、「賢者 智者」としての”「伊勢者」”と云われながらも、何でこの事が判らないのかと悔しがっただろう。
    結局は、恐らくは、”縁無き衆生動し難し”として、討伐に踏み切った。

    結局は、「信長」は、彼等を”「抗する者」”として扱い、討伐する事に成り、拡大して”「伊勢四衆」“を纏めて排除するに掛かったのである。

    然し、同じ”「伊勢者」”でありながらも、「伊勢の二つの青木氏」だけは動かなかったのである。
    ”それは何故なのか”である。
    それは、後から侵入してきた彼等は、”「権威を惹けらかし利得を食む勢力」”(西域公家政権の復活)である事を承知して居た事を意味するものである。
    それは古くから”「伊勢者」”として生きて来た「二つの青木氏」は、「青木氏の氏是」に基づきこの態度を取る事は無かったからである。

    唯、「信長」が行う「抗する者への挑戦」には、一定の限度があった。
    それは、”「無暗に挑戦」”では無く、その「前提」は次ぎの事にあったのだ。
    それは「限度=前提」である。
    「信長」の目指す「天下布武」には、この「前提」(限度)があったのだ。

     ”「権威の惹けらかし」”と”「その利得を食む勢力」”

    唯、「単に抗する者としての討伐」をし続ければ、この世の人間は半減する。

    何故ならば、「善悪の理」に関わらず、「賛同の結果」はこの理に従っていないのも又この世の条理である。
    「善」であるからと云って、「万民全人」が「賛同すると云う条理」には、「仏教の説法」に云う様に、従ってはいない。
    「人」には、仏説「四つのみ」が「人の性」としてあり、そして、この「人の性」はこの仏説「四つのみ」に惑わされる。
    依って、「善」は必ずしも「賛」を得られる前提では無い。
    それが、「人の世」では「仏説 四の理」に従うと成っている。
    つまり、四割程度は何がしかの形で「善」は、「悪」としては兎も角も、「善」として扱わない条理の中にあるとしている。

    それでは、「善」は「善」としてより多く扱われる世の中にするには、それは「人の悟り」にある。
    それを得られるのは「仏教」だとしている。

    その得られる「手段とされる仏教界」が、何のこの世の因果か、”「権威の惹けらかし」”と”「その利得を食む勢力」”の世界と成り果てている。
    況してや、「宗教武装勢力」と成り果てている。

    そもそも、「抗する者は全て討伐」とそんな事を考える人間はこの世にいない。
    そもそも、不可能であろう事は誰でも判る。
    然し、遣らねばならないと成れば、何処かに「規準」なり、「限界」なりを設けての事に成る。

    従って、その「討伐」をしなければ成らない「細目の規準」は、「信長」に執っては、、”「権威を惹けらかし利得を食む勢力」”に規準を置いていたと云う事であろう。
    それは、「人時場所」の「三相の理」によって異なるは、必然の事だが、この「必然と成る規準」は、「何時の世」もこれが「最低限の条理」であると考えられる。
    この「三相」は、”「戦国」”と云うキーで括れる。
    「人」は「過激]に成り、「時」は「短絡」に走り、「場」は「戦場」に成る。
    其処から導き出される「規準」或は「限度」は、”「権威の惹けらかし」”と”「その利得を食む勢力」”と成り、「其れを阻む者」と成る。

    それに、この「勢力」が”「事の解決に”武力”を以って立ち向かう」”と成ると、尋常では無い。
    「国を治める志を持つ者」としては「信長」でなくても放置は出来ない。
    この「勢力」が社会に蔓延れば当に「修羅」であろう。
    何の信念も持たない「愚能な将軍」が頂点に立ちながらも「治世」するこの「修羅社会」を放置したのが「足利幕府の四代目以後の有様」であったのだ。

    (注釈 幕府とは、本来は「将軍−御家人−守護」から成り立つが、鎌倉幕府は将軍と御家人の主従関係組織で難く維持されたが、ところが、室町幕府は当初この組織を敷いた。
    然し次第に統制が効かなくなり、この「将軍−守護−御家人の関係式」が出来上がって仕舞った。
    この為に内覧が多発して統制が効かなくなり「治政」は乱れ始めた。
    この時期が4代目から顕著に成る。
    鎌倉期の組織では、本来であれば、「御家人−家臣−守護−豪族」と成っていた。
    然し、室町期は4代目五代目以降から乱れ、「直臣の御家人」を飛ばして「将軍と守護が主従関係」を結んでしまった。)

    その「修羅」を救う「宗教]が、況してや「武家」にも勝るとも劣らない「絶大な宗教勢力」と成れば、最早、論外である。
    云えばきりがない。その「宗教」が「城郭]を持つと云うのである。

    「戦乱の社会」の中で、「盗賊や山族等の脅威」が散在する中では、”「宗教]が非暴力であれ”と云う事までは云わないにしても、「最低限の自己防衛の範囲」に留めるべきであろうことは疑う余地は無い。
    超えれば、出る釘も打たれるは必定である。
    況してや、その「信徒」を先導してその道具に使うは論外中の論外である。

    (注釈 「青木氏]はそもそも戦乱で「糧を失った者」を「経済的範囲」に於いて救い、その「自発的行為」に依る歯止めの効いた「伊勢シンジケートの抑止力」に留めた「最低限の自己防衛の範囲」を越えなかった。)

    「信長」は、他の国の討伐の如何は別として、”「伊勢」”に対しては、この「規準の考え方」を前提とした。

    つまり、”「伊勢」”に対してである。この”「伊勢」”に意味があった。
    況や、”「伊勢」”には、”「信長成りの思い入れ」”があった事を物語る。
    その「信長の思い入れ」とは、どんなものかと云えば、次ぎの規準に持つ意味であろう。

    (伊勢の事を含む「信長に付いて」を書いた信頼できる資料から物語るものは次ぎの事と観た。)

    纏めると次ぎの様に成るだろう。

    限度=前提

    ”「権威の惹けらかし」”と”「その利得を食む勢力」”

    「伊勢」は、「万民の聖なる場所」である。その「聖なる場所」には”「権威」”が求められる。
    その「権威の地に住する者」は、「権威」に溺れず、「謙虚」でなくてはならない。
    その「権威]に託けて「利」を食んではならない。
    「権威の利に縋る者」には「万民の信頼の範」と成れない。

    「信長」に関する資料から読み取るに、”「信長思い入れ」”はこの様なものであった。

    「比叡山焼き討ち」等に観る様に、「信長」は「武家勢力」を始として、「各地の戦い」には、各地ならではの「条件」を入れ替えて、この[四つの思入れ」に適合するかを確認したのではないかと観られる。
    各地の戦いの「信長の発言」を考察すると、この傾向が読み取れる。

    これは、まさしく、「青木氏の氏是」の意味する処でもある。

    ”何時の世も、「青木氏」を世に晒す事無かれ、何れにも一利無し、然しども「青木氏」を世に憚る事無かれ、何れにも一利無し。”

    「信長」は、”「伊勢者」”の当初から出方を警戒(婿養子の策謀失敗)しながらも、元より”「悠久の歴史」を持つ「伊勢者」”の「伊勢の青木氏を攻める意志」は無かった事を意味する。

    「この世」の「何事」も、排除されるのは突き詰めれば、「信長」も、「青木氏」もここに来る事を教えている。


    これ等が、「伝統」を語る上で、「青木氏」に執って忘れてはならない「四家の背景と経緯」である。
    何れにせよ「我々の先祖の青木氏」は、この中で生きて来たのである。
    その「生き様」そのものが”「青木氏の伝統」”であった。

    「近江佐々木氏」がした様に、「青木氏」も子孫にこの「伝統の如何」(先祖の生き様)を遺しておきたい。

    > 「青木氏の伝統ー17」の「」に続く 


      [No.332] Re:「青木氏の伝統 15」−「秀郷流青木氏」と「融合族の発祥」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2015/06/13(Sat) 16:19:13  

    >「青木氏の伝統−14」の末尾

    >この時、この「賜姓方式」は、「賜姓名」を改めて「源氏」とし、「皇族の臣下族」、又は、「下族する皇子族」に対しても「青木氏」を名乗る方式に変えたのである。
    >但し、この「賜姓源氏」と、賜姓ではない「皇族系青木氏」に対しては、「光仁天皇まで続いた賜姓青木氏」が持つ様な一切の同じ「利権」、「財産」、「主務」、「官位官職」、「権威」等を全く与えないとする「嵯峨期詔勅」を発した。
    >合わせて「賜姓青木氏の慣習仕来り掟」の一般の「使用の禁令」を発したのである。
    >(明治3年まで護られた。)
    >「五家五流青木氏」以外に、「百姓の民」が「青木氏」を名乗る事と、その「習慣仕来り掟の使用」を禁止して、「賜姓青木氏」を特別保護したのである。

    >(この「百姓」とは、元来、公家と武家を除く全ての民の事を表現した言葉で、室町期まで使われていたが、江戸期に成って、「士農工商」の身分制度に依り、「百姓」とは、「農民」を指す言葉に変化した。)




    >「青木氏の伝統−14」の続き

    この「四家」は、つまり、「四つの家」に用いられている制度には、「朝廷の仕来り」(高い純血性を護る為)により、“「四、或は五」を超える家を構成できない仕来り事”に成っていた。
    「近江、美濃、信濃、甲斐」の「賜姓青木氏」にも同様の「四家制度」を敷く事に定められていた。
    「皇族賜姓族の近江佐々木氏」もこれに準じた。
    (下記に論ずる「嶋崎殿の青木氏」と呼ばれていた「伊賀の青木氏」も用いていた。)

    しかし、「平安末期の源平戦」で、「近江」と「美濃」は、「発祥時の禁令」を破り、結局は滅亡した。
    「甲斐」は「内部騒動」と「武田氏の台頭」で「四家」は衰退し弱体化して仕舞った。
    結局、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、「和紙の殖産と商い」を通じて、その力で「福井の逃避地」で何とか生き残った「傍系の末裔」を保護して「三地域の復興」を試みた。
    しかし、大きく子孫拡大には至らず、「近江と甲斐」では、「青木氏守護神」の「祖先神の神明社」を通じて「シンジケート」の中で何とか江戸期まで生き延びられた。
    特に、「近江」では「佐々木氏系青木氏」が発祥したものの生き延びは出来たが、室町期中期からは、「播磨と摂津」に移動して子孫を何とか伸ばした。
    しかし、同族の「近江佐々木氏」そのものが「源平の戦乱」に巻き込まれて、一時、衰退して子孫を大きくする事は出来なかった。

    「甲斐」も「武田氏系青木氏」が発祥して勢力を盛り返したものの、「内部分裂」と「武田氏滅亡」とで室町期末期には衰退して仕舞った。
    「武田氏系青木氏」と「武田氏」に組み込まれた「諏訪族青木氏」は、逃亡して各地で「秀郷流青木氏」に保護されて武士として生き延びる事は何とか出来た。
    しかし、何れも「三氏の四家制度」と、それに伴う「権威と富」も維持させる事は無く、「青木氏の四家の伝統」は殆ど消滅して仕舞ったのである。
    結局は、この三氏は「四家制度」を構築する事は出来なかった。

    従って、上記する「四家制度」は、「二足の草鞋策」を以って「巨万の富」との獲得と、「権威の象徴」を継承して、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」とは成長した。
    そこで、少なく成った「皇族賜姓族]は、「賜姓五役」を維持する事が苦しく成っていた。
    これに対して平安中期に、この「四家の青木氏」を補佐させる目的で、朝廷から特別に「皇族外の賜姓」を受けた「秀郷流青木氏」(伊勢 皇族母方族)の三氏に依って護られたのである。
    (「二つの絆青木氏」含む 。「伝統」と云う意味で、この「発祥に関わった伝統である経緯」を本論で論じる。)

    参考
     「光仁天皇」の妻 :

     「皇后 井上内親王」
     「妃 藤原産子 藤原曹司」
     「嬪 高野新笠 紀宮子」
     「後宮(后」 尾張女王」
     「妾 県犬養男耳」

    「施基皇子」の二代目は、「白壁王」に観る様に、未だ、上記した「四家制度」の「血縁システム」は完全には敷かれていなかった。
    そこで、周囲の「高位の族」から迎えて「子孫拡大の体制」を整えようとしているところであった。

    (注釈 「白壁王」は天皇に成った事で公に成っているが、他の「四家の王」の妻の内容は不記載にする。)


    「紀州」から「紀宮子」、
    「公家」から「藤原産子と藤原曹司」
    「伊賀」から「高野新笠」
    「四家」から「後宮 尾張王女」(姪)
    「天皇家」から「井上内親王」

    以上と云う風に、「高位族」から「賜姓臣下族の青木氏」に「母方」として嫁している。

    (注釈 「白壁王の母」は「紀橡姫」で、飛鳥期の「ヤマト政権」の主要五氏の一つの「紀氏」の豪族である。
    「伊勢」に居て「紀橡姫」と「紀宮子」の存在は,「紀州」が当時、如何に「重要な位置」にあったかが判る。)

    その中でも、作り上げたばかりの「四家」から「後宮」として、姪の「尾張王女」が入っているのは「四家制度」の「血縁システム」の「コンセンサス」が一族の中で出来ていた事を物語る。
    そして、“朝廷の「公家」”、“周囲の「豪族」”と云う風に「血縁の態勢」を「賜姓族」として固め始めていることが判る。

    更に、「氏家制度」が機能し始めたが、「妾子」には「王位」を与えていない事も「血縁システムの純血性」を定めていた事をも物語る。
    既に、「血縁システム維持」の「四段階の妻制度」(皇后、后、妃、嬪 :妾)も採用されていた事がこれで良く判る。

    「第六子の白壁王」が、天皇に成る前に、この内容である事から、次ぎの三人は「白壁王」と同じ立場に成った。
    (”成った”と云うよりは、”された”と云う方が事実である。)

    「湯原王」
    「榎井王」
    「春日王」

    「白壁王」の他にこの三人も「同等の位置」に置かれ「同等の扱い」であった事が云える。
    (「白壁王」含めて急遽訪れたこの事件から愚者を装って避けようとしていた記録が遺されている。)

    この事から云うと、「青木氏」から観ると、積極的を論処とする中の ”「春日王」に子供が居なかった”としている説の前提には、疑問が残る。
    これだけの「男系継承者」が無く成り互いに「政権の発言力」を獲得しようとしての「政争の渦中」にあった事から”「何らかの事情」”があったと考えられる。
    (「青木氏」に執ってはこの事は重要 検証下記 詳細は他の論文を参照)

    (注釈 「口伝」とは、明治35年の松阪大火失火消失により、「青木氏の由来書原本」が無く成った。
    しかし、「曾祖父と祖父」が、「忘備録」と「記憶の範囲と遺産物と寺社の記録」を基に、「重要な範囲」の処の事を「青木氏の史実」として遺した。
    それを、更に筆者が「寺関係の書籍」や「佐々木氏の史書」なども解析して駆使し、「外部記録との照合」も添え、「父からも断片的な口伝」も混えて「口伝」としてまとめあげたものである。
    この時代の記録そのものが、「日本書紀」以外に信頼できる「青木氏」に関するものは少ない。
    その後に表された記録、つまり、「三大史書」[累代類聚三代格]なども参考にしている。
    「青木氏」には900年代頃からの「商業記録」が遺る。
    これを「青木氏]では「青木氏年譜」と称している。)

    以上の背景から、前段の「四家制度」では、世間にとっては、この(ア)と(イ)の二つは「大きな魅力(憧れ)」であった。

    前段で論じた内容
    「越前の逃避システム」(ア)
    「皇族の継承外者の受入先システム」(イ)

    その為に、「勃興の姓氏族」等は、”「自らの家の名声」”を高める為に、積極的に利用しようとした。

    つまり、あの手この手を使って何らかの形で、この高い格式を持つ「四家青木氏」の中に入り込もうとしたのである。
    それには、最適な方法は、周囲に執っては、所謂、“何らかの血縁関係を結ぶ事”にあった。
    それは「上記の青木氏」に入り込むには、明らかに”「婿養子」”と云う手段であった。
    記録で観ると、周囲は積極的に動いた事が判る。 

    (注釈 この「動いたとする根拠」は、「青木氏の末裔」と主張する「姓族」が、伊勢と信濃と摂津と紀州南部地域には多い。
    しかし、これらは家紋分析から明らかに全て「未勘氏族」である。
    前段と重複するが、「皇族賜姓族の青木氏」には、奈良期より「笹竜胆文様」の「象徴紋」以外には、「家紋とする概念の仕来り」はそもそも現在まで無いのである。
    「四家制度」に依って、「本家分家と云う区分けの概念」が無く、「族」の区別をする「家紋の概念」を持たなかったのである。
    「皇族賜姓族の青木氏」は、この「未勘氏族」と成る[荘園制」等には全く関わっていない事から、後は「商いに依る関係」からか、「青木氏の関連族」と主張したと観られる。
    「家紋」を使わない事を承知の上で、当初は、この「未勘氏族」は「商い関係だけの青木氏との繋がり」である事を示す為に、「故意に使わない家紋」を付けて、「青木氏に商いで関連する姓族」として恣意的に独立し呼称していた模様であった。
    この現象は地域的に限定している事が云える。
    然し、後に、この事をこの「未勘氏族の末裔」は、この事等の「伝統」を忘却して、「青木氏末裔」と名乗ったと観られる。
    従って、「皇族賜姓族の青木氏」には、「四家制度」がある為に、「青木氏外の跡目継承」に依る「他の氏名」は元より「姓名」も生まれない仕組みに成っている。
    当然に「家紋」も同じ事に成るのである。
    この様な事象が多発した模様で、この事象を防ぐ目的で、「青木氏部」の「家人と職能集団」に対して正式に「絆青木氏制度」(職能紋授与)を採用していた。
    と云う事は、この「未勘氏族」が多く出て「権威失墜の問題」が出た事を認識して対策を打っていた事を物語る。
    従って、これらの「姓族」との「婿養子の記録」は「青木氏側」には観られないのである。)

    しかし、「皇族賜姓族の青木氏」は、「賜姓族としての立場」を保つ為に、同じ「同族系の氏族」との血縁を進める”「純血性の概念」”を頑なに「氏是」として持っていた。
    つまり、「賜姓五役」を護る為には”「吊り合いの取れた血縁」”であった。
    この”「釣り合いのとれた血縁」”と云っても、実質、「血縁出来得る氏族」は、多くてもこの時代は周囲には50氏にも満たないの状況であった。
    (高級武士の姓族との血縁は江戸期に入ってからである。)
    この「氏族」の最大発生期は鎌倉期末期の200氏である。室町期初期の下剋上で激減した。

    この「賜姓族」としての「権威の象徴」を護ろうとすれば、結果的には、”「同族血縁」”と云う事にも成って仕舞う。
    この防御策が「四家制度」であった。
    必然的に、ここで好む好まざるに関わらず”「純血性の概念」”が生まれるのだ。
    その「隙間」を狙って、”「勃興の姓氏族」等は、上記の様に「血縁」を積極的に進めようとして来るのである。
    その“「隙間」”とは、”「四家制度」”を敷き、50にも及ぶ「慣習仕来り掟」で護られたところには、普通では生まれない。
    生まれるのは、「青木氏の弱点」の“「政略上の事」“に成る。
    従って、対策として採った事は、この「政略上の事」に関わるが、その事を「青木氏の氏是」(家訓)で厳しく戒めてはいる。
    然し、流石に、「謀計謀略」ともなれば、この世には”「事の流れ」”と云う物が在ってなかなか「皇族賜姓族の青木氏」に執っても防ぎ様がない。

    その内容としては、確かに”「養女」”と云う形も在ろうが、「氏家制度の男系社会」である限り ”「養子の存在力」”が、「養女の存在力」に比べて格段に高く、「自らの家の名声」を飛躍的に高め様とする。
    従って、「下心」があれば「養子の社会」であった。

    その「家の後継」としての”「跡目養子」”もあるが、“「吊り合いの取れた血縁」”(純血性の血縁)からすれば、先ずは「継承如何」は問わない”「婿養子」”以外には無い。
    「跡目」「婿」の何れにせよ、その「目的」は、“血縁したと云う結果”であって、彼らに取っては先ずは、「自らの家の名声」を獲得する事では「婿養子」でも充分なのである。

    (青木氏は「四家制度」を採っているので「婿養子=跡目養子」の図式とは成らない。)

    一度、「男系」で繋がれば、その「名声」を使って「血縁関係」を高めて行く事に成り得て、「氏族の関係族」として”「姓族の家譜」”に反映させられる事が出来る。
    その為には、「自らの家の名声」を高めようとする者は、先ずは“何らかの関係”を作り上げねばならない。
    これは「勃興姓氏」にとっては「生き残る手立て」としては「最大の命題」でもある。

    (注釈 青木氏の「最高の格式と権威」、「絶大な抑止力」、「莫大な経済力」の「三つの陰」の下に入る事の命題)

    「手取り早い」のは、先ずは、「四家制度」外の「女系縁者ルーツ(妾子系)」の”「青木氏の遠縁」”との関係を持とうとする事であった。
    其の上で、この「遠縁の関係」を使って、次ぎには、「青木氏の婿養子」の中に食い込もさせ様としたのである。
    (南紀州に個人記録あり)
    現実に、そこに、“隙間”が生まれた。

    何故ならば、それは「四家制度」を構成する上記した”「5つの面 20の顔」”の事である。(前段記載)

    この”「5つの面 20の顔」”に、人材を潤滑に送り込もうとすれば、時には、長い間には,不足する可能性を生み出す事も考えられる。
    この時、ここに、所謂、“「隙間」”と云う物を生み出す。

    (注釈 現実に室町期初期頃には既に起こっている。後に、「青木氏家人」と「青木氏部の職能集団」の「二つの絆青木氏」で対応した。前段記載)

    この室町期は“「紙文化」”とも云われ、「青木氏」に執っては、有史来、「巨万の富」を得た時期でもあった。
    「青木氏の組織力」も一段と大きく成り、「賜姓五役」を実行するこの”「5つの面 20の顔」”の役割は、其れに伴って大きく成り、“「隙間」“を生み出す結果と成った。

    その為には、先ずは、”「青木氏の遠縁」”との関係を持ち、其の上で、この「遠縁の関係」を使って、次ぎには、「青木氏の婿養子」の中に食い込もうとしたのである。

    この「隙間」の出る状況と成るに至って、「賜姓五役」を潤滑に務めさせるにはいよいよ問題が出始めた。
    それは「財政的問題」」では無く、「四家制度」を護る為の”「人様」を整える事”にあった。

    上記した様に積極的に近寄って血縁の関係を持とうとして来る他氏と血縁をすれば、”「人様の問題」”は容易に解決する。
    然し、「純血性の宿命」があって、それは絶対に出来ない。

    ここに下記に論じる本論の種々の問題が出て来るのである。

    そもそも、格式的には、これに比する同族は「皇位族」の中には最早、男系が切れた事で全く無かった。

    (注釈 「光仁天皇期」以降は、「一族の皇族方」としては存在するが、「桓武天皇から円融天皇期」までは、未だ天皇家の中に「光仁天皇」から引き継いだ「青木氏のルーツ意識」があった模様である。
    然し、直系外と成った平安末期からは資料としては無く成る。
    何とか観るとすれば「後三条天皇期」が限界と観られる。)

    しかし、「皇族賜姓族の青木氏」の「賜姓五役」を担ってもらえる一族の「皇族方」は、「男系不足」のみならず、その「意志や能力」を持った皇族方は無かった。
    勿論、下記にも論じるが同族と見做される「賜姓源氏」(意志と能力)にも無かったのである。

    これは、恐らくは「皇族賜姓族の青木氏の賜姓」から変わった「ルーツ意識」の低い「賜姓源氏11家の台頭」が原因している。
    現実に、「円融天皇」の後の「花山天皇期」でこの「賜姓源氏」は正式に中止と成っている事でも判る。

    最早、「賜姓臣下族」の「皇親政治的感覚」は無く成り、皮肉にも一族の「桓武天皇」が始めた「律令政治の感覚」が軌道に乗った事から「意識の低下」が起こったと観られる。
    これだけの皮肉では無い。「桓武平氏の台頭」も影響したのである。

    「皇族賜姓族の青木氏」の資料から観ると、一族であった「桓武天皇の評価」は低い所以でもある。
    しかし、一族の「嵯峨天皇」はこの「賜姓源氏」を発祥させたのに評価は高いのである。
    これは、主題として下記に論じる「円融天皇の目論見策の所以」ではないかと観ている。

    又、ここで「格式的な繋がり」を無理に作り出そうとすれば、「嵯峨期の詔勅と禁令」が障害と成っていたのである。
    且つ、それは「朝廷の政治と財政」を大きく揺さぶる結果とも成り得策では無かった。

    (注釈 前段記載 念の為に記載するが、 「嵯峨期の詔勅」では、次ぎの様な概要であった。
    「皇子族」を減らす為に、臣下させるが、財政的、軍事的、政治的な特権を与えない。
    ただ、「朝臣族」にするだけである。後は自らが切り開けとして賜姓した。
    「皇族者」としての[朝臣族の格式の身分」を与えるだけとしたのである。
    嫌であれば比叡山僧侶に成れとした。
    この為に「源氏」はその基盤が弱い事から各地に散ったが衰退を余儀なくされた。
    ところが、「清和源氏の満仲−頼宣系」は[荘園制」に目を付け、「地方の土豪」が「開墾した土地」に対して策略を講じた。
    「源氏の名義貸し」と「武力に依る保護」を与える代わりに莫大な「名義貸し料」と「保護料」を要求し獲得した。 
    「皇族の名義貸し」では、「源氏の権威」を周囲に誇示させ、その皇族系では「荘園の税」も軽減される事に目を着けての事であった。
    この「莫大な財力」を獲得できる様子を観た「全ての源氏」のみならず「摂関家」もこれに乗じたのである。
    この事が行き過ぎて、「荘園から入る財」を大きくする為に、「武力」で他の荘園を奪い取ると云う現象が頻発した。
    これが更に行き過ぎ、奪い取った豪族の荘園の人間を捕虜として連れて来て、「奴隷」として「荘園の人力」に使うまでに成って仕舞った。
    「清和源氏の義家」は、この「戦闘の大義」を「朝廷からの勅命」を偽装して、攻め落として捕虜を獲得して荘園は益々大きく成った。
    然し、「天皇」は見兼ねて「義家の行為」を「私闘」として罰し、「清和源氏頼信系」を悉く罰した。
    結局は、「花山天皇」で、この「存在意味」が低く、「社会の弊害」と成った「源氏賜姓制度」を正式に中止した。
    そして、遂に、摂関家外の「後三条天皇」はこの「荘園制」を禁止して解決した。
    この問題を解決すべく最初に動き出した天皇が下記に論じる「円融天皇」であった。
    この「円融天皇」の後が「花山天皇」で、その三代後が「後三条天皇」である。
    ここに「上記の立場」に居て活躍した「青木氏」が出て来るのである。

    この「青木氏の活躍の背景根拠」と成ったのが、上記の論として記載している事である。
    「嵯峨期の詔勅」が「賜姓源氏」の「青木氏に対するルーツ意識」も低下させた原因でもある。

    そもそも、皮肉にも、「青木氏」から「源氏]にその「氏名」を変えただけの「同族賜姓族」であるのだから、「皇族賜姓族の青木氏」に執っては「味方」を増やした事に成る筈であった。
    「嵯峨天皇の賜姓制度の翻意」はそれが目的であった筈である。
    しかし、この「翻意」とは真逆に「11代源氏」は全て逆転したのである。
    安易な「荘園制」に走ったのである。
    「荘園制」にのめり込んで「社会的な弊害」を出している多くの「賜姓源氏」には,「賜姓五役の補完」は,逆の事をしているのであるから最早、頼む事は絶対に出来ない。

    そもそも、「青木氏」に代わって賜姓された「11代の源氏」は、「嵯峨期の詔勅」の歯止めが有って、その「財力」は殆どの源氏は無かった。
    在ったとしても、「賜姓族」「臣下族」「朝臣族」の「掟」(格式慣習)が有って、自由には出来なかったのである。
    結果として、彼等には暗黙の内で「荘園制」を悪用して勢力を高め財力を得るしかなかった。
    これを形振り構わずに顕著に犯したのが、「清和源氏頼信系」である。
    時には、朝廷も騙して突っ走ったのである。 

    (唯、清和源氏の宗家の摂津の「頼光系」の「四家一族」は限度を超えたこれを避けた。「五家五流の地の守護代」を務めた。故に、「五家五流の青木氏跡目」に入る事が出来たのである。)

    そもそも、注釈で述べた様に、この「荘園制」は、「奴隷制度」などを誘発して社会問題に成っていた。
    しかし、天皇家は「摂関家」に丸め込まれて、周知の事実として「摂関家」自らもこの「荘園制」に手を染めていた。
    そして、政治は「勢力争い」に走り大いに乱れていた。

    そこで、嵯峨天皇の賜姓源氏に「皇族賜姓族の青木氏の補完の役目」(賜姓五役)を期待していた。
    然し、上記の通りで、期待は裏切られた。
    そこで、次ぎに論じる「円融天皇」は、この問題に命を掛けて取り組みだしたのである。
    そして、「荘園制の弊害」(奴隷制)を無くす事の為に、この「荘園制」をも禁止しようとした。
    先ずは、戦略的には「禁止する為の背景]を強化しようとしたのである。
    つまり、「身の回り」をまず固める「朝廷の強化策」であった。

    この事に付いて、本論は、前段や上記の様な「青木氏が持つ背景や経緯」が大きく影響するので、それを充分に理解した上で無くては納得が成されないテーマであるので次ぎに詳細に論じる事にした。


    以下 「青木氏の伝統―15」

    ・「秀郷流青木氏」と「融合族の発祥」

    この前に、「青木氏」には、「発祥期別」に分けると次ぎの様に成る。

    (1) 「天智期の青木氏」
    (2) 「円融期の青木氏」
    (3) 「嵯峨期の青木氏」

    この事を先に判り易くする為に記述する。

    上記注釈の直前に次ぎの様な事が起こっていたのである。
    奈良末期の社会変動の激しかったところに、伊勢の「四家桑名殿」の「白壁王の家」が「天皇家」と成った為に、“「四家」“は一時「空家 37年間」と成っていた.
    しかし、平安中期には、下記に論じる伊勢の「秀郷流青木氏」との「融合族」が発祥した。
    この青木氏同士の「融合族青木氏」が、「副役の空家」に入り、「四日市殿」と呼称されていた。
    それによって,より一層、「伊勢青木氏四家の主役と副役」が再び強化されて構成されたのである。

    この強化された「青木氏の四家制度」は、「嵯峨天皇の意」を汲んで、平安中期には「秀郷流青木氏」が「特別賜姓族」として「補完する役目」を「円融天皇の命」(968年頃)により負った。
    この事に依り、更に、強化されて拡大したのである。
    「賜姓」をした「円融天皇」が、「三つの発祥源、賜姓五役、国策氏」の主役と、「福井逃避地」「下族者受け入れ役」等の[副役」を、今後、安定して続けて行かねばならなかった。
    それには、次から次へと朝廷から無秩序に与えられる「臣下族としての役務」に対し、その「財力」と「遂行力」が、上記した様に、最早、明らかに不足していた。
    天皇は、当面の「政治的課題」を解決させる為には、「信頼できる青木氏」に「財力」は兎も角も、先ずは別の信頼できる氏族に「賜姓」を与えて補完させる以外には無かった。
    その「役務遂行の財力」を天皇家が保障してやるだけの余力はこの時期には無かったのである。
    「賜姓臣下族」は、「直接的な武力の保持」は兎も角としても、公家と並んで「商いに通じる直接的な財力」を持つ事は慣例としては禁じられていた。
    これは、「二足草鞋策」を「青木氏」に”「紙屋院」”として新たな「特別な朝廷の役目」を与えて暗黙に承認して構築しさせて居た。
    然し乍らも、この事は「強い財力的手段」での「遂行力」に対してだけの「役務の遂行力」に強い「不安感」を抱いていた事を物語るものである。

    未だ、この時期にも、上記した様に、皇族には、「荘園制から来る弊害」が蔓延し、それを解決しなければならない課題が強く遺されていた。
    最早、「賜姓族臣下族の青木氏」だけの「受け入れ能力」に限界があって、それを解決しなければならない問題があった事をも示すものである。
    「公家」や「他の臣下族(連族)」は,その「財力」をこの「荘園制から上がる利益」に頼っていた。
    然し、「1の天智期の青木氏」は、この弊害の産んでいる「荘園制から来る力」に頼る事は「賜姓臣下族」としては「賜姓源氏」の様に立場上出来なかった。
    従って、この「青木氏」の「朝廷からの役目」(賜姓五役)を滞りなく果たす為の「受け入れ能力」に問題が出て来ていた。
    これを拡大させるには、最早、「青木氏の四家制度」では限界にあった。

    そこで、この「円融天皇」は、暗黙の内に認めていた「二足の草鞋策」(925年頃本格営業)では繁栄したが、次から次へと与えられるその役を遂行する為の「財力(総合的な遂行力)」を捻出するものとして認めていた。
    しかし、それだけでは、最早、無理と観ていたのである。
    つまり、それは「財力の問題」だけでは無かった。

    そもそも、「朝廷官僚族」と違い「賜姓族」として「臣下族」として役務を忠実に果たす信頼できる「身内の氏族(朝臣族)」がいよいよ出現した。
    それに乗じて次から次へと調子に載って役務を与えられる事が出来る事への便利さがあって、”その「財力」のみならず「遂行力全般」への配慮なしの勅命”が発せられていた。
    それでは当然の結果として、「1の天智期の青木氏の能力」に限界が起こる事は必定であった。

    (注釈 この円融期の少し前の時期の「清和源氏の摂津系」の資料には、朝廷からの「社殿修理の勅命」を受けた事に対し、不満を述べなかなか実行に移さなかった処、催促を受けて止む無く一つの「社殿の修理」を実行して一時を凌いだ事が書かれている資料等がある。)

    (注釈 「朝廷統治」が成された地域に対する「皇祖神の子神の神明社建立」と云う「莫大な財力と実行力」を必要とする役務、それ一つ執っても「1の天智期の青木氏」には大きく圧し掛かっていた。)

    そこで、最早、「皇族賜姓青木氏」だけに頼る事は無理であると「天皇」自らも考えていて、これを加速させるには、他に「補完する役目を担う氏族」が必要であると考え始めていた事に成る。
    然し、それを請け負わせられる「信頼できる適当な氏族」を見つけ出し、それを命じるチャンスをなかなか見いだせなかった。

    (注釈 上記した様に、嵯峨期から発祥した「賜姓源氏」に請け負わせる「11代の天皇翻意」であったが、上記した様に「荘園制」に走って仕舞った。)

    丁度、その時前に、「平将門の乱」等の事件が多く起こり、時代は”「著しい混乱期」”に入っていた。
    「社会の混乱期」だけでは無く、「朝廷内部、天皇家の存在意義」も問われる乱れ様であった。
    この中で、誰一人積極的に進んでこの複雑な様相を呈する「乱」を鎮められ、且つ、「引き受けられる者」はいなかった。
    「天皇」自らの身も危ない程に、「補完する氏の選出」が出来るその様な簡単な社会情勢ではそもそも無かった。

    そこで、乱直前には、渋々、「関東の治安の責任者」でもあった「藤原秀郷」と「平貞盛」の二人が、”「条件付き」”で乱鎮圧に名乗り出たのである。

    有史来、そもそも「天皇」に「与えられた役目」に対して、「条件」を付けるなどの事は「不敬不遜の極まり」として「臣下の不作法」と捉えられる行為であった。
    しかし、この二人はやって仕舞ったのである。「前代未聞の出来事」であった。
    それだけ乱れていた事を示す証拠である。
    (飛鳥期の蘇我氏の上記の様と類似していた。)
    むしろ、それまでは、”「役目を与えられる事」”が名誉な時代であって、その様な「社会体制」でもあった筈であった。
    然し、この時期は、そうでは無かった。その「社会体制」を背景に、二人は”何と条件を付けた”のである。
    それだけ「天皇家の政治と権威」は失墜し窮地に陥っていて乱れに乱れていたのである。

    (この「朝廷内の構造」と「社会情勢」には”ある原因”があった。下記)

    然し、ここで何もしなかった弱体と成っていた「村上天皇」−「冷泉天皇」の後を引き継いだ「円融天皇」は、「平の将門の独立国の乱」後の解決も然ること乍ら、ここで、”「上記の課題」を一挙に解決させられるチャンスでもある”と観て採った。
    (この時を得て密かに「献策」があった。下記)
    先ずは、この「前代未聞の条件」等から起こる「政治課題」を解決する為には、一時この条件を認める事にして、「円融天皇」は、”「密かな献策」”に応じて勇断してある方向に舵を切ったのである。
    然し、ここで上記の”ある原因”に「対抗し得る勢力(決断するに必要とする背景)」が必要であった筈である。
    これは”闇雲に出来る話”では無い。「献策する者」が居た以上は、その者がこの”ある原因”に「対抗する勢力」を当然に充分に保持して居なければならない。
    もし、そうで無ければ、「天皇の命」は愚か「朝廷は崩壊」に等しい大混乱に陥る。

    その背景がある事を信じて、この「決断」と同時に、転んでもただでは起きて来ない判断を更にしたのである。下記

    結局、この「鎮圧」に成功し、「勲功」のあった関東の「押領使の藤原秀郷」には、この「青木氏の補完作業の役目」も付け加える「白羽の矢」を当てたのである。

    「藤原秀郷」は、北家筋でありながらも摂関家筋では無かった事から、「下野武蔵の押領使」(警察と軍隊)と云う低い役目柄で長い間「冷飯」を食って居た。
    其れが理由か歴史的に有名な事件の「受領家の乱行」を重ねていた。

    この時の「下野押領使説」には、幾つかの他説があった。

    乱の直前に任じたとする「乱直前説」
    乱の直後に任じたとする「乱直後説」
    乱の30年後に任じたとする「乱事後説」

    以上の3説がある。
    筆者は、「青木氏」の資料から観ると、「種々の考証」の結果に矛盾なく合致するのは、「30年後の乱事後説」と成りこの説を採っている。
    つまり、「本論の経緯」に基づく「円融期説」である。
    この説で無ければ、「円融期説」に矛盾が生まれ成立しない。
    当然に、2の「円融期の青木氏」は生まれて来ない事に成る。
    然し、現実にはこの時期に発祥しているのである。

    何もしなければ、これだけの116氏にも「成った青木氏」が自然発生の様に発祥する事は無い。
    「氏族」である限りは「朝廷の認可」を得て発祥した氏である事は明明白白である。
    況して、「嵯峨期の詔勅の禁令」で他の者が青木氏を名乗ってはならないとする禁令を発しているのである。
    従って、「乱事後説」]の「円融期説」が立証される。

    又、記録より史実である「30説や46説等の根拠」と成っている事から「乱事後説」は立証される。

    これを「円融期説」とすると、その背景にあった「秀郷」は、先ず「武蔵の領国化」と「貴族の位階」の「二つの要求」が「乱鎮圧の条件」として提示していた。
    この時に、「下野国の云々の事」は何も無かった。記録的にも無い。
    ただ事前は「乱行」の激しい罪人の「下野の受領家」(掾)であった事は史実である。
    この事を捉えて「年数の根拠」なしに推論に近い「事前説」が出来たと観られる。
    然し、正式には「乱後の朝廷」が行う「勲功」の為の「国の再配置」後に正式に決まるものである事に付いての「国の仕来り」には何も論じていない。
    単なる乱前の「下野の受領家」(官僚家)に過ぎなかつたのである。
    下野国を領化するものでは決して無かった。
    そうすると、明らかに領化したのは「30年後の乱事後説」と成る。
    正式には「乱事後」に「武蔵守」と「下野守」に任じられている。

    然し、この結果に対しては、「守護守」に成るまでの30年後までは、史実として朝廷はこの「約束」を護らなかった事に成るのである。
    そして、30年後には、「守護職」の「国司」では無く「武蔵国」は領国と定められたのである。
    この事からも疑う事無く、「30年後の事後説」に成り得て、2の「円融期の青木氏」の発祥と成り得た事を証明している。

    (注釈 依って、正式には約30年程度は恣意的に勲功を放置した。 46年と云う説もあるが考証的に若干これは合わない。)
    恐らくは、「天皇」としては、前代未聞の「不敬不遜の至りの不作法」に対して、どんな愚者であっても「天皇」である以上黙っている事は無い。
    そもそも、「天皇」とはこの「権威と尊厳」の上に依って成り立っている「立場」である。
    それを犯され、不満を述べられ騒がれて駄々を捏ねられる事は「許容の範囲外の事」である。)

    唯、乱後には、確かに貴族に成り得る”「従四位下」”に任じられただけであった。

    (注釈 ところが「貞盛」は「従五位上」であった。そもそも、秀郷より一ランク下である。
    この意味は大きい。そもそも、この「官位」は「公家身分]の最低クラスの格式である。
    然し、「秀郷」は最低の公家の官職に付ける位で、且つ、四つから成る名誉ある「各種の勲功や幇助」を受けられる立場である。
    大きく「勲功」が違った事を意味する。
    つまり、「乱鎮圧の評価」が違った事に成る。
    それは、「乱の首謀者」の「一門の将門」を「宗家」として統率できなかったとする「責め」と「乱鎮圧の不手際」の「責め」を受けた事にある。
    故に、差を付けられた「貞盛」は敢えて「不満」を露骨にしなかった理由でもあるし、「不敬不遜の至りの不作法」を知っていた事を意味する。)

    その事の「不満」も重なっての理由と成って、「秀郷」は「乱行」を繰り返していたのではないかと観られる。
    然し、ある時期(970年前後頃以降)を境に、この「秀郷]に「落ち着き」が起こったのである。

    (注釈 この時期を境に「乱行の事件性の記録」があらゆる資料からも不思議に消える。)

    それは、上記の様に、事後評価の「上記の勲功差」のみならず、下記に論じる「円融天皇の目論見策の結果」と観られる。


    その「目論見策」とは、一体どの様なものであったのかを最も「青木氏」に関わる「基本的な歴史史実」の事なので下記に詳細に論じる。

    そこで、「円融天皇」は、出されていた「提示条件」を全て容認するだけでは無く、この”「貴族の位階授与」”に託けて、その上に課せて、次ぎの「付帯条件」を付けたのである。
    それは、一ランク上の「条件の貴族」と成った以上は、”この「賜姓五役の役目」も受けなければならない”としたのである。
    つまり、「賜姓五役」を務めている「青木氏」の「特別の賜姓族」に成ると云う事に成る。
    遅れはしたが、これは「最高の勲功」と成る事を意味する。
    「従四位下」と低いが、この官位とは裏腹に「1の天智期の青木氏」と「同格の格式」を持つと云う事に成る。
    「破格の扱い」と成る事を意味する。
    つまり、格式としては、「従四位下」ではあるが、「賜姓五役を補完する立場」に成ったのであるから、最高位の「浄大一位に匹敵する立場」を暗に獲得した事を意味する。
    恐らくは、摂関家や外戚は、「政治、経済、軍事の三権」では、秀郷一門が突然に上位に位置する事に成って、驚愕した事は間違いは無い。

    (注釈 後に「賜姓五役」のみならず、全66中の24の守護職、最終28職も獲得するに至るのである。)

    そして、この「条件の立場」を認める事として、更に次ぎの「勅命」を下したのである。

    後刻に上記の経緯を経て、「武蔵」を「領国」とし、「押領使であった下野」の「支配権」をも与えられる事に成った。(詳細下記)

    以上として円融天皇は、先ずは「当面の事態」を解決したのである。譲位前には「戦略的な基礎固め」が出来た事に成る。

    (注釈 「秀郷」には全く問題はないどころか、下野の「田舎の受領家」からとんでもない「破格の家柄」と成った事で、「摂関家」にも勝るとも劣らずの格式を持ったことに成ったのである。
    況してや、「無役」では無く、「財」は掛かるかも知れないが、「最高格式」の「賜姓五役の役務」を与えられたのであるから、これ以上のものは無い。

    「円融天皇の目論見策」に執ってみれば、これで先ずは「第一段階の念願」の「青木氏の補完の役務の問題」は解決する事になったのである。
    後は、この勢力を使って朝廷内を「一発逆転の改革」に入る事であった。下記

    現実に、この時期を境に「秀郷の乱行期」は完全に霧消して行った。

    (注釈 重要 資料からは、「960年頃以降」は、「秀郷個人の記載した記録」や「事件性の記録」は見つからない事から、「落ち着き」を取り戻して来たと観られる。

    乱後の「勲功」は、「二条件」の内の「貴族の条件」の「従四位下」の官位のみで済まされていた事に成る。
    しかし、記録を辿ると、「約30年後の円融天皇期」には「他の条件」も大筋で認め、最終的には、983年までに処置している。
    その代わりに、この時に、「秀郷」には「円融天皇の目論見策」に載ることを命じたと観られる。

    (注釈 乱後の余りの「勲功の大きさ」の為に、秀郷死後に「贈正二位」に列せられている。
    明らかに,その後の天皇は[1の天智期の青木氏」の「賜姓子役の補完役」を見事に熟し、将又、[朝廷」を改革した「2の円融期の青木氏」の「働き」を評価して居た事が判る。)

    それは、次ぎの事からも判る。(「円融天皇の目論見策」に載ることを命じた事)

    ・ 「青木氏の商業記録」によると、「971年 津殿伊勢入る」と記載されている。
    ・ 「佐々木氏の資料」の「青木氏の処書」を読み解くと、「下野受領家の系譜添書」に「秀郷流青木氏」の発祥とされる記載が「970年頃」と成る。
    ・ 「藤原氏諸氏略系図」を観ると、「秀郷の第三子出自の青木氏」は、計算から「969年頃」と成る。
    ・ 「藤原秀郷流進藤氏の系譜」を観ると、「青木氏発祥」と成り得る「千国の烏帽子期」は添書より読み解くと、「969年頃」と成る。

    この記録から、「円融天皇の目論見策」の「千国系青木氏の発祥期」は「970年」である事に成る。

    つまり、正規に「二足草鞋策」を採った「925年頃からの記録」である「伊勢の記録」では、「青木氏の着任期」に成る。


    この時の「勲功の有り様」に付いては、「秀郷」だけでは無く同じ事が「繁盛」にも起こっていた。

    「貞盛」の弟の「繁盛の勲功」にも朝廷は全く同じ仕打ちをしたのである。
    この「繁盛」の場合は、この「不満」に対して採った行動が、資料で多く遺っている。
    「朝廷」に対して、「明確な不満行動」を採っていて疑われた事が記録として遺されている。
    この時、「繁盛」は、それを打ち消す為に「写経」して「恭順の姿勢」を採ったのである。(記録)

    ところが、「秀郷」の場合は、結局、この「不満」に対して、「朝廷」に直接訴える行動では無かった。
    「乱行と云う不満行為」で多くの事件を起こして、度々、朝廷より罰せられ、遂には下野に引き籠ったのである。

    「不満の繁盛」の場合には、下記に論じる様に、「世間」も揶揄して”「岡田殿」”から”「嶋崎殿」”に格下げして呼ばれたのである。

    実は、この「不満の繁盛」の場合は、30年後の後に、上記した”「嶋崎殿の青木氏」”と呼ばれる処置で解決したのである。下記

    そして、「不満の秀郷」の場合は、30年後の後に、”「武蔵殿の青木氏」”と呼ばれる処置で解決したのである。下記

    何と、何れも「賜姓 青木氏」であった。

    その前に、この「勲功の時期の遅れ」は、何で遅らしたのかの疑問を説いて置く。
    そもそも、これは「故意的」に朝廷が遅らした事である。

    (注釈 この「故意的遅延策」は、「二足の草鞋策」を始めた頃の事である事から、未だ摂関家等の「外戚の勢力」を抑え込む「抑止力」は充分に醸成されていなかった。
    この事から、「青木氏の氏是の知略」から鑑みて「青木氏の献策」では無かった筈である。)

    では、そもそも、この「故意的な遅延策」は、”何故、起こったか”と云えば、次ぎの事から起こったのである。

    そもそも、”「天皇に対して前代未聞の条件提示」”をした「臣下の不敬不遜な行為」に対して、「天皇の威厳と権威」を護る為にも直ぐに応じない「対抗処置」であった。

    それは、「臣下族」が絶対に採ってはいけない前代未聞の「最大の不敬不遜の行為」であったからで有る。
    これが「有史来の事」である事から、「乱」が起こり世間がこの「乱の始末」を観ている時に、「天皇」からすると「立場」と「権威と尊厳」を著しく傷つけられて、煮え返る程に「腹立たしい行為」であった筈である。

    (注釈 実はこの事を証明する記録が遺されている。

    「繁盛」が「不満の発言と行動」を採った事に対して、約30年前後に、「繁盛」は反省して何度も朝廷の外戚に頼み込んで執り成しを得ようとした。
    ところが、「天皇」に無視される始末で、遂に思い余って「嘆願書」まで出した。
    然し、その後、「周囲の執り成し」にて、一度は形式的に許されるが、結局は天皇の強い反対で無効と成っている。
    その後は、”一族の印象を落としている”と云う事で、一族から邪魔をする者も出て来る始末であった。
    何度も「執り成し」を「却下」される等の「仕打ち」を受けていた。) 

    「秀郷」も「繁盛」とほぼ同様であった。
    ところが「貞盛」は左程の不満の態度を示さずにいた。
    そこで調べると、この時期を利用して密かに本領の九州と堺で「港の整備」をして、中国との”「商い」”に邁進していたのである。
    つまり、「隣人の青木氏」に感化されて、「荘園」では無く「商いに依る財の獲得」に重点を置いていた事に成る。

    (注釈 五代後の清盛は、遂にこれを引き継ぎ、「禁令の慣習」を破り正式に宋貿易まで発展させた。
    「1の天智期の青木氏」は、925年から「二足の草鞋策」で「[商い化」して、この「商い」を「総合商社化」した時期でもあった。
    恐らくは、「先祖の生き様」と「隣人の生き様」を観ていた事の結果と観ている。
    「生き残る」には、「武力」では無く「商い」であることを感じていたと観ている。
    その証拠に「源の義経」に「清盛」は何と「商いの必要性」を解いている「記録」が遺されている。) 

    兎も角も、しかし、天皇家は弱体化している現状ではやむ得ず、心を何とか治めて我慢しての対抗処置であった事に成る。
    朝廷は、この「貞盛の行為」に対して、敢えて”観て見ぬ形振り”をしたと観られる。
    何故ならば、この事を大きくする事は、「禁令の商い」を営む隣の「青木氏」に対しても罰する事にも成る。
    況してや、その「商材」は主に「和紙」である。
    伊賀の「たいら氏」と伊勢の「青木氏」らが中心と成って「国産化に成功したばかりの「和紙」である。
    両氏は「伊勢和紙(伊賀和紙)」で一緒に殖産している隣人である。
    両氏を「罰する事」は、「天皇」に執っては、折角、「補完の役務」を「秀郷」に負わせようとしているし、「繁盛」には、「青木氏」を与えて、「秀郷の補完の役務」の補佐の「特別の役務」(実務役 下記)を与えて何とか「目論見策」を実現しようとしている時でもある。
    こんな時期にそんな事は絶対に出来ない。全てぶち壊しと成り得る。

    その状況を鑑みて「一発逆転の策」に出たのは、そもそも、「円融天皇」(下記)であった。

    そこで、「前天皇」には、二年程度で外戚から退位させられた事からもその能力は全く無かった。
    そこで、引き継いだ「円融天皇」は、「30年後のチャンス」として捉えてこれを利用したのである。

    然し、「円融天皇の優秀さ」は、「一発逆転策の目論見策」だけでは無く、「事の流れ」を創出する能力に長けていた事に在った。

    (注釈 これが「秀郷」にしても「貞盛」や「繁盛」にしても「繁栄の基礎」と成る様に仕向けた処にあったのである。)


    この”「事の流れ」”を創出する為に、その後、この状況を観たこの「円融天皇」は其れだけでは済まなかった。

    この時の「円融天皇の政治手腕」は、「外戚」に「政治の場」を奪われていながら、若かったがその資質は極めて優れていた。
    取り分け、「外戚」が多いと云う事は、「外戚の発言」が多いと云う事にも成り、その中でも、それを聞きわける「判断力」に優れていた。

    先ず、この時、“「貴族は武力を持つ事が出来ない」”とする「朝廷(奈良期大化期)の仕来り」があった。
    それに絡めて、「武力を持つ護衛団」を別に作る様に「秀郷」に要求したのである。

    然し、更には、これにも「勲功のあった秀郷」に持たすのではなく、又、その子供の跡目嫡子の「千常」にも渡すのでもなく、何と「部屋住み身分」の「第三子」(「千国」)に代々継がせることを命じたのである。
    当時の「慣習仕来り掟」からして、この処置はこれも「前代未聞」であった。
    臣下の採った「前代未聞」は、天皇の採った「前代未聞」で返したのである。

    恐らくは、当時としては、これは世間があっと騒ぐほどの「仰天覚知」であったであろう。
    30年と云う期間を得て流石に大人しく成り始めていた「秀郷」は、この事に対して「若い円融天皇の能力」を見直すだけの驚きを示した筈である。

    そして、この「仰天覚知」はこれだけでは済まなかったである。
    何とその「氏名」を「藤原氏」では無く、大化期からの「由緒ある氏名」の「青木氏」を名乗らせる事にしたのである。
    これは「嵯峨期の禁令」に反している。
    最早、「仰天覚知」を通り越していた筈で、「煩い外戚」に囲まれていながら、「円融天皇の能力の優秀さ」を感じ採っていた筈である。

    この「賜姓臣下族の青木氏」が、「朝臣族」と成って、間接的に秀郷一門の貴族を護衛する一団の「氏族」としたのである。
    つまり、「青木氏と朝臣族の名誉」だけを与えるのでは無く、これまた、「仰天覚知」であった。
    「円融天皇」自らが、”例外中の例外の「武力」”を公然と持つ事を「貴族の家柄」に命じたのである。

    この「円融天皇」が採った根拠は、「補完する役目」を負う以上は「賜姓五役の天皇の護衛団」の考え方を発展させたのである。
    この「賜姓五役の護衛団」を使って、「従四位下の貴族」と成った「秀郷一門宗家」を護る役目も負わしたのである。

    この「護衛団」を使って、「外戚」を先ず威圧して「天皇の権威」を取り戻そうとしたのである。
    これで、現実にこれで「煩い外戚」は黙り始めたのである。

    普通は、むしろ、「武力は禁じ手」として命じる事が、「天皇本来の仕来り」であるにも関わらず、「逆の事」を命じたのである。
    むしろ、この段階で、「秀郷」は、”「円融天皇」を恐れ慄いた”と観られる。
    これは、例外中の例外を飛び越えたそれほどの「勅命」であった。

    ところが、未だ、この「円融天皇」は、これだけでは済まなかった。

    その為に、”特別に「皇族外の臣下族(朝臣族)」を作り、永代に「賜姓族」にする”と云う策に「円融天皇」は出たのである。
    本来は、「あり得ない勅命」であった。
    これだけ「例外中の例外の勅命」を、「煩い外戚連中の意見」を入れずに、「勅命]を下したのである。

    (注釈 この時の「外戚」は、一人や二人の外戚では無く、何と「40人」と云う「外戚」が政治に関わっており、余りに多い為に「外戚に依る勢力争い」の時代と云って良い程の状況であった。
    この為に「政治腐敗」と「天皇の権威」は極度に衰退していたのである。下記)

    恐らくは、朝廷内は「蜂の巣」を突いた様に騒いだであろうことが良く判る。
    むしろ、「身の危険」さえも感じる程であった事は充分に想像できる。
    先ず、普通であれば、阻止されていた事が当然で、病気か何かを理由に託けて即座に退位させられていた筈である。
    現実に、「円融天皇」の前後の二代の天皇は、「外戚」に逆らう事も無かったのに「外戚」から退位を迫られ極めて短期間で譲位していて、その史実が遺されている。
    これだけの事をした「円融天皇]である。

    普通は即座に退位させられていた筈であったが、次から次へと策を講じて「勅命」を発したのである。
    これには、それを阻止できる何かが働いていたからこそ出来た事である事は上記した様に容易に想像できる。
    何せ「摂関家」の40にも成る「藤原氏等の外戚」にも打ち勝つだけの「相当な力」「影の何かの勢力」が働いていた事は間違いは無い。

    我々「青木氏」から観れば、大変興味の湧く処であって、「影の何かの勢力」、況や、”それは何なのか誰なのか”である。

    (先に経緯を記述して観れば判る故に下記に論じる。)

    そして、次ぎには、貴族に列せられた「秀郷一門」は、「宗家の第三子」を、この「青木氏の跡目」に必ず入れる事が定められた。
    この策の「永代の継続性」を保証する為に、「青木氏」に跡目が切れた場合に限り、「秀郷一門の宗家」から「青木氏跡目」に入れる事を条件にした。
    早速、「秀郷の第三子の千国」にこの役を任じて提示した。
    所謂、「第三子跡目の制」と云われたものである。
    「皇族賜姓族青木氏」に適用されている「第六位皇子の賜姓の制」に準えた制度である。

    (注釈 最初は、一門一族筆頭の宗家筋と成る「佐野氏」(秀郷の出自地)から多く跡目に入っている。下記)

    この時、未だ「円融天皇」のこの処置は終わらなかった。
    続けて、矢継ぎ早に次ぎの策を講じたのである。

    「藤原秀郷」と「平貞盛」の二人が、この鎮圧に関わったが、ここで、「円融天皇」は、何と「将来の事」までを予測していた。
    それは、この「平の貞盛」の台頭(たいら族の始祖 清盛の5代前)であった。
    この関東に「大掾」や「押領使」として配置赴任させられていた。
    然し、「平貞盛」等の「現地末裔子孫」の「嶋崎」に住んでいたとされる”「たいら族」の「嶋崎殿」”と呼ばれた家から、この何と「千国」に嫁がせたのである。

    (当初は「貞盛」は、「京の佐馬允」の役務であった。「不満の態度」を取らず,密かに「商い」に向かったところを見抜いたと観られる。)

    そこで、この”「嶋崎殿」”とは、”一体誰なのか”である。
    この”「嶋崎殿」”を解明する事で、大きく「青木氏」との関係が観えて来る筈である。
    ”単なる血縁妃の「たいら族の事」”とは云え、長年の歴史観の感ではこれは避けて通れないテーマである事を感じる。

    「円融天皇の目論見策の経緯」を先に述べてからこれを下記に論じる。

    当に、”「影の何かの勢力」は誰か”と共に、この疑問の答えも、”世は輪廻”で動く事である。

    つまり、将来台頭してくるであろう「京平氏」の「たいら族」を、「特別賜姓族」とする限りは、この「秀郷流青木氏」の血筋に「たいら族の血筋」を入れて血縁関係を構築させる手立てまで講じたのである。
    この事で、「特別賜姓族の立場」を将来に渡って確実にして安定化させる手立てをしたのである。

    (注釈 現実に、「桓武天皇」の「賜姓族のたいら族(桓武平氏、京平氏)」は、後の「太政大臣平清盛」である。
    この「桓武天皇」の母は、「伊勢青木氏の始祖施基皇子」の子供の「白壁王 光仁天皇」の妃「高野新笠」である。
    この「高野新笠」は、「伊勢北部伊賀地方」の「阿多倍王」(高尊王 平望王 渡来人後漢の王)の孫娘に当たる。

    (注釈  念の為に註釈する。「桓武平氏又は京平氏」の「たいら族」とし、累代天皇から発する「第七世族」を臣下させて「ひら族(平氏)」として坂東に配置した。
    これが所謂、「坂東八平氏」である。
    これに区別して「桓武天皇」は、「母方族」を賜姓する「賜姓時の根拠」として、「過去の賜姓族」の「第七世族」の「ひら族」に準えて「たいら族」と呼称させて賜姓した。
    この「ひら族(平氏)」と、区別する為に通称、「桓武平氏(京平氏)と呼称されている。
    この「桓武平氏」は、「後漢21代目献帝」の子で、「後漢渡来系族の阿多倍王」とその父親の「阿知使王」を始祖とする。
    618年に後漢が亡び数度に渡り渡来して来たが、その主隊の「後漢17県−200万人の職能集団」は「孝徳天皇期」を中心に渡来して来た。
    主に九州北部に上陸し、無戦の状態で瞬く間に九州全土を制圧し、その根拠地を薩摩の大隅隼人に置いた。
    鹿児島の阿多地域と隼人地域に拠点を置いていた族である。
    その後、中国地方に移動させ、66国中32国の関西圏直前までを無戦制圧した。
    「無銭制圧」の理由は、「17県民200万人の職能集団」が土地の者と同化する事を前提に技能享受をした事に依る。
    そして、「在来民」の全ては生活向上を果たし、「後漢の渡来人」に従った事に依る。
    現在の関西以西の「第一次産業」は、これらの享受の結果であり、「・・・部」とする呼称はこの「渡来人技能集団」の呼称である。
    これを捉えて、朝廷は経済方式には「部制度」を敷いた。
    平安中期頃には、書物から「渡来人」と云う字句は出て来ないところから、帰化後に完全に同化した事を意味する。
    多くは、その進んだ学問から「朝廷の官僚族」にも成り朝廷を主導した。
    「阿多倍王」は、又の名を「高尊王」と「平望王]と呼ばれていて、「桓武天皇」は後に伊賀に定住したこの「阿多倍王」の死後に「平望王」として「たいら族」への王位を「大和王式の仕来り」で授与した。
    この事から大変多く公的資料は混同している。
    最近では、この「高尊王」と、「桓武天皇の記録」にある後に授与されたとする”「平望王」”とを結合させた上で、室町期の家柄誇張の搾取偏纂の資料説を持ち出した”「高望王」なる王命説”で論じられている。)


    この事一つ捉えても、これだけの事は、「藤原氏摂関家外の勢力」に依るものである事は容易に判る。
    「円融天皇」が、この差配に対して直接発言して主導して仕掛けたかは別として、「京平家への処置」は、何らかのルートを使って仕向けた事は疑う余地は無い。
    何故ならば、「摂関家」には、「藤原氏]としての高い格式もあり、「官僚族」としての激しいライバル関係にもあった事から「秀郷の北家筋」から絶対に採り得ない差配である事は判る。

    そこで、では、上記の疑問の一つを論じる。
    この「平氏の嶋崎殿」(氏名)について検証して観ると観えて来るものが多くある。

    この通称、この”「嶋崎殿」”は、元は別に「姓名」としては”岡田”と号していた。

    この”岡田”は、常陸国(茨城県)にあり、昔、「岡田郡」と云う郡があって、ここに「嶋崎」と云う地名が存在した。
    つまり、常陸の岡田の住人と云う事に成る。
    「常陸」は、「貞盛」が赴任していた土地で、「常陸の大掾」(国司の次ぎの官職)と成っていた。
    明らかに、「貞盛本人」では無い事は判るが、子供か従兄弟等のその関係者である事はこれで判る。

    ところが、その後に、先ず「氏名」を「藤原氏」とし、そこで「氏名」を今度は直ぐに「青木氏」に名乗り変えた事に成っている。
    従って、この通称、この”「嶋崎殿の青木氏」”は、これを証明する事として次ぎの様なものがある。

    先ず、家紋は「揚羽蝶紋」を「主紋」としている。
    次に、「丸に一文字」「稲丸の内一文字」の「二つの副紋」としている。

    以上の氏を物語るものを持っている。

    この家紋分析より、「特別賜姓族」と成った「千国」に自然の形でライバル関係にあった「京平氏との縁組」が起こったとは考えられ無い。
    一度、先ずは、慣習上、「藤原氏」に「氏族」を改めた上で、「娘の嫁ぎ先」の「氏名」の「青木氏」を名乗っている。
    と云う事は、先ず慣習上からは普通ではない。

    ここに間違いなく”何かの大きな力”が働いた事に成る。

    「家紋」から観れば、当時の慣習は、先ず、「主紋」を持つ事は、朝廷が認めた「格式高く大きい氏族」であれば「総紋」を持つ事は許されている。
    果たして、この段階で「桓武平氏」は「総紋」(主紋)を持ち得ていたであろうか。
    累代天皇から出自する「皇族第七世族」の臣下族の「ひら族」は「皇族系」である事から、「総紋と家紋」を持ち得ている。
    然し、「たいら族」は、あくまでも「賜姓族」であるが直系列の「朝臣族」では無い。

    (注釈 後に、「芽純王」の娘を娶る事で「朝臣族」に列せられた。)

    取り敢えず、格式的には「桓武平氏」で「賜姓族」であるので問題はない。

    血縁的としても、奈良末期には「敏達天皇」の孫の「芽純王」の実娘を娶って「准大臣」の称号を獲得している事からも問題はない。

    「官僚族トツプの氏族」で「官僚の6割」を占めていた事を、「日本書紀」に「天武天皇の質問」に対して「施基皇子」が答えている。

    (注釈 「倭人の官僚」を教育して増やす様に命じている。平安初期の時期まで未だ”「渡来人」”として呼称され扱われていた事が記録にある。)

    奈良期の末期頃以降から平安中期までは、「朝廷官僚族(伴氏等の五大官僚族)」を押えて、「6割の勢力」を持ち得ていた事を物語る記述である。

    この事からは、その「勢力」を素早く見分ける為にも「総紋」(揚羽蝶紋)を持ち得ていて、個々の家紋を「各枝葉の氏族」(25枝葉程度の氏族であった)に持たしていた事に成る事は充分に判る。

    「副紋」としている家紋では、そもそも、この”「一文字文様」”とは、平安期初期頃には、一は事の始や根本と捉えられ、鎌倉期から室町期には武士の間では「勝(かつ)」と読んでいた事から「無敵の意」があった。
    この事から、「尚武的なもの」として家紋として用いられた。
    取り分け、武士でも”「たいら族一門」”に用いられた家紋である。
    最も広く用いられ始めたのは、室町期初期前後である。
    現在は、「伊勢北部」を含み「中部以東」に多く分布する家紋群である。
    取り分け、「南北朝期」に多く活躍した「家紋群」であり、その地域には分布が観られる文様である。

    この意味からも、この「岡田」、或は「嶋崎殿」が、平安期の中期前後頃には用いていた事が判る。
    可成り、「たいら族」の「初期の段階の末裔族」であった事が判る。
    「国香−貞盛」は主筋であるが、この「嶋崎殿の呼称」がある事から、「貞盛」等に続く「主筋の末裔」であった事がこの家紋で判る。
    現在も、この「嶋崎殿」を始祖とした「青木氏を名乗る末裔」は、三氏ある。
    その子孫は珍しく関東に於いて広げている。
    この「一文字文様の氏族」は、「秀郷流青木氏」116氏の中でも、「異色のルーツ」を持っている事に成る。
    この事は「搾取の多い揚羽蝶族」の中でも「家紋」に対しても全く矛盾は無い。
    「一文字紋」は「時代性」も全く同時期である事に成る。
    この事からも、「貞盛」に極めて近い筋の者であった事が判る。

    仮に、この「円融天皇の目論見策」が、「貞盛」とした場合は、余りにも直接的と云うか、わざとらしいと云うか、疑問である。
    恐らくは、一門の周囲が「ライバルの家」に”「本筋」が取り込まれた”として黙っている事は先ず無かろう。
    とすると、「貞盛」に近い者とすると、兄弟かせいぜい従兄弟の範囲では無いだろうか。

    この”「一文字文様」”が鍵に成る。
    この文様の物語る範囲とすれば、この範囲は超えないであろう。
    そして、「たいら族」が滅亡した後の南北朝期までこの文様を高めている。
    これも「重要な判断要素」に成り得る。
    つまり、「たいら族」は関西以西で滅亡し、各地に逃亡して支流末孫が生き延びた。
    然し、「南北朝期」にも亡びずに「末孫]を拡げていると云う事は、「南北朝期」の「紀伊半島地域」に存在した「たいら族」である事に成る。

    そうなると判別も比較的容易である。
    この「一文字紋のたいら氏」が、亡びる事が無かったのは、「揚羽蝶紋」を「総紋」としながらも、「藤原氏」−「青木氏」の範囲の中に居た事からである筈と考えられる。
    そこで、この紀伊半島にて生き延びた「たいら族の里」は明確に「六か所」ある。
    現在では何れも有名な観光名所でもあるし、古くからの保養温泉地でもある。
    歴史的にも”「平家郷士集団」”と呼ばれ、室町期の戦乱期には「傭兵集団]として活躍した。
    見逃してはならないのは、現在でも、その「平家郷士」としての「伝統(慣習仕来り掟)」を護り続けている地域・集団でもある。

    紀伊半島の「平家郷士集団」

    一つ目の地域は、長嶋域
    二つ目の地域は、伊賀域
    三つ目の地域は、吉野域
    四つ目の地域は、北山域
    五つ目の地域は、高野域と龍神域
    六つ目の地域は、十津川域

    以上の六地域となる。

    この「郷士の六地域」は、現在でも”「平氏郷士集団」”と呼ばれているが、普通は「平家落人」と成っているが、ここはしっかりと生き延びた。
    特に、中でも”「十津川郷士」”は、現在でもその「伝統」が護られ、その精神の一端は,全国剣道大会で常時連覇優勝する程のものである。
    この紀伊山脈の山深い頂上付近にあるこの村は、紀州では”「十津川郷士」”の言葉で遺されていて有名である。

    (注釈 「紀伊半島の歴史」は、この”「郷士」”のキーワートで調べれば殆どは判る。奈良期からその歴史性が遺されている事に依るが、「古代言葉」を調べるには「紀州言葉」を調べれば判ると云うほどである。
    紀伊半島は俳諧人には「万葉の地」と云われる所以である。)

    この「六地域」は、江戸期までの「歴史上の舞台」でも何れも忘れられない地域でもある。
    それだけに、確かに「落人」ではあるが「落人」としての「生き様」を見せなかったのであり、故に、「主紋・副紋」の家紋も遺し得た事に成る。
    この「主紋と副紋の家紋」が遺されていると云う事が、その「たいら族の生き様」が、所謂、「落人」では無かった事を意味しているのである。
    当然に、伝統も遺し得ている事に成る。
    検証するには、最も熱の上がる「環境テーマ」である。


    その検証として、更に,その「子孫を拡大する能力」を持ち得たのは、「秀郷宗家一門」か、「秀郷流青木氏」に関わっている地域と云う事に成る。
    そうすると、その地域は、前二つの「長嶋地域」か「伊賀地域」かである。
    後はこの条件に関わっていないし、「一文字紋の家紋分布」は全く無い。

    従って、「長嶋地域」と「伊賀地域」と成り、何れも家紋分布は僅かであるが認められる。
    (多くはないが一部甲賀地域にも観られる。)
    「家紋分析」から、大きく分布が伸びたとされるこの”「南北朝域の地域」”としては、この「家紋分布の限界範囲域」にある。

    ただ、この「伊賀地域」は、平安末期に「貞盛」の子供の「四男維衡」が、この伊勢域を引き継ぎ、「平清盛」が、奈良期に伊勢割譲に依って得たこの「伊賀地域」を返上した。
    そして、「播磨の国」に移動した事実がある。

    (重要な注釈  「日本書紀」に、700年前半に「薩摩」の「隼人地域」と「阿多地域」を初期に半国割譲を正式に受け、その後、朝廷より呼び出されて伊賀北部の半国割譲を受けた事が書かれている。
    この時、後漢「阿多倍王」とその配下は、飛鳥の湖の銀杏の木の下で天皇に「相撲」を朝覧してみせたと書かれている。
    薩摩の半国割譲は、その前に「朝廷軍の船団」が、この「後漢の阿多倍軍団」が朝廷の威光を無視した事に依る懲罰として二度に渡り攻めたが失敗に終わり、結局は「半国割譲の懐柔策」に出て成功し、更に飛鳥に呼び出す口実として「伊勢の半国割譲」で「奈良朝の威光」の中に入れた事が書かれている。
    これが、「伊勢北部伊賀地方」の始まりであり、その後には、「伊勢青木氏の出自」の「山部王」の「桓武天皇」は、「母方の郷」を理由に「伊勢北部伊賀地方」に「阿多倍王の見舞い」と理由で出向き、その場で「平望王の称号」を与えたとする記録がある。
    この記録は、「阿多倍王の年齢」が「92歳位の高齢」に成るが、「後付の記録」ではないかと云う説もある。
    母方の阿多倍王には「准大臣の称号」もあるが、「大和の王位」は無かった事から、死後の直ぐ後に、「平望王の称号」を与えたと成っている。
    この「王位獲得」に依って、兎も角も、「皇族第四世族」を獲得した事を意味する。
    つまり、「桓武天皇」は、母方を皇族方に加えて、「天皇の権威」を強化した事の目的であった。
    この「山部王]は、「天智天皇の第六位皇子」で「賜姓臣下族で朝臣族」であった事から、本来は「皇位継承権」は正統系では無かった。
    しかし、「男系皇位継承者」が全く無かった事から、止む無く、”それに準ずる者”として「施基皇子」の家系゛を指定された。
    「施基皇子」の子供で「白壁王」に「白羽の矢」が当たり、「光仁天皇」と成り、その「皇位の跡目」を「施基皇子」の孫の「山部王」が継承した経緯である。
    この時、「光仁天皇の妃」が「高野新笠」で、この「伊賀北部」に住んだ「阿多倍王の孫娘」に当たる。
    兎も角も、この「伊勢北部伊賀地域」は、この由緒を持っていて、「青木氏」とは、奈良期から「徒ならぬ関係」にあった事が云えるのである。
    記録から、播磨に郷を移して、その「伊勢伊賀北部地域」を「5代後の清盛」が返却した事に成る。ほぼ正規の使用期間は460年の期間と成る。)

    この事から、ところが、この時に、移動を拒否してこの地域に居遺ったグループが居た。
    このグループが、後の室町期から江戸期の「伊賀忍者傭兵集団」である。
    このグループには、当然の様に「生き延びる為の路線争い」が勃発した。
    それが、次ぎの様に成る。

    「氏本体の播磨移動組」
    「居残り組本体の伊賀の組」
    「甲賀に移動分裂した組」
    「長嶋山岳部に移動した組」

    以上の四組に成る。

    「氏本体の播磨移動組」を除いた三組は、何れも「忍者傭兵集団」と成って室町期と江戸期には活躍した。
    この残留組の中に、「伊賀青木氏」が組み込まれていた。

    (本体の「播磨移動組」は、平家滅亡後は四国に落ち延びた。)

    そうすると、この「嶋崎殿の青木氏末裔」は、最も、「たいら族の郷」であって、奈良期からの「伊賀地域」である事に成る。
    つまり、「貞盛の子供の兄弟」か「従兄弟の三親等の親族」であった事に成る。
    常陸岡田郡で ”「嶋崎殿」”と呼ばれていた人物は、年代的、年数的には養子を含む”「貞盛子供7人と兄弟の2人」”の誰かである事は確実である。

    そうすると、兄弟と子供でも、四男までの範囲と成る。

    貞盛の兄弟
    繁盛
    兼任

    貞盛の子供
    維叙、長男 藤原済時の子
    維将、
    維敏,
    維衡、四男 嫡男 伊賀継承
    維幹、
    維茂、弟繁盛の子
    維時


    しかし、岡田郡で”「嶋崎殿」”として呼ばれていて、”「南北朝の一文字文様」”を持ち得る可能性が有る人物と成る。
    先ずは、「四男の維衡」が伊勢伊賀を引き継いだ事から、伊賀地域に遺し得る人物と成る。
    然し、この時期は、「青木氏の四家制度」と同じ考え方で、「従兄弟の範囲」でも「養子」が盛んに行われた。
    現実にこの伊賀でも行われている。

    「貞盛」の兄弟の「繁盛」からも、「貞盛の子供」が5人もいるのに、”「伊賀養子」”が入っている。
    「青木氏の四家制度」と同じで、「子供の範囲」は区別せず「子供・従兄弟・孫」までとしていて、この中で、「優秀な者」を主家に据える考え方である。
    ところが、「繁盛の養子」(維茂)が入って居乍ら、結局は「四男の維衡」が継いでいる。

    筆者は、この「繁盛の子供」を「貞盛養子の扱い」にした事そのものの「行為」が、この”「嶋崎殿の子供」”に「白羽の矢を立てた恣意的な行為」であったと観ている。
    揶揄的に呼ばれた”「嶋崎殿」”は、記録から、貞盛の弟の「繁盛」である事は明白である。
    では、この「繁盛」が「円融天皇の目論見策の人物」と成り得たのかと云う問題が伴う。
    何故ならば、天皇家からの「賜姓」ともなれば、「不敬不遜な行為」は避けなければならない「仕来り」が有り、分家とか支流とか「氏の権威を損なう不作法」が在ってはならない。

    この場合は、「不敬不遜の至りの不作法」は次ぎの点にある。

    「天皇」に不満をぶちまけた「繁盛」は「問題の人物」である。
    「平繁盛」は「伊賀の分家」である。
    「藤原氏」は最高の「名籍の公家族」である。
    「青木氏」は「朝臣族」「賜姓族]「臣下族]で「浄大一位」の「権威族」である.
    「京平族」は「従四位下」の二氏の「格式下族」である。

    以上、この四つの事柄を「不敬不遜の至り」の不作法に成らない様に「仕来り」として仕切らねばならない。

    この為には、つまり、「殿上人」の尊い「円融天皇の目論見策」であるが故に、「粗相や祖誤」の無い様に「最高の仕来り」で臨まねばならなかった。
    それには、次ぎの「仕来り」を取らねばならない。

    「主家」に「主家の跡目」を壊さず、「繁盛」をより権威付ける為に「繁盛の嗣子」を「分家」からでは無く、先ず「主家の養子」に仕立てる。
    その上で、この養子(維茂)を「主家」からの出自させる「最高の慣習」を護ったのである。

    そして、その上で、「天皇家」とも繋がる「大氏族の藤原氏」にしては、次ぎの「仕来り」を採らねばならない。
    それは、その跡目先を先ずは「藤原氏」にした上で、直に名誉の「青木氏の出自事」にした事にある。

    こうする事で、「天皇に対する最高の儀礼的手続き」が先ずは整う事に成る。

    この事で、仮に「貞盛嫡子」をこれに立てたとすると、「貞盛の宗家の跡目の問題」に支障が生まれる。
    その「支障の執念」が「天皇」に注がれる仕儀と成り得る。
    これでは、「円融天皇の目論見策」に対して、「恩を痣で返す結果」として、「不敬不遜の至り」に成り得る。
    この「目論見策」には、「一連の継続性」のある「幾つかの策」が有って、その中の一つに、この「貞盛の厚遇」に対する「繁盛の不遇」に配慮してやる「円融天皇の深い心遣い」があった。
    それだけに、「繁盛」に対して「秀郷」や「貞盛」と同じく「家柄、格式、官位、官職」を与えてやらねばならない。
    「貞盛」と同じく同じ「恩賞と勲功」を与えれば、簡単である。
    然し、「主家の貞盛の立場」は保てない。
    「秀郷」も片手落ちとして「不満」を言い立てる事に成る。「不敬不遜の至りの不作法」と成る。
    そもそも「前代未聞の条件付き役目」を演じた位の人物である。何を言い出すかは判らない。
    大いに「献策者」はこの事柄に注意を払った筈である。

    これらの事を上手く納めるには、「秀郷に採った勲功」の一つとして採った「青木氏の格式」を「繁盛の子供」にも与える事で丸く納まる。
    主家の「貞盛の養子」として「繁盛の子供」の「維茂」を入れて「主家からの出自」とする。

    ただ、これには「直接的血縁」では無いが、次ぎに、「娘嫁」させて、「繁盛」にも「藤原氏」と「青木氏」を一時的にも名乗らせ、それを息子に「別流の青木氏の跡目」とさせる事で万事納まる。

    後は、「二代目の維茂」と末裔の採る「出方次第」である。
    その「扱い方」では、「秀郷」に与えた「勲功」と「同じ結果」を生み出す事に成り得る。
    そこまでは、最早、「円融天皇や周囲の献策者の範疇では無い。
    生かすも殺すも、当時の慣習の「吊りあいの作法」が整う事が必要である。
    ここからは、先ずは「纏めの作法」と成る。
    形式的な形として、初代「繁盛」と二代目「維茂」の形を先ず採った。
    これは、両氏の「人間的な能力」に関わることに依る。

    先ず、「受けた側の藤原氏」と「出した側の平氏」との間の「吊りあい」の「纏めの作法」である。

    ここで、この「吊り合いの慣習」から、この「円融天皇の目論見策」の「お返しの養子」と観られる事が起こっている。

    「藤原氏(済時)からの養子」が伊賀に「跡目の形」で出した。
    「貞盛の長男」として命名された「維叙」を出し、先ず「嫡男」として通名を名乗らせた。
    そして、元の長男を次男として受け入れた。
    「維茂」を「藤原氏]に形式上でも入れた代わりに、形式上、この「貞盛の養子」に入れたのである。
    これで「不作法と成る仕儀」は無く成る。
    これで「互いの氏族」としては「不作法」に成らない様に「バランス(つり合い制度)」を採った事に成る。

    注釈
    (恐らくは、「貞盛」(20歳)で、「受領家(秀郷側)」から、上記の始末後の後刻に、娘(秀郷の姉)を上記の経緯を踏まえて嫁したと観られる。
    ところが、上記の経緯前に、血縁していたとする説がある。
    然し、この「事前血縁説」には疑問が多い。
    この「事前婚姻説」を前提とすると、そもそも本論が下記に示す様に歴史的矛盾や論理的矛盾が生まれ成り立たなくなる。
    従ってこの検証を充分にしなくてはなら無く成った。
    例え゛例として次ぎの様な事が挙げられる。

    (イ) 先ず、下記に示す様に、[年数的」に15−20年程度の無理が在る事。
    (ロ) 更に、「地理性」が京都域と下野域の地域差がある事。
    (ハ) 両氏のこの910−930年頃代の「家勢」は未だ極めて低く、互いの関係は希薄で未だ無かった事。
    (ニ) 両氏の「役柄関係」にも差があり、秀郷の受領側は紛争を幾つも起こしていて、又、嫡子秀郷も乱行があり再三罪を受けるなど極めていて婚姻どころ環境では無かった事。
    (ホ) 上記の「円融天皇の経緯」のこの政治環境中で、且つ、未だ乱も起こっていない時期に、「両氏の血縁」は無し得ない環境下であった事。
    (ヘ) 両氏には、軍勢は低く、兵を集めるにも「周囲の軍団」に条件を付けて頼み込んでまとめる程度のもので、「事前説」の様に「自力勢力」は無かった事。

    参考
    当時の多くの資料から観ると、「平安期の戦闘」は、そもそも「殺戮」そのものの結果では無く、如何に大義を上手く唱え、賛同得て「他氏兵力」を集めるかにあった。
    当時は「5千の兵力」がその戦いのパラメータと成っていた。
    従って、如何に「諜報戦」をするかに掛かり、この結果、急に戦局が一挙に変化する等の事が起こる戦場であった。
    当に、この「将門の乱」は、この「典型的な戦い」として有名である。
    この意味でも「貞盛事前説」には「事後説」でなくては無理が在るのである。
    (「貞盛派歴史家」の「後付」の誇張偏纂説の所以)

    年代検証
    「貞盛」は、生は不詳 没は989年 佐馬允935年 役職は最低15歳 生は920年 将門乱鎮圧940年−20歳 没69歳 )
    「秀郷」は、生没不詳 流罪916年 乱行罰929年 刑罰は最低15歳 生は901年 将門乱鎮圧940年−29歳 没82歳 )

    結論
    将門乱前、つまり、「乱の混乱期初期」の「事前の婚姻説」は、最低930年頃には、貞盛は受領家側から嫁取は年齢的に出来ない。
    将門乱後、つまり、[乱の混乱期後期」の「以後の婚姻説」の最低942年頃以降でなくては、歴史上の史実から観ても成り立たない。
    又、「受領家側の妹娘」の低年齢からも成り立たない。

    これは当時の慣習年齢(婚姻や役職)などの「最低の条件」から算出しても、この条件以上の範囲では、{事前婚姻説(親族説)}等は成り立たない。


    この様に、上記した様に「円融天皇期の混乱期の政治情勢」や、その環境を一発逆転しようとして「一連の目論見」が働いている中での検証としては、当時の「氏家制度の慣習仕来り掟」は洩れなく護られている。
    明らかに,「目論見の中での仕来り」が好く動いている事に成り、よくある「氏家制度の慣習仕来り掟」の「矛盾」は無い。

    (「事前婚姻説」があったとすれば、上記の「目論見の経緯」は決して起こり得ていなかった可能性が有る。しかし、「歴史の史実」は起こっているし、「青木氏」で云えば現存するに至っている。)

    岡田での”「嶋崎殿」”の年齢的にも納得出来る人物としてでは、「繁盛養子」がこの為のものであった事に成るのである。
    この様に「弟繁盛の息子等」が「貞盛の養子」と成っており、そうすると、この”「嶋崎殿の養子と成った子供」”は次ぎの人物と成る。

    それは、彼の有名な逸話の「戸隠の鬼女紅葉退治」の伝承で名高い”「余五将軍平維茂」”ではないかと観ている。

    ここで注目すべき事が、歴史的史実として「貞盛と繁盛」の間で起こっていた。
    「将門の乱」後の「繁盛」には、兄に続いて「常陸大掾」に成るが、上記した様に、「貞盛」に比べて恩賞はこれだけであって、「不遇の人」として見られていた。
    その為に、”「大掾繁盛殿」”等と境遇を揶揄的な形で扱われた。
    多くに、特別呼称されていて、その中の一つで、「厚遇の貞盛」に対して、「不遇繁盛」を揶揄する意も込めての”「嶋崎殿」”と呼ばれていた。
    この”「嶋崎殿」”の「揶揄の意」には、”兄に比べて常陸国の岡田郡の誰も知らない様な「片田舎の嶋崎」の豪者”と、「都人の揶揄の呼称」で噂されていた。
    当初資料では、”岡田を号していた”としている事から、事件前は普通に、岡田郡の人と云う意味で、”岡田殿”と呼ばれていた事は、その意味で判る。
    然し、事件後の結果から、更に、”小さい片田舎の嶋崎殿”に替えられた事は、明らかに揶揄であろう。普通は小さくは成らない。
    その”揶揄”の中には、更には、兄に比べられて「繁盛の性格」が朝廷に疑われた可能性もあった。
    その為に、「繁盛の事」に付いての資料には,”寺に籠り写経をする”等の様な事の内容が多い。
    一族の中にこの繁盛の不満行動に対して、一族の恥として反発をする者が多く出事が記録されている。
    この反発した一族の者等が、揶揄的に大きい国の「岡田殿」から、”小さい田舎の住人”とする揶揄で、呼称を”「嶋崎殿」”と呼ぶようになったと観られる。
    その事もあったか、後日に、「不遇の親」として「子供の事」を思い、別に子供を上記の様に貞盛等の親族の家等に「養子」に出すなどの処置が起こっている。


    参考(重要)
    この「繁盛」の”「嶋崎殿の呼称」”に付いては、「二つの青木氏の記録」と「佐々木氏の記録」と、この「三氏の末裔の家記録」に見えている。
    中でも注目するのは、「佐々木氏の資料」にある。
    この「佐々木氏の資料」には、同族である「近江佐々木氏」は、全国的に子孫を展開していて特に、「神職と住職」に大きく関わる「氏族」である。
    「神職と住職」は当時の時代に於いては、「農民の庶民」から「皇位に至るのまでの高位族」迄実に深く関わっている「氏族」である。
    それは、返して、「末端の情報」から、「天皇に至るまでの情報」を詳細に獲得できる位置に居た。
    むしろ、当時は、「神社仏閣]は、「軍事,政治,経済の拠点」とも成って、その役柄を果たしていた時代でもあった。
    「神仏に努める者」とは必ずしも成って居なかった。
    そもそも、この傾向は室町期に成ってその役割は増した位であった。
    その意味で、この「佐々木氏」は、全国ネットのその「佐々木シンジケート」を使って「時代を左右」させたのである。
    「川島皇子」を始祖とするこの「近江の賜姓族佐々木氏」は、同じ同族の「賜姓族青木氏」も「神明社組織」を使って良く似た役割を果たしていた。
    そして、その「氏族の組織体制」や「慣習仕来り掟」や「伝統」も「酷似の範囲」にあった。
    従って、唯、違う処は、「佐々木氏の全国ネットの差」にあった。
    筆者は、殆ど「佐々木氏資料」は「青木氏資料」と観ていて、補えるところはこの範疇にある。

    本論も、参考にしていて、取り分け、この「嶋崎殿の検証」の考証には大いに参考に成った。
    「佐々木」には、もう一つ「青木氏」と違うところがある。
    それは、宗家の地理的な関係もあってか、「藤原氏北家筋」との「親交の深い繋がり」や「血縁の絆」を持っていた事にある。

    その「資料」には、”何気なく書かれている事柄”が、「歴史的検証」には非常に役に立ち、当時の「慣習仕来り掟等事」や[時事評論」が記載されての資料である事であった。
    その事から、この広域から得なければならないこの”「嶋崎殿」”の事も、最初はこの「佐々木氏の資料」から習得した事であった。

    あらゆる「検証」に絶対的に必要とする「歴史観の参考書」とも云えるものとして評価していて、これは他氏には絶対に及ぶことが無い「青木氏」ならではのものである。
    故に、「青木氏の由来・伝統の解明」は、搾取偏纂説や誇張説」に惑わされる事が無く、正当に引きずられる様に進んだ。


    さて、その資料をベースにして次ぎの事を更に論じる。
    「円融天皇の朝廷」に、この事で「繁盛」はこの不遇に対して何度も朝廷に具申するも無視された。
    その事も有って、「献策者」等の周囲が見兼ねたか、この「円融天皇の目論見策」に「白羽の矢」が当てられた。
    つまり、「貞盛」に匹敵する「家柄」を与え「格式」を高める手立てに出た。

    (京平族の中には、逆に、繁盛の遣り過ぎに京平族の権威を落とし天皇から信頼を落とすとして反対者も多く出た。記録にある。)

    異常とも考えられる「40にも上る外戚」の中では、この扱い方では「議論百出の結果」と成った。
    繁盛擁護の「外戚の働きかけ」は少なかったと観られる。
    そのような様子は資料には、一部が「執り成し」をしたとする記録があるが、一族からは出て来ない。

    形式上の慣習として、上記の様に、当時の「仕来り」に依る「藤原氏ー青木氏の名乗り」は、当時の「高位の氏族」の良く採る「慣習仕来り掟」から「嫁ぎ先の氏名」を実家先が先ず名乗った事に成る。
    しかし、この「実娘」(不詳)が、「千国の妃」に入って、”「青木氏」”を名乗って、その子供が「秀郷流青木氏の始祖」と成ったと観られる。

    この「妃の実家先の青木氏」を、三代目(繁盛−維茂の子)から正式に継続的に引き継いで名乗ったのである。

    これは、当時の「高位の氏族」が頻繁に執る「重要な仕来り」である。
    この時、「初代の嶋崎殿」と呼ばれた「初代の繁盛」の「青木氏」は、子孫が出来得れば、或は、出来なくても親族より上記の様に、「養子」を取り、その者にこの「青木氏」の「二代目跡目」を先ず継承させる。
    この場合は、二代目は「維茂」と成る。
    そして、「初代の繁盛」は、自ら隠居して「元の平氏」に戻ると云う「仕来り」を敷く事に成る。
    次いで、「二代目の維茂」が、暫くして子供(三代目)に引き継いだ事で、適時に「元の平氏」に戻す事に成る。
    結局、この「二代目(維茂)」までは「形式上の継承者」として取り仕切りられる。
    そして、「三代目」から継続して正式に青木氏を継承して行く事に成る。

    (注釈 二代目までは、その出自は現存した「他氏の者」であった事から、其の侭では「不作法」と成る。
    そこで、正式に「藤原族の青木氏」と成って誕生した「三代目」が「正規の跡目者」として「青木氏」を興した事を意味する。

    (注釈 「二代目までの仕来り」は、「円融天皇の目論見策」であった事を物語ります。)

    これは「賜姓族」等が必ず採らねばならない「仕来り」であり、”「賜姓」はしたが「跡目」が無く引き継げなかった”と云う風な「失礼な事(「不作法」 「不敬不遜の至り」)」が起こらない様にする「仕来り」である。
    その為に、「二代後」から正規に継承するか、「三代目」から継承するかで、”明らかに継承した”としての形を、「天皇」に対して「儀礼上の仕来り」を採る事に成る。
    この場合は、「二代目」までは「平氏」で、「純粋な藤原族の青木氏」と成り得ていないので、「三代目」から正式継承で答える事と成る。

    この時の「正規の初代(三代目)」は、正規に「藤原姓」を名乗る事を許され「兵右衛門利澄」の姓を受けていて、直ちに「青木氏」に改めている。

    この、この「兵右衛門利澄」は、三代目以降に引き継がれて、正式に「藤原族の青木兵右衛門利澄」と成る。
    これが、この「嶋崎殿の青木氏」の「藤原族青木氏」の今後の「通名」となるのである。

    この「嫡子四代目」は、”「兵右衛門利備」”と云う様に、「利」又は「澄」が引き継がれて行っている。

    (注釈 検証 この「受領家の藤原氏」を引き継いだのであるから、「藤原族青木利澄」には、「何かの根拠」が有ったと考えられる。

    そこで、この「藤原氏の系譜」を調べて観た。
    そうすると、丁度、全く同時期頃に「秀郷流」の「藤原公澄」なる人物が居た。
    この「人物」には、問題があったか正式な形で「跡目」が継承されず、「公澄」より三代を経てやっと継承されている。
    つまり、故意的に「空籍]にされている部分がある。

    (注釈 [不敬不遜の至り」に成らない様に「故意的に空籍」にしたと観られる。)

    この事に付いては、確証は得られていないが、恐らくは、この「空籍」の「公澄の跡目」の形で”「澄の通名」”を「嶋崎度の青木氏の三代目」に与えたと観られる。
    その「空籍の跡目」の形で”「利澄]”が与えられた可能性が高い。
    その結果、「添書」には不詳で、理由が判らないが、何故か、この「公澄の三代後」には「跡目」が正規に引き継がれている。

    (注釈 その引き継がれた人物が、”与えた”とする事を証明している。下記注釈)

    この「空籍の系譜」と、「二代目維茂」の後の「三代目」が正式に「藤原族の青木氏」が引き継がれたのであるから、この事から”「三代後」”が符号一致している。

    (注釈 この「藤原族の青木利澄」のこの「分家族」には、この「公澄の系列」に就かれている「秀の通名」と同じで「忠秀」(・秀)で継承されている事でも証拠だてられる。)

    (注釈 この「藤原公澄」は、秀郷の七代目正没不詳であるが、計算から1030年前後頃の人物である。
    この「公澄」は、同時に二代目後の「伊勢伊藤氏の始祖」の「基景の祖父」に当たる。
    これは同時期に「伊藤氏]が発祥した事に成る。
    この「伊藤氏」は伊勢を室町期に支配した北畠氏の家老の「尾藤氏族」でもあり、この事でも繋がる。)

    (注釈 実は、この「公澄」の子の「知基」は、「秀郷流文行系長谷川氏」に跡目が切れたために跡目に入り継承している。
    この時、丁度、「文行系の跡目」が”「空籍」と成った事”から、この「跡目」を「繁盛−維茂」の後の「三代目」に継承させたと観られる。
    これを「利澄」としたと観られる。)

    そもそも、この”空籍と成った事”に付いて、故意的に、「長谷川氏の跡目」にしたかは不詳であるが、可能性は否定できない。
    その可能性の根拠は、そもそも、その「空籍の状況」そのものがおかしい。
    故に、この間の「公澄」の次ぎの二代は「空籍」として「系譜」を扱っている。
    先ず、”二代”と云う事が疑問である。普通なら一代で充分である。
    その後の実質の「跡目系譜」を観て見ると、元の「公澄の曾孫の知廣」に継承させて纏めている。

    これが”空籍と成った事”の”「故意的か」の事”に付いては、わざとらしいので、”「曾孫の知廣」”が継承している事から観て、”「故意的」”と観られる。
    何も、”二代”にする必要は跡目が居たのであるから無い。
    例え、嫡男が「長谷川氏」に跡目に入ったとしても、直ぐに「孫か曾孫」が居たのであるから跡目を継承させれば良い筈である。
    「空籍」にする必要性は全く無い。況してや、”「二代の空籍」”の必要性は尚更に無い。
    何故ならば、普通ならば、「公澄」の跡目に「知基」を据え、「長谷川氏に跡目」が欠けたとすれば、「通常の慣習」の通りで「孫の知昌」か「曾孫の知廣」に「長谷川氏」を継がせれば良い事であって、何も「系譜」を態々「空籍」にしなくても良い事に成る。
    何も無ければ「空籍の根拠」の必要性は全く無い。

    これは系譜を、”態々「空籍」にしなければ成らない”「相当な理由」”の何かがあったからこそ「空籍」とした”のである。
    それを、「一代空籍」としても良い事に成る。
    然し、「二代空籍の系譜」としなければ成らない”「絶対制のある抜き差しならない相当な理由」”があった事に成る。
    そして、その「二代空籍の系譜」とする以上は、普通ならば「知基」の子供(孫)」で済ませられる筈である。
    然し、「曾孫(知廣)」として「系譜」を作り上げている。
    つまり、「孫」では無く「曾孫」として置くことで「二代空籍の系譜」を作り上げた事に成る。

    では、その「孫」は一体誰かと成る。
    「系譜」は「公澄」−「知基」−「・?・」−「知廣」となるが、「・?・」は不明で出て来ない。
    年数的にも、”「曾孫までの時間的間隔」”はこの場合は生まれない。
    つまり、そもそも、「公澄」−「知基」−「知廣」であって、「二代空籍の系譜」を形式的にも絶対的に作らねばならない理由があった事に成る。
    「知廣」は「曾孫」では無く「孫」なのである。(「知昌」も孫である。)
    あくまでも、形式上の理由で、「藤原秀郷流諸氏略系譜」では「曾孫」として整えた事に成る。

    後は、そこで、「知基の跡目」を受けた「長谷川氏の系譜」では、知基−知昌−知忠−知宗−秀康・・・と続く。

    (注釈 重要 「伊勢伊藤氏」は、この公澄−知基−基景と成っている。)

    この「長谷川氏の系譜」の「知基−知昌−知忠」の横に「別系」として「曾孫の位置」に「知廣」を繋げているが略系譜の譜には無い。
    この「長谷川氏の系譜」で「略系譜の辻褄」を合わした事で、上記の事が証明される。

    (注釈 伊勢の「伊藤氏の始祖」と成った「基景」とは、「利澄」と全く同時期である。大きな意味がある。)

    では、その相当な理由とは何なのかであるが、明らかに、「不敬不遜の至りの不作法」に成らない様に「略系譜」では仕上げたのである。
    それには、次ぎの二つの方法(作法)がある。

    「公澄の系譜」に「二代空籍の作法」とした跡目

    (ア)「藤原氏の籍」を形式的にも継承した「一代目繁盛−二代目維茂」の「二代分」を入れる事で空籍とした。
    (イ)「実質的に「嶋崎殿の青木氏」の「三代目利澄−四代目利備の譜」を仕立て上げて「二代分」の空籍とした。

    以上の二つの何れかの作法で「ルーツが完全に繋がった形の作法」で臨んだ事が云える。

    では、この(ア)(イ)のどちらにしたのかと云う事に成る。
    つまり、(ア)の形式的か、(イ)の実質的かと成る。

    ここで、この判別はこの「略系譜」の表現にある。

    「空籍」とせずに何も書き込めば良い事で済む筈に成る。
    然し、この「略系譜」は「空籍」の形を採っている。
    そして、「添書」としては次ぎの様に成っている。
    「空籍」にしながら、”「この間に二代の継承有・・」”と記述している。
    「公澄より三代後の継承者」として、「知廣と知宗」の継承と成っている。
    然し、「公澄」より「四代目の継承者」の後の跡目は「知」の「通名」を使っていない。

    これで、はっきりしている。

    答えは、(イ)の「実質の継承者」であった事に成る。
    (ア)では、「知」の通名は使えないからである。

    恐らくは、「2の円融期の青木氏宗家」が持つ「藤原族の略系譜」の原本には、(ア)が書かれている筈である。
    何故ならば、(ア)(イ)とは「青木氏の系譜」の上では上記の様に明確に成っているからである。
    然し、筆者が持つ「藤原氏の略系譜」には「添書」で外している。
    それは、”「この間に二代の継承有・・」”と云う事は、この系譜作成に関わった藤原氏の者等は、この「継承者の事」を知っている事に成る。
    そうで無ければ、「不詳」で済ます筈である。知って居なけれは「・・二代の継承有・・」とは書かない。

    ”「藤原氏の略系譜」”である事からこそ、この「氏外の継承者」を不記載として、「添書」にその旨を表記して済ました事に成る。

    (注釈 むしろ、研究ではこの方が「当時の経緯」がより詳細に追及出来たとして良かった。「添書」にはその間の「経緯」が潜んでいてその意味で重視している。
    尚、「青木氏宗家」が持つ筈の青木氏に関わる”「藤原族の略系譜」”は、「個々の系譜」は出ているが、「全体の系譜」としては出て来ない。
    入間に現存する宗家筋が、「青木氏の氏是」に沿って出さないのかも知れない。筆者も出さない様に。)



    そもそも、ここで更に重要な事が在る。
    「千常」と「千国」のルーツを含めて「公澄の系譜」も、累代は、”「左衛門尉」(宮廷警護役)”の”「永代の家柄」”である。
    特に、「秀郷一門」の中でも、この「公澄ルーツ」は、累代は「左衛門尉」(宮廷警護役)の家柄であった事から、”「嶋崎殿の青木氏」”の「出自の系譜」(役職)となったのである。

    その事から、「三代目の利澄の氏家の役柄」は、永代で「宮廷警護」の「左衛門尉」の配下の”「大番役」の「実務役」”を担った根拠に成るのである。

    (注釈 この「利澄系譜」の三氏はこの「大番役」を主務としている。下記)

    つまり、これはどういう事かと云うと、”「同時期」”に次ぎの様な事が起こった。

    1  藤原氏の「秀郷」の「二代目」の「千国の青木氏」を武蔵で発祥させた。
    2  平氏の「繁盛−維茂」の後の「三代目」の「利澄」は「伊賀の青木氏」を正式に発祥させた。
    3  藤原氏の「公澄」の「三代目」の「基景」の「伊勢の伊藤氏」を正式に発祥させた。
    4  藤原氏の「千国の二代目」(成行)が伊勢で「秀郷流青木氏」の任に付き「伊勢の青木氏」を正規に発祥させた。

    4の「伊勢ルーツ」の検証 
    ・ ・−・成行−・家綱−・有綱−・景綱−・基網−・国綱−宗綱−宗行−行春−為行−行久−行兼−右近−行信−行勝−行春・−・・・と続く。

    個々の系譜を観ると、次ぎの様に成る。(「2の円融期の伊勢青木氏」の生き様が良く観える。)

    先ず、「初期の頃」は、各地に「派遣される護衛団」としての人員不足から「秀郷出自先の佐野氏」より原則として跡目が入っている。(円融期の取り決めどおりである。)

    然し、「跡目の入れ替え」が興って居て、「6代目位」頃からは「同族長沼氏」、「12代目」頃からは「同族永嶋氏」からも跡目を受けている。

    更に、「公澄の頃」には「調整役の進藤氏」(文行系)からも「青木氏の跡目」を受けている。

    然し、この現象は、上記の「国綱の頃」まで興している。粗方の体制は整った頃と成る。

    これは「宗家の赴任地」が増えるに従い「護衛団」を派遣しなくてはならない事も重なって起った現象である。

    その為に、一度入った「跡目」から抜けて「別の赴任地」の「青木氏の跡目」に入る等のやり繰りを繰り返している。

    「24地域の護衛団」、「500社の神明社建立管理団」、「宮廷親衛隊」、「五地域天領地護衛団」等に「跡目」を送り込む必要があったからである。

    その為に「子孫拡大策」が「行久の頃」まで「最大の課題」であった模様で有る。

    従って、「四妻制」から嫡子嗣子妾子に関わらず15歳になると同時に配置されて、「早婚制度」が興った。

    何れの嗣子にもこの為に差別なしに「四家制度」で孫域までを子供として扱い動員した。

    この為に「跡目の入れ替え」が盛んに起ったのであり、「同名の跡目」が地域のルーツに起こるのはこの事から来ている。

    そこで、「本所」の「伊勢ルーツ」と、「本家」の「武蔵ルーツ」とを比較すると、「同名の跡目」が最も多く観られる。
    この事は、この「跡目の入れ替え」が盛んに起こっていた事を示す。

    従って、与えられた「賜姓五役」の「役務上の本所」は、「伊勢」が「本所」であった事に依る。

    秀郷一門の「護衛団の役目柄」は、「本家」であった事に依る。

    その意味で、伊勢は「本所」と、武蔵は「本家」と呼ばれていた。これは「本所=本家の関係」にあった事を示す。

    中には、「西の本所」,「東の本家」と書いたものがある。この意味は「本所=本家の関係」の中で、「役務]を「東西]である程度分けていた事を示す。

    「長沼氏にある跡目名」が「本所と本家の青木氏」にも同時代にあり、「永嶋氏にある跡目名」が「本所と本家の青木氏」にも同時代にあると云う現象も起こっている。

    同名でなくても「通名」から観ても、「長沼氏、永嶋氏」から「本所と本家の跡目」に入っている現象も興っている。

    「本所」と「本家」の程ではないが、「主要の地域ルーツ」にも「跡目名の移動」は余り観られないが、「通名」や「添書の記載」で「跡目」が入っている事が判る。

    これ等が116氏に拡がった所以の一つでもある。

    (注釈 「青木氏116氏」に及ぶ事で、”「固定的な跡目の概念の制度」”を敷くと、互いのルーツとテリトリーを護ろうとして「青木氏同士での勢力争い」が起こる事は必定である。
    この事も避ける目的もあって、「跡目」には「ある程度の移動性」を持たせた事も考えられる。
    更には、「赴任期間」が完了すると、「現地末孫」は別として、「本家に戻すと云う方式」も採っていた事も、「固定的な跡目概念」を排除する目的があったからである。
    「116氏」と成ると「枝葉末孫」の「夫々の本家筋」が生まれ、その「本家元」に返す事に成っていた。
    「本家筋の更に本家」を「宗家」と呼称し、「宗家筋の更に宗家」を「総宗本家」(大元 武蔵入間)と呼称した。
    従って、「赴任地」には「家族同伴は禁令」であった。)

    (注釈 従って、「赴任」は長期間を避け原則は朝廷の命に沿って、4年或は5年を限度とした。
    その代わりに、「現地末孫」を義務付け、時には跡目が無く成る等の事が起こると「現地末孫」を本家に連れ戻ると云う現象が観られた。
    これも、「本家筋」が採っていた「四家制度の概念」に在った。
    要するに「跡目の人員確保」である。)

    例えば、「伊勢ルーツ」は「伊勢ルーツ」で終わると云う「固定的な跡目の概念」を必ずしも持ち得ていなかった事を意味する。

    その地域に対する「護衛上の能力」と「子孫力の強弱」から観て、柔軟に対処して「跡目の入れ替え」をして図ったものと観られる。

    その子孫をどの様に扱うかは「四家制度の概念」に従った。

    (注釈 この「跡目の入れ替え」が「24地域の116氏」の全てに及んでいたかは調べ切れない。)

    この制度は、「役務上と護衛上の重要地域の範囲」と観られる。
    その証拠に、「讃岐秀郷流青木氏等」は「自己能力」が高かった事から「上記の仕来り」は当初から無かった。


    (注釈 特徴的な事は、「秀郷一門の調整役」であった別系の「文行系の進藤氏」から跡目が入っている事は大きな意味を持っている。
    「進藤氏系青木氏」(阿波北)であるが、又は、「秀郷流近江蒲生氏」と繋がる「秀郷流近江脩行系州浜紋の青木氏」(紀州 伊予 土佐、美濃)である。
    他に、「利仁流青木氏」もあるが、「阿波南以外」には無いので「跡目の入れ替え」は無かった。)

    上記の事は、如何に「跡目の人員確保」が大変であったかを物語る。


    以上の事が殆ど同時期に興った事を意味している。
    当に、この「四氏族」を発祥させた「円融天皇の目論見策」は、「一発逆転の策」で有る事が良く判る。

    伊勢では、あっと驚いたのではないかと想像できる。
    伊勢では、今後、”何かが起こる”と人々は観たと思われる。
    それが、”これで朝廷の内部が変わる”と「百姓の人」は明らかに想像したと考えられる。

    (注釈 一部の資料に、朝廷内部の「外戚の勢力争いの弊害」が将来に危惧する表現が遺っている。
    特に、多くの人と多くの立場の人と接する寺関係者の表現に観られる。
    この事から、朝廷を左右させている外戚の摂関家を除いた「全ての百姓の思い」があった事が判る。)

    では、伊勢では、今後、”何かが起こる”と人々は観たが、それは何故なのか、である。
    それは取り分け「伊勢」に於いてでは、その前に「皇族賜姓青木氏」が、「二足の草鞋策」で「民を巻き込んだ殖産」を興し、「伊勢の民の生活」を良い方向に変えたからである。
    この事が「円融天皇を動かした所以」でもあり、「青木氏の献策奏上」の「根源の元]と成った事が読み取れる。

    だから、「(1)の天智期の青木氏」(「皇族賜姓青木氏」)等は、遂に「優秀であると観た円融天皇」を動かし、「目論見策」を献策して奏上する事を決めたのである。

    そして、行動は興された。
    この「青木氏」と同じ格式、権威、官位、官職、の「青木氏系氏族」が四つも一度に伊勢に発祥したのである。
    「伊勢の百姓」の民は、この事、”何かが起こる”を思わない方がおかしい。

    (注釈 現実にはこの後には”何かが起こった”のである。
    約80年間の間に徐々にではあるが改善されて行った。
    三代後の「後三条天皇」は、この外戚の外の天皇である。
    40もの外戚は排除され、その40もの外戚が巣を食う「荘園制」は禁止された。
    この弊害は排除され、その結果、[百姓の民」から「政治の天皇権威」は取り戻された。)

    以上の検証の事も含めて(注釈内容からも含めて)、「嶋崎殿の青木氏」の継承にも、「受領家の藤原氏の系譜」とも比較しても、何らかの「政治的作為」(搾取偏纂)が経緯の中に無かった事が判る。

    故に、この「2の円融期の青木氏」の「二つの流れの末裔」は、「伊勢]にて生き延びられて、伊賀より後に移動して、所謂、「嶋崎殿の青木氏」が,関東で「公澄の家柄と役柄」を引き継ぎ、その「大番役」で働き続け、現存するに至るのである。
    (「二つの流れの末裔」:「嶋崎殿の青木氏」と「受領家の青木氏」 下記)


    ここで、これらの事を更に確実に裏付けられる事として,この「嶋崎殿の青木氏の事」に付いて、上記の事も配慮して、更に別の面から検証を続けて論じて置く。

    この「三代目以降」の「嶋崎殿の青木氏」の「末裔」と観られる「氏族」は、現在では「三氏系列」があり、何れも東関東(茨城域)に現存するのである。

    この「三氏族」には、先ず一つの系列には、次ぎの事が成されいる。

    A系列(主家筋)
    秀郷一門の「近江族の蒲生左衛門太夫高郷」の末子(玄蕃允梵純)が、室町中期頃に母方の「伊勢秀郷流青木氏」を引き継いだが、この血筋を入れた事の系譜に成っている。
    この系列が、「主筋」と観られる。

    何故ならば、この「主筋」と観られる家の「系譜と伝統」には、それを証明するものを持っている。
    この”「嶋崎殿の青木氏」”は、当初は直接的には秀郷一門の「秀郷流青木氏の血筋」を持っていない事に成る。
    そこで、この「主筋」とする一族は、「伊勢秀郷流青木氏」の血筋を入れて、直接、間接に関わらず、一門の中に入る手段を選んだ事に成る。
    現実に、他の一系列は、この手段を講じて居ない。
    この「主筋」には、先ず、「主筋としての伝統」を持っている。
    それは、この「主筋の三代目」の始祖と成る者(本家 「左衛門利澄」 分家 「左衛門忠秀」)の分家(利澄の弟)は、「猿楽で有名な春藤源七郎」の弟子と成り、その技を磨き、「徳川幕府の猿楽師範処」を務めている。
    結局、紀州藩士であったが、江戸に召し出され「御廊下番」として「150俵」で召抱えられている。
    この「主筋」と観られる家紋は、当初は「一文字紋]であったが、後に二代続きに男系跡目に恵まれず、「主紋]は「揚羽蝶紋」とし、「副紋」は「養子先の家紋(二葉蔓柏紋)」と成っている。

    唯、この「二葉蔓柏紋」の家紋には、実は「青木氏」として重要な見逃せない謂れがあるのだ。
    ただ「養子」と云う事で済ませられない「秀郷流青木氏」に関わる「謂れ」なのである。
    この「二葉文様」は、特別に「青木葉文様」と云われ、「秀郷一門」の中でも「秀郷流青木氏」だけが使っていた「特別の文様(役紋)」である。
    つまり、「秀郷一門の第二の宗家」としての「役割」を示す文様なのである。
    正式には、「青木葉二葉文様」と云う。

    (注釈 この「青木葉二葉文様」は、上記する様に、「賜姓五役の立場」であるからこそ使える「権威紋」であり、他氏は絶対に使えない。)

    つまり、この「二葉蔓柏紋」は、「秀郷流青木氏」の本家筋(下り藤紋)の「枝葉末孫」で、本家筋ではあるが、「下がり藤紋」を直接使えない等の家筋の者が使った、謂わば、”「便宜的文様」”でもある。

    (注釈 この様な「役紋 便宜的文様」を使えるのは、特別な事であって、「天皇家の式紋や役紋(権威紋)」と匹敵する朝廷から容認された「仕来り」である。
    「徳川氏」は、これを真似て、「立葵紋」を「権威紋]として用いた。
    「伊勢秀郷流青木氏」の「立葵紋の青木氏」が千葉と四日市に現存する。
    「立葵紋の青木氏」も然ること乍ら、「青木葉二葉紋の青木氏」を観る事で、どの様な役務と権威のある家柄であるかを即座に判る様にしていた。)

    更に、この系列下にある「青木氏を含む秀郷一門の蔓柏紋」を家紋とした家との血縁族であることを示している事に成る。

    この「嶋崎殿の青木氏」が伊勢で「伊勢秀郷流青木氏」と先ず血縁して、更に、江戸に出て、その家は、この「二葉蔓柏紋の家」と養子縁組をした。
    そして、この系列下に入った事を示している事に成る。
    伊勢と江戸の二度に渡り、「秀郷流青木氏の血流」を入れた事に成る。

    特に、この「二葉蔓柏紋」は、通称、家紋分析では、「青木葉文様」と呼ばれる文様で、実際には「秀郷流青木氏の家紋群」には無く、上記した様に「秀郷流青木氏の特別別流紋」としての「別扱い」で用いられた文様である。

    「何かの特別な事情」のあった「青木氏本家筋」の「下り藤紋」を敢えて使わない者が使った文様を意味する。
    この「何か特別な事情」に当たる事が、この「一文字紋」の「直接に青木氏の血筋を受けていない青木氏」を意味して居た事に成る。
    その為に、この「青木葉文様の二葉紋」を使用して血縁した「蔓柏紋系の家筋」とあらわした事に成る。

    従って、この様な使い方を本家筋の一門の中で良く使われた「青木葉紋」と云われるものである。
    これは「完全な証拠」である。

    この「青木葉文様」がここまで遺し得ている事に「青木氏」として驚きを感じる。
    「青木氏の伝統」を「子孫」と共に「家紋などの仕来り」を遺し得ていた事である。
    この一族は、「猿楽師範」として江戸に出向した時に一族ともども江戸に定住した事に成っている。

    実は、この「青木葉文様」の「青木葉二枚葉紋」の「秀郷流青木氏」が他に関東に存在する。
    この家は[揚羽蝶紋の総紋」では無い。
    「下り藤紋」を総紋とする「蔦紋系の秀郷流青木氏」である。
    江戸期には、「小十人組頭」となり「御家人」である。

    つまり、上記主筋が伊勢で、「伊勢秀郷流青木氏の血筋」を入れた事で、上記した様に、家紋の「一文字紋」から、後に「青木葉二枚葉紋」の「二葉蔓柏紋」に変紋した。
    しかし、この末裔が、正式に「秀郷流青木氏」に組み入れられる事に成った事から、矛盾の起こる「たいら族」の「揚羽蝶紋」を総紋(主紋)としないで、「下がり藤紋」を「総紋」とする「正規の青木葉文様」の「青木葉二枚紋」を改に興して継承した事に成る。
    関東に来て、「二葉蔓柏紋の青木氏]と成った家が、その「末裔の者」の別の者に「秀郷流青木氏の本流としての青木氏」を「宗家の許可」を得て継承させた事に成る。

    それを、更に、深める為にも、母方より一門の「蔦紋の血筋」のある事を理由に、「丸付き紋」(分家分派分流等が用いる印紋)を用いて「蔦紋」を「副紋」としたのである。
    返して云えば、「二つの流れ」を敢えて興したのである。
    この「二つの流れの家紋の存在」が、この「主筋である事とその存在」をも証明するものである。


    「伊賀系(一文字系)の青木氏」は総紋を、「揚羽蝶紋系」と、「下り藤紋系」の「二つの流れ」を恣意的に興した事に成る。

    B系列
    次に、他の二系列の一つ(B)は、確かに[伊勢秀郷流青木氏」と血縁している。
    しかし、この前に、紀州藩の前藩の「紀州浅野家の家臣」と成っていて、「浅野氏の分家筋」と血縁した系譜と成っている。
    「浅野藩の和泉領域」は、紀州までの領域として、「伊賀の左横」に位置する地域である。
    そこで、その分家筋と血縁したと観られる。
    そして、この家紋は「違い鷹羽下一文字紋」である。
    つまり、「浅野家の系列」に連なる「嶋崎殿の青木氏」(一文字紋)の一族である事を示している。
    従って、この系列は、元は「浅野氏分家」の「根村」を号していてた。
    後に、末裔の一人を元の所謂、「嶋崎殿の青木氏」を継承させている。
    そして、「浅野家移封」と成って、「徳川頼宣の紀州藩」と成った時に、安芸に移動せずに、「紀州藩」に仕官している。
    家康の次男「初代頼宣の紀州藩」は、この時に「仕官募集」(謀反を疑われた)を大々的に行った。
    然し、その「仕官募集」が大がかりであった事から、家康死後、妬みもあって「頼宣謀反の嫌疑」を江戸から掛けられた位のものであった。
    つまり、「伊勢の秀郷流青木氏」の”「一族一門丸抱えの策」”に出たのである。
    依って、この「一文字紋の嶋崎殿の青木氏」は、この時、「伊勢秀郷流青木氏」に組み込まれて仕官が叶っている。
    恐らくは、「一文字紋」では、「円融天皇の目論見策」から発祥し、「直接の血筋」を引いていない事から、更に、確実にする為に、この為の「伊勢秀郷流青木氏との縁組」をこの時に興したと観られる。
    従って、「伊勢秀郷流青木氏」に組み込まれて「紀州藩]に仕官できた事に成った。
    「紀州藩」に仕官できた事が、男系女系に関わらず「伊勢秀郷流青木氏」と血縁した事を物語るものである。

    紀州藩の頼宣が、この「一文字紋の青木氏」を単なる家臣として仕官させたとは思えない。
    恐らくは、「紀州藩の役柄」として江戸初期の未だ不安定な社会状況の中で、この「大番役」の果たせる氏族に極めて魅力を持ち、全国各藩の動向を探る上で欠かせない役柄と観て仕官させた事であると観ている。
    その証拠に、250俵と云う高い石高で雇っているし、後に旗本で組頭にしている。

    この時、どの「秀郷流青木氏」の組に組み込まれたかは、この家の「系譜と添書」から読み取ると、「伊賀組」とされたのではないかと観られる。
    それは、伊勢にはこの伊賀氏に関わった「伊勢郷士」は20(天正の乱で18に成る。)は、この「伊賀組]に入った事に成っている。
    「伊勢」は、「紀州徳川氏の飛び地領」として特別に扱われ、「伊勢組」の中の「伊賀組」に組み込まれたのである。
    その後、吉宗に同行し、一族は紀州から江戸に移動定住している。
    この「一文字系列」は、幕府では、最終は「旗本大番組 組頭」(250俵)に列している。
    この一族は多能であった様で、系譜と添書から、次ぎの役柄を務めている。

    勘定方、御書院番与力、御勘定方無役、小普請方、納戸方、大番組頭

    (江戸時代の大番役に類する役柄 :小姓組、書院番、新番、大番、小十人組)

    以上「6つの役柄」を務めている。

    「1の天智期の青木氏」の「伊勢青木氏」は、「吉宗の育ての親」であり、嫡男六兵衛が家臣では無いが、将軍と成った時に江戸に同行している。
    そして、「二足の草鞋策」の商いを利用して、「布衣着用の立場(大名扱いで謁見できる)」で「勘定方」と「納戸役」を務め、「享保の改革」を主導した。
    この時、このB系列の「伊賀青木氏の一部」が、「勘定方」「納戸役」に入って「実務役」として共に働いたと観られる。

    「御書院番与力」は、「将軍の秘書役で警護役」であるが、これも、「大名扱いの六兵衛」の下で「秘書役の実務」を担った事を意味している。

    「大番組」は、「伊勢青木氏」は「伊勢神宮の職能集団「(「青木氏部」)」の「御師頭」であったが、この「御師制度」を吉宗は江戸幕府の組織の中に導入した。
    この事から、「職能集団の普請方」と「本領の大番役」と成って「伊勢青木氏の配下」で「実務の初期の組織作り」で働いたのである。

    B系列は、この「六つの役柄」では、「青木六兵衛」と共に「吉宗の意」を継嗣して全て江戸幕府の「役務の新規立ち上げ」(組織作り)に関わったと考えられる。

    C系列
    三系列のもう一つ系列(C)は、何故か家紋が変化していない。
    由緒を示す「一文字紋」のままである。
    然し、「伊勢秀郷流青木氏」との血縁も系譜から無い。
    独自路線を「伊賀者」で貫いたと観られるが、しかし、吉宗に従い江戸に移動定住している。
    もう一つの特徴は、系譜の一部が、他の系列と異なり一部で途切れて不思議に明確では無い。
    どうも「伊賀忍者」の務めから来ているらしい。
    添書から読み取る事が出来るのは、「近隣の土豪」であった「傭兵集団の柳生氏」等の配下に入っていた模様である。
    そして「諜報活動」に従事したと観られる。それ故に系譜が確実に成っていないのであろう。
    役務の恨みから里を擁護する為に隠した可能性が有る。
    系譜などから確たる記録は見つからない。
    この系譜は、確かに普通の下級武士ではあるが、添書には他の系列の格式は全く無い。
    ただ、もう一つ不思議な事は、何とB系列と同じく「250俵」を知行し、上記の系列と同じく、代々、江戸幕府の「大番役」や[大番頭等」を務めている。
    石高としては、普通の下級藩士であるが、やや上位に位置して居た事が判る。
    この事から、この「Cの系列」は、上記の系列(B)の様にでは無く、「柳生氏配下」に入り多くの役務を果たした事に成っている。
    然し、この「Cの系列」は、代々末裔は欠ける事無く「伊賀の諜報役の大番役」を引き継いだ系列に成っている。
    「柳生氏の配下」でも上位の位置に居た事が判る。
    このBとCの系列は、Aの系列の「御廊下番役」と異なり、一時、系譜から同じ「大番組」に位置して共に働いていた事が判る。


    この事で、この三系列は「伊賀者」として、「親族の意識」を持ちながら、共に「旗本」を務めていた「青木氏」である事が証明できる。
    特に、BとCの系列は吉宗に同行しての「旗本」である。
    この事から、系列Aは、「猿楽師範の御廊下番」は「綱吉の時」の事である事。
    従って、先ず「主家」が先導して、初期の「江戸入り」を役務を果たしていた事に成る。
    その後に、BとCの系列が吉宗に同行して江戸入りを果たしていた事に成る。


    更に、このAの系列を探ってみると、次ぎの様に成っている。
    この「三系列]、つまり、初期末裔の一族の行動の採った最初の行動が良く判る。

    この「三代目以降の嫡子」は次ぎの様に成る。
    これに依って、「伊賀の青木氏の生き方の慣習」(伝統の一端)が良く読み取れる。

    三代目は、鎌倉期末期頃、「伊勢伊賀の土着郷士(「伊勢秀郷流青木氏の保護下」)(−1354年)
    四代目は、室町期初期頃、不詳 藤原氏仕官 「伊勢秀郷流青木氏」に従う。(−1520年)
    五代目は、室町期中期頃、「織田家の配下」。(1596年−)
    六代目は、室町期末期頃、「山内一豊」に従う。(−1660年)
    七代目は、江戸期初期頃、初代山内家の「松平土佐守に扶助」(猿楽師)。(1701年−)
    八代目は、「松平和泉守の家臣」(信輝)と成る。(1725年−)
    九代目は、「丹波近江守(織田氏)に仕官。(1733年−)
    十代目は、「幕府の猿楽師範」として出仕。(1771年−)

    (特徴) 長命一族 平均寿命76歳 跡目17歳 父子仕官 嗣子継承

    この「嗣子継承」とは、三代目と四代目の間には「年数のズレ」があるが、これは系譜から「兄弟間の跡目」で繋いできている事から起こっている現象である。
    「系譜の跡目代」は、普通の「嫡子方式」に成っていて、原則としては記載されているが、11代まではこの「嗣子継承方式」と成っている。
    ところが、必ずしも、この「嫡子」が「系譜」を継承したと云う風には不思議に成っていなのである。
    特に、その八代目では、その「特徴」が顕著で、「父子兄弟嗣子」の五人が別個に重複仕官している。
    これは「小十人組」と「大番組」と[御廊下番」の特徴ある「三つの役柄」から来ている。
    この状況が何と幕末まで続いている。

    要するに、この系譜の「跡目」は、本来は武士では原則は「嫡子」であるが、世代交代は「父子の一世代方式」では無く、「兄弟従兄弟の範囲」で次々と継承する「嗣子継承方式」を採っている。
    つまりは、嫡子外が「部屋住み」と云う「一般武家の慣習」では無い事を意味する。
    例えば、「三代目の嫡子」が職に就くが、その「兄弟の嗣子」も同じ様に職に就く。
    「三代目嫡子」が仮に没すると、その「兄弟の嗣子」の一人が「三代目跡目」として引き継ぐ。
    「三代目の嫡子嗣子」が全て没して、初めて「四代目嫡子」が跡目を引き継ぐ。
    この「原理の繰り返し」で「世代の跡目」は引き継がれている。

    これは、「大番役と云う職務」が「諜報と警備警護」を主務とする事から来ているものである。
    その根本は「職務の秘匿性と継続性」を重視しなければならない「重要な職務」であった事に所以する。
    「嫡子方式」だけでは、次ぎの世代の嫡子に引き継ぐときには、その熟練度が必ず低下する。
    この事で、この「秘匿性と継続性」が切れる事が起こることは、戦国期には「危機存亡の事態」を招く事に成る。
    これを防ぐ為の手段として、「親の兄弟−子の兄弟−孫の兄弟」の「世代交代」で行う方式を採った。

    その為には、世代交代を成し得る為の継続性の「ある兄弟の職の補償」が必要と成った事から敷かれた”「大番役の仕来り」”である。
    つまり、「訓練に依る熟練度」とその「適正度」が左右される職であった事から取られた方式である。
    故に、上記の「主家筋の六の役柄」に関わった所以である。
    恐らくは、”「何らかの関係」”があって、「勘定方」や「猿楽師」の様な「職」も生まれたのであろう。
    むしろ、「諜報」と云う職務からも必要とした事も云える。
    そもそも、この「六つの役職」は全てこの「諜報・護衛」に関わる仕事である。


    この系譜から読み取れる事は、上記の「仕来り」に「一族間の仕来り」も従っているのである。

    「主家」が先ず仕官して主導して、「一族三系列」に「枝葉末裔」を拡げている事が判る。
    その為に、「父子」ともども、「嫡子」のみならず他の「嗣子」も「部屋住み」に成らず各地に仕官して、「一族存続」を懸命に広げている事がこの系譜から読み取れる。
    明らかに「氏家制度」の”「嫡子の慣習」”は採用していない事が判る。
    四代目の頃には、「伊勢藤原氏」の「秀郷流青木氏」は、「紀州藩」に「一族一門」が仕官を遂げている。
    この事から、この時には、この「伊勢の秀郷流青木氏」の配下に入っているので、「江戸城の大番役」にも一部派遣されている事が予想できる。
    江戸前から、有名な事として、家康が「軍編成改革」をしたが,この時にこの”「大番役」”を改に採用して、「武家様に概要」を作ったとされている。
    この一族は、”「家康の身辺警護」の「親衛隊」”として「秀郷流青木氏」の配下で関西で務めていた。
    この時に、主家の四代目か五代目がこの任に当っていた事に成る。
    そして、江戸幕府を江戸城に開幕した時に次ぎの様な事をしている。
    家康は、この”「大番役」”を上記の様に「5つの組織」に改革した。
    然し、この時に、この「主家の一部」が”「江戸城詰め」”として赴任した。

    そして、更に、猿楽は、四代当たりから習得が始まり、七代目あたりから、「宗家の一部」が、”「猿楽師の家」”として仕官(綱吉)に繋げている。
    そもそも、この「猿楽」は、江戸期では「大名の嗜み」として扱われた事から、「大名の動向」を直接に探る目的からも用いられた「役柄」と観られる。
    この事から、その「芸で身を立てる家」としても、父子、嫡子、嗣子が同時期に広く他藩にも仕官している。
    「主家」では、「芸」では身を立てない者は、「伊賀者」として、「大番組」や「小十人組」に列して仕官を遂げている。
    この形で、他の二系列に子孫を拡げさせている。
    この「BとCの系列」は、基本的には、「小十人組」か「大番組」で仕官を遂げている。


    (注釈 「小十人組」とは、江戸幕府の「警備・軍事の役職」で将軍等を護衛する護衛隊を云う。
    「軍先衛隊」、「先遣警備隊」、「城中警備隊」の三役として働く役目である。
    先見役、先衛役で「事前に情報収集」して於いて「現実の警備や掃討]に役立てる。
    又、状況を把握して常時の警備に役立て働く役目で諜報と警備を果たした。
    当に、この「三系列」が、「伊賀者」の”「伊賀の青木氏」”と呼称される所以である。)

    (注釈 そもそも、この”「大番役」”とは、本来は、奈良期末期を経て平安時代から正式に敷かれていた「宮廷警護の役柄」であった。
    「大番組」とは、江戸時代には、これを「旗本」で編制し、本陣を 固める精兵であったが、その元は「大番役」と云う平安期の「朝廷の宮廷の役柄」から来ているものであった。
    「武士の江戸幕府」が、これを踏襲したが、当初は「江戸城および大坂城・京都二条城の警固」をする役務に利用したものであった。
    然し、これは、もとは大化期の「青木氏の賜姓五役」の一つで、「賜姓臣下族」として「天皇を警護する役柄」から発展した役務で、「左衛門上佐」の官位の通り「青木氏」はこの指揮官であった。
    この下に、「大番役」を置いて、「実際の宮廷内の警備警護」の実務を行うの事を主務として呼称された。
    これが奈良期を経て平安期から室町期末期まで宮廷で続けられたものである。)

    (注釈 「伊勢神宮」も、「皇祖神」である事、「皇族方の参詣」が多くあった事からも、この「大番役」を「青木氏の職能集団(青木氏部)」で果たした。
    江戸期には、「青木氏と家康と関係」(前段の論文記載)から承知して、この「青木氏の役柄」を参考にして「武家政権」の内部に「徳川氏様仕様」として踏襲し直したものである。)


    ここで、先に、「伊賀守」の呼称は、「一体誰なのか、どの流れなのか」の疑問が起こるので、先にこれを説く。
    この事は、「伊賀地域」が、”どの様な位置関係に民衆から思われていたのか”をはっきりさせられる。
    その事で、「伊賀の青木氏」の当時の社会の中での「立ち位置」を物語れる。

    そもそも、この「伊賀守」が、「朝廷」、或は、「時の幕府」の「正式な官位官職」とするならば、それは、この”「伊賀の青木氏」”がどれだけ「当時の社会」に認められたものであったかが判るパラメータと成り得る。
    又、その「伊賀守」と成った”「流れ」”が掴めれば、どれだけの「職業的な立場」を得られていたかも判る。
    つまり、「地位の認知度]と「職業の立場」を推し量れる。

    ところが、実はこの「伊賀守」とは特別なものであったのである。
    そもそも、鎌倉期以降の「青木氏」に関わる「伊賀守」(伊賀域の定住者)の正式な官位を得た人物で実質支配権を持った人物は「三人」いる。
    後は、「青木氏」に関わらずとも、殆ど”「官位」のみの呼称”であり、「現地の支配」と「現地子孫」は遺していない。


    唯、ここで、述べて置かなければならない「歴史観」がある。
    平安期から江戸期まで、この”「伊賀守」を名乗った人物”は、次ぎの様に成っている。

    A 「朝廷」より「正式認可」された実質支配権を持つ伊賀守」
    B 「朝廷」より「正式認可」されても実質支配権の無い「名誉官位の伊賀守」
    C 「朝廷」の認可を得ても1年限り、或は一代限りに実質支配権の無い「限定された伊賀守」
    D 「搾取の名乗り」の「伊賀守」
    E 「室町末期」から起こった「幕府推薦で朝廷認可」の「一代限り金品」にて獲得した支配権の無い「伊賀守」

    以上で獲得したものも含めて、江戸期初期までに何と18人にも居る。実に多い官位である。
    この内訳は次ぎの通りである。

    朝廷の「正式な官位認可」では、AとBの6人である。
    この18人の内で、実質支配権を獲得しているのは、Aの3人である。
    正式認可の6人の内で、実質支配権の全く無い名だけの「名誉官位は、Cの3人である。
    18人の内の、12人の内で、Dに位置するのは、9人である。
    12人の内の、3人の内で、1人は職能を称えた「名誉官位]で別枠である。
    12人の内の、3人の内の2人は、Eで「金品官位」で、「重複で日替わり官位」である。


    如何にこの「伊賀守」の「官位官職」が「政治的」に使われ「家柄誇張」等に使われたかが伺える。

    中には、同時期に名乗っている者も居る。この様な「守]は他には少ない。
    つまり、この様に多いと云う事は、この「伊賀守の立場」と云うものが、「如何に重要な格式のある立場」として利用できるとして信じられていたかは判る。
    同時に、それを「授与していた朝廷]や「推薦した時の幕府」も「格式のある立場」として上手く政治的に利用して用いていた事が判る。

    この「伊賀守」には、「伊賀」に全く何の繋がりや絆や関係ない者、伊賀に赴任していない者、などが殆どである。
    そもそも、本来なら、「伊賀守」に成り得るには、それに「相当する格式と立場と家柄」を持っていなければ成らない。
    然し、全く無い者までも含んでいる。むしろ多い。
    流石、平安期には無い。室町期末期から江戸期全般に掛けて多い。
    この現象は「下剋上」の始まる室町期からと成る。
    つまり、「下剋上]と「搾取」と「金品」によって名乗った「伊賀守」が殆どと云う事に成る。

    中には、明治期に成って、分析から元は農民であったのに、「個人の系譜」に書き込まれたものまである。
    これは、恐らくは、後に末孫が歴史的史実や慣習を忘却していて、判断するに必要とする「歴史観の学識」は無いと観て、敢えて子孫に信じさせて家柄を将来まで搾取して誇張させようとしたものである。
    異常にして搾取して家柄を誇張させようとした「虚栄心の異常な人物」も居たのである。
    勿論、この検証では「第三氏」である事は確認は出来ているが,実はこの件では「青木氏」を名乗っている。
    他に良く似た類似のものは他に二件があった。

    つまり、この事は、これらを含めて少なくとも「青木氏の伊賀守」は、「世間の社会」の中でや「青木関係族」の中では、「重要な位置づけ」であったかを物語っている。
    比較的に容易に反発の出ないそれを表現する手段が「伊賀守」であった事に成る。

    「青木氏」が歴史上で、「守護職」に正式に任官した官職は、これも18である。
    (「伝統シリーズ前段」か「青木氏の子孫力と分布」を参照)
    然し、この中でも「伊賀守」と「紀伊守」は高かった事が判る。

    「紀伊守」も同じ様な手口で用いられた。伊勢域の範囲と見做されていた事に成る。
    伊勢神宮遷宮の時に紀伊がその遷宮地が最も多いのもこの事から来ている。
    つまり、「準聖域的な国」としてみられていたのである。
    要するに、これは、「伊勢」と云う「地域的なもの」が左右していたのである。

    「伊勢国」は、古来から普通の国は4から5郡制であるが、特別に「2郡制」を採って来た。
    然し、680年に後漢の阿多倍王に半国割譲して与えた。
    この為に、伊勢国は「4郡制」に編成した。

    北二郡
    「阿拝郡」
    「山田郡」

    南二郡
    「伊賀郡」
    「名張郡」

    以上の4郡にした。

    伊勢北部域の「阿拝郡」は「阿多倍王」から通称の「あばい」から来ている。
    (南九州には「阿多」と云う地名も遺している。)
    「伊勢北部の二郡」は、奈良期の古来より「神の宿る地域」の「特別な神聖域」として扱われて来た。
    そこに、伊勢から割譲した「伊賀」は、その意味から”「名誉域」”として利用され考えられた。
    これが「名誉官位」の生まれる所以と成ったのである。
    特に、江戸期には,この[伊賀」には「実質支配」は、”「伊勢秀郷流青木氏(忠元とその末裔)」に任す”として、官位そのものは別にして、幕府は「名誉官位」として政治的に利用した。
    この「名誉官位」は6人中一人を除き「幕府推薦と朝廷承認」に利用された。

    (注釈 「秀郷流伊勢青木氏の宗家(忠元)」は、「室町期末期(1570年頃)」から「実質支配」も持ち合わせ乍らこの「伊賀守」に任じられていた。

    依って、本論では、「Aの3人」を論じる事に成る。

    従って、果たして、「2の円融期の青木氏」の「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」が、この「何れの青木氏」と成り得るのか検証した。
    しかし、大方の検証は可能であるが、完全にf資料不足で確定できない。

    その前に「青木氏」に関わる”「伊賀守」”は、次ぎの通りである。

    (あ)
    「藤原秀郷流宗家の朝光」(結城氏の祖の祖でもあるが、鎌倉期に頼朝に認められて「伊賀守」を務めた。
    この「朝光の末裔」が鎌倉幕府の北条氏と血縁して後に、この絡みからこの末裔は「伊賀氏」を名乗り、、晩年、伊賀に住み着いた。
    但し、ただ定住しただけで国主では無く正式には「伊賀守」は名乗っていない。
    ここに後に、この「末裔」が「伊賀守」を名乗る結果と成ったと観られる。

    (い)
    「青木伊賀守」(任官1577年 忠元)は、室町期に信長に味方して、後に徳川氏から除封を受けた。
    「藤原族の青木伊賀守忠元」の「伊賀守」がある。
    この「忠元」は信長より推薦され正式に任官している。「秀郷流伊勢青木氏」で「宗家の嫡子」である。
    「伊勢三乱」の時に活躍した有名な人物である。
    (あ)も(い)も元を質せば、「秀郷流青木氏」である事に成る。
    「結城の秀郷流一門宗家筋」か、「第二の宗家筋の伊勢の秀郷流青木氏」かの違いではあるが、「宗家」としての格式は何れも劣らずである。
    江戸初期は、この(い)の「忠元」が、信頼されて「家康」から伊賀を任され、官位は外されるも紀州藩の「頼宣」からも伊賀も「実質支配」を任される。

    (う)
    平安期に清盛の租の国香−貞盛の二代目から清盛まで「伊賀守の半国守護」と成っている。
    「青木氏の伊勢国647年」から「半国割譲680年」に伊賀国(4郡)に成っている。
    「平安末期」に清盛はこれを朝廷に返している。
    鎌倉期初期のその後に(あ)が入った。
    然し、「清盛残留組」が「伊賀」に「伊賀衆郷士20氏」(青木氏が擁護)として遺る。
    「伊賀の青木氏」もこの「残留組」に入った。
    (い)と(う)の何れの流れも持つ複雑な立場であった。
    つまり、この伊賀地域は、(あ)と(い)と(う)の末裔が混在した地域と成った。


    (あ)の「鎌倉期の伊賀守」と、(い)の「室町期の伊賀守」と成る。

    唯、次ぎの伊勢の経緯に付いて、「青木氏の歴史]を知る上で,知っておく必要がある。

    そもそも、この(あ)と(い)の間には、ただ一人、「伊賀守」の官位だけでは無く、「実質支配」も目論んで乗り込んで来た人物が居た。
    この時、概ねは、室町期中期の一定の短期間は、この「三河の仁木氏」と云う者が「伊賀守」と成った。
    この「概ね」に意味があって、然し、伊賀に乗り込んだは良いが、殆ど、”「形式上の官位」”であって,全く「実質の支配力」は得られず殆ど皆無であった。
    それも、「伊賀全域」では無く、「伊賀の阿拝の一部」であったと記録されている。
    この「伊賀の仁木氏」の存在史実はあるが、実はその「ルーツの継承」ははっきりしていないのである。

    この「伊賀仁木氏」の事では判る範囲で、「史実」として云えられているところでは、次ぎの様に成る。
    この「足利氏系仁木氏(頼章)」は、「足利尊氏」に認められたが、この時、官位で「伊賀守」に任じられた。
    然し、この「仁木一族」は「尊氏没後」(1358年)には衰退し滅亡している。(第一説)

    ところが、この「仁木氏」は、尊氏死後の乱世で追われ、[丹波伊勢伊賀」等の9地域の任官先に居た一族は各地に散った。
    この時、室町期中期頃の1400年前頃に「三河国額田郡仁木」に居た者等が、「足利氏傍系族(二引き両紋)」と名乗り、元の「任官先」であった[伊勢伊賀」の「一部」に入ったと記録されている。
    然し、この「仁木氏」の人物は詳細不明で、入国後(1410年頃)、間も無く単に”「戦死」(1429年没)”と記されている。
    この時点で「正当な仁木氏」は完全に絶えた事に成る。(第二説)

    そして、その後、この伊賀の一部に「仁木氏外」の「山名氏」と名乗る者の出自不明成る者が、「伊賀守」を継いだとされる。
    然し、その後、”「伊賀不穏」(1433年)” を理由に自ら「官位」のみの「伊賀守」を辞退した事に成っている。(第三説)

    ここで、「山名氏」の後に、「第四説」の「仁木氏」と称する「出所不明な者」が現れ、1440年前頃にこれも完全に滅亡した。(第四説)

    以上の記録では、入国したが、ところが、次ぎの様に成っている。
    先ず、1429年頃には、「南二郡」が「国人郷士軍団」「(あ)から(う)の元勢力」に奪還され支配された。
    1440年前頃には、「北二郡」も完全取り戻し支配したとある。

    故に、衰退していた「足利幕府の伊賀守任官」に付いても、且つ、「実質支配」の無かった「一期間の勢力」に付いては「仁木氏」に関しては論外とする。

    この「第二説の不詳の仁木氏」は、足利幕府の開幕後の入国後に、間も無く”戦死”と成っている記録もある。
    然し、その後の「仁木氏の確証」の「末裔記録」は全く無い。
    「仁木氏の系譜」とするものには、この「第二説以降のルーツの系譜」は載っていない。
    つまり、「第一説の仁木氏」の三氏が「衰退した段階]で、この「伊賀」に関わった「仁木氏」は断絶したした事を物語る。
    この”「断絶した原因」”には、「伊勢国人の勢力」に潰されたのか、跡目が絶えたのか、は不明である。
    「伊賀の一部」と云う地域での「生きて行ける勢力範囲」は極めて小さい。
    況して、殆ど「実質支配権」の無い中での小さい「勢力範囲の子孫力」である。
    この「判断の最大の要素」は、「伊勢国人の勢力」との「付き合い関係の在り方」に関わる。
    記録では「南部二郡」と「北部二郡」共に「伊勢国人の勢力」に排除されたと成っている。
    それに古来からのある面で閉鎖的な「伊勢と云う国柄」と合わせて租借すると、「潰された関係」であった事に成る。
    この”「潰された関係」”とすると、”「武力的子孫力」”に対する”「限定的な排除」”であったと観られる。
    ”「伊勢の国柄」”には、古来より”「武力アレルギー」”成るものがある。
    「青木氏の氏是」も突き詰めれば「武力による警戒」である。
    返して云えば、「武力」を除けば「迎え入れる事」に成る。
    故に、「第二説」は「戦死」の記録で済ました事に成るのだ。
    ”「潰された関係」”とは、「武力的子孫力」を排除した上で、「伊賀地域」の中に溶け込ましたと観られる。
    この”「武力的子孫力の排除範囲」”がどの程度であったかは、上記した様に、「伊勢戦史」の中には出て来ない事から、”「事件性」”の範囲で留まった事が判る。

    注釈として 室町期末期の1500年以降にも、この滅亡している筈のこの「仁木氏」には、上記した「正当な滅亡記録」がありながらも、「活躍説」もあって他説が多くて信用できない。
    然し乍ら、何れも「実質支配権の説」には至っていない。
    この「1500「年代の不明な勢力」も「伊勢国人勢力」に依って排除されている。
    間違いなく、後付の「江戸期の搾取偏纂説」と観られる。(第五説)



    何せ、室町期は「下剋上」の世の中であった事から、この「第五説」は、その後、傍系末裔や家臣等の一部が、この「仁木氏」を名乗った可能性が高い。
    記録では、上記の様に「4郡の国人の集団:青木氏の郷氏を含む伊勢集団」が取り戻している。
    そもそも、この「第五説」の「仁木氏の伊賀説」は搾取偏纂である事が判る。
    何故ならば、伊賀守に成り得る格式は全く無く、「伊賀の一部」の「出自の判らない小勢力]に過ぎない。
    「後付の家柄誇張説」に過ぎない。
    そもそも、この時期は、既に、「伊勢秀郷流青木氏の忠元」の「官位と実質支配」の「伊賀守の時代」である。


    依って、そもそも、これ等の史実があれば、少なくとも次の二氏の記録には出て来なければならない。

    「仁木氏」に付いては、「1の天智期の伊勢青木氏」のこの期間の「商業記録」には出て来ない事。
    「仁木氏」に付いては、「2の円融期の青木氏」の伊勢の記録にも無い事。

    以上、然し、不思議に無い。
    同時期、「伊勢南域」を一時、「勢力圏」に置いた「北畠氏の事」は記録にありながら、「仁木氏の事」は無い。

    (注釈 筆者は上記の「第二説」で、「伊賀守」は別として、「入国」は1429年までの「短期間10年程度」で終わったと観ている。
    一種の「騒ぎか事件程度の範囲」であったと観ていて、多くの説は「江戸期の誇張説」である。)

    これには、記録に遺らない”何かが起こった事”が云える。

    「伊賀」の一部の小地域で「事件らしきもの」が起こったと云える。
    そもそも、伊勢の「1と2の二つの青木氏」は、「青木氏の氏是」により、「破格の武力」を持ち得ていても侵入者に対して「直接武力」では排除出来ない。
    入国しても、平穏に暮らす事には問題はない。
    しかし、「武力」を使って周囲を圧迫し「勢力圏」を拡大すれば「支配権」を持つ者としては放置は出来ない。
    「武力」を使ったと成れば、「青木氏の抑止力」を使って「圧迫を加えて抑え込む手段」に出る事に成る。
    それでも納まらなければ、「抑止力の実力行使」で「最少限にして最高効果策」で解決する事に成る。
    要は、「抑止力」で「仁木氏の主格筋」を潰す事に成る。
    これが、「第二説の戦死」とした事にあると観られる。

    この「仁木氏の主格」を処罰する代わりに、「子孫の定住と保護」を認めるとして解決したと観られる。
    これには、資料の「10年程度とする表現」が、この処置に至るまでに所要した年数であると観られる。
    一族郎党を潰そうとすれば1日で済む。
    平穏に暮らす分には定住させ保護が「氏是の前提]である。

    恐らく、「額田郡の仁木氏」と名乗る者が、態々「三河国」から一族郎党を連れて入国したが、この「青木氏の保護」の中に入ろうとしたと観られる。
    然し、その”「対応上に過激さがあった事 (「伊賀守の利権」を主張した)”から伊賀の周囲から不満が出たと観られる。

    そもそも、この「三河国額田郡」のこの「関東足利氏系の実国の末裔」を名乗る「仁木氏」成る者は、何故、実国が築いた三河額田郡の仁木の土地を離れて「伊賀の小地域」に新たに来たのかが疑問である。
    ”「青木氏」とどの様関係があったのか”を検証する。

    そうすると、この説から観ると、普通は、例え、「第一説の伊賀の関係」があったとしても、「過去の伊賀」である。
    その過去も、実質支配はしていない。
    その証拠に、「1355年から1400年」の間、つまり、「第一説から第二説」の間には、「伊勢や伊賀」周辺には「仁木氏の郷氏」はいなかった。
    その事から考えると、「殴り込み説」に成る。
    果たして、「殴り込み説」が可能かどうかは,既に判っていた筈である。
    「伊勢」には、有史来、「実質支配力」の持った「強力な国人集団」が居たのである。
    況して、足利氏である。普通の氏族では無い。
    「仁木氏」が主張する事が正しいとすれば、由緒ある下野の「足利源氏の末裔」である。
    「第一説の滅亡」を打ち消して、「末裔」とするならば、そんな強引な事はしないだろう。
    そもそも、過去に於いて、「官位」と共に「実質支配」した「伊賀守」はいない。
    それを知った上での「殴り込む」のか疑問である。
    況してや、「長年の実国からの所縁の故郷」を放り出して、”態々、何故、「伊賀」に来るか”の疑問がある。


    ところが、更に検証すると、そもそも、実は、この”「額田郡の美濃源氏」”と云うのは、奈良期の古来から「1の天智期の青木氏」の縁者(嫁ぎ先)でもあった。
    「額田郡の仁木氏」が「下野足利氏末裔(足利源氏)」であるとするならば、無縁では無かった筈である。

    この三河地域には、次ぎの青木村があった。

    「額田郡の青木村」(伊勢の皇族賜姓族青木氏  摂津源氏)
    「渥美郡の青木村」(美濃の藤原秀郷流青木氏  美濃源氏)

    以上の二つの青木村が住み分けてあった。
    何れも、「源氏の血筋」を受けている。

    同じ「額田郡の住人」であるとするならば、知ら無い訳は無いだろう。


    この様な経緯から、この様な何らかの「絆や繋りや紹介」があって「伊賀」に入った事も充分に考えられる。
    とすると、”戦国で追いやられて伊賀に入った”と云う事が濃厚である。
    この事から、「第二説の仁木氏」は大して大きい集団では無かった事が云える。
    入国後に事件を起こして、主格は潰された。

    その後に、この末裔子孫か家臣が、「仁木氏」を旗印に名乗り再び「伊賀守」を名乗ろうとしたが、今度は主格では済まず滅ぼされた事に成ろう。
    これが「第四説」と云う事に成ろう。
    その前に、「第三説」の「山名氏」が「伊賀守」として振舞ったが、”「伊賀不穏」”の理由の通り、「強い国人」が居て「実質支配の無い」ところでの「君臨の難しさ」を物語る理由と成っている。


    それは、そもそも、「伊勢全域」が「2郡制」であった事による。
    この”「2郡制」”に意味があった。何故、敢えて「2郡制」にしていたのかである。
    普通は一国は「4乃至5郡制」である。
    この「伊勢4郡」は、上記で論じている様に、「国人の勢力」の強い地域で、「実質支配」は到底無理であった。
    ここはつまり、奈良期からの歴史の持つ一種の”「聖域」”と見做されていたのである。

    上記の序盤で論じた様に、「伊勢域」が「伊勢郷士数」が他の国に比べて1/20と歴史的に少ないのもこの事はから来ているのである。

    そもそも、「伊勢」は”「不入不倫の権」”で「伊勢神宮の聖域」として、元々長い間の「安定」を期す事を旨として「2郡制」を採っていたのである。
    そして、より「支配権」を安定させる為に、「伊勢国」の「土地の使役権」(地役権 地主権)を「伊勢国人郷氏」に与える”「不入権」”を設定していたのである。
    その為に、この「不入権」を以って「支配権安定策」として「北部南部の2郡」にしていたのである。

    例え、「守護職」が伊勢域に入ったとしても、「国人」の「土地の使役権」(地役権 地主権)がある為に、全域に対して実質に税を採りたてる事は出来ないのである。
    従って、伊賀守の「管理権」や「支配権(命令権)」も全域には及ばない事に成る。
    この「管理権と支配権」を確保しようとすると、「国人」を攻め落とす事に成る。
    これは”「不倫の権」”に触れて「朝敵」と成る為に出来ないのである。
    そして、この「国人」の下に「朝廷」より「氏族」として認められた「伊勢郷士集団20氏」が組織されていたのである。
    結局、強引に「支配権」を獲得しようとすれば、「伊勢全域」を相手にする事に成り、謀略さえも仕えず出来ないのである。

    「伊賀守」は、「伊勢のシステム」上では、”「名誉官位」”と好むと好まざると必然的に成り得るのである。

    これが、所謂、”「2郡制」”なのであった。
    この事から観ても、例え、「4郡制」にして「南北域」を分けた処で、「人の絆やつながり」(実質支配権)等は変わらない。
    「郡域」を増やせば、その「支配の圏域」は散在する為に、圏域集中を目的として「郡数」を二つにしたのである。


    これを覆そうとして、伊勢に入ったのが、「仁木氏」であり、「北畠氏」であり、「六角氏」であった。
    つまり、「室町期初期の足利勢力」である。

    当然に、「名誉官位」に留まらずに、この「支配力」を強めようとすれば、「国人との戦い」、つまり、「伊勢勢力との戦い」と成るのである。
    上記した「第二説」の”「仁木氏の戦死」”の記録は、恐らくはこの事から起こったと観られる。
    何れ三氏ともこの「影の勢力」で短期間で滅亡したと云う事である。
    (ゲリラ戦に近い形で掃討した。)

    室町期は、「伊勢国人青木氏」は、「二足の草鞋策」で「巨万の富」と「影の勢力」を持っていた。
    この事を配慮すれば、「武力だけを頼りにする三氏」が挑戦しても「青木氏の総合戦力」と「戦いの大義」の「極端の差」がある。
    故に短期間で排除できた所以でもある。

    (注釈 彼の信長も秀吉も知略を使って実質的に排除したのである。)

    室町期から脱した江戸期の「伊勢の伊賀官位」は全て”「名誉官位」”と成り得た所以である。
    「家康」や「頼宣」等との「青木氏との連携」があって、元から「官位のみの任官」と成ったのである。

    況してや、下記の通り、(あ)から(お)の勢力があった処に「三河の額田郡」から入ったとしても、恐らく、この「5つの勢力」を排除出来ない筈である。
    これは「伊勢の国人勢力」が「有史来の絆」により「一致団結」して強い事から来ているのである。
    「入国後戦死」の記録は当然である。

    何かが起こったとする事は次ぎの事が云える。
    「国人の長」としての「青木氏」等の「二足の草鞋策」や「シンジケートの抑止力」や「古来からの朝廷との繋がり」があれば、「仁木氏」であろうが誰であろうが、「500万石以上の影陰の力」を持っていれば「蠅の範囲の事」であった。
    故に、この組織で固められた地域である限りは、絶対に「実質支配」は起こらないのである。
    依って、「仁木氏入国後戦死」の記録が正しいと観られる。

    この「記録の有り様」では、「五つの勢力」の「国人とする在伊勢勢力」で潰されたとしても、「不入不倫の権」で保護されている。
    「仁木氏」が攻め入ったとすると、「大権」を犯したのである事から、「攻め入った」と形作るとすると、足利氏と仁木氏は「朝敵」と見做される。
    記録上は「別の理由」とする必要がある。
    そもそも、彼の狂暴と見做されていた「信長」の「伊勢三乱」でも、この「大権」は犯さなかったのである。
    間違いなく、「伊勢シンジケート」で影で潰されたと観られる。
    後の「北二郡の奪還」とする記録は、この「下剋上家臣の残存の掃討」であったと観られる。


    依って、「仁木氏の事」も含めて各の如しで、「弱体化した幕府や朝廷」の「官位」を得たとしても、「実質支配」は「地元の勢力」にあった。
    「伊勢4郡」の「国人の地元勢力の支配無し」では、”「伊賀守」”とは成り得ず「守護」とは云えない。
    「形式」であろうが、「形式」で無かろうが、「金品」であろうが、「名誉」であろうが、「どんな形」であろうが、遣ろうとすれば「官位だけの形」に成って仕舞うのである。

    歴史上の「正式の任官者」の「六人」の内の「五人」は全て「官位」だけで「伊賀」は扱われたのである。
    その様に「名誉の官職」としてに長い間を扱われ”「生きた聖域」”であった。

    故に、実質の支配は、上記の(い)でなのである。


    果たして、「2の円融期の青木氏」の「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」が、上記の様に、「(う)の絆」はあるとしても、(い)の「伊賀守」に繋がる論処が見つからない。

    (あ)は確かに「伊賀氏」を名乗ったが、必ずしも「青木氏」を名乗ってはいない。
    秀郷一門の宗家の結城の「朝光の末裔」と成れば「青木氏」であった可能性は否定できない。
    伊勢の「1と2の二つの青木氏」との「歴史的な親密な関係」があった事は否定できない。

    つまり、(い)が(あ)に繋がっているのか、(う)に繋がっているのかによって決まる。

    この確定するものが出て来ない。
    然し、筆者は、(い)は、「2の円融期の青木氏」の中の(お)の「本流の本家秀郷流青木氏」であって、(え)の「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」では無いと観ている。
    但し、(え)の「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」は、既に、室町期中期以降の事であるので、最早、その秀郷一族一門の中での「位置づけ」は、無く成っていたと観ている。

    「本流の秀郷流青木氏」と「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」は、伊勢に於いては「本家分家の差」があるにしても、「流の筋差」は無く成って居た事を示している。
    依って、「青木伊賀守」は、本家分家の「宗家の跡目者の官位]と成っていたと見做される。

    「実質支配」は、以後、「(い)の忠元(1577年任官)の末裔の支配下」にあった。
    その中でも、、(え)の「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」が取り仕切っていたと観られる。

    (注釈 「皇族賜姓族青木氏」も伊勢伊賀国の一部の地権を保持して、「和紙殖産の土地」としていた。)

    この結果、1440年頃から、1577年までの間(137年間)は、この「伊賀」には「伊賀守」は存在しなかった事に成る。
    (い)の実質支配の下に(え)が仕切っていた事に成る。

    上記する「官位」だけで扱われた「伊賀守」には、室町期から江戸期全期に掛けて重複する事もあって「歴史上の意味合い」が無く青木氏に執っては論外である。

    伊賀に関わる者としては、次ぎの様に成る。

    (う)の「残存者」
    (あ)の「移住者」
    (え)の「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」
    (お)の「本流の本家秀郷流青木氏」

    依って、「伊賀守の疑問」は、この様に成る。
    この疑問を解いた歴史観を以て下記を論じる。

    重要
    ”「伊賀者」と「伊賀の青木氏」”が、この「役柄」を仕事とした根拠は、ここから来ている。
    つまり、「2の円融期の青木氏」の「秀郷流青木氏」が「1の天智期の青木氏」の補完役として役務が与えられた。
    この役務には、「1の天智期の青木氏」と同じく「賜姓五役と護衛役」が与えられた。
    しかし、この「2の円融期の青木氏」のもう一つの「嶋崎殿の青木氏」(「伊賀の青木氏」)には役務が無ければこの「氏存続」は成り立たない。
    その「役務」を、”「公澄の左衛門尉」”を踏襲させて「護衛役の実務」を担う事に成ったのである。
    その「実務]とは、上記した様に、この”「大番役」”であった。

    初期の「伊賀の青木氏」(嶋崎殿の青木氏 三代目以降)の役務として「円融天皇の目論見策」で与えられた。
    唯、「特別賜姓族」として「千国の妃の実家先」に、態々「青木氏」を名乗らせる目的には、上記した様に、確かに「目論見策の意」はあった。
    上記で検証した様に、これらの事から、疑う余地は無い。

    然し、かと言って、「伊勢神宮の大番役の実務」を、”本流の「秀郷流青木氏」に務めさせるのか”と云う疑問がある。
    確かに、「(1)の天智期の青木氏の職務」は過多であって、「秀郷流青木氏」を「特別賜姓」して”「補完させる」”と云う「本来の策の目的」があった事は否めない。
    だからと云って、この「役目の大番実務」も、「(2)の円融期の青木氏」に負担させるのかと云う率直な疑問も起こる。

    「指揮官としての実務」も、「伊勢神宮」も然ること乍ら、「都の宮廷」などの警護などもあり明らかに繁多である。

    「五家五流の地の天領地の警備」
    「祖先神の神明社の建立とその500社に及ぶ管理保全」
    「天皇警護を含む賜姓五役の務め」
    「伊勢域と神宮警護」

    以上の様に、指揮はするも、到底、「大番実務」(上記)までは無理である事が判る。
    「家人」等が負担するのも「大番実務」までは無理である。
    つまり、「手足で働く家人」では無く、「指揮の専門青木氏」と「大番の専門青木氏」が必要なのである。
    そうすると、「青木氏」に執っては、「伊勢神宮」だけでも「大番実務」をさせる族も決めなくては「絵に描いた餅」である。
    その意味でも、「伊賀の青木氏」(「嶋崎殿の青木氏」)の「諜報役の大番役」が「神宮の傍」に置く必要があったのであった。
    そして、偶然に伊賀に「伊賀の青木氏」(「嶋崎殿の青木氏」)が生まれた訳では無いのである。

    これを「2の円融期の青木氏」の中にして「嶋崎殿の青木氏」(「伊賀の青木氏」)に負わせる事で解決する。
    然し、「繁盛」と「維茂」には、「たいら族」としての体面があり直接に負わせる事は出来ない。
    上記した様に、「仕来り」から、一度は「藤原族の秀郷流青木氏」を継承するも「元のたいら族」に戻る慣習と成る。
    だとして、「三代目」にこれを負わせる事で、「たいら族側」には異論は無く成り、血筋はあるとしても、最早、「氏族」が異なる事から口は出せなくなる。
    従って、「伊勢神宮の大番役」は、三代目から負わせた筈である事は判る。
    それは、三代目(四代目)が「伊勢秀郷流青木氏の支配下」に入って生きている事からも理解できる。


    これが、(1)の天智期と(2)の円融期の「青木氏の主務」として、A系列(BとCの系列)に最初に勧めた事から「伊賀忍者」が「生まれた所以」である。
    そもそも、主家の「猿楽師」は、その後の「嗜み」から「役柄」としたもので、「本来の仕事」は、この「大番役」から「小十人役」へと繋ぎ「伊賀の青木氏の役柄」に成ったのであった。

    (注釈 平安期から江戸期に掛けて「高位の家柄筋の嗜み」として求められた。江戸期には茶道に変化した。)

    所謂、この”「大番役」”は、大化期からの「賜姓五役」から発展した全ての「本来の青木氏の役柄」であって、その「実務」であったのである。

    (注釈 この事を敢えて、”「青木氏の伝統」”として、その「大きな経緯」もあった事から、「円融天皇の目論見策」の一つとして論じる必要があった。

    この「大番役と小十人役」の”「青木氏の伝統」”には、その元は”「青木氏の伝統」”から来ているのである。

    そもそも、上記の「三系列の系譜」の列記は、これを良く表しているので記載である。

    平たく云えば、「伊賀忍者の発祥元」は、「青木氏の大番役の実務」から来ているのである。


    この事を念頭にして、次ぎの事をお読み願いたい。

    以上で、この「貞盛の養子」と成った「繁盛の子」の”「平維茂」”を二代目の始祖とした「嶋崎氏の青木氏」は、秀郷一門の「秀郷流青木氏」の中でも異流ではあった。
    しかし、この様に、平安末期から室町期末期頃までには、「賜姓五役」の一つとして、「大番役」として「秀郷一門の青木氏」に確実に組み込まれた事が判る。

    これほどに検証は複雑であったが、完全に紐解けたと観られる。
    この「嶋崎殿の青木氏の検証」は矛盾なく成り立つ事が判る。
    これは「青木氏」ならではの検証で有って、他氏には100年経っても決して論じる事さえも、無し得ない「検証結果」なのである。
    況や、これは「青木氏の伝統」なのである。
    依って、「青木氏」が知っておかなければならない「伝統」であるのだ。


    さて、更に次ぎの「テーマの検証」に入るとして、次ぎの事からも充分に考えられる”「献策による青木氏差配」”であった事が判る。

    「伊勢青木氏」も「信濃青木氏」も、「隣の伊賀」に対して、”「知古の範囲」”での”「青木氏の献策差配」”をした事に成る。
    如何に、「伊賀」とは親交を図っていたかは上記の事でも充分に理解できる。


    (注釈 筆者は、上記した「繁盛等の処遇」も含めて、「伊賀のたいら族」も「伊勢秀郷流青木氏」も「献策の青木氏差配」の事は,この時の関係者は,この時、充分に承知していたと考えている。
    当時の政治状況の解決の為の「総合的解決策」としての「円融天皇の目論見策」として進めたと観られる。
    「青木氏からの献策」に付いて、”この事を必要だ”と適格に判断した若い「円融天皇」は、周囲が四面楚歌の中で、且つ、天皇と云えども命さえも危ぶまれる中で、良く出来たと観られる。
    「普通の能力」では、「青木氏の献策」が必要だと思う事が、「天皇と云う環境」から充分な社会情報が与えられていず、且つ、得られていなかった事が普通である。
    そんな中で、普通ならばこの様な「目論見策」は無理であろう事が明確に判る。)

    (注釈 況してや、外戚が40もいれば,「自分たちの利益」の為に思う様に操ろうとして、「不都合な社会情報」等は遮断される筈である。
    然し、現実に、”判断で出来た”と云う事は、矢張り、”「裏ルートからの情報」を得ていた”としか考えられない。
    その「裏ルート源」とは、それを成し得るには、上記で論じた「献策」と同様に、「献策者青木氏」しか無かったと観られる。
    後に、「後三条天皇期」には、”北面武士”と呼ばれた「賜姓五役」の一つであった「天皇護衛の役目」(「身辺警護の役目」)の時を利用したものであったと考えられる。)

    表向きは、「円融天皇]は”愚者常人を装った事”もあって、「歴史上の評価」は低くかったが、実際は事の次第を判断してこの事態を改善したのである。
    故に、青木氏では”優れていた”と判断している。

    その優れていたとする証拠に、「円融天皇」系列の遺伝を引き継ぐ「一条天皇」と「三条天皇」と「後三条天皇」の末裔三天皇は、自己の意志で「歴史上の実績」を遺した”「優秀な天皇」”として評価されている。
    そうであるとするならば、「先祖の円融天皇」も評価されるべきである。
    この「三天皇」は、「円融天皇の目論見策」の意志を継ぎ次ぎの様な「役務」を天皇として担った。

    最初の「一条天皇」から「下準備]を進めた。
    中間の「三条天皇」では「外戚の反対勢力」を弱めた。
    最後に、「後三条天皇」は、何と「40もの煩い外戚」を完全に外して、「藤原氏に外戚」を持たない「外籍天皇」として「荘園制を廃止」を敢行した。

    以上の「政治的な課題」を果たしたのである。
    最終的には、誰しも怖くて成し得なかった「荘園制」をタッグを組んで廃止した天皇達である。

    (注釈 これには、筆者は、「円融天皇の後継者」の「花山天皇」をも評価している。
    実は、「花山天皇」は、この「荘園制」に、”病魔の様に巣喰う虫”の「賜姓源氏制度」を最終として廃止した天皇である。。
    この事に依って、「他の虫の外戚勢力」も「花山天皇」が「廃止の勅命」を下した以上、その意志を無視して続ける事は「不敬不遜の至り」と成り「朝敵」と見做される。
    次第にその「収入」が無く成り、「財力」が低下して「発言力」が無く成り、衰退して子孫を遺せない様な「外戚」が出た。
    これで「公家の藤原氏」や「11家の源氏]や「橘氏」等は結局は衰退したのであるが、中には、形振り構わず「公家武家」が現れる始末であった。
    後の「一条天皇の為の環境整備」をした事に成った。

    (注釈 「源氏16代とする説」は、「正式な賜姓の源氏(11流)」では無く、徳川氏等の家柄搾取(4家)の所以である。
    この「源氏」には、「賜姓」で無い「源氏」は、実は多いのである。
    判る範囲でも「公家源氏4家」もある。
    この他に、数えきれない程の「源氏」では無い荘園制から来た荘園制源氏とも云うべき”「未勘氏源氏」”がある。)


    平安末期のこの時には、”「北面武士」”と呼ばれた「宮廷警護制度」と「身辺警護」を正式に採用したのである。
    (上記の「実務の大番役」)
    「宮廷の三門」を警護すると共に、天皇の寝食の隣室に「警護室」を設け、天下に武勇に優れた「豪傑を常設待機」、交代で「24時間警護」、外出時は「即座警護」に当たったほどの態勢を執った。
    天智期に新設した「天皇家を護る青木氏の親衛隊」は,平安期末期には、更に細かく成り、大番役等の上記のシステムが追加されたのである。
    この時、平安期では、「1の天智期の青木氏」は「左衛門上佐・右衛門上佐」を始め、「源氏」や「藤原氏」(左衛門尉)がこれを務めた。

    後に「平家(清盛時代)」も務める事に成ったが、この時は、出自が異なる事から、後に改めて”「西面武士」”と呼称された。

    「円融期の平安期」の頃には、「賜姓五役としての青木氏」が務めていた事から、この「献策」と「情報提供」が「裏ルート」として可能と成っていたのである。

    (注釈 「青木氏」は、「賜姓族」「臣下族」としての顔もあって、「表向き」は”「抑止力」”を前提としていたが、「臣下族」としては「軍事力」を保持出来た。
    その軍の一部は、伊豆の国に配置されていた。
    「清和源氏」「四家の宗家頼政」の「孫京綱」が、「伊勢青木氏跡目」に入った事から、この軍を伊豆領国に配置していたのである。
    「青木氏の跡目と成った京綱」は「源氏との同族の融合」である。)

    この「円融天皇の目論見策」に付いては、「貞盛、繁盛、秀郷」等の関係者等は、暗に周知の「献策の青木氏差配」と承知していた事であったと観られる。
    これを周知だとすると、平安期末期の「源平の雌雄」を決した後に、この「伊賀地域」と「一部紀州南部域」は、「鎌倉幕府の頼朝」より北条氏等の反対を押し切って「奈良期からの青木氏遠祖地」として本領安堵されたのである。
    この事後の事から鑑みても、この”「嶋崎殿の子孫末裔」”を「伊賀地域」で護る事が出来た。
    且つ、「不入不倫の大権」で護られていた事もあって、少しでも浸食すれば「朝敵]と見做されてしまう結果と成った。
    故に、「嶋崎殿の子孫末裔」を護る事が出来たのである。
    依って、「他の勢力」が浸食出来ない事に成るし、「伊勢シンジケート」に組み込まれる為に、浸食すれば、「伊勢シンジケート」に逆襲される事と成って生き延びられたのである。

    幾ら「円融天皇の目論見策」の「嶋崎殿の子孫末裔」だとしても、上記の様に、”「背後の抑止力」”が無ければ簡単には生き延びられる時代では決して無かった。
    それこそ「絵に描いた餅」で「無駄骨」である。
    そんな事は、「献策者の責任」に於いても、「青木氏の氏是」に沿っても絶対に「青木氏」はしない。
    「知略」を「氏是」としている位である。

    (注釈 前段の「伊勢商人の射和商人」や「天正三乱」の事でも、”「共に生きた事」”からも判る。)

    この「青木氏の庇護」だけでは無く、「伊勢青木氏末裔」にも「嶋崎殿の末裔」にも、この事の「口伝」があったからこそ、明治期までその関係は続いたと観ている。
    「一時期の歴史」は「一時期の歴史」で終わるかは、その中に「感謝と尊厳が存在するか」に関わる。
    この様な「青木氏の献策差配」等の経緯が、平安期からあって、「周知の口伝」があったからこそ、江戸期までも互いに護り合った事に成る。

    江戸期に限らず,明治期に成っても「商い」でも「伊勢商人」と「射和商人」と云う関係を互いに築き、共に「20郷士集団」で結束したのである。


    話しを戻してより詳細に別の面から検証する。
    そうする事で、「青木氏の伝統」と云うものがより浮かび上がらせる事が出来るだろう。

    上記の論に続き、依って、そもそも、この伊賀の”「たいら族」”としては、この時期には、上記の様に「主紋と副紋」を持ち得ていた事は理解できる。
    然し、普通であれば、「総紋」をも持ち得ていたとすると、「桓武平氏」の侭であっても良い筈である。
    況して、「娘嫁ぎ先」の事である事も含めて、何も「実家先」が「藤原氏」を名乗り、更には、況して、「円融天皇」の肝いりの「特別賜姓族の青木氏」を名乗る事などあり得ない事である。
    明らかに、この時の現状では、未だ他氏を抑え込めるだけのものは充分に無かった事が云える。
    所謂、未だ、「官僚族の範囲の事」であった「桓武平氏」である事を歴史的(記録)にも認められている。
    然しながらも、態々、先ず、その「慣習」を改めさ、覚悟をきめさせた上で、矢継ぎ早に、「氏名」を「藤原氏」にする事で、「吊り合い」を取らせた。
    そして、巨大な「藤原一門」に組み込ませたのである。

    つまり、より一段と勢力を持つ為には、現状の「官僚族の範囲から脱皮する機会」であったのだ。
    その上で、直後に「円融天皇の差配」と成る「特別賜姓族の青木氏」を何と名乗らせた事に同意した事に成る。
    何はともあれ、これは「娘の実家先」に対しての出来事である事なのだ。

    これだけの事は、相当な覚悟が無ければ成らない。簡単にあっそうですかと云う事では済まない。
    況してや、「氏家制度」の真ん中である。
    下手をすると、「官僚族の範囲」も神威失墜で落とし兼ねない「賭け」とも成り得るのだ。
    先ずは、「当時の慣習」としては、この「賭け」は考え難いが、然し、現実には興っている。

    これは、「円融天皇の差配」であった事からこそ興った事であれ、これは「思い付きの事」では無い。
    事前に相当周囲で調整した事で無ければ成し得ない。
    つまり、「円融天皇の特別賜姓族」と云う「格式」を護るための「掟」を確実に踏んだ事を示す事に成る。
    明らかに、この「血縁差配」は、「背後での献策の差配」であった事を示している。
    「天皇」自らが、一氏族の中に入って、「仲人の様な血縁」を勅命する事は、到底に適わない事は明明白白である。
    依って、「前代未聞の事」と成り得る為に、この「陰影の血縁差配」を以って、「円融天皇」は「特別の計らい」をした事が判る。

    (注釈 「特別賜姓族」と呼ばれていた所以であろう。)

    然し、そもそも、この「歴史的な事」として観られる「陰影の血縁差配」は、”誰が献策したか”が「青木氏」に執っては最も重要である。
    従って、それは、上記した様に言わずもがなこれを解明するのは「青木氏」以外には無いのである。

    「青木氏」が、この「円融天皇の一連の差配事」を、「歴史的事実」として解き明かさねば誰も解き明かしてはくれない。
    恐らくは、当たり前の様に自然に起こったかの様な形で済まされて、関連する歴史的史実(伝統)は消滅していた筈である。
    「青木氏」が、真面な形で生き残らせてもらった代わりに、これは、「献策期」から「射和商人」迄の明治期まで続いた「深い関係」である以上、「将来の子孫」に「青木氏全体の伝統」と云う形で遺しておかねばならないで事であろう。

    「青木氏」には、「伊勢領国」を奈良期に半国割譲した地域の同じ「伊勢伊賀北部」に住んでいる「京平氏の実家先」とは、極めて深い親交のある”「隣人」”であった。
    「隣人以上」に、「伊勢和紙(伊賀和紙)殖産」の「企業相手」でもあった。
    後に、この「殖産」を通じてそれに関係する「物品の生産」の「興業」(1025年頃 二次産業 紙箱など 大正期まで続いた。)を共に興した相手でもある。

    この事から、恐らくは、逆に歴史を遡ったとしても、「伊勢と信濃の青木氏」が調整して根回しをして献策した事は先ず間違いは無い事に成るだろう。
    これで、「伊賀殿と伊勢殿の付き合い関係」がどの様なものであったかは想像しなくても判る。

    「実家先の宗家貞盛」に「繁盛から養子維茂」を出したが、「嫡子」とはせずに「四男の維盛」が、結局、「伊賀」を継承して「五代後の清盛」に繋がった。
    従って、当初よりこの「養子維茂」が直接に「跡目」として入った訳ではない。
    つまり、「養子の目的」が別にあった事を物語る事である。
    本来であれば、「養子の目的」は「跡目」を前提とする。
    後の「貞盛の実子(4人)」には「跡目」に相応しくない何かの理由があった時に行われる「跡目の仕来り」である。
    然し、この「4人の実子」にはその様な事は特段に無かった。
    むしろ、「実子の維盛」は歴史上に名を遺す程に優れていた。
    従って、「円融天皇の目論見策」に対する「形式上の仕来り」を採ったに過ぎない事に成る。
    「長男とされる維叙」も「藤原氏の済時」からの養子である。
    「養子」を採って跡目を良くした訳でも何でもない。

    明らかに、「繁盛に対する差配」としての「伊勢信濃青木氏の調整と根回し」に依る「円融天皇への献策」であった事が読み取れる。
    この事からも、「献策者は伊勢信濃の青木氏」であった事が判る。
    又、後の「清盛の生誕の経緯」(下記)や「有綱宗綱助命嘆願」からも、”「献策者は伊勢信濃青木氏であった事」”が裏付けられる。


    (注釈 「伊賀検証」  この後に、「京平家」は「清盛」に依って「巨大な勢力」を張り、終局、1185年(以仁王の乱1180年)に「摂津源氏の源頼政」が、この「京平氏」と雌雄を決する事に成った。
    然し、この時、敗退した「頼政の孫」の「宗綱と有綱」と「弟の高綱」の「助命嘆願」を、この「京平家」の「伊賀の実家先」に頼み込みこんだ。
    「清盛」は一変してこの三名に限り「日向廻村」に配流処置で済ませた。
    これは、「頼政の孫」の三兄弟の「三男京綱」は事前に「伊勢青木氏の跡目」に入って居た事から、「兄の助命嘆願」を実家先の”「清盛の実母」”(下記検証)に願い出た事から特別に許された事であるとされている。)

    (注釈 ”「清盛の実母」”には多説あり、「祇園女御」(又は妹説で養子説)、実父は白河院、「育て親」は忠盛の妻「池禅尼」である。
    「清盛」は「伊勢の津」に生まれた。
    「祇園女御」は立場上、祇園に住んでいたので「伊賀の里」には住んでいない。
    従って、「白河院」から寵愛を受けた「舞子」の「女御」である立場から、「津」に宿下がりしてでの出産と成った。
    然し、それが「津」とするとあり得ず、結局は”「女御妹説」”にと成る。)

    (注釈 何れも育てる事は、侭ならない事から,「忠盛」に預け、この「伊賀の里」で(「池禅尼」は池と云う地名に住居)が育てた事に成る。
    この時の「青木氏の記録」では「清盛の実母」と成っている。
    然し、果たして、「育親」のこの「池禅尼」であった事に成るのか。
    「池禅尼」は、「忠盛没後の1153年」に尼僧となるが、「頼朝の助命嘆願」に奔走した事は有名である。
    「池禅尼」は、正妻で、「忠盛の妻」は多くいたが、1164年没前頃の時に、この伊賀に「池禅尼」が住する事があったのかである。
    「1153年忠盛死後」に尼僧に成り、「六波羅の池の地」に住した事から「池禅尼」と呼称された事を是とすると、可能性としては低い。
    結局は、ここで実はこの「忠盛の妻」には上記の「祇園女御の妹」が居た事は事実である。
    とすると、つまり、「祇園女御」そのものが「一切不詳」である事から、「妹」は尚不詳と成っている。
    従って、「忠盛の妾妃」の「妹の実母説」(つまり、「祇園女御の猶子の記録説」)が残る。
    とすると、「清盛実母」、「津」、「忠盛妻説」、「伊賀居説」、「1180年宗綱助命嘆願説」、「青木氏記録の実母説」などでは符合一致する。
    又、「伊勢津」には、「二つの青木氏の勢力域」で、「青木氏の菩提寺の分寺」(本寺は松坂)があった。
    この事からも、「清盛津誕生説」は、この「分寺」(本寺共に現存)にて生誕した可能性が高い。)

    (注釈 何故ならば、当時、「伊勢の津域」を「差配統治」して居た事から、「氏家制度の慣習」から観て、商いの関係から「相談」を受け、ここに「産屋」を提供し手配したのではないかと想像できる。
    「伊賀での生誕」は、多くの忠盛妻が居た事から産屋は難しい。
    この時は、既に、「青木氏」は「紙屋院」として「和紙の殖産」と「二足の草鞋策」の「商い」していた年代である事から、[伊賀殿」との「隣人親交」は「和紙企業の関係」からも深かった事に成る。
    宗綱等の「助命嘆願」を受けて貰える関係は、充分に有った。
    その関係にあった”「青木氏が云う実母」”とは、「池禅尼の没年の晩年説」か「祇園女御妹説」かのどちらかであった事に成る。
    然し、上記の「注釈の検証」から、「祇園女御妹説」の可能性が極めて高い。)

    (注釈 「1180年の助命嘆願」を受けた「人」は、「祇園女御と妹」の生没不詳から「女御妹の晩年の事」と成る。
    「1181年清盛没の直前の嘆願」の直前と成り、「妹説74歳」は妥当と成り、何とか成り立つ。)

    (注釈 更には、「桓武天皇の京平氏」の母は、「光仁天皇(伊勢青木氏始祖 施基皇子の子供白壁王)の妃の「高野新笠」である事、
    つまり、「伊勢青木氏」とは「女系の縁者関係」にもあった事からも、この「献策の血縁差配」の検証は納得出来る。)

    この注釈の検証等の様に、それが、「嵯峨期の詔勅禁令」の例外を次から次へと実施し、「天智期からの青木氏の賜姓」を上手く適用したのである。
    では、「円融天皇」に献策が出来て、40もの外戚から成る煩い「摂関家を抑え込める勢力」は、果たして「何処の氏族」かと云う事に成る。
    最早、一目瞭然で、導き出せる事は疑う余地は無く成る。

    それには、「天皇に朝見」が出来て、且つ、「献策出来る格式を持つ氏族」は、数える程も無い。
    先ず、「朝見]できるのは、「正三位」以上の永代格式を持つ事が必要で、「献策」か出来得るのは「浄高二位以上」である事が必要である。
    この「浄高二位」は皇太子格に相当する。
    「源氏族11家」は、「朝見の永代権」は持ち得ず、「嵯峨期詔勅」で「大権と土地を持たない朝臣族授与」を前提とした為に「従四位下」を限度としたので、朝見できない事に成る。

    そこで、「皇太子以上の家筋」は、永代に持ち得ているのはたった二家しかない。
    それは、「伊勢青木氏(浄大一位)」と「近江佐々木氏(浄大二位 後に一位に成る)」の二氏である。
    つまり、”永代に天皇にこっそりと検索できる権利”を天智期から与えられている「二つの氏族」なのである。
    例え、「斎蔵の藤原氏摂関家」に於いてでさえも、「摂関家の宗家」を引き継いだ「太政大臣と左大臣」成る者しかいない。
    他の摂関家の者は「朝見」は出来ても「献策」は出来ないのである。
    とすると、上記から記述して来た通りである。

    「状況を変え得る能力」としては次ぎの条件が成り立たねばならない。

    「献策」を裏付けられる「権利」としての事、
    それを「実行し得る財力」としての事、
    「40もの外戚」を問答無用で押えられる「勢力」の事、

    以上の事からも、「五家五流賜姓族青木氏」しか無い事に成る。

    中でも、「賜姓五役」を主導し実行している「伊勢と信濃の青木氏」と成る。

    但し、政治に関する「実質の斎蔵権」を持っていない事から、あくまでも「陰からの献策権」と云う事に成る。
    それは「賜姓五役」の「国策氏」とされている「青木氏」であれば、それは成り立つ。
    つまり、この「陰からの献策権を公に認められている立場」(国策氏)であればこそ周囲から文句は出ることはない。
    「斎蔵権を持つ藤原氏」(摂関家)に執って、「煩い存在」であったと観られる。
    「立場」があるからと云って、そう頻繁にこの手は使えないだろう。
    使いすぎれば、「影」では無く「表」の論理と成る。
    それは、「争いの下」に成る。
    「青木氏の氏是」が、”必要以上に表に出る事”をこれを固く禁じている。

    そもそも、「1の天智期の青木氏」は、「親衛隊」の最高位の「左衛門上佐」でもあり、摂関家の「左衛門尉」とは、「摂関家」は「天皇の傍に常時居ると云う立場」に於いては、「四段階下の格式」とは違う。
    故に、「青木氏」は格段にして、常に「天皇の傍」に居て身を護っている「青木氏」にしかできない「献策」と成る。


    ここで、次ぎの内容を論じる前に、この「青木氏」は次ぎの様に成る事を改めて述べて置く。

    この「青木氏」が、次ぎに「究極の策」に出たのである。
    それは、今度は上記する「円融天皇の目論見策」から、これを確定させる為の「青木氏の策」である。
    この下記に示す(1)と(2)の「青木氏」を最終的に「一つにする事(融合策)」で、その「円融天皇の目論見策」の「威力」は未来永劫に確定させ得る事が出来る。その手段に出たのである。


    つまり、ここに、所謂、基本的には、本来の「賜姓族」としては、次ぎの様に成る。
    (1) 「天智期の青木氏」
    (2) 「円融期の青木氏」
    (3) 「嵯峨期の青木氏」

    以上の「三つの青木氏」が生まれる結果と成ったのである。

    然し、(3)の「第三番目の青木氏」には、現実に「賜姓」は伴わなかったのであり、「賜姓族」である事、つまりは、その「皇族系」であるとする「出自の証明」があれば、「賜姓」を受ける事無く、「賜姓」を受けたと同じくして「青木氏」を名乗る事を許されたのである。

    これが(3)では、「源氏系出自の青木氏」(3氏 「日向青木氏」等)と、「第四世王族系出自の青木氏」(丹治彦王:丹治氏系青木氏 1氏)の発祥と成ったのである。
    然し、(3)の子孫を現実に遺し得たのはこの4氏の二氏に限られる。

    最も、「子孫拡大」として果たしたのは、(2)の24地域の116氏に成った「円融期の青木氏」である。
    次ぎに、(1)の10地域の10氏に成った「天智期の青木氏」と成る。
    厳密には、両方に跨がっている所謂、この「融合族青木氏」を「天智期の青木氏」に加えるとすると、次ぎの地域と成る。

    伊勢、信濃、甲斐、近江、越後、伊豆、相模、下野、因幡、土佐

    以上で、20氏と成る。

    (但し、近江の「佐々木氏系青木氏」は「天智期の青木氏」に加える。)

    ここで、重要なのは、この”「融合青木氏」”である。

    上記した様に、「円融天皇に依る一発逆転策」で、以上の「三つの青木氏」が発祥する事と成った。
    夫々が独立して働けば、「嵯峨天皇」や「円融天皇」が目論んでいた「賜姓五役等の役務柄の仕事」は確実なものに成る事は間違いは無い。
    ただ、より「大蔵氏」や[藤原摂関家」に匹敵して、”「青木氏としての役目柄」”を確実に未来永劫に果たすには、もう「一つの段階」を踏む必要があると考えられた。
    当然に、「大蔵氏]や「摂関家」とは、「賜姓族」で「臣下族」であり「朝臣族」であると云う事は同じでも、「青木氏としての役目柄」、即ち、「賜姓五役」の果たし方だけは異なる。
    「青木氏の生き方」も、その「賜姓五役」や「三つの発祥源」としての「役務」に必要とする護らねばならない「立場」、「生き方」ある。
    そして、他の「青木氏の二つ氏族」に求められていない厳しい「慣習仕来り掟」に厳しく縛られている。
    従って、「活躍の仕方」は決して「表立てる事」は出来ない。(これも「果たし方」の違いである。)
    取り分け、”「氏族の純血性」”だけは「他氏の二つの氏族」とは決定的に異なる。
    況や、”「氏族の純血性」”を護り通す徹底した”「四家制度」”である。(四家制度の「徹底の仕方」が異なる。)

    この為には、(1)の「天智期の青木氏」と、(2)の「円融期の青木氏」の「母方」は同じにしても、「未来永劫の存続」はこれだけでは充分では無い。
    この基本的に出自の異なる二つが、別々の路を歩む事は、「亀裂の基」にも成り得るし、「氏族の弱点」にも成り得て、そこを突かれる事は充分に考えられる。

    では、どうするかである。人が考える事は同じである。難しい判断では無い。
    「自然の流れ」の中で起こる事をすれば良いだけの事で有って、それは”一つにすれば良い事”である。
    「円融天皇」は、格式、家柄、官位、官職、等の「氏家制度」の中で「生きて行くための条件」は同じにした。
    そうすると、後は、(1)と(2)の「血縁融合」のみである。

    その目的を果たしたのは、先ずは、「五家五流の地」で興った。
    然し、その結果は、「近江と美濃」は、「青木氏の氏是の禁令」を破って、「源平合戦」に参加して近江で敗れ、美濃で敗れ、終局は「富士川の合戦」で「源氏」と共に滅亡した。
    この時に、「近江と美濃」の「融合氏族」も滅亡した。
    「氏是の禁令」を破る事さえしなければ存続は保障されていた筈である。

    「伊勢」は、伊勢には、2の「円融期の秀郷流青木氏」が、発祥の初期の段階から定住していた事から「四日市」地域にて「融合族」は定住して子孫を拡げた。
    そして、江戸期には「歴史的働き」をするに至る。

    「信濃」は、元より2の「円融期の秀郷流青木氏」は定住していなかった。

    しかし、秀郷一門は「足利氏の本家争い事件」などに関与して「主導権」を握ろうとしていて、初期より護衛団として「秀郷流青木氏」をここに派遣していた。
    この駐屯していた2の「円融期の秀郷流青木氏」との間に「融合氏族」を発祥させた。
    この「融合氏族」は、定住していない為に、その末裔は「信濃、三河、美濃の国境」に退いて「融合子孫」を拡大させている。

    「甲斐」は、秀郷一門が定住していない。従って2の「円融期の秀郷流青木氏」も定住はしていない。
    しかし、一門の本領の武蔵、上野との国境を広く持つ事から、武蔵と上野の国境に「融合氏族」は発祥させた。
    ところが、この甲斐も室町末期の武田氏との戦いで敗退し、衰退した。
    そして、結局、「甲斐青木氏」と共に「徳川氏の支配下」に入り、「武蔵鉢形」に移植させられて後に、武蔵下野の国境に定住した。
    この国境には、2の「円融期の秀郷流青木氏」は、元よりの領国と、武田氏滅亡により逃避して来た「諏訪族青木氏」も定住したこともあって、この「三者の融合族」がこの地域に発祥した。
    現在では「自然融合」が進み、判別が困難な状況と成っている。

    「近江」には、僅かに生き延びた「抹消子孫」が戻り何とか「摂津域」に定住した。
    1の「天智期の伊勢青木氏」が、摂津に大店を構えていた事もあって、この抹消子孫は保護され、ここに「融合族」も存在して居る。
    しかし、現在では判別はつかない。

    又、「美濃」には、生き残りと観られる「伊川津七党」と云う「郷士集団」があるが、ここに「美濃の伊川津青木氏」の「融合族」が存在する。
    恐らくは、三河尾張の「州浜族」か「片喰族」の2の「円融期の秀郷流青木氏」との「融合族」と観られる。

    ただ、「甲斐と近江と美濃の三融合族」は、室町期中期以降の戦乱の結果と成る。
    この「三つの地域の融合族」は「恣意的融合」か「自然融合」かは判らない。
    時期的には室町期末期から江戸期に掛けての事であるので、社会体制から、特別な「子孫安寧の融合目的」では無い。
    互いに同族で理解し合え、「習慣仕来り掟」等の事が同じであると云う意味合いからの「多少の恣意的性」が合った事は認められる。
    従って、室町中期までの「本来の目論見策」の結果に依る「融合血縁」では無い。

    ところが、”1の「天智期の伊豆青木氏」”には、1の「皇族賜姓族」の「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」が、「清和源氏四家摂津源頼光」から「源三位源頼政」まで「源氏の領国」であった。
    この事から、ここに「青木氏大護衛団」として赴任していた。
    この当然の結果として、この「伊勢−信濃青木氏の融合族」が同族で先ずは発祥し、更に、隣の相模には大きく2の「円融期「秀郷流青木氏」が定住して居た事から、伊豆相模国境には2の「円融期の秀郷流青木氏」との「総合融合血縁族」が平安期から極めて大きく発祥した。
    従って、現在には「青木氏分布」としての「最大地域」に至っている。
    その証拠に村全体が洩れなく「総紋の笹竜胆紋」である。

    (注釈 1の「天智期の青木氏」は、「四家制度」に依って本家分家は無い事から奈良期から「象徴紋」であって家紋は無い。
    これは前段で論じた様に「四家制度」に依って起こる。
    当然にこの地域の「融合族」も2の「円融期の秀郷流青木氏」の「下り藤紋」の「総紋」をも合わせて持つ。
    但し、2の「円融期の秀郷流青木氏」が持つ家紋は、「融合族」と成った時点で消える。
    従って、「融合青木氏」は、何れの「総紋」も「総紋」とする事に成り、「使い分けの仕来り」が生まれる。
    「ルーツ掲示板お便り」にこの「お便り」があったが、今でもこの使い分けは続いている模様である。)


    この1と2の「青木氏」のみに関わる「究極の融合策」は、「平安期の本来」の「最高の目論見策の結果」であった。
    そして、江戸期までその「目論見策」は大きく続いた。
    関西で興った「伊勢信濃の融合青木氏」も、然ること乍ら、この関東の伊豆相模域で興った「総合融合青木氏」がある。

    「中部以西」では、「伊勢−信濃域」の伊勢の「秀郷一門の定住地」の「四日市−松阪」に存在した。
    「中部以東」では、「秀郷一門の定住地」でもある「伊豆−相模」に存在した。

    以上の古来からの2の「円融期の秀郷流青木氏の定住地」の二地域に興った事に成る。

    むしろ、「青木氏」に執っては、関西に拠点を大きく置く(1)の「天智期の青木氏」だけでの「一極集中型」に依らず、(1)と(2)の「二極分散型」で、”「総合融合族青木氏」”が関東に存在した事に成る。

    これは「恣意的」であるのか、「自然の成り行き」なのは別として、この方が却って「江戸期までの目論見策」は、確実に伸ばし得たと観られる。
    これは「恣意的な行為」であったかは、残念ながら資料が見つからないので確定し判別し得ないが、「自然の成り行き」も考えられるが、この「二地域」には、”「伊勢と信濃」”が何れにも関わっている事から「恣意的な差配」の方が強かったと観られる。

    「1の天智期の伊勢青木氏」の「商業記録」には、この「中部以東の青木氏」とのやり取りが遺されている。
    この事から完全な証明とは成らないが、「恣意的な融合」のその結果であると観られる。

    何れも、この「二つの地域の拠点化した融合族」は、歴史的には江戸幕府に対して「青木氏」に執って「大きな役割」を果たしたのである。
    (この事は前段でも各所で論じている。)
    「関西での四日市]の「立葵紋の融合族青木氏」は、室町期末期1605年前後頃に「徳川氏との橋渡し」をした。
    この時、「伊豆−相模の笹竜胆紋の融合族青木氏」は、「徳川幕府の主要官僚族の御家人」と成って、一族全てが「丸抱えの策」(御家人)で江戸幕府を支え動かした。

    この「歴史的な事象」から鑑みても、「自然の融合」とは考え難い。
    何はともあれ、この拠点と成った「二つの融合地域」には、何れも”「伊勢−信濃」”が関わっている。
    この事からも”「自然の融合」”とは言い難い。

    前段でも論じたが、室町期末期前後の「家康との話し合い」には、この「二つの融合拠点」が互いに連絡を取り合って、話し合いに臨んだ事が関東の個人の所有書面が遺っている。
    この事から、この「融合策」は、「円融天皇の目論見策」を有効的に活かす為に採った、「青木氏生き残り策」の為の「恣意的な結果」と観ている。

    この「円融天皇の目論見策」は、「伊勢信濃青木氏の献策」で、「秀郷流青木氏」が発祥したのであるから、両者に執っては、自然放置する事無くより確実にするための方策を講じる事は必然であったであろう。

    上記した様に、人の採るべき本能的行為であり、「青木氏」を一つにする動きそもものは、「自然な行為」である。
    唯、「一極集中型」にするか、「二極型」にするかは、本能では無く、判断の分かれるところであった筈である。

    其れには、例え「融合」で有っても、「一極型」か「二極型」にしても、「極点」は一つにしておかねば繋がりは無く成る。
    それが、1の「天智期の伊勢信濃青木氏」が「極点の元」にして、この「融合」が成されている事にあって、これには意味を持っていると観られる。

    「極点は1の「天智期の伊勢信濃青木氏」と云う事は、都合よく図って遣ろうとしてもやれるものでは無い。
    歴史的に、「両極」にその「子孫力」と云える「勢力」を「(1)の天智期の青木氏」が保持していた事が重要である。
    そこに、(2)の「円融期の青木氏」が生まれたとすると、この「目論見策の主導」は、「献策者」でもある事も含めて、(1)側にあった事に成る。

    とすると、この検証の論調からすると、この”「融合時期が問題」”に成る。

    次ぎの融合の時期が考えられる。
    イ 平安期の(2)の「発祥期」の「直前期」なのか。
    ロ 鎌倉期の(2)の「子孫力」の「拡大期」なのか。
    ハ 室町期の(1)と(2)の「成熟期」なのか。
    ニ 江戸期の(1)と(2)の「安定期」なのか。

    そうすると、「円融天皇の目論見策」をより効果的に働かせると云う前提では、「ハとニ」は意味を成さない。
    そうすると、「イとロ」と成るが、果たして、「室町期の戦乱期」の入る前でなくては「目論見策の効果」は低減する。

    唯、ロの「子孫力の拡大」が無ければ、成し得る事が出来るかの疑問もある。
    (1)は兎も角として、(2)の「子孫力」は、概して「980年」を境にして増えて行くことに成る。

    平安末期は1185年とすると、凡そ、「200年間」ある。
    この間に(2)の「子孫力」は、”どの程度増やしたか”の問題に移る事に成る。

    当時は,「人生50年」として、子孫を15歳−20歳で「世継ぎ」したとして、200年は、「10倍の枝葉」で「最低2の倍数」で拡大する事を前提とする。
    そうすると、最低で「子孫力」は「1000人」と成る。
    当時の婚姻制度は、「四妻制」であるので、最低である事は無く,最高でこの4倍と成る。
    つまり、「4000人の子孫力]を作り上げている事に成る。
    これを各地に配置するとすれば、充分に成し得る。

    当時の「平安末期の戦いの記録」で観てみると、「秀郷一門の動員力」で観ると、「戦力」を「一族からの人集め」をしたとして、「最小1000人 最大5000人が限度」と成っている。
    現実に「将門の乱」では、この5000人であった。
    この事から、妥当と観て、「子孫力」から「融合族」を発祥させ得る事が出来得る。
    現実に「秀郷一門」と「秀郷流青木氏」は、平安末期には「24地域」に赴任して「現地末孫」までを遺し得ている。
    「現地末孫」までを加えると、「四妻制」以上と成るので、「4000人の子孫力」は充分にあった事を示す。

    依って、答えは、”「イの時期」の「少し後」”と成る。

    「源頼光」が「伊豆の領国」に1の「天智期の伊勢信濃青木氏」を配置した。
    そして、平安末期の「四代目の源頼政」が1180年頃にこの護衛軍を動かした。
    既に、この時には、伊豆には「青木村」が幾つも存在して居た。
    領国であった「伊豆の国」は、「5郡制」であった事から、この全域に「五郡の指揮統制」を採る為に「村」を置いていた。
    当時、この伊豆は「本領村」であったので、最大500人とすると、仮に1郡5村とすると、この内、200人を青木氏で、後は家人と村人として計算すると、5000人の「青木氏の子孫力」はあった事に成る。
    この「伊豆の子孫力」と「相模の子孫力」のバランスは取れる。
    充分な「融合族を興し得る土壌」があった事に成る。

    依って、平安末期前に、1の「天智期の伊勢信濃青木氏」が主導して、既に「二極に融合族」を発祥させていた事が判る。


    さて、領国から離れた「越後」には、2の「円融期の郷流青木氏」を頼って、1の「天智期の信濃の諏訪族青木氏」と1の「天智期の甲斐の諏訪族系青木氏」が逃避して「融合族」を形成した。
    ここは「二つの相互の関係」に依る「自然の成り行きの融合」である。
    先ず、「逃避保護と云う立場」から、両者に執っては「融合族」を必然的に興さなければ生きて行くことは不可能であった筈である。
    その「融合族の分布」がその事を物語っている。
    これらを判別する最も良い手段の「家紋分析」から観ると、2の「円融期の秀郷流青木氏」が定住する方向に沿って、「旧北陸山道沿い(商道)」に各一定間隔で「融合族」が均等に分布している。
    この「越後」の2の「円融期の秀郷流青木氏」は、その地理的要素と近隣に進藤氏等の一門が分布する処から安定した「子孫力」を勝ち得ていた。
    この地域の「経済的な勢力」もあって、2の「円融期の秀郷流青木氏一門の勢力」は、武蔵−相模−讃岐に継ぐ勢力を持っていた。
    その事も有って、逃亡を受け入れたのである。
    従って、多くの一族郎党を受け入れて貰って生活の庇護を受けているとすれば、”「族は族」”として突っ張ると云う事は許されない。
    最も好い方法は、男系女系の如何を問わず血縁をする事と成ろう。
    労働や戦い等の労力や戦力の応援等はあるにしても、血縁する事が「確実な絆」を醸成する。
    従って、この地域は、「生きて行くための必然の融合」であった。

    但し、ここで、別格とした事が在る。
    そもそも、「越前」には、「皇族賜姓族の逃避地」として、朝廷が認めた奈良期から活躍した地域であった。
    ここには、奈良期より「五家五流青木氏」と、平安末期の近江滋賀に定住した秀郷一門と共に、「秀郷流青木氏」も定住した。
    しかし、ここは「何れの青木氏」の「歴史的な混在地域」であった。
    依って、この「混在の青木融合族」がここにも発祥している。
    然し、ここは「本来の目論見策」とは、別に起こった(1)と(2)の奈良期からの「全ての青木氏融合族」の発祥が興った地域であった。
    「青木氏」に執っては、「地域的な目的」からの融合結果である。

    これには、特徴的には”「祖先神の神明社」”が大きく関わっていた。
    恐らくは、その様に、この「地域の目的」から「青木氏の神明社住職」が、全てを「商人」にして「融合」を恣意的に取り計らったと観られる。
    後に、この事からこの「混在の青木融合族」は「越前商人」と呼ばれた。
    この「神明社」を全総括していた「伊勢青木氏」は、「逃避地」と云う「苦しい状況」の中で、武力的庇護も無い中で、「互いに助け合う血縁族」としたと観られる。
    ただ、全くの無防備と云う事には成らず、500社にも上る「神明社」を通じて「神明社シンジケート」が彼等を庇護していた。
    「商い」も、この「神明社シンジケート」を通じて行っていた模様で、「神明社の記録」の中に、「彼らの商い」の為に社を定宿として宿泊をしていた事が読み取れる。
    筆者は、「定宿」そのものだけでは無く、「商い」そのものに[神明社の社務」は関わっていたと観ている。
    取り分け、この「越前の神明社」は、最も「全国分布の比率」の高い地域であった。
    (1)の皇族賜姓族の「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の「二足の草鞋策」で、安定した「経済的支援」を背景に、網の目の様に配置された「多い神明社」は「社務」として安心して総合的な庇護に関われたと観られる。
    端的に云うと、「青木氏」の”「村役場的寄合場所」”として活躍していたのである。

    この様に、「青木氏」と云うよりは、「武士」から「商い」に変えて細く長く変えて生きて行かねばならない。
    その為の”「人本来の融合」を求めた地域”でもあったと観られる。

    上記する各地域での違う形の融合を成し遂げた氏家制度の中で、「商い人」と云う形でこの”「特色ある伝統」”の中で生き延びた「融合族の越前青木氏」である。


    「因幡と土佐」の融合は、他の地域と比べ、又、共に違っていた。
    共に、「因幡」は「信濃の足利氏」と「秀郷一門宗家」の「主導権争い」で逃亡した花房氏系の足利氏本家に一部同行した青木氏である。
    この「信濃足利氏系青木氏」が米子と八頭に定住した地域である。
    これに西域の宍道湖地域で、「秀郷流讃岐青木氏との血縁族」が発祥した地域である。
    この「因幡の地域」には、ある「特異性」が有った。
    それは、東西域に分けられていた。越前と違う生き方をした事が判る。

    「西域」は、「商人域」、東域は「武士域」として「棲み分け]をしていた地域である。

    これは、この「商人地域の商人」は、「二足の草鞋策」を採る武士で、「西域は商い地」、「東域は居住地」として「棲み分け」をしていた事から起こっている。
    これには、「足利氏系青木氏」と「瀬戸内の讃岐秀郷流青木氏」との関係から生まれた模様である。
    「讃岐秀郷流青木氏」は宍道湖より西域に進出した。
    この因幡の足利系青木氏は宍道湖より東域に進出した。
    この事から、互いに争いを避ける事を前提に、境界と成る因幡西域(宍道湖東域)はに線引きをした。
    この東よりを「商人域」として定めた事から来ていると観られている。
    つまり、「因幡」の「足利氏系青木氏」の古来からの「名誉ある武士」としての家柄を頑なに護った事から考え出されたものと観られている。
    通常、多くは、商人化して仕舞うが、ここは所謂、”「米子商人」”として「厳格な商人」で有名である。
    その「武士としての心」は捨てなかった事から来ている。

    「土佐」は、「甲斐武田氏の滅亡」により、「甲斐青木氏」の末裔の「武田氏系青木氏」が「讃岐秀郷流青木氏」を頼って定住した地域である。
    ここには「讃岐秀郷流青木氏」との「融合血縁族]が先ずは発祥している。
    これらは、「生きる為の結果としての融合族」であり、「本来の目論見策」からのものでは無かった。
    ただ、この「二つの地域」は、「青木氏」として、結果として融合する事で生き延びられた所以でもある。
    ルーツ掲示板にも多くお便りが寄せられているが、恐らくは、この「融合」が無ければ生き延びられてはいないであろう。
    戦国時代はそれほどに甘い時代ではなかった。
    個々の伊予、讃岐、土佐、阿波の四地域には、「秀郷流青木氏116氏」にも成る中で、「秀郷流青木氏だけ」とこの[融合族」も含めると7氏に上る。
    「目論見策の効果」は別として、「生き延びる」と云う基本の処は成し得ていた事に成ろう。
    確かに、武田氏系青木氏と讃岐秀郷流青木氏との融合族が土佐では発祥したが、「秀郷流青木氏」でも「流れの異なる青木氏」が在った。

    (1) 讃岐藤氏系の京公家族と讃岐秀郷流青木氏との「同族融合青木氏」
    (2) 土佐に定着した花菱紋の「武田氏系青木氏」との「秀郷流融合族青木氏」
    (3) 紀州から逃避し伊予土佐に分布した州浜紋の「近江脩行系青木氏」
    (4) 阿波に赴任分布した下り藤紋の「利仁流青木氏」
    (5) 讃岐に一期間(50年程度)定住した関東屋形系の「結城氏系秀郷流青木氏」
    (6) 讃岐に一期間(50年程度)定住した関東屋形系の「宇都宮氏系秀郷流青木氏」
    (7) 阿波南域に分布した「片喰紋の秀郷流青木氏」
    (8) 阿波北域に小分布した「摂津近江青木氏融合族」
    (9) 伊予に一期間定住し小分布した現地末孫の「豊臣氏族系青木氏」
    (10) 伊予に一期間定住し小分布した現地末孫の「丹治氏系青木氏」

    四国には、「讃岐秀郷流青木氏」をベースに、以上の青木氏が一時期を含めて定住した。
    ここに、基本的には、「藤原氏」、又は、「秀郷流青木氏」との「同族青木氏融合族」が発祥している。
    この「発祥の仕方」が特に「地域性」が強く、”どの青木氏と血縁”と云う事では無く、「棲み分けの境界での小融合」である。
    従って、「家紋分析」でもなかなか判別が付かない。
    全て「讃岐秀郷流青木氏の庇護」の下に生き延び、その結果の地理的な融合である。
    唯、(4)は基本的には「本領」や「先祖の定住地」や「新たな赴任地」に戻ると云う現象を起こしていて、この「融合族」は、何らかの形で遺された土地の者の[現地の末孫」との血縁である。
    あらゆる「融合の形の坩堝」と云える。

    結局、土佐には(2)と(3)と「讃岐秀郷流青木の融合族」が観られる。
    (4)と(7)は、現地末孫を遺す事は「一門の掟」ではあるが「現地定住」を原則とせず、「一門の掟」として交代制の「本領に帰省する形」を採っていた。
    (5)からは勢力関係(移封と滅亡)から消滅した地域である。
    (8)は「商業関係」と「摂津水運」による「支店の定住地」である。


    これ等は「青木氏」に執っては、”「賜姓族」「臣下族」「朝臣族」「氏族」”であると云う事からの結果である。
    そもそも、”「融合」”と云うキーワードは、他氏には決して生まれるものでは無く、無いものである。
    つまり、”「青木氏の伝統」”の一つとして扱われるものであろう。
    これは決して見逃してはならない事で、「円融天皇の青木氏目論見策」の「歴史的な所以」が誘引して興った事である。
    決して、歴史的に見ても無関係では無く、故に、「青木氏」は生き延びられたと云える。

    この様に、正しく言えているかは別として、「円融天皇の一発逆転の政策」で起こった事件は、当時の「氏家制度」の社会の中では、「融合」と云う事は、”「究極の象徴的な青木氏」”なのである。

    そもそも、「天皇が行う政治」とは、一義的には ”「事の流れ」”を創り出す事にある。
    「事の流れ」とは、「事象」の一つ一つを敢えて解決するものでは無く、この「事象」が起こす「事柄の結果」を、「目的の方向」に導く事にある。
    ”「目的」そのものを解決する事」”ではなく、”「解決出来得る方向性を決める事」にある。
    「事象」の一つが良くても「事柄の結果」が良くないと云う事は、この「世の条理」である。
    この世に、「善き流れ」を作り出すと云う事は、なかなか難しい事である。

    だとすると、「円融天皇の目論見策」は、各の如しで、当に、江戸期にまでも、その「目論見の影響」を「好ましい方向」に及ぼした。
    「青木氏」に執ってみれば、”「円融天皇」が優秀であった”とするは、この点にある。


    ここで再び、検証を続ける。
    「五家五流の賜姓青木氏」と「同位の叙位任官」を与え、「青木氏と同じ役目と立場」を与えて、「特別賜姓青木氏」を実施する事に成功したのである。
    これは、「天智天皇と嵯峨天皇の意」を汲んだ「円融天皇」の「臨機応変、適時適切」の処置であった。
    「秀郷」にしてみれば、母方で繋がる「青木氏」である事から、これを断る事は出来ない環境下でもあった。
    然し、究極は「秀郷」にとってみれば,「貴族の立場」を獲得するのみならず、「青木氏と同格」の官位官職の「最高の格式]のある貴族に永代で成り得るのである。
    且つ、「名誉ある役目」を与えられる事に成る訳である事から、「付加された役目」に対しては異論は無かった筈である。
    この事で、結局は、「藤原氏の北家筋」の中でも、むしろ「摂関家」を遥かに凌ぐ「格式と勢力」を勝ち得て行くことに成った。
    この事で領国も[武蔵」のみならず「下野」も「上野」も[下総]も[上総」も「陸奥」も獲得する事に成った。

    この「円融天皇の目論見策」は、この「武力と権力と格式」を持たせた「秀郷」を利用する事で「摂関家の権勢」を牽制させる事が出来た。
    且つ、「賜姓五役の国策」を実行する「国策氏」を拡大させて政治を安定させられる事が出来た。
    そして、奈良期の蘇我氏の様にこれに勝る勢力を永代に排除できる事になった。

    其れが「将門の乱」を利用して、「一局好転(一発逆転)策」で「当面の最大の政治課題」、のみならず、「先々の政治問題」もを解決して仕舞ったのである。

    歴史的には、この時の「円融天皇」の採った「政治的戦略」は、余りこの時の事が評価されていない。
    残念ながら、「歴史上の事」としては、しっかりと研究しないと出て来ない事に成っている。
    それは、その「判断力」を評価される事よりは、”若い”と云う事や周囲の”「外戚の勢力争い」”が余りにも大きく多かった事が原因している。
    故に、その事から、「低い評価」を受けたと観られる。
    その為に、更には、結果として「天皇家の権威」は低下した事もあった事から、更に低く評価され、観る処を観られず仕舞に成った経緯であろう。
    又、現在でも歴史家の間では、理解され得なかったのである。

    (注釈 「青木氏」を研究した「歴史研究家、歴史小説家、歴史脚本家、歴史評論家」の筆者が知る範囲の8人は評価している。)

    然し、「青木氏」が調べて観ると、「円融天皇本人の責任」では無く、その前の「冷泉天皇の政治」が、取り分け、「皇位継承の問題」で「藤原氏の外戚の勢力争い」が起こって居た事に依るものである事がよく判る。
    因みに、その証拠として、在任期間15年の間に、その「外戚の入れ替え」は、何と40回に上り、その「外戚の人員」は何と41人にも上るのである。
    この数字は、急に起こったものでは無く、前からの煩い「外戚の勢力争い」が持ち込まれた事に依る。
    これでは真面な「継続性のある政治」等は出来ない。
    この様な「人の入れ替え」と「外戚の人員」では、”共通ある政治”は保てない事は直ぐに判る。

    現実に、結局は、この「政治腐敗の状況」から,意味の無い「荘園制から来る弊害」を生み出す原因を作り出した”「源氏の賜姓」”を終わらせ、「藤原氏の外戚力」を排除し始めた「花山天皇の政治結果」と成った。
    その後の「三条天皇」からは徐々に「藤原氏摂関家の政治」は少なく成り変化して行った。
    遂には、四代目後の「後三条天皇」からは、藤原摂関家を外戚に持つ天皇では無く成るのである。
    遂に、「藤原氏の外戚争い」は「政治の場」では終わり、ここから、「天皇の身の安全」も侭ならない程に「藤原氏の強烈な抵抗」を受けた。
    然し、「荘園制の禁令」を発する事が出来て、「政治腐敗」や「社会腐敗」の原因と成っていた「荘園制の弊害」も取り除く事ができたのである。

    この時に、「天皇の身」と宮廷を直接に護ったのが、「賜姓五役」から「二つの青木氏」であって、これが”「北面武士」”と呼ばれた所以である。
    それが、「左衛門上佐」、「右衛門上佐」の最高の位階を以って呼ばれた所以なのである。
    (後に、室町期中期から一般化した「左衛門・・」、「右衛門・・」の「呼称の所以」なのである。)

    この事は、明らかに「円融天皇」に「一発逆転の献策」を奏上した事を証明するものであって、これは、この「円融天皇」の「一発逆転の策」が働いて起こった結果である。
    当に、これが「政治の所以たる所以」なのである。
    「円融天皇」の「在位期間」の[権威衰退の原因」と成ったこの事をこれを取り除けば、”「適格に状況を正しく判断して答を出す素晴らしい能力」”を持っていた事が認められる。
    「青木氏の献策」の必要性を適格に判断して、「身の危険」も顧みずに、「煩い外戚」の多い中で実行に移した事に依るものである。

    そもそも、「摂関家外戚」はこの「青木氏の献策」を実行されれば、「摂関家の存続」は明らかに危惧される。
    その結果、恐らくは激しい武力で抵抗した筈である。現実にはあった。
    当然に、「青木氏」にも攻撃はあった事が容易に理解できる。
    この証拠と成る資料と記録がないかを調べたが、確実な表現でのものは見つからない。
    むしろ遺さないだろう。但し、「青木氏の菩提寺」には「小災禍の記録」がある。
    恐らくは、「直接的な攻撃」は、「摂関家」も出来ずにいて、明らかに「伊勢松阪の青木氏」に対しては、「不倫の権」で護られていた事が判る。
    況してや、「隠密裏に献策されていた事」に依る事からも、「表だっての攻撃」は採り得なかった筈である。
    「表だっての攻撃」は、「青木氏のシンジケートの逆襲」を受ける事にも成り、むしろ危険であった筈であり躊躇した事が判る。
    然し、あくまでも、「臣下族]である。「賜姓族」として表だって[武力」を使う事は「青木氏の氏是」で出来ないが、「五家五流の地域」の「天領地警護」以外にも、「宮廷警護」「伊勢警護」「伊豆警護」としての大軍事力を持っている。
    それに、「500社もの神明社」を通じての「大伊勢信濃シンジケート」を影で持っている。
    それを裏打ちする「二足の草鞋策の経済力」を持っている。
    これを知っていれば、誰も手出しは出来なかった筈である。
    この段階で「手出しする愚者」は現実にいないであろう。
    其処に、「不入不倫の大権」で護られているともなれば、黙るしか無い筈である。
    況して、そこに「円融天皇の目論見策の「(2)の円融期の青木氏」の発祥である。

    (注釈 故に、青木氏はこの背景を敢えて誇示しなかった処に生き延びられた所以がある。
    「青木氏の氏是」と成っている、”必要以上に「誇示」しなくても周囲は黙るだけでそれで良い。”
    敢えて「恐怖」を与える事には意味が無い。” ”知略を使え”である。故に「円融天皇の目論見策」である。
    「源氏」は、悉くにこの「概念の事」を間違えたから亡びたのである。 「花山天皇の意」である。
    要するに、「嵯峨期の詔勅の意」の解釈を違えたのである。)

    恐らくは、この程度の「事件性」しか無かったのではないかと考えられる。
    恐らくは、何処にでも何時でもある「嫌がらせの範囲」に終わった筈である。

    これが、「青木氏の氏是」の影響もあるが、「歴史性」に上って来ない事の理由にも成る。
    何故ならば、「多くの外戚」が居ると云う事は、各外戚が、「政治勢力」や発言力」を高めようとして、色々な圧力を掛けて来た筈である。
    しかし、「青木氏」は「政治の場」には、奈良期からの「賜姓族の氏是」(「臣下族」は政治には口は出せない掟)に依って「直接政界に出ない氏族」でもあったからである。
    本来なら「皇親族」であり、「朝臣族]であり、「国策氏」である事から、”政治に発言力は持つ”と理解される。
    然し、ここに”「臣下族」”と云う縛りがあったのである。

    この「臣下族」とは、そもそも,「皇位の者」が「天皇の族の者」では無く成り、「臣」に成ったものなのである。
    だから、「天皇が行う政治」の下の事を行う「臣族」であって、故に「朝臣族」と呼称される所以である。
    その「朝臣族」とは、「皇位継承族の真人族」の次ぎに準じ位置する立場の者である。
    故に、決して完全に「政治の場」から完全に排除された立場では無かった。
    要するに”準ずる者”である。

    (注釈 重複して論じているが、「聖武天皇」の後の「孝謙天皇期」では、女系天皇が続き「男系皇位継承者」は無かった。この時、この”準ずる者の仕来り”の考えが適用された。
    「伊勢の施基皇子」の「子の白壁王」(光仁天皇)が継承し、その「孫の山部王」(桓武天皇)−「曾孫の嵯峨天皇」と続いた謂れの「準ずる者」である。)

    「朝臣族」を獲得し「征夷大将軍」に成り得れば、「政治の場」、或は、「政治権力」は用いる事が出来る事に成るのはここから来ている。
    これが鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の所以でもある。
    「朝臣族」でも、「藤原氏」(摂関家)の様に「実質武力 (軍)」を持たない族もあり、更に「臣下族」となって「武力の持つ族」もある事にも成る。

    「青木氏」は、次ぎの立場を得ていた。
    (い)「皇親族」
    (ろ)「朝臣族」

    (は)「皇族賜姓族」
    (に)「国策族」

    (ほ)「臣下族」

    (い)(ろ)の前者二つは「政治に準ずる立場」
    (は)(に)の後者二つは「政治を補佐する立場」
    (ほ)の「政治を護る立場」

    以上、「三つの発祥源」と「賜姓五役」の内訳は、「五族」と「三立場」を保有している事に成る。

    つまり、国家の政治体制の「四権の内」、「斎蔵権」を持ち得ない事から、(い)の「皇親族」と云えど「政治」を直接実行できない。
    しかし、「他の三権を持つ族」である事に成る。
    従って、「斎蔵権」を持つ「摂関家」からしてみれば、、「五族」と「三立場」であるので、時には自分の上にくる事もあり得る「煩い相手」と観えていた筈である。
    「政治」に対して、陰影で、口を出しても誰も文句は言えない事に成るし、むしろ,陰影で積極的に口を出す義務のある立場でもあった。
    それに上乗せて、「臣下族」として武力を持って好い事にも成っている。
    これほど「煩くて厄介な氏族」は無いだろう。

    唯、、「五族」と「三立場」の大権を、”どう云う使い方をするか”に関わる事に成る。
    積極的に使うのか、消極的に使うのか、これが、大権であるが故に,「青木氏の氏是」でこの使い方を規制したのである。

    逆に云えば、「天智天皇」は、「斎蔵権の藤原氏」を牽制する目的で、この任務を青木氏にして背負わしたと観られる。
    「藤原氏の摂関家」が、政治で具申する事の善悪や正当性を見極める為に、「別ルートの情報」を獲得しようとしての思惑であった事に成る。

    この為にも、この「要と成る氏族」を護る為にも、「賜姓族」を理由に最高の「権威と格式と官位と官職」を、時には「軍事力]も与えたのである。
    それだけでは無かった。暗黙の内で禁じ手の「経済力」も与えた事に成る。
    「周囲の氏族」から観れば、「半政治力、経済力、軍事力」の「基本的三権」を保有する「煩い氏族」である。
    これに「(2)の円融期の青木氏」が加わったのである。
    そして、「融合」したのである。
    其れも「藤原氏北家族」である。

    これで、無手勝流的に「最大の抵抗勢力の摂関家」も抑え込めて、「献策]は充分に出来る背景はあった事に成る。

    (然し、「氏」を誇張する様な、「威圧的で積極的な使い方」はしなかった。かと言って、消極的であったかは疑問であって、「二足の草鞋策」に観る様に、「考え方」に依ってはこれほどの積極策は無い。
    要は、「氏是」に基づく「家訓」にもある様に「知略」にあった。”挟みと刀は使い方如何”である。)

    従って、「円融天皇の目論見策の結果]は、これは、「二つの青木氏」から観れば、「大きな論評」に値する「歴史的な転換期」であった筈である。

    そもそも、この「円融天皇」は、10歳で即位(969年)し、譲位(984年)までの在任期間15年の間に、何と凡そ「40件の政変劇」が起こっている。
    つまり、「藤原摂関家の中での勢力争い」が起こっていたのであり、歴代では政変劇は最多である。
    この為に、「天皇家」は衰退していて、「外戚の争い」であった為に政治的には「権威失墜の状況下」にあった。

    その結果から、「将門の乱」や「純友の乱」や「経基王の讒言」や「大蔵氏の九州独立騒ぎ」等乱れに乱れていた。

    この時、本論序盤に論じた様に、「青木氏」は、925年頃から「和紙に依る二足の和草鞋策」が軌道に載った。
    そして、遂には「最上格の格式」に加えて「巨万の富」と「影の抑止力」を獲得していた。
    そして、1025年には「総合商社」を構えるまでに成っていた。
    「氏族」では、「総合商社」として「宋貿易」まで発展させたのは「平氏」と「青木氏」だけである。
    「桓武平氏」は1133年に貿易を本格化させていて、1158年には清盛は「博多」と「摂津」に港を整備し「宋貿易」を正式に開始している。
    「将門の乱」を鎮めた一人「平貞盛」は、これを契機に勢いを増し、渡来人である事を強みに、密かに博多で中国との交易を始めていた形跡(記録)があって、この頃には既に「商い」はあった。

    (注釈 繁盛りの様に不満を露骨にしなかったのは、「隣人」を見習ってこの「商い」に重点を置いていた可能性がある。)

    その980年代前後では、丁度、その中間期であった。
    「青木氏」は他氏には観られない「商いの富」を築いていた。
    それだけに「円融天皇」には陰で充分な働きかけが出来た事は間違いない。
    むしろ、それは「賜姓族の役目」であって、「表立っての事」は、”「青木氏の氏是の禁令」”でもあり、無かったと観られる。
    然し、「賜姓五役」としての「国策氏」としての役柄から、裏から「藤原氏の外戚の勢力争い」を横目に見乍ら、「円融天皇」に”「献策」”を講じて居た事は間違いは無い。

    そこで、そもそも筆者は、大化期か嵯峨期かに匹敵する「歴史的転換期」であり乍ら、”これだけの事が評価されていないのは何か変である”と観ている。
    ここに”何か評価され得ないもの”があって、それが理由で、この「歴史的な転換期」を敢えて抑え込んだ節が観られると読んだ。

    ”それが何なのか”である。
    この”何なのか”は上記する「青木氏」で無ければ解明は永久にされ得ないであろう。
    この事に付いて下記で論じる。

    ”歴史上に遺されない事”、或は、”他氏に興味が注がれない事”があった事であろう。
    そう云う、”何かが、この「将門の乱」の前後に働いていた”と観られる。
    それは、ほぼ同時に起こった瀬戸内で起こった「純友の乱」も「一つの環境」として関わっていたと観られる。
    この時の”「環境下」”を出来る限り掘り下げれば、”何か”が一つの「青木氏に関わる出来事」が出て来る筈である。
    それは、「純友の乱」で観れば、「氏名]では、それは「大蔵氏」と成るであろう。
    この大氏族には、「遠の朝廷」と呼ばれ、「錦の御旗」を与えられた。
    そして、遂には”「九州自治」の「独立国騒ぎ」”等が、大きく関わっていた「氏族」である。

    他には、この「二つの乱」に関わっていた人物には、後に、「清和天皇の孫」でありながら「賜姓」を無理やり受けた「経基王の讒言事件」があった。

    この「環境下」の中で、「賜姓五役」を必死に務める上記する「青木氏」に執っては、何か試みようとする場合は、この時期やチャンスを利用する筈である。
    それは「氏是の知略」である。
    この「知略」は「人時場」に長じる事が「基本の領」(六稲三略の基)とされている。
    「氏是」としている以上は、この「基本」に沿った筈である。
    そして、”「ある戦略」”を献策したと観られる。
    この頃の「青木氏」は、「青木氏始祖」の「施基皇子の曾孫」の「嵯峨天皇」の「第二期皇親政治」に引き上げられていた。
    そして、「賜姓五役」は勿論の事、「朝廷の役職」の「紙屋院」等を務めると共に、それを「商い」にした「二足の草鞋策」も軌道に乗り始めた時期でもあった。

    この事から、それは、”ある目的を以って「円融天皇」に「母方の藤原氏」の引き上げを献策していた”のではないかと観ている。
    そして、この「献策」が、”上記する大蔵氏や九州の事の難題も解決し得る”と奏上していたと観ている。

    つまり、「大蔵氏」や「内蔵氏」や[坂上氏」や「安倍氏」等の「六割を占める帰化人の官僚族」に仕切られる「朝廷」では無く、「天皇」と云うものを「身内で擁護する勢力」を絶大に大きくする事で解決すると云う事を裏で奏上したのである。
    そうしなければ、結局は大化期の「蘇我氏の二の舞」に成ると観ていたのである。
    そもそも、「青木氏」はこの「大化期の政変劇」によって発祥した氏族である。
    この「氏族」として「大化期の根源の基」に戻る様な事は絶対に認められなかった筈である。
    同じ「渡来系の豪族」の「蘇我氏」が「大蔵氏」に執って代った事だけに過ぎない事が起こってしまう。
    「賜姓五役」の務めがあるとしても,これでは堪えられないであろうことが判る。

    と観れば、では、それを解決する「献策」を奏上し、献策した以上はそれを実行に移すに値するか天皇が考えた場合、”それに対抗し得る万来の信頼を於ける勢力”と成り得るのは、矢張り上記した様に、その条件が整っているのは「青木氏」しか無い事に成る。
    何故ならば、それは上記の事のみならず、「1の天智期の青木氏の末裔」の「嵯峨天皇」の子孫「円融天皇」であるからだ。

    (注釈 筆者は、「円融天皇」は、「上記の立場」のみならず、若干、「ルーツ的感覚]を青木氏に抱いていたのではないかと観ている。)

    改めて、何度も重複させるが、そもそも、「嵯峨天皇」は、「青木氏の始祖」の「施基皇子」(白壁王・光仁天皇ー山部王・桓武天皇)の曾孫である。
    「円融天皇」が最も信頼のおける身内は「青木氏」だけと云う事に成る。
    この「青木氏」が、序盤で論じた様に、「紙屋院」から発展した「二足の草鞋策」で蘇り「巨万の財力」を蓄えているし、「格式」は天皇家以外にはどんなにひっくり返っても何れの他氏も「浄大一位」の家筋には絶対に及ばない。
    況してや、一臣下族に「不入不倫の権」の大権を与えた事は歴史上は無い。
    「朝廷の組織」の「三蔵」の内の「斎蔵」で「摂関家」の「藤原北家」をも遥かに凌ぎ、「大蔵」と「内蔵」の「二役」を受け持つ「最大の勢力」を誇り、「錦の御旗」を賜り、「遠の朝廷」と呼ばれた「大蔵氏」でさえも、この「大権」は授けられていない。

    この「三蔵」は、あくまでも「政治上の範囲」の事であって、「青木氏」が持つ「総合的な格式の範囲」では無い。

    そうすると、「円融天皇」が「天皇の権威」を取り戻し、一発逆転で「天皇家」を安泰に先ずするには、後は、「軍事力と政治力」の持った別に「青木氏」を作り出せばよい事に成る。
    この「献策」を、政治的に権威が失墜し苦しんでいる「身内系の円融天皇」に「一発逆転の策」を疑う事無く奏上した筈である。
    献策奏上しなければならなかったし、献策したいと念じていた筈である。
    この「献策」が、「上記の策」であり、これを「青木氏」により近い母方の秀郷一門に負わせる事で、「賜姓族の立場上」では、「格式と財力」による「影の抑止力」しか使えない「1の天智期の青木氏」が永代に持ち得ない「政治力」と、「より絶大な武力」を大見栄きって獲得できる事に成り得る。

    (注釈 使うか使わないかは又別である。要は「氏是]の云う「知略」である。何れの「反抗勢力」に対して動きの採れない様な[抑止力」に成り得れば良いだけで充分である。)

    そうなると、現実に、この時期では、「献策」を密かに奏上できる「氏族」は、上記(い)から(ほ)のあらゆる面から観ても「浄大一位の青木氏」しかなかった筈である。

    そもそも、それでなければ、「秀郷宗家一門」と、その「青木氏護衛団」には、「全国66地域」の内で「24の地域」(36%)に赴任させる程の事はさせなかったと観ている。
    「秀郷一門」に「青木氏」を作り出し、「大蔵氏」に匹敵する勢力を「血筋の分けた朝臣族」に仕上げる事で成り立つと成れば、「大蔵氏」とほぼ同じ赴任地数を与える事で簡単に解決する事が可能である。
    故に、「24地域の赴任地」に上乗せて、「子孫力」をより拡大させ得る「現地末孫の定住策」をこの「青木氏」に義務付けたのである。

    この時、「大蔵氏」は、「九州全域」を基盤として「中国域以西」と「奥域の一部」の「32国の勢力」にほぼ匹敵する事に成っていた。
    其の「大蔵氏の聖域」に”「楔」”を打ち込む様に、「長崎域」と「陸奥域」(青森)を秀郷一門に任す事で、「円融天皇の目論見策」は成功する筈である。
    そこで、「楔」に依ってこの「大蔵氏」に騒がれては元も子もない。
    そこで、「大蔵氏」が騒がない様に、「秀郷一門の讃岐藤氏」が支配していた「瀬戸内域」を与える事で、収まりが着く。(純友の乱)
    そして、その上で強化させる「秀郷一門」には、関東以北を聖域とさせ、そこをこの「献策」の「秀郷流青木氏」に護らせる事で、これまた「円融天皇の目論見策」、所謂、「青木氏の献策」は成立する。

    (案の定、この直ぐ後に「大蔵氏」は、九州全土を支配下にして「独立」を目論んだ動きを示した。)

    現実に、「内蔵氏系」の「北陸域の内蔵氏・阿倍一族」と「安倍氏の支配地域」の「広域陸奥」は、「征夷大将軍」として秀郷一門にその役柄を与えて「秀郷流青木氏」に護らせた。
    一時、「安倍氏と阿倍氏の抵抗」はあったものの結果として問題は排除したのである。
    そして、この代わりに、「独立騒ぎ」も含めて、収まりを漬ける為に「一族の大蔵氏」には、九州域の「鎮西大将軍」の称号(形式的な「自治権」 「遠の朝廷」と「錦の御旗」の権威授与)を与えて収めたのである。
    (兄の「坂上氏」は平安初期には「征夷大将軍」であった。)

    この結果として、これらの「一連の差配」は、この「献策の結果」を証明している。

    然し、「大蔵氏系側」は32域国から28域と瀬戸内域(あらぬ嫌疑を掛けられた「純友の乱」の発端)を与える事で収めたのである。

    「将門の乱」「純友の乱」の結果からの”前後の通常はあり得ない急激な差配”を検証すると、この”「青木氏の献策」”が裏で働いていた事が充分に考えられる。

    (「瀬戸内」を制する者は国を制すると云われた経済地域、一方、同じ経済地域の佐渡金山を秀郷一門が支配させた。)

    更には、その「赴任地の国」には、必ず、「秀郷宗家一門」と「護衛団青木氏」には「現地末孫」を置く事を義務付ける事をしなかった。
    この他氏に認めていない事を朝廷は認める事は無かった筈であると観られる。

    その証拠には、「他氏の赴任先」には、朝廷から認められた「正式な現地末孫」は見られない。
    全て、「42地域」に赴任したの他氏の場合は、家紋分析から観ても”「遺したとされる族」”は殆ど例外ない。
    有るとすると全て例外なく、所謂、”「未勘氏族」”である。

    依って、「秀郷一門」の「特別賜姓族の青木氏」のこの”「正式な現地末孫」”は、一体、何を意味するかである。

    それは、先ずは”「領国化した事」”を意味していて、ただ「単なる土豪」では無かった事を意味する。
    つまり、「特別賜姓族青木氏」としては、「土地の利権」を持つ「郷氏」と成り得た事を意味する。
    普通の赴任は、「土地の利権」では無く、「土地の管理権]である。
    赴任が終わればこの管理権は無く成る。

    平安期から「土地の利権を持つ氏族」の”「郷氏」”は、この「二つの青木氏」を除いて「佐々木氏」や「藤原氏」以外には遺っていない。
    「橘氏族系氏族」にしても、「平氏族系氏族」にしても、この”遺されたとする氏族”は、「支流傍系族」であって、武力に依って勝ち得た土地であって、「平安期の正規の利権」を持ち得ていたものでは無い。

    後に、”「郷氏」”と呼ばれた多くの所謂、「室町期の姓族」には元よりこの歴史性は無い。
    つまり、何れの政権下にしても「本領安堵される立場」には無かった。
    更には、「円融期の青木氏」である「秀郷流青木氏」は、秀郷一門より「青木氏」として独立した「臣下族」であり、「特別賜姓族」であるとして、朝廷からその様に扱われていた。
    然しながら、室町期まで秀郷一門の”「第二の宗家」”とも呼ばれていた。

    ([藤原秀郷流青木氏」には、この[郷氏」が多いのはこの事から来ている。)

    この事は、当に、”「何らかの力」”が”「側面から働いていた事」”を示すものと考えられる。
    この「何らかの力」が、”「皇族賜姓族青木氏」では無かったか”と観ているのである。


    その証拠として、ここで上記した様に、この”「青木氏融合族の発祥」”が挙げられるのである。

    「五家五流皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族116氏の定住地」の関係した地域には、この「融合青木氏」が存在するのである。
    この「二つの血縁青木氏」から発祥した「同族系」で有って、且つ、この「融合青木氏」が発祥している事は、上記の説を証明している。

    何故ならば、当時の血縁は、「単なる結婚」では無く、「吊り合い」の取れた「氏家制度」の上での「氏族の存続の象徴の慣習」であったからである。
    ”「同族系」”と云う範囲に留まらず、「氏族」が一つに成る事の ”「究極の象徴的な出来事」” であったのである。

    取り分け、その”「融合青木氏」”がはっきりと遺っているのは、伊勢の”「四日市の青木氏」”である。

    そもそも、伊勢は、「五家五流賜姓族の伊勢青木氏」と、「秀郷」の「曾祖父の藤成」の赴任地でもあり、、後には、「秀郷一門宗家」の[基景の赴任地」であって、「伊勢の藤原氏」、つまり、「伊藤氏の発祥地」でもある。
    室町期には、近江系の秀郷一門の「蒲生氏」(玄蕃允梵純)が「現地末孫」として定住していた母方の「秀郷流青木氏」の「伊勢青木氏跡目」を引き継いだ。

    その「特別賜姓族」の「秀郷流伊勢青木氏」と「皇族賜姓族伊勢青木氏」とが血縁して発祥した「四日市融合青木氏」が現存している地域でもある。
    この「伊勢四日市青木氏」には、後に「大きな歴史的役割」を「徳川氏」と結ぶが、「二つの血縁青木氏」に執っては、「融合族の発祥」は、”「究極の象徴的な青木氏」”であるのである。

    この「大きな歴史的な役割」とは、「家康の徳川氏」が、この「融合青木氏」との血縁族(「立葵紋の青木氏」 「伝統シリーズ」等の研究室論文を参照)を発祥させたのは、この「象徴的青木氏」であった事に依るだろう。
    そうする事で、(1)と(2)の全ての「血縁族」を血縁を結ぶ事無く、「伊勢の融合族青木氏」と血縁する事で、「青木氏の格式と権威」を獲得できる事に成るからである。

    この事は、「融合族」の持つ意味は、単なる融合では無かった事を証明している。

    これに依って、「五家五流青木氏」の能力は、「特別賜姓族」の強力な勢力も合わせて倍加して、「賜姓五役の役」は進んだのである。
    この力を活かして、1025年には「総合商社」化して、「伊勢の秀郷流青木氏の特別賜姓族」と共に「宋貿易」にまで広げた事が書かれている。
    「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の建設が、「二つの青木氏」に依って進められ、500社に上る「神明社」を建立した。

    この事で、下記にも論じる「伊勢シンジケート」も確立して、「影の力の抑止力」は絶大のものと成った。
    この事に依って、「神明社と青木氏」が、「御師様、氏上様」と民から慕われ信心されて、「朝廷の権威」も高まり、「三人の天皇の意」は果たされた。
    「伊勢神宮」の「子神の神明社」、つまり、「神宮支社」が各地に建立されたのである。

    (注釈 「青木氏の氏是」により、「武力」に偏ることなく、民に接した事が、慕われて「生き残り」に繋がったのである。)

    室町期には、「戦乱」が続く中でも、「室町文化の紙文化」が起こり、「紙問屋と殖産」と共に「250万石以上の巨万の富」を築いたと記録されている。
    ここに「貿易分」が加えられれば、500万石以上はあったと観られる。
    この力は民と共に「殖産」をしていた事から「土地に資力」を全て注いだと観られる。

    注釈 伊勢の資力域 

    松坂域、
    津域
    玉城域 四日市域、
    名張清蓮寺城域、
    脇田域 上田域、
    員弁域、
    桑名域、
    南紀州域、
    南伊勢域、
    伊賀一部域、
    摂津域
    堺域、
    難波生駒域、
    伊豆域

    以上の地域が、「殖産」を基にした超大地主であった事が商業記録に記されている。

    江戸初期に「徳川氏」に譲渡した「全国500社の神明社」も入れるとした場合の「室町期の財力」は想像は就かないレベルであった。
    遂に、室町期末期では、「嵯峨天皇の目論見策」は、成功し安定化したのである。
    下記にも続けて論じるが、「徳川氏との関係」からこれより以上のものと成った。

    明治初期まで、この「血縁の仕来り」は、筆者祖母が「京公家の支流叶氏」である事から、続いたことが記録に書かれている事から判る。

    この「四家の状態」は、江戸期からでも285年間続いたことに成る。
    これが、況や、「四家の発祥源」である。

    この様に、「円融天皇の目論見策」から、「嶋崎殿の青木氏の経緯」も含めて、江戸期まで遺った「融合族の経緯」まで、途切れることなく、縁は繋がっているのである。

    これは「青木氏」で無ければ、「先祖の生き様」を強く感じ取る事が出来ない経緯である。
    そして、所謂、これも極めて重要な”「伝統」”なのである。


    さて、ここで注釈として下記の事に付いて追記して置く。

    「貞盛と秀郷の経歴」には、そもそも信頼に値するかは別として、他説が実に多い。

    先ず、「貞盛]から論じると、父は「国香」 母は「藤原村雄の娘」とある。
    この「村雄」は「秀郷の父」であるが、そうすると「娘」は「秀郷の姉妹」と成る。
    「村雄」の年齢は不詳であるが、記録から915年の「受領闘争の事件」を起こしている。
    そうすると、当時の生活の慣習から、差配に立ち入れるのは15歳以上と成るので、「村雄」の生誕は最低でも895年と成る。
    そこで、この娘を産むには、920年頃 娘を嫁すには935年頃と成る。

    「貞盛」の父「国香」が「将門の事件」で没したのは935年である。
    この時、既に「貞盛」は京で「左馬允の役職]に就いていた。
    役職は15歳以上に成らないと任官できない。
    この説で云えば、この「役職」どころか「貞盛」を産む事さえも論理的に無理である事に成る。
    最低でも、「約20年程度以上の矛盾差」がある。

    この論調では、「秀郷」は「貞盛」の母方の叔父に成る。
    「将門の乱(独立国宣言の事件)」の終焉は940年である。
    とすると、「秀郷」は、この時、「貞盛」の母方の叔父に年数的には成り得ない。
    然し、現実には「秀郷と貞盛」が上記の経緯でこの乱を鎮めた。
    つまり、そもそも「村雄説」には無理がある事に成る。
    最低でも、この「娘嫁説」か「時期説」に問題を持っている事に成る。
    この時期、925年頃から「秀郷」は、数々の記録から、この乱の直前まで「盗賊」と書かれ記録される位の「秀郷乱行期」に入っている。
    「秀郷」は、960年代頃にやっと落ち着いている事が記録から読み取れる。
    故に、「秀郷落着期」に入った事で、「円融天皇の目論見策」が滞りなく演じられたのであろう。
    この事からも「村雄説」は「搾取説」か「後付説」に成る。

    この「円融天皇の目論見策」により、整える為にも、「秀郷の実家」は”「下野受領家扱い」”であった事から、慌てて、後に「年代合わせの後付説」を採ったのであろう事は間違いは無い。
    「年数的」にも無理である事のみならず、「慣習的」にも「当時の仕来り」を完全無視した形であり、且つ、この様な「時期的」にもあり得ない「血縁行為」である。
    「後付説」である事は否めない。
    (主に「後付説」は「江戸初期頃」の「後付」が多いのである。)

    そもそも、「歴史記録の検証」では、「高位の氏族」では、「家柄」をよく見せる為に、当時は半ば周囲がそうであった様に、”正当化して行われた慣習事”で、歴史的にはよく見られた行為である。
    取り分け、氏家制度の中の「常識的な慣習」では、むしろ、”「悪弊」”とは必ずしも考えられてはいなかった傾向があり、その様な記録が実に多いのである。殆どと云って良い程でもある。
    故に、「周囲の出来事」との間に、この様に「年数の矛盾」等が生まれるのである。
    当時は、年数の多少の矛盾が在っても「是」とした事が、一種の常識とも成り得ていた。
    左程の厳格性が無かったのである。

    恐らくは、乱後に、次々と打ち出される「円融天皇の目論見策」の影響を受け、「嶋崎殿の青木氏」の様な血縁策に習って、後刻の落ち着いた時期に両氏は「血筋を纏める策」に出た事が考えられる。
    そこに、思いも寄らず「伝統ある青木氏」が発祥すると云う事が起こった事から、「藤原氏一門」と「たいら族」の「二つの勢力」の間でも、これを何とか整える為にも、「何らかの形で血縁を結んだ事」が云える。

    仮にあったとして、「円融天皇期」には、「目論見策の実行中」である事から、この期間は「天皇に対して不敬不遜の不作法な行為」と成り、あり得ない行為である。
    依って、984年以後の事に成る。そうすると、両者の関係からあり得る合致点は、「貞盛と嫡子四男維衡の前半期」(998年前頃)までの事に成る。
    ただ、これ以後の「貞盛−維衡」とその族は、「同族争い」と「配流」を何度も繰り返し血縁は不可能である。

    (注釈 以後の末裔にも年数的、経歴的にも無い。この14年の間の前半行為であり、上記の矛盾を打消し、且つ、「受領家側の経緯の関係」と考え合わせると、その前半期984年から988年に絞られて来る。)


    「たいら族」と「ひら族」の「混同説の策」も含めて、「歴史的な矛盾」が多い説(後付説:1180年代頃)が生まれる事と同様である。
    この事の結果を「後付説(氏姓の隆盛期に家系を作り上げる作業を行う)」で補おうとしたのである。

    (注釈 当時は、この様な「後付説」は、通常化していて、特に江戸期には武家の命に値する”「黒印状」”を獲得する為に公然と行われ、幕府もこれを黙認した。
    この事を放念してこれらの資料を「是」とした説が多い為に起こる「矛盾」なのである。
    返して云えば、この「後付説」を「是]として「青木氏]を論ずると,「青木氏」は存在し得ない事に成り得る。)

    故に、この説の様に「年数の矛盾」等の多説が生まれる所以なのである。
    本論の様に、事実に即して「青木氏」では、これを無くすべく日々研鑚し「歴史観」を高めて検証している。

    > :「青木氏の伝統ー16」の「四家の背景と経緯」に続く 


      [No.331] Re:「青木氏の伝統 14」− 「青木氏の四家」
         投稿者:福管理人   投稿日:2015/05/16(Sat) 10:29:15  

    :「青木氏の伝統 14」− 「青木氏の四家」




    前回の末尾
    >つまり、この「仕来り」より外れた場合は、”「曾孫」”からは、”「子供の定義」の「仕来り」”を外れるので、男女に関係なく”「養子・養女」としての扱いに成る。
    >特に、女子の「養女」とする場合は、取り分け、”直系から外れた支流族や縁者族や遠縁族からの迎え入れ”には、明らかに「子供の定義」から外れる事に成るので、”「養女」”と成る。
    >この「養女方法」が青木氏では積極的に行われたのである。
    >この場合、”迎え入れた「養女」”から成った「嫁」は、”[嫁」”としてでは無く、「実娘」に相当する「娘」として組み入れられる。

    >この”「養女」の「嫁」”は、元は「養女」で迎え入れての事なので、上記した「慣習仕来り掟」から、長い間には、「養親と養女」の両者共には、心情的にも繋がり、”「実子の子供」の扱い”に成る。
    >そこで、この”「娘の定義」”から考えて、上記の「青木氏の子供定義」が成り立つのである。

    >しかし、「養子」に付いては、積極的では無かった様で、これにはある「青木氏としての特別な事情」があった。
    >それは、「青木氏」には、「悠久の歴史」を持つ、(ア)「賜姓族の権威」と、(イ)「二足の草鞋策」としての「商い」の「経済的な魅力」とが在った。



    「四家の発祥源」
    ここで、上記のアとイの事を理解するには、この“「四家」”とは、一体どの様な下で生まれたのかを説明して置く必要がある。
    そもそも、奈良期の「天智天皇」の皇子で、「第四世族内の第六位皇子」が「天皇の命」に従い「皇族」から外れて「臣下族」(侍)に成り、「賜姓」を受けて「氏と家」を創設して独立し、「賜姓五役」を担う一つの「一族の在り方」を歴史上で「最初に構築した形」を云う。


    ・「賜姓の背景」
    この「賜姓」が実行されるには、次ぎの様な背景が在った。
    「大化改新」を実行した際に、概ね次ぎの様な事の問題を抱えていた事から「四家青木氏」は興ったのである。
    (958年頃、特別に賜姓を受けた「秀郷流青木氏」が加わる。)
    奈良期には「天皇家の財政」が、「皇位継承」に必要とする人数に対して、余りにも「皇子数」が多すぎて、「皇子家を維持する負担」で、内蔵を大きく圧迫していた事。この事に依って天皇家を弱体化させていた事があった。
    更には、「皇位継承者」に成り得る資格が、それまでは「第六世族」までの出自と母方の身分に依る「皇位順」に沿っていたが、この事に依って「皇位継承争い」などの問題が多発する等の事があり、それが更に拍車を掛けて「天皇家の弱体化」を招き、それを防止し明確にする為の「身分制度」が決まっていなかった事。
    「天皇家の防備」と「朝廷の軍の有り様」に問題があって、「武力」を持つ者等に依ってその「天皇の地位」が度々脅かされる事が起こった。
    「自らの族」が「自らを守る」事の「本来の目的」が出来ていなかった事に反省して、身内に依る独自の「近衛軍の創設」と「朝廷軍の創設」を実行する必要性が増していた事。
    「施政実行」に際して、それを主務として担当する「皇族の者」が無く、官僚に大きく委ね切っていた為に、「皇親政治の基盤」が作り上げられなかった。
    「官僚基盤の勢力」が強過ぎて朝廷内にこれらの「勢力争い」が起こり、「施政」を敷くには大きな欠陥と成っていた事。
    「国策」を定めてもそれを強力に推進実行する役目を豪族方等に任され、時には阻止されて、「国策効果」が低迷し低下していた。
    依って、民に不満が噴出していた。
    況や、「国策の主導者」、所謂、「天皇の意」を介する「国策氏」とその「執政者」が専門に無かった事から、「改新」が進み難かった事。
    「朝廷と天皇家」の「財政の根幹」を成す「天領地の開発と経営」と、更には、その「安全保護」に問題があって、そこを豪族に付け入られて弱体化していた事。
    それまでは、「第六世族」まで全てを「皇子身分」にし「皇子家」とする仕組みであって、「皇子家」には「特段の役目」が無かった。
    その為に「皇子能力」に問題が起こり、「退廃的な環境」が皇族内に蔓延し起こり、そこを豪族に付け入られて「勢力争い」の基にも成っていた事。
    等々があった。

    (詳細は「大化改新」の論文参照)

    上記のこれらの「欠点」を「大火改新」に依って換えて、夫々の「皇子に役目」を与え、それに見合った「身分」と「家柄」と「官位」と「官職」の対策を講じたのである。
    そこで、改新に関わる中で、「四家」に関わる事として、先ず、上記の問題を「総合的に解決し得る対策手段」としての「最も意味の持つ対策」が打ち出された。
    それが「皇族」の中で「第四世族内 朝臣族 第六位皇子」に当たる者が、この「役目の主務」に任ずると定めた事であった。
    これが“「四家の賜姓族」”である。
    この「賜姓族」が、「上記の事柄」を「主務」として、「身分と権威」(「三つの発祥源」 「国策氏」)を与えられて、その職務を“「賜姓五役」”と定めて、これに当たる事に成ったのである。

    ・「三つの発祥源と五つの役務」
    そこで、「大化期の皇子順位」の「第六位皇子」には問題があって、「第七位皇子」であったが「第六位皇子」に位置していた「施基皇子」が、先ず、これに当たる事に成った。
    そして、「皇族」から「朝臣族」にして、「臣下 (侍 1)」させてこれに当たらせた。

    そして、その者に「天智天皇」は、「賜姓を授ける仕組み」を作り「青木氏」と賜姓した。
    更に「主要な守護地の五国」を定め、その「皇位継承から外れた真人族と朝臣族の皇子」を配置し、夫々に「青木氏」を賜姓して「皇族系賜姓族」の「五家五流の青木氏」を発祥させる事に成った。
    この「賜姓族」には、[公家]に習って「武家 (氏家 2)」を始めて創設させた。

    「累代の天皇」が「この仕来り」に則り、「青木氏」を賜姓する事を定めて「主要守護地の五国(4)」に配置して護らせる事と成った。

    更に、「改新」が進むに連れて起こる「反対勢力からの攻撃」に対処する為に、安全を期して「皇宮の三門守備と天皇警備(5)」を申し渡した。

    これが後の平安期には「北面武士」と呼ばれたものである。
    しかし、この時から、「賜姓族青木氏の四家の苦境」は始まったのである。

    ・「青木氏の象徴と権威」(1−5)(イ−ホ)(a−q)
    更に、「改新の態勢」が整えられた上で、「天皇の政治補佐」を任じて、「近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐」の夫々の「主要守護国」には、信頼する「国司」や「守護代」を送り、これらの「賜姓族」を傍に置いて、天皇自らは「天皇補佐役の政治体制」の所謂、「皇親政治」を実行した。
    この時、この「政治補佐」として、その主務を「賜姓五役(国策氏 3)」と定めたのである。

    その「賜姓族」には、国策実行の為には“「権威」“が必要であり、「権威の象徴」として「三つの発祥源」(1と2と3)その「役務(4と5)」の位置にある事を宣下した。

    その「宣下の証」として、次ぎのものを下げ渡し「権威の象徴」とした。

    その「象徴物」として、次ぎのものを定めた。
    「象徴の密教権威」として、「大日如来坐像(イ)」
    「象徴の神木」として、「あおきの樹(ロ)」
    「象徴の文様」として、「笹竜胆文様(ハ)」
    「象徴の三宝神」として、「毘沙門天像(ニ)」
    「象徴の守護神」として、「祖先神(ホ)」

    以上を賜姓に伴って授けた。

    これが「青木氏」では、“「賜姓五物」”と呼ばれるものである。

    そして、その「五主要守護国」には、「皇祖神の子神」を「祖先神 (a)」と定め、その「祖先神の神明社(b)」を創建し、「賜姓族青木氏の守護神(c)」にする事を定めた。
    これらを全国の大和朝廷が統治する地域に「創建して行く事(d)」を命じた。

    (注釈 この奈良期から平安期に掛けては、この様な「国家的な創建事業」は、朝廷自らが行うと云うよりは、「豪族が担う事」に成っていて、それを受ける事がその「氏の名誉」と成すもので、それを実行したときは、それの「勲功」に見合って「官位・官職・領地」が授けられると云う名誉が在った。
    その為に「寺や神社の創建修理」や「河川工事の改修」を命じられて行った。)

    「賜姓青木氏」は「神明社の創建」を、「賜姓源氏や賜姓平家や藤原氏」が「寺社の修理」や「河川工事の改修」を命じられ請け負っている記録等がある。
    特に、「賜姓源氏の宗家頼光系四家」は度重なる工事で悲鳴を上げていて、「播磨の寺の修理」を命じられたが財政難で暫く放置していたが督促されて渋々修理をした事が書かれている。
    この様に、朝廷に執っては「主要豪族」に対しては「荘園制から得る利益」を吐かせて「ぎりぎりの状態」を保たせる狙いがあった。
    その意味で、「五家五流賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」は「二足の草鞋策」を執り、これを「賜姓五役の一つの務め」として処理していたのである。

    「賜姓平家」は、「宋貿易」と「荘園制」と「武力による領土の獲得」から上がる利益を確保して対応したが、「商い」をせず「賜姓源氏」の殆どは「荘園制」に頼る以外にこの対応力が無かった。
    それ故に、「武力」で「弱小豪族」を潰して「領地」を確保して荘園に注ぎ込み「財力」を高めるしかなかったのである。

    「伊勢」には、「天智天皇」は、その「皇祖神の伊勢大社」を遷宮して安置したが、そこを護る「主役(e)」を「伊勢王」の「施基皇子の青木氏」に任じた。
    代々発生する「皇位継承外」と成った「第四世族内の真人族と朝臣族の皇子」は、この「主要五守護国」の「青木氏の跡目(f)」を継承する事を定めた.
    且つ、その中でも「第六位皇子」は、優先的に「青木氏」の「主家の跡目(g)」を継承する事を定めた。
    尚、代々「皇位継承外」と成って発生する「第六世族以上」は、全て「坂東の地」に配置して開拓させて臣下することを定めた。

    (但し、付帯して、「第五世族」は、“何れの位置にも属する”として、「皇子数の数」により処置を換えるとした。)

    但し、この時、「天智天皇」は、「第四世族内の第八位皇子(実質 「第七位皇子」)」であった「執政補佐役」の「川島皇子」には、「近江佐々木」の地名を採り、「佐々木氏」を特別に賜姓して「朝臣族」で臣下させた。
    そして、「施基皇子の補佐(h)」を務めさせた上で、「青木氏」と同じく代々皇族外(第五世族)と成った皇子が「跡目(i)に入る事」を定めた。
    その「身分と家柄」は「青木氏と同位(j)」として配置した。
    又、「王位」はそれまでの「第六位皇子族」までとしていた「仕組み」から、大化期からは「第四世族(k)」までとして、それ以降の皇子は除籍して「王位」を外し、各地に臣下させて配置した。
    しかし、この全ての「臣下族」は「三つ発祥源(123)の青木氏」の「配下(l)」に従うと定めた。
    この時、「遷宮地伊勢」と「伊勢青木氏」には、「不入不倫の権(m)」の「絶対権」を永代に与え保護した。
    そして、他の「四主要守護国の青木氏」にもこれに准ずる扱いとすると定められた。
    そこで、「施基皇子」は「伊勢王(n)」として、国司「三宅連岩床」を伊勢に配置した。
    晩年には「伊勢」に戻り、「七人の子供」を設けた。

    即ち、次ぎの通りである。

    「湯原王」、「榎井王」、「春日王」、[白壁王]、「海上女王」、「坂合部女王」、「難波女王」

    以上の「四王子、三王女」を設けた。

    彼らは「有名な万葉歌人」として才能を発揮した。

    この「王女」には「伊勢神宮の斎王(o)」として、期間を定めて永代にその任に準じる事を定めた。
    本来、「朝臣族で第四世族内の第六位皇子」ではあるが、「臣下族」である事から、「王位継承の権利」は「伊勢青木氏」には本来は無い。
    しかし、「施基皇子」は「天地、天武、持統の三天皇」に「執政(浄大一位)」として務めた事から、その「家柄」から特別視されていて、その末裔には「王位(p)」を特別に名乗る事が許されていた。

    (注釈 「青木氏の口伝」に依ると、「四家発祥期」には王位を叙位任官しなかったと成っている。
    しかし、「白壁王」が即位してから孫まで叙位されたが、男子二人[湯原、榎井]は「政争」に巻き込まれ「四家」が潰れる事を恐れて「叙位」を拒んだ。
    しかし、「形上の記録」では叙位した事に成っている。
    他男子二人[春日、白壁]は、その血流から叙位を拒む事が出来なかった。)

    奈良期末期の時、「女系天皇」が続き、「皇位継承族」の中に女系も含め「男系の継承者」が全く無く成って仕舞った。(「孝謙天皇期」)
    そこで、「天皇家」に無ければ、“次ぎに準ずる継承者(q)”と定められていた事に従い、「川島皇子」([浄大三位])の「近江佐々木氏」を含む「五家五流青木氏」に焦点が当てられた。
    その中でも、「三代の天皇」に仕え最も近親者であった「第四世族内第六位皇子」であった「施基皇子」([浄大一位] :天皇に継ぐ最高身分 「草壁皇太子」より二階級上)の「臣下族末裔」の「青木氏族の王」に「白羽の矢」が立った。

    そこで、「第六子の白壁王」が、その血流から「天皇位」に即位して「光仁天皇」とは成ったが、この直前には、「四人の王」(四家)は、次ぎの様な態度を採った。
    奈良末期は、「天皇家の皇位継承」で大荒れに荒れていて、「施基皇子」の「伊勢青木氏」は「臣下族」でありながらも「王位」も名乗る事が特別に出来きて、「皇位に準ずる位置」の「微妙な「特別の位」にあった。

    (「特別位」とは、上記する(a)から(q)の位の事)

    この事から、「皇位継承問題」に巻き込まれる事を恐れて、「青木氏の七人の王」は、「歌人」として振る舞い「愚人」を装ったと「青木氏口伝」ではされている。

    (資料から観て明らかに装っている。)

    この時の事が、「青木氏の四家の氏是」の基と成ったとする説も言い伝えられている。

    「青木氏の氏是」の一節 
    「世に晒す事無かれ、何れ一利無し。然れども、世に憚る事無かれ 何れ一利無し。」

    この時の時代状況が良く物語っている。
    自らが表に出る事に成って「天皇」に成っても何も氏にとっては好い事など無く、「賜姓族」であっても、むしろ「臣下族」だとして苦々しい事ばかり、かと云って、卑屈に成っても好い事などは無い。
    最早、政争の明け暮れの始末である。
    故に、決して、自ら進んで「猪突」に「利」を求めて「氏」を世に晒してはならない。
    しかし、かと云って、縮み込んで「卑屈」に成っても良い事も無いから、毅然として、「誇り」を以って「賜姓族」(賜姓五役)と「臣下族」(三つの発祥源)の「立場」を「知略」で以って護り通さなくてはならない。
    其れが「氏」に執って最も好い「利」に繋がる。

    “「特別の位(a)−(q)」にある事の難しさ“を、以上として諭しているのである。

    ・「氏是の背景」
    ところが、これを「四家の青木氏の氏是」として遺した人物は、“誰なのか”と云う事に成る。
    それは次ぎの三人の誰かである。

    その三人は、「施基皇子」か、「湯原王」か、「白壁王」かであるが、いまだ研究中であるが判らない。
    「施基皇子」が「三人の天皇」に仕え「有能な執政」として「政争」の中で生きた。
    その人物がその経験の中から「氏のあるべき姿」を書き記したとも考えられる。
    又は、長兄であった有能な「湯原王」が、「王位継承問題」で揺れる中で、「四家青木氏」を護る中で、“「天皇家」と云うものに関わる事への懸念“が、「臣下族」であるとしても、この時に受けた「青木氏の氏存続」の「危険性の問題」に子孫に「戒め」として遺そうとしたとも取れる。

    「賜姓族」であると云う事には変わらないのであるから、何時か、利用され引き出されて渦中の中に引き込まれる危険性があるのだから、“常に戒めよ“と諭したと観られる。

    更には、結局は、「白壁王」が天皇に引き出され、「醜い政争」に明け暮れする経験の中で、殆どの子供を「政争の犠牲」にしてしまった。
    その反省から「実家の青木氏」の者に「云い添えたもの」とも考えられる。

    (注釈 「白壁王」の「9人の子供」は、父が天皇に即位した時に、「政争」に巻き込まれる事を恐れて「皇子」と成る「立太子」の儀式を拒んだが、無理であった。)

    しかし、結局は、“「事の次第の流れ」“に巻き込まれ、「臣下族の青木氏」の「施基皇子の七人の子」が、「政情の場」に止む無く引き出され、“天皇家を男系に戻す事の目的”から、「男子末子」の「第六子の白壁王」が引き出されて天皇に成った。
    成る時にも大変な醜い周囲の「政争の経緯」が在った。
    この時までは、「皇位継承外と成った皇子族」は、本来は「門跡」に入る仕組みであったが、「伊勢の青木氏」は、「三つの発祥源」と「賜姓五役」の「臣下族」と「国策氏」であった事から、この「仕来り」を採らず、次ぎの「仕来り」を敷いた。

    それが、上記する「特別の位(a)−(q)」持つ「生きる難しさ」から敷いた制度、況や、ここで論じる“「四家制度」”なのである。

    「四家の創設者」
    「施基皇子」の「四人の男子」は、750年頃以降 次ぎの「四家」を敷いた。

    長男の松坂の「湯原王の家」 (松阪殿)− 3人の子
    次男の名張の「榎井王の家」、(名張殿)− 2人の子
    三男の員弁の「春日王の家」、(員弁殿)− 3人の子
    四男の桑名の「白壁王の家」、(桑名殿)− 9人の子

    以上の「四家」を創設して安定した「子孫拡大(約60年間)」を図っていた。

    しかし、ここで予想外の事が青木氏に降りかかって来たのである。

    ・「白壁王即位の影響(空家)」
    「施基皇子(716年没)」が没して、ほぼ10年後に「嗣子の四人の子供たち」が育ち、「青木氏の四家」(726年頃−734年頃)を夫々が興したとある。
    この間 25年間程度は「四家」を継承していたが、突然、「桑名殿」の「白壁王」が54歳で即位した770年以降は「桑名殿」は「空家」と成って仕舞ったのである。
    この事に付いて、青木氏では、次ぎの二つの説がある。
    暫く「桑名殿」を除く「三家」が続いたとする説、所謂、“「空家説」”である。
    「桑名殿」の「白壁王」が即位して、その「9人の王」が「天皇家の「継承外親王」と成った。

    「白壁王」の子の「山部王」「早良王」と「稗田王」(31歳没)が、譲位後の781年に「桑名殿の再跡目」に戻ったとする説、所謂、「再興説」がある。

    (注釈 「山部王」(母 高野新笠)は、781年に「桓武天皇」に成る。「早良王」(750年生 母 高野新笠)は、その後に早死の「政争没785年」と成る。)

    平安中期には、“「四家」”は「四日市殿」を加えて「四家」が構成されていた事は確実なので、「空家説」が正しいとする考え方もある。
    しかし、「継承外親王」に成った「白壁王」の「三人の王」(山部王 早良王 稗田王)は、「光仁天皇崩御後」は、「仕来り」に依って、「第五世族王」外は臣下する事には成るので、再び「青木氏」に戻れる事に成る事から、「再興説」も納得出来る。

    (注釈 「継承外内親王」(能登王女752年生 母 高野新笠)も、崩御後に「四家」から「近江佐々木氏」の「市原王」に嫁している事から考察すると、「三人の親王」は明らかに戻っている事に成る。)

    つまり、従って、後に四家の「四日市殿」と呼ばれていた。この事からすると五家に成る。これをどの様に考えるかに関わっている。
    筆者は「再興説」を採っていて、その根拠は、“平安末期の先祖が「四家」の”「主役」“と、”「副役」“の違いに間違いを起こしていた”とも考える事が出来る。
    つまり、「主役の位置」(四家)では、「四家」が継承されていて、下部の「副役の位置」(16家)で「松阪殿」の別れが「四日市殿」を創設した。その「四日市殿」が「秀郷流青木氏との融合族」であり、その「繋がり」もあり、「政治的に大きな働き」をした事に依り、“「四家並」”に扱われていた事に依るのではと考えている。

    (注釈 奈良期781年までの12年間と、平安初期(806年)までの24年間の計37年間後には“「空家」”は収まっていたが、そこを間違って、“平安中期まで空家の侭”(200年間)であったとして、「鎌倉期初期の伊勢青木氏」の「四家の先祖(A)」が観ていた。
    その理由は、ここに「四日市殿」が、“「有能で青木氏に大きく貢献していた」“処を観て、間違えて「主役の四家」として“「四日市殿」”を当て嵌めて“「四家」“として「由来書添書」に書き添えて仕舞ったと云う事に成る。
    その「副役の四家」である事の間違いに気付いた「四代後の先祖(B」」が、鎌倉期の末期に”「由来書添書」を訂正したと云う事“ではないかと観られる。
    つまり、「主役と副役の取り違え」が起こった事に成る。)

    筆者は、先祖(A)の「取り違え」では無く、その「四家に対する勲功の大きさ」を伝えたかった事の表現方法に問題があって、其れに気づいた先祖(B)が「添書」を訂正したと云う事であった事と考えている。 
    ただ、「桑名殿」は、確かに「皇族の仕来り」に縛られて、「光仁天皇崩御」の781年までの約12年間は「仕来り」により確かに「空家」であった事があり、崩御後は、「継承外親王」は「臣下する仕組み」であり、「青木氏」に入る「仕来り」である事から、間違いなく放って置いても「青木氏」に戻る事が出来る。
    これが「12年間の空家説」と成ったと観ている。

    現実には、「山部王」は、「桓武天皇(在位781年−806年)」に成っているので、「山部王」を除き、二人は、一度、「仕来り」に従い「桑名殿の青木氏」に戻ったものの、直後に「政争の犠牲」に成って没している。
    しかし、「青木氏の口伝」では、「稗田王」(751年−782年)は「政争」から何とか生き残って、2年間、「早良王」は「政争没」に成る間の5年間は、一時的に「青木氏四家」を継承したと伝えられている。

    「外部記録」では、更に、その後の2年後に「原因不詳」で没している「稗田王」は、2年後に「政争没」、「早良王」は、5年後に罪を着せられて「徳島の配流先」で「政争没」と成り、結局は、“「桑名殿」の「空家」(37年間)“は明らかに考えられる。
    ただ、ここで、「青木氏口伝」からとの差が起こっている。筆者は次ぎの様に観ている。

    「四家」の中で、「四家の仕来り」に従い「空家」を補ったと考えられる。他の「三家からの配置」か、或は、「四家四流青木氏からの配置」かの「何がしかの動き」が先ずはあったと考えられる。
    しかし、何れの「青木氏からの配置」も、激しい「政争」に巻き込まれている最中であり、公的にするには難しかった筈である。
    依って、「賜姓時の仕来り」に従い、2年後の「政争没の稗田王没」後の「空家」、又は、5年後の「早良王」の「空家」も、直ちには、「四家の仕来り」により伊勢外の“「四家四流青木氏から配置」が在ったのではないか“と普通は考えられる。
    しかし、筆者は無かったと観ている。
    ”無かった“と云うよりは、”結局は取りやめた“とした方が適切な処置ではなかったかと考えている。

    その根拠は、次ぎの様に成る
    「青木氏」をルーツの実家とする「山部王」が、「桓武天皇」に成って、「五家五流全体」の「皇親族の青木氏」に圧力を掛けた事−(1)

    「桑名殿の空家」を補う権利は、「四家の福家」にあるとしても、「政争没」で潰されんばかりの激しい軋轢」を掛けられている。
    当に「火の油」と成る事−(2)

    その[張本人]の「山部王の本人の意向」を聞く事は、「潰されようとしている四家の立場」としては先ずは不可能である事−(3)

    「山部王の本人」は、“「天皇としての権威の低下」“が起こる事の懸念から軋轢を掛けている実家先を興す事の意志は無い事(−4)


    以上「4つの事情」から鑑みて、「伊勢青木氏側」は、敢えて「四家の仕来り」を選ばずに、「稗田王の政争没(2年後)」の状況の展開を観て、暫くして「青木氏」を護る為に“「空家策」”を故意的に選んだ事に成ったと考えられる。
    それでも、未だ、「早良王」が罪を着せられて「政争没(3年後 3年後に徳島配流処置後 正味5年後)」にされている。

    “青木氏を潰す事“を目的に徹底していた事が明らかに判る。
    「他の伊勢の三家」も罪を着せられない様に慎重にしていた事が判る。
    信濃を始めとする「四家四流の賜姓族青木氏」も同じ状況であった事が判る。

    (注釈 「商い」で常時移動するなどで身を隠したと観られる。)

    「桓武天皇」は、806年没であるが、「阿多倍王」の長子の「征夷大将軍」の「坂上田村麿」(母は伊賀「阿多倍王」の孫「高野新笠」の父)とは、叔父に当たり兄弟の様にしていた事が記録にある。
    陸奥域を制圧(805年)して、その地に「桓武天皇」が自ら指揮して「神明社」を25年の間に「20社」も「青木氏」に代わって建立している。
    この事から、「神明社建立」は[青木氏の専業」であり、資材調達やその職能部は「青木氏」に委ねられている。
    故に「商いの領域」で生活する分には、政治には無関係と成る事から軋轢を加えなかった事に成る。
    「万葉歌人の愚人説」も外部記録にはあるが、「歌人」では同じで逃れる術には成らない。
    生き残った「四家の二人」は、この「商人」に徹したと観られる。
    この時期に集中してこの「陸奥域」に「20社−25年」も建立出来ているのは、この事(青木氏商人説)から来ていると判断できる。
    むしろ、「四家の二人」を潰せば「神明社建立は不可能」に成るし、「叙位を拒んだ事」、「商人に成り切った事」などから、この「二人の叔父」を潰せなかったと観られる。
    これが“「青木氏の商人説」”の「伝来の根拠」である。
    これが上記した“「青木氏の氏是」”を護る為の“「知略を使う事」”に従ったと云う事である。
    そうで無ければ、この「四家の二人」は、“「青木氏の氏是」を護らなかった事“に成る。

    (注釈 とすると、口伝等で「遺された商人説」から鑑みれば、この「青木氏の氏是」は、“「施基皇子」が遺した言葉”であった事に成る。符合一致する。)

    (注釈 「桓武天皇」{737年−806年 即位781年}も、「祖父の施基皇子{716没}」の「青木氏の氏是」は承知していた筈である。
    この範囲であれば、幾らか「律令政治」に邪魔で有ったとしても、潰す事は出来なかった筈である。
    要するに、“「政治」に「青木氏」が絡まなければ良い訳である“から、先祖の云う「商人説」は納得出る。
    ”「神明社建立」で25年間耐えた“と云う事であろう。
    現実に、この「四家の二人」は長寿で直前まで生きている。)

    依って、「四家の青木氏」では、一時(37年間)の「空家説」に成ったと考えられる。
    つまり、「770年−781年間の在位中の12年間」は、「白壁王の桑名殿」は、敢えて、「実家先」であるとしても、“天皇に成った以上は「郷を創る事」は好ましくない“として、恣意的にその「天皇の権威」を護る事から「空家扱い」としたと考えられる。
    更には、「山部王」の「桓武天皇期の軋轢期間25年間」は、「実家先」に軋轢を掛けられている以上は逆らう事は出来ず、合わせて「37年間」は「空家扱い」とせざるを得なかった事に成る。
    この事から“「37年の空家説」”が生まれたと考えられる。

    「山部王」の「桓武天皇」期では、未だ「皇族方」から「四家の青木氏」へ送り込む程の「継承外者」の「跡目」は無かった。
    確かに「9人の皇子皇女と妾子」が在ったが、「伊勢青木氏の実家先」の「空家の跡目」を補うほどの「皇子皇女族」は無かった。
    しかし、「嵯峨天皇期」からは、「詔勅」で、その「仕来り」は一変した。

    ・「嵯峨期詔勅の影響」
    「桓武天皇期の軋轢」と、「嵯峨期の詔勅禁令」で、賜姓の無い“「皇族青木氏」”が別に発祥した為に、「青木氏への跡目継承」はないものと考えられるが、現実には行われている。
    むしろ、「嵯峨天皇」から「花山天皇」までの「累代の天皇」は、「皇位継承外者」の「青木氏跡目への送り込み」を政治的に目論んでいた。

    そもそも、「嵯峨天皇」は、”何で,「賜姓を青木氏」から突然に「賜姓族の源氏」に変更したのか、そして、態々、「詔勅」迄を発したのか。”疑問が残る。
    これは、結論から云えば、上記で論じた”「軋轢と政争」”とから「青木氏」を護る事にあった事による”と考えられる。
    それは、この「詔勅」に合わせて、其れも態々と「青木氏」に関する「賜姓族」としての「慣習仕来り掟」の「使用禁令の令」にある。
    「青木氏の弱体化」に依って、そこに付け入り「他の皇族系氏族」がこれを真似て、この「賜姓族らしき族」が生まれる事に危惧を感じたからであろう。
    それは、皇族の者の「跡目先」の「格式の低下」と「血縁性の低下」を身内として認める訳には行かなかったし、皇親政治を構築する上で好ましく無かった事によると考えられる。

    現実に、その「政争の渦中」から救う為に「賜姓」を「源氏」にした事で、その代わり、「青木氏」を「正規に認定した皇族出自者」の「下族時の氏名」とした事でも判る。
    そして、この「賜姓の源氏」には、「賜姓族の青木氏」と同じ[財産と権利と格式と特権」を一切与えなかった事でも判る。
    それを態々、詔勅に書いた事でも判る。
    何も書かなくてもその様にすれば良いだけの事でもあるのに、書いたのである。
    この”書いた事に意味”を持たしたのである。
    その証拠に、賜姓源氏から青木氏に跡目に入っているが、「賜姓青木氏」から賜姓源氏には入っていない。
    況してや、「下族者の青木氏」からは何れも入っていないのである。
    現実に、この「青木氏」は、男女合わせて「25人の対象者」が正規に居たが、「青木氏」として名乗ったのは記録から確認できる「青木氏]は二人で,記録の保障が無い「疑義の青木氏」は二氏に終わって居る。
    「源氏」から[青木氏」を名乗ったのは正規に確認できるただ一氏である。
    この事から、これは、「形式上の賜姓」である事に成る。要するに「賜姓青木氏」を護る為てある。


    (注釈 取り分け、「嵯峨天皇」は、上記(a)から(q)の「役目の難しさ」からと、「桓武天皇の軋轢」からも、考え合わせて、五代続いた「天智期の仕来り」を敢えて換えたと観られる。)

    故に、「詔勅」では、「第六位皇子の賜姓」には、「源氏」としても、この「源氏賜姓」には、「朝臣族」を認めるも「無位無官」と「一切の官位」と「財の贈与」と「不入不倫の権」等の特典は与えなかったし、「皇族還俗者」に「青木氏」を名乗る事を認めても「一切の特典権」も与えなかった。
    “成りたければ成れ、しかし、一切は面倒を看ない。自分で切り開け。責任は採らない。”
    簡単に云えば、この通りであった。

    その上に、“「皇族者下族の祖を持つ」“とする「皇族者」を証明する「認知状書」だけで済ませたが、現実には、この「認知状書」は「有名無実の状況」で搾取が横行した。
    其れだけでは無く、「搾取横行」の原因も関係して、「天智期」からの「賜姓族青木氏」が持つ「慣習仕来り掟の一切使用」と「青木氏呼称の使用」をも禁令で禁じて仕舞った。

    (注釈 「五家五流青木氏」の「搾取偏纂」では、「青木氏」とは異なる「別姓の4つの姓」が子孫であると主張している。
    しかし、「賜姓族青木氏」は「嵯峨期禁令」の通り「青木氏外の姓名」の「仕来り」は禁じていた為に採用していない。)

    そもそも、「氏族」であって「姓族」では無い。
    これらの「4つの姓」は、平安期の朝廷に届けられている「氏族」には無い。
    又、これらの「4つの姓」は「浄土宗」では無い。
    まして「密教」でも無い。
    この「仕来り」の知らない甚だしい「搾取偏纂」である。
    「四家制度」の「二つの絆青木氏」からも発祥させていない。

    これでは、「何の身分保障」も「経済的裏付け」も「皇子の権威」も無いのでは、“独立して賜姓を受けて臣籍降下する者”は無く成る。
    そうすれば、「五家五流青木氏」か「佐々木氏」の「受け入れ口」に事は流れ、「皇族の経済的負担」と「皇族者を利用した悪行の社会不安」は無く成るし安心である。
    そして、”「賜姓リスク」は解消して、「天皇家、並びに朝廷」の「権威」は保たれる”と目論んだ。

    ・「嵯峨天皇の目論見の狂い」
    ただ、この「目論見」は、次ぎの事で「多少の狂い」が起こったのである。

    (注釈 経緯、ところが、「天皇の思惑」より外れて、「賜姓祖族の源氏」と「賜姓族でない源氏」に「成る者」が続々と出てしまった。その原因は「荘園制」にあった。
    この「読み違え」をしていたのである。)

    各地で「力の持った豪族」などが山などを切り開き「土地開拓」が始まっていた。
    ところがこの「開拓の土地」に「税金」が掛かる。
    「荘園主」は、これを軽減する方法として、「皇族者」、或は、「公家族」「源氏や平氏の賜姓族」から「名義」を借りる事で「税」が免れる。
    そして、その「名義貸し料」を支払って利益を挙げた。
    ところが次第に、「名義貸し」だけでは無く、荘園で力を得た「荘園主」は、次ぎには「名義主の氏名」の使用までも許可を得て獲得し、「名義使用料」を支払って「荘園防御の抑止力」も獲得した。
    この為に「嵯峨期詔勅の賜姓族」は自立する事が可能に成った。
    その財を以って「禁じ手」の「武力」をも獲得した。
    その「武力」で各地の「弱小荘園」や「豪族の土地」を奪い取ったのである。
    これが肥大化して「清和源氏」が生まれたのである。
    その「清和源氏の分家の頼宣系」がこの方式を使って拡大した。
    政界にも発言力を持った。
    その結果、潰した豪族の「敗残兵」等を「奴隷」にし、「名義先の荘園」に送り込むなどして働き手にする等の社会問題が起こった。
    (陸奥の安倍氏等はこの大きな犠牲に成った。)
    この「伸長」を嫌った天皇は、「清和源氏の頼宣系の武家集団」を潰しに掛かった。
    そして、最後に、「摂関家の藤原氏」をルーツに持たない「後三条天皇」から「後白河院政」まで、身の危険性を跳ね除けてこの「荘園制」そのものを「禁止」し、「源氏全体」の「武家集団」を弱体化させて、結局、「嵯峨天皇の思惑」まで戻す事が出来たのである。

    (イ)「賜姓青木氏の跡目」がこれで一挙に埋まった事で、皇族からの「跡目の受け入れ」が過飽和と成って仕舞った事、
    (ロ)皇子皇女は増える割合よりは、「四階制度」から生まれる「正規の継承者」よりも、「皇族の妾子制度」の「無位無官の嗣子」が多く発生して仕舞った事、
    (ハ)一時、男系の「皇位継承者の激減」の反動が起こり、逆に、「継承者の純血性の低下」が起こって、「皇位継承者」の不足が起こって仕舞った事、

    以上の(イ)(ロ)(ハ)の事から、当然に、「血流の保全」から「青木氏への跡目」の対象者も無く成ったのである。

    ・「詔勅禁令の目的」
    では、果たして、“「嵯峨天皇」は何を目的としてこの「詔勅禁令」を発したか”云う事である。
    「嵯峨天皇」は、以後の「賜姓」に関しては、“一切関知せずの立場”を採っていた事が、その「目的の翻意」であった。つまり、「天智天皇」から五代続いた「賜姓族青木氏」と「賜姓族佐々木氏」に、「皇族者の下族者」が「跡目」に入る事の[天智期からのシステム]を、「皇族」に執っては“「良いシステム」”として認識していて保護したのである。
    これからも増える「皇族者」が、“「嵯峨期の青木氏」を名乗る事を選ぶ事“ よりは、”「天智期の賜姓族青木氏の跡目」に入る事“ の方が何もかも保証されているのであるから、「生きる術も知らない皇族者」が、なんの保障も無い”「嵯峨期の青木氏」を誰も名乗る事“は先ず無い筈と観ていたのである。

    (注釈 結局は無かった。全て真偽の程は別として、“「配流孫」の「現地末裔」である”と主張しての四氏である。)

    それは奈良期から、「青木氏を含む皇族者」が「何かあった時の事」として、「越前の逃避地」に「避難するシステム」が、「賜姓青木氏」に依って構築されていた。
    この「青木氏」に依って運営されている事を承知していた「嵯峨天皇」は、これを“「皇位継承者の受け入れ先」としても使える”と読んでいたからである。
    それは父の「桓武天皇の山部王の実家先 33年間在籍」でもあり、「自分のルーツ実家先」でもあった事により、その効能を充分知り得ていたからである。
    「桓武天皇の律令政治」対「嵯峨天皇の皇親政治」の「政争」で勝ち取った以上は、「律令政治の持つリスク」を解決してこそ、その「天皇の主義」の「立場と権威」は保たれる。
    依って、是非にも達成しなければならない「重要な政治課題」であった。
    依って、「五家五流の賜姓青木氏」を護る事で、“今後の事態はより良好に成る”と読み込んでいたのである。更に、仮に「賜姓源氏」を名乗ったとしても、その「生計や権威や財力や武力」が無ければ、たとえ“「賜姓」“だけが有っても、「生きて行く事」は「権威」だけでは無理である。
    故に、源氏族の生き様は何時かは崩壊する。
    その時には、「皇族朝臣族」である事を最低限に認知しているだろうから、この事を「青木氏」に入る事を理由にするであろう。
    (現実に源氏から青木氏に多く入っている。)

    “「賜姓源氏」は「同位」であるから“として、「天智期からの五家五流の賜姓青木氏」の「跡目」に、「立場家柄の問題」が無い事から、簡単に入るであろうと「嵯峨天皇」は考えた。
    その為には、「受け入れの経済的基盤」の「二足の草鞋策」を、「青木氏」に対して、“暗黙の内で容認して置く事”が必要であった筈である。

    ・「和紙の商いの意味」
    其れには、中国から輸入していた「悪質の紙」を、「国産化」して、「量産化」する「良質の和紙」にして、これを社会に遍く行き渡らせる事で、“「国内の経済」は潤う事が出来る”と目論んでいたのである。
    この事は「実家先の事」であるからその実情は承知の上であった。

    (注釈 この時、「和紙」のみならず、「墨と硯」の「開発と殖産」も指示した模様である。「嵯峨天皇」自らが、信濃方面に足を運んで探究すると云う積極ぶりで有った。「後漢帰化人の職能部」の「墨作部と硯部」を自ら指揮して送り込んで、「大和、福井、丹波、越前、信濃」に出向いたりした記録がある。
    そして、暫くは、この時に大和で採れる国産開発した「松根油」から取った「質の悪い墨」(粗目で墨色悪く掠れる)の侭で続いて放置されていた。

    しかし、遂には、1320年頃に“「嵯峨天皇の意志」(政治方針)“を引き継いだ「後醍醐天皇」は、「熊野野詣」を理由に33回も調査を行うなどした。
    この結果、「紀州熊野道」の「熊野神社の社領」の「第一神社」「藤白神社」の周辺域で、「墨の原材料」と成る「姥目樫の木から良質の墨の煤」が採れる事を自らが発見した事が記録されている。
    この地域は、“奈良期からの「炭の生産地(墨屋谷」」(後の備長炭)”で有った。
    其れに、“目を付けた”と云う事で、試行錯誤したとある。
    この時、中国より「方氏と云う職能部」の「専門職人」の五人呼び寄せたと記録されている。

    (注釈 この「墨の成功」での事で、宿泊先の「藤白神社」の「神職日高氏」より、「紀州」の紀北の「浜の宮」から紀南の「日高地方」には、古来より「良質で高級な砥石(紫石)」が採れると聞かされた。
    それを「硯」にする事で「硯部」を紀州に呼び返して生産させたと記録されている。

    更に、平安初期には「伊勢北部伊賀地方域から紀州南域の紀伊山脈」には、「良質な和紙の原材料」に適すると観られる“「紀州楮」”があることを発見した。
    そして、平安中期には「賜姓青木氏の紙屋院」に依って「開発と殖産」にも入っていた。
    「伊勢青木氏」と「信濃青木氏]が持つ「青木氏部」を配置した。

    そこで、 「後醍醐天皇」は、「嵯峨天皇後の470年間」も放置されていたものを、わざわざ、“何故、これほどまでに「墨と硯」に拘ったのか”と云う疑問である。

    「楮に依る和紙」は、開発されて「良質な和紙」として、既に生産し殖産し販売され、市場は「紙文化の始まりの直前期」であった。

    恐らくは、「紙文化」への「需要の高まり」が顕著に成って来て、近くでも「良質な楮」の生産に適する地域を発見しようとしていた。
    近隣で「青木氏の遠祖地の地」にその「良質和紙の楮」が発見され、これで “「青木氏を助ける事(「嵯峨天皇の目論見」)」が出来る“と考えていたとの推測が出来る。
    其れと共に、この時期は「墨と硯」がこの「紙文化」に火が着いて、消費が伸びれば「開発途上の段階」では、「輸入品」である事には「財政的な問題」が出る。
    この事から政策的に適切では無かった事から、これを「和紙」と共に「青木氏」に殖産させ「国内産」にして、「紙文化の前兆期」を利用して ”「青木氏」に売り捌かせようとした“と考えられる。
    1320年頃の鎌倉期末期頃である。
    その証拠に、奈良期から鎌倉期末期までは「和紙と墨と硯」は、“「西の公家政権」の「朝廷の専売品」”で、「部の市場制度」に依って、一度朝廷に納入しその上で、必要な物を確保した上で、市場に放出すると云う経済方式を採用していた。
    「墨と紫石硯」も明治初期まで「専売品」であった。
    室町期から「室町幕府と江戸幕府の専売品」に変わった。

    重要な注釈
    (”「西の公家政権」”とは、鎌倉期から室町期まで「正式な行政区画」は、「東の鎌倉政権」に対して「京の公家政権」としてその政権を一部を委ね、これに対して「東の武士政権」から「行政監」が派遣されていた。
    この状態は室町幕府迄続いたが、実質は無力化して「有名無実」の状態と成っていた。
    江戸幕府も正式には、この状態を認めていたが、要するに「公家諸法度」などを作り無力化させていた。
    この「西の公家政権下」での管理品であった。
    最終、江戸期初期には「徳川氏の専売品」と成って「朝廷の力」、況や、「西の公家政権」の力を削いだ。)

    (注釈 「専売品」にする事がそれだけに「利益」が大きいと云う事である。)

    鎌倉期は、「需要な注釈」の通り、「紙と墨と硯」の殖産は、“「西の公家政権」の財源”で有ったし、一部は室町期末期まで「西の公家政権」の「専売品」ともなっていた。
    「武家政権」に成った鎌倉期には、この為に「二足の草鞋策」を敷く「皇族の受け入れ先の青木氏等」に、これらの「殖産」を認可して援護する目的もあったと観られる。
    つまり、「後醍醐天皇」は、「西の公家政権の財源」と「皇族受け入れ先強化」を狙ったと観られる。
    上記した様に、鎌倉期以降は、関東に「武家政権」が樹立した際には、西には「公家政権」を一応は置いて関西域を任した「二元体制の形」を採った。
    しかし、丹波に「幕府支所」を置き「関東の西への発言権」を増して、「有名無実の状況」と成っていて、後の江戸幕府までも「公家諸法度」で縛ってこの状態が続いた。
    この為に、鎌倉末期までは、「西の公家政権」は、「公家を含む皇族方」等の「財源確保」や「安定化策」の為に躍起と成っていた。
    「関西の伊勢青木氏」の「二足の草鞋策」からの「税と援助」がその財源の一つの基と成っていた経緯から来ている。

    この「後醍醐天皇の底入れの御蔭」で、「青木氏の二足の草鞋策」は、室町期は「紙文化の花」が咲き、「巨万の富」を得た。
    この「青木氏」から上がる「専売品の税」が、所謂、「西の公家政権」と呼ばれた「強力な財源」に成っていたと観られる。
    1025年頃から「本格商社」に成り、この時を契機に、益々、1320年頃に「総合商社化」へと進んだと観られる。

    「賜姓族の五家五流青木氏」に執って関わった天皇は次ぎの様に成る。
    1 「賜姓族の発祥」は、「天智天皇」  「賜姓族」で「皇親政治」を確立
    2 「賜姓族の発展」は、「天武天皇」  甥の「施基皇子」を「執政」として重用
    3 「賜姓族の拡大」は、「持統天皇」  兄を重用し「武家の青木氏」を確立
    4 「青木氏の四家発展」は、「光仁天皇」 「実家先の青木氏の基盤(和紙)」の強化
    5 「二足草鞋策の青木氏」は、「桓武天皇」  律令体制で軋轢衰退 「糧に二足の草鞋策」
    6 「和紙商化の完成」は、「嵯峨天皇」  「青木氏の重用」と「二足の草鞋策の強化」
    7 「青木氏の補強」は、「円融天皇」  「賜姓五役」拡大で「青木氏 補完策」(特別賜姓族)
    8 「総合商社化の完成」は、「後醍醐天皇」  「商い策」の強化で「皇室安定と財源確保」

    以上が主に「青木氏の発展」に大きな影響を与えたと観ている。

    ”「青木氏の商い」”に大きく関わった後半の「恩人の二人の天皇」は、“「嵯峨天皇」と「後醍醐天皇」”と「青木氏の口伝」で伝えられている。
    筆者の家には、この時の「和紙と墨と紫硯」が、大事に「悠久の時」を経て「重要な遺産」として遺されている。
    (HP左メニュー写真掲示板に一部掲載)
    後には、この様に、“「後醍醐天皇の青木氏に関わる事」“が在ったが、その為にも、先ずは、「平安初期の嵯峨天皇」は、「朝廷内部」に、「使用販路」を広げて、丹波域に「紙屋院」等の「和紙の試験所」を設置し、「木簡から和紙への変換」に対して「朝廷内部の改革」を実行したのである。
    「公家貴族」や「官僚族」や「社寺社会」から、その利害関係から「猛烈な抵抗」を受ける中、「青木氏」を側面から援護した。

    この経緯は、詳細は 「青木氏の伝統 4と8」 参照の事として、次の様に成る。

    (注釈 記録では、「興業」としての「商い」は、「青木氏の記録」では「古代和紙の販売」は、950年頃と成っている。
    (正規の生産開始は730年頃)

    とすると、「殖産」を始めてから”300年”と成っているが、「青木氏の基盤」を造ったのは、次ぎの「経過」を辿ったと考えられる。

    ・「和紙の経過」
    A 「和紙の良質な生産開始」に50年  (730年頃 正倉院 紙屋院 白鳳文化 記録)
    B 「和紙殖産」を始めて余剰品までを作り出すには50年  (770年頃 平城消費文化)
    C1「商い態勢」に50年   810年頃 平安初期文化 摂関文化初期 記録)
    C2「和紙販売能力」に50年  (890年頃 平安中期文化 摂関文化中期 記録)
    D 「和紙興業能力」に50年  (850年頃 国風文化前期 摂関文化後期 記録)

    E 「本格商い開始」- 50年- 「950年」
    F 「完成期の総合商社」として75年 (1025年 国風文化後期」 記録)

    以上として観れば成り立つ。

    「初期の段階」では「原材料の調査」、「生産する農民」の養成、適切な「耕作面積の獲得」、
    それを「和紙」にする「技量の習得」と「職人の養成」等で、思考錯誤しながら基盤を作った。
    とすると、次ぎの様に成る。
    以上には、“一期毎に50年程度の相当な期間が掛かった”と考えられる。

    (註釈 この期間に関しては、「紙」は「文化のパラメ-タ」である。

    以上の様に、この「古代和紙」の「紙」を日本最初に作る事に挑戦したのが、「5家5流皇族賜姓青木氏」なのである。
    日本のこの「紙文化」には必ず「宗教文化」が伴っている。
    従って、青木氏の一面の”「紙屋」の歴史の変遷”は、この「紙文化」に左右されている事に成るのである。
    そして、その紙の多くを消費していた「宗教文化」にも左右されていたのである。
    下記に詳しく論じるその「宗教文化」の「仏舎」の「仏画」の歴史も、この「青木氏の紙の変遷」が大きく関わっているのである。
    当然に、次ぎに論じる「節会」もこの「宗教文化」と「紙文化」に左右されているのである。

    「宗教文化」→「節会」←「紙文化」

    その「文化のパラメ-タ」の「紙の使用」が、Aの様に、「東大寺の写経会」に観られる。
    この様に、初期の「紙文化」として遺されている「文化資産」は、「経典」と「仏画」の類が殆どである。

    しかし、「後期の紙文化」としては、「鎌倉文化と室町文化」は、初期の「経典仏画」類に関わらず、全ての書籍等の「紙材」に利用されている。

    中には、Bの様に、未だ一般に「紙市場」が無かったにも関わらず、「平城京」で起こった「消費経済」で「紙」が初めて大きく「消費される現象」が起こったのである。
    一般の市場にも「余剰品」が消費される環境が出来て来たのである。

    そして、遂に、遷都に依って、[紙の使用」は庶民の中にも浸透し始めた初期の現象が起こった。
    要するに、上記した[西の公家文化」と「東の武家文化」の開始で「紙」が盛んに使われ始めた。
    特に、世に“「摂関家の文化」“とも云われる文化であった

    最早、「余剰品の販売」の領域を超え始めたのである。

    本格的な「販売体制」に入らなくてはならなくなった。(C1)

    結局、「初期の販売体制」は、区切る事無く続き、本格的な全国的な販売体制が必要に成った。
    そして、「輸送」と「安全」に関わる「全国的な組織体制の確立」の必要性に迫られた。

    「輸送」には、大量に運ぶには「船」「陸送」が使われるが、これらを安全に輸送できる全国的な「護衛組織の確立」(シンジケ-ト)が要求された。(C2)

    「C1+C2=D」の数式が完成した事から、今度はこの組織を使って「紙屋の商い」の組織と「賜姓族」の組織とを分離した。

    そして、本格的な「二足の草鞋策」が始まった。

    ・上記した様に、「嵯峨天皇期」には、C1からC2に移行する時期、つまり、「商い態勢」に到達していた。

    100年の「抵抗期間」からやっと脱出し、「木簡から和紙」への「最終の移行期間」に入っていた時期であった。
    どうしても、「律令体制」が完成した時期でもあり、到底に木簡では間に合わず、是非にも「和紙」に切り換えなければならなくなった時期でもあった。

    更には、つまり、「一般市場」に「和紙」を浸透させる為にも、先導して「朝廷内の和紙の使用量」を一層に高める手段に入るべき重要な時期でもあった。

    「嵯峨天皇」は、「青木氏」のこの“「和紙」の「商い態勢」”が進むように、「朝廷内の改革」(和紙の使用)を始めたのである。
    其れが、当然に「目論見の根幹」を成していたからである。

    この為には、「律令の官僚政治」に任すより、「皇親による国策氏」(青木氏)を作り上げ事が必要であった。
    そうする事で、「皇族方の継承や生計の安定」が図られ、「子孫存続」は保障される。
    つまり、上記した天智期に反省した「皇族の欠点」の解決、況や、“「大火改新の目的」”は、確実に果たす事が出来ると見込んだのである。

    「律令体制の改革」だけでは、「政治課題解決」と「更なる皇族の発展が成されなければ、「真の改革」には成らないとする「父桓武天皇との政争」でもあった。
    其れには、矢張り、“天智期に敷いた「皇親政治(大化改新)」に戻さなくてはならない。”とし、“抵抗が少なく信頼でき「皇親政治」を敷かなければならない。”とする戦略で有った。
    況や、「三つの発祥源 賜姓五役 国策氏」である。
    尚且つ、「ルーツ実家先」(曾祖父 始祖 施基皇子没90年)では、“「四家制度」”を敷いていた絶好の「皇親族の賜姓族青木氏」がある。
    この環境を政治的に使わない手は無い。
    況して、「25年間と云う衰退期」を経ていて政争に巻き込まれていた「ルーツ実家先」(青木氏)を当然にも引き上げて戻さなければならない。

    「政治」「経済」「軍事」、「親族」、「皇族」等の如何なる面から観ても、何れに執っても、「青木氏」を使わなくてはならない。
    「政争」に打ち勝つだけの「有能な嵯峨天皇」なのである。先ず使わない手は無いだろう。

    この事を読み込んだ上での「嵯峨期詔勅であり附則禁令」であったのである。

    ・「臣籍降下の証明」
    その証拠は次ぎの事で証明できる。
    これ以後、「嵯峨天皇」は、「6人の皇子と3人の皇女」、 その後の累代に、「17人の皇子と15人の皇女」が「朝臣族」で「臣籍降下」している。
    合わせて、「23人の皇子」と「18人の皇女」には賜姓なく臣籍降下させている。

    しかし、現実には、「嵯峨期詔勅」の賜姓の無い「皇族青木氏」の「名乗り」は僅か「4氏」である。
    内訳は「皇族から二人」 「賜姓源氏から二人」である。

    「賜姓源氏」は、「嵯峨天皇期」から「花山天皇期」まで「11家11流」が発祥した。
    しかし、この「11家11流」から「賜姓」の「五家五流青木氏と佐々木氏」には、合わせて13人が跡目に入っている。
    この「賜姓源氏」からの13人と、残りの「23人の皇子」と「18人の皇女」は、奈良期の「天智天皇の仕来り」に従い、「賜姓青木氏の五家五流青木氏」の「四家(20家×5)」の何れかの「空籍」に「跡目」として入った事に成っている。

    この間の「高位の門跡僧」、或は、「低位の僧籍者」は、「比叡山」か「善光寺」か「平等院」等に入籍する「仕来り」もあった。
    しかし、「僧籍数の確認」ができない為に、「佐々木氏」も含めて、全て何れかの「青木氏の四家跡目」等(平安期末期からでは確認できる)に入ったものと考えられる。
    恐らくは記録に載らない「僧籍からの還俗者」を加えると、殆ど、「臣籍下族者」は男女合わせて「男50人,女25人」程度は受け入れている事に成る。

    「青木氏」は、「四家制度」を敷いている為に、上記した様に、「女25人」は同族である事から、縁者として「女子」も上記した「養女の形」で入るか、「嫁」として直接入るかの形式を採ったと観られる。

    しかし、この苦境から考え出された「青木氏」の”「四家制度」”に依って、殆どは、この“「嫁」”も、一度は「四家制度」の“「養女の形」”を採った上で、「跡目」を「四家一族」から迎え入れて一族化している事に成る。

    “「直接の嫁」”は、相当上位の「皇族者」、つまり、「天皇の皇女」「内親王」と成るので、結局は“「直接の嫁」“は無かったと考えられる。
    この「四家制度」は、「直接の嫁」は原則は採らない。
    従って、下記に論じている様に、「継承外」の「内親王」(三人)と成った場合は、記録からの例で観ると、一度、除籍した上で、「佐々木氏」や「青木氏」に養女に成った上で嫁している。
    又は、「斎王」と成った上でも、その後に役目が終わり次第、「還俗」して「養女」で入る場合が多く観られる。
    「斎王」の「還俗」は、位階が無い為に「政争」に巻き込まれないからで、現実には「青木氏の入籍」には、この「二つの方式」が採られているのである。
    この「二つの方式」は世の中の事を知らない「皇位継承外者」に「養女の過程」を課した上で嫁す事には、「賜姓臣下族の青木氏」に先ず馴染ませ「現実の生活」を知らしめる事の義務を課した事にあった。
    しかし、[継承者]の「内親王」の場合は、「血流と継承権」を保持している為に、「還俗」できずに、そのままで嫁す「仕来り」を採っている。
    仮に、継承権のある「内親王」を「養女化」すると、「天皇家」より「青木氏」の方が「上位」にある事に成り出来ない。
    そこで、この場合は、「政争」に巻き込まれる事に成り得て、「青木氏の氏是」に反する事に成り、充分に警戒が必要と成る。
    従って、「青木氏」は極力避けた事が系譜からも判る。
    どうしても「政治的圧力」に抗する事は出来ない場合は、「四家の養女方式」は採用できず、其の侭で嫁しさせた上で、正式に「青木氏の福家からの処置」として、その「子供」には、“「王位」を申請せずに「無位無官」にして「叙位任官」を受けない”とする様に計らっている。
    恐らくは、これが「跡目」を受入れる際の“「暗黙の条件」“であったと観られる。
    「青木氏」自らが、「内親王」を「嫁」にと懇願する事は、「青木氏の氏是」から無い訳であるから、「天皇家側」からの「受け入れの臣籍降下」が前提であるので、この「嫁の権威」、即ち、「天皇家の権威」を護りつつも、「青木氏の氏是」を護ると云う「両立の仕組み」を考え出した事に成る。
    現実に、天智期から江戸期までに、「四度の実績」がある。

    因みに、「施基皇子」の子供の「春日王の母」は、「天武天皇の皇女」で「多紀皇女」である。
    この皇女は一度、「伊勢神宮の斎王」に成った上で、還俗して「施基皇子」に嫁している。
    「斎王」に成る事で「臣籍降下」して「下位の青木氏」に嫁した事に成る。
    これで「天皇家との仕来り」は保たれた事に成っている。
    従って、あくまでも「血流」としての「皇位継承権」を女系で持っている「多紀皇女」の子供の「春日王」と、その「三人の孫」には「皇位に準ずる継承権」を持っていた事に成る。
    他にも、「聖武天皇」から「井上内親王」、「光仁天皇」から「能登内親王 弥努摩内親王」 等ある。
    南北朝の時にも、「時代状況」を反映してか「五家五流青木氏」に二人が入っている。
    「湯原王と榎井王の母」も皇族系の「内親王」であった模様である。

    注釈として、 しかし、「叙位任官」の申請をしていない。現実には「王位」も除籍申請しているが「政争」から逃れる事に目的があった。
    「春日王」も同じ行動を採ったが、「白壁王の即位」で、許されなかった。
    「四家の誰」も「叙位任官」をしないと成れば、「白壁王の光仁天皇」に傷がつく事を問題視された。
    然し、結果として、止む無く「施基皇子の孫」の全てに「王位の叙位」と「親王の任官」が義務付けられた。

    口伝に依れば、「氏是」から「770年の即位」までは、「特別の位」にあった事から、「王位叙任の立場」にあったが「王位」は付けていなかったと伝えられている。
    結果として、「白壁王と春日王の2人」と「皇孫王の全員17人」が叙位任官した事に成る。

    更に注釈として、 「安貴王 高田王 香久王」には、その「祖母の位階」から「準ずる継承権」が成立していた。
    依って、「春日王」本人と、子供の「三人の王」は政争に巻き込まれ、次男の「高田王」を遺して「早死」の「政争没」に成っている。

    注釈 「白壁王」の時に「井上内親王」の侭で嫁している。
    その後に、政争から逃れる為に嫁した「井上内親王の思惑」と違って、「天皇家」に「聖武天皇の血流直系者」として引き出されて、「元の皇后」と成った。
    そして、それに伴い「白壁王」も天皇に祭り上げられて、政争の末に「皇后 井上内親王」は「政争没」している。

    「皇族者」が「僧籍」に入る傾向は、現実には少なく、「僧籍」に入っても殆どは「還俗」し、「全国行脚」等をした後に、結局は、「青木氏」に「跡目入籍する傾向」が在った。

    この「僧籍」−「還俗」−「跡目」の方法は、“「政争」から逃れられる一つの方法”として「皇族者」に良く用いられた。

    この背景は、「青木氏に入籍する事」は、その「皇子に等しい立場の保全」と「経済的な裏付け」があり、この傾向は下記にも論じるが長く続けられた。

    「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」や「甲斐青木氏」や、平安中期からの母方族の「伊勢秀郷流青木氏」等には、かなりの数が皇子皇女に限らず室町期まで入っている。
    一度、「賜姓の無い源氏」を名乗り、その後に「青木氏」を名乗って跡目に入っている「源氏系青木氏」も確認できるところでも「4氏」もある。
    「戦乱や政争」などで「皇族系の者」が逃避する際の保護地があった。

    即ち、次ぎのシステムであった。
    前段で論じた「越前の逃避システム」(ア)
    上記する「皇族の継承外者の受入先システム」(イ)

    以上の二つとしても、「賜姓五役」の“「青木氏の四家」“は働いていたのである。

    「嵯峨天皇」は、上記の(ア)(イ)を認めていたからこそ、「律令制度」の中でも、「第二期の皇親政治の制度」を採用した事は有名なのである。

    況や、「避難システム」(ア)と「受入システム」(イ)が、「青木氏四家」を強く頑丈に構築させて行ったのである。

    従って、それが故に、「白壁王期−光仁天皇期」の25年間には、「五家五流の青木氏四家」は一時、「皇族内部」の激しい「政争の殺戮」に巻き込まれて、「五家五流の青木一族」は、命を落とし「氏存亡の危機」に晒され続けた。
    そして、更に、「桓武天皇期」の「青木氏軋轢の25年間」と合わせての「50年間」を除き、以上の「青木氏保護政策」で「嵯峨期」から、再び、「四家」は拡大して行く事に成ったのである。

    ・「四家の詳細」
    青木氏内部の詳細は次ぎの通りである。

    先ず、「施基皇子の生誕」は不詳と成っているが、これを明確にしておく必要がある。
    「青木氏の資料」から演算すると、83歳位の高齢であったと成っている。
    従って、生誕は632年頃 没年は716年と成る。

    (余談 「伊勢青木氏の過去帳」を観ると、不思議に先祖は、「82歳前後2歳」の中で没している。
    筆者の直前の先祖の享年を観てもこの条件の中にある。「遺伝的な特徴」があると観られる。
    判る範囲で親族を調べると、「突然変異のAB型」で、中に隔世遺伝から0型が2代前に居た事から、AB型から分離したBとA型が出ている。)

    傾向として、上記の余談から観て、この様に「伊勢青木氏」は、「過去帳」より観ると、多くの先祖が[高齢長寿]である。
    その確率は高く、81歳から84歳で没している。
    (当時の平均寿命50歳から観て極めて長寿である)
    これは「伊勢青木氏」の中では「伝統的な事」として云われている。
    恐らくは、これは「施基皇子」からの遺伝であろうか。
    遺伝の傾向が高いとすれば、長い歴史の間、三つの発祥源として、その役目柄から”「純血性」”を護って来た事から確率高く、この評価は出来る。

    ・「湯原王」(松阪殿)の「福家」には、「二人の王と一人の王女」があり、「壱志濃王」と「市志王」は家を構成した。
    王女の「尾張王女」は叔父の「光仁天皇後宮」と成る。
    「推定生没」は「青木氏の資料・口伝」から読み取れば、「推定の最低生年」は706年頃とされる。
    万葉集には、成人として扱われて、730年に「歌の記載」があり、その第1子の「壱志濃王」は733年に生まれている。
    この事から、「推定の最低生年」は706年頃に成る。
    「推定の最高没年」は789年頃とされる。
    依って、この事から「資料・口伝」は、相当と見做される。

    ・「榎井王」(名張殿)には、「二人の王」があり、「神王」と「榎本王」は家を構成した。
    「推定生没」は「青木氏の資料・口伝」から読み取れば、「推定の最低生年」は707年頃とされる。
    737年に「万葉の歌会」で集まったとする記録があり、第1子の「神王」は737年に生まれている。
    この事から、成年は、母は不明であるが、「湯原王」との母は違っている事から、次男とされる事から707年頃と成る。
    そうすると「推定の最高没年」は790年頃とされる。

    「外部記録」から、この「湯原王と榎井王」の二人は、「不詳 770年前没」と成っているが、これは政争没」があった事で推定したと観られる。
    しかし、「伊勢青木氏」では、「光仁天皇の782年」から観れば、「施基皇子の始祖長寿」と合わせて、「推定の最高没年」は「789年」と「790年」は相当である。

    ・「春日王」(員弁殿)には、「三人の王」があり、「青木氏の口伝」では、「桑名殿」の「白壁王」の王より「員弁殿の跡目」に「開成王」が入ったとされている。
    「春日王の母」は「皇位継承者」の「多紀皇女」である。
    「推定生没」は「青木氏の資料・口伝」から読み取れば、「推定の最低生年」は706年頃とされる。
    723年に叙位を受けている事から、第二子の「高岡王」は735年没であり、父「春日王」も「没年」は745年で早死である。
    母が皇位継承権を持っている事から、「女系の皇位継承権」を持つ「春日王」と成る。
    「他の皇位継承外」の「皇孫王」と成った者の殆どは「政争没」である。
    この事から間違いなく「政争没」の可能性が極めて高い。
    「春日王」の「政争没」によって、「跡目に問題」が出て、依って、王位の無い「開成」が跡目に入って「政争」から逃れて「四家」を護ったとされている。

    (注釈 「開成王」は王位を得られていないとする説もある。その原因は「母方の身分」と観られる。
    「湯原王」の「尾張王女」、つまり、「光仁天皇の後宮の子」とする説もある。

    筆者は口伝を信じてこの二つ説を採っている。
    故に、「後宮」と成るも、実家先の「春日王の四家」(員弁殿)に、「子の定義の仕来り」に従って入れたと観られる。
    「政争」から逃れる為に子の「王位」を外して、実家の「員弁殿」の中に入れて子の命を護る為に敢えて「尾張王女」は除籍の方法を採った。
    「安貴王」「高田王」「香久王」と、「開成王」は「副役の四家」を興した。

    ・「白壁王」(桑名殿 709−782 770年に即位 781年に譲位)には、「四人の王と二人の王女」がある。
    その「光仁天皇」と成った事から、結局、一時、四家は「空家」となる。
    「白壁王の母」は「紀氏の紀橡姫」 紀州の豪族 王女に「紀宮子」がある。
    子供の「開成王」は、「春日王」の「員弁殿の跡目」に直に入った。
    「桑名殿の白壁王」は、後に、再び、「稗田王」(751年生 母 高野新人、或は、「尾張内親王」は「四家の桑名殿の青木家」を再興した。
    しかし、770年には、この「早良王」と「山部王」稗田王」の「三人」は、一応は「継承外親王」と成り、形式上は「青木氏」より外れる。

    しかし、「天皇譲位後」(781年)は、「仕来り」に従い、再び、臣下して「稗田王」(31歳没)は「青木氏」に戻るが、2年後に「政争没」に成る。

    (注釈 この三人は、譲位後に「青木氏」に戻ったと考えられ、その後にも、依然と「政争」に巻き込まれる。
    遂に「早良王」は罪を着せられて配流先で「政争没 785年」と成った。)

    ただ、「山部王」は、「青木氏」の「継承外親王」であったが、政争に勝利して依って「桓武天皇」に成った。
    純然として「皇位継承者」の「他戸王」(771年生)と「酒人王女」(761年生)は、「皇后の井上内親王」(政争没)の子である。
    依って、「聖武天皇家の血流」を持ち、唯一の「男系皇位継承者」と成り、正式に「青木氏」より完全に外れる。

    その後に、「他戸親王」は「男系皇位継承者」であった事から「政争没」、 「酒人内親王」は「女系皇位継承者」と成るが、矢張り「政争没」と成る。

    (注釈 「能登王女」(752年生 母 高野新笠)は、「継承外内親王」と成り、除籍を願い出て「市原王」(近江川島皇子の曾孫)に嫁し、政争から逃れられて「親族結婚」と成る。 )

    他に、「弥努摩内親王」(母 「井上内親王」)は「皇位継承者」であったが 崩御後、除籍して「伊勢青木氏」に戻り、叔父の「榎井王」(名張殿)の子の従兄弟「神王」に嫁した。
    この事から、政争から逃れられ、「四家の仕来り」に従い「同族結婚」と成り、「名張殿の子孫」を拡げる。

    (注釈 「白壁王」の時、「采女」(県犬養男耳)との子で、「王位」は無く、「妾子」として生きる者が居た。
    即位後、この「王位の無い者」であった事から「広根氏」の賜姓を「光仁天皇」から態々受けた。
    これが”「広根諸勝」”とされるが詳細は不詳である。その後に、「広根氏」として子孫を遺した事が判っている。
    この「広根氏」から上記の4氏の内の3氏は、この末裔ではないかと観られているが不詳である。)

    夫々、「四家」は「松阪殿、名張殿、員弁殿、桑名殿 (四日市殿)」と呼ばれていて、「三つの発祥源の役」と「賜姓五役の任」を担当分けして任されていた。
    「松阪殿」が“「福家」”と呼ばれて「氏全体の統率役」を任されて運営していた。
    この「仕組み」を“「四家」”と呼ばれていた。

    しかし、この「主役(賜姓五役等)」を実行する何れの「四家」にも、その「経済的裏付け」が「守護地の知行」では不足していた。
    そこに、「平安初期の桓武天皇」の「律令政治の国家体制の確立」から、一時身を置いた「出自先・実家先」の「皇親族の青木氏の存在」が弊害と成り、「政治的な圧力」を掛けられて衰退した。
    この時、「桓武天皇派」と、後の子供の「嵯峨天皇派」の間で、激しい「意見対立の政治的闘争」が起こった。
    結局は、「嵯峨天皇側」が勝利を治め、再び、「青木氏」は「皇親族」の「国策氏」として命じられた。
    (上記)
    そこで、「国の経済立直し」をも含めて、「和紙生産とその殖産事業」を“「裏の副務」”として「松阪殿」を中心に「四家の青木氏」が、その「開発」(紙屋院)を手掛ける事に成った。
    そして、「平安期の中頃」には、正式には「二足の草鞋策」の態勢(925年)までに持ち込んだのである。
    これに依って、「三つの発祥源、賜姓五役、国策氏」と「福井逃避地」「下族者受け入れ役」の役務を遂行するに必要とする力が付居た。
    この「四家」を護る「シンジケート態勢」も充実して、“「四家」”は何とか持ち堪えられ、且つ、ここに“「四家制度」”は確立を観たのである。

    他の「主要守護地」の「四家四流の青木氏」も「同じ仕来り」に従って、「四家制度」を敷いていたが、矢張り同じ問題を抱えて苦しんでいた。
    これを救う為に「伊勢青木氏」が「先導役」として他の「四家四流青木氏」にも、この「和紙の生産と殖産」に関わりさせて、再び、引っ張り上げた。

    (上記した「嵯峨天皇の目論見」の後押しもあった。)

    「奈良期末期の直前」では、この“「四家」”には、代々「皇位継承外」と成った「真人族、朝臣族の皇子」が、「他の四守護地青木氏」と共に「跡目」に入る仕組みに成っていた。
    しかし、この時期には、上記の様に、「天皇家」そのものに「皇位継承の跡目」による「存亡の危機」が起こっていたのである。
    然し、「五家五流青木氏」への「跡目継承者」は無かった。
    それどころか「逆の現象」と成っていたのである。

    (注釈 然りながら、「臣下族の施基皇子」の「第六子」の「光仁天皇」の子の「桓武天皇」(四家桑名殿の山部王)は、上記の様に、「天智天皇」が定めた「第四世族内第六位皇子」の「賜姓の仕来り」を全く破棄して、「四家制度」をも否定し、母方(伊賀住人の「高尊王の末裔」 「高野新笠」 「京平家の祖」)の氏族に「たいら氏 京平家」を賜姓した。
    そして、「伊勢青木氏」が領する「伊勢北部伊賀地方」を「半国割譲」して与えて引き上げた。
    依って、「五家五流青木氏」は平安初期の26年間程度は衰退した。)

    (注釈 その後、「皇親族」を無視するこの「政治体制」に反発した「嵯峨天皇」が、再び、「天智天皇」が決めた「賜姓方式」とその「賜姓族の四家制度」を復活させた。)

    この時、この「賜姓方式」は、「賜姓名」を改めて「源氏」とし、「皇族の臣下族」、又は、「下族する皇子族」に対しても「青木氏」を名乗る方式に変えたのである。
    但し、この「賜姓源氏」と、賜姓ではない「皇族系青木氏」に対しては、「光仁天皇まで続いた賜姓青木氏」が持つ様な一切の同じ「利権」、「財産」、「主務」、「官位官職」、「権威」等を全く与えないとする「嵯峨期詔勅」を発した。
    合わせて「賜姓青木氏の慣習仕来り掟」の一般の「使用の禁令」を発したのである。
    (明治3年まで護られた。)
    「五家五流青木氏」以外に、「百姓の民」が「青木氏」を名乗る事と、その「習慣仕来り掟の使用」を禁止して、「賜姓青木氏」を特別保護したのである。

    (この「百姓」とは、元来、公家と武家を除く全ての民の事を表現した言葉で、室町期まで使われていたが、江戸期に成って、「士農工商」の身分制度に依り、「百姓」とは、「農民」を指す言葉に変化した。)






    > 「伝統 15」に続く。


      [No.330] Re:「青木氏の伝統 13」− 「青木氏の四家訓戒 2」
         投稿者:福管理人   投稿日:2015/04/16(Thu) 05:37:57  

    「伝統 13」


    >前回の末尾
    >
    > しかし、ここで大きな”「救い」”が一つあった。
    > この事を戦前に察知し熟知していた「摂津頼光系四家の福家の頼政」は、「以仁王の乱」の直前に、「子孫の一人(京綱)」を「伊勢青木氏の跡目」に入れて最悪を避けるべく策を講じていた。
    > これは、「同族である青木氏」が、「不入不倫の権」に護られながらも、「賜姓族の氏是」を頑なに護り、それに基づき、且つ、「四家方式」に依って、「源平の戦い」でも、”必ず「子孫」を累代まで遺す”と理解しての配慮の事であった。
    > 故に、”「跡目」”であった為に、「源氏」が「青木氏」の中に流れている事に成る。
    > 「信濃青木氏」にも、”戦い”の直前に、「跡目」か「跡目」に類する形で「青木氏」に入れている。
    >
    > 「信濃青木氏」には「源光国−血縁」と「源実国−跡目」を、滅亡した「土岐青木氏」には、「源光国」の子の「源光信−跡目」を、「甲斐青木氏」には、「源源光−跡目」を跡目等に入れている。
    > 甲斐武田氏系青木氏には、「源源光」の兄の「源時光」が跡目に入っている。
    >
    > 故に、”源氏11家”は、完全な「滅亡の憂き目」を辿ったのであるが、「清和源氏宗家の四家」からだけ、「血筋」としては、「青木氏」の中に遺した事に成る。
    >
    > 取り分け、”滅亡した源氏”そのものは、当然に滅亡する”宿命のシステム”を敷いていた事に成る。


    「嵯峨期の詔勅・禁令の影響」
    筆者は、この”「訓戒」”は、”「嵯峨天皇の嵯峨期の詔勅」”に表れていると観ている。

    「嵯峨期の詔勅」を全体の当時の状況や環境を加味して要約すると、次ぎの様に成る。

    「賜姓族青木氏」の様に、今後、天皇が保護し、役柄を付与し、領地を与え、税を免除する事はしない。ただ、「臣下」しても「朝臣族」だけの身分を与える。
    後は”自らの粛清”に依って子孫を確保し、「賜姓族」としての名誉を保て。
    これは、天皇家の財政が万民に負担を掛けない様にするための配慮である。

    以上の様な意味合いの「詔勅」を態々発した上で、更には次ぎの発言を追加している。

    この「賜姓」に依って、”「民の負担」”を軽減させる為にも、決して ”「一切の民」は、この”「賜姓族の慣習仕来り掟」”を不必要に真似てはならない。”

    以上の意を込めて、この事を付随して、”「賜姓族」”としての「慣習仕来り掟」等の細かい「禁令」を発布したのである。

    「嵯峨天皇」は、この「詔勅」に依って、それまでの「天智期」から進めて5代続いた”賜姓する氏名”の”「青木氏」”を、「別の皇族身分の賜姓」の氏名にし、上記の「詔勅と禁令」の内容の様に、”「賜姓の扱い」”を下げて、”賜姓する事”に改めた。
    そこで、これを”「源氏」”と変名させたのである。
    その代わり、「青木氏」は、「別の皇族身分の者(門跡僧を含む全ての皇族系出身者)」が、”何らかの理由で下族、還俗する場合に於いて、名乗る氏名”と定めた「嵯峨期禁令」を発して万民の使用を禁じたのである。

    (注釈 ”経済的背景のない「賜姓源氏」”は、「荘園制」を利用して「名義貸し制度」を作って、「経済的背景」を構築した。”「皇族の権威」”を各地の豪族が成っている「荘園主」に与えて、”「荘園権威付け」”をさせた上で、「税の軽減」を発生させて、その見返りに「莫大な対価」を獲得した。
    更に、”「源氏名」”までをその「姓氏」に貸し与えて、”「疑似同族」として名乗る事”を認めて、更に「名義料」として「莫大な対価」を獲得した。
    これが原因で、全国に朝廷の許可を得ずに ”「源氏」”と勝手に名乗るの疑似の「姓族の源氏」が出た。
    これを「未勘氏族」と云うが、結局は「賜姓族の権威」が低下した。
    朝廷は、これに強烈に反発して、この「荘園手法」を盛んに行った頼宣系義家らの一族を、”朝廷の云う事を聞かず勝手な事をした事”を理由に、蟄居させて厳罰に罰して衰退させた。
    この為、朝廷に執って”権威低下”を招く不都合な”「社会的弊害悪外」”が出た事を理由に、遂に、「後三条天皇」が発案し「白河天皇」「堀河天皇」「鳥羽天皇」まで四代続いて行い、「院政政治」と云われる時代まで、この「荘園制」を1068年頃から始まって、遂に、凡そ100年かけて廃止して弊害を無くしたのである。


    これで、”「賜姓族」は、”「規律」”を失い、且つ、その”「立場」”を低下させて失い、更には ”「経済的背景を失った源氏」”は滅亡へと急速に走ったのである。)

    この禁令も、全て、「詔勅の趣旨」の範囲で、「源氏と青木氏」の「二つの方法の賜姓」には、”民への経済的負担の軽減”を前提にしている。
    従って、一切、”天智期からの「第六位皇子の賜姓」時の「不入不倫の権」を授与して保護する事”はせずに、あくまでも、「二つの賜姓」には、”保障の無い身分の「朝臣」を与える”のみで、”臣下させる”としたのである。

    この[嵯峨天皇の心]を護ったのが、「嵯峨源氏」、「村上源氏」、「宇多源氏」、「多田源氏」で在ったが、「清和源氏の暴走」で引き込まれて結局は滅亡した。
    この4氏は、「賜姓族青木氏」を模範として、同じ規律を作り、室町期まで生き延びる事が出来た。

    (この三氏の末裔としている「氏」があるが、室町期中期からの全て歴史的な矛盾の多い「未勘氏」であると考えられる。)

    以上が、「賜姓源氏」が、「子孫存続の規律」を失い、それに依って、”「賜姓族としての伝統」”を消失したその背景の経緯である。
    つまり、”「伝統」”を作り上げられる「組織体制」を確立したかの如何である事が、上記の「賜姓源氏」の経緯で判る。

    話を戻して、従って、「子」「孫」「曾孫」「遠縁」の「同族血縁」の「上記する弊害」は、この「賜姓源氏」等が採用した「四段階の妻」のシステムからでは”「妻方の血」”がより多く入り、つまり、「同じ血縁」と云う事の範囲では、実質上は、”「同族血縁の弊害」”は生まれ難い事に成る。
    しかし、「四段階の妻方式」では、確かに子孫は増え、その子孫の「血縁障害」は興しにくく成るが、「組織間の心絆」、「組織間の繋がり」は低下し、「慣習仕来り掟」の「規律」も護られなくなり、「氏是」は希薄に成り、猪突猛進型の氏が出来上がって仕舞うのである。

    鎌倉期から室町期までは、「四家方式」と共に、「二段階の妻(嫁)」(正妻 側室)としていた。
    (実質は、平安期から継承していた事が判る。)
    特に、”戦い”をしない事を”「氏是」(前提)”とした事から、”戦いに依る子の減少問題”は軽減して、「平安期の方式」は採用されていなかったのである。

    (注釈 むしろ、「四段階」の場合は、逆に、「四段階]には当然に「身分格式」が起こり、その立場から、「順位の感覚」が強く成った。
    その結果、”不必要な争い”が起こり、”良質な子孫”を遺す事の弊害と成って、”一族全ての「孫域」までを平等に「子」とする”とする範囲の定義は成り立たなかったと観られる。
    その意味で、「賜姓族の立場」としては、「純潔保全の目的]から、形式上は朝廷より公的に認められてはいたが、実質は採用されていなかったと考えられる。)

    話を戻して、そして、成人後には 今度は”嫁”として変身し、「氏の家」の”「我家の嗣子」”に嫁がせる手段を採る為に、”実娘”の子と同じ感情、感覚が親側に生まれるので、結果として、実娘に成り得るのである。
    ここに、この考え方の「慣習仕来り掟」に対して無理は生まれなく成っている。
    従って、この「考え方」は、早ければ早い程に良い事に成る。
    ”生まれた時点で、養女は決まる”と云うよりは、”生まれる前からその宿命は決まっている事”に成る。この仕組みとして臣下の中から選ばれて「母親代わり」の「乳母制度」が敷かれる。

    つまり、”孫域までの子供”の「男子」の場合は、”区別のない「嗣子」”と成り得る。
    合わせて、”孫域までの子供”の「女子」の場合は、”娘”として他氏に嫁がせる事に成る。
    この場合は、”同族間での血縁”も「一族の結束」を固める為にあるが、”純血性の弊害”を無くす為に、”家柄、身分のつり合いの取れた他氏に嫁がせる事”が優先して多用される。
    この場合は、「適時適切」を旨とされる。

    この場合、上記した要領で、”「嫁ぎ先」で生まれた子供”は、”「実家先」の「嗣子」”と成り得て、”「跡目」”が可能に成る。
    この場合は、”嫁ぎ先の跡目の事情”を考慮して、”嗣子の嫡子の位”を決めて、実行される場合が起こる。
    「青木氏」では、”承認を得た氏”の「武家の立場」として、朝廷に届けて「権威付け」して ”「第三子」を原則とする”と定められている。
    この事から、この「血縁のシステム」そのものが、「賜姓族の権威」を裏付ける為に、公的に認められたシステムと成っている事を物語る。
    それだけに、「第三子跡目継承の定義」は、”「純血性を保全する宿命」”を作り上げて、その”厳しい責務”を負っている事に成る。

    但し、「他氏の血筋」を入れる場合に於いては、「下位の家柄」との血縁と成り得る事から、「第一子」と成り得る事も起こる。
    「下位の家柄」に執っては、”「上位の嫁の実家先」”の家を継承する事に成り、自らの勢力圏を拡げる事に成り得る事から、つまり、”血縁による利得”と成り得るからである。
    ”「下位の家筋」”は、その流れの中で、積極的に、この”「第一子の決まり」”を実行しようと働きかけれる事に成る。
    又、要するに上記した一族の範囲内に於いてでも、どうしても「跡目の嗣子」が無い場合は、「孫娘」までの嫁ぎ先の範囲での”「遠縁の他氏」”から「養子」を迎える事に成る。
    要するに、この”「孫娘]”と”「実娘」”は、”子の定義”の中にある為に、区別はなく、”他氏からの養子(遠縁)”は、正規の”娘の養子”として扱われる。
    従って、「跡目」は、「養子」の”男子の子供(孫娘と実娘が生んだ子)”も「正規の跡目」としての「嗣子」に扱われる。
    ”本家分家”に関わらず、”氏”の中に生まれた”「子」”は、「氏の全体の子」として捉えられ、分家の”「子」”も、”「本家の跡目」を継承する”と云う事にも成るのである。
    又、当然に逆の事も起こる。


    この”「跡目の継承」”としては、”「嫡子」”は、この”「子」”の中から、その任に見合った者を選ぶ仕組みである。上記する「子の範囲」の中では順位の差は本来は無い。
    これを宗家筋が、その順位をその能力を見定めて決定し、行う仕組みなのである。
    結局、「孫」に位置する者が、「子」に位置する者を飛び越えて、「嫡子」に選ばれる事が起こるのである。
    つまり、「賜姓族の氏」を絶対条件として維持して行く為に、”より良い嫡子”を遺す為に採られる仕組みである。
    時には、この事に依って、必然的に人間の性から、其処に”「争いの種」”が必ず起こる。
    これを乗り越えてこその”「氏家制度」の「嫡子」”であり、”一族一門の「頭領」”と成り得るのである。
    「嫡子」としての「絶対条件」として、乗り越えなければ、それは「嫡子]では無い事に成る。
    それには、「嗣子」と「嫡子」の”「子」”は、お付きの良い家臣を持つ事が必要に成るのである。

    何故、この様な「慣習仕来り掟」に成るかと云うと、これは”「賜姓族」とする特別な立場”にあったのである。
    ”「賜姓族」”である限りは、「賜姓族」を護り続ける為には、”「純血」”を保ち、如何なる事が在っても、永代に「氏の保全(象徴紋の維持)」を保つ責務、宿命を負っていたのである。
    況や、”「子孫」無くして伝統は護れず、「伝統」無くして子孫は護れず”の例えより、故に、「青木氏」では、本論の”「伝統」”を護っていたのである。

    この”「争い」”を無くす為に、家康は、江戸初期に、”長男を嫡子”とする様に改めて、”争い”の無い様に決めた。
    「一般武士」もこれに従ったが、しかし、現実には、「高位の武家」では、”「伝統」”と云う物を消してまでも、”「長男は嫡子」の制定”にはあまり護られなかった。
    それは、「悠久の歴史」の持つ”「伝統」”の”「賜姓族」と云う「氏の存続」”そのものをも危うくして仕舞う恐れが高かったからである。
    (江戸幕府は黙認した為に、数少ない”「武家とする氏族」”は、”「存続」”が可能と成り、少なくとも対面を維持出来る範囲で、江戸幕府末期まで「武家とする氏族」を遺し生きる事が出来た。)

    しかし、この上記する「武家とする氏族」の跡目の継承の「慣習仕来り掟」は、「一般武士様」に形を簡素化して、伝承される事に成った。
    それは、”「純血の血縁」”を前提とする歯止めを排除して、むしろ”「混血の血縁」”を重視する方向へと進んだ。
    「純血の血縁」には、そもそも、「凡庸愚子武烈の危険性」(弊害)があり、「優劣の差」が極端に表れる。
    これを取捨選択して「嫡子嗣子」を定める事でより子孫を遺せて、「悪しき癖質」の血を排除できる。
    反面、「混血の血縁」には、「雑種融合の利点」の「優劣の差」が無く成る特質が生まれるが、「悪しき壁質」の混入(障害)で、「子孫」にその「壁質」を永遠に引き継いで仕舞うとする問題は排除出来ない。
    前者は、戦乱期の「氏存続の危険性」の高い時代には、特段に優秀な子孫を取捨選択して、”存続の為の有利性”を求められる。平安期から室町期には求められる血縁方式であった。
    一方、後者は、安定期の時代には、「氏存続の危険性」は低下するも、「優秀性」は兎も角も、平均化した子孫で、より「安定安全な子孫存続」は図れる有利性が求められる。
    江戸期から明治期に求められた血縁方式であったと云える。
    その意味で、両者ともに”適時適切な血縁方式”であって、何れにしても、「弊害と障害との問題」を持つが、ただ、本論の”「伝統」”とする点では、前者が、”より良く高質な伝統”を継承できるとする利点があったし、”「伝統の継承」の可能性”は高まる事も利点としてある。

    これは、この「純血血縁の弊害」を排除し、「混血血縁の障害」を収得して、”「跡目」に於いて血縁を進める時代”と成り、「一般武士の時代」と成った事に所以由来する。
    つまり、「子供の範囲」は排除され、「子は子、孫は孫」として定め、「本家分家の格式差」を明確にし、「養子養女」は”「子」”の範囲外として扱い、「血縁の有無]は問わずして積極的に迎えた。

    この時より、”「一般武士」の家”では、僅かに伝播された慣習も含めて、上記する「慣習仕来り掟」に依る感覚は、必然的に薄れ、又は無く成った。
    この結果、”「青木氏」等の世間からの「賜姓族の名跡」”の”言葉と認識”は、庶民の口から少しずつ消えて行った。

    (参考 明治20年頃位を境に、「賜姓族の存在」も余り知られなくなった。
    これに連れて、明治31年頃を最後に、「青木氏」としても、「同族血縁の慣習」は全く無く成った。
    例えば、筆者の祖母(京都の公家の末裔の叶氏)までを最後と成る。
    しかし、「賜姓族の家柄」としての「高位との付き合い」では、大正14年で終わっている。
    「財産的」には、明治35年から始まり、昭和十年頃を境に極端に低下した。
    「伝統の遺品」の関係では、未だ何とか保全しているが、先は短い可能性が有る。)





    武家の跡目継承の良い例がある。
    例えば、徳川吉宗は、地元郷士の「紀州巨勢氏」の娘の子で,「湯殿女」の身分の子供である。
    「妾子」より更に、下の身分の子供で、本来は継承権は無かった。
    継承に問題と成る特段の子である事から、他の嗣子からの”抹殺の憂き目の危険”もあってその命さえも危なかった。
    そこで、藩主は伊勢の青木氏に養育依頼して家臣を付けて隠した。
    しかし、吉宗はその素質を発揮してその頭領としての器に育てた事から、他の公家の子供らの「嗣子」を押しのけて紀州藩主になり、遂には将軍に成ったのである。
    この吉宗を密かに育て、政治や経済の専門教育を施して器にしたのは、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「伊勢加納氏」である。
    (紀州藩下級家臣でお付き家臣 後に「二足の草鞋策」を「青木氏」から受けて「加納屋を営み経済力をつけて嗣子に対抗できる様に勢力を蓄えた。歴史的に有名な「伊勢の加納屋」である。)
    何れも「二足草鞋の豪商」でした。この二つの財力で藩主ー将軍に押し上げたのです。
    「伊勢青木氏」は「伊勢加納家」と共に江戸に出て、「青木氏」は幕府勘定方に、「加納氏」は将軍側用人と成って吉宗を支えた。
    この様な妾子外の更に妾子の例がある様に、この「跡目の継承手段」の領域の中では、江戸期の武家には、血縁の有無如何に関わらず、拘らず、「賜姓族の決まり」とは違って、「大きな手段」として有効的に「養子,養女」は、「最大の手段」として扱われたのである。

    特に、違いとしては、「賜姓族」では、「女子」の場合は、他氏に嫁いだ「実娘」の「子」 つまり「外孫」までは「子供」として扱われる事に成る。
    「江戸期の上級武家」では、相当な困窮な場合を除いてはこの概念は原則無かった。
    女子の外孫までを引き取り「子」として育て、後に「養子」を縁者から採って「跡目」とする概念は無かった。
    この様に、”嫁ぎ先での子供”までを「跡目」とするには、「男子」だけでは、「四家方式の範囲」では、「平均寿命」と「跡目争い」などによって継承しきれない事が起こるからである。
    (互いに「跡目争い」の「戦い」も起こり、命を落とす事も多発した。)
    それと、次ぎの”「浄土宗の密教概念」”に従っている事に依る影響が大きい。
    それは、本来、”「人]は「女性」によって引き継がれる”とする「密教概念」から来ている。

    (現実に「人遺伝子」は「女性」に依って引き継がれているが、奈良期から「家」=[子孫存続の為の生理的能力」と云う範囲に於いて、この生理学的な「女性の本質能力」を見抜いての「概念の形成」であった。 この概念は「家訓」に明確に伝えられている。)

    この「二つの理由」から、”本来は「娘の子」が「実子」である”とする考え方を、「意識の根底」に”「氏の概念」”として強く持っていたのである。
    これが室町期から「武家社会の生存に関する闘争意識」(子孫存続)が強く成った事から、「男性化」にますます成っただけの事なのである。

    (因みに余計ではあるが、筆者もこの範囲での合理的な概念としては賛成している。「青木氏の家訓」は「世の理」を得ていると信じている。「青木氏の家訓10訓」参照)

    つまり、実家一門に「男子の跡目」が無く成った時、「外孫]の[孫息子」と[孫娘」までを「氏の子供」として跡目を継げる事に成る。
    今で云えば、従兄弟は、「氏の子供」で「嗣子」に成り得て、「分家本家」を問わず「跡目」にする事が出来るのである。
    故に、「曾孫」は、従って「対象外]で、仮に迎える場合は、仕来り上は「養女形式」を採る以外にないのである。
    この場合は、”従兄弟の範囲”では、”「養女」”としての扱いでは形式上は採用しない事に成る。
    これは、”「孫」”までを”「氏の子供」”としているからである。
    この何とか”血筋のある者”としての”「曾孫」”の”「養女」”ですあるから、”「養子]”を他氏から迎える事に成るのが殆どで有る。
    しかし、中には、上記の従兄弟までの「嗣子」に、この”「養女」”を嫁がせる事にも成る。
    「他氏の血筋」を入れて、”「同族血縁の弊害」”を無くしたのである。
    態々この様な事をしてでも、幼少の頃から先に積極的に家にこの「養女」を採る事をしたのである。
    全く、血縁関係の無い家筋からは、一般武士と異なり、養女として採る事はまずはありません。
    これは「純潔」を守る事を前提にしていて、紋が変わる事を極力避けたのです。

    (特に青木氏や秀郷一門は「賜姓族」と云う立場であった事から、この立場を止める事は氏の最大の命題として出来なかった。)

    「縁者・遠縁の養子」は、「三世内の濃い血縁」と成るので、出来る限りは「他氏の血」を入れる事が必要であるが、この場合は、逆に[家紋」が、「氏の系列」が変わると云う懸念を持つ事に成る。

    この様に、「家保全の安全策」として、「嗣子」に幼女のころから他家から”「養女」”として、先ず入れて、後に嫁(娘)にすると云う事も盛んに行われた。
    そうする事で、[家紋・系列の懸念」を何とか外そうとしたのである。

    但し、この関係は、”上位の家筋からの発想”に従う事に成る。

    (注釈 江戸初期からは、「一般武士の家」では、異なる「慣習仕来り掟」の「青木氏」と違う事から、「子」は「子」であり、「孫」は「孫」であり、「養子養女」は、”血縁性の無い考え方”となった。「賜姓族」としての柵が無い事から、”純血性を画する血縁”では無く、”より異なる血筋を画する血縁”とする考え方を採用したのである。)

    この「仕来り」より外れた場合は、”「曾孫」”からは、”「子供の定義」の「仕来り」”を外れるので、男女に関係なく”「養子・養女」としての扱いに成ります。
    特に、女子の「養女」とする場合は、取り分け、”直系から外れた支流族や縁者族や遠縁族からの迎え入れ”には、明らかに「子供の定義」から外れる事に成るので、”「養女」”と成る。
    この「養女方法」が青木氏では積極的に行われたのである。
    この場合、”迎え入れた「養女」”の「嫁」は、[嫁」としてでは無く、「実娘」に相当する「娘」として組み入れられる。

    この”「養女」の「嫁」”は、元は「養女」で迎え入れての事なので、上記した「慣習仕来り掟」から、長い間には両者ともに心情的にも繋がり、”「実子の子供」の扱い”に成る。
    そこで、この”「娘の定義」”から考えて、上記の「青木氏の子供定義」が成り立つのである。


    つまり、この「仕来り」より外れた場合は、”「曾孫」”からは、”「子供の定義」の「仕来り」”を外れるので、男女に関係なく”「養子・養女」としての扱いに成る。
    特に、女子の「養女」とする場合は、取り分け、”直系から外れた支流族や縁者族や遠縁族からの迎え入れ”には、明らかに「子供の定義」から外れる事に成るので、”「養女」”と成る。
    この「養女方法」が青木氏では積極的に行われたのである。
    この場合、”迎え入れた「養女」”から成った「嫁」は、”[嫁」”としてでは無く、「実娘」に相当する「娘」として組み入れられる。

    この”「養女」の「嫁」”は、元は「養女」で迎え入れての事なので、上記した「慣習仕来り掟」から、長い間には、「養親と養女」の両者共には、心情的にも繋がり、”「実子の子供」の扱い”に成る。
    そこで、この”「娘の定義」”から考えて、上記の「青木氏の子供定義」が成り立つのである。

    しかし、「養子」に付いては、積極的では無かった様で、これにはある「青木氏としての特別な事情」があった。
    それは、「青木氏」には、「悠久の歴史」を持つ、(ア)「賜姓族の権威」と、(イ)「二足の草鞋策」としての「商い」の「経済的な魅力」とが在った。





    >
    >
    >
    「伝統 14」に続く。


      [No.329] Re:「青木氏の伝統 12」− 「青木氏の四家訓戒 1」
         投稿者:福管理人   投稿日:2015/03/13(Fri) 05:55:43  

    「伝統 12」

    > >前回の末尾

    > 故に、(g)(h)から(i)
    > (i) 「伝統」≒「二足の草鞋策の氏族」
    >
    > 故に、(a)(g)から(j)
    > (a)「伝統」≒「理」」+「利」
    >
    > (j)「伝統の本質」≒{「伝統」≒「二足の草鞋策の氏族」}≒「理に叶う事」≒「利に叶う事」
    >
    > 故に、(a)(e)(f)(g)(h)(i)(j)から(k)
    > (k)「伝統」≒「二足の草鞋策の氏族」≒「賜姓の氏族」≒「商いの氏族]≒「伝統の本質」
    >
    > 結果として、以上の論理が働くからだ。
    >
    > そもそも、即ち、この「数式論の関係式」は、普通の武家社会では起こらない事を示している。
    > それは,「賜姓の氏族」(理)と「商いの氏族」(利)であると云う[特質な環境」を保有していた事に成るからこそ成り立っていた事であり、且つ、上記の”「伝統の原理]”が成り立つ”「不思議な環境」”を持ち合わせた「青木氏」”で在ったからこそ、”「伝統」は保障され維持されて来たのである。
    >
    > 故に、上記の数式論は、”「青木氏]”のみであり、「平安期−鎌倉期の48氏ある氏族」でも成り立たず、況してや「一般武家」では、決して成り立たない。
    >
    > 何れにしても、この「世の事」が、将又、「青木氏」にも、数式論通りに、”論理的に全てが働く”とは言い難いが、凡そ、その「流れ」は、この数式論での様に、確保出来ている事は証明出来る。
    > 個々の末梢事は、兎も角も、”「流れ」の確保”がこの世に於いて重要な事なのである。
    > ”「流れの確保」”のその「前提」は、少なくとも、最低限にも、”論理的に状況の骨組みを作り上げて置く事”にある。
    > 「青木氏」のみならず、この世の全ての「事の流れ」には、この「前提」が必要なのである。



    「青木氏の四家訓戒」

    この「前提」の無いところには決して「河の流れ」は生まれない。
    「河の流れ」が無いところには、「事の成就」(田畑の恵み)は生まれないのが、この「自然摂理」であり、「人の世」も例外なく「世の常理」である。

    要は、”奈良期から進めて来た「二足の草鞋策」”が全てを物語る事である。
    「青木氏密教の三相の理」の「時人場」(流れの確保)の何れもが大きく働いたと考えられるが、中でも、「流れの要」は、「時」ではなかったかと観ている。
    奈良期から室町期までの「生存競争の激しい乱世」で「時の云々」が大きく左右した。
    この「時の云々」を「機を観て敏」に導き働く「指導者と氏族」であってこそ生き延びられたのであり、「伝統」を護り通せたのである。
    その「対照的存在」が、「青木氏」と比較対象に成る「源平橘」であった事に成る。
    つまり、「源平橘」は、「上記の数式論」の「流れ」を無視した事に成り、依って、「伝統」が成し得なかったのである。特に、源氏は、上記した様に、「嵯峨期の詔勅」を無視して、「武」の身を押し通した事に「伝統」の破滅は勿論に滅亡の原因があった。
    然りながら、「亡びた平家」は「宋貿易」を行い「二足の草鞋策」を採っていたが、伊賀本家を中心とする「宗家筋」は亡びた。その原因は、上記の数式論が成り立っていなかった事に在り、「青木氏」の「四家」に相当する「一族の統制システム」が上手く採れていなく、ただ一人の「個人の能力」に委ねていた事が原因していた。
    しかし、大蔵氏等の同門一族は、上記の数式論が成り立ち、博多を中心に貿易を盛んにして「大蔵氏」を遺し得た。
    一時、「同族の清盛」にその富を奪われて抑え込まれたが、その後、「九州自治」を前提に「子孫拡大性」を採り「九州全土」を網の目の様な「血縁の筋」で固めた。
    秀郷一門とも血縁する等をし、「武」に頼らず、”広く薄く固める戦略”を採ったし、「後漢の末裔」「遠の朝廷」「錦の御旗」等の”「権威と象徴」”を保ち、「皇族の血縁」をも護った。
    更には「博多貿易」とは別に、国内の「瀬戸内の富の権利」をも獲得して生き延びた。
    同族の「平家」との違いは、「青木氏」と同じ「布位共生」を重んじ、「平家や源氏」の「布武」に頼らなかった事にある。
    上記の「青木氏の数式論」に当てはめても、「四家方式」とは異なる「統制方式」を採用していて合致するのである。
    「青木氏」の「祖先神 神明社」に対しても、北九州の「宗像神社」や「阿蘇神社」や「霧島神社」等ほとんどの「主要な神社」との関係を持ち「神社系氏族」を作り上げ、「神職」を入れて「一族一門」を固めた。現実に大蔵氏は「神職系氏族」が、幅を利かした。
    更には、「後漢」からの「強力な職能集団の大蔵部」を従え、「大蔵種材」の様な「民の憧れの的」(「毘沙門天」のモデルにも成ったとされる”「民の味方」”の「豪傑の首魁」が出る等、「青木氏の御師」に相当する立場も持った。全く何れの面を捉えても「青木氏」との大きな違いは、「純潔性の維持」を除いては無かった。
    むしろ、この点では氏子の領域までを血縁の範囲にする等全く「逆」であった。
    元々、後漢から帰化した経緯が、「無戦」と民との「供生共存・技能供与」で「共生族の立場」を採っていた。
    「平安期の氏族」の「48氏」の中で「子孫」を大きく遺したのは、「大蔵氏」だけである。

    況や、上記の他氏との比較評価に於いても、”「伝統」”の無い処に”「子孫存続」”は成し得ないの条理であった。

    その「共生共存」を旨とする「子孫存続」「伝統」を示す「上記の数式論」が「前提」と成り得ている。
    この”「二足の草鞋策」”が成り立たなかった場合は、「青木氏」に執っては、この「数式論の環境」は「水泡]と成り得ていたのである。

    この「数式論の流れの立場」を確保したからこそ、「商いの顔」と、「三つの発祥源の顔」と「賜姓五役の顔」を務めて来た「賜姓族の顔」(「五つの面」 「20の顔」)として「二流の顔」から ”「青木氏の伝統」”が生まれ護られて来た。

    明らかに、”「二足の草鞋策」”が、”「伝統」”を生み出したものであり、その”「二足の草鞋策」”を実行するに必要と成る”「子孫存続」”を維持し護った。この為に、”「四家制度」”が敷かれたのである。
    況や、「二足の草鞋策」=[四家制度」=「子孫存続」=「伝統」とも云える。

    これは、古来より「青木氏」の中で容認されて来た「根本の概念」である以上、就中、現代でもこの数式論が成り立つ事が出来得れば”「伝統」”は保たれるとも考えられる。
    但し、あくまでも、この”「子孫存続」=「伝統」”の上記の「数式論の環境」が維持されていればの事である。

    (注釈 「青木氏」を調べている中で、”何で「青木氏」にだけこの”「古来の伝統」”が継承され続けて来たのか”に大いなる疑問を持った。
    何かある筈で、 それを「紐解け」ば、”青木氏は判る”と考えた。
    当然に、「血縁関係」を保持していた「布位共生」の「佐々木氏等の氏族」と「布武」の「源平藤橘」等の比較対象があって、この「生き様の差」を研究した。
    その過程である”方程式の様なもの”がある事に気が付いた。
    その研究の経緯を経て、生き残るに必要なこの方程式の数式論を導き出した。
    つまり、「青木氏」とは、「多少の違い」はあるにしても、「佐々木氏」や「大蔵氏」や「藤原秀郷流一門」等、生き残った「氏族」の「共通項」があると考えた。
    この「共通項」を調べるのに大変に苦労をした。この結果上記の様な数式論に辿り着いた。
    例えば、”「商い」”とする場合、この「商い」そのものの「確証」探しや、それに類する”何かの糧類”などを見つけ出す事の「資料探し」が大変であった。
    この様な研究は現在では「個人情報保護」や「著作権」等で縛りが出来て無理であろう。
    現在、各地域の宗家筋の「青木氏の現状」を全て把握している訳ではないが、筆者のルーツも明治35年の松阪大火の出火元で950年以上続いた「福家の商家」も「倒産の憂き目」を受けた。
    しかし、他の「四家の子孫」は、この「商家」と「家」を各地で引き継いでいるし、筆者の親族も「商い」をしている。
    しかし、”「子孫拡大」”は果たされていて、ある程度の数式論の環境は保全されているが、”「伝統」”は、「時代の変化要素」の方が大きく、上記する”「合理性」=「継続」=「信念」=2”を失い「縮小する見込み」である。他氏も同じであろう事が調査の過程で判った。
    果たして、「伊勢の秀郷流青木氏」は、兎も角も、「入間の秀郷流青木氏」も、この「伝統」を継承し得ているかは、一時は把握していたが、残念ながら、最早、判らなくなった。
    「信濃青木氏の福家筋」は、未だこの”「伝統」”を何とか維持しているらしい事が確認できている。)

    ・「青木氏の四家訓戒」(氏是)
    さて、そこで,「伝統の本質」の「合理性の血の質」と成り得た「四家方式」の上記の「子の定義」を護るには、”「氏の根本的な概念」”が必要であった事が判る。
    況や、それが、”「氏是」とも云える概念” 況や、「血の質」である。
    即ち、「氏是」=「血の質」である。
    そもそも、”「お仏像様」の掌で育てよ”の「氏是」と成っている「訓戒」が、「大化期の発祥期」の頃から言い伝えられていたのである。
    「氏是」の”世に晒す事無かれ、何れ一利無し”の「青木氏の訓戒 氏是」と共に、長く「子孫」に伝えられて来たこの「訓戒」もあったのである。
    この「お仏像様」は「青木氏の護り本尊」である。
    この「訓戒の意味」は極めて深いが、ここで、この”「青木氏の四家訓戒」”が、”お釈迦様の掌で・・云々”の言葉が世間でも云われている。
     ”何故にこの「氏是の言葉」が世間に出たのか”と云う一つの疑問がある。
    そもそも、「青木氏密教の訓戒」で「氏是」と成っているものが、”世間に出たのか”には何か意味を、或は、”「青木氏の生き様」に関わる事が起こったいたのではないか”と云う疑問である。
    「密教」なので外に出ると云う事がどうしても考え難い。
    そもそも、「顕教」の”「宇宙仏の盧舎那仏」からの「教え」を、「お釈迦様」が伝える”とする”「顕教」の「お釈迦様の説」”である事から、”お釈迦様の掌で”の言葉は、「密教」では無く、「顕教」である。
    明らかに「顕教」である以上は、「時代性」から観て、もっと後の「鎌倉期の時代」に最初に広まったと考えられる。
    そうすると、伝えられる手段には、次ぎの事が考えられる。
    ”鎌倉時代の「浄土真宗」”に依って,「仏説」を「庶民」に判り易く伝える為に、”一般化して世間で使われた言葉”である筈である。
    この「時代性」と、世間に伝わる「伝達手段」から観て間違いはないだろう。
    「法然−親鸞の関係」と「親鸞の苦悩」の「歴史観」から観て、「民の領域」まで伝わるには、「浄土真宗」しか無い筈である。

    (注釈 浄土真宗はその路線の考え方の違いから、四派に分裂した。しかし、この部分に於いては、「共通の仏説の説法手段」であり、路線には関係が無い。だとすると、鎌倉初期前後であり、親鸞そのものが伝えた可能性が考えられる。
    だとすれば、「青木氏の浄土密教」−「密教浄土宗の法然」−「法然弟子 浄土真宗の親鸞」の流れの中での関係から伝わったものと考えれば、「密教の門外不出の掟」は開ける。
    「奈良期」から「平安期」に掛けて、そもそも、「僧侶」は、「国家機関と朝廷が認める者」以外には成れなかったし、「僧侶」から自由に「仏教の教え」が「民」に伝われば、「国家の安寧」が脅かされるとして、「仏教の民への布教」を禁じていたのである。
    況や、「密教」のみとした経緯がある。
    然し乍ら、基本的には、この禁令の傾向は社会の中では、平安期末期まで続いたが、これに対して「民への布教」を実行したのは「行基」−「親鸞」であった。
    ここで、「法然との軋轢」が生まれて、「真宗の宗派」を構築した。
    従って、「法然と親鸞の軋轢」が起こらない前とすれば、この「言葉の伝承」は起こる。
    ただ、「行基」(660−749)はこれを破って布教を続け、遂には、「行基」と「民の賛同」を得なければ一切の社会の工事も進まない状況と成った事から、「聖武天皇」は「行基」を許して大僧正の最高位の位を与え、「興福寺建立」等の責任者に指定し、これを成し遂げた経緯が在って、禁令の中でも「仏教」は民の中に浸透して行った経緯を持っている。
    伝わった時期とすれば、730年頃の行基か、1180年頃の親鸞かに依る。
    この環境の中で、「禁じられた仏説」の「青木氏密教」が民の中に浸透した事は異例なのである。
    その意味で、”何かが青木氏との間であった”から伝わったのである。
    ”「青木氏と親鸞の親交関係」が在ったか”は、資料不足で不明であるが、「古来の和魂荒魂の宗教」と「古来仏教」とを融合させた「青木氏密教」と、後に、「浄土宗密教」をも取り込んだ「青木氏」とは、「法然」は深い関係があった筈である。
    前段で論じた平安期に「仏舎や仏画や三昧耶形や毘沙門天像の関係」での事でも親交がない方がおかしいと考える。)

    (注釈 宗教論争時に伊勢に移動している経緯がある事から、青木菩提寺で親交している筈である。
    「親鸞の布教」にも伊勢にも旅している事からも、仏説に付いての議論もあったのではないかと推測できる。
    何れ、「二人の逗留」の証拠は、残念ながら「菩提寺の消失」で資料は見つからない。
    しかし、奈良期から平安期まで間に「伊勢の菩提寺」に「高僧の行基」を始として「複数の高僧の逗留」はあった事は判っている。
    それは、「青木氏の口伝」でも、「紀州徳川氏の資料」の中からも認められるので、充分に考えられる。
    「紀州徳川氏」の資料の中に「青木氏菩提寺建立」に「行基」が関わった事が書かれている。
    筆者は、「本尊仏像」を根本的に嫌い、「釈迦如来像」や「大日如来像」や「毘沙門天像」の「本尊仏画」を採用した「親鸞の伝達説」を採っている。上段で論じた様に、この時の仏画は多くは「青木氏の僧侶」が多く書いていた関係から、”伝わり方が平準である事”から伝わったと観ている。
    「青木氏」は「布位共生」を旨としての氏であった事から行基にしても親鸞にしても平易に親交があった可能性が観られる。)

    「青木氏の密教浄土宗」の中で使われていたこの「四家三様の言葉」が、何らかの事から、この”「訓戒」”が「親鸞」に伝わり、そこで、布教の中で、顕教であるが故に ”「仏説」を判り易く伝える言葉”として用いられたと観ている。
    その証拠は、特に「親鸞」は、その特定の階級に布教した「密教であった浄土宗」の「難しい説法」を、「顕教」として「庶民」に判り易い言葉で多くの事を云い換えて伝えている。
    この「氏是」も、”「青木氏の「お仏像様」(密教)”が、”「お釈迦様」(顕教)”に変えて伝えられたと観られる。

    その前に、既に、「青木氏」では、「密教」の「大日如来のお仏像様」は、”奈良期の賜姓時の賜物”であった事から、その時より”「お仏像様」(鞍作部止利の作)”を祭祀していて、「密教の考え方」を基本とした「平安期の家訓」までの間には、この”「訓戒の言葉」”は既にあった事が判る。
    そもそも、「青木氏」で、この”訓戒として使われていた言葉”が、”浄土宗が「密教」から「顕教」に成った時点(鎌倉期初期)”で、「浄土真宗」から庶民に”「仏教の教え」”を判り易く布教する為の一つの「説法手段」に使われて伝わったものと観られる。
    「密教浄土宗」が、正式に「顕教浄土宗」となり「密教」を解除したのは、家康に依る「江戸初期の浄土宗督奨令」からである。
    しかし、この時も、”上級武士の宗派”として定められた為に、庶民に一般化したのは、矢張り、鎌倉期の「真宗」であると考えられる。
    「浄土宗」は、「密教」であった事から、”何かと説法は判りにくい漢文の言葉”で伝えられている。
    しかし、他宗、特に「真宗」は、この言葉以外にも、”多くの訓戒”を、庶民に”「仏説」を布教伝道する「云い換えの判り易い言葉」”を多く作り上げていた。
    又、”「本尊とする仏像」も持たない戒律”の「浄土真宗」では、当然に、「判り易い言葉」を使ったと観ている。
    有名な「真宗の教え」の”唯念仏をただ唱え信じよ。然れば汝は救われる。”は、当に、この”お釈迦様の掌の中で”の ”「換え言葉」”であった。

    この事から、従って、「密教の訓戒]であったものが、”「お仏像様(大日如来)」”が、「顕教の訓戒」として ”「釈迦如来」の「お釈迦様」”に変えられて伝わったと筆者は観ている。
    ”「密教の訓戒」”が、”「顕教の訓戒」”に成った例は、”浄土宗系の宗派”には他にも多いのである。

    話を戻して。「四家の嫁」は この”お仏像様の掌で育てよ”以下の通り育てるのである。
    従って、「四家方式」の”「嫁」(養女)”は、「自分の子供」と、更に、「夫に成った息子」の「子」を育てる訳であるから、「祖父の親」から観れば、この、”「嫁」(養女)”は、最早、”「嫁」”では無く、「実娘」に相当する”「娘」”としての位置づけが必然的に起こる。
    つまり、その「娘」と成った、”「嫁」(養女)”は、”「実娘」の扱い”と成った時点で、”「息子の親」に育てられる”とする考え方を採る事に成る。

    この前提には、”「嫁」(養女)”は、「基本的な処置」として、”「女子の曾孫域」以上の縁籍の者”を幼少期より「氏の家」に迎えて”「養女」”として育てる。
    この事から、”他氏から来た嫁”、”曾孫域(遠縁)から来た嫁(養女)”の二通り”「嫁」”が生まれる。
    しかし、そもそも、”他氏から来た嫁”は、「青木氏」は「純血主義」(同族血縁)を前提とする為に、無理に「養女の形式」を採ら無い限り、原則はあり得ない事に成る。

    「四階妻の制」と「四家妻の制度」
    従って、「他氏の血」を入れる為に、次ぎの方式を採用した。
    それは、「妻の定義(嫁)」に関わる。
    この場合は、「一夫多妻の形式」を本来は採用している事に成る。
    しかし、”「多妻」”と云っても、「賜姓族の範囲」では、ハーレムを作る程のイメージでは無く、「妾」を置く事の前提と成る。
    上記するこのシステムを健全に進め維持する為に、奈良期から平安期に掛けて、「賜姓族」には「三つの発祥源」の「象徴氏」の責務宿命が在った。
    「責務宿命」である事から、「象徴氏」を消滅させる事は国策上好ましくないとする政治上の判断理由があった。
    そこで、それを護る為に、”絶対的子孫存続の使命”が課せられていた。
    その事から、青木氏には、本来、「四階妻」(后、妃、嬪、妾)」の制」として認められていた。

    (注釈 現実には、「青木氏」の「系譜添書の資料」から観ると、一人の先祖に対して、子の母の名前が、四人としては出て来ない。確かに「妾子」の記載はあるが、記録からは”四人”は無いので、「賜姓族」としては、現実は、実質は採用されていなかった事が云える。)

    この注釈から観て、ではどの様にして、”「子孫」”を生み出していたのかが重大な疑問である。
    この事に付いて次ぎに検証する。

    ・「四家の原則」と[福家方式」
    それは、「四家の原則」にあったと観られる。
    特に、「藤原秀郷流青木氏」の「特別賜姓族青木氏」は116氏に及んでいる。
    従って、系譜から観て「伊勢の特別賜姓族青木氏」を除いては、この「四家の原則」は採用していなかった事が判る。
    つまり、「皇族賜姓族青木氏」の場合は、この「四家の原則」を採用していた事に成る。
    つまり、「青木氏」は「本家分家方式」を採用せず、上記に述べた様に「福家方式」を採用していた。

    (注釈 「嵯峨期の詔勅」で、「皇族の配流孫」であるとして名乗った「青木氏」も在ったが、この氏は全く、「皇族配流孫」としての名跡を利用しての出自であった事から、一般の姓氏の国衆の武士として生き延びた。依って、本論の”「伝統」”と云うものとは違い、「武士の家の伝統」と成っている。 )

    この「福家方式」は「四家制度」で構成していた。
    そもそも、”「純血性」”を確保するには、”「本家分家方式」”では、事の次第に依っては、無制限に広がる「拡大性」を持っている。
    しかし、この「拡大性」には、「純血の度合い」が薄く成ると云う欠点を持っている。
    それでも、「吊り合いの取れた血縁」に依っては、”ある程度の純血”を保てれば、「賜姓族」としての対面は保てる。
    依って、関東の「特別賜姓族青木氏」は、止む無く”「純血」より「拡大性」”を重視していた事に成る。
    その「役務の大きさ」と「24地域」と「116氏」から観て、これを維持するには、「四家方式(20家)」では、論理的(下記)に無理であろう。
    この”「特別賜姓族」の考え方の概念”は、歴史的に観て、その「行動の発想基準」は、総じて、次ぎの様であった。

    「子孫存続」=「純血性」<「拡大性」
    以上の数式に従っていたのであった。

    上記の「四階妻の制」を捉えて地道で行けば、確かに、この「拡大性」は担保できる。
    これには、「経済性の保障」が前提と成るが、この条件をクリヤー出来得れば、戦乱期の室町期までは”「子孫存続」”の点では合理的である。
    ”「特別賜姓族青木氏」”の場合は、”宗家の護衛団の役目柄”で各地に子孫を送り、役目を果たさなくては成らなかった為に、”「子孫」”を確保する必要が絶対的にあった。
    又、「祖先神 神明社」の建立の補完義務もあった。
    従って、この「四階妻の制」を積極的に採用したと観られる。
    (その意味では、「特別賜姓族の秀郷流伊勢青木氏」は入間宗家とは異なっていた。)
    更には、「特別賜姓族」が「補佐役」としても、その責務(神明社建立)を果たさなくては成らなかった為にも、「子孫確保」は、”無制限”とも云っていい程に必要であった。
    又、赴任先の現地に、政治的な戦略からも、”「現地末裔」”を発祥させている事からも、この「116氏」にも及んだ事にも成る。
    しかし、ここで、「四階妻の制」には、「高位の氏」として注意しなければならない問題があった。
    この為に、この事を認知していた為に、「四階妻の制度」を朝廷は、恣意的にも容認して、”反乱等の疑い”を取り除く為にも公認したのである。
    「天皇家」が率先して、この制度を奈良期から敷いていた。
    これらの事もあって、「拡大性」を含んだ「四階妻の制」は、「賜姓族」などの”国策実行の「認証氏」”に躊躇なく公認したのである。

    ところが、「皇族賜姓族」でのこの”「四家」”では、「特別賜姓族」の様に、「四階妻の制」は敢えて採らなかったのである。
    それは、当然の事として、”「子孫存続」=「純血性」>「拡大性]の概念”が在ったからである。
    ここが、同じ身分、家柄、官位、官職を持つ「特別賜姓族」との”大きな概念の違い”として出て来る。
    但し、”伊勢の「秀郷流青木氏の特別賜姓族」には、どの資料から観ても、この傾向を強く見られない。
    この原因は、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」との血縁関係を強く持った所以であると考えられる。
    何故ならば、親交血縁を進めば、”「子孫存続」=「純血性」>「拡大性]の概念”に関わって仕舞うからである。
    「同地域」に於いて、「同一行動」を採り、深く「親族関係」を保っている立場に於いては、「子孫存続」=「純血性」<「拡大性」の概念は、極めて取り難いからであった。
    この”取り難い”の範囲からは、時と場合に依っては”争い”の範囲にも成り得る。
    現実には難しい差である。
    「地域外」であれば、この「概念の差」は、”調整、仲介”と云う手段も取れるが、「地域内」では無理である。
    それを象徴するのが、「伊勢四日市の融合青木氏」である。
    「皇族賜姓族の伊勢青木氏」と「特別賜姓族の伊勢青木氏」の”「融合青木氏」”が存在する事である。
    「跡目養子」、「婿養子」の何れにも「血縁混合」して「融合」を成し遂げた「青木氏」である。
    又、一方で、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」と「特別賜姓族の伊勢青木氏」は、平安期よりの「女系での濃厚な血縁族」が存在するのである。
    しかし、この”「融合青木氏」”は、「女系」のみならず「男系」の「血縁族」でもあって、両方の血筋を等しく持ち、尚且つ、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」の”「四家」”の一つに位置づけられているのである。
    本論の”「跡目の子の定義」”が両方に働くと云う極めて有利な「氏族」が発祥していたのであった。
    この「融合青木氏」と、「伊勢の血縁青木氏」(秀郷流伊勢青木氏)とが、「皇族賜姓青木氏の五家五流」と「入間の武蔵青木氏の宗家」との間での問題で、この「調整仲介の役目」を果たしていたのである。
    取り分け、この「融合青木氏」が”「四家」”に位置する事は、この重要な「調整仲介役」の為に発祥させたと考えられる。
    そして、「女系での濃厚な血縁族」の「秀郷流伊勢青木氏」(特別賜姓族伊勢青木氏)と共に、「武蔵の入間の秀郷流青木氏」の「宗家との調整」を図ったと観られる。

    (「神明社建立の問題」や「同族血縁の仲介」等で数多くの問題があり、この調整仲介して進める大きな役目があった。)

    この事で”「概念差の問題」”は解決した。

    ・「四家」「福家」「家人」
    「四家制度」のシステムでは、[福家]の当主は、「子供」(息子域)の領域では、「四つの家」を構築出来る。
    これ以上の家は構築出来ない。
    仮に「子の嗣子」が、四人以上と成った場合は、「余人」(選抜された四人以外の子)は、”「家人」”と成るが、「新たな家」を興す事は出来ない。
    「余人」の「家人」に成った「嗣子」であった「子」は、「家」をお興す事が出来た者の下の四家に配属される。

    「嗣子の余人」が「家人」と成った以上は、「他氏」との血縁は自由に可能と成り、ここで「他氏の血」が入る事に成る。
    この「嗣子の余人]であった家人と成った「家人の男子(息子)」が、四家に嗣子が不足する場合は、「四家副役の養子」と成り得る。
    ここで、初めて四家の中に他氏の血筋が入る事に成る。
    ここで云う「他氏」とは、「シンジケート」の事で、「家人の男子(息子)」は「伊勢シンジケートとの連携の血縁」に良く使われた。

    この「嗣子の余人」の「家人(家臣に相当)」に成った者は、「家族」を持つ事は出来るが、この一族は永代で「家人の立場」で終わる。
    そもそも、「家人」には、この「血縁のある家人」と「血縁の無い家人」(普通の家臣)とに分けられる。
    この「血縁のある家人」は、「血縁の無い家人」の「格式下の跡目養子」として入る事が出来る。
    この「格式下への養子縁組」は、最早、”「養子」”とは「賜姓族」である為に認めない。
    「賜姓族」では、その”「純血性」が低下する”と云う事を前提に、”「賜姓族」より格式下への家柄”に男子が入る場合の縁組は、「賜姓族側」では”養子”としての呼称は採らず、”「家人」に成った”として呼称として扱われる。
    つまり、「親族の範囲」から外れ、「他人の範囲」に入る事に成る。
    しかし、この「格下の跡目」に入った[血縁の無い家人」の家は、この事に依って次ぎの氏を発祥させる事に成る。

    ”「絆青木氏」(1 男系)”
    として発祥する事に成り得る。

    この”「絆青木氏」”には、「五家五流の賜姓族青木氏」から「娘」が嫁いで、血縁氏を発祥させる。
    ”「絆青木氏」(2 女系)”
    以上の2氏が発祥する事に成り得る。

    以上の「二流の絆青木氏 A」(「絆青木氏 1」 「絆青木氏 2」)
    ”「血縁のある筋目」の氏”が在る。

    更に、この「絆青木氏」には、”「家臣」に相当する「家人の氏」(侍)”がある。
    「武士部」の「絆青木氏」(3)

    「青木部の職能集団」(商人含む)「部人」に相当する「家人の氏」(部)がある。
    「青木部」の「絆青木氏」(4)

    以上の「二流の絆青木氏 B」(「絆青木氏 3」 「絆青木氏 4」)
    ”(血縁の無い筋目)が氏”が在る。

    このAとBの「二つの絆青木氏」の「四流」は、「格下の跡目養子」を認めていない以上は、差別なく格式は同じとして扱われる。
    「格下の跡目養子」として入る「4つの絆青木氏」は、「四流」の何れを問わない。

    これを「賜姓族側」では、”「格下養子」”と呼称するが、元は「嗣子」であった者が、「格下の家人」と成る事に対する「一族の位置づけ」である。
    「四家方式」の組織の運営上は極めて重要ではある。

    しかし、ここで「青木氏」の「氏内の子供」と定義される者の意識の中には、ある程度の”自由意識”があって、次ぎの様に成っていた。
    つまり、口伝とかでも判るのだが、「福家」がガチガチに命令で決めていた様では無かった模様であった。。

    ”「侍」として生きたい者(「氏人」)”と、”「家人」「職人]として生きたい者”の「嗣子」があって、多様であって、この何れにも”「特別の傾向」”は無かった模様で在った。
    当然に、この「嗣子の意識」から、”「四家」に成る事”を敢えて断る者、「家人」や「職人」に臨んで成る事を好む者、があった模様で、比較的に自由意識が伝統的には認められていた。
    恐らくは、好きこそものの上手成れ”の通り、「適材適所」を認めていた。
    この事は、家訓にも述べられているので、積極的に認められた制度でもあった事に成る。
    家訓にあると云う事は、”本人に才能が有る”からとして強制的に配置すると、本人にその「気概」がないと、”「四家の統制」が取れず良い結果を産まない”とした考え方を採用して居た事に成る。

    最終は、”「福家」と「四家」の「最終判断」”で決められて ”「適材適所」”に配置されていた。
    上記した「5つ面」「20の顔」があり、上記する「4つの絆青木氏」もあり、配置先としては多種多様があり、問題は無かった模様であった。
    そもそも、「伊勢青木氏」の範囲で観ると、特に、”青木氏の遺伝による特質”か、むしろ、積極的に「職人」「商人」に成りたがる傾向を持っていた。
    その「青木氏の遺伝傾向」は、「技術関係の者」と「商業関係の者」の特質に分けられる。
    現在も伊勢ではこの傾向を持っている。
    青木氏始祖を始めとして、奈良期では「軍略氏の血筋の家柄」ではあったが、不思議に政治家は出ていない。

    (余談ではあるが、筆者は、兄弟親族の中でも、「技術者系の血筋」を引いているらしい。技術者の「先祖の逸話」が多く遺されている。
    「機械」などを良く作り、「鉄砲」などを上手く操る名人が居て、紀州藩に依頼されて家臣に指導した事も伝わっている。現代の機械家電の大メーカーの初代の工場長を請け負った人物もいた。)
    これらは口伝逸話でも多く伝えられている。)

    「四つの環境」
    そもそも、歴史的に次ぎの環境が物語る。

    (1) 奈良期から「三つの発祥源」(武家、侍、氏)として位置づけられるも、”「猛猛しい武士の環境」”には無かった事
    (2) 平安中期からの「二足の草鞋策」の長い間の「商いの環境」があった事
    (3) 奈良期からの「国策氏」としての「青木部の職能集団」を独自に持った「技能の環境」があった事
    (4) 奈良期から明治期まで「武家の環境」にはあったが、「戦い」を是としなかった「氏の環境」があった事

    以上の「四つの環境」が、1300年程度の間に、「氏内の遺伝的傾向」が生まれていたと考えられる。

    因みに、筆者は「技術系」の遺伝であるが、兄弟を含む親族には、「商業系」に分けられるが、「商才」を強く持つ「商業系の者」が一族には実に多いし、長く続けられた”950年続いた「伊勢紙屋長兵衛」”がそれを強く物語っている。
    上記の数式論から、「二つの青木氏」には、この傾向が強かった事が判る。
    「秀郷流青木氏」は、一族の「護衛団の役目」を担っていたが、各地24地域で殆どと云って良いほどに”「豪商」”が実に多く出ているのもこの事を物語っている。
    (青木氏の守護神 神明社」の論文でも論じている)
    深く同族血縁関係を持ち、明治35年までその関係を持ち続けた「信濃青木氏」に付いても同じ事が云える。
    この事から、「甲斐青木氏」や「摂津青木氏」にも相当の血縁を始めとする親族関係を維持して来た事、当然に、少なくとも「伊勢秀郷流青木氏」との関係は、「融合青木氏」が発祥している事から観ても、”親族以上であった事からも”同じ傾向の伝統”を持ち得ていた事が云えるのである。

    ここには、明治期まで続いた”「神明社建立や一族の菩提寺建立」”等の「職能集団の青木部」の「技能の遺伝」も見逃せない。
    一族にこの「遺伝的潜在能力」を持ち得ていないと、”950年”は無理であろう。
    これは何の保証もないが、「始祖の施基皇子」の「日本書紀」に記載されている活動から観る極めて”高い能力”が基礎と成って”遺伝している”と観られる。
    況や、これは、最早、”「伝統」”の一つと成り得ているのである。
    これらは、本論で論じている事を総括的に証明している。

    ・「主役(しゅえき)と副役(ふくえき)」
    更に「四家方式」に付いて続ける。
    「子の定義」が「孫域」までとしているので、「四家」は、”「家」を興した者”の下に、その子(孫)にも四家までを認める。
    従って、「子域の四家」(嫡子四人 主役)と、「孫域の四家」(嫡子四人 副役)が生まれる。
    結局は、最大「16の家」が興る。この範囲を超えない。
    この「16の家」で、「5つの面」「20の顔」を熟す事に成る。

    「福家」の「当主の親」(A)が没するか、病気や老化等の何らかの理由でその能力が低下すると退役すると、「子域の四家」から「四家の合議」によって「福家の当主」(B)を決める。
    この時、「孫域の四家(副役)」が、「子域の四家(主役)」に昇格する。
    所謂、「世代交代」が積極的に行われる。
    「当主の親」(A)であった他の四家の三人は、一族の「子の定義」の域の中から選択されて「跡目継承」が可能に成り次第に主役を退役する。
    代々これを繰り返す。

    この様に、「福家」が何らかの理由で潰れても、一族は衰退しない事に成る。
    このシステムを採用する事で、「拡大性」は制御され、「子孫数」も一定に保たれる。
    又、「血縁の度合い」も一定に保たれる。
    この「四家方式」では、当時の時代の寿命や医療環境から観て、「子孫数」を無理なく保てる事が出来る方式と成っていた。
    「氏」の一族で「孫域」までを「子」として、男の「子域」を最低二人にし、女子を最低二人とし、その嫁ぎ先の子域までを二人とするとして、そこに平均25年経過後の「孫域の子」を加えた子孫数を「16人」と見込めば確保できる事に成る。

    ・「妻+妾」の前提
    男子2 女子2の子
    ±2の許容範囲
    男子15、女子10を出産最低限度
    以上を前提にして「系統図」を作れば、次ぎの結果と成る。

    最速20年、最遅32年で、平均26年の結果が得られる。

    つまり、「福家の当主」と成った時点で、妻子で、25年後(最低20年−最高32年)には、最低でも16人(MAX24)以上の「子の定義」の子孫が生まれる事に成る。
    これに「妾子」を同じ条件で加えれば、平均13年後(最低10年−最高16年)には、最低16人以上の「子の定義」の子孫が生まれる事に成り、無理なく確保出来得る。

    この数式論は、次ぎの様に成る。

    {(男子2±2)×4+(女子2±2)×4}+{(孫2×4)}>16

    この「四家方式」で行けば、当時の「子の生存率」を考慮しても、16は、最低で「8の範囲(50%)」で確保できる事に成る。
    これに、「養女方式」と「家人方式」から補完される事に成るので、上記の数式論は「8の範囲」は「2の範囲」で確保できる事に成る。
    そこで、「±2」の「+2の範囲」で数式論が働けば、「2の範囲」は消えて、100%問題は無い事に成る。

    注釈
    資料から平均的に「高位の氏の生存率」を考察しても、最悪であった室町期の生存率(30%−35%)から観ても、確実に”安全領域”である。
    しかし、「青木氏」は、そもそも”「氏是」”としても、「室町期の戦い」には”激しい戦乱の状況”はしなかった。
    記録での”戦い”の全てを観ると、「シンジケートのゲリラ戦(撹乱戦法)」を展開した事が判っている。

    この「四家方式」は、この「計算の前提」で敷かれたシステムである事がよく判る。
    論理的に、逆説的には、「武家」では成り立たない事に成る。
    そして、この「四家方式」が継続して始まったとすれば、最初の10年は削除されて、「15年の軌道」に乗る事に成るので、「妾子」無くしても、「妻の範囲」で、この「四家方式」は成立し続ける事に成る。
    しかし、実際は、「継続中での継承」と成るので、「15年の軌道」は、殆ど、「0年の軌道」と成る。つまり、見習い中だった「四家副役の後継者」が代替わりして引き継ぐ事に成るので、「0年の軌道」は保障される。
    更には、この安全率として、「四家方式」の継続中は、「妾子」に「子の定義」の範囲を拡げれば、「跡目継承の問題」は完全に霧消する。

    (「妾子」を設けるかどうかは、四家のみならず、家人の跡目の問題も考え合わせて、状況に応じて判断する事に成る。)

    これで、仮に、「氏是」外の範囲で、室町末期の「戦い」の様な事が起こったとしても、問題は無い事が判る。

    要するに、この「四家方式」では、”「子孫存続」=「純血性」>「拡大性]の概念 ”は安定して保たれる事に成る。

    逆に、「秀郷流青木氏」や「11流の源氏」では、”「氏是」”が違っていた事も含めて、「四家方式」は無理である事が判る。
    「秀郷流青木氏」の存続は、「特別賜姓族」である事から、「源氏」の様に「戦いの氏是」は採らなかったし、「賜姓族」であった事から、上記する「子の定義」も含めて ”「青木氏」と類似する行動を採った事”に所以する。
    故に、”「子孫」”を確実に現在までも遺し得たのである。


    ・「源氏の衰退理由」
    では、”何故、全く「皇族系の同族」である「賜姓源氏」が、「滅亡の憂き目」を受けたのか”対比する意味で考察して観る。

    (但し、ここでは「賜姓族でない源氏」、「同族でない源氏」もあるので、同族の”「賜姓源氏」”と表記して論じる。)

    ”「源氏」”と称するものには、そもそも次ぎの三つがある。
    (イ)「嵯峨期詔勅」を受けて、「賜姓」を受けないで、「源氏」を名乗った「皇族」
    (ロ)「荘園名義貸し」で名乗った、皇族でない地方豪族の「未勘氏の名義源氏族」
    (ハ)「荘園制」で「遠縁の女系」と血縁して勝手に「源氏を名乗った地方豪族」

    (ニ)正規の賜姓の手続きから外れて、特別に「賜姓の源氏」を強引に受けた「清和源氏」

    但し、最も勢力を持ち、滅亡の引き金を引いた”「清和源氏」”も厳密に云えば「賜姓源氏」とは云い難い。

    その理由を論じる。
    「清和源氏」を名乗った「経基王」は、「清和天皇」の「第六位皇子」では無く、次ぎの陽成天皇の皇子である。この「陽成天皇」は、同族血縁の障害で、性格が破綻していて、皇子順位も低く、正規の「陽成源氏」が賜姓がされていて、既に、その「賜姓資格」が「経基王」には現実に無かった。
    そこで、「経基王」は、先代の清和院の第六位皇子の貞純皇子の系列に入って、特別に賜姓を懇願した。この時、既に、清和天皇の正規の皇子の「賜姓源氏」が賜姓されていた。(二流)
    祖父の位に当たる「清和院」は賜姓を嫌がった。
    そこで、「武蔵介の役人」として終わる事を嫌って、何とか「賜姓の権威」を受けて、この”権威”を持ち伸し上がろうとして”野心”を掻き立てた。
    そこで、手柄を立てる事で認めさせる様にして、「将門の乱」と「純友の乱」に対して、2度も讒言で事件を起こし、清和天皇に直訴して事件として取り上げさせて、手柄を作り上げた。
    そこで、止む無く清和院は、渋々に「嵯峨期詔勅の意」を述べて、「賜姓」をした。
    この時、既に、清和天皇の第六位皇子が賜姓を受けて源氏に成っていた。
    しかし、「経基王」が清和天皇の第六位皇子として賜姓を受けて仕舞っていたので、結局、実皇子は、”賜姓の無い源氏”を名乗る事と成った。「清和天皇」の実皇子のこの二人は、結局、「賜姓の無い源氏」を名乗った。この二人には防御の背景が全くなかったことから、この「経基王」の勢力の圧迫を受けて衰退して滅亡する事に成った。

    ・「清和源氏の内情」
    「大化期の詔勅」の「皇位継承の改革」で、「天智天皇」が定めた「賜姓族の規定」に外れた「清和源氏」は、この様な特異な経緯を持っていた。
    「賜姓を受けられる定め」としては、次ぎの規定が在った。
    a「第六位皇子」である事。
    b「当代の天皇の皇子」である事
    c「皇子」として「品行方正な人格」を有する事
    d「皇子」は嬪までの者とし「妾子」の皇子でない事

    「経基王」は、「嵯峨期の詔勅・禁令」に鑑みて、更に、この「四つの定」に適合していなかった為に「清和院の賜姓」を一時、拒まれた。

    (「経基王」には、「賜姓の権威」を獲得して、この「権威」で「荘園制度」を利用して、「莫大な財力」を獲得を狙った思惑や野心が在った。暴君の悪名高い「陽成天皇」の皇子では、せいぜい「国司下」の「介の役柄」で終わる事を嫌う思いがあった。)

    つまり、「四つの定」に対して、外れた「特別な賜姓」であった。(普通では賜姓は先ず無い。)
    この事があって、野心旺盛な「経基王」も、その子の「満仲」も、賜姓後は、河内で色々「争い事」を起こしたり、他国の「土地を奪う」などの「過激な行動」を起こし、更には「民事の問題」を起こしたりして、「嵯峨期の詔勅・禁令」に反して、”「賜姓族」にあるまじき振舞い”として、「天皇の怒り」を受けて蟄居を命じられたりした。

    (恐らくは、”「賜姓族の伝統」”を重んじ、”「三つの発祥源」の立場”を護り、”「民の模範」”としている”「皇族賜姓青木氏」”との比較をされたと観られる。同じ「清和源氏」ながらも「皇族賜姓青木氏」と同じ行動を採る「宗家頼光系摂津清和源氏四家」との比較もあったと充分に観られる。)

    その後も、全く逆の行動を採った「義家」を始めとする「子孫」(頼宣系河内清和源氏系列)も、矢張り、”強引な行動(私闘)”を起こして、遂には、「源氏の幕府」を樹立したものの「頼朝」のところで、結局は、短期間で裏切られて、利用された「坂東の北条氏等」に依って滅亡に至たらされた。

    (この「坂東八平氏」とは、桓武天皇が母方の一族に賜姓して発祥させた「桓武平氏:たいら族 阿多倍一門」である。 天皇家より出る代々の「第七世族」の「臣下族」で、同じ関東に配置された「皇族系第七世族のひら族」とは出自は全く異なる。
    この「桓武平氏:伊勢平氏と京平氏の支流族」には、「千葉,上総,三浦,土肥,秩父,大庭,梶原,長尾」の八豪族があり、幕府樹立に貢献した「北条氏」や「熊谷氏」はこの支流族である。
    「国衙官僚,荘園開発主,荘園官」として坂東西域の在地を支配した。)

    結局は、通説では小説的に構成されて描かれて、”「源氏」が勢力を盛り返し幕府を開いた”の様に観えているが、結局は、百々の詰まりは、同じ同族の「清盛の京平氏の支流族」に、”5年後に奪い返された形”に成っているのである。

    (筆者は、「清和源氏」が開いたとは観ていない。何故ならば、この”開幕”で、”他の源氏は潤ってはいない。「源平の決戦の場」では、この「坂東八平氏」は、「合戦」では”軍監として”として動いただけである。
    当然の事として、同族として「坂東の支流」が、直接に「本流の一族」に”戦い”を挑む事はしない。「事前承知の戦略」で在った。だから、「5年後」の「平氏政権の蘇り」なのである。
    結局、「義経」が全国からかき集めた「源氏の未勘氏族」らの集団と、伊勢、熊野、紀州、摂津の「水軍の合力」と、「大島源氏の水軍」とに依って主に合戦に勝っている。)

    ・「源氏の流れ」
    矢張り、取り分け、上記の様に、「清和源氏」の「人時場の要素」を配慮して「行動パターン」を考え合わせると、「四段階の妻方式」を採りながら、”無制限に子孫を増やす事”が明らかに必要であった事が判る。
    「11流11家」も在り1流がこの四段階の妻方式を採ったとすれば、11流ともなれば相当な子孫数に成る筈である。
    しかし、源氏全て滅亡に至ったともなれば11流全てがこの方式を採っていなかった事が判る。
    調べた範囲では、確実に「6流」は、「嵯峨期の詔勅禁令の趣旨」を確実に護っていた事が判り、やや疑問の状態が「3流]あった。

    平安末期から鎌倉期までの状況から考察すると、この5流の中には、次ぎの様な流れで在った。
    「農業」をしながら民と共に生活をした「村主」(すぐり)の源氏の流れ(A)
    「山伏や神職」などをして「郷氏の生活」をしていた源氏の流れ(B)
    「皇族賜姓青木氏」(5流)と関連して生活を営んでいた源氏の流れ(C)
    「漁業関連の長役」をしていた源氏の流れ(D)、
    「治承・保元の乱」以降の源平の戦いで衰退した源氏の流れ(E)

    後の3流は、強弱はあるが、次ぎの様な流れで在った。
    (B)の傾向を持った「荘園制」(神社系荘園)に絡む生き方をしていた源氏の流れ(F)

    結局は、「11流の源氏」の殆どは、「嵯峨期の詔勅・禁令の趣旨」を護った[賜姓族」で、「清和源氏」の様な過激な動きをしていなかった。
    この「清和源氏」の中でも、各地に飛散した源氏は、上記の(E)で、その生活の状況は(B)(D)であった。
    これから観ると、”「源平の戦い」”と云っても、”「11流の総合の力」”と云うよりは、「2流の戦力」が中心と成って動いたと事が判る。
    その「初期の主戦力」は、「義経」が全国から集めた「荘園制」に伴う「源氏の未勘氏族」と、「義経の説得」に応じた「各地の水軍」(5水軍)と、家臣と成った豪族の「関連氏族」で主に構成されていたのである。
    そして、僅かであるが全国に飛散していた源氏(E)が率いて来た「合力の戦力」が加えられた状況であった。義経が頼朝と坂東八平氏に排斥されてからは、この義経が構成した軍団は、坂東八平氏のを警戒して飛散した。
    結局、最終決戦時の頼朝が集めた戦力は、日和見的な各地の豪族の烏合集団で在った。

    この様にあるインターバルで観ると、源氏には、上記した「青木氏」の様に、細部までも”「氏を纏める為のルール」”を定めて子孫を遺そうとする”「氏間の調整」”が採れていなかった事が判る。
    況や、「嵯峨期の詔勅・禁令の趣旨」は、「青木氏」の様に積極的には護られていなかった事に成る。
    「清和源氏」の「河内の頼宣系」の末裔が、結局は、「朝廷の調略」に載せられて、”走り過ぎた結果”であって、更には、これを承知で動いた「たいら族」の「桓武平氏」の「関西以西の本流族」と「坂東の支流族」の「タッグでの謀略」でもあった事に成る。
    ただ、桓武平氏の「本流族」には大きな計算違いが、3つ興った事に成る。
    一つは、「義経の能力」の読み違いで初戦をおとした事
    二つは、「支流族の裏切り」とその「戦力の読み違い」が起こった事
    三つは、「清盛」を失って「統率」を失った事

    この三つの内、後二つは、「伝統」を基盤とする「氏是」から来る「慣習仕来り掟の規則」の有無の如何に依っている事に成る。
    源氏も平家も、子孫存続の氏是の弱さにあった事が物語っている。
    その根本は「戦い」に対する氏是の違いにあった。
    その”「戦い」”は、朝廷が”「社会規律の弊害」を起こす”として嫌う「荘園制」に起因していた事である。

    (注釈 一方で、この「荘園制の弊害」と、「源平藤橘の氏の勢力」を削ごうとして、最初に手掛けた「後三条天皇」は、この「荘園制から来る権力基盤」を護ろうとした藤原氏や源氏族の子孫ではなかったのである。それだけ、「命の危険」が極めて迫っていたにも関わらず、1068年に果敢にもこの策謀に取り掛かったのであって、その後、5代の天皇に依って成し遂げられた。
    この事で、「経済的基盤の低下」で焦った「清和源氏頼光系一族」は、基盤獲得の為に、益々、「戦い」へと突き進むここと成り、20年後には、「源平の合戦(1185年)」へと突き進んだのである。
    この為、「後鳥羽上皇の策謀の院政政治」が始まるが,「朝廷−京平家−坂東平氏−源氏−藤原氏」の何れ五者共に、その「思惑」は外れ、遂には「策謀合戦」が始まったのである。)

    この様な、”策謀渦巻く周囲”の真直中にあっても、「二つの賜姓族青木氏」は、「氏是」を前提に一族を固め、この環境に加担しなかったのである。
    これは、なかなか難しい事である。
    単なる「氏是の信念」だけでは決して成し得ない。現世には、”「流れ」”と云う不可思議なものがあって,この”流れに抗する事”が出来るものは誰一人いない。「神仏」のみである。
    況してや、「賜姓族青木氏」には、「悠久の歴史」を持ち、且つ、”「賜姓族」と云う稀なる権威”を持ち続けて来た「氏族」である。
    況して、「二足の草鞋策」で”絶大なる経済的な財力”を持っている。

    「戦う側」にとっては、この”「賜姓族青木氏の権威」”を獲得する事に依って、これは「戦いの大義」が絶対的に獲得できる。これは”流れを作る最大の要素”でもある。
    最早、源氏は(A)から(E)の立場に既に追いやられている中で、「賜姓族」で在っても、その「権威」は明らかに低下している。
    だとすると、「賜姓族青木氏の権威」を利用しようとして策謀する筈である。
    しかし、「二つの賜姓族青木氏」は、この「策謀」に、加担しなかった。
    ”「策謀の流れ」”から逃れられたのは何故なのか疑問である。
    それは、次ぎの条件にあった。
    (a)”「四家と云う小範囲」”
    (b)”「純血の濃い血縁範囲」”
    (c)”「絆青木氏で家人末端まで組織化」
    以上で、成し得た「一族の一致団結」にあったと考えられる。

    ”小さい組織”にして「意思の疎通」を徹底し、”濃い血縁度”で「離散」を防ぎ、それを”絆”で「結束」させたのである。
    ”千の石垣も一つの石から”の例えの通り、”一つの離反や裏切り”は、全てを壊す。
    「二つの賜姓青木氏の権威」を獲得するには、並大抵の事では無理であり、そこには「策略、謀略、調略」が渦巻いて働いていたのである。
    これには、”「一人の軽薄」が全てを壊す”は、この「世の定め」であり、現代も過去の世界も同じである。
    これには、上記した様に「青木氏の氏是」(イ)とそれを実行する「システムの充実度」(ロ)に関わる。
    筆者は、上記に論じた”「賜姓族」の「シンジケートの存在」”がこの二つ(イとロ)を基盤として支えて大きくこれに関わっていたと観ている。
    つまり、”「情報と抑止力」の要素”が上手く働いたのである。

    当時、未だ、”「シンジケート」(情報と抑止力)”を維持出来得る程の能力を持っていた「氏」はいなかったし,組織を維持させる為の確固とした確立化した概念も無かった筈である。
    何故ならば,鎌倉期までとして、「朝廷が認可した歴史を持つ80氏程度」の氏”には「二足の草鞋策」は「禁じ手」であった事から、この「経済力」を必要とする「影の力」の「シンジケート」は持ち得ない。又、当時としては、”「忍者」程度の様なもの”はあった事が、資料から伺える範囲では確認できない。
    奈良期から活躍していた「青木氏のシンジケート」は、「組織的な総合力」を持った「新しい考え方」であった。

    注釈
    (そもそも、「影の力」の「シンジケート」が,”「伝統」”に関わっていないと考えるのが、普通であるが、[青木氏」に取ってはそうでは無いのだ。”「青木氏の伝統」”は、この”「シンジケート」”に依って支えられたのだ。それは”「青木氏の役目柄」”にあった。
    この「役目=賜姓五役」が、なければ、シンジケートは「二足の草鞋策」の為には必要であったが、しかし、”「成熟」はしなかった”と考えられる。
    「賜姓五役」と「二足の草鞋策」が進むに連れて、時代と共に進化して、その「役目」も増え、それを構成する「組織体制」も整備された。
    それは、先ず、「奈良期」から始まった「青木氏の二足の草鞋策」が、平安初期には大きく発展し、「和紙」に依り「他の賜姓族青木氏」にも広がり、それと共に平安中期には、「特別賜姓族青木氏の補完」もあって、「守護神の神明社建立」もが進むに連れて、これを利用して確固とした「組織体制」が確立して広範囲に広がったのである。「5家5流賜姓族」の「独自のシンジケート」が互いに連携して大きく成ったが、「源平の戦い」で、結局は、衰退した「3つのシンジケート」は「伊勢−信濃シンジケート」に吸収された。
    この「影の力」の「伊勢−信濃シンジケート=神明社シンジケート」の存在と「青木氏との関連」は、室町期末期の頃で、「伊賀丸山城の戦い」から、社会的に知られる様に成った。
    (第一次丸山城の前線基地の築城は失敗に終わり信雄らは敗退)
    これは「信長逆鱗−信雄蟄居(蟄居は二回 信長逆鱗と秀吉不仲)」で「有名な事件」で、公に成った。
    その時、秀吉が、世の中に、”「シンジケートの存在」”を信長に強く進言した事は有名で、次ぎの「長嶋攻め」を命じられた秀吉は、この失敗は繰り返さなかった。
    この時、この「シンジケートの存在」と「高位の氏族」の関連の事を知った「信長」は、”鉄砲獲得”の為には、”「今宮神社シンジケート 皇族系神職 愛知」”を通さなくては確保できない事をも知り「秀吉−蜂須賀氏の斡旋:今宮シンジケート一員の山族土豪 河並衆」で、ここから入手した経緯の史実がある。

    注釈 
    (資料から垣間見れるはっきりとした「本格的なシンジケート」は、鎌倉中期頃から「姓族」が出て来た室町期中期頃である。
    最初は,「青木氏」が、国策として極秘裏に、「神明社建設」を通じて、奈良期からの「皇族逃避地」を構築する為に、現在の福井との間にこの組織を作り上げた事が最初であると観られる。)
    「小さい姓族」が乱世で各地に発祥して、この「姓族」が浮沈を繰り返し、生き延びる為に、青木氏等が作り上げたこの組織の中に入って互いに連携して生き延びた。「姓族」はこれを機に成長を遂げ、遂には、「姓武士集団」を構築したのである。南北朝には大きな「影の力」として働いた。
    その例として、有名な「南北朝の楠正成」は、河内千早赤坂村に住んでいて、「10万の軍」に「シンジケートの影の戦力」で挑んだ事は、歴史的に有名で、「ゲリラ作戦」で餓死させる直前までに痛めつけて勝利したのである。
    この地域には、「伊勢青木氏のシンジケート」があった事から、この組織に入っていたと観られる。
    江戸期初期には、これらの武士は「氏族」からこの「姓族」に取って代わられ、「旗本」「御家人]や「各地の豪族」や「大名」に伸し上がって世の中を席巻してしまった。
    その各地に発祥した「姓族」と「青木氏」は繋がっていて、江戸期には情報を獲得していた事が判っている。)

    しかし、この様な「青木氏」に比べて、「源氏一族」は、総じて、同じ「宗家の頼光系」の様に、「青木氏」と同じ方式を採用して、子孫を「四家」に定めて身を固めたのでは無かった。

    ”「賜姓族」で在りながら「万民の範」”とする「賜姓族」で無かった事が、「累代の天皇」の反発を招いた結果である。
    「他の源氏」は、この”「戦う源氏の流れ」”に引き込まれて滅亡した。
    それだけに、「他の源氏」には、本論の様な「青木氏の様な備え」(伝統 家訓 慣習仕来り掟)が無かったことに所以する。
    要するに、歴史上では”「戦う賜姓族」(戦う源氏)”を演じた事に成る。
    「青木氏の氏是」にある様に、”世に晒す事無かれ、何れ一利無し、世に憚る事無かれ、何れ一利無し。”の「不戦の賜姓族」(伝統重視)では無かったのである。

    ”「戦う」”は、”「氏の伝統」”と、それを護ろうとする”「氏のルール」”を壊すが、”「不戦」”は、”「氏の伝統」と「氏のルール」”を維持させる事が出来る。
    ”「戦う」”は、一時的には「氏の発展」を示すが、その程度では、”「氏の伝統」”は生まれないし、”「子孫」”と云う長い「見方」では、「衰退の道」を進む。
    ただ、「青木氏」だけが「不戦」を「氏是」として唱えたとしても、周囲が「不戦」でなければ成り立たない。
    「自らの長い努力の積み重ね」があったとしても、「棚の上の牡丹餅、絵に描いた餅」に成る。
    そこで、「青木氏」には、「不入不倫の権」が認められていた事も大いにあったが、それを有効的に働かせたのは、「影の力」の「シンジケートの抑止力」にあった。
    表に観えない、彼の権威に対して抵抗した「織田信長」でも潰せなかった「影の力」(政治経済軍事の力)である。
    この「影の力」=「シンジケート抑止力」を支えたのが、奈良期から殖産を進めて「民の力」と共に生きた「青木氏」で在ったからこそ、成し得た「氏是の戦略」であった。
    「源氏の生き方」として選んだ「戦いの発展」は、「人間の最大の目的の子孫存続」としては不要で危険なのである。
    その「民と共に生きた組織」には、”「氏の伝統」”と云う”「氏のルール」”が絶対条件として必要であるのだ。
    「氏の存続」の為の”「必要不可欠な抑止力」”を構築するのは、先ずは ”「氏の伝統」”である事が云える。

    その意味から考えると、つまり、”「氏の命題」の「子孫存続」”と云う事から考えると、その「生き様」は明らかに間違っていた事に成る。
    結局は、”「賜姓族」”としての”「氏の伝統」”を護っていた”「摂津の頼光系四家」”も、「四代目の頼政」が「異端行動」を採った事から、「不入不倫の権」が無い「賜姓族」は、引き込まれて「潰れる憂き目」を受けた。
    その意味で一族の中に、”「大きな流れ」”を作られては、”飲み込まれる事”に成る。これは「世の習い」として必定である。
    一時は、「河内源氏頼信系の頼朝」と共に成功したかの様に観えて、”各地の源氏の同族の勢力争い”を起こさせて、結局は、たった”5年の短期間”で「源氏」は、「四段階の妻方式」で作られた「数多い子孫」をも”「戦い」”で少なくして、遂には、毒殺や暗殺などの策謀で滅亡した。
    その”11家の源氏”の最終は、僅かに4氏に成った「末裔」までも、室町期末期に信長に依って、完全抹殺されてしまった。(一部に1氏の「傍系の配流孫の現地末孫」が生き延びている。)

    しかし、ここで大きな”「救い」”が一つあった。
    この事を戦前に察知し熟知していた「摂津頼光系四家の福家の頼政」は、「以仁王の乱」の直前に、「子孫の一人(京綱)」を「伊勢青木氏の跡目」に入れて最悪を避けるべく策を講じていた。
    これは、「同族である青木氏」が、「不入不倫の権」に護られながらも、「賜姓族の氏是」を頑なに護り、それに基づき、且つ、「四家方式」に依って、「源平の戦い」でも、”必ず「子孫」を累代まで遺す”と理解しての配慮の事であった。
    故に、”「跡目」”であった為に、「源氏」が「青木氏」の中に流れている事に成る。
    「信濃青木氏」にも、”戦い”の直前に、「跡目」か「跡目」に類する形で「青木氏」に入れている。

    「信濃青木氏」には「源光国−血縁」と「源実国−跡目」を、滅亡した「土岐青木氏」には、「源光国」の子の「源光信−跡目」を、「甲斐青木氏」には、「源源光−跡目」を跡目等に入れている。
    甲斐武田氏系青木氏には、「源源光」の兄の「源時光」が跡目に入っている。

    故に、”源氏11家”は、完全な「滅亡の憂き目」を辿ったのであるが、「清和源氏宗家の四家」からだけ、「血筋」としては、「青木氏」の中に遺した事に成る。

    取り分け、”滅亡した源氏”そのものは、当然に滅亡する”宿命のシステム”を敷いていた事に成る。



    「伝統 13」に続く。


      [No.328] Re:「青木氏の伝統 11」−「血縁の伝統と概念」
         投稿者:福管理人   投稿日:2015/02/14(Sat) 07:40:49  

    「伝統 11」

    >前回の末尾

    >論は「密教の道標行燈」に関わる「密教作法]の処から「毘沙門天像」と「三宝荒神像」の処までの「密教性のある伝統所作」を論じて来た。
    >これだけの範囲ではあるが、「可成りの伝統」が未だ「青木氏」には遺されている。
    >更に続けて、既に若い頃の論文原稿が有るので、修正を加えて生活に密着した「草の根の密教の伝統」を論じる計画である。

    >”「密教性のある伝統所作」”としては、次ぎの事も大きく作用していると考えられる。
    >それは、”「血縁の伝統」”と位置付けられる。



    ・「血縁の伝統と概念」
    「青木氏の跡目」に関する「子孫定義」として論じる。

    そもそも、「青木氏」には、”「子孫」に対する考え方”の定義が、古来より特別に持っていた。
    これには、”「高位の家筋」”を継承する為の「慣習仕来り掟」(純血主義の概念)から来る”「特別な条件」”が在った。
    この”「子孫概念」”では、その定められた”「氏の慣習仕来り掟」”により異なるが、「二つの賜姓族青木氏」では、ほぼ同じ「慣習仕来り掟」を用いていた。
    (特に,「特別賜姓族伊勢青木氏」は、同等の慣習仕来り掟を敷いていた事が判る。)
    特に、「青木氏」と「藤原氏北家秀郷一門」(特に本家筋での仕来)には、次ぎの様な「慣習仕来り掟」を持っていた。
    現在から観れば、”特別な血族維持の概念”である。
    従って、各地の秀郷一門の関東の秀郷一族一門等を含む「青木氏族」も異なるところもあるが応分にこれに従っていた。
    少なくとも、室町期の「下剋上」や「戦乱期」があって、”「悠久の伝統」を持った氏”が、次々と消滅し衰退し、逆に、「姓氏」(農民庶民の武士 かばね)や、「勃興氏」(下級の武士)が発祥するまでの室町期末期までは、この”血縁に関する伝統”(奈良期からの「氏の純血性」の保全システム)はほぼ保たれていた。
    ところが、江戸初期の時点では、ほぼ200氏程度あったこの「伝統」を誇る”「氏族」”も、遂には「青木氏]や「藤原氏」や[佐々木氏」等を除く20氏にも満たない「氏族」に成って仕舞っていたのである。

    この”20氏にも満たない「氏族」”のこの”「根本的な氏の純血性」”を頑なに保全しようとする考え方は、次ぎの通りと成っている。

    (注釈 平安初期に「公家」に対して、「侍」として発祥し、”「家」”を興した事から、”「武家」”として発祥した。
    しかし、「一族の子供」は、”「孫の領域」”までを、全て”「子供」”として定義して扱うが、本来は、江戸期に云う”全ての武士の家”を”武家”と呼称する”「家」”の意味では無い。
    平安期の”「公家の身分」を呼称する家柄”に対して、同じ身分と家柄を持つ”「氏族」”の”「侍の家柄]”を呼称したものである。
    況や、ある”「子孫存続のルール」”を持ち、且つ、それに依って「伝統を興した氏族」として区分けするのが妥当であろう。
    これが江戸期には”「武士の家」”から”「武家」”として呼称した。即ち、”「姓族」”を一般化した呼称と成ったのである。
    資料から観て、室町期初期に瀬戸内から発祥した「海部氏」が「最初の姓氏」と成っている。
    そもそも、「武家」を構成したこの”「氏族」”とは、「平安期の朝廷」と、「鎌倉期の幕府」の認可を得て、「氏」と「家」を構成したものの呼称で、所謂、「江戸期の呼称」とは質的に異なる。)

    ・「子の定義」
    先ず、この「武家」の「氏族」の「子の定義」は、次ぎの通りと成っていたのである。
    家には三代あるとして、「祖父母の親」から観て、「子供」とは、”「子」と「孫」”をこの範囲のものとする。
    純然として ”跡目の権利”を持った前提として、「子と孫」は、”「氏の子供」”として扱われる。
    況や、室町期からの「姓族」が敷いた ”本家−分家の「独占的な家の子供」”を定義しない。
    そして、区別して”「孫」”を敢えて「孫扱い」とはしない。
    つまり、「孫」を「孫」として、”特別な扱い”はせず、「跡目の権利」を持った「氏の子の範囲」として扱われる。「孫」=[子」「孫」≠「孫」と云う事である。
    つまり、「跡目の可能性」が、当初から「孫域の者」までに無ければ、つまり、「跡目」を継ぐ必要性が無ければ、それは ”現在と同じ意味の「本来の孫」”の範囲にあるとするのである。
    つまり、「孫」=「孫」と成り得る。
    しかし、”跡目を継ぐ必要性が無い”と云う事のその様な現象は、”「氏家制度」”の中では、”大きな「氏族=武家」”である程に絶対に無い。
    つまり、”「跡目継承の必要性」が無い”と云う事は、”「氏の滅亡」”を意味するので、あり得ないのである。
    これが「氏家制度の社会」であり、この社会の中で生きている限りは、「跡目」の「数と質の確保」に徹する社会である。
    それを成し得る手段として、「青木氏」であれば、表記した「四家制度」であり、「福家制度」であり、「氏是 訓戒」「慣習仕来り掟」の類の「伝統」なのである。
    未だ、これでも、現実には、室町期以降の「氏族」と「姓族」には、実質は、「必要とする跡目数と質」では、”足りない位”の社会環境であった。
    そこで、”「氏族=武家」”の範囲では、定義範囲の「孫域」では無く、”「曾孫域」”までに、「子の定義」は及び、「曾孫域の子孫」を ”「養子や養女」”としての定義を取り付けて、”「跡目の権利」”を、更に拡大させたのである。
    しかし、”定義づけた”とは云え、「曾孫域」まで、その定義を広げる事は、当時の氏家制度の社会で、且つ、何時潰されるかわからない乱世の世の中では、並大抵の事では出来ない。
    其処には、「氏の権力」や「氏の制度」を充分に及ばすことは難しく成る。
    「氏家制度」とは云え、関係する氏の末端までに完全に制度は届かない。
    むしろ、逆に、「遠縁」に成れば成る程に、多くの氏が「横の血縁」で関わり、「氏の独立」の感覚は必然的に強く成り、「賜姓族」としての「権威」を中心とした「青木氏の発言力」が届かなくなる。
    しかし、更に、”「曾孫域」まで「青木氏の養女養子」”としても、そう簡単ではない。
    せいぜい「孫域」までの「青木氏の発言力」「青木氏の統制力」であろう。
    では、”「青木氏」としてはどうすればよいのか”と云う事に成る。
    上記した「青木氏」の「賜姓族の権威力」だけでは最早、無理である。
    ”武力で抑え込む”とする方法もあるが、「青木氏」には、正式な表向きの”「武力」”は持ち得ていない。
    謂わば、総じては「賜姓族」としての「権威」だけである。
    「特別賜姓族」にしても、”「賜姓族」”と云う立場に於いては、「絶大な武力」は持ち得ていても、「賜姓族の氏の範囲」に於いては、「権威と力」を”表向きに放れ課す事”は無理である。
    後は、「残された力」は、「経済力」にある。
    この「経済力」は、「武力の行使の弊害」(力の連鎖)の様な事を無くする事が出来る。
    しかし、「税に依る経済力」の範囲では到底無理である。
    「民」に「税」として「負担」を強いるだけで、「永代」に続けなければならない制度であれば有るほどに、後に「弊害」を生む。
    況してや、「青木氏」は「賜姓族」であり、「二つの絆青木氏」とも強く関係を持つ立場に於いては、”民の反感反発を買う事”は絶対に避けなければならない事でもある。
    むしろ、絶対に使ってはならない「禁じ手」である。

    (注釈 明治9年まで何度も「一揆等の支援」をしての「経済的背景」に成ったし、一族に「二つの絆青木氏」を持ち、「民」を含む「シンジケートの首魁」でもあった。
    「民」と共に生きる、当に”「共生氏族」”であった。)

    注釈として、 この”「共生氏族」”である事は、”世に晒す事無かれ 何れ一利無し 世に憚る事無かれ 何れ一利無し”の意に通じ、結果として、”「共生氏族」であれ”と宣言している事にも成る。
    この「青木氏の氏是」は、「共生」を宣言している事を物語る。
     ”晒せて”世に積極的に「青木氏」が出る事は、社会に”阿る事”に成り、去りとて”憚ればれば”社会に萎縮する。
    これは「賜姓族としての範たる姿勢」を失い、”民との間の解離”を生み出す。
    依って、共生して生きる事が必要であった。
    これは”「賜姓族」である”とする「宿命の所以」である。
    この「氏家制度」の中で、この”「青木氏の氏是]を持つと云う事”を理解される「氏」はいなかった筈である。
    有るとすれば、「共生族の民」であった筈である。故に、”民が作る和紙の殖産業”であった。

    ・「青木氏の発言力」
    では、どうしたのかである。
    終局は、「氏存続」の為にも、「共生」の為にも、この”「曾孫域の定義」を押し通さなければならない”と成れば、後は、残された手段は、”「二足の草鞋策」の「経済力」”と成り得る。
    この他に「定義を押し通す力」と成り得るものは無い。
    ”「曾孫域」や「遠縁域」”とは言え、未だ薄い血縁の”「青木氏に関わる縁続き」”でもある。
    この「経済力」をこの範囲に浸透され得れば、この”「発言力」”は、「縁続き+経済力」の関係で無理が無く、”「弊害」”を取り除いて達成させることは可能に成る。
    従って、後は、”この数式論をを如何に浸透させるか”に関わる。


    「定義を押し通す力」=「氏の発言力」=「経済力」


    要は、上記の「力」そのものより、その”「浸透方法」”であったであろう。
    恐らくは、”馬の鼻に人参”のやり方で”金品を放れ課す事”では、一時的な効果に終わる。
    つまり、ギブアンドテイクに終わり、”「永代の発言力の浸透」”は無理である。

    そこで、重要な事で有るので、”どの様な方式を採っていたのか”を調べて観た。

    つまり、「二足の草鞋策」の「商いの範囲」が、”どの辺まで「組織力」を使っていたのか”を調べた。
    (比較的、「商いの資料」は残されている。)
    その結果から観て、「曾孫域」から「夜叉孫」までの領域の”「縁者」”と見做される家が、「商いの末端」までに充分に関わっている事が判る。
    そうすれば、後は、その”家筋”を特定すればよい事に成る。

    (注釈 「青木氏」は、そもそも、奈良期から「役務」から始まって、「商い」とした平安初期から、 ”「和紙」”を中心として”「殖産興業」を持つ「総合商社」”であった。 
    それ故に、数多く出て来る「特定の氏名、姓名」と「屋号」の出自の調査研究をした。)


    即ち、”「四家の副役」”の範囲を超えて、”大きく関わっている「氏名」、或は「姓名」と「屋号」”が、「遠縁筋」に当たる事から、この範囲に絞り込めば、実質の「商いの青木氏の組織力」は広がっている事に成るし、その”「組織力の浸透範囲」”が判る筈である。。
    つまり、「商い」を通じて、これに依って、「青木氏の発言力」は浸透していた事に成る筈である。
    既に、明らかに「広域の和紙殖産の商い」が、「悠久の歴史」を以って成り立っている事である事からも、間違いなく「発言力」は浸透していた事に成る。
    この「青木氏の発言力」無くして遠縁までに「商い」が成り立つ道理はない。
    つまり、間違いなく、”「遠縁」とする領域までの「適切な発言力」”は確かにあった事に成る。
    そうすれば、後は、”「商い」”を通じての”「経済力との関係」”を強化すればよかった筈である。
    ”「経済力」”をベースとして深く繋がれば、「遠縁の者」に取っても、「縁続き」が深く成り、且つ、永代に「家」は潤い成り立つ事に成り、両者に執っても間違いなく「利得」である。
    恐らくは、むしろ、「遠縁」の方から”「青木氏」の「跡目の状況」”を具に分析して、「福家」に「積極的な働き」を事前に示していたと考えられる。
    (「特別賜姓族の伊勢青木氏」もこの「商い」と「伊勢シンジケート」に大きく関わっていた。)

    この結果、中には、調べると、「青木氏との関わり」が想定できない”不思議な「姓名」”が、「商いの譜」の中に出て来る。
    この「姓名」は、”歴史的に他の事変”でも時々出て来る「姓名」でもあった。
    そうすると、この”「不思議な姓名」”とは、これは、恐らくは、「シンジケートの組織」の中との ”「氏外の縁組」”をして、”「養女での血縁力」”を高めていた事を物語る”「姓名」”である筈である。
    つまり、「四家」や「家人」 (「商い」に従事し、「青木氏の嗣子」が「家人」と成った家筋) の中に、この”「姓名の血筋」”を入れて、「血筋のある遠縁の縁組」を積極的に作り上げて、所謂、”「曾孫域」(養女養子)”を敷いていたと観られる。
    この事は、この様に、「曾孫域」までとする「養子養女システム」は、「縁続き+経済力」で、充分に成り立っていた事を物語っているものである事が判る。

    ・「曾孫域 遠縁組の組織化」
    これらの”「遠縁組」”が、「四家」や「家人」と繋がって、「二つの血縁青木氏」と「二つの絆青木氏」と ”どの様に組織化されていたか”の調査をして見たが、判らないと云うよりは、”判別が就かない”であった。
    そもそも、”判別が就かないと云う事”は、普通は「商社」であればおかしい。
    逆に、”「商社」だからこそ「判別」を就き難くしている事”も考えられる。
    ”「賜姓族の商社」であるから、”強いて隠しておかねばならない事”と云う事が、「紙屋の青木長兵衛」に在ったのか”と云う事に成る。
    在った筈である。
    何故ならば、そもそも、根本的に「青木氏」には、”「賜姓族」と云う「民」の範たる立場”の保全の宿命を負っている。
    世間から観て、”範としておかしい”とされる事は、”表向きにする事”は無理であり、常に配慮しなければならない立場にあった。
    では、その”隠しておかねばならない事”とは何なのかである。
    ”隠す”と云う事は、陰鬱である。要は、世間に対して”公然”と云う事に成らなければよい事である。
    そもそも、”「賜姓族」と「商い」の関係”は、”隠す”と云うよりは、”公に出来ない「既成の史実」と云った処であろう。
    これは「悠久の歴史」を持った「公然の史実」で問題とは成らない。
    故に、これ以外にあった事に成る。

    ”「青木氏」にだけ”に在ったものとして、次ぎの二つが出て来る。
    考えられるのは、”「影の組織」”とそれを”「補完し合った組織」”である。

    一つ目は、「影の組織」の「青木氏」に良く資料の範囲に出て来る「伊勢シンジケート」である。
    二つ目は、各地に建立し続けた500社以上の「祖先神 神明社」である。

    ・「戦略上の手段」
    そもそも、「祖先神 神明社」は、”「国策氏」としての役務”でもありながら、「青木氏の守護神」でもあり、「青木氏の諸々の戦略上の手段」でもあった。
    「戦略上の手段」であるのなら、何等かのものとは繋がっていた筈である。
    態々、500社にも成る程の「膨大な神明社」を、幾ら「国策」であるからと云って、全国に「自前の財力」で建立する事は先ず無い。
    その”「財力投資」に見合った利得”が無ければ、建立する事は無いし、朝廷も”「特別賜姓族」を以ってして補完させる事”もしない筈である。
    その「膨大な財力」を「商い」で賄っていたのであるから、「青木氏の最大の目的」(子孫存続の手段)に関わらさせない事は先ずあり得ない。

    (注釈 「三つの発祥源」、「賜姓五役」など極めて難しい立場を熟さなければならない「青木氏」の「福家」と成り得る者は、多くの子孫の嗣子の中から ”「氏存続」の目的を成し得る能力がある”と見込まれた者が、選択されて成り得ている。
    ここを見逃す「愚鈍な者」は成り得ていない。況して、累代の「福家」と成る者が”愚鈍であれば”ここまで子孫を遺さずに滅亡している。
    ”商才や一芸に長ける者”では無く、「指導力」のみならず、「指導」に必要とする”「権謀術策の才」”を持ち得ている大組織を動かし得る”「総合力のある者」”が「福家」に成り得ているのである。
    世間が好む”通り一遍の綺麗事だけの指導者”では成し得ない難しさであった。
    「青木氏の訓戒」に出て来る”「知略」に長ける事”が、”要求される「福家」”であったと考えられる。
    これは、「総合力の在った者」かどうかは、「氏是」や「慣習仕来り掟の書」や「家訓添書等」の内容の意を読み取り観れば良く判る。
    当に、「天地、天武、持統」の「天皇三代」に仕えた始祖”執政「施基皇子」の所以”でもある。
    況や、その為の「四家制度」や「子の定義」が構築されている所以でもある。

    (注釈 これだけの多くの「重要な役目」を同時に果たさなくてはならない「福家」は「一人顔」で社会に対して押し通す事が出来るかは実に疑問である。
    幾ら「絆青木氏」を持ち、「共生氏族」であって、”「民」との繋がり”を強く持っていたとしても”理解し得ない「矛盾」”が生まれる。

    「二つの絆青木氏」=「共生氏族」の数式論が成り立っていたのである。

    これを理解してくれる程に社会は甘くはない。
    従って、「一人の福家」が「幾つかの顔」を持っていたと考えられる。
    その端的な証拠として有名な「歴史的に記録」として遺されている。
    それは、室町期末期の「伊勢三乱」である。
    「伊賀丸山城の戦い」は、一面では「豪商の紙屋長兵衛の出番」であった。武力は一切使わず出城築城の資材の手配商人として表に出て交渉し、資材調達の期間を遅延させ挙句は暴利を獲得して相手を弱らせると云う手段に出た。
    更に、継続して二面では、裏で築城を大工組等で請負、「シンジケート」の「ゲリラの大工」を大量に潜入させて築城の邪魔をした。
    三面では、時には、「織田信雄軍」に山岳部で正体不明の「シンジケート」の「ゲリラ戦」と食糧調達の邪魔を仕掛け疲れさせて、遂には、築城完成間近で、潜入した大工組が焼き討ちを掛けて燃やしてしまうと云う「三面の陽動作戦」を展開して勝利した。
    この乱には、一切、指揮は執っていたが、「伊勢青木氏」の顔は表に出て来ないのである。

    名張の「清蓮寺城の戦い」と「伊賀城の戦い」では、恣意的に態と「伊勢青木氏の顔」を表に出して、中立を保っている事を見せ、落城寸前に織田軍を油断させて清蓮寺側の側面の弱点を付いて突いて、敗走させた上で清蓮寺城の戦略上の拠点を護った。
    更には、「伊勢北部の伊賀氏」を援助して、「シンジケート」を使って山岳部や平地のゲリラ戦で長期戦に持ち込み、一時的に「伊賀氏」を逃がす時間稼ぎの作戦を採ったのである。
    これは「伊勢青木氏の長兵衛の顔」を表に、「シンジケートの顔」を裏にして使い分けたのである。
    「丸山城の戦い」とは「逆の陽動作戦」であった。
    信長軍は、「押せ押せの戦い」は強かったが、「商い」を駆使した戦いや「シンジケート」を使った「ゲリラ戦」には弱かった。

    (注釈 後を引き継いだ秀吉はこの事を良く承知していた。伊勢の秀郷一門の「伊勢青木氏」と「伊勢伊藤氏」の協力を得ていたが、「青木氏」は、唯一遺された「村上源氏の支流北畠氏」を救う事が出来ず、「永嶋の戦い」では、この「陽動作戦」に持ち込めず早期に敗退し新宮に後退した。
    「詰め」として、秀郷一門の「近江の蒲生氏郷」に「伊勢の後始末」を命じたが、「伊勢秀郷流青木氏」や秀郷の遠祖の「伊勢伊藤氏」との繋がりを持つ事から、「青木氏の伊勢」を本領安堵して松阪に戻した。)

    結局は、奈良期−平安期−鎌倉期−室町期−江戸期の五つの期を通じて次ぎの様な「数多い顔」が「二つの青木氏」には出来上がっていた。

    ・「5つの面」「20の顔」
    次ぎの「5つの面」と「20の顔」を持っていて、これを使い分けなければならなかった。

    ・権威
    「賜姓族の顔」−「権威と象徴」を「民」の前で「範」として通さねばならない立場
    「衣冠の顔」−「最上の位階」の立場
    「朝臣族の顔」−「天皇を護る身分家柄」の立場
    「三つの発祥源の顔」−「武家、護衛侍、氏族」として「権威と象徴の範」としての立場
    「賜姓五役の顔」−「国策氏」として政策を実行する立場

    ・家柄
    「青木氏の顔」−「二つの青木氏」との連携を図る立場
    「四家の顔」−「青木氏一族一門の福家」としての立場
    「郷氏の顔」−「地域の村主地主」の立場
    「氏族の顔」−「姓族と民」の範と成る「氏上」の立場
    「共生族の顔」−「民」側に位置して共生する立場

    ・宗教
    「祖先神の顔」−「青木氏の守護神 祖先神」を護り通す立場
    「神職の顔」−「神明社」を維持する立場
    「住職の顔」−「氏の菩提寺」を護る立場
    「密教の顔」−「慣習仕来り掟」の伝統を守る立場

    ・首魁
    「御師の顔」−「皇祖神(伊勢神宮)の職能集団」を統率指揮する立場
    「職能の顔」−「青木部の首魁」の立場
    「商いの顔」−「紙屋長兵衛」として商いを統率指揮する立場
    「首魁の顔」−「伊勢シンジケート」を統率指揮する立場

    ・血縁
    「同族の顔」−「血縁関係」(佐々木氏等)を繋ぐ立場
    「氏外の顔」−「他氏との関係」を繋ぐ立場

    以上の様に、「20の顔」を使い分けなければならない「青木氏」に執っては、一人で成し得ていたかは疑問で、「主役の四家の福家」に全てを頼らず、「主役の四家の当主」が、「5つの面」を事と次第で「福家」に成り切って、代役を演じていたのではないかと考えている。
    結果として、「主役の四家の福家」の差配で動いていたが、「氏存続」と云う目的からは、”知略”
    が「氏是の概念」の様にしていた事から、相手と成る周囲は、「主役の四家の当主」を「主役の福家」と思い込ませていたと考えられる。
    これの方が、「福家」に何らかの「異変」が在ったとしても、「組織」は乱れず、「身内」や「周囲」に対しても”「組織の安定感」”として印象付ける事が可能である。即座に、異変なく「継承」が進む事に成る。

    (注釈 室町期の中頃に、「長兵衛」、「次左衛門」、「作左衛門」、「高右衛門」、の「四家の当主」の四人が重要な処に名の記述が同時に出て来る。これは”「福家の長兵衛」”の代役で、上記の「四つ面」で「福家長兵衛」として務めていた事を物語る。
    ある「神宮の寄付帳」には、「紙屋」と「青木氏」と「御師」と「青木部」の名で、この「四人の名」が記されている。又、「伊勢神宮の大灯篭」にも、本来は「青木氏」として一つとして寄付する処を、この四人の名で、「四灯篭」が別個に「青木氏」として寄付がされている。
    奈良期から伊勢神宮の守護は青木氏が務めていた。”「伊勢神宮」の「御師」”は、その「称号」。
    世間の殆どは、”「福家襲名の長兵衛」”が”「四家の福家」”とは承知していなかった事を物語る。)

    ・「二つの組織と範囲」
    事ほど左様の環境下に於いて、この「二つの組織」は、互いにそれぞれの「役目・目的」を持ちながらも繋がっていたのである。
    故に、”「遠縁組の組織化」”にも、この「二つの組織」が大きく関わっていた事に成る。
    (「青木氏の守護神 祖先神 神明社」の論文参照)
    つまり、”「青木氏の組織」”と”「シンジケート組織+神明社の組織」”とが、”横で繋がっていた”のである。
    ここから、「孫域」とは別に、”「養女(養子)」”と成る ”「曾孫域+遠縁域」の「組織化」”が、案にして出来ていた事に成る。

    ・・「シンジケートの範囲」
    そこで、参考として、”「シンジケート」”の「範囲」を明確にする為に、「青木氏の資料」に出て来る「氏名」「姓名」から、その「定住地」を押えて観ると、その分布は次ぎの様に成っている。

    「伊勢シンジケート」は若干東域に外れる傾向はある。
    ・「分布が集中している地域」
    東西に、播磨・摂津−美濃・尾張
    南北に、和泉・紀州−若狭・但馬
    以上に「集中」して分布している。

    外れるものとして、次ぎの様に成っている。
    ・「分布が点在している地域」
    西域に、因幡、北域に、越前、
    南域に、尾張、東域に、信濃
    以上に「点在」するものがあった。

    これが、「伊勢シンジケートの活動範囲」と成る。
    この事から、凡そ横に長い「関西域」で、一部突出の「中部域]と成っている。

    この分布から、次ぎの事が云える。

    (1)「神明社」の分布域 45%
    (2)「青木氏」の定住域 25%
    (3)「関連した姓族」の分布域 15%
    (4)「佐々木氏」の分布域 8%
    (5)「源氏(郷士)」の逃亡分布域 5%
    (6)「平家(郷士)」の逃亡分布域 2% 

    以上の順での比率で分けられる。

    (2)の「青木氏の定住地」は、当然の事として、5家5流賜姓族地は勿論の処、特別賜姓族地の青木氏の24の定住地の中でも次ぎの地域では連携していたと観られる記録がある。

    ・・「特別賜姓族関連地」
    「5家5流の青木氏」が戦乱での逃亡地 「越後」「越前」「相模」「下野」「土佐」
    時の朝廷幕府より役務等で配置転換された土地 「広域陸奥」「上野」
    特別賜姓族の定住地 「讃岐」「土佐」「尾張」「常陸」 

    ・・「賜姓族外の関連地」
    源氏の守備隊として移動定住した土地 「伊豆」
    勢力争いで逃亡した土地 「因幡」「安芸」「美作」
    役務や住職等の移動関連地 「陸奥」「紀州」「但馬」「摂津」

    以上の地域での活動が観られるが、上記外の「24赴任地定住地」との連携では特段に記録が見つからない。

    矢張り、(1)の「神明社」が、分布量から観て、最も関係が深かった事が判る。
    恐らくは,「神明社の組織力」を使っての「情報拠点と保護役割」を果たしていたと観られる。

    (4)の「佐々木氏」は、「近江」を中心にして、その「子孫」は全国各地、主に北の「陸奥域」までに、殆ど「神職」(八幡宮と神明社)として分布している事から、”「佐々木氏一門の組織力」との連携”を広域に図っていた事が判る。

    (注釈 「近江佐々木」の始祖は、「天智天皇第七位皇子の「川島皇子」で、特別に賜姓を受け地名から佐々木氏を賜った正式な氏族 「青木氏」とは、血縁関係も深く「佐々木氏系青木氏」が発祥している。「特別賜姓族伊勢青木氏」も「近江佐々木氏」とは血縁関係が深く、秀郷一門とも近江国司守護であった関係から血縁関係を持っている。「近江秀郷流藤原氏」も出ている。)

    (注釈 「陸奥域」には、信濃から、「青木氏」は数は少ないが、平安期初期に「坂之上田村麿の陸奥域制圧」後の「現地守備隊」の僧侶(住職)として役目を命じられて移動し定住した。この「浄土宗の菩提寺住職」の末裔が子孫をある程度に拡げ現存する。
    これと共に、「桓武天皇」が「神明社」を「青木氏」に代わって「20社程度」建立した。
    そこに「信濃青木氏」と「近江佐々木氏」の「神明社の神職」も移動している。
    ここが「佐々木氏」との「情報伝達の中継点」に成っていたのであろう。)

    「天智天皇」時の同族の「佐々木氏」は、「陸奥域」までその勢力は及んで子孫を拡大させて遺している事から、「伊勢シンジケート」外の「影響力」の及ばない「他の地域」に対しては、
    主に次ぎの通りである。
    1 「各地の神明社経由」
    2 「伊勢から直接経由」
    以上の「二つのルート」で、「佐々木氏]の「八幡宮の組織」を使ったと観られる。

    取り分け、「摂津」(紙屋支店と摂津青木氏定住)に「八幡宮本宮」があった関係から、次ぎのルートがあった。
    3 「伊勢からの近江摂津経由」
    以上の「ルート」もあって、内容に依って三つのルートを使い分けしていた事が判る。
    つまり、このルートは「広域ルートの拠点」として働いていた事が判る。

    (5)の「源氏」では、全て滅亡したが、その「傍系流の逃亡末孫」は、「関西東域から中部の山間部」で僅かに生き延びたが、これらの者が「影の組織」を形成して「姓族」と成り、「伊勢シンジケート」で関わり「経済的な糧」を得ていた事が判っている。

    (注釈 近江源氏、美濃源氏、木曽源氏、新宮源氏、駿河源氏の「傍系末孫」が、「源平富士川の戦い」で敗退滅亡し、山岳部に逃げんで生き延びた。平家と同じ末路。)

    「青木氏」は、これらに対して「商い」を通じて陰で手を差し伸べて支援していたのであって、「商い」に関わる援護と、”いざ”と云う時には、「伊勢シンジケートの一員」として働いたのである。

    (注釈 「福井」は、その意味で、元々、奈良期からの「皇族系の避難地」を「青木氏」は形成していた。従って、「神明社の建立数」も「最多の地域むであり、これらの「避難者」には「商い」を営ませ、ここに「避難者」を集めた上で「連絡の拠点」としていた。)

    (注釈 ここで、特筆すべき事が沢山ある。「滅亡した京平家」が、主に「紀州山間部」と「四国山間部」に逃げ込んで、山を切り開いて生き延びたが、これらは、土地の「郷士」と成って「地域集団」を形成し、下界との関係を持つ為に、「シンジケート」に入り、”「経済的な繋がり」と「情報獲得」”の為に働いた。
    時には、「室町期の戦乱期」には、山から下りて来て「雇兵」として活躍し、「地域の豪族」の配下に入って参加した。
    平常時は「伊勢シンジケート」の一員として連絡を受けて働いて「生計の糧」を立てた。
    この「伊勢シンジケート」での「面白い事件」があって,「紀州の北側」には「平家方落人」が、「紀州南側」では「源氏方落人」が、山間部で「郷士」として住み分けて生活していた。
    これらの「二つの郷士集団」が、「伊勢シンジケート」として活躍していて、「秀吉」は、[伊勢−長嶋攻め三乱」で、戦いを有利にする為に、これらの「郷士集団」を味方に引き入れようとして働きかけたが失敗し、結局は、自らの家臣を使って「吉野−熊野の材木」を「シンジケートのゲリラ戦」に耐えながらも運んで山から降ろし、やっと「出城の建築」に成功し戦いに勝利した歴史上の有名な戦いがあった。)

    特に、(3)の「姓族の分布域」には、特徴が観られる。
    鎌倉期から室町期末期に掛けて亡びたとされる元は「氏族」で、「姓族」として土地の名に変えて名乗った土豪や、その「家臣で在った姓族」の地域が殆どである。
    これらの多くの「姓族」は、次ぎの限定地域に散在して「小族」を形成して住み着いていた。
    集中すると警戒されて潰される為に散在して、”いざ”と云う時には集会して事に当たった。

    ・「姓族の定住地」
    山間部に住みついた「山族」
    漁村に住み着いた「海族」
    平地山際の過疎地域の「野武士族」
    特定の寺の周辺地域の「山伏集団」
    鉱山地域の「土豪」

    以上の順での比率で分けられる。

    この「二つの組織」が、「祖先神 神明社」は、「民」に+に捉えられるであろうし、「心の支え」としても民に働く。
    しかし、”「シンジケート」は、戦乱などの事変で社会の隅に追いやられていた小さい組織が、この組織に入って「経済的な糧」を得て、再び生きて行く事が出来ているのである。
    本来は、+に働いているのであるが、”「影の力」”と云う印象から、民にとっては、”得体の知れない組織”と捉えられいて、その組織を構築している「賜姓族の青木氏」には、”「民の範」”としての印象を低下させる結果と成る。

    ・「氏族=武家」の「純血性保全」
    従って、「曾孫域と遠縁の組織」として存在したとしても”「影の力の抑止力」の範囲”であり、これを「諸々の弊害」を「抑え込む手段」としては「表向き」には使えない。
    あくまでも、「影の力」である。
    「影の力の組織」で「表向き」には、「使えない組織」である限り、この”組織との「縁組」”の一切は表には出せない事に成る。
    その為に、「皇祖神の子神」の「位置づけのある権威」を誇る”「祖先神 神明社」”との「横の繋がり」を持たす事で、「シンジケート」の「影の−の印象」を相殺させていると観られる。
    「シンジケート」を「商いの手段」や「周囲への抑止力」などとして使う限りは、完全に「影」だけでは成り立たない筈である。「表」に出る事は充分にあり得る。
    そこを、「横の関係」を保ちながらも補うのが、”「祖先神 神明社」の「権威と善意」”なのである。
    仮に知ったとしても、「利」に成る事に聡い「民」はむしろ黙認する。
    そもそも、「青木氏」には、”「民の二つの絆青木氏」”が存在することから、表に出る事は必然である。

    (注釈 筆者は、むしろ「隠す」と云うよりも、公然と「表に出る事」を狙っていた事もあったと考えている。ただ、あまり「記録」は残したくないとしていたのであろう。それの方が「リスク」は少ないし、”「四家」”から「嗣子や娘」をこの組織に入れて、”「組織力」”を強化した方がやり易い筈である。
    その証拠がある。江戸末期から明治9年まで続いた「伊勢一揆」と、それに連動した「信濃、岐阜、栃木、茨木」等の「大農民一揆」や、室町期の「甲斐100年一揆」と呼ばれる一揆の背後に、各地の「青木氏」が「シンジケート」と「経済的支援」を使って関わって居た事が記録でも残されていて有名な事である。)

    依って、「曾孫域」「遠縁域」の「養女養子制度」の「青木氏の発言力」は成り立っていたのである。(「養女」が基本に成っていた。)

    故に、「氏族=武家」の範囲では、”「嗣子や嫡子」”に充分に恵まれながらも、敢えて、「曾孫域」「遠縁域」での”「養女養子」”が盛んに行われた理由なのである。
    これには、”「氏族=武家」の「純血性保全」”の為に、積極的に並行して行われた”絶対条件の慣行”なのである。
    「青木氏」に執っては、この「曾孫域」「遠縁域」の「養女(養子)」は、”「世間との接着剤の役割」”を果たしていたもので、極めて重要であった。

    ・「養女の定義」
    そこで、「子の定義」の説明を更に進める。
    この「養女養子の制度」が「絶対条件の慣行」として在ったとしても、従って、そこで、”「祖父に位置する者の親」”は、”「子の定義」”である以上は、最低限に”「孫の領域」”までの「養育の総括責任」を負う事に成る。
    それならば,「孫域」とするなら、「曾孫遠縁」に位置する”「養女養子」”をどの様に「制度」として扱うかの疑問である。
    つまり、「親の責任の範囲」なのか、「息子の責任の範囲」なのかの”「位置の問題」”がある。
    「曾孫遠縁」とすれば、「親の責任の範囲」である。
    しかし、「養女養子」とすれば「息子の責任の範囲」である。

    幼少からの”「養女」”としてすれば、「子の嫁」として将来扱われる事に成る。
    この事からすると、”「嫁」を迎える事”は、「氏家制度」では、”「親の責任の範囲」”と成る。
    そうすると、「青木氏」は、「孫域」までを”「子」”として定義して二段階を一段階として扱う以上は、次ぎの様に成る。
    「子」の”「子」”としては、「養女」は「息子の位置」に成る。
    「孫」の”「子」”としては、「養女」は「息子の子の位置」に成る。
    つまり、”「養女」の「迎え方の如何」”に左右される事に成る。

    「四家方式」を次ぎの方式を採用している。
    「主役の四家」(4)
    「副役の四家」(16)
    以上の「二つの四家」(20家)で構成している。

    「副役の四家」は、「主役の四家」の「予備軍的存在]で、「見習い的な位置」であり、「世代交代」で「主役の四家」に成る仕組みである。
    その仕事は、原則として、「主役の四家」が「全体の差配」を仕切り,その仕事の「下部の差配」を実行する位置にある。時には、「上部の差配」を「見習い」として任されて成長する。
    その「仕事の種類」は、上記の「5面−20の顔」に関わる。

    その「主役の親」に位置する「福家」は、一族の”「四家」”を纏めて行く以上は、出来るだけ早くこの制度を完成させなければならない責任を負っている。
    ”「一族存亡の責任」”と云っても良い筈である。
    (4+16)=「20家」を見渡して、「ブランク(空白)」に成っている部分(家)を早めに埋めて体制を確立させなければ成らなくなる。
    この時に、「ブランク部分」を埋めるのが、”「養子」”なのか、将又、”「養女」”なのかに依って決まって来る。
    この時、”「養子」”の場合は,「子の実娘」又は、「孫の実娘」のこの「遠縁の養子」として入るが、多くは、「子・孫の娘」の婿養子は、「四家」の中に「女系」が発生してしまう可能性がある事に成り得る。
    その為にも、一族の「四家20家」の「孫域」までを”「子」”として定義して、このブランクの出た家の跡目に、四家の子の中から入れる事に成る。
    これに依って「女系」に成る事が防げるのである。
    其れは、「四家方式」としては「弱点」であって、この「曾孫、遠縁の養子」は「四家の組織」を弱め、或いは、壊す事にも成りかねないので、「子の実娘」「孫の実娘」は「他氏に嫁ぐ事」が原則に成る。その「嫁ぎ先」の男児・女児(孫)は、「子の定義」で、実家に「跡目に成り得る子」(男児)として、「跡目に嫁ぐ子(女児)として、扱われる事に成る。
    従って、”「跡目の非常事態」”を除いては、この「曾孫と遠縁の縁組」は、主には ”「養女」”であるのだが、「四家」(主役)の「ブランク」に入れる「養女」なのか、「四家(副役)」の「ブランク」に入れる”「養女」”なのかに依って、変わる事に成る。

    (注釈 「跡目の非常事態」は「戦禍」に依る事が殆どの原因である事から、”「遠縁の養子」”を避ける為に、”「氏是」「慣習仕来り掟」「訓戒」等”に依って、この「戦禍の原因」を作らさせない策の一つとしているのである。)

    ”「子」と「孫」”を”「一つの子」”にして、扱う以上は、次ぎの「二つの事」に成る。

    「四家の主役」の「ブランク」の場合は、「親の責任の範囲」
    「四家の副役」の「ブランク」の場合は、「息子の責任の範囲」
    以上と成る。

    「四家の主役」の「福家]が中心と成って仕切り、「四家の副役」の「福家」と「親」とで合議してこの事を進める事に成る。
    「四家制度」(方式)を敷く以上は、この”「ブランク」”を埋めて支障の無い様に進めなければならない。
    この”「ブランク」”は、”「20家の範囲」”では常時に起こる。
    従って、”「ブランク」が出来たから”と云って動くようでは間に合わない。
    故に、「幼少の頃」から「養女の子」を引き取り、何れかの「四家」の「福家」で事前に養育する事に成る。
    「跡目」が「成人」と成っていれば、「養女」が「成人」すれば、直ちに「20の四家」の何れかの当主に成る前にも、”先に結婚させる事”と成る。
    依って、「四家の戦略上の観点」から、傾向としては、必然的に”「早婚」”を前提と成る。
    この”「早婚」”は、より”「青木氏」”の”「氏是」「慣習仕来り掟」「訓戒」「伝統」”に充分に「馴染ませる事」が可能に成り、「嗣子の特性や能力」を図り、育成する事の長所が逆に生まれる。
    ”「四家の弱点」”の”「遠縁の養子」”を避ける様に原因を除いて、”「早婚」”を促せば、逆に”「四家の長所」”と成り得るのである。
    それには、上記した様に、 ”「幼少期」を前提とした「養女」”と成るのである。
    百々の詰まりは、「幼少期」を外せば、「四家の戦略上の効果」は半減して、全体の「子孫存続」の「青木氏の態勢」は、弱体化に進むのである。
    「幼少期の養女」は、「青木氏の要」なのであった。

    この「四家制度」(方式)に依って、早めに「青木氏」に馴染み、且つ、「嗣子」として「優秀な者」を見極めて、この中から、適材適所に「四家」に選ばれる事に成る。

    (注意 ”「四家」”の意味は大きいので、「制度」の字句は”全体”、「方式」は”各所”と定義して使い分ける。)

    ・「養育の責任」
    但し、「四家の戦略上の効果」だけでは事は済まない。
    ここで、”「養育方法の責任の問題」”が生まれる。
    ”放置しておけば育つ”と云う事では済まない。
    ”「四家方式」”を敷く以上は、つまり、”「養育の仕方」”によって左右されてはならない訳である。
    この”「養育の仕方」で左右すると云う”事は、”「四家の一致団結」”が成されない事に成る。
    そもそも、「四家方式」は、”「四家」”と云う小範囲に留めて、”「血縁性」”を高めて、”遺伝的に思考概念の統一”を狙ったもので、その結果、”「同じ方向性」”を獲得して「一致団結」が図られるとしたものである。更には、「福家方式」で「子の範囲の定義」を行って、「四家」から”はみ出す危険性”を排除したのである。
    そこで、この危険性を排除した上は、この”「養育責任」”に対する範囲の”「歯止め」”を設けたのである。
    つまり、その範囲は、”養育に関する「抹消的な養育発言」”と、”その「養育の基本行動」”には、「親」は、”「基本的な口出し」を「法度」とする”と成っていたのである。
    「青木氏」の養育に関する「伝統的な訓戒」であった。
    あくまでも、「跡目継承の範囲」で ”「総括責任」に徹する事”に成る。

    つまり、”「息子」と「孫」までを子供”としての「子の定義」として「位置づけ」をした。

     ・「四家訓戒と法度」
    ”息子である子供”は、「成人期」までを ”「祖父母の親」”が育てる。
    「成人後」の”息子である子”は、その”息子の嫁”が育てる”

    以上とする「養育の思考概念」である。
    世間から観れば異質の概念であろう。
    つまり、”「養育の概念」”を分離したのである。
    守るか守らないかとする「訓戒」のみならず”「四家の法度」”としてより厳しくしたのである。
    これは一種、「20家」を[家族制度」にまとめた「四家方式」だからこそ出来る事であろう。
    ”「賜姓族」と云う特異な立場”にあるからこそ、”納得して守られる方式”である。
    ”「子と孫」を「子の定義」として「四家」が育てる”とするからこそ、この「訓戒法度」は成り立つ事である。

    ”「息子の嫁」”に依って、”「息子である子供」”が育てられるとする「養育の定義」である以上は、「養育権」は、「息子」即ち、「子」でありながらも、「祖父母の親」に無く、当然に”嫁側にある”としたのである。

    この様な、”「跡目の歯止め」”として、「賜姓族」には、”特別な仕来り”を持っていたのである。
    従って、「祖父母の親」は、家に「嫁」を娶ると、”息子に口出しならぬ”とする家訓が生まれたのである。
    世間から観て、”「祖父母の親」の行動”は、一種の”息子に対して「放任主義」の育て方”と観られがちである。
    そこで「青木氏」では、この所謂、この一種の「放任主義」は、「良し悪しの問題」では無いとしている。
    「家訓十訓」を観れば、そうで無い事は一目瞭然である様に、下記の「家訓の考え方」に従っているのである。

      ・「四家訓戒」
    ”自らの「経験」を通じて「才」を獲得して成長を得させる。”

    これは、”「経験=才能」”としての ”「経験重視」の「養育方針」”である。

    世間では”「放任」”と観えるけれども、”「四家」”と云う範囲で、「20の顔の範囲」で、むしろ、”徹底して幼少期から嗣子として鍛えられる”「養育方針」なのである。
    この世間には無い ”厳しい「行動範囲の歯止め」”が効いているのである。
    況して、”「嫁」に養育を委ねる”としているのであるから、世間が観える「放任」では無い事が判る。
    何もしなければ「放任」とは成るが、”嫁に養育を委ねる”としている事は、これは正当な「一つの養育の考え方」なのである。
    何も、”嫁も放任して育てる”としていないのである。
    其処には、青木氏は、下記に示す様に、”「育て方の概念」”を指し示しているのである。
    むしろ、この方が考え方としては難しいのではないだろうか。

    故に、”「経験=才能」とする概念”を重視した結果であって、「親」に執っては「放任」と観られる育て方に成るのだが、むしろ、「青木氏」に執っては、正当に次ぎの様に捉えているのである。

      ・「四家訓戒」
    ”「放任」は「豊かな経験」を産み「豊かな才能」を開花させる”

    そもそも、この訓戒の”「放任」”とは、”[四家の範囲で」”とする「四家の伝統の考え方」なのである。
    恐らくは、この”「四家の伝統の考え方」”は、”「青木氏密教の所以」”であろう。

    この”「四家の放任」”には、「育て方の概念」(下記)が付加されている。

    そうで無ければ、この「子の定義」の方式(システム)は上手く行かない。
    世間から観ると、この「概念の影響」から”「日常の生活慣習」”も一般と異なり、一般から観れば、”異質”或は、”特別”と観られる事に成る。
    つまり、この”「息子の養育」”の、その後は、”結婚の段階”の契機を経て、”「嫁」に引き渡す”と云う考え方を採る事に成るのである。

    この場合、”「嫁」(殆どは、「曾孫域の養女」、或は、「遠縁の養女」)”に対して、必ず、この”「嫁(養女)」”に言い渡さなくてはならない一つの”伝統的な申し伝え”があった。

    ・「育て方の概念」
    それは、次ぎの事である。

      ・訓戒
    ”「お仏像様」の掌で育てよ”

    以上とする考え方を伝達する事にある。

    そもそも、”育てよ”とは、「息子」とその「息子の子供」(孫)までの「養育の事」であって、取り分け、”「息子の夫」”としての「成人後の養育の事」を意味するのであろう。
    (当時は寿命の関係から「早婚」であった。)
    ”掌”とは、実に意味が深い。
    当然に、「妻−夫の関係」にありながら、相対的な関係に置くよりも、広く長く穏やかに優しく厳しくして「心」を保ち、 ”「女」として操れ”。 ”如何にも「母性愛」を以って「子」に接する様に操れ”と云う意味であろう。
    家訓などにこの様な「添え書きの解説書」は無い。
    決して、”「対立的な相対関係」に持ち込んではならない。とする意味合いが存在するのであろう。”故に、「子供の定義」になっているのである。
    あくまでも、「概念の扱い」は、”「子」”なのである。
    ”全ての扱いは、「子の域」を一切脱してはならないと捉えよ”と成る。
    そして、この「訓戒」は、次ぎの事と成る。

      ・「四家訓戒」
    ”「人の継承」、就中、「家の継承」は、本来は「女」にある”

    以上とする「青木氏の考え方」に由来している事を告げていると観られる。
    (この考え方は、「青木氏家訓十訓」の「家訓一」と「家訓二」に表れている。)

    ”「お仏像様」”とは、「氏の護り本尊」であり、「氏の象徴仏」であり、「氏の権威」であれ、それを支える「氏の賜仏像」である。
    依って、そもそも、「お仏像様」は、「青木氏」の「単なる仏像」では無く、「擬人化した人」、つまり「絶対的な人」なのであった。
    つまり、”「氏」そのものの「有り様」”を一つにして物語るものであった。
    この”「擬人化した人」の「絶対的な人」の掌”とは、次ぎの様に成るだろう。

      ・「四家訓戒」
    況や、”「氏の環境」に身を委ねて、「氏是」や「家訓」を信じて、その「氏の心」に従って、その範囲で育てよ”としているとも考えられる。

    ・「青木氏三様」
    つまり、次ぎの「青木氏の三様」を物語っている。
    ”お仏像様”とは、考え方の「基準の様」
    ”掌で”とは、考え方の「持ち方の様」
    ”育てよ”とは、考え方の「扱い方の様」

    確かに、この「三つの様」を以ってすれば「世の事」「氏の事」は成せる事は判る。
    何れの世界にしてもこれは当に「条理」であろう。
    「青木氏」は、これを「青木氏密教の教え」として”「青木氏三様」”としての「四家訓戒」の一つとしている。「青木氏の家訓」にも記述されている訓戒である。
    取り分け、”「賜姓五役」を務める「賜姓族」”に執っては、「世間の普通の考え方」では、何事も成し得なかったであろう。
    恐らくは、「子孫存続」の為の”「四家」や「福家」の制度”を敷く”「賜姓族」”であるとし、その”「模範」”と成るに「必要な環境」は、周囲には極めて少なかった事が挙げられる。
    従って、”「三様」「三相」の提示”が、「必要条件」として、「息子の養育」を任した”「嫁」”に、「何かの規準と成る考え方」を、是非に「申し伝える事」は必要であった筈である。
    そうで無ければ、この「訓戒」を以ってしなければ、この難しい環境では”「嫁の位置」”は明らかに果たし得ない事が判る。
    況して、”「賜姓族の四家」”である。この「難しい環境下」で、所謂、”「夫と成る子」”を育てなければならないのである。
    それ故に、”幼少期からの「養女」「養子」の制度”を敷いて、”「氏家の環境」”に馴染ませる必要性もあった筈であり、その”「馴染んだ上での訓戒」”として申し伝える様にした「四家制度」の「特異なシステム」であった事が云える。

    注釈 これは、現在感覚から観ればであるが、当時は、社会は「氏家制度」の中での事であった為に、周囲や氏内も当然の事と納得していた筈である。況して、その当時でも”「賜姓族」”と云う立場であった事から、「一族一門」と「縁者遠縁」と「家人郎党」は、”「当たり前の事」”と認識していたと考えられる。
    即ち、”「当たり前の事」=「伝統」”である。
    そもそも、”「伝統」”とは”「当たり前」”として認識して納得しての事だからこそ、 ”長く歴史を経て「継承できる事」”であろう。
    ”特異”として認識していた「娘」や「嫁」は、既に「氏内」に存在する事さえも出来ない事であった筈で、況して、そのような者が「嫁」には成り得なかった事であろうし、一族郎党は認める事さえなかった筈である。むしろ、”特異”と考える事自体が”特異”と見做される「四家の社会」であった事に成る。
    故に、「幼少期」からの「養女」であり、「娘」であり、「嫁」であったのである。
    結果としては、”早婚中の早婚”であった事に成る。
    恐らくは、筆者は、”「嫁」”と云う感覚は、”無い”とは言い難いが、最早、極めて薄かった意識であったと観ている。要するに、”「娘」で「子」”の概念の中にあった方が強かったと考えている。
    この方が、”「四家方式」の[子の定義]の趣旨”を逸脱していないだろう。

    その意味で、この「早婚」と成り得る”「早婚方式」(「幼少期の養女」)”は四家の中では”理に叶う事”に成っていたと考えられる。
    そうすれば、「深い理解」は可能と成ろう。
    そして、「氏の純血の目的」”もあったが、より”「氏の環境」”が多少なりとも理解できている”事に成り、依って、”「縁者」”の”「娘の範囲」”を画したと観られる。
    そもそも、全くの ”「他氏の嫁」”では、”「物心」の就かない「幼少期の養女」”とする事は、青木氏に「謙る事の印象」を与えかねず「社会的立場」から難しく成る。
    しかし、上記した様な「四家方式」の背景から「青木氏」に執っては、100%と”「幼少期の養女」”としなければ成し得ない環境事であった。
    それ故に根本的に「四家」の中では無理な事であった筈である。
    つまり、”血縁の無い「他氏の娘」の「嫁」”では、この「娘域の血縁」からでは成し得ず無理と成っていた事に成る。
    況や、「四家の概念」としては、”「無血縁」<「四家方式」の感覚”の方が優先されていた事であっただろう。
    (4)については下記に論じる処ではあるが、「概念」としては次ぎの様に成るだろう。

    (1)「無血縁」<「四家方式」>「血縁弊害」
    (2)「純血性」=「四家方式」>[無血縁]

    故に、(1)(2)から(3)
    (3)「無血縁性」<「純血性」>「血縁弊害」
    (4)「子孫存続」=「純血性」>「氏拡大性」

    故に、(3)(4)から(5)(6)
    (5)「無血縁性」<「子孫存続」>「血縁障害」
    (6)「無血縁性」<「子孫存続」>「氏拡大性」

    故に、(2)(4)(6)から(7)(8)(9)
    (7)「四家方式」=「子孫存続」>「無血縁性」
    (8)「四家方式」=「子孫存続」>「血縁障害」
    (9)「四家方式」>「氏拡大性」

    故に、(7)(8)(9)から(10)
    (10)「無血縁性」≒「血縁障害」≒「氏拡大性」

    「3リスク」 
      「無血縁性」で起こるリスク 
      「血縁障害」で起こるリスク
      「氏拡大性」で起こるリスク
     即ち、「青木氏」には、この「3リスク」を持っている事に成る。

    ∴ 「四家方式」に依って、この「3リスク」は克服できる事に成る。
      
    以上の様に、「社会との接点」に必ず発生する「3リスク」には、「青木氏」が採っている「四家方式」は論理的に矛盾は無く打ち勝つ事が出来る事が判る。
    故に、矛盾が無くして、「賜姓族」として生き延びて来られたのである。

    ・「理と利の融合」
    この「3リスク」を克服できる「四家方式」を更に次ぎに検証する。

    ”他氏の娘の嫁”を入れて「同族血縁の障害」を取り除く事には問題はない。
    しかし、上記の数式論で説明できる様に、確かに ”理は叶ってはいる”が、敢えて、”「四家の制度」”として選ばなかった理由の一つには、ここにもあったのである。
    特筆して、この「四家方式」の”「縁者 遠縁の養女方式」”には、強い”「氏の合理性の環境」”が青木氏の氏の中に働いていた事が読み取れる。
    可成り強かった事が読み取れる。
    先ず、何はともあれこの「四家制度」を考え出した事そのものに驚く。

    (注釈 実は、平成に成っても、筆者も、この事は、現在の感覚や医学的な遺伝子の判断からも、”理に叶っている”として、この「伝統」の「訓戒の二つ」を「ある家の祝宴」に祝辞の中で申し上げたことがあった。
    しかし、その”「嫁」”は、始めは ”きょとん”としていたが、上記の「子の定義」の事を、後に、”「青木の伝統の考え方」”として説明してからは、ある時間を経て経験して理解される様に成った。理に叶っていると納得したと観られる。
    今は、この「青木氏の訓戒」を”「笑い話」”の様にして何とか馴染んでいる。
    生活の中で、成程と「合理性」を感じたのではないかと観られる。
    何時しか「孫」にも「曾孫」等にも、この”「笑い話」”成るものを伝えてくれるものと思って、うれしく成っている。意外に、現在では、家族関係では希薄に成っている中で、”理解されやすい感覚”であるのかも知れないと思った。これが長く続けられる”「伝統の本質」”なのではないかと考えられる。何時しか「子孫」も、その「時期」、その「心根」が来れば「ロマン」を感じてくれると信じている。)

    実は、筆者は、そもそも、”「伝統の本質」=「理に叶う合理性」”だと判断している。
    所詮、”「理の無い伝統」”は消えるのであろう。
    依って、最早、筆者が、この様な”「伝統」”を後世に伝えられるのも限界であろうと考えている。
    この”「伝統」”は、何度も書くが ”ロマン”でも良いのであるが、この”「伝統の不継承」”が「現代社会の歪」を生み出しているとも観ている。
    ”「理に叶う事」”がなかなか難しく成った社会に於いては、現代風に”「利に叶う事」”でも敢えて良いと観ている。
    一挙に、現代社会を、”「理に叶う事」>「利に叶う事」”に変える事は、幾ら、”「伝統」は大事だ”と云ってもそれは無理な事である。
    「利に叶う事」の社会には、それなりの「理由と根拠」とが在って、その様に成っているのであるからして、無理に換える事は反って問題を生み出す。
    ”「伝統」”を少なからしめる”「利に叶う事」”であるとは云え、決して、”「利に叶う事」は短絡的に悪い”と云う事では決して無い。むしろ正しい。
    逆に、”「理に叶う事」”が、”何事に付いても正しい”と云う事でもないし、「理に叶う事」が逆に弊害や問題を産む事もある。
    それの「理と利の境」は、「青木氏密教の氏是」とも云える「仏説」である[三相の理」(人、時、場)に従っていると教えられているのである。(家訓に記載)
    ({家訓]にあると云う事は、先祖は、「理に叶う事」「利に叶う事」に付いて、全てを知り得ていた事を証明する。)

    「理」より「利」に聡く成った「現代社会」であるならばこそ、ここで、この数式論で、”「伝統」”をもう一回生み出して行く事も必要であろう。
    ただ、この”「伝統」”とは、青木氏の賜姓族が継承して来た「慣習仕来り掟」を云う物では決して無く、”人間の本来のこの世に存在している根拠”、即ち、次ぎの事であると考える。

    この「世の万物の目的」である”「子孫存続」”に対して、この世に生を得た「生きる者」の「尊敬の念」の「表現と行動」を云う。

    この結果、”この念が継続的に維持されたもの”を”「伝統」”と云うのであろう。

    これが、「希薄」に成っていると云う現象であろう。
    つまり、現在社会の構成の中では、本来は、次ぎの数式論が働く筈である。

    「理に叶う事」≒「利に叶う事」
    この環境の中にあると考える。

    しかし、この数式論が、次ぎの様に成っていると考えられる。

    「理に叶う事」<「利に叶う事」
    この環境に成っている事だと考える。

    依って、この数式論では、次ぎの様に成るだろう。

    (X) ”「伝統の本質」=「理に叶う合理性」」+「利に叶う合理性」”

    そもそも、”「伝統の本質」”とは、何なのか。
    この世に”「伝統]”と云うものが存在するには、”「理」”だけでは成り立たず、”「利」”が在ってこそ成り立つ。
    何故ならば、”「伝統」”は、「生活」の中に存在する限り、”「利」”が無くては困難である。
    従って、丁度、「理と利」は、”「骨と肉」の「一対の関係」”で成り立ち、”「理と利の和の相乗効果」”で以って成り立つと考えられる。
    その”「伝統」”が持つ”「本質」”とは、何で構成されているかと云う問題である。
    それは”「合理性」”であると考えられる。
    ”意味を持たず、無理の絡むもの”には、人は反応しないは常理であり、従って「継続性」も無い。
    在っても一時的にものに終わる。それは、最早、”「伝統」”では無い。一時の”形式ばった戯れ”に過ぎない。
    そこに、”納得出来得るもの”、即ち、”「合理性」”が求められる。
    この”「合理性」”は,[骨と肉」に対して「血の質」に相当する。
    故に、[骨と肉」それに「血の質」が相まってこそ”「伝統」”の「本質」は生まれる。
    これを、数式論に置き換えたとして、次ぎの様に成るだろう。

    「合理性」=(「理」+「利」)・「継続」=(骨+肉)・「血の質」

    「継続」とは、「理と利」を「力強い信念」を以って進める事にある。
    だとすれば、数式論は次ぎの様に成る。

    「継続」=(理+利)・「信念」

    そうすると、「継続」は、「理と利」に対して、その”「信念」=「2倍の力」”程度を発揮する事で達成される事に成る。

    「信念」=「継続」=2

    故に、次ぎの数式論の関係式が成立する

    「合理性」=(「理」+「利])・2

    依って、以上の数式論の関係式が成立する筈である。

    「過去の青木氏」の「四家」の中では、この「数式論の環境(状態)」が、既に、当然の様に成り立っていたのではないかと考えられる。
    その根拠は、”「奈良期からの生き様」”がこの数式論の環境(状態)を裏付けている。

    (X)「伝統の本質」=「理に叶う合理性」」+「利に叶う合理性」
       「合理性」=(「理」+「利])・2
    (A)「商いの氏族」+「賜姓族の氏族」=「二足の草鞋策の氏族」

    この”「二つ環境」(4つの状態)”の数式論の中にあったからである。

    即ち、”「二足の草鞋策の氏族」の形”が、奇しくも、”「伝統の本来の環境」”を作り上げていた事に成る。

    (a)「伝統」≒「理」+「利」

    (b)「理に叶う事」≒「伝統」≒「利に叶う事」

    (c)「商いの氏族」=「利に叶う事」
    (d)「賜姓の氏族」=「理に叶う事」
    (X)「伝統の本質」=「理に叶う合理性」」+「利に叶う合理性」
       「合理性」=(「理」+「利])・2
    (A)「商いの氏族」+「賜姓の氏族」=「二足の草鞋策の氏族」

    以上であるから、従って、次の数式論が成立する。

    故に、(b)(c)(d)から(e)
    (e)「商いの氏族」≒「伝統」≒「賜姓の氏族」
       「商いの氏族」≒「賜姓の氏族」

    故に、(A)(c)(d)から(f)
    (f)「理に叶う事」+「利に叶う事」=「二足の草鞋策の氏族」

    故に、(A)(X)(e)から(g)
    (g) 2×「理に叶う事」≒「伝統の本質」≒2×「利に叶う事」

    (2×「理に叶う事」と2×「利に叶う事」は、(「理」+「利])・2=「合理性」を表す。)

    故に、(A)(f)から(h)
    (h) 2×「理に叶う事」≒「二足の草鞋策の氏族」≒2×「利に叶う事」
       (2×「理に叶う事」≒2×「利に叶う事」→「理に叶う事」」≒「利に叶う事」)

    (現在まで伝統が継承された事は、「信念」があった事に成る。依って[2]は数式論として削除)
       

    故に、(g)(h)から(i)
    (i) 「伝統」≒「二足の草鞋策の氏族」

    故に、(a)(g)から(j)
    (a)「伝統」≒「理」」+「利」

    (j)「伝統の本質」≒{「伝統」≒「二足の草鞋策の氏族」}≒「理に叶う事」≒「利に叶う事」

    故に、(a)(e)(f)(g)(h)(i)(j)から(k)
    (k)「伝統」≒「二足の草鞋策の氏族」≒「賜姓の氏族」≒「商いの氏族]≒「伝統の本質」

    結果として、以上の論理が働くからだ。

    そもそも、即ち、この「数式論の関係式」は、普通の武家社会では起こらない事を示している。
    それは,「賜姓の氏族」(理)と「商いの氏族」(利)であると云う[特質な環境」を保有していた事に成るからこそ成り立っていた事であり、且つ、上記の”「伝統の原理]”が成り立つ”「不思議な環境」”を持ち合わせた「青木氏」”で在ったからこそ、”「伝統」は保障され維持されて来たのである。

    故に、上記の数式論は、”「青木氏]”のみであり、「平安期−鎌倉期の48氏ある氏族」でも成り立たず、況してや「一般武家」では、決して成り立たない。

    何れにしても、この「世の事」が、将又、「青木氏」にも、数式論通りに、”論理的に全てが働く”とは言い難いが、凡そ、その「流れ」は、この数式論での様に、確保出来ている事は証明出来る。
    個々の末梢事は、兎も角も、”「流れ」の確保”がこの世に於いて重要な事なのである。
    ”「流れの確保」”のその「前提」は、少なくとも、最低限にも、”論理的に状況の骨組みを作り上げて置く事”にある。
    「青木氏」のみならず、この世の全ての「事の流れ」には、この「前提」が必要なのである。




    「伝統 12」に続く。


      [No.327] Re:「青木氏の伝統 10」−「密教概念」(毘沙門天から観る概念)
         投稿者:福管理人   投稿日:2015/01/13(Tue) 09:14:13  

    > 前回の末尾

    >「密教氏青木氏」としては、「賜姓五役の遂行」と「子孫存続」であったと理解している。
    >それが「毘沙門天」の「三神格の武神、守護神、財福神」であって、別の顔の「商いの氏」としては、「戎神、無病息災神、勝負神の三神格」であった事に成る。
    >「毘沙門天」にこの願いを込めたのであろう事が判る。

    >「毘沙門天像」には、この様な「酌量の余地」を残しているのは、「密教性を自由に表現できる余地」を残している事に成る。
    >これは、「毘沙門天像」が「和魂荒魂の古代宗教」との「習合性」を持たす事に依って「仏教の浸透力」を高めようとした所以であろう。(現実に「三宝荒神像」と同化した。)






    「伝統 10」


    「密教概念」(毘沙門天から観る概念)
    記録によると、「阿多倍王」の子孫の九州の太宰大監の「大蔵種材」は、当代の豪傑であった事からこの”「毘沙門天像」のモデル”と成ったと記録されている。
    又、実質にもそのような人物であったとして、朝廷と歴代天皇は、「錦の御旗」と「遠の朝廷」を個人に与えた唯一の人物でもあった。
    古今東西で、正式に個人と団体にこの称号を賜ったものは現在までいないのである。

    例えば、仏教の「両界曼荼羅」の絵では、の「大蔵種材」がモデルと成って、甲冑に身を固めて、右手は宝棒、左手は宝塔を捧げ持つ姿で描かれている。
    これは「古代密教浄土宗の様式」である。
    然し、ところが「東大寺」(戒壇堂)の「四天王像」では、逆に右手に宝塔を捧げ持ち、左手で宝棒を握る姿で造像されている。
    これは「古代密教浄土宗」と異なる宗教概念であった事を物語る。

    奈良の「當麻寺」でも同様に右手で宝塔を捧げ持っている。
    他に、西洋の影響を受けて「三叉戟」を持つ造形例もある。

    例えば、京都の「三室戸寺像」などは、「宝塔」を持たず片手を腰に当て片手に「三叉戟」を持つ姿である。
    これは明らかに外来の「大乗仏教」の影響を受けている事が判る。

    これらは、「密教像」であったことが、「3大密教の考え方」を受けて、その表現方法が大きく変わったと観られる。
    中でも真言宗高野山の「毘沙門天像」は外来の「大乗仏教」のその宗派の影響を強く受けている。

    ここで、これらの「密教の考え方」をはっきりさせる事がある。
    それは「宝塔」の意義である。
    そもそも、「宝塔」とは、本来は「経典」を納める塔で、円筒の塔に一重庇の持つ塔で、BとCでは、この円筒の中に「釈迦の法華経典」が納められる。
    (Aは異なる)
    これは、「宇宙仏の毘盧舎那仏の教え」を「釈迦」が仲介して教え伝えると云う事から、「釈迦の法華法典」を「宝塔」に納めると云う教義を採っていて、これは殆ど「顕教」である。
    しかし、これが「天台密教」だとしている。
    しかし、「天台宗」は「宇宙仏」の「毘盧舎那仏」を本尊としている限りは「顕教」である。
    「顕教」だけれど、「密教」だとする中間説であろう。
    当時、平安期には、「天台宗」は「顕教」では「高位の信者」を集められないところから、「密教の考え方の概念」も交えて「門跡者」や「公家衆の信者」を多く獲得していた。

    一方、「Aの密教浄土宗」では、「宝塔」には「仏教に関わる珍物」を入れた。
    「宝塔」には、Aでは「仏舎」を形採ったとして”「仏教の珍物」”即ち、その氏が指し示す概念の物を入れた。
    多くは「密教氏の武家」が入信したのである。
    「青木氏」等「密教氏」では、「宇宙仏」の「大日如来仏」である事から、「自然物としての宝」即ち「玉」(青木氏は黄玉石)」を入れた。(現有)
    そして「達親の論文」でも論じた様に、完全な「密教概念のシステム」を採った。

    「Aの密教浄土宗」では、この「宝塔」を形採ったものをこれを”「左」”に持つ。
    「左」と云う字句に意味を強く持ち、その「宝塔」の中味にも意味を強く持たしたのである。
    この「宝塔の作法」として現在も遺されているのは、法事などに戒名等を書き示される「塔婆」はこの作法の一つである。
    「塔婆」に書き記された「戒名」を”「密教の毘沙門天」が守護する”と云う意味合いを持っている。
    (顕教に成った現在でも、この塔婆の仕来りは護られている)
    従って、この「宝塔」は、その氏が「主張する概念」を指し示す。
    これが「密教」である。”主張出来る得る仏教概念”と云える。

    更に、「宝棒」は「悪」を打ち据える「棒」を意味する。
    これを「右の手」に持つ事は「右」の意味を重視しているに関わる。

    つまり、概して次の様な論説に成る。
    仏教では、「左右」は、「左」を優位とし、「右」をその「相対の位」にあるとする。
    つまり、「天台宗密教」では、左に「法華経典」を持つ事は、「法華経典」で以って優位して「現世」を治め、左に持つ「法棒」(宝棒)で以って「現世の悪」を打ち砕くと説いている事に成る。
    その「神格」が「毘沙門天」であるとする考え方である。
    この様に、「宝棒」や「宝塔」の持つ方が左右の何れにか依って治める優位が変わる。
    「左右」のみならず「持つ物」と「持つ物の有無」に依っても、「その意味の度合い」が変わってくる。
    要するに、「法華経」の「法」(宝塔)を以って「令」を成し、世を治め、「罰」(宝棒)を以って「律」する。と云う概念である。

    事ほど左様に、別論文の「伝統2」で論じた様な「密教の仏法作法」が遺されている所以なのである。

    故に、「賜姓青木氏」では、「古代密教浄土宗」であった事から、「大日如来坐像」の「お仏像様」を「護り本尊」の主尊(法華)として、「毘沙門天像」を「武神・守護神」の側尊(悪を罰する武)の「独尊像」として一対としていたのである。

    「青木氏の密教概念」は、次ぎの通りである。
    左に「宝塔」、右に「宝棒」、足元には「邪鬼」を踏みつけ、「大蛙」を「使い」として仕えている「造像」である。
    そして、この「宝塔」には「玉」を納めている。
    要するに、「地上の玉」(宝塔)を以って世を治め、「罰」(宝棒)を以って「悪」を捉え律し、「如来の使い」を通して「法華」を指し示す。と云う概念である。

    つまり、「地上の玉」(宝塔)、即ち「天皇の威徳光」を以つて世を治め、「罰」(宝棒)を以って「邪悪」を抑え込み、依って律する世を作り、「如来使」(大蛙)の法華(「令」)で「現世」を作る。
    そして、その「法華の世」は「現世の者」と「彼世の者」とに依って治められる。

    これが「青木氏の毘沙門天像」が指し示す「青木氏の密教概念」であると「古代密教」は説いているのである。

    況や、「古代宗教」の「習合化の影響」が働いて「自然神の概念」に近い。
    これが「古代密教浄土宗の概念」でもある。

    既に、他の密教との差違はお判りと思うが、上記した様に、これに比して、天台宗系列の「毘沙門天像」が指し示す「天台宗密教の概念」とは、現世を治める概念が著しく異なっている。
    ここには、次ぎの違いがある。
    「古代宗教」(自然神と和魂荒魂との習合)が他二つの密教には無い事。
    「法華経」が存在するが、「玉」としての「天皇の位置づけ」は無い事。
    「律と令」の「律の処し方」と「令の治め方」も異なっている事。
    「令」には「如来の万能神の使い」の有無が異なる事。

    要するに、「天台密教の概念」は、「法華経」の「法」(宝塔)を以って「令」を成し、世を治め、「罰」(宝棒)を以って律する。と云う概念である。
    これは、「釈迦」が説く「法華経」を下に単純な「律令の世の概念」である。
    「外来の概念の影響」を受けて合理的に成った概念に近く、最早、「顕教」でもある。

    ここで、疑問点がある。
    「天台密教」が指し示す概念には、次ぎの様な事の違和感の差違がある。
    ”「天皇の威徳」が概念の中に無い事。”
    ”且つ、顕教的密教である事。”
    しかし、この”信者の多くは「公家」と「門跡者」である事。
    当に、体制側を構成している者達である。

    「天皇の威徳」のを概念の中央に据えていない天台宗密教である。
    その密教の信者とは納得がいかない。自らの立場を”密教と云う立場”で否定している事に成る。
    本来であるのなら、「真人族」と「公家」と「門跡者」等は、自らの体制派側にある筈である。
    そうであるとするならば、”宝塔に玉”の「浄土宗密教」に入信する筈である。
    ところが、「釈迦側・顕教側」に付き、「玉・密教側」の天皇側に入信していない。
    これはおかしい現象である。
    確かに、「朝臣族」は、「浄土宗密教」、「真人族」でも、皇位継承から外れ臣下した「青木氏族」は「浄土宗密教」に入信している。
    もっと分けるとして、体制の「護り側」は「浄土宗密教」、「護らせ側」は「天台宗密教」と成る。
    密教では逆の現象が起こっていた事に成る。一種の矛盾である。
    確かに、この現象が起こっていたが在る。
    例えば、「平等院」は「天台宗」と「浄土宗」の何れの密教宗派も院殿の形で取り入れている。
    「信濃善光寺」も「天台宗」と「浄土宗」の密教宗派も院殿の形で取り入れている。
    僧侶もこの比で抱えているのである。その僧侶もはっきりと分けられていて「公家や門跡者」は「天台宗側の僧侶」に、「朝臣族や真人族や宿禰族」からは「浄土宗側の僧侶」と成っている。
    遺された記録からこの事が読み取れる。

    では、何故に、密教の中で、この現象が明確に起こるのであろうか。
    概念の中で何かがあるから起こっている。
    この矛盾を解くとするならば次ぎの様に成る。

    天台宗密教側から観た優位点
    イ 「法華経」と云う物: ”「生きる道標」”を 文書で明文化して指し示していた事。
    ロ 「釈迦像」と云う人: 現実にこの世に生きた神格仏の”「現実の崇拝偶像」”があった事。

    天台宗観密教から観た劣位点
    ハ 「天皇の威徳」:現実には天皇の象徴性が”「不完全な人間性」”を暴露している事。
    ニ 「自然理」:自然の中から自らの切磋琢磨で”「理を悟る事」”には不安がある事。

    「天台密教側を信じる者」には、「イとロの導き」があり、「ハとニには疑問と不安」が残る。
    とすると、人は「天台密教」に傾くは必定であろう。
    況や、「生きる道標」に ”自ら努力して苦労して悟れ”の「浄土密教」より、それの全てを「経」の文書として書き記されれる「天台密教」の方に傾くは「人の性」である。


    ところが人の中には少ないが、「浄土密教側を信じる者」には、”「不完全な象徴」でもそれを盛り立て、「理想を描く文書」では無い「現実の社会」を見据えて、自らを磨き、「理」を悟り高めてこそ成し得る現世である”として「密教」を信じたとされる者もいる。

    元より、”この世は、諸行無常、不完全、不条理である”とする前提を考える者が、信じる「浄土密教概念」である。況や、「積極的な概念」であろう。

    元より、”この世は諸行無常、不完全、不条理である”からこそ、より確かな世を求めて「釈迦の法華経」を信じた「天台密教」である。況や、「消極的な概念」であろう。

    この「世の態勢」は、「積極的概念」<「消極的概念」 であることは否めない。
    突き詰めれば、「密教概念」<「顕教概念」である事にも成る。

    「公家」「門跡者」も「人の子]右側に傾くはこの「世の常理」である。
    況して、突き詰めて云えば、「門跡院」は天皇に成った者でもあるにせよ、将又、「公家」も「世の荒波」に「揉まれていない者」の「成れの果て」であろう。
    何れの者であろうと、揉まれていない者達の辿る道は右辺側になるは必定である。

    何れの側に生きようともそれは良し悪しでは無く「個人の裁量の範疇」であろう。
    故に、「個人の裁量」を許してそれを概念とした「密教の所以」でもある。
    ここが、”経典で人はこうであるべきだ”と諭す「顕教」とは異なる所以でもある。

    我々青木氏は、上記数式の左辺側に居て生き延びて来た事を意味する。
    その「個人の裁量の考え方、即ち、「密教概念の生き方」では大きく間違っていなかった事を指し示す。
    そして、多くの殆どの氏族が完全滅亡した中で、その貴重な「子孫と伝統」を遺し得たのである。

    「伊勢青木氏」に遺された「両界密教曼荼羅絵」から「密教曼荼羅絵の毘沙門天像」は「本来の密教の造像」である。
    「伊勢青木氏」に遺された「両界密教曼荼羅絵」の中には、「真言宗高野山の曼荼羅絵」も遺されている。
    「曼荼羅絵」は矢張り違っている。
    仏画では「仏教の世界観」のその違いがはっきりと判る。
    江戸期には高野山との付き合いがあり、その時に入手した「真言曼荼羅絵」で江戸中期から末期のものであろう。(先代まで総長との深い付き合いがあった)

    多くの場合、「各仏の持物」がそのままその仏を象徴する「三昧耶形」となる。
    「宝塔」の様に、意味を持っている。
    例えば、次ぎの様に成る。
    「不動明王」なら利剣(倶利伽羅剣)
    「聖観音」なら蓮華、
    「虚空蔵菩薩」なら如意宝珠
    などの持意味のある持ち物の「仏具」(三昧耶形)を持っている。

    また、「密教浄土宗」の「曼荼羅絵」では、通常、”持物を持たないとされる如来像”の場合は、特別の象徴物が「三昧耶形」とされる場合もある。
    「大日如来仏」が「宝塔」を持つこともあるし、「印相」を以て「三昧耶形」とする場合もある。
    何れの「密教の曼荼羅」などの「仏画」では、この様に「仏の絵姿」の代わりに「三昧耶形」(密教仏具)で描く事が多い。
    つまり、「描く三昧耶形」でその「仏説」は異なるのである。
    「密教曼荼羅絵の仏画」は、その「宗派の仏説」を良く表現出来るとして、上記した様に、「両界曼荼羅絵」が盛んに用いられる様に成った。
    特に、上記で論じた様に、「浄土真宗」は、「密教」に拘らずその概念を最大限に表現でき自由に表現できるとして、この「曼荼羅絵」を全面的に用いた。
    「仏画」が描く「仏像」が持つ「三昧耶形」にはそれなりの意味を持っている。
    (しかし、これを全て説明していては文面に際限が無く成る。)
    因みに、有名な処では次ぎの様なものがある。

    安置形態
    A 「毘沙門天」を中尊とし「吉祥天」と「善膩師童子」を脇侍とする「三尊形式の像」がある。
    例えば、次ぎの様なものがある。
      奈良の「朝護孫子寺」、
      日本最初の毘沙門天の出現霊場の「信貴山奥の院」
      京都の「鞍馬寺」
      六甲山の「多聞寺」
      高知の「雪蹊寺」
    以上がある。
    B 毘沙門天と吉祥天を一対で安置するもの
      奈良の「法隆寺金堂像」
    C 毘沙門天と不動明王を一対として安置するもの
      高野山の「金剛峯寺像」
    などがある。
    D 天台宗密教系の寺院では、「千手観音」を中尊として、両脇に「毘沙門天・不動明王」を安置す  る事も多い。
      明王院像、京都の「峰定寺像」
    などがある。
    E 但し、真言宗系寺院でもDの傾向が強い。

    個々に解説する事は敢えて割愛するが、夫々の像の構成に依ってその宗派の「仏説概念」を持っている。

    「青木氏の造像」は上記でも論じたが、次ぎの様に成る。
    「伊勢青木氏」の「毘沙門天像」は、”「大日如来座像」と同時に一対”として、成り立っている。
    これは「賜姓族の役」として、その意味を込めて「天智天皇」より賜姓時に賜ったものである。
    「鞍作部止利」作の「大日如来座像」は、賜姓時に賜った事が記録されている。
    恐らくは、この記録に付いての後の時代に描かれた「解説添書」(青木氏の事を知るに必要とする添書)には、「毘沙門天像」の事が書かれていない事への短い添え書きがある。
    ここには「先祖の判断間違い」があったことが判っている。
    この記録の文面の前後の文脈からよく見ると、「毘沙門天像」に付いての「単独記録」としてでは明確に成っていない事を懸念している内容であった。
    しかし、これは上記の様に、各宗派の各寺の「仏像の保存の形態」から観ても判る様に、”その宗派の「仏説概念」を表すもの”である。
    そうすると、 必ず”一対像”としての「仏説判断」から、当然の事として「青木氏の記録」が成されているのであって、「毘沙門天像」としての”単独の記録”は本来決して無いのである。
    (世間では「毘沙門天像」が変遷の中で平安期には「独尊像」としての扱いを一時受けていた事が判る)

    そもそも、「青木氏」は、「賜姓五役を果たす立場」にあって、「古代宗教(和魂荒魂)」と「古代仏教」とを習合させた「古代密教を形成する唯一の氏族」である。
    従って、「独自の密教概念」を持つ「氏族」として、
    イ 「青木氏密教」の「宇宙仏の大日如来仏」の造像
    ロ 「青木氏密教」を守護する「代表的守護神の毘沙門天像」の造像、
    このイとロの二つが「完全一対」である事が前提と成る。
    ハ これに「邪鬼像」と「大蛙像」が付添する構成である。

    (「密教概念の全体造像」としては「独尊像」としては構成しないのである。
    但し、「守護神類の造像」としては「独尊像の形態」を採っている。
    青木氏以外の多くは吉祥天像等の7天像と組んで安置構成するのが普通。)

    況や、上記で論じた様に、「顕教の釈迦三尊像」の様に、その「宗派の概念」はセットで構成されるものである。
    後刻「解説添書」に追記した「先祖」の「判断間違い」はここにあったのである。

    (但し「判断間違い」かは定かでは無い。”「毘沙門天像」に特記するものは無い”として記しているのみである。)

    「大日如来座像」は、「宇宙密教仏」である限りは論理的に「本来独尊像」は無いのである。
    「青木氏」では、判り易く云えば、「毘沙門天像」が「顕教が構成する脇侍像」の役割として、同じ意味で祭祀されているものである。
    同時に賜ったものを累代の先祖の誰かが、後に{独尊}として租借錯誤したとも観られる。

    重複させるが、「青木氏密教」は、上記の通り、「大日如来座像」「毘沙門天像」「邪鬼像」「大蛙像]の「四つの造像」がセットになって成り立つ「密教概念」である。
    「青木氏の密教」は「独尊」は成り立たないのである。

    平安末期から「古代仏教の密教性」は「法然」によって普通の「密教」に変えられた。
    鎌倉期に入って「密教氏」が滅亡衰退する中で「密教浄土宗」も当然に衰退して、「親鸞」によって顕教化されて「浄土真宗」に変化して布教がやっと広まった。
    しかし、その時は、最早、「顕教」であった。

    「青木氏の毘沙門天像」は「古代密教仏教」の「造像」であって、「甲冑」と、右手は「宝棒」、左手は「宝塔」の「古式の三昧耶形の造像」であった。

    この事から、この「様式の造像」は、少なくとも「法然」の前の「古代密教」の「仏教の造像」であった事に成る。
    とすれば、時期的には平安期前と成り、「大日如来座像」と同じく奈良期の「鞍作部止利」の作と成る。
    つまり「3つの発祥源」として、その「三役」に合して「武神」:(侍)」「守護神」:(武家)」「財福神」:(臣下族)」の象徴としての同時に送られた「賜像物」と成る。
    更には、「神仏習合の三宝荒神信仰」が、「青木氏」に成されている事は、奈良期から平安初期までの間となる。
    従って、この「三宝荒神信仰」と「毘沙門天信仰」が、「神仏合体の象徴」として「重複習合」している事は、同時期である事が極めて高い事に成る。

    注釈
    「三宝荒神信仰」は、”「自然発生的に生まれた宗教概念」”とは思え無い。
    筆者は、その「宗教の概念」の「合理性」や、「古代宗教」に合わせた「古代仏教」の「習合性」、などから観て、誰かがそれを主導して生まれ、上級階層の中に取り入れられたものと解釈している。
    とすれば、その「主導役」を成せたのは明らかに”「賜姓五役」の「青木氏」”であったと観ている。
    むしろ、「国策氏」として「その役」にあった。
    「国策氏」として青木氏が存在するのに、「別の氏」が主導するとは、考え難い。
    況してや、「朝廷機関」が公に「古代宗教」に新しく入った「古代仏教」を集合させる事を主導する事などあり得ない。
    然りとて、「国家戦略」としては当面の「政情の事態」を安定化させる為には、「青木氏」をして「習合」を裏で画策する以外には無い。
    だとすれば、「習合の大元」にあった「青木氏の毘沙門天像」は極めて重要な位置にあった事に成る。
    「毘沙門天像」をも持ち得ていない氏がこの習合策を主導する事は先ずはあり得ない。
    依って、「大日如来坐像」は「象徴像」であって、その意を戴して「毘沙門天像」が概念の実行を促す「尊像」であったと解している。
    当に、この事は、「雄弁の仏」の「密教論理」が構成されていた事に成る。
    つまり、「対の造像」なのである。
    この「対の造像」を「賜姓物」として持ち得ていたからこそ、「錦の御旗」の様にして、「習合の主導役」を成し得たと考えられる。
    平安期から起こり始めた「毘沙門天信仰の変遷」に対して、危機感を強く抱き、「古代宗教の和魂荒魂」から「三宝荒神信仰」を習合させて改めて興したのは、矢張りこれも「青木氏」であった事に成る。

    「古代仏教に古代宗教」の「習合」の産物=「毘沙門天信仰」
    「古代宗教に古代仏教」の「習合」の産物=「三宝荒神信仰」
    「毘沙門天信仰」>=<「毘沙門天信仰」←「密教青木氏]

    以上の数式論が成り立っていたと考えられる。

    注釈
    何故、この上記の注釈事項が極めて重要であるのに、これを「添書」などにどこも遺さなかったのかが疑問であった。

    何かの形か書物や記録資料で遺されてはいたが、消失した可能性が高い。「密教性の高い慣習と仕来り」は遺されていたが、現在は判らない。
    ただ、「仏画の曼荼羅絵」にその意味を認めている可能性があると観ている。
    その理由は、注釈の通り、”「毘沙門天信仰」と「三宝荒神信仰」は「青木氏」が主導した”とは描き難い事で在ったのかなとも思える。
    ”先導した”又は、”扇動した”の立場は「当然の役」であった事に成るし、”扇動した”とも書き難かったとも思える。
    恐らくは、この感覚は否定できないだろうから、だとすると、「仏画の曼荼羅絵」に表現したとするのが”順当の流れ”と成るだろう。
    上記した様に「仏画曼荼羅絵」は、そもそも、青木氏は得意とするところであった。

    その場合に描き込むとした場合は,”どうするであろうか。

    役割からすると、”主導、先導、扇動の表現方法”は、絵では「起点」や「基盤」や「土台」の表現に、「青木氏の象徴」を絡めるものと成るのではないだろうか。
    その目で、遺された二つの「両界曼荼羅絵」を観てみると、この密教の二つの絵に共通するものがある筈である。
    「荒神像」と「毘沙門天像」とには、共通する画像には、”足元に雲海を漂せている事。”
    もう一つは、「青木氏の象徴」を意味するものは何か。先ずは「笹竜胆紋」であろう。
    その「雲海」の横には、鮮やかな水色の「竜胆の花葉」が掛かれている事。

    以上、この2共通点である。

    確かに、青木氏の描いた数多い「仏画の曼荼羅絵」を調べると、「淡雲」と「桔梗の花」か「水色竜胆の花」は描かれている事が多い。
    これが、”青木氏の「主導」「先導」「扇動」の表現”ではないかと考える。

    筆者は、”「左の宝塔に宝玉或は宝珠」の様な物を書き記しているのでは”と観ていたが、ところが、「青木氏の描いた多くの仏画曼荼羅絵」には出て来ない。

    書き記し遺したとするならば、この「2共通点」であろう。
    この「竜胆の花葉」が強く物語っていると観ている。
    全体が、「薄茶色の色調」の中に、「水色の竜胆の花葉」は際立っている印象である。
    「雲海」は、「両界」を描き表す時の画法でもあるが、敢えて「色調」が故意的に違う。

    そもそも、この「曼荼羅絵」には、上記でも論じたが、「曼荼羅絵」には酌量の範囲が大きく認められている。

    (a) 「三昧耶形の曼荼羅絵」 概念を仏具に表して描き込んでいる。(三宗の手法で表現)
    (b) 「密教曼荼羅絵」     概念を立体的絵画的に概念の描き込み方をする。(浄土宗の手法)
    (c) 「神道曼荼羅絵」     概念を風景や植物なども使って風景画の様に描き込んでいる。
    (d) 「法曼荼羅絵」       概念を代表する文字等に特化し図案化している。(天台宗の手法)
    (e) 「羯磨曼荼羅絵」     概念を平面に図案化せず彫刻化する。(真言宗の手法)

    「天台宗密教や顕教系の曼荼羅絵は、釈迦と弟子達の図案化が主に描かれる。
    しかし、「釈迦」を描かない「大日如来仏の密教」、中でも「浄土密教曼荼羅絵」には、「三次元的な空間」、或は、「立体的」に表現するのが特徴で、「絵画的表現性」を強く持っている。

    ところが、「古代宗教」と「古代仏教」の影響を持つ「青木氏の浄土密教曼荼羅絵」には、ある特徴がある。

    それは、「古代宗教の影響」を習合として受けているので、風景と植物を描く「神道曼荼羅絵」の(c)を加え、(a)も表現され、(b)で「立体的」に「絵画的」に表現されている。
    従って、「青木氏の曼荼羅絵」は、「宝塔・宝玉」とか「風景」を描く様に、「雲海」とか「竜胆の花葉」が「立体的」に描かれているのである。

    この様に「浄土宗曼荼羅絵」には、他の宗派の「曼荼羅絵」とは根本的に異なり、且つ、「神道曼荼羅絵」の影響を描かれる事に成るのである。

    つまり、他の宗派の「曼荼羅絵」には、「雲海と竜胆の花葉」を描かれる事は根本的に無いのである。

    「浄土宗曼荼羅絵」でも、普通は何時も「雲海と竜胆の花葉」を基本的に描かれると云う事は無意。
    「桔梗の花」とか密教氏(青木氏)に関わる「風景」等も「立体的」に「絵画的」に描く事にも成る。

    依って、「青木氏」が現有している遺された「二つの曼荼羅絵」(毘沙門天像と三宝荒神像)には、「雲海と竜胆の花葉」には「特別な意味」を持っている事に成るのだ。
    「密教概念」のみならず先祖が伝える”「隠し言葉」”をも含んでいるのである。

    これを子孫が、この「隠し言葉」をどの様に読み取るかの度量が試されるのだ。
    当に、”判らなければそれは其れまで”、”自らが悟り真理を会得する事”が「密教の所以」そのものである。
    これは、千利休が説く「茶道の境地」でもあり、これは「浄土密教」から引き出した「密教の概念の極意」でもある。
    上記でも記述したが、筆者の家の唯広い客間の片隅に「茶道具一式」が常にいつでも使える様にし、「香]を漂わせていたのは、この「浄土密教の作法の所以」でもあったのである。
    千利休が「茶道」を導いたのは、「伊勢信濃青木氏」らの「商い」は、平安初期から「摂津」や「堺]にも支店を設けていたが、そこでの青木氏の古式豊かな「浄土密教の作法の所以」を観ていて、それの所作の一つの茶所作を「茶道」として引き出したものであると観ている。

    注釈
    (時代性から観ても、「茶道の根幹」は、下記の数式論の通り「浄土密教の概念の根幹」でもあり、その歴史は900年も古く延々と受け継がれて来たものである。
    当然に、その「所作」も、「所作」の全てから得られる「情緒」も、その「情緒」からそこから獲得する「自然の悟り」も「青木氏の浄土密教」から受け継がれて来たものである。
    他の宗派には「曼荼羅絵」を観てもこの概念は無い。
    「隠し言葉」の様なものは一切なく、あくまでも「宗派の概念」のみを訴える「曼荼羅絵」と成る。
    「他の宗派の曼荼羅絵」には、「密教」と唱えていながら、この「密教性を表現する裁量」は無いのである。
    要するに、「顕教」に外ならない。)

    平安初期から、「客間の茶の所作」からも、又「仏間の浄土曼荼羅絵」を眺めては、”累代の先祖は何かを会得しょうとしていた”事が理解できる。

    「密教概念の極意」=「浄土密教の作法の所以」=「浄土曼荼羅絵」→「累代先祖の悟り」

    「青木氏の家訓10訓」はその結実の一端と云う所では無いだろうか。

    筆者は、この様に受け取っている。

    これは、曾祖父と祖父には 明治期に”氏を象徴するこれを消失させたとするショック”は大きかったのではないかと察せられる。
    故に、恣意的に添書等の記録には、縁起上からもあやふやに敢えて伏せたとも観られる。
    ”伏せた”と云うよりは、消失時は賠償に依って「老舗紙屋の倒産」も伴った事から、その「添書」などに改めて記録する余裕も無かったもと考えられる。
    ただ、「毘沙門天像」の代わりか「義経ー弁慶像」(二代目 現有)に依って何とか祭祀されて「密教作法」だけが遺されたのである。

    この「伝統3」(青木氏の分布と子孫力−12)の調査で、「毘沙門天の経緯」が明確に成った事から、この部分に付いては、曾祖父、又は祖父が「詳細記録」は成されていなかった。
    「歴史的な詳細な経緯の伝承」等までには至らず「節会作法の伝承」で留まった。
    父と祖父は「大火の後遺症」もあって、「添書、由来書」などの完全な復元までに至らず、「節会作法の伝承」さえ判れば、後は調べられるであろうとの計算があったのであろう。

    筆者は、これをあらゆる資料から読み解き、あらゆることへの知識化を図り、その総合力を以て系統化して長くは掛かったがまとめあげられた。
    殆どは「知識の不足」と「理解力の不足」に依る行き詰まりの連続であった。
    痛感するは、若い頃の判断には、「略」が不足していた。
    若い頃にまとめた論文には、この「略」が不足していて、歳をとってから見直すと、この「略」で判った事も多くあり、書き直す部分も多かった。
    上記で記した「武」ではなく、「青木氏の密教」が諭す”「知略」の如何”を痛感した。
    「青木氏の密教曼荼羅絵」にも「隠し言葉」として描き込まれている可能性が有る。
    若い頃には、「毘沙門天像]、「三宝荒神像」も像として、「曼荼羅絵」も単なる「密教の宗教画」で書き方が違う程度の差としか見ていなかった。
    しかし、見方を「略」にして見てみると「違った筋道」が観え来る。
    そして、その「筋道」から「人の生き様」が”立体的に創造出来て”、その「生き様の証拠」を見つけようとした。
    見つかれば、更に「人の生き様」が、今度は「静止の状態」から「動の状態」として描き出せてくる。
    観えていない事も、見えない事も観えて来る事に成る。
    「人の生き様」を描くには、「検証」ー「装具立て」ー「検証]ー「装具立て」の工程の繰り返しである。

    (大変で時間のかかる作業ではあるが、「装具立てー推理」が当たると実に愉快である。
    実のところは、この「愉快さの経験」が「楽しみ」で続けられる。)

    この最も注意しなければならない点は、「検証」の工程には、多くの資料に基づく「歴史史実」が使われるが、大抵は諸説紛々である。
    中でも「郷土史」などを使うと、殆どは、”郷土に有利な様に説”を拡大させて作り上げているので苦労するし、その前提とする資料に疑問が湧く。
    その作者が「略」を配慮せずに一説の自説に信じ込んでいるので、筆者は「搾取偏纂の延長資料」として観て余り使わないし、「青木氏」には本論の様に「特異性」が有る為に「略の配慮」がなされない限りは使えない。

    しかし、そもそも、この「二つの工程」には「略]が伴わないと、「真のルーツ」は元より「先祖の生き様」も好く描く事は出来ない。(若い頃はこれが希薄であった。)
    「略]が無いと単なる「歴史の記録の羅列」に終わる。
    ある程度のところまで描くと、後は「先祖の生き様」が、”恐らくはこの様な考え方や悩みや苦悩や哀楽が在ったのであろうな”と、頭の中で立体的に「夢の想像」が出来る様に成る。
    ここまで来れば、”先ずは「成功」である”と考えている。
    何とか、この「夢の想像」が出来るところまで描ければと何時も思って論じている。

    (しかし、現実には、頭の中では「夢の想像」の「創造」でいっぱいなのだが、筆者の「文章力」がそれを阻害している。)

    依って、「青木氏の生き様」から観て、「毘沙門天像」と「三宝荒神像」の神格の「武神」「守護神」「財福神」の「武・”つよい”」の「裏意」には、”「知略」”の「隠し言葉」が「二つの曼荼羅絵」に必ず描き込まれている筈である。

    「知略」は、当に「青木氏の訓戒」である。
    この「訓戒」を「浄土曼荼羅絵」には必ず読み込んでいる筈である。

    それは何なのか判らない。
    ”「強さ」”を極端に「絵の表情」に表現する事に依って、その「反意」として裏に「知略」を匂わしているのではないだろうかとも考えている。
    然し「訓戒の知略」とすれば、「青木氏の浄土曼荼羅絵」としては、”何を以て表しているのか”を模索しているが、判らない。
    しかし、ただ傍に「本尊の大日如来座像」が、逆に、”瞑想して静かに鎮座している事”での”「聡」”でもあるのかも知れない。

    ここで「二つの工程」の内の「装具立て」で考えて観るとする。
    そもそも、「曼荼羅絵」は「密教の概念」を表現する手法の一つである。
    この「密教」とは、「宇宙仏の大日如来仏」の「雄弁の仏」である。
    この「雄弁の仏」が直接説く事が「知」を説いている事である。
    「現世と彼世の知」を説いている事に成る。
    この「二つの世」を生きて行く上での[知」は、「密教仏説」の「人、時、場所の三相」が絡む「知」であるとすると、この「知」は三相に於いて使える「知」と成る。
    そうなのであるから、「人の知」と「時の知」と「場所の知」との「三相」が絡めば、これは「立体的事象と成り、要するに「三略」と成り、「知略」と成り得る。
    「大日如来仏」の「雄弁の仏」が発する「教え」、即ち、「知」は、この世が三相で成り立っている限りは、それは「知略」である。
    云い換えれば、論理的には「大日如来仏像」そのものが「知略」である事に成る。
    「大日如来座像の造像」が「知略」を物語っているとするならば、「大日如来坐像」の「浄土宗密教の曼荼羅絵」が在って然るべきである。
    然し、無い。消失したのかも知れない。
    「大日如来坐像」の「造像の存在」が「知略」そのものを物語るが、依って「酌量」を許された「浄土曼荼羅絵」としても存在しなくてはならない。
    「毘沙門天信仰」と「三宝荒神信仰」の”青木氏の「主導」「先導」「扇動」の表現が ”「曼荼羅絵」はある事が確認できたとすれば、当然に、青木氏には、ある筈である。
    「青木氏」の「大日如来座像」の「曼荼羅絵」が無い事が、「訓戒の知略の表現」が無い事に成ってはいるのではと考えている。
    「青木氏一族」の何処かに、この「大日如来坐像の曼荼羅絵」がある筈である。
    宗家が大火で消失させたとしても、必ず何処かにある筈である。

    何故ならば、そもそも、上記した様に、「青木氏一門」が仏画での「密教概念の表現」を主導したのである。
    自らが描いたのであるから、「一族一門」に宗家が祭祀する「大日如来座像」の造像の代わりに、「仏画」にして121氏の一族一門に配布していた事は間違いはない。
    ところが、今のところ、「伊勢青木氏」の一門には見つからない。
    ”見つからない”と云うよりは、流石に、「伊勢青木氏」でも、「昭和の戦後」の「時代の荒波」に押し寄せられた感が高い。
    筆者の家もかなりの「伝統品」が、「我らの教育費」として金銭に替えられたので例外では無かった。
    恐らくは、「青木一族一門」もこの「大日如来坐像の曼荼羅絵」を処分した可能性が高い。
    金銭に替えやすい事もあり、殆どは寺関係に売却された事が伺える。
    実は、他の「伝統品」も、この「骨董品の売買」を副業とする京都在住の”知り合いの寺関係者”から各地の各寺関係に渡った事が判っている。
    特に、「悠久の歴史を持つ青木氏」の「密教浄土宗の曼荼羅絵」であるから、支障の無い各地の「浄土宗関係の寺」に移動したと観られる。
    それは其れで、「曼荼羅絵」を含む売却した骨董品にとっては、大した意味も理解されない無関係のマニアに渡るよりは、「最上の条件」であり良かったと考えている。
    先祖に対して申し訳が立つ。
    今後も、”「曼荼羅絵」に依る「知略」の実証”は恐らくは無理であろう。
    最近、存在が漏れると極めて危険な状態に成り、窃盗団が横行していて、親から聞いていたある予想される「寺関係者」に確認を依頼したが警戒されて体よく断られた。
    他の「大日如来坐像の曼荼羅絵」の存在の確認も諦めた。
    筆者の代では、親の「知古」の繋がりは、最早、効かないし、相手も代わりしていて無理である。
    ”断られた事”は”ある事”を意味しているし、「絵の落款」からも「青木氏の出物」である事も住職は知っていて否定しない事からも、存在の確認は充分である。
    「青木氏の大日如来坐像の曼荼羅絵」には、独特の「青木氏の落款」もあり、証明は就くし、「写真」でも撮れる事を期待していたが、「写真」で未来には残せなかった。
    「青木氏の守護神 祖先神の神明社」の全国の500社程の神社にも、「神道曼荼羅絵」がある筈である。
    しかし、この「神明社」の所属は、江戸初期に江戸幕府に引き渡したことから、全くの縁故は無く、「神道曼荼羅絵の確認」は元より存在すらもより難しい事であった。
    そこで、「歴史鉄道マニアの団体」に各地にあると観られるところの「掘り出し」を依頼したが、無理であった。
    そもそも、「神道曼荼羅絵」は、存在そのものが少なく、且つ、「神道曼荼羅絵」は、「神明社関係」にしか使用した形跡か無意。
    況して、一般に遺されていない事もあって、貴重品中の貴重品で表には出て来ない歴史遺産であろう。

    特に「神道曼荼羅絵」は、その「在所の特徴」を風景に収めるている事もあって、移動も無い筈である。
    特に、「神仏併合の動き」が歴史的に2度も起こっている事からも歴史価値も考えず無暗に取り壊しなどを行った形跡からも消失している可能性が極めて高い。

    依って、”「曼荼羅絵」に依る「知略」の実証”は、間接的に成された事には成るが、最早、この範囲が限界であろう。

    参考
    (この様に、最近は公的なネット上に写真など載せると、窃盗団により狙われて遺品のみならず身の危険も伴うので極めて危険である。
    筆者の家も昭和から考えると、詐欺師の範囲も含めて過去五度も災禍を受けている。
    日本最古の「藤白墨」も詐欺師に依る実に巧妙な手口で盗難に会った。
    そもそも、保管場所のみならず、保管している事も限られた人にしか知られていないのに盗難に会っている。
    盗難であれば売買で表に出て来る筈であるが出て来ないし、証拠と成る写真は持っているので、その物を見極める者・筆者の存在がカギを握っているので待っている可能性が有る。
    調査には、「郷土史」を使う手もあるが、ここまでの研究は「郷土史]には無く、最近は、郷土を売り込む為に、歴史史実を「歪曲」し、「拡大解釈」をし、「他説創設」までして、「歴史ロマン」を作り上げて売り込もうとする「郷土史」も極めて多く成っている。
    「歴史の検証」も充分しない”「諸説手法」”が横行していて、それも準備周到で、それを護ろうとする「郷土史万能」の”洗脳されたマニアグループ”が構築されていて、この「組織バリャー」があって、「諸説」を真実化させて、何とか護ろうとして近づく事も出来ない現状である。
    「青木氏氏」でも九州のある「郷土史」のこのグループに、「時代考証」はどこ吹く風で、「諸説を作り上げる手法」で攻撃されたことがある。今でも続いている。
    「膨大な情報力」を持つ「青木氏」に「歴史上の矛盾」を突かれない様にバリャーを張るのである。
    故に、研究資料には値しないのが現状である。)

    この様に「伝統の維持」の為の研究は、「物心両面」で極めて難しく成っている。

    兎も角も、「青木氏の密教浄土曼荼羅絵」は、何かを「青木氏」にだけ今も教えてくれている。
    然し、「青木氏関係一族121氏」の情報が保護法で入らない現状では、「伊勢青木氏や信濃青木氏」と、[近江佐々木氏と近江青木氏」の資料以外には最早、困難である。
    故に、遺された遺品は何としてでも護らねばならない。
    そして、それを「自らの範囲」で何とかして、研究し解析して「伝統」を掘り出し、子孫のロマンの為に「記録」に替えて置きたいと云う思いは募る。

    「ルーツ掲示板」に御投稿される方の「歴史情報」が殆ど消失しているのも、この”「現状」”から来ているものと考えられる。
    ご先祖が「武士」とか、「・・の家臣」とかであれば、本家筋では ”何がしかの遺産が遺されている”筈なのに、”口伝だけ”と云うのも不思議な話である。
    そのくらいに、「伝統や遺産の伝承」は無く成っているのである。
    故に、上記の様な、ある思惑を込めた「郷土史」が、その間隙を突いて誰も異議や抗議が出ない事を好い事に、郷土売り込みの為の「歴史ロマン」を「大義名分」に「驚くべき他説」が生まれて来るのである。
    そう云う事を仕掛ける職業の歴史家も存在すると云う。
    「青木氏」は、そもそも、数少ない認証の「氏族」である。
    「郷土史」は、室町期中期からの「姓族」の事を記載しているので、元々「時代考証」は室町期中期前のものである事を認識すれば無関係と成る。
    今や、歴史を調べるには、自己の範囲の記録が無く成り、怪しい「郷土史」しか無く成っているのも現実で、頼ろうとする気持ちは判るし、信じるのも自由である。
    ただ、狂信的に成る事だけは避ける事を忠告したい。

    上記の事もあって「真の答え」は出ないし、特に、「青木氏の訓戒」 ”世に晒す事無かれ、何れ一利無し”とされていて、”郷土史に遺る事”は本来はないのである。
    そもそも、この事も含めて我々「青木氏」は”「氏族」”である事を認識しておく必要がある。

    本論は「密教の道標行燈」に関わる「密教作法]の処から「毘沙門天像」と「三宝荒神像」の処までの「密教性のある伝統所作」を論じて来た。
    これだけの範囲ではあるが、「可成りの伝統」が未だ「青木氏」には遺されている。
    更に続けて、既に若い頃の論文原稿が有るので、修正を加えて生活に密着した「草の根の密教の伝統」を論じる計画である。

    ”「密教性のある伝統所作」”としては、次ぎの事も大きく作用していると考えられる。
    それは、”「血縁の伝統」”と位置付けられる。


    > 「伝統1」に続く


      [No.326] Re:「青木氏の伝統 9」−「古代宗教」
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/12/18(Thu) 08:36:49  

    >前回の末尾
    >
    >「古代宗教」と「古代和紙」と「古代仏教」の経緯の下に、「青木氏の四つの氏」は構成されて行ったのである。
    >本論の遺された「伝統と遺品」は、この「三つの時代要素」と「四つの氏」に関わっているものなのである。それは「賜姓五役」に関わったものと成って居る。
    >この範疇で青木氏を考える必要があるのだ。



    「伝統 9」

    古代宗教に付いて、もう少し検証して観る。

    「毘沙門天の経緯」
    そもそも、密教の「毘沙門天像」とは、どう云うものかを検証して観る。
    インドより中国を経由して、「武神」又は「守護神」として扱われて奈良時代の日本に入った。
    この時に「賜姓青木氏」は、この「毘沙門天」を神格化して祭祀したとある。
    この「毘沙門天」は、梵語のその字句の意から”よく聞く者”と理解され、別に「多聞天」とも呼称される。これは上記の「密教の定義」に合致する。
    「青木氏」の様に、”「独尊像」”で祭祀する場合は、”「毘沙門天」”である。

    「伊勢青木氏」のは、”「独尊像」”であった。

    この”「毘沙門天」”は、「仏の住む世界」を支える「須弥山」に住み、「密教」として「十二天の北方」を守護すると云われている。

    そこで、日本では、”「四天王」”の一尊として造像安置する場合は、”「多聞天」”と呼称したが、「青木氏」の様には、”「独尊像」”として造像安置する場合は、”「毘沙門天」”と呼ぶのが通例であった。
    そして、「青木氏」とは別に、”「毘沙門天」”は”「密教」”でありながら、ところが、この”庶民における「毘沙門信仰」の発祥”もあるのだ。

    ・「庶民の毘沙門天」
    それは、”「平安時代の鞍馬寺」”からであるとされている。
    ”何故、鞍馬山なのか”である。
    それは「鞍馬山」にも「密教の毘沙門天」が祭祀されていたからであった。
    ただ「密教的な扱い」とは強いてせずにいた。

    その前に、密教「毘沙門天」の時代的な経緯に付いて先ず検証して観ると、この「密教仏像」が、”「密教でない仏像」”とする成り立ちが良く判る。
    「密教」の反意は、「顕教」ではあるが、”そうでは無い「信仰体」”と成って居たのである。

    ・飛鳥時代
    「鞍馬寺」は、当時は、北陸若狭と山陰丹波とを京都で結ぶ「交通の要衝」でもあった。
    その為に、古くからここには市が栄え、「宗教文化」が育ち、民から自然と、”「鞍馬寺の毘沙門天」”と称される様に成り、慕われるに至った。

    ・平安初期
    この「庶民信仰化」によって、「本来の神格」である

    本来の「財福の神」(3)

    (3)という面が、他の神格から変化した。

    この「他の神格」が庶民信仰の中に加えられた。

    「武神」(1)
    「守護神」(2)

    (3)>(1,2)

    以上の現象が庶民の中に起こり、よりも平安期初期には先ず強まったのである。

    ・平安中期
    又、9世紀頃からは、庶民の間では、「正月のお祓い行事」が行われたが、この”「疫病を祓う役」”が決められていた。

    ”官吏「方相氏」”
    以上が専門に「朝廷の役」として司って来た。

    しかし、その役目は、その後に「毘沙門天と竜天」が行うと成った事から、次ぎの役目が加わった。

    「無病息災の神」(4)

    (3)>(1,2)+(4)
    という事に成り一面も加わって複雑な神と成って仕舞った。

    ・平安末期
    平安時代末期には、庶民は、”悪を祓い睨みを利かす”として、都合よく考えた。

    「戎の本仏」(5)

    結局のところが、「市民化」が起こって、次ぎの様に成って仕舞った。


    (3)+(4)+(5)>(1)+(2)

    ・鎌倉期
    鎌倉期には、時代を反映して、再び元の「武神」(3)が見直された。
    日本では、その後、この(3)の”「毘沙門天」”には、”甲冑をつけた姿”が主流となった。
    結局は、この姿は、最終、庶民の「戎神の古い形態」ともなったのである。
    この事は鞍馬寺の「民の市場」で祀られたこととも関係があった。

    (3)<(1)+(2)+(4)+(5)

    ・室町期初期
    こうして、”「密教の神格」”であったにも関わらず、「庶民信仰」に依って、何時しか(3)「福財神」と、(1)「武神」とに加え、(5)「戎神」と、(7)「生活神」と、甲冑を着した(2)「守護神」しての ”「毘沙門天」”と成ったのである。

    「生活の神」(7)

    (3)<(1)+(2)+(4)+(5)+(7)

    ・室町期末期
    そして、室町時代末期には日本独自の信仰として発展し「七福神の一尊」に組み込まれた。

    (1)+(2)+(3)+(4)+(5)+(7)=「七福神」

    ・江戸期初期
    こおなれば、江戸時代以降には、更に進んで、特に、”「勝負事」”にご利益あるとして崇められた。

    ”「勝負神」(6)”

    の通称羽、”「尚武様」”として祭られた。

    (1)+(2)+(3)+(4)+(5)+(6)+(7)=「毘沙門天」の神格

    最早、「万能の神格化」してしまったのである。

    この頃から、”「毘沙門信仰」”は、本来の「密教」から離れ、独り歩きして各地には「密教外の宗派」も、この「毘沙門像」の造像を施して、信者獲得に走った。

    ・江戸期中期
    その結果、「義経ー弁慶像」と「毘沙門天像」と重ね合わせて身近な者で「信仰対象」を同化させてしまったのである。

    「義経−弁慶像」=「毘沙門天像」

    何時しか、この「毘沙門天像」も消え、極端な”「判官贔屓」”が起こり、「義経ー弁慶像」を祭祀に使う様に成ったのである。

    (1)+(2)+(3)+(4)+(5)+(6)+(7)>「義経−弁慶像」=(「毘沙門天」の神格)

    以上が、「毘沙門信仰の経緯」である。

    注釈
    上記した”「方相氏」”とは、次ぎの事である。

    方相氏(ほうそうし)と呼ばれる”鬼を払う役目を負った官吏”がいた。
    役職は「大舎人(おおとねり)」と呼ばれた。
    この”「方相氏」”の脇に仕える”「振子(しんし)」”と呼ばれる{無役の官吏の20人}で、大内裏の中を掛け声を掛けつつ「厄払い」をしたとの記録がある。
    この「方相氏」の「技能役人」は、「節分」の時には、特に「玄衣朱裳の袍(ほう)」を着て、金色の目4つ持った面をつけて、右手に矛、左手に大きな楯を持った形相をした「方相氏」が大内裏を警護して回った。
    その時、「公卿衆」は、清涼殿の階から弓矢をもって「方相氏」を援護として弓をひき、「殿上人」は「振鼓(でんでん太鼓)」を振って「厄」を払ったと記録にある。
    ところが、歴史的に更に良く調べると、9世紀中頃に入ると、「毘沙門天像」が一般にも出て来て、「鬼を払う役目」を担い、「鬼を追う側の役目」であった「方相氏」が、逆に「鬼の役回り」に成って追われるように慣習が変わってしまったのである。

    つまり、これが「宮廷の節分の行事」であった。

    つまり、”「古来の宗教の和魂荒魂」”の「荒魂」の「悪神部分」を祭祀に依って取り除けば、”「荒魂」”も逆に”「荒神」”を追い払い、”「守護神」”に成れるとする概念に変わったのである。

    これは「神仏習合の結果」であった。
    この「神仏習合」は、”「庶民の顕教でも無い信仰体」を作り上げた結果”が招いたものであった。
    「密教」でありながら”「密教」”でも無く、且つ”「顕教」”でも無い、”「古来宗教」”でも無い”「庶民信仰体」”が作り上げられたのである。

    この結果、この「庶民信仰」が、「朝廷の儀式」の中にまで浸透して行って、「方相氏」が「荒魂の悪神の厄払い」を務めていたのに、今度はこの影響で、”「毘沙門天」”が守護神と成って「悪神」を追い祓う役を担う事になってしまった。
    「方相氏」が、その「悪信の役」を務めると云う奇妙な事が起こったのである。

    百々の詰まりは、これが、

    ”「朝廷の節会」”

    以上と成った。
    融合して再び、次ぎの様に変わった。

    ”「庶民の節分」”

    以上と成った。

    つまりは、庶民の元へ戻って来たと云う事である。

    これが「神仏習合」で突然に現れた”「密教の毘沙門天」”であり、この「毘沙門天」は、この様な家系で以って「上層階級」と「庶民」の間に瞬く間に広がりを見せたのである。

    その「広がりの仕方」が、次ぎの様なものであった。

    上層階級には、”「武神、財福の神、守護神」”の「三神」として、
    庶民階級には、”「戎神、生活神、勝負神」”の「三神」として

    以上の様な奇妙な広がりを見せたのである。

    そもそも、”「密教寺の仏格」”であるのに”「神社の神格」”なのである。

    「密教寺の仏閣=「神社の神格」

    ところが、「青木氏」は、そもそも、”賜姓族の「三つの発祥源」”として、”「密教の武神」”を祭祀する役は主務である事から、この”「毘沙門天」”を奈良期より独自に祭祀して来たものである。

    ”「密教」の「宇宙仏の大日如来仏」”を祭祀しながら、”「毘沙門天」”だけは、”「密教」”では無い”「神格の毘沙門天」”が出て来て、周囲との間には、「違和感」が生まれたのである。

    「青木氏の守護神」である”「祖先神の本尊」”とした。
    「賜姓族の役」としての ”「武神」”とした。
    「平安期」からは「二足の草鞋策」としての ”「戎神」”とした。
    「氏存続」としての”「財福神」”とした

    以上の四状況でも祭祀されていた。

    「大日如来坐像」と「祖先神ー神明社」の「神仏習合」であった事も加え、「密教の毘沙門天像」は、「本尊」は元より、この「三つの神格」を以って積極的に祭祀されたのである。
    上記した様に、「四つの氏」の顔を持つ「青木氏」に取っては、この”「毘沙門天の変遷」”は、考え方に依っては ”「四つの顔」を一つの形に融合させる”のに返って都合が良かったと観られる。

    この”「毘沙門天」”も、その意味で”「賜姓五役」”を果たせた所以でもある。

    しかし、その「庶民の発祥元」が、「鞍馬山」からであった事から、”「戎神」「生活神」「勝負神」”が付け加えられて行ったのである。
    この”「庶民の三格神」”は、「青木氏」に取っては直接的なものでは無かった。
    しかし、”「賜姓五役」”を果たす上での”「四つの氏の立場」”を演じるには、直接「庶民との関係」を持つ事からすると、極めて都合が良かったと考えられる。
    特に、上記した”「和紙の改革」”では、”無くてはならない要素”であったと位置づけられる。

    筆者は、「毘沙門天」を「青木氏」が祭祀している事が、”強く受け入れられる要素”と成ったと評価していて、”なくてはならないものであった”と位置づけている。
    「青木氏菩提寺」に安置されていたこの”「毘沙門天」”が、「鞍馬寺」の様に、”「庶民の願い」(「戎神」「生活神」「勝負神」)”を受け止める役割を果たして、より「庶民との接点」を強く持てるものであったと評価している。
    単純に、「密教」だから「青木氏」だからとして、この”「毘沙門天」”をただ祭祀していたのでは無い事を物語っている。

    それは、上記した様に、次ぎの数式論の中にあったからである。

    ”「宗教」<=「生活」の環境”

    以上にあったからである。

    これが、以下の数式論で成り立っていた場合は違っていたであろう。

    ”「宗教」≠「生活」の環境”

    以上であったなら、むしろ逆効果であっただろう。

    ところが、江戸時代には、むしろ「庶民の文化」として、「鞍馬山」から発展して、”「武神としての義経の神格化」”と”「弁慶の尚武様見立て」”の現象が起こった。
    そして、次第に”「毘沙門天」”から離れて、江戸期には身近な「義経ー弁慶像」に特化して発展した。

    丁度、この直前に、青木氏の”「毘沙門天像」”等は、青木氏菩提寺から伊勢松阪の居宅を経由して新宮の別宅に移されている。

    「信長の伊勢三乱の攻め」の「戦乱の災禍」を避ける為ではあったとされているが、その原因もあったろう。
    むしろ、”「庶民との繋がりの「毘沙門天の役割」”も、低下した事も原因しているとも観ているのである。
    長らく「青木氏菩提寺」に祭祀して、、”「宗教」<=「生活」の環境”の「庶民との繋がりの源」として”鞍馬山の様に”安置されていたが、「義経ー弁慶の特化現象」もあって、最早、”「青木氏の毘沙門天」に戻した”と観ている。

    その証拠には、「義経ー弁慶の特化」とは別に、青木氏の「毘沙門天」に対する状況は大きく変化しているのである。
    それは、実は、庶民の間で、「義経ー弁慶の特化」と共に、”「古来の宗教」から生まれた「和魂荒魂」”の習合信仰体の”「三宝荒神様」”と、庶民が習合した”「地荒神様」”が「毘沙門天」と習合して、”「荒神さん」成る信仰体”が、江戸期に入って見直されたのである。

    「道祖神」や「産土神」として庶民の中に”「庶民の護り本尊」”であるかの様に、生活に密着して爆発的に広まった。

    これは「義経ー弁慶の特化」が原因していると観ている。

    この「特化現象」には「特別な現象」が起こったのである。
    「特化現象」が起こる位であるから、それなりにその「特化エネルギー」が必要である。
    その「エネルギー源」として「顕教の武士集団」が、「毘沙門天信仰」に食い込んで来たのである。
    そして、その「神格偶像」が、何時しか「毘沙門天」ではなく、自分たちの身近な「理想的偶像」を「仏格」に置いたのである。
    それが「義経ー弁慶」であった。

    結局、「武士の信仰体」として席巻した為に、「密教、顕教」の何れにも属さない「庶民の無派閥な信仰体」のイメージが薄らいだのであろう。
    ”薄らいだ”と云うよりも、”排除排斥した”と云うのが正しいのではないだろうか。
    そもそも、「密教」で在った時は「武家の守護神」であった。
    それが、”全て「仏教」は「顕教」とする”とした「家康の宗教令」で、「特定の氏」のものでは無く成った。

    「一般武士の守護神」と成った事で、「密教の毘沙門像」は「顕教の毘沙門像」と変化した。

    「神格化像」としてはそのままに、より”「義経ー弁慶像」”を身近に”「武士の崇拝偶像」”として引き出して、”新しい現実味のある「崇拝偶像」”を作り出したのである。
    ”「義経ー弁慶像」”=”「武士の崇拝偶像」”

    これに、「別の三神格」で庶民が関わる事に、武士は抵抗した。
    封建社会がより強く成った社会でもあって、共有する事に嫌ったのである。
    自らの「武士の崇拝偶像」が薄らぎ穢れると考えた。

    毘沙門天から発展した「武士の崇拝偶像」の「悪神」を取り除いた「地荒神信仰」を復活させたのである。
    「毘沙門天」>「武士の崇拝偶像」(悪神)<「地荒神信仰」
    今度こそ、”「庶民の守護神」”として位置づけたのである。

    これが江戸初期頃から興った”「毘沙門天の変遷」”であった。

    「青木氏」は、この「二つの現象」を横目で見ながら頑なに、”「密教の毘沙門天の信仰」”を続けたのである。


    「毘沙門天像の3信仰集団」
    そもそも、「毘沙門天像」の信仰集団には次ぎの様なものがあった。

    イ 「三大密教宗派」を「信仰する限られた氏族」の「武神ー財福神ー守護神」の信仰集団
    ロ 「庶民の信仰対象」の「戎神ー無病息災神ー勝負神」の信仰集団

    以上の「二つの毘沙門信仰の流れ」が同時に起こっていたのである。

    ハ 特に、ロには、「勝負神」を信仰体として密教外の武士階級の別派の信仰集団

    以上のイとロに、ハが加わった。

    然し、「現世と彼世の連携概念」と「道標行燈」等の青木氏が継承して来た「密教所作」は、ロとハの集団には流布し伝わらなかった。
    筆者の家の「毘沙門天像」は、 「木彫刻」のものであった事が、明治期35年に消失した事が伝えられている。
    ところが、「義経ー弁慶像」を身近にした「武士の崇拝偶像」の「節句の人形像」は、上記のロとハの「逆の流布」が起こっていた。
    江戸期に成って、武士の「顕教の武神、守護神、財福神」の「崇拝偶像」が、「密教の毘沙門天」を祭祀する青木氏にも、「義経ー弁慶像」の形として伝わっていた事が判っている。
    故に、「義経ー弁慶像」が江戸期から居宅側にも存在したのである。

    この事は”一体何を意味するのか”「伝統の変遷」として検証して置く必要がある。

    「青木氏の崇拝偶像」
    「義経ー弁慶像」は、「節句の人形像」と云う扱いよりは、「護り本尊」、即ち、”「神仏合体」の「青木氏の守護神」”として祭祀されていたのである。
    実は、伊勢と信濃の「青木氏」には、1180年代前後に、「清和源氏の宗家」の四家から、跡目が入っている。
    「伊勢青木氏」には、清和源氏(摂津源氏 頼光系)の「源頼政」の孫(仲綱の子)三男の京綱が跡目に入っている。
    この事から、「密教の毘沙門天」だけに拘る事が出来ず、武士が「義経ー弁慶」を「顕教の崇拝偶像」とする以上は、祭祀する以外には収まらなかったと考えられる。
    そこで、この事は、「伊勢の氏上様 御師様」としての立場があった事から周知であった。
    その為に、「世間の非難」を受ける事になると考えたのではないか観られる。
    況して、菩提寺から引き揚げて居宅で「大日如来座像」と「毘沙門天像」を祭祀している。
    「賜姓五役」の「武家の発祥源」の立場を持っていれば、「義経」は「河内源氏」だからと「内家の理由」を付けても納得が得られるものでは無かった筈で在る。
    従って、「顕教の義経ー弁慶像」も祭祀せざるを得なかったのである。

    ただ、問題は”どの様に祭祀するか”であった事に成る。
    「護り本尊」は避けられるものでは無い。
    しかし、遺された文書には、”「節句の人形像」”と云う表現を採っている。
    つまり、「節句の意味」と「人形像の意味」をどの様に理解するかにある。
    「密教の毘沙門天像」と全く同じ扱いとする事は出来なかった筈である。
    これは、”節句の時に祭祀する慣習”であり、「密教」である限り、”「顕教の人形像」の扱い”として、”それなりに祭祀せよ”との「間接的な言い伝え事項」としたと判断できる。


    もう一つは、「戎神ー無病息災神ー勝負神」は、別の顔の「商いの青木氏」に取っても見逃す事の出来ない「神格信仰体」であったからであろう。
    この扱いは”一体どのような扱い”であったのであろう。
    当然に、[別の顔の商いの青木氏」の中での扱いとなろう。
    兎も角も、「賜姓族」での扱いでは無かった筈である。
    これは、口伝であるが、「庶民の毘沙門天の三格神」には、1月と4月には、商いの関係者や一族や縁者や家人や小作人や近隣の住人を招いて盛大に、「毘沙門天像」を公開し、「祝いの宴」を開いたとされ、「甘酒」を振る舞い「紅白の餅」を配り、最後には花火を上げたと伝えられている。
    (この「花火」は、「紙屋」が「松阪の花火大会」で上げていた。「花火庫」があった。)
    「五月の節句の祭祀」にも同様の「祝いの宴」を催したと伝えられていて、近隣では有名であったと事が伝えられている。
    松阪は元より玉城町は、町全体が青木氏の関係者の長屋と蔵群であったので、大変な宴で庶民は楽しみにしていたと伝えられている。
    これは、堅苦しいものでは無く、現在で云えば、「町内の運動会」の様で、ゲームをし、景品を出しする雰囲気で在ったらしい。


    恐らくは、正式には、江戸期前の菩提寺には「独尊像」(「武神」他の弁天像等の伴像は無かった)として安置され祭祀していた。
    「毘沙門天像」は「青木氏のお仏像様」と対の「脇侍扱い」であった。

    そうすると、室町期の「菩提寺」では、未だ正式に「毘沙門天像」が祭祀されていたので、江戸期の「居宅」では、「義経ー弁慶像」の人形が置かれていて、「節会」に取りだされていて祭祀に利用されていた事に成る。
    この「義経ー弁慶像」の人形の初代は、江戸初期頃の家物であったのであろう。
    江戸期には「居宅」には「お仏像様」が遺されていて、現在、「毘沙門天像」が遺されていないのは、元々何れも安置場所が、室町期末期の戦禍の時には、「菩提寺」に安置されていたからである。
    その時に、「お仏像様」と共に運び出して「、居宅」に移して以後、新宮に移して再び戦禍が収まると居宅で祭祀したとされている。
    従って、この江戸期前後頃から、「武士の崇拝偶像」としての「義経ー弁慶像」の初代があって、「菩提寺の毘沙門天像」も居宅に移した事から同時に祭祀されていた事に成る。
    ただ、「祭祀の仕方」に同じでは無く差違はあった事が判る。

    注釈
    (「青木氏菩提寺」は、室町期末期と明治35年の2度の戦禍の大火を受けて消失している。
    現在の菩提寺は3度目の建立と成る。
    この「毘沙門天像」は「明治期の消失」によるが、「お仏像様」だけは消失を免れた。
    「伊勢青木氏」に取っては、「大日如来座像のお仏像様」と「毘沙門天像」は、「絶対的な信仰の対象」であった。
    何故、「毘沙門天像」だけが消失したのかは、疑問であるが、これには、祖父と父の口伝によると、一度、外の道路に家人が運び出したが、家長の長兵衛が、”自分の家の物だけが助かるのは忍びない”として、家の中に戻したとと伝えられている。
    「お仏像様」は別の所に運び置かれていて消失は免れたと伝えられている。
    この明治期に共に消失した「毘沙門天像」と「義経ー弁慶像」(初代)に代わって、用いた「義経ー弁慶像」(二代目)の造像物と成るが、「毘沙門天像」の様に祭祀されていなく、「端午の節会」にのみ飾ったとされている。
    現在もこの二代目は保有している。)

    上記の「伝統3」(青木氏の分布と子孫力−12)に論じた作法は、この時に「菩提寺」で行っていた祭祀方法を「居宅」でそっくり踏襲したものである。
    ただ、口伝によると、「灯明」は「菩提寺」から家に運び入れて、代々「道標行燈」に点けていた事が伝えられている。
    中でも、「五月の節会」と「盆と彼岸と正月の節会」には、「菩提寺」から「導師」が来訪して祭祀していたと伝えられている。
    この正式には、平成10年10月15日まで続いた。
    その後、筆者がこの祭祀を引き継いでいた。
    つまり、その「祭祀の名残」(下記)が現在に何とかその「最低限の作法」で遺されているのである。
    忘れ去られる前にこの様にして文書にして遺している。
    「茶釜の作法」は、「囲炉裏」をしまい込んでいる為に、諸道具は遺されているが、「実際の擬音」を出すまでには至っておらず、形式的な諸道具の仏前に供えるだけに終わっている。

    それまでは、次ぎの通りの祭祀である。
    青木氏の役の「武神」、
    賜姓族の「守護神」、
    青木氏の「財福神」

    以上の「三神格」として、「伊勢青木氏」が祭る儀式に「毘沙門天像」が用いられていたのである。

    そして、この祭祀には、「現世の者」、「彼世の者」が一堂に集い、その道標としての「道標行燈」が用いられたものである。

    この”「道標行燈」”が、象徴的な形で遺された”「古代密教的な仏教作法」”なのである。
    恐らくは、鞍馬山を拠点として「毘沙門天」が平安期から江戸期までも民にも神格化されて慕われ続いた。

    一方、この密教の”「道標行燈」の風習”には次ぎの事があった。

    (流布−1)
    ”「青木氏」が「古代密教浄土宗」であった事”
    ”「毘沙門天」そのものが「古代密教の信仰体」であった事”

    以上の事から、青木氏外には一般的には用いられていないと考えられる。 

    (流布−2)
    「嵯峨期の詔勅」に伴う「禁令」にて、その「青木氏の一連の習慣」が、明治初期まで禁じられ護られていた事から、「毘沙門天の神格化」が、平安期から徐々に庶民化しても、この「青木氏の道標行燈の習慣」は伝わらなかったと観られる。
    それは、「毘沙門天」の「6つの神格化」の内、3つは本来の「青木氏の神格化」であり、残りの3つの神格化は庶民のものであった事から、前者の「道標行燈の習慣」は移動しなかったと考えられる。

    (流布−3)
    それと、室町期末期には、遂には毘沙門天も「七福神の一尊」に加えられた事もあり、更には、江戸期には、庶民の発想の鞍馬山と、一般武士から「義経ー弁慶像」に特化した事が原因しているのではないかと考えられる。
    故に、「義経ー弁慶像の神格化」も原因して、一般には、「毘沙門天」に依る祭祀の「現世の者、彼世の者」の一堂に会する”とする「考え方」(密教概念)は生まれず、且つ、その「道標行燈の作法」も生まれなかったのである。

    (流布−4)
    「青木氏の祭祀」には、”「現世の者、彼世の者」の一堂に会する”とする「考え方の概念」は、「節句、盆、暮、彼岸等の祭祀」以外には表現する事が無かった事が、一般にも広がる概念とは成らなかったのであろう。
    (むしろ、逆に青木氏の方に流布が起こって融合したと観る方が正しい。)
    仮に流布して広まったとしても、一般にこの「密教の所作」は同化する事は出来なかったと考えられる。

    (流布−0)
    それは、矢張り、何をともあれ、根本的には”「密教の考え方」「密教の習慣」”が大きく左右したのである。
    そもそも、「密教仏像」である事が根本的な流布に至らなかった原因であろう
    江戸期に興った「顕教仏像」であれば、「考え方の概念」と「毘沙門天の神格化」は違った形を見せたであろう。


    そこで、次ぎにこの「毘沙門天」の「密教仏教性」を論じて観る。
    「青木氏の古代仏教の密教性」(浄土宗密教までの間)がどの様なものであったのかを検証する。

    参考
    そもそも「密教の毘沙門天像の姿」には、次ぎの「四つの条件」が伴う。

    第一に、「三昧耶形」(「密教仏教」を表すが道具)
    第二に、「宝棒」(仏敵を打ち据える護法の棍棒)
    第三に、「宝塔」(珍宝を納めて置く仏舎 魔除塔)
    第四に、「密教氏」独自の表現(悪神を祓う仏具)

    これ以外に、はっきりした規定はなく、様々な表現があるとされている。

    これは、「毘沙門天像」は「密教仏像」であったことから、「3大密教の考え方」が色濃く出たものである。

    3大密教の考え方

    A 浄土宗密教は「大日如来仏」の「雄弁の仏」 極めて密教性が強い概念ー密教の母体
    B 天台宗密教は「毘盧舎那仏」の「無言の仏」 殆どは顕教性が強い概念ー顕教の母体
    C 真言宗密教は「大乗仏教」の「教義」    「波羅蜜の顕教」と「真言の密教」の合体

    注釈
    (「平安期の密教論争」では、BとCは、そもそも「顕教の宇宙仏の毘盧舎那仏」を基本にして釈迦の法華経を仲介に「密教の教義」を作り上げている。
    しかし、Aは完全な「密教の宇宙仏の大日如来仏」を基本にしていて、”密教そのものの教義”を作り上げている。
    ここが根本的に異なっている。
    従って、BとCは、Aの「古代仏教」を根幹とする浄土宗を「密教」と認めない論調を採る。
    「古代仏教」を背負うAはその概念やその慣習の中に顕教性が全くない。
    当に「伝統ー達親」で論じた内容がその典型的な概念の見本である。

    BとCは、「顕教性の概念と習慣」の上に「密教性」を採ると云うものである。 
    平安期に起こった「密教論争」は当にこの点の論争であった。
    真言宗の外来性の強い「大乗仏教」に対比して「小乗仏教」もある。)

    「密教の毘沙門天」を、このAとBとCの「密教の概念」で観た場合は、当然に大きく異なる。
    我々、「青木氏」は、「密教の宇宙仏の大日如来仏」を祭祀して、この「Aの密教の毘沙門天」の考え方を採っている。

    日本では、「毘沙門天像」は、一般に「革製の甲冑」を身に着けた唐代の「武将風の姿」で表されている事が多い。
    (九州自治を納めた「大蔵種材」をモデルにした影響が形に成っている。)
    また、「荒魂」の「悪神」(浄土密教では「邪鬼」と呼ばれる「鬼形の像」の上に乗る)を足で抑え込む形を採る事が多い。

    この辺は、”何にするかはどうするか”は、第四の「密教氏の裁量の範囲」である。

    「青木氏密教」では、「最良の範囲」として「大蛙の彫刻物」が添えられている。
    これは、「大蛙」は「神の使い」であるとの「古来の伝説」に従ったものである。

    又、第一の「三昧耶形」でも「密教氏の裁量」が表現される。
    この様な「裁量の範囲」の内容を具に観れば、それによって、その「密教氏」が、”どの様な考え方や概念を持っていたか”が判るのである。

    上記で論じて来た「青木氏の密教の概念」、況や、”この様に生きたい”とする「青木氏の生き様」が、この「毘沙門天像の第一から第四」までの事を租借すれば理解できる。
    否、”この様に「青木氏」は在りたい、生き続けたい”とする考えを表す「仏具」を添えて、それに願いを込め念じて祭祀していた事に成る。
    「毘沙門天」とは、その様な「氏の願い」を聞き入れ叶え護る「神格仏」である。

    第一の「三昧耶形」の「複数の仏具」を観れば、「累代の先祖」が、”その時代にどの様なその思いを込めて願って祭祀していたか”が良く判るのである。
    この「仏具」には、一度に「三昧耶形としての仏具」としたのではなく、”青木氏に起こったある事柄”を、その都度に表現したと観られ、”時代性のある事”を感じられる。

    因みに、「青木氏密教」には、”どの様な仏具があるか”例を挙げて観る。
    (写真転付が一枚に限られているので、何時か改めてまとめて投稿する。)

    これらは「仏具飾棚」があってそこに祭祀展示している。
    「武神」には、「刀掛」
    「守護神」には、「馬杯」
    「財福神」には、「宝塔」(玉)
    「戎神」には、「薬籠」
    「無病息災神」には、「六瓢箪」
    「勝負神」には、「軍配」

    何れも古代の先祖が使った「伝来の実物」である。

    この内容を観る事に依って、青木氏が ”どの様な「密教概念」を持っていたか”が判るのである。

    参考
    「鎧兜」は「青木氏の戒律」の「禁手」で祭祀し飾る事は敢えてしていない。
    以上の「六神格の内容」を観ても判るが、「賜姓五役」「密教青木氏」を護る上で、「戦い」を前提とする「解決方法」を好しとせず、下記の「象徴言」にて解決する事を「氏の戒律」としていた。
    依って、「鎧兜」は「戦いの象徴」であるによって祭祀や飾る事は禁止していた。
    上記の「六仏具」の「密教の三昧耶形」は、その立場から判断すれば、それなりに意味を以て納得出来る。
    例えば、「刀掛」には刀はない。伝来の刀は10振りあった。刀は鎧兜と類を同じくする。
    しかし、「武家の発祥源」、「侍の発祥源」ではある。
    「刀掛」と「刀」は一対、しかし、「戦い」は「賜姓族」としては法度とする。
    つまり「武」とは「刀掛」であると諭している。
    「刀」を「殺傷の刀」に頼って常に振り回しているのは「武家としての立場」では無いとしたのであろう。
    大事なのはその基と成るものが大事な事であると諭しているのである。
    刀は「武士」であってもそれは「武家」では無いとする諭しである。
    「武家」は「刀」だけで解決するものでは無く、”「知略」を以って事を成すべきだ”と諭しているのである。
    「刀」は「刀掛」なくしては治め処が無くは成り立たない。
    「刀の解決」も「知略」の上に成り立つ”としているのである。
    ”「武士」”である事の前に”「武家」”である事を”肝に銘じよ”としているのである。
    この事は「家訓10訓」に色濃く出ている。
    後の「三昧耶形」も、事ほど左様に、物語っている。


    注釈
    (筆者は、「子孫存続」を危ぶまれる程の、可成り”波乱万丈の生き様であった”と観ている。
    その「密教の生き様の戒め」には、”世に晒す事無かれ、何れ一利無し” 然すれども ”世に憚る事無かれ、何れ一利無し”に込められていると理解している。
    これは、現代に於いても云える事であると考える。
    これが当に「密教青木氏の伝統」の「象徴言」であろう。
    後世に遺したい「伝統の戒言」である。)

    それは、「密教氏青木氏」としては、「賜姓五役の遂行」と「子孫存続」であったと理解している。
    それが「毘沙門天」の「三神格の武神、守護神、財福神」であって、別の顔の「商いの氏」としては、「戎神、無病息災神、勝負神の三神格」であった事に成る。
    「毘沙門天」にこの願いを込めたのであろう事が判る。

    「毘沙門天像」には、この様な「酌量の余地」を残しているのは、「密教性を自由に表現できる余地」を残している事に成る。
    これは、「毘沙門天像」が「和魂荒魂の古代宗教」との「習合性」を持たす事に依って「仏教の浸透力」を高めようとした所以であろう。
    (現実に「三宝荒神像」と同化した。)



    「伝統10」に続く


      [No.325] Re:「青木氏の伝統 8」−「大和絵と絵所領職と朝廷絵師の経緯」
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/11/17(Mon) 10:47:49  

    >前回の末尾

    >「賜姓族青木氏」には、残す手立ては、一族の青木氏の神職(500社)と住職(15寺)に指示する事に成った筈であり、可成り、「仏画構築」に急いでいたと考えられる。
    >この能力を以てすれば十分に対応できたと考えられる。しかし、ここで問題が生まれた。
    >それは、元々、「神職 住職」は「書」への高い技量を持っていた。
    >しかし、「絵画への技量」は無い。
    >そこで、「賜姓族の青木氏」は、その「絵画の技量の基礎」を会得しなければならない。
    >「仏画」と成れば、「中国画」が主体を占めていたが、「青木氏の密教仏画」を表現すると成れば、古来からあった”「大和絵」”から”「青木氏の密教仏画」”を新たに創造する必要性に迫られた事に成る。


    伝統8


    「大和絵と絵所領職と朝廷絵師の経緯」
    この事に付いて次ぎの様な事があった。
    ここで、先に以下の事を事前に知っておく必要がある。
    そこで、奈良期の朝廷の「絵所領職」(絵等を管理する役目)を務めていた「巨勢氏」が、その役目からこの「大和絵」の伝統を「傍職」として細々と個人的に継承していた。
    「賜姓族の青木氏」は、この「絵所領職」の「巨勢氏」に援助して、「大和絵の絵を描いていた者」を招いて、「青木氏の神職住職」の優れた才のある者に師事させたのである。
    そもそも、この「巨勢氏」(こせ)は、「大和朝廷」の元の飛鳥時代の「大和政権」を構成する「五大豪族」の一つであった。
    「ヤマト政権」から「大和朝廷」に成長したことから、「蘇我氏」が勢力を拡大させ、「物部氏」と共に「前政権の豪族」は衰退し、蘇我氏に依って掃討された。
    この衰退した「巨勢氏の末裔」が、「大和朝廷の絵所領職」を務めていた。
    この衰退した「巨勢氏」(紀州北部東域に勢力圏)を「賜姓族の青木氏」(施基皇子から白壁王の光仁天皇まで)は支援して「朝廷絵師」と云う形にして引き揚げた。
    そして、「絵所領職」と「朝廷絵師」としての「役付け」を朝廷内に構築し、「大和絵」を「国の絵技法」として確立させるように支援した。
    遂に、その努力は実り、父の意向を鑑み「光仁天皇」は、「絵所領職」の中に、正式に「朝廷絵師」として「朝廷の支持」を取り付けたのである。
    これで、結局、「大和絵」と云う技法は確立し遺されるに至ったのである。
    この「大和絵を興した巨勢氏」の初代は上記した様に「巨勢公望」であった。

    この様な「青木氏の神職住職」の技量獲得の背景から、この「大和絵」は、「賜姓族青木氏」の「仏画」の中に引き継がれて行って、「大和絵の裾野」を広めたのである。
    それは、その「大和絵」から発展した「神仏習合」の「神格像」や「密教仏画」であるのであるから、尚更、「三つの発祥源」で「密教青木氏」の「氏寺社」と成れば文句の附け様が無かった筈である。
    其処の神社や寺で、その”「宗教画」のお祓い”を受けての事と成れば仏画の依頼側は尚更に充分であった筈である。
    つまり、頼むとしても”他に頼めないところまでの環境に至っていた”と観られる。
    これで「青木氏の福家」としては、目的通りの「賜姓族」、況や、「国策氏」の「役目」を果たしている事に成る。
    特段で云えば、その状況は、恐らくは”描くに描いた”と云う表現であった筈である。
    彼らに取っても、「宗教概念」を心を込めて描くことで、”「本尊」”として扱われるには全く異論は無かった筈で、この上ない幸せであったであろう。
    当に、”役目の冥利に尽きる”であったと考えられる。
    むしろ「本道」を忘れる程に積極的に取り組んだと思われる。
    一部の資料に、その様な手紙の表現が遺っているが、むしろ、この文面から考察するに、むしろ”「本道」=「仏画」”と考えていたと思われる。

    (上記の事柄は、守護神や菩提寺に遺されているあらゆる資料からのもので、この推論で調査した結果の判断である。)

    「賜姓青木氏と賜姓源氏の仏画の違い」
    ここで「賜姓族青木氏」の上記する「仏画の現象」であったが、かっと云って、特記するべき点は、「賜姓源氏」にはこの現象は起こっていないのである。
    この現象が起こっていた奈良期末期の後は、丁度、この時、「嵯峨期の詔勅」に依って、「青木氏の賜姓」は「賜姓源氏」と変名と成って、「青木氏」は皇族出身者が下族する際に名乗る「氏名」と成った。
    この「賜姓源氏」の初代の「嵯峨源氏」の「源の融」が、”天上を表す平等院と持仏堂”を作り、それを小型にしたものを室内の祭祀殿として「持仏堂型仏壇」を作り採用した。
    従って、時代が異なっている為に、「賜姓源氏」は、「賜姓青木氏」が継承していた「和魂荒魂」が持つ「宗教概念」と「密教性」は持っていない。
    つまり、同じ「賜姓族の青木氏」と「賜姓族の源氏」は、根本的に「その立場」と「その氏の概念」に大きな”「氏差」”があったのである。
    その証拠として、上記した事の様に、「嵯峨天皇」は、源氏には、「賜姓五役」としての「密教所作」等は元より付加しなかった為に「賜姓源氏」には全くない事に成る。
    (むしろ詔勅の文面を考察すると、”「賜姓五役の役」”を否定している。)
    つまり、上記で論じた下記の数式論は、全く成立していない事に成る。
    この事、つまり,”「密教仏画」”と云う点では、「賜姓族青木氏」と「賜姓族源氏」との比較に於いて、最も、”歴史論”としては重要な点である。
    依って、「賜姓源氏」には、上記する”「密教仏画」”と云う概念が無く、その代わり彼らには「八幡大菩薩」の「書」と「菩薩像」に限定していた。
    つまり、”「賜姓青木氏の如来」”に対して、”「賜姓源氏の菩薩」”と云う仕訳に成るだろう。
    それは次ぎの数式論でもあきらかである。
    この数式論が「賜姓源氏」には成り立たなかったからである。

    青木氏の「守護神の密教数式論」
    A 「和魂の和神」=「大日如来坐像」+「大蛙の仏神の使い」
    B 「荒魂の荒神」=「毘沙門天像」+「三宝荒神」
    C 「仏教の守護神」+「神道の守護神」=「青木氏の守護神」


    「釈迦立像」
    そこで、先ず、この「二つの仏画」の前に、上記の事を理解を深める為に「釈迦立像」に付いて論じる。
    上記した様に、”「仏舎の本尊」”として使われていたこの「青木氏の釈迦立像」が、何かの上に載っていたのではないかと観られる。
    「仏教伝来」の早いこの時期の歴史的に遺されている「仏像」の大抵は、朽ち無い様にする為の「環境設備」が無かった為に、多くは「楠の巨木」が使われている。
    (楠にはナフタールと云う成分が含んでいて「除虫」や「酸化」から来る「風化」を防げる木質を持っている。)
    「大日如来坐像」の「お仏像様」の右横間に安置していた「本尊の像」としてもマッチングしていて納得出来る。

    「仏舎」の中央に安置していたこの「釈迦立像」には「台座」があって、その「台座」が乗っている「台」が上記した”「天武期の詔勅」”で定められていた事は上記の詔勅文でも判る。
    つまり、「仏舎」の床に、この「釈迦立像」とその「台座」と共に直に置いていた事では無い事が判る。
    そうするとその内容から想像できるのは、床の上に、”宗教的な理念の基”に、それを形採った広い台の様なものがあった事に成る。
    先ずは、その”理念とは、何なのか”の研究が必要である。
    つまり、「仏教と仏像の関係」である。
    その結果、「仏像」を作る際には、次の理念が生かされねばならない事が判る。
    つまり、「仏像」とは、そもそも「天上に上った釈迦やその弟子たちの”神格化した偶像”」である。
    その為には、この”「天上」”を表す表現が必要であって、その「天上表現」の一つには「雲海の表現」がある。
    更には、「大蓮の花の上」、或は、「平等院の様な社殿景観」等が用いられる事が判る。
    従って、上記した様に、”何かの様な形をした台座”に金糸絹布が被せられて据えられていた「釈迦立像」であった事が論じた。
    この”「台座」”は仏教的意味を持ったものである事だけは、仏壇の他の物の形から、「仏具」である事が判る。
    家の中に相当大きなものとして、保管されている筈であったが、何時も生活の中で接して居乍ら筆者はこの事に付いて暫く判らなかった。
    ところが、ある時、”特異なテーブル”の代わりに敷布を掛けて使われていたものを調べると、実はこのものがこの”「台座」”そのものであることに気が付いたのである。
    筆者から観れば、無造作に置かれているこの台が、「歴史の知識」が未だ未熟で在った事からそんな物であるとは考えも付かなかった。
    (父親はそんな環境の中で育っていた事からこの台座そのものである事に左程の意識は無かった様であったが、後で確認するとお仏像様のものである事は知って居た事は知っていた。)
    それは、ほぼ畳一条程度の大きさで、厚みが15Cm程度で、中はそっくりくり抜かれていて、中は彫刻されている。
    結果として、厚みは4Cm程度で、「台縁」は雲の様に波打って形採られている。
    その彫刻は、明らかに「蓮の葉と花」を形採ったもので、明らかに「宗教性の要件」に嵌る。
    その彫刻のある側の裏側は、前面に平に削られて仕上げられている。
    材質は「一枚板の黒檀」である。相当な価値を持つものである。
    見るからに古く、何かの宗教的な三昧仏具である事は気が付けば理解できる。
    普通の家では、先ず無いし、この様な使い方はしていないのではないかと思うものである。
    余りに無造作過ぎる位であって、何でこの「台座」が「お仏像様」に使われていなかったのかは、父親の言い分で判った。
    明治35年に伊勢松阪大火で消失した際に、このお仏像様を何とか助け出したが、この際に、”この「台座の影響」で災いが一部にあった”との事で、その後には使われなかったらしい。
    (この災いは何であるかを論じるのは別にする。)
    しかし、先ずこれだけの大きさの「黒檀の樹」は先ずは無い。大変珍しい代物である。
    これだけの「黒檀」そのものが「歴史的遺産」であろう。奈良期の青木氏の位置関係が良く判る代物である。
    また、その「黒檀」のみならず、「彫刻の粋」も歴史的な遺産であろう。
    彫刻面の真ん中は「蓮の一枚葉」で葉の部分は40Cm角で平らで立体的に彫刻されているものである。
    何かの宗教的な意味を込めて彫刻され、蓮は宗教的な花で仏教的な何かをここに載せる様に彫刻されたものと観られる。
    その中央の「蓮の葉」の両側には又やや小さめの「蓮の葉」の平な部分がある。
    左右対称に彫刻されていてその前後左右の周囲は「蓮の花」で形採られている。
    この彫刻のある窪んだ部分は表に成るのであろう。
    その台そのものの縁が、「蓮の葉」の立体性を持たすように細かく彫刻されている。
    わざわざ、この様な彫刻を施す事は、”テーブル”には明らかに不適切である。
    何かの目的で彫刻したと思われる台座である。
    (実はこの台座と全く同じ形をした1/4程度の「黒檀の台座」が見つかった。「副台座」であろう。)
    これが、本台は「内仏舎」の床部に置く台で、ここに上記した「釈迦立像」とその「台座」を本尊として中央部に安置した事は間違いはないと考えられる。
    更に、問題は、お仏像様の大きさから中央に安置したとして大きすぎるが、この両方のスペースは何なのかと成る。
    何か置いていた事に成る。
    そこで、調べると次ぎの様に成る。

    実は奈良期と平安期の「釈迦三尊像」には次ぎの様な仏説の決まりがあった。

    奈良時代の仏舎形式には、右に「薬王菩薩」と左に「薬上菩薩」
    平安時代の仏壇形式には、右に「文殊菩薩」と左に「普賢菩薩」

    以上の「菩薩像」の配置が一般的と成り、当然に中央に「釈迦如来立像」と成る。
    ところが中央の「釈迦立像」は、上記した様に筆者の家には存在するが、「脇侍」の何れも全く見当たらないが、松阪大火で消失したのかも知れない。
    処で、この「釈迦三尊像の決まり」には、”「自由性」”が認められていて、その証拠に「他の宗派」では次ぎの様に成る。

    「梵天」と「帝釈天」、
    「金剛手菩薩」と「蓮華手菩薩」

    などの例がある。

    この「宗派の概念」に依って、”「脇侍」”は、その概念に沿った像にする事には問題が無い事が判る。
    むしろ、”その概念の仏説の表現する手段”として認められた「決まり」である事が判った。
    要するに、「密教」である事なのだ。つまり、”その氏の考える様に決められる事”であった。
    「青木氏の古代密教仏教」の概念に従った「脇侍像」を安置する事が「正しい決まり」である事に成る。
    つまり、その左右に安置する「脇侍の仏像」は、奈良時代であるので、一般的には「薬王菩薩」と「薬上菩薩」とは成るが、”仏像”そのものより、それを物語るものが祭祀されている事が重要である。
    依って、”その何かが遺されていないか”を調べる結果となった。
    結果は、”全く何も無い”となった。つまり、当然に無い筈であった。
    そもそも、”「薬王菩薩」「薬上菩薩」”は、一般的仏教の”「後期の概念」”である。
    この事を前提としているから見つからないのかも知れない。

    「伊勢青木氏」には、そもそも、この「密教」とは別に、「和魂荒魂の古来宗教」と「古代仏教の神仏習合の概念」の中に成り立っている。
    つまり、「大日如来坐像信仰」と「毘沙門天像信仰」と「三宝荒神信仰」の”「習合概念」”の中にあった。
    ”上記の配置の「一般概念」と、「青木氏の密教の宗教概念」とには大きな相違があったのではないか”と云う発想が生まれた。

    ・ 「青木氏の神仏習合概念」
    「大日如来坐像信仰」
    「毘沙門天像信仰」
    「三宝荒神信仰」

    「釈迦三尊像」と云えば、上記に論じた配置に成る。
    しかし、「時代と宗派」の要素で、この「配置」が変化して、その「概念の表現」で違っている事は判っている。
    とすれば、「梵天と帝釈天」の様に、「三仏格」の「如来像」、「菩薩像」に限らず、「王像」も、概念の表現では問題ない事に成る。
    「賜姓族の青木氏」は、”「毘沙門天像信仰」と「三宝荒神信仰」の「習合概念」の中にあった。”のであるから、そこで、この「神仏習合概念の表現」を採っても問題は無い筈である。
    むしろ、筆者は、この方が、「賜姓青木氏」には適切ではないかと考える。
    何せ、「古代仏教」、「初期の詔勅に依る仏舎」、「初期の青木氏密教」としてみれば、「仏教の安定期の慣習概念」では、むしろ、「時代性と初期概念」の点から逆に矛盾が出る事に成る。

    そこで、そうなると、「内仏舎の配置」として、中央には「釈迦立像」が、右に「毘沙門天像」、左に「三宝荒神像」を配置していた事に成る。
    (本来の「大日如来坐像」は「青木氏の菩提寺」にあった。)
    何れも”「密教」”の”「守護神」”であって、「青木氏」にふさわしい「脇侍像」と成る。
    本来は「大日如来坐像」を中央にあって、右に「毘沙門天像」、左に「三宝荒神像」の脇侍であった筈で、一時「釈迦立像」と成っていたのは、「大日如来坐像」の賜物の「お仏像様]と一族一門の象徴とする為に「青木氏の菩提寺」に安置祭祀していた為である。

    (この「釈迦立像」は、上記した主台座に対して二つ目の「副台座」の上に安置していたと考えられる。
    「釈迦立像の存在」と「副台座の存在」はこれで解ける。)

    しかし、「薬王菩薩」「薬上菩薩」の「脇侍像」となると、「顕教の定義」による「宇宙仏の盧舎那仏」から「釈迦」を仲介する構図と成り、「密教の教義」に矛盾する。
    「青木氏の密教」のみならず「密教」そのものは、「宇宙仏の大日如来仏」から「直接の構図」を採るものであって、「釈迦」を仲介しない。
    この「薬王菩薩」「薬上菩薩」の「脇侍像」は「釈迦の弟子」であり、「顕教」による構図である。

    「三宝荒神像」は南北の位置に対で配置していた”北側の荒神像”と云う事に成る。
    この”「北側の荒神像」”は、「主神像」と云われていたもので、30Cm程度の大きさで「毘沙門天像」によく似ている。
    何れも「造像の構え」の「容像」と「三昧耶形」もが違うが、「密教像」である。

    左に「三宝荒神像」を配置していた。
    右に「毘沙門天像」を配置していた。
    中央に「釈迦立像」を配置していた(顕教の定義 矛盾)
    と考えれば納得出来る。

    (但し、「密教の定義」では、本来は保有する「大日如来座像」でなければならない。)

    ”南側の荒神像”は「小さい像」で、「仏舎」の時は、本来は、北側に配置していたものである。、
    ”明治期の松坂の火事”で、長い間の”「密教の仏舎」”は止めて、”「顕教の持仏堂型仏壇」”に替えた。
    しかし、何とか”「密教形式」の「浄土宗仏壇」”とする為に、”中央に「釈迦立像」”を配置する事に変えた。
    この時、「毘沙門天像」たけは消失し、結局は、その後、「三宝荒神像」(家の南北側隅に)は別々に祭祀した。
    以上の「祭祀の構え」と成っていたと考えられる。

    室町期末期から菩提寺より引き揚げた「大日如来座像」は、松坂大火までは居宅の「仏間の右側」に、「仏舎」は「仏間の右側」に安置したと考えられる。
    本来は、「大日如来座像」は「密教の決まり」からすると、「仏舎」の中央に安置されていた筈の像であった事に成る。
    それが、明治35年の大火消失までは、「顕教の決まり」と成る「釈迦立像」が、「密教の決まり」に反して、「仏舎の本尊」として中央に安置されていた事に成る。

    (「大日如来座像」は室町期末期まで「青木氏菩提寺」に安置祭祀されていた。)

    そこで、この「密教の決まり」の矛盾は、”何故起こったのか”である。
    「大日如来座像」と「毘沙門天像」は、「天智天皇から賜物」(647年)であることから、大化期の当初は、居宅の「仏間」(647年)に安置し、その後、「天武期の詔勅」(684年)に従って「仏舎」」(684年)に安置し、少し後の「菩提寺建立」(716年頃)の時に「密教菩提寺の本尊と脇侍像」として治めた。
    その後の「室町期の末期の混乱期:伊勢攻め」(1567年)まで、約850年間程度を菩提寺に祭祀し続けた事に成る。
    この後、「二つの密教像」は、一時的に和歌山の新宮に退避、 11年後の1588年に松阪の居宅に戻る。(家人は1年間退避)

    参考
    (秀吉の命で「蒲生氏郷」は1588年には、飯高郡矢川庄四五百森に松坂城を築城。松阪の武士には本領安堵をし、商人を強制的に移住させて、城を中心に屋敷町と商業町の城下町を作り上げた。)

    要するに、次ぎの様に成る。
    ・ 室町期末期以前は、居宅の「仏舎」は、顕教の「釈迦立像」を中央に配置し、「三宝荒神像」の一対を左右に配置していた事に成る。
    その「顕教の矛盾」を消すために「二つの仏画」を掲げたものと成る。

    ・ 室町期末期以降は、居宅の仏間の右の「仏舎」には次ぎの形で治められていた。
    (「信長の伊勢攻め三乱」を避ける為に、一時新宮に避難し、その後の「本領安堵」に依って「密教菩提寺の本尊と脇侍像」が居宅に帰って来た。)
    「左の仏舎」には、「大日如来座像」と「毘沙門天像」と「大蛙像」の「密教像」
    「右の仏舎」には、「釈迦立像」と一対の「三宝荒神像」と「二つの仏画」の「顕教像」
    以上に見立てて配置していた事に成る。
    (この状態を室町期末期から明治35年まで維持保全した。)

    これで、発見された「黒檀の副台座」の上に、中央に遺された「釈迦如来立像」を、左右に「三宝荒神像」、仏間の左には、「主台座」には「大日如来座像」と「毘沙門天像」、その「毘沙門天像」と台座の上に、「大蛙像」を配置して居た事に成る。
    これが明治35年まで、「仏間」の「青木氏の内仏舎」の中に治められていた事に成る。

    そして、明治35年以降から大正4年までは、「持仏堂型仏壇」を「浄土宗仏壇」にして、中央に「釈迦立像」を本尊として備えた形であった事に成る。
    合わせて「二つの密教仏画」を「副本尊」として掲げた形であった。

    (現在は「大日如来座像」は特定の保管所で祭祀している。又、「釈迦立像」と「三宝荒神像」とその他の「三昧耶形の仏具一切」は当家に保管されている。)

    ところで、何故、ばらばらにされていたのか、疑問ではあった。
    ここで”「伝統」”と云うものを理解する上で、後世に対して敢えてこの事を記録して置く。

    松阪大火(失火元)後、それなりに復興を成し遂げたにも関わらず元に戻していない。
    これは云うまでもなく”「明治35年の松阪の大火」”とその「消失事件」による後遺症と思われる。
    (「持仏堂型仏壇」:「浄土宗仏壇」は、明治35年以後に据えられた。)
    つまり、どういう事かと云えば、伝統の”「遺品」”に対して、この”消失した事”の汚名を後世に遺さない為に、”古くなった事”を理由にして通すつもりであった。
    しかし、「像の消失遺品」を捨てる事に忍びない為に、「三昧耶形の密教仏具」として敢えて飾る事を考えたのであろう。
    況して、この時、「密教の態」を成していない「顕教の仏壇」でもあった事から、”尚更に解体した”と観られる。
    最早、「密教」は、既に江戸初期には「家康の督励」で終わり、大正末期までの320年過ぎた時代になっても、「毘沙門天像の密教」に意識し、未だ「三昧耶形の密教仏具」等の「密教の伝統継承」に拘っていたかが良く判る。

    (密教に”拘っている事”は、当時としては、”特異な身分”の中にあった事から、簡単に”「拘り=伝統」の関係”から、その習慣から抜け出す事は出来ない事は理解できる。
    伝統とはその様なものと理解する。)

    ”「顕教の仏壇」”と、「伝統」で遺された”「釈迦立像」”には、青木氏は、又”違った伝統意識”を持っていた事に成る。
    それが、つまり、「迎え行燈の密教作法」の様な「伝統行事」に成って遺されて来たものと考えられる。
    「顕教の作法」の中には、この「迎え行燈の密教作法」は正式には無い。
    既に、「顕教仏壇」に切り替わって居ながらも「仏教作法」は、矢張り”、「密教作法」”の侭であったのである。
    これには「青木氏1367年間の歴史」を物語る”「大日如来座像」が現存する”と云う事が、「伝統」の意識の中に大きく左右していたのであろう。
    それだけに「密教の伝統」の強い意識の中での消失であった。
    この「精神的な後遺症」が遺品関係をばらばらにして、何とか一部の「密教の伝統」を抑え込んでいたのである。
    「顕教」で行くのか、「密教」で行くのかの”狭間”に立たされていたのであろう。
    先ず考えられる事は氏家制度の中で、一般の「本家ー分家の仕来り」を採らない「青木氏の仕来り」(福家方式)から、一族四家一門からの異論もあってこの様な結果と成ったのではないか。
    代々維持して来た「密教の仏舎形式」の中で、江戸初期の「浄土宗顕教令」も在って、取り分け”徳川氏との付き合い”もあって、この様に成ったのであろう。

    念の為に、”「伝統」”に大きく関わって来る事として、その”「付き合い」”とは、「伊勢青木氏の菩提寺」は、「紀州徳川氏の菩提寺」に成り、「寺跡」も「寺名」も同じくして「紀州徳川氏」に依って維持されて継承された。
    そこに「青木氏の菩提」も合祀している関係からも「顕教」への切り替えは、立場上は少なくとも「必要条件」であった筈である。
    この”「付き合い」”は、記録によると、1600年頃の関ヶ原の決戦準備で名古屋城で家康が秀忠を待つ傍ら、周囲の豪族に「調略」を進めていた事からの「付き合い」であり、大正14年まで親交があった。
    故に、「青木氏の伝統」を護らねばならない事から、多くの「密教作法」だけは、密かに継承されて来ているのである。

    注釈
    とまあ、この柵の中で、兎も角も”余り目立たない様にした”のであろう。
    結果としては、「古来の遺品」が遺っている事であるので先ずは良かった事に成るが、当に”「伝統」の維持”とは、その当時の当事者に成ってみなければその継承の意識は判りにくいものである。
    この様に本論で論じてはいるが、現在から観れば、”「青木氏の伝統」”を理解するのもなかなか難しいものと成ろう。
    この様な背景があって「青木氏の伝統」には、「伝統の継承」<「伝統への無理解」=時代の変化」の関係式が働いて、何時しか消える宿命にある。
    故に、”「史実」”と云う事に必要以上に拘らず、先ずは、”未来の青木氏のロマン”として、筆者は判る範囲の末端の事まで必死に書き遺している。
    幕末から徐々に起こり始め、一時、明治維新期の直ぐ後の5年から15年頃には、「地租改正」や「廃仏毀釈」などの「社会の反動」で、”家が「密教」”である事に気兼ねする時期が続いた。
    「身分への庶民の反動の表れ」として”「密教」”がそれを指し示す事に成っていた。
    この頃、「地主」から小作人への「土地の下渡令」が起こり、地主と小作人との「摩擦騒動」が各地で起こったし、「廃仏」で仏教の最たる信者としての「青木氏」の様な「密教の家」は肩身が狭かった。
    (青木氏は各地では名主や庄屋や豪農や郷氏と成っていた為に極めて地主が多かった。この為に「密教」である事も含めて、「土地の下渡令」では厳しい対応が様られた。)
    この様に、”社会に毛嫌われた時期”が続き、昭和の初期頃まで庶民の中に渦巻いていた時期があった。
    この事に依って「青木氏」の一部には、それまで維持して来た「密教の伝統」を敢えて「顕教」に変えた家が多かったのである。
    下手をすると、”打ちこわし”などもあったとされる事件もあって、”社会からいじられてはみ出される ”事より、苦しみながらも”「伝統」を捨てる事”を選んだのである。
    しかし、この時、明治6年から9年まで続いた「地租改正]の「農民一揆」が起こった。
    中でも「青木氏」の多い「伊勢」、「愛知」、「岐阜」、「茨木]、「栃木」では、一揆は特段に大きく、且つ、多い地域であった。
    これには、”特別な意味”が在った。
    「青木氏」が陰でこの「農民一揆」を経済的に援護をしていた事は記録からも判っており、上記の環境から考えると”不思議な事”である。
    そもそも、”「一揆」に類するもの”とは言え、長期に続けてその「主張」を聞かせるには、単なるただの「主張」だけでは長くは続かず、殆ど潰されて失敗に終わる。
    しかし、この一揆の”経済的裏付け”と「主張」を実現させる交渉力、つまり、政治力が必要である。
    がなり立てるだけでは主張は成立しない。

    この長期に続き全国的に広がった「維新期の一揆」は、この背景が陰にあった。
    この「背景」が、「青木氏」であった。特に関西域が大きく、更に「青木氏の存在地域」に起こり、且つ、長く続いた事が判っている。
    「豪商としての二足の草鞋の商い」と、「郷氏としての政治力」の二つが備わって居た事がこの傾向を生んだと思われる。
    他の氏が背景に成っても、この「二つの条件」が両方に備わっている事は先ずは無い。多くは政治力に偏る。
    何故、この様な態度に全国の「青木氏」は出たのであろう。
    「青木氏」には、他の氏と全く異なり、「密教の伝統」を維持している限り、上記する「伝統への危険性」と「氏の社会的存立の危険性」はあった筈である。
    ところが、他の氏は、配下に「武家の家臣団]だけを持っていたに過ぎない。
    しかし、「青木氏」には「家臣団」より、むしろ、多く「民の職能集団」を配下に持っていた。
    その「職能集団の裾野」は、「和紙」に依る「殖産産業」を支えていた「農民」を含めて、「庶民の末端」までの配下で支えられていた。
    その例として挙げると、「青木氏の守護神ー神明社の論文」で論じたが、「伊勢青木氏」の場合は、伊勢松坂は元より隣の玉城村の全域(現在の玉城市)が、青木氏の「殖産農民」と「職能集団」の配下と、その裾野の庶民の居住地として提供され、且つ、その「蔵群]であった事が当時を生きた祖父からの口伝と記録で判っている。
    つまり、この事から、切っても切れない環境下で、且つ、「一蓮托生の柵関係」の中にあった。
    この関係は、今、始まったものでは無い。ゆうまでも無く「悠久の歴史」の中にあった。他氏とはこの点でも異なる点である。
    この”「配下組織」”は、この関係から大なり小なり、祭祀などで”「密教の伝統」”の影響を強く受けていた筈である。
    この事から、恐らくは、「伝統の密教」で反動されながらも、庶民や農民とは「対立関係」に持ち込まず、「共存関係」に持ち込んで、”地主としての存立”を謀ったと観られる。
    当然にも「配下組織」の態勢も「対立関係」に持ち込みたくは無かった筈である。
    むしろ、青木氏関連者に執っては、「悠久の歴史を持つ共存関係」を続けて図る事以外に、「庶民」を主役で中心とする「維新の社会」に成ったとは云え、「他の選択肢」は無かった筈である。
    (ここで論じている事は、「他氏」には全く観られない環境で、日本全国広しと云えども、「青木氏」のみの「独特の環境」にあり、特筆すべき事なのである。)
    一部には、「土地の下渡令」に対する「政府への反動」と、「大地主」としての「米の税率」(3%石高から通貨換算)に対する反対もあった事は頷けるが、”経済的な援護まではするか”は疑問である。
    それは解決後の ”維新政府からの軋轢のリスク”の方が遥かに大きい事から観れば、矢張り、「共存関係」を重視したとも思える。
    (既に、維新改革で江戸期前の「不入不倫の権」は解消されている事から軋轢は当然の事としてあった。)
    特に、「伊勢の一揆」は「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の援護で、全国のこの「地租一揆」では、最大の規模で政治性を帯びていた事であった。
    結局、長く続いた激しい一揆は、「維新政府」は妥協して3%から2.5%に下げて妥協して概ね解決した。
    この様に 青木氏が裏で”政府と交渉力”を持っていた事から、全国各地の「青木氏の背後の勢力」の政治力、交渉力が働いた事に成る。
    この事で、農民等の信任をより厚くしての結果と成った。
    この意味で、農民や庶民が動いた「廃仏毀釈」の「密教のリスク」は、この為に遥かに軽減したと観られる。
    それほどに、「密教への反動」は極めて大きかった事が判る。
    下手をすると、「青木氏」と配下との関係を打ち壊して新たな「庶民の関係」を存立させる動きさえあった事が記録されている。
    ”農民庶民の打ちこわしの憂き目”を受けていた事が充分に予想できた。
    「全国の青木氏」の中に、大なり小なり「明治維新期の下剋上の現象」が起こる可能性を大きく秘めていたのである。
    「全国の青木氏」はこの事を特に内心で意識していた。
    この「密教リスク」は、この事から”氏存続の生死”を分けたものであった事が遺された一族の手紙(配下の動向)などの表現からも、又資料からでも判る。

    そもそも”「伝統」”を維持して行く為には、生易しい事では無いが、この「密教リスクの現象」を事前に危険視していた事が判る。
    それ故に、上記した「青木氏」の中では、”諸々の諸条件のリスク”から逃れる為に、上記した様に氏内で「密教仏像」などの”「伝統」”に対する「やり繰り」が起こっていたのである。
    場合に依っては、これらの”仏像などの伝統品”も打ち壊される危険性を極めて帯びていた事に成る。
    誰にも止められない”事の流れ”に依っては、打ち壊されれば、「密教」と連動していた「悠久の歴史」を持つ「青木氏の慣習や仕来りや掟」は霧消する。
    これは、結局は、「青木氏の象徴」=「伝統」を失った事に依り、”豪商としての経済的能力”を維持していても、何時しか”「青木氏の氏存続の生死」”にも関わって来る問題であると捉えられていたのである。
    「生きて行く上での精神の根幹」=「伝統」と捉えられていたのである。
    一千年後に招いた「氏の危機」であった。
    ”上記の環境”の中でも、それ故に、「像の形」は消えたが、その「伝来の像遺品」の「三昧耶形の仏具」は何とか遺された事に成る。
    この環境下にあった曾祖父と祖父は兎も角も、これらの事を父は充分に承知していたと観ていて、充分に対応して護り通したのであるが、親であった事から敢えて未来に口を閉ざしていたと観ている。
    筆者は、”長い歴史の中では、消失する事も充分にあり得る”と考えいて、解明した今では、その柵も無く成っている事から、筆者はこの時の史実を明かした事に成る。
    そもそも、それが目的で親に頼まれて、大化期の同族の「近江佐々木氏」の様に、「青木氏の由来」などを纏め上げたのである。
    (全く同じ環境を持っていた「近江佐々木氏」も、”「伝統」”を紐解く歴史の解明に同じ事をしている。)

    兎も角も、現在では「密教仏具」は「三昧耶形」と成っているが、元は「密教所作 (九度作法・節会所作)」の一つとして、「毘沙門天像と三宝荒神」を祭祀する「密教の作法事」のものであった。
    本来であれば、「三つの発祥源」「賜姓五役」の立場にあって、その「伝統」を頑なに護って来た。
    しかし、室町期から江戸期には「鎧兜具足」等を飾って”何がしかの作法”を興したと普通は考えられる。
    又、「武家と侍の発祥源」であれば尚そう成る。
    しかし、この「青木氏」は、この「鎧兜具足」等を用いての「武」を誇張する事は敢えて避けていた。
    そもそも、「賜姓五役」を護り通すには、「戦い」を旨とする考え方を採っていず、”「和魂」の中で、「荒魂」を「三宝」で鎮めて護る”と云う考え方を採っていた。
    しかし、上記した様に、古来からあった事に所以する。
    その為の「神仏格偶像」として、更に、その鎮める道具と成る「三宝の有り様」を、「古代浄土宗」に求め、これを「青木氏の密教」にして、「毘沙門天像」に求めた所以でもある。
    つまり、上記する経緯が古来よりあった事が、「鎧兜具足」が持つ”武しい感覚概念”には明らかに元より組していなかった事に成る。
    故に、この”先祖と会する場”の「密教概念」が、”武しい感覚概念”を抑え込んだのであろう。
    ”武しい感覚概念”側からすれば、”先祖と会する場”の概念は ”女々しい”と云う事になり、矛盾する概念とも成り得る。
    その意味で、「三昧耶形」を敢えて「青木氏の密教所作」としている事には、上記の様に、大きな意味を持っているのだ。
    全青木氏には、「三つの発祥源」でありながらも、「武しい感覚概念」は、先祖代々持ち得ていないのである。
    これは、頑なにも”「密教の伝統」の所以”である。
    先代まで持ち得ていた確実な「青木氏の概念」と云える。
    これが、明治維新の難問にも適合したのである。
    当に”世に晒す事無かれ 何れに一利無しである。
    ”その精神は「青木家家訓10訓」に遺されている。
    「青木氏の立ち位置の概念」そのものが違っていたのである。


    では、”「伝統」”とは、そもそも何なのか、どの様な要素に依って成り立つのか、考えて観た。
    それは、結論から云えば、次ぎの数式の関係で成り立っていた。

    「伝統」=「概念力」+「経済力」+「社会力」+「子孫力」+「象徴力」

    以上5つの要素を持ち合わせている必要がある。
    何れ、一つを掛けるとその「伝統」は弱まり、次第に「伝統」は、何らかの問題を起こし霧消して行く。
    この「欠ける要素」が多ければ多い程に、その「伝統」の「霧消速度」は速まる。
    その上記した「要素の内容」に依っては、起こる霧消して行く問題の「質」は異なる。
    全てが無く成れば、「伝統」は即座に消え去る。

    逆に、この要素が成り立ち次第に、「伝統」は逆に創出されて行く。

    そこで、「青木氏の伝統の基盤」がどの様にして出来上がったのかをその経緯を先ず検証する。
    この「5つの要素」が出来上がって行く過程を歴史を知る上で理解して置くことが重要である。
    それ無くして”「伝統」”を理解し知る上で何の意味をも持たない。
    そこで、全青木氏に取っては、次ぎの事からこの「伝統」が始まった。
    それは、次ぎの「賜姓五役」である。

    「賜姓五役」
    さて、そこで、「青木氏」に関わっている”「密教」”が、この「賜姓五役」を護るために、周囲から観れば「特殊な概念」をもたらしたと云う事は判る。
    果たしてどのようなものであるのかをもう少し検証してみる必要がある。
    ”「密教性」を以て合法としているもの”には次の様なものがある。
    青木氏外に次ぎの教派に依って長く引き継がれている。

    「密教合法」(7つの合法体)
    1「毘沙門天信仰」
    2「三宝荒神信仰」
    3「古代密教仏教」
    4「三大密教」
    5「神仏習合体」
    6「大乗仏教」
    7「修験道」
    以上、「7つが合法体」である。

    この為に、この様な「密教の作法」の事に成っているのである。
    以上の「7つの合法体」は、夫々信仰体としての概念が異なっている。

    さて、ここで改めて、そもそも”密教とは何なのか”を要約して記述して置くと次ぎの様に成る。

    「密教六義」
    定義1 「密教」とは、宇宙には「宇宙仏」があって支配されている。
    定義2 この「宇宙仏」には唯一「大日如来仏」が存在する。
    定義3 この「大日如来仏」は直接、人に向かって説法をして導く。「雄弁の仏」と呼ばれる。
    定義4 しかし人には「煩悩」があって、この「煩悩」を取り除かないと「説法」を聞き取れない。
    定義5 「煩悩」を取り除けば取り除くほどに「説法」は聞き取れて悟れて導かれて幸せに成る。
    定義6 依って、”なかなか聞こえる事の出来ない「秘密の教え」”とされる。

    これを「密教六義」と呼ばれるものである。

    (参考 「如」とは宇宙の真理の事、その宇宙から”来た”宇宙仏の事を「如と来」で「如来」と云う。)
    (三大仏格 如来、菩薩、王)
    この「密教六義」に対して相対の位置にある「顕教」は次ぎの様に成る。

    「顕教」
    「宇宙仏」には「毘盧舎那仏」が存在する。
    「毘盧舎那仏」は人に直接語りかけない。「沈黙の仏」と呼ばれる。
    「御釈迦様」がこの仲介をして言葉にして何人にも説法する。
    「釈迦の言葉」は「書物」に換えられる
    「煩悩有無」には無関係の教えと成る。

    つまり、”「盧舎那仏の宇宙仏からの意志」”の伝達者である”「お釈迦様」を介して”の全ての事が成り立つ概念である。

    釈迦を介さない法然の「密教浄土宗」に対して、弟子の親鸞は「顕教浄土宗」を唱えた。
    その概念の大きく異なる教義は、上記で論じた「現世の人」は、「肉体と魂」とを持ち合わた人とし、「彼世の人」は、「魂だけの人」と定義づける。
    つまり、単なる肉体が無い変化に過ぎないとした。
    依って、”現世と彼世の行来”では、”先祖と会する場”として、「仏」を擬人化していた教義と成る。
    しかし、「親鸞の顕教」は、「現世と彼世の往来」のこの”「先祖との会する場」”の概念は認めるも、そっくり其の侭の「擬人化」の概念だけは採らなかった。
    「密教浄土宗」と「顕教浄土真宗」との概念の大きな違いは、それは、「浄土真宗」の”「釈」”に有る。
    そもそも、”「釈」”の「字句の語源」は、”薄める、弱める、副する、解かす、属するの意”を持っていて、”元の物より、やや若干「異]にしていながら、依然としてその「体」を成し、その「体」は変異するが、「同類」であるとする語源である。
    従って、「親鸞の顕教の浄土真宗」は、現世で「先祖と会する場」も、その「会」は、「副する人との会する場」と教義した。
    判り易く言えば、「人の定義」に、現世と彼世の間に、「釈」と云う概念を加える事に依って、”ほんの少し違うのだ”としたのである。
    この為に、「顕教の浄土真宗」の戒名には”「釈」”が着けられるのである。
    しかし、「顕教」で在りながらも、当初は「釈迦の概念」を持ち込まなかった。どちらかと云えば、釈の概念を加え入れた「浄土宗の密教系」に属していた。
    「普通の顕教」は、”「盧舎那仏」の意を介する[釈迦」”を定義としているが、古代の「顕教浄土真宗」は、必ずしも「釈迦」を定義としてはいなかった。
    ところが、結局、浄土真宗の内部での「教義の考え方の差違」で、4派に分離する事で,室町期中頃には、派に依って釈迦を重視する派閥も出て来て、結局は、親鸞死後に、この「釈迦の定義」も異なって来た。
    この為に一宗派間での争いが興った。この状態は現在でも続いている。

    以上の様に「密教系」は、信じる「氏」に依ってはその教義は異なり判断に柔軟性を持つ。
    しかし、”現世で会する”とする以上は、”自らを鍛えなくては悟る事は出来ない。”とし、この”悟り”で「先祖と会する事」が出来る定義付けられた。
    時代は、この様に「密教浄土宗」を変化させた。
    「悟り」は、より「煩悩」を取り除いて成長すれば、”先祖と会話が出来る”と云う教義に成る。
    「仏や先祖」に対する考え方は、その「煩悩の除去」に依って成し得る「心の心経」として、”「先祖と会する場」”はこの教義から定義される。
    この「心の心経」の如何で、”先祖と会話が出来る事に成る教義”である。
    この事で、「先祖との会話」が可能に成り、「伝統」は護られるとしたのである。
    つまり、「伝統」=「先祖との会話」と定義付けた。その為には「先祖と会する場」が必要であるとしたのである。
    況や、故に、「青木氏家訓10訓」は、この「古代密教仏教の教義」に従って出来ている事に成る。

    「密教合法の3」の「古代密教仏教」は、「青木氏の伝来宗派」である。
    「密教合法の5」の「祖先神ー神明社」は、「青木氏の守護神」(「神仏習合」)である。
    「密教合法の1」の「毘沙門天信仰」は、「青木氏だけの信仰体」と云っても良いほどである。、
    「密教合法の2」の「三宝荒神信仰」も「密教合法の1」と同様に青木氏だけである。
    以上と云っても良い「信仰体」である。
    最終は、「密教合法の4」の密教浄土宗となった。

    以上「7つの合法」の信仰体の内、「5つの信仰体」に「青木氏」は関わっていた事に成る。
    上記の「密教合法の6と7」は、この「定義4」と「定義5」を極める事に主眼を置いての合法である。
    依って「密教合法の6」の「合法」と「密教合法の7」の「合法」は青木氏には馴染みが無い。

    むしろ、”主眼を置く事に馴染む事が、「賜姓5役」としては出来なかった”と云う事に成ろう。

    先ず、この様な「氏」は日本には他にない。
    間違いなく”密教の世界””特異な世界”で生きて来た事を立証している。
    皇族から臣下した初めての法令に基づく役柄を持った「賜姓族」であり、且つ、「国策」を側面から執行推進する「国策氏」であった。
    ”「完全な密教氏」”と云っても過言では無い。
    「古代の概念」を抱えた珍しい「宗教氏」と云える。
    然りながら、「二足の草鞋策」を手広く採用する「商い氏」でもある。
    これは全て、「賜姓五役」を護ろうとして来た「賜姓氏」であった。

    果たして、本来の「国策氏」を含むこの「四つの氏の役柄」を持つ事は成り立つのか疑問が湧く。
    「賜姓族」(国策氏含む)
    「宗教氏」
    「密教氏」
    「商い氏」

    この「四つの氏」は一度に以てしたものでは無い。
    ある経緯の中での苦闘の結果、成し得た「氏の存立」である。
    「普通の論理」では成し得ないであろう。
    これが”「密教」の所以”であろう。
    先ずは、「賜姓族」が「存立の根幹」である。議論の余地はない。
    この根幹を補完する為に、第一義に「宗教氏」が存立する。
    この「宗教氏」には、上記した様に、「和魂荒魂」の「古代概念」を有している。
    これは、むしろ「宗教」と云う「区分け」の中にあるのでは無く、「飛鳥人の考え方」そのものに匹敵するものであったと考えられる。
    「現代感覚での言葉の区分け」は危険である。
    筆者は、「宗教」=「生活」であって、「生活の考え方」つまり、”「思考原理」は「宗教の概念」に従っていた”と云う事であって、”現代感覚の精神的な悩みの解決”の「思考原理」では無かったと考えている。
    「宗教」=「生活」で「完全密着」していたのである。
    そして、その「根幹」が単純明快に「和魂」と「荒魂」に区分けされたものであった。
    ところが、飛鳥から100年経って、ここに「古代仏教」成る物が突然にもたらされた。
    「宗教」=「生活」の「完全密着」がここで少しずつ離れて行った。
    本来なら、他国で観られる様に、「宗教」は「分離の最大要素」と成っている。
    つまり、”「宗教」≠「生活」の原則”が働く。
    ところが、日本では、「和魂荒魂」の「神道の古代概念」に「古代仏教の概念」が食い込んで来た。
    「青木氏」は、当初は「和魂荒魂」の「神道の古代概念」を「民の先頭」に立って護ろうとした氏であった。むしろ当初は「賜姓族の役目」であった。
    しかし、伝来50年を経過した頃から「古代仏教の概念」が「民の生活」に不思議に静寂にして浸透し始めた。
    確かに伝来当初は、「宗教」≠「生活」であった筈なのに、伝来50年後には、再び「宗教」=「生活」の実に「不思議な現象」が起こり始めたのである。
    丁度、「賜姓族」に成り、臣下した時期650年頃には、この「不思議な現象」が佳境に入った時期であったのである。
    「青木氏」は「賜姓五役の役目柄」の遂行で苦しんでいた。
    「和魂荒魂」の「神道の古代概念」が低下して、「概念の混乱」が起こり、「民の生活」は乱れる恐れがあった。
    果たして、”過去の「宗教」=「生活」の環境”を守るべきなのか、”現在の、「宗教」=「生活」の環境”を守るべきなのか、悩んだ。

    しかし、この「浸透現象の原因」は、「古代仏教の概念」をもたらした「彼らの技能」(後漢の職能部)が、「民の生活の豊かさ」を根底から静寂に無理なく変えた事にあった。
    ”「宗教」=「生活」の環境”は護られていて、「生活」は”「宗教」<=「生活」の環境”であって、”「神道の古代概念」>=<「仏教の古代概念」の環境”にあるのなら、「青木氏」は抗らう根拠は無く成る。
    「青木氏」は、この環境が長く続くかの様子を観た。「宗教」≠「生活」に成らないかを観た。
    この「静寂の浸透の環境」は、遂には、次ぎの様な環境を作り上げ始めた。

    ”「神道の古代概念」の環境>+<「仏教の古代概念」の環境”
    ”「宗教」=「生活」の環境”

    ここで、「青木氏」はこの環境を促進させる策を講じた。「融合安定策」であった。

    注釈
    (上記で「和魂と荒魂」の関係で、民は”「荒魂」は「悪」を成すもの”として恐れていた。
    ところが、”この「荒魂」の「悪神」を鎮めて味方に引き入れる事が出来る”として仏教伝道師は説いた。
    それには、”「荒魂」の「悪神」の部分を祭祀する事で、むしろ「守護神」と成り得る”と説いた。
    その祭祀では、”「自分の煩悩」を取り除いて祭祀すれば「悪心」=「悪神」は消える”と説いた。
    ところがこの説に対して「民」には違和感は無かった。むしろ「荒魂」を積極的に祭祀し始めたのである。
    荒れ狂う自然現象やそれによってもたらされる疫病等は、この「悪神の現れ」として”「風神や雷神」”として祭祀したのである。)

    これで「賜姓氏」「宗教氏」は成り立った。
    後は、「青木氏」の中に「密教氏」を定着させる必要が生まれた。
    それが、35年後の「仏舎の詔勅と令」であった。

    以下の事を民に政治的にも肯定する姿勢を「青木氏」は率先して示したのである。
    上記で論じた様に、「仏舎」を設けて祭祀する事で「荒魂」の「全ての悪神」は消え、「仏舎」を設けて、”先祖と会う場”を設けて会話し、”「煩悩」を取り除く知恵”を授かる事が出来るとして考えたのである。
    その為の「仏舎の詔勅と令」を発した。
    そして、「荒魂」→「仏教の毘沙門天」=「荒神」の構図を作り上げたのである。

    この構図は自然発生的に生まれたものでは無く、「青木氏」が、”融合させる手段”として、朝廷より令を発して置いて、積極的に「構図の概念」を浸透させたと観られる。

    この「仏教の古代概念」は、”「宗教」<=「生活」の環境”であった為に、「民の生活」の中に育ったものである。
    「自然の融合」が起こる様に仕向けたのである。
    しかし、”「宗教」<=「生活」の環境”の「恩恵」を受けていない階層が出来上がった。
    この「否恩恵階層」は「支配層」であった。
    その「支配層」にも「仏教の古代概念」の環境”の浸透が必要であった。
    「賜姓族」としては、大きな課題で難題であった。
    この難題を解決しないと、「支配層」である限りは、社会に「二重構造」が起こり、「民の生活」にその圧力は掛かる。
    又、他国の様に、”「宗教」≠「生活」の環境”に呼び込んで仕舞う事に成る。
    この解決策は、ただ一つ支配層に「恩恵」を与えること以外には無い。
    そして、その「恩恵」が、”「宗教」<=「生活」の環境に繋がっている事である。
    「賜姓五役」の「青木氏」はそこで考えた。

    「紙」をベースとした「改革条件」を作り出す事であった。
    その「改革条件」は次ぎの通りであった。

    「第一条件」
    進む大化期に欠けている物
    文化を発展させる物
    国を発展させる物
    中国から全面輸入を受けている物
    仏教に関わる物

    以上の全ての条件に関わる物は、”「紙と墨と硯と筆」”であると考えた。
    (豪商 「紙問屋の”紙屋”」の所以である。)

    「第二条件」
    これには、「中国の渡来人」の「職能集団の部」から「技能の享受」が受けられる事。

    彼らは、同時に仏教を伝えた「伝道師」でもあった。
    「技能の享受」=「仏教の伝道」の関係にあった。
    「自然神」をベースとする「古代宗教の和魂荒魂」の「神道の社会の中に、「仏教」を浸透させるには「技能の享受」≠「仏教の伝道」の関係はあり得なかった。
    それだけの「仏教浸透力」は神道社会の中に未だ無かった。
    そこで、「技能の享受」を受ける事で生活は潤い、それは「仏のご利益」として説き、「仏教伝道」の根幹と置いて、古代宗教の和魂荒魂の固い扉を開かせたのである。

    つまり、”「宗教」<=「生活」の環境”の中で、この関係の協調が図られば、「紙の改革」の実行に支障が生まれない。
    そして、庶民は、自らその部組織の中に飛び込んだのである。

    「紙」は「紙作部」
    「墨」は「墨作部」
    「硯」は「硯作部」
    「筆」は「筆作部」 

    以上の「技能集団」からその「技能の伝授」を容易に受けられる事であった。

    (「紙」は上記で論じたし研究室の論文にも論じている。)

    兎も角も、歴史的には、紙の生産は、”後漢から「職能集団」に依って、朝鮮半島を経由して610年頃に僧侶に依って伝えられた”と「日本書紀」に記されている。
    ところが、この100年前の頃には既に国内でも試行されていた事が判っている。(使用には至らなかった。)
    特に「日本書紀」には、その事に付いて詳しく記録されていて要約すると、次ぎの様に書かれている。

    注釈(日本書紀)
    高句麗から来た僧侶の後漢の「曇徴」は、「紙漉き」と「墨」を上手に作る事が出来た。
    僧侶でありながら、そう云う「万能な特技」を持った渡来人がやって来た。
    又、「横型の水車」の「動力」を使った特殊な「石臼」も造れて、それを民の前で作って見せた。
    この「石臼の製造」は大和の国で初めて観るものであった。
    特記する程に最新の技術を観たとされている位に民は驚いた。
    ”自動”である事や、”「生産」”する事や ”「機械」”と云う物を観た”「天地驚愕」の境地”であった。
    「自動概念」、「生産概念」、「機械概念」の無かった社会の中に持ち込んだ。
    特に、この、「横型の水車」の「動力」を使った特殊な「石臼」は、「紙の漉」に「f飛躍的発展」を遂げた。
    特に「石臼」とその「原理]は、全ての技能に飛躍的に貢献した。
    以上と記されている。


    しかし、30年間も経過した時点の大化期でも、「殖産」は愚か「紙の生産」としての形は未だ無かった。
    歴史的に観ても、「聖徳太子」が福井で試行を試みた記録があるが、大化期に成っても殖産は愚かその「仕様」に耐えられるものは依然として出来ていなかった事に成る。
    其処に、”後漢で生産された紙が輸入されていた”ところに、後漢からその技能集団が続々と渡来したのである。
    その中に、更には、この輸入の「良質な紙」の「生産技術」と「技能」をもそっくり持ち得ていた「高能力の僧侶」が既に渡来していたのである。
    そこで、「時代革命」を起こしたとされる「水力に依る石臼」は、”紙の繊維を粉にする高い生産技術”までも持ち込んだのである。
    画期的な技術導入である。

    「産業革命」では無く、時代を変えて仕舞う「時代革命」であった。

    それをこの僧侶は、”自ら作って”、それを”使って見せる”まで考えられない事までも伝えた。
    全ての民は、この”僧侶”に完全に心服してしまった。
    こおなれば、最早、”僧侶”では無く、「生き仏」とまで崇拝された。

    ”「技能=紙=僧侶=仏教」の関係”
    ”「技能の享受」=「仏教の伝道」の関係”
    ”「宗教」<=「生活」の環境”

    以上の「三つの関係」は揺るぎないものと成って行った。

    「青木氏の始祖」の「施基皇子」は、この「時代革命」を起こし始めた「技術と技能の伝来」は、未来の「産業」と云う形を起こす事が出来ると考えた。
    彼は、”進まなかった紙の使用”を憂慮していたが躍り上がって喜んだ。
    これで、「生産」のみならず「殖産」まで成し遂げられるとして生き込んだ。
    そこで、648年頃に、「紙の環境条件の樹立」(上記三つの関係)が整った事を天皇に上申した。
    先ず、そこで「朝廷の内部」に「紙の改革」を推し進める”「紙屋院」”を創設した。
    合わせて官僚の「伴造」を付けて正式な「朝廷の部民」(紙品部)も創設もした。
    これとは別に「青木氏」も「殖産」までを睨んで、独自にこの「技能者の養成」に取り掛かって「紙作部の青木部」を作り上げた。
    朝廷は、「青木部」が殖産に入った時点で、”朝廷内部の需要を先ず賄う体制”を試行的に創設した。
    その一つとして朝廷は、”「図書院」”を創設して、40人程度で「紙の生産」に入ったのである。
    (朝廷内部の需要を満たす範囲で試行生産に入った。)
    ところが、一方、「青木氏」に取っては、上申して朝廷はこれを実行したがここで問題が起こった。
    ”「賜姓族」が「商い」は「絶対法度」である。”要するに禁じ手である。
    この事から、「朝廷」の動き共に、「青木氏」にも ”「紙屋」”の呼称で、「商い戦略」を進める部門を「青木部」の「氏」の中に密かに作り上げた。
    ところが、当時は、未だ社会は「木簡」が中心であって、30年程度経っても「紙への慣習」へ動か無かったのはこの「木簡の原因」であった。

    この30年間、「青木氏」は、「青木部」と共に、上記の「革命新技術」を使って、「紙材」と成る「植物の選定」と、その「植物に適合した製造法」の研究を進めていた。
    上記の通り、「5家5流の賜姓地」での近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐で、夫々「特徴ある紙質」(楮)を作りだした。
    「伊勢和紙(伊賀和紙)」を中心にその技術と技能を「近江和紙」に広げ、次ぎに「美濃和紙」、引き続いて「信濃和紙」、最後に「甲斐和紙」と広げて行った。


    そこで、「朝廷」は「丹波国」にその拠点を移した。所謂、紙材が異なる「山城和紙・丹波和紙」である。
    「 苦参 」を原料にしたものを作り出した。

    しかし、ここで、この「古い慣習」を打ち破る事が起こったのである。
    それは次ぎの二つの事で在った。

    一つは、改新による国策法規の「大宝律令」等である。
    二つは、仏教の伝道布教による「教典の写経」等である。

    それは、先ず一つの代表的なものは「大宝律令」(701年)であった。
    更には、それによって遺すべき「日本の歴史」が遺される必要が起こった。
    この結果、「古事記」や「日本書紀」等の歴史書偏纂には、大量の「良質な紙の必要性」が生まれて、結局、量産には向かない「木簡の慣習」を徐々に押しのける事件と結果が起こったのである。
    そこで、「大宝律令」の結果を指し示す「事務記録」や「歴史」を編纂して遺す役所の”「図書寮(院)」”が創設設置された。
    最早、[木簡]では、量と整理方法に問題が生まれ間に合わなくなって来たのである。
    当然に、それに必要とする「紙の製造」と「紙の調達」もこの役所が管掌したのである。
    朝廷内で必要とする絶対量の「年間の生産量」までを定めて、朝廷の”「丹波の紙屋院」”では、「紙の生産の必要性」を図ったのである。

    ここまでに「施基皇子」が上申した時(648年頃)から、既に50年も経過していた。、

    「施基皇子」の妹で「天武天皇」の皇后であって、その後、天武天皇崩御後に天皇と成ったごの「持統天皇」から次ぎの特命を命じられた。
    全国を天智ー天武天皇の時代に「皇太子」に代って「執政」として飛び廻って得た「知識と経験」(日本書紀に記述)をより政治に反映させる様に ”「善事撰集司」の「政治の大役」(689年)に任じられたのである。
    この「日本人」にと、「日本社会」に合った「律令の基」を作る事を命じられたのである。
    一応のこの態勢が整うまでに12年経過した。
    和紙は、最早、朝廷内部で生産されるものでは既に間に合わなくなっていた。
    「青木部」らの「殖産和紙」が活気づいた。
    益々、その量と共に、「和紙の品質」が求められた。
    朝廷の「丹波の和紙」は、「苦参」で作られ、紙色は茶褐色で、表面はザラ質であった。(正倉院と東大寺)
    「紙質と量産」に合う様に改良を求められていた。
    その「2つの要求」に応えたのが、「青木部の楮和紙」に依る「伊勢和紙・伊賀和紙の殖産方式」であった。

    「紙伝来」(610年)からは91年経過している。
    如何にその「古い慣習」を打破するのに大変であった事が伺える。
    しかし、これでも「古い慣習の打破開始」である。

    更に、「本格的使用開始」までには、次ぎの様な経緯があったのである。

    739年頃に律令によって、別に”「写経司」”が設置された。
    この「国の写経事業」で「本格的な紙の需要」が喚起された。
    その為に、上記の”「図書寮(院)」”では、34人の定員で、歴史を記録する”「写書手」”は20人。「紙漉き」を行う”「造紙手」”は4人の態勢で挑んだ。
    更に、”「図書寮」”の要請を下に、山城国に「朝廷」の”「紙屋院」”を別院として置き、その下に”「紙戸」”と呼ばれる「50戸の紙漉き専業者」の「部民」を置いて管理した。
    「朝廷」は、「年間の造紙量」を「二万張」と規定し、”「朝廷の紙屋院」”とは別に、「青木氏」の「青木部」等に公に「紙漉権利」を与え、「租税」を免除して「官用の紙」を専門に漉かせた。
    この他にも、各地(福井)で民に紙を漉かせ、これを「調」として徴収した。
    しかし、”研究の不足”と”殖産との結び付き”が悪い事で、民間は”「苦参」”を使ったものの為に「紙質」が悪かった。

    そもそも、「朝廷」では、「施基皇子」の上申で、所謂、準備庁に当たる”「紙屋院」”を650年頃に中央に初めて設置した。
    それでも、上記の経緯の様に、739年頃から本格的に朝廷内に体制は整えられた。
    しかし、これでも、本格的に「紙」に代った時期は774年頃に切り替わったのである。
    何と「紙屋院の上申」から124年も経過している。
    これでも未だ殆どは「朝廷内の紙の使用」に留まっていた。

    それでも、125年程度から155年もかかった事に成る。原因は”「安価な木簡」”にあった。

    参考
    「善事撰集司」(689年 施基皇子)とは、現在で云えば、「行政改革庁長官」兼「総理」と云う役処である。
    政治、経済、軍事の三権の全てに長じ、その「経験と知識」の豊富な事を意味し、税や政治や軍事の改革に反映させる事を纏めて上申するトップの役処で在った。
    そして、それを「政治の策」にして人脈を通じて「政令や律令」に反映して施行する「実務の役目」も持つものであった。
    率先して、”その策を民に見せる役目”も負っていた。
    これが「皇親政治の立役者」である。

    筆者は、「紙伝来の610年」から「本格使用774年」まで164年も掛かったとする事から鑑みると、余りに掛かり過ぎたと観ていている。
    恐らくは、朝廷は「上申650年」を受けてから考えると、執政の「施基皇子」と「持統天皇」は、その「紙の改革」が”遅すぎる”と観たと考察している。
    その原因には、「需要の問題」が「木簡」を超えない事と、それを率先して作り出す”「政治体制の未熟さ」が在る”と判断したと観ている。
    恐らくは、利害に絡む「内部的な抵抗」も在ったのであろう。
    この膠着した「政治体制」を動かすには、「行政改革」を断行する事だと考えたと観る。
    その証拠に、この「施基皇子」と「持統天皇」の二人は、全権を一か所に掌握させて、「細部の改革」まで手を入れる必要があるとして、「施基皇子」を「執政」とは別に、特命して「善事撰集司」(善撰言集司 689年)に任じて動かそうとしたの事である
    この事がそれを証明している。

    現実に、上記の様に、この時を契機に「朝廷内部」が動き、且つ、それによって紙の「朝廷需要」が先ず生まれ動き始めた事である。
    この紙の需要が証明している。
    「施基皇子」の没年は716年で、天武、持統、文部の崩御の葬儀委員長を、当時の皇太子を差し置いても「執政」を務めている人物である。

    (「施基皇子」は、「浄大1位の身分:天皇に継身分」を授与された。
    本来の「執政の皇太子」とは、身分上でも3階級上の身分差と成っていた。
    皇族や官僚などの「周囲の軋轢」を排除して、「政治の執行権」を強くする狙いが、天武天皇と持統天皇にはあった。
    それだけに、これは「改革」を強力に推し進める意志の現れであった。本来、皇太子が行うべきところを二人の葬儀委員長を実行している事からも、朝廷では慣例を重んじる中でそれを破っての「執政の異例の立場」は判る。)

    「日本最初の法令」と云われる「大宝律令701年」の前には、「近江令」や「飛鳥浄御原令」の”「民事法」”をも作っている。
    (これらの法令を日本全土に伝達し、且つ、それを各所で遺しするには、最早、そこに「紙」と云う便利なものが出来て来ているのなら、「木簡」を超えて「紙の需要」が必要と成っていた。)
    これらの制定に、「執政」としても、「善事撰集司」(689年 施基皇子)としても、全てに関わった指揮者の人物であった。
    全体を指揮するに充分な立場にあった。
    この二人は、「善事撰集の事例」をこの「令」などに反映させながら、「法令」を作る事でそれを記する手段として推奨し、「朝廷内の紙の使用の喚起」を促し、「間接的効果」として「需要」を呼び込み、逆に「木簡」の抑え込みを図ったのではないか”と観ている。

    (記録から観ると、各地方に発する「政令」や「行政令等の執行」には、「文書」を発行させ、各地方の別府に通達を出し、”「紙書」”を創設し、そこには実務上の役所の”「紙屋院」”や”「図書院」”を併設させて、”「紙の需要喚起」を強制的に図った”と観られる。
    現実に、この頃から「善事撰集」で得た内容を地方機関に「政令」や「行政文書」の形で文書を発刊している。)

    「民間の需要」
    では「民間の需要」はどの様に成って居たのか。
    「紙の殖産」を起こさない限りは民間では「紙の安価」は興せない。
    「朝廷」では、以上の経緯があって「需要の喚起」を起こさせる事は出来たが、この範囲では「安価な紙」は起こらない。
    前提は「民間の需要の喚起」=「紙の殖産」である。
    この経緯に入る前に、「青木部の努力」の「紙の活動」は上記648年に開始されていた。
    「一般の紙の使用」に至るまでには、「紙の生産技術の確立」と「青木氏の殖産化」の準備に懸命に関わっていた。
    朝廷内では需要の絶対量は把握出来る。
    しかし、民間では「需要の絶対量」は把握出来ない。
    その為に、「供給」を「需要の変化」に応えられる体制にすることが必要である。
    これは「民間使用の絶対条件」である。
    それには、先ず「殖産態勢」を作る事である。
    次ぎには、民間である以上は、「利益態勢」の確立を成さなければ続かない。
    況や「興業」である。

    「朝廷」では、774年に成っても「殖産化」は行われなかった。
    ただ単なる「朝廷内の需要」に対する「供給」だけであった。
    「民間の需要」を喚起させるには先ずは「必要な策」ではあったが、記録されていない。
    しかし、ここで、経済の「需要と供給の原則」に関わらない事が起こったのである。
    それは、「仏教伝来」によって布教するに必要とする「教典の複製」が必要と成っていたのである。
    最早、この段階では、「木簡」は使えない。
    そこで、「東大寺等の寺」では、盛んに「写経」と云う行事を催し、「経典複製」を作った。
    この「教典複製」は、上記した様に、「朝廷」でも”「写経司」”を設けて確かに「紙の需要」を喚起する為の施策を講じていた。
    しかし、それでは最早、「爆発的布教伝道の波が起こり、紙の生産は間に合わなくなって行った。
    (しかし、盛んに行われた「東大寺の写経会」では、この「紙質の問題」について記録されている。)
    それには、先ず「紙の市場性」を高める事が、先ず一般化にするには「絶対的条件」であった。
    それなくして、「紙の需要性」が生まれて来ない為に、「生産」のみならず到底「殖産」までには達しない事であった。
    最大の「紙改革の戦略課題」であった。
    それには、「木簡」から「紙に替える革命」にはその「品質」に大きく関わっていた。
    そこで、一般市場に受け入れられる「品質」にするには次ぎ数式が成り立つ。

    「紙の品質」=「素材の探索」」+「紙漉の技術」+「紙漉の技能」+「殖産態勢」

    注釈
    ところが、この問題には、「墨と硯」の問題があったのである。
    (この「紙の質」は「墨と硯」に大きく影響していた。)
    「墨」は、中国から帰化して中国人の「墨作部」の「方氏」が、「硯」は同じく「硯作部」の「硯氏」が携わった事が記録で判っている。

    (両者、何れも、朝廷が中国から態々招請した「氏部」である。それだけに”紙の質の問題を重視していた証拠”である。)

    しかし、当時の輸入墨は、松根油の「松煙煤」から作る煤炭で、墨の「粉」は荒く、「ムラ」が出来て、「墨色」が悪く、「沁み」が起こり、「滲み」も大きく変質し易かった。
    資料に依れば、「飛鳥」にその試験場を作り進めていた。合わせて、各地に方氏の「墨作部」を出して「良い煤炭」を探した。

    (現在、この墨方の末裔子孫は、和歌山に現存し、その姓も同じで、地名も遺されている。筆者は、不思議にもこの末裔の方を極めてよく存じ上げている。)

    この事に付いては、既に研究室などにもこの「古代墨」と「古代硯」の写真を掲示して論じている。
    (写真館メニュー参照)

    筆者は、この「古代和紙」と共に、関わったと観ているが、諸説は時代性でずれている。
    しかし、筆者の家には掲示写真の様に共に保有しているが、時代性が「紙の経緯」と一致しているのである。
    「紙」だけで、「上記の経緯」が、「諸説」の様に動くとは考え難い。
    「墨」と「硯」と共に、「筆」もあると観られるが、未だそこまでの研究に至っていない。
    少なくとも、墨と硯は古書からの資料で解明されている。
    確かに、筆者の家では、「古代の筆」は可成りの量で収集し保有しているが、未だ現在では正しく判別出ていない。
    「古代の墨と硯」は保有しているので、この時の「筆」でも有る事には間違いはない。
    何時か研究結果を投稿する。
    必ず、「墨と硯と筆の経緯」が伴って「紙の経緯」が起こっている筈であるが、ここで「紙の経緯」で論じる。
    (「良質な墨と硯の生産」は、結局、平安中期まで解決されなかった。「熊野古道」の「熊野神社詣」に関わって解決した。研究室の「鈴木氏と青木氏」の論文参照)
    この「和紙」に関わる「産業」を大々的に「殖産事業」として興す事、そして、それを販売する「商業態勢」を興す事が必要であると「青木氏」は判断していたのである。

    恐らくは、上記した様に、500年頃にはその「技術」は思考され、610年頃には中国製に頼っている。
    これは「庶民の生活の糧」に成るまでのものに成っていなかった事を意味する。
    恐らくは、「支配者階級」がこれに本腰を入れる者は居なかった事を意味している。
    輸入に完全に頼っていた事に成る。
    これでは「殖産」どころか「文化」は愚か「国」そのものは発展しない。

    そこで、「賜姓族」として、「青木氏」として、上記した「下記の事の解決策」を展開したのである

    「宗教」≠「生活」の環境に呼び込んで仕舞う事を防ぐ事。
    「解決策」は、「支配層」に「恩恵」を与える事。
    「恩恵」が、”「宗教」<=「生活」の環境に繋げる事。

    それが、「殖産事業」と「興業態勢」を「青木氏」自らも整え、それを支配層に財源的投資させ、そこから得られる利益を享受して貰うシステムを構築したのである。
    そして、それを政治的に裏付けられる様に、「青木氏(施基皇子)」は再び「持統天皇」に上申して「殖産事業と興業態勢に関する令」を発したのである。
    朝廷内にも、”「紙屋院」と「図書院(寮)」”を設置し、「本格的な体制」を整えて推進させたのである。
    「善事撰集司」として力を発揮し、”官民が需要を喚起出来る様に”全体を動かしたのである。

    「青木氏」としても「青木部」の「紙屋」として推進した。
    「5家5流の青木氏」に対して30年間の間に得られたノウハウを伝え殖産を促した。
    そして、それが687年に叶えられた。

    「年代検証」(青木氏の紙の態勢の準備が整った時期)
    750年には正倉院に保管されている「写経会の和紙」が確認されている事、739年の「写経司」の態勢が出来ていることからこの以前である筈である。
    そうすると、叶えられた時期は650年の「紙の上申」が出来る状態であった。
    従って、701年の律令で朝廷内部に専門機関が出来るまでの間で、689年「善事撰集司」と成って進められる状況に入った時期の少し前である。
    とすると、685年の「仏舎の詔勅」が発布された間で、「青木氏」が「五大和紙」の態勢が出来てこそ民間への紙の供給は可能に成る筈である。
    従って、685年から689年の間の3年間の間と成る。
    「687年」には次ぎの「五大古代和紙」は供給できる態勢にあった事に成る。

    それが、「青木部」の「五大古代和紙」(687年:「青木古代和紙」)と呼称されるものである。
    「伊賀古代和紙」
    「近江古代和紙」
    「美濃古代和紙」
    「信濃古代和紙」
    「甲斐古代和紙」

    五大古代和紙の市場への供給の準備態勢が整った事で、この事に依って、「支配層の不満反発」は、「財源的投資」に依って潤い、無く成る事に成った。
    後は、これを契機に支配層に対する「古代仏教の普及」を同時に解決する事が必要に成った。

    これは、上記した、「684年の仏舎の詔勅と令」と「690年の第一式年宮令」で「支配層」を政治的に拘束し、後は、上記した「密教としての戦略的手法」で調和させ融合させ習合させる事であった。
    「上級階層」を「仏教の慣習と仕来りと掟」の中に取り込んだのである。
    彼らは、好むと好まざるとこの戦略から離脱する事は、最早、出来なくなった。
    それは、「朝廷の詔勅と財源的投資の潤い」から「離脱反発の理由」を失わせたのである。
    後は、上記の論調の様に、この「仏舎の流れ」に載る以外には彼等には無く成っていたのである。
    それを「青木氏」に最早、委ねる以外には無く成って居たのである。

    この事で、「青木氏」が考えた「神仏習合策」は、上層階層の支配層の中にも、「密教氏」として無理にでも根付く事に成ったのである。

    これが奈良期から平安中期までの「青木氏の賜姓五役」の「前半の生き様」(「300年苦闘」)であった。「紙の革命」と共に苦闘した前半期であった。

    注釈
    筆者は「青木氏の生き様」を分けるとしたら、これを”「300年苦闘」*4”と呼んでいる。
    「青木氏の生き様」は、この「300年苦闘」の周期が4回繰り返されている。
    そして、この「300年の切目」のところに「転換期」が訪れている。
    その「4つの転換期」を乗り越えて来たのである。

    この初回の「300年苦闘」は次ぎの二つに分けられる。
    前半の150年間は、「施基皇子と白壁王」が成した「政治力」での全盛期」−797年
    後半の150年間は、「政治力」を無くした青木氏の「経済的な基盤の構築期」−950年

    間には「桓武天皇」からの排除で厳しい「30年の空白期」はあったが、これも「950年の商い開始」までの苦闘であった。

    この「300年苦闘」が、上記の「4氏」を融合させて成り立つ事に成ったのである。
    当に「青木氏」と「青木部」の「賜姓五役の生き様」であった。
    共に生きて来た「青木部」は、女系の血筋を引き継ぐ「二つの絆青木氏」と成って「一心同体の青木氏」に成って居た。

    以上の様に、「紙の経緯」から「商い氏」が「青木氏の別の顔」として成立した。
    「賜姓氏」が「商い氏」は禁令である。最も似つかぬ「氏」である。
    流石、この「紙の商い氏」(「紙屋」)だけは「別面の影の青木氏」として明治初期9年頃まで「影の青木氏」であった。
    知らない様で、知っている「既成事実の青木氏」であった模様である。

    注釈
    「墨作部と硯作部」
    「墨部と硯部」の領域までは研究が及んでいないが、必ず「青木氏と青木部」との関係性を持っていた筈である。
    「青木氏の商い」は1025年には「総合商社」に成長している
    「和紙」を「殖産と興業」として扱ってきたのなら、他の三点も扱う筈である。
    青木氏が関わった「殖産の形跡」には、何故かこの「墨と硯」の痕跡が見つからない。
    恐らくは、「墨と硯」は「適切な地域性」を持っている事に起因している事で記録が消えていると観て調べている。
    ただ、「墨」は室町期から時の政権が「専売品」として幕府に治めた上で「余剰品」を放出する方式を採っていた。
    これは、江戸幕府末まで続けられた。依って、「青木氏」にはこの痕跡が消えて仕舞ったと観ている。
    平安期では朝廷が「墨部」を「伴造」に基本的に管理させていたが、特定の「青木部」の様な氏にも「墨部」を持つ事を許されていた。
    しかし、「中国輸入品」に勝る「墨」がなかなか出来なかった。
    北から南まで全国に「専門の部民」を送って探していた事が判っている。
    「近江や信濃」にも力を入れて探した事が記録として残っている。
    (これは「青木部」か「佐々木部」が関わった可能性を示す)
    その時点では取り敢えず、三流品として奈良の松根油の煤からの墨を使っていた。
    その「煤」を集める「良い木」と「煤の粒度」と「墨の色」が良くなかったと記録されている。
    その為に平安期には、「青木部」等の「特定の氏」にも許可して「良い墨」を作る事に施策を傾けていた。
    結局、”紀州北部藤白”の地域で生産していた「姥樫」(うばめかし)から作る炭(備長炭)の煤が良い事が判った。
    そして、平安末期から本格生産を始めた。
    これを見つけたのが、何と「熊野詣」の「後醍醐天皇」であった。
    30年間で33回参詣した実績があって、この回数から観ても尋常ではない。
    「熊野詣」のみならず、”「熊野詣」に託けたこの「墨の視察」の目的もあった”と観られる。
    それだけに、この「墨の発掘」は、””国家の発展の根幹”を占めていたと判断されていた事”が判る。
    この「藤白墨」の生産現場のすぐ横にある「熊野神社」の第一の「藤白神社」に長く逗留して居た事が判っている。

    (この神社宮司は日高氏で、「弁慶の親族」に当たり、この熊野宮司の一氏の「宮司日高氏」が養子に「氏子の者」を取り、その者が義経の家来と成って、姓を後醍醐天皇から賜姓を受けて「鈴木」と名乗った。
    「義経と弁慶」は良くここに逗留し、家来と成った事から「全国の鈴木氏」が広まった「発祥の地」である。

    (この「藤白墨」は「時の政権の専売品」として大正末期まで生産されていた。)
    研究室の鈴木氏の論文の「周辺の環境写真(墨部・硯部・方部の行方)を参照)

    この時に、平安期には「青木部」は関わっていたと観ている。この時の事を浮き上がらせたい。
    その証拠に、この「二つの部」は、「伊勢ー奈良ー紀州」の{青木氏の活動範囲}に存在し、その資料が「青木氏」だけにのみ保有しているのが何よりの証拠である。

    「古代宗教」と「古代和紙」と「古代仏教」の経緯の下に、「青木氏の四つの氏」は構成されて行ったのである。
    本論の遺された「伝統と遺品」は、この「三つの時代要素」と「四つの氏」に関わっているものなのである。
    それは「賜姓五役」に関わったものと成って居る。

    この相入れない「賜姓五役」は、この様な経緯に依って、上記の様な「融合過程」を遂げて、一つの「密教青木氏の伝統」は稀に見て生まれ、継承されて行ったのである。
    この範疇で、「青木氏」を考える必要があるのだ。



    > 以下は伝統 9に続く


      [No.324] Re:「青木氏の伝統 7」−「仏舎と仏壇」
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/10/22(Wed) 09:08:52  

    > 前回の末尾

    >この様に「内仏舎の原型様式」や「外仏舎の原型の石墓様式」も「インド墓」の流れの「円古墳」を汲んでいたのである。
    >それが、日本式に「環境や仕来り」(「和魂荒魂」と「古代仏教」)に合して改良した事に成る。
    >丁度、「灯篭の形」に成っている。
    >そして、はっきりとした記録に観ると、平安期800年過ぎ頃から石墓の「灯篭型外仏舎」に蝋燭を灯して先祖を導く行燈とした。
    >「木製外仏舎」には「天武天皇の詔勅」が出た直ぐ後の690年頃から使われた模様である。
    >現在の「庭灯篭」はこの「外仏舎型石墓」(灯篭型石墓)が変化したものと考えられている。
    >この「庭灯篭」の汎用は1360年頃から絵画にも観られる様に成った。
    >実は、この「庭灯篭」が、更に「密教の内仏舎」の上記の”「迎え行燈」の役目”に発展を成していたらしい。

    >”灯を点灯して、先祖を迎え入れる”と云う行為は、「古代仏教の概念」としては強いものがあり、「仏舎の時代変化」は、調べると「蝋燭の時代変化」にも合致している。



    ・「仏舎の時代変化」
    「仏舎型の木製墓」は、”684年から790年頃まで”の約100年間は保たれていた事に成る。
    仏舎の箱の空間部位に、”「蝋燭と線香」を点灯する仕来り”と成って行った。

    注釈
    (「線香」は紀元前から使われていた。日本には「仏教伝来」と共に大量に持ち込まれた。
    「焼香」として使われていた。「香木」(沈丁花の古木)として「日本古来」にもあった事から、「祭祀や占い等」にも用いられた模様で、これが「線香」に成って行った。
    この「線香」と同じく「蝋燭」も良く似た経緯を持つ。日本古来には「蜜蝋」「松蝋」が使われていた。
    飛鳥の「和魂荒魂の宗教概念」の時代にも蝋燭や香は使われていた。
    香の習慣からの「香・線香の時代経緯」と、「蝋燭」の時代経緯]と、「仏舎の経緯」とは一致する。)

    (仏舎木製墓・内仏舎)  「線香と蝋燭」 684年(520年)
       ・・       ・・・
    (仏舎型石墓) 「蝋燭」の点灯 石質に   790年頃 
    (箱型仏舎石墓)「蝋燭」を箱型の部位に点灯 895年頃
    (角柱型仏舎石墓)「持仏堂型仏壇」が出現と共に大量に使用 950年頃
    (灯篭型外仏舎)「蝋燭」が国産化に成功して普及  1000年
    (角柱型石墓) 「蝋燭立て」が別に設けられて祭祀 1350年

    そもそも、この灯篭の蝋は、次ぎの様な歴史を持っている。
    ・「蝋燭の時代変化」
    648年に中国晋にて本格生産、
    747年に大和に輸入
    894年に国産を検討(量産化・実用化に至らず)
    1000年に国産化品成功、(ハゼ実、松脂製で成功 特定階級に出まわる。紀州や奈良で生産されていた。)
    1350年に補充(中国製・一般階級でも使用)

    747年頃には特定階級の上層部で使われた。
    「灯篭型外仏舎」への「蝋燭」は、”894年頃に国産品”と合わせて使われる様に成り,大量使用の引き金に成った.
    しかし、「庭灯篭」を始めとして、国産品の量産と輸入品の量で広範囲に使われる様に成るには、蝋は1350年頃から用いられた。
    900年頃から、中には、余裕から「蝋燭」で飯を炊く等の事が一部で優雅な遊びとして使われる程度になった。

    ”810年から850年頃前”には、「持仏堂型仏壇」が上級階層に採用された。
    そうすると、この頃の墓所は、「仏舎型」の「天武天皇の詔勅」に示す「木製の墓」であった事は考え難い。
    「青木氏の古代和紙」に観られる上記した「7つの変遷」(重複)比較すると良く判る。

    A  和紙の良質な生産開始に50年   (730年頃 正倉院 紙屋院 白鳳文化 記録)
    B  和紙の殖産を始めて余剰品を作り出すには50年    (770年頃 平城消費文化)
    C1 商い態勢に50年   (810年頃 平安初期文化 摂関文化初期)
    C2 販売能力に50年   (890年頃 平安中期文化 摂関文化中期 記録)
    D  興業として50年   (950年頃 国風文化前期 摂関文化後期 記録)

    丁度、「仏舎型石墓」(790年)は、Bの時期か、C1の「商い態勢」の時期に出来上がっていた事に成る。

    更に、「持仏堂型仏壇」(810−850年)は、C1の「商い態勢」の時期に出来上がっていた事に成る。

    つまり、C1の「商い態勢」期に「仏の祭祀方法」も整えられた事に成る。
    Sの時期の頃は、684−690年の「内仏舎」

    C1の「初期の頃」は、「外仏舎」の「仏舎型石墓」
    C1の「後期の頃」は、「持仏堂型仏壇」

    青木氏は、”商いの態勢確立の変遷”で苦労していて、何とかその芽が出て来た時にも、「仏舎の問題の解決」に当たっていた事に成る。
    「商いの7つの変遷」「蝋燭の経緯」「古代和紙の経緯」「仏舎の経緯」等と「青木氏の変遷」が不思議に時代性が一致している。
    「青木氏」が文化に大きく影響を受けて変遷して居た事を物語る。
    何故そうなるかは、発祥期から「古代和紙」と共に生きた事が原因していると考える。
    そして、その流れに逆らう事無く、「密教の慣習」に従ったからである。
    その「密教の慣習」は「仏舎」と云うものに注ぎ込まれた。
    そして、「仏舎」が「商い」ともに形が出来上がって来た「変遷時期」であった事が判る。
    つまり、何れにもこの期間には、”「和紙」”が連動していた事が判る。
    平安期までの「青木氏」を数式論で表現するならば次ぎの様に成るだろう。

    810年>「商い」=「古代和紙」=「仏舎」>684年

    そこで、平安初期の上級階層の万葉歌人の墓所を調べると全て何らかの形で「砂岩の墓石」である事が判った。
    但し、後付で観光名物化の為に、原型を留めず現在風にアレンジして「平安期の墓石」としているものも多く、これを除くと、810年頃の平安遷都期前後と成る。

    「仏舎墓石型」に成った上限は810年頃と成る。

    さて、下限はどの位の年代かに成る。
    そもそも、「青木氏」は、「国策氏」として、「国政」の最先端を何にしても走らねばならない宿命がある。
    従って、他氏の状況を調べて、”「青木氏の事」”を読み込むのは無理に成る事が多い。
    苦労する点である。
    本論も、全てこの宿命に左右されている。

    故に、「天武天皇の詔勅 684年」に率先して、”「氏墓」”として”「仏舎」”を屋内外に作った筈である。
    その時は未だ詔勅に従って「木製」であった筈である。
    しかし、この「木製墓」の「外仏舎」は、風雨に晒されれば、幾ら良い材質を作ったとしても20年もすれば風化して朽ちる。
    とすると、「700年」頃に「石質の仏舎」にする必要に一度迫られた事に成るが、「天武天皇の詔勅」が出て間が無い時期である事から、無理であった事が考えられる。
    700年以降と成れば、「天武、持統天皇没後」である事から、この柵は消えている。
    しかし、未だ、発案者の施基皇子は存命である事から、716年没期に契機も訪れるし、次ぎの修理期も訪れる。
    この期に「石墓」を選んだ可能性がある。
    まして、始祖は後付「春日宮天皇陵」、元祖の二代目「白壁王」は「光仁天皇陵」として、石室の墳墓で祭祀されている。
    と成れば、つまり「公式墓」は「石質の仏舎型の円墳」と成れば、この「二人の先祖の氏墓」は必然的に「石質」の「仏舎型墓」と成るだろう。
    そうしなければ、周りが「石墓」にしているのに、後から遅れて「石墓」とは、その「賜姓氏」や「国策氏」の立場は成り立たない。
    あくまでも”率先して範”としなければ成らなかった筈である。
    結局は、686年に、叔父の「天武天皇」 698年に妹の「持統天皇」 甥の「文武天皇」の707年期は、未だ「施基皇子」は長生きして存命中である。
    その716年、息子の「白壁王」の「光仁天皇」は781年の「年代経緯」を以てして、率先して「石墓」にするには、次ぎの経緯が働く。
    つまり、684+木質寿命20年=704年となり、持統天皇の698年を超え、且つ、直ぐに文武天皇の707年以降と成る。
    この707年は、「仏教の仕来り」上から「上位の裳」に服する必要から賜姓族としては避けねばならない。
    だとすると、上記の経緯年数では710年には裳が明ける。
    しかし、この時、未だ、始祖の施基皇子は存命中であるから、石墓にするにはこの716年のみしか無く成る。
    「春日宮陵」は「後造り」であるので、問題は無い。
    「光仁天皇の781年」は喪主身内であり、これまでに「仏舎石墓」にしている事に成る。

    「仏舎型石墓」は、716年が下限域と成る。

    仏舎石墓の下限716年ー上限810年と成る。


    ここで、再度、上限の810年に付いて検証する。
    光仁天皇の子供の桓武天皇は施基皇子の孫に当たる。
    しかし、この様な一切の政治的柵を排除する為に、平安遷都をし、「皇親政治族」を排除し、「青木氏の賜姓」を中止し、阿多倍の「平族」を賜姓して、「青木氏」を政治の場から排除した。
    「青木氏」は、「賜姓族」でありながらもこの時期に一時著しく衰退した時期でもある。
    「国策氏」としての「宿命と義務」は、一時抑えられた時期でもあって、勝手な事は出来なかった。
    従って、810年以上の上限はあり得ない。
    この後は、「持仏堂型仏壇」に成った為に、一切の古来密教性は低下したので、尚あり得ない。

    従って、「施基皇子」の息子「白壁王」の「光仁天皇期」が最高の隆盛域であった。
    (桓武天皇は施基皇子の孫)
    「白壁王」が皇位継承した770年頃が上限と成り、恐らく、この716年から770年に施基皇子の墓を「仏舎石墓」の墓にした事に成る。
    上級階層は「平安遷都」で「墓」どころの話では無い筈で、遷都すれば墓も移す事に成るし、「青木氏」が一切の事を最早、請け負う事は無く成る。

    「仏舎石墓」は「770年前」までと決められる。

    この年以外には無い。
    実は、この裏付けと成る理由がある。
    「伊勢青木氏」の始祖「施基皇子」の嫡男の「白壁王」は全くの皇位継承外である。
    第四世族内でも無く、「第四位皇子」でもない。
    確かに、大化期では、父が「第四世族」で「第六位皇子」ではあったが、「皇位継承権」のある「真人族」でも無く、典型的な継承外の「朝臣族」であった。
    しかし、ところが両者共に「天皇」と成った。
    「施基皇子」はその勲功から、子供の「光仁天皇」が父を「春日宮天皇」として「後付した」のである。
    これは、その前に、奈良期末期には男系継承者が無く、「女系天皇」が四代続いた事から更に皇室には子孫が発生せず、「皇位継承者」が無く成ってしまったのである。
    そこで、困ったので、無理やりに請われて「伊勢青木氏」の「二代目の第六子の白壁王 66歳」を引っ張り出し天皇にしたのである。
    この為に、天皇家の女系の末孫皇女(井上内親王 36歳)を「白壁王」に嫁がせた。
    むしろ、女性の「孝謙天皇」の「女の戦い」から逃れる様に、”逃げた 嫁いだ”と云う事の方が適切であろう。
    この皇女に、結局、嫡子が生まれるが(天武天皇系の女系親王の誕生)、それを理由に父の「白壁王」が「光仁天皇」として即位した。
    その後、皇后と成った「井上内親王」とその子皇太子は毒殺される。
    結局、「阿多倍王(高尊王 平望王)」の孫の「高野笠人の嬪」に子供が生まれて、これが後に「桓武天皇」と成った。
    その為に、光仁天皇期は青木氏等の「皇親政治」を敷き絶大な権限を持ち政治を断行した。
    ところが、その身内の「桓武天皇」は、反転して、「律令政治の断行」を理由に「皇親族」を排除したのである。
    この事に反発して、政治抗争が起こりして、その抗争を制し潰した「嵯峨天皇」は、逆転して、政治を「第二期皇親政治」を断行した。
    これが、「賜姓源氏」であり、「嵯峨期詔勅」に至った理由なのである。
    しかし、この”賜姓した源氏”には、「賜姓族の身分」と「国策氏の役目」を与えず保護もしなかった。
    「青木氏」は、約30年で、ここで再び息を吹き返した事に成る。

    この背景から、この「仏舎石墓」等の改革の実行は、”710年から760年”の50年間を於いて行われた事に成る。
    この「慣習仕来り掟」を重視する「上級階層」では、この時にしかないと考えられ、裏付けられるのである。

    つまり、これが大化期の「簡素な仏壇化」をした最初の「詔勅による仕来り」である。
    「簡単な家の形をした仏の舎」を家の中に治めた事に成る。

    これは「上級階層の詔勅の仕来り」のみであったが、その階層の程度に依っては、次ぎの現象が更に起こった。
    それは、次ぎの内容であった。
    「仏舎」の中に安置される「本尊の仏像」より前は、「毘沙門天像」などや「釈迦立像」やその「曼荼羅絵の掛け軸」を「仏舎」の中央奥に掛けたものであった。

    ところが、これは、平安期の「三大密教の考え方」に左右した。
    特に、この考え方は「天台密教」と「浄土密教」の2宗に限られた。
    平安期中期前(900年頃前)には、この”「違い」を殊更に披瀝するのは拙い”と考え、敢えて「上級階層の氏」が「建立した寺院」には、「密教宗派」を限定せず、両派の社殿を建立配置する現象が起こったのである。
    この為に、「内部の本尊」の造像では、「仏像」や「三昧耶形」だけでは、その「宗派の特徴」を充分に表現できないと考え、「仏画」でその「密教性」を強く表現しようとした。
    この流れで、「本尊」は「仏画」とする現象が上級階層に広く起こった。
    中でも、「嵯峨期の嵯峨源氏」の別荘として建立された「平等院」は、その典型的なもので、院内には数多くの殿、堂、塔、蔵、所が建てられたが、これらの中には、「仏画」を以てその「二つの密教性」を競う様に表現している。
    これは当時の「和魂荒魂」の「古来の宗教」と「伝来の密教」の融合、或は「習合過程の状況」を物語る現象である。
    特に、「古来の宗教」(和魂荒魂)を堅持しながらも、「三つの発祥源」と「国策氏の立場」から「青木氏の密教浄土宗」の「受け入れ状況」は、この傾向が強かった筈である。
    それを最も引き継いだのは、後に庶民から判り易いと信頼され台頭して来たその系列の「顕教の浄土真宗」であった。
    この「顕教の浄土真宗」は「仕来り」として、「仏画」を「本尊」として、厳しくその「仏画の内容」を定めて、各地に建てられる寺には ”仏画を本山から手渡す仕組み”を採っていた程であった。
    この傾向は室町期中期まで長く続き、現在でも地域によっては、この仏画を本尊としているところがある。
    一般の「武家階級」には、この「天武天皇の詔勅」による「仕来り・慣習」は未だ無かった。
    810年から850年頃に掛けて「持仏堂型仏壇」が一般化してから移行の普及であった。
    この平安末期頃までは、公家と上級官吏と上級技能官吏(青木氏)の範囲に留まった。

    「青木氏の仏舎」
    そこで、上記した様に、「青木氏」は何時頃からこの「仏舎」で祭祀し始めたかと云う問題である。
    「青木氏」は、最初に「仏」となった先祖の始祖は、「天智天皇第6位皇子」の「施基皇子」であり、その最初に正式祭祀したのは716年である。
    この時に、理屈上では、少なくとも「最初の仏舎」を持った事に成る筈である。
    但し、この時前には、賜仏の「大日如来坐像」と「毘沙門天像」と「大蛙像」等のこれに付随する”「三昧耶形」の仏具”があって、祭祀されていた。
    しかし、「仏舎」としてのものは、正式にはこの時に設けられた事に成る。
    従って、「釈迦立像の本尊」はこの「仏舎設置」の少し前か直前のものと成る。
    そして、恐らくは、上記した様には、「天武天皇の詔勅の仕来り」で、「密教浄土宗」では、既に「仏画」が「本尊」としていた事にも成っているので、「青木氏」が持っていた「二つの仏画」がこの時のものであった事に成る。
    この「二つの仏画」が、「釈迦立像」と同時期か、その前の「大日如来坐像」「毘沙門天像」の信仰の祭祀時に使用されていたものかである。
    この間、長くて50年程度差のものと成る。
    何れの祭祀に使われていたかは確定は困難であるが、家内の事であるので検証出来ない事は無い。
    要するに、兎も角も、上記の「青木氏」が持つ「二つの仏画」はこの時期50年時のものであった事に成る。
    それから押し出せば判る筈である。

    丁度、その直前に「古代仏教」が伝来していた。私伝で522年 公伝で552年である。
    「青木氏」が発祥したのは647年であるので、最大で100年前と云う事に成る。
    「仏舎の天武天皇の詔勅」が出たのは684年で、「皇祖神の伊勢神宮の遷宮」では、「天智天皇」が伊勢に定め、正式に定めたのは、詔勅の1年後の天武期685年である。
    そして、初回式年宮は690年の「持統天皇」のその時であった。

    そうすると、「青木氏」が、最初に「仏舎」を持ったのは、論理的には式年宮後の26年後の716年と成る。
    この時は、未だ、現在で”「仏壇」”と云われるものは、古来の「和魂荒魂の祭祀方法」であって、「天武天皇の詔勅」に基づく「仏舎」であった事に成る。
    当然に、この「仏舎」には、既に「密教」は伝来していた事に成るので、その影響を強く受けていた事に成る。
    この時の「密教の青木氏」には、「大日如来坐像」、「毘沙門天像」、「大蛙像」、「釈迦立像」と「三昧耶形の仏具」や「仏画」等の一切の「密教具」はあった事に成る。

    つまり、後に、”「仏壇」(持仏堂型仏壇)”と成るが、この時は、「仏舎」の「中央の本尊」には、「釈迦立像」が安置されていた事に成る。

    さて、そこで「施基皇子没716年」に正式な「仏舎」が設けられたとする年以前には、既には、「青木氏」には上記の「密教仏具」一切は備わっていた可能性がないのかと云う疑問である。
    普通は仏があって「仏舎」があると云う慣習に成る事は高い。
    しかし、”当時の慣習仕来りはそうであったのか”と云う疑問が先に来る。
    筆者は、”「仏の有無」如何に関わらず「仏舎」と云うものを備えた”と考えている。

    例えば、この当時の円墳等を観ると、”死後の円墳建立”では無く、事前工事に入っていて前もって作って置くと云う形式を採っていた事が判っている。
    天武天皇の「仏舎の詔勅文」から観ても、”死後に作れ”とは勅令していない。
    下記でも詳しく論じるが、次ぎの様な概念であった。
    平安期に出て来た「持仏堂型の仏壇」は、”「衆生の意志を繋ぐ場」”が概念である。
    奈良期の詔勅の「仏舎」は、”「先祖と会する場」”が概念である。
    「仏壇」は「仏の墳」であるの比して、「仏舎]は「仏の家」であった。
    この概念から、我々は”人が没しての仏壇”の感覚に支配されているが、当時の平安期までの「仏舎」に対する感覚は、”「先祖と会する場」”としての感覚が強かった。
    そもそも、現在感覚に引き継がれている”没してからの「仏壇」”でなく、且つ、”「先祖の意志繋ぐ場」”ではなかった事に成る。

    依って、「仏の有無」如何に関わらず、”先祖を祭祀する場、” ”先祖の尊厳を伝える場”であった事に成る。

    従って、この考え方から、「天武天皇の詔勅」が発せられた時に、直ちに「仏舎」を建立した事が判る。

    (「施基皇子墓」は「高円山」の東に「後附け」の「春日宮天皇陵」がある)

    つまり、「天武天皇の詔勅期684年の詔勅」に合わせて先に準備していたと観られる。

    何故ならば、「大日如来坐像」や「毘沙門天像」などの「密教具等」を祭祀する前から用意され、「和魂荒魂信仰」と「神明社信仰」をしていたのである。
    依って、敢えて”準備せよ”と命令が出ているのに、”仏が無いから”として、”「仏舎」だけは別にする”と云うことは「賜姓族の慣習」としては考え難い。

    そもそも、この詔勅の「政策発案者」は、最も信頼されていた「施基皇子」本人である。

    (注釈 仏舎への保釈: それまでの中国の律令の模擬では無く、”独自の律令を作る事”を目途として、天皇に代って全国を飛び回った経験から、全国の実情に合った事柄を規範に、勅命に従い全国にある善い「習慣仕来り掟」等を取りまとめ集めて「善事撰集」を偏纂して「持統天皇」に報告奏上した。これが「仏舎」や後の平安期の「律令政治」の根幹と成った。)

    「草壁皇太子」に代わって施政を採っていたのは、「日本書紀」にも書かれている「青木氏始祖」である事を忘れてはいけない。
    ”詔勅を発する”と云う事は、その前に「仏教の影響」を受けて、王族の円墳墓等には、一部でこの「仏舎方式」の基礎的な方法で祭祀が行われていた。
    この事から、全体にこの祭祀を早く及ぼす為に、「仏舎の命令」を詔勅を使って発した事に成る。
    その一部とは、王族とは別に、「上級階層」では、「仏教伝来 522年」に応じて、いち早く取り入れたのは「青木氏」であった筈である。
    何故ならば、「青木氏」はそもそも「三つの発祥源」で「国策氏」である。
    民によりも、務めとして最も早く率先して採用する必要に迫られていた筈である。
    上記した様に、率先して「神仏」を習合させて、「密教」も取り入れたのも「賜姓青木氏」である。
    其れなのに「仏舎」だけは”「別だ」”と云うのはどう考えてもおかしい。
    「仏」や「先祖」の有無に関わらず、先ず、国政上、「青木氏」が範を示さねばならない立場にあった。
    位の一番に、大化期の賜姓時の当初は,まだ「菩提寺形式の慣習仕来り」は、未だ社会の中(720年頃建立完成)には無かった。
    依って、居宅に安置されていた「大日如来坐像」と「毘沙門天像」の横の部屋に「内仏舎」を設けた筈である。

    (菩提寺完成後に「大日如来坐像」は菩提寺に安置された。「毘沙門天像」と「大蛙像」は居宅の「内仏舎」に安置する形式を採った。 下記の「釈迦立像」で論じる。)

    果たして、「青木氏」が「内仏舎」「外仏舎」の両方を同時に設けたかの疑問であるが、「天武期の詔勅」は、先ずは「外仏舎」から念頭に於いて述べている事から、「外仏舎」と「内仏舎」を同時に設けたと観ている。
    「外仏舎」は、「墓」と変化して、終局、その「墓」を祭祀する「菩提寺」へと「一対の形式」に発展したが、この時点での「外仏舎」は「寺形式の建立と完成」までに至っていなかった。
    この時点では、「天武天皇の詔勅」に従った「簡素な仏舎」で、その周囲にはこの「外仏舎」を保護する様に「仮屋社」の様なものを建設して、周囲を樹木で覆う「墳丘」の様なものにしていたと観られる。
    その後、「施基皇子」没後(716年)頃には、「外仏舎墳丘形式」から「墓所」(下記)に合わせた「菩提寺形式」に仕上げ直したと考えられる。
    これも「外仏舎」の”見本的な最終的な完成行為”であったと考えられる。
    恐らくは、「内仏舎」も「釈迦立像」を本尊に、左右には「脇侍」の造像を安置し、側面には「密教仏画」を配置した「一連の造形」(下記)を作り上げて見本的なものとしたと考えられる。

    あくまでも、「賜姓族」である為に、この時点では、「内仏舎」も「外仏舎」も青木氏がその見本的なのを示しす事に目的があった。

    「外仏舎」では、「仏舎形ー墓ー菩提寺」
    「内仏舎」では、「仏舎形ー本尊ー脇侍造像ー仏画」
    以上の一連の形式と作法の見本を示したのである。

    それは上記の青木氏の「二つの仏像の祭祀」が既にあり、「釈迦立像」と「二つの仏画」がある処を考え合わせると、同時でなければならない事に成る。

    そもそも、「内仏舎」と成っているが、この形は ”庇を持つ小さい家の形”であった。
    これを「大日如来坐像」と「毘沙門天像」の右隣に設けると成ると、”付け足しの建て増し”と云う事には成り、”周囲の目線”からも「模範」とするには無理であったと考えられる。
    建てる以上は、目立つ様にもする為にも、”専用の「大きな仏間殿」(仏舎殿)を設える事に成った”と考えられる。
    何しろ、周囲に追随して建てるのでは無く、”恣意的にも大々的にも目立つ様に、”これぞ青木氏の仏舎殿”を建設したと考えられる。
    明治期の消失の家と現在の古家の仏間内容からも、小規模成れど「仏舎殿」の形を遺しているので、これ以上の形式を持っていたと考えられる。
    当に、伊勢の松阪町の9番から11番までの「侍屋敷」(後に本領安堵で蒲生氏郷より与えられた。)に、平等院の様な「仏舎殿」(菩提寺の原型)を建設したと考えられる。
    この頃(850年頃まで)の「仏舎」は、「持仏堂型仏壇」(下記)の様に量産されて定型的なものでは無く、都度、”依頼主の意向で外形と内部の装飾まで建設する仕様”であった事が記録から読み取れる。(その証拠が二つ遺っている。 下記)
    「青木氏」に類じて上級階層は、競争する様に、”誇示する意向”も大いに働いたと考えられる。
    その様に仕向けた事が考えられる。
    それ故に、その「氏の密教性」も働き、より普及させる為にも、「内外の仏舎」は「自由仕様型」であった事に成る。

    「持仏堂型仏壇」
    それに比して、現在の「仏壇」となるものは、寺の中の「持仏堂」をそっくり模擬したもので、この手本と成った「持仏堂」が現れたのは嵯峨期頃である。
    その後、少なくとも850年頃前後に、現在の「仏壇化」がうまれ、1000年に向けて次第に中流階級にも一般化したものである。それまでは、上記の「庇付きの仏舎」であった。

    その前に、念の為に「仏・舎」が「仏・壇」と成ったには、一つの経緯があった。
    仏教の発祥地の「インドの記録」では、次ぎの様に書かれている。
    上記の事は ”インドの仏の壇の経緯”をみると頷ける。

    ”土の上に枠を組み、丸く盛土して、そこに仏を埋め、その上に仏具を載せて祭祀した。とあり、
    その後、この土が雨風で流される事から、上に”「箱」”を被せたとある。
    円墳の原型と成ったのであるが、”土の上に枠を組み”は「仏舎」の形に発展し、”仏具を載せ・・箱を被せた”は「寺社」と「杜」に発展した考えられている。

    この事から、平安期以後の「持仏堂型仏壇」には、土辺の「壇」と云う字を用いる様に成った。
    「仏・舎」から「仏・壇」となった所以である。
    これが、上記した日本の「円古墳の原型」であるとされている。

    「仏舎」と「仏壇」の違いが出ている事は、”「舎」と「壇」の違い”と成る。
    そもそも、「舎」は”木の「家」”、「壇」は”土の「墳」”と云う事に成る。
    「家」は ”人の居る場”、「墳」は ”死者の埋する場” と云う事に成る。

    故に、「青木氏」は、「和魂荒魂の概念」と「密教の概念」の「神仏習合」から ”先祖と会する場”の概念が強いのである。 
    つまり、「持仏堂型仏壇」の”死者の埋する場”と云う概念は無いのである。
    この点が大きく違うのである。
    これが「青木氏の伝統」の「根幹」なのである。

    ・「釈迦立像」と「二つの仏画」
    そこで、「仏壇」には「仏像」は、本来は必要無い訳であるから、この遺された「釈迦立像」は、上記の事から ”「仏舎」”の中央に安置されていた「本尊」であった事が判った。
    しかし、上記した様に、「曼荼羅絵等」を含めて、「釈迦天女像」などもあった事が記録に遺されている。上記した「二つの仏画」である。

    では、”この「二つの仏画」が、何故、「持仏堂型仏壇」に掲げられていたのか”
    この疑問を解く鍵がある。
    最早、”平等院の持仏堂”の中をそっくり模擬しているから、一切の仏教が説く仏具は小型にして揃っていて、敢えて他に飾り立てる必要性が無い事に成る。
    況して、”死者の埋する場”には必要が無い。
    なのに、”何故、「二つの仏画」を飾り立てたのか”である。
    当然に、ある「宗教的意味」があるから敢えて飾った事に成る。
    特に、「密教浄土宗」と「顕教浄土真宗」が拘ったのかである。
    拘らなくてはならない「大きな理由」があったからである。

    それは、上記に論じた「壇」に関する「意味合い」である。
    イ 一つは、「死者の埋する場」の意味(墳の意味)
    ロ 二つは、「量産仕様」の仏壇の意味(持仏堂模擬型)

    宗派に関係なく量産的に「持仏堂型仏壇」が出来て仕舞えば、宗派が主張する「宗教概念」は薄らぐ事に成り拙い。
    宗派を表現しなかった「平等院の持仏堂」を模擬したのであれば尚更である。
    古くからあった「公家衆」を信者とした「天台宗密教」や、古代密教仏教をベースとして上級階層の武家宗を信者とした「浄土宗密教」にとってみれば、「持仏堂型仏壇」は更に一般化して信者を増やす事に繋がるとして歓迎された。
    しかし、反面、「量産仕様」は、「宗派概念」や「独自の密教性」が、強く仏壇に表せない事には問題があった。
    そこで、再び脚光を浴びたのは、「仏舎」に使われた上記の「仏画本尊」であった。
    この「仏舎」の「仏画本尊」を「持仏堂型仏壇」に掲げる事であった。
    これで、先ず上記の二つ目(ロ)の問題は解決した。

    ところが、もう一つの問題であった。
    「死者を埋する場」或は、「死者を祭祀する場」に対する考え方である。
    「先祖と会する場」とは異なる。

    「仏壇の概念」
    「持仏堂型仏壇」には、「墳」とする問題があった。
    この「仏壇」には、「密教性の基本概念」である仏舎の”先祖と会する場”は無く、単に、”「仏先祖」との間を取り持つ「道具=仏具」”とする考え方が強かった。
    つまり、「インド仏教」の「外来的な原型概念」が「壇」と成って、「持仏堂型仏壇の構え」と成っている。
    そもそも、この「仏壇」には中央に釈迦像があり、その左右にその弟子たちが居並び、その前には天上を表現する「仏具」(三昧耶形)が揃えられている。
    つまり、「天上」にいる「仏」に対して、その「現世にいる導師」が”「衆生の意志」を繋ぐ”と云う、洗練され簡素化された”新しい仏教概念”が構築されていたのであった。

    「衆生の意志を繋ぐ場」≠「先祖と会する場」
    「仏の墳」≠「仏の家」

    「仏舎の概念」として「仏舎」の字が表す様に、「仏の家」とは根底から違っていた。
    「仏壇」: ”先祖が天上でお釈迦様に導かれて成仏して、「仏」と成り現世と彼世を往来する。”
    「仏舎」: ”現世に、その来世の為の空間を造り、そこに「本尊」を置き、その本尊に仏の先祖が下りて来て会話する。”
    と云う二つの概念の差である。

    上記で論じた様に、「仏舎」と云う「密教概念」は覆される事に成ったのである。

    この二つは根底から異なる概念である。

    そこで、困った「浄土宗密教」は、「密教概念」を表す事が出来る「仏画」を描き記して、「持仏堂型仏壇」の左右に掲げた。
    その事で、”概念の中和が起こる”と考えたのである。
    鎌倉期初期には、この対策を更に強く主張したのが「親鸞の浄土真宗」(親鸞の孫覚如)であった。
    最早、「真宗」は「持仏堂型仏壇」そのものを取り除き「本来の仏舎」の形に近い形に戻したのである。
    (この為に、路線争いからこの浄土真宗は三派に分離する事に成った。)

    結局、そこで、鎌倉時代初期からこの「持仏堂型仏壇」は、宗派毎に「仏壇」そのものの「形式」を変える様に成った。
    特に、「密教浄土宗」は”「浄土宗仏壇」”と呼ばれる「仏舎」を表現した融合型の「持仏堂形式の仏壇」を作った。
    従って、「青木氏」には、この「浄土宗仏壇」をどの様な形で保有しているかが5家5流で違っていた。

    主に採った方法は次ぎの方法であった。
    1 位牌の形を「庇付き仏舎型」にする。
    2 別台座を設けて「本尊の釈迦如来の仏像」を中央に据える。
    3 仏壇の上部を「庇付き仏舎型」にする。

    以上三つの方法を組した方法や単独で用いた方法等様々であるが、地域によってほぼ統一されている。
    恐らくは、「時代の変化」に左右され、「伝統の継承性」の低下が起こり、「密教性の強弱」が異なる、「持仏堂型仏壇」に対する拒絶度の差違等によるものと考えられる。
    筆者の家は、この「三つの複合型」であった。立場上の所以ではないかと考えられる。
    (この様な伝統を一つでも維持して行くことはなかなか簡単な様で難しいのだ。)

    一方、「法然浄土宗系」の「親鸞の浄土真宗」は、先ず「密教の概念」を外し、更に「本造像」は使わず、「三昧耶形」として”「仏画」”を特に厳格に用いた。

    「衆生の意志を繋ぐ場」≠「先祖と会する場」
    「仏の墳」≠「仏の家」

    上記の”「持仏堂型仏壇」の概念”が根底から違うとして徹底的に排除したのである。
    更に、密教も排除したのである。

    その為に、民衆や下級武士等は、「密教の独特な概念」や「面倒な作法」に縛られる事なく、高価な「持仏堂型仏壇」を持たなくても入信出来るとして真宗は信者を多く獲得した。

    (親鸞は、この「3つの差違」が起こり、この事で「師匠 法然」を裏切るとして悩んで、「浄土宗」を憚って名乗らず”真宗”と呼称した。
    しかし、法然に疎遠の親鸞の弟子たちは、それでも強硬に「浄土真宗」と呼称した。)

    結局、浄土宗は「法然派」と「親鸞派」の二つに分かれ、更に、この二つは法然派は、密教派と顕教派の浄土宗に、親鸞派は顕教として三派に分離してしまったのである。

    以上の事が記録から判っているが、現在でも、この「伝統」を頑なに護っている宗派と地域があるのは、上記の”「仏舎」と「仏壇」の違い”がこの現象に成って表れたのである。

    「皇族賜姓青木氏5家5流」は、「古来宗教ー古代密教ー密教浄土宗」とし、「仏舎」を維持して来てこの「作法」を堅持して来た。
    ここに「伝統の差」が維持されて来たのである。

    「衆生の意志を繋ぐ場」≠「先祖と会する場」
    「仏の墳」≠「仏の家」

    しかし、「特別賜姓族秀郷流青木氏」は、960年平安期の発祥とする為に、「持仏堂型仏壇」の時代の作法に従った。主に顕教浄土宗に成った。
    しかし、「仏壇」は然ることながら、立場上は「密教浄土宗の概念」を職務としていた「藤原秀郷流青木氏」の地方に定住した「末孫の青木氏」等は、密教概念を堅持した事から、この「仏画の伝統」を護った事が判っている。
    その根拠に成ったのは、そこで、「秀郷宗家」が地方に赴任する「青木氏」に対し、「浄土宗」が無い地域が殆どであった事から、秀郷宗家の場合は、その都度、「赴任者」に「仏画」を渡した事が記録されている。
    この宗家から渡された「仏画」を以て「本尊」として、仏舎を建て一時的にも「浄土宗の信心」を続けさせる事を考えて渡したのである。
    恐らくは、これをしなかった場合は一門の宗派の統一が出来ないと判断した事に依るものと考えられる。一門の「宗派統一」が成され無い事は、”一門の統一は乱れる”と考えたからに過ぎない。
    特に、秀郷一門は、「第二の宗家」と呼ばれる「青木氏」を中心に厳しくこの辺を取り締まった氏である。
    中でも「皇族賜姓族」と同格として補佐する立場にあった事から、「秀郷流青木氏」は、「密教性概念」を強く求められた事が所以している。
    そこで「仏像」であれば、大量に生産して一門に渡す事の困難さや、搬送には嵩張る事や損傷の危険が高かったので、「仏画」を渡したのである。その上で、真宗を仮宗派とする事を認めたのである。
    ところが、上記した様に、一方で、「浄土真宗」もこの「仏画」を「本尊」とする事を「宗派概念を判り易く表現できる事の本願」として推し進めていた。
    この「両者の考え方」が一致した事で、相互に「協力体制」を採った。
    「秀郷流青木氏116氏」の中で、赴任し地元に残った「青木氏」が「浄土真宗」を宗派としている家筋があるのは、この事に依る。
    従って、この「一族の青木氏」には、「古い仏画の掛け軸」が遺されている事に成る。
    確かに、「仏画」としてそれまで「本尊」として使われていたが、「持仏堂型仏壇」が、上級階層に使わられる様に成った嵯峨期頃(810年頃)に採用される様に成って、「伊勢青木氏」には、「持仏堂型仏壇」の側面に飾られて遺されてたと考えられる。

    「ステイタスの絵」
    そもそも、”何故、「仏画」に成って行ったのか”その経緯が問題で解明しなければならない。

    「皇族伊勢青木氏」は、その後に損傷の激しくなった仏画を保存したとあるが、これは、その後の「復画」である可能性があり、現在の「仏画」も「三度目の復画」であるとの口伝がある。
    その口伝から、古来よりの「密教から来る作法」として、代々 ”絵を描く”と云う事は、その”賜姓氏のステイタスでもあった”と伝えられている。
    (累代の全ての先祖は、「技術官吏」で「紙屋」でもあった事から、「絵の心得」をステイタスとして会得していた。)
    これも、上記の「仏舎の本尊」として「仏画」を用いた事から来ているのである。
    むしろ、この「賜姓族の教養」として求められたものが、先ずは「ステイタス」と成り、その「ステイタス」が、結局は「密教の作法」と成り、それが更に ”「仏舎」の「本尊の仏画」へと発展した”と考えられる。
    恐らくは、「天武期の詔勅」に依って作った「仏舎」の初期に、先祖がこの「ステイタス」を以って仏画を描いた。
    そして、それを「仏舎」に掲げたところ「上級階層」から”絶大な賛美”を受け、それが、率先して「仏舎」を普及させる立場にあった為に、遂には、”周囲はこの「仏画」をも「詔勅の仏舎」の「取り決め」と解釈されたのではないか”と考えている。
    そして、それが平安初期には、遂には”密教である事の影響”を強く受けて、「仏像の本尊」より上記した真宗の動きが重なり、「仏画の本尊」へと考え方が発展して行ったと考えられる。
    それは、終局は、一寸した青木氏のステイタスを用いた発想が、より”その「密教性」をより表現できる”としたところと一致した事に繋がった事に意味があった事に依る。
    況して、「浄土宗系宗派」だけが、この影響が強かったのも、”「賜姓族青木氏」が「密教浄土宗」であった事に依る”と考えていて、故に、「天台宗」と「真言宗」は、「仏舎の仏画」にあまり反応しなかった所以と判断している。
    ただ、後発の密教真言宗は、この「仏画」には、特定の反応を示した。
    それは、「両界曼荼羅絵」を信者に積極的に与えたのは、この後発の「密教真言宗」であるからだ。
    現在も、積極的に「真言宗信者」のみならず「浄土宗信者」にも与えている。
    ただ、「天台宗」は、「独特の立場」と「独特の密教性」と、その「世界観」を築いた為に、信者も特定者が多く、結局、”独自で仏画を与えている”と観られるし、”本尊化”は無かったのもこの事に依る。
    これも「天台宗密教の作法」であったらしい。

    そもそも、何故、「伊勢青木氏」の先祖代々のその「福家」の全ての長は、”絵を描く事”の教養を持っていた事の不思議さがあった。
    それは、当初は、広域の伊勢国で、伊勢古代和紙(伊賀和紙)の殖産を地元に求め、税として集め、それを販売していた。
    ところが、平安期初期から徐々に殖産を強め、「税の換金」の為に販売強化し、1025年頃には、「余剰品」を正式に「二足の草鞋策」として「本格的な商い」に発展させた。
    この事により、「紙」に関わっていたから、”「仏画」を描いていた”と考えていた。
    それでは「趣味の範囲」で留まり”代々必ず”と云う事には成らない筈である。
    ところが、趣味では無く違ったのである。

    平安初期以前の相当以前にも、先祖は絵を描いていた証拠が一族一門の資料から数多く発見された。突き詰めると、「天武期の詔勅(684年)」後の700年から750年までの「絵画の遺品」と、それを物語る遺品の仏具や絵具が発見されたのである。
    更に、「青木氏菩提寺」に、消失する以前のものが、遺されていて、菩提寺の青木氏住職を含めて類型的に整理してみると、代々の青木氏に洩れなく、矢張り、「何らかの絵」を相当な能力で描いていた事が判ったのである。
    明らかに”「教養」”として、”「ステイタス」”として「絵を描く事」を長や住職は求められていた事を物語り、間違いなく”趣味の領域の事”では無い事が判った。
    当時としては、”「絵を描くこと」”が、”最大の賜姓族としてのステイタスを表す手段”であった事が判る。

    実は、江戸期に成って、先祖代々が「賜姓族ステイタス」として「絵の才」を会得したのは、”「朝廷画派」であった「土佐派」(大和絵)に師事していた事”による事が判ったのである。
    そして、筆者の直前まで「曾祖父」と「祖父」と「父」は、「賜姓族」であった過去からの関係で、続けて「朝廷絵師」の「土佐光信」に師事して、遂には、二人は本職として独立して一世を風靡した。
    更には、遡って、調べ上げて判った範囲では、”12代前までの累代の先祖”が、”「巨勢派」の「大和絵」”の「藤原氏朝」等の「朝廷絵師」から代々師事していた事が判った。
    この室町期まで「累代の先祖」が、描いた「先祖の絵」が一族一門の中に何らかの形で遺されている。

    「土佐派大和絵」
    そもそも、上記の師事した師匠は、次ぎの通りである。
    A 平安期には、「巨勢派」の「巨勢公望」に師事したとある。
    B 鎌倉期には、「巨勢派」の門人「春日基光」に師事したとある。
    C 室町期初期には「巨勢派」の「大和絵」”の「朝廷絵師」の「藤原氏朝」等に師事したとある。
    D 南北朝時代の頃には、「巨勢派」の「師匠」として、「朝廷絵師」として「藤原行光」に師事し  たとある。
    E 江戸期には、「巨勢派」の別派の「土佐派」が「大和絵」を復興させるのに貢献し師事したとあ  る。
    F 江戸末期には、大和絵の「土佐光信」に師事したとある。

    この「巨勢派」は「大和絵」として「朝廷の絵」を専門に描いた流派である。
    この関係から「青木氏」は代々この派に師事した。
    「青木氏」等が、この「流派の画家」を後援し、この関係から「朝廷」からも強く支持された。
    「大和絵の巨勢派」は、室町時代から200年間を、正式な「朝廷の絵所」(朝廷絵師)を世襲した。しかし、室町時代末期には、一時、朝廷の「絵所領職」を失った。
    その理由は、室町幕府衰退と、一時、戦乱期で朝廷も衰退した為に、更には、この流派の後継者が次々と戦乱で死するなどして「大和絵の流派」は全く途絶えたのである。
    この後に、この「巨勢派」は、別流派として江戸期に成って、「土佐派」」を創設して、純日本的な「大和絵の伝法」を再び樹立した。
    江戸末期には、「末裔の土佐光信」は、宮廷や将軍家と密接な関係を再び持ち、再び最盛期を築いた。
    「伊勢青木氏」は、続けてこの「土佐光信」にも、「曾祖父」、「祖父」、「父」と師事した。

    我が家の遺品から観れば、一族一門、更には、「信濃青木氏」や「近江青木氏等」や「近江佐々木氏」までを調べれば、又、更には、それらの家や菩提寺までのものも調べれば、その繋がりから、”奈良期までの遺品”に辿り着けると考えられる。
    既に、「近江佐々木氏」の研究論文からも読み取れる様に、書画から「賜姓青木氏」の事にもかなり辿り着けると考えられるが、現在は最早難しい。
    この事から、”「ステイタス」”であった事は確かであるので、上記の奈良期での「仏画の推論」は上記した様に、「大和絵の巨勢派」に師事していた事が、何よりの証拠であり、当たっていると考えている。
    平安期以降からの「仏画の状況」は遺品から充分に説明出来る。
    「平安期の状況」と「奈良期の状況」が全く違うと云うシナリオは考え難い。
    平安初期の「桓武天皇期」には、確かに状況変化を一時的に起こした。
    しかし、「嵯峨天皇期」で、又元の「皇親族」の状態に戻した。
    確かに「仏舎」は、「仏壇」に成ったが、逆に上記した様に、「仏画の本尊化」は逆に進んでいるので、一時に低迷はしたが、平安期後にも仏画に関して盛り返したと考えるのが、相当と考えられる。

    奈良期のものとして遺されている「二つの仏画」の検証では、次ぎの様な違いが出て来る。
    「古さ」  日光の紫外線や風化で材質の劣化レベルでの判断
    「絵構図」 密教の初期の為に、筆運が異なる。
    「絵具」  岩絵具は中国製の良質で劣化具合が異なる。
    「表具」  表具は中国の影響が顕著に出て異なる。
    「糊」   表具糊が悪いと茶色く変化して絵は観えなくなる。

    専門的に「絵の下地」は「特殊な糊」を使う。絵の保存関係はこの表具の下地に使う「糊」の如何によって決まる。
    この「糊」は何年も掛けて醸したものでなくては、絵具の下地になる為に最終絵が剥がれ朽ちて遺す事は出来なくなるのである。又、絵が「茶化」して観えなくなるのである。
    専門的には絵構図以外は専門性の判断力が左右するが、他は、材質論に左右する。
    平安期直前の絵と室町期後期の絵には、「材質の差」が出る。
    以上から遺されている「二つの仏画」は「原図」であろうと観ている。

    しかし、確認できるのは、筆者が観て「復画」らしい遺品は、祖父の「2つ目の復画」である。
    祖父は35歳までは「伊勢の紙問屋」の後継として働いていたが、「松阪大火」で紙問屋は倒産し、その時の「絵の能力」を以てそれまでの師匠に改めて弟子入りして本職とした事が判っている。
    この時に、保存していた傷んだ原画を”「復画した」”と考えられる。
    それともう一つ「現在の仏画」と観る復画は、「2つ目の復画」は「父の復画」である。
    この違いは、絵具には膠を使うがこれには問題はない。
    問題は、「表具」取り分け「表具の糊」による。これで「時代の見分け」が就く。
    この見分けの方法には別の方法がある。

    「氏の象徴印」
    奈良期からの上級階層には、その「氏の印」が定められていた。
    「家紋」と成る「氏」を示す象徴文様がこの階層にあった。
    殆ど食器の類から牛車の類までにこの象徴文様を記した。
    当然に、書類や絵画や書にも、この現在では「実印」に当たる「氏の印」の「烙印」や「落款」があった。
    当然に、これらの「仏画」等には、「青木氏」が”書いた、或は、発行した”とする「烙印」や「落款」が押印している事に成る。其れを確認すれば証明できる事に成る。

    これは「青木氏」が代々使っていた ”先祖の落款”(「5Cm角の黄玉」で出来ている落款。)は保有していて判っている。
    当時の「上級階層の落款」は、”氏を象徴するもの”であるので、その印は、”「黄玉」”と云う超宝石と云われる中国でしか出土が無く、稀に出土されるのでダイヤモンドより遥かに高価な宝石である。
    掘り尽くされて現在では稀である。
    この「黄玉」を使う仕来りであった。
    江戸時代でも、大名でも、超大名か将軍家位の身分の者が持てる「黄玉印」である。
    高価で持てる持てないでは無く、持つ事を禁じられていた「黄玉印」であった。
    印を押す押さないとは関係なく見せるだけでその立場が判るものであった。
    「伊勢青木氏」の「福家」はこれを持っていた。

    この事からも、この事を少なくとも物語っている。
    「原図」の「落款」は、この「黄玉の落款」を使っている筈であるが、かなり古く成っていて判りにくいが、まず間違いない。
    落款から検証すると、”奈良期の先祖の仏画”である事に成る。
    この落款で一族一門の家の遺品、守護神神明社や菩提寺の遺品、を調査する際にはこの落款での検証と成った。
    この結果、殆ど、「青木氏の落款」を押印していた。
    ”何らかのシステム”を作って、「福家」に持って来て押印していた事に成る。
    この事は、平安初期の「仏画や書」には、上記した事を物語るもので、「上級階層の依頼」に対して、丁寧に対応していた事を示すものである。

    平安期前では ”「賜姓族青木氏」”と云うものを証明していた事を示している事。
    ”福家”が受けた「依頼」に対して、”福家”から手渡すと云う契約を護った事になる事。

    数は少ないが、もう一つ落款があった。
    この落款は何なのかは何時のものなのかは判らない。

    そもそも、筆者の家には、古来から「紙に関わる家」であった事から、昔から全国のあらゆる画家が家に逗留していた事が在って、多くの「画家の絵」が遺されている。
    「画家」のみならずあらゆる芸術家や僧侶達が、宿屋の様に無償で長く逗留して居た事が判っている。その様な別宅があった程で、中には、生活苦で長逗留して勉強する芸術家もいて、生活支援しながら画家を育てていたらしい。
    江戸時代の有名な美人画の画家が長逗留して居た事も判っている。
    その為に、室町期からの凄い量の絵画が遺されている。
    中には有名に成った芸術家の若い頃の絵が遺されている。
    これらは全て「逗留者」が謝礼として遺して行った絵との事である。
    絵は表具されずに原図の侭に一か所に保管されていた。
    口伝では、この画家を育てる事は、”大昔からの当たり前の事 ”であった事らしい。
    その大昔とは、”何時の時代を指すのか”を本論に大きく関わる事であるので調べると、鎌倉期末期の頃の「僧侶の絵」が多くあった。
    「書」に関しては、平安期末期の矢張り有名な「寺の僧侶」の書がある。
    何とか奈良期か平安期初期までに到達しないかを調べたが、この頃に成ると画家や書家の氏名が著名な人しか先ず判らない事、専門的に「落款の相関」が判らなく成る事、落款資料が無い事等で確定が難しく成る。
    平安期初期は、画家は僧侶や神職が多く、治外法権的な領域に入るので菩提寺か守護神の領域しか判らない。

    「支援と技量の習得」
    この調査で「奈良期」にまで到達すれば、上記で論じた様に、「上級階層の賛美」で依頼を受けて、「青木氏の神職や住職」が「神格像や仏画」を描いたと判っている。
    では、”その絵の技量は何処で習得したのか”と云う事を判明させる必要がある。
    「平安期の巨勢派」から「江戸期の土佐派」までの「大和絵の一派」を「朝廷絵師」であった事から「朝廷」に代って「賜姓族」として、「紙問屋」として幅広く「生活支援」をし、且つ、絵に付いても師事していた。
    上記した様に、遺された数多くの絵や書、それに伴う一族一門資料や菩提寺守護神の遺された資料から、この事に深く「福家」が関わっていた事は明確に判っている。
    恐らくは、この「青木氏の神職住職」等は、この「大和絵の一派」に「福家」と共に師事していた事は間違いはないと考えられる。
    「室町期の書画」が「福家」以外にも多く遺されている事から、「平安期前」も同様であったと考えられる。
    「福家」の「絵」に関わる「紙問屋」としての「生活支援」のみならず、各地の多くの「青木氏の神職や住職」も「大和絵」を習う事でも「巨勢派の画家」の「生活支援」をしていたと考えられる。
    そもそも、鎌倉期以降は、朝廷も彼等を「朝廷絵師」としての ”「絵所領職」”だけでは一派を維持させられる事は絶対に出来なかった筈で、況してや、「朝廷」自らの生活も侭ならなかった時期に、無理であった。
    従って、”「大和絵」”を遺す上でも、この立場上、「賜姓族」としても「青木氏」は、「福家と神職住職」共に「生活支援」を積極的にしていた事が判る。
    それは、上記で論じた様に、多くの画家を逗留させて「絵の修業」をさせていた事、「紙問屋」でありながら「総合商社」でもあった事から、”大和絵の画家の絵”を上級階層に積極的に斡旋して居た事も判る。
    上記した様に、遺された”「画家の表具されない多くの絵」”が保存されている中には、「大和絵師」の絵も多く遺されている。

    注釈
    (「特別な絵箪笥」があって、その箪笥は「絵箪笥」として専用に何段にも作られ、「油紙」を敷いた「桐の子引出し」があって、それに扉が付いて、それを全体の引き出しで保存する様に成っている。更に、この引き出しの外側に二重に扉があって、外側は黒檀で出来ている。実に密閉度が良く、扉と引き出しを開くとオルガンの様に音がする「絵箪笥」で、代々大事に使われて来たものであることが判る。・・小さい頃はこのオルガンの様に音がするので開いて閉めての繰り返しで音楽を引くようにして遊んでは叱られた思い出がある。・・
    実に密閉度が良く、湿度は桐の材質で吸収され調節されて、中のものは全く傷んでいないし、変色も無い。ここには、表具されたものは別の絵箪笥があって入っていない。)

    この様な”原図そのものの「専用の絵箪笥」”があると云う事は、「販売目的」では無く、「生活支援」の為に、”引き取った絵”も多くあった事を示すものである。
    上記した様に、「逗留画家の謝礼」としての「絵」もこの中に入っていた。
    室町期から江戸幕末までには、何としても、「日本古来の大和絵」を絶やさない為にも、「若い画家」を無償で受け入れ育て、世に出し、生活が成り立つ様に、「原図」を買い取り保存し、何時しか「表具」して、「販売斡旋」して、「紙問屋」として「生活支援」していたのである。

    上記した様に、これは、上記検証の通り、平安期前には、「賜姓族青木氏」として「初期の朝廷絵師」(「絵所領職」)を務めた事を縁に、「大和絵巨勢派」から、その流れを継承した幕末の「大和絵土佐派」への「青木氏の支援」であった。


    その前に青木氏は、平安初期には「桓武天皇」から「皇親族として排除」をうけて30年の衰退期があった事、中期以降は「源平の争い」が起こって受け入れ態勢が出来なかった事から、この期間の絵画や書などは、「先祖の絵」(一族一門と関係族で調べられた)を除いて少なかった。
    少なくとも、”賜姓族としての青木氏の経済力”は、「二足の草鞋策」を営みだした950年頃前後以降の事に成る筈で、その意味で、鎌倉期から再び出て来るのは妥当であろう。
    鎌倉期から室町期は、戦乱期でありながらも、徐々に「紙文化」と呼ばれる文化が進み、遂には、有名な「室町文化」が起こって、これを機に、再び「巨万の富」を得たので、ここからは書画骨董は多く成っているのは納得出来る。

    筆者は、平安期前は、福井の逃避地で賜姓族を保護する事に精一杯で余裕は無く、”画家などを逗留させる”と云う事は、未だ客人的な範囲に留まり少なかったと考える。
    室町期の様に「別宅」を構えて支援する体制までには至っていなかった。
    その「組織的な態勢」が、「賜姓青木氏」には、上記した様に「巨勢派」に対する「支援体制」に総力を注ぎ、未だ「全般的な支援体制」は出来ていなかったと考えられる。
    それよりも、「5家5流賜姓族」の菩提寺や、全国の「神明社の守護神」で、多くの「青木氏住職」の「仏画」、多くの「青木氏の神職」の「神格像画」が主に描かれた事と考える。
    筆者の家も「賜姓族の役」からの「ステイタス」として描いていた事は、当然ではあるが、これだけでは「仏画の本尊化」は、センセーションの的には成ったにしても、起こせなかったと考えられる。

    「上級階層の賛美」が起こっても、”では誰に描いてもらうか”は問題と成る。
    「賜姓族の青木氏」の「福家の役」は「上層階級の賛美」だけで良かった筈である。
    「賜姓族の青木氏」の「福家の長」が「頼み」に応じて全てを書くと云う事には成らないだろう。

    そもそも、その当時は、古代仏教の伝来時の「密教」であった事から、未だ描ける者は、阿多倍の渡来人職能集団の「舎人部」か「史部」以外には少ない筈で、「密教画」として知識を持ち、それを正しく描ける者は、未だこの時期には無い筈である。
    「賜姓族青木氏」の「職能集団の民部(かきべ)・曲部(まがり部)」の中に、「青木部」と称する仏画を描く「絵師の部集団」を構築しようとして、先ずは、「密教の知識」を持つ「青木氏の神職住職」が、既に持つ「書の才」をベースに、その「仏画の能力」を付させようとした。
    その為には、その基礎力を「巨勢派」に求め、上記の様に、「大和絵の巨勢派」を引き出して育成にも総力を注いでいた事に成る。
    「神職や住職の描く仏画」は、最終的には、これらの「青木部の絵師」が指示に従い分担作業で書き上げたと観ている。
    何故ならば、「青木氏の守護神の神明社」でも論じたが、神明社や菩提寺の建立と共にここに安置する像もこれらの「青木部」が行っていた。
    「天武天皇の詔勅」の「仏舎の建立」では、筆者は問題は無かったと観ている。
    何故ならば、「青木部」の「大舎人部」(詔勅の仏舎等を建築する職能集団)がその技量を充分に持ち得ていた。
    従って、「神職や住職の者」が、先ず、「青木氏の密教」のその「仏画の技量」を獲得して、「青木部」にも「仏画の作成能力」も整えようと働いた筈である。

    「賜姓青木氏」の「職能集団」を総称して、氏名を採って「青木部」と称した。
    この「仏画」は、単なる仏画では無い。「青木氏の密教の仏画」である。
    その「青木氏の密教」は、「和魂荒魂の古来宗教概念」と「古代伝来仏教」との「神仏習合の密教」である。
    従って、根本的にこの「青木氏の密教概念」と「青木氏の守護神と菩提寺の様な組織」と「青木部を有する職能集団」を持たない他氏では到底描けるものではそもそも無かった。

    そもそも、上記した様に、「密教」は何事にも初代は「青木氏」なのであるから、「青木氏」に頼るしか無かった筈である。
    又、その「国策氏」と「賜姓族」と云う立場もあり、他に進んで受ける氏は無かった事に成る。
    周囲の上級階層もこの事に付いては成す術がない”と云った処であったと観られる。
    筆者は、周囲の上級階層は、「天武天皇の詔勅」の「仏舎」等に関する「勅令」にも、「勅令」が出たものの充分に対応出来なかったと観ている。
    だとすると、頼まれたものを断る事は立場上、出来なかったと成れば、況して、金銭に糸目をつけない力だけは持っていた「上級階層」(下記)である。

    当時の上級階層の氏族に付いて書いた記録がある。
    それには、次ぎの様に書かれている。要約する。
    ・・・殆どの「氏族」は、多数の「部民」を「隷属民」として支配していた。・・この「部民」は農村に家を成し、農耕の傍ら主家の氏族の要求に応じて、世襲的に同一の産業的労務やその他の労働に従事させた。・・「氏族」とは別に住み、血縁関係は一切無く、部民間にも血縁関係は持たなかった。
    ”個々に浮浪する民”を集めて編成したものが殆どであった。
    ・・「農耕」にのみ従事させる隷民であった。
    (朝廷の直属の農民以外は原則私有民は認めていなかった)
    その「氏族の氏名」を「部の名称」とする「特技の技能」を持った「部組織」を持つ「氏族」は少なかった。・・・その殆どは政策上、「特定の氏族」を除き、主に朝廷に所属させた。・・
    と記録されている。

    以上の記録の通り、「上級階層」は、「青木氏」の様に「青木部」を持つ事を許されていなかった事に成る。この「特定の氏族」とは、「三つの発祥源」と「国策氏」の立場を持つ「5家5流の賜姓青木氏」に許された「特権の事」であって、後は、”朝廷の管轄下に置かれていた”事を示す。

    依って、「天武天皇の詔勅」が出た以上は、これを断れば反発を招くし、「密教の詔勅」の「仏舎の翻意」は果たせない事に成る。
    そもそも、その「詔勅の案件」は「施基皇子」が奏上したものである。
    奏上する以上は責任を果たさねば成らなくなる。

    「賜姓族青木氏」には、残す手立ては、一族の青木氏の神職(500社)と住職(15寺)に指示する事に成った筈であり、可成り、「仏画構築」に急いでいたと考えられる。
    この能力を以てすれば十分に対応できたと考えられる。しかし、ここで問題が生まれた。
    それは、元々、「神職 住職」は「書」への高い技量を持っていた。
    しかし、「絵画への技量」は無い。
    そこで、「賜姓族の青木氏」は、その「絵画の技量の基礎」を会得しなければならない。
    「仏画」と成れば、「中国画」が主体を占めていたが、「青木氏の密教仏画」を表現すると成れば、古来からあった”「大和絵」”から”「青木氏の密教仏画」”を新たに創造する必要性に迫られた事に成る。



    以下は伝統 8に続く


      [No.323] Re:「青木氏の伝統 6」−「毘沙門天の影響 2」
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/09/26(Fri) 09:22:05  

    > 前回の末尾

    >因みに、その盛大さは、「超大地主」であったことから、奈良や紀州や伊勢の各地の農民等の代表者等が泊りがけで集まったと伝えられている。
    >その為の宿泊の準備では、「菩提寺と関係寺の解放」、「各地神明社の解放」と「全ての居宅や旅館」を確保したとされる。
    >「土産物」「引き出物」などは、地元の家々の分も大八車に載せて列を組んで運んだと聞かされている。
    >明治35年以降は、「端午、雛の節会」は、形式的に終わらせ、「盆彼岸の節会」は普通に内家で行った。
    >現在は、「盆彼岸の節会」「暮正の節会」は「毘沙門天荒神節会」と合わせて家内で形式的に消えない範囲で行っている程度である。実際のところ”文書に遺せる範囲の維持”と成っている。




    > 伝統−6


    ・「注釈6」
    ヘに付いて、「仏壇の作法」は「密教作法」に関わっている。
    ただ、現在は「密教浄土宗」は何処にも無く、伊勢菩提寺も知恩院系の顕教と成っている。
    (江戸期の禁止令)
    従って、「密教部分」は、「青木氏」に伝えられている「密教作法」のみと成っている模様である。
    「青木氏」には、これに「三宝荒神信仰」と「毘沙門天信仰」の部分の「伝承範囲」が習合と成っている。
    ただ、「仏壇祭祀の飾り立て」は、他の浄土宗の祭祀とは違っていて盛大と云えば盛大である。
    (筆者が他の葬儀に参列した時の作法でその違い差が出て来る)
    「仏壇供え物」は、専用の高瓶盆、専用の器類、専用の机、専用の台、専用の経机、・・等、古来からの「武家の慣習」に従った「歴史的な専用の物」に備えて祭る。
    全て、「漆金」と「漆朱」を中心としてと一部「漆黒」で出来ている。
    これを仏壇前の一畳の中に治めて先ず供る。
    例えば、盆類は、公家は低盆で庇は少ないし漆黒であるが、「武家」は高く庇は大きく朱色である。
    盆以外にも「武家」の専用具には全て象徴紋が大きく金色で書き込まれている。

    「密教」の「両界曼荼羅絵」を仏壇の左右壁に並べて下げる。(古来慣習 下記)
    「釈迦天女像」が仏壇上正面壁に飾られる。(古来慣習 下記)
    「青木氏の三象徴物」の「笹竜胆紋」「神木のあおきの絵」が仏間正面に掲げられる。(古来慣習)
    本来、「大日如来坐像」と「毘沙門天像」が、仏壇の左側の間に、仏壇と同じ作法で鎮座して別に祀られていた。

    (ところが、ある時期から、盗難の危険が迫った事と成った事から、現在は、或ところに依頼して別に祭祀している。毘沙門天像は消失)
    それに代わって、左間側に「大日如来坐像絵」と「毘沙門天像絵」が祀られている。(古来慣習)
    ここに、節会の毎の像・器・具(義経ー弁慶像 雛人形、・・・)が飾られる。
    (筆者は、大変なので始めから隣の一つの部屋に「飾り部屋」としてこれらを飾っている。)
    祭祀の間は、左右に二畳ずつの間、その二つの前には六畳仏間があり、合わせて十畳の間と成っている。ここの仏間の両脇に「廻り灯篭」の一対の「行燈」と、「武家・侍」としての「印」の「密教の三昧耶形」が飾られる経机を設置する。

    「達親の論文」でも論じたが、仏壇の内容には「細かい作法」で「密教性」が出ている。
    「線香、蝋燭の用い方」、「木魚・鐘鈴の用い方」、「座り方」、「仏壇御簾の使い方」等が、「浄土宗作法」と違っている。「密教性」が出ている。
    確かに、「違い差」がある事が、「月節会」の知恩院系住職との会話から判った事であるが、「密教性」と云うよりは、「古代性」である様である。
    典型的な違いのあった例事は、「座り方」であった。全てこの考え方に尽きる。
    男性は「胡坐」、女性は「立膝座り」である。(室町期ー江戸期の武士の座り方作法である。)
    「月節会」では、住職の後ろには座らず左右に別れて座る。(中央は「仏の道」との考え方にある。)
    家長と姑 嫡男と嫁は左側、その他は右側に座る。
    この様に上記の違い差は全て「古代仏教の仕来り」に習っている作法が遺されている。
    これは、古来より「三宝荒神信仰と毘沙門信仰」の「古い信仰体の作法」が引き継がれて祭祀して来ていた事が、これが「作法の違い差」に成って出ている事に成る。
    つまりは、「古来作法」が介在していた為に ”俗化されなかった事”に成る。
    この「古い信仰体の作法」がある事が、千三百年以上の長い間、「新しい信仰体」の作法が入る余地は無かった事に成る。
    これは当然の事でもある。”先祖との会する場”の「密教概念」が、実際にはもっと遺されていたのではと考えられる。
    「江戸期の密教が禁令」と成る前の室町期前には、当たり前の形で遺っていたと観ている。
    例えば、
    「仏の道」「仏の座」を作る事     「道座」
    「仏壇の開閉」はせず「御簾」を使う事 「御簾」
    「住職」は「専用の椅子」に座る事   「椅座」

    (「道座」は仏教にもあるが、「神道」にも”神が通る道”と云うものがあって、「本殿に通ずる参道」なる道がある。つまり、”「憚られる道」と云う概念”が「神道」にもある。)

    以上等は、「道座作法」「御簾作法」「椅座作法」と呼ばれる。
    その部屋に仏が通る道を設けたり座る場所を設けたり、仏壇を開閉せずに仏が居るので神道で使う御簾を設けて常に仏壇を開けて置いたり、住職が座る椅子を準備して仏が動座して和する様にしたりする所作は、これらは、当に、そこに ”仏が居る”とする前提にある所作である。
    奈良期の頃は板の間であって、上級階級の「生活の場」や「政治の場」や「祭祀儀式の場」では、人が集まって輪座する時は、「床几」と呼ばれる椅子の様なものを使った。
    「神道」では、現在でも ”「神が坐処」”としてこの「三つの所作」が遺されているが、「御簾」と「椅座」は、「神道」のみならず「天皇家の儀式」にもはっきりと遺されている。
    然りながら、現在の仏教に遺されていないで、「神道」等の所作に遺されている事は、それは元は、古来の「和魂荒魂の宗教」(自然神)の「仕来り所作」から来ている事を示すものである。
    つまり ”先祖との会する場”と云う事で生まれた作法である。
    これらは、江戸期の禁令に対して「明確な排他的密教作法」とする前提に無い事から、 ”他に弊害が無い”として遺された作法であろう。

    参考
    古来の宗教の「邪馬台国の卑弥呼」の「自然神の占術」は、祈祷する事に依って、この”先祖との会する場””神・仏が居る”を作り出し、その”先祖の知恵と経験”を聞き出して、”神のお告げ”として「占い」をした事を意味する。


    ”先祖との会する場””仏が居る”の「密教概念」に付いて、上記の様に、追求すると「古来宗教の仕来り所作」が基本になっているのである。
    仏教伝来後に「密教概念の作法」に成っていた事には間違いはないが、ただ、注釈3の「伝家作法」、注釈4の「賜姓五役」、注釈5の「白幔幕、青幔幕」、本注釈6の「道座」「御簾」「椅座」等は、全て「神道の所作」に通ずる事であって、必ずしも「密教仏教作法」だけではない。
    多くは「神道の所作」が「密教仏教作法」の中に組み込まれたものとして一体化したものである。
    それだけに、「古来仏教の勢い」が「古来神道の勢い」(和魂・荒魂)より大きかったことを物語る。

    これらの「一部の所作」が、現在の「神道の祭祀」や「天皇家の儀式」の中に観られる所作ではあるが、”「個人としての伝承」”では、奈良期からの「賜姓族の青木氏」だけであった。
    これは「賜姓五役の所以」であった。
    つまり、注釈2の古来宗教の「和魂 荒魂」から来た所作であって、これが「神仏習合の所作」である。従って、”「古来の宗教所作」の伝承”と云えるのである。
    言い換えれば、当に、”「三宝荒神信仰と毘沙門信仰」の合体”が、「青木氏の所作」と云える。

    ・「注釈7」
    トに付いて、”「三昧耶形」”として祀られているが、つまり、密教の「三宝荒神信仰」と「毘沙門天信仰」に使われる仏具と云う事である。
    筆者には、この”「三昧耶形」として祀る事”は ”少し変だ”と観ている。
    何故ならば、確かに「二つの信仰体の仏具」である事は事実ではあるが、それならば、敢えて”改めて何故祀るのか”疑問がある。

    「三昧耶形」を指し示す事は「密教」であり、「賜姓族」で「武家」である事の証である。
    しかし、それならば何も「三昧耶形」の仏具でなくても証明は出来ている。
    取り分けに「仏具」をわざわざ誇示する必要は無い筈である。
    筆者は、この「三昧耶形の仏具」は、「毘沙門天像」が「明治の出火」で消失したが、この「毘沙門天像」が燃えた後に遺された「鉄製の装飾品」、つまり、像に飾られていた「三昧耶形」の「装飾仏具」であったと観ている。
    何故ならば、古来にこれらが作られた時に鉄製であった事から、錆びない様に”黒染め”と云う処理を施していた。
    他の古い仏像の金具には必ずこの”黒染め処理”が施されていて、既に、この技術は大化期の初期の古来からあった。
    それは「後漢」からの「職能集団の鍛治部」が持ち込んだ技術である。  

    つまり、鉄を350度くらいで熱すると、表面が空気と触れて酸化する。
    この酸化は、錆びの酸化とは異なり、錆びない酸化膜なのである。
    鉄には、温度を上げて行くと4段階で4種類の酸化膜が出来る。
    第2段階のこの酸化膜はその中を拡大すると、空気が入り込めないほどに緻密に成っていて逆に錆びなくなるのである。

    「毘沙門天像」が燻り燃えた時、この鉄の仏具もある程度の温度になり、黒染めに成っている処に、更に黒染めが働いて更に強く成って錆びなかった。この為に遺されたのである。
    つまり、明治35年消失の「毘沙門天像の遺品」と云う事に成る。
    これが”錆びない”とすると、この「毘沙門天像」は、「青木氏の発祥期647年頃」のものである事に成る。

    つまり、天智天皇から命じられて「大日如来坐像のお仏像様」を作った「司馬達等」かその孫の「鞍作部止利」の仏師の作と成る。
    そこで、この「三昧耶形の仏具装飾品」の大きさから像の大きさを算出した。
    その結果、菩提寺から室町期末期に居宅に運び込まれたとされていることから、一間以下であった筈で、台座を入れて室内で祭祀するには、1500Cm以下であった筈である。
    「金剛棒の長さ」からみて、宝棒や宝塔等の大きさから、台座の高さを少なくとも30Cmとすると、像は1200Cmと成る。
    金剛棒(1000Cm程度)が、これを超えない範囲で製作されている筈であるから、「毘沙門天像」は1200Cm程度であった事に成り、この像のものであった事が判る。
    他の「三昧耶形」もこのサイズに対して一致する。
    「像木」が管理された環境の中に無いにも関わらず、ここまで朽ちないで遺っていた事から、「楠の巨木」からの像であった観ている。別の三昧耶形の仏具の中に鉄製では無い「木製仏具」は「楠製」で出来ていて黒光りしている。

    これらの仏具は、「毘沙門天像」に付随する「三昧耶形」として整えられたものであろう。
    一つは50Cm位の「大蛙の彫り物」(現存)、二つ目は12Cm程度の太さで65Cm程度の「釈迦立像」(現存)も楠で彫られている。

    (古来には「大蛙」は「神仏の使い」として扱われていた。この事から「毘沙門天像」の「三昧耶形の仏具」として扱われていた可能性が高い。)

    この「釈迦立像」(下記)は、口伝では元々から菩提寺では無く居宅に安置されていた仏像であったらしい。
    室町期の大火で「大日如来坐像」と「毘沙門天像」が居宅に安置されてから、この「釈迦立像」とはどの様な形で安置し祭祀されていたかは不明である。(下記)
    明らかに、容像は、「浄土宗仏像」形式で、「天上天下唯我独尊」の構えの像である。
    この容像から観て、この崇拝偶像は、「本仏壇(平安中期頃の持仏堂型仏壇形式)」の前に用いられていた仏間で中央に祭祀されていた「本尊の仏像」の一つではないかと考えられる。
    この「釈迦立像」は、元々何かの台座の上に据えられていた事が像の底の形から判る。
    「雲の形」をした台座の上に据えられていたらしいが、この「台座」は、端部が朽ちていて中央は角型に抜けている。サイズバランスからして適切なものである。
    しかし、楠の材質では無く檜で、楠の様な樹液による”黒くすみ”は無く赤白い。
    推定だが、この台座の上に金糸絹布が載せられていた可能性がある。
    現在は大花瓶の台座に成っている。

    お恐らくは、この事は、奈良期の「大日如来坐像」と「毘沙門天像(三宝荒神信仰)」への「偶像への祭祀」と、「先祖を祭祀する仏壇」の「偶像の祭祀(釈迦立像)」とは、「別の信仰体」として祭祀されていた事を意味する。(奈良期から室町期末期での祭祀は異なっていた。下記)
    「賜姓五役」を達成し維持出来る様にする為の祭祀と、「先祖への祭祀」とは概念として区別して祭祀していた事に成る。

    そもそも、「毘沙門天像」は、足元に多くの「三昧耶形の仏具」が多く添えられている仏具で有名で、その足元には、鬼を踏みつける容像等、足元にその特徴があって、その密教に依っても異なる。
    「青木氏の毘沙門天像」は、「鬼相台座」の横に、「神仏の使い」として「大蛙」を引き連れた容像であった事に成る。
    この事は、「青木氏の密教」の概念を物語る。
    その概念とは次の様に成る。

    「青木氏の密教概念」
    古来宗教の「和魂荒魂」から、「荒魂の荒神」の「悪神」として時には荒れると見做されていた「鬼」を、「毘沙門天」は足で押し潰し、「悪」を祓い守護される。

    (「鬼」は、この時期、未だ「悪」とは必ずしも考えられておらず、「神の使い」としての扱いであった。ただ、「神の使い」として、時には、奢り、豊満、怠惰、強情、遍情等の「戒め」の為に「世」を懲らしめるとしたが、人間の勝手な理屈で嫌われた。
    9世紀半頃の何時しか鬼は「悪神」と成った。下記の「方相氏」の論を参照)

    「和魂の和神」の「仏神の使い」としての「大蛙」に依って「和魂」の「大日如来」の「ご利益」に導かれる。

    以上の様な「青木氏独自」の「密教概念」を持っていた事に成る。
    この「密教概念」は次ぎの様にまとめられる。

    青木氏の「守護神の密教数式論」
    A 「和魂の和神」=「大日如来坐像」+「大蛙の仏神の使い」
    B 「荒魂の荒神」=「毘沙門天像」+「三宝荒神」
    C 「仏教の守護神」+「神道の守護神」=「青木氏の守護神」

    これで、「青木氏の密教概念」の論理性は成り立っている。

    しかし、「青木氏の密教概念」だけでは、「仏教」だけの守護となり、「青木氏の賜姓五役」は成り立たない。(仏教の守護神 神仏習合神)
    その為に、「神道」の「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の守護があってこそ、「青木氏の賜姓五役」は成り立つ。(神道の守護神)

    (研究室「青木氏の守護神の神明社」の論文参照)

    結局は、上記の”「守護神の密教数式論」”が「賜姓青木氏」に成り立っていた事に成る。
    本来、如何なる他氏でもこの様な「守護神の密教数式論」が成り立つ事は無かった。
    それは「賜姓五役」と云うべき”「氏」に課せられたもの”が無かったからで、同じ「朝臣族」であった「賜姓源氏」にはこの務めは無かった。
    如何に大変な宿命を負っていた事かが判る。
    しかし、それだけに、「氏の行動」は「慎重な行動」に成らざるを得ず、「賜姓源氏」の様に「自由な行動」に出て、結局は11氏もありながら全て「滅亡の憂き目」を受けてしまった事を鑑みると、「賜姓青木氏」は幸せであった事に成る。
    当に、”世に晒す事無かれ 何れに一利無し”である。

    言い換えれば、この「守護神の密教数式論」の御蔭である。


    そこで、この「青木氏」の「慎重な行動」は、上記で執拗に論じた「密教節会所作」と云う行動を作り出し、そこからはみ出さぬ様に、「自らの概念」に、”箍を填めて作り出していた”事に成る。

    (何故、二月に一回程度に「節会所作」を繰り返していたかは、「氏の者の思考」の中に徹底して浸み込ませていた事でも判る。)

    「青木氏の慎重な行動」=「密教節会所作」=”世に晒す事無かれ 何れにも一利無し。”


    ところが、青木氏の「密教数式論」はこれだけでは終わらなかった。

    それは上記した「釈迦立像」の「仏壇の本尊」があった事である。
    更に進めた調査で次の事が判った。

    本来の他の氏であれば、この「仏壇の本尊」への「祈願とその所作」の範囲で留まる。
    「賜姓青木氏」は、この「仏壇の本尊」も偶像化して、その所作を上記の「守護神の所作」と重ねていたのである。
    上記の「九度節会所作」にもある様に「賜姓五役」の「守護神の密教数式論」に伴う「節会所作」と連動させていた事に成る。
    では、どの様に、連動させていたのかである。

    普通は、「浄土宗仏壇形式」の「持仏堂型仏壇の様式」で諸々の仏具を整えての祭祀となるであろう。
    しかし、ここでも「賜姓青木氏」は他と違っていた。
    恐らくは、奈良期647年に賜姓を受けてからの「古来の奈良期の仏壇」と成った筈である。
    その頃は、未だ、時代的に「持仏堂型仏壇」は無かった。
    「持仏堂型仏壇」は、仏教伝来後、寺の中に「持仏堂」と云う建物を建てた事から、この”仏を祭祀していた堂”の形をそっくり真似て、小型化したものが現在の「持仏堂型仏壇」の元となった。
    従って、その「持仏堂」の初期の代表的なものは、平安期の「平等院鳳凰堂」の「持仏堂」であり、これが”「仏壇の起源」”であると云われている。
    この「持仏堂型仏壇形式」の前までの祭祀方法は、上記した古来宗教の”「和魂荒魂」の「祭祀の方法」”に従っていた事に成る。
    この”「和魂荒魂」の「祭祀の方法」”では、”何時頃からのものになるか”と云うと、これには記録があった。
    最も古い記録から、この古来の「和魂 荒魂」の「祭祀の方法」として、何と、当にこの事に付いて、684年3月に「天武天皇の詔勅」を発している。

    この「詔勅」から、未だ当時、「仏の祭祀方法」に定まったものが無く、新たにその祭祀そのものを命じ、且つ、その祭祀方法等をも禁令で命じた事に成る。
    この「天武天皇の詔勅」では、次ぎの様に命じている。

    ”「諸国の家毎に「仏舎」を作り、「仏像」及び「経」を置きて、以て「礼拝」し「供養」せよ」”

    以上と明記している。

    この”「仏舎」”とは、上記した平安期の「持仏堂型仏壇形式」に相当するもので、古来の「和魂荒魂の祭祀の方法」である。
    その”「仏舎」”(現在の仏壇に相当)の作り方も明記している。
    その内容を現在文に要約すると次ぎの通りである。

    そもそも、「仏の祭祀」は、その都度、四隅には、「木又は竹の支柱」を建て、これに板を渡した「舎」を造り、その中央に「本尊(仏像)」を造り安置し、その「葬儀」には、ここに「仏」を安置する方法として祭祀する。
    この「舎」の形状は、箱型にした上部には、斜めに「板」を渡し、「庇」を設け、側面の一方を開いて正面とし、内部の底には「台」を設けて、そこに「本尊なる物」を設けて「仏舎」とすべし。

    以上としていて、更に記録を観ると、この”「仏舎」”の形では、「天武天皇の詔勅」に基づいた「仕来り」に従った事を、更に発展させた事を明示している。
    それは、次ぎの発展内容の通りである。

    しかし、この「仏舎」で祭祀するに従って、その頻度が高く成り、「上級階層の祭祀」では、これを繰り返したが、遂には、それを定型化して「台」と「仏像」を安置する「仏舎型」なるものを作り上げた。(「台」と記されている遺品は遺っている。下記)
    そして、それを「小型化」して、「家屋」の中に治めた。と記録にある。

    これらの経緯としては、最初は外にあった「仏舎」を屋内に治めたのか、外と中にも設ける仕来りにしたのかはこれでは判らないが、しかし、”両方に設けた仕来り”であったと判断できる。
    そして、外の「仏舎」は「墓」と進化したと考えられる。
    「墓」は何時しか「仏舎」の形造る板が朽ちる事から「砂岩」で表現したと観られる。
    墓石の「砂岩」に付いては、平安期の仏教の記録資料があって、”風雨で自然に朽ち果て自然に戻る事”を「仏説作法」で求めている。
    と云う事は、この資料から「外の仏舎」が「墓」に変化した時期は、奈良末期から平安期初期の頃と成る。(「外仏舎」と呼称されていた模様)

    古墳時代の末期に位置していて、この時期の墓としては次ぎの様なものがある。
    (「仏舎」の形に影響を与えた「古代インドの墓」の形に相似させた古墳時代の円墳丘)

    持統天皇陵の奈良県高市郡明日香村の野口王墓、(686年 697年)
    文武天皇陵の明日香村の中尾山古墳、(707年)
    天智天皇陵の御廟野古墳 (672年)
    [施基皇子の陵墓」(「春日宮天皇陵」)高円山東古墳:「後付墳墓」(716年)
    「光仁天皇の陵墓」の奈良県奈良市日笠町の田原東古墳 (781年)
    などが墳丘を持っている。

    日本では、初めて以上の皇族王の「固有型式の陵墓」が出現した。
    この事から、684年に「天武天皇の詔勅」が出て、王族では無く、上級階層の「仏舎」は、「施基皇子の墓」(高円山東の「春日宮天皇陵」)として「後付墳墓」があるので、後716年以降と云う事に成る。
    近くには、「子供の光仁天皇の陵墓」があるが、「伊勢青木氏の菩提寺」には「施基皇子」「白壁王」までを祭祀している。
    「春日宮天皇陵墓」と「光仁天皇陵墓」は、「公式の墓所」として祭祀されていたので、別として、「賜姓氏」の「個人の墓所」は「青木氏菩提寺(」匿名)にあったが、「墓形式」は「仏舎型」で、当初は「木仏舎」から、平安期直前(716年頃−810年頃)に墓石に変え、この墓石は当初は「砂岩」であった事が判っていて、その証拠に隣の「女墓」の一部の墓石は未だ「砂岩」のものが遺されている。
    始祖「施基皇子王」と元祖「白壁王」の「氏墓」も青木氏菩提寺に祭祀されていた。
    (松阪大火で菩提寺消失 明治初期に大理石の墓石に変えた。)

    この事で、次ぎの事が判る。
    ”790年頃以降”に「青木氏」がその「賜姓族立場」の頂点にあった事から率先して見本を示し、「上級階層」から「仏舎型石墓」を採用したと考えられる。
    この「石墓」に成るには、上記した「後漢の職能集団の石作部」が「大和川流域」に住んでいた渡来人にて可能に成った。
    「木製内仏舎」や「木製外仏舎」は「玉作部」が、後の「石墓」は「石作部」が作っていた。
    この「玉作部」や「石作部」等職能に関する後漢から渡来した「部民」は、直接、朝廷の管理下に置かれていて、官吏「伴造」が仕切っていた。
    この官吏「伴造」は殆どは「氏上」の中から選ばれた。しかし、「人」がいない時は「部民」の中から選ばれる事もあった。
    「伴造」は「民部省の配下」にあったが、「始祖施基皇子」の「青木氏」は、この”「大和川流域の部民」(技能集団)”(「青木部」と呼称 名張拠点)を「氏上」(伴造として選出)として直接統括していたのである。

    注釈
    (「青木氏」が ”氏上様”と呼ばれていた所以であり、”御師様”とも呼ばれていた所以である。
    「御師」は職能集団の総括者の事、 江戸時代には「徳川吉宗」に依って幕府にもこの「御師制度」を伊勢から持ち込んだ。以後幕末まで維持された。)

    注釈
    (「青木部」:民部 かきべ 後漢渡来人の職能集団の総称 後に「守護神神明社建立」や「菩提寺建立」等に関わり「賜姓族青木氏」の「2つの絆青木氏」に成る。「三つ発祥源」「国策氏」「神明社建立」の為に、永代の「民部大輔」にも成っている。この役職には、実質、下記の”「民部四権」”と云う国策に直接関わる大権を持っていた為に、「正四位下」以上の上位の位官級の者で中納言か上位公家等が任官した。「命令権者」であった。実務者は「民部大丞」と「民部少丞」(秀郷一門の役)であった。大蔵省よりも権限は強く、その為に「太政官府」の譜と併用して発給していた超重要な朝廷の機関であった。「民部部門」を実質制する者は、”朝廷の真の権力者”であった。「皇親政治の根幹部」であった為に「光仁天皇期」(施基皇子第六子)まで維持された。桓武期の「律令政治」に成った事から「民部四権」の大権は律令に取って代わったが、「青木部」は遺された。この段階から、「二つの絆青木氏」は発祥した。「嵯峨期」では「民部大輔」は「永代官位」と認定された。)

    注釈
    (民部省:「税政権」を主幹とし、その「具納組織の管理権」と、それに伴う一切の「問題解決権」と、その「管理内の警察権」(「民部四権」と呼ばれるもので、「私有荘園内」にも認めた。)

    従って、「青木氏」がこの立場を利用して、この身内の官吏「伴造」を通じて命じて、全体を動かし、「青木部」をして、「仏舎や石墓」等を率先して作り、見本的にも ”作り易い環境”に成っていたと観られる。
    その「青木氏」が作ったので「上級階層」は、”我先に競って作った”と云う事が起こったと考えられる。
    何故ならば、「日本人の国民性」で、”自分が先んじると周囲の批判を受ける”と云う懸念する習性が働いたと考えられる。
    実行するのは「上層階級」なので、批判は「公家や天皇」から直接受ける事に成る。
    ところが、そもそも、「上層階層」は、自ら「民部(品部)」を持っていなかった為に、「青木氏」に頼む事に成り「批判の心配」もなく見習ったと考えられる。
    元より「賜姓族氏」として「見習れる立場」にあった。

    その「石墓の原型」は、「砂岩石」の高さ1M程度幅40Cm程度の四支柱板を組み立て箱にし、その上に石板の「屋根型の箱蓋」をした形であった事が伝わっている。
    (仏舎型石墓)
    その後に、下の四支柱板を設けそれの一方を開いた箱型を立てた形にし、「仏舎型の屋根」を載せた形にした。
    (箱型仏舎石墓)
    更に、この箱型が1角柱に変化して、その上に小さく仏舎型を載せた形となった事に成っている。(角柱型仏舎石墓)
    角柱に変化してから、ここで、更に次ぎの様な差別化が起こった。
    この様に、三段階の「外仏舎の石墓」”(灯篭型仏舎石墓)”の変化を来した事が判っている。
    (灯篭型外仏舎)
    江戸期には下級武士も墓所を持つ様に成って汎用化して、より安く簡単にした形が好まれて屋根部が省かれ始めた。
    (角柱型石墓)

    明治期の苗字令で、庶民も墓を持つ様に成った事から、「角柱型」のものと成って行った。
    この時期を境に「材質」も汎用で長持ちさせる為に変えられた。(花崗岩)
    「角柱型石墓」の多くは室町期末期から江戸期に入って起こった形である。

    その身分さ家柄さを表現する為に、次ぎの様な工夫が凝らされた。
    角柱の上に元の様に、「五輪の塔」の様なものをした石物を載せた様にしたが、これも差別化と当時に、「仏教の教え」を表現する仕来りが出て来た。
    多宝塔、層塔等の物が石墓の横に添えられた。
    50年経つと、この「五輪の塔」を設ける者が現れ、何時しかそれが「仕来り」と成った。
    しかし、これも上級階層の誰しもが設ける様に成ってからは、「先祖の仏」が50年経過毎にこの塔に移す仕来りに代ったのであった。要するに「50年祭」である。

    「現在の石墓」はこの角柱の上に置かれた屋根型のものを省いたものと成った。
    しかし、「平安初期の古石墓」は何れも「仏舎型の石墓」の形を呈している。
    調査したところによれば、比叡山や高野山や知恩院の浄土寺の古い寺や墓所からこの様子が観て取れる。

    現在でも、地方の古来の歴史的遍歴を持っている墓所の「墓の形」には、未だ、初期の平安期の石墓の形を遺している地域がある。
    この様に「内仏舎の原型様式」や「外仏舎の原型の石墓様式」も「インド墓」の流れの「円古墳」を汲んでいたのである。
    それが、日本式に「環境や仕来り」(「和魂荒魂」と「古代仏教」)に合して改良した事に成る。
    丁度、「灯篭の形」に成っている。
    そして、はっきりとした記録に観ると、平安期800年過ぎ頃から石墓の「灯篭型外仏舎」に蝋燭を灯して先祖を導く行燈とした。
    「木製外仏舎」には「天武天皇の詔勅」が出た直ぐ後の690年頃から使われた模様である。
    現在の「庭灯篭」はこの「外仏舎型石墓」(灯篭型石墓)が変化したものと考えられている。
    この「庭灯篭」の汎用は1360年頃から絵画にも観られる様に成った。
    実は、この「庭灯篭」が、更に「密教の内仏舎」の上記の”「迎え行燈」の役目”に発展を成していたらしい。

    ”灯を点灯して、先祖を迎え入れる”と云う行為は、「古代仏教の概念」としては強いものがあり、「仏舎の時代変化」は、調べると「蝋燭の時代変化」にも合致している。



    > 終わり。

    「伝統」−7に続く。


      [No.322] Re:「青木氏の伝統 5」−「毘沙門天の影響 1」
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/08/29(Fri) 15:14:16  

    前回の末尾

    >事ほど左様に、他の四節句も、”休ませる事”に重点が置かれ、「人日の節句」の通りに考え方が、上巳、端午、七夕、重陽にしても、全てこの”休ませる事”の解釈であった。(別記)

    >”何故、この様に成ったか”と云う論調には、上記の「稲荷信仰体」と同じく、次ぎの「庶民信仰体」の影響が左右されていたのである。


    伝統−5


    「毘沙門天の影響」
    この「庶民の五節句」の「祝日祭りの影響」は、江戸期からの”民衆化した「3つの毘沙門天の神格化」(「戎神」「勝負神」「無病息災神」)”に大きく影響された事もあったと観られる。(下記)

    何故、この特定階級の中でも、「上級階層の密教」そのものの「毘沙門信仰」が浸透したかと云う疑問がある。

    それは、江戸期250年の間に、何と全国的に起こる「気候変動の大飢饉」が8回も起こっているのである。30年に1回である。
    地方の小さい飢饉にすると数えられない位で、「小さい飢饉」は殆どが「河川反乱」であった。
    この為に「土木事業」が盛んであった。
    「薩摩藩」や「紀州藩」は、その「最先端の技術」を持っていて、幕府に請われて他藩に主張して「河川改修」を命を掛けて盛んに行った記録がある。

    江戸期の庶民は、これは「日本古来の和魂と荒魂」の考え方が蘇り、「荒魂の悪神の悪神」が暴れていて、これを鎮める「毘沙門天」や「荒神」が働かず、「庶民の無信心」で勝手気儘に暴れているのだと考えたのである。

    それまでは、当に、「密教範囲の信仰体」であったのに、民衆は藁をも掴む思いで、この信仰体に再び飛びついた。
    「古来の荒神信仰」が「武士」の間で信仰されていた事を知ったのである。
    其れが元は「庶民信仰の地荒神信仰」(道祖神や産土神)であった事を知ったのである。

    そこで「神社仏閣」は、いち早く、民衆を呼び止める為に、「毘沙門天像」や「不動明王」や「荒神像」を祭祀した。

    ところが、毘沙門天像と不動王像の神格に対して、新たに「戎神」「勝負神」「無病息災神」を求めたが、「武神」「守護神」「財神」の「3神格」は求めなかったのである。

    その代わりに、「地荒神」を発展させて「万能神の様」にしてまったのである。
    この「地荒神」と「毘沙門天の神格」の「無病息災」等に”願いを込める休む日”とする節句をつくりだしたのである。

    この様な経緯から、「節会」が「節句」に変わった事も、庶民の「毘沙門天の神格」が「戎」「勝」「無」の「現世の生活観」に特化した為に、「会」に持つ”彼世の仏の意味”が消え失せて、「句」の”現世の人の息遣いの意味”に変化したものである事が判る。
    庶民の中では、最早、”「武」「守」「財」の3神格”は影形も全くなく成ったのである。
    (武士階級の中で護られた)
    ところが、その後に、「本来の3神格」を維持して来た「伊勢青木氏」にも、これを維持することが難しくなった時期が発生したのである。
    室町期末期に戦乱と大火で、「菩提寺」が消失して、「本来の密教作法」に依る祭祀が充分に行えなく成った。
    そこで、「大日如来坐像」も居宅に安置されて「毘沙門天像」と共に祭祀を何とか維持していたにも関わらず、今度も「明治の大火」に依って「毘沙門天像」そのものの偶像を消失しまった。
    完全な意気消沈状態であった事か伝わっている。
    暫くは、祭祀そのものが危ぶまれた時期があったとされる。

    当然に、この時期から、青木氏には、「本来の目的」(「武神」「守護神」「財福神」)の概念が低下して行ったと観られる。
    大正期に入り何とか祭祀は盛り返されたが、この時、「護り本尊」の「毘沙門天像」の代わりに「節句」に使っていた「義経ー弁慶像」を使う事で「密教作法」は何とか遺されたのである。

    従って、「青木氏」のこの「義経ー弁慶像」(二代目)は、江戸期の庶民が用いた偶像の「義経ー弁慶像」では無かったのである。
    「毘沙門天像の身代わり像」であった事に成る。
    ”消失による概念の低下”を防ぐ目的の為に、むしろ「庶民文化の偶像」を上手く利用した事に成る。
    奈良の発祥期から観ると、「伊勢青木氏」には、「氏存続」に関わったものとして、「一度の衰退」「3度の戦禍」「2度の災難」が起こった。

    毘沙門天像等の遍歴(三昧耶形仏具)
    大化期初期ー居宅 ー・・・  賜像「毘沙門天像」・「大日如来座像」
    平安期初期ー菩提寺ー150年 桓武天皇 皇親族排除
    平安期中期ー居宅 ー50年  秀郷流青木氏賜姓 商い開始
    鎌倉期初期ー菩提寺ー125年 源平合戦 以仁王の乱 孫京綱跡目
    室町期初期ー居宅 ー175年 紙文化 室町文化開始 巨万の富 「大日如来座像の移転」
    室町期末期ー新宮 ー350年 信長の伊勢三乱 商い中断 「大日如来座像の移転」
    江戸期初期ー松阪 ー10年  本領安堵 商い再開 「大日如来座像の移転」
    明治期初期ー鎌倉 ー275年 伊勢動乱 一揆支援 家勢再興 「大日如来座像の移転」
    明治期中期ー松阪 ー25年  松阪大火・毘沙門天像消失 商い倒産 「大日如来座像の移転」
    大正期初期ー松阪 ー20年  家勢再興 仏具整理


    その事から「縁起」を担ぐ事で一族の中にその意識が遠退いたのであろう。
    その証拠として、幸いにも遺された「お仏像様」にも、この「縁起」を担ぐ事が在って、”その「お仏像様」を祭祀するに、それに「見合う人物」でないと、その人物に「不祥事」が起こる”と云われていて、厳しく戒められていた。
    現実に、筆者もその人物で無い為にあるところに安置して頂き祭祀している。
    二度とこの様な事が起こらない様にする「訓戒」であろう。
    事ほど左様に、この「毘沙門天像」(「護り本尊様」)にも同じ事の戒めが課せられていたが、「松坂大火」で消失して仕舞う仕儀と成った。
    この為に、”この「戒めの咎目」を受けた”として祖父は、そけを祭祀する人物でないと自若し「毘沙門天の事件」で「祭祀」には口を固く閉ざしたものと観られる。
    (祖父は当時、伊勢ー紀州ー奈良ー大阪ー京都圏域では誰でも知る有名な人物で、紀州徳川家や天皇家との付き合いもあった。しかし、「咎目」を受けた。)
    結局は、900年以上続いた「伊勢の紙屋長兵衛」を倒産さした事への祖父の痛恨の反省なのであった。
    しかし、晩年、再び祖父は、何とかこの「毘沙門天の祭祀」を甦らせ、父を経由して筆者の代まで引き継いで来た。
    筆者以後は、先ずこの継承事全ては、文章にして遺す以外に最早、完全に無理な状況と成って居るのである。子孫は多く遺したが、何れの者も持って生まれた意識がそれを成し得る意識に到達していないのでは致し方無しである。仏説の当に”縁無き衆生 動し難し”である。
    恐らくは,”[伝統]”と云うものはこの様にして消え去って行くものである事が判る。
    消したくなくても「自然の力」はそれを超えていて、古来から伝わる「密教」の様々な「伝統」は完全に消える。何とか文章にまとめて記録して、全国の青木氏の末裔が「ロマン追求」の役に立つ為に出来るだけ詳しくして遺そうとしている。
    恐らくは、全国の青木さんも殆どは伝統があるにしてもこの様な事で消えて仕舞ったと観ている。
    最早、伝統そのものよりも「ルーツ探究」も侭ならない状況に成っている筈である。

    事ほど左様に、以下に遺すべき歴史の史実をより詳しく解析して論じ続ける。

    さて、この「義経ー弁慶像」(二代目)は、「人形」と云うよりは、”彫刻に彩色粉飾を施した木仏像”のものであたと伝えられている。
    この事は、”何とか「毘沙門天像」に似せてのものに”と考えてのことであったらしい。
    祖父の意識感覚が伝わって来る。
    新たに「毘沙門天像」を作る財力は、「紙屋」は倒産したとは云え、未だ充分にあったと考えられるが、何故なのかは判らない。恐らくは、毘沙門天像に似せようとしたと考えられる。
    当初は「毘沙門天像」は、上記した様に平安初期には「菩提寺」に保存されていたと聞かされている事から、その後、「室町末期の戦乱・大火」から「お仏像様」と共に居宅に移した。
    しかし、この「毘沙門天像」(護り本尊様)は、上記の配慮から ”古く成った”との理由づけになってはいるが、正しくは「明治期の松阪大火」で消失したのである。
    「毘沙門天像(護り本尊様)」の代わりかは不明であるが、上記した様に、一般文化を取り入れてか「義経ー弁慶像」(二代目)に変わった模様なのか、「毘沙門天像」に何故しなかったのか、調査したが、「菩提寺の消失」で「建立する力 維持する力」に総力を上げようとした事があって、「毘沙門天像の復元」には至らず、結局、「義経ー弁慶像」(二代目)で我慢したと云う事であったらしい。
    つまりは、「偶像」は変わったが、”「祭祀の密教所作」は遺こす事で治めた”と云うことであった。

    (「2度の大火の災難」から”「縁起」を担いではっきりさせていないの”が原因で、恐らくは「消失」である。ところが、この「消失の過失」を認めると、未来に「祖父の名誉の禍根」を遺すと判断したと観られる。この消失は「類焼」では無く「出火元」であった事から余計に意識したと観られる。)

    現在の「義経ー弁慶像」(二代目)の人形は、明治35年(2度目の松阪大火 出火元)で「毘沙門天像」と共に「義経ー弁慶像(一代目)は消失して、その以後のものである。
    後世には、悠久の歴史を持つ伝来の「毘沙門天像」であった事を明確にせず、「義経ー弁慶像」で繋ごうとしたのである。
    昔は、この人形に色々な装飾物があった様であるが、現在は無いが、何とか「毘沙門天像」に近づける努力はした様である。
    消失するまでの居宅での「毘沙門天像(護り本尊)」と「お仏像様」の祭祀では、色々な「仏法作法」があった。
    以下の所作が伴う「密教所作」は、「義経ー弁慶像」(二代目)であるにしても、「江戸の節句行事」では無かった事が良く判る。

    「密教所作 (九度作法・節会所作)」
    遺されているのは「道標行燈の作法」と「茶釜の作法」の他に次ぎの「作法事」がある。
    この祭祀には、次の様な作法が遺されている。
    イ 「家伝の宝刀」を幼児に背負わす作法が遺されている。  (武家訓魂)
    ロ 「武神」と云う事からの「武の基本所作」が遺されている。(軍配挙手、馬杯酒飲、刀剣手掛)
    ハ 「紅白の角餅」を供る作法が行われいる。        (白は賜姓族の象徴色)
    ニ 「幔幕」(家紋入り)を張る作法が行われている。    (福家象徴)
    ホ 「方位」は北に向けての物であり、その祭祀には「方位の障害物」等を清浄する。(邪気払い)
    ヘ 「回り行燈一対」を左右に据えて「仏壇」を飾り立てる作法が行われる。    (法華経典)
    ト 「仏壇」は「古来の武具」の合わせた「小型金具の黒武具」の仏具が添えられる。(三昧耶形)

    この様に、「青木氏の節会」は ”先祖との会する場”ではあるが、この”会する事”は「賜姓族(3つの発祥源)」を頑なに護る事の意を持っていたのである。
    其処には、「護る意」のみならず「歴史的な意味」が語りつくせないほどにあった。
    恐らくは、これらの「密教所作や仏具」は、仏法の「戟」「宝塔」「法棒」等の「三昧耶形の一式」であり、「九度作法」(節会作法)と呼ばれ、れぞれの「節会所作」にはそれなりの意味があった。
    それを次ぎに注釈として論じて置く。
    兎に角、「道標行燈」にしろ、「毘沙門天信仰」にしろ、「茶釜の作法」にしろその理解の前提と成る予備知識がないと「青木氏の密教所作」は充分な理解が得られないであろう。

    ・「注釈1」
    ハに付いて、「紅白の配色」には、通説は「源平合戦の色分け」とされているが、元より「賜姓族青木氏の象徴色」として、且つ、奈良期から「3つの発祥源」として「色の源元」の「白」が用いられた。要するに ”「青木氏の賜姓色」”である。
    他に”「あおき木の賜姓木」””「象徴紋の笹竜胆の賜姓紋」””「大日如来坐像の賜姓像」””「毘沙門天像の賜姓像」”等と共に「白色」は「青木氏の氏色」であった。
    これに対して、同じ「賜姓族源氏」が、「源平の戦い」に際して、「賜姓青木氏の賜姓白」を用いた。それに対応して「賜姓平氏」は、「紅」を用いたものである。
    本来であれば、「賜姓平氏」は対象色は「赤」と成るが、「中国の故事」に習い「紅」を用いたものである。
    「青木氏の象徴紋の笹竜胆紋」も源氏がこれに習って使用したものであるが、そもそも、「嵯峨期の詔勅と禁令」には、「源氏」には「象徴紋や白」などの「賜物の規定」は元より何もない。
    むしろ、「嵯峨天皇の詔勅」には、反対の意味合いの内容(”「朝臣族の身分」のみを与えるが、「民への負担」を考えると何事も自ら切り開け”)が記されている。
    従って、「賜姓源氏」は「同族の賜姓青木氏の賜物」を用いたのである。
    昭和の終わりころまで「紅白角餅」と「紅白饅頭」を配った。


    ・「注釈2」
    ホに付いて、家の中の南北の位置に「護り神棚」があり、これを清浄にして、且つ、南北の屋敷内に不浄なものがが無いかの清掃を行う。
    この「護り神棚」は「荒神様」と呼称されて、古来より毎日一族がお神酒を捧げて祭る慣習が続けられた。
    そもそも、「仏教」が伝来する前は、日本古来には、信仰するものを分けると、「和魂 にぎみたま」と「荒魂 あらみたま」とがあった。
    特に、「民間の伝承」としては「和魂」が信仰された。
    ところが「荒魂」は悪外を成すとして民衆は祀る事はしなかった。
    ところが、「賜姓青木氏」は、民衆とは異なり、発祥時より、この「和魂」と「荒魂」を祭祀していたのである。
    ところが、そこに「仏教伝来」があった。
    古来より「荒魂」に当たる「荒神」なるものがあったが、ところが、この「荒神」の「悪神」を、逆に祀り、この「荒神」の「神通力」を利用して「守護神」にすると云う考え方を持っていた。
    ところが、ここに「仏教の密教」が持ち込まれたのである。
    そもそも、上記した様に、インド伝来の「密教の神格」には「毘沙門天」や「不動明王」などもこの「荒神」であった。
    そこで、この「密教」では、その「荒魂」の「荒神」の「悪神」の「神通力」を使って「守護神」とする考え方があると説かれたのである。
    元よりの考え方にこの密教説が一致し、「日本の風土」にもこの考え方が根付いたである。
    つまり、どう云う説かと云うと、古来からいう「荒魂」を祀って、それを「荒神」として祀ることで「悪神」の部分を取り除くことが出来ると説いたのである。
    言い換えれば、”祀らないと「荒魂」の「荒神の悪神部分」は消えず悪さを起こす。”と「陰陽師」や「占師」は説いた。祀る事で逆に「荒神」と成るとしたのである。
    そして、その「荒神」は、ある特定の「荒魂」に宿るとしたのである。
    「荒の魂」には「武の魂」「守護の魂」「財福の魂」があり、この「荒魂」に「荒の神」が宿り、「荒神」はその「荒の神通力」を発揮して「魂」を護ると説いた。
    この「守護神」が「荒神様」なのであって、神格化した「毘沙門天」や「不動明王」なのである。
    「青木氏」は、元来からあった「神道の和魂と荒魂」の中に融合して、この考え方を「青木氏密教」として取り入れたのである。
    要するに、「神仏習合」を「仏教伝来」と共に古来に成し得たのである。

    上記した様に、「密教の神格」の「毘沙門天」は、北方十二域を守護すると云う「密教説」に従い「毘沙門天」の神を、南北の「家の中」の位置に「青木氏」は古来から祭っていたのである。
    これが「荒神信仰」と云うものに発展した。
    しかし、この「荒神信仰」には大別すると「二通りの系統」があった。

    「屋内」の「三宝荒神」 「守護神」を持つ青木氏等が祭祀する「荒神信仰」の事
    「屋外」の「地荒神」  庶民等が祭祀する「自然物」を祭祀する「荒神信仰」の事
    以上とがある。

    ・「屋内の荒神」は、「中世の神仏習合」に依って「神社や修験者等の関与」により、「火神」「竈神」の「荒神信仰」に、「密教仏教」や「修験道」等が伝道した「三宝信仰」(下記)が結びついたものである。
    これらの「屋内荒神」は、密教を宗派としている青木氏等の「特定階級の荒神信仰」であった。

    ・「屋外の地荒神」は、山神、屋敷神、氏神、村落神の「神格」があり、「樹木や塚」の様な自然物をも「地荒神」と呼んだ。「自然=地」から「地荒神」と呼んだ。
    中には飛躍させて、民は「牛馬の守護神」として「荒神信仰」も創出した。
    これらの「地荒神」は全て「庶民の荒神信仰」であった。

    有名な祭神には次の様なものがある。
    「道祖神」「産土神」がある。火神系を「荒神」として祀っている。
    「神道系」にもこれら「火神系」と「竈神系」の「荒神信仰」がある。
    「密教」「道教」「陰陽道」等が習合した独特の「スサノオ信仰」がある。
    「祇園社」(八坂神社)でも、「三宝荒神」を祭祀している。

    「三宝」
    さて、この「三宝」とは何なのかである。
    その前に、次ぎの注意事を知っておく必要がある。
    平安中期頃に密教側の中で、屋内の「三宝荒神」には次の様なものがあるとされていた。
    如来荒神(にょらいこうじん)
    麁乱荒神(そらんこうじん)
    忿怒荒神(ふんぬこうじん)
    の三神を指す。
    ところがこれらは「偽経」とされる説でもあった。
    (「偽経」とは中国で作成されたお経の事。)
    「仏教の如来」の扱いは、日本古来宗教側から観れば、「和魂」である。
    其れなのに「荒魂」とは矛盾している。
    この事から、大和には根付かない「妥協の産物」として排除された。
    後の二つの荒神は、至るところに”「乱怒の諍い」を起こす”と批判され、当に、荒れ狂う「荒の神」の「悪神」である。
    この「悪神」を「仏教の三宝の力」で沈められるとしながらも、「悪神」も「神」としてそのものが存在すると云う偽経の説は大和には受け入れられなかった。
    それは、この「悪神」そのものを「沈め治める力」は、最早、「人」には無いとして「偽経の神」と扱われた。
    インドの「釈迦仏教」では無く、「中国仏教の説」で、中国の「最古の道教」の影響を受けた「中国仏教」と観られ「虚偽の荒神」として大和では排除された。
    中国の”石も薬”から来る思考原理で ”矛盾も又真成り”の論調の中国宗教であった。

    「伝承解決者」
    では、この様な国家的問題を一体誰が解決したのであろうか。
    放って置いて解決する問題でも無く、国家的問題を古来の占者が、時代考証的にも平安期の陰陽師でも無い事は判る。果たして誰なのか。
    この様に、文学は兎も角も、中国宗教に関しては、「中国儒教」と共に、不思議に日本には古来より根付かない歴史を持っていた。
    ”矛盾も又真成り”の「中国特有の論調」が「大和の人民」には素直に受け入れられない歴史を持っているのである。ここが、決定的な ”漢人と倭人との違い”である。
    丁度、この「和魂」「荒魂」の古来宗教の奈良期の頃に、後漢の阿多倍王が率いる「200万人の職能集団の帰化」と「古代仏教」が持ち込まれたのである。
    恐らくは、”漢人と倭人との違い”大きく出て、大変な騒ぎと成った事が容易に判る。
    そこで、考えられたのが、両者の繋がりの「妥協の産物」として、「和魂」は兎も角も、「荒魂」に「三宝」を結び附ける事で、「荒魂」の「悪神」は消え、荒々しい「武魂」は、「武神」に成るとした仏説を創造した。
    そして、その「武魂」が「神」と成った事で、「武魂の守護」も「神」と成り、「武魂」に依って得られる「財」も「福神」に代わるのだとする密教説を造出した。
    そこで、この「武神」を密教仏教の「毘沙門天像」に偶像として求めた。
    この「荒魂」に類する密教の「武神」と成った「毘沙門天像」と、古来の「荒魂」の「荒神の偶像」とを結び付けたのである。
    この時に、上記する様に、幾つかの結び付け方が現れたが、取捨選別されて、「武神と成った毘沙門天」と「荒神と成った悪神の荒神」が結びついたのである。

    さて、この時、最初に新しい「密教仏教説」を受け入れ、且つ、「和魂と荒魂」を護っていたのは、他でも無い「賜姓族青木氏」であって、「三つの発祥源」として、「国策氏」としてその役を担わされたのである。
    当に、寸分も違わない同時期である。
    これは偶然でも無く、朝廷はあらゆることを鑑みて、「国策氏」としてこの問題の解決に取り組む様に役付されたのである。
    その為には、これらの問題に直面していた「天智天皇」と「天武天皇」は、「自らの子孫」をその役務に付ける事が必要に成り、最も信頼していた「施基皇子」と「川島皇子」にその役目を与えたのである。
    その為には、「天皇」に継ぐ「家柄と身分官位官職」などの一切の「高位公職」を皇太子を超えて与える必要があった。それを、「第四世族内の朝臣族」にして「第六位皇子」にして「賜姓」したのが、この所以なのであった。
    (補佐として第七位皇子の「川島皇子」にした。後には、「藤原秀郷」に対して特別に「青木氏」を賜姓して更に補佐させた。)
    つまり、「国策氏」として、最初にこの問題に取り組んだのが「5家5流賜姓青木氏」であった。
    言い換えれば、上記の様に「違い差」が出ていた「和魂ー荒魂の古来宗教」+「密教仏説」の”結びつきの解決”を図ったのが、歴史的にこの「2つの青木氏」であった事になるのである。
    この「2つの賜姓青木氏」以外に、この時期に両者に関わっていて、古代密教を継承して、解決に必要とする「特権」を持ち得ていたのは、「青木氏」に於いて有史来他に無い。
    これが、「毘沙門天信仰」と「三宝荒神信仰」とを悠久の歴史を以て継承して来た所以なのであった。


    この「三宝荒神」の三神は、後世、「僧や陰陽師や占師」の「生活援助」の為に、この「三宝荒神」を信仰(帰依)するよう考え出されて説いた稚拙仏法のものであって、陰陽師が政治に絡んだ時期を境に平安期中頃には消え去った。
    これらの「荒神」は、結局は「インド由来の仏教尊像」では無かったのである。
    結局は、この論調を採る「密教の氏」は出ず排除されたのである。
    本来の「三宝荒神」は、日本古来から存在する宗教(「和魂」「荒魂」)に、「古代密教仏教の信仰」が加わって独自に「習合発展した尊像」である。
    本来の「三宝荒神」はその代表的な物である。

    「仏・法・僧」の「三宝」”
    では、その「三宝」とは、そもそも「仏教」を維持する上で、最も「大事な宝」とするものであり、それは「仏・法・僧」であるとした。
    ”密教仏教での「仏・法・僧」の「三宝」”とは、”日本古来宗教の「荒魂の荒神」を沈める”との「神仏習合」を成し得た「仏説」の「密教具」とされる。
    ところが、この「三宝荒神」には三神があるとされるが、ここで云う「三宝」とは何れのもの何なのか。
    1「同体三宝」の説
    2「別体三宝」の説
    3「連携三宝」の説
    以上があるが、通説の「三宝」とは、3の”仏教を維持し伝えて行く上の「三宝」で、「仏像」と「経巻」と「出家僧」の三つを言う説”が一般である。

    つまり、次ぎの密教説である。
    a「仏」=悟った仏
    b「法」=仏説真理
    c「僧」=釈迦伝道師
    と説かれていた。
    ところが、この「abc」の「同体説」と「別体説」の「二つの三宝」は、大和には馴染まなかった。
    この「abc」の「3つの連携」で以って、”ここに特徴を生かしてその力を発揮して「大和古来の荒魂」の「荒神の悪神の神通力」を沈め治める”としたものである。
    この事に依って、「荒神の悪神」は鎮まるとしたのである。
    これらの「三宝荒神信仰」は、「荒魂」の「武神」や「守護神」を神格としている事から、「密教」を宗派とする「武家の氏」(青木氏)の「信仰体」として大きく発展した。
    この「三宝荒神信仰体」は、江戸期に入っては、「三代密教」のみならず「密教系を基とした顕教の宗派」(真宗や曹洞宗)の武士にも一部信仰される様になった。

    (江戸初期には「密教作法」は禁止されたし、全て宗教は顕教とした。「密教作法」が禁止された事に依って「三宝荒神の作法」は一部無く成った。)

    この様にして、江戸期に成って、上記した「上級武家屋敷」には、「荒神の神棚」が設けられ、これを「荒神棚」と云った。
    結局、江戸期に成って「密教作法」が無く成った事に依って、「青木氏」が行う「密教の毘沙門天信仰」との連動は、「上級武家屋敷」では無く成り、「上級武士屋敷」の”「年暮節会」の「荒神祓い」”のみに成ってしまった。
    この「荒神棚」は、南北の位置に配置し、毎月には「晦日(みそか)の祭り」を行い、「荒神祓(はらい)」と云う祭祀を行った。
    「伊勢青木氏」は、兎も角も、他の数少ない「密教氏」であった家でも、「毘沙門天の節会作法」(九度作法 )との連動は殆ど無く成り、”先祖との会する場”の「概念の伝達」は残念ながら消え去り、「荒神祓い」のみの祭祀になったのである。
    従って、今や、頑なにもその立場を守り通して来た「伊勢青木氏」にしか「三宝荒神信仰」と「毘沙門天信仰」の「密教作法」は遺されなかった。

    「地荒神信仰」としても、民衆の中には「大きな伝道」を興したが、矢張り、元々、何れも古来よりの「密教所作」である事から、「伝道の力」は極めて弱かったものであろう。

    去りとて一方、”「不浄や災難」を除去する神(荒神力)”とされることから、逆に、江戸中期には庶民には見直され、「火と竈の神」として信仰され、台所の”「かまど神」”として祭られた。
    日本では、”「台所やかまど」が最も清浄なる場所である”とする事から、庶民の「地荒神信仰」と共に、密教氏の「三宝荒神信仰」でも、江戸期に成って、次第に庶民の間でも、「密教の三宝」とは関わらず、単なる信仰として ”「限定された場所」”で信仰される様になった。

    因みに、その良い例が、次ぎの事で証明される。
    現在は ”かまど”は全く無く成ったが、現在でもその習慣が一部遺されている。
    この「竈荒神」によると、「幼児の額」に「荒神墨」を塗る習慣が江戸中期から起こった。
    それは、「竈墨」を”額の中央に塗る”と、”「荒神様の神通力」に依って「子供の難」を逃れられる”と云う習慣である。
    庶民は「墨」の×印、武士は「朱」の丸印を点けた。
    これは、京都から以西に広く広がった”「あやつこ」”と呼ばれる習慣で、現在でも、「祖先神の神明社」等の神明系神社では盛んに引き継がれている。
    これは「青木氏」の「皇祖神ー子神の祖先神の神明社」の500社程の建立に明治期初めまで携わった事から江戸期に成ってもすたれずに遺されて引き継がれて来ているものと観られる。

    平安期の「古文献」によると、この「あやつこ(綾子)」は”元は「紅」で書いた”とある。
    だが「紅」は、上流階級でのみ使われたことから、一般の庶民は「すみ」、それも「なべずみ」で書くのが決まりであった。
    この庶民の「なべずみ」を額に付けることは、「家の神」としての「荒神の庇護」を受けていることの印であった。
    東北地方でも、この印を書く事を”「やすこ」”を呼ばれていた。
    関東以北にも、この「荒神信仰」の「かまど信仰」は伝わった事を物語る。
    ここには「一切の密教性」が無く、「仏教性」さえも無く成っている。
    「密教性」、「仏教性」が無く成れば、最早、それは、元の「和魂」「荒魂」の「古来の宗教」に戻っている筈である。
    然り乍ら、「荒魂」の「荒神」の「悪神」は消えているのである。
    「庶民の消化力」は、”時には「仏教力」を超え、時にはその「仏教力」に頼る。”と云う能力を発揮する。
    ここが、「密教力に頼った氏」青木氏とは、その柔軟性には大差がある。

    一方、全国的に「御宮参り」のみではなく、一切の「神事」に参列する「稚児(ちご)」が、同様の「朱印」を付ける慣習が関西には未だあるが、これらは上記した「武家の習慣」(あやつこ)が逆に庶民に同化したものである。
    庶民は、”自らに利あり”とすると、”貪欲に余計なものを取り除いて、「自らの神」として同化させる。”のである。
    古来より、「武家」の「朱印」の「あやつこ(綾子)」を付けたものは、「神の保護」を受けたものであることを明示し、それに触れることを禁じたのであった。
    これが庶民に一部同化した「三宝荒神信仰」の名残である。

    遺された「古来の絵」には、「奈良時代の宮女」には、「あやつこ(綾子)」の影響を受けたと思われる「化粧の絵」と、又、「象徴する物品」にもこの「朱印」を付ける習慣もあった「絵」が遺されている。
    これらは「古来」の「伝統的」な「宗教」の「荒神祭り」の所以である。

    参考
    「あやつこ」とは、その語源は、”あや”は「言葉の綾」と云う風に、言葉と言葉の間の微妙な意味合いを指す。つまり、現世と彼世の間を取り持つ事を指し、「荒神」や「毘沙門天神」がその働きをすることから ”あや”成る言葉が使われた。
    ”つこ”の語源は、”やっこ”の「奴」に通じ、その「綾」を伝える物体を指す。
    関西の一部では”やっこ”と呼称する地域もある。
    つまり、「綾奴」の意味を成す。
    東北の ”やすこ”は、”やっこ”(奴:荒神や毘沙門天)が訛った形で変化したものである。
    「奴の顔」が「毘沙門天像」に似せて描くのもこの事から来ている。

    参考
    逆に、「地荒神」では、江戸期に入って「庄屋、名主、豪農、村主、豪商 郷士 郷氏 元武士」の屋外に、”「屋敷神」「同族神」”等として祀る「荒神」があった。
    各地方で大きく祭祀の方法が異なるので、一概には言えないが、「名主や庄屋や豪農や郷士や郷氏」などの「旧家武家」では、「屋敷」かその周辺に「屋敷荒神」を祀る例があった
    庶民の「地荒神」も、密教系の武家階級の「三宝荒神」と同様に、上記した様に、節句には、「荒神祭り」を、「稲作の収穫祭」のような感じを以って行われた。
    これらは「頭屋制(とうや)」で、「同族や集落の家々」が「輪番」で祭を主宰する古い祭りの形式を伝えている。
    これらは、”古来より土地に根付いた武士達”が、古来の「和魂」「荒魂」の概念を受け継ぎ、「密教の影響」をあまり受けなかった「郷士や郷氏」に受け継がれて来た。
    逆の現象として「地荒神」が遺された。
    未だ、地方の田舎に行けばこの慣習は細々と維持されている。


    そもそも、この「荒神」の「像」は、「毘沙門天」や「不動明王」に通じた「怒りの形相」である。
    「持ち物」は、一般には 右手…独鈷・蓮華・宝塔(五鈷杵・金剛剣・矢)。左手…金剛鈴・宝珠・羯磨(金剛鈴・弓・戟または槍)のような形がとられている。
    これは上記した様に「毘沙門天像」と全く同じである。

    つまり、「日本古来の荒魂の荒神」と「密教仏教伝来の神」とが融合して「荒神」=「毘沙門天」と成った事を意味しているのである。
    古来の奈良期に起こった「初期の神仏習合現象」であって、「賜姓青木氏」はいち早くこの現象を捉えた事を意味するのである。
    「毘沙門天信仰」=「三宝荒神信仰」であった。
    それが、現在まで「伊勢青木氏」の「個人の家間」の中で、「古来の伝統」として頑なに維持されて来た事を物語る「密教作法」(節会作法)なのである。

    (正直な処、もう少し早く筆者が「伝統の研究」に気が付けば、更に貴重な復元が成されていたとも感じられる作法である。何か違うなとは思ってはいたが、残念ながら、「有形の物品」では無く、「無形の作法」であったところが落とし穴であった。)


    ・「注釈3]
    イに付いて、「家伝宝刀」は、現在は法律にて所持出来ないので、模型が使われているが、昭和25年までは、「伝家の名刀」(大小10振り)であった。
    「武神」である事から、先ず「刀類」は祭祀には欠かせない。
    「3つの発祥源」の「第四世族 第6位皇子」から「皇族」を臣下して初めて「公家」とは異なる生き方をする「武家」を発祥させた。
    そして、この「武家」が「公家」とは異なり、初めて天皇を護衛する「武力」を持った身分の「侍」を発祥させた。
    それまでは、”天皇を直接護衛する「親衛隊」”と云う組織は無かった。
    「天皇」に四六時中、着きつ離れずに「さぶらう役」から”さむらい”(侍)と呼称される様に成った。平安期には”「武家」の「さむらい」”が護る事から、「武士」と呼ばれた。
    この「武士」が宮廷の北門を護ることから「北面武士」と呼ばれた。

    この最も有名な侍としての歴史上の人物は「源の頼光」であろう。
    「藤原道長」に終身仕えこの「武家」ー「侍」としてその「典型的な役」を全うした人物である。
    この「武家ー侍」は、下記に述べる「武人」「防人」「鎮兵」の「兵士」とは別であった。

    因みに、この「武家出自の侍」の位置づけがどの様な所にあったのかを論じて置く。
    それまでには、次ぎの「3つの武装集団」が奈良期から室町期末期まであった。
    1 中央の豪族や地方豪族が「従者と隷者」に武器を持たせた軍があった。これを「国造軍」と呼ばれた。評や郡の地方組織が独自に編成していた。
    2 阿多倍王に率いられた後漢からの「職能軍団」が存在した。「漢氏」と「東漢氏」と呼ばれ蘇我氏等がこの職能軍団を雇っていた。
    3 奈良期の「大宝期」に「国家統一」の為と、沿岸部が他国から侵略される事が多く成った為に、国による軍団が編成された。
    税に対する目的から初めて戸籍(庚午年籍)が天智天皇に依って編成された事を踏まえて「徴兵制」が敷かれた。これを兵では「防人」や「鎮兵」と呼ばれ、将では「武人」と呼ばれた。

    これらは「武装集団」であって、個人としては「一般人」であって、「個人」がある「特定の人物」等を「武」を以って護りさぶらう役目の「武士」即ち「侍」は、「武家の賜姓青木氏」が初めてである。
    この”「武家」”は、江戸期に「一般武士」を以って”「武家=武士」”を呼称されたものとはその意味が異なる。
    この「武家」は「公家」に対する呼称で、氏家制度の中で「氏」を大きく構成する家筋の「身分家柄」を意味するのであって、「立場」のみを意味しない。

    上記123は、3に集約されて平安期は朝廷軍、鎌倉期は幕府軍に成り、この軍団の編成は、指揮する上位5階級までは「侍」の「武士」が全てを担う様に成った。
    その5階級の「武士」の配下にそれぞれの従者や隷者(家来、家臣と呼称した)が編成して軍団を編成する様に変わったのである。

    その軍団の指揮に当たるのは上位5階級の軍階級であった。
    大毅(だいき) 大軍団 小毅2名 
    小毅(しょうき)小軍団 500人
    校尉(こうい) 200人
    旅帥(ろそち) 100人
    隊長(たいちょう)50人(一騎 最低単位の指揮官)

    以上が兵士を統率した。
    軍団は百人単位の編制である。

    主帳(さかん)主計局
    火長 炊事斑 10人

    奈良期からの一騎の隊長は、自ら50人の兵士を何らかの形で集めなくてはならない。
    この兵士には、上記2の傭兵も含めて、常時、家臣として確保しておく事が義務づけられる必要があった。
    実際は、平時はこの6割程度の範囲で治めていた。
    この常時の一代限りの傭兵の俸禄は家臣の約半分120石程度が相場であった。
    武器具は、原則手弁であった。大型具などは軍団の指定支給であった。
    鎧兜等の特殊具はその軍団の経済力に左右した。
    戦いの時は4割の兵を「鑑札をもった者」(仲介人)に頼んで近隣の村から農兵等を集めて貰う。
    「上記2の末裔」は、地方で細分化した「傭兵軍団」を編成し「・・党」を形成して、各地に”「国衆」”として転戦してはその勢力を拡大させて行った。
    勢力と転戦の経験に依ってその「傭兵の契約金」が変わる仕組みであった。
    この制度は、室町期末期まで続いた。

    以上の軍人に対比して、「賜姓青木氏」は「3つの発祥源」の立場にあった。
    「軍人」≠「侍」で、「侍」は「武家」を構成した。
    奈良期から、「技能官人」と呼ばれ、その官人は二つに分類されていて異なった世界を持っていた。「武術の技能官人」
    「単なる技能官人」
    とがあった。
    前者は、「侍」として「武家を構成する高級官人」で、公家の上級官僚の「侍」を務める。
    後者は、「武人」として、「家柄、身分、位階等を有しない下級官人」で軍団に所属する。
    大化期前までは、後者の「武人」と徴兵制で集めた「防人」に依って編成されていた。
    「武人」は従者や隷者を集めて兵士を構成した。

    大化期後は、「青木氏」の様に、特定の賜姓により「武家」を新たに構築して、「特定の人」をその技能を以て護衛する官人を新たに作り上げた。これをその役職から「侍」と呼称した。
    そもそも「侍」とは、”天皇を含む上級の特定の人にさぶらう事”で、この”「特定の上級の人」”は、「仏教の作法」で、生きている時から、「法名」としての戒名の”「寺・院」”を持っていた。
    この「寺院の人」に”「さぶらう人」”で、この「寺と人」の造語として「侍」として、これを”さむらい”と呼称する様に成った。
    (天皇等の人が位階在位を退いた時に、この自分の”「門跡寺院」”に入る。)
    これが、最初に「賜姓」を受けて成ったのが、当に ”「青木氏」”であった。
    この「武家、侍」の「二つの発祥源」に続き、「天皇」は「万民の象徴」として「民族の頂点の人」として位置づけられ、これに従って、その子は「真人族、朝臣族」として、賜姓して下族臣下すれば、「民の発祥子の元」として位置づけられた。
    ”「民は天皇の子」(朝臣子)”であるとする「万民一計の図」から、況や、”その「子の発祥源」と成り、その「子」の範たる位置を成す”とされた。
    この”「賜姓五役」”を与える代わりに「不入、不倫の権」の大権を与えた。

    参考
    (平安末期には、「源氏」の様に「武家」を構成しても、必ずしも「侍」に成れるかは保証は無かった。特に分家筋には「侍」に成る為の就職活動や縁故が必要であった。嵯峨期詔勅で、”朝臣の身分を与えるから自ら切り開け”と明記。 強いて”幾つもの難しく重要な役目”を与えられた「青木氏の賜姓」とは異なった。嵯峨天皇は、”これは民に負担を掛けない事による”と明記した。従って、天智天皇から光仁天皇までの「青木氏の賜姓」と、嵯峨天皇から花山天皇までの「源氏の賜姓」とは意味が異なっていた。「青木氏の賜姓」は「役を与える賜姓」、「源氏の賜姓」は上記の「朝臣子のみの賜姓」であった。 況や、「皇室の負担減らし」であった。これが、社会に「戦乱の前兆」と「荘園制の弊害」を生んだ。)

    ・「注釈4」
    ロに付いて、「武の基本所作」の「軍配挙手」では「伝来の扇軍配」を持ち、伝来の馬杯に酒を注ぎ、「馬杯酒飲」を行い、「刀剣手掛」では鹿の角で出来た「伝来刀掛け」に刀を掛ける所作の3つを行う。
    結局、次ぎの所作が成される。
    一 「武家」には「伝家の宝刀」
    二 「侍」には「将騎」として「伝家の軍杯」
    三 「朝臣子」には「伝家の馬杯」
    四 「国策氏」には、「永代正二位青木朝臣左衛門上佐」として「伝家の家紋刀掛け」
    五 「融合氏」には 「陣笠」と「黒瓢箪」(江戸期は鎧兜着用)
    以上は、「賜姓五役」と呼ばれた
    紋付袴の正装でこの儀式を嫡子が行う。
    (「鎧兜具足類一式装」は明治35年に消失した。)
    「三つの発祥源」の「三つの役目」には、夫々の「伝統の武具」があって、それを使って、「武の所作」を指し示す事に成っていた。
    ところが、江戸時代中期までは、この「所作」にも”正式なもの”があった様で、現在では伝わっていない。
    一族一門が集まっての「盛大な儀式」であったらしく、「一族一門の者」から次ぎの時代を担う若者が選ばれていた。
    青木氏は、慣習仕来りから一族の者は全て子供であり、「福家」のみの子供とは限らない。
    15歳程度の若者が複数選ばれてこの役目を果たしたとある。

    参考
    一人とは限らず、主な5人がこの「5つの役割」に分けて務めたとある。選ばれる事に誇りを持っていたとされ、何時しか、「青木氏」をリードする役目を担わされる事が約束された儀式でもあった。
    世間への”お目見え儀式、お披露目の儀式”の”意味合いも兼ねていた”とされている。
    古来よりこの「賜姓五役」には、細分化すると「多くの役」を持っていた事があって、「守護神」、「神明社」、「菩提寺」、「絆青木氏」、「殖産事業」、「二足の草鞋策」、「伊勢藤原秀郷流青木氏」・・等に分けて、その「若者の長所」を見抜いて若い時から指定して、「部の長」等が彼等を教育し指導する体制であった。その為に、一門化する為に女系の「2つの絆青木氏」(「部の長」)を広く構成した。「武家」の「賜姓五役」と「二足の草鞋策」(殖産・総合商社)であった事から、現在の会社組織に類似していた。
    若者が足りない時は、「信濃」から「甲斐」から一族の若者を養子として子供の時から養育していた。
    この「賜姓五役」の達成の為の「神格偶像」を求めて、「五つの儀式の所作」には、「三宝荒神信仰」と「毘沙門天信仰」が組み込まれていた。


    ・「注釈5」
    ニに付いて、これらの「所作伝統」は「福家」が行うが、「笹竜胆紋入りの幔幕」がその「象徴物」として用いられた。
    然し、現実には、現在では「幕」の家紋部の一部を見せるだけで「幕」としての事はしない。
    「幔幕」を張る事への世間への余りにも違和感が、現在ではあって実行しない。
    大正の終わりまで行われていた。むしろ、明治期までは、「嵯峨期の詔勅と禁令」が明治期まで護られた事もあって、「賜姓族」として誇示をしていた傾向があった。
    大組織を維持する「青木一族と長の判断」だけでは無く、組織そのものが、その様に押し上げる傾向があったらしく、「幔幕」は、その「誇示する象徴物」で「家紋」と同じ意味を持っていた。
    むしろ、「家紋」そのものを”誇張する道具”でもあった。
    「伊勢青木氏」は、「四家」と呼ばれる家が伊勢の各地にあって、松坂を中心に、員弁、桑名、名張、四日市に「一つの流れ」を持っている。
    しかし、家の優先順位は無い。ただ、全体のリード役としての家を「福家」と呼称し、「・・殿」と着けて呼称する。「松阪殿」が「福家」である。
    武士で云えば「本家ー分家」の組織に成るが、氏家制度の「絶対的権利」を持っていない。
    従って、「本家ー分家」の家紋では無く、「氏の象徴紋」である。
    従って、「家紋」では無い為に「副紋」や「丸付き紋」は使用しない。

    この「幔幕」の中央より左右に大きな「笹竜胆紋」の文様が染め込まれていた。
    一族一門とそれに連なる関係者(氏関係者と商業関係者)が羽織袴で挙って集まり祝いする。
    この「主な儀式」(四大節会)には次ぎのものがあった。
    「氏に関係する儀式」は「端午節会」
    「女系の氏に関係する儀式」は「雛節会」
    「伊勢族に関係する儀式」は「盆節会・彼岸節会」
    「伊勢四家族に関係する儀式」は「暮節会・正節会」、
    後は、「親族の内家」で、「荒神毘沙門信仰」として「月節会」が簡単に行われた。
    (実は、「稲荷信仰」も、「古来の和魂宗教」と「祖先神の神明社守護神」の「伊勢神宮 豊受大御神」の関係から、「賜姓五役」の副役として細々と行われていた。)
    以上が盛大に行われた。

    参考
    相当の経済力が無いとこの節会は行えず、「信濃青木氏」は、「伊勢青木氏」との親交が深かった為にいざ知らず、「甲斐青木氏」は、その「二足の草鞋策」への取り組みがあまり積極的に無かったことから、独自に以上の様な「密教の儀式」を行えたかどうか、将又、「節会の作法」等を遺し得たかは疑問である。
    室町期中期頃からは「甲斐青木氏」には家勢から無理であったと観られるし、何がしかの記録に突き当たらない。
    普通の江戸期の「五節句」程度の事の祝事は営まれていた事は考えられるが、「密教性作法」のものは考え難い。

    中でも「端午節会」は、信濃、甲斐、近江、美濃一族と関係者を集めての儀式であった。
    菩提寺と居宅に幔幕を張って行われた。
    幔幕には「賜姓族」を表す「白幕」と「青幕」があった。
    「白幕」は、「嵯峨期の禁令」にて「賜姓族青木氏」以外には一般には使えない事に成っていた。
    この禁令も明治期まで護られていた。
    「笹竜胆の家紋入白幕」は青木氏に関わる上記の「四節会」には使われた。
    一般では「黒幕か濃紺幕」であるが、「青木氏」は、葬儀、法事でも「白幕」を使った事が判っている。
    これは、その「使用する目的」によって分けるのでは無く、上記した様に「紅白角餅」等と同じく、「白」は「氏色」であった為に用いた。この事はよく聞かされていた。
    「白色」の中に、「黒色の笹竜胆紋」が染め込まれている。
    「青幕」(緑系青)は、「氏木」の「あおきの木」の色であった事から、独自の「副氏色」として使用していた模様で、婚姻、祝事等の「密教性作法」に関わらない諸事に用いられた。
    何事にも「白幕」ばかりを使う事には、朝廷や他の賜姓族(秀郷流青木氏一門)に憚られたと考える。
    青の幕の中に「対の白の笹竜胆紋」が染め抜かれている。
    (現在も伝来品が遺されている。筆者の息子の結婚式に使ったところ質問攻めにあった。)

    参考
    因みに、その盛大さは、「超大地主」であったことから、奈良や紀州や伊勢の各地の農民等の代表者等が泊りがけで集まったと伝えられている。
    その為の宿泊の準備では、「菩提寺と関係寺の解放」、「各地神明社の解放」と「全ての居宅や旅館」を確保したとされる。
    「土産物」「引き出物」などは、地元の家々の分も大八車に載せて列を組んで運んだと聞かされている。
    明治35年以降は、「端午、雛の節会」は、形式的に終わらせ、「盆彼岸の節会」は普通に内家で行った。
    現在は、「盆彼岸の節会」「暮正の節会」は「毘沙門天荒神節会」と合わせて家内で形式的に消えない範囲で行っている程度である。実際のところ”文書に遺せる範囲の維持”と成っている。



    > 終わり。
    >
    > 「伝統」−6に続く。
    >


      [No.321] Re:「青木氏の伝統 4」−「道標行燈」
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/07/29(Tue) 11:15:23  

    伝統−4

    「道標行燈」



    青木氏には何気なく行っている作法がある。
    それを良く調べると、奥が深く膨大な歴史を持っている事が判り、他氏とは異なっている事がある。
    今回は、祭祀の際に置く「行燈」等の作法に付いて論じる。
    この行燈作法には計り知れないほどに意味を持ち、歴史をもっている。
    この「行燈」は、普通より大きめで、真ん丸で直径70センチ位あり、高さが1メートルはある。
    この「行燈」は、華やかに蓮や桔梗の花などが書かれている。
    真ん中に氏の象徴の「笹竜胆紋」が書かれている。
    行燈の中には、周り灯篭が仕組まれている。
    先祖代々が引き継いできた物である事は一目瞭然で判る。
    修理手直ししながら使い込んできている事が判る代物で、筆者も何度も手直しをした。
    金銭的な節約事で「古い物」を使っているのではなく、”「先祖伝来物」”と云う感覚が強いし、手直しの跡が愛おしくその様にさせている。
    この「古い行燈」そのものには現在のものと同じで何の意味もない。
    ”その行燈を使う作法”に異質の歴史が浸み込んでいるのである。
    この歴史が浸み込んだ「行燈」は、”「迎え行燈」”と呼ばれていて、「仏壇」に添えるものでは無い。
    家の祝い事、不幸事、法事などの所謂、”祭祀”に使う。
    その為に、青木氏の多くの「喜怒哀楽の歴史」を観て来た行燈なのである。
    果たしてどのような歴史を持っていて、無言で我々に何かを語っている様な気がする。
    それだけに、この無言の歴史を解明したいと云う気がするのである。
    そこで、又、筆者の癖が出た。

    「迎え行燈の意味」
    この「迎え行燈」のその目的は、”先祖の仏を家の中に迎え入れる道標”であるとされている。
    これが、”最大の異質の歴史”である。
    ”先祖の仏を家の中に迎え入れる”と云う事自体がおかしい。”「仏」を擬人化している。”
    この概念が先ず最初に大きく違っている。
    「仏」をただ単純に「仏」として迎え入れるのであれば、何処でもお盆にはしている作法である。
    しかし、ここが違っている。”「仏」を「人」として迎え入れる”と云う概念なのである。
    それは、「道標」としての「行燈」を設けて”ある作法”で迎えるのである。
    「仏」ならば、「道標」はいらないし、「ある迎える作法」もいらない。
    「人」として迎えるから「道標」が必要であって、”お帰りなさい”と「迎える作法」が必要に成る。
    つまり、「人」から「仏」に代った「彼世の仏」を「現世の人」としてこの世に迎えると云う作法である。
    つまり、「有形の人」が「無形の人」に成って、現世に戻って来ると云う事に成る。
    其処には、”「有」から「無」に代っただけ”で、”「人は人」”と云う概念である。
    彼世にいる「無の人」を「仏」と呼んでいるに過ぎない。
    依って、結局は、「有」と「無」の持つ意味の差によるだけの事に成る。
    この概念でこの作法は構成されている。

    夜に成ると、「周囲の灯り」を消して、この「迎え行燈」を窓際に据える。
    この時、一通りの「仏法作法」がある。
    この「行燈」の前に、「机経台」を据えて花を生ける。
    「燭台」と「香炉」を据える。
    夜7時に成ると「迎え行燈」の灯りで、「般若心経」の経典を読む。
    この時、経典は三代前までのご先祖の数だけ経典を諷誦する。
    家族全員が集まり、その家の女主(妻)が導師と成る。
    この「仏法作法」によって”仏の人”を家の中に導いたとされる。
    これにて、「現世の者」と「彼世の者」が集う事で「一切の祭祀」が行われる考え方である。
    祭祀が終わると、「送り行燈」として同じ作法で送りだす。
    お盆の時は、「迎え火」「送り火」も併せて行うが、この務めは家長が行う。

    この「作法のポイント」は、”現世と彼世の者が集う”と云う事にある。
    ”祭祀は「現世の者」だけが行うのではなく、「彼世の者」も共に行う”と云う概念である。
    これが、「密教」であり、「青木氏」が、「古代宗教」と「古代仏教」の中で作り上げた概念である。

    「密教の考え方」
    「密教浄土宗」では、要約すれば、「現世と彼世」とは、「有の世界」と「無の世界」とにのみ「差」があるとする考え方で、それ以外には、”特段無い”とする考え方である。
    「人の死」とは、”その「有無の境界」を単に超える事”に外ならないとしている。
    「般若心経」の密教仏説の文言を忠実に守っている。

    そして、その「現世と彼世」との間には、何がしかの「接着剤」か「橋渡し」の役目のものが必要に成る。
    これは「自然の摂理」である。
    この世の万物には、必ずあるものとあるものを繋ぐ”「つなぎ」”と云うものが必要で、これなくして、「有の物質」は成り立たない。
    「原子分子の世界」にも、この”「つなぎ」”とする「中間子」や「中性子」なるものが存在する。
    宇宙もこの原理に従っている。もっと平たく言えば料理でも「つなぎ」が左右する。
    要するに、論文的表現としては”「媒体」”である。
    それが、「伝統2」でも論じた様に、”「香」を額に当てて香炉に焼香する事で繋がる”としているものである。
    現在的に、「科学的な根拠」で云えば、「右脳」から発する「ベータ波」による「媒体」で「複眼」からそれを発して、彼世の人に通ずるとしているのである。
    何度も他の論文で論じた様に、これは一概に無根拠では無い。
    また平たく云えば、「母性本能」は、当に、この「ベーター波」を無意識の範囲で使って子供を育てる本能を遺している。
    ”心頭滅却すれば火もまた涼し。”の通り、”人は心頭を鍛え雑念を除く事さえできれば、「有の世界」にあっても、「有の世界」から「無の世界」に移行出来得るのだ。”としている。
    要するに、「無の世界」は、「有の世界」と”乖離された世界では無いのだ。”としている。
    (科学的根拠の無い作法では必ずしもない)
    ”これを強調する教派が、況や、「密教」である。”としている。
    その”無に到達する手段(作法)”が、「三大密教の教義」の差に成って表れている。
    中には、その「到達手段」に主眼を置いた「禅宗」というのもある。

    この「古代仏教の概念」に依れば、「有の人」「現世の人」の「有」とは、”「雑念」”と云う事に成る。
    「有」=「雑念」と云う事に成り、「雑念の世界」「雑念の人」と云う考え方である。
    従って、その「雑念」を一時的に取り外せば「無」に成るのであるから、「現世の人」は、「無の人」に成り得て「彼世の人」と同じ位置にいる事に成る。
    同じ位置に居る事に成れば、”話は通ずる”と云う概念と成る。

    さて、ここまで、「有と無の媒体」と「無の到達手段」があれば、後は、「有の世界」に欠けていて必要なものがある。

    「偶像の神格化」
    それは、「有の世界」の「有の人」は、その「雑念」を取り除いたとしても、「虚空」に向かって、「無」に成って話しかけても、広すぎて通じない。
    これも例外の無い「自然の摂理」である。
    それには、”「有の世界」と「無の世界」からも一か所に集中させて、それに向かって「べーター波」で話し合えば通ずる”とする概念が生まれる。
    つまり、それには、何事も ”一か所に集中させる物”が必要である。
    それが、世にいう ”「偶像」”である。
    そして、その「偶像」を神格化して祭祀しすれば、”「有と無の世界の連携」”は成り立つとしている。
    従って、その「祭祀」は、その「有の世界」にある「偶像」にまきわり着く「有の雑念」を常に取り除いて置く事である。
    その事で”偶像は神格化する”とした「仏教の密教概念」である。

    実は、このこの「仏教の密教概念」(下記)には、ただ単に「仏教の密教概念」だけでは無く、「日本古来の宗教概念」(下記)が習合しているのである。

    それが、本論下記の「毘沙門天」の「神格化の偶像」と成る。
    (伝統−5で論じる。)

    さて、「無の世界」から迎え入れた「先祖(仏)の居所」は、「仏間の仏壇」(仏舎)にあるとして、祭祀では、必ず「仏壇」(仏舎)は飾り立てる。そして、迎える。
    しかし、この”「仏壇」”(「仏舎」 ここでは「仏壇」と云う呼称を使う)に、上記の「神格化の偶像」が無ければ成らない。
    特段に、「仏舎」には無くてはならないと云う事ではない。
    この考え方は、奈良期の大化期前には未だ無かった概念である。(下記)
    「仏教思想」が伝来して起こった概念である。
    その前の「日本古来の宗教概念」では、「自然神」に依る概念が全体を占めていた。

    「日本古来の宗教概念」とは、「和魂荒魂」の「宗教概念」であり、”「人」は自然の一物 依って「人」は自然に帰る”と云う事が主要な概念であった。(下記)
    全ての思考原理は、この主要な概念の基に従う。
    ”「付加価値」”の就かない「原子思考の原理」である。
    現在の「日本人の思考原理」には、多くの「付加価値思考」が付加されて、”現在思考の原理”が出来上がっている。
    しかし、それを”玉葱”の様に、その”付加価値の思考原理”の皮を外して行くと、最終、この「原子思考原理」に辿り着く。
    それが、この、”「人」は自然の一物 依って「人」は自然に帰る”に成るのである。

    取り分け、日本人は、「古代仏教の影響」を強く受けたが、「純粋な仏教」では無いものを造上げている。
    それは、我々は、”「仏教」”と思っている「仏教」は、これも”玉葱”の様に、紐解けば ”「神仏習合の仏教」”というものである。
    この「付加価値」が付いて、結局は”「神仏習合仏教」”というものに出来上がっている事に成る。

    では、”「神仏習合」のその片方の「神」(和魂荒魂)とは、一体どの様なものであったか”は余り知られていない。
    それは「日本古来」からある「日本の土壌」から生まれた「宗教概念」で、”「和魂荒魂の概念」”と云う「聞きなれない概念」で構成されている。
    要するに、これが「玉葱の芯」ともいうべきものである。
    その「玉葱の芯」とも云うべき概念が発展して、「自然神」が確立化されて遍歴して、遂には「古代神道」と云う概念を作り上げた。
    この「古代神道」が「仏教」と習合したのである。
    従って、「日本人」は、「和魂荒魂の宗教概念」から出来た「自然神」に通ずる思考原理が、「他の民族」よりも強いのである。
    つまり、”「人」は自然の一物 依って「人」は自然に帰る”の「原子思考」が、「無意識の根底」にあって、「他の民族」よりも強いのである。
    これが、「国民性」と成って遺されているのである。
    依って、根底であるが為に、”グローバル化”に成る為として、強い「国民性」となっている「仏教原理」を外しても、この「原子思考」は外せない事に成る。

    つまり、本論は、この影響を同じ「日本人」でも、”「青木氏」は最も強く影響を受けた氏である”と云う事を論じる事と成っている。
    我々「青木氏」は、その「遺産」を強く「伝統」と云う形で持っていた事に成る。
    何故ならば、「賜姓族」と云う立場の柵(賜姓五役)があって ”それを引き継ぐ立場に置かれていた”からである。
    その引き継いだ「原子思考」と成っている概念が、況や「密教」と云う形で引き継いで来たのである。
    「原子思考原理の概念」=「青木氏の密教」
    簡単に云えば、”「人」は自然の一物 依って「人」は自然に帰る”の考え方が一番強い氏と云う事に成る。
    では、その「青木氏の密教論」を下記に論じ事に成る。

    注釈
    (余談であるが、筆者は、何故か子供の頃から、「自然物理」が大好きで、その道に入った。
    しかし、そうなれば、”理屈を唱える者”に成っていた筈である。
    ところが、一面では理屈の根本と成る「宗教の様な概念」も好きで、子供のころから”歴史大好き”の若者であった。
    取り分け、筆者の頭の中には、「物理」+「歴史」=「自然」の考え方が構築されていた。
    何れも共通項は”「自然」”に通じている。
    これは、無意識の生活の中で、この「青木氏の密教概念」で育った為か、或は、”遺伝子的”に継承されて来たものかも判らない。
    然し、親からは、”不思議な子”と云われ、”先祖の誰々によく似ている”と云われていた。
    先祖の中に4代目や7代目位前にもそのような人物がいたらしく、「青木氏」に良く出る隔世遺伝らしいことは判っている。
    故に、「青木氏の由来の復元」が出来るのではないかとも考えていて、親も故に私に「復元」を依頼したと考えている。
    それは「理屈と歴史と自然」の性格を持っている事を見抜いたからで、親は「家の伝統」の事を、私だけに口伝し資料や記録でも渡されていた。
    この「家の伝統」の一つで「密教所作」から論じる。)


    「密教作法」
    そこで、「道標行燈」の「密教所作」では、「普通の日」は、据えないが「祭祀の日」には「一対の周り灯篭」を”「仏壇」”(仏舎)の左右に据える。
    次ぎに、「客間に据えられた囲炉裏」に大きな黒い「南部鉄瓶の茶釜」が据えられて湯煙を上げる。
    普通は、作法として「密教」を主教派とする家には、南向けた客間の右隅下に必ずこの囲炉裏があった。
    昔は、この「茶道用」の「囲炉裏端」には、それなりの家筋に行けば必ず据えられて居り、直ぐに作法が出来る様に、それなりの「諸道具一式」が治められた「茶箪笥」なるものがあった。
    (現在も筆者の家にはこの伝来の竹で出来た物と黒檀で出来た茶箪笥が遺されている。「囲炉裏端」もある。)
    「密教寺」の「浄土宗寺」には、現在でもセットになって本殿仏間にこの様式のものがある。
    この「湯煙」は、”部屋の空気を清める”と云う作法が先ずあって、その「清める内容」としては、「空気と雑音」である。
    「空気」は「湯煙」で浄化させ、「雑音」は「余韻」にとする。
    これは、上記の”「雑念」を取り除く為のよりよい環境(空気と音)”を作り出そうとする決められた「密教作法」である。

    先ずは、その「韻」は次の様にして起こす。
    筆者の家では「茶釜の作法」と呼んでいた。
    先ず、水の入った「南部黒鉄茶釜」が沸騰すると、茶釜の中で「二つの韻」が起こる。
    一つは”キンキンと鳴る韻”と、この”キンキン音”が先ず出始めると、部屋を静かにして置くと空気の揺らぎが無く成る。
    そうすると、部屋の湿度がある一定に保たれ、茶釜の中の水分量があるところまで減少すると、この事から起こる茶釜の中で共鳴音が出る。
    「湯の沸騰」による振動が、茶釜の中で響いて、膨張した茶釜の中の空気が振動して共鳴音が起こるのである。
    締め切った部屋の中が加湿されてより音は伝わる事に成る。
    蓋を僅かに開くと、この為に茶釜の中が片方が開いた状況と成り、「閉管」と云う「笛の原理」が成り立ち、 ”ブオーン ブオーン””キンキン”と茶釜の中で不思議な音が鳴り始める。
    成り始めると、この茶釜の鉄蓋の外して、桐箱の様な形状の物を代わりに置くと、”共鳴音”は更に大きく部屋のなかで大きく共鳴する。
    これで仏を ”迎える部屋の態勢”が出来上がった事になる。
    つまり、”迎える環境”の中に、「雑念」が取り除かれた事に成る。
    「仏間」にこの環境を作り出す事に成る。

    参考
    これにはある一定の広さが必要で、あまり小さすぎても加湿と室温が高く成りすぎても良くなく、広すぎてもその環境を作り出す調整が難しく出来ない。 
    筆者も物理屋として試みたが、常温で常湿の範囲で周囲が板壁か土壁の部屋が良い事が判った。
    これは”部屋の環境調節”が良く出来ると云う事である。

    そう考えれば、室町期から江戸期に流行した「千利久の茶道」としての「茶室の造」が最適である事が判る。
    恐らくは、「千利休の茶道」は、この「環境」を部屋の中に作り出す様に作られていたと考える。
    つまり、「千の利休」は、恐らく、この”「古来からの密教の作法」”を知っていたと考えられる。
    「千利久」の地元は堺であり、上記の大和川の湿地流域で興った「古来稲荷信仰」の地元でもある。
    実は、「大和川流域系」の「古代稲荷信仰体」はこの「茶釜作法」を奈良期の古来より継承しているのである。
    そこで、この「信仰の作法」から伝わった事か、或は、「伊勢青木氏」の「二束草鞋の商人」を通じて「密教浄土宗」から伝わった事かも知れない。
    何れにしても、「千利休」の「茶道」は、間違いなくこの青木氏に伝わっていた「密教作法」の「茶釜の作法(環境と作法)」を採用したと考えられる。
    「茶道」の「外の環境」も、周囲は樹木で囲み、湿度と酸素で温度を一定に保ち、中は上記の「茶釜の環境」を作り出した部屋にしたと観られる。
    「堺商人」も小西行長の様に「二束の草鞋の商人」で「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」とも接触はあった。
    この”「茶釜作法」の環境”は、人間が最も心癒される静寂、且つ、次元が異なる様な「不思議な心根」になる「環境」である。
    恐らく、室町期末期から江戸期に発展して「茶道」は、この「茶釜作法の環境」をそっくり真似たものであると考えられる。
    この「青木氏」や「稲荷信仰体」に伝わる「茶道の原理」は、「千利休の茶道」よりも、遥かに前から「青木氏」は、奈良期から延々と祭祀に用いて来た作法である。

    「茶釜作法の謂れ」
    さて、では ”何故、この作法が行われるか”の疑問ではある。
    そこで、「無の世界への環境」が整えられて、「余韻と共鳴音」は、”無の世界への連絡”を意味しているのではないかと考えられる。
    そして、”空気の揺らぎの無い加湿された静かな空間”が「無の世界の先祖」が居られる”「有の世界」の環境”としていると考えられる。
    これが古来から伝わる「茶釜作法」が作り出す環境なのである。

    恐らくは、「古来の人」は、「無の世界」の先祖は、この様な”「静かで良質な空間」にこそ存在し得る”と考えられていたのであろう。
    従って、儀式毎には、この作法(「茶釜の作法」)を用いていたのである。
    では、この「茶釜の作法」が「古代仏教」から来た作法なのか、古来の「和魂荒魂」から来る「古代神道」の作法なのか疑問が湧く。
    「神仏習合」している環境であるが、敢えてこの歴史を調べた。(下記)

    確かに、筆者から観てもこの作法の科学的論理には「論理的矛盾」はない。
    人間が作り出し奏でた音では無い。「自然の原理」によって奏でられた音である。
    古代にこの様な「自然の原理」を把握していたとは驚きである。
    故に、”進んだインドー中国の文化の影響”を受けていたとも思える。
    しかし、実は、この「密教作法」のところを調査研究していると、4世紀頃の古来より既に発祥した全く同じ作法を強調する信仰体がある事が判った。
    それが、大和川流域に発祥した「稲荷信仰体」である。

    「稲荷信仰体」
    この「稲荷信仰体」は、自然の生活の中から生まれて来たもので、仏教の様に、概念の論理化された中での作法ものではない。
    依って、「3世紀の卑弥呼の時代」から既に存在して居たと筆者はみている。
    出雲から出た「弥生信仰の作法」では無く、「縄文信仰に近い作法」であるからだ。
    つまり、土壌から這い出て来た「庶民信仰」と云うか「農民信仰」があった。
    それは、「古代仏教」より少し前の古来より受け継がれて来た「古い信仰体」で、後に「伊勢神宮の外宮」の「豊受大御神」からの影響をも受け継がれてきた「民の信仰体」である。
    むしろ、この「古い信仰体」は時代性から観て、「豊受大御神」よりやや早い時期に発祥している。
    実は、この事に付いて書かれた「豊受大御神の定説」によれば、次ぎの様に成っている。

    「雄略天皇」の時に、天皇の夢に「天照大御神(内宮祭神)」が現れ、”「自分一人では食事が安らかにできない。”
    その夢の中で、”丹波国の「等由気大神(とようけのおおかみ)」を近くに呼び寄せるように”と神託した”とある。
    そこで、同年、”内宮に近い山田の地に「豊受大御神」を迎えた。”とある。

    そもそも、この説は”神代の時代の話”で「後付」の話である。
    ここで、矛盾が一つある。
    そもそも、伏見の神社系「稲荷信仰」は、「豊宇気毘売命(とようけびめ)」等の五主神格としている。
    この「稲荷の豊宇気毘売命」と「稲荷の等由気大神」とは同神である。
    「等由気大神」を勧請したのであるから、「稲荷神」の方が先と成る。

    そもそも、信用できるのは、歴史論では「継体大王」からの話である。(現在の定説)
    「伊勢神宮」ともなれば「天智天皇」と「天武天皇」と「持統天皇」の事である。
    正式に「伊勢神宮の正式な体制」が出来上がったのは、「天武天皇期」の685年である。
    全てが正式に動き出したのは「持統天皇」の690年である。
    そもそも、元の「内宮」に対して「外宮」を設けての「祭祀の形」は685年と成る。
    一方「稲荷信仰」は、地形上から観ると、大和川流域に広がった信仰体とすれば、「ヤマト王権」期の初期には既に、この流域の湿地帯には稲作をする民が定住していた事が判っている。
    そして、堺付近の港に大船団で韓から来て上陸し、大和川の流域を制圧後、更に南の「紀族」を制圧して紀伊半島の南端から大和盆地に攻め入ったとある。
    しかし、食糧調達が困難と成り、この地域を統治していた「五族」と和平して、この「五族」と共に「政治連合体」をつくった。
    これが「ヤマト王権の樹立」である。
    「継体大王」(507年から531年)として君臨した。
    この時には、既に古来の「民の信仰体」は大和川流域には出来ていた。
    何故ならば、「継体王」が、先ず最初にこの「穀倉地帯の重要な流域」を戦略的に制圧したからこそ、「連合体の大王」と成り得たのである。
    つまり、この時期には、既に「民の信仰体」(少し後に「稲荷」と呼称)が出来ていた事に成る。
    とすると、「稲荷信仰体の原型」は、480年頃から500年までの事に成る。
    そうすると、185年から200年前の事である。
    「稲荷信仰体」として、流域に「飛鳥期の石塚」が多く見つかった時から考えても、「天智天皇期」の「豊受大御神」を考えても、どんなに考えても100年程度以上前と成る。

    更に「日本書紀」では次のように書かれている。
    要約すると、次ぎの様に成る。
    「稲荷大神」は、「欽明天皇」が即位(539年)する前に、”渡来人の「秦の大津父」という者を登用すれば「天下」をうまく治めることができる”とお告げがあった。
    結局711年に、”「秦伊呂巨」が、この「稲荷大神」を「氏神」として納めて国を治めた”とある。
    (この頃には、丹波の淀川流域にも「稲荷信仰体」は広がりを見せていた。)

    既に、「稲荷信仰」は、539年には、正式には「神道の伏見稲荷」があった事に成る。
    この事から、上記の”「稲荷信仰体」が外宮より先だ”とする説は成り立つ。

    依って、「豊受大御神」は、この”民の原型の様な「稲荷信仰体」の影響” を受けてのものであると観ていて、通説の逆の経緯を辿ったと観られる。

    ”民のこの信仰体”が余りにも大きく、且つ、「五穀豊穣」を民から願う信仰体であった。
    この事から、”追随して遷宮したばかりの「伊勢神宮」に「外宮」を設けて、「五穀豊穣の神」の「豊受大御神」として受け入れて、「民の信仰体」を追認する形を採った”と考えられる。

    その「稲荷信仰体」は、「東大阪の淀川沿いの南域の湿地帯付近」に発祥した全ての「民の古代信仰体」である。
    (この湿地帯は3世紀頃は「大和川沿いの奈良域西域の広域」にも広がっていた。)
    これは「五穀豊穣」を「民の願い」として発展した自然発生的に広がった”「稲荷信仰」”である。
    後の「秦氏の氏神 伏見稲荷大社」の「稲荷信仰体の原型」と成った「古代信仰体」である。
    (この事は「青木氏の守護神と神明社」で詳細に論じている)
    この「民の稲荷信仰」は、節句毎にこの上記した様な儀式を行っていたと記録されている。
    現在も”お稲荷さん”として行われている事が判っている。
    この「稲荷信仰の発祥地域」の近くでは、有名な「仁徳天皇陵」等の「古墳群地域」でもある
    又、古くからこの近隣には「遷宮の社殿」が多くあった地域帯でもある。
    更には、記録にもある様に、「飛鳥の桜井」の地域まで広がる「稲作の環境」であった。
    「稲荷」、又は「稲成」と云う字を使ったものも多い通り、”「稲」が成る”の意味を持っていたのである。
    この”稲が成る”の”民が集まっていた地域帯”にこの「信仰体の遺跡」が多く分布している。

    一般的には、「古代密教」にも、この「儀式の作法」も頻繁に行われているので、それが「庶民の稲荷信仰」にも受け継がれたと考えられるが、その逆なのである。
    何故ならば、更には、大和に私伝として最初に普及させた地域は、鞍作部の「司馬達等」が「古代仏教」を伝えたのも、この「河内岸和田域」から「奈良高市郡」に掛けての作業場庵等があった地域である。
    この地域には、 ”渡来人の「部民」の在った地域”でもある。
    古来より、この「湿地帯の付近」に集まって生活し、そこで自然発生的に生まれた「稲の恵みの神」の信仰体のある地域に何と異教の「私伝仏教」が広まったのである。
    兎も角も、この環境からこの「密教作法」が受け継がれて来たと考えられる。

    実は、この「稲荷信仰体」には「仏教の稲荷信仰体」もあるのだ。
    その有名な信仰体が、実は大阪の「豊川稲荷」なのである。
    上記の「伏見の稲荷信仰体」と異なるのである。
    つまり、この「豊川の稲荷信仰体」は「神仏習合の信仰体」である。

    元々、日本古来の「民の信仰体」の「稲荷信仰体」が、大和川流域に広がりを見せていた中に、司馬達等らの渡来人の技能集団が住み着居た。
    ここに、この「司馬達等」の私伝の「古代仏教」が、自然発生的に広がり、ここで、「民の稲荷信仰体」との「習合」が起こったのである。
    これが、「豊川稲荷寺院」なのである。

    この「茶釜作法」は「民の古来信仰体」の「稲荷信仰」が生み出したものではある。
    然し、「神仏習合」の結果から、伝来の「古代仏教」にもこの「茶釜作法」が伝わったのである。

    この現象は次ぎの様にまとめられる。

    ア 「上位の古来信仰体」の「和魂荒魂の信仰体」 ー公伝の古代仏教との習合 552年頃
    イ 「民の古来信仰体」の「稲荷信仰体」       ー私伝の古代仏教との習合 522年頃

    奈良期にはこの「二分化の流れ」が起こっていた事に成る。

    この「上位の古来信仰体」(「和魂荒魂の信仰体」:天照大神の内宮)は、「豊受大御神」として、この「民の古来信仰体」の「稲荷信仰体の概念]を「外宮」として取り込んだ事に成るのである。
    依って、「伊勢神宮」の中の行事でも、この「茶釜作法」に近いものが、現在も引き継がれているのではないだろうか。

    (伊勢神宮の守護も任されていた奈良期の「伊勢青木氏」にも引き継がれ、奈良期末期からもこの「茶釜作法」は引き継がれている事から考えると、必ず近い形で遺されている筈である。)


    「伊勢青木氏」が「古代密教」として細々とここまで引き継いできている事を考えると、「神仏習合」から、「伊勢神宮」にも何らかの祭事の中に引き継がれていると考えられる。
    そもそも、朝廷では古来より「八節会の祭祀」が行われていた。現在も行われている。
    従って、その中にこの作法として近いものが遺されている筈である。

    さて、そこで「青木氏」は、普通に考えれば、当然に「ア」と云う事に成る。
    ア 「上位の古来信仰体」の「和魂荒魂の信仰体」 ー公伝の古代仏教との習合 552年頃

    果たして、そうであろうか。確かに、「イ」からでは無い事は判る。
    しかし、「朝廷」とすると、上記の「豊受大御神」の源説により、「ア」と「イ」の両方からと云う事に成る。
    「朝廷」は「ア」と「イ」の両方と成ると、「賜姓青木氏」が「ア」だけと云うシナリオは成り立つのか”と云う疑問が起こる。
    これは検証してみる必要がある。
    検証
    そもそも、「天皇の夢」だけでその様にする事は先ずない。
    朝廷が「イ」を「豊受大御神」として「外宮」で祭祀する様に成った経緯(上記説論)から考えて、それを”その様に仕向けたのは一体誰か”、或は、”発案したのは一体誰か”と云う事に成る。
    この時の「執政」は、草壁皇太子に代って「施基皇子」が執っていた。
    「伊勢神宮の遷宮」に関わった「天智、天武、持統に仕えた人物」と成れば、「施基皇子」だけである。
    全国の政治に必要とする事柄を調査して、「善選言集」(善事撰集)にまとめて具申奏上した人物となれば、「施基皇子」だけである。
    「伊勢国」と「伊勢神宮」を国司「三宅岩床連」に守護させていた人物は「施基皇子」である。
    何れを採っても「施基皇子」だけである。
    ここで、疑問が解ける。

    「施基皇子」がこれだけの立場にありながら、他の者が執ったとは考え難いし、先ず立場上は取れないであろう。
    然すれば、施基皇子が提案し実行したのに、地元の自分の「賜姓青木氏」が、”「イ」との関係を持たない”と云う事はむしろ矛盾である。
    決して、”「ア」だけであった”とは考えられない。
    結論は、「朝廷」と同じく「ア」と「イ」であった筈である。

    故に、両方に持つ作法の「茶釜作法」であったのであって、「ア」と「イ」の両方の持つ「神仏習合の作法」であったのである。

    実は、別の面からここにも証明する事柄があるのである。
    そもそも、「稲荷信仰体」は、元より「五穀豊穣」である。
    しかし、これをより進める為には、「殖産興業」も必要と成り、「商業」も必要に成る。
    「稲荷信仰体」は、実は、この「二つの神格」も持っているのである。
    この「二つの神格」は、「秦氏の氏神」として祭祀された頃(711年頃)から、この「二つの神格」を持った事が記録から判っている。

    「施基皇子」の没年716年とすると、「日本書紀」を引用すれば、次ぎの様に成る。
    妹の「持統天皇」から依頼されて「律令の根幹」にする為にと、全国を天皇に代って飛び廻った経験からも、終年「善選言集」の編集に取り組んだ時期714年頃と一致する。
    恐らくは、「農業」を主体としての「五穀豊穣」に加えて、この「稲荷信仰体」に対して、「殖産興業・商業」を推進する様に上奏した。
    それを神格化して、”「伊勢神宮」の「外宮の豊受大御神」の「ご加護」として進めようとした”と観られる。
    その「青木氏の証拠」に、「伊勢青木氏」には、古くから「伏見稲荷神社の祠」と「朱鳥居」を持っていた事が伝えられていた。
    そして、その「仕来り」では、現在まで「稲荷朱鳥居」を建立して祭祀していた。
    口伝では、鎌倉期末には松阪の居宅には、「初代の稲荷朱鳥居」は未だあった様である。

    「皇族賜姓族5家5流の青木氏」は、日本の「五大古代和紙」を「伊勢青木氏の奨励」で殖産した。
    この「古代和紙」としての時期は、6世紀後半から7世紀前半と何れの五地域の記録にも遺されている。
    「伊勢和紙」は「伊賀和紙」が主体と成っている事から、それを「他の賜姓族」に奨励した。

    年代的には次ぎの様に成る。
    この事から、そうすると、「賜姓」を受けた直後647年頃から地元の殖産を強化する為に始めた事に成る。
    「大化改新」645年直後と云う事に成る。
    外宮の「豊受大御神」は685年・690年の50年前に成る。
    「伏見稲荷大社」711年の前に成る。
    「古代仏教」の私伝522年と公伝552年の後に成る。

    「五穀豊穣」は「当初発祥の神格」としては判る。
    しかし、「殖産興業・商業の神格化」は、かなり早い時期であり、「古代仏教」の伝来後に成る。
    そうすると、「大化期の直前」と成ると、古来の「稲荷信仰体」が、「古代仏教」の「伝来の影響」を受けた。
    そして、「後漢の職能集団」の進んだ技量で、”「古代和紙を殖産態勢」にすること”を習得した事に成る。
    当然に、その「殖産」のみならず「興業」には「財源等の基盤作り」が絶対に必要に成る。
    その基盤には、「伊勢の守護の青木氏」が関わった事に成り、そうすると、早くて650年頃と成る。
    それを「施基皇子」は、その「和紙殖産」への取り組みの経験を通じて、「殖産の奨励」を天皇に奏上した事に成る。
    そして、自らも積極的に進め、子孫は950年頃には「余剰販売」まで漕ぎ着けた事に成る。
    1025年には「大商いの総合商社」に発展させたのである。

    (伊勢北部伊賀を実家とする「平清盛」がこの殖産に共同体として大いに関わった。清盛も「宋貿易」に関わった。)


    結局は、「青木氏」は、朝廷と同じく「ア」と「イ」の両方の影響を以てして、「稲荷信仰との関係」もあった事に成る。
    故に、伝わる「茶釜作法」は両方からのものである事に成る。
    それだけに、この「茶釜作法」は、”単なる作法では無く”、”青木氏の歴史を物語る作法”であったからこそ、ここまで引き継がれて来た事に成る。
    「単なる儀礼上の作法」ではここまで伝わらない。
    当に、「茶釜作法」は「青木氏作法」であった。

    「民の稲荷信仰」=「茶釜作法」=「青木氏作法」=「密教作法」

    同時に、「民の稲荷信仰」は「青木氏の稲荷信仰」とも云えるのである。
    「賜姓族と国策氏の立場」にある「伊勢青木氏」に取って不相応に見える「稲荷信仰体」は、ただ単に、「二足の草鞋策」の為の「ご利益の稲荷信仰」では無く、そのもの「青木氏の稲荷信仰」でもあった。

    この背景には、「古代和紙の殖産能力」を高める為に、その殖産を「近江、美濃、信濃、甲斐」の「5家5流の青木氏」に奨励した事が上記関係式が広域に出来上がったのである。
    その朝廷には、「豊受大御神の加護」を誓願して、「民の稲荷信仰体」を大きくする為にも、古来からの「五穀豊穣の神格」のみならず、そこに加えて「殖産・興業・販売の神格」を付加させる様に「民と朝廷」に働きかけたのである。

    この為には、その「殖産・興業・販売」を成し遂げる「財力と技量と政治力と販売力」が必要であった。

    (上申に依って、朝廷は「紙屋院」と云う役所を創設した。これが伊勢青木氏の「紙屋」の称号の元と成った。)

    そもそもこの計画は、急に出来るものではない。
    「財力」と「政治力」は「青木氏」が受け持ち支える事で可能である。
    問題は、その「古代和紙の生産」の「技量」を高めなくては成り立たない。
    そこで、この大和川流域には、「後漢の職能集団」が庵を構えて住んでいた。
    そこで、彼らの高い進んだ「製紙の技量」を持ち込みむ事で成り立つし、「殖産」も彼らの知識を受け入れば可能に成る。
    問題は、「販売力」である。
    しかし、この時代は、未だ完全な「自由市場」では無く、「半市場の部経済」を敷いたばかりであった。
    つまり、全ての「職能集団」から、その物を先ずは一度朝廷に治め、必要な分を税として取得し、その他を市場に放出する制度を取っていた。
    結局は、「古代和紙」に関しては、「和紙の余剰」の販売は、「青木氏」が自らその市場を獲得して、売り捌く事に成る。
    「半市場経済」とは云え、”売り捌く事 そのものの行為”を確立する事の難しさがあった。
    更には、この時代は未だ「紙」では無く、「記録材」としては「木簡」が全てであった。
    そこに、この「古代和紙」を生産し、殖産し、販売して、興業しようとしているのである。
    当時としては、今までに無い ”全く新しい産業” を興そうとしている事に成る。
    現在で云えば、パソコンか携帯電話に等しい革命である。
    それも現在では無い、当に「大化期」である。
    この時から「青木氏」は、”相当な覚悟を以てして奏上した”だろう事が判る。
    奏上だけでは済まない。
    「伊勢神宮の豊受大御神の加護」として「伊勢神宮」にも協力を仰がねばならない。
    「民の稲荷信仰体」の庶民にも、その必要性を解き、生産してもらわなくてはならない。
    彼らにしても初めての未だ経験もした事のない仕事である。
    何れもなかなか納得はしなかったと考えられる。
    しかし、”「氏」を掛けての挑戦”であった事が判る。
    ここから「青木氏の商いの基礎」が敷かれて行った事に成る。

    結局は、記録では、興業としての「商い」は、青木氏の記録では「古代和紙の販売」は950年頃と成っている。(正規の生産開始は730頃)
    とすると、「殖産」を始めてから”300年”と成っているが、次ぎの経過を辿ったと考えられる。

    A  和紙の良質な生産開始に50年   (730年頃 正倉院 紙屋院 白鳳文化 記録)
    B  和紙の殖産を始めて余剰品を作り出すには50年    (770年頃 平城消費文化)
    C1 商い態勢に50年            (810年頃 平安初期文化 摂関文化初期 記録)
    C2 販売能力に50年            (890年頃 平安中期文化 摂関文化中期 記録)
    D  興業として50年             (950年頃 国風文化前期 摂関文化後期 記録)
    以上として観れば成り立つ。

    S(初期)
    初期の段階では「原材料の調査」、「生産する農民」の養成、適切な「耕作面積の獲得」、
    それを和紙にする「技量の習得」と「職人の養成」等で、思考錯誤しながら基盤を作った。
    とすると、次ぎの様に成る。
    以上には、一期毎に50年程度の相当な期間が掛かったと考えられると、納得出来る。
    「本格商い開始− 50年− 「950年」

    E(完成)
    「総合商社」として75年           (1025年 国風文化後期」 記録)

    この期間に関しては、「紙」は「文化のパラメータ」である。
    以上の様に、この「古代和紙」の「紙」を日本最初に作る事に挑戦したのが、「5家5流皇族賜姓青木氏」なのである。
    日本のこの「紙文化」には必ず「宗教文化」が伴っている。
    従って、青木氏の一面の”「紙屋」の歴史の変遷”は、この「紙文化」に左右されている事に成るのである。
    そして、その紙の多くを消費していた「宗教文化」にも左右されていたのである。
    下記に詳しく論じるその「宗教文化」の「仏舎」の「仏画」の歴史も、この「青木氏の紙の変遷」が大きく関わっているのである。
    当然に、次ぎに論じる「節会」もこの「宗教文化」と「紙文化」に左右されているのである。
    「宗教文化」→「節会」←「紙文化」
    その「文化のパラメータ」の「紙の使用」が、Aの様に、「東大寺の写経会」に観られる。
    この様に、初期の「紙文化」として遺されている「文化資産」は、「経典」と「仏画」の類が殆どである。

    しかし、「後期の紙文化」としては、「鎌倉文化と室町文化」は、初期の「経典仏画」類に関わらず、全ての書籍等の「紙材」に利用されている。

    中には、Bの様に、未だ一般に「紙市場」が無かったにも関わらず、「平城京」で起こった「消費経済」で「紙」が初めて大きく「消費される現象」が起こったのである。
    余剰品が消費される環境が出来て来た。

    そして、遂に、遷都に依って、紙の使用は庶民の中にも浸透し始めた初期の現象が起こった。
    要するに、「公家文化」と「武家文化」の開始で「紙」が盛んに使われ始めた。
    特に、世に「摂関家の文化」とも云われる文化であった
    最早、余剰品の販売の領域を超え始めたのである。
    本格的な「販売体制」に入らなくてはならなくなった。(C1)

    結局、「初期の販売体制」は、区切る事無く続き、本格的な全国的な販売体制が必要に成った。
    そして、「輸送」「安全」「全国的な組織体制の確立」の必要性に迫られた。
    「輸送」には、大量に運ぶには「船」「陸送」が使われるが、これらを安全に輸送できる全国的な「護衛組織の確立」(シンジケート)が要求された。(C2)

    C1+C2=Dの数式が完成した事から、今度はこの組織を使って「紙屋の商い」の組織と「賜姓族」の組織とを分離した。
    そして、本格的な「二足の草鞋策」が始まった。
    現在で云う「興業組織」の「紙屋」に成長したのであった。
    各地に「守護神の神明社」などを使って「支店」などを設けた。
    「紙屋」と「青木氏」との関係が世間では判らない状況となった。
    恐らくは、当初は殆ど「紙」は「伝来紙」で賄われ、「朝廷や上級階級」が使う超高価品であったことから、朝廷に治めるものでいっぱいで、市場に出まわるまでにはなかなか至らなかったと考えられる。
    当然に、ここまで到達するには、この期間が相当長かったと考えられる。
    「紙の変遷」として、「何らかの文化」が起こらない限りは、より多く作り続ける前に、「限定生産」の状況であった筈であろう。
    しかし、「日本の文化」は違っていた。
    上記の様に、ほぼ、40年から50年程度で、「日本文化の変遷」が起こっているのである。
    従って、「紙の文化」もこれに連動していたのであり、「青木氏の変遷」もこれに左右されていたのである。

    「日本文化の変遷」=「紙の文化の変遷」=「青木氏の変遷」=「7期の変遷」

    記録によれば、その大きな先鞭になったのは、矢張り「天平文化」である。
    記録では「写経」「絵画」「仏画」「記録」に使われたとある。
    そして、何れもの変遷は、”夫々特徴の持った進化のある上記の「7期の変遷」”を持っていた事になる。
    云い換えれば、「青木氏の変遷」も、”夫々特徴の持った進化のある上記の「7期の変遷」”と云う事に成る。

    記録
    日本に、最初に「紙」が伝来したのは、296年と成っている。(「写経本」で西山本願寺蔵)
    初めて日本で「伝来紙」で使われたのが、513年であった。(日本書紀に記載)
    初めて、日本に「紙生産技術」が「後漢」から入ったのは、610年であった。(僧侶兼職能者)
    「古代和紙」を使って書かれたものとして遺されているのは、739年である。(正倉院蔵)

    この年代から判断して、650年から初めたとすると、上記のEからAに達していた事に成る。
    何とか739年には既に「伊勢和紙の生産開始」できる態勢に入っていた事を意味する。

    この739年(施基皇子没年716年の23年後)の直前に、「伊勢青木氏」は、「古代和紙の生産」に取り掛かった事を踏まえて本腰を入れる為に敢えて”「紙屋」”の商号を名乗った。
    それを以て支援していた朝廷では、その仕事をし得る「役所」を定め”「紙屋院」”としたと考えられる。
    これが「二足草鞋策」の「青木氏の紙屋」の始まりである。

    この「正倉院の紙」は、「日本初の紙」として「伊勢青木氏」が朝廷に献納したものである可能性が高い。この時期に「古代和紙」を生産していたのは青木氏だけである。
    故に青木氏の商号「紙屋」である所以である。
    「仏画」にしても同様に、「青木氏」以外に上記の通りのSからEを成し得る氏は無かった筈である。
    750年に行われた「東大寺写経」のものを調査した結果では、使われた紙は「伊賀和紙」の「楮和紙」である事が判っている。
    つまり、「生産開始」から10年経っていることから、既に、「楮和紙」が普通に成っていた。
    従って、敢えて使う事が無い筈で、況して、恒例の「写経会」で本格的に使う事は無いだろう。

    その中の「写経紙」の中に「異質の紙」の粗目で「茶褐色の紙」が混入している事が判っているが、この事で多くの説があって定まっていない。

    「延喜式格」に記載されている説としては、この「粗目紙」は「マメ科の紙」と記載されているが、この和紙は普及しなかった事が判っている。
    筆者は、739年の後の750年である事から、「楮の紙」で生産開始の成功した時期から観れば、「テスト中の紙」も「日本古代和紙の歴史」の記録を遺す意味で敢えて使った事では無いかと観ている。
    (「マメ科の古代和紙」は結局は「紙質不良」で直ぐに消えた。)

    後漢の僧侶で職能者でもあった者が、自ら「民」の前で紙を作る程の器用さを持ち合わせ何でも作った僧侶であったと記録されている。

    当時の記録を辿れば、大和川流域には、「古代和紙」に使える材料は、次ぎの四つであった。
    1 麻    美濃産  中部  美濃古代和紙
    2 楮    伊勢産  関西  伊賀古代和紙   信濃古代和紙
    3 雁皮  近江産   中国  近江古代和紙  鳥の子紙 782年
    4 三椏  甲斐産   関東  甲斐古代和紙  和紙としては 1600年に伐採 家康許可

    恐らく、この「古代和紙」に使える原材料を見つけるだけでも、相当な時間を要したと考えられる。
    夫々に紙質には特徴があり、使用に値するものにするには、「相当な技量」を要し、「研究の期間」もかかったと考えられる。
    記録では、何とか「紙」にしたものの、紙質そのものが悪かったとされ、「滲み解消」等の研究に相当な時間を要した事が書かれている。
    上記の様に、真面に使え遺し得る紙に成るまでには100年かかっている事に成る。
    「伝来紙」は「粗悪」で大和での「紙の普及」には繋がらなかったとされている。
    聖徳太子が挑戦したと云われる「福井の和紙」も市場や記録には結局は出て来なかったことがその大変さを物語っている。
    研究室に「藤白墨の論文」を掲載しているが、全く同じ経緯を持っていた事に成る。

    a 「伊勢青木氏」が、先ずこの「後漢の僧侶」に「紙の生産の仕方」を学んだ事
    b 時代の変化と共に「改新の火種」にするには、「紙」だと認識した事
    c 地元の「民の協力」を「大和川流域」に求めた事、「稲荷信仰体」に求めた事
    d 良質な紙にする為に「稲荷信仰体の協力」を得て発見した事
    e 紙質の改善や開発に「住民の協力」が主体に成っていた事
    f 楮の土壌として、大和川流域の湿地帯の適地に求めた事
    以上の事が良く判る。

    特に上記のSの事が証明されている。
    全てを細かく説明は出来ないが、「紙の材料」を発見する為に、面白い事が書かれている。
    これだけを紹介する。
    先ず最初に手に付けたのが麻であった。その麻は民が着ていた衣服を脱いで、煮沸したり、他の植物を混ぜたり、不要になった漁網を細かく切って混ぜたりして試行錯誤した。
    然し、上手く行かず、最後に辿り着いたのは、それを”石臼”で細かくして試みたとある。
    出来た事は出来たが、それでも色が悪く、厚すぎたり、書き難くかったり、墨を弾いたり、滲んだりして、普及しなかった。
    そこで、粘土なども使ったが上手く行かなかった。
    ある時、間違えて窯の「灰」の着いた材料を入れて仕舞った。
    ところが、これが、「色」と「書き難さ」と「弾き」と「滲み」を無くしたのである。
    「灰」はアルカリ性で色を還元して白くし、不純物を溶かし、表面を溶かして滑らかにし、紙の間に灰の粉が入り「弾き」と「滲み」を無くしたのである。
    当時としては画期的な科学的な発見であった。
    後は、問題は「厚み」と「平均化」であったらしい。
    良く煮沸して、柔らかくして、最後は”臼”で細かくして、漉く温度を保ち、後は出来るだけ薄くする道具を考え出したとある。
    ”臼”が決定的な革新であったらしい。
    未だ大和には、”「臼」”そのものの概念は無かった。
    更に、この”臼”を「川の水」で「水車」を使って廻すと云う「機械概念」は全く無く、その伝来の後漢の技術が画期的に紙の発展に寄与したのである。

    この「紙の文化の変遷」は、”「臼に依る技術革新」”が無ければ、量産を伴う殖産は、更に、200年は確実に遅れていただろう。
    「紙」は「文化のバラメータ」ではあるが、この「紙の臼の技術革新」は紙以外にも画期的な革新をもたらした。
    最後はまとめあげる為の全ての「経験」であった事が筆者の家の資料によると詳しく書かれている。
    他の外部文献にも同じような事が書かれている。
    その結果を以て「楮」や「雁皮」や「三椏」を試した事に成り、この四つが紙に成った。
    中でも、”2の「楮」”が最も生産や紙質に適していた事に成った。
    「雁皮」は「鳥の子」と呼ばれ、「近江産の古代和紙」として有名で「画紙」として良質である。
    事ほど左様に、Sが解決すれば、AからDの改革に取り組む事に成る。


    上記した様に、「紙の文化」の「7つの変遷」と共に、「宗教文化」も下記に論じる「節会作法」も同じ経緯を持っている。
    これら「紙文化」が「宗教文化」(節会文化)に強く影響を与えたが、「青木氏の変遷」も、”夫々特徴の持った進化のある「7期の変遷」”の大きな基盤に成長して行ったのである。
    この「青木氏の変遷」が「青木氏の密教文化」を支えたのである。

    当に、この「青木氏の変遷」=「紙文化」=「密教文化」=「宗教文化」=「節会文化」であった。

    以上の数式論が成り立つ相互関係を維持していたのである。
    その為には、「密教作法」に繋がるこの「節会」に付いて更に深く論じて置く必要がある。

    「節会と節句」(「青木氏の変遷」)
    例えば、兎も角も、3月の「節句」の「雛祭り」や5月の「節句」や「彼岸」などには、祭祀の内容が、”夫々特徴の持った進化”の為に、世間とは違っている。

    「三月の節句の雛祭り」には、伝来の大きな80センチの「一対の雛人形」を居宅に飾る。
    しかし、筆者の家では「雛段」は無い。
    明確な意味合いは不明ではあるが、これはそもそも「雛祭り」と云う意味合いでは無かったのではないかと判断できる。
    「平安時代」の「遊び雛」や「厄除け雛」、「江戸時代」の「祭り」を主体とした「雛祭り」のもので無い事は明らかで有る。
    恐らくは、「青木氏の子孫繁栄」を願っての正に「祭祀」であったと考えられ雛人形と云うよりは「像」に当たる。
    それは平安期の「遊び」や「厄除け」、江戸時代の飾り立てた「祭り性」は全く感じられない。
    そもそも、青木氏には、「遊び、厄除け、祭り」の様な「伝統的な性格性」は無い。
    要するに「堅物」であろう。
    (この「雛人形像」なるものは、後に桐箱に入れられて居た。更に、明治期には像をガラス箱に収められて保存性を高めた。依って「雛人形」の様に観えるのであろう。)

    「賜姓族」として、室町期末期より菩提寺から居宅に移されているが、自然の生物が芽吹く時期の三月にこの「一対人形」を持ち出して祭祀したところから「子孫繁栄」を祈願したと観られる。
    これは、「大日如来像」や「毘沙門天像」と同じ祭祀の意味合いを持っていたと考えられる。


    確かに「五月の節句 端午の節句」にも、明治期以前の江戸初期頃には、大きな「毘沙門天像(人形)」(120センチ程度)を”祭っていた”と伝えられている。
    否、”飾った”では無かった筈である。
    この祭祀は「居宅」では無く、当初は直ぐ近隣にあった「菩提寺」での祭祀であったと聞かされていた。(平安期初期頃)
    「三月の節句」「五月の節句」の祭祀も、世間の”子供の節句”と云う意味合いの祭祀では無かった。
    「菩提寺」で行う以上は ”別の意味”があったと観られる。
    仮に、「雛祭りや端午の節句」等の「子供の節句」であれば、その意味合いから「居宅」で行われる筈である。
    「菩提寺」では無い筈である。つまり、「仏教行事」では無い事に成る。
    然し、「青木氏の菩提寺」であった事は、「古来宗教の概念」を持った何らかの「密教的行事」であった事に成る。
    つまり、「節句」では無い事に成る。
    世間と異なる”夫々特徴の持った進化”が、「青木氏の変遷」の中で、この様に起こっているのである。

    と云うのは、この時、つまり、鎌倉期頃から「菩提寺」では、「大日如来坐像」の「お仏像様」と合わせて「護り本尊」と呼ばれていた「毘沙門天像」(下記)の一対で祭祀していた事が判っている。

    毘沙門天像の出現
    この頃の経緯としては次ぎの様に成る。
    平安期初期に桓武天皇から「皇親族」としての「青木氏」を排除した。
    この為に一時衰退したので、菩提寺に移した事が考えられる。
    その後に、子供の「嵯峨天皇」は、再び「皇親族」で行う「皇親政治」を敷いた。
    この為に、「青木氏」は再び勢力を盛り返した。
    この間、約50年程度、「毘沙門天像」等の祭祀は菩提寺に移した。
    ところが、鎌倉期から室町期には「紙文化」が徐々に起こる。
    遂には「室町文化」で華が咲いた。
    その結果を受けて、平安中期頃(殖産950年頃)から「5家5流青木氏」の「殖産・量産・販売の興業」に成功した。
    「二足の草鞋策」(商い1025年)で「紙問屋と総合商社」(「二束草鞋策」)を全国的に営む氏として復興した。
    この直ぐ後の10年後に、「特別賜姓族の藤原秀郷流青木氏」が発祥し、「賜姓族青木氏」を補完する態勢が出来た。
    再び、これを受けて「950年頃」に菩提寺に預けていた「毘沙門天像等」を居宅に引き上げて祭祀したとある。
    150年間 「青木氏菩提寺」で「毘沙門天像」と「雛人形等」は祭祀していた事に成る。
    ところが、当初は「菩提寺」での”正式な祭祀”(150年)であった。
    上記した様に、再び、室町末期の戦乱と大火(信長ー秀吉の伊勢攻め 1567−1574年)で避難して「紀州新宮の居宅」に移した。
    この頃から、その”祭祀の意味合い”が若干俗化して異なって来たのではないかとも観られる。
    新宮の居宅での祭祀は10年程度で松阪の居宅に戻した。
    秀吉家臣の蒲生氏郷から「本領の安堵」と、松坂に居宅(「侍屋敷」9から11番付与)を与えられる。
    (超大地主250万石以上の有資産があった。)

    古来より、季節の節々に、「伊勢神宮」は兎も角も「宮廷」においては、”「節会」(せつえ せちえ)”と呼ばれる宴会が奈良期より恒例で開かれていた。
    これを江戸時代には、”「節句」”として称し、「祝日行事」と定めたことから、”「節句」”と云う行事と世間では成った。

    様々な異変に左右されながら以上の経緯を経ている。

    そもそも、奈良期から、宮廷では「節会」(せつえ・せちえ)として「皇族一族」が介して「宴会」を催した。
    然し、この「節会」では、”奈良期からの「神仏習合の影響」”を受けて、「現世の者」ばかりが集う場だけでは無く”、先祖との会する場”として設けられた行事であった。
    故に、言葉が「節の会」と「節の句」とに分けられているのである。
    「伊勢青木氏」も”「節会」(せちえ)”と呼称されていた事から考えると、「宮廷」も「密教」と「古来宗教」の影響を受けて、”先祖との会する場”の概念が継承されていた事を物語る。
    元々は、「古代密教の仏教」では、この場を「仏教用語」として「節会」(宮廷は”せつえ” 青木氏は”せちえ”)としていたものであり、”先祖との会する場”としての「迎える古代密教作法」があった。
    (古来は”せちえ”の「節会」と呼称されていた。)

    これが上記した「道標行燈」と「茶釜所作」の関連する「密教作法」であった。

    九度所作(節会所作)
    この「仕来り」は、江戸時代の様に、庶民化して「祝日」としての「節句行事」では元来なかった。
    「居宅」で行われていた「雛人形像」などの祭祀は、この様に「祝日行事」としてでは無かった。
    この「節句:せっく」と「節会:せちえ」の言葉の違いでも判る。 
    「伊勢青木氏」に引き継がれて来た「密教作法の節会」は、この「古代密教の作法」にて ”先祖との会する場”であったのである。
    年を経て繰り返す神仏を祭祀・行事を意味する”「節」”に、仏に会う事の意味として”「会」”と合成語の言葉の所以である。
    「青木氏節会」は、「先祖との”会”する場」の密教作法であるのだ。
    従って、「伊勢青木氏」では、「お盆の節会」と「彼岸の節会」が、その最も ”先祖との会する場”が重要な場であった。
    この為に、他の節会よりも「道標行燈」と「茶釜所作」の「密教作法」以外にも、”「仏壇」”(仏舎)などの「迎え所作」が徹底していた。
    (「青木氏」は、顕教の「仏壇」では無く、密教である為に「仏舎」と呼称していた。)
    故に、上記した様な、「密教作法」が採られた上で、下記の”「九度所作」(節会所作)”と呼ばれるものが伴ったのである。

    江戸時代には、民間には年間にわたり様々な「節句」が存在しており、その内の5つを江戸時代に幕府が公的な行事・祝日として定めた。
    しかし、”、先祖との会する場”とするものでは無かった事から、「お盆」と「お彼岸」と「年暮」は「節会」である。
    次ぎの様に庶民では「節句」では無かった。

    それが次ぎの”「五節句」”(庶民の節句)である。
    1 人日の節句 おせち料理 七草粥
    2 上巳の節句 雛祭 菱餅 白酒
    3 端午の節句 菖蒲酒 関東は柏餅、関西はちまき 菖蒲湯
    4 七夕の節句 素麺
    5 重陽の節句 菊酒

    以上が江戸期に定められ「祝日」の「五節句」である。

    次ぎは「密教青木氏」の”「三節会」”である。
    A 「入盆」
    B 「彼岸」
    C 「暮年」

    以上の”「五節句」”は、何れもその元は「重陽の節句」にしろ、「七夕の節句」にしろ、”先祖に思いを馳せた祭り”であった。
    「端午の節句」、「雛祭りの節句」にしても、”「子供の成長」を一族が集まって喜ぶ祭り”である。
    要するに「先祖への子孫繁栄」を伝えるものである。

    「正月の節句」は、年の始めを祝詞する他の四つを纏めた様な ”総合節句の意味合い”が古来よりあった。
    しかし、時代と共に「民の文化」の方は変化を来したのである。
    この様に元を質せば、「青木氏の密教作法の節会」は「先祖」とは切り離せない祭り事であった。

    「道標行燈」と「茶釜所作」はこの「青木氏の密教作法の節会」の中の一つの作法で在った。

    系統概念の有無
    伝統を継承するには、系統的概念が必要と成る。
    然し、そもそも、江戸時代には、庶民には、”ルーツを系統的に遺す概念”そのものが無かった。
    上級武士を除き、依って、”系統的に祭祀する墓、” そのものが未だ無く、当然に、無墓では「節会」では無く成る。
    (その「伝統」や「系統性」に関わる「墓の起源」は下記に論じる。)
    仮に、「毘沙門天信仰」が、庶民の中に発展したとしても、「戎神」、「勝負神」、「無病息災神」の範囲に留まった。
    この「三つの神格」、即ち「庶民の神格化」が示す様に、”特段の概念の無さ”を顕示しているのである。
    ところが、江戸期も含めて、近年次第に、より益々 ”「先祖」の意味合い”が低下して、単なる「祝日」「祭り」に更に成りつつある。
    むしろ、「先祖の概念」は、論外として認識されていない状況であろう。
    明治以降、「先祖の概念」は、「先祖の概念」として ”「別扱いとする合理的判断」”に依ったものと考えられる。

    ”先祖との会する場”と云う「密教概念」が無い事を示している江戸初期の「五節句」では、250年も経過すれば、民衆からは必然的に「先祖を尊ぶ概念」は無く成るであろう。
    しかし、そんな中で、”先祖との会する場”の「青木氏の密教の概念」が、「青木氏の生活の作法」として1500年も遺し得ていた。
    だからこそ、又、「先祖の概念」が系統的に『維持されて来たからこそ、「伝統」として強く遺されて来たのである。
    ここに「根本的な大きな違い」がある。

    何故ならば、全ての庶民は、明治3年を境にして、一挙にして「姓」を特定する「苗字」を持つ事に成った。
    ”「系統性」を持ったと云う事”である。”「伝統」を維持する事が出来る様に成ったと云う事である。
    その結果として、”未だ、系統化された「ルーツ」の無いまま”に、”漠然とした先祖への思い”として「墓所」を持ち始めたのである。
    況して、その「墓所」は、それまでの「仏教の慣習」の「砂岩の墓」(下記)では無く、「花崗岩の墓」を設け、それまで無かった「家紋」まで仕立てての墓所と成った。
    「苗字」も8年間もなかなか進まなかった中、「系統性の持つ苗字」が出来ると成ると、今度は一夜にして「前の概念」を捨て、新たに「先祖の概念」を持つ”変わり身の早さ”に至ったのである。
    これは、幕府が定める恒例の「江戸期の5節句」として250年続いた祭祀の中である。
    上記した様に、「5節句」は、元を質せば、”先祖への思いを馳せていた事”が、「休日・祝日」の中で、意識の何れかに遺されていたのであろう。
    それが、「苗字取得」に依って ”今後、先祖を特定できる” として「一挙の行動」に出たと観られる。
    庶民には「休日・祝日」であった「五節句」を祝う中で、且つ、「ルーツの探究」が出来ない慣習の中でも、”根底の意識”の何処かに「先祖の概念」の思いと要求があった事を示す現象である。

    これには、調べると、面白い事が出て来る。
    「幕府の5節句の休日・祝日・祭日」とした「指導の仕方」にあったのである。
    例えば、幕府自らが 、”「働く日」に休む馬鹿 「休みの日」に休まぬ馬鹿”等の狂歌や川柳を多くを出して、「社会のムード」を作り上げて、苦労して初めての「国家的祝日」を作り上げた事が判っている。
    従って、この「5節句」は、到底、”先祖へ思いを馳せる祭り”とする事などは到底に無理であったのである。
    あくまでも、「休日、祝日、祭日」の節句であった。
    それも、”有史来の画期的な行政策”である。
    その職場職場で適時適切に決めていた「慣習の休み」で、”暗黙の内にこの日は「休み」”と云う社会体制であった。
    それを全国統一して、何が何でも”休め”としたのである。
    それが、朝廷が祭祀として行っていた「八節会の儀」の中から ”民衆が休みやすい節会”を五つ選んだのである。
    しかし、それの根拠が、”先祖との会する場” 又は、少し緩めて、”先祖へ思いを馳せる祭り”にしてでも、上記した様に、”未だ系統化された「ルーツ概念」”の無いままであった。
    庶民にしてみればこれは、 ”ピントボケの施策”と成る。

    「青木氏の三節会」のABCは、江戸期の記録から観ると、「朝廷の八節会」が行われていて、それに合わせて、”「系統化されたルーツ」を持つ上級武士を含む上級階層の間”でも、それなりに祭祀として行われていた。
    「青木氏」の様に、「密教」であるかは別として、「顕教の慣習」でも兎も角も行われていた。
    「朝廷の八節会」は、「伝統を護る為の行事」であり、「先祖を敬う行事」でもあった。
    この事から、それなりの有る階層では、「八節会」はこの「二つの事」を護る「社会的ムード」が在った。
    そこで、それに関わる家人や下僕や出入りする職人・商人・農民にも、その祭祀に順応して「主家の祭祀」に従ってお参りした。
    その上で「義理」を表すために無理にでも「休日」として”1日を念じる姿勢”を示した慣習であった。
    (江戸期は「義を重んじる社会」であったから成り立つ慣習であった。)
    恐らく、この事もあって、幕府は敢えてこのABCは外したと観られる。

    然しながら、筆者の家では、代々「人日の節会」(正月:人の日)の言葉通り、「年暮の節会」から一族が一堂に集い ”「人」に思い馳せる場”としての「節会」であった。
    決して「休日、祝日、祭日の節会」では無かった。
    上記した様に、「密教の青木氏」は、「年暮」から「道標行燈」を設け、「仏壇」(仏舎)には、吸い物や精進料理を伝来の「高瓶朱盆」に載せて祭祀し、一夜通しで「人日(正月)の節会」に入る作法が引き継がれる。
    この「人日節会」(正月 人の日)には、「朝昼晩」には夫々決められた精進料理が供えられる。
    二日目にも、「昼晩」には同じ所作が繰り返される。
    三日目には「晩の所作」のみで「道標行燈」の「送り行燈」を灯明し、一族うち揃って「般若心経」を「女主」が中心に三代前までの先祖の数だけ唱えて終わる仕来りである。
    これが「青木氏密教の作法」であり、元々正月は、むしろ「不作法の日」とする「民衆作法」と成っていて大きく異なる。
    民衆の「人の日の節句」は、江戸幕府の川柳などの宣伝もあって、結局は”休ませる事”に重点が置かれ、”人を休ませる日の節句”と解釈されたのである。

    事ほど左様に、他の四節句も、”休ませる事”に重点が置かれ、「人日の節句」の通りに考え方が、上巳、端午、七夕、重陽にしても、全てこの”休ませる事”の解釈であった。(別記)

    ”何故、この様に成ったか”と云う論調には、上記の「稲荷信仰体」と同じく、次ぎの「庶民信仰体」の影響が左右されていたのである。

    終わり。

    「伝統」−5に続く。

    「毘沙門天の影響」


      [No.320] Re:「青木氏の伝統 3」−「女紋」
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/07/29(Tue) 11:11:00  

    「青木氏の分布と子孫力」−12に関連投稿済



    「伝統 3」

    「女紋」

    さて、「家の家紋」には、一般に使われない「女紋」「女墓」等の”女系に関する「慣習や仕来り」”があって、「青木氏」は、この「女紋」や「女墓」等の「女系のステイタス」も継承する慣習を持っていて、それに多くの「慣習仕来りや掟」が付随していた。
    この「女紋」や「女墓」の事を知識として持ち配慮して検証しないと、ルーツなどには判明しない事が度々に起こるし、間違える事が出る。
    そこで、今回の「摂津青木氏の検証」には、次ぎの「女紋」として家紋が大きく左右した。
    以下は、この情報提供を受けて、「摂津青木氏の判定」がより確実となった。
    なかなか、現在では、この「女紋」「女墓」等の習慣を継承している青木氏でさえ少なくなった。
    「青木氏の慣習」に習って、勃興した上級武家もこの慣習に習って継承した経緯がある。
    この「女の慣習」と云うべき「慣習仕来りや掟」は、主に江戸初期まで維持されたもので、江戸期に入って「女性の立場」は社会の中で抑え込まれた様な環境に成って行った。
    その為に、これらの慣習は、「特定な家柄筋」の中で維持されてきた。
    特に、青木氏には、「女紋」は主に「儀式祭祀」の中で昭和の中頃まで遺されていた。

    そもそも、「皇族賜姓青木氏」は、家紋は「象徴紋」の扱いである事から、支流傍系等の事を表す手段として「丸付き紋」は一切使用していない。
    但し、「象徴紋=総紋=家紋」となるが、この為に、「副紋」は使わず「女紋」を慣習として用いた。
    他氏には観られない「女墓」も同じ考え方である。
    この事は本論の上記でも論じたが、「特別賜姓族青木氏」は次ぎの様なこの慣習を家紋に直接反映させる方法採っていた。
    特別賜姓族は「副紋」を使う代わりに、原則として、「丸付き紋」は使用しない仕来りと成っていた。
    文様が元より「丸付き」の文様として出来た家紋の場合は例外とした。

    先ず、大別すると次の様に成る。
    A 氏一族一門全体を示す「総紋」がある。
    B 家のルーツを個々に示す「家紋」がある。
    C 家の副ルーツを示す「副紋」がある。
    D 家の女系ルーツを示す「女紋」がある。
    F CとDを兼ねた「副紋」=「女紋」がある。

    Aは、「下がり藤紋」となるが、「総紋」をそのものを「家紋」とする事は、「総宗本家」と、それぞれの「流れ」の「宗家」「本家」までが「家紋」として継承する仕来りである。
    従って、「総紋」を「分家」は家紋とは出来ない。同様に同じ目的の「藤原氏の氏名」もこの「仕来りの内容」に従っている。

    Bは、「総紋」だけではその子細なルーツを示す事が出来ない為に、先ず「家紋」を用いて判別させる仕組みで「流れ」を示す仕来りである。
    この場合は「総紋」の中に文様として組み込んで使う手法と別に分けて使う場合がある。
    特に、枝葉から観て、判別要領は次ぎの様に成る。
    イ ”「幹部」に位置する独立性の高い「流れ」の「青木氏」の場合”は、「組み込み方式」を採用する仕来りである。(本家筋)
    ロ 逆に、”「抹枝」に位置する流れの青木氏の場合”は、別に分けて使う「分離併用方式」を採用する仕来りである。「併用紋」である。

    特に、イの「組み込み方式」の家紋は、”独立性の高い「宗家筋」(本家筋)の流れの家柄”を示す。
    例えば、「組み込み方式」では
    「讃岐藤氏の青木氏」の「下り藤紋に雁金紋」
    「武蔵藤氏の加藤氏」の「下り藤紋に巴紋」
    「尾張藤氏の柴田氏」の「下り藤紋に一文字紋」
    「結城藤氏の結城氏」の「下り藤紋に左三巴紋」
    等がある。
    「分離併用方式」では、
    「下り藤紋 違鷹羽紋」がある。
    「下り藤紋 州浜紋」
    等がある。

    Cは、藤原氏の様に全体で361氏にも枝葉末孫が拡大している場合、その青木氏が116氏にも拡大している場合は、B方式では未だ子細は充分でない。
    そこで、更に、この「流れ」を更に判別する方法として、Cの「副紋」を用いた。

    例えば、次ぎの様なものがある。
    秀郷一門の「主要家紋8氏」の中の家紋で「家紋主要8氏」が用いたものである
    「違鷹羽紋に一文字と開き蛤紋」の様に、「一文字紋」と「開き蛤紋」を「副紋」として用いた。
    これは、「分離併用方式」の”併用する方法”とは違い、これは、別の「第二家紋」扱いで使用した。
    「左三巴紋に釘抜紋」「左三巴紋に三角藤」
    「左三巴紋に上藤丸紋」「左三巴紋に蛇目紋」
    「檜扇紋に隻雁と五三の桐と丸に三引紋」
    以上等が「第二家紋」扱いの副紋である。

    依って、「一般の氏」には、この「Cの副紋」(第二家紋)は原則的に用いられていない。

    a 「北家藤原秀郷一門一族」の361氏に成る様な「子孫力・子孫拡大」を起こしていない事
    b 「高い格式」と「同族血縁」が無い事
    c 「青木村」の様な「権威村」を構築出来ない事
    以上等が原因して「Cの副紋」は用いていないし、用いられない。

    (「氏族」では無理に誇示する為に用いたものもあるが、「姓族」そもそもない。)

    このBの「分離方式併用方式」の「副紋」は、「家紋掟」に依って、「跡目継承の問題」で「変紋」を余儀なくされた”本家筋が用いた手法”である。
    従って、”分家、支流、傍系”には、この「Bの副紋」の「分離併用方式」の「副紋」は原則ない。
    そもそも、重要な事は、”「副紋」を持つと云う事”は、その「流れ」の”「本家筋」以上の格式の家筋を示す事”を意味する事に成る。
    要するに、「Cの副紋」は「第二家紋扱い」の家紋である。
    AとBとCの家紋方式を以って秀郷流青木氏の家筋は解明できるのである。

    Dは、AとBとCの家紋に対しての「男系ルーツ」に対して、「女系ルーツ」を明示して、その「ルーツの正統性」を誇示する慣習である。
    一見して、「Cの副紋」と間違いやすいが、違う所は、この家紋は「女が使う家紋」で、跡目と成る嫡子嗣子は用いない。
    この「女系のルーツ」を誇示する為に、「女系側の家紋」を用いる。
    しかし、これにはある「一定の仕来り」があって、”どの段階の女系のルーツの家紋”を「女紋」にするかの要領がある。

    「女紋要領」を下記に説明する。
    「女紋」は先ず、その家の跡目の「嫁のルーツ」の家紋を、その嫁が「実家先の家紋」を用いる。
    跡目を譲った後のその家の姑には、下記の「2通りの慣習」がある。
    要するに「女紋掟」と呼ばれるものである。

    「女紋掟」
    1の方法は、その姑の実家先の家紋を用い続ける。
    2の方法は、その姑は夫の家紋に戻る。この場合は、孫の跡目が出来た事が条件と成る。

    「2の方法」
    これには、重要な「青木氏族の賜姓族の役の考え方」が存在する。
    それは、”子孫を遺す”と云う定義が、”「孫」の跡目が出来た事”を以って、”子孫を遺した”とされる。
    「息子の段階」では、”子孫を遺した”と云う考え方を採らないのである。
    息子の跡目の段階では、まだ ”子孫を遺した”とは云わない考え方である。
    何故ならば、これは、”子孫を遺した”とする「考え方の根拠」は、「分身説」を採っているからである。
    これは、「古代密教浄土宗」の考え方にあり、「過去ー現在ー未来」の「3世」を「一つの世界」として捉えている。
    この「三世の考え方」では、この「3つの完成」を成し得て、初めて”分身を遺した”とする考え方なのである。
    つまり、子供が出来た段階で、「自分の位置」は、「現在の位置」に居て、子供は「未来の位置」にいる事に成り、「現在ー未来」のプロセスが完成する。
    しかし、更にその子供に「孫」が出来たとすると、「自分の位置」は、「過去の位置」に移動して、子供は「現在の位置」に、孫が「未来の位置」になり、遂に「過去ー現在ー未来」の「三世の形」が出来上がる事に成る。
    この時、初めて、”子孫を遺した”、”分身を遺した”、とする考え方である。
    「三世慣習」と呼ばれるもので、「青木氏」に於いては全て、この「世の事」はこの「三世慣習」に沿って考えられる。

    この「三世慣習」の根拠は次ぎの様に成る。
    例えば、「自分の子供」が結婚して、「孫」が出来たとすると、「自分の子供」は「嫁」に引き渡して、「子供」を引き続き ”次ぎの段階の養育の役”をこの「嫁」に任す事を意味する。
    息子の「第一段階の養育」は終わり、次ぎの「第二段階の養育」に移る。
    この息子の「第二段階の養育」を「嫁」が引き継ぐ。
    「孫」が出来れば、「未来の子供」(孫)と「現在の子供」(息子)の”二つの子供”を「嫁」に育ててもらうと云う考え方をする。
    従って、「孫」は「嫁の者」では無く、未だ「姑の者」として考えて、”「育てて貰う」”と云う考え方をする。
    従って、「嫁」の位置づけは、「嫁」では無く、「娘」の考え方に位置する。
    これは、上記した様に、「同族血縁の仕来り」から来る考え方に成る。
    「家の子供」は「氏の子供」であって、「同族」であるが為に、取り分け、「嫁の位置」づけは「外者の感覚」より「内者の感覚」「同族の感覚」「縁者の感覚」の方が強かった事に依る。
    「娘の感覚」の方が強かった事になるのである。
    結局は、つまり、「子供の養育」の「バトンタッチ方式」である。
    「親の姑」から「娘の嫁」へのバトンタッチである。
    当然に、故に、この「バトンタッチ」は”「段階の変化」を来した事”だけを意味する。
    「自分の子供」の段階では、「子供」の「基礎養育段階」(第一段階)であり、「嫁」に引き渡した「子供の養育」は、子供を遺す為の「成長養育段階」(第二段階)と考える。
    この時、「孫」が出来れば、その「孫」と子供(息子)とは、「嫁」に依って「家の子供」として育てられる。
    そして、その「孫」に子供が出来れば、「嫁」は「人の目的」、即ち、「2つの養育段階」の目的は、”果たした”と云われる事に成る。
    この時、祖祖母に成った自分は、”「人生の目的」を果たした”と云われることに成る。
    「家」の取り仕切りは、「姑」から「嫁」に一切引き渡されるのである。
    「嫁」は、「人の目的、」「2つの養育段階」の達成を以って、「家の人」と成った事に成り、「氏の家紋」を引き継ぐ事に成る。
    この時、「姑の自分」と「嫁」は「氏の家紋」を使う。
    その前は「嫁の段階」では、未だ「実家の家紋」なのである。
    「嫁」は「過去の位置」に成った時、「2つの養育段階の役目」を果たした事を以って、「氏の人」と成ったと評価される。故に「氏の家紋」の使用を許される。

    これは、「孫」もその「家の子供」とする考え方であり、「嫁」もその「家の娘」に成ったとする考え方である。従って、「青木氏」には、「嫁」という概念が低いのである。
    この「嫁の概念」の低さは、「同族血縁」を主体としていた為である。
    他氏から来た「嫁」でないからで、その差から来て来るのである。
    子供は、同族の「氏の子供」の感覚であるから、「嫁」も「氏の一族一門や縁者」から来ているので、「姑」にとっては「嫁」と云うよりは「子供」の域の感覚にある。
    「嫁」は、”「家の娘」化の感覚”が起こるのである。
    「青木氏」では、「子供」(現在の子供)も「孫」(未来の子供)も含めた「子供の定義」の中にあり、要するに「子供」と成る。
    「孫」の位置は、あるにしても「子供」の概念の中にある。
    従って、「青木氏」では、「跡目」や「嫡子」は、この孫も含めた「子供」の中から選ばれる事に成る。
    更には、「青木氏の賜姓族」は、子供は「家の子供」では無く、「氏の子供」として考える。
    「各家の跡目」は、「各家の子供」を直接に「跡目」とする考え方では無く、「氏の跡目」として「跡目」が無い家には、「氏」の「他の子供」を「別の家」に廻して「跡目を継承する方式」を採用する考え方である。
    「氏の子供」は、「自分の家の子供」であるとする考え方を採る。
    これは「血筋の純血度」を一定に高めて、それを広域な範囲にして置く「血縁戦略」である。
    こうする事で、「家の断絶」や「氏の衰退」は無くなるとしたのである。
    この様にして、如何なる事由が在ろうとも、絶対に、「氏の継承」と、「氏の純血の血筋」と、「氏の名の継承」と、「氏の役の継承」とを守り通す為に、「古代密教浄土宗の考え方」を「青木氏子孫存続」の「システムの考え方」に取り入れたのである。
    これには、「3つの発祥源の立場」を守り通さなければならない「絶対的な役の戒律」があった事に由来する。
    この「跡目となる子供」は、上記の「三世慣習」の考え方に従ったのである。
    この「三世慣習」から、氏の「家間の差」が無く成り、「分家、支流、傍流」の感覚は無く成ったのである。
    当然、その「家間の差」が無い為に「家紋」は無く、「家紋」の元と成った「象徴紋」の侭にあるのである。
    ここには、その「システムの維持」に絶対的に不可欠な事は、「女系の血縁維持」も同じ様に保つことが必要と成る。「男系」だけでは成し得ない。
    この「三世慣習」は、むしろ「女系システム」と云っても良い。
    「青木氏の家訓10訓」の「家訓1」と「家訓2」にある様に、これを重視している。
    「女系」が「三世慣習」を作り出しているから「女紋」が生まれているのである。
    「三世慣習」からすると、つまり「家訓1」「家訓2」からすると、「男系」はあくまでも「あらゆる面に使われる一種の道具」である。
    それを使っているのは「姑ー嫁ー娘」の「女系」であり、「2つの養育段階」は「女系」によって左右される。
    「氏の発展如何」は「三世慣習」の「女系」によって決まる。
    故に、「女」への考え方も異なるが、「女紋の存在」そのものが他氏とは違って存在する。

    もう一つの「女紋の存在」を決定付ける慣習がある。

    「家紋の存在」の慣習
    「娘」が藤原氏等の同族の他氏に嫁ぐが、「同族血縁」で嫁ぐかの如何に関わらず、その娘の「第一嫡子」は、「実家の跡目継承の資格」を有している。
    これは、天皇家や皇族の継承の仕来りと同じである。
    「女系天皇」があるのはこの「仕来り」に従っている。
    つまり、これは当時の「血縁の概念」は、”「娘」は男子と同様に「半分の血筋」を有している”と考えられていたからである。

    そもそも、現在では、「遺伝学」が発達して、父と血液型を同じくする場合は、その父の遺伝子の85%も子供は維持している事になる。明らかに殆ど”分身”である。
    「青木氏」は、上記する様に、早くからこの「分身説」を採用している。
    但し、「女子」である事から、父の「男子の遺伝部分」は無いので、80%前後には下がるが、血液型を同じくとする場合は、「息子の血液型」が「母型」に成っていた時よりも、遺伝部分は多く遺伝している事になる。
    古来は、半分と考えられていて、男女同じと考えられていた。
    そして、血筋として、特に娘の「第一嫡子」が高い継承率を持っていると考えられていた。
    この為に、この嫁ぎ先の娘の「第一嫡子」は「実家の跡目継承の資格」を持っていると考えられていた。これは「遺伝学的には合理性」を持っていた慣習である。
    この場合、正当な男子の「実家の跡目継承」が成立出来ないとした場合に、「嫁ぎ先の娘の第一嫡子」を「実家の跡目」に入れる事は可能としていたのである。
    この場合には、「第一嫡子」は「嫁ぎ先の跡目」でもある。
    これでは、「嫁ぎ先」の方でも「跡目の問題」も生まれる。
    そこで、室町期までは、嗣子の中から跡目にするには、「優秀な嗣子」を選んで継がせる事が優先されていた。

    しかし、江戸期では、「血筋」と云うよりは、「跡目騒動」を無くす目的から「長男が跡目」を優先する事に成る事が決められていた。
    これを「家康」が「家光の跡目騒動」で決めたことである。その後、これに習って社会は長男が跡目を継ぐ仕来りと成った。
    「嗣子」の中から、優秀な者を「嫡子」にする制度は次第に消えて行った。
    これは、
    1 江戸期の安定した社会変化で、「同族血縁」を制度として取り入れている氏が少なく成った事。
    2 戦乱の世に嗣子が戦いなどで減少する中、嫡子を長男とすると跡目が無く成り騒動の下になる   が、この必要性が無く成った事。
    3 戦乱で家を維持する為には、嗣子の中から沈着冷静、勇猛果敢、剛勇豪胆な人物を選ぶ必要が   あったが、安定社会ではその必要性は無く成った事。
    4 安定した社会では寿命が延びて嗣子を多く設ける必要性が低下した事。
    5 特定階級を除き「妾」による嗣子の必要性が低下し一夫多妻の制度は衰退した事。
    6 俸禄制度に代わって、嗣子を多く設ける事の負担が増した事。
    7 30年に一度の大飢饉多発発生で経済が疲弊し、嗣子を多くする事が出来なくなった。

    ところが、「青木氏」は、「二足の草鞋策」で経済的に潤い、この「江戸慣習」に従わずに、上記の「独自の伝承」をまだ護っていた。
    それは、むしろ、「商いと殖産」を手広くし、前段に論じた様に、江戸幕府に貢献し、交易を盛んにした為に、むしろ、嗣子を多く必要としていたのである。
    前段−5、6で論じた「青木氏」の「2つの新しい氏の発祥」もこの辺の事も影響していたのではとも考えられる。
    これらを維持する為には、氏の家間の差をより無くし、跡目を確実に家間に振り分けて、「氏の跡目」を確実にしなくてはならない状況と成っていた。
    つまり、江戸期に於いても、社会とは「逆の現象」が起こっていたのである。
    上記の様な、「同族血縁」や「慣習仕来り掟」をより厳しく護る必要が出ていたのである。

    「青木氏」は、「男系」のみならず「女系」に於いても、可能な限りに「同族内の血縁」を「従兄弟の段階」まで優先させていた。
    依って、”他氏に嫁ぐ”と云うよりは”「遠縁に嫁ぐ」”を優先していた。
    その意味では、娘の「第一嫡子」には、抵抗感は少なく、「同族血縁の範囲」として「氏の子供」を前提として、盛んに用いられていた。

    そもそも、現代の生物学では、人間の元は、「男女の一対」が存在した訳では無く、「ミトコンドリヤ」から、4回の進化を遂げたが、元は「雌」であった。
    「4回目の進化」の最終は、「雌の機能」の中の「雄の機能」を分離して、「雌の存続」を優先して図る為に、天敵から身を護る役割として「雄機能」を分離させた進化を遂げた。
    より多くの「雌」を遺す事に依って、「雄」が仮に1でも子孫は繁殖してより多く遺せるのである。
    しかし、この逆は成り立たない。
    (この事も「雌」であった事を示す証拠である。「雄雌一対論」では同じ「生存能力」を持たした筈である。)
    この方式が最も子孫を多く遺せる事と成って、「人族」が最も繁殖したのである。
    当然に、故に「人遺伝情報」はオスには無くメスに持っているのである。
    そのオスが元メスであったとする「名残」がオスには、4か所遺されている。
    それは「乳首」と「へそ」である。
    この二つは在っても全く機能していない。(後二つは不適切用語になるのでここで論じない。)
    当然に、逆にメスにはあるが、オスには無いものが多くある。
    ところが、逆に、オスには有るが、メスには無いとするものは無い。
    オスだけには確かに有る様に見えるが、それは「雌の生理機能具」が全て「オスの能力」を充分に発揮させる為に、「オス様」に変化させたものなのである。
    元の原型は全て「雌の機能」なのである。

    因みに、「雄」が「雌」から分離したとする典型的な例を敢えて述べるとして、子孫を遺そうとする「人間族の性欲・生理機能」がある。
    「雄の性欲」は、”元の「雌」の母体に戻ろうとする本能の変化”であると云われていて、その「性欲の行動」の全ては、この元の雌の体の中に戻ろうとする行動パターンに分類される表現である。
    ところが、「雌の性欲」は、あくまでも、”子孫を遺そうとする本能の変化”であると云われ、分離させた雄機能を雌の中に戻そうとする本能の変化である。
    この「行動パターン」の全ては分類される表現であって、この原理から外れる行為は一切無い。
    つまり、この「性欲の原理機能」からも、元は「雌」なのであって、「雄」は、雌のその”分身”で、「子孫存続の道具」である事にすぎない事に成る。
    これは「体の機能」のみならず「脳の機能」に於いても云える事である。
    因みに、「人族」に必要とする同時に二つの事を考えられる能力の「女性の連想能力」(子孫存続に必要とする母性本能に由来する)は男性には無い。元は雌であった事を物語る機能である。
    右脳を積極的に使う機能を持ち、「ベータ波」を高めて察知する機能は雌に持っているが、雄は低い。これも元は「雌」であった事を物語る機能である。
    又、「複眼機能」は女子には遺されているが、訓練すればこの機能を復元できる状況にある。
    しかし、男子には僅かに遺されてはいるが、最早、乳首やへそに類していて訓練如何に関わらず働かない。
    これも元は「雌」であった事を物語る機能である。
    他にも多く説明できるものがある。ただ、これでは人族の男子は生き残れない。そこで、これらの女子が持つ機能に匹敵する様な「脳」を”脳の一部””を変化させて進化させたのである。
    例えば、「左脳の情報脳」の一部を進化させて、複眼機能と連想機能に匹敵する様に、「左脳の情報」を基に「予知する能力」の脳を作り上げたのである。これを左耳の上に「中紀帯」と云う「進化脳」を作り上げたのである。

    ここでも、「青木氏」の「子供の分身説」「三世慣習説」は合理性を持っている。

    とするとなれば、「雄の機能」と「雌の機能」を保全した形の上で、”「雌」が跡目を継承して行く事”が道理であろう。
    その意味で、上記した様に、「女系の第一嫡子」が”実家の跡目の有資格”は、実に合理性が高い事に成る。
    「人族」の発祥地の「アフリカの民族」には、「女系家族」を主体とした民族が未だ多く存在するのは、上記した原理に従っている。自然摂理に従った合理形態とも云える。
    しかし、余り近代化の進んでいない社会の中で成り立つ制度である事は間違いない。
    「人の社会」が進むにつれて、「雌」から分離した「雄の機能」を使わなくては「子孫存続」が難しくなった。
    「雄の力」「雄の知恵」でなくては維持されない社会構造と成ってしまった。
    必然的に「雄」が主体と成る社会が出来上がったのである。
    故に、人間社会の中では、「男系の跡目」として引き継がなければ成らない社会構造が出来上がったのである。
    これはあくまで「社会構造維持の範疇」であり、事「子孫存続の世界」とも成れば、「力」「知恵」は無用で「女系の範疇」と成る。(「戦乱の社会」ともなれば尚更の事である。)

    「子孫存続の世界」の「跡目」ともなれば、況して、「青木氏」の様に「3つの発祥源」の役目を「賜姓族」として守り通そうとすれば、「純血性を維持する同族血縁」は「古代の条理」とは云え、必然的に絶対的に「必要な条理」と成る。
    「屯」(みやけ)を形成した時代からの「古代の条理」ではあっても、古来の一部の社会の中では全てこの「青木氏の慣習仕来り掟」に類していたと考えれる。
    それを「古代密教と云う概念」の中で維持されて来たものであると観られる。

    そうすると、そこで問題が生まれる。
    「同族血縁の弊害」である。
    血縁すると成れば、先ずは「第一段階」として「跡目の家紋」でそのルーツを判別し、更に重ねて詳しく判別する為に、当代の「女系」の家紋、即ち、「嫁の実家先」の家紋を知る必要がある。
    その為に、「嫁の実家先の家紋」を「嫁ぎ先の慣習」に出過ぎない範囲で何らかの形で表示する必要が出て来る。
    これが、「女紋」で、祭祀などの正式行事には羽織の袖や背中や、箪笥や長持ち高級食器などの正式な諸具には表示したのである。
    この「二つの家紋」で、「同族血縁の濃さの度合い」を判断する術とした。
    この「類似の慣習」として、「祭祀」などに先祖の墓所には参るが、ここに「累代の女系」を碑にして連ねて「俗名、戒名」と共に「出自」を表記して「女墓」として用いた。
    この「女紋の表示の仕方」が、上記した要領に基づいたのである。
    この「二つの家紋」をみて「同族血縁」を進めた。
    基本は、「3親等」(従兄弟等)からであった。
    奈良期から平安期頃までは2親等の範囲(叔父、叔母等)でも積極的に行われていた。

    一般の他氏は、本家筋は兎も角も、分家筋は大いに「他族血縁」を積極的にすすめた為に、むしろそのルーツの確認が必要無く成ったので、「女紋」「女墓」等の習慣は必然的に生まれなかった。
    本家筋は、この混血の分家筋から抹消の同族血縁をした事で、「新しい血」が入って行った。
    依って、この慣習は一切生まれなかったのである。
    ただ、この場合は、「本家ー分家の関係」では、その「習慣や仕来りや掟」の縛りは大きな差があった。
    従って、「自分の家」が、 ”「本家筋の末梢」に当たるのか”、”「分家筋に当たるのか”で、判定は大いに異なってくるのである。
    しかし、「皇族賜姓族青木氏5家5流」のみは、上記した様に、この「本家ー分家の関係」を「同族血縁」を「仕来り」としていた為に採らなかった。
    (ただ、「3つの発祥源の役」を護る為に「厳しい戒律」が伴った。)
    その見極めとして、上記したAからFの「家紋システム」を採用して表示したのである。
    これは、「格式の誇示」と「血筋の如何」に関わっていたのである。

    さて、果たして、この「3つの発祥源の役」が無ければ、どうなったのか疑問である。
    何故、上記の「家紋の要領」を採らなかったのか、何故、「本家ー分家等の方法」を採らなかったのか、と云う点は、これらの要領は「古代密教浄土宗」の影響であった事が大きく、必ずしも「3つの発祥源の役」だけでは無かったと考えられる。

    1の方法
    1の方法は、その「姑」の実家先の家紋を用い続ける方法である。
    通常は「2の方法」を採用する。
    しかし、この「仕来り」は「地域」によって異なる。
    その異なる理由は、「地域の環境」にあり、大まかに分けるとすると、「田舎」か「都会」の環境下によって分けられる。
    何故ならば、「都会」であれば血縁関係が多様化しているが、「田舎」は縁者関係で繋がっているし多くは面識がある。
    「都会」は、従って、この「面識」が薄らいでいるから「2の方法」で「確実性」を求めて判別する。
    都会は何れにしても、”多様化している”から、「家の誇示」も強くなるが、「田舎」ではよく似た家柄である事から必要以上の誇示は無く成る。
    結局は、「1の方法」と「2の方法」は、この差に従って使用された。
    元々は「仕来り」としては、「1の方法」であったが、「多様化」が進むに連れて「2の方法」に成ったのである。
    基本的には、「都会」であろうが「田舎」であろうが「2の方法」であれば確実性は高まる。
    「1の方法」は、”「封建制」が強い仕来り”である。
    これは”「田舎」”と云う事から来ている。
    後は、その使用の選択は ”時代性が働く”と云う事に成る。
    ”時代性が働く”ことは、「多様化」が進む条理に従う訳であるから「2の方法」に収斂されて行く。
    では、どの様な方法かを説明する。
    「家」は「家族制度」があって、「家長」が存在する。
    その「家長」は「伝統の家」の「ステイタス」を「家紋」として引き継ぐ事に成る。
    この「家紋」は、上記した「家紋制度」の中で保たれる。
    しかし、ここに「格式」と云うものが働くと、”よりステイタスを強調する事”に成る。
    そうすると、「2の方法」の様に、その「家長の妻」の「実家先の家紋」をも用いる事に成る。
    つまり、これが「女紋」である。
    さて、そうすると、「家長」は、「家族制度」の中で、”どの位置の者が成るか”の問題で、「祖祖父ー祖父ー父ー子ー孫」であるとすると、「祖父」が成っているとすれば、「姑」の「実家先の家紋」を「女紋」として用いられる事に成る。
    当然に、この「女紋」を使うのは、「祭祀と儀式」の時等に用いられる。
    当然に、そうなると、「家」の「姑」が「家内の実権」を握っている事に成る。
    その「姑」も「夫の家長」が亡く成れば、「家長」は「息子」に移る事に成り、「家の実権」は「息子の妻」の「嫁」に移る。
    この時に、「姑の女紋」は消え、「嫁の実家先の家紋」が用いられる事に成る。
    従って、「姑」が用いる「紋」は「家長の家紋」と成る。
    これを「世代交代」、「跡目相続」毎に変化して繰り返される。
    しかし、血縁対象は「娘子」であるから、相手側からすると、「娘子」の「母親の女紋」は判らない事に成る。
    これでは、「同族血縁の度合い」の判断は低くなる。
    しかし、ここがポイントで、「田舎」と云う環境であるのだから、「母親ー嫁」の出自は、未だ人の面識の中で知り得ている。
    依って、「人の記憶」に薄らいだ「姑の実家先の家紋」、即ち「女紋」で判断しても問題は無く成る。
    ここに、”1の方法と2の方法の「仕来り」の違い”が、「面識」と云う点で生まれているし、「家長制度」に従っている。
    結局、「1の方法」か「2の方法」かの使い方で、その「氏」のその「女紋」を観れば、出自は凡そ判る事に成り、更には「女紋」で完全に判別する事が出来るのである。

    ただ、「賜姓族の青木氏」は、「同族血縁」を主体としている事から、「女紋の範囲」も限られて来るので、判別は「家紋」と「女紋」で充分に判るが、「家紋」は「象徴紋」である為に変わらない事になる傾向が強いので、「女紋」の判別の意味合いは強くなる。

    ただ、同じ格式の範囲で行われる「母方の血縁」では、「家紋」も重要な意味を持って来る事に成る。
    例えば、「母方」で繋がる「特別賜姓族の秀郷流青木氏」とは全く格式は同じである。
    「116氏」にも成ると、家紋は116もの数に成ると、当然に判別は困難であるので、「家紋」と「女紋」とで判別が必要と成る。
    ここに「秀郷宗家361氏」との血縁ともなれば、「格式」は多少の変化を来す。
    益々、「家紋と女紋」の重要性は高まるし、「家紋」だけでは不足と成り、「副紋」も用いての判別と成るので必要と成る。
    他氏では、「同族血縁」が成されない事から、結局は、「家柄」と「家のステイタス」の「誇示」に利用される。
    「より低い氏姓」は「より高い氏姓」との血縁を望む事に成り、「家紋」一つに「判断の重要性」は高まる事に成る。
    依って、「青木氏」は、「皇族賜姓族」にしろ、「特別賜姓族」にしろ、「同族血縁」をする為に「氏の地域性」は明確に成って居るし、「地方性(田舎)」は「青木村」を構成する事を許されている為に「1の方法」が主体と成る。
    しかし、「夫々の賜姓族内」では、「1の方法」で、「賜姓族」が跨げば「2の方法」に従う事と成る。

    この「慣習仕来り掟」の範囲で同族は護られる事に成る。
    兎も角も、以上の事全ては、”「氏家制度」”の中での「慣習仕来り掟」である。
    なので、この様な「血縁関係」は「氏全体」で管理されている事に成る。
    つまり、その作業が「密教の菩提寺」に求められ、その「菩提寺」の「過去帳」に記される事に成るのである。
    これが、何度も論じている「菩提寺と過去帳」の位置づけなのである。
    上記に論じた「青木氏の家紋に関する事」や「青木氏の考え方の如何」は、この「密教の菩提寺」と「過去帳」の所に繋がる事に成るのである。


    上記の事を承知した上で、情報提供のあった下記の例を検証してみる。

    そこで、「福岡の第3氏」を入れた「7組の青木氏」が、入り組んだこの「特殊な地域」で、且つ、「青木氏」を判別する場合は、次の様な事に成る。
    「特殊性」が出て来て、この「青木氏」が持つ「家紋」などを含む全ての「慣習仕来り掟」の「熟知の度合い」が大きく左右する事に成る。
    情報提供の下記の例は次ぎの様に成る。


    先ず、「女紋」は「五瓜に唐花紋」である。
    そもそも、この「家紋」には次の様な情報を持っているのである。
    「家紋」には、全国8000の家紋があるが、その内で豪族として大きなルーツを持つ”「主要家紋200選」”と云うものがあり、この家紋はその中の一つである。
    歴史的に日本の「主要氏の家紋」と云う事に成る。
    この「家紋の文様」は、元は、「唐の官僚の階級」を示す袖に記した「官僚階級紋」である。
    これを「大和朝廷の官僚」の「象徴の印」としたのである。
    専門家ではこれを「官僚紋」と通称は云う。
    そして、この「官僚紋」の「文様紋」を使えるのが、「大和朝廷」の当時の「五大官僚」と云われる「氏」が独占したのである。
    「瓜の切口」とか「ボケの花の断面」とも言われているが、これは大きな間違いである。

    注釈
    この辺のところが「郷土史」では間違いを起こす。
    「俗説」を用いてしまった事からこの説が全国に広まった。間違いの大きな事例である。

    この「五大官僚」の「高級官僚」は、「唐花の文様」を少しつずつ変えたものを「象徴紋」とし、誇示する為に牛車などの道具に使用した。
    室町期末期から江戸初期の後に多くの「姓」が使ったこの文様の「類似家紋」は190程度もある。

    そこで、何故この家紋が「九州福岡」と云う地域にあるのかと云う疑問を考えると、ここには「明確な根拠」がある。
    ここには、奈良期には、その「五大官僚」の一つの「伴氏」が、この「九州地域一帯」を任されていた。
    その「伴氏の職務」は、主に「弁済使」であった。
    つまり、この「伴氏」は「税務監」を主務としていたのである。
    そうすれば、「税」であるので多くの豪族などとの親交が生まれる。
    この結果、「九州一帯」の殆どの「豪族」はこの「血縁関係の血筋」を受けている。
    「北九州の豪族」では例外は殆どない。
    最も大きい氏で、殆ど「大蔵氏」に依って制圧されるまでは、九州全土を支配下にしていた有名な「肝付氏」がある。
    後に「大隅の肝付氏」は、薩摩藩の勢いに押されて敗戦して薩摩藩の家老と成った。
    ところが、この「伴氏と肝付氏」の勢力の中に「大蔵氏」と云う別の大勢力が入って来た。

    そこで、その「大蔵氏」の事に付いて少し説明して置く。(研究室などに何度も論じている。)
    大化期に中国の「後漢国」が亡び、その国の17県民の200万人の「職能集団」が、福岡に難民として上陸してきて、瞬く間に九州全土を無戦で制圧してしまった。
    日本の第一次産業の基礎は、この「技能集団」の進んだ技能によってもたらされ築かれたものである。
    在来民も挙ってその配下に入って生活程度をあげた。
    この時、この集団を首魁として率いていたのが「光武帝」より21代献帝の孫子の「阿智使王」とその子の「阿多倍王」であった。
    (”阿多”の地名は鹿児島にある。大隅の隼人に居を構えた。)
    更に、この集団は中国地方も無戦制圧し、”いざ都の制圧”と云う所で立ち止まり、朝廷と和睦を選び争いを避けて帰化する。大化期である。
    この中国地方には、首魁の「阿多倍王」が引き連れて来た多くの部の職能集団が定住して在来民の生活を豊かにした。
    その「部の職能集団」の中で、「陶器を作る技能集団」が勢力を持ち、室町末期まで中国地方の全土を制圧して勢力下に治めた。
    その中には多くの「部の職能集団」がこの同じ部の勢力を持った「陶族」に従ったのである。

    そして、首魁の「阿多倍王」は「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王」の娘を娶り、准大臣に任じられ、3人の子供を作った。
    そして、この「部の職能集団」は、「大和朝廷の官僚組織」の6割を占めて大勢力を握った。
    上記の「五大官僚」もこの勢力に飲み込まれた。
    この「部の職能集団」が進んだ中国の政治手法を大和朝廷の中に導入した。
    この職能集団を「・・・部」と呼び、例えば「服部」や「織部」等180程度の「部」から成り立つ組織を作り上げた。
    依って、大和朝廷から政治と経済システムとしてこの「部制度」を採用しました。
    この政治機構の改善を主導したのが、首魁の阿多倍王の父の「阿智使王」であった。
    「史部」と呼ばれた。
    この時に作り上げた「政治機構」の「官僚の象徴紋」として、この「五瓜に唐花紋」を使用したのである。
    この3人の子供の長男は「坂上氏」の賜姓を受け朝廷軍を担う。
    次男は、当時の政治機構は「三蔵」と云われ、朝廷の財政を担う「大蔵」を担当し、「大蔵氏」の賜姓を受ける。
    三男は天皇家の財政を担当する「内蔵」を担当し、「内蔵氏」の賜姓を受る。
    この次男の「大蔵氏」が九州全土の自治を任されたである。900年から940年頃の事である。
    「遠の朝廷」と呼ばれ「錦の御旗」を与えられ「太宰府の大監」と成る。
    首魁「阿多倍王」は、大隅国にも半国割譲を受け、更には伊勢北部伊賀地方の国を半国割譲を受けて実家はここに住み着いたのである。
    この時、半国割譲したのは伊勢守護王の伊勢青木氏である。
    この隣の伊賀の阿多倍(高尊王 平望王)の実家は「たいら族」の賜姓を受ける。
    この「たいら族」の「伊勢平氏」が五代後の「平清盛」である。
    この支流の血筋を受けたのが「織田氏」である。
    この織田信長の家紋も「五瓜に唐花紋」の「織田木瓜紋」である。
    つまり、「伊勢平氏」と「大蔵氏」、「内蔵氏」、「坂上氏」の「3氏」の同族で「官僚の6割」を占める事から、この傍系末裔と観られる織田氏(可能性がある)も、この末裔だとして由緒ある「官僚紋」を採用したのである。
    これが、有名な類似家紋として、「織田木瓜紋」である。
    この「伴氏」と「大蔵氏」は血縁して、「2つの官僚氏」が九州全土を血縁の輪で固めたのである。
    従って、「九州の大蔵氏系豪族」と「九州の鎮守神の神官族」はこの家紋を使用しているのである。

    さて、「福岡の青木氏」の1氏が、この家紋である事から、「大蔵氏」の血筋を持つ「伴氏系の姓族」である事になる。
    恐らくは、早くて室町中期、遅くて室町期末期に、「姓の家」を福岡筑前のこの地域で興している事に成る。
    これを「女紋」としている事は、このルーツから出自した”歴史性の持った家柄”である事を示す。
    当然に、この「五瓜に唐花紋」を上記した末裔と成る「家柄筋」が保持しているとすると、この「家筋との血縁相手」は、「家柄と格式」を重んじた社会の中では、必然と決まってくる。
    この「五瓜に唐花文様」が「女紋」である事から、「嫁ぎ先の家柄格式」は、「同位」かわずかに「上位の家柄筋」に成る。
    そうなると、この地域に、それに相当する氏ともなれば、歴史上から確認できる「青木氏」は、次ぎの様に成る。
    平安期から鎌倉期までに筑前に遺した青木氏の末裔氏は、「筑前では2氏」と成り、江戸初期には「筑前の1氏」の青木氏と成る。
    先ずは、この「3氏」で、他の要素を組み入れて検証を進めれば、その青木氏は判別できる事に成る。
    「検証の櫛田神社」
    ここで、「検証の要素」として、筑前にある”「櫛田神社」”が出て来る。
    この「神社の由来」を調べれば、この「五瓜に唐花紋」に絡んで来る事に成る筈である。
    そこで、更に検証を続けると、次ぎの様に成る。
    そもそも、「櫛田神社」は「鎮守系の神社」(大蔵氏の守護神)であるから、「九州神官族の家紋」の「五瓜に唐花紋」となる。先ずここで繋がる。

    その家紋の分布は、神社のある地元(内原)でよく使われている。
    その背景から、この「神官族の末裔」が、後に地名を採って「内原姓」と名乗った。
    この「鎮守系の櫛田神社」の元の「神官族名」は、何であったかが判れば更にはっきりする。

    そこで、櫛田神社の由来を調査する。
    そもそも、この「櫛田神社」の「大幡大神(大幡主命)」は、「伊勢国松坂」の「櫛田神社」から霊位を勧請した事は有名である。
    この事から、この「鎮守系神社」と云っても、その「祭神」は、「皇祖神」の子神の「神明社系神社」とは同じ事に成る。
    つまり”兄弟社の様な社格”を持っている事に成る。
    実際にも祭祀している「大幡大神」はその格式にある。
    櫛田神社がどんな理由で移したのかが問題に成る。
    「伊勢松阪」の「櫛田神社」から「大蔵氏」が、”ある事情”で「霊位」を移している事から、初代は松坂の「伊勢青木氏の神官」であった可能性極めて高い。
    しかし、あくまでも「筑前の櫛田神社」は「大蔵氏の鎮守神」であるので、「神明社の青木氏」を移したからと云って其の儘に続ける事は出来ない筈である。
    何時か変更しなければならない筈であるし、この時の「伊勢青木氏の神官」が筑前に末裔を遺した可能性も否定できない。
    しかし、遺したとすると、この場合は、「笹竜胆紋」を維持している「青木氏」と成る。
    「源為朝の配流孫の笹竜胆紋」は別として、この「笹竜胆の家紋の青木氏」は1氏が江戸期に移動定住している事が確認できる。
    即ち、黒田氏の家臣と成った「摂津青木氏」である。
    ところで、「神社の格式」には、”「霊位の有無」”が大きな意味を持つ事に成る。
    要するに、「神明社」は「青木氏の守護神」であるから櫛田神社は、所謂「兄弟社」と成る。
    故に、祭祀する櫛田神社の「大幡大神」は、「伊勢神宮」の「天照大御神」に仕える「一族神」と成る。

    従って、この「博多の櫛田神社」だけは、「大蔵氏の鎮守神」と云いながらも、全国にある「櫛田神社」とは、その「祭神の格式」のレベルが元々違うのである。
    それは「筑前の櫛田神社の由来」に関わる。

    その「由来、ある事情」とは、次ぎの様に成る。
    平安末期に「瀬戸内」で起こった「讃岐藤氏」の「藤原純友の乱」を鎮めるために「伊勢松阪の伊勢神宮」の「皇祖神」の子神の「櫛田神社」と「京都八坂神社」に「乱の鎮静」を命じられた。
    朝廷より鎮圧を命じられたのは九州最大豪族の大蔵氏である。大蔵氏はこの二つの神社に祈願をした。
    そして、鎮静のその結果を以って、その時に祈願した大蔵氏が、その礼に応じて、筑前に”松阪の櫛田神社の霊位”を遷移して「筑前櫛田神社」を建立したのである。
    要するに「分霊」をしたのである。
    そして、この「純友の乱」を鎮圧したのは、「阿多倍王」より10代目の「九州太宰府大監」の「大蔵春実」である。
    「分霊の筑前櫛田神社」と「本霊の伊勢櫛田神社」も「伊勢青木氏」とこの様に思いがけないところで繋がっている。
    更に「青木氏」と繋がった事から、最早、筑前には「青木氏の存在」は否定できない。

    そうすると、「櫛田神社」の要素から次の「2つの青木氏」が浮かび上がる。
    この「櫛田神社」の位置する地域性から、次ぎの事が判る。
    (イ) 黒田氏の家臣と成って移動定住した「摂津青木氏」の末裔
    (ロ) 櫛田神社の初代の神官の「伊勢青木氏」の末裔

    そうすると、この「女紋側」の「五瓜に唐花紋」を「女紋」として使っているとすると、九州地域では、この文様は「鎮守神の神官族」が使用している文様である事から、この「地域性」が出ている。
    この「神官」が、”地域の地名を名乗った”と成る訳であるから、「女紋側」(神官側)に地名の「内原姓」の要素があるので、(イ)の「摂津青木氏」の説に成る。

    「五瓜に唐花紋」(女紋)を持つ「鎮守神の神官」の末裔(内原姓)が(イ)の「摂津青木氏」に嫁いだ事に成る。

    何故ならば、(ロ)の「初代神官の伊勢青木氏」は、そもそも「笹竜胆紋」で、「神官」であっても「五瓜に唐花紋」では無い。
    そして、尚更、神社在所の地名の「内原姓」を、「青木氏」であるにも関わらず、態々と名乗る事が無い訳で、そもそも「青木氏の戒律」から不可能である。
    依って「伊勢青木氏」の説は消えるので、「摂津青木氏の説」と成る。

    これで、「九州の鎮守神の神官族」の「五瓜に唐花紋」を「女紋」としている筑前の内原地域に定住している「青木氏」は、結局、「黒田藩家臣の摂津青木氏」であった事に成る。

    さても、問題は、この「黒田藩家臣の摂津青木氏」の家紋が、「笹竜胆紋」を維持出来ていたかは検証しなければならない疑問である。
    そもそも、「摂津青木氏」は、「源平の争い」で、近江で、滋賀で、美濃で滅亡している。

    福井に逃避して庇護され僅かに遺した支流の末裔が、摂津に移り「伊勢青木氏」の大店に庇護されて再興を遂げた賜姓族の一族である。
    元々、「近江青木氏」の一団の「摂津水軍」の名残を持つ事から、「伊勢青木氏」等の大船に従事して糧を得て来て生き延びて来た。
    従って、「笹竜胆紋」を維持するだけの「血縁力」「子孫力」は持ち得ていなかった筈で、「家紋掟」に依り「変紋」を余儀なく成って居た可能性が高い事が充分に考えられる。
    実際に、現在の「摂津域の青木氏」には「笹竜胆紋」は1家しか確認できない。
    しかし、調査でこの1家は、「伊勢青木氏」の大店を維持した「絆青木氏」(養子縁組制度)ではないかと考えられる。
    「黒田藩家臣の摂津青木氏」の家紋が、情報提供によると ”何であったか”は「現在の末裔」は掴み切れていないのが現状である。

    情報提供の内容
    「黒田藩家臣の摂津青木氏」の再興後、筑前の祖は「青木氏理兵衛」である事。
    この家に別のルーツの「青木市左衛門」が跡目に入った事。
    この「青木市左衛門」は「日向青木氏」で遠祖は「伊勢青木氏」である事。
    「摂津青木氏の近江青木氏」と「伊勢青木氏」は「皇族賜姓族5家5流青木氏」の「同族血縁族」と成る。

    そこで、「青木市左衛門」のルーツに関する検証は必要となる。
    その内容を下記に記述する。
    つまり、この血縁の意味する事は、「青木理兵衛側」は、「青木市左衛門の青木氏」とは、”「同族の青木氏」である”と認識していた事に成る。
    「青木氏の慣習仕来り掟」に従い、且つ、当時の「氏家制度」の中で、「同族血縁」を戒律とする「跡目継承」には、「青木理兵衛側」が、「青木市左衛門側」から「跡目養子」を求め入れて、「青木氏」を守ろうとした事が判る。

    尚、「青木氏」には、「藤原秀郷流青木氏の特別賜姓族の青木氏」が、隣の長崎に「青木村」を形成して住んでいた。

    (「氏名」を「村名」にして村を構築する事は、正式には「嵯峨期の詔勅」で禁じられていて、許可なく構築できない。依って、正式な「村名」があると云う事はそれなりに意味が大きいのである。
    「日向青木氏」には、「正式な青木村」を鹿児島の大口市に構築しているし、筑前南国境にも青木字が構築されている。)

    「5家5流の賜姓族青木氏」と母方で繋がる「特別賜姓族の秀郷流青木氏」とは「純血性」を守る為に盛んに「同族血縁」を主体としていた。
    当時は、この「二つの賜姓族青木氏」にはこの「厳しい戒律」があった。
    どんな事があろうとも、跡目は絶対に守ると云う「絶対的な氏の戒律」があった。
    それには、「11家11流」の「賜姓源氏一族」を含む「皇族系一族一門29氏」と「特別賜姓族の秀郷流青木氏116氏」と、その「女系の縁者一門」のどこからでも持って来てでも継承すると云う「青木氏」を継ぐべき厳しい「同族血縁の戒律」があった。

    つまり、「近江青木氏ー摂津青木氏」の「青木理兵衛」はこの戒律を守ったという事である。

    念の為に、「摂津青木氏」は「総紋」は、「笹竜胆紋」(変紋している可能性が高い)、「日向青木氏」は「五七の桐紋」と、配流孫の為に「丸に笹竜胆紋」が家紋と成る。
    ところが下記に記する事があって「日向青木氏」は「五七の桐紋」を使用している。

    次ぎは「女紋」の事で検証する。
    さて、「青木市左衛門」ルーツの「女紋」は「三連鎧揚羽蝶紋」である。
    この家紋は、信長に贈られた「池田氏の家紋」で有名である。
    この「池田氏」は「岡山ー鳥取」地域と、「福岡ー豊後」地域に分布する「氏の家紋」である。
    同時に、この文様は、「平家末裔の織田氏」も上記するCの「副紋」(第二家紋)として使っていた家紋である。
    これを織田氏が同じ「平氏末裔族」の「池田氏」に送った家紋である。(一部を変更した)
    結局、「青木市左衛門」の家の「女系」の方に「九州池田氏」の流れを持っている事を示している事に成る。

    「黒田藩の家臣」で「摂津青木氏」の「女系」(「鎮守神の神官職」)の内原姓は「五瓜に唐花紋」、更にその女系には「三連鎧揚羽蝶紋」、この何れもが「平氏系の主要家紋群」である。
    「黒田藩の摂津青木氏」の「女系側」には、何れも「平家一門の血筋」で維持されて来た事が判る。
    上記した様に九州の「大蔵氏」も平氏とは同族である。
    「平家一門の血筋の中」に、「黒田藩の摂津青木氏」が存在して居た事を物語る。
    そうなると、「黒田藩の摂津青木氏」は、「同族血縁の戒律」もある事も含めて、「平家一門の女系血筋」に対抗して、何とかして九州にある「青木氏一門との血縁」を求めようとしていた事が判る。
    それを物語るのが、つまり「青木市左衛門」である。
    この「青木市左衛門」は、周囲の「筑前近隣の青木氏」か、「筑前外の周囲の青木氏3氏」かの何れかから血縁を求めた事に成る。
    後は、「青木理兵衛」の「青木氏の家紋」と、「青木市左衛門の青木氏の家紋」が、”何であるか”が判ればルーツは明確になるが、この検証には答えは出る。

    その前に、「上記の平家一門の血筋」の「女系側」に付いて検証をする。
    何かが観えて来る筈である。

    平安末期、「大蔵氏」に代わって、一時、同族の「伊勢平氏の清盛」が「太宰府大監尉」(大監の上司)に成ります。
    ここに「平清盛の所領」が、この「肥前国神埼」にあり、そして、上記の「櫛田神社」を、「日宋貿易の拠点」とした事は有名である。
    一時、「平清盛」がこの「太宰大監」の上司にも成った事がある。
    従って、同族の大蔵氏の居る所に、ここにも平氏は「九州護衛平氏軍団」を送った。
    この平氏で九州域を守っていた「平氏軍団」である。
    故に、「青木氏の女系側」には、この「平氏の血筋」が流れていて、その「九州池田氏」の流れを持っている事に成る。


    この「平氏軍団」が北九州の地域の氏構成に大きな影響を与えた。
    「日向廻氏」に守られた「日向青木氏」と成った「宗綱ー有綱」の”清和源氏の配流軍”と、この九州の「平氏軍団」とが再興を期して戦いました。
    平氏に配流された「宗綱ー有綱」等が、周囲の小豪族を集めて、再びこの「平氏軍団」と戦ったのである。
    結局は、再び敗退して薩摩大口村まで南下して落ち延びて、最後は追撃に窮して大口村の寺で「伊勢の青木氏」を名乗ったのです。(寺の住職の勧めにて名乗る。)
    何故ならば、「宗綱と有綱と京綱」は3兄弟で、その「三男の京綱」は「伊勢青木氏の跡目」に入り戦いで一族が亡びる事の無い様に「摂津源氏の安泰」を「伊勢青木氏」の中に図ったのである。
    「伊勢青木氏」は、「不入不倫の大権」で護られていた為に、この「京綱の伊勢青木氏」を名乗ったのである。

    「日向青木氏」は、況して、「以仁王の乱」の敗退で「助命嘆願」をしたのが、この「伊勢青木氏の京綱」ですので、「日向青木氏」と成って生き延びる為にも、その「伊勢青木氏」を名乗ったのである。
    「伊勢青木氏」は、上記する様に、朝廷より特別に「不入不倫の権」で護られ、且つ、隣の伊賀に住む「清盛の実家」とは、「伊勢和紙の殖産と販売」で共に利を得ていた深い付き合いの関係もあり、討ち滅ぼす事が「九州の平氏軍団」は出来なかったのである。
    それが「日向青木氏」の発祥の由来なのである。
    それが「黒田藩の家臣の摂津青木氏の「青木市左衛門」のルーツに成る。(市左衛門の棲み分け地域から判別)
    ここでも、「青木市左衛門」も「伊勢青木氏」と思いがけないところで繋がっているのです。
    そもそも、この「青木市左衛門」の出所は、「筑後と筑前の国境」に住していた事が判っている。
    上記に記した様に、「7つの青木氏」の内、「第3の青木氏」を除いて、「近隣の青木氏」も含めて「6つの青木氏」は、上記した青木氏の慣習から「棲み分け」をする慣習があった。
    従って、その「棲み分け」でどの「青木氏」であるかは判るのである。
    依って、「青木市左衛門」は「日向青木氏」と判定できるのである。
    「黒田藩の家臣の摂津青木氏」は、「日向青木氏」の「養子跡目」に入った事を物語る。

    そこで、「家紋掟」から、「摂津青木氏」は、上記した様に、「家紋の変紋」は起こっている筈である。
    更には、「日向青木氏」は、本来は「笹竜胆紋」ですが、「配流孫」であるので、「丸に笹竜胆紋」と成る。
    しかし、この「日向青木氏」も「丸に笹竜胆紋」では無く、長い間の「半農と傭兵の生活」から家紋を失った。
    「黒田藩の傭兵」の下記の勲功で与えられた「家紋使用の特別許可」で、「五七の桐紋」を使用していた。
    「青木市左衛門」の段階では、「五七の桐紋」が使われていた事が判断できる。
    問題は、「同族血縁」をこの九州域で続けられたかは疑問である。
    そもそも、「跡目養子の事」が2度続けば家紋は変紋する。
    但し、この「五七の桐紋」は「跡目継承」に依って起こった家紋では無い事から、この勲功の「五七の桐紋」は江戸初期前から永続的に継承されていた事に成る。
    「大口郷の青木村」の家紋は、従って、「五七の桐紋」を継承している。
    (一族の明治初期の墓所の紋と形式で判明する。)
    幕末から現在までの間の150年に市民化して、”伝統不継承の状態”が起こっていない限りは、「五七の桐紋」と「丸に笹竜胆紋」の「2つの家紋継承」が可能に成って居た筈であるが、現在までこの「二つの伝統」は明確に継承されている事が確認された。
    この「青木市左衛門」の時までは、家紋から観て、前回の「跡目継承の原則」が守られていた事を物語る。

    では、次ぎに、”何時頃からこの正式な伝統を継承し始めたのか”を確認する必要がある。
    それには ”何で、この「養子跡目の縁組」が出来たか”の疑問を先に検証する必要がある。

    そもそも、実は、この「青木市左衛門」ルーツの「日向青木氏」は、「黒田藩」に「傭兵」として働いていた。
    「傭兵」であって家臣ではないながら、黒田藩から特別に「苗字帯刀、家紋、登城権、布衣着用等」を許可され上級家臣(郷氏)なみの資格を与えられていた。
    従って、「日向青木氏」は黒田藩から特別に使用を許された「五七の桐紋」を使用していた。

    注釈
    そもそも、この元「桐紋」は、「天皇家の式紋」で「五三の桐紋」が元紋に成る。
    天皇家は、室町期からの極度の財政難から、秀吉にこの由緒ある「五三の桐紋」の使用と変紋の「五七の桐紋」を使わせて財政を賄いました。
    秀吉は、今度は勲功のあった大名に対して、変紋してこの「五七の桐紋」にしたこの家紋の使用を「権威紋」として認めました。
    出自に対して格式の無かった秀吉には、この「権威」が必要であった。
    朝廷に対して、その格式の一つの天皇家で使う祭祀や儀式に使用する「式紋」を金銭を対価にして「五三の桐紋」の使用を要求して得た文様であった。
    これをベースに家臣に対して与える「権威を示す褒美」として「五七の桐紋」を与える様にしたのである。
    この「特別な勲功」で「権威紋」の「五七の桐紋」の使用を許された大名は、今度は家臣などにもこの「五七の桐紋」の使用を同じ目的で許可したのである。
    その与えられた代表的な大名が「黒田藩」なのです。
    「黒田藩」は、「傭兵」として「黒田藩に合力した事」を理由に、上記した特権と共に、この「名誉の式紋の桐紋」を永代使用として「日向青木氏」に与えたのである。
    「青木理兵衛」が居る黒田藩では、「傭兵」の「日向青木氏」の事は知っていた筈ですし、一族の「青木市左衛門」の事も知っていた筈である。

    実は、繋がりはこれだけではないである。
    この「日向青木氏」は、平常時は農業や漁業をしながら、「戦い」となると「日向灘での操船戦術」と「陸の山岳戦闘術」の2面から「傭兵」として黒田藩に合力していたのである。
    この「青木理兵衛」は、「摂津水軍」時に「操船術」を任務としていたと観られ事から、”仕事”の上でも「青木市左衛門」との付き合いは充分にあったと考えらる。
    その上での同族としての認識の上で、「跡目継承」に「青木市左衛門のルーツ」と繋がったと考えられる。

    実は、「青木理兵衛」の青木氏は「黒田藩の家臣」、「青木市左衛門」の「日向青木氏」も「黒田藩の家臣扱い」であったのである。
    つまり、「青木理兵衛ルーツ」は、この認識に立っていた事と、何れの青木氏も「伊勢青木氏」に繋がった同族であると云う事の認識にあった事を物語っているのである。
    この為に、”黒田藩の働き”の中で互いに親睦を深めていた事を充分に物語る。

    従って、「青木理兵衛ルーツ」の「摂津青木氏」と「摂津」に大店と大船をもっていた「伊勢青木氏」とには、何かの記録が遺されているのではないかと観ている。調査中。

    以上の三つの事を合わせると、このルーツに関係する状況は次の様に成る。
    A 黒田氏ー近江佐々木氏系末裔ー摂津青木氏(理兵衛)ー近江青木氏ー伊勢青木氏ー日向青木  氏(市左衛門)
    B 九州博多の櫛田神社ー伊勢松阪の櫛田神社ー皇祖神子神の神明社ー伊勢青木氏の守護神
    C 鎮守系神社(大蔵氏と平氏の守護神)ー神明社系神社(青木氏の守護神)
    D 櫛田神社の神紋(五瓜に唐花紋)ー内原氏の家紋(五瓜に唐花紋)ー伊勢平氏の家紋(織田木瓜  紋)
    E 青木氏女系の家紋ー「三連鎧揚羽蝶紋」ー伊勢平氏紋ー九州池田氏

    以上の様に関係が不思議に繋がっている。
    これは、格式を重んじて「九州の2つの青木氏」は縁組を構築していた事が判る。

    移動定住した九州でも「青木氏」を継承する上で、”血縁上で採った考え方”をしていた事が観えて来る。

    「独特の慣習」の”「女紋」”を使っているところを観ると、「男紋」も含めて、「紋」即ち、「青木氏ルーツ」と云うものに”拘り”を持っていた事を物語っている。

    そもそも、「女紋」を使われている慣習を続けていた事であるのなら、「女墓」の慣習も続けられていたと観られる。
    「女墓」も女紋と同様に、「青木氏等の賜姓族」が継承してきた慣習である。
    代々の女御の俗名と戒名を記載した大きな墓碑で、系統的に維持し、単独に先祖墓の横に別の墓所を設けているものである。

    この事は、「男側の継承」にも「賜姓族青木氏」として、「女側の継承」にも「賜姓族平氏」として、”拘り”があった事を想像出来る。
    これらの情報の詳細な事は研究室に全て網羅している。

    そうすると、日向青木氏が、”何時頃からこの正式な伝統を継承し始めたのか”の検証であるが、少なくとも、「日向青木氏の青木市左衛門」と「黒田家臣の青木理兵衛」の「跡目の血縁」が成された時期より少なくとも前に成る。
    つまり、既に、「青木氏の跡目の伝統」と「女紋」などの慣習を持っていた事に成るのであるから、その前に成る。
    と云う事は、「黒田藩の傭兵」と成って、青木市左衛門が黒田藩に関わり、黒田藩の青木理兵衛が博多に来て両者が知り合った時の前に成る。
    黒田藩から、”勲功として「特権」を与えられ、「郷氏」に成った時”と云う事に成る。
    最終的な勲功と成れば、1615年から1618年の間と成る。
    この時に、改めて正式に「家筋の伊勢青木氏系」の「氏族としての条件」を整えた事に成る。
    黒田藩から「五七の桐紋」、伊勢青木氏の配流孫としての「丸に笹竜胆」を一族に示した事に成る。
    無冠の「土着の民」から、始祖の青木氏の格式を持つ「郷氏」に成った時に、世間に対して「家筋の正統性」を誇示したのである。


    参考
    「三連鎧揚羽蝶紋」は「揚羽蝶紋」を調べて、その羽の右上の二つの尾びれの様なところが鳥の羽の様に成っている家紋で、羽の筋文様が黒線になり、その上の文様が黒点に成った文様である。
    この文様の羽が三つ連なっているところから「三連鎧揚羽蝶紋」と云う。


    最後に、画して、「福岡の分布と子孫力」に付いては、上記した様に、複雑な経緯を持っている。
    それが故に、これを紐解く為に、かなりの調査と検証が必要と成り研究には時間が掛かった。
    この「福岡の青木氏」を論じる場合は、他の定住地の事や歴史性などの知識も考慮に入れて読み込まなくてはならない。
    それでなくては、正しい理解は進まない。重要な「情報提供」を得て、事例を用いた。
    故に、敢えて、最後に論じたものである。
    未だ、多くの歴史マニア等にお願いしての「情報提供」を待っている状況でもある。それだけに時間が掛かる。判り次第追記する。

    本論を読まれる際には、ルーツ掲示板と研究室などの論文も是非にお読み頂けると、筆者の論じる翻意は誤解なく通ずるのではないかと考える。是非お読み頂く事をお願いしたい。

    更に、続けて、「伝統シリーズ」を仕上げる為に、現在、「論文の見直し」を続けている。
    ご期待頂きたい。


    伝統−4に続く。

    > 終わり


      [No.319] Re:「青木氏の伝統 2」−「仏説作法」
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/07/29(Tue) 10:37:48  

    「青木氏の分布と子孫力」−8の末尾に投稿済み分

    「青木氏の伝統」−「仏説作法」として再投稿する。


    (伝統 2)

    「仏説作法」
    (密教作法)

    筆者の「伊勢青木氏」の生活の中にも、何気なく行ってる「慣習仕来り掟」は、外から観れば、”古来のもの”と観られる。
    筆者はそれを当たり前だと「無意識」に受け取っていた。
    子供の頃から、”何か違うな”と思いながらも、その「無意識の感覚」が強く打ち消していた傾向があった。
    今、思えば、「部屋の間取り」や「構え」や「大きさ」や「家具」や「調度品」や「装飾品」や「作法」等は確かに違う事が判る。
    例えば、「達親の論文」で論じた様に、「祭祀の作法」の”「達親」”等はよく調べると、「古代慣習の継承」であったりする。
    この様な事が、未だ、沢山ある筈で、「無意識」を「有意識」にして、これから「伝統」を掘り起こして行く計画である。
    何せ、相当伝授されたが、その”有意識の持った人”が居なくなっている現状である。
    何とか「違い差」を見つける事と認識している。そこから検証を進めて投稿する。

    後に、詳しく伝統の論文として、投稿する予定だが、「無意識」を「有意識」にして、因みに一つ簡単な例を挙げる。

    祭祀で、仏様に、線香を捧げる。
    この時の”「仏法作法」”が異なっていて、”「古来の密教浄土宗の作法」”が遺り継承されている事がある。

    「仏説作法」
    それは、先ず「仏」に向かって挨拶をする。
    「数珠」は、親指に賭ける。ところが一般は親指以外の4本の手に賭ける。
    そして、「粉の線香」を、先ず、一摘みして、一般ではそのままに香炉に入れる。
    ところが、この時、その一摘みの線香を、香炉に入れずに、「額中央」に当てる。
    その後、に香炉に入れる。
    これを、3度繰り返す。

    これを他の宗派では日蓮宗は一度で、真宗は2度にして、額に当てずに、直ぐに香炉に入れる作法である。
    ここで、重要な異なる作法が2つある。

    ”「親指に数珠」”を掛けるのは、「親指」の持つ意味から来ている。
    この”「数珠作法」”は、他の宗派にもあり、「自然神」をも崇め、「神仏合体」で信仰する「修験道師」にも、一部作法として遺されている。
    これも「古来の作法」であったと観られる。
    古来は「現在の数珠のサイズ」の様では無く、現在は小さくなかった。
    古来は「108の球」を連ねた「長い数珠繋ぎ」であったのです。それを両方の親指に賭ける。
    そして、その「長い数珠」を両手で擦り合わせて、”「擬音」”を出す作法であった。
    この”「擬音」”で、「仏への合図」とした。
    これは現在では無く成って居る。
    青木氏の中でも無く成って居るが、”親指に賭ける作法”だけは遺されている。
    ところが次の作法では異なっている。

    「作法の相違点」
    A 一つは、回数が3度にする作法
    B 二つは、額に当てる作法

    これらには、2つの作法には、「古代密教浄土宗」のみ「本来古来の姿」が「仏説根拠」を伴って遺されている。

    先に、Bに付いて、この「額に当てる」とは、何なのかである。
    それは、古来より、「額中央」に、人間には、「瘤」の様に膨らんだ「複眼機能」と云うものがあった。
    現在は、その機能は退化して、大脳の下に10ミリ程度の大きさで押し込まれている。
    これは「前頭葉」が進化して大きく成った事により退化して、更に、存在場所が圧迫されて奥に引きこもった様に成って居る。

    ここで、この「複眼機能」は、ここに「無我無心」にして「全神経」を集中させると、右脳より「ベータ波」を飛ばす事が出来る。
    これは、「未来」を予見し、「過去」を悟り、「現在」を見据える事、の出来る「予知機能」を有している。
    この「予知機能」を使って、「過去の人」と成った「仏」に対して、「未来」に生まれ変わってくる「仏」に対して、「現在」の世に未だ居る「仏」に対して、「信号」を送る事が出来る。
    (現在、中国では、現実性を以って研究が進んでいる。「中国山岳民族」に、未だ、この「複眼機能」を有している「少数民族」がある。)
    この「信号」の「ベータ波」で、「三世の仏」に対して、”「会話」をする事が出来る、”と信じられている仏説である。
    この「仏との会話」は、例えば、”生前中は大変にお世話に成りました。ありがとうございます。”との事が出来るとして、この「仏説作法」が遺されているのである。

    この「3度」とは、「過去、未来、現在」の「仏」に対する「三度」と成っている。
    これが、「古代密教浄土宗の仏説作法」である。
    これは、一概に、”迷信”では無く、実は、”生態学的に根拠のある現象”なのである。
    この「複眼機能」は、現在も「動物の本能」として持っているもので、人間には退化している。
    ところが、未だ、人間の元と成る「女性」には、「母性本能」の一輪として遺されている。
    そして、この”「機能」”を鍛える事で、「予知能力」は高まる事が判っている。
    特に、「男性」は全く働かないが、「女性」には未だ現実に持っている。
    現実に、右脳から発する「ベータ波」が「母性本能」の中で高く成ることが判っている。
    「女性」が子供を育てる時には、現在も、この機能の一部を使っている。

    これが「古代仏説」として、その「作法」が、「三世の仏」に「話しかける手段」として、未だ「青木氏」の中で遺されているのである。
    これは、「古来の仏説」では、”「仏」が死する事は、「肉体の消滅」 を意味し、「霊威」は一定期間遺る”とする「仏法」である。
    従って、この遺された「霊威」に対して、上記する”「古来の仏説作法」でのみ話しかける事が出来る”とした説法である。
    その”「霊威」の存在する期間”が、”「現在過去未来」の何れにか存在する”として、「3度」と成って居るのだ。
    その「祭祀の目的」、例えば、「葬式」では、「現在」に存在するとして「現在」を、「法事」であれば、「過去」に存在するとして「過去」をと成る。
    「常の祭祀・お勉め」では、「未来」(「仏」が生まれ変わる)に存在するとして「未来」に向かって、「仏との会話」をするとした仏説である。
    一切の「祭祀の作法」として、「密教浄土宗」では、総括して「三界の3度の動作」を繰り返す作法と成っている。
    これを、この「動作の回数」と「額の所作」を省いて、その「宗派の考え方」で、「過去現在未来」の何れかの「三界」に対して1度、2度とした。
    これが、「顕教の浄土宗」では無く、「密教の浄土宗」の中に遺されている「密教の古来作法」の一つである。
    以上の事を「根拠」とした、上記した「古来作法」なのである。

    以上、「達親」に続き、「伝統」の一つを披露した。

    「伝統」−3に続く。

    >終わり


    「青木氏の伝統」-「道標行燈」に続く。


      [No.316] Re:青木氏の分布と子孫力−12
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/07/19(Sat) 10:50:22  

    > > 青木氏の分布と子孫力−1の末尾

    >この守られたステイタスから、「青木氏の身分呼称」は他氏とは異なり、一定の「ステイタスの呼称」が付く事に成る。
    >(これが他氏とは、当然に青木氏内でも判別方法は異なる事になり、それが判別条件にもなる。
    >上記にも記述した様に、青木氏の最高のステイタスは次ぎの様に成る。、


    以下12



    「青木氏ステイタス」
    身分は皇族朝臣族、
    家柄では浄大一位、 (下位では浄高二位)
    官位では正二位、  (下位では従五位) 
    職位では左衛門上佐、(下位では右衛門下尉:右衛門尉) 
    担当職では民部上尉 (下位では民部下尉:民部尉)
    以上の「氏の格式の立場」を持っていた。

    この「格式の立場」は、「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」以外には名乗れない。
    これは永代に朝廷から認められたものである。
    因みに、この「格式の立場」はどの程度かと云うと、例を挙げて次の様に成る。

    格式立場の例
    「征夷大将軍の徳川家康」が「青木氏」と面会したとすると、「徳川家康」が下位の儀礼の立場を採らなければならない立場なのである。
    殿様が座る上段の場では、家康は席を譲って下段に座り、座布団などの敷物は外す作法の慣例の立場にある。馬に乗っていれば下馬する立場なのである。
    (現実にこの慣例に則り家康と対面している。)
    因みに、この事を物語る事件が歴史上に起こっている。
    この「二つの事件」は有名な歌舞伎にもなっている。

    例1
    一つは、信長が甲斐武田氏を滅ぼした。そして、甲斐視察を実行している時、甲斐の賜姓族源氏と青木氏が白の布衣を着て、白の馬に乗ったままに信長を迎えたのである。
    これを観たこの格式の慣例の知らない信長が、怒ってこの白装束で白馬の者を自分で引き釣り降ろし殴る蹴る乱行に及んだである。極めて有名な歴史上の事件である。

    例2
    次ぎは、4代将軍が伊勢神宮参詣に至った時に、「伊勢青木氏」がこの慣例に従って迎えた。
    それを観た将軍は怒って家臣に命じて罰する様に命じたが、家臣がこの「古式の慣例」を知っていて、将軍を咎めて難無くを得るが、江戸に帰ってから将軍は収まらず、「伊勢青木氏」に対して嫌がらせをした。この事は「青木氏の口伝」にも伝えられている。これも有名な歴史上の事件である。

    事ほど左様に、現実には、筆者の祖父の代まで、紀州藩とはその慣例に原則従ったと伝えられている。現実にその儀礼に従った徳川氏の手紙の記録もある。

    正式に名乗る時には、”正二位青木朝臣左衛門上佐信定”と云う事になる。
    少なくとも、どんなに「格式の立場」が低くても、「青木氏」であった場合は、必ず最高で「左衛門上佐」か「左衛門尉」か「右衛門尉」が付く筈である。
    通称、「兵衛」、「衛門」に左右、或は、「摂津青木氏の情報状提供」の様に、理や市等の呼称名がつけられる。(左が上位 衛門が上位)
    これに依って、室町期中期前では、その者がその氏の嫡子か嗣子の判別が出来、且つ、「正規の青木氏」かの証拠にも成るである。

    参考
    情報提供の青木理兵衛、青木市左衛門、共に付いている。
    この事でも、「福岡の3氏」か「近隣の3氏」かは判別できるし、その氏の違いが判る。
    青木理兵衛は、摂津青木氏系、青木市左衛門は日向青木氏の伊勢青木氏系と成る。
    ただ、室町期末期から江戸期には大名や上級家幕臣は、衰退した朝廷の財政を賄う為に、一代限りの官位と職位を金品で買って名乗る事が起こった。

    参考
    例えば、よく知るところでは”遠山の金さん”の”遠山左衛門尉景元”と名乗る等、これは朝廷に金品を出して、幕府の許可を得て授かった一代限りの官位である。
    殆どの武士はこの「一代限り」の官位呼称である。「・・守」も殆どこの一代限りの名義上の官位呼称で中には重複が多い。
    幕末中期頃から末期には、武士はこの左衛門、右衛門を勝手に付けて名前にした。
    明治期には遂には庶民も名前にするほどに成った。
    鎌倉期から室町期中期まではこの格式の慣例はまだ守られていた。


    以上の事柄から「利仁流藤原氏の青樹氏」の呼称が「第3の青木氏」である証拠となる。
    依って、福岡のパラメータには論処の一つは「日向青木氏」、一つは「摂津青木氏」としてカウントし、「利仁流藤原氏の青樹氏」には「第3の青木氏」としては別途とした。
    何れも「青木村の形成範囲」の条件では無かった。

    しかし、パラメータとしては、「字」の領域である事から、パラメータは単独では平均パラメータ4として観ると、「村」で2とすると、「字」である事からパラメータは1に留まる範囲と成る。

    これは、明らかに、「江戸期の歴史書」の通説通り、福岡の「第3の青木氏」である事を物語っているが、これを更に証明するものがある。
    合わせて、江戸期の「第3の青木氏」の可能性が無いのかを検証する必要がある。

    それは「利仁流藤原氏の青木氏」の持つステイタスの「家紋」と「宗派」と「菩提寺」と「過去帳」と「戒名」でも判る。
    上記した様に、「利仁流藤原氏」が持つステイタスとして、「家紋群」、「密教浄土宗」か「真言宗密教」か、「菩提寺か檀家寺」か、「過去帳か人別帳」か、「院殿居士の有無とその内容」、等で区別されている。この確認をする事でも判る。

    「利仁流藤原氏族青木氏」のステイタスは次ぎの通りである。
    ・家紋群
    上藤 檜扇 隻雁 五三桐 丸に三引 
    ・宗派
    密教浄土宗、或は、密教天台宗
    ・寺
    菩提寺 (達親方式)
    ・系譜
    過去帳(一族一門系譜伝承)
    ・戒名
    院殿居士(釈優位名付帯)

    以上のステイタスを持つが、ところが「北家筋利仁流藤原氏族」には、「北家筋秀郷流藤原氏族の文行系」の「長谷川氏」と「進藤氏」との血縁族は発祥させている。
    又、この「北家筋利仁流藤原氏」と血縁した「青木氏族」の2氏は、更に同族血縁にて「長谷川氏族進藤氏」、「進藤氏族長谷川氏」、の「複合融合族」を発祥させている。
    しかしながら、「北家筋秀郷流藤原氏族の兼行系の青木氏族」の3氏(青木氏、永嶋氏、長沼氏)とは、「北家筋利仁流藤原氏」とは同族血縁を一切していない。
    重要な史実の一点である。ここが大きなポイントで、本来なら在り得る同族血縁でもある。
    しかし、それも一切無いのである。
    従って、博多に赴任した「利仁流藤原氏族」のこの事で「九州の青木氏」は一切無いのである。
    ある事が、元来おかしいのである。
    その証拠に九州の「福岡糸島」から「太宰府域」までの流域の青木氏の上記の家紋群は無いのである。

    当然に、重要な事として次ぎの地域にもない。
    「黒田藩の日向青木氏」の在所域の福岡県 三潴郡 城島町 大字青木島、
    「黒田藩の摂津青木氏」の在所域の福岡県 福岡市 西区 今宿青木
    以上の2地域にも、この家紋群は無い。

    従って、上記の「福岡の3氏」のこの3地域には「利仁流藤原氏」が、ステイタスとする「菩提寺」(寺名は個人情報にて不記載)は無い事に成る。

    つまり、この事は、九州の「利仁流藤原氏の青木氏」は、鎌倉期間の3代の赴任中には「正規の青木氏」の呼称は無かった事を示すものである。
    従って、合わせて、”室町期中期頃の「青樹氏」の名乗り”であった事を物語る。
    当然に、これは”「利仁流藤原氏の宗家」からの許可を得ての名乗り”では無かった事に成る。
    独自に現地に遺した土豪との血縁族の末裔が勝手に名乗った事を意味している。
    許可を得ていれば、上記のステイタスの使用を許可され、且つ、経済的な庇護もあった事に成るがそうでもなかった事に成る。
    朝廷も無法治に許可を出す事はしない。

    a 氏の家紋群の使用、
    b 氏の巨額の菩提寺の建立、
    c それに伴って氏の系譜過去帳の作成、
    d ステイタスに見合った戒名
    以上の氏のステイタスは無い事に成る。

    「九州の青樹氏」は、ここに赴任した「利仁流藤原氏」が、正規に「青樹氏」と名乗った事には成らない事を物語る。

    つまり、現地に遺した「傍系支流」の「末裔」(未勘氏族とも観られる)が、「秀郷流青木氏の権威」に準えて名乗ったものと成る。

    結局、「江戸初期の系譜作成の令」に基づき「青木氏」と変更した事からの「第3の青木氏」と成った。
    筆者の検証では以上と成るが、これは江戸期の史書の「第3の青木氏」の説に合致する。

    その上記のステイタスの最たるものは「家紋」である。
    その家紋には次の様な権威を表している。

    ・「上り藤紋」
    「北家筋藤原氏」が本来の総紋が「下がり藤紋」であるが、”下がる”を忌み嫌い、秀郷一門9氏を除いて藤原氏は全て”上り”に変更した。
    「利仁流藤原氏」は、この北家筋として「総紋」をこの「上り藤紋」としているが、秀郷流とは一線を画していた事がこれで判る。当然に、そのステイタスの順守度も異なってくる。
    中でも、秀郷一門の「兼行流」の「青木氏」と「永嶋氏」と「長沼氏」とは血縁族がない事もこの事で証明している。

    ・「檜扇」
    この家紋は、当に「公家紋」として有名で、北家筋の藤原氏の「公家族」を象徴している家紋である。
    ここでも差違がでていて、秀郷流一門に無い家紋である。
    「秀郷流一門」も「平の将門乱」で「貴族」に成ったが、「公家族」との違いを鑑みれば、「行動規範」の違いを「上り藤紋」と共に表している。

    ・「五三の桐紋」
    これは「天皇家の式紋」で「最高の権威紋」である。
    これに似せて天皇家より秀吉に送った「五七の桐紋」があり、この「五七の桐紋」を「黒田氏」から送られた「日向青木氏」がある。
    この「五三の桐紋」は、天皇家から公家藤原氏に使用を認められたものである。その藤原氏の守護神の「春日社」の「神紋」に用いられた「公家族象徴紋」であり、一門が特別に使用できる事を許可した「神社権威紋」である。

    ・「丸に三引紋」
    「引き両紋」は「花房氏」を始祖とする「足利氏の家紋類」である。
    足利将軍の「二引両紋」との血縁族で、「利仁流藤原氏」と「信濃足利氏」との血縁族が用いた「丸に三引両紋」である。室町幕府との繋がりを表す「権威紋」である。

    ・「隻雁」
    これは室町期末期に勃興した真田氏の家紋である。
    この基紋は、頼朝より高知の土佐ノ坊昌俊に送った雁文様で、「利仁流藤原氏」が関東で花房氏も用いていて足利氏との繋がり示すもので血縁を結んだ事による類似家紋である事が判る。

    この家紋群の持つ意味は、「上り藤紋、檜扇紋、五三の桐紋 丸に三引両紋、隻雁紋」の5紋全体は、「藤原氏」を象徴し、”権威を誇示する家紋群”である。
    「隻雁紋」は”関東の豪族足利氏”との血縁を示すものである。
    この”象徴と権威の最高家紋”を持つ氏は福岡にはない。
    同族血縁を戒律とした「利仁流藤原氏」が持つ「象徴と権威」に匹敵する「家柄身分の豪族」は福岡には大蔵氏を除いて無い。
    何故ならば、「遠の朝廷」と呼ばれ、「錦の御旗」を与えられ、「天皇家」と血縁し、「賜姓族の唯一の氏」で「太宰大監」として「九州域の自治」を仕切っていた「大蔵氏」が居た事から、福岡には他のステイタスが入る余地が無かった事がむしろ原因と云える。
    ”関東や関西の勢力”が、この”筑前”のみならず”九州地域”に入り、”子孫の裾野”を拡げられる情勢下には無かったのである。
    まして、「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」が赴任同行の現地の末裔を遺す事はあるとしても、その「役目柄と戒律」から無かった。
    「丹治氏系青木氏」も子孫を大きく遺すだけのその勢力を保持していなかった。
    鎌倉期ー室町期まで大蔵氏族系のその勢力は保持され、”枝葉末孫の裾野”を拡げ、室町期末期頃から江戸期に入って、その勢力は”分散化”した経緯なのである。
    この事でも、「利仁流藤原氏族」の末裔(「あおき氏」等)が ”3代の赴任中”には発祥している事は先ずあり得ないのである。

    上記した様に、”独自に現地に遺した土豪との「血縁族の末裔」が、室町期末期以降に勝手に名乗った事”を重ねて意味している。

    この”「氏の末裔」だ”と主張する内容を簡単に検証する。
    主張の相違点
    1 産土神
    「青木氏」はそもそも”「産土神」”ではなく、”「祖先神」”である。
    「青木氏の守護神」は「皇祖神の子神の祖先神の神明社」である。
    「藤原秀郷流青木氏」も、「神明社」と「春日社」である。
    「産土神」は「九州域の大蔵氏系族の守護神」である。
    「第3の青木氏」である事を物語る確実な証拠である。

    2 「氏名」を「神社の社名」
    「嵯峨期の詔勅」と「禁令」に反し、「青木氏」にはこの慣習はない。
    「社名」は統一して「神明社」である事。他の社名を附ける事は「禁令」である。
    「氏名」を社名とする慣習は「禁令」である為に無い。
    通説通りの「第3の青木氏」である事を物語る。

    3 「氏名」と「呼称」
    当初は「青樹」を使い、呼称も「ウォーキ」であった史実がある事。
    それを「江戸初期の令」により「青木」に変更した。(各地でも起こった)
    通説通り「第3の青木氏」である事を物語る。

    4 「宗派」・「寺名」・「菩提寺」
    「青木氏」は「密教浄土宗」であるが、「真言宗」である事は疑問である。
    「氏独自」に寺を創建して、自らの氏の中から住職を出す仕来りである事。他氏の住職は無い。
    「菩提寺」では無く、情報の寺は「檀家寺」である事。根本的に違っていて「時代性」も違う。
    「青木氏」は「独自独善の菩提寺」は「寺名」も統一されている事。その「寺名」も違っている。
    通説通り「第3の青木氏」である事を物語る。

    5 「禁令と慣習慣例」
    「青木の氏名」を山名に使っている事。「禁令」で「氏名」は使えない。
    「青木氏」は「嵯峨期の詔勅と禁令」に従って、勝手な所に「青木」を使う事は禁じられている事。
    通説通り「第3の青木氏」である事を物語る。

    6 「住職氏名」
    「青木氏の菩提寺」の「住職」は、「密教」であり全て「青木氏」である事。他氏名はない。
    (同族の近江佐々木氏が代行している)
    他の上人が建立することはない。
    通説通り「第3の青木氏」である事を物語る。

    7 「達親方式」
    「自らの氏」が「自らの力」で「自らの住職」が「自らの僧侶」を揃えて建て、自ら”で運営する。
    ”青木氏の仕来りの「達親方式」が、「布施方式」である事。全く「宗教の慣習」は違っている。
    通説通り「第3の青木氏」である事を物語る。

    8 「時代性」
    「布施方式」は、真言宗も密教方式で、この時代は「布施方式」は正式には採用していない。
    まして、青木氏の浄土宗の「浄土密教」と異なる。「真言密教」の「布施方式」はあり得ない。
    その「真言密教」が「密教」を解いて「布施方式」と「檀家方式」に変えたのは、江戸初期に家康が全ての宗派に対して、「密教方式」を解き、「菩提寺方式」を解いて、全て「檀家方式」に変え、「達親方式」を止めさせて「布施方式」に変えさせた時からに成る事。
    通説通り「第3の青木氏」である事を物語る。

    9 「神職住職の姓」
    住職と神職共に青木氏であったとしても、この福岡地域には「3つの青木氏」と、近隣には「3つの青木氏」が存在して居るし、「明治期の第3の青木氏」は発祥している。不確定の事柄である。
    「青木氏」の「真言宗住職」は「戒律と禁令」で有り得ない。
    通説通り「第3の青木氏」である事を物語る。
    そもそも、既に、「達親方式」では無く、上記で「布施方式」で、「檀家寺方式」である。

    (秀郷流と利仁流は、秀郷の祖祖父の藤成と、利仁の祖祖父の鷲取は兄弟)


    ここで上記の様な検証をする際に、配慮しなければならない問題と成る事柄に付いて述べて置く。

    「郷土史の心得」
    特に、ルーツを調べる多くの場合は「郷土史」を参考にする事がある。
    ところが、この「郷土史」は果たして「史書」として全て正しいのかと云う問題である。
    多くの人の場合は「郷土史」に「万来の信頼」を無条件で、感情的に「正」としての前提で使っている場合が多い。

    何故上記の様に、余りにもの”違い”が起こるのは、次ぎの事から起こっている。
    1 郷土等が持つ「古文書資料の検証」が、「総合的な知識」によって成されていない書を使用した事による間違いである。
    2 特に青木氏には「悠久の歴史」とその「慣習仕来り掟」とそれを構成する「特別の戒律」がある為に、この様に、間違いを起こしてしまったものである。
    3 「青木氏」が「他氏」或は「姓族」と同じ様にあるとして、現代風に考えてしまうので間違いを起こすのである。
    しかし、この様に何度も研究室や掲示板でも論じている様に、その”「郷土史の論処」は何辺にあるのだろうか”を先ず考えないと大変な間違いを起こす。
    ”間違いだらけのルーツ青木氏”であるのは「自己満足の領域」である。
    それならば、極端に云えば天皇家との系譜と自由にくっければ良い訳で、まあ、それで良いのであれば吝かでは無い。
    「自己満足の領域」のそれは、最早、「ルーツ」では無い。歴史の「小説の領域」に成るだろう。

    筆者も初期の頃は、多くの正しい研究の手続きを採った資料などを読み続けると、ある処で大きな矛盾に行き詰まる事が起こった。そこからは、全く矛盾だらけの意味の無いレポートが出来上がり前に全く進まなかった。10年位経った頃であった。原因はよく判らなかった。
    ところが、ある時、歴史マニアの先輩に何気なくアドバイスを受けた事があった。
    暫くは判らなかった。ある時、ある「郷土史」と別県の「郷土史」に同じ事が書かれていた。
    ハット気付いた。次ぎの3つの事に気が付いた。

    A 「郷土史」の書いている基本前提となった書籍の真偽の事。
    B 「郷土史」は「自らの郷土」の宣伝目的が潜在して優先として真偽だけを優先していない事。
    C 「郷土史」の論処の殆どは、江戸初期に幕府が命じた「家譜作成の令」が前提である事。

    「家系」や「由来書」や「歴史書」や「宗派」や「家紋」等の”一切の格式に関する家譜書籍”の「作成令」で出来たものが前提と成って居ることであった。
    それを”正しいとする前提”で書かれている事に気が付いた。これが「先輩の忠告」であった。

    「郷土史」の編者自らが「歴史の研究」をして、その「論処の是非」を研究して、つくり上げたものとは言い難いもので、多くはこの「江戸初期の書籍」を基に「写し書き」で作成されている事であった。
    現実には、上記した様に、「搾取偏纂の権威の構築」の政情下にあった為に、江戸期前のまともな資料は少なく、又信頼度が低いし、この時期のものを使って史書を作る事は至難の業である。
    特に「青木氏」に関しては、室町期からの「勃興氏姓族の慣習」等に社会の多勢が従っている為に、「違いのある慣習仕来り掟」に従っている為にこの様な事に成るのである。

    この「江戸初期の大名」やそれに「準ずる豪族」と、その「上級家臣」等の主だった「武士」達、要するに、「系譜偏纂」を江戸幕府に命じられた者達は、平安期からの「悠久の歴史の持つ者達」であったのであろうか。そうではなかった。
    室町期の下剋上、戦国時代で、殆どの歴史や由来を持つものは11代の源氏を始めとして豪族と云う豪族は悉く例外なくすべて滅亡している。
    そして、それらと入れ替わって、歴史由来の「慣習と概念」の持っていなかった”立身出世した有能な農民や庶民”が伸し上がったのである。
    「主君」に例外が無いのであるから、「家臣」の領域までも例外がない。
    ”作れ”と成れば、例外なく ”搾取偏纂の虚偽の書籍しか作り様がない。
    作らなかった場合は「藩の存続の保証」「俸禄の保証」はない。
    江戸初期の幕府は、それでもよかったのであって、「権威つくりの政治体制」を作らねば、政治に「権威」を無くし、世は又乱れる。その「権威づくり」に幕府は躍起となった。
    「過去の権威」と繋がった様に書いていなければ受け付けなかった。
    当然に「領主」階級がそうであったように、幕府が求めていなかった下級家臣クラスにもこの影響が及んだのである。
    そうして、社会全体が、”「家柄 身分の格式」を重んじる社会”となって行ったのであるが、結局は徹底した封建社会が確立した。
    この”作られた搾取の書籍”は、事態と時代が進む程に、「真偽化」していくことに成る。
    この「虚偽」を打ち消す「資料と人」は、無くなって行くことが「搾取資料」を正当化する。
    これが世の中の条理である。
    さて、そうなると、この「虚偽の書籍類」を信じて以外に「郷土史」を作る方法は無くなる。
    それが「郷土史の実態」で、上記の様に、文章などに「時代考証」や「慣習考証」などに各所に矛盾が生まれるのである。
    肝心な事は。「ルーツ探究」には、この様な背景のそれを取り除いてから採用する必要があるのだ。
    それには、上記のA、B、Cを取り除く事を実行する事になる。
    筆者は、矛盾だらけの内容の原因である事にその事に気づいた。
    実に仕事量は増えたが、研究の中で「矛盾と疑問」は少なくなったし、研究は高速で進んだ。
    何よりも、この為に「推論立て」が良くなり、その「推論」の「的中の確率」が高くなったのであった。

    幸い、その中でも、最も「悠久の歴史と由来や慣習や仕来り掟」などが、消えずに残していて、悠久の中で生き残った「青木氏」が存在していた。
    その生き残った以上は「青木氏が持つ資料」も遺されるので、この様な「郷土史」に対しては、この遺された資料は、”是非を判定する比較対象”に成り得る。
    この為に、「搾取偏纂虚偽の削除」と「真偽の判別」が可能と成るのである。
    「青木氏」に限ってこそ、可能と成る「真偽の判別」である。佐々木氏や藤原氏等を除いては、「他氏」や「姓族」では無理であろう。
    「慣習や仕来りや掟」や「戒律」の違う「他氏」と同じ扱いで探究すると、この様な”矛盾だらけのルーツ探究”と成るである。
    それだけに、サイトは、この「青木氏」だけの「慣習・仕来り・掟」と「戒律」のありとあらゆる事を研究してそれを論文として遺そうともしている。
    是非、この論文を使って、「青木氏」の「ルーツ探究」をして頂きたい。
    歴史を研究する者は、確かに「郷土史」も一応は資料対象とするが、その「真偽」から先ず調査して「研究の資料」とする。
    殆どは、「郷土史」は、必ずしも”虚偽搾取偏纂”とは言わずとも、「矛盾」を持っているのが現状と考える。
    これを”推論を建てて取り除いた上で”の資料として使うのが普通である。
    そもそも、この世の中の事はその条理の手続きの中にあると信じるし、「仏説」もその様に説いている。

    典型的な例がある。
    それは、「家の格式や立場」を表すステイタスの”「家紋」”である。
    1つの権威ある「家紋」に対して、判りにくいところを少し変えて「類似家紋」に作り変えているのである。
    大抵は、”1つの権威を有する家紋”に対して、100から200位は類似家紋がある。
    「類似家紋」、そのものの存在が、「権威の搾取偏纂」に外ならない。
    「江戸期の作成令」のこの数字の示す事は、如何に”捏造”が凄かったかで、それが判る。

    現に、そこで、徳川幕府は、「家紋」に対する「権威の保全」を徹底させる為に、無断使用と類似家紋の使用等の一切のステイタスの模倣と無断使用を禁じていて、極めて厳しい厳罰で臨んでいる。

    特に、「福岡の青木氏」の検証には、「7つの氏姓」が上記の事に複雑に絡んでいて「真偽」を見つけるのに苦労した最大の要因であった。
    言い換えれば、”「真偽の追及」=「搾取偏纂の除去」”の末の「パラメータの決定」であった。

    本論を終わるに付いて、”上記の事”を実行しての「青木氏の分布と子孫力」の長い間の研究であった。
    是非、本論をご覧に成って、研究に「郷土史」類などを利用される場合は、上記「40年前の経験」を忠告して終わりたい。


    参考
    「現在の福岡の青木の地名」

    福岡県福岡市博多区大字青木
    福岡県福岡市博多区青木1丁目
    福岡県福岡市博多区青木2丁目
    福岡県福岡市西区今宿青木
    福岡県久留米市城島町青木島
    福岡県久留米市城島町上青木
    福岡県久留米市城島町下青木
    福岡県久留米市城島町西青木
    福岡県大川市大字下青木

    以上、9地域に青木の地名がある。


    所感「伝統 3」
    さて、終わる前に、「青木氏の伝統」に関わる事が「福岡の青木さん」の検証に大きく関わっていたので、追記としてここで今後の参考に論じて置く。

    家の家紋には、一般に使われない「女紋」「女墓」等の”女系に関する「慣習や仕来り」”があって、「青木氏」は、この「女紋」や「女墓」等の「女系のステイタス」も継承する慣習を持っていて、それに多くの「慣習仕来りや掟」が付随していた。
    この「女紋」や「女墓」の事を知識として持ち配慮して検証しないと、ルーツなどには判明しない事が度々に起こるし、間違える事が出る。
    そこで、今回の「摂津青木氏の検証」には、次ぎの「女紋」として家紋が大きく左右した。
    以下は、この情報提供を受けて、「摂津青木氏の判定」がより確実となった。
    なかなか、現在では、この「女紋」「女墓」等の習慣を継承している青木氏でさえ少なくなった。
    「青木氏の慣習」に習って、勃興した上級武家もこの慣習に習って継承した経緯がある。
    この「女の慣習」と云うべき「慣習仕来りや掟」は、主に江戸初期まで維持されたもので、江戸期に入って「女性の立場」は社会の中で抑え込まれた様な環境に成って行った。
    その為に、これらの慣習は、「特定な家柄筋」の中で維持されてきた。
    特に、青木氏には、「女紋」は主に「儀式祭祀」の中で昭和の中頃まで遺されていた。

    そもそも、「皇族賜姓青木氏」は、家紋は「象徴紋」の扱いである事から、支流傍系等の事を表す手段として「丸付き紋」は一切使用していない。
    但し、「象徴紋=総紋=家紋」となるが、この為に、「副紋」は使わず「女紋」を慣習として用いた。
    他氏には観られない「女墓」も同じ考え方である。
    この事は本論の上記でも論じたが、「特別賜姓族青木氏」は次ぎの様なこの慣習を家紋に直接反映させる方法採っていた。
    特別賜姓族は「副紋」を使う代わりに、原則として、「丸付き紋」は使用しない仕来りと成っていた。
    文様が元より「丸付き」の文様として出来た家紋の場合は例外とした。

    先ず、大別すると次の様に成る。
    A 氏一族一門全体を示す「総紋」がある。
    B 家のルーツを個々に示す「家紋」がある。
    C 家の副ルーツを示す「副紋」がある。
    D 家の女系ルーツを示す「女紋」がある。
    F CとDを兼ねた「副紋」=「女紋」がある。

    Aは、「下がり藤紋」となるが、「総紋」をそのものを「家紋」とする事は、「総宗本家」と、それぞれの「流れ」の「宗家」「本家」までが「家紋」として継承する仕来りである。
    従って、「総紋」を「分家」は家紋とは出来ない。同様に同じ目的の「藤原氏の氏名」もこの「仕来りの内容」に従っている。

    Bは、「総紋」だけではその子細なルーツを示す事が出来ない為に、先ず「家紋」を用いて判別させる仕組みで「流れ」を示す仕来りである。
    この場合は「総紋」の中に文様として組み込んで使う手法と別に分けて使う場合がある。
    特に、枝葉から観て、判別要領は次ぎの様に成る。
    イ ”「幹部」に位置する独立性の高い「流れ」の「青木氏」の場合”は、「組み込み方式」を採用する仕来りである。(本家筋)
    ロ 逆に、”「抹枝」に位置する流れの青木氏の場合”は、別に分けて使う「分離併用方式」を採用する仕来りである。「併用紋」である。

    特に、イの「組み込み方式」の家紋は、”独立性の高い「宗家筋」(本家筋)の流れの家柄”を示す。
    例えば、「組み込み方式」では
    「讃岐藤氏の青木氏」の「下り藤紋に雁金紋」
    「武蔵藤氏の加藤氏」の「下り藤紋に巴紋」
    「尾張藤氏の柴田氏」の「下り藤紋に一文字紋」
    「結城藤氏の結城氏」の「下り藤紋に左三巴紋」
    等がある。
    「分離併用方式」では、
    「下り藤紋 違鷹羽紋」がある。
    「下り藤紋 州浜紋」
    等がある。

    Cは、藤原氏の様に全体で361氏にも枝葉末孫が拡大している場合、その青木氏が116氏にも拡大している場合は、B方式では未だ子細は充分でない。
    そこで、更に、この「流れ」を更に判別する方法として、Cの「副紋」を用いた。

    例えば、次ぎの様なものがある。
    秀郷一門の「主要家紋8氏」の中の家紋で「家紋主要8氏」が用いたものである
    「違鷹羽紋に一文字と開き蛤紋」の様に、「一文字紋」と「開き蛤紋」を「副紋」として用いた。
    これは、「分離併用方式」の”併用する方法”とは違い、これは、別の「第二家紋」扱いで使用した。
    「左三巴紋に釘抜紋」「左三巴紋に三角藤」
    「左三巴紋に上藤丸紋」「左三巴紋に蛇目紋」
    「檜扇紋に隻雁と五三の桐と丸に三引紋」
    以上等が「第二家紋」扱いの副紋である。

    依って、「一般の氏」には、この「Cの副紋」(第二家紋)は原則的に用いられていない。

    a 「北家藤原秀郷一門一族」の361氏に成る様な「子孫力・子孫拡大」を起こしていない事
    b 「高い格式」と「同族血縁」が無い事
    c 「青木村」の様な「権威村」を構築出来ない事
    以上等が原因して「Cの副紋」は用いていないし、用いられない。

    (「氏族」では無理に誇示する為に用いたものもあるが、「姓族」そもそもない。)

    このBの「分離方式併用方式」の「副紋」は、「家紋掟」に依って、「跡目継承の問題」で「変紋」を余儀なくされた”本家筋が用いた手法”である。
    従って、”分家、支流、傍系”には、この「Bの副紋」の「分離併用方式」の「副紋」は原則ない。
    そもそも、重要な事は、”「副紋」を持つと云う事”は、その「流れ」の”「本家筋」以上の格式の家筋を示す事”を意味する事に成る。
    要するに、「Cの副紋」は「第二家紋扱い」の家紋である。
    AとBとCの家紋方式を以って秀郷流青木氏の家筋は解明できるのである。

    Dは、AとBとCの家紋に対しての「男系ルーツ」に対して、「女系ルーツ」を明示して、その「ルーツの正統性」を誇示する慣習である。
    一見して、「Cの副紋」と間違いやすいが、違う所は、この家紋は「女が使う家紋」で、跡目と成る嫡子嗣子は用いない。
    この「女系のルーツ」を誇示する為に、「女系側の家紋」を用いる。
    しかし、これにはある「一定の仕来り」があって、”どの段階の女系のルーツの家紋”を「女紋」にするかの要領がある。

    「女紋要領」を下記に説明する。
    「女紋」は先ず、その家の跡目の「嫁のルーツ」の家紋を、その嫁が「実家先の家紋」を用いる。
    跡目を譲った後のその家の姑には、下記の「2通りの慣習」がある。
    要するに「女紋掟」と呼ばれるものである。

    「女紋掟」
    1の方法は、その姑の実家先の家紋を用い続ける。
    2の方法は、その姑は夫の家紋に戻る。この場合は、孫の跡目が出来た事が条件と成る。

    「2の方法」
    これには、重要な「青木氏族の賜姓族の役の考え方」が存在する。
    それは、”子孫を遺す”と云う定義が、”「孫」の跡目が出来た事”を以って、”子孫を遺した”とされる。
    「息子の段階」では、”子孫を遺した”と云う考え方を採らないのである。
    息子の跡目の段階では、まだ ”子孫を遺した”とは云わない考え方である。
    何故ならば、これは、”子孫を遺した”とする「考え方の根拠」は、「分身説」を採っているからである。
    これは、「古代密教浄土宗」の考え方にあり、「過去ー現在ー未来」の「3世」を「一つの世界」として捉えている。
    この「三世の考え方」では、この「3つの完成」を成し得て、初めて”分身を遺した”とする考え方なのである。
    つまり、子供が出来た段階で、「自分の位置」は、「現在の位置」に居て、子供は「未来の位置」にいる事に成り、「現在ー未来」のプロセスが完成する。
    しかし、更にその子供に「孫」が出来たとすると、「自分の位置」は、「過去の位置」に移動して、子供は「現在の位置」に、孫が「未来の位置」になり、遂に「過去ー現在ー未来」の「三世の形」が出来上がる事に成る。
    この時、初めて、”子孫を遺した”、”分身を遺した”、とする考え方である。
    「三世慣習」と呼ばれるもので、「青木氏」に於いては全て、この「世の事」はこの「三世慣習」に沿って考えられる。

    この「三世慣習」の根拠は次ぎの様に成る。
    例えば、「自分の子供」が結婚して、「孫」が出来たとすると、「自分の子供」は「嫁」に引き渡して、「子供」を引き続き ”次ぎの段階の養育の役”をこの「嫁」に任す事を意味する。
    息子の「第一段階の養育」は終わり、次ぎの「第二段階の養育」に移る。
    この息子の「第二段階の養育」を「嫁」が引き継ぐ。
    「孫」が出来れば、「未来の子供」(孫)と「現在の子供」(息子)の”二つの子供”を「嫁」に育ててもらうと云う考え方をする。
    従って、「孫」は「嫁の者」では無く、未だ「姑の者」として考えて、”「育てて貰う」”と云う考え方をする。
    従って、「嫁」の位置づけは、「嫁」では無く、「娘」の考え方に位置する。
    これは、上記した様に、「同族血縁の仕来り」から来る考え方に成る。
    「家の子供」は「氏の子供」であって、「同族」であるが為に、取り分け、「嫁の位置」づけは「外者の感覚」より「内者の感覚」「同族の感覚」「縁者の感覚」の方が強かった事に依る。
    「娘の感覚」の方が強かった事になるのである。
    結局は、つまり、「子供の養育」の「バトンタッチ方式」である。
    「親の姑」から「娘の嫁」へのバトンタッチである。
    当然に、故に、この「バトンタッチ」は”「段階の変化」を来した事”だけを意味する。
    「自分の子供」の段階では、「子供」の「基礎養育段階」(第一段階)であり、「嫁」に引き渡した「子供の養育」は、子供を遺す為の「成長養育段階」(第二段階)と考える。
    この時、「孫」が出来れば、その「孫」と子供(息子)とは、「嫁」に依って「家の子供」として育てられる。
    そして、その「孫」に子供が出来れば、「嫁」は「人の目的」、即ち、「2つの養育段階」の目的は、”果たした”と云われる事に成る。
    この時、祖祖母に成った自分は、”「人生の目的」を果たした”と云われることに成る。
    「家」の取り仕切りは、「姑」から「嫁」に一切引き渡されるのである。
    「嫁」は、「人の目的、」「2つの養育段階」の達成を以って、「家の人」と成った事に成り、「氏の家紋」を引き継ぐ事に成る。
    この時、「姑の自分」と「嫁」は「氏の家紋」を使う。
    その前は「嫁の段階」では、未だ「実家の家紋」なのである。
    「嫁」は「過去の位置」に成った時、「2つの養育段階の役目」を果たした事を以って、「氏の人」と成ったと評価される。故に「氏の家紋」の使用を許される。

    これは、「孫」もその「家の子供」とする考え方であり、「嫁」もその「家の娘」に成ったとする考え方である。従って、「青木氏」には、「嫁」という概念が低いのである。
    この「嫁の概念」の低さは、「同族血縁」を主体としていた為である。
    他氏から来た「嫁」でないからで、その差から来て来るのである。
    子供は、同族の「氏の子供」の感覚であるから、「嫁」も「氏の一族一門や縁者」から来ているので、「姑」にとっては「嫁」と云うよりは「子供」の域の感覚にある。
    「嫁」は、”「家の娘」化の感覚”が起こるのである。
    「青木氏」では、「子供」(現在の子供)も「孫」(未来の子供)も含めた「子供の定義」の中にあり、要するに「子供」と成る。
    「孫」の位置は、あるにしても「子供」の概念の中にある。
    従って、「青木氏」では、「跡目」や「嫡子」は、この孫も含めた「子供」の中から選ばれる事に成る。
    更には、「青木氏の賜姓族」は、子供は「家の子供」では無く、「氏の子供」として考える。
    「各家の跡目」は、「各家の子供」を直接に「跡目」とする考え方では無く、「氏の跡目」として「跡目」が無い家には、「氏」の「他の子供」を「別の家」に廻して「跡目を継承する方式」を採用する考え方である。
    「氏の子供」は、「自分の家の子供」であるとする考え方を採る。
    これは「血筋の純血度」を一定に高めて、それを広域な範囲にして置く「血縁戦略」である。
    こうする事で、「家の断絶」や「氏の衰退」は無くなるとしたのである。
    この様にして、如何なる事由が在ろうとも、絶対に、「氏の継承」と、「氏の純血の血筋」と、「氏の名の継承」と、「氏の役の継承」とを守り通す為に、「古代密教浄土宗の考え方」を「青木氏子孫存続」の「システムの考え方」に取り入れたのである。
    これには、「3つの発祥源の立場」を守り通さなければならない「絶対的な役の戒律」があった事に由来する。
    この「跡目となる子供」は、上記の「三世慣習」の考え方に従ったのである。
    この「三世慣習」から、氏の「家間の差」が無く成り、「分家、支流、傍流」の感覚は無く成ったのである。
    当然、その「家間の差」が無い為に「家紋」は無く、「家紋」の元と成った「象徴紋」の侭にあるのである。
    ここには、その「システムの維持」に絶対的に不可欠な事は、「女系の血縁維持」も同じ様に保つことが必要と成る。「男系」だけでは成し得ない。
    この「三世慣習」は、むしろ「女系システム」と云っても良い。
    「青木氏の家訓10訓」の「家訓1」と「家訓2」にある様に、これを重視している。
    「女系」が「三世慣習」を作り出しているから「女紋」が生まれているのである。
    「三世慣習」からすると、つまり「家訓1」「家訓2」からすると、「男系」はあくまでも「あらゆる面に使われる一種の道具」である。
    それを使っているのは「姑ー嫁ー娘」の「女系」であり、「2つの養育段階」は「女系」によって左右される。
    「氏の発展如何」は「三世慣習」の「女系」によって決まる。
    故に、「女」への考え方も異なるが、「女紋の存在」そのものが他氏とは違って存在する。

    もう一つの「女紋の存在」を決定付ける慣習がある。

    「家紋の存在」の慣習
    「娘」が藤原氏等の同族の他氏に嫁ぐが、「同族血縁」で嫁ぐかの如何に関わらず、その娘の「第一嫡子」は、「実家の跡目継承の資格」を有している。
    これは、天皇家や皇族の継承の仕来りと同じである。
    「女系天皇」があるのはこの「仕来り」に従っている。
    つまり、これは当時の「血縁の概念」は、”「娘」は男子と同様に「半分の血筋」を有している”と考えられていたからである。

    そもそも、現在では、「遺伝学」が発達して、父と血液型を同じくする場合は、その父の遺伝子の85%も子供は維持している事になる。明らかに殆ど”分身”である。
    「青木氏」は、上記する様に、早くからこの「分身説」を採用している。
    但し、「女子」である事から、父の「男子の遺伝部分」は無いので、80%前後には下がるが、血液型を同じくとする場合は、「息子の血液型」が「母型」に成っていた時よりも、遺伝部分は多く遺伝している事になる。
    古来は、半分と考えられていて、男女同じと考えられていた。
    そして、血筋として、特に娘の「第一嫡子」が高い継承率を持っていると考えられていた。
    この為に、この嫁ぎ先の娘の「第一嫡子」は「実家の跡目継承の資格」を持っていると考えられていた。これは「遺伝学的には合理性」を持っていた慣習である。
    この場合、正当な男子の「実家の跡目継承」が成立出来ないとした場合に、「嫁ぎ先の娘の第一嫡子」を「実家の跡目」に入れる事は可能としていたのである。
    この場合には、「第一嫡子」は「嫁ぎ先の跡目」でもある。
    これでは、「嫁ぎ先」の方でも「跡目の問題」も生まれる。
    そこで、室町期までは、嗣子の中から跡目にするには、「優秀な嗣子」を選んで継がせる事が優先されていた。

    しかし、江戸期では、「血筋」と云うよりは、「跡目騒動」を無くす目的から「長男が跡目」を優先する事に成る事が決められていた。
    これを「家康」が「家光の跡目騒動」で決めたことである。その後、これに習って社会は長男が跡目を継ぐ仕来りと成った。
    「嗣子」の中から、優秀な者を「嫡子」にする制度は次第に消えて行った。
    これは、
    1 江戸期の安定した社会変化で、「同族血縁」を制度として取り入れている氏が少なく成った事。
    2 戦乱の世に嗣子が戦いなどで減少する中、嫡子を長男とすると跡目が無く成り騒動の下になる   が、この必要性が無く成った事。
    3 戦乱で家を維持する為には、嗣子の中から沈着冷静、勇猛果敢、剛勇豪胆な人物を選ぶ必要が   あったが、安定社会ではその必要性は無く成った事。
    4 安定した社会では寿命が延びて嗣子を多く設ける必要性が低下した事。
    5 特定階級を除き「妾」による嗣子の必要性が低下し一夫多妻の制度は衰退した事。
    6 俸禄制度に代わって、嗣子を多く設ける事の負担が増した事。
    7 30年に一度の大飢饉多発発生で経済が疲弊し、嗣子を多くする事が出来なくなった。

    ところが、「青木氏」は、「二足の草鞋策」で経済的に潤い、この「江戸慣習」に従わずに、上記の「独自の伝承」をまだ護っていた。
    それは、むしろ、「商いと殖産」を手広くし、前段に論じた様に、江戸幕府に貢献し、交易を盛んにした為に、むしろ、嗣子を多く必要としていたのである。
    前段−5、6で論じた「青木氏」の「2つの新しい氏の発祥」もこの辺の事も影響していたのではとも考えられる。
    これらを維持する為には、氏の家間の差をより無くし、跡目を確実に家間に振り分けて、「氏の跡目」を確実にしなくてはならない状況と成っていた。
    つまり、江戸期に於いても、社会とは「逆の現象」が起こっていたのである。
    上記の様な、「同族血縁」や「慣習仕来り掟」をより厳しく護る必要が出ていたのである。

    「青木氏」は、「男系」のみならず「女系」に於いても、可能な限りに「同族内の血縁」を「従兄弟の段階」まで優先させていた。
    依って、”他氏に嫁ぐ”と云うよりは”「遠縁に嫁ぐ」”を優先していた。
    その意味では、娘の「第一嫡子」には、抵抗感は少なく、「同族血縁の範囲」として「氏の子供」を前提として、盛んに用いられていた。

    そもそも、現代の生物学では、人間の元は、「男女の一対」が存在した訳では無く、「ミトコンドリヤ」から、4回の進化を遂げたが、元は「雌」であった。
    「4回目の進化」の最終は、「雌の機能」の中の「雄の機能」を分離して、「雌の存続」を優先して図る為に、天敵から身を護る役割として「雄機能」を分離させた進化を遂げた。
    より多くの「雌」を遺す事に依って、「雄」が仮に1でも子孫は繁殖してより多く遺せるのである。
    しかし、この逆は成り立たない。
    (この事も「雌」であった事を示す証拠である。「雄雌一対論」では同じ「生存能力」を持たした筈である。)
    この方式が最も子孫を多く遺せる事と成って、「人族」が最も繁殖したのである。
    当然に、故に「人遺伝情報」はオスには無くメスに持っているのである。
    そのオスが元メスであったとする「名残」がオスには、4か所遺されている。
    それは「乳首」と「へそ」である。
    この二つは在っても全く機能していない。(後二つは不適切用語になるのでここで論じない。)
    当然に、逆にメスにはあるが、オスには無いものが多くある。
    ところが、逆に、オスには有るが、メスには無いとするものは無い。
    オスだけには確かに有る様に見えるが、それは「雌の生理機能具」が全て「オスの能力」を充分に発揮させる為に、「オス様」に変化させたものなのである。
    元の原型は全て「雌の機能」なのである。

    因みに、「雄」が「雌」から分離したとする典型的な例を敢えて述べるとして、子孫を遺そうとする「人間族の性欲・生理機能」がある。
    「雄の性欲」は、”元の「雌」の母体に戻ろうとする本能の変化”であると云われていて、その「性欲の行動」の全ては、この元の雌の体の中に戻ろうとする行動パターンに分類される表現である。
    ところが、「雌の性欲」は、あくまでも、”子孫を遺そうとする本能の変化”であると云われ、分離させた雄機能を雌の中に戻そうとする本能の変化である。
    この「行動パターン」の全ては分類される表現であって、この原理から外れる行為は一切無い。
    つまり、この「性欲の原理機能」からも、元は「雌」なのであって、「雄」は、雌のその”分身”で、「子孫存続の道具」である事にすぎない事に成る。
    これは「体の機能」のみならず「脳の機能」に於いても云える事である。
    因みに、「人族」に必要とする同時に二つの事を考えられる能力の「女性の連想能力」(子孫存続に必要とする母性本能に由来する)は男性には無い。元は雌であった事を物語る機能である。
    右脳を積極的に使う機能を持ち、「ベータ波」を高めて察知する機能は雌に持っているが、雄は低い。これも元は「雌」であった事を物語る機能である。
    又、「複眼機能」は女子には遺されているが、訓練すればこの機能を復元できる状況にある。
    しかし、男子には僅かに遺されてはいるが、最早、乳首やへそに類していて訓練如何に関わらず働かない。
    これも元は「雌」であった事を物語る機能である。
    他にも多く説明できるものがある。ただ、これでは人族の男子は生き残れない。そこで、これらの女子が持つ機能に匹敵する様な「脳」を”脳の一部””を変化させて進化させたのである。
    例えば、「左脳の情報脳」の一部を進化させて、複眼機能と連想機能に匹敵する様に、「左脳の情報」を基に「予知する能力」の脳を作り上げたのである。これを左耳の上に「中紀帯」と云う「進化脳」を作り上げたのである。

    ここでも、「青木氏」の「子供の分身説」「三世慣習説」は合理性を持っている。

    とするとなれば、「雄の機能」と「雌の機能」を保全した形の上で、”「雌」が跡目を継承して行く事”が道理であろう。
    その意味で、上記した様に、「女系の第一嫡子」が”実家の跡目の有資格”は、実に合理性が高い事に成る。
    「人族」の発祥地の「アフリカの民族」には、「女系家族」を主体とした民族が未だ多く存在するのは、上記した原理に従っている。自然摂理に従った合理形態とも云える。
    しかし、余り近代化の進んでいない社会の中で成り立つ制度である事は間違いない。
    「人の社会」が進むにつれて、「雌」から分離した「雄の機能」を使わなくては「子孫存続」が難しくなった。
    「雄の力」「雄の知恵」でなくては維持されない社会構造と成ってしまった。
    必然的に「雄」が主体と成る社会が出来上がったのである。
    故に、人間社会の中では、「男系の跡目」として引き継がなければ成らない社会構造が出来上がったのである。
    これはあくまで「社会構造維持の範疇」であり、事「子孫存続の世界」とも成れば、「力」「知恵」は無用で「女系の範疇」と成る。(「戦乱の社会」ともなれば尚更の事である。)

    「子孫存続の世界」の「跡目」ともなれば、況して、「青木氏」の様に「3つの発祥源」の役目を「賜姓族」として守り通そうとすれば、「純血性を維持する同族血縁」は「古代の条理」とは云え、必然的に絶対的に「必要な条理」と成る。
    「屯」(みやけ)を形成した時代からの「古代の条理」ではあっても、古来の一部の社会の中では全てこの「青木氏の慣習仕来り掟」に類していたと考えれる。
    それを「古代密教と云う概念」の中で維持されて来たものであると観られる。

    そうすると、そこで問題が生まれる。
    「同族血縁の弊害」である。
    血縁すると成れば、先ずは「第一段階」として「跡目の家紋」でそのルーツを判別し、更に重ねて詳しく判別する為に、当代の「女系」の家紋、即ち、「嫁の実家先」の家紋を知る必要がある。
    その為に、「嫁の実家先の家紋」を「嫁ぎ先の慣習」に出過ぎない範囲で何らかの形で表示する必要が出て来る。
    これが、「女紋」で、祭祀などの正式行事には羽織の袖や背中や、箪笥や長持ち高級食器などの正式な諸具には表示したのである。
    この「二つの家紋」で、「同族血縁の濃さの度合い」を判断する術とした。
    この「類似の慣習」として、「祭祀」などに先祖の墓所には参るが、ここに「累代の女系」を碑にして連ねて「俗名、戒名」と共に「出自」を表記して「女墓」として用いた。
    この「女紋の表示の仕方」が、上記した要領に基づいたのである。
    この「二つの家紋」をみて「同族血縁」を進めた。
    基本は、「3親等」(従兄弟等)からであった。
    奈良期から平安期頃までは2親等の範囲(叔父、叔母等)でも積極的に行われていた。

    一般の他氏は、本家筋は兎も角も、分家筋は大いに「他族血縁」を積極的にすすめた為に、むしろそのルーツの確認が必要無く成ったので、「女紋」「女墓」等の習慣は必然的に生まれなかった。
    本家筋は、この混血の分家筋から抹消の同族血縁をした事で、「新しい血」が入って行った。
    依って、この慣習は一切生まれなかったのである。
    ただ、この場合は、「本家ー分家の関係」では、その「習慣や仕来りや掟」の縛りは大きな差があった。
    従って、「自分の家」が、 ”「本家筋の末梢」に当たるのか”、”「分家筋に当たるのか”で、判定は大いに異なってくるのである。
    しかし、「皇族賜姓族青木氏5家5流」のみは、上記した様に、この「本家ー分家の関係」を「同族血縁」を「仕来り」としていた為に採らなかった。
    (ただ、「3つの発祥源の役」を護る為に「厳しい戒律」が伴った。)
    その見極めとして、上記したAからFの「家紋システム」を採用して表示したのである。
    これは、「格式の誇示」と「血筋の如何」に関わっていたのである。

    さて、果たして、この「3つの発祥源の役」が無ければ、どうなったのか疑問である。
    何故、上記の「家紋の要領」を採らなかったのか、何故、「本家ー分家等の方法」を採らなかったのか、と云う点は、これらの要領は「古代密教浄土宗」の影響であった事が大きく、必ずしも「3つの発祥源の役」だけでは無かったと考えられる。

    1の方法
    1の方法は、その「姑」の実家先の家紋を用い続ける方法である。
    通常は「2の方法」を採用する。
    しかし、この「仕来り」は「地域」によって異なる。
    その異なる理由は、「地域の環境」にあり、大まかに分けるとすると、「田舎」か「都会」の環境下によって分けられる。
    何故ならば、「都会」であれば血縁関係が多様化しているが、「田舎」は縁者関係で繋がっているし多くは面識がある。
    「都会」は、従って、この「面識」が薄らいでいるから「2の方法」で「確実性」を求めて判別する。
    都会は何れにしても、”多様化している”から、「家の誇示」も強くなるが、「田舎」ではよく似た家柄である事から必要以上の誇示は無く成る。
    結局は、「1の方法」と「2の方法」は、この差に従って使用された。
    元々は「仕来り」としては、「1の方法」であったが、「多様化」が進むに連れて「2の方法」に成ったのである。
    基本的には、「都会」であろうが「田舎」であろうが「2の方法」であれば確実性は高まる。
    「1の方法」は、”「封建制」が強い仕来り”である。
    これは”「田舎」”と云う事から来ている。
    後は、その使用の選択は ”時代性が働く”と云う事に成る。
    ”時代性が働く”ことは、「多様化」が進む条理に従う訳であるから「2の方法」に収斂されて行く。
    では、どの様な方法かを説明する。
    「家」は「家族制度」があって、「家長」が存在する。
    その「家長」は「伝統の家」の「ステイタス」を「家紋」として引き継ぐ事に成る。
    この「家紋」は、上記した「家紋制度」の中で保たれる。
    しかし、ここに「格式」と云うものが働くと、”よりステイタスを強調する事”に成る。
    そうすると、「2の方法」の様に、その「家長の妻」の「実家先の家紋」をも用いる事に成る。
    つまり、これが「女紋」である。
    さて、そうすると、「家長」は、「家族制度」の中で、”どの位置の者が成るか”の問題で、「祖祖父ー祖父ー父ー子ー孫」であるとすると、「祖父」が成っているとすれば、「姑」の「実家先の家紋」を「女紋」として用いられる事に成る。
    当然に、この「女紋」を使うのは、「祭祀と儀式」の時等に用いられる。
    当然に、そうなると、「家」の「姑」が「家内の実権」を握っている事に成る。
    その「姑」も「夫の家長」が亡く成れば、「家長」は「息子」に移る事に成り、「家の実権」は「息子の妻」の「嫁」に移る。
    この時に、「姑の女紋」は消え、「嫁の実家先の家紋」が用いられる事に成る。
    従って、「姑」が用いる「紋」は「家長の家紋」と成る。
    これを「世代交代」、「跡目相続」毎に変化して繰り返される。
    しかし、血縁対象は「娘子」であるから、相手側からすると、「娘子」の「母親の女紋」は判らない事に成る。
    これでは、「同族血縁の度合い」の判断は低くなる。
    しかし、ここがポイントで、「田舎」と云う環境であるのだから、「母親ー嫁」の出自は、未だ人の面識の中で知り得ている。
    依って、「人の記憶」に薄らいだ「姑の実家先の家紋」、即ち「女紋」で判断しても問題は無く成る。
    ここに、”1の方法と2の方法の「仕来り」の違い”が、「面識」と云う点で生まれているし、「家長制度」に従っている。
    結局、「1の方法」か「2の方法」かの使い方で、その「氏」のその「女紋」を観れば、出自は凡そ判る事に成り、更には「女紋」で完全に判別する事が出来るのである。

    ただ、「賜姓族の青木氏」は、「同族血縁」を主体としている事から、「女紋の範囲」も限られて来るので、判別は「家紋」と「女紋」で充分に判るが、「家紋」は「象徴紋」である為に変わらない事になる傾向が強いので、「女紋」の判別の意味合いは強くなる。

    ただ、同じ格式の範囲で行われる「母方の血縁」では、「家紋」も重要な意味を持って来る事に成る。
    例えば、「母方」で繋がる「特別賜姓族の秀郷流青木氏」とは全く格式は同じである。
    「116氏」にも成ると、家紋は116もの数に成ると、当然に判別は困難であるので、「家紋」と「女紋」とで判別が必要と成る。
    ここに「秀郷宗家361氏」との血縁ともなれば、「格式」は多少の変化を来す。
    益々、「家紋と女紋」の重要性は高まるし、「家紋」だけでは不足と成り、「副紋」も用いての判別と成るので必要と成る。
    他氏では、「同族血縁」が成されない事から、結局は、「家柄」と「家のステイタス」の「誇示」に利用される。
    「より低い氏姓」は「より高い氏姓」との血縁を望む事に成り、「家紋」一つに「判断の重要性」は高まる事に成る。
    依って、「青木氏」は、「皇族賜姓族」にしろ、「特別賜姓族」にしろ、「同族血縁」をする為に「氏の地域性」は明確に成って居るし、「地方性(田舎)」は「青木村」を構成する事を許されている為に「1の方法」が主体と成る。
    しかし、「夫々の賜姓族内」では、「1の方法」で、「賜姓族」が跨げば「2の方法」に従う事と成る。

    この「慣習仕来り掟」の範囲で同族は護られる事に成る。
    兎も角も、以上の事全ては、”「氏家制度」”の中での「慣習仕来り掟」である。
    なので、この様な「血縁関係」は「氏全体」で管理されている事に成る。
    つまり、その作業が「密教の菩提寺」に求められ、その「菩提寺」の「過去帳」に記される事に成るのである。
    これが、何度も論じている「菩提寺と過去帳」の位置づけなのである。
    上記に論じた「青木氏の家紋に関する事」や「青木氏の考え方の如何」は、この「密教の菩提寺」と「過去帳」の所に繋がる事に成るのである。


    上記の事を承知した上で、情報提供のあった下記の例を検証してみる。

    そこで、「福岡の第3氏」を入れた「7組の青木氏」が、入り組んだこの「特殊な地域」で、且つ、「青木氏」を判別する場合は、次の様な事に成る。
    「特殊性」が出て来て、この「青木氏」が持つ「家紋」などを含む全ての「慣習仕来り掟」の「熟知の度合い」が大きく左右する事に成る。
    情報提供の下記の例は次ぎの様に成る。


    先ず、「女紋」は「五瓜に唐花紋」である。
    そもそも、この「家紋」には次の様な情報を持っているのである。
    「家紋」には、全国8000の家紋があるが、その内で豪族として大きなルーツを持つ”「主要家紋200選」”と云うものがあり、この家紋はその中の一つである。
    歴史的に日本の「主要氏の家紋」と云う事に成る。
    この「家紋の文様」は、元は、「唐の官僚の階級」を示す袖に記した「官僚階級紋」である。
    これを「大和朝廷の官僚」の「象徴の印」としたのである。
    専門家ではこれを「官僚紋」と通称は云う。
    そして、この「官僚紋」の「文様紋」を使えるのが、「大和朝廷」の当時の「五大官僚」と云われる「氏」が独占したのである。
    「瓜の切口」とか「ボケの花の断面」とも言われているが、これは大きな間違いである。

    注釈
    この辺のところが「郷土史」では間違いを起こす。
    「俗説」を用いてしまった事からこの説が全国に広まった。間違いの大きな事例である。

    この「五大官僚」の「高級官僚」は、「唐花の文様」を少しつずつ変えたものを「象徴紋」とし、誇示する為に牛車などの道具に使用した。
    室町期末期から江戸初期の後に多くの「姓」が使ったこの文様の「類似家紋」は190程度もある。

    そこで、何故この家紋が「九州福岡」と云う地域にあるのかと云う疑問を考えると、ここには「明確な根拠」がある。
    ここには、奈良期には、その「五大官僚」の一つの「伴氏」が、この「九州地域一帯」を任されていた。
    その「伴氏の職務」は、主に「弁済使」であった。
    つまり、この「伴氏」は「税務監」を主務としていたのである。
    そうすれば、「税」であるので多くの豪族などとの親交が生まれる。
    この結果、「九州一帯」の殆どの「豪族」はこの「血縁関係の血筋」を受けている。
    「北九州の豪族」では例外は殆どない。
    最も大きい氏で、殆ど「大蔵氏」に依って制圧されるまでは、九州全土を支配下にしていた有名な「肝付氏」がある。
    後に「大隅の肝付氏」は、薩摩藩の勢いに押されて敗戦して薩摩藩の家老と成った。
    ところが、この「伴氏と肝付氏」の勢力の中に「大蔵氏」と云う別の大勢力が入って来た。

    そこで、その「大蔵氏」の事に付いて少し説明して置く。(研究室などに何度も論じている。)
    大化期に中国の「後漢国」が亡び、その国の17県民の200万人の「職能集団」が、福岡に難民として上陸してきて、瞬く間に九州全土を無戦で制圧してしまった。
    日本の第一次産業の基礎は、この「技能集団」の進んだ技能によってもたらされ築かれたものである。
    在来民も挙ってその配下に入って生活程度をあげた。
    この時、この集団を首魁として率いていたのが「光武帝」より21代献帝の孫子の「阿智使王」とその子の「阿多倍王」であった。
    (”阿多”の地名は鹿児島にある。大隅の隼人に居を構えた。)
    更に、この集団は中国地方も無戦制圧し、”いざ都の制圧”と云う所で立ち止まり、朝廷と和睦を選び争いを避けて帰化する。大化期である。
    この中国地方には、首魁の「阿多倍王」が引き連れて来た多くの部の職能集団が定住して在来民の生活を豊かにした。
    その「部の職能集団」の中で、「陶器を作る技能集団」が勢力を持ち、室町末期まで中国地方の全土を制圧して勢力下に治めた。
    その中には多くの「部の職能集団」がこの同じ部の勢力を持った「陶族」に従ったのである。

    そして、首魁の「阿多倍王」は「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王」の娘を娶り、准大臣に任じられ、3人の子供を作った。
    そして、この「部の職能集団」は、「大和朝廷の官僚組織」の6割を占めて大勢力を握った。
    上記の「五大官僚」もこの勢力に飲み込まれた。
    この「部の職能集団」が進んだ中国の政治手法を大和朝廷の中に導入した。
    この職能集団を「・・・部」と呼び、例えば「服部」や「織部」等180程度の「部」から成り立つ組織を作り上げた。
    依って、大和朝廷から政治と経済システムとしてこの「部制度」を採用しました。
    この政治機構の改善を主導したのが、首魁の阿多倍王の父の「阿智使王」であった。
    「史部」と呼ばれた。
    この時に作り上げた「政治機構」の「官僚の象徴紋」として、この「五瓜に唐花紋」を使用したのである。
    この3人の子供の長男は「坂上氏」の賜姓を受け朝廷軍を担う。
    次男は、当時の政治機構は「三蔵」と云われ、朝廷の財政を担う「大蔵」を担当し、「大蔵氏」の賜姓を受ける。
    三男は天皇家の財政を担当する「内蔵」を担当し、「内蔵氏」の賜姓を受る。
    この次男の「大蔵氏」が九州全土の自治を任されたである。900年から940年頃の事である。
    「遠の朝廷」と呼ばれ「錦の御旗」を与えられ「太宰府の大監」と成る。
    首魁「阿多倍王」は、大隅国にも半国割譲を受け、更には伊勢北部伊賀地方の国を半国割譲を受けて実家はここに住み着いたのである。
    この時、半国割譲したのは伊勢守護王の伊勢青木氏である。
    この隣の伊賀の阿多倍(高尊王 平望王)の実家は「たいら族」の賜姓を受ける。
    この「たいら族」の「伊勢平氏」が五代後の「平清盛」である。
    この支流の血筋を受けたのが「織田氏」である。
    この織田信長の家紋も「五瓜に唐花紋」の「織田木瓜紋」である。
    つまり、「伊勢平氏」と「大蔵氏」、「内蔵氏」、「坂上氏」の「3氏」の同族で「官僚の6割」を占める事から、この傍系末裔と観られる織田氏(可能性がある)も、この末裔だとして由緒ある「官僚紋」を採用したのである。
    これが、有名な類似家紋として、「織田木瓜紋」である。
    この「伴氏」と「大蔵氏」は血縁して、「2つの官僚氏」が九州全土を血縁の輪で固めたのである。
    従って、「九州の大蔵氏系豪族」と「九州の鎮守神の神官族」はこの家紋を使用しているのである。

    さて、「福岡の青木氏」の1氏が、この家紋である事から、「大蔵氏」の血筋を持つ「伴氏系の姓族」である事になる。
    恐らくは、早くて室町中期、遅くて室町期末期に、「姓の家」を福岡筑前のこの地域で興している事に成る。
    これを「女紋」としている事は、このルーツから出自した”歴史性の持った家柄”である事を示す。
    当然に、この「五瓜に唐花紋」を上記した末裔と成る「家柄筋」が保持しているとすると、この「家筋との血縁相手」は、「家柄と格式」を重んじた社会の中では、必然と決まってくる。
    この「五瓜に唐花文様」が「女紋」である事から、「嫁ぎ先の家柄格式」は、「同位」かわずかに「上位の家柄筋」に成る。
    そうなると、この地域に、それに相当する氏ともなれば、歴史上から確認できる「青木氏」は、次ぎの様に成る。
    平安期から鎌倉期までに筑前に遺した青木氏の末裔氏は、「筑前では2氏」と成り、江戸初期には「筑前の1氏」の青木氏と成る。
    先ずは、この「3氏」で、他の要素を組み入れて検証を進めれば、その青木氏は判別できる事に成る。
    「検証の櫛田神社」
    ここで、「検証の要素」として、筑前にある”「櫛田神社」”が出て来る。
    この「神社の由来」を調べれば、この「五瓜に唐花紋」に絡んで来る事に成る筈である。
    そこで、更に検証を続けると、次ぎの様に成る。
    そもそも、「櫛田神社」は「鎮守系の神社」(大蔵氏の守護神)であるから、「九州神官族の家紋」の「五瓜に唐花紋」となる。先ずここで繋がる。

    その家紋の分布は、神社のある地元(内原)でよく使われている。
    その背景から、この「神官族の末裔」が、後に地名を採って「内原姓」と名乗った。
    この「鎮守系の櫛田神社」の元の「神官族名」は、何であったかが判れば更にはっきりする。

    そこで、櫛田神社の由来を調査する。
    そもそも、この「櫛田神社」の「大幡大神(大幡主命)」は、「伊勢国松坂」の「櫛田神社」から霊位を勧請した事は有名である。
    この事から、この「鎮守系神社」と云っても、その「祭神」は、「皇祖神」の子神の「神明社系神社」とは同じ事に成る。
    つまり”兄弟社の様な社格”を持っている事に成る。
    実際にも祭祀している「大幡大神」はその格式にある。
    櫛田神社がどんな理由で移したのかが問題に成る。
    「伊勢松阪」の「櫛田神社」から「大蔵氏」が、”ある事情”で「霊位」を移している事から、初代は松坂の「伊勢青木氏の神官」であった可能性極めて高い。
    しかし、あくまでも「筑前の櫛田神社」は「大蔵氏の鎮守神」であるので、「神明社の青木氏」を移したからと云って其の儘に続ける事は出来ない筈である。
    何時か変更しなければならない筈であるし、この時の「伊勢青木氏の神官」が筑前に末裔を遺した可能性も否定できない。
    しかし、遺したとすると、この場合は、「笹竜胆紋」を維持している「青木氏」と成る。
    「源為朝の配流孫の笹竜胆紋」は別として、この「笹竜胆の家紋の青木氏」は1氏が江戸期に移動定住している事が確認できる。
    即ち、黒田氏の家臣と成った「摂津青木氏」である。
    ところで、「神社の格式」には、”「霊位の有無」”が大きな意味を持つ事に成る。
    要するに、「神明社」は「青木氏の守護神」であるから櫛田神社は、所謂「兄弟社」と成る。
    故に、祭祀する櫛田神社の「大幡大神」は、「伊勢神宮」の「天照大御神」に仕える「一族神」と成る。

    従って、この「博多の櫛田神社」だけは、「大蔵氏の鎮守神」と云いながらも、全国にある「櫛田神社」とは、その「祭神の格式」のレベルが元々違うのである。
    それは「筑前の櫛田神社の由来」に関わる。

    その「由来、ある事情」とは、次ぎの様に成る。
    平安末期に「瀬戸内」で起こった「讃岐藤氏」の「藤原純友の乱」を鎮めるために「伊勢松阪の伊勢神宮」の「皇祖神」の子神の「櫛田神社」と「京都八坂神社」に「乱の鎮静」を命じられた。
    朝廷より鎮圧を命じられたのは九州最大豪族の大蔵氏である。大蔵氏はこの二つの神社に祈願をした。
    そして、鎮静のその結果を以って、その時に祈願した大蔵氏が、その礼に応じて、筑前に”松阪の櫛田神社の霊位”を遷移して「筑前櫛田神社」を建立したのである。
    要するに「分霊」をしたのである。
    そして、この「純友の乱」を鎮圧したのは、「阿多倍王」より10代目の「九州太宰府大監」の「大蔵春実」である。
    「分霊の筑前櫛田神社」と「本霊の伊勢櫛田神社」も「伊勢青木氏」とこの様に思いがけないところで繋がっている。
    更に「青木氏」と繋がった事から、最早、筑前には「青木氏の存在」は否定できない。

    そうすると、「櫛田神社」の要素から次の「2つの青木氏」が浮かび上がる。
    この「櫛田神社」の位置する地域性から、次ぎの事が判る。
    (イ) 黒田氏の家臣と成って移動定住した「摂津青木氏」の末裔
    (ロ) 櫛田神社の初代の神官の「伊勢青木氏」の末裔

    そうすると、この「女紋側」の「五瓜に唐花紋」を「女紋」として使っているとすると、九州地域では、この文様は「鎮守神の神官族」が使用している文様である事から、この「地域性」が出ている。
    この「神官」が、”地域の地名を名乗った”と成る訳であるから、「女紋側」(神官側)に地名の「内原姓」の要素があるので、(イ)の「摂津青木氏」の説に成る。

    「五瓜に唐花紋」(女紋)を持つ「鎮守神の神官」の末裔(内原姓)が(イ)の「摂津青木氏」に嫁いだ事に成る。

    何故ならば、(ロ)の「初代神官の伊勢青木氏」は、そもそも「笹竜胆紋」で、「神官」であっても「五瓜に唐花紋」では無い。
    そして、尚更、神社在所の地名の「内原姓」を、「青木氏」であるにも関わらず、態々と名乗る事が無い訳で、そもそも「青木氏の戒律」から不可能である。
    依って「伊勢青木氏」の説は消えるので、「摂津青木氏の説」と成る。

    これで、「九州の鎮守神の神官族」の「五瓜に唐花紋」を「女紋」としている筑前の内原地域に定住している「青木氏」は、結局、「黒田藩家臣の摂津青木氏」であった事に成る。

    さても、問題は、この「黒田藩家臣の摂津青木氏」の家紋が、「笹竜胆紋」を維持出来ていたかは検証しなければならない疑問である。
    そもそも、「摂津青木氏」は、「源平の争い」で、近江で、滋賀で、美濃で滅亡している。

    福井に逃避して庇護され僅かに遺した支流の末裔が、摂津に移り「伊勢青木氏」の大店に庇護されて再興を遂げた賜姓族の一族である。
    元々、「近江青木氏」の一団の「摂津水軍」の名残を持つ事から、「伊勢青木氏」等の大船に従事して糧を得て来て生き延びて来た。
    従って、「笹竜胆紋」を維持するだけの「血縁力」「子孫力」は持ち得ていなかった筈で、「家紋掟」に依り「変紋」を余儀なく成って居た可能性が高い事が充分に考えられる。
    実際に、現在の「摂津域の青木氏」には「笹竜胆紋」は1家しか確認できない。
    しかし、調査でこの1家は、「伊勢青木氏」の大店を維持した「絆青木氏」(養子縁組制度)ではないかと考えられる。
    「黒田藩家臣の摂津青木氏」の家紋が、情報提供によると ”何であったか”は「現在の末裔」は掴み切れていないのが現状である。

    情報提供の内容
    「黒田藩家臣の摂津青木氏」の再興後、筑前の祖は「青木氏理兵衛」である事。
    この家に別のルーツの「青木市左衛門」が跡目に入った事。
    この「青木市左衛門」は「日向青木氏」で遠祖は「伊勢青木氏」である事。
    「摂津青木氏の近江青木氏」と「伊勢青木氏」は「皇族賜姓族5家5流青木氏」の「同族血縁族」と成る。

    そこで、「青木市左衛門」のルーツに関する検証は必要となる。
    その内容を下記に記述する。
    つまり、この血縁の意味する事は、「青木理兵衛側」は、「青木市左衛門の青木氏」とは、”「同族の青木氏」である”と認識していた事に成る。
    「青木氏の慣習仕来り掟」に従い、且つ、当時の「氏家制度」の中で、「同族血縁」を戒律とする「跡目継承」には、「青木理兵衛側」が、「青木市左衛門側」から「跡目養子」を求め入れて、「青木氏」を守ろうとした事が判る。

    尚、「青木氏」には、「藤原秀郷流青木氏の特別賜姓族の青木氏」が、隣の長崎に「青木村」を形成して住んでいた。

    (「氏名」を「村名」にして村を構築する事は、正式には「嵯峨期の詔勅」で禁じられていて、許可なく構築できない。依って、正式な「村名」があると云う事はそれなりに意味が大きいのである。
    「日向青木氏」には、「正式な青木村」を鹿児島の大口市に構築しているし、筑前南国境にも青木字が構築されている。)

    「5家5流の賜姓族青木氏」と母方で繋がる「特別賜姓族の秀郷流青木氏」とは「純血性」を守る為に盛んに「同族血縁」を主体としていた。
    当時は、この「二つの賜姓族青木氏」にはこの「厳しい戒律」があった。
    どんな事があろうとも、跡目は絶対に守ると云う「絶対的な氏の戒律」があった。
    それには、「11家11流」の「賜姓源氏一族」を含む「皇族系一族一門29氏」と「特別賜姓族の秀郷流青木氏116氏」と、その「女系の縁者一門」のどこからでも持って来てでも継承すると云う「青木氏」を継ぐべき厳しい「同族血縁の戒律」があった。

    つまり、「近江青木氏ー摂津青木氏」の「青木理兵衛」はこの戒律を守ったという事である。

    念の為に、「摂津青木氏」は「総紋」は、「笹竜胆紋」(変紋している可能性が高い)、「日向青木氏」は「五七の桐紋」と、配流孫の為に「丸に笹竜胆紋」が家紋と成る。
    ところが下記に記する事があって「日向青木氏」は「五七の桐紋」を使用している。

    次ぎは「女紋」の事で検証する。
    さて、「青木市左衛門」ルーツの「女紋」は「三連鎧揚羽蝶紋」である。
    この家紋は、信長に贈られた「池田氏の家紋」で有名である。
    この「池田氏」は「岡山ー鳥取」地域と、「福岡ー豊後」地域に分布する「氏の家紋」である。
    同時に、この文様は、「平家末裔の織田氏」も上記するCの「副紋」(第二家紋)として使っていた家紋である。
    これを織田氏が同じ「平氏末裔族」の「池田氏」に送った家紋である。(一部を変更した)
    結局、「青木市左衛門」の家の「女系」の方に「九州池田氏」の流れを持っている事を示している事に成る。

    「黒田藩の家臣」で「摂津青木氏」の「女系」(「鎮守神の神官職」)の内原姓は「五瓜に唐花紋」、更にその女系には「三連鎧揚羽蝶紋」、この何れもが「平氏系の主要家紋群」である。
    「黒田藩の摂津青木氏」の「女系側」には、何れも「平家一門の血筋」で維持されて来た事が判る。
    上記した様に九州の「大蔵氏」も平氏とは同族である。
    「平家一門の血筋の中」に、「黒田藩の摂津青木氏」が存在して居た事を物語る。
    そうなると、「黒田藩の摂津青木氏」は、「同族血縁の戒律」もある事も含めて、「平家一門の女系血筋」に対抗して、何とかして九州にある「青木氏一門との血縁」を求めようとしていた事が判る。
    それを物語るのが、つまり「青木市左衛門」である。
    この「青木市左衛門」は、周囲の「筑前近隣の青木氏」か、「筑前外の周囲の青木氏3氏」かの何れかから血縁を求めた事に成る。
    後は、「青木理兵衛」の「青木氏の家紋」と、「青木市左衛門の青木氏の家紋」が、”何であるか”が判ればルーツは明確になるが、この検証には答えは出る。

    その前に、「上記の平家一門の血筋」の「女系側」に付いて検証をする。
    何かが観えて来る筈である。

    平安末期、「大蔵氏」に代わって、一時、同族の「伊勢平氏の清盛」が「太宰府大監尉」(大監の上司)に成ります。
    ここに「平清盛の所領」が、この「肥前国神埼」にあり、そして、上記の「櫛田神社」を、「日宋貿易の拠点」とした事は有名である。
    一時、「平清盛」がこの「太宰大監」の上司にも成った事がある。
    従って、同族の大蔵氏の居る所に、ここにも平氏は「九州護衛平氏軍団」を送った。
    この平氏で九州域を守っていた「平氏軍団」である。
    故に、「青木氏の女系側」には、この「平氏の血筋」が流れていて、その「九州池田氏」の流れを持っている事に成る。


    この「平氏軍団」が北九州の地域の氏構成に大きな影響を与えた。
    「日向廻氏」に守られた「日向青木氏」と成った「宗綱ー有綱」の”清和源氏の配流軍”と、この九州の「平氏軍団」とが再興を期して戦いました。
    平氏に配流された「宗綱ー有綱」等が、周囲の小豪族を集めて、再びこの「平氏軍団」と戦ったのである。
    結局は、再び敗退して薩摩大口村まで南下して落ち延びて、最後は追撃に窮して大口村の寺で「伊勢の青木氏」を名乗ったのです。(寺の住職の勧めにて名乗る。)
    何故ならば、「宗綱と有綱と京綱」は3兄弟で、その「三男の京綱」は「伊勢青木氏の跡目」に入り戦いで一族が亡びる事の無い様に「摂津源氏の安泰」を「伊勢青木氏」の中に図ったのである。
    「伊勢青木氏」は、「不入不倫の大権」で護られていた為に、この「京綱の伊勢青木氏」を名乗ったのである。

    「日向青木氏」は、況して、「以仁王の乱」の敗退で「助命嘆願」をしたのが、この「伊勢青木氏の京綱」ですので、「日向青木氏」と成って生き延びる為にも、その「伊勢青木氏」を名乗ったのである。
    「伊勢青木氏」は、上記する様に、朝廷より特別に「不入不倫の権」で護られ、且つ、隣の伊賀に住む「清盛の実家」とは、「伊勢和紙の殖産と販売」で共に利を得ていた深い付き合いの関係もあり、討ち滅ぼす事が「九州の平氏軍団」は出来なかったのである。
    それが「日向青木氏」の発祥の由来なのである。
    それが「黒田藩の家臣の摂津青木氏の「青木市左衛門」のルーツに成る。(市左衛門の棲み分け地域から判別)
    ここでも、「青木市左衛門」も「伊勢青木氏」と思いがけないところで繋がっているのです。
    そもそも、この「青木市左衛門」の出所は、「筑後と筑前の国境」に住していた事が判っている。
    上記に記した様に、「7つの青木氏」の内、「第3の青木氏」を除いて、「近隣の青木氏」も含めて「6つの青木氏」は、上記した青木氏の慣習から「棲み分け」をする慣習があった。
    従って、その「棲み分け」でどの「青木氏」であるかは判るのである。
    依って、「青木市左衛門」は「日向青木氏」と判定できるのである。
    「黒田藩の家臣の摂津青木氏」は、「日向青木氏」の「養子跡目」に入った事を物語る。

    そこで、「家紋掟」から、「摂津青木氏」は、上記した様に、「家紋の変紋」は起こっている筈である。
    更には、「日向青木氏」は、本来は「笹竜胆紋」ですが、「配流孫」であるので、「丸に笹竜胆紋」と成る。
    しかし、この「日向青木氏」も「丸に笹竜胆紋」では無く、長い間の「半農と傭兵の生活」から家紋を失った。
    「黒田藩の傭兵」の下記の勲功で与えられた「家紋使用の特別許可」で、「五七の桐紋」を使用していた。
    「青木市左衛門」の段階では、「五七の桐紋」が使われていた事が判断できる。
    問題は、「同族血縁」をこの九州域で続けられたかは疑問である。
    そもそも、「跡目養子の事」が2度続けば家紋は変紋する。
    但し、この「五七の桐紋」は「跡目継承」に依って起こった家紋では無い事から、この勲功の「五七の桐紋」は江戸初期前から永続的に継承されていた事に成る。
    「大口郷の青木村」の家紋は、従って、「五七の桐紋」を継承している。
    (一族の明治初期の墓所の紋と形式で判明する。)
    幕末から現在までの間の150年に市民化して、”伝統不継承の状態”が起こっていない限りは、「五七の桐紋」と「丸に笹竜胆紋」の「2つの家紋継承」が可能に成って居た筈であるが、現在までこの「二つの伝統」は明確に継承されている事が確認された。
    この「青木市左衛門」の時までは、家紋から観て、前回の「跡目継承の原則」が守られていた事を物語る。

    では、次ぎに、”何時頃からこの正式な伝統を継承し始めたのか”を確認する必要がある。
    それには ”何で、この「養子跡目の縁組」が出来たか”の疑問を先に検証する必要がある。

    そもそも、実は、この「青木市左衛門」ルーツの「日向青木氏」は、「黒田藩」に「傭兵」として働いていた。
    「傭兵」であって家臣ではないながら、黒田藩から特別に「苗字帯刀、家紋、登城権、布衣着用等」を許可され上級家臣(郷氏)なみの資格を与えられていた。
    従って、「日向青木氏」は黒田藩から特別に使用を許された「五七の桐紋」を使用していた。

    注釈
    そもそも、この元「桐紋」は、「天皇家の式紋」で「五三の桐紋」が元紋に成る。
    天皇家は、室町期からの極度の財政難から、秀吉にこの由緒ある「五三の桐紋」の使用と変紋の「五七の桐紋」を使わせて財政を賄いました。
    秀吉は、今度は勲功のあった大名に対して、変紋してこの「五七の桐紋」にしたこの家紋の使用を「権威紋」として認めました。
    出自に対して格式の無かった秀吉には、この「権威」が必要であった。
    朝廷に対して、その格式の一つの天皇家で使う祭祀や儀式に使用する「式紋」を金銭を対価にして「五三の桐紋」の使用を要求して得た文様であった。
    これをベースに家臣に対して与える「権威を示す褒美」として「五七の桐紋」を与える様にしたのである。
    この「特別な勲功」で「権威紋」の「五七の桐紋」の使用を許された大名は、今度は家臣などにもこの「五七の桐紋」の使用を同じ目的で許可したのである。
    その与えられた代表的な大名が「黒田藩」なのです。
    「黒田藩」は、「傭兵」として「黒田藩に合力した事」を理由に、上記した特権と共に、この「名誉の式紋の桐紋」を永代使用として「日向青木氏」に与えたのである。
    「青木理兵衛」が居る黒田藩では、「傭兵」の「日向青木氏」の事は知っていた筈ですし、一族の「青木市左衛門」の事も知っていた筈である。

    実は、繋がりはこれだけではないである。
    この「日向青木氏」は、平常時は農業や漁業をしながら、「戦い」となると「日向灘での操船戦術」と「陸の山岳戦闘術」の2面から「傭兵」として黒田藩に合力していたのである。
    この「青木理兵衛」は、「摂津水軍」時に「操船術」を任務としていたと観られ事から、”仕事”の上でも「青木市左衛門」との付き合いは充分にあったと考えらる。
    その上での同族としての認識の上で、「跡目継承」に「青木市左衛門のルーツ」と繋がったと考えられる。

    実は、「青木理兵衛」の青木氏は「黒田藩の家臣」、「青木市左衛門」の「日向青木氏」も「黒田藩の家臣扱い」であったのである。
    つまり、「青木理兵衛ルーツ」は、この認識に立っていた事と、何れの青木氏も「伊勢青木氏」に繋がった同族であると云う事の認識にあった事を物語っているのである。
    この為に、”黒田藩の働き”の中で互いに親睦を深めていた事を充分に物語る。

    従って、「青木理兵衛ルーツ」の「摂津青木氏」と「摂津」に大店と大船をもっていた「伊勢青木氏」とには、何かの記録が遺されているのではないかと観ている。調査中。

    以上の三つの事を合わせると、このルーツに関係する状況は次の様に成る。
    A 黒田氏ー近江佐々木氏系末裔ー摂津青木氏(理兵衛)ー近江青木氏ー伊勢青木氏ー日向青木  氏(市左衛門)
    B 九州博多の櫛田神社ー伊勢松阪の櫛田神社ー皇祖神子神の神明社ー伊勢青木氏の守護神
    C 鎮守系神社(大蔵氏と平氏の守護神)ー神明社系神社(青木氏の守護神)
    D 櫛田神社の神紋(五瓜に唐花紋)ー内原氏の家紋(五瓜に唐花紋)ー伊勢平氏の家紋(織田木瓜  紋)
    E 青木氏女系の家紋ー「三連鎧揚羽蝶紋」ー伊勢平氏紋ー九州池田氏

    以上の様に関係が不思議に繋がっている。
    これは、格式を重んじて「九州の2つの青木氏」は縁組を構築していた事が判る。

    移動定住した九州でも「青木氏」を継承する上で、”血縁上で採った考え方”をしていた事が観えて来る。

    「独特の慣習」の”「女紋」”を使っているところを観ると、「男紋」も含めて、「紋」即ち、「青木氏ルーツ」と云うものに”拘り”を持っていた事を物語っている。

    そもそも、「女紋」を使われている慣習を続けていた事であるのなら、「女墓」の慣習も続けられていたと観られる。
    「女墓」も女紋と同様に、「青木氏等の賜姓族」が継承してきた慣習である。
    代々の女御の俗名と戒名を記載した大きな墓碑で、系統的に維持し、単独に先祖墓の横に別の墓所を設けているものである。

    この事は、「男側の継承」にも「賜姓族青木氏」として、「女側の継承」にも「賜姓族平氏」として、”拘り”があった事を想像出来る。
    これらの情報の詳細な事は研究室に全て網羅している。

    そうすると、日向青木氏が、”何時頃からこの正式な伝統を継承し始めたのか”の検証であるが、少なくとも、「日向青木氏の青木市左衛門」と「黒田家臣の青木理兵衛」の「跡目の血縁」が成された時期より少なくとも前に成る。
    つまり、既に、「青木氏の跡目の伝統」と「女紋」などの慣習を持っていた事に成るのであるから、その前に成る。
    と云う事は、「黒田藩の傭兵」と成って、青木市左衛門が黒田藩に関わり、黒田藩の青木理兵衛が博多に来て両者が知り合った時の前に成る。
    黒田藩から、”勲功として「特権」を与えられ、「郷氏」に成った時”と云う事に成る。
    最終的な勲功と成れば、1615年から1618年の間と成る。
    この時に、改めて正式に「家筋の伊勢青木氏系」の「氏族としての条件」を整えた事に成る。
    黒田藩から「五七の桐紋」、伊勢青木氏の配流孫としての「丸に笹竜胆」を一族に示した事に成る。
    無冠の「土着の民」から、始祖の青木氏の格式を持つ「郷氏」に成った時に、世間に対して「家筋の正統性」を誇示したのである。


    参考
    「三連鎧揚羽蝶紋」は「揚羽蝶紋」を調べて、その羽の右上の二つの尾びれの様なところが鳥の羽の様に成っている家紋で、羽の筋文様が黒線になり、その上の文様が黒点に成った文様である。
    この文様の羽が三つ連なっているところから「三連鎧揚羽蝶紋」と云う。

    画して、「福岡の分布と子孫力」に付いては、上記した様に、複雑な経緯を持っている。
    それが故に、これを紐解く為に、かなりの調査と検証が必要と成り研究には時間が掛かった。
    この「福岡の青木氏」を論じる場合は、他の定住地の事や歴史性などの知識も考慮に入れて読み込まなくてはならない。
    それでなくては、正しい理解は進まない。重要な「情報提供」を得て、事例を用いた。
    故に、敢えて、最後に論じたものである。
    未だ、多くの歴史マニア等にお願いしての「情報提供」を待っている状況でもある。それだけに時間が掛かる。判り次第追記する。

    本論を読まれる際には、ルーツ掲示板と研究室などの論文も是非にお読み頂けると、筆者の論じる翻意は誤解なく通ずるのではないかと考える。是非お読み頂く事をお願いしたい。

    更に、続けて、「伝統シリーズ」を仕上げる為に、現在、「論文の見直し」を続けている。
    ご期待頂きたい。

    「青木氏の分布と子孫力」はこれで終わる。



    > > ・> 青木氏の分布と子孫力
    > >
    > > > > [地域別分布力]
    > > > > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
    > > > > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
    > > > > 地域      異変の県        分布力
    > > > > 九州地方   長崎、大分       5%
    > > > > 四国地方   高知           2.5% 
    > > > > 中国地方   山口、岡山       2.5%
    > > > > 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
    > > > > 東北地方   秋田           7%
    > > > > 中部地方                 15%
    > > > > 関東地方                 45%
    > > > > 北海道・沖縄               6%
    > > > > その他                   3%
    > > > >
    > > > > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
    > > > > 九州地方  1.3
    > > > > 四国地方  1.3
    > > > > 中国地方  1.3
    > > > > 関西地方  4.7
    > > > > 中部地方  4.3
    > > > > 関東地方  11.3
    > > > > 東北地方  2.0
    > > > > その他   11.0
    > > >
    > > > > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
    > > > >
    > > > > 修正地域(表ー3)
    > > > > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
    > > > > 秋田 1
    > > > >
    > > > > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
    > > > > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
    > > > > 福岡  2      山口  0   愛媛  3     兵庫   3    三重  1
    > > > > 長崎  0      島根  2   香川  1     大阪  14    石川  2
    > > > > 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都   5    福井  1
    > > > > 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良   1    岐阜  3
    > > > > 熊本  4                        和歌山 4     愛知  13   
    > > > > 宮崎  2                        滋賀   1    長野  9
    > > > > 鹿児島 1                                   山梨  1
    > > >
    > > > > 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
    > > >
    > > > > 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
    > > > > 静岡   5   青森  1      沖縄   1
    > > > > 神奈川 21   山形  2      北海道 11
    > > > > 東京  18    岩手  1
    > > > > 埼玉  17    新潟  4
    > > > > 群馬   6   秋田  0
    > > > > 千葉  11   福島  4
    > > > > 茨木   4   宮城  2
    > > > > 栃木   8                                     
    > > >
    > > > > 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  
    > > >
    > > > >  青木氏の分布と子孫力−終わり。
    > > >


      [No.315] Re:青木氏の分布と子孫力−11
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/07/06(Sun) 07:19:52  

    > 青木氏の分布と子孫力−10の末尾

    >因みにこの「記帳の数字」と「ルーツ掲示板」の投稿数字はほぼ同じ傾向をしめすが、この分析は、筆者が過去について調べた「青木氏の分布」と「青木氏の村の分析」とで勘案すると、その後の分布として非常に適切に歴史的な史実を表していて興味深い。

    >この数字のバイアスは統計的に1以下で0.5程度と見込まれる。その範囲でパラメータは「青木氏の分布図」として観られ、且つ、同時に「伝統の存在力」としてのパラメータとしても観られる。

    >そこで、気に成る事がある。
    >それは上記の表や下記の表の様に各地の「青木氏の分布図」(子孫力)を示しているが、これが”面積とどの様な関係にあるのか”と云う事である。
    >広いところ広い様に分布し「子孫力」が広がっているのかと云う事である。
    >「青木氏」は「青木村」を形成しているのであるから、その”「青木村」が地域に依って大きさが違っているのか”を把握しておく必要がある。
    >その答えは出る。
    >末尾の2つの表から出る。


    福岡
    さて、最後に福岡です。
    ここは確かに、この地域としては「青木氏」が3氏が定住している事は確認できる。
    そして、近隣の肥前と筑後から国境に3氏の「青木氏」が移動して定住している。
    しかし、これには長い説明を要する。
    当然に、青木氏の分布の確実なパラメータとして「青木村」が確認できる筈なのだが、それがある特別な理由で無いのである。
    あるべき「青木村」が確認できない理由がこの福岡の「核心の問題」と成る。

    先ず、ここには、筑前域では次ぎの3氏が存在する。
    1 播磨国の黒田藩にある理由(下記)があって、「摂津青木氏」が家臣と成って黒田藩の移動に伴い、筑前に移動して博多北側域に定住した子孫が存在する。

    2 平安期に「平治の乱」の「源平の勢力争いの戦い」で、「清和源氏」の分家 頼宣の末裔の「河内源氏」の源為朝が九州を転々と逃げ延びて、この筑前に配流孫を遺した。
    この末裔が東国境沿いに定住した。

    3 鎌倉時代に「藤原利仁」の末裔が3代に渡りこの筑前に赴任した。この時に現地の豪族との間に出来た末裔が、室町期に「嵯峨期の詔勅」と「禁令」に反して、「青樹氏」を名乗り、博多から太宰府域に定住した。

    次ぎに、近隣域から国境沿いに次ぎの3氏が存在する。
    4 肥前には藤原秀郷一門が赴任して、それに護衛団として同行して「青木村」を形成している。
    この末裔が、筑前の1と2の青木氏との同族血縁で遺した末裔が筑前の西国境沿いに定住した。

    5 「日向青木氏」が1の「黒田藩の傭兵」として働いて、黒田藩より「特典の権利」を与えられて厚遇された。この「日向青木氏」が筑前に遺した末裔が青木氏として南国境沿いに定住した。

    6 「1の摂津青木氏」と「5の日向青木氏」との融合族と成った青木氏が筑前の南域に定住している。

    7 江戸初期には苗字の持たない下級武士、及び、明治初期の苗字令、督促令に基づいた庶民が、この2期に、江戸期には1の青木氏、或は、明治期には3の青木氏(青樹氏)に肖った「第3の青木氏」が勃興し、それぞれの地域に定住している。 

    福岡は、他の地域と比べて、いろいろな「青木氏の集合地域」であった。
    ただ、それぞれの6つの青木氏は「棲み分け」をして、「青木村」の「集合村」を形成しなかった。
    ”出来無かった”とした方が経緯としては適切である。

    参考
    3では「正規の青木村」を形成出来ない理由があった。
    その他は室町期中期までは既定の大きさの「村」では無く、当時の税制上からの区分けで全て「字」領域であった。
    「分離村」ー「散村」ー「路村」の形態を採った。

    参考
    3は「賜姓族」、「嵯峨期詔勅」の令則に習い「青樹氏」であった事から正式な氏名に基づく「青木村」ではない。(詳細下記)

    注意 (本論では平安期の「村の定義」から判断して、福岡は”青木村が無い”とした。)

    ところが、1の黒田藩家臣の「摂津青木氏」は、明治期にこの「青木氏」(「情報提供の青木理兵衛」の直系ルーツは絶えた。

    そこで、この先ずは、1に付いて詳細を論じる事とする。
    1のルーツは、黒田藩の播磨国から始まり、江戸期には筑前に転封となった。
    この転封時に「摂津青木氏」の経緯が起こります。
    「伊勢青木氏」の商業記録から考察すると、この1560年代の時期に、九州域(豊後ー筑前方面)に対して船を大きく動かした記録が残っている。(黒田藩とは不記載)
    更に、それ以前に播磨の豪族(黒田氏と観られる)との交易記録と観られる「配船記録」がかなりの回数で確認できる。
    その中の一つにこの「九州方面」の記録がある。
    これには、「伊勢青木氏」と「摂津青木氏」と「黒田藩」の間に「時代考証」と「環境考証」をするとある「共通する経緯」が起こっている。

    実は、この黒田藩に付き従った「摂津青木氏」にはある事情があった。
    そもそも、この「摂津域の瀬戸内」は、「播磨灘」として難所で、この海域に「摂津青木氏」は「水先案内人」として平安末期より生計を立てていた。
    この「播磨灘域」は、海流が激しく、その為に、この地域の海域を熟知して、そこを勢域(聖域)として、「能島水軍」(村上水軍)と呼ばれる「海族」がいた。
    この能島水軍と呼称される「海族」は、この海域通過時の水先案内の案内料と通行料を徴収して生計を立てていた。
    (「海族」とは「海賊」と異なる。 混同して使われている書籍が多い。)
    この「海族」が「能島」と云う播磨沖に並ぶ小島群の一つを拠点としていた。

    (筑前の青木氏の情報提供によると、この中に、「摂津青木氏」には、この”「理兵衛」”なる優秀な技量の持ち主の人物が居た事に成る。能島を拠点とした「村上水軍」との検証が必要)

    そこで、ここで、先に、この”能島水軍の理兵衛”に付いて下記で論じる。
    「史実1」
    実は、「摂津青木氏」(出自末裔の青木理兵衛)の居た摂津播磨域には、「摂津青木氏」を保護しながら同族の「伊勢青木氏」が、この域を「大商い」で活動する為に「大船三隻」を以って活動していた史実がある。
    「史実2」
    更には、この「瀬戸内全域」には「伊勢青木氏」と深い繋がりを持っていた「讃岐青木氏」が「大廻船業と海産物殖産業」を営んで大活躍をしていた史実がある。
    「史実3」
    「伊勢青木氏」も「讃岐青木氏」も「二足の草鞋策」で大活躍していて、武力を直接使わずしてシンジケートに依って信長と3度も戦って勝った歴史記録がある。
    「史実4」
    「伊勢青木氏」は、伊勢松阪を拠点に、「兵庫の摂津」と「大坂の堺」にも大店を構えていた。
    (平安期から明治35年まで続く。)
    「史実5」
    この大船を持ったこの「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」の庇護を受けていた「摂津青木氏」、つまり「近江青木氏」(「青木理兵衛」ルーツ)は、「富士川の源平の戦い」で滅亡してからは、その僅かに遺された「遺子末裔」は、最終、摂津域で定住し、「能島の水先案内」として「播磨灘域」で働いていた事が商業記録から判る。

    「史実6」
    「摂津青木氏の経緯」
    (残存した「近江青木氏の遺子」は、「青木氏の庇護地福井」に逃げ込んだ。
    「伊勢青木氏」等が奈良期から構築していた「皇族系の朝臣族者」が事件に巻き込まれた場合に逃げ込んで子孫を護る為の「庇護地」が福井にあった。
    ここに「近江青木氏」の残存した「遺子末裔」が逃げ込んで生き残った。
    その後、この「遺子末裔」は「伊勢青木氏」の「摂津の大店」の拠点を頼って、生計を立てる為に摂津に移動した。
    そこで、この「摂津青木氏」の一族は、「伊勢青木氏」の船と「讃岐青木氏」の船に乗り、「瀬戸内の操船術」を学び、何時しか、「能島の海族」として成長した。
    推測だが、「能島付近の海域」の船頭の「頭領的立場」に成って居たのではないかとも考えられる。
    この者が、情報提供によると ”能島の理兵衛さん”と呼ばれ者がいた。
    「能島水軍」とは「海の豪族」の「村上水軍族」の事で、播磨灘の極めて小さい小島に館があった。
    この「情報提供の青木理兵衛」は、この「村上水軍」との「関わり具合」の有無は不明だが、この「海域の船頭」であった模様で、その同じ「海域船頭」としての「付き合い」を持っていたと観られる。
    「史実7」
    「瀬戸内」には、平安初期から「讃岐青木氏」として、「村上水軍」より以前から、この海域を元々支配していた。その時は、「海部族」や「塩飽族」の中まであって、その一部の別れが「村上族」となった。
    しかし、平安末期には「平家水軍」、室町期には「陶族」の支配下に成った「村上族」で、その後にの「村上水軍の母体」と成った。
    商業の廻船分野での「讃岐青木氏」と共に、「海部族と塩飽族」が、「海族の母体」と成って、この水域を利用する「海族の2氏」であった。
    「史実8」
    「讃岐青木氏」の支配の下で、「瀬戸内族」」(海部族と塩飽族が母体)が「讃岐藤氏」の傘下に成って居た。
    そもそも、歴史を辿れば、「海部族と塩飽族」も元をただせば、阿多倍王の引き連れて来た「部の職能軍団の末裔」である。
    「平家」と「陶氏」の配下にあった「村上水軍」(瀬戸内族の別れ)は、基を質せば、「阿多倍王」(後の平家)の引き連れて来た「部の職能軍団の末裔」であった。
    何れも、「部の職能軍団の仲間」なのであった。
    そもそも、室町に中国地方一帯を支配した「陶氏」は「陶部」の「陶器」を作る「部の職能集団」であった。
    この全体を支配していたのが、伊勢北部伊賀地方を半国割譲を受けた「阿多倍王」の子孫の「伊勢平氏」なのである。
    「史実9」
    この「伊勢平氏」と「伊勢青木氏」は、奈良期より隣同志で「古代和紙の殖産」で深く親密的に付き合っていた。
    「近江青木氏」の末裔の「摂津青木氏」は、「伊勢青木氏」「讃岐青木氏」等の庇護を受けての一族であった。
    そして、この海域の「水先案内」か、「讃岐青木氏」、「伊勢青木氏」の船頭であった可能性が高く、従って、同じ「瀬戸内海域」では、「村上水軍(能島水軍)」とも”同業の協調関係”にあった筈である。
    故に、情報提供の「”能島水軍の青木理兵衛”」と呼ばれていたと考えられる。

    どうも「伊勢青木氏」の商業記録の一部から判断すると、個人は特定できないが、”能島水軍(青木理兵衛さん”)とは、「伊勢青木氏」(伊勢水軍)の千石船の大船か、「讃岐青木氏」の廻船かに乗っていた”優秀な船頭”で、その経験の持ち主でもあった可能性が高いのである。

    ここまでの史実から次の事が判る。
    「摂津青木氏の青木理兵衛」と「能島水軍の理兵衛」は同一人物であったと考えられる。
    「”能島水軍”の理兵衛」と「村上水軍の”能島水軍”」は共に、同じ播磨灘の海域で働く者達を”「能島水軍」”と呼んでいた事に成る。

    「史実10」
    そもそも、この事をはっきりさせる事がある。
    この「村上水軍」の「能島水軍」母体と、「摂津青木氏の理兵衛」等の、この海域の水先案内の徴収行為とは、秀吉に依って同時期の1586年に廃止と、解散命令が出ている。
    「能島水軍」の「村上水軍」は、秀吉に依って1586年に攻め滅ぼされている。
    この1年後の1587年に黒田藩は豊前中津城主に転封されている。
    1600年には福岡城主に転封されている。
    故に、この経緯から、「摂津青木氏の青木理兵衛」は、1586年に秀吉の命で失職した。
    そこで、「伊勢青木氏」や「讃岐青木氏」等の下記の”黒田藩の水軍要請”で、水軍の船頭の頭領として就き、豊前中津に従ったと観られる。

    そもそも、この「近江青木氏」(摂津青木氏)と「近江佐々木氏」は同族関係(大化期の朝臣族)にあり、「近江佐々木氏系青木氏」と「近江青木氏系佐々木氏」が発祥している。

    注釈
    その黒田氏は、この「近江佐々木氏」の「傍系支流族」である。
    この「近江佐々木氏」は室町期末期頃に衰退し、多くは離散した。
    この「黒田氏」も薬売りをして全国各地を廻り、再興のチャンスを狙っていた。
    江戸期の有名な剣豪の「佐々木小次郎」もこの「近江佐々木氏」の本流孫であった。
    その「近江佐々木氏の黒田氏」の証拠として、「伊勢青木氏」と同じく「皇祖神の子神 神明社の”御師」”の立場にあった。
    「黒田氏」は自らも「近江佐々木氏」を名乗り、別のところでは「藤原氏」を名乗っている両説がある。
    しかし、伊勢に秀吉から差し向けられた「蒲生氏」は、「伊勢青木氏」との繋がりもあり、「近江青木氏」と同族の「近江佐々木氏」も、「蒲生氏の近江藤原氏」は同じ格式の家柄であった事から、血縁関係もあったと考えられる。
    「近江青木氏」と「伊勢青木氏」との同族血縁関係
    「伊勢青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」との血縁関係
    「伊勢秀郷流青木氏」と「近江藤原氏の蒲生氏」とのは同族血縁関係
    「近江藤原氏の蒲生氏」と「伊勢青木氏」との血縁関係
    「近江佐々木氏」と「近江青木氏」との同族血縁関係
    以上は輪状に血縁関係があった事から、充分に上記の「近江佐々木氏」と「近江藤原氏の蒲生氏」の血縁関係はあったと考えられる。
    依って、「黒田氏」の「藤原氏説」には根拠はあり得る。
    しかし、本流は「近江佐々木氏系」であり、「藤原氏説」は本流では無い事が見抜ける。

    何よりも、証拠として「伊勢青木氏の御師頭」と同じく、”「御師」と「薬師」”を親族に持つ黒田氏である事から、「近江佐々木」が適切な説として捉えている。
    (「御師」と「薬師」は藤原氏と秀郷一門にはこの役柄は無かった。)

    そこで、「近江佐々木氏の傍系支流の末裔の黒田氏」が、「豊前中津城主」の大名と成った時、「伊勢青木氏」や「摂津青木氏」や「讃岐青木氏」の「青木一族」等は、上記の様に、「同族の黒田氏」に対して、”中津では「藩経営」に付いて、”最早、徳川の時代と成って安定期に入った”として、戦略的に「水軍力」(交易に関する経済力)を付ける事が必要となった”と考えていて、その為に、黒田氏との「話し合い」をした事が資料から読み取れる。
    その結果、(情報提供の”青木理兵衛”を「黒田氏の水軍の頭」に付けた。)”同族として協力をした”と「商業記録の流れ」から観て考えられる。

    注釈
    それが情報提供の、”能島水軍の理兵衛”と呼ばれてた根拠である。
    この場合の”水軍”の意味合いは”海に生きる族”、即ち「海族」の意味として表現されたと考えられる。
    何故ならば、武力の持たない「伊勢青木氏」の「伊勢水軍」も、「村上水軍」の様に”武力的な背景”のものでは無かった。
    要するに”海の豪族”の意味合いでは無く、”海に働く族”の意味合いであった。
    この当時、各地に「・・水軍」は多くあった。
    その「水軍」の事で書かれた書籍の中では、「水軍」の意味には、「海の豪族」と「海で働く族」の二通りの意味合いとして使われていた。
    この情報提供の”能島水軍の理兵衛”は「海の働く族」である。
    この「海の豪族」の中で、「海の働く族」が働けるのには、上記注釈の ”「海の豪族」の「村上水軍」と、「海の働く族」の「讃岐青木氏+伊勢青木氏」”の”瀬戸内の協力関係”があったから成り立つ話である。
    この「協力関係」がなくては「讃岐青木氏の廻船業」、「伊勢青木氏の交易運送」は成り立たない。もし、「海の豪族」の「村上水軍」とは云え、戦ったとして「讃岐青木氏の海部族と塩飽族」と「伊勢青木氏のシンジケート」で対抗すれば、「村上水軍」を潰す事は簡単であった筈である。
    何故ならば、「伊勢青木氏」は「海のシンジケート」の「伊勢水軍」と「駿河水軍」と「熊野水軍」と「紀伊水軍」と働かせて、「村上水軍の領域」を包囲する事で、食糧を絶つ事で、無傷で簡単に潰せる。
    この「連合軍」を味方に出来る「讃岐青木氏」と「伊勢青木氏」と「摂津青木氏」とを敵に廻す事は「村上水軍」には元より不可能である。
    依って、「能島水軍の理兵衛」は「村上水軍」では無い事が判る。

    注釈
    「能島水軍」=「村上水軍」の意味だけでは無く、この”「播磨灘海域」を「生活の糧」としている族”の事を以って当時は表現されていたのである。
    「武力軍団」で無かった「伊勢水軍」や「駿河水軍」や「熊野水軍」も”「水軍」”と呼称されている。「伊勢青木氏」が自ら持つのも「伊勢水軍」の呼称である。
    (「雑賀軍団」の「紀伊水軍」は「武力的背景」を持った”水軍”で「海賊的要素」もあった事が記録から判る。「熊野水軍」は「熊野灘」の「半武力的な水軍」でもあった事が記録から判る。)

    現実に、秀吉は「村上水軍の拠点」の周りに船で取り囲み、弱まったところで風のある日に船に火を着けて島方向に走らせた。そして、「島の拠点」は周囲から火が廻り丸焼けで簡単に潰したのである。

    ここで、”「摂津水軍」”の事で書かれた書籍がある。
    「源義経」が「陶族の村上水軍」を中心とした「平家水軍」と戦った時、義経の軍監の「熊谷直実」が統括する「浪速水軍団」の前で、”同族の「摂津水軍」を義経が自ら編成した「水軍団」の「駿河水軍」、「伊勢水軍」、「熊野水軍」、「紀伊水軍」の軍団に加えた”と記されている。
    (軍監の熊谷直実は、作戦通りに「浪速水軍団」を、義経の一人手柄を阻止する為に、動かそうとしなかった。そこで「摂津水軍」だけを戦いの参加させる様に裏工作をしていた。戦いに成った「時摂津水軍」だけは動いた。)
    この事から「近江青木氏」には「摂津」に古来より「水軍」を歴史的に持っていた事が判る。
    しかし、「近江青木氏」は「富士川の戦い」以降壊滅した。この「摂津水軍」を「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」の援護の下で、何とか立て直し復興に持ち込んだ。
    そこで「壇ノ浦の戦い」にわざわざ「義経」は、この同族の「摂津水軍」を無理やりに参戦さしたのだと考えられる。
    「坂東八平氏」の「軍監の熊谷氏」は、この海域の水軍の参戦に恣意的に反対したので、止む無く同族の上記の4水軍に頼み込んだ事が書かれている。
    中でも、最も「海賊的戦力」を持っていた「紀伊水軍」はなかなか合力しなかったが、実戦に成った時、この「紀伊水軍の海族的働き」で「弓矢の戦い」では無く、”相手の船に乗り移る戦法”で、「村上水軍」の前身とも云える「平家水軍」に勝った。
    この後、「摂津水軍」は「近江青木氏」の「母体滅亡」と、「頼朝の義経追討令」の2件が原因して衰退した経緯を持っていた。

    「青木一族」は、そもそも”「氏家制度」”の中では、”「単独行動」をしない掟”があって、”一族で助け合う集団”であって、故に、下剋上や戦国時代にここまで生き延びて来て子孫を遺してきた。

    摂津の地元には、「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」等が「大商い」で居て、全国の青木氏一族が「古代和紙の殖産と販売」と「守護神の神明社」で生活は完全に繋がっていた。
    従って、「情報提供の青木理兵衛」なる人物一人が勝手な行動は採れなかった筈である。
    それが他氏と違う立場を持っている特異とも考えられる「3つの発祥源の青木氏」なのである。
    「氏家制度」の中では、尚の事、一族全体の中で動く必要があった社会であった。
    故に、互いに助け合ってその立場を守っていたのである。
    それに奈良期から朝廷より「不入不倫の権」で護られていた「特別な戒律」を持った「唯一の氏」なのである。
    この「情報提供の人物(青木理兵衛)」も少なくとも”黒田氏との関係”でもこの範囲で動いていた筈である。
    この人物(「青木理兵衛」)が1567年頃に黒田藩に従って豊前と筑前に移動して、”上記1の子孫”を広げた事になる。

    (丁度、この直前に秀吉は、この”能島の水軍の解散命令”を発している。
    つまり、情報提供の青木理兵衛は失職した事になる。)

    実は、この「情報提供の青木理兵衛」を祖とする「筑前青木氏」が明治期に絶えた情報提供もあり、この「青木氏の跡目」を「西原氏」と云う「現地の姓族」が一時継承したが、これも放棄される始末となったとの情報がある。

    この「摂津青木氏」と「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」が、以前からの商業の付き合いと同族関係から、「豊前中津」に「黒田藩の荷物」を輸送したと観られる商業記録があった。
    この時に、そこで、この「黒田藩との話し合い」の中で決まった「摂津青木氏の人物」(「情報提供の青木理兵衛」)が、結局は「黒田藩の家臣」として移動定住した事に成る。

    ここで「福岡の青木氏」との関係に付いて、情報提供によると、後に「青木市左衛門」と云う別のルーツと観られる人物が、「西原氏」の前に、この”理兵衛の青木氏”の跡目を継承しているとの事である。
    問題は、この情報提供の”市左衛門なる人物”がどのルーツの青木氏であるかと云う事に成る。
    結論は、先に、「福岡の青木氏」は「日向青木氏の配流孫」の末裔孫と成る。

    それを検証する。
    先ず、福岡は上記した様に「3つの流れの配流孫」の「青木氏」があった地域である。
    そこで、上記の5の「日向青木氏」は、「伊勢青木氏系族」で「兄弟族」としてのルーツが明確に成っている。
    その更に「配流孫の青木氏」と成ると、情報提供の内原氏が「青木氏」を名乗るには憚られたのではないかと考えられる。
    其れよりは、「情報提供の青木市左衛門」は、「父方の青木氏」であるけれども、推測の域を超えないが、「母方の西原姓」を敢えて名乗ったのではないか。(下記)

    明治まで続いた父方の「青木理兵衛ルーツ」は上記の通り「摂津青木氏」とほぼ断定できる。
    しかし、母方とも観られる「今宿青木のルーツ」としての”「青木市左衛門」の流れを持つ西原氏”に付いて、「青木氏の慣習仕来り掟」から来る問題がある。
    其処から糸口を見出い事が出来る。

    実は、「皇族賜姓族系の青木氏」には青木氏から「氏分流の別れ」として他の姓を名乗る事を禁じている。
    そこで、その前に「青木氏の慣習」を理解する必要がある。
    従って、本家ー分家の区別は一切無いし、その為に家紋も変化しない。
    当然に、「同族血縁」をして、「男系跡目」を繋ぐ「皇族系の賜姓族」として「青木氏」を絶対に変えてはならないとする戒律があった。
    従って、この他氏では「家紋」であって、「家の区別」をする「家紋」では無く、青木氏では「象徴紋」としての扱いであった。
    「家紋と氏名」が変わらないことから、「家」としての位置づけは無く「氏」を示す「青木氏の象徴紋」として位置づけられるのである。
    当然に、同じ考え方で、「全青木氏族」の「全ての子孫(嗣子・嫡子)」は、単一の「家の子供」では無く、全ての「氏の共通の子供」としての位置づけである。
    氏内の「Aの家」の子供は、「Bの家」の子供でもあり、「Aの子供」は「Bの家」の跡目を継ぐ事は当前の「慣習仕来り掟」として認識され、この逆も当然に起こる。
    女子も、他氏では跡目には関わらないが、青木氏は、「女の子供」の嫁ぎ先での生まれた「男の嗣子」は、「実家先の跡目」を一代限りで継ぐこともあり得ることに成っていた。
    但し、「男の子供」が実家先の「氏の親族関係」に無ければ、この「嫁ぎ先の嗣子の男子」を跡目に入れる事は問題がない。これは「男女の子供」も広い「同族血縁」の仕来りの中にある事に依る。


    さて、”今宿青木”の「村」、または「字」を形成している以上は、最低限の「青木氏の慣習や仕来りや掟」を守っていた筈である。
    だから、普通は「情報提供の青木市左衛門」のルーツが「西原姓」に成るのは疑問である。
    成るには、「女系」か「母方」の「二つの仕来り」による方法しかない事に成る。

    では、先ず「女系」の方法である。
    青木氏の「同族血縁の掟」を護れず、結局は、「今宿の青木氏」に男系跡目が出来ず、娘に養子を取り、更にその養子婿にも男系跡目が作れず、再び、その養子婿の娘に養子婿を取ったが又嫡子に恵まれずに、二度に渡り完全に女系と成って仕舞った。
    そこで、「男系が氏継承の掟」であるから、一番目の養子先の姓を名乗った。
    それが、「西原姓」であった事に成り、以後、「西原の姓」を名乗る事に成る。
    ここで、次ぎに、三番目の娘の養子婿にも跡目にも嫡子に恵まれなかった場合は、二番目の養子先の姓を名乗る事に成る。
    三度目の養子婿に嫡子に恵まれれば、その子の一人に「西原姓」を名乗らせる事は出来る。
    但し、この時点では、最早、女系と成った事から「青木氏」を名乗る事は本来は出来ない。
    普通は、特に本家筋は絶対にこの様に成らない様にするのが務めである。
    それにはあらゆる「青木氏」を名乗る近隣や遠方でも「縁者先」から、「跡目養子」を上記の「氏の子供の掟」に依り、迎え入れて、この様に出来るだけ成らない様にする。
    (この時は、青木氏では「養子」の定義は無い)
    ここが青木氏の”厳しいところ”で、「本家ー分家」の仕来りが無い「賜姓族」では、「青木氏の子供」は「全体の青木氏の子供」なのである。
    (この時は、青木氏では「養子」の定義は無い)

    嗣子・嫡子に関わらず、青木氏に生まれた男子は、何処の青木の跡目に入るかは各家の跡目問題に依って変わる事に成る。
    これが天皇から”賜姓”された絶対的な”氏の宿命”である。

    仮に、「西原姓」が興った事は「今宿の青木氏」には、この縁者先からの方法も採れなかった事を意味する。
    或は、「情報提供の市左衛門むは、”賜姓族では無かった青木氏”であった事かも知れない。
    「嵯峨期の詔勅」に基づいて名乗った「配流孫」の様な「賜姓族ではない青木氏」には、この掟は適用されない。
    そこで、「福岡の今宿青木の市左衛門」の事は、記録からは”「字青木」”である。
    依って、7でない事は、クリヤーできている事から、上記の1から6の中で、「日向青木氏」の「配流孫ー末裔孫」となる。
    上記のこの掟は適用しなかったと考えられる。

    「賜姓族の近江青木氏」(「摂津青木氏の青木理兵衛」黒田氏家臣)の「青木氏」に、男系跡目が取れなかったので、「今宿青木」(情報提供の市左衛門)の「青木氏」から跡目を取って「青木氏」を継承した事に成る。
    しかし、結局は、その途中で上記の事が起こって、やむなく女系の「西原姓」を継承したと云う事に成る。

    次ぎは母方の方法である。
    娘の嫁ぎ先に嗣子・嫡子の子供が大勢生まれた。
    「実家の青木氏」に跡目が無かった。縁者関係にも無かった。
    そこで、この内の一人に「青木氏」を継がせ嫁取りをした。
    しかし、嫡子・嗣子等に恵まれず、嫁ぎ先の西原姓を名乗る事となった。
    この場合は、上記の女系の場合の一代限りの範囲で、娘に男子が生まれたと同じ事に成る。
    従って、青木氏に戻す事は可能である。
    ところが、戻したがその跡目の男子に、又、子供が生まれなければ同じ結果と成る。
    要するに一代限りの範囲で終わることに成る。
    依って、情報提供の西原姓を継承した事に成る。

    結論として、「青木氏」を継承しなかった理由は、「女系」の場合では無かったかと観られる。

    昔は、「氏家制度」の中では、現在とは違って、「氏家の継承」には「掟」があった。
    特に青木氏には「賜姓族」と云う厳しい掟があった。
    未だ、江戸時代では、お金に依る「特別な方法」以外(名義札制度)にはこの様な事は起こらない。

    青木氏は「氏族」(うじ)>西原姓は「姓族」(かばね)の関係にあるので、「西原姓」から「青木氏」であれば、「名義札制度」の「お金」で興こり得るが、この逆であるので起こらない。

    (ルーツなどの歴史史実を調べる時には、出来るだけ多くの昔の慣習や仕来りや掟の知識を把握し、それを正しく持っていて判断するかに全て関わる。現在風では全く逆の判断が起こる。)


    この様に福岡の件については充分な説明をしなくてはなかなか判らない子孫状況となっている。

    先ず、”福岡に青木村が無かった”を続ける。
    この地域には、上記した様に、福岡には「3つのルーツ」の青木さんが時代は異なって定住していた。
    1の青木さんのルーツは判明できた。「青木村」を形成できる大きさでは無く記録では「字」であった。

    先ず、この「3つのルーツ」を全て説明すると膨大なものと成るので、「地名地形データーベース」を参考にしたとして、そのルーツと観られる一つに付いて説明する。
    この事で、「福岡に青木村は無かった」とする事が判る。

    次ぎは3の青木氏の検証である。
    福岡北の太宰府付近のここには、鎌倉時代に派遣された(「青木氏」)者が確かにいた。
    記録に残っている。この派遣された者には2氏がある。
    一つは、鎌倉時代末期に「元寇の役」が起こった。
    この時、幕府から防衛軍として、「藤原秀郷流青木氏族の5氏」が派遣された。
    この5氏は秀郷の第3子の「千国」を始祖とする「兼行流」の「青木氏」、「永嶋氏」、「長沼氏」の3氏と、「文行流」の「長谷川氏」と「進藤氏」の2氏が派遣された。
    そこで、「元寇の役」が終われば、元の関東に戻るのが規則であるが、この5氏は九州の自治をしていた九州全土を支配下に治めていた「大蔵氏」と血縁関係を結んだ。
    ところが、「秀郷流」の「青木氏と進藤氏」は、現地で生まれた子孫も引き連れて関東に帰ってしまった。
    「秀郷流の長谷川氏」と「秀郷流の永嶋氏」の「青木氏族」は「現地の末裔」を残して本体は関東に戻った。
    この残った「現地末裔」の「2氏の子孫」が「大蔵氏の末裔」として子孫を拡大させた。
    これが「九州大蔵氏系永嶋氏」と「九州大蔵氏系長谷川氏」である。
    この5氏は有名な「藤原秀郷流青木氏族主要一門」である。
    この5氏の内、「青木氏」は勿論の事、「永嶋氏」と「長沼氏」は、「青木氏」を名乗ろうとすれば名乗る事は「兼行流」である為に名乗る事は可能である。
    しかし、両氏とも名乗っていない。

    念の為に、下記Aに付いて、この「特別賜姓族」の「藤原秀郷流青木氏」は119氏に広がり、赴任地域の「24地域」に末裔を残している。全て現存している。
    この119氏の事は全ての内容が明確に判っている
    「武蔵の国」入間の「宗家」を中心に、全国24の地域に認定を受けた「青木村」を形成して定住している。
    一方、「皇族賜姓族5家5流青木氏」の14氏も全ての内容が明確に判明している。
    更に、「嵯峨期詔勅」に基づく「皇族青木氏」も5氏として全ての内容が明確に判明している。


    さて、この氏の内容も殆ど明確に判明している。
    鎌倉期に北家筋の「藤原利仁」の一族もこの地に派遣された。(太宰府)
    派遣された3人は現地の土豪との「血縁族」を作った。
    この「血縁族」が、後に「青木氏」を名乗った。
    (但し、江戸期初期に「青樹氏」から「青木氏」に後に変更)
    「嵯峨期の詔勅」にて、「青木氏」を名乗れるのは、「皇族の者」と決められていた。
    ところが、「皇族賜姓族青木氏5家5流青木氏」を補佐するために、特別に「母方族」の「藤原秀郷」に対して、皇族外から特別に賜姓して「青木氏」を名乗る事を許した。
    この「青木氏」を「秀郷の第3子の千国」に対して継承する事を定めた。 

    この藤原秀郷は「平の将門の乱」を沈めた勲功から「武蔵と下野」を「領地」とし「貴族の家柄」をも与えられた。
    そこで、”貴族は武力を持つ事は出来ない”事から、一族の宗家の「第3子」に、代々この「一族の護衛団の役目」を与えて永続的に役られる事で朝廷の認可が下った。
    更に、「皇族賜姓族青木氏」と同じく補佐する「天皇の親衛隊の役目」も与えたのである。
    そして、「皇族賜姓族青木氏」と全く同じ「全ての格式と立場」を与えた。

    ところが、この秀郷の親族の「利仁なる者の末裔」が筑前に派遣されたが、現地の末裔が室町期の後に青木氏(青樹氏)を名乗った。
    (秀郷一門は青木氏を名乗れるが、利仁一門は名乗れない)

    北家筋の「藤原利仁流一門」は、「皇族系一門」ではない為に「青木氏」は名乗れる事が出来ない。
    そこで、「嵯峨期等の禁令」を破って強引に名乗った。
    当然に朝廷からも賜姓は受けられる身分では無い。
    勝手に名乗った「あおき氏」である為に、「本流の青木氏」ではない為に、歴史的領域では、「第3の青木氏」と呼ばれている。
    室町期から江戸期までの歴史書の全ては、この「福岡の利仁流」で名乗った「青木氏」を「第3の青木氏」と定義されている。筆者も論文としてはその説を採っている。

    定義上からは”「第3の青木氏」”と成る。
    ところが、この「第3の青木氏」は、記録から、当初のその呼称は「あおき」では無く、「ウォーキ」であった。その漢字も「青樹」であった。
    実は、この「ウォーキ」の呼称には根拠がある。

    そもそも、「皇族賜姓青木氏」の”青木の氏名”の賜姓は、「青木」と云う木があり、それを基に「天智天皇」は賜姓したのである。
    奈良期からこの木は「神の木」として用いられ、その実の真紅は「血」、枝の青さは常緑の青さから「体」と考えられ、又、その木の成長力の強さから「生命」と考えられ、「天皇家の祭祀に用いる皇祖神の神木」として用いられていた。
    つまり、この「木の成り立ち」が、この世の「生物の源」として崇められていてたのである。
    この「生物の源」として「皇族の者」が、この木に準えて「賜姓」を授かり、下族して臣下として天皇の下に働く事に成る。
    この「天皇の末裔」が「下族」で生きる事は、”初めての「民の根源」”の意味を持たして、「賜姓の氏名」とした。
    そもそも、”「全ての民」は「天皇の子」であると云う概念”が「古来の概念」であった事から、”その「子の基」と成るのだ”として賜姓したのである。
    そして、この「神木のあおきの木」を以って、これが「青木氏の賜姓木」と成ったのである。

    しかし、この「青樹氏の呼称」は次ぎの様な由来から来ている。
    この「神木」の「あおきの木」の呼び方を「神明社の祭祀」では、「ウォーキの木」と発声していた。
    この事を引用して「利仁流藤原氏」は、この「青樹で ウォーキ」と発声したのである。
    この事から、「慣例の禁令」を「利仁流藤原氏」は破った事から、「青木氏」だけでは無く、「青樹氏」とし、更には、「あおき」ではなく、「ウォーキ」として発生して、その違いを出して罰を逃れたのである。

    ここで「賜姓族の役目」を少し論じて置く。
    この事は「青木氏の守護神の神明社」のところで詳細に論じている。
    この「皇族賜姓青木氏5家5流」と「特別賜姓秀郷流青木氏116氏」の「2つの青木氏」には「最高級の格式」を与え、「3つの役目」を与えて、「不入不倫の大権」を与えた。
    この「青木氏」に「皇祖神」の子神の「祖先神の神明社」を「青木氏守護神」として、”民の安寧を図る事を目的”として全国に建立する事を命じた。
    566社に及ぶ建立をした。他にも「皇族の者」が事件などに巻き込まれた場合に庇護するシステムなどの多くの役目を任じられている。
    これらを実行する為に、「2つの血縁青木氏」は「経済的自立」を図ったのである。(二足の草鞋策)
    その為に「伊勢古代和紙」を他の「四家の青木氏」に広げて、「殖産ー販売のシステム」を構築するなどをした。
    中でも徹底した「3つの発祥源の役目」を果たすように命じられ厳しい「特別の戒律」を与えられた。
    特に、「侍の根源」(武家の根源等)としての50以上にもなる「慣習仕来り掟」と、「訓」と「戒め」を与えて「民の模範と成る事の役」を果たす様に定められた。
    そして、「皇祖神の伊勢神宮」を「守護する氏」として始祖の「施基皇子」に「伊勢王」として命じたのが最初である。
    (他の四家にも「守護する氏」としての役目を与えました。)
    その為に、「皇位継承の改革」を実行した「天智天皇」と「天武天皇」は、「王の格式と呼称」は、この時、「皇子の第4世族」までとして変更した。(それまでは第6世族までであった。)
    この「第4世族」を「5つの地域」に配置したのである。
    これが「5家5流の青木氏」と成って、「光仁天皇」まで「5代の天皇」の「皇位継承者」から外れた皇子を、この「5家5流の青木氏」の跡目に入れて護ったのである。
    (光仁天皇は施基皇子の長男 女系天皇が続いた為に継承外の第6位皇子の伊勢から天皇に成った)
    そして、この臣下した「青木氏」には「天皇と宮廷を護る役目」を与えた。
    それが親衛隊の護衛軍トップの「左衛門上佐」として命じたのである。
    これを平安期では「北面武士」として呼ばれていた。

    この後、「嵯峨天皇」は、更に、この役目を強化して細目の「禁令と詔勅」を発し、その時に、「青木氏の賜姓」から、同じ賜姓の意味を持つ「源」を基にして、以後、「源氏」として賜姓する事に成ったのである。
    この「源氏」は「嵯峨源氏」を始めとして、「花山天皇」まで11代の「第6位皇子」で継続された。
    参考
    (16代とする説もあるが、これは徳川氏の源氏の正統性を戯曲した資料をベースに論じた説で、16代目は正規に賜姓した数から南北朝時代の頃と成り、この頃は既に源氏賜姓の必要性は無かった。徳川氏はこの16代を松平氏発祥の時代性に合わせて偏纂したものである。賜姓は平安期までのものとされる。賜姓された「武家源氏」として発祥した正規に確認できる最後の源氏は11代目の花山天皇である。源氏には「摂家源氏」と呼ばれる賜姓ではない源氏もあり生き延びた実績はない。)

    この賜姓の受ける資格の持つ皇子は「真人族と朝臣族」に限定したのである。
    そして、この資格は第4世族皇子で第6位皇子に与え、資格から外れた者が下族する際には「青木氏」を名乗る事を定めたのである。
    「詔勅と禁令」は、「全ての民」がこの「青木氏」を名乗る事のみならず、この「一切の青木氏の慣例の使用」をも禁じたのである。

    この「5家5流の青木氏の跡目」に入れなく成った「下族皇子」と「還俗皇子」は「賜姓族」では無い「皇族青木氏」と呼ばれた。
    この「皇族青木氏」を名乗る場合は「朝廷の認証」はなかった。皇族であるとする証を以って自由に名乗る事が出来た。
    その「皇族青木氏」には4氏が存在しているが、「自由の呼称」であるが為に、この「青木氏」には厳しい多くの戒律は与えられなかった。
    逆に身辺の保護も経済的な保護も何も与えなかった。ただ「呼称権」だけであった。
    この「青木氏」から「源氏」に変わった「賜姓」は、11代続き、この間に18人の皇子と7皇女とが対象となった。
    しかし、「賜姓」を受けた皇子以外は、殆どは「比叡山門跡院の門跡僧」と、皇女は「皇祖神の斎王」に成った。
    この「源氏族」には、「賜姓青木氏の様な役目」を与えない代わりに、生活の糧と成る土地も身分の保護も無かったし、厳しい戒律も無かった。ただ朝臣族とする云う事のみであった。「家の格式」も与えられなかった。
    それを「嵯峨天皇」は詔勅に明記して発した。
    従って、この事から、「利仁流藤原氏のあおき氏」は、正規の朝廷から認可された「青木氏」でも無く、有資格者でも無かったのである。
    「青木氏」でも無い「北家利仁流藤原氏」の「青樹氏」である為に、当然に「氏名の青木村」は認可されなかった。

    注釈
    ただ、これらの族の「青木村」があるとすると、それは明治初期の「村」である事に成る。
    実は、「苗字令と督促令」を発して「農工商の民」に、青木氏等の「賜姓族」、即ち「権威族」の氏名が一夜にして、ある地域全体が「青木氏」を名乗ったのであるが、この為に、この地域を「青木村」と呼称させる様に維新政府は主導した。この「明治期の青木村」がある。この村は判っている。

    この「嵯峨期の禁令」で「青木氏」を除く全ての氏は ”地名による氏名”となりました。
    つまり、この時から”「氏名」を地名とする事”は出来なくなった。
    それだけに「青木村の存在」は、「権威の象徴」として見られていたのである。
    ところが、この「青樹氏」は、後に江戸初期に「江戸幕府初期の系譜作成の命」に従って権威のある方の「青木氏」に変更しているのである。
    他の地域でも、この令に従って、武士としての旗本や御家人などは、次ぎの様な類似の氏名を名乗った。
    この江戸初期と明治初期の「あおき」には次の様なものがあった。
    青樹氏 青城氏
    仰木氏 葵木氏
    蒼樹氏 青城氏
    ・攣�
    以上等があった。

    江戸初期には「青樹氏」等の昔の「武士階級の第3氏」に対しては、「条件付き」で「青木氏」に変更さしたのである。

    多くは、「利仁流」の様な北家筋の関係豪族が名乗った。
    「北家筋藤原氏」は9氏 
    「橘氏未勘氏族」は1氏 
    「源氏未勘氏族」は2氏 
    「佐々木氏未勘氏族」は2氏 
    「摂家源氏族」は4氏(”摂家”とは武家族では無い貴族の源氏)
    以上等が「あおき」を名乗った事が記録から確認できる。

    以上は、全て「2つの血縁の賜姓青木氏」とは、何らかの”間接的な立場”にある「氏族」である。

    注釈
    そもそも、「未勘氏族」とは、平安期から鎌倉期までに「荘園制」で、「荘園」を創った者が、「権威のある氏族」に「権威の名義」を借りて荘園を護った方式で、「権威族」は「名義貸し」だけで「名義貸し料」として「莫大な利益」を挙げた。この見返りとして、血筋は無いが、「名義」だけを名乗る事を許した制度て、この「借名義族」を「未勘氏族」と歴史上では呼ばれた。
    「不明確な族」と云う意味合いである。「青木氏」は権威として最高であったが、立場上でこの「荘園制」に一切組しなかった。

    しかし、逆に、室町期に上記の「数々のあおき」の呼称が起こり、これを「青木」に変更させる事態が江戸初期に起こった。
    江戸幕府は、”正規の賜姓族の青木氏の権威”に似せて、「権威付け」を社会に浸透させ様としてこれらの数々の「あおき氏」を「青木氏」に変更させたのである。
    要するに、「権威付けの対象氏」を増やして「権威」と云うステイタスを社会に浸透させようとしたのである。
    この「政治的な目的」の為に、上記の「あおき氏」等に「青木氏」に変更する様に命じた。

    注意
    この幾つかの「あおき」を使って、「逆の現象」が起こり、江戸初期には「姓」を持たなかった農民から伸し上がった「下級武士」らもこの上記の異なる「あおき」を名乗ったのである。
    又、明治初期にも、「苗字令」「督促令」に依って、全ての「農工商の民」は苗字を持つ事に成るが、この時にも、この上記の数々の「あおき」を名乗ると云う現象も起こった。

    更に、この「青木氏の権威」は、正式には「平安期までの朝廷の権威」で保障されていたのであり、「鎌倉期の権威」では、最早、「幕府の権威」ではなかった。
    ただ、「朝廷の禁令の権威」は遺され、且つ、「社会的慣習」による「権威」は遺った。

    従って、「利仁流の藤原氏」の「青樹氏」は、「青木氏」の名乗りも、のみならず「青木村」も認可外のものと成るのである。
    「青樹氏」の氏名の「青木村」は、本来であれば「青樹村」に成るが、「氏名」から「村名」にするのは禁令ですから「青木村」は出来なかったのである。

    故に、「室町期の青木氏」は存在する事は、当然の事としても、”論調の範囲では無い事”から存在するも”「青木村」は無い”としているのである。
    (他の理由もある 下記)
    この様な「青木村と青木氏」は、福岡以外の他にも和歌山等の北家筋や橘氏等が定住している数か所でも存在して居る。

    この「第3の青木氏」では、室町期初期ー室町期末期ー江戸初期ー明治初期の4期に起こっている。(下記)

    「利仁流藤原氏」の場合は、「青木村」は使えないのであるから、禁令を破っている事に成るのである。但し、当時には、この「村」の種類も「3つの種類」があった。

    当時の税制上の仕組みからであるが、「村」より少し大きい「しょう 庄・㽵」、「村」より少し小さい「あざ 字」があります。

    参考
    4郡から5郡で「国」、4村から5村で「こおり 郡」、「しょう 庄(㽵)」は2村程度 、「あざ 字」は0.5村程度、一村は400から500人程度となっていたとされています。

    そこで、「青樹氏(青木氏)」の「青木村」とすると、鎌倉期の頃は、税の記録から「字」の範囲であった事が記されていた。
    つまり、禁令のみならず、実質的にも元々「青木村」ではなかったのである。
    その後、室町期の中頃から末期頃には「大きめの村程度」には成っていた事が確認出来る。
    「村の定義」の「青木村」としての記録は発見されない。
    従って、ここでも鎌倉期末期から室町初期頃の事では、「字程度」として記録されていて「青木村の定義」からも外れるのである。

    何れにしても、以上の様に、全ての「青木氏の条件」からは外れる事に成るので、本論では福岡の青木氏では論じていないのである。

    ただ、「第3の青木氏」を論じる場合は、余りにその”多種多様な範囲での青木氏”と成るので、一括して論じる事は難しいのである。

    改めて記述すると、千差万別の内容の異なる「青木氏」を名乗った時期は次ぎの4期に成る。
    A 奈良期末期から平安期末期(皇族賜姓青木氏 賜姓秀郷流青木氏)
    B 鎌倉期末期から室町期初期(源氏から青木氏 皇族から青木氏 北家公家族から青木氏)
    C 室町期末期から江戸期初期(武士からの第3の青木氏) 
    D 江戸期末期から明治期初期(民衆からの第3の青木氏)

    「利仁流のあおき氏」(・太宰府から糸島青木にかけて分布する)は、このBに当たる。
    (ここまでの論議範囲)

    従って、判っているこの福岡地域の「他の青木氏」は、全て判っている。
    一つ目は、「黒田藩の日向青木氏」 (•福岡県 三潴郡 城島町 大字青木島)
    二つ目は、「黒田藩の摂津青木氏」 (•福岡県 福岡市 西区 今宿青木)
    である事が判っている。
    何れも、「青木村」では無い。
    この流れの中に、「別の2つの青木氏」が「筑後」と「肥前」から流れ込んできている事も判っている。家紋分析からは判別できる。

    そもそも、「別の2つの青木氏」とは次ぎの通りです。
    イ この「筑後」は、「源の為朝」が平家に追われてこの地に逃げ込んで出来た「配流孫」が、後に「青木氏」を「為朝書付」(真偽不明)を根拠に名乗った事が判っている。
    (•福岡県 下毛郡青木村  「嵯峨期の詔勅」による「正規の青木氏」)

    (何故「源氏」を名乗らなかったかには疑問があるが、「社会の圧迫、平家の追跡」などを恐れて名乗らなかった事も考えられる。「青木村」は認可村かは不明)

    ロ 
    この「肥前」は、ここには「藤原秀郷流青木氏」が平安期から鎌倉期にかけて「秀郷一門宗家」の赴任に同行して「正規の青木村」を形成して「秀郷流青木氏」が護衛団として定住している。

    このイロの「2つの青木氏」が、”「筑前の国境」付近の地域に定住”していた事も判っている。
    この「肥前の青木氏」の判別も可能で「平安期の詔勅」による「正規の青木氏」である。

    (これらは「宗派」と「家紋」と「菩提寺」と「守護神」と「戒名」などの慣習で判別できる)。

    当時は、「氏家制度」の社会では、その「家柄や身分」などに依ってこれらの慣習は決められていて、自由には選択できない社会であった。
    これらの事がその「氏の絶対的ステイタス」に成っていたのである。

    「氏家制度」の社会の中では、「苗字や家紋」は「絶対的なステイタス」として扱われていて、これを護るために「厳しい戒律」として「同族血縁」を繰り返して守ってきたのである。
    この”「絶対的ステイタス」”が侵されれば戦いも辞さない時代であった。
    現実に、記録から観ると、「青木氏」では事件も含めて10回程度起こっている。(研究室に記載)

    当然に、この「絶対的なステイタス」を護るには、「宗派や戒名」等の慣習もそれに準じて分けられていたのである。
    自由に、誰でもが、家紋や宗派や寺や神社や戒名等のステイタスを勝手に選ぶ事が出来ない社会であった。(宗派や戒名でも氏のステイタスは判る。)

    青木氏の場合は、「賜姓族」として、「武家」のその先頭に立っていたのであるから、絶対にこれを護ったし、故に、「氏の絶対的命題」として「同族血縁」を進めていたのである。

    注釈
    (明治初期までこの慣習が護られていた。)
    (ここで云う「武家」とは、「公家」に類する「武家」であり、江戸時代で云われた武家では無い。「八色の姓の制」に従った「正規の呼称」。
    「賜姓族青木氏」はその「武家の頂点」にあり、「武家、侍の発祥源」として位置づけられ、権威付けられていた。)


    そもそも、「青木氏」は、社会に対して政治的に”体制の確固たるあるべき姿”を民に示す為にも、”起源を護る事を主務としての賜姓氏”であった。
    従って、この為に、それを護ろうとして「必死の同族血縁」が進むために、近隣の「筑後」や「肥前」や「日向」から、「筑前」に同族を求めて血縁し、「棲み分け」の為に両者により近い地域に定住地を構えて近づいて来るのである。
    そして、その為に近隣地域には「棲み分け」が起こるのである。
    同じ「青木氏」でも「氏」が異なれば、絶対に”棲み分ける当時の慣習”が護られていたのである。
    他氏と異なり血縁に依って「混在する村」(「集合村」)は形成されなかった。
    (「賜姓族青木氏」でも、「家の格式順位」があって、その格式で棲み分けていた。)
    それが「氏名」を「村名」とする「由緒を示す青木村」の持つ意味なのである。

    情報提供の摂津青木氏の青木理兵衛、日向青木氏の青木市左衛門のルーツも異なっている事に成るのであり、当然に、「格式の違い」によっても「地域」を変えて定住地は上記の様に異なる事に成る。

    (故に、上記した様に、その「氏」その「家」に依って異なるところから、「家紋や宗派や過去帳」などの事が判れば判別できる。)

    上記する「福岡の3氏」と「近隣の3氏」の青木氏は、故に、他氏が行う「集合村」では無いことから、「氏家制度の棲み分けの慣習」からすべて異なっているのである。
    (「集合村」以外に学問的には「村の形」には多くある)
    この福岡も従って、「福岡3地域」「近隣3地域」に分かれていて、「家紋、宗派、守護神、菩提寺」等が異なっている事に成る。
    この様に、同族であれば、「青木氏」の場合は異ならず、「戒律」に依って「統一したステイタス」を持っているのである。(「集合村」の場合は統一性が低下する)

    この守られたステイタスから、「青木氏の身分呼称」は他氏とは異なり、一定の「ステイタスの呼称」が付く事に成る。
    (これが他氏とは、当然に青木氏内でも判別方法は異なる事になり、それが判別条件にもなる。
    上記にも記述した様に、青木氏の最高のステイタスは次ぎの様に成る。、

    「青木氏ステイタス」







    >
    > ・> 青木氏の分布と子孫力
    >
    > > > [地域別分布力]
    > > > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
    > > > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
    > > > 地域      異変の県        分布力
    > > > 九州地方   長崎、大分       5%
    > > > 四国地方   高知           2.5% 
    > > > 中国地方   山口、岡山       2.5%
    > > > 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
    > > > 東北地方   秋田           7%
    > > > 中部地方                 15%
    > > > 関東地方                 45%
    > > > 北海道・沖縄               6%
    > > > その他                   3%
    > > >
    > > > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
    > > > 九州地方  1.3
    > > > 四国地方  1.3
    > > > 中国地方  1.3
    > > > 関西地方  4.7
    > > > 中部地方  4.3
    > > > 関東地方  11.3
    > > > 東北地方  2.0
    > > > その他   11.0
    > >
    > > > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
    > > >
    > > > 修正地域(表ー3)
    > > > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
    > > > 秋田 1
    > > >
    > > > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
    > > > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
    > > > 福岡  2      山口  0   愛媛  3     兵庫   3    三重  1
    > > > 長崎  0      島根  2   香川  1     大阪  14    石川  2
    > > > 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都   5    福井  1
    > > > 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良   1    岐阜  3
    > > > 熊本  4                        和歌山 4     愛知  13   
    > > > 宮崎  2                        滋賀   1    長野  9
    > > > 鹿児島 1                                   山梨  1
    > >
    > > > 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
    > >
    > > > 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
    > > > 静岡   5   青森  1      沖縄   1
    > > > 神奈川 21   山形  2      北海道 11
    > > > 東京  18    岩手  1
    > > > 埼玉  17    新潟  4
    > > > 群馬   6   秋田  0
    > > > 千葉  11   福島  4
    > > > 茨木   4   宮城  2
    > > > 栃木   8                                     
    > >
    > > > 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  
    > >
    > > >  青木氏の分布と子孫力−12に続く。
    > >


      [No.314] Re:青木氏の分布と子孫力−10
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/06/17(Tue) 14:35:09  

    > > 青木氏の分布と子孫力−9の末尾
    > それは、「個人」ではなく一つの「集団」としての「掟」であった。
    >それを「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」が、「商い」と「神明社」を通じて統制していた事に成る。
    >依って、”「子孫拡大」”と云うよりは、”維持した”と考えられ、「パラメータ4」を超さない範囲で維持していた事に成る。
    >「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」等が、持っていた「慣習仕来り掟」と云う戒律は、適用しなかったと考えられる。
    >その最たるものとしての「血縁」は、”本家筋を除いて適用せずに「青木氏」外に子孫を横に広げて ”「拡大」ではなく「維持」としたのである。
    >これは「商人」と云う事であったからこそ出来得た事である。
    >元来、「青木氏」では「家紋」とするものは「象徴紋」としての考え方であった。
    >この「3つの地域」の「青木氏」には、「笹竜胆紋」以外の青木氏は極めて少ないのはこの事から来ている。

    >恐らくは、継承する家紋があったとすると、それは「商標」として扱われていたことが判る。
    >この地域では、恣意的に「笹竜胆紋」は表には出ずに「総紋」としての扱いであった事が伺える。
    >秀吉の家臣と成って家康に除封された青木伊豆守と青木伊賀守の福井での青木氏末裔は、現在も「笹竜胆紋」を継承しているが、「本家の総紋」としている事でも判る。


    青木氏の分布と子孫力−10


    「秋田」
    東北地方の6県についてである。
    この中での「秋田」は、「陸奥地域」として「藤原秀郷流青木氏」の古くからの根拠地である。
    「青木村」も形成して「越後青木氏」との連携もあり、「陸奥青木氏」の記帳のないのも不思議の一つである。
    (北海道入植移動と室町期末期の混乱の影響はある)
    少なくとも「関東の青木氏」と同じ程度の「子孫拡大」を持っている筈で、「青木氏」の現代の存在も確認できている。
    ”何故に記帳やデータのパラメータが採れないのか”は不思議である。
    老化が進んでいることも考えられるが、投稿もある事もあり「青木氏氏のサイト情報」が伝わっていないとも考え難い。
    「老化」となると「青木氏の今後」のこの地の「子孫拡大」に不安が残る。
    しかしながら、その「周囲の分布」(青森1、岩手1、山形2、宮城2、福島4、新潟4)が納得できる件数にあり、「秋田」だけが全族が移動しているとも考えにくい事とを合わせると不思議である。
    周囲が採れているのに「秋田」が0に成るのは”何かが青木氏に起こったから1以下に成っているのであろう。

    その不思議のヒントは「大阪」と「東京」の「都会」にある。
    先ず、上記した様に、「青木氏」に関係が歴史的にない「大阪」である。
    「14のパラメータ」で全体の7%もある。
    この「大阪の都会」は関西の県の青木氏の定住地からの移動が主体であろう。
    つまり、定住地では無かった大阪ー兵庫東域に「皇族青木氏」の「丹治氏系青木氏」が江戸期初期に四万石の大名として摂津域に赴任している。
    この事から、パラメータとして2が考えられるが、その他の数字は考えられない数字である。
    又、「伊勢青木氏」が堺に長い間、「大店の支店」を持っていた記録もあるが、「伊勢青木氏」の分家が現在も紙問屋を営んでいるが、パラメータに出てくる数字でも無い。
    このパラメータの大半は、つまり、これは上記の答えの一つには「都会への定住移動」の事が考えられる。
    (秋田は家紋分析から主に東京などから)
    何時の世も、この政治、経済でこの「行動パターン」はある。
    では、果たして「秋田」が「大阪」かと云う事になるが、矢張り、「地理的環境」から「東京のパラメータ18」になる。
    「大阪14」は、関西以西のパラメータの0域の取り分け4県の吸収地となろう。
    「関西以北の移動」があったとしても、現在もその比は少ない事からパラメータを構成するには「以西」である。

    とすると、「秋田」の0のパラメータは老化は兎も角として、パラメータの過剰を示している「東京」となる。
    そこで、次ぎに「過剰地の東京」の吟味とすると、「青木氏」の最大の定住地の東京である。
    18のパラメータで全国比の9%もある。
    「藤原秀郷流青木氏」と「丹治氏流青木氏」の定住地の121氏の本領地である。
    「武蔵」として「埼玉と東京」に成るが、本領地の埼玉入間に17の全国比の9%もあるとすると、全体から観るとこの埼玉で納得できる数字である。
    武蔵入間を中心として神奈川横浜を半径とした円状の中に定住していた事を考えると、神奈川は21である事、埼玉の17である事、
    神奈川の秀郷流青木氏に保護されて後に、領地を以北に求めた「諏訪族青木氏」で拡大分布した「栃木の8」である事、
    「群馬の6」、「千葉の11」、「茨木の4」が妥当なパラメータと考えられる。
    この事から、「東京の18」は矢張り大きすぎるパラメータと成る。

    しかし、東京にも18とあり、「埼玉の17」では多すぎる。
    「秀郷流青木氏」の東京の分が余計な数字とも考えられる。
    この東京には、江戸期に「6つの青木氏」が集まった事が判っていて定住移動している。
    更には、武田氏滅亡後、「皇族青木氏」の「武田氏系青木氏」が家康の配下に組み込まれて「埼玉鉢形」に移動定住された。
    この分を考慮する必要がある。
    次ぎに、江戸初期武蔵の「丹治氏系青木氏」が信濃を経由して摂津に移動定住している。
    残りの一族があったとしても、これら二つの分を加算しても埼玉17から2を差し引いたとして、その分「秀郷流青木氏」は東京に少なくとも 2を持っている事に成ろう。

    武蔵の「秀郷流青木氏」は元より、三重、千葉、越後、越前、越後、「皇族青木氏の武田氏系青木氏の甲斐」と、「丹治氏系青木氏」が江戸期に確認できる。
    しかし、これらを全て合わせても江戸期の家臣の移動族であるので赴任を終えての国に帰る事から、無理に定住したとしてもパラメータは最大でも1程度を見込まれる。
    そうすると、それにしても大き過ぎる。
    「宗家秀郷流青木氏」を「東京の分」として 2としてもせいぜい 9と成る。
    そうすると、「国抜け」として「一族斬罪の罰」になる事の江戸期に「青木氏」としては自由に移動定住できなかった事を考え合わせると、結局は「明治後の9」と成る。

    つまり、この二つの数字から考えると、上記した7県の内の大分と山口を除いた「5県の分」がこの大阪と東京に集まった形に成っている。
    その内の「秋田」は明治後の「都会への定住移動」の東京の方に含まれる事となる。

    東京は秀郷流青木氏の分の2
    各地域からの移動定住族の1
    下記の「第三の青木氏」の8
    秋田の秀郷流青木氏の移動分の2
    江戸期の6氏12流の定住分の4
    その他の各地からの分として1
    総計 都会移動分  18
       

    この東京と大阪の二つの地域31パラメータの半分17−18は上記の5県の分として計算でき、残りの分は全体からの移動分と成る。
    17の8%−9%が「全体移動分」と考えられる。
    全体を平均4として、これからの「青木氏の定住の勢力図」として観てみると、これらの周囲は青木氏の分布状況に匹敵する数字を示している。

    実は、ここで「明治期の異変」が起こっているのだ。
    それは「秀郷流青木氏」には3年の苗字令と8年の督促令で関東周辺の氏姓名を持たない庶民は進まない氏姓名に対して政府の指導の下に、ある日、突然に村全体が「青木氏」を名乗ると云う事が起こった。
    中には郡の村の大半が「青木氏」を名乗ったと云うことが関東であった。
    「青木氏」では、「寛政の歴史書」に基づきこれらを「第三の青木氏」と呼称された。
    これらの一般の人は大小何らかの形で「青木氏の生活」に関わった村人であった。
    従って、この人口の数は「青木氏」を超えている。
    これは「青木氏」の全国に関わった村で起こっているが、特に、関東は上記した様に、”一夜明ければ青木氏”と云う状況であった。
    この事から、青木氏の平均のパラメータを4とすると、この倍は少なくともあった事に成る。
    「一夜明けて」の人口は村主一族の10倍程度以上に成らなければ村は維持できない筈だ。
    だから、この人口の1/4が子孫力と見做して、この「東京の18」−「全体の移動分」を差し引けば、平均のパラメータ4の倍の8に計算から成る事に成る。

    この現象は関西(賜姓族は禁令)よりは主に関東を中心にして集中的に起こったのであるから、この分のパラメータ8を考慮する必要がある。
    このパラメータの8の数パーセントは「秋田」の分が含まれているこ事に成る。
    この「秋田」も、明治期にこの現象を起こした地域で、その人々は明治期に移動の自由もあって「都会移動」を盛んに起こした地域なのである。

    「山梨」
    「山梨1」についてであるが、ここで特記して置くと、甲斐から「皇族青木氏」が家康の命で鉢形に移動定住してきた。
    「武田氏系青木氏」(時光)として残るは、「本流の青木氏」と「養子筋の分家青木氏」が甲斐に居た。
    この内、「養子筋の分家青木氏」は「安芸」などにも移動して定住しているが、最終は甲斐青木氏が衰退した為に戻った。(一部は残った。常光寺を再建した。)
    従って、甲斐には「皇族賜姓族青木氏」(源光系 0)が奈良期より定住する。
    この「皇族賜姓青木氏」が武田氏から養子を迎えて血縁したが、その養子に跡目が生まれずに家紋掟に依って賜姓族系の「武田氏系青木氏」が発祥した。
    依って、この「賜姓族武田氏系青木氏」(1)と「皇族青木氏の武田氏系青木氏」(A)が甲斐にはある。
    諏訪族が「武田氏系青木氏」と血縁した「武田氏系諏訪族青木氏」(B)、「賜姓族青木氏」と血縁した「賜姓族の諏訪族系青木氏」(2)がある。「諏訪氏系武田氏族青木氏」(C)
    甲斐には、以上、「賜姓族系3氏」 「皇族系3氏」の「6つの青木氏」が存在する。

    この様に血縁に依って「青木氏」が多く出ているにも関わらず、「甲斐」は室町期は戦乱の中にあった。この為にどうしても巻き込まれて「子孫力」を落とした経緯がある。
    ところがあまり「越前福井の逃避地」に逃げ込んている記録が見つからない。
    恐らくは、(0と1)は定住して戦いから極力避けたと考えられる。
    (2)は武田信玄の有名な由依姫事件の調略にかかり武田氏に組み込まれた事から、各所に分散して逃げた。
    恐らくはこの一部が越前福井に逃げ込んでいる筈で「抱き角紋」がわずかに確認できる。
    (0と1)は定住
    (2)は神奈川・栃木・越後
    (A)埼玉武蔵鉢形と高知土佐に移動
    (B)神奈川に移動
    (C)越後に移動 

    「甲斐の賜姓族」は定住して「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と連携して「古代和紙の殖産」に関わったが、記録から「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の様に積極的に活動した記録が発見できない。
    この事から、「山梨の1」は「伊勢や信濃」と違ってパラメータは低い事は納得できる。

    「埼玉 神奈川 千葉」「栃木 群馬」
    埼玉17、神奈川21、千葉11の3県は、全ての「青木氏の融合定住地」である事から観ると、やや大き目の程度のパラメータであるが納得できる。
    「神奈川の21」は上記で論じたがお大きいとは観られるが、そうでもないのである。
    ここには「伊勢と信濃」と、「諏訪族系3氏と武田氏系3氏」が室町期末期に定住移動している。
    「秀郷流青木氏」の保護もあって、経済的にも恵まれて子孫拡大も何れも実に大きかった。
    その内には、この神奈川の地で保護されて子孫拡大が大き過ぎた為に、「秀郷流青木氏の保護」を得て栃木に更に移動して、武力で北方向に領地を獲得する等して「栃木の8」の事が起こるくらいであった。
    「群馬の6」も本領地であることから、入間だけではなくこの地域にも子孫を拡大させている。
    かなり群馬の北域の国境沿いは争いが起こっていたが、室町期末期の諏訪族の拡大もあって平定に近づいた。
    この諏訪族の勢力の「栃木の8」は平均のパラメータ4の2倍である。
    異変や単純に子孫拡大しても8までには成らない。
    つまり、如何に「神奈川の勢力」がこの「栃木の8」を後押ししていたかが判るし、全国最大であったが大きかった事が云えるのである。
    「諏訪神社」を独自に勢力地の各地に数多く建立しているところからもその勢力は頷ける。
    その意味で「栃木の8」は頷ける。

    (栃木は当初、神奈川に逃げ込んだがその一部が神奈川の勢力を背景に栃木の以北を攻めて安住の地を獲得して守った。)

    「明治後の移動」のみを考えても、「移動のパラメータ」は「平均の4」を超える事は論理的にない事から2程度位以上にはならない。
    この「神奈川の21」はその意味で妥当性を持っている。

    「沖縄」
    最後に、「沖縄の1」に付いては全く判らない。家紋分析も守護神からも判らない。
    明治後の移動である事は間違いない。
    歴史的な経緯が全く無く記録も確認できない。
    薩摩藩との関わりが大きかった事から薩摩藩に青木氏が家臣として出仕していた可能性は「日向青木氏」の経緯から観ても低いので、「沖縄の青木氏」が江戸期には定住していた事は先ず無く、明治後の事であろう。
    「沖縄の1」を示しているが、パラメータ1は上記した様に、90−150年程度は必要である。
    明治期からすると何とか得られるパラメータではある。
    大阪や東京の「都会移動」、北海道の「入植移動」、沖縄の「自由移動」等がある中で、パラメータ0の地域もある。
    「沖縄」の「自由移動」の青木氏は柵が無いことから今後拡大する事であろう。
    「沖縄青木氏」の新しい呼称が出来た事は喜ばしい。

    「結」
    この様に本来の定住地で無いところの地域に分布の数字を示しているのは、室町期の青木氏の拡大伸長の移動方向も現在にも示している。
    本来定住地ではないが、歴史的な室町期の記録からも勢力拡大の経緯として納得できる。
    その県として観れば、この「沖縄」を除きその数字は適切に投稿数字に表れている。

    因みにこの「記帳の数字」と「ルーツ掲示板」の投稿数字はほぼ同じ傾向をしめすが、この分析は、筆者が過去について調べた「青木氏の分布」と「青木氏の村の分析」とで勘案すると、その後の分布として非常に適切に歴史的な史実を表していて興味深い。

    この数字のバイアスは統計的に1以下で0.5程度と見込まれる。その範囲でパラメータは「青木氏の分布図」として観られ、且つ、同時に「伝統の存在力」としてのパラメータとしても観られる。

    そこで、気に成る事がある。
    それは上記の表や下記の表の様に各地の「青木氏の分布図」(子孫力)を示しているが、これが”面積とどの様な関係にあるのか”と云う事である。
    広いところ広い様に分布し「子孫力」が広がっているのかと云う事である。
    「青木氏」は「青木村」を形成しているのであるから、その”「青木村」が地域に依って大きさが違っているのか”を把握しておく必要がある。
    その答えは出る。
    次ぎの2つの表から出る。





    ・> 青木氏の分布と子孫力

    > > [地域別分布力]
    > > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
    > > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
    > > 地域      異変の県        分布力
    > > 九州地方   長崎、大分       5%
    > > 四国地方   高知           2.5% 
    > > 中国地方   山口、岡山       2.5%
    > > 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
    > > 東北地方   秋田           7%
    > > 中部地方                 15%
    > > 関東地方                 45%
    > > 北海道・沖縄               6%
    > > その他                   3%
    > >
    > > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
    > > 九州地方  1.3
    > > 四国地方  1.3
    > > 中国地方  1.3
    > > 関西地方  4.7
    > > 中部地方  4.3
    > > 関東地方  11.3
    > > 東北地方  2.0
    > > その他   11.0
    >
    > > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
    > >
    > > 修正地域(表ー3)
    > > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
    > > 秋田 1
    > >
    > > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
    > > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
    > > 福岡  2      山口  0   愛媛  3     兵庫   3    三重  1
    > > 長崎  0      島根  2   香川  1     大阪  14    石川  2
    > > 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都   5    福井  1
    > > 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良   1    岐阜  3
    > > 熊本  4                        和歌山 4     愛知  13   
    > > 宮崎  2                        滋賀   1    長野  9
    > > 鹿児島 1                                   山梨  1
    >
    > > 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
    >
    > > 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
    > > 静岡   5   青森  1      沖縄   1
    > > 神奈川 21   山形  2      北海道 11
    > > 東京  18    岩手  1
    > > 埼玉  17    新潟  4
    > > 群馬   6   秋田  0
    > > 千葉  11   福島  4
    > > 茨木   4   宮城  2
    > > 栃木   8                                     
    >
    > > 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  
    >
    > >  青木氏の分布と子孫力−11に続く。
    >


      [No.313] Re:青木氏の分布と子孫力−9
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/05/24(Sat) 07:43:10  

    > 青木氏の分布と子孫力−8の末尾

    > 事ほど左様に、大阪に集まる「青木氏」は次ぎの様に成る。
    >
    > 「伊勢青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」を始めとして、
    > 「香川青木氏」、「高知青木氏」、「徳島青木氏」、
    > 「福井青木氏」、「長野青木氏」、
    > 「愛知青木氏」、「岐阜青木氏」、
    > 「近江青木氏」、「兵庫青木氏」、「滋賀青木氏」、「鳥取青木氏」、
    > その他地域の青木氏
    >
    > 以上の地域に、「大阪の14」が分散して「子孫力」として各地域に加算される。
    > 全体の20%程度が大阪に集まっているのだが、上記の14地域から、1地域に「パラメータは1」を配分できる。
    >
    > 比較対象として、「都会」の「東京18」は「武蔵国」で「秀郷一門の定住地」であるので、「パラメータ」の持つ意味は若干異なる。
    > 「大阪の14」は、その意味で、「伝統の継承」は、「東京の18」に比べて、関西域は、これからは低く成る事を物語る。
    >
    > その事から、「伊勢青木氏」の「遺された伝統」の意味は実に大きい。
    >
    >
    > そもそも、「伝統」とは、その「伝統」を維持している「氏の思考の基準」となるものである。
    > 「氏の思考基準から外れた考え方」はその氏は排除する。
    > 要するに、「伝統」=「思考基準」(行動規範)である。
    > 況して、「氏の独善の宗教」=「密教」であるとすれば、「宗教的な作法」の「伝統」は”自らの氏が決めた作法”である。
    > 「氏の思考基準」である。
    > 次ぎの”「青木氏だけの伝統」”は、”「青木氏の思考基準」”となる。
    > 「青木氏」は、”この様なものの考え方をしていた”と云う事で理解するべきである。




    青木氏の分布と子孫力−9


    ・「東京の18の内訳」
    「東京の18」には「江戸時代の六左兵衛門ルーツ」(吉宗に同行 享保改革)として1が見込まれるので、伊勢のパラメータは総合12と成る。
    筆者の縁者が東京に「昭和の移動」として既に4家族移動しているので、更に、その子孫力は12以上に伸びると考えられる。
    東京は関東域と北陸東北域と中部域からの移動として算出する。
    東京は大阪に比べて「ルーツ情報」は無くなっている可能性が高く、在ったとしても、且つ、政治の場であった事から、一層、情報は錯綜し搾取偏纂され矛盾に満ちた情報と成っている。
    家紋分析などいろいろ駆使したがまとめられなかった。
    「浄土宗」なのに「日蓮宗」、「菩提寺」が何処かにある筈なのに「檀家寺」、「氏」であるべきなのに姓名等の矛盾が多すぎる。
    「東京」に定住移動し易い地域となれば次の通り、関東域を中心として定住移動すると見込まれる。
    青木氏の定住している地域を区切るとした場合、次の様な地域から移動が起こる。

    「埼玉、千葉」、「栃木、群馬、山梨」、
    「新潟、秋田、青森」、「岩手、福島、宮城」、
    「山形、群馬、茨木」、「神奈川、静岡」、
    「信濃、富山、石川」、その他

    「大阪」の「都会移動」の出来得る「6定住地域」:

    「高知香川徳島」 「和歌山三重愛知」
    「兵庫岡山広島」 「福井長野岐阜」
    「滋賀鳥取島根」「その他」

    ・「滋賀」
    この「滋賀」であるが、一見して「近江青木氏」と考えがちであるが、実は違うのである。
    「滋賀」に付いて、ここには少し歴史的に違った経緯を持っている。
    ここには確かに、「青木氏」は平安期から存在する。
    ところが、ここで思いもよらない事件が起こった。
    「嵯峨期の詔勅」の禁令を破ったのである。

    先ず、「近江青木氏」は、そもそも「5家5流の皇族賜姓族」の一つである。
    ところが、この「近江」には、「天智天皇」の「第7位皇子」の「川島皇子」の定住地でもあった。
    この「川島皇子」は、「第4世族」であったが、賜姓を受けられる「第6位皇子」では無かった。
    そこで、”その勲功が高い”として、特別に「近江佐々木」の地名を採って「近江佐々木氏」を賜姓した。
    この「近江佐々木」は「第6位皇子の施基皇子」(伊勢の青木氏の賜姓を受ける)の弟ではあって、近江一帯の守護に任じられた。
    (日本書紀にもよく出て来る人物である)
    ところが、その後、「文武天皇期」に「第4世族の皇子」に対して「近江青木氏」を賜姓した。
    この「近江」には「賜姓族」が2氏発祥した。
    ところが、この2氏が「慣習掟」を破って平安期初期に勢力争いをした。
    そこで、「近江青木氏」は争いを避ける為に、滋賀地域に一族一門が揃って移動して引き下がった。
    「全青木氏」は、族毎に棲み分けを基本としていた。
    ところが、この「近江」には同族血縁による仕来りから、「賜姓族佐々木氏」と血縁した「近江青木氏」との「佐々木氏系青木氏」が発祥していた。
    (始祖川島皇子の佐々木氏の方が永代で二段上位)
    結局、「佐々木氏系青木氏」はこの「近江」に残ったが、「近江青木氏」は、「滋賀」で平安末期頃まで定住していた。
    しかし、「滋賀」での政治的な混乱を避ける為に、再び、元の「近江」に戻った。
    この時、この「滋賀」に家を断絶してしまった「娘一人の家」と成った支流家がただ一つ残った。
    (青木氏側の記録では娘も無くなったとされてい「完全断絶」と成っている。)
    そこに、伊勢北部上田郷から農兵として出て来ていた者が、「滋賀」で力を着けて山賊の様な形で周囲を圧迫していた。
    ところが、この者がこの「支流の娘」を取り込み強引に「近江青木氏」を名乗った。
    ところが、この者は能力に優れ多くの配下(山賊・軍事力)を従える事と成った。
    この「青木の娘」を前面に押し出して「正規の賜姓族青木氏」として朝廷に入り込み、その結果、11の守護代に10の役職を務めて信頼を勝ち得た。
    ところが、逆にこの「近江青木氏」の方は役職から遠のくように成ってしまった。
    そこで、この「近江青木氏」は「賜姓族の禁令」を破って、この「近江青木氏」を実質上乗っ取った「上田氏」と戦ったが敗退した。
    この勝利した上田氏は「滋賀青木氏」として拡大し続け、その後、「滋賀」で「氏族」として完全定住し子孫を大きく拡大させた。
    その後、鎌倉期には、この「末裔子孫」の内の一族が失職して、静岡ー千葉と流れて行き、遂に、下総にまで移動して落ち着いた。
    下総には、平安中期から「秀郷流青木氏の定住地」でもあった。
    この「下総青木氏」と千葉に辿り着いた「上田氏の嗣子」の「滋賀青木氏」を名乗るこの一族との間に血縁族が生まれた。
    遂には、上田氏の搾取の「滋賀青木氏」が信頼されて「下総青木氏」と同化してしまった。
    挙句は徳川氏の家臣とも成ってしまった。(「家興要領」)
    一方で、戦いに敗れて一門が失墜してしまった事で、「近江」には居られなくなり、結局は、「兵庫」にこの正当な「近江青木氏」は一族全ては移動した。
    そして、ここに定住していた「清和源氏の宗家」の「頼光系の源氏」に助けられた。
    再び、新たに「兵庫の青木氏」としてある程度の勢力を持ち得た。
    「伊勢ー信濃ー甲斐の青木氏」が行う「古代和紙の殖産と販売」の「二足の草鞋策」の指導の支援を受けた。
    その内、財力を高めて「衰退していた近江青木氏」を遂には「兵庫摂津」で元の勢力に戻した。
    ところが、ここで「源平の戦い」が始まり、世話を受けた「清和源氏」に対して恩義を果たすために「嵯峨期の禁令」を破って合力した。
    そして、「近江佐々木氏」と「佐々木氏系青木氏」ら共に、「源氏」に合力して共に敗退して、再び、「美濃青木氏」を頼って移動した。
    この「美濃」も「古代和紙」での財力を背景に「源氏」に味方して、「近江青木氏」と「美濃青木氏」は一族一門末裔に至るまで厳しい平家の掃討作戦で完全に滅亡した。
    この時、近江源氏」、「美濃源氏」、「駿河源氏」、「木曽源氏」等の周囲の「源氏一統」は完全に絶えた。
    ただ、この中の「近江青木氏」の「末端末裔」が、何とか「越前福井の逃避地」に逃げ込んで保護を受けて生き残った。
    この「支流末裔の者」が、越前福井で「伊勢青木氏と信濃青木氏」らの「影の支援(和紙の生産)」の下に「近江青木氏」を兵庫で遺した。

    従って、この「兵庫の3」は、「皇族賜姓族の5家5流」の一つであるにも関わらず、「近江青木氏」である。
    そして、この「越前福井の末裔」である。
    この為に「伊勢青木氏 12」や、「信濃青木氏 9」の様に、「全国平均4のパラメータ」を得ていないのである。

    従って、この「滋賀の1」は上記した様に、「皇族賜姓族」ではない「第三の青木氏」の上田氏の「滋賀青木氏」である。
    その「第三の青木氏」のパラメータに出た「唯一の青木氏」である。
    上記した様に、この「滋賀青木氏」は、平安期では勢力を持ったが、鎌倉期に成って失職し土地を奪われ、完全に衰退した。
    千葉下総の「滋賀青木氏」が「千葉青木氏の融合族」と成って生き残っている。
    この千葉下総の「滋賀青木氏」は「宗派と家紋で判別」できる。
    「千葉の11」の1程度であろうから、合わせて「滋賀青木氏」の「第三の青木氏」は結局は2と成る。

    結局は、「滋賀青木氏」のパラメータは「2」と成る。

    (そもそも、「第三の青木氏」は、元よりその「ルーツの系統性の概念」が元より無かった事から、「青木氏」としてのデータが採り難いのである。
    この「滋賀青木氏」にしても、青木氏とは成ったとが、滋賀のみの系統性しか確認できず、その後の確実なデータは、流れとしては確認できるが、確定できない。)


    ・「第三の青木氏」
    そこで、この「「第三の青木氏」に付いて追記して置く。
    そもそも、この「寛政の史書」にも記載されている様に、確かに「第三の青木氏」は4期に発生している。

    その4期とは次の通りである。
    平安末期  上田氏の「滋賀の青木氏」で「近江青木氏の末裔」を名乗った。
    室町末期  下剋上で「主家の青木氏」を名乗った。主に「美濃青木氏」、「甲斐青木氏」を名乗った。
    江戸初期  立身出世には家柄身分を必要として社会と成った。「郷氏や郷士の名義札」の売買が行われ、合法的に青木氏をなのった。「女系の青木氏」を名乗る事も起こった。
    明治初期  苗字令に基づき「全国24地域の藤原秀郷流青木氏」と、「伊勢青木氏」、「信濃青木氏」、「甲斐青木氏」、「近江青木氏」を名乗った。

    「嵯峨期詔勅」に基づく禁令であった為に、「明治初期」を除き、「平安末期」と「室町末期」と「江戸期」は、それなりに「理由づけした青木氏」である。
    「流れ」としての内容は把握できる。
    しかし、「明治初期の第三の青木氏」は、先祖の「過去帳」を持たない事と、「年期」が無い事の為に、パラメータに出て来ない。
    「家紋分析」などでも「家紋の系統性と正統性」が無い為に、明治期前の「ルーツの内容」が残念ながら捉えられないのである。
    恐らくは、これからも、よほどの事が無い限りは、その宗派の作法からも、「姓としての系統性」が依然として無い為に難しいと観られる。
    明治期以降の「自己の家の管理」にしか方法はない。
    その意味で、「過去帳」と「年期」の「二つの条件」を持った平安期の「上田氏の滋賀青木氏」のみがパラメータを持った事に成った。
    従って、この鎌倉期ー室町期中期頃までの資料は遺されている。

    「室町末期の甲斐青木氏」(武田氏系青木氏:皇族青木氏)の中に、この血縁性の無い「第三の青木氏」が発祥した。
    「賜姓族」ではない「皇族青木氏」は、「清和源氏の傍系支流」である事を前面に押し出して名乗り、それを理由に「青木氏」を名乗った。
    (「嵯峨期の詔勅」に「第4世族の皇族出出自者」は、下族する際に「青木氏」を名乗れる。)

    ところが、この「甲斐の皇族青木氏」には、「一族争い」が起こり、この時、この「分家側」が、”跡目が得られない”として初期より家臣からの「貰子」を「養子」にし、「分家の跡目」を継がした。
    しかし、その後に「妾子」の子供ができ、その子供が「分家の跡目」を継いで、「2つの青木氏」が出来て仕舞ってた。
    親子の「主家の争い」を起こして「同族争い」が起こった。
    ところが、この親が「貰子ー養子」を「分家の跡目」として頑固に立てた。
    妾子の「3人の子供」らは、怒って反旗を親に対して翻した。
    遂には、その「親の行動」は、本家に対して無断で「宗派変え」の異常行動にでた。
    貰子ー養子」の立場が、「曹洞宗」であった事から、本家の”本筋を通す様に”の圧力に反発したのである。
    結局、本家筋は、この「貰子−養子」を「安岐の武田氏」に移動させた。
    ところが、この「貰子−養子」は力を発揮して、安岐で財力を蓄えて、甲斐に戻って来た。
    この「本家−分家争い」から共に衰退し、一族の自らの菩提寺も衰退させてしまって放置の状態と成っていた。
    そこに、この貰子−養子」の青木氏は、その財力を使ってこの「青木氏の立て直し」を図った。
    結局は、「妾子の青木氏」は、武田氏から排斥されて、甲斐の山奥山間部の巨摩郡に追いやられ、その日暮らしの生活を送っていた。
    結局は、この争いは「4派」に分かれて、この様に、同族の「跡目騒動」の争いが続いた。
    ところが、経済的に優れて、且つ、武力等の面で優れていた「貰子」の「養子の青木氏」が、各地に転戦して勢力を付けて「子孫拡大」をさせたのである。
    最終は、この血縁の無い「養子の青木氏」が、本家の衰退していた「菩提寺の常光寺」を復興させたのである。
    そして、その後にこの同族4氏が話し合ったが、話は就かなかった。
    (甲斐には奈良期より「甲斐賜姓族青木氏」が別に存在して居た。)

    しかし、この「貰子ー養子」のこのルーツの「過去帳」が、「曹洞宗」であったので、寺では「人別帳」である事から、「年期」があってもパラメータが採れないのである。
    ところが、結局は、”復興した常光寺”も「曹洞宗」に改宗してしまった為に、ある室町期の中期の時期までのルーツは確認できるが、それ以後は判らない。
    「明治期の苗字令」で「青木氏」から、「表記変更」か「家紋掟」に依って元の「別姓」に変更した可能性の証拠が観られる。

    「秀郷流一門の24地域」や「近江と兵庫と甲斐」等には色々な「青樹氏、葵木氏、蒼樹氏、仰木氏、青城氏」があるのはこの事による。
    中には「ウォーキ」と呼称するものもある。
    「藤原利仁流の青樹氏」のみならず、一夫多妻から妾子には、「甲斐の皇族青木氏」の様に、「青木氏の呼称」の跡目は取らさずにこの呼称を用いたのも原因の一つである。
    明治期の呼称では、遠慮なく「青木氏」を名乗る者もあり、憚って、上記の「青木氏」を名乗った者もあった。
    これはその「地元の青木氏」との「関わり具合」や「地元の青木氏」の「考え方」にも左右された。
    ただ、「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」の様な場合は、一族の血縁制度(「養子縁組の絆制度」)により、その絆の関係の「長」には、女系での「青木氏」を当初から制度として用いてた。
    この為に、この「あおき」の各種の呼称の「姓名」は生まれなかった。

    (この「絆青木氏」の「長」から更にはその配下へと養子や女系などで血縁を進めて「青木氏」を護っていた。
    明治期にはそれでも、紀州では、無縁ではないが、「第三の青木氏」が生まれた。)

    因みに、実は、強ち、「ウォーキ」の呼称の仕方は間違いではないのだ。
    「守護神の神明社」では「青木氏」を「ウォーキ」と古来から呼称する慣習があった。
    恐らくは、上記の様な状況に陥っていた「養子の青木氏族」の多くは、この「ウォーキ・あおき」の呼称を室町期か明治期に憚って使った呼称の一つである。
    (江戸初期にもこれらの「ウォーキ・あおき」は、「青木氏の権威性」を社会に誇張する為に、恣意的に「幕府」によって「青木氏」に変更する様に命じられた経緯がある。)

    この事と、「家紋」と「宗派」と「守護神」が相当しない為にパラメータに成る為の数値が低くなる事が原因である。上記した90〜150年が限界点であるので、各地でそろそろパラメータが採れる時期に来ている。


    ・「京都」
    「京都の5」は3流の「近江の青木氏」の総合である。
    この3流の「近江青木氏」は、鎌倉幕府の「2度の本領安堵策」で近江に戻った。
    頼朝はこれらの同族と賜姓族の「本領安堵策」を優先した。
    しかし、この事に依って頼朝は、北条氏に身の危険が迫るほどに反対反発された。
    しかし、これを押し切って2度も土地以外にも色々な安堵策を実行した。
    この為に頼朝は”トリカブトで毒殺”される始末と成った。

    この兵庫の「近江青木氏」の一部(1)と、近江の「佐々木氏系青木氏」(2)と「佐々木氏」が、源平合戦後に逃げ延びた。
    この為に、「日向青木氏」の様に、逃亡の為に「佐々木氏」から「青木氏」に名乗り替えした「青木氏」(3)である。

    この「3流の青木氏」は、その後、平家の追手を逃れる為に、越前福井から「神明社の神職」として「伊勢青木氏と信濃青木氏の支援」で各地に「神職」として配置移動した。

    (「佐々木氏」も同じ神職として以北の「神明社の神職」と成っていて、各地、取り分け、東北地方に「佐々木氏の神職」が多いのはこの事に依る。)

    「佐々木氏系青木氏」は、隣の越前福井に逃げ込んだ末裔が、「伊勢青木氏や信濃青木氏の支援」(古代和紙の殖産)を受けて、再び「青木氏」を盛り返し、平家滅亡で鎌倉幕府から「本領安堵策」で何れも元の近江に戻った「近江佐々木氏系青木氏」である。
    そして、「嵯峨期の詔勅」を利用して「青木氏の不入不倫の権」で名乗り替えした。
    「神明社の神職」はこの意味で保護された。
    「越前福井の逃避地」とは別に、「神明社の神職」に成る事は同じ「皇族賜姓族の慣習」として周囲から認められていた。

    「越前福井」
    この様に、「青木氏の逃避地の越前福井」は「青木氏存続」に大きく貢献していた事が良く判る。
    そこで、この「越前福井」の逃避地の「子孫力」が果たしてどの程度であったのかを論じてみる。
    当然に、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」が主導して、それが原因しているのであるが、その効果の基に成っていたのは「二足の草鞋策」である。
    「保護」や「情報の収集」や「生活の糧の準備の手伝い」をするのが「伊勢と信濃のシンジケート」で、それを匿うのは「神明社」であった。
    上記の様に、「近江青木氏」等が絶滅に瀕している時に、情報を集めて救いだし保護して越前に運び、そこで「近江青木氏」等の世話する事は相当の力を必要とする。
    平家などは掃討作戦を厳しく実施した事は有名で、それを救い出す事は並大抵の事ではない。
    幾ら、「不入不倫の権」で保護されているとしても、それを護るかどうかは相手次第である。
    公然と出来る事では決してない。少なくとも、”文句のつけようのないある範囲”までは持ち込む必要がある。
    ”それ以上に攻撃すると「朝敵」となる”までは、”隠密裏に救出を進める事”が肝心だ。
    その”安全な領域に持ち込む限界点”は、まさに”神明社”にあったと考えられる。

    「安全の限界点=神明社」

    以上の数式が最低に成り立っていたのである。

    其の上で、次ぎの数式が成り立っていた。

    「神明社」=「青木氏」=「皇族賜姓族」 

    以上の「2つの数式」が世の中の人々に「仕来り」として成りたっていたのである。

    この「守護神の神明社」は、古来3世紀より「自然神ー皇祖神ー祖先神」の流れの中にあった。
    「不入不倫の権」で護られた”「青木氏」を犯す事”の前に、この”「神明社」を犯す事”が何人も出来なかった事に成る。
    要するに、「神明社の神通力」であった。
    その社会の認識の構図は次ぎの様であった。

    「神通力」=「2つの数式」

    以上として認識されていたのであって、それが”「御師様、氏上様」”と呼ばれていた所以であった。

    ところが、この「神明社の神通力」に頼る事は無かった。
    のみならず、「軍事戦略的」として「神明社」をある戦略的な領域に配置して「テリトリー」を作った。
    その「テリトリー」の中に入れば、「神明社の力」で排除できる様に成って居た。
    要するに、”袋のねずみ”に成る様にもしていた事が「神明社の分布」でも判る。
    では、「神明社」に”「軍事的な構え」を備えていたのか”を調べたが違った。
    「シンジケート」が敵を”袋の中の鼠”にして、これを殲滅できる様にしていたのである。
    「伊勢ー信濃シンジケート」と他のシンジケートとの「経済力」を使った連携であった。
    更には、「神明社」の信心する周囲の民の”「氏子衆」”もがこれを補完的に護ったのである。

    要するに、不用意に入り込めば、どこから攻めて来るのか、誰が敵なのかは分らない「見えない敵」との「ゲリラ戦」と成る。
    つまり、ここに入れば”袋の中の鼠”に成るよと云う認識が「青木氏の抑止力」と成って、殺傷力を使わずして入り口で留めるものであった。
    これは、上記の数式の認識が、「悠久の歴史」の中で培われていたのであって、それが社会全体にも浸透していたのである。
    その代名詞が、”御師様”であって、”氏上様”の呼称で呼ばれていたのである。
    全国に、”500社にも及ぶ神明社”の「青木氏の神職」は、”御師様”と呼ばれていて、室町期の資料からも読み取れる事として次ぎの様な役目を持っていた。
    それは、次ぎの事柄が書かれている。

    1 「情報能力」     政治、経済、軍事の領域までもの「情報収集」の内容であった。
    2 「医術能力」     当時の医術の「漢方医の知識」を持ち合わせていた。
    3 「薬師」        当然に、2に付随して「漢方薬」の「薬師の役」も担っていた。
    4 「歴史学」      1の事から氏の菩提寺とも伴って情報がまとめられて過去の「歴史収集源」であった。 

    全国の主要地に存在する「神明社の情報連絡網」が相互間に出来上がっていて、氏子などの活躍もあって、相当な情報収集能力を持っていた事が伺える。
    更には、これには、3の事が大きく働いていて、全国に氏子と共に、「薬草の捜索や収集」で全国を探索した事が書かれている。
    この時に、得られた情報を「神明社」に集めていたと観られる。
    その「御師の副業」として、「薬師」として「薬」を手広く販売していた事も書かれている。
    この「薬師の役割」は、その1の「情報収集力」も含めて、「青木氏の二足の草鞋策」の「商い」に大きく貢献していたのである。
    当時、未だ医療組織が出来ていない社会の中では、「薬師の役目」は「薬」のみならず、当時の「医術の担い手」でもあったのである。
    当然に、これらを4つを一つにまとめ上げて整理すれば、「歴史学」は生まれる。
    江戸時代は識字率は低かったが、江戸の寺子屋と同じく、室町期から寺と共に社殿を使っての氏子等の教育にも関わっていたのである。
    一種のコミニュケイションの場の役目も果たしていたのである。
    中でも「薬師の役目」は、1、2、4と共に大きかった事が多くの資料に観られる。
    即ち、「御師」は「薬師」とも云える活躍であったのであろう。
    これは「青木氏の神職」より多くの医師が生まれた所以でもある。

    筆者は、次の様に考えている。
    社会組織が未だ未完成な古代の時代には、誰がこの役目を担っていたのであろうか。
    間違いなく「伊勢神宮」から発祥した「御師」にあって、その「呼称の根源」はここにあったと考えている。
    故に、「御」であって、「師」であったのではないかと観ている。
    そもそも、「伊勢青木氏」の「御師頭」から観ても、「伊勢神宮」の「自然神」から来る「鬼道」−「神道」は、そもそも「神の職」のみならず、この「4つの役目」も担っていたと観ている。
    「巫女の占い」を始めとして「五穀豊穣」と、「命を有り様」(家内安全)を占いと祈願する行為は、2と3に関わる事でもある。
    それらを維持する「情報と識力」(1と4)を高めてこそ、2と3は生きて来る。
    元よりこの「4つの役目」を当初からその呼称の根源は来ていて、その「4つの役目」を担っていたと考えている。
    故に、それを「伊勢神宮」の「皇祖神」の役目のみならず、”「子神」”の「祖先神=神明社」にもその役目を担わしたのであろう。
    恣意的に「神明社」が、この「4つの役目」を突然に持ったと云う事より、元より、「神明社の主務」であったのである。
    「神明社」が、1、2、3、4の力を持てば、上記した数式論は、自然発生的に起こるは常道である。
    民衆から、「青木氏」を「御師様」や「氏上様」と呼称され、崇め慕われる立場にあったのは、この事に依る。
    「祖先神」+「神明社」=「4つの役目」
    依って以上の数式は充分には頷ける。

    「皇族賜姓族」で「3つの発祥源」の氏が、公然と武力を使う事は出来ない。
    その事からすると、1から4の役目を担う事で、「神明社」のみならず周囲からの防御が働き自然的に「抑止力」は働く。
    よくも考えたものだと思われる。故に、「神明社」は氏の守護神」であり「匿う場所」のみならず「安全の限界点」であった。
    この様に「神明社」は、”神を祭祀する形式的な場所”のなみならず、”実質的な護りの場所”であったのである。

    従って、故意的に「越前福井」に「守護神の神明社」を多く集めたのである。
    その相互間で連携をすることが必要であった。
    「越前福井」に限らず、「隣国2国」と、この前提にある全国の500社ある「神明社の緊密な連携」と成ろう。

    その最も分布させている地域が、「富山ー石川ー福井」の日本海の沿岸上にあった事に成る。

    当然に、この”「3つの地域の子孫力」がどの様であったのか”が問題になる。
    ここには世話をする「神明社の神職」(青木氏)や、逃避地した一族の統一した「菩提寺の住職」(青木氏)もあったので、「商いなどの指導をする者」も必ず定住していた事に成る。
    それを実行する「子孫力」は少なくとも「パラメータの1」は必要であろう。
    それが「富山1」「石川2」「福井1」と成っている。
    この「3つの地域」には、平均的な全く妥当な「パラメータ 4」が得られている。
    この「越前福井」に逃避した「青木氏」は、全て「商い」をしていた事が判っている。
    「賜姓族の武家」ではなく「商人」を選んでいた。「子孫力」と云うよりは「生きる為」であった。
    ここには意味があった。
    「伊勢ー信濃の古代和紙の殖産と販売」(末期には総合産業)が背景にあった。
    従って、「子孫力」を高めて「子孫拡大」に至るまでの勢いは無かった筈で目的でも無かった。
    この事から、パラーメータは「平均の4」を決して超えるものでは無かった事に成る。
    故に、「富山1ー石川2ー福井1」と成り得ているのである。
    上記の「1、2、3、4の神明社の護り」が在ったからこそ「バラメータ 4」で済んだのである。
    それだけに、ここ「越前福井」では、「三つの条件」や「時代性」の影響を受けずに、「自然な子孫力」を保った事が判る。
    それの割には「家紋分析論」や「守護神論」から観て、「伝統」の「家紋」と云う点では、「虚偽家紋」などはここには少ない。

    これには、「二つの条件」があった。
    他の賜姓族の「厳しい戒律や伝統」に縛られた「賜姓族の子孫力」では無かったのである。

    「石川の2」は、福井の北域の越前よりに拠点があった事から、その後の分布は石川よりに成った。
    後の「加賀」と「越前」と「美濃」と「飛騨」の「四国の国境」に分布していた。

    「富山の1」は、「岐阜と富山と信濃と新潟」の「3つの国境」の三角体は「足利氏系青木氏の定住地」であった。
    その定住地の岐阜の国境沿いに分布していた。要するに、越中ー飛騨の国境である。

    「福井の1」は、越前と美濃の国境の美濃側に国境沿いがへこんだ地帯に沿って分布していた。
    要するに、この「3つの定住地」は”「北陸道」の国境沿いに繋がって一線条”にあった。

    以上3国は、極めて「機動的な位置」を確保していた事に成る。

    上記の「匿う場所」を補完する”うーん”と唸る程の「理想的な分布域」と成っていた。

    この地域の「青木氏」の「子孫拡大」は、兎も角としても「子孫力」を現在まで維持し続けられた事は、この「地形の好条件」から「商い」をベースとしている限り頷ける。
    又、”「商い」でなくてはならなかったのではないか”と考えられる。
    それは、「賜姓族」として集中していれば、また”政治的に利用される危険性”があった。
    下手をすれば滅亡と成り得た筈である。現実に、豊臣秀吉に利用された史実がある。
    従って、「商い」を中心に据える限りは声高に子孫拡大の策は採り得ない。
    それは、「個人」ではなく一つの「集団」としての「掟」であった。
    それを「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」が、「商い」と「神明社」を通じて統制していた事に成る。
    依って、”「子孫拡大」”と云うよりは、”維持した”と考えられ、「パラメータ4」を超さない範囲で維持していた事に成る。
    「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」等が、持っていた「慣習仕来り掟」と云う戒律は、適用しなかったと考えられる。
    その最たるものとしての「血縁」は、”本家筋を除いて適用せずに「青木氏」外に子孫を横に広げて ”「拡大」ではなく「維持」としたのである。
    これは「商人」と云う事であったからこそ出来得た事である。
    元来、「青木氏」では「家紋」とするものは「象徴紋」としての考え方であった。
    この「3つの地域」の「青木氏」には、「笹竜胆紋」以外の青木氏は極めて少ないのはこの事から来ている。

    恐らくは、継承する家紋があったとすると、それは「商標」として扱われていたことが判る。
    この地域では、恣意的に「笹竜胆紋」は表には出ずに「総紋」としての扱いであった事が伺える。
    秀吉の家臣と成って家康に除封された青木伊豆守と青木伊賀守の福井での青木氏末裔は、現在も「笹竜胆紋」を継承しているが、「本家の総紋」としている事でも判る。


    ・> 青木氏の分布と子孫力
    >
    > [地域別分布力]
    > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
    > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
    > 地域      異変の県        分布力
    > 九州地方   長崎、大分       5%
    > 四国地方   高知           2.5% 
    > 中国地方   山口、岡山       2.5%
    > 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
    > 東北地方   秋田           7%
    > 中部地方                 15%
    > 関東地方                 45%
    > 北海道・沖縄               6%
    > その他                   3%
    >
    > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
    > 九州地方  1.3
    > 四国地方  1.3
    > 中国地方  1.3
    > 関西地方  4.7
    > 中部地方  4.3
    > 関東地方  11.3
    > 東北地方  2.0
    > その他   11.0

    > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
    >
    > 修正地域(表ー3)
    > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
    > 秋田 1
    >
    > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
    > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
    > 福岡  2      山口  0   愛媛  3     兵庫   3    三重  1
    > 長崎  0      島根  2   香川  1     大阪  14    石川  2
    > 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都   5    福井  1
    > 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良   1    岐阜  3
    > 熊本  4                        和歌山 4     愛知  13   
    > 宮崎  2                        滋賀   1    長野  9
    > 鹿児島 1                                   山梨  1

    > 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        

    > 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
    > 静岡   5   青森  1      沖縄   1
    > 神奈川 21   山形  2      北海道 11
    > 東京  18    岩手  1
    > 埼玉  17    新潟  4
    > 群馬   6   秋田  0
    > 千葉  11   福島  4
    > 茨木   4   宮城  2
    > 栃木   8                                     

    > 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  

    >  青木氏の分布と子孫力−10に続く。


      [No.312] Re:青木氏の分布と子孫力−8
         投稿者:takao   投稿日:2014/05/07(Wed) 16:25:40  

    青木氏の分布と子孫力−8

    ・「讃岐青木氏」
    さて、ここからは改めて歴史論をお読み頂くとする。
    話を中国地方の「讃岐青木氏」に戻す。もう少し「讃岐青木氏」を考察する必要がある。
    従って、中国地方のパラメータは、次ぎの通りである。

    「讃岐青木氏」=「島根2+広島3+岡山0ー1」=5−6である。

    (移動と入植定住は入れない)
    (本来、秀郷一門には、赴任による定住はあるが、各地域の単純移動の定住は原則ない)

    「陸奥青木氏」は、室町末期に「結城陸奥永嶋氏」と合力して、「秀吉と戦い」で敗戦して北海道に移動逃亡した。
    「伊勢秀郷流青木氏」も陸奥で合力し敗戦した。
    この「陸奥青木氏」と共に、越後域からも「越後青木氏」が明治期に入植移動した。

    「瀬戸内の讃岐秀郷流青木氏」以外に入植定住したとする記録には、次の記録が観られる。
    1 「信濃青木氏の神職(:明治期)」
    2 「陸奥青木氏(秋田 青森: 室町末期 明治期)」
    3 「越後秀郷流青木氏(明治期)」
    4 「甲斐の武田氏系青木氏(花菱紋と抱き角紋: 越後移動 明治期)」
    5 「越後の諏訪族青木氏(抱き角紋 :室町末期 明治期」
    以上は「家紋分析」からも納得できる。

    そもそも、「陸奥青木氏」は、「陸奥結城永嶋氏」が滅んだ「天正17年」と「明治期」にも入植定住した。
    この五家の「明治期の入植定住」が、記録と家紋分析論と守護神論の調査で判るが、現在までとしてその期間は”150年”に成る。

    上記の「子孫拡大」は、最速で150/90年、で約1.5倍と成る。 

    「讃岐青木氏」は、パラメータの「埼玉武蔵の17の子孫力」と同じ程度の「子孫力」を持っている筈である。
    これを基準に、この「瀬戸内からの子孫拡大」(讃岐青木氏)の「パラメータが8」として吟味して観ると、次ぎの様なパラメータが出る。

    (但し、”「子孫力」”は拡大して行く力を除いたもので「静の定義」、”「子孫拡大力」”は推し進める力として「動の定義」として区別して使う。)

    1−「長野 9」の内の「神職の子孫力」は、パラメータとしては1に満たない。

    「神職」と云う職業柄で、その為に大きく「子孫拡大」を図れない職業に起因する。
    一応、パラメータは0ではないので・ 0.3とする。(家紋分析数の比)

    2−「秋田 0」である事からパラメータを持たないが、少なくとも歴史上記録がある事から0ではないので、これも・ 0.2とする。

    問題のパラメータ0域の「秋田」は、少なくとも天正期までその子孫を保っていた事から完全滅亡ではない。
    少なくとも 「越後4」や「福島4」 に匹敵する以上の「子孫力」を持っていた。
    或は、「山形2」や「宮城2」 の2倍から3倍に匹敵する「子孫力」を元来持っていた。
    この事からは、「家紋分析数の比」からも明治期までには、その「子孫力」は持っていた。
    天正期に滅んだ事に依って、確かに「子孫力」は明らかに低下している事は否めない。
    しかし、決して0域ではない。

    3−「越後 4」ではあるが、この4には、武田氏滅亡時の「武田氏系 諏訪族系の2氏」の分も含む事から得られる。

    逃亡域には、神奈川・横浜域の逃亡と新潟域の逃亡と土佐行の逃亡がある。
    この新潟の越後域にはこの2氏が逃亡した。
    この事からは、「家紋分析数の比」から1/8なのでパラメータは凡そ・ 0.5と見込む。


    4−「甲斐青木氏」は越後に定住後に明治期に移動している。

    甲斐の「子孫力」が、「越後の青木氏」(家紋分析数の比)から1/5として、・ 0.2と見込む。
    (逃亡外としては、「埼玉の鉢形」と「武蔵の八王子」に、「武田氏の皇族青木氏」の強制疎開がある。)
    この事からは、「家紋分析数の比」から1/8なのでパラメータは凡そ・ 0.5と見込む。

    5−「信濃の賜姓族の諏訪族青木氏」が、武田氏滅亡で巻き込まれて越後に逃亡した。

    その後に室町末期と明治期に入植移動した。
    以上は史実であるが、「家紋分析数の比」から観て小規模でパラメータに出ない程度で・0.01とする。

    これで1から5の総計は、パラメータは1.7である。

    これに仮に年数を比例的に観て、上記最速で 「150/90年」、で約1.5倍の「倍数1.5」を乗じるとパラメータは2.5と成る。

    そこで、「北海道の11」 「讃岐青木氏の7」である。
    計算して11−7=4の内、2.5を占める。
    そうすると、4−2.5=1.5のパラメータが残る。

    北海道の「パラメータの11」の内の「1.5のパラメータ」の分が残る事に成る。

    さて、この1.5は何なのかである。この余りとも観られる1.5を検証する必要がある。

    「北海道の残1.5の吟味」
    さて、「北海道の入植移動」を更に考察する。
    「パラメータの11」の内、明治期までに入植移動した「青木氏のパラメータ分」を加算して評価する。
    そうすると、「パラメータの11」に満たない事が判る。

    そこで残ったこの「パラメータの1.5」をどの様に評価するかである。
    これは無視できる範囲ではない。
    家紋分析論や守護神論やルーツ掲示板のお便りなどのいろいろな記録を調査した。
    するとこの過程でこのパラメータを説明出来る答えが出た。

    その答えは次ぎの通りである。
    上記のこの様な変化が、「讃岐青木氏の子孫拡大」に影響を与えたのは「室町末期 江戸末期 明治期」の3期となる。
    ところが、実は、「前段−7」で論じた様に、・「昭和期の20年代」にも大きく「子孫力」を阻害した事が起こっている事が判った。

    (讃岐ー弘前ー松前)
    つまり、「讃岐青木氏」の昭和20年代の「三つの条件」の内の「経済的背景」が崩壊したのである。
    この原因は、「戦後の混乱」による”古い体質の廻船業の衰退”であった。
    その内なる原因には、古来より、ここには、「讃岐藤氏」と呼ばれて、発祥期より「藤原氏北家一族」とは一線を画くしていた。
    そして、”「讃岐藤氏」”として呼称される様に、独立して存在し続けて来た。
    しかし、「社会の新風」を素直に受け入れる良い体質の「独立性」ならば良いが、この「排他的な独立性」が弊害して、「社会の新風」を拒んだのである。
    戦後の大きな変化の ”うねり” に「体質改善」が遅れて対応する能力を失っていたのである。
    これは、”悠久の歴史”を持つ全ての「賜姓族」に取って起こり得る体質でもある。
    その「独立性」を頑なに保った事も原因していて、「戦後の子孫力」に大きな影響を与えた可能性がある。
    それ故に、「経済的背景」の消滅によって、第二次大戦後には、「政治的背景」と「軍事的背景」をも無くした。
    三つ要件を急激に失ったのである。漸次の変化ならばいざ知らず、余りにも急激な変化であった為に殆ど絶える事は出来なかったのである。
    外なる原因として、この戦後の「経済構造の変化」は、”過去の「造船力の発展」”から、”昭和の「鉄道の発達」”に変わったのである。
    その為に、「造船力の発展」に主軸を置いた廻船業の事業は、急激に傾き、更には衰退した上に、その結果、「子孫力の根底」さえも無くしたのである。

    古来より江戸期まで「独立性」を「伝統」として、それを前面に歴史的に押し出していた事から、経済的悪化を来したのである。
    氏の「独立性」を強調するあまり、「支援する背景」(藤原北家一門)をも遠ざかり無くした事から、急激に元からの「存立基盤」を失ったのである。
    歴史上には、常時に出て来る「瀬戸内の経済力」を背景としていたが、それが故に、脆くも崩れたのである。
    最早、”瀬戸内を制するものは国を制する”の神話は、脆くも戦後には体制が変わった事から崩れ去ったのである。
    この時には、記録からも明らかに北海道に入植している。
    況や、”蝦夷を制する者は国を制する。”の神話に変化したのである
    それが故に、”瀬戸内族”であった為に、今度は ”蝦夷”を求めたのである。
    つまり、これが、一攫値千金の、”蝦夷を制する者は国を制する。”に値する「1.5」であって、この時の「入植移動」の1.5のパラメータである。

    注釈
    同じ環境にあった「伊勢青木氏」も出火消失に成る明治35年まではその子孫力は維持されていた。
    この調子で行けば、「基本の商い」は「紙と殖産」であるが故に、昭和まで充分に存続していた筈である。
    その意味からすると、「讃岐青木氏」も時代変革の起こり始めた昭和初期頃までは廻船業も充分な存続が可能であったと考えられる。
    ただ、近代化の「産業革命の波」が押し寄せていた事は否めない。
    「讃岐青木氏の船」は、その意味で「伊勢青木氏の紙」と異なり、影響を大きく受けていた筈である。
    恐らくは、この”20年間”の大波に、「体質改善」が遅れたと観ている。

    「紙」は1500年来、何時の世も”革命や文化の発達”に欠かせないものとして位置づけられて来た。
    「室町文化」、「元禄文化」の時も「巨万の富」を獲得した。その分、「子孫力」を伸ばして来た。
    しかし、現在、「PC」成る物が「紙」に取って代わろうとしている。
    恐らくは、ここで、「伊勢青木氏」も、「廻船業」は「産業の革命」には弱い事が在ったにせよ「讃岐青木氏」と同じ事が起こっていた筈である。
    下記に論じるが、「伊勢青木氏の子孫力」も、「平成」(筆者の代)では、極度に低下していたと考えられる。

    この「戦後移動」の「1.5のパラメータ」には、上記した様に、「陸奥青木氏」の中の「弘前ー松前の讃岐青木氏」の「入植の分」も入っていると観ている。
    これが「1.5」の内の「0.5のパラメータ」程度であろう。
    「家紋分析数の比」から観ても、明らかに「讃岐青木氏」の関西域に分布する「下り藤紋に雁金紋」が陸奥と北海道にも分布している証拠でもある。

    故に、「北海道のパラメータ11」は、この「戦後」の「讃岐青木氏」の「入植移動」の「パラメータの1.5」で完済する。

    これだけに「陸奥と北海道」に移動定住すれば、「香川と岡山」のパラメータは、当然に上がらないのは当然である。
    逆にその分、「北海道のパラメータ」は上がる事に成る。
    依って、「北海道の入植移動」の「パラメータ11」は、「讃岐青木氏関係比は75%台」が占める事に成ったのである。

    「北海道の開拓」は、この上記した論調面から観てみると、「讃岐青木氏」即ち、「瀬戸内族」に成し遂げられたと云っても過言では無い。
    「青木氏に関係する家紋数」から観ても、かなりの率(60%程度)である事は否めず、大半を占めている事が頷ける。

    (広島の3は「弘前ー松前藩の移動」には組した記録は現在も見つからない。)

    つまり、題して、”「讃岐青木氏の北海道大移動」”と云う事に成る。

    結局、「讃岐青木氏」の子孫力の総計のパラメータは、結局、上記の13に、この北海道の余り分の1.5を加えると14.5と成る。

    「讃岐青木氏」=14.5/ 「武蔵青木氏」=17
    以上の様に比較すれば、充分に納得できる。


    ・「鳥取」
    ところで、「鳥取のパラメータ」は「讃岐青木氏のデータ」では無い。
    一見して、その「讃岐青木氏の活動範囲」から、「鳥取」はその様に観える。
    しかし、中国地方の「鳥取」は、上記した様に、「足利氏系青木氏の逃避地」で、「米子、八頭」に定住したもので「讃岐青木氏」とは異なる。
    「鳥取の青木氏」はその歴史性と地理性から観て、「地味」である。逃避に依る移動定住であるからだ。
    この「鳥取のパラメータ」はその経緯から納得出来る。

    その後、ある程度の勢力を得て、西の宍道湖際の東側まで、無戦でじわじわと「子孫拡大」をさせている。
    日本海側に沿って東から西域に「子孫拡大」を図っている。
    北から南域への「子孫拡大」は、間に中国山脈もあり、山越えはその「子孫力」から難しかったのであろう。
    「先制的な武力」に頼らない「米子の青木氏」に取っては、戦略的に、「平野部」の山間部を開墾しながら西に進んだ。
    同時に、それに沿って伸びている「海岸線」に、その「子孫力」を伸ばす方が、身の丈に合った生き方であった。
    「平野部海岸線」ともなれば、他の豪族との摩擦が生じる。
    ところが、「武力」を使わなく、「村主」の「米子青木氏」に取っては、唯一「子孫力」を拡げる方法がある。
    それは、沿岸部に存在する土豪との「血縁関係」を結びながら、その「子孫力」を拡大させる事が「最高の戦略」である。
    それには、「青木氏」と云う「ステイタス」が大きく働いたと考える。
    その証拠に、「家紋分析」などからも判るが、宍道湖手前でピッタとその「子孫拡大」を止めている。
    それには、二つの理由があった。
    一つは、宍道湖西域には、「讃岐青木氏」が、その廻船業と殖産業の勢いを以って伸長してきている事。
    二つは、宍道湖西域は、「出雲族の豪族集団」が「亀甲族連合体」を作り、古来より他勢をブロックする排他的な壁を構築していた事。
    この”二つを押し崩す力”は、その「村主としての生き様」から全く無かった。
    では、何故、「讃岐青木氏」が伸長できたのかの疑問であるが、それははっきりしている。
    この「亀甲族との血縁」を成し得ているのである。
    「亀甲族側の連合体」にとって、排他的壁を護る上で、瀬戸内を制する「軍事力と経済力」は、この上ない防衛同盟戦略である。
    一種の「血縁同盟」を結んだ事に成る。「讃岐青木氏」にとっても廻船、殖産、子孫拡大、防衛力にしても実に得策である。
    これは「米子青木氏」の「村主」では成し得ない事であった。
    依って、この「村主」としての「生き様」から観ると、「パラメータの2」は納得できる。

    この「鳥取」は、”逃避に依る移動定住”では、「土佐」と同じである。
    しかし、「高知の土佐青木氏」の逃亡では、「武田氏の滅亡」による原因である。
    確かに、よく似た「逃亡の経緯」として見込まれる。
    そもそも、「長野の信濃青木氏」には、”藤原秀郷一門との本家争い”で「秀郷一門」が「後押しをした事件」に巻き込まれた事件が原因していた。

    その経緯として、その「分家筋」が「本家筋の跡目」を乗っ取ろうとして、古くから居た「本家足利氏」を、分家と成る「秀郷流の跡目血縁」の家を本家とした事から起こる。
    その「後押し」したのが秀郷一門の宗家であり、その目的は「本家」としての「発言力」を持ち「信濃の支配」を目論んだ。
    結局、戦いの結果、秀郷一門の血筋の無い、従来より土地にいた「本家の足利氏」が敗退して、これに一部同調した「賜姓族の信濃青木氏」が「越前福井」に逃亡した。
    「本家足利氏」と共に、この時に「護衛」を名目として同行した。
    その縁で、「福井越前」の「皇族賜姓族」の「奈良期からの逃避地」に逃亡したが、相手も同じ「皇族賜姓族」であった為に「不入不倫の権」の例外と成った。
    そして、同族の強い追跡を受けて、結局、日本海沿岸部を経由して鳥取の東にやっと辿り着いた。
    ここで「山岳部の未開地の開墾」をして生き延びた。
    その後、宍道湖の東端まで「子孫拡大」を無戦で単純に果たした。

    この「信濃青木氏」の一部は、福井越前から結局は、「信濃足利氏の護衛同行」を続ける事を決めた。
    当然に、この逃避行で「三つの条件」の全てを失っていた。
    しかし、ここで米子の「地元の豪族」の援助を受けて「信濃足利氏」に代わって、「信濃青木氏」が主導したのである。

    本来は、「福井越前の逃避地」までの「護衛同行」であったが、この「護衛同行の青木氏」は「青木村」を形成した。
    そして、地域の人から崇められて、”「村主」(すぐり)”として争いを避けて生き延びた。
    その「先制的な武力」の持たない”「村主」”として、この地域をリードして、宍道湖まで沿岸沿いの山岳部の開墾と血縁で生き延びた。

    これはむしろ、土佐の「武力を背景とした生き様」よりも、前段でも論じたが、「日向青木氏の経緯」と類似する。
    ここで「青木村」を形成して「村主」として伝統を守り、「普通の農民・郷氏」として生き延びた。

    「傭兵」で「生活の糧」を確保して、海と山岳部の開墾での「子孫存続と拡大」を図り、郷士に成った「宮崎の日向青木氏」が一方であった。
    「讃岐青木氏」の背景を基に武力で勢力図を広めた甲斐の「土佐青木氏」とがあった。
    これには大きな「子孫力」の違いがあった。

    「村主」として単純に当面の「生活の糧」は得られたとしても勢いをつける力はそもそも無かった。
    その中で、「子孫存続と拡大」を図った「鳥取の米子青木氏」であった。
    しかし、「日向青木氏」と「因幡青木氏」の、この「二つの青木氏」には「伝統」は保たれていた。
    本来であれば、「土佐青木氏」の様に「武力的背景」に主軸を置く事を「生き様」とすれば、その「権威の伝統の継承」は積極的に求める筈である。
    しかし、その「伝統」が消えている。
    況や、「伝統の継承」とは、「武力的背景の権威の継承」だけでは遺し得ない事が判る。
    これは ”「動の定義」による子孫力”と、”「静の定義」による子孫力”とでは、明らかに「静の定義の子孫力」が「伝統」を維持させ、継承させるものであると考えられる。
    その意味で、”世に晒す事無かれ 何れ一利無し。 世に憚る事無かれ、何れ一利無し。” の「2つの血縁賜姓青木氏」の「戒律」は正しかった事が云える。
    その「代表的な青木氏」は、総合的に観た「伝統」を継承しているのは、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の融合族の「伊豆の青木氏」ではないかと観られる。
    次ぎに、厳しい戦乱の中で「村主」として生き延びて来た「米子青木氏」ではないかと考えられる。
    それは、「米子の青木氏」(因幡青木氏)には、「家紋分析」で、「象徴紋の笹竜胆の家紋」が維持されている事が確認できる。
    これはあらゆる「悠久の伝統」が、ある程度の面で総合的に伝承されていた事を示すからである。

    ここは、次ぎの豪族が治めていた。
    戦国時代、
    因幡の国には、山名氏、亀井氏、草刈氏の3氏
    伯耆の国には、庄氏、南条氏の2氏

    江戸時代
    因幡の国には、池田氏の3藩

    この藩に家臣として仕官しているかの調査と「家紋分析」とをした。
    戦国時代には、「米子青木氏」(信濃青木氏の賜姓族系足利氏系青木氏)は5氏の家臣に観られなかった。
    江戸時代には、「池田氏」は平家末裔である。青木氏はあったが、「家紋分析」から「米子青木氏」のものは無かった。
    この青木氏は、どの青木氏かは判らないが、秀郷流青木氏の家紋の類似紋を持っていた。

    この事から、矢張り、郷氏の「村主」として勤めた事が判る。

    鳥取(因幡と伯耆)には、「子孫存続」の「三つの条件」が全く認められない範囲である事から、鳥取の「平均の4」のパラメータが得られない事は理解できる。
    「鳥取青木氏」は、その意味で「青木氏伝統」の「堅実型の子孫力」と云える。

    その”「経緯」と「村主」” としての「子孫力・生存力」から、鳥取の「パラメータは2」は納得出来る。

    下記に論じる「伊勢青木氏」もこの「堅実型の子孫力」を護って来た。
    むしろ、「子孫」そのものの「遺伝子」がその様に成ってしまっている。
    明らかに先々代までの「同族血縁の影響」を引き継いだか、突然変異の型の「血液型AB」で、筆者の代までそれで引き継いでいる事でも判る。

    (血液型ABは、3代前までにO型が存在すると、「隔世遺伝」に依りA型、B型に分離する事が起こる。
    如何に便利な血液型でもあり、況や、「堅実型の子孫力」を示している。他の親族を調べると矢張り、この現象が起こしているし、現実に筆者の3人の子孫にこの現象を起こしている。)
    その伊勢に付いて次ぎに論じる。


    ・「三重 和歌山」
    さて、「2つの血縁賜姓族青木氏」の中心的存在と成った「関西域」、取り分け、「伊勢域」の「青木氏」に付いて論じる。
    「伊勢域」とは、古来より、「奈良の都」の東に隣接する伊勢国と、西域に隣接する紀州国を以て伊勢域と呼ばれていた。

    「奈良期の大和朝廷」の前の「ヤマト政権」の頃には、「五大豪族の連合体」で治められていた。
    その内、「紀州」の豪族には、 奈良盆地の「猿沢の池」を中心にそれを源泉として流れる大和川域に存在した。
    この「東南部の三輪山麓一帯」に次の様な五大豪族が勢力を張っていた。

    「紀氏」   現在の和歌山県の西部域 西海側域
    「巨勢氏」  現在の和歌山県の北部域 東山側域
    以上2氏が存在した。

    「葛城氏」 和歌山県と大阪府の南部河内域 南平野側域
    以下の大阪域との中間に位置していた。

    「平群氏」 
    「物部氏」
    以上2氏が大阪府の南部の大和川沿域
    以上が五氏が奈良域ー和歌山側ー大阪南部と東部域に存在した。

    現在の「奈良」とは違い、古来の奈良盆地は、「猿沢の池」は広大で、周囲山岳部の1/2は「広大な湖」で、そこから流れる大和川域にこれらの豪族が存在し、「連合国家」を作っていた。
    その為に、奈良期に入っても、「伊勢域」とは、未だ以上の2氏が存在した名残から「紀州域」までを以って呼ばれていた。
    現に、「伊勢路」とは、太湖に沿っての紀伊山脈の「山岳道」であった為に、そもそも「紀州熊野域」までの領域を「伊勢路」と呼ばれている。

    参考
    紀州の2氏の末裔は現存し、地名も残っている。
    奈良盆地の太湖は地盤沈下で次第にひえ上がり、現在の「猿沢の池」のところの底まで曳けた。
    この為に、「地形と地名」が混乱して変化してしまったのである。

    奈良期の大化期に発祥した時期には、現在の「伊勢」のみならず「紀州域」までを以て「”伊勢”の範疇」として考えられていた。
    故に、「青木氏の守護神神明社」で論じた様に、「伊勢ー紀州」域には、「伊勢神宮」の「90社」にも及ぶ「遷宮社」の内、この域では41社があり最も多いのである。
    「日本書紀」の記述にも、”「吉野」”をも含んだものとしての”伊勢”の表現があり、”神域の行動範囲”は、この様に広域に捉えられていた。
    従って、歴史を正しく考える場合は、「行政区分の伊勢域」と、「神域範囲の”伊勢域”」とは区別して考える必要がある。
    「分布と子孫力の領域」は、この「神域範囲の伊勢域」を考える事が必須の条件である。
    この様な事は、他にもあり、”陸奥域”や”武蔵域”や”近江域”なども、「行政区分の領域」とは異なっている。

    これは、「国の括り」とは別に、古来は、”意識(神域)”の中の「”伊勢”の範疇」であった事を示すものであった。
    故に、”「伊勢」”を正しく論じる場合は、”行政区分を外す事”が必要である。
    依って、「紀州」を外して論じる事は出来ないのである。
    中でも、「紀州」は、「地形の変化」と「伊勢の神域」と「大和の政権」が大きく影響している為に、例外中の例外扱いと成る。

    関西地域では、「三重」と「和歌山」は、「伝統の国」と云われている様に、ここに問題がある。
    この二つには、大きく連動している史実があるので、同時に論じる事が必要なのである。
    故に、「伊勢」のみならず「奈良」を研究する場合は、「紀州」を絶対的に研究する事が必要に成る。
    「伊勢時代のあらゆる面の伝統」が、未だ、この「紀州」には少なくなったとは云え、他の県に比べて多く遺されている。

    ここは「伊勢ー紀州」は「筆者の地域」であり、「子孫拡大」は「伝統の国」である以上は、「パラメータ」も大きいのである。


    上記で論じた様に、その「伊勢青木一族」の「経済的な根拠」になっていた「大商い」は、明治35年にて「松阪大火」(出火元)で破産した。
    依って、「子孫拡大」のその根拠を一時失った。

    その為に、次ぎの事が起こっている。
    イ 「経済的背景」を急激に失って、大きく「子孫拡大」に至っていない事、
    ロ 「子孫拡大の根拠」と成っていた歴史的な安定した血縁関係にも、明治後、消滅した事

    以上の事などから、「大正ー昭和の子孫拡大」は、それ以前の「150万石から200万石」と云われた勢力が、賠償に使い極端に小さくなった。
    結局、「福家・(宗家)」は「商い」から手を引き、分家に当たる「作左衛門の家」が、「摂津大阪の支店」で「紙屋」を再開した。

    「三つの条件」の「経済的背景」は、「二足の草鞋策」で、「政治的背景」は「不入不倫の権」で、「軍事的背景」はシンジケートで補完されていた。
    しかし、この「三つの条件」の最大の「経済的背景」(超大地主)をも失ったのである。
    後の二つも明治維新での「地租改正」でも、紀州域まで含むかなりの範囲で、「絆青木氏」を含む「青木氏関係族」に引き渡し、福家(宗家)は極度に衰退した。

    現在も一族一門は主に「三重」を中心に関西域の8地域に存続している。
    そもそも記帳がないのはその「家柄の体質」(慎重な性質)にあると考えられる。

    a 平安期から室町期初期の「初期の移動期」
    b 江戸享保期と末期の「後期の移動期」

    以上のこの2つには、各地の「青木氏の定住地」としての地域には大小移動定住している。
    「移動定住地」は次ぎの通りである。
    「大阪」に、「兵庫」に、
    「愛知」に、「長野「に、
    「伊豆」に、「神奈川」に
    「福井」に、「新潟」に、「陸奥」に、
    「東京」に、「千葉」に、「茨木」に、
    (和歌山)

    以上の12地域に定住移動」している。
    (5家地域と神職関係と小移動は除く。 「伊勢秀郷流青木氏」は除く。)

    この各地の「子孫拡大」に大小はあるが、その中でも、「移動定住」で、大きく「子孫拡大」した「伊豆青木氏」は特別である。
    一国以上の定住地である。

    ここ「伊豆の青木氏」は、「伊勢青木氏と信濃青木氏」の「融合族」で、「青木村」全体で「笹竜胆紋」を現在でも護っている。
    ここは、「清和源氏の摂津源氏」 「宗家頼光」の「四家の長老」4代目正三位頼政の領国である。
    この「頼政」の孫の「京綱」は、「伊勢青木氏の跡目」に入ったのだが、それまでに、同族としての「男系女系の血縁」を含む「親族的な付き合い」が高かった。
    ただ、それは、清和源氏の分家「頼信の河内源氏」との「生き様」が異なっていた為に、永来に親交は無かった。
    この為に、「伊勢青木氏」と、「信濃青木氏」は、宗家四家の棟梁「頼政」を盛り立てた。
    それが「伊豆の青木氏」なのである。
    (「信濃青木氏」も伊勢青木氏と同様に「摂津源氏」との血縁親交を持ち続けたことが記録にある。)
    そもそも、この「伊豆地域」は、”「青木氏の伝統国」”と呼ばれる地域でもある。
    ここに行けば、現在も、上記する様な、「笹竜胆紋」のステイタスを「青木村」の全域で継承している。
    「青木氏の伝統」を調べようとすれば先ずは「伊豆」である。

    その証拠の最大のパラメータを持つ「神奈川の21」には、次ぎの様な、パラーメータが見込まれる。
    「伊豆の4」と、「東京の18」には「2」と、「兵庫の3」には「摂津の1」としての「伊勢青木氏のパラメータ 7」が合わせて見込まれる。

    筆者の福家・(宗家)は、その後、子孫を拡大させて各地に大きく分布している。
    数字的には、極めて深い親交のあった長野の「信濃青木氏」の「パラメータが9」とすると、明治期まで「不入不倫の権」で守られて来た。
    このことから、「三重」は少なくとも「平均の4」以上の ”7” には相当していると観られる。
    次ぎの事で、「伊勢青木氏」は、少なくとも、実質「パラメータ 7」以上である事が判る。

    ところが、上記する「伊勢域」の、この「三重」に隣接する和歌山には、「パラメータが4」と成っている。
    ここには、本来は、何れの青木氏も歴史的に定住地ではない。
    しかし、定住地論ではないが、”「青木」”と云う地名が、”和歌山有田郡”に存在する。
    ここには、平安末期に、確かに「藤原氏」が守護として赴任している。
    しかし、この「藤原氏」は「脩行系の藤原氏」で、「秀郷流青木氏」とは無関係である。

    この「藤原氏」が赴任移動した地域は、有田郡の”「明恵」”と云う地名に成っている。
    ”「藤原明恵」の赴任先末孫だ”と云う一族がこの「明恵」地域に住んでいる。(家紋が疑問)
    そこから離れた地域に、「青木」と云う地名があるが、ここには歴史的に村の形成は無い。
    恐らくは、明治期初期に地名として、「第3の青木氏」の「青木村」が多く作られたが、その時に名づけられたものである。
    周囲に、最早、その「第3の青木氏」は全く存在しない。
    ところが、上記した様に、「紀州」は「神域の伊勢域」であった。
    この事から、長い歴史の中で「伊勢青木氏」は”「紀州」”の方向に「子孫拡大」で伸長して行った。

    伸長の経緯
    (1) 実は、この和歌山の「有田郡」には、明治初期から筆者の「伊勢青木氏」の「絆青木氏」が存在する (1)。
    (2) 祖父の代に「伊勢青木氏」に所属していた「職能団」の中から、「絆青木氏」を発祥させた (2)。
       この「絆青木氏」が明治期から定住している。
       この「絆青木氏」には、(1)と(2)と、以下の「二流の青木氏」がある。
    (3) 一つは、伊勢での「家臣団の絆青木氏」が伊勢青木氏倒産で和歌山に移動定住した (3)。
    (4) もう一つは、「伊勢青木氏」の「職能集団の絆青木氏」も和歌山に移動定住した (4)。
       合わせて、先ず、「4つの絆青木氏」がある。

    (5) この「職能集団の絆青木氏」には、更に、和歌山で祖父の代で「絆青木氏」として発祥させた元は「藤田姓(明治期の農民)」の「絆青木氏」が有田郡域に定住した (5)。
       (この藤田の「絆青木氏」は明治の終わり頃に「絆の養子縁組」を破棄した。)
    (6) これと別に、「伊勢秀郷流青木氏」の一部が明治期に、和歌山ー有田域に定住移動した (6)。

    (7) これに同行した職能集団が、「主家の氏名」を「明治期の苗字令」に基づき名乗った「第三の青木氏」がある (7)。
    (8) 当然に、倒産時に「福家(宗家)の伊勢青木氏」は、伊勢に子供を一人残して跡を引き継がせて、福家(宗家)の「伊勢青木氏」の地の新宮と云う地域に移動した (8)。

    この時、福家(宗家)以外は伊勢に残る。「三家の青木氏」が伊勢の地に残った。

    現在も、この”伊勢域”の古来からの「8地域」に存続し、拡大している。

    従って、和歌山には以上の「8つの青木氏」が存在する。
    これらが「子孫拡大」をしていった「伊勢青木氏の経緯」である。

    この全ての「青木氏」が大阪(摂津域)にも移動して子孫を現在も拡大させている。

    和歌山には、従って、「パラメータ 4」が出たのである。

    更に、この4の内訳は次ぎの様に成る。
    「伊勢青木氏」は1、
    「秀郷流青木氏」が1
    女系血縁性の「絆青木氏」の1
    「第三の青木氏」の1
    以上がこれに相当する。

    但し、祖父の代の「絆青木氏」は血縁性を持っていないので「第三の青木氏」の中に入れる。
    従って、「伊勢青木氏」は次ぎの様に成る。
    「伊豆の青木氏の「3」
    「三重ー和歌山の青木氏の「4」
    合わせて、「伊勢青木氏の子孫力」の「パラメータ」は”7”と成る。

    しかし、「信濃 9」に対しては、「伊勢青木氏 7」は少なくとも9かそれ以上と成り得る。
    その答えが「奈良 1」である。
    この「奈良の1」は「名張の伊勢青木氏」である。

    小計としては、「伊勢青木氏」は、7+1で、「パラメータ 8」と成る。

    そもそも、「伊勢青木氏」は、次ぎの様に成る。

    ・松坂、名張、員弁、桑名、四日市
    (伊勢青木氏と伊勢秀郷流青木氏と青木氏融合族)
    (四日市は融合族)

    ・伊賀、脇坂、上田
    (「2つの絆青木氏」 「職能集団」)

    ・玉城
    (「2つの絆青木氏」 「家人集団」)
    「青木氏の絆青木氏の本流筋」、

    「絆青木氏」には、次ぎの2流がある。
    「家人」と呼ばれる家臣に相当する一門
    「職能集団」の一門

    参考
    「家人集団」も「職能集団」も、その本家筋は「女系の血縁関係」を構築していた。
    現在の「玉城市の全域」は、明治35年以前は、「2つの絆青木氏」の住人と蔵群であった。(明治35年)
    「名張」はこの「奈良の1」である。

    以上から成り立っていた。

    結局は、これで「伊勢青木氏」の「パラメータ 8」と成るが、これに「都会流失分」が加味される。

    これに、下記の「大阪の都会移動分」を加味すれば、「パラメータ 11」以上程度と成ろう。
    (「和歌山の移動分 2」ー絆、「兵庫摂津の移動分 1」ー支店が加算される。)

    以上は、「賜姓族伊勢青木氏」のカウントである。
    従って、殆ど親族関係にあった「伊勢秀郷流青木氏」の分が「伊勢域」の中に組み込まれている。
    「皇族賜姓族5家5流の青木氏」の”古来からの定住地”に、直接、平安中期から定住しているところはこの「伊勢域」だけである。
    それだけに、「伊勢秀郷流青木氏」の「特別賜姓族」は、前段−5でも論じたが、「全くの同族」なのである。

    ここで、それを加味すれば、次ぎの様に成る。

    「パラメータ 11」+「伊勢秀郷流青木氏分の3」=「パラメータ 14」

    前段−5、6、7で論じた様に、「伊勢青木氏」のバラメータ は次ぎの様に成るだろう。

    「伊勢青木氏」は、最大「パラメータ 14」と成ろう。 


    上記した様に、「明治後の都会移動分」として「大阪14」と「東京18」の分の幾らかが加算される。


    「大阪」には、「関西域の青木氏」の定住地から「都会移動」が明治後に起こっている。
    「伊勢青木氏」が、この「大阪」にどの程度のパラメータで食い込んでいるかは判らない。
    ただ、筆者の分家に相当する「伊勢青木一族」は、明治35年倒産の後、大阪に移動定住して平安期からの「和紙の問屋」を今も続けている。
    これは「ルーツ掲示板」と「家紋分析」から観察する事が出来る。
    何れのデータでも信頼度は、「都会」と云う事もあって、過去からの伝統的なデータが維持されていない。
    裏付けるものがないので、「虚偽」のものとで渾然としていて低下する事から、正確なデータが採れない。

    ・「大阪の14の内訳吟味」
    「大阪の14」の全てが、「集合パラメータ」である事から、関西と中国と中部域の周辺の定住地の総合が14−15である。
    従って、全て「パラメータ 1」で、均等に集合したとして考えると、下記の様に、丁度14ー15と成る。
    現在も「集合域」なので、「家紋分析」などではそのルーツが判らない。
    又、この地域の「青木氏自身」が、その「ルーツの情報」を持ち得ていない場合が多い。
    これは「移動定住の所以」であろう。

    これでも、「都会の青木氏」の「ルーツの情報」は、この現象から消えるのみである。
    大阪の「都会」も然ることながら、「田舎」に於いては、老化して継承出来なくなった現象が起こっているので、「ルーツ情報」は最早、まじかに消える。
    仮に、遺されたとしても問題は、「正しいルーツ情報」が遺されたかとうかの問題である。
    この様な状況の中では、「遺される情報」は、「慣習仕来り掟」の伴わない環境の中では正しく遺されずに湾曲されるが世の常である。


    とすれば、「大阪周辺地域」の「伊勢青木氏」の場合は、周辺の「伊勢青木氏」が、関係する定住地は「3地域」と成る。
    従って、「大阪の14」の内の「3」は獲得できる。

    依って、「伊勢青木氏の定住地」の「パラメータとして 「14」、これに「都会移動分」を加えて、その「総合の子孫力」の「パラメータ」は14と3で「15」と成る。

    結局は、「伊勢青木氏」の合計「パラメータ」 15」(実質12)である。

    事ほど左様に、大阪に集まる「青木氏」は次ぎの様に成る。

    「伊勢青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」を始めとして、
    「香川青木氏」、「高知青木氏」、「徳島青木氏」、
    「福井青木氏」、「長野青木氏」、
    「愛知青木氏」、「岐阜青木氏」、
    「近江青木氏」、「兵庫青木氏」、「滋賀青木氏」、「鳥取青木氏」、
    その他地域の青木氏

    以上の地域に、「大阪の14」が分散して「子孫力」として各地域に加算される。
    全体の20%程度が大阪に集まっているのだが、上記の14地域から、1地域に「パラメータは1」を配分できる。

    比較対象として、「都会」の「東京18」は「武蔵国」で「秀郷一門の定住地」であるので、「パラメータ」の持つ意味は若干異なる。
    「大阪の14」は、その意味で、「伝統の継承」は、「東京の18」に比べて、関西域は、これからは低く成る事を物語る。

    その事から、「伊勢青木氏」の「遺された伝統」の意味は実に大きい。


    そもそも、「伝統」とは、その「伝統」を維持している「氏の思考の基準」となるものである。
    「氏の思考基準から外れた考え方」はその氏は排除する。
    要するに、「伝統」=「思考基準」(行動規範)である。
    況して、「氏の独善の宗教」=「密教」であるとすれば、「宗教的な作法」の「伝統」は”自らの氏が決めた作法”である。
    「氏の思考基準」である。
    次ぎの”「青木氏だけの伝統」”は、”「青木氏の思考基準」”となる。
    「青木氏」は、”この様なものの考え方をしていた”と云う事で理解するべきである。


    所感(伝統 2)
    筆者の「伊勢青木氏」の生活の中にも、何気なく行ってる「慣習仕来り掟」は、外から観れば、”古来のもの”と観られる。
    筆者はそれを当たり前だと「無意識」に受け取っていた。
    子供の頃から、”何か違うな”と思いながらも、その「無意識の感覚」が強く打ち消していた傾向があった。
    今、思えば、「部屋の間取り」や「構え」や「大きさ」や「家具」や「調度品」や「装飾品」や「作法」等は確かに違う事が判る。
    例えば、「達親の論文」で論じた様に、「祭祀の作法」の”「達親」”等はよく調べると、「古代慣習の継承」であったりする。
    この様な事が、未だ、沢山ある筈で、「無意識」を「有意識」にして、これから「伝統」を掘り起こして行く計画である。
    何せ、相当伝授されたが、その”有意識の持った人”が居なくなっている現状である。
    何とか「違い差」を見つける事と認識している。そこから検証を進めて投稿する。

    後に、詳しく伝統の論文として、投稿する予定だが、「無意識」を「有意識」にして、因みに一つ簡単な例を挙げる。

    祭祀で、仏様に、線香を捧げる。
    この時の”「仏法作法」”が異なっていて、”「古来の密教浄土宗の作法」”が遺り継承されている事がある。

    「仏説作法」
    それは、先ず「仏」に向かって挨拶をする。
    「数珠」は、親指に賭ける。ところが一般は親指以外の4本の手に賭ける。
    そして、「粉の線香」を、先ず、一摘みして、一般ではそのままに香炉に入れる。
    ところが、この時、その一摘みの線香を、香炉に入れずに、「額中央」に当てる。
    その後、に香炉に入れる。
    これを、3度繰り返す。

    これを他の宗派では日蓮宗は一度で、真宗は2度にして、額に当てずに、直ぐに香炉に入れる作法である。
    ここで、重要な異なる作法が2つある。

    ”「親指に数珠」”を掛けるのは、「親指」の持つ意味から来ている。
    この”「数珠作法」”は、他の宗派にもあり、「自然神」をも崇め、「神仏合体」で信仰する「修験道師」にも、一部作法として遺されている。
    これも「古来の作法」であったと観られる。
    古来は「現在の数珠のサイズ」の様では無く、現在は小さくなかった。
    古来は「108の球」を連ねた「長い数珠繋ぎ」であったのです。それを両方の親指に賭ける。
    そして、その「長い数珠」を両手で擦り合わせて、”「擬音」”を出す作法であった。
    この”「擬音」”で、「仏への合図」とした。
    これは現在では無く成って居る。
    青木氏の中でも無く成って居るが、”親指に賭ける作法”だけは遺されている。
    ところが次の作法では異なっている。

    「作法の相違点」
    A 一つは、回数が3度にする作法
    B 二つは、額に当てる作法

    これらには、2つの作法には、「古代密教浄土宗」のみ「本来古来の姿」が「仏説根拠」を伴って遺されている。

    先に、Bに付いて、この「額に当てる」とは、何なのかである。
    それは、古来より、「額中央」に、人間には、「瘤」の様に膨らんだ「複眼機能」と云うものがあった。
    現在は、その機能は退化して、大脳の下に10ミリ程度の大きさで押し込まれている。
    これは「前頭葉」が進化して大きく成った事により退化して、更に、存在場所が圧迫されて奥に引きこもった様に成って居る。

    ここで、この「複眼機能」は、ここに「無我無心」にして「全神経」を集中させると、右脳より「ベータ波」を飛ばす事が出来る。
    これは、「未来」を予見し、「過去」を悟り、「現在」を見据える事、の出来る「予知機能」を有している。
    この「予知機能」を使って、「過去の人」と成った「仏」に対して、「未来」に生まれ変わってくる「仏」に対して、「現在」の世に未だ居る「仏」に対して、「信号」を送る事が出来る。
    (現在、中国では、現実性を以って研究が進んでいる。「中国山岳民族」に、未だ、この「複眼機能」を有している「少数民族」がある。)
    この「信号」の「ベータ波」で、「三世の仏」に対して、”「会話」をする事が出来る、”と信じられている仏説である。
    この「仏との会話」は、例えば、”生前中は大変にお世話に成りました。ありがとうございます。”との事が出来るとして、この「仏説作法」が遺されているのである。

    この「3度」とは、「過去、未来、現在」の「仏」に対する「三度」と成っている。
    これが、「古代密教浄土宗の仏説作法」である。
    これは、一概に、”迷信”では無く、実は、”生態学的に根拠のある現象”なのである。
    この「複眼機能」は、現在も「動物の本能」として持っているもので、人間には退化している。
    ところが、未だ、人間の元と成る「女性」には、「母性本能」の一輪として遺されている。
    そして、この”「機能」”を鍛える事で、「予知能力」は高まる事が判っている。
    特に、「男性」は全く働かないが、「女性」には未だ現実に持っている。
    現実に、右脳から発する「ベータ波」が「母性本能」の中で高く成ることが判っている。
    「女性」が子供を育てる時には、現在も、この機能の一部を使っている。

    これが「古代仏説」として、その「作法」が、「三世の仏」に「話しかける手段」として、未だ「青木氏」の中で遺されているのである。
    これは、「古来の仏説」では、”「仏」が死する事は、「肉体の消滅」 を意味し、「霊威」は一定期間遺る”とする「仏法」である。
    従って、この遺された「霊威」に対して、上記する”「古来の仏説作法」でのみ話しかける事が出来る”とした説法である。
    その”「霊威」の存在する期間”が、”「現在過去未来」の何れにか存在する”として、「3度」と成って居るのだ。
    その「祭祀の目的」、例えば、「葬式」では、「現在」に存在するとして「現在」を、「法事」であれば、「過去」に存在するとして「過去」をと成る。
    「常の祭祀・お勉め」では、「未来」(「仏」が生まれ変わる)に存在するとして「未来」に向かって、「仏との会話」をするとした仏説である。
    一切の「祭祀の作法」として、「密教浄土宗」では、総括して「三界の3度の動作」を繰り返す作法と成っている。
    これを、この「動作の回数」と「額の所作」を省いて、その「宗派の考え方」で、「過去現在未来」の何れかの「三界」に対して1度、2度とした。
    これが、「顕教の浄土宗」では無く、「密教の浄土宗」の中に遺されている「密教の古来作法」の一つである。
    以上の事を「根拠」とした、上記した「古来作法」なのである。

    以上、「達親」に続き、「伝統」の一つを披露した。
    「伊勢青木氏」等の慣習の中には、この「古代仏説の作法」を、未だ遺されたものとして、現在も引き継いでいるのである。
    これらの「伝統」は、「先祖の青木氏」を正しく理解する上で、”意味のある事だ”と考えられる。


    > ・> 青木氏の分布と子孫力
    > >
    > > [地域別分布力]
    > > > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
    > > > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
    > > > 地域      異変の県        分布力
    > >> 九州地方   長崎、大分       5%
    > >> 四国地方   高知           2.5% 
    > >> 中国地方   山口、岡山       2.5%
    > >> 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
    > >> 東北地方   秋田           7%
    > >> 中部地方                 15%
    > >> 関東地方                 45%
    > >> 北海道・沖縄               6%
    > >> その他                   3%
    > >>
    > >> 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
    > >> 九州地方  1.3
    > >> 四国地方  1.3
    > >> 中国地方  1.3
    > >> 関西地方  4.7
    > >> 中部地方  4.3
    > >> 関東地方  11.3
    > >> 東北地方  2.0
    > >> その他   11.0
    > >>
    > >> 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
    > >>
    > >> 修正地域(表ー3)
    > >> 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
    > >> 秋田 1
    > >>
    > > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
    > >> 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
    > >> 福岡  2      山口  0   愛媛  3     兵庫   3    三重  1
    > >> 長崎  0      島根  2   香川  1     大阪  14    石川  2
    > >> 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都   5    福井  1
    > >> 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良   1    岐阜  3
    > >> 熊本  4                        和歌山 4     愛知  13   
    > >> 宮崎  2                        滋賀   1    長野  9
    > >> 鹿児島 1                                   山梨  1
    > >>
    > >> 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
    > >
    > >> 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
    > >> 静岡   5   青森  1      沖縄   1
    > >> 神奈川 21   山形  2      北海道 11
    > >> 東京  18    岩手  1
    > >> 埼玉  17    新潟  4
    > >> 群馬   6   秋田  0
    > >> 千葉  11   福島  4
    > >> 茨木   4   宮城  2
    > >> 栃木   8                                     
    > >>
    > >> 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  
    >
    >  青木氏の分布と子孫力−9に続く。
    >


      [No.311] Re:青木氏の分布と子孫力−7
         投稿者:takao   投稿日:2014/04/27(Sun) 14:24:11  

    > 青木氏の分布と子孫力−6末尾

    > 話をもどす。
    > 上記の「瀬戸内族等の蝦夷地開拓に関わる変遷の論証」は、出来たと考える。
    > そこで、江戸期まで云われていた ”瀬戸内を制する者は国を制する” の言葉の通り、上記した様に「瀬戸内族」は平安期でもそうであった。
    > しかし、この様に「伊勢青木氏・信濃青木氏」と共に、「瀬戸内族の生き様」、即ち「瀬戸内族の子孫力」は、「幕府内に浸透した秀郷一門の横の関係力」と連携している。
    > 江戸期でも矢張り特別に重視されていたのである。
    > そして、上記した様にその子孫力は「幕政改革」にも利用されたのである。
    >
    > 従って、「瀬戸内族」の地元の「香川1」と「岡山0」の「子孫力のパラメータ」は、この様な「背景の経緯」にあった為に、”一族存亡に成るほどに注ぎ込んだ”のである。
    > 依って、その後の地元での「子孫力」や「子孫拡大力」には、当然に支障を来した事を物語るのである。
    > しかし、その分、この「子孫力」で「江戸期ー明治期」までで、最低でも北海道の7/11にシフトしている事に成ったのである。
    > 衰退していたのでは決して無いのである。
    > 普通なら、上記した様な ”波乱に満ちた世の中の荒波”に洗われて、一族を注ぎ込んだが諸共に消えて仕舞う憂き目を受けている。
    > しかし、これもこの「現世の条理」であり、普通である。




    青木氏の分布と子孫力−7


    ・「戦後の入植」
    更には、これに重ねて「昭和20年後(戦後の混乱期・経済的悪化)」にも同じことが「瀬戸内族」に起こったのである。
    この「昭和の瀬戸内族の危機」でも、このパラメータに大きく影響を与えたのである。
    「讃岐青木氏」には、上記した「江戸期の経験」があったからこそ、また現地にも一族を廻している。
    だから、既に、「受け入れの土壌」も出来上がっている事から、「瀬戸内の廻船業」から「蝦夷地の入植と廻船」に切り換えて、再び盛り返す事を狙ったものである。

    従って、逆に、北海道には、この「昭和の入植移動」でも、その分「北海道のパラメータ」(1.5分)が拡大したのである。
    上記した様に、「弘前藩」の救援劇に関わった「讃岐の瀬戸内族」、とりわけ「弘前の讃岐青木氏」(陸奥の「香川の移動族」と「岡山の末裔族」)の両方とも「北海道」に入植した。
    この入植には、下記した「弘前藩と松前藩の関係」(下記)が大きく影響したのである。
    この「陸奥青木氏の入植」には、この「弘前の讃岐青木氏」も含まれていると観ていて、故に、「秋田の分」が「北海道」に引っ張られて、秋田は0と成っているのだ。

    ところで、それまでの経緯に付いて重複するが、改めて記述すると次の様に成る。

    イ 「北海道の支配権」を家康から1599年に「松前藩」に与えられて正式に認められた。
    ロ この「松前藩」は家臣(瀬戸内族)を配置して交易を正式に開始した。
    ハ ただ、この元々は「青森に居た松前氏」には、「蝦夷地の支配権」を家康は特別に見込んで任した。
    ニ ところが、米が採れない「無石の藩」であったので、「青森の弘前藩」との間で「米の供給」をする契約が交わされていた。
    ホ 最初は「1万石相当」を「弘前藩」から供給を受けていたが 次第に交易が拡大し人口が増え、「米の供給」が不足し始めた。
    ヘ 享保4年には「1万人人口の都市」と成り、この「基本的な米の供給」のみならず、「10万石」が不足していた。
    ト この為に、「弘前藩」に対しては、「蝦夷地の入植」と、その「海産物などの殖産貿易の権利」の優遇を図っていた。
    チ この事から、他のどの藩よりも「北海道の入植とその利権」は優位にあったし、積極的に行った。
    リ この為に「交易と殖産」の為の「弘前からの入植移動」は「最大の条件下」にあった。
    ヌ 「松前藩」も、財政的な面から観て、「弘前藩の北海道の入植」は、”「コメの供給」の対価支払が出来、それと「継続的な供給状態」が維持出来る事の負担面で都合が良かった。
    ル 「弘前藩」は、この関係から積極的に「瀬戸内族」をその経験を見込んで「家臣」としての扱いで優遇し北海道に配置した。
    ヲ 「松前藩」に対しても「幕府の肝いり」もあり「瀬戸内族」には同様に家臣として扱ったのである。
    ワ 記録では、「松前藩」は、江戸時代の「5大飢饉」に起こった ”「米の飢饉」の時も度々に救われた” と記されている。
    カ 「松前藩」は、「弘前藩」に対して「恩義」に思っていたのである。
    ヨ 「弘前藩」は、「お家騒動の体質」で苦労している事から、「経済的な背景」は「藩政安定」につながる事から、”絶対に崩せない”と云う弱みもあった。
    タ その「瀬戸内族」に依って運営されていた ”「海運による海産物の交易の利」”も身に染みて知っていた。
    レ この状況から、「幕府の強い意向」もあり、「瀬戸内から来ていた関係者」を全てつぎ込んだ。
    ソ 上記した様に、これが「青木氏」の「歴史的な定住地」ではなかったが、これが「北海道の11」の内容の一つに成っているのである。

    従って、この数字的には、「北海道」には次ぎの様に成る。
    1 「信濃」から「皇族賜姓族の神職系の移動」
    2 「陸奥からの秀郷一門の移動」
    3 「瀬戸内族の陸奥からの移動」
    以上の3件の室町期末期の記録がある。

    この事があるので、全国平均の4のパラメータから観ると次の様に成る。

    「讃岐青木氏」(瀬戸内族)としての「実質の子孫力」は次ぎの様に成る。、
    北海道分 7
    香川の分 1
    岡山の分 0(X)
    広島の分 3
    島根の分 2 

    岡山の分は0としているが(X)は2以上は見込める。

    以上で、最低でも「13のパラメータ以上」が認められる。
    (北海道分の7は昭和の最終吟味で異なる。)

    この「パラメータ13以上」に付いては、長年同じ行動を採って来た「伊勢青木氏」等の「実質のパラメータ12」に匹敵するものとして納得できる。
    以上の様に、実質の「讃岐青木氏」は、「武蔵」と肩を競い合っていたところから、17以上にはならないものの、15程度に匹敵するものを持っていると考えられる。
    そこで、この「讃岐のパラメータ」を最終確定させるには、その前に、上記の経緯から、次ぎの「青森ー秋田」の状況を吟味して置く必要がある。

    「青森ー秋田」
    しかし、「瀬戸内族」が一時、定住したこの陸奥地域の「青木氏の動き」が解明されたとしても、”地元「青森ー秋田」の「秀郷流青木氏」は一体どうしたのか” と云う疑問がある。
    そもそも、「青森ー秋田の陸奥青木氏」は、秀郷一門の「鎮守府将軍」の頃から、「青木氏」の「入間の本領地」に継ぐ位の定住地でもあった。
    しかし、「青木氏の守護神の神明社建立」と云う面からにしても、データは、「陸奥の秋田」と云う範囲では「青木氏の子孫力」は不思議に低い。
    因みに、「青木氏族の永嶋氏」も、関東でも、愛知でも、陸奥でも、「子孫拡大」を室町期末期まで大きく興している。
    にも拘らず、この事を考えると、「秋田」では、「同族の青木氏」が、”何故に「子孫拡大」が大きく起こらなかったのか”が疑問である。
    この疑問を解決する必要がある。

    陸奥域の周囲には同族の一門も居たし、土地の豪族も殆どが「血縁族」であるにも関わらず、「軍事的背景」、「経済的背景」、「周囲の一族」などから観ても「政治的背景の環境」も決して悪くは無かった。
    むしろ「子孫拡大」には「三つの条件」が揃い過ぎている。
    もう一つの「時代的背景」にしても、確かに、陸奥域には「荘園制」に関わる有名な「子孫力」を低下させる「奴婢事件」等が起こった。
    この国を動かすほどの大事件が、平安期末期や室町期末期には大きな事件が多く起こった。
    しかし、「青木氏の分布やその子孫力」の「拡大抑制の元凶」と成っていた「荘園制」が、「平安末期の禁止令」に依って無く成った。
    依って、その後の「子孫力」は再び盛り返している。

    元陸奥域の「周囲の5県」には、「秀郷一族一門」と「北家利仁流一門」にも囲まれている。
    しかし、「唯一の脅威」としては「阿多倍一族」の有名な「内蔵氏系」の「安倍氏や清水氏」などの勢力に囲まれていたことは事実である。
    ところが、この「内蔵氏族」の氏とは、歴史的に見て「子孫力」を下げる大きな事件を起こしていない。
    その証拠に、「藤原利仁流族」や「秀郷流進藤氏」は、この中間地域に挟まれていながら子孫を伸ばしている。

    では、”何が子孫力を下げていたのか”である。後は、「子孫力」を低下させるこの地域の要因は厳しい「気候」しか浮かばない。
    では、”「気候的背景」があったのか”、しかし、「青木氏」が ”気候的背景に弱い”という事は聞いた事はない。
    とすると、考えられる事は次ぎの事が只一つである。
    この「気候的背景」が原因して、「秀郷流青木氏の護衛団」の ”入間との間の交代制”にあった事が考えられる。
    そもそも、陸奥の「花房氏」や「小山氏」や「小田氏」などの土豪との「全ての血縁族」が、関東に来て「秀郷一門の勢力」を背景を基にして大豪族と成っている。
    この事が物語る事は ”子孫拡大の流れ” が確かに「北から南」にあった事は否めない。
    そもそも、「秀郷流青木氏」の「陸奥の定住」は、あくまでも ”「赴任定住」” にあった。
    従って、「陸奥土豪の血縁族」等が、関東に出てきて勢力を伸ばしている中で、本家筋の「赴任定住の青木氏」が「逆の行動」を採るかは大いに疑問である。

    先ずは採る可能性は無い。
    「秀郷流青木氏116氏」の「24地域」では「入間帰還」を前提としたシステムを元より採用している。
    確かに「赴任定住」で各地域の赴任地には、「子孫末裔」を遺してきている事は確かである。
    そうすると、この「24地域」の中で、「子孫力」「子孫存続拡大」に関わる”異なる条件”とすれば、「環境の影響」である。
    この中でも、厳しい「気候的背景」だけが「子孫力差」として出て来る。
    この「陸奥域の気候的背景」が、この「子孫力の限界値」として観てみると ”、「赴任定住・交代制」に大きく影響を与えたのではないか” と考えられる。

    特に、上記した様に、「讃岐青木氏」などの「瀬戸内族」に依って、江戸期初期には「太平洋周りの廻船」が新たに創設された。
    これに依って、四季を通して凡そ二日か三日で赴任地から護衛団が入間に帰還できる様に成った。

    江戸初期の「造船力の発展」が原因した。気候の厳しい「蝦夷地等の交易」が「造船技術」を伸ばした。

    この「造船力の発展」に依って、”豪雪の中での護衛”と云う役目は、「冬場での役目」としてあまり意味がなくなった事に成る。
    それまで、帰還に要する危険や難儀から留守居の形で定住する事に成っていたが、その必要性が一年中無くなった事に成る。
    何日もかけて危険を背景に必死に陸送で帰還するよりは、「帰還」と云う点では画期的なものであった。
    この”瀬戸内族による外回りの廻船の開設” が、”入間帰還のシステム”が現実のものとして”効果的なシステム”と成ったと考えられる。

    「陸奥の瀬戸内族の操船入植貢献」と、「讃岐の瀬戸内族の外回りの廻船開設」と何れも瀬戸内族の貢献であった。
    「蝦夷地の開拓」と「陸奥の秀郷一門の帰還」に大きく貢献したのである。
    「讃岐の瀬戸内族の外回りの廻船開設」は、「蝦夷地の開拓」にも「人と者」を運送する事でも大いに貢献したのである。

    そこで、「陸奥の環境」の「気候的背景」が「限界点」に成ったとしても、これで「入間帰還」は容易に成った。
    これで「赴任定住の留守居役」も必要と無くなる程の移動と成った。
    この事で、「現地末裔孫」も伴い「全陸奥青木氏」の「入間帰還」と成った。
    依って、「陸奥秋田の青木氏」はパラメータが0に成るほどの地域と成った事が考えられる。

    現実に「そっくり帰還」(根削ぎ帰還)は、温暖の地の「紀伊国」や「阿波国」や「肥前国」でも起こっていた。下記
    何れも、「造船力の発展」で陸送で何日もかけての帰還より、数日で楽に帰還できる様に成ったことからの結果である。
    この現象は「陸奥だけの事」では無かったのである。
    これは「室町期」のみならず、上記した様に、江戸幕府の「旗本 御家人集団」と成った「土地付き家臣団」の「秀郷一門の青木氏」があった。
    江戸時代に成っても、室町期の「縁故の地」に「現地派遣の幕府代官」として派遣されていた。

    そこで調べて観ると、「家紋分析論」と「守護神論」でも判るのだが、この「広域陸奥」には「18の大名」が配置されていた。
    この18の大名の内の「7の大名」は、何らかの秀郷一門との縁故を持っていた。
    その「土地付き家臣団」には3割程度が秀郷一門で占めているのである。
    江戸期に成っても、この「秀郷一門の青木氏」は、この様に「24地域の縁故地」に派遣されていた事が判る。
    秀吉に依って、家康が関東に転封された時に、この地域一帯を治めていた秀郷一門には、「家康の本領安堵策」に依って関東域は安堵された。
    その後、「家康の天下」と成った時も含めて、各地の「24地域の縁故地」もその後、安堵され保証された。
    家康の藤原秀郷一門に対する「本領安堵策」で「土地付き家臣団」(准大名扱い:地主:御家人)が生まれたのである。
    因みに、「土地付き家臣団」を超えて、江戸時代の全国大名の内の「6大名」に「下り藤紋」の藤原一門が成っている。

    A 陸奥、越後、
    B 信濃、近江、
    C 紀伊、日向
    以上が成っている。

    この「6つの小大名」の藩士の多くは、「秀郷流青木氏116氏」の一門の家紋群である。

    しかし、他の「縁故の地」(24地域)では、凡そ2割から3割が秀郷一門の家紋群である。
    ほぼ、他の陸奥域も同じ程度である。地主として名主や豪農や庄屋や郷氏や、土地の藩の家臣として生き延びた。

    この地域も家康に依って、「藤原氏の勢力」を維持させる為に、「縁故の地」も「本領安堵の策」が採られたのである。

    この様に、「土地付きの家臣(御家人、上級旗本)」と成っている地域は、下記に参考に記す様に、主に「青木氏116氏の主要地域」に成っている。

    武蔵、越後、讃岐、備前、
    下野、相模、三河、下総、
    常陸、紀伊、陸奥、上野、
    美作、備後、伊予、豊後

    以上16の地域に集中しているのだが、これは二つに分類できる。
    一つは、「秀郷流青木氏」の平安期と室町期までの「領地」か「赴任地」
    二つは、「松平氏か徳川氏の藩主」と成っている「守護地」

    一つ目は、「縁故の地」に対して派遣された幕府の代官、役人等
    二つ目は、江戸初期に徳川家臣団と成って藩主が赴任した地域

    以上の様に、室町期に引き続いて江戸期にもほぼ同じ勢力で同じ分布域を示している。
    これは「子孫力維持」と云う点で重要な事柄である。
    そこには、当然に強い「子孫力」が存在する。要するに、”古来より縁故の地”であるからだ。
    「室町期」と「江戸期」では、社会の不安定さや混乱差は大きく変化した。
    しかし、「縁故の地」に関わる事により「子孫力」は、冒頭でも記したが ”変わらない”として論じる事が出来るのだ。

    従って、「陸奥」に於いては、要するに、「基礎的な子孫力」が全く無くなったのではなく、”「子孫力」が出自先の入間に戻った”と成る。
    故に、「陸奥」では、「子孫力」が激減していたのであるから、「陸奥」から「北海道」への「入植移動」は、「陸奥青木氏」だけではない事に成る。
    更に、上記した様に、各地から「陸奥」に来ていた「青木氏」(瀬戸内族等)も「北海道」に入植移動した事にもなるのである。
    後住の「瀬戸内族の入植」とは別に、先住の「陸奥青木氏の入植移動」は、むしろ、どの時代を通しても「入間帰還」を中心とした慣習に従っていたので、極めて少なかった。
    この事から、せいぜい「留守居程度」のもの定住と考えられるから、入植移動は無かったと見做される。
    依って、パラメータに出て来る範囲ではなかったと考えられる。
    (「陸奥域」を始めとして、24地域の「入間帰還」は改善された。)

    丁度、上記した”徳島の剣片喰族の愛知への帰還方式”と類似するが、その期間の「土地の生活環境」は大きく異なる。
    「肥前の青木村」も同じである。
    当初は、「期間限定の定住策」であったと考えられるが、「蝦夷地開拓」に伴う「造船力の発展」が、この「肥前の定住」にも大きな変化をもたらしたのである。
    逆に、この「讃岐青木氏」ら「瀬戸内族の入植移動」が「造船力の発展」を促し、その「造船力の発展」が今度は「瀬戸内族の廻船業や殖産業の発展」を促した事に成る。
    陸送より「海送の発展」が、質、量、速さ、楽さに於いて優れ社会を大いに変えた時代と成ったのである。

    ところが、昭和に成って始まった機械化が、戦後に成って、その代表と成る鉄道の急激な発達によって「陸送の発展」が起こり海運を超える結果と成ったのである。

    瀬戸内族の母体と成っていた廻船業と殖産業は、鉄道の陸送の発達で取って代わられたのである。
    そこで、「讃岐青木氏」等の「瀬戸内族」は、「北海道開発」に賭けて「戦後入植」と成って表れたのである。
    この様に、地域毎にその「子孫力や子孫拡大力」の「有り様」が異なり、それに伴って「青木氏の分布と子孫力」は変化したのである。
    しかし、その「分布と子孫力」は、根底を覆すような変化までには至らなかったのである。

    恐らくは、1600年経っても”あまり変わっていない”と評価されるが、これからの「時代の変化具合」によっては「青木氏の分布と子孫力」は変化する可能性がある。
    どの様に変化するかは判らないが、判る現在の範囲で過去の事を遺しておきたい。
    後世の青木氏の末裔にロマンを与えられる。
    この異なる「青木氏の歴史」には、「先祖の生き様」がよく見えて来て面白いのである。
    その「分布図や伝統の有り様」も面白くなるのだと考える。

    従って、「青木氏の子孫力の有り様」を続けて論じる事とする。


    ・> 青木氏の分布と子孫力
    >
    > [地域別分布力]
    > > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
    > > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
    > > 地域      異変の県        分布力
    >> 九州地方   長崎、大分       5%
    >> 四国地方   高知           2.5% 
    >> 中国地方   山口、岡山       2.5%
    >> 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
    >> 東北地方   秋田           7%
    >> 中部地方                 15%
    >> 関東地方                 45%
    >> 北海道・沖縄               6%
    >> その他                   3%
    >>
    >> 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
    >> 九州地方  1.3
    >> 四国地方  1.3
    >> 中国地方  1.3
    >> 関西地方  4.7
    >> 中部地方  4.3
    >> 関東地方  11.3
    >> 東北地方  2.0
    >> その他   11.0
    >>
    >> 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
    >>
    >> 修正地域(表ー3)
    >> 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
    >> 秋田 1
    >>
    > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
    >> 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
    >> 福岡  2      山口  0   愛媛  3     兵庫   3    三重  1
    >> 長崎  0      島根  2   香川  1     大阪  14    石川  2
    >> 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都   5    福井  1
    >> 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良   1    岐阜  3
    >> 熊本  4                        和歌山 4     愛知  13   
    >> 宮崎  2                        滋賀   1    長野  9
    >> 鹿児島 1                                   山梨  1
    >>
    >> 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
    >
    >> 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
    >> 静岡   5   青森  1      沖縄   1
    >> 神奈川 21   山形  2      北海道 11
    >> 東京  18    岩手  1
    >> 埼玉  17    新潟  4
    >> 群馬   6   秋田  0
    >> 千葉  11   福島  4
    >> 茨木   4   宮城  2
    >> 栃木   8                                     
    >>
    >> 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  

     青木氏の分布と子孫力−8に続く。


      [No.310] Re:青木氏の分布と子孫力−6
         投稿者:takao   投稿日:2014/04/20(Sun) 10:55:08  

    > 青木氏の分布と子孫力−5末尾
    >
    > 注釈
    > (反対に家光は頼房と仲が良かった。ところが、家康はこの「頼房」が謀反を起こす性癖の持ち主として、水戸藩主にはしたが、遺命で27年間徳川氏を名乗らせなかったのである。
    > ところが頼房は逆にこの気は無かったから、家康からもその性格を信頼されていて、遺命で「朝廷工作」の「家興要領」に組み込まれていた皮肉な事が起こっていた。
    > 故に、家光は頼房との差を隠すために「由井正雪事件の謀反嫌疑」を掛けたのである。)
    >
    > ”頼宣の孫の吉宗”が青木氏と強い結びつきを持ったかは云うまでも無く判る。
    > それは、上記した様に、”何故に「伊勢青木氏」が親代わりに成った”かは、又、その後の”「享保の改革」の事”、”紀州藩の勘定方指導の事”等も含めて、上記したこの経緯の事で充分に判る。
    > 更には、祖父の「頼宣」の「形式上の出自元」と成ったからであり、「ABCの族」即ち、「賜姓族青木氏系藤原氏関係族徳川氏」であるからである。
    > 「伊勢青木氏」からすると「吉宗」は「家康ー頼宣」の繋がりからも、又「一族の縁者」でもあった事に成る。
    >
    > この上記に論じた「考察の問題」は、この「調停工作」の「権威付け」を「全ての青木氏」取り分け「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「秀郷流伊勢青木氏」の三者がこれを容認するか、どうかである。
    > 容認すれば、上記の”「長保寺」”が物語るものは解明できる。
    > 当然に、密かに「調停工作」をしたのだから、青木氏は容認する以外には無いし容認しなければ意味が無い。
    > 否定すれば「朝廷と天皇」が求める故事の「長者の呼称」「正二位官位」は消える。
    > そうなれば「徳川氏との軋轢」が決定的に生まれ、当然に「青木氏」は消滅する事に成る。
    > 当然に、青木氏等の背景保護もなくし、天皇家のみならず朝廷は立ち上がれないほどに衰退していたと考えられる。
    > つまり、上記するこれらの権威を容認したのである。
    >
    > 「権力と権威」を主体とする絶対社会では、「子孫力」を作り出すには、”世に晒す事無かれ、世に憚る事無かれ”であり、「否定」は「自己の主張を世に前面に押し出す事」に成り、これは当に「晒し憚る行為」である。
    > そんな事は、絶対に青木氏はしない。それが長年の「青木氏の子孫力」の基と成る戒律である。
    >
    > 「長保寺問題」は上記した事の「青木氏ー徳川氏」の関係の度合いを一挙に解析出来得るテーマである。
    > 仮に、「紀州徳川氏の菩提寺」を紀州に置いたとすると、一体”どう様になるか”である。
    > 「伊勢」と云う「二つの故事」を継承している「伊勢青木氏」が、「伊勢」は古来より青木氏が定住している「天領地」であるからで、人は疑いなく信じるのであり、「紀州」では前は「藤原氏」を名乗っていたのが、今度は又「源氏」かと成る。
    > 徳川幕府の様に、”権威を基本とした権力構造”の中では、人は信じないし、「権威」は低下し、「為政力」は低下し、末には、権力を押し付ける無理な構造が出来上がる。
    > 結局は「政治体制の崩壊」に繋がる。
    > 「賜姓族」の様に、この「二つの故事」を「紀州」で使えば、逆に疑う方向に周囲は働くが、折角の「権威獲得」は「水の泡」であり、「徳川政権」は「秀吉政権」と同じ様にそう長く無かった事に成ろう。
    >

    青木氏の分布と子孫力−6



    ・「伊勢の菩提寺と紀州」
    徳川氏との関係の親密さは、紀州徳川氏の菩提寺が「伊勢松阪」にあって、且つ、「青木氏菩提寺跡」に建立し、「同じ青木氏菩提寺の寺名」を同じくし、古来よりの「賜姓族青木氏」の「伊勢」にあるこの「3つ要素」が最低でも裏付けてられている。
    だから、”人はその権威を信じた”のであって、「紀州」に置いたとすれば、”人は無味乾燥と成り、「権威」の「故事の目論見」は消えうせた”筈で無理であった。
    それが、「伊勢」であったからこそ、「故事に従った血縁関係」を「本流立葵紋」で成し得たのである。
    否、成し得たから、「紀州藩の始祖」を祭祀する「長保寺」に「嵯峨期詔勅の禁令紋」の「笹竜胆紋」が使えたのである。
    そして、家康の「浄土宗督奨令」(密教系と菩提寺方式を解除)に反して、わざわざ「密教排除の禁令」に反して、「密教浄土宗の寺」を建立出来たのである。
    故に、この「二つの故事」の「禁令条件」を観て、その作り上げた権威を人々から信じられて使えたのである。
    そして、この”信じられた影響が、徳川氏全体の行為に伝播して疑う者は居なくなった”ものである。
    紀州の「民衆」、のみならず「家臣」までもが、全国の全ての民が、信じ疑わなくなったのである。
    むしろ、「歴史の場」では、実際は、「徳川氏の出自」を暴かれているものの、以前は確かに「搾取偏纂」であったものであった。
    しかし、それを払拭する様に、上記の「2つの故事」の事で、民衆を含む全ての人は完全に信じてしまったのである。

    イ 「青木氏側」から観れば、この「本流立葵紋の青木氏」が、存在する限りは、最早、「搾取偏纂の域」を超えた「認められた正統行為」と成る。
    ロ 「徳川氏側」から観れば、「本流立葵紋の徳川氏」を引き継いだ「頼宣」までの「一代限り」では、「搾取偏纂の域」を超えた手続き上では、確実に「正統な賜姓族」で「源氏の末裔孫」と成る。

    このイとロの「二つの考察事」を捉えれば、徳川氏の他の直系一族(宗家と御三家)も、心情的には、「源氏末孫」を名乗る事は、「頼宣の事」を捉えて、”「仕方無い」”ともなろう。(前は藤原氏だったから。)

    注釈
    (「頼宣」の名は、そもそも、「清和源氏」の分家河内源氏の始祖「頼信」から来ている。
    「頼宣」の「2つの故事の条件」を取得した事からこそ、「嵯峨期詔勅」に従って、始祖とする「頼信」から、「頼宣」の河内源氏の「通名」を使えたのである。
    「頼将(よりのぶ)」から一度は肖って同名の「頼信」にしたが、最後には「2つの故事」の完成に憚って「頼宣」にした経緯である。
    この経緯から観ても、上記の「調停工作」と「家興要領」での成功裏の「笹竜胆紋と密教浄土宗」の取得が、どれだけの影響を徳川氏に与えていたかはよく判る。)

    「頼宣」の孫の「吉宗」が、「8代将軍」と成って「徳川宗家」に成ったとすれば、”一代限り”とは云え、形式上は「直系孫」となった。
    その限りは、「二つの考察事」から観れば、「賜姓族」系と成ったと見做される。
    形式的には「男系の血液上の繋がり」は無いが、「徳川宗家」(田安氏、保科氏等)は形式上からすると「未勘源氏」並みと云う事に成るだろう。
    前は「搾取の藤原氏」であったが、今度は何とか「源氏朝臣」は名乗れるし、「青木氏」と「朝廷と天皇」はこれを確実に容認する。

    これは「伊勢青木氏」等に対する親密な行動で動いた”「家康ー頼宣の戦略」”が功を奏したと成る。
    これだけ、”「徳川氏の全氏」に影響を与えた功績”でも、「家光」は「頼宣」により嫉妬するであろう。
    「征夷大将軍の権威」の条件が、「調停工作」の「家興要領」に基づく搾取的行為であっても、万民に信じさせて「将軍の権威」を創出したのである。
    仕事でも「長保寺」の如くに、名声を挙げた事は、エレベータの様に押し上げられた「家光」には到底出来ない事であり、叶わない事であろう。
    この「頼宣」は、「家康の意志夢実現」の為に、鍛えられたからこそ才能を発揮したのである。

    (青木氏の上記した「経済学」は、それは其れなりにこの事とは別の行動であるが、「頼宣の才能」の条件が整ったからこそ吉宗までの成功を遂げられたのである。)


    更に重ねて次ぎに考察する。
    そもそも、”日本全国広し”と云えど、これらの「歴史的な事柄」を論じられるのは、「関係した氏」としても、「資料保全」からしても、「青木氏」だけである。
    中でも「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「讃岐青木氏」と「秀郷流伊勢青木氏」と「近江佐々木氏」とに限られる。
    この5氏が保有する資料から、この様に考察して論じなければ、「歴史の表裏の実態」は、絶対に解明できないし、消え去る憂き目を持つ事に成る。
    「青木氏氏のサイト」だけの「徳川氏の江戸初期の行動」を解明できる資料である。
    更に、この事は、当に「青木氏の伝統」であるので、解明の為に論じる事を続ける。
    「青木氏の分布と子孫力」のこれらの「青木氏の行為」は「大変な子孫力」に大きく関わるからである。
    ただ、筆者は ”世に晒す事無かれ 何れ一利無し”の戒律の姿勢は崩さない。
    (注記 この論文は青木氏の範囲に留める。その心算でお読み頂きたい。)

    さて、そこで、上記の事で論じ得られた筈ではあるが、青木氏だけが成し得る事として、放置すれば消え去るのみであり、出来得る限りの論調を論じて置きたい。

    ・「紀州藩と青木氏」
    更に、「長保寺」以外に次の事が更に証明している。
    この時以来、「頼宣」との「再三の談合」が持たれ、「伊勢青木氏」は「頼宣」に対して、南画絵画、俳句、禅問答、歌、茶道、書、商学、殖産学」等を指導した。
    又、「藩主の話し相手」として以後、接する事と成り、この状態は江戸初期から大正14年まで代々の藩主に続いた。
    この為に「12人扶持米」の「礼米」を支給し続けられた。(明治期まで)

    この時のこの「付き合い」の中で、「伊勢青木氏」は、”「頼宣」に、「家康」と同じく「蝦夷地開拓」の必要性”を解き推奨した様である。
    「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」はこれに関わっていた事が文意から読み取れる。
    故に、この話を1600年前頃に「伊勢青木氏」から受け、堺などで見識を広めた「家康」が、「松前氏」に「蝦夷地交易権」(1599年)を与えた。
    そして、続けて「讃岐青木氏」には、「外回りの蝦夷地からの新規廻船」(1600年)を同時に許可しているのである。

    注釈
    (上記した様に、「伊勢青木氏」は、「家康との親交」は、資料とは別に、正式には「関ヶ原」(1614年)以来からであった。
    信長が光秀に討たれた時にも、「大阪の堺」に家康は居て、「堺の青木氏屋敷と店」等でも親交を深めていた状況であったことが口伝にある。
    その「光秀謀反」を知った「伊勢青木氏」は、「伊勢シンジケート」に連絡を取り、その後、伊賀上野経路で逃亡し、伊賀館まで何とか辿り着いた。
    この時、「伊勢シンジケート」が周囲を固めて護った事が判っている。)
    この後、幕末までこの「付き合い」から、伊勢青木氏の四家(伊勢郷流青木氏含む)は、 ”「紀州藩の勘定方を指導する事」”は何度も続いた。
    しかし、上記した様に「家康の時」は勿論の事、「頼宣の時」、「吉宗の時」、「幕末の時」の3度の事は詳しくよく伝わっている。
    筆者までは口伝でも物語風でよく伝わっている。

    (「伊勢秀郷流青木氏」とは、「本流立葵紋の青木氏」「宗家葵紋の青木氏」の「伊勢末裔四日市殿」である。
    「四日市殿」を含めて「四家」は「伊勢青木氏の総合商社」を一族で運営していた。)
    この時の「信濃青木氏」と「讃岐青木氏」の「徳川氏への貢献具合」のより詳細な資料が不足で掴めない状況である。伊勢青木氏側の遺資料だけで、消失した模様。)

    「頼宣の時」には、「伊勢青木氏」の指導の下で「交易船」を建造している。
    この事は「家康の意向」の基に「蝦夷地開拓」を含む交易を先んじて始めた事を意味する。
    そもそも、「交易船」を作っても、創藩したばかりの「紀州藩」には、元々このノウハウが無い。
    これを「伊勢青木氏と讃岐青木氏と信濃青木氏」が指導して直ぐに交易した事が商業資料から判る。
    商業記録から、紀州と信濃と安芸ー讃岐の殖産物の取り扱いの記録から読み取れる。
    指導した内容として、交易するには「海産物や農産物の買い集め」から、それを「大量に生産する殖産態勢」、「売買の交渉技術」、何よりも「大船の操船技術」と、その「運送技術」を獲得しなければ出来ない事であ。
    これはノウハウと経験の無い紀州藩が、独自で一朝一夜で出来る事では無い。
    況して他藩から来た官僚の家臣では尚更である。
    この「3つの青木氏」が関わっても、この「システム作り」では相当に苦労する筈である。
    この事は交易の事に付いては、「家康」も充分に知っていた筈で、これを「伊勢青木氏」から知り指導を受けたのである。
    恐らくは、名義上は、「紀州藩」として「代表家臣」を載せ、「伊勢青木氏か讃岐青木氏や信濃青木氏」から送り込んだ「各種の職能集団」(青木氏か抱えていた「2つの絆青木氏」)が運用したと観られる。
    「吉宗の享保の改革」の段階までは、「宗家葵紋の青木氏」と「本流立葵紋の青木氏」等の「四日市殿」を含むこの「3つの青木氏」は、商業記録などから「総動員」であった様子であった。

    注釈
    (この時の「伊勢秀郷流青木氏の宗家」の動きの記録が、「秀吉の伊勢攻め」の時と、明治の「伊勢の2度の大火」で消失していて掴めない。
    ただ、天正期に於いて秀郷一門の同族で伊勢の「伊藤氏」との同族血縁関係を持っている事、更には、この融合の「伊藤氏」と「伊勢賜姓青木氏」との”「血縁の繋がり」の記録”が残っている事。
    この2つ事から判断して、これらの”何回かの縁組”が起こっている事は、江戸中期以降も「伊勢秀郷流青木氏」とは、依然として緊密に繋がっていた事が判る。
    実は、筆者の継祖母も、この伊藤氏の宗家の娘である。明治期までは何度も血縁していた事が判る。
    この「伊勢秀郷流青木氏ー伊勢賜姓青木氏ー伊勢の伊藤氏」のより強固な関係が構築されていた事が判る。 
    何故、この「悠久の歴史」を持つ「2つの青木氏の関係」に同じ悠久の伊藤氏が入ってきているのかと云う疑問である。

    そして、ただ、「伊藤氏」がこの「3者の関係」の中で ”どの様な働きをしていたか” は実のところそこまで研究が進んでいなくよく掴み切れていない。
    若干の資料はあるにしても、推測の範囲として述べると、「信長と秀吉の伊勢攻め」の為に、互いに結束した事は記録から間違いない事が読み取れる。
    「長嶋攻め」「北畠攻め」等の資料、青木氏のこの「伊勢攻め」の資料から互いに合力した事が判る。
    その直後の上記した「家康の調停工作と家興要領」の完成遂行の為に、「関東の秀郷宗家との調整」の”「役目の一部」”を担ったとされる節がある。
    実は、この事を物語る事として、ここにも「大きな繋がり」を持っていたのである。

    前段で論じた「宗家葵紋の青木氏」の始祖母で、頼房の側室の「那那の実家先」(実家先では「弥弥」)の父は、「藤原准尊昭玄」 興正寺住職 顕如の孫 兄弟に「皇族賜姓族青木氏」の菩提寺系同門の住職と成っている。
    (寺名は個人情報により不記載とする。)
    「藤原氏の格式」と、更には、「菩提寺住職」でも「青木氏との繋がり」が、重複してここでも繋がっていたのである。
    つまり、何とかして、「朝廷と天皇」を納得させ文句の出ない様な縁籍を構築しようとした事が判る。
    この「重複の繋がり」は、放って置いて出来上がるものでは決してない。
    誰かが強力に押し進めない限りは起こらない。
    では、伊勢の「2つの伊勢青木氏」と「徳川氏」だけでは、「格式」と「繋がり」から観ても、この「那那の縁籍」は成し得ない。
    これを「押し進めた者」「取り持った者」が必ずいる。
    筆者は、それが、”伊勢の伊藤氏であった”と観ている。
    実は、伊勢の伊藤氏の出自関係を観れば良く判る。
    「5家5流皇族賜姓族青木氏」の「菩提寺系の同門寺の住職」(萩)に繋がっていたのである。
    「伊藤氏」は、「伊勢秀郷流青木氏」から依頼されて、この「伊勢青木氏の菩提寺」の「同門寺系の住職」(萩)の弟を通じて、父の、「藤原准尊昭玄」 (興正寺住職)に「姉の婚姻先」として「徳川氏の頼房」に政略結婚先として嫁がせる話を通したと観られる。
    伊藤氏はこの住職との繋がりを持っていた形跡がある。
    「伊勢賜姓青木氏」は「近江賜姓佐々木氏」(勝姫)に、「伊藤氏」は萩の同門住職に話を推し進めたのである。
    「伊勢賜姓青木氏」は、「菩提寺同門寺系とは云え、格式上はこの同門系寺は下位に位置していた事から勧められなかった。
    そこで、「伊勢の伊藤氏」に仲介役を依頼したと云う事に成る。

    輪の様に「繋がり」が出来る程に「調停工作」は進められていた事が判る。

    (伊藤氏 :秀郷より 第1子千常系文行流    始祖9代目基景 詳細は別途 興正寺住職准尊は北家藤原氏文行流神職系)
    (伊勢秀郷流青木氏:第3子千国系兼光流    始祖 秀郷祖祖父藤成ー秀郷ー千国ー兼光

    (「2つの絆青木氏」に付いては、「神明社守護神」のところで詳しく論じている。現在の伊勢の玉城市の全域は青木氏のこれらの職能集団の長屋や家屋と蔵群であった。)

    この様に、「伊勢青木氏と徳川氏の付き合い」は、「只の付き合い」では無く、殆ど一体化していると観られる。
    「12扶持礼米」は「伊勢青木氏」に於いては「糧」ではないが、「礼米」の形で受け取っていた事に成り、「礼米」の「受給の意志」がそれを全て明らかに物語る。

    「天保の飢饉」の頃には、「藩財政」を立て直すために幕末の時まで「勘定方」に、伊勢より人を廻して無給で専門に指導していた事が判っている。
    この中でも面白い事が書かれていて、幕末に”「坂本龍馬の船」を「紀州藩の船」が「操船ミス」で沈めて「高額の賠償金」を払った事”が記されている。
    (坂本龍馬の「海援隊の記録」からも同じ事が記載されている。)
    それでも藩財政は立て直したと成っている。

    「吉宗の将軍に成る経緯」には、上記の様に、「青木氏」と「紀州藩」が絶対とする「祖神・神君の家康の意志」を引き継いで、「藩財政の改革」を実行していると云う事があって、「幕政改革の議論」にも終止符を打ったのである。
    これを裏では「伊勢青木氏ー信濃青木氏ー讃岐青木氏」等は、幕臣と成っていた関東の「藤原秀郷一門」らを味方に引き入れて、「吉宗」を「将軍の座」に押し上げたのである。
    この「吉宗」は、「家康の意志」を次いで「改革実行」の為に、幕臣の6割を紀州藩から採用し、旧幕臣を徹底的に排除して、「藤原秀郷一門」の多くを上級家臣として引き揚げて、「計画実行の態勢」を固めた。

    尾張藩も三井家等の「江戸の豪商」を背景にしていた事が、「尾張藩の町づくり」が越後屋を始めとして「民間の豪商」らの力によって成された事が記されていて、この事でも判る。

    紀州藩は、「質素倹約」で「出」を抑え、「各藩の力」と「瀬戸内族の力」と「民間の力」との3つの力で、「蝦夷地等の開拓」を成して「開拓の利益」や「交易金」や「運用金」や「献納金」で「入」を高めて、収支の「出と入の収支差」を最大に高める「財政改革」であった。
    家康はそもそもこれを目指していたものである。
    (紀州藩と享保の幕府と伊勢青木氏等は「リフレ政策論」であった。

    注釈
    (デフレとインフレの丁度、間をくり抜ける経済政策論。
    この江戸期は、丁度、地球の気候変動が大きくなる「300年周期」の中の「100年期」に入っていた。
    江戸時代はこの気候変動に依る影響で大飢饉が多発していた。
    この為に、物価が値上がりし、激しいインフレの状況に陥っていた。
    経済力が低下する現象が起こる等のインフレ現象の中に、逆に社会は疲弊して購買力が低下するデフレ現象も片方で起こる等複雑な経済状況であった。
    この為に、幕藩財政も悪化して崩壊寸前の状態に陥っていた。止む無く年貢の「五公五民の増税」に踏み切った。
    これが「享保の改革」の「リフレ政策の効果」を低下させた大きな原因と観られる。
    この「リフレ政策」とは、「出」を抑え「入り」を高める「中間政策」である為に「大きな増税」は「禁じ手」である。
    この「入り」を高めるには、「増税」では無く、「交易や殖産能力」を高めての「入り」でなくてはならない。
    それを「交易や殖産開発」をしながら、一方で「増税」もした為に、「入り」が高まり過ぎて、「出」の収支差が確かに良くなった。
    一方で「出」の「質素倹約令」と「増税の令」とで、「フラストレーション(不満)」が社会の中に起こったのである。
    そこで、「五公五民の弊害」に対して、これを何とかしようとして、吉宗は「米将軍」と称されるくらいで、自らの判断で、基幹の米相場の操作を実行した。
    しかし、操作に依って起こるリスクヘッジに合い失敗した。

    しかし、ここで疑問点がある。
    「伊勢青木氏」は、増税は「禁じ手」ある事を知っていた筈であるし、「リスクヘッジ」も商人である以上は常識で知っていた筈である。
    しかし、行われた。ただ、米相場のリスクヘッジは「相場の操作」を元に戻す事で解決するので問題は無い。
    現実に慌ててその様にした。
    問題は、「五公五民」の「増税」はありながらも、強い「反対勢力」を抑え込む為の「モデル実験の紀州藩」では成功した経済改革である。
    ”一体、何が幕政で違ったのか”である。
    そこで「青木六左衛門」を始めとするグループは、原因を考えた。
    一つは、「交易と殖産開発」の「入り」の違い差。
    二つは、「出」の「質素倹約」のレベル差。

    彼らが調査した原因は、「二つ目の累進性」であった。つまり、「出」の「累進性」であった。

    江戸の「六左衛門グループ」は、「紀州の改革」に取り組んでいた「紀州班グループ」に問い合わせた。
    その情報の分析で「出の累進性」の事を知った「六左衛門」は、その原因を吉宗に慌てて進言した。
    その大元凶は、「女の園」の「大奥制度」であった。
    「紀州班グループ」では、前段−5で論じた様に、「頼宣の比丘尼山の制度」が「仕来り」として引き継がれていた事であった。
    「紀州班グループ」の指摘で、代々藩主の「女系家族」は、例外なく「還俗制度」を採用していた事であった。
    「頼宣の比丘尼山」に習って「還俗制度」を「勘定方」を指導する立場として厳しく指導したのである。
    この事を知った「六左衛門グループ」は、紀州と江戸の「大奥」の差が、藩と幕府との「出」の比例的な関係に無い事に気づいた。

    「紀州:幕府」は「1:15」の関係にあった。しかし、大奥では「1:120」の関係であった。
    当然に、これでは「比例関係」での「質素倹約」での効果は出ない。
    (累進性は「比例線」では無く、「放物線」の形で働く。商で培った知識を持っていた「六左衛門」等はハッと気が付いた。
    紀州の大奥は、30で、1:15とすると次の様な事に成る。
    経済学では、比例30:450に成るに対して、先ずこの450に対して第一段階の累進性が働く。
    ところが3500(450)で、本来あるべき数より約8倍である。
    この関係から幕府大奥の出費は、累進性が働く為に、より450+累進率量以上の出費を、先ずは抑えなくてはならない。
    しかし、更には、この8倍の数であるから、その累進性は放物線であるから比例線からその差は大きく離れて行く。
    その8倍であるから「膨大な数字」と成る。
    「紀州藩並」に成功させるには、この”「膨大な数字」の出費”に対しては絶対に抑えなくてはならない。
    実質、”将軍7代までの全ての「女系家族」”が大奥に存在して貯め込んでいた。
    これが元凶として大改革を吉宗に迫った。
    吉宗は、「六左衛門の指摘」を猛烈な反対を受けながらも直ちに実行した。
    そこで、吉宗は反対派に対して妥協して、1/3の1000人程度まで削減した。
    (絶対条件は450以下必要)
    しかし、紀州藩は「実質0ベース」である。この差を解決しなければ、「累進性」は解消しない。
    そこで、困った「六左衛門グループ」は、「次ぎの手」(下記)を吉宗に提案した。
    それは、大奥の「出」の元凶は、正室と男系の子供は別としても、「側室」と「姫娘」にあるとして、次ぎの提案を進言した。

    イ 「無役の側室」を家臣などに転嫁する事。
    ロ 「役済の側室」は「家」を興して「独立性」を持たせる事。
    ハ 「将軍の家」は「別家」を興して「独立性」を持たせる事。
    ニ 「役済側室と無役側室」を紀州藩に習って「比丘尼制度」を設ける事。
    ホ 「上級武家からの側室」は実家に戻す事。
    ヘ 「将軍に成る藩主」の藩は廃藩にして、全て家族も含めて「江戸詰め」にする制度を中止し,そのままに残す制度にして独立性採算制を敷かせた。
    ト 「無位無官の側室」の姫娘は「許婚制度」によって家臣に婚姻させる事。

    以上を実行したのである。

    禁じ手の増税は、この様な累進性の改善で何とかバランスが取れて解決した。
    (江戸時代の全ての改革は、この「享保の改革」の「リフレ政策」が見本と成った。
    252年中に「8つの飢饉」があった事に依る。単純平均すれば何と1回/32年間の高頻度である。
    回復したと思えば”又来た”と云う感覚であった。それだけに「専門的な改革」が必要と成る。
    「吉宗」は「育親許」と成った豪商「伊勢紙屋長兵衛」の「六左衛門グループ等」を引き連れて将軍と成った。)
    それだけに、これは、「六左衛門グループ」(累進性の失敗)の明らかな「沈痛な失敗」であった。
    恐らくは、「宗家葵紋の青木氏」と「本流立葵紋の青木氏」は、その「裏調査と研究」に懸命と成ったと考えられる。
    この事から得た知識が、吉宗大御所の専門家ブレーンとして「享保の改革」の「最後の詰め」として実行した。
    この事が、江戸252年期間中の改革の中で、唯一成功裏に導いた最大の要因であった。
    裏を返せば、、危険を孕みながらも「宗家葵紋の青木氏」と「本流立葵紋の青木氏」を江戸時代に子孫を遺せた最大の要因であった事に成る。

    しかし、米相場だけは「吉宗の判断」であった事が、後から発見された「吉宗独自のメモ資料」から判明した。

    これで紀州藩との比較の累進性は、改善に向かって「享保の改革」の幕府財政は改善された。

    注釈
    (公的に書かれている吉宗資料には、「伊勢青木氏の貢献」は出て来ないが、吉宗と関わった伊勢青木氏のものからは上記の事が判明する。)
    そもそも、勘定方を指導したとするが、一族を総動員して家臣で無い為に「無償」で改革を進めた。
    ”世に晒す事ならず、何れ一利無し。”の戒律から、「不記録」を行動規範としているので、徳川氏の資料の中には出て来ない。
    「青木氏の中」と「近江佐々木氏」の中にのみ断片的に記載配慮して遺される事に成る。
    そもそも、”何故、「近江佐々木氏」がこの情報を青木氏と同じく掴んでいた”のかは「重要な事」でもある。(下記)
    その接点があった。

    前段−5で、「頼房」の「側室の勝」の出自は、同族大化期の「近江佐々木氏」であって、その「姫娘A」が「本流立葵紋の青木氏」の「発祥母」であった事を論じた。
    ここで、繋がっていて同じ事が記録されたと考えられる。
    「近江佐々木氏」の始祖「川島皇子」と「伊勢青木氏」の始祖「施基皇子」は兄弟で、共に第6位皇子、第7位皇子として賜姓を同時に受けた「皇族賜姓族」である。
    故に、「近江佐々木氏」の資料には「青木氏の事」が多く遺されている。
    「近江佐々木氏」の方から筆者の先祖が頂戴した非売品の資料本である。

    兎も角も、そもそも、”改革を進める”と云っても、家臣の権限を持ち得ていない。
    然すれば、幕臣を先ずは説得しなければ成せられないし、何事も成し得ない。
    「吉宗の背景」があるとしても、「直接権力の行使」は反発を招く。
    其れこそ、”世に晒す事無かれ、何れ一利無し”を間違いなく招く。
    「六左衛門の能力」の「差配の能力の有無」が大いに問われていた筈である。
    ところが、事件を招いている記録があった。

    実は、「近江佐々木氏の資料」によると、”吉宗に同行したこの「六左衛門に近い人物」の「若い者」が、「享保9年」に、江戸で「小普請の役」の途中で、「不慮の事故」で死亡した。”と云う事が記録されている。
    この”「不慮の事故」の記述”は、間違いなく ”反対派の襲撃を受けた”のではないかと筆者は判断している。
    説得の為の調査や資料つくり等の事務方の仕事、交易などの準備の実質作業、上層部の説得の為の交際、時には実務の代行をしなくてはならない。
    この作業に大変な危険を孕んでいた事がこれで充分に判る。
    この「危険」のみならず、この為の「膨大な出費」、「一族の生活費」、「家人の人件費」を捻出するのに、恐らくは、伊勢青木氏の経済力(200万石相当)に「相当な歪」を興していた事が判る。
    これは好き好んで出来る事では無い。

    この時期の商業記録や遺産文書から観て、その「生き様」が読み取れる。

    何故、近江佐々木似の資料にこの記述があるのかは、一つは、青木氏側には外の公に成った事に付いては戒律で記録を遺せない。
    しかし、近江佐々木氏にはこの戒律事が無い。故に記録の遺した。
    ”遺した”と云う事は、一般市民は兎も角も「幕府内」では「有名な事」であった事に成り、「近江佐々木氏」と徳川氏との間に何がしかのパイプがあった事から同族の事件を記載されて記録として遺されたと成る。
    では、その「パイプ」とは、”何処にあったのか”と云えば、上記する様に、「江戸詰めの頼房」の「側室の勝の方」(姫娘Aを出した)の「佐々木氏の家臣」から入手した情報である事に成る。
    身内の「姫娘Aの嫁ぎ先」の末裔が事件に巻き込まれたのである。

    恐らくは、この様な危険に満ちた改革を進める青木氏には徳川氏からの支援は公には当然に無い。
    その中で、「宗家葵紋の青木氏」と「「本流立葵紋の青木氏」は、「江戸での人命や経済力」で”江戸での子孫拡大”に大きな影響を与えていた事が理解できる。
    上記した様に、「紀州での礼米」(12人扶持)はあったが、「六左衛門」の「江戸での礼米」の「援助記録」が発見できない。
    (吉宗は率先して「綿の着物」で通した。)

    注釈
    その後、「六左衛門」は、この後、”「享保の改革」を始末した後、息子の慶次郎に跡目を引き継いだ”とある。
    これは吉宗が将軍を息子に引き継いだが、この「吉宗の世継ぎになった息子」には言葉の言語発言に問題があった。
    そこで、大御所として実権を握っていたのだが、この為に、「六左衛門」は隠居したが、息子が引き継いで「大御所の吉宗」を支えたと記されている。
    この六左衛門の息子慶次郎も役目を終えて、伊勢の記録では江戸に「末裔」を遺したと記されている。
    しかし、「佐々木氏の資料」では、”江戸に子孫を遺して、江戸から離れて伊勢に戻ったと成って居る”と書かれている。
    この意味合いが不詳であるので、調査をした。

    筆者の調査では、江戸近郊に”笹竜胆家紋とする青木氏”は確認できない。
    しかし、後刻、「調停工作の論文」で、調べ直した結果、江戸に残った末裔は、伊勢の記録では、「四日市殿の末裔」の事である事が判った。
    つまり、親族の「宗家葵紋の青木氏」と「本流立葵紋の青木氏」とである事が判った。
    その内容(江戸の歴史書)では、この末裔には、大御所時代に、引き続き”準家臣的な立場”と観れる扱いで続けて仕えたとある。
    「「立葵紋の青木氏」は、「小普請組頭」で、「宗家葵紋の青木氏」は、”「小納戸役頭」として働いた”と記されている。
    何れも「礼米300俵」を賜ったと記されている。

    この事から、殺されたと観られる若者は、「小普請組」の「宗家葵紋の青木氏」の一族の者である事が判る。
    何れも「御家人扱い」の「布衣着用の許し」を特別に引き続き受けていた事も書かれている。
    「江戸の青木氏グループ」の組頭は、「布衣着用の高位の身分:将軍に対し発言権を持った大大名格以上」であった。
    この事からすると、明らかに反対派の「他藩の大名藩主の命」を受けての「狙撃」であった事が判る。
    この様に、危険ながらも「四日市殿末裔」は、江戸に残り子孫繁栄を果たした事が判るのである。
    これは六左衛門の「笹竜胆紋の松坂殿」は、「不入不倫の大権」で保護されている事から別にして、「立葵紋の青木氏」と「宗家葵紋の青木氏」にはこの様な危険を孕んでいたのである。
    「葵紋文様類」と云う事から来る反発:紀州藩を除く松平一族の反発が宿命であった事が判る。

    「狙撃の原因」は、上記した「厳しい経済改革」が原因していたのである。
    又、”狙撃される”と云う事は、”「改革」を裏で主導していた事”を物語る証拠でもある。
    この改革は、資料には、”幕臣のみならず各藩の家臣までその「影響の余波」として浸透して行った”と記されている。
    それだけに、”城に居る葵紋の者”と違い、”市中に自由に姿を現して出て来ている「葵紋系」”には、大きな危険を孕んでいた。

    参考
    (江戸時代300年はこの「300年周期」にぴったりと入っていた。この300周期の100年期間隔で大きな気候変動が起こるデータと成る。)

    注釈
    (「比丘尼僧」に付いて、これは梵語で「比」と「丘」を音韻で日本語にした言葉、意味は女子が僧に成る際に、あるいくつかの「戒律」を守らねばならないとした。
    その「戒律」は「具足戒」と云うもので、具足=旅の意味 全国を「布施行脚」で生活に困った場合の「売春行為」等を「戒め」として禁じたものである。
    日本では、この言葉は室町末期に使われ、「比丘尼」と云う言葉として全国に広まったのは江戸中期頃である。
    しかし、「頼宣の比丘尼山」は江戸初期で、そま前からこの山は「比丘尼山」と呼称されていた。
    「比丘尼」が使われた頃と一致する。
    本来は、純然たる布施に頼る「行脚尼僧」の事である。
    しかし、世俗から、江戸中期頃から生活苦から、この「売春戒律」を破る尼僧が出たのである。
    そのことから、俗意は、”尼僧の姿をした売春婦”の意味として使われる様になった。
    この「行脚尼僧」は、「山寺」にて密かに売春行為をした事から、比(戒)の丘(山)の当字となった。
    この事から、この江戸初期の「頼宣の比丘尼山」から、この言葉が江戸中期頃に全国に広まったと観られる。
    江戸初期は、未だこの「売春」の意味は無かった為に、「比丘尼山」と名付けられたと観られる。
    しかし、その後に、「行脚尼僧」には飢饉から布施行為が無くなり、止む無くこの行為が目立ったために汚名の呼称と成ったと観られる。
    故に、この「頼宣の比丘尼山」は布施行為による独立採算の寺でもあった。
    その為に安定しない生活苦から売春に走らない様に、これを取り締まる為にも、厳しく下界とを遮断したと観られる。
    その為に、わざわざ世話役の「寺元」を作り、「生活の保護」と「食の保護」を「地元の善意」で維持したと観られる。
    江戸中期から末期まで、乞食の様に、「食と衣服」などはかなり瀕していたと地元の口伝で伝わる。
    江戸中期以降には、「売春」は密かに行われていた事も考えられる。この尼寺は大正末期に無くなった。
    この「山寺」は、藤白浜の入り江の突き出た先端の小高い丘の上にあった。
    その丘の周囲は鯔場(いな)と云う小さい池程度の山の真水と海水の混じる湖に囲まれている「孤島」の様な地形のところに立っている。)

    これも、「紀州藩の質素倹約の厳しい実行の例」である。
    これを観ると、紀州藩は徹底していた事が判る。
    これに比べて幕府は安易であった事を「六左衛門」は知ったのである。
    祖父の尼寺として、吉宗もこの「比丘尼山」は充分に事の重要性を知っていたから、上記の提案に応じたのである。

    そこで、「デフレとインフレの現象」が起こる中で、この「二つの経済政策」の間の「安定政策」を採ったのである。
    つまり、「リフレ政策」を採ったのである。論理的には正しい。
    デフレの方に舵を切れば更にデフレに、インフレの方に舵を切ればよりインフレになるは必定である。
    問題は、その「政策の如何」に関わることであった。
    そこで考えられたのは、その政策が上記した「前段−4」に論じたものであった。
    しかし、この時、当然に激しい反対論が継友らの尾張藩から出た。
    「将軍継承問題」の遺恨も重なって、幕臣を巻き込んでの収拾の就かない状況に成りかけていた。
    そこで、吉宗は、紀州藩の勘定方を指導している伊勢青木氏に対して、指示をだした。
    「吉宗と六左衛門」は、「リフレ政策の実証」を証明する「モデル藩」として、在藩中と同じ様に「改革」を続けて促進する様に督促したのである。

    注釈
    (伊勢青木氏等は、[総合商社]であった為に外国との交易から、この「気候変動説」を承知していたと観られ、尚且つ、この「リフレ政策」を採ったと観られる。)

    そこで、「蝦夷地開拓」を各藩に対して奨励し、又、幕府自身も「新田開発」と「殖産開発」を積極的に行った。
    (新田開発では、合わせて、より強化するために「流地禁止令」を採用した。)
    「蝦夷地開拓」は、当に「新地」を開墾し、そこに「殖産」を根付ける両方の目的を持った「大プロジェクト」であったのだ。
    家康が青木氏等から教えられて「目標」としていた考え方であった。
    「新地開墾ー殖産事業」政策であった。
    これを「吉宗」が”「幕臣」にせよ”と命じてもその経験とノウハウが無ければ動かないし動けない。
    しかし、動いたとする事はその経験とノウハウを吉宗の「裏の背景」にあった事を示す。
    又、吉宗もこの裏の背景があるから、自信を持って命じる事が出来る。
    そして、吉宗にも、青木氏に商業を鍛えられて紀州藩でも「青木らの裏の背景」と共に「小さい改革」ながらも成功裏に治めていて、他藩から尊敬されていて「裏の背景」に「羨望の念」があった筈である。
    大いに自信を以って臨んだと観られる。其れに周囲は圧倒された事が外に出ている資料からも覗える。

    それを100年後に「吉宗の紀州藩」が率先して「家康の夢実現」に向けて、「範例外の御三家」では、無理を承知で、既に決まろうとしていた「将軍の座」を巡って果敢に挑戦して行ったのである。
    結局は、周囲は、「尾張藩の継友」の考え方よりも「紀州藩の吉宗」が実現させようとする「祖神」や「神君」と崇められる「家康の夢実現」の方に突然に傾いたのである。

    この「家康の夢実現」の為には、これを確実にする為に、経済学上は、吉宗等は「経済の流通の基幹」となる「3つの安定化策」(物価と米価と貨価=三価政策)を実行しなければならなかった。

    この「3つの安定化策=3価政策」に対して尾張藩の継友は、将軍に成れなかった腹いせのことも含めて、猛反対して余りの口惜しさの捌け口として、藩主として「媚態行動」を取り、批判を受け信用を無くしたのである。
    更には、「尾張藩の景気」は、「国政」でのレベルでは無く、「藩政」の範囲として跳ね除けられ、且つ、「紀州藩の改革実証」(青木氏指導)で、その論調の裏付けを失い、終局は立場を失って結局は蟄居となった。

    この様に「将軍擁立」にも個人資料の「積み重ね説」として、記録の裏側では ”「青木氏の活躍」” があったのである。
    この事から観ると、「青木氏の子孫力」は伊勢の一族一門の総力で、「一氏」が幕政を動かしている力を持つ「子孫力」であった。

    ・「瀬戸内族と讃岐青木氏」
    瀬戸内族の「江戸初期の外回り廻船の開設」は1600年前後に家康の命に似て行われた事でもあり、その「技術の優秀さ」から「明治初期後の海軍の操船技術採用」があった事は有名で、「瀬戸内族」が全国に定住移動して、この「瀬戸内族の操船技術」も全国に普及された事を意味し、その「瀬戸内族の優秀さ」も認められていた事を明確に物語るものである。

    「家康」も「瀬戸内族の優秀さ」は、「伊勢青木氏等」からも紹介されて承知していた筈で、且つ、歴史書にも「純友の乱」の事でも認知していた筈である。
    それ故に、全国から「瀬戸内族の廻船技術」のみならず、それと連動した「瀬戸内の海産物の殖産技術」とその「商法・販売方法の優秀さ」の「総合力」が有名を馳せて認められていたのである。
    むしろ、筆者は、関ヶ原から付き合いの中で、「伊勢青木氏ー瀬戸内族の関係」の「総合的な仕事」ぶりを観て知って、「家康」はこれを見本としたと観ている。
    上記した、紀州藩が主張する”「殖産政策と新田開発」の連動策”には、この「家康の見識」を通じて優秀な頼宣から紀州藩に引き継がれて行ったのである。
    故に、家康から一番に信頼されていた優秀な「10男の頼宣」を以てして「紀州藩主」にしたと考えられる。「頼宣」しか「家康の意志」を「示現できる人物」はないと考えた事に成る。

    上記の「吉宗将軍擁立」には、簡単に将軍に成ったのではなく、この「瀬戸内族の事」は幕臣にも周知されていて、それだけに「紀州藩らの説得」は効力を発揮させていた。
    「吉宗」には、「各地の青木氏や瀬戸内族」の「大きな後ろ盾」があることは「事前の周知」として受け取られていて、それだけに周囲は警戒してみまもつたのである。
    政治とは、「表の姿」では無く、「裏の姿」を観る事が必要なので、「真の姿」が観えて来る。
    「心ある者」は、この「裏の姿」を観て事に構える。
    だから、「蝦夷地開墾・開拓」では、”いの一番”に特典を以てしても積極的に迎え入れられたし、幕府も継続してこれを政策として用いたものである。
    「飢饉の時」も特別を以て救い、両青木氏らの天保期の「10万石問題」(上記)も幕府のみならず民間に於いてでさえ不問であったのである。
    しかし、”青木氏に対する暴動”は一度も無かったどころか、この「青木氏一連の行動」も逆に賛同されていた。
    これらは、この”「蝦夷地に関する一連の行動」”のみならず、”「青木氏の根本的な生き様」に賛同を得ていたのではないか”と考えられ、それが「青木氏の子孫力」に大きく影響を与えていたと考えられる。

    ・「青木氏の援助」
    その証拠としてこの事を物語る次ぎの記録が残されている。
    幕末の「天保大飢饉(1833−1839年)」の時、伊勢の「二つの青木氏」は、”私財を投入して中部地域一帯の飢えを救った”と記録されている。
    この時、長く続いた飢饉であった事もあり、各地で不満を幕府に向けられ「一揆動乱」が起こった。
    しかし、この時、「信濃青木氏」と共に「一揆動乱の経済的支援」(領民側に)をした事が記録されている。
    これは幕府から観れば、これは明らかに動乱の「扇動行為」であり、「お家取潰し等の重罰」を受ける筈であるが無かった。
    この時、幕府はこの中部地域一帯で起こった「一揆動乱」は、「長期間の飢饉」が原因であり、むしろ、その「飢饉の飢えを凌ぐ援助行為」として観た。
    この様に観る行為には、それまでの上記した様に、「過去の青木氏の生き様に対する信用」があったからである。
    まかり間違えば「援助」であっても、「出方次第」では、又、「過去の行為」の如何では、”流れに抗する事が出来ない事”から潰されていた可能性は充分にあった。
    これが、当に ”積み重ねて来た「伝統のある子孫力」「目に見えない子孫力」”なのである。
    このすごい生命力のある「子孫力」は得ようとしても簡単に得られるものでは無い。

    (明治初期から9年まで起こった動乱にも同じ援助行為があった事が記録されている。)

    上記した様に、江戸初期のから享保年代までの100年の間に起こった「5つの大飢饉」(中小飢饉も含めて8飢饉)でも同じ事が云えた筈である。

    (江戸時代の飢饉 この「5大飢饉」を含み記録されているものでは8つの大小の飢饉があり、約32年毎に1回起こっている。)

    話をもどす。
    上記の「瀬戸内族等の蝦夷地開拓に関わる変遷の論証」は、出来たと考える。
    そこで、江戸期まで云われていた ”瀬戸内を制する者は国を制する” の言葉の通り、上記した様に「瀬戸内族」は平安期でもそうであった。
    しかし、この様に「伊勢青木氏・信濃青木氏」と共に、「瀬戸内族の生き様」、即ち「瀬戸内族の子孫力」は、「幕府内に浸透した秀郷一門の横の関係力」と連携している。
    江戸期でも矢張り特別に重視されていたのである。
    そして、上記した様にその子孫力は「幕政改革」にも利用されたのである。

    従って、「瀬戸内族」の地元の「香川1」と「岡山0」の「子孫力のパラメータ」は、この様な「背景の経緯」にあった為に、”一族存亡に成るほどに注ぎ込んだ”のである。
    依って、その後の地元での「子孫力」や「子孫拡大力」には、当然に支障を来した事を物語るのである。
    しかし、その分、この「子孫力」で「江戸期ー明治期」までで、最低でも北海道の7/11にシフトしている事に成ったのである。
    衰退していたのでは決して無いのである。
    普通なら、上記した様な ”波乱に満ちた世の中の荒波”に洗われて、一族を注ぎ込んだが諸共に消えて仕舞う憂き目を受けている。
    しかし、これもこの「現世の条理」であり、普通である。


    > ・> 青木氏の分布と子孫力
    > >
    > [地域別分布力]
    > > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
    > > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
    > > 地域      異変の県        分布力
    > > 九州地方   長崎、大分       5%
    > > 四国地方   高知           2.5% 
    > > 中国地方   山口、岡山       2.5%
    > > 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
    > > 東北地方   秋田           7%
    > > 中部地方                 15%
    > > 関東地方                 45%
    > > 北海道・沖縄               6%
    > > その他                   3%
    > >
    > > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
    > > 九州地方  1.3
    > > 四国地方  1.3
    > > 中国地方  1.3
    > > 関西地方  4.7
    > > 中部地方  4.3
    > > 関東地方  11.3
    > > 東北地方  2.0
    > > その他   11.0
    > >
    > > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
    > >
    > > 修正地域(表ー3)
    > > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
    > > 秋田 1
    > >
    > > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
    > > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
    > > 福岡  2   山口  0   愛媛  3     兵庫  3    三重  1
    > > 長崎  0     島根  2   香川  1     大阪  14   石川  2
    > > 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都  5    福井  1
    > > 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良  1    岐阜  3
    > > 熊本  4                        和歌山 4    愛知  13   
    > > 宮崎  2                        滋賀  1    長野  9
    > > 鹿児島 1                                  山梨  1
    > >
    > > 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
    >
    > > 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
    > > 静岡  5    青森  1      沖縄  1
    > > 神奈川 21   山形  2      北海道 11
    > > 東京  18    岩手  1
    > > 埼玉  17    新潟  4
    > > 群馬  6    秋田  0
    > > 千葉  11   福島  4
    > > 茨木  4    宮城  2
    > > 栃木  8                                     
    >
    > > 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  


    > 青木氏の分布と子孫力−7に続く。


      [No.309] Re:青木氏の分布と子孫力−5
         投稿者:takao   投稿日:2014/04/13(Sun) 09:55:30  

    青木氏の分布と子孫力−4末尾

    >
    > 同じ時期に、上記した様な経緯から、「家康の家臣」と成った「秀郷一門」は、当然に「伊勢秀郷流青木氏」に圧力を掛けて来る筈である。
    > 同じく家康も圧力をかけた筈で、受け入れなければ、上記の経緯から「秀郷一門」も立場は無い。
    > しかし「賜姓族」にはかけられないし掛けてもかからない。
    > 間違いなく、”女系で「秀郷流青木氏」が圧力を受けた”と考えられる。
    > 中でも、”より都合のよい「血縁の形」”は、「融合族」の「四日市殿の家」ではないかと観ている。
    > それは、何より「長者の要件」に近づくからだ。しかし、徳川氏がこの「融合族」を指定して臨んだかは疑問である。
    > 家康に「融合族」の認識感覚は無かったのではないだろうか。
    > 要するに「融合族」は「秀郷流伊勢青木氏」が「受ける側」としての判断材料である筈だ。
    > 一族的な形で観れば、「融合族」は、「皇族賜姓族」をも巻き込んだ総合的な無理のない血縁策に成る。
    > 家康がこれを知ったとしてもより「賜姓族」により近づく”文句のない血縁策”と受け取ると考えられる。
    > 兎も角も、「秀郷流伊勢青木氏」は、まず「女系」で受けて、その子供に「徳川氏」のどこかに入れて継がせる等の事をすれ良い筈である。
    > そうすれば、「故事の賜姓族」としての”「象徴と笹竜胆紋と密教浄土宗」”は完全に継承出来るし、”「長者と正二位」”も継承して獲得できる。
    > 結局、結果としては、故事の”長者”は可能に成り、「朝廷と天皇」が拒む理由は無くなる。
    > そう成ると、これに要する期間としても3年は絶対に必要である。
    > 「説得のそのものの時間」と云うよりは、その為の「準備時間」が必要である。
    > むしろ、1年とかでは疑う。最低でも3年と成ろう。
    > これが「3年の意味」である。

    >
    青木氏の分布と子孫力−5


    ・「家紋分析から考察」
    そこで、「秀郷流伊勢青木氏」に系譜関係で掴めないとすれば、「家紋分析」と「神明社関係」で調べ上げた。
    ところが「社会性を多く持った家紋」では非常に確率が少ない。
    どの様な「家紋」がこの要件を成し得るのか。先ず考えられる家紋は次ぎの様に成るだろう。
    徳川氏の「三つ葉葵紋」とその「系列の家紋」に絞り込んだ。これだけでも大変な作業で難解であった。
    結局は、この「系列の葵紋」は、全部で85文様ある。
    そもそも、徳川氏は「三つ葉葵」を家紋とした時から、許可なく「三つ葉葵系の紋」の使用を禁じた。
    室町期中ほどからこの家紋類を使い始め、1590年代に一切等類似家紋も含めて全てを禁じていて罰則を科している。
    「徳川氏の威光」を感じさせる様に、「類似家紋」を使った者や縁者やその他の家紋を持とうとする「姓族」に対して、この「葵文様類」を使用すると刑罰を与えて変更を命じている厳しさで禁じている。
    其れでも85文様の類似紋が出来上がってしまった。
    先ず、この事は「徳川氏の威光」を利用しようとしていたかが良く判る。
    そこで、次ぎはより「徳川家宗家」に近い家紋類を選び出してみたが、この「調停工作」に文句の出ない家紋類は11/85と成った。

    そもそも、この葵紋の文様には謂れがあって、「京都賀茂神社」の神門として扱われていた。
    その神紋と成った経緯は、この文様が家紋神社系の神事の時に使用する神具で、一種の神木ならず神草の様な位置づけで用いられていた。
    ところが、これを京都丹波地方の賀茂神社の氏子であった者が、立身出世して、この葵文様を家紋として用いた。
    これが丹波西田氏が最初であった。その後、戦国時代に成って、三河に勃興した松平氏、本多氏がこの「賀茂神社」の神事神具に肖って、家紋とした。
    これは、本多氏や松平氏等のその最初の元出自は、「賀茂神社系の「神官」か氏子」であったとされる。

    先ず、葵紋の「徳川三つ葉葵」としては次ぎの関係する文様がある。
    A 「丸に三つ葵系7紋」と
    B 「立葵紋系」には2紋、
    C 「丸に立葵紋系」には5紋
    以上が先ず選択され得る。

    更に対象とされるものを厳選して行くと次の様に検証される

    「丸に立葵系5紋」は本多氏等の「賀茂神社」の「神官職系」の文様類の3紋
    以上は対象外として外す事が出来る。

    a 徳川葵紋系の「丸に三つ葵系7紋」などは、「賀茂神社氏子系」の文様類として対象と成る。
    b 徳川宗家が独自に特別に禁令対象に指定した本来神事、神具の「立葵紋2紋」が対象と成る。

    合わせて、徳川氏が特に厳罰を科して禁令を発した葵紋としての内の11文様が重要紋として扱われた事に成る。
    これらが「調停工作」に用いられる可能性があったものであろう。

    この「11の葵系の家紋類」が一族の中に無いかである。これも大変な根気の居る作業であった。
    在れば、生まれた子供の中で「母方の家の徳川氏」を最終の要領として継がさせている筈である。
    或は、直接、「三つ葉葵紋」を使う「父方の青木家」を興している事に成る。
    この「二つの血縁組」が考えられこれを許可する筈である。

    「徳川氏」は、「葵家紋の使用」は、身内でも「特別許可制」で対処した。
    「特別許可」では、「女系の嫁ぎ先」でも使う事を許可したが、多くは限定して1年使用で終らしているし、使用の規則までも定められていた。
    徳川氏と血縁した家臣では、当時の中では許可したのはただ1氏で、側近中の側近本田氏(本多氏)である。
    それと、家臣ではないが、直轄領とした信濃国の「信濃善光寺」だけが「永代で使用」が可能として許されている。
    この二つを検証すれば何かが観えて来る筈である。
    先ず「本田氏」の件は、徳川氏に憚ってこの家紋に「丸付き紋」として使用したので、これも合わせて「丸付き紋の使用」をも禁じている。
    つまり、葵家紋類を一切禁じたのである。

    当然に、「丸付き紋」は皇族系は、戒律によって「同族血縁一統」としている為に一切慣例に従って使用していない。
    この事から、「丸付の立葵紋」は、原則として「支流紋」として扱われる為に、「調停工作」の例外として扱われる筈である。
    そうすると、「徳川葵紋系の7紋」の内で、御三家と水戸と分家の「三つ葵紋」は「調停工作」後の「後の事(始末要領)」として除外できる。
    つまり、分家の家紋類を「調停工作」の対象家としては提案する事は無い事に成る。
    そうすると、要するに、三つ葉の「立葵紋2紋」の内、「花立葵」は本流外文様である事から除外出来る。
    従って、宗家紋の三つ葉の「徳川葵紋」と本流の「宗家の独自禁令紋」とした「立葵紋」の1紋が「調停工作の文様」として扱われる事に成る。

    実は、これには重要な経緯がある。それは、二つ目の善光寺の神紋である。これを検証すれば何か観える。
    そもそも、「信濃善光寺」は、住職が「本田善光」なる者が、室町末期に住職と成り、家康の一の家臣の本田氏はその神官職の支流末裔であった。
    この事から、この家紋は「特別許可」を家康から得たが、使用するには本田氏(本多氏)の支流である為に「丸付き紋」とした経緯を持っている。
    故に、”善光寺”の呼称の経緯となったのである。
    徳川氏は「宗家と御三家」は「、三つ葉葵紋」の「葉芯数33」を使用し、特別の一族には「三つ葉立葵紋」の使用を特別に認める態勢を採った。
    (「特別の理由」には意味がある。 下記)

    この「宗家と御三家」の三つ葉葵の葉の芯は33本で限定し、区別し、系列の松平氏等には厳格に対処した。
    この「宗家と御三家」が使う「葵紋の使用」は類似家紋も含めて一切禁じた。
    そこで、本家筋に限定許可した関係する「立葵紋」は9種あり、この「主流紋」では、徳川氏により使用を固く禁じられている。
    この「本流の立葵紋類」は「7文様」/9種である。
    内3つが「主流紋」で、更に、内1つが「本流特別紋」として扱っていたのである。
    「宗家と御三家」の「三つ葉葵紋」ではない本流しか使えないこの「7文様の立葵紋」の中では、最も限定されていたのは「立葵紋」の「主流の本流紋」である。
    この家紋は、松平氏でも徳川氏でも使用禁止された「権威ある家紋」として扱われたのである。
    この「本流立葵紋」の位置づけは、徳川氏の一種の「最高級権威紋」(ステイタス紋)としてのものであった。
    これを使用許可を受けたのは徳川氏系の資料から観ると、たった一つ「信濃善光寺」と成っているのである。

    ・「信濃善光寺」の持つ意味
    従って、この「信濃善光寺」の経緯の中に解決する答えがあると観て調べた。
    さて、その前に、その「最高級権威紋」を受けた「信濃善光寺」とは一体”どの様な寺”なのかである。
    「悠久の歴史」(644年創建)を持つ寺で、古来より「天皇家の皇子」が成る「還俗僧」が、先ず「比叡山門跡院」に入る。
    その後、「門跡寺院」から下山したその皇族出自の「門跡僧」が、代々「善光寺の住職」を務める「一種の門跡寺院」の形を持っている「権威ある寺」である。
    又、「密教浄土宗寺」の「皇族系の僧侶」や「皇族系の者」が下族して僧に成った寺でもあった。
    最終、従って、「天台宗の僧侶」や「浄土宗の僧侶」が集まる寺と成った事から、「無宗派の寺」の位置づけと成り、寺には天台宗の25坊、浄土宗の14坊から成り立っている。
    ところが戦乱期から室町末期までは、「無宗派」であった為に、この権威を使って、信長に利用されて岐阜に、秀吉に利用されて京都に、「本尊」を移されて「権威付け」に勝手に利用された寺でもあった。
    その為に「本尊」を無くした寺として極めて衰退した。丁度、天皇家が家康に圧力を掛けられて瀕したと同じ様な経緯を経ていた。
    何れも「皇族方の衰退」の形であった。
    そこで、更に調べて観ると、「家康」も例外では全く同じ手を使った。
    「家康」もこの「本尊」を尾張に移して何とか「権威付け」をしようとした。しかし、思惑通りには行かなくなった。
    ところが、「天領地の信濃と甲斐」が「徳川氏の直轄地」に成った事(仕組んだ)から、「1599年−1601年」に家康は、元の「信濃善光寺」にこの「本尊」を戻して荒れた寺院を逆に修復した。
    そして、この寺に、徳川氏の「特別権威紋」の「本流立葵紋」を贈り「寺紋」と決めたのである。
    信濃が直轄地と成った事を理由に、「徳川氏の寺」(宗家の菩提寺)であるかの様に印象付けたのである。
    その「徳川氏の寺」として、”印象付ける為の象徴”として「本流立葵紋」を「寺紋」として決めて。他の関連寺を含めて一切この家紋の使用を禁じたのである。
    そもそも、「徳川氏の葵紋」を、大化期から存在するこの寺に”「寺紋」”と決め付ける訳には、社会の反発を招く事に成るので、無理であり、そこで「家康」は、特別に「三つ葉葵紋」の基紋と成った「三つ葉立葵紋」を「権威紋」としたのである。
    それを「寺紋」として「徳川氏の寺の印象」を与え、且つ、「社会の反発」を防いだのである
    この為に社会から「信濃善光寺」は「徳川氏の寺」と目され、特別に「最高権威紋」の「立葵紋の使用」を永代に許された。
    正式な「門跡寺院」ではないが「皇族系僧の寺」として、代々その住職が変わる度に、「天台宗」や「浄土宗」の勢力が変わる等した。
    又、無宗派でありながら「密教系の寺」になる等の「大変遷の経緯」を持っていた。
    「女人禁制」となる「密教系の門跡寺院」と謳われながらも、「尼寺」に成った事も一時あったくらいである。

    ・「徳川氏の本流立葵紋」
    さて、この特別家紋扱いにしている「徳川氏の本流立葵紋」が、「皇族系の門跡寺院の僧侶」が集まる寺である事が重要なポイントである。
    だから、この家紋が同じ「皇族賜姓族の青木氏」か「特別賜姓族伊勢青木氏」にも、「調停工作」の一環として、与えている可能性があると考えて虱潰しに調べた。
    合計140氏の家紋となった。何と奇遇とも云えるほどに、たった1氏にあった。
    その1氏がこの「最高級権威紋の本流立葵紋」を持っている「秀郷流伊勢青木氏一族」の中にあったのである。
    他の10の立葵の家紋類は無かった。

    本来では、この血縁は「氏家制度の社会慣習」では家柄身分からして通常ではあり得ないし、つり合いの採れる同族血縁を主体としている戒律の中で、この時期では本来は無い。
    しかし、特別の何かがあったから、この「最高級本流立葵紋」が「秀郷流伊勢青木氏」の一族の中に家紋と成っているのである。
    非常に「厳しい禁令」の中で、「罰則」まで設けられて、変更を命じられて従わない場合は潰されるか「罰則」で厳しい制裁を受けた筈である。
    しかし、調べても「権力の強くなった徳川氏」から、「秀郷流伊勢青木氏」にはこの時期に全く受けた形跡が無く何も受けていない。
    「秀郷流青木氏」は、「特別賜姓族の立場」にあり、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」とは母方を同じルーツを持ち同族血縁している一族で「融合族」も持っている。
    「信濃善光寺の門跡僧族」とは「皇族系」では同じ家柄である。この点では共通している。
    ところがもう一つ共通点があった。
    それは、家康が「信濃善光寺」の「徳川氏の寺」とした時と、上記する”「故事の長者問題」”とは全く同じ時期である。
    「時期」と云うよりは当に「時」である。
    ”殆ど同じ時”に、この「立葵の本流家紋」を、「信濃善光寺」と「秀郷流伊勢青木氏」に使用を許可している事に成る。

    この両者は、何れも共通する事は、「皇族方」にあり、それも最高の「悠久の皇子の位階」を持っている事も共通点である。
    つまり、この事から、この「立葵紋の主流本流紋の同紋」は、徳川氏の中でも、”「皇族賜姓族」並みの血筋を有する一族” のみだけに与えられる特別の”「最高級権威紋」”であった事に成る。
    この立場に無いものには向後に絶対に与えていない家紋である。
    「時」が一致する共通点では、この事でも、「2つの本流立葵紋」が「調停工作」に合わせて行った事であることに成る。
    つまり、名目ともに実質の徳川氏の特別の”権威紋である事”を印象付けた事が判る。

    善光寺の「皇族方の門跡僧」を徳川氏が合わせて保護する事で「調停工作」を有利に運ぶ事も目論んだのだ。

    注釈
    (「徳川氏の記録」には、同時期にありながら、この善光寺にだけ記録されている事に付いては、「藤原秀郷流伊勢青木氏」への「本流立葵紋」の件には意味があった。
    そもそも、青木氏側にとっては、”記録として残す事”は、「調停工作」をあからさまにしてしまう事に成る。
    その結果、「権威の低下」を招くので得策では無い。
    特に青木氏側には、”世に晒す事なかれ、何れ一利無し。”の戒律があって、その点でも、徳川氏に注文を付けた。)

    注釈
    (”晒す事”のみならず、秀郷流の”憚る事”では、徳川氏が最高権力者と云えども ”謙る事は無い 何だかんだと騒ぐな 常であれ”と戒めている。
    この事からすると、「晒す」も、「憚る」も両方の立場からも、この「調停工作」には全てが「裏の行為」でそもそも臨んだのである。
    そもそも、伊勢の両青木氏は、古来からの絶対的な「先祖の戒律」をこの件で自ら破る事はしない。
    そこで、”不記録扱い”として、 ”実質の「本流立葵紋」の発祥を示現させる事” だけで、 ”青木氏の「故事の長者」の社会に対する誇示” は充分であると考えたのである。
    ところが、発祥は認められるが、伊勢にも記録一切がないのである。本来であればあるのに無いのはこの戒律に従った事を意味する。

    ただ、柵の少ない「本流立葵紋の青木氏」か「宗家葵紋の青木氏」の千葉ー茨木の家には、何れかの末裔が”何がしかの記録に類するもの”を遺している可能性もある。
    しかし、現段階では筆者側には未だ検証できる段階に至っていない。)

    つまり、「徳川氏の最高級権威紋」の「本流立葵紋」を家紋とした「秀郷流伊勢青木氏」には、次の様な事が起こった事になるのである。

    ”「朝廷と天皇」に対する「調停工作」(青木氏の故事に依る”長者の権威獲得”)の為に、「青木氏との血縁の繋がり」を構築する事を青木氏と徳川氏は目論んだ。
    それには、次ぎの「3つの要領」(家興要領)の事を実行しなくては成らなかった。

    1 徳川氏宗家と伊勢秀郷流青木氏(四日市殿)との「本流立葵紋(特別権威紋)」での「血縁関係の構築」
    2 1の末裔の一人を「本流立葵紋」の秀郷流青木氏(四日市殿)」を発祥させる。
    3 1の末裔の一人を「伊勢秀郷流青木氏(四日市殿)」の「全ステイタス」を持たせた徳川氏を徳川氏の中に発祥させる。
    4 3の要領の代わりに、1の末裔の一人を「宗家葵紋の青木氏」を発祥させる。

    但し、3は「女系側の徳川氏」と成る事で徳川氏は受けにくいし、「格式の差違」から青木氏側は慣例に従えば受け難い。
    しかし、3は絶対に行わなくては、故事に習った ”徳川氏の長者” は1だけでは「女系の形」に成るので不充分と成る。
    その為に、「紀州藩主初代頼宣」にこの「3のステイタス」を与えて、一代限りの「笹竜胆紋の徳川氏」を継承させる。
    この補足として、4を発祥させる事で、徳川氏との血縁関係を青木氏との間で構築することが必要であった。

    これが、下位の位階と格式にある徳川氏にと取っては、「真人族か朝臣族」の「上位の格式の氏」を名実共に構築する手段であった。
    「青木氏の資料」によると、これは、古くは鎌倉期から行われていて「3つ要領」(”「家興要領」”と呼ばれていたのである。

    一般には”「名義札制度」”と呼ばれ、豪農や豪商が「郷氏の名義」を金銭対価をベースに上記要領で行われていた。
    特に江戸期には、家柄を重んじる社会であった為に、頻繁に行われた。
    中には、「郷氏」のみならず、下級武士が上級武士の断絶した家を金を貯めて、「金銭対価ベース」でこの制度を使って出世を試みた。

    参考 
    平安期中期頃にも、この事例が青木氏にもある。(江戸期まで4件起こっている)
    これが「青木氏の資料」とした「戒め」として遺した理由である。
    ”世に晒した結果”で起こった不祥事と判断されたのである。(4件ともに戦いまで起こした。)
    「近江青木氏」が滋賀に移動した後に再び近江に戻る際に、この現象が起こった。
    現地に残った分家断絶の家を、この方法で強引に、上田郷の「上山氏」が「青木の家」を近江で興した経緯がある。
    これを、近江青木氏の許可を得ずに、朝廷に届けて認可されたのである。
    (家興要領としては成り立つので認可 上山氏に依る裏工作があった。)
    その結果、この「上山氏の青木氏」は高い能力を発揮して信頼されて出世して10の守護職代を務めた。
    後に「近江青木氏本家」と争いとなった。 遂にはその優秀な才能で子孫を広げ「滋賀青木氏の祖」となったのである。
    (「近江青木氏」は戒律的に弱いところが歴史的にある。この後、源氏に合力して滅亡し、「摂津青木氏」に成る。)

    先ず、それには ”徳川氏一族から 「何らかの姫娘」(下記) を「秀郷流伊勢青木氏」に入れて血縁した。”と云う事に成る。
    そして、”生まれたその子供の一人にこの「徳川氏最高級権威紋」の家を興して継がせた。”と成る。
    これで、先ず、「秀郷流青木氏」と「徳川氏」は「親族」と成った事に成る。
    これで同時に、最低でも、「調停工作」での「朝廷と天皇」が求める要件を叶えられる事に成る。

    更に、この「主流本流立葵紋」を持つ「秀郷流伊勢青木氏」の住んでいる地域は「伊勢四日市付近」に一番多い事にある。
    家紋分析から、関東千葉ー茨木付近の結城域と茨木の水戸域にも、この家紋の「秀郷流青木氏」が少ないが移動定住して現存している。

    (筆者は、この「本流立葵紋の青木氏」を存じ上げている。「青木氏の出自の条件」に全く問題はない。)

    この「本流立葵紋の青木氏」の伊勢から関東千葉ー茨木地域に移動定住した「時期と理由」が何時であるかは、下記の状況であるが「子孫拡大」に伴って移動している。
    恐らくは、参勤交代等の移動の機会とそれに伴う血縁機会が起こした定住根拠と成る。

    注釈
    (上記の”何らかの姫娘”はこの地域(千葉ー茨木)の徳川氏から来ているのではないかと推測する。下記
    その人物などの経緯は判明しない。しかし、これも「青木氏の戒律」 ”世に晒す事なかれ・・”に依って、上記の徳川氏の「立葵紋の不記録」と共に「不記録」とした。)

    ・「江戸定住の時期と理由」
    筆者は、この「時期と理由」として、次ぎの様に考えている。
    吉宗が将軍となって江戸に赴くが、この時に「伊勢青木氏」と同じく吉宗に従って同行したと観ている。
    「伊勢青木氏」は上記した様に「青木六左衛門」が勘定方指導として「享保改革」を主導した。
    ”この時に「六左衛門」に従って「四日市殿一族」として同行した”と観ている。
    「六左衛門」の配下で「享保の改革」に同族として助力したと観られる。
    「松阪殿の六左衛門」の末裔も江戸で子孫拡大しているが、この「四日市殿の末裔」も定住し子孫拡大したと観られる。

    吉宗は将軍に成るに従って、先ず20人程度の家臣で江戸城に臨んだ。(同行の青木氏らの別班は含まず。別班と記載)
    しかし、改革が進むにつれて、一気に尾張藩などで構成されていた旧幕臣を排除し、幕僚の6割も紀州から呼び寄せた家臣で改革を実行したと記録されている事からまず間違いはない。
    徳川氏の慣例を観てみると、将軍を出した班は「廃藩」する事に成っていたが吉宗はこれを廃止した。
    何故、廃止したかは幾つかの自由が事由があるが、吉宗は「経済改革」を主体とした為に、紀州藩は勘定方などの事務方の多くの幕臣は江戸に出向した。
    この為に、伊勢青木氏は、六左衛門等を江戸に向かわせると共に、一族を駆使して、紀州藩の勘定方を補佐した。
    この事に一つの大きな下記の理由があった。

    吉宗経済改革(前段−4で記述)に対して尾張の継友等は猛反対をしていた。そこで、吉宗経済改革の手法が間違いない事を立証する為に、この小モデルを紀州藩に置いた。
    この紀州藩の勘定方を伊勢青木氏が担当して、幕府の「六左衛門グループ」と「紀州藩の実家松阪グループ」が改革を進める事に成った。
    紀州藩の「実家松阪グループ」は、蝦夷交易等の為に交易船を充実させて懸命の改革の取り組みで藩財政が改善して成功した。
    この事で尾張藩の継友は攻撃をする根拠を失った。そこで、吉宗は一挙にその経験をした各役方を呼び寄せて、このチャンスを利用して尾張の幕臣と入れ替えたのである。
    これが、元々からの「吉宗の戦略」であった。大きな実権を握ったのである。
    ところが、「享保の大飢饉」が起こった。その為に、「五公五民の増税」を実行せざるを得なくなった。
    これが悪評を生んだが、「享保の改革」のリフレ効果で非常事態に成らずに何とか乗り切ったのである。
    紀州藩は、質素倹約と交易に依る新改革が効果を発揮して改善に向かったのである。
    紀州藩では、「財政改革」を軌道させる為に「農業改革」と「漁業改革」も並行させて、”「殖産事業」”を興し、これを「交易事業」と伴わせて効果を発揮させた。
    これは当に伊勢青木氏の経済手法であった。この改革の為に「水利事業」を整備した。紀州では”有名な語り草”に成って居る。
    この伊勢青木氏等の後押しによる交易船を使った交易事業の手法は効果を発揮し幕末まで続いた。

    注釈
    この事を物語るその交易船で有名なある事件が幕末にあった。
    坂本龍馬の船と紀州藩の交易船の衝突である。
    紀州藩の操舵ミスが原因で坂本龍馬の船は沈んだ。
    藩財政が良く直ぐに賠償した事が記録に残っている。
    ここにも、「青木氏の貢献」が裏であった。

    幕府の「六左衛門グループ」と、紀州藩の「実家松阪グループ」と、「伊勢紙屋グループ」の3班に分かれての態勢であった事が記録から読み取れる。
    結局、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「讃岐青木氏」と「一部摂津青木氏等」を動員しての「交易船班」と、「商い班」の総動員であった事が商業記録から読み取れる。
    松阪殿、名張殿、員弁殿、桑名殿、四日市殿、永嶋殿(秀郷流)の一族総動員であった模様である。
    この時は、既に、「総合商社」であった様で、交易船大船の数、讃岐青木氏の廻船大船(交易もした)の数を合わせて大船団であった。
    これをフル活用して吉宗を懸命に支えたのである。
    尾張藩継友は三井が背景に、吉宗の幕府は伊勢青木氏等を背景に展開された政治的な意味合いの強い「商業戦争」でもあった。
    この商業記録から観た紀州側の事情から考察しても、頼宣の時代からの「家臣説」はあり得ないのである。

    何より証拠に、「12人扶持の礼米」がこれを証明する。
    伊勢青木氏の200万石の経済力と信濃青木氏と讃岐青木氏の持つ経済力を合わせれば、「12人扶持の礼米」は明らかに「礼米」である。
    家臣であればこの程度の小礼禄米では済まない。家臣説は完全に消える。



    話を戻して。
    この「本流立葵紋」での「調停工作」の血縁関係から、子孫を得たのに1600年代の3年経ていて、享保までの約100年間を経過している。
    そうすると、3代目か4代目が移動定住している事に成る。

    「頼宣」が「謀反の嫌疑」を掛けられて、江戸に10年間居た時に紀州から同行した頼宣の近習家臣と成った「伊勢の立葵紋の青木氏」の者が子孫を遺した事も考えられる。
    それには、この「立葵紋の伊勢秀郷流青木氏」の「融合族の者」の2代目か3代目の末裔が「頼宣の直参近習家臣」と成って、同行して、江戸で子孫を遺したと考える事も出来るが証拠はない。
    この場合は10年後に、二度と江戸に来る事がないとして、留守居を残して一切紀州に引き上げている。
    (紀州から”古参のご意見番”として睨みを効かした事が記録されている)

    注釈
    (徳川氏としては「本流立葵紋」は「最高級権威紋」である事から、賜姓族や皇族方でなくては使えない事に成った。
    「本流立葵紋系の徳川氏」(本流立葵紋の青木氏)は、”身分家柄を合法的に変える方式”としても、向後に本来は発祥しない事に成った。

    先ず、発祥させるには、頼宣自身が葵紋と立葵紋の二つの出自を一代限りで持つ事に成る。
    依って「立葵紋の徳川氏の末裔」は、「宗家の特別権威紋」として善光寺を遺して維持しなければならない「調停工作の約束」である以上は、起こらない事に成る。)

    (実は、筆者はこの「本流立葵紋の末裔」と観られる方を関東で存じ上げている。本サイト運営に最大に御尽力されている。この方のルーツ探究が研究のヒントとなった。
    恐らくは、この方は江戸定住族の末裔と成る。)

    従って、この場合は、「秀郷流伊勢青木氏」(四日市殿系列青木氏)であった事に成る。
    その後、「頼宣」は紀州に居て、紀州藩主の2代目が江戸に向かっているので、「立葵紋の秀郷流伊勢青木氏の者」の本体は伊勢に戻っている筈である。
    依って、「頼宣家臣説」の可能性では考え難く低い。
    ただ、紀州藩に対して、上記した様に、親密な付き合いがあって、家臣の身分ではないが、勘定方の指導役と紀州藩の交易船の創設に尽力し、指導するなどの事を実行している。
    当然に、以上の事では、「伊勢の青木氏」から「多くの人」を送り込んでいた事は事実である。
    しかし、家臣でない者が頼宣と共に江戸に同行する事は考え難い。
    そもそも、何かの理由が無い限りは、将軍と同じ葵家紋の紋付を着て、将軍より権威のある徳川氏の特別権威紋の立葵紋を付けた紋付を着た者が周囲でうろうろされては家臣はたまらない。
    兎も角も、頼宣も周囲に於いて立場上で困るだろうし、依って、「頼宣家臣説」と「同行説」はない。
    これは、上記する様に、”青木氏の晒すと憚るの戒律” からしても ”「頼宣の周りに蔓延る事”に成る事からも、戒律に反する。
    100%ないとされ、従って「青木側の記録」にはない。
    (あるのは、関連する内容としては「青木六左衛門の件」だけである。紀州徳川氏には「青木氏の不記録」の原則から無い。)

    そうすると、この「本流立葵紋の青木氏」の「江戸定住族」は、「青木六左衛門」と共に「吉宗同行班の説」に成る。
    下記の「青木氏融合族」(四日市殿末裔)である事も踏まえて、「吉宗の稚友」で「同育で義兄弟」の「青木六左衛門」と共に別同班で同行した事に成る。
    とすると、仕事は「六左衛門」の下で、伊勢での「商いの職能の利点」を生かして、働いた事に成る。
    そうする事で、「宗家徳川葵紋と権威本流立葵紋」の件から起こる「周囲の問題」は無くなる。
    まして、「将軍の吉宗」や側用人の加納氏とは、「六左衛門」と同じく伊勢では同年代として、「2つの徳川家紋の青木氏」の者は知友で充分な面識があるから、先ず問題は起こらない。
    「青木六左衛門」等には、「布衣着用」(将軍に直接意見を云える大名扱い)を許されているのは、この様な周囲との不必要な問題を解消する手立てでもあった。

    (吉宗は伊勢青木の教育を受けて「現場主義の将軍」であったと記録されている。
    依って、家紋による周囲の問題は軽減されていた事が判る。)

    「皇族賜姓族伊勢青木氏」と「秀郷流伊勢青木氏」とは、平安期から血縁関係にあるが、両方の「青木氏の融合族末裔」(夫婦が青木氏)が、この「四日市の地域」に住み分けて定住しているのである。
    これはより血縁的には「皇族賜姓族に近づいた青木氏」である。
    「徳川氏」と「藤原氏」と「青木氏」の「3つの血縁性」を持った「賜姓族系の青木氏」が発祥した事に成る。

    これらの一連の考察から、家紋から観ると明らかに、「調停工作」の「朝廷と天皇」が求める要件を叶えられる事を証明できた。
    この条件が出来たから、次の様に、「二つの故事の要件」を徳川氏は使える事に成ったのである。

    これで「青木氏」の中にも「徳川氏」が入った事に成り、一族として「徳川氏」も文句無く、「笹竜胆紋」「密教浄土宗」「長者呼称」「正二位」「征夷大将軍」「浄大一位」「正統 左衛門上佐」「民部上佐」等の永代ステイタスの「故事条件」の全てをば使える事に成る。
    「賜姓族」を前提としては、「賜姓族の武家源氏」の血縁性が直接無いにしても、「青木氏の長者」は「源氏の棟梁」より格式は上であるから、正式に堂々と「朝臣族」は名乗る事が出来る事に成る。
    むしろ、「源氏の棟梁」は「天皇家の故事」によるものでは無い。”長者”は「武家の発祥源」であり、「格式位階」はこれ以上はない。
    故に、「徳川氏の征夷大将軍」は格式位階から観ると、青木氏等の綿密な「調停工作」によって「鎌倉幕府」や「室町幕府」の上位と成った事に成る。
    文句の出し様が無くなった事に成る。
    だから、「家康」も「朝廷と天皇」も納得したのであり、その「調停工作」の裏工作を「由緒ある賜姓族の青木氏」が行った事も納得させられたのである。
    これだけの事は”他氏の余人”では成し得ないし格式位階上で無理である。
    そもそも、”「長者」”は、「3つの発祥源」=「長者」の「衣冠の関係」にあり、「青木氏の故事」である以上、「青木氏の了解」無くしては成し得ない。

    ただ、上記の中で、「笹竜胆紋と密教浄土宗」の「権威事項」の使用は「紀州藩の頼宣」だけと成る。
    現実に、「宗家と御三家」の中では「個人の権威」としては誰一人も使っていない。
    「紀州藩の頼宣一代」だけである。

    注釈
    (源氏の笹竜胆は、「長者の青木氏」が、「天智天皇」より「青木氏の象徴紋」として授かったものを、同族賜姓族として使ったものである。
    「嵯峨天皇の詔勅」の中には、源氏賜姓時には象徴紋として何もは受けていない。
    むしろ、”朝臣として臣下させて与えるが、民の労苦を思えば、領地などの特典は与えない。 その代わり「戒律」も与えない”と記されている。
    要するに、”朝臣族とはするが、後は自分で切り開け”の意味合いであったので、象徴紋はなかったのである。
    同じ賜姓でも、「青木氏」には、「長者」として「3つの発祥源」の「義務と戒律」を与える代わりに、領地などを与えて保護し「不入不倫の大権」を与えて保護したのとは、同じ賜姓でも異なる。
    青木氏は「二足の草鞋策」で、源氏は「武力」で生き延びようとした。
    だから、青木氏は「長者」、源氏は「棟梁」と成ったのである。
    「武力の者」は何時か”潰れる者”、「商いの者」は”長じる者”なのである。
    この「青木氏の故事の長者」からは、後に一般に使われ、”億万長者”と云う言葉が生まれたが、「億万棟梁」とは云わなかった。
    この事は、「調停工作」に依って得た「家康の長者」の事はよく民衆に知られていた事に成る。
    故に、民衆を含めて、誰も家康の征夷大将軍の権威に文句を附ける者が無かったを物語り、青木氏と徳川氏等が目論んだ「権威」は保たれたのである。)

    注釈
    更には、場合によっては、上記した「権威の位階」を獲得した事から、紀州藩は「青木氏」をも名乗る事も可能となる家柄と成った事に成る。
    (但し、徳川氏に執っては何れもの権威の位階である「格式の上の権威」である以上は「青木氏の容認」が必要である。
    ”晒す憚るの戒律”を前提とする以上は、同族血縁を前提とする以上は、前例のない姓族の徳川氏の”青木朝臣”は認めない事に成る。)

    要するに、正確に云えば、「賜姓族青木氏系藤原氏関係族徳川氏」となった事に成る。
    しかし、前例を認めない以上は、現実には、「調停工作の成果」である「青木氏の故事」に習った「長者」の方を使って「源朝臣徳川家康」と名乗っている。
    この名乗りには、従って、「家興要領」を構築した事に依って、 ”源の朝臣徳川・・” の名乗りは納得できる事に成る。
    ”源の朝臣” の源氏との直接の繋がりは無いにしても、その ”格式と位階上の青木氏” との繋がりを構築したのである。
    「嵯峨期の詔勅」に基づき、源氏が青木氏を、青木氏が源氏を名乗る事には問題は無くなった事に成る。
    向後に誰も異論の口は挟まない事に成る。当然に「朝廷と天皇」も異論は出さない。
    況して、一度、征夷大将軍に成れない「藤原氏」を名乗って置いて、今度は「征夷大将軍」を名乗ると矛盾が生まれるし、「民の信用」が無くなる。
    しかし、これで、一切の異論が出なくなる事に成ったのである。
    「調停工作」は大成功である。

    恐らくは、徳川氏宗家は、この「本流立葵紋の青木氏」と「徳川葵紋の青木氏」を保護したと観られる。
    伊勢と江戸の末裔に対して、その返礼として青木一族に対して「本領安堵」(「伊勢一帯の大地主」と上記した商いの利権保護)したのである。
    そして、その「裏の意」には「賜姓族青木氏」が徳川氏の中に遺されている事に成る。
    しかし、この儀礼も現実を調べると、将軍3代までの事であった様である。
    将軍4代目では、伊勢神宮参詣時に、青木氏と「格式の違い事件」を起こしている。
    (将軍になった家筋が原因している。吉宗に成ったと時には又戻っている。)

    ともあれ、つまり、家紋から観ると、上記の「ABCの総合族」と考えた方が良いのである。
    (この立葵の家紋に付いては既に投稿している家紋研究の論文にある。)

    注釈
    この方式は、上記の「高知の青木氏」の「名義札方式」と同じで、「名義札の売り買い」と「青木氏が現存」するところがその点が異なるが、、”身分家柄を合法的に変える方式”として室町末期からよく使われた血縁方式である。
    室町末期から生き延びた”身分家柄の低い立身出世族”は、何とか獲得して次の出世に結び付ける為に特に目立って江戸初期からこの方式を採用された。一種のブームの時期であった。
    江戸初期には、上記した様に、「調停工作」が成功し、「最高の権威」を家康が獲得する事に成り、人々は安心して社会が安定化し、その結果、「家柄身分官位官職」等の「権威」が出世に大きく影響する社会体制に成って行ったからである。
    徳川氏は名実ともに、現実に「搾取から名実」の「身分家柄の最高権威」を獲得し、1614年を以って以降は、社会は、”最早戦いは無い”として安定し変化したのである。
    この”キッカケ”を作ったのは、当に「上記した一連の調停工作」の「青木氏」にあって、引き続き、”安定化に向けた社会構築”の為に、影で吉宗を育て押し出し、家康や青木氏等が夢とした「改革の完成」を目指したのである。

    恐らくは、この背景から、「注釈の方式の要領」から考えると、徳川氏のみならず青木氏も積極的に、この後、直ぐにもう一人の子供に「本流立葵紋の徳川氏」か、少なくとも、宗家の三つ葉の「徳川葵紋の青木氏」を発祥させたのである。
    将来の「青木氏と家康の夢実現」に向けての「準備作業」として完成させなければならない事は、”身分家柄を合法的に変える方式”として、目的は「本流立葵紋の徳川氏」か「徳川葵紋の青木氏」を段取りとして発祥させる事にあった筈である。
    (上記した様に、徳川氏の別人を以って「本流立葵紋の徳川氏」を発祥させる事は出来ない。)

    それは「家康」のみならず、「夢の計画」の戦略上は、次ぎの「頼宣の育成」を完成させる事であった筈である。

    その前には、徳川氏の何らかの女系の子供(上記)で、「名義・権威の家」を「自分の家」に興し、最後に、”「名義・権威先」の家を別の子供で興す要領”では、先ずは「自分の家」(藤原秀郷流青木氏)に興す必要があった。
    これ無しでは「名義・権威先の家」を興す事は掟に依り出来ない。

    歴史のこの場合の資料を観ると、次ぎの様な事が主流であった。
    現状に子供が居る居ないは別にして、取り敢えず、「形式的に事前に家を興す習慣」も現実にあった。
    出世の為の「身分家柄の確実な確保」の為に、末裔が出来ない前にも、既に確定させておいて、より早く確実にする為に「事前発祥を裏の手」として使っていた。
    この様に、早くて平安期末期頃から、既に「身分家柄を合法的に変える方式」として採用されていた。
    何はともあれ、形式を先ず整えて、後で子供が出来た時点で、その子供に正式に継がせる方法もあった。
    この場合は、子供が適齢期に達しておらずとも、”幼女の時”から嫁がせる方法を好く採った。
    そして、その子供は、男子では、嫡子、嗣子、妾子、養子、貰子の如何は問わなかった場合が多かった。
    女子では、適齢期の年齢は関係なく、妾子、養女、縁者から貰女が多く使われた。

    注釈
    現在の晩婚化と違って、一般的に明治期でも14から15歳程度が適齢期とされいた。
    上層階級では更に早い年齢で婚姻関係を結んだ。
    これは適齢期の年齢であって、平安期では、適齢期に達する前の5から7歳くらいで先ずは嫁ぐ慣習であった。
    当時の平均年齢は50歳前後であった事から、子孫を遺すと成れば、現在で80歳−15歳とすると、40歳−7歳と成る。
    (平均年齢が低ければ、人は本能的に子孫を遺そうとして、生理現象を自然に下げる本能がある。)
    この本能とは別に、知恵を使った子孫を遺す方法を考え出す。(許婚制度)
    確実に子孫を遺すと成り、更に「家興し」等の政略上の事情など伴えば、7歳を待たずして、1歳での慣習も当然に生まれる事と成る。
    生まれる前の0歳でも「政略上の婚姻」ともなれば、「通常の事」としてあり得た事は資料を観ずとも納得できる慣習である。
    つまり、今はこの概念としては無くなっているが、明治期まで確実に遺されていた「許嫁制度」は、これを物語る。

    従って、室町期の戦乱後の人口減少の最中の江戸初期であって、徳川氏の家興しの政略上の婚姻であって、「調停工作」の条件としても、家康の年齢としても、「許婚制度」を待つ以前の問題であった。
    ここに、3年の期間の中で解決しなくてはならないとすると、この「許婚制度」の0婚が要求されていた事に成る。
    それにしても、10年は待てずともせいぜい2年から3年と云った期間内に血縁の関係の形は持っておく必要があった筈である。
    継承する子供が、次ぎの問題で、1年程度内に出来る見込まれていれば、先行して血縁を早く結んで置くことには「許婚制度の慣習」の中の事と成る。

    徳川氏と青木氏等はこの「許婚制度の慣習」の中でのぎりぎりのところで進めた事が判る。
    この事から割り出せば、”家康の女子と男系の女孫”の中で、この対象の中に入る「姫娘」を調べ上げることをすれば必ず見つかる事に成る。
    それには、青木氏のこの場合の条件で、「不記載、不記録」がある筈である。
    その姫娘を見つけ出す事に成る。対象者は凡そ150人程度となった。


    「本流立葵紋の徳川氏」は、頼宣が長保寺の件で先ずは一つ目の要領は成立している。
    問題は、次ぎの2つ目の最後の要領と成る。
    宗家の三つ葉の「徳川葵紋の青木氏」である。
    これを成立させて、初めて「朝廷と天皇」が求める故事に従った「調停工作」であって 青木氏の故事の”長者”の求める完成した条件であった筈であった。
    この「徳川葵紋の青木氏」が伊勢ー紀州か、関東(東京ー茨木−千葉)の何れかに上記の経緯から大きくは子孫を広げてはいないと考えられるが、他に存在して居ると観ていて末裔調査している。
    上記した様に、「立葵紋の青木氏」は伊勢と千葉で確認できている。
    参勤交代等によって、「伊勢ー紀州」には定住していない事は調査で判明しているので、現在も東京か千葉に定住したと考えている。

    そこで、「徳川葵紋の青木氏」がお膝元の江戸定住は果たして可能か”と云う問題を検討して、”江戸の青木さん”を調べたが発見できなかった。


    ・「徳川葵紋の青木氏」の検証

    参考
    次の様に「江戸時代の青木氏の住居」を調べるとその家筋が観えて来る。

    青木新五兵衛 新御番頭 二千十石 1460坪
    現代の場所  東京都文京区後楽1丁目の周辺
    現代の建物  日中友好会館 後楽国際ビル

    青木2軒
    現代の場所 東京都新宿区市谷薬王寺町の周辺

    摂津麻田藩 青木甲斐守一成 一万石 2000坪
    現代の場所 東京都港区三田2丁目の周辺 三つ盛州浜紋

    青木与右衛門
    現代の場所 東京都千代田区九段北3丁目の周辺
    現代の建物 靖国神社

    青木鉄之助 御書院番 650石 943坪
    現代の場所 東京都千代田区一番町の周辺

    青木又四郎
    現代の場所 東京都文京区水道1丁目の周辺

    青木一軒
    現代の場所 東京都文京区関口2丁目の周辺

    青木一軒
    現代の場所 東京都千代田区三番町の周辺
    現代の建物 千鳥ヶ淵 戦没者墓苑

    青木一軒
    現代の場所 東京都千代田区神田神保町1丁目の周辺

    青木一軒
    現代の場所 東京都文京区千石3丁目の周辺
    現代の建物 東福寺、東洋女子学園校近く

    青木半蔵
    現代の場所 東京都千代田区九段北2丁目
    現代の建物 白百合学園

    青木一軒
    現代の場所 東京都新宿区北町の周辺

    青木左京
    現代の場所 東京都新宿区神楽坂5丁目
    現代の建物 牛込署

    青木孫太郎 寄合 五千石 1400坪
    現代の場所 東京都港区南麻布4丁目の周辺 ホーマットアンバサダー フランス大使館近く
             東京都港区東麻布2丁目の周辺
    現代の建物 出光ガソリンスタンド

    青木甲斐守
    摂津麻田藩
    現代の場所 東京都新宿区神楽坂5丁目
    現代の建物 フランス大使館邸

    青木一軒
    現代の場所 東京都渋谷区千駄ケ谷6丁目の周辺
    現代の建物 新宿御苑 上池

    青木一軒
    現代の場所 東京都渋谷区代々木1丁目の周辺
    現代の建物 JR代々木駅

    青木一軒
    現代の場所 東京都文京区白山4丁目の周辺
    現代の建物 寂円寺近く

    以上が江戸時代に住居していた青木氏である。

    筆者が持っている「江戸の上級武士」(藤原氏秀郷流青木氏らの御家人・旗本や5家5流の青木氏等)の記載はない。
    これには慣習があって、江戸には幕府から与えられた住居は仮屋敷として、本拠は神奈川や千葉や埼玉の江戸近隣に居を構えていた。
    筆者の先祖の吉宗に同行した伊勢の青木六左衛門は伊豆を本居としして家族を置き、江戸はお勤めの仮居として家人が居た。
    これは家柄身分上からの「古来の仕来り」を護ったと考えられる。

    同様の仕来りを護ったとした場合、「徳川葵紋の青木氏」ともなれば、本居は伊豆か千葉ー茨木の何れかに成る。
    子孫を遺していると成れば、”どちらが融合して生活出来得る方にあるか”の選択をしたと考えられる。
    「伊勢の秀郷流青木氏」との「融合族の末裔」(四日市殿)ともなれば、「同族血縁の融合族」の父方を先ず選ぶ事に成るだろう。
    「徳川葵紋」は、「秀郷流青木氏」に「徳川氏」から嫁取りをして、その子孫の一人が「徳川氏方」の母方の「本流立葵紋」を継承させ、もう一人が「徳川葵紋」を継承させた形である。
    「父方の融合族」の「笹竜胆紋」の継承は、形式上としては紀州藩主の徳川頼宣が継承した形を採ったのである。

    上記の凡そ150人程度を調べ上げた結果、たった一人の家康の息子で、条件中の条件の持ち主の条件に完全合致する「姫娘」が下記の通り居た。
    それも、見事に「青木氏の不記録」の条件に合致する事も符合していた。

    この要領では、母方は江戸か茨木(水戸)と成るが、江戸は慣習上は無いとなれば、茨木(水戸)と成る。
    この”1600年前の頃には水戸に徳川氏が子孫を多く輩出する程に定住していたか”の問題であるが、この年代には水戸に徳川氏は多く存在した。
    「頼宣」は8歳まで藩主ではあったが、実質上は駿府の家康の下で育てられていた。
    その後は、家康11男の「頼房」が水戸の藩祖と成る。
    150人中の第一対象者は、何とこの「水戸の頼房」だけとなった。後全ては他氏との血縁している。
    そして、その頼房には、これも驚くべきか他の家康の息子の中でもある事情があって早婚であった。
    「姫娘」たけでも、嫡子の跡目男子も多いが、何と「女系の姫娘」は記録から観ると正規の記録に載る姫娘は18人も居た。
    この頼房の”有名な素行”から、ただ記録に載らない「姫娘」は他にも多くいた事が記録されている。

    さて、この記録の中でも、長女次女あたりに成る「姫娘」で、詳細記録が故意に消されている姫娘が二人いる。名は一人は判っている。

    後は、家康の娘を始めとして、孫姫娘で、この「調停工作」の「対象者」と成り得る者の「姫娘」の直系性、時代性等を調べた。
    結局、最終の対象者と成り得る「姫娘」は合わせて4人いた。
    (頼宣には子供が少ない。「頼房」以外に「姫娘の対象者」はいなかった。


    中でも、「頼宣」の跡目に入った「頼房の姫娘」の記録抹消の二人の内の一人姫娘(A)に注目している。
    後3人に若干の考察疑問点があった。
    (うち二人は時代性が大きく異なり、後での詳細調査では家臣に嫁いでいるので除外。)

    二人の内のこの一人の姫娘(A)を伊勢秀郷流青木氏に嫁入りさせたと観られる。

    「本流立葵紋」の不記録と不記載と共に、この姫娘(A)の履歴を ”恣意的に記録抹消された” と資料の流れから観て取れる。
    それは、その側室(勝)の母と兄弟等は全てはっきりとしているのに、この「姫娘」(A)の名前だけが遺されて、他は履歴も ”敢えて”消されている。

    注釈
    二人の内のもう一人姫娘(B)は詳細は矢張り消されているが、生誕日とも観られるものが記録。
    この姫娘(B)の生誕日とも観られる年代が、他と5年ほどずれている。年代的にずれている。
    (不合理の検証は下記 他は「破棄」の「棄」と記載あり。生誕日の意味に不合理の疑問あり。)
    しかし、上記した当時の「許婚制度」等の慣習から、今回の場合は、当にこの慣習に適合している。

    ただ、考えられるのは、「宗家徳川葵紋の青木氏」は、上記の「家興要領」と「調停工作」上から考えて、”ずれてても良い”のではと考えられる。
    仮にそうだとしたら、”この「姫娘」(B)を続けて「水戸」から嫁がせた” とも考えられる。
    同じ様に、この姫娘(A)にも嫁ぎ先などの詳細記録が消されている。

    平安期では「通常の慣習」で、江戸期には徳川氏の初期の政略結婚では、5歳程度でも「許婚」として嫁がせる慣習と成っていた。
    従って、「徳川政権」を早期に安定させる為には、養女的形でも政略させいる。(例 秀頼の千姫)
    「調停工作」の「家興要領」では、生まれたらすぐに、”養女的形で政略”を行った事が考えられる。
    この事から、この姫娘(B)の場合は記録が抹消されたのである。
    そして、何と資料には、廃棄の「棄」とわざわざ表示している。

    そもそも、子の「頼房」も家康の下で育てられ経歴は「頼宣」と殆ど同じである。
    ただ、優秀で落ち着いた堅実型の「頼宣」に比べて、この「頼房」には「素行問題」の性癖を持っていた。

    参考A
    水戸藩主は1609年、 元服は1611年、就藩は1609年の2年間 1619年水戸詰め
    生没は1603ー1661年 婚姻可能な年齢は、1619年の前後頃
    記録上の長女誕生では、側室 勝の子 1623年頃
    記録上の第一嫡子では、側室 の子  1622年

    参考Aから、この対象者の姫娘(A)の生誕は、頼房元服後の1616年から1619年頃と推計出来る。

    対象者の姫娘(A)の幼名は「松」(詳細履歴抹消) 側室 勝 (近江佐々木氏)

    対象者の姫娘(B)の生誕は、1617年頃(下記) 側室 那那 (公家藤原氏)

    「頼房」は水戸ー江戸往復した藩主である。
    参勤交代」を採らなかった唯一の藩主で、家光からの「江戸詰めの命」があった。
    その為に、就藩は1年に一回で在藩は最低1月から4月であった。短期間であった。
    それも、水戸藩主(1609年)を命じられてから以来、就藩は1627年からであった。
    以後、1年間隔の就藩であった。
    全ての側室は水戸住まいであった。
    側室のこの二人は、勝は7人 那那は6人を出産 側室10人中二人は段突に出産した。

    その状況は、以上で不合理な疑問がある。
    先ず那那は毎年一人を5年間も出産し続けている。
    これは体力的な期間的、生理的な期間、就藩と済藩の期間的に不合理(不可能)。
    論理的に出産期間1年とすると、資料記載の「年」が合わず不合理(不可能)。
    那那の第1子の姫娘(B)の生誕年と目されるものは特に合わない。
    水戸住まいの側室の那那は、頼房の就藩期間の中では無く、頼房江戸詰めであったので不合理。
    就藩は1627年からで、資料の記載期間では、江戸詰めの時で就藩の時ではないので不合理。
    つまり、資料の「生誕日」らしきデータには、子供の作れない不合理が存在する。

    この「生誕日データ?」には、必ずしも「生誕日」のみならず、”何かの意味を持たした数字”であることが判る。

    特に、この”那那の第1子の姫娘(B)の不合理”から、その他一切は不記載である。
    しかし、この”期間だけ表示”の不合理の意味は異なっている。

    上記した「許婚制度」に依って、”伊勢からの姫娘(B)の第1子誕生を記載した”とすれば、破棄の「棄」は意味が合う。
    又、「調整工作」の「家興要領」からも年数的にも符合一致する。
    姫娘(A)では、”「一切不記載」”と成っている事から、この姫娘(B)の「廃棄」も同じであった事に成る。
    敢えて、全てのデータを「棄」としていながら、この「年数の事」だけが追記されているのである。

    依って、棄とした姫娘(B)のところに、”第1子誕生の事”を態々記載したのである。

    姫娘(A)と姫娘(B)の側室の「勝」と「那那」の「13人の子供」の「生誕日らしき記載日」は照合するとほぼ一致している。
    この「記載日」は、上記の不合理があって、必ずしも「出産日」とは成らない事を意味している。
    厳密な生誕日だけでは無く ”備考的な意味合い”でも記したと考えられる。
    特に、姫娘(A)は「不記載」、姫娘(B)は「破棄」としながらも、姫娘(B)には伊勢からの連絡などがあり、敢えて記載したと考えられる。
    姫娘(A)は伊勢からの何の連絡も無く、不記載や不記録の強い要求もあって、何もかかなかったと判断できる。

    これに他の側室の記載日もが1627年からのものと一致しているのは、「江戸詰めー水戸就藩」の関係からも成り立たたずこれも不合理である。
    要するに、上記の不合理は、、”何かの意味を持たした数字” で理解できる。
    筆者は、この原因は、”頼房の素行”から来るもので、事務方は正確なものとして扱えず、、”何かの意味を持たした数字”で処理したと成る。

    この事から、側室の勝と側室の那那の全ての出産内容が、ほぼ一致している。
    この事から考えて、”姫娘(A)と姫娘(B)の生誕日と許婚期” はほぼ一致している事に成る。

    この時期の出産可能年齢を10歳頃とすると、姫娘(A)と姫娘(B)は生誕1616年から1617年と成る。
    「調整工作」の「家興要領」の「許婚制度」の0歳、又は2歳から3歳は可能と成る。
    これは上記 参考A に合致する。

    これには次の事も大きく関わっていたと考えられる。
    「頼宣と家光の確執」に対して、「頼房は家光の友」であった。
    ところが、家康の肝いりで、頼宣側の伊勢で、この「調停工作」と「家興要領」が動いていた。
    頼房の性格は「素行不良 乱暴者」(有名な家臣の換言事件 歌舞伎にも成る。
    (特に、女御への手付けが有名。)
    家康と幕府は警戒して、この為に、「頼房」には徳川姓を27年も遅れて1636年に授与した経緯を持つ。 
    「頼宣」−「家光」ー「頼房」の関係で、「綱引」が行われていた関係にもあった。
    「頼房」には、この為に「不明の遺子」が居た事が判っている。

    この環境の中で、次ぎの事が起こった。
    この「頼房の姫娘2人(A)(B)」が150人中の中で対象上に入る唯一の姫娘である。
    姫娘(A)は、「本流立葵紋の青木氏」 (賜姓族   近江佐々木氏)
    姫娘(B)は、「徳川葵紋の青木氏」  (特別賜姓族 北家筋秀郷流藤原氏 公家)

    姫娘(A)は、母方の血筋 「皇族賜姓族近江佐々木氏」は、「調停工作」の同族血縁の条件に完全に一致する。
    姫娘(B)は、母方の血筋 「北家秀郷流藤原氏」は、「調停工作」の同族血縁の条件に完全に一致する。

    「頼房」の正室と側室の記録上の11人の中の二人以外には、この「格式」の持つ家柄は一切ない。
    他の9人の出自は、「無位無官」「無名姓族」で、侍女・女御である。中には「某」とした側室もある。
    この二人が正式に”格式氏族の側室”として迎えた事が判る。
    その子供姫娘(A)と姫娘(B)であり、且つ、この「二人の側室」の「二人の子供」の記録を恣意的に消しているのである。
    故意的に、「棄」と記したところに意味を持っている。

    頼房の子供のこの姫娘(A)と姫娘(B)を除いては、16人の嫁ぎ先は全て家臣である。
    この事は大きな意味を持っている。
    「頼房」としては、「頼宣側」で進められている「調停工作と家興要領」に対して、その「基」を「水戸の頼房」のところで行われていると云う間尺に合わない感情があったと観られる。

    その「基」とは、この「調停工作」の為に、敢えて勝と那那の側室二人を「頼房の側室」として迎えたことは全体を観ると間違いない。

    (その他の側室全員の子供は全て家臣に嫁いでいるし、その他の全側室の出自は姓族で無官位無格式である。)
    (”何かの意味を持たした数字”の記録と「姫娘(A)と姫娘(B)の二人の記録にも影響をもたらした事の原因となった。)

    そして、この「姫娘(A)と姫娘(B)の二人を、「伊勢秀郷流青木氏の四日市殿」の末裔との同族血縁をさせる事で、「調停工作の完全性」を狙ったと考える。
    これに依って、「朝廷と天皇」は、どんなに”無理な横槍”を入れようとしても、これでは文句の附けようがない。
    まして、「四日市殿」である。偶然に、符合一致しすぎる位である。

    藤原氏を直接の氏姓名として記載し、名乗る事が出来るのは、宗家又は本家のみである。
    この慣習の事から、充分な格式を持った血縁工作であった。
    依って、筆者は、この説を自信を持って採っている。


    ・「家興要領」から、先ずは、絶対的な対応として、「本流立葵紋の青木氏」の発祥が必要である。
    姫娘(A) 「松」が、「許婚制度」の0歳児か、2から3歳に嫁入りした事に成る。

    ・「家興要領」から、次ぎは、現実的な対応として、「宗家徳川葵紋の青木氏」の発祥が必要であった。
    姫娘(B) 「・・」が、「許婚制度」の0歳児から1歳で嫁入りした事に成る。(上記検証と ”棄”の記載で判断)

    (注記 上記の「姫娘(A)と姫娘(B)の検証」は不記載の計画で論じていたが、指摘により追記する事にした。)


    当の「頼宣」が、1602年に2歳で水戸藩主(6歳で駿府転封 この間水戸には居ない)と成った。
    その後に「頼房」が水戸藩主に成った。この「所縁の地域」である事からすると、経緯からしても間違いなく水戸と成る。

    この「調停工作」の形式上の母方は、「頼房」が継承している事も踏まえて、「本流立葵紋の青木氏」は「「水戸」に本居を構えた極めて可能性が高い。
    「本流立葵の青木氏」は、現在、千葉に確認できるとすると、本居は青木氏の経緯から「伊豆」では無い事に成る。

    (伊豆は、宗家源頼政の領地で、ここに「笹竜胆紋と古代密教浄土宗」をステイタスとする「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の定住地である。)

    更に、「千葉ー茨木」は「秀郷流青木氏の定住地」である事を考え合わせると、「本流立葵紋の青木氏」と「徳川葵紋の青木氏」の2氏は、少なくとも千葉から水戸よりに居た事に成る。
    (「頼宣」1609年駿府藩 1616年家康没 1619年紀州藩)

    「情報提供の徳川葵の青木さん」の所在地とほぼ一致する。
    「本流立葵の青木さん」の千葉に現存しいる。

    上記の江戸期の青木さんの一覧の中には、「徳川葵紋の青木氏」の「対象氏」は無い。
    江戸時代には、以上の内容を含めて江戸期青木氏6氏の末裔が確認できるが「対象氏」は無い。

    結局、情報提供に依る千葉ー茨木の・「徳川葵紋の青木氏」が「対象氏」として特定できる。
    従って、現在は茨城ー(千葉)か東京近郊外に定住している筈である。
    最近、歴史マニアからの情報提供を得て存在して居る事が判ってきている。

    (現在地は移動している可能性もあるが、定住地が情報と高い推論から一致しているので、後は”明治期の「第3の青木氏」であるのか”を確認している。
    情報提供に依れば、条件はほぼ揃っているが、何かの経緯を持っているのかある一点確認する必要があって調べている。)

    (確認次第にここに追記する)


    ・「頼宣の長保寺」
    それが「頼宣の長保寺」の「笹竜胆紋と密教浄土宗」が使われている証拠である。

    これで藤原氏と青木氏の中に「徳川氏の発祥」が興った事を物語っているが、「名義札制度」の「1のタイプ」の最後の仕上げの「名義側の跡目引継ぎ」と同じ事が必ず成されている筈である。
    ”身分家柄を合法的に変える方式”としては必ず実行されている筈である。
    徳川氏のなかでは少なくとも「伊勢の経緯」から「紀州藩側」にあると観られる。
    調べたが、一応青木氏側に発祥させている以上は、「故事条件」は充分であるから、この時期と少し後の時期に行われている可能性がある。
    徳川氏の中で、この「故事の条件」に合致する出自は当然に、”「起用禁止の最高級権威紋」”であるから見つからなかった。

    ところが、”灯台下暗し”であった。明確な事があった。
    それは、上記した「頼宣の紀州菩提寺」である。
    全ての徳川氏の中で、この「頼宣」だけが「源氏紋と密教浄土宗」とその「故事に習う寺慣習」を持っているのは、この「菩提寺の長保寺」だけである。
    それを証明するものがある。
    「青木氏」の「故事の慣習」に従って「頼宣」に関わった「采女族」を含む子供を除く一切の「女性家族」は海南市藤白の「比丘尼山」と云う小山に寺屋敷を建立し、周囲と断絶して一生をここで終わっている。
    この「戒律の持った寺」があって、その寺の一切の面倒を看る農民がいた。
    その農民は代々1家で繋がれて、周囲との関係が寺に入らない様に隔離した。
    普通は、せいぜい尼僧に成るのが普通か、元に戻って下族するのが慣習である。
    この様な”厳しく現世と完全隔離した寺”は紀州には他に無い。
    これは「同族血縁」を主体としていた ”「青木氏の故事」に習った慣習であり仕来り”であった。

    下族した「女系族」が下族して又別の子孫を拡大させる事は、「同族の内容」を下げて仕舞う結果と成り、悠久時を維持して来た「賜姓族の立場」は保てなくなる。
    この為に、下記の別枠で論じる「女仕来り」があったのである。
    この”頼宣の比丘尼山”の仕来りは、「故事の条件」を頼宣が継承した時から、頼宣によってこの「青木氏の仕来り」が引き継がれたのである。
    (その後、紀州藩では、この仕来りを厳格に維持されておらず、代々一族に関わった者が、その個人の意志によって「比丘尼僧」に成るかは決められ、この寺を選ぶかは意志に沿った慣習であった。
    一旦下族した者が、老いて下界を嫌って、この寺に入る者も居た事から、一種の「逃げ込み寺」の様相を呈していた。)
    現在は山と寺跡は遺っているし、その面倒を看た寺元の家は現存している。
    その末裔を筆者は知っている。

    伊勢の松阪の「紀州徳川氏の菩提寺」以外に、紀州に別に菩提寺を持っているのは「頼宣」だけである。
    それは「故事の条件」を持ったからで、他の一族とは、頼宣はこの「二つの格上の権威」を持った事により青木氏等と同じ「菩提寺」を持ち、別にして格上げしたのである。
    「菩提寺」を形式上、別にする事は、「別の皇族賜姓族方の発祥」を「徳川氏の中」で唯一持ったから出来る「格上げの仕来り」である事を物語る。
    「紀州徳川氏の始祖」のみならず、形式的には、この”3年の間の紀州藩藩主に成る前”か、更に、”3年後の紀州藩藩主に成った時”の何れかの時に、形式的には「紀州青木氏系徳川氏族」が「頼宣」に依って引き継がれたからである。
    「本流立葵紋族」からの発祥の徳川氏である事により、「一代限りの継承」となる。
    それでも徳川氏に取っては良かった。徳川に無かった弱かった「権威の創設」が成したのである。
    後は青木氏等に依った「調停工作」に依ってその「創設した権威」を継承する事だけである。
    それ以上の事は動き始めている以上は戦略的に不必要でむしろ好ましくない。
    紀州徳川氏の中で、正式にこの「故事条件」を継承している者は居ないのはこの事による。

    結局は、「紀州徳川氏」である事には変わりはないのであるが、将軍家を含む累代の徳川氏の中で「頼宣」だけが、故事に従えば ”最高位の身分と権威”を持った事に成る。
    有名な「家光の妬み」もこの辺にもあったのであろう。
    「将軍家光」と会う時、「将軍」と「紀州藩主」の身分で会うのか、故事に従う身分で会うのか問題と成る。

    注釈
    紀州では、徳川氏と会う時は、青木氏が上座に座る慣習であったから、これでは家光は将軍であっても全ての面で下位に置かれている事に成る。
    従って、トップで在りながら、トップでは無いとする矛盾に対して耐えられなかったのであろう。
    家光には「謀反」等と嫉妬する以外には無かったのだろう。
    (由井正雪のご落胤事件の偽判が原因説で謀反を掛けられたとするが、これは調べればわかる事である。
    口実に過ぎず裏意はここにあった。)

    現実に、「伊勢青木氏」が「伊勢神宮参詣」で2代将軍の秀忠まで守られていたこの「故事に習う慣習」があった。
    しかし、「賜姓族の伊勢青木氏」が「4代将軍」と会った時に、この「故事に習う慣習仕来り」の知らない将軍は怒ったが、家臣が窘める事で何とか納まった。
    江戸に帰った将軍は「徳川氏の権力」に従わない「権力に勝る権威」の氏が居る事を知って、愕然として青木氏に対して、その後、敵対した態度(商いへの嫌がらせ)を一時採ったと伝えられている。
    3代将軍の家光も将軍に成る前から、この「故事に習う慣習」を知って、それどころか、更には身内の兄弟の「頼宣」がこの「故事条件の立場」を持った事で、「権力<権威」が納得出来なかったのである。
    何とかして「権力>権威」にしようとして「謀反」と云う感情に走ったが、「謀反」が成り立たなかったのは、「家康の遺命」が「頼宣」に引き継がれていたから手出しが出来なかったという事である。
    「謀反」は、「将軍」より「上位の者」で、且つ「家康の遺命」を持ち、家康お墨付きの有能な能力を持つ者が居れば、自分は何時か「将軍の座」を”引き摺り下ろされる”のではと恐怖したのである。
    現実にそうなる可能性が充分にあった。
    「家康の夢実現」で青木氏等が背景に成っている「頼宣の周囲」が、「家光云々」は別として、「紀州藩ー青木氏」を中心に動いていたのは上記の通り事実である。
    現実には、「頼宣」より「3代目の吉宗」の時に現実化したのである。
    「尾張の継友」で「将軍後継者」は決まっていたものを途中で覆したのである。
    「家康ー頼宣ー吉宗」の「夢の計画実現」が無ければ、何も覆してまで将軍に成らなくても可能である。
    紀州藩の範囲で示現すればよいだけで済む。
    しかし、それでは「神君家康の夢」の実現にはならない。
    時期状況を見極めて幕府で実現で叶えようとするは自然の行動である。
    これを家光が「謀反」とするかは判断の仕方見方の如何であろう。
    「謀反嫌疑」の「江戸の10年間」はお膝元に置いて監視されていた「頼宣」は、”「徳川一族の重石」と成り、極めて慕われて、何事も相談お伺いを立てていた”と記録されている。
    この「重石」が今度は、逆に「家光」には「目障り」と成り紀州に帰したのである。

    注釈
    (反対に家光は頼房と仲が良かった。ところが、家康はこの「頼房」が謀反を起こす性癖の持ち主として、水戸藩主にはしたが、遺命で27年間徳川氏を名乗らせなかったのである。
    ところが頼房は逆にこの気は無かったから、家康からもその性格を信頼されていて、遺命で「朝廷工作」の「家興要領」に組み込まれていた皮肉な事が起こっていた。
    故に、家光は頼房との差を隠すために「由井正雪事件の謀反嫌疑」を掛けたのである。)

    ”頼宣の孫の吉宗”が青木氏と強い結びつきを持ったかは云うまでも無く判る。
    それは、上記した様に、”何故に「伊勢青木氏」が親代わりに成った”かは、又、その後の”「享保の改革」の事”、”紀州藩の勘定方指導の事”等も含めて、上記したこの経緯の事で充分に判る。
    更には、祖父の「頼宣」の「形式上の出自元」と成ったからであり、「ABCの族」即ち、「賜姓族青木氏系藤原氏関係族徳川氏」であるからである。
    「伊勢青木氏」からすると「吉宗」は「家康ー頼宣」の繋がりからも、又「一族の縁者」でもあった事に成る。

    この上記に論じた「考察の問題」は、この「調停工作」の「権威付け」を「全ての青木氏」取り分け「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「秀郷流伊勢青木氏」の三者がこれを容認するか、どうかである。
    容認すれば、上記の”「長保寺」”が物語るものは解明できる。
    当然に、密かに「調停工作」をしたのだから、青木氏は容認する以外には無いし容認しなければ意味が無い。
    否定すれば「朝廷と天皇」が求める故事の「長者の呼称」「正二位官位」は消える。
    そうなれば「徳川氏との軋轢」が決定的に生まれ、当然に「青木氏」は消滅する事に成る。
    当然に、青木氏等の背景保護もなくし、天皇家のみならず朝廷は立ち上がれないほどに衰退していたと考えられる。
    つまり、上記するこれらの権威を容認したのである。

    「権力と権威」を主体とする絶対社会では、「子孫力」を作り出すには、”世に晒す事無かれ、世に憚る事無かれ”であり、「否定」は「自己の主張を世に前面に押し出す事」に成り、これは当に「晒し憚る行為」である。
    そんな事は、絶対に青木氏はしない。それが長年の「青木氏の子孫力」の基と成る戒律である。

    「長保寺問題」は上記した事の「青木氏ー徳川氏」の関係の度合いを一挙に解析出来得るテーマである。
    仮に、「紀州徳川氏の菩提寺」を紀州に置いたとすると、一体”どう様になるか”である。
    「伊勢」と云う「二つの故事」を継承している「伊勢青木氏」が、「伊勢」は古来より青木氏が定住している「天領地」であるからで、人は疑いなく信じるのであり、「紀州」では前は「藤原氏」を名乗っていたのが、今度は又「源氏」かと成る。
    徳川幕府の様に、”権威を基本とした権力構造”の中では、人は信じないし、「権威」は低下し、「為政力」は低下し、末には、権力を押し付ける無理な構造が出来上がる。
    結局は「政治体制の崩壊」に繋がる。
    「賜姓族」の様に、この「二つの故事」を「紀州」で使えば、逆に疑う方向に周囲は働くが、折角の「権威獲得」は「水の泡」であり、「徳川政権」は「秀吉政権」と同じ様にそう長く無かった事に成ろう。



    > ・> 青木氏の分布と子孫力
    > >
    > >
    > >
    > > > > [地域別分布力]
    > > > > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
    > > > > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
    > > > > 地域      異変の県        分布力
    > > > > 九州地方   長崎、大分       5%
    > > > > 四国地方   高知           2.5% 
    > > > > 中国地方   山口、岡山       2.5%
    > > > > 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
    > > > > 東北地方   秋田           7%
    > > > > 中部地方                 15%
    > > > > 関東地方                 45%
    > > > > 北海道・沖縄               6%
    > > > > その他                   3%
    > > > >
    > > > > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
    > > > > 九州地方  1.3
    > > > > 四国地方  1.3
    > > > > 中国地方  1.3
    > > > > 関西地方  4.7
    > > > > 中部地方  4.3
    > > > > 関東地方  11.3
    > > > > 東北地方  2.0
    > > > > その他   11.0
    > > > >
    > > > > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
    > > > >
    > > > > 修正地域(表ー3)
    > > > > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
    > > > > 秋田 1
    > > > >
    > > > > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
    > > > > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
    > > > > 福岡  2   山口  0   愛媛  3     兵庫  3    三重  1
    > > > > 長崎  0     島根  2   香川  1     大阪  14   石川  2
    > > > > 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都  5    福井  1
    > > > > 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良  1    岐阜  3
    > > > > 熊本  4                        和歌山 4    愛知  13   
    > > > > 宮崎  2                        滋賀  1    長野  9
    > > > > 鹿児島 1                                  山梨  1
    > > > >
    > > > > 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
    > > > >
    > > > > 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
    > > > > 静岡  5    青森  1      沖縄  1
    > > > > 神奈川 21   山形  2      北海道 11
    > > > > 東京  18    岩手  1
    > > > > 埼玉  17    新潟  4
    > > > > 群馬  6    秋田  0
    > > > > 千葉  11   福島  4
    > > > > 茨木  4    宮城  2
    > > > > 栃木  8                                     
    > > > >
    > > > > 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  
    > > > >
    > >
    > 青木氏の分布と子孫力−6に続く。


      [No.308] Re:青木氏の分布と子孫力−4
         投稿者:takao   投稿日:2014/04/06(Sun) 07:51:53  

    >特に商人として参画した経緯から「米ー財政」に重点を置いていた事が判る。
    >(安土桃山時代は1603年で終り、1614年で江戸時代に入る。この期間は徳川家康に実権が移っていた。)
    >まさに、享保期までの「蝦夷地開拓」は「青木氏の政策指導」(質素倹約の中での政策として「蝦夷地開拓」での献納金で幕府財政立直策)であった事に成る。
    >上記した様に、「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」は、古来より深い親交があった事から上記した事が起こっていたと考えている。.
    >つまり、この一連の「瀬戸内族」の「入植政策」では、状況証拠から「両青木氏」の「裏での合意」があったのではないだろうか。
    >この「裏での合意」が無ければ「瀬戸内族の一族」ごっそりこの「弘前から松前」(旧蝦夷地)までの「蝦夷地入植計画」に注ぎ込んでいる事はない。
    >先ずこの計画を進められるには「普通の豪商」では成し得ない。「総合力」を持ち得ている「特別な豪商」でなくては成し得ない事である。
    >仮に「讃岐青木氏」に不足するところがあるとするならば「伊勢青木氏」がこれを補填する事が出来る。
    >この”悠久な歴史を持つ二つの特別な豪商”があってこそ「蝦夷地入植と開墾の計画」は進む事はなかったと考えられる。故に、幕府はその「進行具合」を観つつ、100年後の「享保の改革」で直接、「伊勢青木氏」を幕政に取り込み、この計画を成功裏に収めようとしたのである。
    >結果として、「幕府財政の改善」が可能であると考えていたのである。





    青木氏の分布と子孫力−4



    ・「青木氏ー吉宗」の関係
    実は、”吉宗が将軍に成った経緯”の中にこの事が隠されている。
    そもそも、徳川宗家外の御三家の紀州藩の吉宗が将軍に成り得る立場に本来は無かった。
    ところが、全く逆に「御三家」でも将軍に成り得る全ての条件が揃っていた尾張藩の第6代藩主の「継友」が成る予定であった。
    この部屋住みの身分にあった「継友」は優秀で節約家で経済観念の特別に強いものがあった。
    それを将軍からも信頼されていて、次期将軍に適材であるとして指名されていた程の人物であった。
    「紀州藩の吉宗」は2人の兄が居た。兄は公家の血筋、吉宗は湯殿女との間に出来た子供で「紀州巨勢族」の血筋であった。

    (巨勢とは、飛鳥期のヤマト政権を支えた5大豪族の一つで紀族、葛城族、平群族等と共に「巨勢族」があった。その末裔)

    吉宗は幼少の頃はその血筋から排斥されて紀州藩の飛地領の伊勢に密かに匿われた。
    この時、お付き番として下級家臣であった加納氏を吉宗に付けられ養子の様にして預けられた。
    この時、紀州藩主より密かに依頼されて「伊勢青木氏」は一切の経済的な事を含めて加納氏と共に親代わりに成って育てた。
    この時、伊勢青木氏の息子の「六左衛門」は「吉宗の稚友」と成って育てられた。
    経済的に低かった「加納氏」は、吉宗を一人前に育てる為に経済的な自立を目指し、この時、「二足の草鞋策」を青木氏から手解きを受けて「加納屋」を開いた。

    「伊勢青木氏」と「加納氏」は明治35年までの200年間に数度の血縁関係を持った。
    (直近では筆者の曾祖母も伊勢加納氏)
    飢饉続きの「藩財政悪化」の中で「紀州藩主世継ぎ問題」で藩内が荒れたが、二人の兄にはこの見識と後見人の背後は無かった。
    「伊勢青木氏の経済の見識と財政力」を以てする「藩財政立て直し派」が有利を納め、「伊勢青木氏」が後見人と成って不遇の吉宗を藩主に押し上げた。
    「吉宗の紀州藩」は、「伊勢青木氏」の指導の下、「財政改革」を押し進め藩財政が改善に向かっていた。
    この時、幕府でも「世継ぎ問題」と、上記した「4度の飢饉」と、「幕臣のマンネリ化」で幕政が乱れ、「幕府財政立て直し」の問題が急務として出ていた。

    その中で殆ど将軍としては尾張藩(継友)と決まっていた。
    ところが、この「世継ぎ問題」が、「幕政建て直し」と「幕府財政改革」に対して考え方に切り替わってしまったのである。

    ”この二つの問題解決には誰が適任なのか”と云う経緯に成ってしまったのである。
    (伊勢青木氏等に依って、「経済学の教育」を受けていた「極めて優秀な吉宗」を将軍にして改革実行を推進させる様に、裏で「世継ぎ問題」を「幕政改革問題」に「切替える戦略」を展開した)

    その結果、「尾張藩の考え方」と「紀州藩の考え方」とが異なり真っ向から対立した。
    確かに何れの藩も藩内は「財政改革」が進んでいて自信があった。
    その考え方をまとめると次ぎの様であった。

    尾張藩は「緊縮蓄積財政派」ー蓄積で消費を抑え経済を安定化させ、蓄積収入増を図り民間投資を呼び込み進める方式
                        財政を安定維持する方式
                       「デフレ政策」ー江戸豪商越後屋の「三井家」

    紀州藩は「均衡財政改革派」ー質素倹約で消費を抑え財源改革で収入増加を図り収支差を最大に高める方式
                       物米貨等を管理統制する方式
                       「リフレ政策」ー伊勢豪商紙屋の「青木家」

    紀州藩が説いた「財源改革」とは、”「3価政策」”と呼ばれる政策で、「物価、米価、貨価」の安定策に「殖産政策と新田開発」を連動させる改革案であった。
             
    これは「伊勢青木氏」の平安期から採って来た「商法」で、「殖産を中心とする農政政策」と交易を連動させる商法でもあった。

    (実は、「吉宗」は「紙屋長兵衛の商売」の現場に来て「六左衛門」と共に働いていたと記録されているので、そこで得た「実践経験論」を持っていたのである。)

    俗説では、「天英院」が「紀州藩の吉宗」を感情的に推奨して決まったと成っているが、実際は「幕府財政改革」の争いであって、その背後には、「江戸の三井家」と「伊勢の青木家」が「経済力」を背景に論陣を張っていたのである。
    そもそも、この「天英院説」は、紀州藩の「均衡財政改革」が自分たちに都合が良く、専門的な教育を受けていて「不遇から身を起こした優秀な吉宗」に感情的信頼を置いた結果、推奨した事が将軍に成ったとする説であるが、内容をよく調べない愚説である。


    ・「伊勢青木氏と徳川家康の関係」
    ところが、この論戦のその「勝負の基」は江戸初期に遡るのである。
    実は、「伊勢青木氏」と「徳川家康」との「最初の出会い」は「関ヶ原の戦い」の時にあった。

    (但し、信長の「三つの伊勢攻め」の一つ「丸山城の戦い」で「伊勢青木氏」が勝利した事は有名で、岐阜城での信長烈火の叱責で「信雄蟄居の事件」でも「家康」もその場に同座していて知っている。
    又、「伊勢伊賀の戦い」で名張城から突然に側面を付いて信長軍を一時敗走させた事件も知っているし、「伊勢長嶋の戦い」でも「山岳部ゲリラ戦」で食糧調達を混乱させた事も知っている。
    依って、この「3つの事」から「青木氏の印象」(影の力)は「家康」に事前にあった事が判る。)

    「家康」は大阪に攻込む為に江戸の秀忠の本陣を名古屋城で待った。
    大阪に攻込む為には「伊勢路−大阪路」(旧国道ー「畿内道」)を通らなくてはならないが、「畿内道の確保」が出来ていなかった。
    そこで、困った家康は、この「」畿内道の確保」」の為に「伊勢青木氏」に合力する様に話を持ち込んだのである。
    「伊勢青木氏」が「3つの発祥源」として「賜姓族の戒律」と「不入不倫の権」の「3つ立場」からも、この「関ヶ原の戦い」に合力する事は無い事は家康は充分に承知していた。
    そもそも、「有形の軍」を持たないこの「伊勢青木氏」に対しての ”敢えての家康の「合力要請」”である。
    家康は、既に、織田軍の傘下にあって観ていた経験から、「信長の伊勢攻めの戦い」で上記した様に「伊勢青木氏の実力」をよく知っていた。
    つまり、「伊勢ー信濃シンジケート」と「青木氏と連携している瀬戸内族」との「連携勢力」を知っていたのである。
    ”敢えて”である以上、これを暗に敵にする事は今後の意味で得策ではないと考えた事になる。
    この時、「家康の申し出」に対し3日で「250の要員配置」と「伊勢ー信濃シンジケート」と「瀬戸内族への連絡」を取って「伊勢路の安全」に合力する事に応じたと記録されている。
    この時も「家康」と「伊勢青木氏」は名古屋で「合力要請」で面会している。
    この中で「讃岐青木氏」への「家康の期待」は、最悪の場合は、海路で抜け出す手立てと、勝利した場合には「毛利水軍に対する圧力」をと考えていたと観られる。

    もう一つは、天下に名高い「毛利水軍」に対して、その勢力を「讃岐青木氏」を味方に引き入れる事で壁にして削いだと観られる。
    (「瀬戸内族」と「毛利水軍の村上水軍」は元は同じ海部族と塩飽族から成っている。)
    「毛利水軍の動き」を防いで置かないと堺や河内や紀州の湾から上陸して背後に廻割られると戦略上四面楚歌を招く事と成り拙い。
    その為にも、「海の守壁として讃岐青木氏」(壁)、「上陸時の背後の陸の守り」(シンジケート)と「海陸の情報収集力」を整える必要が家康にはあった。
    特に「家康の守備軍」に対して「側面と背後」を護る必要があったのである。
    それと「畿内道のシンジケートによる掃討作戦」を期待した。
    これは「畿内道の戦略」であったが、もう一つ「伊勢路ー大阪路」の「伊勢路の護り」は畿内道の進軍中に「紀州九度山付近」から「真田軍」が側面を突かれる事は充分にあった。
    「軍事的防御」と云うよりは、「真田軍の動きの情報収集」と「シンジケートの攪乱作戦」を目的としていた。

    現実に、この意味を持った「合力要請」は青木氏等に依って完全に実行された。(しかし、正面は不用意であった。)
    この結果、”戦後、「家康」から讃岐ー紀州ー伊勢ー奈良ー信濃一帯の「一切安堵」(権利保全)を得た”と記されている。
    この地域の「環境保全」と「権利保全」をして置いて安定させ、その中心に速やかに「御三家の紀州徳川藩」を置いた意味は良く判る。

    大阪の堺などで得た事前知識で、この「一帯一連の環境」を「将来の戦略上の計画」で保全したかったのであろう。
    この時、「3つの青木氏」等が主張する「3価政策と新地開拓と殖産開拓」の論を聞いていて、開幕後に、その最大のプロジェクトの「蝦夷地開拓」を進める為にも、この「政策の中心」をこの地域に置きたかったと判断される。
    故に、ここに「御三家」を置き、家康自身で駿府で育てた最も信頼していた「優秀な頼宣」に、この計画実行を託した。
    家康没後3年、「秀忠」は この「遺訓・遺命」を実行する為に、わざわざ「紀州浅野家」を転付させて、そこに「紀州藩」(1619年)を置いて初代藩主としたのである。


    注釈
    (紀州に定めた理由は、「瀬戸内族」と「伊勢青木氏」と「商い大阪」の地の中間の地域、伊勢は皇祖神の神聖の地で、為政地に不適切な地であり、計画実行の後ろ盾と成る「伊勢青木氏」の地を「保全安堵の約束地」、大阪は「商いの地」の専用の地域として作り上げる為に為政地に不向きの地、瀬戸内は海路の地であり要衝地として不適切、この中間に位置させる事で計画は可能と家康は判断して遺命として秀忠に遺訓したのである。その人物を”10男の頼宣”に託し、わざわざ水戸藩主から外して自ら駿府に連れて来て育てて計画実行するに値する人物に育て上げた。「遺訓・遺命」として秀忠に引き渡したのである。)

    注釈
    (”頼宣”は家康から託された「遺訓・遺命実現」の為に、紀州では多くの改革を次ぎから次ぎへと実行して善政を敷いた藩主として有名で、優秀な家臣を育てたとしても有名である。 
    その為に ”名声を奪われた”として家光に妬まれ疎まれ、遂には”謀反を企てた”として10年間も紀州に帰れなくなった経緯を持つ。
    その有名さは、「頼宣」が「紀州の領民」から「最高の藩主」として崇められ、「伊勢菩提寺」のみならず、紀州には「頼宣単独の菩提寺」が建立され現在も祭祀されている程であり、この事は江戸にも聞こえていた筈である。
    「駿府」から「紀州」に、秀忠による「遺命の転封」も、家光は「将軍」に在位した後に、”頼宣をも自由に出来る”として、「10年間謀反嫌疑」は「家光の威光の誇示」と史実、家光自身が発言しているのだ。
    家康に可愛がられ信頼され「家康の遺訓」を直接受けていた”頼宣”を許さなかった。
    「将軍家光の威光」を誇示するのであれば、「御三家」から外し、適当な理由を付けて紀州には配置しないで他藩遠東に転封する事が出来る筈である。
    現実にもっと厳しい頼宣の命に係わる「謀反嫌疑」を掛けている。
    其れに依って「頼宣」が無くなれば託された周囲家臣が承知していた「神君の家康遺訓・遺命」が消滅して、自らも”遺命を無視した”として「将軍位」どころか命さえ危なかった筈である。
    だから、腹いせに「謀反嫌疑」を掛けて置いていながら「有名無実の形」を採ったのである。
    それが出来ずに、むしろ「紀州栄転」をさせていなければならない「御三家と計画実行」の「家康遺訓・遺命」への嫉妬である。
    それを実行できる「頼宣の優秀さ」にも嫉妬したのである。
    要するに、この「紀州藩転封」は「家康の計画実行の夢」の「家康遺訓・遺命」であったから出来なかったのである。)

    注釈
    (藩主に成る前に浅野家の内情、紀州藩の領民の不満、政治経済軍事の面、等の綿密な事前調査、城改築建設などの問題でも良く聞きよく調べて即断し、「優秀有能多才」をモデルにする様な人物で、温和でよく頭の廻る権威を振り回さない人物であった事が青木氏に伝わっている。
    「青木氏の口伝」には多く伝わっているが、紀州地元でも、領民の治水や地形や農政の要望をよく聞き優秀な家臣を差し向けて解決した藩主であった事が云い伝えとして伝わっている。紀州にある「頼宣菩提寺」もその一つの表れであろうことが判るし、その地域では多くの藩士が残っている。形式的な言い伝えでは無く、頼宣が自ら指導した堀や堤防や開墾地や産物等の形として遺されている。
    この「頼宣の姿勢」が「孫の吉宗」に引き継がれ、将軍の時に汚職捜査や事故飢饉の現場指揮を直接の現場で行った等の記録がある。
    祖父の性格を継いで徹底した「現場指揮主義」であった。)

    (家康駿府隠居 1616年没 頼宣1602年生 2歳水戸藩主 4歳駿府藩主 17歳紀州藩主 家光1623年着位)


    ・「家康と青木氏の関係」
    更には、「家康との関係」は、次ぎの時にも起こった。
    「幕府樹立」に対して「征夷大将軍の称号」(1603年)を獲得する時、「賜姓源氏の棟梁」(「武家の棟梁」か「賜姓族宗家」の「称号」)か、「正二位以上の官位」”が「故事の慣例」に従い必要であった。
    この時の「朝廷と天皇」は、徳川氏がこの「二つの地位」を取得するに「適合する氏」では無い事で、”先例を破る事が出来ない”としてこの「二つの授与」を渋った。
    この何れかを獲得しなければ「征夷大将軍」には成れず、権威ある幕府は開けず、頼朝以後の「賜姓武家源氏」では無く、只の源氏(摂家源氏・公家源氏とも云う)の鎌倉幕府の様に「執権」となる。
    そこで、窮地に陥った「家康」は、室町末期の南北朝の皇室の中から、「南北朝の乱れ」を利用して「第16代の源氏」を強引に作り出した。
    ”故事に従って引っ張り出した者の末裔である” と主張して、朝廷に対して圧力をかけた。
    その「搾取ストリー」とは、その皇子が比叡山門跡僧から下族して三河に流れ着いて松平家に逗留して子供生まれたとして、本来の「賜姓武家源氏」では無い「源氏」だと勝手に搾取して名乗った。
    「朝廷と天皇」は搾取である事を承知していて更に拒んだ。

    注釈
    (況して「摂家源氏」では”「征夷大将軍」”にはなれない。ところが、その前は家康は、秀吉による「関東転封」後、秀郷一門を配下にした事から「藤原氏の朝臣」を名乗っていた。
    しかし、突然に「秀吉」が家柄をよく見せる為に搾取偏纂で、「賜姓藤原氏朝臣」を名乗ったので、今度は「源氏」を上記の様に名乗ったのである。
    そもそも「姓族の松平氏」は、「源氏」では誰が観ても明確な搾取である。
    (長は賜姓平氏を名乗った事は納得できる。)

    しかし、賜姓であろうが無かろうが、「源氏」は既に11代の「花山源氏」で終わっている。
    既に、室町期末期まで残った唯一の「村上源氏」の支流族の「北畠氏」も、信長等の「権威族の掃討作戦」で完全に滅亡している史実があった。
    (信雄を強引に北畠跡目に入れて最後に城内内部で皆殺しで潰した)
    この「搾取の源氏」を持ち出して認めさせようとしたが、「朝廷と天皇」は認めなかった。
    結局、各地にある「天領地接収」等の「経済封鎖」を受けながらも、「朝廷と天皇」の「朝廷の粘り強い抵抗」でこの二つは受け入れられなかった。

    注釈
    (「天領地接収」の主な地は全て「皇族賜姓族の5地」に関わる地であるが、「伊勢」と「信濃」と「甲斐」を「徳川氏直轄の地」とした。
    この為に、「天領地」の本来の意味は、「天皇家直轄地」であるが、この全てを「徳川氏直轄地」とした為に、「天領地」とは「徳川氏の直轄地」の意味と成ってしまっていて、文献でも間違って使っている。
    この間違いはこの時の事変が原因で間違われてしまった。)
    (その結果、宮廷は塀も壁も家もボロボロで生活は困窮していたと記されている)

    ・「二つの故事」
    そこで、見兼ねたこの接収地に住んでいる「皇族賜姓族」一統流の末裔の「伊勢ー信濃の青木氏」が商業記録から読み取れるが裏で援助工作をした模様である。
    (資料文意から「秀郷流青木氏等」の「両賜姓族」も加わった形跡がある)
    「朝廷への援助」を裏で行いながら、徳川氏とは裏で「調停工作」をした模様である。
    (家康に遠慮してか明確には記述していないが文意の流れで理解できる。)
    そこで、”「棟梁」”では無く、「青木氏等」が持つ ”故事に習って古来の「賜姓族」に対する呼称”として使われたことがあるものを出した。
    それは ”「長者」”と云う称号と、頼朝に与えた官位の同じ「正二位」を与える事で解決した経緯と成った。

    「伊勢青木氏と信濃青木氏」等(甲斐は衰退)は、「皇族方氏一統」としての立場上、「二束の草鞋策」で「子孫力」を充分に蓄えている中では、経済的に救える事が出来る事から、立場上は絶対に放置できなかった筈である。
    「皇族賜姓族」とは本来「3つの発祥源」としてその立場にあった。
    援助するとしても、公には、大平には、「家康との親交」が出来た関係上、「裏切り」と成り無理には出来ず、苦慮したと考えられたが、”影で目立たない様に支援していた”のである。
    この事が決まるまでには、元和の家康没の直前のまる3年を要したのである。
    この間、「天皇の恥」に成る記録と成るので、その文意は柔らかな表現を使っていて、その文意から観ても「支援」をした模様である。

    注釈
    (筆者の判断では、青木氏等のこの行為は、家康が、天皇家に経済的圧力をかけて、裏では知古と成った皇族方一統の「伊勢青木氏」等に「最低限の経済的援助」を恣意的に「暗黙の了解」でさせて置いて「天皇家崩壊」を避けた模様である。
    そもそも、「天皇家崩壊」ともなれば、幾ら「徳川氏の天下」と成っても、家康に「朝敵」としてそのツケが廻る事は承知していた筈で、諸大名や民から「為政者」としての信頼を失う事になり兼ねない。
    それが「幕府崩壊」に繋がる事に成り苦慮して、「青木氏等の裏行為」に期待した模様である。
    しかし、誰彼なしに「裏行為」をしても「天皇家の権威」がこれを許さないし、その人物との問題が天皇家と幕府の間に生まれ好ましくない。
    先ず「賜姓族青木氏」以外には引き受けられる者も居ないであろうし、又、現実に引き受けないであろう。
    わざわざ”渦中の栗は拾わない”は常道である。
    この「裏行為」が出来るのは「天領地」から「直轄領」とも成った地に住む「天皇家」と共に同じ「悠久の歴史」を持つ「子孫力」の高い「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」の日本広しと云えどもただこの3家であろう。
    「讃岐青木氏」は古来に「天皇家との蟠り」を持ち無理である。
    まあ、上記する「経済的な見識」も信頼された事は事実としても、「別の戦略」としても、「家康」も「頼宣」もこの立場にある事も一つの大きな利用価値を見出して付き合ったのであろう。
    それは、「秀吉」が「二人の青木氏」を親族として祭り上げて利用した。
    しかし、「信長」はこの「権威を潰し」、「秀吉」はこの”「権威威光」を自分の中に取り込み「親族」とし、「家康」は「親交」と云う形で利用した事に成る。
     
    自らの出自にそれが無ければ、「為政者」はそれを何らかの形で持とうとするは、”人族は「屯・みやけ」を形成する”性を持つ以上は、この”世の成り立ちの条理”である。
    その「最高の権威」は「力の有無」は別として「天皇」であり、「青木氏」はその「最高の権威」への「繋ぎの道」と成る立場にあった。)

    ここにも通説歴史の記録外で、個人資料の文意や文脈や経緯から「伊勢青木氏」等が「徳川氏」と深く関わっていた事が「裏の行為」として働いていたのである。

    ・「頼宣と青木氏の関係」              
    実は、その経緯を証明するものが「伊勢青木氏」にある。
    この数年後に、「紀州徳川氏」(頼宣)が仲介して天皇家に対して「伊勢青木氏」と「正式な謁見」の面会を実現させている。
    これは上記の経緯からの「徳川氏の返礼行為」と考えられる。
    「伊勢青木氏」は「南画の絵画」を献納した。その複製画が遺されている。
    これに対して、その時に、「天皇家」から拝領した天皇家にしかない「日本最古の墨(藤白墨)」と他物品数点を拝領し、現在も家宝として遺されている。
    この時の「紀州徳川氏」から「数通の手紙」も遺されている。

    更に、紀州藩が出来た時までは、上記した様に、「伊勢」には唯一の「天皇家の天領地」があった。
    ここを接収して「紀州藩飛地領」とした時、「伊勢青木氏」と「初代藩主の頼宣」が面会して「伊勢の土地」と「青木氏の守護神ー神明社」等の取り扱いについて話し合った。
    この結果、「全国の神明社」は幕府に引き渡し、幕府が「神明社修復令」を発する事で話が着いた。
    更には、「伊勢青木氏」等が管理する「古代密教浄土宗」は「密教性」を解いて「菩提寺性」を排除して、限定した特定の上級武士の「檀家方式」に変更することで解決した。
    そこで、「浄土宗督奨令」を発し「全国の青木氏が管理する浄土宗寺」を幕府に引き渡した。
    「家康」がこの事を行ったと公式資料では成っているが、遺命を受けたの秀忠の政令とも考えられる。
    実行された年代が1610年頃から1622年のまでの期間の中で在るために判断が難しい。
    何れにしても「家康の命」である事には変わりはない。
    「青木氏の資料」では「頼宣の経緯」の中に記されているので、成否は別として、資料を信じて「遺命実行」として「1619年頃説」としている。
    これも「遺命」でなければ「頼宣ー家光」と成る筈である。
    その結果、伊勢の「青木氏の菩提寺」は、「紀州徳川氏の菩提寺」となり、元の菩提寺の敷地横に建立して寺名も同じとし、その一角に「青木氏一族の墓所」を与えられた。

    ところが、ここで解明しなければならない事がある。
    それは「頼宣の菩提寺」は地元和歌山にもある。
    「和歌山県海南市の長保寺」(頼宣の菩提寺)である。
    ここは「頼宣の藩主としての名声」から”頼宣だけの菩提寺”である。

    ・「頼宣の菩提寺」
    ここには、大きな「一つの意味」が隠されている。
    そもそも、「紀州徳川氏の菩提寺」であれば、紀州に作るべきが本来であり、現実に他の徳川氏の菩提寺は地元に建立されている。
    しかし、「伊勢松阪」にあるのだ。
    何故、「伊勢松阪」なのか
    何故、「青木氏の菩提寺」跡にあるのか
    何故、「青木氏の菩提寺の寺名」なのか
    何故、「頼宣」だけが紀州なのか
    一連の疑問が次から次へと湧く。
    何かがあったからこの様に成っているのだから、この一連の疑問をこれを解けば、「青木氏と紀州徳川氏」の関係等、”上記した内容の裏付け”と成る。

    先ず、紀州の「頼宣菩提寺の長保寺」は「頼宣」の後の者が、”始祖の秀明を馳せた事”に対する領民や家臣や子孫の「感謝と尊厳」の「心の反映」として建立されたものである事は「寺の由緒」と周囲の「領民の口伝」から読み取れる。
    依って、先ず、藩主・始祖に対する”形式的な行為では無かった事”が判る。
    そこで、重要な次の二つの事が解決の糸口に成る。
    それは、”「寺紋」は「笹竜胆紋」で、宗派は「密教浄土宗」”である。
    「寺紋」は本来は「三つ葉葵紋」である。「宗派」は室町期中期の「三河の姓族」であるので、本来は門徒ではない「真宗」である筈である。
    上記した様に、江戸に成って家康の「浄土宗督奨令」で上級武士は「檀家方式」の「浄土宗」に変えた。
    しかし、この「二つの事」は「皇族賜姓族」だけが持つ「二つの故事」(慣習仕来り掟)の慣習と成っているのだ。

    この事から、領民だけの祭祀ではない事が判る。領民単独で勝手な事でこの「二つの故事」を使う事は無い。
    当然に家臣だけでも無い。末裔だけでもない事が判る。
    この「二つの故事」を公然と使うにはそれなりの「了解」を必要とする。
    特に、「密教浄土宗」は上記三者でも無理であり、ただ1氏しか江戸期には無かった。
    徳川氏は、本来「姓族」であり、上記した様に全く「源氏」では無い。搾取偏纂である事は明明白白である。
    源氏の「未勘氏族」でもない。
    明治期まで守られた「嵯峨期の詔勅の禁令」を守れば、本来は出来ない事である。
    徳川氏に「摂家の源氏の搾取偏纂」があったとしても、これ以外は「幕府為政者」として公然と破る事は出来ない。
    取り分け、家紋は兎も角も「密教系」は難しい。
    但し、上記の一連の「疑問の事」と「二つの故事」を一挙に同時に解決する事が出来るものがある。
    それは、上記の疑問の中に答えが出ている。

    ・「青木氏と紀州藩」
    「松阪」「青木氏菩提寺跡」「菩提寺の寺名」の3つである。
    つまり、この3つは「伊勢青木氏との繋がり」を持つ事で解決する。

    その「繋がり具合」に問題が移る。
    A 「血縁」を誇示するのか
    B 「悠久の古」と認定するのか
    C 「一族性」「関係族性」を誇示するのか
    以上の3つに関わる事に少なくとも成る。

    先ずは、Aに付いては、「伊勢青木氏」とは「直接の血縁」は明確に記載が無いが、一族四家の中に江戸初期に何らかの直系か間接かの女系の血かはわからないが、一部には入っている可能性がある。
    ただ、「松阪の宗家」には確認出来ない。しかし、「信濃青木氏や甲斐青木氏」には「直轄地」と成った関係上、家康が「将軍権威」を作り出す過程で、女系で血縁している事も充分に考えられる。
    「伊勢青木氏」には確認できる記載がない。
    しかし、上記した様に、「吉宗育ての付き人加納氏」とは、「伊勢青木氏」は数度の直接の血縁関係にある。
    この加納氏には紀州徳川氏の何がしかの直間の血流がある可能性が高いが、この「血縁」で説明は無理である。


    次ぎに、Bに付いては、当にこの「悠久の知古関係」があるかの様に、「親密に付き合い」を構築している事でもあり、肯定するも否定はできない。
    ただ、周囲が誤解する程の付き合いであった事は、「12人扶持の礼米」でも判るし、「藩勘定方」を家臣でもないのに代々無給で指導しているともなれば、普通は「親族関係者」しかない事になる。
    先ず家臣を含む周囲の人は、100%「悠久の知古関係」にあったと観るであろう。
    「悠久の知古」には、当然に「女系の血縁関係」を持ったとする発想はあり得る。
    「徳川氏」側に取ってみれば、上記した様に「青木氏との利点」は、「秀吉」が使った手と同じである。
    ここにも”伊勢と信濃の青木氏との付き合い”は「本来の目的の利点」があった筈である。
    それ故に、「皇族賜姓族の青木氏の故事」に習う「”長者”の呼称」と「正二位官位」が天皇から授与されたと当事者以外は思う筈である。
    現実に、「賜姓族」でもないのに ”棟梁”であろうが、”長者”であろうが、”棟梁”で拒んでいるのであるから、”長者”でも拒む筈である。
    しかし、「調停工作」では拒まなかった。
    ”何故に拒まなかったか”は、この”調停”に意味を持っている。
    それには、「朝廷と天皇」が了解するには、ただ一つ解決策がある。
    それは「伊勢、信濃、甲斐の青木氏と秀郷流伊勢青木氏(融合血縁族)」の4氏の何れか一つが男系女系の妥協し得る何らかの形で血縁する事であろう。

    記録から「男系」はないので、少なくとも「女系」であった筈で、この事で「朝廷と天皇」は妥協できる筈である。

    且つ、この「調停」は、「他の無縁の族の調停」では無く、「賜姓族の調停」である。
    直に、”調停”の「話し合い」が忌憚なく出来得る。
    確定できないが、筆者は四氏の内の「藤原秀郷流伊勢青木氏」であったと観ていた。

    それは、何故かである。
    もし「信濃か甲斐」にあったとすれば、「伊勢の記録」のどこかに何がしかの記載があっても良い筈である。記載はの類は無い。
    そうすると、そもそも「融合族」であって、且つ、「秀郷流青木氏119氏」は、「特別賜姓族」で「秀郷流伊勢青木氏」はそのリード役を演じていた。
    且つ、「家康」も御家人旗本の家臣として「藤原氏」を上記した様に多く迎え、且つ、それを利用して「藤原氏」を名乗った事から、ここに血縁をすれば疑う事は無くなる。
    要するに、”全てが辻褄が合う。”と云う事である。
    これであれば、「朝廷と天皇」は 「青木氏の故事」の”長者”で納得する筈である。

    更に、Cに付いては、「悠久の知古関係」でなくても、むしろ、「藤原秀郷流一門」との様に母方筋を通じての「関係族性」か、「秀郷流伊勢青木氏」との「一族性」と観られる事は充分にある。

    況して、「搾取の”「源氏」”の前は、「搾取の”藤原氏」”を名乗っていたのであるから、辻褄が合う。
    そうすれば、この関連から ”「皇族賜姓族青木氏」との関係を持っている”と万人は思う筈である。
    当事者以外は間違いなく思う。
    少なくとも、「賜姓族地」の「伊勢と信濃と甲斐」までもが「直轄領」ともなれば、思う以外に疑う者はまず居ない事に成ろう。
    其処に「伊勢青木氏ー信濃青木氏ー讃岐青木氏」との「深い関係」を持ったともなれば、疑うどころか信用してしまう事に成ろう。
    筆者は、「皇族賜姓族の青木氏」の「二つの故事」(「長者の呼称」「正二位官位」)が天皇から授与されたものである。
    しかし、”Cは勿論の事、AとBとも連動させて全てを当事者以外は信じた”と観ている。

    ・「調停工作の3年の意味」
    「調停工作開始(1600年)」からに「まる3年」を要したが、この”3年の持つ意味”は奈辺にあるのか。何か意味が在りそうである。

    ところで、その「解決策の血縁」の対象と成る姫は、家康直系で子供3人と秀忠の適齢期の子孫の4人の計7人に成る。
    しかし、全て対象外である。
    「外孫」としては調べ切れない数であるが、この「外孫」の中から適切な対象者を選び出すのにも時間が掛かったと観られる。(下記)
    当時の「賜姓族」は未だ遠縁を含む「同族血縁」を主体としていた。
    ところが、「系譜や添書」を観ると、「特別賜姓族」の「秀郷流伊勢青木氏」は「賜姓族」の様には徹底した戒律の中には無かった模様である。

    従って、血縁するとしても、それ相当の「氏族の家柄」から求める慣習に成る。
    徳川氏は確かに「権力」は持ったが、元来「姓族」である。
    「権力」を欲するものとしてはそれは大変な血縁と成ろう。
    しかし、「賜姓青木氏」の様に、「権力」には「無縁の氏」である。
    「権力の背景」には「権威」を求めなければならない。
    「権力側」からすれば「青木氏」は無縁である以上、極めて動し難い。
    そもそも、媚も平伏す事もしないものには何も効かない。
    政治、経済、軍事や金や脅しでも抑え込む事も出来ないが、ただ一つ動かす事が出来るものがある。
    それは、”信頼を勝ち得ること”以外にない。
    では、”どの様して信頼を勝ち得るのか”と云う事に成る。
    ここに「鍵」がある。

    その「鍵」とは、「青木氏」等が主張している上記した「蝦夷地開拓」を含む「リフレ経済政策」である。
    その「主張」を聞き、納得し、自ら堺や摂津や河内を見学をした。
    その見学の見識から、次ぎの事を矢継ぎ早に行っている。

    1 「松前氏」に「蝦夷地交易権」を与えた。
    2 「讃岐青木氏」に蝦夷寄りの外回りの廻船を認可」した。
    3 「松前氏」に蝦夷地一部を領させて、瀬戸内族を蝦夷に移した。
    4 「家臣と民間の豪商」にも特典を与え、「場所請負制」を敷いた。
    5 「地域外の民間参入」にも一部を運送販売などの商業行為の便宜を図った。
    6 「港の拡張」とその割り当てする等の可能な限りの「準備の政策」を採用した。

    以上を家康は同時期に着実に実行したのである。
    先ず、これだけの事をすれば本腰を入れたと人は思う。少なくともこの事を主張していた伊勢青木氏と讃岐青木氏は信用する。

    その為に、家康の代だけでは無く、”身内に優秀な才能を持った後に続く者”が無くてはならない。
    この計画の「家康の夢の実現」の「次期継承者」を作る為に、一度、2歳の時に水戸に配置したものの、直ぐに変更して駿府に6歳の「頼宣」を呼び寄せ鍛え上げて計画を託したのである。
    そして、その為には、この「頼宣」を、”特別に力の持った「御三家」”にし、紀州に「計画実行の拠点」を作り、秀忠にこの「計画の遺命」を伝えたのである。
    そうする事で、「伊勢青木氏等」は、”家康を信頼し”その姿勢を観て、裏で調停工作に応じたのである。
    「家康」は、これらの”「準備計画」で「信頼」を勝ち得るための「期間」が3年”必要なのであった。

    筆者は、実務的な事は上記の事として、”信頼を勝ち得た暁”には、上記ABCを何とかして是が非でも作り出したと考えている。
    それでなくては「Bの形」と成り、「Aの形」が不足する弱いものに成るし、意味が無く、それ故に必ず実行した。

    ところがこの青木氏が持つ資料や系譜などからは「Aの形」が全く確認出来ない。

    それには”確認できない事”には問題がある。
    そもそも、系譜は男系を中心としての譜である。
    「女系」の場合、系譜上には直接出ないので「添書」に記載されているものから調べださなくてはならない。
    なかなか「添書」は実態が書いてあるので公開されないので実は判らないと成る。

    「伊勢青木氏」等には、”世に晒す事成らず 一利無し”の戒律があって絶対に表にしない筈である。
    当に、「伊勢青木氏」に取っては、この「最高権力者との繋がり」は、”晒す事”そのものであるからだ。
    青木氏には、家康と云えども、”「悠久の戒律」を破らなくてはならない理由”は何も無かった。
    破っているのであれば、悠久の歴史の1000年を超える時の権力者に破っている。
    そうなると、家康は、”世に憚る事ならず”の「伊勢秀郷流青木氏」との「何らかの形」の「血縁関係」を構築した可能性が高い。

    そもそも、この世の「事の流れ」は、その緩やかな方向に何人も向かうだろう。

    同じ時期に、上記した様な経緯から、「家康の家臣」と成った「秀郷一門」は、当然に「伊勢秀郷流青木氏」に圧力を掛けて来る筈である。
    同じく家康も圧力をかけた筈で、受け入れなければ、上記の経緯から「秀郷一門」も立場は無い。
    しかし「賜姓族」にはかけられないし掛けてもかからない。
    間違いなく、”女系で「秀郷流青木氏」が圧力を受けた”と考えられる。
    中でも、”より都合のよい「血縁の形」”は、「融合族」の「四日市殿の家」ではないかと観ている。
    それは、何より「長者の要件」に近づくからだ。しかし、徳川氏がこの「融合族」を指定して臨んだかは疑問である。
    家康に「融合族」の認識感覚は無かったのではないだろうか。
    要するに「融合族」は「秀郷流伊勢青木氏」が「受ける側」としての判断材料である筈だ。
    一族的な形で観れば、「融合族」は、「皇族賜姓族」をも巻き込んだ総合的な無理のない血縁策に成る。
    家康がこれを知ったとしてもより「賜姓族」により近づく”文句のない血縁策”と受け取ると考えられる。
    兎も角も、「秀郷流伊勢青木氏」は、まず「女系」で受けて、その子供に「徳川氏」のどこかに入れて継がせる等の事をすれ良い筈である。
    そうすれば、「故事の賜姓族」としての”「象徴と笹竜胆紋と密教浄土宗」”は完全に継承出来るし、”「長者と正二位」”も継承して獲得できる。
    結局、結果としては、故事の”長者”は可能に成り、「朝廷と天皇」が拒む理由は無くなる。
    そう成ると、これに要する期間としても3年は絶対に必要である。
    「説得のそのものの時間」と云うよりは、その為の「準備時間」が必要である。
    むしろ、1年とかでは疑う。最低でも3年と成ろう。
    これが「3年の意味」である。


    ・> 青木氏の分布と子孫力
    >
    >
    >
    > > > [地域別分布力]
    > > > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
    > > > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
    > > > 地域      異変の県        分布力
    > > > 九州地方   長崎、大分       5%
    > > > 四国地方   高知           2.5% 
    > > > 中国地方   山口、岡山       2.5%
    > > > 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
    > > > 東北地方   秋田           7%
    > > > 中部地方                 15%
    > > > 関東地方                 45%
    > > > 北海道・沖縄               6%
    > > > その他                   3%
    > > >
    > > > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
    > > > 九州地方  1.3
    > > > 四国地方  1.3
    > > > 中国地方  1.3
    > > > 関西地方  4.7
    > > > 中部地方  4.3
    > > > 関東地方  11.3
    > > > 東北地方  2.0
    > > > その他   11.0
    > > >
    > > > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
    > > >
    > > > 修正地域(表ー3)
    > > > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
    > > > 秋田 1
    > > >
    > > > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
    > > > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
    > > > 福岡  2   山口  0   愛媛  3     兵庫  3    三重  1
    > > > 長崎  0     島根  2   香川  1     大阪  14   石川  2
    > > > 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都  5    福井  1
    > > > 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良  1    岐阜  3
    > > > 熊本  4                        和歌山 4    愛知  13   
    > > > 宮崎  2                        滋賀  1    長野  9
    > > > 鹿児島 1                                  山梨  1
    > > >
    > > > 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
    > > >
    > > > 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
    > > > 静岡  5    青森  1      沖縄  1
    > > > 神奈川 21   山形  2      北海道 11
    > > > 東京  18    岩手  1
    > > > 埼玉  17    新潟  4
    > > > 群馬  6    秋田  0
    > > > 千葉  11   福島  4
    > > > 茨木  4    宮城  2
    > > > 栃木  8                                     
    > > >
    > > > 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  
    > > >
    >
    青木氏の分布と子孫力−5に続く。


      [No.307] Re:青木氏の分布と子孫力−3
         投稿者:takao   投稿日:2014/03/30(Sun) 08:20:33  


    >従って、「岡山の0」は讃岐地域に匹敵する地域ではあるが、パラメータが採れなかったし、10年間の間に「記帳」や「ルーツ掲示板」からデータが採れなかったのが不思議中の不思議であったが調査で判った。
    >「瀬戸内」で「子孫拡大」が成された事から、岡山=香川とすると、上記の通り「岡山」は0から1に修正される。
    >全国に分布する事からパラメータが、「三つの条件」で成り立ち、そこから「岡山」は2以上を超える事はなく、「瀬戸内」の中では「三つの条件」が同一である香川と同等と見込まれる。

    青木氏の分布と子孫力−3


    ・「香川と岡山」の原因
    そこで、これを根拠付ける為に、この原因には具体的な何かある事が考えられる。それを考察して観る。
    その先ずは大きな原因の一つには、ここに定住移動した「讃岐青木氏」は、「瀬戸内の歴史」の上に出てくるくらいに大勢力を張り、”廻船などの商い”に従事していて、昭和20年までこの商いは盛大に行われていた。
    その後、昭和の「戦後の混乱の影響」と、「大地主の地租改正」の「二つの影響」を受けて「廻船業」などが圧迫されて衰退させて、関東や北海道やブラジルなどへの移動定住を起こしている。
    その証拠に、入植地の北海道のパラメータは何と11である。
    そもそも、「北海道」は、鎌倉期までは「未開の蝦夷地」(下記)であった。
    「秀郷流青木氏」は「陸奥広域」に大勢力を張ったが、ところが、この「北海道」には歴史の史実を観ると、「青木氏の定住地」ではなかった。
    そもそも「陸奥の鎮守府将軍」までであったし、室町期末期まで永嶋氏が「陸奥広域」を支配していた事の勢力を以てすれば、北海道はその範疇に充分にあった。しかし、手を出さなかった。
    その理由は、そもそも「賜姓族」の「古来からの戒律」で、平安初期(806年頃)には「陸奥広域」を征討した時には、「神明社」を建立したのに従って「皇族賜姓族の神職(信濃青木氏)」(神明社 20社 桓武天皇建立)を「陸奥広域」(平安初期の陸奥は福島までの広域)に配置した。
    この北海道が改めて”「蝦夷の地」”(醜い族の地の意)として認定された為に、特別の理由を以って敢えて子孫を配置しなかった。

    ・「蝦夷地の考察」
    (「蝦夷地」は正式には「1599年」にアイヌ族との間で行う正式な交易権を松前藩に与えた。
    その前からは非公式でのものであったが、この後に2度の激しい戦いが起こりアイヌを追放した。
    これを機に「松前藩」は家臣を正式に送り、「交易船」を仕立て各大名との交易を開始した。
    「豪商」にも交易の権利を許し販売した。「家臣」にも独自に交易船を作らせてでも交易をする事を奨励許可した。この結果、急速に各藩も北海道に正式に「貿易拠点」を設けて家臣を配置した。
    幕府は「松前藩」から上がるこの「交易権」と「独占権」の莫大な利益を享受した)
    (「広域陸奥域」も平安初期は”「蝦夷の地」”として扱われていた。)

    「子孫拡大」は、「三つの条件」のみならずパラメータとして表れるには、少なくとも「時代性」が必ず伴う。この「時代性」は、「賜姓族」としては「平安期末期」が「限界点」と見込まれる。
    (青木氏は1025年頃から「二足の草鞋策」の「古代和紙の殖産と販売」の商いを正式に開始した。それまでは「税納の処分」の範囲の行為であった。大々的に総合商社産業としては100年後の1125年頃と成っている。)
    それは「子孫拡大の慣習、仕来り、掟」の「厳しい戒律」が”自由なもの”でなかった事から、この「時代の限界点」を超えないと「青木氏のパラメータ」が2を超える事はない。
    「皇族賜姓族」はこの「二つの限界点」の間で、「子孫力」「子孫拡大力」は著しく伸びた。

    そもそも、「子孫」を「孫」或は「曾孫」にまでするには、「三つの条件」以外にある期間を必要とする。ある「限界点」があって突然に出来ると云うものではない。
    当時の50歳を寿命とすると、当時は「皇族・賜姓族系」の族は男子15歳を以て成人し、「婚姻の対象」とする慣習であった。そして、女子はもっと早く「妊娠の条件」が整わなくても形式上の嫁入り(10歳程度 当時は妊娠条件は早期であった。子孫拡大は純潔性を重んじた為)をした。
    中には記録から観ると7歳と云う者もいた。殆どは「純潔血制度の慣習」から「養女ー嫁の経過」を辿った。そうすると曾孫域までに達するには、約36年程度最速で掛かる。
    仮に「ねずみ算」で観ると、子供4人として「2の二乗」で子孫は拡大して行くとして、「青木村」を形成できる範囲(4代ー1000人)では、4代か5代と成る。
    しかし、「寿命50歳」は「ねずみ算」ではなかった事を意味するから、最低でも5代と成る。
    5代世は最低で75年で最大でも90年と成る。

    鎌倉期に頼朝が得た官職は、それまでの平安期の陸奥の「鎮守府将軍」から、鎌倉期の蝦夷地の「征夷大将軍」に切り替わった事の意味から、仮にこの時点から「青木氏」が移動定住したとしても1300年代に「青木村」が形成される事に成る。
    しかし、この1300年代には北海道には、上記した様に、記録の経緯から観て非公式に未だ何れの「青木氏」も移動定住していない。

    「許可制の定住移動」では何れの「青木氏」にとっては他氏に比べて「別の制約」があった。
    イ 「皇族賜姓族」としての「慣習や仕来りや掟」などの戒律の制約
    ロ 氏家制度の中で一族一門の了解の制約
    ハ 守護神や菩提寺の保全の制約
    ニ 御師、氏上様の社会的立場な制約
    ホ 「二足の草鞋策」和紙殖産の制約

    以上の様な制約があり、先ず「定住移動」、尚更、「入植移動」はあり得ない。
    あるとするならば、ただ一つある。
    それは、上記の制約が全て「廃棄」になった時にある。
    これには、平安期のみならず江戸期までこの制約は続いたが、何れの時代にも「入植の定住移動」にはこの「制約の廃棄」が必要であった。
    要するに、「皇族賜姓族」には少なくともこの「廃棄」はあり得ない事から不可能である。
    上記した時代に「入植移動」を起こしたのは、「何らかの事由、事変」がお起こった事に依る移動であった。
    「皇族賜姓族の青木氏」にはただ一つの許された公然とした要件があった。これ以外にはない。

    それは次ぎの通りである。
    A 皇祖神の子神祖先神の守護神の建立に伴う青木氏の神職
    B 古代密教浄土宗の菩提寺住職
    この二つに付いては”赴任による移動”と成る。

    これには「最低条件」として「青木村」が形成されている事が必要条件である。
    「皇族賜姓族」の「青木氏」が「イからホの制約」によって移動定住は出来ない訳であるから、「特別賜姓族」の「秀郷流青木氏」にはこの「制約」に強くは拘束されていなかった。
    (但し、例外があった。それは「伊勢秀郷流青木氏」と「武蔵入間の宗家」であった。)
    上記した様に、各地の「秀郷流青木氏」が定住移動し、「青木村」を形成した時に、AとBの「皇族賜姓族青木氏」は移動出来る事となる。
    現実に「神職と住職」の「移動と定住」が起こっている。

    例外がある。戦いに巻き込まれて各地に逃亡した「皇族賜姓族」即ち「制約の廃棄」が起こった「青木氏」には移動定住は可能である。
    兎に角、逃亡先に「青木村」が形成された時点で、AとBの「皇族賜姓青木氏」が移動し、必要に応じて定住が許される事になる。自発的な「移動と定住」は矢張り認められていなかった。
    特に、「特別賜姓族」の中でも、「伊勢秀郷流青木氏」と武蔵入間の「主要8氏の青木氏の本家筋」は「イからホの制約」に縛られていた。
    何れにしても、116氏の宗家のみならず本家筋は「イからホの制約」から無理であったと考えられる。
    この範囲外で「北海道の入植移動」は可能であった。「他氏の移動」とは違い大いに制約に縛られていた事に成る。

    ・「入植の時期の考察」
    そこで、「室町末期」には「結城永嶋氏」が陸奥域に戻っていることから、秀郷一門の「護衛同行」を基本とする「青木氏」にとっては未だ北海道には定住移動していない事に成る。
    そうすると、1575年から1590年代に未だ正式の定住移動はしていない。
    この「秀郷一門の青木氏族」の「永嶋氏」は豊臣秀吉に依って「天正17年」に「陸奥の結城永嶋氏」は滅ぼされた。
    (この時、「皇族賜姓族青木氏」と血縁もある「伊勢秀郷流青木氏」も禁令の戒律を反故にして「陸奥」に馳せ参じ定住しないで敗退して逃げ帰っている。)
    この直後に「陸奥の青木氏」、特に「青森ー秋田の青木氏」は「生活の糧」を含む「三つの条件」を失った事から、逃亡先も含めて最短で日本中から「蝦夷の地」として敬遠されていた北海道に逃亡した。逃亡地としては「北海道蝦夷の地」が追手の事も含めて最適地であった。

    筆者の持つ商業記録の一部からと、「讃岐青木氏」の江戸初期(1616年)の「太平洋周りの廻船の許可」が認可が下りている事からも考え合わせると、この「北海道」が出て来る時代は「慶長」の前後と成る。
    「商業取引」と「廻船許可」はここに多くの人が移植した事を物語る。それでなくては経営が成り立たないし許可しない。
    そうすると、1616年の少し前、1595年頃と範囲が限定されて来る。
    北海道に、「青木村」を形成出来る程度としては、この1595年に90年を加算した1685年頃と限定される。好景気になった元禄文化の元禄年間前後と成る。
    この元禄年間から100年間後には「享保の改革」が吉宗によって実行された。
    この享保の時、「紀州藩の勘定方」を指導し、且つ、吉宗に同行して幕府の「享保の改革実行」(布衣着用を認められた勘定方:大名扱い 家臣ではなかった。青木六左衛門)を任された。
    その「吉宗」を育てたのは「伊勢加納氏」と「伊勢青木氏」(主に経済面で後押しをした)である。
    この時に江戸には「6家12流の青木氏」が存在している事が江戸の記録から読み取れる。
    筆者のルーツは記録から伊勢から同行した6つの一つ「六左衛門ルーツ」(伊勢青木氏)と成っている。 12流もの青木氏が江戸に移動して定住している事は、この「蝦夷地」にも各大名の家臣などに成って赴任的にもかなり移動する理由があった事を物語る。

    ・「瀬戸内族の入植の考察」
    「大蔵氏と塩飽族の資料」の中にもこの事が掛かれている。大型輸送を必要とする北海道の入植は、「海運」を主にしていた事からこの状況が一部に書き込まれていて、大蔵氏は「海産物の責任者」と「廻船の責任者」をそれぞれ一族の中で決めている。
    「責任者」を決めるその必要性が特にあった事から決めた事であるから、この時頃に「交易拠点」を北海道に設けた事が明らかである。これは上記した「松前藩の資料」の中の文章と一致する。
    この様に最も南の「九州の豪族」が決めている事から、全国の主だった豪族は競って交易に走った事を物語るものである。
    「伊勢青木氏」は「二足の草鞋策」で「古代和紙の殖産」を通じて「総合商社の商い」をしていた事から、この北海道にも支店を設けていた筈で、出火でこの部分の詳細な記録は無いが、「千石船」を3艘持っていた事があって、それが「日本海周り」と「太平洋周り」に寄港していた事が判っていますので、「3艘の大船」をやり繰りして日本海と太平洋周りに廻す事などが起こっていた事を示す。
    この時の記録から観て、「蝦夷地」には、「青木氏」は次ぎの様な経緯を経た事に成る。

    「移動入植」1595ー「定住村」1685ー「活動期」1715と成る。

    つまり、享保の時期1715年代には、各地の「青木氏」はその正式な「定住移動の根拠」を示しながらも、「賜姓族」としてはかなりの「自由度」で移動定住している事に成る。
    言い換えれば、この「享保の状況」のこの「青木氏の移動活動」(幕府に質素倹約を進め財政再建として大船を使って交易利潤:「伊勢青木氏の大船」を使った可能性がある)から観て、逆算して1715年代の記録から90年を引くと、矢張り、上記の通り、「慶長期」と成る。

    従って、「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」とは「商い」で深い長い親交があった事が商業記録で判っていて、その事から「瀬戸内族」の居る「岡山」もやや早いこの時期には可能に成っていた筈である。
    (「伊勢青木氏」は「讃岐青木氏の要請」で「浅野藩取り潰し」(1703年)の際に「財産買取」に”3艘の大船を廻した”等が書かれている。「総合商社」を営んでいた事が理由で要請された。
    弾薬や火薬も扱っていた。その13年後に「伊勢青木氏の主導」で「享保改革」を開始している。)

    「移動入植」1590ー「定住村」1680ー「活動期」1710の経緯

    上記の経緯を経て、日本の「初代の姓族」と成った「瀬戸内族の海部族や塩飽族」の「姓族」と共に移動定住した「讃岐青木氏」は瀬戸内から北海道に定住移動していた事に成る。

    (青木氏主導の「享保改革」は、”「質素倹約」で「出」を抑え、「蝦夷地開拓」で「入り」を強化した政策)

    ・「北海道の11の吟味」
    これが北海道の「パラメータは11」の中味である。
    しかし、この「パラメータ11」では、この時期、つまり「慶長から享保の時代」の「入植定住と子孫拡大」だけではない事が判る。

    この「北海道のパラメータ11」は「千葉の11」と一致する。
    そもそも、「千葉」は、平安の古来より「藤原秀郷流青木氏」(朝光系)の定住地である。
    ここは、「結城」を初めとして1000年以上の土地柄である。
    上記の瀬戸内からの「入植定住の90年」とは訳が違う。
    他の青木氏家からの入植定住があったとしても、「瀬戸内5県」からの「パラメータ7」とすると、残りの4を埋めるとすると、問題がある。
    11−7=4は全国平均のパラメータである。バイアスとしては無視できない。
    「他氏の青木家」の北海道に入植定住した「青木氏」は判っている。
    その内容から観ても難しい。
    つまり、「岡山」等の瀬戸内だけではこの経緯からでは、上記の計算から観ても11は得られない。

    その前に、この「岡山」について吟味して観る必要がある。何かが観えて来る筈だ。
    先ず「岡山」は、せいぜいパラメータは「全国平均の4」は超える事はなく、パラメータは1ー2程度と成る。
    「全瀬戸内族の青木氏」として観ると、次ぎの様に成る。
    「岡山1」と「香川2」と「広島2」と「島根1」と支店の「青森1」と「秋田」
    これらを全部移したとしても、以上からパラメータは7/11程度と成る。

    これは、他の地域から移動定住した「青木氏」が大きかった事を示すし、「ルーツ掲示板」でも明確に確認でき、且つ、筆者の家にも僅かに残る商業記録としてそれを物語る記録が遺されている。
    それは、この「讃岐青木氏の廻船問屋」(総合商社であった)との関係である。
    1 「廻船問屋」で「北海道産の海産物」の搬送と販売
    2 「北海道と東北」から「太平洋周り」(外周り廻船)の「江戸向け」の「廻船の定期便の許可」
    以上が「讃岐青木氏」に江戸初期に幕府から特別に認可されている史実がある。

    「日本海周りの廻船」(内回り廻船)も平安期より持っていた事があって、その為に「岡山」から宍道湖の西寄りに平安期から定住地を認められていた。
    これは「廻船による寄港地」として各港域に条件付きで定住が認められていた事を物語る。

    (西には讃岐青木氏が、東には「足利氏系青木氏」が信濃から秀郷一門との争いで逃亡して「米子や八頭」に定住した賜姓族の「足利氏系青木氏」が存在して居て、それが宍道湖を境に東寄りに住み分けていた。)

    ・「讃岐青木氏の入植の吟味」
    平安期から、”瀬戸内を制する者は国を制する”と云われ、それを「純友の乱」が物語るが、その後、衰退した「讃岐藤氏の青木氏」は、再び鎌倉期には、ここを制していた大蔵氏の勢力低下と同族の平氏の滅亡等により、再び、これを機に息を吹き返した。
    再び、以前の支配下にあった「姓族」の初代と云われた「海部族」や「塩飽族」の「瀬戸内海族」をまとめて上げて「廻船問屋」を「2足の草鞋策」で再び勢力を盛り返した事が判っている。

    (「海族」と「海賊」は異なる。明治期にはこの「海族」のこの「操船技術」が「日本海軍の操船技術」と成った。それだけに群を超えて優れている事を意味する。この「操船技術」を以って子孫拡大は進んだ。支配下にあった「海部族と塩飽族」等の「海族」も「姓族」として経済的にも一人立ち出来る様になった事が何よりの証拠である。)

    この「讃岐青木氏と姓族の勢力」が、元々「蝦夷地の支店」として配置していたところに「讃岐藤氏一門の青木氏」が定住し、更に、戦後が上記した経緯の北海道に、衰退を防ぐ為に瀬戸内から定住移動をした事の2件が商業記録から読み取れる。

    ただ、「香川の1」と「岡山の0」がその勢力に比してパラメータは余りにも低過ぎる。
    これは、上記の北海道への「入植定住」が「個人単位」ではなく「一族の範囲の単位」で起こった事によるもので、現在のパラメータの数字は残った子孫が其処から拡大させたものであろう。


    ・「高松藩」と「弘前藩」の関係
    それを物語るものがある。この記録の中には、次ぎの様な経緯が書かれている。
    資料を取りまとめて観ると次ぎの様に成る。
    「瀬戸内の本家」の「首魁」(頭領)が、「海部族」と「塩飽族」と共に「廻船の指導」を名目で、江戸時代に「弘前藩」から依頼されて、「江戸幕府」に特別に認められて移動定住している。
    この「特別許可」とは、「弘前藩」の有名な「お家騒動」に関わりがある。

    「弘前藩のお家騒動」(財政難と跡目問題が絡んだ数度の勢力争い)とは、積極的財政改革を主張する家老が、「讃岐の松平氏」(高松藩)に逃げ込んだ。幕府は当面この家老を罰する事で裁定を下し、「配流先」に高松藩を指定した。(内情は逃げ込んだ形)そして、「廃藩」にして幕府直轄の領地とする経緯を持っていた。
    ところが、「高松藩」はより幕府に取って有利なシナリオを推奨し幕府を説得していた。
    その間、「高松藩」は「讃岐藤氏の讃岐青木氏」とその「支配下の海族」に事前に話を通した。
    その話とは、「瀬戸内の廻船業と海産物の販売」を「弘前藩」に指導させる事と、その事による利益の確保を幕府に収める事で「弘前藩の財政」を立て直し、「お家騒動の争い」を積極的財政改革を主張する一派に委ね、他派を排除し、納める事にして渋る幕府を納得させた。

    そこで、「高松藩」は「讃岐青木氏」を説得し、「弘前藩」にこの「瀬戸内の廻船業と海産物の販売」の一切のノウハウとそのプラントの殖産を敷く事を任した。
    この「瀬戸内の廻船業」を「弘前藩」に取り入れて「財政再建」を果たす事で立て直し、その事に依って得られた「利益」を幕府に献納金とし収める事で、お家騒動に決着を付けて「廃藩の憂き目」から生き延びた経緯があった。
    (弘前藩はたびたび「お家騒動の事件」を起こしていた藩で有名)

    この時、「高松藩の領主」(徳川氏)が乗り出したこの話は、瀬戸内に関係する族に取っては大変な事であった。
    そこで、「讃岐青木氏」(香川と岡山)は一族の多く「弘前藩」に配置し、操船を担当する塩飽族は一族の本家の頭領を「4年の期間」を定めて「弘前藩」に配置しする事に成った。
    この直前この頭領は倒れた。そこで、縁者から当主を迎えて「塩飽族の頭領」とした。
    「海部族」もこれに倣って「海産物の殖産」を指導する事で主だった者を「弘前藩」に配置した。
    「高松藩」との協議で4年を計画期間と定めて戻る事が決められていた。
    ところが、4年経っても「塩飽族の頭領」等は帰らなかった。そこで、その頭領を廃嫡して新たに塩飽族の頭領を定めた。「海部族」も「讃岐青木氏」(香川と岡山から赴任した)でも同じ事が起こった。
    恐らくは、資料の文章の言語の使い方が、”恣意的で敵対的な表現”が採られている事からある意味が出て来る。
    端的に読み取れる「塩飽族の内容」を観ると、”廃嫡の言葉””絶縁””頭領に迎えてやったのに””待ったが遂に帰って来なかった””一族の危機的表現”と云う様な意味合いが書かれている。後で書き記したもので、跡目を引き継いだ者が、”一族の非常事態の不満”からこのような表現に成ったのではないかと観られる。
    三者の資料を通して云える事は、恐らくは ”約束と違う 騙された”であったと観られる。
    三者とも、”大きな打撃で、”相当な陣容”で取り組んだのに”一族存亡”であった事が判る。
    幕府は、「幕府の財政的な窮地」を救える大きなこの「計画の利益確保 献納金」に重点を置いて、”4年で帰らすこと”は、”利益確保に支障を来す事”が懸念された為に帰還を一切許さなかった事が判る。「政治的な配慮」が読み取れる。
    瀬戸内の現地では、その事の不満(子孫存続が危うくなる)を後世に遺す為にわざわざ書き残す事にしたのではないかと考えられる。
    この様に”何らかの事変”が起こって帰れなくなったと観られる。
    (幕府や為政者側からは”返さなかった”と成る。「高松藩」の幕府への斡旋 「莫大な利益」が幕府に入ることで「お家騒動」に決着 お家騒動を幕府は上手く利用した。)
    この時の「瀬戸内から来た末裔」が青木氏等と共に、「職能集団の塩飽族」の一団が禁令にも関わらず特例を以って”現地に定住する事”も認められた。
    ”認められた”と云うよりは”定住を命じられた””帰る事を許さなかった。”が正しい。

    ・「松前藩」
    この時の「讃岐青木氏」の末裔が、明治期に北海道に入植で定住した記録があるが、江戸期には「弘前藩」の事もあって優先的に入植を認めたし、明治期にもこの「海運業と廻船業と海鮮殖産」とによる改革に効果がある事を承知の上で、特に「瀬戸内族の入植」を幕府は推し進めた経緯である。
    (「讃岐青木氏」と「伊勢青木氏」が裏で動いたと考えられる。)
    筆者は、幕府が「弘前藩」に廻った瀬戸内族全員を蝦夷地にそっくり廻したと観ている。
    「松前藩」にその特権を与えて置いて、それにこの「弘前藩の者と成った瀬戸内族」を今度は「松前藩」に廻したと観ている。
    ”「松前藩」の資料では、場所を限定して「交易権」を「家臣」にも与え「船」を作らした”と記載されている。これはおかしい。
    本来は「松前藩」が「藩」として取り扱う所に意味があり、それでこそ「特権の利益を確保」が出来るものである。「黒印状」からも幕府は「松前藩」に与えていて付帯条件はない。

    そもそも、「家臣」が「船」を作り「交易」をする行為は、最早、「家臣の力量」を遥かに超えてのもので「家臣」では無い。それだけの「家臣の財力」を超えた「力量」はそもそも簡単に持ち得る事は、家臣の仕事の中で出来得ないし、多くのノウハウを必要とするし、それが可能であれば「弘前藩」に対して行った”「高松藩の過酷な行政指導」は何だったのか”と云う事に成る。矛盾している。
    況して、1万石の大名の家臣が1万石以上の家臣がある訳がない。
    そのノウハウを持っている「瀬戸内族」を「家臣扱い」として、これに対して「場所請負制」をわざわざ敷いて場所を限定して交易を任したのである。
    この「場所請負制」では「民間の商人」にもこの「割り当て」を行っている。「場所請負」はこの3種の場所限定で分けられていたのだ。
    その証拠に「松前藩」が、”独自に行う交易場所”もあった。
    松前藩の場所は「瀬戸内族の指導」を受けての交易であった事が判る。この様にすれば藩も直ぐに交易が出来切る体制が採り得る事と成る。

    この「松前藩の経緯」は、1599年に家康から見いだされ「客臣」ー「寄合旗本」ー「享保4年」に「柳間1万石外様大名」、その後にこの「入植政策」が認められて「3万石大名」となった。
    「享保4年」には「1万人の都市」と成った事で大名に任じられた。
    (1万石は3万石に対して「後付格式」であった。)
    (「享保改革」は「伊勢青木氏」が主導している。その享保4年である。「質素倹約の出と蝦夷地開拓の入りの政策」)

    A 上記した様に、元禄時1703年の「讃岐青木氏」と「伊勢青木氏」の付き合い
    B 17年後(享保4年 1720年)に「1万石の大名 1万人都市の入植」
    C 1716年から「伊勢青木氏の享保の改革実行」

    つまり、Aの事があって、Cの事があった。当然にAの付き合いの上で、Bの事が実行されたと観るのが妥当であろう。
    要するに、「蝦夷地の入植開墾計画」は、「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」とが「幕府財政改革」の為に組んで主導した政策であった事が裏付けられる。
    (「信濃青木氏」も「伊勢青木氏」とは「二足の草鞋策」を敷いて一心同体であった事から参画していた可能性がある。)
    それは、享保に入ってからこの計画が両青木氏によって進められたのではなく、上記した様に、「讃岐青木氏」が”蝦夷地から外回りの廻船業”が江戸初期に認可された時期(1600年)には既に進められていた事に成る。
    「松前藩」が家康から「蝦夷交易権の黒印状」を与えられた1599年と、「讃岐青木氏」の蝦夷地からの外回り廻船を認められた時期1600年はそもそも同じである。

    ・「弘前藩と松前藩の関係」
    兎も角も、”家臣にも与えて船を作らした”というのは、幕府に対して申し開きが出来ない筈でありこれは「瀬戸内族」を「弘前藩」から「松前藩」に家臣として移した事を物語るものである。

    (”廻した”、或は、”廻さなくてはならない”背景があった。「高松藩」から「お家立て直し」で藩を救われながら「弘前藩」は約束通りに「讃岐」に返さなかった事情から、この「弘前」に居た「瀬戸内族」への恩義から、「蝦夷地交易による利権」を彼らに与える為に「松前藩」と話し合い、「松前藩の家臣の身分」で「独占的な交易権」と「破格の特定の場所」までも用意して優先的に与えて約束保護の代償として優遇した。この時、「松前藩」は「弘前藩」から米の供給を受けていた恩義もあり、「弘前藩」の申し出を快く受けた事に成る。
    しかし、これには、現実には家臣として特典を受けている事実は、この「弘前藩」に廻した「瀬戸内族」をそっくり「幕府の命令」で「松前藩」に預けたのではないだろうか。彼等を家臣として扱った事から、この表現に成ったと観ている。そうすればすべてが納得できる。
    何故、「幕府の命令」とするかは、江戸初期からこの「瀬戸内族の首魁の讃岐青木氏」と平安期から親交のあった「伊勢青木氏主導の享保改革」の「商人としての江戸初期からの計画」が裏ではあって、この計画を実行する為に、「蝦夷地開墾の促進」から「伊勢青木氏」が徳川吉宗に働きかけて内々の「幕府の意向」を両藩に内示していたと考えられるからである。
    (「伊勢青木氏」は「伊勢加納家」と共に「徳川吉宗の不遇の時の育ての親」である。)
    幕府(伊勢青木氏主導の改革)に取ってみれば、江戸初期から関わって来た「蝦夷地入植開拓」である。「弘前藩の成功」を「松前藩」にもさせて成功させ、その「献納金」を獲得する戦術に出たのは当然の事ではないだろうか。(享保改革:質素倹約の出策、蝦夷地開墾の入策」)
    これは、「蝦夷地の入植開拓」の”呼び水”と成る事を狙っていた事を意味する。
    (「家康の黒印状」から丁度100年後に享保4年の「1万人の都市化」が成されている。)
    みすみすこの様に、幕府自らの「成功体験」があるのに無視する事は、政治家として劣っているし、「享保改革主導の豪商伊勢青木氏」としても利用しなければ商人では無い。
    100年前に家康が見込んで松前氏に蝦夷地開拓を任した事であって「当然の事」であったと考えられる。
    現実に、各藩は上記した様に交易に走った事は判っているし、「豪商讃岐青木氏」と「豪商伊勢青木氏」も加わっていれば「近江商人」や「駿河商人」や「越前商人」など「各地の商人」も加わらない事は無い。
    この背後には、この「瀬戸内族」と「弘前藩」と「松前藩」と「幕府」と「高松藩」が大きく関わっていたのである。(下記の状況証拠から伊勢青木氏も関わっていた)

    ・「青木氏の役割」
    その証拠には、次ぎの事が確認できる。
    「無石藩の松前藩」は「弘前藩」から「最初は1万石」(後付)の給付であった。「最終は3万石の藩」に成ったが、都市化に依って「最終は10万石」の「実質の藩力」を持っていた。
    この為には、松前藩は無石藩である為に、「10万石の米の支給」が必要に成った。
    そこで「弘前藩以外」(1万石)から補足分以上を「松前藩」は求めなくてはならなくなった。
    ところが、その途中の「享保の時代」までには「5つの大飢饉」(1619、1642、1675、1680 1732)が起こった。この飢饉で「弘前藩」からも十分に入らなくなった。
    しかし、飢饉時のみならず「松前藩」にはこの補足分が「大阪」から供給されているのである。
    「米」は「幕府の統制下」にあるのに、「5大飢饉」の特に後ろ「享保前後の3つの飢饉」の時には”「大阪」から供給されている記録”がある。
    (享保以後には1782年の天明飢饉、1833年の天保飢饉がある。)

    これはそれだけに、”「蝦夷地開墾政策」が重視されていた政策”であった事を示すものではあるが、この「5大飢饉」の以後にも供給されているのである。それも”公然”とである。
    そこから、これは「大阪からの供給」の事前了承の下で非公式に「幕府許可」を得て受けていた事になる。
    これだけの事をやってのけられる人物、”誰が受けていたのか”と云う事に成る。
    「飢饉」とその後の不足から「松前藩」だけに「10万石もの米」を供給する事は暴動が起こる。
    現に各地で起こっている。それだけに幕府は公然とは出来ない。しかし、出来ている。
    それも”大阪”と記録されている。その「10万石もの米」を何処から、それをどの様にして運ぶのか、そんな要するに「ヤミ米」を集められる人物は誰なのか、等の疑問が次ぎから次ぎへと湧いて来る。この大疑問を解決しなければ「蝦夷地開墾の実態」は見えない。
    ”これだけの事を何の問題もなく一人でやり遂げられ、且つ、咎められない人物は誰なのか”である。極めて条件が絞られるがそれは確実に居る。
    それは”「伊勢青木氏」である”と観ている。

    注釈
    「伊勢青木氏」は伊勢松坂に2つの本拠点を置いて、愛知までの沿岸部周囲に4大店準拠点、「摂津」と「堺」に大船を停泊させる大店の4店舗の拠点、各地主要都市に産物を仕入れる支店を置いていた。三重県松阪市の2割程度は何らかの関係する土地で、隣の玉城市全域は伊勢青木氏の蔵群と青木氏に関わる全ての職人の長屋であった。享保年間では690年の「豪商の歴史」を持っていた。
    日本でも「賜姓族の歴史」のみならず「豪商としての有数歴史」をも持っていた。確認できる範囲で大船3艘以上 小船100隻以上 大小店舗数100程度と成る。

    問題はこれらを有効的に利用でき得る能力にある。
    それは
    1 「大商いを動かす政治力」
    2 「大商いを護る防衛力」
    3 「商情報を獲得する情報力」
    以上のこの3つが必要絶対条件である。これ無くしては成し得ないであろう。

    1に付いては、「伊勢青木氏」は、「特別賜姓族藤原秀郷流青木氏116氏」とは平安期からの同族関係にあり、親族の「伊勢秀郷流青木氏」を通じて116氏と繋がっていた。この「特別賜姓族」は、上記した様に、江戸期には大名では無かったが「幕府高級官僚の地位」を多く確保し、この「横の関係」に依って「計り知れない政治的な力」を生み出されていた。
    「伊勢青木氏」自らも「紀州藩」とは代々「財政の勘定方」を指導すると云う立場にあり、「紀州藩」を通じての「横の関係の政治力」を最大に保持していた。
    上記する様に、「享保時代」では自らが「布衣着用」で「徳川吉宗」を補佐して「享保の改革」を主導した立場もあり、「政治力」はある歴史家の単行本の言葉を引用すれば「豪商の頂点」の位置に居た。
    (「布衣着用」:幕臣では無かった事から大大名の地位を持ち将軍に拝謁して意見を述べられる立場 と合わせて、形式上「皇族賜姓族」としては将軍以上の「永代身分」を持っていた。)

    2に付いては、「商交渉」は元より「交易品の搬送」の安全が無ければ「大型の搬送」は陸海ともに不可能である。先ずここまでは持ち得ている豪商はまず無い。
    1の特別賜姓族の「横の関係」の24地域の「軍事力」を利用すればほぼ可能であるが、伊勢青木氏自らも織田信長の2万の軍を撃破する程の強力な「伊勢シンジケート」を保有している。
    これが、「陸海の郵送の安全」を守る事が出来る。
    先ず、「縦横の関係」でこれだけの「防衛力」を保持していた豪商は調べた範囲では無い。

    3に付いては、1の官僚機構を伴う「横の関係」と、全国500社に及ぶ「守護神 神明社」の組織を使えば、頂点から末端の情報まで早期に掴む事が出来る。
    この「情報力」を使って1の「政治力」をも補完出来る。この「情報力」と「政治力」と「防衛力」は相互に連携させれば「相乗的な補完関係」をより大きく生み出す。

    ここで、言い方を変えれば「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」の事は「海に面している青木氏」には成っているが、「信濃青木氏」は「陸の青木氏」であるから、その意味で商いと云う面では信濃と云えば「陸の特典」を活かした商いを補完していたのではないかと考えている。
    況や、「農産物」の殖産と販売の面で「伊勢青木氏」の足りない面を補っていた関係にあった事から、「一心同体の関係」であったと観ている。
    例えば、今回の「1万石の米」と成ると、全国各地から余剰米を集めて来る事に成ったとしても「伊勢青木氏」や「讃岐青木氏」は確かに「穀倉地帯」ではあるが、「穀倉地帯」であるが故に「余剰米」は生活圏としての必要性から出難い。
    「米、海産物、農産物」が揃っている地域では、結局は金銭での交渉と成り、集まらないし集めすぎると問題が起こる事が欠点と成るが、しかし、「信濃青木氏」では、上記123の力を使って、「周囲の穀倉地帯」からも「余剰米」を海の「代替品」と交換して集めれば必需品として集め易いし、問題も無く、「問題の10万石」は何とか成り得る。
    飢饉などの時にも「暴動の対象」とは成り難く悪評と成り難い。
    「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」が集めた「余剰米」に合わせて、それを上記123を使って「堺や摂津の拠点」の「大阪」に集めれば全ての面で安全に「松前藩」に搬送できる。

    この様な事は「金銭の売買」だけでの獲得では無く、「信濃青木氏」と「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」との連携での、多少の金銭の兌換があったとしても、主に「陸海の産物の交換」で可能と成るのは「全国数多の豪商」があるとは言え「青木氏」にしか出来得ない事である。

    関西在住の歴史家で歴史脚本家で、且つ、「青木氏の事」をよく研究している有名な人の言を捉えれば、「江戸期の豪商の頂点」にあるとして、どのように評価基準であるかはわからないが、「紀伊国屋文左衛門」の類では無いと評価している。筆者もルーツではあるが客観的にも同感で先ず無かったのでは無いかと観ている。色々研究過程で各地の「豪商の記録」に遭遇するが、これだけの「総合力」と「高いレベル」のものは未だ見つけられない。

    ・「松前藩の10万石問題」
    この「松前藩の10万石供給」は、「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」と「信濃青木氏」の連携以外に無いと観ている。
    つまり、「蝦夷地の開墾」即ち「入植定住」は「青木氏の行為」が根幹に関わっていた事を物語る。
    「北海道の11パラメータ」の説明はこの経緯で可能と成る。

    各地の大名としても交易する以上は、これらの「瀬戸内族や青木氏への特典」も”蝦夷地開墾の幕府の政策方針”として承知しこれに従っていた筈である。
    (殆どの大藩の譜代大名の記録から観ると、蝦夷地に交易の為に場所を確保し家臣を送っている。)
    従って、ここで幕府の政策上、「松前藩」を飢饉で潰す訳にはいかなかった事を意味するから、「暗黙の了解」として、むしろ”影では後押しして ”特に享保期には、「政治力」は当然に「青木氏」には充分にあったが、「松前藩の10万石供給」は飢饉外であったとしても「暗黙の了解」をしていたと考えられる。
    ところが、この「暗黙の了解」の裏には次の様な法的な「米に関する取り締まり令」があったのである。
    「享保改革」には「買米令」と云うものがあって、大名と堺を含む大阪商人等に限定して「168人」に対して「合計60万石」を限界として「米を買い上げる義務」を与えていたが、この「義務」に対して「蔵屋敷米の売却禁止」を課せている。
    更に大名に対して「上米令」を発して1万石に対して100石を返納させて「米を確保する」法を発して極力「闇米」を抑え込んだ。 何れも「米価高値安定政策」である。
    更には、米の動きを抑え高値安定化の為に「廻米の禁令」を発し江戸と難波に「米」を廻す事を禁止している。
    「堺」と「摂津」に大店を構え「蔵屋敷」を持っていた「伊勢青木氏」もこの168人のトップクラスの中にあり例外では無かった。(この168人は大名を含む大阪に蔵屋敷や店を構える人数で、大名と豪商は大阪に集中して蔵店を持っていた。)

    「伊勢青木氏」は、この「米に関する取り締まり令」の中での「松前藩の10万石供給」であった。
    普通では、「事前了解」が無ければ「法治外行為」であるし、「幕府の改革の主導者」である者がこの行為は反逆行為と成る。
    しかし、「社会からの暗黙の了解」で実行されている。

    そこで、果たして、「10万石」なのかを吟味して観る。
    「享保4年」で「1万人人口」として考察すると、武士階級で、当時4−6人の家族と2人の雇人での生活費200石(金銭に兌換)程度とされていたとすると、米100石必要であり、1250世帯とすると、「12万5000石程度」が市場には必要と計算上で出て来る。
    全て武士では無いのでその分を割愛すると10万石程度と成ろう。記録の10万石は妥当である。
    この時、松前藩は、幕府から無石藩ではあるが、「3万石」と認定されて1万石から「3万石大名」に格上げされた。(正式には「1万石」は「後付格付け」である。)
    実態は蝦夷地松前には正味10万石が供給されていた。
    そもそも「大名の石高」は「米高」に兌換してのもので、他の産物の取れ高を米に兌換して表現して格式を決めていた。「蝦夷地の松前」は「無石藩」であるので「産物の交易額」を「石高」に表現して急遽に格式を決めた経緯である。従って、この吟味の10万石は実質の必要な米料である。
    従って、「蝦夷地開拓政策」を成功させるには、「3万石」では無く「正味10万石の影の供給」が確実に必要であった。
    しかし、「上記の法令」で縛られている。「蝦夷地開拓政策」とは確実に矛盾している。
    この勘定方として自ら進めた「厳しい法令」を護らなくてはならないし、「蝦夷地開拓政策」を遂行しなければならないし、「享保の改革の主導役」の立場もあるし、蔭で「10万石を調達」をしなければならないし、「焼き討ちや暴動」も配慮しなければならないし、下手をすれば反対派から「密告されること」も覚悟しておかなければならないし、上記した「5つの飢饉」の中でも絶対に実行しなければならない苦しい仕事であった。

    「子孫力」と云う事から考えると、最も注意しなければならない事は、下手をすれば、”飢饉の中での儲けの買い占め”として庶民から”蔵打ちこわしの暴動”を受けていた事も考えられる。しかし無かった。社会全体が「暗黙の了解」の中にあった事と成る。
    (飢饉時には多くの商人は大小この攻撃を受けた。)
    これはまさに”世に晒す事無かれ”の「生き様の訓戒」の表れで、だからその「悠久の姿勢」から ”「青木氏」はそのような事をしない”とする「信頼の遡上」が出来上がっていた。
    「御師様 氏上様」の尊称が在った様に、これは「青木氏の子孫力」を大いに高めさせたものであった。

    ・「享保の改革」と「蝦夷地入植」
    重要な注釈として、「松前氏」は1599年に家康に見込まれてより「蝦夷地の交易の特典」を受け、その結果100年後の「享保4年」には、「3万石の大名」と成り、何と「1万人の大都市」と成ったが、この時は「吉宗の享保の改革」で「伊勢青木氏」が「吉宗の勘定方」として「青木六左衛門」が「財政政策の顧問」を行っていた時期でもある。
    「享保改革」を主導した「伊勢青木氏」から観た事の「六左衛門手記の資料」によると、「享保改革」では ”「質素倹約」で「出」を抑え、「蝦夷地開拓」で「入」を高める政策の財政改革”であったとの主意が記されていて これに対して御三家の一部からは猛烈に反対を受けたとある。
    これに対して「改革理論の効果」を証明する為に「紀州藩の財政改革」も「伊勢青木氏」が「紀州勘定方」を同時に指導して行ってこれを証明したとある。
    この結果から考察すると、この同時期に反対していた尾張藩主は蟄居させられている経緯があった。
    この様に現実に極めて危険な状況に陥っていたのである。
    徳川吉宗と伊勢青木氏は懸命に成って対抗した事が判る。
    「享保改革」は「三大改革」と呼ばれ他に多くの改革があるが、「青木氏は財政改革」の面の勘定方を主軸に担当していた事がこの手記から読み取れる。
    特に商人として参画した経緯から「米ー財政」に重点を置いていた事が判る。
    (安土桃山時代は1603年で終り、1614年で江戸時代に入る。この期間は徳川家康に実権が移っていた。)
    まさに、享保期までの「蝦夷地開拓」は「青木氏の政策指導」(質素倹約の中での政策として「蝦夷地開拓」での献納金で幕府財政立直策)であった事に成る。
    上記した様に、「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」は、古来より深い親交があった事から上記した事が起こっていたと考えている。
    つまり、この一連の「瀬戸内族」の「入植政策」では、状況証拠から「両青木氏」の「裏での合意」があったのではないだろうか。
    この「裏での合意」が無ければ「瀬戸内族の一族」ごっそりこの「弘前から松前」(旧蝦夷地)までの「蝦夷地入植計画」に注ぎ込んでいる事はない。
    先ずこの計画を進められるには「普通の豪商」では成し得ない。「総合力」を持ち得ている「特別な豪商」でなくては成し得ない事である。
    仮に「讃岐青木氏」に不足するところがあるとするならば「伊勢青木氏」がこれを補填する事が出来る。
    この”悠久な歴史を持つ二つの特別な豪商”があってこそ「蝦夷地入植と開墾の計画」は進む事はなかったと考えられる。故に、幕府はその「進行具合」を観つつ、100年後の「享保の改革」で直接、「伊勢青木氏」を幕政に取り込み、この計画を成功裏に収めようとしたのである。
    結果として、「幕府財政の改善」が可能であると考えていたのである。




    > > [地域別分布力]
    > > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
    > > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
    > > 地域      異変の県        分布力
    > > 九州地方   長崎、大分       5%
    > > 四国地方   高知          2.5% 
    > > 中国地方   山口、岡山      2.5%
    > > 関西地方   三重(筆者ルーツ) 14%
    > > 東北地方   秋田           7%
    > > 中部地方                15%
    > > 関東地方                45%
    > > 北海道・沖縄               6%
    > > その他                   3%
    > >
    > > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
    > > 九州地方  1.3
    > > 四国地方  1.3
    > > 中国地方  1.3
    > > 関西地方  4.7
    > > 中部地方  4.3
    > > 関東地方  11.3
    > > 東北地方  2.0
    > > その他   11.0
    > >
    > > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
    > >
    > > 修正地域(表ー3)
    > > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
    > > 秋田 1
    > >
    > > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
    > > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
    > > 福岡  2   山口  0   愛媛  3     兵庫  3    三重  1
    > > 長崎  0     島根  2   香川  1     大阪  14   石川  2
    > > 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都  5    福井  1
    > > 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良  1    岐阜  3
    > > 熊本  4                        和歌山 4    愛知  13   
    > > 宮崎  2                        滋賀  1    長野  9
    > > 鹿児島 1                                  山梨  1
    > >
    > > 域平均 1.25 平均  1.25  平均  1.25  平均  4.7  平均  4.3        
    > >
    > > 関東地方(45%)東北北陸地方(7%)沖縄、北海道地方(17.5%)
    > > 静岡  5    青森  1     沖縄  1
    > > 神奈川 21   山形  2     北海道 11
    > > 東京  18    岩手  1
    > > 埼玉  17    新潟  4
    > > 群馬  6    秋田  0
    > > 千葉  11   福島  4
    > > 茨木  4    宮城  2
    > > 栃木  8                                     
    > >
    > > 域平均 11.3  平均  2.0   平均  11.0  
    > >

    青木氏の分布と子孫力−4に続く。


      [No.306] Re:青木氏の分布と子孫力−2
         投稿者:takao   投稿日:2014/03/26(Wed) 12:34:09  


    >「伊勢青木氏族日向青木氏」と成るが、「伊勢青木氏」の様に戒律に縛られる事なく、「子孫拡大」が吐かれた結果である。.
    >そこで、「日向青木氏」のパラメータは6とすると、そうなると、上記「長崎」は同程度の0から6としていた上記の推論は当たる。
    >上記の「長崎」は6以下であろう。「日向青木氏」から観れば6は超えない。

    「青木氏の分布と伝統力」−2


    ・「長崎の考察」
    この「長崎」の「青木氏」は、ここは「太宰大監」として自治を認められた地域であって、元々「大蔵氏族の居住地」で直接に勢力範囲の届く地域であって、藤原氏が大きく入り込む余地はなかった。
    (この時は平家の影で藤原氏は衰退していた)
    従って、鎌倉末期後の「元寇の役」の「鎌倉期ー室町期」の赴任による定住地である。
    そこで「青木村」を形成している事から「平安末期の子孫」とも考えられるが、上記する様に本来の形の定住地でなかった事から、恐らくは、この時の「青木村」は、後からの秀郷宗家一族の赴任に依って、それに護衛団として同行した「秀郷流青木氏」が、その時に「青木村」を形成して定住したと観られる。
    「青木村」を形成する以上はそれなりの期間を必要とする。赴任だけでは成し得ない事に成る。
    では、形成できた時期となると、「元寇の役」の時の「進藤氏の仲介」で「大蔵氏と青木氏の血縁関係」がなされた時期と成る。
    恐らくは、この時の子孫がこの「青木村」を形成したが、「青木氏の氏環境」からこの「青木村」を留守居か、放棄して武蔵入間に一族全員が引き揚げた事に成る。
    そこに、再び、鎌倉期に秀郷宗家が赴任して、この時に護衛同行した「青木氏」が、この「青木村」に再び住み着き、その後に「護衛役」を入れ替わった別の家紋の異なる「青木氏」がこの「青木村」の近隣に住んだと観られる。
    その証拠に青木村外の近隣に住んでいた家紋の異なる「青木氏」もいた事が史実の記録から読み取れる。そして、ここに「赴任先」とされた事もあり、この地域の事が差配出来る「縁故の理由」として、この「青木村の存在」が左右した事が考えられる。
    しかし、記録的には確実に定住移動しているのにパラメータでは0と成っている。
    (ルーツ掲示板では長崎からの投稿が多い)
    数字的に観ても、「赴任定住の青木村」がある事から、この「長崎」は全国平均の4のパラメータはにあり得る。
    (「日向青木氏」から観れば、「青木村」を形成している事から観れば、6までのパラメータは実質得られる。)
    「ルーツ掲示板」(1000件)から観て、「長崎」に定住か先祖が「長崎の青木氏」からの関係するお便りは全体の凡そ2割に成る。
    「青木氏族外」からのお便りもある事からこれらを差し引きするとパラメータとして直せば、5ー6と成る。
    「家紋分析」から観ても、パラメータとして直すことは難しいが、116氏の家紋中に占める「長崎」の青木村付近の家紋群数の%は4.6%であった。これから観ると、子孫は大きく拡大していない事と成る。
    「家紋掟」により家紋が増える事は「跡目養子」が多かった事が云え、「子孫拡大」が増えている事にも成るが、「藤原氏秀郷一門の361氏」から観ると、「子孫拡大」は低い方にある。
    これは周辺に大豪族が分布していて伸びるチャンスも難しかった事が考えられるが、多くは「神職系」と「大蔵氏系」と云う事に制約されて、「関東の青木氏」として入り込むことは難しかったのではと考えられる。
    赴任である以上、戦いに依って周囲の土豪を切従えて土地を獲得する事は出来なかったし、治安を維持する事を任務としている以上は江戸期末期まで出来なかった事に成る。
    仮に「子孫拡大」とすると成れば、「赴任地の経済力」だけでは無理であり、「入間宗家の経済的支援」に頼る以外に無かった筈である。これは無理な事で、”それならば帰って来い”と成る。
    それは「過去からの伝統」として、”武蔵に帰る”と云う風評が左右したと観られるし、「長谷川氏」や「永嶋氏」の様に、大蔵氏系の中に組み込まれてしまう事も「青木氏の戒律」から避けたのではないかと考えられる。
    つまり、「血縁の利点」が青木氏側に九州では無かった事を意味する。
    依って、「パラメータは4」であろう。これを超える力は先ずないだろう。
    従って、「長崎」の「子孫拡大」は0と観るよりは6以下と観た方が適切である。
    九州の地域平均の1.3%と全国平均の5%から観て、関西以北を原則定住地としている中で、殆ど「青木氏疎遠の地」として考えても、「長崎備前青木氏」の4−5と「宮崎日向青木氏」の6はよく「子孫拡大」を果たしたと考えられる。

    「高知」
    次ぎは、四国地方の「高知青木氏」(土佐青木氏)は、「甲斐の武田氏系青木氏」が、当初、「讃岐青木氏」(香川)に保護されて「庇護地の讃岐」から土佐に移動して定住したものである。
    この「高知青木氏」の「子孫拡大」も「讃岐青木氏」の保護の下で「逃亡移動先」で「青木村」を形成して拡大しているくらいでもある。
    現在も定住の確認が出来るが、パラメータは0であるが「子孫繁栄」は他の地域で起こしている可能性がある。滅亡した事はない。
    それは「讃岐青木氏」(香川)に保護されながら「高知」にその勢力を伸ばして領地を確保してここを「永住の地」として「青木村」を形成したのである。
    記録から観ても、「子孫拡大」の「三つの条件」の内、「経済的背景」と「武力的背景」は確保出来ていた。
    この「三つの条件」(「政治的背景」 「経済的背景」 「武力的背景」)の経緯順は
    一 「讃岐青木氏」のみならず「讃岐藤氏の背景」の「武力的背景」を(1)とした。
    二 その「武力的背景」をベースに領地を確保して「経済的背景」を(2)とした。

    「讃岐青木氏」の背景とその庇護が無くてはこの「青木氏疎遠の地」「高知土佐」では「子孫拡大」は無かった。
    「政治的背景」は「皆無」として伸長した珍しい「皇族の武田氏系青木氏」である。
    この「政治的背景」は「讃岐藤氏と讃岐青木氏」が前面に出ていた事から「皇族系族」としての「政治的背景」は必要でなかった。
    その代り表に出ていなかった事から「厳しい皇族系族の戒律」に縛られていなかった事、「不入不倫の権」に守られない環境の中では柵が無く「自由」であった事が云える。
    それだけに「三つの条件」の欠如があったにせよ、「子孫拡大」は比較的伸びやすかったのではないかと考えられ、その為か研究では半面で比較的に「伝統」は消えている。
    調査研究では、家紋や宗派や守護神などの「伝統」は消えていて「青木氏」自らも「ルーツの如何」の認識も薄かった。「甲斐武田氏系青木氏」の家紋に関しても消えている。当然に宗派は別であるし、「守護神の神明社」も少ない。
    どちらかと云うと、「讃岐藤氏の藤原氏族の青木氏族」の認識が強かった。
    現在、投稿が少ないのもこの影響ではないかとも考えられる。
    東側の「阿波青木氏」(徳島)に比べて西域に限り「子孫拡大」、或は「勢力拡大」をさせた事がその原因と成っていて隔離的な形に成っていたと考えられる。

    (徳島の青木村  阿南市見能材町青木村  板野郡藍住町青木村)

    従って、その意味から、明治後に移動が自由になった事から、その自由さから大阪に移動して行った事が考えられる。
    (「ブラジル移植」もあった。土佐には紀州の漁民が「カタカタ漁」を広める為に多く移動した。この為にブラジルにも紀州と高知の漁村の全体が入植した。この時にも入植していると観られる。)

    「青木村」があったにも関わらずその「伝統」を守れていないのは、この「都会移動」と「入植移動」を明治後に大きく起こしたと考えられる。
    そこで、この「青木氏」の「家紋」は、本来は「家紋掟」から「賜姓族」であるなら「笹竜胆紋」である筈ではあるが、「武田花菱紋」である。「武田氏系青木氏」と成っている。
    この事から「本家筋」が消えている事を意味するし、他にありえない一般の家紋も観られる。
    要するに、”「武田花菱紋」が残っている”と観られる事は、「家紋掟」はあまりに庶民化して守られていなかった事を物語る。
    従って、明治初期の「苗字令と督促令」があったが、”「青木氏の氏名」はどの様に維持してきたのか”と云う疑問がある。
    それは「江戸期の間の環境」に左右されていた筈で、「血縁が自由」が決めてでは無かったかと考えられる。これを解明する資料は見つからないが、「青木氏」を遺すには最低でも「身分」が「郷士」であった事になる。
    それは、”青木氏でない氏の資料”で証明している。

    ・「郷氏名義札」
    四国と云えば、「紀州」まで「子孫拡大」を起こしていた有名な氏がある。それは「高知の坂本氏」である。
    有名な「坂本竜馬」の家で、その坂本氏は高知ー徳島ー和歌山の紀州に子孫を遺していて、紀州では「坂本氏屋敷跡」を「歴史遺跡」として認定されていて、史跡の土地に家を建てる時には、建設前に先ず調査が義務付けられているくらいである。
    「坂本竜馬の実家」はこの「坂本氏」の「郷士名義札」を買い取り、商家から「坂本の氏」を名乗った事は有名である。この様な事は江戸期には可能であった。
    「青木氏」の様な氏は、この「郷士名義札」のトップ対象の中にあり、経済的に氏を維持できなくなった本家筋が最後の手段としてこの「郷士名義売り」を行った。
    ただ、「賜姓族と特別賜姓族の青木氏」は行っていない。
    特にこの現象が盛んに行われた時期は次ぎの4期に盛んに起こった。

    第1期 下剋上で立身出世した者がこの名義買いを行った室町期末期
    第2期 江戸初期に徳川氏の家臣と成り「氏姓」を持たない下級武士の名義買い
    第3期 江戸中期末期に起こった豪商などが「商い」をより拡大する為に「郷氏」の家柄の名義買い
    第4期 最後には明治期初期の苗字令の名義買い

    この「名義札を買った青木氏」は、これを「青木氏の場合」は、「第三の青木氏」と呼ばれた。(寛政の歴史書にこの「第三の氏」として記されている。)
    「高知」では、その「青木氏の地域性の低さ」からこの様な現象が起こった。
    届けて審査されて認可される正式な仕組みであった。高地では第3期と第4期が主である。
    (国や地域により認めていない地域もあった。主に地域の経済的な理由にあった。) 
    「山内藩の発祥由緒」からも「高知」ではこれを認めていた。
    つまり、この「高知青木氏」にも「青木村」がある様に「郷氏」扱いで売却が起こったと考えられる。
    その証拠に、「須崎市青木町」と 、「高岡市青木町」の「二つの青木村」があった。

    「二つの青木村」を持つほどにその勢力、即ち、「子孫拡大力」は元々持ち得ていなく、然も、その意識に欠けていた事から、「二つの青木村」は通常ではあり得ない。
    「秀郷一門の青木氏」であっても「一地域一青木村」であるのにおかしい事である。
    それにはこの様に成る理由が一つあった。
    それは上記した「郷氏の名義札の制度」である。
    一方の「青木村」が「元々の青木氏」で、他方の「青木村」が「名義買いの青木氏」であった事に成る。
    「氏名村」を形成している以上はかなり古い時期からの「名義札」である。
    恐らくは新しい方は江戸中期頃と観られる。

    そもそも、この「名義札の売却」の中には、いくつかのパターンがあった。
    1 「嫁取り」を基本にする方式
    2 「氏名と財産売却」を基本にする方式
    3 「単純名義札売り」を基本とする方式
    4 「一族一門の跡目断絶」を基本とする方式
    5 「1から4の複用」を基本とする方式

    1 「完全女系」となった「本家筋の青木氏」から「嫁取り」をし、その時に「結納金」とは別に、その「嫁側の名義買い」も行って「縁続きの形」で「氏名」を作った形式が多かった。
      要するに「家紋掟外の行為」である。
    2 中には「名義」だけではなく、その「財産」の一切も合わせてその金額の中で買い取ったものもある。
     この方式によれば親族や縁者からの反発を避ける事が出来たのである。
      (本来では「家紋掟」でも「嫁入り」では「氏名と家紋」は変わらない)
      分家筋がこれを行う時は、親族中でも「本家筋の承諾」が必要であった。
    3 単純に「名義」の使用を選定とする「名義買い」があった。「名義」を売った方は名義が消滅する。
      農民や漁民や商人に転身した。
    4 一族が完全に跡目が断絶し、その「氏名の使用」だけを売却する方式もあった。
      「跡目」とは別に「借金の肩代わり」に「名義売り」に成る場合もあった。

    これら全ては、その「郷士や郷氏」の「経済的な背景」が左右していた。
    「娘」(女子)が無かった場合は、形式上、縁者や他氏から求めて「養女」を仕立てて、この形に持ち込んだものもある。この方式は最も有利であったからで、「1の方式」に持ち込む事が出来ない場合には2から3と変えて行ったものもあった。
    「青木氏の戒律」に縛られないで、「地域性」に左右されて経済的に低かった「高知青木氏」には、「郷士の坂本氏」でも起こっている程から、よりこの現象が起こった可能性が高い。
    恐らくは、「本家筋」の範囲ではこの方式で「高知青木氏」を保もたれていた事も考えられる。
    依って、その「氏の衰退」と「名義売り」をしてしまった事からも、自由になった明治後の「都会移動」と「入植移動」が起こったと考えられ、それと共に老齢化していた事が考えられるのである。
    故に「青木村」を形成しながらパラメータが0と成り得ているのであろう。
    つまり、「二つの青木村」に成っている事から、「本家筋の名義売り」になった事に成る。
    一方で「青木村」が残り、二つ目の「青木村」を形成した事に成っているので、「1の場合」に限定される。故に「二つの青木村」が形成されたのである。
    この場合であると、家紋も何もかも一切「札の条件」に成って居る事から判別が出来ないのである。

    この様に、上記した様に「日向青木氏」の様に、現在でも子孫拡大が進んでいる「青木氏」もあれば、「高知青木氏」の様に衰退している地域もある。
    況や、この「栄枯盛衰」は「伝統」の「継承有無の如何」に関わっている。
    今後、伝統の継承のより強い意識が無ければ、この「高知の青木氏」の「伝統」のみならず「青木氏」も残念ながら消える見込みであろう。

    ・「徳島の青木村考察」
    ところが、この四国に於いて、「二つの青木村」を持っている県がもう一つ珍しくある。それは徳島である。
    ここは「高知」とは全く違うのである。
    平安期初期からの北家筋の赴任定住地である。藤原秀郷流一門と同じ北家筋の利仁流一門の赴任地である。
    ここには「護衛同行団の秀郷流青木氏」が定住の形式を一応採った地域であり特異な地域でもある。
    その「子孫拡大」の「高知青木氏」の方向は、「徳島」の南側から西に向かって伸ばしたが、西に伸ばさなければならない理由があった事に成る。東には隆盛を極めたこの「秀郷流青木氏」が定住していたからである。
    この東には上記する様に「剣片喰族の秀郷流青木氏」が定住していた。その定住には特異さがあった。パラメータは1である。
    しかし、この1は単純な1ではない。高知で上記した様な衰退の様な現象が起こっていた事が思えるが、ところが隣接する東では全く別であった。(下記)
    高知から観れば、隣国であった事から東にも青木氏が存在する事は、東にも「青木村」が2か所もあって、この事は高知では、長い間の歴史の中で風評として承知していた筈である。

    その「高知青木氏の経済的背景」の経緯は次ぎの様な現象であった。
    特に、「日向青木氏」の様に無人の山岳部や沿岸部を開墾して「生活の糧」とした訳ではなく、一族逃避時からその力を使って「讃岐青木氏の援護」を受けて領地を拡大した戦乱の室町期の「子孫拡大」であった。「讃岐藤氏」にとっては「背後の憂い」をなくす意味でも都合が良かった。
    ところが「高知の青木村」が隣接する東側の地域の阿波徳島一帯には、愛知から来た「剣片喰族」の「秀郷流青木氏」が赴任して土地に絶大な勢力を張っていた。
    東には憂いが無かった事が「高知青木氏」(土佐)にも成し得た勢力で「子孫拡大」は成し得た。
    しかし、この「子孫拡大」は室町期末期までのもので、「山内氏の領地」となった「江戸期の安定期」と、「明治期の地租改正」などで「生活の基盤」と成る土地は力に頼った「子孫力」であった事から霧消した筈である。
    その背景と成っていた「讃岐藤氏」も「四国の勢力争い」の「戦乱の苦境」の中にあっての「高知青木氏」は「讃岐青木氏の庇護」は無くなったと考えられる。
    筆者は上記の「高知の名義札問題」は、この時に起こったと考えている。
    「高知」では財政的に子孫存続が難しくなった「名義売りの青木氏の方」は衰退し、「名義買いの方」は逆にその財政力を使って隆盛して、この「名義買いの方」の青木氏が残った可能性がある。
    多くは「名義買いの方」は「坂本氏の例」に観る様に「商家」であった。
    とすると、「一方の青木村」は当然に消滅する筈である。

    しかし、残っていると成ると、”一体どのような事が起こっていたのか”と云う問題がある。
    だから、上記の2や3や4ではなく1である事に成る。
    つまり、「娘」を娶り、「名義買い」もして、「財産」も買い上げて、「家柄」を「郷氏」に一段上に上げて、後に子孫が生まれれば、その一人を元の「名義売りの家」を興し直す事で可能に成る。
    こうする事に依って、「名義買いの方」は名実ともに「青木氏と縁続き」と成る。
    更に、そこで更に子供が出来れば、完全に「名義買いの方」の「血筋」の「青木氏」に特化してしまうのである。この経緯が本来の目的である。
    「商家」が「武家」に特化する身分変更の奥の手であった。
    財政的に優位にある「商家」は挙ってこの手を使った。「氏族」に成ると同時に「商い」にも有利と云う事が起こる。「商家 商家」と蔑げすまれる事は無くなる。
    「室町期中期からの豪商」と呼ばれる者は殆どが「二足の草鞋策」(室町文化 殖産業)で、「江戸期の豪商」は逆に商家が「郷士や郷氏の札」を買う事で「二足の草鞋策」(元禄文化 販売業)に成った。

    従って、4、3、2より1に持ち込もうとして、「名義売りの方」に娘が無くてもどこから女子を連れてきて先ず「養女」にしてこの取引を両者の合意で行った。
    要するに、「血筋」と云うよりは「家柄」を重視した。これは「商い」にも役立つ利得からの選択であった。幕府や藩の「認可の便宜」と「公共事業の受注」にあった。今とあまり変わらない。

    「弘前藩の事件」もこの「太平洋周りの廻船」の認可と「海産物の殖産海運」が物語っている。

    恐らくは「商家の武家への特化」この事が起こったと観られる。
    突き詰めれば、「札の買い手」の「家の継承」と云うよりは「利得のための特化現象」である。
    故に、「二つの青木村」が残ったのである。
    結局は、「名義札」にする側の青木氏は存続が出来なくなった事によって1から4の事が起こったのである。
    終局は、断絶か滅亡の憂き目に成る運命であるから、「売る側」も「買う側」にもそれなりの利点があった。それ以外には無理である。
    通常の「氏名継承」の「男系継承」の逆の事を起こしたのであり、元に戻す手段としても当時は認められていない「女系継承」が起こった事に成る。それを「正常な形にする手段」として「名義札制度」があったのである。
    「氏家制度」が、”下剋上と戦乱の下級武士の勃興”で「社会の組織形態」が崩れて、室町期末期頃から「崩壊の憂き目」が起こった。
    そこで考え出されたのがこの「名義札制度」であった。
    この制度は江戸期の中期に入る前には「お家を護る」と云う大義名分の名目で盛んに行われた。
    全くの他人の子供を「養子や養女」に迎えて家を継がせると云う事が頻繁に行われ、旗本や御家人の家柄を断絶から護ったのである。
    当初は武士間だけであったが、それのみにあらず「庶民ー武家」からも「名義札」で取引して「養子や養女」を迎えて「家」を護ったのである。この「慣習の継承の裏」には、必ず「名義札」が動いた。
    この「名義札」も社会的に認められたものであっても、「利得」より「家柄」と云うものに重点を置くと、江戸期または室町期に於いても「士農工商の縛り」がある以上は”「商家」が「武家」に”と蔑まれるは必定で、その為には、「名義札」も表にはなかなか出しにくい行為で制度である。
    子供が出来るまでの少しの時間をかければ「売り手」の元の家に「再興の子供」を仕立てる事で名実共に「青木氏」には成れるが、そこに「商いの利得」が絡んでいれば密やかに「名義札の売買」は行われなくてはならない柵がある。
    これは「武士」もより上の家柄にする事に限らず、「商家」もこれに参画して「武家の家柄」を獲得したのである。

    ・「高知の山内氏の考察」
    この背景と成っていた「讃岐青木氏」は瀬戸内を通じて北に延ばした事から、「高知の青木氏」は「三つの条件」の全てを連鎖的になくして行った事が云える。
    尚、合わせて江戸期の四国は大きく勢力図は変わった。
    つまり、「姓族の時代」と成って、「氏家制度」の中で「高知の土佐青木氏」は生き延びるための基盤を失った事に成る。
    恐らくは、「下級武士」から家を興した「山内氏」は愛知から家臣団を連れての「高知への転封」で、「土地の豪族」や「郷士、郷氏」等の勢力との激しい反発を受けた「有名な転封藩主」であった。
    事件では、「話し合い」を前提として城内に入った「郷士団」「土豪団」と「山内氏」との間で城門を閉ざして城内で全滅に至るまで激戦を繰り広げた。この「激しい反乱」(有名な反乱)の末に解決した経緯があり、この「怨念と警戒」があって、「地元の勢力」、「土豪団」取り分け「郷士団」や「郷氏」には、山内氏は警戒していて「厳しい政策」を幕末までを採った事でも特に有名である。
    (この事件でも郷氏が少なく成り「子孫力」が低い原因になった。)
    その政策は「江戸末期の土佐藩」にもよく出ていて、「坂本龍馬」もこの事が原因で許可なく国元を離れた経緯がある位で、一部懐柔策としてこれらを家臣に加えたが「郷士や郷氏」には特に厳しい軋轢を加えた事でも有名である。
    依って、「高知青木氏」も例外ではなく、通称歴史上では「名義買い」で称される上記した様な事が起こり「農民か漁民」(入植移動)に転身して生き延びた事が云える。
    その事から土地に居づらい元青木氏は、後に特に明治期の「都会移動」「入植移動」の原因となった。
    筆者の研究からも、この地域の「武家の青木氏の強い息遣い」は観られなかった。
    「ルーツ掲示板」にも同じく観られない。「ルーツ掲示板」の比率に表現できない数字である。
    しかし、「墓所の家紋分析」と「守護神の調査」の研究からまだ存在は確認できる。
    数字的には1あるいは2以下のパラメータが得られる程度と考えられる。
    しかし、記帳とルーツ掲示板にも無いと云う事は、その原因として「名義買いの青木氏」にも「高知在住の青木氏の老齢化」も起こっているのではないだろか。

    下記に示す大阪や東京などの都会に、つまり、パラメータが多過ぎる地域に「移動定住」している事を示すが、外の四国3県のパラメータにはそれなりに妥当なものとして考えられる事から、この3県には高知からの移動の原因は考えられない。
    「山内氏事件」「名義札」「入植移動」「都会移動」「戦乱期衰退」が原因して「武田氏系青木氏」の「高知青木氏」はパラメータが得られなかったと観られる。

    「徳島」
    そこで、比較対象として上記した様に隣接する「徳島の1」に付いて「特異性」があるので論じて置く。
    その証拠には「徳島の1」である。(このパラメータの1には意味がある)
    「徳島」は上記した様に、「剣片喰族」の「秀郷流青木氏」が愛知より移動して赴任定住していた。この期間は平安期から室町期中期まで赴任している。
    この定住には、初期には「秀郷流一門」、その後に「藤原利仁流の藤原氏」も越後から赴任している。
    ここには「秀郷流青木氏」が鎌倉期まで赴任していて定住していた事から、「秀郷一門」と「利仁一門」は一族系列である事から深い親交があって、その後に「阿波の秀郷流青木氏」は警護をしている。

    (利仁と秀郷の関係 「秀郷」の祖祖父の「藤成」の兄弟の「鷲取」の5代目が「利仁」、「藤成」から4代目が秀郷 従兄弟としての関係程度であった事が記録から観られる。「陸奥の鎮守府将軍」としても「利仁流」も務めているくらいで相互に親交があった。両者を取り持ったのは「進藤氏」で仲介していた。「利仁流進藤氏」が越後と岩代の中間の東北地域には発祥している。)

    この為に、「阿波徳島青木氏」はパラメータ1に関わらず江戸期末期まで「郷氏」として生き延びて子孫を確実に拡大させている。
    この「パラメータの1」は徳島の南北に「青木村」を「二か所」も形成している事から観ると、”低い”と判断できるが、「高知青木氏」と違い、この”低い”のにはそれなりの理由があった。
    この「剣片喰族」は愛知から静岡の沿岸部に分布していて江戸期まで青木氏外にも「片喰族」として大勢力を維持していた。
    室町期末期の天正末期まで一門の永嶋氏が、伊勢域まで勢力を拡大させたが、これには「片喰族」と「剣片喰族」が加勢して勢力を維持させた。その為に、「四国阿波青木氏」も勢力を維持させた。
    何故ならば、この「剣片喰族」は阿波に定住地二か所を設けながらも、固定定住するのではなく「愛知ー静岡」の地域から”「交代制」で維持する”という制度を採用していた。
    本来の「入間帰還」の「青木氏の制度」と違い、これに従い「片喰族」として「子孫拡大」を分散させない様に確実なシステムを独自に敷いていた。

    武蔵の前哨地として採用していた為に、本来は武蔵の国に復帰するが、この「片喰族」だけは「愛知ー静岡」に復帰していたのである。
    この為に、「阿波」にはその勢力が固定されて、江戸期でも「郷氏」になったとしても「氏力」は保たれたのである。一族の相互間の連携を採っていた事が「家紋分析」でもこの事が裏付けられる。
    故に、江戸期でも安定した勢力を保持した為に秀郷一門の主要家紋8氏の一つと成っていた。

    高知の青木村の二か所は、「須崎市青木町」ー「高岡市青木町」の隣接市にある。
    徳島の青木村の二か所は、「南端域の阿南市青木町」と「北端域の板野郡青木村」に完全に分離している。

    つまり、「徳島の青木村」は上記したその制度にあった。
    これは、利仁流一門の護衛の時は、「板野郡」に、秀郷一門の時は「阿南市」に分けて赴任住まいしていた事が判る。
    両方には留守居を置いていたが、この「二つの青木村」の態勢は「利仁流と秀郷流の距離感」を保っていた事が考えられる。阿波国は紀伊水道に沿って南北に長い土地柄である。
    利仁と秀郷の二門の護衛となると「青木村」一つで務める事は、幾ら親交があったとしても問題が生まれる。阿南と板野の中間に置いたとしても縦に長い地形から距離が生まれ初動に時間が掛かる。
    そこで別々に「青木村」を置いた。
    家紋が別の青木氏であれば「二か所の青木村」も考えられるが、「秀郷流青木氏」としては全国に支障なく護衛の軍団を配置するとなると、阿波の一国に「二つの青木軍団」を置く余裕はなかった。
    長崎のところでも論じた様に、定住策を採りながらも入間を防御に支障を来さないためにもに帰還させる体制を採っていた。
    特に阿波は秀郷一門ではなく、「北家利仁流一門」も赴任していると云う事から考えると、家紋別の青木氏を配置する事は無理であり、「北家利仁流一門」にも越後からの赴任と成ると、最低限の多少の護衛団を引き連れて来る事に成る。この「二つの北家護衛軍団」が一つのところと云う事は不可能で、「北家利仁流一門」には賜姓族でない為に「青木村の様な村の権利」は許されていない。
    護衛団を駐留する場所の確保には土地の豪族との関係もあり難しく、「最小限の軍団」と成る。
    「村の形成」は先ず「軍団駐留」と「守護の生活」を維持する「土地確保の許可」と、そこに必要な「農民などの職能集団」を置かなければならない事と成ると簡単には不可能である。
    阿波には、平安期で確認できるところで10回程度で年数は3から5年(原則4年)で凡そ交互に務めている。この状況からも、一か所は無理である。
    そして、この交代制が出来る条件が阿波にもっとも近い「秀郷流青木氏」でなくてはならないし、越後域からでは無理である。まさに江戸時代の苦痛の参勤交代の様に成ってしまう。
    参勤交代の様に成れば「氏力」は低下してしまう。そうなると、秀郷一門の勢力圏の最西域は完全に限定される。 

    ・「愛知の考察」
    「愛知から静岡」に勢力を張る「片喰族の青木氏」と成り、その中でも、愛知側の「剣片喰族」と限定される。だから、最も合理的な「年期制度の交代制」を採る事が出来たのである。
    これを本来の「帰還先の入間」と成ると問題が生まれる。
    通常では116氏の本家筋は全て入間の護衛に当たるのが「秀郷一門の掟」であり、その例外として「剣片喰族」は許されていて関東にはこの家紋は少ないのはこの事による。
    そもそも、「片喰族の分家」の「剣片喰族」の方が勢力が大きかった事が判っていて、そこで、「片喰族」一門としては「本家筋」の片喰族が「入間護衛」に回った事に成っている。
    従って、「徳島の1」のパラメータは1で良いのであって、大きい事はあり得ないのである。
    それ故に、「愛知ー静岡」域のパラメータは、「愛知の13」、「静岡の5」として大きいのであって、特に、「愛知の13」は一見して入間本領の17から比較すると”大き過ぎる”と見えるが大きくないのである。
    「愛知の13」では本領域に近いパラメータと成るが、愛知は確かに勢力はあったが本領並の勢力下にあった事はなかった。
    恐らくは、平均以上である事は否めないが、せいぜい本領の半分以下であった筈で、「秀郷一門の「第二の宗家」として勤めていた「秀郷流青木氏」としては統制下の中にあっての事で、「子孫拡大」の「三つの条件」を13にして置くことはあり得ない。
    その必要性があるのならば、その元の「三つの条件」を入間に充てる事とする筈で、それほどに無策ではなかったし、余裕は無かった筈である。
    「全国24地域」にそれなりの「三つの条件」を配置しなければならないだけではなく、「利仁流一門」にも加勢していた史実から、依って、愛知の実態は13ではなく7であった事が考えられる。
    「愛知13ー7」は13から7への変動地であった事に成る。
    特に、「経済的背景」に支障を来す事に成った筈で、この残り分は「徳島の1」に充てられた。
    従って、「徳島の1」は7になり1に成りする「流動性のあるパラメータ」なのであって、そのパラメータの元は愛知の13の中にあって、全ての青木氏の中では特異な徳島と成る。
    逆に、愛知は13に成り7に成りする「分布力」であった。
    結局は、現在、愛知が13と成っている事から江戸期末期頃には徳島から多くは愛知に戻った事を示すものである。
    どれだけ「徳島の青木氏」が「蜂須賀藩の家臣」に成ったかは不明ではあるが、成ったとしても徳島の本家筋が家臣になった事程度であって、地元の民間所蔵の資料から観ても、家紋分析の内容からも「高知の青木氏」と同じ様に「徳島の青木氏」の多くは「郷氏」に成った事が判っている。
    その元主であった「郷氏」と「漁民」が組んで「蜂須賀藩」との間でも「揉め事」を起こした事が書かれている。「徳島」の「郷氏ー漁民団」の場合は、資料では「船を使った戦法」を採ったところがその技術技能の無い蜂須賀藩には堪えたと観られ、彼らに「船の交易の特典」を与えた。この特典を活かして昭和20年代まで「阿波水軍」で有名を馳せた。この事が「徳島青木氏」の「子孫力」を遺した背景でもある。
    ただ、「山内氏ー高知青木氏」(甲斐武田氏系青木氏)と「蜂須賀藩ー徳島青木氏」(藤原秀郷流青木氏)のその「元の基盤」が異なっていた事に成る。
    この様に、「子孫力」を遺せるかどうかは「生き様の経緯」で決まる。
    そして、その「生き様の経緯の流れ」には何人も”人は抗する事は出来ない”のである。

    この「徳島ー愛知の現象」は少なくとも「室町末期ー江戸初期」まで続いていた事が、この事は「結城青木氏」の資料の記録の中でも凡その姿が書かれていて判る。

    恐らくは、”世に憚る事無かれ”は、上記の「生き様の経緯の流れ」にうまく乗る事の「究極の秘訣」であって、その「身の処し方」はの意は、”必要以上に表に憚る事無く、一歩下がった処に身を置くことの大事さ”を示唆している。そして、その時、「心の持ち様」の意は、”「萎縮」する事無く「卑屈」に成らない事”とある。それを資料の語意から読み取れる。

    これが「秀郷流青木氏」が「第二の宗家」として主導する「秀郷一門の掟」と成っていたと考えられる。
    これは元々、「皇族賜姓族青木氏の生き方」でもあった。その証拠に「青木氏の掟」 ”世に晒す事無かれ、何れに利無し。”から来ている筈である。現在もこの「訓戒」は伝えられている。
    これこそが、「全ての「青木氏の子孫力の根幹」に成っているのだ。
    この様に「秀郷一門の青木氏」は、”生き残る為に巧みに処世を読み高望みせずに、丁度良い位置に身柄を置き江戸末期まで泳ぎ切った”のである。
    (北家秀郷一門をリードする「第二の宗家」の「青木氏」の伝統的な生き方)

    秀郷一門の「定住地域の24地域」の殆どは、これを護って大きな事件を起こさずに江戸期に入ったのである。(意に反して流れの中で巻き込まれて事件と成った事もあった。)
    この゜生き様」は、「秀郷一門北家筋9氏」が家紋として用いている「下り藤紋」をはじめとする「主要8家紋の動向」の家紋分析でも判る。
    そもそも、”下がる”を忌み嫌い「上る」を由として「上り藤紋」に多くの北家筋は伝統ある家紋を変えたが、敢えて、「秀郷一門の9氏」のみがこの「下がり藤紋」を変えなかった。
    何故ならば、人が抗する事の出来ない「生き様の経緯の流れ」に対応するのには、「”世に憚る事無かれ”」の「究極の考え方」であるとしていたからである。

    ・「藤原秀郷一門の生き様」
    その後の江戸初期前後の秀郷一門は、「皇族賜姓族青木氏」を除く、「丹治氏系青木氏」を含む「関東の青木氏」は「幕府または徳川氏の旗本家臣団」に加わり、「江戸幕府の本領安堵策」によりその勢力を保持した。

    (例1 大名に充分に成り得る「土地持ちの御家人」でありながら、大名になったのは361氏の中で何とたった1氏の「内藤氏」だけである)

    (例2 「丹治彦王の配流孫」の末裔「皇族青木氏」の「丹治氏系青木氏」は当初、豊臣側に着き奈良の地域を拝領する事を約束されていたが、「家康の調略」により徳川方に着き、その勲功で摂津4万石の大名に成った唯一の例がある。)

    (例3 豊臣秀吉が家柄をよく見せる為に、豊臣家の「虚偽の系譜」に書き記して「縁者、親族」であるとして利用された「青木紀伊守」は越前北の庄八万石、「青木伊賀守」は越前丸岡四万六千石と成った「伝統ある青木氏の戒律」を破った経緯があるが、何れも徳川家康に依って、結局は除封されて越前福井に逃げ込んで「子孫力」を著しく弱めた。)

    ・「子孫力」「生き様の形」を作る秀郷一門の戦略
    それは、そもそも、その「青木氏」は室町期末期から江戸初期に掛けての「生き様の形」は、「秀吉と家康の駆け引き」の流れの中にもあった。

    そこでこの子孫を護る「生き様の形」の端的に物語る歴史上の有名な事件があった。
    「秀吉」より「家康」が関東に国換えを命じられ時、即応した家康は、この「藤原氏」の各関東を中心とした各地にある”秀郷一門の絶大な勢力”を取り込むことで、豊臣以上の勢力が確保できる事を目論んだからであった。
    「本領安堵」を前提として、最初に旗本の家臣団の傘下に入る事の交渉に入った事は歴史上の有名な史実であった。
    「青木氏」を含む「秀郷一門」はそっくり徳川氏の中で「土地付きの上級武士団」(御家人)を形成したが、「大名」は敢えて好まず「青木氏」を含む一族一門は「御家人と旗本」を目指した。

    この「子孫力」の「生き様の形」は、平安の時代が終わりの鎌倉時代と成った時も、「秀郷一門の行く末」を決める時も、「秀郷宗家の朝光」が採った戦略と全く同じ戦略を採ったのである。
    頼朝はこれを認めた。(「本領安堵」ー「一族の家臣化」ー否大名化」)

    又、別の例として、陸奥で秀吉に敵対しながらも「青木氏族」の秀郷流結城永嶋氏の領国 愛知は「関東屋形」として呼ばれていながらも江戸初期まで愛知まで勢力圏を補完した。
    徳川氏に対して充分に大名に成り得る勲功を挙げている「永嶋氏」であっていながら、且つ「大名」としては充分な勢力を補完していながら、”絶対に大名と成らない事”で徳川氏との軋轢を避けた事にもあった。
    「生き様の形」「生き延びる事」、「子孫力の保全確保」の為に採った一門の歴史的な「究極の選択方針」であった。この考え方が「子孫力」に大きく影響した。何も大名に成る事が「子孫力」を高めると云う前提ではない事を一族一門はよく承知していた。
    大名と同じ勢力を保持している事であれば、憚って大名に成る必要性はないとしたのである。
    (その「1/361」は、その一門の究極の生き様の掟は完全に守られていたとしても過言ではない。)

    つまりは、其の儘では、「秀吉の調略」に乗せられて「徳川氏の基盤」を”江戸の周囲から突き崩す戦略”に”巻き込まれる事の経緯の流れ”を避けたのである。
    秀吉は”関東を与える事”の先の事を読み込んでいたのである。
    それは「藤原氏」を調略して、最終は「藤原氏の勢力」を使って周囲からせめて潰す計画にあった。
    これを読んだ「家康ー関東藤原氏」は、「本領安堵」と「御家人家臣団」として「上級武士団」で解決した。(これに依って却って秀吉は逆に徳川氏を潰す事が難しくなった。)
    江戸幕府の上級武士の中に「下り藤紋の藤原氏」が多いのはこの事による。
    秀郷一門を家臣団に納めた事で、家康は秀吉との関係で、”鳴く迄待とう不如帰”の家康は、この奈良期から生き残って来た「北家藤原氏」の中でも「秀郷一門」の「生き様の形」、「生き延びる事」、「子孫力」の「究極の選択方針」(”世に憚る事なかれ”)を見習ったのでは無いかと考えられる。

    ・「江戸時代の秀郷一門の大名」
    全北家筋で江戸時代に大名に成ったのは、凡そ280藩中で次ぎの5氏にすぎない。
    その5氏も殆どは「内藤氏」である。「下り藤紋」(秀郷一門:361氏)
    1 陸奥 湯長谷藩 内藤氏 
    2 越後 村上藩 内藤氏 
    3 駿河 高遠藩 内藤氏 
    4 日向 延岡藩 内藤氏 
    5 近江 水口藩 加藤氏
    (北家筋の9家がこの家紋を使った。殆どは「上り藤紋」に変えた。)
    これでも「究極の選択方針」を貫いた事が判る。

    家康は、これと同時に、更にこの藤原氏が抱えていた「神職系の神社集団」と「浄土宗系集団」を取り込むために、幕府開幕前後から、直ちに、全国全ての「神明社(青木氏)」は幕府、徳川氏の管轄下に置き、浄土宗の信者集団も管轄下にして開幕後に直ちに「浄土宗督奨令とその法令」を発した。
    そして、「青木氏の守護神」の全国500社にも及ぶ「神明社の全国修復の令」をも同時に発したのである。
    これに依って、「皇祖神の子神の祖先神の勢力集団」が徳川氏に入った事で「他の神社集団」もこれに倣ったのである。
    (この時点で「青木氏による神明社」と主な「浄土宗寺」は幕府ー維新政府の一級の管理の下に引き継がれた。これも「青木氏の巧みな生き様」である。)

    (因みに、限定された歴史の史実であるので例として記述して置くと、筆者の伊勢の「青木氏の菩提寺」も接収されて「紀州徳川氏の菩提寺」と成り、寺も改めて菩提寺後のすぐ横に建て替えられた。そして、そこに「青木氏の墓所の権利」を与えられ、「寺名」も青木氏の時の同じものとなった。
    「伊勢青木氏」が管轄していた「神明社」は全て「紀州徳川氏」に「修復前提」として引き渡した事が記録され、且つ、この時の様子を口伝にて伝わっている。)

    更に、余談とも成るが、「伝統」云う事では意味があるので、敢えてその時の様子を短く記述する。
    この時の伊勢松坂で紀州徳川氏との交渉が行われた事が記録されていて、会談に入った時に、我が家「当主長兵衛」と「徳川頼宣」との座る位置について問題が先ず起こった。
    (身分家柄は古来より「青木氏」の方が上 「永代浄大1位」)

    ”どちらが上座に座るか”の問題で、家臣との談合が行われたが結論が出なかった。
    そこで、「徳川頼宣」と青木氏当主の直接の決着で解決する事に成り、その場で自発的に「頼宣」は下座した。
    困った当主長兵衛も礼儀から下座したので、結局、上座で同座となった。
    しかし、ここでまた問題が起こった。当主長兵衛が座布団を敷かなかったところ頼宣も敷かず、家臣は平伏したままであった。そこで当主長兵衛は敷くと全て平伏を解いた。
    この期にこの交渉に入った事が伝えられ、神明社と菩提寺の放棄の変わりの名目で、この時に、青木氏の土地の所有権(地主)を認められた。「吉宗の養父方の親交」、「享保改革の財政方」や、「幕末期の紀州藩の財政悪化をも指導」をして救った。この事が伝えられている。この後、祖父の代の大正14年まで深い親交があった。

    ”世に晒す事無かれ 一利無し”を護って世の記録としては遺されているが大館で出て来ない。
    「二つの賜姓青木氏」は、この様に、表には出ずに”常に裏方に回る「子孫力」”を発揮した。
    「子孫力」を作り上げる「青木氏の家訓10訓」はこの考え方にあった。

    「岡山」
    次ぎは、中国地方の「岡山」である。
    この岡山(備前)は、「讃岐青木氏」の活動分布域に匹敵するほどの活動地域であり、更には、藤原氏北家筋からも鎌倉期と室町期に赴任して定住しているが「秀郷流青木氏」に関わりはない。
    「瀬戸内」を経由して「讃岐青木氏」の活動領域である。ここには別の京都などの北家筋藤原氏の赴任地でもあった。紀州等もこの藤原氏(脩種ー脩行系の藤原氏)の赴任地であるが、この備前(岡山)の内の美作や備後にはこの系列の藤原氏が赴任している。
    しかし、この「讃岐青木氏」が関わる「岡山の地域の沿岸部」の中では「備前ー備中の瀬戸内沿岸部」に定住していた。
    況して、その「子孫拡大」の勢いは、この「岡山」を経由して北の宍道湖西域まで貫いて移動定住しているくらいである。
    「島根のパラメータ2」はここに移動定住した末裔の「子孫拡大」によるものである。
    この「移動定住」は本業の「廻船業」と、それを利用した「瀬戸内海産物の殖産販売」にて支店を開店して住み着いたもので、その末裔の子孫拡大である。
    依って、「岡山」と「島根」とは同じ「讃岐青木氏」と同じ「廻船業関連の背景」にて「子孫拡大」に繋がったものである。「岡山の0」は最低でも「岡山の1」が認められる。 
    この「讃岐青木氏」の「香川」の「パラメータは1」ではあるが、「愛媛のパラメータの3」も「讃岐青木氏」であり、「讃岐」として地域を限定しているが、「愛媛の3」は「讃岐青木氏の横の分布領域」である。

    (讃岐や日向など国を限定しての呼称と成っているが必ずしも限定する分布域ではなく、発祥起点を呼称していて、分布域=発祥域とはならないし、現実に限定の呼称は無理である。)

    ・「讃岐青木氏」
    従って、この「愛媛」には「青木氏の歴史的縁故」は全くない。”無い”と云うよりはここの豪族が毛利系に保護されたの公家系西園寺氏とその配下の隅切り角紋族の土地柄(四国の豪族)であった事が原因していた。
    戦国時代は「讃岐藤氏」が横に支配勢力を伸ばす事に制約があったし、「瀬戸内」を制していたとしても、南西域から「長曾我部一族」に侵攻される危険があって、沿岸沿いに西に伸ばすのがいっぱいであった。
    従って、「香川」よりの「愛媛の3」のパラメータは「讃岐青木氏の3」であるので、「讃岐青木氏」は四国側では、次ぎの様に成る。
    合わせて「パラメータは4」と成る。
    中国側では「広島の3」、「島根の2」、「鳥取の2」と「岡山 0から1」を合わせての小計は「パラメータは8」と成る。

    これら全て「瀬戸内沿岸部」を制していた「讃岐藤氏」の「讃岐青木氏」であり、四国と中国を合わせると合計「パラメータは12」と成る。
    この「讃岐青木氏」の瀬戸内沿岸部の「小計パラメータ12」が、昭和20年代まで維持されていた事である。

    (この「讃岐青木氏」の瀬戸内の「小計パラメータ12」は、昭和20年頃に北海道に入植移動定住していて、この内のパラメータは北海道のパラメータ11の中に入っているので、「讃岐青木氏」の「瀬戸内の子孫力」の総計はより大きくなる。下記 総計 パラメータ17)

    ・「入植地 北海道の関係考察」
    これに、入植先の北海道の11の一部(下記 5/11が見込まれる)を加えると、「讃岐青木氏」の総合で「合計パラメータは17」と成る。 
    これは、「武蔵の秀郷一門の入間の本領地の17」と同等と成り、秀郷一門でありながら、且つ、「藤原氏北家筋」でありながら、「瀬戸内の財産」(経済的背景)を背景、根拠に「独立性」を高めていた所以である。
    この事を考えると納得できる「讃岐青木氏の総合子孫力」は「パラメータの17」であった事に成る。

    従って、「岡山の0」は讃岐地域に匹敵する地域ではあるが、パラメータが採れなかったし、10年間の間に「記帳」や「ルーツ掲示板」からデータが採れなかったのが不思議中の不思議であったが調査で判った。
    「瀬戸内」で「子孫拡大」が成された事から、岡山=香川とすると、上記の通り「岡山」は0から1に修正される。
    全国に分布する事からパラメータが、「三つの条件」で成り立ち、そこから「岡山」は2以上を超える事はなく、「瀬戸内」の中では「三つの条件」が同一である香川と同等と見込まれる。




    >
    > [地域別分布力]
    > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
    > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
    > 地域      異変の県        分布力
    > 九州地方   長崎、大分       5%
    > 四国地方   高知          2.5% 
    > 中国地方   山口、岡山      2.5%
    > 関西地方   三重(筆者ルーツ) 14%
    > 東北地方   秋田           7%
    > 中部地方                15%
    > 関東地方                45%
    > 北海道・沖縄               6%
    > その他                   3%
    >
    > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
    > 九州地方  1.3
    > 四国地方  1.3
    > 中国地方  1.3
    > 関西地方  4.7
    > 中部地方  4.3
    > 関東地方  11.3
    > 東北地方  2.0
    > その他   11.0
    >
    > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
    >
    > 修正地域(表ー3)
    > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
    > 秋田 1
    >
    > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
    > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
    > 福岡  2   山口  0   愛媛  3     兵庫  3    三重  1
    > 長崎  0     島根  2   香川  1     大阪  14   石川  2
    > 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都  5    福井  1
    > 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良  1    岐阜  3
    > 熊本  4                        和歌山 4    愛知  13   
    > 宮崎  2                        滋賀  1    長野  9
    > 鹿児島 1                                  山梨  1
    >
    > 域平均 1.25 平均  1.25  平均  1.25  平均  4.7  平均  4.3        
    >
    > 関東地方(45%)東北北陸地方(7%)沖縄、北海道地方(17.5%)
    > 静岡  5    青森  1     沖縄  1
    > 神奈川 21   山形  2     北海道 11
    > 東京  18    岩手  1
    > 埼玉  17    新潟  4
    > 群馬  6    秋田  0
    > 千葉  11   福島  4
    > 茨木  4    宮城  2
    > 栃木  8                                     
    >
    > 域平均 11.3  平均  2.0   平均  11.0  
    >




    >・「香川と岡山」の原因に続く。


      [No.305] 青木氏の分布と子孫力−1
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/03/25(Tue) 09:10:26  

    「青木氏の分布と伝統力」



    「伝統」とは、”そもそも何なのか”と云う事に気が進む。
    「伝統」の”原動力”と云うものに着目すると判るかも知れない。
    その「原動力」を維持させるものは、その「伝統」を持っている「集団の存在」と、その「集団の動向」に左右されている筈だ。
    その「集団」が消えればその「集団」が持つ「伝統」も消えるが常道である。
    「集団の如何」に左右されるは必定である。
    「伝統」のシリーズを進めて「青木氏」を更に解明するには、先ずはこの「集団の如何」を解明しなければならない。そこで、問題はどの様に解明するかである。
    それをこれまでの論文を基本として、それに対比する「集団の如何」の「現在の動向」を論じれば可能に成る筈である。
    そこで、次ぎのデータを使いそれをパラメータにする事で「伝統」の”何なのか”が判ると考えた。
    主に次ぎの三つのデータを使った。
    当初、それを試みる為に、「家紋分析」を使って家紋を分類化してその数を地域ごとに把握する方式を採った。この「家紋の分類化」は「青木氏の家紋群」は別の目的の研究で判っているので、その「家紋群」が各県毎にどの程度の数を持っているかを調べた。
    先に「青木氏の歴史上の分布域」が判っているのでそこを調べて、その隣接する地域にも拡大分布していると判断して広げていった。
    凡そは掴めたが問題が出た。その問題は予想はしていたが、「虚偽に家紋」を使っている事でデータの信頼度が低くなる事であった。
    虚偽の家紋は平安末期、室町期末期、江戸初期、江戸末期、明治初期に行われた。
    夫々、状況が違った形で使われた。平安末期から特定の氏に使われ始め、当初は「象徴紋」としてであったが、その後に武士の台頭で家紋化していった。
    特に、「荘園制」で「名義貸しの行為」からその内には「家紋」も勝手に使われるようになった。
    室町末期は下剋上の終末で勃興した家臣が主の家紋を盗用する事が起こった。
    江戸初期は旗本御家人が競って家柄を誇張する目的からすべての家臣は家紋を持つ様に成った。
    この時も元主の「家紋」を偽って使った。
    明治初期は「苗字令」に基づくもので全て「家紋」に関係の無かった9割の庶民は「家紋」を持ったが、「家紋」を考える余裕が無かったことから便宜的に周囲の気が付いた家紋を使用した。
    何れの時期も「類似家紋]か[丸付き紋]を使うのが良心的行為ではあった。
    殆どは「虚偽の家柄」を誇張する目的から使った「家紋」が多かった。
    これは「家紋」は「氏と姓」、「宗派」、「地域」などと関連している為に矛盾が出てすぐに判別できるが、結局は”矛盾の持ったデータ”が出来上がってしまった。
    結局、「家紋分析」から最後にこの「虚偽の洗い出し」をしたが、矢張り信頼度が低下した。
    最も多かったのは「宗派の判別」の虚偽、次ぎは「氏姓ー族の判別」の虚偽、次ぎは「地域、国別の判別」の虚偽、等であった。
    江戸期を含む以前は、原則「国抜け制度」で「自由移動定住」が「斬罪の禁令」であったにも関わらず、現代風の「自由移動」に考えて、それの「過去の慣習の知識」を忘れて他県、他氏、他家の家紋を使っている虚偽であった。
    そもそも江戸期前の「氏家制度」では、「慣習と仕来りと掟」に依って成り立っているものであるにも関わらず、これを無視した様なこの様な「搾取による虚偽」が横行していた。
    この状況は完全に見抜けるのだが、無視して使っている。
    筆者は、この「虚偽」は明治後のかなり後の時期にその末裔が書き改めたものが多かったと観ている。
    殆ど、この「慣習仕来り掟」の「縛り」が民衆の中に消え去った後の書き改めによるものである。
    特に「家譜」などはほとんどが「虚偽」である。
    第一、「家譜」をどの様にして作るのかと考えればすぐに判る筈だ。
    家譜を作るには、その記録の保管と継承が必要で、そもそも江戸期前には下級武士以下の者にはこの”先祖を手繰る慣習”と概念もなかったし、それを行うのは「密教の菩提寺」で行われていた。
    菩提寺を持つ事が出来る氏であれば可能であるが「姓族」にはこの習慣は元々無かった。
    にも拘らず、「系譜」を作り上げている。
    先祖が一人ひとり死ぬごとに書き足していったのか、書き足していったとするとそのようなシステムを敷いているくらいの「相当な家」(守護や大名クラス)であったのか、歴史家でもないのにそのデーターをどこで調べたのか、殆どが同じ筆跡で書いていると云う事は誰か一人が作ったのであって、そのデータをどこから持ってきたのか、唯一、江戸期以前は全て氏の運営する「菩提寺」で”限定された身分の氏”が管理されていたのである。「檀家寺」はあったとしても「人別帳」で代々の累計はない。一代限りである。その「菩提寺」も判らないし「過去帳」もない状況でどの様にして作ったのか甚だ疑問である。
    江戸期初期に「家康の宗教改革」では、「浄土宗」は「密教」であった事から、その慣習は厳しく、これを改めたのが「家康の浄土宗督奨令」であって、特定の「上級武士」だけに認められた「菩提寺」であった。
    それも「密教」では無く、「一氏一寺」のでは無く、全て「檀家方式」による「浄土宗寺」でもあった。
    この様な慣習などがあったにも関わらず「家譜」を堂々と前面にして家柄を誇張する「姓名」が多い。
    「家譜」と連動して「家紋分析」にも、最もこの「虚偽」のものが多いのだ。

    注記
    (注記 筆者は「姓族」が全体の9割を占める状況の中で、室町期以前に「家譜」を持つ事は100%あり得ないと考えていて、それなのにそれを公然と「家譜」として公表するなどの行為は納得できず殆ど信用していない。
    もし、これらの「家譜」を「家譜」として認めたら日本は古来から9割の人が武士で武家であった事に成ってしまう。そんな論調はわざわざ採り得ない。
    そもそも、参考の為に、江戸時代には「武士」を「武家」と呼称しているが、学問的には「武家」とは「公家」に対して朝廷が認めた呼称であって、原則は僅かに認可された「48氏」がこれに相当した。広げたとして鎌倉期に准認可の形式を採っている「180氏」の範囲に留まる。
    その筆頭が奈良期に賜姓族が「三つの発祥源」として認められて最初に臣下した「青木氏」が、「武家」と呼称する事を許された最初のもので、この後に「48氏」が認められている。
    この「48氏」の多くは、「藤原氏北家一門」(公家)から武家に成った「氏族」と、阿多倍一族の「氏族」が大半であり、この根源から出自した180氏に成る。
    「源平藤橘」の他の族は多くは滅亡している。
    そもそも日本は「二つの族」に分けられる。
    「姓族」(かばね 姓名:せいめい)と「氏族」(うじ 氏名:しめい)とに分けられているし、日本語もその様に分けられてこの「二つの言葉」が未だ遺されている。この事を考えれば自分がこの二つの内のどちらの族であったかは判る筈である。搾取・偏纂・虚偽しても判る筈なのに判らない人にだけ騙す行為である。
    そもそも「氏族」と「姓族」とは同じ系譜等を持つ事は絶対にないのだ。
    「姓族」は最初に発祥したのは、瀬戸内の某寺の記録に出て来る範囲では、室町期末期の”「海部族」”と”「塩飽族」”であり、その多くは瀬戸内から出ている。
    その後に室町期の勃興で立身出世した者が「姓」を名乗ったのが最初である。
    この「姓族」には「職能集団の姓族」と「立身出世の姓族」(農民)との2流がある。
    「姓族の姓名」を持つ家が「氏族の氏名」のルーツを持つ事は原則無いのである。
    よく搾取・偏纂・虚偽として用いられているのは、端的なのは「源氏」であろう。
    判り易い例は、「姓名の家」が「氏名の源氏」では絶対に無いと云う事だ。
    筆者は歴史を論じる時、この編のところを明確に正確にする事に務めているので、他氏の事は兎も角もそのつもりで「青木氏論」をお読みいただきたい。

    (下記「馳走の説」等でも世に論じる事を憚れる事を当時の「生の慣習」として用いられていたので、「歴史の真の意」として論じたのもこの為にある。違うと思うのであれば放念放棄されたい。)

    データ採取
    そこで、「守護神の神明社の研究」の存在分布と歴史的経緯の記録データを使ってこれを補正した。
    しかし、確かに信頼度は向上したが、論文にするには問題があるとして、別の方法を用いて補正する事を考えてデータを集めた。
    疑問や問題が出た時は、現地の歴史等のマニア仲間に依頼して調べた。約10年かけた。それが次ぎのデータであった。
    このデータを統計学でパラメータ化してエラーとバイアスを抑える事に務めた。(CP=1程度)
    (末尾 参照)
    この様に「来場記帳」のデータと、「ルーツ掲示板」のデータに記録されているデータと、筆者が過去に研究した古い時代の青木氏の「定住地論」と「守護神論」や「家紋分析論」等を基本にして比較勘案して分析する事にした。(投稿済)
    何と結局、「分布図」、「伝統力」、「子孫力」「子孫拡大力」としての論文に30年かかった事に成る。
    出来て仕舞うと、大した論文ではない気もするが、「青木氏の伝統の解明」では一つのやるべき研究が出来た気がする。
    その結果、次ぎの様な結果が出た。本論末尾に記載する。

    結論から云うと、明治以降では、基本的に ”青木氏はあまり移動していない。”が云える。
    では、”何故、他氏と同じ様に自由に拡大分布しないのか”が疑問と成る。
    筆者は、「清和源氏頼信系の源の義経」の家来と成って、全国津々浦々に子孫を拡大させ、日本一の氏となっている「鈴木氏」を研究した事があり、研究室にも論文を載せている。
    その「分布状況の原理」とは大きく異なっている事が判る。
    それは「分布の範囲」と「分布の仕方」に違いが出ている。

    そこで、主にこの「二つの事」(「分布の範囲」と「分布の仕方」)に焦点を当てて、「青木氏」を炙りだ出す事にする。
    そこから、「青木氏の伝統」の”「土台」と成っている「物事」が何であるか”が観えて来る筈だ。
    そこで、”青木氏の子孫の分布力”に、先ず、”変わった事”が起こっているので、判り易くする為にそれを先に論じる事とする。

    それは次ぎの事である。
    ”パラメータが妥当に取れなかった地域が存在する事”である。
    「青木氏」が歴史的に見て存在し得ない地域にはデータは採れないのは当然だ。しかし、”存在し得ていた地域にも関わらずデータが採れない”と云う現象はおかしいのである。
    つまり、”何かがあった”から採れなかった訳であるから、”それが何であるか”を浮き出させる必要がある。
    本題の「分布図」、或は「子孫力」「伝統力」「子孫拡大力」云う意味で重要である。

    「三つの現象」
    それは次ぎの「三つの現象」に分けられる。
    A 歴史的に確実に存在している筈であるのに確認できない地域
    B 存在しなかった地域に存在している地域
    C 存在しても多すぎるか又は少なすぎる地域

    この「三つの現象」を先ず分析すれば、「青木氏」の全体の「子孫力」「子孫拡大」の状況が把握できる。
    この「子孫拡大の状況」とは、「分布図」「分布力」「伝統力」に絞って論じる。
    これらの分析に用いる情報は、「研究室」「ルーツ掲示板」「家紋掲示板」「地名地形データベース」等の殆どの論文に記載しているものを用いる。
    既に、これを読んで頂いている場合はよりこの論文の理解が深まると確信している。
    それを前提にしている。依って、若干、これらの情報は本論では改めて理解を深める為に各所で重複するところがある。
    詳細は、これらを参照して頂く事とする。

    それではABCに付いて論じる。
    このABCは連携している。何らかの原因があったからABCが生まれているのだから、Aを中心にBとCを関連付けて論じる事とする。

    A パラメータが採れなかった地域
    筆者の研究データやルーツ掲示板や家紋分析等では、「青木氏の分布」は確認出来るが、10年間でのデータ採集では不思議に採れなかった県である。
    「現在の状況」を「来場記帳」と「ルーツ掲示板」の二つの内容と「家紋分析」等を用いて数値化(パラメータ)したもので、表したものであり、「来場記帳」は10年間の「200件」、「ルーツ掲示板」で10年間での「1千件」のデーターを使用している。
    これに「家紋分析や守護神や定住地論」等で調整する。
    では、次ぎの県からの直接の記帳はない事である。
    「他の地域」から観て、「下記の地域」のルーツとしてのデータはあるが、地元からのデータは確認できない地域である。
    しかし、「過去の状況」は「定住地論」や「守護神論」や「家紋分析」などで数値化を出来るものでは、”確認できない”と云う事ではない。「現在の状況」である。
    この「パラメータの有無」は、”存在しない”と云う必ずしも前提ではなく、「過去の状況」に比べて、「有無」を含めた”何かの異変がある”と云う事である。

    [地域別分布力]
    「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
    全国平均(全国単位 % 表ー1)
    地域      異変の県        分布力
    九州地方   長崎、大分       5%
    四国地方   高知          2.5% 
    中国地方   山口、岡山      2.5%
    関西地方   三重(筆者ルーツ) 14%
    東北地方   秋田           7%
    中部地方                15%
    関東地方                45%
    北海道・沖縄               6%
    その他                   3%

    地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
    九州地方  1.3
    四国地方  1.3
    中国地方  1.3
    関西地方  4.7
    中部地方  4.3
    関東地方  11.3
    東北地方  2.0
    その他   11.0

    「青木氏」は現在も以上の様に分布している。

    修正地域(表ー3)
    長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
    秋田 1

    「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
    九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
    福岡  2   山口  0   愛媛  3     兵庫  3    三重  1
    長崎  0     島根  2   香川  1     大阪  14   石川  2
    佐賀  1     広島  3   高知  0     京都  5    福井  1
    大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良  1    岐阜  3
    熊本  4                        和歌山 4    愛知  13   
    宮崎  2                        滋賀  1    長野  9
    鹿児島 1                                  山梨  1

    域平均 1.25 平均  1.25  平均  1.25  平均  4.7  平均  4.3        

    関東地方(45%)東北北陸地方(7%)沖縄、北海道地方(17.5%)
    静岡  5    青森  1     沖縄  1
    神奈川 21   山形  2     北海道 11
    東京  18    岩手  1
    埼玉  17    新潟  4
    群馬  6    秋田  0
    千葉  11   福島  4
    茨木  4    宮城  2
    栃木  8                                     

    域平均 11.3  平均  2.0   平均  11.0  


    ところが、この「異変の県」Aの7県は意外な県ばかりである。

    「長崎」
    先ず、「長崎」は「藤原秀郷流青木氏」で、鎌倉期に赴任後に定住して「青木村」を形成する程の「子孫拡大地」である。「家紋分析」から「116氏ー24地方」もの「子孫拡大」である。
    この勢いは現在も確認できる。この「異変の県」は「116氏ー24地方」の一つである。
    絶対に0と云う事ではない。九州地方は全体で5%で、九州地方のAVE1.5であるとすると、少なくとも「九州と云う地域性」から観て、パラメータは2−5の中にあり、これに「定住地論」と「守護神論」や「家紋分析論」等から勘案すると、6は超えない。
    恐らくは「青木村の形成力」から観て「長崎」はパラメータは本来は5であろう。
    しかし、異変は0を示している。(下記)
    そこで、この異変の県「長崎」のパラメータを推測するには、九州の他の歴史的な繋がりのある地域のパラメータを先ず吟味する必要がある。

    「大分」「山口」
    次ぎはBに属する「大分」と「山口」である。
    確かに歴史上は何れも「青木氏」としては直接関係のある地域ではない事は確かである。
    しかし、この2県には「藤原秀郷流青木氏」が鎌倉期と室町中期に一部に移動している史実があるが、「子孫拡大」がされていない事が云える。
    特に、「山口」は「2つの青木氏」にとっては移動しにくい条件が鎌倉期ー室町期中期までにあった。
    ここは藤原氏北家外の「皇族系の公家衆」が逃げ込んだ地域でもある事から、平安初期から観て「青木氏」の「皇族賜姓族」としての立場上では難しい地域であった。ここは毛利の前は室町期は「陶氏」が中国全土を抑えていた。
    この「陶氏」は、後漢帰化人の阿多倍王の首魁が引き連れて来た職能集団で、その中でも勢力を持った「姓族」であり、「朝廷の官僚族」を牛耳っていた一門でもあり、平安期の平族の支配下にあって平族が滅亡した後も勢力を伸張させた。
    「賜姓族青木氏」からするとこの勢力範囲は「親地域」では無かった。
    依って、官僚の「公家の逃避地域」でもあったことから、今も然ることながら室町期まで定住分布に至る状況は観られなかった。パラメータが0である事には問題ではない。
    むしろ、「分布できない地域」であったのである方がおかしい地域である。

    特に、ところが一方「大分」は特別賜姓族の「藤原秀郷流青木氏」との関係が深く、「大分の豪族」が関係強化の為に室町期に武蔵と常陸にまで往来して関係を保っていたほどの地域でもある。
    直接、「青木氏」が定住移動した記録はないが、関東に大分の「佐伯氏」が存在している等から観ても、ここに室町期の豪族の支流末裔の「青木氏」が無かった事は考え難い。
    逆に、関東の酒井氏(青木氏族永嶋氏)が大分に存在する事からも「青木氏」が存在していた筈である。
    (九州進藤氏も極少数ではあるが永嶋氏と同じ分布力があった。)
    この大分の分布が「九州の地域性」から観て、「大分」と同じ状況であった「佐賀の1」に相当していて、結局は小で支流化して「氏か姓」として維持できなかった事に成る。
    即ち、青木氏の子孫を遺せなかった可能性が大である。

    そもそも、北九州としては、鎌倉期末期に藤原秀郷一門の「青木氏」と「長谷川氏」や「永嶋氏」等と、北九州と云うよりは九州全体を支配下に置いていた元「太宰大監」として自治を認められていた「大蔵氏族」との血縁を結んでいる記録がある。
    その末裔が現存している事から、「菊池氏」や「酒井氏」や「宗像氏」等との支流族が確実に生まれていた。
    この事は「家紋分析」からも「神職一族」との血縁が生まれていた事が確認できる。
    しかし、「長谷川氏」や「永嶋氏」が子孫を大きく残しているにも関わらず、「秀郷流青木氏」との末裔は遺されていない。
    この「秀郷流青木氏」は絶えた又は子孫を遺せなかったのでは無く、「武蔵の本領地」に戻った可能性が高い。「家紋分析」に表れて来ないのである。
    それは「秀郷流青木氏」には「秀郷一門の護衛」と云う職務と、「本領の守護」の責務もあり、「朝廷の護衛」との官職の守らなければならない「三つの役職」があった。
    更には、「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」との連携による定住関係地に「守護神の神明社の建立」と「青木氏族菩提寺の建立」の役職もあった。
    従って、この為には、「子孫」と「血縁関係族」を絶対的に増やす必要があったにせよ、「子孫」を必要以上に拡散させる事が出来なかった絡みがあった。
    これは一面では、秀郷一門の「赴任地の子孫定住の戒律方針」と矛盾するところがあったが、九州域に「青木氏」を定着させて子孫を増やしたとしても、維持費にばかり経費が掛かり役目を果たす上での利点が少なかった事が云える。
    特に、上記の表でも、関西以北の定住地に比べ、九州地域は「疎遠の地」でもあった事から「長谷川氏」や「永嶋氏」などと異なり、必要以上に「護衛力として残す必要性」はなかったと考えられる。
    それは、「大蔵氏」と云う九州全土を有形無形に「支配する背景力」が厳然としてあって、それに頼ったと云う向きも大きかったのである。
    むしろ、筆者は、「青木氏」と「進藤氏」は積極的に戦略的に”引いた”とする判断をしている。
    何故ならば、この「大蔵氏」と「秀郷一門」との間の血縁を取り持った「進藤氏」も北九州では血縁をしながら引き揚げているのである。
    この「進藤氏」は家譜や添書などから観ても「子孫拡大力」が非常に弱く、「一門の仲介役」を担っていた為に各地に分散させるより関東以北の拠点を固める必要があった。
    これは一門の「第二の宗家」と呼ばれた「青木氏との連携」による結果であった事が判る。
    両氏が共にその「氏の持っている事情」から引き揚げた事が判る。
    九州に子孫を遺さなかったのである。

    注釈
    (進藤氏は鎌倉期末期とは別に「定住の時代性」は不詳ながら僅かに北九州の東域に確認できるが、室町末期か明治初期の「第三の進藤氏」である可能性が高い。
    そもそも、「青木氏族」の「秀郷流進藤氏」は関東以北に支流一族を拡大させている。
    あるとしても「阿波国」に赴任していた「北家藤原利仁流進藤氏」であるかも知れない。)

    この様に、九州には血縁しても「一族末孫」に至るまで一切本領に戻さなければならない「秀郷流青木氏族」には厳しい内なる「環境条件」があったのである。
    尚、この「内の環境条件」のみならず、更には「外の環境条件」にも厳しい「一族の賜姓族の戒律」で縛られていた。
    「青木氏と進藤氏」は、共に”「大蔵氏との強い背景」”が無ければ「疎遠の地」として子孫存続に関わる「三つの条件」が成立せず、生き延びる事が出来なかった。
    この「強い背景」とは、”「大蔵氏」の中に溶け込む事”を意味する。
    つまり、端的には”「大蔵氏系永嶋氏」に成る事”である。
    「秀郷流青木氏」は皇族系に絡む「賜姓族」である以上、その立場上の絡みから、「大蔵氏系青木氏」は元来成り立たなかったのである。
    「氏家制度」の中で「身分、家柄、官職、官位」から「青木氏系大蔵氏」は成り立つにしても「青木氏の戒律」からこれを許される事ではなかった。
    その根拠は、南北に大きく子孫を拡大させた「九州大蔵氏系永嶋氏」の「生き様の経緯」が物語る。(ルーツ掲示板参照)
    この背景から、しかし、ここ「大分」には「青木村」はない事から数字的に観て、0或は1であろう。
    パラメータの0はこの様な由来はあったにせよ納得できるものである。

    「宮崎」
    ところが、因みに、その由来として、近隣には、「宮崎の2」については次ぎの様な経緯がある。
    理解を深める為に特記する。(上記「長崎」を評価するには大変に重要)
    「宮崎の廻村」から「鹿児島の大口市」にかけて「清和源氏」の「宗家頼光系四家」の「頼政の孫(仲綱の子)」で、「宗綱」と「有綱」、それに叔父の「高綱」が「以仁王の乱」(源の頼政首謀)で「伊勢青木氏の助命嘆願」で許されて、特例を以って「宮崎廻村」に配流となった。
    この時、世話を受けた土豪の「廻氏」との血縁による「配流孫」が生まれ、この土地の豪族の廻氏と周辺の土豪勢力等を使って、再び、北九州を守護していた「日向平軍団」を攻めた。
    しかし、敗戦して懸命にこの「配流孫」を護って「薩摩大口村」まで何とか辿り着いたが、ここも攻められた時、大口村の住職の忠告でこの「配流孫」は、「嵯峨期詔勅」に基づいて、伊勢の「青木氏」の末孫を名乗った。
    「伊勢青木氏」は「不入不倫の権」で護られていた為に、この時「配流孫」は一命を取り留めた。
    ここには許される訳があった。
    実は「頼光」の孫(「仲綱」の子)の三男で、乱に参加していなかった「京綱」は「伊勢青木氏の跡目」に入っていた。「清和源氏の四家」を「源平の戦い」で絶やさない為にも、事前に仕来りに従い同族跡目に入っていた。

    (頼政の領国の伊豆国は「伊勢青木氏」を中心に「信濃青木氏」も加わり護っていた。頼光の経済的背景はこの伊勢と信濃の「二足の草鞋策」があった。)
    上記の「助命嘆願」もこの「伊勢青木氏」からであった。その理由は、「伊勢北部伊賀地方」を「半国割譲」して「平族の領国」としていた「伊勢平衆」と、「伊勢青木氏」とは「伊賀和紙の殖産」を通じて隣国外にも繋がって強い親交があった。)
    この経緯で「平族」は手が出せず「伊勢青木氏系日向末孫」として生き残った。
    (不入不倫の権で保護する義務もあった。)

    この「伊勢青木氏の配流孫」は、その後、「大口村」を山岳地を開墾しながら「黒田藩の傭兵の農兵」として働き、勲功を立て「苗字帯刀」、「五七桐紋の家紋」と「布衣着用」と「登城の権利」と「墓所の許可」を与えられ、「郷士の身分」(政治的背景)を獲得して、「三つの条件」の「経済的背景」(傭兵・開墾地)を得て明治期まで子孫を大いに拡大させた。
    これが「日向青木氏」である。
    この「日向青木氏」の「子孫拡大」は、「パラメータ2」に相当する程度に九州に初めて正規に「青木氏」を定住させた。これが「日向青木氏」であるが超有名人も現存している。
    この九州に、独自に初めから「日向青木氏」の2のパラメータの「分布力」で発祥させた事から勘案すると、「大分、山口」のパラメータ0としても、上記する「日向青木氏」の経緯から見て、その「分布力の根拠」はないのでパラメータ0であろう。
    逆に、「日向青木氏」のパラメータから観れば、「長崎」は現在はパラメータが0ではあるが、「長崎の推定 0−5」は妥当であろう。

    さて、そうすると、上記の経緯から観て、「日向青木氏の2のパラメタ」は妥当なのかと云う疑問がある。これを確定させれば、上記の「長崎」はこの推定パラメータを確定できる。

    そこで、確定させるには九州地域にはもう一つCの異変があるのだ。

    「熊本」
    それは、「熊本の4」のパラメータは「大分、山口」以上に全く「青木氏の根拠」がない地域である。Bである。
    従って、この「日向青木氏の2」と「熊本の4」とを分離して考察することには問題がある。

    恐らくは、この「日向青木氏の子孫拡大の方向」は「熊本域の横方向」にも広がったのではないか。
    「熊本の4」は、ここには「青木氏の歴史」は全くない。
    それにも関わらず全国平均の4のパラメータを確保している。
    「パラメータの4」を得るには「歴史的な発祥根拠の定住」があって得られるものである。
    元々、九州全土は、”何れの青木氏”に於いても「青木氏の歴史的発祥根拠」が本来は無い地域である。
    あるとしても、上記した様に「日向青木氏」だけであり、「長崎」は「藤原秀郷一門の赴任」による「青木氏の護衛同行」が原因としての鎌倉末期から室町期初期の「移動定住」である。
    「子孫拡大」には、現在と違い放って置いても単純に拡大すると云う生易しいものではない。
    戦乱に近い状況の中では、主にその「経済的背景」(三つの条件)があってこそ拡大する。
    要するに、「子孫拡大」=「経済的背景」+「武力的背景」+「政治的背景」にある。
    この「三つの条件」のどれを主体にして「子孫拡大」を図るかにある。
    その「氏」のこの「三つの条件」をどの様に生かすかによるが、「藤原秀郷流青木氏」(116氏)の様に、この「三つの条件」を平均的に高いレベルを保持して「子孫拡大」を果たした氏もある。
    では「皇族賜姓青木氏」はどうであろうか。

    1に「経済的背景」、2に「政治的背景」、3に「武力的背景」で「経済的背景」(1 「二足の草鞋策」)を基に「シンジケート力」(3)が補完していた。
    「政治的背景」(2)は「皇族賜姓族」と云う保護された優位な背景があった事は他氏に比べると有利であったが、それなりにその立場を生活の中で生かさなければならないと云う責務と苦悩があった筈で、一概には有利とは云えない。
    特に「子孫拡大」と云う点では制約が働いていた。
    他氏と比べて著しい「慣習仕来り掟」の「厳しい戒律」に縛られていたのである。
    特に「子孫拡大」に於いてこの「慣習仕来り掟」の「戒律」は大きな障害に成っていた筈である。
    その為には「家訓10訓」等で「一族の行動」を制約されていた。
    特に「血縁」を”「純潔」の「古来から戒律」(無形の伝統)”があった中では、”「一族の子孫拡大」がなされなければ「純潔の子孫拡大」はない”と云う何とも理解できない矛盾する条理に縛られていた。
    兎に角は、依って、「子孫拡大」はこの「三つの条件」を何れにしても全て大なり小なりに持ち得ていなければ成し得ない事になる。
    従って、「ねずみ算」の様に「子孫拡大」は望めない事が判るし、それ故に、「福井越前などの保護地」などの政策を採ったのである。
    しかし、この「日向青木氏」には「伊勢青木氏族」とは云え、この「厳しい縛り」は全く無かったが、逆に、「発祥の基盤」(子孫を生み出す慣習)も何一つも無かったのである。
    この「熊本の4」の「青木氏」には「三つの条件」を保持している歴史的経緯は全くない。
    従って、「熊本の子孫拡大」は4であろうが何であろうが、本来は成し得ない筈である。
    しかし、パラメータは「全国平均の4」である。
    急に拡大して得られるパラメータではなく無視できない地域であるとすると、では、何なのかである。
    「定住地論」や「守護神論」や「家紋分析論」をベースに考察吟味して勘案すると、答えは確実に出る。特に「家紋分析論」が大きく判定を加速させる。

    その前に、上記に論じた様に、「氏族」の「上級武士」の「子孫拡大」は「子孫を生み出す慣習」の如何に左右される。この事に付いて先に論じて置く。

    ・「子孫を生み出す慣習」
    この九州では「青木氏の歴史的経緯」の無いところから、「子孫を生み出す慣習」は「厳しい戒律」に縛られた「賜姓族」としては、唯一、血縁外に「子孫力」を高める手段として社会的に認められたものがあった。それは下記の慣習であった。
    つまり、「現地の土豪」からの嫁取り等の「傍系支流の末孫」である。
    「子孫を生み出す慣習」として、平安期末期から起こった「皇族などの氏族」にはそもそも許された「戦地妻の制度」があった。
    赴いた地方の「現地の土豪」に「支流末孫」を故意的に作り上げて一族一門の勢力を拡大させる手段である。
    この手段の「婚姻外」で現地の土豪の娘(娘が無ければ縁者の娘 更になければ家臣の娘で子供が出来れば「養女」として迎える。)、或は、中には妻を宛がってその氏族に子供を作らせ「現地の末孫」を作り、認知してイザと云う時には一族として”馳せ参じる”事とし、その勢力を維持する「正式な制度」であった。
    この時、現地妻に「末裔」が出来れば、その傘下に正式に組み入れられる仕組みである。
    俗に云う「馳走」の語源は、一般的には、「馳せ」は、”「馬の状態」を云い「馬」を駆けずり走りまわして食材を集めて食事する事”となっている。
    しかし、これだけの意味だけではなく、語源の平安期の時期から観て元々この慣習から来ていると云われている。
    食事からこの行為までの”遇し”を古来では”「馳走」”として常識化していた。
    「馬の食事説」では、平安期では”お相伴に與かる”と成っていて、”馳走に與かる”とは異なっていたが、その内に明治期に社会制度が変わった事から「馬の食事説」に成ってしまった。
    高い身分家柄の者が土地の土豪勢力などの”遇し”には、必ずと言ってもよいほどに慣習事として採用されていた。特に、平安末期から室町期中期まで採用されていた。
    況や、「荘園制」との絡みの中で積極的に用いられた。
    これは、現在からすると、”不道徳”と見なされる行為であるが、社会制度の異なる「氏家制度」の中では、「氏の構成」を”最高目的とする社会”では異常と見なされる事ではなく、「氏の構成」を目的とする限りに於いて当然の範囲の行為であった。
    「氏の構成」即ち「子孫拡大と存続」は「最大の命題」であったし、その為の「一夫多妻の環境」の中の「習慣」では当然の行為であり、両者が進んでこの行為を容認していた社会であった。
    ある「勢力の傘下」に入って「氏」を護らねば生きてゆけない社会であったからこそ認められた行為であった。
    つまり、「御相伴」と「御馳走」とは持つ意味が違っていたのである。
    そもそも、”走り”の深意(裔から族に至るまでの経緯を”走”とした意)と、”馳せ参じて”の”傘下に入る”の意味なのである。
    これを清和源氏などが主に「荘園制度」を通じて積極的に用いた「戦地妻の制度」で、要するに、この「二つの制度」を通じて生まれた族が「未勘氏族」である。
    現地の大小の土豪の荘園開発主に、この「戦地妻の制度」で子供が生まれなくても「名義借り」をして「源氏族」などを名乗った。

    ”源氏、源氏”と騒いで書き記して誇張する系譜は、殆どが「姓族」でありながら「氏族」ではないのに偽っているものである。多くはこの「戦地妻の制度」にて生まれたこの「未勘氏族」である。(荘園制度にもこの制度を併用した)
    特に「藤原秀郷一門」はこの制度を「24の地域」に掟として積極的に採用した。
    上記「長崎」もこの「赴任地発祥」の「24の地域」の一つである。
    「藤原秀郷流青木氏116氏」の「24の地域」には、全てに「青木村」を形成していないが、「長崎」には「青木村」、「日向青木氏」にも「青木村」があり、この「青木村」がある事は「戦地妻の制度」よりも、別の方法として「赴任地」に「嫡子外の嗣子」(妾子扱い)を残して、「土豪との血縁」を進めた地域である事を示す。(「戦地妻の嗣子」の場合は「青木村」は形成出来ない。)
    この「赴任地の嗣子制度」は「藤原氏の男系継承」を前提として子孫を遺した事を意味する正式な慣習であった。
    「子孫を生み出す慣習」にはこの「二つの慣習」(戦地妻 赴任地)が多く利用された。
    しかし、この「熊本の4」はこの何れにも適合した履歴はない。
    つまり、そうすると「長崎」か「日向」からの「拡大分布」による事に成る。
    そうなると、既に「長崎の青木村」を形成している以上は藤原秀郷一門では無くなる。

    ・「青木村」と「五七の桐紋」
    その理由は、そもそも、”「氏名」を使った村名”は、「朝廷の許可」を得て「賜姓族」にしか許されていなかった。同じ「賜姓族」でも許されなかった氏もある。
    例えば、「天智天皇」の「第6位皇子の施基皇子(青木氏)」の弟の「第7位皇子」の「川島皇子」も特別に賜姓を受けていながら地名の佐々木から近江の「佐々木氏」の賜姓を受けた。
    「嵯峨期詔勅」では、更にこれの使用を禁じて正式に強化した。
    従って、故に「青木村の存在」は一つの「青木氏の判断材料」と成る。
    「地名」から「氏名」や「姓名」としたものはあるが、「賜姓の氏名」からの「村名」は青木氏外に無い。

    この様に「青木村」が存在すると云う事はルーツの大きな決め手になるのだ。
    それは「家紋分析」と「家柄身分」と「宗派」と「職能」で判断できる。

    そこで、この「熊本の青木氏」の家紋を調べると、多くは「五七の桐紋」である。
    後は、中には”「丸付き紋」”の明治期の家紋もあり、「墓所」には、この家紋を入れた墓所もある。これは明治以後に使用されるように成った花崗岩(ミカゲ石)が墓石である。(それ以前は仏説にて砂岩が仕来り)
    「丸付き紋と花崗岩」のこの慣習事は「子孫拡大」が大きく起こっていた事を示すものである。
    そもそも、「桐紋」は「天皇家の式紋」であって、「丸付き紋」共に禁令紋であったが、それに「丸付き紋」を付けた事は、独自に「丸付き紋」にしなければならない「子孫拡大」があった事を示す。
    江戸期前に、この禁令を当時まだ破る事は出来ない筈で、資料としては出来て確認していない事から「桐紋の丸付き紋」の使用の物語るものは、元来「子孫拡大の多様性」があった事に成る。
    そもそも、「象徴紋」系には「丸付き紋」は用いない。武家が用いる「本家分家の慣習」もない事から、当然に「丸付き紋の慣習」もなかった。
    つまり、その慣習の無かった中で、この様に「禁紋の家紋」の「多様性」”があった事は、”「子孫拡大」が大きかった”事を示す。
    「青木村」に集中する墓所のこの様な「家紋状況」を観る事で、その一族の子孫拡大の状況は掴める。
    本来の「墓所の石」は古来の仏説により「砂岩」を”土に帰る”を基に由としていた。
    しかし、それを砂岩から花崗岩にした事は、明治期の行為であって、その氏の「子孫拡大の証」に成る。

    ・「熊本」「宮崎」の吟味
    先ず、「熊本の4」では次の事が判断要素となる。
    一つ目は「墓所の桐紋」が使用されている。
    二つ目は「青木村」は形成されていない。
    三つ目は宗派は日蓮宗が多い。
    四つ目は明治以後の履歴と過去帳は持たない。
    五つ目は黒田藩の農民か傭兵の農兵である。
    六つ目は「熊本の4」の発祥地域が南の鹿児島よりの熊本の「球磨郡」領域である。

    考察すると、「熊本の八代郡」を境にして北部の阿蘇郡と菊池郡には分布は無い。
    地理的条件と豪族が間に存在していた事から、そこを貫いて北九州側に出る事は出来なかった。
    貫いていたら「戦いの渦」に巻き込まれ4のパラメータが得られない。
    先ず、この阿蘇郡や菊池郡などの豪族には大蔵氏との血縁をしている。
    その大蔵氏の背景を貫く力は無かった筈で、この地域に限定していた事に成る。
    この事から”縦の南端の大口村”を起点として、そこから「山岳部の西」に真直ぐに拡大した事が判る。
    北部には「大蔵氏」をはじめとして「菊池氏」「宗像市」「酒井氏」などの「神職系の大豪族」があって壁を作り、北部には伸びる事は絶対に出来なかったと観られる。
    従って、「農兵や傭兵」として上記した様に伸びる為の「三つの条件」が何であったのかと云う問題であるが、この何れにも無く、それは次ぎの二つにあった。

    一つは「山岳部の開墾」で「移動定住」
    二つは「傭兵」にて「移動定着」
    以上この二つにある。

    (何れの領主にも属さない民は、「山岳部の開墾」で生き延びた。「源平の戦い」で敗れた平氏はこの「山岳部の開墾」で生き延びた。俗に云う「山族」である。)

    さて、ここで問題なのは四つの国と神職系の豪族の壁がありながら、”「黒田藩との関わり」は何処で起こったのか”と云う事に成る。
    「日向青木氏」が「傭兵」として働いた黒田藩は筑前福岡である。
    「日向」にしても、「肥後」にしても間には豊後、筑後、肥前、豊前の「四つの国」が存在している。自然発生的に関係保持の「子孫拡大」は到底に無理である。
    従って、明らかにこの「藤原氏北家の条件」に合致しない。
    依って、上記の様に全て「日向青木氏の経緯」に合致する事から、「日向青木氏」が鎌倉期以降に「宮崎廻村ー鹿児島大口村」の「日向灘の縦方向の拡大」と、横に分布して行った事を示す。
    それは「山岳地開墾」を行った事により、「傭兵、農兵」として横にも移動していった事を示す。
    つまり、「山岳開墾」はこれを積極的に行ったのは「黒田藩」であるが、”黒田藩の傭兵と農兵をしていて保護された「日向青木氏」”と成る。
    記録では「黒田藩の農兵」とする意味の事が記されている
    しかし、この「四つの国」が介在して西に伸長したとしても、”北域の黒田藩の「傭兵や農兵」は成り立つのか”と云う疑問が起こる。

    ・「桐紋の考察」
    それを解く鍵があるのだ。
    一つは、「墓所の五七桐紋」である。
    (一部に間違って明治後に書き込まれたと思われる「五三の桐紋」(花崗岩)が使われているが、これは間違いである。
    「五三の桐紋」は「天皇家の正式な式紋」で天皇家が室町期に財政難に陥らされた時に太閤秀吉に対して、妥協してこの「五三の桐紋の式紋」の変紋の「五七の桐紋」の使用を渋々認めて財政難を救った経緯である。
    これを豊臣秀吉は、更にこの「五七の桐紋」を勲功のあった家臣に使用を勝手に許した。
    この「五七の桐紋」は与えられた藩主が、更には、特に”勲功のあった限られた家臣”にも与えたものである。その一藩が豊臣秀吉の最大の信頼を置いた軍師の「黒田藩」である。
    この「黒田藩」も同じ手口で、積極的に勲功のあった「家臣や傭兵」に与えた記録がある。
    この家紋の使用と共に併用して「特別扱いの権利」も認可した。
    「日向青木氏」がこの「家紋の使用」と「特別扱いの権利」を与えられた事は記録から史実であるから、間に「四つの国」が存在していても「傭兵」として黒田藩に参加出来た事を意味する。
    問題はこの「傭兵の有り様」である。
    「農兵」とも伝えられているが、「戦いの下働き」をする「農兵」は四つ国を越えての行為は「国抜けの斬罪」の適用を受ける事からこれを超える事は不可能である。
    しかし、国を持たない「私的軍事集団」の「傭兵」は自由に動くことができる為に可能である。
    「国境の山岳地の開墾」で「糧」を得ながら、時には「傭兵」に成る「軍事集団」で、四つ国を越えてこれを採用していた「黒田藩」で勲功を挙げたのである。
    況して、この「黒田藩」は、”兵庫の姫路の頃の薬売り”から出世した小寺氏の頃から、この「傭兵」を盛んに用いた事は有名である。
    「傭兵」を戦いに初めて積極的に用いた織田信長と共に有名な氏である。
    (黒田氏はこの「織田氏の戦い方」を研究し踏襲した。)
    「織田信長」は「紀州雑賀氏」と「紀州根来氏」の「傭兵集団」の「鉄砲技能集団」を用いて「浅井ー朝倉」の連合軍を攻め落とした事は有名で、これを習って豊臣秀吉と共に黒田藩は「傭兵」を盛んに用いた記録がある。
    (「雑賀氏」は「鉄砲鍛冶の技能集団」でもあり、「紀伊水道の海族」で、更に「諜報活動」を職務とする「雑賀忍者」でもあった。)
    (源の義経が平氏の船団を先頭に立って打ち破ったのはこの雑賀氏の海族である。「根来衆」は根来神社の僧兵軍団で「忍者系の軍団」である。この様に各地にある「傭兵集団」には夫々「専門職の職能」を以て合戦等に傭兵として合力する。)

    この「傭兵」が九州では「日向青木氏」であった事が、墓所にこの黒田藩との繋がりで「桐紋」の変紋を用いている事で判る。
    どの様な職能を専門とする「傭兵」であったかと云う事であるが、「日向青木氏」に黒田藩から与えられた上記した特典から観て、まさに「戦う兵の軍団」であった事に成る。
    限定した「傭兵」の「職能集団」には、この「歴史上の記録」からも雇側はこの特典を与えていない事で判る。
    後に「徳川氏に傭兵」となった「雑賀氏、根来氏」にはこの特典はない事からも判る。
    「柳生氏」は最終は家臣と成ったが「諜報軍団」を専門としていて徳川氏の軍師の家臣と成った事からも判る。
    紀州真田軍団は諜報と実戦の軍団で、豊臣側の家臣団と成って味方して家康を窮地に追い込んだ事で有名で、”実際に戦う軍団”に上記する様な特典を与えている。

    そこで、農民のみならず庶民が「墓所の使用」と、それにこの墓所の「墓石に家紋」を用いる事は法度であったが、「郷士扱い」の「墓所 苗字帯刀、登城、布衣着用」などのこれら「特権」を黒田藩から明治前に許されていた事はこれを証明する。
    「登城権」と「布衣着用」までを許されたとする事は「相当の扱い」で普通ではない。
    「登城権」は「家臣扱い」で、「布衣着用」は殿様に会え意見を述べられる権利で、「上級武士」が持つ権利である。「日向青木氏」はこれに「布衣に家紋の使用」を合わせて認めている。
    「傭兵」としては考えられない「破格の扱い」である。
    この扱いは「傭兵の勲功」とは別に「日向青木氏」のルーツにあったと考えられる。
    「郷士」ではなく江戸期に与えられた「青木氏」などの「特別の氏」の「郷氏」と観られていた事を示す。
    黒田藩の間に介在する四つ国には「日向青木氏の記録」は発見できない。
    この事から、「日向青木氏」は次ぎの行動を採った事が判る。
    ”縦の北の発祥地の廻村から大口村の子孫拡大”
    ”大口村を起点に西の横に山岳部の球磨郡へ子孫拡大”
    以上を起こした事に成る。

    それは「傭兵」てして、「日向灘の沿岸部」と「球磨郡への山岳部」の開墾で土地を確保して糧として生き残った事に成る。
    その起点と成っている地域の大口村の山岳付近に「青木村」がある事からここに定住している「青木氏の本家」が現存する事も考えると、「沿岸部の日向青木氏」は「兵や物資」を輸送する「日向灘の沿岸部の総戦術・軍船」で活躍し、「山岳部の日向青木氏」は球磨郡の山岳技能を使って「陸送」を中心とする軍団と、何れでも実戦を伴う「戦闘軍団」をも形成して傭兵と成っていたと観られる。
    これを指揮していたのは大口市の「薩摩の青木村」からであったと観られる。

    依って、「熊本の4」と「宮崎の2」と合わせて「日向青木氏」は「6のパラメータ」を持ち合わせていた事に成る。

    ・「パラメータ 6」の吟味
    では、このパラメータの6は妥当なのかと云う問題である。吟味して観る。
    「以仁王の乱」から約500年間で、全国平均以上の「パラメータの6」の子孫拡大を図った事に成る。
    「皇族賜姓族青木氏」は別格としても、「他の秀郷流青木氏の歴史期間」平安中期960年からの1000年間から観ても、500/1000で約半分とすると、関東地域の平均11.3のパラメータの丁度半分5.6であり、「日向青木氏」の「パラメータの6」は充分に納得出来る。
    むしろ、上記の経緯から「パラメータの6」でなくては成らない筈である。
    相当に「日向青木氏」は上記した様な背景から「子孫拡大力」は大きかった事を物語る。
    ただ、この「日向青木氏」には「子孫拡大力」の「分布力」に比例する”「伝統力」は必ずしもあるか”と云う事であるが、残念ながら「傭兵」と云う事もあって、殆ど消失しているので必ずしもそうではない。
    「伊勢青木氏族日向青木氏」と成るが、「伊勢青木氏」の様に戒律に縛られる事なく、「子孫拡大」が吐かれた結果である。
    そこで、「日向青木氏」のパラメータは6とすると、そうなると、上記「長崎」は同程度の0から6としていた上記の推論は当たる。
    上記の「長崎」は6以下であろう。「日向青木氏」から観れば6は超えない。


    長崎に続く


      [No.303] 卑屈と萎縮の脱皮
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/01/14(Tue) 19:07:33  

    最近の青木氏氏のチャツトを観て思う事があります。
    チャツトのご意見を見て、投稿を寄せて頂いている”あおきさん”とチャット外でよくお話する事があります。
    今回の新春のお話の中で、昨年のチャツトに議論が及びその事に付いて一つご意見がまとまった事がありました。取りまとめの役目を負いましたのでそれをご披露したいと思います。
    今、政治問題化している「日本の現状の問題」に成っている事柄です。
    つい最近次ぎの様なことが起こりました。
    それは「靖国問題」に対する、或いは日本に対する「米国の失望論」です。
    実はここには大きな意味が潜んでいます。
    その事に付いて少し議論したいと思います。

    「米国の失望論」
    先日、安倍氏が「靖国神社」を訪問したが、これに対して米国は”失望した”とコメントを出した。
    今までの「米国の反応」と違った「異質の流れ」のコメントであって、その「言葉の持つ意味」には大変な「米国の態度」を示した事に成る。
    この事は、今後の日本が採るべき、或いは考えておかなければならない事柄が潜んでいる。

    先ず、この事に付いて、中国と韓国の反応は、過去に重要な「歴史的経緯」がある為に当然の結果としても、 問題は米国の”失望論”であり、これにはそもそも「移民族の米国の概念」と「融合民族の日本の民族の概念」が異なる事が存在している。云い換えれば、「伝統」なるものの違いが存在している。
    特に、米国人は他民族に比べて、この「伝統」なるものの理解が低い。「移民族の他民族国家」であるが所以で一面ではやむ終えない事ではあるが。しかし、駆け引きの場の「政治の場」の面ではそうは行かない。
    米国内ではいざ知らず、国家間では考え方の異なる他民族との折衝と成るからだ。
    その異なる事を租借して国家間のコメントを出すのが常識でありながら、そうではなかった事が先ず第一に挙げられる。(もともとこの傾向はヨーロッパ系の民族には強い傾向がある)
    日本には米国と比べて、戦死者に対する「日本人の尊崇の念」の有り様と、 それを具現的に表す神社と云う概念の結びついた国民的概念の有り様は日本には厳然として必然的にあり、それは他国に比べて異質で強いものである。この異質の概念の一つが外国から”サムライ”と表現される所以であろう。
    しかし、この概念のない米国はこの概念の違いを無視した。 ここに大きな潜在的な問題がある。

    では、果たして、問題とする ”失望”と云う概念の奥にはどの様な意味合いがあるのか考えてみる。
    今回の場合は、この”失望”とする言葉の先には、先ずは ”仲良く”とする「主観的感情」が存在する。
    更に、失望するには、”以前に”信用していて”それが裏切られた”と云う事にも合わせて成る。
    この2つの事が問題と成る。

    そこで、先ず、この”「主観的感情」”を専攻して民族や国家が持つ民族的な「尊崇の概念」を無視して、この ”仲良く”を専攻させるべき事であるかは明らかに違う。
    それは”仲良く”は”主観的”に関わる。”主観的”は人、民族、国家によって明らかに異なる。
    日本と云う国家では「尊崇の概念」は、最早、”サムライ”と日本人自らも自認し呼称される様に「主観的な事柄」ではない。
    日本国民が持つ「共通の基本概念」である。
    確かに「主観的感情」で個人的要素のものではあるが、日本人全てが共通して持つ欠かす事の出来ない感情で、生活の慣習の中に深く浸透していて共通している事で、この念を欠落すると日本人として社会の中でなかなかスムーズに生きて行けないし、兎角、信用されず低く見られる事に成る重要な欠かす事の出来ない概念である。
    つまり、「感情の域」を超え、「主観の域」を超えているのである。
    所謂、「国民性」なのである。
    この概念を”共通に持つ事に依って強く結ばれている”と云っても過言ではない。
    判りやすく数式論に置き換えれば次の様に成る。
    「主観的感情」<「共通基本概念」=「国民性」の数式が成立ち「国家」を構成する。
    ここが米国の「移民族の国家」の「思考原理」と異なるのである。恐らくは100万遍労を駆使しても、彼らには充分な理解は得られないだろう。
    つまりは、「移民族の思考原理」で、「融合民族」を評価した事に成る。
    それは彼等(ヨーロッパ系の民族)が示す”自己の民族の思考の優越論”からくる論調の結果であろう。(筆者は特にこの論調で議論になった多くのこの経験を持っている。)
    つまり、「融合民族の思考原理」≠「移民族の思考原理」であり得る。
    彼等の”思考の矛盾点とも云える。
    そもそも、この「世の自然原理」として万物に適合する摂理として ”考え方が違うから「同じ考え方」の者が集合し、だから「国家」として「屯」を民族は構成する。
    人間のみならず鉱物も同じである。万物の核の構成もこの自然摂理で成立っている。
    従って、この関係が無ければ「屯」はしない。「屯」の前提である。価値観は良く似ているが考え方が違うと云う事である。価値観=考え方では必ずしも無い。
    故に、”「優越」を前提として他民族の考え方を否定し低く見る思考原理”の「民族性」は矛盾である。
    「民族性」、或いは「国民性」が低かろうが高かろうが存在するのである。
    ”優越するから相手には考え方が無い”と云う事でもないし、”無視しても良い”と云う事ではない。

    最近は、”世界の平均的な考え方”として「グローバル思想」と云うものが漠然とあるが、「屯」を構成する国内の行為ではこの「グローバル思想」は別問題である。
    取り分け、「尊崇の念」の様な「国民性」は国内では「是」である。「屯」を構成する以上は国内では”グローバル”ではない。「国民性の坩堝」の中にある。
    それでなくては、”日本国では無い事”に成る。周りが「国民性」が無くなって、全てが”グローバル”に成ってしまったら「屯」では無く、果てには「国家」では無くなる。米国の様な国に成ってしまう。
    しかし、端的に云えば、「尊崇の念」は”尊敬に値する概念”であり、所謂、世に云う ”グローバル”であり、「良い国民性」である。
    「尊敬の強弱」はあるにしても、”尊敬を否定する者”は幾らなんでも、”グローバル”ではないと「米国人」でも云わないであろう。
    ところが、況や、この「国民性と伝統」に対して ”グローバルの末の形”には相反するものがあるのだ。”グローバル”が進みすぎると「国民性と伝統」がアメーバーのように食われてしまう危険性を持っている。
    強いて云えば、「国民性」は、兎も角も、最近では、この行過ぎた”グローバルの考え方”が「伝統」を消し去る「最大の要因」と成って来たのである。
    そもそも「伝統」とはその国の「国民性」が構築するからだ。
    依って、国内までも、この”グローバル”を容認するも”絶対的な思考”として持ち込むべきではない。
    何故ならば、”グローバル思考”の果てには、論理的に”「伝統」の否定”が起こる。
    重ねて何故ならば、「国民性」を維持しているのは「伝統」であるからだ。
    むしろ、”グローバルの考え方”は、諸外国、取り分け先進国との「政治と経済の運用手段」、又は明快に「知識」として位置づけて活用するべき考え方である性質のものである。
    つまり、「国民性」を色濃く持ち「伝統」が多く存在すれば、その果てには ”グローバルの思考”は成立たない訳である。
    そもそも、”グローバル”の思考は他民族が共通の場で共存して生きて行く為の ”平均思考のルール”である筈で、依って、米国の様な「他民族の坩堝」の「移民族」の中の思考が主と成っている。
    最近、世界情勢から”難民と移民の傾向”が進み、各国は「移民族化」を起こしている事による流れの現象もその一つであろう。
    日本の様な、「異民族」の「他民族」が、初期に唯一”「単一融合化した民族」には、つまり、この「国民性」や「伝統」が多く存在する国には、この”グローバル”はある範囲では容認するも「要注意の思考」であろう。

    そもそも、”グローバル、グローバル”と鬼の首を取った様に云うが、確かに、「世界の民族」の考え方や商習慣や社会習慣等を知る事は、上記している様に ”「国民性」を知った上での判断の事”として指摘しているが、何も全ての考え方を ”グローバルに成れ”と云う事では無く”、グローバル”に成る事そのものが目的では無い。
    そもそも、「語学の習得」がグローバルと思っている節がある事は問題で、それを成し得るに必要とする一つのツールであっても、「全ての目的」でもなく、要は、相手の国の「良い国民性」を良く知る事に重点を置く事に成るのだ。
    今までも、日本の発展に供したのは「語学」のみならず、”何らかの方法”で「異民族の国民性」を勉学し、習得し、それを以って折衝して来たが、その際には互いに何とか「共通の理解」を得て来たのだ。無かった訳ではない。
    それには先ず何よりも互いの「良い国民性」を良く理解し、互いの「悪い国民性」を指摘し、排除して、「コミニュケイション」を得て来た。
    矢張り、この様に論理の終局は ”、グローバル”は「良い国民性」に繋がる事なのである。
    ただ、ここで「卑屈と萎縮」を排除して、我々日本人はより一層の「コミニュケイション力」を獲得しようとするものである。
    昔は、筆者は、中国や世界各国から来た「企業実習生」と懇談してこの事に付いて議論した事がある。
    世界で活躍して貰う為に ”グローバル的な行動と考え方”を、端的に、彼らに理解を得た例題は意外なものであった。それは当初、彼らに云わせれば、”国民性の良い悪いの判断”が付かないとの事であった。その理解を得たのは、それは、何と”「立小便」”である。
    私たちの若い時には、この「道端の立小便」は何の抵抗もなくしていた。不思議に爽快な一時であった。しかし、「良い悪いの国民性」はこの「道端の立小便」の例で有った。
    中国人は、最初、猛反発した。その「論理の根拠」は、矢張り、”「小便」は、”人間が持つ最も自然な生理機能”であり、”人は無条件にその「自然な生理機能」を尊重すべきである”と主張した。
    矢張り、「法より人」の考え方に従う国民である。
    その例に挙がったのは、「観光地での立小便」で、中でも”「富士山登山」で外国人は平気で立小便や痰の排出などの「生理機能」を到る所で平気に果たしている”とする批判があった。そして、注意すると、矢張り、「上記の論調」であった。
    そこで ”中国では良くても日本では「悪い性癖」なので、この「悪い性癖」は世界の先進国でも「悪い性癖」であり、何処の国でも「社会の良い環境」を維持する「ルール」を破壊する「悪い性癖の国民性」であるのだから、貴方達の言い分には一理あるにしても、世界の「平均的な約束事」として護らねば成らない”と説いた。
    日本にいる場合では「日本の法」に従うのが普通であり、「中国の法」に従うとする論調は異常である。依って、「仕来り 慣習」も例外ではない。
    例え、「法より人」の考え方を持っていたにせよ日本では古来より「人より法」の社会と成っている。”自己の主張をするのであれば日本から出て中国でして貰いたい”と繰り返した。

    元々、実習でも「自国の考え方」を日本でも平気で主張する傾向があり、なかなか注意を受け入れない傾向(国民性の性癖)があった。挙句の果てには、”中国は大国である”と虚勢を張って主張する始末であった。まさに例外なく「中国人」である。

    ”「人、時、場所」の要素が異なるのだから、日本にいる限りは「日本の慣習や考え方」を少なくとも護るべきだ。その「日本の考え方」が「良い考え方」であって、「世界の考え方」の平均に成っているのであれば少なくとも守るべであると、その事に依って、現在の「日本の発展」に供しているとした考え方が、要するに「良い考え方」の定義なのだと、「良い考え方」(良い国民性と伝統)であるからこそ発展したのだ”と説得した。
    そしてところが、現在の様に国が発展した日本も60年前までは例外ではなかった。
    しかし、”この様な事を改め無くして行った”と説いた。
    国に帰り「日本の様に発展した国」を作りたいのであれば、”「悪い性癖の国民性」は排除しなければならないのだ”と、それには”「立小便論」を会得せよ”として彼らを納得させた。
    ”何時もグローバルを考えた時には「立小便論」を思い出せ”と説いたのである。
    この「立小便論理」で、”「意匠問題」に繋がる「物真似」も同じである”と説いた。
    日本の労働条件や日本の商慣習など数え切れない考え方もこの「立小便論」でクリヤー出来た。
    要するに、それは全て”「グローバル」”で、「日本の良い国民性」であった。
    その時には「語学力」は「大きな問題」では無かった。
    その秘訣は、”双方の国民性の対比が出来る程度のカタコトの語学力”であった。
    これが、”グローバル”の判断なのである。

    筆者は、結局は、「グローバル」=「国民性」の関係にあると信じている。
    決して、”適度のグローバル”は、”「国民性」、或いは「伝統」を否定するものではない”と云う事である。「日本のグローバル化」はそれを前提としなければ成らないのだ。
    何も「国民性」を否定した”行き過ぎたグローバル”ではない。
    この「失望」のコメントをだした人物や機関は、この考え方を失落して優越論の末に更には「感情主観」に走ってしまったのである。

    因みに、中国は「偽物」を平気で作るが、彼らの言い分は、人間には、本来 ”物を真似るという本質”を持っている。故に、”その「本質」を働かせるのは何故悪い”と云う言い分を決まって述べる。これには一理はある。
    しかし、”グローバル”では、これは許さない。しかし、依って、彼らは「意匠権・商用権などの特許権」を認めようとしない。しかし、これは「良い国民性」を代表する「概念」ではない。何でもかんでもではない。
    「尊崇の念」の様な「国民性」を物語る「良い伝統」を伝える概念は”グローバル”の対象ではないのが定義だ。
    依って、国内は「国民性」であるべきである。国内にも地方色がある様に、「情緒豊かな環境」であるべきである。
    ”グローバル”は ”「他民族との折衝の場」の「共通する手段」” として「別の認識」として持って置かなければ成らない「知識の領域」の事であるべきだ。
    依って、”グローバル”に拘って、「国民性」、即ち「尊崇の念」の為にも、国内ではこれを否定する「卑屈と萎縮」を取り除くべきである。
    敗戦に依った「卑屈と萎縮」がそれを(必要な適切なグローバル化の遅れ)起こしているからだ。
    逆に、彼らの「優越論」は、この”グローバル”の過剰思想の所以である。”グローバル”に陥り過ぎても優越論の様な事に成り好ましくない。
    彼らには、「自分の国の考え方」が何処でも”グローバルだ” と必要以上に考え過ぎているのである。
    確かに、グローバル”の多くは”自由”を前提としている「移民族の思考原理」に多いのは否定できない。
    そうでなければ、彼らの社会は構成出来ないであろうことは否めない。
    米国は、国内でも「自由」を前提とした思考原理の”グローバル”の概念だから、国外も殆ど”グローバル”の概念に成っているから、他国の国内でも”グローバル”の概念であるべきだ” と思い込むのも無理の無い事だが、ここに彼らの矛盾点がある。
    然し、国内は「屯」を構成している以上は「国民性」を保持するべきである。
    ”グローバル”は「国民性」(伝統)を否定するものでは決してない。
    故に、2「良いとされる国民性」”が存在する限り、他民族の者は、この場合は、「日本民族の思考原理」が同であるかを思考をめぐらして「答えの発言」をしなければ成らない訳であった。

    しかし、米国の「失望論」はしなかった。自らの「民族性の欠陥」から、これを欠落したのであり、当然にその思考は「政治の場」の判断としては低質すぎるし、「感情主観」である事になる。
    まあ、百歩譲って「感情主観論」のものであるとして、妥協して考察すれば、次に、この「主観的感情論」にその国民がどの程度のウエイトを置く思考原理を持っているかに問題は移る事に成る。
    ところが、移民族の他民族の国家であるから、論理的に考えれば、相反する徹底した「合理主観論」が「共通する概念」となろう。
    しかし、この「失望論」は、そんな環境の中でも、「感情主観論」を展開した事に成る。
    つまり、今までとは異質のコメントに成る。大使館を管轄する国務省コメントであるが、大統領府のコメントではないところにまだ救いは有る。国務省だとしても問題は問題である。

    これには”米国の失望”の根拠とする中には”仲良く”と云う思考と、もう一つ ”相手を信用しなかった”と云う意味合いが大きく潜んでいる事になる。
    過去に「信用」していたが、「靖国」で「信用」できなくなった。だから、「失望」した事に成る。
    「信用」していなければ「失望」には成らない。現在にも”信用しない”と発言した事に成る。
    この「失望」には、この”仲良く”と、”信用”と云う問題にすべき要素が含まれている。
    だから、この2つの事の「米国の失望論」に対して日本の人々は「違和感」を強く感じて ”センセーションの渦”と成ったのである。(日本の反応に対して彼らは当然の如く驚きヒートした。)
    その”仲良く”に対しては、今、”仲良く”とする行動を採るべきか、その”時期”にあるのか、どの様な”仲良く”が存在するのか、はたまた”仲良く”した先には”何”が待ち受けているのか、普通は考える。
    少なくとも日本人の「国民性」からすれば、常識となっている「人時場所の思考原理」を働かせる。
    そうしなければ「7つの民族」が融合して「屯」を形成させる事は不可能であったし、現在も同じである。
    だから、”うん、変化だ、おかしい、異質だ、その先には、果たして「同盟」に与える影響はどの様になるのか、今後、どうすればよいのか、” を瞬時に考えた。と云う事に成ったのである。
    それが「噂」では無く、日本大使主導の「正式な国務省発言」であったからだ。

    そして、「信用」には急に出て来た「米国の態度表明」でもあった。
    そもそも、この”「信用」”には、仲良くするには色々な「政治の場」での「条件や立場」がある。
    それなのに「自分の国の思考原理」だけで低質で短慮に単純に考えて、日本が ”米国の言う通りに行動しないと、今後、信用しないよ”と成る。
    「信用」しなくても良い、「同盟」と云う事を結んでいなければそれでも良い。
    「同盟」は”信用を前提”として成立っているからだ。「信用」できない相手と「同盟」を結ぶ事は無い。「信用」=「同盟」の関係にある。
    つまり、この”失望した=信用しない”と発言した米国は、暗にこの「同盟の破棄」を結果として臭わしてしまった事に成るだろう。
    更に突き詰めれば、次の米国との「政治交渉の場」に、この「失望」、”信用しないの発言”を取り除かないと、”何時まで信用されていない外交交渉”をする事に成る。
    「同盟」の中では有り得ない事に成る。
    例え、「失望感」があっても思っていても発しては成らない禁句である筈で、それを発してしまったのだから、日本側は、今後は注意をして置かなければ成らない事に「政治の場」では戦略上は成る。
    ある政府の高官が発した言葉では無く、大使や更には国務省の正式コメントであるのだから、十分にこの禁句のチェックは効いていた事に成る。失言ではないのだ。
    オバマ氏と習氏との会談以降、米国は”中国より”に発言するように成っている事には失念しては成らない。大なり小なり ”同盟の如何”に変化を来たしている事に成る。
    自衛隊との合同演習にもこの態度は露骨に出始めている。

    「米国が観る中国」と、「日本が観る中国」とはその「国民性」が異なる為にその重要性は異なる。
    「日本が観る中国」は、事を起こせば軍事と経済に於いて、中国がそのファンダメンタルが外資に頼っている比率が大きいし、取り分け、日本に頼る事が強い筈で、「一国二制度の矛盾」を持っている事から「共産党の崩壊」に繋がるは必定で、「尖閣問題」の様なある程度の小競り合いはあるにしても「実戦」は起こせない筈で、故に「政治の場」の駆け引きの範囲の「虚勢」は張る事には成るだろうし、これからも続く。
    そもそも、「一国二制度の矛盾」は市場経済の制度は「自由」を前提として売買は進む。
    「市場経済」を無制限に進めれば人は「自由の良さ」を知り、政府に対して「自由」を求める。
    しかし、「共産主義」はある程度の「自由」を制限する主義である。依って、何時かこの「自由の要求」が強く成った時点で論理的に「乖離」が起こる。
    その「乖離」は、何かキッカケで起こる筈で、”日本とのある程度の争い”でその矛先は共産党の政府に向けられるは必定である。従って、中国国民向けにも「虚勢」を張り通す事になるのである。
    要は、日本が「弱み」を見せない姿勢を日本側が採る限りは現状維持を図る事は出来るだろう。
    それには、別つの意味で ”「卑屈と萎縮」は禁物である”と観る。
    むしろ、「中国」と云うより先には「失望」と云う言葉を発する「米国」との関係の悪化が懸念される。
    それは、日本が[ファンダメンタルの影響]の”歯止め”と成る垣根が無い米国ならではの事であるからだ。
    筆者は、米国が「中国よりの政治路線」をこれからも採る限りは、この事が「第2次大戦の経緯」を辿る事に心配をする。
    その意味で ”失望した=信用しない”には、この「失望」と云う発言に危機感を感じる。
    日本側が絶対に避けねばならない「経緯」である。
    そもそも「戦争」とは国家の明確な「意思」では無くその前の「経緯」から勃発するものであるからだ。
    上記した様に、「中国より米国」と「失望発言」と「習会談」や「合同演習」などあらゆる関係を考察するとその危険性が懸念される。
    況して、「自主防衛」「憲法改正」「基地返還」「米国を凌ぐ経済発展」等を進めれば、「日本の発言力」は増す事は間違いはなく、”米国側に採ってこれをどう観るか”と成る。
    まさに、「第2次大戦の経緯」である。又、「石油の制限等の経済封鎖戦略」で来る事は最早無いであろう。
    しかし、一つその懸念事項があるのだ。それは「日本産のエネルギー資源」が発見されて充分な資源国に成った時点では、事態は異なるだろう。
    メタンハイトレートや自然エネルギーが発見されて来ている現状では「資源国」に成る可能性は高いし、その対策は進んでいる。10年程度の先には、資源国に成った事に依る危険な問題が露出して来るだろう。
    何故ならば、資源に掛かる経費は日本全体の経済の国家予算の最大5割程度を占めている現在、これが資源国に成った事に依ってこの経費の多くは浮いてくる。
    問題は ”この経費が何処に回されるか”は明らかである。「資源国」を護る為の「国防費」となるは必定である。そうすれば、「卑屈と萎縮」を持つ日本に関わらず、エネルギーで「世界の勢力図」は変わる事に成る。石油枯渇の問題もあり、当然に、隣国と先進国は今以上にこれを警戒する。
    これが戦争への逃れ得ない「経緯」の流れの一つに成るのだ。
    むしろ、現在の中国と韓国と米国のイライラは内心はここにもあるのだろう。
    「憲法改正」や「自衛権拡大」などの保守化が進む日本がこの立場に立てば、その実行するファンダメンタルは充分にある事から、「現実の問題」と成って来るのは間違いない。
    だからと云って、「卑屈と萎縮」をそのままにしてはこれからの国が発展するチャンスを失う。
    元々、他国と異なり、”「国民性」として優秀な「発展する能力」とその「チャンス」”に恵まれているのだから、「卑屈と萎縮」をそのままにして圧力に屈し現状で甘んじる手は無い。
    日本が資源国に成る事は”鬼に金棒”である。この為の要素が日本の周囲には整いつつある中で唯一つそれを成しえる為の「心の気概」に不足している。それが「敗戦の後遺症」の「卑屈と萎縮」であると談じている。
    その為にも、今以上に成長させるには「卑屈と萎縮」から脱皮する事が必要で、今の様な態度の維持はこれを成し得ない。それには”米国の失望から来る圧力”に屈しては成らないのである。
    しかし、屈しないと、上記の経緯を辿る羽目に陥る事は必定であろう。
    そもそも、日本での日常の会話の中では、「失望発言」は上から目線である。圧力を臭わしている言葉になる。日常会話の中ではないとすると、少なくとも日本人はその様に採るだろう。
    言葉のニュアンスは「国民性」であるので、”上から目線を彼等に租借せよ”とまでは云わないが、圧力的な意味合いは少なくとも「失望と信用とする言葉」からはある。
    そもそも「2者択一」である。この事を韓国は別として中国は必ず観ている筈である。
    何故ならば、中国の「国民性」や「政治事情」はあるにしても、両国は古代からの「歴史の関係」から良く似た思考原理をそもそも採るからだ。
    因みに、「駆け引きの古書」の様に、上記した様に「六稲三略」はそれを具に物語っている。
    この「六稲三略」は政治や軍事や経済の駆け引きの場で使うが、日本と中国は古来にこの中国から持ち込まれた考え方を「駆け引きの思考の原点」としている。
    従って、この「思考の原点」から、むしろ、中国は「米国の失望論」で「虚勢」の足しに成る事からほくそ笑んでいるだろう。
    「一国2制度の矛盾」をクリヤー出来るからだ。自ら手を下さずに「米国-日本の関係」が崩れてくれればこの矛盾の危険性は排除出来るからで、「虚勢」の代わりに成る。

    先ず、次に、この”仲良く”には、「国家」や「民族」と云う前に「人の性」の思考原理にも関わる。
    そもそも”仲良く”は「女性的な思考原理」に左右されている判断で、特に”政治の場”ではあまり採用され得ない思考である。
    何故ならば、”主観”である事によりその人によりその”主観”が異なるからで、千差万別の結果が招かれるから賛同が得られにくい思考であるからだ。
    当然に、主観であるから”仲良く”の程度も千差万別と成る。
    喧嘩状態でも”仲良く”とする論調も生まれる。
    しかし、”仲良く”は否定はしない。”仲良く”が採用し維持できる環境である事に越した事はない。
    では、百歩譲って、この相手の国の中国と韓国に、ここで ”その”仲良く”を採用したとして、果たして、その ”仲良く”の「良い結果」を招き入れる事が可能であるのか大いに疑問である。
    恐らくは、過去の事例から ”歴史認識”と云う理由を背景に量にかかって更に上から言い続ける事になる。恐らくは、その過去の遺恨から土下座してでもいい続ける筈だ

    何故ならば、事実、日本はこの2国を過去にその理由如何によらず「侵略した行為の非」を持っているからだ。された方にすれば、”「侵略の恥部」は何年経っても消し去る事の出来ない憤懣のしこり”であるからだ。
    中国の様に”面子を重んじる国民性”では、「政治の場」や「教育の場」に「喧伝の道具」としてこの「憤懣の誇張」を持ち込んでいる。
    況して、この2国には不幸にしてか合わせて「儒教思想」から ”過去に拘ること”を推奨する思考原理”をも「国民性」として強く持っている。それ故に効果は大きい。
    それだけに「過去の事」に拘れば、中国にして観れば、各国から侵略された為に、”今はそうじゃないんだ”と「虚勢」を示し続け無ければならない事になり、それには「国民の目」を外に向ける必要が「政治の場」の事として戦略上ある。放置しておけばこの「憤懣」は政府に向けられる事に成る難儀な事がある。
    それには、日中には格好の事がある。

    その前に参考として、因みに、最近の”中国の中古空母の購入と改造”は「虚勢」の最たるものである。
    現在では空母は近代戦の戦略上は無用の長物と成りつつある中では「中国の虚勢」を示したものに成る。何故ならば、この空母とは「最大の軍事費」の掛かるもので、経済成長の低下の中では将来は無理であろう。兎に角、空母は「周囲の戦機」が整わないと使えない代物であるのだ。
    これからは「イージス艦の保有」であろう事は明々白々で、空母にしても「ヘリ空母」が機能的に戦略上良く働くと見られている。
    (この「ヘリ空母」とイージス艦とは日本は主体的に保有し、その製造は日本の独断場である)
    この様に、中国には政治戦略上、アンバランスが多く良く考察すると「虚勢」と見られるものが多いのだ。

    それは「過去の日本の侵略」であり、これを誇張する事で国民に「憤懣」を助長させる事が出来る。
    既に、戦後70年も経っているにも関わらず、この動きは衰える事が無く、常に格好の”日本非難の材料”として使われている。
    こんな「格好の事」は先ず無い。”過去に拘る儒教の国民性”もある事からその効果は実に大きい。
    今までは教科書にも載せての喧伝であったが、現在では、「改革開放路線」と「情報社会と経済進出」から真実を国民は知った為に、この「格好の手段」に効果が採れなくなったのである。
    その為に、今度は「尖閣問題」と「防空識別圏」等の問題を持ち出して「格好の手段の国」として日本に「虚勢」を張り出したと見るべきであるが、しかし、これも”笛吹けど踊らず”に成って来たのである。
    むしろ、日本を肯定し政府を攻撃し始めているのである。
    しかし、国民の間では、概ね、「醸成化」に向かっているだろうが、これでは「虚勢」は成立たない事だし、その効果は低いから、何か”小競り合い” になる事を持ち出してくる事は今後も必定である。
    その意味で、「絶好のチャンス」で、今回の「米国の失望論」は願ってもいない「格好の事柄」であった筈である。
    自ら手を汚さずに”米国と日本の間に楔を入れる事”が出来たと云う点では叶ったって得られるものではない事で、最も「虚勢」の張る事の障害と成っていた「同盟」に楔を打ち込んでくれた、と観ている筈である。
    その意味で、今回の”米国の大使主導の失望論は低質である”と云えるのだ。
    その考えは「性」を超える事が出来なかった事を示す。

    そもそも、この「感情主観の性」は、”神が人間に与えた絶対的な「性」”であって、この「感情主観」の「性」は女性が持っている。「女性」である限りはこの「性」から脱する事は出来ない。如何なる「男性の論理主観」を持ち得たとしても”イザ”と云う時にはこの感情主観に左右される。
    これは決して「良し悪しの問題」ではない。況して「差別の問題」ではない。「神が決めた事」である。
    問題なのは、「政治の場」では、残念ながらこの「感情主観の論調」は通じ得ないからだ。
    今回はこの「政治の駆け引きの場」にこの「失望」のコメントを出した事にある。

    恐らくは、これからもこの失態は間違いなく続くだろう。況や、これを繰り返せば、「同盟」に不必要な傷をつける事に成り、最悪の場合、日本は「卑屈と萎縮」を排除して「積極的平和外交」を続けるのであるから、上記の経緯に不本意に乗ってしまう事に成るかも知れない。
    そうかと云って昔の様に、”米国の言い分と圧力”を飲んで無理やりに”仲良く” して、「卑屈と萎縮」に戻る事も出来ないジレンマに陥ってしまった事に成る。
    況や、「卑屈と萎縮」をそのままに「憲法改正」は有り得ない。
    日本側から見ると、”実に馬鹿なコメントを出してくれた”と成ってしまった事に成る。
    先ずはこのコメントを無視する事が得策であろう。
    無視される事で「自分の発言」(大使)に何かの異質に気がつく事を狙う必要がある。悪戯に反応してはならない。反応し続けると、上記したこの「最悪の経緯」に乗ってしまう事になるだろう。
    要するに、「低質な性」から来る「米国の国民性」の露出であろう。
    しかし、当のヒートした米国のこの事に対する主導する意見は、矢張り、「移民族の国民性」と云うか、「ヨーロッパ系の民族優越論」が花を咲かしている。
    「同盟」を前提とする「失策の言」の意見は極めて少ない。
    意見が少ないと云う事は、「同盟」は日本では「防衛の要」と考えているが、強国の米国側では比較的「同盟の意識」が低い事が云える。恐らくは米国の ”中国より”もここから来ているのであろう。
    米国としてはこれは当然の事であろう事は良く判るが、米国側にしては大なり小なり自国の「直接的な脅威」であると云う訳ではない。極東に於ける平和維持の同盟である事は否めないのであるから、一歩譲って、日本側への「失望」コメントの「同盟意識の欠如」は、この観点からはまぁ仕方の無い発言とも取れる。
    但し、それは”米国の国民の範囲の意見”に限られるのである。
    日本を良く知る者の意見でも「民族性の概念の違いの神社論」とする意見は無かった。
    筆者の過去の経験とほぼ合致するものでヒートしている。「中国重視論」が意見上に出ているのもある。

    そもそも、逆に、自画自賛には成るが、「日本人の国民性」の優れているところは、この「仏教的思想」から”未来を志向する点”にあり、現に過去に敵対して占領された米国に対して、この”しこり”を消し去ってしまう「国民性の思考原理」を持っている程である。東北震災時の”友達”を物語る。
    まぁ ”過去に拘る性癖”より人生を鑑みると ”未来志向の性癖”の方が生き易く楽しいのではないだろうか。「反省力」がないと彼等から批判されるだろうが。
    「色即是空 空即是色 空不異色 色不異空」と仏教の「般若心経」は教えているのだから、「良悪」の問題でない。

    その「未来性の志向原理」を持つ国民に対して、それから2年後に”失望”と云う態度で米国は示したのだ。「失望論」は「人時場所」に依って使い分けるのが上質の人間がする思考である。
    この事に依って、その人、或いは「民族や国家」を周囲は高く評価する。
    現実に日本人は高く評価されている。
    つまり、日本が持つ「人時場所」の判断要素が、考え方の異なる「移民族」で構成されている事自体がそれぞれバラバラなのに、更にはその「異なる移民族の米国」は自由奔放な「移民族の思考原理」を前提にして日本を評価したのだ。
    自分の狭い思考原理で相手を評価してしまったのだ。
    この傾向はヨーロッパ゜系の民族に極めて強い。
    どう評価するは勝手であるが、「同盟」と云う前提にある事を忘れてしまった「感情主観論」である。

    そもそも、米国は別にして、中国と取り分け韓国の「国民性の思考原理」は、その儒教の影響から、”過去を重視し、” 仏教の日本の国民性は、有史来、”未来を重視する性癖”を持っているのだ。
    違うのだ。違うものを味噌糞を同じにして思考するは、その判断能力は感情主観にしてもあまりに低質すぎる。
    故に、その日本はこの状況の米国に対して、中国や韓国の様に過去に拘らず、「未来の有り様」に思考原理を展開するのである。そして、現実にその敵であった米国の良いところを吸収して今や米国に勝るとも劣らずの近代国家を未来に築いたのである。この判断を忘れている。
    これは日本人の「武道の精神」の”負けて勝つ”にあるのだ。
    その”負けて勝つ”の精神を構成しているのが、他に類と比を観ない”「尊崇の念」の強さ”にあるのだ。
    これが中国や韓国に観られない「日本人の国民性」なのだ。
    恐らくは、つまり、この精神をなくしては、”日本と云う国家”は成立たない限界の一線なのである。
    その事を今回の米国の国務省の判断はそもそも欠落している。
    (情報では日本大使の意見が主導したらしいとあるが、今後、”失望”と評価する根底の知識力に注意しなくては成らない相手と見られる。弱体化する今後の米国に、この様な間違いの判断が示される可能性が強い。)
    そもそも、この様に、「政治の場」は国家の「駆け引きの場」である。
    普通の商業の交渉の場ではないのだ。
    「国家の主体性」を如何に相手に強く示す事が出来るかの「戦略の場」なのであって、場当たり的な「戦術の場」ではない。この「戦略の場」で負ければ、それは「国家が負ける場」なのである。
    まさに”失望”とする判断は、「国家の主体性」を意味しているのに、この「米国の失望論」は「戦術の場」のものである。
    この事はまさに米国は今回の事で”政治の何たるか”を失念しているのではないかとも思える。
    故に、米国の言う通りにこの2国に対して、「国民性」が色濃く出ている国家の為に命を投げ出してくれた「尊崇の念」で譲れば、「国家」がまた負けるのである。
    「実戦」で負け「国民性」でも又負ける事になるのである。”これでは申し訳が無い”とする感覚が強く生まれる「国民性」である。他民族とこの一点が違うのである。
    (戦後、敗戦と占領の結果、「自信」を喪失して「卑屈と萎縮」が蔓延りこの傾向が強く成った。)
    まして”「個人」”では無く”「日本民族」”と云う「国家」に命を投げ出してもらったのである。
    当然に「国家」がこれに対して深い「尊崇の念」を示し、「向後の責任」を負うは当然の事であって議論の余地は無い。その責任の”表現の仕方”が他民族とは異なっているし、その強さは「基本概念」とも成っているのである。
    日本民族の者の ”最高の尊崇の念を表現する方法”は古来から引き継がれて来たもので、それは「自然神」から来る「神道」との結びつきの表現なのである。
    「神道」との結びつきの無い方法もよくあるが、それは一段下がった念の行為である。
    「日本人の国民性」はこの様にあらゆる様々な「念の表現方法」にも「差別化」を図り、その重要性を表現するのである。
    その「神道」の神社も、日本人の中で、多くの神社のある中でも限定して、戦死した人も国民も「靖国神社」と決めているのであるから、「靖国神社」に参拝して「尊崇の念」を表現する事は「最高の念」の表現方法に成る。
    日本人の中にコンセンサスとして決めていなければ再考の余地も有ろうが、”靖国で又逢おう”と誓って散っていった人の意志を尊重するは「最高の念」の要素でもある。
    これを無視する事では「尊崇の念」は成立たない。
    例え、その「神社」にどの様な人物が祭祀されていようと「尊崇の念」には無関係であり、止めさせようとする念の低い一派の”こじ付けの低質論”であり、「尊い命」を「国家」の為に捧げてくれた故人への為にも左右されるべき事では決してない。
    他民族、取り分け米国の様な「移民族」は、十束一絡げに「戦没者慰霊碑」で事は済むのであって、他民族国家である所以から日本の様な差別化した「神道」などと結びつく「尊崇の念」の表現方法はとり難く、「集約的な概念」の祭祀と成る事は無理な事であろう。
    故に、「ヨーロッパ゜系民族の優越論」以外にも、この”他民族”と云う事も誘引して「差別化の概念」は彼等には無いのである。
    依って、彼等には「神道と尊崇の念」との結びつきに対して”理解する事”は「困難」と云うより「無理」と云った方が適切であろう。
    先日、米国の2人の長官が、”これ見よがし”に日本の「戦没者慰霊碑」に参拝したが、何も”靖国に参拝してくれ”とは云わないが、その彼等の思考原理の表れであって、「靖国神社」と「戦没者慰霊碑」とは、日本人の中では「最高の尊崇の念」の表現方法が異なっているのである。
    「靖国神社」は上記する様に「命の約束事」の場であるのだ。
    「戦没者慰霊碑」は国が行なう「政治の場」での「祭祀の場」に過ぎないのだ。
    「最高の尊崇の念」と云う行為の中には、この「命の約束事」が条件と成っているのだから、この「命の約束事」が欠落すれば、それは「最高の尊崇の念」には成らないのである。
    故に、その彼等の思考原理の感覚からすれば、「神社」との結びつき、又は「靖国神社」への「差別化」の「最高の念」の「表現方法」に理解が成し得ないである。
    「卑屈と萎縮」の所以の一つとして「最高の尊崇の念」をかなぐり捨てて ”「戦没者慰霊碑」で良いのではないか”とする意見とは、この”国家に対して投げ出してくれた命”への「尊崇の念」の行為の表現とは異なるのである。
    つまり「最高」では無くなる事の行為となる。他の「尊崇の念」であれば下げてでもそれでも良いが、この一点は譲れない「尊崇の念」の行為なのである。
    個人で親などが自分の為に命を投げ出してくれて、自分の命が助けられたとした場合、その人は一生その人たちに感謝し、その人に執って最高とする「尊崇の念」を表現するであろう。
    それが「国家」であり、強いては「父母等」に対しての保護などの報いと成る。
    「国家」と成るからその念の表現が希薄に成る傾向がある人がいるが、それを国を代表するものが代して表現したに過ぎない。その表現方法が最高の方法で表現した事に過ぎない。
    奇異に感じる事はその人に「希薄の感」がある事を否めない。
    何故、希薄に成ったかは云うまでも無く「卑屈と萎縮」の所以である。
    現に、自分の足元を観て見れば判ることである。
    それは個々の家庭で毎年行なう「尊崇の念」の行事として、正月から年末まで行なう数々の祭祀の行事には、その多くはこの「神道」との結びついたものが多いのは、この日本人の「尊崇の念の差別化」の結果である。
    中には「伊勢神宮」や多くの悠久の歴史を持つ由緒ある大社に参詣して、わざわざ「尊崇の念の差別化」をして、その「尊崇の念」に対する経緯の表現を採っている。
    筆者は他民族との間で議論した数々の経験を持っているが、この「尊崇の念の表現方法の差別化」には理解は得られなかった。
    特にキリスト教徒との議論は殆どの機会で白熱したが、韓国人との議論は別の意味が介在して議論に成り難く、「儒教」と云う点でも合致点は得られなかった。
    しかし、儒教の中国系の者との議論にはある程度の理解は得られたが、”其処までする必要性が余り無いのでは”との結論の様であった。
    それは”其処まで、と余り”とする意味にはある程度の合意や賛同の意味が潜んでいた。
    そもそも「中国の儒教」には、我々日本人と同じく「日本の神道」には ”「自然神」を基幹とする中国の祖神の「鬼道神の流れ」”がある事と、”仏教の通過国”でもあり、更には ”法の政治より人を重視する思考原理”が彼等に存在する事から ”何らかの共通性”を感じたのではないかと考えられる。
    何せ「文化や概念」を輸入した「過去の模範国」であった所以であろうし、日本人には2割程度の漢民族の融合族が存在する所以でもあろう。
    何せ、その元を正せば、そもそもの「安倍氏」は6世紀の帰化人の後漢民族の首魁の「阿多倍王」の支流末裔の氏である。皮肉なものであろう。
    「政治の場」が働いた事以外はもう少しの「醸成期間」が得られれば、民間の中国人には決して理解が得られないとは考えられない。
    故に、筆者は中国は、この”靖国”には「政治の場の駆け引きの道具」にされてはいるが、一般国民には同意は得られていると考える。
    今回の中国の国民の”笛吹けど踊らず”の結果は、この表れであって「靖国の問題」は、”心底からのものでは無い”と観ている。
    そもそも、江戸時代に儒教は幕府に依って日本人社会に不適合として、関係者全てが一生投獄されて根絶させた歴史的経緯があるし、日本の生活のなかにもその名残が未だ色濃く残っている。
    例えば、判り易い例として、「正座」である。儒教では礼を正すときには「正座」をする。しかし、仏教では「胡坐」であり、女性は「立膝」が正式な礼法である。
    共通の慣習は遺されているのだから、「以心伝心」で何かを通ずるものがあるのだ。

    チャツト意見にあった”「虚勢の表現」の「政治の場」の道具にされている”Tと考えられる。
    中国の「改革開放」から閉ざされた窓が開き、「真の日本」を知り、更には上記する「共通点」を知り、「親近感」とまでは未だ行かずとも、ある程度の「理解」が醸成して来ている状況の中にあると観ている。
    韓国は本来は共通点は多いし、中国とは異なり窓は自由に開かれている。
    醸成する範疇でも無いし、文化や概念も古来より「倭人」が南韓域に韓民の1割にも成る程度に融合していて、日本では3割にも成る韓国人が融合している関係にある。
    しかし、中国の様に、”醸成するキッカケさえ掴めば理解は得られる”と考える事も出来るが、韓国は元よりこの「醸成のキッカケ」は既に出来ている。
    問題は、儒教から来る”韓国民の過去への拘りの性癖”にあり、且つ、女性大統領と成っている以上は感情主観論に左右されたその「性」から脱皮は難しい事と、「日本への借財」の「政治の場の駆け引き」から今はその時期ではないだろう。
    この場合、無理をして”仲良く”を実行すれば、その結末には「無理の末路」が待っている。
    その時期を待つ以外にはないと考えられる。
    ただ一つあるは、韓国にやむなく「妥協の場」を発生した時にある。
    つまり、再び韓国の日本への借財の原因と成っている「円安-ウオン高」で、「外貨準備高の不足」が起こる事以外には窓を開かないで有ろう。
    その時がチャンスと成ろう。それ以外は「感情主観の歴史認識論」を持ち出して、何時までも日本に対して暗に「借財の放棄」を狙うだろう。

    問題は、上記する様に、この様に「米国の失望論」にある。
    これまた「女性大使の交代」に依って暫くはこの主観的で歴史の知識の欠落の論が起こり、難しい場面が出てくる事が考えられる。この今の米国のコメントの主観論は人が代われば、また元の知識と認識のある人物がなれば消えるだろうから、ここでも時期を待つにあると観られる。
    では、何故、この「失望論」を出したのかを考えた時には、”米国のある焦り”が読み取れる。
    それは、米国との同盟国の韓国に「外貨準備高の不足」が起こりかけているのではないだろうか。
    「安倍氏の円安誘導」に依って、20円の差が発生した。
    この差は「韓国経済」には大打撃である事に間違いは無い。過去に2度が韓国は「外貨準備高の欠損」を起こし、日本がこれを救ったがこれが大きな借財となっている。
    むしろ、「韓国経済」が成長を遂げたのは、「円高」によって極度の「ウオン安」が起こり、三菱の電気と自動車のプラント輸出に依って、企業が起こり、これに円安と日本からの借財を全て注ぎ込んでその出資額の殆どを占める国家企業を仕上げ、その後、”恣意的な労働争議”を起こして三菱はその利益を無くして放棄した企業である。
    しかし、ここに来て日本は円高誘導から円安誘導へと変換して経済を立て直しつつあるが、この影響を受けて、韓国は再び「外貨準備高不足の欠損」が起ころうとしていて、先日の日本の自衛隊による「アフリカでの銃弾提供」はこの現象を具に表している。
    軍が遠征するのに銃を持って行くが銃弾を持って行かないのは笑い話である。
    先ず有り得ない事態で間違いなく資金力が不足していた筈である。
    米国は、この韓国の経済欠損の事を承知していて、アジア同盟国にスペインのような事が発生し、その中で中国や北朝鮮に戦略上の事が起こってはまずいと考えて、慌てて””仲良く”の言葉を発してしまったと観られる。
    韓国のこの「経済欠損」を救うのは過去の2度と同じく日本だけである事を米国は承知している。
    果たして、この償還は有り得るのかは疑問である。
    この米国の失望論の背景の”仲良く”にはこの意味合いが強く含まれているのではと考えられる。
    韓国は密かに米国に泣きついて行っているのではないだろうか。
    「20円の円安」は”韓国にとって非常事態”で、この傾向はアベノミクスで未だ続くと考えられる。
    間違いなくこの「欠損状態」が起こっている筈である。
    そもそも韓国の国家企業には起こらない方がおかしく、この2大国家企業は日本の技術者のヘッドハントとに依って円安を利用して類似品を作った事による成長であって、その成長もその製品より優れた開発品が再び日本から再び出て後退している現状で、そのヘッド゛ハンティングの人材も高齢期に入り、その持った技術も古くなって「価格安い-品質は低い」に依って市場から後退している。
    尚、この類似品の韓国の市場の実態は、「ウオン高」でドイツ製品等の攻勢が激しく、円安の原因以外にも「経済欠損の危機」が迫っている。
    其処に「北朝鮮の動向」が働いている事と、TPPの事から米国は躍起と成って「政治の場」で日本に圧力を掛けたと観ている。
    ただ、一つ、韓国経済界が上記の事を判断して韓国大統領に対して、”日本との関係を良くする様に抗議した”が聞き入れず、依然として「感情主観論」を展開して一方的な「歴史認識論」に拘り、韓国政府との間に「乖離現象」が起こっている事に注目すべき点であろう。
    更に、最近、「河野談話」は韓国政府との調整により発せられた談話である事が日本政府と企業からつきあげを食った韓国政府の一部からも暴露された。
    つまり、これによれば「歴史認識論」はすでに国家間で済んでいる事になる。
    ”済んでいること”に成っているものをわざわざ何度も繰り返すのかはそれは「政治の場」の事として判る。
    恐らくは、これを座台にして借財の帳消しを狙っているのであろう。
    そもそも、「歴史認識」では、その仮に日本に「歴史認識の悪さ」が有ったとしてその咎は日本が負うものであって韓国ではない。
    況して、”歴史認識を無視するものに未来はない”と主意の発言をしているが、戦後、混乱の中からいち早く立ち上がり世界第2位まで伸し上がって生活力を挙げたのは日本であり韓国ではない。
    日本に未来があった事に成る。日本の未来は日本人が追うものであって韓国ではないし、韓国が日本を救える力はまったく無い。
    逆であり、上記する様に、最近に於いて「外貨準備高欠損」で2度も助けているし、今度も日本からの救助となろうが、ここで韓国に「外貨準備高の欠損」で日本が支援することは恐らくは不可能であり、アベノミクスは失敗に終る。
    何故ならば、支援に依って「ウオン安-円高」が起こる事になり、その支援で再び国家企業にその資金の流入が起こるので、日本経済の足元をすくわれる結果になり、「国家的な失敗」をする事になるからだ。

    「河野談話」でも、韓国大統領は国家間の言い分を無くしている筈であるが、また無くしていながらも平然とその後でも、同じ歴史認識論を展開した。これでは、大統領個人の範囲の事と成り、個人の主観感情に捉われた一国の指導者もどきの人物の言い分には日本政府は対処に難しい事に成った。
    これでは日本政府としては 今は”仲良く”は無理であろう。様子を見るが得策である。
    そもそも、米国の日本大使館前にその女性像を建立するは、最早、理性ある一国の行為とは思えない。
    この様な場合は、米国政府も撤去を促す事が国際儀礼上、求められるが撤去させない。
    この様な事に目を瞑って”仲良く”は無理である。
    少なくとも”仲良く”の前にその時期では無い事が明らかである。
    米国もこの韓国の態度を放置して、”仲良く”に理解に苦しむ。
    昔の日本であれば、「卑屈と萎縮」から米国の言い分に従った筈で、「政治の場での力」は皆無であった。命を投げ出してくれた尊い日本人の若者に申し分けなかった事に成る。
    戦後70余年の現在、この意味でもここで「卑屈と萎縮」から脱却すべき時期に来ている筈で、国家としての「成長の活力」を生み出すのにも、この”「卑屈と萎縮」から脱却”しなければ、それこそ「日本の未来」は無いだろう。
    その為にも「失望論」には毅然として対処しなければならない。
    「過去の歴史」を観て「卑屈と萎縮」に苛まれるより、゜未来」を観て「卑屈と萎縮」から脱却するべきが日本人の「良い国民性」であり、その事に依って現在の日本は築かれたが、「卑屈と萎縮」からの脱却で活力を生みだすのである。
    これからは、決して、”失望のコメント”の裏で示す「米国の圧力」に「卑屈と萎縮」で屈しては成らない。

    その米国の”失望論の仲良く”には、それこそ「中国の書」の「六稲三略」から、今は国家間のその時期ではないことに成り、2国からその意志が明確に成らない限りは ”待つ”が得策で、「政治の場」の「米国の発言」は当を得ていない。
    本古書を「思考の基幹」としている発行元の中国も知っている筈であろう。
    況して、国民は知っている筈で、「尖閣問題」も「航空識別圏」も「政治の場の虚勢」としてどこまで問題を大きくしてくるかを観る必要があるが、恐らくは、「国民との乖離」が起こる事は共産党政権としては「一国2制度の矛盾」が噴出し危険であるから、その「足元」を狙うべきであろう。
    「中国国民との醸成化」に総力を注ぐ今は時期であろう事が判る。中国政府の弱点ではある。
    「政治の場」が「戦略の駆け引きの場」であるとすると、この「日本理解の醸成化」を官民挙げて取り組む課題であり、その時期に来ているし、「醸成化による相互理解」は両国にとって「悪」では無い。
    中国政府にとっては弱点であるが、相互理解には「大儀明文」が存在し、「尖閣問題」も防衛航空識別圏」もこれ以上にはエスカレートさせ難くなる事になろう。
    これ以上に「卑屈と萎縮」が続けば、レベルを上げて「尖閣上陸」と「識別圏の実質取締り強化」に出てくる筈である。
    「卑屈と萎縮の脱却・脱皮」からは、その先には、「憲法改正」や「集団的自衛権」の解釈問題等が存在し、オバマ政権の様な政治が続けば、「同盟」と云う姿も検討の余地が有り得るし、その先には国家として本来あるべき「自衛力の範囲」も検討せざるを得ない事に成る。
    何にしても、この「卑屈と萎縮」から脱却しなければ「憲法改正」など「絵空事の内容」と成り意味が無いだろう。
    沖縄の様に米軍基地が日本の領土を大きく占めている現状も自衛力に特化させる問題も出てくる事に成る。
    「同盟」と云うキーで基地提供しているが、米国は基地以上に日本を「卑屈と萎縮」の先に置いておく必要性があり、「政治の場」では「同盟」で護られているかの様に見えて、実は「卑屈と萎縮」の先にあるのだ。
    果たして、「戦い」が起こったとして中国になるが、上記する様に中国にも弱点があり、米国の戦力を借りて戦わなくては成らない状況になるかは甚だ疑問であり、その前に「法より人」の国民から乖離現象が起こり、ロシア帝国の様にその経緯を経て共産党は解体する事に成るので、国内の基地の削減化は可能である。
    現に、大国ロシア帝国との戦いはこの「足元の戦略」(レーニンに資金提供)を日本政府が採った事は記録から明らかで、故に「日露戦争」は「国民との乖離」が原因して勝利したのである。

    問題は現在の米国政権では、この様な場合に日本に味方するかは疑問であり、中国を敵国と看做すより同盟国の「米国の出方の方」が懸念材料となろう。
    「卑屈と萎縮から脱皮・脱却」にはこの問題が付きまとっているのである。中国ではない米国なのだ。
    この「失望論の背後」にはこの問題が潜んでいるのだ。突き詰めて「同盟」そのものを否定するかの意も含むセンセーショナルな発言であるのだ。
    今の「オバマ政権」には”失望”のコメントの「深意」が示す様に、この危険性が伴っているが、その後にどの様な政権が就くかが今後の「卑屈と萎縮」の先は見える筈である。
    今までとは「異質な発言」で急に変化したオバマ政権の日本へのコメントである。
    この失言は「日本大使の交代」での時期に符合するし、その意味で「コメントの主体」は当初は大使館とされているので、米国政府なのか大使館なのかの先ずは見極めが必要であろう。
    それにしても大変なコメントである。
    政府とするならば「卑屈と萎縮の脱皮・脱却」は是非により加速して進めなければならない事である。

    そもそも、ここで合わせて云いたい事は、「伝統」とは一体何なのかと云う事で、「伝統」はこの「卑屈と萎縮」からは生まれず、「卑屈と萎縮」に依って「消滅する性質」のものであると云う事なのである。
    要するに、「酸とアルカリの様な関係」にあると考えられ、どちらかと云えば酸化反応と云うよりは「還元反応」に近い関係にあると考えられる。
    その「卑屈と萎縮」はどちらかと云えば「伝統」にとって「酸」に相当する働きをする。
    日本人の「国民性」と成っている「尊崇の念」はこの「伝統」に値するもので、「卑屈と萎縮」はこれを阻害する。
    「日本人の国民性」を示す「良い伝統」とは、「卑屈」に成り「萎縮」するとその「良い伝統」のものを分離させ分解させ、何時かは焼却させてしまう最大の原因であろう。
    還元である以上その基と成るものは遺されている筈で、それを再びもとの元素の形に戻すには、「反応力」のエネルギーが必要で、その力を阻害している「卑屈と萎縮」を取り除けば「蘇る活力」を生み出す事に成る。
    ただ、放置すれば酸化反応により破壊されて原型を取り戻す事が出来なくなる事に成る。

    「卑屈と萎縮」に左右され得ない「正しい心根」を持つ事に依って「良い伝統」は維持されて行くものであると認識する。この「尊崇の念」はまさに「伝統」なのである。
    戦前までに維持されて来た「良い伝統」は、この「卑屈と萎縮」に左右されずにしたから遺されて来ているものであり、日本人が始めて経験した「戦後の敗戦の衝撃」に依って「卑屈と萎縮」がこの「伝統」を消し去ってしまったのであり、むしろ、その「卑屈と萎縮」から”消し去る事が正しい行為”であるかの様に成ってしまうと云う現象が起こったのである。
    明治期の廃仏毀釈の様なムードの現象が国民の中に起こったのである。
    最も古く維持されて来た多く遺されていた筈の青木氏に「良い伝統」もこの事に抗することが出来ずに消え去ってしまったのである。
    今、サイトはそれを「卑屈と萎縮」から脱皮して、何とか掘り起こそうとしているのである。
    「伝統シリーズ」に取り組む為にも、その前に「伝統を維持する力」はこの「卑屈と萎縮」とを排除する事から起こると考えられる。
    その為にも、丁度良いテーマが発生したので、サイトにご意見を投稿してくれた人々と相談し、この投稿の原文の流れの構築を試みた。

    以上


      [No.302] 「青木氏の伝統 1」−「達親」
         投稿者:福管理人   投稿日:2013/08/09(Fri) 12:36:31  

    「達親」


    さて、この言葉を聞いた事がありますか。
    “たっしん“と呼びます。実は「青木氏」に大いに関係のある言葉なのです。
    然し、この言葉は「歴史的な宗教の変化」で殆ど消えてしまったのです。
    当然に「青木氏の慣習、仕来り、掟」の中からも消えてしまったのです。
    そもそも、「青木氏と守護神(神明社)」の論文で「青木氏の慣習、仕来り、掟」が多くあって、それが何とか引き継がれて来た事を論じました。
    その中の一つですが、今回から、その「青木氏の伝統」のシリーズで、この様な事柄を紹介して行きます。
    その最初に紹介するのが、この聞き慣れない言葉「達親」(たっしん)です。
    (この「達親」には、鎌倉期中期前にはその意味合いから両方に口辺が付いていた。投稿欄に中国の古い漢字登録が無いため受け付けない)

    「青木氏」には切っても切れない言葉で、“「青木氏」を物語る言葉“なのです。
    筆者は「青木氏の言葉」として位置づけています。

    では、早速、“それは何故なのか“と云う事ですが、そもそも「青木氏」は、奈良期の頃から「皇祖神」の子神−「祖先神の神明社」と共に、仏道は「古代密教浄土宗」でした。
    この「古代密教浄土宗」と共に、1400年もの長きに渡り伝えられて来た「伝統」の「仕来り」の多くは、その「密教」から来る「仏教作法」が多くあり、又、それに関連する「慣習」からも成り立っていました。
    従って、殆どの文献には遺されていない言葉で、下記に示す様に僅かに鎌倉期の文書に見られるものです。
    そこで、忘れ去られているこの「仕来り」ですので、先ず、その理解を深める為に、この忘れ去られた「達親」の「経緯と背景」に付いて説明します。

    「言葉の経緯と背景」
    そもそも、この「達親」と云う言葉は、インドを経由して中国から伝わった「仏教経典」の中にある「仏教用語」で、鎌倉時代に書き写された「節用文字」の書物の中にある言葉です。(中国では「梵語」にあります。)
    その大意は、俗説として、「追善法要」の時に経を詠む数人の僧の中の「導師」に、「諷誦」(ふうしょう 暗誦して詠み唱える事)して貰ったことに対して、その「仏教作法」としての“お返し”をする事の「行為」を示す言葉でした。
    その「行為」とは、普通は、作法としては「三宝」の高台瓶に載せた「布施物」を僧侶に渡しますが、それに対して僧侶は、「布施の趣旨」に代わる事物として、「仏の霊」を慰める「諷誦」の「読経・詠経」を行なった「仏教行為の事」を意味します。

    (「達親」の「御導料」や後の「布施物」にも「渡し方の仏法作法」があって、「手渡し」は禁じられ、仏前に供えられた「三宝」に載せておく作法だけで、後は「仏前の供え物」を自らの意思で僧侶が「御裾分け」を戴くと云う形を採用していました。これは「青木氏」の「達親」の「御導きの意味合い」を、「御布施」にも”お返し”と云う形を打ち消す作法として引き継がれていた証拠です。筆者の家では現在でもこの作法に従っている。)

    然し、この作法の「初期の趣旨」は、僧侶の「諷誦」に対しての「お布施」では無く、「お布施」に対しての「僧侶の諷誦」とする「仕来り」でした。
    今の慣習は、この逆に成っていますが、この「布施行為」が始まった鎌倉中期以降の頃は「在家の者のお布施」に対する「出家僧侶の諷誦」でした。
    「在家の布施」→「出家の諷誦」

    この鎌倉期中期から始まった「布施」−「諷誦」の関係に対比して、然し、この奈良期から始まっていた「古代密教」の「仏法作法」の「達親」は、この様な「相対の関係」にはありませんでした。
    「達親」と「布施行為」は、類似する「仏法作法」ではありますが、下記に述べる様に、「時代の経緯」と「仏法の背景」が異なっているのです。

    そもそも、「達親」は、「青木氏」の「氏の中」の純然とした単なる「密教の仕来り」であって、身内の「僧侶の導師」、又は「僧侶の「諷儀」(ふぎ)に対する「お導き」の「返礼」と云う意味合いが強かったのです。
    (慣習の中で「御導」と呼ばれる事もあった事から「諷誦」だけへの返礼ではなかった。)
    「導師の御導」→「福家の返礼」

    それは下記に説明する「達親」の「語源、語意」から判ります。

    そして、鎌倉期中期以降に発祥した「在家−出家」の相対関係の「布施」に対して、奈良期から平安期末期までに発達したこの「青木氏」との関係は、「氏家制度」の中ですから、出家していない「身内の僧侶」である事と、「相対の関係」に無い事から、「福家」(ふけ)として呼ばれる者から渡される「達親」として位置づけられていました。
    つまり、この「達親」の持っている位置づけは、「氏家制度」とその慣習下での「密教」である為に、「福家(ふけ)」と云う純粋無垢な「敬意の言葉」に対応しているのです。

    「施主」と云う一般の位置付けでは無く、「福」を用いた「家」として上位の表現を採っているのです。
    この「家」は、「氏家制度」下の「宗家的意味合い」を持っていたのです。
    「仏法作法」から出たと考えられる事から、俗界の武家の呼称の「宗家の言葉」を使えなかったと考えられます。

    奈良期−鎌倉期中期 「密教」 →菩提寺
    「青木−福家」(身内)→「達親」→「導師」・「諷儀」→「追善法要」→「御導」+「諷誦」

    鎌倉期中期−現在至 「顕教」→檀家寺
    「施主−在家」(他人)→「布施」→「出家・僧侶」→「全仏教的行事」→「諷誦」 
     
    参考
    :(「福家」(ふけ)の持つ意味は、「裕福な家」とする意味では無く、「青木氏の守護神」のところでも論じた様に、「青木氏」は、「賜姓族」である為に「本家−分家方式」を採用していませんでした。「特別賜姓族」の「藤原秀郷流青木氏」でも、原則的には「本家−分家方式」を採用していましたが、基本的には「2つの青木氏」での組織の中では、家は「横並びの関係」であり、上下関係を表す呼称は取れませんでした。
    そうかと云って「リーダ役の家」を何らかの形で呼ばねばなりません。
    そこで、自らの氏の一族一門の「リーダ役」を「福家」(ふけ)と呼んだのです。
    後に、この呼称が歴史を持つ「高級武士階級」にも伝わり、「宗家」に対して別の呼称として「福家」と呼んでいた記録があります。)

    上記する関係相関図の共通する点として、その「仏教的行為」では、「諷誦の行為」と成りますが、つまり、暗誦した経文を声をあげて詠む事を「代償」とした「仏教の仕来り」でした。

    ところが、当初は、この「密教の仏教的行為」は、主に、「密教の追善法要」の時の僧侶の「導師、又は「諷儀」(布儀)」に対しての「仏教作法」だけでした。
    この「達親」には、「布施行為」の様に、「経済的関係」の背景は無かったのです。
    これは、「密教の教義」と「氏家制度の仕来り」から来る制約で、「経済的関係」は生まれなかったのです。

    然し、その後、この行為は、室町時代中期以後には、在家(主な檀家の意)の上記した「布施物」や「布施の趣旨」に対しても使われる様に成りました。

    その理由は、一つは鎌倉期中期頃から「密教」を維持していた「特定の氏」が衰退し消滅して行った事と、二つ目は「密教の菩提寺方式」ではない「出家の僧」と「在家の民」の「布施行為」に依って維持される「檀家方式の寺」(顕教)が各地に多く興った事の、この2つが理由でした。
    (「密教の達親」は「地域限定」でした)
    この「2つ事」の為に、この「達親」の「仕来り」とそれに伴う「習慣」は衰退して行ったのです。
    取り分け、「密教浄土宗」に於いては一部の「特定の氏」にのみに遺された「仕来り」となりました。
    これが室町期中期頃に入ると、一部の氏を除き主に経済的理由で「達親」から「布施」に全体に変化させて行ったのです。

    奈良期から平安期に懸けては40から50程度の数の「特定の氏」に依って「達親」は維持されていたものですが、ところが平安末期には「3大密教(天台宗、浄土宗、真言宗)」の「密教論争」が起こり、この「密教のあり方」に付いて一部修正されて行ったのです。

    (他の2つの密教は密教性を緩めたが、密教浄土宗は古代密教浄土宗があった為に緩めなかった。)

    つまり、その密教性は最も「密教浄土宗」が最も強かったのです。
    中でも、この時、「青木氏」は「古代密教浄土宗」の「担い手」であった事から、「密教浄土宗」の他氏と異なり、宗教論争後も頑なにこの「仕来り」を守ったのです。
    然し、この「青木氏の仕来り」も、鎌倉中期以降からは、「民衆」を巻き込んだ「布施行為」に依って維持される「檀家方式の寺」に圧倒され全体的に変化して行ったのです。
    この「達親」は、細々と「古代密教浄土宗」の「青木氏」等に依って維持される「仕来り」と成りましたが、ところが、この「布施行為」に依る「仕来り」は、中級武士も含む民衆に依って維持される「慣習」へと変わって行ったのです。
    「特定の氏」の「仕来り」から「民衆」の「慣習」へと変化したのです。
    つまり、「在家」の「布施」に対して、返す「僧の(読経・詠経)」の「法施」の行為に成ったのです。

    「密教と顕教」
    そもそも、鎌倉期中期以前の「宗教の入信」は、ある「特定の身分階級」が入信できる「宗教」でした。
    これを「顕教」に対比して「密教」と云いますが、従って、この時代の寺は朝廷の許可を得て、この「特定の身分階級の氏」が「独自の力」で「独自の寺」を創建して維持し、「独自の氏」から「身内の住職」を出し運営していました。この氏の「独善の寺」として存在したのがこれを「菩提寺」といいます。

    (「氏の僧侶」のみならず寺を建造し管理維持するために必要とする「部:技能職人」までも氏内に抱え、その「技能頭」には「青木氏」を与えて「氏全体」を「密教集団」としていたのです。
    「青木氏の守護神」で論じた様に、「血縁による2つの青木氏」と「絆による2つの青木氏」に依って構成していたのです。
    従って、「血縁青木氏」だけではない事から「宗家的存在」を「福家」(ふけ)と呼ばれた所以でもあるのです。これは「氏内の呼称」であり、「氏外」からは「御師さま、(氏上さま)」と呼称されていたのです。)

    特に、「古代密教浄土宗」は、仏説の「教義の秘密性」のみに至らず、上記した様に「寺の建立」などの一切の「仏法作法」を完全に独善化したのです。
    当初は、「達親」は、この「菩提寺」の「特定階級」と「僧階級」の間の「仏教的慣習」であったのです。
    その氏の「追善法要」では、その氏の者が務める「導師」は「身内の僧侶」ですが、周囲の寺からも集まってもらった「僧侶の諷儀」に対しては、儀礼上、「仏法作法」の慣習では ”「お礼」” と云う「作法」にはならない事から、「御導:(御導料)」の意味を持った「達親」(語意は下記に説明)と云う言葉を使ったのです。

    この「密教−顕教」の関係は、本来は「教義の秘密性の有無」にあったのですが、これは主に「古代密教浄土宗」と「密教浄土宗」の「仏法作法」として独善的に強く引き継がれていました。
    これは、「自然神」に繋がる「皇祖神−子神−祖先神−神明社」と、「古代密教」の「仕来り−慣習」の2つが融合していた事と、この「仕来り−慣習」を守る立場にあった「賜姓族」としての立場が大きく左右したのです。

    ところが、その土台からの変化が起こったのです。
    鎌倉期中期から室町期になって「下克上」が起こり、下級の身分の者も宗教に入信する事に成り、又、密教以外の宗教、つまり、「顕教」が勃興し、この時に、これらの身分の者と民衆たちの集団が集まって寺を建てて、集団の「檀家寺」を創り、一般の者が「出家」して僧侶に成り、これに対してそれを取り仕切る「在家」(総代)と云う者たちが現れました。
    そして、彼等は、その「檀家寺」を「3つの布施」(法施、財施、無畏施)で維持し管理運営する様にしたのです。

    この結果、「達親」は、当初は、「特定の身分階級」の「氏の菩提寺」の「仏教的な行為」でしたが、この「顕教」によるあらゆる宗派の「檀家寺」が生まれて来た為に、この「達親の作法」は一般化して大きく変化し、変質し、「達親の仏法作法」は、「達親」から「布施」としての質的な変化を起こしたのです。
    この「3つの布施」は、同じ身分階級の中にある「在家の信者」と「出家の僧」との関係を保つ一つの手段となったのです。
    当然に、「密教の達親」は、本来の「導師」への「仏教的行為」としても、「福家(ふけ)」の家柄では、未だ細々と遺されていたのです。
    特に、現在でも稀に江戸以降の「顕教の浄土宗」において「「諷儀」に対する「御導:御導料(みどうりょう)」と云う形で遺されています。

    注釈
    この「仕来り」が遺されているのは少ない中でも関西地区に集中しています
    ところで現在では、後の一般宗派の「顕教の檀家寺」では、「追善法要」時の「諷誦」に、「諷儀」を一段、二段と付けますが、この「諷儀」に対する”返礼作法”は「御布施」、又は個別に「諷儀料」と呼ばれています。
    普通一般には「布施」で通っていますが、現在、一般の「民衆の葬儀・法要」では「諷儀」を付けない場合が多いのです。
    況して、「顕教」であったとして、「下級武士」や「民衆」の「追善法要」や「葬儀」では、経済的理由から「諷儀」をつける事は先ず有り得ません。つまり、そもそも「風儀の慣習」(明治後、”風”を使っている)そのものが原則的には無かったのです。
    川原や路傍の砂岩石を積み上げて土葬する民衆の習慣の中では、民衆には「墓石」を作る事そのものの慣習の概念が無かった時代に、「諷儀」を一段二段と付けて「追善法要」や「葬儀」を行なう事等有り得ません。
    「墓所」を設けて「ルーツ継承の概念」が元々無く、「檀家寺」を持っていたとしてもその「檀家寺」には「先祖継承の過去帳」の習慣は無く、有ったとしても「檀家寺」ではその時に生きた人の「人別帳」しか無かったのです。
    そんな「顕教の檀家寺」の概念の時代に、「諷儀」の「慣習の存在」はそもそも矛盾しています。
    有り得る時代としては、江戸初期の家康の顕教の「浄土宗督奨令」からの事に成ります。
    その時も、「上級武士階級」に限定していましたから、元々ルーツ継承の「過去帳の概念」の持っていた階級です。時代考証としては庶民では有り得ない慣習です。
    乱世で功績を立てて、突然に出世して「上級武士階級」に仲間入りした者が多かった為に、この者等が過去帳を「浄土宗督奨令」に基づいて作った事に成ります。
    まあ、出来たとして元は武士であった「庄屋、名主、豪農、豪商、郷氏」の範囲であり、もし、強引にやったとしたら、先ず周囲で「身分不相応」で周囲から阻害されて生きて行く事が出来なかった筈です。
    例え、有ったとしても一般に「布施」の慣習に含めての行為であり、その中から「諷儀料」を分けて支払う事が多かったのです。
    この様に、「諷儀」(風儀)とする慣習が、元々「顕教」の中に存在している事に疑問が残ります。
    恐らくは、これらの「路傍の石」の言葉通り、この慣習が解けた明治以降の慣習かせいぜい江戸末期で出来上がった言葉ではないかと考えられます。
    そこで 上記した事を配慮して、この「諷儀」の呼称には、「密教」の「古い地域」では、「ふぎ」と呼称し、又は、「顕教」の「新しい地域」では、「ふうぎ」と呼称する地域に分かれているのです。
    そして、”ふぎ”と”ふうぎ”の呼称には時代のブランクと差が有ります。
    とすると、ここで”一つの何かを物語る特質”を持っています。
    「密教浄土宗」では、全て法要は「身内・氏内の作法」である為に、そもそも「諷儀料」の概念が無かったのです。だとすると、筆者は、この事に疑問を持っているのです。
    ”ふぎ”と”ふうぎ”の呼称の違いは何故に起こったのかであります。
    そもそも、「密教」であるが故に、「導師」も「諷儀」も氏内の「身内の僧侶」である事。
    とすると、”ふぎ”とする呼称があるのは、本来は、「布儀」であったのではないかと考えられます。
    ”「儀」を以って「布」する”と考えれば、「氏内の作法」と成り、「言葉の構成」では納得できます。
    これが「顕教」に成った事に依って、仏法の根本的な状況が変わったのだから、この「布儀」が「布施」と云う言葉に変化したと考えられます。
    つまり、「儀」と云う意味合いが、「顕教」に成った事により、「施」と云う意味合いに変えたと考えられるのです。「顕教」の他人が集まった「檀家方式」の作法の中では、「儀」の意は成り立ちません。
    「儀」に依って「顕教方式」が成立っていたのではなく、他人の檀家の「施」(ほどこし)で成立っていたのですから、「儀」では無く「施」と成ります。依って、「布儀」から「布施」に変えたと考えられます。
    「密教」では、「福家」が中心と成って「追善法要」や「葬儀」を取り仕切る仕来りで、「氏内の身内の作法」ですから、「儀」に従ったとする事で納得できます。(故に、檀家寺には「福家」の呼称は無い)
    「達親」−「布儀」→「布施」−「諷儀」  (達親と布施には「密教−顕教」の仏法作法の違いがある)
    「諷儀」の”ふうぎ”では、そもそも「言葉の構成」に無理があります。
    ”「諷誦」する事で以って「儀」する”とすることでは、「諷誦」の意味と「儀」の意味が合わないのです。
    「顕教」では、「密教」の「布儀」が「布施」に変化したので、又、元々「密教」では「身内の僧侶」であるので、更には、「諷儀」の概念が無かった事から、この3つの理由から、「導師」の後ろで「諷誦」する「僧侶」に対しては、「顕教」では「諷儀」(ふうぎ)として呼称する様に新たに成ったと観られます。
    「顕教」では、「他の寺」から同座して「諷誦」して貰っている「出家の諷儀僧」には、身内で無い事から、”「返礼」”をする必要が生まれます。
    この時は、明らかに”「諷誦」を目的として同座して貰って輪唱”しているのであるから、合成語として「「諷儀」(ふうぎ)の呼称が生まれたと観られるのです。
    従って、「密教」の総意の”「布儀」のふぎ”に対して、「顕教」の”「諷儀」のふうぎ”との、「2つの呼称」の違いが地域に依って生まれたと観られるのです。
    故に、上記の様に、「密教」の浄土宗が存在した地域には、”ふぎ”、と成り、「顕教」の浄土宗の存在した地域には、”ふうぎ”と成っていると観られるのです。
    筆者の家では、「布施」では無く、「達親」であった様に、勿論、「布儀」の”ふぎ”の呼称で伝えられています。
    「古代密教」の「仕来り」の特異な「領域の言葉」である事から、この「経緯を確定する研究資料」が発見できないのです。


    この「顕教の浄土宗」の中でも、元は「特定の氏の菩提寺」であったものが、特定の氏の衰退による経済的理由で「維持管理の背景」を失い、「密教」を早くから解き、「顕教」の「檀家寺」に成った浄土宗寺には、細々と「達親」の作法は遺されていました。
    多くの「密教浄土宗」が経済的な支えを無くした為に「顕教の浄土宗」と成って行きました。

    (筆者の調べた範囲では、因みに、平安期に勃興した源氏方の武士で、例えば、日本全国に大きく氏を広げた義経の家来であった鈴木氏等の菩提寺(浄土宗-明治後、「顕教の檀家寺」に成っている)等にも、調べるとこの「達親の作法」が細々と観られます。この様に「特定の氏」に細々と守られていた事を物語ります。然し、住職が世襲制がなくなった現在では、最早、伝統維持の時間はなくなっています。)

    この「達親の作法」は、特に、「密教浄土宗」が「家康の宗教改革」で江戸期に廃止されて無くなり、複数の「高級武士」だけが入信できる「顕教」の「檀家形式」の「顕教浄土宗」に引き継がれたのです。
    「福家」の役割を経済力のある「高級武士」の「武家」に特化(変化)させたのです。

    (書物から観ると、この時に、「口辺のある達親」から「口辺の無い達親」に変わった模様です。
    それは「密教」から「顕教」に変化した事により、「諷誦」の「仏法作法」の意味合いが少し異なったこと事から、口辺が取れたと観られます。この「口辺の有無」が「達親の意味合い」を物語っています。
    「福家」(ふけ)の呼称も、「密教の仏法作法」に拘らず、この時に「高級武家階級」へ伝わり、それから「2足の草鞋策」の「大店の商人階級」へと深く浸透して行ったものと観られます。)

    つまり、「密教の菩提寺」の言葉が、「顕教の檀家寺」と区別が無くなり、一般化した様に、この「密教」から「顕教」へ変化した「達親」も質を換えて一般化したのです。

    「寺の創建権」
    そもそも、江戸期まで、「寺の創建」は、誰でもが出来る行為では無く、時の権力者の許可を得た「特定の氏の特権」(青木氏等)でした。
    従って、この「顕教」として「遺された達親」も再び芽を吹き出し、本格的になったのは江戸時代になってからの事でした。
    「密教の浄土宗寺」が衰退して壊滅状態に成ってからで、江戸初期にこれを憂いた家康に依って、これをある「密教の慣習や仕来りや掟」をある程度緩めて、それに条件を付けて、「顕教による浄土宗」の「督奨令」を発したのです。
    その条件とは、「特定の氏の財力」では無く、幾つかの「一般の高級武士の財力」を集めて管理し維持させようとしたのです。
    更に、明治維新にも「苗字令」を出すと同時に、明治初期の「宗教改革」に因って、この一切の特権を完全撤廃したのです。
    遂には、だれてもが入信できる「顕教」の「檀家形式の浄土宗」と成ったのです。
    従って、この「達親の言葉」が使われない様になりました。
    (「古代密教浄土宗」の「青木氏」だけは使っていた)
    この様な経緯と背景を持った「達親」は、鎌倉期中期以前では上記した様に「御導料」の意味合いの「導師と「諷儀僧」に対する「特別の仏教的行為」での言葉でした。

    「達親」の言葉の変化
    そこで、因みに、この「達親」の言葉は、実は現在は、「普通の言葉」に変化しているのです。
    それは、よく使われる “「達者」” と云う言葉がありますが、この語源と語意は「達親」にあって、上記の様に時代と共に、「達士」に変わり、「達者」に変わり、”「達者」”の様に何時しか別の意味に変化していったのです。
    “あの人は何事にも達者だ“と云う風に使われる様に成りました。
    変化した原因は、「達親」の「伝統的な諷誦」にあって、この「仏教行為」の、“暗誦した経文を声をあげて詠む事“から、人の前で僧の様に、 ”匠に朗々と歌ったり演説したり説法を講ずる者“を「達・者」(匠)と呼ぶように成ったのです。
    そして、その「諷誦」を「法施」に見立てて、その者への何がしかの「報酬」としてお金(財施)を紙に包み、”おひねり”として、つまり、「布施行為」(財施)を提供した行為から、現在の意味に変化していったのです。

    「達親」は、この「達者」の「達」の「匠」(たくみ)の意味と、「親」→「士」→「者」(導く者・導師・僧)の意味の「組合語」と成るのです。
    そもそも、「親」(しん)の “おや“は、本来の語意はこの「士」の「導く者」の意から来ています。
    この「組合語」が、この「仏教的行為・慣習」を「達親」と呼ぶ様になったのです。
    口辺の有無は、“暗誦した経文を声をあげて詠む事”から来ています。
    (口辺の無い昔の仏教書物もあります。室町期中期以降)
    この様に、「言葉の変化」には、一つのが定型があり、取り分け、「仏教用語」が一般化したものには次ぎの様な規則性を持っています。

    言葉の「4変遷パターン」
    特別な階級に使われた言葉 -「特別な階級層の仏法作法」 -「原語」 -「奈良期から平安期」
    武士階級に使われた言葉  -「上級武家層の習慣」      -「士」  -「鎌倉期から室町期中期」
    富裕層に使われた言葉    -「中級武士と富裕層の習慣」  -「士・者」-「室町後期から江戸初期」
    庶民に使われた言葉     -「庶民層の習慣」         -「者」  -「江戸期中期から明治期初期」
    この様に:、「仏教原語」から「・・士」−「・・者」に一般化して変遷したものが多いのは、「時代の変化」を顕著に伝えています。

    「青木氏の仕来り言葉の一般化」
    さて、そこで、この「達親」が、庶民の中に「達士」に成り、「達者」と云う言葉に成り、に変化したと云う事は、この「密教の言葉」の「達親」が庶民の中に受け入れられる程の「言葉の力」を持っていた事を示します。
    本来の言葉は「古代密教浄土宗」の「慣習、仕来り、掟」として継承する「青木氏」に依って細々と引き継がれている中で、一方では「高級武士階級」に引き継がれた「顕教の浄土宗」の中にもこの「習慣と仕来り」が引き継がれていて、それを江戸期の「高級武士階級」が「芸能文化」の中で、「諷誦」する「庶民の匠」に対しても「達士」と褒め讃えて経済的な支援や保護をした事から、更には、一般化した「庶民の技能」に対しても庶民がこれを真似て「達者」と云う言葉にして賛美して “おひねり“(財施)で支援した事から遣った言葉なのです。
    因みに、他に「青木氏」の「仕来りや慣習」が、「達親」と同じ様に遺されている言葉があるのです。
    次ぎに、青木氏の「達親」から起こる慣習として関わる言葉を紹介します。

    ・「御師」の浸透
    それは先ず一つ目です。「青木氏」は、“「御師」(おんし)と呼ばれていた”と「青木氏の守護神(神明社)」の処で論じましたが、この「御師」の言葉は、江戸時代には、江戸幕府のいろいろな「技術や技能」を取り締まる役人の親方の「総括の最高幹部」を「御師 おし(御士もある)」と呼んでいた事が幕府の記録に遺されています。
    この「総括の最高幹部」は「高級武士階級」でありましたから、これは「顕教浄土宗」の「慣習や仕来り」を引継ぎ、「顕教浄土宗の祖」の「古代密教浄土宗」の「青木氏」から学んでいた事を顕著に意味します。

    恐らくは、「八代将軍 吉宗」の時に、この呼称が導入されたと観られます。
    他の二人の兄弟に押しやられて、伊勢に流されて遠ざけられた吉宗は、幼少の頃、伊勢の「加納氏」と「青木氏」とが「親代わり」に成って育て、後に莫大な経済的支援をして「将軍の座」に押し上げたのですが、この時の経験を通して、この「御師システム」の「慣習と仕来り」を江戸に持ち込み採用したと考えられます。
    「2足の草鞋策」を採用していた「伊勢加納氏」(伊勢青木氏と何度も血縁関係を結んだ)は、吉宗の「お側用人」と成り、この「伊勢加納氏」と共に「伊勢青木氏」は、大名扱いの「布衣の着用」を許され、財政面から「享保の改革」と「紀州藩の藩政改革」を依頼されて行なったのです。
    この経緯から改革の基と成る「御師システム」が採用されて言葉が幕府のシステムの中に遺されたのです。

    更に、この「御師」の言葉には、次ぎの様な形で庶民の中に浸透しているのです。
    実は、「紀州の方言」には、純粋な「万葉言葉」が大変多く遺されているのですが、「万葉言葉」を研究する場合は、歴史研究者は「紀州の方言」を研究する事からはじめるのです。
    それは「万葉言葉」の「方言」の中には歴史を証明する内容の言葉が多く遺されているからなのです。
    そのひとつが、「紀州の方言」で、相手を最大限に尊敬して呼ぶ時は、“おんし 御師”と呼びます。
    (後に、”口辺の達親→達親→達士→達者”の様に、 ”御師→御士→御者 おんしゃ”に変化して庶民化した。)
    普通では“お前”に成る言葉ですが、平安時代の「万葉言葉」として、“お前”よりは、更に上の「尊敬の言葉」として、“おんし”と成るのです。(伊勢から南紀州を経由して北紀州間まで伝えられた)
    現在では、かなり田舎に行かなければ聞くことは出来ない方言ですが、昭和30年頃までは一般に使われていた方言です。

    この次ぎに上記した青木氏の宗家を意味する「福家」(ふけ)の言葉ですが、関西の江戸時代の言葉として使われていた言葉で、特に、商業関係の大店の店主に対して「福家」(ふけ)と云う言葉が使われていた事が判っています。
    この時代の殆どと云って好いほど大店は、「2足の草鞋策」の高級武士階級の「裏の顔」であったのです。
    これは、伊勢や信濃を中心として、甲斐や近江や美濃の青木氏が、「古代和紙」を殖産から販売までを大店として手がけていて、「2足の草鞋策」を採っていたし、「総合商社」をも経営していたのです。
    その為に、「賜姓族」として明治3年まで、その立場と家柄が維持されていた為に、「本家−分家」の区別を採らず、その呼称を青木氏は周囲から「福家」(ふけ)として呼称されていた事が判っています。
    その呼称の根拠は、大店から来るものなのか、上記した様に「仏教的呼称」から来るものかは未だ確定していませんが、恐らくは、その大元は「仏教的呼称」からまず浸透し、次ぎに商業で深く浸透したのではないかと観ています。
    これが、江戸時代の資料から判断すると、関西地域で一般の商業の大店の呼称に商業関係者に多く依って使われていた事が資料から観て判っています。
    「青木氏」に使われた事から「総宗本家」的な意味合いで、あらゆる階級に浸透して行った事から「商業」だけではなく、武士も含めた全体として指導的立場にある家のトップクラスの家に対してより敬意を表す総称として使われていたと観られます。
    「25氏の青木氏」と「361氏の青木氏族」を通じて、「5+4地域」と「24地域」の大きな媒体から、先ずは慣習として広く伝播して行ったと観られます。
    現在でも、関西の田舎の山村などには、昔の村の庄屋や名主や豪農方をこの様に呼んでいる様ですが、最早、この言葉も時間の問題で老齢化して消えてしまうでしょう。
    現在は確認出来ない状況になっています。
    大元は「仏教的呼称」からの浸透であった事から確認出来なくなっているのではないかと観られます。
    そのきっかけは明治維新の宗教改革と庶民化が原因していると考えられます。


    「達親」の言葉と「仕来り」とそれに伴う「慣習」は、「伊勢青木氏」に於いて明治35年頃まで遺されていたことが判っています。
    筆者の祖父と父から「達親」と「布施」の違いに付いて教わった事があり、伊勢では明治35年まで確かに「達親」であったと云う事から、「伊勢青木氏の菩提寺消失」の時期を境に家での伝統は消えたのです。
    従って、「2つの青木氏」に於いてもこの程度の頃まで継承されていた事が判ります。
    入間の「総宗本家の青木氏」の存在が今も確認されている事から、この「達親の仕来り」が未だ遺されている可能性が高い事が考えられます。
    関東各地の「菩提寺の西光寺」には、何がしかの記録がある事を期待したいのですが、「個人情報保護」で研究はこれ以上難しくなっています。

    (全国の「西光寺の研究中」では「3つの種類」」に分けられ、この内の一つが「菩提寺」と観られる。後日解れば研究結果を披露したい。)

    それだけに、筆者の「伊勢青木氏」に遺されているこの様な「青木氏の伝統」を記録として吐き出して遺して貴重な情報を広めて置きたいと考えます。

    この様に「達親」の様に、「青木氏」の「仕来りの言葉」が、慣習化して一般化した言葉と成っている事の意味は大きいと思います。
    「青木氏」が「民衆との達親の繋がり」をこの様な「仕来り」を通じて持っていて、その「仕来り」から興るあらゆる「慣習」が民衆に浸透していた事の証明にも成ります。
    又、逆に「御師さま」や「氏上さま」と呼ばれていた様に、「青木氏」を民衆が親しく見ていた事をも意味します。
    江戸末期や明治初期9年頃までに起こった「民衆の一揆や暴動」には、その裏に「伊勢や信濃の連携」や「近江」や「越前」や「甲斐」の「大店の青木氏」が経済的に関わっていた事実から、「民衆との達親との繋がり」は「青木氏の慣習と仕来り」を通じての証にも成り、これらの「言葉−慣習」で民衆にも引き継がれていた事にも成ります。
    この様な「青木氏の仕来りと慣習」が、何らかの形で社会に深く浸透していた事が頷けます。
    この様に、「青木氏の言葉」の研究は、「青木氏の伝統」を明らかにする事が出来るのです。

    「達親」、「布儀」、「福家」、「御師」、「「諷儀」、等の「青木氏の言葉」の研究と、それに伴う「慣習、仕来り、掟」の研究を通じて、何か心がほのかに温かくなる気がします。

    「青木氏の伝統」-「達親」

    終わり


      [No.300] Re:787ジャンボ機に思う事(技術論)−5
         投稿者:福管理人   投稿日:2013/07/02(Tue) 15:45:42  

    > > > > 787ジャンボ機に思う事(技術論)


    >「磁場」(常磁体)
    リチウムは上記した様に「常磁体」である。依って「リチウムイオン」は電位を持っている。
    当然に地球上にあるものは「電位」を持っている。従って、「地球の引力」に引っ張られて宇宙に飛んで行かない。地球を「−体」で、その上の物質は「+体」と成る。電位で引き付けられている。
    地球は、「1570K/Hの高速」で回転している。ほぼ「音速マッハ1強」で回転している。
    この回転に振り回されて宇宙に飛んでいかない程度に「地球の引力」(±)に引っ張られているのであるが、この「引力」は「地球の磁力」に依って構成されている。
    従って、地球上に存在する全てのものとの間には「磁場・磁界」が働く。
    当然に、空に飛び立つ「航空機」は、この「引力・磁場・磁界」に逆らって飛び上がる事に成るので、本体にはそれに相当する電位が急激に発生する。
    簡単に云うと、地球上に存在する全ての物体は、地球から離れている距離だけの電位を持つ事になり、地球の上に立つ人間は、凡そその背の高さの電位が、「脳幹の部位」に負荷する電位を持つのである。故に、「脳神経」の「シナプス」はNaイオンのアルカリ性の液の中を電子が飛ぶのである。
    そもそも人間の体内はこの「電気回路の原理」で動いているのだ。それは全て「±の電位反応」に従っている。
    当然にも「航空機」にも地上から離れる程度に電位を持ち、当然に上空10KMに相当するところで、その物質に比例して「電位」を持ち、「電位」がある事は大小如何に問わず「磁力・磁場・磁界」を持つ。
    航空機本体には「相当な電位」を持つことから、「イオン」はこの電位に影響を受ける。
    そもそも、地球は北極と南極を電極として、この間に地軸が発生する。この地軸に沿って地軸に平行に「磁波線」が両極に起る。この「磁波線の束」が地球全体の周囲360度をこの「線束」で覆われている。
    当然に、この「磁場線」に逆らって上空に上がれば、それに相当する「逆の電位」が発生して「磁力線」を持つ事に成る。
    この時に、上空にある「イオン状態」のものは、従って、上空に上がると、地上にある時に比べて「イオンの活動」は高くなり、それに相当する「熱」が発生する。
    この必要以上の「熱」は、「充電量」に対して「抵抗要素」と成る。
    これは上記の「温度や振動」等とも連動する要素である。
    (ただ上空の温度−40℃に何らかの影響を受けるとすると磁場を持つ事で別原理が働く)
    何れにしても「イオン」は、「温度や湿度や振動や磁場」の主に「4つの環境条件」に依って影響を受けるが、上記した様に、その”「イオン」に与える影響”は、「何れも危険なもの」である事が判る。
    そもそも、「イオン」は「+イオン」と「−イオン」があるが、そこに「強い磁場」(常磁体)が存在すると、「電位」の持った「イオン」は、「磁場も電位」を持っているので夫々の極側に引っ張られる。
    この+極側の「リチウム酸化塩」には、「還元反応」>「酸化反応」に因ってイオンを発生させるが、このイオンが”自ら持つ磁場の影響を受ける”事に成る訳であるから、極性を間違えると相殺して「イオン発生量」は低下する。(+極タイプとー極タイプがあるが、「リチウムイオン電池」は「常磁性」を持つので+極タイプに成る。)
    因って、「リチウムイオン電池」の場合には、自らの「磁場の力」を利用して、極性を「+極側」にセットする事に成る。
    そうすると、先ず、自らの力で「還元反応」>「酸化反応」で、「−極側」との間で自らの持つ「電位電荷」に見合った「相対量」を発電するが、次ぎに、この「常磁体の磁場」は、更に「磁場の力」で「イオン発生」を相対量以上に活発化させる。
    この事で、”「相対量以上の電荷量」”が生まれ、この「相対量以上の電荷量」が「蓄電」と成り、「相対量」を生み出す「発電−供給」以外に、「電荷量」は「充電」と成って「電位」を補充する事に成る。
    そうしないと、このリチウムの「充電 発電 蓄電」の「3つの機能」は生まれない。

    そこで問題に成るのは、次ぎの「3つの条件」を考慮すると次ぎのように成る。
    (A) リチウムイオンの相対量の発電量分  発生量には最大は500サイクルの寿命を持っている。
    (B) 常磁体の磁場に因る蓄電の電荷量分 常磁体の磁性力にも寿命(ライフ)は起こる。
    (C) 上空と地球間で発生する電位変化分 上二つに与える低下影響分が発生する。

    (A)は、「標準状態」であり、その寿命は判るが、「上空の環境条件下」では「標準状態」よりは明らかに良くない。従って、「最小300サイクルと最大500サイクル」は共に低下する。
    (航空機の回路から要求される電気量に因っても変わるが、此処では不問とする。)
    これに(C)が影響して、更に「最小−最大」の「2つの寿命」は低下する。

    (A X%)−(C)=「300 500」× (Y%)
    [(A)−(C)]×(B Z%)=「実質の寿命」

    (A X%)は、「常温劣化」で「自然低下」が起こる。末期低下(U%)
    (B Z%)は、「自然低下」と共に(C)の影響で低下はより進む。
    (C Y%)は、電位変化はそのフライトの状況の「時間と回数」に影響する。

     ・「実質の寿命」の検証
    この「(A:X%)(B:Z%)(C:Y%)の影響の低下分」は、「最小300サイクル−最大500サイクル」を下げる事に成る。
    その程度はどの程度か、(X%+Y%+Z%)は、上記する「環境条件下テスト」をしなければ不明なので、解らないが、恐らくは、「学説論の数字」として、「最小300サイクル」と「最大500サイクル」の差があると云う事は、「サイクル差=200サイクル」が「標準状態」でも「30%の差」が起こる事を意味している。
    とすると、その「標準状態」よりより厳しい環境条件下では、「サイクルの低下分量」は30%超である事が云える。
    此処では、「30%」として観ると、「最小210サイクル−最大350サイクル」と読み込める。
    従って、これに「航空機」での「低下影響分(X%)=50サイクル」を考慮すると、「30%超以上」から、最大300サイクル」と見積もられる。
    (実際は300サイクルを切っている可能性が高いと観られる)

    ここで「危険と成る問題」は、「最大300サイクル時の直前の問題」である。

    「保存特性の弱点」の「2つの弱点」(「満の弱点」、「末期現象の弱点」)で論じた様に、この世の自然物に全て起こる「末期現象」(結晶や細胞を有するものは寿命の手前に「急進性劣化」が起こる法則)の怖さから、「300サイクル時の直前」時に、この「危険な弱点」に思いがけなく襲われると云う事に成る。この分の低下分量も読み込まなくてはならない。
    従って、此処では、「最大300サイクル」と算定したが、そうすると「最小160サイクル」であるとすると、これより更に下がる事に成る。
    問題は、どれを「交換期」とするかに因って「対処の仕方」は大きく異なる。
    「最大300サイクル」を「交換期」と定めたとすると、「最小160サイクル」以下で「実際の寿命」が来るのだから、これでは”事故に繋がる事に成り得る危険性”を極めて秘めている事に成る。
    況して、学説論の「標準500サイクル」を交換期と定めた場合から判断すれば完全に事故に成る。

    特に、更に、この「満の弱点」+「末期現象 (U%=10〜15%)(急進性破壊)」を捉えたとすると、「最小140サイクル程度」と成り、この時には、既に「破壊現象」が潜行して始まっている事に成る。

    標準状態の「最小300サイクル」で交換期と定めていた場合は、使い出してから50%(1/2)ポイントで
    標準状態の「最大500サイクル」で交換期と定めていた場合は、使い出してから25%(1/4)ポイントで
    検証値では「最大300サイクル」で交換機と定めていた場合は、使い出してから45% ポイントで
    検証値では「最小160サイクル」で交換期と定めていた場合は、使い出してから80% ポイントで
    末期現象で「最小140サイクル」で交換期と定めていた場合は、使い出してから(U%≒10〜15%)で

    「充電 発電 蓄電」≠「1%仕様」→「回路要求量>供給量」→「発熱・過熱」→「発火・破壊」

    以上の・「破壊プロセス式」の問題を起こし始める事に成る。

    「リチウムイオン電池」では、その特性から考えて、この「5つの交換期」が考えられる。
    「最大500サイクル」では、物理計技術者以外は、到底、「破壊原因」の「発想」には至らない事に成るだろう。然し、この寿命の検証から観て、少なくとも、”「破壊」が起こり進行している可能性”が極めて高い事が云えるのだ。
    その点では、「フライト距離」の短い事は、その「充電回数サイクル」が多く成り、欠陥が露出して来る危険度は増す事に成る。その「フライト距離」として見れば「国内便」となる事が論理的に考えられる。
    その点で末尾に示す「欠陥のトラブル」が、「国内便」に集中している事はそれを物語るものである。
    むしろ、「長距離便」の「海外便」は、「満と過の現象」や「蓄熱」等の特性(内部の弱点特性)から観て、「寿命の点」では”好ましい事”が逆に云える事に成る。
    (海外に多い「特定環境条件」に影響の受け易い「マルテンサイト現象」や「デンドライト現象」や「静電気現象」や「外部ノイズ現象」は逆に起こりやい易い事に成る。)
    上記した数々の「リチウムイオン電池の弱点」から観ても、「海外便」は、長く一定の状態で保っている事から考えると、下記に論じるが、”好ましいフライトパターン”と云える。(静電気等は別)

    (だから「環境条件下テスト」で幾つかの「フライトパターン」に対して、現実に何処が現実的なポイントと成るかのデータの把握が必要であるのだ。)

    何故ならば、そもそも全ての鉱物の「寿命サイクル」は上記した様に、「微分係数の比例直線」で寿命には至らないのだ。
    「緩い積分係数を持つ放物線」のSパターの「下降曲線」で寿命に至るのだ。
    これは上記した様に、「細胞や結晶を有する物質の自然の法則」である。この「リチウムイオン電池」も例外ではない。
    寿命末端までの少し手前(85%ポイント)からはこの「下降曲線」を示すからである。
    この「下降曲線」の開始点(変曲点)からは、上記の”「末期現象」(急進性破壊)のポイント”でもあるので、この時には、既に、「回路要求量」>「リチウムイオンの発電供給量」の現象が次第に起こっている筈である。直線では無く放物線である為に、「回路要求量」に見合うだけの「発電量」は低下していてバランスは取れていない筈なのであり、当然に、「電位制御 1%仕様」も到底無理な状況に成っている。
    そうすると、何が起こるかである。上記した様に、つまり、「下降曲線の領域」からは「発熱・過熱現象」が起こり始めて居て、「劣化の蓄積と蓄熱」が続き、何時しか「発火・破壊の現象」が「寿命点」に入る前に突然に襲う事に成る。
    この「下降線の始点」(末期現象ポイント)即ち、「急進性破壊のポイント領域」から末端までは、当然に「1%仕様」は保たれていない事に成る。
    「1%仕様」が保たれなければ「発熱・過熱現象」へと陥ることに成る。

     ・「破壊プロセス式」
    「充電 発電 蓄電」≠「1%仕様」→「回路要求量>供給量」→「発熱・過熱」→「発火・破壊」
    以上のプロセスは進む事に成る。

    つまり危険な事は、整備関係者がこの「比例直線の考え方」で、”「寿命点」まで「3つの機能」が正常な状態で働いている”と思い込んでいると大変な事に成る。
    この「5つの寿命ポイント」のどれを「交換期」と定めているかによって、「上記のプロセス」の発生はより危険度を増す事に成る。
    (「4つの装置」が「個別発注」である事でもあり、況して、初めての事であるのでこの寿命についての「専門的な知識」は「米国787企業」にはないと考えられる。)

    続けて発生している「十数件の事故」の内容を考察すると、この”「思いがけない弱点の現象」にも襲われた”と考えられなくも無い。
    ”未だ、寿命範囲だ”としていたが、”実態は300サイクルを切っていた”事による事故も含んでいる様子である。

    上記の事も含めて、どの様に検証しても、これ等の予想出来る「環境条条件下テスト」をチャンバーの中で再現して「データ把握と対策」が必要である。
    故に、日本ではこの「環境条件下テスト」を行うのである。それはあくまでも単体は兎も角も ”ユニットによるテストの必要性”を主張している。
    参考に、日本では、スポーツ界でも、「環境条件とスポーツ」の研究の為に、この「チャンバー」が使われている状況でもある。

    ・「環境条件下テストの概容」
    そこで、では、”どの様なテストをするか”ではある。一応概容を述べる。
    これを解決する為に、その「4つの装置」とそれに使われている「電気回路」の「プリント基板」「ソフト基盤」を「特殊な装置(チャンバー)」にそっくり入れて、”起こり得る地球上のあらゆる環境条件”に対して、先ずは、”設計上で設定した仕様”に、”どのような事が起るか” を先ずテストする。
    予想もしない様なかなりの問題が「質と量の点」で起こる。
    特に「航空機」となると、その「環境条件の変化する範囲」が特に広く、それも考えられない普通ではない「速さ」で「急激」な変化を起す。
    その「変異量」をここでは、「155M/S」程度と定める。
    先ず、この事は事前に設計予測する事は不可能であるので、このテストの基準で再現してデータを取得する事に成る。そして、対策を講ずる事に成る。
    そのテストの大まかな内容を次ぎに述べる。
    これは先ず、”夫々の基盤単体に、どのような事が起こるか”で行う。
    そして、次ぎに、この「環境条件」(下記例)に対して、夫々の環境のある一定の「過酷条件」(上記 地球上で起こっている条件の10%加算値 :プレッシャーテスト)を加えて行う。
    これに対しても耐えられるか単体で行いながら悪い所を直して行く。

     ・環境条件類
    (「温度」と「湿度」と「気圧」と「風」と「静電気」と「速さ」と「振動」と「磁場」と「空気清浄度」)等
     ・電気条件類
    (電圧電流、電源ノイズ、外部ノイズ)等
     ・部品条件類
    (部品の特性)等 「リチウムイオン電池」に弱点を持つ

    上記の様な「数種の環境条件の組み合わせ」の「マトリクスチャート」を作成する事で行う。
    中には、特別にその使用目的に依っては、「化学性等」を加味する事もある。
    この場合は、「温度と湿度」がベースに成る。
    何故ならば、後の項目類はこの2つ(温度と湿度)をベースに大きく左右され、顕著に表れる事が物理的に判断できるし、その知識は判っている。
    「航空機」の場合は、「環境変化の速さ」も然る殊ながら、この「試験項目類の条件」がすべて大きく影響する事が考えられる。(実は筆者には経験がある 上記)
    次ぎに、この通常の「環境条件下」と「過酷条件下」で「磁場・磁界」に影響する「静電気」等の自然現象を再現してそれに対してど様な事が起るか調べる。
    何れのプロセスも回路修正をし仕直しながら一つづつ前に進める。
    (設計段階での正しさを確認しての後の事であるので ”直す” と云う作業は容易ではない。)

    そもそも「電気回路」と云うものは、回路の「相互間のバランス」を取って出来ていて、それを「正回路」としてまず設定する。
    従って、この”正回路を変える”と云う事は、「准回路」に”対策の為に換える”と云う事に成るので、全体の回路にも大きな影響を及ぼす。(回路設計者が立ち会う)
    当然、次ぎの「准回路」に換えなければ「環境条件」に耐えられないのであるから、「バランス」は崩れるので、1つ上の次元の「バランス」に持ち上げなくては成らなく成る事を意味する。
    当然に、この「バランス」はそれだけで「微妙なバランス」で成立つ事になる。
    この「磁場・磁界」と「静電気」や「サージ」等で起す問題は、「高温の過酷条件」と「低温の過酷条件」とに依って「問題の特性」が異なるので厄介である。
    「高温」と「低温」はものに与える違いは、一般には”「温度」が違うだけ”と思われがちであるが、ところが、「高温」の、「低温」の”ある「温度域」”(特定温度域)があって、そこの域を超えると、物に与える違いは異なるのだ。
    ”別の現象が現れる”と云っても過言ではない。特に、鉱物ではこの現象が現れやすい。
    (上記した様に、繊細で敏感な「結晶や細胞」を有するものは、”ある温度域 (特定温度域)”を境に変質する特質を持っている。)
    従って、「高温」で直しても「低温」で上手く行くとは限らない。この逆も起る。
    この途方もない「繰り返し」と「組み合わせ」で「回路修正」を行う事に成る。
    当然に、「対策部品」は増え「コスト」は上がる。(設計者は最も嫌がる)

    ところが、ここにもう一つ”厄介な環境変化”がある。
    それは、”ある条件からある条件に環境が急激に変化を起こす事”である。
    それには、次ぎの2つの変化がある。
    (1) 「普通の環境変化」
    (2) 「苛酷な環境変化」
    以上の「2つの急激に起る変化」とがある。

    地上では、シベリヤ等の極寒の地や砂漠地は、この様な環境を気候学的に持っている。
    ところが何処でもこの変化を常に起こすものがある。
    自動車や大型の製品には、「寒冷地仕様」と云うものがあって寒冷に関する特別な設計をする。
    これを設計するには「環境条件下テスト」を実行して、”起こり得る欠陥”を把握して対策を講ずる。
    例えば、自動車ではブレーキに致命的な欠陥を及ぼすので特別に対策を講じて作られる。
    ポンプにしても、油にしても、部品と部品の勘合にしても、エンジンにしても、全て異なってくるのだ。
    勿論、「高温地仕様」も同然である。(筆者はこの2つの職域に関わった経験を持つ)

    それは、”地上と上空を行き交う「航空機」”は、「2つの仕様」に関わるがどちらかと云うと、経験談からすると「寒冷地仕様」の方に傾くだろう。
    これは、どのテストよりも「最大の難関」であり、一度はテストをするが多くはギブアップする事が多い。
    確かに、この”「急激な変化」”は使用環境の中では間違い無く発生する。

    (世界中の環境条件の過酷性を選択して再現テストする。 この問題は製品輸送中にも起こるし、稼動中にも起こる極めて厄介な現象である。設計者は殆ど考慮に入れていない。テスト後の結果に求める。)

    「結露現象」や「製品の機械的な歪み」や「亀裂」や「予想も付かない温度落差の品質変化」や「応力歪み現象」等の「厄介な現象」が起こる。
    そもそも、鉱物が、”その速さに対応する性質”を持ちえていない事に因る。
    然し、その現象を起こす地域は限られているので、「確率の低さ」を観て、普通の地上で使う器機は、直すか直さないかの判断をする。
    然し、「航空機」は別である。どんな地域でもどんな環境条件下でも飛び交う。
    況して、この環境から地上に降りて来る現象である。温度、湿度、気圧、速度は急激変化するし、これはその余りの「速度の差」で、”相乗効果を起す難解な現象”でもある。
    この速さで「気圧」が変化すれば、「温度、湿度」も連動して変化するし、これに「速度の変化」が加わるのでよりこの現象は大きく成る。「航空機の変化」は、自然の「環境条件が持つ順応する変化」を遥かに超えている。
    中でも、特に「電気部品」は、上記する鉱物であるから、「温度の変化」を中心にして「特性レベル」が変化する。
    当然に、”設計でバランスを採っていた”のに、この「特性」が崩れれば回路は設計通りに動かなく成る。
    ある程度の「特性の変化」は考慮して、”変化の一定の範囲”で動作させられる様に、「可変抵抗や可変コンデンサ等」で範囲を設定して対応する。然し、自動ではない。
    これは「直流回路の宿命」で、特に「デジタル」では、この「設定」が、特に「急激環境変化」には対応出来ない事が多いのである。
    何せ、「温度、湿度、気圧、速度」の連動作用が働けば、この組み合わせでも気の遠く成る組み合わせの条件(マトリックスチャート)が生まれる。
    到底、設計段階では想定して対応出来ない。普通はこのテストに頼る事に成る。
    これはあくまでも「ソフト基盤」「プリント基板」の回路間の問題である。
    「ハード回路」は、概ね予測できるし部品の耐圧で逃げられる。

    ”普通では有り得ない環境”の「急激に変化すると云う要素」はかなり難解で、それを再現出来る高度な「専用チャンバー」を使う。
    経験上、この「急激な変化」に依って起る変化は、先ず解決は、最大限の「部品対応策」で処理するが、「機械的な対策」を混じえなくては困難である。
    そして、その「急激な変化」が回路に及ぼす影響を調べる。
    問題が起これば、直ぐに回路変更して、変更した事に対して、”別の問題が出ないか”を確認する。
    然し、この過程で直す事で逆に問題を大きくしてしまう危険を持っている。
    「確認−対策−修正」のこの繰り返しで少しづつ前に進める。膨大な日数を要する。
    これ等のテストには色々なセンサーの付いた計測器機をセットして変化を調べる。

    (「計測器機」に「正回路」を先ず記憶させて、実際テストで動作した回路との間の違いを調べる「チェッカー器機」がある。これで ”何処にどの様な違う現象が起ったのか”を確認する機器である。
    この繰り返しのテストを行う。)

    それを先ずは、一つのユニットの単体で行う。
    これをクリヤーした段階で、今度はシステムのユニットで同じ事を行う。ユニットが終われば製品で行う。製品は大きい場合は、「必要な部位」を再現して行う事が多い。
    (チャンバーには大型−小型の種々がある)
    「航空機」は必然的に必要な部位だけを取り込んで行う事に成る。
    実機は100%危険であるのでこの「環境条件下テスト」の段階では行わない。

    この「4つの装置」が、この段階がメーカーが別に成っている事からも出来ないでいると考えられる。
    ”どこのメーカーがどのように責任を採るか”、”何処のメーカーが主因であるのか”を決めつける事は出来ない事が起る。そもそも、この様なテストを行えて対策を講じる事が出来る技術者が各メーカーには居ない筈で、その技術者は2種の専門域の技術者が必要である。
    先ず、物理系技術者で電気回路に精通している者、電気技術者で物理に精通している技術者
    この2種の技術者の共同の作業と成る。
    この電気技術者にはそのプリント基板を設計した本人が行わなければ先ず無理である。
    そうでなければ逆に変な対策をすると問題を大きくして仕舞い迷宮入りする.
    何故ならば、回路には色々な仔細な設計図に書きこんでいない”思惑”と云うものが組み込まれているからであり、テストに依ってこの様な「思惑部分」が事更に左右する事が多いからである。
    そもそも、この様なチャンバーを持っているメーカーは少ないし、この領域は日本の独断場であり、殆どは日本に集中している。技量や専門知識の取得レベルなどメーカー別に異なっていれば話し合いは尽かない。
    依って、この「チャンバー」がないと環境の違う国にも販売できると云う事は不可能である。
    故に、「日本の器機」は優れているのである。当然に、海外にはこの様なテストを行える専門の技術者は少ないのである。応用物理学はノーベル賞の取得でも判るように「日本の独断場」である。
    先ず、上記した様に、”技術・品質に関する概念”の「根本的な違い」もあり、「共同テスト」は現実には無理である。
    上記で論じた様な、専門的で広範囲な物理知識を駆使して、その現象が起こらないか等に注意を払いながら行う。
    多分、この物理知識とそれらから得られた「経験識・経験値・経験理論」から「テストの要約」も行いながら進める。
    マトリックスチャートを全て行うには限界もあり、「経験識・経験値・経験理論」が大きく工程に左右する。

    この様な、「テスト要約や工程」の問題も解決して行くには日本企業が請け負う必要が当初から存在していた筈で、自動車のハイブリッドやEV車でも既にん代に成っていて経験している事でもあり、国連の輸送基準でも「振動熱」による勧告もされている事でもあり、この事を配慮すれば充分に考えられた筈である。

    >・787の事故の検証
    ここで、然し、この起った複数トラブルに対する共通項がある。

    2011/11のデモフライトから納入まで6ケ月〜10ケ月と観て、計算すると次ぎの様に成る。
    成田−ボストン間の周航(4/22)から事故までの間は片道で「1サイクルの充電」と成る。
    そうすると、ロング期間のフライトと成り、事故まで、「充電」(「満充電」は弱点)サイクルは次ぎのように成る。
    (6.0〜8.0ケ月)×30日=180〜240サイクル 
    これに納入・試験飛行・整備・訓練等の準備期間を2月を考慮しても、
    (8.0〜10.0ケ月)×30日=240〜300サイクル

    宮崎−東京間の周航は2往復で「1サイクルの充電」と成る。
    宮崎−東京間の周航(9/21)から事故までは、
    (2.5〜3.5ケ月)×30日=75〜105サイクル
    これに納入・試験飛行・整備・訓練等の準備期間を6月を考慮しても、
    (8.5〜9.5ケ月)×30日=250〜285サイクル

    この数値から考えると、明らかに、 「最小300サイクル−最大500サイクル」以下で、
    この差の30%比を考慮しても   「最小210サイクル−最大350サイクル」以下で、
    上記のABCの3つの状況を考慮しも「最小160サイクル−最大300サイクル」の中にある。

    「ボストンルート」と「宮崎ルート」とには「フライト条件」には、次ぎの要素が異なる。
    上記で論じた様に、「テイクオフとランディング」に因る「フライト条件の変化」とその「回数」と、それに伴う「環境条件の変化」とその「回数」が異なるから、それに因る「充電サイクル」や「寿命の低下」は異なる。
    従って、「宮崎ルーツ」はこの「変化の回数」が高い事から「ボストンルート」よりは影響を受ける事に成る。
    「ボストンルーツ」は、デモフライトから周航まで約6月、納入から準備期間を取れる日数は2月程度しかなかった計算に成る。
    「宮崎ルーツ」は、デモフライトから周航まで約10月、納入から準備期間を取れる日数は6月程度しかなかった計算に成る。
    どの様に、情報を検索しても配慮に入れても、サイクルを押し上げる等の情報は見つからない。
    従って、マイナス要因の方が多い為に、どう見積もっても下記の中に来る。

    上記の「ABCの5状況」の ”「最小160サイクル−最大300サイクル」” の中にある。

    「最小140サイクル」から観ると、事故直前には、既に、寿命の領域に既に入っていて、上記した「弱点の病原」は進行していた事が云える。上記の「末期現象期の入り口」に入っていた事が云える。
    上記の論じた「危険」が現実に起こっていた事を物語る証拠でもある。
    但し、これだけでは納得し難いところがあって、「事故内容」を専門的に推理しても、上記した次ぎの「2つの弱点」が少なくとも起こっていた事が判る。

    (1)「低温−低湿条件下」の「特定条件」での「静電気の問題」
    (2)「リチウムイオン電池」の「弱点の問題」

    >・「常温劣化」
    さて、「リチウムイオン電池」の「内側の弱点」に付いて、未だ ”気になる弱点”がある。
    それは、上記に再三述べた様に、「アルカリ金属の宿命」とも云える特質である ”敏感で不安定な金属である” と云う事から起こる ”「常温劣化」”の特質である。

    どうしても、”この「地球上」であらゆる「内外の環境」に対して、「絶対的な安定」を保って置かなければ成らない”と云う事で、保たれていれば、この宿命は「利点」に向くし、保たれなければ「欠点」に向かうのである。
    世の常として、”人はこの「利点」を生かし、この「欠点」を補う”とする。故に、人類はこれを克服し「文明」と云うものを造り出し、「科学の近代化」をここに生み出した。

    当然に、この「利点」には上記の様に、「リスク」を伴う。この「利点」が大きければ大きいほどに「リスク」もまた大きい。この「リスク」を克服してこそ「文明」は前に進む。
    「利点」>「リスク」=「文明」の関係にある。
    少なくとも、日本は大化期からこの関係式に積極的に挑戦して来た。”「日本の概念」”と云うものを作り出して来た。
    その「リード役」を「氏の責務と宿命」として、我々「青木一族」は「物造り」の「氏上さま、御師さま」と呼ばれて来た。「皇祖神−子神−祖先神−神明社」の「豊受大神」を祭祀し守護神として来た。
    その立場から、「787リチウムイオン電池の本論」は、時代の「利点」>「リスク」=「文明」の関係式論の「重要な端緒」と成っていると認識している。
    故に、この「787のリスクの克服」に「平成の青木氏の一人」として、貢献したいと考えてここにクドクドと論じている。
    この「リスク」の一つとして成っている「欠点」(弱点)を「安定化」と云う手段で克服しようとしている。
    然し、如何せんその「完全な安全」は未だ確保されていない。
    上記で論じた様に、「内外の数々の弱点」を持っていて、これに対策を採ってきたが、残されているのは、「環境条件の温度」に対する「安定」が不充分であって、その為に、「不安定」から来る「常温劣化」の弱点は解決されていない。
    つまり、この「常温劣化の現象」は、「内側からの弱点」として浮き上がって来ている事に成る。
    まさに「人間」で云えば「細胞の老化」であって、「鉱物」で云えば「結晶の老化・劣化」なのである。
    上記した様に、この「劣化・老化の弱点」は、この世の「結晶と細胞」に因って構成されている物質に課せられた「宿命」であって、”「ES細胞」や「IPS細胞」の挑戦” と同じであって、まさに”技術のIPS細胞”とも云えるものと考えられる。

    この「常温劣化」は、即ち、「常温老化」なのであって、「アルカリ金属の寿命」を縮める「最大の要因」であり、「最大の弱点」でもある。この「787問題」にも、日本が率先して「IPSの幹細胞」成るものを見つけ出す事が必要なのである。
    今、その研究が「幹細胞」に当たる「リチウム酸化塩」と云うところで研究されているが、この「リチウム酸化塩」が「内外の環境条件」に絶え得るものを見けられれば解決するが、その前に、この「内外の環境条件」を何とかしなくては成らないのである。
    「リチウム本体の研究」と共に、その「本体を取り巻く環境条件」に対しての「緩和策」が見つからないかもしれないが、研究する必要があるのだ。
    (”原因不明”では「将来のシステム」として放置できる話ではない。)
    それが「環境条件下テスト」であり、このテストに因って、この「緩和策」が講じられるのである。
    上記した様に、あらゆる「弱点欠陥類」は、この「温度」に直接間接に関わらず起因しているのだ。
    「常温劣化・老化」の通り、”「常温安定」” で無くては「老化」が起こり「寿命」は縮まるのだ。
    然し、この「世の中の環境条件」には、”「常温安定」は有り得ない”のだ。むしろ、”適度に変化する事”に因って「自然環境の理」は保たれているのだ。
    むしろ、生態学的に、”「結晶や細胞」に因って構成されている「生物、鉱物」に関わらず、「常温安定」はあってはならない環境条件”でもある。
    では、季節変化するのではなく、常時、大きな落差を以って変化する航空機に使用する「リチウム」としてはどうするかである。「結晶の劣化・老化」をどの様にするか、「結晶の幹細胞」を見つけるか、「緩和策」を見つけるかに依るかである。
    「結晶の幹細胞」(プラトン)に成り得るものが見つかってはいるが、未だ「IPS実用化」までには至っていない。然し、「緩和策」は今でも可能である。
    この「緩和策」は、何も「リチウムの問題」だけではなく、本論の「4つの装置」の「3つの機能」を維持している上記した「主要4つのパーツ」にも云える事である。例外なく「強弱、安定性」は別としても、この「常温劣化・老化の弱点」が存在しているのである。
    「4つのパーツ」では、「強弱性と安定性」は問題ないが、「使用頻度」と「環境条件」では「劣化・老化」が起こり、凡そ、15年かせいぜい20年で使用に耐えられなくなって「バーニング」を起こすのである。
    主に繰り返して使用される事に因り「応力」が溜まって起こる「応力破壊」が主因である。

    殊ほど左様に、「リチウム」は「強弱性と安定性」が悪く、尚且つ、その特性上、「常温劣化」は ”比べ物に成らない程に激しい”と云うことの特性を持っているのだ。
    故に、上記で論じた「寿命」が、「航空機」で考察すれば、「常温劣化」に襲われれば、「最悪140サイクル−最高300サイクル」として1年弱と観ると、1/20程度と成ってしまう事に成る。

    上記で論じた様に、総じて「内外の弱点要因」の「緩和策」を講ずれば、あらゆる「弱点欠陥類」は、この「温度」に直接間接に関わらず起因しているのだ。
    「常温劣化・老化」の通り「常温安定」で無くては「老化」が起こり「寿命」は縮まるのだ。
    然し、何度も云うが、この「世の中の環境条件」には、”「常温安定」は有り得ない”のだ。
    むしろ、生態学的に、”「結晶や細胞」に因って構成されている「生物、鉱物」に関わらず、あってはならない環境条件”でもある限り、つまり、「常温安定」は「進化」を齎さないのだ。

    兎も角も、「標準状態」にして置く事が最善策ではあるが、地上の自動車とは「環境条件の特性」が逆の方向にある「航空機」では、上記した様に無理である。(航空機の環境:155S/Mの数字がそれを物語る)
    その為にも、それに“近い状態を作り出す事”に成るが、その策は「環境条件下テスト」以外には無い。
    それには“「4つの装置のユニット」による総合テスト“をこのノウハウのある日本側が請け負うこと以外には無い事を意味する。(「ノウハウ」とそれを支える「固有の概念」が真実を引き出す。)

    (日本の品質に対する飽くなき概念がこれを解決する。人類の進化の「IPS細胞」はそれを証明している。世界の「技術の進化」を成す「リチウムイオン電池」として放置してはならない関所である)

    上記した数々の「内外の弱点」と共に、この「弱点」と少し異なる「寿命性」とも云える、この他の鉱物とは比べ物に成らない「常温劣化・老化」の “速さと敏感さと安定さの克服“ に ”技術の道”を切り開くべきである。
    上記に紹介したある「航空機上の製品開発」の筆者の経験から観ても、“やってやれない範囲の事ではない”と考えられる。
    筆者は別に今でも日本が誇る高速列車の「ブレーキの開発」{投稿 :中国の新幹線脱線事故(潜在的欠陥) }にも携わった事もある事から “日本の技術と日本人の概念” から不可能ではないと考えられている。
    その為にも、「物造りの御師の氏の青木氏」として少しでも役に立つ事を願って、ここに「787問題」に付いて敢えて論じた。

    787周航の経緯
    2011年
    11月1日  デモフライト  

    2012年
    4月22日  成田−ボストン間就航
    9月21日  宮崎−東京間 記念飛行
    10月28日 宮崎−東京 定期便周航

    2013年
    1月08日  日航機 米・ボストンのローガン国際空港で、駐機中の日航機の機体内部から出火
      09日  日航機 同空港で、地上走行中の日航機の主翼から燃料漏れ
      09日  全日空機 羽田発山口宇部行きの全日空機でブレーキに不具合
      11日  全日空機 羽田発松山行きの全日空機で操縦席窓にひびが入るトラブル
      11日  全日空機 宮崎空港で離陸前点検中の全日空機の左エンジンからオイル漏れ
      13日  日航機 成田空港で、米国ボストンの空港で燃料漏れを起こした機体が、整備作業中に燃料漏れ
      16日 全日空機 山口宇部発羽田行きの全日空機で飛行中、操縦室内で異臭がしたため高松空港に緊急着陸。乗客129人と乗員8人が脱出用シューターで避難、乗客5人が軽傷

    再開後
    5月30日 テストフライトのドアに機密さに欠陥 異音
    6月01日 全日空 機体に異常音発生
      02日 バッテリー内外に気圧さ発生
      03日 バッテリー点検ミス発生
    6月08日 デジタル機器 異臭発生
    6月22日 故障不明 遅れ 原因不明




      [No.299] Re:787ジャンボ機に思う事(技術論)−4
         投稿者:福管理人   投稿日:2013/06/30(Sun) 07:26:08  

    > > > 787ジャンボ機に思う事(技術論)
    >

    >「常温窒化」の弱点
    「リチウムイオン」には、他にも気に成る特性があるので念の為に披露して置く。
    これは ”「航空機」ならではの影響する特性”となろう。
    上記の「数々の特性」が原因して、”何かのトラブルが起った”とする前提での特性の影響である。
    それは、乾いた空気中ではほとんど起こらないし、変化しないのだが、”水分や強い湿度がある”と「常温」でも、空気中の「窒素」と反応し「窒化リチウム (Li3N) 」と云う厄介なものを生ずるのだ。
    「窒化による発熱現象」のこれも「内側の弱点」である。
    「リチウムイオン電池」(充電−発電−蓄電)は、+極側に「リチウムのコバルト酸化物」を取り付けて、−極側の「グラファイト」に「リチウムイオン」を高分子の電解ゲルの中を飛ばすのだが、この+電極の「リチウムのコバルト酸化物」は、空気中の「窒素」と置き換わり「窒化リチウム」に変化するのだ。
    一般の方は ”何だ この窒化物とは 難しい事云うな”と云われる気がする。
    旅行する時には「787の航空機」に乗るのだから、我慢してお聴き願いたい。
    さて、「リチウム」と「コバルト」と「酸素」と反応して、+極側の「リチウムのコバルト酸化物」になるのだが、ところがこの「リチウム」はそのままでは空気中では使えないのである。
    従って、事前に酸化物にして安定させて使うのである。
    鉄等と違ってそのま侭では、「空気中の酸素」に酸化されて真っ赤な炎を出して燃え尽きる。学校の化学実験で「炎色反応」と云う事で経験した事があると思う。(入学試験にNaは黄色、kは紫と出たあれである)
    であるから、この鉱物の中では、この「3つの鉱物」(アルカリ金属類)は非常に「反応力」が強いのである。酸性の反対の「アルカリ性」を示す。空気中では殆どは酸化されるが、この「3つの鉱物」は敏感で「反応力」が強いのに、逆のアルカリ性を持つと云う曲者なのだ。真に曲者なのだ。
    故に、鉱物中、”最も敏感な鉱物”とされるのだ。「リチウムの特性」で表示した「敏感な特性」を持っているのだ。この「リチウムイオン電池」はこの「敏感な特性」を利用して作った電池である。それだけに末尾の「常温劣化」でも論じるが、”極めて安定した環境下に管理維持して置かなくてはならない装置”であるのだ。

    +の電極の「リチウムのコバルト酸化物」は、「アルカリ性」を持つものを、逆の酸化物塩で安定させて電極として使う。その為には、一般にはアルゴンの不活性ガスの中に存在させるのである。或いは、空気中と完全密閉するかで使用するのである。非常に「内外の環境条件」を極めて安定させた状態で使用しなければ、敏感なだけに上記で論じてきた様に「弱点」に成るのだ。
    実際使うと成ると、そう云う訳にはいかないで、「環境条件」に左右される。それを何とか克服しようとしているのである。それが地上であるのならまだ何とかと云う事にもなるが、更に一段難解な「航空機」と云うものに挑戦していると云う事に成る。
    この「リチウムイオン電池」は「高分子ゲル」を入れた「外壁密閉型」である。
    それだけに、上記の様な「特質」で欠陥が発生して「密閉度」が低下すると、”常温でも窒化反応を起こす。”とある様に、+の電極の「リチウムのコバルト酸化物」に対して、何らかの欠陥で「密閉度」が低下した僅かな隙間から僅かに進入してきた「空気中の窒素」を捉えて、酸化物から元に戻そうとして、「反応力」が強い為に「還元反応」を起こすのである。
    所謂、「窒素」と還元反応してしまうのである。これが「窒化反応」である。
    つまり、「リチウムイオン電池」の中で、「酸化反応」と真逆の反対の「還元反応」を起こしていると云う厄介な電池である。
    (窒素は、酸素と異なり自らの積極的な反応力を持たない。不活性のアルゴンと同じく窒素ガスの中に保存しておけば反応は起こらないとする「保存剤」としても使用される。)

    それが、”「常温」(世界標準22℃)で起る”とあるが、上記に論じた様に、数々の「特質による欠陥」が発生した場合は、上記の様に、温度が「80℃−100℃」と成り得るから、「常温時の反応」どころではない。
    「窒化」が起こった時には、最早、「爆発反応」である。
    何も別に「80℃」までに成らなくても良いのだ。30℃や40℃でも充分な強い反応を起こすので良いのだ。通常正常な時に、上記の”弱点による欠陥”が秘かに発生している時に、見えないところでこの「窒化反応」が潜行している事に成るのだ。
    30℃や40℃は、「リチウムイオン電池」が正常に「充電−発電−蓄電」過程で起る「反応熱」である。
    「航空機」であれば、「−40℃ 0.2気圧」の「上空の環境下」ではこの「反応熱」も下がるが、ランディング過程では正常でもこの温度域に成るのだ。
    「上空で環境条件による特質欠陥」が発生したとして、それが初期現象であったとしても、その為に「密閉度」が僅かに低下したとしても、”窒化による発熱と還元反応”が負荷される。
    その事から30℃から40℃の正常な「反応熱1」に、この還元の「反応熱2」が加わり、温度は80℃近い温度まで到達する事は充分に考えられる。
    この「2つの熱」(反応熱1+反応熱2)は「蓄熱特性」により連動して、更に連鎖反応的に連続して上昇するので、上記した80℃、100℃は充分に有り得る。
    そうすると、”窒化によるトラブル”だけでは終わらず、「亀裂」が生じている事から、上記で論じた数々の「特性による欠陥」も連動して併発し、これに「リチウムイオン電池」の「充電−発電−蓄電」の「3つの能力」が破壊される結果、上記する「4つの装置」に関係する基盤関係も「充電−発電−蓄電」の「容量不足」などが起こり、上記で論じた数式論のプロセスが起こり、その容量を補おうとして回路に負荷が掛かり、「発熱・過熱の異常」を来して複合的に破壊に繋がる事になるのだ。

    そもそも「ソフト基盤」関係には抵抗やコンデンサーやトランスやコイルコアーやRチップ等の「発熱体」が多く使われていて、「異常」を来すとバランスを取ろうとして「ジュールの法則」(発熱量の法則)によって必要以上に働き、その結果、回路にも「発熱・過熱」を有する特性を持っている事になるのだ。
    これが「電気回路の癖」(特性)なのである。

    因って、放置しておけば「融点180℃」に達しなくても「使用限界点の100℃」にも達し、火災と成り得て、周囲の耐火性の低い物質のプラスティク等は溶融して発火する。
    (注意 ランディング中に787のトラブルが数件あった)

    そこで、この「窒化」では、どの様な事が起るかを論じて観ると納得出来る筈である。
    表面が窒化すると、「Li3N」の状態と成り、この結果、表面が硬くなり易い性質を持っていて、”外部の反応物とは遮断される。” つまり、安定化するのである。
    当然に、安定化するのは良いのだが、この事が起ると金属表面が安定化する為に、金属の表面部位の「イオン化」も起こり難く成る。「イオン化」ではこの「窒化による安定化」は適さない事に成る。
    つまり、「リチウムイオン電池」の効果は無く成る事が起ると云う事だ。
    これは偶然に起ると云う事では無く、この特徴をわざわざ利用した金属の表面を強くする為に「窒化処理」と云う熱処理もある位である。
    これには、この「窒化の特長」を使った「タフトライド」と「サイアナイド」と云う熱処理がある位である。
    この表面部位の「窒化リチウム」と「表面硬化」と「安定化」で、電極としての特質が極端に低下するのである。
    先ず、「窒化」が起こればアウトである。つまりは、その分”「充電−発電−蓄電」の「3つの能力」が低下する”と云う事だ。つまり、「リチウムイオン」が−側に向けて飛び難くなる事を意味する。
    この「窒化」と「表面硬化」は、電気的に「イオン化」を阻害する現象である。
    上記に論じた「リチウム」に関係する環境条件としては、上空に上がると「−40℃、0.2気圧」等に成るので、空地中から水分が放出されて「湿度」は”超レベルの低湿”に成る。
    この事から上記に「リチウム」に直接に影響する環境条件としては掲げてはいないが、但し、「航空機」のある一局面では、この影響が起るのである。それは、「ランディング」する時に起る。
    「−40℃、0.2気圧」の低湿状況が、「ランディング」により「155M/Sの速さ」で急激に常温常湿、又は高温高質に成る。

    ・「結露現象誘発」
    そうなると、「温度22℃と1気圧」が戻ると、空気中の水分が、上空で冷やされていた周囲の部品との境界に温度差が起こり、一挙に「結露現象」と成って現れる事が起る。
    そうすると、+側の電極がこの水分を吸収する事が起る。そして、この水分を吸収した電池内では上記した「デンドライト現象」も起こる。
    上記の「ソフト基盤関係」にも「水分の結露現象」が発生し、水分通じてリークして破壊が直ちに起こる。
    「リチウムイオン電池」が水分を吸収すれば、内部の電荷反応は低下する為に「充電−発電−蓄電」は低下させ、全電気回路が要求する絶対量との間にバランスが狂い「発熱・過熱現象」が続けて起こる。
    この「結露現象」は、「デンドライト現象」が繋がって起こり、この「デンドライト現象」は最も恐ろしいものだと論じたが、それに勝るとも劣らずこの「窒化現象」は収拾は付かない事を起こす。
    そこで、対策としては、「結露現象」の場合は全体を「空調」してシールドする以外に無いが、その空調の空気は上空では放出する事は出来ない。ランディング後のエンジン停止時にのみ可能と成る。
    又、シールドすれば、「放熱」は困難と成る。「空調」の駆動源は如何するのか、エンジンからハードで取る以外に無く成る。(787はこれが出来ない。)
    但し、この場合は、「4つの装置」に「密閉度」が低下すると云う前提であるが、”何らかの原因で”と成るが、上記に論じた「数々の欠陥」として論じた様に、全てがこの「密閉度」を低下させる要因に成る。
    つまり、「結露現象」のこの前提は崩れやすい。前提が無いのと等しいのである。
    何故ならば、上記の論じて来た数々の原因で、「特質による欠陥」が僅かにも起ったとしたら、「4つの装置」、特に「リチウムイオン電池」の「密閉度」が低下して、ここから僅かにも空気が入り、「テイクオフ−ランディング」を繰り返す事で、この「窒化」に因る現象の「劣化現象」が起る事にも成る。
    当然に、この現象は上記で論じて来た全ての現象を助長して、上記の全ての現象からもたらす破壊へと結び付く事にも成るのだ。
    かなり専門的に観て恐ろしい特質である。筆者などは考えなくても直ぐにこの事が頭に浮かぶ位である。「航空機」と云う限定したものから生まれる「恐怖の特質」と云える。

    このリチウムに関する「恐怖の欠陥特質」を更に述べる。
    最早、上記の事でリチウムには抜き差しならぬ事に成り易い事が判るが、これだけで「航空機」に取って「恐怖の欠陥特質」で充分と考えるが、次に敢えて”駄目押し”をする。

    >「酸化による発熱現象と結露現象」
    「リチウム」を熱すると燃焼して周囲の酸素と反応して酸化リチウム(Li2O) になる。
    「酸化反応」は発熱現象を起こす事から、この「リチウム」の最大の「内側の弱点」の「発熱現象」に成るのである。
    この為に上記した様に、「金属リチウム」は、”アルゴン雰囲気下”で取り扱う必要がある
    或いは、「不活性のガス」か「ゲル」を雰囲気にして「密閉型」にする必要がある。
    「リチウムイオン電池」の場合は、この「ゲル」を使っているし、密閉型にしている。この「ゲル」を通して「リチウムイオン」を飛ばして電気伝導をさせている。
    「リチウム」は上記した様に、「180℃を融点」としているから、「充電−発電−蓄電」での発熱40℃〜50℃を越えない範囲では酸化は起こらないが、80℃の「45%の領域」では反応力が高まり僅かな酸化物での「熱」による「初期酸化」が始まる。
    と云う事は、上記の「窒化」の時の様に「密閉度」が何らかの欠陥で低下したとすると、この”熱による酸化も同時に起る”と云う事に成る。
    その為にも、先に酸化物にして、+側は「リチウム酸化物塩」(コバルト系)にしている。
    ところが、この先に「コバルト酸化物塩」にしていても完全に安心という事では無いのである。
    「充電−発電−蓄電」」(3つの機能)の機能で、「45℃から50℃付近」までは「自然発熱1」が起るが、鉱物は全てそうであるが、一度でもこの領域を超えると、次ぎからは「自然発熱1」の「45℃から50℃の限界点」は次第に少し上に押し上げる現象の特性を持っている。
    所謂、「リチウムの特質」の「蓄熱現象」が働くのだ。
    これは全ての鉱物に持つ「スパークーリング(過冷現象)」の影響で、上下の「過冷点」が変化する特性を持つ事から起こる。
    「過」は規定のポイントより上側にスライドし、「冷」は規定のポイントより下側にスライドする現象である。
    この「過冷現象」の「出現レベル」は、鉱物に依って異なるが、「リチウムの特質」で「蓄熱」とそれに伴う「熱劣化」に因って、フライト毎に上方に変化して行く為に、何時しか「80℃の初期限界」に達する事に成るのだ。
    この事は、「充電サイクル回数」に因って起こる「リチウムイオン電池の寿命1」と、この「蓄熱劣化」の現象でも「寿命2」は低下するのである。
    何も「リチウムイオン電池」の「寿命1」は、「充電サイクル回数」だけではないのだ。(・下記)
    こうなれば、上記する”発熱による「負のスパイラルの現象」”が生まれる。
    ”今日も、明日も無事に飛んだが、明後日は無事と成らない”事に成るのだ。
    「デンドライト現象」や「結露現象」や「窒化」や「マルテンサイト変態」や「高温疲労」や「低温疲労」等々、上記した論点は専門家ではなくては判断は出来ないだろう。
    「窒化で発熱現象」(内側の弱点1)を起こすか、「酸化で発熱現象」(内側の弱点2)を起こすかはどちらが先に起るかは問題ではない。何れ起これば起る領域を別けて両方が起る事に成る。
    この事は何を意味するかと云うと、”起こると終わり”と云う理屈に成る。
    況して、「787」は、”原因不明”と云っている。
    特定するだけの「専門知識」は無い事を意味するから、同時に、専門的にこの欠陥を事前に見抜けない事をも意味する。整備員では無理である。
    だから、事前に「環境条件下テスト」をして、この問題を解決しておかなければ成らないのである。
    だから、上記した「筆者の事例の経験談」の「発注先の依頼」と成ったのである。

    >「過負荷・過充電・過温度」(3つの弱点)
    この様に、「常用の領域」と「危険の領域」が非常に接近していて、背中合わせの状態で、その安全幅は全く無い装置なのである。
    因って、「安全性確保」の為に、「ソフト基盤」のところで上記した様に、「充電−発電−蓄電」(3つの機能)を監視する「保護回路」が絶対不可欠に必要なのである。
    「4つの装置」の相互関係を常時監視していなければ成り立たない「充電−発電−蓄電」」(3つの機能)の装置なのである。明らかに「根本の弱点」なのである。
    この「根本の弱点」は絶対に回避出来ない「潜在的弱点」とも云える。
    この「潜在的弱点」をカバーする為に「保護回路」と云う基盤で出来たものが必要としている。
    これは、原理として「充電−発電−蓄電」時には電圧が上昇するが、この際に、上記した様に+極側と−極側が極めて強い「酸化状態」と「還元状態」に置かれる。
    その為に他の低電圧の電池に比べて材料が不安定化しやすのである。
    従って、”過度に充電する”と次ぎの事が起こる。

    「+極側」では、電解液の酸化・結晶構造の破壊等により発熱する。
    「−極側」では、グラファイトの周囲に過剰と成って浮遊した金属リチウムが析出する。

    当然に、これは「−極側」の電池を急激に劣化させるだけでなく、最悪の場合は破裂・発火する。
    従って、「リチウムイオン電池」の「充電」の祭には、極めて高い精度の「数十 mVのレベル」での「電圧制御」が必要である。この装置の電位は「3.5V〜4.0V」の電位を保つ。

    「電圧制御」=「1%仕様」×「3.5V〜4.0V」

    ・「過充電」(「1%仕様」)
    つまり、この電位に対して「1%で制御する保護回路」が必要なのだ。

    これはかなり専門的な事ではあるのでどの位に「厳しい制御」であるかを検証する。
    かなりシビャーで、上記に論じた数々の欠陥
    「環境条件の特性変化の欠陥」
    「航空機の持つ環境条件」
    定常での「温度や湿度や熱の影響」
    下記に論じる「内側の弱点1、2、3」

    以上が加われば、到底、定常でも「1%仕様の変化」の維持は困難である事が言える。

    この「制御システムの基盤」は上記した様に、この「1%仕様」と云う事で必要なのである。
    この「1%仕様」は、環境条件が大きく変化する「航空機」では専門領域から観ても普通では無理である事が判る。
    元々、専門的でなくてもどんな装置や製品でも「1%仕様」とは、その装置製品の普通の「エラー領域」である。統計的に見ても普通の「バイアス領域」の中にあり論理的にも無理である。
    では、どの位かと云うと「統計学的には5%」が標準である。

    因みに、先ず10と云う数字があるとすると、この10は数学的には、「見かけの寸法値」10と、「絶対値」10とで構成されている。(中学の数学で習っている)
    「見かけの寸法値10」には「固有のエラー」と「固有のバイアス」が潜んでいてそれを10としている。
    この2つを含んだ数字が「見かけの寸法値」である。何時も普通に使っている数字である。
    俗に云えば、「通称10」なのである。多少、”混じりのある10”と云える。

    ところが、これとは対照的に「絶対値10」と云うものがある。
    この「固有のエラー」と「固有のバイアス」の2つを全く潜んでいない数字である。”完璧に信頼できる数字10”と云える。
    10そのものである。「完全純粋な10」と云える。同じ10でもこの様に分けられる。
    この様に、分けて置かないと、超精密器機の様な場合は、「見かけの寸法値」では「誤差」が多く重なって信用できない事に成る。
    「数字の使い方」には、”「信用」しなくてもよい時、使用しなければ成らない時”の2つがある筈である。
    ”信用しなければ成らない時”の「統計学]では、この「二つの10」を使い分けるが、その一つの「絶対値」はこの様な場合は使わないことから、「見かけの寸法値」の「固有のエラー」と「固有のバイアス」の「加算値」(許容値)は、「部類別の偏差」としてでは異なるが、通常は「1−3%」が見込まれる。

    「固有のエラー」+「固有のバイアス」=「見かけの寸法値」
    「固有のエラー」+「固有のバイアス」=0=「絶対値」
    「固有のエラー」+「固有のバイアス」=1% (4つの装置の電圧制御)
    「固有のエラー」+「固有のバイアス」=1%〜3%=「統計の許容値」

    つまり、”どんな物でも「純粋」と云いながらも、その中の構成には「1−3%程度」の許容する不純物を含んで「純粋」と云われる”と云う事なのである。
    統計学ではこれを以上に分類する。

    「許容する間違い」(アロアランスエラー)
    「許容する幅」(アロアランスバイアス)
    以上と云われるが、全ての数字に持っているので、比較する際にはこれを無視して比較する習慣と成っている。

    「数学値」や「統計値」や「技術値」や「経験値」では、この「二つのアロアランス」も考えて比較して解析する。
    そこで、当然に、この電位制御値の「1%仕様」は、「(mV)として1/1000の桁」で評価しているので、上記の10の0のところで評価していないので、この「2つのアロアランス」(1−3%)の中にある。
    それも最も厳しい「1%のアロアランス」の数字で維持し管理しなければならない「保護値」なのである。
    普通は「技術値」や「設計値」としては、この「2つのアロアランス」の中の数字は使わない。
    殆ど、この「1%仕様」とは、「絶対値」に近い事を意味する。
    筆者が経験した知っている「4Vの仕様値」はせいぜい「5%から8%弱」であった。
    それは、「1/100000」まで「絶対値」(見掛けの寸法値は百万文の一の領域)として保証される世界で、10台と無い「世界一の計測器機」で、「超精密高能力のチャンバー」の中にあり、塵埃菌が完全に排除し、温度、湿度、気圧等のあらゆる環境条件を1/1000までコントロールした「コンピータ計測器・画像演算器機(振動やノイズや圧や電波等も一切排除)であった。
    この”チャバーの中に入って”と云うよりは、”コンピーターの中に入った”と云う事の方が正しい計測器機でも、「2つのアロアランス」の中に無く、当初は「5%仕様」であった。

    (その後、周囲の全ての電位電荷の事情や自然放電等の環境条件が整った事から、「3%仕様」に絞り安定に移行した。この超精密機器でも「3%」が限度である。「1%仕様」は到底に無理であった。理論外である。)

    それより「4つの装置」は、”遥かにレベルの低い装置”でありながら、如何に”「4つの装置の管理値」が「1%仕様」と云うもの”がどれだけ厳しいものであるかが判る。
    言い換えれば、この「リチウムイオン電池」等の「4つの装置」が、この「超精密高能力のチャンバー」の中に設置しておかなければ成らない事に成り得る。否、設置しても「3%」に対して「1%」なのだから、1/3で考えれば、それでもこのチャンバーの中でも、”遥かに無理”と言う結論に成る。
    況してや、何度も云うが、「環境条件の変化」とその「変化量」(「落差は66℃、速さ155M/s」)では厳しい「航空機」である。
    ところが、この「電位制御 1%仕様」を、この「リチウムイオン電池」等は「電位制御 1%仕様」で維持しないと欠陥が発生するのである。
    この事から云える事は、「環境条件下テストでの対策」を施した上で、せめて、”「空調」を施さなくては成らない段階のものである”事が完全に云える。(空調しても1%は無理 4%−5%程度が限界)

    上記した様に、”「リチウムイオン電池」は、「イオン」である限り物理学的に観ても、無理である。
    先ずは、外部要因としては、「温度」と「振動」と「磁場」と「静電気」に弱い事、「湿度、気圧」も左右される事。”で論じたが、その影響も有りながら、それでも、それを「航空機」と云うもので、その電位では「電位制御 1%仕様」なのである。
    「電位制御 1%仕様」は、そもそも ”装置を維持すべく「原理値」” であり、”変えられない数値”なのである。

    どの面から観ても ”考えられない仕様の数値”である事が云える。
    これに上記した「数々の内部要因」が加算してくるのである。
    とするから、”「チャンバー」を使っての「環境条件下テストでの対策」を絶対に先ずは講じる必要がある事は誰でもが理解出来る事だと論じている。
    (「原因不明で発火対策」だけに終わり、「環境条件下のテスト」はしないのである。)
    それも「微妙な制御」と成るので、基盤も当然に「不安定な基盤」と成るのだ。
    故に、上記に論じた様に、”「あらゆる環境条件下のテスト」”が必要と成る。
    注意すべきは、この話は通常の時の反応時の「4つの装置」の ”「内的な問題」”である。
    上記した環境条件下の ”「外的な問題」” では無いのである。
    「自分の装置」の中から発する問題である。

    この”通常時の電池の内側から発生する危険”が、次ぎの様な事で起こる。
    イ 上記の様に、「環境条件の変化」での「特質欠陥(1)」が先ず起こり、
    ロ それに誘発されて「密閉度低下」や「発熱・過熱現象」が起こり、
    ハ 「湿度や温度への特質欠陥(2)」が重複して起こる事に成り、
    ニ こうなれば、「環境条件の著しい変化」と、その変化も「超速度で起る航空機」である限り、スパイラル的に上記で論じた「全ての欠陥」が連鎖して起こる。

    こうなれば、最早、「破裂・発火」どころの話では無く成るのである。
    「リチウムイオン電池」の「発熱・過熱現象」は、「蓄熱特性」から連鎖を起こすのであるから、「破裂・発火」そのものが問題では無い事を何度も論じた。
    一度「発熱・過熱現象」を起こせば、次第に連鎖に向かい何時か「破裂・発火」に成る事を意味する。

    これは物理系の技術者の専門域の心配の問題では無く、普通の心配である事に留意する事である。
    平地での自動車等ではなく、”環境条件が急激に幅広く繰り返し変化する「航空機」に使用する” ところに問題があるのだ。
    この「電位制御 1%仕様」から発する「過充電」(「3つの弱点」:「過負荷」「過温度」)は ”「内側の弱点1」”である。

    ところが、「リチウムイオン電池」は「二次電池」としての機能を有する為に、「内側の弱点1」(機能−過充電)だけでは終わらないのである。
    「二次電池」とは、「乾電池」の事では無く、これは、「充電−発電−蓄電」の「優れ機能」(3つの機能)を有する事に由来しているので ”内側の弱点2」” は未だあるのだ。

    ・「過放電」(「内側の弱点2」)
    それは、「充電 発電 蓄電」(3つの機能)の一つである「過放電(発電)」である。
    これが、”「内側の弱点2」(機能−過放電)”に成る。
    「過放電(発電)」では、+極側の「コバルト」が溶出したり、−極側の「集電体の銅」が溶出してしまい「二次電池」として機能しなくなる弱点である。この場合も、当然に電池の「異常発熱」に繋がる。

    上記した様に、「リチウムイオン電池」の数々の「特質の欠陥」は、全て「発熱現象」を伴うと云う事なのだ。つまり、簡単に云えば、”熱に弱い(過温度の弱点)”と云う事なのだ。

    この現象は、”何故起るかと”云うと、次ぎの様な事に成る。
    「+極側」から「−極側」に「リチウムイオン」が飛ぶが、これに相当する量の電荷放電が起こってバランスをとりながら機能する。
    ところが「+極側」から ”過剰にイオン放電する”と、相当量以外の余った「リチウムイオン」は「−極側」に引っ張られて、それに「グラファイトの芯の銅」が反応して溶けて「残余リチウムイオン」と結合して、これが「−極側」に付着する。
    そうすると、「−極側」も「リチウムイオン」に覆われて「+極側」との間に材質的な差が無くなり、「放電機能」は低下して行き、終局、「放電機能」は無く成る。
    この時、放電に限らず「充電−発電−蓄電」の「3つの機能」も同時に無く成る。
    この「(3つの機能:放電)」が無く成ると、「放電の指令と要求」が基盤側から起ることから両極に無理が掛かりジュールの法則に従って「発熱」が起る事に成る。

    後は、上記した「発熱・過熱現象」の数式論のプロセスに従うのみと成る。
    ところが、この「発熱・過熱現象」だけは、”エネルギー密度が高い為に、” 今まで指摘した「発熱・過熱現象」とは異なり、短絡時には ”急激”に、「過熱する危険性」が大きいのだ。この”急激”が問題である。
    一度「発熱・過熱」したら、最早、”急激”に起こり、そこに上記の様に「航空機の環境条件」が強く働き、急激に「超」が着く事に成る。

    何れ「内側の弱点1」の「過充電」にしろ、「内側の弱点2」の「過放電(発電)」にしろ、電解質の「高分子ゲル」の沸点も「−40℃ 0.2気圧」では下がる事は確実で、平地での上記の現象(「過放電」)は上空ではより起こり易い事が云える。
    その到達温度域は、「エネルギー密度が高い事」と「−40℃ 0.2気圧」の2つの条件から使用限界値「45%〜50%」の「100℃領域」に ”急激に確実に成る事が云える。

    (その前に「プラスティックの防護枠」が「硬化による劣化」が起こり、亀裂が発生して、回帰が進入し次第にこの領域を超えて「軟化と溶融発火」へと進む。)

    材料力学上、「リチウム材」は上記した様に、「融点180℃で、使用限界100℃で、安全限界80℃」で、その「80℃が初期限界」と成るが、これを覆っている「高分子ゲル」の「沸点」が「後期の環境条件」に依って1/2程度となると、それに伴って「リチウム材の使用限界」も、更に一次的に上空ではゲルに引き込まれて、この「2つの限界値」は相当下がる事が起こる。
    予想では、最大では10%程度は考えられる。
    「リチウム材」も「自然物の一物」であり、上記した様に、「アルカリ金属類」で「敏感な材質」であるので、理論的には最終は材質の「45%〜50%領域」に成る可能性があるが、鉱物には上昇と下降との間に「スーパークーリング現象」が起るので比例的には考え難い。
    然し、”100℃は90℃、80℃は70℃”と云う事にも成る事が十分にも予想できる。
    結局は、「ゲルの影響1」と「スパークーリングの影響2」と合わせれば、、”100℃は80℃、80℃は60℃”と成る。重要な確認点である。
    そうすると、「内部の弱点2」が起こる事に因って次ぎの様に成る。

    プラスティックの硬化温度65℃≒内部の低下する安全限界点」60℃

    外部要因の「プラスティックの硬化点・劣化点」に、「内部要因の限界点」が一致してしまう事になるのだ。
    故に、これを確認する為にもチャンバーによる「環境条件下テスト」を行わなくては成らないのである。
    場合に因っては、上記した「比熱(0.79)」や「熱伝導率等」の「物理的特性」から観て、この世に存在する鉱物の中でも、”最大に環境条件に敏感な鉱物”である限り、この「過放電(発電)」の「内側の弱点2」は必ず起こるのである。

    >「有機剤の電解発火」の危険
    さらに、「有機剤の電解反応」に「衝撃のエネルギー」が吸収されて「揮発現象」を起こし、「発火事故」を起こす恐れがある。
    現実に、自動車等では、既に欠陥問題として起こしているし、この装置を輸送中にも起こしている弱点である。世界の国連の輸送基準はこの為に基準も作っている。理論的にも納得出来る現象である。

    つまり、「外力」(衝撃・振動)が加わる事で、電池内部では、、「外力」(衝撃・振動)がエネルギーに変化する為に、上記した「反応力」が高まり、時には「短絡現象」(リーク、ショート)までも発生する場合もある。
    これには「衝撃に対する保護」(ショツクアブソーバーの設置)以外に対策は無く、絶対に必要である。
    「衝撃・振動に弱い欠点」を持っている事である。

    この前提は、「地上で発生する衝撃・振動の範囲」を前提としての弱点であり、問題が起こっている。
    然し、「航空機」のランディング時にはこれに勝る「衝撃・振動1」が先ずある。
    ところが、上記した「155M/S」の「急落差の衝撃」も「リチウムイオン電池」の「高分子有機ゲル」に与えるエネルギーも充分に「衝撃・振動2」以上と見なされる。

    そもそも、「衝撃・振動」とは、そのものに負荷される「加速度的なエネルギー」を意味する。
    因って、「衝撃・振動1」と「衝撃・振動2」は含まれる。
    決して、物と物がぶつかる”「衝突」”だけを意味するものだけではない。

    航空機の「衝撃・振動1」+「衝撃・振動2」の「エネルギー」は、地上で起こる「衝撃・振動」に”勝るとも劣らず”である。
    検証してみると、次ぎの様に成る。
    この「衝撃・振動のエネルギー」は、「質量」に比例し、「加速度」の2乗に比例する事から、「質量」では、「航空機/自動車」=350/2.5=140、
    加速度では、「航空機/自動車」=325/15=22(速度比)
    以上の概数の倍数が出る。
    従って、どんなに少なく見積もっても、地上で起こる「衝撃・振動」の比では無い事が判る。
    この概数の倍数から観れば、「衝撃・振動に対する保護」(ショツクアブソーバーの設置)は、「有機剤の電解」時の「リチウムイオン電池の弱点」の解消、のみならず、「装置、設備」としても絶対に必要である事が云える。

    上記の「振動」のところでも論じたが、特に、仮に何れにもこの保護がなければ、この「膨大な衝撃のエネルギー」は、霧消しない。上記した「プラスティック類の保護材」に先ず吸収されて仕舞い、上記する「疲労破壊」が起こる事は必定である。
    この「疲労破壊」が起これば、「亀裂:ミクロクラック」が起こり、上記した数々の欠陥が起こる。
    その後の「4つの装置」に与える影響は上記に論じた通りに推して知るべしである。

    >「保存特性」の弱点(「満」と「過」の弱点)
    「保存特性」(保存状態での性能保持特性)は、「ニッケル水素電池」等より遥かに劣る。
    「保存状態」が、”ある一定のシビャーな環境下”になければ「発火・崩壊」に至る。
    その ”「安定レベル」” がどんな電池より悪いと云う事である。
    上記した様に、”「電位」をある「1%仕様」内に保っておかなければ成らない” と論じた。
    この一つ捉えても判る様に、「4つの装置の管理値」が、普通の感覚では考え難いものであるのだ。
    今、「3つの内部弱点」(過負荷、過充電、過温度)を論じているが、「過充電」とは「3つの機能」(充電、発電、蓄電)の事で、この「3つの機能」が「満と過の状態」で維持保存すると、「欠陥」と成って「自然欠陥」に成って仕舞うと云う「厄介な特質」なのである。
    この「自然欠陥」に、ある特定の「エネルギー」が加わると、「発熱・過熱現象」を呼び起こし、「発火・破壊」と云う異常事態に陥ると云う事である。
    普通であるならば、”「過」は「自然欠陥」と成り得る”と云う事は、”過ぎたるは及ば然ざるが如し”で、この世の「自然の摂理・道理」である事は否めない。
    然し、「満」はむしろ「自然の良策」として、人や物には「好ましい状態」として期待され、この「満の状態」を求める。極めて自然な事である。
    ところが、この「満の状態」が、”好ましくない”としているのである。”好ましくない”だけで済むのであれば、”それはそれで良い”とされる。然し、”それはそれで良い”では済まないのだ。
    「満の状態」に成ると、”自らが「自らの欠陥」を曝け出して、自らで「崩壊の道」に向かうという「恐ろしい特質」を持っている事なのだ。
    普通なら ”「満の状態で保存」” としている事が良くて、”何もしていない保存の状態が”が一番悪いのだ。然し、この逆なのである。
    これでは手の施し様がない。普通、使う前には、”エネルギーを満タンにして準備万端で”OKであろう。
    では、”どうすれば良いのだ”と成る。”満タン”にしなければ良く、”使う時には満タンにする”
    と成る。
    然し、この時の「満タン」も「1%」以上超えたら、上記した様に、”「発熱・過熱現象」を呼び起こし、「発火・破壊」と云う異常事態に自らで陥る”と云う事なのだ。
    これではとても”やっていられない”と成るだろう。
    これは「満充電」としたが、「3つの機能」(発電(供給)、蓄電)の全てにも云える事である。
    説明が複雑に成るので、此処では「満充電」として論じる。

    そもそも、「満充電状態」(過充電含む)で保存すると、上記の「3つの機能の内側の弱点1、2」と共に「電池の劣化」は急激に進行する。
    この為に、他の蓄電池で一般的な充電方法である”「トリクル充電」”は、「リチウムイオン電池」には適していないと云う事に成る。
    この”「トリクル充電」”とは、「充電、発電、蓄電」の「3つの機能」に限らず、”充分に全てに施して置けば、後に起こる事も、「前の充分な状態」に引っ張られて次ぎに「良い状態」が起こる”と云う論理現象である。
    「経済理論」にも良く使われるし、勿論、技術論、取り分け、「応用物理論」の分野でよく使われる「一般的な理論」である。世の中の原理原則はこの理に殆どが従っている云う事なのである。
    然し、この「リチウムイオン電池」関係に関する上記した様な現象の多くは、この”「トリクル論」に従っていない”という「極めて希な自然物」であるのだ。

    つまり、言い換えれば、「充電」はもとより ”「満と過」は良くない。弱点に成る”とすれば、”「3つの機能」は普通に扱えない”と云う事に成るのだ。
    況して、上記した「蓄熱特性」、「常温劣化」、「マルテンサイト現象」、「デンドライト現象」・・・等があるとすると、「トリクル論」に依って普通に扱えないのであれば、再三論じている「環境条件下テスト」の必然性は普通の考えとして発想される筈である。

    世の中は決して古来の歴史の例に見る様に、”「トリクル論」では無いから「環境条件下テスト」をしなくてはならない。”とする”古来からの「日本の概念」”である。
    つまり、それは日本の「四季の環境変化」は「トリクル論」に従っていないからである。
    「リチウムイオン電池」は、「トリクル論」に従っていない事位は専門家でなくても普通の技術者でも知っている筈である。
    これは「経済学」でもあるのであるから、「工学系」であれば「トリクル論」は学んだ筈である。特に、外来思想に基づく論である限りに於いては、「787」は発想した筈である。
    「リチウムイオン電池」は、少なくとも「乾電池」では無い事は、「技術者」で無くても知っていた筈であろう。
    そうすると、「787」の再開時の発言、”「原因は不明 発火対策をした。”の発言と、”専門技術者はいない”の事実は到底理解出来ない。

    ・「発熱・過熱特性」
    さて、この「トリクル論」に従っていない「リチウムイオン電池」の「3つの機能」の為には、又「高い発熱特性」を自ら持ち、これを安定に維持管理する為には、「制御回路と保護回路」が絶対に必須である事に成る。
    その為に、”「1セルあたりの電圧」が高い”等の理由から、「乾電池の代替用途」(一次電池)には元々不向きである事が云える。つまり、「開放型」は向かないのである。
    言い換えれば、この事は、元々、原理的に ”外的要因に左右され易い”と言う事だ。
    では、この「外的要因」とは、”どの様な状態を指すのか”と云う事に成る。
    「外的要因」とは、”環境変化が著しい状況”と云う事に成る。
    「地上の環境」に於いての、”環境変化が著しい状況”を前提としているから、それより、”環境変化が著しい状況”にある「上空の環境」では、”普通では適合していない”の理屈に成る。
    然し、”使ったのだ。”使う事には反対はしていない。
    使う以上は、”上記の「数々の弱点」を克服せよ”と云う事なのだ。
    それでこそ文明は進化する。技術は進化する。
    それには、”「環境条件下テストをせよ” と論じている。”「日本の概念」で克服せよ”である。

    この”「1セルあたりの電圧」が高い”を理由にして論理的に考えると、”「上空の環境」では不適合”と成る。
    それをカバーする為に、「制御回路と保護回路」を設けて、安定させる「維持管理システム」が必要と成ることを意味する。
    この「不適合の環境」で使う以上、それが厳しいことから、上記で論じた様に、考えられない様な ”「電位制御 1%仕様」”と云う事に成っているのだ。

    ”「1セルあたりの電圧」が高い”→”「上空環境では不適合」”→「制御回路と保護回路」→「電位制御 1%制御」

    「不適合 1」 ”「トリクル論」”、つまり、「一般的な充電方法」である”「トリクル充電」”は「リチウムイオン電池」には適していない”
    「不適合 2] ”「1セルあたりの電圧」が高い”等の理由から、”「乾電池の代替用途」(一次電池)には元々不向きである。”、”「開放型」、「外的要因」に左右され易い”

    この「不適合 1と2」を克服する為に、上の対策と成ったのであるから、地上でもこの対策が必要なのに、「上空の環境条件」を同じとして使う以上は、”「上空の環境条件」との違いの「対策」” を「満と過の弱点」でも講ずる必要がある事になろう。

    この「内側の自然の弱点」は、「充電、発電、蓄電」の「3つの機能」が働いていない「安定で標準状態」の時に、「満の状態」で起こるのであるから、
    A 動作時→ ”「電位制御  1%仕様」”
    B 停止時→ ”「電位制御 −10%仕様」
    以上の2段階で管理しなくては成らない事に成る。

    当然に、動作時の ”「電位制御 1%仕様」”が、「3つの弱点」(過負荷、過充電、過温度)に因って狂った場合にも、この ”「満と過」の「保存特性の弱点」”が重複して露出する事に成る。

    恐らくは、これは ”「充電器の形」(開放型と密閉型)の如何”は、勿論の事で、”「充電・発電・蓄電」の「3つの機能」の有無どころの話では無い事に成る”と云う事なのだ。
    「リチウムイオン電池」、或いは。、「充電器」は、上記した様に、「+極側」に「リチウム酸化物塩」を結び、「−極側」に結び、その間を「リチウムイオン」が跳びかう原理で「充電・発電・蓄電」する仕組みである。
    「密閉型非電解液方式」である。EV車ではない普通の「自動車のバッテリー」と異なる。
    この仕組みからすると、「満と過の弱点」は、”「充電・発電・蓄電」の「3つの能力」が低下する”と云う問題の以前の問題である。
    上記で論じた様に、「上空の環境条件」の如何に関わらず、「常温40℃以下」の温度付近で「仕組み全体」が、「満と過の弱点」で、突然に ”自ら破壊する事”を意味するのである。

    では、この「満と過の弱点」と「80℃−100℃」という温度までとには、”どの程度の関係があるのか”と云う疑問であるが、これを検証して見る。
    鉱物では「80℃−100℃」は、普通に「熱」が出れば起る温度で、専門的に見ても珍しい温度ではない。鉱物では次ぎの様な基準の範囲と成っている事を上記した。

    −「非通電時」  (標準温度)
    −「自然放熱」  (40℃以下)
    −「空冷FAN」  (40℃全域)
    −「空調」     (50℃超)
    −「発熱分離」  (65℃域)
    −「設計変更」  (80℃域 安全限度 融点45%)
    −「仕様限度」  (100℃域 使用限度 融点60%)

    通常は上記で対策を変える。これは鉱物で構成されている「ソフト基盤」でも使える基準でもある。
    上記で論じた様に、この「技術的な基準温度」は、普通の事として読者も感じ取られる温度と思われる。

    「3つの機能」に対するこの「満と過の弱点」は、通電時(電荷時)では無い時に起こる現象(標準温度)であるから、この時、仮に「22℃±5℃」であろうとすると、「満と過の弱点」にて上昇する温度は「40℃全域」に成る事から、この「鉱物の基準」の範囲を2段階超えている。
    満と過の弱点は起こり「発熱・過熱」に走る。

    電荷時に、「発電(供給)」の「満と過の弱点」では、「電圧制御 1%仕様」を管理する事で起こる温度「自然放熱」域と、且つ、「満と過の弱点」による上昇温度が「空冷FAN」域と成る事から、「周囲の環境条件」が「地上と上空の温度差」が左右するので、どちらの解決策の方に傾くかで決まる事に成る。

    A「電位制御 1%仕様」<「自然放熱 パーツ発熱 40℃」→ 「満と過の弱点」は「発熱・過熱」に走る。
    B「電位制御 1%仕様」>「自然放熱 パーツ発熱 40℃」→ 「満と過の弱点」は起こらない事に成る。

    論理的には上記のように成る。
    但し、「電位制御 1%仕様」は、上記で論じた様に、「許容3%−5%」より遥かに下限域であり、普通の管理では難しい事と成る事から、「Aパターン」に傾く事は確実である。
    少なくとも「パーツ発熱 40℃」を遥かに超える事が判る。
    何もしなければ「発熱分離−使用限度」までは達して、「発熱・過熱現象」から「発火 破壊」と成る。
    要するに、どの論点から観ても、”極めて「熱」に弱い”と云う事であり、「プラスティック材の保護枠」の「硬化温度65℃」が「実質限度」と成ろう。
    「地上と上空の環境変化」から観て、「65℃」は何も不思議な温度、無理な温度ではない。
    そうすると、上記で論じた「電位制御 1%仕様」が「大きな鍵」を握っている事に成る。
    「電位制御 1%仕様」を達成させようとすると、上記の対策基準の「空調 (50℃超)」を実行しなければならない事に成る。
    そして、何もしなければ、この鍵となる「電圧制御 1%仕様」が、次ぎの事で安定した確保は不可能である。
    (”原因不明 発火しない対策をした”とする発言から、”「空調 (50℃超)」”対策はなされていない事を意味する。)

    「統計学の管理限界値 3%−5%」を遥かに超えている事、
    「上空の過酷な環境条件」に成る事
    「航空機の環境変化量」が大きすぎる事
    以上3つが完全な障害と成る。

    そもそも、「充電」し過ぎると、上記した様に、「−極側」に「リチウムイオン」が過剰と成る。
    先ず、次ぎの様な経緯と成る。
    1 「−極」のグラファィトに引っ張られて付着する。
    2 「両極」の電位差・電荷差が無く成る。
    3 「酸化・還元」の反応の差異が無く成る
    4 「充電・発電・蓄電」の能力が低下を招く
    5 「発熱・過熱現象」が起こる
    6 「グラファィト」に亀裂が発生する
    7 「リークとショ−ト」が起こる。(芯に成っている銅との間)
    8 「発火−破壊」が起こる
    以上の8経緯と成る。

    この「発火−破壊」のプロセスは、「内側の弱点」は全て同じと成る。

    「満と過の弱点」を防ごうとすると、「電位電荷」を極力低く抑えている状況から、急激に「航空機」が駆動するとすると、「回路の要求量」と「発電(供給)」とに始動時にアンバランスが一時的に起こす。
    この事が ”「電位制御 1%仕様」の制御”であれば、確実に起こる。
    この時、、「回路の要求量」>「発電(供給)」でバランスが狂う為に「発熱・過熱現象」が一時的に起こる。
    ”その後に「1%仕様」で管理された”とすると、一時、「発熱・過熱現象」は停止する事に成るだろう。
    然し、この時の状況で「パーツ 40℃」は確実に超えている。(「蓄熱特性」に注意)

    そうすると、次ぎの問題はプラスティック保護材の硬化温度の65℃である。
    此処に達しているかどうかの問題である。
    「787事故写真」から見る限り充分に達していると観られる。
    そして、このプロセスは航空機としては、繰り返される事に成る。
    一時的に起こった「発熱・過熱」は、「蓄熱特性」で次第に上昇する事に成る。
    何れにしても65℃には成る事は早晩確実である。
    何故ならば、「プラスティック防護枠」の「硬化」を含む「劣化」は、更に「劣化」を連鎖的に継続して呼び寄せるからだ。(「常温劣化特性」もある)
    何時か「プラスティック」の「65℃硬化」で「亀裂」が生まれ、これが「疲労破壊」に繋がり、外気の進入を招き、「充電 発電 蓄電」の「3つの機能」は低下して「バーニング」に発展する。

    そもそも、スタート前には「満の状態」にして置くのが普通の作業であるのに、その逆の事の「放電」をしなくては成らないのである。
    フライトでは少なくとも「電圧制御 1%仕様」で管理されているのであるから、フライト中の「充電機能」が働き「満か過の状態」である。
    とすると、エンジンストップの後は、”放電にしない”と「満と過の弱点」の状態を維持する事に成るから、上記する「数々の弱点の現象」が引き起こされる事に成る。
    この「満」は次ぎの問題をも引き起こすのである。

    >「リチウムイオン電池」の「寿命の問題」
    ところが、ここで「悪い条件」が伴うのである。
    それは「リチウムイオン電池」の「寿命の問題」が絡む事に成る。
    「リチウムイオン電池」のその寿命は、上記の「満と放電の回数」に因って起こる。
    つまり、「充電回数」である。
    ある一定量「放電」すると、次ぎ「満」の「充電」までの間を1サイクルとすると、そのサイクルの限界は次ぎの様に成る。
    そのサイクルが理論上、「最大で500サイクル 最低で300サイクル」である。

    この寿命に近づくと、「リチウムイオン」の「+極側」から「−極側」まで「イオンの放出」が低下する事に成る。
    つまり、「充電 発電 蓄電」の「3つの機能」は激減して無く成ることに成る。
    つまり、上記した様に、「還元反応>酸化反応」の間の差がなくなる事を意味する。
    その差が回路の「要求量」に対して、「供給量」が無く成って「電位電荷」は必要とする量を補えなく成る。
    次第に低下始めて限度に達する。

    「500回サイクル」の限度近くに成ると、「満」と「放電」の間隔が狭くなり、エンジン停止中の「満の状態」は低く成り、「放電」を必要としない「満の限界レベル」に達して、次ぎのエンジンスタートの時には、「回路要求量>供給量の」状態が一時的に起こる。
    この時、上記で論じた様に、「発熱・過熱現象」が起こるが、再び「満」の「電圧制御 1%仕様」で維持管理され、エンジン停止までこの現象が繰り返される様に成るのだ。
    然し、この時、「蓄熱・蓄応力」が起こり、「発熱・過熱現象」が短期間で繰り返されるので、その度に劣化(硬化)が起こる。
    この「硬化」(「劣化」)の繰り返しが起こる為に、「回路要求量>供給量」の関係は、「鉱物の特性」上、益々、”連続的に継続的に相乗的に低下傾向”と成り、何時か”アラームと発火”と成る。
    ”一度、起こっても次には消える”と云う事では無く、「蓄劣化」が相乗的に繰り返される鉱物の特質を持っている。「応力疲労」と呼ばれる現象が起こるのだ。
    「リチウム」の場合は、「YP4.9弾性率4.2」であるので、鉱物の中では最大に相当な速さで進むのだ。
    上記の破面工学の「1の段階」から一挙に「5の段階」(キャップアンドコーン)に成る。

    (第2から第4の段階は起こるが、その変化が速いことから破面に出難いが、やや破面の色合いがグレーになる傾向にある。)

    つまり、物理技術者が最も恐れる”「急進疲労破壊」”と呼ばれ大変恐ろしい現象が起こるのだ。
    「リチウムイオン電池」の様に、”品質特性が厳しく弱点の多いもの”には、この「寿命」を待たずして思いがけないところで起こる現象である。
    「寿命」は「寿命」として、”単純に起こる”と云う事では無い事を意味するのだ。
    「寿命」が起こる前に、この「リチウム」には、”ある特別な特性を顕著に持っている。”のだ。

    「最小300サイクル」か「最大500サイクル」を待たずして、マニアルに交換時期を明記しても
    この「特別な特性現象」が起これば、突然に上記した様に、「密閉性」が低下して「発火・破壊」が起こるのだ。
    「事故写真」からこの現象も起こっている可能性も充分に考えられる。

    これは「リチウムイオン電池」に限らず、”製品や金属の寿命末期付近に起こる現象”なのである。
    この”「末期現象」”と通称呼ばれるものには、幾つかのパターがあるが、「急進疲労破壊」もその一つなのである。
    寿命の末端には、比例的に突然に寿命が終るのではなく、その終る手前10%−15%程度頃から放物線を描く様に、急激に低下する現象をこの「リチウムの特性」として持っている。
    そして、その時、「急進疲労破壊」が起こるのだ。
    従って、本当の「寿命ポイント」は、実質は10%程度手前にあるのだ。最大で450サイクルと成る。

    この様な「保存特性の弱点」等を持つ様な事から、「材料特性」で見分けられるが、「リチウムイオン電池」には「材料特性」から観て避けられない現象でなのである。

      ・「保存特性の弱点」は次ぎの「2つの弱点」を露呈する事に成る。
    「3つの機能」に対して
      ・「満と過の現象」→「発熱と過熱」→「発火・破壊」
    「サイクル寿命」に対して
      ・「末期特性」→「蓄熱・蓄応力」→「急進破壊」→「発熱と過熱」→「発火・破壊」 

    この「保存特性の弱点」では、上記「2つの弱点」の露呈は、前者で起こるか、後者で起こるか、はたまた、同時に並行して起こるかは、”「満と過」のレベルの大小に因る”と考えられる。

    筆者は、リチウムの「YP等」と「航空機特性」と「環境条件」から観て、”「同時併発」に成る”可能性が高いと観ている。

    (寿命の検証論は未だ続く)
    続く。

    「磁場」(常磁体)


      [No.298] Re:787ジャンボ機に思う事(技術論)−3
         投稿者:福管理人   投稿日:2013/06/28(Fri) 19:16:52  

    > > 787ジャンボ機に思う事(技術論)

    >・「デンドライト現象」の恐怖
    この「デンドライト現象」は「表面状態」に依ってその「起こり方」も然る事ながら、「起こり方の速さ」が違うのである。それも物質に関りなく起こる。

    「10℃以下で15%RH」以下ではこの現象に移行されるのである。

    これも、”恐ろしい現象”の一つである。
    その”恐ろしさ”も本当に恐ろしいのである。”結晶のアメーバー”が魔の手の様に自由自在に何処でもどんな狭いところでも”にょろにょろ”と何時の間にか延びて来て「恐ろしい問題」を引き起こすのである。
    因みに、判り易い例として、氷は氷点の少し上の4℃位から氷化するが、この時、水面に枝葉の様な模様が見えて来る。これが「水のデンドライト現象」なのである。
    他には「雪の結晶」もこの「デンドライト現象」に依るし、結晶に至る前の模様もこの「デンドライト現象」が起こっている。
    この現象は、「環境条件」と、その物質の中味の内容が整えば、この世の物質にはこの「デンドライト現象」が起こる。
    この「デンドライト現象」は、そのものには問題は無いが、この「デンドライト現象」の引き起こす問題が危険なのである。
    比熱のところで上記した様に「樹枝状結晶の特質」が危険なのである。
    もっと云えば、色々な ”他の特質と連動結合”を起こす事が危険なのである。
    これを起こせば、否、起これば、「全ての電気回路」又は「あらゆる装置」とそれを「繋ぐ配線」はその条件如何に関わらず破壊される。
    ”何故、破壊に至るか”と云うと、このデンドライト(樹枝状結晶)はその物質に巻き割り付くと、その巻き割り付いたものとの間に、「電位」「電荷」を発生させて、「起電圧−起電流」が生まれ、その結果、「熱」を持ち、その物質の表面を破壊させる。
    通電中の電気部品であればショートさせて仕舞うし、通電でなくてもその表層部を破壊して次ぎには使い物に成らなく成る。
    知らないで使えば、殆どは知らないで使うので、結果としては、何時しか「破壊」と「ショート」と「発火」を連続して起こす。エンジンなどの動力源を切っても最早、遅いのである。
    計り知れない「電位電荷」を持つ地球に存在している「この世の全ての物質」は、「相対の原理」に基づき「逆の電位電荷」を持っている。例外は無い。
    でなければ、地球より「1.2マッハ」の「地球の回転加速度」に依って宇宙に飛び出して行く。「航空機」はそれに逆らって10KMに到達する。
    当然に、地球との間でそれに見合うだけの「電位電荷」を持つ事に成る。
    その中の全ての物質も、当然にそれに見合う「電位電荷」を持つ。
    ここでは「リチウム」の様にその「物質の特質」(アルカリ金属)に見合うレベルの「電位電荷」を持つ。

    とすると、「リチウムイオン電池」を載せた「航空機」と共に、地上での「電位電荷」よりも遥かに高く成る。高くなった「電位電荷」により、必然的に「現象(X)」と「デンドライト(樹枝状結晶)現象」はより起こり易く成るし、起こる「現象レベル」は高く厳しく成る。

    筆者の読みとしては、「787」は、”この「現象(X)」と「デンドライト現象」の「ラップ域」に限らずこの「重大欠陥」を起こしている”と観ている。
    何故ならば上記した様に、「航空機」は、このこの「2つの現象」が起こる「温度域」に到達する見本の様なものであるからだ。
    「破面工学」を把握していれば、”トラブルを起こした表面の内容” を観れば専門家であれば直ぐに判る。数十件を越したと承知しているが、その内のひとつはこの現象であったと予測がつく。
    「数十件の事故」は単一原因では無く、「複数説」の見解を持っている。
    詳細な情報の把握の無い事と現物を見ていないが、最大の「弱点で問題点で原因」と成るこの2つの「現象(X)」と「デンドライト現象」には、筆者の専門的な「経験識」からの判断では、現物写真から観ると、次ぎの数式論が働いていた事を証明している。

    「現象(X)」+「デンドライト現象」→「回路損傷」→「発熱・過熱」→「保護プラスティックの溶融」=(外的な安全限度 65℃<80℃)=「回路要求量<電池供給量」=「発熱・過熱」→「蓄熱」→「バーニング」

    この数式論プロセスが間違い無く起こっていると観ている。

    ・「特記」(日本の技術)
    さて、此処で、次に進める前に、少し論じておかなければならないことがある。
    この「自然現象」の殆どは、縦軸にエネルギーに返還される要素、横軸に時間軸や物事の変異量の要素でグラフを表すと、精密には「Sパターン」のカーブと「Nパターン」のカーブに分類される。
    一見して比例的に直線的に見えているものでも、その「変曲点」(変わり目)の付近を詳細に調べると、この2つのパターンに成っているのである。

    (確かに、比例直線と観られる場合も、そのものの特質に因って変曲点が極めて小さく出るものもあり、比例、直線と見なしても良い場合もある。然し、工学ではそうはいかないのだ。
    例えば「スーパークーリング」等もこの「Nパターンの現象」を呈するが、よく調べると違うし、この違う特質が、工学では最も重要な判断のポイントになるのだ。これを違えると「787の様な事」に成るのだ。もっと云えば、ここが「技術者の所以」でもある。)

    この世の「鉱物の自然物」や「物理的な自然現象」はこの原則に従っているので、比例的に考えがちであるが、決して、「技術者」はこの点を間違っては成らないのである。
    そもそも比例的であれば、「微分係数」が生まれるので、それは理論化が出来て、「実験の経験値」ではなく「論理的な基準値」で考える事が出来る。
    従って、設計的に事前に反映して対策を構ずる事が出来て、「787」の様に「環境条件下のテスト」を無視する事が出来る。
    ”世の中はそうは行かない”のがこの世の現実で、その主原因はこの「2つのパターン」が存在するからである。
    「787の彼等」は、この「2つのパターン」を「比例」と観て、その中間の「微妙な領域」を無視するから、この様な「787の様な問題」を引き起こすのである。
    これに逸早く取り組んだのが「日本」であり、「日本人の繊細さ」であり、それから生まれた「日本の品質」であるのだ。そして、その歴史は青木氏と同じく1365年もの悠久の歴史を以って引き継がれて来たものなのだ。況や、「日本の品質」=「遺伝子の品質」=「高度な品質」であるのだ。
    故に、「日本の品質」は必ず何時しか「日本発の製品」として席捲し寡占するのである。
    更に不思議な事に、これには、「日本の品質」には「仏教と云う概念」が、それも「古代の時代」から潜在しているからである。外国技術者と議論すると絶対に理解されない点である。
    「787」は”この領域の問題”にラップしている問題なのである。

    ・「4つの季節環境」
    それは「日本の幅広い厳しい4つの季節環境」から来ているのである。
    それが、現在では「環境条件下テスト」とその「チャンバー」の「品質確認の習慣」と成って国内に根付いているのである。何はともあれ、これが「日本の品質の強み」と成っているである。
    そもそも、「青木氏の守護神」で論じた様に、大化期からの「豊受大神」の「物造りの神」から根付いた”「4つの季節環境」に順応する”と云う概念である。
    「技術論」に”「神が顕在する」”と云う実に「不思議な思考原理」である。
    匠達が物を造り出す時、先ず神に「心技体」を委ねて、祈念し「物造りの達成」を願う習慣が未だ途絶えていない。これだけグローバル化していながら「日本の技術者」に「遺伝子」で引き継がれたかの様に根付いているのだ。
    過去にはその「概念の中心」に居たのが、何と「3つの発祥源」の我等「青木氏族」であった。
    故に、ここに至っては、最早、”放置出来ない問題”と捉えて、幸いに筆者がその専門職であった事を理由に、ここにこの問題を敢えて詳しく我慢して論じている。
    まぁ、「787」がこの「環境条件下テスト」を無視しても、最早、日本ではこの「環境条件下テスト」をした純粋な「日本発の製品」、即ち、純国産の「次期の航空機」が進んでいるのであるから、1年もすれば、”より品質の良いところに流れは定まる”が道理であろう。
    「787」が本論の云う事を聞いて、「環境条件下テスト」をすれば又違った流れが起るが、この流れも、結局は、”「4つの装置」の「環境条件下テスト」”を実行しようとすれば、「設備」と「ノウハウ」と「経験値」の唯一の保有国の日本でしか出来ない定めにある。
    その為に、純国産の「次期の航空機」を待たずして「100%航空機」に落ち着く事に成る。
    「4つの季節環境の品質概念」を日本に遺す為にも敢えて論じる事にする。先祖も喜ぶであろう。

    さて、「特記」から話を戻して、従って、この「イオン化傾向」の値は、周囲の「反応体の影響」を最小限にする為に、「標準の水溶液」中の「標準の値」と成っている。あくまでも「標準」である。
    ここに、「適合環境条件」が働けば、「イオン化傾向」の数字に「ズレ」を生じる。
    依って、厳し目に設定して「テスト基準」の「経験値」と云うものが働くのである。
    「厳しい環境条件」が繰り返し激変する「航空機」では、尚更の事で、「経験値」の「イオン化差 1V」を「航空機 経験値」として用いる事の意味を持っている。(地上では「1.5V「経験値」の使用)

    さて、そうすると、・「航空機 経験値」の「イオン化差 1V」と共に、”「温度13℃、湿度20%RH」を中心に「±2℃ ±3%」”の環境は、この「自然界の現象」の中で、「最も恐れる自然現象」を起こす「恐怖の環境条件」である事も云えるのだ。
    つまり、”「イオン化が起こり易い環境」”は、それは、”「静電気の発生領域」でもある”と云う事なのだ。 上記した「ラップ領域」の「イオン」と「静電気」は同類であるからだ。
    (「デンドライト現象」も同類ではないが「ラップ領域」にある。)

     ・「航空機 経験値」
      「イオン化差 1V」

     ・「イオン」「静電気」「デンドライト」環境 (特定条件)
      ”温度13℃、湿度20%RH」を中心に「±2℃ ±3%」”

    >「静電気」
    さて、ここで「恐ろしい現象」のもう一つ、「現象(X)」は、つまりは、それは「静電気」である。
    特に、この環境下では、上記の「磁性体」(イオン)と共に、最も恐ろしい「静電気の発生領域」でもあるので、これに、「リチウムイオン電池」が、鉱物中「イオン化」が最大であるし、上記の様に障害を起こし易い「磁性体」であるので、「静電気」だけは絶対に起こしては成らないのである。

    「静電気」は、「リチウムイオン電池」の天敵

    然し、残念ながら不幸にしてこの「静電気」は”絶対に起る”のである。
    この「静電気」が起これば、「リチウムイオン電池」は「発熱・過熱現象」へと繋がり、且つ、これらを管理する「ソフト基盤」や「センサー基盤」は、「静電気」が「ノイズ信号」と成って基盤に進入し回路を破壊する。
    そして、この「基盤の破壊」は最終は「リチウムイオン電池」そもものを破壊するし、「発火現象」が起る。

    何故ならば、「航空機」は「−40度 0.2気圧」で、空気中の水分は完全に乾燥状態であるので、文句無く「静電気発生の条件」は揃い過ぎている。完全に起る。地上では考えられないレベル差で起る。

    地上では、「静電気」は、「6Kから8K」程度で、「静電気」を抑えて置けば問題は先ず無く成る。
    然し、「静電気発生の条件」が揃い過ぎている上空では、「10Kから12K程度」に耐えられる様に対策を講じなくては成らない。
    この「差」(4K)は考えられない大変な差なのだ。「1Kのレベル」を上げるのに大変な苦労する。それが4Kである。況して、8K以上のレベルは同じ1K差でも2K程度の厳しさを持つ。

    それは、環境条件の「適合環境条件」の最たる環境でもある上に、今論じている「リチウムイオン電池」と云う極めて厳しい「内から外からの弱点」を多く持っているからである。
    この「弱点」と「適合」の2つが揃えば、最早、”アウト、処置なし、ギブアップ”だろう。

    この「静電気」と成ると、「ソフト基盤」、「リチウムイオン電池」の影響に留まらず、全てものに致命的な障害を起こす。その先ず、最たるものは、「プラスティク類」から始まる。
    この「プラスティク類」で終われば良いが、逆にここから始まるのである。
    これも「デンドライト現象」の様に、アメーバーの様に、”弱い部位方向”に向かって他に飛び火し伸びて行くのである。
    「プラスティク類」は、「磁性体」と「イオン化傾向」との環境中では、「帯電体」として注意しなければ成らないが、「リチウムイオン電池」の「イオン化傾向の対策」の「保護材」としても絶対に使わなくてはならないのである。
    これはどの程度に近づけば「静電気の障害」が起るかは予想が付かない為、それを把握する「環境条件下のテスト」を必ず行わなくては成らない。
    「静電気」は、”設計段階で対策”は殆ど不可能である。
    それは「静電気」の「質と量、強弱、場所、影響」等が一切計算出来ない事、仮に判ったとしても幾つもある対策案のどれを設ければ効果が認められるかも解らないのである。
    上記した「適合環境条件」の「環境条件下のテスト」を「チャンバー」で行い、確認しなければ把握出来ないのである。
    そこに「航空機の厳環境」で ”「地上−上空」の条件が急変する環境状況(155M/S”)である。計算は出来ない。
    「静電気の対策部品」には、コンデンサー類C、半導体類、ダイオード類D、抵抗類R、コアーチップ類、鉄心コァー類、等の「部品群」があるが、何処に、どの様な、どの様に、幾つ等々、取り敢えずセットしてみなければ効果は解らないのである。全て「経験ノウハウ」による。
    ある部分にある対策部品をセットしても、それが別のところに影響して別の問題を引き出すと云う”イタチゴッコ”が起るのである。当然に「設計変更」と云う場面も多々出て来る。
    最終、駄目な場合は、その基盤全体を機械的にシールドして対策する、その部分を「適合環境条件」から保護する為に空調を架ける、多少の問題を伴うが、回路全体をアルミパックで覆う等と成る。
    どちらかと云うと、「静電気」そのものも厄介ではあるが、それが次ぎの様な現象を起こす。

    「充電 発電 蓄電」の装置機能を低下させる現象、
    管理維持する「ソフト基盤」の回路に入って「誤信号」(ノイズ)と成って回路を狂わす現象、
    回路全体をハンギング、フリージング、ロッキングなどを起こして電気回路を止めて仕舞う現象、
    回路をバーニングさせる現象
    などが起る。

    これに対して次ぎの様な「ノイズ或いは静電気キノイズ」の対策が考えられる。
    ノイズを熱に変える対策
    ノイズを一箇所に溜める対策
    ノイズの流れを停める対策
    ノイズを逆方向に流す対策
    ノイズを電気的に回路の垂直方向に導く対策
    ノイズを抵抗で抑える対策
    ノイズを吸収する対策
    ノイズに回路を保護する対策
    ノイズに回路を強くする対策
    以上等の対策が施される。

    以上の対策をどれを使うか、どの様に組み合わせるか等、チャンバーの中で経験を通じて試行錯誤する以外にないのだ。
    勿論、「静電気」は高電位を持つ事から、「リチウムイオン」の「イオン運動」をこの電位で引っ張って仕舞う事も起る。
    航空機のこの「静電気の電位」は、地上で起る電位に比べて遥かに大きい「超高電位」を持つ事に成る。上記した地上の最大で6K程度に対して、「2〜3倍程度の電位」を持つ事が計算される。
    最早、この”「2〜3倍程度の電位」”は、「経験値」から上記する10項目程度の対策は大きな効果と成り得ないと考えられる。
    つまり、「12kから18K」と成ると、対策部品自体が耐えられるかは疑問である。
    筆者の経験から、確かに、「12K」と云うものがあった。「特別領域」である。
    最高でも「10K」が限界であろう。「最高領域」である。
    「普通領域」は「4−6K」、「上限領域」で「8K」と云う事に成るだろう。

    「航空機 経験談」
    実は、この「12K」には、「経験談」があるのでここで敢えて披露する。
    むしろ、この「経験談」があって本論の論調と成っている事もある。
    そもそも本論は、この「実際の経験」を元にして論じている。ただ、「リチウムイオン電池」は無かった。
    「航空機」の「ハードの電源」を利用した「電解液のバッテリー」であるが、「ソフト基盤関係」は既にあった。
    これには「守秘義務」を負うが、その範囲で述べる。

    矢張り、特殊な発注先の特殊な「輸送航空機」で、この「輸送航空機」にある”極秘の情報関係の戦略上の製品”を載せる計画で、当時は秘密裏の「世界初の試み」であった。「普通の常識の発想」では決して載せない。”載せない”と云うよりは”載せられない”と云うのが正しい。
    然し、依頼は”載せる”であった。当然に依頼に反対した。依頼先の話から裏には「強い国家意思の存在」の印象であった。その後ろには、”更に別の「強い国家の背景の意思」が働いていた。”と考えられた。
    「依頼先の発言」では ”1年掛かっても良い。実現して欲しい。”であった。
    ”実現する事”が目的であって、価格ではない。”と言う事であった。
    その為に、ある種の担当技監2人が定期的に検討会議を開催し、定期的に立ち会いをし、全ての本機の対策内容を把握して弱点を押さえ考え、難題が起これば議論する事のシステムを確立させてこの繰り返しの保障する約束で行った。
    ただ、最後まで疑問が残った。全て「極秘」である。その為に、何故、当社に依頼したかであった。
    後で判った事であるが、この計画段階から本機の「開発の総請負先」(某総合企業)が先ずあり、本機に関わる部分の「光学関係の別の開発」(某大企業)があり、ここで問題が発生して「行き詰まり」に成った。発注先、請負先、第1開発先の3者が話し合った。結局、この3者がテスト装置のチャンバー寡占装置某企業に相談、この企業の推薦提案で、「本体機」の第2開発先を当社に決める相談があった。
    相談の根拠は「豊富なチャンバーでの経験」にあった。(チャンバーのメーカが納入先の当社の事をよく知っていた。「光学関係機」と「本体機」の”「ドッキング環境」に対する問題”を解決する内容であった。
    (光学機は環境条件では解決できなかった。787の「4つの装置の環境条件下テスト」と同じである。)
    「極秘戦略」である計画の裏側は、この様な裏ルートで動いているのだと知った。
    結局、「環境条件下の品質の問題」が「第1開発先」(装置と経験あり)に出て、”計画が宙に浮いていた。”との事であった。
    渋々開始した。案の定、百何十と云う問題が発生した。何度も暗礁に乗り上げた。何度も技術論の激論を続けた。この時には最早、むきに成っていた。社内は極秘裏。
    この恐ろしい「静電気の問題」は5割を占めていた。「環境条件による品質変化の問題」が3割、「機械特性による問題」が1割程度、この全ては環境条件の上限下限の影響が伴うものであった。
    「世界標準の環境条件下」でも全体の1割程度の問題が発生した。(詳細は守秘義務で困難)
    「静電気」は恐ろしい「12Kの数値」であった。これ以上ではパーツが破壊する可能性が高く成る。
    地上では冬季の中国かモンゴルの砂漠以外には先ず無いが、「塵埃の問題」も絡んでいるので単純には比較出来ない。
    ”価格ではない”と云う事であるので、殆ど部品で対応した。その点で楽であった。

    これには、上記した様な事と、下記に論じる様な事、全ての事が関係した問題であった。
    だからこそ、地上での問題は充分に経験しているが、ここに「特殊な経験」として「航空機の787」を論じられる訳であり、特に強調しているのである。
    時代の進歩で若干異なるところもあるが、総じて、共通する問題である。
    本論の様に、技術論を展開する事には守秘義務の問題は無いだろう。
    普通は本機は地上でよく使われる設備である。確かにこれを「上空の輸送機」で使えば戦略上は飛躍的に良くなる事は理解できた。然し、問題が有り過ぎる。研究を伴うものであったが、研究と開発とテストを同時に行う意思であった。勿論、あらゆる「上空の環境条件」がテーマと成った。
    苦労に苦労したが参考文献は当然に無い。「上空の環境条件」の再現に苦労した。
    「第1開発先の光学機」も合わせて「環境条件対策」も提案して何とか解決した。

    「実際の飛行テスト」に入ったが、筆者らは戦略上の制約からここからは参加していない。
    全て上手く行った様で連絡があった。ところが、ただ一つ後日にただ1件問題が起ったとの情報で、暫くすると、又、話が依頼先から届いた。「依頼先の技術力」で独自に解決しようとしたとの事で、結果は駄目であった様子だが白状しない。
    それは、予想外の問題で、この航空機はジェットターボプロップ機であったが、このテイクオフ時は6度から12度の上昇角で推進する。この上昇期からこの製品は稼動して平行飛行時にはスタンバイの状態と成っている様に「時間の節約」をしているシステムにしていた。
    ところが、この「上昇角と上昇時の振動」に依ってアラームセンサーが働いて仕舞う現象であった。原因は解らない。
    幾つかの原因案を試した。結局、上昇する時に地球との間で「電位電荷」がより強く発生し、その「電位電荷」が、上昇加速度があまりに想定外に速い事と、想定外に気圧変化が早い事、振動が想定外であった事から、発電用のあるセンサーが、「発熱・過熱現象」を起こした事と認知して、異常と判断して回路全体を停止させた事が原因であった。この頃のセンサーはまだ初期段階のものであったので対策が取れない。振動に対する敏感なセンサーはまだ無かった。
    結局は暫定策テストとして、上昇角6度付近でテイクオフし推進力を限界速度に、急上昇は禁止で、何とか維持した事が判ったので、この実績を捉えてこの間に開発を進めた。
    水準角度をより認知する本機用の電気回路用センサー開発をし、水準角度(上昇角)6度を限界に回路を保護しセンサーオフを防いだのである。

    (振動センサーのメーカーに依頼して、「振動」のセンサーは、鉱物中最高の比重を持つ水より軽い「リチウム」をある容器に入れて、それを外界と密閉して作った最先端の特殊なセンサーで、ある「特殊な目的」で開発されたものを応用して使用する事になった。「トランデュウサー」と呼ばれるものがある事を知った。)
    (当該航空機の想定はプロペラ機でジェツトターボプロップ機ではなかった事が想定外の現象を引き起こしたもので、後日判った事であるが、プロペラ機でのテストがあまりに上手く行った事からその後にターボ機に切り替えたとの事であった。実機テストに立ち会った責任者の担当技監の環境条件に対する「技術的な判断不足」で起こした問題であったと考えられる。
    「プロペラ機の輸送機」から「ターボ機の戦略機」に変えた理由は、より戦略的効果を狙ったものであったと考えた。現在もこの両方で使い道は違うが原型が載せられている事を知った。
    余談であるが、この「ターボ機の戦略機」には高卒時にパイロットに合格した事がある。)

    現在はデジタル化しているが、その原型は使われている。当時は「24時間の戦略上の短縮」で航空機上から地上の指令基地に情報伝達を直接行える様に成った。これは当時では、戦略上「決定的優位」に立てたとの事で、聞くところでは現在もその「日本の優位」は維持されているとの事である。

    時代が変化したので「守秘義務」は最早、解けているとは思うが、敢えて隠して充分に説明出来ないところがイライラするが、その分だけ「技術論」では頑張っている。その時の「経験論」を何とか思い出して展開している。大分忘れているが、「思い出す事」に意味があるとして、更に老いに鞭打って次ぎに頑張って続ける。

    要は、上記の事が「環境条件の変化」で”思いがけないところに思いがけない事が起こる”の事例で、上記事例の様に、”「応用物理学を駆使した上での環境条件下でのテスト」”を行い、是非に、「100%787」の完成を試みて欲しい。未来の日本の為である。
    これは「日本の未来」を明るくする「787」なのであるから、上記した様に、これは、歴史的には、”「物造りの守護神」「青木氏族」の「伝統のロマン義務」”でもある。
    この「事例経験談」を見本として、ここでこの事を「理解の元」として説明したかった。

    さて、そこで頑張ってまた元に話を戻す。
    上記の事で、ここで論じている「環境条件下の技術論」の背景をより留意して戴いたとして、次ぎに話しを進める。787も「日本初の国産製品」に成るべく更に論じる。

    上記の「事例経験談」は「現象(X)」即ち、「静電気」と云う恐ろしい現象であるからこその強調する談でもある。
    況して、「ソフト基盤」はこの「静電気」は逃れられない天敵である。設計的には予想が付かない天敵であるので、「環境条件下のテスト」は絶対に避けられない。

    「弱点」はまだまだある。論じるのも無駄の様な気もする位に、これ程に「弱点」を持っていたのなら、早くユニットにして環境条件下でのテストする必要があると思うが、既に条件は揃っている。最早、これだけはっきりしているのに論じるのが面倒に成って来た程である。

    >「マルテンサイト変態」(内部弱点)
    そこで、一寸難しいのだが、この「リチウムの結晶構造」は、「体心立法格子」で「マルテンサイト変態」を起こす金属なのである。これは応用物理学の専門家でなくては判らない。
    専門家ではあれば、この言葉を聞けばどの様な特質を持つ鉱物であるかが凡そ直ぐに判る。
    上記した様に、「デンドライト」(樹枝状結晶)と合わせて応用物理学の範疇の専門的知識である。
    これが鉱物の中で起こると、「デンドライト現象」と同じく ”最早処置無し”である。
    鉱物の中で、内側でこの「マルテンサイト変態」が起こるものは少ない。
    「リチウム」と云う金属には、この「マルテンサイト変態」はまったく必要は無く、「利点」にはならなく完全な「内部の弱点」に成る。
    「リチウム」は「180度が融点」とすると、その約1/2程度のところで「結晶構造」が、突然に「面心立方格子」から「体心立方格子」に「リチウムの金属構造」が変わると云う事なのである。
    普通の鉱物の殆どの結晶は「面心立方晶」である。
    これは専門的過ぎると思うが、最大の「リチウム」の内部内側から普通に発生する「超弱点」であるので論じる。
    「航空機のリチウム電池の関係者」に役に立つだろう。
    その「変わり方」がどの様に成るのかと云う事だが、その「変わり方」が専門的に「マルテンサイト」(硬化すると65Rc)と云う”「リチウムの結晶」”の「温度による変わり方」なのである。
    つまり、冷却すると「硬く成る」と云う事で、”どの様に硬いか”と云うと、ダイヤモンド(72Rc)に近いと云う事なのである。ダイヤモンドの結晶も「体心立方格子」である。
    因みに、鉄は融点1540度の720度(A1)〜910度(A3)のところでリチウムと全く同じ「結晶の変化」を起こす。
    鉄の刀の刃先は、この「結晶構造の組織」と同じに成っていて、ある速さで冷却するとこれと同じ硬さ65Rcに成るのだ。
    とすると、上記した様に、このリチウムは80℃僅かに超えたところで、この「結晶変化」を起こして刃物の刃先の硬さ65Rcと同じ位の強度に成る要素−「結晶構造」を持っていると云う事なのである。
    この刀先の事を特長を連想して考えてみる事でその問題点は判る筈である。
    上記の様に”「熱」が「振動」で上昇する”と論じたが、この現象が「100℃付近」で起ると云う事は、”ぼろぼろに成る”と云う事なのである。”80℃で全く起こらない”と云う事ではない。
    これでも熱に如何に弱いかと言う事が判る。(航空機はこの冷却に相当する環境変化を起こす。)
    冷却で硬くならなくても、この”「体心立方晶」の結晶構造”に成ると云うことだけで「弱点」としては充分である。(元は「面心立方晶」)
    ところが、この現象は地上では、”硬く成る、ぼろぼろに成る”と云う事なのだが、これだけでも大変な弱点なのであるが、更に、決定的な環境条件 即ち、「上空」である。
    上記した様に、「−40℃ 0.2気圧」云う極寒の温度に成り、且つ、もっと悪い条件は”急速に成る”と云う事である。更に気圧が地上の1/5の0.2気圧と低下する。
    では、上記の特質の「マルテンサイト変態」に、この”「−40℃」と「急速冷却」と「0.2気圧変化」の「3つの現象」が加わればどうなるのか”と云うことであるが、「リチウムイオン電池」の「最悪の悪環境条件」と成るのだ。では、”何が起るか”である。

    この「マルテンサイト変態」は、本来は徐々に”ゆっくり”と温度を戻せば元に戻る特質である。
    ところが、この「3つの現象」が起ると、元に2度と戻らないのである。
    つまり、「マルテンサイト」の”「体心立方晶」の結晶構造”でも「大弱点」なのに、”硬く脆く成ったたままで終わってしまう”のである。
    これに成るには、凡そ、「15度程度、2秒間程度で、1気圧程度」で冷えれば「マルテンサイト変態」は終わり戻らなく成る。これは何処にでもある環境である。
    何と、これを「航空機の厳環境」で観れば、何度も「テイクオフとランディング」で繰り返すのである。
    「15℃程度、2秒間程度で、1気圧程度」は、「航空機」では充分に起こす現象である。気圧も「0.2−1]を繰り返すので、100%起こる。”条件が揃い過ぎる。開いた口が塞がらない。”唖然とする事が起るのである。
    つまり、簡単に云えば、鉄で云えば「焼入れ」に近い事が起こるのである。
    ”何故に戻らないか”と云うと、「マルテンサイト変態」は、上記に「体心立方格子」と述べたが、これが、専門的に云うと「稠密六立方格子結晶体」と云うものに変化(学問的には変態)してしまうからである。
    判り易く云うと、丁度、「ハニーカム構造」(はちの巣の構造)を極めて細かくした結晶構造に成り、何れの方位からの「エネルギー」、又は、「力」を加えても均等に力が分散して掛かり、いろんな角度に変化するエモルギーが届かないのである。だから硬いのである。
    この「航空機の厳環境」の上空では、「変態」に至るには、地上に比べて1/4倍程度の「環境条件の変化のエネルギ」が掛かるだけでよい事に成るのである。冷却で無くてもそれに相当するエネルギーがあれば起こる。この地上差の「4倍の差」は単純な4倍差では無いのである。
    (論じるのもあほらしく書く気がしないのだが、頑張って書くとする。)
    上記した様に ”「80℃の安全限界の始点で 100℃の使用限界の終点」”に明らかに達していると論じたし、”「3つの現象」を繰り返す”と論じた。
    ”硬く成る、ぼろぼろに成る”の「マルテンサイト」は、「マルテンサイト」がそのものが悪い事では無い。 ”硬く成る、ぼろぼろに成る”の事は、”「疲労の蓄積」−「疲労破壊」”に弱いからである。
    硬く成らなくても、”「マルテンサイト」の”「体心立方晶」の結晶構造”で充分に脆く成るのであるから、”「硬い」は度外視しても良い”のだ。”硬さの差”であって、起こる事は同じである。
    つまり、簡単に云えば、「マルテンサイト」は「脆い」のであるから、外部からのエネルギーに左右してこの結晶にこのエネルギー(応力)が次第に蓄積して終には「疲労破壊」に成ると云う事なのだ。
    その時間は、”極めて短い時間”で良いのだ。”すぐに起こる”と表現出来る。
    この「マルテンサイト変態」の時には「熱」を伴う訳であるから、”「脆さ」から来る「疲労破壊」”と、その時の「熱」による「熱疲労破壊」の「2つの現象」が重複して起こる事に成る。
    更には、「航空機の厳環境」であり、「−40℃ 0.2気圧」であり、「155M/Sの落差の急変」等の外部の「マルテンサイト変態」を起こすエネルギーは充分であり、更に、上記した「過熱の弱点」と、「変態で起こる熱」との「不必要な2つの熱」に因るエネルギーに襲われるのである。
    この「熱の発生源」は、更に、「リチウムイオン電池」外の他の「3つの装置」全体からも自然発生する。
    当然に「ソフト基盤」からも起こる「自然熱」もあるから、その「総合熱」は「密閉状況」にある筈である事を考慮すると、少なくとも40℃超には明らかに成り得ている筈である。
    「40℃+X」は、「環境条件下テスト」をして見なければ確定は出来ないが、”保護材の硬化温度の使用限界の65℃”付近には成っている筈であろう事は充分に予想できる。
    不必要な「X=25℃超」は、上記の「2つの熱」共に上記の「蓄熱の弱点」でもある。この現象が繰り返されて「蓄熱のポイント」は益々上昇し、何時か「バーニング」に発展する事に成る。
    「リチウムの特性」のところで記載した内容から観ても、「過熱の現象」は充分であろう。

    その根拠は、上記した様に、先ず、「自然発熱」として、「ソフト基盤」が、抵抗やコンデンサー等の「発熱体」を多く使われている事により発熱する。
    上記した「ソフト基盤」の「環境条件下対策」には、特に「静電気対策」や「電気ノイズ対策」にはこの「熱源と成る抵抗体」のパーツを利用した対策を用いる。
    不必要に回路に侵入して来たこの電気の「ノイズ」を、「鉄心コイル」や「コアーチップ」等の「抵抗」Rに通して、「フレーミング左手の法則」と「ジュールの法則」に依って「熱」にして「ノイズ」を回路外に放出して仕舞う仕組みの対策であるからであり、或いは、この「ノイズ」を「コンデンサー」と云う発熱する「蓄電パーツ」に吸収させて、他の電気と共にノイズでなくして仕舞う仕組みの対策で、このコンデンサーもこの後者の法則により「熱」を持つ事に成る。
    「リチウムイオン電池」もこの「充電と蓄電」のコンデンサーと同じ役目を果すのであるから、「リチウムイオン電池」も同じ「発熱源」なのである。
    従って、これ等の「静電気対策」を講ずれば講ずる程に、この「部品」が増え、「熱源」は増す事に成る事から、当然に「発熱現象」は高く成り、限界の40℃を超える事にも成り兼ねない訳である。
    「経験値」から
    「40℃前付近」に成ると、小型シロッコファンで冷やしその空気を外に流す「放熱」の工夫が伴って来る。
    「40℃超」に成ると、必然的にそこに上記した特性から来る「発熱・過熱現象」が加速的にスパイラルで上昇する。
    「50℃超」では、最早、「発熱体のパーツ」を使う対策は採れず、「空調」が必要に成る。
    この温度域は「放熱」と「空調」は少なくとも必要に成っている領域である。

    「充電 発電 蓄電」の「3つの機能」のところの電気回路基盤には、12Kのところまで対策を必要とする事からも「自然熱」としての「発熱・過熱」では空調は「必要条件」である事は充分に考えられる。

    この様に、”「熱」は「熱」を呼ぶ!”の特質から、放置しておけば、当然に「蓄熱の特質」から、”「熱」の負のスパイラル”は起こる。
    依って、この「熱の連鎖反応」を無くす為に、一般的に下記の「温度範囲の要領」が用いられる。

     ・「温度範囲の要領」(回路防護の基準)
    「パーツ」(40℃以下)−「放熱」(40℃域)−「空調」(50℃超)−「発熱分離」(65℃域)−「設計変更」(80℃域 安全限度)−「使用限度」(100℃域)

    この「静電気対策」や「電気ノイズ対策」に用いる部品は対策を講ずれば講ずるほどに「発熱体」が増え、逆に「自殺行為」に成る。問題が多ければ多いほどに「自殺−破壊」に至る。
    つまり、”問題が多いと「パーツ対策」が採れない”と云う事にも成るのだ。
    「12K」はその領域の限界とみなされる。

    因みに、回路設計段階では、出来る限りこの大まかな対策は採るが、この様な必要以上の「発熱体」の「対策パーツ」を設計しないでいる。「環境条件下テスト」では電気技術者は、矢張り「発熱体の対策部品」をつける事には抵抗する。それはこの「対策パーツ」を取り付ける事には「コスト」が高く成るので渋る。
    ところが、物理系技術者はつける事を求める。
    ”「発熱」40℃の限度”は、「環境条件下の過酷テスト」(プレッシャーテスト)で確認出来る事から、先ずは取り付ける事を求める傾向がある。
    要は、”両者の駆け引き”が起こる。物理系技術者の「豊富な経験と知識」と「コスト」の戦いが起こるのである。常に、物理系技術者は、「豊富な経験と知識」で彼等を説得し「優位性」を保っておかなければ成らないのだ。この様に「品質とコスト」に「切磋琢磨」して飽くなき追及をする姿勢が「日本発の製品」が生まれ、それが「寡占」を作り出している「原動力」と見なされる。
    それの源が ”「チャンバーによる環境条件下テスト」”なのだ。
    上記する様な「豊富な経験と知識」は「物理系技術者の範疇」であるから、それをシステムとしない米国には ”専門家が居ない”と云う実態が生まれている事を物語る。
    言い換えれば、「日本の製品の寡占」はここから生まれているのだ。恐らくは近い将来には、「航空機」も「日本発の製品」となり「寡占」になるであろう。
    「787」の片方が、”原因不明 「発火」しない「発熱対策」”を主張し続ける限り「寡占」は必ず起こる。

    自動車もハイブリットとEV化では、上記の様な、最早、「豊富な経験と知識」は「物理系技術者の範疇」と成り得る為、最早、その寡占の入口に入っていると考える。
    米国も思考原理が異なる事から無理であるかも知れないが、日本の唯一の「切磋琢磨の相手国」としてこの「技術環境」に目を向けて欲しいと考える。
    米国も日本の様なこの様な「技術環境国」が無ければ寡占は続く筈であった。そもそも上記した様に、日本のこの「技術環境」は今始まったのではない。奈良時代から始まったのである。
    それが現在まで脈々と引き継がれて来たのである。

    (「青木氏」の「皇祖神−子神−祖先神−神明社」の「豊受大神」の「物造りの神」からである。
    「青木氏の家訓10訓」にも遺された程に、「技術や品質」に「神の概念」を魂入した「神技」を1370年の今も忘れては居ないのである。)

    >「外装材の問題点」
    787は此処まで論じたが、これだけ多い「弱点や欠陥」を持っているのだから、現在も、この ”「自殺−破壊」のシナリオ”の中にある事は否めない。
    この「2つの事」から、上記の「環境条件テスト」を行えば必ず判る筈であるが、「繰返しの熱疲労」が起る物理現象が存在する。目に見えない事から無視されがちであるが、「熱疲労」は必ず起こっている。
    「リチウムイオン電池」の乗せた「航空機」は、普通に起こり、これを真に繰り返す。
    この「テイクオフ−ランディング」の度にこの現象が起こすと、”繰り返しの「熱疲労の蓄積」(高温と低温)”が起こり、最後に「疲労破壊」が起るのである。これは「宿命」と成る。
    これは「リチウム塩」は勿論の事で、それにカバーなどに使われている絶縁体に使われる「プラスティク類」にもこの熱伝導(65度 使用限界値 硬化点)が働き破壊は別のところでも引き起こされる。

    周囲に金属材を「外装材」として使う事は、「イオン化傾向」に依って「外部イオン発生」が起こり、問題を起こす事は上記で論じたが、「絶対厳禁」である事は論じたが、その為に絶縁体の「プラスティク類」を「外装材」として使っている。
    その事から「40℃超のポイント」の直ぐ後に、結局、安全限界の「65℃のポイント」が迫っている事に成り、「80℃の使用限界値」を待たずして、その前に、この「外装材」の「硬化温度」が迫っているのである。
    「外装材プラスティック」にはこの「硬化温度」が存在することが「特性の欠点」でもある。
    結局は「外装材のプラスティク」の「65度の使用限界値の硬化点」が「温度の限界値」と成る。
    石油製品の「プラスティック類」は「軟化」の前にこの「硬化点」を全て持つ。
    普通は鉱物は「軟化点」の後に「劣化点」(硬化点)を持つが、「プラスティック類」はこの逆の特性を持つ。大抵の「プラスティック類」はこの「硬化点」を65度付近で起こすが、この現象を少しでも耐えられる様にカーボンやシリコンを入れて「耐熱化」を施している。
    あくまでもこれは「耐熱化」であって、「硬化点」を上げている訳ではない。
    「硬化現象」を起こすとその「耐熱」に耐えられなく使用は制限される。
    従って、使用限度を少しでも上げる為に「耐熱」にしただけである。
    「4つの装置」の本論の問題外の「外装材」と云う点でも、「65℃」と云う「温度制限のポイント」があるのだ。
    故に、「45%の安全限度の80度、60%の使用限度の100度」と云う事で論じる以前に、「外装材」と云うプラスティックに使用の制限が「65℃」で迫っているのである。
    「リチウムイオン電池」の「イオン化の障害」と成る「金属類」を使えない事に因って引き起こす「制限温度」なのである。
    この「外装材」が硬化して「テイクオフ−ランディング」の環境条件の繰り返しで「劣化」が起こり易く成り、その為に「外装」に亀裂が起これば、上記した様に「リチウムイオン電池」の密閉度は破壊して「発熱・過熱現象」と「熱による疲労現象」など、上記した「特質の欠陥」が堰を切らした様に発生して直に「バーニング」に至る。
    この場合の「外装材」は、普通の「外装材」では無く、「リチウムイオン電池」の機能をも果す確固とした品質を維持する「一パーツ」なのである。
    その「外装材」に「温度制限が80℃以下」のところで「65℃」として待ち構えていたのである。

    この「熱疲労現象」は「鉱物の融点45%域〜60%域」で起る様に、リチウムは「80度」で無くても、もっと低い温度でも「繰り返しの回数」が満たせば「疲労破壊」が起る。
    それも材質の特性値から「普通」に起こる。起こればその80℃の限度は低下してくるのだ。
    何故ならば、「ヤング率4.9」で「弾性率が4.2」であるとすると、「熱疲労現象」に因る「疲労破壊」は最早、疑う余地は無い。
    この数字の持つ意味は、鉱物では、”最大に起こり易い事”を意味する。この「外装材の65℃」が「使用限界温度の80度」を引き寄せて仕舞うのである。
    何故ならば、「リチウムの45%−80℃」の「熱疲労現象」の前に「外装材の65℃」の「硬化による劣化点」が来て仕舞うのである。
    従って、65℃で始まって80℃で重複した「熱疲労現象」は倍加して起こる事を意味する。
    つまり、「内部と外部」から「リチウムイオン電池」を襲う事に成る。

     ・「疲労破壊現象」(低温疲労)
    これで、この「疲労破壊現象」の論調は終わったと考えておられると思うが、ところが違うのである。
    「航空機」ではこれでは済まないのである。

    「熱疲労現象」は上記した「高温疲労」(45%域〜60%域)の他に「低温疲労」というものもあるのだ。
    低温が何度も続くと、分子運動が低くなっているところに「繰り返しの変化」が起ると、結晶構造の結晶の境目に疲労の「−エネルギー」(−応力)が蓄積して破壊する事がある。
    特に、「面心立方晶」であるので、結晶粒間に疲労が溜まりやすいのだ。
    況して、上記した様に「マルテンサイトの稠密六方体心立方晶」とも成って仕舞えば、応力に対する弾力性(4.2)が極端に低下するので、「疲労の蓄積」は倍加して起こって仕舞う。
    但し、この「低温疲労現象」はどんな鉱物にも起ると云う事ではない。

    それには次ぎの「3つの要因」が伴う。
    一つは鉱物の「特異な材質特性」(1)
    二つは外的な「周囲低温レベル」(2)
    三つは「温度の落差と速さ」(3)
    以上の3つである。

    とすると、真に、「リチウムイオン電池」の様な、上記の様な特質(1)の「比熱0.79J/g」の「最高の冷却剤」としても使われている金属である。見本の様な金属である。
    その「航空機の周囲」は、次の様に成っている。
    「−40℃ 0.2気圧」(A)
    「上記の計算値123」(B)
    地上22度とすると、
    「落差は66℃、速さ155M/S」の(C)
    以上ABCである。

    この様に「低温疲労現象の条件」は揃っている。
    この数字から「極寒の−応力」を持つ「航空機」は、鉱物資源の中で「最高の熱吸収力 7.9」を持つリチウムであるのであるから、この「落差は66℃」、「速さ155M/S」の「落差−速さ」では「低温の疲労応力」を確実に起こす事が判る。
    これが1フライトで2度起こるとすると、6/日−年間2100回 リチウムの正式な「低温疲労限界値」が、環境条件による試験を行わなければどの程度かは判らないが、「リチウム」の様な「アルカリ金属」の「経験値」としても、又「ヤング率YP4.9 弾性率4.2」の強度から考えても、この程度の「ストレスの蓄積」で「低温疲労」が始まるその ”ギリギリのポイント”ではないかと予想される。
    つまりは、”「低温疲労」は起こる”は、”起こる”のであって、”始まる”と論じている。

    「既定の数値」に出ていないこの様な「特性値の把握」は、故に、上記する「環境条件下でのテスト」が絶対に必要なのである。
    技術的には、
    ”「起こる」”は、疲労の「蓄積」の段階を云う。
    ”始まる”は「亀裂」(ショートクラック)の段階を云う。
    「亀裂」は進行を意味するのだ。

    ・「高温と低温疲労」は、次ぎの「5つの過程」を踏む。
    「破面工学」で観ると、この「5つの破面模様」が出ている。

    第1段階  「蓄積」 繰り返す応力が蓄積する過程。
    100%ウイークポイントに集まる。「結晶粒界」に集まるので結晶が押し潰される。
    破面は、波に晒された砂地の様な模様を呈す。(ストレスパターン 集中紋跡)

    第2段階  「基点」 「結晶粒界」の最も弱い部分に点の形で基点が出来る過程。
    破面は、波模様が一箇所に集まっている。その集点に点模様が起こっている。その点の大きさで第1段階の大きさが判る。(ストレスレイザー 応力紋)

    第3段階  「亀裂」 「基点」から力の掛かる方向に基点の連続紋が出来る過程。
    破面は、基点から亀裂が爆発した様に、河口を上空から観た放射状模様に波模様が何段にも付いている。疲労の破壊回数分だけ波状紋が重複して出来る。(リバースパターン 扇状紋跡)

    第4段階  「伝播」 爆発紋の「扇状紋跡」に急進的に破壊が進む過程。
    破面は、急進度合いを示す様に「平行波状」の紋様を示す。(パラレルパターン 平行紋跡)

    第5段階  「破壊」 材料が持つYPに対して破壊の力が勝り瞬間的に破断する過程 
    破面は、その材料が持つ機械強度の程度を示す破壊の破断面を示し、破壊が起こる直前の擦り合いのある一定のツルツルしたフラットな平面を持ち、そこから三角の山形の形が出来る。
    平面と山形が周囲に出来る状況で破壊模様と材質強度も判り「疲労の履歴」が判る。
    (キャップアンドコーン 縁状紋跡)

    上記の「破面工学」に因って、「高温と低温の疲労破壊」の判別、「応力」の判別、「モーメント」の判別等の状況の把握が出来る。
    「欠陥の発生原因」と「発生箇所の特定」と「発生の経緯」と「発生時間の推定」と「発生のモーメント」と「発生にいたる強度の推定」等が判別する事が出来る。
    「材質や応力や強度」に依っては、「5段階の過程」は第1とか第2とか起こってはいるが、観えない事もあり変化する。それを見抜くのは「経験識」に因る。

    これも「物理系の技術者」としては、この様な事は、「物理特性値」を観た「経験値」から「常識範囲」である。「破面工学」は、”応用物理学の繊細な日本人の専門技術の研究領域”である。
    故に、「環境条件下のテスト」は「日本が独断場」と成っていて、それが「日本発の製品」(良品質と寡占状態)を作り出す源に成っているのである。
    ここで敢えて、「環境条件下のテスト」の「集大成の破面工学」の一部を紹介した。

    さて、極めて疑問なのは「787」が「環境条件下テスト」をしない侭に、”原因不明として「熱」が出ても燃えない様にした”とする発表であった。
    (この様に応えるしかなく専門知識が無いのは判るが、”「航空機」”である以上は「リチウムイオン電池」のこれだけ多くの「弱点の克服」に取り組み直すべである。)
    上記する「熱」が出たら、「蓄熱の特性」からそれは、最早、”終わり”なのであって、「熱の負のスパイラル」が起こる。
    「発火」が問題に成るのではないのだ。その前の「発熱・過熱」が「破壊の起点」なのである。

    この「環境条件下テスト」をすれば原因が確認され、対策は少なくともは採る事が出来るのに、 ”しない”で発表したのは実に不思議である。何か”しない”の「裏の思惑」が働いていたな”と思う。

    (その前に、日本の調査で、”「787」には専門家が居ない”とした事は判る。
    実に”初歩的なレベル”である事が、”「熱」が出ても燃えないようにした”発言でで裏付けられる。
    これだけの「リチウム特性の弱点」があるのに、この発言は理解しがたい事である。
    ”専門家が居ない”には、”専門的な事を提案したが、専門家が居ない為に却下された。”と云う意味が込められている。当然に上記に論じた様に、”「環境条件下テスト」の実行を提案した。”と云う事になろう。)

    況して、上記した様に「疲労」に極めて弱い「マルテンサイト変態」を起こす材質を考えたら間違い無く「低温疲労破壊」が起る事は、物理系の技術者の専門家であれば直ぐに理解出来る。危険である。
    筆者などは、上記の数値などは関係なく、この「マルテンサイト変態」の「ガチガチ−ぼろぼろ金属」で充分な事である。この「変態」に少しでも冷却が伴えば温度が下がっても元には戻らない。
    否、元に戻らなくても「結晶の変態」でも同じ事で、「ガチガチ−ぼろぼろ金属」で ”低温、高温にしろ「疲労破壊」”は時間の問題である。

    ただ無理に戻すには、ある温度である一定の長い時間掛けて戻すと、「ツルースタイト」と云う結晶構造に成って「安定化」してしまう。それでも更に無理に戻そうとすると、ある低い温度である一定の長い時間下で戻すと、「ソルバイト」と云う更に「安定化」した結晶構造に成る。
    特段に戻す必要は無く、マルテンサイトが起こればそれで終わりである。
    この「マルテンサイト化」したものを戻して、「安定化」したものを「逆の熱処理」で下手に戻すと、”結晶の境界に不純物が析出する”ので、結晶間が弱くなって「ヤング率YP」や「弾性率」は増すが、「疲労破壊の限界」はあまり変わらなくなる。戻しても駄目だと云う事に成る。
    その前に、「コバルトのリチウム塩」にこの「高温と低温の変化」と、況して、「マルテンサイト化」は、「コバルト」を「リチウム」から分離させる為に、「リチウム塩」は「低温・高温」であろうと、「疲労破壊」を起る前に機能しなくなる。破壊する。上記の数式論の経緯を辿る。
    「コバルト塩」で破壊しないようにしていたものが、この「コバルト」が「リチウム」から分離するからである。「リチウム」を護っていた「コバルト」が分離してしまうのであるから、「リチウム」は勿論の事、「リチウムイオン電池」は破壊する。
    要するに、「疲労」が起こり始めると、「マルテンサイト化」が進み、既に破壊する前に「リチウムイオン電池」の「3つの機能」は破壊するの理屈なのである。

    この為に、現在では他の「リチウム塩」が研究されているが、現在は未だ7割は「コバルト」である。
    上記した「内側の弱点」の「疲労破壊」以外にも、もっと、困った強力な「内側の弱点」を持っているのだ。

    続く。

    >「常温窒化」の弱点


      [No.297] Re:787ジャンボ機に思う事(技術論)−2
         投稿者:福管理人   投稿日:2013/06/26(Wed) 07:02:35  

    > 787ジャンボ機に思う事(技術論)

    >「リチウムイオン電池の特性」
    今までは、「リチウムイオン電池」の上記した「外部の要因」が左右して問題と成ると論じた。
    それも環境条件であった。中でも「航空機」と成ると更に厳しい条件が伴う。
    然し、「リチウムイオン電池」の「内部の要因」が左右して問題と成る事が数多くあるのだ。
    それもかなり”敏感に働く特質”を持っているのだ。そしてその敏感な特質特性がこの環境条件に更に影響するのだ。
    そもそも、「リチウムイオン電池」は「イオン」を放出させての原理である限り、物理学的に観ても、次ぎの特性に弱い事が云える。それは、この「リチウム」と云う鉱物は ”「アルカリ金属類」”と云う分類に所属する事で判る。
    「アルカリ金属類」は、そもそも、主に、次ぎの「4つの環境」と云われるものに大きく左右される。

    ・「4つの環境」
    1 「温度」−「湿度」「気圧」
    2 「振動」
    3 「磁場」
    4 「静電気」

    (「湿度、気圧」は基本は「温度」に影響する。)
    以上4つを含めて、大きく左右される事が判る。

    それは”極めて強い「アルカリ性」”を示し、それも”過敏感に働く特質”を有する「アルカリ金属」なのだ。
    この「湿度と気圧」は、特に「温度」に連動し左右されるので「温度」の中の要素として置くとして、以上の「4つの環境」に弱い事が判る。即ち、「アルカリ金属類」は、「4つの環境」に反応し易いのである。

    ・「温度」では、温度が高まれば何でもそうであるが、「分子運動」がたかまり「反応力」は高まる。
    ・「振動」では、その物質の内部を揺さぶる為に、「分子運動:電子運動」、即ち、「電子の振動」(イオン運動)が助長されて、更に「分子運動:電子運動」(イオン運動)は高まる。
    ・「磁場」では、その物質の周囲に「磁場・磁界」が働き、「内部の電子運動」(イオン運動)が、この「磁界・磁場」には電位電荷を持っている為にこれに引っ張られて更に高まる。
    ・「静電気」では、「磁場磁界」と同じく、高い「電位電荷」を持っている。これが「内部の電子運動」(イオン運動)に連動して異常な運動を引き起こす。
    又、「静電気」が「電位電荷」が高い為に内部に入り込み、勝手に電子運動(イオン運動)を起こして仕舞う事も起こる。破壊して仕舞う事も起こる。
    ・「湿度と気圧」では、「温度」に連動して変化する為に、「温度の影響」を助長させて仕舞う。
    この「温度」(湿度、気圧)は、「振動」「磁場」「静電気」に大きく影響を与える為に、相乗効果をそれぞれに与える。
    「内部の電子運動」が「4つの環境」に因って、外部に飛び出した電子が、「イオン」の形で浮遊して(他の極側に引き寄せられる)重複して「4つの環境」に更に影響を受ける。

    この「イオン」に関するこの「4つの環境」は、取り分け、「航空機」では、上記した様に、最も常時起る「環境条件」で、それも頻繁に繰り返し起る。
    「特性」と書いているが、「航空機」では完全に強い「4つの環境」の条件が揃い過ぎている為に、「弱点」と成るのである。「航空機の環境条件」=「弱点」である。
    そして、「テイクオフ−ランディング」が繰り返されるのである。”地上の普通の環境条件”ではない。現在の保有するノウハウでは考えられない「新しい現象」が起る筈である。
    そこに、この「アルカリ金属類の特性」がどの様に働くかに依るが、次ぎの特性を考慮すれば「弱点」として働く事は間違い無いのである。
    これも「金属」としての「弱点」としての評価であるが、これが「イオン」と云う形に成って浮遊するのであるから、尚更に「弱点」となる。
    では、この「4つの環境」がこの「イオン」にどの様に働いて「弱点」と成り得るのかを論じる。

    >「3過特性」
    ・「過負荷 過温 過電」
    ・「常温劣化」

    以上が「アルカリ金属類」に持っている事は、「専門家の常識」である。
    (「過」は「満」の領域から起こる 「過負荷」は「過圧」、「過電」は「充電、発電、蓄電:3つの機能」)
    これは「リチウムイオン電池」の「内部の弱点」である。

    ・上記の「4つの環境」がこの・「3過特性」と連動する事から「弱点中の弱点」と成るのである。

    「4つの環境」+「3過特性」=「リチウムの弱点1」

    ところが、この「弱点」と成る「航空機による環境条件」には、更に、その「変化の幅」では、地上では想像出来ない「変化差」を持っている。これが更に、”加速的に弱点を助長させる”「変化差」なのである。何度も云うが、「リチウム」とその「イオン」に取っては、 ”「航空機の環境条件」は典型的な弱点の見本”なのである。

    ・「3つの要素」(「航空機の弱点 1)
    「航空機の環境条件」(3)(5)
    「アルカリ金属類の特性(3過特性)」(1)、(4−1、4−2、4−3)、(6)、)
    「4つの環境」(2)

    「4つの環境」+「3過特性」+「航空機の環境条件」=「リチウムの弱点2」(「10要素」)

    以上の条件の「3つの要素」を解決する事は容易ではない。
    この「3つの要素」が互いに連鎖する事も起る。結局は「3つの要素」では無くなり「10の要素」と成る。

    これに・「常温劣化」(下記)と云う「自らの内側から発する弱点」が絡むのである。この・「常温劣化」は「自然劣化」である。
    つまり、この「リチウムイオン電池」の「自然劣化の進行具合」を管理し把握しておかなければ成らない事に成る。

    「4つの環境」+「3過特性」+「航空機の環境条件」+「常温劣化」=「リチウムの弱点3」

    この管理維持は、「過温」(1)と共に「自然環境条件」(2)に大きく左右される訳であるし、「航空機の環境条件」(3)にも大きく左右されるし、更には、「過電−(充電 発電 蓄電)」(4)にも大きく左右されるし、「航空機」に必ず伴う「気圧」の「過負荷 過圧」(5)にも大きく左右されるし、合わせて、「6つの状況」を複合的に管理維持する事は、最早、不可能である。

    そもそも、日本では、「ハイブリットとEVの自動車」で実績があるとしても、この「10の要素」と、「6つの状況」と、それに付加するその「環境条件の変化」と「その幅と頻度」(7)が加われば、最早、比較出来る程度のものではない。

    「4つの環境」+「3過特性」+「航空機の環境条件」+「常温劣化」+「幅と頻度」=「リチウムの弱点4」

    これ等の「10の要素」と「6つの状況」を加味して「環境条件下テスト」して見なければ、”解らない領域の問題”である事は、専門家でなくても誰でもが判る。

    (だから必須条件として「環境条件下テストの必要性」を論じている。”それはその程度のもの”での「染み付いた概念」では済まされない事なのだ。人命に関わるのだ。)
    「リチウムの弱点4」を克服するには、果たして、「航空機の厳環境」の事に付いてどの様に成っているかを先ず論じる。それで無ければ”困難だ”としての意味が成さない。


    ・「上空の厳環境」
    「10KM −40℃」
    「10Km 0.2気圧」
    「充電率 40%−50%」

    例えば、因みに、「温度」は、地上から10KMまで上空に成れば、「温度」は急激に下がるが、概して平均計算して、「1KMで6.5℃±1℃」程度も下がる事に成る。
    但し、これは厳密に云えば「気圧の影響」、つまり「空気密度の影響」を強く受けるが、概して云えば、上空10KMでは「−65℃±10℃」下がる事に成る。

    普通は、この気圧も「5KMで1/2×地表圧」と言われているが、概して0.3〜0.5気圧とすると、10KMでは概して、「0.2気圧前後程度」と成る。

    この数字は環境条件学的には恐ろしい条件である。
    上記した様に、「常温」で「バイアスの範囲」が、「22度±5度」であったとすると、バイアスを適用すると「10KM −40度程度」となるので、完全に「鉱物の特性」は変化するのである。
    むしろ、「分子運動」、つまり、「イオンの運動」は、そのものが「−80℃」でほぼ止まるという概容に成るので、上空「10KM −40℃」での「イオン運動」は1/2程度になってしまう。
    (−273℃で完全に止まる臨界温度)
    この程度の知識は物理系技術者では常識である。

    当然に、この「温度」に連動して「空気の影響」は変わるので、空気の中に含まれる「湿度」も低下するし、「気圧」も「温度」と「湿度」が変われば「気圧」も連動して下がる。
    上記の「10KM 0.2気圧」に成ると、「イオンに与える影響」は、「温度の影響」に付加されて下がる。
    「湿度」と「気圧」は、「充電」された電気が、上空では「湿度」は極端に低下し、「気圧」で水分量が低下する為に、「放電」が起こり易く成る。
    「充電−放電」に対して大きく影響すると、当然に「発電」が、先ず「10KM −40℃」で「1/2化」あれば、常識的には放電量を10%と観ると、結局は、1/2.5化して殆ど停止状態と成る。

    但し、これは、何もしない場合の結果であるので、飛行中にセンサーが働き、持続的に「充電機能」が働くとすると、つまり、地上に対しては、上空の方が ”「充電に対する機能」が低下する” と云う事になる。
    当然に、この様に成ると、「リチウムイオン電池」の「充電量」は「温度」と「放電」の影響で、40%〜50%程度に著しく低下する事を意味し、それは、”標準より時間が掛かる”と云う形に置き換えられる事に成る。

    (下記に論じるが、「リチウムイオン電池」にはその宿命として、「電位」をある領域の中に保たなければならないとする「絶対的な規格値」がある。それが、「電位管理値 1%仕様」であってこれが働き、”標準より時間が掛かる”と云う事では済まなくなるのだ。
    そして、これも下記で論じるが、その「トラブル欠陥」として発生する期は、「最大300サイクル×0.8=240サイクル」の寿命付近で必ず起こるのだ。)

    これらの現象は、一度起これば ”「連続の負のスパイラル」” で起る。
    ”一度起これば”としているが、 「リチウム特性」(弱点)の ”「過負荷 過温 過電」の「3過特性」と「常温劣化」” で間違い無く問題が起こる事が裏付けられる。
      「3つの影響」
     ・「10KM −40℃」
     ・「10Km 0.2気圧」
     ・「充電率 40%−50%」

    「上空の厳環境」は、以上の3点だけの問題ではないのだ。
    (「常温劣化」の弱点もあるがこれは下記で論じる。)

    ・「厳環境の問題」
    上記の「3つの影響」には、次ぎの「厳環境の問題」が遺されている。
    「変化する温度差」
    「変化する時間差」
    以上の「2つの影響差」が関わって来るのだ。

    この「温度差と時間差」は物理学理論では、その「物質の特性」と絡んで想定出来ない。
    これは実験以外にない。
    「10KM −40℃」として「4つのパーツ」はボディーに囲われているので、せいぜい「−20℃程度」と観られるが、「マッハ1程度」で飛んでいるので、ボディーの周囲は「高速気流」に依って「気圧」が下がり、従って、「温度」も下がる事に成るので、結局は、少なくとも「−30℃±−10℃程度」と成るだろう。

    操縦席の下にある電気室は、「空調や圧力調」の「調整の有無」の如何に関わらず、「地上と上空の環境条件」の繰り返される変化に依って、「電気室内の温度」は、「上下の落差」の大きさと、それに伴う「気圧差」が生まれる。
    ところが地上着陸では、上空の「調整の有無」は解除される事から、この「3つの影響」を受けて、結局は、この様に「温度」は、「−30℃±−10℃」から下限の「−40℃」になる事が予想出来る。従って、ここでは一応「10KM −40℃」として考える。

    とすると、「変化する温度差」は「世界標準温度22℃」から「−40℃」に変化する。この落差は「62℃」と成る。
    日本では4季があるので、冬期(0℃)からすると、「40℃落差」、夏期(40℃)からすると、「80℃落差」と成る。

    問題となるのは、これが、”「リチウムイオン電池」にどの様な影響を与えるか”である。
    地上では、「自動車」と異なり殆ど「航空機」は停止中であるので、「停止中の温度の問題」もあるが、「リチウムイオン電池」では、原則停止状態とすると、夏期40℃は上空で冷却されるので、”ある問題”を除いて問題は少ない。
    冬期(0℃)の「40℃落差」が上記した様に「イオン運動」に影響を与える問題に成る。

    (”上空では上記した様に、「充電に対する機能」が低下する 40−50%”)
    (”ある問題”とは、下記に論じるが、「リチウムの弱点」の「3過特性」(「過負荷 過温 過電」)から来る「温度疲労」と「常温劣化」が起こる。)

     ・「航空機の弱点 2」
      「変化する温度差」
      「変化する時間差」

    「変化する温度差」に続いて、続いて「航空機」で起こす「厳環境」の”「変化する時間差」”が与える影響の問題がある。
    そもそも、「航空機」は「テイクオフ−ランディング」の際に、「上空の厳環境」と「地上の環境」との間に、急激な変化を起こす。
    その「変化の速さ」が余りにも急激である為に、その「変化の速さ」が「パーツ全体」に、取り分け「アルカリ金属」の「リチウムイオン電池」に与える影響は大き過ぎる。
    (自動車はこの航空機の弱点2を基本的には持っていない)
    地上では「航空機の変化の速さ」を超える物としては、「落下速度」以外には先ず無い。ここで取り敢えず「急変」として置く。

    この「変化の速さ」(急変)は下記で論じるが、次ぎの「2つの問題」を引き起こす。
    「急変の2つの問題」
    1 「急変」から来る「ストレス問題」  −「リチウムイオン電池」の「疲労と劣化」
    2 「急変」から来る「発熱・過熱現象」−「リチウムイオン電池」の「3つの機能の低下」

    では、その「急変」は「時間差」ではどの様なるか考察して見る。
    上空10KMのフライトは「約マッハ1」とする。(音速324M/S−20℃)
    「航空機」が、「フライト出来る最低の速さ」は「500KM/H」である。
    従って、「テイクオフト−ランディング」では、最低限この範囲を維持していなくては成らない事に成る。
    その「航空機」が起こす「急変」の変化域には、次ぎの「2段階のプロセス」がある事に成る。

    第1段階 「マッハ1」     (324M/S−1166KM/H)→(140M/S−500KM/H)
    第2段階 「マッハ1/2.5」 (140M/S−500KM/H)→(14M/S−50KM/H)(滑空)

    第1段階の差は、184M/S−666KM/H
    第2段階の差は、126M/S−450KM/H

    概して、AVE=155M/S−553KM/H

    第1段階の差は、大きいが、この領域はフライト中で、温度域と気圧域と湿度域の変化量は少ない。
    第2段階の差は、第1段階184M/Sの差に対して、126M/Sと小さいが、「温度域」と「気圧域」と「湿度域」の変化量は、地上の環境に近づく為に大きい。
    恐らく、「問題の発生」は、「第2段階の領域」で起こると考えられる。
    そして、「問題の発生の準備段階」は、「第1段階の領域」で起こると予想出来る。
    (事故の中に、この現象で起ったと見られるものがある)

    この二つに別けて論じるには詳細過ぎるので、「急変の時間差」としては次ぎの数値を使う。

    AVE=155M/S−553KM/Hとして置く。

    下記で論じる際は、このAVE値で論じる。

    兎も角も、AVE=155M/S−553KM/H が、「4つの装置」とその「周辺の基盤類」にどの様な影響を与えるかは、「環境条件下テスト」でしか掴めない事である。
    概して云えば、これだけの「急変」の「温度差と時間差」は、次ぎの2つに影響を与える。
    (1) 「疲労と劣化」
    (2) 「3過特性」(「過負荷 過温 過電」と「3つの機能」)
    以上2つに「異変」を起こすエネルギーを持っている事は間違い無い事である。
    その招く結果は、「発熱・過熱現象」から「発火・破壊現象」へと「負のスパイラル」は進む事は間違い無い。
    「発熱・過熱現象」から「発火・破壊現象」へと「負のスパイラル」”へ進む「プロセス論」は、下記に追々と論じる。

    >「振動の弱点」
    さて、次ぎは、上記「4つの環境」の一つ・「特性変化の要因」の「振動」である。
    全てのどんな「振動」でも影響すると云う事ではない。
    又「振動」があるからその「振動」が、そのものが問題を起こすと云う事ではない。
    ではどの様に問題を起こすのかと云う事に成る。「リチウム」には問題を引き起こす要素を持っているのだ。
    この場合の要素とは、「リチウムイオン電池」は他の鉱物と比べて活発に「イオン運動」を起こしている事である。
    この「イオン運動」に外部から加わる「振動」との「共振現象」が起った時に、初めて「イオン運動」が加速されて過剰と成り、「発熱・過熱現象」が起るのである。
    殆ど力学的には、「振動の欠陥」はこの「共振現象」が主因である。
    何故ならば、「イオン」も振動しているからで、”ある特定の振動” で「イオン」と「共振する振動」で影響を受ける。
    当然に「イオン」は振動しているので、「充電 発電 蓄電」(「3つの機能」)である程度の上記した様に「自然熱2」(「3つの機能熱」)を持つ。

    この固有物が持つ「振動」に「共振」した事になると、「イオンの振動」に加えて「外部からの共振波」で、余計に振動を起こして「イオン」は大きく動く。依って、「自然熱1+自然熱2+共振熱」が起こり、余計に「過熱」が発生する。(「ソフト基盤類」が発する「自然熱1」もある)
    この「過熱」だけでは終わらず、これによって「イオン」が「共振」により、必要以上に活動しているのに、「熱」に変換されるために「所定の充電量」は逆に低下する。

    「自然熱1+自然熱2+共振熱」→「規定の充電量低下」・・・・(1)

    この「逆転の状況」が加速的に振動して「過熱」が起ると、それに伴って「充電量」も益々低下して「過熱−低下」の「連続の負のスパイラル」が起る。
    最早、この様になれば「リチウムの蓄熱特性」から(1)と(2)で「バーニング」以外に無く成る。

    「規定の充電量低下」→「発熱・過熱」→「バーニング」・・・・?(2)

    ところが、この「共振の影響(1)(2)」だけでは終わらないのだ。

    ・「応力に因る亀裂現象」(ショートクラック)
    この「振動」に対して「共振」しない場合、つまり、「充電」が回路上オフに成る時、この「振動」は「リチウム」に「残留応力」と成って溜まり、それが「力学の原理」に従い一箇所に集中して「ストレスレイザー現象」が起こり、「亀裂」が結晶に起る。(これを”ショートクラック”と呼ぶ。)

    「リチウム」はこの「ストレスレイザー」を他の鉱物より最大で起こし易い特質を持っているのだ。それは「ヤング率4.9」と「弾性率4.2」と云う特質である。
    この数字が示す様に、「アルカリ金属類」の「3過特性」の「過負荷(過圧)」に相当するのだ。
    「リチウム」は鉱物中、最も「過負荷」に弱い特質を持っている。内外部のストレスをためやすい鉱物だという事である。
    このこのストレスが溜まった異に因って起こる「結晶間亀裂」が原因して、「リチウム」の「−極側」との間で起る「イオンの電導」は、要求される充電より低くなる為に不足と成り、結局は、「発熱・過熱現象」が起る。
    当然に「過熱−低下」の「連続の負のスパイラル」が起る事に成る。
    「連続の負のスパイラル」が起こる事のみならず、更にこれを加速する現象を誘発させるのである。

    この「共振」による過剰な「イオン運動」は、「発熱・過熱現象」を起こすだけでは無く、この事に因って、”「−極側」に過剰と成った「リチウムイオン」が引き付けられて、「−極のカーボングラファイト」の表面に付着する現象が起こり、−極側も+極側と同じリチウムと成り、「電位差」は無く成り、「還元反応=酸化反応」と成って仕舞うのだ。「3つの機能」は停止する事を意味する。
    要するに、「連続の負のスパイラル」に更にスパイラルが加わる事に成るのだ。
    その「±の両極の能力」は著しく低下して、「充電−発電(供給)−蓄電」の「3つの機能」の低下が、回路の「要求量」との間にバランスと落差が起こり、シュールの法則により「発熱・過熱」は更に加速する事に成る。
    この様に、2重3重の「連続の負のスパイラル」が加速して起こる特質をこのリチウムは持っているのである。
    従って、この時、「共振」と「疲労」と「−リチウム析出」の「3つの現象」が、同時併発して「リチウム」には、「決定的な欠陥」として、あらゆる鉱物の中でも、特質して出現して来る特質なのである。

    これは「電気的」に解決出来ない。
    「共振しない範囲」で除振する以外に無い。
    「共振しない範囲」の特定は、単体ではその「共振波」は判るが、この「単体の共振波」が「他の装置」にも同じに”共振する”と云う事ではない。
    「4つの装置」の「ユニット状態」で「共振波」を特定しなければ成らない。
    この「4つの装置」が互いに連結して固定されてのユニットでの状態で、「特定の共振波」を発生する事に成るので、故に、これを「環境条件下」の「チャンバー」の中で、「バイブレータ」と云う試験装置でテストを行わなければ成らないのだ。
    特に、航空機は「−40℃」と云う ”上記の過酷条件に匹敵する環境条件下”を持つが、この事は「−40℃の極低温域」に晒される事に成る。
    従って、「4つの装置」の「ユニット」には、「収縮化」と「固着化」が起こる為に、「振動」に依って起る「共振」と「疲労」と「析出」の「3つの現象」は、上空域では地上より比べられない程に、厳しくより速く起る事に成る。

    これは意外に特定するのが難しく大変である。「共振波」にはある程度の幅を持っている。当然にその幅も把握しなくては成らない。
    この「振動」も「温度」に依って「ユニット」が収縮・固着化するので、地表での試験だけでは特定出来ず、上記した10KMの環境下を再現してチャンバーで行わなくては成らない。
    難しい環境条件テストに成る。現実に実機では大きすぎる事もあるが、「バーニング」になるから、落下の問題になるのでかなり難しい問題である。
    大型装置は殆どそうであるが、「4つの装置」の室部分を仮製作してテストする事に成る。

    問題は「共振波」でも「衝撃波」に近いものもある。必ずしも電波の様に一定のサイクルと云うもので無い事が多く、「共振波」の中には「衝撃波」が含まれていて、それが連動して影響していることも多い。
    「航空機」にはどの様な「衝撃波」を持っているかの確認をして再現しなくては特定できないだろう。
    多くはエンジンの始動から滑空中のエンジンの「振動波」と「衝撃波」であろうが、難しい再現テストと成る事が予想できる。

    そもそも「リチウム」と云うよりは、「イオン」と云う物理的特質に左右される事なので、この必ず起る「発熱現象の確認」(「自然熱1+自然熱2+共振熱」)が大変で難しいのである。

    筆者の経験から観て、この確認は出来ていないと考えられる。相当に経験したノウハウの持った物理系の技術者でなければ出来ないのではないかと考える。
    筆者も「リチウム」ではなかったが、矢張り「イオン」の特性を利用した製品の振動試験を経験した事があるが、やはり「発熱・過熱」してその原因の特定に苦労した事を覚えている。
    実は、各種の「製品メーカー」は、世界的な基準として「完成品テスト」と云うものが規定されていて、「完成した製品」を各地に搬送する事に成るが、この時に起る現象を確認するテストである。
    その中に、「実車走行負荷試験」というものを必ず行うことが日本では規定されている。
    走行中に起る「振動」や「衝撃」や「温度」や「湿度」等の ”現実に起る環境条件”を負荷する。
    輸送梱包の ”品質レベルの劣化状況”や”製品本体に問題を起さないか”の確認テストも兼用する。
    一定路上の「走行時間」や「急ブレーキ回数」や「凸凹の回数」や「高速走行距離」や「Sカーブ回数」や「熱射時間」等を故意的に負荷するのである。これに計測器機を付けてデータを採る。
    この時にある「イオン装置」が熱を持った事があった。「80度の熱限界」が限界であったので一応認可されたが、念の為に「チャンバー」で再現テストを行ったが原因は判らなかった。
    走行試験後に、「梱包の状態」で「環境条件下テスト」を行うのだが、「梱包」に依ってあらゆるパーツ関係が異常を来していないかの確認である。
    梱包の内部の製品には、「繋ぎ目部分」にはある強度の紙テープを張り、テープ部にひずみが起こればテープは切れるかどうかのテストを行う。と云う事も平行して行うが、この走行負荷試験は比較的に問題が起る。
    特に、この場合は、アフリカやシベリヤ等の輸送条件や環境条件も含む「極限の地」を想定して行うのだが、上記した「Bの過酷条件」にチャンバーでテスト再現出来ない現実負荷を加える。
    (これは地上のものに対する走行テストであるが、航空機には「実機テスト」様なものがあるかは不明である。「4つの装置」の単体による実機テストか、チャンバー内での4つの装置の再現テストは必要である。)

    (物理学的に、総じて「パーツの安定した特性の維持範囲」は「80度域が限界」とされている。
    これを反映して、例えば精密な回路用の温度センサーでは60度から120度までの20度間隔のものが用意されているが、多くは80度を使用する。)

    筆者のこの時の解析の判断では、「イオン」は「定状波形の定常運動」である。そこに「定振動」を負荷しても運動のレベルが上がるだけで、「熱」の上昇は普通は定格以上には上がらない。
    つまり、”「定格レベル」を上げない”と考えられ、そこに「衝撃波」が加わり、その「衝撃波」がある「周期性」を持って起ると、その「衝撃波」で「定格レベル」がステップアップし、その「衝撃波」の周期が繰り返される事に依って、「定格レベル」のステップアップがその都度周期的に起る事で、遂には、「定格レベル」を超えてしまう現象を起こしたのではないかと結論付けた。
    そもそも、「航空機」というものに対する「振動」に因る欠陥発生は、”この現象に近い症状を起こす”と考えられる。
    「定格レベル域」(80度付近)では、「イオン反応」を停めれば、「元の状態」に復帰する事は理論的には判る。但し、これは理論的であって、「リチウムの特性」が働くとき「元の状態」に復帰しないのである。
    実は、「リチウム」には、「3過特性」の「過温」と「過圧」に因って、「温」即ち「熱応力」、「圧」即ち「応力」を溜め込む特質を持っている。これを「残留応力」と云う。
    つまり、”「ある領域」を超えると元に戻らない” のである。
    この「ある領域」とは、「内部要因」と「外部要因」とが加わる事に因って、「標準の理論値」とは異なって来るのである。「環境条件下テスト」で確認が是非に必要に成るのである。
    これが「リチウム」と云う ”「特殊な特性」(「3過特性」と「常温劣化」)” の所以である。

    (「リチウムイオン電池」では、「外部イオン」の影響を防止する為に保護枠はプラスティクを用いるので、硬化温度の影響で65℃と成る。 下記で論じる。)

    つまり、”「共振する振動波」と「周期的な衝撃波」が付加されて、「熱レベル」を上げる” と考えられれば論理的に頷ける。
    その「熱レベル」が、上記の「自然熱1+自然熱2+共振熱」を超えた時に、「発熱・過熱現象]が起こると成る。このポイントで「3過特性」の「過温の弱点」を引き起こすと観られる。
    「ある領域」とはこのポイントに成る。
    「リチウムイオン」の「発熱・過熱現象]の原因は、この論理である。
    以下の数式論が成り立つ。

    「自然熱1+自然熱2+共振熱」=「ある領域」<「65℃」(プラスティク硬化温度)(下記)

    この「数式論」が成り立たなくなった時に、「発熱・過熱現象]が起こる。
    つまり、この「発熱・過熱現象]は「残留応力の特質」に因って、元に戻らなく成り、「負のスパイラル」が起こる事に成る。

    「共振する振動波」と「周期的な衝撃波」は、「航空機」には「典型的なつき物」であろう。
    それも、「定格レベル」は「自動車の数倍」と考えられる。
    況して、上空10KMの「G」(引力 重加速度g M/R・Rは一定 G=g=9.8)は、10KM上空であると、物体にこの力が負荷するので、これが「共振する振動波」と「周期的な衝撃波」に大きく影響を与える事は理論的に判る。
    「自動車」(ハイブリットとEV)とは、この「振動の問題」では、”その影響は桁が違う”と云う事である。

    (「リチウムイオン電池」を使う「自動車」と「航空機」とでは、「3過特性」の「過温」では、自動車は「+側の過温」で欠陥に、航空機は「−側の過温」で欠陥に、と云う「真逆の現象」を起こす特質を持っている。)

    それも、上記した様に、「リチウム」と云う鉱物は、この世の中での鉱物の中で最も「敏感な鉱物」であるのだ。
    何しろ、”「常温、常湿、常圧」で「ショック現象」で「バーニング」を起こす”と云う鉱物なのである。決して「振動」と云う事だけではないのだ。

    >「リチウム特性」
    そこで、「3過特性」と「常温劣化」の特質とは別に、そもそも「リチウム」(リチウム酸化塩)とは、一体他にどんなものであるかを紹介しよう。
    それで上記の事が証明出来るし、”「環境条件」に対して敏感で厄介なものである”かが判る。

    この「リチウム」とは、他の鉱物に比して「最大の特質」とするものは次ぎの様に成る。
    (他にもあるが、本論に直接関係のあるものを列記した。)
    イ 「アルカリ金属類」に属す(敏感物質)
    ロ 「比重」は0.53 (冷却剤 センサー類)
    ハ 「Na」や「K」と共に水に浮く
    ニ 「3過特性」(過温 過圧 過電)
    ホ 「常温劣化」
    ヘ 「YP 4.9」
    ト 「弾性率4.2」
    チ 「比熱 7.9」(冷却材)
    リ 「自然発火」
    ト 「常温窒化」
    ヌ 「融点 180.5度」
    ル 「マルテンサイト化」
    ヲ 「イオン化傾向 最大」
    カ 「蓄熱現象」
    ヨ 「蓄圧現象」
    タ 「デンドライト現象」
    レ 「常磁性」
    ソ 「バーニング特性」
    「3大軽金属」の一つである。

    ・「熱限度」(「ある領域」)の検証
    つまり、水より軽いのであるから、水は振動に敏感に反応するが、それより更に半分であるのだから、水よりも倍に敏感に反応するし、上記の通り如何に「振動」に極めて敏感か判る筈である。約2倍に反応する。振動のセンサーに使われている。
    まぁ「敏感」であるから「充電」に使われているのだが、ところがこれだけでは済まないのだ。

    その「融点」は180.54度で、上記した様に、”80度が一般的な鉱物類の使用限界”としたが、その中でも如何に「熱」に弱いかが判る。「振動」だけでないものがまた出て来た。
    因みに、一般に使われている「鉄の融点は1540度」である。この事を考えれば「リチウム」は弱い中の更に「弱い鉱物」であるかが判る筈である。
    南アフリカの砂漠などに行けばこの80度と云う温度は現実にあるし、放置した車の中は日本の夏でも80度に成るが、時には100℃も遥かに超える。先ずこの様な環境では一般的に使えない事が判る。
    日本でもハイブリットやEV車で使う限りは、「空気の通風冷却」をつけないと無理で、精一杯の使用限界点にある事が判る。
    だから、「リチウムイオン電池」の「自動車での欠陥問題」は、「3過特性」の+側に働く為に、夏期に発生していて、現在7割が「コバルトリチウム塩」を使っているが、この夏期の問題解決の為に、”使用限界付近にある状況”を解決する為に他の「+極材」を研究されている。
    コバルトに変えてマンガンやニッケルや燐酸鉄のリチウムとの塩を造る方法で過剰性を抑える方法で研究(7種類)されている。(−極側もグラファイトの種類の研究)
    つまり、どう云う事かと云うと、「発熱・過熱現象」が起こっても、「リチウムイオン」の過剰な「飛び過ぎ」を防ぐ事で「熱の負のスパイラル」を最小限に抑えられる対策である。
    (過剰にリチウムイオンが−側に飛びすぎると−極付近に浮遊付着して+と−の両極にリチウムイオンが存在する為に両極の電位差が無くなりの「電荷イオンの発生」が無くなるのである。
    終局は「発熱・過熱現象のスパイラル」が起こり、「バーニング現象」と成る。


    「融点が180度」とすると、この事から、その鉱物の”「使用限界」と「安全限界」”は理論上、次ぎの様に成る。
    ・「使用限界」は応用物理学上では、「融点の60%付近」と云われる。つまり、「100℃付近」である事に成る。
    ・「安全限界」は応用物理学上では、「融点の45%付近」と云われる。つまり、「80℃付近」である事に成る。
    この数字が最もリチウムの特性を考える上で重要なのである。
    この「2つの限界点」から、ここに、「設計限界」と云うものがあり、「安全率」と云う概念があり数値を定める事が出来る。

    第1段階は 「1.2倍」  第2段階は 「1.4倍」  第3段階は 「1.6倍」

    以上3段階とされる。

    普通はあまり「安全率」を上げると、「コスト」が全体に及んで仕舞うので、普通は1段階の「1.2倍」で済ます。
    つまり、「安全限界」の「20%下」を使うので、「融点の35%付近]を使う事に成る。
    「63℃」という事に成るので、「センサー類」は普通は「60℃」を使う事に成る。
    この63℃はリチウムイオン電池を保護しているプラスティック材の硬化温度(下記)に匹敵する。

    「安全限度」:63℃ ≒「プラスティック硬化温度」:65℃

    この数式の意味するところは、リチウムイオン電池」の「安全限界」は「80℃付近」では無く、その手前で「外部要因」として「プラスティック材の特性」から実質は「80℃付近」は使えないのである。
    80℃付近まで安全だとして使えば、その手前で、リチウムイオン電池を空気や環境条件やイオン性電気磁場等から保護していた「プラスティック保護枠」は、”硬化して亀裂”が生まれ、其処から外気が進入して「酸化」と「バーニング」を起こす事に成るのだ。

    (参考 上記した「環境条件下テスト」では、この様な「応用物理学上の広域で考えた専門知識」でチェックをして、仮に「設計値」にあるとして異常が出なくても、この様な「応用物理学上の広域で考えた専門知識」で直させる事を命じる権限を持って行う。

    何故ならば、「自然物理学」、「電気工学」、「設計工学」等の「専門的な広範囲」の、それもかなり研究者並の「総合的な知識と経験とノウハウ」を有している「専門域の検査技術者」なのである。
    設計者は、設計工学等の単一範囲で設計しているが、現実には、「設計通り」のもので使える事は100%無いのだ。
    製品などに対する「法的基準」や各種の「標準規格」も持ち合わせ、それに世界に10台とない高度な電子機器の計測器機を使いこなす技能も有していると成ると、最早、周囲は指摘に対して聞く以外に反論する根拠は持ち合わせていないのだ。むしろ、電子機器化した現在では、積極的に試作機として持ち込んで来る。その方が速く完成させられ低コストになるからだ。
     
    因って、”80℃は45%で本来は安全の限界”なのだが、実質は異なる。
    普通の「地上の環境条件」でも、自動車などは「安全限界」の「80℃−45%」に既に達しているのだ。
    通風冷却して少しでも温度を65度まで下げる必要がある。EV車はエンジンが無い事から何とか維持出来ることに成る。夏季の炎天下に駐車している時に危険である事に成る。エンジン停止でイオンが飛ばないことから「負のスパイラル」は起こり難いが、保護枠は硬化して進行して行く事は避けられない。

    航空機はこの様な「+側過温」の問題は先ず無い。リチウムイオン電池は操縦席の下の電気室に設置されているので、この熱射から来る「過温現象」は除外できる。
    ところで事故の「787のトラブル」の写真を観たが、「プラスティック保護材」が溶けていた。
    これは上記する「熱の負のスパイラル」が起こった証拠であるのだが、「プラスティク」は、その「材質の融点」に依って異なるが、塩ビ系であれば融点から観た安全限度はその品質の「劣化現象」の始まる点、即ち「硬化温度」は「65度±5度」である。
    (プラスティック類は温度上昇で先ず「硬化現象」を起こし「軟化」し「溶融」する)
    「プラスティク類」は「融点の領域」が大きく差が無いので、一般的にこの硬化温度(65℃)のポイントが使われる。
    「融点」を上げるには「炭素C」や「シリコンSi」を入れると上がるが、大量に添加すると最も恐ろしい「亀裂」が生じやすい。然も、「使用の限界」は「100℃の程度」と成るが、「硬化点」の「65℃付近」は変わらない。従って、安全限度は65℃である。
    とすると、「トラブル写真」は「100℃−55%」に成っていた事が判る。
    つまり、明らかにバーニングする前には、事前に、”硬化温度を超え「リチウム」の「安全限度」を更に超えて使用限界”に達していた事が判る。そして、それは”何らかの欠陥(リチウムの弱点等)”が露出して「蓄熱現象(劣化現象)」が繰り返されていた事を物語る。
    この様に専門的に観ると、「物理学の専門域知識」から明らかに解る事なのである。
    更に、この問題を起こした「現品の破壊面」を見る事でも原因の大方は特定できる。
    全てこの世の鉱物は破壊時には、必ず金属学的な証拠を残す。
    上記の様に「破面工学」(下記で論じる)と云う学問があって、これで観れば解るので、「787」には伝えられるところでは「数十件のトラブルの現品」を観れば、凡そ掴める事に成る筈で、”原因と成る兆候”が出ている筈である。
    因みに、鉄は衆知の金属であるが、910度(A3)以上は、理論的に金属を構成する組成の結晶的な理論からフェーライトと結晶が変化するので、使用としては限界で無理なのである。
    実際に使用すると成ると冶金学的に理論的には723度(A1)以下(45% 変態点)の範囲で使う。
    (400度付近限定した範囲でも冶金的な問題が起こす)

    今回は「リチウム塩」であるが、鉄でも問題が起これば問題を起こした現品を見れば大筋は解るのである。これは物理系技術者の専門的な常識である。
    ”敏感なアルカリ金属” ではあるが、「リチウム酸化塩」も理論的にも「融点」を以って判断する事が出来て、使用の%は現実的にもこれに一致する。

    ・「比熱の弱点」
    実はこれだけではないのだ。
    「リチウム」の比熱は「0.79」であり、鉱物中最大で、”最高の「リチウム冷却剤」”と云われる様に使われる位である。「熱吸収力」は鉱物中の最大なのである。これ以上のものはない。
    つまり、言い換えれば、これは”「熱源」と相対の位置”にある事を意味し、”「熱」を取り込む性質”が強いのである。これは「利点」でもあるが、「弱点」でも働く事を意味する。
    これはこの世のもの条理である。「冷たい物」には、”より冷たくして良い効果を発揮する”が、必要以上に熱の高い物には一度に熱を取り込んでしまう性質があると云う事なのだ。
    それも上記した様に、「急熱」(急変)には弱い事を意味する。
    「熱吸収力」が良い事は、”逆の事も又真成り” で「熱」を吸収しては成らない時には困る現象と言う事に成る。
    つまり、上記の様な一度何らかの原因で「発熱現象」が起これば、相乗的に熱を取り込んでしまうという事にも成る。(「蓄熱現象」と呼ぶ「リチウムの特質」である。)

    その「熱」が「安全限度80℃」を超えなければ冷却効果は高いので「復元作用」が強い事にも成るが、超えると厄介である事を意味する。(65℃のプラスティック材の硬化温度があり既に80℃は使えない)

    この世の物は何でもそうであるが、”限度を超えると逆効果と成る”のはこの世の条理である。
    ”喉元過ぎれは熱さ知らず”の例えの通り、「限度」を超えると逆の事が起る。
    このリチウムはまさにこれを体現しているのだ。
    この「リチウム」では、この「比熱0.79」に対しても、この「限度始点が80℃」と「限界終点が100℃」が起これば、この「比熱0.79」は逆に働く事を意味する。
    この様に「弱点」が多い事が解る。
    要するに、「リチウム」は「発熱・過熱」が起こってしまえば、”逆に働く弱点”を持っている事に成るのである。
    ここで、「比熱0.79」で「発熱・過熱の弱点」を論じたが、ところが、この”逆の事の弱点”も起るのである。
    それは次ぎの「恐怖の現象」である。

    ・「過冷」の「デンドライト現象」
    上記した様に、超に優れた「冷却剤」に成り使われているとしたが、ところが、逆にリチウムの弱点の「3過特性」の−側に「過冷」すると、この「リチウムイオン」では、”「デンドライト」” と云う「特殊な厄介な結晶」を作り上げて、それが電池の周囲を”アメーバー”の様に伝わって「短絡ショ−ト」(レーアーショート)させるのである。この「結晶」を専門的には「樹枝状結晶」と云う。
    要するに、”シダの葉”の様な「結晶体」が、「高分子のゲルの電解質」の中に出来る。
    そして、それが極めて狭い間を這って外まで広がってくるのだ。
    「リチウムイオン電池」は「金属イオン」の「電解ゲル液」が使われていて、その中では化学反応も起こっているので、「過冷」すると、この「デンドライト」が生じ易いのだ。
    技術表現ではなく、一般的に云えば ”易い”では無い、”生じる”である。
    この「デンドライト現象」は、電池内部で析出する「リチウムイオン」の発生量が極小でも起る。
    つまり、”使っていなくても起る”と云う事だ。
    この「デンドライト」と云う結晶は、”長い枝葉”の様に次々と伸び易い。
    電池の”容器の内外側の表面”を伝って生成し伸びると、この「デンドライト」(「樹枝状結晶」)に、電池内の電導した電気が流れて「短絡現象」が起こって仕舞うのだ。(これを「レアーショートと呼ぶ)
    これに依って、「リチウムイオン電池」は完全に破綻するが、その前に「充電、発電、蓄電」の「3つの機能」は当然に低下して、「全回路の要求量」と「電池の供給量」のバランスが崩れて、「発熱・過熱」の「負のスパイラル」が起こって仕舞うのだ。
    つまりは、この「過冷」の「デンドライト現象」とは、「発熱・過熱」との2つの「正逆の現象」が、ほぼ同時に起る”極めて恐ろしく不思議な現象の特質”を持っているである。「処置なしの現象」である。

    因みに、この「デンドライト」は「鉄」でもどんな物でも起る現象で、「鉄」では ”どんな時に起るか”と云うと、加熱して冷却する時に、その冷却がある速さで不適切に下げられると、結晶がこの「デンドライト」と云うアメーバーの様な「結晶」に成って仕舞うのだ。
    これが起ると、「鉄」の場合ではあれば、「強度」が極端に低下して、一寸の力で常温でも亀裂が起こり、「鉄」は割れて仕舞うのだ。({ルートクラック]と呼ぶ)

    判り易い例として、「鉄」を強くする為に「加熱と冷却」の「熱処理」を施すが、この時の「冷やし方」が悪ければこの「デンドライト」が起こって、”強くする為の熱処理”が ”逆に弱くなって仕舞う”と云う事が起るのである。
    他には、橋などの構造物などで「鉄」を溶接する時に、寒い時に下手に溶接すると、周りの低温の空気に冷やされて、殆どの場合にこの「デンドライト」が起こって仕舞うのだ。「ルートクラック」と「クレータークラック」の2つのクラックが、同時に起こり溶接部は破壊する。
    溶接の名手は、この現象を防ぐ為に「ラッピンク」(戻し操作)と云う操作をして、溶接の最後の部分(クレータ)に2度溶接して空気による冷却の温度の下がり方を緩やかに調節する事で防いでいる。
    然し、この「リチウムイオン電池」ではこれは出来ない。”「鉄の4倍の比熱の冷却効果」”を持っているので「過冷」を停める猶予は無い。
    この元となる比熱は鉱物では最高であるので、”冷却が良い”は”過冷も起こり易い”と云う事に成る。
    ”ここで何を云いたいか”と云うと、この現象が確実に毎回欠かす事無く起こっているのだ。
    それが「航空機の環境」である。
    況して、「−40度 0.2気圧」の「航空機」である。「過冷」に成る条件が余りにも揃いすぎている。「デンドライト現象」の起こす典型的な見本である。
    上記した「−40℃」は地上の常温、常圧から観れば、「約3倍の過冷度」 「0.2気圧」は「約5倍の過冷度」を持っているのである。
    ”「過冷」と「過熱」の同時の欠陥は100%普通に航空機では起る”と云う事である。

    先ず、この「デンドライト現象」が起これば”防ぎ様が無い極めて怖い現象の欠陥”で、「航空機環境の弱点」でもある。
    数十件のトラブルの中に、この「デンドライト現象」と考えられるトラブルがある。
    筆者の経験談から、目視では確認出来ない ”何も無いところに突然に現れるトラブル”には、この現象が多いのだ。それには必ず、原因不明の「レアーショート」等が起こっているのだ。
    この「レアーショート」等には、回路を全遮断する大きい事もあるが、”瞬間的なショート”も多く、突然、「ハードの装置」が理由無く働きトラブルが起こる等の現象が起こるのはこのデンドライト現象が侵蝕している事が多い。これは専門家でなくては解らない現象で、普通は”原因不明”で片付けられる。
    「−過冷」から起こる現象であるので、夏期には起こらず、主に冬の前年12月から2月頃に起こる現象である。これには物理系の専門家が観れば解る「共通パターン」が在る。
    (787は冬季に起こっている。航空機は、地上の自動車の「+側過温の環境」と異なり、「−側過冷の環境」が大きく左右する。)
    ただ、この「デンドライト現象」の問題には、「静電気」と同じ現象を示す事であり、”「同じ環境下」”で起こることである。「発生期の環境条件」もまったく同じである。
    ただ、「静電気」は対策をすれば起こらないが、「デンドライト現象」は直らない。「発生部位」も「静電気」はある程度特定が出来るが、「デンドライト現象」はその「デンドライト」の自由自在の進行方向に向かって「レアーショート」等が発生する。
    「静電気」は「チェッカー」があって対応出来るし、アースを採れば大きくは成らない。然し、「デンドライト現象」には「チェッカー」は無く対応出来ない。
    つまり、「デンドライト現象」は、その「レアーショート等の方向性」と「樹枝状結晶の目視」以外に無く「経験のノウハウ」を必要とする。除去しないで、放って置けば被害は拡大するばかりである。
    今回の「787の発熱・過熱対策(発火防止策)」では、この逆の「過冷」の「デンドライト現象」の対策は無い。夏期には起こらないが冬期には必ず再発する。

    >「常磁性」
    未だ驚くのは早い。この「アルカリ金属」のリチウムは「常磁性」である。
    元々、自分に「磁性」を持っているので、下記に論じる様に、互いに引き合って「磁場」(磁界)に反応しやすい事に成る。
    「磁場」(磁界)に反応し易い”と云う事は、他のものを引き寄せる力がある事に成るので、鉱物の様なもの、或いは、イオンを発するものは当然にこの「リチウムの磁界」に引き寄せられる。
    ”自ら「リチウムイオン」を発生させながら、自ら「磁界」を造る”と云う「離れ技」を起こすのである。
    ”「磁界」を造る”と云う事は、磁界方向(磁力線)に対して直角に「電流」が起り、磁界方向に対して縦に「起電力」が起る。

    つまり、この原理は「起電力」の発生している方向に金属等を入れると、磁場磁界がこれを阻止しようとして、その金属に起電流が発生して金属が持つ抵抗との間で発熱現象を起こす。
    「リチウムイオン電池」の置き方如何に依っても変わるが、その周囲の近々に何らかの金属類があると、「発熱現象」が起こると云う事に成る。
    この「発熱現象」は本体の「リチウムイオン電池」にもこの「熱」が伝わり、電池の「充電 発電 蓄電」の「3つの機能」を低下させる。その結果、回路が要求する要求量との間にバランスが崩れ、上記した様に、本体の電池にも「発熱、過熱現象」が起こって、2重の「発熱・過熱」の「熱の負のスパイラル現象」が起って仕舞うのである。
    これは何も金属に関わらず、周囲の「フリーイオン」でも電荷を持っているので、磁場磁界に引き寄せられて同じ事が起こる。
    この引き寄せられる傾向は、その「イオン」を発生する鉱物の「イオン」に成り易い傾向に従うが、つまり、これを「イオン化傾向」と云う。
    つまり、周囲に「イオン化傾向」の大きい物が存在すると、その周囲の「イオン」も引き寄せられて、「正規のリチウムイオン」の伝導が阻害される。そして「3つの能力」が阻害される、つまり、”弱くなる”と云う事に成る。(空気中にも「フリーイオン」は飛んでいる)

    (「回路要求量>電池供給量」=「発熱・過熱」)

    ・「バーニング特性」
    「リチウム」は鉱物の中で「イオン化」は最大であるから、故に「イオン電池」として使っているのだが、この「リチウムイオン」は「−極側」に引き寄せられるので電位が発生して電導する。
    然し、この周囲に「イオン化傾向」の強い金属とか、影響力のもった「強い電荷のフリーイオン」が存在すると、それも引き寄せて、この「電導現象・発電現象」にはそれが障害と成って低下する。

    ある「溶液ゲル」中にある「+極側の鉱物単体」と、「−極側の別の元素」があって、−極側の周囲に「リチウムイオンの状態」で存在する時に、両者の間では「酸化と還元反応」が生じる。

    「リチウムイオン電池」=「還元反応>「酸化反応」

    以上の反応式が起こり、この間に「電位」が発生して「伝導」が働くと云う、この原理に従っている。
    従って、「鉱物単体側」は、”酸化されてイオン化”するのに対して、もう一方の元素のイオン側は”還元されて単体として析出”して仕舞うのである。
    この時、”「還元された元素」>「酸化された元素」の方が「イオン化傾向」が大きい。”と云う事になる。

    (従って、周囲に「イオン化傾向」の大きい金属を置く事は、”磁場が働いている環境”の中では危険であるのだ。本来の「リチウムイオン発生」が阻害され、且つ、「−極側」にはあっては成らない不必要な「金属イオン」が浮遊して、伝導を阻害しながら、最終は−電極にこのイオンが付着する事が起こる。)

    従って、どちらが「酸化」され、どちらが「還元」されるかは、「酸化側」と「還元側」の”電位の持っている大小”に左右するので、逆の以下の反応が起こると「リチウムイオン電池」には充電されない事に成る。

    「リチウムイオン電池」=「還元された元素」<「酸化された元素」

    この反応が、この「磁場」に影響されて起ると、「電導現象・発電現象」は低下する理屈と成る。
    つまり、「充電 発電(供給)蓄電」(「3つの機能」)の能力が低下する事に成る。
    この結果、「電気回路側の要求する電気量」に対して、「発電量」が賄えなくなる事で、装置全体に「発熱・過熱の現象」が起る事に成る。

    「回路要求量>電池供給量」=「発熱・過熱」→「蓄熱」→「バーニング」

    要するに上記した「蓄熱特性」から「バーニング」が起こる事に成るのである。
    極めて独特な「リチウムイオン電池」の危険な特性(内側の弱点)である。

     ・「プラスティック保護材の目的」
    この様に、”磁性体でもあるリチウム”は、その磁場磁界に依って「周囲の金属イオン」や「周囲のフリーイオン」が引っ張られて、「充電 発電 蓄電」機能を低下させる事を起こして「破壊」と「バーニング」を起こすのである。
    それだけに「リチウムイオンの反応力」は高いとも云えるのであるが、この為には、”周囲のイオン化傾向の強い一切の金属イオンを排除して”、最大限の「3つの機能」を発揮させる為に、「電池の周囲」を電位の無い「プラスティック類」で完全保護する必要があるのだ。
    この様に「一切のイオン類」を排除する必要があるのだ。上記の「プラスティック保護材」はこの意味で「プラスティック」を使って周囲のイオンを排除しているのであって、単純な目的の保護材ではないのだ。それ故に、「65℃の硬化温度」は避けられないのである。

    上記で、論じた様に、この為に、”耐熱温度を「安全限界の80℃」にしても、この保護材「プラスティック」の「硬化温度域65℃」に下げて、「安全限界温度は65℃」と成って仕舞う”と云う「二律背反の現象」が皮肉にも起こるのである。

    勿論、上記の電池機能に無関係な「プラスティックの硬化温度65℃」に因って、間接的に引き起こした「リチウム」の「耐熱温度低下の弱点」と共に、「リチウムイオン電池」が自ら持つ直接的な「危険な特性」の「外と内の2つの弱点」でも、同じ事が起こるのである。
    本来は「安全限界の80℃」と「使用限度の100℃」があるにも関わらず、これは、まさしく”「3重苦」”である。

     ・「バーニング特性」
    「ジュールの法則」等に従って、「電気関係の装置」は、全て「供給と発電のバランス」が狂うと、この上記の数式論の「回路要求量。>電池供給量」=「発熱・過熱」→「蓄熱」→「バーニング」
    の「リチウム」の独特な ”「バーニング特性」”と呼ばれる「危険な特性」(内側の弱点)を持っているのだ。

    「リチウム(酸化塩)」が「最高の常磁体」であるとすると、下記の「参考」に並べた金属が周囲に有ったとすると、その「イオン化の強さ」の僅差で、”「還元された元素」<「酸化された元素」が起こって仕舞うのである。解り易く云えば、”電池として本来あるべき姿が逆転する”と云う事なのだ。
    そうなれば、何でもそうであるが、”まともな事”は起こらない。それが、この場合は ”「常磁体」でもある”と云う事が助長して仕舞うと云う事に成るのだ。
    然し、「常磁体の特性」は、本来は、「リチウムイオン電池の原理」(「3つの機能」に成る原理 下記)として使われている「利点」でもあるのに、「環境」に因って、「扱い」に因って、上記する様に「欠点」(内側の弱点)とも成るのである。

    「リチウムイオン電池」の周囲の「4つの装置」には、必ず「鉄」や「アルミ」が必ず存在するので、それが”近すぎる”と、この「常磁性の問題」も「環境条件」に左右されながらも、この様な「欠点」(内側の弱点)を起こす事に成るのである。
    否、「環境条件に左右されやすい特性」を加えると、「リチウムイオン電池」の ”「4重苦」”と成る。
    「リチウムイオン電池」は、「ソーラーパネル」と共に、 ”未来を切り開く電源”と云われながらも、その反面で、”「4重苦」”=”「4弱点」”に苛まれる「物質像」を持っているのだ。

    因みに、この「電位の順」に元素を並べたものが「イオン化傾向」の下記の順となる。
    「還元された元素」>「酸化された元素」=イオン化傾向 (H=0)

     「・Li」-K-Ca-Na > Mg-Al-Ti-Mn > Zn-Fe > Ni-Sn-Pb > (H=0) Cu > Hg-Ag > Pr-Au

    「リチウム」は「イオン化傾向」は、「−3.045V」で上記の通りで最高である。
    Au(白金)は「+1.52V」で最大で、「約4.5V」の「イオン化差」がある。

    因みに、この「イオン化差」が大きければ、「+極側のイオン」は、「常磁体」に影響して、周囲にある「別のイオン化のV」に引っ張られる事は無いので、上記する問題は起こらない事に成る。

    逆に、この「イオン化差」が小さければ、「別のイオン化のV」に引っ張られて仕舞うので、上記数式論の問題が起る事に成る。

    「回路要求量>電池供給量」=「発熱・過熱」→「蓄熱」→「バーニング」

    当然に、「4つの装置」の周囲には、鉄(−0.44V) アルミ(−1.67V) 銅(+0.34V)等がある。
    この主に「3つの金属」は、必ず「4つの装置」には「必要部品」として存在している。
    「リード線や電気部品や接続部位」に使われている「銅」は、水素(H)の右(+)であるので問題は無い。
    「装置の構造物」として使われている「鉄」は、2.5Vの「イオン化差」があるので、先ず問題は無い。
    筆者の「経験値」ではAlとMgの付近は、「1.5V」の「イオン化差」があり、この「イオン化値V」の左領域にある為に顕著に上記の数式論の問題が起る可能性がある。

    この「経験値の基準」では「1.5V領域」としてテストをしたが、「常磁体」等のイオンの行方を左右させる「誘導体の影響」を受けているので、加算されて「1V領域」でも問題を起こす可能性があるので確認する必要がある。
    「経験値の基準」=「1.5V領域」

    (製品や装置に依っては「1V領域」でも起る事がある。周囲に「磁性体」の様にイオンに影響を及ぼす「誘導体」が存在している事や「航空機の環境条件」やその「構造」に依っては起る事も有り得る。)

    従って、「軽さ」を利用した航空機のアルミは「1.5V領域」に匹敵するので必ずテストを行う必要がある。(787は炭素繊維の本体であるが、何処まで利用しているかは不明)
    この「アルミ」に匹敵するMg(−2.35)Mn(−1.18)Ti(−1.63)Zn(−0.76)は各種の合金元素としてよく使われる。
    自動車にはこれを加えると剛性などの機械的強度が飛躍的に改善されるので多く使われているので「環境条件テスト」で確認を要する。
    「航空機」の「リチウムイオン電池」の周囲にはその必要性がないと普通は観られる。
    然し、「イオン」に対して大きく影響を及ぼす「4重苦」の「航空機の環境条件」が存在しているので、この影響を考慮に入れなければ成らない事に成る。

    依って、特に「航空機」であるので、アルミ(Al合金)として存在している筈で、”どの程度の近々にあるか、どの程度の影響を受けるか、 ”「常磁体」である”とすると、「航空機の環境条件」との絡みでテストが絶対に必要なのである。
    (筆者は787は何らかの影響を受けていると観ている)

    これらの知識は、機械と電気の設計者は知る善しも無い。応用物理系技術者の範疇である。
    故に、絶対に「環境条件下のテスト」を行い、この「問題の排除」を行う必要があるのだ。
    787は「航空機」であり、”「別発注の4つの装置」”で出来ている事から、この「問題の排除」は絶対に出来ていない事を「別発注」は物語っているのだ。

    「リチウムイオン電池」の周囲にはこの様なものを設置しては成らない事に成る。
    つまり、周囲に少なくとも「イオン化差 1V」以上の「電位差の生じる物質」を置いては成らないのである。

    ・「4重苦」=「4弱点」の現実
    下記に論じるが、「リチウムイオン電池」の「電位4V」は、この”「1%仕様のV」”で管理維持しないと「リチウムイオン電池」が崩壊する極めて厳しい考えられない程の宿命の数値を持っているのだ。
    そこに「イオン化差 1V」の「電位差の生じる物質」や「3重苦」の大きい数値が覆い被さってくると、”1V−0.04V”で比較しても、どれたけ大きい「4重苦」かが判る。
    元々「4重苦」>「管理値」と既に超えて成っているのだ。桁が違いすぎる。
    対策を講じないと、この「4重苦の時点」では、既にアウトである。
    だから、「環境条件下テスト」を主張している。
    ”「4重苦」”としたが、”「4重苦」”で終わるとした訳では決して無いのだ。
    この”「4重苦」”を一つにした様な問題が、また起こるのである。
    そして、それはこの世の中で最も恐ろしい対策の取り難い現象なのである。

    >現象(X)(環境条件の最大の難関)
    特に、経験上は、航空機にある様な「低温低湿下の環境条件下」では、この「現象(X)」が最も起こり易いのである。
    つまり、上空の空気中には、「イオン運動」に「悪い影響」を及ぼす障害物が少ない環境であるからで、「温度」が高く成ると、空気は膨張し希薄になる事、空気中に含む水分の量の「絶対湿度RH」も高く成るので「水分や塵や埃」や「浮遊イオン」などの障害物が出て来る。
    ところが、温度が低く成るとこの逆の現象と成る。
    「高湿」は空気中に含む「水分量RH」が多く成るので、これが障害物と成り、この水分に「イオン」がリークしてイオンは少なく成る。「低湿」はこの逆の事が起る。
    ところが、”「低温低湿」であれば有るほどに良い”と云う事ではないのだ。
    起こる事は起こるのだが、その「起こり方」が、「低温低湿の領域」中では ”均一ではない”と云う事なのである。
    「イオン」に「良い影響」を及ぼす「環境条件」(限定条件)は、「低温低湿下の環境条件下」のある限定した範囲で極めて顕著に発生するのだ。

    それは、(限定条件)「温度13℃、湿度20%RH」を中心に「±2℃ ±3%」で顕著に起るのだ。

    これは上記の範囲を超えて、
    「下側の低温域」に成り過ぎると「金属の分子運動」が低下し過ぎて「イオン発生」が鈍化して仕舞う事、
    「上側の低湿域]に成り過ぎると、空気中に存在する「フリーイオン」が活発に成り、「金属イオン」が阻害されて仕舞う事、

    以上、この「2つの現象」で限定された「丁度、良い環境条件」、即ち、”「適合環境条件」(限定条件)”が生まれるのである。

    「上側の低温域」に成り過ぎると、上記の内容と逆の現象が起こるのであり、この「現象(X)」の起こり方が均一では無く成るのだ。

    「温度13℃、湿度20%RH」を中心に「±3℃ ±5%」の他にも、湿度、気圧、振動等に対する、この様な各種の「適合環境条件」は、この自然界の中で全ての物理現象に起こっているのだ。

    ”全ての物質に影響を与える自然現象”のこの「適合環境条件」(限定条件)を把握するには、「環境条件下のテスト」で、この「特定の数値領域」を「経験値」として把握する以外に方法が無く是非必要があるのだ。
    では、”低温低湿”として幅を、「経験値」=「±3℃ ±5%」としているが、
    「世界標準値」=「22℃(20℃)±5℃ 50%RH±10%RH」

    以上とされるが、この範囲では、先ず環境条件として余り問題が起こらない範囲とされる。
    世界が申し合わせた「標準の安全域」(17℃〜27℃ 40%〜60%)で、この「環境の上側と下側」に問題が起こる。

    従って、如何なる理由があろうとこの範囲では環境条件における問題を起こしては成らない事に成る。
    標準のここで起こせば、それは、最早、”品質ではない。「欠陥製品」と見なす。”と成る。

    そこで、この「低温低湿」には、そのものの「表面状態」に大きく左右される特質を持っているが、「下側の温度」は氷点4℃の少し上側8℃、「下側の湿度」は実質の限界値の少し上側10%RH
    以上のこの2つまでは配慮する必要がある。

    この「狭い領域」(温度2℃ 湿度5%)は、「現象(X)」と上記の「デンドライト現象」の「ラップ域」である。
    「恐ろしい現象域」の中の又「極めて恐ろしい現象域」とも云えるこの「ラップ域」は、「専門技術者」の間では「恐怖の領域」とも呼ぶ。

    「専門技術者」の間では、この「8℃から10℃ 10%RHから15%RH」の「2つの現象」が起こる「ラップ領域」には神経を最大にする。
    先ずテストを行う際には、事前に「チャンバー」をこの「ラップ領域」の条件にして、”起こるのか、起こらないのか、どのくらいで起こるのか”を「事前チェック」をした上で、本領域のテストに挑戦する。
    そうする事で、より繊細に見逃し無くチェックが出来るし対策も確実化する。
     
    この「下側の温度−湿度」の理由」には、「比熱の問題」のところでも論じた様に、「デンドライト現象」というものを起こして、「対策を立てる」では無く「収拾がつかない」の「異なった問題」に発展する領域なのである。
    つまり、「現象(X)」が、この「収拾の付かない」の「デンドライト現象」の発生に依って抑制されて起こり難く成るのである。
    これはこれで「現象(X)」の「対策」の様に成ってはいるが、「現象(X)」も”恐ろしい”であるので生易しいものではないのだ。

    続く。

    次ぎは「デンドライト現象」(詳細)に付いて


      [No.296] 787ジャンボ機に思う事(技術論)−1
         投稿者:福管理人   投稿日:2013/06/23(Sun) 08:18:14  

    787ジャンボ機に思う事(技術論)

    「前書き」
    「787のトラブル」の解明が迷走している。
    筆者は、これに付いて思うところがあり(下記)、ある程度の過去の「航空機の経験識」もあり、これを解明するに必要とする「物理系の専門的な技術者」でもあったので、その「技術的な意見」を敢えて投稿する。
    投稿するに当り「787本機」は、国産と見なされるほどに「日本の最新技術」を駆使し、その国産率は70%と成っているし、”国産の航空機 日本の技術”の進歩と完成を夢見る技術者であった者にとっては大喜の極みである。
    既に、「日本の最新技術」での「100%の国産機」が三菱とホンダで製作され始めていると聞く。
    そこで、是非、安定した世界に「日本の技術」が誇れる様に、本件のトラブルの真の解決の一端になればと考え、それを願って下記にその真因を技術的に論じてみたい。
    そもそも、我等青木氏族は「物造りの神豊受大神」を「親神」とし、その「子神の祖先神−神明社」を「守護神」としている氏族である。幸いそのトラブル内容が筆者の得意とする専門分野の範囲であった事から技術的な論処を以って論じて見る。
    末尾にそのトラブル内容を列記しているが、「専門的な技術的観点」から検証して観ると、そのところにはある「真因」が見えて来る。
    そもそも、この「787」の「バッテリー設備」は、「充電−発電−供給−保護回路」の「4ユニット」で成立っている。そして夫々のメーカーは異なる。
    此処に「決定的な問題」があって、「幾つかの欠陥」に結び付きやすく問題に成り易い事が潜んでいるのだ。この事は縷縷下記で問題毎に論じるが、これは取り分け「技術に関する問題」であるので、より理解を深める為に先ずはその「基礎知識」から話を進める。

    「基礎知識」
    その前に、その論の理解を得る為に基礎的な事が必要と成るので「物理と電気の基礎知識」を解説する。
    そもそも、「電気設備」とは、中でも「ハード回路」ではなく「ソフト基盤」(「プリント基板」)で構成された器機には設計上で想定出来ない事が絶対に起る。
    (現在はどんなものでも量産製品は、この「ソフト基盤」(「プリント基板」)で出来ている。)
    何故ならば、「抵抗類」や「ダイオード類」や「コンデンサー類」や「トランジスタ類」の鉱物が主体と成ってこの「4つのパーツ」を占めて構成されるからで、この「4つのパーツ」には特有の特性を持っている。
    人間でもその人の特有の「性格」がある様に、「4つのパーツ」(鉱物)にも「性格」となる「特性・特質」を持っているのだ。その人の「性格」は「周囲環境」に左右し、その「周囲環境」に適合していなければ問題を起こす。
    同じように、この「鉱物」には自然の一物であるので、「環境条件」に大きく左右される特質を持っているのだ。この事が「特性・特質」と「環境条件」を無視した設計でパーツや製品を作ると、その「特質変化」で問題を起こすのである。
    何故ならば、この「環境条件」と一言で云うが、「世界の環境条件」には「大きな幅」を持っているからだ。
    その「大きな幅」を持った鉱物で出来た「パーツと製品」は、それに対応する事は並大抵ではないのだ。
    本論はこの領域の話に成るので「応用物理学の専門的技術論」と成る。
    一般的には、世間ではこの論じる事柄は全く知らないで利用されている筈で、又、「パーツや製品」の使用にはその領域までの事はタッチしないでも使える。この辺が「ハード回路」と異なるところである。
    むしろ、この「回路部分」には、”タッチさせない事” が注意書にも書いている事でもあるし、当然にカバーされて勝手に回路修正も出来ない事に成っている。
    故に、この「787の欠陥」の事を理解しようとすると、先ず100%は無理と成り、その侭で終わってしまう。
    況して、「787のトラブル原因」は、”今だ解らない”としている位で、他社がこの回路を解析出来ないのである。(ハード回路は個人でも詳細に解析出来る。)
    それ程に、単純に「設計ミス」は別として、「環境条件」に因って、「部品の特質」に因って ”いざ問題”と成ると、欠陥を解明するには、かなり「応用物理の専門的な事」に成るのである。
    下記の「4つの条件」を兼ね備えた技術者とすると、100万人が居たとしたら1人居るかどうかの専門的な事なのであるからだ。況して、「電気回路分野の事」「応用物理学の分野の事」のこの「2つの分野」に跨っているからだ。
    この電気回路でも「ソフト基盤」の「プリント基板」と成ると尚更、専門域である。
    この”片方の分野の専門知識”を得ていたとしても理解出来ないと云うこの専門分野なのだ。
    この領域は「応用物理」と「ソフト回路」の両方の知識(1)が必要で、その分野でも更に専門分野(2)なのだ。
    その両方の特異で高い専門域のノウハウ(3)を得ていなければ成らないと判断出来ないのである。
    更に、極め付けは、上記した様に「環境条件」の「鉱物の特性の変化」を「チャンバー」と云う「特殊な装置」で再現して、実際に「世界環境条件」の中で使えなくては成らないのであるから、この「チャンバー」でのノウハウ(4)が必要に成るのだ。
    この理屈の「4つの条件(1)(2)(3)(4)」は”平地での環境条件”だけの話である。
    これに、「航空機」と云う条件の「特殊な環境条件」(5)が加わるのだ。
    この(5)が特に問題に成るのだ。
    最早、”これをまともに理解出来る専門技術者はいない”と断言してもいい位である。
    そもそも、応用物理系のこの分野に従事している専門技術者は希と云ってもいい位であろう。
    故に、天下の航空機メーカーも ”解らない” とし、トラブルの論理的解説も無い侭であるのだ。
    約5ケ月の間にマスコミの解説でも技術的な解説は無かった。

    そこで、老体に鞭を打って昔のこの知識を引き出し論じる事と決断した。
    「日本の技術進歩」の為に何とか役に立てればとして論じ様と思う。
    「100%日本製の航空機」の実現の為にも「詳細な技術論」を論じる。

    「4つのパーツ」の構成
    「抵抗類」や「ダイオード類」や「コンデンサー類」や「トランジスタ類」の「4つのパーツ」を組み合わせれば、その夫々の部品の持つ特質で、色々な別の部品を造る事が出来る。又、回路を組む事が出来る。
    専門で無い方はこれ等の事が、”787にどれたけの問題に成るか”が理解出来ないと考えるので、敢えて、ここで最低理解が得られる程度に敢えて丁寧に専門知識を披露し論じる事とする。
    この程度の事は事前に理解して頂きたい。

    例えば、一つの例として、「抵抗」は電流を調整出来るが、これに「コンデンサー」をつなげば「コンデンサー」に溜まる「充電量」が決まる。この「充電量」を「別の回路」に流せば、その「充電量」に応じた時間だけが、他のパーツや別の回路を動かす事が出来る。
    つまり、これは「微細なタイマー」が出来る事に成る。それを「ダイオード」と繋げば「流す方向」と「流す量」と「流す整流」を造る事が出来るのだ。

    この様に、「抵抗」はこの様に「電流の調整」の他に、「ノイズ」や「異質信号」を強襲して吸収して「熱」に変えて潰してしまう性質もある。
    「コンデンサー」は電気を溜めるだけではなく「流れ方向」や「流す量」や、「抵抗」と同じく「ノイズ」や「異質信号」を溜めて「整流化」して消してしまう性質もある。
    (この様な性質が下記に論じる787の本当の原因を理解する上で重要で、この特質は、これまた「環境条件」に大きく左右するので特に留意して頂きたい。 下記で論じる。)
    更に、本文中では、是非に留意して頂きたい知識を述べると、例えば、これ等の部品を使って「人間の記憶」と同じ能力の「記憶の回路」さえも造る事が出来るのだ。
    これには原理的なものとして「自己保持回路」と云うものがある。
    ある「信号」が入ると、その「信号」を「自分」で捕らえて回路を開き、その「信号」を「自分」で覚えておける回路を組む事が出来る。
    (普通は信号は他のパーツが捕らえて、それを関係するパーツに伝達するのが仕組みである。これをシーケンスと呼ぶ。)
    この「回路の仕組み」は、全く人間の脳の中で起こっている現象と同じ動作をし、その速さなどの「特質」は脳の持つ「特質」と殆ど同じである。
    何と、これは上記した「4つのパーツ」で出来るのである。
    因みに、その「頭脳」に成る「回路の概容」をどの様に組むのかを簡単に解説する。これは以後の説明に役立つので敢えてここで記する。

    ・「基本回路の概容」
    ある「信号A」を右から「トランジスタ類A」の「接点1」に流し、その「トランジスタ類A」に「接電負荷A」(駆動源)を繋ぎ、その「負荷A」が働くと、その自分の「トランジスタ類A」が持つもう一つの「接点2」が「接点1」を保護するように葡萄の様に2重にぶら下がる様に結ぶと、この入って来た「信号A」は、自分の「接電負荷A」(駆動源)が切られない限り、その「信号A」を切る事が無く永久にその状態を遺す事ができる仕組みである。
    つまり、自分で自分を管理して他からの影響を受けない仕組みである。(脳のシナブス)
    そして、この「仕組みの基本回路」に「電流方向」や「電流の流れる程度」や「量」や「ノイズ」や「異質信号」が入らない様に、上記の「ダイオード類」や「抵抗類」や「コンデンサー類」を「接点1」から「接電負荷A」との間に繋いでおけば「記憶の基本回路」は完成する。
    これを「蜂の巣」(ハニーカム回路 左脳)に類似する様に、無数に作ってカムを相互に繋いで置けば置くほど「記憶」は溜まる事に成る。
    後はその記憶を引き出すには、その一つの「カム」にその「カムの縁」を通る様に「ダイオード類」を結んでおけば「カムの縁」を引き出す「信号B」が流れて「接点2」を解除し、その記憶されている「カム」に到達して「信号A」を引き出してくる事が出来る。
    この左脳と同じ働きをしている部位から「信号A」が引き出されても、永久に保存する場合は、上記した動作を起こして、常に電気を流し続ける仕組みにして置くと出来る。
    これを「ROM回路」と云う仕組みであり、一時的に保存するのであれば、その左脳に匹敵する「ハニーカム」にその期間だけ電気を流し、後は電気の供給を停める様にしておく事で出来る。これを「RAM回路」と云う仕組みである。
    この「ROM回路」と「RAM回路」を上手く使いこなせば良い事に成る。
    この様に、大まかには回路と云うものが出来上がっている。
    下記に問題点として論じる「静電気」や「ノイズ」や「異質信号」は、此処に勝手に侵入して来て、予想もしなかった信号が回路に入ってくるので、記憶がどちらを採用すればよいか判らなく成り「パニック」(ハンギング)に成って、「誤った動き」や”回路事態が壊れる”と言う現象を起こすのである。

    >「環境条件」の影響
    この上記した「基本回路」が、本論の最も根幹の部分で、これが「特質・特性」と「環境条件」に複合的に左右されるのである。基本回路が「特質・特性」と「環境条件」に影響受けていては”基本”の意味を成さない事に成る。少なくとも「基本」は「基本」でいて欲しいものである。人の世の中とは同じである。
    「基本」と「原則」の類が「基本・原則」でいないから世の中は乱れる。鉱物も回路も同じ宿命を担っているのだ。これは「世の条理・道理」である。この世の条理道理を何とかしようとするのが文明の進歩の力に成る。何とかしようとするのが本論の技術論である。本論の技術論を解決する事で文明は進歩するのだ。況や、「787」は世紀に誇る進歩の航空機と成り得るのである。それの「鍵」を日本が握っているとして論じている。
    ここで、苦手な人もこの事だけは概容としては本論中は知っておいて頂きたい。
    判りやすく云えば、「4つのパーツ」の鉱物は、「結晶体」(「ハニーカム結晶体」)と云う「特殊な鉱物」であるからこそ「環境条件」に左右されやすいし、「予想外の事」が起こり易いのである。
    真に「雪の結晶」の様に微妙なのである。この様に先ずは理解して戴く。
    「ソフト回路の基盤」とは、真にこの「4つのパーツの結晶体」から出来ていると云っても過言ではない。
    ここでは「電気回路の論」ではないので、その様に理解しておいて戴くと本論が判りやすい。

    この主な「4つのパーツ」の諸々の「電気特質」をいろいろと組み合わせて、「ハード回路」以上の回路が出来る。ところが、上記する「結晶体」のみならず、この主な「4つのパーツ」そのものが、先ず「特質・特性」と「環境条件」に因って大きく左右される。だから設計した以上の思わぬ症状を起こすのである。
    この左右する「環境条件」が単数であれば、設計的に仕様として自然に準備でき防御対策が考えられるし、採れる。ところが、全く単数では無いのである。
    先ず、「人間の頭脳」や「コンピータの頭脳」では、これだけ時代が進んでも事前想定が未だ出来ないのである。
    その「ソフト回路の基盤」(ソフト基盤)が一つであれば未だしも無数の複数である事、更には別の「ソフト回路基盤」との絡みも出て来る。(「4つの装置」である)
    更に、一つの設備の「ソフト基盤」には夫々その目的に別けて、更に子回路の「ソフト回路基盤」が作られる。「枝葉状の基盤構成」で成り立っている。
    例えば、「電源部」をコントロールする「電源基盤」、この「電源基盤」でもその電源の内容に依って別けて作られるので、大体少なくとも「4つ位の電源基盤類」が出来る事になる。
    他に色々な「ハードの装置」を動かす「操作基盤」がある。これはその「装置の数」に関わる基盤が出来上がり、これを一つに管理する「回路操作基盤」もある。
    更には、上記した様に、動きなどを記憶しておかなければ成らない「記憶基盤」があり、これには「ROM基盤」と「RAM基盤」に別けられる。
    元々、回路には別けて考えると、常にどんな事があっても覚えておくべき記憶(ROM)と、動き出した時に覚えておかなくては成らない記憶(RAM)の基盤に別けられる。
    これには「母体」に成る「記憶基盤」と「子体」に成る「記憶基盤」がある。
    大きくなれば成る程にこれが装置毎に作られるので「枝葉系の記憶基盤」が出来る。
    他に、「設備や装置」(ハード)の「根幹仕様」を決めて置く「仕様基盤」があるので、これも「仕様」の「枝葉系基盤」が出来る。
    ここに上記した「静電気」の信号や「ノイズ」や「異質信号」が、環境条件に左右されて突然ある基盤の特定のところに侵入してくるから、上記した基盤類の相互間で繋がっている為に、全てがパニックに成り、「ロッキング」や「ハンギング」や「フリージング」が起こり、時には「予想もしていない動き」(パニック)を起こすのである。
    ここで問題と成っている「航空機」等は、「仕様の枝葉系」に至るまで、この上記する全てのものが存在する。
    この「4つのパーツ」で出来る「ソフト基盤」には欠かす事の出来ない物として、色々な状態を把握する「センサー基盤」がある。これはその「センサーの数」だけは少なくともある。
    この「センサーの答え」が「環境条件」で変化していては「センサー」ではなくなる。
    ところが、この「センサー基盤」は基盤のみならず「センサー事態」が最も「環境条件」に左右されるものなのである。
    何故ならば、この「センサー」は殆どは「ダイオード類」などと同じ鉱物などに依ってその特質を利用して出来ている。中には複数のものを組み合わせて作られている。本論のリチウムもその一つである。
    冷却センサーや振動センサーや比重センサーや水準センサー等数々のセンサーとして、このリチウムの「特質・特性」を利点として使われているのである。
    故に、自然の物理的な物質である限りは、どんなものでも間違い無く「環境条件」に大きく左右する。
    つまりは、「センサー」が一定と思われがちであるが、この「センサーの特質」の「質と限度」が一定ではないという事なのだ。「環境条件」に大きく左右されるのだ。
    故に、センサーは”ある範囲で使用制限(標準条件 下記)して可能と成っている。ところが、「航空機」と云う「特別の環境条件」が絡むと難しく成る。
    況して、これを”純度の高い結晶体”で出来上がっているものが殆どなので、上記した「雪の結晶体」と同じく敏感に「環境条件」にその選び抜いた「特質」は変化するのである。
    故に、総じて、”「ソフト基盤」=「環境条件」” そのものである事が誰が考えても判る。
    この「センサー基盤」の「センサー類」が、次ぎの環境条件に影響する。
    「温度」 「湿度」 「気圧」「圧力」  「電圧」「電位」  「電流」「荷電」  「振動」「衝撃  「磁場」「磁界」  「静電気」  「ノイズ」  「フリー電子」  「サージ」 「水準」  「光」・・・
    等、ありとあらゆる物を監視しているが、特に「787の電気回路」(此処では「バッテリー関係」の「4つの装置」に限定)の「ソフト基盤」には、この「センサー」が大きく働いている。

    地上のものより「航空機」は、「厳しい環境」に晒されている訳であるから、
    「センサー」の「環境条件に依る特性変化」(1)
    「センサー基盤」そのものの「環境条件に依る特性変化」(2)
    以上は、「787が求める管理値」を保証し、維持管理出来るのかは、はなはだ疑問であるのだ。
    ここが先ず、「第1の問題点」なのだ。

    これは「センサー」で例えたが、次ぎの二つに別けられて問題を引き起こすのである。
    ・「基盤 2特性変化」
    A 「パーツ単体の環境条件に依る特質変化」
    B 「パーツで構成されている「ソフト基盤」の環境条件に依る特質変化」

    この「2つの特性変化」は次ぎの要因に分類出来る。
    ・「特性変化の5要因」
    (a) 環境条件 「温度」「湿度」「気圧」      四季が持つ自然特性の変異
    (b) 電気条件 「電位」「電流」「荷電」      電気が持つ特性の変異
    (c) 機械条件 「振動」「磁場」「圧力」      外部から機械的に加わるエネルギーの変異
    (d) 自然条件 「静電気」「自由電子」「サージ」  自然現象が引き起こすエネルギーの変異
    (e) 化学条件 「酸化反応」「還元反応」「イオン化」化学的な影響が引き起こす変異

    恐らくは、この上記の「基盤 2特性変化」の(A・B)が働く事から、求られる「管理値」を、航空機のフライト毎の ”「ある一時的なピーク」”には、「特性変化の要因:(a)から(e)」を明らかに超えていると考えられる。
    言い換えれば、この ”「ある一時的なピーク」” が、地上の「自動車等」に比べて、「航空機」には数多く持っていると云う事なのだ。

    これを大まかに別ければ、次ぎの「3期」に成る。
    (イ) 「テイクオフ期」
    (ロ) 「ランディング期」
    (ハ) 「上空10K期」
    以上の3期の「環境条件による特質変化」が起こる事に成る。

    この”3期の「環境条件による特性変化」”は、「経験値」から観て、そんな生易しいものではない。
    因みに、「経験値」としては、「センサー等の本体類」では次ぎの様に成る。

    「指定値」に対して少なくとも5%超
    「センサー等の基盤類」でも5%超
    以上が、負荷する「環境条件に依って起る特性変化」として少なくとも起るだろう。

    合計10%超の「特性変化」が見込まれる。

    この”「10%超の特性変化」”に加えて、更に、次ぎの特質変化が加算される。
    「センサー等の自体」に3%
    「センサー等の基盤本体」に3%
    夫々「3%程度」の”許容する「エラーとバイアス」”を持っている。

    とすると、定格に比して、合わせて「最大で16%程度」の「特性変化」を起こす事に成る。
    「最小でも10%程度」は起こす事に成る。(統計学でもこの様に計算されている)

    「特性変化」の量≒「最小10% 最大で16%」

    参考の例として、「温度」では、次ぎの数値を一般的に何処でも原則として使うが、上記の「経験値」は、「標準の環境条件の範囲」で使われる。
    然し、世界にはこの「標準の環境条件」ばかりではない。「標準の環境条件」を超える「過酷条件」と云うものがある。
    「過酷条件」(プレッシャーテスト)は物に依って適用が異なるが、「基盤関係」はこの「過酷条件」の中でも行う事を「国連の安全輸送時の標準」として定められていて、各国ではこれが標準と成っている。
    では、その環境条件に関して、”「標準条件」と「過酷条件」”とは、”どの様な範囲までを設定しているか”である。

    >「過酷条件」
    A 最高40℃、最低0℃(−10℃) 「寒冷地仕様基準」で−10℃ 実際は−20℃適用 
      標準:22℃(20℃)±20℃  「一般仕様」はこの環境変化の範囲を適用

    B 最高80℃ 最低−40℃     「センサー類」等の計測器機類に主に適用
      過酷:22℃(20℃)±60℃(40℃) 

    (世界標準温度は20℃であったが、温暖化で22℃と修正された。更に、企業ごとに「製品に対する保証」をより良くする為に、詳細に、上下の限度を加算している。)

    >「試験標準」
     温度22℃(20℃) 許容値幅 ±5℃
     湿度50%RH 許容値幅 ±10%RH

    (この領域では、傾向として物理的に材質を安定させる特質を持っている為に欠陥は出にくい。この領域で「特性変化の欠陥」が出れば、それは品質とは成り得ない。)

    ところが、”この条件で「環境条件テスト」をクリヤー出来るか”と云うとそうではないのだ。
    各企業はそのノウハウを生かして、更に、「詳細」に「特定条件」と云うものを定めている。

    その特定条件類の一例を記する。

    >「特定条件−1」
    C 温度13度 湿度20% 気圧1 通常の範囲で起る「特定環境条件テスト」がある。
    Cの様に、「湿度」の低湿に依る影響が顕著に現れるポイントである。

    例えば、標準の「静電気」に依る「特性変化」は、この狭い限定したポイント付近で顕著に出現する。これを「限定条件」とも云う。
    あらゆる「環境条件」には、”その特質を顕著に現れる領域”がある。−「限定条件」

    (ここでは「静電気」が最も問題と成って影響受けているのでその領域を示した。)

    「静電気」以外にも物理学では数多くあるが、此処では全てを書き記す事は困難であるので割愛するが、都度必要に応じて下記で書き記す。

    >「特定条件−2」
    D 温度40度 湿度80% 気圧1 通常の範囲で起る「特定環境条件テスト」がある。
    Dの様に、「湿度」の高湿に依る影響が顕著に現れるポイントである。

    高ければ高いほどに、”比例的に問題と成る欠陥が顕著に現れる”と云う事ではなく、この領域で問題が出易いのである。これには「自然物理学の高度な論理」が働いている。

    例えば、標準の”「短絡チャージ」”に依る「特性変化」は、この「特定条件−2」の狭いポイント付近で顕著に出現する。
    「高湿」が「40度−100%」の様に高ければ影響が出ると云う事ではないのだ。
    起る事は起るが、「温度」と「水分量」が多すぎて、別の「湿度」と云うよりは、「温度」と絡んだ「水分」と云う問題の現象と成って現れる。

    事程左様に、「温度や湿度等の環境条件」には、その特質を顕著に現れる”「ある特定の領域」”が存在するのだ。
    これが、下記に論じる問題点に大きく左右する特性に成るのである。
    闇雲にテストしても、”必ず現れる”と云う事ではないのだ。

    これには、「環境条件下テスト」の「チャンバー」の中では、「専門的な領域」の「経験値」が働くが、「経験のノウハウ」だけではなく、これ等には「物理の高度な論理性」が裏づけとして存在するのだ。
    従って、その「ノウハウの把握」は次ぎの様に成る。

    ・「3つの理論性」
    (1) 「パーツの特性」
    (2) 「物理学の論理性」
    (3) 「環境条件の理論性」
    以上の”「3つが噛み合うポイント」”を特定してテストをしなければ成らないのである。

    上記の「特定条件」には、この「3つの理論性」が裏づけされる。

    「温度」や「湿度」を闇雲に上下すれば問題点を見つけ出せると云う事では決してない。
    この「ポイント」を見つけ出すには、上記の「3つの理論性」に幅広く、且つ、精通していなくては成らない事に成る。
    故に「高度な専門性」が要求されるのだ。
    これには多くの進んだ 
    (4) 「高度な計測器機の把握」
    (5) 「チヤンバーの操作力」
    以上がこれに加えて要求される。

    相当な学問と経験とノウハウで構築された専門域職であるので、この担当者には「リーダーのノウハウ」が下へ下へと継承されて行き、その技術者集団が構築されている。一朝一夜では構築されない集団がこのテストに挑戦する。(これが日本の強みである

    この様に”色々な状況”を再現し易い「特定限定テスト」が各種あり、各企業は努力してノウハウを継承して、”独自の特定条件” を確立しているのだ。
    この領域は、最早、「ノウハウ領域」で「自然物理学の専門領域」でもある。

    この「環境条件」の「標準温度」を中心に、「湿度」、「気圧」等の「幅域」を交互に組みあせてテストを繰り返す。(テストには・「マトリックスチャート」を作成する)

    全ての「環境条件」の「組み合わせ条件」のテストを終わらせるには、普通は次ぎの様に成る。

    ・「マトリックス幅」
    「温度域を5度幅」
    「湿度域を5%」
    「気圧域は1気圧」を基準
    「下側に0.2気圧幅」、「上側に0.2気圧1段」

    以上として行うのが普通である。
    その物に依って「特定環境条件の領域(ステップ)」を細かくして行う事等の事をする。
    ・「テストの経緯」
    このテスト数は、次ぎの様な項目と成る。
    ”[「テスト項目]×「ステップ数」]の2乗” のテスト(マトリックスチャートテスト)をしながら、問題が出れば「原因・対策・確認」を繰り返して次に進むが、前の「原因・対策・確認」が次ぎのテストで裏目に出る事も起る。「勘域」を研ぎ澄まし忍耐の要る作業である。
    「応用物理学」と「電気回路学」の超専門知識を駆使しての事である。
    先ず、長い経験が無くては専門的な計測器機に現れる数値の読み取りが難しい。
    その変化した数値が、許容の範囲であるのか、どんな波形の「出現現象」が問題であるのか等の判断が必要である。”この「出現現象」に対してどの様な対策を講ずれば良いか”の専門知識も必要に成る。

    目視や映像の経験した発見も必要に成る。
    「ソフト回路上」で直すのか、機械的に直すのか、物理的に直すのか、の判断も必要と成る。
    殆ど夜を徹しての専門家の会議に会議が繰り返される。
    依って、先ず、速くて半年、遅くて1年が充分に掛かる程度のテストなのである。
    このテストが完了して「量産と出荷」が始まる。
    普通は試作機から始める場合が多く、途中で量産が始まり、対策品を交換しながら「出荷待ち」方式を採るのが現実である。
    この様なテストの経緯を辿りながらも、「航空機」と成ると、地上での「テスト経緯」では無理である。
    それは地上で起こる環境変化はある一定期間はほぼ一定の中で起こる事なので、その前提でテストを繰り返す。ところが、下記にも詳細に検証するが、この変化は地上では考えられない様な「155M/S」の速さで急激に変化するし、それが一日に何度も起こる。
    この環境条件の特殊な変化に対応するテストが必要に成る。


    >「航空機の環境」
    「航空機」と成ると、この「平地での環境条件」とは比べ物に成らない多くの厳しい環境条件が働く事は判るが、「未知の世界」であるが、気圧1に対して0.2気圧付近まで変化する事から上記する「特定環境条件」とは考えられない異なる事が起る。
    当然に「平地での環境条件」をクリヤーした上での事と成るが、当然に「環境条件テスト」は倍は所要する事が予想できる。
    (筆者には軍事的な機密事項の航空機のテストの経験が一度ある)

    話を戻して、その前に ”「航空機」に対する認識の厳しさ” を理解する為に、上記のこの「16%」に付いて先に検証して置くとして、”どの程度の事なのか” と云うと、次ぎの事で判るだろう。
    この数字がどれだけの意味を持っているのかと云うことだが、例えば、参考として「100V電圧」では、「±最小14%」(ルート2%)で「定格許容値」で何とか使えるレベル、最高24%で使用限界値で動かないとか、過熱とか、発火するとかの「異常な問題」が発生する。
    あらゆる環境条件の中で日本ではこの範囲で規定される。
    当然に、「特性変化量」に因って、「航空機の電圧レベル」に対してもほぼ同じことが云える(下記)

    「特性変化」の量≒「最小10% 最大で16%」

    電圧での一般的な「定格許容値」を超えているが、これを参考にしても、明らかに問題を起こす領域である。そうすると、「最大16%」なので問題を起こす事にも成る。
    この例で観れば、「航空機」では、「過酷の環境条件」の「下限の−40度」の温度域付近の範囲に、「通常の環境」が入って来る。これで「航空機の条件(直流)」が「環境」に影響を受けて”如何に厳しい環境”であるかが判る。
    この「二つの検証」を観ても、絶対に無視できる範囲ではないのだ。”無視”と云うよりは、”航空機の特有の環境条件の対策を講じない限りは「異変」が必ず起る”の範囲である事が判る。
    この「環境条件下テスト」での「過酷テスト」までを行わない事の自体がおかしい事が判る筈である。

    「787」では「充電設備の装置」が、「4つの装置」で構成されていたとすると、この「一つの装置」でも大変なのに「4つの装置」で連携している事もあり、上記の様な「環境条件」に左右されやすい「ソフト基盤」があり、その「ソフト基盤」の「特質の変化」は「環境条件下」で起こす。
    更に、それを製造設計したメーカーは別々で製造したとなれば、「一つの装置」を捉えても大変なのに、仮に、「4つの装置」に対して各メーカがこの「環境条件の対策」を実行したとしても、「4つの装置」もあるとすると、”結合してユニットにした時のその「4つの装置」間に潜む「環境条件の特質変化」の対策はどのように成ったか”は大疑問である。先ず行っていない事が次ぎの事柄で判る。

    ・「環境概念の有無」
    とりあえず、理解を深める為に、先にこの事について前置きとして論じて置く。
    ところが、残念ながら”「環境条件変化の対策」を実行していない”とする根拠がある。
    何故ならば、先ず第一に、この「環境条件」の対策を見つけ出す為にテストをする「特殊な装置」(チャンバー)の製造が日本が独壇場なのである。その為に先ずテストしていない確率が高い事が云える。
    つまり、”独断場”と云う事は、その「テストする装置」が外国には少ないと云う事であり、この”少ない”と云う事は、上記に「専門域の技術者」で論じた様に、その「環境条件下」でのノウハウの「専門的な知識」が低いと云う事に成る。当然に、その「専門家の技術者」も少ないと云う事に成る。
    当然にその周囲では、「環境条件下での品質」に対する「意識も概念」も低いという事に成る。
    故に、実行されていない事の確立は高い。

    そもそも、「国民性の概念」の中に、この「環境条件下」と云う概念が低い事が云える。
    ”それは何故そうなるか”と云うと、「国土の季節性」に依って培った「国民性」と、「民族形成」から来る「合理主義」と云う「国民性」から来ている。(下記でも論じる)
    どちらかと云うと、”その国の「環境条件」が「国民性」を造る。即ち、 「環境条件」=国民性」=「概念」と云える。
    又、全般的には「787」は、「ソフト基盤」と「リチウムイオン電池」を新しく使った「航空機」と云う事も原因しているとも考えられる。
    更には、次ぎの事も考えられる。
    ”テストする為の本体が大きすぎる事”
    ”「普通の環境条件」以外にも、”「航空機」と云う「環境条件類」が、余りにも「変わり過ぎる事”
    ”その変わり過ぎる「変化の幅と速さ」が桁外れである事”
    ”「意識、又は、意思」の無さに繋がっている事”
    以上もある。
    何れから観ても、”環境概念は低い”と云う要因が働く。
    それだけに再現できる様に、先ずは、テスト出切るに部位を先ず「小型化」にして、次ぎに、「環境条件下の特質の変化」を想定し、最後に、事前にその「問題点の摘出と対策」が必要であるのだ。
    ところが、、ここに「大きな問題」が顕在しているのだ。
    それは次ぎの様な企業間にとって何時も起る面倒な事柄である。
    特に、”これが国間に跨っている” となると尚更である。
    「テスト用の小型化」を何処が作り、何処がテストをし、何処が発見し、何処が対策をし、その対策を何処の装置のところに設置するか、何処が計測器機を準備し、何処がこのコストを賄うか、この様に、”そもそも”と成る問題が多いが、どの様な「環境条件のテスト」をするかを何処が決めるのか、決め方に依っては自分の所にしわ寄せが来るか等で「設置の莫大なコストの利害」(下記)が伴うし、欠陥が見つかったとして、その対策をどの様にするか、その決まったとした対策を直接の部位の装置の所に設置するか、その原因を誘引した部位の装置のところで設置するか等、到底、別メーカーであると絶対に決め難い事が起る。
    これは後日に何かトラブルが起った時に何処の責任にするか、何処がその賠償を払うか、そのコストを何処が持つのかは先ず決まるものではない。先ず会社の存続を揺るがす大問題と成り、先ずは解決不可能な裁判と成る事は必定である。
    (「リチウムイオン電池メーカー」が賠償要求が出ているが、日本の電池メーカー側は反論している)
    そうすると、明らかに解決策はただ一つに成る。
    これを「4つの装置」を「ユニット」にして「一つの会社」が始めから「設計製作」を「請け負う事」以外にはない。そして、日本の特技の「環境条件下テスト」を行い対策して、未来の為に解決するべきである。
    つまり、上記する事を自分のところで一切責任を持って全てを賄う事以外には無い事に成る。
    この「環境条件下で品質維持の概念」が低い他の先進国では成し得る事ではない。
    当然に、日本以外には無く成るし、日本は逆にこの「環境条件下の品質意識」が、有給の歴史を経て、「環境条件」=国民性」=「概念」で「常識概念」として持っている。
    一方は「低い概念」が、他方では「常識概念」と成れば自ずと方向は決まる。
    元々、上記した様に、”特殊で高度な専門的な技術的な知識” を伴うのである。
    それを ”「4つの装置」に別けて別々に発注すると云う発想事態” が、この「4つの装置」に絡む「技術知識の無さ」が露見している。
    下記にも、この如何に専門的で微妙な領域の知識を有している「4つの装置」であるかを論じるが、「4つが別発注」の考え方が、専門的に観ると全く理解出来ないのである。

    上記した様な ”何処が” と云う問題解決の可能性も然りながら、最も大事である専門的判断にも、”リスクが余りにも大きすぎる”と云う現実的な弱点を持っているのに、”無理”である事を”可能”だと、「787」が「真逆の判断」した。(”無理”は環境条件下テスト」を実行すれば”可能”に成る。)
    この事には、”これ等の知識が無かった”か、或いは、”別の思惑”があって真逆の判断をしたのか、この何れかであろう事が判る。
    然し、少なくとも ”何処が” の問題だけは事前に理解出来できていた筈で、”専門的な弱点”に付いては” 全てとは行かなくても事前に多少成りとも理解はしていた” と考えられる。
    とすると、”「無知識」”よりは、 ”「別の思惑」”に傾くは必定で、その”別の思惑”とは、「本件の特長」である ”「70%日本製」”にあった事に成ると考えられる。

    そもそも、この”別の思惑”にはある辛い歴史が日本側にあった。
    この「航空産業」の経緯は、戦前は日本とアメリカの産業であった。
    (戦前は「零式戦闘機」や「隼戦闘機」で航空産業は米国と競合していた。)
    敗戦によりこの「航空産業」を占領下に於いて米国は禁止したのである。そして、その後は弱体化している日本に対して米国の圧力に依ってこの「航空産業」の再開は認めず出来なかったのである。
    約50年間程度の間は「日本の航空産業」は開発が出来なかった。この間、「米国の航空産業」は寡占企業となった。
    然し、この縛りも解けて、戦前の「4つの主要航空産業」は開発を始め、日本の最新の技術を以って再び米国に勝るとも劣らぬ「航空機」を作り始めた。そして、遂には、「70%国産」の「787」と成ったのである。
    (航空機設計者であった有名な「糸川氏」もロケットに切り替えて現在のロケット産業が生き返った。)
    自動車や原子力発電等の ”「アメリカ発の産業」”が、全て ”「日本発の産業」”に変わり始めた時の様に、アメリカは、世界最新鋭の「70%日本製航空機」の端緒に、この「リチウムイオン電池」を主体とする電気回路まで日本製にする事に抵抗が大きかったと考えられる。
    「100%日本製航空機」が出来てしまう事を極めて恐れたのではないか。
    彼等は、今の侭では、「自動車産業」の様に、「日本の品質チェック体制」と、その上記した「伝統の専門知識」が、最早、このままでは ”日本優位と成り同じ結果を招く” と、 戦後の航空産業を押さえ込んだ様に恐れたと考えられる。
    これは ”現実の事実”として「787カーボングラファイトの航空機」がこれを物語る。
    最早、「聖域を守って来た米国の航空産業」も ”「日本初の産業」”は始まっていると考えて、せめての”「アメリカ発の産業」のプライド”が、この判断を引き出してしまったのではないかと予想できる。
    何故ならば、「ソフト基盤」のこの「電気回路」と「リチウムイオン電池」も進んだ「環境条件のテストの品質保証」が起因して「電気回路]までもが ”「日本発の産業」”と成って仕舞っているからだ。
    この回路までも、三菱に委託すれば「完全な日本製」で、「787製」は無く成る事になる。
    「787」での「電気回路の組み立て」があるからこそ、それを「大儀明文」に「米国の組み立て」と成っているからである。
    今まではジェットエンジンの出力でハードの装置を動かしていたが、このエンジン出力を止めて「電気回路の出力」を「リチウムイオン電池」の「充電−発電(供給)−蓄電」に切り替える事で「燃費率」を向上させ、「エンジンの出力の余剰分」でより早くより「安定した航空機」としたのである。
    つまり、”「エンジン出力」と「電気回路出力」の2つで構成されているこの航空機” のこの「電気回路出力」を、全て”「日本発の産業」”としてしまうと ”エンジンのみと組み立て” に成って仕舞う事に成る。
    そうなれば、最早、”アメリカで組み立てる根拠”は無く成る事を意味する。
    「787」のみならず ”アメリカのプライド”が許さなかったと考えられる。

    実は、この”プライド固持”に走った理由に、他にもあった。
    それは、完全に ”「日本初の産業」”と成ってしまっていた史実がこの時にあったのだ。
    三菱とホンダとが、”設計から生産までの世界初の最新鋭機の「100%航空機」” を作り試験飛行中であった。
    「カーボングラファイト」の機体のみならず、小燃費の「日本製のエンジン」と「環境条件下」での「日本製の電気回路出力」の航空機に加え、機体の最新の流体力学での開発と改良とが加わった航空機なのである。
    (中型機、試験飛行、品質試験中、事前受注中、だが、現在は”環境条件下に対応し安定を保証したもの”を進めていると期待している。下記に論じるが、日本では ”「環境条件下」” これ無しでは品質として容認しない土壌がある。)

    「環境条件」が「4つの装置」の「回路部に与える影響とその危険性」を論じてきたが、この問題では済まない更に大きな問題を抱えているのだ。そして、それが上記した様に環境条件に厳しい欠点を持つ「航空機の環境」が危険の輪を広げているのだ。(「環境条件下テスト」を行なえば必ず解決できる事ではある)
    それは、「リチウムイオン電池」そのものである。

    >「リチウムイオン電池」の弱点
    何れにとっても「787」より全てに及んで、 「日本発の産業」の ”進んだ航空機” が目の前に見せられていたのである。
    「787」にしてみれば、これは最早、「企業存続の問題」であった筈である。
    ここで「電気回路」を ”「日本発の産業」”に委ねてしまえば、それはこの「日本開発の航空機」と同じになって仕舞う事を意味する。
    結局は、「787」に執っては、欠陥続出は ”「4つの装置の別発注」の判断” が不幸にも裏目に出た事を意味し、「米国産業の衰退」を意味する事に成ったのである。
    ”原因不明”の「見切り発車」は、「衰退の道」を走っている事を示している事に成る。
    「見切り発車」をしなければ「787の企業」は倒産するは必定であり、「原因追求」まで待つ事は耐え切れない「大きなリスク」である。
    況して、この状況になれば、「日本開発の航空機」が目の前に顕在しているのであるから、誰が考えても日本に取って代わられる事も必定である。
    仮に「見切り発車」をせずに、「原因追求」と成った時には、「環境条件下テスト」の「ノウハウ」と、その「テスト用装置のチヤンバー」と、その「計測器機」の有無から観て、日本に依頼する以外に手は無い。
    もし、そうなった時には、「判断ミスの責任問題」が「787企業」にあった事を露見する事に成る。

    (政治問題化するであろう事が予想出来る。裏ではしていたのではないか。「原因不明」の状況下の中で日本政府は許可を出した。)

    その証拠に ”「イワサのリチウムイオン電池」に「単独欠陥」があった”とする ”責任回避の発言” を「787企業」がした事でも判る。
    その「欠陥箇所」を指摘していないのである。(三菱やイワサはこれに対して反論している。)
    何故なら、「日本開発の航空機」の情報から観て、”環境条件に対応して安定を保証する事前試験を行う事” が、事前に「787企業」は予見できた事を意味している。だから”この発言と成った”のである。
    実は、「787企業」を始めとして「アメリカ航空産業」の全てが、この「イワサのリチウムイオン電池の導入」に対して、どの様な根拠であるかは解らないが、”航空機に最適な機材である” とし事前に発言しているのである。

    ・「発熱欠陥」
    恐らくは、三菱側は日本では常識と成っている「環境条件下テスト」と「一括ユニット受注」のこの提案をしていたのでは無いかと考えられる。
    世界の最先端を進む日本のハイブリットとEV自動車の「リチウムイオン電池」では「発火欠陥」が出ている経験上、自動車では専門技術者に恵まれて次第に対策は進んでいる。然し、それより遥かに”「環境条件」が厳しい航空機”では初めてである。
    それ故に、この「自動車の経験知識」は当然にハイブリットやEVの自動車を持つ三菱もこの懸念を持っていたと充分に考えられる。

    (「地上の自動車」は「+側の「発熱」」に対して影響し、「上空の航空機」は主にその環境条件の変化から「−側の発熱」に影響する。下記)

    (参考 「発熱欠陥」を捉えてハイブリットとEV自動車での対策研究では、「リチウムイオン電池」の「+側電極のリチウム塩」のより安定した材質の開発へと進んでいる。 70%のコバルトから他の材質に切り替える為に研究が進んでいる。7種類の後有無酸化塩が確認できる。下記)

    国際基準では、「リチウムイオン電池」に対しては、「装置」での規定ではないが、「輸送」に対しては規定している。この事から最初に「航空機に装置」として使うのだから、無視する事は絶対にあり得ない。
    その後の調査では、「787企業」にはこの「専門の技術者」が存在しない事が判明している。
    これで、「787企業」の「無知識」と「別の思惑」の両方であった事が証明した事になるのである。
    故に、恐らくは、この三菱の「2つの提案」(「環境条件下テスト」と「一括ユニット受注」)を無視したことが判る。

    筆者はこの「見切り発車」を否定するものではない。企業に於いてこの「見切り発車」は企業存続に取って必要な場合が有り得る。しかしである、この「見切り発車」には条件がある。
    その品質レベルが「安全領域側」にあっての「見切り発車」は容認できる。
    その品質レベルが「危険領域側」にあっての「見切り発車」は感化できない。
    この「原因不明」の「見切り発車」は「危険領域側」にあると判断する。
    現実に「日本の企業」はこの領域は「見切り発車」はしない。少なくとも「日本企業」はしないのが普通で、これは判断を委ねられる「日本の技術者の常識」である。それが日本の「技術者の誇り」であり古来から培って来た概念である。
    ”原因が特定できない” その侭に、「80項目」と云われる「暫定対策」の「見切り発車」は考え難い。
    その対策は、何と考えられない ”発熱しても燃えない様にする対策”と発言している。
    聞いて”唖然”とする。

    (下記で論じるが、「リチウム」の「固有独特の特性」から「蓄熱現象」と云う危険な特性を持っている。
    ある一定以上の「発熱」をすると、その「熱応力」は結晶に蓄積されて増加して行くのである。結果、ある限度を超えると「過熱現象」が起こり、遂には、「バーニング」を起こす事に成る。
    因って、”発熱しても燃えない様にする対策” は既に遅いのである。
    下記に論じるが、航空機の独特の環境条件に因って「−側の発熱」の為に冬期に起こり易いのだ。)

    彼等には、これが常識であるかも知れないが、筆者には専門技術者として到底理解出来ない。

    そもそも、「リチウムイオン電池」は「発熱・過熱現象」の発生は、最早、それは「終わり」なのである。
    何故ならば、この「リチウムイオン電池」の「顕著な特性」で、一度発熱すると「劣化の負のスパイラル」が100%起こす特性を持っていて、それが高速にて、且つ、重複的に他の欠陥を誘起する特質を持っているからだ。(下記で詳細に記述論で論じる)

    この発言は明らかに「787企業の技術の無さ」を露見している。それも殆どである。
    この「技術の無さ」が所以して、この対策と成った事を物語る。もし、あったとしたなら、先ずこの様な「発言」と「見切り発車」と「この対策」に成らない筈である。
    但し、この発想は「日本人の常識」であるかも知れないが。

    さて、そこで、果たして、「787」が「安全領域側」にあるのか、「危険領域側」にあるのか考えて頂く為に、この点をより具体的に深く論じる。日本人が間違っているのか、はたまたアメリカ人が正しいのか、”決着”を着け様と思う。
    上記のこの様な「背景と経緯」があったが、そこで、「三菱の2つの提案」と成ったと観られる筆者成りのその「技術論」を展開して理解を深めたい。

    ・「環境条件の概念の違い」
    そこで、多少、専門的であり技術的な事に慣れていない方が多いと思うが、出来るだけ解りやすく丁寧に論じるので、下記の論じる事を読んで戴くとよく理解できると考える。

    そもそも、この「専門的な知識」とは、一見しての場合、「電気系の技術者」と考えがちであるが、決してそうではない。上記の説明の通り「電気系の技術者」だけでは解決できる内容では無い事が直ぐに判る筈である。
    その ”問題と成っている欠陥” が「応用物理学の範疇」である。そもそも電気回路が悪かった訳ではなく、”「環境条件下」に耐えうる品質で無かった事”に所以している。
    出来上がっている「4つのパーツ」は上記で説明した様に、全て「鉱物製品」である事を見ても、又「環境条件」と云う「自然の物理現象」の事を考えても、これは「物理系の技術者」でなければ解らない。
    この様な事は大学で「電気系の技術者」は学んでいない。この分野は応用物理学で金属学か鉱物冶金工学の範疇である。
    つまり、この「2つの分野の技術者」のコンビネーションにて「環境条件対策」が可能に成る。
    中でも、「電気系の技術者」の中でも、その回路を設計した「主任設計技術者」でなくては無理であるのだ。
    と云うのは、回路上に明記されていない隠されたノウハウが回路の要所要所に組み込まれているからで、”「電気回路」が読める”からと云って簡単に判るという事ではない。
    「ハード回路」なら電気回路技術者なら判るが、「ソフトの電子回路」は概容は判るが、細かいところまで対策できる判断力は把握出来無いのである。「ソフト基盤の難点」でもある。
    下手に対策すると、その対策が別の問題を引き起こすと云う逆の事が起こり易いのである。
    設計者でも起こり易い事なのである。
    企業に依っては、「物理系の技術者」が、「電気回路」をある領域までマスターしてテストを実行して問題点を相談して対策を構ずる事のパターンが多い。
    色々な「高度な検査計測器機」を駆使する事が欠かせないので、このパターンが多いのであるが、希に逆の事もある。「物理系の技術者」は、この様な検査技術者が担当するのが普通である。
    兎も角も、最終は、”両者の技術者の「コンビネーション」” と成る。
    故に、この様な「技術界の内部事情」があり、どこの国でも技術者であれば誰でも出来ると云う事では無く、当然に、 ”技術者が少なければ、ノウハウも少なく低い”という事に成るし、必然的にそのような概念も生まれて来ないのだ。
    況して、”装置の相互間の影響のテスト” 等は100%していない事が云える。
    ”していない”と云うよりは ”出来ない しない” と云った方が正しい。
    「787」の「日本の装置」の「リチウムイオン電池」のメ−カーは行っている可能性はあるが、”外国はその様な概念が薄い”と、筆者は現役の時の外国技術者との談合議論で感じ取っている。
    それには「日本の考え方」と、「欧米系の考え方」とは、根本的に技術界では異なっているのだ。
    ”どのように異なっているか” と云う事なのだが、その「彼等の概念」の根幹は、”それはその程度の製品である。 その程度の品質のその価格に成っている” と主張する傾向が強い。必ずする。
    徹底した「合理主義」から来る発想である。
    つまり、この「主張の論調」は、”変化する「環境条件下の仕様」は論外である事”を意味する。
    まして、”「環境条件下の過酷条件」では論外中の論外”であろう。
    では、”どの様な基準であれば実行するのか” と云う事だが、彼等の「仕様の考え方」の基準は、例えば、温度にすれば「20℃〜22℃」、湿度にすれば「40%−60%」が根本に成っている。
    要するに、「標準条件」である。
    他の「環境条件」も、所謂、”世界基準が定める「常温常湿」である事を「環境基準」にし、それに耐えられる基準”とする考え方である。
    ”この範囲で製品に問題が無ければ、それは最早、「品質」である”とする考え方なのだ。
    この範囲で製品に問題が出なければ ”良い品質だ”と彼等は考えるのだ。
    当然に、物理学的に、この「標準の上下」には、ある程度の「バイアス」を持っていて、温度にしてみれば「±5度」、「湿度にしてみれば±10%」の範囲であれば、ほぼ一定にその特質は変化しないのである。
    これは、「鉱物の内部」が、この「環境条件の変化」に対して「分子運動」を起こしているのだが、この「分子運動」のレベルが、「特質」を変えるだけのエネルギーには成らないのである。
    故に、この範囲であれば変化しないで安定している事が保証されるのである。
    その条件が完全にマスターしていれば、それはそれでよく、完全な使用に耐えうる製品とする彼等の考え方の主体を占めている。
    従って、それ以上の「仕様」を要求するのであれば、それは”「特注」”と云う「仕様」に成る考え方なのだ。依って、「特注」を要求しない限りは、上記する「環境条件下」の対策は施されないのである。
    果たして、「787問題」のこの「4つの装置」の内の「3つの装置」はこの「特注」を要求していない筈である。
    何故ならば、ヨーロッパ系と同じ考え方、或いは、同じ概念を持つ米国である。依って、「特注感覚」は無かった筈である。
    だから、日本であれば、普通であれば、この「4つの装置」をユニットにして発注する筈で、別のメーカに発注している事はこの「特注感覚」ではそもそも無かった事を意味する。
    ”「4つの装置」を別発注した事”は、そもそも上記した”「環境条件下の特質変化の知識」が無かった事か、無視したか、その概念が無かったか、”を意味する。

    ・「日本の概念の根拠」
    そもそも、日本では「4季の気候変化」を持ち、緯度から北と南の「環境変化の差」が余りにも大きい事から、この「環境変化の仕様概念」が体や感覚に染み付いている事があり、この「環境変化」に対応している事が常識で、”西で売れても北では売れない”とする状況が生まれる。これに対応していなければ当然に売れないからである。
    故に、「日本の製品」は、全ての「環境条件」に対応している為に、「環境条件の変化」に対して問題が出ずに安定していて、”品質が良い”と評価を受ける事に成る。
    取り分け、「日本の製品」の中でも「総合産業の自動車」が今や米国を席捲して仕舞ったのである。
    これは「典型的な概念」を証明する見本である。
    自動車に限らず、「総合産業」の製品は、例外無く日本が席捲している。
    ハイブリットやEV自動車等はこの「環境条件下」で成し得る製品で、その典型的な対象品であり、世界を席捲している。
    このそもそも ”日本の品質は良い”とする評価は、この「技術的な背景」がある事から来ているのである。
    米国を始めとする先進国が、真似が出来ないのは、この「環境条件下のノウハウ」が無い事によるのだ。
    そもそも、上記した様な事があるから、”「環境条件下の対策」がしていない根拠” とは成るが、「4つの装置」のこの「環境条件下の対策」が絶対にしていない根拠が別に厳然とあるのだ。

    それは、仮に「環境条件下の対策」が行われたとして、その原因と対策が判ったとして、果たして、その対策をどこのメーカが行うのか、負担するのかと云う問題が出る。
    先ず、そもそも、「対策コスト」が莫大に掛かる。それを何処が持つのか。その原因が「4つの装置」の”何処が主因”と成っているかの議論もあると収拾が付かないし、その「ノウハウの有無」の差からなかなか議論には成り難い。
    況して「ヨーロッパ系の考え方」が存在すると話し合いなどは付かないのが現実である。

    ・「経験談」
    筆者も現実に現役時代にこの問題に直面した事の経験がある。
    ある日本の”超精密機器の検査大型機”で、その中にドイツの製品が組み込まれていた。
    この検査機器に問題が起った。それを筆者が原因特定の調査を行ったところ、この「ドイツ製品」が原因であり、その製品のトラブル原因を発見した。
    それは「バネの設計基準」を超えての「仕様」と、そのバネに付いている部品がこの「環境条件」に対応していない設計であった。
    通常、バネは材料力学上その使用の仕様限界は、「60%以上」超えて使用しては成らないのである。
    これは材料力学上は「破壊限界YP」としては常識である。
    そして、その「限界値」より一段下げた「40%」の値のところを設計基準として使用する。
    ところが、このドイツのメーカーは、「60%」の下限ギリギリのところを使っていた。
    この事を日本の商社メーカにアピールしドイツのメーカーを呼びつけた。
    「60%下限」であるので、難しいところであるが、ところがこの精密機器は上記する「環境条件下」の中に入れて検査する計測器機で、世界に10台とない日本の2つのメーカーのみが生産している「超精密検査機器」である。これで原子爆弾の収納コアーを10万分の一の制度で測定して生産機器と組み合わせて作れる優れものである。
    上記した「ソフト基盤」の塊の様なもので、10M四方の完全密閉の部屋で、「埃や菌」等一切のものを完全に排除した環境条件を自由に変更できる室、と云うよりはコンピータの中に入った感じの「チャンバー」である。この中に設置されている。
    この「チャンバー」の中の「計測器機」の「一パーツ」が問題を起こしたのである。
    この設置されている「環境条件」が温度10度以下から40度までに設定する事もあり、この繰り返しを毎日の様に行われる。
    つまり、この「バネ」は低温に成ると、金属は収縮して、この使用限界の「60%YP」が「40%YP」程度まで下がる事が起る。この繰り返しが「疲労破壊」に繋がる。
    その為に「日本の基準」では、ノウハウから「40%仕様」と成っている。日本の設計者の常識範囲でもあり、「標準規格基準」として決められている。
    明らかに日本から見ると「初歩的な設計ミス」である。
    これ以外にこのパーツに取り付けられた「プラスティク」がこの「環境条件」に更に晒される。
    プラスティクの影響は、この「環境条件」の見本の様なものである。
    「日本の製品」は、”環境条件の常識的なノウハウ” に裏付けられている為に絶対にこの様なところに使用する事は先ずない。あってもそのプラスティクに対策を構ずる。
    つまり、このドイツの製品にはこの設計的な「二つの欠陥」があった。
    大議論に成った。明らかに例に漏れず、「日本の考え方」と「ヨーロッパ系の考え方」とのバッティングである。
    彼等は ”それはその程度の製品である。 その程度の品質のその価格に成っている”である。
    日本では通用しない理屈である。彼等は譲らない。筆者は唖然とする。
    そこで、最早、技術論ではない。「日本」「ドイツ」の議論である。
    科学技術に進んだ「日本」を否定するのか、然し、否定はしない事を認めた。だから、「ドイツ」を認める。
    としたら、「日本」を認めるとしたら「日本」に売却したものに、「日本」で「ドイツの考え方」を主張するな。
    日本に居て「日本」に売却する以上は「日本の基準」に従うべきである。
    「日本の技術」は遅れているとするならば論外だが、貴方が今居る「チャンバー」とその中にある「計測器機」は貴方の国のものより明らかに優れているし、「日本の基準」は「貴方の国の基準」よりは工学の学問的にも明らかに優れている。
    世界各国の環境条件の幅は、温度にして「−40度から+40度」、湿度なども同様に幅がある。
    もし、これを否定するとなれば、貴方の国のものは問題ばかり起こり「製品」として成り立たない事の理屈に成る。これで否定しなく成った。
    結局、無償で直せ、それが貴方の国の将来の為である。解らないのであればその基準の根拠を学問的に責任を持って説明するし、直し方を技術的に提案する。 ”直す”で話がついた。

    この様なやり取りの議論が現役中は何度かあった。彼らヨーロッパ系の技術者は、その「論処」がはっきりしている時は最後は認めるのが普通である。この潔さは信頼出来るが、その最初の姿勢は日本人として気に食わない。彼等は、この理屈を必ず言わなければ成らない概念なのである。
    それに反論しなければ、それで通す。である。それが「彼等の掟」なのであろう。
    日本人としては絶対に納得出来ないのだが。
    恐らくは、この本論の「787の解決」もこの様な経緯に至らなければ解決はない。
    ”それはその程度の製品である。 その程度の品質のその価格に成っている”の理屈が必ず出て来る。
    脳に遺伝的に「染み付いた概念」である。その「染み付いた概念」の根拠や前提と成っている基準は、”自分達が優れている”を前提とする。
    ここが、日本と云う自分達より優れた「物造りの国」が現れた事に「計算違い」が起ったのである。
    それが、この「787の問題」に象徴されていて、彼等は、又、「日本初の産業」に恐怖を抱いている環境であろう。
    従って、上記した「環境条件下のテスト」は、先ずは、「彼等の概念」からしたら、”必要ない”で終わるであろう。是非必要とするなら、それは、”特注だ”と成る理屈である。
    もともと、上記の例の様に、日本人から考えると、その”「品質に対する概念」が低い”のであるからなかなか解決は難しい事が判る。
    ただ一点解決出来る事がある。それは「787」は「70%は日本製」であるとするのなら、この場合は「4つの装置」をユニットにして、”ノウハウのある「日本製」” にして、総受注先の三菱が責任を持って、上記の「環境条件下テスト」を実行する事で解決する。

    問題は、”彼等がこの点に踏み切れるか”の問題と成る。
    然し、日本側にも問題があった。
    何故、「新型航空機の仕様」に対して「重要な部位」のところを「4つのパーツ」には、この様な「環境条件の影響」があるのに、”何故ユニットを提案しなかったのか”が不思議な点である。
    (上記で提案していると予想)
    況して、”「航空機」と云うものが「環境条件の変化」を起こす最たる見本の様なものであるのに、 ”何故、ロッキードに異議を申し立てなかったのか” 不思議中の不思議である。
    充分な知識はあった筈で技術者としては考え難い。
    ”「787企業」が受け入れなかったのか、三菱技術者がこのノウハウを知らなかったのか、” と成る。
    況してや、弱点の多い「リチウムイオン電池」の使用である。どう考えても理解出来ない。
    (三菱には「EVとハイブリットの自動車」でノウハウはある。)

    そこで、上記の「基盤関係の環境条件下の問題」もあり、その上に、そもそも「リチウムイオン電池」の「敏感な特性とその弱点」(つまり、「アルカリ金属類」である)がある。

    「基盤関係の環境条件下の問題」+「リチウムイオン電池」=「敏感な特性とその弱点」
    この二つの関係式が働いた時には、果たして「適切な対策」が取れるかがそもそも疑問である。

    続く。

    >「リチウムイオン電池の特性」です。


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