青木氏氏 研究室
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  [No.321] Re:「青木氏の伝統 4」−「道標行燈」
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/07/29(Tue) 11:15:23

伝統−4

「道標行燈」



青木氏には何気なく行っている作法がある。
それを良く調べると、奥が深く膨大な歴史を持っている事が判り、他氏とは異なっている事がある。
今回は、祭祀の際に置く「行燈」等の作法に付いて論じる。
この行燈作法には計り知れないほどに意味を持ち、歴史をもっている。
この「行燈」は、普通より大きめで、真ん丸で直径70センチ位あり、高さが1メートルはある。
この「行燈」は、華やかに蓮や桔梗の花などが書かれている。
真ん中に氏の象徴の「笹竜胆紋」が書かれている。
行燈の中には、周り灯篭が仕組まれている。
先祖代々が引き継いできた物である事は一目瞭然で判る。
修理手直ししながら使い込んできている事が判る代物で、筆者も何度も手直しをした。
金銭的な節約事で「古い物」を使っているのではなく、”「先祖伝来物」”と云う感覚が強いし、手直しの跡が愛おしくその様にさせている。
この「古い行燈」そのものには現在のものと同じで何の意味もない。
”その行燈を使う作法”に異質の歴史が浸み込んでいるのである。
この歴史が浸み込んだ「行燈」は、”「迎え行燈」”と呼ばれていて、「仏壇」に添えるものでは無い。
家の祝い事、不幸事、法事などの所謂、”祭祀”に使う。
その為に、青木氏の多くの「喜怒哀楽の歴史」を観て来た行燈なのである。
果たしてどのような歴史を持っていて、無言で我々に何かを語っている様な気がする。
それだけに、この無言の歴史を解明したいと云う気がするのである。
そこで、又、筆者の癖が出た。

「迎え行燈の意味」
この「迎え行燈」のその目的は、”先祖の仏を家の中に迎え入れる道標”であるとされている。
これが、”最大の異質の歴史”である。
”先祖の仏を家の中に迎え入れる”と云う事自体がおかしい。”「仏」を擬人化している。”
この概念が先ず最初に大きく違っている。
「仏」をただ単純に「仏」として迎え入れるのであれば、何処でもお盆にはしている作法である。
しかし、ここが違っている。”「仏」を「人」として迎え入れる”と云う概念なのである。
それは、「道標」としての「行燈」を設けて”ある作法”で迎えるのである。
「仏」ならば、「道標」はいらないし、「ある迎える作法」もいらない。
「人」として迎えるから「道標」が必要であって、”お帰りなさい”と「迎える作法」が必要に成る。
つまり、「人」から「仏」に代った「彼世の仏」を「現世の人」としてこの世に迎えると云う作法である。
つまり、「有形の人」が「無形の人」に成って、現世に戻って来ると云う事に成る。
其処には、”「有」から「無」に代っただけ”で、”「人は人」”と云う概念である。
彼世にいる「無の人」を「仏」と呼んでいるに過ぎない。
依って、結局は、「有」と「無」の持つ意味の差によるだけの事に成る。
この概念でこの作法は構成されている。

夜に成ると、「周囲の灯り」を消して、この「迎え行燈」を窓際に据える。
この時、一通りの「仏法作法」がある。
この「行燈」の前に、「机経台」を据えて花を生ける。
「燭台」と「香炉」を据える。
夜7時に成ると「迎え行燈」の灯りで、「般若心経」の経典を読む。
この時、経典は三代前までのご先祖の数だけ経典を諷誦する。
家族全員が集まり、その家の女主(妻)が導師と成る。
この「仏法作法」によって”仏の人”を家の中に導いたとされる。
これにて、「現世の者」と「彼世の者」が集う事で「一切の祭祀」が行われる考え方である。
祭祀が終わると、「送り行燈」として同じ作法で送りだす。
お盆の時は、「迎え火」「送り火」も併せて行うが、この務めは家長が行う。

この「作法のポイント」は、”現世と彼世の者が集う”と云う事にある。
”祭祀は「現世の者」だけが行うのではなく、「彼世の者」も共に行う”と云う概念である。
これが、「密教」であり、「青木氏」が、「古代宗教」と「古代仏教」の中で作り上げた概念である。

「密教の考え方」
「密教浄土宗」では、要約すれば、「現世と彼世」とは、「有の世界」と「無の世界」とにのみ「差」があるとする考え方で、それ以外には、”特段無い”とする考え方である。
「人の死」とは、”その「有無の境界」を単に超える事”に外ならないとしている。
「般若心経」の密教仏説の文言を忠実に守っている。

そして、その「現世と彼世」との間には、何がしかの「接着剤」か「橋渡し」の役目のものが必要に成る。
これは「自然の摂理」である。
この世の万物には、必ずあるものとあるものを繋ぐ”「つなぎ」”と云うものが必要で、これなくして、「有の物質」は成り立たない。
「原子分子の世界」にも、この”「つなぎ」”とする「中間子」や「中性子」なるものが存在する。
宇宙もこの原理に従っている。もっと平たく言えば料理でも「つなぎ」が左右する。
要するに、論文的表現としては”「媒体」”である。
それが、「伝統2」でも論じた様に、”「香」を額に当てて香炉に焼香する事で繋がる”としているものである。
現在的に、「科学的な根拠」で云えば、「右脳」から発する「ベータ波」による「媒体」で「複眼」からそれを発して、彼世の人に通ずるとしているのである。
何度も他の論文で論じた様に、これは一概に無根拠では無い。
また平たく云えば、「母性本能」は、当に、この「ベーター波」を無意識の範囲で使って子供を育てる本能を遺している。
”心頭滅却すれば火もまた涼し。”の通り、”人は心頭を鍛え雑念を除く事さえできれば、「有の世界」にあっても、「有の世界」から「無の世界」に移行出来得るのだ。”としている。
要するに、「無の世界」は、「有の世界」と”乖離された世界では無いのだ。”としている。
(科学的根拠の無い作法では必ずしもない)
”これを強調する教派が、況や、「密教」である。”としている。
その”無に到達する手段(作法)”が、「三大密教の教義」の差に成って表れている。
中には、その「到達手段」に主眼を置いた「禅宗」というのもある。

この「古代仏教の概念」に依れば、「有の人」「現世の人」の「有」とは、”「雑念」”と云う事に成る。
「有」=「雑念」と云う事に成り、「雑念の世界」「雑念の人」と云う考え方である。
従って、その「雑念」を一時的に取り外せば「無」に成るのであるから、「現世の人」は、「無の人」に成り得て「彼世の人」と同じ位置にいる事に成る。
同じ位置に居る事に成れば、”話は通ずる”と云う概念と成る。

さて、ここまで、「有と無の媒体」と「無の到達手段」があれば、後は、「有の世界」に欠けていて必要なものがある。

「偶像の神格化」
それは、「有の世界」の「有の人」は、その「雑念」を取り除いたとしても、「虚空」に向かって、「無」に成って話しかけても、広すぎて通じない。
これも例外の無い「自然の摂理」である。
それには、”「有の世界」と「無の世界」からも一か所に集中させて、それに向かって「べーター波」で話し合えば通ずる”とする概念が生まれる。
つまり、それには、何事も ”一か所に集中させる物”が必要である。
それが、世にいう ”「偶像」”である。
そして、その「偶像」を神格化して祭祀しすれば、”「有と無の世界の連携」”は成り立つとしている。
従って、その「祭祀」は、その「有の世界」にある「偶像」にまきわり着く「有の雑念」を常に取り除いて置く事である。
その事で”偶像は神格化する”とした「仏教の密教概念」である。

実は、このこの「仏教の密教概念」(下記)には、ただ単に「仏教の密教概念」だけでは無く、「日本古来の宗教概念」(下記)が習合しているのである。

それが、本論下記の「毘沙門天」の「神格化の偶像」と成る。
(伝統−5で論じる。)

さて、「無の世界」から迎え入れた「先祖(仏)の居所」は、「仏間の仏壇」(仏舎)にあるとして、祭祀では、必ず「仏壇」(仏舎)は飾り立てる。そして、迎える。
しかし、この”「仏壇」”(「仏舎」 ここでは「仏壇」と云う呼称を使う)に、上記の「神格化の偶像」が無ければ成らない。
特段に、「仏舎」には無くてはならないと云う事ではない。
この考え方は、奈良期の大化期前には未だ無かった概念である。(下記)
「仏教思想」が伝来して起こった概念である。
その前の「日本古来の宗教概念」では、「自然神」に依る概念が全体を占めていた。

「日本古来の宗教概念」とは、「和魂荒魂」の「宗教概念」であり、”「人」は自然の一物 依って「人」は自然に帰る”と云う事が主要な概念であった。(下記)
全ての思考原理は、この主要な概念の基に従う。
”「付加価値」”の就かない「原子思考の原理」である。
現在の「日本人の思考原理」には、多くの「付加価値思考」が付加されて、”現在思考の原理”が出来上がっている。
しかし、それを”玉葱”の様に、その”付加価値の思考原理”の皮を外して行くと、最終、この「原子思考原理」に辿り着く。
それが、この、”「人」は自然の一物 依って「人」は自然に帰る”に成るのである。

取り分け、日本人は、「古代仏教の影響」を強く受けたが、「純粋な仏教」では無いものを造上げている。
それは、我々は、”「仏教」”と思っている「仏教」は、これも”玉葱”の様に、紐解けば ”「神仏習合の仏教」”というものである。
この「付加価値」が付いて、結局は”「神仏習合仏教」”というものに出来上がっている事に成る。

では、”「神仏習合」のその片方の「神」(和魂荒魂)とは、一体どの様なものであったか”は余り知られていない。
それは「日本古来」からある「日本の土壌」から生まれた「宗教概念」で、”「和魂荒魂の概念」”と云う「聞きなれない概念」で構成されている。
要するに、これが「玉葱の芯」ともいうべきものである。
その「玉葱の芯」とも云うべき概念が発展して、「自然神」が確立化されて遍歴して、遂には「古代神道」と云う概念を作り上げた。
この「古代神道」が「仏教」と習合したのである。
従って、「日本人」は、「和魂荒魂の宗教概念」から出来た「自然神」に通ずる思考原理が、「他の民族」よりも強いのである。
つまり、”「人」は自然の一物 依って「人」は自然に帰る”の「原子思考」が、「無意識の根底」にあって、「他の民族」よりも強いのである。
これが、「国民性」と成って遺されているのである。
依って、根底であるが為に、”グローバル化”に成る為として、強い「国民性」となっている「仏教原理」を外しても、この「原子思考」は外せない事に成る。

つまり、本論は、この影響を同じ「日本人」でも、”「青木氏」は最も強く影響を受けた氏である”と云う事を論じる事と成っている。
我々「青木氏」は、その「遺産」を強く「伝統」と云う形で持っていた事に成る。
何故ならば、「賜姓族」と云う立場の柵(賜姓五役)があって ”それを引き継ぐ立場に置かれていた”からである。
その引き継いだ「原子思考」と成っている概念が、況や「密教」と云う形で引き継いで来たのである。
「原子思考原理の概念」=「青木氏の密教」
簡単に云えば、”「人」は自然の一物 依って「人」は自然に帰る”の考え方が一番強い氏と云う事に成る。
では、その「青木氏の密教論」を下記に論じ事に成る。

注釈
(余談であるが、筆者は、何故か子供の頃から、「自然物理」が大好きで、その道に入った。
しかし、そうなれば、”理屈を唱える者”に成っていた筈である。
ところが、一面では理屈の根本と成る「宗教の様な概念」も好きで、子供のころから”歴史大好き”の若者であった。
取り分け、筆者の頭の中には、「物理」+「歴史」=「自然」の考え方が構築されていた。
何れも共通項は”「自然」”に通じている。
これは、無意識の生活の中で、この「青木氏の密教概念」で育った為か、或は、”遺伝子的”に継承されて来たものかも判らない。
然し、親からは、”不思議な子”と云われ、”先祖の誰々によく似ている”と云われていた。
先祖の中に4代目や7代目位前にもそのような人物がいたらしく、「青木氏」に良く出る隔世遺伝らしいことは判っている。
故に、「青木氏の由来の復元」が出来るのではないかとも考えていて、親も故に私に「復元」を依頼したと考えている。
それは「理屈と歴史と自然」の性格を持っている事を見抜いたからで、親は「家の伝統」の事を、私だけに口伝し資料や記録でも渡されていた。
この「家の伝統」の一つで「密教所作」から論じる。)


「密教作法」
そこで、「道標行燈」の「密教所作」では、「普通の日」は、据えないが「祭祀の日」には「一対の周り灯篭」を”「仏壇」”(仏舎)の左右に据える。
次ぎに、「客間に据えられた囲炉裏」に大きな黒い「南部鉄瓶の茶釜」が据えられて湯煙を上げる。
普通は、作法として「密教」を主教派とする家には、南向けた客間の右隅下に必ずこの囲炉裏があった。
昔は、この「茶道用」の「囲炉裏端」には、それなりの家筋に行けば必ず据えられて居り、直ぐに作法が出来る様に、それなりの「諸道具一式」が治められた「茶箪笥」なるものがあった。
(現在も筆者の家にはこの伝来の竹で出来た物と黒檀で出来た茶箪笥が遺されている。「囲炉裏端」もある。)
「密教寺」の「浄土宗寺」には、現在でもセットになって本殿仏間にこの様式のものがある。
この「湯煙」は、”部屋の空気を清める”と云う作法が先ずあって、その「清める内容」としては、「空気と雑音」である。
「空気」は「湯煙」で浄化させ、「雑音」は「余韻」にとする。
これは、上記の”「雑念」を取り除く為のよりよい環境(空気と音)”を作り出そうとする決められた「密教作法」である。

先ずは、その「韻」は次の様にして起こす。
筆者の家では「茶釜の作法」と呼んでいた。
先ず、水の入った「南部黒鉄茶釜」が沸騰すると、茶釜の中で「二つの韻」が起こる。
一つは”キンキンと鳴る韻”と、この”キンキン音”が先ず出始めると、部屋を静かにして置くと空気の揺らぎが無く成る。
そうすると、部屋の湿度がある一定に保たれ、茶釜の中の水分量があるところまで減少すると、この事から起こる茶釜の中で共鳴音が出る。
「湯の沸騰」による振動が、茶釜の中で響いて、膨張した茶釜の中の空気が振動して共鳴音が起こるのである。
締め切った部屋の中が加湿されてより音は伝わる事に成る。
蓋を僅かに開くと、この為に茶釜の中が片方が開いた状況と成り、「閉管」と云う「笛の原理」が成り立ち、 ”ブオーン ブオーン””キンキン”と茶釜の中で不思議な音が鳴り始める。
成り始めると、この茶釜の鉄蓋の外して、桐箱の様な形状の物を代わりに置くと、”共鳴音”は更に大きく部屋のなかで大きく共鳴する。
これで仏を ”迎える部屋の態勢”が出来上がった事になる。
つまり、”迎える環境”の中に、「雑念」が取り除かれた事に成る。
「仏間」にこの環境を作り出す事に成る。

参考
これにはある一定の広さが必要で、あまり小さすぎても加湿と室温が高く成りすぎても良くなく、広すぎてもその環境を作り出す調整が難しく出来ない。 
筆者も物理屋として試みたが、常温で常湿の範囲で周囲が板壁か土壁の部屋が良い事が判った。
これは”部屋の環境調節”が良く出来ると云う事である。

そう考えれば、室町期から江戸期に流行した「千利久の茶道」としての「茶室の造」が最適である事が判る。
恐らくは、「千利休の茶道」は、この「環境」を部屋の中に作り出す様に作られていたと考える。
つまり、「千の利休」は、恐らく、この”「古来からの密教の作法」”を知っていたと考えられる。
「千利久」の地元は堺であり、上記の大和川の湿地流域で興った「古来稲荷信仰」の地元でもある。
実は、「大和川流域系」の「古代稲荷信仰体」はこの「茶釜作法」を奈良期の古来より継承しているのである。
そこで、この「信仰の作法」から伝わった事か、或は、「伊勢青木氏」の「二束草鞋の商人」を通じて「密教浄土宗」から伝わった事かも知れない。
何れにしても、「千利休」の「茶道」は、間違いなくこの青木氏に伝わっていた「密教作法」の「茶釜の作法(環境と作法)」を採用したと考えられる。
「茶道」の「外の環境」も、周囲は樹木で囲み、湿度と酸素で温度を一定に保ち、中は上記の「茶釜の環境」を作り出した部屋にしたと観られる。
「堺商人」も小西行長の様に「二束の草鞋の商人」で「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」とも接触はあった。
この”「茶釜作法」の環境”は、人間が最も心癒される静寂、且つ、次元が異なる様な「不思議な心根」になる「環境」である。
恐らく、室町期末期から江戸期に発展して「茶道」は、この「茶釜作法の環境」をそっくり真似たものであると考えられる。
この「青木氏」や「稲荷信仰体」に伝わる「茶道の原理」は、「千利休の茶道」よりも、遥かに前から「青木氏」は、奈良期から延々と祭祀に用いて来た作法である。

「茶釜作法の謂れ」
さて、では ”何故、この作法が行われるか”の疑問ではある。
そこで、「無の世界への環境」が整えられて、「余韻と共鳴音」は、”無の世界への連絡”を意味しているのではないかと考えられる。
そして、”空気の揺らぎの無い加湿された静かな空間”が「無の世界の先祖」が居られる”「有の世界」の環境”としていると考えられる。
これが古来から伝わる「茶釜作法」が作り出す環境なのである。

恐らくは、「古来の人」は、「無の世界」の先祖は、この様な”「静かで良質な空間」にこそ存在し得る”と考えられていたのであろう。
従って、儀式毎には、この作法(「茶釜の作法」)を用いていたのである。
では、この「茶釜の作法」が「古代仏教」から来た作法なのか、古来の「和魂荒魂」から来る「古代神道」の作法なのか疑問が湧く。
「神仏習合」している環境であるが、敢えてこの歴史を調べた。(下記)

確かに、筆者から観てもこの作法の科学的論理には「論理的矛盾」はない。
人間が作り出し奏でた音では無い。「自然の原理」によって奏でられた音である。
古代にこの様な「自然の原理」を把握していたとは驚きである。
故に、”進んだインドー中国の文化の影響”を受けていたとも思える。
しかし、実は、この「密教作法」のところを調査研究していると、4世紀頃の古来より既に発祥した全く同じ作法を強調する信仰体がある事が判った。
それが、大和川流域に発祥した「稲荷信仰体」である。

「稲荷信仰体」
この「稲荷信仰体」は、自然の生活の中から生まれて来たもので、仏教の様に、概念の論理化された中での作法ものではない。
依って、「3世紀の卑弥呼の時代」から既に存在して居たと筆者はみている。
出雲から出た「弥生信仰の作法」では無く、「縄文信仰に近い作法」であるからだ。
つまり、土壌から這い出て来た「庶民信仰」と云うか「農民信仰」があった。
それは、「古代仏教」より少し前の古来より受け継がれて来た「古い信仰体」で、後に「伊勢神宮の外宮」の「豊受大御神」からの影響をも受け継がれてきた「民の信仰体」である。
むしろ、この「古い信仰体」は時代性から観て、「豊受大御神」よりやや早い時期に発祥している。
実は、この事に付いて書かれた「豊受大御神の定説」によれば、次ぎの様に成っている。

「雄略天皇」の時に、天皇の夢に「天照大御神(内宮祭神)」が現れ、”「自分一人では食事が安らかにできない。”
その夢の中で、”丹波国の「等由気大神(とようけのおおかみ)」を近くに呼び寄せるように”と神託した”とある。
そこで、同年、”内宮に近い山田の地に「豊受大御神」を迎えた。”とある。

そもそも、この説は”神代の時代の話”で「後付」の話である。
ここで、矛盾が一つある。
そもそも、伏見の神社系「稲荷信仰」は、「豊宇気毘売命(とようけびめ)」等の五主神格としている。
この「稲荷の豊宇気毘売命」と「稲荷の等由気大神」とは同神である。
「等由気大神」を勧請したのであるから、「稲荷神」の方が先と成る。

そもそも、信用できるのは、歴史論では「継体大王」からの話である。(現在の定説)
「伊勢神宮」ともなれば「天智天皇」と「天武天皇」と「持統天皇」の事である。
正式に「伊勢神宮の正式な体制」が出来上がったのは、「天武天皇期」の685年である。
全てが正式に動き出したのは「持統天皇」の690年である。
そもそも、元の「内宮」に対して「外宮」を設けての「祭祀の形」は685年と成る。
一方「稲荷信仰」は、地形上から観ると、大和川流域に広がった信仰体とすれば、「ヤマト王権」期の初期には既に、この流域の湿地帯には稲作をする民が定住していた事が判っている。
そして、堺付近の港に大船団で韓から来て上陸し、大和川の流域を制圧後、更に南の「紀族」を制圧して紀伊半島の南端から大和盆地に攻め入ったとある。
しかし、食糧調達が困難と成り、この地域を統治していた「五族」と和平して、この「五族」と共に「政治連合体」をつくった。
これが「ヤマト王権の樹立」である。
「継体大王」(507年から531年)として君臨した。
この時には、既に古来の「民の信仰体」は大和川流域には出来ていた。
何故ならば、「継体王」が、先ず最初にこの「穀倉地帯の重要な流域」を戦略的に制圧したからこそ、「連合体の大王」と成り得たのである。
つまり、この時期には、既に「民の信仰体」(少し後に「稲荷」と呼称)が出来ていた事に成る。
とすると、「稲荷信仰体の原型」は、480年頃から500年までの事に成る。
そうすると、185年から200年前の事である。
「稲荷信仰体」として、流域に「飛鳥期の石塚」が多く見つかった時から考えても、「天智天皇期」の「豊受大御神」を考えても、どんなに考えても100年程度以上前と成る。

更に「日本書紀」では次のように書かれている。
要約すると、次ぎの様に成る。
「稲荷大神」は、「欽明天皇」が即位(539年)する前に、”渡来人の「秦の大津父」という者を登用すれば「天下」をうまく治めることができる”とお告げがあった。
結局711年に、”「秦伊呂巨」が、この「稲荷大神」を「氏神」として納めて国を治めた”とある。
(この頃には、丹波の淀川流域にも「稲荷信仰体」は広がりを見せていた。)

既に、「稲荷信仰」は、539年には、正式には「神道の伏見稲荷」があった事に成る。
この事から、上記の”「稲荷信仰体」が外宮より先だ”とする説は成り立つ。

依って、「豊受大御神」は、この”民の原型の様な「稲荷信仰体」の影響” を受けてのものであると観ていて、通説の逆の経緯を辿ったと観られる。

”民のこの信仰体”が余りにも大きく、且つ、「五穀豊穣」を民から願う信仰体であった。
この事から、”追随して遷宮したばかりの「伊勢神宮」に「外宮」を設けて、「五穀豊穣の神」の「豊受大御神」として受け入れて、「民の信仰体」を追認する形を採った”と考えられる。

その「稲荷信仰体」は、「東大阪の淀川沿いの南域の湿地帯付近」に発祥した全ての「民の古代信仰体」である。
(この湿地帯は3世紀頃は「大和川沿いの奈良域西域の広域」にも広がっていた。)
これは「五穀豊穣」を「民の願い」として発展した自然発生的に広がった”「稲荷信仰」”である。
後の「秦氏の氏神 伏見稲荷大社」の「稲荷信仰体の原型」と成った「古代信仰体」である。
(この事は「青木氏の守護神と神明社」で詳細に論じている)
この「民の稲荷信仰」は、節句毎にこの上記した様な儀式を行っていたと記録されている。
現在も”お稲荷さん”として行われている事が判っている。
この「稲荷信仰の発祥地域」の近くでは、有名な「仁徳天皇陵」等の「古墳群地域」でもある
又、古くからこの近隣には「遷宮の社殿」が多くあった地域帯でもある。
更には、記録にもある様に、「飛鳥の桜井」の地域まで広がる「稲作の環境」であった。
「稲荷」、又は「稲成」と云う字を使ったものも多い通り、”「稲」が成る”の意味を持っていたのである。
この”稲が成る”の”民が集まっていた地域帯”にこの「信仰体の遺跡」が多く分布している。

一般的には、「古代密教」にも、この「儀式の作法」も頻繁に行われているので、それが「庶民の稲荷信仰」にも受け継がれたと考えられるが、その逆なのである。
何故ならば、更には、大和に私伝として最初に普及させた地域は、鞍作部の「司馬達等」が「古代仏教」を伝えたのも、この「河内岸和田域」から「奈良高市郡」に掛けての作業場庵等があった地域である。
この地域には、 ”渡来人の「部民」の在った地域”でもある。
古来より、この「湿地帯の付近」に集まって生活し、そこで自然発生的に生まれた「稲の恵みの神」の信仰体のある地域に何と異教の「私伝仏教」が広まったのである。
兎も角も、この環境からこの「密教作法」が受け継がれて来たと考えられる。

実は、この「稲荷信仰体」には「仏教の稲荷信仰体」もあるのだ。
その有名な信仰体が、実は大阪の「豊川稲荷」なのである。
上記の「伏見の稲荷信仰体」と異なるのである。
つまり、この「豊川の稲荷信仰体」は「神仏習合の信仰体」である。

元々、日本古来の「民の信仰体」の「稲荷信仰体」が、大和川流域に広がりを見せていた中に、司馬達等らの渡来人の技能集団が住み着居た。
ここに、この「司馬達等」の私伝の「古代仏教」が、自然発生的に広がり、ここで、「民の稲荷信仰体」との「習合」が起こったのである。
これが、「豊川稲荷寺院」なのである。

この「茶釜作法」は「民の古来信仰体」の「稲荷信仰」が生み出したものではある。
然し、「神仏習合」の結果から、伝来の「古代仏教」にもこの「茶釜作法」が伝わったのである。

この現象は次ぎの様にまとめられる。

ア 「上位の古来信仰体」の「和魂荒魂の信仰体」 ー公伝の古代仏教との習合 552年頃
イ 「民の古来信仰体」の「稲荷信仰体」       ー私伝の古代仏教との習合 522年頃

奈良期にはこの「二分化の流れ」が起こっていた事に成る。

この「上位の古来信仰体」(「和魂荒魂の信仰体」:天照大神の内宮)は、「豊受大御神」として、この「民の古来信仰体」の「稲荷信仰体の概念]を「外宮」として取り込んだ事に成るのである。
依って、「伊勢神宮」の中の行事でも、この「茶釜作法」に近いものが、現在も引き継がれているのではないだろうか。

(伊勢神宮の守護も任されていた奈良期の「伊勢青木氏」にも引き継がれ、奈良期末期からもこの「茶釜作法」は引き継がれている事から考えると、必ず近い形で遺されている筈である。)


「伊勢青木氏」が「古代密教」として細々とここまで引き継いできている事を考えると、「神仏習合」から、「伊勢神宮」にも何らかの祭事の中に引き継がれていると考えられる。
そもそも、朝廷では古来より「八節会の祭祀」が行われていた。現在も行われている。
従って、その中にこの作法として近いものが遺されている筈である。

さて、そこで「青木氏」は、普通に考えれば、当然に「ア」と云う事に成る。
ア 「上位の古来信仰体」の「和魂荒魂の信仰体」 ー公伝の古代仏教との習合 552年頃

果たして、そうであろうか。確かに、「イ」からでは無い事は判る。
しかし、「朝廷」とすると、上記の「豊受大御神」の源説により、「ア」と「イ」の両方からと云う事に成る。
「朝廷」は「ア」と「イ」の両方と成ると、「賜姓青木氏」が「ア」だけと云うシナリオは成り立つのか”と云う疑問が起こる。
これは検証してみる必要がある。
検証
そもそも、「天皇の夢」だけでその様にする事は先ずない。
朝廷が「イ」を「豊受大御神」として「外宮」で祭祀する様に成った経緯(上記説論)から考えて、それを”その様に仕向けたのは一体誰か”、或は、”発案したのは一体誰か”と云う事に成る。
この時の「執政」は、草壁皇太子に代って「施基皇子」が執っていた。
「伊勢神宮の遷宮」に関わった「天智、天武、持統に仕えた人物」と成れば、「施基皇子」だけである。
全国の政治に必要とする事柄を調査して、「善選言集」(善事撰集)にまとめて具申奏上した人物となれば、「施基皇子」だけである。
「伊勢国」と「伊勢神宮」を国司「三宅岩床連」に守護させていた人物は「施基皇子」である。
何れを採っても「施基皇子」だけである。
ここで、疑問が解ける。

「施基皇子」がこれだけの立場にありながら、他の者が執ったとは考え難いし、先ず立場上は取れないであろう。
然すれば、施基皇子が提案し実行したのに、地元の自分の「賜姓青木氏」が、”「イ」との関係を持たない”と云う事はむしろ矛盾である。
決して、”「ア」だけであった”とは考えられない。
結論は、「朝廷」と同じく「ア」と「イ」であった筈である。

故に、両方に持つ作法の「茶釜作法」であったのであって、「ア」と「イ」の両方の持つ「神仏習合の作法」であったのである。

実は、別の面からここにも証明する事柄があるのである。
そもそも、「稲荷信仰体」は、元より「五穀豊穣」である。
しかし、これをより進める為には、「殖産興業」も必要と成り、「商業」も必要に成る。
「稲荷信仰体」は、実は、この「二つの神格」も持っているのである。
この「二つの神格」は、「秦氏の氏神」として祭祀された頃(711年頃)から、この「二つの神格」を持った事が記録から判っている。

「施基皇子」の没年716年とすると、「日本書紀」を引用すれば、次ぎの様に成る。
妹の「持統天皇」から依頼されて「律令の根幹」にする為にと、全国を天皇に代って飛び廻った経験からも、終年「善選言集」の編集に取り組んだ時期714年頃と一致する。
恐らくは、「農業」を主体としての「五穀豊穣」に加えて、この「稲荷信仰体」に対して、「殖産興業・商業」を推進する様に上奏した。
それを神格化して、”「伊勢神宮」の「外宮の豊受大御神」の「ご加護」として進めようとした”と観られる。
その「青木氏の証拠」に、「伊勢青木氏」には、古くから「伏見稲荷神社の祠」と「朱鳥居」を持っていた事が伝えられていた。
そして、その「仕来り」では、現在まで「稲荷朱鳥居」を建立して祭祀していた。
口伝では、鎌倉期末には松阪の居宅には、「初代の稲荷朱鳥居」は未だあった様である。

「皇族賜姓族5家5流の青木氏」は、日本の「五大古代和紙」を「伊勢青木氏の奨励」で殖産した。
この「古代和紙」としての時期は、6世紀後半から7世紀前半と何れの五地域の記録にも遺されている。
「伊勢和紙」は「伊賀和紙」が主体と成っている事から、それを「他の賜姓族」に奨励した。

年代的には次ぎの様に成る。
この事から、そうすると、「賜姓」を受けた直後647年頃から地元の殖産を強化する為に始めた事に成る。
「大化改新」645年直後と云う事に成る。
外宮の「豊受大御神」は685年・690年の50年前に成る。
「伏見稲荷大社」711年の前に成る。
「古代仏教」の私伝522年と公伝552年の後に成る。

「五穀豊穣」は「当初発祥の神格」としては判る。
しかし、「殖産興業・商業の神格化」は、かなり早い時期であり、「古代仏教」の伝来後に成る。
そうすると、「大化期の直前」と成ると、古来の「稲荷信仰体」が、「古代仏教」の「伝来の影響」を受けた。
そして、「後漢の職能集団」の進んだ技量で、”「古代和紙を殖産態勢」にすること”を習得した事に成る。
当然に、その「殖産」のみならず「興業」には「財源等の基盤作り」が絶対に必要に成る。
その基盤には、「伊勢の守護の青木氏」が関わった事に成り、そうすると、早くて650年頃と成る。
それを「施基皇子」は、その「和紙殖産」への取り組みの経験を通じて、「殖産の奨励」を天皇に奏上した事に成る。
そして、自らも積極的に進め、子孫は950年頃には「余剰販売」まで漕ぎ着けた事に成る。
1025年には「大商いの総合商社」に発展させたのである。

(伊勢北部伊賀を実家とする「平清盛」がこの殖産に共同体として大いに関わった。清盛も「宋貿易」に関わった。)


結局は、「青木氏」は、朝廷と同じく「ア」と「イ」の両方の影響を以てして、「稲荷信仰との関係」もあった事に成る。
故に、伝わる「茶釜作法」は両方からのものである事に成る。
それだけに、この「茶釜作法」は、”単なる作法では無く”、”青木氏の歴史を物語る作法”であったからこそ、ここまで引き継がれて来た事に成る。
「単なる儀礼上の作法」ではここまで伝わらない。
当に、「茶釜作法」は「青木氏作法」であった。

「民の稲荷信仰」=「茶釜作法」=「青木氏作法」=「密教作法」

同時に、「民の稲荷信仰」は「青木氏の稲荷信仰」とも云えるのである。
「賜姓族と国策氏の立場」にある「伊勢青木氏」に取って不相応に見える「稲荷信仰体」は、ただ単に、「二足の草鞋策」の為の「ご利益の稲荷信仰」では無く、そのもの「青木氏の稲荷信仰」でもあった。

この背景には、「古代和紙の殖産能力」を高める為に、その殖産を「近江、美濃、信濃、甲斐」の「5家5流の青木氏」に奨励した事が上記関係式が広域に出来上がったのである。
その朝廷には、「豊受大御神の加護」を誓願して、「民の稲荷信仰体」を大きくする為にも、古来からの「五穀豊穣の神格」のみならず、そこに加えて「殖産・興業・販売の神格」を付加させる様に「民と朝廷」に働きかけたのである。

この為には、その「殖産・興業・販売」を成し遂げる「財力と技量と政治力と販売力」が必要であった。

(上申に依って、朝廷は「紙屋院」と云う役所を創設した。これが伊勢青木氏の「紙屋」の称号の元と成った。)

そもそもこの計画は、急に出来るものではない。
「財力」と「政治力」は「青木氏」が受け持ち支える事で可能である。
問題は、その「古代和紙の生産」の「技量」を高めなくては成り立たない。
そこで、この大和川流域には、「後漢の職能集団」が庵を構えて住んでいた。
そこで、彼らの高い進んだ「製紙の技量」を持ち込みむ事で成り立つし、「殖産」も彼らの知識を受け入れば可能に成る。
問題は、「販売力」である。
しかし、この時代は、未だ完全な「自由市場」では無く、「半市場の部経済」を敷いたばかりであった。
つまり、全ての「職能集団」から、その物を先ずは一度朝廷に治め、必要な分を税として取得し、その他を市場に放出する制度を取っていた。
結局は、「古代和紙」に関しては、「和紙の余剰」の販売は、「青木氏」が自らその市場を獲得して、売り捌く事に成る。
「半市場経済」とは云え、”売り捌く事 そのものの行為”を確立する事の難しさがあった。
更には、この時代は未だ「紙」では無く、「記録材」としては「木簡」が全てであった。
そこに、この「古代和紙」を生産し、殖産し、販売して、興業しようとしているのである。
当時としては、今までに無い ”全く新しい産業” を興そうとしている事に成る。
現在で云えば、パソコンか携帯電話に等しい革命である。
それも現在では無い、当に「大化期」である。
この時から「青木氏」は、”相当な覚悟を以てして奏上した”だろう事が判る。
奏上だけでは済まない。
「伊勢神宮の豊受大御神の加護」として「伊勢神宮」にも協力を仰がねばならない。
「民の稲荷信仰体」の庶民にも、その必要性を解き、生産してもらわなくてはならない。
彼らにしても初めての未だ経験もした事のない仕事である。
何れもなかなか納得はしなかったと考えられる。
しかし、”「氏」を掛けての挑戦”であった事が判る。
ここから「青木氏の商いの基礎」が敷かれて行った事に成る。

結局は、記録では、興業としての「商い」は、青木氏の記録では「古代和紙の販売」は950年頃と成っている。(正規の生産開始は730頃)
とすると、「殖産」を始めてから”300年”と成っているが、次ぎの経過を辿ったと考えられる。

A  和紙の良質な生産開始に50年   (730年頃 正倉院 紙屋院 白鳳文化 記録)
B  和紙の殖産を始めて余剰品を作り出すには50年    (770年頃 平城消費文化)
C1 商い態勢に50年            (810年頃 平安初期文化 摂関文化初期 記録)
C2 販売能力に50年            (890年頃 平安中期文化 摂関文化中期 記録)
D  興業として50年             (950年頃 国風文化前期 摂関文化後期 記録)
以上として観れば成り立つ。

S(初期)
初期の段階では「原材料の調査」、「生産する農民」の養成、適切な「耕作面積の獲得」、
それを和紙にする「技量の習得」と「職人の養成」等で、思考錯誤しながら基盤を作った。
とすると、次ぎの様に成る。
以上には、一期毎に50年程度の相当な期間が掛かったと考えられると、納得出来る。
「本格商い開始− 50年− 「950年」

E(完成)
「総合商社」として75年           (1025年 国風文化後期」 記録)

この期間に関しては、「紙」は「文化のパラメータ」である。
以上の様に、この「古代和紙」の「紙」を日本最初に作る事に挑戦したのが、「5家5流皇族賜姓青木氏」なのである。
日本のこの「紙文化」には必ず「宗教文化」が伴っている。
従って、青木氏の一面の”「紙屋」の歴史の変遷”は、この「紙文化」に左右されている事に成るのである。
そして、その紙の多くを消費していた「宗教文化」にも左右されていたのである。
下記に詳しく論じるその「宗教文化」の「仏舎」の「仏画」の歴史も、この「青木氏の紙の変遷」が大きく関わっているのである。
当然に、次ぎに論じる「節会」もこの「宗教文化」と「紙文化」に左右されているのである。
「宗教文化」→「節会」←「紙文化」
その「文化のパラメータ」の「紙の使用」が、Aの様に、「東大寺の写経会」に観られる。
この様に、初期の「紙文化」として遺されている「文化資産」は、「経典」と「仏画」の類が殆どである。

しかし、「後期の紙文化」としては、「鎌倉文化と室町文化」は、初期の「経典仏画」類に関わらず、全ての書籍等の「紙材」に利用されている。

中には、Bの様に、未だ一般に「紙市場」が無かったにも関わらず、「平城京」で起こった「消費経済」で「紙」が初めて大きく「消費される現象」が起こったのである。
余剰品が消費される環境が出来て来た。

そして、遂に、遷都に依って、紙の使用は庶民の中にも浸透し始めた初期の現象が起こった。
要するに、「公家文化」と「武家文化」の開始で「紙」が盛んに使われ始めた。
特に、世に「摂関家の文化」とも云われる文化であった
最早、余剰品の販売の領域を超え始めたのである。
本格的な「販売体制」に入らなくてはならなくなった。(C1)

結局、「初期の販売体制」は、区切る事無く続き、本格的な全国的な販売体制が必要に成った。
そして、「輸送」「安全」「全国的な組織体制の確立」の必要性に迫られた。
「輸送」には、大量に運ぶには「船」「陸送」が使われるが、これらを安全に輸送できる全国的な「護衛組織の確立」(シンジケート)が要求された。(C2)

C1+C2=Dの数式が完成した事から、今度はこの組織を使って「紙屋の商い」の組織と「賜姓族」の組織とを分離した。
そして、本格的な「二足の草鞋策」が始まった。
現在で云う「興業組織」の「紙屋」に成長したのであった。
各地に「守護神の神明社」などを使って「支店」などを設けた。
「紙屋」と「青木氏」との関係が世間では判らない状況となった。
恐らくは、当初は殆ど「紙」は「伝来紙」で賄われ、「朝廷や上級階級」が使う超高価品であったことから、朝廷に治めるものでいっぱいで、市場に出まわるまでにはなかなか至らなかったと考えられる。
当然に、ここまで到達するには、この期間が相当長かったと考えられる。
「紙の変遷」として、「何らかの文化」が起こらない限りは、より多く作り続ける前に、「限定生産」の状況であった筈であろう。
しかし、「日本の文化」は違っていた。
上記の様に、ほぼ、40年から50年程度で、「日本文化の変遷」が起こっているのである。
従って、「紙の文化」もこれに連動していたのであり、「青木氏の変遷」もこれに左右されていたのである。

「日本文化の変遷」=「紙の文化の変遷」=「青木氏の変遷」=「7期の変遷」

記録によれば、その大きな先鞭になったのは、矢張り「天平文化」である。
記録では「写経」「絵画」「仏画」「記録」に使われたとある。
そして、何れもの変遷は、”夫々特徴の持った進化のある上記の「7期の変遷」”を持っていた事になる。
云い換えれば、「青木氏の変遷」も、”夫々特徴の持った進化のある上記の「7期の変遷」”と云う事に成る。

記録
日本に、最初に「紙」が伝来したのは、296年と成っている。(「写経本」で西山本願寺蔵)
初めて日本で「伝来紙」で使われたのが、513年であった。(日本書紀に記載)
初めて、日本に「紙生産技術」が「後漢」から入ったのは、610年であった。(僧侶兼職能者)
「古代和紙」を使って書かれたものとして遺されているのは、739年である。(正倉院蔵)

この年代から判断して、650年から初めたとすると、上記のEからAに達していた事に成る。
何とか739年には既に「伊勢和紙の生産開始」できる態勢に入っていた事を意味する。

この739年(施基皇子没年716年の23年後)の直前に、「伊勢青木氏」は、「古代和紙の生産」に取り掛かった事を踏まえて本腰を入れる為に敢えて”「紙屋」”の商号を名乗った。
それを以て支援していた朝廷では、その仕事をし得る「役所」を定め”「紙屋院」”としたと考えられる。
これが「二足草鞋策」の「青木氏の紙屋」の始まりである。

この「正倉院の紙」は、「日本初の紙」として「伊勢青木氏」が朝廷に献納したものである可能性が高い。この時期に「古代和紙」を生産していたのは青木氏だけである。
故に青木氏の商号「紙屋」である所以である。
「仏画」にしても同様に、「青木氏」以外に上記の通りのSからEを成し得る氏は無かった筈である。
750年に行われた「東大寺写経」のものを調査した結果では、使われた紙は「伊賀和紙」の「楮和紙」である事が判っている。
つまり、「生産開始」から10年経っていることから、既に、「楮和紙」が普通に成っていた。
従って、敢えて使う事が無い筈で、況して、恒例の「写経会」で本格的に使う事は無いだろう。

その中の「写経紙」の中に「異質の紙」の粗目で「茶褐色の紙」が混入している事が判っているが、この事で多くの説があって定まっていない。

「延喜式格」に記載されている説としては、この「粗目紙」は「マメ科の紙」と記載されているが、この和紙は普及しなかった事が判っている。
筆者は、739年の後の750年である事から、「楮の紙」で生産開始の成功した時期から観れば、「テスト中の紙」も「日本古代和紙の歴史」の記録を遺す意味で敢えて使った事では無いかと観ている。
(「マメ科の古代和紙」は結局は「紙質不良」で直ぐに消えた。)

後漢の僧侶で職能者でもあった者が、自ら「民」の前で紙を作る程の器用さを持ち合わせ何でも作った僧侶であったと記録されている。

当時の記録を辿れば、大和川流域には、「古代和紙」に使える材料は、次ぎの四つであった。
1 麻    美濃産  中部  美濃古代和紙
2 楮    伊勢産  関西  伊賀古代和紙   信濃古代和紙
3 雁皮  近江産   中国  近江古代和紙  鳥の子紙 782年
4 三椏  甲斐産   関東  甲斐古代和紙  和紙としては 1600年に伐採 家康許可

恐らく、この「古代和紙」に使える原材料を見つけるだけでも、相当な時間を要したと考えられる。
夫々に紙質には特徴があり、使用に値するものにするには、「相当な技量」を要し、「研究の期間」もかかったと考えられる。
記録では、何とか「紙」にしたものの、紙質そのものが悪かったとされ、「滲み解消」等の研究に相当な時間を要した事が書かれている。
上記の様に、真面に使え遺し得る紙に成るまでには100年かかっている事に成る。
「伝来紙」は「粗悪」で大和での「紙の普及」には繋がらなかったとされている。
聖徳太子が挑戦したと云われる「福井の和紙」も市場や記録には結局は出て来なかったことがその大変さを物語っている。
研究室に「藤白墨の論文」を掲載しているが、全く同じ経緯を持っていた事に成る。

a 「伊勢青木氏」が、先ずこの「後漢の僧侶」に「紙の生産の仕方」を学んだ事
b 時代の変化と共に「改新の火種」にするには、「紙」だと認識した事
c 地元の「民の協力」を「大和川流域」に求めた事、「稲荷信仰体」に求めた事
d 良質な紙にする為に「稲荷信仰体の協力」を得て発見した事
e 紙質の改善や開発に「住民の協力」が主体に成っていた事
f 楮の土壌として、大和川流域の湿地帯の適地に求めた事
以上の事が良く判る。

特に上記のSの事が証明されている。
全てを細かく説明は出来ないが、「紙の材料」を発見する為に、面白い事が書かれている。
これだけを紹介する。
先ず最初に手に付けたのが麻であった。その麻は民が着ていた衣服を脱いで、煮沸したり、他の植物を混ぜたり、不要になった漁網を細かく切って混ぜたりして試行錯誤した。
然し、上手く行かず、最後に辿り着いたのは、それを”石臼”で細かくして試みたとある。
出来た事は出来たが、それでも色が悪く、厚すぎたり、書き難くかったり、墨を弾いたり、滲んだりして、普及しなかった。
そこで、粘土なども使ったが上手く行かなかった。
ある時、間違えて窯の「灰」の着いた材料を入れて仕舞った。
ところが、これが、「色」と「書き難さ」と「弾き」と「滲み」を無くしたのである。
「灰」はアルカリ性で色を還元して白くし、不純物を溶かし、表面を溶かして滑らかにし、紙の間に灰の粉が入り「弾き」と「滲み」を無くしたのである。
当時としては画期的な科学的な発見であった。
後は、問題は「厚み」と「平均化」であったらしい。
良く煮沸して、柔らかくして、最後は”臼”で細かくして、漉く温度を保ち、後は出来るだけ薄くする道具を考え出したとある。
”臼”が決定的な革新であったらしい。
未だ大和には、”「臼」”そのものの概念は無かった。
更に、この”臼”を「川の水」で「水車」を使って廻すと云う「機械概念」は全く無く、その伝来の後漢の技術が画期的に紙の発展に寄与したのである。

この「紙の文化の変遷」は、”「臼に依る技術革新」”が無ければ、量産を伴う殖産は、更に、200年は確実に遅れていただろう。
「紙」は「文化のバラメータ」ではあるが、この「紙の臼の技術革新」は紙以外にも画期的な革新をもたらした。
最後はまとめあげる為の全ての「経験」であった事が筆者の家の資料によると詳しく書かれている。
他の外部文献にも同じような事が書かれている。
その結果を以て「楮」や「雁皮」や「三椏」を試した事に成り、この四つが紙に成った。
中でも、”2の「楮」”が最も生産や紙質に適していた事に成った。
「雁皮」は「鳥の子」と呼ばれ、「近江産の古代和紙」として有名で「画紙」として良質である。
事ほど左様に、Sが解決すれば、AからDの改革に取り組む事に成る。


上記した様に、「紙の文化」の「7つの変遷」と共に、「宗教文化」も下記に論じる「節会作法」も同じ経緯を持っている。
これら「紙文化」が「宗教文化」(節会文化)に強く影響を与えたが、「青木氏の変遷」も、”夫々特徴の持った進化のある「7期の変遷」”の大きな基盤に成長して行ったのである。
この「青木氏の変遷」が「青木氏の密教文化」を支えたのである。

当に、この「青木氏の変遷」=「紙文化」=「密教文化」=「宗教文化」=「節会文化」であった。

以上の数式論が成り立つ相互関係を維持していたのである。
その為には、「密教作法」に繋がるこの「節会」に付いて更に深く論じて置く必要がある。

「節会と節句」(「青木氏の変遷」)
例えば、兎も角も、3月の「節句」の「雛祭り」や5月の「節句」や「彼岸」などには、祭祀の内容が、”夫々特徴の持った進化”の為に、世間とは違っている。

「三月の節句の雛祭り」には、伝来の大きな80センチの「一対の雛人形」を居宅に飾る。
しかし、筆者の家では「雛段」は無い。
明確な意味合いは不明ではあるが、これはそもそも「雛祭り」と云う意味合いでは無かったのではないかと判断できる。
「平安時代」の「遊び雛」や「厄除け雛」、「江戸時代」の「祭り」を主体とした「雛祭り」のもので無い事は明らかで有る。
恐らくは、「青木氏の子孫繁栄」を願っての正に「祭祀」であったと考えられ雛人形と云うよりは「像」に当たる。
それは平安期の「遊び」や「厄除け」、江戸時代の飾り立てた「祭り性」は全く感じられない。
そもそも、青木氏には、「遊び、厄除け、祭り」の様な「伝統的な性格性」は無い。
要するに「堅物」であろう。
(この「雛人形像」なるものは、後に桐箱に入れられて居た。更に、明治期には像をガラス箱に収められて保存性を高めた。依って「雛人形」の様に観えるのであろう。)

「賜姓族」として、室町期末期より菩提寺から居宅に移されているが、自然の生物が芽吹く時期の三月にこの「一対人形」を持ち出して祭祀したところから「子孫繁栄」を祈願したと観られる。
これは、「大日如来像」や「毘沙門天像」と同じ祭祀の意味合いを持っていたと考えられる。


確かに「五月の節句 端午の節句」にも、明治期以前の江戸初期頃には、大きな「毘沙門天像(人形)」(120センチ程度)を”祭っていた”と伝えられている。
否、”飾った”では無かった筈である。
この祭祀は「居宅」では無く、当初は直ぐ近隣にあった「菩提寺」での祭祀であったと聞かされていた。(平安期初期頃)
「三月の節句」「五月の節句」の祭祀も、世間の”子供の節句”と云う意味合いの祭祀では無かった。
「菩提寺」で行う以上は ”別の意味”があったと観られる。
仮に、「雛祭りや端午の節句」等の「子供の節句」であれば、その意味合いから「居宅」で行われる筈である。
「菩提寺」では無い筈である。つまり、「仏教行事」では無い事に成る。
然し、「青木氏の菩提寺」であった事は、「古来宗教の概念」を持った何らかの「密教的行事」であった事に成る。
つまり、「節句」では無い事に成る。
世間と異なる”夫々特徴の持った進化”が、「青木氏の変遷」の中で、この様に起こっているのである。

と云うのは、この時、つまり、鎌倉期頃から「菩提寺」では、「大日如来坐像」の「お仏像様」と合わせて「護り本尊」と呼ばれていた「毘沙門天像」(下記)の一対で祭祀していた事が判っている。

毘沙門天像の出現
この頃の経緯としては次ぎの様に成る。
平安期初期に桓武天皇から「皇親族」としての「青木氏」を排除した。
この為に一時衰退したので、菩提寺に移した事が考えられる。
その後に、子供の「嵯峨天皇」は、再び「皇親族」で行う「皇親政治」を敷いた。
この為に、「青木氏」は再び勢力を盛り返した。
この間、約50年程度、「毘沙門天像」等の祭祀は菩提寺に移した。
ところが、鎌倉期から室町期には「紙文化」が徐々に起こる。
遂には「室町文化」で華が咲いた。
その結果を受けて、平安中期頃(殖産950年頃)から「5家5流青木氏」の「殖産・量産・販売の興業」に成功した。
「二足の草鞋策」(商い1025年)で「紙問屋と総合商社」(「二束草鞋策」)を全国的に営む氏として復興した。
この直ぐ後の10年後に、「特別賜姓族の藤原秀郷流青木氏」が発祥し、「賜姓族青木氏」を補完する態勢が出来た。
再び、これを受けて「950年頃」に菩提寺に預けていた「毘沙門天像等」を居宅に引き上げて祭祀したとある。
150年間 「青木氏菩提寺」で「毘沙門天像」と「雛人形等」は祭祀していた事に成る。
ところが、当初は「菩提寺」での”正式な祭祀”(150年)であった。
上記した様に、再び、室町末期の戦乱と大火(信長ー秀吉の伊勢攻め 1567−1574年)で避難して「紀州新宮の居宅」に移した。
この頃から、その”祭祀の意味合い”が若干俗化して異なって来たのではないかとも観られる。
新宮の居宅での祭祀は10年程度で松阪の居宅に戻した。
秀吉家臣の蒲生氏郷から「本領の安堵」と、松坂に居宅(「侍屋敷」9から11番付与)を与えられる。
(超大地主250万石以上の有資産があった。)

古来より、季節の節々に、「伊勢神宮」は兎も角も「宮廷」においては、”「節会」(せつえ せちえ)”と呼ばれる宴会が奈良期より恒例で開かれていた。
これを江戸時代には、”「節句」”として称し、「祝日行事」と定めたことから、”「節句」”と云う行事と世間では成った。

様々な異変に左右されながら以上の経緯を経ている。

そもそも、奈良期から、宮廷では「節会」(せつえ・せちえ)として「皇族一族」が介して「宴会」を催した。
然し、この「節会」では、”奈良期からの「神仏習合の影響」”を受けて、「現世の者」ばかりが集う場だけでは無く”、先祖との会する場”として設けられた行事であった。
故に、言葉が「節の会」と「節の句」とに分けられているのである。
「伊勢青木氏」も”「節会」(せちえ)”と呼称されていた事から考えると、「宮廷」も「密教」と「古来宗教」の影響を受けて、”先祖との会する場”の概念が継承されていた事を物語る。
元々は、「古代密教の仏教」では、この場を「仏教用語」として「節会」(宮廷は”せつえ” 青木氏は”せちえ”)としていたものであり、”先祖との会する場”としての「迎える古代密教作法」があった。
(古来は”せちえ”の「節会」と呼称されていた。)

これが上記した「道標行燈」と「茶釜所作」の関連する「密教作法」であった。

九度所作(節会所作)
この「仕来り」は、江戸時代の様に、庶民化して「祝日」としての「節句行事」では元来なかった。
「居宅」で行われていた「雛人形像」などの祭祀は、この様に「祝日行事」としてでは無かった。
この「節句:せっく」と「節会:せちえ」の言葉の違いでも判る。 
「伊勢青木氏」に引き継がれて来た「密教作法の節会」は、この「古代密教の作法」にて ”先祖との会する場”であったのである。
年を経て繰り返す神仏を祭祀・行事を意味する”「節」”に、仏に会う事の意味として”「会」”と合成語の言葉の所以である。
「青木氏節会」は、「先祖との”会”する場」の密教作法であるのだ。
従って、「伊勢青木氏」では、「お盆の節会」と「彼岸の節会」が、その最も ”先祖との会する場”が重要な場であった。
この為に、他の節会よりも「道標行燈」と「茶釜所作」の「密教作法」以外にも、”「仏壇」”(仏舎)などの「迎え所作」が徹底していた。
(「青木氏」は、顕教の「仏壇」では無く、密教である為に「仏舎」と呼称していた。)
故に、上記した様な、「密教作法」が採られた上で、下記の”「九度所作」(節会所作)”と呼ばれるものが伴ったのである。

江戸時代には、民間には年間にわたり様々な「節句」が存在しており、その内の5つを江戸時代に幕府が公的な行事・祝日として定めた。
しかし、”、先祖との会する場”とするものでは無かった事から、「お盆」と「お彼岸」と「年暮」は「節会」である。
次ぎの様に庶民では「節句」では無かった。

それが次ぎの”「五節句」”(庶民の節句)である。
1 人日の節句 おせち料理 七草粥
2 上巳の節句 雛祭 菱餅 白酒
3 端午の節句 菖蒲酒 関東は柏餅、関西はちまき 菖蒲湯
4 七夕の節句 素麺
5 重陽の節句 菊酒

以上が江戸期に定められ「祝日」の「五節句」である。

次ぎは「密教青木氏」の”「三節会」”である。
A 「入盆」
B 「彼岸」
C 「暮年」

以上の”「五節句」”は、何れもその元は「重陽の節句」にしろ、「七夕の節句」にしろ、”先祖に思いを馳せた祭り”であった。
「端午の節句」、「雛祭りの節句」にしても、”「子供の成長」を一族が集まって喜ぶ祭り”である。
要するに「先祖への子孫繁栄」を伝えるものである。

「正月の節句」は、年の始めを祝詞する他の四つを纏めた様な ”総合節句の意味合い”が古来よりあった。
しかし、時代と共に「民の文化」の方は変化を来したのである。
この様に元を質せば、「青木氏の密教作法の節会」は「先祖」とは切り離せない祭り事であった。

「道標行燈」と「茶釜所作」はこの「青木氏の密教作法の節会」の中の一つの作法で在った。

系統概念の有無
伝統を継承するには、系統的概念が必要と成る。
然し、そもそも、江戸時代には、庶民には、”ルーツを系統的に遺す概念”そのものが無かった。
上級武士を除き、依って、”系統的に祭祀する墓、” そのものが未だ無く、当然に、無墓では「節会」では無く成る。
(その「伝統」や「系統性」に関わる「墓の起源」は下記に論じる。)
仮に、「毘沙門天信仰」が、庶民の中に発展したとしても、「戎神」、「勝負神」、「無病息災神」の範囲に留まった。
この「三つの神格」、即ち「庶民の神格化」が示す様に、”特段の概念の無さ”を顕示しているのである。
ところが、江戸期も含めて、近年次第に、より益々 ”「先祖」の意味合い”が低下して、単なる「祝日」「祭り」に更に成りつつある。
むしろ、「先祖の概念」は、論外として認識されていない状況であろう。
明治以降、「先祖の概念」は、「先祖の概念」として ”「別扱いとする合理的判断」”に依ったものと考えられる。

”先祖との会する場”と云う「密教概念」が無い事を示している江戸初期の「五節句」では、250年も経過すれば、民衆からは必然的に「先祖を尊ぶ概念」は無く成るであろう。
しかし、そんな中で、”先祖との会する場”の「青木氏の密教の概念」が、「青木氏の生活の作法」として1500年も遺し得ていた。
だからこそ、又、「先祖の概念」が系統的に『維持されて来たからこそ、「伝統」として強く遺されて来たのである。
ここに「根本的な大きな違い」がある。

何故ならば、全ての庶民は、明治3年を境にして、一挙にして「姓」を特定する「苗字」を持つ事に成った。
”「系統性」を持ったと云う事”である。”「伝統」を維持する事が出来る様に成ったと云う事である。
その結果として、”未だ、系統化された「ルーツ」の無いまま”に、”漠然とした先祖への思い”として「墓所」を持ち始めたのである。
況して、その「墓所」は、それまでの「仏教の慣習」の「砂岩の墓」(下記)では無く、「花崗岩の墓」を設け、それまで無かった「家紋」まで仕立てての墓所と成った。
「苗字」も8年間もなかなか進まなかった中、「系統性の持つ苗字」が出来ると成ると、今度は一夜にして「前の概念」を捨て、新たに「先祖の概念」を持つ”変わり身の早さ”に至ったのである。
これは、幕府が定める恒例の「江戸期の5節句」として250年続いた祭祀の中である。
上記した様に、「5節句」は、元を質せば、”先祖への思いを馳せていた事”が、「休日・祝日」の中で、意識の何れかに遺されていたのであろう。
それが、「苗字取得」に依って ”今後、先祖を特定できる” として「一挙の行動」に出たと観られる。
庶民には「休日・祝日」であった「五節句」を祝う中で、且つ、「ルーツの探究」が出来ない慣習の中でも、”根底の意識”の何処かに「先祖の概念」の思いと要求があった事を示す現象である。

これには、調べると、面白い事が出て来る。
「幕府の5節句の休日・祝日・祭日」とした「指導の仕方」にあったのである。
例えば、幕府自らが 、”「働く日」に休む馬鹿 「休みの日」に休まぬ馬鹿”等の狂歌や川柳を多くを出して、「社会のムード」を作り上げて、苦労して初めての「国家的祝日」を作り上げた事が判っている。
従って、この「5節句」は、到底、”先祖へ思いを馳せる祭り”とする事などは到底に無理であったのである。
あくまでも、「休日、祝日、祭日」の節句であった。
それも、”有史来の画期的な行政策”である。
その職場職場で適時適切に決めていた「慣習の休み」で、”暗黙の内にこの日は「休み」”と云う社会体制であった。
それを全国統一して、何が何でも”休め”としたのである。
それが、朝廷が祭祀として行っていた「八節会の儀」の中から ”民衆が休みやすい節会”を五つ選んだのである。
しかし、それの根拠が、”先祖との会する場” 又は、少し緩めて、”先祖へ思いを馳せる祭り”にしてでも、上記した様に、”未だ系統化された「ルーツ概念」”の無いままであった。
庶民にしてみればこれは、 ”ピントボケの施策”と成る。

「青木氏の三節会」のABCは、江戸期の記録から観ると、「朝廷の八節会」が行われていて、それに合わせて、”「系統化されたルーツ」を持つ上級武士を含む上級階層の間”でも、それなりに祭祀として行われていた。
「青木氏」の様に、「密教」であるかは別として、「顕教の慣習」でも兎も角も行われていた。
「朝廷の八節会」は、「伝統を護る為の行事」であり、「先祖を敬う行事」でもあった。
この事から、それなりの有る階層では、「八節会」はこの「二つの事」を護る「社会的ムード」が在った。
そこで、それに関わる家人や下僕や出入りする職人・商人・農民にも、その祭祀に順応して「主家の祭祀」に従ってお参りした。
その上で「義理」を表すために無理にでも「休日」として”1日を念じる姿勢”を示した慣習であった。
(江戸期は「義を重んじる社会」であったから成り立つ慣習であった。)
恐らく、この事もあって、幕府は敢えてこのABCは外したと観られる。

然しながら、筆者の家では、代々「人日の節会」(正月:人の日)の言葉通り、「年暮の節会」から一族が一堂に集い ”「人」に思い馳せる場”としての「節会」であった。
決して「休日、祝日、祭日の節会」では無かった。
上記した様に、「密教の青木氏」は、「年暮」から「道標行燈」を設け、「仏壇」(仏舎)には、吸い物や精進料理を伝来の「高瓶朱盆」に載せて祭祀し、一夜通しで「人日(正月)の節会」に入る作法が引き継がれる。
この「人日節会」(正月 人の日)には、「朝昼晩」には夫々決められた精進料理が供えられる。
二日目にも、「昼晩」には同じ所作が繰り返される。
三日目には「晩の所作」のみで「道標行燈」の「送り行燈」を灯明し、一族うち揃って「般若心経」を「女主」が中心に三代前までの先祖の数だけ唱えて終わる仕来りである。
これが「青木氏密教の作法」であり、元々正月は、むしろ「不作法の日」とする「民衆作法」と成っていて大きく異なる。
民衆の「人の日の節句」は、江戸幕府の川柳などの宣伝もあって、結局は”休ませる事”に重点が置かれ、”人を休ませる日の節句”と解釈されたのである。

事ほど左様に、他の四節句も、”休ませる事”に重点が置かれ、「人日の節句」の通りに考え方が、上巳、端午、七夕、重陽にしても、全てこの”休ませる事”の解釈であった。(別記)

”何故、この様に成ったか”と云う論調には、上記の「稲荷信仰体」と同じく、次ぎの「庶民信仰体」の影響が左右されていたのである。

終わり。

「伝統」−5に続く。

「毘沙門天の影響」



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