青木氏氏 研究室
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  [No.334] Re:「青木氏の伝統 17」−「伊勢衆の本音戦略」 
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/08/31(Mon) 11:11:14

>「青木氏の伝統ー16」の末尾


> 「比叡山焼き討ち」等に観る様に、「信長」は「武家勢力」を始として、「各地の戦い」には、各地ならではの「条件」を入れ替えて、この[四つの思入れ」に適合するかを確認したのではないかと観られる。
>各地の戦いの「信長の発言」を考察すると、この傾向が読み取れる。

>これは、まさしく、「青木氏の氏是」の意味する処でもある。

>”何時の世も、「青木氏」を世に晒す事無かれ、何れにも一利無し、然れども「青木氏」を世に憚る事無かれ、何れにも一利無し。”

>「信長」は、”「伊勢者」”の当初から出方を警戒(婿養子の策謀失敗)しながらも、元より”「悠久の歴史」を持つ「伊勢者」”の「伊勢の青木氏を攻める意志」は無かった事を意味する。

>「この世」の「何事」も、排除されるのは突き詰めれば、「信長」も、「青木氏」もここに来る事を教えている。


>これ等が、「伝統」を語る上で、「青木氏」に執って忘れてはならない「四家の背景と経緯」である。
>何れにせよ「我々の先祖の青木氏」は、この中で生きて来たのである。
>その「生き様」そのものが”「青木氏の伝統」”であった。



伝統―17


「伊勢衆の本音戦略」
そもそも、“何で「伊勢衆」と「伊勢四衆」が「招かざる北畠氏」のこの「行動」に合力したのか”と云う疑問が湧く。
「青木氏」として、“本気で合力したのか”と云う疑問が湧く。
「不倫の聖地」に「武」に変身した「公家の北畠氏」が入る事は、「聖地の存続」に「危機」を生じさせる事に成る。
この事は「武」を背景とする以上は、「争い」は目に見るより明らかであるのに、むしろ、「伊勢衆」「伊勢四衆」に執っては、「平穏な悠久の歴史」を続けて来ただけであった。

然し、唯単に「悠久の歴史」を続けて来て訳では無い。
「賜姓五役」として、「三つの発祥源」と「国策氏」としての”「伊勢国」”を作り上げて来た。
財源的補足としての「二足の草鞋策」や、伊勢国と民を豊かにする為に「和紙殖産」を作り上げ、抑止力としての「伊勢シンジケート」を構築して護って来た。
「青木氏」に執っては、この苦労を水の泡にする様に、「武」で乱されるのでは、“排除するに値した行為”であった筈ある。
況して、「悠久の氏是」も在った。

確かに、「源氏」と云う縁もあったが、それだけで「合力」はするか疑問である。
「聖地の存続の危機」と云う事に成れば、「縁如何」では解決できない。
況して、北畠氏が”「源氏」”とはいわれているものの、正規の「賜姓源氏」では無い。
何より、「悠久の絆」で結ばれた「伊勢衆」の「土地」とその「生活基盤」を「武」で奪った相手でもある。
「二つの青木氏」は「北畠氏」に対して真当に合力したとは到底思えない。
そんな「愚人の四家福家」はいないであろう。もし、そうであれば、とっくに滅亡している筈である。
そもそも、この現状事を認めて仕舞うと「自らの氏の立場」「子孫の行末」も危うく成るは必定である。
「家訓」もあり、其れ等を「無視する行動」を採るとは到底考えられない。

とすると、「青木氏」に執っては「抑止力」で対抗する方法もあった筈である。
然し、”「抑止力」を使った”とする記録が全く見つからない。
何か変である。「抑止力」を使えない”「何か」”があって、仕方なく”「何か」”が策謀された気配がする。

然し、現実には、「青木氏年譜」や「口伝」や「添書」や「商記録」などからも”「合力」”は明らかである。
この「合力の如何」は別として、疑い無く“「合力」”はしているのである。
ただ、反面、「武による合力」でも無い事も明らかである。
だとすると、考えられるのは、”「北畠氏の出方」に「青木氏の抑止力」を使えない「大義」があった”事に成る。

そこで、”どの様な「大義」であったのか、どの様な「合力」”であったのかを明らかにしたい。
そこから、「二つの青木氏」の「生き様」が観えて来る筈である。

問題は、「北畠氏」の伊勢での短い期間の「生き様の特徴」に在る。

鎌倉末期の「建武中興」にて「親房」が勢力拡大、その末裔の「顕房」は、戦国時代に無防備な伊勢の北畠に武力で進出し勢力拡大、遂には「国司」に成るとあるが、この室町期末期の戦国期に「国司」の意味がどけだけあるかは疑問である。
あるのであれば、室町期は「国守護」であり、「国司」では無い。如何に「天皇家の権威」を利用したかはこれ一つで判る。
況してや、最大時は「南伊勢五郡の勢力」で、「全伊勢」では無かったし、「勢力」だけが裏打ちされたものであった。
この「勢力頼み」を利用する事であった。

然し、「顕房」には、「朝廷との繋がり」は確認できない。
要するに、衰退している「天皇の権威」を利用した「戦国公家大名」である。

それは「北畠氏の態度」が次ぎの様な事にまとめられる。

「特徴 A」− 「御所」と云う館名を盛んに使っている。
「特徴 B」− 「朝廷」との連携を強くしている。

この「特徴 A」は、「御所」、即ち、「天皇の意」を戴して、”「伊勢国」を統治している”と云う「戦略」を採った事に成る。 
次ぎに「特徴 B」は、困窮していた「天皇家」に貢ぎして「パイプ」を作り上げ、「特徴 A」を補完した戦略を採った事に成る。
要するに、「天皇家」を利用して「伊勢」に侵入した「大義」を作り上げた事にある。

果たして、「天皇家」が、その様に「北畠氏」に、 ”「密命を出した」”と云う事もあり得るが、これは確認出来ないところである。
そもそも、「伊勢国」は「皇祖神の聖地」で数少ない「天領地」でもある以上は、その「天領地」から上がる「税」をより高くしようととして「北畠氏」を差し向けたと成る。
「税」だけで「天皇家]が「皇祖神の聖地」を危険に晒すかの無謀をするかの疑問がある。
「青木氏」も「税」は納めているが、これを無視する行為を天皇家がするかの疑問がある。
「巨万の富」で「税」は高く成っている状況の中で、「青木氏」を無視するは自らの首を態々絞める事にも成るがそうするかの疑問がある。
確かに「北畠氏」は、「村上源氏の流れを汲む源氏」で、「朝廷の学問処」の家柄に在ったが、この密命を下すかの疑問がある。

「青木氏」は、「特徴A」と「特徴 B」があった事で、これを「北畠氏の大義戦略」であった事から、直ちに「抑止力」などの手が使えなかった事にあったと観られる。

この為に、青木氏は、次ぎに論じる「青木氏の本音戦略」で対抗した事に成ったのである。

「北畠氏の大義戦略」><「青木氏の本音戦略」

「北畠氏の大義戦略」><「青木氏の本音戦略」であったとすると、「青木氏」は「天皇家」から罰せられていた筈であったが罰せられていない。
とすると、「皇祖神の聖地」を汚す様な「密命」では無かった事に成る事から、後は「合力の有り様」で解明できる。


「合力の有り様」から観た検証
“「ゲリラ」“と云う言葉は当時は無いが、資料にも依るが、「撹乱」「調略」「策謀」「知略」の4文字が出て来る。
そして、「商人の姿」は観えるが、四つも持っていた「四家」の「館城」「寺城」などの表現は「直接的表現」としては無い。
取り分け、「商記録」には、「伊勢シンジケート」からの情報と観られるものとして、「簡潔に要点を書き記した情報」からも総合すると、”「直接交戦歴」”も浮かんで来ない。

何よりも、一揆等の行動に「裏からの経済的支援」をしていた事は判り、記録から「紀州」、「伊勢」、「信濃」、「甲斐」の「四大一揆」の事が記載されている。
中には、この「一揆」に絡んで、「青木氏の密教浄土宗の菩提寺の存亡」に関わっている。
又、「信濃や甲斐」では、「曹洞宗との争い」に、又、「伊勢や美濃」では、「真言宗との宗教争い」の様な事もあった事が記されている。

これはつまり、「伊勢丸山城の戦い」や「名張清蓮寺の戦い」の「戦い方」がはっきりしていて明らかに“「ゲリラ戦」をした”と云う事が判る。
「一揆等の経済的支援」等の戦い方は、一体、”どの様に見るのか”で変わって来る。
唯、”単なる経済的支援”とは、一方に支援をしている以上は、行かないであろう。
問題は、後から来た「武力による支配者」に対して、「青木氏」等は苦々しく思っていた事は、長い間、悠久の歴史を伴にして来た「民」がそう簡単に納得したであろうか。
「悪政」を敷いていたのなら別にして、「悠久の歴史」を共にしていた事は、「悪政」では無かった事に成ろう。
「土地の権利」は「青木氏」が「地主」として持ち得ていたとしても、「政治の支配権」は「後からの支配者」にある。
「郷氏」としての地主で無いところは、支配を受ける事に成る以上、「民」は反発をする事は充分に考えられる。
「経済的支援」をしている事は、「民の生活困窮」では無かった事に成る。
況して、「地主」である事から、「直接の税」は「青木氏」にある。「税問題」であるのなら「青木氏」との問題である。
「政治的反発」であった事に成る。
”「伊勢に武に依る支配がもたらすリスク」”を嫌ったと云う事に成る。
従って、「一揆等の経済的支援」は、この「青木氏の背後からの突き上げ」であったと観ている。

その証拠には、明治9年までの伊勢で起こった一揆を含む一切の動乱には、「青木氏」は「商人の立場」から支援をしている。
北畠氏等は、背後に青木氏が見え隠れしている事は充分に知っていたと考えられる。
然し、”手は出せない”と云う柵に縛られていたのである。(「二面作戦」を採った。)
公然と青木氏として表に出れば又別であろうが、「商人の立場」を利用した事が「商記録」からも判る。
「長兵衛等の四家の名」を夫々に使っていた事が記録に残されている。

上記した様に、「招かざる北畠氏」が「採った行動」に対しては、「伊勢の聖地」を「護る役目」のある「青木氏」は、「武に化した北畠氏」を直ぐに排除出来なかった。
当然に、「武力」を使えない為に「悠久の絆」で結ばれた「土豪や郷士の伊勢衆」を充分に護れなかった。
それだけに「経済的支援」は伊勢には急務であった。

それは、次ぎの理由があった。
(イ)「北畠氏」が南北朝より「朝廷の意」を反映させている事(西の公家政権)
(ロ)「青木氏」が「氏是」に依って「武」を以って「北畠氏」を排除できない事
(ハ)悠久来に「賜姓族と云う立場」があり、「直接交戦」が採れない事
(ニ)「権威の象徴」は崩せない事

しかし、「二つの青木氏」に執っては、時間が掛かっても、何とかして排除するか弱める事が絶対的に必要である。
そうすると、「二つの青木氏」に執って考えられる手段は、「直接手段」は出来ないと成れば、取れる手段は、唯一つ「間接手段」しかない。

ではその「間接手段」と成れば、次ぎの「二つの戦略」に成る。

戦略1 「北畠氏」を煽り「武」に立たせ、悟られない様に「外部勢力」で弱めさせるか潰させる事
戦略2 そこで、室町末期の最大勢力の「信長勢力」を招き入れて、弱めさせるか潰させる事

「第一段階」
それには、「北畠氏」に「商い」などを通じて取りあえずは「経済的な利得」を得させて「勢い」を持たせる事が必要と成る。
「信長を引き込む」の戦略の為には、この「勢い」に依って「権威を惹けら課し、その利得を獲得する形」が出来れば、「信長」は必ず来ると判断した。
この“信長に遣らせる戦略”を第一段階とした。

その「信長」には「天下布武」で「天下号令の野心」があると踏んだ。そうすれば、「京」には「伊勢」は背後に位置すると「北畠氏」を叩く必要が必ず出て来る。
その為の「条件づくり」「環境づくり」をする事にあると見込んだ。
其れには「権威だけを惹けら課す北畠氏」に「経済的潤い」と「軍事的勢い」を付けさせる事が必要である。

「第二段階」
そこで、「元伊勢衆」と「伊勢四衆」が結束して、これに当たる方向性を付ける。
「伊勢青木氏(信定)」は「長野青木氏」等の「全国の青木氏」に呼び掛けて「ゲリラ戦」に応じる様に主に呼びかけると共に、「元伊勢衆」から成る「伊勢シンジケート」と共に、「ゲリラ戦の攪乱消耗戦」を仕掛ける。

「第三段階」
当然に、伊賀氏、伊藤氏、長嶋氏等は、領地を奪われる事から「独自の方法」で「信長」に戦いを挑む事に成る。
そこで“「信長の遣り過ぎ」“を制御する為に、「伊勢青木氏(忠元)」は、「伊勢青木氏(信定)」と共に「ゲリラ戦」を展開しながら、全国の「秀郷一門361氏」に援護を依頼して「信長」に「東の背後圧力」を掛ける事にする。

「第四段階」
「信長」は、この「伊勢青木氏(忠元)の行動」を観て、“「伊勢藤氏」”には手を出せない様に仕向ける。
この事で、「伊勢の戦い」は限定して拡大しない事に成る。

「第五段階」
この戦略で、「北畠氏と伊賀氏」が潰れる事で解決して、「信長」を以って、この二氏を弱めさせ潰させる事が出来る。
この段階で「伊勢シンジケート」の「ゲリラ戦」を引く事とする。
そこで、「伊勢衆の代表」として「信定と忠元の青木氏の二人」は「織田氏との談合」で決着をつける。

「第六段階」
これは、結果として、「本領安堵」を最終目的とする事であり、「元伊勢衆」の「北伊勢の土地」と、「伊賀氏」が支配していた「伊賀の土地」と、「北畠氏」が支配していた「南伊勢の土地」と「東奈良の土地」は帰って来る事に成る。
これで「所期の目的」は「伊勢者」に執って達成させられ、「伊勢の聖域」は護られる。

この「六段階の戦略」が、集めた記録から観ると、「元伊勢衆」と「二つの青木氏」の描いた「基本戦略」であった様だ。

ところが、ここで「戦略の見込み違い」が起こった。

この”「戦略ズレ」”は、何れにも起こるは必定の事であり、これを「臨機応変」で処理するのが「戦いの常套手段」である。
「基本戦略」以上を超える「戦略ずれ」は拙いがこの範囲であれば問題がない。

その「戦略ずれ」とは、「伊藤氏と伊賀氏」の「伊勢藤氏の二氏」が「自らの勢力」を超えて突っ込み過ぎたのである。
(長嶋氏は室町期の新参であった事から「基本戦略の範囲」を護って激しい交戦態度は避けた。)
結果として、「長嶋の戦い」が長引いてしまった。

そこで、止む無く、「二つの青木氏(信定と忠元)」は、”顔を出さない「ゲリラ戦」”で合力する事に成ったのである。
しかし、「戦略ズレ」を無くす事から、「談合」が進められ、結局、この「伊勢藤氏の両者」は、慌てて、子孫を遺す事を目的で、「伊藤氏」は尾鷲に、 「長嶋氏」(州浜族)は「尾張の秀郷一門」の「三勢力」(州浜族、片喰族、沢潟族)に、軍を引かせて早期に戦いを終わらせた。
この事で、「ゲリラ戦」が遺る程度に成った。
この時、「忠元の依頼」もあって、「武蔵の秀郷一門」が「救いの手」を打ったのである。
事を大きくしない為にも、「軍」を送らず、「名策の窮策」を講じた。

それは、「尾張三勢力」と「伊勢青木氏(忠元)」で、「信長の背後」を牽制した。
「信長」に、「信長子飼い」の「伊勢青木氏」と親族である「近江蒲生氏郷」を「伊勢戦域」に就かせる事にあった。

(注釈 上記した様に、「信長と氏郷」は、「京平家の同じ家筋(揚羽蝶紋)」の末裔で在る。
且つ、「信長」が其の優れた才覚を認め、家臣の中で最も信頼していた人物で、幼少期から信長の次女の梅姫を婚約させ嫁がせた関係にあった。
「信長」に執っては、「毛利攻め」の事も有って、「背後」を大きく混乱させ長引かせたく無く、事を穏便に始末したいと考えていた。
そして、現実には、”「策謀」”に依る各個攻撃に出ていた。

そこで、「二つの青木氏」は「背後牽制」をして、“早期から「氏郷」を伊勢に引き出す戦略“には成功した。
そもそも、「忠元の父」と「氏郷の祖父」は兄弟であった事から、この「作戦」は成功して、「伊勢藤氏」の「二勢力」は何とか生き延びたのである。

(注釈 そもそも、「信長」が、「北畠氏と伊賀氏」を潰せば、その目的は達成している事を物語る。
もし「伊勢藤氏」を潰す目的であれば、「信長の戦法」であれば、「同族の蒲生氏郷」を差し向ける事はしない筈である。
「徹底して潰す戦術」を採っている「信長」であれば、「伊勢藤氏の三勢力」を遺さなかった筈である。
これは、むしろ“潰せなくて”、且つ、“潰す目的が無かった事”を物語る。

”「信長の権威への挑戦」”にしても「闇雲の挑戦」では無い事くらいは判るであろう。
そもそも、「伊勢衆」と「伊勢藤氏」や「伊勢青木氏やシンジケート」には、「信長」に「敵対の意志」はそもそも無かった。
「後世の子孫」から観て、「信長の行動」に敵対するに値する根拠は何処を探しても見つからない。
「北畠氏や伊賀氏の行動」に「青木氏の命運」を掛ける程の根拠もなかった筈なのである。
むしろ、「招かざる者」として位置づけられていた。

(注釈 伊賀氏には長い歴史の中で幾つかの出自の異なるルーツが生まれた。
ここで云う「伊賀氏」とは、「藤原北家秀郷一門」の「宗家」で、鎌倉期に「頼朝」より「旧領地の結城の地」を本領安堵され、「結城氏の祖」と成った「朝光」が、その後、鎌倉期に、「伊賀の守護職」を務めた。
この「現地孫の末裔」が「伊賀氏」を名乗って、その後に鎌倉幕府の中枢に位置した。
その勢力を最大に伸ばした「氏族」で在る。
その後に、この末裔が「伊勢伊賀」に住し、伊勢の土豪、郷士を押え勢力を伸ばした。
厳密には、「伊勢藤氏の四氏」の内の一氏ではあるが、「他の三氏」とは、「秀郷一門」とは云えど、その血縁による「血流性」が低く、若干、その「生き様の方向性」に「武力性」が強く異なっていた。
時には、「傭兵軍団」等で生き延び、その氏は二派に分かれた。
その一派が「甲賀族」である。)

(注釈 従って、「伊勢藤氏四氏」と呼ばれるも「伊勢藤氏三氏」と呼ばれる事もあった。
この地の前身は、「伊勢京平氏の祖」の「後漢から帰化した阿多倍王」、又は「高尊王」、「平望王」で、朝廷より「伊勢青木氏の土地」の「伊勢北部伊賀地方」を「半国割譲」を受け定住した。
その子の「国香」と「貞盛」の親子から五代後の「平清盛」に繋がり、その後、清盛は「伊賀の地」を朝廷に返却して「播磨」に移動した。
然し、この時、一部末裔は、「平家滅亡後」にも「伊賀の地」に遺って、「伊勢青木氏」と共に「和紙」等の殖産を引き継ぎ、「伊賀郷士」等と成って生き延びた。
この「伊賀氏」には、この「平家の血」も流れているが、その主血流は「秀郷一門流」である。
主筋は秀郷一門で占められ、「家臣」には、この「平家の血筋」の持つ者、「民」には「後漢の職能部」を祖とする者等から成る。
「青木氏」とは、取り分け、室町期には、「伊賀氏」に成っても、「奈良期からの絆」で、「和紙殖産」を通じて、この「郷士の家臣や民」との繋がりの方が強かった。)

従って、この上記の注釈の経緯があるとすれば、「北畠氏や伊賀氏への合力」と云うよりは、“「流れ」の中で仕掛けられた「謀略」程度“と観える。
そもそも、「青木氏の基本戦略」の範囲では、「北畠氏や伊賀氏への合力」をしたとは云え、上記の「注釈の経緯」もある。
取り分け、この「二氏」とは「生きる方向性」の事もあり、「信長」を「伊勢」に呼び込む為の「誘導煽動策」に過ぎなかった。
(青木氏側からの見解)
そもそも、「伊勢藤氏 四氏」とは云え、鎌倉期の「武力に頼る毛色の違う伊賀氏」、平安期の「武に依る突っ込み過ぎた伊藤氏」、室町期の「武蔵の永嶋氏に頼る長嶋氏」とは違い、同族の「伊勢秀郷流青木氏」とは、血縁はあるにせよ、その「生き様」が根本から異なる。
又、「青木氏」は「賜姓族」である事も踏まえ、「三氏の顕教」では無く、「密教の概念」をも符合させて、「一族性」を完全一致させる事はそもそも難しかったのである。

ただ「北畠氏」(1569年没)だけは、「二つの青木氏」に執っては、「本音」では当に“「招かざる者」”であった。
この「本音」の「招かざる者」との「付き合い」は、結果として、1536年からの「30年間」に及んだ。
しかし、「実質の付き合い」は、「後半の10年程度」に過ぎ無い。
前半は、「悠久の絆」で結ばれた「伊勢衆の混乱」を観て、“「旧来の聖地の伊勢」を引っ掻きまわれた”と云う感覚でしか無く、”「付き合いの範囲」を超えていた”と考えられる。

北畠氏と「後半の10年」は、「過激な戦乱」を呼び込む衰退傾向にあった。
況や、「二つの青木氏」に執っては、当に、「招かざる者」への「基本戦略の範囲の行動」(上記)であった事に成る。

「青木氏年譜」によると、中盤の1549年頃に一度、「伊勢の衆」を集めた事が在って、後半の1559年頃に再び衆合している。
この後に、1560年に「堺支店」に船を廻す記録がある。

この「3つの記録」から、「北畠氏の動向」を観て、先に「伊勢衆との談合」を進めていて、「基本戦略の策」を講じている事が良く判る。

”堺港に船を廻す事”の意味は、恐らくは、“過激化する北畠氏”に悟られぬ様に危険に曝されている「伊勢衆」に「物資の供給」を試みたと観られる。

依って、この関係も勘案すれば、「四家」は、所謂、「伊勢シンジケート」を使った“顔の観えない「ゲリラ戦」”で応戦する「基本戦略の範囲」で事は進んで行った事に成る。
然りせば、“「青木氏」を前面に出して敵対していない“と成れば、「信長側」では、「潰しきれない背景」が生まれる。
且つ、織田側に、”「潰す大義」”も生まれないだろう事が判る。
況して、“「青木氏の商い」”は、「潰し対象」とは成っていないし、むしろ、織田氏の「軍需品調達」の大店とも成っていた。
一見して「商い」では「味方」である。
これが「青木氏の基本戦略の前提」なのである。

仮に、「賜姓族の青木氏」の正体が表に出て潰されるとしても、「商いの青木氏」が存続して居れば、「賜姓族の青木氏」は、当に「不死鳥」であった事に成る。
「商いの青木氏」には、其れだけの力は有り余る程に充分に有った。
況して、“「室町文化の紙文化」”と呼ばれる時代に「巨万の富」を築いていたのである。
この時には、「伊勢シンジケート」を組み入れれば、“「信長以上の総合力」”であったと観ている。
要するに、「表の勢力の信長」か「裏の勢力の青木氏」かの「勝負差」であった。
この「勝負差」では「二つの青木氏」は勝っていた事は明らかである。
その「勝負差」を以って、“顔の観えない「ゲリラ戦」で来る”と成ると、例え、「信長」でも、人より優れた「軍略家」であったればこそ、“「恐怖の対象」”そのものであった筈である。
それだけに、「顔の観えないゲリラ戦」に“「窮地発生」“とも成れば、「恐怖」から「過激」(パニック)に走る可能性は充分にあった事は認められる。
これは「信長」のみならず「青木氏」でも起こり得る「人間の性癖」であり、「上に立つ者の宿命」であろう。

そもそも、これが「不死鳥」と成るその為の「四家制度」(5つの面 20の顔)でもあった筈である。
「過激 パニック」を防ぐ「四家制度」(下記 ABCの態勢)であった。

「北畠氏や伊賀氏への合力」と伝えられる「口伝の戦況」と、「青木氏の商い記録の資料」からでは、次ぎの事が判る。
「北畠氏本家」が潰された後に「北畠氏の分家」が一族を結集し直した事である。
これに依れば、”「果敢に挑戦した」”と云う事に成っている。
勝敗は別として、これは「信長」に挑戦したものであったし、「伊賀氏」も「分家の残存兵力の結集」で最後に果敢に挑んだものであったらしい。
この「戦いの結末」は、“ゲリラ的に長引いた”とされているので、この事から観察すると、「青木氏の基本戦略」は兎も角も戦略ずれ等もあったが「成功裏」には終わっている。

兎に角、「青木氏の行動」は、“「徹底したゲリラ戦」”であった事が口伝や資料からでも判る。

結局は、「青木氏に残される大義」は唯一つである。
それは、奈良期より「不倫の聖地」とされているところに、不徳にも「不毛の騒ぎ」を持ち込んだ「北畠氏の如何」に在った。
この「北畠氏」だけに関わらず、“「不倫の聖地への挑戦」”に対する“「悠久の責務」”からの「最大の抵抗」であった事に成る。
故に、「如何なる場面」や「挑戦の流れ」の中に於いても、「四家制度」と「伊勢シンジケート」を駆使した“「徹底したゲリラ戦」の域を超えなかった”と云う事に成る。
故に、上記に論じる「基本戦略」を採った事に成る。

この事を後世から観ても、上記の前後の「戦略と戦況」から観ても、これを“「青木氏の大義」”として捉える事で納得し得る。
「村上源氏」や「学問処の公家」を標榜する「北畠氏」には、この“「大義」”に欠けていた事を物語る。
「青木氏」から観れば、”戦国”と云えばそれまでだが、無理やりに”「不倫の聖地」”に「武の勢力」を持ち込んで、「国司面」して「大義」を一時作り上げたに過ぎない。
故に、”「信長」を以てして「滅亡の憂き目」を受けた”と解釈できる。
そこで、この「青木氏側の基本戦略」の論調で行けば、“「信長」”は単なる「その使い」であった事に過ぎない事に成る。
依って、後付の「通説化」は論理的に符合しないのである。

「青木氏」の史実から観れば、当に次ぎの様に成る。(口伝でも同評価)

”「権威」を惹けら課し、「権威の利得」を食む「社会の悪弊」の「排除の使」”と捉えられる。

上記した様に、その経緯から「多少の過激さ」はあったにせよ、これは「人」が戦う「戦の如何」であり、“理想通り”には行かないのが「世の常道」である。
その行動に「事の平癒」を急ぐ余り、「若干の過激さ」が伴った事は否めないだろう。
故に、その“「若干の過激さ」“を以ってして、「通説」の様に「信長」を評価するは疑問である。
要するに、「青木氏」は、“「伊勢への挑戦」”の“「流れ」“に組み込まれたのである。
否、”青木氏の基本戦略“に組み込んだのである。

(注釈 この“「流れ」“には、その前に、次ぎの様な事が起こっていたのである。
然し、ここにも「石山本願寺の檄文」に依って火が付いた様に起こった「ゲリラ戦」と「一揆」が、「伊勢の三乱 五戦」にも、「上記の戦略」以上の”「思いがけない荒々しさの殺戮」”が、「信長側」にも「伊勢側」にも呼び込んで仕舞ったのである。
其処に、「秀吉の毛利攻め」にも「信長側」に「焦り」を起こした事が、この「荒々しさの殺戮」へと進んだ事も否めない。
この「檄文の存在」を通説化した歴史家が認知していれば、この「通説化」は作り得なかったと観られる。)

そもそも、実際には、1563年頃には、伊勢に動揺が起こり、実記録から観ると、1565年頃から、平定された「伊勢の北畠氏」の多くの「旗下」や「幕下」が、「信長」のこの「策謀の手」で乗っ取られて行った。
有名な伊勢の「神戸氏の乗っ取り事件」や「工藤氏の乗っ取り事件」等が起こり、次々と「武の伊勢勢力」は「信長」に乗っ取られて「内部崩壊」を起こし始めていたのである。
あくまでも、「信長」も、「伊勢勢力 北畠氏 西の公家政権再興」に対しては、初期には「撹乱戦法」で潰す事が「所期戦略」であった筈である。
その「所期戦略」は、全て内部に「内通者」を置き、「武力の攻め落し」では決して無かった。
上記した「入り婿策」で「乗っ取り」が起こって行ったのである。(青木氏もこの策謀に掛かった。)

そして、1569年頃を最後に、この「北畠家没落の仕上げ」として「信雄」に依って「北畠氏の内部撹乱戦法」の「初期戦」から始まった。
「所期の戦略の目的」よりも、「事の次第」が変化して、「氏郷」が指揮する次ぎの「中期戦」の「伊勢三乱」に突入して行ったのである。
つまり、「青木氏の基本戦略」での範囲ではあったが、「伊藤氏や伊賀氏」等の「伊勢藤氏の武の合力」の「始末戦」に突入したのである。

「伊勢長嶋攻め 伊藤氏」(1573年)
「伊勢北畠氏攻め 北畠氏」(1576年)
「伊勢丸山城攻め 青木氏」(1578年)
「伊勢伊賀氏攻め 伊賀氏」(1578年 1579年/9 1581年/9 1581年/10)
「名張清蓮寺攻め 青木氏」(1579年)
「石山本願寺攻め 顕如」(1578年−1579年−1580年一揆等)
「紀州征伐」(秀吉) (1585年)

この時に乗じて、伊勢外に起こっていた「石山本願寺の乱」が長引き、「伊勢−紀州の農民」の信徒に対して、石山側は「檄文」を飛ばした為に、“「城外でのゲリラ戦」”が「伊勢−紀州の周囲」の各地で起こって行った。

(注釈 この「石山問題」が、「青木氏のゲリラ戦」の「紀州域と東大和域と伊勢域」と重なった為に「青木氏の基本戦略」にも影響を与えて仕舞ったのである。)

「石山本願寺の乱」と称される「顕如の反抗」は、「毛利側の謀略」であったが、毛利軍が「高松城の支援」に失敗して、結局は、「顕如」に「檄文」を飛ばさて「城外戦」に持ち込んで「信長」を牽制した「長期戦」に持ち込む作戦でもあった。
これが「伊勢三乱」と重なった為に「三者」に激しさを助長させたのである。
ただ、「伊勢側」と「毛利側」とには“「連携」”の「実態記録」は発見されていない。

「城外の紀州信徒一揆」を支援する「河内シンジケート」と「伊勢シンシジケート)間の連携はあった事は、「青木氏年譜」の一部に其れらしき「堺港の配船記録」がある。
「青木氏の氏是」が有る事から「直接の連携」は無かった筈である。

「青木氏」は、“「不戦の禁」”を「氏是」としていたが、「上記の婿養子の事件」は、周囲でも「乗っ取り事件」が多発していた様に、実は「青木氏」にも仕掛けられた「記録がある。
「青木氏側」では、「信長の政略的謀略」として判断していたが、謀略の罠に陥ったのである。

この“「流れ」”の中で、そもそも、“「悠久の禁」”を破ったのである。
その意味で、最早、紀伊半島全体が「ゲリラ戦の戦場」と化して仕舞ったのである。

「青木氏側」では、「伊賀氏と伊藤氏の反抗・合力」、「毛利側と本願寺側」では「檄文に依る城外戦化」のこの「二つの事」が、「青木氏の基本戦略」と異なった事で、「予想外の戦場化」と成って仕舞った。
これは同時に「信長の基本戦略の狂い」でもあった。
「青木氏」も「信長」も、「伊賀氏と伊藤氏の反抗」は、「伊勢藤氏」を指揮していた「伊勢秀郷流青木氏」が動かない事から、「伊賀氏と伊藤氏の伊勢藤氏」も動かないだろうとする「読み間違い」がそもそも在った。

「青木氏年譜」(下記)から観ると、詳細は不詳ではあるが、「青木氏側」では北畠氏の前後に盛んに「談合の意味合い」の持つ“「会合、衆合、談合、衆議、不穏」等の文字が出て来る。
又、「青木氏」の「船等の廻船」にも活発な記述とも成っている。
「伊勢シンジケートの情報」で、“何らかの形”で盛んに「談合と準備」が進んでいたと観られる記述が何度も観られる。
しかし、結果としては、「何度の談合」にも拘らず、“動いてしまった”と云う事でないかと推測される。

この“動いてしまった“とする原因は、「伊勢藤氏の出自の差」が結果として出て仕舞ったと観られる。
その「出自の差」とは、「伊藤氏」は「秀郷より九代目基景」が始祖、「伊賀氏」は「秀郷より八代目朝光」が始祖であり、何れも分流族である。
「第二の宗家」と呼ばれる「秀郷流青木氏の直系族」と比べれば、「高い家柄の藤原氏」と云えども「家柄差」が格段に低いし、その”家柄から来る「生き様の柵」“は殆ど無い。
要するに、最早、この二氏は「柵の無い武家」であったとも云える。

恐らくは、何度も「談合」を重ねていた様ではあるが、柵の無い「主戦派・交戦派」と、柵を護ろうとする「保守派・知略派」に意見が分かれた。
結果として、この二氏は“突っ込み過ぎた“のである。
新参であった事もあり、「下総の永嶋宗家」の意向も配慮して「長嶋氏」は中間派を採ったと観られる。
依って、”「信長の権威の象徴への挑戦」”の“「流れ」“の中で、「伊勢四衆」に執っては、最早、避けて通れない事態に陥ったのである。
これが「青木氏の基本戦略の狂い」と成って、それが「青木氏存亡にかかわる事態」と成って仕舞ったと云う処である。

これは何も「青木氏側」だけでは無く、「信長側」に執っても、同じく「城外ゲリラ戦と一揆」が「基本戦略に狂い」を生じさせたのである。
「武」で抗する「北畠氏と伊賀氏」を潰す事で「伊勢の始末」は終わる事と成っていた。
取り分け、「謀略に依る各個攻撃」で「北畠氏の排除」で終わる筈であった。
そこに、「本願寺問題」と「伊賀氏の合力」、果てには「伊藤氏の合力」等が計画を狂わしたのである。

「何れの大義の良悪如何」は、別として、両者に執っては、”「流れ」“の中で、”決着を監る“しか無く成っていたのである。

(注釈 「四家」は、「信長の権威への挑戦」に対しては、「北畠氏」とは違った受け取り方をしていたのではないかと観ていて、元々「信長への敵対性」は低かったと考えられる。
それは、「賜姓族」であるとする“「権威の象徴」”では確かにあるにしても、片方では、「商いと云う立場」と云う、“「権威」”とは「真逆の立場」にも在り、それも、厳然と「悠久の歴史」を持つ「併合の立場」にもあったのである。)

況してや、そもそも、「青木氏の権威」は、「信長が嫌う権威」には無かった。

“「権威」を以って「惹けら課す事」はせず、「権威」を以って「利得」を獲得する概念“すら無い「氏族」であった。
当初より「利得の獲得」は、“「商い」と云う「正当な行為」を以って成す概念”を持っている「氏族」である。
正しく、それが“「賜姓族の権威」”そのものであって、それを構築しているのが「四家制度」で有った。

“「惹けら課す事」”に付いても、その“「惹ける」”と云う本質は、“「主張する」”の拡大語である。
だとすると、「商い」は“「品」を以って主張する行為“であり、”「自己」を以って主張する行為”の「惹けら課す事」に一部では確かに通ずる。

ただ、「氏家制度の社会」、或は、「信長の概念」の中では、”「自己」(権威)を以って主張する行為”の「惹けら課す事」には、強い「抵抗感、強いては罪悪感」があったのであろう。
「信長」のみならず、「二つの絆青木氏」、「二つの血縁青木氏」、「青木氏の職能部」、「伊勢シンジケート」、「御師 氏上」、「商い」の「四家制度」を敷く「青木氏」も全く「同じ概念」の中にあった。
「信長」は、特に、この行為が“社会発展に悪弊を及ぼす“、即ち、その「悪弊」とは”「閉鎖性」を誘発する“と考えていたのであった。

ただ、同時に、「閉鎖性の排除」の姿勢は、”「楽市楽座」“を容認し、推奨する「積極的立場」も採っていた事に通じていて、この姿勢は、「二足の草鞋策」の「青木氏の姿勢、概念」と一致しているのである。

「事の次第」は、「品」と「自己」にあり、間接的に「品」、直接的に「自己」の「主張の差」による事に成り得る。
「青木氏」としては、「商品」を以って間接的に「惹け行為」を「正当な行為の概念」として「悠久の時」の中で育まれていたのである。

「賜姓の権威」については、“「賜姓五役」の実行を熟す事”にあって、「権威」から「利得」を獲得する事には無かった。
それは、“「四家制度」”がそのものが、「惹けら課す事」と「利得の獲得する事」を阻止する機能(合議制度)を果たしていたのである。
「信長」も「楽市楽座」を推奨することは、「青木氏の商い」の「正当な行為の概念」に通ずる。

そもそも、この事から「信長」が標榜する「布武の共和政治」とは、むしろ、「商いの青木氏」とは符号一致する目標でもあったからで、特段に「氏存続に対しての信長への敵対性」は全く無かったと考えられる。
その意味でも、“氏を前面に押し出す敵対”は採らず、故に、“「流れ」“の範囲で有るが故に、下記に示す敢えて「青木氏」の観えない ”「ゲリラ戦」“を敷いたと観られる。

「信長の理解」
では、「招かざる北畠氏」(1569年)が亡びた後に、“「信長」には、何故に、この「青木氏の姿勢」が理解されていなかったのか“と云う率直な疑問が湧く。
筆者の答えは、残念ながら“理解されていなかった“である。

何故ならば、その答えは簡単である。
「商いの青木氏」と「賜姓族の青木氏」とは、悠久の中で結び付けていなかった事が原因であった。

敢えて、「青木氏」自らが,奈良期からの「悠久の時間」の間を、「商い」と「賜姓」は「別物」として、「公然の事実」とし乍らも演じて来ていた事にあった。
それは、朝廷から、”「紙屋院」”として「和紙の殖産」とその「普及の役」を命じられた事に在った。
従って、「商いと云う行為」が分離してのものでは無く、「賜姓五役」に同化して居た事に在った。

「商いと云う概念」の感覚が、「分離した感覚」に成ったのは江戸期に成ってからで、それまでは、「特定階級が行う職業」(武家)の概念が強かった。
取り分け、「青木氏」は、「賜姓五役の紙屋院」であった事から、全く「別感覚」は無かったと考えられる。
「二足の草鞋策」の感覚は、室町期末期までは「氏自体」としては、”薄かった”と考えられる。

幸か不幸か、「信長」は、その「二足草鞋策」を率先した氏の「平家末裔の出自」であるにも関わらず、残念ながら「理解外」であった事に由来する。
要するに、「初期の段階」では、「楽市楽座令」を敷くまでは「無知」で有った事に成る。

(注釈 信長自身は「平家出自の末裔」である事は承知していたと観られる。
それは、同じ「京平家の血筋」を引く家臣の「近江秀郷一門の末裔蒲生氏郷」を、未だ幼い信長の次女を婚約して於いて、嫁がせる等の「特段の扱い」をしたのは、この「京平家の同じ家」の流れの汲んでいた事にあった。)

それは、ただ「天正の時代」にしても、「織田氏分家の信長」には、詳細な“「伝統の継承」が途切れていた事”に在った。
“分家の所以”で有ったのかも知れない。
そもそも、「織田氏」の「出自氏」とされる先祖の「京平家の清盛」は、当に「三権の権威」と「宋貿易」の「二つの利得」を持ち、且つ、その全ての“「権威」”で以って周囲を威圧させた人物でもある。

「信長」自らの「出自の先祖」は、“「惹けら課す事」”の“自らが排除しようとしている考え方”を持った「最大の氏族」であった。
この事すらも放念して居た事に成る。

この時、同じく「賜姓族」として「青木氏」は、隣の伊勢の守護であって、半国割譲した「伊勢北部伊賀」(平氏実家)とは「隣国の付き合い」をしていた間柄でもあった。
「青木氏の商い」の「伊賀和紙の殖産」でも深く繋がっていた。
未だ室町期でも続いていたこの「歴史」さえも忘却していた事に成る。
依って、「以仁王の乱」の時は、「青木氏の跡目」の「京綱」の兄弟の「二名の助命嘆願」にも応じてくれた「氏族」でもある。
その“「家の伝統」“は、「清盛の末孫娘」の「高野新笠」は、「青木氏」の始祖の「施基皇子」の「第三男の白壁王」(光仁天皇)の妻でもあり、縁深き間柄にあった。
そして、「青木氏」と「二足の草鞋策」を採用していた所も同じであり、共に「氏が持つ概念」には極めて「類似性」を持った「縁深き氏族」でもあった。
しかし、「青木氏」には、この「伝統逸話」は「悠久の時」を経ても伝わっているにも関わらず、「織田氏」、取り分け「信長」には「伝統逸話」は伝承されていない知識なのであった。
(分家とはこの様なものであるのかと思い知らされる。)

もしあったとすれば、この様にどの「検証の面」から考えても、「北畠氏壊滅」の為に、「伊勢衆」の「青木氏を攻撃の対象」(内部撹乱)にする根拠はなかったであろう。
結局は、「青木氏」も「信長」も、「北畠氏や伊賀氏や伊藤氏の掃討」に連れては、この“「流れ」”に沿う以外には無かった事に成る。
ここに筆者の“「流れ説」”を採る所以でもある。

しかし、ここでただ一人、「織田側」であった「秀吉」は、伊勢東部に存在した「今宮シンジケート」の一員でもあった「土豪の蜂須賀小六」から、この事を聞いていて承知していたのである。

(注釈 「秀吉」は、若い頃に一時、「山族土豪の蜂須賀小六」の配下で働いた経歴を持つ。
「信長」にも後に「鉄砲入手」と、その「技能傭兵集団の雑賀族」にコンタクトするには、「今宮シンジケートの存在」を教え、この「今宮シンジケート」を通じなければ「鉄砲は入手」は出来ない専売品である事を教えた。
この記録が遺されている。)

この様に、「秀吉」が「信長」に「商い」には「今宮シンジケートの存在」を説明して居る記録がある。
その後に、認知して「楽市楽座令」を発したのであり、初期は、”知らなかった事”に成る。
とすれば、説明して居れば、”「伊勢シンジケートの存在」”をも説明していたとも充分に考えられる。
「秀吉」がもう少しこの事を信長に早く知らしめていれば「伊賀攻め」は変わっていたかも知れない。


「秀吉の青木氏出現」
実は、その証拠と観られる外部記録が在る。
1581年の末当初に「秀吉の紹介」で、「一名の青木氏」なる者が、「信長]に面会している。
1583年に秀吉に合力し、秀吉より1598年に厚遇 この「青木氏」が在る。
これが、この時の「伊勢での経緯」ではないかと推測できる。
これは「青木氏の経緯」(商記録の年譜)とほぼ一致する。

但し、「伊勢青木氏」が、「自らの意志」で、「自らが面談した」とする事では無く、記録も無い。(矛盾1)

これを基に「青木氏側」から検証すると、この”「伊勢攻め」全般に”於いては、“「秀吉執り成し」に依る面談“に依って「本能寺の直前」に解決に向かっていた事に成る。
これが「秀吉−氏郷」の「伊勢の本領安堵」に繋がったのである。
確かにこの時に、「紀州」と「伊賀」等の「旧領地」を受けたが、その後、「徳川氏」(1605年頃)に「青木氏の賜姓五役」(神明社等)などと共に「返納の経緯」を辿った。
この時の談合で、その代わりに、”「家臣扱い」”として「紀州藩初代頼宣」より「扶持米12人分」(1万石弱程度)が付加された事の経緯に成っている。

この”「秀吉執り成し」”とは、「外部記録」では成っているが、これは“「秀吉の搾取偏纂の行為」“であり、「青木氏」には記録はない(矛盾2)。

但し、「青木氏の記録」(下記)では、「伊賀の戦い」後に、「蒲生氏郷」との「数度の談合」によって、”「信長の伊賀査察」“の時に、「蒲生氏郷」と共に面談があった。
ところが、「佐々木氏の別の資料」では、外部記録では「一名」と成ってはいるが、この「二名の青木氏」に成っている(矛盾3)

夫々「越前北庄八万石」(1)と「丸岡四万石」(3)を受けたと成っている。
内一人(1)は「秀吉の家臣」と成るも、これも「1年間の俸禄」(1598年から1600年)と成っている。
この「越前の俸禄」は、1600年に徳川氏(徳川除封禄 巻の一)にて「除封]を受けている。(矛盾4)

この者の身内が家康の側室で後に本多氏の正室に成るとある。(実際は別の丹治氏系青木氏 )(矛盾5)

しかし、「もう一つの青木氏」(3)に付いては、外部記録では触れていない(矛盾6)。


「青木氏の記録」では、この「蒲生氏郷」と共に面談したと成っているのは、この二名(2)(3)である。
これは「佐々木氏記録」(2)(3)と一致する。
外部記録(豊臣家の記録)では、この内の「秀吉の家臣」で「縁者」と記録されている「紀伊守」で「越前北庄の人物の記録」(1)が「青木氏」には全く無い(矛盾7)。

確かに、「没年数」が類似する人物(2)は「青木氏福家」に居た。
これは「豊臣氏のある思惑」を込めた「形式上の内容」ではないかと観られる。
更に、実は、他にも極めてこの「人物(1)」の詐称には矛盾が多い。

何故ならば、「人物(1)」の与えられた「官職」は、確かに「紀伊守」であって、この地は、実際は「伊勢の乱」での「北畠氏の領地」で在る。
つまり、「北畠氏の南紀州」であった。

ここは、現実に明治期まで「青木氏」が「大地主」で有って、後に「紀州徳川氏」からも認知されていた。
確かに、「秀吉」に依って「伊勢の地」を「本領安堵」されたが、この「二つの地」は平安期までは「青木氏の旧領地」でもあり、「青木氏の家人」が「和紙殖産」の為に奈良期から元々代々住み続けていた土地柄でもあった。

この「南伊勢 南紀州」の地は、「青木氏」では、“「遠祖地」”と呼ばれていた土地でもあって、歴史上は、奈良期と平安期と鎌倉期の三期に伊勢を三分割したもので、平安期中期から朝廷から「半国割譲された土地」でもあった。
(日本書紀にも明記)
この「旧領地の遠祖地」も確かに「秀吉」に依って「本領安堵」されたのである。

この「人物(1)」には、この「紀伊守の官職」を与えて、「北庄藩」を与えたとする「豊臣家の記録」にある。

しかし、これには疑問がある。
その与えた時期は、1598年とあるが、この地が「豊臣家の領地」と成った「賤ケ岳の戦い」は1583年である。
与えたとしても少なくとも、1584年には与えている筈で、それも、15年後の豊臣政権の晩年5年前の「混乱時期」でもある。(矛盾8)。

更には、その2年後の1600年には、この「俸禄知行」は、たったまる1年で「徳川氏」に除封されて終わっている。
つまりは、其れも「1年限りの俸禄」であり現実にはあり得ない。(矛盾9)

仮に「人物(2)」が受けたとしても、この「秀吉の家臣」と成ったとされる「青木氏」(佐々木氏記録の1と2)には、「八万石」や「四万石」ものそれを維持する「武力」と「家臣」を元より持ち合わせていない。
無理なことである事ははっきり判る。(矛盾10)

況してや、「豊臣家の記録」には、「何処の青木氏」であるかも記されていない。(矛盾11)

この時期の「青木氏の出自」は明確である。

青木氏は、「悠久の歴史」を持っている「氏族」で、「姓族」の様に急に勃興して来た「姓」ではない。
現に、「伊勢」で戦っていたのである。
“何処の青木氏か判らない“と云う事は絶対に無い。

そこで、この「室町期の時期」では、「秀吉」と関係を持てたとする「青木氏」ともなれば、「伊勢の二氏」の 「二つの青木氏」と「信濃、甲斐、讃岐」の「三氏の青木氏」に限られる。

そこで、上記の「紀伊と伊賀」ともなれば、「紀伊」と「伊賀」に土地を持ち、本領安堵された「伊勢の二氏 青木氏」以外には無い事に成る。

「近江と美濃」は滅亡していて、「近江」は傍系が摂津で農業、美濃は、完全滅亡の体の状況にあったし、「他の秀郷流青木氏の116氏」は、伊勢を除いてはその対象とは成らない。
つまり、「豊臣家」が遺したとされるその地理的範囲を超えていてその対象にはならない。

「丹治氏系青木氏」が確かにあり、「信濃国衆」と成るが、関ヶ原で「徳川氏」に味方して摂津に1万石が与えられている。

「紀伊守」とする「秀吉の家臣」とされる「人物(1)」は、西軍に味方して除封を受けているので、摂津藩と成った「丹治氏系」では無い。
この様にこの「人物(1)」の「青木氏の出自」が明確に成らない。(矛盾12)

何故ならば、秀吉は、「自らの家筋」をよく見せる為に次ぎの様な搾取をしている。

この「紀伊守とする人物(1)」は、「豊臣家の記録」では「養父の竹阿弥」の「遠縁の青木氏」として記録されている。
そして、「従兄弟」であるとしていて”「偽系譜」”を作り上げている事に成る。

(実はこの事は、全くの無根拠ではないのである。下記)

「青木氏」と云う「賜姓族」の“「出自の権威」”を利用したのであろう。

この事を理由に、「豊臣家」が作り出した記録に依れば、次ぎの様に成る。
1578年頃に「秀吉の家臣」と成ったとしている。
1583年頃に勲功を挙げたとしている。
1587年頃に突然に引き揚げて、突然に「従五位上左衛門佐」とした事に成っている。

以上とする3記録が豊臣家に遺されている。

この事もおかしい。この3つに付いて検証する。

そもそも、「出自」も判らない人物に、「朝廷の格式式目」の定めでは、この「官位」は絶対に受けられる「官位」では無い。(矛盾13)

出自格式が良くても、最高でも、「従五位下」が与えられる最高官位であり,官職は「右衛門下尉」が限界と成る。(矛盾14)

「国家的勲功」が在り、その「勲功」を以って次第に「格式」が高められる様に厳しく定められいる。
その「身分」に依って「限界の格式」が定められている。
その「勲功」も「五段階」に定められていて、一足飛びに得られるものでは無い。(矛盾15)

(参考 「青木氏の守護神と神明社−4」と「古書 類聚三代格等参照」)

(注釈 因みに、「徳川家康」は、幕府を開くに必要とした官位官職が足りなく、天皇家に食事も出来ない位に貧させ圧力を掛けてやっと無理やりに「公家身分」より低い「従五位下」と、「武家の棟梁」(「武門之棟梁」)の呼称も与えずに、過去にあった「源氏長者」と云う身分を引用し作り出して「征夷大将軍」に成り得る格式がやっと与えられた経緯があった位である。)

それが、「氏素性」「出自」のはっきりしない「行きずり者」には、先ず「官位官職」はあり得ない。(矛盾16)

しかし、現実に記録されている事から、少なくとも、“「永代の官位官職を持つ青木氏」”でなくては無理な事に成るのである。
だとすると、「伊勢の二つの青木氏」と「信濃青木氏」の三氏に限られる。
「紀州」と「伊賀」と云う事から観ると、明らかに「伊勢の二つの青木氏」と成る。

しかし、「伊勢の二つの青木氏」か「信濃青木氏」には、永代の「浄大一位 正二位左衛門上佐」と「従四位上左衛門上佐」の家柄であり、既に「永代の官位」を持っている。
大きなあり得ない[矛盾」である。

この官位は、そもそも、本来”「宗家筋」”に与えられるもので、「分家筋」の他の地域の青木氏には与えられるものでは無い。
全く突然に受けられる立場には元来ない。
況して、「伊勢の乱」の後ともなれば、“「青木氏」”としては、「伊勢の二つの青木氏」以外には、「豊臣家の記録」を確定するに類する氏は無い。
然し、この事を完全に証明する記録は「二つの青木氏」側にはない。(矛盾17)

この事から、「豊臣家の家筋」を挙げる為に、それに見合う様に、画策した事に成る。
第一には、「形式上の官位官職」を作り上げた事
第二には、「形式上の藩主」とした事
第三には、「形式上の俸禄」として作り上げた事
第四には、「身内に家臣一人を仕立てた事

以上の矛盾だらけの「4つの事」で、「豊臣家」の中で「搾取偏纂の記録」としたものと観られる。

この「4つの事」で先ずは“権威づけた”と観られる。

そして、この「4つの事」に見合う類似する青木氏の「人物(2)」を、“家臣一人に仕立て上げた”事に成る。


「青木氏側の記録」との差は、”「形式上」”に作り上げられた「藩主」と「俸禄」と「竹阿弥」と「官位」と「官職」だけで偽飾したのである。
後は類似し、時期も伊勢の1565年頃から1600年までの事としての5年の範囲にあるに収めたのである。

“「繋ぎ」”による“「竹阿弥」”を除けば、四つ共に「青木氏の記録」に対する“「誇張」の範囲”で記録されている事に成る。
「藩主」は「伊勢衆」、「俸禄」は「大地主」、「官位」は「永代官位」、「官職」は「紀州伊賀の旧領地」から誇張したものである事に成る。


これで、矛盾は解ける。

さて、そこで、“「繋ぎ」の「竹阿弥」”の“「能楽師」”に付いては、ある意味を持っている。
上記した様に、「能楽」「猿楽」等の「楽師」は、古来より「公家」や「賜姓族」の「ステイタス」の趣向であった事から、”「直接の血筋」”とは云わずとも、“「遠縁」”として印象付けたのである。

つまり、“遠からずとも縁筋”に当たる事があったろうとしたのである。(矛盾18)

現実に、“遠からずとも縁筋”に当たると搾取した記録が、「二つの青木氏側」には確かに遺されている。

それは、「秀郷一門の末裔」で、近江の「蒲生左衛門佐大夫高郷」の末男の「青木玄審允梵純」(1548年頃で、母は伊勢青木氏)が居た。
この末裔で、「青木忠左衛門忠英」(松平氏扶助)なる者は、元は「猿楽」の「春藤源七郎」の弟子で、その「技」を学び、それを以って、一派を率いたと記録されている。

(「春藤氏」は「公家衆御馳走能組番」で「公家等の階層」の者に「能楽」を教える「楽師役職番」であった。)

この伝承の一派は、「伊勢秀郷流青木氏の末裔」が代々引き継いで、中には江戸時代の「四代将軍綱吉」に召し出され、「御廊下番」(百五十表)として正式に「徳川幕府の楽師指導方」と成った家柄でもある。

その意味で、「秀吉の養父」の“「楽師の竹阿弥」”が、「青木氏と遠縁」とする根拠は無いではない。
この経緯を利用したのである。

要するに、民衆を信用させる為に必要な信用させられる”「繋ぎ」”を作り上げたのである。


(注釈 伊勢の「青木長兵衛の四家」も「能楽」を古来より「賜姓族」として嗜む伝統があった。)

つまり、二人目の「伊勢秀郷流の青木伊賀守忠元」とする「青木玄審允梵純」の子の人物が、「秀吉家臣説」に利用された根拠は、ここにあるのである。


実は、「伊勢秀郷流青木氏」の「青木忠元」は、「蒲生左衛門佐大夫高郷」の末男の「青木玄審允梵純」(伊勢)の子である。
更に、その「二代後の末裔」で「青木忠左衛門忠英」は、代々青木氏の「楽師の指導方とその才」を以って、遂には「楽師の師匠」として「徳川氏の正式な楽師指導方」に成った経緯を持っていたのである。
この事を利用して、「秀吉」は、“養父の「竹阿弥」“と結び付けたのである。

これで「二人(紀伊守と伊賀守)」を形式上は「家臣」に仕立て、「紀伊守」と「伊賀守」を結び付ける事で「秀吉」が「青木氏との関わり」を搾取偏纂したのである。

この「身内の者」か「家来」か「青木氏」に仕立て上げられた者の一族が、伊予と讃岐と土佐の西国境に「ある村」(匿名)を与えて住まわせていた事が判って居る。
この者の一族は、その後の「徳川氏の除封」作業で、この「青木の土地」が没収されて、「青木の地名」と共にその後、一族は行方は判ら無く成っている。

恐らくは、「北の庄」は豊臣家の所領でダミーとして扱い、この「青木氏」を名乗らせた者には、実際は四国の伊予土佐の国境の西山間部に小さい村を与えて一族を住まわせていた事に成る。

結局は、「秀吉」は、伊勢の「青木氏の本領安堵」の時の状況に合わせて、「誇張」はするも、「類似性」を持っている事から、これをチャンスに乗じて間違いなく「豊臣家の権威付け」をしたと観られる。

以上の様に、“誇張に依る「豊臣家の記録」”である事から、「徳川除封禄」では、正式に関ヶ原の1600年の「除封」と云う形で、「徳川氏の力」で、「1年後」に明確にこの搾取の記録を抹消しているのだ。

そこで、この二人に類するものを「青木氏系譜」から追ってみると、“「紀伊守」”とする者の幾つかの俗名に関する対象者はない。
「俗名」は異なるが、「没年数と月と死因」が大体一致する者が、四家の中に現実に一人存在する。

上記 「青木氏の記録」の模擬にされた人物は、「信秀」、或は「信定」である。

記録の「中心人物」(1)の為に、“「後付」”で出自の無いこの「人物(1)」を正当化させる為に、その良く似た出自を、間違えての搾取偏纂で、後付で“「一矩」“に変えたと観られる。

ところが、ここで、又、「決定的な間違いの矛盾」を起こしたのである。

そもそも、この“「一矩」の名”は、「徳川氏」に味方して「家臣」に成り、その勲功で同時期に「摂津麻田藩」を与えられた「丹治氏系青木氏」の通名である。
本人の有形無形は別として、”豊臣に味方した”として、実際に徳川氏より除封された人物である事から、出自を明確にし良く見せる為に行った「後付」である事が明白である。

名前と出自を偽作する為に、”「豊臣家に味方」”と”「徳川氏に味方」”のとんでも無い間違いを起こしたのである。

注釈 「秀吉」が付けた「元々の俗名」は、別資料から「青木秀以(ひでもち)」である。

「伊勢青木氏」の「信定人物(2)」の最初の俗名「信秀」の「秀」を使って「類似の秀以」としたのではないかと観られる。
「秀吉」の“「秀」“を使ったとする説もある。

しかし、兎も角も、”「秀」“を使われた事から、伊勢の「青木氏側」では、”「秀吉の青木氏」“を否定する形を採る為にも、”「信秀」“から”「信定」“と改めたと観られる。

と云う事は、「秀吉の記録」時には、当初は、この「人物の俗名」が、はっきりとした記載には無かった事にも成る。
10もある名なので、何れが本当か判らなかった事に成る。

(注釈 本当は判っていたが、「一矩」とした通説化を謀った人物が、この「秀以の情報」を持っていなかった。)

依って、「一矩」にして、信憑性を高める為に、「麻田藩の丹治氏系青木氏」の「通名」を「後付」で付けた事に成る。(矛盾19)
 
(注釈 実は、この人物には「後付」と観られ俗名が何と10もある。詳細下記。これこそが搾取偏纂が行われた証拠である。)

そもそも、「嵯峨期詔勅」に依って、一般は「青木氏」を名乗る事は禁じられていた。
然し、この“「秀吉の青木氏」”の名は、出自が明確でなかった事から、この名を使って名乗る事は可能であった。
この事は「江戸寛政期の歴史書」にも記載されている。
各地で家柄身分をよく見せる為に江戸期と明治期に名乗った「第三の青木氏」と云われるものである。

「各地の郷土史」は、これを記載する事で「土地の知名度」と「歴史性」を上げる事と成る。
従って、この“青木氏の子孫だ”とする形で「俗名」が増えたと観られる。

更に、「秀郷流伊勢青木氏」の中に、「伊賀守」とする者の「俗名の類似」と「没年数に近い者」が矢張り一人存在する。

上記の「青木忠元」であるが、上記の“「竹阿弥」”を通じて「青木氏」との「繋ぎの役目」の為に其の侭に使用したと観られる。

この事から読み取れる事は、「伊勢青木氏の本領安堵の条件」に、“「豊臣家のこの搾取偏纂」を容認する事“が付加されていた事を物語る。

つまり、別に本領とする地外に、「南伊勢から南紀州の地」と「伊賀の地」の「旧領の本領安堵」した事を根拠に、「豊臣家」の為に「本領安堵の付加した土地」を「紀伊守」と「伊賀守」として、先ず、誇張して「権威づけた」のである。
ただ、この二名の内の「紀伊守(1)とする「伊勢青木氏の末裔子孫」が、奈良期からの“「福井の青木氏の逃避地」に移動した”とする記録が、後に付加されてある。

現実に、この「青木氏の子孫」が福井に現存し、「商い」を営んだとする記録が確かに青木氏側にもあり、末裔も現存する。

これには、「除封」にて、”福井に逃げ込んだとする説“と、”「氏是」を無視したと云う批判説”とが確かにある。
しかし、更に研究調査を進めた結果、実際には、上記した“「豊臣の記録の範囲」”であり、「青木氏側」では、「豊臣家の知行」を実際に受けていないし、「除封」の5年後にこの本人(信定)は病死にて紀州新宮で没している。(矛盾20)

上記した「室町期の紙文化」で「巨万の富」を得ていて、250万石以上とも云える「商財」を築き、且つ、「伊勢、紀州の大地主」(家人が奈良期から定住)にあって、「豊臣家の記録」が“「誘い」“であったとしても、”「誘い」“に乗る者は「青木氏」には居なかった筈である。
むしろ、この“「誘い」”が「青木氏」に「利得」と働くは、論外であって、「賜姓族」「御師様・氏上様」として「悠久の民からの信頼」を失い、「青木氏の悠久の氏是」がある中で、何れの事からも「全くの不利益」と成ろう。
そんな「愚者」は、そもそも“「四家制度」”の中に存在し得ない。
それが「四家制度の所以」の一つでもある。(矛盾21)

「四家福家の批判説」によると、この者が「福井移動説」の元となった。この元福家が福井に移動して商い(酒造業)をしたと観られる。
この者が「後付」で「出自の明確化」の為に利用されたのである。


故に、「出自」が出せない者で、除封された者の娘を「家康の側室」(蓮華院)にし、後に「本多氏の正妻」にするかの疑問が遺る。(矛盾22)

この様に、矛盾が22にも上り、可成りにして「通説化した説」には無理な無茶が目立つ。

「秀吉」は始めからの「家柄や権威の獲得」の為に、「伊勢青木氏」に関わるかの様な人物を家臣の中に作り出し、それに「伊勢の本領安堵」の時の処理に乗じて、似せて誇張させて「記録」で演じた事に成る。
その「搾取の人物の娘」を、秀吉から家康は政略的に側室として、後に家臣の本多氏に下げ渡したとする説にした事に成るだろう。
しかし、この娘は別ルートの「麻田藩の丹治氏系青木氏の娘」である。人質である。

故に、それに合わせる為に、俗名を「秀以」から丹治氏系の通名の「一矩」に変えたと観られる。(矛盾23)

そもそも、この「秀吉の家臣説」の「類似する人物」は、「二つの伊勢青木氏」には存在はするが、“この人物に似せた青木氏”を作り出した事に成る。
ただ、それが、“搾取偏纂した事に依る「無茶な矛盾」が、余りにも出てしまった”と云う事である。

「秀吉」自信が、初め、“この事に「青木氏」が載ると観ていた”と考える方がおかしく、“「青木氏の権威」“を主張するのであれば、”「青木氏の出自」“が最も大事であり、記録に”不明である事”にした事は、元々、秀吉は、“この事に青木氏は応じる”と観ていなかった事に成る。

「二つの伊勢青木氏」は、「四家の人物」を、“「家臣」とする事“には、「青木氏氏是」で応じなかった事に成る。
従って、「搾取偏纂の結末」として、説明の就かない「大矛盾の結果」が起こった。

故に、「徳川氏」もこの事を事前に充分に承知していて、速やかに1年後に「除封処置」を講じたのである。
そして、“如何にも血縁づけたかの様に見せかけた「娘」”も、その手には載らないとして速やかに本多氏に“下げ渡した”のである。

(注釈 「秀吉信望の歴史家」は、「福井逃避説」(下記 矛盾24)と同じく、「通説化」を是認する様に、別の「娘の偽工作話」を作り上げている。)

ただ、“世に晒す事無かれ、何れ一利無し“の「氏是」から、”前代未聞の事“であった為に、”豊臣家に乗じられた“とする”一族からの批判“が、「青木氏年譜」(商譜)でも、確かに「騒ぎ」が起こっている事でも判るであろう。
「伊勢青木氏」に執っては、この事態は止むを得ない仕儀ではあるが、この始末をした「福家の末裔」(信定)にしてみれば、「一族の非難」から、“福井に追いやられた”として受け取っている可能性は充分にある事も考えられる。
この“「隙」“に乗じられたものである。

これは、現実には、資料より「四家制度」にて、病死にて、制度上、上記した「四家の入れ替わり」が起こった。
この「利用された青木氏の人物 (信定」」は、「福家の人物」であったが、この「福家の家族」が、「福井への営業所に人事異動した事」が起こったのであった。
この人事に関する「添書書きの記録」は特段無いが、一族から“秀吉に乗じられた事への非難”から、遠ざけて「非難」から避けさせる為に配慮した事であったのであろう。(後付説の矛盾24)

この「歴史家の後付」と観られるこの「福井などへの逃避説」は、一部の歴史家の「豊臣家記録」を恣意的に肯定する為に乗じられた事に依る。
且つ、通説化する為に仕掛けられた搾取偏纂のものであると観られる。

(秀吉母の出自も信じられな程の脚色搾取偏纂が目立つ事例と同じ偏纂。)(外説 矛盾25)
これを「逃避説」にすり替える事で、より「家臣説」に深意性を仕立てて正当化しょうとした「後付の論調」と観られる。

(注釈 この説を読んだ「福井の青木氏末裔」、つまりは、「四家の福家の伊勢青木氏の末裔」が、この「後付説」を読んで「口伝」していたと観られる。
「福井定住」のこの末裔子孫は、「避難説の口伝」に成っている事を承知している。)

そもそも、この「福井逃避説」を「後付」するには、この“「福井」”と云う地が、“「青木氏の奈良期からの逃避場所」”であった事を歴史的に知っている者でなければ、作り出せない「後付説」である。(歴史家)

この関ヶ原後の「逃避場所」を、“「福井」”と云う場所に持ち込めば、「秀吉家臣説の人物(1)」をより「真実化」させられる。
“如何にも「伊勢青木氏」であるかの様に見せかけられる”として、「搾取偏纂」し「通説化」を謀ろうとしたと観られる。
「後付説」を脚色した人物は、ある程度の知識の歴史家であった事が云える。

ところが、「青木氏側の記録」では、上記の様に明確に成っている。
この「豊臣家」が記録する人物は、「伊勢青木氏等」に存在しない。
且つ、「避難」では無く、「後付」で「乗じられた人物」の家族に付いては、“「四家人事の移動」”と成っている。

豊臣政権崩壊後(下記 「青木氏年譜」 1619年)に、「紀州徳川氏の頼宣」と「家康」は、「青木氏の役務返納」(全国神明社や密教寺等の私財の返納事 縁籍問題等)に付いて、初期には家康と、後期には“「伊勢松阪での頼宣との交渉」“を行った事が記録されている。
この時に合わせて、「伊勢伊賀の本領の認知(大地主と村主)」と合わせて、上記の「除封分に相当する知行分」として、「特別扶持米12人分」と「南紀州の遠祖地」(計1万石弱相当程度)を付加した記録が遺されている。

(注釈 平安時の「旧領や遠祖地」も含めて「本領安堵」された「青木氏」は、その結果を以って次ぎに「伊勢青木氏」は、「伊勢シンジケート」を構成する「元伊勢衆」の「旧領地の地権」も認めて安堵して「平時の状態」に戻したとある。
もう一人「人物(3)」の「伊勢秀郷流青木氏」(伊賀守 :忠元)の方は、その後、「御家人」と成って、“「立葵紋の青木氏」”として紀州藩に代々仕えた。
この事に付いての詳細は、「青木氏の分布と子孫力の−5、16」等を参照の事。)

もし、豊臣家が記録する“「秀吉の青木氏二氏」“であるとするならば、「除封」も受けている事から、「紀州徳川氏の家臣」には成り得ない。
そして、況して、“「立葵紋の青木氏」”は到底にあり得ない事に成る。

通説化には一般には騙せても、歴史の有知識のある者には隠しても隠せない余りにも無理で多くの「論理矛盾」を起こしている。

(注釈 下記に論じるが、「紀州藩の家臣」は、「伊勢秀郷流青木氏」等を始めとして「伊勢藤氏」と呼ばれる「秀郷一門」をベースにして“「藤氏家臣団」”を「頼宣」は構築した。
そして、この事が「将軍家の嫉妬」に合い「在らぬ謀反説」で大変な事に成った有名な事件に成った位の事である。)

この事でも、「二名の青木氏」(紀州守と伊賀守)が記載されているにも関わらず、「豊臣家の記録」では、「紀伊守の人物」(1 :一矩)だけと成っている。
上記の様な「徳川氏の紀州藩の処置」から観ても、「秀吉家臣説」であればあり得ない事である。

現実には、二名で在り、[豊臣家の記録]に矛盾する。 
もう一人(3)の家臣説から観ても矛盾である。(矛盾25)

明らかに、“「伊勢の本領安堵」の時に、二名が乗じられた事である。
その経緯は次ぎの様に成るだろう。

「搾取偏纂の経緯」 
「秀吉」は、「二名」を家臣化して置いて、内一名(1)を縁籍化した形で家臣の中にその人物を作り上げた。
この「人物の出自」を「伊勢青木氏」から得られず、「出自不明の架空の青木氏」を、それに見合う「権威の誇張」を付帯して作り上げた上で記録化した。
ここまでは「秀吉の功罪」である。(矛盾23まで)

そこで、この「豊臣方の青木氏の人物(1)の娘」とする者を「徳川氏の側室」にした。
この側室は「梅殿」と呼ばれ、「蓮華院」と称したが、この「娘の出自」は、「丹治氏系青木氏」が、人質として差し出した「麻田藩丹治氏系青木氏の娘」である記録がある。
全く違う氏の「徳川方の青木氏」である。

ここからが、通説化為の秀吉信望の歴史家の「後付の説」の矛盾に成る。

ここで、「豊臣家の記録」に“「説明の就かない後付大矛盾」”が生まれたのである。

(A)この人物は「豊臣家の家臣」で、「越前北庄八万石大名」で、「徳川氏から除封」とされている。
(B)この「丹治氏系青木氏」は、逆に、「徳川氏の家臣」で「摂津麻田藩一万石大名」で「徳川氏から俸禄」と成っている。

明らかに史実が混同している。この「矛盾」は、最早、秀吉には問題はない。
明らかに「後付の通説化」を謀った時の「歴史家の矛盾」であり、「福井逃避説」と共に、「故意的な矛盾」と観られる。

この「人物の疑義」には、他に、上記した様に、“「俗名」”が沢山使われている事である。(矛盾26)

本名 −「秀以」、

麻田ルーツの偽名類  ー (一矩、一興、重治、重正)、
通名ルーツの偽名類  ー (勘兵衛、源右衛門)、
俗称ルーツの偽名類  ー (平輔、磨太)、

以上等がある。

前者の「秀以」がこの人物の本当の「俗名」で秀吉の搾取偏纂の結果である人名である。

先ず、次ぎの様に成る。
麻田ルーツの二つ目から五つ目までの四つは、「丹治氏系青木氏」(麻田藩)が使っている「通名」の「混同名」
その後の通名ルーツの二つは、「搾取名」と呼ばれるものである。
その後俗称ルーツの二つは、「騙名」(かたりな)と呼ばれるものである。

以上に分けられるのである。

後ろ四つは、「家柄」をよく見せようとして、非常に良く使われた「江戸初期」か「明治初期」の「騙りの名」の部類で論外である。

この二つの時期には、公然と「搾取偏纂」が行われた。

むしろ、幕府は黙認するどころか、武士と成った者は「権威」を持たない「立身出世の姓氏」である事から、「武士の権威付け」の為に、「知行俸禄」を定める「黒印状」を出す事を前提として、この「偏纂」を半強制した経緯があった。

従って、他にもこの「人物」に群がる様に「騙名」や「偽系譜等」が使われている。

この人物として見せかけて使ったのであるが、少なくとも「自らの出自」を「丹治系青木氏」と、この「秀吉の青木氏」に搾取した事は明らかである。

(注釈 江戸期の寛政、寛永期に書かれた「二つの資料」に記載されている「第三青木氏」と呼ばれる「青木氏」は、この「秀吉の青木氏」と、「麻田藩の藩主」と成った「丹治氏系青木氏」の「二つの出自」が多い。
中に酷いのが有って、この二つに、更に「秀郷流青木氏」と「藤原氏」と「皇族賜姓族青木氏」(二家分)に「江戸期の官位官職」を付けてのやりたい放題の「4つを組み合わせた青木氏」が「地方史書」(下記)に観られる。
その「地方史書」も流石、気が引けたか「注意の特記」をしているものもある。
これらの多くは、室町期以降には、取り分け江戸初期には「神社や寺社の秘密の副業」であった。)

「歴史観のある人」でも、判別が就かないほどに極めて多く酷似するのが、この「騙名」で、これも何れかに矛盾が出る。
この様に「秀吉の青木氏」には「搾取偏纂の俗名」も然ること乍ら“「騙名」”まで使われている。(外 矛盾27)

その「矛盾」の代表は宗派である。
宗派は長い慣習と仕来りと掟があり、「密教と顕教の違い」があり、「密教」でも「古代密教」と「平安密教」の違いがあり、顕教でも大乗仏教との違いもある事からその出自で判る。
「氏族」と「姓族」からでも、判別が可能で有る。
この宗派だけは明治以前では絶対に搾取出来ない。

この「二つの青木氏」であれば、確実に「古代密教」の「浄土宗密教」である。
しかし、一名(人物 1)の者は「浄土真宗」としている。
明らかに「後付の矛盾」である。(矛盾 28)

実は、室町期までは、未だ、「浄土宗」に入信するには、ある「特定の氏」しか入信出来なかった。
「出自分け」していた事から、認めて貰えない「仕来り」であった。
要するに、そもそも、「密教」を前提とし、その氏で寺を独自に自主運営していたのである。

従って、部外者や氏の宗家本家の「認定保障」の無い者には、自らの宗派と出来ない仕組みであった。
この「仕来り」が、江戸初期に密教の禁止令があって、全て「顕教」と成ったが、表向きは別として、依然として「氏族」と「高級武家」は、この慣習を護った。
従って、況して、「出自」もはっきりしないし、「青木氏の保障」が無ければ信徒には成れない仕組みであった。

従って、この氏(「人物 (1)」)が「浄土宗」を宗派とする事は出来なかったのである。
“出来なかったと云う事“は、「伊勢青木氏の出自」と出来なかった事を意味するのである。
つまり、「伊勢青木氏の出自」と認められれば、当時の「宗教社会」は、それを基に「浄土宗」に入信出来る仕組みであった。
つまり、「氏家制度の本家」の「意向の仕来りの所以」である。
平安期−鎌倉期−室町期から江戸期まで「氏家制度中心の社会」であった。

この事は、況や、「伊勢青木氏」は認めなかった事を意味する事に成るのである。

「二つの青木氏」の「361氏」に繋がる者として保障されれば、「浄土宗」に入信できる仕組み、況や「密教」であった。
これが、「氏家制度の所以」なのである。

新しく独立して家を興す末裔は、都度出るが、「宗家本家筋」に認めて貰えれば、その氏の一族一門が運営する菩提寺の「達親」と認められる仕組みであった。
認めて貰えなければ「宗派」のみならず「家紋」も「定住地」も定まらない事になる仕組みである。

この「二つの青木氏」には、奈良期から「青木氏が定住する地域」には「ある菩提寺名」で「青木氏の専用の寺」が建立されていた。(寺名は秘匿とする)
「寺名」が正規に伝承されていて達親族であれば「青木氏」を証明される事に成る。

(注釈 しかし、この仕組みの「密教の浄土宗」は、家康に依って江戸初期に解除され、「密教性の排除」を目的として禁令を発した。
但し、表向きは完全に解除したが、実態は、秀郷一門等の御家人や高級家臣団の事もあって、「高級武家」等が任意に入信出来る「顕教」で「檀家方式で運営する浄土宗」とした。
「一つの寺」に「幾つもの氏姓の檀家」が入る方式としたのである。)

これ以外は、「顕教の浄土真宗」に入信するか、庶民が自由に入信し得る日蓮宗などの宗派に入る事に成るのである。
従って、殆どの武士は真宗に入信しているのであり、下級武士は日蓮宗に、大きな末裔を持たない公家などは、結局、「顕教的密教」を標榜する「天台宗」か「真言宗」に入信する事に成ったのである。(前段の「伝統10」を参照)

この事からも、この「宗派の事」だけは変えられない事から「矛盾」は露出しているのである。

後は、その「偽名」が使われている経緯から、本人外が行った完全な「搾取偏纂の騙名」であると観られるので論外に成るのである。

この「人物(1)」に、これだけの「騙り」が起こる事は、この「人物の出自」が無い事の「架空」から起こっているものであり、全体としても「豊臣家の搾取偏纂」である事を物語る事でもある。

ここでも、この「人物の名」でも“(A)と(B)を強引に結び付けた「後付け矛盾」”が生まれているのである。

(注釈 「丹治氏系青木氏」は、「徳川方」に着き、その功で、「摂津麻田藩1万石」を受けていて、「別系の青木氏」である。
この「青木氏」は、武蔵の土豪集団の連合体の「武蔵七党」の「丹党」から出た「丹治氏」が、平安期に罪を得て朝廷より関東に配流された「丹治彦王」が、「現地の土豪」との間に生まれた「配流孫」だとしている。
「嵯峨期の詔勅」に従い、遅れて「室町期」に名乗りを上げた者で、立身出世を夢見て、一時、「信濃の国衆」と成り、その後、甲斐、美濃を経て、関ヶ原の戦いに参戦、関東武蔵を里としている為に、「徳川方」に味方して「摂津麻田」に「領地1万石」を家康より受ける。
弟に4000石を分けて「武蔵丹治氏系青木氏」と共に「三流の流れ」を作る。
この「磨田藩支流の弟系」には、上記した「秀吉の青木氏」の「伊予土佐の国境」の「青木の村」をこの磨田藩支流に後に下げ渡された。
この「丹治氏系青木氏」が「通名」として、「重、一、矩」が使われている。)

然し乍ら、「搾取人物策」を用いた「豊臣家」は、斯くの如しで「権威」を作り上げようとして、後勘から観ると、矛盾(28)だらけだ。

然し、ところが、反面、同じ「権威の持たない土豪」であった「松平氏・徳川氏」はその対応が異なった。
下記の「青木氏の年譜」にもある様に、既に1605年頃から、数度に渡り「青木氏」と談合していた様で在る。
1620年頃の後には、正式な「勝姫との政略血縁」(立葵紋青木氏)を以って「吊り合いの取れた縁続き」とした。
「正式な権威の獲得」を「青木氏」と成し得たものである。

この後、「伊勢の青木氏」(青木長兵衛 福家)は、この「知行付加」(家臣外の知行)を以って、「紙屋長兵衛の商いのノウハウ」を「紀州藩」と「将軍吉宗」に提供した。
そして、江戸初期から末期まで家臣では無かったが、「紀州藩の勘定指導方の役目」を務めた。
「初代頼宣の時」、「吉宗の時」、「江戸末期の時」の三期には、直接に人を送り出し、実務の「勘定方」を務めた。
「吉宗将軍時」には、「吉宗育親」として、「福家の長男六兵衛」は共に育った経緯から、江戸にも向行して「布衣着用の立場」(直接将軍に面談出来る「大名扱い」)で「享保の改革」を主導した。
この事からも、「徳川氏」は、この“「青木氏との向後の付き合い」“から観て、上記の「秀吉の搾取偏纂」を充分に承知していた事を物語るものである。


では、何故この様な「流れ」に成ったかと云う事であるが、それは次ぎの様な重大な事象が起こったからである。

(注釈 実は、上記の“「今宮神社」“には、「大きな意味」を持っていて、平安初期に「疫病平癒祈願の神社」として各地に創建されたが、「室町期の戦乱」に巻き込まれ衰退し荒廃した。
その為に生き延びる糧として、「全国の社の組織」を使って「シンジケート」を構築して生き延びた。
この事を知っていて政権獲得の時に、この「今宮シンジケート」の世話になった秀吉は、豊臣政権下に、この全国の「今宮神社の再建」を果たし、京に再び「総社本殿」を創建し保護した事は有名である。
そして、その更には「末社」としても、更に、”「若宮神社」“を全国の「天皇家の所縁の地」に創建して、”「皇族者の下族の保護地」“を名目に構築し強化した経緯を持っている。
この時の「今宮神社」は、「秀吉の権勢」を背景に相当な「社勢」を誇った事は有名である。)

(注釈 中部以西で、社勢を示す様に「今宮神社と若宮神社」は有名である。)

これは、「青木氏」の「500社に近い神明社組織」を使った「伊勢シンジケート」の「諜報活動」等に習って、秀吉は「今宮神社−若宮神社の組織」を構築して「諜報活動」の拠点ともしたのである。
この事は、「シンジケートの力」がどれだけのものであるかを「秀吉」は、「青木氏の事」でも「今宮シンジケート」の事でも、承知していた事を示すものである。
その「伊勢シンジケート」を「青木氏」が持ち、有効活用して「自分以上の陰の勢力」をも持っている事を承知して居た事を示すものである。
この事からも、この「秀吉の家臣云々の記録」は、“「矛盾の塊」の様であり、勝手なもので有る事を、秀吉自身が充分に承知していた事“を物語るものであるが判る。

参考として、 実は、「信長−秀吉」の「家臣」と「美濃・尾張」と云うキーワードから研究すると、次ぎの様な資料が「新編美濃志」の記録にある。
真偽は別として、この記録によると、美濃に「青木刑部卿法印浄憲」、或は、 「加賀右衛門尉藤原直重」なる人物が居て、「美濃安八郡青木村」に住し、土岐氏―斉藤氏―信長―秀吉に仕え、大阪城にて戦死したとある。
しかし、 この系譜には、“「出自」が混在し、「時代性」の矛盾がある”としているので、「江戸期の史書の青木氏」とは「異流の青木氏」と記されている。

これから観ると、「官位官職の持てない僧侶」や、「賜姓族の村」や、滅亡した「美濃土岐氏系青木氏」や、あり得ない「美濃の秀郷流青木氏」の末裔や、「北家筋の京藤原氏」や、室町期と江戸期にはあり得ない「二つの官位官職」等、を混合して組み合わせた「青木氏」を作り上げたと観られる。
「秀吉の青木氏の人物」に似せてはいるが別である。
この記録の真偽は「美濃志」そのものが云う様に“疑問”である。
混在が起こる「時代性経緯」から、この郷土史は江戸期初期に偏纂されたもので、この上記した所謂、「秀吉の青木氏」に類似させて家柄をよく見せる為に「偽書と系譜」を作り上げたものである。

上記した様に、各地の郷土史には、この様な「騙名」の様に「系譜」にも「偽譜」が起こっているのである。
「美濃志」が、これだけの「矛盾」が在るのに、“良く載せたものだ”と「地方史書」そのものにも驚くがこれが現実なのである。
それだけに地方に「歴史の所縁」を作りたかったのであろう。

この地方史や郷土史の編集期の江戸末期にも、これは”「氏家の家柄搾取」”から”「地域の地柄搾取」”も起こって居た事を示す事例である。

(注釈 「青木氏」と「同族血縁族の近江佐々木氏」の「傍系末裔の黒田氏」も、元は「近江佐々木氏の傍系末孫」で、「青木氏」の「祖先神の神明社」の「御師役の立場」にあった。
この「神明社」をベースとする「伊勢シンジケートの組織」を使って「独自の諜報活動」をした事も有名である。
その「黒田氏」を家臣としていた「秀吉」であれば尚更の事で、「青木氏と伊勢シンジケート」の事は充分に承知していた事に成る。 
更には、事前知識として、「南北朝の戦い」(赤坂千早村の山城戦い)で「多勢の幕府軍」が「伊勢河内シンジケートゲリラ戦」で餓死し敗走した事は、直前の歴史として、「秀吉」のみならず「信長」も事前に「歴史的な史実」として知っていた筈でもある。)

(注釈 「赤坂楠木氏」は「伊勢河内シンジケート」の一員で、「河内−伊勢−今宮」までの「三シンジケートの連合体」を構成して対抗した戦歴を持っている。)

その為に、「秀吉」は全て承知していたとすれば、「不承知の信長」生存中は、強力な連合組織から成る「伊勢シンジケート」を持つ「青木氏」の事は知っていたと考えるのが普通ではないか考えられる。
この「伊勢三乱 五戦」には、全て「合力」し、全て、「伊勢シンジケート」を前面に押し出しての「ゲリラ戦」で応じていたこの事に付いては、この「戦況」の成り行きに付いては、秀吉は、“非常に懸念していた事”であったと考えられる。


話しを元に戻して、

”1581年の末当初に「秀吉の紹介」で、「一名の青木氏」なる者が、「信長]に面会している。”

以上を論じた。

この結論として、上記した”「信長との面談の青木氏」”の人物は、誰かと云う事に成る。

上記した「秀吉の青木氏」論から、”逆説的”に検証すると、「人物(1)」は、「人物(2)」の「信定」であった事に成る。

何故、この様な「秀吉配慮」をしたのかと云う問題である。

そうなると、“「二つのシンジケートの連合組織」の「協力体制」”を得ていた時期があった。
その、「本能寺直前」の時期に「秀吉」は、この事を知らしめて、何とか「信長」にこの「伊勢青木氏」の「人物(2)」と合わせて、速やかに“「事態収拾」“を図ろうとした行為と先ずは考えられる。
即ち、「高松攻め」の「膠着状態」の時に「秀吉」は、再三に「信長」の元を訪れている。
つまり、通説では、「信長」に依る武田氏滅亡の直後に、「毛利討伐」に出陣依頼しているのである。
もし、この通説通りとして、この為にも 伊勢域での“「ゲリラ戦の長期化の伊勢」”を何とか解決しなくてはならない。
背後が危険と成るし、二兎は到底負えない現状であった。
依って、この時に「信長−青木氏面談」(1581年末頃 「青木氏の記録」では、1582年初と成る)を図ったと観られる。

そもそも、「青木氏」に降りかかった”「秀吉の青木氏」の事件”は、「伊勢国の事(紀州討伐)」が一段落して、その後の「豊臣政権樹立」に際し、この時の「所縁」を通じて「人物(1)」を用いて「秀吉の青木氏」を発祥させようとした事に依る。

この時の「秀吉紹介」に依る「信長面談」(信長−青木氏面談)には、次ぎの説が浮かぶ。
第1説の「人物(1)」で応じたのか、
第2説の「人物(2)」(信定)で応じたのか

第1説か第2説かは何れにしても”信長を納得させられる「面談理由」”が必要である。

この時は未だ、「秀吉の青木氏」は無い。
従って、実態は、「人物(1)」=「人物(2)」であるのだが、「青木氏」の”「信長面談」”には、”「何らかの工作」”をした事が「状況証拠」から充分に考察される。
その”何にか”が判らない。”判らない”と云うよりは、”確定できない”と云う事である。

考えられる事として、”信長の印象”を和らげる為に、”「秀吉の遠縁仕立て」の「人物(1)」で会した”と云うものである。

実は、「青木氏年譜(下記)」から次ぎの様な事が読み取れる事が出来る。
それは、”この時から、秀吉は「秀吉の青木氏」”を考えていた節が有る。
そもそも、秀吉は、「青木氏の存在」を「蜂須賀小六の配下」であった頃に「今宮シンジケート」の組織の中でいた事から、「シンジケートの横の繫がり」から接触が在った。
何故ならば、「今宮シンジケート」と「伊勢シンジケート」が連携していた時期がこの時期であった。
その為に「青木氏の存在」とその詳細を知り得た筈である。
当然に、それに合わせて「神明社との関係」もそれを通じて知っていた事は充分に考えられる。

「伊勢シンジケート」と「神明社組織」の「二つの組織の頭]、つまり、「御師」の「二つの伊勢青木氏」と「信濃青木氏」が背後にいる事は充分に知っていたと考えられる。
知っていたからこそ、「鉄砲入手」の為には、「信長」に「今宮シンジケート」を紹介した記録があるのである。

この「シンジケートの存在」の「紹介記録」そのものが、「秀吉」の「青木氏の存在」」をも認知して居た事を証明するものである。

立身出世して行く秀吉に執っては、この時から”「出自誇張」”が必要である事は痛感していた筈である。
その「最高のシナリオ」は、この「シンジケートの青木氏」であった筈で、「出自の誇張」に選んだと観られる。

「青木氏」が持つ「悠久の伝統」と「家柄格式」と「民からの信頼」に繋がる事は、周囲に対して「武の権威」では得られない”「温厚な権威」”を獲得する事に成り得る。
「天皇家や公家や藤原氏」が持つ”「優雅で気高い権威」”とは異なる”「温厚な権威」”をこの時期の秀吉には好んだと観られる。
現実に、「天皇の落胤」「公家の姻戚」「藤原氏の末裔」の三出自は、後に「偽系譜」で搾取している事は有名である。
故に、太閤官位を奪取出来た所以でもある。
従って、何も青木氏との血縁関係を持つ必要は何も無く、要は「青木氏の氏名」を使えれば良い筈であった。
その”「青木氏の出自」が何処であるか”は系譜上に記載する等の必要性も関係が無い事に成る。
それが、上記した「長嶋の戦い」から始まって6度に渡る「青木氏との親交」の中から、「定信の青木氏」をモデルに自らが名乗るのではなく、一族の中に「ダミー青木氏」を創り上げられれば「出自誇張の目的」は達成されるのである。

(注釈 現実に、この”「ダミー青木氏」(遠縁の家臣)”を作り上げて、表向きには「北の庄8万石と紀伊守」を与えて置いて、「伊予今治南部」(青木の里)に小さな所領(寺二つ分程度の敷地)を与えている。1600年の「徳川除封処置」で「里」共々飛散した。)

これは、”「出自誇張」”のみならず、下記した様に、”「シンジケート確保の魅力」”にも「大きな興味」を持っていた筈である。

故に、「豊臣政権樹立」後に、「自らの守護神」として先ず「今宮神社」を全国に再興して「自らの守護神」であるかの様に保護した事は有名である。
そして、その「シンジケート」をも保護し、その「下部組織」として全国に「若宮神社組織」までを作り上げた。
「青木氏の神明社」の様に、「情報収集源」として大いに利用した事は「誰もが知る歴史記録」の示すところである。
中でも、この”「若宮神社」”には、多くの貴族を取り込み抱え込み保護して、如何にもルーツであるかの様に「見せ掛けの出自誇張」にも利用した。

明らかに、この時の「信長面談時頃」から「伊勢シンジケート連携」と「出自誇張の氏」として近づいていたと考えられる。

「青木氏」の「信長面談」に至るまでの「事前工作」では、どの様にして「青木氏と接触」を果たしたのかの疑問がある。

これは、実は「蒲生氏郷の記録」にある。
「蒲生氏郷」は、「伊勢の乱の指揮官」であった事から「伊勢の乱」に付いての「秀吉とのやり取り」が遺されている。
恐らくは、この時に、同族である「蒲生氏郷」から「青木氏」にコンタクトがあった事が伺える。
では、”「蒲生氏郷からのお膳立て」かとする”発想も考えられない事は無い。
然し、絶対に「信長面談のお膳立て」は出来ない。
それは指揮官と同族と云う立場が邪魔をして、「信長」に良い印象を与える事は無い。
「怠惰、身贔屓」と受け取られる事は間違いは無い。口を避けても云えない。
そうすると、「楽市楽座」を「引き合い」に出して、「秀吉」が考えて紹介した事に成る。


この時は、未だ無かった。「秀吉と青木氏の直接接触」は、1573年「第二次長嶋の戦い 9/26」が最初である。
「青木氏側」は、この「戦い」で出城建築の為に必要とする「材木」を「買い占め」した事で「掛け合い」に成った事があったが、これが最初である。
「青木氏の材木買い占め」に対抗して、「秀吉」は窮地に陥り、結局、兵が吉野より材木切り出して吉野谷から流して対抗した記録が遺っている。

(注釈 「青木氏の記録」にも在り、敵対はしたが既に認知している関係にはあった。)

以後7年間の「秀吉との接触関係」に付いては「商記録の資料」に次ぎの様な事が書かれている。
1580年頃に「紀州討伐」と「備中廻船」の2件記述が確実に発見出来る。
明らかに「接触があった事」を物語る。
(参考 他に2件関係あるのではと観られる「不明な記述」も在る。)
ところで、この2件はどの様な接触であったのかを調べた。

「紀州討伐」では、「伊勢−紀州」の最後の「始末掃討戦」であった。
「南紀州」には、「青木氏の遠祖地」(和紙楮生産地)が多くあり、「秀吉」と決着を就けた事が「別の資料」に詳細に記録されている。

(参考 「別の資料」とは、「伊勢青木氏」と関係の深かった「伊勢衆」の主家に「青木氏の手紙」が遺されていた。
この中の一節に書かれている内容である。「伊勢衆」と談合している事は「青木氏年譜」でも判るが、この時の結果を連絡して合意を求めている手紙である。)

「備中廻船」(1581年)は、直接表現は無いが「商記録の記述」から「備中攻め」の「資材搬送」であった。

1568年の「第二次長嶋戦い」では、「商いの形」では「伊勢国衆」に対し「合力の約束」を果たした。
「青木氏」として「表向き」には、織田勢とは敵対はしていないが、明らかに「商いの形」では敵対はしている。
堺店から長兵衛が、織田軍から資材調達を請け負い、伊勢に戦いが続いていた事を背景に高騰を理由に圧力を掛け続けた事が記録されている。
当然に「秀吉」ならば「青木氏の二つの顔」は経験者で知っている。

然し、その後に和解している。何故、和解に成ったのか不思議である。
「二つの顔」は知っている「秀吉」が、”何故に和解に応じたか”は解決しておかねばならない疑問である。
明らかに、秀吉側に何らかの「メリット」があった事に成る。
つまり、その「メリット」が判れば「和解の疑問」は解ける。

それは、上記した様に、”「出自誇張」”のみならず”「シンジケート確保の魅力」”に有ったからで在る。
其れを物語る事は下記に示す”「紀州討伐」”でも明らかに成っている。
「青木氏」としても、「秀吉の出自誇張」は、この時から感じ執っていた事を物語る。
直接、間接に関わらず、「何らか縁組」などの話があったのかの詳細は未だ判らない。
記録の資料が出るとすれば、恐らくは、「伊勢郷士」か「伊勢衆」からであるが資料がまだ見つからない。

この「秀吉側から観た和解」は、「青木氏の四家問題」となった数年後に発生した”「秀吉の青木氏」”以外には無い。

両者から観ると、次ぎの事が「和解の主因」であろう。
この「紀州討伐」は、1577年から1585年までの間に行われた三期に分かれたが、主に”「門徒衆の一揆掃討作戦」”であった。
相当に色々な複雑な勢力が入り組んでの反抗であって、その「掃討作戦」であった。
概して、一般には当時は、「門徒衆一揆の掃討作戦」と位置付けられた。

(注釈 伊勢紀州域では少なくともその様に観られていたのである。「紀州」では,これを「門徒一揆」と呼ばれていた。
その後、昭和20年頃までの浄土真宗の家筋を普通は、「真宗」と呼称される事が多いが、紀州では「特別な意味合い」を込めた呼称で”「門徒」”と呼ばれる様になった。)

この反抗は、「石山本願寺の影響」を受けた事が原因で、昔からある「独特の紀州気質」が表に出て来たとされている。
それは、「伊勢気質」と同様に、”「独立性」が強い気質”に有った。

この「門徒衆」の主の「石山本願寺の顕如」は、「自らが始めた戦い」から早々に勝手に身の危険から引いてしまった。
足元をすくわれた「門徒の紀州人」は怒って、この「紀州気質」を出して「反抗姿勢」を採った事が原因していた。
依って、その立場立場で”反抗”は複雑を極めたのである。

この「反抗した勢力」は「門徒衆に関係する反抗」であった事から”「門徒一揆」”と地元ではそう呼ばれていた。
これを整理すると、次ぎの様に整理される。

この「反抗地域」では、「北紀州」と「南紀州」に分けられる。
この「反抗内容」では、「織田氏への反抗勢力」と「門徒衆の生活不満勢力」に分けられる。
この「反抗勢力」では、更に「宗教武装集団」と「国人の武装集団」に分けられる。
この「国人武装勢集団」は「領国化」と「独立覇権」を狙った勢力に分けられる。
ところが、「反抗集団の指導者」を除き、全て「隠れ門徒」も含めて「門徒衆」が主で動いた。


「北紀州の掃討作戦」は次の通りである。
雑賀衆を中心とする反抗勢力、
畠山氏の領国化勢力、
高野山衆の反抗勢力、
根来衆と雑賀衆の傭兵軍団の反抗勢力、

「南紀州の掃討作戦」は次の通りである。
南紀州の農民の門徒衆一揆

これらは複雑に入り組んでいて、各勢力の反抗明文も多様であったが、「根底の共通点」は、矢張り、「門徒衆」であった。
ところが、「反抗集団の指導者の思惑」は、別にあり、要するに、”門徒”を利用して「反抗の勢力」を大きくしたのである。

「武装反抗勢力」の「雑賀衆,根来衆、畠山衆、高野山衆」は、当初は「信長」に傭兵軍団(鉄砲)として雇われ、「信長」の「天下の路」に大きく貢献した程のものであった。
然し、「石山の戦い」から波及しての「門徒衆」であった事から、1576年末頃から内部分裂で反抗し始めた。
(第一段階)

この混乱(1584年頃)を利用して「国衆」の「畠山氏」は、「独立性気質の意識」を表に出して混乱に乗じて紀州を「領国化」し始めた事が発端で、「家臣の門徒衆」もこれを利用して反抗した。
(第三段階)

第二段階となった「南紀州」は、「青木氏の遠祖地」であり、「和紙楮生産地」の南紀で散発する「門徒衆の最終掃討作戦」であった。
この為に、「青木氏」は民の一揆の「経済的な支援」をしていた事から、責任者の立場上、”ある条件”を下に、この何れにも利益の無い一揆を収束させる目的から「秀吉」と話し合った。
この事から、早期に一揆を収束させたが、この時(1580年)から「秀吉」と親交を深めた事に成っている。
この時は「伊勢青木氏の顔(信定)」と「紙屋長兵衛の顔」の「二つの顔」での面談であった。
この事が確かにより「秀吉と親交」を高めた事が「郷士の内資料」から伺える。
又、その後の「伊勢での青木氏に対する厚遇」でも充分に判る。

この第二段階の「青木氏との収束策(”ある条件”)」が、第三段階までの「全門徒衆」の一揆に大きく影響を与え収束した。

(注釈 「紙屋長兵衛」は、全力を挙げてこの「全門徒衆の経済的不満”「ある条件」”」を解決する策を講じたことが「郷士衆と国衆」の「家に遺された手紙」に遺されている。)

この時の「門徒衆との約束」として、多くの事(”「ある条件」”)が実行された事が記録されている。

主にその”「ある条件」”とは、次ぎの「四事業」と成っている。

その「約束一つ」として、”「家内生産」”が出来る様にと、”「各種の紙箱や紙袋」等の殖産”を進めた事が「青木氏の記録」や「郷土史」にも地域貢献した事が記載されている。
昭和20年代まで、「北伊勢の特産品」であった。

その「約束二つ」として、この室町期末期の時から、新たに、どの立場の門徒衆も家内工業的に出来る「櫨の実(ナナカマド・ハゼ科)」から作る「ローソク」の生産にも入った事が「商記録」を辿ると記述されているし、「口伝」にも「他記録」にもある。

その「約束三つ」として、「信濃青木氏」から「養蚕技術」を四家の者が留学して学び、その「養蚕と布衣品の生産」も伊勢紀州域に広めたと「伊勢の郷土史」と「商記録」にも口伝にも記されている。

”「ある条件」”の極めつけは、「約束四つ」として、室町期には、未だ「早場米」は無かった。
ところが、「門徒衆の農民」の為に、「青木氏の莫大な私財」を投入して研究して何とか「早場米」を作り上げる事に日本で最初に成功した。
この事に付いては、「郷土史」には詳細に記載されている。
この「早場米」は、「早稲光」、或は、「光稲」と呼ばれていて、「青木氏四家」の「光三郎」の「先祖名」が付けられて呼ばれいて、その後、全国的にこの、「早稲光」、或は、「光稲」は「全国の青木氏」を通じて広まった事が郷土史にも記録されている。
この事で、「伊勢紀州の門徒衆」のみならず「伊勢紀州の農民」からも大いに尊敬され、昭和初期まで「尊農家」としても郷土史にも記録されていた。

以上、「第二段階の約束」として、「和紙楮殖産の拡大」は元より、上記の「四事業」を私財を投じて実行した。
旧来より「御師様」「氏上様」と崇められていたが、更に「門徒衆」からも神の様に崇められ、不満は一掃されて納まったと記述されている。

(注釈 昭和30年頃まで「蝋燭の生産」は「紀州特産品」であった。
衰退した現在も紀伊山脈の山にはこの樹木が多く遺っていて、秋山は当に赤黄で一色である。)

(注釈 現在でも「北紀州域(奈良域から堺や若山までの地域)」には、「紙箱などの紙製品の特産品地域」として遺っている。
その中には、この時に最初に商人に転身した「門徒武士」の家筋の500年以上にもなる「紙箱の老舗」が現在も顕在して生産している。)

この流れに沿って、遂には、これを観た多くの「門徒武士」からも、雪崩を切る様に積極的に”「商人の路」”へと「転身」をした。
これの「受け皿」と成って彼等を導いたのである。
そして、「青木氏」は、彼らに「商いのイロハ」から教え、独立させて、この「四事業」を専門に扱う多くの「射和商人」に育って上げたのである。
そして、育った彼等の「四事業」に携わった人々を「商業組合」に入れて保護したのである。

そこで、筆者は、この「四事業」を成功裏に導く為に、前段で論じた様に、「伊勢松阪」にその「自由な商業組合」を主に創設した、と観ている。
「四事業の事業種」も然ること乍ら、「武士、民、農民」等の各層からの人々、「自由な立場」での参画、「生産から販売」までの「仕事の内容」を様々にも持つ事から、”「自由」”をモットーに組合を構成する必要に迫られたと観られる。
更には、恐らくは、「秀吉」手引きの「信長面談」での「楽市楽座の約束」でもあった事と考え合わせていて、”「伊勢復興の策」”としてこの新しい形の「商業組合組織」を構築したと判断している。

この「趣旨の事」を書いた「青木氏四家」から”「郷士頭」”に宛てた手紙も発見されている。

当初は、「会合衆」の組合として、伊勢松阪で発足させた形跡(青木氏の資料)があった。
ところが、「紀州討伐での影響」で、この「四事業」が思わぬ方向へと発展した事から、「伊勢の会合衆」の考え方から「伊勢の自由商業組合」へと舵を切ったと考えられる。
何れも「大商人だけの会の会合衆」の組織では、最早、成り立たなく成り、そこで「発想の転換」から、彼等を救う為にも上記の云う「全階層」の「自由商いの組合」の組織に変更したのである。
兎にも角にも、何れも「日本で最初である組織」と成ったのである。

実は、上記で、”「門徒衆論」”の中で、”「郷士頭」”と書いたが、この「郷士衆」(郷士頭)が、この「紀州討伐」と「四事業の推進」に大いに関わっていたのである。
決して、本論を解くときに見逃してはならない一点である。
唯、「伊勢紀州域」の「門徒衆論」に、「郷士衆論」の「絡み」を解くのが難しいのである。
(実は、当初、試みたが失敗した。整理して挑戦した。)

この組織以外にも、「青木氏」は、「青木氏」と共に「悠久の歴史」を労苦を共にして築いてきた「伊勢域と紀州域と奈良域」に存在した「20の郷士衆」との「連合組織」も新たに”結成している”のである。
”結成している”と云うよりは、「時代の変化」とこの「状況の変化」に合わせて、”結成し直した”と云う方が正しいだろう。

この組織は、遺された記録には、”「伊勢郷士衆」(「18郷士衆」)”と記載されていて、その原型は、「和紙殖産商い」を始めた925年頃の平安期から始まっている。
鎌倉期を経由して室町期の「紙文化」と成った頃からは、以前の「助合組織の郷士衆」から、「運命共同体組織の郷士衆」へと変身しているのである。
資料からは、前段でも論じたが、平安期から「20の郷士衆」から伊勢紀州域は成り立っていたが、前段でも論じた様に、「伊賀の乱」で「二郷士」が「裏切り行為」をした事から「18郷士衆」と成った。
この「18郷士衆」(中には「18人衆」と記録した資料もある)に「郷士頭」を置いて、一切を取りまとめていた事に成っている。
この「郷士頭」は、「持ち回り制」を採用していた様で、「郷士頭名」が資料年代で異なっている。

資料から観ると、この「郷士頭」と「青木氏」が互いに「縦の連絡」を取り合っていた様である。
然し、かと云って、時々、「頭外の郷士」との「やり取り」も観られるので、ある程度の「専門担当」を決めていたと観られる。
それを「郷士頭」が全般を取り仕切っていた組織に成る。

その前に、この「18郷士衆」と「青木氏四家」との関係に付いてもう一度論じて置く。
「青木氏四家制度」は、「三つの発祥源」と「賜姓五役」と「国策氏」と{皇族賜姓族}の家筋を護る為に、「純血性」を前提として、この「四家制度」を平安期初期の直前に敷いた。
この時、「四家の福家」から観て「孫域」までを「子供」として扱い、娘の嫁ぎ先の子供(孫)を「正式な跡目権利」を与えて、幼少期から引き取って育てると云う制度を敷いていた。
この「娘の嫁ぎ先」が、元々は、「伊勢紀州の20の郷士衆」であった。

従って、この「四家制度」が続く限りは、「「伊勢紀州の20の郷士衆」には、時代毎に「古い縁籍筋」から「新しい縁籍筋」の関係が出来上がる事に成る。
「古い縁籍筋」が「新しい縁籍筋」に成り得る事は、{四家制度}が「代替わり」する度に当然に起こり得る。
「伊勢紀州の20の郷士衆」の限られた範囲の中では、この縁籍関係は繰り返される事に成る。

この時、「超大地主の青木氏四家」から「20の四家」から嫁ぐ娘に対して「地権」を持たして嫁がせる事に成る。
逆に、「嫁ぎ先の孫」が「20の四家の跡目」に成る事も起こる事から、これを繰り返す事に依って、この「郷士衆の地権」は「重層化した地権」が起こる事に成る。
この「郷士衆の地権」では、その「地の殖産」を「仕事」として担う事に成る。

「青木氏四家」には、”「20の四家」”が生まれるが、「四家の地権」の範囲で、それには「四家に与えられた仕事」を直接担う事に成る。
この「下部組織」として「20の郷士衆」の与えられた「郷士の地権」の範囲で、「仕事」が熟される。
この「地権の範囲での仕事」は、その「仕事」に従事する「民までの差配」に「責任」を負う事に成る。

つまり、「青木氏四家」には、結局、「40の仕事」が、「四家地権」と「郷士地権」で動く事に成る。
但し、「20の郷士衆」の家筋範囲の事は、「青木氏四家」は関知しない。
その「郷士地権の範囲」の経済力で「子孫」は拡大する事に成る。

この自由を持つ「20の郷士衆」の「20系譜」から、「青木氏四家」に「新しい血筋」が入る事で「純血の弊害」を無くしていたのである。
従って、「時代の変化」と「四家の変化」で、「20の郷士衆」の「地権」には差が出て来る事に成る。
従って、この「20の郷士衆」に執っては、「青木氏四家との関わり具合」の如何は「男女の子孫」を如何に増やすかに関わって居た事に成る。
且つ、その発展は「四家からの娘嫁」にも大いに関わる事に成っていた。

この背景にある「20の郷士衆」は、その為には当然に、「紀州伊勢域」の「他家の家臣」と成っている「門徒衆武士」との血縁関係も大いに持つ事に成る。

前段で論じた様に、「20の郷士衆」が、「伊賀の乱」で合力したのは、主にこの「伊賀氏との血縁関係」が深かった事にあった事を物語る。
故に、「伊賀氏」が窮地に陥った時に、青木氏は約禁を破ってでも、「織田氏攻撃」に対してはそれまでは「中立姿勢」を保っていたが、「名張の清蓮寺城」から突然に「側面攻撃」で虚を突き一時を稼ぎ、この合力した「18の郷士衆」を”深夜に救い出す”と云う「離れ危険技」を遣ってのけたのである。
然し、織田軍は、この「二つの青木氏」に対しても、「18の郷士衆」に対しても、一切の「報復処置」は採らなかったのである。
「一切お構いなし」と成っている。

更には、「各地に離散した伊賀者追討」と「1年後に伊賀帰参者討伐」も「不問処置」としたのである。
「一切お構いなし」も「不問処置」になる理由は何も無い。
あるとすれば、つまり、これは上記した様に、「秀吉手引きによる信長面談」の「約束事にあった事」を物語るものである。

前段でも論じた「18の郷士衆の救い出し作戦」の根底には、「青木氏との深い繋がり」の所以があったのである。
この「18の郷士衆」の「伊賀合力」に対しては、上記した様に、「二つの青木氏」とは「運命共同体、一心同体の関係」にあった事から放置出来なかったのである。

従って、上記した「門徒衆の裏工作での説得」が、「20の個々の郷士」で、その「伊賀合力」に観られる様に、その「広い血縁関係」を利用して「懸命な説得」が行われたのであるし、この説得が効を奏した事に成ったのである。
そして、今度は、救出された2年後には「18の郷士衆」は、「青木氏援護」の下に立ち直り、何と「門徒衆救出」に出たのである。

この「門徒衆救出作戦」には、この「門徒衆の武家」と違って、「20郷士衆の武家」側には、「青木氏からの地権基盤」(経済的基盤)を持っていた事から、この「説得」には、暫定処置を講じて一時保護して説得を行い易い力が備わっていた事に成る。
そこに、「青木氏四家」からの「四事業の裏付け」があれば、「門徒衆武士」としても納得に応じ易い事に成る。
其の侭では、「秀吉」に殲滅される宿命があったとすれば、「20の郷士衆」との関係を持つ「門徒衆武士」は全て応じた様に記録から読み取れる。

これを観た血縁の持たない関係の無い「門徒衆武士」も説得に応じて来て、救助した事が判って居る。

この「紀州討伐」では、実は「門徒衆」と裏で折衝していたのは、この「18の郷士衆」(20から2氏脱退で正式には18に変化)であった。
この「紀州討伐」の時の「青木氏」が、この時、この「郷士頭」(前田氏)との「手紙のやり取り」(他一通)をしていて、これが詳細に遺っているのである。

(注釈 「2氏脱退」は「伊賀の乱の裏切り行為」、つまり、「織田軍道案内」からであるが、脱退は青木氏として容認した。
然し、その「2氏の地権」は青木氏に戻る事から、「青木氏の娘嫁先」のその子孫を保護して続けさせた事に成っている。
この「脱退2氏の跡目」は外したが、跡目が育つまでの間4年間は不籍にして維持させた事に成っている。
この「離反行為の2氏」には、「娘嫁関係」が暫く途絶えていて不満があった事が記されている。
昔は「郷士頭」も務めた家筋であったが、「地権」も小さく成り織田側に付いて「一挙逆転」を狙った事に成っている。)

この時、要するに、”「門徒衆組織」”を影で収めたのは、この”「18の郷士衆組織」”なのである。
実は、ここで、前段の補足として、論じて置く事が在って、それは「二つの青木氏」の”「御師制度」”である。

この「青木氏に関わる職能集団」の「御師制度」には、次ぎの「二つの組織」があった。
A 青木氏の内部に持つ職能集団−「内御師制度」
B 青木氏の外部に持つ職能集団−「外御師制度」

実は、全青木氏は、この二つの制度で構成されていたのである。今までは主に「内御師制度」の中味に付いて論じていたが、「外御師制度」もあったのである。
前段で、「青木氏の総陣容」は、「88700人」としてその規模を数値にして見て論じて来たが、これには、「外御師制度」を加えての論では無かった。
何故、論じなかったのかと云うと、下記で論じるが「外御師制度」は、この”「20の郷士衆」”に「差配」を委ねていた事による為で「別枠の論」として敢えてここで論じる。
「娘嫁先」と「地権」と「郷士頭」と「職能」と「民の集団」と云う「特別の論点」が別にあった事から、外の関係性が強く影響する事から、論が複雑に成る事を避けて、「郷士関係」の処で論じる事としていた。

(現実には、論じたが、モニターの方から”複雑すぎる”と云うNGが出て失敗した。”複雑”も然ること乍ら”詳細”過ぎる事もあって相当割愛した。ここから次ぎの「18の論」へと分別して随時に論じる事とする。)

さて、上記Aに付いては前々段で瑠々に論じた「神明社」などを始めとする「四家」が受け持つ”「内御師」”である。
そこで、問題なのは、このBの「外御師」の「御師制度」は何であったのかは敢えて論じなかった。

この「外御師制度」とは、実は、この「20の郷士衆」の事である。

「20の郷士衆」は上記した様に、「郷士頭」を置いて、その「20の郷士衆」の「地権の範囲」で行う仕事に従事する「民の職能集団」を差配していた。
この職能には、和紙に生産する漉職人、楮を生産する楮職人、紙製品を生産する紙職人、材木を生産する木職人、木製品を作る工職人、農製品を作る農職人等、資料から観ると、凡そ32の職人の集団から構成していた。
これらを差配するのが、要するに、地権の範囲で担当するのが「20の郷士衆」であったのである。
つまり、「20郷士衆」=「外御師」であった。
「地権の範囲」で耕作する農民も商人も含めて「民の職能集団」の「外御師」の中に全て置かれていた。

それぞれの職能には「外御師」の「御師頭」が置かれていて、その「御師頭」がこの「20郷士衆」が務めていた。
「御師頭」=「20の各郷士衆」で、この「御師頭」達を「郷士頭」が差配していたのである。

要するに、この組織は、「各職人のまとめ役」=「御師頭」=「職能集団の組合長」=「各郷士衆」 「各郷士衆の理事長」=「郷士頭」と云う構図に成っていた。

そして、この「郷士頭」は、「娘嫁先の20の郷士衆」の中で、次ぎの条件で選ばれていた様である。

最も青木氏との血縁度が高い事
最近の娘嫁の郷士の家筋である事
地権範囲と職能種を多く持つ家筋の事

以上のこの「三つの条件」に適う「郷士の家」から選ばれていた様である。

「外御師の職能種」が32程度にも及んでいた事から、「20の郷士衆」の範囲では、複数の職能を持つ家筋も起こっていた。
ここに、上記の「四事業種」の職能が加算されたのである。
この「四事業」から「職能種」は10程度は増える事に成り、1郷士は平均で2つの職能種を持つ事に成ったと観られる。

当然に、「外御師制度」を拡充して、この「20の郷士衆」で管理差配して行くことに成る。
従って、これに見合う「地権」が必要と成り、それを上記した様に、「本領安堵策」を用いて「青木氏の旧領地」が「秀吉」に依って加算加増された所以なのである。


この様に、伊勢に遺る資料から観ると、この「門徒衆」等が集まる新しい商いの組織の”「自由な商業組合」”の結成に付いては、この「18の郷士衆」と「青木氏」を中心に連携を採っていた事に成る。
この「門徒衆」などで構成された「自由な商業組合」は、「20の四家」(内御師制度)と「20の郷士衆」(外御師制度)に依って支えられ続けたのである。
故に、明治期 大正期に成っても遺ったのである。

「伊勢商人」の中に「新しい商業組合」が構築され、その下にこれらの「青木氏」が始めた”「四事業」”を専門に扱う”「射和商人」”を専門に育てたのである。
要するに、「計画(四家)から生産(郷士衆)そして販売(門徒衆)までの組織」を一連にして確立したのである。

「門徒衆」の多い「南紀州」には、「紙文化と云われる室町文化」と相まって、「北紀州地域の紙製品の殖産化」で、「紙文化」が一挙に進んだ事から「和紙の原料」と成る「南紀州での楮の増産」をも大いに進んだ事が記載されていて、我家の口伝にも伝わっている。

(参考 筆者幼少の頃、父に連れられて、南紀州の「和紙楮殖産」を営む「門徒衆の伊藤分家」に長く滞在宿泊した事があり、その生活雰囲気は今でも脳裏に蘇るし、又、「北紀州の紙製品」の「老舗の岡氏」等を始めとして、「古参門徒衆の家」や「古参郷士衆の家」の様子も、現在は代替わりで親交が途切れている「幼少期の記憶」がある。)

この為に殆どの「門徒武士」を含む「一般の民」の一揆は早期に収束した。
つまり、背後に「18の郷士衆」が存在していた事から収まりが着いたのではと考えている。
だから、盛んに”「郷士頭との手紙のやり取り」”をしていたと考えられる。
これは、取り分け、農民や民は兎も角も、「武装集団」と絡んでいる「門徒武士の説得」に苦労した事を物語る事に成る。
これには、日頃から「伊勢紀州武士」として行動する立場と絡から、「郷士衆の説得」がこの問題の解決に絶対的に必要であった事に成る。
故に、「説得」が、「彼らの矛を収める」だけでは無く、「転身」と云うところにまで突き進んだ事に動いたと云う事であろう。

「武力集団」側も、流石、この「門徒の家臣」の離反に驚いたは勿論の事、制裁をも加えられなかったのであろう。
本来なら、命に関わる離反転身である。勿論、説得する郷士側も危ない。
「門徒衆の家族」や「郷士衆の家族」も護らねばならない。
何せ相手は「プロの傭兵軍団」「忍者軍団」である。
相当に用意周到にして、”「手出し」は無いだろう”とする事を承知確認の上で、「説得」に掛かった事が記述されている。

この「制裁」に出られなかったのは、「戦域」を拡げると背後に「青木氏と18郷士衆」が持つ「伊勢シンジケート」の「同質同格の勢力」が控えていた事にあったからである。
この時、既に伊賀は滅亡し、浪人と成って各地に離散していた伊賀者は、「20の郷士衆」の手引きで、1年程度で伊賀に戻り、「伊勢シンジケート」の組織の中に加えられて保護されていたのである。
ところが、歴史では、”「離散した伊賀者」は再び集まって反抗を続けた”と成っているが、個々に集まって来たとしても、「生活の糧の補償」が無ければ、反抗など成し得ない筈である。
その「補償の裏付け」が、「20の郷士衆」が手引きして、「外御師集団の警護役」として補償としたと記録されているので、間違いは無い。

筆者は、この資料から、”「20の郷士衆」”の「郷士頭」が中心に成って下記の理由で呼び寄せたと観ている。

「青木氏の関係族」から見つかった「二つの資料」では、上記の「絡み」から「20の郷士衆」の「御師集団」に夫々組み込まれ、「職人を警護する職能」として働き、いざと云う時には、「伊勢シンジケート」の中でも働いて「糧」を得ると云う形式を採っていた模様である事が判る。
”「警護」”と云う「一つの職能集団」を、「青木氏]の中で形成していた様で、「軍」とは別の意味で、あくまでも「外御師組織」の一種の自治的な「警察機構的な組織体」を作っていたと観られる。
この「伊賀衆」等から成る”「警護職能集団」”が、「門徒衆の家族」や「郷士衆の家族」等を護っていた事が記述されいる。

「伊賀衆」を助けて保護し、その直ぐ3年後には、今度は「門徒衆救護」に出たのである。
「青木氏」が出した「郷士頭」の手紙の中には、「門徒衆救護」の為に、早急な手配方を「郷士頭」に依頼している事も書き込まれている。
如何に緊迫した中で、行われていたかが判る。

「郷士頭」は、「伊賀衆」と「門徒衆」と立て続けに救護したのであるから、如何に大変な仕事であったかは判る。
「伊賀衆」は、同じ助けられた者として「門徒衆救護」には大いに力を発揮したと観られる。
その意味でも、「武力集団側」は当然に知っている事であるので、”「伊賀衆」が背後にある事の「危険性」を大きく感じていた”と考えられる。
むしろ、”逆にゲリラ戦を仕掛けられる恐怖があった”と観られる。
その「伊賀者の底力」には、「背後の青木氏」が観えているのである。
「青木氏の経済力」は前段でも論じた通りで衆知であった。
「他の勢力族」とは、体質的に異なる当時としては「異質の絶大な勢力」であったからこそ、「武装集団側」には余計に警戒されたと観られる。
警戒しない方がおかしい事に成る。

この様に強力に動く「20の郷士衆」が、構成する「外御師」のこの「郷士頭の存在」は、「青木氏」の「外のまとめ役」として無くてはならないものであった事が判る。
「二足の草鞋策を採る青木氏」は、「外の事」は、この「20の郷士衆」の”「郷士頭」”に「伝言一つ」で済むと云う関係にあった事が判る。
最早、「20の郷士衆」=「青木氏四家」であった。


話しを戻して。
「秀吉」は、この「一連の統治組織」の中での事を観て、この「青木氏に対する信望」を更に高めたと考えられる。

「室町期の戦乱」の中で、「武力集団」の「大名や豪族」の上に立つ”「三つの発祥源」”であるなら、本来なら「武の威力」を「優先する立場」にあり、それを率先してでも祖の立場を護った筈である。
然し乍ら、「武」の上位に立ち、「武」を持ちながらも、「武」を使わない稀有な「高い統治組織の青木氏の存在」を改めて知った「秀吉」は、この「秀吉の青木氏発祥」へと突き進む「決定的要因」となったと観られる。

この事も含めて、後に「秀吉」に依る「旧領地の本領安堵」の決定要因とも成ったと観られる。
多くの「旧領の本領」を安堵しても、「武」に依らない高い「統治能力」を有する「青木氏」であれば、問題は無く、むしろ、「紀州伊勢域」により「大きな地権」を与えて「地域の繁栄」に貢献させるべきと考えた筈である。
然し、敢えて「旧領の範囲での本領安堵」だけを受けたのである。
仮に、「旧領地外に地権」を得たとして、その得た「地権」を前提として「事業」を拡大しても、それに伴う「より良い組織」と「統括統治能力」が育成しなければ、結局はこれを護ろうとして無理に「武」に頼る結果と成り得る。
これでは「青木氏氏是」に反する繁栄と成り得る。
「氏是の諭し」に従うは、序に記している「氏是」が求める”「抑止力」にあるとする考え方”にあったからである。

実際に、資料から観ると、摂津西域、近江一部、名張西域、伊賀北域、南紀西域に、旧領地外の新規領地の安堵の話があった事が読み取れる。
この「5地域」は、「旧領地のほぼ隣接地域」であるが、然し、現実は受けていない。
何故なのかは、確定した理由は判らないが、次ぎの事では無かったかと考えられる。

(イ) 「氏是」を護り「旧領地外の地権」を受ける意志が無かった事。
(ロ) 「20の郷士衆」の外域と成る事から避けた事。
(ハ) 「秀吉の思惑」が「旧領地から離れた隣接域(伊勢大和紀州の全域 約1.5倍/旧領地)」にも事業を拡大させて繁栄を図る事にあった事。

以上にあるとして、内々に断ったとする見方が出来る。

何れにしても、(ハ)を受けたとしても、(ロ)が届かない事に成ると、「新規の家人」を新たに差し向けねばなら無く成り、「内御師」の中で運営と成る。
結局、これは「外御師制度」では難しく成り、組織運営に無理と混乱が伴う事が、(イ)の氏是に関わって仕舞う。
「保守的な思考」が左右したのであろう。
「商記録の青木氏年譜」に、”1582年末に「伊勢安堵」”。”1584年の「伊勢解決」”。等の記述がある事から観ると、この結論は「青木氏」と「全関係者」で「伊勢の福家」で話し合った結果であろうと思われる。
その結果を観ると、”更に拡大させる「意志」”と云うよりは、”旧領安堵以上の「欲」”が無かった事に成る。
「難しい判断」であったと観られる。

”何故、「欲」が無かったのか”と云う素朴な疑問が浮かぶ。
その事で調べたのが、この加増される「地権範囲」が、3倍も4倍も拡大するのには確かに抵抗と成る。当然に「無理と混乱」が伴うし、「旧領地外」の加増される「地権の領民」との間には共有する「歴史と伝統」は無い。
その地権が「約1.5倍/旧領地 の地権が増える」は、筆者の感覚では、「無理と混乱」の「許容の範囲」であると考えられる。
その「旧領地外の加増地権」の範囲は、「隣接域」に相当し、「飛び地領]でも無い。
”「欲が無い」”は、「青木氏」「家人頭」「内御師衆」のみならず「20の郷士衆」や「外御師衆」や「職人衆」や「シンジケート頭」や「神明社権禰宜頭」にも無かった事に成る。
この「多くの関係衆」に執って、果たして「地権がより広まる」は、「生活が高まるの条件」なのかにある。
「衆合しての話し合い」は、結局は、「共通する議題」は、必然的に「地権拡大」=「生活向上」に関わる事に成るだろう。
と云う事は、取り分けこの談合は「二つの立場」に判れる。
「青木氏」や「内御師衆」や「20郷士衆」の立場と、「外御師衆」や「職人衆」の「長」の立場に成る。
この「二つの立場」が集まったのであるから、この「二つの立場の考え方」が、”それ以上の飛躍した生活を望まなかったまでに豊かであった”と云う事にも成る。
つまり、議論の末は、「地権拡大=生活向上」と云う結論に至らなかった事に成る。

「旧領地までの拡大」は、”妥当な豊かさである”として否定せずに、必要以上の欲を出さなかった事に成る。
「旧領地」は、共に1000年以上に生きて来た伝統を遺して来た土地でもあり、当然に否定する者は居ないであろう。
「旧領地」には、夫々立場で例外の無く「縁者や親籍の一族」が、帰属を希望して200年以上も我慢をして来て、これを否定する者はいない。
その「旧領地」には、「新たな四事業」が敷かれて、”「近隣の門徒衆」と共に、「旧領地の親族の生活」が潤うのであれば、充分だ”とする考えが支配したのであろう事が判る。
これは”「欲」が無い”と云うよりは、”「親族の帰属」への満足” 即ち「一族愛」であった。

その証拠と成ることが一つある。
それは、「四事業」の一つ未知の「早場米の開発」(早稲光)にある。
仮に、「旧領地の地権」が回復しても、そこには「青木氏地権全域」に及ぼす「豊かさ」を保つには「主食料の確保」(米の増産)を成し得なければならない必須の条件である。
それは、新たに必要と成る「門徒衆の食糧分」と、事業拡大に伴う他の地域からの「新たな人員の確保分」も賄ねばならない。
其の侭では、絶対量は不足する。互いに分けあえば苦しく成るは必定である。然し、「地権範囲」は限定されている。
と成れば、「二毛作が可能な稲の開発」と云う「未知の難題」に「衆議の議論」は陥ったと観られる。
そこで、宗家の「青木氏福家の責任」として、「和紙殖産」から未経験のこの開発に取り組んだのである。
現在の様な「農業試験所」がある訳でも無く、当時としては発想そのものが特異であったし、その様な経験者も無かった。
「稲の開発」だけでは済まない。「気候や土壌の解明」など全て「未知の世界」である。「青木氏」だけが未知である訳では無い。日本全国未知なのである。
況して、「戦乱期の中での開発」である。
「並外れた気力」と「莫大な財力」が無ければ成し得ない。
「青木氏の衆議」は、この「厳しい未知の選択」を選んだのである。

「旧領地外の地権拡大」は、「旧領地」と異なり、更にこの問題が伴う事に成り、その意味でも議題は進まなかったのであろう。
そもそも、「1000年の歴史と伝統」を共にしなかった人を動かす自由度が異なる。
「成功裏の裏付け」は取れないし、「独立性癖の強い風土癖」も重なって「反発」も覚悟をしなければ成らない。
「衆議の議論」が紛糾したと観られる。
「旧領地外の地権拡大」には、この「未知の難題」に議論が傾いたと云う事は、”「欲」が無い”では無く、”「余裕」が無い”と衆議は決まった事に成る。
それよりは、この”「早場米の開発」”に衆議が決まった事は、”「親族の帰属への満足」「一族愛」を優先するべき”と決まった事にも成る。
「青木氏福家の責任」を果たす「最大の課題」で「未知の難題」であったことが、「光三郎の家の資料」からも発見されているし、「青木氏の最大の誉れ」としての口伝が伝わっている。


さて、この様な経緯の中で、多くの「門徒衆」を救ったが、この「青木氏の誘い」に乗らなかった勢力がいた。
これが、「武装勢力」の「指導者衆」であった。

然し、唯、雑賀氏と根来氏と畠山氏の「国衆」の「武力集団」だけは完全には解決しなかった。
この領域の問題は、「青木氏」には無関係であった事から、この「武力集団」だけが浮き上がった形に成った。

然し、この配下にあった「門徒衆の家臣」等の多くは、「武力集団との争い」から身を引いたのである。
勇気の要った事であったと観られ、この浪人と成った「門徒衆の家臣集団」を「上記の四事業」へと導いたのである。
そして、独立させて「専属の商人」(射和商人)として教育して「店」を持たせたのである。

従って、「秀吉」は、この不満の異なる一揆では無い「武力の反抗集団」に対しては、あくまでも”「戦い」”で臨んだ。
その事があって「殲滅作戦の方針」で「根絶やし」を図った為に2年程度かかったのである。
結果は下記の状況で完全解決と成った。

「青木氏の勧誘」に乗らなかった全ての人々は、家臣を無くし、遂には窮地に陥り、内部で勢力争いが起った。
最後には「根来寺」に全て逃げ込んだのである。
そこでも依然と抵抗を緩めなかったのである。
そこで、「秀吉」は、この「根来寺」に対して民衆を解放する様に再三要求したが抵抗を緩めなかった。
挙句は、民衆を楯に立て籠ったのである。
結局、秀吉に依る「根来攻め」が起こり、歴史に遺る「殲滅作戦」が展開され、「反抗勢力」は紀州から完全に霧消した。

結局は、この「殲滅作戦」を観て恐れを成した高野山の「真言宗騒動」だけは、一時「浮き彫り」には成ったが、これを期に矛を収めた。


「豊臣政権樹立後」に「伊勢青木氏」に対して、「旧来の伊勢の土地」に加え追加の本領安堵された。
この地域の全て、奈良期に朝廷の命で半国割譲した土地柄である。日本書紀にも記述がある地域である。


「伊賀一部」
「南紀州の遠祖地」 
「北紀州一部」
「名張域一部」
「摂津堺地区一部」
「伊勢北部地域一部」

以上等が旧領地の本領安堵された地域で上記の「四事業地域」に匹敵する。

恐らくは、これは、「秀吉」が、上記の解決の発端は「青木氏」にあるとして、「二つの青木氏」に対して「特段の恩義」を感じて、「南紀州域」は、勿論の事として、「伊勢域」を始めとして「北紀州全域」の「門徒衆の不満」を更に解消する為に、「伊勢青木氏」を政治的に保護した。
「伊勢青木氏」に依って民衆に「職」を与えさせて、その「経済的安定」を図らせる為の素地を確定させる為にも、「秀吉からの旧来地の本領安堵策」であった事が書かれている。

「会合衆」から更に発展した日本で最初の「伊勢の自由な商業組合」は、上記したこの「四事業の経緯」からより、”自由さを持つ商業組合”と成って、この「自由商業組合」が発展したのである。
これが、象徴する”「射和商人」”と呼ばれるものである。

この為に、「秀吉」は、”「民の門徒騒ぎ」は「一切不問」”として、この「事業の推進」を政治的に図った事が「青木氏の資料」に書かれている。
前段でも論じたが、「徳川氏」もこの「本領安堵策」を踏襲した為に「伊勢商人」と「射和商人」は江戸末期まで遺ったのである。
(「徳川氏との談合」は、「500社に及ぶ神明社」と「その領地の返却」で決着した。)


「備中廻船」では、その結果、「高松攻め」では、「資材調達」を一手に引き受けた事が判る。
「二つの顔」を持つ「青木氏」は、「秀吉」に執っては、戦略上、極めて都合が良かったと観られる。
「紀州討伐」では、その[反乱の根本」に成っていた「門徒衆の説得」で事態が大きく進展した事で、個人的にも相当に意気投合していたと観られる。
「人たらしの秀吉」ならではの事である。
”「出自誇張」の腹積もり”は、これをきっかけに「秀吉本気モード」に成ったのはこの時期(「紀州討伐」「備中廻船」「信長面談」)からであろう。
「第二次長嶋の戦い」後には、未だ無かったが、この直後あたりから意識し出した感じがする。

そもそも、この為に瀬戸内海と中国道での「毛利氏による補給路断絶作戦」の動きが在った。
「商記録」(1581年に「摂津会合」。松阪記)によると、「神明社の御師組織」から「摂津の店」が、「毛利氏の動き」としてこの「重要情報(商情報)」を既に把握していた模様である。
この「事前情報」は「摂津水軍」と「伊勢水軍」にも伝えられていた様で、この為に、「補給の商い」を受けた時に、「摂津の店」で関係者が集まって「事前協議」していた事に成る。
「秀吉軍の補給」も然ること乍ら、瀬戸内が混乱する中で「商の運搬」も含めて「二つの水軍」が「海路の確保」の為に「抑え込み」に入っていたと観られる。
名目は「青木氏の商船保護」の「誇示行動」であったらしい。
この商記録の”「廻船」”の「言葉の意味合い」は、意味が深くこの事から来ていると観られる。
(「商記録」の「細かい取引内容」を更に詳細に分析すれば、よりはっきりとした「行動の答え」が出て来ると観られる。)

「秀吉」に執っては歴史上、「毛利進出」は「最大の命題」で「信長の督促」があった状況下で焦っていた。
然し、「高松攻め」に付いて「秀吉」に執っては、最大の課題は「軍事力」では無かった。
その危険で弱点であったのは、「中国域の毛利勢」に依る「補給路の断絶作戦」であった。
この「命題の補給」を「請け負える豪商」はそうは無い。

その為には、「秀吉」のみならず補給の「豪商」自らも「毛利に対抗できる抑止力」を持ち得ていなければならない。
又、敵対する「毛利氏」も”「伊勢青木氏と紙屋長兵衛」”を知り得ていなければ「抑止力の効果」は低い。
と成れば、「摂津や堺にも大店」と「海のシンジケート」と「陸のシンジケート」を持ち、「瀬戸内の讃岐青木氏」との関係を持ち得ていなければならない。
そうすると、「秀吉の弱点の補給路の弱み」を狙っている周囲勢力を押えられるのは「伊勢青木氏」しかない。
「毛利氏」が「紙屋長兵衛の実態」を知る得るには、取り分け「讃岐青木氏の存在」が大きく影響した。

何故ならば、「毛利氏」は強力な「瀬戸内水軍(「平家水軍」からの「陶水軍」を元にした「毛利水軍」、後の「村上水軍」)を保有している。
この事から、「毛利氏」は「讃岐水軍」(讃岐)も「伊勢水軍」(伊勢 摂津水軍)も古い歴史を持つ水軍である事から、「存在]は勿論の事、その「勢力や位置関係」は充分に承知していた。
この事からも、「伊勢青木氏、紙屋長兵衛、伊勢シンジケートの存在と実力」も充分に承知していたと考えられる。
この「二つの青木氏の水軍」がタッグを組まれる事は毛利水軍には辛い事に成る。
何故ならば、過去に一度戦っている様に、下記の「義経の敗戦の経験」を持っているからだ。

この「毛利勢を抑え込む目的」で、「戦略上の安全」から”摂津港から海送した”と記されている。
上記した様に、「瀬戸内の示威行動に依る事前準備」が働いたと考えられる。
この事は、「伊勢」からでは無く、瀬戸内海の「摂津」から出る事で、「毛利側」に敢えて「補給船団」の「出船」を知らしめる事で牽制する目的があった事に成る。
そして、「補給」が順調に出来ている事を認識させて、”「毛利の戦意」を低下させる狙い”があったと考えられる。

仮に、この「補給」を止めようすると、「讃岐青木氏」と「伊勢青木氏」を敵に廻す事に成り、結果として全国にその子孫を拡げ展開している「藤原秀郷軍団」を呼び込んで仕舞う事に成る。
これは、結果としては戦域が広まる事から「高松攻め」は成功させる事に成る。
従って、「毛利側」には「戦域拡大」は絶対に得策では無かった。

従って、この事を意味する事として、「毛利氏側」は「和解条件」として、安国恵瓊が「五国割譲案」を提示した位である。
「戦域拡大」は戦域拡大は絶対不利と考えていての和解条件であり、出来なかった。

その為には、「伊勢水軍の護衛船団」(摂津水軍は同族で弱小の商船団)は誇張する意味でも絶対に必要であった。
これは「水軍力」のみならず「水軍の背景」を誇示しているのである。

何故ならば、そもそも、「水軍」とは、元来、「横の組織」で出来ているのだ。
つまり、「伊勢水軍」は、「駿河水軍、熊野水軍、紀伊水軍、摂津水軍」の「横の組織」で構成されている。
血縁関係も「縦横」に結んでいて、海の上での互いに護り合う「連合軍団」をも構成しているのである。

(注釈 毛利水軍の前身の平家水軍と戦った義経は、この「五水軍の軍団」を使っての「独自の水軍編成」で戦った事で勝利した。
この時、義経に反抗的に出ていた「北条氏の相模水軍」を当てにしなかった。)


(注釈 中でも「紀伊水軍」は、全国の水軍仲間からも恐れられていて、その「尖鋭さ」は有名であって、通常の水軍戦闘方式を取らない事が恐れられ、「ゲリラ戦法」であった。
この「紀伊水軍」を引き出すと他の水軍は戦力を無くすとまで恐れられていた。)

”「伊勢水軍」”を見せる事で、「背後の連合軍団」を想起させる目的があり、更には、「讃岐青木氏」が率いる海部氏等から成る「瀬戸内の讃岐水軍」をも想起しなくてはならない事に成る。
「伊勢水軍」は、当然に「伊勢青木氏」を想起しているから、先ず「毛利側の補給路攻撃」は控えて来る。

そして、この「備中の戦い」の時、「伊勢水軍のシンジケート」が「船団の護衛団」として動いた事が書かれている。
当然に「讃岐青木氏との談合」も読み取れる。
恐らくは、これでは「毛利軍の得意とする瀬戸内水軍」の「海からの戦略」は容易に手が出せなかったと観られる。

話題性があって「高松城水攻め」に現在は焦点が当たっているが、現実の作戦上の問題は「秀吉の背後」は弱かったのである。
「裏切り」が起これば、「秀吉軍]は陸に於いても「内部崩壊」を起こす。
それは、取り分け、「秀吉軍2万の軍勢」に物資補給するには、「陸路」は「背後の政情不安と勢力」から危険であった。
一応は敵か味方か判らない「宇喜多氏」は「戦況形成上」では抑えた形で「1万の軍勢」を動かす事に成ってはいたが、何時裏切りが起こるかは判らなかった状況にあった。
「陸路補給」を採っていたとしたら「秀吉軍弱点」を見せた事に成って、「秀吉軍弱点」を突けば勝てるとして「裏切り」は起こったと考えられる。


そこで、「独自の水軍」を持たない「秀吉軍」(織田軍)は、「毛利軍」が抑える瀬戸内での「水路による補給路確保」が「最大の弱点」であった。
この「弱点」を悟られると、各地で「裏切り」が起こり、「東の背後補給路」を断たれて、それこそ「水攻め」どころか、逆に「枯渇攻め」(兵糧攻め)で滅亡する。

現に、この「高松攻め」の前には、秀吉は「枯渇攻めの鳥取城」「日干し攻めで三木城」で勝利して西に進軍したのである。
そこで、戦略上、この”「補給路の弱点」が無い”と云うところを敢えて絶対的に誇示する必要があった。
それは「水路の安全確保」であった。
ところが、逆に「毛利氏」は「瀬戸内水路の西半分」を押えて得意とする戦法でもあった。
そこで。本来なら、水軍を味方に付けて、軍略上のバランスを採って、誇示する必要に迫られていた。
然し、「毛利水軍」に対抗できる味方に出来る水軍は「秀吉」には無かった。
従って、最低限でもこの”「水路の補給路」”だけでも「毛利水軍に対抗できる勢力」を味方に付けて「物資輸送路の確保」をする絶対的な必要に迫られていた。
「秀吉」に執っては、軍略以上に余計に誇示する必要に迫られていたのである。
そんな「商人」がどこに居るのかである。
”そんな「商人」”が居たのである。「秀吉」の「紀州討伐の経験の記憶」の中にいたのである。
それが、「伊勢の青木氏」であった。
絶対的に上記の「紙屋長兵衛と讃岐青木氏」の「速やかな協力」を得る事に在ったのである。

筆者は、「信長面談」には、この「問題の解決」には「秀吉」に執っては「信長の前での談合」もあったと考えている。
その為に、事前に「紙屋長兵衛 伊勢青木氏」の協力を得る必要があるが、「伊勢の問題」を早期に解決しなくては到底に協力は得られない。
つまり、督促されている「高松攻め」は無し得ないというジレンマに陥ち至ってい事に成る。

それは、少なくとも、「紙屋長兵衛」と「信定と忠元の伊勢青木氏」とその「配下の郷士衆」に”不必要な危害”を加えない様に進言しなくてはならない状況に陥ち至っていたのである。
(「水路の補給路確保」のみならず、上記した様に「戦略上の水軍」の「示威行動」にも成り得る特典があった。)
1581年の「紀州征伐の恩義」や、この「補給路の事」にも成功して、恩に感じた「秀吉」は、自ら進んで”知古に成った”のではないかと考えられる。
これが、最終的には「信長面談」に繋がって行ったと観ている。

「青木氏」が求める「悠久の時代」に戻す”「伊勢平穏」”を助け、「秀吉を助ける事」は、「信長」には絶対に不足は無かった筈である。

然し、独自行動を採る「伊勢衆」(伊賀氏、伊藤氏、長嶋氏、畠山氏等)までの話は出来なかった筈である。

この「信長面談」が「1581年の高松攻め」の直前である。
この準備も兼ねて、先ず「長兵衛と談合」し、「氏郷と談合」をし、その結果から、「信長面談の運び」と成ったと観ている。
「話された議題」は上記の通りである筈である。

そもそも、「秀吉の青木氏」に付いては、正式には「本能寺の変」後の「伊勢国と紀伊の国の始末後」から正式に出て来た問題であった。
「1581年の佳境である時期」に「武田氏を滅ぼした後の信長」に会わせるのであるとすると、次ぎの様に成るだろう。

「秀吉の遠縁仕立て」の「人物(1)」では、「人物(2)」の「信定」ではあるが、其れと判る様に敢えて伏せて、「佳境の意味合い」を悟らせる様に工作した。
そして、「秀吉配慮」の「ゲリラ戦の長期化の伊勢」の「事態収拾」を信長に間接的に促した。


第2説の直接に「伊勢の青木氏」として「人物(2)」で会した。
とすると、何かの面会の理由が必要である。
それも、”穏便に”である。

(上記に論じた事を複写)
”1581年の末当初に「秀吉の紹介」で、「一名の青木氏」なる者が、「信長」に面会している。”

この場合は、直接面会の議題の「ゲリラ戦の長期化の伊勢」の「事態収拾」に行き成り入る事に成る。
この場合、「秀吉の行為」は「信長」に対して”烏滸がましい事”に成る。
この時期、通説でも判る様に「信長の精神」は過敏に成っていた。
これを和らげる何かの”「表向きの議題」”が秀吉には必要であった。
況して、「高松攻めの遅れ」もあった。
簡単には行かない。それでも面会は断行されたのである。

上記の様に、裏には思っていても、決して表には出せない「高松攻め問題」もあり、「伊勢の問題の絡み」だけでは無く、”それなりの絶対的な理由”が必要であった筈である。
そこで、「信長」が1568年に美濃や近江に「楽市楽座の令」を発している事に「秀吉」は着目していた。
「信長」は、「形や慣習」に捉われずに「新しい形の経済改革」等に積極的考え方を持っていた事を考え合わせた。
従って、「伊勢」にも「伊勢平定後」には、「楽市楽座の令」を発する為にも、”「ゲリラ戦の長期化の伊勢」に付いて、早期に「事態収拾」を成さしめ、「混乱の後」を豪商「伊勢青木氏」を以って遣らしめる事”を提案したのではないかと考えられる。
この事で、「伊勢青木氏」を混乱から解放させて、「高松攻めの戦略」に巻き込む事が出来ると考え、その事を「敏い信長」に「悟らせる戦法」を採ったのである。

「青木氏の資料」と「公的に成っている記録」から総合的に「状況判断」すると、”青木氏に委ねた”と考えられる。
当然に、悠久の「歴史を持つ伊勢での立場」や旧来からの「郷士」や「伊勢衆」を束ねている事や、「二足の草鞋策」から生まれるその「巨万の富の経済力」を基にして、納めさせれば「不入不倫」で保護されていた「旧来の環境」に戻す事が出来ると見込んでの談合である。

これは「信長」に執っても「反意のない話」であるし、充分に説得できる「表向きの議題」が出来るし、「関連付けられる議題」でもあった。
平定後に「徹底した殲滅作戦」を行った「北畠」「伊賀」「長嶋」「伊勢」「紀州」「雑賀」「畠山」「根来」である。
何れが正しいか悪いかは別として、「皆殺しの殲滅作戦」には、伊勢と紀州には「敵意」を抱いていた事は間違いは無い。
抱くなと云う方が無理であろう。
従って、”武力では無い誰か”を以って安定させて居なければ、又、「一揆や反乱」でも起こる事は避けられない。
これは、後の統一戦略の「九州討伐」を控えて背後が好ましくない。

「青木氏」と共に「20の郷士衆」を中心に、救出した「門徒衆」「伊賀衆」と共に、「武力集団であった末裔」を「和」を以って接し、「生活の糧」を補償させる事で、「乱世での空しい敵意」は次第に霧消に向かうであろう。
「一族の氏郷」と「秀吉と信長」は考えたのである。
この為に、「秀吉」のみならず「本領安堵」は、推測の域を超えないが、「信長」も”「伊勢収拾」後には”と考えていたのではないかと観られる。

「信長」は「秀吉の案」に全く反意無く完全に同意したと観られる。
その証拠に、現実に、「伊勢平定」の直後に「秀吉と氏郷」は、松阪に「城郭」を創り、「ヨーロッパ式の商業都市」を構築した。

(皇祖神の神聖な地を護る為に「城郭」等は禁令で有ったが、敢えて「西洋式の城郭」を創建した。)

これは、その時の結果を如実に反映させた事に外ならない。

前段で論じた様に、「青木氏」は「約束通り」に新しく出来た「侍屋敷町(殿町)」の三区画を特別に譲り受けた。
そして、ここにそれまでの「座」では無く、日本で初めて「解放された自由な商業組合」を構築したのである。
(現在でもその組合であった「四日市商人」や「射和商人」として遺っている。)

この「伊勢の後の始末」から鑑みても、明らかに「楽市楽座の令」を議題に、”「ゲリラ戦の長期化の伊勢」の「事態収拾」”を信長に暗示させたと考えられる。

そこで、「経緯の網羅」は出来たが、次ぎは「青木氏」に執っては、後勘から、この時の「面談に応じた人物」を確定しておかねばならない。

第1説も「信定」であり、第2説も「信定」ではあるが、間接的か直接的かの何れかである。
確定は出来ないが、「平定後の伊勢の状況」から鑑みると、筆者は第2説の「人物(2)」の「信定」と談合したと考えている。
然し、下記の点から第1説の間接的に”「人物(1)」の信定”で面談した可能性が高い。

そこで、この談合が成立すれば、当然に、この第1説も第2説も「人物(3)」の「忠元」に繋げねば何もならない事には成る。
然し、この時は、「秀吉」は、「信定」だけを呼んだのであった。

そもそも、一挙に解決させたいのであれば、両方で会せるのが先ずは”「常道の戦略」”と云うものでは無いか。
況して、「北畠氏の後始末」より当面は「伊賀の始末問題」と「長嶋の当面問題」に移っている。
1581年末と成れば、「伊賀の始末問題」と「長嶋の当面問題」の二つを解決させるには、どちらかと云うと、「人物(3)」の「忠元」である筈であった。
然し、「秀吉の判断」は全く違った。”「信定」”を面談の相手として指定した。
恐らくは、これは「伊勢の乱の責任者」の「氏郷との談合」の末である事は間違いは無い。
とすると、「氏郷」も「秀吉」と同じ判断をしていた事を物語る事に成る。
「常套手段」では無くて、”「何か」”があってこの判断に落ち着いたと云う事である。

では、その”「何か」”とは、この「何か」を解く必要がある。
その「解明の糸口」は「人物(1)」の「信定」であれば解ける。
それは、”「伊賀と長嶋を解決する」”と云う事だけでは無く、”「伊勢全体を解決する」”と云う事に焦点が最早移っていたのであろう。
”「伊賀と長嶋を解決する」”と云う事に成れば、その「伊賀長嶋の解決」の「責任者」は「氏郷」である。
とすると、「秀吉」では無く、「氏郷」がお膳立てしなくてはならない問題で在る。
「秀吉]が出て来る問題では決して無い。

況して、”「伊賀長嶋の解決の問題」”を「信長」に直接に「氏郷」が訴える事は、「責任逃避」と成って「信長の叱責」を受ける事にも成りかねない事は明らかである。
最早、既に、「伊賀散発の騒動」は解決に至るは必定で、「長嶋問題」も第三次で解決する方向に戦略は出来ている。
敢えて、騒ぎ立てる事は好ましくない。まして、「秀吉」がである。
その上で、「伊勢をどの様にするかの議題」として面談する事に成ったと考えられる。
それ以外には唯一つを除いて無い。その唯一つは何かである。

唯、この為には、「伊賀散発の抵抗」と「長嶋の後始末」は、何れも一族の長の「忠元に責任」がある。
その為には、「信定」で先ず「伊勢全体の有り様」を討議した上で、この時に、細部に「伊賀と長嶋の最終始末問題」には、「忠元」との面談も必要であった事から後日に必ずセットする面談と成り得る。
そうで無ければ、この「面談の目的」は達成され得ない。
その証拠に、「細部の始末問題」として”「紀州討伐」”をも計画されていたのである。

故に、1581年末の面談は「信定」で「人物(1)」としてお膳立てされたのである。
つまりは、「唯一の何か」は、「人物(1)」は、”「伊勢紙屋長兵衛」と「青木信定」”であった事に成る。
故に、「人物(2)」の「青木信定」では無かった。
それでなくてはこの面談は成立しないし、「信長」から”要領が得ない”として大叱責を受ける事に成るだろう。

「青木氏の年譜」にも、「信長との面談前後」に「伊勢衆」が集まって数度に談合している事からも判る。
「事前打ち合わせ」と「事後の報告」であった事に成る。


その要領の一つとして、「秀吉」がお膳立て手配した「信長との談合」の中では、「忠元との談合」は必ずセットされる要領事には成るだろう。
「秀吉の高松攻め」の「裏の目的」からすると、「忠元」は秀吉には関係が薄い事に成る。
然し、「信定」を「高松攻め」に引き出すには、「伊勢安定」が必要と成れば、必須条件で、当事者の「忠元」とも合わせて「伊勢収拾」に向けての談合を「信長」ともセットして置く必要がある。
”付帯する必須の条件”としてあった。
これを”誰がお膳立てしたか”の調査では確定する資料が出ないが、「青木氏の商記録による年譜」からは、「秀吉」がお膳立て手配した「信長との談合」の時に、「伊勢収拾策」の「必須条件」として決まった事と観られる。
「秀吉」や「信定」や「氏郷」等が、この話が上手く行けばと、”「事前腹積もり」”はしていた事と考えられる。
と云う事は、この「忠元との面談」の「話を出せる環境」とは、”「聡明な信長」が「秀吉提案の伊勢収拾策」を暗に納得して居た環境”であった事を示す事と成る。

その証拠は次ぎの事であきらかである。
「人物(3)」の「忠元との面談」は、間違いなく下記の通りに実行されている。

それも”4度”もである。
この”4度と云う回数”に重要な事態を物語る意味を持っている。
「聡明な信長」は、「秀吉お膳立て手配の談合」の「裏の暗示の意味」を完璧に理解して居た事を意味する。
前段でも論じたが、後勘から観れば、その「面談のタイミング」が戦略上、適示適切で申し分ない。
更に云えば、「面談場所」も戦況から観ても実に効果的であり申し分ない。
「信長」は、「秀吉の暗示」で動いた事は動いたが、明らかに本気である。
その「信長本気」が、「高松攻め」でなのか「伊勢収拾策」でなのかは、「高松攻め」の前に「光秀謀反」で判ら無く成っているが、「信長」が「青木氏等に採った平穏な伊勢状況」から観て、「伊勢収拾に主眼」にあったと考えられる。
”「伊勢収拾策」”を確定して押える事で、”「高松攻め」”は「青木氏」に依って「水路補給」が可能に成れば勝負は決まったものであり、「流れ」の中で解決する。
つまり、「九州討伐」に向けて”背後を安定させる事”に「主戦略」があったと観られる。
「高松攻め」は、その「経過の戦い」であって、「主戦」では無い。
この「高松攻め」を取りあえず収めて置けば、「毛利勢」と「日和見勢」は時間の問題で収まりが着く。

「讃岐青木氏」と「伊勢青木氏」で「瀬戸内の制海権」を、「織田軍」が「中国地方の2/3の覇権」を押えた事に成り、「九州討伐への道筋」は着く。
「讃岐青木氏」の「水陸の勢力」とその「商いの経済力」と、「伊勢青木氏」の「水軍力とシンジケート抑止力」と「商いの経済力」とは、「秀吉」のみならず「信長」には「魅力」であった筈である。
「味方」でも無いし、「合力」でも無い勢力の存在が、”勢力範疇”にある事に、「信長の考え方」と合致したと観られる。
それは、「信長の楽市楽座の令」の「考え方」が「伊勢収拾策」の全てを証明する。
この”「面談 4度」”は全てを物語っているのである。

「人物(3)」の「忠元」は、前段でも論じた様に、「信長との面談」は次ぎの通りであった。
「伊賀の乱」の第一次と第二次の途中の2期  (第一次は氏郷か、第二次は秀吉か 「忠元の信長面談 1」 )
「敗残兵の散発乱」の末期             (第三次は、「忠元の信長面談 2」 1581年)
以上の2度が先ずセットされた。

「伊勢長嶋収束直前」の時の2度         (「忠元の氏郷面談 3」 1581年−「忠元の信長面談 4」 1582年) 

下記に記載しているが、この期間の商記録の「青木氏年譜」から観ると、この時の状況が次ぎの様に読み取れる。

1581年に「摂津会合」。 「瀬戸内海路確保」などの件で関係者を集めて情報交換と今後の打ち合わせをしている。
1581年に「伊勢衆合」。 「信定の信長面談」を控えて郷士衆等の関係者を集めて打ち合わをせしている。
1581年に「伊賀騒乱(ホ)」。 この時前後に「氏郷立合い」で「忠元の信長面談 3」をしている。
1581年に「員弁桑名騒動」。 岐阜に近い伊勢北域で騒ぎが、「忠元本家」の中で意見の違いか。
1581年に「紀州避難」。  「福家の信定」が一時新宮に引いている。意見集約を図る為か。
1581年に「本寺修復」。  「面談場所」の為に修復か 「菩提寺」が門徒衆等の逃げ込みで一部災禍あり。
1582年に「伊賀収束」。  この時前後に「氏郷立合い」で「忠元の信長面談 4」をしている。
1582年初に「長嶋衆合」。 この時前後に「忠元の信長面談(代理人か) 5」をしている。

(注釈 「忠元の面談」には、「公的に成っている記録」は兎も角も、「青木氏の資料」のみならず、「佐々木氏の青木氏関連資料」にも、「時期ズレ」「場所ズレ」「内容ズレ」はあるにしても詳細な記載がある。)

以上の確実には計4度に、確定できない「小面談」もあるが、兎も角は「面談の大小」は別として、公的な資料とが合致する明確なものとしては、「信長」と「岐阜の館」と「伊勢の寺」で談合している事は判っている。

「伊勢収拾の方向」に向けて進んではいるが、「面談の前後」に「信定の福家」と「忠元の本所」で、”何か騒ぎの様な事”が起こっている事が判る。
面談には「直接の信長面談」と、「信長の意を伝える氏郷との面談」と、「信長の意を代理人との面談」と、「織田事務方との面談」があった事が判る。

(注釈 前段でも論じた。「小面談」とは、”この資料は正式にではないが会っているな”と判別出来るもの。
この「小面談」には、全て「氏郷との面談」が絡んでいて、”「信長」もこの場に居たな”と想起させられるものが多い。
同じ事が、「信定の場合」もあって、美濃に近い「青木氏の伊勢北域の分寺」と、「伊勢北域の神明社」での面談があったのではと観られるものがある。
恐らくは、「氏郷」と同席して、岐阜から出かけて来た「代理の者」ではないかと観られるものを含めると、「青木氏や佐々木氏の資料」と合わせると8度に成る。
これらから観ると、「事務方」と裏で盛んに「伊勢収拾策」に向けて談合している事に成る。)

この記録は、「忠元の家の実記録資料」は見つからないので含まず、「信定が獲得した情報収集」である。
「佐々木氏の忠元の記録」は、「近江の佐々木氏系青木氏の家」から見つかった資料と観られる。
この事は、「青木氏の資料」でも「上記の面談要領説」を証明している事に成る。

これらは「信長」が「伊勢収拾策」に、”どれだけ本腰を入れていたか”が証明できるものである。

「ゲリラ戦の長期化の伊勢」の「事態収拾」を成さしめ、且つ、「混乱の後」を「豪商伊勢青木氏」を以って「伊勢平癒策」を遣らしめる事を提案したのである。
兎に角、先ずは、「楽市楽座の令」”を議題に、”「ゲリラ戦の長期化の伊勢」の「事態収拾」”を信長に暗示させたと考えられる。
その結果として、「事前打ち合わせ」の「高松攻め」の「備中廻船」が成し得ると考えて面談を実行したのである。
結果から観て、「聡い信長」であれば、「暗示の委細」を充分に承知していた事に成る。

(この後に「本能寺の変」が起こるのだが、「青木氏の後勘」から観て、「光秀の愚劣さ」を痛感する。)


「人物(1)」の「信定と長兵衛」と、「人物(3)」の「忠元」が、「信長」に会い、「今後の伊勢の事」に合意したとすれば、この「談合」は一挙に成立する事と成る。
実際、その様に成った。


この様に、「青木氏側」から観れば、「信長の評価」は、「秀吉家康と性格の違う者」との比較から「荒くれ指導者」と考えられる傾向があるが、決してそうでは無いと観られる。
「青木氏の本音部分を教える密教浄土宗」で云う”「人を観て法を説け」”で行けば、この「信長」も「普通の人」である。
「秀吉家康の時代」も同じ事で、「人を観て法を説け」の「本音の生き方」をする事で生き残れた。

一見して、「人を観て法を説く」は、差別意識があって卑怯とも思えるかも知れないが、果たしてこの「差別意識」が生きる事の真理であろうか。
青木氏は上記した様に、この「人を観て法を説く」での「本音の生き方」をしたが、むしろ、民を救い共に生きたではないか。
悠久の中で、民と共に生きなかった事は無かった。
「氏是」を護り、「家訓」を護り、「人を観て法」を説き、「民の側」に立ち助け、「本音の生き方」をしたからである。

結果として、後勘から観れば、「紆余曲折」はあったにせよ、「二つの青木氏」に執っては、全てその様な「本音の思惑」に沿って運んだ。
「室町期の混乱期」から、「秀吉−氏郷」の「安定期」を経て、「家康−頼宣−吉宗」と引き継がれて成長期に移り、「伊勢」は「元の平穏」を取り戻した。
そして、江戸中期以降はより「悠久の歴史]の中で最も発展と繁栄を更に遂げる事と成ったのである。
これは、「本音の生き方」に所以していた事に成る。
当に、「和紙と楮の殖産」は勿論の事、上記の「四事業」の事などは、この「本音の生き様」を如実に物語るものである。



この「経緯の解明」には、主に「商記録」による「青木氏年譜」の分析と関係資料の調査が、高い成果を上げた。
[前段」と合わせて、「二つの青木氏」の「本音の部分」の「室町期末期の生き様」を解明出来た。


実は、筆者は裏資料として、「商い記録」をベースとし、他の遺資料と組み合わせて、約100年間のこの伊勢に関わる関係の事柄を抜粋してまとめあげたものを「青木氏年譜」として作り上げてその年譜に込められいる「意味合い」を読み取り、それを検証して常に論文にしている。
「商い記録」をベースにしての事だけに余計な事が記載されていて、取捨選択してまとめる作業をして作ったものである。
必ず毎回100年程度に区切って偏纂しているものである。

この遺資料は「青木氏」に関係する「広域の地域」からの情報を書き印したものである。
恐らくは、「500社の神明社」や「支店」や「伊勢シンジケート」からの「情報源」で、その目的は“商いに資する事“が目的とされていて、その表現が簡略化して多少暗号化した様な書き方に成っている。
恐らくは、”観る者が観れば判る範囲の事“として、恣意的に作成し続けられて来たものであろう。
それを何とか投稿する以上は判り易くするために租借した「裏資料」である。

実は、「伊勢青木氏」には、この「商い記録」では無い「青木氏」としての”「四家の事」”を詳細に書き遺した本来の「青木氏年譜」が在った。
「青木氏由来書」と呼ばれていたが、祖父の代の明治35年の「松阪の大火」で消失した。
「松阪の青木氏菩提寺」(主寺)も消失したが、菩提寺(分寺)は玉城域と津域の二地域にあった為にある程度の資料は遺されている。
「商記録」は、店が別の地域にあった事から遺ったものである。

これ以外に、現在も残っている「伊勢衆の末裔」(20家程度)の家からも関係する手紙などの興味深い資料が時々出て来る。
残念ながら、相当に「消失の憂き目」を受けている。
筆者も、研究で関係する資料の有無が無いかを問い合わせたりしている。
本論も数度お願いをして効果を上げた。
唯、「個人情報」である事から迷惑が掛かる事と成り、理解と賛同を得て「青木氏の範囲」に留める事を約束して公表は避けている。

これらの資料等からも「青木氏年譜」を作り上げている。
下記の「青木氏年譜」には、約束を順守する事から全てが書き込まれてはいない。

「青木氏年譜」(1520年−1625年)

(注釈 「青木氏の資料」)
1525年に「丹波会向」。1532年に「摂津会合」。1536年に「南伊勢地」。1538年に「伊勢港」。
1541年に「摂津廻船」。1549年に「伊勢衆談」。1553年に「南紀衆騒」。1559年に「伊勢衆議」。
1560年に「堺廻船」。1562年に「伊勢不穏」。1563年から「南伊紀不穏」。1564年に「伊賀騒乱(イ)」。
1565年に「北畠不穏」。1569年に「北畠騒動」。1573年に「堺不穏」。1573年に「長嶋騒乱」。
1575年に「伊賀騒乱(ロ)」。1576年に「北畠混乱」。1578年に「丸山騒動」。1578年に「伊賀騒乱(ハ)」。
1578年に「紀州騒動」。1579年中頃に「堺平穏」。1579年に「伊賀騒乱(ニ)」。1579年に「名張騒動」。
1579年に「脇坂騒動」。1580年に「清蓮寺騒動」。1580年中に「伊勢紀州一揆」。1580年に「備中廻船」。
1581年に「摂津会合」。1581年に「伊勢衆合」。1581年に「伊賀騒乱(ホ)」。1581年に「員弁桑名騒動」。
1581年に「紀州避難」。1581年に「本寺修復」。1582年に「伊賀収束」。1582年初に「長嶋衆合」。
1582年に「伊勢和合」。1582年中に「松阪修復」。1582年に・「美濃騒動」。1582年末に「伊勢安堵」。
1583年に「北部談異変」。1583年に「四日市談」。1584年に「伊勢解決」。1588年に「青木混乱」。
1590年に[青木不定]。1592年に「青木騒動」。1598年に「伊勢騒乱」。1600年に「家内騒動」。
1600年に「近江騒動」。1601年に「青木安定」。 1602年に「商い盛況」。1603年に「伊勢談合」。
1605年に「松阪面談」。1606年に「伊勢談合」 1607年に「四家安定」。1612年に「合力談合」。
1614年に「伊勢衆談合」。1615年に「伊勢衆動員」。1615年に「堺摂津盛況」。1619年に「松阪会談」。
1620年に「伊勢藤氏談合」。1620年に「旧領安堵合議」。 1621年に「紀州藩方」。
1622年に「紀州藩縁籍」。・・・・・

(参考 以上の「青木氏年譜」は「研究室の論文」などを書く時に、その「内容の必要性」に応じて、「青木氏」に遺された「商資料」や」遺産諸書」から編集して使うものであり、本来は記述しない「裏資料」である。
又、「青木氏の氏是」もあり、投稿するに抵抗があるが、要約しての内容であれば容認できるのではと考えて投稿した。
「青木氏の中の事」(商いの事も含めて)として、江戸初期までの“「伝統」“としての資料を取りまとめると、この事から「外部史実」と照らし合わせれば、未だ「青木氏の多くの生き様」が蘇るが、先ずは、以上の事と次ぎの事が読み取れる。
この他にも、この「青木氏年譜」には、“他にも商業の事”が多くの事が書かれていて、本論にまとめて抜粋したが、更に、詳しく内容毎に整理してまとめると、更に「細かい生き様」が読み取れる筈である。)

(参考 今回の様に、その都度の「必要な年譜」を「・・年譜」として編集しているが、これを一つに整理すると完全な「青木氏年譜」が出来て蘇るが、整理してまとめる年数が足りない。
今後の研究課題であり、多くは「商い」から観ているので、編集するには、「青木氏」に関する「歴史観に伴った租借」がより可成りの高情報が必要である。
故意的に「代名詞」が使われず、「間接表現」であり、「現代語」では無いのも進捗の妨げに成る。
これは当時は「商い情報」の「情報源の秘匿」を護っていたと観られる。)

ただ、「外部記録資料」を全面的に使った内容は筆者は採らない。
「青木氏」から観れば、ほぼ「内容」は可成り一致するが、「人ずれ」も「時期ズレ」も「場所ずれ」も観られる。
これは殆どは、「伊勢シンジケート」からの“「事前情報」”や”「裏情報」”を得ての結果であろう。
「外部記録」よりも先に騒動が起こっていて、後も、伊勢で起こった何らかの「騒動」が完全に収束状態では無かったことも判る。
「内容のレベル」も違って、「ゲリラ戦の様相」も違っている。
「外部資料」に依っては、「ゲリラ戦」は、“遠からずとも縁筋”に当たる事も匂わせる表現をも採っている説も観られる。

(注釈 各地の「青木氏の伝統」に関する資料関係が、青木氏と娘の血縁関係も含めて関係した20程度の「郷士の家」からももっと多く見つかれば、より詳細に「青木氏の広域の生き様」が描ける。
然し、、残念ながら、「伝統」どころか、他氏と異なり多くの「習慣仕来り掟」を持っていたにも関わらず全く消えて仕舞っている状況の様に見受けられる。
各地の神明社にある資料なども探究したが、残念ながら、今は阻まれた次第であった。
然し乍ら、「射和商人」と成った「郷士の家」からの資料、四家からの娘の嫁ぎ先の親族関係と成った郷士の家からの資料、伊藤氏等の「伊勢国衆」の家からの資料等からの情報が論文作成に大きく影響した。
更に、未、「手紙」や「報告書」の形でも遺されていると観られる。)

これは、「商い」には、「事件の前後」の「雰囲気・小競り合い」からの「事前情報」が必要であって、それによって、“「商いを動かしていると云う戦略」”も在って、その事を主目として情報を獲得していたのである。
その為にも、かなり前から、“伊勢で起こった騒動”に対して「伊勢衆」で前後に“「打ち合わせ 談合」”なども頻繁にしていた事が判る。
(明治の終わり頃まで、年に2度の全ての関係する人々が大集合して親睦(運動会)を図っていた事が口伝で伝えられている。)
「商い」に大きく影響する事から、「伊勢シンジケート」や、各地の500にも上る「神明社」からの「情勢分析」の記録として情報が扱われていた事が判る。
何度と「談合」が重ねられている処から「他の伊勢衆」にもこの情報共有が行われていた事も判る。
特に、「伊賀の乱」は「青木氏」も「影の力」として「物資の供給」や「側面攻撃」や「夜間ゲリラ戦」などで合力したが、相当に「事前分析」も施され、長引いた「伊賀の乱」の収束前に紀州に一時避難などもしている。
これも「事前情報の結果」であろう。

(注釈 「青木氏の口伝」では、この100年間の間に二度に渡り「紀州新宮」に避難している。
この「伊賀の乱」後の「新宮避難」は、「基本戦略」上から事前に引いた事は判り確認できるが、もう一つの「新宮避難」が何で避難したかは判らず記録が正確に読み取れなかった。)

ただ、この時の「口伝」には「一つの逸話」が伝わっている。重要な判断要素の事に成るので次ぎの段で述べる。

「伝統―18」に続く。



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