青木氏氏 研究室
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  [No.361] Re:「青木氏の伝統 42」−「青木氏の歴史観−15」 
     投稿者:副管理人   投稿日:2018/07/31(Tue) 10:36:01

> 「青木氏の伝統 41」−「青木氏の歴史観−14日」 末尾


> 上記の「権威の話」に戻して、「武士の媒臣の末端」まで求めた「真偽は別としての偏纂」に等しい根拠ある「黒印状の発行」を求めた。
> 殆どは「系譜の搾取偏纂」である。
> つまりは、前記はこの論に入る為の説明であったが、さて、そこで次に続ける。
>
> さて、「青木氏の歴史観」を更に高める「史観」が更に他にもある。
> それは、「青木氏族の個人情報」に関わる事であり、この資料を表には出せない。
> そこで、他の「青木氏族「」もほぼ同じ経緯にある事を前提に、筆者の「伊勢青木氏」を例に以って考察してみると、上記した様な」「殖産「」に纏わる事件などには「伊賀郷士を含む伊勢郷士との絆」が「青木氏の存在」を大きく左右させていたのである。
>
> 従って、それがどの程度のものであったかをこれを「論理的な歴史観」で考察して置きたい。
>
> この「地元郷士との絆」が、どこの「青木氏族」にも働いていて、「青木氏族」のみならず「近江佐々木氏族」にも働いていた事が「近江佐々木氏の研究資料」からも解り興味深くい。
> 矢張り、「近江佐々木氏」も「氏存続の為」には「絶対条件の歴史観」としてこの点に着目していて研究されている。
>
> 余談ではあるが、興味深いのは、前段でも何度も論じているが、その「絆の関係氏」として「青木氏族」を広範に研究されている点である。
> これは「施基皇子」の弟の「川島皇子」、つまり、「近江佐々木氏の始祖」で「妾子(忍海造古娘)」であり、共に「大化期の賜姓族で臣下朝臣族」で、同じ役務など「氏存続のシステム」を共にすると云う事も「初期の段階」ではあった。
> 然し、何はともあれ、平安末期に平家に討伐されるまでは存在した「近江青木氏」と血縁した「近江佐々木氏系青木氏」が存在した。
>
> この関係から「青木氏族の詳細な研究」に至ったと考えられるが、「四掟の範囲」として「出の嫁」から「女系」でも平安期から江戸期初期まで「近江佐々木氏」や「佐々木氏系青木氏」と何度も繋がっていた事が考えられる。
> これは史実にもある。


「青木氏の伝統 42」−「青木氏の歴史観−15」
「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

上記の「権威の話」に戻して、「武士の媒臣の末端」まで求めた「真偽は別としての偏纂」に等しく根拠ある「黒印状の発行」を求めた。諡号の持たない姓族(第二姓族)は、結局は殆どは「系譜の搾取偏纂」である。
つまりは、前記はこの論に入る為の説明であったが、さて、次に続ける。

さて、「青木氏の歴史観」を更に高める「史観」が更に他にもある。
それは、「青木氏族の個人情報」に関わる事であり、この資料を表には出せない。
そこで、他の「青木氏族」もほぼ同じ経緯にある事を前提に、筆者の「伊勢青木氏」を例にして考察してみる。
そうすると、上記した様な「殖産に纏わる事件」などには「伊賀郷士を含む伊勢郷士との絆」が「、「青木氏の存在」を大きく左右させていたのである。
従って、それがどの程度のものであったかをこれを「論理的な歴史観」で考察して置きたい。
この「地元郷士との絆」が、どこの「青木氏族」にも働いていて、「青木氏族」のみならず「近江佐々木氏族」にも働いていた事が「近江佐々木氏の研究資料」からも解り興味深くい。
矢張り、「近江佐々木氏」も「氏存続の為」には「絶対条件の歴史観」としてこの点に着目していて研究されている。

余談ではあるが、興味深いのは、前段でも何度も論じているが、その「絆の関係氏」として「青木氏族」を広範に研究されている点である。
これは「施基皇子」の、異母弟の「川島皇子」、つまり、「近江佐々木氏の始祖」で「妾子」であり、共に「大化期の賜姓族で臣下朝臣族」で、同じ役務など「氏存続のシステム」を共にすると云う事も「初期の段階」ではあった。
然し、何はともあれ、平安末期に平家に討伐されるまでは存在した「近江青木氏」と血縁した「近江佐々木氏系青木氏」が存在した。
この関係から「青木氏族の詳細な研究」に至ったと考えられるが、「四掟の範囲」として「出の嫁」から「女系」でも平安期から江戸期初期まで「近江佐々木氏」や「佐々木氏系青木氏」と何度も繋がっていた事が考えられる。

(注釈 前段でも論じたが、{近江佐々木氏」は、近江蒲生郡安土佐々木荘 沙沙貴の地名を天智天皇の賜姓、 「近江青木氏」は近江犬上郡青木村、「近江佐々木氏系青木氏」は近江の南近江甲賀郡青木村、「滋賀青木氏」は滋賀の右京区大秦、「伊賀分裂の甲賀青木氏」は「甲賀郡青木村」の伊賀寄りを出自の地とし在所であった。)

前段でも論じたが、「伊勢秀郷流青木氏」と「跡目縁戚の関係(叔父)」にある「蒲生氏郷」が「近江商人」を松阪に呼び寄せたが、この中には「近江佐々木氏系青木氏族」の「商人」は居なかった事が「佐々木氏の記録」や「青木氏の記録」からも解る。
「女系で血縁関係があった事」は解っているが、「近江佐々木氏」が「研究記録の青木氏族」として定義する関係にあったかは、江戸期前の「近江商人」の中に「近江佐々木氏系青木氏の商人」が居なかったという事から疑問でもある。
「松阪」に差し向けると云う事からすれば、まず最初に「松阪の青木氏と伊勢秀郷流青木氏」がいると成れば、最初に優先して選ばれる筈だと考えられ、戦略的にはその方が上手く行く筈である。
現実に前段で論じた様に、「伊勢の青木氏族」の「二つの青木氏」とは「犬猿の仲に近い状況」であった。
つまり、「近江商人の近江佐々木氏系青木氏」は居なかった事に成る。

「近江佐々木氏の研究資料」の中に「近江佐々木氏系青木氏の商人」は灘域に「酒蔵商人」がいた事は書かれている。
要するにこの事は「氏郷の呼び込み」に参加しなかった事に成ろう。
それは、「伊勢の二つの青木氏族」との「不必要な競合」が起こる事への配慮かとも考えられる。
現実に、前段で論じた様に、「信濃と福井と越前」から「青木氏の酒蔵の杜人」を呼び寄せて「酒米と松阪酒」を造っている。
従って、「近江佐々木氏」が「青木氏族」として記録として遺している以上は、上記で定義する「氏族の関係」までは至っていなかった事が考えられるが、「別の形」では繋がっていた事は大いにある。
筆者の考えとして、確定は出来ないが、上記する「嫁の出の女系」も然る事ながら、「四家の中」から「嫡子外の嗣子」が出て、「近江佐々木氏」はもとより「近江佐々木氏系青木氏」の跡目に何度か入るという事があったのではと推測している。

(注釈 「四家20家」に男子20家の男子の嫡子を切れ目なくそれぞれに世代交代をしながら宛がう事は可成り難しい事で、「近江佐々木氏族」まで跡目を入れる契機を持ち得ていたかは疑問である。)

それは、平安末期に「近江佐々木氏」と「摂津源氏(伊勢の京綱、信濃の国友とも青木氏の跡目)」とも同時に繋がりがあった事から起こり得る事ではないかと考えられる。
確かに親密な関係にあった事は下記の事でも解る。


唯、江戸時代に「近江佐々木氏」とは「伊勢青木氏」の「江戸屋敷」が近隣であった事、脩行系を含む「近江秀郷流一族」と「伊勢秀郷流青木氏」とは同門同族にあった事、この「伊勢秀郷流青木氏」とは「四家」の「四日市殿」とは縁戚関係にあった事、などを含めて少なくとも「近江佐々木氏」や「近江佐々木氏系青木氏」は本家に於いては「四家制度や妻嫁制度」を敷き「氏存続」を図っていた。
この事からも「近江佐々木氏」の「研究幅」が「青木氏族」にまで広がったと考えられる。
「近江佐々木氏」の「青木氏族の定義」は、補完役の「秀郷流青木氏116氏」までとしている。
問題は、「近江佐々木」は「傍系族」が拡大し、「姓族」を広げて「氏族としての存続」に失敗している。
全国的に広がったのは、矢張り、「補完役の宇多佐々木氏(近江蒲生郡西湖面より出自元)」である。
ところが、この「青木氏族」の「五家五流の青木氏」は、「五氏」から「三氏」には成ったが「姓族」は出してはいない。
当然に、「補完役の秀郷流青木氏」は、確かには「皇族系」では無く諡号が「「朝臣族」にある為に縛られないので、「姓族」を出してはいるが、「24地域に116氏の子孫」を広げている。
違うところは、この遺った「三氏」は互いに連携を執り、取り分け、甲斐を除く「伊勢と信濃と伊豆」は、飽く迄も「氏族の範囲の血縁関係」を保持し貫いている事にある。
つまり、基本的には「氏族」とは、「新撰姓氏禄」にある様に「朝廷が認めた族」となるが、認める以上は当然に“「ある範囲にある事」”を前提とする。
無暗には認定はしない。この課せられた「血縁的な条件」が「氏族の定義」にある。

これを守ってきた「伊勢や信濃や伊豆」で云えば、上記、下記で論じるように「郷士衆との血縁の関係性」にあり、上記した様に、「単なる血縁関係」には無く「一定のルール」、つまりは「血縁的な条件」に従っている。
「女系」と云えども前段の“「四六の古式概念」”に依って「妻嫁制度と四家制度と四掟」の範囲で、この“「条件的な血縁」”を結び、決してその血縁は「傍系の縁戚範囲」のものでは決して無い。
確かに一見して“「女系という範囲」”という傾向にはあるが、“「条件的な血縁」”は「出と入りの範囲」で「両軸」で「相互」に繋がっていて「単なる女系」ではない。
「青木氏」の「福家と四家20家」は、先ず「嗣子の男子」で繋げ、前段でも論じたこの「三つの血縁の源流」を「両軸相互の血縁範囲」で繋がる族なのである。

先ずはこれが「条件的な血縁」の一つ(A)である。

当然に、「青木氏」に務める「家人」も単なる「無縁の家人(家臣)」では無く、「家の中の人」、即ち、「族人」(「氏人」)であり、要するに「臣」ではない。
つまり、これを支えるのが「妻嫁制度と四家制度と四掟」の範囲で、「条件的な血縁(B)」をした族を「氏」と云う。

つまり、「出と入の両軸相互の血縁関係(C)」にある「一族」で構成されているものが「氏」なのである。

論理的に云えば、(A)は(B)に依って支えられ、(B)は(C)に依って支えられ、(C)は(A)に依って支えられ、「氏族」は構築されると云う事に成る。

要するに、片方だけでは「氏」としての「条件的な血縁」として成り立たず、上記の「(A)−(B)−(C)−(A)」が成り立たない血縁では、「氏の定義」の中に無い。

その時、「出と入の両軸相互の血縁関係」の「血縁」の「時間的間隔」には問題はない事に成ろう。

「青木氏」との間に何時か「入り」があって、何時か「出」がある事で成り立つ事で「氏」が成り立つ事を意味する。

「四掟」の説明の中に、「氏」とはこれを”「両軸相互の血縁関係にある事」”と定義されている。
それが、要するに下記にも論じる”「四定以成異性不養之固掟也」”の意味するところと成ろう。
「両軸相互の血縁関係にある事」が”「絆の関係」を構築する事”と成りこれを指すだろう。

問題と成る”「時間的間隔(a)」”は、「青木氏」に於いては「大化期」からと成り、一重二重にも「出と入の両軸相互の血縁関係(C)」が成立していた事に成ろう。

この「氏」を構成する以上は、短時間では難しく、且つ、「妻嫁先」が血縁的にある程度安定している必要がある。
(短期間でない方が好ましいだろう。)
つまり、「出の嫁家先」が「豪族」であるかどうかは別として、小さくてもある程度の”「族としての力(b)」”を保持している事が必要に成る。
簡単に云えば、「力」は持っていても「武力」を持たない「名主や庄屋や豪農」などを含む「郷士程度」も含むという事に成るだろう。
そして、無くなったり飛散したりする事なく、”「定まった地域(c)」”に長く定住している環境にある事が必要であろう。

「氏」としての「血縁の(構成)条件」の(A)(B)(C)が成立させるには、この「(a)(b)(c)の条件」が成立している事が必要と成る。
この「血縁の条件」、即ち、「氏の構成条件」の「(A)(B)(C)」と「(a)(b)(c)」が成立するとなると、この条件を成り立っている地域は限られて来る。
考察すると、「京、伊勢、信濃、伊豆」だけと成るだろう。

(平安末期に美濃と甲斐は「青木氏の氏是」を破った事からこの例から漏れる事と成った。)

何故ならば、この「地域以外」は「郷士衆の数」が250から400と云う地域ばかりで、且つ、その「郷士」には“「国衆」”と云って、占有割拠にて移動し「力」によって日和見的に一時的にその一部の地域を占有して存在し、更には「郷士の数(姓族)」が多いと生存競争により「戦い」が起こり地域は安定はしない。
従って、到底、「(A)(B)(C)」と「(a)(b)(c)」の関係は成立しないし、根本的にはつまりは「姓族」である。

故に、この視点から観ると、「大化期」は勿論ではあるが「平安期末期前」と、「鎌倉期中期」までは対象とする「氏族」がそれなりに存在し得た事にも成る。
それ以外の時代は、唯単に「戦乱で滅びたという事」のみならず、そもそもこの「血縁の条件」の「(A)(B)(C)」と「(a)(b)(c)」とを構築できる環境下には無かった事が云える。
然し、これが江戸期の末期までは「青木氏族」は「氏族」を「奇跡的に続けられた由縁」でもあり、これを「力(「青木氏の強味)」にして「殖産」と云うものが成し得たと云えるのだ。
当に「奇跡の氏」であろう。
この「奇跡の氏」の下には、(A)(B)(C)と(a)(b)(c)を構成する古式豊かでありながらも前段や上記に論じた“「合理的な改善」”を加えた“「青木氏の制度」”が続けられていたと云う事だ。

(注釈 この概念的と云うか「精神的な歯止め」は「青木氏の氏是」にあった事は云うまでも無い。)

そこで、上記のこの(A)(B)(C)と(a)(b)(c)を更に詳しく論じるとして、故に、多くの位階の保持者が存在する「近江」を始めとして次の様に成る。

「近江、伊勢、信濃、美濃、甲斐」などの“古くから土地に住するこの「氏人の郷士衆」(イ)”
その土地には常に定住でき得る能力を備えていて、且つ、その「官位官職の程度」は別として、土地の“「官位族」(ロ)”

以上が、「妻嫁制度」の「入りの相手」と成り得る事に成るだろう。
況や、簡単に云えば、これは「妻嫁制度」の“「妻」、即ち「入り」”は原則としては「官位族(ロ)」であって、“「嫁」、即ち「出」の先は、「郷士衆(イ)」と成っているのだ。

注釈として、唯、「郷士衆(イ)」は、“「出の先」”となるが、“「入の先」”とも成り得ていた。
上記で論じた様に、(A)(B)(C)と(a)(b)(c)とで成り立つも、兎も角も「土地の官位族(ロ)」と云っても、室町期の「下剋上と戦国状態」のこの状態の中で、地方で「官位を持つ族」は激減し衰退し、殆ど「入り妻」としての「形態」は無くなっていた事は事実である。

ここに行き成りそもそも「女系の妻嫁制度」の「入りの先」を求めたかの「疑問」が残る。

然し、現実には求めているのである。
では、“どのようにして「入」を求めたのか”という事である。

そこで、この疑問解決に執ったのが、その「位階」は低いが「官位を持つ家人と氏人」からの「入り」とする以外に、主には「入りの先」は室町期全般には概して無くなっていた筈である。
然し、「家人や氏人」にだけ求めたとしても「四掟の条件」を満たす「低い官位」を元から持っていたとは考え難い。

そこで、研究すると「家人の家の資料(尾鷲の家人)」の中の文節によると、“「従六位下」”と云う文節が出て来る。

そこで、左右の大臣などの「政治にかかわる特別職」(4段階で正従で8位階)を除き、当時の官職に関わるこの「朝臣族の武家」に与えられる「官位の位階」は「10位階」あって、それを上下に分け、一番下は「従八位下の位階」である。
「家人」に与えられた“「従六位下」”は下から三番目と云う事に成る。
「青木氏族の氏人・家人」の位階は、朝廷が認めた範囲は相当に高かった事を意味する。
これは、 「(A)(B)(C)と(a)(b)(c)」の関係を朝廷は認めていた事を示す。

(注釈 ここで云うこの「武家」とは、「公家」に対しての「武家の呼称」であって、「江戸期の姓族」に与えた武家は、「本来は武家の呼称」では無く「武士の呼称」と成り、且つ、安易に朝廷の財政保持の為にそれに与えたその「安易な位階」でもない。)

とすると、この「資料の家人」に与えられていたのは「従六位下」であるので、つまりは、「青木氏族の家人」に与えられる「位階」としては「妥当な位階」である。
氏人と成る」「家人、又は、差配頭」が何かの理由で授与されたと成るのだが、果たして、何人が授与されていたかであろう。

「家人」が「六人居た」とする一部の資料があるが、「差配頭」は「青木氏部等(詳細後談)」も入るので少なくとも「朝廷貢献」と云う事から勘案すると「15人程度」は居たであろう事が判る。
然し、これら全てが授与されたとはならないし、時代の経過もあるし、授与される理由の有無も伴うので特定は難しいが、「10人程度の家人や差配頭」が常時に授与されていた事は考えられる。
時代的には、「身分格式や和紙等の殖産の貢献(詳細は前段と後段)」から、嵯峨期を除いて「光仁期から仁明期・円融期」までが最も多く、そして、「室町期から江戸初期」では「献納金(前段)」で助けた事の理由が考えられる。

(注釈 これらの関係の資料は三度の松阪大火の消失で遺されていない。)

参考として、「伊勢王の施基皇子」に与えられた「宗家の青木氏の位階」は大化期に与えられたのは「天皇」に継ぐ身分を示す「冠位」は、「永代浄大一位」で、位階は「永代正二位」で最上級である。
因みに「清和摂津源氏四家の頼政」は「正三位」である。
従って、この事から勘案すると、「青木氏族の家人」に与える「位階」としては相当なもので、与えられた理由と云うかその背景には“「相当な実質の評価」”があった事を示す。

そもそも、江戸期の様に「金で買える位階」では無く、つまり、唯単に与える評価では無かった事を意味する。

そこで、「高級官僚」や「公家の末端」の「貴族」として扱われる為には、最低限に「従四位下」から上位が基準と成るので、これから考えると妥当である。
この「従四位下」の「位階」を持たない限りは「上級官僚」には成れない。
その意味で、「官僚的貢献」ではなく、「社会的貢献(朝廷の財源)」であった事が云える。

従って、何で「青木氏の家人」が、「青木氏家人と云う格式」も含めて、この「位階」を持っているかの理由は、前段でも論じたが、恐らくは、「格式・殖産・献納での貢献」のこの三つにより与えられたものであろう。

そうすると、何で「青木氏の福家」が授与されなかったのかと云う疑問が起こるが、それは無い。
それは、既に、「冠位と位階」等は永代としての最高位を持ち得ている。
従って、「貢献」に寄与した場合は、「氏族の氏人」の「青木氏の家人や差配頭」と云う事に成る。

という事は、「献納」は「和紙墨等の余剰品」を裁いた時期の奈良期の末から始まり、明治9年までの期間を持続的に続けていた事から考察すると、これを理由とするならば「相当な人数」が居た事に成る。
取り分け、「余剰品」から始まった「献納」であるとするならば、天皇家に執って一番苦しい時期の「室町期の乱世」の中で、「巨万の富」を築けたその「恩義」からは「巨額の献納」を続けていた。
その事からすると、「相当数の家人の位階者」は居た事に成ろう。
「従六位下の位階」は兎も角も一人では無かった筈であり、「家人」は時代、世代ごとに代わるとすると、この260年間に「家人の数(5人程度・5)」やそれに「相当する氏人の数(3人程度・5)」としてこれを鑑みると、最低でも、“「15人から25人」”は居た事に成ろう。
「永代」であるかは「従六位下の献納」とすると「永代」を授かるは普通ではあろう。

「青木氏族」に中の「家人」にこの「従六位下程度の位階」を持っていた者が何人居たかは残念ながらポイントで在り乍らも「資料」が見つからないので史実としての研究は前に進まない。
従って、「女系の妻嫁制度」の対象としては、鎌倉期頃迄にはこの関係は崩れていないので、「近江」を始めとする「五地域」からの「出と入」の「四掟の条件を持った血縁の関係」は相当成り立っていたと考えられる。
つまり、室町期は上記の論理性からも「伊勢の郷士衆」との「出と入りの関係」はそう問題は無かったと成る。

今では推論は着くが、それが「永代での官位の位階」であったかも、確実にする事は、最早、できない。
だとすると、この論理的な考察から、江戸初期までは少なくとも乱世を超えて”「家人」”を含む「伊勢郷士衆」の「氏人」との「氏」としての「出と入」の「血縁条件」は成り立っていた事に成る。
故に、「伊勢と信濃」は、当然の事として「三つの源流説」は成立する。

そうすると、そこで戻って「四掟の範囲」で「入り」をどの様に求めたのかが疑問と成る。
「京や近江や信濃や甲斐」などに「四掟の範囲」で持っていた「氏族」や、都で「政治的な問題」で行き詰まり、この「三つの地域」に「逃亡や避難した真人族」や「高位の公家族・貴族」が居て、生き残りの為にも、彼らの「貴族」から多少は「入り」として入った事は充分に考えられ否定はできないし、一部記録に残るところもある。
その「国是」に近い形で保障されていた「安定した地域」の一つが「伊勢」であった事は云うまでも無い。

「時の政権」が「伊勢」には公然と権力を振りかざして捜索が出来なかった事が「入りの形」を偶然にも保全したのである。
これは前段や上記した様に、「大化期の不入不倫の権」から始まり「江戸期末期」まで引き継がれ、「家康発行」の“伊勢の事 お構いなしの「お定め書」”でも解る。

ところが、何度も論じるがもう一つ「同じ地域」があった。
「伊勢」も然る事ながら、「青木氏」が定住する「信濃の一部(唯一の天領地)」と、「西諏訪(諏訪大社 大化期に保障された)」もこれに近いものがあった。
江戸期中期までは少なくとも保障された。

(注釈 前段の殖産でも論じたが、「江戸期」には「幕府」がこの「天領地」を「幕府領」として奪い「優秀な殖産地」として取った。)

故に、「四掟の範囲」の「位階を持つ者」が、平安期までにはここに逃げ込んだのではあるが、この末裔が「血縁条件の対象」と成り得たのである。(後段記載)
従って、「信濃の一部(唯一の天領地)」と、「西諏訪(諏訪大社 大化期に保障された)」は「伊勢」とほぼ同じ環境にあったのである。

残るは、「青木氏の逃避地の越前(神明社が保護)」がある。
ここは前段でも何度も論じたところであるが、要するに、何らかの問題を起こし「青木氏族の逃げ込む場所」で江戸期初期まで「神明社の質」で維持されていた。
前段で論じた「神明社」が、江戸幕府に引き渡すまでの江戸初期まで、「神明社組織」が保護して「質」を施す地域であった。
依って、室町期全般は「四掟の範囲にある末裔」が「現地孫」を作り「血縁条件の対象」と成り得ていた。
この「越前青木氏の末裔(酒造商人)」が成功して、「青木氏族の入り」と成って戻ると云う事とが起こっていたのである。

前段でも論じたが、「越前」は「信濃」と共に、「伊勢」の「酒米と酒造りの杜師」として働き「入り末裔」を遺している。
これは一度のみならずこの地域との「同じ族」のこの「入」の「血縁の証拠」である。
元より新たに成った訳ではない「家人、氏人の氏族」にあった。

次は思い掛けないところの“「善光寺」”がある。
ここは、元来、天台宗のここは「門跡や皇位継承に外れた高位の官位位階」を持つ「真人族や貴族」が僧侶と成って入山し、或いは、その貴族の門外嗣子が入山するところでもあった。
そこから、この「善光寺」に移籍する「還俗僧侶の定留地」と成っていた。
又、同じく「浄土宗密教」に帰依する「高位の位階を持つ皇位の門外嗣子」がこの「善光寺」に入山した。
この「善光寺」は、史実にある通り、従って「天台宗密教派」と「浄土宗密教派」に分かれ「別院」を作り「勢力争い」を繰り返していたところでもある。
この「二つの派」の「高位の位階を持つ僧侶」が再び還俗して信濃に子孫を遺して根付いた。
この中の「浄土宗密教の子孫」が「四掟の対象」と成り得ていた事は解っている。

現実に、前段でも論じた様に、「伊勢青木氏」の「六人の嗣子(実質には9人と女子は7人)」には「京の貴族」から入っている。
現実に前段で論じた様に、「白壁王、光仁天皇」の后は「井上内親王」である。
少なくとも「850年頃の仁明天皇期頃迄」は「直系の青木氏族」であった事から「四掟の範囲」で「入り」は最低限で保てていたと考えられる。

「福家と四家20家」を保つ為には、「京や近江や信濃や甲斐」の「四掟の範囲」を満たす最低の「官位を持つ青木氏族」が、その縁戚関係と成っていた事は否めない。
とすると、この「氏族」が現実に存在したのは、「摂津源氏四家の頼政」による「以仁王の乱」の以前の”「1100年前頃(詳細後段)」”までと先ずは大まかに絞れる。
そして、流石に「平家の専横時代」を除くと、「女系の妻嫁制度」の「高位の血縁(四掟)」という事では「1050年頃まで」と成るだろう。

論理的には、最も「青木氏族」と「四掟の範囲」で近いのは各地に分散していた「源氏族の直系尊属」と成るのだが、この「氏族」が、然し、「源氏族」の殆どは「傍系尊属で姓化した姓族」であったとすると、「四掟の範囲」の対象から外れる。
だから、「摂津源氏の四家」以外は「姓族化していた事」から、「11流の源氏族」とは「男系継承が禁じ手」と成り得ていたが、その「摂津源氏の頼光系四家で頼政の孫(仲綱の子)京綱」を除いて、故に「入りの女系」で「源氏族」とは血縁を示すものが無いのであろう。

結局は、「入り」の「四掟の範囲」を満たす「氏族」は、位階の多くを持つ「秀郷一門一族」であって、その「目的の為」に「補完役」として任命された「賜姓族の秀郷流青木氏」が「血縁の源流」と成って引き継がれた事に成る。
当にその象徴が「四日市殿」である。

故に、「近江佐々木氏の研究記録」の「青木氏族の定義」が、前段でも論じた様に「秀郷流青木氏」とその一門一族の「永嶋氏、長沼氏」と「長谷川氏と進藤氏」までと定義されているのである。
残念ながら、「伊勢」では永嶋氏の一門の「長嶋氏」と繋がっている資料があるとしても、「伊勢」では「長沼氏と長谷川氏と進藤氏」との資料は見つからない。
筆者の持つ「青木氏族の資料」の中には無いが、「近江佐々木氏の研究記録」に詳しく論じられている以上は、「佐々木氏の持つ資料」の中にはあったと考えられる。

従って、明治期までは「入りの源流」は勿論の事で、「出の源流」も絶えなかったとする結論に成る。

そこで「入り」は、主に「三つ」と成るが、それは次の通りと成る。

一つは、「京」を始めとする「四つの地域」の「位階の保持家」
二つは、「秀郷流青木氏」を始めとする「秀郷一門の青木氏族の五氏」
三つは、「位階を持つ家人衆」で、「嫁ぎ先の地元郷士衆の氏人」

以上の「三つの入り先」と成る。

これを「女系の妻嫁制度」では、「四つの地域からの位階保持者」と「秀郷流青木氏族」を中心に、その位階を基準に次の様に成っていた。

先ず一つは「妃」である。
そして、「位階を持つ氏人の家人衆」を「(嬪、妾の中の「嬪」)としていた。
最後には「氏人の無階の地元郷士衆」から「入り」と成れば「妾」としていた。

以上の「入り」の「三つの妻の立場・階級」に成るだろう。
(下記の「女墓」にその例がある)

そこで問題なのは、「后」は基本的に室町期以降には資料からは見つからない。
これは、室町期には「四掟」に叶う「入りの対象者」が無かったという事では無く、「青木氏族側」からの「入り」を執らなかったという事が正しいだろう。

何故ならば、次の事が云える。
「下剋上の混乱期」の世情の中で「皇位から入りを執る事」は政治的に好ましくない事。
つまりは、「政敵」とみなされる事もあり得る事。
「青木氏族」としては、兎も角も、奈良期から「御用商人的商い」を避け「均等性」を堅持してきた「商い」に影響する事。
「四掟」に基づき「四家制度や妻嫁制度」を執る以上は、「后」に相当する「入りの先」は他の「入りの先」との「身分や冠位や位階」に基づく官位等が、他の「三つの入りの先」とはその差があり過ぎる事。

以上四つのこれが「妻嫁制度を崩す事」に成り得て、結果として”「四家制度の争い」”を招いて成立しないと判断したのである。

そもそも、前段や上記で論じた様に、「中国の歴史」を見ても「独自の改善」を加えてこの制度が成り立っているのだ。
つまり、后を入れた形の其の侭では成り立たなかったという事である。
中国は次々と政権が代わるがその「政権の寿命」は50年程度と短いのである。これが所以であると中国は説いている。
これが最も、その「知識」から編み出した”「入り」”で起こる”避けなければならない「氏の最大の戒め」”であるという事に成る。

「白壁王の井上内親王」の様に、「特別枠とする考え方」の為にあった事も考えられるが、「皇親族」や「令外官」から外れた「青木氏族」には、最早、その「機会」は起こり得ない。

では何故、この「妃、嬪、妾」の「入りの三階級」を定めたかと云う疑問が湧く。

それは、「入りの階級」を無くす制度とする事は、当時としては無理であっただろう事は疑う余地はない。
それは、未だ、全ては「階級社会」で決められる「封建的な氏家制度」の中にあったからである。

上記の「三つの入りの先」では、言わずもがな、”この掟を求める事”は必定と成る。
況してや、「婚姻」である。
「世間の目」はあり、今後の事を考えれば無視する事は絶対に出来ない。
だとすると、最も合理的な方法は、「官位に基づく官職の如何」は別として”「朝廷が授与する位階」”であろう。
その「家の官職」の「有り無し」に関わらず、持つ「位階」に応じて「入り」の「受け側」も対応する事で収まる。

然し、「入りの受け側」、つまり、「青木氏族」では、人の世情の常、あまりの身分格式の差のある「后の差」の様に、”「階級による見栄の争い」”が起こるは必定である。
そこで、「青木氏族」が考えたのが、前段で論じたような制度を敷いた。

「青木氏族の女(むすめ)養育制度」
「福家の統制」
「寺での養育所」
「違反による罰則掟」
「出から入りに戻す制度」

以上の制度(掟)で、この階級による差を削除させたのである。

この事から、ほかの「入り先」が決して持ち得ない「后の冠位を持つ特別差」は、当然の事として避けられる事に成るだろう。

そもそも戦略的に観て、「冠位の入り先」は恣意的に絶対に避けれるべきものであった事に成る。
この「冠位の差」は「上記の掟」では無理と成るだろう。

それは推して知るべしで、前段から論じた様に、「孝謙天皇期」の「白壁王の井上内親王の経緯(期待しない白羽の矢)」に繋がる事に成り得るからだ。
つまり、この事で「青木氏族」は「青木氏族で無くなる所以」とも成る。

そもそも、唯一の「最高位の冠位と位階」と、「職務の官位」と、「賜姓と志紀真人族、朝臣族」などの全てを持つ「氏族の青木氏族」である。
「高位族」は「孝謙天皇」の様に「入り」の「白羽の矢」を立てたい相手である。
況してや、「孝謙天皇」でなくても「朝廷」を安定させるには、「巨万の富を持つ青木氏族」(15地域の青木氏族)ともなれば喉から手が出る程であったろう事が解る。
これは何も「入りの位階の相手」だけではない。いずれの「豪商等(武家)」も婚姻の相手としては同じであったろう。

然し、「青木氏族」はこれに絶対に載れないのである。
従って、「后」は元より、他の「三つの差」も「入り」を受けた後は制度と掟に依って無くす事が「絶対的な戦略」と成っていたと云う事である。

但し、この「出と入り」から生まれる「嗣子の出入り」は、兎も角も、「福家と四家20家」に全て入り、「嗣子の出」は「禁じ手」と成っていたし、当然に、「入りの養子(養嗣)」は当然の事として、「義子(義嗣)」は厳禁の手であった。

従って、「男系の禁じ手の原則」が守られれば、「四掟」によって入る「妻」の「妃、嬪、妾」には、下記の「良い一族性」、即ち、「血縁性の連携」が永続的に生まれる。
「出」の「娘、孫,玄孫」などの要するに「青木氏族」で云う”「女(むすめ)」”は、「妃、嬪、妾」の「福家」で養育を受けた「実の女(むすめ)の概念」である事から、そこから再び、「福家」に戻される「実の女(むすめ)」の二代目、或いは三代目の「女(むすめ)」は、「愛児」として繋がる完全な血縁下にある。(ここで疑問(女)がある。)

それは「妻」を「妃、嬪、妾」に分けている以上は、それぞれの「女(むすめ)」の「立場の差」等の「関係性の差」が左右するが、これを「福家で養育する事」の「女(むすめ)」の「掟」にその差は一切削除され、全て「女(むすめ)」である以上は“「平等とする掟」”に成る。
「妃、嬪、妾」の子は、勿論の事、「長女次女」などの区別する差さえない掟であった。
依ってこの「関係性の差」は解消されていた。

これには「福家の威厳」と、「寺などに隣接した養育所」に、「幼児より入れる事」で、この「養育所」に余計な「差し出口を入れる事」などの「行為の弊害」を防ぎ、この「関係性の差」を排除していた事が解っている。
一切、「親の手」を離れた事を意味し、この「掟」を破った妻は処罰されることに成っていたらしい。
飽く迄も、「青木氏の女(むすめ)」であって、最早、「妃、嬪、妾」の「子や孫や玄孫」ではない事に成っていた。
簡単に云えば「青木氏の支配権」を持つ「福家の女(むすめ)」であった。
同様に、「四家を引き継ぐ嗣子」にもこの掟は採用されていた。

そこで、上記の疑問の「女(むすめ)」である。
その疑問は「嫁家先の娘」を強引に戻すと云う訳には行かないだろう。
ではどんな「方法」と云うか「掟」と云うか、何か問題を起こさない様な方法でなくてはならない。
いくら「家人」であろうと「氏人」であろうと「嫁家先」にも事情があり無視できない。

この解明に時間がかかり難しかった。
「郷士衆の差配頭」に遺された「手紙の一節」にこの事が書かれていた。
それによると、「我が尾鷲小林の幣家・・の方の娘の妃児・・は三歳にして優秀賢美にて育ち・・に依存無く・・・に依れば福家のお定めによりこの娘を‥寺の養育所にお預け致しく候故御差配宜しくお願い申し上げ・・・云々」とある。

この経緯から読み取れる事は次の事に成る。
「福家のお定め」である。
 これに依れば「要領書」の様な「定書き」を配布していた事に成るが、果たして、「定書き」が出ていたかは他に調査したが明確ではない。
恐らくは、嫁いで来た「女(むすめ)」は「福家」でその「嫁としての教育」を受けているから、その必要性はあったかは甚だ疑問で、「氏人の家」がこの要領を「既成の事」として周知して“「定書き」”として捉えて書き込んだものと読み取れる。

 「優秀にて賢く美しい児」である事が条件の様に成っていた事を意味する。
福家から「氏人の愛児」に対して三歳の誕生日祝いが出た。
これは「福家が行う慣例」で準備を寺の執事が行い「福家」が「氏族」に出していた事は解っている。
この事は「福家の女(むすめ)」として如何であるかを暗に問い質している事を意味する。
そして、「相手の意思」を尊重している事に成る。強制は無い。
要は、「嫁家の判断」に委ね、「福家との繋がり」を重んじて「女(むすめ)」として入れた方が得策と判断した場合は「入り」と成り、「嫁家の存続の事情」も鑑みて「嫁家」が判断していた事に成るだろう。
「福家の女(むすめ)」の事情が貧し急務を要した場合は、後は「嫁家と福家の話し合い」であったらしい。
それが、現代感覚では、「福家」側では、「女(むすめ)」を「孫」までは解るが、「玄孫」までに「女(むすめ)」として求めている史実は、明らかに「出」に対して貧し急務と成っていた時期があった事を示す。
故に、依って、「話し合い」が原則であった事に成る。
更には、「玄孫」とすれば「嫁家側」でも他家に嫁がせていた事が判るし、娘が多ければ「優秀賢美の娘」を「福家」に入れて、他は嫁がせる事と成り、嫡子が居なければ養子を執る成りした事は解る。
「養子」という事に成れば、二代続きで「氏人」からは離れる事に成り、其の侭では保護などは受け難く成る事から、是非にも「福家」に優先的に入れて置こうと云う計算が嫁家側に生まれるは必定である。
そうすれば、男子を「氏内の郷士」の家から迎えれば離れる事は無くなる。
その手筈も安易に成り立つ。
彼らには、氏外の「他家からの養子」は「氏存続」のみならず、前段でも論じた様に殖産などの枠から外されて「生活の糧」を失いかねない問題でもある。
上記の「三つの入り」から入る中で、「家人と氏人」はこの逃れざるを得ない「絶対的な宿命」を負っていたのである。
「秀郷流青木氏一門」からの「出と入り」にしても、「青木氏族」の「青木氏の氏」を別に構成している。
「四掟」に適合した「京」などからの「高位の位階を持つ貴族」からの「出と入り」も単族の「族」を持ち得ている。
小さく成ったが「近江の氏」や「甲斐の氏」、「伊勢の氏」、「信濃の氏」、伊勢と信濃の融合族の「伊豆の氏」、越前の「全青木氏融合族の氏」は、それぞれに再び結合して「青木氏の氏」を構成しながらも、且つ、これらの「五氏の連合体の青木氏族」と、「秀郷一門と秀郷流青木氏の氏」の、これら全てを「女系」で血縁し合した「青木氏族連合体」を形成しているのである。
従って、例えば「伊勢の氏」からは出る事は出来ない前提に成り、当然に「氏存続」として安全は全く保障され得ない事に成る。
「乱世の中」でそんな選択は絶対にできない事は自明の事実である。
前段でも論じたが、「諏訪族青木氏」が「神奈川横浜の秀郷流青木氏」の中に逃げ込んだのも、この「女系の血縁の関係」が奈良期から深く続いていた所以でもある。
越後も同然である。

故にも、手紙の中の一節の「定書き」の「発想の概念」が染みついているのである。

従って、「定書きの有無」に関わらず「子孫存続」とも成れば、先ずは「嫁家の事情」を優先する事が必要に成り、「定書き」に拘る事は「氏存続」という点で好ましくない。
故に、「定書き」は先ずは無かったと云う判断に成ろう。
大化期からの「嫁家制度の長い仕来り」の結果から、重ねて「氏人全員の自然の概念」と成っていたと観ている。

何れ在ったとしても、「福家」に無いからこそ「氏人や家人」が「重大な間違い」を起こさない様に「家の掟」(氏人の掟)としてこの「定書き」を子孫に伝える為に遺したとも論理づけられる。
然し、実は、下記に記すが、可能性が高いとして「執事を務めた菩提寺」の「養育時の指導書的なもの」としては必ず遺されているとして調べたが、資料は「三度の消失」と、最終は「江戸期初期の顕教令の撤収」で「伊勢松阪の菩提寺」には遺されていず発見は出来ていない。

さて、続けて論理的に考えれば、「嫁家」側としては、結果として「福家」に「女(むすめ)」として入れて「出」の「嫁ぎ先」が定まれば同じ事であって「損得」で云えば「得」はあっても「損」はない事に成る。
「福家の女(むすめ)」である以上は、「出」の婚姻に関する準備一切は「福家」で持つ事に成るのであるから、後は「心情の問題」だけと成ろう。
然し、これさえも元を質せば「出自先の実家」であるし、他家から「氏」に入った者でもない。
この「心情」は「掟」にて大きく表に出せないが、何れにしてもその範囲を弁えれば其れなりの事は認められる状況ではなかつたかと考えられる。

後の「嫁家の判断」は、抜き差し成らぬ「嫁家と他家との事情」と成ろう。
それ以外は寧ろ「嫁家の嗣子」に重点を置いた存続方法が、「氏人」として維持して行く上で優先的に嫁家側には求められよう。

「福家」から「女(むすめ)」の「出(嫁ぐ)」の際には、古来より「元の血筋」と重らない様に「執事」を住職が務め、且つ、「養育所」を寺で管理していた「菩提寺の管理下」に置かれていた様で、遺された資料の一部から読み取れる。
当然に、「女墓」を管理していた事からもこの事は頷ける。故に「女墓」が創れるのであろう。
更には、合わせて上記の「妻嫁制度」を敷いているからこそ、前段で論じたが、その「青木氏族の住職」の「執事の役目」も「最も重要な要」と成っていた事に成る。

では、この「出と入りの血縁先」を「適時」、「適格」に「選出してくる仕組み」はどの様なものであったのかが疑問(仕組み)と成る。

これは、この「執事の役目」(身内の青木氏の住職)に大方はあったと観ていて、確かには、「福家と四家20家」の多くの「付き合い」と「紙問屋の伊勢屋」から情報もある事は解っているが、各「近江や信濃や伊豆や甲斐や越前」の地に存在する「青木氏独自の菩提寺からの情報」、24地域の「秀郷流青木氏の菩提寺からの情報」の相互交換、5百数社に上る「守護神の神明社からの相互の情報」を互いにやり取りしていた事が解る。
これを基に「出と入りの妻嫁制度」を網の目の様に構築していたのである。
これが無くては「青木氏族の子孫存続」はそもそも論理的に無理であったろう。
これらは「完全な詳細な情報源」であり、誰が考えてもこれを維持するには「経済的な裏付け」が無くては出来ない事は明白である。

論理を敢えてひっくり返す様ではあるが、「出と入りの四掟などの概念」や「無形の権威や位階」やそんなものでは決して得られない。
故に源氏族の様に衰退し滅亡する所以となっていた。
注釈として、然し、この情報の二つが抹消された時期があった。

それは上記にも記したが、前段でも論じた江戸初期に出された「宗教に関わる事柄の独自保有の禁止令」である。
つまり、「神明社の幕府帰属令」と「菩提寺の顕教令」である。
そして、幕府は財政難からこれらを放置し荒廃させた。

この「二つの令」は上記の通り「絶対的な情報源」である故に。「青木氏族」に執って片手をもぎ取られたものであった。
この時、「遺されている情報源」は唯一「紙問屋の伊勢屋」の情報源だけであった。
「青木氏の情報源」は上記の「二つの令」で論理的には消えている。
この儘では、「源氏族」に成り得る。

ところが、そこで、より「青木氏族の力」をつけたのが「殖産」であって、室町期末期から始めて江戸初期に完成させた「15地域の商いの組合での構築」であった。
これに依って、「殖産」「商い」は元より「青木氏族存続」に絶対的に関わる「重要な情報源」も再構築され戻ったのである。

それでも上記した様に「青木氏族の存続」に関わる事である事からは「氏」を纏めて行く上で、「菩提寺」は絶対的に必要不可欠である。
そこで、何をしたかという事である。
それは規模を縮小して目立たない様に密かに建立した。
「神明社」は、内部の内容は同じにして幕府令に違えない様に一般性を装い、守護神を表す「社」から「神社」にして「神明神社」と変名する事と、「青木神社」として何れも密かに「小さな山祠」を建立して守ったし、元の位置からずらして「大鳥居」をそのままに遺した。。
これらは現在も遺されて「青木氏族の氏人」らに依って祭られている。
ところが不思議に幕府はこれを黙認した。

(注釈 「神明社」はそもそも「伊勢神宮の皇祖神」の「子神の祖先神の社」である。
全国に五百数社もある「民の社」でもあった。民からは「道祖神」と同じに親しまれ信仰されていた。更には、「紀州藩との繋がりの事」も含めて、「朝廷への献納の事」もあり、厳しく当たれなかった事が考えられる。)

(注釈 「残りの神明社の荒廃」については流石に見かねた元甲斐の青木氏族の柳沢吉保は、武蔵深谷に「民の反発」も恐れて古来より存在した歴史ある「神明社と寺」を自費で公然と再建した。
そしてその周囲には青木氏族の神職や住職が現在手も定住している。
如何にその「荒廃の影響」は大きかったかを物語る。
従って、上記で論じた様に本来は菩提寺と神明社に資料と成るものが遺されている筈なのであるが、結果として無い。)


さて、話を基に戻して、これらの「入り」の「伊勢」での「青木氏の証明」となるのは、残るは「女墓」と「菩提寺の曼陀羅帳」等に成る。又、「家人や氏人」や「庄屋、豪農、名主、村主」の資料の中に読み取れる範囲のものでしかない。
これには、「俗名と戒名」があり、「俗名」にはその大まかな「出自元」、又は、「系譜、戒名」には「四段階の戒名」があって「生前身分と位階程度」が判別できる。
恐らくは、「信濃」にしても「伊豆」にしても「甲斐」にしても、将又、「秀郷一門の主要八氏」は判別できる。
彼らの密教であるので゜菩提寺」は統一していて、「信濃、伊豆、甲斐」などと「秀郷一門と秀郷流青木氏」の「菩提寺」はその定住地の主要地に必ず「同一名の菩提寺」で存在する。
(注釈 「二つの青木氏」のそれぞれの二つの統一した菩提寺名は匿名とする。)
比較的簡単にその「血縁元の内容分析」が可能である。

後は「青木氏の福家と四家の資料」、「家人と主要の郷士の氏人の資料」の中に求められ、これらを紐解いて行けば年月が掛かるが判明する。
どの様に繋がっているかも分かってくる。

不思議な事ではあるが、「大化期から平安期の縁戚族」の「近江佐々木氏の研究記録」が「青木氏族」の証明と成りよりの大きな証拠と成っている。

さて、これらの上記に論じた「血縁関係のシステム」が「四六の概念」に依って論理的な基準づけられている。それは次のように成る。

これが、概要的に観て、「時代の変化」で、当初の平安期末期までは「官位族」9>「郷士衆」1であったが、江戸期前後頃には「官位族」1<「郷士衆」9と変化して行った事に成るだろう。
前段でも何度も論じたが、下剋上戦国時代の乱世に於いての「室町期中期頃」の「数式のバランス」では、「官位族」5><「郷士衆」5の関係性が成立していたことが判る。
「青木氏族」が「巨万の富」を獲得し、これを使って925年頃から正式に始まったより「殖産」を拡大させ始めたころと成り、その理屈は「官位族」5><「郷士衆」5の関係性からもよく解る。
矢張り、「殖産」は「氏族」と成っていた「郷士衆」である事が明々白々である。
上記で論じている「殖産」が拡大するにつれて「官位族」5><「郷士衆」5の関係性は急激に右辺寄りに変わっていった事に成る。
「時代の変化」と共に、「青木氏族の概念」も「妻嫁制度」を盛んに使って変化した事が解る。

(注釈 前段でも論じたが、江戸末期に於いて「筆者の父方祖母」は京公家からであるので、「官位族」の1は未だ成り立っていた事が解り、筆者の母方祖父は「伊勢郷士衆」である。
筆者父方の縁戚筋は全て「伊勢郷士衆」であり、明治期直前まで「郷士衆」の9は成り立っていた事でも解る。明治9年でこの関係性は中断し、明治35年で終了し、大正14年で解消し、平成10年で「福家」は「宗家」に戻る。「四家20家」は各地に分散して商いは続くが詳細不詳。)



> 「青木氏の伝統 43」−「青木氏の歴史観−16」に続く。



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