青木氏氏 研究室
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  [No.336] Re:「青木氏の伝統 18」−「青木氏の逸話」 
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/10/25(Sun) 07:33:56

> >「青木氏の伝統ー17」の末尾

> (注釈 各地の「青木氏の伝統」に関する資料関係が、青木氏と娘の血縁関係も含めて関係した20程度の「郷士の家」からももっと多く見つかれば、より詳細に「青木氏の広域の生き様」が描ける。
> 然し、、残念ながら、「伝統」どころか、他氏と異なり多くの「習慣仕来り掟」を持っていたにも関わらず全く消えて仕舞っている状況の様に見受けられる。
> 各地の神明社にある資料なども探究したが、残念ながら、今は阻まれた次第であった。
> 然し乍ら、「射和商人」と成った「郷士の家」からの資料、四家からの娘の嫁ぎ先の親族関係と成った郷士の家からの資料、伊藤氏等の「伊勢国衆」の家からの資料等からの情報が論文作成に大きく影響した。
> 更に、未、「手紙」や「報告書」の形でも遺されていると観られる。)
>
> これは、「商い」には、「事件の前後」の「雰囲気・小競り合い」からの「事前情報」が必要であって、それによって、“「商いを動かしていると云う戦略」”も在って、その事を主目として情報を獲得していたのである。
> その為にも、かなり前から、“伊勢で起こった騒動”に対して「伊勢衆」で前後に“「打ち合わせ 談合」”なども頻繁にしていた事が判る。
> (明治の終わり頃まで、年に2度の全ての関係する人々が大集合して親睦(運動会)を図っていた事が口伝で伝えられている。)
> 「商い」に大きく影響する事から、「伊勢シンジケート」や、各地の500にも上る「神明社」からの「情勢分析」の記録として情報が扱われていた事が判る。
> 何度と「談合」が重ねられている処から「他の伊勢衆」にもこの情報共有が行われていた事も判る。
> 特に、「伊賀の乱」は「青木氏」も「影の力」として「物資の供給」や「側面攻撃」や「夜間ゲリラ戦」などで合力したが、相当に「事前分析」も施され、長引いた「伊賀の乱」の収束前に紀州に一時避難などもしている。
> これも「事前情報の結果」であろう。
>
> (注釈 「青木氏の口伝」では、この100年間の間に二度に渡り「紀州新宮」に避難している。
> この「伊賀の乱」後の「新宮避難」は、「基本戦略」上から事前に引いた事は判り確認できるが、もう一つの「新宮避難」が何で避難したかは判らず記録が正確に読み取れなかった。)
>
> ただ、この時の「口伝」には「一つの逸話」が伝わっている。重要な判断要素の事に成るので次ぎの段で述べる。
>

「伝統−18」

「青木氏の逸話」
この避難した人物は、『福家の者』(1)で、“『鉄砲を巧みに熟し』(2)”、“『名人”と村民から呼ばれていた』(3)。
ある時、家臣を連れた人物が、『領地視察とタカ狩りを兼ねた形で巡視をした』(4)。
この時、この「福家の者」が猟をして道端で休んでいた。
そこに、この一行が来て、『福家の者に土下座する様に促した』(5)。
しかし、家臣の者が、『何度も往来を繰り返したが余りの往来であった事』(6)から、『福家は土下座を中止した』(7)。
そこで、この『家臣が鉄砲で威嚇した』(8)。
ところが、「福家の者」が、遠くの場所に居た『主君」の上に実っている「柿の実」を打ち落とした』(9)。
怒った家臣が『「無礼討」しようとした』(10)。
ところが、『「福家の従者」と「家臣」との間で「争い」が起こった』(11)。
これを観ていた「主君らしき者」が、止めて、難なく視察団は引き下がった。
『三日後に呼び出しが在り』(12)、福家の者は『「家紋付きの乗馬白装束」で出仕した』(13)。
ところが、門のところで、又、「白装束」を理由に「無礼者」として『「家臣の騒ぎ」と成った』(14)。
その「騒ぎ」を主君に伝えた。結末は、「主君の者」が門まで出て来て、この騒ぎの事態は逆転してしまった。
『主君が慌てて下座礼の姿勢を採った』(15)ので、家臣がひっくり変えて驚き、取り敢えず、『主君の姿勢に従って片膝下座の姿勢をした』(16)。
福家は、この後、『主君の案内で館内に導かれて行った。』(17)、 この様子を家臣の一人の者が、主君から『故事に付いて教えられて』(18)、周囲の家臣に伝えて、「福家の者」が誰であるかを知ったと云う事であった。
そこで、始めて事態を飲み込めた家臣等は、福家を『客間に通し、主君が座る上座に案内して、その上で改めて「挨拶の礼」を先に執った』(19)。
その原因は、『「白装束」に「家紋の笹竜胆紋」にあった』(20)。
ところが、「福家」は上座に座る事を儀礼で辞退したので、押し問答が主君との間で起こった。(21)。
そこで、共に上座で対面する事に成ったが、下座に控える家臣等は未だ頭を上げなかった。(22)。
それは、「福家]が敷物を使わなかった事にあった為に、家臣等は挨拶を戻さなかった。(23)。
「福家」は「儀礼作法」を治めて結局は敷物を用いて落ち着いた。
この後に「対談」は続いて、今後の多くの事が決められた。(24)。・・・・・。

この後も、この「逸話」は更に続くが、この後に“「付き合い」は続いたとされる「行りの逸話」”と成っているのである。

「逸話」はこの後も続く。
この「逸話」には、そもそも、『・・・』とする部分に意味が持たせて在って、“「青木氏の有り様」等の子孫に伝えるべき「伝統」”がまとめられて読み込まれているのである。
「逸話」には、子や孫に面白可笑しくして話し聞かせて、「家筋」などを判らせて伝える「重要な手段」で慣習でもあった。

因みには、“「白装束」”は、皇族位に準ずる「上位の者」が執る「最高礼意の朝廷衣装」での作法であるし、それに「紋付」を付ける事が出来る「家紋」は、「伊勢青木氏」しか使えない「禁紋の笹竜胆紋」であったとして、“そんな家なのだ”とする子孫に識らせる慣習であった。
この様な事を織り込んでの「過去の青木氏」にだけにある「伝統」を読み込んで伝えているのが、この室町期末期から江戸期初期頃に作られた「口伝に依る逸話」なのである。
この「逸話」は作られた時期は、確定は出来ないのではっきりと云えないが、「話の前後の内容」から「天正期から江戸初期」に作られたものでは間違いはないかと考えられる。
実は、「信濃青木氏」でも、これに似た「信濃の逸話」が伝えられている事から、少なくとも「本能寺の変」の後である事が判る。
この「信濃の逸話」では、良く似た事が「事件の記録」として「外部史実」にも成っている。
以前にも、記載したが、「信長」が武田氏を滅ぼした後の信濃甲斐巡察の際に起こった事件と類似する。
それは、重複するが、土豪で郷氏の清和源氏支流末裔が、この時、道端で「信長」を迎えた際に「白装束に乗馬姿」で最高礼に比する「朝廷作法」に則ったもので迎えたのであった。
それに気が付いき比例無礼として、勘違いした信長は烈火の如く怒り、自ら馬から引き釣り降ろし、叩きのめした。
朝廷作法に熟した家臣が止めに入り先ずは納まった。
これに良く似た「信濃の逸話」にもあり、「伊勢の逸話」とある意味で同じ事を伝えようとする「青木氏の意図」ではあったと判断され内容は類似する。
「信濃」でも何か「儀礼作法の問題」を起こしていたのではないかとも思われる程の事件である。

この他にも、幾つかの「逸話」があるが、この「逸話」が江戸初期に作られたとすると、この「逸話」には大きな意味を持っている事に成る。
そもそも、「逸話」がつくられると云うのは、その「逸話の内容」が、その「氏家」に執って極めて重要であるからこそ作られる「氏家社会の重要な慣習」であった。
これらは、”「青木氏の重要な事」を伝えようとするもの”には、それぞれの「内容の目的」は異なるが、「氏是」「家訓」「口伝」「逸話」「由来書」「等の方法で「全青木氏の仕来り」としてある。
この「逸話」が作られるくらいである事から、「青木氏」に執っては、この「逸話」に込められた事が如何に大きな事に「青木氏」の中で成っていたかと云う事に成る。
この「逸話の内容」が、“時事に合わせて「青木氏に執ってシンボル的な事」“ばかりを読み込んでいる。

つまり、その時期に「青木氏」の中に「シンボル的な出来事」が起こった事を示している事に成る。
これは、「青木氏氏是」の影響によると観られる。
前段でも何度も論じたが、「青木氏氏是」を護ろうとすると、「青木氏の行動」を誇示して強く遺す事は難しい。
「青木氏の事」を”世に晒す事”、「青木氏の事」で、”世に憚る事”を強く戒めている。
こう成ると、何もしないと云う訳には行かず「逸話」ででも「名誉や権威や格式}等を遺して置く事に成る。

「悠久の歴史」の中でも、平安初期に桓武天皇に「皇親族」としての存在は、“「律令政治の邪魔」“として圧力を掛けられて起こった「青木氏衰退期」に遺された「氏是」ではあるが、この時に匹敵する程の、「心機一転」を期した青木氏で『総代わり』する程の事がこの天正期に起こったと云う事を物語っている。
その為に、「青木氏氏是」を護ろうとして「青木氏の子孫」に是非に改めて言い遺そうとして「四家の福家」は作ったのではないかと思われる。
この人物は「当事者であった信定」であると観ている。
前段で詳しく論じた「伊勢三乱五戦」の時の扱いに依っては、平安初期に訪れた滅亡に匹敵する程の事が、又、「青木氏に訪れた危機」を感じ採った事の後に作られた「逸話」であったと解釈される。
この危機から何とか脱した時期の「1600年前後の逸話事」であろう事が判る。
と云う事は、この時期に、上記の様に、「信長―秀吉―家康」と変化して行く中で、“青木氏の存亡が危うく成る程の事が起こっていた“と云う事に成る。
「信長―秀吉―家康」は、「存亡の非常事態」が起こり、次第に危険度が低下して、遂には安定し発展の兆しを観たとする経緯を示している。
この「逸話」は、「安定」に入る時期の直前期の事を伝えているのである。
遂には、既に時代の社会状況は意味の無い程に著しく変化したが、この事の事を筆者が「解説する役目」を果たした事に成る。

(注釈 「桓武天皇」は、「伊勢王の施基皇子」の「第六子の白壁王」の「光仁天皇」の子供で、伊賀の「高尊王」の孫娘の「高野新笠」との間に生まれた子供で、「皇位継承者」の少なかった時に天皇に成った。
「伊勢青木氏」は第一子の「湯原王」の子孫で従兄弟の縁者関係にあった。
聖武天皇期に男系の皇位継承者が居なくなり、女系天皇が続いた結果、正規に皇位継承者が無く成り、それに「準ずる者」として「施基皇子の子供達」に順番は廻って来た。
継承者は皇奈良期末期の「皇親政治」の一員であった。)

この「逸話」から、この天正期に会った事に対して読み取れる事としては、先ず“「福家の人物」”と会ったのは、口伝では「徳川家康」と伝えられているが、「頼宣」(1602年−1671年)が紀州藩主に成ったのは正式には1619年頃に成るが、既に、この前に、「逸話」から観て、「主君」と成っている人物は「家康」であって、「家康」が駿府から「松阪」に来ていたのではないかと思われる。
この時に、新宮から尾鷲に掛けて紀州を下検分していた可能性があり、その時に、「四家福家の信定」との「逸話の行り」に成って会い、逸話の“「呼び出し」”が松阪であった。
そこで「談合の予備交渉」が家康と行われたと考えられる。
この時が1603年と成ると観られる。
1605年に「伊勢面談」とあるので、「伊勢青木氏」と「徳川氏」の間で「話し合い」をしていた史実(神明社等を徳川氏に譲り渡した)が有るので、この「逸話]の“「福家の者」“は、”1605年に新宮に引いて没した“とする史実から、「青木信定」の「伊勢の戦い」に当たった当事者と云う事に成る。
この”「松阪での面談」”の終わった後に、新宮で没したと云う事に成る。
依って、新宮に引いた年数は1603年と成る。
そうすると、この1619年に新宮に居る「福家」は無いので、「後継者の福家」は、この時は「松阪」に居る事に成る。
そうすると、紀州藩は1600年に先ず「関ヶ原の勲功」で「浅野氏」に与えられた。
そして、その後の1619年に「頼宣」に引き継いだ事に成っているので、「福家」が「新宮」に引いた時期は、「伊勢の状況」が安定した時期に成る筈である。
だから、依って、1601年に「青木氏内の騒ぎ」が安定し、「商い」もそれに合わせて盛り返したのは1602年以降と成る。

そうすると、前段の「青木氏年譜」の”「伊勢談合」”とある1603年に、「事の始末」を「伊勢衆」等と共に付けた「後始末」の後に成る。
つまり、1603年の「後始末」の後に「新宮」に隠居した事に成る。
1603年と成れば、その人物は、伊勢解決後の「秀吉の青木氏家臣説」で“「騒ぎとなった問題の責任」“を採って「四家の人事異動」をした。
そして、その後に引退していた「信定」と云う事に成る。
この「信定」は「新宮」に引きさがって2年後の1605年に没している。
とすると、1605年の「松阪面談」は、「青木氏の守護神と神明社−5」にも論じた「別の寺記録」から“「徳川氏との秘密会談」”を指していると思われるので、この会談が終わった直ぐ後に、「引退した事」に成る。
その年の内に「新宮」に戻り年末に没した事に成る。
そうする、この「逸話」に遺された「福家の人物」と「時期」と「場所」は、人物は「信定」で、時期は1603年で、場所は当然に「新宮」と成り、1605年の中頃(逸話の柿の行り)に新宮で家康と会い、その後の直ぐの“「呼び出し」”で、1605年に一度松阪に戻った事に成る。
その時に家康に面談した後に「四家の継承などの始末」をつけて「新宮」に再び帰って、その年の末の11月末に没した事に成る。

この「逸話」の内容を分析すると、上記の様に色々な「青木氏の行動の事」が詳細に判って来る。

この「逸話」の分析を続けると、次ぎの様に更に詳細が観えて来る。
先ず、「逸話」内の”「馬に紋付き袴の白装束」“には、特別な「皇位の慣習」であり、それには意味があって、先ず一つは「青木氏の家柄」を顕著に伝えている事に成る。
更に、この「逸話の行り」は、「青木氏の決定的将来」を決めた“「青木氏と徳川氏が面談した事」“を意味しているのであって、”「呼び出し」“とは成っている行りは、「新宮」から「松阪」に出て来るように表現した意味である。
この「逸話」には漢文的に”「三日」“の行りは、”「直ぐ後」“の事を意味する。
”「門前と書院の出来事」(伊勢館)“の行りの意味は、「面談の内容」を指し示す事に成る。
両氏の「氏と家の事」に付いて、話し合った事を意味している。
“「鉄砲と柿」”の行りは、手広い商いの「総合商社」と成っていた「二足草鞋策」を意味する。
これは明確に「青木氏の状況」を伝えている。
“「猟と民」”の行りは、南伊勢や南紀州が「旧領地や遠祖地」であった事を意味する。
“領地視察と鷹狩りを兼ねた形で巡視した”とする行りは、次ぎの様な事を意味していたと考えられる。
それは、「青木氏」が「悠久の歴史」を積み上げた“「賜姓五役のお役御免」”と、その“「社寺一切の財の権利移管」”、“「青木氏が建立した浄土宗寺の密教性の解除と寺引き渡し」”、「伊勢大和紀州域の土地権利の保全安堵」、等々の事に付いて面談した事が判る。
その後に、「事務的な話し合い」を続けた事が前段の「青木氏年譜」からも判る。
「寺記録」では、この時に「青木氏との血縁」に関する「秘密裏の話し合い」も持たれた事が表現されている。
恐らくは、これが「立葵紋の青木氏の事」に成った「話し合いの基」であったと観られる。
この時に、“「直近に決着を就け様としている問題(夏冬の陣)」“があるのに、「先の事ばかりを話し合う」”と云うのも可笑しなことで、「合力要請の話」は出ていた事は間違いはない。
“家臣が脅しをかけた道端“の行りは、「青木氏の氏是の姿勢」を物語っていて、何事にも動じず、媚びず、阿ず、晒さず、憚らず、の姿勢を毅然と持つ事を諭している。
「信定」没後の1年後の、1606年には“「伊勢談合」”とあるが、1605年の「松阪談合」の後続けられていた「話し合いの結果」が出たところを観て、「向後の事」に付いて、新旧合わせた「伊勢の一切の勢力」が集まって話し合ったと考えられる。
それが“「伊勢」“と云う表現に成ったと観られる。

筆者は、1605年の「松阪面談」には、伊勢を纏める事に付いても1年間を通じて事務方で話し合っていたと観られ、それが「伊勢談合」となったと考えられる。
その結果、「伊勢」を始として、「四家」も合わせて安定したと考えられ、「新四家福家体制」で「青木氏」は進んだと観える。
其れが、「1607年の表現」と成っていると考えられる。

「一つの逸話」は、その「氏家の事柄」を「物語風」にして「口伝」で伝える「古来の手段」として観れば、そこにその「氏の前後の歴史観」を加えて解釈すれば、この様に、紐解く事が出来る重要な手段と成り得るのである。

注釈 そもそも、「青木氏」は、“家康と伊勢松阪で会った事“は、初めてではない。
「夏の陣」の名古屋で、秀忠を待機中に、「青木氏に対して合力の打診」をしている。
この事は「青木氏年譜」にもあり、「伊勢衆」と談合して、「合力」とその「内容」を決めて、その答を「次の福家」は「家康」と名古屋城で直接面談して伝えている。
この事に付いての外部記録もある。
「家康との面談」が二度もあると云う事は、夏の陣で、書状で「合力要請」が在ったと云う事は、その前に「面識」が在って、“それなりの誼を通じていた事”を意味し、「二度目の書状」で済ませる事が出来たと考えられる。
「向後の青木氏の立場」のみならず、“直近に起こる決戦の合力”に付いても打ち合わされた事が読み取れる。

筆者は、全ての「口伝」は、その意味で、“その氏が自らの「氏家の事」の為に自らが証明する事が出来るもの”として重視している。
しかし、この「逸話」などの「口伝」等は、現代社会では兎角消えがちである。

この「江戸期の逸話」には、未だ続きがあって、これを紐解けば、更に、「青木氏の伝統」や「先祖の生き様」が未だ浮かび上がって来るのである。
“「昔の伝統」”を適格に伝える手段で見逃してはならない「四家の伝統」であったのだ。
この「逸話」は、「青木氏の守護神と神明社」等の論文にも記したが、敢えて、「四家の伝統」として「重要な史実」を掘り起こせる事としてここに記した。
「本逸話」の『24までの行り』ももっと掘り起こせば、先祖が「逸話に託した事」が読み起こせるかも知れない。

上記した戦略上では、「北畠氏」にしろ「伊賀氏」にしろ「青木氏」や「伊勢衆」に執ってしてみれば、あくまでも、「伊勢の混乱」を誘引した「招かざる北畠氏」「旧領を奪われた氏」とすると、仮に多少の「付き合い」は合ったにせよ、「命」を賭してまでの「相手」では無く、“「義理立て」の範囲”程度であった。
あるところでは引くべきが「本道」の「基本戦略」であった事から、「当初の戦略上」に則り、「紀州の遠祖地」に引いた事なのである。

この「青木氏」に遺されている幾つかの「青木氏逸話」と「青木氏年譜]と「青木氏遺資料」を組み合わせる観ると、「逸話」は「逸話」で無く成る。
これは明らかな「青木氏史実」である。
つまり、この「逸話」のある処には、年譜は兎も角も、それを物語る何らかの「青木氏遺資料」も不思議にあり、「青木氏の生き様」が観えて来るのだ。
「青木氏」も例外では無かった。
当初、この事に気が付かなかった。”ただある所に在る”と云うものでは無く、「青木氏」の場合だと、「二つの伊勢青木氏」に関係の深かった「郷士衆の家」に在る事が多かった。
これは、「氏家制度」或は「四家制度」と「郷士制度」と「部による職能制度」云う組織形態が確立していた証拠であろう。
長い間には災難があって概要は何とか遺せてもそれを証明する資料となると難しい。
それを”互いに組織を通じて都度やり取りする事”があるから遺資料などとして遺せたのであろう。
「青木氏には職能の独特の家紋制度」を採っていたので判るのだが、手付かずの職能集団の「部人の家筋」には未だ『重要な遺資料」が眠っていると観られる。
「職人集団の独特の逸話や口伝」があると観られる。
これを研究すれば、まだまだ「青木氏」を掘り起こせるだろう。
取り分け、「横の関係」が詳しく観えて来るかも知れない。
現在では、これらの「逸話」から”他の地域の青木氏の生き様”も予測する事には成るが、これを具現化出来るかも知れない。
他の地域の「逸話」も集めてはいるが、「史実の年数」が掴めなくてなかなか難しくて具現化までに至っていない。

同じく、この直前と観られる“「伊勢衆合」”とあるのは、「青木氏」等を含む「伊勢者」を集めて密かに「氏郷」が「伊賀の乱収束後の戦略」を打ち合わせていた事を物語るのではないと観られる。
当初の戦略上に則り、「本領安堵」に向けた「お膳立てとその内容」を打ち合わせたと観られる。
其れが、一度目の“「新宮避難」”(二度目は逸話の行り)と云う形に成ったと考えられるが、ところが「本能寺の変」が起こって、度重ねた「談合」“の「戦略の狂い」がここで狂ったのではないかと観られる。
それが「秀吉との絡み」で「青木氏の内部」で問題と成って騒ぎが起こった事も読み取れる。

つまり、「伊勢」に執って、“「秀吉に対する協力体制の如何」“で「意見の違い」が「四家」の中で起こったと観られる。
この「青木氏年譜」から「青木氏」には「明智光秀の賛否」は当初からなかった事を物語っている。
結局は、「伊勢収束」後に、「本領安堵」によって、上記する様な「秀吉」に依る「青木氏家臣騒動」が起こって、「青木氏内部」でも混乱していた。
丁度、その時に、「氏郷」が「奥州転封」(1590年)にて「青木内部」がより不安が広がった事に成っている様子が観える。
この様に「同族の氏郷の存在」が、「二つの青木氏」の“「内部の重石」”に成っていた事が観える。
結果、「関ヶ原」(1600年)で「青木氏内部の混乱」が収束し、逆に、「関ヶ原」や「冬夏の陣」で、“軍需に依る「商い」”が繁盛し上向いた事も判る。
それと共に、その時の「福家」(信定)が病没(1605年)して、「四家方式」で「組織の入れ替え」が起こった。
この為か、「新しい態勢」で「四家内部の結束」が戻った事が判る。

「近江の混乱」と書かれているが、これは「蒲生氏の氏郷の跡目の問題」(1600年)で近江が混乱状態(忠元の親の里)に陥っていた事が、「二つの青木氏」にも計り知れない「大きな影響」を与えていた事が判る。
既に、この時は、縁者でもあり、“「青木氏」を救ってもらったとする感謝の念”と共に、「氏郷」が「奥州に転封後」であったが、「近江伊勢の商い」(摂津店)での影響等も含めて、「商業関係のつながり」にもそれが「大きな憂い」と成って居た事を示している。

(注釈 秀吉が「蒲生氏郷の才覚」に嫉妬して遠ざけたとする説もあり、これを見抜かれない様に伊勢より知行を倍増、実態は約4倍にして転封したとする説もある。
この事は充分にあり得る事で、「二つの青木氏」ではこれで騒いだ事も考えられる。
「氏郷の恩義」だけでは、この「青木氏年譜」に描かないであろうし、「談合」と云う手段を重ねないであろう。
これは「家臣説」も含めて「秀吉に対する憤懣」が、「伊勢シンジケート」の内部も含めて起こっていた事を示すものであろう。)

これには、「豊臣−徳川の勢力図」が一挙に変わり、先の起こり得る「夏冬の陣」の混乱も見据えて、可成りに「青木氏の混乱」があった事が判る。
親睦な「伊勢シンジケート」などからの「突き上げ」が在って、“「北部談」”とあって「談合」を重ねていた様子があり、未だ混乱して居た事が読み取れる。
現実に、散会していた「伊賀のゲリラ衆」が城を一時的に奪還した記録が外部の別の記録で記録されている。
この事から、「青木氏」の「伊賀一部の本領安堵を受けた北部域」では、未だ騒がしく成って居た事から、「伊賀北部の郷士」等と談合を成されていた事が判る。
こんな中で、結局、「氏郷の恩義」に従って、「豊臣側に陣するかの問題」が提起されていた事も判り、「冬夏の陣」の前に、結局、「徳川氏に合力する談合」が成されている。
「外部記録」では、上記した様に、「家康」が名古屋にて「伊勢衆」に「合力の打診」が成され、この為に、三か月も答えをしなかった事が記録されている。
「青木氏年譜」の“「四日市談」”の意味が、何を意味しているのかは良くは分からないが、恐らくは、「南域の北畠」と「北域の伊賀」と「東域の長嶋」には、「外部記録」には観られない“不穏な「ゲリラ戦」”が未だ多く各地で散発していたのではないと考えられる。
それを「伊勢四衆」が集まって”どうするかの談合”をしていた事を意味していると考えられる。
ここには、“「紙屋」”とだけ「添え書き」されている。

この事から、「四家」の「四日市殿」が「仲介」で、「紙屋長兵衛」と「秀郷流青木氏の忠元」と「徳川氏との談合」が密かに事前に成されていた事も考えられる。
「徳川氏合力」に向けて未だ「不安定な伊勢域」の事も踏まえて答えの出せない「伊勢域」では、「合力」そのものも合わせて、“どの様な形の合力”をするかを苦慮して「談合」が行われたとも観られる。
「四日市談」と云う事は、「四日市殿」とは江戸期直前に新しく加えられた「四家」の一つであり、「忠元家の青木氏」と「信定家の青木氏」との「融合族」ではある。
この「四日市殿」が「談」と有るので、“何か話を持ち込んで来た事”を意味するとして、「忠元の青木氏」から「四日市殿」に「仲介の話」と成ろう。
その話は、「武蔵入間宗家の青木氏」からの話と成れば、当然に「関東の徳川氏」からの話を仲介した事に成る。
この「四日市殿の仲介話」は、当然に、「冬夏の決着」に向けての合力を「二つの青木氏」に通した事であり、「伊勢域の郷士」、つまり、「伊勢シンジケートの合力」を調略して来た事に成る。
この時期にも、散発的に「ゲリラ戦」が伊勢−紀州−河内域でまだ続いていたと成れば、「伊勢シンジケート」は、未だ、納得していなかった事に成る。

1583年に「北部談異変」。1583年に「四日市談」。1584年に「伊勢解決」。と「青木氏年譜」の記録にあるのは、「伊勢シンジケート」を最終的に納得させて、それを纏めて「合力」は定まった事を物語る。
現実に、それ以後、散発していた「ゲリラ戦」は「外部記録」では出て来ない事から収束している事に成る。
「冬夏の陣」に向けて、「北畠氏、伊賀氏、伊藤氏」の三氏傘下にあった郷士等は、「伊勢の一連の戦い」で各地に散会していたが、再び結集して、「伊勢シンジケート」の保護下に加わり、”再構築した”事を物語る事に成る。
この為に「ゲリラ戦」が収まった事のみならず、「統制のとれた環境」が伊勢に生まれた事に成る。
つまり、この談合は、詰まり処は、この「結集」と「合力」の話であった事に成る。
従って、「青木氏年譜」に“「伊勢解決」”とあるのはこの事を意味しているのであろう。
この解決に要した期間は、”「北部談異変」”から”「伊勢解決」”までに凡そ10か月程度、「話し合い」に入ってから三か月以上が掛かった事に成る。
結局、「夏の陣」には、本譜でも、「伊勢シンジケートを動かす談合」をしていて、「伊勢青木氏」の「別のある書」には、「伊勢路」と「大阪と伊勢間」の「沿道の警備」と、「食糧の準備」と、「傭員250人」で合力する事を決定している。
この「決定事項」に付いて、「松阪」で家康代理人と面談していて、それを代理人が家康に伝えた事が外部記録に記述されている。
そして、その後に、「四家の福家」と「伊勢秀郷流青木氏の者」(名は不明)が、上記した様に、この「決定事項」を以って「家康と二度目の面談」を「名古屋の館」(城とは書いていない)でした事に成っている。

注釈として、 「城」では、「家康の勢力図の武の傘下」に入った事に成るし、「青木氏氏是」に依って「武の戦い」は表向き出来ないし、「家柄官位官職」などは「徳川氏より上位」で、衆目上は「権威の象徴」である事から「徳川氏の段取り」として、配慮として「城」では無く『館』を選んだ事に成る。
記載されている「合力内容」も、見事に「戦いの範囲」を超えていない事が判る。
そもそも、道理から観てこの様な「合力の差配」は「談合」以外には上手く収まらないであろう。
この「青木氏」に対して、「二度の面談の徳川氏の配慮」が際立って観える。
この辺から、“「松坂面談」“を期に、「青木氏側」は、「徳川氏」に対して心底から傾注して行く様子が伺える様に観える。
「松阪面談」と、この上記の「天正期逸話」には、“江戸期に入る青木氏の立ち位置”が、明確に物語っている。

筆者は、「1605年の松坂面談」には、上記した事だけでは無く、可成り「人間的な信頼感」が相互に生まれたと観ている。
「青木氏」に執っては、“「第二期の皇親政治の到来」”とまで心勇んだのではないかと考えている。
現実に直接的に政治に関わる事は無くしても経済的な関わりを含めて間接的に大いに関わった。
中には「享保の改革」や「紀州藩の勘定方を指導」するなど「吉宗の親代わり」で育てた等その様に成って行くのである。

この「紀州藩への関り」に付いては、「逸話や口伝」が多くある。
「逸話や口伝」を、”敢えて恣意的に遺したものではない”と思われる。
恐らくは、「四家の福家」が恣意的に遺したのではなく、「四家の周囲や家人や郷士衆や部人衆」の間に「話の話題」として上り、”それが何時しか「物語風」に伝えられ始めた”とするのが「話の本道」と観られる。
それは、「四家に遺る逸話口伝」と、「家人の家に遺る逸話口伝」と、「郷士衆の家に遺る口伝逸話」と「部人の家」に遺されたものが、その意味するところが不思議に余り違わない事がそれを証明している。
作り上げられたものと云うよりは、何時しか家に伝わる「話の話題」が、「四家」や「家人」や「郷士衆」や「部人衆」の「家伝や家柄」を示すものとして自然に出来上がっていったと観られる。
普通はこの家柄などを誇張する手段とする場合は、[誇張や虚偽」が「逸話口伝」に兎角、目立つ。
これが目立たないのは、「四家、家人、郷士衆、^部人衆」との間柄が大正期まではっきりとしていた事から誇張や虚偽は出来なかったと観られる。
むしろ、「郷士衆の逸話口伝の話題」には、「射和商人の事」を始めとして「青木氏との関わり」を遺している事が目立つ。
上記した様に、「郷士衆の家」から発見された史実には、上記した様に「紙産業の殖産拡大」や「農業の改革」や「養蚕業の育成」の事が四家の逸話口伝を証明するかのように多く遺されていた。

「逸話口伝」と関わりのある事を更に分析を続ける。
そこで何はともあれ、この「関わりの決定的な証拠」は、“「立葵紋の青木氏の発祥」”が、これを大きく物語っている。
この事一つで、“「青木氏の全ての立ち位置」”を大きく換えたとも云える。

(前段の「伝統」で「立葵紋の青木氏の事」を論じているので詳しくは参照)

ただ、この様に「文章表現」にも、「外部記録」とは相違も観られるが、何も「外部記録」だけで「青木氏」を証明する必要は無く、「青木氏」に其れなりのものを持ち合わせていれば、「青木氏」に執っては意味を持つ。
大方は、「伊勢」と「青木氏」から観た表現と成ってはいるが、「青木氏の歴史観」をもっと伴わせれば、更なる「逸話の様な事」も持ち込んで、検証すれば史実を掘り起こせる事が出来ると感じられる。
「無形の伝統」を論じる場合、「青木氏」は「密教」であった事もあり、ただ一つ遺された「賜姓族」であった事もあり、ただ一つの「古代浄土宗」であった事もあり、そこに「生まれた伝統」には、「青木氏」自らが証明しなければならない「宿命」を持っている。
他氏にはない絶対に無い事のみならず理解されにくい事の”「青木氏だけの伝統」”でもある。
そこで、少し戻って、「青木氏年譜」から、更にこの”「青木氏だけの伝統」”を甦らせて試る。

「織田信長」との「面談による話し合い」と観られるのは、“「伊勢和合」”の表現と成っている。
“「伊勢」”と表現しているのは、「二つの青木氏」(信定と忠元)が、「伊勢衆」を含む「郷士集団」を代表しての事と観られる。
この時、「信長」と直接会ったか、その場所等は外部記録では不明記である。
しかし、場所は、“「寺修復」”の事で裏付けられる様に、”「伊勢菩提寺」”で会った事までは、この「青木氏年譜」でも、「寺資料」からも辿れるが、「信長本人」が出て来たかは今は辿れないので判らない。

もう一つは、「松阪の菩提寺」であろうとは思うが、「津市の分寺」の寺かは今は判らない。
状況からは、”「修理」”は両方であろうが、「信長面談の場所」は「松阪の菩提寺」であった事が頷ける。
この“「寺修復」”は、「信長の伊勢三乱」で“ある程度に焼き討ち等で攻撃された事”を意味している。
然し、筆者は、「有名な激しい殺戮戦」を受けた”「攻撃された避難民」”が、この「二つの寺」に「救い]を求めて逃げ込んだと観ている。
ある程度の「ゲリラの背後関係」が疑われていた事が読み取れるが、外部記録を参考にして、“「村人3000人が殺戮された」“とする記録もある事から、織田軍の激しい追跡で「ゲリラ」や「村人」が、遂には、「青木氏菩提寺」に逃げ込んだ事もあったと観られる。
それは、「青木氏の菩提寺」には、「蒲生氏郷」もいる事でもあるし、その「親族の伊勢青木」もいる事でもあるし、「信長」はある程度は「他の寺」よりも、”危害を加えないだろう”と云う「不入不倫の権」の「古来からの風聞」もあった事が影響して、追われた民は逃げ込んだのであろう。
「信長の激しい殺戮」は、「村人3000人」とすると、「6村」に値し、「1郡」に相当する。

そもそも、国は「5郡」程度と成っているから、事実とすると、例え様も無い凄い殺戮であった事に成る。
織田軍も不意を突かれて6000人が死んだと記録されている。
「総大将の信雄」も討ち死に仕掛けたと記録されている。
悉く「寺」は焼かれ、記録では僧侶は700人死んだと成っている。
この数字からは、「伊勢の殆どの寺」が焼かれた事に成る。
「生き残った村人や兵士の者」が、この「青木氏の菩提氏の寺」に逃げ込んだことを意味していて、そこを焼き払い、燻し出して出て来るものは悉く討ち取られた事に成る。

僧侶700人と成れば、古来の村郡国は4から5の構成から成り立っていた事から、最大で125村に成り、そこに寺が1村2寺とすると250寺、そこに僧侶が平均4人とすると、7割は殺戮された事に成り、「青木氏菩提寺」に逃げ込んで来る可能性は当然の事として10割と成るだろう。
「伊勢の寺」の「殆どの寺」は焼かれた事に成る。
この事から、奈良期から「不倫の権」で護られていた「青木氏菩提寺」を知っていた民衆や兵士は逃げ惑い乍らも護られると観て逃げ込んで来た事は間違いはない。
「青木氏菩提寺」は、上記した様に悠久の「不倫の権」にあった為に、「信長」でも手は出さないだろうとする「安心感」があったし、「ゲリラ戦」であった事から外に出ない「青木氏」には手を出さないだろうとする信頼も在った。
唯、「攻める事」はしなくても、“火を放って炙りだそうと脅しをかけた”事は否めない。
幸い記録から、「寺内の殺戮」は無かった事が寺資料から判る。

「伊勢の五戦」での「伊勢側での犠牲者」は、「村人3000人、寺関係者等700人」程度等となる。
これは、当時の村単位500人を前提とすると、何と伊勢北部人口の一割以上に相当するとすると、どれだけ「村人」は逃げ迷ったかは良く判る。
因みに織田側で、全体で兵士6500人程度の戦死者を出している。
最早、これは「ゲリラ戦」と云えども、両者は「戦い」から「殺戮修羅」に成っていた事を物語る。
つまり、「青木氏」が我慢しきれないで「表」に出る可能性のある“際どい戦い”に成っていた事を「青木氏年譜」からでも物語る。
普通なら表に出て仕舞っていただろう。
然し、「青木氏の氏是」がこれを押し込んだ。

「四家」にしても、「織田側」にしても、“何処かで終止符を打つべき時を見つけねばならない“とする考えはあって、「四家」でも議論に成っていた事が「青木氏年譜」でも判る。
結局は、「四家」では、そこで、強硬派を押えて「秀吉−氏郷の斡旋仲介」を試みたと考えられる。
その時期が、「北畠氏−伊藤氏−伊賀氏」と続いた「伊勢の最後の態勢」が決まる「伊賀の戦い」(1581年)のその時と観ていた事が判る。
兎に角iも、会う所の「場所設定」をした事に成るだろう。
その為にも「青木氏部」で「自ら修復した事」が判るし、“「寺修復」すると云う事”は、どんな形にしろ「信長」が来ると云う事も物語っている。
この事は、研究中であるが、「影のゲリラ戦」で応戦した「青木氏」であり、「直接敵対した相手」では無い事から、「第三次」と云われる「伊賀の乱」の終了後の1581年10月9日に、「信長」は現実に伊勢に入国して視察している。
この時に、「秀郷」と共に今後の「伊勢平定」で会っている可能性が充分に有る。
その意味では、“顔を出す程度”であった可能性が有る。
戦略的にはこれで良かったのであってそれ以外には無いだろう。
「伊勢の戦い」で「二つの青木氏」が直接会う大義が「ゲリラ戦」である以上は無い。
従って、「青木氏年譜」から観て、前後に何らかの「伊勢の談合」を繰り返している事から、「代理の可能性」が高く、「蒲生氏郷」に任して代理と成った可能性が読み取れる。
「ゲリラ戦」であった事は明明白白なので、その事から考えてそれ以上は、「信長の主戦者」はいない事に成ろう。

そこで、”「伊勢衆」”で主に構成している「伊勢シンジケート」に発言力を持つ「二つの青木氏」と会って、「会合と云う形」で間接的に話を着けようとした事が「青木氏年譜」の談合の様子で判る。
「事の次第」を治める為に談じる事を「談合」とすると、「談合」では無く「会合」であった筈である。
「信長」気に入りの同族の「蒲生氏郷」が全て自然に取り計らっていた事は云うまでも無いからだ。
当然に従って、「蒲生氏郷」に「青木氏の結論話し」を廻す事が必要と成る事からも、この時期、事前事後に、度々、「伊勢シンジケート」と談合している。

「伊賀の乱」は、外部資料では、「三次の乱」(伊賀城、比自山城、柏原城)であるが、最後の1581年末の「柏原城攻め」では、「伊勢域全体のゲリラ戦力」で「蒲生氏郷」は虚を突かれて苦戦するも、滝川氏に助けられ、何とか一応は形の上で解決した事が記録されている。
しかし、これを以って「伊勢周辺の戦い」は兎に角は収束に向かうが、その後も「ゲリラ戦の混乱」が散発的に続いていた事が「青木氏年譜」からも判る。
外部記録では第三次では終わっているが、更に戦いは続いている事も判る。
「ゲリラ戦」による「外部記録の柏原奪還戦」からも一致している事が判るので、この事からも、「信長の徹底戦法」とは異なる故に、「蒲生氏郷」であった事が伺える。
この時に、この「伊勢の指揮官」であったのは「近江蒲生氏郷」であって、「毛利攻め」の為にも、“「伊勢」“を兎も角も安定させる意味でも、「ゲリラ戦」を指揮していた「二つの青木氏」が仕掛ける「信長の影の背後脅威」をも取り除く意味でも、「二つの青木氏」の「縁籍族」の「蒲生氏郷」が最も“談合に最適な人物”として代理したと観られる。
「信長」除いてこの「氏郷」以外には代理は務まらない。
「外部記録」に載っていない事、“「四日市談」”や“「伊勢談合」”等が記録されていて、当時の「伊勢の状況」が読み取れる。

(注釈 「外部記録」が全て正しいとしての推理で理解される方もおられるが、筆者は、「外部記録」の論説は、「我田引水の論調説」が多いと観ていて、それを恣意的に通説化して正当化している傾向が強いと感じている。)

本論の様に、「内部資料」から観てみると、「外部記録」には矛盾が目立つ事が云える。
特に、室町期末期から江戸中期までの資料は、幕府が容認する姿勢を見せている様に、権威確立の政治上の配慮から“「搾取偏纂」”が殆どであり、歴間で突き詰めると矛盾が浮き出る。
通常は、その「外部記録」や「資料」の「信頼性」を100としての論調が殆どだが、まじめな論説者は“「後勘に問う」”としている。

(注釈 一方の「外部資料」による第三次とする「伊賀攻め」には、一方では、“信長は、「伊賀氏の大将」を「武にある者」は斯くあるべしとして務めたものを誉めそやし許した”として、自説に肯定的に都合よく偏纂している。
しかし、全く同じ場面を、他方の「外部記録」は、“信長は、村人を含む数千人を皆殺しにした”として、「伊賀氏」を全滅にしたと否定している。
伊賀氏のみならず「長嶋の戦い」も同じ偏纂が起こっている。)

(注釈 そもそも、「本願寺石山城外のゲリラ戦」との区別がつかなかった事からの、「伊勢の悲惨な戦い」と成ったと観られる。)
(注釈 敵対した「三氏殲滅」の「信長の戦い方」は、“誰が敵で味方か判らない「二つのゲリラ戦」の混合であった”為に、敵味方共に全滅に期した事は確かで、後者は正しいのだが、この様に、歴史家の自説を通説化する為の偏纂が目立つ。)
(注釈 幸い、「青木氏」には、他氏と異なり、何とか搔き集めた「自己資料」も何とか遺されているので、「外部資料との差異」を具に発見できる。依って、「恣意的、故意的な通説化」が見抜けるが、況や、これらの「青木氏年譜」をも踏まえての「本論の論調」と成っている。)
(注釈 信長自身が「毛利攻め直前」で「武田氏」を滅ぼしたが、未だ「伊勢の事」を放置して「高松攻め」には移動しなかった筈で、この時を境に「当面の打開策」は見出せたと観られる。 しかし、「本能寺の変」(“・「美濃騒動」”)が起こって一時中断し、その後に「氏郷」に「伊勢の収集整理」を任したと成る。「青木氏年譜」の“「美濃騒動」”の表現としたのは、「氏郷の父」が「美濃の守備隊」であった事から間接表現としたと観られる。)

その後の変の後に、この「面談事」が下で、「権威」のみならず、その「絶大な影の力」をも、「秀吉自信」が取り込み、“ 青木氏と関係ある豊臣家”として誇張して、実のところは、“青木氏族の形で取り込もうとした行為“であって、遂のところは、「本領安堵」を根拠に「秀吉の青木氏家臣説と親族説」の元と成ったと考えられる。

(注釈 それを、後刻、“「秀吉」“を信望する歴史家が、「青木氏」が反対しない事を知った上で、所謂、上記した矛盾を多く含む「福井逃避説」等を編み出して、「自説」を正当化する為に歪曲して、世間に「通説化」を成し遂げたものであろう。
「青木氏」からすると、明らかに「歪曲の搾取偏纂」である。)

そこで、話を戻して、これらに反論する意味でも、「青木氏の立場」をもう少し検証して観る。

「青木氏の立場の検証」
つまり、これらの長期戦化した“「ゲリラ戦」”では、四家の”「5つの面 20の顔」”がある事に依って、相手から観れば、”誰が敵かが判らない”と云う事が起こっていた。
「信長側」では、「本願寺城外のゲリラ戦」か、影で図らう「青木氏のゲリラ戦」のどちらの敵であるのかは判らなかった筈であり、この「周囲の影響」を受けて長期戦に落ち至っていた。
「信長側」では、1580年に「顕如」が和睦を認めたにも関わらず、納まる筈の「ゲリラ戦」が続く事に疑問を持っていた事に成る。

(「外部記録」は一つにして論じている。ここにも「人時場所)の「矛盾」が出ている。)

この時、丁度、「石山本願寺との戦い」が城外戦化して起こっていて、周囲では、「一揆」も頻発して、「石山一揆」(1580年−1581年)なのか、「伊勢衆の反撃」なのか、「紀州衆の反抗」なのか混在して、まさしく”誰が敵なのか”は、「信長側」では判らなくなっていたと観られる。

(注釈 外部記録から観ると、何れ「ゲリラ」なのかは判別が就かない証拠として、織田側は、「寺僧侶の皆殺し」や「ゲリラ村の村民を皆殺し」にする等の殺戮を繰り返している。
1562年から1584年までの12年間、特に後半には焦りから激しさを増した。本願寺の顕如が抵抗を止めた結果、これらの全ての「ゲリラ戦」がぴったと止んだかの様に記載されているが、青木氏等の多くの記録では、実際は散発して長く続いていたのである。)

「青木氏」の「伊勢シンジケート」は、然りとても、「ゲリラ戦」を有効的にする為に、多くの資料から「紀州−伊勢の石山一揆」と連動させていたと考えられ、内部で内通していたと考えられる。

(注釈 歴史上では、“石山から「檄文」が紀州の「農民信徒集団」に発せられている史実”が見つかっていて、この存在も無視した「外部記録」となっている。紀州の「三つの傭兵軍団」はこの「檄文」に参応して動いている。
「外部記録の編者の歴史家」が、この「檄文の存在」を知っていれば、「外部記録の様な通説化」の論説には絶対に成らない事に成る。)

その証拠と成るものを探索した結果、偶然に遺された「商業記録」の一部には、この時期の「堺店」での「船の動き」があって、それが少し状況から観て変である。
そこで、当時の事の背景を検証して観ると、「青木氏」としては、「河内のシンジケート」と「ゲリラ戦」で連携しょうとすれば、陸では「信長軍の独断上」であり、そうすると、当然に「山間部」を「ゲリラ戦」では使う事に成る。
そうすると、「織田軍の秀吉」はこの「山間部のゲリラ戦」を突破して「物資の供給」をしなくては成り立たない。
そうすると、南北朝の足利軍と楠木正成の戦いで、足利軍の10万の中で、この山間部のゲリラ戦で食糧不足に陥り2万の軍勢が餓死寸前と成った戦歴もある。
「織田軍」は、この戦歴を知っていて油断は出来ない。
其れには、「陸」は無理であるとすれば、「船」を使う以外には無い。

中部の「今宮シンジケート」は「陸のシンシンジケート」、「河内シンジケート」も「陸のシンジケート」、そこで、唯一、「港と船」を重要拠点に持つのは「伊勢シンジケート」と成る。
この「堺港の不思議な船の動き」は、この事から来ていると観られる。
寄港していた「紀州中部の漁港」は、未だ信長の勢力外で、「伊勢青木氏」の「家人の定住地」にも成る。
「秀吉の紀州征伐」が1584年に行われて形式上は一応収拾がついているが、伊賀では残存兵が集まり未だ遺っていた。
この深い下津港のリアス式港に大船は入れられる。
現在は石油コンビナートの港にも成っている位である。
ここは、紀州北部の中間地の沿岸道からの「熊野古道の入り口」でもある。
ここから紀伊山脈の山岳部に入れる。(高野山にも入山可能な港)
上記した様に、「石山本願寺城外」の「ゲリラ戦」に「浄土真宗の座主の顕如」は、紀州伊勢領域の農民信徒に“「檄文」“を飛ばしているが、この事から、「信長」に対抗する「河内の土豪集団」の「河内シンジケート」は、ここからであれば、この紀州河内一揆に援護が出来る。

(最初、「河内シンジケート」は、取り分け「傭兵鉄砲集団で雑賀忍者族」等は、上記した様に、「秀吉の仲介」で信長と仲が良かったが、「石山本願寺攻め」等の事からの「路線の違い」から、反抗した。その後最終戦を行い討伐される。)

これが、「伊勢青木氏」が「堺支店」のここで連携を採っていたと観られる資料である。

しかし、そもそも「今宮シンジケート」は、戦略上、「秀吉」を強力に援護している事から、情報が漏れる恐れがある。
「伊勢青木氏」は、「今宮シンジケート」との連携には、秀吉が絡んでいる事は承知していたので、その「動き」には注意を払わなくてはならない筈であり、現実には難しく、連携には、それを示す証拠類は全く見つかっていないし、「青木氏年譜」にも出て来ない。
「今宮シンジケート」は、郷士土豪などの「武の集団」を使っての行動する集団では無く、「神社系の組織」を主に使って、「土地の氏子集団」と関連の縁故から、「情報」や「斡旋」を裏ルートで行う「シンジケート」である。
一方、「青木氏」に執っては、全国レベルの500社にもなる日本最大の「神明社と云う直接集団」のみならず、直接的な連携の「武の土豪や郷士との連携」を持っていて、「経済的な連携」も直接に持つ総合的な「シンジケート」であった。
又、更に広域的にも、「信濃青木氏」と連携する「伊勢シンジケート」であった事や、「甲斐青木氏との繋がり」を持っていた事から、紀州を通して伊勢から東域の横にその「シンジケート網の勢力図」を構築していた。
従って、「今宮シンジケートの情報と斡旋」は全く必要としていなかったのである。
むしろ、一部に食い込んでいた範囲であった。

この様な「背景」の事から、連携はしていなかったと観られる。
見つからないのは、そもそも、「シンジケートのゲリラ戦」は「秘匿」を前提としているので見つかり難い。
「今宮シンジケート」は、紀州の「鉄砲製造族で傭兵軍団の雑賀族」や「山岳ゲリラ戦の傭兵軍団の根来族」や「柳生傭兵集団」や「甲賀傭兵軍団」等の傭兵軍団とは、「情報提供」や「斡旋」等の連携を採って居た事は資料から見つかっている。
だとすると、「伊勢青木氏」が背後から「ゲリラ戦」で「山間部」より攻撃を行うには、どうするか問題である。

それには極めて効果的な方法がある。
それは、「伊勢秀郷流青木氏」(忠元)を通じて、「州浜紋、片喰紋、沢潟紋」の中部の「三つの秀郷一門」との連携を採る事が出来る。
「信長」が最も恐れていた「背後」の“「尾張三勢力」”である。
(織田軍の美濃守備隊」は「蒲生氏郷の父」)
“毛利討伐に遠征する信長”の“手薄と成った背後”を、この「尾張三勢力」で突けば簡単に落とされる事を懸念していた。

(注釈 現実に、織田側で議論している記録がある。
「美濃岐阜」は、「蒲生氏郷の父親」(賢秀)が護っていた。
それだけに「伊勢の指揮官の氏郷」に執っては「気に成る勢力」で、その勢力は「秀郷一門の同門の有力三氏」である。
もし、背後を突かれた場合は、「一族争いの悲惨な戦い」と成る。
その意味で、親族の「伊勢の忠元」の出方が気に成る。
先ずは、絶対に刺激しない方が得策である。「信長」も同じ意見であった。)

幸い「今宮シンジケート」は、“「神社系統」を使ったシンジケート”で、「シンジケート」を維持するには、先ずは「経済力」である。
その連携に必要とする「経済力」は「今宮シンジケート」には元より無かった。
依って、その「シンジケートの主力」は直接、「武の土豪集団」を配下にしていない為に、「ゲリラ戦での影の武力」を使う事より、各地の「土豪や傭兵集団」への「諜報活動を主力」としていたのである。
一種の「裏の斡旋業」であった。
「河内」と「今宮」は、「裏の斡旋業」のその意味で、「直接的な連携」は「武」で無い事とすれば、「青木氏」に執っては、これは下式の関係構築には都合は良かった。

「河内シンジケート」←「伊勢シンジケート」→「尾張の三勢力」

依って、「青木氏面談」に応じたのは、「信長」が、「伊勢−河内のゲリラ戦」を操る「伊勢青木氏」(「伊勢青木信定」)は元より、下記した様に、「伊勢秀郷流青木氏」を直接攻めなかった。
なのに、「伊勢青木忠元」との“「両者の面談」”に応じたのは、「信長の背後」で、「青木忠元」が「中部の三氏」を操るこの事に在った。
故に、「秀吉斡旋」(蒲生氏郷が仕切る)の「二名の面談」が起こったのであった。
「商業取引」からの記録としては、この事に付いての行動は「紀州の中部の漁港」に数度に寄港している事にあった。
「伊勢青木氏の商い」は、「海鮮業」は営んでいない事から、「紙問屋」を主力とする「総合商社」としては、何でこの港に出向いたのか不思議である。
それが「伊勢の港」ではない「紀州水軍」のお膝元の紀州下津の極めて馴染みの無い無い港である。
そもそも、「伊勢」では、その動きは織田側に知られる。
「今宮シンジケート」から秀吉に情報が洩れ通じる事が起こる。
元より「シンジケート」に依る「ゲリラ戦」は、その「秘匿性」が主戦術である。
「伊勢」から離れた地元の「常港の堺」では、その「秘匿行為」を起こしてもそうは目立たない。
しかし、もし「堺」で「戦いの作戦上の事」は出来ない事があるとすると、後は、一揆への“「物資補給」”と成る。
それは、「紀州中部の漁港」とする事でも判る。
紀州の山隣の「河内シンジケート」との連携として考えれば、この「不思議な行動」は納得出来る。

問題は、秀吉と通じている「今宮シンジケート」との連携である。
同時期に「石山本願寺城外一揆」や「紀州伊勢の信徒動乱」が起こっている事から、「河内と伊勢のシンジケート」との連動が充分に在ったと観ている。
「秀吉」は「毛利攻め」の準備で忙しいが、この「戦況の情報」を「今宮シンジケート」から具に入手していたと観られる。

(注釈 信長を「毛利攻め」に引き出すには、伊勢と大阪と紀州一帯で起こっている背後を脅かされる「ゲリラ戦の解決」が必要であるが、「信長の過激な有岡城の問題」もあった。
況してや「武田氏」を掃討した直後(1582年3月)でもある。
「伊勢」も、否、社会も信長に批判的に成っていた筈である。
下手をすれば、「尾張三勢力」の「藤氏」に間違いなく背後を突かれる。そう簡単では無い事は充分に判る。)

その「シンジケート」との「内通の目的」は、「青木氏」に執っては、「四家」の「5つの面 20の顔」を使って、「織田軍の軍事品や食料品の調達」に関わり、「調達費の高騰」や「調達品の遅配」や「雑務夫の差配」などで撹乱して、長期戦に持ち込んで「織田軍の枯渇」を狙っていたのである。

(注釈 上記の五戦の内で、「丸山城の戦い」が、最も完全に「織田軍の枯渇」に成功したが、「長嶋の戦い」では「調達費の高騰」、「清蓮寺城戦い」では「雑務夫の差配」、「伊賀の戦い」では織田軍から「城の兵糧攻め」を受けた為に、「調達品の遅配」で応戦した。
然し、「影の戦い」は其れなりに成功している。従って「織田軍枯渇の状況」は当に進んでいた。)

(注釈 「織田軍」へは、「伊勢シンジケート」は「山岳部のゲリラ戦」や「夜間のゲリラ戦」で「疲労戦」を展開した。
結果として、何れも北畠、伊賀、長嶋も「長期戦」に持ち込み、何れもが「第一次、二次、三次の戦い」と成って長引かせた。
「織田軍」を苦しめ、「作戦の計画」が狂い、その影響で、「秀吉」が指揮する「毛利攻め」では「著しい狂い」が出て来た。
秀吉は焦った。何とか「武田氏」は解決したが、「伊勢域」が問題に成っていた。
以上の事柄が上記の「商い情報資料」からも読み取れる。)

「青木氏年譜」では、1582年中に「松阪修復」とあるが、その後に1582年に・「美濃騒動」とある。
「本能寺の変」の直前であり、一体何を意味しているのか疑問である。
年譜の「伊勢談合」の後である。
そもそも、「青木氏年譜」が「松阪の事」、つまり、「四家の事」に直接触れているのは珍しい。
年譜の「伊勢談合」の前に、「ゲリラ戦」も収束の方向にあり、シンジケート内部も納まりも付いて来た時期にあり、「話し合い」も就いた。
特筆する問題は表向きには見当たらない。
何か「伊勢シンジケート」からの「極秘の情報」が「松阪」に在って、「四家の福家」が対応策について考えていて、この時、丁度、「シンジケート」から「毛利の高松城支援の失敗(1582年5月/21日)情報」で、その「毛利勢力」に陰りが観えて、“「織田天下の様相」”が明確に成った事の「極秘情報」であったと観られる。
その直前には「伊勢談合」もあった事も合わせて考えると、“「反織田の方向」”に付いて修復、つまり、“「反織田」は中止する“を「伊勢衆と伊勢シンジケート」にも図った事が成功したと考えるとこの事は納得出来る。
この検証の問題は、高松城の状況を、逸早くどの様にして「情報」として入手したかの問題である。
放っておけば1ケ月くらいで入る情報であるが、後勘でみると、年譜からそんな時間は無かった筈で、急いで入手している。

これは、恐らくは、黒田氏からの情報であったと観ている。
黒田氏は青木氏守護神の近江神明社の住職の家柄で、近江佐々木氏の支流末裔であり、佐々木とは近江佐々木氏系青木氏があり、元を質せば兄弟の同族であった。故に神明社の親族であったのだが、この黒田氏も「御師」と云う立場から「諜報活動」をしていた事は黒田氏の記録史実から明らかである。
依って、「神明社」を通じて、「松坂の四家の福家」と「伊勢シンジケート」に、この「毛利の後退」で、“「信長天下の情報」”が逸早く入ったと観ている。
場合に依っては、「黒田氏」が「伊勢の懸念」が「毛利攻めの信長出陣」の妨げに成っている事を憂慮して、敢えて、「伊勢衆」との和解に動かす為に青木氏側に送った情報ではないかとも考えられる。
とすれば、「同じ情報」が信長側に届いていなければならない事に成る。“届いていた”と観る。
故に、「毛利攻め出陣」に対して「信長」が腰を上げた事に成る。
それで、総指揮官の「織田信雄」が討死に成りかけ、「蒲生氏郷」も全滅の直前に滝川一益に助けられると云う程に、双方に1万人の多くの死者を出す無理押しの「伊賀の激戦」と成ったと観ている。
そこで、残るは「背後の憂い」を無くする事を目的として、“「伊勢衆との面談」”と成ったと観ている。

(注釈 ところが、1ケ月後に光秀謀反の異常事態が発生した。
その前にも石山本願寺は毛利の支援の撹乱戦法化で反抗していたが、その「本願寺」そのものは、紀州域でゲリラ戦が散発していたが、ほぼ1年前に顕如と正式には1580年に敗戦講和していた。
つまり、大方の「勝負の方向性」が就いた事を意味する。)

この「ゲリラ戦の伊勢情報」を「秀吉」は、逸早く「今宮シンジケート」から入手していて、“戦況に危機感“を抱いていて、この侭では”「毛利攻め」“の発端を掴めないとして、「青木氏のゲリラ戦の深意」も「今宮シンジケートの情報」から掴めたところで、「伊勢の指揮官の蒲生氏郷」を通じて「青木氏との面談」の合策を先ずは果たし、遂には「信長面談」に持ち込む事に成功したものであると観られる。
恐らくは、この事で、「伊勢攻めの大将」の「蒲生氏郷との連携」を採った事が読み取れる。

(注釈 「蒲生氏郷」の「伊勢」は、1568年、1569年、1571年、1574年、1575年、1578年、1579年、1581年、1582年の「伊勢攻め」全てを任されている。
1583年の「賤ケ岳戦」後に、改めて「秀吉」より「伊勢」を任され、1588年には「松阪城完成」させるも、1590年に陸奥転封に成る。
1582信長没後に「蒲生氏郷」は「秀吉の配下」に入り「伊勢」を続けて任される。)

「秀吉の毛利攻め」と「氏郷の伊勢攻め」は、織田氏に執って戦略上は、「最大の相関関係」にあって、「秀吉」は「氏郷」と「交渉」を重ねていた。
その為に、「氏郷」は第三次の最後の「伊賀問題」の解決直前に、苦肉にも、敵としているも「相互血縁関係」(「氏郷の祖父」と「忠元の父」は兄弟の親族関係」)にあった「伊勢衆との談合」を何度も重ねていた事が「青木氏の年譜」からも判る。

この資料の解析から観て、丁度、この「四家制度」は、この様に、「ゲリラ撹乱戦法」と「伊勢シンジケート」と云う「特殊な抑止力の組織力」は元より、「青木氏」に“「網を被せた様な役目」”を果たしていた事に成っていた。
この為に「伊勢三乱の五戦」の戦いの「表の記録」には、「青木氏」は一切出て来ないのはこの事に依る。
しかし、マニアや小説家を含む「歴史家」の中には、この「裏記録」を持っていて、「青木氏」は出て来る。
これを調べると、伊勢域の土豪や郷士集団から成る「伊勢シンジケート」を通じての「手紙類」が遺されて、それが、所謂、「歴史家」の手に渡っている事から出て来ている。

(注釈 現在の「ネット社会」や「歴史マニア」なども含めて、この様な「裏記録」が「表記録」として研究材料に一際広がっている傾向があり、特に、戦国時代と江戸期中期までの資料が出て来る。
興味深い事で、取り分け、“搾取偏纂で通説化を謀った記録“には、「裏記録の真偽」を確認した上でのその「矛盾」が露出し始めている。
上記の「本願寺檄文」などは当にそれであろう。
「古の歴史家」が遺した資料には、この「恣意的な通説化」は行わず、必ず、“後勘に問う。“とする”正しい態度の発言“が徐々に動き始めた気がする。
ただ、この”「裏記録」が「表記録」に成らなければならない“とする「杓子定規な考え方」は残念ながら筆者は持たない。
それは本論であれば、”「青木氏の範囲」で留めればよい“し、それは、”「ロマンの範囲」で遺せれば良い“と考えている。
”より「歴史観」に富んだもの“で有って欲しいとするもので有る。
尚且つ、この事に付いて論じられる立場は、「青木氏」にだけしかない。
「青木氏」にしか出来ないであろう。
「青木氏」が黙ればその範囲で終わるが、それだけに幸いに「自らが持ち合わせている資料」との「突き合せ」にて、より真実に近い「先祖の生き様と伝統」を遺す事に意味を持っている。)

ところが「秀吉」だけは、「今宮シンジケート」から、「二つの青木氏の事」を情報入手して知っていた。
つまり、「織田軍」に執っては、そもそも、「青木氏」が前面に出て戦っている様には観えていなかったのである。
この様に「青木氏の戦い方」は、“「丸山城の戦い」”の例に観る様に、「四家の20の顔」と「伊勢シンジケート」を使っての徹底した「ゲリラ戦」であった事から、「織田側」では、見分ける事は全く出来なかった筈である。
何れにしても「織田側」では「不毛の敵」であった。

(注釈 「青木氏のゲリラ戦法」は、「青木氏の記録」から観ると、「僧侶・神職」、「楽師」、「郷士」、「商人」、「村主・豪農」、「職人・大工」で「織田側」と何らかの形で接している。
「青木氏の顔」は一切出て来ない。
「外部資料」では、「北畠氏、伊賀氏、伊藤氏、永嶋氏」の「伊勢四氏」に関わる「伊勢攻め」に出て来る人物は、「僧侶・神職」は二人、「楽師」は一人、「郷士」は三人、「村主」は一人、「豪農」は一人、「職人大工」は二集団、「四氏の家臣」は二人、以上の10人と二集団である。詳細は別途)

これらの内容は、外部資料から観ると、次ぎの三つに成る。

(イ)「談合、裏切り、仲介」
(ロ)「伝言、案内、敗戦処理」
(ハ)「商談、道案内、城修築」

以上の三つ内容に関わっている。

これらの人物は、「青木氏の資料」からは、次ぎの関係種に成る。

青木氏の「内部」の「20の顔の仮装人物」(A)
青木氏の「意向」で動いた「関係人物」(B)
青木氏の「関係」で働いた「郷氏・郷士」(C)

以上の三パターンに分けられる。

(A)は、「四家人物」
(B)は、「四家家人」
(C)は、「伊勢シンジケート」

以上で役割を演じていた事が判る。

外部資料には、次ぎの様に成っている。

「戦況」 (イ)  に関わった人物は、(C)の「伊勢シンジケート」
「準戦況」(ロ) に関わった人物は、(B)の「四家家人」
「戦備」 (ハ) に関わった人物は、(A)の「四家人物」

以上で、突き合せて観ると完全とはいかないが、以上の傾向であった事が読み取れる。

外部記録に出て来る(A)(B)(C)の人名は、内部記録にある「伊勢シンジケートの郷士」や「四家の人物」である事が酷似し確認できるので、明らかに「ゲリラ戦」を展開していた事が判る。
取り分け、「織田軍の軍需品等の調達」には、明確に「伊勢豪商紙屋長兵衛」や「堺の紙屋」の固有名詞が出て来る。
これらを「駆使してのゲリラ戦」であった事から、結局は、「秀吉−氏郷の青木氏の仲介面談」に繋がったのだが、しかし、「ゲリラ戦」で、戦局は長引いた結果、結局、面談後の直ぐ後の1582年に「本能寺の変」が起こった。
その後を引き継いだ「秀吉−氏郷」に依って「伊勢の戦い」は打ち切られ、「青木氏」と「一部伊藤氏」は「本領安堵」されて伊勢松阪に戻ったのである。

(注釈 続けていれば、[殺戮のゲリラ戦]と成るし、「氏郷」としては、縁者関係族である事からも打ち切りたい事の意向と内情の説明をして秀吉を説得したと観られる。)

現に、1583年から1584年の間の「賤ケ岳戦」と「小牧の戦い」「北の庄戦い」には静かにしていた。
ゲリラ側がやろうと思えば、秀吉の背後を突けるし、「戦況不利」に成っていたが、そうでは無かった。
光秀は期待していたかも知れないが、「伊勢衆」は動かなかった事の意味は極めて大きかった。
「氏郷の説得」にも、事前の「青木氏等処置」も効果的に働いて、それを「伊勢衆の深意」として秀吉は租借し、「殺戮」をも避ける事としてもより大きい「本領安堵の形」へと進んだと観られる。)


行動としては、「青木氏」と「一部伊藤氏」等は、先ずは南伊勢に近接する紀州新宮に引いていたが、その後に“本領安堵された“と云う事は、秀吉は、”「五戦のゲリラ戦の正体」”を、秀吉に協力した「唯一の情報パイプ」であった「今宮シンジケート」からも知っていた事に成る。
そして「新宮」に引いていた事そのものが、「秀吉」に執って「本領安堵」し易かったことに成った。
恐らくは、「近江秀郷一門」の「蒲生氏郷」(「秀郷流伊勢青木氏」の同門縁籍)の意見も入れての行動を採った可能性が高い。

(注釈 「伊勢秀郷流青木氏」は、「蒲生高郷」の子の「梵純」が「伊勢青木氏の跡目」に入り、その子の「忠元」が引き継ぐ。
「蒲生氏郷」は、「蒲生高郷」の曾孫に当たる。)

つまり、「高郷」から観れば、「孫の忠元」と「曾孫の氏郷」の関係で、全くの親類であり、「氏郷の祖父(定秀)」と「忠元の父(梵純」」は兄弟の関係にあった。
この事が、「伊勢の収拾」に全ての面で大きく関わったのである。
この関係が無ければ、「二つの青木氏」も「伊勢の戦い」に巻き込まれてどうなっていたかは判らない。
恐らくは、「伊勢シンジケート」を巻き込んで上記の双方に影響の出る「ゲリラ戦に依る殺戮戦」に成っていたとも考えられる。
全国に配置されている秀郷一門を巻き込んだ歴史上に遺る最大の戦いと成った可能性がある。
唯、必ずしも、”青木氏は潰れていた”とは思わない。
筆者は、勝っていたと観ている。
”勝っていた”とすると、”歴史は変わった”と普通は考えられるが、勝は勝が、唯、”天下を差配していた”とは思わない。
それは「青木氏氏是」にある。
青木氏は、向かってくる敵を排除するが、結果として「織田氏」を排除する事には成るが、「天下の考え」は全く無かった事から、「織田氏」は負ける事で衰退し、結局は「他の反対勢力」に潰されていた事が考えられる。
筆者は、その勝者は「徳川氏」であったと観ている。

結局は、「二つの青木氏」の描いていた絵図通りに成ったのであるが、この程度の絵図の事は覚悟していたと観られる。
それだけに、上記した様に、「本論の徳川氏との関係」に惑わずに走ったのである。

つまり、この絵図の為にも、逸話の意味の通り「新宮避難」を実行したのである。
この絵図の違いは、間に「秀吉」と云う人物が入った事に成るだけである。
この絵図の塗り替えに「新宮避難」の「絵図の修復」で書き換えたのである。
その程度のことであったと観られる。
故に、「青木氏の親族の氏郷」と共謀して「高松城攻めの食糧調達」に合力したのである。
何も、”秀吉政権に胡麻をすった”と云う事では無かった。
又、「松阪城の変革」にも「経済的な改革」で協力したのであるが、「伊勢の発展」に尽くす事のいみがあった事に依るだろう。
「商業組合の結成」に進んだのである。
何一つ、「秀吉の為」には成っていない。
むしろ前段でも論じたが、余計な事に多少は振り回された事は否めない。
何も無かったと云う事は無かろう。

一時、「青木氏」等は、「北畠氏と伊賀氏の戦乱」を避けて先ずは”新宮に避難した”と見せかけて、「秀吉」に、“「青木氏等」を救う「絶好の口実」を与えた“と観るのが正しい。
「遠祖地の新宮」に避難したとするのは、あくまでも「四家の福家」の行為であって、「青木氏全体」の事の為では無い事がこれを証明している。
この「新宮」は「悠久の青木氏の遠祖地」でもある。
「長嶋攻め」の「伊藤氏」の末裔は、必要以上に「戦い」を避け同調して「青木氏」と共に南伊勢の縁籍地の「尾鷲」に避難した。
この「避難地」でも「戦い」を避ける「口実の地」である事が判る。

(注釈 「青木氏年譜」では「伊藤氏」は「青木氏」と打ち合わせている。)

「蒲生氏郷」が伊勢松阪で採った「武と商の融合城郭都市構想」に「青木氏四家」を救う理由を見出させる事が出来る。
「避難地」から戻った「四家の福家」は「青木氏年譜」からもこの構想に邁進している。
これで、「秀吉政権」に対しても一応の対応は出来た事に成り、「避難の口実」は成り立ったのである。
其処には秀吉に対して「氏郷の調整」が充分に働いていたと観られる。
「避難」だけの戦略効果だけでは無く、「氏郷の調整」が相伴って効果を発揮したと観られる。

「四家制度の強み」
その効果かを発揮したところで、何故、「青木氏」がこの強みを発揮したのかは、その基礎的な無形の要素を見つけるには、逸話や口伝とそれに伴う資料の発覚と分析に在る。
資料の発覚と分析では、この「無形の事」を描きたせる事は難しい。
其れには、本論の「逸話と口伝」との照合は「青木氏だけの史実」を浮き彫りにするには「必要不可欠な資料」である事に在る。

そこで、考察して置く必要があるのは、「ゲリラ戦の長期戦」が続いていた場合、果たして、「伊勢衆」はどうなっていたのか疑問を持つところである。
つまりは、「四家制度」で持ち堪えていたであろうか。
結果としては、上記でも論じたが、この“「四家制度」”は、1000年の中で、「二度目の存亡危機」の「青木氏」を救った事に成るのだが、実はその答が明確に出ているのだ。

それは次ぎの事にある。
「青木氏」の「逸話や口伝」を照合の為に全て書き出す事は難しい。
「元禄の時の紙屋の行動」や「室町期末期の豊臣家との夏冬の戦い」や「源平時の青木氏の取り組み具合」等多くある。
「逸話や口伝」を遺す上で重要である事は承知しているが、如何せん「個人情報」も中には含んでいて公的にする事は憚られる事もある。
結果として、「逸話口伝」と照合していると云う事でお読み頂きたい。
取り分け次に論じる、「丸山城の戦い」には二つの小説の様な逸話が遺されている。
「一つは、「四家の家」と、もう一つは、「郷士衆の家」に伝わる。何故か内容の物語の筋は良く似ている。
「郷士の家の逸話」は最早小説である。
この「郷士の家」の誰かが、この「逸話」を「逸話形式」を超えて「小説風」に仕立て直したのではないかと観られる。

(註釈 この「徳川氏の合力」に際して、「沿道警備」と「沿道食糧準備」に付いて「郷士の家」には「逸話」が遺されていたが、どの様に伝えられていたかは判らない。)


・「忠元の行末」
その後の「秀郷流青木氏」の行く末を決める大事な事が起こっていたのであり、ここで特記しておく必要がある。
唯、ここで、先に述べておくとすれば、この“「伊勢衆」”の中に、“「不思議な現象」”が起こっていたのである。
それは、伊勢の「特別賜姓族の秀郷流青木氏」も、“「権威の象徴」の「氏族」”であり、その最も色濃いところに居た。
にも関わらず、「信長」には、”手厳しい扱い”を受けていないのである。
「伊勢賜姓青木氏」と「同じ行動」を採っていた。何故なのかである。
「信長」は、この「伊勢秀郷一族」を攻めた場合、東から「尾張の秀郷一門の州浜族等の三勢力」が背後から襲い掛かられ、南から「紀州の州浜族」が動き、伊勢の「結城長嶋族」も、更には、関東からも秀郷一門の本隊が、西の関西の近江滋賀域からも別働隊が襲い掛かって来る事は必定である。
もし、この行動が起これば「織田軍」に執っては苦戦していた「伊勢の戦い」と「石山の戦い」を抱えていては、幾ら何でも「織田軍」は耐えられない事は判る。
まして、何れも、戦績のはっきりとしない「消耗戦のゲリラ戦」であった。

(注釈 「丸山城の戦い」も然ること乍ら、「南北朝の足利氏との戦い」も「10万の軍」の二万の軍勢に餓死に近い状況を経験させる等させる程の「ゲリラ戦の消耗戦」でも、歴史上は有名であり、その「ゲリラ戦歴の恐ろしさ」は例え「信長」でも充分に知っていた筈である。)

「第二の宗家」とする「秀郷一門の護衛軍団の青木氏」の「秀郷流大軍団」を相手にするのではなく、「伊勢の戦い」は、要するに、「各個攻撃」と「謀略」で攻め落としたかったのであろう。
その為にも、「伊勢の特別賜姓族青木氏」と同族と成っている「皇族賜姓族の青木氏」を含めて敢えて攻める事はしなかった。
その証拠に、信長没後に、秀吉は、“伊勢の長嶋の始末”は一応は就けたものの、親族縁者関係にあった秀郷一門の「近江の蒲生氏郷」を続けて差し向けて、伊勢は“お構いなし”として「本領安堵」したのである。
「蒲生氏郷」も「伊勢の指揮官」とは云え、敵対する相手の主力は、縁者親族一族といった「本来の味方」そのものであった。
その意味で、「同族の殺戮」を苦汁を呑みながらも攻めなければ成らなかった事からすると、「秀吉」に味方する事の意味は大きく、続けての「伊勢守護」(27万石/55万石)として、新型の城郭建設などの「伊勢建設」には、「伊勢衆の力」を結集する事に成功したのである。
ところが、実は、「秀吉自身」に執っては逆であって、この「伊勢衆」の「秀郷一門の恐ろしさ」を良く知っていた。
それは、この直後(1590年)に、「秀郷一門の勢力」を弱める為に、陸奥勢力(結城一門白河氏)から攻め落としにかかったが、「秀吉の戦歴上」で、慌てて「無理押し」して「最悪の戦死者」を出しても潰した。
しかし、「背後から白河援護」に迫り来る関東の「結城の秀郷一門」を横目にしながら大阪に慌てて逃げ帰った戦歴を持っていた。
この時(1590年)、「伊勢の秀郷流青木氏」の「青木玄審允梵純」(忠元の父)成る者が、伊勢から「陸奥応援」に駆け付けていて、「下総結城」からの援軍も近づいた事から、背後を突かれた豊臣軍が、これを察知して軍を本道では無く「北陸道の商道」を使って大阪に慌てて引いた。
この事を知って、「伊勢青木玄審允」(忠元の父)は「結城」に立ち寄り「伊勢」に戻っている。

(注釈 「青木玄審允梵純」には、「正没不詳」(1530年―1598年頃)で、「近江蒲生高郷」の子で、「近江一族の跡目争い」から敗れ、遂には「母方の伊勢青木氏」の氏名を名乗って、「伊勢秀郷流青木氏の跡目」を継いだ。
この子供が上記の跡目の「青木忠元」である。
「氏郷」とは「高郷」の「孫の忠元 曾孫の氏郷」の「親族」である。
この事は「二つの伊勢青木氏」に執っては「生き様」から最も重要な要件であった。)

この事でも、「伊勢秀郷一門」を攻め落とす事は、難しいと観て避け、改めて同門の「近江秀郷一門」(蒲生氏)を差し向けて“「取り込みの作戦」”に出たのである。
つまり、この「経緯の事」もあって、「伊勢」は、“「お構いなし」”として処理したのである。

(注釈 “「青木氏」を前面に押し出した戦い方”をしていれば、局面は、放置する事は出来ず、恐らくは間違いなく違った形には成っていただろう。
しかし、“顔の観えない「商い」を利用した「ゲリラ戦の攪乱消耗戦」”であった為に、且つ、「青木氏氏是」に依って、「権威」を必要以上に利用して、“「時の勢力」に抗する態度“は採らなかった事により、政権側に「本領安堵の機」を与えた可能性が有った。)

それは、この事に付いて詳しく口伝されていて、且つ、其れらしき諸書があって、これ等の総合的な遺記録から観ると、大きくは”「蒲生氏郷の進言」“にあった事が察せられる。
「蒲生氏郷」は、「伊勢松阪」に「ヨーロッパ型の商業都市」と「武家を集めた官僚都市」の「融合城郭都市」(1588年)を構築した。
これは記録から観ると、「経済学者」で「歌人」で「軍略家」で「豪傑」であって、その人柄は「律儀」で、依って、「人望」も極めて高く、誰一人否定するものはいなかったと云わている。
且つ、家臣の中でも若い頃から最も「難しい信長」に信頼され、婚約して娘を嫁がせた程の「秀才氏郷」も、“没した信長の思想”と一致していたのであった。


(注釈 「信長自身」が「経済学者」の“「氏郷の考え方」の影響”を受けていたと観られる。
「青木氏口伝」にも「氏郷の人柄成」は遺されている。)

その勲功から「知行倍増の目的」からの「1590年奥州転封」の影響は図り得ないほどであった事を物語っている。
その意味で、“「青木氏の恩人」”とする言葉が遺されているが、「二つの青木氏」は、「本領安堵」のみならず、「青木氏の四家制度」を積極的に容認した人物としても評価していた。
そして、「伊勢秀郷流青木氏の土台」をも築いた人物としても評価していた。
それは、後に「頼宣」によって「紀州藩の主要家臣団」に採用される等の“「青木氏拡大の恩人」”としても評価していた。
「頼宣」も「最高の政治力」を発揮したが、「家康のお膝元に置いて徹底教育を受け信頼されていた「10男の頼宣」は、「青木氏の官僚団」を活用し、その才を発揮した。
しかし、これが元で「将軍から妬嫉」で謀反の疑いが掛かる程であった。

「紙屋長兵衛」も「頼宣」よりの依頼で、「紀州藩勘定方指導の役目」を引き受けて、「主要家臣団の秀郷流青木氏」を助けた。

(注釈 「二つの青木氏」に執っては、この「蒲生氏郷」と「徳川頼宣」は、「青木氏の恩人」とする口伝が遺されている。)

「不倫の地の伊勢神宮」のお膝元に、この前例のない聖地に「新しい形の城郭都市」の建築を提案し、それだけに「秀吉」はそれを容認した。
この事は、「信長」も、それなりに「青木氏」に対して容認していた事を示す事にも成り、その為にも、”「商業と武家」の両面を持ち、“「惹け」し「利得」を主張しない「権威の象徴」”としての「青木氏」(「二足の草鞋策」の「伊勢賜姓青木氏」)”を是非にも安堵する事が最適として利用した事を意味するものである。
勿論、「氏郷」にしてみれば、「親族の伊勢の秀郷流青木氏」と、遠縁に当たる一族の「伊藤氏」と「長嶋の戦い」で敵対はした。
しかし、本領安堵する事は当然の事として、彼らも「城郭都市構築」に導いた。
「伊勢の青木氏」は、この「城郭都市」の中心部の三区画(9番から11番区画)をも与えられ、且つ、「南紀州の旧領地」と「北と南伊勢の管財」を含む全ての「本領安堵」の「破格の扱い」を受けたのであった。
「伊勢秀郷流青木氏」も改めて「東伊勢の本領安堵」(郷氏)を受け「氏郷の配下」に入った。
つまり、「青木氏の四家制度」(商と武を併せ持つ氏の制度)は、「信長の岐阜城郭都市」に匹敵する「氏郷の伊勢の城郭都市構築」に向けて是非に必要とされ、「四家制度」は「氏郷」に容認され維持されたのである。

この「氏郷と二つの青木氏」との関係を観ていた「家康」は、開幕時、逆手に取って、「伊勢の秀郷流青木氏」を“「紀州藩の骨格」”に据え、関東では「御家人」「旗本」「幕府官僚」に積極的に取り立てて、自らも「藤原朝臣の姓」を名乗って、“「権威」”を獲得して“取り込んでしまった”くらいでもある。

(注釈 「伊勢青木氏」は、初代頼宣より「二足の草鞋策」を更に進める事の容認と共に、改めて、臣下ではないが、頼宣より「紀州藩勘定方指導役」を請けた。)

(注釈 「秀吉」は、「伊勢秀郷流青木氏」をその恐れから家康の様には積極的には無く「取り込み方」が異なった。
この間、一時期「秀郷流青木氏」は「氏郷配下」に成り得たが「伊勢郷氏」として生きた。)

秀吉の権勢中は、「関東の青木氏」を含む「秀郷一門」も出来る限り関東より東に追いやった。
それと同時に、「秀吉」の「徳川氏の関東へ転封」では、この「秀郷一門との調和」が取れないだろうとの「秀吉の見込み」から「徳川氏の衰退」を狙った。
しかし、「家康」はその逆手を使って「秀郷一門一族」の「取り込み」に成功したのである。
開幕後は、紀州藩は、「家康の意向」から「伊勢秀郷流青木氏」を従って「紀州藩骨格」に据えたのである。
これは非常に「重要な事柄」で、これで「伊勢の秀郷流青木氏」は生き延びられて「氏の安穏」は約束されたのであり、歴史上の最大の良好な事件であった。

この様に、“「伊勢衆」“は護られたのだが、長引いたとしても、戦略上、”「伊勢衆」“を取り込む以外には結果的には無かったと観られる。
誰にも抗らう事の出来ない“「世の流れ」“はその方に向いたと観られる。
「北畠氏」の様に、朝廷と繋がり「武力」で「織田勢力」に立ち向かう者が元より居ない「権威の伊勢四衆」であったが、同じ“「権威」”であっても、「比叡山」や「石山本願寺」の様に“「権威」”を楯にその「利権」を護ろうとして抗した者でもあった。
「織田側」にしてみれば、「北畠氏」と「伊賀氏」と「伊藤氏」は、兎も角も、伊勢には“「嫌う権威」”はあるにせよ“「抵抗勢力」”とは成らなかった。
且つ、「氏族」を前面に押し出して戦うのではなく、「シンジケート」を使って「ゲリラ戦」の「消耗戦」を仕掛ける戦法であったことから、「雌雄を決する必要性」は織田側にはむしろ無かった事に成る。
依って、「武力」を前面に押し出した「北畠氏」と「伊賀氏」と「伊藤氏」のみを抑え込み、或は、潰せば、「織田勢」としては、「初期の目的」は達し得て居た事に成る。
この“「青木氏面談」”と云う行為が「伊勢の方向性の流れ」を決めた事に成る。
その意味で、「秀吉−氏郷」の“「青木氏面談」“は「伊勢」に於いては大きな意味を持っている。
「秀吉家臣説」は、その「単なる過程の事」に過ぎないし、利用された“「青木氏四家」”には上記の「青木氏年譜」で観る様に、確かに「騒ぎの種」には成っているが、大きな被害の結果は無かった。

(注釈 「伊勢の戦い」は、“「青木氏四家」”に執っては、「時の流れ」に引き込まれ、止む無く「時の流れ」に身を任せながらも、“「信長」に依って発奮し強く成り、「秀吉」に依って「流れ」を止める土台を築き、そして、幸いにも「氏郷」に出会った事が、この「流れ」から這い出せる事が出来た。
そして、「家康」に依って息を吹き返した” と云っても過言では無い。
江戸期は、更に「紀州藩」に依って、保護の下での「四家制度」では、更に、「商い」を基に250万石以上と云われた財を築き、永遠のパートナーと成った「伊勢シンジケート」と共に大きな成長を遂げた。)

・「立葵紋の青木氏の意味」
この事から、この時の「四家制度」は、次ぎの「三つの機能」を以って、次ぎの様に成って護られたのである。
(A)「子孫存続」の「安定システム」
(B)「賜姓五役」の「実行システム」
(C)「氏の存続」の「防護システム」

本来の目的(A、B)の外にも、上記の様に、「時代の変化」にも対応する(C)の機能も働いていたのであり、“「流れ」を引き寄せる働き“をしていた事が良く判る。
但し、上記する「青木氏の氏是」(「権威」を「武器と利得の対象」とはしない)を前提とする事に在った事も見逃せない。

(“世に晒す事無かれ、何れ一利無し、世に憚る事無かれ、何れ一利無し。”)

先ずは、(A)の「子孫存続」の「安定システム」では、「子の定義」に依って即座に「跡目」に成ると云う事では無く、「婿養子」と云う形で入る等の「外部からの侵攻」を「防ぐ能力」を保持していた事が判る。
江戸時代までの社会構造の「氏家制度」の中では、この頻繁に行われていた社会現象の“「婿養子」(婿入り)”は、「青木氏」では「社会の傾向」とは一致せず“「取捨選択される仕組み」”ではあった。
ただ、必ずしも「青木氏」に執っては排他的なものでは無かったが、上記した“「四家方式」”の中で「純血性」を護りながら、「嗣子」を作り上げ、それを「5つの面 20の顔」の継承者としていた。
その為に、結果として、下記の注釈の「入り婿:婿養子」制度は、採用されていなかったのである。
況や、社会とは異なった制度を、“「賜姓族」と云う「権威の象徴」の立場”を護る為に採用して居た事に成る。

(注釈 室町期では多くは、「嫡子外」は、「部屋住み」か多くは「僧侶」に成る等の風習であったが、下剋上や戦乱に依って、武家社会では、“「横の関係」“が重視され、「縁籍関係」を縦横に組んで、「氏」を護ろうとする「社会構造」に変化して行った時代でもあった。
云い換えれば、「氏家制度」の成長期とも云える時代でもあって、その為には、「縦横の縁籍関係」を構築する手段として、「嫡子外」の嗣子を“「入り婿制度」:「婿養子」”と呼ばれるもので生かして、社会の中に構築されたのである。)

前段までにも論じたが、ただ、「四家方式」の内の「子の定義」に関わる「嗣子」は、全てが”「跡目の前提」である”と云う事では無かったが、“「特殊な立場」”にあって、“「四家制度の弱点」”であると云う判断もあった様で、この為に、「一定の距離」を置いてのものとして扱われていた。
「跡目養子」も「婿養子」も「子の定義」に晒されて、「四家主役の福家」に取捨選択されて、「家」を任される事に成る仕組みで、「現在の人事制度」に類似するものでもあった。
そして、江戸時代には、この「四家制度」は、むしろ“成長遂げる源”と成って行った。
明治期の激しい社会構造の中でも、他氏とは異なり成長を遂げた。
要するに、弱点とする「婿養子の縁組」は、上記の様な「世間の荒波」に晒され、「青木氏氏是」を犯す事にも成りかねない事が起こりやすい事から、避けていたのであった。
依って、「青木氏氏是」を護る事では、ここで、要するに、“「世間の謀略」”に晒される事は無く成る事に成った。
「江戸時代の250年」の「安定した存続」はこの事を物語っている。

逆に云えば、「四家制度の弱点」とも云えたが、「青木氏」を一切断絶させる事も無く、「笹竜胆紋の家紋変更」の事態に成る様な事も一切興らなかった事は、「1440年間の純血性」を護れた事を意味し、“稀に見る氏族”を護った事に成る。
(明治35年を以ってこの任を解いた。)

次ぎは、(C)の「氏の存続」の「防護システム」では、「四家方式」の「子の定義」で、先ずは「婿養子」として入ったとしても、その「人物評価」が先に成される等のシステムが働き、上記に論じた事態が起こっても微動だにしなかった。
況して、これは、「世間の慣習」とは異なり、「四家方式」が在る為に、直接に、”四家を牛耳る”と云う事にはも成らなかったし、周囲とは異なり絶対的な“「本家制度」”を採らない“「青木氏の四家の合議制」”が「防護の根幹」に成っていたのである。
現在に観る「社会システム」が、「二つの青木氏」に於いては、「奈良期からのシステム」であって、そのシステムが「古い氏家制度」の「封建社会」の中でも、大いに働いていた事を示している。
恐らくは、「四家制度」に示す“「青木氏の伝統」”は、他に類を見ない「賜姓族」としての「古めかしい氏」であって、「密教」と云う「50程の慣習仕来り掟」に「縛られた概念」を持ち、それを実行し維持して来た「唯一の氏」である。
然しながら、この様な「新旧を併せ持つ氏」は、“日本広しと云えど無い”と考えられる。
これは、「封建性の高い氏家制度」の中で、且つ、「密教性の高い概念」を持ちながら、“「四家の合議制」“を採用して居た事は、異質にはなるが、これを“融合していた処”にその強みがあったと観られる。
一見して論理矛盾とも観られるが、現実には、ここに生き延びている「青木氏」である。

(注意 1565年から1569年までの「伊勢の織田氏の調略」では、資料では“「入り婿」”と表現されている。
「戦乱の中」では、「子孫存続」の為には、周囲は「跡目」が不足する状況からこの“「入り婿」“に総力を注いでいた事が読み取れる。
しかし、「青木氏」では逆に避けていたのである。
恐らくは、「婿養子」を取り込んでいた場合は、上記する荒波に呑まれて「滅亡の憂き目」を受けていた事は間違いはないだろう。
その理由は、「青木氏氏是」が壊れ、「シンジケート」が崩壊し、「権威」が低下して、遂には”「四家制度の根幹が崩壊する」”と云う「自然瓦解」が起こった事に成ったと観られる。)

「青木氏」は、世の「武家社会」とは反対に、“「婿養子」”に頼らず、これを「子の定義での制度」(四家制度)で達成しようとしていたのである。

最後は、(B)の「賜姓五役」では、「頼宣との松坂の会談」で、全て江戸幕府に引き継がれたが、「徳川氏」に無かった“「権威の象徴」“を作り上げる上でも、「二つの青木氏」を始めとする「伊勢衆二氏」は、国体上で必要であった。
「徳川氏」は、前段でも論じたが、この「二つの青木氏の権威」を下記の「立葵紋の青木氏」や「勝姫との血縁」等で大いに利用した。
その証拠に、その後の江戸初期には、伊勢には「立葵紋の青木氏の発祥 二氏」も興り護られた。

(注釈 「伊勢三乱 五戦」で、“「権威」”を護ったのは、結局は「二つの青木氏」と成った。
「伊藤氏」の一部が「長嶋の乱」で子孫を遺す目的から一部を尾鷲に引かせて遺した。
「長嶋氏」も一部を「尾張三勢力」に逃げ込み、それと共に子孫の一部を遺したが、「伊勢四衆」の「伊勢の権威」からは遠ざかった。
結局は、“「伊勢藤氏」“は「秀郷流青木氏」のみと成った。
その意味で、「権威の象徴」は、より社会全体から”重きを置かれる結果“と成った。)

この“重きを置かれる様に成った”上に、更に、“「立葵紋」”と云う「新しい力の権威」が着け備わったのである。
実は、この“「立葵紋の青木氏」”には、“大変な意味”を持っていたのである。
江戸初期に発した「葵紋の禁令」では、徳川氏一門以外では、“「立葵紋の使用」は、「伊勢青木氏(四日市殿)」”のみに限られており、「笹竜胆紋」と「下り藤紋」の「二つ権威紋」を「総紋」とする「氏族」でなければ、許されなかったのである。
“「葵紋」、取り分け「立葵紋」の使用に関しては、例え、「徳川一門」でも使用を禁じる「類似家紋の法度」を発していた。
それほどの”「徳川氏の権威」“の「家紋文様(格式紋・式紋)」であった。
「青木氏」がこの格式紋の「立ち葵紋」を使用できるにはそれなりの理由があった。
それは「立葵紋の経緯」にあった。
そもそも、この“「立葵紋」”とは、「徳川氏」の最高の「権威象徴紋」(格式紋・式紋類)として位置づけられて作られていて、「笹竜胆紋」(嵯峨期詔勅)と「下がり藤紋」(力の制圧)と同様に同格としての意味合いを持たす事にあった。
この使用を「全ての姓氏」に対してのみならず、「徳川氏」「松平氏」にも「類似家紋」を含めて一切を禁じた。
「御三家」にも禁じた文様であった。
仮に、「徳川本家」から嫁入りをした場合に於いてでさえ、「立葵紋」は一切使えず、特例許可得ても「1年の限度」を以って、「葵紋紋類」さえ使用を禁じた。

元より、「伊勢衆の二つの伊勢青木氏」との繋がりをも重視して、幕府に秀郷一門を含む「青木氏」の多くの重臣を抱えた「徳川氏」は、「紀州徳川氏との関わり」を“「立葵血縁族」”としても重視させていたのである。
この「立葵紋の使用」を「伊勢秀郷流青木氏」に特別に許し、「葵紋」と「立葵紋」の「青木氏二氏」を伊勢と云う聖域に発祥させたのである。
「紀州藩」さえ使えない女系血縁族として「立葵紋の青木氏」が発祥しているのである。

「立葵紋の伊勢青木氏」は、この様に“徳川氏の青木氏に対する姿勢”が読み取れる行為なのである。
この為に、「世間の謀略」が在ったとしても、「青木氏の四家制度」では、次ぎの様に扱われていた。

(イ)「ろ過装置の様な役目」を果たす事に成ってはいた。

しかし、江戸期に入っては、一層に上記する「徳川氏の保護の背景」もあって、最早、その「四家制度の確実性」は高まったのである。
この“「立葵紋の青木氏」“の存在する「伊勢衆」と「伊勢域」は、朝廷より、永代で「不入不倫の権」で護られてはいたが、「徳川幕府」に依っても、「不可侵の権」が、これ(立葵紋)に依って与えられた。
そして、この事は引き続き「安寧の聖域」として定められたことに成った事を意味したのである。

上記した様に、室町期末期までは、「5の面 20の顔」を持つ「ゲリラ戦」を展開する為に、誰が敵味方かわからなくする方法が採られた。

(ロ)「網を被せた様な役目」の果たす事にも成った。

この「(イ)(ロ)の効能」がより働き、「四家制度」と云う「青木氏独特の防御システム」は構築されていたのである。
そして、この(A)と(C)が次ぎの様な数式で相乗的に働いて、江戸期にも続けて「生き残り効果」は発揮された。

「青木氏防御システム」=(イ)「ろ過装置の様な役目」+(ロ)「網を被せた様な役目」=(C)
「生き残り効果」=(A)+(C)=「四家制度」

この「三つの目的」(ABC)は、「悠久の歴史」を通して、この”「伊勢シンジケート」の存在”が、相互に働き、「(A)+(B)+(C)」の「接着剤の働き」をしていた事に成る。

(注釈 「伊勢シンジケート」の“「伊勢衆との関係」を持つ事の意味“は、現在感覚で理解しきれないところがあろう。
現在では「血縁関係」を以ってしても、そこで起こる「親近感」とは比べものには成らないし、恐らくは「理解の外」の事であろう。)

恐らくは、その感覚の範囲は、「助け合う事」=「知り合いに成る事」であろう。

しかし、江戸期以前の社会の、つまり、”「氏家制度」“の深意は、何らかの「血縁関係」か、或は、深い「経済関係」を持つ事で繋がる「社会構造」に付いては、時には、”「氏」や「家」や「命」を投げ出しても合力する概念“であって、その上での「相互に助け合う構造」であった。

つまり、次ぎの様な関係にあった。

”「助け合う事」”=“「氏家命の契約」“であった。

全く異なっている上で、”「伊勢シンジケートの持つ意味」“を昔の「歴史観」として理解が必要である。

本来の目的(A、B)の外にも、次ぎの様な数式が働いていた。

”「助け合う事」”=“「氏家命の契約」“

所謂、(C)の事も江戸期を通して有機的に上手く働いていたのである。

要するに、奈良期から江戸期末期まで、この“「四家制度」”には、”「助け合う事」”=“「氏家命の契約」“の”「伊勢シンジケート」“が、「絶対条件」として無くてはならない「防御システム」であった事に成る。

突き詰めると、「四家制度」とは次の様な数式論と成る。

「四家制度」=「伊勢シンジケート」+「立葵紋の青木氏」=「氏の背景力」

以上とも云える。

この数式論では、「立葵紋の青木氏の勃興」が前提に成っている。

そもそも、「徳川氏」と「青木氏」には、これに依って“「権威の相互関係」”が生まれていたのである。
「二つの青木氏」自らが持っていた、江戸期まで “「賜姓族」であったとする名誉“が、氏の“「悠久の権威の象徴」”であった。
これは、少なくとも「紀州、大和、伊勢の域」では、「氏上さま」「御師様」等と呼ばれ敬われ親しまれて、自他共に認められている事であった。
その“「権威」”を「徳川氏」に上手く利用され乍ら、逆に、“「徳川氏の武の権威」”を受けながら、「青木氏の権威の象徴」も成り立つと云う “「呉越同舟 一蓮托生の構図」”が出来上がって居た事に成る。
この構図は、「徳宗家の紙屋」と呼ばれていた様で、地場産業」の育成に私財を投げ出していて、「農業の発展」にでも「早場米の研究」に取り組み、「絹の織物産業」を信濃から持ち込み「地場産業」を大いに発展させて成功させた。
これは既に江戸期を過ぎて大正末期頃まで続いていた記録が多く遺されている。
この事で、最近の青木氏の研究で、「天皇家」を通じて「徳川氏」を経由して「感謝状の手紙」が遺されている事が判った。
恐らくは、何故に「天皇家の感謝状」と云う事に成るのかと云うと、文章から「伊勢の発展」と云う事であった事が判った。
これに関係する手紙の記録は、三通見付かった。
一つ目は、「筆者の家」、二つ目は、「青木氏と関係する郷士の家」、三つ目は、「紀州徳川家」からの事前連絡文である。

因みに、余談であるが、中ても、「筆者の家」の「感謝状の記録」は、在る事は口伝で知っていたが、当初は発見できなかった。
ところが、引っ越しに際して、仏壇を解体したが、その仏壇の奥の過去帳等を仕舞う物の中から出て来た。
とても見つかる所では無い。可成り几帳面な性質を持つ家柄であるが、何故か、ここにあったのかは判らない。

「郷士の家」の記録では、この時の状況と地場産業育成に貢献した事柄が詳しく記載された手紙などを含む資料が廃棄されずに保存されていた。
この「郷士の家」は、「射和の商家」で、恐らくは、「郷士頭の差配家」であったらしく、地元からの推薦に動いた家であった模様である。
元々は、「青木氏に関する資料」が多く出て来た家柄であった。

「紀州徳川氏」とは、前段でも論じているが江戸初期から大正14年(徳川頼倫)まで親交があった。

「青木氏」の内には、この様に、”「助け合う事」”=“「氏家命の契約」“が働き、外には、徳川氏との “「呉越同舟 一蓮托生の構図」”が働いていたのである。

“「悠久の青木氏の権威の象徴」”+ “「徳川氏の武の権威」”=「社会の最高権威」

「天皇の絶対的権威」と「徳川氏の武の権威」との「相互権威」には、一つの「初期の恐れ」が「徳川氏」にあって、「権勢を握った」と云う事で、「社会の反発」が起こり、施政上で「徳川氏の権威」が下位に来て低下を招く恐れがあると懸念された。
そこで、敢えて、「天皇家の絶対的権威」に変えて、“「悠久の青木氏の権威の象徴」”を緩やかに据えて、そこに同類とする「立葵紋」を加える事で“「徳川氏の権威の仕組み」”を構築しようとしたのである。

「秀吉」が採った「権威の構築」は、「天皇の絶対的権威」を「豊臣家」と云う背景に押し当てて、その背景で、次ぎの様な数式論に様な「政治体制」を構築した。

「為政」=「天皇の絶対的権威」+「豊臣家の力の権威」=「権威の構築」

補足として、「天皇家の末孫氏」や「藤原氏末孫」と搾取して、更には「青木氏」の「伝統の権威」をも利用しようとして闇雲に持とうとしたが、上記した様に、強引に搾取偏纂して失敗したのである。

しかし、これでは、その「為政=0」の形、況や、「為政者の力」が没すると「長期政権」を望めないとしていたが、「徳川氏」には、「力の権威」は同じ様に持つ事が出来たが、“「伝統の権威」”は未だ無かった。

「笹竜胆紋」(青木氏)+「立葵紋」(青木氏 藤原氏)=「伝統の権威」

この数式論の構図を作り上げたのである。

(注釈 そもそも、「家紋」では、そもそも、“「立」”は、“「たつ」”の意味から、「家紋文様」の上に位置する物として使われ、「立・・・紋」は、その「家紋の権威性」や「発展の縁起性」を着ける時に使われる。 
この慣習は、葵紋 沢潟紋 梶紋 銀杏紋 杜若紋 枡紋 杉紋 鶴紋 柊紋等の枝葉を拡げた「大きい氏姓の家紋」に多く観られ、主に”「氏姓族の総紋扱い」“として利用された。)

江戸時代には、上記の数式論に観られる様に、「青木氏側」にしてみれば、「伊勢シンジケート」が無ければ、「立葵紋の青木氏」が無ければ、この「四家制度」は成り立たない構図に成っていたのである。
故に、その重要な位置にあったからこそ、積極的に「嗣子の余人」を敢えて「家人」として継承させ、「伊勢シンジケート」と血縁させて、「一族性」を確保していたのである。

(注釈 「伊勢シンジケート」を構成する「伊勢郷士」等を含む各職能部等の「伊勢衆」の多くには、影の「経済的な繋がり」のみならず、「青木氏の血」が流れていて、上記した「伊勢の戦い 三乱五戦」の時には、「姿名」を変えて「敵側」との折衝の「水際の夫」を演じたのである。)

「四家制度」の中に、「青木氏融合族」の「四日市殿」を組み入れていたのもこの強みに起因する。

江戸期には、既に、次ぎの様な数式論の」青木氏」が成り立っていた事を示す。
これは最早、「二つの青木氏」の「完全融合化」が起こって居た事に成る。

「四家制度」=「伊勢シンジケート」+「立葵紋の青木氏」=「伊勢青木氏」

「立葵紋の青木氏」=「四日市殿青木氏」=「秀郷流青木氏」

「二つの青木氏」=「伊勢青木氏」+「秀郷流青木氏」=「融合青木氏」=「四日市殿青木氏」

(注釈 筆者は、この数式論から観て、むしろ、選抜して「伊勢シンジケート」に成り得る人材を「四家の嗣子」の中から積極的に配置していたと観ている。)

つまり、最も変化した「伊勢シンジケート」の意味が、江戸期には、「他氏に対する防御の抑止力」から、上記の数式論を維持させる“「氏の背景力」”というものに変化して行ったと観る。

「防御の抑止力」<「氏の背景力」=「伊勢シンジケート」 

だからこそ、「徳川氏」に対しては、「損得の利害」は別にして、「吉宗育親」を演じ、裏方で巨額の金銭を使い「将軍」に仕立て、「紀州藩」と「幕府の勘定方」を「250年の間」を主導する等の“「青木氏総力」を挙げての取り組み”に成ったと「累代の四家福家」は考え続けていた事に成る。
それほどに、「紀州藩初代頼宣」に対する「青木氏の尊敬の念」は大きかった事を意味しているのである。

(注釈 口伝でも詳しく伝えられていて、筆者の祖父の代の大正14年までの親交であった。多くの親書が遺されている。)

奈良期初期の「皇親制度」、奈良期末期の「皇親制度」、平安初期の「皇親制度」の三期の経験を経て、その江戸期には、再び花が咲き、姿形は変えたにしても、「政治経済の骨格」を直接的に支えた事に成るだろう。
この後も、この“「四家制度」“は、「上記のABCシステム」に依って、「室町期の状況」−「江戸期の状況」をも耐え抜けたのである。

「二つの青木氏」=「青木氏」=「四家制度」と云って過言では無い。

(注釈 江戸初期以降は、「伊勢シンジケート」は、夫々、「土地柄や生き様」を活かして、「商いの企業」と「海陸の運送・警護業」と「殖産業・農業(和紙」」の“「パートナー」”に当たった事が記録されている。この“「パートナー」”と成り得た“「伊勢シンジケート」”を以ってして、江戸初期には「総合商社」の形が出来上がっていたのである。
恐らくは、「日本初代の総合商社」であったと観られる。)


これも、「事の流れ」では、事と次第では、危険視されて潰されていた事も考えられるが、「立葵紋の青木氏の存在」がこれを押し留め、且つ、成長させたと観られる。

(注釈 「立葵紋と葵紋の青木氏」は、千葉と三重に現存し、「本サイト」を支えて頂いている。)

何故ならば、平安期から江戸期までの「他の豪族や豪商」には、そもそも、この「血縁族」とも云える“「シンジケート」”を持ち得ていなかったからである。
「青木氏密教概念」の中にあり乍らも、「商いの概念」が「青木氏の生き様」を大きく左右させ支えた。
つまりは、時代に即応して“「四家制度」”をより確立させて行ったのである。
現在から観て、「子の定義」を社員に置き換えて考えれば、「現在の企業」でも成り立つシステムと観られる。
それだけに「氏家制度」の中では、「最も古い氏」であり乍らも「最も新しい生き方」で有ったと観られる。

その意味でも、「信長の考え方の概念」には、「流れ」の中では、“敵対はしたが理解していた”と観ているのである。
江戸の歴史上には、中でも、「元禄の浅野家取潰し」の際には、この「パートナー」の「伊勢シンジケート」が、「四家福家の指示と援護」を得て、多くは「海運業」と成った。
「世間の目」を気にしていた幕府に代って、難しい「開城と管財の一切の始末」に対して、その「総合商社の特徴」を活かして、混乱の中で瀬戸内の中を配送して、更には、「陸送業」をも運営して「管財の処分」に当たり、穏便に事を運んだ事は、特に有名な事で記録にも遺されている事でもある。
現在でも通ずる「四家制度の差配」であったろう。

そこで、“幕府が何故に「伊勢青木氏」にこの「始末」を委託したのか”と云う疑問が起こるだろう。
「商い記録」では、「紀州徳川氏」からの「紙屋長兵衛」に対しての「委託」であった事が判っている。
この幕府の最大の事件は、難しい難問であった。
扱い方に依れば非難が幕府に集中する。
それを総合的に解決できるのは、「紙屋長兵衛」しかないと観た事に依る。

その信頼は、江戸初期からの付き合いによるが、何よりも、紀州藩の「立葵紋の青木氏」を全面的に押し出して、幕府であるが、幕府では無いとして、成功裏には、“どうだ 「立葵紋」が解決したのだ” “幕府が解決したのだ“と威勢を張る事に成る。
それを“総合的に成し得る能力”を持っているのが、唯一日本の中で「立葵紋を持つ伊勢青木氏」なのだ。
(「信濃善光氏」が「立葵紋」である。)
「紀州藩の官僚族」の指揮者と成っていた「立葵紋の青木氏」と「四家の四日市殿」と「八代将軍吉宗の育親」で「享保の改革」の主導者であった「四家の紙屋長兵衛」は動いた。
全ての「取り仕切り」は成功した。
「世の批判」は起こらず、「幕府の威厳」は“さすが”と持て囃されたのである。

(注釈 大船 荷台 家人 要員 日数 金銭等の「商い」が記帳されていて、「伊勢シンジケート」の構成員が、転身した「海陸の運送業」、現在の「警備保障業」、「警護・警備業」等の事も兼ねていた事が記されていて、江戸時代でも、「商いの輸送」には未だ大きな危険が伴っていた事が判る。
そして、家財処理の事、骨董品の取り扱いの事、江戸時代でもリサイクル品の中古転売の事も盛んであった事、金銭交渉等の事件のつながりの末の始末でも興味深い事が記載されている。
{青木氏}に委託した記録は遺されていないのは、この{商業記録}によるもので、[青木氏の福家}に送られた記録であった事から、「松阪大火」の「消失」で遺されていない。)

その意味でも、その勲功を成した「伊勢シンジケート」が、形を変えて、“「商いのパートナー」“として働きながらも、江戸時代も更に「四家制度」を支える”「防御システム」(背景力)”として、“「情報活動の面」”でもまだ働いていた事が判るのである。
「伊勢シンジケート」を構成している「郷士や農民や庶民の集団」、要するに“「伊勢衆」”と呼ばれる集団は、共に潤ったと記録されていて、「物語風の口伝」が遺されていて興味深い。

(参考 因みに、「商品輸送」に対して、面白い事が書かれていて、多くは大船での搬送であったらしく、止む無く「陸送」の時、例えば、越後に搬送する時、「商品の安全」を図る意味から、別のシンジケートに連絡を取って、陸送の安全を依頼する。
この時、他の「シンジケート」との打ち合わせは、「陸送する頭目」が「旅の旅館」で密かに「打ち合わせ」金銭授受などの契約をして、搬送時は、別のシンジケートの者が、忍者の様に陸送の周囲に寄り添って見張りを続ける仕組みで、終わるとその影の様に付き目立たない様に従った「忍者の物見」が、いつの間にか消えると云う仕組みであった様である。
その姿が、色々な姿に身を変えての保護であったらしい。
イザと云う時には、一斉に何処からか出て来て荷駄を護り、相手を攻撃すると云う当に“「忍者」”であったらしい。
土地の暴力集団(やくざ)や山賊もあって、実際は危険であったらしい事が書かれている。
確かに、シンジケートの存在する地域には、必ず「山岳の忍者集団」か「山岳の郷士集団」が存在する。
伊勢や河内であれば、「伊賀忍者」や「雑賀忍者」や「十津川郷士」や「龍神郷士」の様にである。
実際には、「荷駄頭」が打ち合わせた「シンジケート」の指揮する「物見頭」の顔しか知らなかったらしい。
この「物見頭」の周囲には、観えない「十数人の梃子組」がいて護っていたらしい。
「シンジケート」の中でも、同じ仕組みであったらしく、このシステムで繋いで行く方式を採っていたのである。)

(注釈 「伊勢シンジケート」の「内部組織」が、状況に応じて、この様なパートナーに合わせて編成され直された様で、これが「輸送業」や「警備業」や「殖産業」や「金融業」や「廻船業」などの「伊勢紙屋長兵衛商店」と「二つの青木氏」の「企業パートナー」(「射和商人」 「射和組」)にも成ったのである。)

これから察すると、江戸時代では、“「氏の背景力」”と成ったが、この「荷駄頭」と「物見頭」の繋がりで、その「シンジケートの首魁」に連絡を通して、その首魁から、土地の「領主」に話が通り、組織を必要な様に動かした事に成ったらしい。
「伊勢シンジケート」の出自は、多くは、「室町期の豪族」や「土豪族」や「郷士族」が戦いに敗れ、海山に逃亡して「裏の社会」で生き延びた者達であり、これらに「経済的支援」をしてその見返りに警備や運送屋や廻船業や殖産や営業等の手助けを請け負って貰い定期報酬とは別に、その都度の報酬を渡し連携をしていた。
次第に血縁関係も結ばれ、何時しか「青木氏族」の一員化して生き延びた者と、その配下や農民やあらゆる職能の人たちで、江戸期には、「ある程度の経済的潤い」と「必要な力」を持ち合わせて「表の社会」の一員の立場も持ち合わせ乍ら「二つの顔」を以っても働くように成った。
この「組織の範囲」(「松阪組」と「射和組」)は、明治期の初めまでの結果として観てみると、美濃から信濃を経由して、諏訪から甲斐の領域までを範囲としていた事か判る。

これは「和紙」と「神明社」と「青木氏菩提寺」の関係からは元より、各地に起こった「農民一揆」の「経済的支援」をしていた事の記録からも頷ける。
取り分け、「宗教絡み」の「甲斐百年一揆」と呼ばれる一揆にも「伊勢シンジケート」を通して「経済的支援」をしていた記録からでも判る。
傾向として可成り「中部東域」にそのルートを伸ばしていた事も判る。

中には、「伊豆勢力」(伊勢信濃青木氏族の末裔集団)と、滅亡した「駿河源氏の末裔族」が編成していた「駿河水軍」との連携を持っていた事も記録から読み取れる。
これは「伊勢水軍」が、「伊勢シンジケート」の一員であった事からの平安期からの連携が遺ったものと観られる。
連携で云えば、多くの「商い記録」が遺る“「瀬戸内の支配権」”の持つ廻船業を中心とした「秀郷流讃岐青木氏」との連携が目立つ。
「伊勢シンジケート」を全網羅するには、「別の論文」が充分に成り立つのでここでは、下記に「松阪商人」の「(射和商人) 射和組」に付いて触れて置いてこの程度の範囲とする。



> 「伝統―19」に続く。



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