青木氏氏 研究室
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  [No.312] Re:青木氏の分布と子孫力−8
     投稿者:takao   投稿日:2014/05/07(Wed) 16:25:40

青木氏の分布と子孫力−8

・「讃岐青木氏」
さて、ここからは改めて歴史論をお読み頂くとする。
話を中国地方の「讃岐青木氏」に戻す。もう少し「讃岐青木氏」を考察する必要がある。
従って、中国地方のパラメータは、次ぎの通りである。

「讃岐青木氏」=「島根2+広島3+岡山0ー1」=5−6である。

(移動と入植定住は入れない)
(本来、秀郷一門には、赴任による定住はあるが、各地域の単純移動の定住は原則ない)

「陸奥青木氏」は、室町末期に「結城陸奥永嶋氏」と合力して、「秀吉と戦い」で敗戦して北海道に移動逃亡した。
「伊勢秀郷流青木氏」も陸奥で合力し敗戦した。
この「陸奥青木氏」と共に、越後域からも「越後青木氏」が明治期に入植移動した。

「瀬戸内の讃岐秀郷流青木氏」以外に入植定住したとする記録には、次の記録が観られる。
1 「信濃青木氏の神職(:明治期)」
2 「陸奥青木氏(秋田 青森: 室町末期 明治期)」
3 「越後秀郷流青木氏(明治期)」
4 「甲斐の武田氏系青木氏(花菱紋と抱き角紋: 越後移動 明治期)」
5 「越後の諏訪族青木氏(抱き角紋 :室町末期 明治期」
以上は「家紋分析」からも納得できる。

そもそも、「陸奥青木氏」は、「陸奥結城永嶋氏」が滅んだ「天正17年」と「明治期」にも入植定住した。
この五家の「明治期の入植定住」が、記録と家紋分析論と守護神論の調査で判るが、現在までとしてその期間は”150年”に成る。

上記の「子孫拡大」は、最速で150/90年、で約1.5倍と成る。 

「讃岐青木氏」は、パラメータの「埼玉武蔵の17の子孫力」と同じ程度の「子孫力」を持っている筈である。
これを基準に、この「瀬戸内からの子孫拡大」(讃岐青木氏)の「パラメータが8」として吟味して観ると、次ぎの様なパラメータが出る。

(但し、”「子孫力」”は拡大して行く力を除いたもので「静の定義」、”「子孫拡大力」”は推し進める力として「動の定義」として区別して使う。)

1−「長野 9」の内の「神職の子孫力」は、パラメータとしては1に満たない。

「神職」と云う職業柄で、その為に大きく「子孫拡大」を図れない職業に起因する。
一応、パラメータは0ではないので・ 0.3とする。(家紋分析数の比)

2−「秋田 0」である事からパラメータを持たないが、少なくとも歴史上記録がある事から0ではないので、これも・ 0.2とする。

問題のパラメータ0域の「秋田」は、少なくとも天正期までその子孫を保っていた事から完全滅亡ではない。
少なくとも 「越後4」や「福島4」 に匹敵する以上の「子孫力」を持っていた。
或は、「山形2」や「宮城2」 の2倍から3倍に匹敵する「子孫力」を元来持っていた。
この事からは、「家紋分析数の比」からも明治期までには、その「子孫力」は持っていた。
天正期に滅んだ事に依って、確かに「子孫力」は明らかに低下している事は否めない。
しかし、決して0域ではない。

3−「越後 4」ではあるが、この4には、武田氏滅亡時の「武田氏系 諏訪族系の2氏」の分も含む事から得られる。

逃亡域には、神奈川・横浜域の逃亡と新潟域の逃亡と土佐行の逃亡がある。
この新潟の越後域にはこの2氏が逃亡した。
この事からは、「家紋分析数の比」から1/8なのでパラメータは凡そ・ 0.5と見込む。


4−「甲斐青木氏」は越後に定住後に明治期に移動している。

甲斐の「子孫力」が、「越後の青木氏」(家紋分析数の比)から1/5として、・ 0.2と見込む。
(逃亡外としては、「埼玉の鉢形」と「武蔵の八王子」に、「武田氏の皇族青木氏」の強制疎開がある。)
この事からは、「家紋分析数の比」から1/8なのでパラメータは凡そ・ 0.5と見込む。

5−「信濃の賜姓族の諏訪族青木氏」が、武田氏滅亡で巻き込まれて越後に逃亡した。

その後に室町末期と明治期に入植移動した。
以上は史実であるが、「家紋分析数の比」から観て小規模でパラメータに出ない程度で・0.01とする。

これで1から5の総計は、パラメータは1.7である。

これに仮に年数を比例的に観て、上記最速で 「150/90年」、で約1.5倍の「倍数1.5」を乗じるとパラメータは2.5と成る。

そこで、「北海道の11」 「讃岐青木氏の7」である。
計算して11−7=4の内、2.5を占める。
そうすると、4−2.5=1.5のパラメータが残る。

北海道の「パラメータの11」の内の「1.5のパラメータ」の分が残る事に成る。

さて、この1.5は何なのかである。この余りとも観られる1.5を検証する必要がある。

「北海道の残1.5の吟味」
さて、「北海道の入植移動」を更に考察する。
「パラメータの11」の内、明治期までに入植移動した「青木氏のパラメータ分」を加算して評価する。
そうすると、「パラメータの11」に満たない事が判る。

そこで残ったこの「パラメータの1.5」をどの様に評価するかである。
これは無視できる範囲ではない。
家紋分析論や守護神論やルーツ掲示板のお便りなどのいろいろな記録を調査した。
するとこの過程でこのパラメータを説明出来る答えが出た。

その答えは次ぎの通りである。
上記のこの様な変化が、「讃岐青木氏の子孫拡大」に影響を与えたのは「室町末期 江戸末期 明治期」の3期となる。
ところが、実は、「前段−7」で論じた様に、・「昭和期の20年代」にも大きく「子孫力」を阻害した事が起こっている事が判った。

(讃岐ー弘前ー松前)
つまり、「讃岐青木氏」の昭和20年代の「三つの条件」の内の「経済的背景」が崩壊したのである。
この原因は、「戦後の混乱」による”古い体質の廻船業の衰退”であった。
その内なる原因には、古来より、ここには、「讃岐藤氏」と呼ばれて、発祥期より「藤原氏北家一族」とは一線を画くしていた。
そして、”「讃岐藤氏」”として呼称される様に、独立して存在し続けて来た。
しかし、「社会の新風」を素直に受け入れる良い体質の「独立性」ならば良いが、この「排他的な独立性」が弊害して、「社会の新風」を拒んだのである。
戦後の大きな変化の ”うねり” に「体質改善」が遅れて対応する能力を失っていたのである。
これは、”悠久の歴史”を持つ全ての「賜姓族」に取って起こり得る体質でもある。
その「独立性」を頑なに保った事も原因していて、「戦後の子孫力」に大きな影響を与えた可能性がある。
それ故に、「経済的背景」の消滅によって、第二次大戦後には、「政治的背景」と「軍事的背景」をも無くした。
三つ要件を急激に失ったのである。漸次の変化ならばいざ知らず、余りにも急激な変化であった為に殆ど絶える事は出来なかったのである。
外なる原因として、この戦後の「経済構造の変化」は、”過去の「造船力の発展」”から、”昭和の「鉄道の発達」”に変わったのである。
その為に、「造船力の発展」に主軸を置いた廻船業の事業は、急激に傾き、更には衰退した上に、その結果、「子孫力の根底」さえも無くしたのである。

古来より江戸期まで「独立性」を「伝統」として、それを前面に歴史的に押し出していた事から、経済的悪化を来したのである。
氏の「独立性」を強調するあまり、「支援する背景」(藤原北家一門)をも遠ざかり無くした事から、急激に元からの「存立基盤」を失ったのである。
歴史上には、常時に出て来る「瀬戸内の経済力」を背景としていたが、それが故に、脆くも崩れたのである。
最早、”瀬戸内を制するものは国を制する”の神話は、脆くも戦後には体制が変わった事から崩れ去ったのである。
この時には、記録からも明らかに北海道に入植している。
況や、”蝦夷を制する者は国を制する。”の神話に変化したのである
それが故に、”瀬戸内族”であった為に、今度は ”蝦夷”を求めたのである。
つまり、これが、一攫値千金の、”蝦夷を制する者は国を制する。”に値する「1.5」であって、この時の「入植移動」の1.5のパラメータである。

注釈
同じ環境にあった「伊勢青木氏」も出火消失に成る明治35年まではその子孫力は維持されていた。
この調子で行けば、「基本の商い」は「紙と殖産」であるが故に、昭和まで充分に存続していた筈である。
その意味からすると、「讃岐青木氏」も時代変革の起こり始めた昭和初期頃までは廻船業も充分な存続が可能であったと考えられる。
ただ、近代化の「産業革命の波」が押し寄せていた事は否めない。
「讃岐青木氏の船」は、その意味で「伊勢青木氏の紙」と異なり、影響を大きく受けていた筈である。
恐らくは、この”20年間”の大波に、「体質改善」が遅れたと観ている。

「紙」は1500年来、何時の世も”革命や文化の発達”に欠かせないものとして位置づけられて来た。
「室町文化」、「元禄文化」の時も「巨万の富」を獲得した。その分、「子孫力」を伸ばして来た。
しかし、現在、「PC」成る物が「紙」に取って代わろうとしている。
恐らくは、ここで、「伊勢青木氏」も、「廻船業」は「産業の革命」には弱い事が在ったにせよ「讃岐青木氏」と同じ事が起こっていた筈である。
下記に論じるが、「伊勢青木氏の子孫力」も、「平成」(筆者の代)では、極度に低下していたと考えられる。

この「戦後移動」の「1.5のパラメータ」には、上記した様に、「陸奥青木氏」の中の「弘前ー松前の讃岐青木氏」の「入植の分」も入っていると観ている。
これが「1.5」の内の「0.5のパラメータ」程度であろう。
「家紋分析数の比」から観ても、明らかに「讃岐青木氏」の関西域に分布する「下り藤紋に雁金紋」が陸奥と北海道にも分布している証拠でもある。

故に、「北海道のパラメータ11」は、この「戦後」の「讃岐青木氏」の「入植移動」の「パラメータの1.5」で完済する。

これだけに「陸奥と北海道」に移動定住すれば、「香川と岡山」のパラメータは、当然に上がらないのは当然である。
逆にその分、「北海道のパラメータ」は上がる事に成る。
依って、「北海道の入植移動」の「パラメータ11」は、「讃岐青木氏関係比は75%台」が占める事に成ったのである。

「北海道の開拓」は、この上記した論調面から観てみると、「讃岐青木氏」即ち、「瀬戸内族」に成し遂げられたと云っても過言では無い。
「青木氏に関係する家紋数」から観ても、かなりの率(60%程度)である事は否めず、大半を占めている事が頷ける。

(広島の3は「弘前ー松前藩の移動」には組した記録は現在も見つからない。)

つまり、題して、”「讃岐青木氏の北海道大移動」”と云う事に成る。

結局、「讃岐青木氏」の子孫力の総計のパラメータは、結局、上記の13に、この北海道の余り分の1.5を加えると14.5と成る。

「讃岐青木氏」=14.5/ 「武蔵青木氏」=17
以上の様に比較すれば、充分に納得できる。


・「鳥取」
ところで、「鳥取のパラメータ」は「讃岐青木氏のデータ」では無い。
一見して、その「讃岐青木氏の活動範囲」から、「鳥取」はその様に観える。
しかし、中国地方の「鳥取」は、上記した様に、「足利氏系青木氏の逃避地」で、「米子、八頭」に定住したもので「讃岐青木氏」とは異なる。
「鳥取の青木氏」はその歴史性と地理性から観て、「地味」である。逃避に依る移動定住であるからだ。
この「鳥取のパラメータ」はその経緯から納得出来る。

その後、ある程度の勢力を得て、西の宍道湖際の東側まで、無戦でじわじわと「子孫拡大」をさせている。
日本海側に沿って東から西域に「子孫拡大」を図っている。
北から南域への「子孫拡大」は、間に中国山脈もあり、山越えはその「子孫力」から難しかったのであろう。
「先制的な武力」に頼らない「米子の青木氏」に取っては、戦略的に、「平野部」の山間部を開墾しながら西に進んだ。
同時に、それに沿って伸びている「海岸線」に、その「子孫力」を伸ばす方が、身の丈に合った生き方であった。
「平野部海岸線」ともなれば、他の豪族との摩擦が生じる。
ところが、「武力」を使わなく、「村主」の「米子青木氏」に取っては、唯一「子孫力」を拡げる方法がある。
それは、沿岸部に存在する土豪との「血縁関係」を結びながら、その「子孫力」を拡大させる事が「最高の戦略」である。
それには、「青木氏」と云う「ステイタス」が大きく働いたと考える。
その証拠に、「家紋分析」などからも判るが、宍道湖手前でピッタとその「子孫拡大」を止めている。
それには、二つの理由があった。
一つは、宍道湖西域には、「讃岐青木氏」が、その廻船業と殖産業の勢いを以って伸長してきている事。
二つは、宍道湖西域は、「出雲族の豪族集団」が「亀甲族連合体」を作り、古来より他勢をブロックする排他的な壁を構築していた事。
この”二つを押し崩す力”は、その「村主としての生き様」から全く無かった。
では、何故、「讃岐青木氏」が伸長できたのかの疑問であるが、それははっきりしている。
この「亀甲族との血縁」を成し得ているのである。
「亀甲族側の連合体」にとって、排他的壁を護る上で、瀬戸内を制する「軍事力と経済力」は、この上ない防衛同盟戦略である。
一種の「血縁同盟」を結んだ事に成る。「讃岐青木氏」にとっても廻船、殖産、子孫拡大、防衛力にしても実に得策である。
これは「米子青木氏」の「村主」では成し得ない事であった。
依って、この「村主」としての「生き様」から観ると、「パラメータの2」は納得できる。

この「鳥取」は、”逃避に依る移動定住”では、「土佐」と同じである。
しかし、「高知の土佐青木氏」の逃亡では、「武田氏の滅亡」による原因である。
確かに、よく似た「逃亡の経緯」として見込まれる。
そもそも、「長野の信濃青木氏」には、”藤原秀郷一門との本家争い”で「秀郷一門」が「後押しをした事件」に巻き込まれた事件が原因していた。

その経緯として、その「分家筋」が「本家筋の跡目」を乗っ取ろうとして、古くから居た「本家足利氏」を、分家と成る「秀郷流の跡目血縁」の家を本家とした事から起こる。
その「後押し」したのが秀郷一門の宗家であり、その目的は「本家」としての「発言力」を持ち「信濃の支配」を目論んだ。
結局、戦いの結果、秀郷一門の血筋の無い、従来より土地にいた「本家の足利氏」が敗退して、これに一部同調した「賜姓族の信濃青木氏」が「越前福井」に逃亡した。
「本家足利氏」と共に、この時に「護衛」を名目として同行した。
その縁で、「福井越前」の「皇族賜姓族」の「奈良期からの逃避地」に逃亡したが、相手も同じ「皇族賜姓族」であった為に「不入不倫の権」の例外と成った。
そして、同族の強い追跡を受けて、結局、日本海沿岸部を経由して鳥取の東にやっと辿り着いた。
ここで「山岳部の未開地の開墾」をして生き延びた。
その後、宍道湖の東端まで「子孫拡大」を無戦で単純に果たした。

この「信濃青木氏」の一部は、福井越前から結局は、「信濃足利氏の護衛同行」を続ける事を決めた。
当然に、この逃避行で「三つの条件」の全てを失っていた。
しかし、ここで米子の「地元の豪族」の援助を受けて「信濃足利氏」に代わって、「信濃青木氏」が主導したのである。

本来は、「福井越前の逃避地」までの「護衛同行」であったが、この「護衛同行の青木氏」は「青木村」を形成した。
そして、地域の人から崇められて、”「村主」(すぐり)”として争いを避けて生き延びた。
その「先制的な武力」の持たない”「村主」”として、この地域をリードして、宍道湖まで沿岸沿いの山岳部の開墾と血縁で生き延びた。

これはむしろ、土佐の「武力を背景とした生き様」よりも、前段でも論じたが、「日向青木氏の経緯」と類似する。
ここで「青木村」を形成して「村主」として伝統を守り、「普通の農民・郷氏」として生き延びた。

「傭兵」で「生活の糧」を確保して、海と山岳部の開墾での「子孫存続と拡大」を図り、郷士に成った「宮崎の日向青木氏」が一方であった。
「讃岐青木氏」の背景を基に武力で勢力図を広めた甲斐の「土佐青木氏」とがあった。
これには大きな「子孫力」の違いがあった。

「村主」として単純に当面の「生活の糧」は得られたとしても勢いをつける力はそもそも無かった。
その中で、「子孫存続と拡大」を図った「鳥取の米子青木氏」であった。
しかし、「日向青木氏」と「因幡青木氏」の、この「二つの青木氏」には「伝統」は保たれていた。
本来であれば、「土佐青木氏」の様に「武力的背景」に主軸を置く事を「生き様」とすれば、その「権威の伝統の継承」は積極的に求める筈である。
しかし、その「伝統」が消えている。
況や、「伝統の継承」とは、「武力的背景の権威の継承」だけでは遺し得ない事が判る。
これは ”「動の定義」による子孫力”と、”「静の定義」による子孫力”とでは、明らかに「静の定義の子孫力」が「伝統」を維持させ、継承させるものであると考えられる。
その意味で、”世に晒す事無かれ 何れ一利無し。 世に憚る事無かれ、何れ一利無し。” の「2つの血縁賜姓青木氏」の「戒律」は正しかった事が云える。
その「代表的な青木氏」は、総合的に観た「伝統」を継承しているのは、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の融合族の「伊豆の青木氏」ではないかと観られる。
次ぎに、厳しい戦乱の中で「村主」として生き延びて来た「米子青木氏」ではないかと考えられる。
それは、「米子の青木氏」(因幡青木氏)には、「家紋分析」で、「象徴紋の笹竜胆の家紋」が維持されている事が確認できる。
これはあらゆる「悠久の伝統」が、ある程度の面で総合的に伝承されていた事を示すからである。

ここは、次ぎの豪族が治めていた。
戦国時代、
因幡の国には、山名氏、亀井氏、草刈氏の3氏
伯耆の国には、庄氏、南条氏の2氏

江戸時代
因幡の国には、池田氏の3藩

この藩に家臣として仕官しているかの調査と「家紋分析」とをした。
戦国時代には、「米子青木氏」(信濃青木氏の賜姓族系足利氏系青木氏)は5氏の家臣に観られなかった。
江戸時代には、「池田氏」は平家末裔である。青木氏はあったが、「家紋分析」から「米子青木氏」のものは無かった。
この青木氏は、どの青木氏かは判らないが、秀郷流青木氏の家紋の類似紋を持っていた。

この事から、矢張り、郷氏の「村主」として勤めた事が判る。

鳥取(因幡と伯耆)には、「子孫存続」の「三つの条件」が全く認められない範囲である事から、鳥取の「平均の4」のパラメータが得られない事は理解できる。
「鳥取青木氏」は、その意味で「青木氏伝統」の「堅実型の子孫力」と云える。

その”「経緯」と「村主」” としての「子孫力・生存力」から、鳥取の「パラメータは2」は納得出来る。

下記に論じる「伊勢青木氏」もこの「堅実型の子孫力」を護って来た。
むしろ、「子孫」そのものの「遺伝子」がその様に成ってしまっている。
明らかに先々代までの「同族血縁の影響」を引き継いだか、突然変異の型の「血液型AB」で、筆者の代までそれで引き継いでいる事でも判る。

(血液型ABは、3代前までにO型が存在すると、「隔世遺伝」に依りA型、B型に分離する事が起こる。
如何に便利な血液型でもあり、況や、「堅実型の子孫力」を示している。他の親族を調べると矢張り、この現象が起こしているし、現実に筆者の3人の子孫にこの現象を起こしている。)
その伊勢に付いて次ぎに論じる。


・「三重 和歌山」
さて、「2つの血縁賜姓族青木氏」の中心的存在と成った「関西域」、取り分け、「伊勢域」の「青木氏」に付いて論じる。
「伊勢域」とは、古来より、「奈良の都」の東に隣接する伊勢国と、西域に隣接する紀州国を以て伊勢域と呼ばれていた。

「奈良期の大和朝廷」の前の「ヤマト政権」の頃には、「五大豪族の連合体」で治められていた。
その内、「紀州」の豪族には、 奈良盆地の「猿沢の池」を中心にそれを源泉として流れる大和川域に存在した。
この「東南部の三輪山麓一帯」に次の様な五大豪族が勢力を張っていた。

「紀氏」   現在の和歌山県の西部域 西海側域
「巨勢氏」  現在の和歌山県の北部域 東山側域
以上2氏が存在した。

「葛城氏」 和歌山県と大阪府の南部河内域 南平野側域
以下の大阪域との中間に位置していた。

「平群氏」 
「物部氏」
以上2氏が大阪府の南部の大和川沿域
以上が五氏が奈良域ー和歌山側ー大阪南部と東部域に存在した。

現在の「奈良」とは違い、古来の奈良盆地は、「猿沢の池」は広大で、周囲山岳部の1/2は「広大な湖」で、そこから流れる大和川域にこれらの豪族が存在し、「連合国家」を作っていた。
その為に、奈良期に入っても、「伊勢域」とは、未だ以上の2氏が存在した名残から「紀州域」までを以って呼ばれていた。
現に、「伊勢路」とは、太湖に沿っての紀伊山脈の「山岳道」であった為に、そもそも「紀州熊野域」までの領域を「伊勢路」と呼ばれている。

参考
紀州の2氏の末裔は現存し、地名も残っている。
奈良盆地の太湖は地盤沈下で次第にひえ上がり、現在の「猿沢の池」のところの底まで曳けた。
この為に、「地形と地名」が混乱して変化してしまったのである。

奈良期の大化期に発祥した時期には、現在の「伊勢」のみならず「紀州域」までを以て「”伊勢”の範疇」として考えられていた。
故に、「青木氏の守護神神明社」で論じた様に、「伊勢ー紀州」域には、「伊勢神宮」の「90社」にも及ぶ「遷宮社」の内、この域では41社があり最も多いのである。
「日本書紀」の記述にも、”「吉野」”をも含んだものとしての”伊勢”の表現があり、”神域の行動範囲”は、この様に広域に捉えられていた。
従って、歴史を正しく考える場合は、「行政区分の伊勢域」と、「神域範囲の”伊勢域”」とは区別して考える必要がある。
「分布と子孫力の領域」は、この「神域範囲の伊勢域」を考える事が必須の条件である。
この様な事は、他にもあり、”陸奥域”や”武蔵域”や”近江域”なども、「行政区分の領域」とは異なっている。

これは、「国の括り」とは別に、古来は、”意識(神域)”の中の「”伊勢”の範疇」であった事を示すものであった。
故に、”「伊勢」”を正しく論じる場合は、”行政区分を外す事”が必要である。
依って、「紀州」を外して論じる事は出来ないのである。
中でも、「紀州」は、「地形の変化」と「伊勢の神域」と「大和の政権」が大きく影響している為に、例外中の例外扱いと成る。

関西地域では、「三重」と「和歌山」は、「伝統の国」と云われている様に、ここに問題がある。
この二つには、大きく連動している史実があるので、同時に論じる事が必要なのである。
故に、「伊勢」のみならず「奈良」を研究する場合は、「紀州」を絶対的に研究する事が必要に成る。
「伊勢時代のあらゆる面の伝統」が、未だ、この「紀州」には少なくなったとは云え、他の県に比べて多く遺されている。

ここは「伊勢ー紀州」は「筆者の地域」であり、「子孫拡大」は「伝統の国」である以上は、「パラメータ」も大きいのである。


上記で論じた様に、その「伊勢青木一族」の「経済的な根拠」になっていた「大商い」は、明治35年にて「松阪大火」(出火元)で破産した。
依って、「子孫拡大」のその根拠を一時失った。

その為に、次ぎの事が起こっている。
イ 「経済的背景」を急激に失って、大きく「子孫拡大」に至っていない事、
ロ 「子孫拡大の根拠」と成っていた歴史的な安定した血縁関係にも、明治後、消滅した事

以上の事などから、「大正ー昭和の子孫拡大」は、それ以前の「150万石から200万石」と云われた勢力が、賠償に使い極端に小さくなった。
結局、「福家・(宗家)」は「商い」から手を引き、分家に当たる「作左衛門の家」が、「摂津大阪の支店」で「紙屋」を再開した。

「三つの条件」の「経済的背景」は、「二足の草鞋策」で、「政治的背景」は「不入不倫の権」で、「軍事的背景」はシンジケートで補完されていた。
しかし、この「三つの条件」の最大の「経済的背景」(超大地主)をも失ったのである。
後の二つも明治維新での「地租改正」でも、紀州域まで含むかなりの範囲で、「絆青木氏」を含む「青木氏関係族」に引き渡し、福家(宗家)は極度に衰退した。

現在も一族一門は主に「三重」を中心に関西域の8地域に存続している。
そもそも記帳がないのはその「家柄の体質」(慎重な性質)にあると考えられる。

a 平安期から室町期初期の「初期の移動期」
b 江戸享保期と末期の「後期の移動期」

以上のこの2つには、各地の「青木氏の定住地」としての地域には大小移動定住している。
「移動定住地」は次ぎの通りである。
「大阪」に、「兵庫」に、
「愛知」に、「長野「に、
「伊豆」に、「神奈川」に
「福井」に、「新潟」に、「陸奥」に、
「東京」に、「千葉」に、「茨木」に、
(和歌山)

以上の12地域に定住移動」している。
(5家地域と神職関係と小移動は除く。 「伊勢秀郷流青木氏」は除く。)

この各地の「子孫拡大」に大小はあるが、その中でも、「移動定住」で、大きく「子孫拡大」した「伊豆青木氏」は特別である。
一国以上の定住地である。

ここ「伊豆の青木氏」は、「伊勢青木氏と信濃青木氏」の「融合族」で、「青木村」全体で「笹竜胆紋」を現在でも護っている。
ここは、「清和源氏の摂津源氏」 「宗家頼光」の「四家の長老」4代目正三位頼政の領国である。
この「頼政」の孫の「京綱」は、「伊勢青木氏の跡目」に入ったのだが、それまでに、同族としての「男系女系の血縁」を含む「親族的な付き合い」が高かった。
ただ、それは、清和源氏の分家「頼信の河内源氏」との「生き様」が異なっていた為に、永来に親交は無かった。
この為に、「伊勢青木氏」と、「信濃青木氏」は、宗家四家の棟梁「頼政」を盛り立てた。
それが「伊豆の青木氏」なのである。
(「信濃青木氏」も伊勢青木氏と同様に「摂津源氏」との血縁親交を持ち続けたことが記録にある。)
そもそも、この「伊豆地域」は、”「青木氏の伝統国」”と呼ばれる地域でもある。
ここに行けば、現在も、上記する様な、「笹竜胆紋」のステイタスを「青木村」の全域で継承している。
「青木氏の伝統」を調べようとすれば先ずは「伊豆」である。

その証拠の最大のパラメータを持つ「神奈川の21」には、次ぎの様な、パラーメータが見込まれる。
「伊豆の4」と、「東京の18」には「2」と、「兵庫の3」には「摂津の1」としての「伊勢青木氏のパラメータ 7」が合わせて見込まれる。

筆者の福家・(宗家)は、その後、子孫を拡大させて各地に大きく分布している。
数字的には、極めて深い親交のあった長野の「信濃青木氏」の「パラメータが9」とすると、明治期まで「不入不倫の権」で守られて来た。
このことから、「三重」は少なくとも「平均の4」以上の ”7” には相当していると観られる。
次ぎの事で、「伊勢青木氏」は、少なくとも、実質「パラメータ 7」以上である事が判る。

ところが、上記する「伊勢域」の、この「三重」に隣接する和歌山には、「パラメータが4」と成っている。
ここには、本来は、何れの青木氏も歴史的に定住地ではない。
しかし、定住地論ではないが、”「青木」”と云う地名が、”和歌山有田郡”に存在する。
ここには、平安末期に、確かに「藤原氏」が守護として赴任している。
しかし、この「藤原氏」は「脩行系の藤原氏」で、「秀郷流青木氏」とは無関係である。

この「藤原氏」が赴任移動した地域は、有田郡の”「明恵」”と云う地名に成っている。
”「藤原明恵」の赴任先末孫だ”と云う一族がこの「明恵」地域に住んでいる。(家紋が疑問)
そこから離れた地域に、「青木」と云う地名があるが、ここには歴史的に村の形成は無い。
恐らくは、明治期初期に地名として、「第3の青木氏」の「青木村」が多く作られたが、その時に名づけられたものである。
周囲に、最早、その「第3の青木氏」は全く存在しない。
ところが、上記した様に、「紀州」は「神域の伊勢域」であった。
この事から、長い歴史の中で「伊勢青木氏」は”「紀州」”の方向に「子孫拡大」で伸長して行った。

伸長の経緯
(1) 実は、この和歌山の「有田郡」には、明治初期から筆者の「伊勢青木氏」の「絆青木氏」が存在する (1)。
(2) 祖父の代に「伊勢青木氏」に所属していた「職能団」の中から、「絆青木氏」を発祥させた (2)。
   この「絆青木氏」が明治期から定住している。
   この「絆青木氏」には、(1)と(2)と、以下の「二流の青木氏」がある。
(3) 一つは、伊勢での「家臣団の絆青木氏」が伊勢青木氏倒産で和歌山に移動定住した (3)。
(4) もう一つは、「伊勢青木氏」の「職能集団の絆青木氏」も和歌山に移動定住した (4)。
   合わせて、先ず、「4つの絆青木氏」がある。

(5) この「職能集団の絆青木氏」には、更に、和歌山で祖父の代で「絆青木氏」として発祥させた元は「藤田姓(明治期の農民)」の「絆青木氏」が有田郡域に定住した (5)。
   (この藤田の「絆青木氏」は明治の終わり頃に「絆の養子縁組」を破棄した。)
(6) これと別に、「伊勢秀郷流青木氏」の一部が明治期に、和歌山ー有田域に定住移動した (6)。

(7) これに同行した職能集団が、「主家の氏名」を「明治期の苗字令」に基づき名乗った「第三の青木氏」がある (7)。
(8) 当然に、倒産時に「福家(宗家)の伊勢青木氏」は、伊勢に子供を一人残して跡を引き継がせて、福家(宗家)の「伊勢青木氏」の地の新宮と云う地域に移動した (8)。

この時、福家(宗家)以外は伊勢に残る。「三家の青木氏」が伊勢の地に残った。

現在も、この”伊勢域”の古来からの「8地域」に存続し、拡大している。

従って、和歌山には以上の「8つの青木氏」が存在する。
これらが「子孫拡大」をしていった「伊勢青木氏の経緯」である。

この全ての「青木氏」が大阪(摂津域)にも移動して子孫を現在も拡大させている。

和歌山には、従って、「パラメータ 4」が出たのである。

更に、この4の内訳は次ぎの様に成る。
「伊勢青木氏」は1、
「秀郷流青木氏」が1
女系血縁性の「絆青木氏」の1
「第三の青木氏」の1
以上がこれに相当する。

但し、祖父の代の「絆青木氏」は血縁性を持っていないので「第三の青木氏」の中に入れる。
従って、「伊勢青木氏」は次ぎの様に成る。
「伊豆の青木氏の「3」
「三重ー和歌山の青木氏の「4」
合わせて、「伊勢青木氏の子孫力」の「パラメータ」は”7”と成る。

しかし、「信濃 9」に対しては、「伊勢青木氏 7」は少なくとも9かそれ以上と成り得る。
その答えが「奈良 1」である。
この「奈良の1」は「名張の伊勢青木氏」である。

小計としては、「伊勢青木氏」は、7+1で、「パラメータ 8」と成る。

そもそも、「伊勢青木氏」は、次ぎの様に成る。

・松坂、名張、員弁、桑名、四日市
(伊勢青木氏と伊勢秀郷流青木氏と青木氏融合族)
(四日市は融合族)

・伊賀、脇坂、上田
(「2つの絆青木氏」 「職能集団」)

・玉城
(「2つの絆青木氏」 「家人集団」)
「青木氏の絆青木氏の本流筋」、

「絆青木氏」には、次ぎの2流がある。
「家人」と呼ばれる家臣に相当する一門
「職能集団」の一門

参考
「家人集団」も「職能集団」も、その本家筋は「女系の血縁関係」を構築していた。
現在の「玉城市の全域」は、明治35年以前は、「2つの絆青木氏」の住人と蔵群であった。(明治35年)
「名張」はこの「奈良の1」である。

以上から成り立っていた。

結局は、これで「伊勢青木氏」の「パラメータ 8」と成るが、これに「都会流失分」が加味される。

これに、下記の「大阪の都会移動分」を加味すれば、「パラメータ 11」以上程度と成ろう。
(「和歌山の移動分 2」ー絆、「兵庫摂津の移動分 1」ー支店が加算される。)

以上は、「賜姓族伊勢青木氏」のカウントである。
従って、殆ど親族関係にあった「伊勢秀郷流青木氏」の分が「伊勢域」の中に組み込まれている。
「皇族賜姓族5家5流の青木氏」の”古来からの定住地”に、直接、平安中期から定住しているところはこの「伊勢域」だけである。
それだけに、「伊勢秀郷流青木氏」の「特別賜姓族」は、前段−5でも論じたが、「全くの同族」なのである。

ここで、それを加味すれば、次ぎの様に成る。

「パラメータ 11」+「伊勢秀郷流青木氏分の3」=「パラメータ 14」

前段−5、6、7で論じた様に、「伊勢青木氏」のバラメータ は次ぎの様に成るだろう。

「伊勢青木氏」は、最大「パラメータ 14」と成ろう。 


上記した様に、「明治後の都会移動分」として「大阪14」と「東京18」の分の幾らかが加算される。


「大阪」には、「関西域の青木氏」の定住地から「都会移動」が明治後に起こっている。
「伊勢青木氏」が、この「大阪」にどの程度のパラメータで食い込んでいるかは判らない。
ただ、筆者の分家に相当する「伊勢青木一族」は、明治35年倒産の後、大阪に移動定住して平安期からの「和紙の問屋」を今も続けている。
これは「ルーツ掲示板」と「家紋分析」から観察する事が出来る。
何れのデータでも信頼度は、「都会」と云う事もあって、過去からの伝統的なデータが維持されていない。
裏付けるものがないので、「虚偽」のものとで渾然としていて低下する事から、正確なデータが採れない。

・「大阪の14の内訳吟味」
「大阪の14」の全てが、「集合パラメータ」である事から、関西と中国と中部域の周辺の定住地の総合が14−15である。
従って、全て「パラメータ 1」で、均等に集合したとして考えると、下記の様に、丁度14ー15と成る。
現在も「集合域」なので、「家紋分析」などではそのルーツが判らない。
又、この地域の「青木氏自身」が、その「ルーツの情報」を持ち得ていない場合が多い。
これは「移動定住の所以」であろう。

これでも、「都会の青木氏」の「ルーツの情報」は、この現象から消えるのみである。
大阪の「都会」も然ることながら、「田舎」に於いては、老化して継承出来なくなった現象が起こっているので、「ルーツ情報」は最早、まじかに消える。
仮に、遺されたとしても問題は、「正しいルーツ情報」が遺されたかとうかの問題である。
この様な状況の中では、「遺される情報」は、「慣習仕来り掟」の伴わない環境の中では正しく遺されずに湾曲されるが世の常である。


とすれば、「大阪周辺地域」の「伊勢青木氏」の場合は、周辺の「伊勢青木氏」が、関係する定住地は「3地域」と成る。
従って、「大阪の14」の内の「3」は獲得できる。

依って、「伊勢青木氏の定住地」の「パラメータとして 「14」、これに「都会移動分」を加えて、その「総合の子孫力」の「パラメータ」は14と3で「15」と成る。

結局は、「伊勢青木氏」の合計「パラメータ」 15」(実質12)である。

事ほど左様に、大阪に集まる「青木氏」は次ぎの様に成る。

「伊勢青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」を始めとして、
「香川青木氏」、「高知青木氏」、「徳島青木氏」、
「福井青木氏」、「長野青木氏」、
「愛知青木氏」、「岐阜青木氏」、
「近江青木氏」、「兵庫青木氏」、「滋賀青木氏」、「鳥取青木氏」、
その他地域の青木氏

以上の地域に、「大阪の14」が分散して「子孫力」として各地域に加算される。
全体の20%程度が大阪に集まっているのだが、上記の14地域から、1地域に「パラメータは1」を配分できる。

比較対象として、「都会」の「東京18」は「武蔵国」で「秀郷一門の定住地」であるので、「パラメータ」の持つ意味は若干異なる。
「大阪の14」は、その意味で、「伝統の継承」は、「東京の18」に比べて、関西域は、これからは低く成る事を物語る。

その事から、「伊勢青木氏」の「遺された伝統」の意味は実に大きい。


そもそも、「伝統」とは、その「伝統」を維持している「氏の思考の基準」となるものである。
「氏の思考基準から外れた考え方」はその氏は排除する。
要するに、「伝統」=「思考基準」(行動規範)である。
況して、「氏の独善の宗教」=「密教」であるとすれば、「宗教的な作法」の「伝統」は”自らの氏が決めた作法”である。
「氏の思考基準」である。
次ぎの”「青木氏だけの伝統」”は、”「青木氏の思考基準」”となる。
「青木氏」は、”この様なものの考え方をしていた”と云う事で理解するべきである。


所感(伝統 2)
筆者の「伊勢青木氏」の生活の中にも、何気なく行ってる「慣習仕来り掟」は、外から観れば、”古来のもの”と観られる。
筆者はそれを当たり前だと「無意識」に受け取っていた。
子供の頃から、”何か違うな”と思いながらも、その「無意識の感覚」が強く打ち消していた傾向があった。
今、思えば、「部屋の間取り」や「構え」や「大きさ」や「家具」や「調度品」や「装飾品」や「作法」等は確かに違う事が判る。
例えば、「達親の論文」で論じた様に、「祭祀の作法」の”「達親」”等はよく調べると、「古代慣習の継承」であったりする。
この様な事が、未だ、沢山ある筈で、「無意識」を「有意識」にして、これから「伝統」を掘り起こして行く計画である。
何せ、相当伝授されたが、その”有意識の持った人”が居なくなっている現状である。
何とか「違い差」を見つける事と認識している。そこから検証を進めて投稿する。

後に、詳しく伝統の論文として、投稿する予定だが、「無意識」を「有意識」にして、因みに一つ簡単な例を挙げる。

祭祀で、仏様に、線香を捧げる。
この時の”「仏法作法」”が異なっていて、”「古来の密教浄土宗の作法」”が遺り継承されている事がある。

「仏説作法」
それは、先ず「仏」に向かって挨拶をする。
「数珠」は、親指に賭ける。ところが一般は親指以外の4本の手に賭ける。
そして、「粉の線香」を、先ず、一摘みして、一般ではそのままに香炉に入れる。
ところが、この時、その一摘みの線香を、香炉に入れずに、「額中央」に当てる。
その後、に香炉に入れる。
これを、3度繰り返す。

これを他の宗派では日蓮宗は一度で、真宗は2度にして、額に当てずに、直ぐに香炉に入れる作法である。
ここで、重要な異なる作法が2つある。

”「親指に数珠」”を掛けるのは、「親指」の持つ意味から来ている。
この”「数珠作法」”は、他の宗派にもあり、「自然神」をも崇め、「神仏合体」で信仰する「修験道師」にも、一部作法として遺されている。
これも「古来の作法」であったと観られる。
古来は「現在の数珠のサイズ」の様では無く、現在は小さくなかった。
古来は「108の球」を連ねた「長い数珠繋ぎ」であったのです。それを両方の親指に賭ける。
そして、その「長い数珠」を両手で擦り合わせて、”「擬音」”を出す作法であった。
この”「擬音」”で、「仏への合図」とした。
これは現在では無く成って居る。
青木氏の中でも無く成って居るが、”親指に賭ける作法”だけは遺されている。
ところが次の作法では異なっている。

「作法の相違点」
A 一つは、回数が3度にする作法
B 二つは、額に当てる作法

これらには、2つの作法には、「古代密教浄土宗」のみ「本来古来の姿」が「仏説根拠」を伴って遺されている。

先に、Bに付いて、この「額に当てる」とは、何なのかである。
それは、古来より、「額中央」に、人間には、「瘤」の様に膨らんだ「複眼機能」と云うものがあった。
現在は、その機能は退化して、大脳の下に10ミリ程度の大きさで押し込まれている。
これは「前頭葉」が進化して大きく成った事により退化して、更に、存在場所が圧迫されて奥に引きこもった様に成って居る。

ここで、この「複眼機能」は、ここに「無我無心」にして「全神経」を集中させると、右脳より「ベータ波」を飛ばす事が出来る。
これは、「未来」を予見し、「過去」を悟り、「現在」を見据える事、の出来る「予知機能」を有している。
この「予知機能」を使って、「過去の人」と成った「仏」に対して、「未来」に生まれ変わってくる「仏」に対して、「現在」の世に未だ居る「仏」に対して、「信号」を送る事が出来る。
(現在、中国では、現実性を以って研究が進んでいる。「中国山岳民族」に、未だ、この「複眼機能」を有している「少数民族」がある。)
この「信号」の「ベータ波」で、「三世の仏」に対して、”「会話」をする事が出来る、”と信じられている仏説である。
この「仏との会話」は、例えば、”生前中は大変にお世話に成りました。ありがとうございます。”との事が出来るとして、この「仏説作法」が遺されているのである。

この「3度」とは、「過去、未来、現在」の「仏」に対する「三度」と成っている。
これが、「古代密教浄土宗の仏説作法」である。
これは、一概に、”迷信”では無く、実は、”生態学的に根拠のある現象”なのである。
この「複眼機能」は、現在も「動物の本能」として持っているもので、人間には退化している。
ところが、未だ、人間の元と成る「女性」には、「母性本能」の一輪として遺されている。
そして、この”「機能」”を鍛える事で、「予知能力」は高まる事が判っている。
特に、「男性」は全く働かないが、「女性」には未だ現実に持っている。
現実に、右脳から発する「ベータ波」が「母性本能」の中で高く成ることが判っている。
「女性」が子供を育てる時には、現在も、この機能の一部を使っている。

これが「古代仏説」として、その「作法」が、「三世の仏」に「話しかける手段」として、未だ「青木氏」の中で遺されているのである。
これは、「古来の仏説」では、”「仏」が死する事は、「肉体の消滅」 を意味し、「霊威」は一定期間遺る”とする「仏法」である。
従って、この遺された「霊威」に対して、上記する”「古来の仏説作法」でのみ話しかける事が出来る”とした説法である。
その”「霊威」の存在する期間”が、”「現在過去未来」の何れにか存在する”として、「3度」と成って居るのだ。
その「祭祀の目的」、例えば、「葬式」では、「現在」に存在するとして「現在」を、「法事」であれば、「過去」に存在するとして「過去」をと成る。
「常の祭祀・お勉め」では、「未来」(「仏」が生まれ変わる)に存在するとして「未来」に向かって、「仏との会話」をするとした仏説である。
一切の「祭祀の作法」として、「密教浄土宗」では、総括して「三界の3度の動作」を繰り返す作法と成っている。
これを、この「動作の回数」と「額の所作」を省いて、その「宗派の考え方」で、「過去現在未来」の何れかの「三界」に対して1度、2度とした。
これが、「顕教の浄土宗」では無く、「密教の浄土宗」の中に遺されている「密教の古来作法」の一つである。
以上の事を「根拠」とした、上記した「古来作法」なのである。

以上、「達親」に続き、「伝統」の一つを披露した。
「伊勢青木氏」等の慣習の中には、この「古代仏説の作法」を、未だ遺されたものとして、現在も引き継いでいるのである。
これらの「伝統」は、「先祖の青木氏」を正しく理解する上で、”意味のある事だ”と考えられる。


> ・> 青木氏の分布と子孫力
> >
> > [地域別分布力]
> > > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > > 地域      異変の県        分布力
> >> 九州地方   長崎、大分       5%
> >> 四国地方   高知           2.5% 
> >> 中国地方   山口、岡山       2.5%
> >> 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
> >> 東北地方   秋田           7%
> >> 中部地方                 15%
> >> 関東地方                 45%
> >> 北海道・沖縄               6%
> >> その他                   3%
> >>
> >> 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> >> 九州地方  1.3
> >> 四国地方  1.3
> >> 中国地方  1.3
> >> 関西地方  4.7
> >> 中部地方  4.3
> >> 関東地方  11.3
> >> 東北地方  2.0
> >> その他   11.0
> >>
> >> 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
> >>
> >> 修正地域(表ー3)
> >> 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
> >> 秋田 1
> >>
> > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> >> 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> >> 福岡  2      山口  0   愛媛  3     兵庫   3    三重  1
> >> 長崎  0      島根  2   香川  1     大阪  14    石川  2
> >> 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都   5    福井  1
> >> 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良   1    岐阜  3
> >> 熊本  4                        和歌山 4     愛知  13   
> >> 宮崎  2                        滋賀   1    長野  9
> >> 鹿児島 1                                   山梨  1
> >>
> >> 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
> >
> >> 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
> >> 静岡   5   青森  1      沖縄   1
> >> 神奈川 21   山形  2      北海道 11
> >> 東京  18    岩手  1
> >> 埼玉  17    新潟  4
> >> 群馬   6   秋田  0
> >> 千葉  11   福島  4
> >> 茨木   4   宮城  2
> >> 栃木   8                                     
> >>
> >> 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  
>
>  青木氏の分布と子孫力−9に続く。
>



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