青木氏のルーツ & 雑学研究室

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全4ページ : 1 2 3 4 
ここでは「青木」という氏について ルーツなどのまじめな話や、くだらない雑学を研究しています。みなさんからの貴重な情報をお待ちしております!!
また、ご自分のルーツを調べたいが、どうしてよいか分からないという方や、さらに詳しく知りたいと言う方は、わかる範囲で結構ですので、下記の情報を添えて書き込んでください。
当サイトのサポーターの方々がヒントをくれるかもしれません。
  1. 家紋、例:御父上の袴の袖に書いた紋、仏前の道具に書いた紋など
  2. ルーツの昔の国、例えば、武蔵の国や下野の国の..郡と村、等。お墓のある菩提寺の土地。。現在の地名。宗派等
  3. その他、些細なことで結構ですので分かっている事をなんでも書き込んでください。現代では何の価値もない情報がルーツ解明の重要な糸口になる場合があります。

  4. この掲示板へのご質問に対しては、主に副管理人さんに回答していただいておりますが、更なる疑問や質問などはこの掲示板への返信という形でお願いいたします。
    直接、副管理人さんにメールしてご質問される方がおりますが、他の青木さんや歴史研究されている人にも見ていただきたいので
    よほどプライベートな内容で無い限り、この掲示板に知識を集約する意味でも、なるべくこの掲示板に書き込んでいただく事を望みます。
    つまり、副管理人さんの意向は長年研究した青木と言う氏の情報を一人でも多くの後世の人たちに残したいと言う事です。メールでのやり取りですと公開されない情報が多くなってしまうわけです。

  5. ※雑談掲示板はこちらです。

¶ 題名¶更新日時
我が家は何者07/02/22 08:08
先祖の人生観連立方程式07/02/17 11:08
大化改新の予備知識07/02/15 19:14
大坂夏の陣で戦死、帰納伝承の青木氏を探してます07/01/24 21:13
北海道の青木07/01/21 11:38
天皇家と武田家の関係?07/01/14 20:04
阿多倍王と安部氏との関係(代理投稿)07/01/14 16:29
青木氏と血縁族(家紋)-(綜合1)07/01/11 20:18
樫の葉の家紋の件(代理投稿)07/01/04 09:09
ルーツ探訪(東京の青木さんの代理投稿)06/12/28 11:01
木曽義利と青木家の関係について06/12/22 20:50
滋賀の青木です06/12/20 23:18
近江源氏佐々木流青木氏について06/12/20 22:30
青森の青木です。06/12/19 20:07
小田氏について。06/12/18 19:41
御礼。06/12/09 11:31
教えてください。06/12/08 20:04
追伸06/12/08 14:55
お礼を申し上げます。06/12/01 13:35
以前嶋崎氏の件でお世話になりました。06/11/28 19:37
信濃の諏訪の旅06/11/25 01:51
家紋について06/10/16 13:08
武田菱紋06/10/09 20:00
青木の青の呼び方06/10/08 16:34
お答え頂きまして、有難うございました。06/10/06 19:35
嶋崎氏について。06/10/05 23:47
群馬の青木です。06/10/03 22:08
尾張の青木です06/09/26 11:21
栃木の青木06/09/24 21:54
埼玉県川口市の青木です06/09/21 21:55

No.398
我が家は何者
398編集 追加
かんりにん代理登録

こんにちは、
親父が亡くなり届出をするため戸籍を取り寄せたところ、
祖父・曽祖父・玄曽祖父の名前まで載っていて
曽祖父の生年月日が天保3年11月8日と江戸時代の年号で載っていました。
我が家は一体何者なのか興味を持ったのですがルーツが辿れません。
そんな時ここを見つけました。
曽祖父の戸籍は東京市日本橋区です。
家紋は抱茗荷です。
因みに曽祖父は、青木八右衛門、玄曽祖父は、青木清右衛門です。
衛兵みたいな名前です。

No.399

Re: 我が家は何者
>かんりにん代理登録
>
>こんにちは、
>親父が亡くなり届出をするため戸籍を取り寄せたところ、
>祖父・曽祖父・玄曽祖父の名前まで載っていて
>曽祖父の生年月日が天保3年11月8日と江戸時代の年号で載っていました。
>我が家は一体何者なのか興味を持ったのですがルーツが辿れません。
>そんな時ここを見つけました。
>曽祖父の戸籍は東京市日本橋区です。
>家紋は抱茗荷です。
>因みに曽祖父は、青木八右衛門、玄曽祖父は、青木清右衛門です。
>衛兵みたいな名前です。

近江の青木さん   今日は。はじめまして。
ようこそ、青木サイトに興しくださいました。これからもちよくちょくお尋ねください。
元は同じルーツを持つ青木さんです。大化の改新頃に戻れば親族です。元親族同士コミニケイシヨンを致しましょう。

さて、お尋ねの件ですが、直ぐにわかります。
御家の家紋が「抱き茗荷紋」ですので、近江、滋賀地方を勢力範囲として活躍していた古い豪族の「二宮氏」と血縁をした近江青木氏と伊勢青木氏のどちらかの青木氏です。

この青木氏は、大化の改新のときに天智天皇の第6位皇子(6番目の皇子)天皇を護る親衛隊と成る為に臣下して親の天智天皇から青木氏という氏を授かりました。(賜姓という)
この皇族賜姓青木氏は天智天皇から始まり、男系5代後の天皇の光仁天皇までこの第6位皇子の賜姓青木氏が発祥しました。
天皇は、天智、天武、文武、聖武、光仁の5代の天皇です。
その賜姓青木氏は伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5つの国に守護国守として赴任しました。
その内、初代の賜姓青木氏は伊勢王が初代です。
御家はこの伊勢王の賜姓青木氏か、近江王の賜姓青木氏かと言う事に成ります。

御家の鎌倉時代か室町時代の古いご先祖が何処に住んでいたかと言う事が判ればこのどちらと言う事が決定します。

と言うのは、この二宮氏が伊勢の永嶋と志摩地方に移動して、勢力を持ち、稲垣氏、鳥羽氏、小沢氏と名を変えて移動しました。
この氏は元は近江の二宮氏から出ています。
この二宮氏と近江賜姓青木氏の末裔が血縁関係を持ちました。そして、抱き茗荷紋の二宮氏の家紋を引き継ぎました。
血縁して男子が生まれず女子が跡を取り、養子を同じ土地の豪族の二宮氏から迎えましたが、さらに男子が生まれずに遂に女系となりました。
2代続きで女系と成ってしまったことを意味します。
はじめの二宮氏から養子を迎えた時にとりあえず、家紋は抱き茗荷紋としてあつかいますが、この養子から男子の跡取が生まれれば元の笹竜胆紋に戻ります。
しかし、又女子でその女子が又養子を迎えたと成りますが、この時は女系ですので養子親の抱き茗荷紋になってしまいます。その後に男子が生まれたので抱き茗荷紋と成ったのです。
このようなことを決める「家紋掟」というものがあり、氏家制度の決まりです。

御家の賜姓青木氏が移動先の伊勢永嶋の二宮氏の末裔の稲垣氏または鳥羽氏、小沢氏等(抱き茗荷紋)との血縁で上記の「家紋掟」により、変紋を余儀なくされた青木氏で、この時は初代の賜姓伊勢青木氏との血縁で発祥した抱き茗荷紋の青木氏で有ることも考えられます。
もし、このルーツであれば、筆者と同じルーツです。昔は親族であった事です。近江伊勢ともにどちらも下は天智、天武の皇族賜姓ルーツは同じです。

一度お調べに成ってください。そこで、何でも結構ですから、ちょっとした伝説や伝承品や親類の昔話があれば意外にどちらかを決める事が出来ます。その時、何か気がつきましたらご遠慮なくお尋ねください。

そこで、一寸した事を発見いたしました。それは、御家のご先祖のお名前です。
昔はその名前で何処の人かわかるように成っていました。
特に、青木氏の「..右衛門」は近江(滋賀)の賜姓青木氏の襲名用の名でした。
代々使用されているようですので、先ずは近江賜姓青木氏の末裔(笹竜胆)と近江二宮氏(抱き茗荷)との血縁を結んだ青木氏である事がいえます。

ちなみに、伊勢青木氏は、青木長兵衛の長兵衛が襲名の名ですので先ず間違いがありません。

そこで御家は、抱き茗荷紋の本家筋との血縁をルーツにしている事が判ります。
「丸に抱き茗荷紋」の青木氏もこの三つの伊勢と近江と永嶋の地方に存在します
つまり、分家筋の末裔が広げたルーツです。

上記のこれ等のことは、研究室の「青木氏(家紋)と血縁族」の「茗荷紋」のところのレポートと家紋掲示板の3Pの「抱き茗荷紋」のところと研究室の「皇族賜姓青木氏」関連のレポートが幾つかありますのでゆっくりとお読みください。御家の古いご先祖の生き様なども見えてきます。
地名地形データーベースの近江付近のデーターも見て下さい。

因みに、青木氏には概ね、皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏があり、江戸期から生まれた御家人青木氏(第3の青木氏)があります。

この二宮氏は「二宮尊徳」という江戸時代の学者をご存知と思いますが、この人もこの二宮氏の末裔です。

更に、「佐々木小次郎」と言う「宮本武蔵」と戦った剣豪はこの近江の佐々木氏です。
近江の佐々木氏は元は天智天皇の第7位皇子で賜姓を受けて臣下して佐々木氏を名乗りました。
ですから、元を正せば、天智天武のどちらかのルーツにたどり着けます。
つまり、同じルーツです。
筆者(伊勢青木氏)とも同じルーツになると思います。

これからも、同じ元祖を持つ青木氏同士でこのサイトでお会いしましよう。
藤原秀郷流青木氏も元は母方は藤原氏の血縁で伊勢青木氏を除く4つの賜姓青木氏と結んでいるのです。
つまり、従兄弟です。

ご質問や不明点など有りましたら、ご遠慮なく青木氏同士でお尋ねください。喜んでお答えします。

先ほどの、ちょっとしたことでご先祖のお名前で土地や発祥がわかるのです。

レポートは長文に成りますから、ゆっくりと楽しんでお読みください。
多分、研究室に御家とご親類になる方の投稿があった気がしますので、研究室の青木さんとのやり取りなどをお探しになりお読みください。
全体をかけてゆっくりとお読みになると青木氏全体がみえてきますよ。

では、お便りお待ちしています。

No.400

Re: 我が家は何者
こんにちは、
とても詳しい解説をありがとうございます。

我が家は由緒正しい歴史有る家系なんって驚きです。
曽祖父・玄祖父が右衛門と言うので、何だ我が家はドラえもんの子孫なのかって
おちゃらけていましたが、とんでもない話ですね。
これからは近江の青木と名乗る事にします。

長男は○右衛門と改名しようかと言ってます。
次男は、海外に居るので帰って来たら教えてやろうと思います。

親父が亡くなったのは、ちょっと前でして、相続もしないで放って置いた実家を相続する事になり
戸籍を取りに行ったところ先祖が分かった次第です。

当初は、どうせ何処かの馬の骨だろうと思ってました。
姓名も明治になってから貰って来たのだろうと思ってました。
ところが戸籍に江戸の年号が記載して有るので
江戸時代から続いてたんだと分かり、ルーツを知りたくなりました。

ただ、親父が中学生の時に祖父は亡くなり、まもなくして祖母も亡くなったため
私達は祖父母を知りません。
親父も徴兵されて6年戦争に行って帰って来たら跡形も無くなっていたと言う事です。
先祖を知るものは何も有りません。
墓も子供の頃に谷中の何処かの寺に連れて行かれたのは憶えていますが、寺の名前も分かりません。
親戚が居るかも分からない状況です。

他に知る術が無いので、再び中央区役所へ行って、曽祖父と玄祖父の戸籍が無いか調べて来ます。
ちょっと何時になるか分かりませんが、調べたら報告します。

ヤフーに江戸古地図が有り、日本橋界隈を見たのですが、青木は有りませんでした。
しかし九段に青木が3軒ありました。
その内の1軒は、青木与右衛門と記載されています。
○右衛門繋がりで関係有るのかと思うのですが、現在は靖国神社になってます。
もしかして明治になって追い出されたのかも知れないですね。

因みに我が家(横浜)から近いところに青木町が在ります、これも青木に関係すのでしょうか。
良く知らない友人に我が家の先祖が作ったんだぜとホラを吹いてました。

これからも宜しくお願いします。

No.401

Re: 我が家は何者
すいません、書き忘れたのですが、
この研究室に、近江の青木氏は滅びたと有りましたが、
我が家は、滅びた家系なのに何で存在すのでしょうか。

宜しくお願いします。

No.402

Re: 我が家は何者
おはよう御座います。

近江の青木さん。
早速、お便り、ご質問いただきありがとう御座います。

びっくりされたと思います。

お尋ねの件はまず、一つは、横浜の青木町の件ですが、このことからお答えします。

この横浜神奈川の青木町は御家の青木氏と別の青木氏です。

この青木氏には横浜より右側では藤原秀郷流青木氏の子孫が定住し平安期から独自の村を形成していたのです。埼玉の入間を中心に神奈川横浜を半径として円を描く範囲に存在しています。
村ついては青木氏の地名地形データを参照して下さい。

そして、この左側の伊豆よりにも青木町があります。この神奈川の左よりの青木町には甲斐の武田系青木氏と甲斐の皇族賜姓青木氏が信長に追われて逃げ延びてここに定住しました。この一部は栃木方面にも逃げ延びています。
次に熱海から伊豆地方にかけてある青木町は平安初期からこの地域を守護地としていた清和源氏の源の頼政に伴ってきた皇族賜姓青木氏の伊勢、美濃の青木氏です。守護地であるので一部が移動して子に村を形成したのです。

次ぎに御家の青木氏ですが、これには3つの青木氏が考えられますが、情報が少ないので確実とは行きません。
藤原秀郷流青木氏と皇族賜姓青木氏とあり、この皇族賜姓青木氏には2つに分かれます。
あとは佐々木系青木氏です。皇族賜姓青木氏と佐々木系青木氏はルーツは同じですが、発祥期が佐々木系青木氏は後に成ります。元は近江の皇族賜姓青木氏です。近江賜姓佐々木氏と近江の皇族賜姓青木氏との血縁で出来た青木氏です。

ここで、一つは元は上山氏という一族がこの賜姓青木氏の分家を乗っ取り青木氏を名乗った子孫もこの近江と滋賀地方に多く存在します。

抱き茗荷紋はこの3つの青木氏が血縁しているのですが、前レポートでも書きましたが、藤原秀郷流青木氏ではないことは、お名前の「右衛門」のなずけになっていませんので、先ず異なると考えます。
次ぎは伊勢の皇族賜姓青木氏との血縁ですが、これもなずけでは異なります。

ところが、近江皇族賜姓青木氏にはこの土地には丹波から甲賀に沢山の城を持っていましたが、この一族は全て右衛門を使っています。「...右衛門」です。

昔は各地のどの青木氏であるかを区別してわかりやすくする為に有る程度の家柄の子孫は襲名の習慣がありました。右衛門は近江地方の賜姓青木氏です。

ところが、この近江賜姓青木氏は一時佐々木系青木氏との間で問題が起こり、一部は滋賀に移動しています。ところが、この移動した青木氏は又元に戻ります。一部は摂津に定住しました。摂津付近にも青木町がありますが、これは滋賀から戻った近江賜姓青木氏の子孫です。

そこで、この近江の皇族賜姓青木氏の御家はこの近江の賜姓佐々木系青木氏か近江の皇族賜姓青木氏か情報が有りませんので判別できません。後に、情報の提供が有りましたら定まっていくものと思います。

「...右衛門」だけの手がかりだけですので、この皇族賜姓青木氏と云う事以外にありません。
兎も角、この佐々木系青木氏も同じルーツですので「...右衛門」を使用しています。
青木城の城持ちもいました。

近江の佐々木氏も同じ天智天皇の皇子から賜姓を受けた元祖ルーツを同じくしています。

そこで、滅亡したとのことですが、何処に書いていたのかお知らせください。
「青木氏(家紋)と血縁族」茗荷紋には「滅亡」はないと思いますが。
その意味具合を説明したいと思います。

念のために、家を中心とした氏家制度のなかですので、滅亡には家が潰れたことと、子孫がなくなったこととは別ですのでご注意ください。

この5つの皇族賜姓青木氏24氏は信長に全て潰されています。しかし、子孫をこっそりと逃しているのです。上記した様に逃げ延びて子孫を遺しているのです。
逃げ延びたところで、元居たところで、復元しているのです。
滅亡といっても色々あります。この青木氏は子孫を戻しています。

青木氏は、独自の自分の寺の菩提寺と神社を持つています。御家も調べていくとこの菩提寺にたどり着けるはずです。

そして、その菩提寺の条件は浄土宗です。現在は何宗ですか。

そこで、青木氏ははっきりした一族で皇族賜姓青木氏24氏と藤原秀郷流青木氏116氏から成り立っています。(他に第3青木氏があります)

家紋にしますと30紋/33に成ります。家紋掲示板に掲載しています。
御家はその一つの「抱き茗荷紋」です。

ちょっとしたことでも結構ですのでお判りになるとお便りください。
お待ちしています。
No.397
先祖の人生観連立方程式
397編集 追加
隆夫さん、先祖の大事さというか、
これだけの先祖がいて、自分がいるということを表すために表を作りました。
先祖の数式の表
http://www.aoki.cc/senzo.shtml

管理人さんとの会話やり取り談

おはようございます。

本日は霧がかかった様な春曇りです。

鳥も余り飛んでいません。

さてさて、難しい禅問答ですね。
私は次の様に常々思います。聞いてください。

管理人さんの問いは上の数式からすると、先祖=2N*a A の式が出来ます。

先祖には代々に色々な時代性の出来事つまり歴史が出来上がります。

故に、先祖、つまり、歴史だと思います。

禅問答では ! 汝、 先祖=2Na とはこれ如何に。  ゆわんや応えるは 先祖=歴史なり。 それ答えは如何に。!

この根拠は次の如くなり。

 先祖=歴史 B  の問答式が成り立ちます。

以前も書きましたが遺伝子学的には血液型を同じとして85−90%の遺伝子を人は引き継いでいます。
このデーターは改新レポで書いた様に、国が30年掛けて歴史否定の言い分を持つグループの主張を退けたときに判った研究結果ですが、それまでは50%とされていました。
つまり、90%遺伝子が同じであれば殆ど「先祖は自分である」ことです。

自分=90%*先祖 @ の式が出来ます。

では、この論理からすると子供は、孫は何だろうか。

それは、遺伝子が同じだから、子供は現代の自分で、孫は未来の自分と位置付けられます。
そうなると、自分は現実の自分と成りますから、次ぎの式が成立する事に成ります。。

現実の自分=自分 @-0 現代の自分=子供、@−1 未来の自分=孫 @−2 の式が出来ます。

子供と孫は、曾孫は、夜叉孫が続く事は、歴史を持つ事に成りますから、結論は次ぎの式であわすことができます。

そして、自分=先祖=歴史のA の式が出来ます。

さらにこれに、自分は1/250兆で生まれてきたのだから、先祖の式とあわせると全体の方程式は次ぎのように成ります。

 自分=1/250兆*2N*a (a:余剰係数) B

つまり、先祖を組み込むと自分とは1/250兆*2N*aという途方も無い確率でこの世に存在してきている事に成ります。

従って、自分=先祖=歴史の式Aと、上記の式の二つで連立方程式が成立して、先祖もさることながら、歴史も同じ確率と成ります。

故に、歴史とは、自分と同じ程度に大事と言う事に成ります。

次ぎに出来る式は (自分)*(自分の集合[家族])*(家族の集合)=国  Cの式と成ります。

故に、自分の数式Bで成り立っている国はAを連立すると 国=歴史 Dの式が出来ます。

@からDまでの連立方程式から、自分を護ることは歴史を護ることであり、国を護ることを意味します。

人生観連立方程式

 先祖=2Na

 先祖=歴史
 現実の自分=自分 @−0
 現代の自分=子供、@−1
 未来の自分=孫 @−2
 
 自分=90%*先祖 @
 自分=先祖=歴史のA
 自分=1/250兆*2N*a (a:余剰係数) B
(自分)*(自分の集合[家族])*(家族の集合)=国 C
 国=歴史 D

 自分=母+故郷+自然=自分の心 E

歴史の意義はここにあるのです。

故に、自分を代表する一部、即ち青木氏の歴史を説き遺そうとさせているのです。

そして、人は、この方程式を無意識(深層心理:前頭葉)のうちで認識し、ルーツを探ろうと心が動くのでは有ります。

故郷、自然などはその動きの現れです。

自分を育んだ母、故郷、自然、を人は無意識のうちに求めるのです。

自分=母+故郷+自然=自分の心 Eの式が出来ます。(心は自分)
その証拠に、! 人は母の大地に抱かれて !と言います。

ところが、一時の1950年代の歴史否定、軽視教育のツケが、ここに来てこの認識を薄くさせているのが、現代の乱れた社会現象で有ると考えるのです。

だから、私の心根は、自分の集合体の社会(国)に「自分の知識」を早く提供しようと自分をさせ占めているのだと思います。

先祖の2N数式は、上記の大事な「人生観連立方程式」が成立します。

管理人さんへの答えはこのようなサイト存在の意味を持っています。
この方程式で人生に起こる喜怒哀楽を紐解くと、「素直な心」の答えが見つかるのです。
息子や孫や妻や嫁や親や先祖への「自然な姿勢」が定まると思います。

ちなみに、孫を目に入れても痛くないほどに無条件に心の奥底から不思議な感情で可愛いですね。
これは一体何なんでしょうか?
この連立方程式から考えると、次ぎのように成ります。

動物のこの世に出てきた本来の目的から、「子孫を残せた、即ち自分を遺せた」と言う目的の達成感が、「意識しない感情思考を能で管理する「深層心理」のうちから湧き出る喜びである」と定義づけられる事に成ります。
だから、孫達には、「濁りの無い喜びと可愛さ」が生まれるのだと思うのです。

私は、この連立方程式で、矛盾無く現代まで生きてきました。
そして、無事に良い自分を未来に遺す事が出来たのです。そして、1640年間これで続ける事が出来、さらに、おかげで150年は延ばすことの見込みが着きました。
1800年間は伊勢青木氏宗家は、AB型血液の直系で続く事の栄誉を神から与えられたのです。

我が人生。目的を果せたるなり。
これ、即ち、 先祖=歴史 に有りなん。

論理的で技術屋ですのですいません。数式的先祖歴史観です。

時事放談として、管理人さんとの先祖、歴史の意義談義を投稿掲載しました。

皆さんのご意見お待ちしています。
No.389
大化改新の予備知識
389編集 追加
本日、NHKで「大化改新」で新説を発表しますが、この予備知識を若干レポートします。

大化改新は青木氏にとって全く無関係で有りません。
実は、日本最初の青木氏は伊勢青木氏として発祥したのです。つまり、皇族賜姓伊勢青木氏なのです。
この発祥の原因はこの「大化改新」そのものなのです。詳しくは研究室の主に「皇族賜姓青木氏」などに詳細をレポートしています。

大化の改新は645年ですが、この2年後に第6位皇子が伊勢王に任命されたと日本書紀に書かれています。
この任命の時、前の孝徳天皇の子供の伊勢王とその弟が突然、同日同時に病死します(暗殺?)。
この時、天智天皇と孝徳天皇との軋轢があり孝徳天皇系の子供の有間皇子ら殆どの皇子が抹殺されます。この有間皇子が蘇我赤兄に殺された所と墓が熊野古道の熊野神社の第一の神社の藤白神社より50メータ程度のところにあります。鈴木氏の発祥地でもあります。

直ぐに天智天皇の第6位皇子(施基皇子)が賜姓を受けて臣下し侍となり親衛隊を造り、先ず伊勢の天領地と守護神を護る役目を与えます。この時に伊勢王にして青木氏を与えて、仏像をステイタスとして与えたと書れています。これが伊勢青木氏の総本家です。

天智天皇は蘇我氏に政治、経済、軍事の3権を牛耳られていてもう少しで天皇の座も奪われる直前に改新劇です。この反省で 天皇を身内で護る親衛隊を造ったのです。これが第一幕の改新です。
これが伊勢を始めとして光仁天皇まで続いたのです。
この時の蘇我氏が握っていた軍隊は阿多倍がつれてきた
漢氏です。この漢氏の出方がこの改新劇のキーだつたのです。しかし、この蘇我氏に雇われた軍事集団は引き上げたのです。

経済は部制度を蘇我氏の管理から国の管理に引き取ります。「市場経済」ではなく技能集団が作ったものを一度朝廷に入れた後に市場に出す「部経済」でした。
これが、この官僚の国造(くにのみやつこ)を置き主要地5地の青木氏の配下に入ります。

第6位皇子のことは、天皇家の経済的負担は皇子が多くて負担になっていました。
天智天皇の皇子皇女で34人もいました。
他の皇族を数えたら50人程度もいましたので、第6番目の皇子皇女から僧侶や下族にすると言う方式を制定したのです。

政事は親皇政治に取り戻したのです。

伊勢青木氏は血縁関係のある藤原秀郷流青木氏も含めて全国の青木氏の元祖です。

伊勢青木氏は小説の「名張の小太郎」や「歌舞伎」にも出て来る伊勢豪商の紙屋(青木)長兵衛です。

実は、天皇家の宮廷と蘇我入鹿の館とは普通は丘の下側の家臣の館があるはずですが、宮廷より上で直ぐ目の届くところにあったのです。丘の上から宮廷が全て見下ろせる位置にあったのです。
このことから、入鹿を殺す状況は家来とその漢氏の軍は判って居た筈です。何故、直ぐにおりてこなかつたのか。?
当時は、貴族以上は自分で武力を使っては成らないと言う掟がありました。だから、なだれの如く降りてくればひとたまりも有りません。
つまり、このことは初めから判っていたはずです。でも、何故か、実行したのです。
つまり、軍事職能集団の漢氏との間で何かあったのでは?
事件後、暫くして上陸して帰化していたこの渡来系一族の阿多倍一族は瞬く間に出世して行きます。遂には、清盛の時代へと進むのです。

この後、漢氏は東漢氏(やまとあや)に更に文直氏と変名して改新後、阿多倍の長男の賜姓族坂上氏の朝廷の軍隊に組み込まれます。坂上田村麻呂です。そして、蝦夷地を征伐した征夷大将軍と成ります。後のことを考えると何かあったと考えるのが普通です。

これ等のことを次の家紋の笹竜胆の青木氏で詳しくレポートします。
これ等の事は研究室の皇族賜姓青木氏のレポートを見てください。

No.390

大化改新1
NHK放映の新説「大化改新」に付いて。

この新説は次のような事でありました。

1 蘇我氏は逆賊ではない。
2 大化の改新はない。
3 蘇我氏館は武器、兵舎であつた。
4 蘇我氏は外敵から天皇を守った。
5 後漢滅亡後の唐を意識していた。
6 日本書紀は書足の編集であつた。
7 天智天皇は失政した。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。
これらを史実で検証してみる。

以上の内容であつたと思うが、少し新説は史実に偏りが見られる。

先ず綜合結論から言うと、蘇我氏側から見た見方と、天皇家から見た見方との違いである。
この違いはいまさら云う事ではない。以前から言われていたことなのである。

その意見の強いほうが「通説」と成っていた程度である。

そもそも、奈良期の大化前後の時代の状況から説明していくと判る。
先ず、聖徳太子の頃の主要5氏(葛城、巨勢、紀、物部、蘇我、平群)が天皇を中心にして運営されていて、親神主義と親仏主義の導入の争いがあり、親神主義の物部氏が負けて戦いの末滅びた。

その後、蘇我氏は全権力の3権を掌握し、第1度目の崇峻天皇を蘇我氏支配の武装集団の漢氏に暗殺させる。

天皇家の聖徳太子との軋轢の中で2大勢力時代になる。馬子との軋轢の中、聖徳太子は氏姓制度や憲法17条や冠位12階制度や官人制などの律令制の基礎をなんとか導入制定した。
何も天智天皇から始めたわけではない。そして、阿多倍一族の知識を基に桓武天皇のときに律令制度は完成する。(後述)

聖徳太子以後、2度目の天皇家の者を蘇我蝦夷や入鹿は聖徳太子の子供達一族(山背大兄王)を尽く抹殺した。天皇家のためであるなら何も殺す必要はない。
山背大兄王は蘇我氏に強く抵抗したわけではない。

その後、蘇我蝦夷と馬子は「東漢氏の軍事力」と、政治の「全3権(斎蔵、大蔵、内蔵)」と、経済の「部制度」を支配する。
これにより、女性の斉明天皇を操り、完全に全権を支配した。

このような状況から、2度の天皇家の者を抹殺し、全権を握られ傀儡政権となれば、天皇家の中大兄皇子にしてみれば次のような感情と猜疑心は生まれるが当然である。

天皇家側から見れば明らかに前の2度の暗殺を見ているので、前は未だ全権までは奪われていなかつたが、次は今度は次皇位継承者の自分が潰される。その事で全て奪われるという感情を持つは必定である。持たない方がおかしい。

現に、後に未だ安定しない状況の中で、直系の中大兄皇子は天皇に成らずに孝徳天皇に譲る懐柔策を採る。この時は未だ、蘇我氏分家は現存している。

しかし、蘇我氏側からすると天皇家のために国を護るという大義名分で全権を握ったというだろうが、其れまでの行動と殺戮に付いて、それを証明するには無理がある。
次々と権力のもたない飾りに過ぎない天皇などを暗殺する事はない筈。其の侭にしていても実質は同じである。
国内には天皇家を脅かす氏など何処にもないし、外国が攻めてくるとは言え、唐の前の隋政権は「来襲」は無かった。また、朝鮮半島にあったとは言え陸続きであり、海を隔てている事とは戦略上著しく異なる。
元寇の役の例にある様に同じで当時の軍事力では、そのリスクは大きすぎるのである。

実例を挙げてみると日本の歴史上で5度中4度外国軍が飛来しているが成功していない。
特にアジア系では成功していない。

先ず、1度目は応仁大王(天皇)の大船団が難波に上陸し大和朝廷と融和し、初代天皇となる。
2度目は鎌倉時代の元寇の役で殲滅して帰る。
3度目は江戸時代に英国とヨーロッパの軍船団が香港や遼東半島などを征圧して、日本に軍事圧力で開国を迫る。何とか不平等条約でくりぬける。
4度目はロシアが南下政策で朝鮮半島まで攻め込み後一歩のところで朝鮮に渡った日本軍が朝鮮より追い出し食い止める。日露戦争である。
5度目は「経済封鎖問題」で米国軍と戦い第2次大戦で敗戦し米国軍が占領した。

この5つを観ても4つは全て「朝鮮半島」が大きく関わっている。

特にアジア系は海を隔ててくるには軍事的リスクが大きすぎるからであり、そのリスク解消は朝鮮半島を経由する事で解消できるのである。日本はこのことに付いて戦略上理解しを知っている。
米国の件はこの軍事リスクを解消するもの(飛行機と戦艦)が出来た。(しかし硫黄島が関わる。)

だから、「中大兄皇子」は朝鮮に出向き出鼻を挫く為に「白村江の戦い」に決断したのである。

この時の事を追記するが、この軍の構成を見ると理解できる。
この軍は、後漢の帰化人の首魁の阿多倍の孫の阿倍氏(阿倍内麻呂、比羅夫)の配下で構成されていたのである。つまり、百済の救援を目的としているが本音は先制攻撃の印象を与える事である。

この時、阿倍は中国に戻り日本に帰ってこなかった事、 阿多倍の国の後漢は中国東部地区の遼東半島から朝鮮全域を支配していたが滅亡した。つまり、地元そのものである事、唐時代になっても東部地域国は充分には支配できなかった事。これ等の事を理解すると派遣した意味と目的が判るものである)

この阿多倍の子孫の阿倍氏は、この時代の歴史上人物には他に仲麻呂、比羅夫、内親王があるが、この人物を知ると、この阿多倍の子孫の朝廷内での基盤が判るので忠告は充分にあったはずである。

そして、その軍はこの目的の効果を出すために同じ要領の知る中国人をこの戦いに向けたのである。
結果は敗戦であったが、目的は「先制攻撃」としての強く効果は出ているのである。
だから、唐はそのリスクと「先制攻撃」の「強い印象」でその後に攻めて来なかったのである。

その理由として、都を攻めても、この長い列島である。左右前後から間違いなく挟撃される。食料は途絶える。結局、戦わずして全滅である。
応仁大王もこのことを判っていたから和睦し、融和政策(5氏での連合政府)で解決したのである。中大兄皇子も歴史を学んでいる。

戦いは感情では出来ない。要は戦略である。中大兄皇子はこの戦略を阿多倍らの忠告で実行して防いだのである。

これでは入鹿がいくら攻めてくると力説しても理解されないであろうし、なおさら天皇家側にすれば猜疑は更に生まれる。

現実には来ない。むしろ先制攻撃で百済を救援する事を名目にし白村江で戦った位である。

日露戦争も同じである。先制攻撃で負ける戦争が勝った理由があったのである。

史実として、先制攻撃を前提として、負ける筈の戦いに英国が仲裁に入り決着をつける外交手段を着けていたのである。
ところがこの時は二人の優秀な副官と司令官に恵まれた。
この二人の副官は徳島出身の秋山兄弟である。兄は陸軍、弟は海軍の参謀副官である。

兄は、有名なロシアの10万の騎馬軍を相手に、2万の騎馬軍と英国の指導での大砲と機関銃の近代戦と、「逆ハ作戦」で完全に追い返したのである。新しい戦法である。
(当時は騎馬軍には機関銃と大砲は使わない戦法であった)

参考として、 逆ハ作戦とは逆ハの形で軍を構える。敵は中央を突破してくる。そうすると逆ハが閉じる。再び開く。これを繰り返す。しかし、遂には大群であるので続かなくなり、敵は一団となつて突進する。そこで逆ハの中心に到達する。と突然、後ろに構えていた機関銃が火を開く。一団と成ってくるので敵の中心めがけて射掛ける。騎馬軍は中心には指揮官がいる。指揮官を失う。又指揮官が出来る。射掛ける倒す繰り返す。それでも中心は抜ける。中心の後ろには味方は居ない。中心の遠くに大砲隊が控えている。撃つ。殆ど指揮系統が崩れている。大砲で敵は戦う気力なくなる。逃走する。今度は、この時には味方の逆ハが集合している。逃走する敵を包み追走する。全滅になる。残った敵は馬を捨てる。列車でばらばら逃走する。昔の戦法の鶴翼戦法である。それに機関銃と大砲を組み入れた速度速い騎馬大群を相手の近代戦法である。
結果は10万の軍が3000人しか残っていなかつたのである。

弟は、3000メータも飛ぶ日本が開発した新式の黄銅(真鍮)の大砲を戦艦に取り付けて、砲弾は焔硝性の弾薬を開発し取り付けて、戦法はT字作戦で虚を突いた。ロシアの2500隻の戦艦が10隻にするまで勝利したのである。
(当時は砲弾で潰して鎮める戦法であったが、硝煙で船の中を高熱にして燃やして沈める戦法を編み出したのである)

参考として、 この海戦T字戦法は2500隻の大船団に対して、敵は大船団であるのでハの字型に船団を組む。先頭に指揮艦が来る。これに対して、逆ハで迎える。味方の戦艦は敵の中心をめがけて大砲を撃つ。次々と直線に並んだ戦艦が中心めがけて撃つ。撃てば敵に腹を見せて後ろに回る。T字になる。各艦はこれを繰り返す。敵の先端の旗艦は連続的に攻撃を受けるので沈む。又旗艦が出来る。これを繰り返す。味方も次の準備をして又元の位置に戻る。これを永遠に繰り返す。そうすると、あるところで敵が撃つ事が出来なくなる。先端の位置付近に沢山の戦艦が沈む。後ろが動けなくなり衝突して船隊が乱れる。大砲が飛んでくる。対馬の狭い海峡である。敵は無抵抗になる。味方は撃つ。
2500隻の戦艦が10隻になった。味方は損害が殆どない。体型は整っている。
しかし、ここで味方の弱点がある。敵の全ての艦に腹を見せる事になる。腹を見せることは戦艦の戦力が最も落ちる。味方が少ないと直ぐ終わる。ところが、この弱点を解決したのである。
それは敵の弾が届かない位置から腹を見せて問題はない事だ。それは上記の大砲の改良である。
敵からすると「遠い」し、「届かない」。船は大して壊れないが燃える。指揮が出来なくなる。火災になり沈む。この戦法である。逃げた10隻はロシア港に入る。港を封鎖する。撃つ。全滅したのである。

100%負けるといわれていた戦争である。

つまり、どちらも、「阿多倍」が連れてきた冶金の「鍛冶部」の技能集団(住金)の末裔が開発しそのなせる業なのである。
(当時の砲はせいぜい1500メータで、3000メータでは見えないところから飛んでくる程度である。)
このように、二つの戦いを見ても「先制攻撃」を加えることが効果があり、又地理的にも海峡を隔てている日本列島を奪うには難しいのである。天然の要塞なのである。一種の列島戦艦であるのである。
(真珠湾攻撃も先制攻撃であったが遠すぎた。空の戦いはこの戦法は効かない)

話を戻して。其れよりは、聖徳太子から始めた律令制度の完成を目指して後漢から帰化した阿多倍らの一団の力を借りて内政を立て直す事の方が先決とする見方の方が現実的である。
律令も出来ていない国情では長続きしない事は間違いない。

この感情からすると、蘇我入鹿が採った宮廷の周りの建物造りの行為は、丘の上下の位置や建物の軍事内容から察すると、天皇家から観ると「反逆行為」と観るのが普通であろう。

第一その程度で護れるはずはないし、既に博多付近から都まで登ってきた唐の軍隊の勢いを止められることは不可能である。
誰が考えても、もしその理屈を述べたとしたら普通は理解される事はないし、中大兄皇子は極めて聡明で用心深かったと言われている。
皇太子になったあとの孝徳天皇との軋轢の行動と周囲の粛清政策を観ても明らかであるし、成れる天皇にも成らなかった位である。

なにも、反逆するのであれば、大げさに絢爛的な館を作る必要はない。適度な軍事施設程度で充分である。まして、別に大宮殿があるのだから。
更に天皇の宮廷の上に立てる事はない。
外国が攻めてくるとは言え宮廷を固めても仕方がない。その時はもう遅い。天皇家を納得できる名文ではない。

もし、やるとすれば、天智天皇が採った九州地方までの要衝地を作る事の方が先ず必要があるし、中国の「万里の頂上」の様に、都を城壁で囲んだ方が現実的で良策である。天智天皇は後にこの二つを実行したのである。
入鹿は其れをしていない。

このところでも改新はなかつたとするのには無理が余りにもある。

中大兄皇子にしてみれば”そんな程度で護れるか”と思うはずである。

更に、この蘇我氏は、応仁大王(大和朝廷の初代の王)らが、難波に上陸してきた朝鮮系の百済王の枝葉末孫である。

応仁大王はこの大和の4氏(葛城、巨勢、紀、平群)と戦い、全てを制覇し大和の飛鳥に入国し結局争わずして5氏の上に立つ大王となつたのである。

この詳細は、上陸時は、この地を治めていた紀氏や葛城氏や巨勢氏ら3氏の連合軍の抵抗で飛鳥に侵入する事は出来ず、先ず、紀氏を「先制攻撃」して征圧して、紀伊路を南に回り、新宮から奈良には進入して征圧した。(各個攻撃)

この時代は、未だ奈良は盆地でも、中央には琵琶湖に並ぶ程度の湖があってその周りに生活圏をもち連合政治をしていた。それで各個攻撃された事で戦略上は堅く無かったので征圧された。

この時につれてきた、渡来人で物部氏(軍事)と共に百済王末孫系(鞍作)が蘇我氏であると成っている。

その証拠に、中大兄皇子が入鹿を暗殺したときに側に居た古人皇子はあわてて”渡来人が”と叫んで逃げている。当時は未だ、渡来人としてのイメージを持たれていたのであろう。

又、この蘇我氏の別の呼び名は日本書紀にも書かれている様に「鞍作りの入鹿」である。

「鞍作部」は馬の鞍などの馬具を作っていた技能集団で、朝鮮と中国からの渡来人で構成された集団
である。(鞍作は仏像も作った 奈良の大化期の「鞍作部止利」が日本最初の仏師である。)

この部集団に付いては、主には、後漢が潰れて後漢の末弟の献帝の子の石秋王の孫の阿多倍が引き連れてきた17県民の技能集団でもある。(蘇我氏はその前に入った応仁大王が引き連れて来たもの)

この様に渡来人がルーツである事が明らかに判る。

この子孫の蘇我入鹿らが勢力を持つたのであるから、聖徳太子の事もあり、当然に天皇家側は百済王の末孫が天皇家を乗っ取り、百済の国を大和の国に作ると言う戦略におびえていたはずである。

この様に、多分、NHKの新説には、この天皇家側からの客観的判断が不足している。

少なくとも、逆賊であるかどうかは別としても、全権を既に握った後の残る条件は中大兄皇子を暗殺する事で、客観的に観て、完全に牛耳ることが出来る一歩手前で、その実行は無力で飾りの皇子を潰すには何の努力も要らないところに来ていた筈である。
むしろ、それよりもその後に編成されるはずの朝廷側の「連合軍」の方が期になる。その備えが必要と考えるはずである。

潰さないという忠節心の精神が存在する根拠は薄く、反逆する根拠の方が状況判断から観て、高いし全てとの感がする。

新説根拠の武器庫でも入鹿が住む程度の館で充分である。相手が無力で飾りである。
私なら、そんな大それたものは作らない。攻めるに必要とする物を作り、そして住む体裁を繕う。

つまり、それよりは、天皇家を奪った後の国内の乱れと、天皇家を養護しようとするの「連合軍」の進入に気を配る。
現実に、入鹿は外国から侵略と見せかけての説として、この程度の防護でその配置をしていると説いているがおかしい。全体が飛躍しすぎている。多分この目的であった筈である。

実は、この2つから観た説は以前からあったもので何も新しい説でない。

以前からあつた韓国側の歴史認識の影響を大きく受けた国内グループの巻き返しであると観るのが適当ではないか。

その根拠には、最近、韓国で「日本世記」という資料が見つかったのであるが、この資料は大化改新の律令政治の指導に来ていた韓国人の者が朝廷内の事を日記にして遺したもので、この者が帰国する時に持ち帰ったとされるものです。

青木氏の仏像の件などもこの資料にも乗っているのです。細かいところが明らかになってきていることは事実ですが。
それだけに韓国側の蘇我氏に対する巻き返しグループが国内グループと共にこの新設を唱えています。

阿多倍の朝廷への律令政治完成の影響と東漢氏の行動のことも明らかに成っている事もNHKは以前(去年)に放送しているのです。

東漢氏が何故、攻めてこなかったのか。
何故、入鹿の父(蝦夷)が指揮せず、自殺したのか。
阿多倍はどうしたのか。

(日本書紀には、大隈の首魁として呼び寄せたり、伊勢北部伊賀に不入不倫の権の保護を与えて住まわしたりしているとか、何度も中大兄皇子と天武天皇にも会っている。これ等の勢力がどう動くかで決まる。)

とすると、中大兄皇子の暗殺で「連合軍が動いた時の備え」として今回の蘇我氏の施設を考えるとこの疑問も解ける。(少なくとも唐の来襲警戒ではない。)

つまり、この蘇我氏の最大の「頼り」の一つ軍事集団の阿多倍の支配下にある東漢氏が、阿多倍の指揮で動かず、抵抗しない旨を告げて去った事である。「戦う事」も出来ず、「連合軍の備え」も出来なくなった事による。
それ以後のこの阿多倍が率いる一団の動きを見れば理解できる。

この大化の改新の前後はこの一族の出方如何で決まるのである。
日本の平安後期までも政治、経済、軍事はこの一族の存在で決まるのである。(詳細は研究室の阿多倍関係、京平家などを参照)(この一族の末裔は日本人の15-20%を占めている)

蘇我氏にとっては、長い間の努力も「水の泡」で、言い訳が出来無かったのである。

これらを踏まえてこの新説を聞く必要がある。

これが、第1番目の実情である。

続きは第2番目の問題の解説です。史実から観て新説は矛盾が多く出ます。

続く。

No.391

大化改新2-1
1 蘇我氏は逆賊ではない。
2 大化の改新はない。
3 蘇我氏館は武器、兵舎であつた。
4 蘇我氏は外敵から天皇を守った。
5 漢の後の唐を意識していた。
6 日本書紀は書足の編集であつた。
7 天智天皇は失政した。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。
これらを史実で検証してみる。

大化の改新のNHK新説に対して、前回は第1番目を検証した。結論的には新説の第1番目の説には「無理と飛躍と矛盾と情報不足」が目立つものであつた。

次は第2番目の「大化の改新」は無かったとの説である。
これは解説者の発言にあった。
このことに付いてはまったく史実を無視している。何故にあるものを無いというのであろうか。
言質の裏にある種の政治的イデオロギー的発言の感じがする。
以前からもこの種の歴史を否定する説を唱える政治グループがいた事は承知している。
ただ、NHKがこれに加担したことに大きな疑義が生まれる。昨年私はNHKモニターをしたがその内容から見て「受信料不払い」の原因の一つであろう。

兎も角も、大化の時代に改革が行われた史実とその内容などを述べる。

現代も同じ様に「平成の改革」が成されている。大正と昭和の時代の世の中のシステムが、生活方式を含めて全てものが替わり、変革し、加速的になったことから時代に合わなくなってきている。

聖徳太子の時代から大化の時代までにはも大きな変化が起こったのである。
時代を追ってその変化を述べる。

先ず、620頃から、漢の国が滅亡し漢民は南と東に逃げた。そうして、東に逃げた民の中に居た「光武帝将軍」が遼東半島と三韓を征圧して国を興して「後漢」が出来た。そして、21代末帝の「献帝」の時代に滅亡して「唐」が中国全土を制圧した。
この「後漢」の17の県民は「献帝」の孫で、「石秋王」の子供の「阿智使王」とその子供の「阿多倍王」と共に北九州に上陸した。
この漢民の17の県民の集団には国を形成する政治官僚を含む全ての職種の技能集団が同行していた。
当然に、軍事集団を先頭に博多、大宰府付近に入った。
しかし、進んだ先進国の漢の民である。戦いなどは当時の大和の民では相手にならない。
又、進んだ生活手段を持っていた為に民は、この集団との和合を図り、進んでこの漢民の技能を取り入れ生活のレベルを上げる事が出来た。

この阿多倍の集団は続々と上陸してくる。この渡来人の漢民は南下した。
この漢民の九州での状況を詳しく述べる。
当時、この地方では「肝付氏」と朝廷より派遣された「伴氏」とで統治されていた。
伴氏は「弁済使」で税の取り扱う官僚であるが、九州の北部に支配権を持っていた。
この高級官僚で朝廷の5氏の一つ「伴氏」と「肝付氏」が血縁し多くの末裔が広がっている。
更に「肝付氏」と「阿多倍」一族との血縁を結んだと成っている。
(九州地方での内容詳細に付いては別途レポートする。)

最終的には、この漢民は朝廷に対し帰化を申請する。

九州から中国地方へと上陸し同じく支配下に入れて進出し飛鳥に入る。朝廷はこの帰化した漢民の渡来人を更に未開地であった中部地方の信濃、甲斐国の開墾に送る。
これ等の民は200万とも言われている。

この漢民の首魁の阿智使王と阿多倍王は大隈付近に住み「大隈の首魁阿多倍」と呼ばれていた。
この事が日本書紀に詳しく書かれている。

この時代の唯一の歴史書である「日本書紀」にはこの「大隈の首魁」は4度出て来る。
そして、ここの「阿多倍王」に賜姓青木氏が守護する伊勢の国を分轄して、「伊勢北部伊賀地方」を与え「不入不倫の権」を付加して与えて保護した。
「阿多倍」はその九州から中国地方の民の生活向上に貢献した勲功で「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王」の娘を娶り3人の男子をもうけた。

「阿多倍」は「准大臣」の官職を与えられた。
この三人はの長男は賜姓を授かり、坂上氏を名乗り軍事担当を、次男は当時の朝廷の政治機構の3蔵の内、大蔵氏の賜姓を授かり、朝廷の財政担当を、三男は内蔵の賜姓を授かり、天皇家の財政担当を担った。もうひとつは斎蔵で祭祀を担い、これは賜姓族藤原の鎌足であった。

この進んだ「後漢の知識」で「阿多倍一族」を先頭に「大化の改新」の「政治改革」に臨んだである。

この末裔は代々九州の「太宰大監」を任命され、歴史上「錦の御旗」を個人に与えられた唯一の氏で大蔵氏である。
この大蔵氏は朝廷より「遠の朝廷」を任じられ、九州全土の「政治、経済、軍事」の全権を与えられたこれも歴史上の唯一の氏でもある。

これは遅れていた九州の未開地をこの一族に任して「3分野からの改革」を実行した証拠のひとつである。(この地には朝廷より当時の主要5氏の一つ「伴氏」が派遣されていた。)
其れも、現代までになかったすごい改革であった事は下記の進んだ後漢の民の集団の構成を見ても解る。
地域の生活生向上と、地域間の紛争がなくなり、軍事的安定が起こり、図りしえない変化のものであったことであろう。
日本書紀にも都に首魁を呼んで天皇の前で踊って祝ったとあり褒美を与えたとある。

昭和のバブルごとき変化ではない。

そして、この「阿多倍」の孫に当る伊勢北部の伊賀の「高野新笠」は「光仁天皇」の妃で「桓武天皇」の母である。
桓武天皇はこの母方の「大隈首魁の阿多倍」(別名 高尊王)一族で「伊賀の王」(高望王)を第6位皇子として賜姓し、「たいら族」(京平氏 桓武平氏、伊勢衆)とした。
これは、天皇家が代わるたびに発生する第7世族以降の皇族を「ひら族」(坂東平氏)として坂東に配置した八平氏になぞって、この「阿多倍」を「賜姓たいら族」としたものである。
この渡来族に対する当時の何らかの配慮があったものであろう。

伊勢伊賀には「高尊王」と「高望王」との違いと年数のずれがあるが、伊賀にはこの阿多倍の一族しか居ないのに「高尊王」と「高望王」の王が二人いることはない。何らかの理由(記述のミス)であろう。

この賜姓した「桓武天皇」は大化の改新1でレポートした「聖徳太子」の曽我氏の軋轢の中での改革からから始まり、「天智天皇」の「改新」を繋ぎ、最後に「律令政治」を完成した天皇である。
上記したその功績はこの阿多倍一族とその漢民の努力以外にない。

この漢民の民は「部制度」である技能集団の民「海部、磯部、鍛冶部、綾部、茜部、錦部、馬部、鞍作部、織部、弓削部、鵜飼部、山部、石作部、矢作部、土師部、陶部、舎人部、赤染部、依縫部、倭文部、麻績部、佐伯部、来米部、膳部、鏡作部、鍛師部、船部、物部、安部、漢部、工部、墨部....」など挙げればきりがないが、全てこの民は後漢の民で阿多倍の支配下にあった民である。

この進んだ技能を大和の民は指導を受けて会得したのである。
現代の北九州工業地帯の鉄鋼、造船、陶器、等の産業を考えればよくお判りと思う。
これで「改新」が無かったとの説は疑義の何物でもない。蘇我氏管理のもとではなかった事なのである。

この集団が作った物は一度朝廷に入れてそれから市場に出すと言う経済システムが当時の「部制度」であり、「市場経済」では無かった。

「朝廷」とは言え「蘇我氏」にである。これを「蘇我氏」から朝廷に「国造」(くにのみやつこ)という官吏を置き取り戻して経済システムを正常化したので動き始めたのである。
「改新」は「国の管理下」にした「行政改革」である。明治時代の改革と同じ「中央集権制度の導入」である。
これだけのことを実行する事態、未だ東北部地方の国が安定していない時期に、大変なことである。
これでも「改革」が無かったとの説はおかしい。

現代でもこの第一次産業はこの阿多倍率いる漢民の集団が引き継いできて現代の日本の主幹産業に成っている。この一団なくして現代の日本の全く地位はない。それほどである。

日本の国民の20%程度を占める漢民の末裔の方々に感謝申し上げたいくらいである。

この権利と管理を蘇我氏が握っていたのである。つまり、「朝廷の経済」は「蘇我氏」が握っていた事を意味し、国のため、民のために中大兄皇子は取り戻したとすればこれも「改革改新」である。
もし、これだけのことを今現在するとしたならば、果たしてできると思われるか?。無理と考える。

話戻して、上記にもある様に「阿倍氏」を頂点として、「物部、安部、漢部、鞍作部」等は軍事関係の集団である。
つまり、「朝廷の軍事」までも握っていたのである。

「朝廷の政治」はもとより、「大連」の蘇我氏であるから言うまでもない。
当然、この支配下に阿多倍も先ずは実力はあったが、蘇我氏に従う立場であつた。

これが大化改新1にレポートした「疑問点、キー」であった阿多倍の一団の出方が、「改新」の成功を握っていることは明らかである。
蘇我氏が全権を握っていたのは言うまでも無くこの漢民の17の県民の出方であった。

これだけの政治、経済、軍事の3権に能力のある集団を見方にすれば「改新」は充分に可能である事が理解できるし、出来ない方がおかしい。
「中大兄皇子」は味方にしたのである。つまり、味方にした事さえ改革改新である。これでも「改新はあった」事が筋道でさえも解る。

しかし、入鹿が暗殺されても未だ分家一族は沢山いるが、分家もこの反撃に出なかった訳はこの阿多倍の一団の後押しがなければ無理である事は明白である。

だから、首の蝦夷(えみし)は行き詰まり自殺したのである。阿多倍は裏切るとは計算していなかったはずである。

しかし、史実はこの阿多倍の一団は朝廷に一日後に去ることを伝えて出て来ず丘から去ったのである。

その後は上記した通りである。

これで、阿多倍一団の執った戦略は明らかにわかるし、「中大兄皇子」もこの阿多倍の集団の力の程度のことは知っていたはずである。孝徳天皇も含めて日本書紀にも書いている通り会っているのであるから。

蘇我氏の分家(蘇我石川麻呂:入鹿の従兄弟)に首謀者の中臣の鎌足が話をつけたことは史実でも証明されている。(改新後3年後に謀反の嫌疑がかけられ自殺)
暗殺のとき、この蘇我氏の分家は震えて動けなかったので、中大兄皇子と鎌足が自ら切って出て行ったのである。
この鎌足が蘇我氏の分家に話を通した事は「改新」の成功を計算した上である筈。
だとすれば、改新後のこの「進んだ知識と技能」を活かせれば成功すると見て、阿多倍一族にもこの話を通し、味方するように説得していると考える方が普通である。

阿多倍一族にとっても蘇我氏の管理下にいるよりは、政治の場に於いて進出して日本での基盤を築きたいとする考えは生まれたと見る。(後に現にその様にな成った。太政大臣までに成った。)
だから、東漢氏と蘇我氏分家は出て来なかったのである。

この改新のキーは「蘇我氏分家」と「後漢阿多倍一団」であったのである。
作戦、計画実行時はだれでもキーは何か、誰か、何処か、何時かを考えるのが普通である。
としたならば、この3つの事は先ず考えた事になる。
そう見るとこの要件即ちキーは入鹿暗殺前後の史実が納得できる。

蘇我氏の分家が味方したことの意味を理解すれば、NHK新説は矛盾する。
後は、阿多倍一人である。だから成功し、阿多倍は政治に関与し律令政治を完成させたのである。
後に、この「大蔵種材」という人物がでるが、九州の「太宰大監」となり、侍の神「麻利四天」のモデルにもなった豪傑が出て改革で国を安定させた有名な人物がこの阿多倍子孫からでている。

「孝徳天皇」と「中大兄皇子(天智天皇)」の改革に貢献した。これ等の事は日本書紀や多くの史書にも書かれている。

では、以上の事柄を念頭にして基礎理解を得た上で、阿多倍らの一団の働きにて行った天智天武期の大化期の改革の具体的な事柄を次に述べることとし、「大化改新」があったことを証明する。

予備知識の一端として一部拾い出して置くと次の様になる。
主だったことは次のレポートとする。
活躍した内容
参考として、仕事は次の様なものである
「全国の国領地の検地」    租税の安定した確保を図り朝廷の基盤を造る
「全国の武器の検査」     侍としての基本的な姿勢を確認する
「全国の税の見直し」     改新前の粗雑な税体制を改革する
「特定地への天皇からの特命」 治世などが乱れている各国に対する督励
「全国の争いの調停と平定」  改新前の勢力の修正
「全国の領地境目の確定」   領地争いの原因の見直しを実行
「重大行事の指揮」      朝廷内の神事や行事と国内外の使節団の指揮
「天武天皇の相談役」     政治の難題の相談と調査
「皇族間の調停役」      皇族間の勢力争いの調停
「斉明天皇への助言」     女性天皇の補佐役
以上が「日本書紀」から拾い出した内容である。仕事はこの内容の重複もある。
「日本書紀」であるからその信頼性から見て、この内容は半端ではない。
これは殆ど天智天武期の政治を動かしていたことを意味するのではないか。
編集者の「舎人皇子」も十分認めて信頼してこの働きを具体的に書き込んだものだと思う。

続く。

No.392

大化改新2-2
大化改新2の続き

活躍した内容
参考として、仕事は次の様なものである
「全国の国領地の検地」    租税の安定した確保を図り朝廷の基盤を造る
「全国の武器の検査」     侍としての基本的な姿勢を確認する
「全国の税の見直し」     改新前の粗雑な税体制を改革する
「特定地への天皇からの特命」 治世などが乱れている各国に対する督励
「全国の争いの調停と平定」  改新前の勢力の修正
「全国の領地境目の確定」   領地争いの原因の見直しを実行
「重大行事の指揮」      朝廷内の神事や行事と国内外の使節団の指揮
「天武天皇の相談役」     政治の難題の相談と調査
「皇族間の調停役」      皇族間の勢力争いの調停
「斉明天皇への助言」     女性天皇の補佐役
以上が大化期の「日本書紀」から拾い出した内容である。仕事はこの内容の重複もある。

実は上記の内容は天智、天武期に渡り、第6位皇子(施基皇子)が行った「改新」の仕事である。
この皇子は、私が調べた範囲では18回出て来る人物で日本書紀の中では段突である。

伊勢王として伊勢の守護を務めながら、天智天皇の「改新政治」を助けて全国各地に飛び回っている。
つまり、伊勢青木氏の元祖の働き具合である。

「日本書紀」を見ると皇太子がいるが、其れ以上に信頼されている人物がいる事が判る。

1 「軍略所」としての役職である。
上記の内容通り、天智、天武の葬儀等も含めて本来皇太子が行うところを代わって代行するなど、新しく天皇の執政を機動性良くし、全ての指揮をとる事を天皇より依頼され実行する実務補佐役が設けられたのである。

これ以外に次の「改新政治」が行われている。具体的に述べる。

2 「国博士」を置いて天皇の政治の補佐をさせる。
隋などで留学し大化改新の為に呼び戻された「高向玄理」や「みん」がこれを務めた。

3 「内臣」を置く。
「改新」を行う天皇を補佐する政治相談役で、鎌足が勤めた。後の藤原氏の摂関政治の基となる。

4 「東国国司」を置く。
改新を進めるに当って東国が未開発であり、「改新」の大きな障害と成っていた。これを専門に行う国司である。美濃、信濃、甲斐などに後漢の技能の民の渡来人を送りこみ開墾を進めた。

5 「男女の法」を定める。
生まれた子供の所属を定めたもので、「公地公民」の政策を進めるうえでの身分制度である。
上記した阿多倍の配下の漢民の技能集団の「部制度」の組織改革である。後漢の集団の民と一般の民との融合が進み、「部制度」を修正した。 

6 「薄葬令」を定めて身分に基づいた葬儀や墓の規模などを定めた。公地公民の前提を作り上げた。

7 「冠位の制」を改善した。聖徳太子の冠位12階より7色13階、19階、26階、48階とし位階制を定めた。大宝期には30階に戻した。

8 「改新の詔」を定めた。「大化改新」の「行政方針」を4つとして定めたものである。

4方針は次の通りである。

現在の行政方針を新しく敷いて公表したのである。今までにない画期的なことである。
おそらく民は当時としは政治は「お上」が行うものとの認識して疑わなかったはずなのに、方針を出した事が驚きであったはずである。真に民主主義の原点であるのだから。

公地公民制 
土地や民は全て国に所属する制度で、土地の官吏は「国司」、「部制度」の官吏は「国造」とし行政を明確にした。現在の行政の原型を定めたのである。  

統一的地方行政制度
国と地方の行政を分割してよりきめ細かく施政する様にしたもので、現代の「三位一体」の行革である。豪族の施政に任していたものを国管理の下にし、指揮系統をより効率よくより平均化した。
交通、情報機関のない時代にこの制度を敷いたことを考えると不思議なくらいである。

戸籍と計帳と班田の収受制度
民の正確な把握の為に戸籍調査を断行し、土地の測量を行い租税の正確な把握を行った。
官僚制度を整えて国の国体形態の基礎を築いた。
現代では当り前であるが、もし無いところから制度が出来たら驚きのなにものでもない。
上の2つの方針も実行されて多分半分はパニック状態であったと思う。

統一的税制度
上記の3つのことで正確に把握した国情を下に弁済使を置き租税の統一と正確の管理を図った。
大雑把な税体制から確実な計測等のデータで税が徴収されるのであるから、民は驚き、緊張し、期待も生活がどう代わるかで大きかったのではないか。

この頃、阿多倍の漢民の進んだ技能で民の生活が一変して潤っていた頃の最中である。
だから、朝廷もこれだけの事ができたのである。何も変化していない古代の生活環境の中ではこの施策を敷いても効果どころか朝廷の転覆に当るほどである。
朝廷の姿勢も下記に書く財政の無駄をはぶき毅然とした態度で施政方針を示したのである。
現代の改革と殆ど代わらない事が1500年も前に急に行われたのである。

9 「食封」(じきふ)を定めて経費の無駄を省いた。
官僚の俸禄制度を定めたもので、上級官吏に一定の戸指定(50)し、戸の租税の1/2と調庸2/2を与えた。下級官吏には布帛(ふはく)を与えた。

10 「防人」(さきもり)を定めて、職業軍人とは別に現代にもある徴兵制度を敷いたのである。
九州北部の西海の防備を司る兵制度である。阿多倍の子孫大蔵氏が司る「太宰大監」(遠の朝廷)
に支援し、唐の来襲の警戒に当った。
坂上氏や阿倍氏が率いる朝廷の軍隊と青木氏が率いる親衛隊とは別に一般の民の者で対外国防軍隊を編成したのである。蘇我氏が訴える対外防備のとのレベルが違う。

11 「水城、山城、大野城、さい城、高安城」等の防備要塞を築いて防衛拠点を作った。
唐の来襲を警戒して全国各地と都の周辺に防壁と城を築いた。

12 「近江令」を定め律令政治の完成を目指して律令を発した。
鎌足らが作ったとされる22巻から成る法令であるが、体系的な法典マニュアルとして作ったものとされている。つまり、いきなり法を作っても官僚の執政施行は難しい。そこで、急劇に増えた官僚の種類と数のためにその行動マニュアル的な心得を書き印したものである。

13 「御史太夫」を定めて太政大臣などの補佐として特別に補佐役を設けた。
「改新」の大きさと繁忙さから補佐役を特別にこの天智期に特別の作ったものである。
天皇の2つの補佐役や重臣の補佐役を設けるなど如何に大改革であったかを物語るしその思考が柔軟である事が覗える。

14 「八色の姓制度」を定めて身分を8つに分けて氏姓制度の充実を図った。
皇族とその重臣の身分を定めた。真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置である。
そして、その身分にあった行動と責任の所在を明確にしたのである。

5家5流の青木氏と11家11流の源氏は第6位皇子であるのでこの「朝臣」に当るがその中でも青木氏は上位である。
この身分制度は後には更に細分化される。

15 「皇位継承制度の変更」
皇位継承は大変な財政的負担と成っていた(天智天武の子供は34人もいたし、他の皇子も合わせると50人程度にもなり、天皇家の財政を担う内蔵では破綻寸前であつた。このため、この原因と成っていた「皇位継承制度」の変更を経費節減のために改革を断行し実行した。
多分、皇族関係者からの第6位以下は平民化するのであるから反発は大変なものであつたはずである。
この「改革」で第6位皇子から臣下して賜姓を受けて、初代の青木氏(伊勢青木氏)が発祥したのである。

其れまでは、第4世皇位継承、第7世下族の「世」方式で第5世はこのどちらにも属するとし、第7世は代替わりにて「ひら族」とし、賜姓して「平氏族」を形成し、坂東の守護としてに配置した。
これが、「坂東八平氏」族である。
これと比較して阿多倍末裔の渡来人系の「京平氏」の「桓武平氏」(たいら族)とは混同されている。

「第4世」方式から、第2世第4位皇子皇位継承として第6位皇子を臣下させ、賜姓(青木氏)して、親衛隊とした。この賜姓青木氏であり、伊勢の青木氏としたのである。
即ち、「第6位」方式である。
青木氏には「鞍作止利」作の「大日如来坐像」(伊勢青木氏の宗家保有)の仏像与える事とした。そして、王位は4世までとした。

16 「親衛隊の創設」
蘇我氏に牛耳られていた反省から、天皇自ら護る軍隊を創設した。上記のこれが第6位皇子の青木氏である。この青木氏は伊勢神宮のある伊勢国の王として守護とした。「不入不倫」の天領地とした。(後に、天武天皇が伊勢神宮を護り本尊として正式に詔を出して定めた)

この後、15の改革と共に、天武、聖武、文武、光仁天皇までこの制度は維持された。伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の国の戦略上の主要地の守護としたのである。

この開拓には阿多倍の支配下の漢民の技能集団(馬部、山部、磯部、鞍部等)を遷して大きい外来馬を飼育し開墾した。(日本書紀に記述)

17 「飛鳥浄御原令」を定めて律令制度を2度にて進めた。(天武期)
大宝律令の基となった。光仁天皇の子供の桓武天皇が律令制度を完成させた。つまり、律令制度の完成は初代の聖徳太子から7代の天皇がその方針を貫き引き継ぎ完成させたのである。
その後、嵯峨天皇から5代に渡り見直しの改革が行われて「皇親政治」の全盛期を迎えるのである。

以上が大化期の「改新」の改革項目である。

これだけのことを「入鹿」の前の政情にはなかったもので、空前の改革項目と大変な内容である。
普通では成し得ない質と量である。

これはその専門的な知識が無ければ出来ないことである。
前記の通り、その知識と能力は阿倍氏、坂上氏、大蔵氏、内蔵氏などの阿多倍の子孫とその漢民の集団によるもの以外にないのである。

これ等列記した17項目のものを良く理解してみれば、その根底にあるものが見えてくる。

つまり、平たく言えば、聖徳太子から始まり蘇我氏の改新前の反省からである事が見える。

それは、「3権」を奪われていたものを律令を通して、軍事、経済、政治を見直して、他氏に委ねるのではなく、天皇を中心とする皇族の「皇親政治」の基礎を作ったのである。
そして、国体の基盤を更正し、外国からの侵略と国内の安寧の為に「改新」を断行したのが中大兄皇子の目指す政治であつた。
だから「中大兄皇子」は「国体を変革」しなければとの思いで蘇我氏の体制を打破する必要があったのである。「思考の原理」の前提レベルが違う事が上記のことで解る。
決して、蘇我氏の我が物顔の政治でなかったのである。

突き詰めれば、「律令制度」を中心とする「政治、経済、軍事」の安定した「皇親政治」を目指したのである。

これは、蘇我氏が目指したものとは異なる。
故に蘇我氏を倒して天皇家に取り戻した事件の目的は明らかに「皇親政治」での「改新」である。

これでは、到底に、蘇我氏が唐が攻めてくるからの説には説得力はない。誰が見ても「蘇我氏の言い分」では納得できないはずである。

つまり、「政治システム」事態も代えたかったのである。
根本的にレベルが異なる。

”大化の改新はなかつた”の発言にはこの点にも納得できない。
誰が見てもこれを”改新は無かった”と思うだろうか。

前記の第1の問題と第2の問題とあわせるとNHKの新説は他の意味する歴史を否定する政治的な大きな疑義を感じる。

次は第3番目の問題に付いて述べる。

続く。

No.393

大化改新3
NHK大化改新の新説の第3番目の説である「蘇我氏館は実は兵舎と武器庫であつた」の問題である。

結論から言うと、大化改新1と大化改新2-1と2-2でもレポートした様にお判りと思うが、「兵舎と武器庫」で妥当なのである。

中国の軍略書には明確にこのことを明記しているのであり、正しいのである。

蘇我氏館の大豪邸は聖徳太子の頃から既にあり、その権威を示す館は2つも要らないし、私ならばむしろ、大御殿の館に武器庫や兵舎は似合わない事から、別の戦略上の土地に造営し、そこに適当な館を作り指揮する環境を設定する。
其れの方が「御殿館と兵舎」の目的を合理的に効率よく使えて当然のことである。

御殿は権威の象徴としての「行政所」として、兵舎武器庫は「軍事所」としての目的を果たす方が臨機応変に対応できる。

現に、現在に於いてまでも「行政所」と「軍事所」が一つに成っているところなどない。江戸時代までの城でも「城」を「行政拠点」にし、周囲に「山城や櫓」を築き「防衛網」を設けている。
この軍略書に付いてのこの場合の一角を述べる。

昔から戦いの基本を体系的に分けると、「六稲三略」(6つの戦術と3つの戦略)と言うものがあるが、この基本を実行する前提として「行政」と「防衛」の拠点に分けることを基本としている。

夫々個々に重要に成るのがこの2つを繋ぐ手段がポイントになるが、この「行政」と「防衛」の連絡方法を「烽火」と言う手段で行う事を定義されている。

現に、この大化期の時代には、「烽火」(とぶひ)と言う方式の情報伝達法が確立していた。

つまり、「行政拠点」からの指示を「防衛拠点」に伝える方法として、「煙火」により敵の襲来や命令を伝達する緊急通信施設(烽火所)を作るのが「戦いの構え」の「常道」とされていた。

「行政拠点」と幾つかの「防衛拠点」と幾つかの「烽火諸点」の設備を築き、そして、この3つの点から行動を起こす「六稲三略」を「三相」で「臨機応変」に行うと定義されているのである。

「三相」とは「人、時、場所」を適時適切に判断して指揮する事と説いている。

この時代の戦い方と言うか防衛システムというかは上記のシステムで行われていたが、これは江戸時代までも引き継がれたのである。そして、これ等のことを掌握していた者としてその国の将や軍師(軍略師、軍略所と呼ばれていた)が把握していた。

前記した「烽火」方式は「意思伝達」を充分に伝う行えるだけの「発信方法」と器具が完成していたのである。「のろし」は「煙火」と書く。

多分、NHKの大化改新を解説していた教授がこのことの知識を把握していなかつたのであろう。
考古学と歴史学とは専門域が異なるが、考古学者であつた事によるのではないか。

私は、この都の宮廷が地形の一番下の窪地にあり、臣下の館が前後左右の山手に4つ存在していたのであるので、少なくとも上記の定義から見ると、兵舎や武器庫や櫓や烽火の設備が無い事の方が不思議であった。

そこで未だ、発見されていないと見ると、定義から「兵舎、武器庫群」が周囲のどこかにあると見ていた。
都を作るのに、当時は全てこの軍略書を把握した上で専門的に造営されているはずである。

飛鳥、難波、近江、京の全ての都はこのシステムが働くように造営されている。
江戸時代までの主な城も同様である。
戦い方もその歴史書を見るとこの「六稲三略」に全てかなっているし、勝利した城より負けた方の城がこのシステムが弱い傾向があるのである。

歴史家やマニアは、この飛鳥の都のこれらの点の欠けている事象点を疑問視し、発掘は必ずこの「防衛拠点」の何らかのものが出ると予想されていた。

何故ならば、大化の改新には、この「防衛拠点」を飛鳥から博多までの瀬戸内を通る一線上に設けているし、「烽火」設備が設けられている。

また、前記の大化改新2-1、2-2の所でレポートした様に「防人や軍事設備」が定義通りにあり築城されている。このことから、この知識があった事が充分に解るのである。

だとすると、必ず、窪地にある宮廷であれば、周囲の山手には必ずこの防衛設備の兵舎や武器庫があるはずであると見ていたのである。(戦略上、窪地にある事が疑問だが)

歴史家までも行かずとも、マニア程度であればこのことは理解していたはずの程度ことである。

発掘の結果は矢張り「兵舎と武器庫程度」と指揮所の様な小さい館のものであった。
これでよいのである。
大して驚く程度の結果でなかったとの感想であった。

ただ、2つ疑問がある。
その一つ目は宮廷が下にある事(本来は上にある筈)
蘇我氏の牛耳る為の策と見られている

その二つ目は「改新」のキーの阿多倍(指揮下にある東漢氏)とのやり取りの事
(東漢氏が中大兄皇子に抵抗しない旨の木管端が見つかっているが、蘇我石川麻呂の様に「説得された」の証拠が見つからない事。つまり、この「無抵抗」とした「根拠」が見つからない)

(その三つ目は蘇我氏分家の出方に付いては、分家の長の蘇我石川麻呂が鎌足に説得されていた事が判明していた)
この二つの証が出てくれば完璧である。

実はあとはこの2つの何物かが出るのではとの期待をしていた。
その証拠が何か出るか?未だでない。

しかし、一つは確かに出た。しかし、未だ発掘すれば出て来るのではとの期待がある。

これで、第3番目の説は当然との結論が出る。

続く。

No.394

大化改新4
NHK放映の新説「大化改新」に付いて。

この新説は次のような事でありました。

1 蘇我氏は逆賊ではない。
2 大化の改新はない。
3 蘇我氏館は武器、兵舎であつた。
4 蘇我氏は外敵から天皇を守った。
5 後漢滅亡後の唐を意識していた。
6 日本書紀は書足の編集であつた。
7 天智天皇は失政した。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。
これらを史実で検証してみる。

次は第4番目の”蘇我氏が外敵から天皇を護った。”という説である。

この説は大化改新1から3までの説でのレポートでお判りであろうと思うが、これを大儀明文にして「反逆」の印象を弱める事に努力していたのではないか。

大化改新1で、朝廷の立場から見れば持つ印象は異なると説いた。
その時の前後の蘇我氏の天皇家に対しての行動を見れば誰でも、”反逆”と印象を持つ事であろう。

このことは蘇我氏でも充分に気が付いていたと思われる。
ましてや、二人の天皇とその一族家族を問答無用で自分の思通りにならない人物を暗殺して来たのであるから充分に知っている。

宮廷を窪地に、自分の館を周囲の丘に4つ作ったのであるから、宮廷に勝るとも劣らずの蘇我氏の館を当時の軍略の常識を破って造営したのであるから、この軍略知識は蘇我氏でも知っている。

このように、内側では天皇家を潰し、外側で護るという説は矛盾している。

だから、この二つの事を捉えてさえも、この新説の様に成るだろうか。又、心のそこから”外敵で天皇を護る”等を口にしていただろうか。

現に、蘇我入鹿を討って後に、中大兄皇子は都を移している。”何故移したのであるか”を考えれば理解が出来る。

もう一つは、この蘇我の入鹿と父の蝦夷という人物とその生い立ちを調べることで、どのような性格や人格を持っていたかはおおよそ判る。

この二つの事柄で検証してみる。

乙巳の変、即ち入鹿が討たれた事件であるが、この時の宮廷は、飛鳥板蓋宮である。
この後、皇極天皇(594-661)は孝徳天皇に譲位し、中大兄皇子は直ぐに難波長柄豊碕宮(難波宮)に移ったのである。

この遷宮した理由は、矢張り蘇我氏の旺盛を極めた飛鳥で変のあった土地から離れたいとする意思は納得できるが、その前にこの根拠に付いては、前記した軍略上まずい配置の形態は将来の戦略上、好ましくないとの配慮が働いていたことは否めない。

なぜなら、これには次の四つの事が言える。

先ずその第1番である。
未だ、戦いをした訳ではないのだから、蘇我氏分家は100%現存しているし、本家の勢力を吸収する事で同じ勢力が成立する。

確かに、蘇我石川麻呂は中臣の鎌足に説得された訳であるが、変の時は躊躇して振るえて動かなかったのである。
だとすると、中大兄皇子の成功した直ぐ後の行動は決まっている。

それは、この軍略上逆転した地形と配置から脱する手配をする事が肝要である。
難波宮に遷宮した時は未だ充分に造営が進んでいたわけではなかった事が日本書紀の資料から読み取れる。それほど急いでいた事が覗える。

その証拠に、変の後3年後に、この蘇我氏の長の蘇我石川麻呂は謀反の嫌疑を掛けられて自決しているのである。
つまり、中大兄皇子は間違いなく警戒していた事を物語るものである。その為にもその蘇我氏の勢力を削いだと見られるのである。

次に第2番目である。
前記しているように、阿多倍の動向は抵抗しないとの伝達があったが、その東漢を含む軍事集団がこの後にどのような行動に出るかは不明確である。
(私は前レポートでも記述した通り、話をつけていたと見ている)

中大兄皇子等は眠れない程に疑心安儀した筈である。
先ずそれには、この地形から脱することであり、より港に近い地形を選び攻められた時は海に逃げる方策を考えていた筈である。

この海に逃げる策は当然に難波宮であるが、この難波宮は、蘇我氏の説であれば、最も外国から攻められ易い位置と地形である。
この遷都と遷宮でも、蘇我氏の説には殆ど信用せず耳を傾けていなかったことが判るのである。
海が近いから交易が出来やすいとの説があるが、交易は唐や朝鮮半島との事になるが、今唐や高句麗等の脅威を蘇我氏が述べている位であるのに、交易が云々ではない。

先ず遷して様子を覗う事としたとも見られる。
この時の様子に付いては、難波宮に遷宮する時は孝徳天皇に相談無しにある日突然に移動している。慌てて孝徳天皇は追ってきた様子が日本書紀にも覗えるのである。
それ程に急いでいたという事である。

第3番目である。
皇族一族と5氏の連合豪族の臣下の動きである。

突然に変を秘密裏に実行したのであるから、周囲の合意は無い。
母である皇極天皇や兄弟である古人大兄王たちも驚いて逃げ去ったとある位である。
蘇我氏の血筋を持つ兄弟や重臣たちがどのような態度に出るか見極めることが次の策として必要である。
ここが中大兄皇子の賢い所の所以である。
それには、飛鳥の位置を外して突然に別に移して周囲の動きを見る事が先決である。日本書紀にはこのことが詳しく書いてある。重臣すら連れて行かなかったと書かれている。

難波宮から様子を覗うことで、この3つの動きを洞察する事が出来るものである。
つまり、遷都ではない。遷宮である。
朝廷は各地に宮廷を造っているが、この時は難波宮に遷したのである。

これ等の行動を見極めた上で安全と見た場合には又元に戻す事をすればよい筈である。

現に、そうしているのである。
孝徳天皇の真正直な政治と自分の政治手法で対立して、直ぐに再びある日、突然に孝徳天皇をそのままに、又、「川原宮」に遷宮しているのである。
多分、この時の考え方の違いは、上記の事への対応の違いにあったと見ている。

そのまえには、既に「川原宮」の造営と「後岡本宮」の造営に掛かっているのである。
そして、周囲の様子を慎重に見極めてから”よし、これでいける”として造営にかかっているから、計算すると2年程度以内である。

この根拠として、「天智天皇」の後一段落したと見て後を引き継いだ「天武天皇」は「飛鳥浄御原宮」に遷宮した戻したのである。
この浄御原宮の所在は未だ確定していないが、飛鳥板蓋宮の上層遺構と見られている。

この3つの前提事が判断できれば、政治の実行即ち、改新政治に取り掛かれる。

そして、歴史は実行したのである。
先ず、蘇我氏残党の粛清である。手始めに蘇我石川麻呂である。

孝徳天皇の精神的病死後、再び、重乍(ちょうそ:再び天皇になる)して皇極天皇が斉明天皇
として皇位に着く。
これより改新が前改新レポートに記述した事柄が本格的に開始されるのである。
殆ど天皇家側では外敵などは意識していない。その前の状況の変化の対応であるから、「外敵」意識は殆ど無かつた事を意味する。
むしろ、”そんな事に騙されるか”程度であろう。
今までそんな事が歴史上でないのだから、有ったとしても、次の2つの経験から説明できる。

一つ目は、初代の天皇となつた応仁大王が難波に襲来した時の「融和」の経験がある。
二つ目は、「阿多倍」等の強力な集団の「帰化問題」の経験もある。

「外敵」新説の問題はある程度の判断と理解をしていた筈である。蘇我氏から言われる程度の話ではない。

このような事から「外敵から護ったという説」は納得できない。

それは次の問題である。
蘇我蝦夷と入鹿の生い立ちと資料から見られる性格判断である。

そもそも、蝦夷の父蘇我の馬子は聖徳太子と共に政治を仕切ってきた。
この時代は未だ、東北の方を大和朝廷は征圧して政権下に無かったのである。
この東北地方と蝦夷地方は清和源氏の源の義家のときまでは「アテルイ」らが支配していた一種の独立国であった。

天智天皇の時に、一応は東北部は坂上田村麻呂や阿倍比羅夫の阿多倍の子孫二人にて征夷大将軍として征圧した。
その後、藤原秀郷の一族による鎮守府将軍として藤原秀郷流青木一族が働き沈静化した。そして、最後に、源の義家がアテルイを騙まし討ちして征圧したのである。

この最初の東北部の戦いに蘇我馬子が自ら出陣して戦ったのである。この時、土地の蝦夷族の娘に子供を宿した。そして、連れ帰って養育したのが、蘇我蝦夷である。
名の通り、蝦夷(えみし)である。

この蝦夷は大変体格がよく大男で大暴れする性格で、大変気が荒く攻撃的で乱暴であつたと言われ、馬子は大変手を焼いたとある。

しかし、馬子の子孫は死に、この蝦夷が残って後を継いだとある。
この性格の蝦夷にたいして入鹿は乗馬と弓が美味く豪傑で大胆で、蝦夷の血を引き継いで、矢張り攻撃的性格を示したと記されている。

当時は、朝鮮人と朝鮮系の渡来人は子供に付ける名前は動物の性格を当てて名を付けるという習慣があったのである。これでも朝鮮系渡来人である事が明白である。

例えば、参考に、カタツムリ(でんでんむし)は朝鮮語である。”つむり”は「頭」という意味で、昔は頭の事を「おつむ」と呼んだ。この「つむり」から来ている。この時代に持ち込まれた言葉である。

それ程に後漢の民と合わせて、蘇我氏のように渡来系の朝鮮人も多かった事が覗え、中大兄皇子の周辺には支配されている人も多く居た事を意味するのである。
中大兄皇子の周辺は渡来人で一杯であった事が判り、非常に「警戒心」が強かった事が覗えるのである。

蘇我の蝦夷(えみし)を除き、入鹿はその名の通りイルカである。名は体を現すである。
この蘇我の親子の二人の性格をもってすれば、大化前後の蘇我氏の動きと政策は判るものである。

例えば、次の史実がある。

天皇の宮殿を凌ぐ自分の蘇我氏大邸宅を”上宮門(かみのみかど)と呼ばせていた事。つまり、天皇家気分で呼んでいたのである。そして、入鹿のことを王子(みこ)と呼ばせたとある。皇子を王子としたのである。
百済では皇子を王子と書くのである。
この多くの史実からも蘇我氏の本音のところは読み取れるし、天皇を外敵から護ったとする説には素直に納得できないのである。

もし、そうだとしても、上記の史実はどう説明するのか新説に聞きたい。それ以上の史実を示していないのである。
私には、きつい言い分であるが、歴史に興味の無い人々への煽動的新説にさえ見え、4つのレポートから見ても思えないのである。

NHK大化の新説は史実に基ずく根拠が極めて薄いとさえ考えられ、史実を曲げる疑義を感じる。

人は、その状況に応じて心理反応が働く。その心理の史実となった行動を調べたこの史実を下にしたレポートを読者はどうお考えであろうか。

続く。

No.395

Re: 大化改新5
NHK放映の新説「大化改新」に付いて。

この新説は次のような事でありました。

1 蘇我氏は逆賊ではない。
2 大化の改新はない。
3 蘇我氏館は武器、兵舎であつた。
4 蘇我氏は外敵から天皇を守った。
5 後漢滅亡後の唐を意識していた。
6 日本書紀は書足の編集であつた。
7 天智天皇は失政した。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。
これらを史実で検証してみる。


このレポートはNO5に付いてである。

”蘇我氏が唐を意識していた”という説に対して、どの様な疑問を含んでいるかに付いて検証して見る。

唐は618年に出来た訳であるが、その27年後に専横を極めた蘇我入鹿を討ち645年「大化改新」が起こった。
その時の「唐に対する意識」が、天皇家と蘇我氏との間でどの様に理解していたか、承知していたかを調べる事で判る筈である。

中大兄皇子はどの程度知っていたかを示す証拠が2つある。

一つは4人の知識人が皇子の周りに居て助言をしている。

先ず、一人目は「阿倍内麻呂」である。

この人物は渡来人で、阿多倍子孫である。この阿多倍らは620年(唐に中国全土を制圧される前の隋建国で、漢民が朝鮮を含む東部地区に逃げて光武帝が後漢として独立国を作り上げた後、21代目で唐に征圧される。そして、大和国の博多地域に上陸し、瞬く間に九州全土を制圧して中国地方まで支配下に入れた。この時は孝徳天皇である。この間、27年間である。

この子孫が勢力を持ち朝廷内でも豪族として、重鎮と成っていた。左大臣である。
この人物の中国の唐の知識を中大兄皇子の側に居て進言し、これまでも影響与えていた人物である。
この人物は649年に没しているので「大化の改新」前後には充分に働いている。
この人物だけではない。

二人目は、「高向玄理」(たかむこうのげんり)である。

この人物はこの上記の渡来人の子孫である。608年の「遣隋使」として、又「留学生」として学び、改新前の640年に帰国した経歴を持った人物で前レポートで記述した「国博士」として活躍した。

640年は唐建国618年から22年も経っている。まして、唐の進んだ知識と情報を取得している「留学生」である。
そして、「国博士」として中大兄皇子に進講している役目である。

この人物は後に654年に再び唐に入り、「遣唐使」として入唐しているのである。この人物は唐の長安で客死したのである。
645年とは大化改新の9年後である。つまり、この9年とはどの様な意味を持つのであるかという事である。

中大兄皇子に進講し最も信頼されていた人物を手元から話すにはそれだけの意味が有ったことを示す。
改新後9年で再び唐に渡ったのであるから、この9年の意味は蘇我氏と周囲の問題が大方解決が見えて、次の問題に取り組まなければ成らない状況となったことを意味する。

次の問題とは「唐との取り組み問題」の解決に入った事を意味するのではないか。だから、大化改新計画に最も大事な人物をわざわざ唐に送ったと見える。つまり外交使節であろう。
ところが途中で客死(658-659頃)した事で交渉は頓挫したと見る。

この人物だけでも唐の情報は充分に把握していたことは確実である。知らなかったとする説のほうがおかしい。

「国博士」とは、大陸(唐)に渡った経験があり、その役目は「政治顧問」であり、唐の諸制度に通じている人物を言う。

三人目は、「僧のみん」である。

この人物は、遣隋使として608年から632年まで留学した人物であり、「国博士」に任じられており、中国唐の進んだ科学に精通していて大和朝廷の科学分野の進歩に貢献した人物である。

特に暦や天文には優れていて国の時刻の制定を果たし、この知識をもって地形と水と大理石とで標準時計を作ったことでも有名とされている。

この人物は653年まで朝廷に貢献している。大化改新の8年後まで生きている事から、大化の改新の事柄は全て知っている。
唐には24年間留学生としていた事になるので、軍事の進歩と科学の進歩の知識を中大兄皇子に大きな影響を与えた人物である。

四人目は、「南渕請安」(みなみぶちしょうあん)である。

渡来人の学僧で、608年の遣隋使として中国に渡る。
640年に帰国した。唐建国以後、22年間も唐にも居た事になる。

日本書紀にはこの人物の事が詳しく書かれている。
それによれば、中臣鎌足と中大兄皇子は「請安」に教えを受けている事が書かれている。
「大化改新」の計画に多大な貢献をした事が書かれている。
そして、この人物は645年頃没とされているので、蘇我氏の経緯も知っていて教授していたのである。

この4人の人物が中大兄皇子に唐の情報を詳しく伝えていた事は紛れも無く史実である。

この人物が居て中大兄皇子が唐の状況を知らない方が不思議ではないか。
天皇家側は唐の状況を充分に把握していた。わざわざ蘇我氏ではない。

天智天皇は626−671 皇位668−671であるので、中大兄皇子の皇太子執政で最も忙しい時期の前後に4人は貢献していることである。
斉明天皇在位で天智天皇に成ったのは3年間である。
この時、この天皇を補佐していたのは、弟の大海人皇子(天武天皇)と青木氏元祖の施基皇子である。
まして、これらの4人物は唐の時代に成っても20−30年近く唐にいたのである。数年ではその知識も疑う事も出来るが、直且つ、唐の官僚に混じって働いているのである。

その「唐が攻めてくるから認識云々」という蘇我氏の新説には中大兄皇子が聞く耳を持つだろうか。

そこで、今度は、蘇我氏の立場を見てみると判る事が出て来る。

百済は660年に唐と新羅の連合軍にて滅ぼされた。(大化改新は645年)
白村江の海戦は663年である。
大化の改新から18年後である。
大化の改新のときに言い始めたのではない筈で、建造物を周囲に立てる期間からみても10以上前からでないとその理由にはならない事が判る。

前記した通り、蘇我氏は百済の民で渡来人である事はほぼ事実である。

自分の先祖が潰されると言う「恐怖心」があるからと言って、30年(618)も先の事を予想して果たして計算する予測する事が、現実に出来るだろうか。

現代ではないのである。今から1640年くらい前の時代の緩やかな時代である。その時代に運輸手段や情報手段も無い時代に、30年も先の事を予想する事が出来るだろうか。
もし、30年先のことを予想して言うほうが少しおかしいのではないか。

今、読者諸君が30年先の事を、延々として述べても人は信用してくれるだろうか。

まして、相手が周囲の唐のことをよく知っている人から情報を得ているのである。大して理由にならない「故郷」だからと言う理由で述べても、なおさら信用は元からしない筈である。

645年頃は唐が建国して27年も経ち、日本の学僧や留学生が沢山居る。実質、遣唐使である。

唐と連合軍を創った「新羅」がやっと647年の乱で政権が定まったときである。(金春秋)

そんな時の前の乱のときに新羅と唐がやってくるだろうか。まして、海を渡って来るだろうか。
せいぜい、10年位は経って国が落ち着いてからのことでなくては動く事は出来ない筈であろう。
だから、660年である。
それを実行して国を安定させた建国の父とも言われる人物は661年に死んでいる。

このように時代は何が起こるか判らない30年も先のことに付いて論外である。

白村江の海戦の時代は663年である。つまり、新羅が一番弱っていた時で、唐と新羅が百済を滅ぼした疲れた時期である。

645年頃では、海を渡って大和に攻めてくるには、唐は新羅と戦い、潰して新羅と協定を結び、更に、そして、百済を滅ぼさなくては成らない限り、当時としては無理な事である。
まして、これだけのことをやろうとすれば10年は充分に掛かる。663年なのである。

まして、長蛇の遠征となり、食料、水、人馬疲れなどの多くのリスクを持っている。
まして、前記した様に、戦略上、戦艦列島である。
戦いの一番注意しなければならない「挟撃」である。間違いなく「挟撃戦」は起こるは必定である。

そんなリスクのあるところに、やってくるだろうか。

ここで、漢国が崩壊して後に、東に逃げた光武帝が何故に後漢を建国できたかお考え頂きたい。

光武帝が遼東半島と朝鮮半島を征圧しても隋は手を出せなかったからである。余りに東に長い遠征であるからである。現に遠征軍は途中まで何度も攻めて全滅して諦めたのである。これは食料と気候とえん戦気分とで全滅である。三国志や中国史書にも書かれている事である。

このようなことは唐も新羅も充分に知っている。
まして、それより更に長く海を隔てているのである。
戦いは、NHK新説のように、「新しい戦艦」だけでは戦えないのである。
戦いの要は「リスク」をどの様に見るかである。そして、どの様に対策するかである。
(典型的なリスク対策の見本は前レポートの日露開戦の秋山兄弟の作戦である。)

更にこのリスクに付いてはもう一つ証拠がある。
聖徳太子が中国に書簡を送った事である。

「日出ずる国より、日没する国に物申す」の下りである。
何故に小国が超大国にこれだけのことを言えたのかである。
中国は怒った。しかし、どうする事も出来ない。
この聖徳太子時代の書簡に付いては中大兄皇子は良く知っている。(20年位前)

攻めるには、余りにも遠くて、リスクの大きな戦いである事を聖徳太子は当時の戦いの知識から承知していたからである。

以上のように、NHK新説の「蘇我氏が唐が攻めてくると意識していた」の説にはどちらの立場から見ても史実の矛盾と無視とがあり、「疑問」という範疇とを著しく越えている。

次は大化改新6番目の説に付いて述べる。

続く。

No.396

Re: 大化改新6
02:14
NHK放映の新説「大化改新」に付いて。

この新説は次のような事でありました。

1 蘇我氏は逆賊ではない。
2 大化の改新はない。
3 蘇我氏館は武器、兵舎であつた。
4 蘇我氏は外敵から天皇を守った。
5 後漢滅亡後の唐を意識していた。
6 日本書紀は書足の編集であつた。
7 天智天皇は失政した。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。
これらを史実で検証してみる。


さて、今度は第6番目の問題である。
この問題は上記の「日本書紀は書き足しの編集であった。」である。

先ずこの「日本書紀」について述べると次の様になる。
この「日本書紀」は次の書物から偏纂して構成されている。

第1番目は「帝紀」である。
古代の皇位継承を中心とし、6Cの欽明天皇期頃に成立した歴史書で又、一部に神話的内容が含まれた書物である。
この歴史書は天武天皇期に内容を再検討したといわれている書物である。
「天武天皇期」とは「日本書紀」を偏纂した時で、この時に再検討されたと言われているものである。

第2番目は「旧辞」である。
古代の伝承(歴史的内容)を中心として偏纂されたもので、神話的内容も記述されている。
この書物は「欽明天皇」期頃に成立したものとされているものである。

「日本書紀」はこの二つの歴史書を史実に基ずく部分を偏纂材料としたものである。

「日本書紀」は天武天皇期に「舎人親王」が中心となって偏纂したもので720年に完成している。
別名「日本紀」とも言う。
全巻30巻と系図1巻から成っている。
その内容は、神代から持統天皇(天武天皇の皇后)までのことを収録している。697年までである。

この偏纂者の「舎人親王」とはどの様な人物かと言う事と、又その周囲の出来事や構成や皇位関係なども把握した上で理解する事が、この時期の問題の解明に役立つのである。
これ等のことを充分に理解した上で、この第6番目の新説に対する重大な影響事であるので、その論評を読み判断して頂きたい。、次ぎに述べる。

そもそも、この「舎人親王」は676−735年まで生きた人物で、「天武天皇」の子供であり「天智天皇」の娘の子供である。つまり、姪を后にしたのである。

参考に、青木氏の元祖の「施基皇子」は天智天皇の子供で妥女(女官)が生んだ子供である。
この兄弟姉妹が「{天智天皇」の実の弟の大海人皇子と結婚して出来た子供であるから、「舎人親王」は中大兄皇子にとっては孫であり、甥と言う事になる。

当時は、天皇家の純血を護るために、近親結婚を常としていたのである。

この甥は、後の「淳仁天皇」の父に当る。この天皇は後に父の「舎人親王」を「崇道尽敬皇帝」と追号した。
それだけに偉人であったことを示す。

当時は、歌の最高歌人、名手として有名で、学に高く、その性格は極めて穏やかで、落ち着きのある人物と記されている。
本来ならば、皇位継承に絡む人物であるが、自ら敢えてこの渦中に入る事を好まず、学問に勤しんだとされ、皇子が14人も居た中で、歳を得ていて落ち着きのあるところから、「天武天皇」も大変信頼していた人物であると記されている。

天武天皇の皇子順位からすると、皇太子の草壁皇子、第2位の大津皇子に続き、舎人皇子は第3位の皇子である。

因みに、第4位は長皇子、第5位は弓削皇子(ゆげ)、第6位は新田部皇子、第7位は穂積皇子、第8位は高市皇子、第9位は忍壁皇子(おさかべ)、第10位は磯城皇子(しき)である。
ここで「天智天皇」が行った皇位継承改革の「第2世第6位皇子の臣下方式」により、後を継いだ弟の「天武天皇」は「天智天皇」の皇子も自分の皇子として扱い皇位の列に入れたのである。
本来で有れば僧になり比叡山に登る身分である。

当時は、天皇の妻は「4段階」(皇后、妃、夫人、賓[みめ:ひん])に別れており、次に第5番目として「妥女」(うねめ)である。
これに依って、「天智天皇」の皇子の生き残った二人の「施基皇子」(しき)と「川島皇子」は順位として妻の階級からは外れた「妥女」であるので、第6位と第7位に列せられたのである。

特に「天武天皇」はこの二人の皇子を本当の皇子以上に愛し、信頼し、皇太子の草壁皇子以上に「改新政治」に重用したのである。「日本書紀」の文脈から判る。

そして、この二人の兄弟姉妹の女性の「持統天皇」は「天武天皇」死後も、他の皇子を無視するほどに重用し、信頼し「天武天皇」の葬儀の指揮までも、皇太子をさておき、「施基皇子」に委ねるほどであった。
何か朝廷で問題が起こると直ぐに呼び出して解決させ居た事がこの書紀に書かれている。
私が調べた範囲では「日本書紀」に出て来る人物の中で段突で13回に及ぶ位である。

同じ天智系の皇子(施基皇子、川島皇子)として「舎人親王」も相互にこの兄弟従兄弟として信頼していた証拠である。

「施基皇子」は「伊勢王」として伊勢の青木氏、「川島皇子」は「近江王」として地名から近江の佐々木氏を賜姓したのである。それ程愛していた事が書紀から読み取れる。
(天智天皇のほかの子供は、詔の判別方式では、大派皇子(おおまた)と軽皇子(かる)と伊賀皇子(大友皇子)建皇子(たける)となるが死亡)以上12人(15人)皇子である。

因みに、皇族賜姓青木氏のサイトでもあるのでより詳しく書く。
当時は近親結婚であるのと、詔の皇族の娘は皇女として扱ったので、判別は難しいが、次の通りである。

皇女には、大田皇女、宇野皇女、沙羅皇女、御名部皇女、阿倍皇女、飛鳥皇女、山辺皇女、大江皇女、泉皇女、水主皇女、新田部皇女で、ここまでが天智天皇の11皇女である。

ここからは天武天皇の皇女で、大来皇女(おおくの)、新田部皇女、但馬皇女、紀皇女、田形皇女、十市皇女、泊瀬部皇女、話基皇子、阿閉皇女(あへ)の9人の皇女等がある。
(新田部皇女は重複するが「阿倍倉梯麻呂」の「橘娘」の子供であるので、同じく天武天皇の子にも名付けたと見られる)

これ等の天智天皇の皇女は殆どは天武天皇の妻となるので、その身分は母の身分に比例する。
特に天智天皇は4人の妻の近親婚を避けて全て女官の「妥女」より産ましている。

「施基皇子」は「越の道君伊羅都女」の子供である。つまり、越の国の豪首の娘が人質として女官として天皇家に仕えて子を産んだ事になる。(伊勢青木氏の元祖)

「川島皇子」は「忍海造小竜の色夫古娘」の子供である。つまり、地方豪族の海造(うみのみやつこ:海の官僚)小竜の娘である。(近江佐々木氏の元祖)

ここで、面白い史実を記する。
前レポートの一つの証明になる。

一番目は、「伊賀皇子」即ち、「大海人皇子」と皇位争いで戦った「天智天皇」の皇子の「大友皇子」は、この伊賀国の首長の娘の「宅子」を母親としている。
そして、その母は女官として朝廷に入り、「妥女」として中大兄皇子の子を産んだ。

つまり、何度も書いている事であるが、「伊勢北部伊賀地方」といえば、ここの国を与えられたのは後漢の17県民を引き連れて帰化して来た大技能集団の大隈の首魁「阿多倍」の国であり、その娘子の「宅子」である。
未だこの大化の時期は阿多倍は生きている。

結論としては「大友皇子」は「阿多倍」の孫に当る事になるのである。
天皇家のこの部分までその「阿多倍一族」の勢力は浸透しているのである。

二番目は、次に、中臣の鎌足の仲介説得を受けた、「中大兄皇子」と蘇我氏打倒の味方をした分家首長の「蘇我石川麻呂」は3人の娘を天智天皇に「妃」として差し出している。

一人目は、「遠智娘」で3人の皇女と皇子を産んだ。
「大日皇女」と「宇野皇女」と「建皇子」である。
この孫の建皇子は8歳で死ぬが、斉明天皇に大変に可愛がられて、死んだ後、暫く斉明天皇はうつ病的になるほどショックを受けた事が書紀に書かれている。
この石川麻呂は、「改新」より3年後に謀反嫌疑で自決するが、中大兄皇子は「蘇我石川麻呂」を確実に引きとめていたことが判る。

二人目は、「芽淳娘」で2人の皇女を産んだ。
「大田皇女」と「沙羅皇女」である。
ここで前レポートした「阿多倍」の妻は「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王」の「娘」を娶り3人の男子を産んだと記したが、その別の姉妹娘である。(賜姓族の坂上氏、大蔵氏、内蔵氏である)

改新後は、「阿多倍」はここでもこの様に網の目の様にどちらにも血縁を堅く結んでいたのである。

このことから、入鹿暗殺の後の行動は明らかに、蘇我石川麻呂も阿多倍も味方する事を事前に鎌足と話がついていたことをし示すものである。

三人目は、「姪娘」で2人の皇女を産んだ。
「御名部皇女」と「阿倍皇女」である。
ここでも、「阿倍」即ち「阿多倍」の一族の「阿倍氏」とのかかわりの娘であるから「阿倍」としたのであろう。
「阿倍」と言う地名から取った名である。そこで、「阿多倍」に関わる「阿倍」の地名は2箇所ある。
一つは、九州の鹿児島と熊本の県境に「阿倍」の地名がある。ここは「大隈の首魁の阿多倍」の館があったところである。
もう一つは、信濃の南の入り口に「阿倍」と言う地名がある。ここは「阿多倍」一族が信濃の開拓に廻された場所である。
では「蘇我氏石川麻呂」とすると信濃の「阿倍」で生まれた子供という事になる。
この「姪」の「郎女」はこの地元で子供を生んだと見られる。
このことも、何重にも3者で血縁を固めている事を意味する。

三番目は、「阿倍倉梯麻呂」即ち、「阿倍内麻呂」であり、「橘娘」である。この娘とには2人の皇女が生まれている。
「飛鳥皇女」と「新田部皇女」である。
「阿多倍」の子孫の渡来人の「阿倍内麻呂」は前記した様に大化期前後に重鎮として「中大兄皇子」に仕えて唐等の海外事情を進言して「大化改新」の立て役者の一人として働いた。
この人物の娘を娶り子供を生み血縁を更に硬くしていることしになる。
このことは「中大兄皇子」に唐の事情のことを進言している証拠である。

そして、この二人の子供は「天武天皇」の后に成っている。特にこの「新田部皇女」は「天武天皇」に可愛がられて居る事が書紀から読み取れる。

四番目は、「蘇我赤兄」の「常陸娘」のある。
子供は「山辺皇女」である。
「蘇我赤兄」は「中大兄皇子」と「孝徳天皇」の皇子の「有馬皇子」とが皇位争いをして、「熊野古道」の「藤白峠」の入り口の「藤白神社」の50メーター手前で赤兄に依って絞殺された。この人物である。
「中大兄皇子」の命令である。
蘇我氏の分家筋を血縁で押さえ込んでいた事を示すものである。

蘇我氏の分筋の出方が鍵である事を説いたが、「蘇我石川麻呂」と「蘇我赤兄」との血縁でこの二人の立役者が真に取り込んでいたことがこれで証明出来るのである。

そこで、大化改新の一つである皇族に掛かる費用が朝廷を圧迫していて、この財政的改革を行ったと書いたが、天智天武期の皇族に掛かる費用としては、皇子皇女の数はなんと35人であり、第4世の66の各国に配置している王までの51を入れると86程度にもなる。またその家族を入れた場合は倍は超える。
この皇子皇女族を養うには経済的に無理がある。天皇家の財政(内蔵)は破綻寸前である。
これでは持たない。(それまでは第7世以降は臣下させ坂東に配置した方式であつた。)
これが全ての前記したレポートでの「財政的改革」の引き金に成っている。

そこで、第4世皇子方式から第2世第6位皇子臣下方式とばっさりと切った「行政改革」を実行した。

そこで、次の事を実行した
この第6位皇子に賜姓(青木氏)して臣下させた事。
第6位皇子以降は僧侶、学僧と成り、皇女は皇族系の神社の斎王と成った事。
この第6位皇子を天皇を護る親衛隊として編成して配置した事。
この時、その親衛隊の青木氏に「笹竜胆」の象徴紋を与えた事。
このステイタスとして「鞍作部止利」作の「大日如来坐像」を与えた事。
王位は第4世までとした事。(その前は第6世までであった)

但し、余りに厳しいので、6代後の嵯峨天皇期に、賜姓青木氏は皇族還俗者が名乗る氏とし、変名して第6位皇子には賜姓源氏とする事を決めた。そして、第2世を第4世第6位皇子臣下方式に変更した。
詳しくは以上の改革を行っている。

そこで話を戻すと、
この「日本書紀」を始めとして、「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」以上6つの漢文による天皇家に関わる史書がある。これを「六国史」(りっこくし)と言う。

「日本書紀」は−697年の史料を偏纂し、基本史料30巻で、舎人親王らが720までに編集。
「続日本紀」は697−791年の史料を偏纂し、基本史料30巻で、藤原継縄ら797年まで編集。
「日本後紀」は792−833年の史料を偏纂し、基本史料40巻で、藤原諸継ら840年まで編集。
「続日本後紀」は833−850年の史料を偏纂し、基本史料20巻で、藤原良房ら869年まで編集。
「日本文徳天皇実録」は850−858年の史料を偏纂し、基本史料10巻で、藤原基経ら879年まで編集。
「日本三代実録」は858−887年の史料を偏纂し、基本史料50巻で、藤原時平ら901年まで編集。

日本の史書は「帝紀」と「旧辞」を含めると「8史料から繋がり」をもって構成されているのである。
日本書紀だけ単独で史書と成っているわけではないのである。「繋がり」を持っているのである。

単独ならいざ知らず、連携した史書であるから容易にNHK新説の様には出来ない仕組みに成っているのである。
ここで、本題の「日本書紀」は「追記されていると」の新説であるが、その「追記の事柄」として「文章の変更」と「追記」であるとしている。
この説に対する経緯を述べると容易に理解されると考える。

この説は、1950年(敗戦4年後)の第2次大戦の敗戦で、国内の日本人が持つ「国粋主義思考」を押さえる目的で米国進駐軍(GHQ)が左傾主義の人物を教育界に入れた。
この結果、思わない方向に時代が進んだので、進駐軍は急遽このグループを逆に弾圧したのである。
この思わぬ方向とは、そのイデオロギーを達成するには、「国の歴史」を否定する事が必要で、これになくして「結果平等」を目途とした「共産革命」はなし得ない。そこで、先ずその歴史の基となる上記の史書の否定から入ったのである。
その狙い撃ちにされたのは「六国史」の基の「日本書紀」の否定であり、二つ目は日本民族の基は「アイヌ説」として、「民族の基」を否定したのである。

この二つを否定することで民族は「日本民族」説を否定する事が出来て、「結果平等」が達成し、その基となる「日本歴史」から来る「日本的規範」を乱す事が出来る。つまり、「軌範」は崩れて「民族の繋がり」は無くなり「革命」は可能となるのである。(ロシア革命の前提)
この時、日本史の「日本書紀」はまったく信用出来ない「嘘の史書」とレッテルを貼ったのである。

慌てた進駐軍はこの失敗を隠す為に弾圧したが間に合わなかったのである。
この失政が教育界に長く及び、現代に於いても未だ続いているのである。

しかし、このことを政府は30年掛けて研究し、遺伝子的に、論理的に証拠付けた。
「国体を揺るがす事態」であるので国は対抗策として研究したのである。

そして、先ず、「アイヌ原住民」説の激しい運動は、この研究にて「アイヌ説」は遺伝子工学的に完全否定されて消え、運動も消えたのである。(後日レポートする)
また、日本民族の本来の形を証明し「7つの民族融合から来る単族説」を証明して「民族否定論争」は消えたのである。(後日レポートする)
更に、この「日本書紀」の「デタラメ説」は発掘作業と古代史研究に国家予算をつけて証明が進み、かなり信頼性が高い史書である事が証明されて来たのである。

その証拠には「日本書紀」を改纂すると、上記した六つの史書の連携の矛盾が生まれるのである。
確かに天武期の編集中には一部修正したことが判っているが、後の修正は証明されない。

「間違いが多いとする説」には、大和の者が直接関わったものではなく、この「日本書紀」偏纂には「阿多倍」らが引き連れて来た「秦部」や「司馬部」等の事務官僚の漢民が直接携わって執筆されている事等から本職の者が実質偏纂しているのである。故にに当らないのである。
まして、この時には前記した渡来人の唐の4人の留学生「国博士」が側にいて歴史監修しているのである。
この様にプロ中のプロが集まって行っているのであって趣味的に偏纂したものではないのである。

しかし、ここで、韓国に於いて、決定的な「日本世記」と言う書物が最近見つかった。

この書物は、「中大兄皇子」の政治顧問として百済から派遣されていた(催氏)人物で、この者が「中大兄皇子」の日常の政務を「日記」にして細かく書き知るしていたものが発見されたのである。
この人物が国に帰るときに持ち帰ったものである。

司馬遼太郎氏らの歴史家と国は、この人物の書き記した物が遺されている事を予見して韓国に探すように求めていたのである。これが見つかれば「日本書紀」の内容を確認出来る。
結果、見つかり内容を確認したところ「日本書紀」に書かれている内容がより詳しく、不明点も判明したのである。そして、「日本書紀」の内容の信頼性が、「全面否定」から、8割から九割近い方向に証明されたのである。
またこれにより、韓国文化の日本文化への影響も明確に成る等の影響も出たのである。

NHKの大化改新番組での韓国人の研究者のインタビューの力説はこの点にあったのである。

残る不明点は今後の発掘等の作業から導かれる。

「日本世記」等がこの問題を解決しているのである。

故に、日本人の現代の一個人の者の知識レベルで「ここが間違っている」とする説には同意が出来ないのである。

「字句の前後を変えて間違えた」とのNHKの新説は、漢文専門家によると次の答えが出た。
「文章の強意するところは漢文的には前後する事が手法とする事がある」との判断もあり、日本文でも同じである。決して、間違いではないのである。

まして、「上記の背景」や「舎人親王」の人柄も含めて、我々マニアでさえも上記した様なことの知識は充分知っている。

一度、「日本書紀」を読まれると良いと思う。
NHK新説は、上記した戦後の彼等の常等手段と類似する言い分である。

いずれにせよ、筆者はイデオロギーに偏らず、史実は史実として扱い、それをどの様に配慮して伝えるかによると考えている。
故に、青木氏の歴史史実と由来のより真実を世に伝える努力をしている。

「日本書紀」は、決して「神話的内容」には成っていないし、後で「内容に手を加えた」とする説にも、文脈や文章の流れも字句、語句にも違和感を持ち得ない。むしろどちらかと言うと平易的過ぎるとも思う位であるとの感がする。

何れ近い将来には確率高く証明されると信じている。
No.387
大坂夏の陣で戦死、帰納伝承の青木氏を探してます
387編集 追加
長野県の北部の県境に近い青木氏は、足利氏流との記述がありましたが、この地域で一番、素性が確かなのは、江戸時代に上田藩川中島内中氷鉋村の名主及び組頭の青木氏では?
長野県では現存する最古の太閤検地帳(文禄期の増田長盛による)を伝えています。
全国によくある話ですが、大坂の陣で浪人に加わって戦死し、戻って帰農し村役人との伝承。
家紋は3家あり、表紋が丸に剣カタバミ、裏紋が三盛り州浜の家と、左三つ巴の家があります。
中世には青木湖畔に荘園を持っていたことからの由来といい、青木村の青木氏とは違うようです。

このような大坂浪人系を伝承する青木氏には、石田三成の鉄砲頭で、関が原の戦いで捕虜になつた
青木市左衛門の末裔もいるようですが、情報を教えてください。

No.388

Re: 大坂夏の陣で戦死、帰納伝承の青木氏を探してます
>長野県の北部の県境に近い青木氏は、足利氏流との記述がありましたが、この地域で一番、素性が確かなのは、江戸時代に上田藩川中島内中氷鉋村の名主及び組頭の青木氏では?
>長野県では現存する最古の太閤検地帳(文禄期の増田長盛による)を伝えています。
>全国によくある話ですが、大坂の陣で浪人に加わって戦死し、戻って帰農し村役人との伝承。
>家紋は3家あり、表紋が丸に剣カタバミ、裏紋が三盛り州浜の家と、左三つ巴の家があります。
>中世には青木湖畔に荘園を持っていたことからの由来といい、青木村の青木氏とは違うようです。
>
>このような大坂浪人系を伝承する青木氏には、石田三成の鉄砲頭で、関が原の戦いで捕虜になつた
>青木市左衛門の末裔もいるようですが、情報を教えてください。

どこかの青木一徳さん 今日は。始めまして。
先ず、お尋ねは次の3つとしてお答えします。

信濃国北部の足利氏系青木氏に付いて。上田藩の青木氏か。
家紋3つの氏の青木氏に付いて。青木村の青木氏か。
大阪の陣での豊臣方青木氏に付いて。

以上の事としてお答えします。

先ず足利氏系青木氏(二つ引き両紋)に付いてはそのルーツは皇族賜姓青木氏と信濃の足利氏との間で血縁を結んだ一族です。この皇族賜姓青木氏に付いては研究室の所に詳しくレポートしていますのでお読みください。

概要は天智天皇から光仁天皇までの男系天皇5人(天智天皇、天武天皇、聖武天皇、文武天皇、光仁天皇)の夫々の皇子のうち第6位皇子を天皇自ら青木氏を賜姓して、臣下させて侍とし天皇を護る親衛隊として、5つの国の守護王として遣わした者です。
この国は伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐です。この国の王(青木氏)となつたものです。

この場合は信濃王の末裔の青木氏は土地の豪族足利氏(藤原秀郷より4代目兼光から更に4代目の成行を土地の足利氏の分家の跡目に入れて足利氏の本家を奪い取り、本家の足利氏を美作国に追い出した)と血縁を結んで2代続きの跡目が出来ず家紋掟にて足利氏系となつたものです。
(2代続いての女系になると養子婿先の家紋となる。元は笹竜胆紋)
この一族が信濃北部の国境に定住すみわけ、もとより国府にはこの皇族賜姓青木氏が定住し、南部には藤原秀郷流青木氏が住み分けていました。

藤原秀郷流青木氏に付いては研究室の「藤原秀郷一族の生き方」に詳しくレポートしていますのでお読みください。

この足利系青木氏は末裔の方でこの地域から沢山にこのサイトに投稿されています。
お説の名主の青木氏に付いては調べてみましたが、家紋と宗派の点で疑問とみています。多分、足利系青木氏ではなく、藤原秀郷流青木氏ではと考えるのが妥当と見ています。

そもそも、この上田藩の上田氏は父と弟が西軍に合力しましたがこの上田氏は藤原秀郷の一族です。
そして、この上田氏に所属する青木氏は藤原秀郷流青木氏で御説の青木氏もこの支配下にあつたと見られます。

次にこの時に伊勢青木氏を始めとして皇族賜姓青木氏5家5流は徳川方に合力しました。
伊勢青木氏は徳川家康方に250を持って参戦したと記録されていますので、5家5流の元締めとして采配していましたので、5家5流24氏も徳川に付いています。
有名な名張と伊賀の戦いで1575−8年に織田と秀吉から伊勢青木氏は攻められていますので西軍に合力する事はありません。
よって、上田藩の青木氏は皇族賜姓青木氏(足利氏系青木氏含む)ではなく、藤原秀郷流青木氏です。

下克上と戦国時代を経てきた室町期から江戸期までのルーツの系譜や家紋などは全く信用が出来ません。徳川氏でも系譜搾取改纂ですから。

私が研究した中で矛盾だらけで一度も確定した事がありません。
ですから、鎌倉時代まで遡って検証する必要があります。特に2つの高位の青木氏に関してはある特定のいくつかの絶対条件が合う必要がありますので搾取改纂では矛盾が生まれるのです。

次の3つの家紋に付いては全て藤原秀郷流青木氏の家紋類です。従って、皇族賜姓青木氏の青木氏では有りません。

この皇族賜姓青木氏は上記5家5流の青木氏と伊勢の国を除く4国の豪族との血縁氏とその支流24氏とで成り立っています。5家5流の青木氏の綜紋「笹竜胆紋」と24氏の家紋の中にはありません。

この3家紋は明らかに藤原秀郷の一族の綜紋の「下がり藤紋」と主要5氏(青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏)から末裔を広げた24氏の3つの氏の使用する家紋類です。

先ず、第1に、丸に剣片喰紋は酒井氏との血縁による藤原秀郷流青木氏でその分家筋に当ります。

第2に、三盛州浜紋は陸奥の小山氏(秀郷から4代目兼光系で、更に5代目政光が跡目のルーツ)の代表家紋です。陸奥小田氏の支流です。この氏と藤原秀郷流青木氏との血縁による一族です。

第3に、左三つ巴は宇都宮氏、小山氏、佐野氏、結城氏、赤松氏です。藤原秀郷系24氏の中の兼光系4主要氏の氏と家紋です。この一族との同族血縁による青木氏(佐野氏系)です。(矛盾点として、兼光系ですが、佐野氏以外に、ただこの一族からは青木氏は出ていません。)
(藤原秀郷流青木氏は116氏にも及んでいますのでご注意ください)

この一族の青木氏は各地に赴任して定住していますし、その本家筋は武蔵国の入間郡を中心にして横浜神奈川を半径として円を描く範囲の中に、内円を総宗本家筋にして定住し、外側に支流本家筋が囲み宗家を護っています。。(武蔵、下野、常陸)
分家筋は全国24地方の各地にも分布しています

藤原秀郷流青木氏は藤原秀郷の第3子の千国を元祖としてそれより3代目の兼光系から青木氏が護衛役として継続発祥しています。17代目で更に行久のところで総本家から跡目を入れて継承しています。
(貴族に成った藤原秀郷は、皇族賜姓青木氏の親衛隊役方式を真似て、朝廷より青木氏の氏を使う事を子供の千国に許されます。嵯峨天皇から皇族の者以外に青木氏を名乗ることの禁止令の詔を発しました。その代わりに第6位皇子は源氏を名乗りました。)

以上は「青木氏(家紋)と血縁族」と「家紋掲示板」などのレポートを参照して下さい。
この一族の方々が当サイトに多く投稿されています。
この3家紋の青木氏は皇族賜姓青木氏では有りません。

この信濃の青木氏には以上3氏の皇族賜姓青木氏と足利氏系青木氏と藤原秀郷流青木氏とが住み分けていますが、更に別に皇族青木氏(島氏と橘氏の2氏青木氏)と伊川津七党青木氏、第3青木氏(江戸初期前後と明治初期苗字令で青木氏を系譜搾取改纂した青木氏)の3氏の青木氏が混在しています。

下克上と戦国時代で、室町期から江戸初期までの混乱期でこの住み分けはかなり崩れています。したがってこの時期の資料では信用が出来ない理由の一つなのです。

青木氏に関しては鎌倉期前の資料で是非にお調べになる事をお勧めします。

大阪の陣での青木氏は次の資料に掲載されていますのでお調べください。
「徳川除封禄」です。ここにお尋ねの青木氏が記載されています。

念の為に、青木一重、青木木工右衛門、青木左京進衛門、青木紀伊守一矩、青木伊賀守忠元、青木次郎兵衛、青木多膳、青木太郎左衛門、青木清左衛門、青木新兵衛などが挙げられると思います。

研究室と家紋掲示板と地名地形データーベースと青木氏氏ブログに詳しくレポートしています。

ご不明な点がありましたらご遠慮なくお尋ねください。
No.385
北海道の青木
385編集 追加
こんにちは。
北海道の釧路に住んでます。
父親が自分の先祖のお墓に行ってみたいと前々から言っており
自分も興味があったので調べて一緒に行ってみたいと思い投稿させていただきました。
祖母の話によれば、先祖は岐阜県本巣郡から北海道に移住したらしく
実家の家系図によれば江洲甲賀城主の青木右衛門の子孫にあたるらしいです。
家紋は2本の蓮の葉で 宗派はよくわからないんですが・・・
管理人様、家のルーツに関して何かお分かりでしたらお教えください。
お願いします。

No.386

Re: 北海道の青木
>こんにちは。
>北海道の釧路に住んでます。
>父親が自分の先祖のお墓に行ってみたいと前々から言っており
>自分も興味があったので調べて一緒に行ってみたいと思い投稿させていただきました。
>祖母の話によれば、先祖は岐阜県本巣郡から北海道に移住したらしく
>実家の家系図によれば江洲甲賀城主の青木右衛門の子孫にあたるらしいです。
>家紋は2本の蓮の葉で 宗派はよくわからないんですが・・・
>管理人様、家のルーツに関して何かお分かりでしたらお教えください。
>お願いします。
北海道の青木さん 今日は。はじめまして。

当サイトに良くお越しくださいました。
さて、早速のお尋ねの件ですが、情報が大変少ないので検証が難しい事に成りますが、その点ご理解ください。

情報としては次の事に成りますが、
先祖は岐阜県巣郡である。
家系図では江州甲賀城主 青木右衛門の子孫
家紋は2本のハスの葉 「抱き蓮割紋」である事
宗派は不明

先ず、その前に判らない事がありますので、後日、便りください。
この先祖は岐阜(美濃国)ですか、ここに長く何時の時代まで定住されていたのでしょうか。
それとも江州(近江国)ですか、何時の時代の頃ですか。
美濃の青木氏と近江、滋賀の青木氏とでは異なります。

宗派が判らないということは菩提寺がわからないという事でしょうか。系譜があるということは宗派は判るはずですが。系譜は当時の時代ごとの戸籍簿としてもとより菩提寺が管理しているものを移し直して図式にしたものです。(系譜=菩提寺です)
実は、この宗派がルーツ検証の大きな決め手になるのです。

では、この文様が「抱き蓮割り紋」に付いて確実なのでその由来をお答えします。

この文様はご存知のようにお釈迦さまの座られてた台座で極楽浄土の花として仏教的、瑞祥的文様で江戸末期までその文様の使用は掟として仏教徒として厳しく誡められていました。

したがってこの文様は家紋化される事は明治初期まで絶対にありませんでした。
江戸幕府に於いても寺社奉行により取り締まられていて禁紋として御家人を始めとして一般武士にもこの文様の家紋化は有りませんでした。

その証拠にこの文様は日本の全家紋8000の中には6つしか文様としてありません。この6つのなかには明治初期の苗字令に基づき「苗字と家紋と系譜」を作る動きがありこの時にこの禁令を無視してつけたものです。

ただし、ただ一つ例外が認められていました。
それは、「寺紋」というものです。「寺」だけが使うの紋です。
この6つのいくつかは間違いなくこの寺紋です。

そこで、この寺紋ですが、皇族賜姓青木氏、藤原宗家、藤原秀郷主要5氏、藤原秀郷流青木氏などの主要9氏は自らの一族だけを祀る菩提寺を持っていました。
そして、その寺の住職は一族の者が担う事に成っていました。この青木氏一族が後にこの寺紋を家紋としたものです。

皇族賜姓青木氏の5家5流の青木氏とその24氏は勿論の事この菩提寺を持っていました。
皇族賜姓青木氏に付いては研究室の所の詳細レポートを参照して下さい。

同様に藤原秀郷流青木氏も同様に研究室に詳細にレポートしています。

この皇族賜姓青木氏5氏は伊勢青木氏、近江青木氏、美濃青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏がありこの一族から24氏の青木氏が出ています。
例えば、伊勢青木氏を除く、近江佐々木氏系青木氏、美濃の豪族の土岐氏系青木氏、信濃足利氏系青木氏、甲斐の武田氏系青木氏があります。
この系列から更に青木氏の末裔が広がっています。
以上で24氏がそのルーツを明確にして末裔が広がっているのです。

藤原秀郷流青木氏も主要9氏から116氏に末裔が広がりそのルーツは歴史的に確定しています。

話を戻しますと、この2ルーツの青木氏の寺の住職は青木氏です。
青木氏の寺の住職が多いのはこの理由からです。(佐々木氏もある)

この時、本来は、皇族賜姓青木氏5家5流の系列は家紋の綜紋は「笹竜胆紋」です。

藤原秀郷流青木氏の主要9氏の綜紋は「下がり藤紋」です。これが116家の家紋と成って広がっているのです。

此処で、もし、お家の先祖の発祥のところが近江又は滋賀(甲賀)地方であれば、この皇族賜姓青木氏の流を組む近江王を元祖とする青木氏となりその青木氏の代々の住職を務めて居た筈です。

したがって、その菩提寺は時代は変化しても菩提寺だけは明らかなはずです。
当然に、皇族賜姓青木氏が氏家制度に基づき入信を許されるべき宗派も明らかで限定されてきます。
少なくとも、この寺紋の青木氏の菩提寺は5つの土地に必ずあります。

ですから、江州であれば、この菩提寺は江州の国府があったところにある筈です。
御家の菩提寺は何処にあるでしょうか。

江戸中期から末期までは少なくともこの系列の菩提寺は代々同族の者に依って引き継がれてきました。

確かに近江滋賀と美濃国はいずれも5氏の皇族賜姓青木氏の土地ですので、この点での矛盾はありませんが、どちらであるかで、宗派の歴史変化に合致しているか又氏発祥の歴史上の問題があるので替わります。
どちらであるかが判ればその詳しい青木氏のルーツをレポートしたいと思います。

ですから、ここで、この元祖の土地は何処で宗派は何ということが決め手になります。

更に、ご先祖がこのお寺系列の青木氏に縁がないと成ると、明治初期の苗字令に基づく事から起こった第3の青木氏ということに成ります。

この第3の青木氏についても概略説明しますと、この皇位の青木氏と高位の藤原氏(藤原鎌足より8代目)の青木氏以外に江戸初期前後と明治初期の混乱期に2度禁令を破り、多くの苗字家紋系譜の持たない者が武士となり出世してこの3つを搾取改纂偏纂してこの高位の二つの青木氏をなのった者が多く居ます。

この時、この寺や神社に高額の金品を送り、3つの先祖を物語るものを作ってもらい証明を受けて名乗った青木氏です。したがってこのルーツには室町期以前のルーツはありません。
故に、一族だけの菩提寺の存在とその限定された宗派はなく異なってしまいます。

歴史上、この第3青木氏と名乗られた元の青木との間で江戸初期前には争いが各地で幾つも起こったのです。

さて、江戸期前後にして大変出世したこの第3青木氏が4−5人程度居ますが、御家の先祖が甲賀城主青木右衛門とする説ですが、この青木右衛門のルーツだと名乗る第3青木氏が実は比較的多いのです。
他には麻田ルーツの青木一重などもあります。

又、上山氏を名乗る者が大変に出世してそのために身分を必要となり青木氏に変更して系譜改纂搾取してその元の青木氏の総本家と2度の戦いをして青木氏を奪っています。
そして、この子孫が大変な拡大をしています。この上山氏の青木氏は近江を中心に円を描く様に分布しています。
そして、この者は近江国甲賀郡正福寺の人である事が判っています。
この子孫は正福寺と浅井郡甲賀村の永厳寺にも葬られています。
この青木氏は近江の皇族賜姓青木氏と佐々木系青木氏よりも末裔をはるかに多く残しています。
土地柄と甲賀の城という点から見るとこの子孫である可能性があります。
甲賀一円の城はこの子孫と佐々木氏の城であります。
近江賜姓佐々木氏の配下で城代を務めている子孫も居ます。
しかし、家紋が異なります。菩提寺が一致すればこの子孫です。上山氏以後の系譜ははっきりしています。


この麻田ルーツもこの子孫ではないかと見られています。
(このことは研究室にもレポートしていますし明らかにこの子孫と見られる多くの方が投稿されています。)
更にもう一氏のルーツも大変に子孫を遺しています。
だから、更に調査が必要であります。

御家は、現代「抱き蓮割紋」を家紋としていますが、禁令を破って家紋として存在しない家紋を家紋としている事には更に調査が必要に思います。

この上二つの矛盾には何かご先祖に江戸初期から中期ごろに掛けて何かが起こっていたことも考えられます。

この「抱き蓮割紋」を家紋化されたのは明治初期ですのでそれまでは寺紋ですからこの最大の矛盾を解決する必要があります。

江戸初期前後の後に作られた系譜は殆ど信用が出来ません。
豊臣氏や徳川氏を例に取るようにこの時代は全てこの搾取偏纂のブームが起こったのです。

それ以前は鎌倉時代末期からは「下克上」と「戦国時代」でこの「系譜と家紋と氏」が崩れた時代でした。
むしろ、この「氏家制度」の上位に立つ一族を滅ぼして下級と中級武士が上位に立ち社会制度を壊す目的の焼き討ちや反乱でしたからよほどの事がない限り系譜や家紋や氏を護れなかったのです。
(100%に)先ず、青木氏に関しては最高位の身分でしたので狙い撃ちにされて系譜がある事が不思議であるのです。
歴史の証拠を保護してきた特定の菩提寺も寺も勿論、焼き討ちに何度も合い消えてしまいました。
例えば私の菩提寺も3度焼き討ちに会っています。

だからこの時代後の系譜も逆に作りやすいということも起こる現象で安定した徳川初期から再び幕府は社会秩序をこの氏家制度に求めて特例を出しこの復古令と奨励令と禁止令を平行して出したのです。
この時に御家人を始めとしてのブームが起こったのです。

先ずこの付近の時代に情報が少ないので何らかの御家の変化があるのかもわかりません。
お寺の住職の系列の青木氏であれば全ての矛盾は消えます。

もし、お寺関係であるとすると約1200年程度の歴史を持つ近江滋賀の青木氏の御家と考えられます。

青木右衛門とお寺関係に結び付くものを見つけられる事が必要です。その入り口の条件は宗派と一族菩提寺です。

ほんの一寸した事柄から結び付くのがこのルーツの面白さです。
例えば、先祖の名前の特長や習慣や仕来りや伝来の宝や口伝や菩提寺の情報なども関わって来ます。
現代の常識で考えると何の価値もない物が過去には大変な事である事が多いのです。

ご質問がありましたらご遠慮なくお尋ねください。情報が少ないので充分なことにお答えする事ができませんでしたが。是非お便りください。
No.378
天皇家と武田家の関係?
378編集 追加
明けましておめでとうございます^^
さて質問なのですが、正月の一般参賀?で気になったのですが。。。天皇陛下らの後ろに武田家の家紋「武田菱」がありました。これは天皇家と武田家はどのような関係があったのでしょうか。

No.380

Re: 天皇家と武田家の関係?
>明けましておめでとうございます^^
>さて質問なのですが、正月の一般参賀?で気になったのですが。。。天皇陛下らの後ろに武田家の家紋「武田菱」がありました。これは天皇家と武田家はどのような関係があったのでしょうか。

上州の青木さん 今日は。始めまして。

さて、早速ですが、ご質問ですが、結論から申し上げますと、全く関係が有りません。

武田氏は元々は陸奥の小豪族でした。藤原秀郷は武蔵、下野の国を領国として初代から東北北陸地方と北海道の治安を朝廷より任されました。これを「鎮守府将軍」といいます。代々この軍事最高位の職に任じられていました。

この時、藤原秀郷の2代目頃からこの陸奥(現在の青森県)に藤原秀郷流青木氏の護衛の下に護っていました。この時、土地の豪族の協力を得るために4代目位から血縁を結んで地盤を固めました。

この時の豪族としては、武田氏、小田氏、小山氏、花山氏などと血縁を結びました。

この時の武田氏の分家が、藤原秀郷の一族が甲斐の国の国司代に任じられた時に藤原秀郷流青木氏と共にこの武田氏も護衛役とし同行しました。(ここには光仁天皇の第6位皇子の皇族賜姓青木氏が領国として甲斐王として守護を務めていた)

この武田氏が甲斐の土地で勢力を持ち治安を保つ為にも甲斐の土地の豪族との血縁を結び続けました。この時に特に諏訪族との血縁がこの目的を達成させるには信濃の諏訪族との血縁を図ることでしたが、この諏訪族には朝廷から「不入、不倫の権」を与えられていた為に武力で攻めて支配下に入れる事が出来なく「由布姫の政略結婚」で解決して甲斐に確固たる地盤を築きました。
更に、藤原氏の後、皇族賜姓の清和源氏の宗家の「源の頼光」がもとより居た皇族賜姓青木氏を補佐する為に守護代として赴任しました。この時、武田氏はこの皇族賜姓青木氏との血縁をし家柄を高めました。又、この時に赴任してきた「清和源氏」とも血縁を結んで血筋を確実にしてきました。

つまり、この武田氏は皇族賜姓青木氏と皇族賜姓源氏の2つの第6位皇子の家柄の一族と血縁を結んだのです。

この時、この支流の源氏と成った武田氏は家紋を定めました。それが「菱紋」です。

さて、ここでこの「菱紋」の由来なのですが、次の通りなのです。
「菱紋」は織り文様を元としています。そして、この織り紋様は丁度菱の形に似ているところから菱紋と呼ばれる様になったのです。

初めから「菱」をデザインした訳では有りません。
元は、中国の皇帝などの高級官僚が用いていた紋様で、この紋様を「唐花」文様といわれます。

つまり、この「唐花」の文様が始まりで後に朝廷などの式典や襖や幔幕や屏風などの式典に用いる式具に使われるようになったものです。奈良朝頃から使われていて正倉院などの具に用いられています。

この唐花には大別すると菱紋と唐花紋に分けられ、この唐花は菱形の文様を4分割して模様を入れて花の形に見立てたもので、更にその花びらに細工する文様があります。

もう一つは菱形を4つに単純に分けたものです。色々な説がありますが武田菱はこのタイプです。
武田菱紋は一族で使い分けて6つもあります。上記の唐紋では有りません。

この文様にはこのような「縁起」を担いで140にもなるほど多く用いられています。

つまり、武田氏は上記した様に家柄を上げる事が出来て家紋を「権威ある家紋」にする必要から朝廷などで使われている唐花紋に似せて縁起を担ぎこの菱紋を用いたのです。当時は家紋は身分高い氏しか用いられないが、陸奥の小豪族であるので家紋はありませんでした。

武田氏の武田菱紋とこの天皇家が式典にて用いる唐花紋の菱紋とは少し違っています。
出所は同じ菱形です。

念の為に天皇家は奈良時代から平安末期までは確実に純血性を保つ為に近親結婚を繰り返していました。
また、当時は「氏家制度」のなか高い身分での血縁を繰り返していましたので、陸奥の小豪族出では絶対に無理です。現在と違い「氏家制度」という掟がありこの中での婚姻です。
平安期の朝廷では「八色の姓制度」という令を発して身分の統制を行いその律令制度の仕来りが残っている中でのことですので武田氏の様な一族は何らかの方法で身分を上げること以外にありません。(下記)

皇族賜姓青木氏と皇族賜姓源氏との血縁をしたとの事ですが、実は当時の当り前の習慣としてこの2つの氏のような行為の身分(朝臣)が訪れた場合は夜に一族の娘を差し出し子供を作り、その勢力傘下にはいり一族を護るという習慣がありました。
当然にこの2つの氏もいざ戦いとなるとその見返りとして参戦に駆けつけますし、年貢に近いものとして米や砂金などを献上する事に成っていました。

この方式が後の「荘園制」に発展していったのです。

生まれた子供が男子である場合は上位の2つの氏から認可を貰い、支流一族として名乗りを上げるのです。

この方式から血縁を結んだのです。時には娘がない場合は妻を差し出しても当然の行為としてこの習慣を維持したのです。現代では異常ですが、当時では当り前の慣習です。
この事を「戦地妻」と呼ばれていました。これでいざ戦いとなると血縁者が各地から駆けつけるのです。
例えば義経が強かったのは義経には家来達の戦地妻の子孫が義経の下に駆けつけて12000もの自らの軍隊を持ったことによります。(頼朝は北条氏始め坂東八平氏に頼り全く有りませんでした。)

武田氏はこの方式で甲斐源氏と成ったのです。参考に皇族賜姓青木氏と皇族賜姓源氏は家紋は「笹竜胆」紋です。源氏直系は「笹竜胆紋」ですから家紋が異なるので武田氏は足利氏などと源氏支流一族と言うことに成ります

天皇の後ろにあった文様は天皇家が式典に用いる唐花文様です。

武田氏はこの文様を真似て作ったもので花紋では有りません。当時天皇家が使う文様を勝手に使うことは出来ませんでした。(武田氏の6つの紋は模様のない菱形紋です。間違っている文書などが多い。)

何か質問が有りましたらお尋ねください。
No.377
阿多倍王と安部氏との関係(代理投稿)
377編集 追加
安部公良さん (家紋掲示板より代理投稿)


本籍 大分県の安部です。家紋は丸にミツウロコです。

阿多倍王→阿倍→安倍→安部と関係がありそうですが,
青木研究員の研究結果には 丸にミツウロコの家紋と

安部家の関係が記されていませんが 何か関係があれば
教えてください。

青木氏のサイトに良くお越し頂きました。

さっそくですが、回答します。

大隈の首魁阿多倍と安部氏との関係についてはすでに「阿多倍」のところでレポートしています。
尚、このサイトの家紋掲示板の家紋は青木氏に関わるものでありますので安部氏に付いては詳しく記述していません。

先ず、阿多倍の子孫としては次の主要な氏を発祥させています。
家紋掲示板のところでも概ね書いていますが、改めて記述します。

後漢の王の阿多倍の直接の子孫は坂上氏、大蔵氏、内蔵氏、永嶋氏、阿倍氏、です。

坂上氏は坂上田村麻呂として有名です。
(後に北陸東北北海道を勢力としていた「アテルイ」と言うロシア系のすごい豪傑がいました。)
この一族は北海道と陸奥の国あたりに当時は殆ど独立国として存在していました。
朝廷の圏域勢力が届かないところでした。これを征圧したのがこの人です。

大蔵氏は九州全土を征圧下にし、朝廷から「遠の朝廷」と呼ばれて「3権」の全権を任されて統治していました。この子孫が九州地方に分布しています。後に大蔵氏から永嶋氏に変名します。そして、この永嶋氏が更に子孫を広げます。
別府に「太宰大監」として代々務めます。

内蔵氏は朝廷の財務と内務を担っていましたが、この子孫は北陸東北地方に多く分布しています。
その理由はこの地域に領国を与えられて赴任していました。

帰化後はこの阿多倍一族は関西以西の32国を領していました。(全国66国)
この子孫はこの地域から離れて子孫を広げています。

そして、この内蔵氏の子孫から「阿倍」(あばい)が生まれます。この子孫は信濃から以北に子孫を広げました。
当初は「あばい」と読んでいました。この「あばい」から「阿部氏」(あべ)が生まれ、遂には安倍氏、が発祥しました。

「清和源氏」の頼信の末裔の義家がこの東北北陸地方に勢力を持っていた阿倍氏を藤原秀郷の一族の力を借りて打ち滅ぼします。その後に藤原秀郷の一族の平泉の藤原3代が栄えます。

この阿倍氏の歴史は奈良期には百済が新羅に攻められた時に朝廷はこの阿倍一族を差し向けて百済を助けに行きますが、しかし、この阿倍氏は北朝鮮の故郷に戻ってしまって大和国に戻って来ませんでした。

その様なこともあつてこの子孫の一部がこの地方に残り阿倍から安倍まで変名して行きます。

ところが、この阿倍氏には九州の大隈と熊本との境あたりに阿倍という地名があります。
多分ここら付近に阿多倍の館か何らかのものがあつたと考えられています
阿多倍は元はこの大隈の首魁として九州全土を指揮していましたが、そして、その一族は大宰府にて政治を執っていました。
この時の「阿多倍王」の名を採って「あばい」と呼んだのです。
阿倍氏では阿倍内麻呂や阿倍仲麻呂などの歴史上の人物が居ます。

同じ事が信濃の諏訪の手前にも「阿倍」と言う地名があります。
この「阿倍」はこの子孫が帰化後この信濃の開拓に移され「馬」外来馬を飼育してこの地方を開墾したのです。ですから、自分たちの首魁の「阿倍」という地名をつけたのだと考えます。
このことは日本書記にも出てきます。

この首魁の200万人の職能集団の姓は安部、馬部、鞍部、海部、磯部、綾部、服部、物部、陶部、土師部、鍛冶部など多くの「部」の付いた姓の後ろの漢字を「部」にして名乗りました。
この子孫は全て阿多倍が引き連れてきた中国系と北朝鮮系(高句麗)の渡来系人です。
これを「部制度」といいます。そして、これを朝廷は経済方式として「国造」(くにのみやつこ)官僚を置いて統制したのです。当時は「市場経済」ではなく「部経済」で全ての物は一度朝廷に治めてそこから市場に出したのです。一種の統制経済方式です。このシステムを担ったのがこの阿多倍配下の渡来系の人々です。

そして、その前の漢字でその仕事がわかるのです。
「阿倍」と「安部」とではその身分が違います。「倍」と「部」ですが、この「部」は上記した阿多倍の配下の技能職能集団のグループを呼びます。

阿多倍の配下の職能集団の安部氏は武具などを作る職能集団の氏でした。
この「部」の付いた姓の氏は九州全土を治めていた九州に多いのです。

例えば、陶部は中国地方全土を室町時代まで治めていた陶氏です。村上水軍はこの子孫です。

御家の安部氏がなぜ「丸に三つ鱗」紋であるかはその理由は専門外であるので判りません。
(三つ鱗紋は北条氏一族が使用したものです)

しかし、この安部氏は阿多倍の首魁が引き連れてきた渡来系人の職能集団の末裔である事は事実です。「安倍」と「安部」では違ってきますので御家の姓が元はこの「安倍」であつたかは判りません。お調べになるとよいと思います。

念の為に、このことに付いては「青木氏」の研究室のところでレポートしています。

No.379

Re: 阿多倍王と安部氏との関係(代理投稿)
早速のご回答ありがとうございます。
安部の由来が軍事に関係していたのではないかと
想像していましたが,武具の製作集団であったとのことで

腑に落ちました。家紋,氏と氏の全国分布からルーツを
探ってみたいと思います。
No.139
青木氏と血縁族(家紋)-(綜合1)
139編集 追加
青木氏は皇族賜姓青木氏と北家藤原秀郷流青木氏と第3の青木氏に大別されるが、中でも前者の2つの青木氏に付いてはどのような氏と血縁を結んでいたかを知る事は興味深い。
当時の子孫を遺そうとする死に物狂いの戦い具合が読めるのではないか。

先祖のこの努力を知る事が今ある自分の存在の証になるのではと考える。
先祖があって今の自分があると言う考えの前提になると思う。
時代は違うが、今の自分の生きようとする戦いも後世の子孫にとってはその生き様を平成の戦いとして興味深く思い、その意味でも遺す必要がある。そのためにも自分を確固たるものにする意味で先祖のことを知る必要があると思う。
そこでその資料として、このことを家紋というパラメータで検証してみる。
何故ならば、家紋には今にして歴史的な生き様が残っているからである。

皇族賜姓青木氏のことに付いては前レポートで詳しく述べてきたが、5家5流の青木氏は伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐に存在し、
又、その土地の豪族との血縁により伊勢を除く、佐々木氏系、土岐氏系、足利氏系、武田氏系青木氏が存在する。
更に、2次的な血縁による土岐氏の支流族、足利氏の支流族、武田氏の支流族との血縁による青木氏が存在する。

この足利氏と武田氏の2つは藤原秀郷の血縁族であるから、藤原秀郷流青木氏とは別に、分けるとすれば、三次的な血縁による青木氏が存在している。
つまり、直系5氏の青木氏、支流4氏の青木氏、分流3氏の青木氏、分派の青木氏と藤原秀郷氏との血縁族とあわせると全部で24氏になると見られる。

藤原秀郷流青木氏地元の下野と武蔵の国はもとより守護先14地(類する官職を入れると29地)に多くの子孫遺してきたが、まとめると直系1氏の青木氏、直流4氏、支流4氏、分派と合わせると161氏もある。
藤原秀郷の子孫は青木氏を入れての主要氏の進藤氏、長谷川氏、長沼氏、永嶋氏とあわせて20氏の直系と支流分流あわせると362氏となるが、このなかの121氏である。約1/3である。如何に大きい氏であったか物語る。

この121氏の青木氏の中の氏を家紋を中心にもう少し詳しく見てみる事にする。

家紋から分類すると、7000から8000の家紋のうち青木氏の家紋は家紋類にまとめると33家紋となる。
かなり限られた範囲で血縁を結び子孫を遺して行ったことが覗える。
これは、賜姓青木氏と云わず藤原秀郷流青木氏は何れも藤原氏の血筋を持ち天皇家にも通ずるその家柄から氏姓制度の社会体制の中では血縁族は必然的に限られてきた事による。

同じ家紋類の中でも、僅かな氏との血縁であり、その血縁は主要紋の範囲を大きく外れるような血縁は少ない。本家がせいぜい分家の範囲にとどまっている。
そして、後で記するが出て来る氏姓はよく聞くものである。

この様にその家紋の歴史的な由緒を見てみると面白いので、家紋の決まるまでの内容をも併記することにする。

では先ずは、家紋の多い順から記してみる。
家紋200選とは7000から8000といわれる氏の中で、日本有数な氏を選出したものである。

第一の家紋は「蔦紋」(つた)である。この内8氏ある。
蔦紋の種類は全体で85ある。
家紋200選にある。

第二の家紋は「菱紋」(ひし)である。この内8氏である。
菱紋の種類は101である。
家紋200選にある。

第三の家紋は「藤紋」(ふじ)である。この内6氏である。
藤紋の種類は144である。
家紋200選にある。

第四の家紋は「扇紋」(おおぎ)である。この内6氏である。
扇紋の種類は89である。
家紋200選にある。

第五の家紋は「木瓜」(もっこう)である。この内6氏である。
木瓜紋の種類は87である。
家紋200選にある。

第六の家紋は「星紋」(ほし)である。この内8氏である
星紋の種類は71である。
家紋200選にある。

第七の家紋は「片喰」(かたばみ)である。この内5氏である。
片喰紋の種類は125である。
家紋200選にある。

第八の家紋は「柏紋」(かしわ)である。この内5氏である。
柏紋の種類は132である。
家紋200選にある。

第九の家紋は「州浜紋」(すはま)である。この内4氏である。
州浜紋の種類は43である。
家紋200選にある。

第十の家紋は「抱き角紋」(だきつの)である。この内4氏である。
抱き角紋の種類は22である。
家紋200選にある。

第十一の家紋は「鷹の羽紋」(たかのは)である。4氏である。
鷹の羽紋の種類は70である。
家紋200選にある。

第十二の家紋は「笹紋」(ささもん)である。この内4氏である。
笹紋の種類は141である。
家紋200選にある。

続く。

No.141

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-1(綜合2)
第十三の家紋は「引き両紋」である。この内4氏である。
引き両紋の種類は38ある。
家紋200選にある。

第十四の家紋は「梅紋」である。この内3氏である。
梅紋の種類は127である。
家紋200選にある。

第十五の家紋は「目結紋」(めゆい)である。この内3氏である。
目結紋の種類は81ある。
家紋200選にある。

第十六の家紋は「茗荷紋」(みようが)である。この内3氏である。
茗荷紋の種類は61ある。
家紋200選にある。

第十七の家紋は「揚羽蝶紋」(あげはちょう)である。この内2氏である。
揚羽蝶紋の種類は97ある。
家紋200選にある。

第十八の家紋は「矢紋」である。この内2氏である。
矢紋の種類は38ある。
家紋200選にある。

第十九の家紋は「沢潟紋」(おもだか)である。この内3氏である。
沢潟紋の種類は82ある。
家紋200選にある。

第二十の家紋は「桔梗紋」(ききょう)である。この内2氏である。
桔梗紋の種類は126ある。
家紋200選にある。

第二一の家紋は「松紋」である。この内2氏である。
松紋の種類は114ある。
家紋200選にある。

第二二の家紋は「銀杏紋」である。この内2氏である。
銀杏の種類は79ある。
家紋200選にこの2氏の銀杏紋はない。

第二三の家紋は「柊紋」である。この内2氏である。
柊紋の種類は40ある。
家紋200選にこの2氏の柊紋は無い。

第二四の家紋は「桐紋」である。この内1氏である。
桐紋の種類は162ある。
家紋200選にある。

第二五の家紋は「鱗紋」である。この内1氏である。
鱗紋の種類は26ある。
家紋200選にある。

第二六の家紋は「橘紋」である。この内1氏である。
橘紋の種類は85ある。
家紋200選にある。

第二七の家紋は「釘抜き紋」である。この内1氏である。
釘抜き紋の種類は20ある。
家紋200選に無い。

第二八の家紋は「字紋」である。この内1氏である。
字紋の種類は391ある。
家紋200選に無い。

第二九の家紋は「立ち葵紋」である。この内1氏である。
立ち葵紋の種類は85ある。
家紋200選にこの1氏の紋は無い。

第三十の家紋は「梶の葉紋」である。この内1氏である。
梶の葉の種類は59ある。
家紋200選に無い。

第三一の家紋は「角紋」である。この内1氏である。
角紋の種類は79ある。
家紋200選に無い。

第三二の家紋は「升紋」である。この内1氏である。
升紋の種類は18ある。
家紋200選に無い。

第三三の家紋は「笹竜胆」である。この内1氏である。
笹竜胆の種類は47ある。
家紋200選にある。

以上の33の家紋種は青木氏に関する氏の家紋である。
これ等の家紋種に付いて注意するべき点は次の通りである。

同じ家紋種の中でも、極めて限られている。これ等に関係する氏を次のレポートに記することにするが、中には家紋200選の主要氏を示す家紋の中に無い氏もある。

同じ家紋種でも同じ氏であるとはいえない。特に、江戸期に入って各氏は挙ってよく似た紋あるいは同紋を使うという現象が起こった。
この時、幕府は禁止令を出したが守られなかった。
つまり、再び家柄を重視する社会現象が起こったのである。
同紋の一門であるから、必ずしも同氏とはいえないのである。
この家柄が家紋で判断出来る時代は鎌倉時代中期以前の氏姓制度の確立していた時代である。
このことは次のレポートで記する事にしている内容で判断が出来ると思う。
合わせて、家紋をなんらかの方法で記載したい。

121氏中で個別に家紋で見ると107となるが、14氏は類似紋を使用して同門となり、血縁を複合的に行われていることを示す一つのデータである。

家紋200選に無い氏を示すものは7家紋もあり、血縁がかなり時代の変化によって末支流の青木氏が誕生さしている事を示している。

続く。

No.142

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-2 (蔦紋)
日本の青木氏を家紋別に分けてみると33種になる事が前レポートで判断出来るが、この家紋種の一つ一つには又違う家紋になっていて、支流、分派などで変化しているのでこの内容を次に記述する。

先ず、最も多い家紋種は「蔦紋」である。この「蔦紋」には8種に家紋に分けられる。
蔦紋の種類

1は「蔦紋」の青木氏である。
この蔦紋は松平三木氏と松平石川氏の2氏の主要家紋である。

いくつかある松平氏の中でこの2氏の松平の一族はこの家紋を使っているが、この中で青木氏もその一族である。
この青木氏のルーツは賜姓青木氏か藤原秀郷流の青木氏かは確定は困難で判らない。
しかし、室町から江戸期の氏であるので、土地柄からは多くの血縁関係が行われているが、賜姓青木氏ではないと考えられる。藤原系の青木氏であろう。
鎌倉期になって守護職でなくなり、各に飛散し仕官した藤原秀郷流青木氏の流れの持つ青木氏と松平氏との婚姻関係での血縁と見られる。
江戸期に爆発的に子孫を多く残したこの青木氏が最も栄えた青木氏であるとは不思議である。

2は「陰蔦紋」の青木氏である。
この陰蔦紋は山本氏の家紋とされていて、矢張り藤原流の青木氏と思われるが、この青木氏が山本氏との婚姻関係でこの家紋を引き継いだと考えられる。
青木氏を名乗っている事は山本氏から嫁を迎えて、その子供になんらかの理由で山本氏の家紋を引き継がせたと判断される。
この山本氏には小高氏も繋がっていて、この小高氏も「陰蔦紋」を使用している。

3は「鬼蔦紋」の青木氏である。
この鬼蔦紋は小高氏の家紋とされている。藤原流青木氏が上記した様な理由でこの家紋を引き継いだと思われる。結局は青木氏と山本氏と小高氏との三つ巴の婚姻関係を結んだことになる。

4は「隅切り角に蔦紋」の青木氏がある。
この氏に付いては不詳でデーターを保持していないので不明である。

4は「八角に蔦紋」の青木氏がある。
この氏に付いても不詳でデーターを保持していないので不明である。

5は「五瓜の蔦紋」の青木氏がある。
この氏に付いても不詳でデーターを保持していないので不明である。

6は「二重瓜の蔦紋」の青木氏がある。
この氏に付いても不詳でデーターを保持していないので不明である。

7は「丸に蔦紋」の青木氏がある。
この青木氏は1の蔦紋の青木氏の支流となる青木氏である 同系列である。
1の青木氏から子孫が拡がったが家紋は丸がついているので、婿養子を取ったか、娘が跡目を継いだ事から生まれる一族である。

8は「丸に陰蔦紋」の青木氏がある。
この青木氏は2の陰蔦紋の青木氏の支流となる青木氏である。同系列である。
1の青木氏から子孫が拡がったが家紋は丸がついているので、婿養子を取ったか、娘が跡目を継いだ事から生まれる一族である。

以上が蔦紋に関わる青木氏である。この青木氏の元祖は藤原秀郷流の青木氏であると考えられる。

そもそも、この文様の蔦紋は蔦を図案化したものであるが、この蔦の持つかえでと同じに様に、紅葉する美しさに引かれての紋様化したものと思われ、昔は風呂敷などに唐草模様と同じく良く用いられた。

江戸時代に吉宗が好んで使用したので、松平氏が用いたものと云われている。
この為に、高安氏、富田、椎名氏らがこの紋を変化させて家紋化した。
この紋は葉が全縁状と鋸状との二つがある。
葉の紋と花つるの紋があり、それぞれ一葉、二葉、三葉の紋様と変化させいる。

これ等の紋をあわせて見ると85もある。
次に記している氏を見てみると大方は松平氏の縁者である。
この縁者の支流、分派などの子孫である。

この青木氏以外に家紋として使っている氏は数種の文献を調べると、松平形原氏、大岡氏、仁科氏、志賀氏、植木氏、愛知氏、根木氏などがあると文献にある。
特に、徳川氏に仕えた青木氏を広い出すと次の様になる。

1 松平土佐守に仕え後に徳川綱吉に仕えた青木忠英の藤原流青木氏がある。
この青木氏の主家の家紋は「丸に揚羽蝶」で「二葉蔓柏」と二門である。

2 甲府綱重に仕えた後に家宣に仕えた青木安明があり藤原秀郷流青木氏である。この一族は代々組頭などの役職に着いた。
主家の家紋は「丸に違い鷹羽に一文字」「揚羽蝶」「開き蛤」の三門がある。

3 家綱に仕えて代々組頭として仕えた青木正命があり藤原秀郷流青木氏がある。
主家の家紋は「丸に一文字」「稲丸の内一文字」「丸に揚羽蝶」の三門にがある。

4 綱吉に仕えて組頭として仕えた青木政之があり藤原秀郷流青木氏がある。
主家の家紋は「丸に蔦」「青木葉二枚」の二門がある。
この一族が間違いなくこの紋様の蔦紋の一門である。

5 綱吉に仕えて組頭として仕えた青木正胤があり藤原秀郷流青木氏がある。
主家の家紋は「丸に抱き柏」「梅鉢」の二門がある。

6 家斉に仕えて小普請としてつかえた青木長貴があるが藤原氏ではない。
主家の家紋は「丸に揚羽蝶」の一門である。

7 家康に仕えた青木義勝があり藤原秀郷流青木氏があるが、丹治氏の説もある。
主家の家紋は「丸に揚羽蝶」「三つ頭左巴」「三つ頭右巴」「筋船」「鎧蝶」の五門がある。

8 池田輝政に使え後に家康に仕えた青木重直があり藤原秀郷流青木氏があるが、丹治氏の説もある。
主家の家紋は『丸に鱗」「富士山」「三銀杏」の三門がある。

9 家康に仕えて秀忠に仕えた青木満定があり丹治氏青木氏がある。
主家の家紋は「花菱」「九曜」の二門がある。

10 綱吉に仕えた青木清光があり丹治氏或いは藤原秀郷青木氏がある。
主家の家紋は「丸に葛花」「州浜」「蔦」の三門がある。
この一族が間違いなくこの紋様の蔦紋の一門である。

11 綱吉に仕えた青木覚左衛門があり上野国館林市青木村の出身であることから藤原秀郷流青木氏である。
家紋は不明である。

以上11が徳川家に仕えた藤原秀郷流青木氏がある。
こりらの一族は代々徳川家に仕えた。
蔦紋を使用しているのは2つの青木氏であるが何れも秀郷流青木氏であるから
元は一族である。この一族の2つと残りの9氏のいずれかの青木氏が8氏の青木氏に広がった可能性がある。

資料では家紋種は6種に留まっているが、持ち合わせのデーターが無いため不明である。

前にも記したか゛直系1氏と直流4氏と支流4氏のあわせて九氏から末裔が広がっている。この末裔は116氏に及ぶ。
又、家紋が元は「蔦紋」の紋様でなくても、後に婚姻関係の内容で家紋掟に従い、元は蔦紋のない藤原秀郷流の青木氏である限り「蔦紋」に紋変えした事も考えられる。

蔦紋は吉宗から正式にその一門が家紋として用いたもので、綱吉あたりから色々なところで象徴紋として使っていた。
これらのほかに徳川家との関わりで葵紋の変化紋様を用いた藤原秀郷流青木氏もある。
鎌倉期の守護職の崩壊にて離散した藤原秀郷の青木一門は多くは松平家に仕官した事がこの11のパターンでも判る。
この蔦紋の家紋から見てみると既に25氏にも末裔が広がったことに成る。

これ等の家紋の文様は判る範囲で引用したので、暫くお待ちください。
準備が出来た際に添付の項を開いて参照してください。
又、現在、家紋掲載の欄にも記載する準備をしていますので暫くお待ちください。
続く。

No.143

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-3(菱紋)
次は「菱紋」の青木氏である。
この「菱紋」には8つの青木氏の家紋がある。

この菱に関する紋様は101の紋様がある。

家紋200選に選ばれている。

この紋は武田一門の代表紋である。
この一族の青木氏は以前のレポートで詳細を記しましたので除いて、菱紋としては101氏もあり、大方は武田系の一門の家紋であるが青木氏はこの内8氏である。

この青木氏に関するルーツは次の通りである。
賜姓青木氏と陸奥の国に赴任していた藤原秀郷の一族の血縁を受けた一族が甲斐に赴いて付き従い、その地で勢力を高めて豪族となり、賜姓青木氏と婚姻関係、更に清和源氏の頼光一族の跡目相続など行った。

この賜姓青木氏との武田氏との婚姻にて生まれた武田系青木氏が武田氏の多くの一門と婚姻を続け9氏の武田系青木氏が生まれた。この9氏の家紋が次の家紋になる。

先ず、第一の家紋は、「割菱紋」である。
この家紋の氏は栗原氏、岩出氏、岩手氏、駒井氏、今井氏等が使用している。
このいずれかとの氏との血縁による青木氏である。
この家紋は第四の家紋の武田氏系青木氏の支流の分家の青木氏が使用している。

第二の家紋は、武田氏支流の「三階菱」の氏との血縁による武田支流系青木氏である。

第三の家紋は、「丸に三階菱」の青木氏である。第二の分家に当る。つまり武田氏の支流の三階菱の青木氏の更に支流である。

この家紋は他に曽根氏、近山氏、斎藤氏、五島氏、早川氏、今福氏とのいずれかと血縁を結んだ青木氏が使用している。

第四の家紋は、「武田菱」である。本家の武田氏の家紋である。賜姓青木氏と血縁した最初の主家の青木氏である。

第五の家紋は、武田氏支流の「剣花菱」である。この家紋は溝口氏と血縁を結んだ青木氏の支流紋である。

第六の家紋は、第五番目の青木氏の支流の支流「丸に剣花菱」である。この家紋は溝口氏の分家と血縁を結んだ青木氏の支流紋である。

第七の家紋は、武田氏の支流の「松皮菱」である。この家紋はこの武田氏と血縁を結んだ末裔青木氏の支流となる。

第八の家紋は、武田氏の支流の「丸に一つ目菱」である。この家紋はこの支流武田氏と血縁を結んだ末裔青木氏の支流となる。

第九の家紋は、「四方瓜に重ね菱」の末裔支流青木氏である。

この家紋の紋様は織物の模様から作られた家紋である。
池などに浮かぶ食物の菱の形に似ているので菱と呼ばれた。

この菱紋と、中国から伝わった花唐紋様の菱紋様との二つがある。

この花菱紋と武田氏系一族などの食物の菱の家紋とは別門で大内氏の代表紋であるので、二つに分けられる。
しかし、武田氏の一門にもこの花菱紋を紋様を家紋とする一族がある。大内氏との血縁による武田氏系大内氏一族である。

武田氏系青木氏の主家を始めとして分家と支流一門の家紋である。
多くの武田氏の一族一門と武田氏系青木氏の主家とその支流一族一門との血族関係の家紋である。

武田菱紋には丸付き紋は家紋の菱紋を変紋することで支流紋としているので原則としてない。
あるとすると其れは明治以降の第3の青木氏の家紋類と成る。

この賜姓青木氏の血筋を持つ家柄であるので、この青木氏等は武田氏一門との血縁だけで血筋を保ったものである。

各家紋は家紋掲示板に掲載するので参照して下さい。

菱紋の代表紋
続く。

No.144

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-4(藤紋)
第三番目は「藤紋」である。
この藤紋は144もの紋様があり、この内青木氏の紋様は6紋である。
当然、この紋用は家紋200選にもあり、最も巨大一族である藤原氏の紋様である。
しかし、この紋様は藤原氏の家紋とされているが、現実に藤原一門の一族がこの紋様を使用したかというとそうではないのである。
と云うのもこの紋様には藤原一族として嫌う事があり、次第に家紋として使わなくなった。その嫌う事とは、藤原一門は「下がり藤」紋であるのだが。「下がる」という意味を嫌ったのである。一門の繁栄に陰をさすという事である。

以前にも記したが藤原一門には四家の家がある。最も栄えた北家と京家、式家、南家がある。夫々が勢力争いをして、結局、北家が生残る。
この北家の内、藤原秀郷の一門がこの下がり藤紋を使用した。
公家の中でも元来武家的な性格の持つた秀郷の一門がこの紋を使用したのである。

この四家の藤原氏は多くの支流子孫を遺したが、この地方に分散した子孫はこの藤紋を変化させた家紋を作り、144紋までになった。
特に江戸時代にはこの末梢子孫が名乗りを挙げて藤原氏を名乗って家紋を藤紋にした経緯がある。

元は「下がり藤紋」が後に述べるが歴史的には原型とされる。

次に藤原秀郷流青木氏の家紋を広い出すと次の様になる。
藤原氏の青木氏には直系1氏、直流4氏、支流4氏の9氏がある。ここから分派分流して116氏にもなったのである。

第一に「下がり藤紋」である。
云わずと知れた藤原秀郷直系一族の家紋である。
直系の藤原秀郷第3子の千国流の直系青木氏である。
藤原秀郷の青木氏の宗家である。武蔵の国の入間付近を居住地域していた。
この青木氏たちは武蔵の国を入間を中心に周囲を取り囲む様に各青木氏が守っていたのである。この中心にいたのが直系の青木氏である。
元来、この藤原秀郷流青木氏の支流は揚羽蝶と副紋などの家紋を使っているのである。
この家紋を使っている氏としては北家の代表の九条氏である。

第二には「上り藤紋」である。
秀郷流直系青木氏流れを持つ一門でもこの「下がり紋」を嫌い途中で「上り藤紋」に家紋を変えた一族が居た。

第三には「上り藤上一紋」である。
第二の青木氏の一族が官職で地方に赴任して移動した一族が子孫を繁栄させて後に家紋を判別させるために「上一」の紋様を追加したのである。
藤原秀郷直系の青木氏の分家となる。

第四には「下がり藤に州浜」である。
この一族は後に「州浜紋」を持つ陸奥の小田氏との血縁関係を持つ藤原秀郷流青木氏である。
この小田氏は元は陸奥の国の守護をしていた藤原秀郷の一族の血筋を引く一門である。
後に、州浜紋の頃で述べるが、更にこの小田氏の家紋の「州浜紋」を持つ藤原秀郷流の青木氏も存在するのである。
藤紋系の州浜青木氏と州浜紋系の青木氏とが存在することに成る。
元は藤原一門である。

第五には「対四つ藤紋」である。
第三の青木氏と同様に、地方に赴任して子孫を繁栄させて一門を構え、家紋を変化させたものであり、直系青木氏の分家支流紋である。

第六には「加藤藤」がある。
これは秀吉の家来の加藤清正の家紋である。
藤原秀郷流の血筋を持つと名乗った加藤清正が用いた家紋であるが、この家紋を持つ青木氏とは藤原秀郷流青木氏の一族の支流分流は不明であるがこの加藤氏の一族との血縁にて「加藤藤紋」を家紋掟の要領にてこの紋を採用したものと考えられる。

藤原秀郷の直系の青木氏には「下がり藤紋」を引き継いだ青木氏と、平家の家紋の「揚羽蝶紋」を引き継いだ直系青木氏がある。
この後者の青木氏は、千国の嫡男の「下がり藤紋」に対して、分家をした次男の者が母方の家紋を引き継いだ「揚羽蝶紋」の家紋としている。
特に、この同じ直系でも「下がり藤紋」の青木氏に比べて、この揚羽蝶紋の藤原秀郷流の青木氏の一族の支流が繁栄した傾向がある。

以上六家紋の氏が藤原秀郷流直系青木氏の子孫である。

この「藤紋」の謂れは次のとおりである。

この紋様は、藤の葉と花を図案化したものであるが、平安朝に特に好まれた花でこの藤の花を万葉歌に読まれている。
丁度、醍醐天皇の時代にあたる頃で、このブームとなつた時期に藤原氏はこの藤花紋様を好んで紋様化して用いていた。そこから、藤原氏の家紋化したものである。
この様な経緯から全ての藤原氏の家紋となり得なかったもので、歌の好きな公家の藤原氏系の九条家とか二条家が使用したのである。

藤原秀郷はその昇進の経緯から、特にこの公家藤原氏の一門である事を誇示する意味からも、藤紋を使用し、九条家の流れを汲む秀郷としては「下がり藤紋」を強固に用いたものである。

特にこの一族の近藤氏、後藤氏、斎藤氏、加藤氏などがこの紋様を用いた。

前記したようにこの紋様は江戸時代には爆発的に用いられた。
藤紋には、花の房を変化させて家紋を作る方式と、藤の形とで変化させる方式と他ノ家紋を加えて家紋とする3つの方式がある。

藤原秀郷流青木氏の主要紋の「下がり藤紋」である。
(左隅をクリックしてください。)
青木氏の6つの「下がり藤紋」は家紋掲示板に記載します。
続く。

No.154

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-5(扇紋)
第4番目は「扇紋」である。
この紋様は89紋あり、この内青木氏は6紋である。
家紋200選の一つである。
この家紋は各地に松平氏があるがこの内、松平深溝氏の綜紋である。
この血縁を受けた一族である。

この6紋は次ぎの通りである。
「扇紋」、分家の「丸に扇紋」、「丸に違い扇紋」、「丸に並び扇」、
「隅切り角に扇紋」、「丸に日の丸扇」
以上が青木氏の扇一族の家紋である。

比較的に新しい一族である。
この紋様は末広の意味として用いられていて「子孫が発展」の縁起を期待しての家紋である。

そして、開き扇と閉じ扇がある。
扇紋は扇の骨の数によって氏を見分けられるようになっている。
ちなみにこの家紋を使用しているのは、元々は松平氏の前には佐竹氏が最初である。5本骨と月を組み合わせたもので家紋としていた。
松平氏は3、5、7本骨で、雨宮氏は10本骨、飯室氏は5本骨の黒餅
である。

この青木氏は何れの青木氏か確定できない。
皇族賜姓青木氏か藤原秀郷流青木氏かは資料による検証でも鎌倉以前の出自が不明であったとしても矛盾がある。
松平一門であるのであるが、戦国時代の皇族賜姓青木氏(5家5流系青木氏を含む)動向と主要藤原氏の鎌倉時代の衰退によりその仕官先は大方は徳川家系の藩に仕官していること、各地の松平藩系との血縁を結んでいることから藤原秀郷流青木氏の116氏の支流一族の一つとみられる。

6氏の扇紋の関係についても不確定である。
ただ家紋掟から見て扇紋と丸に扇紋は親族関係である。

以上の家紋6つは家紋掲示板に掲載しますので参照して下さい。

主要の扇紋は次ぎの紋です。
左隅をクリックしてください。

No.155

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-6(木瓜紋)
第5番目は木瓜紋である。
この木瓜紋は全部で87の紋様がある。
家紋200選にある家紋である。

この木瓜紋の青木氏の家紋は87の内6紋である。
この家紋は次ぎのとおりである。
第1は木瓜紋である。
第2は丸に木瓜紋である。第1の木瓜紋の分家である。
第3は横木瓜紋である。
第4は丸に横木瓜紋である。第3の横木瓜紋の分家である。
第5は糸輪に陰木瓜である。
第6は五つ木瓜である。
以上が青木氏の使用している家紋である。

第1、第2の木瓜紋と丸に木瓜紋は次ぎの氏が使用している。
日下部氏、伴氏、紀氏である
この3つの氏は共に奈良朝期の有力部族である。
新しいところでは関口氏、平賀氏、野村氏が使用している。

第3、第4の横木瓜と丸に横木瓜は次の氏が使用している。
田中氏、大原氏が使用している。
この家紋は木瓜紋を横に伸ばしたものである。唐花木瓜とも言う
此れに対して竪木瓜がある。

第5の糸輪に陰木瓜は次ぎの氏が使用している。
竹内氏、岸氏、堀氏、馬渕氏が使用している。

第6は五つ葉の木瓜紋である。
通称織田木瓜とも言われている。
織田氏が使用していたのであるが、普通の木瓜紋は4つの葉である。

この木瓜紋は通常ボケの花の紋様をデザインしたものであると云われているが別の説もある。
胡瓜の切り口とも言われている説もある。

一般的には天皇の座にある御簾の部分に使用されているのを紋様化したものと考えられている。

このことから奈良時代に色々なもの例えば車紋に使用されていたもので、天皇家の権威紋や象徴紋と皇族賜姓青木氏の笹竜胆紋や他の紋様と同様に奈良末期から平安初期に家紋扱いとして用いられ始めた。

一般的には多くの家紋は保元、平治の乱以降の公家や上位の武家が使用し始めたのである。
この意味では天智天皇の皇子(施基皇子)から始まった皇族賜姓青木氏の伊勢青木氏の綜紋(5家5流の青木氏)は天皇家に次いで早い家紋使用となる。
矢張り賜姓であるので当然とも考えられるが、どちらかと云うとこの5家5流の青木氏の綜紋を経緯に皇位系にあるの豪族は家柄を誇示し権威を強調する目的からこぞって使用し始めたと見る。

その証拠に第5番目の天皇の賜姓青木氏の後の天皇は自分の母の実家の阿多倍の高尊王の京平氏を賜姓した桓武天皇であり、この頃から家紋や象徴紋や権威紋など律令制度の完成で次々と定められた経緯がある。

参考 
(殆どの家紋の文献はこの時期からの資料をもとに編集されているが、この時期前の家紋の使用の研究資料は少ない。
しかし、この時期前の天皇から賜姓を受けた氏は慣例からこの賜姓を明示することから3つのことを行うのが義務である。
この賜姓族は氏を示す綜紋として保持していたのである。
司馬遼太郎氏等の歴史家がこの史実を表している。

この時期前に受けた賜姓族(数は少ないが)例えば青木氏や藤原氏や大蔵氏や内蔵氏や坂上氏等の高位の氏は賜姓を示す綜紋(ソフト)と、そのステイタスを証拠を示す拝領の仏像等(ハード)と氏神と菩提寺の神社仏閣の建立の3義務が伴うのである。
それだけに賜姓を受けることはそれだけの力を保持している者に下されるのである。この事に付いては笹竜胆の家紋のところで詳細をレポートする。)

又、天智天武の時代から天皇家の天皇の紋や天皇家の家紋や権威紋や象徴紋や車紋等多く定められた。これは後漢の阿多倍王の一族の影響が働いたのでは考えるし、この律令政治と制度の完成はこの一族が朝廷に入り、中国の漢の国の知識を導入したことから始まっているのである。

(参考 阿多倍は天皇家との血縁関係を持ち、その子供は大蔵氏、内蔵氏、坂上氏の賜姓を受けて官僚のトップに立った事と朝廷の3つの官職の3蔵内の2蔵と軍事とはこの3人の者が担ったのである。3蔵とは大蔵と内蔵と斎蔵でその役職から賜姓を受けた。斎蔵は藤原氏)

桓武天皇から子供の嵯峨天皇からは賜姓を元に戻して青木氏を変名して源氏として戻した。そして、綜紋を天皇から与えられた青木氏の綜紋と同じ笹竜胆紋とした。その後の16代の源氏は笹竜胆を綜紋としたのである。
そして、元の青木氏の姓と綜紋を皇族のみが使う氏姓の紋として嵯峨期に禁令を発したのである。

その後、阿多倍の子孫の京平氏は摂関家の藤原氏を押さえて5代で清盛の太政大臣に上り詰めたのであり、この京平氏が車紋などに紋様を多く使い始めたことから爆発的に拡がったことが資料では確認出来るのである。

従って、家紋の使用の始まりは青木の綜紋から起こり現代の8000とも言われる家紋数ともなつたのである。

余談であるが、この家紋と同時にステイタスとしての仏像を持つ事も皇位の者の象徴と権威を示す手段となつたのである。
皇族賜姓青木氏にはこの仏像を保持している。5家5流の初代の伊勢青木氏宗家本家が現在も保持している。

(後日このレポートを研究室にこの仏像の写真と共に掲載します。賜姓青木氏系24氏のステイタスです。)

この木瓜紋は24氏のうちの武田氏系、足利氏系、土岐氏系の3氏のうちのどれの家紋かということであるが確定は困難である。
しかし、家紋の分布と、武田氏と足利氏とは藤原秀郷系であるのでこの氏にはこの家紋は余り見られないこと、朝倉氏が使用していることの3つのことから美濃国の土岐氏系青木氏の支流紋であると見て間違いはない。

現にこの木瓜紋は朝倉氏や織田氏が使用していることが有名である。

この家紋の多くは真ん中に唐花を入れるのが普通である。この理由は古来の中国の官僚の服の模様に使用したとされているためでこの唐花紋を使うのである。
それと竪と横の形、外側の葉の枚数の数で変化させる。葉数は5から8枚である。
木瓜紋以外の4家紋は比較的新しい氏の紋様で下克上と戦国時代以降に生まれた氏の家紋である。
従って、第5と第6の紋様の青木氏の出自は確定は難しい。
第1から第4までの青木氏の紋様は上記した古代氏の紋様であるので皇族系と賜姓青木氏系の出自である。(詳細は皇族賜姓青木氏を参照)

嵯峨天皇期に定められた青木姓の禁令の適用外の氏として源氏を含む皇族賜姓青木氏は直系の5家5流の家紋は笹竜胆の家紋である。この皇族賜姓青木の血筋を受けた武田氏系青木氏、足利氏系青木氏、土岐氏系青木氏の3系と、3系の支流青木一族24氏の持つ家紋の一つである。

時代は戦国時代になるが、信長に滅ぼされた朝倉氏は村上源氏の支流とされているので五つ木瓜紋は青木氏系の家紋と一致する。

6つの青木氏の木瓜紋様の代表紋を次ぎ左隅の家紋である。
6つの青木氏の家紋は家紋掲示板に掲載しますので見てください。

左隅をクリックすると拡大します。

No.156

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-7(星紋)
第6番目の家紋は「星紋」である。

この紋は全部で71家紋あり、この内青木氏に関係する紋様は6つである。
この家紋は家紋200選に選択されている。つまり、歴史ある有力な氏である。
この氏の8つの家紋は次ぎの通りである。
第1には九曜紋である。
第2には丸に九曜紋である。この家紋は第1の分家に当ることになる。
第3には三ツ星紋である
第4には丸に三つ星紋である。この家紋は三つ星紋の氏の分家筋に当る一族である。
第5には三つ星に一つ引き紋である。
第6には亀甲に三つ星紋である。
第7には扇に三ツ星紋である。
第8には長門三ツ星門である。
以上が青木氏の家紋である。

この8の家紋は2つの氏に分けられる。
一つ目は九曜紋と二つ目は三つ星紋である。
九曜紋は家紋掟により本家筋と分家の家紋と言うことになる。

丸に三つ星紋は三つ星紋の分家筋に当る一族である。
そして、この一族と足利系の支流一族との血縁関係を持ち、何らかの理由(嫡子が無いか、養子縁組か、戦略的な跡目を受けたか等)にて家紋を変えざるを得ない仕儀に落ち至ることになったために家紋が変わったと見られる。
氏家制度では男系相続であり、厳格な家紋掟があり、この結果、元の家紋を引き継ぐ事が出来なかったもので、現在と違い寿命も50と短く、又嫡子が生まれても生存率が低く、戦死や、嫡子に値しない場合などで抹殺されるなど死することが多かった。このため家を維持するという事は最大の命題で本家や宗家にとっては大変なことであつた。

男子が生まれても成人時に一族郎党をまとめていく能力が無い場合は多くは排除されると言うことが起こった。その者に依ってその一族全体の運命が決まるのであり、自分たちの運命も左右する事であるからである。
この歴史的な有名な史実は数え切れない程にある。

参考に日本だけではなく蒙古などはもっとはっきりしていたのである。
蒙古ような集団指導体制のなかでは首長の子供と云えど掟で殺されるのである。
義経のジンギスカン説はこの掟によりその後に後継者がなくなり、天から降りてきた者が一団の指導者となったと記されている。蒙古では其れまでの指導者の系譜が明確であるが、この時だけは天からと記されているこの時期が義経の生きた1192年ごろの出来事であり、またこの指導者の紋所は殆ど笹竜胆と酷似しているのである。
その者は武術に優れ戦いに長けいつも軍団の先頭にたって戦いに臨んだとある。しかも、この者にはいつも二人の家来がつき従っていたとある。

話は戻して
第1の九曜紋の氏には土屋氏、松平氏、相馬氏、戸田氏、松平忠興等の一族がこの紋所を使用していた。
この九曜紋の分家である第2には戸沢氏、吉川氏、細川氏、伊藤氏、千葉氏等である。
青木氏ではこの九曜紋は武田系青木氏の支流一族が使用していた紋所である。
従って、第1と第2は武田系支流青木氏である。
皇族賜姓青木氏の血筋と源氏の血筋を引く武田系青木氏である。
この一族一団は後の徳川時代にも大いに出世する。

第3の丸に三つ星には児島氏がある。

第5の三つ星に一つ引き紋には渡辺氏がある。
この星紋は家紋200選にもあるが、歴史的には新しい家紋となるが、
この紋所としては一字紋つきで毛利系、とその一族吉川氏の使用紋である。
この毛利氏などの一族と青木氏との関係はない。

判断は難しいが、中国地方に多い家紋であるので平家の一門と見られるがこの平氏からは規則を遵守した平家には青木氏は出ていない。
とすると、岡山や広島に藤原秀郷一族の者が朝廷の官職で赴任し、それに動向した護衛役の青木氏の史実があるのでこの子孫を広げたと推測する。
この青木氏が上記した跡目の問題で家紋を変えざるを得なかった結果、縁組でこの家紋の使用となつたものと思われる。

つまり、この星紋様は前四つは武田氏系青木氏と、後ろ四つは藤原秀郷青木氏の家紋と見られる。

この星紋の紋様の発祥はもとより北斗七星への信仰から生まれた紋様である。

星門の主要な紋所を次ぎに掲示します。詳細は家紋掲示板に掲載します。
左隅をクリックすると拡大します。

No.157

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-8(片喰紋)
片喰紋は125の紋様があります。
この内青木氏の片喰紋は6紋です。
この氏は大変に多い氏がこの紋様を使っています。
家紋200選にもある氏です。

この青木氏の紋用は次ぎの通りです。
第1は片喰紋です。
第2は丸に片喰紋です。この家紋は第1の分家に当ります。
第3は隅入り平角に片喰紋です。

第4は丸に剣片喰紋です。
第5五瓜の剣片喰紋です。この家紋は第4と同じ片喰紋のなかの剣片喰の一族です。
第6は子持ち亀甲剣片喰紋です。この家紋も第4と第5の剣片喰一族です。


以上が青木氏の家紋です。
参考のためにこの紋様を家紋としている氏は次ぎの通りです。
この氏は本家の片喰一族と剣片喰一族の各氏です。

島津氏、堀越氏、岡田氏、本田氏、鳥山氏、太田氏、山田氏、武田氏、早川氏、竹本氏、河村氏、長谷川氏、中村氏、宮本氏、中原氏、中沢氏

これ等の氏は主に藤原秀郷一族の流れを組む支流一族と考えられます。
特にこの長谷川氏と中沢氏は藤原秀郷の主要5氏の一つです。

更に剣片喰一族はの宗家は酒井氏の代表家紋である。
第4と第5と第6の剣片喰紋の一族は江戸時代に大大名であつたこの酒井氏一族との婚姻により家紋を剣片喰紋としたものである。

藤原秀郷一族の護衛役の藤原秀郷流青木氏の支流子孫が家系の問題(男系の断絶問題等)で止む無く家系を維持する目的から家紋を変えざるを得なかったものと考えられる。
その後、木瓜紋の氏と又亀甲紋の氏と血縁関係を持ち、矢張り家系問題で家紋を剣片喰紋に木瓜と亀甲紋を加えて家紋として維持してきた一族である。

剣片喰一族は藤原秀郷一族として武蔵の国入間郡を中心に関東一円を取り巻くように護衛親衛隊役として守っていた。
特に、この一族関東の八王子方面を役務として其処に一族は根を降ろしていた。
武蔵の国の入間に近いほど直系1氏、直流4氏、支流4氏の本家筋が二重、三重に取り囲む態型を採っている。

それら9氏の116氏に及んだ支流一族は藤原秀郷の本家の朝廷の赴任先24地に赴くの連れて護衛役として付き従った。
そして、赴任地でその一族の者と土地の氏との婚姻を持ち土地に根付き子孫を遺してきたものである。
五瓜紋と子持ち亀甲紋の剣片喰紋の氏はこの根付き組み一族である。

第5の五瓜の剣片喰は阿波国に赴いた藤原秀郷の総本家一族の宗政と時政の親子の赴任に伴い護衛役として付き従った藤原秀郷の支流剣片喰一族の者の子孫である。この一族剣片喰一族の分家の丸に剣片喰一族と縁者関係にある。

丸に剣片喰一族は丸に片喰一族の本家として八王子に残ったもので五瓜の剣片喰一族の本家筋に当る。

片喰一族の藤原秀郷の一族の同門の片喰紋を使用する中沢氏系との血縁関係を持った一族である。
第2の丸に片喰紋の一族はこの分家筋に当る氏である。

同じく第3の隅入り平角に片喰紋もこの中沢氏との支流血縁族である。

この片喰紋は上記の通り本家片喰一門と支流剣片喰一門の2つの流れになる。
片喰族と剣片喰族の藤原秀郷流青木氏である。

前者は中沢氏一族との血縁族、後者は酒井氏一族との血縁族である。
中沢氏と酒井氏は両者とも室町期から江戸期までの豪族である。

この片喰紋は鳩酸草とも云う。
この紋様は平安期から使用されている紋様である。
この紋様は三つ葉が基本である。葉の数は1から7まである。他の紋様と組み合わせて家紋としている紋様としては最も多いものである。
公家も使用した。
大名では160もの者がこの紋所を使用した。
桐紋などの植物紋としては最も流行した。

この家紋に付いては家紋掲示板に記載します。参照して下さい。

主要紋を左隅に載せます。
左隅をクリックすると拡大します。

No.158

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-9(柏紋)
第8番目の家紋の氏は柏紋である。
この家紋は132もの紋様があり、紋様としては大きい方である。
この内青木氏の紋様の数は6家紋である。
この家紋は家紋200選に挙げられている。
有力氏である。
この青木氏の家紋は次ぎの通りである。

第1は三つ柏である。
第2は丸に三つ柏である。第1の柏紋の分家である。
第3は牧野柏である。牧野氏の家紋である。第2の紋と良く似ているが丸の太さが異なる。
第4は違い柏である。
第5は丸に蔓柏である。
第6は二つ葉蔓柏である。

これ等の氏には第1と第2には山内氏と五味氏である。
青木氏はこのいずれかとの血縁を持ち家系問題上で家紋の変紋を長い歴史の間に実行せざるを得なかったものと思われる。

第3は当然牧野氏である。
青木氏がこの牧野氏との血縁を持ち家系問題上で家紋を変紋を長い歴史の間に同様に実行せざる得なかったものと思われる。

第4は星野氏、倉橋氏、嘉納氏、横地氏、中川氏である。
この青木氏はこの何れかの氏との血縁を持ち家系問題上で家紋を変紋を長い歴史の間に此れも同様に実行せざるを得なかったものと思われる。

第5は長田氏と山本氏である。第2の丸に柏紋の青木氏が蔓紋の氏との血縁にて家系問題上で変紋を実行せざるを得ずこの青木氏の氏系譜を明らかにするために二つの家紋の組み合わせの家紋とし、長い歴史の中で起こった現象である。

第6は単独の青木氏である。
この氏は青木氏一族の神職をして二つ葉の蔓柏紋を初期の段階で定めて跡目等の問題もなく男系で維持してきた一族で、この家紋を使用している他の氏は無い。
青木氏のみである。しかし5家5流系のどの一族かは不明である。

紋様の所以は次ぎの通りである。
勿論この紋様は柏の葉を図案化したものである。
柏は奈良時代から旅に出た時はこの柏の葉に飯を盛食べたとされるものである。所謂食器の代わりにつかったもので、万葉集にも多く載せられているものである。
有名なところでは中大兄皇子(大海人皇子)(天智と天武)と皇位争いで戦い和歌山の海南市藤白峠で死んだ有間皇子のこの時に読んだ歌がある。
 家に居れば飯盛るしいも草枕、旅にしあればしいの葉に盛る。(しい:柏)
解釈
柏の葉は関東と関西では異なり、関西ではこの柏の葉の役目をする葉は丸く掌くらいの大きさの葉で表面がつるとしているが、おおきくて幅広で細長い葉の柏の葉ではない。
しかし、関西では餅や握り飯を包む葉は”かしわ”と呼んで用いられている。
矢張り神聖な葉として今でも3月や5月の祝い事には扱われている。

ここで云う”椎の葉”は親指くらいの葉であり飯(いい)は盛れない。しかし、”道端にある椎の木を読み込んでの旅の情景”と”いい(飯)”と”しい(椎)”と”柏”とを架けて神聖な木を用いて心の歌の情景を詠んだものである。
歌心は”私は決して皇位を望んでいない。神聖な心である”意を含めているのである。

この意味から柏の葉は神聖なものとして神木として扱われていたので、朝廷の神職に関わる氏の家紋は柏紋としたものである。

この氏には朝廷神官職の官僚の吉田氏と、熱田神宮の千秋氏と、宗像神宮の宗像氏と、備前の吉備津神宮の大守氏がある。

他に皇族賜姓族として青木氏に関わる神職として青木氏と佐々木氏が有名である。
この青木氏や佐々木氏の氏は神職は朝廷関係の神職である。
研究室にもレポートしたが、この系統の青木氏が上記の神職関係の血縁から家系上の問題で三つ柏紋に家紋を変紋しものとみられる。
従って、この青木氏は皇族賜姓青木氏の血筋を持つ5家5流の支流青木氏の青木氏である。

当時は皇族賜姓青木氏と藤原氏との高位の氏はは専門に一族だけを祭る菩提寺と合わせて、神社をも持っていた。
この神社を自らの一族が神官として司っていた。そして、この神社は5家5流の夫々の神社があった。
藤原氏は佐々木氏の神官が多い。今でも佐々木氏の神官が藤原氏を祭る神社の神官として存在する。
藤原氏の神職が何で源氏一族と青木氏一族の血筋を持つ佐々木氏であるかは別レポートとする。

この氏らの家紋は三つ葉柏を基本としている。
上記のようにこの紋所は神職の紋所として使用されていた。しかし、後に江戸期に入って葉数や形や他の家紋との複合紋として使用されるようになったのである。
葉の数は9つまである。
そしてこの家紋を使用した氏は殆ど132氏はこの上記の神職との血縁関係からこの家紋を用いたものである。

NHKの大河ドラマの山之内氏もこの千秋氏との血縁関係からこの家紋を出世の時に用いたものである。
戦国時代をのし上がった多く者は江戸時代に家紋を定める必要から一族は自己の古い言い伝えなどから家紋を定めたものであり、その紋様に近い家紋を作った。
主要で有力な家紋200選以上の家紋はこの室町から江戸に架けての家紋である。特に江戸期には下級武士と御家人が多く定めた。
この原因の一つは江戸幕府はこれ等の武士に宗派を定めることを政治上から勧めたのである。
特に最も少なく厳格にその階級派を守ってきた浄土宗には江戸幕府は御家人の武士階級には力を入れた。
そのことから影響を受ける事で家紋を定める事にて家系の維持と尊重を推奨し政治の安定を目指したものである。

この柏紋の青木氏は5家5流の青木氏の血統を持つ支流青木氏である。
この青木氏の中には二つ葉に蔓柏紋の青木氏があるのはこの神職氏の一統である。

この様にこれらの6つの家紋の青木氏は青木氏の神社の神官職の一族で血縁関係も他の氏の神職との間で行われて子孫を拡大した。

ここの6つの青木氏の家紋は家紋掲示板に掲載する。
三つ柏の主要紋は次ぎに掲げます。
左隅をクリックすると拡大します。

No.166

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-10(州浜紋)
第9番目の紋様は州浜紋である。
この州浜紋には33の紋様がある。
この内青木氏に関係する紋様は5紋である。
家紋200選にも選定されている有名な家紋である。

この青木氏に関係する家紋は次ぎの通りである。
1番目は州浜紋である。
2番目は丸に州浜紋である。一番目の分家筋に当る。
3番目は三つ盛州浜紋である。
4番目は三つ盛蔭州浜紋である。
5番目は5瓜の州浜紋である。

5番目を除いて睦奥の小田氏一族の家紋である。

陸奥小田氏一族の流れを汲む青木一族である。

この青木一族は当然に陸奥の小田氏であるので、藤原秀郷一族の流れを持つ小田氏である。
この青木氏は陸奥に赴いた藤原秀郷の一門の守護に付き従い護衛役として入り定住し、土地の小田氏との血縁にてこの地に根づいた藤原秀郷の兼光系青木氏である。

兼光系青木氏は一度秀郷から18代目に男系の跡目がなく総宗本家の藤原秀郷の家から行久なる者が青木家の跡目を相続している。
上位の跡目相続であるので姓氏など変化しない事になるので青木氏は引き続き継承されている。これは藤原秀郷家にとっては藤原主要5氏のうちの青木氏であり、護衛役を担っている青木氏を潰すわけには行かず上位の総宗本家から跡目を入れたのである。

この陸奥には秀郷の総宗本家からの藤原兼光が守護として赴いている。

当然、この兼光は秀郷から4代目の兼光であり、上記した3回目の18代目の行久による跡目と、第2回目の兼光の跡目があり、初代の秀郷の3番目の子の千国から出た青木氏が鎌倉時代までこの3回の跡目が入っているのである。

初代の青木氏の系統は4、5代目程度までは男系の跡目を引き継いだが、兼光の所で跡目を総宗本家から入れて建て直し、兼光系青木氏が続いた。
其れまでは直系の千国系青木氏である。3回目の行久も兼光の子孫であるので
兼光系青木氏である。

藤原秀郷流青木氏は兼光系からのみ出ていないことになる。

この4代目の兼光が陸奥に赴いたときに自らの子孫の護衛役の青木氏を引き連れて陸奥に赴いたのである。

この兼光系直流の青木氏がこの陸奥に定住し土地の豪族の州浜紋を持つ小田氏と婚姻をし男系の継承問題で小田氏より跡目を入れて止む無く家紋掟により
家紋を変紋する結果となったものである。

これが藤原秀郷の4代目兼光の直系の青木氏の分家が陸奥にて青木氏を広げて州浜一族の小田氏との血縁関係を持った氏である。
直流本家は護衛役の任務を持つことで子孫を留保し武蔵と下野国にて藤原総宗本家を護る役目から赴任地の土地に留まらず帰国した。
これは直系、直流と支流の夫々の青木本家筋は戻っている。
多くは多くの嫡子以外の者が藤原氏の戦略として土地に残り護衛と子孫拡大の役目を担っていたのである。

藤原秀郷の総宗本家一門は鎌倉時代の前までに24の守護地とそれに類する官職で赴任している。

この陸奥も最初に朝廷より命じられた守護地である。

この守護地は当時まだ征夷の領域(東北北陸北海道の蝦夷を含む征夷地域はまだ十分には安定はしていなかった。)である。
そこで、第一の勢力を誇っていた藤原四家のうちの北家一族は北家の主家の摂関家との連携を取りながら、この征夷の護りとして出向いたのである。
朝廷から任じられた官位は「鎮守府将軍」であった。

この「鎮守府将軍」は代々藤原秀郷の一族の継承官位であった。
この官位は後に勢力を起した清和源氏の官位と変化して行くのである。

そして、江戸時代まではこの官位の無い者は幕府を開く事が出来なかったのである。
(豊臣氏はこのために関白の官位、徳川家康は家系譜偏纂にて源氏支流とを名乗り「征夷大将軍」の称号を得たが、朝廷は内々はこれを認めていなく、源氏頭領の称号は拒絶した。「源氏長者」として妥協した経緯がある。)

この「鎮守府将軍」から源氏の時代には変名して「征夷大将軍」と変わったのである。
「鎮守府将軍」は藤原秀郷氏、「征夷大将軍」は源氏の専属官位である。

清和天皇の第6位皇子の経基王が臣下して賜姓を受けた源氏の満仲の分家筋(総本家筋は嫡男頼光系 伊勢源氏など)の頼信の血筋を引く頼朝が鎌倉幕府を開く事が出来たのはこの官位の権利があったからである。。

この州浜紋の青木氏の元祖は藤原秀郷の4代孫の第1回目の跡目に入った兼光系初代の直流の青木氏である。

この陸奥より子孫を拡大した州浜紋の持つ一門の小田氏と青木氏であるが、この他にこの陸奥の藤原兼光一族との血縁を持った武田氏がある。
この藤原一門から同じ血筋を受けたこの地方の豪族であった菱紋の武田氏は藤原秀郷の総宗本家の赴任地の移動に伴い甲斐国に移動して、そこで勢力を上げて土着豪族との血縁関係を持ち大勢力に伸し上がったのである。

この州浜紋は小田氏のみと青木氏との血縁であるので判り易い。

この州浜紋の一族が後に三つ盛州浜紋と三つ盛蔭州浜紋に分流していくのである。
五瓜の州浜紋の一族は次の経緯を持っているものと見られる。
この州浜紋の一族が後に何らかの理由で四国付近に移動して五瓜紋の一族との血縁を持ったか、或いはこの五瓜紋一族が陸奥付近に移動しこの一族との血縁を持った結果で跡目継承問題で家紋を変紋せざるを得なかったものではないかと見られる。(四国阿波付近には五瓜紋の氏が多い)

しかし、この瓜紋は藤原流の長良氏とその一門の肥前の大村氏が用いていたものである。
このことから土地柄からまた藤原北家一門とのこの長良氏との血縁ではと考えられるので、州浜一族がこの地方に移動してきて(時代は江戸初期か室町後期の発祥であることから)岐阜美濃付近の長良一族との血縁関係を持った一族ではとも見られる。しかし、確証は困難である。(四国か岐阜か北陸か)

主要紋を次ぎに掲示します。
左隅をクリックすると拡大します。
(家紋掲示板に以上の家紋を掲示しますので参照して下さい。)

No.175

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-11(鷹の羽紋)
第10番目の青木氏の紋様である。
この紋様は全部で各氏70の紋様がある。
この内青木氏に関わる紋様は4つである。
この紋様は主要家紋200選にも選ばれている。
その青木氏の家紋は次ぎのとおりである。

第1番目は並び鷹の羽紋である。菊地氏の家紋である。
第2番目は違い鷹の羽紋である。浅野氏の家紋である。
第3番目は丸に違い鷹の羽紋である。第2番目の分家筋に当る。
第4番目は五瓜に違い鷹の羽紋である。五瓜紋を家紋とする氏との血縁族である。

この家紋は藤原秀郷流青木氏の一族である。
第1番目のこの青木氏は比較的新しく鎌倉幕府の蒙古襲来事件(1274-81)の前後に当時に九州北部勢力を張っていた土豪の菊地氏一族と血縁を結んだ藤原一族の青木氏である。

この藤原秀郷流青木氏は主要9氏の中で次ぎの土地に赴任している藤原秀郷総宗家に関わる者は
筑前国と筑後国の守護かそれに類する官職で赴いた者として為成、為重、長経の親子孫  利仁より18代目(長成の子)―20代目
豊前国に付いては貞宗  利仁より7代目
肥後国に付いては長成  利仁より17代目
豊後国に付いては重光  利仁より4代目
以上4者である。

鎌倉幕府樹立後離散した藤原秀郷の一族は仕官先を求めて各地に移動したが
上記の菊地氏との関係があったと考えられる藤原氏である。
(1333年倒幕)

浅野氏に関わる一族としては安芸国と美作国付近に移動して江戸期に出世していた藤原一族と備後国に赴任した公則の2つの流れがある。
しかし、この美作付近に移動してきた一族はそのルーツは史書によりまたその末裔も明確になっている。(研究室にルーツの投稿のあつた岡山の青木氏の方で家紋は「五瓜に剣片喰紋」一族との血縁を持っている)
従って、元は同じ一族であるが、備後の国の公則に着き従った藤原秀郷流青木氏である事になる。

そこでこの家紋を最初に使用したのは菊地氏(並び鷹の羽紋)であり、江戸時代には多くの武家がこの紋様を変紋して使用した。

この事から次の事が云える。
第1は、「並び鷹の羽紋」は上記四者の何れかの者(後述)で藤原総宗本家に付き従った藤原秀郷流青木氏であるが、この青木氏が土地に定着した一族と土地の豪族との血縁を結んだ事により発祥した一族で家紋は男系問題での跡目相続の結果等で変紋を余儀なくされた結果による。

第2は、「違い鷹の羽紋」は江戸時代前ごろから台頭した浅野家の家紋であるが、この家紋に関わった者としては備後国の守護(公則)として赴任に付き従った藤原秀郷流青木氏の末裔であると考えられる。

第3は、また、「丸に違い鷹の羽紋」はこの分家筋に当ることから同族である。

第4は、美濃付近から広がって阿波国と瀬戸内海を隔てて更に安芸国と美作国まで拡大し土豪となった五瓜紋(藤原系長良一族)を持つ一族と第2の一族との血縁から生まれた子孫と考えられる。

この第4の土地付近には四国阿波国に赴任した藤原総宗本家の宗政と時宗親子に付き従い讃岐付近まで伸びこの一族が美作の国に移動してて出世した上記の藤原秀郷流青木氏の一族がいる。

さて、上記の四者のうち、土地柄から筑前と筑後と豊前国のうちの何れかが可能性が高い。

時代性からみると肥後国は鎌倉幕府樹立の直前頃に菊地氏が隆盛を極めてい
て元寇の役に参加して勲功を立てている事から考えると、当時としては長期に筑前と筑後の官職を務めた土地に根ずいた事から長成から親子4代の時の護衛役の青木氏一族末裔と考えられる。

このことから、4代(30-50年間)と実に長い間に続いた時に定着した藤原秀郷流青木氏である事が考えられるし、鎌倉後も土豪化していたと見られる。兎も角武蔵と下野の国の本拠地以外にと4代と続いた実績のある藤原秀郷一族の氏の赴任先は他にない。(普通は最低は5年程度で役目は終わる)

元寇の役から鎌倉幕府が滅亡した時間までの間とすると52年間である。
この鎌倉幕府の初期ごろはまだ全ての武士が家紋を持つという事は無かった。
殆ど主要な豪族だけであり、この役の時には菊地氏は既に家紋を持っていたことが「蒙古襲来絵詞」(肥後国の御家人の竹崎秀長が書いた絵詞)に描かれている。大きな豪族であった。
この菊地氏と藤原一族との血縁を結び勢力の拡大と安定を計ったものとみられる。
数年前までは戦場となつた所は守護の立場にあつたし、菊地氏とは藤原系青木氏はこの事件をともに戦った背景からの結果であったかも知れない。
この間に血縁が起こったと見られる。
つまり。「並び鷹の羽紋」の青木氏は菊地氏との血縁による。

この紋様は勿論鷹の印象から来る紋様で作紋されたもので、勇猛なイメージを持つものである。この紋様は江戸時代に多くの大名や御家人が家紋とした。

大抵は下克上と戦国時代で家紋の持つ家柄は滅亡し衰退して新しい勢力が台頭して安定期に入った江戸初期にこの新しい勢力が家紋を定めたものである。
この意味で並び鷹の羽の家紋は伝統的である。

違い鷹の羽紋類は上記の新しい勢力の江戸期前後からの氏の家紋である。
主要紋は左隅に掲載します。クリックすると拡大します。

4つの家紋は家紋掲示板に掲載します。

No.178

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-12(抱き角紋)
第11番目の抱き角紋の紋様である。
この紋様には22の紋様がある。(鹿角紋と抱き角紋)
このうちは青木氏の家紋は4つである。
家紋200選にもある有名な家紋である。

この家紋は次ぎの4つである。
第1番目は抱き角紋である。
第2番目は丸に抱き角紋である。第1番目の分家筋である。
第3番目は四つ又抱き角紋である。
第4番目は隅切り角に抱き角紋である。

これ等の家紋は「皇族賜姓青木氏」の系列の武田氏一族諏訪氏の家紋類である。
つまり、研究室のレポートにも何度も書いたが、皇族賜姓青木氏がこの甲斐の地に守護として赴き青木村を形成して子孫が定住していたが、その後この地に藤原秀郷一族と共に移動してきた陸奥の国の武田氏(陸奥の国にて藤原秀郷一族と血縁関係を持つた陸奥の豪族武田氏)がこの地で勢力を上げて甲斐の豪族となった。

この武田氏と皇族賜姓青木氏との血縁を結んだ。この武田系青木氏は矢張りこの武田氏の一族に組み込まれた。
もとより平安初期からこの地に古くから定住していた諏訪一族(中国後漢の阿多倍王の渡来系人)は武田氏に吸収されたが、この諏訪族との武田系青木氏との血縁族である。

第1番目がこの氏である。第2番目がこの分家筋として分流したのが丸に抱き角紋の氏です。

第3番目はその後、この一族の子孫が跡目上の男系相続が出来ずに支流化して家紋掟により家紋を変紋を余儀なくなったものである。

第4番目は第1番目の武田諏訪氏系青木氏の抱き角紋の一族子孫が隅切り紋族との血縁をした青木氏である。
この一族も男系相続が出来ずに隅切り族から跡目をいれて、この結果、家紋掟から隅切り紋との組み合わせた族を作った支流族である。

この一族の子孫の方がこの研究室のサイトにルーツ依頼のありましたし、家紋掲示板にも最初に投稿された方です。(一読ください)
(他にも、賜姓族の青木氏からの投稿が掲載されています。)

皇族賜姓青木氏は天智天皇から始まった伊勢の青木氏をはじめとして天武天皇、聖武天皇、文武天皇、光仁天皇から第6位の皇子が臣下した5家5流の青木氏であるが(土地は伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5地である)この青木氏は同時に5地の土地の豪族との血縁族青木氏を発祥させている。
この賜姓青木氏の子孫の拡大は比較的少なく5家5流から24氏までである。

5家5流の青木氏の主要家紋は「笹竜胆」紋である。この伊勢をはじめとし直系5氏と大半が現存している。

又、嵯峨天皇期より皇族賜姓青木氏から変名した同じ第6位皇子の賜姓により源氏が生まれたが、この源氏もこの5土地の同じ豪族との血縁族を発祥させている。
清和源氏の分家の頼信の末裔より上位跡目を入れて出来た支流源氏がある。

元を質せば皇族賜姓源氏(主に実質は嵯峨天皇から11代目の花山天皇まで)で皇族賜姓青木氏とは同じルーツである。

嵯峨天皇期から青木氏の姓は皇族関係者が下族した時に名乗るものとして以外者がこの姓を使用することを禁止した。
原則的にはこの規則は江戸時代まで守られた。
(明治初期にこの名誉の姓を高額の金品を使い寺社に頼み込み偏纂した第3の青木氏がある。)

この家紋は元は兜などの前立ちに使用されていたが、鹿角(おずか)紋として使用されたのは近藤氏であり、抱き角紋として使用していたのは諏訪氏である。

皇族賜姓青木氏の血筋を持つ諏訪氏系青木氏の主要家紋は次ぎの通りです。
左隅をクリックすると拡大します。
この4つのうち3つの家紋は家紋掲示板に掲載します。

No.185

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-13(竹.笹紋)
第12の紋様は竹、笹紋である。

この紋様は全部で141もある。
この内、青木氏に関わる紋様は4紋様である。
家紋200選にも選ばれている有名な紋様であり、比較的新しい紋様で最初に使われたのは鎌倉の末期ごろである。

この4つの紋様は次ぎの通りである。
第1には丸に根笹紋である。
第2には三枚笹紋である。
第3には九枚笹紋である。
第4には二階根笹紋である。

第1はこの紋様を使用したのは桜井氏と二木氏の支流である。
第2は野々山氏である。
第3は秋月氏である。
第4は不明

第1の丸に根笹紋の青木氏は根笹紋の分家筋に当る支流紋一族である。藤原秀郷流青木氏の支流一族の幾重にも分派した氏の血筋を持つ青木氏である。

第2から4は江戸期に名乗った新しい氏との血縁であるのでルーツの如何は藤原秀郷系の青木氏の支流一族の可能性があるとする範囲の青木氏である。

しかし、何分新しいので野々山氏や秋月氏の系列から判断すること以外には確定の元は見出せない。その範囲で藤原秀郷流青木氏の一門に加えた。

この第1の氏も比較的にかなり新しい青木氏でもあり、桜井氏か仁木氏との血縁にて男系維持が出来ずに養子元の家紋を使用するという現象で定めたものである

これ等は主に初期は貴族や公家などが鎌倉時代に使用し始めたもので江戸期に入り、必要に迫られて家紋をつけた。

大名や御家人では約10程度、一般武士では200にも及んだが明治初期には家系断絶で120程度にも減った。

これ等の青木氏では共通することは関東の一族である。
特に代表的な紋様として最初に使用した武士では次ぎの2氏があげられる。
先ず、下総守の千葉氏と、東下総守の師氏である。
これ等の一門がこの竹と笹紋の変紋を多く作り上げた。
公家では2門である。

これ等の流れを汲む室町時代からの有名な大名としては東氏、粟飯原氏、朝倉氏、上杉氏、最上氏、伊達氏である。

では、この青木氏は主要青木氏の2流のどちらの青木氏かと言う問題であるが、140もの各紋様の発祥の確定は困難だが、全体の流れから見ても、上記した大名のルーツから見ても関東に定住していた藤原秀郷流青木氏の流れを汲む氏であると云う事ができる。

藤原秀郷の主要9氏の支流4氏の中から広がり、その内の24氏程度の藤原氏秀郷の末裔から更に男系維持を困難として家紋掟から変紋した氏である。

皇族賜姓青木氏との関係は見つからない。

江戸時代にはこの竹と笹紋が皇族賜姓青木氏の家紋の笹竜胆と類似しているものから源氏系と見られて多くの下級武士がこの紋様に似して家紋を作った。
まったく違うものであるが、この141の紋様はこの傾向のもつた紋様に成っている。
笹竜胆に似せた家紋が多いのはこのことから来る現象である。良く見ないと見間違えるくらいである。


この4つの青木氏の家紋は第一の丸に根笹紋に付いてそのルーツの確証は比較的取れるが,第2から4までは江戸期のものであるので困難である。
しかし、関東系の氏である事から男系跡目が困難な中での変紋であるので夫々の主要氏の流れを汲む氏である事は確認出来るが直系ルーツの確定までは困難である。

しかし、江戸期までは武士であった事は否めない。室町期の下克上と戦乱の中での台頭で家を興した者が殆どであるので、この時期を境にしてルーツの確定はよほどのことでなくては困難である。
概して、この4つの紋様が青木氏の紋様としていてそのルーツは藤原系のものとみなされる。

この家紋類に付いての真偽は一部を除いて、明治期の苗字令に基づく「第3の青木氏」も否定することは困難でもある。
ルーツの調査の内容は矛盾の範囲を超えているものもある。

この家紋は現代でも用いられている松、竹、梅の瑞祥的なものから来た紋様である。
今までの12の紋様の家紋のとは確定の点では少し異なる。

主要紋様は次ぎの紋様があげられる。
左隅をクリックすると拡大します。
4つの家紋に付いては家紋掲示板を参照して下さい。

No.187

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-14(引き両紋)
第13の紋様は引き両紋である。

この紋様は38の紋様がある。

家紋200選に選ばれた鎌倉期から室町期に勢力を持つた一族である。

この紋様に関わる青木氏の紋様は4つある。

次ぎの通りである。
第1番目は丸に一つ引き両紋の家紋である。第2番目の足利氏系青木氏の主家が一門の新田氏との血縁を結んだ青木氏である。

第2番目は丸に二つ引き両紋の家紋である。この4氏の青木氏の中でこの丸に二つ引き両紋が主家筋である。足利氏の家紋で足利系青木氏

第3番目は丸に三つ引き両紋の家紋である。下記のいずれかの一族との血縁を深くした第2番目の主家足利系青木氏である。

第4番目は八角に木瓜二つ引き両紋の家紋である。第2番目の主家の足利系青木氏と木瓜一族との血縁を結んだ一族である。
足利氏一門の主要一族である。

この4つの家紋類は明確に足利一門の家紋であり、この一族との血縁による青木氏である。

この青木氏は武田氏と同様に信濃の皇族賜姓青木氏と土地の豪族であった足利氏との血縁による足利系青木氏である。

つまり、この主流足利系青木氏は皇族賜姓青木氏の5家5流の支流24氏の主要一族である。

足利氏は以前のレポートでも記述したが、土地の豪族足利氏が衰退し続けていたが、この一族の一部が藤原秀郷の一族との血縁を図り態勢を戻そうとした。
しかし、皇族賜姓青木氏の血筋を入れていた本家筋はこの動きに反発して二派に分かれた。
しかし、本家筋を率いる者の力が不足していて分家筋の動きを止めることはできず、結局、藤原秀郷一族の血筋を入れた分家筋の勢力が勝った。
そして、この分家筋は政略的な行動から更に清和源氏から上位の跡目を入れ清和源氏支流の一門となった。(詳細は研究室のレポートを参照)
そして、この分家が本家筋も引き込み足利氏の本家として一門を統一していった。
この皇族賜姓青木氏の血筋を持つ足利系青木氏がその後に他の分家と支流の足利一門との血縁を深くした。

二つ引き両紋の青木氏から分家してこの一門の一つ引き両紋、三つ引き両紋の分家筋が一門との血縁を広げていつたものがこの青木氏である。
その後、二つ引き両紋の分家一族が男系相続が不可能となり、木瓜一族から跡目を採り、止む無く家紋の変更を余儀なくされたものである。
木瓜一族との血縁を結んだのが第4番目の一族となる。
この足利系青木氏の4氏がこの家紋を引き継いでいる。

この内、一つ引き両紋は一門の新田氏であり、二つ引き両紋は主流足利氏、で三つ引き両紋はこのほかの足利一門が使用している。下記

例えば、他に有名なところでは吉良、渋河、石橋、斯波、細川、畠山、上野、一色、山名、大館、今川、三浦、山名の各氏が使用している。

他にこの一族と血縁した紋様の一族は違い鷹の羽の家紋族、上記の木瓜族、巴族などがある。
足利系青木氏は上記の木瓜族のみである。

そもそもこの紋様は陣幕の色で武将の居所を明示することに用いたものが、後にその幕に八卦の卦を入れて武将の居所を占めすものとして使われた。それが主家の足利氏は二つ引き両が目印とし、これに丸をつけて家紋とした。

新田氏は一つ引き両で丸に一つ引き両紋の家紋とした。
丸は通常は家紋掟により分家がつけるものであるが、この場合は居所を示す使用目的から初期から丸つき紋である。

上記した様にこの紋様は中国の八卦の卦を紋様化したものと言われており、この両は竜、領であるとする説もあるが、卦が通説に成っている。

古くは盾などの紋様として用いられていた。

下に主要家紋の丸に二つ引き両紋を示す。家紋は家紋掲示板を参照。
左隅をクリックすると拡大します。

No.198

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-15(梅紋)
第14番目の紋様である。

この紋様は全部で127もある。
家紋200選に選ばれている有力氏である。

この内、青木氏に関わる紋様は3つである。

第1番目は梅鉢紋である。
第2番目は丸に梅鉢紋である。 第1番目の分家である。
第3番目は加賀梅鉢紋である。

第1番目と第2番目には菅原氏、佐々木氏、松任氏、筒井氏、平氏がある。
第3番目は前田氏、斎藤氏、堀氏である。

これ等の青木氏は藤原秀郷流の支流である。

平安期の菅原氏はこの文様を最初に使用したといわれている。
藤原秀郷氏との何らかの血縁関係を持つたと考えられ、主要支流の一族が男系跡目相続の可否で家紋掟によりこの家紋を使用したものと見られる。

佐々木氏は皇族賜姓青木氏と並んで極めて古い皇族系の近江の佐々木氏(佐々木氏は天智期と宇多期の2期に発祥)であるが、この一族の支流がこの菅原氏の血縁を受けたのではと考えられる。

藤原秀郷流青木氏には116氏もあるが、この氏は主要9氏があり、
この主要9氏は直系1氏、直流4氏と、支流4氏から成っている。
(詳細は藤原秀郷一族の行き方のレポート参照)
この支流4氏のうちの一つの梅鉢紋の青木氏である。

数多い116氏中の主要支流4氏の末裔である。

藤原秀郷流青木氏は秀郷の子の千国が秀郷が貴族に昇進したことからこの護衛役として任じられた。
(大化の改新の中大兄皇子から始まった)5代に渡り天皇を守る親衛隊として皇族賜姓青木氏が臣下して賜姓を受けた慣例から、藤原秀郷は朝廷からその許可を得て、千国に青木氏を与えたものである。

上記した第1番目の平氏との関わりは千国の母方がこの平氏一族から出たもので、後にこの一族が平氏を捨てて藤原氏に名乗り換えをした。
藤原秀郷流青木氏の支流4氏のうちの末裔の多くはこの平氏家紋の揚羽蝶紋と丸に揚羽蝶紋である。

貴族になると武力を自ら使用することが出来ないためにこのことになったのである。

既に何度もレポートしたが、藤原秀郷は平将門の乱を鎮めた勲功により武蔵国と下野の国の守護に任じられ、更に貴族に昇進した。このことの経緯は (詳細は藤原秀郷一族の行き方のレポート参照)前レポートに記述した。

このことによって藤原秀郷流青木氏が生まれたのであるが、この青木氏を朝廷の許可を得て名乗った理由はこの皇族賜姓青木氏の母方は伊勢青木氏を除いて全て藤原氏系である事による。

嵯峨期の令により皇族還俗者以外の者が氏として名乗っては成らないことに成っていたが上記のこととその権勢により藤原氏はこの令外として許されたものである。
(その後、嵯峨期より第6位の皇子がを変名して青木氏を賜姓源氏とした。)

この紋様は勿論、丸は花弁を表しており、古く奈良時代末期から仏教に用いられていた文様である。

この文様は2つの文様の形に分けられる。
芯の有無に関わる。
この藤原秀郷流の支流青木氏は芯のある梅紋である。

主要家紋は次ぎの家紋です。
左隅をクリックすると拡大します。
家紋掲示板にもこの藤原秀郷流青木氏の家紋3つを掲示します。参照して下さい。

No.204

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-16(目結紋)
第15番目の紋様である。

この紋様は81の紋様がある。
家紋200選にもある紋様である。

この内、青木氏の紋様は3つである。
この3つは次ぎの紋様である。

1番目は丸に隅立て4つ目紋である。
2番目は隅切り角に4つ目紋である。
3番目は丸に三つ目紋である。

青木氏以外に次ぎの氏がこの家紋を使用している。
1番目の紋は児島氏、鍋島氏が使用している。
2番目は不詳
3番目は磯部氏、由井氏、飯田氏、二松氏が使用している。

この家紋は最も古くから使用していた氏は佐々木氏である。
この佐々木氏の流れを汲む一族としては室町幕府の足利氏の御家人の六角氏を始めとする主要大名がこの紋様を使用している。

佐々木氏には天智天皇の近江佐々木氏と宇多天皇の滋賀の佐々木氏がある。
云うまでもないが、近江佐々木氏は天智天皇の第7位の皇子の近江王の川島皇子の末裔であり、伊勢王の施基皇子の青木氏と並んで特別に第6位に対しての賜姓の令外として第7位の弟の川島皇子に土地の地名を採って佐々木氏の賜姓を授けたものである。これが近江佐々木氏の始まりでこの佐々木氏から近江青木氏が発祥している。この青木氏には佐々木系青木氏と二つあるが血縁である。
この近江青木氏の方は後に何らかの理由で滋賀と攝津の二手に分かれて移動している。(既にレポート済み)
この青木氏は後に宇多天皇の佐々木宗綱、高綱の末裔の氏との間でも血縁をむすんでいる。

この3つの青木氏のうち2つの青木氏は何れもが前者の近江佐々木氏の血縁であるが、一方の滋賀の宇多天皇の佐々木氏の青木氏もあるいずれにしても皇族系青木氏である。
近江青木氏は皇族賜姓青木氏の直系と支流青木氏と言うことになる。
宇多天皇の佐々木氏系青木氏は時代は後になる。

つまり、奈良時代に発祥した後の近江源氏と平安後期の滋賀源氏の2流となる。

近江佐々木氏の2つの青木氏は総宗本家の家紋は皇族賜姓青木氏と同じ「笹竜胆の家紋」である。剣豪の佐々木小次郎はこの近江佐々木氏の末裔である。

宇多天皇の佐々木氏も皇族の賜姓源氏であるので総宗本家は「笹竜胆紋」である。

この上記3つの家紋の氏は支流一族である。この3つの青木氏は江戸初期あたりにて上記の各氏と後に血縁を結んだものであると見られる。江戸初期にはこの家紋を持つ氏が約70も出来ている。

男子継承が不可となり、家紋の変紋を余儀なくされた支流一族である。

したがって、この3つの青木氏以外に近江と滋賀地方で笹竜胆の家紋を持つ青木氏が確認されればこの一族の本家筋となる。

この研究室にルーツ依頼があつた方が居たがこの一族は攝津に移動した青木氏
であり、川島皇子の末裔の皇族賜姓青木氏であった。滋賀の青木氏は非常に確認が難しく豊臣時代には青木氏の継承をめぐり争いを起している。

この結末は青木氏の氏を買い取るかまたは奪い取ったか政略結婚かにて出世方の元上山氏の方に2度の戦いの末に軍配は上がった。(レポート済み)
後にこの上山氏の青木氏はこの家柄の獲得の結果10地方の守護をつとめている。このことから見ると政略結婚にて妻方のほうに青木氏を引き継ぎ家柄を高めて守護になりえたものとみられ、この結果、後に総宗本家との間に争いが起こったものと見られる。
この青木氏は現在も末裔が現存している事が確認出来る。

この近江の青木氏の二手に分かれた一方の滋賀の青木氏の詳細は不詳である。

この青木氏は伊勢の青木氏をはじめとする5家5流の近江青木氏の末裔となる。

この紋様は元は平安末期から鎌倉時代にかけて用いられた染め文様から図案化されたもので幡などに用いられて後に家紋化されたものである。

後には江戸時代の初期に徳川の御家人になった者がこの紋様を80前後も多く用いた。この結果、81にも成った。

この主要紋を次ぎに掲示する。家紋掲示板にも掲示するので参照して下さい

左隅をクリックすると拡大します。

No.205

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-17(茗荷紋)
第16番目の紋様である。

この紋様には61の紋様がある。

この内、青木氏に関わる紋様は次ぎの3つである。

第1番目は抱き茗荷紋である。
第2番目は丸に抱き茗荷紋である。 第1番目の分家筋に当る。
第3番目は抱き茗荷菱紋である。 第1番目の支流である。

第1番目は志摩地方の鳥羽氏がこの紋様の抱き茗荷を家紋として使用している。
この全体の紋様は関西地方に多く散在し、近江地方の山下の稲垣氏もこの家紋を使用している。又、小沢氏もこの抱き茗荷の家紋である。
何れも新しく江戸時代になってからである。
この2氏は二宮氏、鳥羽氏の支流一門と見られる。

最初に使用したのは近江地方に広く分布する二宮氏である。
土地の地名を採った鳥羽氏は系譜の確認は江戸期であるのでとれないが、この二宮氏の系列と見られる。又、稲垣氏、小沢氏も同様と見る。

この紋様は元は比叡山の天台宗の神紋であり、この紋様を戦国期を経て江戸時代になり家紋の持たない者が侍となってこの紋様から引用して家紋としたものである。
特に関西系の旗本100氏程度がこの紋様を使用した。

したがって、この3つの家紋の青木氏の系譜は江戸期になってのものであり、5家5流と藤原秀郷流青木氏の2つの青木氏との確定は困難である。

この二宮氏と鳥羽氏を元とする抱き茗荷の家紋を持つ本家筋が2つのいずれかの何らかの血筋で青木氏との繋がりがあり、江戸期になり家紋と共に名乗ったものであると思われる。
後の二つはこの分家筋と更に分家分派した支流の抱き茗荷の一門である。

関西を中心としての氏であるとすると、伊勢の青木氏か、藤原秀郷系統の伊藤氏に付き従った青木氏とも考えられる。

しかし、伊勢の青木氏との可能性は分布と地域と二宮氏と鳥羽氏との関連から極めて低い。

この伊藤氏は、藤原秀郷系の藤原氏で平安末期前半にこの伊勢の半国司を務めていて、鎌倉期になり、この地に留まり伊藤氏を名乗っている。つまり、伊勢の藤原氏である。この時に護衛役として従った青木氏であると見られるが近江滋賀の二宮氏との地域の関連が取れない。

つまりこの鳥羽氏と二宮氏の先祖はどちらが先きにあるかと云う問題で歴史上からみては鎌倉期の二宮氏となっているが、鎌倉期前から鳥羽地方に古くから定住していた者の藤原秀郷流青木氏の一部が近江に移動したとも考えられる。

その根拠は当時は勝手に一族が土地を離れることは「国抜け」として出来ないが、鎌倉前にただ一つ出来ることは藤原秀郷一門の「守護職の赴任地移動」に伴って勢力を保持したままに青木氏のみが動くことができたことである。
これが現地に子孫を残す戦略を採っていた藤原一門の方法でもあつた。
この近江地方には秀郷一族の「藤原脩行」という者が鎌倉末期に守護としてとして移動している。
伊勢鳥羽永嶋の半国司でなくなった時に青木氏は伊勢の志摩鳥羽地方に残っていたが、その後、伊勢より移動してこの者に従った青木氏である可能性がある。

二宮氏の一個人が移動しても勢力を持つ事は出来ない。出来るとすれば秀吉の時代の命令により一族の移動が考えられるが3百年も時代は新しいことになるので可能性は低い。

それ以前であればここは北畠氏の領域であるので戦いが起こるが無かった。

戦いが起こらないただ一つの大量の移動はこの青木氏の移動以外に無い。

この意味から鳥羽地方に住む藤原秀郷流青木氏の近江か滋賀地方への移動説が現実的である。

伊勢鳥羽に僅かに残った藤原秀郷流青木氏が土地の鳥羽氏との血縁で男系相続不可にて茗荷紋に変紋したものと見られる。

二宮氏が現在の所先に出たとされていると滋賀佐々木氏系青木氏ともなる。
しかしこの可能性はく低く戦国期を挟んでいるために確定は困難。
土地が両方にまたがっているので移動説がなくては成立しない。

半国司とは伊勢は元は平安中期までは伊勢青木氏の所領であつたが、伊勢北部の伊賀地方を中国後漢光武帝の子孫(帰化した阿多倍王)の功績に対して恩賞として伊勢を切り裂いて特権を与えて領国とさせました。(桓武期前後)
その後、村上源氏の支流北畠氏に伊勢の東部永嶋と鳥羽地方を切り裂き国司として任じました。
結局、伊勢は3つの国司が存在しました。この状態の伊賀と永嶋の2つを半国司という。

伊勢鳥羽と近江山下の地方には僅かであるがこの藤原秀郷流青木氏が存在する。

伊勢松阪と玉城を中心として西には奈良の名張、伊賀地方から東は桑名地方まで帯状に分布する施基皇子を元祖とする伊勢王の子孫の皇族賜姓青木氏とは異なり、又、皇族賜姓近江青木氏と皇族系近江、滋賀佐々木系青木氏の慣習に基ずく住み分け地方が異なることから、このことから移動の出来る藤原秀郷系の伊藤氏に着き従った青木氏である事となる。

この藤原秀郷流青木氏が土地の鳥羽氏との血縁にて男系継承相続が困難となり
家紋を抱き茗荷家紋として引き継いだものと考えられる。

61もの紋様はこの旗本の100余りの旗本の家紋である。

これ等は鳥羽氏、稲垣氏、小沢氏を発祥元とした氏の家紋であり、通説の元祖二宮氏から出たものであろう。

この紋様は大変に杏葉紋と酷似する。この変紋ではないかと見られる。

比較的新しいこの家紋を使用している氏の青木氏には戦国時代の為、系譜等の資料は全くなく確定は困難であり、以上の状況判断によるものである。
明治以降の第3の青木氏との関係は一般武士であることから見て無いと見られる。

この抱き茗荷紋の主要紋は次ぎのとおりである。
左隅をクリックすると拡大します。他の2つの家紋も家紋掲示板に掲示しますので参照して下さい。

No.206

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-18(揚羽蝶紋)
第17/33番目の紋様です。

この紋様には97もある。

この紋様は家紋200選に選ばれた紋様です。

この紋様に関わる青木氏の家紋は次ぎの紋様である。
第1番目は揚羽蝶紋である。
第2番目は丸に揚羽蝶紋である。 第1番目の分家に当る。

この紋様は平安中期頃に京平家の平重盛等が鎧や車紋もなどに用いたのが最初である。

蝶紋のうち揚羽蝶紋は桓武平氏が最初に用いたものである。

桓武平氏とは後漢の末帝の献帝の子の阿智使王と孫の阿多倍王らが孝徳天皇期(645)に漢の東国と北朝鮮の朝鮮族の17県の民200万を引き連れて九州の北側に上陸して大和の国に帰化してきた。この阿智使王と阿多倍に率いられた民は瞬く間に九州全土を殆ど無戦の状態で統一した。この200万の民は全ての技能集団を引き連れていたが、この技能を土地の者に伝授し平和裏に同化したのである。
この一団の一部は次第に中国地方に移動しこの地方でも陶族が勢力を持ち全土を制圧した。更に移動して最東信濃と美濃地方まで移動してここを開拓した。
この渡来人は技能集団として海部、服部、綾部、陶部、土師部、鍛冶部、磯部、渡部等の「部」のついた姓はこの技能集団の末裔である。

この軍事集団で有名なのは蘇我氏に仕えた漢氏や東漢氏や直文氏である。

この技能集団は現代の第一次産業の殆どの基礎を作り上げたのである。
この技能集団は朝廷の政治形態を3蔵という形態をとっていたがこの3蔵のうちの2蔵を占め、この政治官僚として日本の律令政治の基礎を作り上げた。
この3蔵とは「大蔵」で朝廷の財政を、゜「内蔵」で天皇家の財政を、「斎蔵」で政治を含む祭事や祀事を司っていた。この内、「大蔵」「内蔵」はこの阿多倍一族が占めていた。
「斎蔵」は鎌足の藤原氏である。故に後には藤原氏は朝廷の政治を司る摂関家となったのである。

後にこの二つの「蔵」の功績から天皇から賜姓を受けて次男は「大蔵氏」と三男は「内蔵氏」と長男は「坂上氏」の3つの賜姓を受けた。

長男の坂上氏は阿多倍の率いた軍事部門を統括して征夷大将軍となり東北から北海道を制圧した。この坂上田村麻呂が初代である。

今までは、天智天皇期から第6位の皇子が臣下して5代の天皇から出た青木氏が天皇家の親衛隊として皇族賜姓族の役目であつた。

其処にこの渡来系の阿多倍の集団が朝廷の軍事部門を担うようになり青木氏との間に軋轢が生まれた。
桓武天皇は律令政治を完成した天皇としてこの青木氏の発言力を排除して自らの母方の一族を頼りに推し進めたのである。

さらには後にはこの阿多倍は敏達天皇の曾孫娘を娶り天皇家と縁戚となり朝廷の全権を握った事にもなった。

この阿多倍の率いた一団は大和の国の経済的基盤と政治的基盤と軍事的基盤を確立した程に貢献した。ここの功績に報いるために桓武天皇は阿多倍の死後にこの阿多倍の高望王を大和の国の「高尊王」として扱いこの一族に「たいら族」として渡来人に初めて日本の氏をあたえた。そして、この子孫に伊勢国北部伊賀地方を切り裂いて与え、不入と不倫の権を与えた。

この一族の貞盛が「平の将門」の乱を藤原秀郷と共に5年もかけて鎮めた功績で天皇に寵愛され5代後に「平の清盛」の太政大臣まで上りつめた。
これが「桓武平氏」である。

この桓武天皇の母はこの阿多倍の子孫である。

この為に、この桓武平氏の阿多倍一族を引き上げるために総宗本家の伊勢青木一族をはじめ5家5流の青木氏は桓武天皇から圧力をうけ、伊勢青木氏と5家5流の青木氏は一時守護の職を失う。
この時、藤原秀郷より2代前祖父の藤成なる者が一時伊勢の守護となることが起こり、これ等を契機に5家5流の青木氏と後の嵯峨天皇から始まった賜姓青木氏から変名した皇族第6位の賜姓源氏も平家の台頭で力を失う。

これを嫌った次の天皇の嵯峨天皇は皇族第6位皇子の賜姓方式を元に戻して青木氏から源氏に変名したのである。

この時、藤原秀郷はこの伊勢守護の時に伊勢伊賀北部の平家から妃を求めて縁組をし、この子供の藤原秀郷の第3子の千国が青木氏の元祖となる。

この青木氏は直系1氏、直流4氏、支流4氏となり、ついには116氏の藤原秀郷流青木氏が出来る。

この支流4氏のうちの3氏はこの揚羽蝶紋の家紋である。

この3氏中の1氏が主流であり、元は嶋崎と岡本を名乗り後に元の藤原系の青木氏に戻る事となりこれより揚羽蝶紋の青木氏が分派して子孫は拡大する。

つまり、中国後漢の光武帝の子孫の阿多倍王の渡来系人の血筋を引いていることになる。更に同系の京平氏の子孫ともなる。

この子孫と同じ血筋を元祖に持つ青木氏はほかにもある。
甲斐武田氏の諏訪族の武田系諏訪族青木氏である。

阿多倍らが引き連れた帰化民が甲斐の国の開拓民として入植して大型の外来馬を飼育して生計を立てた。
この地に定住した末裔の諏訪族とこの地の守護としての皇族第6位皇子の青木氏がこの地の甲斐王として赴き後にこの諏訪族との間に血縁をもち青木氏を発祥させた。
後に武田氏とも皇族賜姓青木氏と血縁し、諏訪族は武田氏とも血縁する結果となる。この青木氏も元祖には阿多倍の血筋を持つ事になる。

藤原秀郷の主要5氏は永嶋氏と青木氏と長沼氏、それに進藤氏と長谷川氏であるが、この永嶋氏は京平氏との縁組にてその子孫は青木氏と永嶋氏を発祥させたが元は阿多倍の大蔵氏からであるので名乗ったもの。

つまり、阿多倍と敏達天皇の曾孫娘との間に出来た子供の「大蔵氏」は、後に九州に於いて「永嶋氏」に変名する。

この永嶋氏一族はその勢力を背景に中部地方から以西にたちまち広まる。
中部地方から以東は藤原秀郷流永嶋氏である。

よってこの永嶋氏は阿多倍の末裔の平家族の血筋を持つ青木氏と同じ母方元祖の血筋を引いた藤原秀郷流永嶋氏とは同血縁になる。

藤原秀郷にはこの様に京平家の血筋を持つ氏が2氏もある。

ここで注意が必要なのは「坂東八平氏」と言う一族が関東に居たが、この坂東八平氏とは全く別である。こちらは京平家の「たいら族」に対して゜平族(ひらぞく)」という。
桓武天皇はこの「ひら族」になぞらえて渡来人を「たいら族」として賜姓した。
この「ひら族」は皇族第7世以上の者が天皇が代替わりするたびに生まれる7世以降の者が関東に定住しその末裔が「坂東八平氏」である。

京平家を伊勢者と言うがこれを主流として関氏や織田氏らの支流が出た。
伊勢者に対して関東は坂東平氏と言う

この2氏の揚羽蝶紋の京平氏のながれを組む支流の藤原秀郷流青木氏である。

主要紋を次ぎに掲示します。左隅をクリックして下さい。拡大します。
家紋掲示板にも掲示します。参照して下さい。

No.224

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-19(矢紋)
第18番目の紋様の矢紋である。

この紋様は全部で36ある。

家紋200選にある紋様である。

この内、青木氏にかかわる紋様は次ぎの2つである。

第1番目は丸に違い矢紋である。違いや紋の分家である。
第2番目は丸に六つ矢車紋である。

これらの紋様は比較的新しい紋様である。

この紋様は勿論弓矢の紋様を家紋としたものであるが家紋に対しての氏が明確に確定できないほどに成っている。

判る範囲では主に矢部氏とか、矢田部氏とか、矢吹氏とか、矢葺氏とか矢田堀氏とかである。橋爪氏や橋詰氏のように爪のついた氏もこの矢の家紋を用いているので殆どはこの職人集団の姓である事からこの末裔と見られる。

この一族は「部」が付いているので元は後漢の渡来系の人々で弓矢を作る技能集団として奈良期に帰化してきた一団の末裔であるとみられる。

他には有名なところでは3つ矢紋の松平一族の松平深溝氏で、矢車紋の荒川氏、違い矢紋の恒岡氏である。職人集団の居た地名を採った氏と見られるが、この一族紋の矢紋は武士の紋所として扱われているので室町末期に武士となった紋であろう。

これ等の氏の情報が少なくてこの青木氏は何れの青木氏に属するかは確定は出来ない。
しかし、皇族賜姓青木氏5家5流の24氏の可能性は低い。
この青木氏では地域性や系統は全て確立していてそれ以外に子孫を残す謂れが嵯峨期の詔にてない。

又藤原秀郷氏の主要9氏の116氏に関わる青木氏としての断定もできないが、別の研究資料説によると藤原秀郷流青木氏の116氏の中に組み入れる説もある。しかし、その理由はない。

藤原秀郷流青木氏との何らかの関係を持った事から室町末期から江戸初期前に後に出世した時に関係族のあった血筋の青木氏を名乗ったと見る向きが強い。

藤原秀郷の一族が赴任した24地方のところに定住した青木氏としても地方性が確認出来ないので困難であり、各地の矢の着いた姓を調査しても出ない。

多分この原因は江戸初期が室町後期に氏として名乗り出したものではないかと見られる。
多くは矢のついた氏を名乗っているところから見て、先祖の職業は矢や弓に関係する職人であった事からルーツとしては江戸初期の安定期になったころにいずれかの青木氏が男系不継によりこの矢のつく氏との血縁にて家紋としたと見られるが確証は取れない。

明治の第3の青木氏や室町期の混乱期での第3の青木氏である可能性も否定出来ない。

左隅をクリックすると家紋が拡大します。
家紋掲示板にも掲載します。

No.244

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-20(沢瀉紋)
第19/33番目の紋様である。

この紋様は82もの紋様がある。

この内青木氏に関わる紋様は3つの紋様である。

この紋様は家紋200選にある紋様である。

この3つの紋様は次ぎの家紋になる。
第1番目は立ち沢瀉紋である。
第2番目は丸に立ち沢瀉紋である。1番目の分家筋である。
第3番目は抱き沢瀉紋である。

先ずこの立ち沢瀉紋は次ぎの氏に依って使用されている。
松平氏、椎名氏、酒井氏、堀氏、土井氏、稲垣氏、中村氏、水谷氏である。

抱き沢瀉紋は次ぎの通りである。
堀越氏、町野氏、間宮氏、清水氏、蔭山氏である。

この立ち沢瀉紋を見ると明らかに1地域の氏に集中している。其れは全て松平氏の重家臣団である。

同じく抱き沢瀉紋も同様であるが立ち沢瀉紋のように重役氏名ではないが松平氏の家臣団の氏名である。

つまり、元の発祥地域は駿河、尾張、三河地域となる。つまり、徳川幕府の立役者の氏である。

この青木氏となると次ぎの二人が上げられる。
藤原秀郷の子孫で藤原景頼がこの地域の駿河権守に任じられてそれに護衛役として同行した青木氏がありこの地域に定住している。
又、其れより後役として藤原公則が任じられている。此れに護衛役同行した青木氏があり何れも定住している。

藤原秀郷流青木氏が鎌倉幕府樹立で藤原一門共に離散したが、この地域に定住していた青木氏は戦国期に信長と共に勢力を拡大した時期の松平氏に仕官し守り立てた立役者ばかりである。

元は下がり藤紋であったが男系相続が叶わず土地の松平氏の一門と血縁を結び変紋を余儀なくされたものである。

当然、この地域の権守の藤原宗家の一族も仕官したと見られ、そのこの地域の一族の氏名の中に例えば椎名氏などの藤原氏一門の氏名が見つかる。

この家紋は元は平安末期から鎧兜や直垂に用いている。

しかし、この82に及ぶ大半は戦国末期からで江戸期に入って多くの家臣が変紋して使用したものである。比較的新しい家紋類である

この紋は豊臣家臣にも使われている。尾張の出の豊臣秀次の馬標に使用し、秀吉の妻木下家の豊後日出守の家紋でもある。
又、福島正則も家紋としている。

何故この地域のものが沢瀉紋を使用したのかと言うことであるが、この地域の水辺にはこの沢瀉草が群生していたことから使用したと見られる。

殆どの82の紋様の氏はこの地域の一族である。

この沢瀉紋となった藤原秀郷流青木氏は主要9氏のどの氏から出ているのかは確定は出来ないが、この赴任した藤原秀郷の宗家の二人の位置付けから見て直流4氏の青木氏から出た116氏の内の一つの一族と見られる。

丸に立ち沢瀉紋は当然に立ち沢瀉紋の分家筋になるのでこの一族も末裔を広げていた事がわかる。
又抱き沢瀉紋の一族はその家紋を使用している一族の氏名から中級家臣である。この地族と血縁した青木氏は立ち沢瀉紋青木氏の分家に当る一族ではと思われる。

この立ち沢瀉紋は82の沢瀉紋の主要氏であるので、先ず藤原秀郷流青木氏のこの地に定住した本家筋が主要氏である一族(13)の立ち沢瀉紋の主家と血縁を結んだ事となり、更に分家筋が抱き沢瀉紋と血縁したと見られる。しかし、この抱き沢瀉紋も抱き沢瀉紋の16中では主要氏であり、82の沢瀉紋のなかでも立ち沢瀉紋に継ぐ位置にある。

藤原秀郷流青木氏は強かにこの地域に根付き、末の勢力拡大を見て徳川氏を盛り守り立ててその末は幕府の権限を握った重家臣団の一族の一つに成っていた事になる。
小豪族であつた松平氏は武田軍団と諏訪族の軍団を家臣団に加えただけではなく土地に明るい藤原一族おも家臣団にしていたことを考えると天下取りの徳川勢力は多きかった事が頷ける。
だから、下から成り上がった者の家臣団だけではなく最も古い歴史と高い伝統のある諏訪族青木氏を含む赤兜の諏訪青木武田軍団と、歴史と伝統と各地に広がる藤原秀郷一門のある藤原秀郷流青木氏の軍団のおかげが後には幕府を開いた原因とも言える。

このように見ると皇族賜姓青木氏と同じ藤原の血筋を持つ藤原秀郷流青木氏一族は合同で天下を取り戻したとも考えられ強かである事に感心する。

両青木氏が持つ伝統とは、無意味な物ではなく歴史をこのように見ると大変重要である。そして、其れは一青木氏ではなく各地に散在した一族の末裔がいざ戦いの時にあつまりその力を発揮した事を物語るものである。

左隅に主要家紋を掲示します。左済みをクリックして下さい拡大します。
家紋掲示板にも近日3つの家紋を掲示します。

No.249

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-21(桔梗紋)
第20/33番目の紋様である

この紋様は家紋200選にある。
この紋様は126もの紋様がある。

この紋様の青木氏に関わる紋様は次ぎの2つである。

第1番目は桔梗紋の青木氏である。
第2番目は丸に桔梗紋の青木氏である。 第1番目の分家である。

この家紋を最初に使ったのは美濃の土岐氏である。

その後に江戸初期にこれ等の土岐氏に何らかの関係の持つ者が桔梗紋を変紋して自らの家紋にした結果、126もの紋様が出来た。
この126の家紋は美濃と飛騨などに多く分布している。

皇族賜姓青木氏の5家5流の美濃の賜姓青木氏が土地の豪族土岐氏との血縁にて土岐氏系青木氏が発祥した。

土地の豪族土岐氏は甲斐の武田氏、信濃の足利氏と同様に清和源氏の3代目の三男の頼信より数えて4代目の義光より8代目の時光(1195)から発祥してこの時光から11代目(不祥)の者が皇族賜姓美濃青木氏を継承した。
(義光から19代目)
この一族から末裔は5流に分流した。

(参考) 甲斐の賜姓青木氏は末裔は5流に分流した。
頼信より4代目の義光(1055)から8代目の源光(1195)が甲斐の賜姓青木氏の跡目を継承した。源光の兄弟の時光は武田氏系青木氏を継承し、その時光より15代目の義虎が更に武田氏系青木氏の跡目を引き継ぐ。

(参考) 信濃の賜姓青木氏は末裔は4流に分流した。
頼信より2代目の義康が足利氏の跡目に入る。この義康より3代目の実国が皇族賜姓信濃青木氏の跡目を継承し、頼信より4代目の義光から数えて16代目(不祥)が足利氏系青木氏の跡目に入る。

この皇族賜姓美濃青木氏の5流に分流した中の一族が土岐氏系青木氏である。
この土岐氏系青木氏が桔梗紋である。この桔梗紋から分家が出たものである。

(皇族賜姓青木氏の5家5流は24氏に分流している。近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の賜姓青木氏より分流24氏)

この時期、賜姓の清和源氏は同族の賜姓青木氏の5家5流の跡目を戦略的な意味から固めた。

この桔梗の家紋はもとより桔梗を図案にしたものである。
この家紋で有名なことは信長と明智光秀との軋轢の原因として水色に染めた桔梗紋の問題が出て来る。

信長は平家の支流の流れを汲む一族であるが、光秀の家紋は上記した様に清和源氏の支流の土岐氏の家紋である事をねたんでの事。
家柄で負ける信長のひねくれによるものとされた。

桔梗紋には土岐氏の綜紋の桔梗紋と土岐氏一門の土岐桔梗紋がある。
土岐氏系青木氏は主要紋の桔梗紋である。

桔梗紋を変紋した紋様は余りにも多いのでここでは説明は割愛する。

詳細は研究室の皇族賜姓青木氏のレポート関連を一読ください。

主要紋は左隅に掲示します。
左隅をクリックすると拡大します。
家紋掲示板にも掲載します。

No.266

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-22(松紋)
第21/33番目の紋様である。

この紋様は全部で114の紋様がある。

この紋様は家紋200選にある。

この紋様のうち青木氏に関わる紋様は2つである。
この二つは次ぎの通りである。
第1番目は丸に三階松紋である。
第2番目は抱き若松紋である。元は同族で三階松紋の方が宗家となる。

この紋様の丸に三階松紋は次ぎの氏が使用している。

五条氏、岡山氏、宮村氏、石原氏、中川氏、小池氏、中根氏、内山氏、辻氏、前田氏、下島氏である。

讃岐藤原氏と何らかの遠縁による血縁関係にあると見られる。
このいずれかの氏との血縁を結んだ青木氏であり、この青木氏は次ぎの青木氏である。

この紋様の抱き若松紋は次ぎの氏が使用している。
松尾氏である。

この松尾氏と血縁を結んだ藤原秀郷流青木氏である。

北家筋の藤原秀郷氏の本家の末裔が朝廷の命にて讃岐の守護として赴いた際に護衛役として同行した藤原秀郷流青木氏で、この子孫が讃岐の土地の豪族と血縁を結び土地に根付いた一族である。
この一族は一部は領国の武蔵に戻っている。

この一族の3方がこの研究室に投稿されている。

この松紋は最初に使用したのはこの讃岐に赴任し土地に定着した讃岐籐氏と言われる一族である。
(藤原秀郷の宗家の者が讃岐守護となり土地に定着した一門の事)

この讃岐籐氏には次ぎの氏が存在する。
西隆寺氏、豊田氏、柴野氏、平尾氏、有岡氏,竹田氏、成宗氏でこの讃岐籐氏の支流の庶流氏である。
これ等の氏に関係して上記の丸に三階松紋の諸氏が存在すると見られる。

四国讃岐一帯に分布している氏である。

この四国にはもう一つの青木氏が阿波国に存在する。
藤原秀郷の末裔の宗政、時宗親子で、この親子に護衛役として同行した藤原秀郷流青木氏で土地の五瓜に剣片喰紋の青木氏が存在する。

更に、讃岐の青木氏は讃岐の海向こうの岡山と広島に子孫を広げている。
この子孫は3つの氏との血縁を結び更に子孫を広げているが、元はこの讃岐に残存した末裔の藤原秀郷流青木氏で、家紋の綜紋は元は下がり藤紋である。

この宗家は雁紋の副紋使用している。(結び雁金紋)

何れも末裔が男系跡目の継承が出来ずに家紋掟により変紋を余儀無くされた藤原秀郷流青木氏の子孫である。

この紋様は竹と梅と松の慶賀の印のもので、松の常緑樹を祝い常に緑である事を賀して子孫繁栄の印として用いたものである。

調度、器具などにも紋様として用いられている。

特に、この紋様は114もあるのは江戸時代に家紋の持たない者で家を興し武士と成ったものが用いたもので、中には先ず氏を松の姓にして後に松にちなんだ家紋として用いたものが武士では多いのである。

三階松紋にも殆ど見分けの付かない紋様が大まかには9つもある。
しかし、丸つき紋であるがこの丸なし紋の三階松紋は無い。何らかの前頭文字を入れて呼称している。
三階松紋とはこの9つの全体の呼称である。

丸に三階松紋が主要紋である。

若松紋用には4つある。抱き若松紋が主要紋である。
この抱き若松紋に付いては岡山と広島にはこの末裔の亀甲族と血縁した亀甲内若松紋の氏がある。

亀甲族とは三階松紋も血縁を結んでいる。

亀甲族は中国地方の小豪族が神社を中心にして結束して亀甲族一団を形成して生き残りを図ったが結束力が不足して分散したので少ない。

この紋様に関連して、研究室の讃岐の青木さんのレポートも参照して下さい。

この松紋の讃岐の青木氏の紋様を家紋掲示板に掲載します。

左隅をクリックして下さい。主要紋が拡大します。

No.274

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-23(銀杏紋)
この紋様は第22/33番目の紋様である。

この紋様は使用されたのは古く平安末期頃と見られ公家の紋章として用いられている。
しかし、多くは江戸時代に使用されたものである。

この紋様は79の紋様がある。

この家紋に関するものは家紋200選に無い。
家紋200選に無い事は確証するルーツと資料は明らかでない。

この内青木氏に関する家紋は2つである。
第1番目は『三つ銀杏紋』である。
第2番目は『二重亀甲に銀杏紋』である。

この79ある紋様中、この二つの銀杏紋はこの紋様を多く使用している氏から見ると安芸国に見られる紋様である。

因みに、この三つ銀杏紋を使用している氏として、大石氏、土方氏、水島氏、間部氏、長谷部氏等で夫々の氏は中国地方中部から南部にかけて分布する氏である。
忠臣蔵の大石氏、長州の土方氏、水島工業地帯で有名な土豪水島氏、などである。
参考として、間部氏や長谷部氏は下中国後漢の国の末帝献帝の子の阿智使王と孫の阿多倍王が後漢が滅亡して17県民を引き連れて大和の国(九州)に帰化してきたもので、その一団の者である。
その中には職人集団としては定住した一族が陶部氏を中心としてと共に中国地方に上陸して不戦で制圧し大勢力を持つた一団で、この時の職人集団の間部と長谷部氏である。

「二重亀甲に銀杏紋」を使用している氏は中国地方の小豪族の連合体で、亀甲紋紋は出雲大社の神文であり、出雲大社を中心として結束を固めていた氏の集合体である。
広島、岡山地方に多く分布している。

藤原秀郷流青木氏は讃岐地方から移動した氏と近江から移動した氏とがこの一族との血縁をしている。


この三つ銀杏紋の中に青木氏が存在する。
したがって、この紋様を用いられた時期から考えて、藤原秀郷流青木氏の三つの流れからの青木氏と見られる。
しかし、この青木氏の紋様は新しいので確定は出来ない。

先ず、その一つは近江国に赴任した藤原秀郷一門の脩行に護衛役として同行した青木一族で、その後に領国に帰らず安芸の国に移動したとされる藤原秀郷流青木氏が史実として見られる。

次ぎに、讃岐に赴任した藤原秀郷一門(文紀)に同行した青木氏で鎌倉期に領国に帰らず定住して、その後、末裔が瀬戸内海の海向こうの岡山、広島に移動した一族で史実として見られる。

第三として、出雲国に赴任した藤原一門の藤原宗綱に同行した同じく藤原秀郷流青木氏である。

この土地の氏と血縁した藤原秀郷流青木氏であろうと見られるが、いずれもかが混乱期を2度経ているためにルーツの確証できない。どちらにしても藤原秀郷流青木氏の可能性はあるが。

上記した血縁する武士の氏は下級武士であつた事から、発祥などは確証できず不明が多いのである。

そもそも、この紋様は銀杏の葉型が良いことから古くから家具や装飾品に使用されていたものである。

其れが公家の飛鳥氏、あるいは飛鳥井氏の紋章として家族毎に銀杏葉の使用を変えて使用されていた。其れが家紋化したものである。

使用もとは古いが一般に使用され始めたのは江戸期である。

その後に、末裔が不詳と成る江戸期に上記する一族との血縁を結んだと見られる氏である。

左隅をクリックすると主要家紋が拡大します。三つ銀杏紋

No.277

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-24(柊紋)
第23/33番目紋様である。

この紋様には全部で40の紋様がある。

この紋様に関わる青木氏の家紋は次ぎの2つである。

第1番目は抱き柊紋である。
第2番目は蔓柊紋である。

この紋様は江戸時代に用いられたものでこの紋様を最初に用いたのは
次ぎの氏である。
下野国の黒羽藩主の大関氏、と近江国の仁正寺藩主の市橋氏である。
他に山本氏、早川氏、林氏がこの家紋を使用している。

特にこの青木氏は大関氏と関係があるもので、この大関氏は武蔵の国の武蔵7党の一つの丹治氏の出であるとされる。

この丹治氏には青木氏が存在する。この青木氏は丹治氏流青木氏である。
丹党はその昔武蔵の国の守護職に任じられた丹治比氏の末裔とされる

この丹治氏は又は丹氏とも云う。
この丹治氏の発祥は、平安中期の左大臣の島が真人族(皇位継承権を持つ第5位皇子までの一族の氏階級 八色の姓制度)となつた。この後この子孫の8代目が武蔵守に任じられている。

第29代宣化天皇(6C前半)の十市王の孫の多治彦王の子供であるとされているが他説もある。
この4代目が丹党と称し後に武蔵7党と成る。
しかし、時代性が合わない。

この丹治氏から分流した青木氏であるとするのは、この左大臣島の子孫とされているので、皇族の者が下俗するときは青木氏を名乗る事に成っていることから、その子孫は青木氏を名乗ったとされる。

しかし、この島は後に朝廷より武蔵の国に配流された史実があり、この時にこの地に住みつき子孫を遺したとされる説もある。後に島は京に戻される。

武蔵の守護説と配流による説とがあるが、武蔵守であるから青木氏を名乗る前提に無い。
配流説が真人族であるが為に史実に基づくものであろうが確定は出来ない。

兎も角も、この島氏の子孫であるとするならば青木氏には異論は無い。

皇族青木氏の一流である。嵯峨期に源氏を賜姓して変名した後に第6位皇子の5家5流の皇族賜姓青木氏とは別の嵯峨期の令による青木氏である。

実質この嵯峨期の令による下俗者や還俗者の青木氏の対象者は17人に及ぶが青木氏を名乗り子孫を遺したのは確認出来る範囲としてこの丹治氏の青木氏だけである。

殆ど、比叡山か門跡寺院などにて僧侶となり末裔を残していない。

この武蔵の国と下野の国とその周辺の国には藤原秀郷流青木氏が存在する。
特に丹治氏の青木氏は同じ藤原秀郷の根拠地の入間郡に住んだとされているが、当時の慣習から見てありえず系譜を作成した時の作者の勘違いではないかと見られる。

この丹治氏青木氏は児玉、秩父、比企、に分布する青木氏であるとみられる。
此処が丹党の土地であると納得できる。

しかし、室町期と江戸期にはこの住み分けは少し壊れている。
鎌倉幕府が樹立してから一族は職と土地を失い多くは離散したので、藤原秀郷一族の鎌倉期以後の住み分けであれば入間郡の存在は考えられる。

この意味で系譜に2つの疑問が残る。

この丹治氏系青木氏が江戸期に同土地の藩主の同丹治氏の系列の大関氏との間で血縁を結んだものとされる。
しかし、この青木氏の家紋に付いては何時に「抱き柊紋」の家紋にしたかは不明で確証が取れない。もとより同紋としていたのかも。

本来ならば「丸付き紋の柊紋」も青木氏の分家として長い間に確実に起こるはずであるが、この丹治氏系青木氏には「丸に柊紋」の家紋の持つ青木氏は無い。1000年間に嫡男だけで分家がなかつたことを意味する。ありえない。
これも疑問の一つである。

賜姓青木ついては「笹竜胆」が綜紋として定められているのであるが、この丹治氏系青木氏は幾つかの家紋類がありどれが綜紋か確証も取れない。

蔓柊紋の青木氏は同土地の者であるがこの丹治氏系青木氏の系列の青木氏で有ると見られるが詳細は不明。江戸期の血縁による氏であろう。
確実なデーターは保持していない。

この柊は葉を図案化したもので葉数で分けられる。
この柊は魔よけの意味を持つものとして珍重された。

堅い木の特長から樫のと同じく昔は武具に使用していた。

左住みをクリックすると主要紋が拡大します。
又この家紋は家紋掲示板にも投稿します。

No.278

[sysop削除]
sysop(青木研究員)によって削除されました。(06/09/13 12:27)

No.284

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-25(桐紋)
第24/33番目の紋様である。

この紋様には162もの種類がある。
最も多い家紋類ともいえる。
(しかし最も少ない家紋でも在る筈なのである。)

しかし、此れには特別の事情がある。

家紋200選にはある。

この紋様の青木氏はこの内1つの家紋である。

「五三の桐紋」である。

この家紋を主に使用している氏は次ぎのとおりである。
主だったところでつぎのとおりである。

讃岐京極氏、肥後細川氏、対馬宗氏、陸前伊達氏、長門毛利氏、米沢上杉氏、
出羽織田氏、備中木下氏、土佐山内氏、金沢前氏
挙げれば切りが無い位である。

ただこれを見ると何か共通点が見える。
有名な江戸期の諸国の大大名紋である。

この桐紋のルーツを説明するにはこの桐紋を使用した経緯を先ず述べる必要がある。
それでこの桐紋の持つ意味が判ってくる。

そもそもこの「桐紋」が162も在るのに理由がある。

この紋様は桐の葉と花の紋様に分かれる。

桐に一般的に青桐と白桐がある。
紋様に用いられたのはこの白桐である。

この紋様は中国の諺から来る。中国の聖王の権威を誇張する意味でこの王が現れると瑞鳥(鳳凰)が飛来しその鳥のとまる木(嘉木の桐)とされ目出度い木とされていた。
平安期と鎌倉期にはこの桐の木の意味を重んじて、瑞祥的な意義とも云うべき意味合いを持っていた。

そこで当時の朝廷ではこの紋様を天皇の権威と合致する事を意図して天皇のみが用いる瑞祥として決定した。

その瑞祥は他にもあるがこの「桐紋様」を「竹と鳳凰」と組み合わせて一つの紋様として用いられていた。

しかし鎌倉期にこの桐紋様だけが取り出されて単独で使用するようになった。

現代でも桐箱は祝い事の品箱にするし、竹紋は祝膳などのときにも器や丁度品の紋様に特別に用いる。鳳凰も同じ時に用いるものである。

元来は天皇の着用する式服の袖元に紋様として居られていたものである。

これが鎌倉期には初期には公的な行事の天皇の象徴紋として用いられる様になったのである。それが最終この期から天皇家の家紋となつた。

ところがここで問題が起こった。
天皇はこの象徴紋様を国の功績のあつた人物にこの紋様の使用を次々と連鎖反応的に許したのである。

この紋様の使用を許された人物として有名なところで、豊臣秀吉、足利尊氏らがある。
この二人はこの桐紋を更に特に功績のあつた人物の家臣や御家人にも天皇の象徴紋を与える事をしてしまつたのである。これが162にも増える原因の一つになつた。

足利将軍より三好氏、松永氏、上杉氏、など、織田信長や細川藤考などに与えたのである。
秀吉は上記の家臣に与えた。

このために天皇家の桐紋と菊紋は結果として名誉紋となってしまった。
その内に各大名が今度はかつてにいかにも天皇や将軍や太閤から授かったかの如く振る舞いこの家紋を用い始めた。

江戸期には無法地の状態であわてた江戸幕府は禁令を発した。
しかしこれで止まるものでなかった。それどころではなく幕末には大名、旗本
をはじめとして下級武士までこの桐紋を用いることに成ってしまった。
なんと大名と旗本はこの桐紋を使用したのは1/4―1/5にも成ってしまった。
そこで、維新政府になった時はこの桐紋の使用の禁令をあきらめてしまった。
禁令の諦めの令”この限りにあらず”を発した。

維新には庶民の苗字を持つ事を許した事もあり、これと連動して家紋としても庶民までが使用することなってしまった。
あやかって最も多く使用する結果となり更に手のつけようが無くなり諦めたのである。
寺や神社などに高額の金品を積み上げて青木姓とか桐紋と系譜搾取を造り挙げてもらい偽証明してもらって届け出た。収拾がつかなくて全て黙認である。

この時にも、嵯峨天皇の詔の禁令のあつた1000年以上続いた皇族系に与えた青木氏の使用も、この時を境に無法地となり多くの第3の青木氏が生まれたのである。

維新政府はこれに困り果てて、結局、桐紋は天皇家の方の紋様を副紋扱いにせざるを得なかつた。そしてこのことをまたもや官報で発令した。

これで一斉に庶民が自由にただで使える様になつたのである。

これが桐紋の経緯である。

桐紋には多少遠慮して桐紋を少し細工して変えて使う者もあつた。

桐紋には、葉とつぼみを変化させて、五三の桐を主紋として、五七の桐、五四の桐、九七の桐、七五三の桐、十三七の桐などがある。

桐紋は維新後の紋様であるので、この青木氏に拘る家紋の五三の桐紋は第3の青木氏であること以外は考えにくく日本全国に分布して大変多いのである。

家紋の使用年代から見てもこの青木氏の系譜や出処や宗派などにも矛盾が多いので明確に判別できる。桐紋の青木氏にはルーツとしての根拠が無い事になるのでルーツの検証は困難である。

何れも天皇家の禁令の五三の桐紋と禁令の青木氏の姓ではいかにも天皇家皇族筋としての家柄として見える事による。

しかし、不思議に5家5流の皇族賜姓青木氏と11家11流の源氏の綜紋の「笹竜胆紋」の使用の搾取偏纂は少ない。
原因は11家の源氏の直系子孫が殆ど絶えた事などそのルーツの理由付けが困難であつたことによるものではないか。
5家5流の青木氏が「笹竜胆紋」を引き継いでいる現状である。

(なかには太田氏、武田氏、足利氏、新田氏などが清和源氏の末裔としているが家紋類は異なり同様に支流血縁族が存在するのみである。)

桐紋と同様に禁令中の青木氏も室町末期と江戸初期の混乱期にも戦国期にのし上がった者が家柄獲得の搾取偏纂で青木氏を名乗った者がいるのも事実である。
しかし、青木氏の使用は比較的桐紋と違って守られていた。それは皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏の発祥地などが明確に限定されていたことにより矛盾がでた事による。

この「五三の桐紋」の青木氏が多い事によりここに掲載した。

左隅に五三の桐紋を掲示します。左隅をクリックして下さい。拡大します。
家紋掲示板にも投稿します。

No.295

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-26(鱗紋)
第25/33番目の紋様である。

この紋様は全部で26ある。

この紋様のうち青木氏に拘る紋様は次の1つの紋様である
「丸に三つ鱗紋」である。

この紋様は家紋200選にえらばれている。

この家紋は鎌倉時代の執権北条氏の家紋である。

この北条氏は前北条氏と後北条氏とがある。

この北条氏の末裔の分流は平野氏、江間氏、岡野氏である。

この北条氏は鎌倉幕府の執権として1333年まで維持したが、この北条氏は平家(たいらぞく)の清盛に追われ伊豆に流罪となつた清和源氏の源頼朝の引き受け先となつた氏である。

この北条氏は「坂東八平氏」として関東千葉地方からこの伊豆付近までを勢力範囲とする8族の平族(ひらぞく)である。

この「坂東八平氏」のルーツは奈良時代から天皇家の第7世以降の皇族から下俗した氏で、天皇が代替わりするたびにその天皇から数えて7世以降になつた者が坂東の国々に移動させられた者で土地に根付き氏を発生させた元皇族の者であつた。
これ等のものは勢力を拡大して8つの族を形成した。この8つの族を「ひら族」と言う。つまり「ひら」に下がったことを意味する総称である。

ひら族の坂東八平氏に付いては研究室の「京平氏と坂東八平氏」のレポート参照

参考として、付帯すると
では平清盛らの「たいら族」の由来とは次のとおりである。
大化の改新の時代に中国北東部と朝鮮を勢力範囲として国を樹立していた中国の後漢国がありこの国が滅びた。

後漢は、漢国が滅びたがこの中で光武帝という将軍がいた。この将軍は滅びた漢の民を集めて東部地域に引きこもり国を作りその勢いで三韓(馬韓、弁韓、辰韓)攻め落として後漢という国を樹立、この国は640年頃にまで21代続いた。「光武帝」より末帝の「献帝」までである。

献帝には阿智使王の子と孫の阿多倍王がいた。
この子孫を守る為に阿智使王と阿多倍王に後漢の国の17県の民(200万人)を引き連れさせて、北九州に上陸してきた。

この一団には武力集団から始まり技能、官僚、など全ての国を構成するに必要とする高く進んだ集団から構成されていた。

この集団の首長の阿智使王と阿多倍王は戦いを避けて帰化を朝廷に申し出た。
この集団は瞬く間に九州全土を無戦で制圧し引き続き中国地方をも制圧した。

大和国66国のうち32国を制圧した勢力をもち朝廷にその圧力を加えて認めさせます。

しかし、殆どは無戦で進んでその配下に入る地方の豪族が殆どであった。
その理由はこの集団の能力にあった。

軍事、政治、経済での高く進んだ知識と技能を土地の者に普及させて生活力を高めさせたのである。
現代の第1次産業の殆どはこの集団が持ち込んだものである。

この集団の首長の阿多倍王らに付いては日本書紀にも度々出てくる。
(大隈の首長の阿多倍)

この阿多倍王は敏達天皇の曾孫の子の娘を娶り3人の子供を生む。

阿多倍は准大臣にもなり、子供の長男は朝廷の軍事の長として坂上氏の賜姓を受けます。次男は朝廷の財務関係の長として大蔵氏を、三男は天皇家の執事としての内蔵を担い内蔵氏の賜姓を受ける。

この当時の政治体制は「3蔵」と呼び2つまでをその高い進んだ官僚知識で担った。

朝廷はこの阿多倍王に伊勢国を1/3にして伊賀北部の半国を与え「不入不倫の件」を与え半国司とさせる。

この阿多倍より3代目の貞盛が武蔵国の押領使(軍事と警察)として任務についていた。
この時、坂東平氏の5年間の「平の将門の乱」が起こり藤原の秀郷(下野の押領使)とともにこれを制圧します。誰もこの戦いにすすんで戦わず苦戦の末に鎮圧。
平貞盛と藤原秀郷らは朝廷に2つの条件を認めさせた上で戦った。

条件とは1つは貴族にすること。2つは武蔵と下野国を領国とすることであつた。
貞盛は朝廷勤めになりその子供は国司になった。

この勲功にて貞盛は出世して5代後には平清盛になり太政大臣まで上り詰めた。

これが桓武天皇の賜姓族の「たいら族」(ひら族扱いの意)である。
本来であれば第6位皇子を賜姓するのが慣例であるにも拘らず、桓武天皇の母(阿多倍王の孫娘)である実家先を引き上げて坂東の7世族「ひら族」に習って渡来人を「たいら族」として平氏を賜姓した。

この集団の官僚の政治知識でやつと桓武天皇期に日本の律令国家が完成した。
賜姓したのはこの勲功もあつた。

この「たいら族」の賜姓に対し、嵯峨天皇期からの第6位皇子を賜姓源氏(桓武期の賜姓平家族に対して次の子供の嵯峨天皇)に変名して戻した。
(この時、青木氏は皇族関係者が下俗するときに名乗る氏として詔を発す。)

この嵯峨天皇から九代目の清和天皇の第6位皇子の経基王が清和源氏の賜姓を受けます。
この3代目の宗家頼光より4代目の源三位の頼政がこの伊豆国の守護となった。この時にここを護衛した賜姓伊勢青木氏の子孫の一部がこの地に定住した。

また、頼光の弟の頼信が甲斐の国の守護を兄から譲られて守護となり、勢力を拡大するために坂東平氏を圧迫して、その4代目の子孫は此処伊豆東部に坂東制圧の拠点を起く。(坂東八平氏は関東東よりに圧迫される)
この時にも、甲斐の賜姓青木氏の一部が護衛してここに定住した。

この地より以東の神奈川横浜には藤原秀郷一族の青木氏が定住した。
(1180―1195年代)

後には、神奈川横浜には甲斐の諏訪族青木氏も織田信長の追求を避けて落ち延びてきた。(1560年代)

この付近一帯には4つの青木氏が存在することに成る。

そこで、この「丸に三つ鱗紋」の青木氏のルーツは次の検証する。

鱗紋は三つの鱗を組み合わせたものが主要紋である。
つまり、北条氏の「三つ鱗紋」です。「丸に三つ鱗紋」はこの分家ですから本家では有りませんので血縁するとしては氏家制度から本家筋かとの血縁に成るのがこの時代の慣習である。

よって「三つ鱗紋」の青木氏がないのはこの慣習が乱れた時期であり、1330年代以降の10年余りの出来事と見らる。

つまり、清和源氏滅亡した後の北条氏滅亡直前で足利氏に移る間の時期に血縁を結んだことが考えられる。

上記上2つの賜姓族青木氏のいずれかがこの北条氏の末裔と血縁し2代続きの男系不継承で女系化して、止む無く家紋掟で養子先の家紋継承となったものと見られる。
この青木氏の村を形成している定住地から見ても充分に頷ける。

要するに北条氏の子孫が絶えない方策として滅亡の混乱期に血縁にて分家が賜姓青木氏を選んだと見られる。

北条氏の血筋を引き受けた賜姓青木氏であると見られる。
この家紋は鱗の数で紋様を変化させているが、北条鱗紋の三つ鱗が元である。

左隅にこの青木氏の主要紋を掲示します。クリックしますと拡大します。
家紋掲示板にも掲示します。

No.306

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-27(橘紋)
第26/33番目の紋様である。

この紋様は全部で85の紋様もがある。

家紋200選に選ばれている家紋である。

この橘紋にかかわる青木氏は1つである。

先ずこの橘紋の発祥の由来から述べる。
この橘紋の橘氏は敏達天皇の5世の孫(美努王)の妻の県犬養の三千代が和銅元年(708)に「八色の姓」(皇族の血筋を受けた血縁者の氏を真人族をはじめとして八の階級に分ける制度)により宿禰の姓を賜った。

そして、この時「橘」の氏を名乗った。つまり、「橘の宿禰」族である。

この「八色の姓」とは
真人族(まさと 皇族の第5位までの皇子で皇位継承権を有する身分の族)
朝臣族(あそん 皇族の第6位の皇子で皇位継承権を有しない身分の族 青木氏と源氏 奈良期の臣になりうる氏)
宿禰族(すくね 何らかの縁者や血縁を受けた氏の身分にある族で奈良期の連に相当する)
忌寸族(いみき 渡来系の氏で皇族と血縁を受けた漢氏、東漢氏、直文氏、坂上氏、大蔵氏、内蔵氏、永嶋氏、阿部氏などに与えた姓。国造や軍事や財政の官職を司る官僚の氏 皇族関係の娘を娶つた渡来系氏)
道師族(みちのし 上記以外の皇族関係族とのなんらかの遠縁の血縁を受けた末裔族 実際にこの姓の氏は存在しない。越の道師などの名が古書に見られる。)
臣族(おみ 道師と同じく又遠縁族で地方の大豪族で娘が何らかの形で皇族子孫を遺した氏であるが現実にこの階級以降は不詳で子孫は存在しない。)
連族(むらじ 臣と同じくして、娘の身分にかかわる中豪族の階級)
稲置(いなぎ 連に同じくして、娘の身分にかかわる小豪族の階級)

以上が天武天皇が定めた身分階級である。

橘氏は第7世の皇族関係者である美努王(みぬおう)妻の子供であるので「宿禰」となる。

この子孫が葛城王と佐為王がこの橘姓を受け継ぐ。

第6世まで皇族関係者として扱われ、第7世以降は臣下するか下族する事になる。関東方面に移される。これが平族(ひらぞく)後の坂東八平氏である。
(本来は天智天皇から第4世以降をもって王を名乗ることを禁止した。)

故にこの葛城王は後に諸兄(もろえ)と変名した。左大臣まで登る。
しかし、この橘氏は藤原一門との勢力争いで潰され排斥されて滅び子孫は極めて少ない氏となる。

後に嵯峨天皇期の令により、僅かに遺したこの一族の末裔が青木氏をなのったものである。平安末期のころである。
この橘氏一族も非常に少ない氏の一つである

この氏は別にある武蔵の武蔵7党の一つの丹治氏(左大臣の島王の青木氏)の「皇族青木氏」を含め身分が下がるが皇族関係者の唯一の賜姓族ではない「皇族青木氏」である。

実際には鎌倉末期までに17人の青木氏を名乗れる皇族関係者がいたがこの二つ以外の子孫の末裔は確認出来ない。僧侶などにて終わった事による原因である。

この橘は橘の葉や花を家紋化したものであるが、家紋の由来は垂心天皇の命を受けて「多遅間毛理」(たじまのもり)が中国に赴き持ち帰ったものである。

この「たじまのもり」が「たじまの花」となり「橘」に変化したものと言われている。

橘はみかんの原木である。別名「左近の桜」という。平安京の紫しん殿に植えられていたためになずけられた。

橘氏の橘紋は江戸期に入って徳川氏の支流や御家人らがこの宿禰族の橘氏の家紋を真似て85もの紋様となつたのである。
橘氏の橘紋の使用は橘氏と青木氏のみである。(第3の橘氏を除いて)
桐紋と同じ様な経緯を辿っている。

しかし、平安期には4大勢力として藤原氏、源氏、平家、橘氏であったが、後に平氏と共にこの橘紋は藤原氏に圧迫されて子孫が抹殺されて遺せなかつた氏としてつたわり、縁起が悪いとして後に使われなくなりこの紋の使用は消えていった。

左にこの橘の家紋を掲示します。左隅をクリックして下さい拡大します。
家紋掲示板にも同文を掲示します。

No.312

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-28(釘抜き紋)
第27/33番目の紋様である。

「釘抜き紋様」である。

この紋様には20の家紋種がある。

この紋様は家紋200選に選ばれていない。

この20紋様のうち青木氏に拘る紋様は1つである。

この紋様は「釘抜き紋」である。

この紋様は江戸時代に発祥したものである。

この紋様を使用している氏として次の氏が挙げられる。
松平大給氏であるが、滋賀の宇多源氏佐々木氏の末裔の木村、池田、横田氏の3氏も使用しているとされているが江戸期の搾取偏纂の多い時期であるので佐々木氏が何故に木村氏、池田氏、横田氏に変名したかはその真偽は確かでない。

通常はよほどのこでなければ佐々木氏からの変名はない。
佐々木氏についは近江の佐々木氏と滋賀の佐々木氏がある。
近江の佐々木氏は皇族賜姓青木氏の第6位皇子の伊勢の青木氏と同じく、天智天皇の第7位皇子で特別に賜姓を受けた近江王の皇族賜姓族であり、地名の佐々木を採って佐々木氏と賜姓を受けた氏である。
宇多天皇期には滋賀王として佐々木氏を賜姓した。

この青木氏は皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏との2つの流の青木氏とは異なり、江戸初期の家紋、系譜の混乱期に出た第3の青木氏と見られる。

つまり、農民や一般庶民や下級武士の家紋系譜の確かでない者が戦国時代の世を経て武士となり身を立て家を興した者が御家人や中級武士となり仕官することで家紋と系譜を必要となり作り上げたものである。

この現象は明治初期にも爆発的に起こる。

青木氏や藤原氏などの氏を広く使われた。
特にこの青木氏は皇族賜姓族として高位の氏である事から嵯峨期からの朝廷の禁令にもかかわらず無視して附けられた。
この時、江戸幕府はこの使用を形式的に使用を禁止したが天皇家の象徴紋の桐紋と同様に守られなかつた。

特に、その使用は特長として、伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の地方の5家5流の皇族賜姓青木氏24氏の存在するところと藤原秀郷流青木氏のある24地方の所でも多く起こったものである。

これはその地方から出てきた者が土地の有力家紋を使用して、いかにもその末裔であるかの如く装う事から、神社仏閣に高額な金品を送り搾取偏纂したものである。

松平の支流の大給氏の家紋であるがこの一族と血縁して跡目を採り男系跡目が2代続きで女系となり松平の養子先の家紋と成ったとも考えられるが、この時期の家紋掟の遵守度合いから鑑みてわざわざ「笹竜胆」や「下がり藤紋」から変紋することをしたとは考え難い。

更に、宇多源氏の末裔として滋賀の佐々木系青木氏の末裔とも考えられるが、
その氏の分布状況からして考え難い。

この青木氏はその分布が特定し難いが、あえて記すると江戸期の松平大給氏の分布する中部から関東付近に多い。
故に藤原秀郷流青木氏の氏を搾取した傾向があり、家紋をその大給氏の家紋としたと考えられる。

上記の2つの青木氏の特長としての青木村の存在が必ずあるが、この青木氏の族としての集団で住む青木村はない。また、室町以前の存在は確認出来ない。
室町期の法秩序の乱れた戦国時代を除いて、民の移動は国の生産高の確保を図るために「国抜け」として堅く禁じられていたのであり、関所などを設けて自由に移動定住することは出来なかったのである。故に親族は固まって一箇所に定住する事になるのである。
つまり、「釘抜き紋」の青木村が存在しないのはこのことから上記2つの青木氏でないことの証にもなる。

又、当然にその村の青木氏には親族縁者関係の固定の宗派が出来る。この「釘抜き紋」の青木氏はこの浄土宗か浄土真宗(藤原秀郷流青木氏の一部)以外の
宗派である事からも上記2つの青木氏でないことの証である。
上記2つの青木氏は各地に夫々一族の自らの菩提寺を持っているのである。
この釘抜き紋の青木氏には確認出来ないことも証に成らない一つである。

宗派変えは伝統のある家柄を守る為に余程の事でない限り行わない。

しかし、江戸幕府は特に特定氏の宗派であつた浄土宗を保護するために上級武士に対して入信することを許して奨励した。

上記2つの青木氏の存在する青木村は合わせて集約するとその土地は史実と一致して70近い青木村を形成している。
この「釘抜き紋」の青木氏はこの中に含まれない。
この様にその根拠の検証を確定できるものがみつからない。

この家紋は大工道具の釘抜きから家紋としたものであるが、この紋様から観てもその前身の出生を予想できる。
他のこの20の家紋を使用しているご先祖にはその先祖はこの紋様に纏わる職種に携わる氏が明治以降の内容から多く確認出来る。

この紋様には「九城抜き」として縁起を担いだとするものと、「釘抜き」として千金の意味をつけるものとして明治以降の言い伝えとしてあるが、全て後から託けてつけられた言い分とされている。

「升紋」や「角字紋」や「隅きり角」などと同様の江戸時代の「職業紋」の一つである。
この種の職業家紋は鎌倉期以前の上級武士の家紋を持つ氏にはないが、江戸期初期と明治初期の家紋類に多い事からもその出生は覗える。

この氏の家紋の氏は比較的多いので此処に記した。

この家紋を左に掲載しているがクリックすると拡大します。

No.315

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-29(文字紋)
第28/33番目の紋様である。

この文字紋の紋様は全部で391もあり家紋類の中では最も多い紋様での一つである。

この家紋類は家紋200選には選ばれていない。

この紋様のうち青木氏に関わる紋様はただ一つである。
其れは角字紋様の角青字紋である。

この角字紋様は文字紋様の半分を占めるもので180もの家紋がある。

この180の家紋の内の一つで「青」の字を角字で表現したものである。

そもそもこの文字紋様は最も最初に史書籍から確認出来るのは南北朝の室町中期ごろの書物から覗える。
この時に使用された文字は「一」(いち)で物事のはじめを意味するものとして尚武的に用いられたものと言われている。
ここから「勝」を意味するものとして武具類の紋様として用いられ始めついには家紋となつた。
この意味合いと同様に「三」も書籍に出て来る。

この文字紋様には大別すると12程度のパタ−ンがある。
一文字、三文字(2)、八文字、九文字、十文字、卍、大字、山字、丸字、亞字、角字となる。
十文字紋までのものは古代から家紋とは別に紋様として家具類などに用いられたものてあるが、家紋化したのは室町末期からで江戸初期に掛けて頻繁に広まった。
それ以外の家紋は江戸中期から明治初期にかけてであり新しいものである。

特にこの青木氏に関わる角紋を含む180の角字紋は江戸後期から明治の初期に出てきたもので、初期には家紋と言うよりは屋号紋として用いられ始めたもので明治初期の苗字令から家紋化したものである。
一種の職業紋として分類される。

この職業紋の「角青字」の家紋は「姓」から家紋化したものというよりは職業の中で「青」に関わる職業、例えば木や野菜や染色や大工などの関係する職業から出たものとされている。

30年前ぐらいまではよく大工職のハンテンの背中の紋様で見かけた。
またこの角字は亞文字(ふつ文字)から変化した紋様であろうことは直ぐに判断がつく。

この亞文字は中国の官服の袖などに使われていたが、日本では神社仏閣の欄間などの文様として一般的に使われるなどして用いられた。
ついには明治ごろから一般の家屋の欄間や敷戸などにも用いられた紋様であるが、後に角文字紋としても変化を遂げたものである。

この様に、角字の180の紋様は現代の相撲の四股名の字体と似ている様に庶民の家紋化の流行の流に乗ってでて来た物である事は明らかで、角字紋の角青字の青木氏は明治までの職業紋から苗字令にて「青」字から青木氏を名乗ったものである。

28番目の釘抜き紋の職業紋と同じである。

この青木氏は江戸を中心に関東に確認出来るが、現代ではその住み分けは職業紋であることで村を形勢する氏的かかわりがないことも含めて確定は出来ない。
同紋であっても必ずしも縁者とは言えず氏を形成する家紋類ではない。

一種の伝統を引き継ぐ職業であるので当時はこの角字の青紋はこのような庶民の伝統継承紋として扱われた。つまり、その職業の名誉紋でもあった。
現代と違いその伝統的職業は一種のシンジケート的枠組みのなかにあり伝統紋として扱われたものである。

明治以降には時にはその伝統の苗字を血縁的なもので無くても子弟的継承で名乗る事が多く起こったのである。
よって、そのルーツ確定の検証は出来ないのである。

実は筆者の祖父の職業の弟子が数人この慣習にて基の姓を捨てて青木氏を名乗り現代でもその子孫は多く広がりを見せている。

そして、その子孫はその先祖を筆者の祖父を祖としていて、その出生場所も祖父の居た若い頃の土地を故郷としている。現代にてもその内の一人のその3代目の人と筆者とは面識がある。
又、このサイトの来場記念欄に別のその一人の末裔が記帳している。

このように、この青木氏は「釘抜き紋」と同様に確認出来る第3の青木氏であるが、氏としての意味合いよりその出生の意味合いが特殊であるので此処に記した。

第3の青木氏にも「釘抜き紋」や「角青字紋」やこれからレポートする幾つかの職業紋としての特殊性のある青木氏として確定できるものもある事なのでも此処に記することとする。

左隅をクリックすると拡大します。この家紋は家紋掲示板に投稿します。

No.336

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-30(葵紋)
第29/33番目の紋様である。

この紋様は全体で85の紋様がある。

この紋様の内青木氏に関わる紋様は次の一つである。

立ち葵紋である。

この紋様は家紋200選に選ばれている。

元来、この葵紋は加茂神社系の神紋として用いられていた。
葵は葵科に属する植物でこの紋様は主に花と葉を紋様化したものが多い。
加茂神社は二重葵を神紋としているが元はこの神事に用いたのが始まりとされていて一種の信仰的植物として崇められていた。榊や青木等の神木と同じである。

資料から観ると最初に家紋として使用したのは丹波の国の土豪の西田氏であるとされている。

これを戦国時代に徳川氏の元祖の三河の松平氏が用いたと成っていてその使用の背景を探るとその先祖は三河の加茂神社の神官であつた事から出世の際にこの神紋を家紋としたと成っている。
特にこの立ち葵紋は松平氏の一族の本多氏が最初に用いたとされ、その後に徳川氏の時代になってこの紋様が権勢の象徴と成って一族の家紋の綜紋となつたものである。

後に松平氏や伊奈氏も含む一族縁者でもこの紋を使用する事を遠慮した。

そして、この紋を理由許可なく使用する事を幕府は禁じたので流行はしなかつたが、関係する一門が統一して使用する事になり葉と花と芯の数で変化をつけて見分けがつくようになり85もの紋様となつた。
(参考 皇族賜姓青木氏や皇族賜姓源氏の綜紋の笹竜胆紋は嵯峨天皇期の朝廷より氏とこの家紋の使用を詔で禁じ概ね明治初期まで守られた。)

徳川氏の子女の婚家や養子先や一部親族に特別に使用を許したが一代限りの家紋とされた。

この立ち葵は本多氏の家紋であり、その出何処を調べると加茂神社の寺紋であるが信濃の善光寺の寺紋でもある。
他にはこの立ち葵紋を使用しているのは平井氏、山田氏である。
つまり、この本多氏はこの善光寺系の三河の神官の末裔であるから、此処でつながっているのである。
立ち葵紋にも種類(7)が多いのでどの立ち葵紋かはよく見なければ判断が付き難いほどである。
7/85種類ある。

本多氏は丸付きの本多立ち葵紋である。更にこの分家筋もこの紋様に花紋をつけている。
この本多氏の丸つき紋は結局は信濃の善光寺の支流分家を意味するものである。

この青木氏の立ち葵紋は善光寺の寺紋や平井、山田氏の家紋と同じである。この平井氏や山田氏は江戸期中期ごろの氏でこの氏の出生元はこの信濃の出である事から本多氏と同様にこの寺の親族関係者から出た一族の氏ではないかと見られる。

平井氏や山田氏はこの本多氏と葵の同紋種を使用していることから何らかの血縁関係にあるとみられる。
よってこの立ち葵の家紋を持つ青木氏はこの信濃の善光寺関係の氏との血縁で生まれた青木氏となる。そうなるとこの青木氏は信濃の青木氏である。5家5流の皇族賜姓青木氏の一つの信濃王の末裔のという事になる。

つまり、信濃には青木氏は3つの青木氏が北と中央と南に住み分けて存在する。
北の国境付近の青木氏は皇族賜姓青木氏と足利氏との血縁で出来た足利氏系青木氏であり、中央は皇族賜姓青木氏の本家筋の青木氏が、南の国境付近は藤原秀郷流青木氏が村を形成して定住していた。

一部諏訪地方には甲斐の武田氏系諏訪族青木氏となった皇族賜姓諏訪族青木氏が居るがこの氏は末裔を明確にしているのでこの青木氏ではないことは判る。

上記3つの青木氏のどれかであるが確定し得るものはない。しかし、善光寺寺紋とする事からこの寺に関係の薄い青木氏は藤原秀郷流青木氏で地理的にも離れている。

平井氏や山田氏は藤原秀郷流一門の116氏からは室町期前において見つけることはできない。

だとするとこの二つの氏のどちらかとの血縁関係を結んだ足利系青木氏か皇族賜姓青木氏かのものと成る。

足利系青木氏は3つの国境の所に分布しているし、本家筋は足利家の本家筋から追われて美作の国に移動している。

(此処でこの足利氏は本家と藤原秀郷一門の後押しを受け跡目をいれた分家筋とで本家争いが起こり本家筋が負ける事になったので止む無くこの一族郎党は西国に逃げ延びた履歴がある)

よつてこの事から考えて室町期から江戸期前にしてこの青木氏が山田、平井氏との血縁は確立として少ない。
このことから残るは皇族賜姓青木氏の分家と善光寺関係の主要氏子の山田、平井氏のどちらかと血縁を結び、この青木氏が男系跡目が出来ずに一時2代続きで女系となり、家紋掟から養子先の家紋に変紋を余儀なくされたものと考えられる。

(皇族賜姓青木氏の綜紋は大化期(647)より笹竜胆紋である)

皇族賜姓青木氏5家5流の支流24氏の一つでは無いかと考えられる。この氏の血縁は比較的新しいので先ずは間違いはないとみられるが完全な確定は出来ない。

この信濃では比較的少ない家紋の支流氏で新しいこともあり他の青木氏と異なり村的な存在は確認出来ない。

信濃に於いては皇族賜姓青木氏を中心に足利系青木氏や前記した武田氏系青木氏の皇族賜姓諏訪族青木氏が目立つ。
しかし、この立ち葵紋を変紋した家紋の青木氏が1つしかないのは青木氏は現在に於いても数少ない青木氏の子孫である事になる。

左隅に家紋を掲示します。左隅をクリックすると拡大します。
家紋掲示板にもこの家紋を投稿します。

No.365

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-31(梶の葉紋)
第30/33番目の紋様である。

この紋様は59もの紋様がある。

家紋200選には無い。(神紋系)

家紋の基には沢山のパターンがある。
例えば、神木を基とする笹竜胆紋(青木氏と源氏)等の神木紋、高位の色を基とした藤紋{藤原氏)等の色紋、元の職業を図案化した職業紋、土地がら植物を基とした植物紋、経緯と歴史を基とした歴史紋、寺等で使用した寺紋、古来使用されていた儀式紋、等がある。

この紋様の違いで概ねの時代性とルーツがわかる。

この神紋は神社が土地に対し権威を持つ時代にその末裔が武士に成り子孫を広げてた一族である。

平安時代では皇族賜姓青木氏や藤原氏と藤原秀郷流青木氏は自らの寺と神社を持ち各地に移動した後にもそこに寺と神社を移動させた。
そして、その寺や神社の住職や宮司は自らの一族の者が勤めた。
そして、その一族が氏家制度のもとに家柄を保ち純血を保つ為に一族と縁者関係で血縁を行って来た。

この立ち梶の葉紋の一族もこの氏家制度の中で行われて子孫の純血を保ってきた青木氏である。

この59紋様の内青木氏に拘る家紋は1つである。
立ち梶の葉紋である。

史書によると諏訪明神の神紋とされていた事が覗える。
つまり、梶は古代布や紙の原料として使用され、梶の皮は白和幣(しらにぎて)を作ったり神様の幣に使用したりしてしているところから平安末期ごろから神紋と成ったのではと考えられる。

従って、諏訪地方の信濃と諏訪族が武田氏の系列に入った頃から甲斐地方の武士にも普及したものとされる。

この家紋は主に各地の諏訪系一門が使用したが高嶋の諏訪氏、信濃の諏訪氏、甲斐の諏訪氏、平戸の諏訪族(松浦氏)や安部の安部氏の支流諏訪氏のこれ等の血縁を持つ支流一族が使用した。この支流で例えば、保科氏、下条氏、丹比氏などがある。

この紋様は葉と幹と根から出来ている。葉は5葉が基本である。

この立ち梶の葉は5葉であるがこの5葉タイプは12家紋ある。

諏訪氏の三つ葉根有の梶紋とこの立ち梶の葉紋が主流である。

この諏訪族には諏訪族青木氏の抱き角紋があるが、この諏訪族青木氏は信濃王を元祖とする皇族賜姓青木氏と信濃の「抱き角紋」の諏訪氏との血縁で発祥した青木氏である。
関東地方の横浜、神奈川、栃木、群馬、埼玉、茨城などの各地にこの末裔が子孫を拡大している。

「立ち梶の葉紋」の諏訪族青木氏は武田系列には入った後に甲斐に定住した甲斐の諏訪族と甲斐王を元祖とする皇族賜姓青木氏との血縁で発祥した諏訪族青木氏である。
甲斐地方に子孫を維持している。

研究室にもこの抱き角紋の諏訪族青木氏は数人投稿されているが、この立ち梶の葉一門は武田氏盛隆時の甲斐での諏訪族であるので比較的に末裔は少ない。

この何らかの男系女系を問わず諏訪族の血縁を受けた梶の葉の一族では現代では30程度の家紋が確認出来る。

左隅をクリックすると拡大します。家紋掲示板にも掲示します。

No.376

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-32(角紋)
第31/33番目の紋様である。

角紋である。

この角紋様は全部で47紋様がある。この中で青木に関わる家紋は一つである。

隅切り角紋である。

角紋はそもそも幾何紋様を図案化したものである。

主に正方形を色々と工夫して紋様化したもので、角持ち、中抜き、四隅切り、反り角、中抜き、がある。
他に六角形、8角形、がある。
4辺組合わせ、2長方形組合わせ、正方形と円形組み合わせなどがあり、多数である。

この紋様は衣服や建物や家具に用いられたものが家紋化したものである。
明治以降の建物にはこの紋様が多く用いられており特に商家や職人の家などには白と黒の漆喰でこの紋様が描かれている。
玄関の入り口の板塀の上の壁とか「うだつ」等にもこの紋様が用いられている。

つまり、この紋様の使用の習慣はその職業の関係するところに用いられている。
この漆喰で形採る紋様を使用しているのはかなりの財産家の家などに見つけられるもので一般には余り見かけない。
昭和では単純な紋様としての使用であったが明治初期前後付近からはその職業の集団のステイタスとを表すもので身分や位の象徴として用いられていた。
現代でも、田舎の豪邸の家の壁にはこの紋様の漆喰壁が見られる。

そもそも、漆喰は現代でも日本式建物でも佐官職がするが大変高価になりなかなかこの漆喰壁は見つけることは難しい。日本の気候に合ったこの漆喰の壁は昔はお城の壁などに用いられていて其れも財力のある大名の城であり、多くは城の側面は「焼き杉板」であつた。それだけに昔は更に高価でそこにこの紋様を描くだけでもそのステイタスはわかるものであった。


この紋様と他の家紋を組あわせて紋様化したものでその下地になった紋様である。

必ずしも、「合わせ紋」であるので角紋と血縁化したという事ではない。おもに上記した様に下地紋として用いられた。

つまり、氏の発祥を意味する家紋には色々と意味を持たした紋様があるが、この紋様は単純な「文様タイプ」である。

この紋様は江戸中期から明治初期に掛けて家紋化したものである。
元より、室町期から出てきたこの紋様を利用した家紋があるがこの家紋から抜け出して一つの家紋化したもので、当然、明治初期の家紋ブームで生まれたものである傾向が強い。

特に、この家紋はその図案化した元から見て「職業紋」とした傾向が強く、その元は家紋としてではなく、そま職業のグループの集団のステイタスとして使われ、はっぴばんてん類に染めこんだものである。

この「はっぴ」や「ばんてん」等はその紋様を使えるにはその職業の匠などになれたときに使用を許されたものである。

これが、一つの伝統となりその者が遂には家紋化したものである。
そのグループを示すものとして正方形の形を変えて図案化したものをグループ化したものである。

家紋はその紋様に意味を持ち持たしているが、この紋様47には意味はない。
正方形パターンは26/47もある。

この殆どの角紋にある文様の中に色々な紋様を入れて家紋化して「角に何々紋」としているが、このステイタスの職業紋は庶民がこの中の合わせ紋を外して外側だけを用いてステイタス紋として使用したものである。

この隅切り角紋のタイプの青木氏は第3青木氏である。
そのルーツは確認出来ない。
その理由としてその職業の親方か或いは長者や責任者などがこの紋様の家紋を維持していたが、その職業を他人の弟子の優れた者に譲り又譲るという形式を維持してきているので、そのルーツは確定できないのである。

一代限りという事もあるので、特定は困難である。
この青木氏は家紋と一致すると言う事ではないので、第3青木氏を苗字令で明治初期に青木氏を名乗ったものである。

「青字紋」等と同様に家紋の持つ意味が特異であるので、職業紋の例として記述した。
左に隅切り角紋を掲示します。
左隅をクリックしますと拡大します。
家紋掲示板にも掲載します。
No.367
樫の葉の家紋の件(代理投稿)
367編集 追加
貴島明美さん 今日は。始めまして。

家紋掲示板に質問されていましたのでこちらで代理投稿します。

お問い合わせの家紋の樫の葉の家紋を調べましたが、見当たりません。
日本の各地の家紋を集めた家紋の数多い文献を調べましたが見当たりません。
青木氏に拘ること以外ですので専門外ですので、他の文献を良く調べても有りません。

家紋8000程度が明治初期ごろに出来ました。この家紋8000選が載っている幾つかの文献にも有りませんでした。

結論としては、かなりある地方の土地に限定された家紋であると見られます。
鷹の羽の紋に似ているとの事ですが、家紋としては葉が交差していなければ「抱き樫の葉紋」と呼ぶことに成ると思います。交差していれば「違い樫の葉紋」と呼ぶ事になると思います。

つまり、多分、このパターンの家紋が明治初期以降の家紋の中には多いのです。
植物紋系の家紋ですので少なくとも江戸初期以降の家紋であると見られます。

このパターンから”ご先祖の出身地が何処であるのかで、”その地方の主要家紋に似せて家紋化したことが考えられます。明治の家紋はこのパターンが多いのですが。
だとすると、その地方の図書館や地方の資料館でわかる事に成ります。

次に、確かに、樫の葉であるのかをお調べください。良く似た植物家紋が多いのです。
樫の葉は細い葉ですので、青木氏にある植物家紋で柏紋も樫の葉に似ています。多分見分けが付き難いと思います。
「違い柏紋」か「抱き柏紋」である可能性も残されています。柊紋である事も考えられます。
この家紋は大変多い家紋の一つです。

貴島さんと言う氏姓は父上の本家の氏でしょうか。其れに依っても上記の事が違ってきますのでお調べになり、そのご本家筋の菩提寺に行かれても判るかもしれません。

家紋8000にも無いというのは疑問が残りますので、一度この2つのことをお調べに成るとよいと思います。
No.362
ルーツ探訪(東京の青木さんの代理投稿)
362編集 追加
>東京の青木さん 2006/07/24 (月) 10:42
>はじめまして、東京の青木です。

>現在は東京に居りますが、祖母、母は宮城出身です。
>祖母から、おじさんが調べたら、昔は埼玉にいたけど、
>殿様が死んだとき、一緒に死んで、子供を宮城に逃がしたらしい。
>それより前の先祖は調べられなかった。
>と聞かされており、それ以来、自分の先祖に興味を持っていました。
>家紋は半月に九曜、宗派は真言宗です。
>よろしくお願いします。

東京の青木さん 始めまして。
お尋ねの件ですが、次ぎの情報で検証を進めますが、ほかに仔細名事でも結構ですから、有りましたらお便りください。
第1番は昔は埼玉に居た事。
第2番は殿様の死後宮城に移動した事。
第3番は家紋は半月に九曜紋である事。
第4番は真言宗である事。

以上の事から次ぎのことをお調べください。
第3番目の家紋は半月に九曜紋との事ですが、半月に八曜紋では有りませんか。
第4番目の宗派は真言宗の前は浄土宗ではありませんでしたか。又は浄土真宗では有りませんか。

星紋に付いての青木氏に付いては研究室の「青木氏と血縁族」の第7番と家紋掲示板の第6/33番目の紋様の星紋様を参照して下さい。

青木氏に関する星紋には8つありますが半月に九曜紋は含まれて居ません。
この星紋は藤原秀郷流青木氏は、宗家が赴任する地方に護衛役として同行したもので、各地6地方に同行して定住し土地の豪族との血縁を結んだ一門です。

この一族は男系跡目が出来ずに土地の豪族から跡目を入れて青木氏を継承した結果、家紋掟により家紋を下がり藤紋から各地の豪族の家紋に変紋せざるを得なかったものです。

6つの家紋の青木氏とは次ぎの家紋の青木氏です。
第1は九曜紋です。
第2は丸に九曜紋です。 第1番目の分家です。
第3番目は三ツ星紋です。
第4番目は丸に三ツ星紋です。
第5番目はながとみ三ツ星紋です。
第6番目は亀甲に三ツ星紋です。
第7番目は三ツ星に一つ引き両紋です。
第8番目は扇に三ツ星紋です。

兎も角も藤原秀郷流青木氏に関しては「藤原秀郷一族とその生き方」を時間を掛けてお読みください。詳細に記述しています。
又、その他の藤原一門のレポートも一読ください。

青木氏は皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏の二つの流れです。

他に、室町末期か明治初期の2つの時期に「第3の青木氏」が、青木氏姓の使用に付いてので峨期の詔の禁止令に拘らず系譜の偏纂で名乗ったものであります。よってこの場合は鎌倉末期より以前のルーツに付いては検証は出来ません。

藤原秀郷の主要一門は次ぎの5つです。
永嶋氏、青木氏、長沼氏、と進藤氏、長谷川氏です。
この氏のうち青木氏は116氏に分流しています。
武蔵と下野国とその周辺の国を領国とし24の各地に赴任して各地の血縁族を発祥しています。


皇族賜姓青木氏は5家5流24氏です。
近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の5国です。伊勢以外は各地の豪族との血縁族が生まれています。

さて、そこで、お家の青木氏はこの8つの青木氏に有りません。
先ず、上の二つの件についてお調べできる情報が有りませんか。

何かの理由にて半月九曜紋に変紋をしたと考えられる事もあります。

室町末期前のルーツが確認する事が出来ます。
室町末期ごろの系譜や資料は殆どは信用が出来ないのです。その理由は下克上や戦国時代の混乱で青木氏などの高位の家柄を持つ氏はことごとく潰されましたのでまともな資料は有りませんし、よって下克上で伸し上がった者が家紋や系譜や氏などを偏纂し搾取しましたので全く信用が出来ません。徳川氏をはじめとして信用できません。

お家には上記2つの事を何とか調べ出すことが出来ればこの時期の前のルーツにたどり着けます。たどり着けばこの8つのうちのどれかに入るはずです。

上記の仕官先の主が死んだ事に殉死したとの事ですが、この時期は殉死はよほどのことが無ければ禁令になっています。
一族を逃がしたとの事ですが、特別の力のある縁者が無い場合以外は逃がす事は国抜けと成り犯罪で宮城付近では困難と思えます。

もし藤原氏であるのであれば鎌倉期以後に3度か4度の一族が離散する事が起こっています。この内、上記の様なことがあるとすれば鎌倉末期から室町初期の下克上の問題に絡まったと考えられます。
その逃げた時期がこの1300年―1350頃からと見られますので、殉死は何時頃かをお調べください。

ご本家はどこにあるのかを調べられてその宗派と家紋は何なのかも調べられると判るはずです。ご本家と違うはずが有りません。
もし違うとなれば問題で第3の青木氏の可能性もありますが、兎も角ご本家のものをお調べください。

ちょつとしたことでも大きなきっかけに成りますのでお便りをお待ちしています。
もし、お判りに成りますとルーツの検証は確実に成ります。
ではまずは、研究室の藤原秀郷一族の生き方のところをお読みください。
何かヒントがつかめるかも知れません。

ではお待ちしています。
東京の青木さん 2006/07/25 (火) 10:09
ご回答ありがとうございます。

祖母に聞いてみたところ、うちが本家で、
昔から宗派も家紋も変わっていないそうです。
青木家は祖母の曾祖夫母の家だったらしいのですが、
子供がおらず、祖父母が養子に入ったそうで、
家の事については、祖母もあまりよく知らないようで、
詳しい事は火事だか戦争だかに巻き込まれていて、
紛失しており、調べられないそうです。

しかし、宗派も家紋も変わっていないみたいですので、
うちは第3の青木ということになるのでしょうか?
現在の所、私が長年調べた事から見て検証を確定するに必要とする情報は有りません。
ただ、江戸時代の情報のみに限りますのでそれ以前の情報の焼失か錯誤かで家紋と宗派などが変化ししまったことも考えられます。

かなりの数で青木氏は青木氏に関する家の事は次ぎの時期に問題を起しています。
下克上の時期と戦国時代と江戸期の偏纂期と明治初期の混乱期と第2次大戦で全ての情報が関東近辺で多く焼失しているのが現状です。

又、「第3の青木氏」を確定する情報も2つの青木氏に合致する情報が出ないという事だけですので検証を確定するものも有りません。

しかし、第3の青木氏はそれなりに3百年もの歴史を持つ青木氏とすれば充分な意味を持ちます。

私は主君に殉死し、一族を逃がしたと言う情報が気に成ります。
この情報に何らかの真実が隠されていると考えています。

このことに付いての何かが出ましたら又お知らせください。
No.352
木曽義利と青木家の関係について
352編集 追加
初めまして、戦国時代のゲームをやっていて非常に自分のルーツが気になりました。
小生はまだ27歳ですが、我が青木家での嫡男は自分しかいません、家督相続や家の事業の事もあって最近非常にルーツが気になっています。自分でもある程度は調べたのですが、祖父の実家に帰らなくてはわからない事が多すぎるので恐縮ですが、ご質問させて頂きます。
何卒よろしくお願いします。

私は昔からご先祖様は「木曾義仲」であると聞かされています。
祖父の家は築130年以上もたっていますが、リフォーム等もして今もあります。そんなに大きくはありません。

長野県の南木曽町に坪単位ではわからないくらいの山と土地を保有しているようです。岐阜県にもあるようです。
祖父も町の議員を勤めたり、地元の温泉などでは祖父と行けば顔パスで入れるという優遇を受けています。現在は町の歴史に関し最後の仕事だと言い、執筆中です。

家紋は「松紋」です。家系図もあります。

以上が小生の自己紹介となります。

小生が知りたいのはこの先で、自分のルーツは果たして戦国時代の武将との血縁関係があるのか?またその可能性があるのか?です。

自分が調べた限りでは、武田家家臣の青木一重か木曽義利しか思いあたりません。

青木一重は後の麻田藩の藩主になった事と、その地方付近に親戚がいるという話は聞いた事が無いので、自分では違うのでは無いかと思っています。

木曽義利は徳川家康に下総の国を追われた後、木曽谷に隠匿していた母(武田信玄の娘)と木曽で生涯をすごしていたという最後からその関係でどこかで姓が変わったのでは無いかと推測していますがいかがなものでしょうか?

400年前の事まで遡るので小生では調べるのが大変困難なので、ご教示の程よろしくお願いいたします。

No.353

Re: 木曽義利と青木家の関係について
追記失礼いたします。

宗派は浄土宗です。

No.354

Re: 木曽義利と青木家の関係について
すいません、さらに追記させていただきます。

家紋の松紋に何か付随して四角いものがついていました。

No.355

Re: 木曽義利と青木家の関係について
>すいません、さらに追記させていただきます。
>
>家紋の松紋に何か付随して四角いものがついていました。
どこかの青木さん 今日は。始めまして。

ご先祖がどのような人物であつたかというお問いあわせですが、結論から申し上げると大変矛盾の多いご先祖であると思います。

先ず家紋は升に松紋である事。
次に先祖は清和源氏の木曽氏であると聞かされていた事。
そして徳川に改易された下総の義利ではないかとある事。
江戸か明治初期には山を持つ財産家である事。
そして、どこかの青木氏である事。
ご先祖の周囲には青木村を形成していない事。
明治ごろには村の議員であつた事。
宗派は浄土宗である事。
国は美濃ではないか。
以上

さて、家紋から入りますが、家紋掲示板の2Pの中ほどに青木氏に拘る松紋をレポートしていますので参照して下さい。

この松紋は讃岐籐氏といい、大化改新の藤原鎌足の8代目の人物で藤原秀郷が居ましたが、この子孫が讃岐(香川県付近)の国に国司として朝廷の命で赴任した時に、土地に定着して子孫を遺した藤原秀郷一門の家紋類です。

この藤原秀郷は平の将門の乱を平定して勲功をあげ武蔵国(埼玉県)と下野国を領国として与えられ貴族の身分にもなりました。

この藤原秀郷は第3子の千国を侍にし青木氏の氏を与えて護衛隊の任を担わせました。
これが藤原秀郷流青木氏で主要9氏からなり116氏に末裔を広げています。

この藤原秀郷の主要5氏は永嶋氏と青木氏と長沼氏 進藤氏と長谷川氏です。綜紋は下がり藤紋です

この青木氏以外に皇族賜姓青木氏で5家5流24氏があります。綜紋は笹竜胆紋です。
天智天皇から5人の天皇が第6位皇子を臣下させて賜姓を授けて天皇の親衛隊として5つの国の王とし青木氏を発祥させました。伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐国の5国です。
この5家5流青木氏です。24氏に支流が出ています。

この二つがルーツが確認出来る青木氏ですが、江戸初期前後の乱世期で高位の氏名を搾取し系譜偏纂して庶民が侍となり出世する際に必要とする家柄をこの高位の青木氏の氏を使いました。
この第3の青木氏の代表的な人物として青木一重など4、5名程度の1万石程度以下の大名となつた人物があります。

そして明治初期の混乱期の苗字令で発祥した第3の青木氏があります。
この青木氏は金品を持つ一般の財産家の者が戸籍簿を担っていた寺社に高い金品を支払いこの氏名を貰い系譜と家紋を搾取し偏纂した青木氏があります。
この青木氏は余りに多くてルーツは途中からで親族との違いなどの矛盾が発生しますので特定は出来ません。
ともかくもこの二つの第3の青木氏には皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏と異なり特定する条件が存在しません。

松紋は藤原秀郷の末裔ですが、ところが御家の家紋は全国8000氏の家紋の中にはありません。
又主要家紋の家紋200選の中にもありません。
この松紋は殆どこの讃岐籐氏の血筋を受けた一族ですが江戸時代の御家人です。114紋様にも成りましたがこの中にも有りません。
この事は先祖を多くに広げていない端族であり途中からの家紋となります。
ここにもお話のご先祖とは違って矛盾しています。

先祖は清和源氏の木曽氏とありますが、家紋は笹竜胆紋ですので矛盾があり、松紋は藤原秀郷一門ですから源氏ではありません。当然矛盾です。

木曽氏一門と末裔は滅亡しています。勿論、義利は乱暴を理由でお説の通り徳川氏に改易追放され滅亡しています。下総(上総の説あり)で改易し武蔵国で死んだとされています。
末孫まで尽く潰すのが掟ですからこの一門から子孫が残る事は先ずありません。
その人物と子孫が大財産家になる事は考えられません。ここにも矛盾があります。
この様な絶えてた氏の氏名を名乗るのがこの第3の青木氏の特長です。
お寺ではこのことを戸籍簿(過去帳)から観て判りますから選んで問題が起こらないようにしたのです。
今の所は逃げ延びて滅亡した事の記録はありますが、子孫を遺したとする記録は有りませんから疑問です。
(このようなところの氏を使って寺社が系譜を偏纂搾取して第3の氏に与えるのが常道手段でした。正規の家系譜を使うと文句が出てきます。このような問題が3件戦いが起こっています。)

皇族賜姓源氏とは、皇族族賜姓族の青木氏のあと嵯峨天皇期に第6位皇子が賜姓臣下するときに青木氏より源氏に変名しました。その時に青木氏は皇族出身の下族した時に使用する氏名としまして禁令を発しました。実質には花山天皇まで11代続きました。
この皇族賜姓族は青木氏と合わせて実質16代に成ります。

皇族賜姓源氏の子孫である氏名は5氏以外にありません。青木氏、佐々木氏が本筋で、支流的には大島氏、新田氏、北畠氏ですが、武田氏と足利氏と土岐氏も支流分派です
ここでも矛盾があります。

多くの家人が源氏だと名乗っていますが殆ど全てが偽です。多くの戦いでそれほどに子孫を遺していませんしその子孫であるには特定の条件が成立します。

当時はこの賜姓の青木氏と源氏は純血を守る為に又氏家制度とその身分の高さと権威を維持するために守る為に同族結婚を繰り返しました。この特定の当り前の慣習は天皇家を初め平安初期まで続きました。
例えば兄弟の子供を妻にして子が生まれるとその子供は更に従兄弟と結婚するなど第3親等までの血族結婚をしていました。

笹竜胆紋が8000紋の中にない「升に松紋」の氏に変化する可能性は殆ど可能性は低いと思います。先ず家紋200選になければ明治初期ごろ以降の家紋類です。

源氏の木曽氏から皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏が出ていません。これははっきりとしています。5つの皇族賜姓青木氏はこの清和天皇の第6位皇子経基王の賜姓した清和源氏と純潔を守る為に同族結婚をしています。

美濃、信濃、甲斐などの青木氏は一族の氏寺と神社とを持っていて、確実に青木村を形成しています。
多くの一族の方が本家分家を作って村を形成して墓も同じ所にあります。
墓所は全て青木です。祖父のところではそのようになっていますか。本家分家支家分派が存在していますか。墓所のある村や町にはこのような現象が起こっていますか。
お話ではないと見られますので矛盾があります。

財産は別に農家でも祖父の時代かその前では明治ごろに財産を築いたと見られますから特別のステイタスとはなりません。少なくとも江戸初期頃からでなくては判定材料とはなりません。

山というよりはこの氏では平地の土地や特別の証拠となる特別の財産などのステイタスと成るものを所有しています。

系譜は信用できません。江戸時代からの系譜は100%偽です。純血性を守ったために末裔が少なくて残っている事は稀なのです。

更に残ったものは室町初期からの「下克上」でこのような高位の氏は100%焼き討ちに合い資料関係は有りません。

次に室町末期から起こった戦国時代でまた焼き討ちに合い消えて行きました。
更に江戸初期前後ごろの混乱期にもこの氏は焼き討ちに会いました。
昭和20年までの4年間もの戦争で紙ものは焼けています。

残るは金属関係です。仏像、名刀、馬杯、軍配、等の骨董品などが証拠になり家紋が入っています。
本家筋の仏壇が浄土宗仏壇でお盆などはお供えや飾りや仕来りなどが他と比べて違っています。

江戸初期からその村の庄屋や名主や郷士や郷氏で豪農や豪商などを務めています。

本家のご先祖が何台まで確認出来るでしょうか。14.15台程度以内であれば上記の情報の可能性は有りません。

宗派は浄土宗である事はその通りですが、江戸初期から徳川氏は特例を出して中級武士には浄土宗に入る事を奨励しました。
やっと江戸末期と明治初期頃から各地に寺が出来始め一般の庶民も入信しました。それでも金品のある者にかぎられていましたし、一族全体で浄土宗に入らないと意味がありませんから食い違いが一族内で起こります。

豊臣は勿論この脚色と搾取と偏纂である事は有名ですが徳川氏等もこの搾取偏纂なのです。
ですから朝廷は源氏の頭領などの冠位を認めなかったのです。
16代の源氏の一部を偏纂して源氏を名乗ったのです。ところがこの16代の源氏は南朝時代ですので源氏は11代程度で既に終わっていますし、この時代には第6位皇子は存在しません。
それどころではなく天皇になる皇子がいなかつたのですから。明らかに似せであることが判りますし源氏はその系列ははっきりとしていますので天皇家でも判っています。
強引にこれを認めさしたのです。
先ず、天皇家の財政をなくして家の壁が崩れても直さないほどに貧困にし圧力を加えて次に金を与えて認めさしたのです。しかし、源氏の頭領だけは認めませんでした。
この様に徳川氏がこの様ですから下のものは殆どは100%偽です。

近江と美濃と信濃と甲斐での青木氏には江戸初期前のこのルーツのない第3の青木氏が多いのです。伊勢神宮での伊勢の青木氏は禁令があり特別に保護されていたので「不入と不倫の権」として守られていたので第3の青木氏は有りません。

結論としては矛盾が多すぎます。家紋8000の中にないところではこの明治の苗字令による青木氏と見られます。
一度実家の本家筋の先祖代数がどの程度かどのようなステイタスが残っているかをお調べになるとよいでしょう。総宗本家筋の独自の専有の菩提寺があってお寺の過去帳を調べてみる事が必要です。

研究室の皇族賜姓青木氏と藤原秀郷一族の生き方と家紋掲示板と地名地形データーベースなどをゆっくりとお読みください。詳しくレポートしています。

疑問が取れると思いますし、思いつく事もあるかも知れません。

ともかく、ご質問が有りましたらお便りください。
No.332
滋賀の青木です
332編集 追加
こんにちは。
滋賀県の大津に住んでます。
先祖は、同じく滋賀県、湖北町速水というところに住んでいたそうです。
家紋は丸に抱き柏で、宗派は、真宗大谷派です。近くに家のルーツに関して知っている者はおりません。管理人様、何かお分かりでしたらお教えください。
お願いします。

No.333

滋賀の青木です
上に書き忘れましたが、我が家では代々名前に「吉」の字をつけてます。(例:青木吉雄)
参考にならないかもしれませんが。。
よろしくお願いします。

No.334

Re: 滋賀の青木です
>こんにちは。
>滋賀県の大津に住んでます。
>先祖は、同じく滋賀県、湖北町速水というところに住んでいたそうです。
>家紋は丸に抱き柏で、宗派は、真宗大谷派です。近くに家のルーツに関して知っている者はおりません。管理人様、何かお分かりでしたらお教えください。
>お願いします。
今日は。 滋賀の青木さん 始めまして。
情報が少ないので確定は出来ませんが先ず家紋と土地柄とから検証してみます。
早速ですが、滋賀には古くから2つの青木氏が定住していました。
この2つは次の通りです。
1つは近江の青木氏が移動して滋賀に移り住んだ青木氏です。
この青木氏の末裔の本家筋一族が元の近江に戻り残った分家の一部が子孫を増やして滋賀の青木氏となりました。
この滋賀の青木氏の更に分家した一族の絶えた分家がありました。しかし、元上山と名乗る者が勢力を得て土豪となり家系を出世に必要とする為にこの絶えた分家分派の青木氏を奪い取り名乗り始めました。この青木氏を奪った上山一族が子孫を増やして滋賀の青木氏が出来ました。

そもそも青木氏は皇族賜姓青木氏の5家5流の24氏の青木氏と藤原秀郷流青木氏の直系1氏と直流4氏と支流4氏とで主要9氏で出来上がり116氏にも広がりました。

それ以外に、江戸初期前の混乱期を経て出世して江戸の初期から侍になった者と明治の初期に庶民が苗字令に基づき青木姓を名乗った者とがあり、これを第3の青木氏といいます。このルーツは一部を除き横の全ての縁者関係を維持していません。
研究室の青木氏と血縁族(家紋)のレポートを参照して下さい。
家紋掲示板の2Pに柏紋の6つの青木氏の家紋が載っていますので参照して下さい。
研究室にはこの皇族族賜姓青木氏のことも詳しくレポートしていますので一度ゆっくりとお読みください。

この滋賀には3つの青木氏がありますが、天智天皇より始まったもので、第6位皇子が臣下して天皇の親衛隊となり侍と成りました。
5代の天皇 天智、天武、聖武、文武、光仁の5代に続き青木氏が出ました。
この青木氏は5つの土地の守護王となり赴任地に定住しました。
初代は伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王と成りました。
これが青木氏の5家5流の24氏の青木氏です。
家紋掲示板にある皇族賜姓の家紋類です。24家紋と成ります。

この青木氏は宗派は浄土宗です。浄土宗はこの藤原氏を含む高位の者が入信できる宗派で江戸時代まで限定されていました。
中には、少ない寺院であるので赴任地や移動地になく止む無く浄土真宗に入る者もありました。

さて、御家の家紋はこの6つの家紋類には有りません。
したがって、明治初期か江戸初期の何れかの青木氏である事が覗えます。

そこで、御家が侍であったかでこの2つのどちらかであるかが判ります。

この江戸時期には136もの柏紋を家紋とする侍が生まれました。この中にも青木氏を名乗った者も多くおります。
又、御家の縁者関係が多く広がりを見せているのかも一つの資料と成ります。
ご親類の菩提寺や宗派が一致しているかや土地柄が古いなども大きな資料と成ります。
ご先祖の本家筋がどのくらいのところまでわかるかも判断資料と成ります。10-15代程度までだと江戸初期の青木氏で、3−5代程度ですと明治初期ですが、男親の本家筋のルーツ家紋など一致するかも資料と成ります。

滋賀の速水に長く住まわれていて本家筋がこの地に存在するかも重要です。
というのは、途中で男系不能となり女系と成って家紋掟により変紋を余儀なくなくなり現在の家紋に変わったことも考えられます。

つまり、抱き柏紋は江戸前期から吉田氏や金子氏や豊崎氏や森氏らが用いていますのでこの分家筋に当ります。この分家筋と御家の青木氏とが血縁氏したことを物語っていますので上のことを確認出来れば滋賀の2つの青木氏の分家筋か第3の青木氏かは判断出来ます。

一度、一寸した事でもわかりましたらお便りください。意外に何の意味の無い事でも大きく判ることがあるのがこのルーツ調べなのです。

他に上記したことで判りましたらお便りください。

No.349

Re: 滋賀の青木です
滋賀の青木様  
 管理人様 代理投稿ありがとうございました。
近江源氏青木氏のルーツを探しているのですが、今年 「梅花無尽蔵」の著者 万里周九は近江速水氏の出身である。との説をもとに、湖北町速水へ行きました。その著書のなかに、私が調査している美濃から飛騨へ抜ける街道で、ここは土岐氏の領であると感想を述べた箇所があるからです。
 小谷城の麓にあります。速水氏姓の集落は他に虎姫町にもあるようです。
青木さんの家紋の柏葉は代表的な四つ目結紋ばかりではなく、「佐々木12の添紋」の中にあります。

No.351

Re: 滋賀の青木です
>滋賀の青木様  
> 管理人様 代理投稿ありがとうございました。
>近江源氏青木氏のルーツを探しているのですが、今年 「梅花無尽蔵」の著者 万里周九は近江速水氏の出身である。との説をもとに、湖北町速水へ行きました。その著書のなかに、私が調査している美濃から飛騨へ抜ける街道で、ここは土岐氏の領であると感想を述べた箇所があるからです。
> 小谷城の麓にあります。速水氏姓の集落は他に虎姫町にもあるようです。
>青木さんの家紋の柏葉は代表的な四つ目結紋ばかりではなく、「佐々木12の添紋」の中にあります。
滋賀の青木さん 今日は。

どうも内容がよく判りません。近江源氏佐々木流青木氏の投稿と同じでしょうか。
なにを言われているのか少し判りません。

兎も角も青木氏の家紋は2つのルーツの青木氏に限定して家紋類をレポートしています。
したがって、原則第3の青木氏の家紋種は掲示はしていません。
というかルーツを調べたくても不特定に存在する特徴を掴むことが不可能だからです。

青木氏の柏紋様は6つとレポートしていますが。4つ目結には触れていませんが。
目結いの青木氏は4つ目結い紋ばかりでは有りません。三つ目結い紋もありますよ。(3家紋)

柏紋と目結い紋とどのような話の繋がりでしょうか。

佐々木氏と青木氏の間のどのような話があるというのでしょうか。

佐々木氏に付いては綜紋は笹竜胆紋ですが。

念のために、家紋には綜紋と副紋ともあることをご認識ください。(家紋には5つのパターンがあります。)5つの何をもって家紋と呼ぶかです。
この内の一つを捕らえて家紋を論じるにはあまりにも問題があります。
論所を統一する必要がありますね。

佐々木氏の紋様はどの時代までのものをまとめたかも問題があります。

江戸時代までのものであるとすると青木氏の第3の青木氏と同様にこの近江佐々木氏も同様の事が起こっています。
よつて、12とあるはおそらくのこの第3の佐々木氏も含めてであると思います。

江戸期ごろのデーターを元に作本をすると信頼性を低下させます。
勉強の初期このことで訳がわからなくなるのは江戸の初期前後と明治の初期の現象のこの第3があるからです。
其れと一つの書をもって論じる事にもルーツ検証には余りにも危険があります。
其れはどの時代の資料をもとに本を書いたかと云う事が信頼性と云う点で問題なのです。
室町から江戸期の書を用いるとあまりにも偽作がおおいのでとんだ間違いを起すのです。
だから、確実なところでルーツを論じるには鎌倉期前と言う事になってしまうのです。
ところがこの鎌倉期前の資料は極めて少なくなっているのが現状でしらべるには大変な金額と時間の浪費が働き到底我々のアマチュアでは不可能です。

だから、第3と区別する以外に正しくレポートする事は出来ません。
そもそも家紋や系譜を搾取する事でルーツというものが確定するのであれば限界が有りません。なぜなら誰でも出来るからです。いますぐにでも。私はこの第3の青木氏や佐々木氏は取り除く事が先ず大事で次のこの第3の青木氏に付いて論じるのであればそれはそれで一つの見識と思います。

私はこの第3の青木氏が特異な形で意味を持つ大きく末裔を作った青木氏は「家紋掲示板」にも「青木氏と血縁族」にも主要第3青木氏を載せています。
一度、そのような資料館の研究員などの人に質問されるとより正確にまとめる事が可能と思います。

司馬遼太郎氏や黒岩重吾氏や松本清張氏や山本総五郎氏などの著書になどこのことを分析しています。

兎も角、先ず江戸前後と明治初期の第3青木氏と佐々木氏(勿論、藤原氏も)があるということを先ず認識されて調査される事をお勧めします。
No.346
近江源氏佐々木流青木氏について
346編集 追加
近江源氏 青木氏は馬淵流青地氏の出とうかがっていますが、詳しい系図をご存知でしょうか? 美濃の国の安八郡の青木村は現大垣市青木町と考えています。美濃馬淵氏族を中心に佐々木氏と美濃、飛騨との関わりを調査中です。よろしくお願いいたします。

No.350

Re: 近江源氏佐々木流青木氏について
>近江源氏 青木氏は馬淵流青地氏の出とうかがっていますが、詳しい系図をご存知でしょうか? 美濃の国の安八郡の青木村は現大垣市青木町と考えています。美濃馬淵氏族を中心に佐々木氏と美濃、飛騨との関わりを調査中です。よろしくお願いいたします。
どなたかはよく判りませんが、今日は。
近江源氏佐々木流青木氏に付いてと美濃の馬渕氏の件ですが、先ず近江佐々木氏と近江青木氏と事に付いてお答えします。

佐々木氏の発祥に付いて2つのルーツがあります。

一つは近江佐々木氏、二つは滋賀佐々木氏であります。

一つ目のこの佐々木氏は天智天皇期に発祥しました。
この佐々木氏は天智天皇の第7位皇子の川島皇子が元祖と成りますが、第6位皇子の施基皇子が天皇より賜姓(天皇より氏を与えられて臣下して侍になり天皇の親衛隊を務めました。)を授かった後にこの川島皇子にも特別に賜姓しました。
第6位皇子が臣下する事が起こったのは大化改新の蘇我氏に牛耳られた事と財政負担からの反省からの対策でした。其れまでは第6世臣下方式でした。つまり、第4世までは皇位継承権を保持し第5世はその中間としての令に基づく慣例でした。
第6位と第6世の大きな違いです。第6位はつまり原則として第2世と成ります。
大改革です。これが大化改新です。行政財政改革です。

この結果生まれたのが此れが皇族賜姓青木氏の伊勢の青木氏です。5家5流の皇族賜姓青木氏の最も古い青木氏です。(647)
同時に近江佐々木氏です。

この二人の皇子の活躍は日本書紀にも18回程度も出てきます。大変活躍し天智、天武天皇から14人の皇子の中でも万来の信頼をされていました。天皇の相談役で補佐役を皇太子に替わって行っています。その後も天武天皇の妻の持統天皇のときにはその能力を褒め称えています。

この伊勢の青木氏(施基皇子)は軍略師(軍略所)として天皇から全ての行政の問題の解決に指名されて日本全国に飛び回って活躍しています。(川島皇子も同じ)
この伊勢の青木氏と近江の佐々木氏は1575年頃まで軍略師(軍略所)として活躍しています。
青木氏は天皇家の親衛隊でその軍略所(天皇の相談役)を担っていてた家柄です。

天智、天武、聖武、桓武、光仁の5人の天皇からの第6位皇子から伊勢、近江、信濃、美濃、甲斐の王として赴任し皇族賜姓青木氏を遺してきました。

この2代後の嵯峨天皇から青木氏を変名して賜姓源氏となりました。
家紋は皇族賜姓青木氏と皇族賜姓源氏とも笹竜胆紋です。
この5家5流の青木氏は24氏の支流に広げています。

この時、第7位以降の皇子は下俗(比叡山や門跡寺院などの僧侶や一般の者になる事)する事に成っていましたが大変有能であったことから特別に地名の佐々木を採り佐々木氏と賜姓しました。
此れが第1の近江王の佐々木氏です。(647)

二つ目は宇多天皇期に同じ第6位皇子に佐々木氏を賜姓し滋賀王となり滋賀の佐々木氏を発祥させました。

お尋ねはこの一つ目の近江王の近江佐々木氏です。

次に、近江青木氏の件ですが、この青木氏は天武天皇期に第6位皇子を近江の皇族賜姓族の青木氏として臣下させました。(この時、血族結婚である為に施基皇子も川島皇子も天武天皇は14人のうちの皇子として扱われていました。)

ところがこの皇族賜姓青木氏は同じ天智天皇の川島皇子の佐々木氏との間で勢力争いなどがあり一族全部は滋賀に移りました。滋賀王の青木氏となり暫く定住していました。
ところが、再び一部を残して一族は近江に移動しました。ところが、矢張り何らかの理由で摂津王として摂津に移動しました。

この残った一部の分家の滋賀青木氏は分家から分派した青木氏を上山と名乗る者がこの子孫が途絶えた分派青木氏を乗っ取りました。そこでこの途絶えた分派と分家の本家との間で争いが起こりこの本家が負けてしまいました。

この上山の青木氏は勢力を拡大し出世して大勢力となりました。(当時は家柄が皇族賜姓青木氏か藤原氏か藤原秀郷流青木氏の系譜の持つ家柄でないと国司とは成りえませんでした。)

そしてこの上山の青木氏が10国の国司や押領使になり赴任しました。この時に各地に子孫を残し土地の豪族と血縁して上山系の青木が増えました。

近江王の賜姓佐々木氏と同族の近江青木氏は滋賀から戻り血縁をしこの青木氏の方が男系跡目が出来ずに2代続きの女系となり家紋は同族血続一族門であるので変紋はせず佐々木系青木氏となりました。家紋は矢張り笹竜胆紋です。(近江佐々木氏も笹竜胆紋)
この佐々木系青木氏は近江に残り本家近江青木氏は摂津に移ります。

次に、この皇族賜姓青木氏の後の皇族賜姓源氏は嵯峨天皇期から16代(実質11代の花山天皇まで)まで源氏を発祥します。

この源氏8代目の清和天皇の第6位皇子の経基王が賜姓を受けて臣下し清和源氏と成りました。
この2代後の源の頼光が攝津、近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の国司を務めました。
(甲斐は後に弟の頼信に譲り頼信はここを書店に関東を制覇しました。)

この時、この攝津の青木氏と摂津の源氏と血縁をし同族血族の血縁をして摂津源氏系青木氏が発祥し同じ様に各地で血族結婚を繰り返し勢力拡大を図りました。
この時に近江でも同族血族結婚が起こり近江源氏佐々木系青木氏が発祥します。
つまり、青木氏であり佐々木氏であり源氏である同族賜姓族の3つの血族結婚が起こったという事に成ります。
佐々木氏系は2つの地で、源氏と青木氏は5つの国で起こりました。

当時は血族結婚はこの皇族身分では血筋の純血性を守る為に普通の事でした。平安中期まではこの血族結婚を繰り返しました。

青木氏は2つのルーツから発祥しています。一つは5家5流の皇族賜姓青木氏24氏と藤原秀郷流青木氏の主要9氏の116氏があります。
藤原秀郷流青木氏は藤原鎌足より8代目で第3子の千国から発祥しています。何れも母方藤原氏の血筋からの出あります。

この2つの青木氏はそのルーツは明確であるし一定の条件を満足しているものではっきりしています。
ところが、江戸の初期前後の混乱期と明治の初期の混乱期と苗字令にてこの高位の青木氏を系譜偏纂と搾取で発祥しています。

江戸初期前後の青木氏は庶民から侍になり出世して青木氏を名乗った第3の青木氏が生まれています。この時の青木氏には完全に矛盾がありますし系譜は不明確です。100%に近くこの青木氏はルーツは確定不能で信用出来ません。

明治の青木氏は当時は神社や寺院が戸籍簿の役目を果たしていましたのでここに高額の金品を渡して系譜家紋などを偏纂して明治政府に届けました。この青木にも当然矛盾があります。
この2つの第3青木氏には宗派と家紋が異なっています。

上記の2つのルーツの121の青木氏は浄土宗ですし自らの菩提寺と村を持っています。

平安初期から浄土宗にはこの高位のものしか入信できませんでした。したがって寺数も少ないことから各地にはなく上記の様な土地柄にしか有りません。この状態は江戸中期まで続きました。
徳川幕府は特別にこの浄土宗を奨励しました。しかし、入信できる人はある程度の身分のある侍でした。ですから寺の戸籍簿の過去帳も第3の青木氏には江戸中期くらい以降しかありません。
ですからせいぜい14−15代程度です。

明治以降は3代程度ですしか判らないというのが現状であっても搾取で同じ系譜が2つも3つも出て来る始末です。

江戸前後の第3の青木氏は概ね5つ程度の大一族が確認出来ます。一部2つの青木氏は豊臣と徳川時代で小大名に成っています。

家紋に於いても一家でも家紋を搾取しても親族や本家が違うと言う事が確実100%で起こります。
そこでよく似せた家紋にしています。

上記した2つの正規の青木氏は全部で33文様となり家紋にしては121と成ります。
この家紋の土地柄もはっきりしています。
また、青木村も形成しています。

さて最後に、馬渕氏の件ですが、この馬渕氏は上記の皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏の中にはありません。鎌倉期前後には氏としてはせいぜい40−200程度です。
家紋200選というものがありこの中になければ第3の青木氏です。

奈良期40と平安初期は200程度、鎌倉800程度、室町期40程度、江戸期2000、明治で8000程度と成ります。

この馬渕氏にかかわる青木氏と馬渕氏は江戸期からの氏で室町期前には確認出来ません。

美濃の安八郡の件ですが、青木氏の地名地形データーベースに詳しく記載していますので参照して下さい。
その他の青木氏に関わる内容は「青木氏と血縁族(家紋)」や「藤原一族の生き方」などに詳しくレポートしています。

近江の佐々木氏や青木氏に付いても「皇族賜姓青木氏」関連のところに詳しくレポートしています。

系図に付いてはプライバシーに関わることなので掲載は出来ません。

馬渕氏の菩提寺に行かれて過去帳をご覧になると判明します。

一族の菩提寺を持っていないとなりますと判るのは過去帳では江戸中期くらいまでと思います。

また、インターネットでは室町期からの系譜などが記載されていますが余り信用は出来ません。

下克上の混乱と戦国時代の混乱で規範は完全に崩壊していますので。

豊臣や徳川の系譜なども全く搾取であるくらいですから。

しかし、江戸中期からのルーツはルーツで尊重するべきですが偏纂と搾取がない信用できるものは鎌倉期までです。下克上の持つ意味をご理解下さい。

念の為にこの近江の青木氏は豊臣時代に他の族が本筋の青木氏を奪い取る為に戦いを2度し本筋の青木氏が負けて奪い去られています。この時は秀吉もこの戦いを容認しています。家柄をよくしないといい役職に付く事は出来なかつたのです。この勝った近江の青木氏は豊臣徳川の戦いに参加しています。後に徳川によって滅ろぼされます。
負けた青木一族の氏も滅びました。

ですから、近江青木氏(佐々木氏系含む)は本来は滅亡しています。

何ゆえに存在するかは判りません。ここが江戸明治共に第3青木氏のねらいどころです。ゆえに系譜等を発見する事は難しいと思います。

後に再び江戸初期前後にこの近江の青木氏の件で二つの名乗った青木氏が紀伊の守を名乗り本物から指摘されてばれた事を隠す為に”後勘に問う”として逃げました。

非常に難しい問題ですので充分にレポートする事は出来ませんが何とかお判りいただけましたでしょうか。

何かご質問有りましたらお尋ねください。その前にゆっくりと他のレポートご参照ください。
No.347
青森の青木です。
347編集 追加
はじめまして。よろしくお願いいたします。
この一年、身の回りでいろいろありまして、ふと自分のルーツに興味を持ちました。

・青森は県南(※)
・家紋は下がり藤。
・墓はお寺には無く、伊勢神宮にルーツのある神社が管理する墓園である。

このくらいしか手がかりがありません。しきたりだとかの類は一切無く、肩肘張る
ことなく自由きままでいられるので、そういう意味でもご先祖様には感謝していま
す。

祖母が昔、「北陸のほうから移ってきたという話を聞いたことがある」と話してく
れましたがそれ以上詳しいことは判りません。直近の何代かは所謂お百姓さんです。
その土地に青木姓は少なく(5軒無かったと記憶しています)、いつの時代かは判
明しませんが開墾地だったと聞きました。

No.348

Re: 青森の青木です。
>はじめまして。よろしくお願いいたします。
>この一年、身の回りでいろいろありまして、ふと自分のルーツに興味を持ちました。
>
>・青森は県南(※)
>・家紋は下がり藤。
>・墓はお寺には無く、伊勢神宮にルーツのある神社が管理する墓園である。
>
>このくらいしか手がかりがありません。しきたりだとかの類は一切無く、肩肘張る
>ことなく自由きままでいられるので、そういう意味でもご先祖様には感謝していま
>す。
>
>祖母が昔、「北陸のほうから移ってきたという話を聞いたことがある」と話してく
>れましたがそれ以上詳しいことは判りません。直近の何代かは所謂お百姓さんです。
>その土地に青木姓は少なく(5軒無かったと記憶しています)、いつの時代かは判
>明しませんが開墾地だったと聞きました。
>
>
青森の青木さん 今日は。始めまして。

答えはすぐでます。
御家は藤原秀郷流青木氏です。
この藤原秀郷流青木氏に付いては詳しく研究室の「藤原秀郷一族の生き方」を参照して下さい。

「下がり藤紋」に付いては家紋掲示板の4Pの最初にレポートしています。

又、研究室の「青木氏と血縁族(家紋)」の藤紋のところでも詳しくレポートしています。

藤原秀郷は大化改新の藤原鎌足より8代目の人物で平の将門の乱で勲功を立て武蔵国と下野の国を領国となりました。そして貴族となり貴族は武力を自ら使えませんので第3番目の子供の千国と云う者を侍にし護衛隊の役目を与えました。
この千国が侍になつたので青木氏を与えました。この千国が元祖です。

そして、代々鎮守府将軍として陸奥(青森)に赴任してい居ました。この時の護衛軍が青木氏です。
鎌倉時代から江戸まで征夷大将軍と呼ぶようになりました。

藤原秀郷の主要5氏は青木氏と永嶋氏と長沼氏 進藤氏と長谷川氏です。
そしてこの藤原秀郷の総宗本家は24氏に広がっています
この総宗本家は全国66国のうち24国に国司として朝廷の命で赴任しています。この時全て青木氏が護衛しています。
この青木氏がその赴任地に子孫を残し土地の豪族と血縁を結び勢力を広げています。
だから、24地方には藤原秀郷流青木氏が存在します。
本国は武蔵国で入間郡を本拠地として116氏青木氏の本家筋が横浜神奈川を半径として円縁を描く様に取り囲み内側からより本家筋が取り囲んで居ます。
そして、栃木群馬まで拡大しました。

藤原氏は4家といい、南家、北家、式家、京家がありましたが同族の勢力争いを越しこの内勝ちのこったのは北家でこの藤原秀郷一門です。

この下がり藤紋は”下がる”を嫌い上り藤紋とする藤原氏が出ました。下がる藤紋はこの秀郷一門だけが使用しました。

青木氏は皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏の2流です。

(他に江戸初期と明治初期に第3の青木氏がありこの高位の青木氏にあやかって系譜を搾取と偏纂して名乗りました。)

念の為にこの皇族賜姓青木氏とは天智天皇より5代の天皇の第6位皇子が侍となり臣下して天皇の親衛隊として働きました。

この時にそれぞれ天皇自ら皇子に青木氏の氏を与えました。この青木氏は伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王としての国の守護となり5家5流24氏に子孫を増やしました。
この後、2代後の嵯峨天皇から青木から第6位皇子を賜姓源氏に変名し、そのかわりこの時青木氏は皇族出の者(全17人)が名乗る氏とし青木氏の使用を禁じました。

この禁令を藤原秀郷は朝廷の許可を得て青木氏を使うことを許されました。その理由はどちらの青木氏も藤原氏の血筋を引いているからです。

御家は現在も下がり藤紋を引き継いでいるとしたら陸奥に護衛役として同行して定着してから男系跡目が1100年程度できている事を意味します。

この藤原秀郷一門は4代目から兼光系と文行系に別れます。青木氏は3代目までは千国の直系で4代目からはこの兼光系から出ています。後に2代に渡り本家から跡目を入れて守っています。
この一門の綜紋は下がり藤紋です。

この下がり藤紋の青木氏は116氏に広がっています。当然に下がり藤紋から変紋して116もの家紋が出来ました。

これ等の全ての青木氏は鎌倉幕府樹立にて失職します。この時仕官した者や豪商や豪農等になりました。御家は農家を選んだとみられ江戸時代には本家は名主や庄屋などに成っていたはずです。
次第に土地と財産を分けて分家して普通の農家になっていったと観られます。

寺は室町期(乱世)くらいからその内に変化したものでしょう。本来は藤原秀郷流青木氏は自分の菩提寺を持っていました。このサイトの投稿している多くの青木氏は菩提寺を持っています。これも分家分派して変わったものと思います。

青木氏の地名地形データの所の陸奥(青森)の国を調べて下さい。

このサイトには沢山の藤原秀郷流青木氏の末裔の方が投稿していますのでそちらもお読みください
元は縁者の同族です。

ではまたレポートをゆっくりとお読みください。ルーツは詳しく成るはずです。何か有りましたらお便りください。
No.337
小田氏について。
337編集 追加
初めて投稿させていただきます。

私の曾祖母は旧姓が「小田」といって、九州対馬の峰村という所の生まれです。
母の話によると、曾祖母はお歯黒をしていて眉をそり落としていたらしいです。私も小さい頃から母に「うちは代々お武家さんでね」と聞いていたのでそこまでは納得していました。
でも先日母と曾祖母の話をしていたときに、どうも「?」な話を聞きました。
曾祖母は峰村の実家では、家の人から"おたたさま"と呼ばれていたそうなのです。そして、その峰村では曾祖母が歩いているとその姿を見るなり村の人が地面に平伏していたらしいのです。
普通お武家さんは「父上」「母上」と呼ぶと思っていたので何だか首を傾げてしまいます。そして大正末〜昭和初期にかけての時代になっても、村人に平伏されていたという曾祖母がとても気になります。

・家紋は左三つ巴(おそらく小田家のものだと思いますが、もしかすると曾祖母の母方の紋かもしれません)
・お墓は対馬の「いずはら」というところにある

・曾祖母の父は郵便局を作り、郵便局長をしていた

・曾祖母の叔母は自分の夫のことを「殿」と呼んでいた

・当時、対馬ではお歯黒をしていた人は少なく、峰村とその周辺では曾祖母と親戚関係のある家の人しかしていなかった


このぐらいのことしかわかりませんが、曾祖母の家はどんな家なのか知りたいです。
どうぞよろしくお願いします。

No.338

Re: 小田氏について。
>初めて投稿させていただきます。
>
>私の曾祖母は旧姓が「小田」といって、九州対馬の峰村という所の生まれです。
>母の話によると、曾祖母はお歯黒をしていて眉をそり落としていたらしいです。私も小さい頃から母に「うちは代々お武家さんでね」と聞いていたのでそこまでは納得していました。
>でも先日母と曾祖母の話をしていたときに、どうも「?」な話を聞きました。
>曾祖母は峰村の実家では、家の人から"おたたさま"と呼ばれていたそうなのです。そして、その峰村では曾祖母が歩いているとその姿を見るなり村の人が地面に平伏していたらしいのです。
>普通お武家さんは「父上」「母上」と呼ぶと思っていたので何だか首を傾げてしまいます。そして大正末〜昭和初期にかけての時代になっても、村人に平伏されていたという曾祖母がとても気になります。
>
>・家紋は左三つ巴(おそらく小田家のものだと思いますが、もしかすると曾祖母の母方の紋かもしれません)
>・お墓は対馬の「いずはら」というところにある
>
>・曾祖母の父は郵便局を作り、郵便局長をしていた
>
>・曾祖母の叔母は自分の夫のことを「殿」と呼んでいた
>
>・当時、対馬ではお歯黒をしていた人は少なく、峰村とその周辺では曾祖母と親戚関係のある家の人しかしていなかった
>
>
>このぐらいのことしかわかりませんが、曾祖母の家はどんな家なのか知りたいです。
>どうぞよろしくお願いします。
稲垣さん 今日は 始めまして。
ようこそ青木氏のサイトにお越しくださいました。

このサイトは青木氏のことに付いて研究しているところですので、小田氏のことはなかな難しい事です。

しかし、折角ですので判る範囲でお答えをします。
先ず、お歯黒とそり眉 武家であつた事 おたたさま 平伏か土下座 家紋は小田氏で左三つ巴紋
の情報ですが、

これ等から判る事は大正の始め頃まで武家の仕来りで結婚すると古い仕来りの家ではお歯黒にし眉そりをしました。
”おたたさま”の呼び名は”おもうさま””おたあさま””おひいさま”と呼んでいました。

この場合は武家でも用人を何人か雇える少し高位の武家の家柄の家でした。
例えば、江戸末期以降に武家の出であり村の名主や庄屋や豪農や郷氏や大郷士や大豪商の先祖を持つ家柄であった氏などがあります。又は土地の大名などが当ります。
特に、青木氏や藤原氏などの先祖を持つ家では家の中の仕来り全体が古来からの仕来りを守っていましたので上記の様なことが周囲でもありました。

次に、「左三つ巴紋」ですが、この家紋の家は武家の出です。
この家紋の種類は91もありますがこの中で左三つ巴紋を家紋としているのには特長があります。

宇都宮氏、小山氏、佐野氏、結城氏、赤松氏などがこの家紋を使用しています。
特長いうのはこの家紋を持っている氏は藤原秀郷の一門の関東での武家の家柄です。

藤原秀郷と言うのは大化改新で有名な藤原鎌足の8代目のもので勲功を立てて武蔵の国や下野の国を領国として関東一帯に最大勢力を誇った藤原北家一族です。この一族の末裔は全国に朝廷の命で国司として24地方に赴任した一族です。

この一族の末裔は主要5氏(永嶋氏、長沼氏、青木氏、長谷川氏、進藤氏)を中心に24氏の氏が出来ました。この中には上記の5つの氏があります。

そこで、この藤原秀郷の一門が肥前国に国司として赴任しました。

この時、この赴任した藤原秀郷の末裔の一族が鎌倉幕府の樹立で失職し土地に定住して土地の名主や庄屋や郷士などになり、又、元の立場を生かして豪商となりました。

この時に、付き従った武家の家臣群やその一族縁者も肥前付近に配置されていましたからこれ等も鎌倉期以降も同じく村の力の持つた武家として存在しました。

多分、藤原秀郷一門の中に見られるこの支流の左三つ巴紋の小田氏もこの時に肥前付近の土地に残留したのではないかと推測します。此れが御家の元祖ではないかと思います。

このような高位の武家では父上や母上の言葉は使いません。上記の言葉の様に少し違っています。
天皇家のように。

参考としてこのサイトの青木氏は皇族賜姓青木氏ですし、藤原秀郷流青木氏はですのでこの様な仕来りの中にあります。

平伏土下座も明治大正期には土下座はすくなかつたと思いますが、立ち止まり横に道を譲り腰を低く下げて平伏の慣習が残っていました。

参考に、筆者の先祖は江戸初期から大正末期までの紀州徳川の殿様がわが家の先祖と会うときは徳川の殿様が座る上座を譲り下座し座布団も敷くことはなかつたとた伝えられています。
伊勢青木氏は皇族賜姓青木氏であるので徳川氏より身分家柄が格別に上位である事から起こる慣習でありました。
伊勢の豪商の紙屋長兵衛として2足の草鞋策で伊勢の青木氏としての武家と片方では商いを営む豪商でした。
この様に青木氏と同じ様に、元の勢力を生かして殆どの各地の藤原秀郷氏の一門の末裔も残留した土地ではこの様な立場を保っていました。

名主や庄屋や大豪農や大豪商などは殆ど元は高い身分の武士でした。

一度、御家のご先祖のその娘さんの呼び名は”おひいさま”と呼んでいませんでしたかお調べになるとよいと思います。食事などは上げ膳、据え膳では無かったかもお調べになるとよいと思います。
お盆の仕来りなども異なっていましたが付近と違って居ませんでしたか。

もしこのようなことがあれば間違いありません。

推測できる事は専門ではありませんので上記の通りですがご質問が有りましたらお尋ねください。

No.339

Re: 小田氏について。
回答ありがとうございました。
とても詳しく書いていただいて、母と二人喜んでおります。
本当にありがとうございました。

早速今日叔父に電話で色々と尋ねてみたところ、上げ膳据え膳などのことはもうほとんど覚えていないと言っていましたが、お盆については何か思い当たることがあったようです。曾祖母の家はお盆のとき、仏間の入り口から仏壇までずらっと天井から飾りがつるされていたそうで、これは近所でも見たことがなかったと言っていました。お武家の古い仕来りとはこのことかもしれません。
話は変わるのですが以前「小田」と調べていたところ、「肥前小田家」というのを見たことがあります。宇都宮氏ー常陸小田氏ー肥前小田氏、というルートのようで、その肥前小田氏の一族は一度敵に滅ぼされています。その後小田家から養子に出ていた人の子により肥前小田氏は復活したらしいのですが、うちの家もその生き残りの筋の可能性はありますか?肥前小田氏の家紋は不詳ということになっているので同じ家紋かどうかもわかりません。

・・・何か本当に質問ばかりでスミマセン;
よろしくお願いします。

No.340

Re: 小田氏について。
>回答ありがとうございました。
>とても詳しく書いていただいて、母と二人喜んでおります。
>本当にありがとうございました。
>
>早速今日叔父に電話で色々と尋ねてみたところ、上げ膳据え膳などのことはもうほとんど覚えていないと言っていましたが、お盆については何か思い当たることがあったようです。曾祖母の家はお盆のとき、仏間の入り口から仏壇までずらっと天井から飾りがつるされていたそうで、これは近所でも見たことがなかったと言っていました。お武家の古い仕来りとはこのことかもしれません。
>話は変わるのですが以前「小田」と調べていたところ、「肥前小田家」というのを見たことがあります。宇都宮氏ー常陸小田氏ー肥前小田氏、というルートのようで、その肥前小田氏の一族は一度敵に滅ぼされています。その後小田家から養子に出ていた人の子により肥前小田氏は復活したらしいのですが、うちの家もその生き残りの筋の可能性はありますか?肥前小田氏の家紋は不詳ということになっているので同じ家紋かどうかもわかりません。
>
>・・・何か本当に質問ばかりでスミマセン;
>よろしくお願いします。
稲垣さん 今日は。

さて、お便りの事ですが、仏間に飾りつけをするという習慣は公家(藤原氏含む)や皇族賜姓族(青木氏や源氏)やこの血筋を受ける青木氏24氏と藤原秀郷本家筋24氏や藤原秀郷流青木氏など116氏等の家柄ではこの仕来りが行われていました。

特に浄土宗系列(上記の氏が入信する限定宗派)天台宗や真言宗では寺なども今でもこの様な飾りつけ事を行っています。上記の支流一族の家柄が入信した浄土真宗もこの風習が行われていました。
江戸期になってすたれていつた様です。

他に、お盆の時に迎え火や送り火などの行事をしますし、この時は3代前の先祖の数だけお線香を炊き般若心経を一族が集まって上げるという習慣が昭和初期までありました。
後にこの行事が一般化して焚き火をして盆踊りの行事と変化してゆきました。
仏前のお供えも周囲とちがって居た筈です。

多分、この習慣は間違いなく藤原秀郷一族の支流一門の肥前の小田氏にはあつたと考えます。
筆者の家も今でもこの伝統を大分はなくなりましたがまだ続けています。

次に、宇都宮氏や結城氏や小山氏や小田氏などの藤原秀郷一門の末裔24氏は武蔵国(埼玉)や下野国(茨城栃木群馬)等の関東武士(関東尾形という)は総宗本家の国司赴任地に官僚として24国(全66国)に赴任し一部が藤原氏の勢力拡大の戦略としてその土地に定住しその土地の土豪と血縁を必ずしました。
(青木氏は藤原秀郷の主要5氏の一つですが護衛役を担っていました。)
したがって、常陸国は藤原秀郷一門末裔の領国ですので此処には当然小田氏が存在します。
藤原秀郷24氏の一つの結城氏が常陸一族のその元祖です。

次に、稲垣さんのおうちのことですが、肥前小田氏の詳細ルーツのことに付いては不詳ですが、
一族と考えます。

藤原秀郷の一門の小田氏と稲垣氏とどのように繋がっているのかは判りませんが、小田氏が生残るためには土地の大小の豪族と繋がる意外には有りません。
当然に稲垣氏とは血縁関係を結んだ事が考えられます。
又は、小田氏の一門の末裔が男系跡目が出来ずに娘に養子を稲垣氏から取り跡目を次がせてたが、再び女系となり止む無く稲垣氏を名乗ったことも考えられます。
この時に家紋を稲垣氏の家紋にするか家紋だけは元のままにするかが決断のことです。

稲垣氏を辿れば必ずこの小田氏に繋がり、宇都宮氏か結城氏か小山氏かに到達するはずです。
何れににせよ、この宇都宮氏と小山氏の先祖は長崎奉行を務めています。常陸は小田氏は結城氏
と、肥前小田氏は宇都宮氏か小山氏かのいずれかと繋がっていると考えます。

そして、このいずれかの藤原秀郷一門と稲垣氏とが繋がっていると考えます。このところの確証は専門外なので取れません。いずれにせよ血縁一族であると観られます。

何れの日にかこの稲垣氏の多少のルーツがわかりましたらこのサイトで又お便りします。

No.341

Re: 小田氏について。
こんにちは。
今回も詳しい回答ありがとうございました。

昔の公家や武家はそんな仕来りがあったんですね〜。うちは今はもう全然仏間を飾ったりはしなくなったので、来年のお盆には手作りで作って飾ろうかなと考えています(^^)
でも稲垣と小田が少なからず関係があったというのは驚きです。人間どこで繋がっているかわからないものですね。。笑


今回は色々とありがとうございました。先祖のルーツも知ることができ、とても感謝しています。
ありがとうございました。


余談ですが私の旧姓も青木です。家紋は揚羽蝶ですが、間違いなくただの農家です(笑)
こうして青木氏を研究するサイトでお世話になったのも何かご縁かもしれませんね!(笑)

ではここら辺で失礼します。

No.342

Re: 小田氏について。
>こんにちは。
>今回も詳しい回答ありがとうございました。
>
>昔の公家や武家はそんな仕来りがあったんですね〜。うちは今はもう全然仏間を飾ったりはしなくなったので、来年のお盆には手作りで作って飾ろうかなと考えています(^^)
>でも稲垣と小田が少なからず関係があったというのは驚きです。人間どこで繋がっているかわからないものですね。。笑
>
>
>今回は色々とありがとうございました。先祖のルーツも知ることができ、とても感謝しています。
>ありがとうございました。
>
>
>余談ですが私の旧姓も青木です。家紋は揚羽蝶ですが、間違いなくただの農家です(笑)
>こうして青木氏を研究するサイトでお世話になったのも何かご縁かもしれませんね!(笑)
>
>ではここら辺で失礼します。
今日は。稲垣さん。
旧姓青木さん。

ちょとすごい事が判りましたのでお便りします。

その前にお盆の飾りの件ですが、七夕はこの仕来りのなごりです。

さて、肝心な事ですが、旧姓の青木氏のことです。
この青木氏は家紋が揚羽蝶紋であるとの事ですが、実はこの揚羽蝶の家紋は平家の綜紋です。
この平氏の青木氏は藤原秀郷流青木氏の主要9氏の一つです。この支流4氏の一つです。
この揚羽蝶の家紋の青木氏は元は嶋崎と名乗っていました。又一部の縁者は岡田と名乗っていました。この嶋崎氏は藤原秀郷流青木氏の元祖の初代の秀郷の第3子で千国というものが居ました。
この元祖の千国の母は平氏のこの嶋崎氏の出です。
そのことからいくつかの姻戚によりこの嶋崎は後に藤原氏一門となり、青木氏元祖の千国の後の青木氏を名乗りました。

兵右衛門利澄の時に青木氏となりました。この初代元祖の利澄の子供の長男の正命がこれを引き継ぎました。
藤原秀郷流青木氏の青木正命が2代目の元祖です
藤原秀郷流青木氏は直系1氏と直流4氏と支流4氏の9氏からなり、116氏に拡がっています。
研究室の「藤原秀郷一族の生き方」のレポート参照して下さい

この支流4氏の一つです。そして、鎌倉幕府樹立により平安期の朝廷が衰退し藤原一族は全て失職し他の豪族に仕官となり農業や商いをしたりして生き延びました。

この青木氏です。したがつて嫁ぎさきの藤原秀郷の支流の稲垣氏末裔と旧姓の藤原秀郷流青木氏は同族でどちらかと言うと身分は上位です。

次に、藤原秀郷一族の小田氏に付いては家紋掲示板の3Pの真ん中あたりに家紋の州浜紋を掲示していますので参照して下さい。
研究室の青木氏と血縁族(家紋)のレポートの州浜紋のところを参照して下さい。

小田氏は武蔵の小田氏と陸奥の小田氏と常陸の小田氏と肥前の小田氏とがありこの小田氏の元は総宗本家は武蔵で次に陸奥から常陸から肥前からと成ります。

家紋は州浜紋です。


つまり小田氏、青木氏、稲垣氏の3つの藤原秀郷の一門同士の血縁で藤原氏の血筋の濃い稲垣氏と成ります。世の中とは不思議ですね。こんな事は珍しいですね。元祖の宇都宮氏か小山氏などを入れると5つくらいの藤原秀郷一門の血筋で出来た御家といえます。藤原氏そのものでしょう。

では又サイトにお便りください。

No.343

[投稿者削除]
投稿者によって削除されました。(06/12/18 16:11)

No.344

Re: 小田氏について。
こんにちは(^^)

今回の「青木氏」の話には心底驚きました・・・!!
「え?まさか平家ってあの平家!?」と読んだあとも少し呆然としていました(苦笑)まさか父方が藤原氏と縁がある家だったとは・・・。考えもしませんでした。父方の先祖のことは父から「うちはどうせただの農家やろー」としか聞いたことが無かったので全然興味もありませんでした。

それで今日驚いて父に電話してみたところ、何やらお盆だけは母方の家と似たようなことをしていたらしいです。父の家は仏間を飾ったりはしていなかったらしいのですが、父の父(私の祖父)の兄の家は仏間を少し飾ったりしていたらしいです。父も幼いときの記憶なのでもうあやふやだと言っていましたが、ひもの先に三角や丸の形をした綿をつめた飾りがつるしてあったらしいですよ。実家付近ではそんな飾りをする地域性は無いので、これはもしかすると何かのなごりでしょうか??

もしも父方の家が本当に藤原氏の血を汲んでいるのだとしたら、本当にうちの家は面白い縁になりますね。血のつながりもない他人だと思っていたら遥か昔に実は同じ先祖から始まった人だったとは・・・。ルーツ調べは奥が深いです。(笑)


また何かわかりましたら報告しますね。

ありがとうございました。

No.345

Re: 小田氏について。
>こんにちは(^^)
>
>今回の「青木氏」の話には心底驚きました・・・!!
>「え?まさか平家ってあの平家!?」と読んだあとも少し呆然としていました(苦笑)まさか父方が藤原氏と縁がある家だったとは・・・。考えもしませんでした。父方の先祖のことは父から「うちはどうせただの農家やろー」としか聞いたことが無かったので全然興味もありませんでした。
>
>それで今日驚いて父に電話してみたところ、何やらお盆だけは母方の家と似たようなことをしていたらしいです。父の家は仏間を飾ったりはしていなかったらしいのですが、父の父(私の祖父)の兄の家は仏間を少し飾ったりしていたらしいです。父も幼いときの記憶なのでもうあやふやだと言っていましたが、ひもの先に三角や丸の形をした綿をつめた飾りがつるしてあったらしいですよ。実家付近ではそんな飾りをする地域性は無いので、これはもしかすると何かのなごりでしょうか??
>
>もしも父方の家が本当に藤原氏の血を汲んでいるのだとしたら、本当にうちの家は面白い縁になりますね。血のつながりもない他人だと思っていたら遥か昔に実は同じ先祖から始まった人だったとは・・・。ルーツ調べは奥が深いです。(笑)
>
>
>また何かわかりましたら報告しますね。
>
>ありがとうございました。
稲垣さん 今日は。

書き忘れましたので追記します。
揚羽蝶紋の藤原秀郷流青木氏のことは家紋掲示板の3Pの上から3番目にレポートしています。
又、研究室の青木氏と血縁族(家紋)の揚羽蝶紋のところのレポートをお読みください。

詳しくレポートしています。
No.328
御礼。
328編集 追加
青木研究員様。

早速大変丁寧なご回答を頂き、誠に有り難うございました。

我が青木氏は、美濃王を先祖とする皇族賜姓青木氏の土岐氏系分家一門であると思われること。
信長との戦いに敗れて、関東の藤原流青木氏を頼って逃げ延びてきたと思われること。
青木紀伊守や平氏、「富士に霞」紋の青木氏とは関係がないこと。

以上、感銘深く読ませていただきました。

我が青木氏が現在で15〜16代目ということも、丁度信長の頃に武蔵国に移ったことと一致する気がします。

今後、研究室のご報告を更に読ませていただき、また、我が青木氏のより詳しい伝来の情報も集め、またお便りさせていただきたいと思います。
取り急ぎ、御礼まで。
有り難うございました。                   青木。
No.324
教えてください。
324編集 追加
初めまして。
我が青木家の先祖について、お教えいただきたく投稿させていただきます。

家紋 井桁に木瓜

菩提寺 武蔵の国 正能村(現在の北埼玉郡騎西町正能)
    真義真言宗伊豆山龍花院(真言宗智山派)
    頼朝の命により創建され、江戸時代には朱印20石を拝領
    将軍が日光へ参る途中、茶を飲みに立ち寄った
    江戸期には末寺28を数えた名刹

冨士講先達の家
     
     寛文年間(1661〜1673)、冨士講初代先達が富士山に初登                     頂する
     1699 初代先達、富士登山33度の大願を成就する

     8代将軍吉宗から感謝状を戴く(寄進したためか?)
     
     1852 初代から6代までの各33度の富士登山大願成就で、正          能村諏訪神社境内に記念碑を建立
          最盛期には、関東一円5000人の参加者が、青木先達          の冨士講にはあったと伝えられる 

今回、青木氏に「富士に霞」の紋があることを初めて知りました。
青木ヶ原樹海や、青木先達の家が冨士講の中心として栄えたことを考えると、青木氏と富士山には深い関係があるのでしょうか。

更に、我が青木氏の江戸期以前のルーツについて、お教えいただければ幸いです。
大正期に歴史を学んだ親族が、「青木紀伊守がルーツだ。」と言ったと聞いています。
また、平家の落人が青木氏の祖先という話も聞いたこともあります。

では、よろしくお願い致します。               青木。



 

No.326

Re: 教えてください。
>初めまして。
>我が青木家の先祖について、お教えいただきたく投稿させていただきます。
>
>家紋 井桁に木瓜
>
>菩提寺 武蔵の国 正能村(現在の北埼玉郡騎西町正能)
>    真義真言宗伊豆山龍花院(真言宗智山派)
>    頼朝の命により創建され、江戸時代には朱印20石を拝領
>    将軍が日光へ参る途中、茶を飲みに立ち寄った
>    江戸期には末寺28を数えた名刹
>
>冨士講先達の家
>     
>     寛文年間(1661〜1673)、冨士講初代先達が富士山に初登                     頂する
>     1699 初代先達、富士登山33度の大願を成就する
>
>     8代将軍吉宗から感謝状を戴く(寄進したためか?)
>     
>     1852 初代から6代までの各33度の富士登山大願成就で、正          能村諏訪神社境内に記念碑を建立
>          最盛期には、関東一円5000人の参加者が、青木先達          の冨士講にはあったと伝えられる 
>
>今回、青木氏に「富士に霞」の紋があることを初めて知りました。
>青木ヶ原樹海や、青木先達の家が冨士講の中心として栄えたことを考えると、青木氏と富士山には深い関係があるのでしょうか。
>
>更に、我が青木氏の江戸期以前のルーツについて、お教えいただければ幸いです。
>大正期に歴史を学んだ親族が、「青木紀伊守がルーツだ。」と言ったと聞いています。
>また、平家の落人が青木氏の祖先という話も聞いたこともあります。
>
>では、よろしくお願い致します。               青木。
>
>
>
青木克彦さん 今日は 始めまして。
先ず、ご先祖を調べるには家紋や宗派や土地柄などで調べる事が出来るのですが、次の情報から判断しますと次の様に成ります。

第1には御家は真言宗です。
第2には家紋が井桁に木瓜です。そして女家紋は丸に木瓜紋です。
第3には富士講の先達であつた。

質問として平家の落人が青木氏であるのか、青木紀伊守が先祖では。


さて、御家の家紋から検証してみますと
青木には33の紋様からなる青木氏があります。家紋にしますと121程度に成ります。
この中で、木瓜紋の青木氏は6つの種類の家紋からなっています。
家紋掲示板のP2の真ん中あたりに投稿していますので参照して下さい。
木瓜紋種としてはこの6つ以外にありませんが、御家の男性紋は「井桁に木瓜紋」ですので外れる事に成ります。

そもそも青木氏は研究室のところに青木氏の2つのルーツがあります。(で研究室にレポートされています。)青木氏はこの2つのルーツで広がっています。
しかし、江戸初期と明治初期の2期に第3の青木氏が生まれました。
江戸期のものは庶民が出世して侍となり系譜と家紋が必要となりました。この時に高位の身分の青木氏の氏名を名乗りました。

明治期は庶民が苗字令にて姓を持つことに成りました。この時に同じく寺や神社に金品を出して青木姓を名乗るということが起こりました。
(詳細は研究室のレポートをゆっくりとお読みください 詳しくレポートしています)

青木氏の家紋33紋様は第3の青木氏ではない氏の家紋群です。
この家紋はそのルーツがはっきりとしています。

因みに、先ず一つ目は皇族賜姓青木氏で5家5流24氏です。
二つ目は藤原鎌足の8代目の子孫の藤原秀郷流青木氏です。
この二つは藤原系の血筋で繋がっています。
藤原鎌足は大化改新の時の中臣の鎌足です。
藤原氏の四家のうち北家で最大勢力をほこりました。

皇族賜姓青木氏はこの時の天智天皇(中大兄皇子)の第6位皇子が臣下して侍となって天皇の親衛隊となつた氏で天皇から青木氏を授かりました。
初代は伊勢の青木氏です。次に近江の青木氏です、美濃の青木氏です、信濃の青木氏です、甲斐の青木氏です。
以上何れも5代の天皇の第6位皇子が臣下して名乗った氏です。
天智天皇、天武天皇、聖武天皇、文武天皇、光仁天皇の5人の天皇の第6位皇子です。
詳しくは研究室の「皇族賜姓青木氏」のレポートを参照して下さい。

藤原秀郷流青木氏ですが直系1氏、直流4氏、支流4氏から成り立ちここより116氏に広がっています。
藤原秀郷の第3番目の子供の千国から青木氏が広がっています。
詳しくは研究室の「藤原秀郷一族の生き方」を参照してください。
 
そこでこの青木氏の中に「井桁に木瓜」は有りませんが女紋の「丸に木瓜」紋は美濃の土岐氏(綜紋は桔梗紋)の一族の末裔と血縁を結んだ土岐氏系青木氏の分家です。

美濃の土地の土豪の土岐氏は美濃の守護の皇族賜姓青木氏と血縁して勢力を伸ばしました。
本来この土岐氏系青木氏は「笹竜胆紋」です。しかし、2代続きで男系跡目が
とれず家紋掟で変紋を余儀なくされ、養子先の土岐氏の家紋となりました。
これが、「木瓜紋」です。そして、この分家が「丸に木瓜紋」と成ります。

主要家紋書の中には「井桁に木瓜」はなく珍しい家紋です。家紋200選の中にもありません。しかし、「丸に木瓜紋」は存在します。

つまり、御家は長い間に一時女系となったことが予想できます。この時はまだ「丸に木瓜紋」であつた事が覗えます。
しかし、この後に男系跡目は出来ずに家紋掟にて変紋を余儀なくされた結果、木瓜紋を残したいと考えて木瓜紋に井桁を入れて「井桁に木瓜」としたものと考えます。したがつて珍しい家紋となつたと思います。特に特別に井桁紋としては特定の氏の家紋では有りませんので、止む無くこの時には変紋をしたと考えます。

しかし、女紋では「丸に木瓜」ですので土岐氏系青木氏です。
つまり、美濃の美濃王を先祖とする皇族賜姓青木氏の分家一門で24氏の一つです。

賜姓とは天皇の皇子であるので氏を持ちませんので臣下(侍になる事)して天皇を守る親衛隊となり、天皇から青木という氏を直接に与えられる事です。

御家の菩提寺の埼玉の入間郡を中心として神奈川横浜を半径として円を描く範囲に藤原秀郷の総宗本家を真ん中に藤原秀郷流青木氏が内側より本家筋が取り囲み外側に向けて支流の本家筋が取り巻いて存在していました。

したがって、ここに居る青木氏は藤原秀郷流青木が主です。
しかし、此処に、この青木氏を頼って信濃皇族賜姓諏訪族青木氏や美濃青木氏が信長との戦いで敗れて逃げ延びてきています。横浜、栃木などに多く分布しています。

皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏は本来は浄土宗です。浄土宗はこの様な高位の身分の者が入る宗派でした。ところがこの宗派の寺があるところは限定されていますので、藤原秀郷流青木氏の一部は赴任先では寺がないので浄土真宗に入りました。逃げ延びた御家の一族などの他の青木氏らもこの宗派に入りました。
しかし、この全ての5家5流の皇族賜姓青木氏は高位であるため元来自分の守護神の神社を持ち移動さきにも遷していますので一族として逃げ延びた場合に於いてどこかに自前の守護神(祠も含む)があった筈です。一度調べられたらよいでしょう。

御家は江戸期前に美濃から移動してきたものと思いますので、寺はなかったものと思います。このために同系の浄土真宗に菩提寺を求めたと考えます。

江戸初期にこの為に幕府は浄土宗を普及する為に奨励しました。
この為に江戸半ばに各地に広がりました。

此処で、既にお判りと思いますが、平家からはまったく青木氏は出ていません。平家のルーツもはっきりとしています。
中国朝鮮系の渡来系で中国後漢の21代の末帝の献帝の子供の阿智使王と孫の阿多倍王の子孫です。日本に17県民の200万人引き連れて入国し殆ど無戦で九州全土と中国地方全土を制圧し66国中32国まで制圧した渡来系一団です。この一団が孝徳天皇期に帰化してきました。この後、天皇家と婚姻を結び朝廷組織の3つの内の2つまでも独占し、日本の律令政治の根幹と第2次産業の基礎を作りました。
そして、この子孫が太政大臣の平清盛です。桓武天皇の母がこの子孫の末裔です。むしろ、青木氏とは政治的には犬猿の仲なのです。この為に天皇の第6番目の皇子であり親衛隊として最大勢力を誇っていた青木氏は勢力を弱められたのです。このことを嫌った息子の嵯峨天皇は元に戻しました。
此れが源氏なのです。

青木氏は明治初期までは皇族以外のものが使用しては成らない姓でした。
800年頃の嵯峨天皇期に詔令で青木氏の使用禁止令を出しました。
そして、嵯峨天皇期からは青木氏を止めて第6位皇子の臣下は源氏としました。この青木氏からかわつた源氏は16代続きました。
青木氏と源氏は同族です。全部で21代です。

青木紀伊守一矩は信長と秀吉とに仕え、北の庄8万石でありましたが家康はこの者を除封し一族を滅ぼしました。子孫のないところ氏の子孫としても使えば文句の云う者は有りませんから多くの庶民は使いました。

そして、この者の子孫だと言う者が多く出ていますが殆ど偽です。
除封されると子孫は原則なくなります。そして、更に木瓜紋では有りませんので子孫とは考え難いです。江戸初期の偏纂搾取ですし明治の第3の青木氏の偏纂の現象です。

「富士に霧」紋は江戸初期のこの第3の青木氏です。出世して大名に成りました。富士講とは関係有りません。

以上が御家の江戸期前のルーツです。美濃の大豪族の土岐氏系青木氏です。皇族賜姓青木氏の24氏の一門で分家の支流一族です。

研究室の「青木氏(家紋)と血縁族」のレポートの木瓜紋のところを参照して下さい。

美濃の青木氏は青木氏の地名地形のデーターベースの美濃、尾張の所を参照して下さい
このレポートを一読後、研究室の所定のレポートを参照後にご質問が有りましたらご遠慮なくお尋ねください。

ではお便りお待ちしています。
No.325
追伸
325編集 追加
家紋 男性が、井桁に木瓜
   女性が、○に木瓜です。

よろしくお願いします。
No.323
お礼を申し上げます。
323編集 追加
私の疑問に、お答えくださり、有難うございました。 お礼を申し上げます。
 たぶん国からの、見舞金であったことと、思います。 疑問が、一つ
解消されました。 忙しい時期を、迎えます。 お体を大切になさって下さい
 ませ。 失礼いたします。
No.318
以前嶋崎氏の件でお世話になりました。
318編集 追加
嶋崎氏の件では、お世話様になりました。御礼を申し上げます。
 天皇家のことに、お詳しそうですので、一つお尋ねしたいと思います。
普通の一般家庭に、天皇家より、災害の時に、「お見舞い」が届くのでしょうか? 何故か? 小山の嶋崎が、関東大地震の時に、天皇家より、お見舞金を
 頂いているのです。 ほんの50円ほどです。爺さんが頂いていました。
叔母がそれを、覚えていて、本の中に書いておいてくれたのです。
 宮内庁に聞くのも、どうかな?と考えていました。 それ程のことでは
無いのかも知れないと。 皆様に、お見舞金を出すと為ると、大変なことなのでは、とも思います。 どなたに聞いたらよいのか、分かりませんゆえ、
 大変申し訳なく思いながら、疑問を解消したく、書いております。
お手数をおかけいたすこと、お許しくださいませ。

No.319

Re: 以前嶋崎氏の件でお世話になりました。
>嶋崎氏の件では、お世話様になりました。御礼を申し上げます。
> 天皇家のことに、お詳しそうですので、一つお尋ねしたいと思います。
>普通の一般家庭に、天皇家より、災害の時に、「お見舞い」が届くのでしょうか? 何故か? 小山の嶋崎が、関東大地震の時に、天皇家より、お見舞金を
> 頂いているのです。 ほんの50円ほどです。爺さんが頂いていました。
>叔母がそれを、覚えていて、本の中に書いておいてくれたのです。
> 宮内庁に聞くのも、どうかな?と考えていました。 それ程のことでは
>無いのかも知れないと。 皆様に、お見舞金を出すと為ると、大変なことなのでは、とも思います。 どなたに聞いたらよいのか、分かりませんゆえ、
> 大変申し訳なく思いながら、疑問を解消したく、書いております。
>お手数をおかけいたすこと、お許しくださいませ。
お久しぶりです。
早速ご質問の件ですが、基本的には無い事です。
天皇家のことの一切は宮内庁が行っています。
現在でも軽井沢のところでも特例で美智子様が皇太子様の買い物の訓練と言う事で現金を一時使用したと言うことがありましたが、民間に直接差し入れすることはないことです。

私の家でも天皇家にあるものをある人を通じて献上した時にもお返しはある天皇家に繋がる特定の人を通じて送り届けられました。直接は有りません。

関東大震災の時には被災者に国から見舞金を支給されました。
この時の事を、立憲君主制であったのでこれは天皇さまから下されたものと一般に云われていたことを天皇家からくだされたものと考えたものと思います。

お家に天皇家と直接繋がる方がいるとすればありえないことでも有りませんが公にすることは絶対にないと思いますし現金は絶対にないと思います。問題が起こりますので。
又、直接言葉も掛けることは出来ませんでした。又合う人も従三位以上の身分の人でないと合うことも出来ませんでした。
天皇は当時は今と違い「神」に近い人でありましたことを考えるとお判りと思います。
No.316
信濃の諏訪の旅
316編集 追加
11月初旬に信濃の旅に出ました。
この信濃には2度ほど旅をしていますが今度の旅は歴史探訪の旅として定年後の楽しみの一つとして出かけたものです。

この信濃には青木氏に関わることが大変多いところですが、この歴史的なことを探訪してその雰囲気をはっきりと印象に残したかつたのです。

既にこの研究室の青木氏のレポートをお読みに成っている方はご存知と思いますが、この信濃の国(長野県)には4つの青木氏が住み分けています。

その4つの青木氏とは次ぎの通りですが長野県東西南北の全域にすみ分かれて村を形勢しています。(詳細は研究室のレポートを参照)

先ずは、皇族賜姓青木氏です。
長野県のほぼ中央の信濃の国府のあったところ付近に青木村を形成していました。
この青木氏は天智天皇より5代の男性天皇の第6位皇子が臣下して賜姓を受けて(信濃王として)その国の守護を担う国主として赴任し定住して子孫を遺した5家5流(伊勢、近江、信濃、美濃、甲斐)の青木氏の一つです。
(皇族賜姓青木氏のレポート参照)

第二に、足利系青木氏です。
この青木氏は信濃国の北側の国境付近に同じく住み分けていました

この皇族賜姓青木氏と土地の豪族の足利氏との血縁にて発祥した足利系青木氏です。5家5流の24氏の支流族に成ります。
(皇族賜姓青木氏のレポート参照)

第三には藤原秀郷流青木氏です。
この一団の青木氏主要9氏と支流116氏の一つの青木氏は南側の美濃尾張付近に住み分けられていました。(藤原秀郷流青木氏のレポート参照)

第四には、諏訪族青木氏です。(抱き角紋)
今回の旅の地の諏訪地方の青木氏です。
(青木氏と血縁族の抱き角紋のレポート参照と家紋掲示板の抱き角紋を参照)

テーマであるこの諏訪族青木氏の先祖は、まだこの国が未開の地であつた頃の大化の改新時期にこの地に開拓民として派遣された渡来人の一団です。

この経緯を簡単に述べると次の様になります。
後漢の光武帝より21代目の献帝の子の阿智使王とその孫の阿多倍王が後漢が滅びると共に、孝徳天皇期前後ごろから中国17県民全てを引き連れて九州に上陸し、瞬く間に無戦に近い状態で制圧し、大和朝廷に帰化してきた渡来人です。約200万人と言われています。敏達天皇の曾孫の子供の娘を娶り勢力を伸ばし朝廷の3つの実権のうち2つまで担うまでに成ります。そして、ついにはこの子孫の平清盛の太政大臣までに成ります。桓武天王の母はこの渡来人の首魁である阿多倍王の孫娘に当ります。(研究室のレポート参照)
伊勢青木氏の本領地の伊勢を分轄して伊勢北部地方の伊賀地方を与えここに住まわせて「不入不倫の権」を与えました。
伊賀忍者はこの末裔です。

この阿智使王と阿多倍王に引き連れられた全能集団の一部がこの信濃国の開拓に廻されました。外来馬の飼育と農産物の加工を主体とした技能集団でした。
日本書紀にはこの一族のことが数度とが出てきます。

この末裔が諏訪族です。
この諏訪族の先祖と国主として彼らを保護し開拓を進める為に赴任した信濃王の子孫の青木氏と血縁をした事により生まれた諏訪族青木氏です。
日本書紀には開拓の成果の勲功を受けるために天皇に呼び出されてこの信濃王の青木氏と共に朝廷に向かいます。そして拝謁して天皇に具申して「不入不倫の権」を授かりますが、この時のことが詳しく述べられています。

後に、隣の甲斐の国には陸奥から藤原氏の護衛役して守護に付き従って来た陸奥の武田氏がこの地で勢力を得て土地の豪族に伸し上がります。
しかし、この甲斐の国を制圧するには上記した奈良時代からの古代から住み着いている隣の信濃の大豪族の連合体の諏訪族の勢力を排除する必要があります。しかし、朝廷から授かった「不入不倫の権」で武力による攻め落としは出来ませんし、勢力的にもこの諏訪族の強力武装集団(赤兜騎馬軍団)には武田氏は勝ち目は有りません
そこで、歴史上の有名な「由布姫の政略結婚」事件が起こり、武田氏は信濃の諏訪族と血縁してとりあえずこの甲斐の国の地の大豪族に伸し上がったのです。
この時にこの諏訪族青木氏は武田氏系青木氏の中に組み込まれたのです。

勿論、この甲斐の武田氏と甲斐の皇族賜姓青木氏との間でも血縁関係があり、武田氏系青木氏が発祥します。

武田氏系青木氏には武田氏系青木氏と諏訪族青木氏の二つの青木氏が存在します。

この皇族賜姓青木氏は5家5流の一つの青木氏です。
この青木氏は光仁天皇の第6位皇子が臣下して青木氏の賜姓を授けられたもので、この光仁天皇は天智天皇の第6位皇子の施基皇子の子供です。
よって、伊勢王の施基皇子の子の皇族賜姓伊勢青木氏とは親族関係にあります。

武田氏に依って組み入れられたこの諏訪族青木氏は武田氏が滅ぶと同時に一部が東に逃げ延びて、神奈川横浜付近と埼玉栃木付近に二手に分かれて逃げ延びて子孫を遺しています。
当然、この地は藤原秀郷流青木氏の根拠地です。

この信濃の足利氏系青木氏(越後地方の北側に逃げ延びる)も藤原秀郷一族の血筋を受けていますので、諏訪族青木氏も後に何らかの関係を持っていることは考えられます。

この経緯は信濃の元から居た足利氏の本家と、分家を乗っ取った藤原秀郷の一族とが本家争いをして藤原秀郷系の分家が勝ち本家を引き継ぎます。
この時、負けた本家は信濃より越前を経て美作の国に移動し定住します。

このような諏訪族の経緯を持つ諏訪族青木氏に付いて、今回の旅の収穫は4つありました。

先ず、カーナビにも出て来る「青木町」と「阿智」と「伊勢町」の地名と「諏訪族青木氏の町長」の存在です。
これには意味を持ちます。

つまり、「青木町」はもとより上記の皇族賜姓青木氏の存在する町名です。
地名地形のデータベースのところで明記しています。

「阿智」の地名は上記した諏訪族の元祖(渡来人の首魁の阿智使王または阿智王)の町名が存在することであります。
(研究室の渡来人の所のレポート参照)

この信濃の地の皇族賜姓青木氏の元祖の施基皇子と同じ施基皇子一族の伊勢王の青木氏の伊勢の町名がこの信濃諏訪路に存在した事です。
つまり、同族の伊勢の青木氏と信濃の青木氏との間で信濃に伊勢村を形成するほどに親交していた事を物語るものです。

そして、次にはこの諏訪町の村長町長は代々この諏訪族青木氏が務めていて現代にいたる事です。

ここに武田氏の滅んだ後に定住し続けた諏訪族青木氏が末裔を残し1200年以上この諏訪の名主であったことを物語ります。

つまり、全体として研究室のレポートが証明されていることを意味します。

これ等が旅の収穫なのですが、残念な事にこの地の人たちがこれ等のことを全く知らなかったこと、観光案内の人さえもです。
江戸期以降の事の認識しかなかつたのです。まして案内板と土地の観光資料の説明さえもです。
歴史観光を職業を糧としいるホテルの支配人たちもです。
諏訪大社でも江戸中期以降の説明しか見つけることが出来ませんでした。

日本の中でも最も古い数々のすばらしい歴史を持ち多くのこの末裔の氏名(磯部氏や山部氏や馬部や鞍部や阿倍氏など部の付く氏名)をもつ存在する信濃であるのに。

そもそも、これらの歴史、即ち先祖を知る事とが現在の自分を知ることであるのに。
先祖を知り敬う事は未来の子孫を慈しむ事の原点であるのに。

これが多くの規範を失われている現在の日本の現実的な原因の一つであろう事を思うと実に残念であると思った信濃の旅でありました。

念のために、先祖は過去の自分であり、子は現代の自分であり、孫は未来の自分であると考えます。

ちなみに、人の遺伝子の構造が完全に解明された現代の医学では子や孫の血液型が同じであれば85−95%は遺伝子が同じである事が証明されています。
(ほん前までは50%となっていたが)
此れだけ同じ遺伝子では、まさに自分のクローンである事を意味するのでは有りませんか。

だから、孫が生まれるとなんともいえない自然の力みない喜びがこみ上げてくるのはこの未来に自分を遺す事が出来た心の奥から出て来る本来動物の潜在的喜びであるのではありませんか。

それには過去の自分が子孫を残そうとする死にもの狂いの戦いを知ることであると思います。そして、そこに自分が現在あるはこの過去の自分の結果である事を知り先祖を敬うこころが生まれるのだと思います。
そして、その証の行為として先祖祭りを人は行うのだと思います。

人も他の植物や動物と同じ自然物の一物で有りませんか。だとすれば子孫を遺す事が人生の最大の目的で在る筈です。

その間にある事の喜怒哀楽は本来の人の目的では無い筈です。
人だけが幸い「高い知恵」を神から授かり文化を創り得た結果、付加価値がおこりこの方に目が向いてしまったことの間違いにより、喜怒哀楽が本来の目的として扱ってしまったのであろうと思います。

この青木氏のレポートが全国の青木氏の方々の参考になればと今後もレポート作成に励みたいと思います。

No.317

Re: 信濃の諏訪の旅
副管理人さん
お帰りなさい。返事が遅くなりました。

そして、旅行のレポートありがとうございました。

実地検分の旅だったのですね、研究室のレポートが正しかった事が証明され、
さぞかし有意義な旅だった事でしょう。

地元の人たちがほとんど知らず、江戸期以前の情報は皆無に等しかったのは寂しいですね。
ということは、ほとんど忘れ去られたり、記録にも無いことですので、
ますます、副管理人さんの研究内容が重要度を増してしまっているということになりますね。大変でしょうが、これからも頑張って下さい。
No.308
家紋について
308編集 追加
かんりにんの代理投稿

初めまして、初めて投稿させて頂きます。
私達の青木の墓地は埼玉県さいたま市中野林にあります。
その墓地には古い墓石があります。その中に寛延、元禄、享保、天明、寛政、延享、文化の年号が彫られている墓石が多々あります。また施主の名に青木理兵衛、青木源兵衛の名も記載されています。
このサイトを拝見して私共の青木は藤原秀郷の流れだと察する事が出来ますが
私は家紋で解らない事がありますのでお答えして頂けませんか?
それは私の本家筋は丸に片喰なのですが、隣の墓地の家紋は丸に唐木瓜なのです。どのような関係があるのかご存知でしたらご教授宜しくお願いします.

No.310

Re: 家紋について
>かんりにんの代理投稿
>
>初めまして、初めて投稿させて頂きます。
>私達の青木の墓地は埼玉県さいたま市中野林にあります。
>その墓地には古い墓石があります。その中に寛延、元禄、享保、天明、寛政、延享、文化の年号が彫られている墓石が多々あります。また施主の名に青木理兵衛、青木源兵衛の名も記載されています。
>このサイトを拝見して私共の青木は藤原秀郷の流れだと察する事が出来ますが
>私は家紋で解らない事がありますのでお答えして頂けませんか?
>それは私の本家筋は丸に片喰なのですが、隣の墓地の家紋は丸に唐木瓜なのです。どのような関係があるのかご存知でしたらご教授宜しくお願いします.
始めまして。 埼玉の青木さん 今日は。

埼玉は草加に長く居りましたので懐かしく思います。

さて、早速ですが、お尋ねの件ですが、上記した年号は新しいものですのでこの時代はルーツ歴史上確定が困難な時代なのです。
農民を含む一般の力のある者が戦国時代から出世して家を起こし系譜や家紋や氏を作り上げた時期で社会も又この系譜や家紋や氏名を出世することに重きを置いていました。

よつてこの時代から古くルーツをさかのぼる事は出来ず、又出来たとしても信頼性が著しく低下します。
ご承知と思いますが徳川氏や豊臣氏などもよい例でこの家柄や系譜を搾取し偏纂しています。

そこで鎌倉期まで遡りますと確定が出来ますのでその範囲でお答えします。

先ずお家の「丸に片喰紋」は間違いなく藤原秀郷流青木氏であります。
藤原秀郷一族に関する詳細は「藤原秀郷一族とその生き方」で詳しくレポートしていますので一読ください。

お家のルーツは四国阿波国にて土地の片喰紋の豪族との血縁にて発祥した青木氏で「下がり藤紋」の綜紋から男系跡目が2代続きで叶わず養子先の家紋となる事を家紋掟から余儀なくなつたものです。
この片喰紋の青木氏は総宗本家の藤原秀郷の末裔の宗政と時宗の親子の赴任先に護衛役として同行したものであります。

元は「下がり藤紋」が藤原秀郷一門の綜紋です。

この片喰紋の事に付いては家紋掲示板の「片喰紋」のところと研究室の「片喰紋」のところのレポートを参照して下さい。詳細にレポートをしています。

研究室の所に5人程度のこの片喰紋の持つ青木さんが投稿していますので参照して下さい。ご先祖は親族です。

この四国には護衛役として藤原秀郷の宗家の守護国司などの官職の役務として同行しましたが、この変紋を余儀なくなった藤原秀郷流青木氏が源氏の鎌倉幕府樹立期に藤原秀郷一門全てはその職を失います。
この時、この阿波国から一族の一部は領国の武蔵や下野国に戻りました。

阿波にも定住した青木氏も居ります。阿波にはお家のルーツのご先祖の住まわれた青木村が存在します。

藤原秀郷一門は日本全国66国のうちその勢力を示すとおり24国に何らかの官職で赴いています。
この24の土地に全て子孫を遺してきているのです。

もとより藤原秀郷流青木氏は藤原秀郷一門の千国を元祖とする主要5氏の一つですが藤原秀郷一門を護衛することを役務として生まれた氏です。
そして、この青木氏はの主要9氏があり、直系1氏、直流4氏、支流4氏から成り立っています。

そして、この9氏から116氏もの家紋の異なる青木氏が生まれているのです。
男系跡目が叶わず下がり藤紋から116もの家紋類が生まれています。
此れ全て親族です。

そして、この青木氏は武蔵の入間郡を中心に神奈川横浜を半径として円を描く様に取り囲み領国を守っています。
中心になるほど直系の青木氏が守る仕組みに成っていました。

当然に116氏もの家紋の異なってしまった青木氏がこの円ないに存在します。
この円内に存在する青木氏の多くはその家紋の一族の本家筋と成ります。

この中に、美濃から移動してきた土岐氏系の横木瓜紋即ち唐木瓜紋の青木氏も存在します。
木瓜紋の家紋掲示板の九つある木瓜紋のところ参照してください。研究室の所の木瓜紋も一読ください。

この木瓜紋の一族は土岐氏系青木氏であります。
この木瓜紋の青木氏は美濃国にて皇族賜姓青木氏と土地の豪族の土岐氏との血縁にて発祥した一族です。

土地の清和源氏と血縁をした支流源氏の土岐氏から養子縁組にて跡目をとった皇族賜姓青木氏の血筋を持つ一族で男系跡目が2代続きで叶わず家紋を養子先の土岐氏のものとした青木氏です。

この土岐氏が滅亡した時この一族の九つの青木氏は東の藤原秀郷流青木氏を頼ってこの土地に移動してきたものです。
この中に唐木瓜紋の青木氏がいたのです。

このような行動をとった青木氏としては武田氏が滅んだ時に他の氏として武田氏系青木氏が越中越後に逃亡し陸奥の藤原秀郷流青木氏を頼り、又武田氏系諏訪族青木氏もこの武蔵国の藤原秀郷流青木氏を頼って神奈川横浜と栃木に移動しました。(武田氏は陸奥で藤原秀郷一族の兼光系の血筋を受けています。 兼光は青木氏の元祖)

片喰族と同様にこの一族も大きな一族です。

そこでお墓が同墓地にあるということは何らかの血縁関係を後の江戸期に関係をもつた親族であった事が頷けます。

お家は丸付き紋ですので、片喰紋の本家筋に対して青木氏の分家筋に当ります。
また、唐木瓜紋も丸付きもんですので分家筋に当ります。

この付近には116氏の藤原秀郷流青木氏もあるのでまだたまだ家紋の異なるルーツを同じくする青木氏が存在する筈です。
皇族賜姓青木氏の血筋を受けた木瓜紋の土岐氏系青木氏のほかの氏も存在する筈です。

この116氏の家紋類については研究室の「青木氏(家紋)と血縁族」をお読みください。詳しくレポートしています。

上記しました様に青木氏はこの藤原秀郷一門の青木氏と皇族賜姓青木氏の二つが主に存在します。

この二つは伊勢青木氏を除き母方の藤原氏で繋がっています。
藤原秀郷は大化の改新で有名な藤原鎌足の8代後の末裔です。
平泉の藤原氏もこの一門です。

皇族賜姓青木氏は5家5流24氏に成ります。
詳細は研究室の皇族賜姓青木氏のレポートを参照してください。

以上概要をお答えしましたが、先ず家紋掲示板や研究室の所の関係するレポートや多くのご親族の投稿されご質問にお答えした内容などを参考にしてをお読みいただき又ご意見やご質問をお寄せください。

念の為に研究室の検索を利用すると便利です。
お待ちしています。

No.311

Re: 家紋について
お早い回答を頂き誠に有難うございます。
以前、私は転勤で水戸に行った時、歴史館にお勤めになっていた桜井明さんから家系図及び家紋について、話をした伺ったことがあります。
家系図を本当に追えるのは茨城県でも2,3家しか居ないと、殆どの人は家系図はその時代に金力のある人が改ざんをしている事が多々あると言っていました。
私もそうなのかな?と思っていました。
そう云えば、茨城県の内原に青木一族が住んでいたことを思い出しました。
たわいも無い話です。
今回投稿させて頂く機会を与えて頂き有難うございました。
また青木のルーツについてこんなに研究している事に、私は感動いたしました。
追伸
私どもの青木の菩提寺は真言宗の林光寺です。
林光寺は鎌倉時代に設立されたと言っていましたので
青木の先祖についてもう少し勉強しようと考えています。
No.302
武田菱紋
302編集 追加
山形の青木!
2006/10/06 21:20
パソコン
 
代理投稿します。(雑談掲示板から)

山形県長井市に生まれました。家紋は、丸に武田菱のようです。さかのぼれるルーツでは、上杉家(現在の白鷹町あたり)に仕えていたと勝手に思っていますが、定かではありません。近くに南陽市がありますが、そこの説明にある「青木」ルーツでは説明がつかないので、ちょっと戸惑っています。かなり入り組んでいるのでしょうか


山形の青木さん 今日は。始めまして。
ご説明が長く成りますのでこのサイトに移しましたので了解ください。

お尋ねの提供頂きました情報として家紋だけのものでありますので、もし宗派や古いご先祖の所在地や言い伝えやお家のご本家の菩提寺の所在地などちょっとした事でも有りましたらお知らせください。

では先に、家紋から判る範囲の事を検証してみます。

この家紋の菱紋の紋様は全部で106もあります。
この紋様は2つのルーツに分けられます。
一つは菱の紋様です。2つは花菱の紋様です。

前者は甲斐の国の武田氏の一門の家紋類です。多くの氏が使用しています。
後者は大内氏の家紋類です。
この二つは全く別紋です。

そして、この菱紋を使用している青木氏は9氏あります。
この菱紋を使用している青木氏のルーツは概して述べますと次の通りです。

この青木氏には二つの青木氏があり次の通りです。

一つは皇族賜姓青木氏です。
(詳細は研究室の皇族賜姓青木氏の所のレポートを参照して下さい。研究室の検索で出ます)
二つは藤原秀郷流青木氏です。
(詳細は研究室の藤原秀郷流青木氏のレポートを参照して下さい。研究室の検索で出ます。)
前者に付いて概して述べます。
この青木氏は天智天皇の第6位の皇子が天皇を護衛する親衛隊を造るために天智天皇から臣下を命じられて侍となり、青木氏の氏を与えられて(賜姓)伊勢王となり伊勢を守る守護となりました。伊勢は天皇家の守護神とされ天領地でありました。
此れが初代の皇族賜姓族です。つまり、伊勢青木氏です。

続いて天武、聖武、文武、光仁の4代の天皇の第6位皇子が臣下して青木氏の賜姓を授かり各地の主要地の守護を務めました。
伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5つの国の王となり守護を務めました。
これが5家5流の青木氏です。
この青木氏は全部で24氏に成ります。家紋の綜紋は「笹竜胆紋」です。

(源氏一族と同族同門です。光仁天皇より2代後の嵯峨天皇期に変名して源氏となりました)

この24氏の一つ青木氏が甲斐国の皇族賜姓青木氏です。

此処に、藤原秀郷一族が鎮守府将軍として北の守りを勤めていましたがこの陸奥の国の小豪族であつた武田氏と血縁しました。
この武田氏は藤原秀郷一門の甲斐の国の国司を命じられた時に護衛役として同行してこの地に定住しました。
この武田氏は勢力を得て今度はこの地の守護王であつた皇族賜姓青木氏との血縁をしました。
しかしこの武田氏と血縁した賜姓青木氏の分家筋には男系の跡目を2代続いて出来ずに「家紋掟」にて変紋を余儀なくされて武田菱紋となりました。
この一族が更に武田氏支流とも子孫を拡大させて九つの青木氏が出来ました。
これが武田系青木氏です。この地には皇族賜姓青木氏とこの青木氏と血縁を持つ諏訪族青木氏も存在します。3つの青木氏が存在します。

そこでお家の家紋ですがこの九つの家紋の中にはありません。
つまり、丸付き紋の武田菱紋はありません。
武田氏は支流になると丸付き紋を使わず2つの家紋以外に主に変紋方式を採りました。
そこでお家の家紋は丸がついていますので次の事が考えられます。
特別の2つの丸付き武田菱紋である可能性もありますのでお調べになるとよいと思います。

その二つとは「中陰武田菱紋」と「丸に出武田菱紋」の二つがあります。
この家紋では無いかどうかまず確認する必要がありますが、この家紋からは青木氏は出ていません。これが第1の可能性です

しかし江戸中期から明治初期にかけて上記九つの青木氏のいずれかとこの武田菱紋の一族と血縁をし男系跡目が叶わず婿先の家紋に変紋し丸付き紋になったた事が考えられます。
普通は一般的に丸付きは分家筋を意味しますので時期的には江戸中期から明治初期までの間と考えられます。
何かの理由があり本家の許可を得て特別に丸付き紋にした事も考えられます。此れが第2の可能性です。

次に明治初期の第3の青木氏と成ります。
甲斐の国に住み明治初期の令にて苗字と家紋をつけることが庶民に許されましたが、この時に多く青木氏を名乗りましたし、家紋は青木氏が持つ紋様をつけるブームが起こりました。神社仏閣に高額の金品を積み上げて証明してもらい届けました。この時は青木氏は最高の付け値でした。此れが第3の可能性です。この青木氏の可能性もあります。

兎も角も
お家が武士であつた事とか、
ご先祖が何処に住んでいたとか、
菩提寺がどこか、過去帳がどのようであるか
宗派は何か、仏殿の形が浄土宗形式であるとか
周囲に同紋の青木氏が多くいて墓所が同族で集中しているとか、
遠縁が同紋であるとか
で第1から3までを決める情報と成りますので大変でしようが所期のところを先ずお調べになる事が必要です。

山形地方の青木氏は藤原秀郷流青木氏が殆どですのでお家のルーツとは別に成ります。

先ず、お判りになりましたらお知らせください。ルーツは根気が必要で直ぐにわかる事は少ないのです。ルーツ解明の決め手になる時期は戦国時代と混乱期にありましたので資料が乏しく難しいのです。

専門的に観て一寸した事が歴史上に大変な意味を持ちますので逃さずお知らせください。ご協力いたします。解明してゆきましょう。

では、先ずは研究室の「青木氏(家紋)と血縁族」のところの第3のところのレポートをお読みください。そして、次に家紋掲示板の菱紋のところの家紋をご覧下さい。

では、遠慮なくお便りや質問をお待ちしています。楽しみにお便りをお待ちしています。

No.304

Re: 武田菱紋
ご丁寧な分析に感謝します。なるほど、可能性がいくつかあるわけですね。昔、武士であったと聞いています。遡れるところまででは、女性であったと聞いていますので、分家説が有望のようです。周囲に「青木」は多いのです(同級生60名弱で、8人程が青木姓でした)が、親戚筋にあたるものがいません。明治初期からそれ以前という時代はまさに的中なのかもしれないと、背筋がぞくっとしてきました。これからも探ってみます。家紋の絵が手にはいってからまた詳細等、報告いたします。ありがとうございます。

No.305

Re: 武田菱紋
>ご丁寧な分析に感謝します。なるほど、可能性がいくつかあるわけですね。昔、武士であったと聞いています。遡れるところまででは、女性であったと聞いていますので、分家説が有望のようです。周囲に「青木」は多いのです(同級生60名弱で、8人程が青木姓でした)が、親戚筋にあたるものがいません。明治初期からそれ以前という時代はまさに的中なのかもしれないと、背筋がぞくっとしてきました。これからも探ってみます。家紋の絵が手にはいってからまた詳細等、報告いたします。ありがとうございます。
山形の青木さん 今日は。

武士であったことが確認出来れば第2の青木氏の可能性が高くなりました。

次に”周囲に青木氏が多くいるが親戚ではない”ということでも第2の可能性と成ります。つまり、この周囲の青木氏は藤原秀郷流青木ですので親戚ではないはずですから。
家紋どおりにこの地の人ではなく甲斐の国の人であつた事がいえます。

つまり、丸付き紋の武田菱紋になるにはこの甲斐の国付近に住んでいる必要があるからです。
当時は、「国抜け」といいほかの国に移動することは禁止されていました。

そこで、お家のご親類が調べられる範囲で多いでしょうか。
ご親類の郷は遠方にありませんか。
例えば甲斐を中心にして信濃(岐阜)越後(新潟)越中(富山)に本家筋か親戚がいる事も調べられると良いと思います。

実は、織田信長に追われて武田勝頼を始めとして武田菱紋の一族はこの方向に逃げ延びて後に子孫を広げている史実があからです。

他の武田一門の例えば同じ諏訪族青木氏は神奈川から栃木まで逃げ延びているのです。
武田系の青木氏はこの二つに向けて逃げ延びた史実があります。

この時に年月をかけて越後から山形に移動してきたと言う説が成り立ちます。

その理由はこの地域に同じ姓の藤原秀郷流青木氏がいて逃げ込めば判らなくなるという前提が成り立つのです。

何故かといいますと同じ武田系諏訪族青木氏は神奈川横浜から武蔵と下野などにある藤原秀郷流青木氏のところにも逃げ込んでいるのです。

此れには青木氏のあるところに単純に逃げ込んだか、この藤原秀郷流青木氏と何らかの血縁関係を頼って逃げ込んだという事が云えるのです。

というのは、武田氏は元は陸奥の国の住人豪族でした。

ここに藤原秀郷の末裔が陸奥の鎮守府将軍として赴任して来た時に血縁を結んでいて、後にこの藤原氏の護衛役として甲斐に移動してきたのです。
そこで皇族賜姓青木氏や皇族賜姓源氏と血縁して更に土地の元からいた豪族の諏訪族と諏訪族青木氏と血縁して勢力を得て土地の豪族となった経緯がありました。
そして、この陸奥にいた藤原秀郷一門を護衛するために同門の藤原秀郷流青木氏が護衛してこの土地付近に定住したのが山形付近の青木氏なのです。

私はこの説をとっています。この可能性が高いと見ています。

ですからお家の武田菱紋の青木氏がこの付近か上記の土地に後に定住していることはありえます。

故に、多分お家の「丸付き紋の武田菱紋」ちするとその子孫は信長から追われて逃亡により全滅に近い状態で分散しているので少ないと見ています。

本日のお便りのたつた一寸した二つの情報で此処までルーツを解明できるのです。

又、お便りお待ちしています。
No.303
青木の青の呼び方
303編集 追加
管理人投稿文の転送

古来より「青木」の「青」や「仰」(あおの呼び方)が変化して来ています。そのことに付いての管理人の一部研究文を事情により掲載転送します。

この研究に関する管理人さんのレポートはNO2、3、4、5、6、7、9、11、25に掲載しています。

かんりにん [本物] 2005/06/19 (日) 07:46 [ メール / ウェブサイト ]
96/1/1付けの朝日新聞に、仰木監督と吉田監督の対談が載っていた。

「仰木彬」に付されたよみは「おおぎあきら」、「おお」とあるわけである。滋賀県大津市の仰木の里も(仰木監督の郷里ではない。仰木監督は福岡八幡折尾の東筑高校出身)、『全国地名読みがな辞典第四版』(1991.12.20清光社)によれば「おおぎのさと」とある。

「仰木」の歴史的仮名遣は「あふぎ」であろう。
「仰」が「あふぎ・あふぐ」で、それに「木」がついても「あふぎ」なわけだ。『全国市町村字名大鑑昭和二十六年版』(1951.1.15日地出版)で、仰木村は「アフギ」とある。歴史的仮名遣が「あふ」であれば、現代仮名遣は「おう」となるのが一般的で、「扇」の「あふぎ」も「おうぎ」となる。

ただ、「あふ」にはちょっとややこしい問題がある。発音が「オー」にならずに、「アオ」に成ることがあるからだ。
「仰あふぐ」が「アオグ」になるほかに、「倒たふる」が「タオル」になるなどがある。この「アオ」が「オー」に変化することがあって、その場合の仮名遣いはすこしややこしい。兵庫の「赤穂あかほ」は「あこう」と表記するようにしているようだが、福岡の「直方なほがた」(宛字だが)は「のおがた」と表記するのがならわしだ。

神戸市東灘区の「青木あをき」は「おおぎ」と書かれる。東京の「青梅あをうめ」は「おうめ」と書かれるが、元々「オウメ」なのか「オーメ」なのか。これらは自治体や鉄道会社の勝手と言えば勝手なのかもしれないが、「awo」が「o-」になる中間の形として「ao」を想定するのか、或は「o」の落ちた「aw」を想定するのかによって、「おお」と書くか「おう」と書くかが選ばれるように思う。
No.301
お答え頂きまして、有難うございました。
301編集 追加
本日は有難うございました。大変なお手数を掛けました。
 遡ることは、なかなか難しいですが、根気良く続けたいと思います。
お礼を申し上げて、失礼いたします。
No.298
嶋崎氏について。
298編集 追加
町田市小山の嶋崎について、尋ねさせて頂きます。
 津久井城落城の時、総代名主としていた嶋崎。城碑を私費で造った
嶋崎が居ます。この嶋崎は、どこの嶋崎なのでしょうか?
 常陸の嶋崎氏とは、関係無いのでしょうか。
家紋は、ゴサンノ桐、三を円で囲ったものです。
 ただいま、分かっている一番古い死亡日は、1536年死亡の方です。
何か分かりましたら、幸いでございます。

No.300

Re: 嶋崎氏について。
>町田市小山の嶋崎について、尋ねさせて頂きます。
> 津久井城落城の時、総代名主としていた嶋崎。城碑を私費で造った
>嶋崎が居ます。この嶋崎は、どこの嶋崎なのでしょうか?
> 常陸の嶋崎氏とは、関係無いのでしょうか。
>家紋は、ゴサンノ桐、三を円で囲ったものです。
> ただいま、分かっている一番古い死亡日は、1536年死亡の方です。
>何か分かりましたら、幸いでございます。
井上さん 今日は。始めまして。

早速ですが、お尋ねの件についてこのサイトは青木氏にかかわるルーツ等の研究を中心としています。
よつて、このお尋ねの嶋崎氏に付いては責任ある回答が出来ません。
了解ください。

ただ、折角このサイトにお尋ねくださいましたので、私の知る範囲の事をお話する程度ですので参考にしてください。

先ず、第1点ですが、嶋崎氏のことに付いては藤原秀郷流青木氏のルーツに拘ることでもありますのでこの点から情報を提供します。
嶋崎氏の一部が藤原秀郷との血縁関係から藤原秀郷流の青木氏を名乗りましたがこの調査の範囲から嶋崎氏に付いて述べます。

嶋崎氏は元は平家の支流一門の氏です。
この嶋崎氏には家紋は3つあります。「丸に一文字紋」「稲丸に丸一文字」で綜紋が「丸に揚羽蝶紋」です。昔の神奈川郡横浜付近に分布しています。

次に、家紋ですが、「丸に五三の桐紋」ですが、この家紋に付いての由来に付いての詳細を研究室の桐紋の所か、家紋掲示板の桐紋のところにレポートしていますので参照してください。

結論はこの桐紋を家紋とする氏は特別な事情があり、江戸中期から明治以降につけた家紋です。従って、嶋崎氏がこの家紋をもつ事はありえません。

本来、この家紋は変紋して26あるのですが、この「五三の桐紋」だけは絶対に持つ事はありえません。天皇の家紋で象徴紋ですので。

しかし、明治以降はこの禁止令がとけましたので庶民が挙って家紋としました。
天皇の象徴紋ですので、遠慮して丸付き紋としました。
この紋には本来丸は有りません。つまり天皇の分家はないわけですから。
丸付き紋は分家紋です。

さて、この元平氏の嶋崎氏は藤原秀郷流青木氏の支流一門ですので、藤原秀郷一門の本家の兼光系の一族が、朝廷の命で陸奥の国の鎮守府将軍として代々務めましたので、護衛役として陸奥まで出向きました。
藤原秀郷一門の掟で必ず赴任地に子孫を残してきています。
この藤原秀郷の兼光系青木氏ですから元嶋崎氏(青木氏)も陸奥に赴いています。
ですから、鎌倉期まではこの嶋崎氏は陸奥にも子孫を残してきています。

常陸はその後移動でしよう。藤原秀郷一門(武蔵、下野、下総、常陸)の勢力圏ですので戻ったと考えられます。
藤原秀郷宗家を入間に置いて神奈川横浜までを半径として円を描く様に主要9氏の青木氏の本家筋が固めて守っています。常陸はこの一つです。

下克上と戦国時代の室町期と江戸時代の混乱期には法的根拠を無視して(国抜け)出世を夢見た苗字の持たない庶民の若者が各地に移動した時期がありました。この時期の氏のルーツ確定は困難です。

町田市ですから、神奈川郡域の東外れですから、この嶋崎氏は元はこの付近に定住していましたのでその子孫の陸奥と常陸の嶋崎氏ともいえます。後に常陸の領国にも子孫を当然遺したことに成ります。

しかし、家紋が丸付き紋の桐紋ですので矛盾が生まれます。

家紋が異なっていますので、苗字を持たない庶民(名主も含む)が明治初期に土地の豪族であつた嶋崎を名乗ったか、上記の室町江戸期の混乱期に嶋崎の氏名と家紋を保持したとも考えられます。しかし、家紋だけは同じにすることが出来ずに明治初期に大変はやったこの五三の桐紋に丸をつけたものと考えられます。

第一は明治初期には庄屋や名主など土地の名手は土地の豪族(嶋崎氏)であつた氏名を付けました。一族で合ったかのように家紋だけは別にしてなのりました。
神社仏閣に高額の金品を積み頼み込んで良い家柄の氏名をいかにも子孫であるかの如くして証明してもらい届け出ました。
明治以前までは当時は神社仏閣が戸籍簿の役割を担っていました。
維新後は条例にて政府が行う事になりこの現象がおこりました。

第二は江戸期には混乱から安定期にはいったので御家人なることや他に仕官するには家柄と家紋を必要としましたので、武士になったものは挙って他の氏名と家紋と系譜を偏纂と搾取したのです。

お尋ねの嶋崎氏はこの2つの時期のいずれかの嶋崎氏と見られます。

桐紋を無断で家紋とした時期のことから江戸初期前後の時期であるのと上記の混乱事と又この時期とお尋ねの嶋崎氏の一番古いご先祖との時期が一致しますが、郷士や名主か庄屋や豪農で合った事からしますと第二の氏と成ります。
名主は上記4つの者が交代でつかさどりました

理由はこの郷士や名主や庄屋や豪農はいずれもが土地の名主や庄屋にもなりましたので江戸期には苗字帯刀を許されていました。
近藤勇や坂本竜馬の実家などはこのルーツの氏です。

この元平氏の嶋崎氏のルーツは藤原秀郷流青木氏の主要9氏の一つとして116氏にも子孫を広げています。家紋と氏名と一致する嶋崎氏です。

第二の時期にこの氏名を出世した土地の者が名乗ったという事に成ります。
事態を経て名主までなったと成ります。

以上参考にしてください。
何かご質問が有りましたら青木氏以外のことですのでお答えが出来るかわかりませんが遠慮なくお尋ねください。
No.189
群馬の青木です。
189編集 追加
群馬にすんでいる青木です^^家の家紋は丸に抱き角(鹿角)です^^ですが実際のところ…どこの血筋かわかっていません(親もわからないw)宗派は真言宗です^^;(お寺が真言宗だからw)よろしくお願いします。

No.190

Re: 群馬の青木です。
追加ですw家の近くには諏訪神社という神社があります。

No.192

Re: 群馬の青木です。
>追加ですw家の近くには諏訪神社という神社があります。
群馬の青木さん 始めまして。

お尋ねの件ですが、貴方の親類の方がこのサイトにお二人もお尋ねがありそのお二人は非常に近い親類であった事が判っています。
特に、栃木の方とのより近い親類であったと思われます。
貴方の過去のルーツのご子孫がこのサイトでお会いしたことに成ります。
大変珍しい事です。

詳しいことは、直ぐ下のレポートのその栃木の青木さんと神奈川の青木さんのレポートを先ずはお読みいただけると詳しいことがお判りになると思います。

そして、更に詳しくは、研究室の他のレポートの皇族賜姓青木氏のところと家紋掲示板のところの角紋をお読みください。

青木氏の血縁族と家紋(角紋)のレポートもお読みください。

お読み頂いたら又ご質問やお尋ねが有りましたら、是非ご一報ください。
では、お待ちしています。

No.194

Re: 群馬の青木です。
ありがとうございます^^あともう一つ質問があるのですが?うちは町のなかでも一番の大農家だったと親から聞いております。倉には火縄銃とかなどがあるのですが。農業をする前は武士だった可能性もあるのでしょうか?

No.195

Re: 群馬の青木です。
>ありがとうございます^^あともう一つ質問があるのですが?うちは町のなかでも一番の大農家だったと親から聞いております。倉には火縄銃とかなどがあるのですが。農業をする前は武士だった可能性もあるのでしょうか?
群馬の青木さん 今日は。
早速ですが、ご質問にお答えします。
栃木の青木さんのところや皇族賜姓青木氏の所のレポートをお読みいただいたでしょうか。武田氏系青木氏の諏訪族と書いています。

武田信玄の武田氏です。武士です。

では念の為に
丸に抱き角紋の甲斐の武田系諏訪族の青木氏は元は奈良時代には中国の後漢の国が潰れてその第21代目の献帝の子の阿智使王と孫の阿多倍王の引き連れた17県の民が日本に帰化してきました。この一部は甲斐の山奥を開墾して外来種の大馬を育てて生活の糧にしてこの地に住み着きました。
そして、その開拓した土地を天領地として天皇の第6番目の皇子を武士にしてこの甲斐の国の守護としました。
そして、天皇はこの第6番目の皇子に臣下するために氏名を与えました。此れが甲斐の青木氏です。つまり、光仁天皇の第6番目の皇子が初代の青木氏です。
その後に、此処に奥州の豪族の武田氏が武蔵の国の藤原秀郷(大化の改新の藤原の鎌足の8代目の子孫)が勢力を挙げてこの子孫が陸奥の守護(鎮守府将軍)として赴き土地の豪族の武田氏と血縁をしたのです。
この藤原の秀郷の血縁を持った武田氏が藤原秀郷の子孫の次ぎの赴任先の甲斐に同行して勢力を持ち土地の豪族を押さえてトップになりました。
更に1130頃に清和源氏の源の頼光もこの地の青木氏の守護の守護代としてこの甲斐に赴任しました。この清和源氏もこの武田氏とも血縁をしました。
そして、この武田氏は源氏の支流となったのです

この前に、この地の守護の皇族の賜姓(天皇から氏名を与えられる事)青木氏
(家紋は笹竜胆)とこの勢力のた持つた武田氏と血縁をしました。そして武田系青木氏(武田菱)が生まれました。
この時、武田氏はこの地に元からいた渡来人のを先祖にもつ諏訪族(抱き角紋)との間でも血縁をして地固めをしました。
この諏訪族と武田系青木氏との血縁も結ばれました。
これが抱き角紋の武田系諏訪族の青木氏です。
つまり、皇族賜姓青木氏の5家5流の支流24氏の一つです。

青木氏は天皇家の者以外に名乗ってはならない姓で皇族系の子孫です。
源氏は皇族賜姓青木氏の後に(光仁天皇の2代後)嵯峨天皇がこの青木氏から変名して皇族賜姓源氏としたのです。16代の源氏が生まれました。

その青木氏の血筋を持つのがお家で丸が付いていますのでこの抱き角紋の分家筋に当ります。
武士であるなどの話では有りません。
武士の頭領は源氏ですがその源氏より上の武士が青木氏なのです。

皇子の血筋を持っています。天智天皇から光仁天皇までの5代の天皇は天皇家を自らの身内でを守る為に、第6位の皇子を親衛隊としてが臣下させて武士にしたのです。(蘇我氏の横暴の反省から)

この皇族賜姓青木氏は5家5流あります。
伊勢の青木氏、近江の青木氏、美濃の青木氏、信濃の青木氏、甲斐の青木氏です。
天智、天武、聖武、文武、光仁の5代の天皇がそれぞれ第6位の皇子を青木氏に賜姓して臣下させたのです。

お家はこの甲斐の青木氏の血筋を持つ上記した武田氏系の諏訪族青木氏です。

青木氏にはこれ以外に上記した藤原秀郷流青木氏があります。この青木氏は武蔵の国と下野の国を中心に定住し守護として赴任する先の24の各地に分散しています。

大化の改新の藤原鎌足の第8代目が勲功を立て出世して貴族になりました。
この時、自分の子の千国に護衛役を与え皇族賜姓青木氏に習って朝廷から許可を得て青木氏として名乗りました。(当時は貴族になると武力を使うことはできないので)
此れが藤原秀郷流青木氏でこの青木氏は116もの支流に拡がりました。
藤原氏は朝廷のなかでも大勢力の持った氏でしたが、この藤原氏の中でも(四家)秀郷は最も出世しました。(平泉の藤原氏もこの子孫です)

お家一族は織田信長と戦い負けて諏訪族の青木氏はこの藤原秀郷流青木氏を頼って東に逃げ延びたのです。
この時、秀郷の領国の西の端の神奈川横浜に、分かれて一部は東の端の栃木に逃げ延びました。
信長はここまでは勢力が届きませんでした。
そして、お家はこの栃木の青木氏から更に群馬付近に後に移動したものです。

栃木の青木さんの所のレポートや皇族賜姓青木氏のレポートや青木氏と血縁族の角紋のところなどをお読みください。
改めて概略を書きましたが、農民でない事が明確に書いていますので。
天皇家の血筋を持つ武士です。

大農家は昔は庄屋や名主などを勤めましたが、この氏の人たちは元は全て武士でした。
この武士は、室町期には郷士や郷氏と呼ばれる土地に根ずいた姓と刀を持つ武士の事です。例えば坂本竜馬はこの郷士です。
一般の農民は大きい土地を持つ事は許されていません。

この青木氏の人たちは室町期から始まった下克上と戦国の時代で土地に根づき武士を務めながらも農業もした。又、豪商と言われる人の大きな商いは殆どはこの郷氏の人たちが行いました。豪族としてそのノウハウを持っていたからです。
昔は商いをするには護衛する能力が必要で、又シンジケートとの繋がりが無くては出来ません。大農業をしてこの産物を商いに載せるには盗賊などがいて奪われるし、又隣の国に運ぶには交渉する力が必要で普通ではできなかったのです。
そのためには武器も必要で銃や刀や家来が必要です。
殆どの豪族は裏ではこの大商いをしていました。

例えば楠木政成はこの郷士でこのシンジケートの繋がりが合って足利氏の10万の軍勢と3千の軍でも戦えたのです。シンジケートは各地に住む郷士であったのです。全ては農業もしていました。
昔は表と裏の社会があり、この裏の社会とのつながりが無くては豪族は勤まりませんでした。
ですから大商いはこの郷氏らの専売特許でした。
ですからお家のご先祖は後には郷氏と成り室町末期よりこの表を農業にしていたのではないかと思います。
郷士は一般の武士で、郷氏は豪族の武士です。

では、くどいようですがレポートをもう一度ご確認ください。

No.196

Re: 群馬の青木です。
光仁天皇と青木時光(武田氏)と血がつながっているということですか^^

No.197

Re: 群馬の青木です。
>光仁天皇と青木時光(武田氏)と血がつながっているということですか^^
群馬の青木さん 今日は。
お尋ねの件ですが、皇族青木氏は770年頃にこの甲斐の国の守護となって光仁天皇の第6位皇子が賜姓を受けて臣下し甲斐の守護として赴任しました。
そして、この地に子孫が定住して皇族賜姓青木氏が生まれました。
しかし、その後の800年ごろ桓武天皇はこの皇族青木氏を賜姓しませんでした。
その代わりに自分の母方の渡来人の阿多倍を引き上げて、たいら族として賜姓し、5代後には平の清盛まで上り詰めます。

皇族賜姓青木氏5家5流の勢力の拡大を嫌って律令国家を確立させるためにも青木氏を押さえ込みました。
このやり方を嫌った一代おいた天皇、子供の嵯峨天皇は元に戻す事をしました。
ただし、皇族賜姓青木氏ではなく皇族賜姓源氏としました。
つまり、変名したのです。そして、青木氏の姓は皇族の者が還俗する(皇子や皇族の人が皇位を外れる事)時に使用する姓として青木氏を使うよう詔を発して決めました。
その後この青木氏の変名の源氏は16代続きました。
その中の清和天皇の第6位の皇子の経基王が源氏となりこの孫の嫡男の源の頼光がこの甲斐の地の守護代として赴任しました。(1140年頃)
しかし、3男の弟の頼信の出世のために兄の守護代を譲り受けて替わりました。
ここを足場として関東に勢力を拡大していきました。

この頼信の孫に当る義光(1055)から8代目の源光(1195)が古くから居た皇族賜姓青木氏に男系が絶えて源光が跡目を引き継ぎました。

更に、この義光より15代目の義虎(時光系)が再び同じ理由で皇族賜姓青木氏の跡目を引き継ぎました。

この跡目は同紋で同族で同位の跡目であるので家紋(笹竜胆)と氏名は変わりません。
此れが甲斐の皇族賜姓青木氏の系譜です。

ここで、この源の源光と時光(兄)は兄弟ですが、青木氏はこの源光が青木氏の跡目を継いだことになり、時光からは青木氏は出ていないことになつていますが、青木時光の説があります。通説は源光説です。
(兄弟二人が青木氏の跡目を引き継ぐ事はない)

参考に、信濃は頼信の3代目の義康が足利氏に、義康より3代目の実国が信濃青木氏に、義光より16代目(不明)の信濃の皇族賜姓青木氏に跡目を引き継ぎました。

美濃は義光より8代目の時光から11代目(不明)が美濃の皇族賜姓青木氏の跡目を引き継ぎました。

伊勢は頼光より4代目の頼政の孫(仲綱の子)の京綱が1170年代に伊勢の皇族賜姓青木氏の跡目を引継ぎました。

この甲斐の皇族賜姓青木氏は前レポートの武田氏との血縁を結びました。
これが、武田系青木氏です。

この武田氏も清和源氏の跡目を受けており、頼信から4代目の義清が入り、信義、と信光が引き継ぎます。

この義清より8代目(頼信から12代目)の源光が甲斐の青木氏の跡目に入っています。
つまり、甲斐の皇族賜姓青木氏は頼信から12代目(源光)に、甲斐の武田氏は4代目(義清)に跡目相続が起こったということです。


しかし、この前に皇族賜姓青木氏と武田氏との間には血縁が起こっていて、武田系青木氏があり、この武田系青木氏の跡目を時光が引き継いだと言う説になっています。

弟の源光は甲斐の皇族賜姓青木氏を、兄の時光は武田氏系青木氏が跡目を引き継いだと言う事に成ります。

この源光も時光ではないかと言う説になっていますが、皇族賜姓青木氏の知識がなくて混同しているのではと思います。よく間違っている資料があります。

結論は甲斐の皇族賜姓青木氏と武田氏系青木氏と武田氏の3者とも清和源氏の跡目を受けたと言う事です。(男系相続が出来ずに跡目)

光仁天皇からは時代が大きく(350)離れていますので、時光または源光との間には血が繋がっているかのご質問は皇族系ということでは源氏と青木氏も同じ天皇家と言うことになり繋がっているということになりますが、時代が離れすぎていますので繋がっていないともいえます。
770年頃までは青木氏、1200年までは源氏で皇族賜姓族です。

兎も角も、お家のおずか紋の丸に抱き角紋の一族はこの武田系青木氏と諏訪族との血縁族で、その分家筋に当ります。

以上が詳細な結論です。
不明な点が有りましたらお尋ねください。

No.199

Re: 群馬の青木です。
あの〜近所に諏訪神社っていう神社があるのですが?この神社は自分の先祖がにげのびたときにつくった?ものでしょうか?

No.200

Re: 群馬の青木です。
>あの〜近所に諏訪神社っていう神社があるのですが?この神社は自分の先祖がにげのびたときにつくった?ものでしょうか?
今日は、群馬の青木さん。
早速ですが、お尋ねの件についてお答えします。

皇族賜姓青木氏の24氏の支流血筋を持つ高位の氏は自らの氏神と菩提寺を持っていました。
そして、この氏神と菩提寺には一族の者が宮司と住職を務めました。
ですから皇位系の氏神や菩提寺には青木氏を姓に持つ宮司や住職が多いのです。
例えば、古いところでは蘇我氏、物部氏、紀氏、葛城氏、巨勢氏、平群氏、等の奈良朝の豪族、平安期では賜姓青木氏、藤原氏、永嶋氏、平氏、源氏等は自らの氏神をもつていました。

氏神や菩提寺を持つ事が出来る氏は多くは有りません。
それだけの財力と勢力が備わっていなければなりません。

皇族賜姓青木氏の5家5流の血筋を引く一族は全て専属の氏神と菩提寺を持っていました。
そして、この寺では浄土宗となっています。

一族の先祖の魂を祀る寺と一族の神を祭る神社は当然に室町以降の戦国時代には当然、先祖を敬う心は全てでしたから、戦いに敗れた時にはこの神社や寺も移動させています。

そうして、この皇族賜姓青木氏系の神社や寺には、次のことが起こります。
代々各天皇の第7位以降の皇子らが皇位から外れることに成りますので、比叡山や門跡寺院やこの青木氏の神社かの寺に入り、上位の座主を務めました。

門跡寺院とは元天皇や皇太子や5位の皇子が役職を退くときに入る寺院です。

この人たちが還俗や俗界に入る時(一般の人になる事)は嵯峨期の令に基づき青木氏を名乗ったのですが、ですから宮司や寺の住職には皇族系青木氏が多いのです。

例えば、面白い話があります。
徳川氏は征夷大将軍になり幕府を開きましたが、この根拠は駿府の時に家康の2大前の時に一人の行脚僧が門前に立ち、以後この僧は松平氏の家にに住み着き婿入りをしたとされていて、この僧が還俗僧であるとして14代か15代目の源氏の一族である言い募り、よつて征夷大将軍になれたと言うかなり怪しい系譜を作り上げました。

源氏は16代の天皇から生まれましたが実質は11代目の花山天皇までの源氏が正規ですが、12代から16代目天皇の源氏は既に室町期の戦国期に入り天皇家も北朝南朝の2つに分かれていました。
だから、源氏としての意味は殆どありませんでした。この時代の系譜をいじったのですから朝廷から殆ど疑われました。そして武士の頭領の源氏の頭領になれませんでした。

兎も角も、信長に負けた時、武田は滅びましたが、甲斐の諏訪族の青木氏は信長に追われる事はなく、この一族を滅ぼす圧力は掛けませんでしたので逃げ延びる時には氏の守り神のこの諏訪神社も移すことができたのです。
美濃の青木氏信濃の青木氏なども氏神を逃亡先に移しました。

特に、武田氏はこの諏訪一族を武力では勢力下に入れることは出来ませんでした。
その理由は並外れて強く、且つ馬を使う戦闘方式には武田氏は勝ち目がないとして結果として政略的な結婚にて傘下に入れました。

諏訪一族は日本書紀にも出て来る一族で、天皇に拝謁した時のことが日本書紀にははっきり書かれています。
その時の様子が書かれていて、天皇にはっきりと物を言う一族で甲斐の地域で外来種の馬を育て生活の糧として開墾していましたのでその実績から、天皇から「不入と不倫の権」を得ました。

この時、甲斐の国に赴いていた皇族賜姓青木氏も同行してこのことを言い添えるくらいでした。この頃からの平安初期からの付き合いのある皇族賜姓青木氏と諏訪族です。この経緯からの血縁です。

つまり、天皇自らこの一族に武力で犯すなどをしては成らないという宣言をしたのです。このことが日本書紀に書かれています。

ですから、武田氏も信長もこの、「不入と不倫の権」があるためにこの規則を守りましたが、諏訪族の青木氏は藤原秀郷流青木氏のど真ん中に神社を持つて逃げ込む事が出来たのです。又この神社も藤原秀郷の領国に作ることが出来たのです。
他に筆者の伊勢の皇族賜姓青木氏も一時秀吉に攻められ城は潰されましたが、その時の将が蒲生氏郷であつたので特別に保護されて、その後も紀州徳川氏にも「不入と不倫の権」で江戸時代まで守られました。
このように甲斐の諏訪一族とその青木氏も難を何とか逃れました。

兎も角も、武田軍の赤の兜の騎馬軍は諏訪太鼓を叩きいつも先陣を司り最強軍団と恐れられたのです。大きい外来種を飼育していたので強かったのです。
信長に滅ぼされた時、徳川氏がこの赤の兜の諏訪族の一団をそっくりと家臣にしました。だからその時から徳川氏が強かったのです。

云うまでもなく、諏訪族は元は中国の後漢の国の21代目の献帝の子の阿智使王と孫の阿多倍が引き連れて帰化してきた渡来人の騎馬軍団が先祖ですから強かったのです。

漢の国が崩壊しましたが、この中の武将の一人の光武帝が再び盛り返し、後漢という国を造り、朝鮮半島までも勢力下に収めるほどに強かったのです。
お家の先祖達は、日本で最初に東北から北海道を制圧した征夷代将軍の坂上田村麻呂も阿多倍王の長男でしたが、この縁の人たちでした。

お家のご先祖にはまだまだ沢山の武勇伝があります。

この様に、「不入と不倫の権」を得るほどに下野国でも藤原氏の中でも神社を建てられるほどにかなりの力を持っていたことが頷けます。

お家のご先祖はこの様な歴史を持つ一族です。
来年のNHKの大河ドラマではお家の事がドラマになりますので、是非、見てください。
では、事前に情報を得て面白く見るためにも又ご質問ください。

No.201

Re: 群馬の青木です。
なるほど^^あと武勇伝とありますが…ほかにはどんな武勇伝があったのですか?

No.207

Re: 群馬の青木です。
お久しぶりです^^この前お墓にいって調べたのですが・・・昔は浄土宗というのがわかりました。これは証拠となるのでしょうか??

No.208

Re: 群馬の青木です。
>お久しぶりです^^この前お墓にいって調べたのですが・・・昔は浄土宗というのがわかりました。これは証拠となるのでしょうか??
今日は、お久しぶりです。
早速ですが、お尋ねの件のお答えは次ぎの通りです。
先ずは、完璧な証拠です。

その理由は、平安期頃の浄土宗に入り一族の宗派とする事は一般の者はありませんでした。
そして、この頃は氏家制度の中で「家柄とか身分」が全ての評価の基準になっていましたので、これ等の身分や家柄の高い者の宗派でした。

特に浄土宗は限られた者の宗派でしたので檀家も他宗に比べて極めて少なく江戸時代になって徳川幕府が浄土宗を奨励し各地に浄土宗の寺を建立しました。このたことから一般民衆もこの宗派に入る事をしました。現代のように多くなつたのは江戸期以降のことです。しかし、それでもある程度限られたものでした。

お寺の中に入って僧侶の説法を聞く等のことは一般民衆は事実上は無く、ある程度の者で無くては出来ない慣習でした。一般民衆は鎌倉期になってやっと辻説法を受けるなどが出来る程度になつたのです。

この様に身分家柄に依って宗派がかわる内容でした。
ちなみに、大まかに分けると、浄土宗は高い身分家柄の武士階級の者の宗派でした。次ぎに中流の武士階級では浄土真宗、下級武士や民衆では日蓮宗などの宗派と成ります。
鎌倉期以降はこれ等の宗派が分立することになりそのターゲットは各層に振り分けられてゆきます。
天台宗が元に成りますが貴族はもとよりこの天台宗でした。

皇族賜姓青木氏系5家5流の24氏と藤原秀郷流青木氏直系1氏直流4氏支流4氏の116氏は当然に浄土宗であります。
これ等の一族は自前で神社と浄土宗の菩提寺を持つ氏でありましたので、少ない浄土宗はこれ等の一族の寄進とで成り立つていました。

特に、藤原秀郷流青木氏は宗家の護衛役として赴任地に同行しましたので浄土宗の無い地方に出向く事が多く発生し止む無く土地に定住した青木氏の一族は浄土真宗のお寺を使うなどしました。よって一部には浄土真宗という藤原秀郷流青木氏が存在する事があります。

現代は特定の一族のお寺としてはなくなつていますが、下克上と戦国時代になる前の鎌倉期までは大きいこれ等の一族は一族のみの者を祀る寺でした。

お家の寺はどこのお寺かを調べれば其処が一族の先祖を祭る菩提寺です。
しかし、これ等のお寺は下克上と戦国時代には先ず先にこの様な特定の寺は家柄身分を打ち壊す事を目的とした中級武士以下の者らの反動がはじまりでしたので、狙い撃ちされたお寺でありました。
よって過去帳の様なものなどはまったく残っていないのが現状です。
そのお寺自身さえもわからないのが現状です。

ちなみに、私の家の菩提寺は奈良時代からある伊勢のS寺が一族の者のみを祀るお寺即ち菩提寺ですが、今はその歴史的なことさえも寺側では3度の焼失で情報を失っています。先日、この寺を訪れた時にこのことをお話した事である事実から理解されたようでした。その程度です。

浄土宗を宗派とするお家はこの様な理由から家紋と同じく確実な証拠と成ります。
宗派と家紋は自分の家が変えても他の親族一族が変えない限り又総宗本家が変えない限りは変える事は出来ませんので大きな証拠になります。

研究室にレポートしている「青木氏と血縁族」の33紋様の青木氏が皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏との全てと成ります。現在は詳細レポートは17紋様目です。


お家のルーツの土地の話などを調べるとちょつとしたことが証拠になる事があります。
私の家のことを紹介しますと、
先祖に大変に鉄砲の上手な年寄りが居て江戸時代に伊勢松阪に紀州の殿様がきて鷹狩をした。その時、殿様が行ったり来たりして野良仕事にならなかった。そこで終いに年寄りは挨拶をしなかった。(年寄りは伊勢松阪の豪商の紙屋長兵衛で郷氏との2足の草鞋の主)
怒った家来は鉄砲で威嚇した。そこで年寄りはその鉄砲を取り上げて遠くにある柿の実を狙って打ち落とした。びっくりした殿様は鷹狩を中止し城に帰った。明くる日に呼び出しがあつた。打ち首になる覚悟で家族と別れをして白の袴に紋付の装束で城に出た。しかし、実に丁重で様子が変である。
殿様に面会した。突然、殿様は上段から下座した。そして、年寄りに上段の上座に座るように云う。隣の家来に聞くと分けがわかった。
1300年の歴史を持つ皇族賜姓伊勢青木氏の総宗本家の主である事を知った殿様は家柄は上位であるので上座に座ることを求めたのである。
その後、14代目までの紀州の殿様には「南画」(墨絵)を教授した。

吉宗のとき将軍となった時、松阪の豪商紙屋長兵衛の商才を見込まれて青木長兵衛は江戸に同行し納戸役(財務経済の長)として働き「享保の改革」を実行したと記録されています。我が家の記録と一致します。

以後、紀州徳川家とは代々14代に渡り大正14年まで極めて親密な親交を続けたとの史実の逸話があります。
そのことから家中を調べた結果、紀州徳川氏からの手紙数通と明治天皇の側近中の側近の二条氏の手紙も存在しますし、天皇家から拝領の品も存在します。
これで言伝えが事実と確認できた事になります。

このように一寸した家伝の言い伝えと土地の逸話との間に共通点が発見されてルーツを確定出来ることがあります
この様な土地の逸話一つにも大きな当時の慣習と先祖のことがわかる事があります。又他にもあります。

歴史小説家の司馬遼太郎氏が伊勢青木氏に付いて次ぎの様な事を調べていて、
”天智天皇から青木氏の賜姓を受けた時に伊勢王の施基皇子に授けられた仏像があり、この仏像が発見されれば日本の歴史上に意義のある古い仏像(日本最古)となる”と書物に書いてありますが、この本を読んだときに実はこのかなり大きいきれいな銅の仏像の事は自宅に祀られてあり、先祖伝来のステイタスとして長く伝えられた「お仏像様」と聞かされていましたので、矢張りと納得しました。
この仏像は現在はあるところに保存されています。(後日写真で紹介します)

この様にルーツはちょっとしたことでもキッカケを見つけることが出来ますので、何でも結構ですから、又お尋ね下さい。

No.209

Re: 群馬の青木です。
ありがとうございます^^あと来週武田神社にいってきますw

No.210

Re: 群馬の青木です。
>ありがとうございます^^あと来週武田神社にいってきますw
今日は。群馬の青木さん。
私も隣の埼玉の草加に若い頃に長く住んでいました。群馬にもよくでかけました。
群馬埼玉は関西と一寸違った地方感があり関西にいると懐かしく思い出します。握り飯を持つて田園風景に満ちた河にフナ吊りに出た事など思い出します。関西にはリアス式海岸ですのでこの様な景色は有りません。
お家のご先祖も甲斐付近から神奈川と群馬に移り住み景色の違う所で故郷を懐かしく思っていたことでしょう。

来年のNHKの大河ドラマはお家のご先祖のことがドラマになりますので、ドラマを通じてルーツの人情や景色を感じ採るのも一興かとも思います。
その意味でも武田神社への訪問は更に懐かしさが増すものと思います。
楽しい訪問に成りますように。

さて、武田神社にお出かけとの事ですが、訪問されましたら是非とも土地の逸話などを仕入れてくる事をお勧めします。

土地の役所などが出している史書がありますし、神社などでも周辺に逸話などが残っている事もままあります。

そう云うものを一つにしてご先祖の逸話として整理しておくと後世の人が見て参考になる事に成ります。今までの内容と共にお勧めします。これからは益々と史実がなくなりますので。

研究室などの関連事項もコピーしてファイルしておく事もお勧めします。
皇族賜姓青木氏系の武田系諏訪族青木氏の由来書のようなものをお造りになられたら如何ですか。

私が明治35年に焼失した家伝を父親から頼まれてはじめ、青木氏のことを調べてから40年以上かかりましたからまずこの様な資料は先ず無くなると思います。
40年まえと現代とではあまりにも社会が変化してルーツロマンの資料は軽視されていく事になるでしょう。

しかし、我々5家5流の青木氏はほぼ失った史実は回復していると思いますが、なんとか我々の子孫には伝わることで過去のロマンを味わう事が出来ます。

近江佐々木氏の方も昭和のはじめに佐々木氏のことを研究されていて青木氏との繋がりを書いています。私の研究と天智天皇の皇子の第6位、7位のところで一致するなど関連各氏も研究しています。
我々皇族賜姓青木氏系一門も出来るだけ多くの資料を復元して未来の末裔に生きた証としてロマンを残そうではありませんか。

また、武田神社でのお便りも是非お聞かせください。

No.213

Re: 群馬の青木です。
武田神社いってきました^^
何か懐かしい雰囲気しました♪群馬ととても環境が似てました♪
しかし青木という姓が家臣団の表の中にのっていなかったことがショックでしたw
しかし鎧の兜の部分に鹿の角のような形のものがついていました。

No.214

Re: 群馬の青木です。
>武田神社いってきました^^
>何か懐かしい雰囲気しました♪群馬ととても環境が似てました♪
>しかし青木という姓が家臣団の表の中にのっていなかったことがショックでしたw
>しかし鎧の兜の部分に鹿の角のような形のものがついていました。
>群馬の青木さん 今日は。
武田神社を訪れたとの事ですが、よかつたですね。
ルーツを訪れると何か落ち着く物がありますよね。私も何か不思議な感情がわいてきました。これは多分、遺伝子に組み込まれた感情の原理がその土地についた時に湧き出して不思議な感情にさせるのだと感じました。私は特に家伝の仏像を見たときに頭が真っ白になり身震いする事がおこりました。写真をとる事も忘れてボートと立っていました。

さて、そこでお家の青木氏の姓が家臣団に無かったとの事ですが、当然の結果です。むしろお家の証明になるものです。
つまり、前回等のレポートでも書きましたように、諏訪族は朝廷から「不入不倫の件」を与えられました。よって上位の家柄の諏訪族と諏訪族青木氏には後から来た武田氏は武力でねじ伏せて潰して家来にする事が出来ませんでした。結局、訪族代表の姫を妻に迎えることで決着をつけて土地の全権を握ったのです。そしてこの陸奥から来た武田氏は諏訪族を味方にし血縁した勝頼を産み、その家柄を上げる事ができて、且つ、源氏とも、賜姓青木氏とも血縁を結ぶことが出来たのです。
この様に、諏訪族は武田氏の家来では有りませんし、家柄も武田氏より上です尚の事、諏訪族青木氏は皇族24氏の一つですので更に上位の家柄であったわけです。上位の家柄の者を家来にする事当時では有りません。氏家制度で縛られていましたので。当時の上位の婚姻はこの氏家制度のもとに血縁の純度を守る為にその総宗本家の許可が必要と成ります。
諏訪族側からすると武田氏が諏訪族の姫を求めることは逆の行為でありますので”うん”といわなかったのですが、政治的生き残りから止む無く血縁を結んだ事に成ります。有名な史実です。

その諏訪族のなかの諏訪族青木氏は尚のことです。
しかし、軍事上武田一族の傘下に入る事になりましたが、武田家臣では有りません。今でいう、一種の政治的同盟関係になるのです。
これを当時の言葉で「合力」「与力」という言葉を使います。
そして、武田氏の中では「客員軍師」と言う位置付けになります。
3つの城を持っていた私の家も信長の伊勢永嶋攻めで「客員軍師」として「北畠氏」に合力しました。

その役目は作戦を練るときに参加して意見と延べ協力をするのです。

丁度、信長と家康の関係です。家康は信長の家臣では有りませんでしたよね。
戦いは、武田氏という一つの部族だけでは戦う事ができる程に人数をそろえることは出来ません。全てこの同盟関係のもとに何万という軍を作り上げることが出来るのです。
ですから史実では武田系諏訪族青木氏となっています。武田氏の下の傘下にはいった諏訪族と言うことになるのです。系という漢字はこの意味です。

この諏訪族は大変勇敢で諏訪太鼓を元に家臣団より前でいつも戦い、一度も敗れることがなかったのです。
ですから、徳川氏も最初戦かつて負けたこの諏訪族を後には一団を家臣にしましたが、武田氏の家臣ではないので信長は何も云えなかったのです。武田氏の家臣は殆どつぶされました。
ですから、他の諏訪族青木氏前回のレポートのようにの一族は関東に逃げ延びることも出来たのです。

つまり、家臣団の中に無い事が諏訪族青木氏の証明になるのです。
もし、諏訪族青木氏が武田氏の家臣団の中にあるとすると、お家の青木氏のルーツにありえないことなので疑問が残る事に成ります。

更に一つ証明がすすんだことを意味します。
お家と同族の方が多くこのサイトでお尋ねいただきましたがこれもその一つの証明になる事に成ります。
お家がもし武田氏の家臣団であるとするとサイトの同族の方も同じ事に成りますので、矛盾が生まれます。
一見家来かの様に見えますが、家臣団と言うのは家来の又家来その又家来となつて構成されていますので団なのです。枝葉のように。しかし、辿れば基は一つということに成ります。

しかし、お家はこの一団の中には入っていません。独立した由緒ある一族なのです。
戦国時代を経て現在までその青木氏の名を残しているのはこの家臣団ではなかったからです。家臣団では戦いの後の掃討作戦でことごとく遠慮なく抹殺されます。
兜の紋様に付いては家紋以外のものも多いのですが、この鹿角紋もこの兜紋から来た物です。
しかし、この紋様を使う他の鹿角の一族で青木氏以外の一族も家臣団にはあるはずですが諏訪族青木氏の鹿角紋の青木氏は家臣団には無い筈です。
丁度、このサイトに青木氏以外の四つ又鹿角紋の狩野氏と言う方がルーツのお尋ねがありましたが、この方は武田氏の家臣団の鹿角紋の方です。

諏訪族青木氏は本来は笹竜胆の家紋であるはずですが男系相続が不能になったこのことから諏訪族より養子を迎えて青木氏の家を継ぎ家紋掟により笹竜胆を使用することが出来ずにその養子の時代は鹿角紋を使用していたのです。
この夫婦にまたもや男子が生まれず結局2代目で鹿角紋となってしまったものです。
これ等の家紋認可は総宗本家が認可しますので、勝手に家紋を使うことは出来ませんから2代も女系となつた以上笹竜胆に戻ることは出来ません。
普通は2代目に男子が生まれるとこの子供世代は下の笹竜胆の家紋に戻す事が本家の認可の下に出来ます。
この様に皇族賜姓青木氏でありながらも家紋種が増えてゆくのです。

この様に、歴史には現在と違う氏家制度の中で検証することが必要なのです。

又何かわかりましたらお尋ねください。更に興味を出してルーツ探しにお楽しみください。

No.215

Re: 群馬の青木です。
ありがとうございます^^
あと家の倉に火縄銃があることがわかりましたw確か武田神社にも同じものが飾られてました。これは先祖が使っていたのと考えてよろしいのでしょうか??

あとうちは江戸時代の頃に養子をとったというショックなことを聞きました。しかし昔のことですから従兄弟や親戚や遠い血のつながりから養子を取ると思うのですが??どうなのでしょうか??

No.216

Re: 群馬の青木です。
>ありがとうございます^^
>あと家の倉に火縄銃があることがわかりましたw確か武田神社にも同じものが飾られてました。これは先祖が使っていたのと考えてよろしいのでしょうか??
>
>あとうちは江戸時代の頃に養子をとったというショックなことを聞きました。しかし昔のことですから従兄弟や親戚や遠い血のつながりから養子を取ると思うのですが??どうなのでしょうか??
普通、この火縄銃を戦国時代にもてる事は余程大きな氏でなければ持つ事は出来ません。

二つの理由があります。
一つは価格が高いこと。二つは火縄銃を入手する事が難しい事です。
火縄銃は闇のシンジケートとの繋がりをもつ事で可能と成ります。
したがって、このシンジケートと渡り合う勢力が必要です。

紀州の雑賀族がこの火縄銃をつくっていました。そして、この火縄銃は闇のシンジケートに流れて販売されます。
このシンジケートとしては若宮氏、今宮氏、などが有名です。この氏は表本職は神社の宮司です。この宮司が堺の商人との繋がりで各地の販売ルートに乗ります。
これだけでは火縄銃は使えません。火薬を入手する必要があります。これもシンジケートです。この火薬は堺商人や伊勢商人や松前商人の豪商が秘密裏に販売しています。
これ等の商人は別の顔として土地の豪族であり、普通は二束の草鞋策を採っていたのです。豪族は税として集めた土地の産物を売りさばく能力を持っているので別の顔も持っているのです。
そして、これ等の商品を無事に運ぶ武力も備えています。また、シンジケートも土地の豪族崩れの一族が浪人となった侍を集めて各地と連携して一団を形成して作っているのです。単純なシンジケートでは有りません。これ等のシンジケートと渡り合えるのは豪族であるのです。

私の伊勢青木氏も伊勢の豪商紙屋長兵衛としての顔ももっていて、この火薬を扱っていた形跡があります。この火薬の爆発で980年も続いた紙屋は焼失したことが記録されています。

信長はこの火縄銃を戦いに多く使い銃撃戦を最初に展開したのです。
しかし、この火縄銃を最初は入手できずに悩んでいたところをと秀吉が野武士の蜂須賀族に入っていた時にこのシンジケートの存在を知っていて信長に教えます。そして、このシンジケートの元締めの今宮氏に繋がり取り、雑賀氏と会い大量の火縄銃を入手して、火縄銃の扱いの熟知している雑賀族の3百人の雇い兵をつかって周囲の豪族を打ち破って行きます。

火縄銃はこの様な背景があるので、持っているということは一つのステイタスです。先祖が使っていたことに間違い有りません。

男系相続が出来ないときは先ずは同じ家柄程度のところから養子を採ります。
この養子の時代は元の家紋は使用できません。この時、姓はそのままで家紋を養子先の家紋を使用します。または本家の許可を得られれば元の家紋に丸付き紋として使用します。丸付きは分家扱いと成ります。
この時代の分家扱いは相当なダメージになります。正式な場での扱いなどで大きな差が出てきます。
この養子との間に出来た男子の子供に初めて元の家紋に戻す事が使用出来ます。しかし、男子でなく2代続きの又女系であればこの時点で元の家紋は2度と使えません。間に女系が入ったので。この様な掟で青木氏であっても家紋は増えてゆきます。

お家は元は笹竜胆が元の家紋ですが、上記の掟で諏訪族から跡目を入れて家系を継いだが女系が2度以上続いたことから諏訪族の鹿角紋の抱き角紋に変紋を余儀なくされた事を意味します。更にこの時点で丸付き紋になっていますから
この丸の持つ意味が何であつたかの疑問が残ります。
更に諏訪族から別の家紋になる事を嫌って本家の許可を得て丸付き紋にしたのか、元々の分家筋であったのかはお家のルーツの検証点の一つです。

兎も角も、諏訪族の血が賜姓青木氏の純血のものより濃くなった事を意味しますから諏訪族青木氏と成ります。純血を守る為に皇族青木氏の総宗本家では笹竜胆の家紋を使うことを認可しません。

お尋ねの江戸時代の養子が入ったが家紋は諏訪族の鹿角紋の抱き角紋でありますので、直ぐあとは男系相続の跡目が出来たことを意味します。
したがって、血筋は保たれている事がいえます。最大で15%程度の純血の変化で済んでいると思います。

普通もし代々で血液型が同じであるとすると5%程度です。
隔世遺伝で3代後に1代目と同じ血液型のものがでてきますから少なくとも10%程度の血筋の変化ですのでショックになる必要はありません。
遺伝子の研究がすすみましたが、昔は結婚すると50%変化すると言われていました。3代目には完全に違う血筋になるとみられていましたが、現代では人によっては95%以上同じ遺伝子を持っていることが証明されていて、最悪でも15%程度とされています。つまり、同じ血液型の子供は95%であるとすると殆どクローンです。5%は配偶者系列の遺伝子と成ります。

血液型が同じであれば代々遺伝子の基本90%程度は変化しないという事になります。

余談に成りますが、5―10%の遺伝子が違わないという事はクローンと成ります。と子供は殆ど自分ですよね。子供を大事にすることは自分を大事にすることと同じですよね。
国民にもつとこのことを知ってもらいたいのですがね。
もう一ついえる事がありますよね。
現代の自分にたいして、先祖は過去の自分です。未来の自分は子供です。更に次ぎの未来の自分は孫ですね。
ルーツを調べることは過去の自分がどのように暮らしたかを知ることですね。
子供や孫を可愛がることは自分を可愛がることに成ります。
そして、人生の目的は究極は子孫の自分をのこす事に他なりません。その間に起こる喜怒哀楽は人生の本来の目的では無い事に成ります。
現代の喜怒哀楽を目的とした思考は仏教では「刹那主義」として戒めています。「刹那主義」とは「追い詰められた者の思考」

話を戻します。
血縁者から養子はとる事は危険がありますので最低は4親等代以上の者とする必要があります。
しかし、子供がいない時はより近いところから迎えることをしなくては家紋使用の認可は下りません。この場合は近親者と成ります。3親等(従兄弟)と成ります。
どの氏も殆どは養子縁組が先祖の中にあります。
私の家は同族で同家紋の皇族賜姓源氏より跡目を迎えて子孫を繋ぎましたので家紋も同じで幸い現代までいたっています。孫が男子ばかりですのでこれより後100年は継承できます。1465年続く事に成ります。

兎も角も、一代程度では先ず大した変化では有りません。3代後に戻していることが考えられます。
ちなみに遺伝子工学では
女系と男系では遺伝学的には引き継ぐものが異なっています。
女性の卵子では人遺伝子を引き継ぎます。まず人族である遺伝子と世界での人種の遺伝子と族の遺伝子を引き継ぎます。
男性の精子の尾の付け根のところに性格などの人の持つ諸々の遺伝子を引き継ぐ部分があります。

男系女系の引継ぎの習慣はこの二つの理屈のどちらを選ぶかに掛かります。
同じ人種内での事であれば、当然に男系の継承と成りますね。他国との交配の少ない場合の男系が多いのはこの理屈から来ているわけです。
日本は島国ですから他国の人種との交配がすくないので男系と成っているわけですが、中東では血液の融合が起こらず族で固まった結果で民族間の争いがおこっています。

(650年ころまでは多かった。お家の諏訪族もレポートしましたように漢民族の末裔の血も入っています。天皇家でも朝鮮民族の血も3度入っている事に成ります。応仁天皇期、蘇我氏の時代、桓武天皇期(お家のご先祖本家首長の血筋)
この様に日本民族は7つの人種の混合民族から構成されて血液の融合がおこり単一の日本民族が出来上がったのです。研究室レポート参照)

上記の通りですが判らない点が有りましたらどんどんお尋ねください。
ルーツ探しはこの様な事の知識の取得から資料を始めて解析して楽しみが増しますので。

No.217

Re: 群馬の青木です。
ありがとうございます^^

あとこれからの我等の子孫にこれからも伝えるために資料をつくることになりました。
良かったら詳しい情報やまとめ方など教えていただければ光栄です^^

No.218

Re: 群馬の青木です。
>ありがとうございます^^
>
>あとこれからの我等の子孫にこれからも伝えるために資料をつくることになりました。
>良かったら詳しい情報やまとめ方など教えていただければ光栄です^^
あと追加なのですが私の家は新宅ですwですが本家には昔カタナがあったと親から聞きました。しかし泥棒に盗まれたとかwこらが確実の証拠になると思っています

No.219

Re: 群馬の青木です。
>ありがとうございます^^
>
>あとこれからの我等の子孫にこれからも伝えるために資料をつくることになりました。
>良かったら詳しい情報やまとめ方など教えていただければ光栄です^^
群馬諏訪族の青木さん。今日は。
大変すばらしいことだと思います。

家の歴史が一見何の意味も持たないと思えることもありますが、私はそうは思えません。
現代の悪い習慣にはこのようなことにも経済的評価で持って決めようとする傾向があります。経済的評価だけでは決め兼ねるロマンなどは人の心に与える影響は図り知れません。
この意味で未来の自分に自分のロマンを遺して上げることはこの世に生まれ出た目的としての子孫を遺す以外にもう一つの意味を持っていると考えます。

私の場合は「由来書」という形で作り上げています。
先ず、発祥から入り、その時代毎の歴史と先祖のかかわり具合を比較しながら次第に説明と史実を書き進めてゆきます。

そして、その時に話の幅を広げるために他の青木氏などの説明などを添えます。この時、話は「3つの要素」毎に書いて行きます。
この3つの要素とは「人のこと」と「時のこと」と「場所のこと」に付いてです。この「3つの要素」で書くことで人の脳は理解度を完全に成るとされています。
甲斐の諏訪族のことを中心にしながらもこの事だけを書くと興味は拡大しませんので5家5流の青木氏とか武蔵の藤原秀郷流青木氏などを書き添えることも必要です。

諏訪族としては奈良から平安初期の甲斐の国に入植した事や後漢の国の阿多倍の帰化族とか武田氏との関係した事とか諏訪太鼓とか諏訪赤兜とか信長と戦ったとか徳川氏に仕官したとか、神奈川から横浜群馬に移動した事とか等を選び出して書いておく、すごい勇敢な部族であったこととか苦労話を書き添えることをされると良いと思います。

これ等のことは研究室に全てレポートしていますので先ずこの全レポートのザーと読みから入り、少し知識を頭の中に入れておきます。
そして書きすすみながらその都度そのレポートのところを詳しく読み足しながらまとめてゆきます。

そして、資料内容を書き込むと読む人の頭にストーリーが入りませんので番号を付けて末尾に添えて行きます。

書き始めてゆきますと、段々にイメージが湧いてきますから心配は有りません。人間の脳は最初のザーと読みでこの”ひらめき”が興るように働きます。
この時のイメージはメモして置きます。
そしてそのいくつか出たイメージを順番に並べなおしてそのイメージに付いての書き足しをします。

これ等のことを繰り返して行くといつか完成に近いところまで着ます。

此処で、全体を読み直します。そうすると不満足のところが出てきます。
この不満足もメモしておきます。一通り読み終わるとこの不満足部の書き足しをします。不満足とは文章が判りづらいとかストーリーが途切れているとかですが必ず出てきます。

最後に人に一度読んでもらって感想を聞きますとよりよいものが出来ます。或いは少し時間をおいてから読み直しても同じ結果が得られます。

誤字などは最後にします。
書いていると判らない事が必ず出てきますのでその時ご質問ください。

研究室のレポートはコピーして内容の中味を取り出して、後は資料として末尾に添付します。詳細は末尾参照として書く。

研究室の全レポートの読み込みで先ず自分の物にする必要があります。つまり全体を理解する事です。其処から始めてください。読み込みで判らないことがありますのでその時はお尋ね下さい。

一度先ず挑戦してみてください。そして、またお便りください。

追加の件 
刀のみでは証拠にはなりません。刀は室町末期から江戸時代にかけて少し財産のあるものは刀を持っていましたので証拠にはなりません。江戸中期では庶民も護身用に持つことも多くなりました。

証拠としては「刀な掛け」や「肘子」や「馬杯」鎧兜等武士が持つものとあわせて存在するのであれば証拠となり得ることも有ります。刀でも名刀で脇差や短刀などのセツトであり複数あれば武士の可能性は否定できなく成ります。
 私の家では刀が10セットありこのなかには名刀村政と正宗の刀があり、家紋入りの刀掛けと軍配と馬杯と肘子や刀鍔や手裏剣など武士の身だしなみのセットがありました。(鎧兜は焼失)
この程度のものがあれば証拠となると考えます。

No.239

Re: 群馬の青木です。
おひさしぶりです^^
今日蔵を調べたら大名などと殿様が使う入れ物(着物とか甲冑や布団とかがはいる)やつを見つけました。

No.240

Re: 群馬の青木です。
>おひさしぶりです^^
>今日蔵を調べたら大名などと殿様が使う入れ物(着物とか甲冑や布団とかがはいる)やつを見つけました。
群馬の諏訪族の青木さん 今日は。お久しぶりです。

お蔵から”ながもち”が出てきたとの事ですが、大変貴重な興味あるものが見つかりましたね。
昔はこの「ながもち」に貴重な物を入れて保管するものでした。

結婚する場合は嫁がこれを持参する習慣になっていました。そして、親族がこの「ながもち」を皆で担いで嫁ぎ先の門前まで運ぶし習慣がありました。
特に武家の仕来りと成っていましたが江戸時代に入り庶民も見習って使用するようになっていました。
武士の家はその土地の習慣を色濃く守ると言うことがありましたので習慣の違うものを表に見せないと言う事も配慮してのことでした。
この時はたんすに入れられないものは此処に入れて嫁入り道具としたのです。

この中には実家の先祖に関わるものや伝統品などを入れてきました。
又その後に嫁入りさきの先祖に関わるものをいれて保管する道具として用いられました。
この「ながもち」には嫁の実家先の家紋が大きく入っている筈です。
その家紋が何であるかで時代の検証も出来ます。この家紋と制作年月日も記されていますので注意してみてください。場合に依っては両方の家紋が並んで書いているものもあります。家紋がない場合は問題です。

多くの歴史書とか古文書は旧家のこの中から出てきたのです。この中は内側から錫箔などで内張りして空気や湿度を遮断して長期に保管できるようにしています。
そして、湿度も内側に当時の使用された使い古しの和紙を貼り湿度の調節をしていました。
この古紙には大変な貴重な当時の生活を物語る内容が書かれていたりしました。
甲冑は鎧箱などにも同じように保管していました。

古くなった「ながもち」の外側に古紙が張られている事もありますので一度注意深くお調べになるとルーツにかかわる面白いものが出て来る可能性もあります。

諏訪族の関東や東北に移動した時の何かを物語るものが出て来るといいのですが。何かわくわくしますね。

仏壇の引き出しなどにもその気になって意識して気を付けてみると思わぬものが入って居ることが有ります。
私のことで恐縮ですが、この長持ちに類する箱には手紙のような束がありました。整理しようとして、ひょと見るとなんと、明治の元勲の二条基弘の直筆の手紙と徳川14代の殿様の直筆の手紙もみつかりました。
徳川殿様との付き合いは記録もあり多くの贈り物もある事から証明は充分ですが兎も角も捨てるような所にも他辺に価値のあるものが有ります。

これらはあわてて、額に入れて保存しました。他にも古い手紙もありますが達筆で読み取る事ができませんのですが、ところところに崋山の字がありますので江戸時代の有名な画家の渡辺崋山のものではないかと思われる物もあります。
それで、気になってほかを当ると確かに渡辺崋山の直筆の竹の墨絵がありました。この墨絵は弟子に書いた練習用の見本絵である事が絵のところどころに朱書きで説明してある事で判りました。この時の手紙ではないかとも思っています。

ちょっとしたものが歴史上で意味のもつものであることが多いのでお調べください。「ながもち」がでる位ですから他にも何かあるはずです。

諏訪族としては甲斐の皇族賜姓青木氏とか武田氏との付き合いは充分に長い歴史であつたと見られます。何かそれを証明出来るものが出て来ると面白いのですね。
兎も角も来年のNHKの大河ドラマどのように諏訪族を描くのかたのしみですね。諏訪族あっての武田氏ですからね。諏訪族がなければ武田氏の勢力はなかつたのですからね。

諏訪族の血筋の持つ武田勝頼の逃亡中の諏訪族の全面協力があれば時代は変わっていたことも考えられますからね。
この部分を司馬遼太郎氏はよく描いています。

何にせよ、一度注意深くお調べになって又お便りください。お待ちしています。

No.241

Re: 群馬の青木です。
ありがとうございます^^
あと我らの御家は武田家家臣団の一条一族の青木氏でしょうか???またこの一条一族と諏訪族は違うのでしょうか??

No.242

Re: 群馬の青木です。
ありがとうございます^^
あと我らの御家は武田家家臣団の一条一族の青木氏でしょうか???またこの一条一族と諏訪族は違うのでしょうか??
こんな資料もありましたw
青木源光一條信重弟時信子信経孫信長曾孫時光子?時信孫?

  信高

  信行

  常光時光子新井経光

  信連

  貞義

  義遠

  安遠

  義虎

  信種====1541義虎子尾張信定

  信立====1590信種子尾張信親

  時信信立子信時尾張信秀?

  信安時信子弥七郎与兵衛信秀?

  信就信安子

  信生時信子

  信実信立子

信定義虎子藤九郎

  満懸 尾張

満定 弥三左衛門

  重満 兵部

  信秀信種孫右兵衛与兵衛

  信政清左衛門慶長頃

  忠秀与兵衛



  繁元仕武田元繁永正頃

横手信国青木信立子満俊?

曲淵信次青木信立子

  頼定頼親裔

吉高頼定子

  吉景15181593吉高子勝左衛門玄長仕板垣信方山県昌景

吉清吉景子

吉重吉清子

吉明吉重子

吉門吉景子

吉資吉景子

吉房吉景子

山寺信明青木信種子

  信昌信明子

  信光信昌子

  重正信光子

  昌吉信昌子

  信就信昌子

柳沢信興青木安遠子

  貞興信興子

  信景貞興子

信房貞興子

  信兼信房子

  信久信兼子主計

  信俊信兼嗣青木信立子横手源七郎

  安吉信俊子

  信安安吉子

  吉次安吉子

No.243

Re: 群馬の青木です。
群馬の青木さん 今日は。

お家の系譜とみられる系譜を見ましたが、この系譜はお家の青木氏の元のルーツを述べているものと考えられます。次ぎにその元の系譜がどのように引き継がれたかを書いています。
最後にその末裔の女系を書いています。

皇族賜姓青木氏の場合は妻の系譜と戒名や墓は別に書くことになっています。
女墓を作り其処に戒名(子つき名)を代々書き足していきます。系譜も同じです。

この3段階ですが最初の青木氏のルーツと見られる系譜に問題があります。

先ず、先にお尋ねの一条氏に付いてはこの一族からは青木氏は出て居りません。お家の家紋が丸に抱き角紋である事とすれば諏訪族以外に抱き角紋を使用した氏はありません。
又、一条氏と抱き角紋の青木氏とは血縁を結ぶに必要とする家柄では有りません。一条氏は貴族です。貴族と地方の丸付き紋の青木氏との血縁はありえません。仮にあるとしても本家筋の抱き角紋であるはずです。
一条氏は貴族の中でもトップクラスです。
(源氏11代は母方が全て藤原氏系)
一条氏と諏訪族は全く違います。

(諏訪族に付いては更にもう一度研究室のレポート参照して下さい)
(諏訪族が武田系に入った経緯も含めて参照して下さい)

もし一条氏であるとすると大きな矛盾が出ますので明治の初期か、室町期末期かの第3の青木氏で系譜と家紋と姓を搾取し偏纂した事である事に成ります。
または、お家の末裔の方が江戸時代ごろにルーツとして書いたものであろうと見られます。(間違いがありますが)
このどちらかです。

後者として系譜をみてみます。
系譜の最初に書いている源光は、清和天皇の第6位皇子の経基王が賜姓を受けて源氏となつたものでこの子供の満仲の子の三男の頼信でその子孫で4代目の義光(1055)から数えて8代目の源の源光(1195)が光仁天皇(770年ころ¥)の皇族賜姓青木氏(甲斐)の跡目を引き継ぎます。皇族賜姓青木氏と皇族賜姓源氏とは同族であることから跡目を引継ぎました。
甲斐の青木氏といいます。
家紋は笹竜胆で5家5流の一氏です。

(参考 光仁天皇は天智天皇の孫で施基皇子のこどもで伊勢青木氏とは同族従兄弟が甲斐の青木氏)

そして、この甲斐の青木氏と武田氏とが血縁した武田系青木氏の跡目を義光から数えて15代目の源の義虎が跡目を引き継ぎます。
武田系青木氏といい家紋は武田菱紋です。(割り菱門)


この義虎は源光の弟の時光系とされています。義虎は時光から7代目です。
時光系青木氏とはこの武田系青木氏のことを言います。
本来は時光からは青木氏は出ていません。

さてお家の系譜と見られる資料はこの二つを書き込んだことに成りますね。そして、この時光系としています。
この系譜では武田系青木氏とすると家紋は笹竜胆から武田菱紋になり、その後諏訪族と血縁したとすると武田菱紋から抱き角紋になり丸に抱き角紋に変紋した事になり青木氏ではなくなる可能性がありますので矛盾が出ます。
家紋が変紋することは男系の跡目ができなかったことを意味しますのでこれが丸付き紋とあわせると3度以上は起こっている事を示します。
これは完全に女系になった事を意味しますので青木氏ではなくなります。

抱き角紋である筈ですから、源の源光の甲斐の皇族賜姓青木氏と諏訪族との血縁にての発祥と成り確定していますので、それに丸がついたのですから本来はその分家筋となります。
(諏訪族青木氏は時光系の義虎の武田系青木氏との血縁では有りません 研究室の藤原秀郷関連のレポートに記述済み)

例えば、藤原秀郷流青木氏は本来家紋は下がり藤紋ですが、これによく丸付き紋があるものがありますが、下がり藤紋には丸付き紋は本来はありません。
よって、その家紋は第3の明治期の系譜詐称と家紋偏纂と成ります。
大変多いのです。このように矛盾が生まれます。

甲斐の皇族賜姓青木氏は光仁天皇期ですので時代に大きなズレが生じます。
この資料では系譜とするとずいぶん後で作り上げた可能性があります。

元々は系譜は2つの土地の氏を除いてあるはずがないのです。
と云うのは室町期に下克上と戦国時代に中流階級以下の武士が反動して其れまでの家柄身分のある氏全てと浄土宗の寺が焼き討ちにあいました。したがって余程のことがない限り資料など残っているはずがないのです。
全ては口伝と残った鎌倉期までの資料の組み合わせからによるものが多いのです。
二つの土地とは皇族賜姓の伊勢の青木氏と甲斐の青木氏で朝廷から奈良時代と嵯峨天皇の平安初期に2度の特別に「不入不倫の権」を与えられていて比較的難を逃れたのです。

そこでこの資料はそして二つの間違いを起しています。一つは源光系と時光系と同一としている事と、武田系青木氏と甲斐の賜姓青木氏と同一としている事と時代の7代のズレがあります。

其処に一条氏を血縁者としている事も疑問が残ります。一条氏は貴族です。
一条氏は私の資料によると直接に武田系青木氏との縁組をしていません。
一条氏からは直接は青木氏も出ていません。

多分、源氏の義光から7代目まで母方に一条氏との血縁があつたとしこの者の子孫が時光としているのではないかと考えられます。

(調査:結果 源の源光と時光は兄弟で母方は藤原北家の一条氏 夫々に上記の青木氏の跡目に入る 一条氏系から見れば間接的に武田氏に血縁 一条氏の資料に依ると一条源光としてあり、一条時光としてありますが、頼朝、義経と同様の清和源氏の本系3男の頼信の直系子孫です  家柄の低かった陸奥の小豪族の武田氏側から見ればより貴族との血縁もある事を誇示するねらいで書き込んだ。故に一条氏の血筋を持っているのは武田系青木氏と成ります。)

この3つのことを先ず検証して見ることが必要です。
お家のご先祖は確かに武田氏との間に血縁を持ちましたが諏訪族は家臣の形にはなく合力の形に成ります。以前もレポートしましたように客員軍師との立場に成ります。武田氏の家臣を気にしておられるようですが武田軍の形には色々な立場があります。

諏訪族は武田の枝葉の家臣とは別の武田氏を支える別の木と成るとご理解ください。
(ただし室町後期にはこの氏家制度が瓦解していますので他の氏族例えば武田氏の家臣先に仕官していることはあります。
江戸期では農家を営んでいたことですので仕官先が滅亡したことに成りますが、この時期には既に群馬での農家ですので。武田氏の仕官先も滅亡離散してこの地に逃げ延びたと以前のレポートによる結果となつたと云う事に成ります。)

丸付き紋は家紋と青木氏とからは諏訪族青木氏の分家と成ります。

抱き角紋の総宗本家は諏訪族青木氏である事は検証済みですので問題はありません。よって上記の系譜が基であるとすると上記の間違いからお家の丸付き紋の抱き角紋に問題が生まれたことに成ります。
確かに家紋掲示板にもある様に丸付き紋は青木氏の支流ですが。

本資料のはじめは青木氏の1195年代の甲斐の跡目のことを後から書いたものと見られます。

前者を偏纂として見ますと、以前江戸期には大農家であると述べられていましたが、庄屋中でも苗字と家紋とを持つ郷士か郷氏の家柄の氏(武士)もいましたのでどちらかをお調べになる事でしょう。

もと、郷士か郷氏であるとすると第3の青木氏の可能性は無くなります。
これがキーポイントとなります。

これ以外に何かほかに資料になるものは有りませんか。これが単なる別資料とするのであれば問題はなくなりますが一度上記のこと(郷氏か郷士)をお調べください。

お便りお待ちしています。こちらでも念の為に源氏との一条氏の関係のことを確認してみます。(7/3 確認済み)

No.245

Re: 群馬の青木です。
信長 -- 光家
  |- 義長
  | 馬場
  |- 頼長 -- 長広 -- 広政 -- 政次 -- 政久 -- 長広 -- 広政 -- 政次 -- 政久 (→馬場氏)
  | 武川祖 山高
  |- 信経 -- 時信 -- 信方 -- 信武 -- 春方 -- 信行 -- 経春 -- 景信 -- 信基 (→山高氏)
  | [信綱] |   | L 時信 [信時]
  |   |   | 白須
  |   |   |- 貞信  
  |   |   |= 貞連
  |   |   | 青木
  |   |   |- 源光
  |   |   | 横根寺
  |   |   |- 信源  
  |   |   | 東條
  |   |   |- 義行 -- 信方(→山高氏)
  |   |   |   |- 頼行 -- 隆信
  |   |   |   L 行法
  |   |   |- 家景
  |   |   |- 貞家
  |   |   | 大幡・青木
  |   |   |- 時光 -- 経光 -- 信連 -- 貞義 -- 義遠 -- 安遠 -- 義虎 (→青木氏)
  |   |   |   | L 信興 (→柳沢氏)
  |   |   |   | 折井
  |   |   |   L 時次 -- 信衛 -- 信景 -- 次政 -- 政武 -- 次俊 (→折井氏)
  |   |   | 境祖
  |   |   L 信泰
  |   L 宗清 -- 信基 -- 時基
  |- 信久 L 遠実
  | 高畠
  L 信行 -- 行時 -- 時盛
  |- 泰行
  L 隆行
 
馬場氏略系図
頼長 -- 長広 -- 広政 -- 政次 -- 政久 -- 政長 -- 政房 -- 政忠 -- 房政 -- 信房
 
山高氏略系図
信方 -- 信武 -- 春方 -- 信行 -- 経春 -- 景信 -- 信基 -- 基春 -- 信之 -- 親之 -- 信親 -- 信直
 
青木氏略系図
時光 -- 経光 -- 信連 -- 貞義 -- 義遠 -- 安遠 -- 義虎 -- 信種 -- 信親
 
折井氏略系図
時次 -- 信衛 -- 信景 -- 次政 -- 政武 -- 次俊 -- 次久 -- 次昌 -- 次忠 -- 政次

 

この資料はどうでしょうか??

No.246

Re: 群馬の青木です。
この資料は清和源氏の分家の頼信系の義光から青木氏に繋がった一条氏から見た系譜です。より詳しく藤原氏北家の一条氏の系譜を並べた物です。

結論は同じです。
前回のレポートに記述しましたように、
源の源光は甲斐の皇族賜姓青木氏の跡目を引き継ぎました。
多くの資料は天智天皇より5代続いて皇族賜姓青木氏を発祥させましたが、このことの知識を把握されている学者は少なく、司馬遼太郎氏や黒岩重吾氏や山本惣五郎氏や松本清張氏などが研究されて書物にもしています。

(司馬遼太郎氏は私の家にも来られたようで天智天皇から賜姓を受けた時に青木氏を証明する物として銅の仏像(大日如来坐像70*60センチ)を授かりましたがこのことを調べられて見学にきたことがあり世に出すように勧められたとの事であります。)

源氏の初代の賜姓嵯峨源氏発祥させた嵯峨天皇期に詔を発して皇族の者以外に青木氏を名乗る事を禁止しました。其れまでは5家5流の青木氏が続き、その後の桓武天皇は母方の渡来系の阿多倍一族に京平家を賜姓しました。しかし、息子の嵯峨天皇はこれを嫌い元の皇族の賜姓に戻しました。(809年)
この時に青木氏姓から源氏氏姓に変更して、その代わりに青木氏姓は皇族の者が名乗る氏姓としました。

一条氏がこの源氏の系譜の源光から一条氏の主系譜に書き込むことには多少の疑問が残りますが。外孫になる系列の子孫を系譜にしなければ成らない理由があるのだと考えます。

源光と兄弟の時光も皇族賜姓青木氏と武田氏との血縁にて武田系青木氏が生まれていましたがこの跡目に入った事に成ります。

ですから、源の源光は兎も角も源の時光は武田系系譜に入ります。
更に、時光から7代目の義虎が更にこの武田系青木氏の跡目を引いています。
(清和源氏の系譜から)

この甲斐には藤原秀郷流青木氏も存在し、国府には賜姓青木氏、南には藤原秀郷流青木氏、北の北陸国堺には武田系青木氏、諏訪湖沿いには武田系諏訪族青木氏が現在も存在します。

武田氏系青木氏と諏訪族青木氏を同じにして武田系青木氏としている資料もありますがこの資料は間違いです。その理由は奈良時代から存在する諏訪族の由来の知識を承知しない人が書いたものであるからです。

藤原秀郷流の”流”と武田氏系の”系”との使い分けをしていることにご注意してください。
”流”は一族一門で血筋を同じくする氏です。縦横に血筋があります。
”系”は必ずしも血筋があるとは限らす゛その武門に属するを意味します。
系は必ずしも家来でもなく何らかの間接的縁者関係にあるを意味します。
横の血筋です。

諏訪族は武田系諏訪族青木氏ですから、間接的血縁にありながらも直接的家臣ではなくその同盟範囲の一族となるわけです。
諏訪族は諏訪族の姫が結果的に政略的に信玄に嫁ぎ勝頼を産みますが、諏訪族からは女系の外孫に成ります。諏訪族宗家だけが女系で武田氏と繋がっていることになり他の諏訪族の一族は全く無縁関係にあるわけです。
この秩序は室町時代の戦国期まで続きました。その後の血縁は入り乱れる事になるわけです。
武田勝頼の武田氏は信玄死後内紛が起こり、諏訪系と武田系とが争います。
結局、分裂し信長との戦いに負けます。
此れでもお判りと思いますが、諏訪族の武田の中での位置付けは他族でした。


司馬遼太郎氏の武田信玄の小説をお読みになるとその軋轢がよく理解されると思います。

この資料は諏訪族には直接に関係がありません。前レポートに書きましたように源光の青木氏(1195年頃)の跡目の時期と武田系青木氏への義虎の跡目時期と、諏訪族の青木氏の発祥期(790年頃)とは大きく違っています。

1195年は鎌倉幕府樹立し頼朝とその一族が抹殺暗殺されたときです。
この1195年の時期に青木氏の跡目を継ぎ甲斐の賜姓青木氏を立て直したと言う意味に注目が必要です。

(参考 何故にこの時期に源氏一族が各地の青木氏の建て直しに入ったのか大きく意味を持ちます。私の家も1180年頃に源の頼光(清和源氏の宗家嫡男)の4代目の頼政の孫の京綱が伊勢青木氏の跡目に入っています。
京平家が滅亡して後、源氏一族が合い争う時代で同族の5家5流賜姓青木氏の跡目に源氏の血筋を絶やさないようにする事を狙ってのことと同族が結束を固めた事を意味していると思います。美濃、信濃足利氏も跡目相続)

つまり、皇族賜姓の血筋を立てに持つ諏訪族青木氏も武田氏系の中に入って血筋の保全を固めた事を意味します。賜姓青木氏24氏のひとつとして。
だから、そして、武田氏が滅んだ時も諏訪族の中の諏訪族青木氏は決戦をせずに東に避難したのです。そして、現代にも諏訪族青木氏は東の地域に子孫を大きくして繁栄をしています。

No.250

Re: 群馬の青木です。
イロイロ調べたんですけど。
昔門があったみたいなところに虎申(多分虎ってほうは字はちがいますが)みたいなでかい石碑がたってます。これは何でしょうか???

No.255

Re: 群馬の青木です。
>イロイロ調べたんですけど。
>昔門があったみたいなところに虎申(多分虎ってほうは字はちがいますが)みたいなでかい石碑がたってます。これは何でしょうか???
獅少し孫がきましたのでお便り遅れました。

石碑は虎甲と書いていますが、仮に獅子頭とすると、皇族賜姓青木氏に関係する諏訪族の青木氏のような高位で大きな獅子頭のことですか。
それとも、亀甲碑のことですか。

では以前にも記述しましたようにお家の神社がおありですので、
この氏神の第一門正門の鳥居の内側には厄払いのために中国の習慣を利入れて獅子頭紋の石碑を建てることが習慣です。それは日本ではその氏のステイタスとも成ります。

特に天皇家の奈良期、平安期から存在する全ての野熊野神社系と清和源氏の八幡神社系での皇族系の守護神の神社では、この石碑とその無形文化財としての「獅子舞」が現在までも引き継がれて存在します。
(これ等の神社の宮司は青木氏か藤原氏か佐々木氏でした。)

これはその神にこの厄除けの獅子舞を奉納し神をもてなす祭りです。

お家の諏訪神社系でも何らかの形でこの厄除け祭がある筈です。

全てこの皇族賜姓族の守護神では何らかの形で獅子舞が或いは獅子に関する祭りがありそして、そこには石碑の一対がある筈です。

お家でありますと諏訪神社系の支社としての青木氏の守護神もあるはずです。

室町期の下克上や戦国時代や昭和の戦後での混乱期ではその存在や無形文化材も移動したり焼失したりしていますが。

以前のお便りで、お家の近くに諏訪神社の支社があるとの事が伝えられていましたが、これがそのもので、その門所にもあるはずですし、お家の正門内のところにもあるのもそのステイタスを示す石碑です。
青木氏を祭る諏訪神社支社に存在しないとすると何らかの理由でお家の門内に移したと見られる事もあります。

お家の近くの諏訪神社支社に存在しないとすれば、混乱期の多かった関東地方であるとすると、歴史上のいくつかの混乱期を避けて、ご先祖は末裔に永久的に氏神に代わってその家柄の尊属の意を伝えようとしているものと思われます。
あるとしても、一族が検討して何時の時代か混乱期を避けてその代替碑を持ったと考えられます。
もしそうであるとすると、お家はその村の諏訪族青木氏の一族の庄屋か名主か青木氏姓を古来よりお持ちですので、室町期から既にその村を代表する苗字帯刀を許された豪農であった可能性が高いと見られます。
普通は庄屋や名主はこの豪農が交代で務めるものです。
門のところに存在するのはその証拠ともなりえます。

神社の祭りとかこの石碑とかを大事に保存される事を期待します。
それがご先祖の意思を繋いでいく事に成ります。
そして、このことを更にお家の末裔のかたにもその意を書物にして遺す事もご先祖の意思を繋ぐ祭事と思います。

とかくこのようなことは忘れがちに成っているものです。
これからの時代では猛烈なスピード消えていくと見られます。
その意味でよいところに気がお付きになつたと思います。

熊野、伊勢神宮の天皇家の守護神系と皇族賜姓青木氏系と皇族賜姓源氏系との3氏にはこの獅子舞と獅子頭石碑が存在します。つまり、皇族系守護神のステイタスシンボルです。

私の伊勢青木氏も殆ど忘れられていますので復元しようと頑張り後世にそのロマンを遺す事に努力しています。

お家は諏訪族の影響を多く受けているのか、賜姓青木氏の影響を多く受けているかはこの石碑がそれを暗示しています。

大変な情報を得ることができました。かなりのことが遺されているようですね。

では又、何か有りましたらお伝えください。楽しみにしています。

No.256

Re: 群馬の青木です。
しらべたところ・
石碑じゃなくて石塔でした^^;文字は庚申です。
何か武家とかなどは庚申待という祭りをひらいていたとのっていました。

No.261

Re: 群馬の青木です。
>しらべたところ・
>石碑じゃなくて石塔でした^^;文字は庚申です。
>何か武家とかなどは庚申待という祭りをひらいていたとのっていました。
群馬の青木さん 今日は。
孫が帰省し気がつかずお便り遅れました。

先日の石碑では無かったのですね。石碑であれば関東では大変に貴重なものであるのですが残念ですね。

石塔との事ですが、つまり何かの記念に立てたものですので、その石塔の持つ意味が何なのかということになりますね。

さて、先ずこの庚申とは何なのかということですが、次のことに成ります。

中国の思想に「五行思想」と言うものがあります。
中国は現在に於いてもこの五行思想に概ね添って行動しているもので中国人の全ての行動規範です。

その中で、年代などを計算するために考え出されたものがあります。

日本にも入ってきていますし明治の中ごろまで昔は良く使われていました。

つまり、干支(えと)です。日本では占いなどの独特の使い方をしますが中国では計算方法です。

干支は二つの計算方法を組み合わせて年代の計算に使用します。

一つ目は「十千」です。二つ目は「十二支」です。
つまり、10進法と12進法を組み合わせているのです。

「十千」は木火土金水の5つです。恒星を基準にしています。
この一つを二つに分けて全部で10にします。
甲乙、丙丁、戊己、庚辛、壬葵の10に成ります。

これに干支の子丑寅。。。。。亥の12の数とを組み合わせて60進法を作り上げて計算する方法です。最小公倍数60です。

この様にして年代を決めました。これによりその年に起こった事件が判る様にしています。

例えば日本ではこの方式で還暦60はこの計算方法から人の人生の一回りを決めたのです。確かに全ての面で60は人生の一区切りですね。
本厄年は47ですね。確かに納得します。

さて、本題の「庚申とはいくつか」という事ですが。
この計算方式では、庚午の7、庚辰の17、庚寅の27....庚申の57と成ります。これが60年に一回還暦して回ってきますので、西暦で云うと57*Nという事に成ります。

つまり、57*Nの倍数の年に記念するべき事件があったことを意味します。

そこで、お家は甲斐の武田系諏訪族青木氏の末裔でありますので、この歴史を遡ることで、この57*Nの倍数の年にあったことを調べるという事に成ります。

何か土地に伝わることで聞き及んでいることは有りませんか。

私なりに次に検証しますと。
627年の庚申(57*11)
第一案は627年以前には未だ諏訪族の祖先は大和の国の甲斐に入植していません。入植は孝徳天皇(645)の少し前から帰化して入植をはじめ天武天皇期の終わりに完了している筈ですから、先ずは実際は627年が最初の大和への帰化年と見られます。史書にもこの付近の年代を明記している。
もし、627年が帰化年としますと大変な史実判明。

684年の庚申(57*12)
第2案は朝廷より甲斐の国を開発した功績で諏訪族に対して「不入、不倫の権」の特権を与えられて大和の民として正式に認められた記念すべき年で日本書紀には天皇自らが祝いの宴を持った記されている。
この時、始めて一族が武力やあらゆる技能を持つた集団の族として認められた事を意味する。

1539年の庚申(57*27)
第3案は武田家が甲斐の国にて勢力を上げるために諏訪族との血縁を結んだ時期である。一地方の豪族であつた諏訪族は武田氏との血縁にて武田系一族に組み入れられた記念すべき年期である。

1596年の庚申(57*28)
第4案は1582年に武田氏が滅び武田系諏訪族青木氏が関東に向けて逃げ延び、横浜神奈川地方と更に栃木方面に定住定着した記念すべき年期である。
この時の事を記念した。

以上4つの案ですが、57の倍数で一致しますので。又この4つ全てを云っていることも考えられます。

この事を祝って石塔を立て、忘れる事の無いように記録したのではと推測します。

この時の頑張った侍を称える意味で”庚申侍”と呼んだのでは。そしてこれを称える祭りを毎年行っているのではないでしょうか。

専門外ですので良く判りませんが、私は”第1案であって欲しい”との願望を持つていますが。

一度、57*Nでの計算でお調べになりませんか。

何かわかりましたら又お知らせください。

No.263

Re: 群馬の青木です。
石塔がたてられた年は文政のとしだそうです。
(江戸末期)

No.265

Re: 群馬の青木です。
>石塔がたてられた年は文政のとしだそうです。
>(江戸末期)
群馬の青木さん 今日は。
庚申の文字を刻まれた石塔は文政の頃との事ですが、私の専門では有りませんが知る範囲の事として次ぎのようなことが石塔を立てた理由としてあげられるのではと思います。
あらまし立てるのではこの幕末の頃だと思っていました。

当時は尊王譲位論の盛んな時期で特に関東に於いては大変なブームになっていました。

この火付け役は水戸藩の藩士でした。
この時期は「尊王論」と「攘夷論」が盛んになっていて国中が騒がしくなっていました。
特にこの「攘夷論」は「中国の儒教」の影響を取り入れた考え方が盛んで「頼山陽」のような学者が儒学と称して江戸関東近辺では大変なブームとなっていました。

おりしも、「水野忠成」が家斉の信任を得て「文政の改革」を断行し財政面からの改革を行いましたが、幕政は腐敗しました。このために人々の心は荒廃し儒学などの生活規律の厳しい「宗教の習慣」をとりいれました。

つまり、「儒教」、即ち中国の『五行思想』に基ずくもので、全てをこの思想に置き換えてやろうとする習慣が関東を中心におこりました。

又、この思想の元に騒がしい世の中で江戸に出ていこうとする「国抜け」の民衆がいて、これらを脅して博徒が横行し「治安は悪化」しました。

幕府はこのため関東の八州に「関東取締出役」を置き関東全てに「村単位」で組みを作り『寄場組合』成る物を作らせて50組もの組織が出来ました。
(改革の主導役の勘定奉行の支配下)

「農民」が自ら「牽制」し合う組織となり、農業に強く「干渉」する様になりました。
農村の治安は悪化荒廃しました。

この様な中で関東に於いてはこの五行思想に基ずく儒教の考え方が流行してお家付近の関東の村では「五行思想」なるものが強くなりました。
この結果、お家の村では「庚申信仰」が発生したのでしょう。
(幕府が煽動した)

そして、この信仰では「干支と十千」を組み合わせた「計算方法」を「占い」に使うなどのことが横行したのです。前回の内容を利用して日本独自の占い思想がうまれました。

各地の組単位の村では、その村の出来事がこの前回の計算手法にて周期を割り出してそれを信じては占いをして農業の祭りや行事を決めたりすることで苦難から逃れようとしたのです。

其れがこの時期に起こったというよりは流行ったもので、お家のご先祖での村単位の「寄場組合」の村(3-6の村)では「庚申(57)」が全ての占いの行動規範と成っていたのでしょう。

この裏づけが、お家の一族が形成する諏訪族の村の『寄場組合』としては、前回のレポートにて計算された出来事がこの「庚申」に当るので、「儒教信仰」からその村の意思を遺すために石塔を建立したのではないでしょうか。

そして此れにあわせて祭りなどの事が行われたと考えます。

この様な「占い思想」から生まれた童話や逸話が関東に多く残っていますし、時代の状況証拠からも裏づけられるのではと考えます。

しかし、幕末にはこの「儒教思想」のやりすぎが表面化して批判が強くなり、民衆の暴動が各地で起こり、結局はこの思想を取り締まりました。
頼山陽もとらえられました。

この儒教の仕来りが明治のころまで仏教の仕来りのなかにものこりました。
例えば還暦祝いや前厄、後厄の厄年や喜寿祝いや生活様式のなかにも正座して座る方式などはこの儒教からきた様式て゛、行事です。

正座に対して仏教では胡座(あぐら 男座)とひざ立て(女座)です。
ほかにも沢山あります。



中国と韓国がこの儒教の国です。

No.267

Re: 群馬の青木です。
ありがとうございます。
違う話になってしまうのですが・・・自分が調べたところ自分が住んでいる市のほとんどの青木家が同じ家紋だとわかりました。
これは諏訪族青木家が一族郎党で移動してきたという証拠になるのでしょうか??

No.268

Re: 群馬の青木です。
>ありがとうございます。
>違う話になってしまうのですが・・・自分が調べたところ自分が住んでいる市のほとんどの青木家が同じ家紋だとわかりました。
>これは諏訪族青木家が一族郎党で移動してきたという証拠になるのでしょうか??
群馬の青木さん 今日は。

前回のレポートでもあった様に、村全体が庚申思想の元に結束していると言う事はその思想が共通するものである事を意味しています。

お家の一族は神奈川横浜地域と一部お家の一族とかが栃木、群馬方面に移動し定住はした事は史実としてわかって居てます。

よって、お家の地域西南側に近く藤原秀郷流青木氏が116氏からなる宗家筋の青木氏が定住していますが、この一族は綜紋を下がり藤紋とし副紋使用しています。

したがってこの家紋類外の家紋を有している一族で皇族賜姓青木氏の24氏の家紋類を保有している事は史実上諏訪族のみですので間違いなく元は一族です。

武田氏、足利氏、土岐氏の青木氏を含む皇族賜姓青木氏24氏は5家5流の青木氏を元としていますので、中部地方西側に分布しているのが普通です。

関東に存在し同紋を有する武田系諏訪族青木氏はお家の青木氏の一族です。間違いなく証拠として成り立ちます。史実も認めています。

そこで、”どの家が宗家となるのか”という事です。

江戸初期頃に名主や庄屋や郷氏や郷士であつた家である事。
家紋が諏訪族青木氏の家紋か副紋を使用している家である事。
江戸時代でも農家でありながら、家紋と姓と刀の保有を認められている氏である事。
商家でも豪商と言われるくらいの家であつた事。
昔の家の構えが武家門を持ち敷居やかも居が武家構えであった事。

家の間取りも異なっています。
玄関には玄関の間があり、その間の上がり口は約35センチほど高くなっています。其れより更に35センチほど玄関の間は高くなっています。
その隣には控えの間があり、この間より15センチほど一段高くなっている座敷か客座敷の間があります。
掛け軸や飾りのや先祖を示す宝ものなどを飾る床の間は更に一段高くなっています。居間や台所は一段下がっています。
台所の隣には用人部屋があります。
仏間は家の中心の北側に位置して仏殿は一間間口に置かれ、その前には家族が集まる仏間があります。
この様に家一つでも仕来りで武家構えは異なっています。

武家が持つ刀架けや軍配や馬杯や武家肘子、薬箱等がある事。
軍配や馬杯があれば先ず間違いありません。(一団の将が持つもの)

墓所にも皇族賜姓青木氏の家柄の氏は本家筋であると男墓と女墓がありますし、本家筋は墓所の中央にあるはずです。又他に比べて大きいはずです。
又、仏壇も現代は別の宗派でも浄土宗仏壇の構えをしている事。

お盆ですが、そのお盆の迎え方が異なる事。
例えば迎え火や送り火行事を行い、盆のその仕来りの違いやお供えものの違いなど皇族賜姓青木氏の系列の24氏は周囲と違っています。

多分、お家の付近に移動した諏訪族青木氏は元は墓所も同じところにあつた筈です。そして、同紋の家の菩提寺もほぼ同じであるはずです。

農家でも商家でも元武家であり高い家柄である場合はこの条件に合致しています。
違いをのべましたが、現代ではこれだけのものを遺しているとは思えませんが、これ等が出来るだけ多く合う事がなどが要件と成ります。

以上のことを確認してみる事も大事で面白い事です。
多分、他の市の習慣とは共通する違いもあるはずです。

兎も角も、この地で諏訪族青木氏が同紋である事は一族郎党です。

宗家がどこかをべるともつと色々な事が出て来ると考えます。

また、色々とお知らせください。 お待ちしています。

No.275

Re: 群馬の青木です。
お久しぶりです。
少し前にわかったことなのですが
私の家の3代目のおじが近衛兵だったことがわかりました。。。父に聞いた話によると近衛師団は天皇直属の軍隊だから家柄が関係したといいます。これは御家が良い家柄だったのだといえるのでしょうか???
また間違えていました近衛兵のこと教えていただけませんでしょうか?
お願いします。

No.276

Re: 群馬の青木です。
>お久しぶりです。
>少し前にわかったことなのですが
>私の家の3代目のおじが近衛兵だったことがわかりました。。。父に聞いた話によると近衛師団は天皇直属の軍隊だから家柄が関係したといいます。これは御家が良い家柄だったのだといえるのでしょうか???
>また間違えていました近衛兵のこと教えていただけませんでしょうか?
>お願いします。
群馬の青木さん お久しぶりです。

早速ですが、ご質問の件ですが父上の言われるとおりです。

その歴史的背景を記述します。

そもそも奈良時代には天皇自らを守る兵はありませんでした。
天皇というのは周りのものが守ると言う慣習でまったくの無力でした。

これで有名な聖徳太子と蘇我馬子との軋轢の問題があります。
聖徳太子はその天皇と言う身分に無力さを痛感していました。何とか自分の政治理念を反映させようとしますが、蘇我の馬子に阻止されます。

太子は妥協案を実行して馬子の娘を娶ります。このことで姻戚になれましたので殺される可能性は少なくなり、理念の実行に踏み出します。

しかし、太子の父はこの理念を出そうとして馬子の意を汲んだものに殺されます。次ぎに太子の従兄弟が天皇に成りますが此れも理念を実行しようとして蘇我氏の護衛団(後述)の渡来人の漢氏(あや)に殺されます。

このことを見ていた太子は天皇に成ることを避けます。

蘇我氏はこの太子の頭の良い行動と交渉力に悩みます。
というのは蘇我氏には天皇に代わって蘇我氏がこの大和の国の長になる事を考えていたからです。

最初は聖徳太子はその実力の片鱗を見せていなかつたので、馬子は安心をしていましたが、次第に力を付け出してきて無視する状況ではなくなりました。
丁度、その時仏教の伝来を進めるかどうかで物部氏と争いました。

その争いは物部氏が優勢を保ち蘇我氏は劣勢で周囲も離れていきました。
窮地に追い込まれた蘇我氏を見て、太子は自ら意を通じていた朝鮮の友人(籐勝)に頼み物部氏の陣形の弱いところを調べさせました。

そこで、太子は神のお告げが降りたとして馬子に攻める相手の弱いところを示唆しました。馬子はこのお告げ通りにしたことで勝利して命を太子に救われました。それ以後、太子は馬この弱みをついて政治の実権を握る勢力を持つ様になりました。

しかし、三権のうちのまだ政治だけの力しかありません。当時はこの軍事、政治、経済を「三蔵」と呼んでいました。
軍事は渡来系の漢氏が担い蘇我氏の配下に成っていました。

三蔵とは「斎蔵」「大蔵」「内蔵」で藤原氏は代々この「斎蔵」の家柄で祭祀の家柄です。つまり、摂関家と呼ばれて天皇に代わって政事を行ったのです。

「大蔵」「内蔵」は中国後漢の光武帝の末帝の献帝の子の阿智使王と孫の阿多倍王(17の県民を引き連れて日本に帰化してきた渡来系人民200万の人々の長)の子供が担っていました。

この阿多倍の人民集団はあっと云う間に66国のうち32国を無戦のうちに制圧してしまいます。この末裔が阿多倍の5代後に平の清盛に成ります。
この阿多倍が引き連れてきた集団の内の「武装集団」が漢氏です。
漢氏は後に東漢氏(やまとあや)に変名し次ぎに文直氏に変名します。

姓の後ろに部の付く姓はこの集団の技能集団の渡来系の人です。
日本の多くの第一次産業はこの人たちがもたらしたものです。

桓武天皇の母方はこの阿多倍の孫娘です。
桓武天皇はこの一族に賜姓して平氏(たいらぞく)と賜姓したのです。
坂東八平氏の平族(ひらぞく)とは別族です。

息子の嵯峨天皇はこれを嫌って青木氏を源氏と変名して賜姓を皇族に戻しました。

この阿多倍はこの集団を使って大和の国の経済と律令体制の完成に大きく貢献し、その貢献度から敏達天皇の曾孫娘を娶り、長男は朝廷の軍隊を、次男は「大蔵」で朝廷の財政、三男は「内蔵」で天皇家の財政の役職を担いました。

それぞれ坂上氏、大蔵氏、内蔵氏を天皇から賜姓を受けました。

長男の坂上氏は日本全土を制圧した有名な坂上田村麻呂です。大蔵氏は後に永嶋氏に(大豪傑の大蔵種材が有名で九州全土を任され「遠の朝廷」と呼ばれた)、内蔵氏は後に阿倍(あべ)氏にります。(北陸全土を制圧)

天皇の自らの軍隊は当然に青木氏です。伊勢青木氏を中心に絶大な権力を誇ります。
この青木氏と坂上氏とは後に桓武天皇期に争います。

話を戻して、何時軍事と経済で潰されるか判りません。兎も角もその課題を息子に託しますが、太子が没した後、結局は、直ぐに一族郎党全て殺されてしまいました。飛鳥寺の事件です。

蘇我氏が実権を殆ど取り戻しもう後一歩というところに来ていました。
孫の蘇我入鹿の時代です。

この時、天皇家では中大兄皇子が次ぎの皇太子に成ろうとしていました。
この飾りだけの中大兄皇子も危なくなり悩んでいました。

天皇家を守る為にも何とかしなくては成らないと日夜考えていました。
ある時に、蘇我氏の横暴に危機感をもっていた朝廷の神官職の中臣鎌足が同じ理念を持ていることを知り、「三蔵」を取り戻す計画を練りました。
そして、馬子の孫の入鹿に対し天皇家を潰す直前に実行したのです。

此れが有名な「大化改新」です。
この時、過去の反省から三権の改革を実行したのです。

先ず、手がけたのが天皇自らを守る親衛隊が無い事でした。
そこで、考えたのが、自分の14人の皇子の内の第6位皇子を臣下させて侍として氏(賜姓)を与えて天皇を守る軍隊を作らしたのです。
自分の子供が守ってくれるのですから安心です。

此れが、皇族賜姓青木氏なのです。そして、その軍隊の任務には第6位皇子の施基皇子がこれに当りました。そしてこの皇子の子供は青木氏と名乗りました。伊勢王です。

この伊勢王には変事が起こります。
大化の改新後の2年後に伊勢王であつた孝徳天皇の子供が突然にある日兄と弟二人が死亡します。(暗殺) 
この時期、孝徳天皇と中大兄皇子との間は完全に冷え切っていました。
遷都して天皇を放置するなどの事が起こります。
この原因の一つがこの伊勢神宮の守護神のことです。

その後、中大兄皇子の3人の皇子の内の最も信頼を寄せる施基皇子が伊勢王に任じられます。
伊勢は天領地でもあり主要穀倉地帯でもあった
その後もこの施基皇子は朝廷内に詰めて働きます。

参考として。
大変有能な人物で天皇に代わって日本全国くまなく周り問題の解決に奔走しています。これ等のことは日本書紀に書かれていて18回も出てきます。
皇太子よりも信頼されていて天智、天武の葬儀の責任者までも皇太子に代わって行っています。又、その天皇の妃殿下からも信頼されて相談をしています。
大変な能力の持ち主であった事が書かれています。
日本書紀から施基皇子は天皇の相談役で当時は「軍略師」と呼んでいました。
この軍略師の任務は1180年頃まで続きました。

話を戻して。
当時は兄弟の定義は純血主義を守る為に天皇家は近親結婚を行いました。
よって、中大兄皇子の弟の大海人皇子との子供も現代の系列では判断できない親族関係で兄弟は男女合わせて34人で内男子は14人でした。

この施基皇子は第6位の皇子でした。(この皇子の母は采女で朝廷の女官であったので身分が最も低い)

第4位までは皇位継承権を保有し、第6位は臣下し、第7位以降は僧侶になり下俗する。第5位はこの中間の身分としていました。残りの皇女の多くは天皇家に纏わる伊勢神宮に始まる神社仏閣と門跡寺院の「斎王」となり交代で行い独身を続けるが宿命として天皇家の先祖の神々を祭りました。此れが務めでした。

34人もの皇子をそれぞれに国を与え一人立ちさせるには大変な財政的負担がかかり天皇家の財政を圧迫していました。

この親衛隊と財政負担の両方の軽減を狙ったことが大きな改革の一つでした。

この改革の第一弾が初代の皇族賜姓の伊勢の青木氏の誕生です。青木氏の元祖に成ります。この時、天智天皇はこの施基皇子の青木氏にその証明として仏像を与えたと記されています。(後日レポートします)

その時、中大兄皇子は第7位川島皇子にも特別に賜姓氏佐々木氏として臣下させ近江を守らせました。近江王です。後に宇多天皇のときにも第6位皇子に滋賀の佐々木氏を賜姓します。
近江の佐々木氏と滋賀の佐々木氏があります。2家2流です。
剣豪の佐々木小次郎はこの近江の末裔です。

此れが蘇我氏の反省からの皇族賜姓族の始まりです。その後4代続きます。

その後2代置いて嵯峨天皇からは第6位皇子を皇族賜姓源氏としました。

そして、青木氏は皇族の者が還俗する時に名乗る氏として定め使用を禁止しました。正式には明治まで守られました。

このような背景で中大兄皇子の天智天皇が親衛隊を造ったのが始まりです。
そして、伊勢国に天皇家の守護神を定めます。

正式には天武天皇が詔を発して制定し天領地とします。伊勢神宮です。親衛隊としてここを守る任務が伊勢の皇族賜姓青木氏です。

この親衛隊の方式を朝廷の許可を得て特別に踏襲したのが第3子(千国を元祖)の藤原秀郷流青木氏です。お家の青木氏です。

秀郷は貴族になりましたので自ら武力を使えませんので子供にその任を与えたのです。更に、同じ藤原氏の血筋の持つ氏であるので第2親衛隊として。

藤原氏も青木氏と共に同族である事から、主要な土地に移動する親衛隊の役目を担った事に成ります。

鎌倉期まで。それがために藤原秀郷の一門は全国24地方の守護を務めたのです。この時に同行したのがお家などの藤原氏の青木一門です。
(別に朝廷には上記した坂上氏の軍隊はあつた。)

5家5流以外の土地の天皇家にとって大事な国の守護を藤原秀郷流青木氏に親衛隊として守らせたのです。66国中の31国を親衛隊が守ったのです。

3国は蝦夷地で鎮守府将軍(藤原秀郷一門の任務)として、後には征夷大将軍として制圧中でした。

藤原秀郷は大化の改新の中臣の鎌足即ち藤原鎌足の第8代目に当ります。

何れも、この二つの青木氏には伊勢青木氏を除く母方が藤原氏で有ると言うことです。従兄弟関係にある事に成ります。

皇族賜姓青木氏は伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5つ国を固定の親衛隊として守りました。天智天皇、天武天皇、聖武天皇、文武天皇、光仁天皇の5代です。

光仁天皇は施基皇子の第1位皇子です。特別に皇位継承権をもつた者です。伊勢青木氏とは正従兄弟の親族関係に成ります。

この親衛隊の仕来りは昭和20年まで続きました。

この親衛隊即ち近衛隊兵はこの経緯から出来ましたので、これ等の家柄の良い信用の出来る氏から選ばれたのです。

しかし、明治からは元大名の子弟や爵位の有る子弟などから構成されましたが、その中でも藤原氏系青木氏は元祖でそのトップでした。

本家筋の藤原氏四家は貴族公家でしたので賜姓の青木氏と共に外となりました。

特に皇族賜姓青木氏の5家5流の本家筋は氏を守る為に奈良期から有る「不入不倫の権」に守られて構成員にはなりませんでした。


これ等の詳細は藤原関連のレポートと賜姓青木氏関連のレポートに記述していますので参照して下さい。

No.296

Re: 群馬の青木です。
お久しぶりです^^
今日は来年のドラマの人物について聴きたいのですが。
青木大膳という人物が出てきますがこの人は家に関係がある人なのでしょうか??

No.297

Re: 群馬の青木です。
>お久しぶりです^^
>今日は来年のドラマの人物について聴きたいのですが。
>青木大膳という人物が出てきますがこの人は家に関係がある人なのでしょうか??

群馬の青木さん 今日は。お久しぶりです。
待ちに待った武田氏の大河ドラマがもう少しで始まりますね。
楽しみですね。
さて、ご質問ですが、井上靖の「風林火山」の青木大膳のことを言われていると思いますが、先ずこの中に出て来る人物はたいていが架空の人物です。
もとより、山本勘介も青木大膳も架空の人物です。
ただ、この山本勘介に相当する人物は忍者であつた事が通説ですし、青木大膳もこの武田系青木氏の知識を物語る人物として作り上げたのです。

その理由として、架空の青木大膳なる人物が演じる青木氏一族はもとより武田家の客員軍師として武田氏以上の家柄であり仕官を頼みに行くことは有りません。
武田の一門にあるから全て家臣という事は有りません。
当時は武田傘下にある連合軍で成り立っています。
たとえ親族の家臣であっても連合軍です。
ですから、全てを家臣とするには武力で周囲を全て滅ぼして家来を多く作ること以外にありませんのでそんな事は物理的に出来ません。
現に、この武田氏の滅んだ主原因は「連合軍の崩壊」です。
勝頼がこの連合軍をまとめ切れなかったことによります。
諏訪族青木氏が信長の追ってに対して神奈川横浜まで逃げ延びられたは直接の家臣ではなかつた事によります。

もし、家臣であれば信長は諏訪族青木氏を庚午の憂いを無くすために殲滅したでしょう。

軍事的手段は最終的手段でありその前に政略的な方法を講じて勢力を拡大するのが常道です。その最も効果的な手段は「血縁」です。

「六稲三略」と云う事があります。
つまり、全ての事柄を効果的にするには「三つの戦略と六つの戦術」があるとされます。
「勢力拡大」という事を目的にするためにはこの状況に応じて三つの戦略を実施してゆきその戦略の手段として六つの戦術を屈使するのです。

其れが出来ない時は「戦い」となりこの「戦い」の目的の為の策としてまた「六稲三略」を使うのです。
小説やドラマでは直ぐ戦いとなりますがそんなことは当時では有りませんでした。

ストリーの中での諏訪族の由布姫との確執や諏訪族との戦いなども架空のストーリです。

多分、井上靖はこの諏訪族の歴史的史実を知らなかったものだと思います。
諏訪族の歴史と諏訪族に与えられた「不入不倫の権」が与えられていた事なども認識しておらず無視しています。

又、武田氏が陸奥からきた藤原秀郷の4代目の兼光の血筋を持つ一族である事と、藤原氏の甲斐の赴任地に護衛として同行した一族であつた事も認識しておらず此れも無視しています。

大きくなるためにはこの地を牛耳っていた諏訪族10氏との結縁せずして物理的にこの地の豪族にはなりえません。
その証拠に同時に清和源氏(3男の頼信系)とも跡目を入れて源氏支流となるなどの政治的な血縁をして家柄を上げる手を打っています。

このような背景であるので周囲の賛同が得られず戦う事は不可能です。

多少の小競り合いがあつたと思いますが、又、史実は朝廷の「不入不倫の権」を無視して戦う事は上記の要件もあり朝廷よりこの地の守護に任じられれることも有りません。

朝廷より守護に任じられるには賜姓源氏か賜姓青木氏か藤原氏の血縁を持たなければ成らないという絶対的地要件があるのです。

だから、清和源氏と皇族賜姓青木氏と藤原秀郷一族から3つの血縁を結んだのです。

又、武田氏とは言え、この軍事的主力は諏訪族の存在であったのです。

あくまでも、政略的結婚にての結果であります。
井上靖の「風林火山」はこの様な絶対的事柄を無視しています。
だから小説なのです。

司馬遼太郎氏や山本周五郎や黒岩重吾氏や松本清張氏などと違って歴史小説家で有りません。史実にて小説を作るのではなく架空性が強いのです。

小説としての価値があり、史実により構成されたものでは有りません。

先ず、大膳と云う名ですが、これは名では有りません。「大膳太夫」という官職です。そして、この役職の下に本当の名をつけるのです。

小説のように無職の者が大膳と呼称することが有りません。

清和源氏がこの甲斐の守護として赴任した中で、頼信より7代目の信光が大膳太夫を名乗っています。

そして信光より5代目の源光(時光)から甲斐の皇族賜姓青木氏の跡目を次いでいます。

信光の父信義が武田氏の跡目を採っています。

この様な名は賜姓青木氏の血筋を持つ武田系青木氏とその諏訪族青木氏の場合は私が調べた範囲では有りません。

武田系青木氏(諏訪族含む)の場合は江戸期までの資料として直系の殆どに「信」の字をつけています。勿論、諏訪族をはじめ大膳なる人物は見つかりません。分家では「正」の字が良く使われています。

先ず、この青木氏の由来と位置付けも認識はなかつたと見られます。

この辺の認識も井上氏には無かったと思います。

上記のことを考えると司馬遼太郎氏と異なりあくまでもフィクション小説の何ものでも有りません。

結論として青木大膳はお家のご先祖ではありません。架空です。
青木をつかつた事は青木氏が武田にかかわっいる血縁者である事は井上氏は知っていたのではと思いますが、諏訪族青木氏があるとは小説を読んだ範囲では認識はなかつたと見ています。

小説を司馬氏と違ってそこまで調べて書いたものではないと見ています。

歴史小説は全てが事実と誤解する向きがありますが、注意が必要です。

司馬遼太郎氏は一つの歴史小説を書くのに10年から20年調べたと書いています。
司馬氏の小説は殆ど史実に近く学者を越えています。
黒岩重吾氏は論文まで書いています。これを読むとその史実は学者を越えています

私事ですが、伊勢青木氏のことも司馬氏は調べていまして、私の親族の家まで来て、後に本家の自宅に雑誌社の人が来ています。
そのことを伊勢青木氏のルーツと天智天皇から授与された仏像のことに触れて住所を何々付近として伏せて雑誌に書いています。そして、書いていることが一致していました。

朝鮮人で大和朝廷の政治指導をしていた人物が滞在中に日記として書いた書物が韓国に遺されていますが、日本書紀よりも詳しく日々の出来事などを詳しく書いているものです。「日本世記」という書物です。このことなどにも触れています。それを元に伊勢青木氏にその書かれた史実があるのかを調査に来ています。伊勢青木氏の存在と仏像の存在も確認したのです。

この中には青木氏(伊勢)の誕生からその間の出来事なども実に詳しく書かれているのです。黒岩氏も触れています。

お家のことは天智天皇の皇子の舎人親王の書いた「日本書紀」に出てきます。

実際に足を運んですごいところまで調べているという事です。
学者以上です。

ただこの「風林火山」には諏訪族とのかかわりが主体ですので当然、お家もこの武田氏の歴史にかかわっていたことに成ります。

お判りいただけたでしょうか。又何か有りましたらお尋ねください。
No.293
尾張の青木です
293編集 追加
愛知県名古屋市近郊に住む青木です。家紋は丸に違い鷹の羽紋で宗派は浄土真宗です。私が住んでいる一帯はかつては大脇村とよばれたところで青木という家が密集しています。曽祖父より前のルーツがわかりません。ぜひお願いします。

No.294

Re: 尾張の青木です
>愛知県名古屋市近郊に住む青木です。家紋は丸に違い鷹の羽紋で宗派は浄土真宗です。私が住んでいる一帯はかつては大脇村とよばれたところで青木という家が密集しています。曽祖父より前のルーツがわかりません。ぜひお願いします。
尾張の青木さん 今日は。始めまして。

青木サイトに良くお越し頂きました。

さて、早速ですが、お尋ねの件ですが、頂きました情報ですが、少ないこともありますが、次の事が検証出来ます。

先ず、尾張のお住まいのところには4つの流れの青木氏が住み分けています。大変青木氏の多いところです。

その前に青木氏の由来を記します。
青木氏には主に2つの流れの青木氏が存在します。

1つは皇族賜姓青木氏です。5家5流24氏あります。
詳細は研究室の「皇族賜姓青木」のレポートをお読みください。

大まかに、天智天皇の第6位皇子が臣下(侍に成ること)して天皇より賜姓(氏を直接に賜る事)を受けて青木氏と名乗りました。
日本の最初の青木氏です。
この天智天皇から5代の天皇がこの第6位の皇子に臣下させて賜姓を授けました。
5代の天皇とは天智天皇、天武天皇、聖武天皇、文武天皇、光仁天皇の5人です。
この5代の皇族賜姓青木氏は伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5つの国の守護として任命しました。伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王と成りその子孫が青木氏を引き継ぎました。

この青木氏の任務は天皇を自らの子供に守らせる親衛隊です。

此れは天智天皇の大化の改新での反省からです。
蘇我氏が権勢を我が物顔で振るまい天皇を脅かす存在と成り、中大兄皇子と中臣鎌足とが蘇我入鹿を倒して天皇家をまもりましたが、この時、天皇家には軍事と経済と政治の3権を蘇我氏に牛耳られて象徴的存在で有りました。
この反省で、先ず軍事的に自らを守るだけの信用の置ける護衛隊が必要と考えて第6番目の皇子を天皇の王位継承権を外して臣下させて侍とし氏を与えました。此れが青木氏の始まりです。

次に経済的な負担を軽減するために皇族に掛かる費用が莫大であったので第4番目までの皇子に皇位継承権を与え皇子とし、第6番目の皇子には親衛隊として任務を与えました。第7番目以降の皇子には下俗(一般化する)させて天皇家の菩提を祭る僧侶などになりました。
其れまでは第6世までを皇族として扱い第4世までを継承者の権利がありました。
つまり、4世方式から第6位皇子方式に変更しました。

天智天皇は子供が34人もいてそれに皇族関係者がいましたので大変でした。

此の方式は嵯峨天皇期(光仁天皇より2代後)に正式に詔を発しました。

此れが皇族賜姓青木氏です。

大化の改新で中臣の鎌足は天智天皇から藤原氏の賜姓を受けました。
藤原鎌足です。この8代あとの藤原の秀郷が「平将門の乱」を鎮めた功績で武蔵の国と下野の国(埼玉と栃木)を授かり貴族の称号を授かりました。

この時、貴族になりましたので軍事はつかえませんので、第3番目の子の千国に天皇家の青木氏に習い、朝廷より許可を受けて青木氏を与えて侍にして藤原氏自らを守る護衛隊を編成しました。
(嵯峨天皇のときに青木氏は皇族以外の者が使用することを禁じました。その代わり第6位皇子は源氏と賜姓することになりました。11代続きました。)

この藤原氏は主要5氏で兼光系では青木氏、永嶋氏、長沼氏、文行流では進藤氏、長谷川氏です。

この内の青木氏が、此れが藤原秀郷流青木氏です。直系1氏、直流4氏、支流4氏の9氏から成り、116氏までこの青木氏は広がりました。
この藤原秀郷一門は皇族賜姓青木氏とは母方の藤原氏で繋がっています。
藤原氏で見ると一族です。伊勢青木氏を除き。

この二つの青木氏があります。(室町期と江戸初期、明治初期の混乱期に庶民が青木氏を名乗った第3の青木氏があります)

さて、お家の事ですが、家紋が「丸に違い鷹羽」ですので安芸国の浅野家の流を組む藤原秀郷流青木氏です。
つまり、藤原秀郷一族の者が朝廷の命で各地に赴任します。この時に護衛役として付き従ったのが藤原秀郷流青木氏です。
この赴任地は全部で24国あります。(66国)
藤原氏の戦略としてこの青木氏は赴任地に土地の豪族と結び付きを強くするために必ず子孫を残してきました。
此れが各地の藤原秀郷一門の116氏にもなる青木氏です。

氏姓制度の中で男系の継承が出来ずに土地の豪族から養子を迎えて世継ぎとしましたが、更に男系が出来ずに女系となり家紋は家紋掟により養子先の家紋となつた青木氏です。
元は綜紋は「下がり藤紋」です。

この芸州には3箇所から藤原氏一門が移動定住してきています。

讃岐から阿波から滋賀からです。
家紋掲示板の2Pの鷹の羽紋のところ、地名地形データーの岡山と広島のところのレポートをお読みください。

お家はこのどれの一族かは今の情報ではわかりません。時代が江戸期のものですので困難です。もう少し戻る何か情報があればつかめますが。

しかし、讃岐、阿波の藤原秀郷流青木氏一族から見ると足利を通して滋賀から移動してきた藤原秀郷流青木氏ではないかとも思えます。

藤原秀郷流青木氏は埼玉の入間を中心に神奈川横浜までの距離を半径に円を描く範囲にこの青木氏の本家筋の116氏が存在します。

そこで、この名古屋付近の青木氏ですが豊田、丹波、渥美、高浜の4つの地方に村を形成して済み分けていました。地名地形の所をお読みください。

藤原秀郷の一門の詳細は「藤原秀郷一族の生き方」のレポートをお読みください。お家の古いルーツの行動などが良く判ります。
系譜はインターネットで藤原秀郷ルーツでお調べください。

東と南は藤原秀郷流青木一門、西は皇族賜姓青木氏の伊勢青木氏、北西には土岐氏系青木氏(賜姓美濃青木氏との血縁族)、北東には足利氏系青木氏(賜姓信濃青木氏との血縁)から成っています。

このなかの青木氏の中に安芸国の藤原秀郷流青木氏としてお家が入っています。

何はともあれ元祖は藤原秀郷でその第3子の千国であり、秀郷より4代目の兼光系青木氏で後の行久ルートの末裔です。116氏にも拡大しています。

宗派の情報はこの土地に住した藤原氏としては浄土真宗で一致しています。
本来は浄土宗です。浄土宗は大変高位な家柄の氏にしか入信を認めていませんでしたので少なく、各地に赴任した藤原は浄土真宗に入りました。
やっと、江戸時代に入り、幕府が奨励して増えたのです。

先ずは上記のレポートをゆっくりとお読みください。


ご不明な点とかご質問があればご遠慮なくお尋ねください。
また、一寸した事でも結構ですからあればルーツが更に開けてきます。

お便りをお待ちしています。
No.129
栃木の青木
129編集 追加
以前このHPに来ました、久しぶりに来てみました。
私も自分のルーツを知りたいと思い、わかる範囲で教えていただきたいと思っています。

家の家紋は丸に抱き角(鹿角)です。
母の話によると、昔どこからか移動してきた武士だ。といわれました。
住所は栃木県の足利市で家の系統と違う青木もいると聞きました。
地元の表具屋さんに偶然聞いたのですが「お宅は武田の関係の青木でしょう」と言われた事があります。でも初めて聞いたことでした。
宗派は真言宗です。
わかる方いたら教えてください。

No.130

Re: 栃木の青木
>以前このHPに来ました、久しぶりに来てみました。
>私も自分のルーツを知りたいと思い、わかる範囲で教えていただきたいと思っています。
>
>家の家紋は丸に抱き角(鹿角)です。
>母の話によると、昔どこからか移動してきた武士だ。といわれました。
>住所は栃木県の足利市で家の系統と違う青木もいると聞きました。
>地元の表具屋さんに偶然聞いたのですが「お宅は武田の関係の青木でしょう」と言われた事があります。でも初めて聞いたことでした。
>宗派は真言宗です。
>わかる方いたら教えてください。
栃木の青木さん 始めまして。
暫く旅行しておりましてご返答遅れましたが、本日お答えすることが出来ます。
貴方のお家のルーツを調べる情報は次の事とします。
1 家紋は丸に抱き角紋(鹿角 おずか)
2 移動してきた武士
3 宗派は真言宗
4 武田氏系か
5 栃木には違う青木氏
最も重要なのはお家の家紋ですが、このことがお家のルーツの大元を示します。

では、鹿角紋の所以を述べます。
戦国時代に兜の前立(まえだち)として武家の間で好まれ、何時しかこれを紋としてもちいられました。
この家紋は近藤乗直という者が松平清康(家康の長男)前でしかを捕らえて角を引き裂いたことの伝説から家紋として清康から賜ったと伝えられています。
角の枝数で氏が判断出来ます。
この家紋は上記の藤原秀郷系の近衛将尉の役柄を平安期に務めていた家柄で、この近衛からの役務の頭文字をつけた藤原氏で近藤と名乗ったものです。

そして、この家紋を綜紋として用いていたのは甲斐の国の諏訪氏です。
この諏訪氏には付いては次のとおりです。
甲斐の国の武田氏に付いては、陸奥(青森)に赴任していた藤原秀郷の一族の者が陸奥の土地の土豪武田氏の者との血族で生まれた氏で、この氏が藤原氏の主の移動で甲斐の国に移り住み、その藤原氏を背景に力を発揮し土地の豪族となりました。

しかし、この時、土地には諏訪氏と言う土豪の強い一族が居て、この一族との決着がつきませんでした。そこで甲斐に入った武田氏は周囲の豪族を見方に引き入れるために、その土豪集団の長であつた諏訪氏との政略的な婚姻を結び、武田信玄の若き頃に見方の一族に引き入れることに成功し、甲斐の国最大土豪となりました。
この一団が結局、武田の最大武力集団の主役になり多くの戦いに働きました。これが諏訪族と言う有名な一族で、諏訪太鼓で有名で、戦いの最前線に出て太鼓を叩きながら前進する姿を見て、敵は全て逃げると言う程の武田諏訪族なのです。(日本書紀に大隈の首魁が太鼓と踊りで天皇をもてなしたとでてきます 後述)
武田と云えば諏訪族です。この諏訪族がこの家紋をもとより使用していました。

貴方のお家はこの武田諏訪族の一族の支流に当ります。
丸つきの抱き角紋に付いては諏訪氏の支流の家紋です。

諏訪氏支流とは諏訪氏の一族の者と武田系青木氏(後述)との間で血族関係を持ち、諏訪一族の者を婿に取り、後に生まれた子供にその婿の実家の家紋を継がせて、武田の諏訪族の配下にはいり、その証明として家紋に支流の印とする丸付き紋としたのです。
(家紋掟と云うものがあり、丸付き紋はこの場合が多いのです)
そして、武田系青木氏と諏訪氏との血統を持つ家柄の青木氏である事を示し、一族の安定を図ったのです。 
武田氏の家臣で武勇に優れて世の中を怖がらせた諏訪族の一団員であつたとされます。
では、武田系青木氏とはどの様な一族かを概略を示しますが、詳しくは当研究サイトの青木氏の記述をお読みください。

この青木氏の出生は次の通りです。
昔は甲斐国 巨摩郡 青木村と言われている所がありました。
645年の中大兄皇子の大化の改新にて皇族の皇子を臣籍させて「青木」という「氏」を造り、5天皇自ら賜姓して、夫々5つの土地に配置し、この地の発展のために此処に赴任させました。
(5つの土地とは伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐)

詳しくは、この皇族賜姓青木氏は天皇の直接の護衛集団として「天智天武」期から5代に渡り、第6位の皇子を賜姓して青木氏を出生させました。
この賜姓は645から790年まで5代の天皇に依って5地方に行われました。この地は790年前後の時期と考えられます。
そして、この地に守護として国府を置き、部落を形成して賜姓青木氏は住み着きました。そして、この村を青木村と名づけました。

その後、開拓が進み、朝廷はこの土地を他国から守る為に青木氏の勢力以外にこの青木氏の領国に清和源氏の「源の頼光」を守護として派遣しました。(975-980年頃)
「頼光」は弟の「頼信」を分家させて領国を勝ち取る為に、この地の守護を後に譲りました。ここを拠点に関東に進出しました。(義経や頼朝の先祖)
更に、確固たる勢力を作り上げるためにこの地に赴任して領国としていた賜姓青木氏とは、当初は政治的な連合関係でしたが、後に跡目による皇族系の姻関係を結びました。
(ほかの賜姓青木氏4家も同じ時期に跡目による婚姻関係を結んでいます。)

土着の豪族の武田氏との清和源氏(8代目源の源光と15代目義虎)との跡目の血縁関係をも構築し、源氏の裾野を広くする戦略を採りました。これが支流武田源氏の始まりです。

この武田氏と賜姓青木氏とが更に血縁関係を結び此れが武田氏系青木氏です。

この様に三つ巴の戦略を採り、清盛等の「京平氏」に対抗しました。

関西と中部に大きな源氏による勢力圏を構築したのです。他の賜姓青木氏4家同時期にも同じ戦略を実行しました。

このような歴史的な背景から、ここには皇族賜姓青木氏と武田系青木氏の2氏の青木氏が存在し村を形成しました。3つ巴の戦略です。この地のこの3つ巴戦略が成功して鎌倉幕府が出来たといっても過言ではありません。

平安期の歴史がその名として今に残っている貴重な地名なのです。将来も残してほしい地名です。

その後、2流2家の青木氏は、清和源氏の関東への移動に伴い、この皇族賜姓青木氏と武田系青木氏の子孫の一部は伊豆地方にも移動しています。

この様に生まれた武田系青木氏は、更に土豪の最大集団の諏訪族との婚姻を果たしました。武田氏系青木氏の中の諏訪族流青木氏となります。
この青木氏は上記した経過で諏訪族の系列に入り支流一族として組み込まれました。
もとより、お家の青木氏はこの諏訪一族に入った青木氏でありますが、更に辿れば上記した様に藤原氏の血筋も引いている一族でもあります。
更に元は皇族系の賜姓族の青木氏の血筋も持っている氏でもありますが、質せば、この皇族賜姓青木の母方は伊勢の賜姓青木氏を除く全て藤原氏の北家の血筋を引いていることにもなり、藤原秀郷の北家の血筋の引く武田氏と賜姓青木氏の母方藤原氏北家の血筋の2つもの藤原氏の血統を強く持つ一族です。
名家の一族です。
更に、この土豪の武田氏は清和源氏の跡目を受けて支流清和源氏(母方は藤原氏北家族)の血筋も持っているので、3つの北家の藤原氏の血統を持つ諏訪一族に入った青木氏ということに成ります。
賜姓青木族、諏訪族、清和源氏族、藤原氏族、武田族の5つの血統を持つ氏でありますが、中でも5つの族が並んだとしたならば、最も上位の家柄は主従は別にして賜姓青木氏が主であります。
お家はこの血筋の持つ青木氏です。

最後に採っておきの血族を持った結論を示します。
では、この強い諏訪族とはルーツは何にという疑問が湧きます。
このことに付いて長く成りますが下記に記述します。

この諏訪族の先祖は645年頃を中心として日本に帰化してきた渡来系の200万人に及ぶ後漢の国の民族です。
この後漢の光武帝から21代目の献帝の孫の阿智使王とその子阿多倍が、後漢が滅び、その一団を率いて日本に上陸しました。この集団は非常に高い軍事、政治、経済。生産能力に伴う技能などの持つた集団を引き連れて戦いをせずに帰化してきました。
ヤマトの朝廷はこの高い能力の持つた集団を歓迎し、各地に配置し、その技能で未開の土地を開墾させて、朝廷と国の力を高める戦略に出ました。
この戦略は大成功し、現代の第1、2次産業の基礎はこの集団が持ち込んだものが殆どです。現代にも維持されているのです。

この集団を甲斐の国の山間部に配置し、米を始めとする山の産物の加工と背の高い馬の放牧をし増産しました。この成功を朝廷は護るために信用できる天皇の皇子を臣下させ賜姓して、ここに配置し監督させたのが皇族賜姓青木氏であります。
ですから、この諏訪氏は元を正せば、渡来系の民族の血が流れている事になります。又、清盛等の京平家もこの集団の長の阿多倍の5代先の子孫に成ります。
この集団は天皇家とも血縁になり、賜姓を受けて、大蔵氏、内蔵氏、坂上氏、永嶋氏、阿倍氏、阿倍氏等がこの一族となります。
ついでこの縁者となるのは、全ての名前の後ろの字が「部」のついた氏はこの集団の末裔です。例えば、海部、服部、武部、綾部、磯部、など全てはこの渡来系族です。
古くから居た諏訪族はその信仰の元を、(当時まだ真言宗か少し後の浄土宗しか有りません。この渡来系の諏訪氏は)真言宗を宗派としました。
そして、賜姓青木氏とか16流ある源氏一族とか藤原氏とかの高位の武士と公家は浄土宗としました。鎌倉時代中期まで一般の者は宗派には入れませんでした。
したがって、貴方のお家は諏訪一族系の族になりましたので、真言宗に改宗したものと思います。
甲斐の国には上記した様に、皇族賜姓青木氏(笹竜胆)と武田系青木氏(割菱)となり、武田氏系青木氏の中のこの一族の諏訪系青木氏(抱え角)とが居た事になります。(武田氏は角菱紋)
角紋は24紋あります。
この中で、お家の家紋は家紋200選というものがあり、この中にありまして、全国の有力氏の一つとして選ばれた一族です。
(8000から10000あると言われる中で)

武田氏が信長に滅ぼされて、お家の一族が逃げ延びて栃木にきたのでは無いかと思います。
栃木の下野国は武田氏の故郷の藤原秀郷一族の領国で親族が多く居るところだからだと思います。
この一族が逃げ延びる事ができる方向は武蔵国の埼玉と下野の国の栃木だと思います。
この2国には藤原秀郷流青木氏が存在します。お尋ねの系列の違う青木氏です。(藤原秀郷流青木氏に付いては研究室のレポート参照してください)

嵯峨天皇期に令が出されて、青木氏を皇族、皇族賜姓族と藤原秀郷の氏以外の者が名乗ることは江戸末期(名目上)まで禁止されていましたので、家紋が正しいとして元を辿ればこのようにはっきりします。

(2大別すると、お家などを含む皇族賜姓族の血筋を受け継いだ末裔と、他には上記の藤原秀郷系の青木氏があります。明治初期の苗字の令にて苗字の持たない者がこの青木氏を名乗った第3の青木氏もあります。これ等は全て判別する事が可能です  地名データーベース参照)

青木氏であると言うことから、その範囲はこのように集約されて来ます。
元をただせば、同じ青木氏の血筋の持つ者の願いとして、是非に大変な名家ですので子孫を多く残してください。
以上が情報から観た貴方のお家のルーツとなります。

回答が遅れましたが何かご質問がありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。

No.132

Re: 栃木の青木
大変詳しい解説ありがとうございました。自分では知らないことばかりで驚いています。青木なんてありふれた名前だと今まで思ってきましたが、いがいと良い家柄だったのですね。ただ無意識的に武田信玄がなぜか、前から戦国武将で一番好きでした。これもなにかの本能でしょうかね?この度は自分のルーツを知ることができ大きなプラスとなりました。ありがとうございました。

No.133

Re: 栃木の青木
>大変詳しい解説ありがとうございました。自分では知らないことばかりで驚いています。青木なんてありふれた名前だと今まで思ってきましたが、いがいと良い家柄だったのですね。ただ無意識的に武田信玄がなぜか、前から戦国武将で一番好きでした。これもなにかの本能でしょうかね?この度は自分のルーツを知ることができ大きなプラスとなりました。ありがとうございました。
武田氏系青木氏で諏訪族の血筋を引くとなれば、日本広しと云えど戦国武士の見本のようなものです。だからその血筋を引くお家の子孫だからこそ無意識に呼び寄せられるのでしょう。
今の世界でも通ずる「風林火山」の旗頭は私の行動の原点となっています。
又、何かありましたら、お尋ねください。

No.134

Re: 栃木の青木
住所地の昔の表示に〇〇町大字諏訪瀬という表示があり、菩提寺の名前にも諏訪山〇〇院の文字がありました。

No.135

Re: 栃木の青木
>住所地の昔の表示に〇〇町大字諏訪瀬という表示があり、菩提寺の名前にも諏訪山〇〇院の文字がありました。
栃木の青木さん それは本当によかったですね。
私も長年青木氏の研究をしていますが、青木氏は比較的に他の氏と異なりその家柄からか血統を横に広げなかった傾向があり、血筋は有力部族に限られています。
これは、嵯峨天皇期に出されてた令にて、青木氏は皇族の者か又は特別に藤原氏に対してのみ認められた姓であります。それ以外のも者は名乗る事を禁止しました。

皇族が天皇が代わるたびにどんどん増えてゆき、朝廷の財政を圧迫するのでこれを防ぐ事を目的として天智天皇が大化の改新で行ったことが最初です。
天智天皇期には皇子と皇女は34人もいました。(現代までの天皇の中で最も多い。)このために其れまでは第4世皇位第6世臣下方式をとっていました。
此れを天智天皇は覆し、第2世皇位第6位臣下方式にかえました。
これが第6位の皇子の施基皇子(しきのみこ)であり、伊勢王となり賜姓を青木氏と受けて臣下して伊勢の青木氏が誕生しました。この青木氏が初代であります。この方式が5代続きました。(天智、天武、文武、聖武、光仁)
そして、各地の守護として配置しました。(伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐)
の順です。

伊勢青木氏のときに特別に第7位の川島皇子も賜姓を受けて近江王となり土地の名前を採って佐々木氏となりました。
光仁天皇の子供の桓武天皇はこの方式をせず、自分の母方の(渡来系一族の阿多倍の孫に当る娘 前回のレポートの渡来人)阿多倍王又の名は高尊王又は高望王に賜姓をし、平氏(ひらぞく)の氏を使ってひきたてました。これが5代後には清盛の京平家になるのです。
次の天皇の嵯峨天皇は伝統を崩すこの方式を嫌い元の皇族に戻し、青木氏より変名して源氏(16代続く)としたのです。
この時にこの様な事がないように上記の令を発し天智天武期の方式に若干手を加えてを正式に発令したのです。

この時、第6位以下の皇子は殆どは比叡山か門跡寺院に入り学僧となりました。後にはこの皇子たちが還俗(俗世に帰る)する時は青木氏を名乗ることとし、皇族の者が下俗するときは青木氏として一族の姓の統一をはかりました。
この賜姓の受けない皇族の青木氏も確認出来るところでは5家(実際は15人ほど)ほどあります。
(門跡寺院とは天皇家の者が皇位を離れて僧になるときに入る独自の寺の事)

このように令により青木氏は血筋を護られてきたのです。
お家の賜姓青木氏の血筋を受けた武田氏系青木氏中の諏訪氏流青木氏は今日の情報でも裏付けられました。
そして、室町ころまで菩提寺は貴方の一族だけを祀るお寺であつた筈です。
門跡寺院と同じく何々院としていますので限定された菩提寺であつたのです

大寺の社主で青木氏と佐々木氏と藤原氏が多いのはこの理由からです。

間違いは有りません。一族の寺院を持つと言う事は大変な皇位の家柄を示し
その勢力も大きかったと想像できます。この様な寺を持つ一族は青木氏、藤原氏、佐々木氏などの限られた10氏程度の氏です。持ちたくても持てなかったということの方が現実でした。

この事から、現在の栃木のお住まいの所に貴方のお家のお寺があるかも知れません。この様な氏は必ず先祖を祭る寺も引き連れて移動しているのです。
逃げる状況にも依りますが、又、藤原秀郷氏の青木氏の寺もありますので難しいかも知れません。ただし藤原氏の青木氏の寺は浄土宗です。お家は天台宗ですのでこの点で見分けられると思います。
(下野武蔵国では殆ど浄土宗の中にいますので、お寺が元の浄土宗に戻していることも考えられますが)
地名も移していることが考えられます。面白い調査ですね

又、何かわかりましたらお知らせください。楽しみにお待ちしています。

No.182

同じです!
私は神奈川在住ですが,栃木の青木さんと同じ家紋です.(丸に抱き角)
また宗派は浄土宗です.
祖父からは「祖先は山梨で武田家の家臣をしていたが(何らかの理由で)現在の横浜市戸塚のあたりに一族郎党で移動してきた」と聞かされていました.
実際,お墓のある戸塚の大運寺に行って見るとお墓が青木だらけでした.
今日は「抱き角 青木」で検索してこのページを見つけました.
詳細なルーツの解説があって驚きました.
どうやら我が家のルーツは栃木の青木さんとほぼ同じようですね.
青木研究員さんの説だと信長に滅ぼされて逃げ延びた先は武蔵国の埼玉と下野の国の栃木ということですが,横浜に落ち延びた一族もいるということで新説になりましたでしょうか?

No.186

Re: 同じです!
>私は神奈川在住ですが,栃木の青木さんと同じ家紋です.(丸に抱き角)
>また宗派は浄土宗です.
>祖父からは「祖先は山梨で武田家の家臣をしていたが(何らかの理由で)現在の横浜市戸塚のあたりに一族郎党で移動してきた」と聞かされていました.
>実際,お墓のある戸塚の大運寺に行って見るとお墓が青木だらけでした.
>今日は「抱き角 青木」で検索してこのページを見つけました.
>詳細なルーツの解説があって驚きました.
>どうやら我が家のルーツは栃木の青木さんとほぼ同じようですね.
>青木研究員さんの説だと信長に滅ぼされて逃げ延びた先は武蔵国の埼玉と下野の国の栃木ということですが,横浜に落ち延びた一族もいるということで新説になりましたでしょうか?
抱き角の栃木の青木さんのご親類の方 始めまして。
当サイトに良くお越しいただけました。
これからも同じ青木氏としてこのサイトでお会いしましょう。

其れとお答えが非常に遅れました事をお詫びいたします。申し訳ありません。
実は栃木の青木さんのところに入っていたので気が尽きませんでした。
昨日、管理人さんから指摘を受けておどろきました。

抱き角紋の青木さんは言うまでもなく栃木の青木さんと全くの縁者です。
皇族賜姓青木氏の血筋を引くお家の方ですので、私とは元は同じルーツに成ります。私は伊勢青木氏の総本家です。

既に栃木の方のレポートをお読みと思います。そこで信長との戦いで逃げ延びる時に一族の一部の方は大勢の一族がかたまることは好ましくない事から多分神奈川郡横浜にとどまったもので、他の一族は藤原秀郷一族がいる奥手の栃木に逃げ延びたのでしょう。

信長はこの地域まで戦線を伸ばす事は戦略上は出来ず、又戦いになる場合はお家のご先祖の勢いを再び高めることにもなり、この結果、藤原一門の結束が起こり余計に複雑にする事にもなり、尚且つ、背後を突かれる可能性がありました。ですからこの方向に逃げ延びることを選択したのです。
そして、万が一のことを考えて子孫を残す目的のためにも両端に分けたものと思われます。
武田一族は風林火山の下に強い軍であったことは知られ、徳川家康も大量に家臣にしています。

一部は伊勢の青木氏を頼りに逃げてきています。そして、伊勢の桑原地域に留まっています。伊勢青木一族は天皇の伊勢不可侵の令の保護を受けていましたので逃げる事ができたのです。

信長はこの令を守りましたが、武家の出ではないので秀吉は守りませんでした。
私の家も3つの青木城に籠り戦いましたが、秀吉の命を受けた蒲生氏郷に
負けました。
しかし、無敗の武将で学者でもあった蒲生氏郷は青木氏とは清和源氏の血筋を持つ氏であったので、これを守り、これ等の青木を手厚くまもりましたので武田系青木氏も含む青木一族は生き延びました。徳川氏もこの令を守りました。

そのなかでも武田系青木一族の大半は藤原氏を頼ったことに成ります。

家紋に何らかの細工がないとしたならば完全な親族です。抱き角紋の本家筋と少し分家筋となると極めて小さい範囲で細工をして見分けられるようにしてあります。(一度細部に渡ってみてください。家紋掲示板を参照)
しかし。抱き角紋と同じは家族か兄弟か親類の人たちであったはずです。

そこで、横浜の件ですが、全く新説では有りません。
極めて歴史的な史実の中に居ます。

甲斐国の武田氏系の諏訪氏の青木氏は元を正せば武田氏は藤原秀郷の一族の者が陸奥国の守護(鎮守府将軍)として赴きました。この時、現地の豪族の武田一族との間で縁組が整い藤原秀郷の一族の血筋を受けました。
そして、この鎮守府将軍は次に甲斐の国の守護を命じられましたが、この時、この藤原の血筋を受けた武田の一族は護衛のために同行しました。
そして、この武田の一族が甲斐の国で勢力を持ち本家筋にも劣らない一門となります。
(研究室の皇族賜姓青木氏のレポートと藤原秀郷流青木氏関連のレポートをお読みください。)

この武田氏が其れまで、甲斐の国にて守護としていた皇族賜姓青木氏と縁組をし、更には後に守護代として入った清和源氏の分家源の頼信(本家は頼光)より8代目の者がこの武田氏の跡目に入ります。
上位からの跡目であるので家紋も家柄も上位の家柄と成ります。清和源氏の支流一門となったのです。
つまり、日本の上位2つの氏の両方から陸奥の豪族であつた武田族はついには、藤原秀郷の血筋と皇族賜姓青木氏の血筋と同じ皇族賜姓源氏の血筋をも持つ氏となつたのです。

そこで、逃げ延びる時に、このときは既に弱体化していたが藤原秀郷一門でしたが、武蔵国と下野の国を定住地としていたので一族で固められた土地に上記した縁を頼って甲斐の武田系青木氏の一門は逃げてきました。

この藤原秀郷の武蔵の国は埼玉県の入間郡を中心に現在の西は神奈川横浜、東は栃木の県境、南には葛飾郡まで、北は北埼玉郡まで丁度円を描く様に取り囲み内側より直系の青木氏、中段は直流の青木氏,外円は支流の青木氏と言う様に取り囲み防衛をしていました。

この藤原秀郷流青木氏は鎌足から8代目の秀郷の子供千国がこの護衛の役目を担いました。(平将門の乱の勲功で秀郷は公家に昇格したので武力を持つ事ができなくなり子供の戦国にこの役目を与え、皇族賜姓青木氏に習って青木氏と名乗らせたった。皇族賜姓青木氏も天皇を守る親衛隊の役目を担う)

以後、この青木氏は各地に赴任した本家の一族にしたがって護衛として各地に点在し、その分家筋が勢力を拡大するために赴任地に定住しました。
本家筋は上記の本国の守りと各地に送り出すための子孫を増やす目的から残りました。

元々は藤原一門の血筋を受けている武田系青木氏(母方の郷)はこのルートを使って逃げたのです。
鎌倉時代には藤原一門は衰退しますが、これらの本家筋は源の頼朝に合力して
御家人となつた者が多いのです。
室町期にも同じく武田氏と同じで藤原氏の血筋と皇族賜姓青木氏と皇族賜姓の清和源氏の血筋も受けている足利氏ですので、ある程度の力は保持していました。
そこを頼ったことに成ります。

神奈川郡の横浜はこの藤原秀郷の勢力圏内の西の入り口です。栃木は東の出口と成ります。

元を質せば、諏訪族は中国の後漢の光武帝から21代目の献帝の子供の阿智使王とその子供の阿多倍が引き連れてきたの民で、帰化して200万の一部がこの甲斐の国の開拓に入ります。
大型の外国馬を飼育しこれを糧として生きてきた一族です。640年代のことです。孝徳天皇期で大化の改新期です。
(お家のご先祖が日本書紀に度々出てきます。そして、天皇はお家のご先祖を守っていることも書かれています。)
そして、この渡来系の民の開拓を守る為に皇族賜姓青木氏(光仁天皇の皇子)がこの甲斐国に入ります。950年代には清和源氏の源氏本家の頼光が守護代として入り、その後970年頃には弟の頼信が守護代として入ります。
1120年代頃には武田氏が入ります。

ですから、栃木の青木さんとお家は大変な血筋を持つ一門です。武田系となつていますが、家柄からは武田系青木氏は武田氏より上位です。
当時はかなり丁重に扱われていたはずです。

正真正銘の浄土宗の皇族賜姓青木氏(光仁天皇と清和天皇と阿多倍王)の血筋を引き継ぐ一族です。
(皇族賜姓青木氏は5家5流でその支流一族にあたります。)
栃木の青木さんの所のレポートでも書きましたが、皇族賜姓青木氏の後は皇族賜姓源氏と変名しましたので何重にも皇族の血筋を受けている事に成ります。
この様な末裔ですので、是非多くの子孫を遺していただきたいものです。

これからも、このサイトに是非お越しください。又、ご質問があれば遠慮なく
同じルーツを持つ者として平易にお尋ね下さい。

No.202

Re: 同じです!
青木研究員さん,お返事と詳細な解説ありがとうございます.

先日実家(同じ神奈川県内)に帰った際に,親戚がお寺の過去帳を元に作成した家系図というものを見ました.
それによると,過去帳に存在する一番古いご先祖は私から数えて12代前で元禄7年(1694年)に亡くなったようです.初代と書いてありましたが,これが実際に過去帳に書いてあるのか,家系図を作成した親戚が書いたのかは分かりません.

ということは,私のご先祖は信長から逃げた際に横浜に来たのではなく,16XX年頃に移動してきた可能性が高いと思われます.恐らくいったん栃木に逃げ延びた中から,江戸時代になって一部が横浜に来たのではないでしょうか.

ちなみに初代から7代目くらいまでは2種類の名前がほぼ交互に表れていました.家督を継ぐものは名前も継いでいたんでしょうが,区別が付きません.奥さんに至っては戒名だけで俗名が残っていないのはなんだかかわいそうでした.

とりあえずボトムアップ方式で300年ほど遡れることが分かりました.いつか光仁天皇まで繋がったら面白いですね.
本当の初代にあたる光仁天皇の第6皇子(皇位継承順でしょうか,第6子という意味でしょうか)の名前というのは判明しているんでしょうか?

No.203

Re: 同じです!
>青木研究員さん,お返事と詳細な解説ありがとうございます.
>
>先日実家(同じ神奈川県内)に帰った際に,親戚がお寺の過去帳を元に作成した家系図というものを見ました.
>それによると,過去帳に存在する一番古いご先祖は私から数えて12代前で元禄7年(1694年)に亡くなったようです.初代と書いてありましたが,これが実際に過去帳に書いてあるのか,家系図を作成した親戚が書いたのかは分かりません.
>
>ということは,私のご先祖は信長から逃げた際に横浜に来たのではなく,16XX年頃に移動してきた可能性が高いと思われます.恐らくいったん栃木に逃げ延びた中から,江戸時代になって一部が横浜に来たのではないでしょうか.
>
>ちなみに初代から7代目くらいまでは2種類の名前がほぼ交互に表れていました.家督を継ぐものは名前も継いでいたんでしょうが,区別が付きません.奥さんに至っては戒名だけで俗名が残っていないのはなんだかかわいそうでした.
>
>とりあえずボトムアップ方式で300年ほど遡れることが分かりました.いつか光仁天皇まで繋がったら面白いですね.
>本当の初代にあたる光仁天皇の第6皇子(皇位継承順でしょうか,第6子という意味でしょうか)の名前というのは判明しているんでしょうか?
横浜の青木さん お元気ですか。
先ず、お尋ねの件ですが、いくつかありますので順次ご説明いたします。

第1番目の過去帳の件ですが、皇族賜姓青木氏系24氏の一族は皇位の家柄であるために、室町期の下克上と戦国時代にほとんどは壊滅的な打撃を受けました。
又この様な家柄という事に対する反発もあり、焼き討ちに逢い宝物、家伝のもの、系譜、由緒書きやステイタスと成る物、ついには菩提寺や青木氏の神社などが焼失してしまいました。

したがって過去帳は昔の戸籍簿ですがなくなっているのが殆どです。
先ずは、江戸の中期ぐらいの過去帳しか有りません。
江戸中期と言うのは安定期の文化の栄えた時期でしたので此処からは大方の過去帳は残っているのです。
つまり、自分の家は皇族賜姓青木氏の武田系青木氏であると言う事がわかっていても又、言伝えがあっても証明する物は到底ある事などありません。命を守るのが精一杯でした。
其れと男はこの戦乱で跡目の多くが無くなり、男系の継承すらままならなかったのです。そう云うことから言い伝えそのものも途切れると言うことが起こったのです。
ですから判るところから江戸初期ぐらいから初代として扱い、家系譜を造るということが起こりました。
しかし、家の氏名と家紋と宗派程度は他の親族がいるために継承することが可能ですので青木姓と家紋と宗派は残ったのです。

次ぎに第2番目の横浜の件ですが、神奈川郡横浜から伊豆地方までには実は青木村が3つあり、この皇族賜姓青木氏の3つの氏が住み分けて存在しています。

西端の伊豆地方には平安期にはこの地方には清和源氏総宗本家の源頼光系が入り、一族の守護地でした。
此処には、この頼光系の血筋を引いた皇族賜姓青木氏(伊勢青木氏の支流)が定住しています。
この地の墓には全て笹竜胆の家紋がありこの墓石は青木氏のものです。

神奈川郡の横浜付近西よりには甲斐の武田系青木氏の一族が定住しています。
この一族は二つに分けられます。
一つは甲斐を兄の頼光から守護職を譲り受けた頼信は此処を基盤として東に勢力を伸ばしたのです。
4代後の源の義家や義光などの頼朝や義経の先祖が関東を制圧して此処を拠点として藤原秀郷と同盟して東北から北陸地方へと勢力を伸ばしました。
この時に付き従ったのが甲斐の武田氏系青木氏です。
したがってこの一部にはお家の諏訪族も含まれいるのです。
大体は付き従うのは分家筋の子孫がつき従います。
青木氏の宗家や支流の本家筋は確実に子孫を残すために地元に残るのが慣例でした。
ですから、先ずは此処に入る親族を頼ると言うことが起こったのです。
又、隣には藤原秀郷流の血縁を持つ青木氏がいますので逃げ延びるには格好の場所でした。(母方は藤原氏)
この青木氏には天皇から「不入不輪の権」が与えられてあり、これを破って東に信長は討伐に勢力を伸ばす事には背後を突かれるということもあり、且つ、この藤原秀郷一族とこの青木氏とお家の武田系青木氏それに伊豆の頼光系皇族賜姓青木氏がいますので無理というものです。
まして、伊豆と横浜との中間には頼信の東制に従ったお家等家元の甲斐の皇族賜姓青木氏の皇族賜姓青木氏が村を形勢しています。

この3つと藤原秀郷流青木氏と秀郷一族がいるところに信長は入れません。
したがって、此処が甲斐武田系諏訪族の青木氏の逃げ延びる最本拠地なのです。

更に東の奥に入れば縁者が少なくなるのですが、信長の勢力はより届かないところと成ります。
味方の縁者が多くいるところを選ぶか、より信長の勢力が届かないところを選ぶかの選択です。お家のおずか紋の一族の青木氏は子孫を確実に残すには両方に分けた方が確実です。其れは信長の比叡山攻めの印象や、武田氏の壊滅作戦や、東本願寺攻めの激烈な殲滅作戦から考えて、青木氏も例外ではないとしてこの様な選択をしたのでは無いでしょうか。

第3番目の戒名の件ですが、高位の皇族賜姓青木氏系の血筋を引く一族にはつぎの仕来りがありました。

それは、墓には男墓と女墓とがありました。
つまり、男系を主としていますし、妻には4階級のものがあり、皇后(本妻)、后(きさき)、妃(ひ)、優、と階級外に采女(うねめ)がありました。
これ等はその妻の実家の身分に寄ります。
皇位と高位であるので子孫を確実に遺すためにこの4つと一つの妻を認められていました。
よって、この者たちの女の墓は一つの墓に入れることは出来ませんので、妻の墓として「おんな墓」を作り、その横にその戒名だけの書いた大きな石碑を立てます。
当然、女墓があればその近くには男墓の本格的な大墓があるのです。
見られた墓は女墓であったはずです。

其れと、仏教では戒名が本当の名で、俗名は仮の名として扱います。
家柄の高位系の氏では昔は死ぬ前から官職を外れるとこの戒名で呼んでいました。江戸期から俗名に変わったのです。

筆者の伊勢の墓にはこの二つの墓があり、1年の宗教的行事には周囲と違う仕来りがありつい最近までこの仕来りをまもっていました。今でも少し違いがあります。

第4番目は光仁天皇の皇子の件ですが、先ず、第6位皇子の件ですが
その時の天皇から見て天皇の子供とその孫、天皇の兄弟の子供と孫を天皇の全ての子供とします。
そして、これをより高位の妻の子供から年齢に関係なく第1位とし続けて、次ぎに兄弟の子供として、これ等を並べて第6番目の子供を第6位皇子と呼び、この皇子から臣下します。
そして、この第6位皇子までを王と呼びます。この第6位王にだけ賜姓(氏名を天皇自ら与える。)を授け臣下させ侍として天皇の親衛隊とします。
そして、この第6位皇子(王)には青木氏としました。

第7位の元皇子は土地の名を採り氏名としました。
この第7位以降の者は天皇が代わるたびに、そしてその子供と孫が生まれるたびに順位が代わります。
世代で云うと、7位以降に関わらず第7世程度の者になりますから8世9世と下がります。この下がった一団は青木氏は名乗れませんので関東地方に移動して生活しました。
(この青木氏を名乗れる者は花山天皇までで全部で27人ですが実質18人となっています。名乗ったのは5人程度です。後は僧侶で終わったことに成ります。)
この一団のことを「ひら族」といいます。(平清盛の一族の「たいら族」とは異なる)
この集団を「坂東八平氏」と云い、鎌倉幕府の頼朝の後ろ楯となり2年後に頼朝はじめその一族を抹殺して鎌倉幕府を奪い取つた北条氏らの平氏8集団です。

この第6位皇子には各地の天領地の王として配置します。
これが伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王と成ります。
つまり、伊勢の青木氏、近江の青木氏、美濃の青木氏、信濃の青木氏、甲斐の青木氏です。
伊勢の青木氏は天智天皇の第6位皇子(施基皇子)が伊勢王となり氏名を青木氏として子孫を青木氏とした初代の青木氏です。
伊勢王は最初は天智天皇の敵の孝徳天皇の子供が伊勢王となりましたが、2年もしない内にこの王とその弟が同じ日に没します。そして、その直ぐ後に天智天皇の第6位皇子の子供の施基皇子が伊勢王に成ります。

この青木氏の祖の施基皇子は天智天皇の采女の子供です。
天智天皇には男女合わせて34人もの子供が居ました。内12人が男子の皇子です。この中には日本書紀を造った舎人皇子がいます。
施基皇子と川島皇子と大友の皇子と舎人の皇子(近親婚の弟)他にもう一人(近親婚の弟)がいます。
川島皇子は近江王となり、第7位皇子でしたが特別例外として賜姓を受けて初代の近江佐々木氏となりました。

伊勢青木氏は藤原系の血筋の無いただ一つの青木氏です。
他の4つは全て藤原氏を母方に持ち4階級の何れかの妻です。
この5つの青木氏のことを5家5流の皇族賜姓青木氏といい、天智天皇、天武天皇、聖武天皇、文武天皇、光仁天皇の5人です。
この天皇の間には女性の3天皇が在位します。

この様な方式は大化の改新によりこの反省(天皇を自ら守る親衛隊がなかったことと皇子達の家を維持する経済的費用の節約からから実施しました。蘇我氏に専横を許した原因)から行いました。
この方式を聖徳太子のときまでは第4世皇位第7世王としていました。これを第2世皇位第6位王に変更したのです。世と位との違いです。

第4世はその天皇の孫の子供まで、その天皇の祖父の親まで、兄弟の孫の子までを皇位の者としたのでしたが、これを兄弟の子供までを一つの子供とし上位から数えて第6番目までの子供を皇子として王とする方式で、以降の子供は皇位を外れて比叡山や門跡寺院や皇位賜姓青木氏の寺社の仏門に入ると決められていました。
この方式は光仁天皇まで行われ、この後に光仁天皇の子供の桓武天皇がこの方式を嫌い別のこと(たいら族に賜姓で後の平清盛)をしました。
しかし、この子供の嵯峨天皇は元に戻して第6位の皇子を青木氏と賜姓するのをの源氏(16代続いた)とする事をきめました。
そして、青木氏は皇族から下俗や還俗する時の氏名とすることを嵯峨天皇の詔令により決めました。
この嵯峨天皇は世継ぎの問題が起こったために少し方式を変更して第4世皇位第6位王方式に緩めました。(5位はどちらにも付かずとする)

第5番目の光仁天皇の子供の件ですが、子供は桓武天皇ですが、その他の第6位以降の皇子の名はわかっていません。其れが今でも歴史家の研究課題です。何れは判明するでしようが、資料が無いためにまだ墓さえ判明していないのです。

光仁天皇は伊勢青木氏の施基皇子の子供です。したがって甲斐の青木氏は伊勢の青木氏とは同じ血筋を持つ同族です。お家と筆者は最も古いところで血縁族です。
施基皇子のことは日本書紀に18回も出てきます。最も多い人物です。この皇子は有史来の極めて有能な人であり、日本書紀によると当時の各地で起こる大問題を天皇に変わってすべてを解決しています。何でも施基皇子を呼び出して解決していることが克明に書かれています。お家と伊勢の青木氏はこの皇子の血筋を引いていることに成ります。あげくには皇太子をさておき天武天皇の葬儀の責任者を務めています。天武天皇は兄の子供の施基皇子を自分の子供以上に可愛がっていることが書かれています。
天智天皇と天武天皇にも信頼されて皇太子より信頼されている様子が判ります。天智天皇や天武天皇の軍師役を演じています。

お家と伊勢の青木氏はこの皇子の血筋を引いていることに成ります。
伊勢青木氏は代々天皇家の軍略家として北畠氏と共に働き、秀吉との戦いに敗れるまでは務めていました。伊勢青木氏は1200年頃から「二束の草鞋作戦」を採り、一方では伊勢の豪商紙屋長兵衛としても名を馳せています。(NHKの大河ドラマにも3度もでてきました。余計なことですが、筆者の物の考え方もこの血筋の影響を受けている気がします。)

この時期の資料は殆どは日本書紀と古事記以外になく、歴史史書は戦国期の焼失などで判らなくなっています。
後は韓国の史書に日本の史書より詳しく載っている「日本世記」という史書があります。
この書いた人は大和の国の朝廷の行政指導をしていた人で韓国に帰って日本のことを書いた極めて詳しい日記を残しました

参考に、この時に施基皇子が伊勢王となって伊勢の青木氏を賜姓を受けた時の状況を詳しく書いており、この時にこの伊勢の青木氏の施基皇子に仏像を天智天皇は送ったと記されています。
歴史小説家の司馬遼太郎氏もこのことを調べてこの仏像の所在不明のことをかいていますが、実はこの仏像は1360年も続いている代々筆者のところにあります。
かなりの大きくきれいで保存の良い状態の仏像です。世間に出せば日本最古となるでしよう。
これが全ての5家5流の24氏の青木氏のステイタスです。

この時期の事を調べる事は国の専門家でも今でも研究しているのです。高松塚古墳群は誰の墓などと研究は続いています。
司馬遼太郎氏や黒岩重吾氏や山本惣五郎氏や松本清張氏などもかなり詳しくこの時期の事を調べていますので読んでみてください。
又、歴史写真マガジンなどの本もあり、各大学の専門研究家がプロの写真を添付して此処にその歴史的なことをレポートした本もあります。

筆者の経験からは室町期以後の史書は殆ど当てになりません。この時期の事は疑問をもち推測を立てて一つ一つを潰していくことの研究が必要です。

以上ですが、参考にしてください。

No.291

栃木の青木
お久しぶりです栃木の青木です。
今日はお彼岸だったので墓参りに行ってきました。
そこで気になることが2つありました。
1つは家紋についてでお墓にはいっぱい青木家の墓があるのですが鹿角の数が四本なのです。家紋の本とかに載っている角は叉が四つ叉で尖った部分が五本のものばかり載っています。じぶんで投稿した家紋の画像も四つ叉で角が五本のものでした。
四本と五本のものの違いはあるのでしょうか?
もう1つそのお寺の賽銭箱が添付した家紋付の賽銭箱でした。

No.292

Re: 栃木の青木
>お久しぶりです栃木の青木です。
>今日はお彼岸だったので墓参りに行ってきました。
>そこで気になることが2つありました。
>1つは家紋についてでお墓にはいっぱい青木家の墓があるのですが鹿角の数が四本なのです。家紋の本とかに載っている角は叉が四つ叉で尖った部分が五本のものばかり載っています。じぶんで投稿した家紋の画像も四つ叉で角が五本のものでした。
>四本と五本のものの違いはあるのでしょうか?
>もう1つそのお寺の賽銭箱が添付した家紋付の賽銭箱でした。
栃木の青木さん 今日は。大変お久しぶりです。
2つ疑問を持たれたとのことですが、良いところに気がつかれました。

先ず1つ目のご質問ですが、次の様な事になります。

鹿角紋には二つに分類できます。
1つは「抱き角紋類」です。
この紋は勿論お家の諏訪族の紋様です。
この紋様は12あります。

2つは「鹿角紋」です。
これは近藤氏の氏の紋様です。
藤原氏の家紋ですが近江に定住した藤原氏です。
抱き角紋より新しい家紋の氏で松平清康の共で狩りに出て、「上がり藤紋」の近藤乗直が鹿の角を引き裂いたとのことでその武勇を褒めて「鹿の角」を家紋とすることを命じられたもので以後その一族が使用したものです。

「抱き角紋類」には角の数を5つと4つと3つの3種のものがあります。

通常、5つの角紋を持つ抱き角紋としては主要紋で宗本家筋の家紋です。
(家紋集では4つは5つと同紋として扱われる場合がある)

5つの角数の抱き角紋には「抱き角紋」(総宗本家)「丸付き抱き角紋」「陰抱き角紋」「石持ち地抜き抱き角紋」「抱き角に一つ巴紋」「抱き角に日足紋」「隅切り角抱き角紋」の7つです。
5つの角数の場合が主要紋であるので「4つ又」とは云いません
直流分派の家紋類です。

4つの角数の抱き角紋には「4つ又抱き角紋」(抱き角紋と分類しない場合がある)「細抱き角紋」「違い抱き角紋」の3つです。「4つ又」と呼ぶ時は角数が4つです。
支流分派の家紋類です。

3つの角数の抱き角紋には「細輪に三つ又抱き角紋」「変わり抱き角紋」
の2つです。
支流分派の家紋類です。

後は、藤原一門の近藤家です。(藤原氏には四家4流あり、南、北、式、京の4つです)

参考 北家の藤原秀郷の一門としては文行流の進藤氏と長谷川氏です。

諏訪族青木氏はこの総宗本家の5つ角の抱き角紋の血筋の家柄一門の中にて皇族賜姓青木氏の血筋を持つ特別の立場にあった氏です。

これ等、5つの角数の抱き角紋を中心にして12の抱き角紋から諏訪族は構成されており、これが有名な赤兜の軍団を構成していました。

武田氏が滅びこの赤兜の軍団は徳川氏や多くの大大名に仕官しました。

お家の諏訪族の青木氏一族はこの時、横浜神奈川から栃木まで逃げ延びて旧来の藤原秀郷一族をたよって2つの地域に定住したのです。

お話だとご先祖のあるそのお墓にあつた家紋類は長い間の歴史の中で上記の一族の支流分派の諏訪族と血縁を結んだお家の縁者であります。
ですから、お家は総宗本家筋の青木氏ですから全体としては少ない可能性もあります。

そこで、先ず4つ又抱き角紋の4つの角数のそのお墓の青木氏の集まりの中でのお家のお墓の位置がどのような位置に存在したかをお調べになる事も意味があると思います。

墓の構えが男墓(本墓)と女墓(女の戒名ばかりを書いた墓石がある)に分かれていなかつたかも思い出して見ることも必要です。
(賜姓族の青木氏の宗家の墓は家柄から古来よりこの形を採っている)

多分、この4つ又抱き角紋の青木氏以外にも支流分派の青木氏も存在する筈です。氏家制度の中で家柄の吊りあいを重んじた時代ですので少ないかも知れませんが。

12紋様の中でも宗家に相当するお家であるのでどのような家紋集にもありますが、この支流分派の家紋類は普通の家紋集では掲載されていない可能性もあります。(四つ又抱き角紋だけは同門扱いもあり)

次に、この賽銭箱の家紋が「4つ又抱き角紋」であるとしてこの寺は諏訪族青木氏の菩提寺であり、この寺の住職は分家筋の4つ又抱き角紋の青木氏であるかあったかを意味します。

甲斐の諏訪地方から移動してきた「抱き角紋」(5つの角数)を宗家とする諏訪族青木氏は諏訪神社と共に菩提寺を建立したものです。

菩提寺があることの意味は、また諏訪族が、(ほかの抱き角紋の紋様類を家紋としている青木氏以外の他の氏姓を持つ末裔も多く存在する中で)諏訪族青木氏の一族が挙って集団で移動してきたことをも意味します。

他の氏姓の諏訪族(縁者関係のある)も数は少ないが同行している可能性もあります。

合わせて菩提寺があるくらいですから栃木にも多くの青木集団が移動した事をも意味します。横浜神奈川と同じ程度に。

5つの角数を家紋とする一つの単位の本家筋を中心に分家筋が行動を共にしていた事にも成ります。
四つ又抱き角紋の栃木の青木さんたちはお家とはかなり近い親族関係であったことを意味します。

そうすると、どちらに宗家の「抱き角紋」の青木氏が多かったのか、
どのようにして分けたのか、
青木氏以外の上記の家紋類の諏訪族も同じにして移動していたのか、
との疑問も出てきます。

(私は神奈川横浜地域の青木氏が資料より主であったことと考えていますがこれほどのものとは思いませんでした。)

「抱き角紋」(5)と「4つ又抱き角紋」(4)の青木氏以外にも他の10の「抱き角紋類」との血縁をした少ないかも知れませんが青木氏も在る筈です。

私の研究では4つの青木氏が検証済みで確認されています。ただし「4つ又抱き角紋」は分類せずに「抱き角紋」として扱つかっていますが、家紋掲示板を参照して下さい。

兎も角も又一つルーツの詳細が確認出来て広がりましたね。

賽銭箱のような一寸した事がその事からわかってくる事があるので面白いですね。
来月、観光で上諏訪に行く予定です。

諏訪族青木氏のことが色々とわかってくるので研究の検証の参考になり面白いですね。かなり検証があって合っている様です。

又、ちょっとしたことでも判りましたら又お便りください。
楽しみにお待ちしています。
No.289
埼玉県川口市の青木です
289編集 追加
偶然このサイトを見つけて書き込みします。

私は祖父の代までしか存じませんが、祖父は東京都出身だと思われます。
私も生まれは東京ですが、幼い時に埼玉に引っ越してきました。
偶然にも埼玉県の川口市には「青木」とつく地名が多く、また
青木姓のお宅も大変多いです。

お寺は東京都板橋区の「乗蓮寺」(東京大仏)で、浄土宗。
家紋は丸の無いただの「抱き茗荷」です。

祖母(旧姓:久保田)からは、幼い頃に
「先祖は武士だった...」と聞かされましたが、根拠は不明。

祖母方の先祖は三代ほど前までハッキリしていますが、
祖父方(つまり青木姓)は、祖父が若いうちに亡くなってしまっていること、
祖母も既に他界しているため、詳細は不明です。

お寺がとても立派な事と、家紋が珍しい?
(わたしは丸の無い抱き茗荷を他で見たことが無い)
ので、先祖はいったい・・・?と昔からの疑問でした。

このサイトを通じて、何かルーツがわかれば!又、
少しでも縁のある方と出会えれば、大変光栄です。

No.290

Re: 埼玉県川口市の青木です
>偶然このサイトを見つけて書き込みします。
>
>私は祖父の代までしか存じませんが、祖父は東京都出身だと思われます。
>私も生まれは東京ですが、幼い時に埼玉に引っ越してきました。
>偶然にも埼玉県の川口市には「青木」とつく地名が多く、また
>青木姓のお宅も大変多いです。
>
>お寺は東京都板橋区の「乗蓮寺」(東京大仏)で、浄土宗。
>家紋は丸の無いただの「抱き茗荷」です。
>
>祖母(旧姓:久保田)からは、幼い頃に
>「先祖は武士だった...」と聞かされましたが、根拠は不明。
>
>祖母方の先祖は三代ほど前までハッキリしていますが、
>祖父方(つまり青木姓)は、祖父が若いうちに亡くなってしまっていること、
>祖母も既に他界しているため、詳細は不明です。
>
>お寺がとても立派な事と、家紋が珍しい?
>(わたしは丸の無い抱き茗荷を他で見たことが無い)
>ので、先祖はいったい・・・?と昔からの疑問でした。
>
>このサイトを通じて、何かルーツがわかれば!又、
>少しでも縁のある方と出会えれば、大変光栄です。
埼玉の青木さん 今日は。 始めまして。

お尋ねの件ですが、お答えします。

先ず、埼玉は昔武蔵の国といい、藤原秀郷の領国でこの藤原秀郷の子孫には5つの主要氏があり、2流から生まれ、兼行流から青木氏、永嶋氏、長沼氏、文行流から進藤氏、長谷川氏が発祥しています。

この藤原秀郷流青木氏の発祥は研究室の「藤原秀郷一族の生き方」に詳細にレポートしていますので参照ください。

つまり、この埼玉を中心として茨城、栃木、千葉一帯に主要9氏とその支流の116氏が存在します。

青木氏は主に2流から発祥しています。

1つは皇族賜姓青木氏です。詳細は皇族賜姓青木氏のレポートを参照して下さい。
2つは上記の藤原秀郷(大化改新の時の中臣鎌足の8代目の子孫です)流青木氏です。この一族がこの埼玉の入間を中心に神奈川横浜を半径に円を書く範囲に円状に分布しています。

お家の「抱き茗荷紋」の青木氏は
研究室の「青木氏(家紋)と血縁族」の茗荷紋のところ
家紋掲示板の2Pの抱き茗荷紋のところ
雑談掲示板の654のところ
地名に付いては地名地形データーベースを参照して下さい。

先ずは一読してください。詳しくレポートしています。

この二つの系列の青木氏は宗派は浄土宗です。
浄土宗は特定の高位の家柄の氏が入信出来る宗派です。

茗荷紋は本家筋が「抱き茗荷紋」です。
そして、此れに丸がついた物は「丸付き抱き茗荷紋」でこの分家筋です。

決して珍しく有りません。この一族は滋賀と伊勢鳥羽地方に多く分布しています。
元祖は二宮氏です。

この二宮氏と皇族賜姓青木氏と血縁し青木氏の方に男系の跡目が出来ずに二宮
氏の末裔の一族(稲垣氏、鳥羽氏)から養子を迎えたが更に男系継承が出来ずに家紋掟により家紋を抱き茗荷紋に変紋を余儀なくされた賜姓青木氏の一門です。

そこで皇族賜姓青木氏とは天智天皇の第6位皇子が臣下して天皇より氏を賜り侍となり、天皇を守る親衛隊として主要地に守護として赴任した皇族の末裔です。
此れが日本最初の伊勢青木氏です。

天智、天武、聖武、文武、光仁の5代の天皇から第6位皇子の青木氏が発祥しそれぞれ伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5つの天領地に赴任しているのです。この青木氏は伊勢以外に上記の国に存在します。
5家5流24氏です。
お家の青木氏は24氏の新しい方の一つです。
家紋の綜紋は「笹竜胆紋」です。源氏も同族ですので綜紋は笹竜胆紋です。

お家は元は「この笹竜胆紋」でありました。
詳細は研究室の賜姓青木のレポートを参照して下さい。

お家の縁戚は江戸時代に伊勢志摩地方の領主となっています。(稲垣氏)
お家の青木氏はこの皇族賜姓の伊勢青木氏の血筋を引いている青木氏と見ています。(近江青木氏説の可能性もありますが)

日本中で最高位の家柄ですし、最も古い氏です。

とりあえず上記の3つのレポートと研究室の賜姓青木氏のところをお読みいただき、時間があれば藤原秀郷一族の生き方のところもお読みいただければお家のルーツがよく理解されると思います。

その上で、不明な点やご質問があれば遠慮なくお尋ねください。

一週間前に雑談掲示板に抱き茗荷紋の方の投稿がありましたよ。縁者ですょ。
そして、私とは元は同じ賜姓族の伊勢の青木氏で元祖は同じです。

参考として、源氏はご存知でしょうが、この氏も賜姓源氏で青木氏の後の皇族氏賜姓源氏で同族です。嵯峨天皇から青木氏から源氏とよび替えました。
源氏は実質11代の天皇の第6位皇子の賜姓族で続きました。

このサイトには沢山の青木さんが毎日のように色々と投稿していますよ。
お気軽にご質問等でお出で下さい。

先ずは、お読みください。ではお待ちしています。
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ここでは「青木」という氏について ルーツなどのまじめな話や、くだらない雑学を研究しています。みなさんからの貴重な情報をお待ちしております!!
また、ご自分のルーツを調べたいが、どうしてよいか分からないという方や、さらに詳しく知りたいと言う方は、わかる範囲で結構ですので、下記の情報を添えて書き込んでください。
当サイトのサポーターの方々がヒントをくれるかもしれません。
  1. 家紋、例:御父上の袴の袖に書いた紋、仏前の道具に書いた紋など
  2. ルーツの昔の国、例えば、武蔵の国や下野の国の..郡と村、等。お墓のある菩提寺の土地。。現在の地名。宗派等
  3. その他、些細なことで結構ですので分かっている事をなんでも書き込んでください。現代では何の価値もない情報がルーツ解明の重要な糸口になる場合があります。

  4. この掲示板へのご質問に対しては、主に副管理人さんに回答していただいておりますが、更なる疑問や質問などはこの掲示板への返信という形でお願いいたします。
    直接、副管理人さんにメールしてご質問される方がおりますが、他の青木さんや歴史研究されている人にも見ていただきたいので
    よほどプライベートな内容で無い限り、この掲示板に知識を集約する意味でも、なるべくこの掲示板に書き込んでいただく事を望みます。
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