青木ルーツ掲示板
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  [No.352] Re: 宮崎の青木です。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 19:44:17

Re: 宮崎の青木です。
副管理人さん 2007/09/26 (水) 21:14
宮崎の青木さん 今晩は。

さて、情報をいただきましたが、
1 お墓の紋は「五三の桐紋」である事。
2 曾祖父が一番古い人である事。
3 古くから宮崎日向である事。
4 先祖は農家である事。

そして、私の提供情報ですね。

以上のことですが、この情報で少し話しがすすみますよ。
先ず、第1番目のお墓の紋です。
この紋は、明治前は天皇家の儀式紋でした。そして、この紋を最初に天皇から譲りうけたのは豊臣秀吉でした。
天皇は功績のあった者に対して、褒美としこの儀式紋の使用を許しました。この他に秀吉の家来(黒田氏を始めとして)にも秀吉の推薦で与える事になりました。
しかし、その内、この伝授を秀吉が自分の推薦で、天皇家に届け出て、独自に家来に使用許可を与えるようになりました。
秀吉は、自分のルーツは天皇家のルーツだとして、系譜の搾取偏纂をして「五三の桐紋」から「五七の桐紋」を作り上げて、強引に天皇家に認めさしまして豊臣家の家紋としたのです。

その内に、秀吉は朝廷に許可無くこれを勝手に乱発した結果、ついには秀吉の許可無く各地の大名が勝手に家臣や土地の者に何かの功績に対して乱発をする様になり、更には、ついには庶民が勝手に使用するようになりました。
その後、困った朝廷と江戸幕府は、この紋の使用の禁令を発しましたが、全く守られませんでした。
更に、明治政府も禁令を出しましたが、駄目でした。
遂には、明治3年の苗字令が発せられてからは、苗字と家紋の持たない庶民は挙ってこの紋を紋付や墓紋に使用してしまいました。

はじめは、この天皇家の儀式紋で象徴紋である五三の桐紋が、この様に広がったのです。
だから着物屋さんが言った言葉はその通りなのです。

この経緯から御家の墓の紋が五三の桐である事は頷けます。

その根拠は、さらに黒田藩が秀吉の軍司の家柄であったことから、この家紋の使用を許されたことは有名です。
そして、日向の国の御家の在所の村民は、黒田藩の九州の征圧の時(秀吉の天下統一の戦い)この闘いに参加しました。
この時の戦いは、宇都宮氏が九州征伐の先陣を命ぜられたが、拒絶し、この為、黒田考高(如水)が秀吉の命でこれを城井城で、謀略(騙まし討ち)と、実戦では農民の協力を得た戦い方で撃ったのです。
これは、史実として有名なことですが、この功績で黒田の藩主からこの五三の桐紋の使用を農民に与えられたのです。(黒田の家臣)
だから、家紋の持たない農民の全ての墓にこの紋が使用されるようになったのです。
ただ、墓紋としてだけに使用を認めたのです。
この様なことは各地の藩でも起こりました。

明治初期までは、特別な者以外は、庶民には家紋と姓としての使用は禁じられていました。
(明治3年)。そして、この特別の者には(庄屋や名主や豪農や郷士には)、藩主から「家紋や苗字帯刀の特権」が許されたのです。

各地の神社や寺では村の何かの儀式のときには使用されるようになったのは上記の事から起こったのです。

第2番目の曾祖父が一番古い人である事に付いては、曾祖父は明治の人になりますね。
つまり、明治初期の苗字令にて姓と家紋(五三の桐)を使用できるようになったことから寺の過去帳(当時は戸籍関係は寺で行っていた)に残るようになったのです。
明治3年と曾祖父の時期は一致します。

第3番目の件は、黒田藩であり、古くから居た村民であったことから使用が許されたのです。
黒田氏は元は播磨付近の普通の流地侍で生計のために薬を売って生計を立てていましたが、大変知恵が働き村が隣りの国から攻められたときに、庄屋に頼まれて、この黒田の元祖が村人を救う為に知恵を出して追い払いました。
その内に、この村を取り仕切る土地の豪族たちが、この黒田氏を呼び入れて周囲の豪族を組み入れます。
後に、この豪族の元締めには跡目が無く、又、他の豪族から攻められて潰れそうに成ります。そこでこの黒田氏が又、知恵を出して救い、村人から頼まれてその豪族の跡目を継いだのです。それが黒田氏の黒田族の始まりです。
秀吉の中国攻めの時前に、この話を聞きつけて秀吉はこの知恵者を家来にして軍司にします。その後に勲功を立てて播磨藩主に成ります。秀吉の天下取り後、国替えで日向の国を守る事に成り九州征圧に乗り出します。
この時、瞬く間に征圧します。この戦いに御家のご先祖の近隣の農家の人たちが戦いに参加して戦勝をします。この時、黒田氏はもとより侍の家臣を使うより近隣の農民の協力を得て戦う戦法を播磨の時と同じく得意としていました。
秀吉も農民の出ですので、この黒田氏の戦略を好み、黒田氏の戦法軍略を取り入れて、秀吉の戦歴の内の2つの戦い以外は、武力による「無理攻め」はしませんでしたし、農民を多く使いました。
この戦法には、秀吉の農民に対する「思いやり」が含んでいて、戦勝すると、勲功に応じて金品を農民に還元して潤させる事と、武力を使わない戦法を採るには、その軍の力を誇示する必要があり、このために農民を多く集めて誇示するという戦法なのです。
秀吉の戦歴を研究すると殆どこの方式を採用しているのです。
この農民の役目は、戦う事のみならず、その能力を利用して土塁や陣柵や炊飯や城立てや水攻めのなどの庶務作業一般に当てたのです。
秀吉の戦い方は上記した力攻めは2度しかないのです。(両方が失敗)
戦隊を大きく見せ誇示し相手を威圧し、物量で攻める戦略で主に黒田勘兵衛の立案です。
(後に家康もこの戦法を真似するようになる)
その様なことから、日向の農民は当然に黒田の家臣扱いとして、参加した農民には勲功としてこの五三の桐の紋の使用を許したのです。(黒田家臣の元から居た者は農民の出ですから)
それがこの由来の一つです。(もう一つある。肝付氏の末裔の伝統)

次の第4番目の問題では、何時から農民であったかと云うことが問題です。

この五三の桐から、室町末期ごろから農民であった事が覗えます。その理由は当時の社会では「国抜け」と云ってその国から外に、勝手に藩の許可なしでは出来ませんでした。
もし、出るとその者の一族郎党と縁者は打ち首に成ります。
この掟では、南九州では庶民は藩主の指揮下の者として考えられていたのです。
御家の村人が、この農民になった始めの時期は、平家が滅亡したときごろと見られます。(1180-1185年頃)

と言うこの理由は、この青木姓の使用なのです。
青木姓のルーツの詳細は、研究室の所のレポートを参照してください。
青木氏の使用は2つのルーツ以外に、嵯峨天皇の弘仁5年の詔で皇族の者以外の使用を禁じました。そして、明治3年の苗字令まで原則守られました。
しかし、この禁令は次の3期ではまもられませんでした。

室町中期の下克上と戦国時代の第一期、江戸時代初期前後の第2期、そして、明治3年の苗字令期のの3期です。

そこで、前の雑談掲示板で予測として書きました事に繋がります。
前の記述の事件は1180年の源の頼政と以仁王が平家に対して起した戦い、即ち、「以仁王の乱」
です。この時に源氏は負けて主な源氏の者(宗家の頼光系)は惨殺されましたが、清盛の母の嘆願を入れて若い下記の者(3人)だけが生き残りこの日向に流されました。
この源氏の一族は家紋は同族の青木氏と同じの笹竜胆紋です。
しかし、この家紋を使うと平氏に捕まります。よって詔に基づき源氏であるが為に、上位2番目の朝臣の身分でもあり、姓を青木氏に変更してのみ家紋は隠したのです。

これが、日向の青木氏の始まりです。
しかし、結果として余り子孫を遺す事が出来ませんでした。以後、縁者は農民となって室町期から明治までこの地に生きたのです。
この時、その小さい村の青木氏に関係する血縁者や縁者や遠縁者が、長い時代の間(500)で血縁関係が出来上がり、明治3年の苗字令で、この血縁をベースを下に、この元の青木姓を血縁の村民が用いたと定説として予想されています。

そして、この時の農民は、元はこの北九州からこの日向国までを支配していた最大の大豪族の肝付氏の支流一族であろうと考えられています。
(肝付氏は、最後に勢力を南九州の薩摩で勢力を伸ばして来た島津氏と3回戦い、最後に残った城のこの日向の国付近で最後に滅亡します。)
この時の落人が日向より南に逃げて山里に逃げて農民となり村(宮崎の宮崎市阿波岐原青木村から最終鹿児島の大口村字青木まで分布する。 宮崎廻村から現在の大口市青木まで逃げた。)を形成して生き延びたのです。これが御家の元のルーツと見られます。
(ここで清和源氏を匿いその血筋を得た末裔を保護し青木村を形成した青木氏は、日向廻村から薩摩の鹿児島大口町までの間に分布する。最後は大口村まで逃げ延びたと記録されています)

御家の村の人たちの血筋は黒田氏を助けたことを始めとして、清和源氏の者をも助けるという歴史的な史実を持っていますが、これには元は侍としての伝統をもつ肝付氏の血縁者である事の所以として考えられています。
ただ単なる農民ではなく、古来よりその心魂には侍としての魂があるから農民としても2度の大きな戦いが出来るのだと思います。農民だけで平家に対抗する事はできません。プロと素人の戦いです。そにはこの様な経緯があり2度も大きな戦いをしたのです。

この伝統の農民は、後に薩摩に吸収されましたが、この「兵農」の伝統は薩摩の島津氏にも引き継がれました。
だから、江戸時代末期まで、日向の黒田藩士と薩摩藩の藩士は、通常は侍でありながら農業もすると言う伝統を持っているのです。
西郷隆盛も農業をしていました。農民でありながらも、だから黒田氏に合力する力があったのです。
家臣に細かく土地を分け与えて、農業を振興させ、体力をつけさせ、自給の精神を創り上げる国防の軍戦略です。
この事に付いて、これは各藩の力を強くする事であるので、弱体化を狙って、秀吉と家康は全国にこの「兵農分離」の令を出しましたが、南九州の藩は明治維新までこれを無視し続けました。
西郷隆盛の説得で明治維新の活躍ではこの伝統を長州藩も見習いました。
そして、3藩連合軍は、明治維新前後の時は、農民を中心とする軍を作り、それまでの武士を中心とする10万の徳川軍と戦い勝ちました。
この様な伝統と由来を持つ御家のルーツの村人です。江戸時代まではただの農民では有りませんでした。
参考に、昭和の第2次大戦の時も九州の連隊はこの為に大変強かったのです。しかし、大阪と東京の連隊は全戦全敗で、大阪の連隊は”又負けたか大阪10連隊”と呼ばれました。

この関係で、村人達の祖先は、肝付氏と都の五大豪族の一つの伴氏などの血筋と天皇家の血筋を引いていたので、この肝付氏の血筋を持つ村人は、清和天皇の清和源氏の配流者3人を助け、再び平家に挑んだのです。(敗戦する)
{伴氏は朝廷より九州に差し向けられた弁済使(税)の官僚です。後にこの伴氏と肝付氏は血縁します}
御家などは農民をしていますが、この支流の末裔であると見られます。

従って、清和源氏の血筋を受ける末裔は、この戦いで直系者が絶えたためにその家紋と成る笹竜胆紋が消えたのです。
(青木氏と清和源氏は同族で同紋です)
この推理はまず間違いは少ないと考えます。

上記しました3期の青木氏の使用の殆どは、その周囲に住んでいた皇族賜姓青木氏か藤原秀郷流青木氏の一族が定住していて、それを搾取偏纂して、禁令を破り名乗った氏の青木氏です。殆どこの経緯で名乗ったのですが、御家の場合の日向の青木氏は、少し違っています。

しかし、日向は周囲にはこの2つの青木氏の一族は有りません。
国抜けで移動は殆ど有りませんから、従って上記推理が出来上がります。

一番近い所で、北九州に藤原秀郷流青木氏が、武蔵の国から朝廷の命で国司として赴任してきているだけですので、先ず、この姓を使ったとは考え難い事です。

配流者は、元は清和源氏の宗家の頼光系の孫(配流者不詳 宗綱、盛綱、高綱?)(3人は死んだ)ですが、この配流者と肝付氏の流を組む地元の農民の娘との間で出来た子孫です。(村人はこの末裔男子を守り逃げ延びた)
後に、弘仁の詔を知っていた彼らを保護した住職が、農民として姓を持たないこの末裔なので、詔に従い、危機が迫った時、青木氏の姓を名乗ることを寺の住職の勧めで、初めて名乗った事が記録されています。

つまり、この3人の血筋の引いた、村人に保護された村娘の子供に、青木氏を名乗るように勧めたのです。
村人はこの末裔を守って生き延びました。
そこで、従って、500年の間に女系となりなどし、家紋や本家はどこかもわからなくなったと考えます。よって基本的には家紋は無い事に成ります。

しかし、この推測では、元は3人の血筋を引いた末裔であるので、綜紋は笹竜胆紋と成りますが、正式には認められているわけではありません。

この経緯と同じ事が他に2つ起こっているのです。
現在まで、子孫をのこしたのは、伊豆大島の父島の大島氏です。源の為朝が逃げ延びたときに土地の豪族との娘の間で生まれた子孫の大島氏の宗家が、現在もこの笹竜胆紋の家紋を使用しています。
(伊豆大島の大島氏には、為朝は短刀を渡して子供である事を認知)

大島氏は、源の頼朝が、平家の水軍に三浦半島を裏から攻められた時に、伊豆大島から大島水軍を引き連れて3日で黒潮を乗り越えて駆けつけて間一髪で助けた一族で有名です。

後は、木曽国の源の義仲の一族の末裔の青木氏もこの経緯と全く同じものを持っています。
これらと良く似たことだと思います。

詔での皇族の青木氏は他に多治彦王の末裔の武蔵七党の丹治氏の青木氏、島左大臣の末裔の青木氏、名古屋の伊川津七党の青木氏の3氏があります。
(少し違った形では、宿禰族の橘氏の青木氏がある)
これ等の3氏の青木氏は家紋とルーツを幸い明確に維持してきました。

2つのルーツの青木氏外の上記3期の第3の青木氏の中には、別に御家のようなこの経緯を持つ青木氏があるのです。(家紋が消失)

ここで、どの程度の血縁者であるかはわかりませんですが、御家の古くから居た村の本家筋が血縁が濃いと思いますが、男系で跡目が出来ているかはわからなく成っているのではないかと考えますので、その家紋も不明と成ったと考えますので桐紋を使用したのだと思います。

この点のところが調査する必要がありますが大変ですね。元住んでいた村の庄屋あたりがこの本家筋に当ると見られますが。
そして、御家はこの村の血筋を何らかの形で引き継いでいる事も考えられます。女系に成っていることも充分考えられますから、家紋は経緯から結果として原則として無い事とも考えられます。

日向青木氏はこの様に得意な経緯を持った青木一族です。

日向青木氏の青木さんからの投稿を待っていましたが、やっと出てきたと思っています。
まだ、木曽青木さんとか伊川津の青木さんもまだ有りません。

全国の家紋を持たない民は約6割以上と成りますが、御家の場合は消失ケースと考えます。

お判りいただけたでしょうか。

以上のことでご質問がありましたら、ご遠慮なくお便りください。お待ちしています。

以上ですが、ご不明な点が有りましたら、お尋ねください。



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