青木ルーツ掲示板
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  [No.600] Re:青木姓ではないですが。。。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/07/31(Fri) 15:52:40

写真届いていますが、容量が大きくてこちらで停止の状態に成っていたようです。
何とかしました。

蝶の紋は「光琳胡蝶文様」の変紋です。大変珍しい家紋で家紋8000選にありません。
光琳胡蝶紋は2つありましてもう一つは陰紋です。明暗が反対に成っている紋です。
光琳胡蝶紋の関係氏と観られます。

尾形光琳(1658-1716)は画家であり装飾家で工芸家でもありました。
大変に斬新な意匠もこなしたと聞いています。
恐らくはこの光琳胡蝶の紋も光琳が描いた意匠であったと考えられます。
お家の紋は真ん中に二枚羽が付いていて尻尾に特長をもたせたものです。
「変わり光琳胡蝶紋」と云います。

光琳胡蝶紋は江戸初期旗本や御家人ら300氏以上がこの蝶紋の変紋を家紋としたと成っています。

この内平氏紋は30程度と成ります。揚羽蝶の紋は奈良期に衣装紋的に使われ平安中期に象徴紋として平の頼盛が車意匠として称したのが始まりです。それで後に京平家紋(桓武平氏)に成ったものです。

羽根を立てた蝶として「揚羽」、羽根を広げた蝶として「浮羽」(伏羽)と云いますが、お家の家紋はこの「浮羽」ですね。依って京平家の文様では有りません。

この光琳胡蝶紋は元禄時代1700年頃に家紋として使用されたものが確認出来ていますので、光琳が意匠化し何らかな物に意匠文様として最初室町の豪商が使用し、商人から後に武士が変わり光琳胡蝶紋として家紋として使用したのではと観られます。この「変わり光琳胡蝶紋」は武士用の家紋として威厳風格を持たせたものでだと言われています。
これが、お家の家紋ではと観られます。

尾形光琳は豪商や上級武士を相手に絵画や工芸や意匠紋を作っり書いたされている人物です。
「風神雷神屏風絵」は有名ですが、焼き物陶の「九谷焼」や高級漆器「宇和島塗り」や「根来塗り」などの工芸の文様もよく書いたと記録されています。
現在でも九谷焼や宇和島塗の展示会にはこの光琳文様の銘器が展示されるようです。

ここで、光琳との接点が「宇和島」として出てきます。
宇和島塗りの意匠を手掛けたと記録がありますので、お家とのこの「付合い」もここでの中ではと考えられます。

恐らく、当時の大大名の徳川氏や伊達氏等とも付き合いは広く、この中で、この光琳胡蝶紋の変わり紋を家紋としてお家などが使ったと観られます。
伊予宇和島塗りでも有名ですが、その付き合い関係から家紋を変わり光琳胡蝶紋としたのではと観られます。

ここで、この家紋は比較的新しい家紋ですので、経緯から恐らくは、お家は1700年代前頃にはすでに武士であった観られますので、元の家紋があったと考えられます。
多くの武士の家紋は江戸初期前後に家紋化したものです。それ以前は大名クラスが家紋を使用していました。

ここで志賀氏のルーツの元の家紋と言う事に成ります。
では一体何処のルーツかと云う検証ですが、これを調べれば元の家紋も出てきます。実は明確な史実があるのです。
この仙台の西域北域の国境には藤原秀郷一門が進出していた地域です。
この地域には、平安期から江戸末期まで代々藤原秀郷主要5氏(361氏中)の進藤氏が定住地域です。
現仙台市岩切を中心に定住していました。この進藤氏は「かに藤紋」を綜紋としています。この末裔分家の家柄では無いかと考えられます。
進藤氏は秋田横手、延沢、群馬高崎、山形尾花沢市の地域に定住しています。
仙台は進藤氏のこの真ん中です。
進藤氏は藤原秀郷一門361氏の調整役を担っていました。藤原秀郷流青木氏の「第2の宗家」を補助して一門の問題処理に当っていた一門です。
恐らくはこの末裔であろうと観られ、1騎を列ねるくらいの家臣を保持していたと成りますと少なくとも従来から地元の豪族でなくてはなりません。そうでなくては、また、伊達家の重臣であったはずですから務まりません。地元の豪族だからこそ重臣となり得ます。それ以外の氏がこの地域に入り力を出す事は氏家制度の中で、なかなか出来ません。
移動は「国抜け」で重罪であり一人が来て身を興すことは最早出来ない時代ですし、関東に明治まで勢力を張っていた藤原秀郷一門末裔と進藤氏一門末裔が許しません。

この武蔵入間を中心に横浜神奈川を半径とする円地域が藤原秀郷一門361氏の勢力圏でした。
鎌倉時代を経て明治まで氏家制度の社会慣習に護られて定住していた地域です。
現在も仙台は末裔の現存する地域です。

その相互依存の形として、進藤氏は「武蔵7党」の主導者で7党の一つ仙台西域の西氏と血縁を結んで配下に治めていました。
青木氏の史料の範囲では、その志賀氏は武蔵国比企郡志賀の出とされ、進藤氏の支流末裔で志賀の地名から名乗った藤原秀郷一門です。
この志賀の地には、「淡州神社」(淡州は四国淡路国 現在の徳島 藤原一門が代々阿波の守護を務めた)もあります。

武蔵7党は進藤氏と血縁して児玉、比企、秩父、入間等仙台域まで広く分布しています。
(武蔵7党に付いては「青木氏氏 研究室」で検索してください。詳しくレポートしています)

恐らくは関東一円土豪「武蔵7党」の土豪集団を配下として家臣として伊達に仕えたと観られます。
その進藤氏系志賀氏と観られます。

この因果関係として「仙台進藤氏」末裔の一部が伊予にて外姻戚の進藤氏を名乗り伊予進藤氏末裔を発祥させています。
この地域は、明治まで「讃岐籐氏」と呼ばれて伊予東、讃岐、阿波、土佐、瀬戸内、安芸南沿岸、出雲まではこの「讃岐籐氏」の藤原氏一門の絶対的勢力圏でした。「2足の草鞋策」を敷き軍事経済ともに力を持っていたのです。四国は藤原秀郷一門の末裔域と言っても過言では有りません。秀吉が最後頃まで統治できなかった地域です。ですから、伊達藩を宇和島に一部移動させて安定化の懐柔策を図ったのです。
それが同じ藤原秀郷一門同士の進藤氏の最も多い伊達藩を当てたのです。
そして、進藤末裔のお家が選ばれたのです。
四国は藤原氏の中でも「第2の宗家」藤原秀郷流青木氏の定住地で関東についで多い所なのです。
上記した地域は全て青木氏が活躍する地域です。
この青木氏の中に、進藤氏の2流を発祥させたのです。
多分、お家の宇和島の一族と観られるますが、
外姻戚で元の進藤氏を伊予宇和島で進藤氏を名乗った氏
もう一つは、直接内姻戚で名乗った進藤氏末裔綾部氏でその支流の羽床氏です。
移動後、藤原秀郷氏末裔の同族伊予の長曾我部氏で最後まで和平に応じなかった豪族ですがこれと一戦交えています。

家紋は「変わり光琳胡蝶紋」で、元は「かに藤紋」を綜紋としていた事、そして、そのルーツは藤原秀郷主要5氏の文行系「進藤氏」であった事が上げられます。
同族利仁流進藤氏と新潟境で重複しています。

青木サイトですが、可能な範囲で、家紋とルーツに付いて大まかに述べました。
伊達氏のルーツもお調べになると、更に意味があると思いますが、更に詳しい事は、又改めてお答えする事もあると思います。とりあえず、ご質問の概容の説明とします。

ご質問等ありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。



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