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  [No.595] 青木姓ではないですが。。。
     投稿者:   投稿日:2009/07/31(Fri) 02:18:38

管理人様

はじめまして。私は青木姓ではありませんが、どうしても我が家のルーツを知りたくてこちらにお邪魔させていただきました。どうかお分かりになる範囲で教えてください。

私の姓は「志賀」と申します。菩提寺は、愛媛県宇和島市にある金剛山大隆寺です。先祖は、伊予宇和島藩に仕えていました。詳しくは知らないのですが、もともと本家は仙台のようなのです。
現在は宇和島志賀家十三代が当主であります。

家紋には「蝶」が使われており、昔は平家がルーツかと思っていましたが、最近、源氏ではないかと思い
こちらで調べて頂けたらと思います。その蝶の紋ですが、色々とネット等で調べてみたのですが、一致するものが載っていなくて、合わせて家紋名も教えていただけたらと思います。(添付ファイルご参照)
以上、情報が少なく、また青木姓ではないですがよろしくお願いいたします。


  [No.596] Re:青木姓ではないですが。。。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/07/31(Fri) 07:21:50



志賀さん 今日は。始めまして。

青木サイトにようこそ御越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。



さて、早速ですが、お尋ねの件ですが、青木サイトですので詳しくはお答えする事は出来ないと思いますが手がかり程度の事はお答えする事が出来ます。

家紋の添付がされていませんので、もう一度Reで「参照」をクリックして、貴方様のドキュメントの写真保存庫をオープンしてクリックし選んで、エンターすると添付ファイルのところにファイルのアドレスが入りますと送れますので、適当な文章をReにつけて送ってください。

先ず先に。
蝶の紋は100程度あります。その内揚羽蝶紋は確かに平家紋です。
次に、源氏紋は皇族賜姓青木氏と同じ同族で笹竜胆紋ですが、源氏の子孫は完全に死滅しましたのでよほどの事で無いと末裔では有りません。
源氏は11家11流ありましたが残ったのは4氏で清和源氏と村上源氏と嵯峨源氏と宇多源氏です。
その源氏と名乗っている氏は佐々木氏、北畠氏、青木氏、大島氏以外は殆どが「未勘氏」です。仮に未勘氏でなくても、武田氏、足利氏等のように源氏支流分流分派の傍流か未勘氏です。
歴史的史実から源氏はそんなに子孫を多く遺している事はないのです。
地域性も第6位皇子で朝臣族であったために平家と異なり極めて限定されていますので、家紋の蝶と宇和島と仙台では未勘氏と第3氏以外は源氏説は完全に消えます。

菩提寺が宇和島にあるとして13代目と成りますと、その菩提寺にお家の志賀氏の過去帳がありますので、それを確認されて観ると、ご先祖がわかる情報が入っています。
その中で一番古い人には、添え書きが記されていて、何処より移動してきたかを記載されている可能性があります。
戒名には先祖の「3つの情報」を読み込んでいますので、それを全体の人の内容を読み取るとルーツも判ると思います。かなり専門性が必要ですが、その都度ご質問ください。お答えします。
戒名には、階級があり、身分、家柄、現世功徳などが読み取れます。最高で「院殿居士」と成ります。
ご先祖の一番古い人を先ずはご確認してください。

お送りしていただくものとして、江戸中期以前の宗派、伝えられている史実なども判る範囲で詳しく書き込んでください。
愛媛県宇和島に菩提寺があるとしますと、又仙台(何時頃 一番古い人)と成りますと、考えられる事も無いわけでは有りませんので。

兎も角も、送ってください。お待ちしています。


  [No.597] Re:青木姓ではないですが。。。
     投稿者:   投稿日:2009/07/31(Fri) 12:23:02
Re:青木姓ではないですが。。。 (画像サイズ: 240×180 0kB)

福管理人様

こんにちは。早速のご回答恐れいります。ありがとうございました。
添付写真、失敗してたんですね。すみません。プレビューではちゃんと写ってたんですが。。。
改めて添付いたします。今回はどうでしょうか?

さて、現在私は千葉県に在住のため、なかなか菩提寺には行く機会がございません。ですからすぐには
詳細な情報を提供できませんが、伝えられている史実を少し書いておきます。
先祖の一人に「志賀右衛門」というものがおります。彼はもともとは「伊達政宗」の家臣の一人でしたが、
政宗の長子「伊達秀宗」が伊予宇和島の藩祖となった際に仙台から供をした57騎の武将の一人であったとされています。おそらく「志賀右衛門」が宇和島志賀家初代なのかもしれません。

簡単ではございますが、よろしくお願い致します。


  [No.600] Re:青木姓ではないですが。。。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/07/31(Fri) 15:52:40

写真届いていますが、容量が大きくてこちらで停止の状態に成っていたようです。
何とかしました。

蝶の紋は「光琳胡蝶文様」の変紋です。大変珍しい家紋で家紋8000選にありません。
光琳胡蝶紋は2つありましてもう一つは陰紋です。明暗が反対に成っている紋です。
光琳胡蝶紋の関係氏と観られます。

尾形光琳(1658-1716)は画家であり装飾家で工芸家でもありました。
大変に斬新な意匠もこなしたと聞いています。
恐らくはこの光琳胡蝶の紋も光琳が描いた意匠であったと考えられます。
お家の紋は真ん中に二枚羽が付いていて尻尾に特長をもたせたものです。
「変わり光琳胡蝶紋」と云います。

光琳胡蝶紋は江戸初期旗本や御家人ら300氏以上がこの蝶紋の変紋を家紋としたと成っています。

この内平氏紋は30程度と成ります。揚羽蝶の紋は奈良期に衣装紋的に使われ平安中期に象徴紋として平の頼盛が車意匠として称したのが始まりです。それで後に京平家紋(桓武平氏)に成ったものです。

羽根を立てた蝶として「揚羽」、羽根を広げた蝶として「浮羽」(伏羽)と云いますが、お家の家紋はこの「浮羽」ですね。依って京平家の文様では有りません。

この光琳胡蝶紋は元禄時代1700年頃に家紋として使用されたものが確認出来ていますので、光琳が意匠化し何らかな物に意匠文様として最初室町の豪商が使用し、商人から後に武士が変わり光琳胡蝶紋として家紋として使用したのではと観られます。この「変わり光琳胡蝶紋」は武士用の家紋として威厳風格を持たせたものでだと言われています。
これが、お家の家紋ではと観られます。

尾形光琳は豪商や上級武士を相手に絵画や工芸や意匠紋を作っり書いたされている人物です。
「風神雷神屏風絵」は有名ですが、焼き物陶の「九谷焼」や高級漆器「宇和島塗り」や「根来塗り」などの工芸の文様もよく書いたと記録されています。
現在でも九谷焼や宇和島塗の展示会にはこの光琳文様の銘器が展示されるようです。

ここで、光琳との接点が「宇和島」として出てきます。
宇和島塗りの意匠を手掛けたと記録がありますので、お家とのこの「付合い」もここでの中ではと考えられます。

恐らく、当時の大大名の徳川氏や伊達氏等とも付き合いは広く、この中で、この光琳胡蝶紋の変わり紋を家紋としてお家などが使ったと観られます。
伊予宇和島塗りでも有名ですが、その付き合い関係から家紋を変わり光琳胡蝶紋としたのではと観られます。

ここで、この家紋は比較的新しい家紋ですので、経緯から恐らくは、お家は1700年代前頃にはすでに武士であった観られますので、元の家紋があったと考えられます。
多くの武士の家紋は江戸初期前後に家紋化したものです。それ以前は大名クラスが家紋を使用していました。

ここで志賀氏のルーツの元の家紋と言う事に成ります。
では一体何処のルーツかと云う検証ですが、これを調べれば元の家紋も出てきます。実は明確な史実があるのです。
この仙台の西域北域の国境には藤原秀郷一門が進出していた地域です。
この地域には、平安期から江戸末期まで代々藤原秀郷主要5氏(361氏中)の進藤氏が定住地域です。
現仙台市岩切を中心に定住していました。この進藤氏は「かに藤紋」を綜紋としています。この末裔分家の家柄では無いかと考えられます。
進藤氏は秋田横手、延沢、群馬高崎、山形尾花沢市の地域に定住しています。
仙台は進藤氏のこの真ん中です。
進藤氏は藤原秀郷一門361氏の調整役を担っていました。藤原秀郷流青木氏の「第2の宗家」を補助して一門の問題処理に当っていた一門です。
恐らくはこの末裔であろうと観られ、1騎を列ねるくらいの家臣を保持していたと成りますと少なくとも従来から地元の豪族でなくてはなりません。そうでなくては、また、伊達家の重臣であったはずですから務まりません。地元の豪族だからこそ重臣となり得ます。それ以外の氏がこの地域に入り力を出す事は氏家制度の中で、なかなか出来ません。
移動は「国抜け」で重罪であり一人が来て身を興すことは最早出来ない時代ですし、関東に明治まで勢力を張っていた藤原秀郷一門末裔と進藤氏一門末裔が許しません。

この武蔵入間を中心に横浜神奈川を半径とする円地域が藤原秀郷一門361氏の勢力圏でした。
鎌倉時代を経て明治まで氏家制度の社会慣習に護られて定住していた地域です。
現在も仙台は末裔の現存する地域です。

その相互依存の形として、進藤氏は「武蔵7党」の主導者で7党の一つ仙台西域の西氏と血縁を結んで配下に治めていました。
青木氏の史料の範囲では、その志賀氏は武蔵国比企郡志賀の出とされ、進藤氏の支流末裔で志賀の地名から名乗った藤原秀郷一門です。
この志賀の地には、「淡州神社」(淡州は四国淡路国 現在の徳島 藤原一門が代々阿波の守護を務めた)もあります。

武蔵7党は進藤氏と血縁して児玉、比企、秩父、入間等仙台域まで広く分布しています。
(武蔵7党に付いては「青木氏氏 研究室」で検索してください。詳しくレポートしています)

恐らくは関東一円土豪「武蔵7党」の土豪集団を配下として家臣として伊達に仕えたと観られます。
その進藤氏系志賀氏と観られます。

この因果関係として「仙台進藤氏」末裔の一部が伊予にて外姻戚の進藤氏を名乗り伊予進藤氏末裔を発祥させています。
この地域は、明治まで「讃岐籐氏」と呼ばれて伊予東、讃岐、阿波、土佐、瀬戸内、安芸南沿岸、出雲まではこの「讃岐籐氏」の藤原氏一門の絶対的勢力圏でした。「2足の草鞋策」を敷き軍事経済ともに力を持っていたのです。四国は藤原秀郷一門の末裔域と言っても過言では有りません。秀吉が最後頃まで統治できなかった地域です。ですから、伊達藩を宇和島に一部移動させて安定化の懐柔策を図ったのです。
それが同じ藤原秀郷一門同士の進藤氏の最も多い伊達藩を当てたのです。
そして、進藤末裔のお家が選ばれたのです。
四国は藤原氏の中でも「第2の宗家」藤原秀郷流青木氏の定住地で関東についで多い所なのです。
上記した地域は全て青木氏が活躍する地域です。
この青木氏の中に、進藤氏の2流を発祥させたのです。
多分、お家の宇和島の一族と観られるますが、
外姻戚で元の進藤氏を伊予宇和島で進藤氏を名乗った氏
もう一つは、直接内姻戚で名乗った進藤氏末裔綾部氏でその支流の羽床氏です。
移動後、藤原秀郷氏末裔の同族伊予の長曾我部氏で最後まで和平に応じなかった豪族ですがこれと一戦交えています。

家紋は「変わり光琳胡蝶紋」で、元は「かに藤紋」を綜紋としていた事、そして、そのルーツは藤原秀郷主要5氏の文行系「進藤氏」であった事が上げられます。
同族利仁流進藤氏と新潟境で重複しています。

青木サイトですが、可能な範囲で、家紋とルーツに付いて大まかに述べました。
伊達氏のルーツもお調べになると、更に意味があると思いますが、更に詳しい事は、又改めてお答えする事もあると思います。とりあえず、ご質問の概容の説明とします。

ご質問等ありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。


  [No.603] Re:青木姓ではないですが。。。
     投稿者:   投稿日:2009/08/03(Mon) 14:35:26

福管理人 様

お世話になっております。このたびは青木姓ではないにもかかわらず、質問した内容以上の詳細なご回答を頂きまして誠にありがとうございました。福管理人様のご博識ぶりには、只々感動するばかりでございます。
自分にとっての新しい発見もあり、大変嬉しく思います。

家紋というのはその基本形から、様々な形にアレンジ(今回の「光琳胡蝶」→「変わり光琳胡蝶」のように)されてたりするものなんですね。大いに勉強になりました。
ところで、「浮羽」ということは京平家の文様ではないということでしたが、そうすると志賀家のルーツは、仙台本家が藤原秀郷一門と何らかの関係があることから平家でも源氏でもなく、藤原氏の末裔ということになるのでしょうか? 


  [No.604] Re:青木姓ではないですが。。。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/08/03(Mon) 20:22:05

志賀さん 今日は。
返信がお役に立ててよかったです。

本サイトとは青木氏に関する史料が沢山準備されていますが、これ等の史料はその研究の過程で出て来る事でして、深くは判りませんが、関係氏に付いては持っているものです。
大分以前に調べたことでしたが、それを今回のお便りで再び思い起こした次第です。

今回のお便りのご確認ですが、その通りです。

藤原秀郷一門主要5氏の進藤氏の支流の末裔と云う事に成ります。

大化改新の貢献者藤原鎌足の子孫で8代目の藤原秀郷と云う者が居ました。
藤原氏は「四家」と呼ばれ、北家、式家、南家、京家の流があります。
しかし、この四家の同族争いが起こりました。結果、北家一族が生き残り摂関家、と一条、近衛、九条、鷹司の公家と藤原秀郷一門とが最大勢力を誇りました。後3家は殆ど滅亡しました。

志賀氏は藤原秀郷一門の支流に当ります。
関東に独立国を築き5年間も続いた「平将門の乱」に対し、朝廷は手の施し様も有りませんでした。
そこで、困った朝廷は”誰かこれを討てる者は居ないか”と呼びかけましたが、居ませんでした。
そこで、”もし居たらその者に思いのままの希望を叶える”としました。そうすると、2人が名乗り出ました。

その一人がこの藤原秀郷です。下野の押領使(軍事と警察)でした。
もう一人は、渡来人で阿多倍王の孫の京平家の平貞盛でした。常陸の押領使でした。
桓武平氏(京平氏)で太政大臣の平清盛の4代前です。

この二人は5年の歳月をかけて滅ぼしました。
そして、条件(貴族に成る事、武蔵国の領主に成る事)を叶えられました。
これが、藤原秀郷一門361氏の始まりです。

秀郷一門は関東一円を最終獲得しました。
この主要5氏が、4代目の兼光流は青木氏、永嶋氏、長沼氏 4代目の文行流は進藤氏、長谷川氏です。
この5氏から、8氏、16氏、24氏の本流が拡がり、最終、それらの本流の第一支流、第二支流と拡大し、武蔵国比企郡志賀氏にまでに及ぶ361氏の末裔と成りました。

志賀氏は主要5氏の一つ進藤氏の第一支流末裔と成ります。
本流、支流、分流、分派は「家紋と氏名」で判別が付きます。

本流は秀郷の第3子の千国青木氏を除き、24氏は主要8氏は、藤原の藤の前に、役職名を付けて氏姓として呼びます。例えば、有名な斎藤氏の様に。「斎蔵」と云う祭祀を司る官僚のトップ役職名です。
佐藤氏、左藤氏と云う左衛門佐(宮廷親衛隊)の様に。
次ぎに、24氏までは赴任地の24地名を付けて氏姓として呼びます。例えば近藤氏(近江)伊藤氏(伊勢)の様に。
次ぎは支流は定住地の地名を付けます。秀郷の領国の武蔵国比企郡志賀の志賀氏の様に。

秀郷一門は最終は武蔵、下野、上野、下総、常陸を領国と成りました。
全体として361氏に成ります。

青木氏は116氏、永嶋氏は34氏、長沼氏は52氏、進藤氏48氏、長谷川氏111氏、

お家の武蔵国比企郡志賀域から出た志賀氏は、秀郷一門の文行系進藤氏48氏の支流と成ります。
綜紋は藤原秀郷一門の綜紋「下がり藤紋」の内進藤氏の綜紋「かに藤紋」の48の家紋の一つと成ります。
ただし、1700年頃に「変わり光琳胡蝶紋」を家紋としていますので、この家紋は新しく、上記進藤氏系志賀氏はその前の家紋が平安期の48家紋のどれかに当ります。これ以上は青木サイトからの情報が有りませんので判りません。

伊達家に仕えたとすると、記録より、武蔵国比企郡志賀の進藤氏の支流末裔48氏であると観られます。
「武蔵7党」との一部血縁を持つと観られる進藤氏系志賀氏に間違いは無いと見られます。

結論は藤原氏北家秀郷一門文行系進藤氏48氏の支流末裔であります。

進藤氏48氏の家紋は、詳しくは青木氏氏 研究室の「藤原秀郷主要5氏と家紋の研究」6/10を参照して下さい。
「藤原秀郷」のことは研究室に沢山のレポートがありますのでお読みください。

ご質問有りましたら、ご遠慮なくお便りください。


  [No.609] Re:青木姓ではないですが。。。
     投稿者:   投稿日:2009/08/20(Thu) 10:05:53

福管理人 様

ご無沙汰しております。その節は色々とご丁寧にお調べ下さりありがとうございました。
自分のルーツについてますます興味が湧いてまいりました。

さて、今回は宇和島に在住しております志賀家の当主(伯父)より、家系図の写しを送ってもらったので
その真贋等をお教え願いたいと思います。

その家系図には二種類の系図が載っておりました。一つは、近江宇多源氏佐々木家○系(←○の中は母という文字にも見えるも判読難解)並京極家 ○○家(←○の中は判読不可) というタイトルがついており、宇多天皇から始まる系図でした。

もう一つは、少し長いですが、「宇多源氏朽木家佐々木苗流江列志賀領主隠岐守高信男信男志賀八郎義信後胤」という添え書き(?)のようなタイトルがついておりました。
その系図は、宇和島志賀家初代から始まっております。その初代(為貞)の添え書きは、「幼名九良太郎又兵四良後右衛門元和八戌年三月二十五日卒法名天瑞院玄寂宗理」と書かれております。

またまたご面倒なお願いを申しまして恐縮ですが、是非福管理人様のコメントが頂きたいです。ひょっとしたら源氏が祖先かも? と思いましたが、以前、源氏はほとんど滅亡したというご説明を受けてますから、この家系図の信憑性も含めて教えてくだされば幸いです。

何卒よろしくお願いします。


  [No.610] Re:青木姓ではないですが。。。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/08/20(Thu) 23:34:02

志賀さん 今日は。

お調べに成ったようですね。
では早速ですが、その前に、大変お答えがし難いものと成りますが、敢えて忌憚無くお答えしますのでそのおつもりでお読みください。サイトの信頼性を貫く為に単刀直入でお答えします。
それをどう扱うかは志賀さんの判断と心得ます。

では。
先ずその家系図又は系譜に付いて、基本的な事をご認識いただきます。その上で、ご判断をお願いします。
家系図又は系譜はその代毎の人が追記して行けばよいのですが、現実は何処の代の人が何か書物などを基に調べたものを書き上げたものが殆どです。100%だと思います。
というのは、鎌倉時代より下克上、戦国時代、室町時代、安土桃山時代と戦いに明け暮れ先祖が遺した書籍は消失しているのが殆どで、且つ、討ち死にする等で先祖がわからなく成るなど追記して行く事は現実に不可能です。
まして、この間には、男系が絶えて女系になり、跡目養子、婿養子などが起こります。この様な煩雑なことを護って残して行く事は不可能です。
ある代の人がこの系譜を作る時にこの様な事を調べる個人的な史料までは遺されていません。
ではその典型的な例を幾つか述べて見ます。
豊臣氏でも、徳川氏でも、今投稿している武田氏でも搾取偏纂の結果なのです。
徳川氏では幕府を開く時には、まず「征夷大将軍」の称号を取る必要があります。
これには朝臣族である事が必要です。つまり、源氏である事が必要です。
徳川氏は南北朝の頃の架空の第6位皇子を作り出して16代目の源氏としましたが、朝廷はこれを認めなかったのです。
南北朝では第6位皇子の賜姓源氏の意味は全く無く成っている事と、南北朝は皇子が少なくて天皇になれる資格の者が無くて争ったのですから、第6位皇子を賜姓する事の事態が無い訳です。
それまでの源氏の系譜は明らかに成っていますので、作り出すことは出来ませんので、止む無く南北朝を引っ張り出してきて創り上げました。しかし、朝廷自身が一番良く知っている訳ですから拒んだ結果、天皇家の生活が成り行かなく成るまで経済的な圧力を掛けました。
壁は崩れ、その日の食事もままならないまでに天領地を剥奪してしまったのです。
止む無く朝廷は認めます。しかし、征夷大将軍は無理強いで解決しましたが、幕府を造るにはもう一つの条件が必要です。それは賜姓源氏は嵯峨天皇から始まり花山天皇まで11代ありますが、「源氏の頭領」である事が必要です。これには「朝臣族」(第6位皇子まで)である必要があります。
朝廷は流石にこれは頑として拒みました。この時は殆ど食事も出来ないような状況におかれたと記録されています。そこで、家康は「源氏長者」と云う称号を作り出し認めさせました。
つまり、「源氏の頭領」は認めていないので、結論は、源氏そのものも認めていないと同然です。
更に、家康はその系譜を作らないと周囲から疑われます。三河の土豪であったのですから突然に「源氏」と名乗っても信用はされません。そこで、家康の祖父の時代に三河土豪の松平氏の家の前に比叡山僧が現れて泊まったとして、その時に娘との間に出来た子供が家康の父であるとしました。
そして、この比叡山僧は第7位皇子以下の皇子又は第5世以下の皇族である為に、定めにより皇族を離れる必要がありますので比叡山に登ったとしています。そして、修行の為に下山し、その途中三河に来たとしました。
確かに、第7位皇子以下第5世以下は「嵯峨期の詔」で下族する事を決められていますので、殆どは門跡寺院や、比叡山等、また、天皇家の神社神官斎王などに成りました。
この一人が先祖だとして皇族系で朝臣族だとしたのです。
ここで、矛盾があります。賜姓源氏の11代は全て第6位皇子ですので、下族しません。第7位で第5世以下ですから源氏では有りません。もう一つの矛盾は皇族出身者で下族した人物は嵯峨期から11代続いた中で18人しか居ないのです。家康が云う人物はこの中に無いのです。
この様に朝廷は記録にも無い事だし、この矛盾を突いたのです。

因みに、第6位皇子が賜姓を受けると決めて臣下して天皇を護る親衛隊としたのは大化改新の中大兄皇子、天智天皇が定めた令です。
蘇我氏との軋轢の反省から、50人以上も居る皇子への財政的負担が天皇家を弱くした事、”いざ”と云う時に天皇を護る身内の軍隊を作る必要があったが無い為に蘇我氏にもう少しで天皇を奪われるところであったからです。
これの反省から、第4位皇子第4世皇位継承権の制度を造り、第6位皇子は臣下して親衛隊とする事を定め、「青木氏」を賜姓したのです。その初代が「伊勢王」の「施基皇子」で伊勢賜姓青木氏です。この制度は5代の天皇に引き継がれます。そして、その5代目の光仁天皇の子供の桓武天皇はこの制度を無視し、中国後漢の渡来人阿多倍王の末裔を引き上げて平族(たいら族 平清盛等 桓武平氏)を賜姓します。
(関東にある北条氏等の「坂東八平氏」とは異なります。これは「ひら族」と云います。つまり、皇族第7世族です。)
そして、その孫娘を母に持ちます。ところが桓武天皇の子供の嵯峨天皇がこれに反発して元の制度に戻します。この時に賜姓を青木氏から源氏に変名し、青木氏は皇族出身者が名乗る氏名とするとして禁令の詔を発しました。これが賜姓源氏です。この家康の採った事は有名な事件です。
秀吉の事は衆知の事実です。

特に、この搾取偏纂は3期起こっています。
一つは室町末期、2つ目は江戸初期、三つ目は明治初期です。
室町期は下克上を通じて農民が立身出世で武士となり伸し上がった者等の搾取偏纂です。
江戸初期前後はこれ等の者が旗本御家人として家柄身分を良く見せるために「家紋」や「系譜」等を偏纂したのです。出世の為にも爆発的に起こりました。下級武士まで全て持ちました。
明治では全て苗字を持つ苗字令と督促令で国民の九割が苗字と系譜と家紋を造りました。
江戸時代は戸籍は寺が行っていましたので、寺に高額金品を払い良い氏名と家紋と系譜を造ってもらい自前のものとしたのです。
ある日突然に郡や村が同じ土地の有名な(青木氏や藤原氏など)豪族の同じ姓を名乗ると云う現象が起こり、氏名、家紋、系譜を同じくしたのです。ところが3期ともに一つだけ出来ない事がありました。それは宗派です。浄土宗だけはこれ等の特定の宗派で個人が入信できる宗派ではなく、又特定地域にしか無く、寺も多くなく、一つの氏が自前で建立した寺で専用の菩提寺としていましたから、これ等の者等はこれだけは変えることや入信を認めてもらえる事が出来なかったのです。

さて、お家は家紋が「変わり光琳胡蝶紋」の紋です。天和8年は1622年ですが、徳川氏を始めとして江戸初期の爆発的なブームと成った時期天和と真に一致します。
この時期の江戸期初期の系譜、家紋、氏姓のものははっきり申し上げて、搾取偏纂が殆どです。
それまでは家紋、系譜、は主に上級武士階級以上の氏が持つ社会習慣でしたので、無い者は一度に持ち始めたのです。ですから、元から家紋、系譜などある事は有りませんので、この様な搾取偏纂が全てと成るのです。
次ぎに、先ず、宇多源氏は近江佐々木氏では有りません。滋賀佐々木氏です。
近江佐々木氏は天智天皇の第7位皇子の川島皇子の末裔です。
天智天皇は第6位皇子の施基皇子に続いて特別に第7位皇子の川島皇子に相当の勲功があった為に地名を採り佐々木氏を賜姓しました。
佐々木氏は皆同じと思っての間違いを起こしています。
これは上記の系譜を造った人の知識の間違いを起こしたのです。
佐々木小次郎は近江源氏でその末裔です。
近江佐々木氏と滋賀佐々木氏にははっきりとした違いがありますので判別できます。
通名や官職名等が異なっています。
何れも家紋は青木氏と共に皇族系ですので笹竜胆紋です。その末裔も光琳胡蝶紋では決して有りません。
近江佐々木氏は近江青木氏と皇族同族血縁していまして、佐々木氏系の末裔には変わり光琳胡蝶紋は有りません。まして、前回にお答えしました様に「変わり光琳胡蝶紋」は全国8000の家紋の中に無い程の家紋なのです。個人家紋扱いです。つまり、上記江戸期の混乱期と成ります。
氏家制度では血縁は同格を前提としています。先ず下げて血縁する事は先ずありません。近江佐々木氏は滋賀佐々木氏よりも上ですが皇族として共に同じ扱いです。
これ等末裔は全て浄土宗で絶対に改宗する事はありませんので、ここも明らかに違います。
系譜を作る時に作者はこれ等の知識を把握していない事に拠ります。

次に佐々木氏は母系としていますが「氏家制度」では男系です。
ここにも矛盾があります。母系とすると代々母の実家は変わりますので無理に書いています。
もし、母系であれば娘に養子婿を代々採ったと成りますからありえない事です。

次ぎに、戒名ですが、ここでも矛盾があります。
もし、志賀氏が佐々木氏等の皇族系賜姓源氏であるとするならば、戒名があまりに低すぎます。
戒名はその家の家柄や身分や威徳やなどを読み込みます。
しかし、宇和島の志賀氏のご先祖の法名戒名はこの仕来りに従っていません。
「院殿居士」と云いまして、これ等のこの時代であればこの皇族賜姓族はこの院殿居士を使っています。仏教では最高級の位です。宇和島の志賀氏は「院」が着いていますが「殿居士」は有りませんので、武士でもかなり低い戒名と成ります。現在でもこの院殿居士を着く人は相当な人格者でないと着けてもらえません。無理にとすると驚くような高額な金品を支払う必要があり、寺側でもこれを乱発すると値打ちが下がり収入が低下しますので、家柄、身分、威徳が相当の人で無いと着けません。
「居士」さえも着いていませんし、せめてもの「士」も有りませんので、武士ではないのではとも見られる程度です。普通は武士であれば「士」は着くものです。「士」は元来「さぶろう」の古語の意味を持っています。
寺側が相手の家柄身分威徳を観てつけるもので厳格に護りますので、戒名法名等はこれらを如実に表します。
この戒名からすると良くて郷士、庄屋、名主、と成ります。

次に戒名の形ですが、これは佐々木氏の末裔としての宗派が浄土宗形では無く矛盾が出ています。
次に、佐々木氏に継いで京極家の公家を着けています。
佐々木氏で藤原氏北家摂関家であるとしています。矛盾のある着けるだけの家柄を着けたと成っています。

更に、官職名が着いていますが、「・・衛門」、「・・兵衛」また、この時期は守護職の「・・守」とありますが、この時期のこの二つは勝手に着ける無秩序な事に成っていました。
「・・衛門」等は青木氏と藤原氏しか漬けられませんでした。朝廷から送られて永久使用の官職名です。家柄身分を示すものでした。上記した様に大化改新で青木氏と藤原氏は親衛隊を形成して宮殿の三門を護る責任者でしたのです。また5天領地の守護王でした。
例えば「青木民部上尉長兵衛信定」と言う風に。源氏系であればこの様に成ります。
しかし、江戸期ごろから徐々に申請推薦を無視し自分で着けるほど無秩序に成りました。
幕府もこれを黙認したのです。朝廷を押さえ込む為に。

「・・守」は「・・衛門」と同様に室町期は幕府申請によりまだ朝廷から授与でしたが、江戸期では全く名誉職位で金品を朝廷に渡せば送られるものでした。江戸中期前には中級武士以上であれば最後には勝手に付ける始末でした。徳川幕府に締め付けられて朝廷の主な経済的な収入源でしたので無秩序にしたために最後は意味が無く成ってしまったのです。天皇家の「五三桐紋」はその良い例です。秀吉が勝手にやった事ですが。農民までこの家紋を限定した所(墓紋)に使う状況でした。

次に普通佐々木氏等の家柄身分の氏では世襲の「通名」を使うのが慣習でした。しかし、宇和島志賀氏には見当たりません。これ等の氏には特定の氏家制度の習慣があるのです。
これ等の系譜、家紋、氏名、官職、通名、戒名、仏壇、宗派、等を調べれば矛盾が生まれるのです。
それは「系譜系図」を作る条件から来るのです。

造る人がこれだけの知識を以って造ることは先ずありえませんから、誇張しても直ぐに判るのです。
これ等の矛盾のある氏の事を「未勘氏」と云います。
また、青木氏や藤原氏などの氏や家紋や系譜を搾取編纂して造る氏が上記3期に出ました。これを第3氏」と云います。志賀氏の場合はこれに当りませんが、源氏を名乗るところは完全矛盾の多い「未勘氏」と云えます。
源氏が死に絶えたからこの未勘氏が多く出たのです。
但し、源氏は滅亡する直前に戦略上、青木氏5家5流(近江は賜姓青木氏と賜姓佐々木氏です、伊勢は賜姓青木氏です、美濃は賜姓青木氏と土岐氏ですが土岐氏は滅亡しました、信濃は賜姓青木氏と足利氏です、甲斐は賜姓青木氏と武田氏です)とに跡目を入れてこのルーツに遺したのです。あとは未勘氏と成る支流、分派、分流、傍流です。
現在、源氏として正式に名乗れるのは、この5氏と近江佐々木氏、滋賀佐々木氏、伊豆大島氏だけです。そして、これ等から出た末裔の家紋と大筋の系譜も判っています。
つまり、これはどう言うことかといえば、滅亡するとその末裔から文句をつけられないからです。
ですから江戸初期には「家紋系譜氏名」にこの系譜系図、家紋、氏名の爆発的なブームが起こったのです。
青木氏の場合では、秀吉の面前の立会いの上で、本来の青木氏から文句をつけられて250人の兵で互いに戦ったと言う事件も起こるくらいです。この場合は搾取偏纂した方が勝ちました。秀吉のデモンストレーション作戦でした。この様な争いがこの時期に各地で起こりました。

前回にも述べましたが、仙台付近域の志賀氏は藤原秀郷流進藤氏の末裔である事は青木サイトとの範疇ですので間違いは無いと思いますが、そうすると、宇和島の志賀氏がこの関東域の志賀氏の末裔であるとすると矛盾が生まれます。
確認が取れませんが、疑うと、つまり、滋賀の志賀として、宇和島の志賀氏が、関東進藤氏末裔の志賀氏との宇和島移封に乗せて、第3氏が名乗ったとも取れる内容に成っています。
(進藤氏48氏には光琳胡蝶紋はありません。 前回のお答えで途中で変紋した可能性をお調べにと申し上げました。変紋がなかったとするならば、この度の情報の矛盾で未勘氏か第3氏と成る可能性が大きくなりましたが。元は光琳胡蝶紋の文様は豪商、豪農が使いました)

客観的史実からの評価でははっきりと申し上げて解決出来うる条件ではなく矛盾が多くあります。
現在、青木氏サイトでは武田氏の事をレポートしてますが、武田氏でも疑問が多くありましたが解けました。
徳川氏の有名な例を観ても推して知るべしです。家康が自ら搾取偏纂をやってのけたのですから、真実の系譜を作るのがいかに難しいかお判りになると思いますし、その信頼度の土壌がひくいもので在ると思われますし、何はともあれ歴史に興味のある者にしては有名な「天和」ではその真ん中です。
見本的なものですし、殆どの人は知らないだろうとして、作者は作るのでしょうが、基礎資料の無い中で、専門的に観ると一目瞭然です。

さて、後はどの様に信じるかは志賀さんの判断に委ねるしか有りませんが、客観的史実からは以上の矛盾を孕んでいます。私見ながら、見本的な未勘氏のこれだけの矛盾は解決は困難だと思います。
逆に、藤原秀郷一門進藤氏から離れて、この系図では元は武士では無かったのではとも成ります。
仙台と宇和島に関係性が無くなり、典型的な未勘氏か第3氏の系図ではとも考えられる矛盾を孕んでいます。

但し、「第3氏」と「未勘氏」の用語は「寛政史書」などにも記載使用する用語です。氏家制度の社会習慣での用語です。念のために。

戸籍も限られた階級しかない習慣の情報社会ではない、且つ閉鎖的な社会での江戸期前後に、下級武士までの系譜を調べるだけの基礎史料はあったとは思いますか。到底ありえませんね。ではどうするかです。ではどの様なことが起こるかです。
搾取偏纂してもそれをとやかく云う者は居りません。自分もそうですし、又知らないのが普通ですし、調べる方法は限られていますし、文句をつけてくる家もそれだけの力もないし、情報を入手できるほど社会は進んでいません。ですから、氏の何れかの代の人が氏名、系譜、家紋など搾取偏纂して創り上げて名乗ればその内にそれが伝統と成る事に成ります。
例えば武田氏でも寛政の頃1800年に武田信政という末裔が武田氏一族の系譜を作ったのです。そして、この系譜は自分が作ったと書き記しているのです。
それはそれで其処に歴史が生まれますのでそれを自分が信じる事で良い事ですので問題とは云っていません。
青木サイトの於いては系譜等よりもより史実からその有無を調べてそれを追及研究しています。
その意味では、作成の経緯から見て専門的には、この時代の系譜系図とには相当信用が出来るものをご使用される事を特に追記します。

では、何かご質問有りましたら、ご遠慮なくお尋ねください。


  [No.777] Re:青木姓ではないですが。。。
     投稿者:志賀   投稿日:2011/05/16(Mon) 11:56:41

福管理人 様

大変ご無沙汰しております。あれから2年も経ちますが、その節は色々とご丁寧にお調べ下さりありがとうございました。大変感謝しております。

さて、今回は愛媛県宇和島市にある伊達博物館で我が志賀家の展示がされており、そのホームページに書かれていることから再びご先祖のことをお教え頂けないかと思い、投稿いたしました。

前回、ルーツが「藤原氏北家秀郷一門文行系進藤氏の末裔」ということをお教えいただきましたが、今回の情報によりそのことがより明確になったのか、また新しい発見があるのかを知りたいと思いました。

またまたご面倒をおかけいたしますが何卒お時間のある時にご教示の程よろしくお願い申し上げます。

以下、そのホームページからの抜粋です。(参考URL:http://datehaku.blogspot.com/2011/03/blog-post_31.html#more)


《宇和島伊達家初代伊達秀宗は、仙台伊達政宗の長男であるが仙台伊達家を継がず、宇和島藩主となった。元和元年(1615)、秀宗が宇和島に初入国した際に、秀宗につき従った侍たちは「五十七騎」と呼ばれているが、その中でも政宗が派遣させた「御家老役」として、重きをなしたのが志賀右(う)衛門(えもん)為(ため)貞(さだ)である(略系図参照)。

志賀家は元来、伊達家に仕える以前は、佐竹家に仕えた家であった。仙台伊達家に仕えていた右衛門は、宇和島において3年のみの勤務ということで入国したのであったが、宇和島藩から1500石の禄を受けることとなり、仙台に残っていた息子の平四郎は、仙台藩において1500石の禄を受けることになった。右衛門の甥にあたる志賀喜兵衛為(ため)清(きよ)は仙台にいたが、宇和島伊達家に仕えることになり、元和9年(1623)200石の知行となった。

以後、志賀家には加増が度々行われ、江戸末期の嘉永4年(1851)に記録されている500石の知行は、10万石の宇和島藩においては高禄であり、藩士の中では6番目に高い禄高となっている。
 
志賀家は代々、「九郎(くろ)兵衛(べえ)」を名乗る者が多く、目付、御使番、留守居役、御番頭、藩主の婚礼の御用掛、仙台藩への使者など藩の要職を務めており、役目を果たした褒美として、藩主からしばしば衣服等の拝領品を受けたという記録が宇和島伊達家には残っている。

また、志賀家と宇和島伊達家は、4代藩主村年の生母の甥が志賀家へ養子として入ったり、6代藩主村(むら)壽(なが)、8代藩主宗城(むねなり)の娘たちが嫁したりと縁が深く、藩主が志賀家を訪問することも度々あった。8代宗城の日記(公益財団法人宇和島伊達文化保存会所蔵『御手留(おてどめ)日記』)には、江戸から宇和島へ戻ってきた宗城のもとへ志賀九郎兵衛がマナガツオを持ってきたといったことなどが記載されており、藩主の側近くに仕えていたことがうかがえる。》


  [No.778] Re:青木姓ではないですが。。。
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/05/16(Mon) 17:58:14

志賀さん 今日は。お久しぶりですね。

如何お過ごしですか。
お便り頂きましてありがとう御座います。

お便りを実はお待ちしていました。
最終のお便りの時に次ぎのお答えがあった時にお答えをしようと準備していたものが有りました。
恐らくは、志賀さんの調査が伊達藩にたどり着くのではと考えていました。
前回のお答えは藤原秀郷流文行系進藤氏であろうと致しました。
進藤氏にはこの氏は秀郷一門の中で「第2の宗家」の青木氏の指揮の下にその調整役を演じていた氏ですので、各同族との血縁族を作り、また土地の豪族との血縁も行って関東一円の藤原一門のバランスを保っていたのです。
その為に進藤氏の宗家は各氏に血縁の繋がりを持っていたのですが、その意味で進藤氏系列も多岐に及んでいるのです。
その系譜の中に、今回お知らせ頂いた進藤氏宗家の記録があり、伊達家から嫁取りの事も記録があるのです。書き方は違いますがほぼ進藤氏からの伊達家との繋がりが書かれています。

そこでお答えは、100%藤原秀郷流文行系進藤氏のその宗家の末裔と成ります。
準備していた通りのお便りが届きました。
進藤氏の系譜
秀郷−千常−脩行−行景−脩種−脩俊−好治−治卿−秀世−脩久−実理−・広之−・景広−脩忠−常嗣−実信−晴季−・晴秀−秀輔−為興−晴泰−季章−重章−・泰脩

12代目の広之がここで伊達家との繋がりを持ちます。伊達成宗の一族の重臣原田次郎兵衛種則の娘娶る。
13代目のその子の景広は伊達家の寵臣と成る。側役的な表現を添書に観られる。
19代目の晴秀は志賀氏を名乗る。志賀縫殿を名乗る。伊達家臣(志賀)原田左馬助娘婿と成り志賀氏を継いで発祥させる。
その子供は志賀右衛門平隆でお便りの人物です。原田氏と志賀氏が縁戚関係にある。
25代目泰脩は江府伊達黄門侍郎政宗の「千石家臣」と成る。その子孫代々下腸食録とある。

13代目から伊達家に関り19代目で初代の進藤氏から志賀氏を名乗り、以後25代目には政宗に寵愛されるお便りのような志賀氏の功績が多く書かれています。
進藤氏は志賀氏を跡目を入れているので発祥させた末裔として12、13、19、20、25代に付いて添書に関係を詳しく記述されています。

進藤氏は現存しますので個人情報として詳細は記載できませんが、間違いなく進藤氏です。
進藤氏側がこれだけ事を書残すのは異例に近い事です。

また色々お調べになった時にはお便り下さい。お待ちしています。