青木ルーツ掲示板
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  [No.610] Re:青木姓ではないですが。。。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/08/20(Thu) 23:34:02

志賀さん 今日は。

お調べに成ったようですね。
では早速ですが、その前に、大変お答えがし難いものと成りますが、敢えて忌憚無くお答えしますのでそのおつもりでお読みください。サイトの信頼性を貫く為に単刀直入でお答えします。
それをどう扱うかは志賀さんの判断と心得ます。

では。
先ずその家系図又は系譜に付いて、基本的な事をご認識いただきます。その上で、ご判断をお願いします。
家系図又は系譜はその代毎の人が追記して行けばよいのですが、現実は何処の代の人が何か書物などを基に調べたものを書き上げたものが殆どです。100%だと思います。
というのは、鎌倉時代より下克上、戦国時代、室町時代、安土桃山時代と戦いに明け暮れ先祖が遺した書籍は消失しているのが殆どで、且つ、討ち死にする等で先祖がわからなく成るなど追記して行く事は現実に不可能です。
まして、この間には、男系が絶えて女系になり、跡目養子、婿養子などが起こります。この様な煩雑なことを護って残して行く事は不可能です。
ある代の人がこの系譜を作る時にこの様な事を調べる個人的な史料までは遺されていません。
ではその典型的な例を幾つか述べて見ます。
豊臣氏でも、徳川氏でも、今投稿している武田氏でも搾取偏纂の結果なのです。
徳川氏では幕府を開く時には、まず「征夷大将軍」の称号を取る必要があります。
これには朝臣族である事が必要です。つまり、源氏である事が必要です。
徳川氏は南北朝の頃の架空の第6位皇子を作り出して16代目の源氏としましたが、朝廷はこれを認めなかったのです。
南北朝では第6位皇子の賜姓源氏の意味は全く無く成っている事と、南北朝は皇子が少なくて天皇になれる資格の者が無くて争ったのですから、第6位皇子を賜姓する事の事態が無い訳です。
それまでの源氏の系譜は明らかに成っていますので、作り出すことは出来ませんので、止む無く南北朝を引っ張り出してきて創り上げました。しかし、朝廷自身が一番良く知っている訳ですから拒んだ結果、天皇家の生活が成り行かなく成るまで経済的な圧力を掛けました。
壁は崩れ、その日の食事もままならないまでに天領地を剥奪してしまったのです。
止む無く朝廷は認めます。しかし、征夷大将軍は無理強いで解決しましたが、幕府を造るにはもう一つの条件が必要です。それは賜姓源氏は嵯峨天皇から始まり花山天皇まで11代ありますが、「源氏の頭領」である事が必要です。これには「朝臣族」(第6位皇子まで)である必要があります。
朝廷は流石にこれは頑として拒みました。この時は殆ど食事も出来ないような状況におかれたと記録されています。そこで、家康は「源氏長者」と云う称号を作り出し認めさせました。
つまり、「源氏の頭領」は認めていないので、結論は、源氏そのものも認めていないと同然です。
更に、家康はその系譜を作らないと周囲から疑われます。三河の土豪であったのですから突然に「源氏」と名乗っても信用はされません。そこで、家康の祖父の時代に三河土豪の松平氏の家の前に比叡山僧が現れて泊まったとして、その時に娘との間に出来た子供が家康の父であるとしました。
そして、この比叡山僧は第7位皇子以下の皇子又は第5世以下の皇族である為に、定めにより皇族を離れる必要がありますので比叡山に登ったとしています。そして、修行の為に下山し、その途中三河に来たとしました。
確かに、第7位皇子以下第5世以下は「嵯峨期の詔」で下族する事を決められていますので、殆どは門跡寺院や、比叡山等、また、天皇家の神社神官斎王などに成りました。
この一人が先祖だとして皇族系で朝臣族だとしたのです。
ここで、矛盾があります。賜姓源氏の11代は全て第6位皇子ですので、下族しません。第7位で第5世以下ですから源氏では有りません。もう一つの矛盾は皇族出身者で下族した人物は嵯峨期から11代続いた中で18人しか居ないのです。家康が云う人物はこの中に無いのです。
この様に朝廷は記録にも無い事だし、この矛盾を突いたのです。

因みに、第6位皇子が賜姓を受けると決めて臣下して天皇を護る親衛隊としたのは大化改新の中大兄皇子、天智天皇が定めた令です。
蘇我氏との軋轢の反省から、50人以上も居る皇子への財政的負担が天皇家を弱くした事、”いざ”と云う時に天皇を護る身内の軍隊を作る必要があったが無い為に蘇我氏にもう少しで天皇を奪われるところであったからです。
これの反省から、第4位皇子第4世皇位継承権の制度を造り、第6位皇子は臣下して親衛隊とする事を定め、「青木氏」を賜姓したのです。その初代が「伊勢王」の「施基皇子」で伊勢賜姓青木氏です。この制度は5代の天皇に引き継がれます。そして、その5代目の光仁天皇の子供の桓武天皇はこの制度を無視し、中国後漢の渡来人阿多倍王の末裔を引き上げて平族(たいら族 平清盛等 桓武平氏)を賜姓します。
(関東にある北条氏等の「坂東八平氏」とは異なります。これは「ひら族」と云います。つまり、皇族第7世族です。)
そして、その孫娘を母に持ちます。ところが桓武天皇の子供の嵯峨天皇がこれに反発して元の制度に戻します。この時に賜姓を青木氏から源氏に変名し、青木氏は皇族出身者が名乗る氏名とするとして禁令の詔を発しました。これが賜姓源氏です。この家康の採った事は有名な事件です。
秀吉の事は衆知の事実です。

特に、この搾取偏纂は3期起こっています。
一つは室町末期、2つ目は江戸初期、三つ目は明治初期です。
室町期は下克上を通じて農民が立身出世で武士となり伸し上がった者等の搾取偏纂です。
江戸初期前後はこれ等の者が旗本御家人として家柄身分を良く見せるために「家紋」や「系譜」等を偏纂したのです。出世の為にも爆発的に起こりました。下級武士まで全て持ちました。
明治では全て苗字を持つ苗字令と督促令で国民の九割が苗字と系譜と家紋を造りました。
江戸時代は戸籍は寺が行っていましたので、寺に高額金品を払い良い氏名と家紋と系譜を造ってもらい自前のものとしたのです。
ある日突然に郡や村が同じ土地の有名な(青木氏や藤原氏など)豪族の同じ姓を名乗ると云う現象が起こり、氏名、家紋、系譜を同じくしたのです。ところが3期ともに一つだけ出来ない事がありました。それは宗派です。浄土宗だけはこれ等の特定の宗派で個人が入信できる宗派ではなく、又特定地域にしか無く、寺も多くなく、一つの氏が自前で建立した寺で専用の菩提寺としていましたから、これ等の者等はこれだけは変えることや入信を認めてもらえる事が出来なかったのです。

さて、お家は家紋が「変わり光琳胡蝶紋」の紋です。天和8年は1622年ですが、徳川氏を始めとして江戸初期の爆発的なブームと成った時期天和と真に一致します。
この時期の江戸期初期の系譜、家紋、氏姓のものははっきり申し上げて、搾取偏纂が殆どです。
それまでは家紋、系譜、は主に上級武士階級以上の氏が持つ社会習慣でしたので、無い者は一度に持ち始めたのです。ですから、元から家紋、系譜などある事は有りませんので、この様な搾取偏纂が全てと成るのです。
次ぎに、先ず、宇多源氏は近江佐々木氏では有りません。滋賀佐々木氏です。
近江佐々木氏は天智天皇の第7位皇子の川島皇子の末裔です。
天智天皇は第6位皇子の施基皇子に続いて特別に第7位皇子の川島皇子に相当の勲功があった為に地名を採り佐々木氏を賜姓しました。
佐々木氏は皆同じと思っての間違いを起こしています。
これは上記の系譜を造った人の知識の間違いを起こしたのです。
佐々木小次郎は近江源氏でその末裔です。
近江佐々木氏と滋賀佐々木氏にははっきりとした違いがありますので判別できます。
通名や官職名等が異なっています。
何れも家紋は青木氏と共に皇族系ですので笹竜胆紋です。その末裔も光琳胡蝶紋では決して有りません。
近江佐々木氏は近江青木氏と皇族同族血縁していまして、佐々木氏系の末裔には変わり光琳胡蝶紋は有りません。まして、前回にお答えしました様に「変わり光琳胡蝶紋」は全国8000の家紋の中に無い程の家紋なのです。個人家紋扱いです。つまり、上記江戸期の混乱期と成ります。
氏家制度では血縁は同格を前提としています。先ず下げて血縁する事は先ずありません。近江佐々木氏は滋賀佐々木氏よりも上ですが皇族として共に同じ扱いです。
これ等末裔は全て浄土宗で絶対に改宗する事はありませんので、ここも明らかに違います。
系譜を作る時に作者はこれ等の知識を把握していない事に拠ります。

次に佐々木氏は母系としていますが「氏家制度」では男系です。
ここにも矛盾があります。母系とすると代々母の実家は変わりますので無理に書いています。
もし、母系であれば娘に養子婿を代々採ったと成りますからありえない事です。

次ぎに、戒名ですが、ここでも矛盾があります。
もし、志賀氏が佐々木氏等の皇族系賜姓源氏であるとするならば、戒名があまりに低すぎます。
戒名はその家の家柄や身分や威徳やなどを読み込みます。
しかし、宇和島の志賀氏のご先祖の法名戒名はこの仕来りに従っていません。
「院殿居士」と云いまして、これ等のこの時代であればこの皇族賜姓族はこの院殿居士を使っています。仏教では最高級の位です。宇和島の志賀氏は「院」が着いていますが「殿居士」は有りませんので、武士でもかなり低い戒名と成ります。現在でもこの院殿居士を着く人は相当な人格者でないと着けてもらえません。無理にとすると驚くような高額な金品を支払う必要があり、寺側でもこれを乱発すると値打ちが下がり収入が低下しますので、家柄、身分、威徳が相当の人で無いと着けません。
「居士」さえも着いていませんし、せめてもの「士」も有りませんので、武士ではないのではとも見られる程度です。普通は武士であれば「士」は着くものです。「士」は元来「さぶろう」の古語の意味を持っています。
寺側が相手の家柄身分威徳を観てつけるもので厳格に護りますので、戒名法名等はこれらを如実に表します。
この戒名からすると良くて郷士、庄屋、名主、と成ります。

次に戒名の形ですが、これは佐々木氏の末裔としての宗派が浄土宗形では無く矛盾が出ています。
次に、佐々木氏に継いで京極家の公家を着けています。
佐々木氏で藤原氏北家摂関家であるとしています。矛盾のある着けるだけの家柄を着けたと成っています。

更に、官職名が着いていますが、「・・衛門」、「・・兵衛」また、この時期は守護職の「・・守」とありますが、この時期のこの二つは勝手に着ける無秩序な事に成っていました。
「・・衛門」等は青木氏と藤原氏しか漬けられませんでした。朝廷から送られて永久使用の官職名です。家柄身分を示すものでした。上記した様に大化改新で青木氏と藤原氏は親衛隊を形成して宮殿の三門を護る責任者でしたのです。また5天領地の守護王でした。
例えば「青木民部上尉長兵衛信定」と言う風に。源氏系であればこの様に成ります。
しかし、江戸期ごろから徐々に申請推薦を無視し自分で着けるほど無秩序に成りました。
幕府もこれを黙認したのです。朝廷を押さえ込む為に。

「・・守」は「・・衛門」と同様に室町期は幕府申請によりまだ朝廷から授与でしたが、江戸期では全く名誉職位で金品を朝廷に渡せば送られるものでした。江戸中期前には中級武士以上であれば最後には勝手に付ける始末でした。徳川幕府に締め付けられて朝廷の主な経済的な収入源でしたので無秩序にしたために最後は意味が無く成ってしまったのです。天皇家の「五三桐紋」はその良い例です。秀吉が勝手にやった事ですが。農民までこの家紋を限定した所(墓紋)に使う状況でした。

次に普通佐々木氏等の家柄身分の氏では世襲の「通名」を使うのが慣習でした。しかし、宇和島志賀氏には見当たりません。これ等の氏には特定の氏家制度の習慣があるのです。
これ等の系譜、家紋、氏名、官職、通名、戒名、仏壇、宗派、等を調べれば矛盾が生まれるのです。
それは「系譜系図」を作る条件から来るのです。

造る人がこれだけの知識を以って造ることは先ずありえませんから、誇張しても直ぐに判るのです。
これ等の矛盾のある氏の事を「未勘氏」と云います。
また、青木氏や藤原氏などの氏や家紋や系譜を搾取編纂して造る氏が上記3期に出ました。これを第3氏」と云います。志賀氏の場合はこれに当りませんが、源氏を名乗るところは完全矛盾の多い「未勘氏」と云えます。
源氏が死に絶えたからこの未勘氏が多く出たのです。
但し、源氏は滅亡する直前に戦略上、青木氏5家5流(近江は賜姓青木氏と賜姓佐々木氏です、伊勢は賜姓青木氏です、美濃は賜姓青木氏と土岐氏ですが土岐氏は滅亡しました、信濃は賜姓青木氏と足利氏です、甲斐は賜姓青木氏と武田氏です)とに跡目を入れてこのルーツに遺したのです。あとは未勘氏と成る支流、分派、分流、傍流です。
現在、源氏として正式に名乗れるのは、この5氏と近江佐々木氏、滋賀佐々木氏、伊豆大島氏だけです。そして、これ等から出た末裔の家紋と大筋の系譜も判っています。
つまり、これはどう言うことかといえば、滅亡するとその末裔から文句をつけられないからです。
ですから江戸初期には「家紋系譜氏名」にこの系譜系図、家紋、氏名の爆発的なブームが起こったのです。
青木氏の場合では、秀吉の面前の立会いの上で、本来の青木氏から文句をつけられて250人の兵で互いに戦ったと言う事件も起こるくらいです。この場合は搾取偏纂した方が勝ちました。秀吉のデモンストレーション作戦でした。この様な争いがこの時期に各地で起こりました。

前回にも述べましたが、仙台付近域の志賀氏は藤原秀郷流進藤氏の末裔である事は青木サイトとの範疇ですので間違いは無いと思いますが、そうすると、宇和島の志賀氏がこの関東域の志賀氏の末裔であるとすると矛盾が生まれます。
確認が取れませんが、疑うと、つまり、滋賀の志賀として、宇和島の志賀氏が、関東進藤氏末裔の志賀氏との宇和島移封に乗せて、第3氏が名乗ったとも取れる内容に成っています。
(進藤氏48氏には光琳胡蝶紋はありません。 前回のお答えで途中で変紋した可能性をお調べにと申し上げました。変紋がなかったとするならば、この度の情報の矛盾で未勘氏か第3氏と成る可能性が大きくなりましたが。元は光琳胡蝶紋の文様は豪商、豪農が使いました)

客観的史実からの評価でははっきりと申し上げて解決出来うる条件ではなく矛盾が多くあります。
現在、青木氏サイトでは武田氏の事をレポートしてますが、武田氏でも疑問が多くありましたが解けました。
徳川氏の有名な例を観ても推して知るべしです。家康が自ら搾取偏纂をやってのけたのですから、真実の系譜を作るのがいかに難しいかお判りになると思いますし、その信頼度の土壌がひくいもので在ると思われますし、何はともあれ歴史に興味のある者にしては有名な「天和」ではその真ん中です。
見本的なものですし、殆どの人は知らないだろうとして、作者は作るのでしょうが、基礎資料の無い中で、専門的に観ると一目瞭然です。

さて、後はどの様に信じるかは志賀さんの判断に委ねるしか有りませんが、客観的史実からは以上の矛盾を孕んでいます。私見ながら、見本的な未勘氏のこれだけの矛盾は解決は困難だと思います。
逆に、藤原秀郷一門進藤氏から離れて、この系図では元は武士では無かったのではとも成ります。
仙台と宇和島に関係性が無くなり、典型的な未勘氏か第3氏の系図ではとも考えられる矛盾を孕んでいます。

但し、「第3氏」と「未勘氏」の用語は「寛政史書」などにも記載使用する用語です。氏家制度の社会習慣での用語です。念のために。

戸籍も限られた階級しかない習慣の情報社会ではない、且つ閉鎖的な社会での江戸期前後に、下級武士までの系譜を調べるだけの基礎史料はあったとは思いますか。到底ありえませんね。ではどうするかです。ではどの様なことが起こるかです。
搾取偏纂してもそれをとやかく云う者は居りません。自分もそうですし、又知らないのが普通ですし、調べる方法は限られていますし、文句をつけてくる家もそれだけの力もないし、情報を入手できるほど社会は進んでいません。ですから、氏の何れかの代の人が氏名、系譜、家紋など搾取偏纂して創り上げて名乗ればその内にそれが伝統と成る事に成ります。
例えば武田氏でも寛政の頃1800年に武田信政という末裔が武田氏一族の系譜を作ったのです。そして、この系譜は自分が作ったと書き記しているのです。
それはそれで其処に歴史が生まれますのでそれを自分が信じる事で良い事ですので問題とは云っていません。
青木サイトの於いては系譜等よりもより史実からその有無を調べてそれを追及研究しています。
その意味では、作成の経緯から見て専門的には、この時代の系譜系図とには相当信用が出来るものをご使用される事を特に追記します。

では、何かご質問有りましたら、ご遠慮なくお尋ねください。



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