青木ルーツ掲示板
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  [No.604] Re:青木姓ではないですが。。。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/08/03(Mon) 20:22:05

志賀さん 今日は。
返信がお役に立ててよかったです。

本サイトとは青木氏に関する史料が沢山準備されていますが、これ等の史料はその研究の過程で出て来る事でして、深くは判りませんが、関係氏に付いては持っているものです。
大分以前に調べたことでしたが、それを今回のお便りで再び思い起こした次第です。

今回のお便りのご確認ですが、その通りです。

藤原秀郷一門主要5氏の進藤氏の支流の末裔と云う事に成ります。

大化改新の貢献者藤原鎌足の子孫で8代目の藤原秀郷と云う者が居ました。
藤原氏は「四家」と呼ばれ、北家、式家、南家、京家の流があります。
しかし、この四家の同族争いが起こりました。結果、北家一族が生き残り摂関家、と一条、近衛、九条、鷹司の公家と藤原秀郷一門とが最大勢力を誇りました。後3家は殆ど滅亡しました。

志賀氏は藤原秀郷一門の支流に当ります。
関東に独立国を築き5年間も続いた「平将門の乱」に対し、朝廷は手の施し様も有りませんでした。
そこで、困った朝廷は”誰かこれを討てる者は居ないか”と呼びかけましたが、居ませんでした。
そこで、”もし居たらその者に思いのままの希望を叶える”としました。そうすると、2人が名乗り出ました。

その一人がこの藤原秀郷です。下野の押領使(軍事と警察)でした。
もう一人は、渡来人で阿多倍王の孫の京平家の平貞盛でした。常陸の押領使でした。
桓武平氏(京平氏)で太政大臣の平清盛の4代前です。

この二人は5年の歳月をかけて滅ぼしました。
そして、条件(貴族に成る事、武蔵国の領主に成る事)を叶えられました。
これが、藤原秀郷一門361氏の始まりです。

秀郷一門は関東一円を最終獲得しました。
この主要5氏が、4代目の兼光流は青木氏、永嶋氏、長沼氏 4代目の文行流は進藤氏、長谷川氏です。
この5氏から、8氏、16氏、24氏の本流が拡がり、最終、それらの本流の第一支流、第二支流と拡大し、武蔵国比企郡志賀氏にまでに及ぶ361氏の末裔と成りました。

志賀氏は主要5氏の一つ進藤氏の第一支流末裔と成ります。
本流、支流、分流、分派は「家紋と氏名」で判別が付きます。

本流は秀郷の第3子の千国青木氏を除き、24氏は主要8氏は、藤原の藤の前に、役職名を付けて氏姓として呼びます。例えば、有名な斎藤氏の様に。「斎蔵」と云う祭祀を司る官僚のトップ役職名です。
佐藤氏、左藤氏と云う左衛門佐(宮廷親衛隊)の様に。
次ぎに、24氏までは赴任地の24地名を付けて氏姓として呼びます。例えば近藤氏(近江)伊藤氏(伊勢)の様に。
次ぎは支流は定住地の地名を付けます。秀郷の領国の武蔵国比企郡志賀の志賀氏の様に。

秀郷一門は最終は武蔵、下野、上野、下総、常陸を領国と成りました。
全体として361氏に成ります。

青木氏は116氏、永嶋氏は34氏、長沼氏は52氏、進藤氏48氏、長谷川氏111氏、

お家の武蔵国比企郡志賀域から出た志賀氏は、秀郷一門の文行系進藤氏48氏の支流と成ります。
綜紋は藤原秀郷一門の綜紋「下がり藤紋」の内進藤氏の綜紋「かに藤紋」の48の家紋の一つと成ります。
ただし、1700年頃に「変わり光琳胡蝶紋」を家紋としていますので、この家紋は新しく、上記進藤氏系志賀氏はその前の家紋が平安期の48家紋のどれかに当ります。これ以上は青木サイトからの情報が有りませんので判りません。

伊達家に仕えたとすると、記録より、武蔵国比企郡志賀の進藤氏の支流末裔48氏であると観られます。
「武蔵7党」との一部血縁を持つと観られる進藤氏系志賀氏に間違いは無いと見られます。

結論は藤原氏北家秀郷一門文行系進藤氏48氏の支流末裔であります。

進藤氏48氏の家紋は、詳しくは青木氏氏 研究室の「藤原秀郷主要5氏と家紋の研究」6/10を参照して下さい。
「藤原秀郷」のことは研究室に沢山のレポートがありますのでお読みください。

ご質問有りましたら、ご遠慮なくお便りください。



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