青木ルーツ掲示板
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  [No.726] Re:愛知の青木について
     投稿者:福管理人   投稿日:2010/07/28(Wed) 18:28:18


愛知の青木さん 今日は。始めまして。
全国の青木さんが集うサイトにようこそお越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。

さて、お尋ねの件ですが、お便りの情報では、「没落」「農家」「時代」がキーワードですね。
先ず、ご母君の実家は江戸時代は農家なのでしょうか。
明治期では氏家制度社会から自由社会に変わりましたので明治後の事はルーツ検証には役に立ちませんし、明治期からは戸籍簿がありますのでルーツは確定します。江戸期は士農工商の身分確定の社会で、武士以外は氏家制度の中にありませんでした。依って、武士は菩提寺に過去帳をつくり、当然に武士は氏を形成して社会を構成していますので、氏名で時系列的に先祖を管理出来ます。
当然にこれを辿ればルーツが判ります。氏家制度社会の中で身分が確定していますので、脱藩や廃藩や罪を犯すことがない限りは「没落」はないことになります。
そして、藩に拘束されますので、他国には移動定住することは出来ません。勝手に出ると「国抜け」と云って一族郎党は斬罪です。
当然、農民も「国のもの」と云う事でこの罪に問われますし、貧乏であることには変わりませんが「没落」はありません。農工商には氏を構成しませんので過去帳は管理維持する事は出来ません。
ルーツを辿ることは出来ません。もとよりそのような社会慣習が必要なかったのです。
何々村の何助で終わりますので過去帳はないのです。
ただし、庄屋、名主、豪農、郷士、郷氏、豪商は元は武士で合ったことが多く特別に認められていました。
すべての「没落」は原則明治以後の事になります。
平氏、源氏、藤原氏、青木氏などはその勢力圏の中で生きてゆきますので起こりえます。
藤原氏、青木氏などはこの為に「2足の草鞋策」を採りました。
故に、工商を除く武士と農民は少なくともなく「没落」は明治以降の出来事になりますので、”「何度も没落を繰り返している”は疑問です。

祖父の兄は「近衛師団」は明治期の事です。薩摩長州の連合軍の兵は「ちんらいさん」と云って農民が主体で幕府を倒したのです。この「ちんらいさん」が後に天皇を護る師団に変化して主に「全国の優秀な若い農民」と「若い下級武士の子弟」で編成したのです。上記した様に明治以降の事ですからルーツには関係ありません。
江戸期では、祖祖父のことになりますね。

母方の実家は、尾張の国海東郡伊麦村(現在あま市七宝町)の件ですが、岐阜の美濃は国府付近に皇族賜姓青木氏とこの血縁関係にある西域には土岐氏系青木氏の末裔が定住しています。
東には藤原秀郷流青木氏が定住しています。

この青木氏とお家の母方の青木氏ですが、仮に武士であるとすると、地理と宗派と家紋がこの氏の特長ですので、これから観るとこの藤原秀郷流青木氏ということになります。
当然に農家であると、氏を形成していませんのでルーツが出来ていません。
もし、この氏であるとすると、上記した様に「何度も没落」が起こっています。
氏家制度の中では、概ね「没落」をテーマに観て見ると、平安期に3度、鎌倉期には2度、室町期には3度、桃山期には1度、江戸初期に1度程度のことが起こっている筈です。

言い換えれば、室町期末期には土地の土豪でしたから、江戸期は庄屋などはこの氏の「没落」の結果なのです。これをお家の母方の実家の没落と云うのであれば「没落」です。
上記の庄屋、名主、豪農、郷士、郷氏、豪商は元はこの一族の氏でしたから、元の氏名と家紋と帯刀を保持しある程度の武力(家人や家者)を持っていましたから農民の代表となっているのです。
これは戦国時代と下克上の結果、土豪が戦いに敗退しての選んだ道なのです。
豪農や豪商は元の立場を生かして税の産物の取り扱いに慣れ、武力を持っていますから運搬などの保護にも必要ですから、商人になったので豪商は殆どこのパターンで、両方を続ける者もいました。

明治初期の近衛師団のお話は「若い下級武士の子弟」「若い農民」ですので、この氏の可能性を高めます。恐らくは、この庄屋、名主、豪農、郷士、郷氏、豪商のどれかであったと考えられます。

長崎の諏訪神社の再建に尽力した宮司の青木賢清の件ですが、諏訪族青木氏は信濃の青木氏です。
皇族賜姓の信濃青木氏の血縁族の諏訪族青木氏、諏訪族武田氏系青木氏、武田氏系諏訪族青木氏がありますが、この青木賢清は宮司ですのでこの3つの内のどれかの末裔です。

長崎の諏訪神社の再建は1625年前の頃の事ですので、戦国時代に成りますが、諏訪族は武田氏とともに戦い敗退(1585)して主に神奈川横浜の藤原秀郷流青木氏に保護を求めて信長から逃れます。藤原秀郷流青木氏は武蔵入間を中心に神奈川横浜を半径とする螺旋状に宗家を護っていました。
この横浜の地に諏訪族青木氏を迎えたのです。

恐らくはこの時期各地で神明、熊野、住吉、宗像など歴史ある大社は各地に支社を建設して勢力の拡大競争が起こっていました。諏訪族の氏神の諏訪神社も例外ではなく再建が起こっていますが、長崎はこの時期キリスト教の教会領であり、それに対抗してその権域で住吉神社と地元氏森崎神社の三社が結束して成したものです。
関東の諏訪族青木氏の逃亡定住地に諏訪神社が多いのですが、各地の諏訪神社の宮司は一族の諏訪族青木氏が多いのです。この青木賢清は間違いなく諏訪族青木氏と考えられます。
諏訪族青木氏が藤原秀郷流青木氏に保護された時期と長崎の諏訪神社の再建と40年の後の事ですのでやっと立ち直る時期です。
この初代宮司は諏訪族一族の存続を掛けての他社との協力で諏訪神社を長崎丸山に建設したのだと思います。長崎には諏訪族の末裔はありませんが。

お家母方実家との繋がりは一族の神奈川の藤原秀郷流青木氏が信濃諏訪族青木氏を救ったと云う繋がりだけです。
青木氏との族が異なります。皇族賜姓青木氏との違いです。両者は元は藤原氏の母方では同じ族となります。故に、嵯峨期の詔の例外で秀郷3男千国に禁令の青木氏を名乗ることを許したのです。

ただ、今の情報ではお家が美濃と愛知にまたがる藤原秀郷流青木氏と確定はできませんが、諏訪族青木氏とは地理的、血縁関係などから見て関係は殆ど少ないのです。
どのような事からのつながりでのご質問でしょうか。

以上ですが、明治期と江戸初期の第3氏の事もありますので、確定は出来ませんが、一度維新後の戸籍簿とご本家に菩提寺が在ればそこの過去帳を確認されるとはっきりします。
ご仏壇の中に先祖位牌がありますのでその中に木札で先祖の戒名札があるはずですのでご確認ください。当然にご本家でのご確認と成ります。
確認出来ない、江戸期の過去帳がないと成りますと第3氏の可能性か未勘氏の可能性と成ります。
青木氏の上記した庶民や農民が禁令の青木氏を名乗った時期が3期あります。
室町末期、江戸初期、明治初期の混乱期です。

明治期は3年と8年に苗字令と督促令を出しています。この時維新政府が余りに進まなかったので指導して近隣の土豪や豪族の氏名家紋などを使うように指導しました。ですから、ある日突然に村或いは郡の者が全員青木氏になると言う現象が起こったのです。
これが江戸期に過去帳を持たない第3氏か室町江戸初期の未勘氏なのです。未勘氏はある程度の過去帳を保持しますが、宗派と地理的なことは異なります。

兎も角も、以上ですが、ご質問やご不明な点が有りましたらご遠慮なくお尋ねください。
お待ちしています。



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