青木ルーツ掲示板
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  [No.1024] Re:上野国の増田姓
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/02/07(Sat) 11:48:10

増田さん 今日は。
早速、お便りありがとうございます。

ルーツを探究する過程で、この様な「歴史観」に遭遇する事は良い事だと観ています。
下記のその典型的な疑問をお持ちに成る事が歴史を知る上で大切な事だと思います。
筆者の考えを披露しますと次ぎの様に成るかと思います。
長い間の歴史を探求して来たテーマでした。

>歴史とは何なのでしょうか。

平安期から室町期初期までは、この様な公的に成っている歴史の真面な書籍には、判ら無いところや、推測を交えて描いた処には、必ず、”後勘に問う。”と書いています。
つまり、今は確定出来ず判らないが、「未来の人」が必ず解き明かしてくれるだろうとする言葉です。
しかし、平安期の末期の源平の時代あたりから、世の中が、立身出世の人が多く成り、多くの階級の人々が生まれました。そこで必然的に、身分家柄制度が更に強く成り、社会が家柄身分を強く要求する様に成りました。
「朝廷の認可」が必要であった社会では、要求を叶えられない「出世族」は、結局、搾取して、或は、必要以上に誇張して、家を興そうとしました。

ここで、因みに、面白いお話をします。
この中には、無理やりに武力で、家柄のある家を襲い、一家全滅させ、娘一人を遺して、その娘に子供を産ませて、その家を継承すると云う現象が頻繁に起こったのです。
それを朝廷に金品を渡して、認めて貰い、その家柄身分から「官僚族」と成り、なんと10の地域を赴任した大出世の者までいました。
実は、青木氏にもいまして、元は伊勢の上田郷の農民で、立身出世を夢見て、都に出て、浮浪人を集めて、盗賊の様な事をしながら、勢力を高めていました。
そこに、遂には、滋賀に赴任していた青木氏が任期が終わり近江に戻りました。
しかし、この「青木氏の一部末裔」に、近江に帰らずに歳を得た家が在り、そこに娘が一人居て、この老夫婦の面倒を看ていました。
そこに、上田郷の者が襲い、この家の家柄そっくりと奪い取ったのです。
そして、この娘に子孫が出来たところで、「青木氏」を名乗らせて、届け出たのです。
結局は、上記の様な事が起こってしまったのです。
一方近江に帰った青木氏は、後に、平安期に朝廷に届け出たのですが、聞き入れられず、この事を承知していた「近江青木氏の末裔」は上田に対して「戦い」に挑みました。
ところが負けて仕舞って、青木氏としての「社会の信頼や人気」を落として、他の一族からも嫌われ、近江にも一族はいられなくなり、結局、摂津に逃げ延びました。
一方の滋賀の上田の青木氏に成った一族は、益々子孫を拡大して、「滋賀青木氏」と成りました。
ところが、この「青木氏」も息を吹き返した「摂津青木氏」と再び戦う事になり、「摂津の青木氏族」は勝利を得て、再び、「名誉」を回復して社会に出る事が出来ました。
ところが、「滋賀の青木氏」は、今度は身内で「一族争い」が起こり、結局は一族は本家筋が衰退し、昔赴任した千葉に落ち延びて行ったのです。
滋賀では「同族争いの分家筋」が、勢力拡大して滋賀に残りました。これが現在の滋賀青木氏です。

この様な事が、各地で頻繁に起こったのです。
その一つが、「下剋上」です。

「下剋上」と「戦乱」で、鎌倉期末期には認証を正式に受けた「氏族」が200以上、最大時は末端支流族まで入れると800もあった「氏族」が、80程度になり、江戸期には20にも満たない「氏族」と成って仕舞って、ルーツを持たない「姓族の社会」に成ったのです。
日本には、「8000姓」もある中で、「搾取偏纂」では無い「真面な正式な系譜」を持つ家は「20」も満たなく成って仕舞ったのです。
従って、「1%以下の系譜」が8000姓の中に居たのですから、そもそも1%には最早、意味を持ちません。それどころかこの1%に何とかルーツを繋げようとして、「搾取偏纂」が横行したのです。最早、戦って排除する事は1/8000では無理でした。
遣られるままに成っていました。

これが、初期の武力による「家柄搾取」の原因です。
ところが、室町期中頃からは、「室町文化の影響」もあり、今度は,「武力の連鎖」を呼び、結局は「搾取行為」が、失敗と成るケースが戦国時代の為に多く成り、今度は「武力」を避けて、「金品」を使っての「悠久の名家」との繋がりのある「系譜作り」で、社会を欺こうとしたのです。

社会が、文化の発展もあり、「金品の価値」が高まり、「100%に近い搾取偏纂の横行」が起こって、この状況は江戸初期まで続き、江戸初期前後がそのピークと成ったのです。
これは、認証の無い「裏の密かな搾取偏纂」であるので、時代が進むと、その真偽が判らずに信じて仕舞う「社会癖」で、「搾取偏纂」が真実化して仕舞った現象が起こったのです。
これを利用したのが、「徳川幕府の戦略」なのです。
そして、この徳川幕府が容認して出来た「搾取の系譜」のこの「江戸初期当たりの資料」を基に現在の「郷土史」が出来ているのです。
ところが、この「郷土史」は、今度は「地方の特色」を売り出す手段として利用されたのです。
”歴史のある街だ”として売り出し、誇張する現象が、明治期から起こったのです。
仕方のない現象とも考えられますが、搾取が真実化した事の現れです。
誰もこの「搾取の矛盾」を指摘する「歴史家」が出なかったのです。
むしろ、逆で、この事に加担して利益を得ようとする「歴史家」が出て来て、この「矛盾解決の後勘」が働かなくなっていきました。
更には、この様な、「裏仕事をする業者」が出て来ていたのです。
それが、「古来の歴史や故事」に強い「神社や寺社」が、生活の為に、「口止め料」を含む高額な金品を受け取り「裏稼業」で請け負っていたのです。
戦乱後に荒れて生活に困っていた「寺社の仕業」であったのです。
そこに、”社会に迎合した歴史家”とが組んで仕舞えば、異論を唱える方が異端児扱いを受ける仕儀と成って行ったのです。
そして、系譜などの「搾取偏纂業」のみならず、その証明をも寺社が自分ですると云う何とも上手くしたシステムが出来上がっていたのです。

寺社が証明するものを否定する学識や見識を持っている者が居なかった事が、この様な「搾取偏纂の社会」がまかり通る世の中にしたのでした。
それどころか江戸幕府自体が、承知の上で「黒印状の令」でこれを奨励させたのです。
これでは反論する者がいなくなります。
江戸末期の「株の買い取り制」を始め、明治初期にも、更に今度は庶民までもが3年と8年の苗字令で、このシステムを利用して、金品のある者が家柄を作り上げたのです。

当然に、この様に成ると、社会全体が「搾取偏纂の社会」と成って仕舞いますね。
しかし、それが当たり前とすると、誰もが疑問を持たなくなるのも社会の常です。
ですから、現在から、歴史を、伝統をと成ると、この事に突き当たってしまう事に成るのです。
「歴史」そのものに意味の無い事が起こり、「伝統」が廃れていったのです。
結局は、最早、「搾取(塵)無し」の正しいルーツに辿り着くことは殆ど不可能です。
その真偽を検証する事さえ、個人情報の鎖に遮られて、出来なくなりましたからね。
後は、遺されるのはこの「郷土史」と云う事に成りますね。

それは其れで良いと納得すれば、それ以上の事はありません。自己満足の領域です。
筆者は否定するつもりはありませんが、ただ、「青木氏」だけは、認めたくありません。
幸いに、奈良期からの「古来の事」が遺されている「青木氏」であり、それを「未来の後勘の資料源」とする為に遺そうとして頑張っています。
「青木氏」には、未だ、奈良期からの「歴史と伝統」が「搾取」が入り込めない「文書、口伝、遺品」に遺されています。
そして、その「悠久の青木氏」に遺された「古来の習慣や仕来りや掟」等を網羅して、「真偽の青木氏の判断資料」としています。
これは、”「塵」”を取り除いた事を望む他氏にも、読む事に依って「歴史観」が増して遡上し、「判断資料」と成り得ると考えています。
それに依って、「搾取の塵」を少しでも払おうとして研究を続けています。

結局は、「歴史」とは、この「事を解き明かして行く事」にあり、「歴」の意味「履」と、「史」の意味「伝統」と書きますからね。
「史」の語源には、「のり」(則)と、「ふみ」(文)の意味を持っています。
平安期には「史」の意味は、この「二つの言葉の意味」を持っていて使われていました。
つまり、「歴史」とは、社会の「履歴」を、”「のり」”の「規則」で、”「ふみ」”の「文章」にして、”「解き」”明かして ”「伝統」”にする事、即ち、”正しく伝える”事の意味を持っているのです。
社会とは、何時の世も「搾取偏纂」が起こる事を前提としての解釈で、それを水の中から「塵」(搾取偏纂)を取り除いて、「純粋な水」のものにする事を意味すると考えます。
其処に、「歴史を知る事の面白味」があるのかも知れませんね。
それが故に、平安期に良く使われた「後勘に問う」”後の人の勘に任す”となるのです。
平安期の人の方が、「事の深意」を悟っていたと痛感します。

しかし、それにしても、平安期の「搾取の占める割合の1%」が、江戸期には遂に、逆転して「1%の真実」と成って仕舞った事から来る現象です。
これでは「歴史」とは、「伝統」とは、と成りますよね。
簡単に云えば、「解き明かす事」が「後勘」になると考えます。


>疑問なのは、なぜ墓がお寺の境内になく、そんな古墳の場所にあるのかということです。そしてそこは増田家と書かれた古い墓石しかありません。

「古墳場所」の疑問なのですが、これが上記で云う「歴史観」を獲得する一つに成ります。
実は、「古墳場所」は、関西では大変多いところですが、現実には、この「古墳の周り」には多くの家が立ち並んでいます。
つまり、何が歴史的に起こったかと云う事です。
実は、歴史的に、次ぎの「二つの事」が起こってこの現象出ています。
一つは、その古墳を管理していたのは、「土地の村主」です。
ところが、戦乱で村が破壊され、その周辺を奪った土豪が村人を排除したと云う事が平安期から、頻繁に室町期まで起こりました。
”「戦乱の戦い」で村を奪うと云う事”は日常茶飯事で、頻繁に起こった事なのです。
これが戦乱の世の中ですが、この為に、追われた村人等は、逃げる処と云えば、この様な誰も近づかない「古墳群の様な土地」でした。
朝廷の管理下や古豪族の管理下にあったが、「朝廷の力」や「豪族の力」が戦乱で低下してこれを止める力は無く成り、結局は非常事態として、この墳墓のある処の周辺に住み着く事に成ったのです。

墳墓にも、朝廷の物から、奈良期の土地の豪族の物まであって、その豪族が戦乱で絶えてしまったりすると管理する者が居なくなり、結局は村の村主(名主や庄屋)は村人をここに避難させた事から、墳墓周辺に人が住むと云う現象が起こったのです。
中には小さい古豪族の墳墓自体を潰して、そこに村を形成したと云う事は当たり前の様に起こりました。”背に腹は代えられない”と云う事ですね。

二つは、平安期に豪族による「荘園制」が幅を利かせ、土地の豪族らが「朝廷の許可」を得て、朝廷の古墳とは関係の無い土豪らの小さい古墳を潰して荘園にするこ事を許可したのです。
その「荘園での税」と「裏金」で朝廷は潤っていたのです。
中には「名義貸し」と云って「公家や貴族や源氏や平家」の力のある者の「名義」を借りて「税」を免れて開発を進めたために、この様な古墳が無視されて開発されてしまうと云う事が起こったのです。
中には、その「名義を名乗る事」で、「名義の使用料」を取ると云う事でも、朝廷・公家・源氏などが利益を挙げていたのです。
ところが、この事が行き過ぎて、荘園造りや荘園での「働き手」が不足しました。
結局は、源氏等が、「戦い」で地方の豪族を攻め落として、その”「敗残兵」”を”[奴婢」”にして”荘園」”に連れて行き”「働き手」”とし利用すると云う現象が起こってしまったのです。
そして、古墳などの地を整地して、そこに”「働く者」”の住居を建てたのです。
これを観ていた心ある朝廷は、この「悪弊」を排除しようとしました。
ところが、激しいこれらの豪族から抵抗と攻撃を受けながらも、「天皇の命」も危ぶまれる程の危険を感じながらも、この「荘園制」をやっと禁止したのです。

そして、それに関わった者を罰し、「敗残兵等の「奴婢に成った者」や、「村を追われた者」等を開放して保護しました。

この最も「過激な事」をしたのが、清和源氏頼信系の「源義家」で、遂には、「悪の私闘」をしたとして、天皇から「財産没収」と「官位剥奪]と[蟄居閉門」を受け「源氏」の一族は衰退しました。

それが、時代を経て、室町期の初期頃には、「子孫]が拡大して、「人」が集まり、「村」が出来、「道」が出来、「宿」が出来て、管理する「武士」が集まり、その「武士の墓所」が出来る事になる事に成りました。
「庶民の墓所」は、遅れて、江戸末期からで、正式には墓所を持てるように成ったのは明治期からです。
この「禁止された荘園制」の影響は、直ぐには全てが解決せずに室町中期まで続きました。

そもそも、「土地」には、「地権」が、保証されていますが、必ず、”「余地」”と呼ばれる「所有権」が設定されない土地が在ります。
この様な土地は、多くは「斜面(のり面)」と呼ばれる土地で「平地」を構成する高台の一部です。
ここは法的根拠はありません。普通は、申請に依って、その「土地に連なる地権者の権利」と成ります。田畑に水を送り込む「池」や、本川であった「中洲の河原」等もこれに含みます。

現在でも、これらの「余地」の「のり面」を整地にしたものが申請すれば「使用権の許可」が得られるのです。
日本は、山岳地や海辺や河原が多い国ですから、この「のり面」が実に多いのです。

この様な「土地」を、上記の追われた人達は、埋めるか切り開くして平地にして住み着いたことに成ります。「登記権」はありませんが「使用権」が認められて、「定住地]にしていた「民」が多かったのです。放っておくと「荒れ地」に成り、崩れなどの災害を誘発しますので、「使用権」で管理させたのです。
時には、公的機関が、「道路」などで「使用権を解除」して「立ち退き」をして、分断する等の事が起こったのです。


この「二つの現象」から、古墳の上に、これらの民の「墓、家屋、田畑」が出来上がったのです。
この「古墳の上」に、未だ現在でも、関西では家が建っていたり、田畑が在ったりしています。
「古墳発掘」が良く行われて、家が立ち退き、田畑が撤去されて「古墳の保存」が進んでいます。

お家の墓所の分断が、上記の二つの事からからでこの現象と成っています。
この事から、「墓所」では無いところの「増田家の墓」が分断されているのです。
推して知るべしで、お家のルーツがこの事からも前回にお答えしました様に観えています。

>青木様がご指摘されるように幕末の頃、何らかでちょっとした財を成し、郷士株を買い、旗本の二男を養子に迎えた。そして偽の墓石を作ったか、誰かの古い墓石を持ってきて、自分の畑に墓石を設置した?可能性としては考えられますね。

上記の情報から、「偽の墓石」は考え難いですが、「郷士株」での「郷士の墓」を移したと観るのが正しいと考えます。それで、”お家が郷士に成った”とする事への「世間に対する宣言」を成し遂げる事が出来ます。この”「宣言」”は、”重要な当時の慣習”でした。
前回の「坂本龍馬の家」も、この「宣言]をして、関係者を呼び、宣言した事が記録されています。
それでこそ、正規の「血縁で繋ぐ家」から、無血縁の「株で繋ぐ家」と無血縁の「養子嫁で繋ぐ家」に変わっていったのです。
当時の墓の持つ意味は、現在とは違います。
「家=墓=先祖」の意味を持っていました。
従って、「郷士株」を買って「下士の武士」に成る以上は、「墓所」を放置したままで、知らない顔は出来ません。其れこそ「武士の務め」です。この「務め」を果たさずに”何が武士か”と成ります。
「武士」を買う以上は、「家墓先祖」を買う事に繋がりますから、「墓所の移設」は最大の「武士の宣言」でした。
武士と民の違いは、「祖を持つ事の差」で決まります。「民」には、そもそも、「ルーツの持つ概念と仕来り」は無かったのです。「無かった」と云うよりは認められていませんでした。

「墓所」の移動などの処置を行う事に依って、”武士に成りましたよ”と宣言する事が慣習と成っていたのです。

つまり、「経済的な低下」も含めて、「子孫拡大」が図れずに、「断絶家」が多く成った事で、江戸末期から変化して行ったのです。
恐らくは、この状況から、「郷士株」で「下士の武士」と成った上で、「武士の養子」を迎えたと観るべきですね。
その宣言として、「元からの武士」ではありませんから「寺の墓所」は無理と成りますから、「余地の使用権の持った畑地内」に「墓所」を移して宣言をしたのです。
その後に、「郷士株」で「下士の武士族」と成って、「養子」を迎えての「後の墓」が道路を隔てた地に設けたと観るのが「歴史観」に見合うものです。

参考
尚、墓石と墓の形は時代性で変わっています。これからもお家の事が読み取れますよ。
又、ご先祖の戒名でもお家の事を辿れますよ。

以上、御疑問は次ぎの様な歴史観が在ります。
今後の探究に役立ててください。

では、ご質問等ありましたら、御遠慮なくお尋ねください。



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