青木ルーツ掲示板
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  [No.254] Re: 三つ盛り州浜
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:24:10

Re: 周防大島
副管理人さん 2007/03/16 (金) 11:02
今日は。
周防では大変に資産家であったようですね。

当時は鎌倉幕府が出来て多くの氏家が朝廷からの職を失いました。特に、皇族賜姓青木氏や藤原氏の四家は大集団の一族でしたが、武士に代わった鎌倉幕府で完全に職を失い、各地に離散しました。

御家の場合も皇族賜姓甲斐の青木氏ですから、一時職を失いかけたと見られますが、この時、頼朝は本領安堵策という2つの政策を強引に北条等の反対を押し切り、実行に移しました。
つまり、清盛等の京平家に奪われた土地を元の青木氏や藤原氏に戻す政策を実行したのです。

これで頼朝の味方となる源氏の11家の一族と同族の青木氏5家の一族の各地の勢力が息を吹き返しました。この時、御家の甲斐の青木氏も息を吹き返し、一時衰退していた家を起こす事が出来て各地の安堵地を獲得したはずです。
この時に、肥後付近の自領地を取り戻したと考えられます。
その後、鎌倉幕府はこの独断専行した頼朝を3年後にトリカブトの毒草で暗殺します。北条氏に依って頼朝の子孫の一族も全て暗殺されます。その後、室町幕府になり下克上と戦国時代が起こり、信長と武田氏が台頭し武田氏は滅びます。
この時、御家はこの肥後付近の自領地に逃げ延びたものと考えられます。
そして、そこで土地の地主として生きて土着の郷氏となり、秀吉や家康の時代に土地の守護大名となったものに仕えたと見られます。
郷氏といえども、元は皇族賜姓の甲斐の青木氏ですから家柄身分はどの戦国大名より上ですから、御家の様に土地に力のある郷氏の仕官は政状安定から、当然に守護大名は雇い入れた筈です。

御家はこの時、薬草などを小作人に栽培させながら、これを売りさばく大店と組織を持っていた筈です。つまり、「二足の草鞋」策を採っていたのです。
これは大抵の5家の青木氏は、室町末期か江戸初期頃から、この方式で生き延びてきたのです。「二束の草鞋」と「郷氏」でです。
江戸時代までの全ての大店の家柄は、このような家柄の氏が営んでいたのです。
又、そのような力とシンジケートとの繋がりが無くてはこの時代は大店はできませんでしたのです。

だから御家は、薬と漢方の医者であったのです。それだけの背景があり、その身分と家柄から郷氏であって、家臣となりましたが、仕官先の大名の家柄より数段上であり、朝廷から「守」を受ける家柄であった事から朝廷より名誉職を与えられる資格適任氏であったのです。
誰でもが医者だから受けられると言う事は有りません。それなりの家柄にしか出しませんでした。

朝廷には、古来より「冠位制度」と「姓制度」とがあり、この規則の範囲で名誉職の種を出していました。いくら金品を積んでも、原則はこの方式に従いました。

例えば、徳川氏でも、朝廷は征夷大将軍の冠位を出す事を渋りました。この最高職の冠位は皇族賜姓青木氏か皇族賜姓源氏の2つの氏にしか出しません。そこで徳川氏は室町中期の天皇家の第6位皇子の先祖だと搾取偏纂して一切の生活費まで押さえて脅かしをかけて認めさしたのです。
室町中期は南北朝の時代で、既に、第6位皇子の賜姓は行っていませんでしたし、主張する皇子などいませんでした。作り上げて認めさしたのです。有名な事件です。

他に、その後、「源氏の頭領」という冠位がありますが、これも要求しましたが朝廷は譲りませんでした。又、朝廷は天領地を全て奪われ生活費を押さえられて食べるのも苦しいことになりました。
そこで、苦し紛れに、「源氏の長者」と言う冠位を作り与えたのです。

郷氏で抱え医者で、「守」が与えられるのは皇族賜姓青木氏の5家の家柄であった事が認められたのです。

実は私の家の伊勢青木氏も同じ二束草鞋策で生き延びてきたのです。
伊勢の豪商の紙屋長兵衛で、名張の小次郎の小説や歌舞伎やNHKの大河ドラマに3度も出て来るほどの商家です。祖父の明治35年まで約950年程度続きました。
私の家の伊勢青木氏は平安期から代々の冠位は「民部尉位」です。
天皇を守る親衛隊の侍の最高位の冠位です。伊勢青木氏の役目とおりの冠位です。

面白い話があります。
紀州初代徳川頼宣が伊勢の飛地領(元は天領地)の伊勢青木氏の我が家に会いに来ました。
お城の松坂城で会いました。その時、家康の子供のこの頼宣は一段高い殿様が座る上座から降りて下座に移り、上座に青木長兵衛を座らせました。この仕来りは祖父の代まで付き合いがあり大正14年まで続いたとの事です。
これで、同じ施基皇子を始祖とするルーツ御家もどのくらいであったかを物語る事が判ると思います。神官で医者として「守」が与えられたもので、本来は綜紋「笹竜胆紋」の「民部尉位」です。

元、施基皇子を始祖とする同じ従兄弟兄弟関係の青木氏ですが、その後の生き様もよくにていますね。

この様に、5家5流の青木氏はこのような郷氏が多く、大店とで「二束の草鞋策」で生きのびました。

当時は、相等の家柄身分で血縁をしていましたので、お説のような血縁が生まれるのです。

ぜひとも子孫を大事にお育て下さい。
それから、三つ柏紋が珍しいと書かれていましたが、珍しいのではなくそのような家柄身分なので少ないのです。

今は、三つ柏紋ですが、綜紋(一族の統一紋、元の紋)は私の家と同じ「笹竜胆紋」です。

三つ柏紋は大変に由緒有る日本でも10の指にも入る家紋で、家紋200選にもある文様ですので、
日本全国で家紋は8000ありますがその中のトップ10ですよ。

家紋掲示板の三つ柏紋の青木氏は6つあると思いますが、その宗家です。元を辿れば笹竜胆紋でそれも伊勢の青木氏と同じルーツですので、天皇の菊紋に継ぐ笹竜胆紋を綜紋とする三つ柏紋です。

そのお店に無い方がおかしいのです。家紋中の家紋なのです。だから、「守」が降りたのですから。



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