青木ルーツ掲示板
このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

[掲示板トップ(ツリー表示)] [新規順タイトル表示] [新着順記事] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

  [No.585] Re:福島の丹治です。丹党と縁があれば教えてください。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/07/08(Wed) 20:40:25

福島の丹治さん 始めまして。

青木サイトにようこそお越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。
この青木氏氏のサイトは全国の青木さんの集うサイトです。

青木氏の事なら何でも揃っています。

さて、本サイトとは青木氏ですが丹治氏系青木氏が発祥しています。その関係から丹治氏に付いての多少の研究は出来ていますので、それらでお答えしたいと思います。

兎も角も、丹治氏系青木氏に関しては左メニューの「青木氏氏 研究室」の中に、レポートがありますので参考にお読みください。「検索」をお使いください。
又、左メニューの「青木ルーツ掲示板」にもお便りが多くありますので、これも「検索」をお使いください。
これだけでも丹治氏の事に付いてはお答えになると思います。

では、提供されました情報としては、家紋は5瓜文様の家紋である事、福島で丹治氏を名乗っている事
ご本家安土桃山時代からある事、伊達藩の宿場町として丹治氏を住まわした事
以上4点かと思います。

丹治氏の事から述べます。
丹治氏とは950年頃武蔵近隣一帯に「武蔵七党」と云う土豪集団があり、この土豪集団が連合してこの付近一帯の治安と防御の共同体を形成していました。

その「武蔵七党」とは次ぎの通りです。
丹党、横山党、児玉党、猪俣党、村山党、西党、綴党、   野与党、私市党
以上です。

土豪集団「武蔵七党」は西党がリーダー役を演じて居ます。
後からこの地域の支配者に成った日本一最大勢力を誇った藤原秀郷一門(一門主要5氏の一つの進藤氏)がこの西党の跡目に入ります。
そして、「武蔵七党」連合体との政治的関係を保持します。
従って、「武蔵七党」もこの藤原秀郷一門の勢力圏の伸びに応じて拡がっているのです。

この秀郷主要5氏の「リーダーは「第2の宗家」と呼ばれた藤原秀郷流青木氏で、入間を中心に横浜神奈川を半径とする円の中に螺旋状にこの青木氏が採り囲み、最終は下野と岩代の国境まで伸びています。
藤原秀郷主要5氏は青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏です。

丹党が丹治氏です。
その丹党とは、その昔、平安期(850)頃、数度に渡って武蔵守に任じられた皇族多治彦王の末裔とされています。
後に、「峯時」の代に「秩父別当」の職につき、丹治氏又は丹氏を名乗ったとされています。
この丹治氏は、武蔵国の児玉、秩父、比企、入間、加美郡の5郡近隣一帯に分布しています。

一説には、この丹治氏は、左大臣 島氏を賜姓され、真人族と成ります。その末裔とする説です。

賜姓とは天皇から皇子の3つの身分の内先ず1つ目の真人族(皇位継承権を持つ第4位皇子までの身分の者)が直接氏を受ける事を云います。
2つ目は朝臣族(第5位から6位までの皇子の者)、3つ目は特別に宿禰族(第7位皇子の下族者の者)等が賜姓を受けることが出来る事。

この島の子供の廣成が遣唐使に成ります。この廣成の八世の孫の武信が陽成帝の時に、罪を犯して武蔵の国に流罪と成ります。その孫の「峯時」の時に免罪となり、丹党を作ったとする説があります。

島左大臣と別とする説もあります。
島左大臣は第29代宣化天皇より発祥したとされ、その末裔の十市王の孫の多治彦王の子とする説もあります。この配流孫とする説です。(系譜的に疑問)

第3番目の説として、峯時(丹貫主)は初めて関東に住み、峯時より3代目の武綱が秩父に住みます。
峯時より5代目の武峯が罪を犯し武蔵に配流と成ります。
その罪は秩父郡、加美郡、一井、加世を横領した罪です。
その後免罪と成り都に帰ります。この時の配流孫であるとする説です。
朝廷の官職の「丹貫主」の「丹」を呼称したものとされています。

第4番目は島左大臣は政権抗争に破れ武蔵に一時配流され、直ぐに間違いと判り免罪となり都に帰ります。この時の配流孫とする説です。多治彦王の配流孫とは別とする説です。

この丹治氏は主紋は「丸に揚羽蝶紋」の7氏系(副紋使用)、2氏の花菱紋(副紋 九曜紋)と三州浜紋と富士山紋2氏です。あわせて11氏です。

この4つの説は氏を良く見せるという当時の習慣からでたものと考えられます。
無理が目立ちすぎます。
青木氏は検証の結果では下記の2つの説から発祥している事は確実です。
島氏の配流孫と相当に時代の違う多治彦王の説と二つの事が起こっていたと見ています。

宗家丹治氏に関しても3と4説ではと観ます。
その平安期後、この丹治氏は武蔵5郡より鎌倉時代を経て室町の下克上と戦国時代にて北に広がりを見せ下野一帯まで延びています。(一部横の上野国境に広がりもあります)
上記は自然の広がりからの七党(実質九党)間の血縁分布です。

しかし、江戸初期には岩代国(福島)の国境まで伸びていますので、国境の一部が、正宗の宿場町造成の時に、この一族が移動したのではと考えられます。(移動分布)
ですから、五瓜文様の家紋と成っていると観られます。

お家は特別な移動問題が無ければこの一族の末裔と見る事が出来ます。
お家はこの綜紋の「丸に揚羽蝶紋」7氏のひとつと見られます。

家紋の変化は血縁により家紋掟により変化しますので、「五瓜に唐花」か「五瓜に梅鉢」に変化したものと思います。
血縁関係が良く判りませんが、主紋の「丸に揚羽蝶紋」から出たとすると、「五瓜に唐花」では無くて極めて区別が付かない良く似た普通の「五瓜紋」(線の太さ)ではないかと考えます。
つまり、平家の末裔紋です。代表的な氏としては織田氏の家紋です。
他4氏は地域性と氏性が異なります。
多分、この「丸に揚羽蝶紋7氏」から出た一門ではと考えます。

下野の北まで移動する家紋の地域性と一致します。

「たいら族」(清盛)の平家支流は藤原秀郷一門に奪われるまでは武蔵、下総、常陸、下野に領地をもっていましたので、丹治氏との血縁は充分に考えられ、支流傍系の揚羽蝶の丸付き紋の家紋と成っていて、副紋を武蔵七党の家紋としていると観られます。
この織田氏(丸に揚羽蝶 織田瓜紋)と同じく平家支流傍系ではと思います。

先ずは、青木氏として知る範囲から上記情報とあわせて考察しました。

ご質問が有りましたら、ご遠慮なくお尋ねください。お便りをお待ちしています。



- 関連一覧ツリー (◆ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 削除キー