青木ルーツ掲示板
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  [No.836] Re:丸に片喰 越後の青木です。
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/02/07(Tue) 09:14:51

越後の青木さん 今日は。始めまして。
これからもどうぞ宜しくお願いします。

”始めまして”ではない様ですね。
先日お便り頂きました越後の青木さんでした。
昨日判りました。
その後お体が回復に向かっているとの事ですが、よかったですね。

春爛漫と云った感じで穏やかな日が続いていますね。桜も満開、雪柳、椿、すももの花、草花に付いては数え切れないですね。
ところが、東北の方々は苦しい状況で耐えておられるのですね。
何か、割り切れません。
新潟は如何でしたか。充分にお気をお付けください。

さて、お便りに入らせて頂きますが、神明社の論文をお読み頂いているとの事ですが、ありがとう御座います。
青木氏を根底から掘り下げて研究しているものですが、先祖の生き様を浮き彫りにしたいとして投稿しています。何か不明点やご質問が有りましたらお尋ねください。
自分では判っているつもりで書いてしまっていますので、後で読み直し見ると不詳の部分に気づく始末です。随時訂正を繰り返しています。

さて、お尋ねの件ですが、なかなか個人ではルーツの解明は難しいですよね。神明社のところでも書いていますが、納得出来るほどには世間には資料がありませんしね。かなり専門的な研究が必要です。
しかし、青木氏に付いては日本でも最古の位置を争う位に歴史が古い氏であり、宗派は古代密教であった事や神明社の様に祖先神の守護神であった事からその筋の資料が遺されていて、それを調べることで他氏とは違いルーツを解明でき易いところがあります。他氏では資料があったとしても殆ど信頼性に欠け使用できないのが現実です。

お家は情報として「丸に片喰紋」である事、ご先祖が越後国、菩提寺は正副寺、氏神は諏訪宮、宗派は浄土真宗で検証しますと、次ぎの様になると思います。

先ず、結論は藤原秀郷流青木氏で中沢氏系青木氏と成ります。
これらの情報には一連性が存在しますので、次ぎの様に成ると思います。
そもそも「中沢氏」は「長沼氏」の支流一族で長沼氏は秀郷主要5氏の一つで永嶋氏と長沼氏と青木氏は秀郷4代目兼光系の一族です。その同族の支流の中沢氏との同族血縁した青木氏です。
この長沼氏は実に多くの姓氏族を有していて秀郷一門の中ではトップクラスです。
しかし中沢氏はこの中でも上位の位置に居ますし有名ですが、この分家筋から養子を迎えた事に成ります。長沼氏系中沢氏は家紋200選にも出てくる有名氏です。

丸付き紋は家紋掟により幾つかの判断ができますが、この中沢氏の分家と判断します。
この中沢氏分家と秀郷流青木氏との養子血縁と観られます。
丸付き紋は青木氏の分家とする考え方もあるのですが、藤原秀郷一門は原則丸付き紋は使用しない掟に成っていて、更に青木氏は皇族賜姓青木氏に習って使用していません。
依って、中沢氏の分家と判断するところです。
秀郷流青木氏は秀郷の子の第3子で千国を始祖としています。詳しくは秀郷関係のレポートを沢山用意していますのでお読みください。
御家紋の片喰紋は秀郷主要家紋8氏の一つです。
恐らくは、本来は秀郷流青木氏は秀郷一門の綜紋で「下がり藤紋」ですが、お家のご先祖がある年代で跡目の男子継承が出来ずに同族の長沼氏の支流中沢氏から養子を迎え、更に2代続きで男系に恵まれずに家紋掟により養子先の家紋の片喰紋に変紋したものです。「下がり藤紋」は綜紋と成ります。
この片喰紋は秀郷流青木氏と同族血縁をした中沢氏と秀郷一門の主要5氏の長谷川氏が使用しています。長谷川氏と血縁したとも考えられますが、長谷川氏の分布とやや異なりますので違うと考えます。
依って、しかし、同紋である事から長谷川氏とも何らかの形で同族血縁関係を持っている事に成ります。仮に長谷川氏であると丸付き紋をどう考えるかが問題に成ります。(主家本家は丸は原則使用しない)
この秀郷流青木氏116氏は24国に定住分布していますが、片喰紋の中沢氏系の青木氏は主に越後に多く定住しています。これは長沼氏系は進藤氏と供に新潟に勢力を持っていた藤原利仁流と連携して新潟方面を護っていたのです。
この越後は北に阿倍氏、東に内蔵氏、等阿多倍一族一門の勢力に挟まれて藤原氏とりわけ北家筋の秀郷一門に取っては大変に厳しいところでありました。そこで全北家筋が勢力を傾けて守っていたところですが、中でも秀郷一門の青木氏と長沼氏一族が当っていました。
従って、越後には”おーいと呼べははいと答えるくらい”に秀郷流青木氏が大変多い地域ですが、その中の長沼氏系支流中沢氏の一族が多いのです。
この様に越後の中沢氏は越後との関係の強い長沼氏の関係から説明できます。

藤原秀郷一門主要5氏は(兼光系)青木氏、永嶋氏、長沼氏、(文行系)進藤氏、長谷川氏と成っています。

次に宗派ですが、これには特別な事情がありまして、恐らく、宗派は浄土宗であった筈ですが、古代密教であった事から経済的負担から宗派変えをしたか、中沢氏の地域には浄土宗寺が無かったかによります。秀郷一門は地域に赴任定住しているために、浄土宗が古代密教であったために地域が限定され、一時的に真宗に便宜的に入信したのです。従って、一門の3割程度は引き続き真宗を宗派としているのです。
この為に平安末期から室町期前半頃に秀郷一門の青木氏には真宗を宗派としている事が多いのです。
中でも領国の武蔵国から離れて赴任した為に地方に居た青木氏は真宗に入り、中でも長沼氏系中沢氏の様な支流一族は勤め上で外郭域を担当し赴任している事から広範囲にある密教でない系列の真宗に入信したのです。外郭域には古代浄土密教はない故に、中沢氏、越後域とすると真宗しかない事に成ります。
特に一門の中でも、青木氏には領国武蔵に戻れば浄土宗に戻すと云う事をしました。
特に本家筋は伝統を護る為にも、又「青木氏」と云う厳しい「仕来り」がありこれを護る必要が有ったのです。従って本家筋は赴任地から任務が終わると武蔵に戻る仕来りでした。

(浄土宗は特別な身分家柄の氏のみが入信出来る宗派で、古代密教の3宗派の一つです。自らの力で職人を育て寺を建て、自らの氏から住職を選び、自らの力で管理運営修復をし、自らの氏のみを祭祀する宗派でした。大変経済的な負担を要するものでした。反面、軍事的な要塞としての役目も負っていたのです。)

秀郷流青木氏は嵯峨期の詔により特別に皇族の母方族であり、且つ皇族賜姓青木氏とは母方で血縁が一致する事から青木氏を名乗る事を許された特別一族ですので、神明社の論文でも論じています「3つの発祥源」の立場と仕来りを護る必要が有ったのです。
秀郷宗家と比べても有品の位は4位か5位ですので宗家よりも立場は上の位置にあったのです。これが「第2の宗家」と呼ばれる所以です。依って、古代密教の浄土宗に戻すことが必要であったし変える事は出来なかったのです。
そこで、秀郷一門の片喰紋の中沢氏系青木氏は支流一門でしたので領国に帰らず越後に定住して護る事に成ったのです。24地方の青木氏は全て分家筋か支流一門が残る藤原氏の掟に成っていたのです。

農民であったのは、鎌倉幕府期以後に秀郷一門は全て職を失いましたので、それ以後庄屋や名主などの農民に成ったのです。関東とりわけ武蔵、常陸などの領国では鎌倉幕府の家臣団になったりしましたが新潟にいた分家・支流の青木氏の多くはやむなく農民と成りました。
ご本家が地主などになっている事からも納得できます。これは重要な判断情報で氏家制度の中では当時ではだれでもが地主になれることはありませんので、藤原氏の様な限定された身分の家柄でなくて成れません。大きな確定要素に成ります。
失職後、元の立場と力を基にして名主、庄屋、豪農、郷士、郷氏、豪商などに成りました。
恐らくは、地主とありますので、この6つのどれかに成っていた事に成ります。
地主や庄屋を務める「郷氏」であったと観られます。
つまり、武家でありながら土地の土豪として暮らし農業も小作人を雇い営む立場で、6つの中では最も立場の高い家柄であった筈で、藤原秀郷流青木氏は鎌倉幕府に仕えない武家はこの「郷氏」に成ったのです。
この為に元々から居た土地に根付いた土豪の「郷士」と分けるために「郷氏」と呼ばれていました。
神明社でも論じている「融合氏の氏」なのです。士の姓ではないのです。

氏神に付いては、鎌倉・室町期以降に農民になった後のことで、これは「諏訪宮」であるとのことですので判ります。
本来は秀郷一門は藤原氏の守護神の春日神社の氏神社で有ったのですが、これも鎌倉期以降は失職により越後では菩提寺と同様に経済的負担から維持が困難と成り、地元の社としたのではと見られます。
ただ秀郷流青木氏は、神明社の論文でも論じていますが、鎮守神の春日社とは別に祖先神の神明社も守護神とする立場にありました。
新潟には青木氏が多いために大変に「祖先神の神明社」が多いところで全国でもトップクラスなのです。
この中で、諏訪神であるとすると、ある特別な理由が生まれます。
諏訪神は神明社と同等に大変古い社で「祖先神」であり諏訪族の守護神なのです。
諏訪族青木氏は信濃の皇族賜姓青木氏との血縁族で祖先神を守護神としている事から、神明社を守護神とせずに独自の祖先神の諏訪神を建立したのです。

諏訪宮は信濃諏訪族の守護神で信濃諏訪族青木氏が信長に攻められ越後に逃亡移動して移り住んだ時に建立したものと見られます。諏訪族青木氏は関東各地にも逃亡してかならず諏訪社を建立しているのです。越後には少ないですが室町期末期に諏訪族青木氏が定住しています。
この事から、地主で郷氏であったお家は春日社、神明社、諏訪社のいずれかを守護神にできる立場にあります。そこで青木氏である事から、春日社よりは神明社か諏訪社にする事になりますが、長沼氏の支流中沢氏系青木氏である事から「祖先神」を選んで諏訪社としたのではないかと考えられます。
3社の何れもを守護神と出来る中間的な立場であった事になります。
春日社よりは祖先神を選んだ事に成ります。中でも神明社は青木氏の長沼氏中沢氏系支流一族と成ってしまったこともあり守護神としづらく鎌倉期に入って諏訪社としたと見られます。
恐らくは信濃から移動してきたとする口伝から諏訪族との関わりが何か一族の中に有ったのかも知れません。
片喰紋の青木氏は主要8氏の豪族であったので各氏と血縁をしています。
片喰紋の諏訪族はありませんので諏訪族との血縁性の有無に関しては検証は無理ですが、諏訪族青木氏は全て抱き角紋です。
諏訪族は大変に厳格な氏でありまして、抱き角紋だけでも判りますように他氏との血縁に慎重な氏でしたので秀郷流青木氏との血縁を推測させるだけのものはありません。
関東に逃げた諏訪族青木氏も秀郷流青木氏を頼って逃げていますが、ここでも血縁に依って家紋が増えていません。

片喰紋は同族の長谷川氏にもありますので、長谷川氏は中部から東北北陸地方を勢力圏としていましたので越後は多少はありますが決め付けられるほどのものではありません。
片喰族は特に阿波・四国・愛知西にも多く定住している一族ですが、丸付き紋ですので長沼氏の支流中沢氏の分家筋との血縁氏であるので越後であることが納得出来る大きな要素です。
多分、愛知西域には昔の総宗本家のご親類があると観られます。
藤原氏の仕来りにより中沢と云う愛知の地名から採った姓ですので、昔は”藤原の朝臣 長沼の中沢・・”と名乗ったところから最後は中沢氏としたことに成ります。
この中沢の地名は愛知に多く、この片喰草は酢将草と呼ばれハート型のピンク色の花を咲かせる野草でその花の軸をかじると酢の味がするのです。此の野草は新潟よりも暖かいところに育つ野草です。
恐らく、藤原一門の青木氏はこの愛知でも大変多い青木氏でこの事から家紋掟による現象が一族に発生して家紋を片喰草にしたのですが、この愛知の秀郷流青木氏が同族長沼氏の支流の中沢氏と血縁をしたと考えられ、その後、赴任地の越後に赴いたものです。

信濃に居たとする口伝はこの愛知と信濃の境界部分までこの青木氏が定住地を広げていましたので信濃とする口伝があったものと考えます。当時は「住み分け」としまして重なる事は無く特に青木氏に関しては在りませんでした。
信濃の青木氏は北側の越後に西の境界まで信濃皇族賜姓足利氏系青木氏、信濃の国府から南にかけては総宗本家の皇族賜姓信濃青木氏本家一族、西には本家一族と血縁した皇族賜姓族諏訪族青木氏、西南には皇族賜姓諏訪族系青木氏、東南の甲斐境界には諏訪族系武田氏系青木氏、東には皇族賜姓足利氏系青木氏等が住み分けていました。
従って、信濃の境界部より南愛知側には藤原秀郷流青木氏が大変多く定住していたのです。現在も。

昔は土地に人が拘束されていて「国抜け」と云って江戸末期まで禁止されていたのです。これを犯すと一族皆打ち首の斬罪と成ります。移動にはそれなりの赴任地移動などの理由が必要であったのです。
この氏家制度の掟は明治初期まで江戸期の終わりまで続きました。
殆ど武士以外は移動は不可能であったのです。無宿者以外にはありえませんでした。
信濃から越後に現在のように勝手に自由に移動したとする事は出来なかったのです。特に農民は不可能でした。村全体で連帯責任で「人別帳」を点けて管理されていたのです。
結局”信濃から”とするのは武士以外の赴任に無く、愛知と信濃の境界に居た事を示すことになるのですが、お家の青木氏は家紋から長沼氏から中沢氏から観てもこの事以外には有り得ません。
長期赴任移動して鎌倉期の混乱と失職で領国に帰らずに現地に定住した事になるのです。
24地方に定住した秀郷流青木氏はこの混乱と失職により定住したものです。
但し、これには抜け道があって藤原氏が採った戦略は、現地の豪族との血縁をしていますので現地の豪族の権利を踏襲してその地に戦略上残して勢力の拡大を図ったのです。
本家が赴任した場合は武蔵等の領国に帰ることに成るのです。

念のために、武士を除く民は明治初期3年の苗字令と8年の督促令まで戸籍を有する習慣がありませんでしたので、菩提寺はありませんし過去帳も墓所もありませんでした。
墓所は川原の路傍の石を積み上げたもので先祖墓なるものはありませんでその様な習慣でした。上記の庄屋などを除いては。
それは平安期の910年頃から戸籍法が廃止されて以来、百姓(昔は農・工・商の部曲や品部等全般を呼称)は氏や姓を構成しない慣習により持ちませんので仏法の仕来り管理が不可能なのです。
依って菩提寺は勿論過去帳もありませんでした。当然、氏姓を意味する家紋も明治以降に成りますので片喰紋の根拠も持ちません。

明治3年の苗字令か8年の督促令により武士以外の庶民は苗字を持つ事に成りましたが、 この時、庶民は周囲の世話に成っていた郷氏や庄屋や地主などの姓と家紋を名乗ることに成りました。
その様に維新政府から強く指導されたのです。特に青木氏は古来より青木村を形成する事を許可された氏であった事から村人たちとの長い悠久の歴史の付き合いがあり血縁は兎も角も「絆」で結ばれていたのです。よって明治期にはその絆を元に村人の村全体が青木氏を名乗った人が多かったのです。
これ以外にも村に関係のない金のある商人や職人らも家柄を良く見せる為に寺に金品を出して系図を作ってもらってそれを証明に維新の役所に届け名乗った人も居ました。(江戸時代は武士階級の戸籍簿の役を寺がしていた)
ただ、鎌倉期に農民に成ったとしても郷氏・郷士・庄屋などは姓や紋の伝統を引き継いでいる事に成りますので、辿れば見つける事が出来ます。この様な一族も名字帯刀が許されていて室町期からは農民であるけれど青木氏を儀式祭祀の時は名乗る事を許されたのです。又、普通の農民であっても郷士等でなくても平安期にルーツを持つ者等も明治期になって、再び昔の歴史を伝えられてい居た青木氏を限定された村・地域によっては村地域の一族が再び名乗った処もあるのです。(史実の裏づけがある)

他氏と異なり青木氏は明治期の令によりともに長年生活をして来た強い絆から村人や家人は青木氏を名乗ると云うことが起こりました。神明社の論文でも記述しています。
この事の確認はご本家か宗家のお寺の過去帳が明治以降にしか無い事や明治維新の戸籍簿の確認で判ります。

お家のお話であると、本家地主菩提寺の有無とか地主とかの明治以前のお話に成っているようですので、元は藤原秀郷流青木氏で長沼氏系の支流中沢氏系の青木さんで、鎌倉期以降は郷氏の青木さんであったと観られます。以上の内容と成ります。
この前提に於いてルーツ検証には史実と合理的な検証が出来て矛盾がありませんので先ずは確定は出来ませんが合っていると考えます。

どこの青木さんも同じに成りつつあるのですが、時代が進むとなくなってしまうのですが、何か確定するものがご本家やご親類に遺されていると思います。
お隣のご本家を辿りますと、この元の総宗本家にたどり着ける情報が得られるかも知れませんね。
ご本家が明治初期以前にも真宗であったとすると特にお寺の過去帳や戒名などから見つかるかも知れません。菩提寺とは別に明治初期以前のものを証明するものがあれば確定です。

ご本家筋を辿れば愛知−信濃の処までたどり着けると思います。
戒名には3つの要素を組み込んで着けられるものでご先祖がどの様な立場生活なども判ります。
お家の仏壇の形式も参考に成ります。
真宗の移動と移跡からは室町期末期の事に成りますので一寸難しいかも知れませんね。

確か、正副寺はテレビで観たと思いますが寺で音楽をするお寺では無かったですか。

以上、提供頂きました情報からは検証できる範囲はこの範囲と考えられます。
他に一寸したことでも大きな更に決め手になることがありますので判りましたらお便りください。

越後の青木さん 今日は。

さて、早速ですが、ご質問がかなり専門的に成ると考えられますので、お答えに入ります。

>1)愛知西域に昔の総宗本家があるということは本拠地は東海、では菩提寺の創立は鎌倉時代の関東の常陸国らしいのですがこれはどう解釈すべきでしょうか。なぜ常陸という地名が出てくるのでしょうか。さらに常陸から信濃、越後(越後に入ってまた2回)と移動した理由も不明です。

先ず家紋から前回の通り藤原秀郷流青木氏でありますが、その青木氏116氏の内の長沼氏系列の中沢氏系青木氏とお答えしました。ここで実は中沢氏は長沼氏の系列の中沼氏の支流に当たるのです。
これを更に詳しくルーツを拡大すると、この長沼氏は本流総宗本家長沼氏以外に次の9つの氏から出ています。

1 淵名氏族長沼氏 2 小山氏族長沼氏 3 秀行流長沼氏 4 土岐氏族長沼氏 5 西党流長沼氏 6 宇都宮氏族長沼氏 7 桓武平氏長沼氏 8 島津氏族長沼氏 9 織田氏族長沼氏

さて、この中の2の小山氏族長沼氏の第2枝葉支流の中沼氏系で、その更に第2枝葉の中沢氏と血縁をした同族秀郷一門の「第2の宗家」と呼ばれる青木氏の分家と成ります。
この小山氏は常陸の大豪族で「関東屋形」と呼ばれ3氏の一つです。
この小山氏は元は陸奥の土豪の小山氏で、秀郷一門の宗家と護衛役の青木氏が鎮守府将軍として当地に赴きました。そこで秀郷宗家、及び青木氏はこの土豪との血縁をしますが、養子縁組にて青木氏と血縁をします。しかし、男系跡目が叶わず家紋掟により女系と成り家紋は男系の養子先の家紋と成りました。この小山氏系青木氏は任地が解けて領国に戻ります。この青木氏が常陸に小山氏を継がせて護らせます。そしてその後、青木氏の血縁の小山氏は常陸で大豪族に成ったのです。
そして、この小山氏と更に同族の長沼氏が同族血縁をして小山氏(同族青木氏)から養子を向え男系跡目により小山氏系長沼氏が生まれます。
この2の系列の支流に地名より長沼氏の中沼氏が生まれます。この中沼氏の支流に地名から中沢氏が生まれます。この中沢氏が更に青木氏116氏の一つの愛知の秀郷一門青木氏との血縁をします。
これで青木氏が2重に入った事に成ります。
この様にがちがちに各地24地域で同門固めを秀郷一門は戦略として行ったのです。
この中沢氏系青木氏が家紋掟により養子先の中沢氏の家紋の片喰紋系の青木氏となったのです。
つまり、長沼氏−小山氏−中沼氏−中沢氏−青木氏の流れを持っています。
小山氏には青木氏の血と中沢氏にも青木氏の血が持っていることに成ります。
この第2番目の元の小山氏が常陸なのです。

そこで、越後には宗家長沼氏が入りますが各地の同族の長沼氏系列の一門の護衛役の青木氏に越後に同行赴任を求めます。この時にこの中沢氏系列となった青木氏が赴任移動します。
この宗家長沼氏は秀郷より兼光系6代目考綱が越後の護衛を務めます。
そして、もう一人秀郷より考綱の直系9代目俊賢が越後の護衛を務めます。
小山氏系列の秀郷7代目の初代小山政光より初代中沼宗政を経て6代目長沼秀行が越後の護衛を務めます。(この宗政は淡路守初代、宗政は頼朝に合力した朝光の兄で千葉の結城氏)
この時の秀行の時に愛知の中沢の中沢氏系青木氏が越後の護衛に就いたと考えられます。
考綱の時より各地の秀郷流青木氏が護衛に就いたのですが、これは俊賢からは中沼氏系列の青木氏が務めて居た事を物語ります。
辿れば中沢氏系の枝葉の宗家は中沼氏で、更に上の宗家は小山氏系で青木氏と成り、ここに常陸と云うところが出て来ます。しかし、第5枝葉となりますので資料から中沢氏とその血縁氏の枝葉は不詳です。

>2)本家の宗派が明治初期以前にも真宗であったか否かですが、聞いた限りでは、真宗であり、また菩提寺も同じです。分家の我が家にある檀家過去帖(欄が埋まるとお寺で焼いて新調します)に江戸文政年間の記録がありました。過去帳原本にはさらに古い記録があったようですが、寺火災のため焼失してしまいました。
>本家の事柄で私が確認できるのはせいぜいお墓くらいのもので、姿形はよくある何々家墓などと彫られている長方形の石のかわりに、「丸、三角、正方形ふたつ分くらいの長方形、平たい四角、ひとまわり大きな平たい四角」の粗末な石材がのったお墓です。途中に何か挟まっていたらしいのですが、災害などでくずれた際なくなった、という話です。

次は2番目のご質問ですが、その前にお考え違いをしておりまして、この事を先に記述します。
先ず、「菩提寺」の定義ですが、これが違っているのです。
菩提寺とは密教方式にて氏自らの力で寺を建て、自らの氏の中から住職を選び、自らの職人で寺を造り管理運営をし、自らの氏の者を祭祀する独善的な寺の事を言います。これが古代密教の根本的方式です。これには天台宗密教方式、浄土宗密教方式、真言宗密教方式の3つがあります。
有名な密教のあり方を論じた「密教論争」です。これ以外は密教方式では有りませんでだれでもが入信出来る独善性のない宗派です。
ですから、浄土宗密教は2つの青木氏や皇族系に限られた宗派と成り、天台宗は公家・貴族などで構成されていて、真言宗は有品の大豪族などで構成されていました。
当然に浄土真宗はこの密教方式に反対しての宗派として分流の宗派ですので、菩提寺方式は元々ないのです。3密教以外は「檀家寺」と呼称します。
浄土宗密教にはそれなりの独特の仕来りと習慣とが有ります。
青木さんはこの檀家寺を菩提寺としての前提でルーツの模索検証を試みていられるのですが、真宗はルーツ探求には無関係です。地理性などが檀家寺として変化しても氏に関わるものではありません。
常陸、信濃、越後などの移動に関係が有りません。氏に着いて来ないのです。密教方式ではないからです。
しかし、この誤解は江戸の家康の採った奨励令により起こったものなのです。
この密教方式では江戸期の社会組織では、この3密教は経済的負担にも拡散する氏的にも成り立たなくなって寺が荒廃して無くなって行き、特に浄土宗は衰退してしまいました。
そこで家康は浄土宗の仕来りを廃止し誰でもが入信できる宗派に改めてやや高い布施費を求めることで維持復活させようとしたのですが、矢張り、大名や上級武士以外は無理でした。
この時より浄土宗寺は単一氏ではなく氏を限定する事無く数多い氏の出費で維持することに成りました。一般的になったのは明治初期です。それでも矢張り現在でも他宗よりはまだ高いのです。ここで密教性が無く成ったのです。
この江戸からの改修で菩提寺と檀家寺の差が無くなった為に混同されて過去の江戸期前の事も檀家寺を菩提寺と考えられてしまっているのです。
真宗の菩提寺とする事から観た常陸には無理があるのですが、常陸には上記する縁があるのです。

そこで、さりながら提供されましたこのご質問には大変な情報と成っているのです。
それは墓の形式なのです。
現在の長方形の墓はこれは明治初期からのもので、明治3年の苗字令と8年の督促令により国民すべて姓を持つことが義務付けられました。その時から、国民九割以上は氏では無く姓による戸籍簿が作られそれに依って墓も持つ様に成ったのです。檀家寺でも全ての姓の過去帳も作られる事に成りました。
それ以後、墓は長持ちし綺麗な状態で維持出来る大理石・御影石等で作られるように成ったのです。
土台の御影石の上に長方形の御影石を載せる簡単な方式で出来ているのは明治期のものなのです。
後に土葬から火葬に変わり墓形式と仕来りは変化して行ったのです。
ところが、江戸期の氏家制度の中では、武士以外は原則墓は持ちませんし菩提寺も過去帳もルーツも持ちません。農民以下(通称江戸期初期までは「百姓」と呼称していた 公家貴族有品武士の侍を除く民の事として呼ばれていた)は川原の路傍の石を積み上げた簡単な個人墓で済ませる仕来りで土葬であるので石の墓は原則無し風雨に晒されて無く成る等が起こりました。この自然変化が故人の仏になる過程と見なされていたのです。
農業を営む庄屋などの郷士、郷氏、豪農、名主と豪商は武士と同じで墓所と名字帯刀が許されて過去帳もを持つ事が出来ました。元々は平安期では武士でしたから。
ここでこれ等の事がその宗派により仕来りが違ってくるのでその氏の素姓が判るのです。

お便りより先ず丸・三角・四角の墓は「先祖墓」と云うもので、50−100年以上の数人の先祖を有する氏が立てる墓の形です。明治以後も宗派に依って同じ習慣があるのですが、浄土宗は密教方式の一つとしてこの形式を採ってきたのです。最近はこれを真似て御影石の「五十の塔」と呼称して一般にも採用するところがあります。
しかし、これを砂岩や泥岩でつくったものが密教の形式なのです。つまり、「土に戻る」の戒めから風雨に解けやすく苔むす砂岩や泥岩を使うのです。どんな大名や公家貴族でもこの石を使うのです。
先ず、越後の青木さんの墓所の内容は浄土密教の墓所の仕来りを護っていることなのです。
現在でも少ない仕来りで「先祖墓方式」と「粗末な石材」です。高野山や比叡山の古い墓を見てください。この形式を採っています。
さらにこれだけではないのです。この石材での「平たい四角の大きな石」は普通は見かけません。
これは「女墓」と云いまして、決定的な浄土密教の伝統的仕来りなのです。
その氏に関わった女御の人たちの墓で女御は普通の墓所には居れずに、隣にこの大きな石に戒名を書き記して遺して行く形式なのです。戒名は書き足されて行きます。中には辞世の句や家訓なども書き足すことがあります。これは先ずよほどの古い浄土寺の墓所でもなかなか観られない浄土宗密教の仕来りなのです。

浄土宗密教方式では「先祖墓」でない墓石は3代墓と云いまして、3代前つまり祖父までの単独墓を造ります。1年から数年程度の故人の場合は木塔婆を造ります。そして3年以内に石の墓を造ります。
これを繰り返して行くと祖父の墓石は50年以上を経過します。中には100年と云う事も起こります。
この50〜100年経った墓石は先祖墓に入ります。これを順に繰り返す仕来りです。
法事やお盆の場合の祭祀の仕来りは3代前まで先祖数の仏を主として祭祀し般若心経のお経はその3代前までの先祖数の分だけ唱えます。特に浄土宗密教のお盆の仕来りは他宗と随分と異なります。
この様に仏壇も含めて仕来りが厳格に決められているのです。

これは越後の青木さんの現在の宗派が真宗なのですが、墓は浄土宗密教の仕来りを護っていることなのです。経済的負担などから真宗に改宗しましたが伝統だけは護って居た事を意味するのです。
これは現在でも真似る宗派や人は居ないようです。
その女墓に書いている戒名も戒名そのものも記すことが出来る戒名墓である事なのです。
戒名は「院殿居士」と云ってこの戒名があるから石に記することが出来るので、真宗では書く程の戒名は密教でないために使用しません。その戒名には3つの生前の様子を盛り込むのですが、この戒名を見る事でもその氏の宗派と家柄は判ります。
墓は長い間には砂岩泥岩ですので消えて行きますがこれが宗教的に又よいのです。
越後の青木さんの墓所のものは長い年月で消えているようで、間に挟まっていたものがあったとされていますが、説明が難しいので避けますがこれがこの「女墓」の造り方なのです。
まさしく藤原秀郷流青木氏の伝統を物語るものです。
依って、”菩提寺と真宗に付いては違いますよ”と云う事なのです。

昔からの伝統は墓所に限らず恐らくは仏壇の形式やお盆などの祭祀方法が本家では多少護られているはずですよ。仏壇も浄土宗式仏壇であるかも知れません。

>3)氏神の諏訪宮についての質問です。
> 諏訪宮は信濃諏訪族の守護神で信濃諏訪族青木氏が信長に攻められ越後に逃亡移動して移り住んだ時に建立したものと見られます。
>この件で、我が家から嫁・婿養子を出すなど縁のある隣村の嘉木(かぎ)に創立が応徳三年(1086)と伝わる諏訪神社があります。我が家の氏神の諏訪宮は年代不詳ですが、あるいは同時期かとも思えるのです(しかしそうすると菩提寺との年代が合いません)。諏訪信仰はそれぞれの時代でいかにして広まって行ったのでしょうか。

実はこの諏訪神社の氏は大化期からの氏で諏訪族と呼ばれ「日本書紀」にも出てくる青木氏に負けないくらいに古い氏名です。そして、賜姓青木氏に付き添われて天皇の前で堂々と文句を言うくらいの気骨のある氏で、周りがハラハラしながらも”あれでよい 信頼が出来る”と天皇も褒めたくらいの氏なのです。
この先祖は中国後漢の民が阿多倍に率いられて17県民200万人と云う技能集団が北九州に帰化しますが、その内馬部と云う放牧と大型馬を育てる集団をこの未開の信濃に配置しました。これが諏訪族の先祖です。そしてこの開墾した信濃の国に信濃王として赴任し守護王としての第2世の第6位皇子の賜姓青木氏で、これが皇族賜姓信濃青木氏です。
この青木氏に諏訪族から跡目を入れて発祥したのが諏訪族青木氏です。
この抱き角紋の諏訪族青木氏と諏訪族の守護神が諏訪大社です。
この諏訪族青木氏は足利氏系青木氏と武田氏系青木氏2氏があります。この諏訪氏の守護神は1025年頃に創建されていますが年代を不祥にしています。これは主要な神社は年代を明確にしない仕来りがあるのです。それは霊験あらたかであることを狙いとしていて古いことが良いからです。この時期には氏にもこの様な風潮が起こりました。
諏訪大社の前身は当初「自然神」を主体としていて山や諏訪湖などを神と崇めていたのです。それが「産土神」と成り信仰の対象を祠の様なものを造り祭祀するように成ります。
次に、「祖先神」と云う信仰対象と成り伊勢神宮の様な「社」を造ります。これが社の始まりです。
最初は30程度の社しかありませんでしたが、朝廷が「皇祖神」と青木氏の「祖先神」としての「神明社」を作るに及び全国制圧するに連れて青木氏の神明社を建立することに成ります。
それが丁度、清和源氏征夷大将軍として全国を制圧してから神明社としての社がひろまり、各氏の社も勢力の及ぶ範囲にシンボルとして社を建てたのです。
この時が丁度、1025−50年で、諏訪社もこの時代に創建しました。
この事からすると、越後には諏訪族の勢力は全く及んでいませんので、この年代に藤原氏の勢力圏に氏家制度の中で立てられるわけはありません。結論としては分霊という方式で勢力の及ぶ各地に移しましたので、本霊の年代を表示しているのです。

諏訪社は次の5期の範囲で拡大しています。

第1期は平安期後期、第2期は室町期初期、第3期は室町期後期、第4期は江戸期初期、第5期は江戸期後期です。

色々特徴がありまして、越後には第3期のところで戦国時代信長に依って滅ぼされた武田氏の諏訪族武田氏系青木氏2氏が一部越後の藤原秀郷流青木氏・中沢氏系青木氏等を頼って逃げ延びています。
多くは関東の秀郷流青木氏を頼って横浜・神奈川・栃木に逃亡しますが、この越後の諏訪社はこの逃亡した氏らに依って創建され分霊されたものです。
越後には史実として諏訪社の本霊はありませんので創建理由から分霊と成ります。
勢力圏の及ぶところには本霊を、及ばないところには分霊を創建する仕来りです。
これは氏家制度の中にあるからでそこの氏に対して他氏の社の本霊は無礼極まり無しと成ります。
もしその様な事がありますと「戦い」です。なぜならば、当時は寺社や神社は戦いの拠点の役目も同時に持っていたのです。拠点になる様なものを領内に立てられてはまさしく戦いです。
この分霊は第3期以降に起こりました。その第3期の前は勢力圏の中に社を創建する慣習です。
第5期は伊勢詣で有名に成り神社競争が起こり諏訪社を始めとして幕府は各地に各社を立てる事を奨励します。第4期は未だ自由に立てる事は出来ませんでしたが大名が国変え移動するたびにその氏の社を守護地に競って建てたのです。これも拠点の意味が有ったのです。城を建てると騒がれるので領内の要衝に寺や神社を立て周囲を護り且つ戦いになるとそこが前線本部の役割を果したのです。

この様な意味で、お家がこの諏訪社を守護神にする主たる根拠は見つかりませんが、恐らく前回のお答えになると考えます。
そのお答えの内容としては、越後において諏訪族青木氏との血縁を含む絆が有ったのではないかと考えます。
藤原氏の春日社、青木氏の神明社を選ばず(第1回目のお便りでは?ですが選んだとすると問題はない)、諏訪族青木氏との血縁を重視した事に成ったのではと考えます。これを証明する資料と情報は有りませんが私はかなり確率が高いと見ているのです。
氏家制度は血縁は家柄身分のつりあいを前提にしますので充分に有りうる事と思います。

推測の域を越えませんが、同じ青木氏であるので、そこで「神社」は諏訪族側の諏訪社を、「寺社」は秀郷側の真宗とし、「家紋」は抱き角紋より男子側の片喰紋の家紋を、「墓所の形式」は諏訪族は神道であるので元の浄土宗密教の仕来りを引き継ぐとした取り決めをしたのではないかと考えているのです。
つまり、この事から秀郷流青木氏と云う事に成りますが、この様な事が起こったのでは。
何故ならば、氏家制度の中では諏訪社(神道)と真宗の組み合わせには有り得ないまぜこぜの無理が有るからです。
諏訪社であれば抱き角紋なのに片喰紋、神道なのに真宗、そして、墓は真宗なのに古代浄土宗密教の形式がある。それこそ有り得ない五目飯です。
実はこの様な事が起こることは下記に書いた各地で起こった同姓の融合の所以が起こった事を示しているのです。これが氏家制度と云う環境(「つりあい」の血縁慣習)の中で「2つの血縁青木氏」だけに観られる特徴なのです。

片方は皇族賜姓族の青木氏、お家は准賜姓族の藤原の青木氏で完全につりあいは取れています。
実は異なる同じ青木氏同士の血縁は珍しくなく、信濃や伊豆や鳥取や島根や高知でも起こっているのです
伊豆などでは5つの青木さんが融合しているのですよ。この大きくなった青木村があるのですよ
同じ青木さん同士であればどちらの青木さんか判りませんね。家紋もどちらにするかもめるところですね。
今の情報では何の決め手もありませんがある史実があってこの仮説は意外に有るのでは。

そこで念のために、一つ目の質問ですが、青木さんが多く住むお家のある程度大きい地域に「抱き角紋」の青木さんか「立ち三つ葉梶根付紋」の青木さんが居られませんか。
二つ目の確認ですが、或いはお家の「ご本家」は越後の信濃よりですか。
信濃国高井郡井上小坂郷和田村-越後国亀田村袋津−曽川村- 新潟市西堀通
これは御家の移動経緯ですか、菩提寺とする真宗寺の経緯ですか?を確認をしたいのですが。

江戸期前は武士の赴任地以外に原則長期の移動と定住は出来ませんので、赴任地移動と定住と成ります。とすると秀郷一門の赴任地から検証が進むのではと思います。
越後には昔の中頚城郡金谷村(現在は金屋)・青木村等他の2個所青木村を基点として青木氏は広がっています。
信濃には下諏訪地方と隣の小県郡青木村など前回の南北の分布の青木村が基点として広がっています。
そうすると信濃の高井郡とは信濃北右よりに位置していますので、此処での過去の史実とを考察してこの質問の事が判れば信濃の高井郡の検証が進み、愛知の中沢の秀郷流青木氏の国境とする説と上記の仮説の考察が出来るかもと考えられますが。この二つの事が確認できると仮説がより検証できると思いますが。

家柄の釣り合いから狭い限られた越後の地で「つりあい」を合わしての血縁は難しく同族血縁をすることが多かった戦国時代の背景がこの時期に起きています。
この諏訪族は武田氏に嫁いだゆう姫(諏訪社の斎王を務めていた)の如く誇りを抱き武田氏に溶け合うことは無かったはずです。諏訪族の方が武田氏に比べれば数段家柄が上でしたから。故に大変に厳格で排他的な思想を持ち他の氏との融合をあまりむやみにしなかったのです。これは祖先が「産土神」(うぶすなかみ)を主体としているところに有るのです。
この事は詳しく「青木氏と神明社」で論じますのでそれをお読みください。第12番目くらいが本論に成りますが5くらいから徐々に記述しています。

では、ご質問や他に情報がありましたら是非お便りください。お待ちしています。



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