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  [No.1117] 長野の青木さん
     投稿者:福管理人   投稿日:2017/05/24(Wed) 15:58:37

長野県の塩尻市の青木氏さん 今日は。

来場記帳頂きました。有難うごさいます。

お家のルーツがどの青木氏かの疑問をお持ちの様ですが、お家のルーツがはっきりしていますので、折角ですのでお答えさして頂きます。

実は、長野にはルーツの異なる二つの青木氏が存在します。
元は同じですが、それが次の経緯に依って、枝分かれしています。

それは大まかに分けると次ぎの通りです。
1 信濃の皇族賜姓臣下族青木氏
このルーツが発祥元に成っています。
「天智天皇」の「皇子族の真人族」で、皇位継承権を外れ、「第四世族で第六位皇子」と成った者の皇族王で、皇族を外れて賜姓を受けて「臣下族」と成った「氏族」です。
この臣下した「氏族」に「青木氏」と云う「氏名」を賜ったのです。
これには「五家五流」あって臣下した朝臣族として、伊勢、近江、信濃、甲斐、美濃の「守護王」(国司を置いた)と成って配置されました。
この「氏族」も信濃では、現在も信濃の小県等に青木村を形成しています。
信濃の天領地の開発を担当しました。

2 信濃諏訪族青木氏
信濃については、先ず経緯として奈良期に、中国の後漢と云う国が滅び、日本に逃げて来ますが、瞬く間に無戦で九州地区全土を勢力圏に置きます。
この渡来一族は「阿多倍王」と云う王に率いられて渡来しますが、大和朝廷と戦わず融和し、その渡来人の家臣の馬を率いていた一族が放牧を中心として信濃開発に廻されます。
その一族の頭が諏訪族です。
その頭の族と女系で血縁した「信濃の守護王」との間に出来た子供が「賜姓青木氏」を名乗りました。
ところが、この「諏訪族青木氏」には「男系継承」が二代続きで女系と成った事から、1の継承の名籍を継ぐ事が叶わず「養子方の諏訪族系の青木氏」と成ったのです。
この「皇族賜姓臣下族の青木氏」が「諏訪族青木氏」です。
1と2は同族一門です。

現在もこの一部は、諏訪を中心にして西諏訪地区にも「青木村」を形成して定住しています。
又、武田氏に加勢して信長との戦いに敗れ各地に逃亡します。
神奈川と更には栃木にも一部は逃亡して定住移動しました。
この後、この更には、神奈川に定住した「諏訪族青木氏」は新潟にも移動定住しています。

3 諏訪族武田氏系青木氏
上記の「2の一族」が室町時代に武田氏との戦いで敗れましたが、結局、武田氏と血縁していて、この2の一族の一部も二代続きで男系跡目が叶わず女系と成り、武田氏より養子をとりました。ところが、これが、「女系」となり武田氏の一族に組み込まれました。

後に一部に諏訪地域に定住する族と、後に家康に依って埼玉の鉢形に村を形成して定住移動させられた一族に成ります。
武田氏系青木氏と共に3の一族も一族として同行します。

4 武田氏族諏訪族系青木氏
「3の一族」が武田氏の中で生きる中で、血縁が完全に「武田氏」の血縁性が強く成った一族です。先祖に諏訪族の血筋(女系で血縁)を引いているという一族です。
この一族は、血筋が武田氏であった事から旗本として武田氏と共に完全に滅亡したされています。
一部、甲斐にも各地に散在して農民に成って生き延びた事が判っています。
元々の甲斐青木氏が定住地の巨摩郡にも多い事が判っています。

現在はこの一族には定住地や家紋分析などは確定する事は困難です。
武田氏と共に敗退して滅亡している事からもそもそも信濃に定住する事もおかしいのですが、この一族だとする青木氏が存在するのです。
戦いで敗れ、その子や孫が掃討作戦で何とか生き延び密かに山などの村落で生き延びて、江戸初期の農兵で武士と成った者、明治期の苗字令で先祖の氏名を名乗ったとする定説です。
だから、小県と長野の地域群 諏訪塩尻地位群の中間地に位置している上田地域に位置していると観られています。
この[上田地域の青木氏村」は、江戸期だと云われていて比較的新しいのです。
この「青木氏」は、「丹治氏流青木氏」(1万石の大名と成り摂津地域に一族移動定住した為に疑問)とも云われ、又、「秀郷流青木氏」とも云われ、恐らくは先祖伝来の確証のある物証を持つ「青木氏」は見つかっていません。

故に、宗教や慣習の異なる「青木氏」が多い所から殆どは「明治期の第三の青木氏」とも思います。


さて、そこで、お家はこの「4つの青木氏」より、家紋と定住地の二つの情報がありますので、これからも、明確に判定が可能です。

「丸付き紋」ですから、上記の4つの何れかの分家筋であることは判りますが、家紋から武田氏系の菱紋類ですので、2か或は3と云う事に成ります。
4は確実にお住い地区が異なっていますし、主に甲斐に定住していましたから当てはまりせん。

此処で、お家のご先祖の母方は「青木村」にお住いの方であったとすると、母方は1または2のルーツを持つ一族の「賜姓族の青木氏」で、これとは違うと云う事ですので、そこで、「3のルーツ」を持つ一部で持つ「青木氏」と云う事にも成ります。

そこで、ところがお住まいがお家の場合は、昔の諏訪西地域の塩尻市にお住いと成りますと、「2のルーツを持つ青木氏」のお家と観られ、その分家筋の武田氏の傍系の血筋を一部で持つ後裔一族と観られます。
(お家の2のルーツの分家筋で二代続きの男系不継承が起こり武田氏の傍系三階菱紋の家から養子を迎えた事で、お家は女系と成り家紋変更が起ったのです。武田氏宗家は花菱紋)

3、又は4のルーツの青木氏は、武田氏系一門ですので、諏訪域に住む事は、昔の慣習の「棲み分け」から困難です。

棲み分け状況
小県地区 2地域の青木村  1のルーツが棲み分け
大町地区 3地域の青木村  2のルーツが棲み分け(1系ルーツ含む 1とは東西に棲み分け)

諏訪地区 2地域の青木村  2のルーツが棲み分け(塩尻迄東西に棲み分け)

長野地区 1地域の青木村  3のルーツが棲み分け

上田地区 1地域の青木村  4のルーツが棲み分け(3とは南北に棲み分け)

又、母方のご先祖の青木氏との血縁があると云う事から、氏族の格式を重んじる同族血縁の慣習から2であることに成ります。
更に3、又は4は格式が下の姓族ですので、当時としては考え難いものです。

これ等の事は、詳しくは研究室などに論文を投稿していますので参照してください。
地名の地図のメニュウも参照下ください。

ルーツ掲示板にもお家の元親族の方からのお便りも多く寄せられています。

掲示板の検索を使って、諏訪族青木氏でも読む事は出来ます。

判らない時は、ルーツ掲示板にお家の専用欄を設けますので、お問い合わせください。
ではお待ちしています。


  [No.1119] Re:長野の青木さん
     投稿者:福管理人   投稿日:2017/05/28(Sun) 12:07:34

長野の青木さん 今日は。
早速、お便り頂きました。有難う御座います。

お役に立てて良かったと思います。
青木サイトのデータを読まれて判らない時など、是非、お便りをください。

この度のお便りにも、「家の事」を証明する事が出来る「二つの情報」がありました。

それは、「小林氏の事」と、「2のルーツ」をお持ちの事を証明する情報から、次ぎの事をサイトからも「青木氏の歴史観」としてお知られせする事がありましたので投稿致しました。

それは先ず、周囲に「小林氏」が多いと云う事です。
この事は「2のルーツ」の「お家の青木氏」と実は無関係では無いのです。
お家の「2のルーツ」の存在を証明する一つに成ります。

前回にご説明した様に、「皇族の真人族」が「朝臣族」に成って臣下した「氏族」ですが、これには「五家五流の青木氏」が在りますが、取り分け、中でも「伊勢」と「信濃」の「青木氏」は奈良期から明治初期まで同族でありながらも血縁関係が深いのです。

(注釈 「五家五流青木氏」 伊勢、近江、信濃、美濃、甲斐)

この時、「青木氏」の「氏族」としての「氏」は、”ある範囲の濃い血縁関係で維持していた”のですが、この制度を「家人制度」と「四家制度」と云います。

(注釈 「五家五流青木氏」は「賜姓五役」を務める為に「朝廷」より「ある純血範囲」を義務付けられていました。
天智天皇の第六位皇子の「施基皇子」を始祖とする事から、その「敏達天皇の春日真人族の第四世族」で同祖同門の「志紀真人族」である「後裔の青木氏」は、「准皇位継承権」を課せられていました。
その為に「天皇家の血筋の純血を保つ義務」があったのです。
そこで、「伊勢王の施基皇子」の子の四男「白壁王」(青木氏)が、「聖武天皇」の時に天皇家に男系が途絶えた為に、唯一残された皇女の「井上内親王」(「伊勢青木氏の白壁王」)がこの「伊勢青木氏」に嫁ぎ、「准の継承権」を持つ事でその権威から「光仁天皇」に成りました。
つまり、桓武天皇の父です。)

「青木氏の氏」だけは、室町期中期から発祥した「姓族」の様に、「血縁の無い家臣の契約」で構成されている家臣団では無く、「何らかの血縁関係を持つ家人」(四家制度)と云う主従関係で全体が維持されていた「特別の族」なのです。
この掟が「皇族賜姓族臣下族の宿命」でした。

その「伊勢青木氏の家人」の中に、「小林氏」が在りまして、「伊勢」を中心に分布し存在していました。

(注釈 「五家五流青木氏」の中では「四家制度」に依る「家人制度]と職能人に依る「青木氏部」と云う「二つの組織」で構成されていました。)

中でも「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」とは、明治20年頃まで大変に深い関係にあって、その為に、「女系関係の血縁」で繋がっていて、「伊勢」より「信濃」に輿入れの際に「家人従者」として、その時に、「伊勢青木氏の家人」の「小林氏」が信濃に移動して定住したのです。

(注釈 逆に、「信濃」からの女系関係の血縁で「信濃」から、「伊勢」にも「神戸氏」の様な定住した「信濃の家人族」が在るのです。)

これは恐らくは、ご記入の情報の林氏等も「信濃」で拡がったこの「小林氏の傍系族」(分家・支流族)ではないでしょうか。
江戸初期か、明治初期の苗字令の時に、「傍系族(小林氏の女系の縁者関係)」が本家筋に憚って「林の姓」を名乗ったとも考えられます。

お家の周りにお家の「青木氏」に関わる姓があるのはその証明です。

次ぎは、「家紋文様の事」ですが、「1のルーツ」は「笹竜胆紋」で変紋しません。
従って、「分家」と云う形式もありません。
ところが、「2のルーツ」の「諏訪族青木氏」は「変紋」が起ります。(但し、総本家の宗家は起こさない。)
この「2のルーツ」の本家筋は、「総紋」として「1のルーツ」との関係から「笹竜胆紋」で原則維持されるのですが、矢張り、「宗家」を除いて「分家筋」は、前回のご説明の通り跡目継承で「変紋」が起ります。
お家は、この「変紋」が、2度起こっていた事が考えられます。
つまり、「総紋」(氏の象徴紋)を「笹竜胆紋」としながらも、「家紋」は「笹竜胆紋」から「梶紋」、そして「三階菱紋」に成ったと考えられます。

従って、お家の家紋の元は、総紋を「笹竜胆紋」とし、「宗家」はこの文様を維持していた筈ですが、三階菱紋の前は「諏訪氏の総紋」の文様の「梶紋」であった事にも成ります。
これは「2のルーツ」の分家筋にも依ります。

従って、「1のルーツ」に近ければ、「祖先神」の「神明社」が「氏独自の守護神」で、「2のルーツ」に近ければ、「諏訪大社」が「氏独自の守護神」と云う事に成ります。
「2のルーツ」の逃亡などでの「定住地移動先」では、「神明社」と「諏訪大社」が建立されていますので、両社を「氏の守護神」にしていた可能性が有ります。

(注釈 氏族は、独自の守護神を持つ事が出来る。)

「邪馬台国の自然神」に近い「庶民の信仰対象」であった「道祖神」にも興味をお持ちと云う事ですが、出来得れば「氏の守護神」の同じ自然神系の「祖先神の神明社」(伊勢神宮の皇祖神の子神)や「諏訪大社」もお調べに成ると、「青木氏の歴史観」をより深く獲得できると思います。
研究室にこれらの事は論じていますので御参照してください。

然し乍ら、「三階菱の家紋」から、両方と云う事もありますが、お家の家筋は、「梶紋」の「諏訪大社」と云う事かなと考えます。
「何でもない一寸した情報」から、この様な事が判りますので、先ずは、「研究室やルーツ掲示板の情報」を獲得されて独特の「慣習仕来り掟」を持つ「青木氏の歴史観」を高められれば、この「一寸した情報」を掴む事が出来ますので、お読みください。

この事は「研究室の伝統シリーズ」の中にも論じています。
参照してください。


  [No.1121] Re:長野の青木さん
     投稿者:福管理人   投稿日:2017/05/30(Tue) 19:25:03

早速、お便りありがとうございます。

「青木氏の事」の「伝統の一端」をご理解頂きましたが、これからも更に本サイトを多少なりともご理解しお読みください。

さて早速ながら、全くお説の通りで、これは前回ご説明した「青木氏」が持つ世間と乖離した「独特の慣習仕来り掟」から来る事の弊害に依ります。
然し、昔はこれが何の不思議もなく当たり前でした。

前回のご説明の立場から、これは主には「四家制度」と云う「氏」(賜姓族と云う立場)としての厳しい制度を保っていた事からの結果から起こった事であります。

取り分け、「諏訪族青木氏」に関しては「ルーツ掲示板」には72カ所、研究室には数えきれない程の事を論じていますので参照してください。

お家のご先祖の事(諏訪族青木氏)を書いた最も古い記録は、何と日本最古の書籍「日本書紀」に明記されています。
研究室に青木氏に関わる事の「日本書紀の事」が論じています。

実は、筆者がその「伊勢青木氏」の「総集本家の宗家青木氏の40代目」に当たりまして、此処に幸いにして多くの全国青木氏の事を書き示した書籍類や古遺品や口伝等がある程度遺されていまして、それを全国の青木氏の方にお伝えする目的で、管理人さんのご協力を得て投稿しています。

現在、「青木氏の子孫」にその歴史ロマンを遺す目的から、「由来書の再現」を図るべく投稿している次第です。
お説の様に、「青木氏」には「青木氏氏是」と云うのがありまして、簡単に現在用語に要約すると、世に晒す事無かれ、何れ一利無し、然れども、世に憚る事無かれ、何れ一利無し。”)

これが生き残る「青木氏の氏是」でありました。

前回のご説明の通り、平安初期に編纂された「新撰姓氏族」等を始めとしての「日本最古の三つの古書籍」がありますが、ここには「青木氏と同じ立場」を持つ「氏族」は、平安初期には20、そして中期には40程度、平安末期には約80氏に成りますが、鎌倉期にはこれらの「氏族」は200までに拡大はしました。
然し、「青木氏の氏族」を除いて、室町期末まで10程度以下まで落ち込み、明治期初期にはにすべて滅亡しました。
この様に室町期初期から中期に発祥始めた「姓族」(海部氏が始まり)と異なり、「氏族」(武家貴族)は、家人によるだけで大きな本格的な武力集団を持たなかった事から、「下剋上」や「戦国時代」で生き残る事は難しかったのです。

然し、「青木氏」には、この「青木氏氏是」を下に、主に「伊勢青木氏と信濃青木氏」は「二足の草鞋策」を敷き「郷氏」として結束して生き残る事が出来たのです。
然し、室町期末期の信長と秀吉は、この「伊勢と信濃と甲斐の青木氏」をも容赦なく攻めたのです。
ところが、「伊勢と信濃の青木一族」は、「影のシンジケート」を使って2万の軍に対抗し勝ちます。
この為に、総指揮官の織田信雄は叱責を受けて蟄居した有名な事件が起こります。
秀吉は「長嶋の戦い」で、青木氏は「影のシンジケート」を使って「物資の買い占め策」に出て「軍需用品の調達」が出来ない様にし、余りの大金で戦いが進まないと云う事が秀吉側に起こったのです。
この「青木氏の作戦」が成功したのは、総指揮官が青木氏と縁者関係にある「藤原秀郷流蒲生氏郷」が総指揮官であった事が作戦成功の鍵であったのです。
「作戦の落としどころ」を上手操ったのです。
これで「伊勢と信濃の青木氏」は護れたのです。
ところが「甲斐青木氏」は武田氏と共に敗れますが、家康に救われて、その為に武蔵鉢形に一族定住移動させられました。
この「甲斐青木氏」の一人が、かの有名な幕府の要人の「柳沢吉保」です。

(注釈 「柳沢」と云う「甲斐の土地」に住んでいた「甲斐青木氏の分家」(三男)で、父と争い「青木氏」を継ぐことが許されなかった。)

その前には、既に「近江と美濃の青木氏」は氏是を破り源平合戦で宗家本家筋は滅亡しました。

そもそも、「青木氏」は前回のご説明の通り、「伊勢と信濃」は「家人制度」をベースとする為に「武力集団」を持っていません。
但し、これでは生き残るとこは到底出来ません。
そこで「二足の草鞋策」で、戦国時代で潰された周囲の小さい土豪の集団と経済的な結びつきを持ち、「膨大なシンジケート」を創設したのです。
無暗に攻めると、この山の中に住む「影のシンジケート」が動き相手を殲滅する憂き目を負います。
例えば、食料の路を絶ちこの「影のシンジケート」で足利氏の2万の軍を餓死させました記録もあります。
つまり、江戸時代の忍者集団がその一つです。
「伊勢と信濃」には、「伊勢−信濃シンジケート」がありました。
その中の一つが、元は伊賀、甲賀、雑賀、根来、河内などがあります。

この様に、氏は総宗本家(宗家筋の本家)、宗家(分家筋の本家)、分家(支流族と縁者族)とあり、夫々が「子孫の枝葉」を拡げている事に成ります。
これを一つに束ねているのが、「氏家制度」と「封建制度」に基づいた「総宗本家」です。
この「総宗本家」が、前回ご説明した「氏の菩提」と「氏の守護神」を護っていたのです。
ここに上記する全ての「氏の者」(達親制度)は、氏から独自に住職や神主を出して葬られたり祀られたりしていたのです。
当然に、氏全ての記録等は、この住職や神主に依って書記を務め、ここに記録される事に成ります。
従って、総宗本家、宗家、本家以外には詳しい伝統も記録も口伝も遺り難いのです。
取り分け、分家筋はお説の通り、お家の事をお調べに成るには、この「氏の菩提寺」(檀家寺ではありません。)か「氏の守護神」(神明社か諏訪大社)に頼る以外にはありませんので、そこで分家が「勝手な事」を伝える訳にはいかないのです。
又、勝手な行動をする事が出来なかったのです。
血縁等全て宗家本家の許可を必要としたのです。
勝手にすればたちどころに潰されます。

さて、話を戻して、ところが江戸時代には、家康から”伊勢の事お構いなし”と云う有名な「お墨付き」を受け、保護を受けて生き残る事が出来たのです。
奈良時代には、「日本書紀」にも書かれている様に、「天智天皇」より「不入不倫の権」と云う「伊勢神宮」あるい伊勢を護る為にもこの「大権」を受けていた事もありました事からも、より生き残る事が出来ました。

当然に、前回のご説明の通り、多くの記録にも遺されている様に、この「伊勢青木氏」と「信濃信濃青木氏」は「深い親族関係」にあった事からもに、同じ共通する「習慣仕来り掟」で生きて来ていた事からも生き残る事が出来たのです。

この「伊勢や信濃青木氏」は、前回のご説明の様に、「日本書紀」にも書かれ、「新撰姓氏録」にも書かれ、「青木氏の始祖」と成る立場にあり、何とか1400年の荒波を経て生き残る事が出来ました。
それ故に、実は固く身を護る事からも開放的では無くお説の様な事が起こっていたのです。
従って、分家筋には「四家制度」に基づく「掟」から「家筋の情報」が伝わらなかった事だと思います。
恐らくは、「室町期初期の下剋上」と足元を見られては困る「戦国時代の影響」ではと思います。

「伊勢と信濃」には幸いにして、「500万石にも上る財力」を背景に記録に遺る程の「大豪商の紙問屋 伊勢屋長兵衛」として「二足の草鞋策」を敷いていた事からも、多くの記録を遺す財力と戦闘の抑止力が備わっていたのです。(歴史上に出て来る)

故に、先ずは「信濃の神明社」か「諏訪大社」の守護神をお調べに成ると昔の事が次第に解ると思います。
それには、次の「四つの神明社」で、松本市、北安曇野、北佐久群、大町市が「信濃青木氏の関係する神明社」でありますが、取り分け、お家の場合は「諏訪大社」との「両方の神」を祭祀する「松本市の神明社の御乳社」が気に成ります。
お便りの仕来りなどから先ず間違いは無いと考えます。

又、「氏の菩提寺」は、「寺名」を明記する事は混乱を招く為に公には控えますが、お家等の「信濃の青木氏の菩提寺」は、「長坂町」にありますので、参考にして下さい。
江戸初期に出された「顕教令」等で、今では「氏の菩提寺や神明社」ではありませんが、一度は、お参りになさると良いのではありませんか。

これ等の事は研究室などにも論じています。ゆっくりとお読みください。

では、又、何か判りましたらお便りください。お待ちしています。


  [No.1123] Re:長野の青木さん
     投稿者:福管理人   投稿日:2017/06/17(Sat) 16:26:17

長野の諏訪の青木さん 今日は。

お便り頂きました。有難う御座います。

さて、早速ですが、この「神明社」と「諏訪社」には、歴史的な独特の経緯が在りましてこの事を知って置く必要があります。

それは先ず、「神明社」から述べますと、「神明社」は「神社」ではありません。
奈良期の「高位の真人氏族」として特別に認められた「青木氏の守護神」として祭祀を許されたものであると云う事てす。
そして、それは単なる「神社」では無くて、元より「皇祖神の子神」の”「祖先神」”と云う「特別の神」を祀る「社殿」であり、この「社殿」は、「神」と後に伝わる仏教の「仏」を融合する「自然神」に近い「神仏を祭祀する社」であったのです。
ですから、「神明神社」とは云っていないのです。

後に、これを真似て江戸期には「神明神社」と云う神のみを祀るものは出て来ますが、これは「神明社」ではありません。
平安期初期から存在する由緒正しい「諏訪社」も同じです。

前回に述べました様に「諏訪族」は奈良期に渡来しますが、この時には、「神明造」と云う「独特の社」に合わせて、「渡来人」として「諏訪造」と云う「独特の社」を造り、既に一族の守護神を祭祀していたとされています。
この奈良期のこの世は、仏教伝来時前はこの世は「神(神も仏も融合の世界観)」でした。
そこへ、「仏教」と云う「救世主」を分離させた「独特の世界観」が中国を経由して伝来します。
この時は、この「救世主」はあくまでも初期は「密教」として捉えられていました。
従って、「密教」である以上、その「密教」として扱う以上は、その「氏族の民」の下で「独特の仏教観」を作り上げたのです。

これに対応して「青木氏一族」は、”「祖先神の神明社」”を祭祀していた事からも、尚の事、「融合の世界観」を作り上げました。
これが「古代浄土密教観」です。
そこで、平安期に入り「法然上人」などに依り「三代密教論争」が興り、「法然上人」により「青木氏等」の「浄土密教」を一般の密教観に確立させたのです。
然し、「青木氏」は「古代密教性」を強く「慣習仕来り掟」等に維持しました。

それは、独特の「祖先神」と云う「神」を祭祀する「神明社」と云う「偶像」があった事に依ります。
「青木氏」以外には「祖先神」と云う様な「神」を持つ氏族は、11流の源氏の「八幡神」、藤原氏の「春日神」などがあります。
「青木氏一族」は、そこで、平安期に入り、この「神道性」を一部で排除して、「独自の氏族の菩提寺」(達親制度)を分離させました。
この「菩提寺」とは、江戸期から起こった「密教」では無い「顕教の檀家寺」とは異なります。

これが、江戸初期に家康によって「密教制」が禁止され、全て「顕教制」にし、神社や仏舎は幕府(国)の管轄下に置かれました。
「青木氏の神明社」は、全国青木氏が定住する地域には約500社弱にも上りましたが、一切管理外と成ったのです。
諏訪社も菩提寺(寺名は匿名)も同様です。

江戸期では「社」は一切は信仰は自由とし、「顕教の寺」は自由性を排除し「家柄と身分」で決められる事に成ったのです
この為、「青木氏一族」は「二足の草鞋策」でこれらを「氏」で維持していたのですが、幕府は財政難から維持出来なく成り殆ど荒廃して仕舞います。
それで室町期末期頃までは何とか形をこの500の神明社を保っていたのですが、この「顕教令」等で殆どは江戸初期以降は”「祠程度」”に成ったのです。
この経緯は「諏訪大社」も同じです。

そこで、困った「青木氏」は、何とか本来の「神明社」を維持せんとして密かに山の中などの別の所に”「祠」”を造り祀って来ました。
本来は、「卑弥呼」などから引き継がれた「自然神」から「皇祖神」、そして「子神の祖先神」と成り、自然の象徴の山を神としてその山裾に社殿を設けて祀るという形式をとりました。
ところが、江戸期の「令」により、密かに「小山の山中」にこの「神明社の祠」を「青木氏の民」が祀りました。
これが、お説の様な現象を江戸期に起こしたのです。
ですから、青木氏の記録とは多少ズレる事が起こりお家がお調べに成った様な事に成ります。

しかし、治政から各地の領主はこれを黙認しました。(「信濃青木氏系の一族」は「郷氏」)
それは家康の”伊勢の事お構いなし”の「御定め書」の「お墨付き」に従ったのです。
「伊勢の事」とは、江戸期では伊勢と信濃と甲斐の青木氏一族の事を意味しました。


これが現在もその雰囲気を遺されているのですが、江戸期には中には自ら財源の提供をして土地の領主に再建や建造の許可をもらったものが有ります。

例えば、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、勿論の事、有名なものはその権力を利用して「甲斐青木氏の一族」の「柳沢吉保」やその一族は、何とか維持せんとして自らの財源で由緒ある「武蔵深谷(埼玉)の神明社」や「美濃や伊勢の神明社」等の古い社を再建しました。
従って、「祠」もあり立派な「神明社」もある事に成り、「歴史的な場所」には無い事が起こっているのです。

「菩提寺」については、数多くの「分寺」(多くは土地の豪族の別の寺名に成るものもある)などは荒廃しましたが、「本寺」などは「献納金」等で幸いに遺されています。
伊勢は「紀州徳川氏の菩提寺」にも成ったのです。

この経緯から観ても、「神明社」の「御柱祭の記録」からでもお家のご先祖の懸命に生きた懐かしい「生き様のロマン」が観えますね。
それの表れの一つとして次の事が挙げられます。

追伸
「御乳社」について、この読み方に疑問をお持ちの様であったので追記しておきます。
神明社等の古い社(天照大神祭祀社)は現代風の読み方はしていなかったのです。
「韻読み」でした。
つまり、当時は「神主」は祝詞等を読むとき、又は関係者の呼称する時は、母韻のアオウエの四音、父韻のチイキミシリヒニの八音から成り立ち、母韻を中心に発声する習慣でした。
例えば、「青木」の「あおき」であれば,”ウォーキェ”と呼称していたのです。

これはそもそも、「日本の言葉」の発祥は、先ず人間が最初に発した言葉は、この母韻からの組み合わせでの言葉から作られて行きました。
そして、次第にこの「四母韻の言葉の組み合わせ」に、「八父韻」を付けて「韻読み」で作り上げて行きました。
この為に、大化期の奈良期の神明社関係はこの慣習に従っているのです。
お調べに成った様に、”玉依毘売命、神武天皇を産んだ方”、つまり「天照大神」とされ「皇祖神」の「神」、子神の「祖先神の神明社」の祭祀する神です。
その為に「母音言の慣習」から、この「乳」は「母」を意味し、その韻の発生源は「ウ」と云う事に成ります。

従って、この「御乳」が古来からあるとして、四韻の「母の意味」が込められていて、呼称は「御」はその意味に沿って先ず母韻の「オ」、又は「ミ」、父韻のィに、「ウの母韻」に「チの父韻」を添えて発生していたと考えられます。
オミーウエに成るのでしょう。
この様に「古来の言葉」では、この母韻言から「母」には、母音の四韻の他にカミ、ウ、ウミ等の言葉があって、後に女将さんとか、乳母、海母とかして残っています。
「大神」(オオウミ おおみかみ)はこの意味を持つています。

つまり、しかし、「御乳」の「おち」の発音は、「ち」の父韻が強くなった頃の相当の後に出来た言葉で、「後付」であることが判ります。
恐らくは、この地域に信濃の青木氏の中で、お家の青木氏の勢力が衰退した時期にこの地域に入った「姓族 豪族」の付けた社名と考えられます。
「神明社」以外の呼称は、「祖先神」では「皇祖神の子神」である事から使えませんから、明らかに「後付の社名」と成ります。
筆者の説は、室町期の足利氏の宗家の信濃足利氏の斯波氏の影響かと考えられます。
「斯波氏」であれば、その信濃源氏の家柄身分からも「氏族」と見做され、その多少なりとも資格はあった事に成ります。
又、韻語からも「キィハ」で成り立ちます。

「皇祖神」は、「祖先神の青木氏」以外に祭祀する事は出来ませんから、これを「姓族」が祭祀出来る時期は江戸期初期からと成り、当然に神明社の社名は使えません。
従って、室町期に入り確固たる「武力集団」を持たない「郷氏」の為に「青木氏」は衰退します。
諏訪族や武田氏系の血筋を持つ分家筋に至る程に「郷氏」としては何とか生き残りはしましたがその影響は大きかったのです。
この青木氏衰退後の後に入った豪族が「大御神(大神)」の名前をかえて,「御乳大社」(現在風におち大社)としたとも考えられます。

この様に「社」を調べる事でも、ここでもお家の当時のご先祖のロマンが観えてきますね。
いい旅でしたね。

この「古来の言葉」、「韻語の言葉」、「言の葉」の源は、「青木氏」が継承する言葉ですので研究室に論じています。
これらの経緯は「伝統シリーズ」などで論じていますので参照してください。