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  [No.1027] 伊勢射和商人との接点について
     投稿者:前田   投稿日:2015/02/15(Sun) 19:03:33

初めまして。とても驚愕しております。私は伊勢商人とりわけ射和商人を知りたく射和商人にも青木氏が関係が有れば詳しく教えていただけたらと思います。宜しくお願いします。


  [No.1028] Re:伊勢射和商人との接点について
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/02/16(Mon) 12:00:18

>前田さん寄りのお便り。
>初めまして。とても驚愕しております。私は伊勢商人とりわけ射和商人を知りたく射和商人にも青木氏が関係が有れば詳しく教えていただけたらと思います。宜しくお願いします。



前田さん 今日は。始めまして。
これからもよろしくお願いします。
ようこそ青木氏氏サイトにお越し頂きました。
「松阪商人」の「紙問屋青木長兵衛(総合商社」)の処でお読みに成ったと思いますが、ありがとうございます。

さて、早速ですが、「射和」(いざわ)は{伊勢松阪の南域}に位置し、玉城との川を隔てた北側の処にある古い町並みですね。
筆者も伊勢松阪が出自で良く存じているところです。
筆者の先祖は、奈良期の古来よりの定住地で、室町期末期は伊勢松阪の武家屋敷町の9番地から11番地に住んでいて、主に「伊賀和紙等を扱う総合商社の紙屋」でした。
要するに、925年頃から「二足の草鞋策」で、{伊賀和紙関連の品}を奈良期から殖産し興業化して作り始め、正式には「朝廷よりの許可」にて「朝廷の余剰品の販売」を925年頃に「商い」を営み、更に、1025年頃には「豪商」と成り、歴史にも出て来る位の「商い」を営んでいました。
そして、室町期には「室町紙文化」に依りこれらの「殖産」から「巨万の富」を獲得しました。
この「流れ」に乗り、江戸期には、「紀州徳川藩」の「勘定方指導」をし、「吉宗」に同行しての「享保の改革」にも参加してその「伊勢商法」を活かしていました。
この江戸時代には、三重の伊勢き「紀州藩飛び地領」として、特に力を入れ「商人」が多く輩出されました。
伊勢の「御師制度」と云う「職能集団の組織制度」を幕府に吉宗はこれを採用しましたが、この制度は、元は「伊勢神宮の職能集団の制度」で、「伊勢神宮の皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の「神職」などはこの「御師」(おし)により選ばれます。
「青木氏」はその「首魁の御師」で、この組織を「江戸幕府の職能集団」に適用して組織を纏めました。
これも「青木氏からの提案(江戸の伊勢屋出店)」に依るものでした。

特に、江戸時代には、この{伊勢松阪}は、「吉宗」が育った土地で「青木氏(吉宗育ての親 経済的背景)」と「加納氏(吉宗の付人役)」が「吉宗」のバックと成って将軍に育てました。
「青木氏の伊勢屋の紙屋」と共に、「加納氏の加納屋等」の豪商が出ました。
一方で、紀州藩は、「伊勢青木氏」が手掛ける「伊勢和紙」だけでは無く、「伊勢青木氏の指導」の下で、伊勢松阪地区から玉城地区に掛けて多くの殖産を進め、「伊勢焼きの陶器」や「白粉等の産物」等を作り出し、危機に陥っていた「紀州藩の財政」の立て直しに成功しました。
特に、「吉宗」はこの事に学び、そしてこれに「商法の力」を注ぎ、この商人等を江戸に店を構えさせるなどの便宜を図りました。

伊勢には、江戸期に紀州藩の指導の下で、「松坂組」と[射和組」とに編成させて経済を活性化に成功させたのです。
「松阪組」には、「青木氏や加納氏」、「射和組」には、「玉置氏や富山氏や国分氏」等が中心と成って繁栄させました。

櫛田川を挟んで、射和の南側の玉城(現在の玉城氏)の全域は、「青木氏」が地権を持つ地主で、その全域は「伊勢紙屋の蔵群」と「職人の住宅地」として成り立っていました。
この状態は、祖父の代の明治35年まで続きました。
ところが、明治35年に筆者の家から失火して「松阪の大火」に成って仕舞いました。
この時、折しも風が強く、その風向きの影響でこの川沿いの間近まで類焼したと聞いております。
この時、「射和地区」だけは免れたと聞いていますが、この為に現在も「古い商家の街並み」が遺されているのです。

「松阪の北側」は消失してしまいましたので、商家の街並みや作業長屋群は消えて仕舞いました。
この「射和地区」も含めて、本家の全財産を投げ売って賠償したと聞いています。
その為に、「本家筋の商い」は倒産をしました。
大阪にも堺と摂津にも店が在りましたので、ここを拠点として出直しました。
現在も、この松阪には親族が住んでいます。

そこで、「射和組」と「松阪組」の「青木氏との関係」「加納氏との関係」は直接的な血縁的関係には無いと聞いています。
唯、「射和組」には、「醤油」も手掛けていて、この「醤油」は、紀州湯浅地区が生産地で、この「醤油つくり」が「紀州藩の肝いり」で「松阪」にも移したと聞いていますので、この「湯浅醤油」の「玉置氏」とは、「筆者の家」とは二度も縁者関係にあった事は判っています。
この意味では、「青木氏とは繋がり」を持っているのですが、富山氏や国分氏との繋がりは伝え聞いていません。
恐らくは、「吉宗の御側用人の加納氏」が営む「加納屋」との関係が在った事が関係から判ります。
この「加納氏の加納屋」とは本家加納氏からの出であり、過去には何度も血縁関係を結んでいます。
筆者の父の祖母、つまり、筆者が曾孫に成りますが、加納氏本家から嫁いできています。
その意味で、間接的な関係にあった事は否めません。

「射和組」の商いは、「紀州藩」と「青木氏」や「加納氏」の肝いりで殖産したのですから、「女系」では確実に繋がっているとは充分に考えられます。
と云うのは、「松阪組」の「伊勢屋の紙屋」は「紙関係」は勿論の事、リサイクル骨董品などまでの「総合商社」を営んでいましたので、地元の「伊勢醤油」、「伊勢陶器」、「伊勢氏白粉」、「伊勢軽紛等」も扱っていた事は間違いはないと考えますし、その様に資料と共に証明できます。
何らかの資料記録関係のものが越されていれば良いのですが、今は充分とは言えず少なく成っているので、確実には辿る事が出来ないのです。
古く奈良末期から、土地の「郷士との関係」を持っていた事は確認できていますし、この「伊勢郷士」との血縁関係を掴めていますので、「青木氏」を背景にこの「郷士」が江戸初期に「商い」を始めた事も判っています。
「伊勢郷士集団」とは古くから親交が有って、「青木氏の末裔」が「家人」に成って、これらの「郷士族」と血縁していました。
依って、これらの「伊勢郷士」は「青木氏の伊勢シンジケート」を構成していましたので、恐らくは、元は「伊勢郷士」であった「富山氏」とか「国分氏」とかは、状況証拠から鑑みて、「血縁の繋がり」を持っていた事は間違いはないと考えます。
「江戸期の商人」の元は殆どがこの伊勢の「郷士」でありました。

ところが、江戸初期にある事があって、「青木氏の伊勢シンジケート」を構成していた「郷士衆」、つまり、「伊勢衆」は「青木氏の援護」の下で、「商い」を始めた事が判っています。
その「商い」は、全て「青木氏の総合商社」が扱っていた事も判っています。
恐らくは、記録にあるこの時の事が「射和組」として編成されたものと観ていました。
この射和組には、「伊勢郷士衆」と、後から加わった「紀州門徒衆」の「二組の流れ」がありました。

「伊勢藤氏の伊藤氏」は、平安期の古来からの藤原氏で、この地に定住していた氏です。
その始祖は、「伊勢守」の「藤原の基景」で、「藤原秀郷の八代目」に当たります。
この「末裔の方」が書いた本には、この「射和商人の事」が書かれています。
実は、この伊勢の「伊藤氏本家」とは、筆者の「伊勢青木氏」とは血縁関係にあった事は承知していて、その末裔は従兄弟として承知しています。
この「伊藤氏」が「射和組」に関係していた事も承知しています。

ところが、如何せん、筆者の先祖の遺品にも確証とする証拠は見つかりません。
「陶器」等にも何か遺されている事もあるかも知れませんね。
依って、本サイトでは筆者も一切触れなかった事柄でした。
思いがけない御投稿でしたので、実の処は驚きました。

「伝統シリーズ」では、既に、一部ではこの事に触れてはいますが、もう少し研究してみたいと思います。
その結果を、「伝統シリーズ」に反映させたいと考えます。

お家の前田氏とは、どの様な関係にあるのでしょうか。
何か、お家にも情報が在りましたらお知らせください。
当方でも資料から割り出して観たいと思います。

残念ながら、系譜と添書が明治35年の出火で消失してしまいましたので、曾祖父や祖父の遺した忘備録での確認と成りますので、不充分で関係が現在では最早、掴め切れません。
現在これを復元中です。

では又、お便りください。


  [No.1030] 伊勢射和商人との接点について
     投稿者:前田   投稿日:2015/02/16(Mon) 18:40:59

教えていただきありがとう御座います。私は伊賀の乱に射和に逃れた喜早家(木曽義仲末裔)森田家もいた事が何か繋りもと思いました。射和には青木家もありますので何等かの関係があると思うのですが?
私の血筋は実は越智河野氏流だそうです。


  [No.1031] Re:伊勢射和商人との接点について
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/02/17(Tue) 14:21:42

前田さん 今日は。早速のお便りありがとうございます。

さて、「射和商人の事」で研究されていて、「伊賀の乱の事」にも関わりに興味を持たれておられるようですね。

「青木氏」として参考になる事が在りますので、協力させていただきます。

実は、前回にも書きましたが、「射和組との関係」がある事は、充分に判っているのですが、消失による資料不足にてどうしても全体を明確にするところには辿り着けませんで、それを解明する確証は掴めません。

青木氏の研究の中の伊勢地区の研究を何としても十分にして置きたいと考えていますが、「伊勢衆」の事の資料が見つかりません。青木氏側ではある程度の繋がりの事は判るのですが郷士側の確かなものが見つかりません。

その原因の一つは、織田氏の「伊勢三乱」に依って、修羅の様な戦場と成った事から「伊勢衆」の基に遺された資料関係が少ない事から来ていると観ています。

そもそも、「織田氏」と「伊勢衆]との戦いは、両者ともに「村が6割全滅」「2万の織田軍が9割全滅」「伊勢寺の僧侶の7割が死亡」「村民6000人が死亡」する等の激しい戦いと成りました。
「ゲリラ戦」が主体と成っての戦いでしたので、それに対抗する為に織田軍側は、相手がはっきりしませんので徹底した「焼き払い戦法」を使ったのです。
この時、丁度、「石山本願寺の戦い」も同じ「紀州、河内、大和、伊勢地域」で、一揆とゲリラ戦が起こっていました。
織田軍側は、この二つの戦いの区別もつかなくなっていたのです。
伊勢では、多くの「農民」や「郷士衆」が滅亡しました。
その後、秀吉に依る「紀州征伐」が更に起こり、徹底して「郷士集団狩り」が起こりました。
「刀狩り」も行われ、「検地]も行われ「郷士衆」は、「武器」や「土地」を奪われ「丸裸」に成りました。
最早、これでは生きて行けないと成り、結局、「伊勢四衆」と呼ばれる「青木氏」等が援護して、土地のものを活かして殖産を進める事にしたのです。
これに、紀州藩の初代頼宣も援護の手を差し伸べて、伊勢を復活させるべく取り組みました。
そして、この殖産を生き残った「伊勢衆の郷士」にやらせました。

「青木氏」は、伊賀地区、脇坂地区、上田地区、名張地区、松坂地区、員弁地区、桑名地区、四日市地区、射和地区、玉城地区、長嶋地区、新宮地区、尾鷲地区等に青木氏が定住していますが、この地区毎に土地に適した殖産を進めたのです。

この射和地区は、櫛田川の水を利用した殖産を進めました。
それが、良質な水と川土に適する白粉花からの「白粉]、良質な水を活かした「醤油」、粘土質の土壌を活かした「陶器」、水車を生かした「粉の生産」、水分を多く含んだ土壌を好む「楮」で「和紙」を殖産し、それを興業にし販売するシステムを構築したのです。
これを「後押し」したのが「青木氏」で、その為に、「徳川氏」から「青木氏」が古来から持っていた上記した土地(地主)を本領安堵されたとする記録が在ります。
この土地を生かした殖産を、土地を失い遺された「伊勢衆」が行い、最終、紀州藩の勧めで江戸に店を出すまでになりました。
従って、この「職人と商人」を「射和地区の商人」と呼ばれ、「殖産の元」と成った「松坂商人」と、興した「射和商人」とに区別して、この地に「商いの組合組織」を作ったのです。
殖産を進めるには、「殖産の土地」が必要で、この土地の多くは青木氏が地主として持っていた土地を使い、上記とした様に「伊勢から南紀」に殖産は及んでいました。
何とか生き残った「3割程度の郷士衆」と「全国に飛散していた者」を先ずは集めて、生き残らせる為に、江戸初期には、「家康肝入れ」で、「青木氏」と共に、「紀州藩」と取り組んだのです。
この時の「紀州藩の官吏」は、伊勢の「秀郷流青木氏」の一族が大量に家臣として仕官したのです。
この「伊勢の秀郷流青木氏の家臣団」が、親族である「紙屋の伊勢青木氏」と共に取り組んだのです。
「伊勢から南紀までの職能集団」と、「射和にそれを取り扱う商人」を配置したのです。

これが、「射和商人」と後に呼ばれる様に成った由来です。
「青木氏」とは、生き残った「郷士衆」とは、シンジケートの関係で「古来から血縁」があった事が判っているのですが、女系の為に記録も辿り着けないのです。
遺された一部の系譜には、女系の嫁ぎ先の事は「添書」にしか書かれていませんので、単純に確証が採れないのです。
「青木氏」には、「四家制度」と云う組織が在りまして、この組織に依って血縁などが決められていました。
この「四家制度」では、「20家の青木氏」が定められていて、この家には一族の者が配置され、それを支える「伊勢シンジケート」と云う「互いに助け合う影の裏組織」や、「青木氏部と云う職能集団」には、「青木氏の嗣子」が立場を「家人」に移して、「跡目に入る組織」を古来より確立していました。
上記した「殖産」の「職能集団」に、「伊勢シンジケート」の「郷士集団」に、この「家人(家臣)」の形で入っているのです。
更には、上記した様に、「女系の形でも入るシステム」に成っていましたから、間違いなく繋がっている事は判っているのです。
「青木氏」で判っている「シンジケートの郷士」には、「18程度の郷士」の名が遺されています。
個人情報に関わるので匿名としますが、提供されました姓名は確認できています。
ただ、どの様に「譜」を持っているかは確定できないのです。

ただ、この内の郷士の4氏が、”伊勢青木氏の末裔郷士だ”と公的にも主張しています。
恐らくは、「伊勢衆の郷士」であると観られます。
その内の2氏は、玉城地区周辺と櫛田川沿い北域の住んでいたようです。
この事から、前者は「絆の青木氏」、後者は「射和の商人」ではと考えられます。
後の2氏は南紀地区ですので、「職能集団の郷士」ではと考えられます。

この事から、「青木氏族」だとを名乗っている郷士が居ることから、間違いなく繋がっていたと考えられます。

つまり、「伊勢青木氏」には、「血縁による二つの青木氏」と「絆に依る二つの青木氏」(玉城)が在ります。
この「絆に依る二つの青木氏」の譜の「郷士部」の方で関わっていた事に成り、「青木氏」を名乗っていなかった組織(主に女系)であったと観られます。

さて、「伊賀の乱」に付いてですが、この「伊賀氏」には、「二つの族」から成り立っていて複雑なのです。
一つは、家臣団の多くは、奈良期から住んでいた「後漢の帰化人(618年頃)」の「首魁阿多倍」に付き従って来た「職能集団の家臣団」の「郷士集団一部11氏(A)」

(「阿多倍王」の末裔の「平清盛」の里で、平安末期にこの伊賀地方を朝廷に返却して播磨に移動します。この時に、その家臣の一部が遺った職能集団の末裔で構成した家臣団の「忍者集団 A」がある。)

後から入った「藤原秀郷流宗家の朝光」(結城氏の祖の祖でもある)が、鎌倉期に伊賀守を務めるが、この朝光の末裔が「伊賀氏」を名乗り、鎌倉幕府と血縁して、晩年伊賀に住み着きます。

この各地の「秀郷一門から編成した家臣団B」があり、奈良期から残った「伊賀氏の家臣団A」とは、この様に二重構造に成っていました。

結局、織田氏に味方するか(家臣B)、独自路線(郷士A)を貫くかの内部分裂が起こります。
「伊勢衆」の内「11の郷士」が参戦しました。
結局は、味方する者(下山、山下)が織田側に通じて、これを知った「郷士家臣団A」と戦いに発展して行きます。

この中の「11郷士」の中にお家が云う「郷士」が入っていました。

「青木氏との繋がり」は、「伊賀の乱」に関わらず、奈良期からの「和紙の殖産」でこの「元の伊賀の郷士集団」とは繋がっていました。
因みに、この「元の伊賀」の「清盛の郷里の親許」に、「源平の戦い」の初戦の「以仁王の乱」が起こった時に、「清和源氏頼光系宗家四家」は負けますが、この時に「青木氏の跡目」に入っていた「源の頼光の孫の京綱」が、兄の宗綱と高綱と叔父有綱の助命嘆願をこの「伊賀の郷」にします。
清盛は、「親許の郷里」の「口添え」を聞き入れ、三人を日向廻村に配流する事に成りました。
この様に、「隣人」として「殖産の仲間」として「嘆願」を聞き入れてもらえる位に親交が古来からあったのです。
(伊賀は「青木氏の元本領地」で、朝廷が「半国割譲」して「平清盛の始祖」の「阿多倍王」に与えた。)

天正の「伊賀の乱」の時は、このお返しとして、「伊勢青木氏」は、中立を保っていましたが、「伊賀滅亡の寸前」で、「青木氏の居城」の「清蓮寺城」から「織田軍の側面」を不意に突いて、一夜で「11の郷士集団のA」を助け出したのです。
「11の郷士集団」を助け出したその後、土地を失った彼等を青木氏は「伊勢シンジケート」に入れて保護します。
この様な関係にありました。

つまり、この「経緯の延長」凡そ25年後に、この伊勢衆の「郷士集団A」を含む「伊勢シンジケートの内部改革」が起こり、この上記する「射和の事」(殖産)が起こったのです。

この時、「殖産」をより高める為に、興業にも拡大し、「運輸業」や「警備保障業」もこの「伊勢シンジケート」を形成している「郷士集団」に依って形成されたのです。
「総合商社」を営む「青木氏」は、この「伊勢シンジケート」の一員であった「郷士集団の殖産と興業」と共に当に「総合商社」は拡大して発展を遂げたのです。

では、もう一つ、参考に成る事が在ります。
それは、「元禄の赤穂浪士」の「浅野家取潰しの事件」です。

実は、この「浅野家取潰し」の際に、「浅野家の財産処分」をして家臣にそれを分ける必要が出ました。
この時、幕府から依頼されて、「伊勢青木氏の紙屋総合商社」が請け負ったのです。
「家財の値付け」と「支払い」と「金銭分配」等の一切の処理を請け負い、それを瀬戸内海から船で運搬して、伊勢に持ち込み、更に、それを売り捌き、買い主に搬送する「一連の商い」を請け負ったのです。
この時に、この城から運び出し等の手続き作業の一切を「伊勢シンジケート」のこの「郷士集団」が担いました。
この時に、「陸送の運輸」や「搬送中の警備」等が取り分け必要に成り、「青木氏」が商いの持つ能力を超えていたのです。
それをこの「郷士集団」の「伊勢シンジケート」が補ったのです。

この伊勢シンジケートは、室町期までは「氏」を護る「武力に対抗する防御の抑止力」で合ったものが、江戸期初期からは、今度は、「商いに対する協力体制」へと変化して行ったのです。
そり以後、「青木氏」に執っても「総合商社としての商い」を安定して拡大させられるし、「青木氏」の「後押し」で、これを「商い」にする「郷士達(郷士11氏含む)」が徐々に出てきました。
現在で云う「グループ化」が起こったのです。
つまり、「青木ホールディング」の「グループ商社」で、歴史上探しても、「シンジケート」を持つ氏と商家は他にはありません。これは日本で最初だと思います。
「射和組」とは、この一員で、この事を指していると考えています。

今回お家の情報の郷士もこの「11の郷士集団A」の中の郷士です。
(青木氏の資料にある18氏と、この11氏は許可を得ていない事と現地に現存する為に個人情報に依り匿名にする。)

この事等は他の「青木氏の論文」には詳しく既に論じていますが、この様な関わりの「歴史的な事」もあった事を参考にしてください。


  [No.1032] 青木は素晴らしい
     投稿者:前田   投稿日:2015/02/17(Tue) 21:24:39

いろいろ貴重な事を教えて頂き本当にありがとう御座います。これからもよく見させて貰います。


  [No.1037] 伊勢射和商人との接点について
     投稿者:前田   投稿日:2015/02/21(Sat) 17:56:02

先日は詳しく教えて頂き本当にありがとう御座います。
父に射和商人の話を聞いたら「射和の青木本家は辻(八)氏[外郎で有名]の菓子箱を作って冨山、森田家に続く場所に家を構えた。その下で竹川新宅次に国分家次に河村家があった。つまり豪商に囲まれた所に青木家があります。その分家の青木光三郎氏は若き頃長野で養蚕を習い射和に広めた。彼は督農家で稲の古株を山の出水(泉)で冬を越させ春にそれを植えた。これを繰り返しついに稲の新品種を伝えた。これを「早稲光」か「青光」と付けたと記憶し雑誌に載せたら大反響だった」と話してました。
父から多気丹生から飯南町粥見の青木家に嫁いだ親戚があるそうです。こちらの粥見の家も関係がある気がします?
何かわかればまた宜しくお願いします。


  [No.1038] Re:伊勢射和商人との接点について
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/02/22(Sun) 16:34:53

射和の前田さん 今日は。
お便りを早速頂きましてありがとうございます。

読まして頂きました。
実は驚きました。「青木光三郎」は、筆者の祖父の弟に当たる人で、分家筋に当たります。
現在も、松阪にその末裔が住んでいます。
お便り頂きました内容は,前回は江戸初期の事でしたが、今回は明治初期の事でありますね。

実は、「青木家」は「四家」と呼ばれ、古来より、松坂殿、名張殿、員弁殿、桑名殿、そして、別格の四日市殿とでルーツは形成されていまして、現在もその様に成っています。
松阪殿が筆者の宗家筋です。
この「青木光三郎」は、松坂殿の分家筋に当たります。
三人の嗣子が居て、祖父が長男で宗家跡目を継ぎ、次男がこの光三郎です。三男は作左衛門の子で作次郎と云います。我々は光三郎さん、作次さん呼んでいました。
全くお便りに頂きました通りです。
この「光三郎」は、宗家からの指示で若い時に、前回にお答えした通り江戸期の先祖の意志を継ぎ、更に伊勢に殖産を広める為に色々と働いたと聞いています。
このお話の背景には、江戸末期から燻っていた農民等の不満がありまして、「明治政府の処置」でその不満はピークに達し、明治初期に起こった農民等に依る有名な「伊勢一揆」に成ります。
「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「伊勢加納氏」が背後で「経済的支援」をし、この「一揆」を支えた事が判っています。
明治9年に一応は、収まりが付きましたが、矢張り、伊勢は一揆の背景の後遺症で未だ立ち直るには至っていませんでした。
そこで、若い「光三郎」は「養蚕の技術」を身につける為に、「信濃青木氏」からの誘いもあり信濃青木家を頼りました。
この「信濃青木氏」とは、「近江、美濃、信濃、甲斐の青木氏」の中でも、「近江、美濃」が衰退する中でも、緊密に連携し、「信濃和紙」で互いに支え合って生き延びてきました。
明治のこの「伊勢一揆」の時も、共に経済的なバックボーンと成って、支えあった事は伝えられていて、「血縁関係」も深かったのです。
この「信濃青木氏」を頼って、「養蚕の技術」を習得して、伊勢に帰ってこれを広めようとしました。「膨大な資産投資」が必要で、且つ、「養蚕環境の適合」等の問題の苦労があって、当初はなかなか思う様には行かなかったと聞いています。

又、「早場米」(早稲光)の件ですが、これを実行するに当たり、問題が生じたと伝えられています。
それまでは、「青木の土地」は多くの農民に依って支えられていました。
しかし、明治政府の「農民解放」を狙った「地租改正」で、「農地の土地の利権」をある一定の条件に適する範囲で下げ渡す事に成りました。
この時、「地主の租の申告制」であったものから、「農民自身」が行う「租税の申告制」が採用されましたが、「収穫量」は、農民自身が算定する額方式の申告制でありました。
しかし、「実際の収穫量」はこれに見合う以上のものと成ったので、今度は政府が決める「収穫の税」としました。
これに見合う収穫が出来なかった場合には、その差額を農民が労働や金銭で補うシステムを採用したのです。
これに反発して,納まりかけていた一揆が、再び、所謂、「伊勢暴動」として起こりました。
結局は明治14年頃に何とか納まったと聞いています。
この間の「農民の生活」を「松阪青木家」と「信濃青木氏」が面倒を看たと記されていますし、口伝でも伝えられています。
「伊勢」では、この後もこの「農民の収穫」を上げる問題を抱え苦しみました。
そこで、「信濃青木氏」が古来から手掛けていた「信濃養蚕」を何とか伊勢にも持ち込んで、「養蚕」を殖産して救おうとしたのです。
これには「青木光三郎」が取り組んだと聞いています。
そして、この時は、既に「紀州藩」も解体され、援護の手が差し伸べられず、「伊勢青木氏」が独自に、元は地主として、更に収穫を上げる手段として、「早場米の研究」にも取り掛かったと聞いています。
「青木氏の四家の総力」を上げての取り組みであった事が伝えられています。

さて、「飯南町粥見の青木家」は、松坂と玉城町と共に、筆者の「松阪殿」のルーツの分家の親戚筋が住んでいる地域です。
この地域には、今でも病院など経営した親族、警察官等して多く青木家親族が住んでいます。
「飯南の光三郎」か、「玉城の作次郎」の子孫が住んでいる地域ですね。
「松阪の元吉」の「伊勢宗家青木氏」からは、明治期から「地元の郷士先」(商家)には「娘の嫁ぎ先」で繋がっています。

「筆者の家」の記録からは、残念ながら「出の娘の嫁先の記録」は凡そ判るのですが、「入りの嫁先の記録」が判らないのです。
既に、明治期に入っていますので、江戸期前の様に宗家では、記録は作成されていませんので、光三郎さんや作次郎さんの家の事が当初より判らなくなっています。
恐らくは、この親族のどちらかの家との血縁であろうと観られます。
確認したところでは、「多気丹生」からだとすると、「光三郎さんの家」ではないかとの反応でした。
そんな話を聞いたことがあるとの情報でした。
筆者の「松阪の青木家」の「宗家(幼名元吉の家)」ではありませんね。
ただ、もし、お家が多気丹生のお家で、お家の前田氏が「加納氏との血縁筋」であるとすると、筆者の曾祖父のところに嫁いだ事になり得ます。
前回のお答えで書きました様に「加納氏」の「加納屋」が「土地の郷士の商家」との血縁を盛んにした事は伝わっていますので、加納氏からの縁談持ち込みは充分にあり得る事ではと考えられます。
念の為に、筆者の本家筋では、「加納氏」筋とは、江戸末期からは何度も血縁をしています。
(筆者の祖父母のちかばあさんも加納氏)
曾祖父(幼名寅吉 三男 最終は宗家の跡目継承)も三人の兄弟が居ましたので、この三人の何れかになります。

加納氏ではない場合は、元吉の父寅吉の兄の家か、元吉の弟の光三郎さんか作次郎さんの家ではとも考えられます。
「多気丹生」のお家がはっきりすれば、松阪では作次郎さんの家が、筆者の宗家の墓所を護っていますので、確認は出来ると思います。
兎も角も、光三郎さん(元吉の二歳年下)にしても、作次郎さんにしても、その生業から周囲の元郷士商家との血縁は充分に考えられます。
宗家を継承した「松阪の元吉」までが、「過去の仕来り」に従って、京都公家の末裔(京都の叶氏 筆者の祖母 すえ)から嫁を迎えた事は判っています。
そのほかの家筋では、この「旧来の仕来り」は外れて、地元の「元郷士衆の商家」との血縁関係を積極的に進めたと伝えられています。
依って、お家の父上のお話は充分に納得出来ます。
兎も角も、お便りの親族の方の嫁ぎ先は、「伊勢青木氏」の「名張、員弁、桑名、四日市」の「伊勢の四つの青木家」では無く、筆者の「松阪の親族」との血縁である事には間違いはないと思います。

因みに、湯浅の金山寺味噌の件も、吉宗との取り組みでしたが、この味噌から醤油を取り出す事の「伊勢醤油の殖産の件」にも、「松坂の青木氏」は力を注いだ事も判っています。
「青木氏の話」の中では、明治期の「三大殖産事業」(養蚕 早場米 醤油)と位置付けられていて、松坂の莫大な資産を投資して「伊勢青木氏」が関わったと伝えられています。
明治38年頃までに達成したと伝えられています。

(明治35年に松阪宗家は失火して倒産、「松坂の宗家の元吉」は、後は光三郎や作次郎が引き継ぎ他の「伊勢青木氏」に委ねてこの事業が引き継がれたと伝えられている。)

明治期の血縁としては、血縁した「玉置氏」までは判っていますので、「醤油の玉置氏」、「早場米の・・氏」、「養蚕の・・氏」が判る事に成り、素晴らしい事だと思っています。
ご親戚はこの一つに入るのではと期待しています。

追伸 2/26
調査の結果、「伊勢郷士」の小林氏と小野田氏との血縁関係がある事が判りました。
詳細は記述出来ませんが、松坂殿系列では、玉置氏と共に、明らかに「伊勢郷士との血縁」が証明されましたので、お家の情報との血縁も証明される事が出来ると思います。
他の四家との血縁関係も青木氏の四家制度から充分に考えられると思います。

今回のお便りでは、ここに入る家が判る事に成り研究がより進んだ事になります。
是非、何か判りましたら、又お便りください。
ありがとうこざいました。


  [No.1136] 伊勢射和郷士商人の謎について
     投稿者:前田   投稿日:2018/05/27(Sun) 22:37:25

ご無沙汰しております。福管理人様縁者様の後述の研究にて射和郷士18氏に大変感動しました。その後射和復興の殖産に紀州からと残留近江郷士商人が射和の西側にもいた事も驚愕した次第です。射和西側は、現在空地となっているようで何もわからない所に深い歴史があるのは興味津津であります。また研究でわかる事がありましたらご教授下さい。


  [No.1137] Re:伊勢射和郷士商人の謎について
     投稿者:副管理人   投稿日:2018/06/01(Fri) 18:02:32

前田さん ご無沙汰です。

「射和に関する論文」をお読みいただき有難う御座います。

これらの事を網羅していた青木氏の本家が抱えていた資料が、出火消失や室町期の騒乱で相当に遣られたようで、それを興すことに若い時から始めて随分に苦労しました。

従って、一族や関係族が抱えていた資料を読み漁り、組み立てて行く根気のいる作業の連続でした。
「時代考証」との結果から辿り着いた答えです。

未だ、「紀州藩」や「青木氏族」や「秀郷流青木氏」等を救ったと云われる「射和郷士」が関わった「殖産」は、本来はもっと「歴史に名を残すべき郷士衆」です。
然し、あまり知られていません。
本論がその一助と成れば幸せです。

江戸期には、「郷士」の「射和商人」は「御師制度」を復活させて、「商業組合」を「新しい時代」に作り直し、自ら「御師札(おんしふだ)」(現在の紙幣制度の原型)を発行して、「伊勢の経済」のみならず「大坂の経済」もこれを真似て復興を遂げたすごい歴史を持っています。

「御師制度(おしせいど)」は「青木氏の古来の伝統の制度」で、「青木氏の福家(本家に相当)」は「氏上様」とか、「技能職人集団」の「青木氏部」を総括していたので「御師様」と呼ばれていました。
そこから、「射和商人」はこの制度を「商人用」として利用して「御師制度(おんしせいど)」の「経済システム」を構築したのです。

そして、その「商い」が、「伝統」ある「伊勢の郷士」の姿勢を崩さない「商人」であった事が記録されていて、現在もその町の佇まいを遺しています。

現在、空き地に成っているのは、当時、殖産等を興す場合は、新たに土地を開墾するなどして使わねばならず、山を開墾したり、低地、湿地を埋め立てたりして興さねば許可は出ませんでした。
また、農地であれば、次男以下は土地の引き継ぎの権利が無いので、新たに畑地等の開墾しなければ、街に出て賃仕事などして生きて行かねばなりません。
この二つの問題を解決するのが、殖産の一つの目的でした。
この膨大な金額のいる事がてぎるのは大豪氏や大豪商以外には無く、紀州藩から許可をとって地権を獲得して興さねばならないのです。
これを「畑方免令「」といって、殖産などを興した者に。免税などの特権を与えました。
従って、「殖産」を止めれば、その土地は空き地に成るのです。
明治9年、或いは、明治35年を以って青木氏と伊勢屋はこの殖産から手をひきました。
従って、地権は無く成り、その地の行くすえは空き地と成ったのです。

つぎの「伝統−41」でも論じていますので、見直した後に近日中に投稿します。
それをお読みに成って、又、お便りください。
ではお待ちしています。


  [No.1057] Re:伊勢射和商人との接点について
     投稿者:岸本   投稿日:2015/05/21(Thu) 21:31:03

管理人さま失礼致します。
先祖の一家で有ります伊勢山田の喜早家及び射和の森田家等を調べておりました本掲示板の前田さまの投稿を拝
見し、喜早・森田両家の事について何かご存知無いかと、書き込ませて頂いた次第で有ります。

喜早家は木曽義昌の子孫を称し、森田家と共に射和・相可・田邊に一族が広がっているようなのですが、今一つ
家系を明らかにできずにおります。


  [No.1058] Re:伊勢射和商人との接点について
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/05/23(Sat) 16:28:24

岸本さん 今日は。ようこそ青木氏サイトにお越し頂きました。

さて、青木氏サイトの情報をご利用されていることは感謝します。
大いにご利用ください。
判るところの範囲でご質問にはお答えします。

伊勢の郷士族についてお調べの様ですが、残念乍ら、青木氏から見た範囲の「伊勢郷士」の事に付いて研究をしています。
従って、これを超える範囲の事は基本的には判りません。

ただ、調査される際の心得は判りますので、それを簡単に申し述べて置きます。

伊勢は古来奈良期からの歴史を壊さず持ち得ている唯一の国であります。
この伊勢は、その歴史の中で、護られての由緒を持ち得ています。
他国とは全く特異な環境下にありました。

お調べの「伊勢郷士」と呼ばれるものは、66国の中で一国に付き「全国平均540程度の郷士族」を有していますが、然し、伊勢はこの3%程度の20程度(正式には18)しか成りません。
これは、伊勢は奈良期から、「伊勢神宮」を抱えての事で、「不入不倫の大権」に護られてきました事から、余り、戦乱の中に巻き込まれる事も無く、この「20の郷士族」は、地主の「郷氏」の中に組み込まれて護られてきました。
歴史上、時の権力者の誰一人、この「伊勢の大権」を犯す事は原則はありませんでした。
依って、その中に共に護り合う組織は充実していて、互いに血縁関係を保ち生き残ってきました。

然し、ただ一人、「織田信長」だけは、これを犯し、「伊勢三乱」を起こしました。
然し、この時、信長はこの攻める相手は、この「20の郷士族」を相手としていなかったのです。
信長が、攻めたのは、鎌倉期から室町期中期まで、この平穏な伊勢の状況を狙って、京から平穏な伊勢に移動して来て瞬く間に勢力拡大した貴族出身の「二つの豪族」を潰しに掛かったのです。
そして、これを「蒲生氏郷」に命じました。
この「蒲生氏郷」は伊勢とのたいへん深い関係を持った豪族で、親族を伊勢に置いていた者でした。
これは「信長の配慮]でした。後の秀吉はこの伊勢を整理した後護りました。
そして、「信長」はこの京から来た勢力を作った貴族出身の「二つの豪族」を潰しに掛かったのです。
この時に、この「20の伊勢郷士」の内の「二つの郷士」が結束を裏切った事から、戦闘に巻き込まれたのです。

然し、信長は逆らう者は討ち滅ぼす方針であった為に、この「18の伊勢郷士」を纏めていた「郷氏」は、「武力」を使わずに、「知力」と「財力」と「影の抑止力」の「伊勢シンジケート」を使って、これらの「18の郷士」を護り通しました。

この「18の伊勢郷士」が、「伊勢の郷氏の大豪商」の下で「武士」でありながらも「商人」でもあると云う「射和商人」と成ったのです。
この「18の伊勢郷士」は「商人」でもあり、「影の抑止力」とも成って互いに護り合ったのです。

さて、お家が調べようとする族は、この「二つの貴族」の「豪族」と成った「配下の武士族(例えば神戸氏や内藤氏)である事に成ります。

お調べに成るには、この「伊勢の特殊な歴史的環境」を把握しなければ、恐らくは無理で困難と思われます。
正しいルーツを観る事は出来ません。
又、この時代の遺されている資料は殆どは、家柄格式を誇張する為に搾取偏纂の下にあります。

従って、お家が云われる「源氏が・・云々」と云った事柄はこの中にあることをも考慮するべきで、江戸初期には敢えて、「権威の創設」の目的で、恣意的にこの搾取偏纂の上でも良いから武士には「家柄の補償」を要求した経緯があって、これに従わない場合は、何人共「黒印状」を出さなかったのです。
この「国印状のお墨付き」を得ないと大名とその家臣は禄を食む事は出来なかったのです。
ですから、民の身分から「立身出世」したものばかりですから、搾取でも何でもいいから作り上げる事に専念したのです。
この事も充分に考慮するべきです。(この時,神社や寺社の歴史に聡い「神官や住職」が「家柄作り」に活躍した。)

依って、本サイトとしては、このお家の「源氏・・云々の前提」にある限りはテリトリーが異なっている為にお応えする事は出来ません。
伊勢は「日本最古の歴史」を持っています事から、この「歴史観の知識」が無ければ正しい答えを導き出す事は不可能です。
つまり、そもそも、この伊勢の特殊な歴史の中に、何で木曽源氏が出て来るのでしょうか。
昔は、人は領地に所属する社会で、自由移動は現在の様に叶わない社会でした。
伊勢には、「賜姓源氏」の祖の「皇族賜姓族青木氏」が居て、そこに悠久の歴史で、且つ血縁関係で深く結ばれた「20程度の郷士」が居て、その「20程度の郷士」に何で「清和源氏の支流の木曽源氏」が入り込む事が出来るのでしょうか。
「普通の歴史観」があれば、普通は、現在社会と違い「氏家制度」の中では、大いに疑問を持つ筈ですが。
それを無視していますよね。其れでは正しい答えは出ません。
況して、上記した京から来た「北畠氏」とは、「村上源氏」ですよ。
「北畠氏」では無いのなら、「北畠氏の家臣」と成りますが、昔は「氏家制度の慣習仕来り掟」の中にあったのですよ。
「家柄、格式」等の「つり合いの取れた婚姻」を行います。
「郷士」や「家臣」とには、無理な婚姻です。
先ずは「妾子」か「配流孫」でなければかなり無理な事ですね。
況してや、「純血性維持」を「賜姓族」として宿命で義務付けられていますから、あり得ない搾取である事は普通は判りますが。
其処に「清和源氏支流の木曽源氏」ですか。其れも「伊勢郷士」にですか。
先ずは、ここから疑問を持たれて、検証を進めるべきではありませんか。
「伊勢の一伊勢郷士」が主家を超えての婚姻、其れも「木曽源氏主流」とですよ。
先ずはあり得ない話です。

では、一歩譲って、その「家紋」は何でしょうか。
「嵯峨期詔勅」に依って発祥した11流の中の一つの「清和源氏」には、「賜姓族」として「象徴紋」に対する厳しい「慣習仕来り掟」が有って、ある範囲に限られています。
お家が示す「家紋」は、その「氏の出自」を証明するものですが、何でしょうか。
この「賜姓族」としての「慣習仕来り掟」が護られているでしょうか。
先ず、この様な事から検証して、証拠立てて一歩ずつの「ルーツ探し」が必要であると思います。
「伊勢郷士20」の中の一つの「森田家」に関しては、多少承知しています。
しかし、上記の事からとても根底でカテゴリーやテリトリーが違いすぎて論じる事は出来ません。

以上