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  [No.1039] 東京の青木です
     投稿者:東京の青木   投稿日:2015/03/13(Fri) 13:12:59

はじめまして。東京都墨田区に住む青木と申します。

何がきっかけか覚えていませんが、自分のルーツに興味を持ち、
数ヶ月前にこのサイトを見て、投稿をしようか迷っておりました。

自分がどのような系統の青木なのか、自分の先祖はどのような事をしていたのかなど
無性に知りたく、投稿させて頂きました。

少ない情報かもしれませんが、よろしくお願いします。

家紋は丸に三柏
私の祖父の実家は、埼玉県深谷市児玉郡
先祖のお墓は同じく児玉郡美里町の勝輪寺にあります。

それ以外は特に情報はありませんが
お寺には、青木のお墓がたくさんありました。
同じ青木でも、丸に三柏ではないものも、多くありました。

どうぞ宜しくお願いします。


  [No.1040] Re:東京の青木です
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/03/13(Fri) 16:48:59

>家紋は丸に三柏
>私の祖父の実家は、埼玉県深谷市児玉郡
>先祖のお墓は同じく児玉郡美里町の勝輪寺にあります

東京にお住いの武蔵の青木さん 今日は。始めまして。
これからもよろしくお願いします。
埼玉は中心地ですが、東京にも、昔は武蔵の国でしたから「青木氏」が多いですよ。

埼玉は、オーイ青木さん”と呼べば、”ハーイ”と答える位ですよね。
私も若い時は、先祖は「伊勢青木氏」ですが、埼玉の草加の八潮に居ました。

お家は、柏紋ですので、一部に私と同じ血が流れていますよね。

サイトには、膨大な青木氏に関する情報が在ります。
ご先祖の生き様を何とか描きだし、未来の末裔のロマンとしたいと考えています。

さても、お家のご先祖にご興味をお持ちに成ったとの事ですが、誰しも何時か自分の先祖の事を知りたいと思う時が必ず来ます。

最近の遺伝学的に観ても、親と血液型が同じであれば、その親の遺伝子の80から90%を引き継いでいる事に成ります。最早、これは、分身の領域です。
「分身」と云う事は、「先祖=自分」である事を物語っている事に成ります。

従って、当然に、”「過去の自分」”を知りたくなるのは「必然的な心の変化」と成ります。
お家は、その「心の過程」に到達した事に成る訳ですから、その心を純真にして大切にする事をお勧めします。
その為には、青木氏サイトは是非にご協力させて頂きます。
何なりとご遠慮なくお尋ねください。

では、ご質問に入ります。
そもそも、青木氏は、「五家五流皇族賜姓族青木氏」、「特別賜姓族の藤原秀郷流青木氏 116氏」、「皇族青木氏」、「室町期末期」と「明治初期」の「第三の青木氏」から成り立っています。

(研究室とルーツ掲示板等をお読みください。全ての事が記録されています。膨大な資料ですからゆっくりと少しづつお読みください。)

つまり、「4つの流れ」が在ります。
昔は、「氏家制度の社会」でしたから、「氏や姓」が異なれば、「棲み分け」をしていました。
依って、どの流れの青木氏であるかは情報が在れば全て判ります。

さて、お家の情報から、結論から先にお答えします。
お家のご先祖は、「柏紋」ですから、元は「神職の青木氏」です。
この「柏紋の神職」は、次ぎの経緯で発祥しました。
そもそも、「青木氏の守護神」は、「伊勢神宮」の「皇祖神」の「子神の祖先神」の「神明社」です。

この「青木氏の独自の守護神の神明社」は、全国に500程度建立されています。
この神明社はこの「二つの賜姓族」の「青木氏」が朝廷より命じられて「自分の氏の守護神」として全国主要な地域に安寧の為に建立したのです。
其処の「神明社の神職」は、全て「青木氏の者」が「神職」と成っているのです。
中には、「皇族賜姓族の青木氏」だけでは、500もの「神職」を配置する事は出来なかった為に、この「青木氏」と「賜姓族の同族の佐々木氏」も「青木氏の神明社の神職」と成っているところがあります。
主に北陸地方に多いのです。

この「神職の青木氏」は「五家五流皇族賜姓族の青木氏」から発祥しています。

一族から、神職に成る者を決めて、各地に配置していたのです。
つまり、お家は,その末裔です。

「五家五流の皇族賜姓族青木氏」とは、近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の「五つの国の青木氏」です。
「皇族の第四世族内の第六位皇子」が、[5代の天皇」から「青木氏」を賜り、この「五つの国の守護王」と成って配置された「皇族の者の臣下族」です。
「天智天皇」から「光仁天皇」(伊勢青木氏)までで発祥した「高位の朝臣族の臣下族」です。

この氏は、「三つの発祥源」と呼ばれて、日本の「侍の発祥」、「武家の発祥」、「国策氏の発祥」の三つの元と成った氏です。
ですから、「侍の元」は、この「青木氏」が最初なのです。「侍の元祖」です。

この中で、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「甲斐青木氏」が生き残り、他の同族の二つの氏は「源平合戦」で滅亡しました。

そこで、「特別賜姓族藤原秀郷流青木氏」は、この「皇族賜姓族青木氏」と親密に母方で繋がる同族です。
本来は、この「柏紋の青木氏」は、上記の「二つの青木氏」の「近江と美濃の青木氏」は滅亡衰退しましたので、「皇族賜姓族青木氏」の「伊勢青木氏」か「信濃青木氏」ですが、お家は、関東の武蔵の国に定住していますので、「特別賜姓族青木氏」であるかも知れません。

そして、「特別賜姓族青木氏」は、その領国は「武蔵の国 埼玉県」の入間地域にその宗家が居て、その周りに半径を横浜神奈川までとして、螺旋状に取り囲み「宗家」を護っていたのです。
当に、ご先祖がお住まいに成られた地域は、「秀郷流青木氏」の本家筋が住んでいた地域です。
ここにお家の「青木さん」が居る事は、そのルーツは大まかに判ります。
この付近はそう云う地域です。

この「秀郷流青木氏」は「第二の宗家」と呼ばれ、この藤原秀郷一門を指揮していました。

これらの事は、研究室に論じていますし、ルーツ掲示板にも論じていますので、関係する処からお読みに成ってください。詳しく判る様に成りますよ。
検索で「柏紋」とすれば沢山のレポートが出てきます。
又、左のメニューからもお家の事が観る事も出来ます。

さて、そこで、お家は、この「二つの青木氏」の同族のどちらからなのかと云う事なのですが、それを判断するには、一つは武蔵、二つは寺の宗派、が絡んできます。

恐らくは、「二つの流れ」の「同族の青木氏同士の血縁族」だと観られます。
この同族の116氏から成る「秀郷流青木氏」は、「五家五流の皇族賜姓族の青木氏」の「全国の神明社建立」の仕事を、「円融天皇の命令」で手伝いました。
その為に、特別に、同じ家柄身分官職官位等一切を与えて、「秀郷の三男の千国」に「青木氏」を賜姓して、同じ役目の「皇居と天皇の護衛団」を命じたのです。
そこで、「伊勢」か「信濃」からの「神職の青木氏」が、この武蔵に建立した「神明社の神職」として赴任して、そこで、「秀郷流青木氏」と「同族血縁」をした「青木氏」ではないかと観られます。

「二つの青木氏」の「同族の融合族」です。
この「融合族の末裔」が、「埼玉と茨城と千葉」には大変多いのです。
ところが周囲に「神職」でありながらも、”寺に墓所を持っている事”からも察しが付きます。
「神明社神職の場合」は、「神道」ですので「寺の墓所」は本来は持ちません。
特に、青木氏の神職は掟で持つ事は出来ないのです。

そこで、児玉郡の美里町の勝輪寺の墓所のある寺で、その宗派は真言宗ですね。

「五家五流皇族賜姓族の青木氏」は、全て「密教浄土宗」です。
「特別賜姓族の秀郷流青木氏」は、「浄土宗」と「浄土真宗」です。
この「仕来り」に縛られています。絶対に破る事は自滅の行為でした。
ところが「藤原秀郷一族一門」は、「総紋」を「下り藤紋」として、守護神は「春日神社」です。

然し、ただ、一度、換えられる事が関東で起こったのです。
それで江戸期初期には、何らかの理由で「宗派換え]をしている事が考えられます。
そもそも、真言宗は弘法大師の和歌山の高野山ですが、江戸期前後に関東に布教を強め、信徒争奪の曹洞宗と「宗教戦争」をした経緯があったのです。
「青木氏」の中でも、掟を破って追放されながらも、「甲斐武田氏系青木氏」が、室町期末期にこの「宗教戦争」の事で「宗派換え」をしています。

恐らくは、「柏紋族の青木氏」は、古来より「神道」でありながら、江戸期頃からの「墓所と檀家寺」を持っている事は、「融合族」の上記の「青木氏」である事が頷けます。
それは、秀郷流青木氏の融合族であるからこそ、この掟に強く縛られなかった事が頷けます。
古からの「慣習仕来り掟」に縛られない立場に成って居た事を物語っています。

周囲のお墓は「柏紋」で無かった事はそれは其れで正しいのです。
恐らくは、周囲は一門の領国ですから、「秀郷流青木氏の墓所」である筈です。
「116の家紋」から成り立っています。恐らくは、埼玉の本家筋の枝葉末裔が住んでいた地域です。
ですから、主要8紋か、副主要紋の合わせて16紋の家紋である可能性が高いと観られます。
周囲の青木さんの「墓所の家紋」が何であるかを更に調べるとより明確に成る筈です。

然し、「秀郷流青木氏」は墓所を持ちますので、「柏紋」でありながらも墓所を持つ事が出来るのは、この掟に縛られ難い「融合族の証」です。
普通は、「神職」の場合は、一族から配置の為に赴任してきているのですから、元に戻る筈です。
ところが、赴任者は戻った事が考えられますが、そこで秀郷一門の青木氏と血縁した「末裔」の「子供」と「孫」は残ったのです。
むしろ、「掟」に依り戻れなかった事が考えられます。
それは、戻ると四家制度と云う仕来りに強く縛られていた事から、現地末裔は戻る事は出来なかったと考えられます。
その「現地の末裔一族」が戻らずに「武蔵」に定住している事は、その末裔が、「棲み分け」を前提としている限りは、「秀郷流青木氏」と血縁した事に成るのです。
この武蔵の周囲には、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」が「伊豆」に定住しています。
ここから、元は赴任した事も考えられます。

何れにせよ、お家は、共に「秀郷一門の青木氏」の血筋を引く同族の「伊勢青木氏」か「信濃青木氏」の何れかの子孫と成ります。
「丸付き紋」ですので、この現地に残った「柏紋の本家筋」の「分家の支流族」の「枝葉孫」であると観られます。
当時は、「皇族系の氏」の者が護る「最大の義務」は「純血性」を護る事にあり、この為に「同族血縁」を繰り返しました。
これは是非守らなければならない「高位の氏」の「皇族者 朝臣族」の「慣習掟仕来り」の宿命でした。
これを破ると一族から「追放の憂き目」を受けて、生きて行くことは出来ません。

つまり、お家は、元は神職で、伊勢か信濃青木氏と秀郷流青木氏との「融合族」です。

詳細は、是非、他の関する論文からお読みください。
「サイト内の検索」をお使いください。

他に何かの情報が在れば何でも結構ですからお便りください。
それで、このどちらかかは判る事に成ります。

兎も角も、歴史の事で判らない言葉等の事が多いと思われますので、判らない時は、研究室とルーツ掲示板や左メニューや家紋掲示板から選んでお読みください。
お家のルーツの事を一度に全部ここでは書ききれませんので、是非、お読みください。

そして、そこで、ご質問やご不明な点があったら、どんなことでも結構ですからご遠慮なくReで専用欄としますので、是非、お尋ねください。


  [No.1041] Re:東京の青木です
     投稿者:東京の青木   投稿日:2015/03/14(Sat) 15:53:39

早速ご返信頂きまして有難うございました。
長文の記述を頂きましてとても勉強になりました。

また、これだけのお話を聞けて、とても嬉しく思うと共に、
より深くルーツ、青木家について知りたいという気持ちになりました。

今までは漠然と自分に関係しているところのみを見ていましたが、
一つずつ読み込ませて頂きます。

> お家のご先祖は、「柏紋」ですから、元は「神職の青木氏」です。

不思議なもので、昔から神社が好きで居心地がよく、旅行のたびに神社を巡っていたので、
たいへん驚きました!

> つまり、お家は、元は神職で、伊勢か信濃青木氏と秀郷流青木氏との「融合族」です。

何の因果か、たまたまお付き合いしている人が三重県出身な為、
伊勢神宮に先日も訪れたところでした。

霊感などはまるっきりありませんが、神社に訪れた時に相性みたいなものがあり、
ダメな神社と心落ち着く神社があります。

伊勢神宮は別格で気持ちが安らぐため、
どこかで共鳴してるのかもと思いました。

また、真言宗ということも改めて先程父親に確認しました。
あまり自分の宗派などを親に尋ねる機会も無かったので、
勉強になりました。

これもまた不思議なのですが、
産まれてから社会人になるまで、茨城県古河市に住んでおり、
幼少期から近くの長谷観音にお参りにいくことがとても多かったのですが、
先程調べたら長谷観音も真言宗豊山派でした。

父親は知りませんでしたが。。



ご返信を読みながら、リンクしていくことがあまりに多く、
驚きながら読んでいましたがいくつか疑問が湧いたので再度ご返信させて頂きます。


神明社の話と
藤原秀郷一族一門は、春日神社が守護神と記載がありましたが、
伊勢か信濃青木氏と秀郷流青木氏との「融合族」の場合、どちらにお参りに行くことが正しいなどあるのでしょうか。

両親は全く知らないという感じでした。


また、信濃青木氏と伊勢青木氏のどちらなのかをわかる術はあるのでしょうか。
祖父は亡くなっており、父は知らないので、遡ろうにも後はお寺に聞くしかないのでしょうか。

どうぞよろしくお願いします。


  [No.1042] Re:東京の青木です
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/03/15(Sun) 11:56:51

埼玉の青木さん 今日は。

早速のお便り頂きました。ありがとう御座います。

さて、前回にもお便り致しました様に、人間の心には、不可思議な事が在りますね。
筆者もその事を感じています。
遺伝子が同じである事は、「分身」とすると、それを発展させれば、まだ解明されていない事ですが、[記憶遺伝子」がその重要な処を引き継いでいるのだと思います。
そして、それを「自分の右脳」を動作させ、「ベーター波」を発生させて、「左脳」の「固定の記憶因子」を動作させているのだと私は観ています。

人間には、現在の脳以外に、「原始脳」と云う脳があって、人間が野生時に動作させていた脳ですが、ここに右脳のベーター波が刺激して、無意識の中で、それを思い起こして引き出しているのではないでしょうか。
人間は「有意識」の中でしか、思考を働かせませんが、「無意識」の中の「深層思考」はこの様な形で働いているのだと思います。

現に、例えば、「男女の無意識」の中で動作する「深層思考原理」は、0.5秒と云う速さで、「三つの原理思考」を働かせて、再び「有意識」に戻り、その「三つの思考」でものを「判断する仕組み」に成っています。
この思考原理が男女で異なっている事は解明されています。
然し、これと同じで、「無意識」の中で、ある「心のキッカケ」で「心技体の条件」が整った状況下で、そのことが呼び起されるのではないかと考えます。
何時でも誰でも無条件に連動すると云う事では無く、ある条件が整えば、「原始脳の固定記憶因子」と「右脳のベーター波の伝道子」と「左脳の記憶因子」が同時に連動して起こる現象だと筆者は観ています。
これは、個人の感じ方の強さには、大小はあるとは思いますが、人には、取り分け男性には歳を取ると心技体のバランスが採れ、連動する条件が連動してくるもので、依って、感じる人の感じ方の大小は別としても、必ず訪れるものだと考えられます。
従って、取り分け「緊張感」が存在する「心技体」の状況下の時は起こらないのだと思います。
旅をして,普通の時はこの「原始脳」は働きませんが、この「原始脳」を刺激する森杜や神社に侵たると「心技体の条件」と合致して、何かの「記憶遺伝子」が引き付けられることが起こるのだと思います。
女性は、上記しました様に、「深層思考原理」は「感情主観論」ですから、男性が持つ”先祖と云う概念”とは「質と強弱]は異なっています。
それだけに、「感じ方の条件]は異なっている事に成ります。
もう少し、お家が云う様に”「霊感」”とも云うべきものに近い[直接的な感情的感覚」(直観)だと観られます。

依って、恐らくは、この現象は、0を含む大小の結果によって、”誰にでも起こる”と云う事では無く、お家の「心根」との結果で起こるものであると思います。

そもそも、我々の「青木氏の密教仏教」では、”縁無き衆生動し難し”と云う「戒めの言葉」が遺されています。
人間であれば、誰でもと云う事では無いのだと思います。
上記の様な連動する状況が起こる人に感じられる現象ではないでしょうか。

お家がご先祖の事を知りたくなったと云う事は、それが一つのこのサインであったと観られます。
お家の脳に納まっていた「心のご先祖」から、”お前の条件が整ったよ”とする信号であったのでしょう。
それが、今、紐解くように広がりを始めたと云う事では無いでしょうか。

>”嬉しく思う”
と云う事も、その右脳から「準備の信号」でしょうし、”より深くルーツ、青木家について知りたいという気持” も、「前頭葉」を通じて準備され「右脳」からのベーター波による「準備の信号」だと思います。

>”不思議なもので、昔から神社が好きで居心地がよく”
この事も同じく「準備の状態」と観ます。

>”何の因果か、たまたまお付き合いしている人が三重県出身な為、伊勢神宮に先日も訪れたところでした。”
この事もこの「引き付ける動作」が働いたのではないでしょうか。

>”霊感などはまるっきりありませんが、神社に訪れた時に相性みたいなものがあり、
>ダメな神社と心落ち着く神社があります。伊勢神宮は別格で気持ちが安らぐため、
>どこかで共鳴してるのかもと思いました。”

「霊感」などと云う不確定な物では無く、お家の「無意識の脳」が自然な状態の時に起こるその事を認識しているのではないでしょうか。

人が、”不思議”と感じている事は、そもそも、この現象を云っているのではないでしょうか。

その時に、お家がどの様に反応するかと云う事であって,お家は自然に動いたと云う事だと思います。
それは、矢張り、旅等で”自然と触れ合う事”の「心根」を持つお家だからこそ、”無理なく整えられた条件”ではないでしょうか。

我々、「青木氏が持つ密教概念」で「青木氏の氏是」とも云うべき ”縁無き衆生 動し難し”の「戒言」だと思います。

昔の心に遺った「真言宗の自分の宗派」、「茨城県古河市の故郷」、「長谷観音の真言宗」等の事も、その様な環境が、”縁無き事”では無かった事を意味しているのだと観ます。

お父上がご存じなかった事が、お家に起こると云う事は、良し悪しは別として、”「縁在りき衆生」として生まれついているのだ”と考えるべきでは無いでしょうか。
筆者も、多くの兄弟の中で、ただ一人、論理性癖を強く持つ「物理系の技術者」でしたが、幼少の頃から、筆者だけが「歴史]とか、[先祖]とか、「自然]とか不思議に好きで、関わる事が多かったのです。
色々と長い人生の中で、「有意識」では説明の就かない「不思議な事」が起こりました。
お家は、その一人で、故に、「自然に起こるリンク」だと思います。

お家には、そのような「脳の能力」は、子孫の中で、三代に一人の割合で起こると云われている「隔世遺伝」が起こっているのだと思います。

>「神明社の話」と、藤原秀郷一族一門は、春日神社が守護神と記載がありましたが、伊勢か信濃青木氏と秀郷流青木氏との「融合族」の場合、どちらにお参りに行くことが正しいなどあるのでしょうか。

お家は、恐らくは、歴史的な総合の経緯から「伊勢青木氏」から派遣された末裔だと考えます。
依って、お家は「神明社が守護神」で、「藤原一門一族」ではありませんので、「春日社]ではありません。
「青木氏融合族」と云えども、お家は「皇族賜姓族の青木氏の柏紋」の「神職の末裔」なのですから、この「青木氏系の青木氏」なのです。
むしろ、非常に「青木氏の純血性の高い末裔」である事に成ります。

>信濃青木氏と伊勢青木氏のどちらなのかをわかる術はあるのでしょうか。

在ります。それは、生き残った「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、「二足の草鞋策」で「巨万の富と勢力」を確保しました。
「伊勢青木氏」では、「250万石の力」で、「青木氏部」と云う「職能集団」と「伊勢シンジケート」を持ち、全国の「神明社」を指揮していました。
従って、「伊勢青木氏」には、「青木氏部」と云う「神職」を養成する組織も持っていました。
そこで、この「神職」は「伊勢青木氏の指揮」の下で出ていますので、お家の元祖は「伊勢青木氏」だと考えます。
つまり、元は「伊勢王」として、「施基皇子」を始祖とする「伊勢神宮」を護っていた筆者と同じルーツに成ります。

つまり、「大化改新」の「天智天皇の第六位皇子の施基皇子」(647年発祥)が始祖と成ります。
元より、「柏紋紋」ですので「藤原鎌足」を始祖とはしていません。

お家の故郷の「現地のお寺」では、これらの事は判らない事ですが、宗派が違いますので、現在ではお調べに成る事は不可能だと思います。
「青木氏の範囲の中」で無ければ、それほどの個人の事までの資料が昔の時代に遺されていた事はありません。
「伊勢青木氏」の中とも成っても、それを掘り起こすご先祖の資料がお家に見つからない限りは無理です。
そして、更には「武蔵の青木氏融合族」で「現地孫」ですから、最初に赴任した神職(始祖)が伊勢に持ち帰っている可能性が有りますので、資料は見つからないと思います。
(お家の「融合族と成った始祖」は、任期が終えると勝手に「武蔵」に留まる事は「国抜けの大罪」に成りますので、特別な事情が無い限りは元の国元に戻らねばなりません。
しかし、現地に生まれた末裔は返る事も残る事も可能です。お家は、「秀郷流青木氏の保護の下」に現地の武蔵に残ったのです。
そして、柏紋を引き継ぐ青木家を武蔵に発祥させたのです。

この様な事は、陸奥に於いても、「柏紋の青木氏融合族]の現地孫が残って青木氏を拡大させています。
又、この「柏紋の青木氏の融合族」が北海道にも移動定住しています。


資料的には、伊勢でも室町期末期には「六割が消失する様な大火などの災難」が何度も起こりましたので、見つかる可能性が少ないと思います。
筆者も苦労しているところです。

然し、ながらも、調べ上げた結果らも、「状況証拠の積み上げ」で、解明が進んでいます。
その事から、お家の事も、この伊勢の積み上げの資料から、判断が付きます。

(研究室の論文をお読みください。現在、「伝統」と云うテーマで論文を投稿しています。その中にも、記述されています。
現在は、「伝統12」ですが,「伝統14位」でお家の事がより詳しく論じられていますので、もう少しお待ちください。
その前に、他の論文を参照して置いてください。そうすればより理解が深まると思います。)

「伊勢」の「四日市」にも、「伊勢青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」との「立葵紋の青木氏の融合族」(徳川氏との血縁族)が在ります。
このお家を含む「青木氏等の菩提寺」は、「多気郡」に在ります。
この「多気郡にある分寺の菩提寺」は、「伊勢松阪の四家の総寺の菩提寺」と別に、「多気郡」にも「融合族」や「絆青木氏」を祭祀する「専属の寺」が在りました。
現在も顕教と成って在ります。


そもそも、「伊勢の皇族賜姓族の青木氏」には、「四家制度]いう「子孫存続のシステム」がありまして、そのシステムで「二つの青木氏」があって、「四家の青木氏」と、女系などで繋がる「絆青木氏」が在りました。

この為に余りに大きく成った事から「松阪の総寺」とは別に、この「絆青木氏」等の青木氏を祭祀する「分寺」として多気郡にも創建したのです。
恐らくは、お家はこの「分寺」から赴任して行った「神職の青木氏」から出自したと観られます。

「日本書紀」などに書かれた事も論文にしていますので、これらの事は、全て、論文に記載していますので、お読みください。

お家の事をこの文面などで全てを網羅する事は不可能ですので、是非にゆっくりとお読みに成ってご質問やご不明な点は、都度、是非にお尋ねください。
「青木氏」は、他氏と違って、1400年もの歴史を持つ日本唯一の朝廷が認める氏です。
その為に、数多くの歴史を持っていますので、是非お読みください。
「柏紋の青木氏」は、全部の歴史に関わる奈良期からの青木氏ですので、関係するところを全てお読みに成って更に全体を治めてください。

青木氏は、「古代仏教の密教」で、「密教浄土宗」です。
更には、奈良期前からの宗教の「和魂荒魂信仰」の「古代宗教」を維持して来た家柄です。
更に、古代の「三宝荒神信仰」も維持して来た氏のです。
こんな氏は日本には青木氏しかいません。その信仰を奈良期から中心に成って専門に治めて来たのが、お家の「柏紋の青木氏」なのです。
筆者の家では、未だこの仕来りが遺っていました。
残念ながら、筆者の代で遺品などは残りますが、この「慣習仕来り掟」も消える事に成ります。

ですから、ここに文章で全てを「青木氏」に遺そうとしています。

では、お便りをお待ちしています。


  [No.1045] Re:東京の青木です
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/04/05(Sun) 15:18:34

今日は お元気ですか。

ルーツ探究は進んでいますか。

前回のお答えには、書き切れなかった事として次の事が在ります。
このお便りをする事が、お家の調査や本サイトの読者のご努力に必要以上に「先入観」を与える可能性があるとして控えていましたが、敢えてお便りをする事に致しました。
本サイトで得られた知識と合わせて調査されるとご理解が深まる事もあり得ますので、お便りを差し上げる事にしました。


実は、このお便りは実に重要な事なのです。
必ず「お家のルーツの根拠」と成る事には、間違いないと思います。
全国に分布する[柏紋の青木氏]に執っても参考に成ると思います。

実は,それは次の事にあるのです。

前回までのお便りは「青木氏」に執っては大変に貴重な情報でした。有難うございます。

と云いますのも、この埼玉には,下記に示す様に、極めて「古い神明社」が多くあって,「伊勢と信濃の青木氏」が「初期の段階」で建立したと考えられている「祖先神の原型」と観られる「神明社」が、この「奈良期の遺跡」と成っている「深谷の地域(瀧宮)」にあったのです。

ですから、ここに当然に、初期の「神職の柏紋」を「象徴紋]とする「伊勢青木氏」がここに赴任している筈なのです。
つまり、この近隣に「柏紋を象徴紋とする青木氏」の「現地末孫」が定住している筈なのです。
他の地域の「神明社]も可成り確認できているのですが、この「深谷の瀧宮神明社」には、「古く歴史ある神明社」である事から、何か遺されている事を期待していたのです。

ところが、この「武蔵の国」には、関西に比べて「神明社の伝統」に関わらず資料や伝統や遺品が少ない事が云えるのです。
平安中期以降には、同族の「秀郷流青木氏」に関して「116氏」も居たのに、比較的その様な「資料や伝統や遺品等」が不思議に遺されていない事が云えるのです。
これは、関東に於ける「時代性の変化」が大きかった事が原因しているのですが、最低限でも”滅亡した”と云う記録が無い事から、つまり、「人」は残っているのですから、「家紋的な事」は未だある筈と観ていました。
ところが、研究を進める中で、残念ながらこの事が掴めませんでした。

恐らくは、次ぎに述べます様に、「柏紋の青木氏」は、長い間、その「家筋」から「生活の自由度」が「慣習仕来り掟]に縛られて、どの地域でも「子孫]を大きく拡大をさせていない事があるのです。
これは、「皇族賜姓族の氏の家柄(純血性 同族血縁)」や、「神に仕える身の神職」と云う立場もあった事もあり、且つ、「五家五流の青木氏」の「福家筋]から、「四家制度」に依って”「神職]を派遣される”と云う安心もあり、又、赴任後も、”出自先に帰れる”と云う安心感の事もあって、何処でも大きな「子孫繁栄の形」が無かったのです。
(「秀郷流青木氏」は、逆に赴任先に「現地孫」を遺す事を義務付けられていた。)
ですから、当然に資料や遺品なども少なく容易には検証が難しかったのです。

江戸期初期には、未だこの「貴重な青木氏の伝統」が、その関係者の中では”「伝統」”として遺されている事が一般的であったのですが、これは、”「ある事」”で判っているのです。
この「ある事」とは、それは、”「甲斐の青木氏」の「柳沢吉保」がこの事を知っていた”と云う事なのです。
そして、この”「柳沢吉保」”は、ここに(所沢中尾)、何と”青木氏の守護神として神明社」”を建立しているのです。
何故、この「柳沢吉保」が、”「青木氏の守護神の神明社」なのか”と云う疑問が湧くと思いますが、それには、「下記」に示す「確実な理由」があったのです。
この”「ある事」”に付いては、歴史家の中でも余り知られていない事なのです。(下記参照)

ですから、筆者は、必ずこの「象徴紋である柏紋」は、”この地域に小さいながらも必ずある”と観ていました。
これを確認出来れば、「伊勢青木氏の古代の柏紋を象徴紋とする青木氏」が「何らかの形」で、この地に末裔が定住している事が証明出来ますし、又、「神明社」の事もより明確に証明できます。

これは普通は、その「神社の由来」を調べれば判る筈なのですが、残念ながら、「神社」はこの具体的な証拠を公的に遺さないのが通例なのです。
その”「古い」”と云う事が、”「神と云う神秘性」”から一般的には公的にはっきりさせないのです。
取り分け、この「深谷の瀧宮」の様な「極めて古い神明社」(建設様式で決まる)は、「古い事」からそれを物語るものが「日本書紀の程度」しかないと云う事もあるのです。
殆ど、室町期中期前迄には遺されていたとしても、その後には、この様な「高位の家柄の氏」は「下剋上」で潰されて、”「戦国時代の戦乱」”で焼き討ちされて消失しています。
「神社」は、古来より「戦いの拠点」とも成りましたので、「神職の柏紋の青木氏」も巻き添えを食って、「滅亡の憂き目」もあり得ると観ていました。

従って、その環境下の中で、お便りを頂きました時に、大変に驚きました。

そもそも、「深谷」のこの「瀧宮の地」は、秩父山の雨水が荒川に流れ込み、その地下水系がこの深谷の地に湧き出て来る非常に水系に恵まれた土地柄です。
この「水系の恵み」を頼って、ここに奈良期から多くの人が集まり住み着いた場所で、「古い遺跡」の地域でした。
この地に、平安期初期に朝廷は、「青木氏」に「大神明社」を建立する事を命じ、「皇祖神の天照大神と豊受大神」を祭祀したのです。
これが、通称、その「象徴」と成り得るべき「瀧宮神明社」なのです。
そして、この「神明社に湧き出る水」は「神の水」として扱われ、その川に流れる様を以って、瀧に見立てて「瀧の宮」と名付けられたのです。(歴史的には有名な事)
この様に「悠久の歴史」を持ち、「由緒ある憂愁明媚な土地柄」であった事から、この地に初期の「神明社」を建立し「青木氏の神職」を必ず配置し、是非に「現地孫」を遺したと観られるのです。

(注釈 「天智天皇」は、「蘇我氏の横暴」の反省から「大化改新」を実行しましたが、その中の一つとして「自らの考え」を信頼できる身内にやらせる事で,「臣下の横暴」を防ごうと考えました。その為に、「第六位皇子の施基皇子」を賜姓して、臣下させました。
「臣下族」に成ったにも関わらず「官位官職」などの[権威」を「皇位継承者族」より遥かに上の「最高位」(天皇に継ぐ身分と地位)にして与え、「青木氏」を発祥させるシステムを採用したのです。
そこで、注釈として「神職の青木氏」である場合は、知って置くべきことがあるのです。
それは「伊勢王の施基皇子]の弟の「第七位皇子の近江王の川島皇子」を始祖とする「近江佐々木氏」も同様なのです。
ただ、この「賜姓族の第六位皇子」の外でありながら特別に賜姓を賜った「天智天皇の賜姓族」の「近江佐々木氏」は、「青木氏」の様に「氏存続の要の経済力」を高める為に「二足の草鞋策」を採らなかったのです。
故に、「国策氏」等としての力はあまり発揮されなかったのです。
それ故に、「神明社の神職」、「菩提寺の住職」に力を注いで兄の「青木氏」を助けました。
奈良期の段階では、「佐々木氏」との「神職」に依る同族血縁が起こっているのです。
恐らくは、場合に依っては,埼玉地域の周囲に「柏紋の佐々木氏」も存在する事もあり得ます。
(「近江佐々木氏系青木氏」が存在する。)
「東北北陸」の広域陸奥域には、「神職の佐々木氏」が実に多いのはこの事に依るのです。
逆に、「広域陸奥」には存在する事はするのですが、「神職の青木氏」が少ないのは、この「佐々木氏の補完」があったからなのです。
当然に、同族で血縁していますので、その結果として「柏紋の佐々木氏」も多いのです。

この「与えた役目」が”「三つの発祥源」”と呼ばれるもので、その一つの務めとして”「国策氏」”を担いました。
つまり、「皇族の身内」が「実際の政治」を「執政」として実行するシステムの「第一期皇親政治」が始まったのです。
「天皇の身辺を護る事」や、「皇居を護る事」から始まり、「政策立案、実行、監査」の末端までをこの「国策氏」が、「自らの氏の力」で行うシステムです。
それには、「経済力、軍事力、政治権力」の「三権」を獲得する必要があります。
「経済力」には、「内蔵の天皇家の財政」を頼らない「和紙の開発・殖産」などの「二足の草鞋策」、「軍事力」には「守護神の神明社を使ったシンジケート」、「政治権力」には「授与された最高位の権威」で対応しました。

その「国策」の中の一つとして、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」を、政治的に平定した各地に、その印として,又、「国家のステイタス」(国家統一)として建立する必要性が出ました。
この一つが、「柏紋の神職」であったのです。
その為に、「青木氏」は、この「神明社の神職」を「自らの氏の組織」の中で養成する組織の「青木氏部」(「国策氏」としての神明社や菩提寺や和紙製造等に関わるあらゆる職能集団 国策氏)を創設したのです。
そして、この「神職」には「青木氏」から輩出させました。

注釈 上記しました様に、「古代の社」は、単なる”民を安寧にする神を祀る”と云う目的だけでは無く、「政治権威の誇張]、「各地の情報網の拠点」、「軍事の拠点」、「皇族配置の拠点」、「政治の支所」等の「多くの役目]を持っていたのです。
この「役目]を担ったのが、「青木氏の柏紋族」であって、「柏紋」と云えば、決して「神職のイメージ」だけでは無く、影で”上記の仕事をする氏”とも観られていたのです。
これを司る氏の事を”「御師」(おし)”と呼ばれていました。
お家のご先祖も、”「御師さま」”と周囲から呼ばれていた筈です。

「伊勢青木氏」は、全国に配置したこの”「御師」”の「御師頭」を務めていたのです。
この「印象」とその「務め」は、周知の事として、実際にも江戸中期まで持たれていたのです。

つまり、故に、上記した「柳沢吉保」も「所沢」に「自らの守護神の神明社を建立」した上で、この自藩でのこの役目を果たさせ様としたのです。
「綱吉のお側用人」であった事から、江戸城から離れられない事が在って、この「青木氏のシステム」を採用したのです。
恐らくは、この「柏紋の神職の御師」から、各地の「神明社」からの「情報の連携」で「政治的な情報」を獲得してい事に成ります。
一種の「諜報官の様な役目」も果たしていたのです。

ですから、平安期末期までは、その中の一つに、”全国の民の安寧”を保つ為に全国に「神明社建立」と、その「一切の諸事の始末」を命じたのです。
この「仕事」を「国策氏の務め」として”「賜姓五役」”と呼ばれるものがあったのです。
つまり、その時の「初期の段階」で建立したのが、この「深谷の神明社」なのです。

その証拠に、一時、室町期末期に上杉氏の支配に入りますが、この上杉氏も、”余りの良き由緒ある「土地柄」”から、この「深谷の神明社」を”自らの現地上杉氏の守護神に指定する等”の事をしました。
上杉氏の「裏の目的」は、「東の端の勢力圏」と成った「深谷の地域」に、この「諜報活動の拠点」にするつもりであった事が考えられるのです。
その証拠に、しかし、この上杉氏も支配したここに”「軍事力拠点の城」”を建てましたが、時の勢いに負けて城は廃墟と成り、直ぐにこの支配が解け秀郷一門の下に戻ります。

要するに、「柏紋の神職」の末裔がこの深谷付近に確認出来ないのは、筆者は、”この時の乱世の影響を受けているのかな”とも考えていました。

そもそも、この「賜紋」の「柏文様」は、「伊勢の守護王」であった事から「伊勢神宮」の「神職の象徴紋」としても用いられた文様でした。

(注釈 「施基皇子」は、「日本書紀」に何度も出て来る様に、「天智天皇の執政」として忙しい為に、国司の「三宅連岩床」が代理を務めた。)

この後、「鎌倉期末期頃」に「青木氏の神明社の神職」が「象徴紋」として用いましたが、「室町期初期」には、「戦乱で勃興した豪族」等が”「類似紋の家紋」”として用いた物です。
この発祥期から観て、お家の始祖は、奈良期末期には、この「深谷の神明社」に赴任した時のその「現地孫の枝葉末裔」であると観られます。

そもそも、この「柏文様」は、「ブナ科」の木の広葉で、飛鳥期前には、食器として用いられていたものです。

「神に捧げるお供品」としての「柏餅の由来」も初期は「米餅の食器」としてのものであったのが、蒸して「柏餅」に成ったのはこの事から来ています。)

「中国の古書」にも「倭人は皿を用いず、「柏葉」を以ってして食器とし成し、手で用いて食らう」と記されています。

注釈 「青木氏の総紋の笹竜胆紋」と同じく、この「柏紋」は誰でもが使える文様では無く、許可なく使用する事を禁じていた文様なのです。
「嵯峨期の詔勅」に伴って出された禁令に依って、「青木氏の習慣と仕来りと掟」の一切を使用する事を禁じたのです。明治3年まで原則護られました。
従って、この「深谷」には、”他氏が使えない柏紋様”(同族の近江佐々木氏を除く)が遺されている事は、この史実の大きな証明に成るのです。

「天智天皇]と皇位争いで「壬申の乱」の政争でたおれた「有間皇子」は、熊野古道の「紀州藤白の坂」で,「蘇我赤兄」に殺害されますが、この時に詠んだ歌に、「家に居れば、飯井盛るしいも草枕、旅にしあれば、椎の葉(柏)に盛る」と詠んでいます。

つまり、既に、この時には、「柏葉」は「神技」の一つに成って居た事を示し、「榊木]や[青木]と共に”「神木」”であった事を示しています。
この「神木」から採った「アオキの木」を「青木氏」として賜姓を授かり、この少し前の647年に発祥しています。
この「青木の木」は、賜姓時に「青木氏」の「氏木」と定められました。
この「神木」(「青木」と「柏」)の二つを「氏木」と「青木氏の象徴紋様」と定められたのです。
(本サイトの写真館に載せています。)
そもそも、この様に色々な目的を持って「神明社建立」は、既に奈良期末期から建立に入っています。
京に都を移した「桓武天皇」(「伊勢青木氏」の「光仁天皇の子供」で「施基皇子の孫」)は806年までには、この「神明社」を既に「広域陸奥」に、記録から推算すると何と「20社の神明社」も既に建立していたのです。

注釈 平安初期は、可成りの伝染病や災害や飢饉や治安悪化などから「民のフラストレーション」が高まっていて、慌ててそれを鎮める為に建立した傾向があります。
この為に「青木氏の神職」は不足傾向にあったのです。
「身内の桓武天皇:孫」から「律令政治の完成」の為に、「皇親政治の青木氏」は軋轢を加えられて苦しんでいた時期でもあったのです。
そんな中での「柏紋の神職」を各地に廻さなくてはならない事に成っていたこの事から、恐らくは「深谷の神明社」は、この社会が不安定に成っていた前後の頃に、この社会安定を祈願しての「奈良期末期頃の神職」と成ります。

注釈 この「平安期の直前の時期」か、その少し前の「奈良期の後半の末期の時期」に建立された可能性が有ります。

(注釈 奈良期から平安期には”「陸奥」”の呼称は、「関東以北」を”「陸奥」”と一括して呼んでいた。)

「広域陸奥」の「南域末端の武蔵」のこの「瀧宮域の古跡」には、「神明社の建立」と「神職の柏紋の存在」は確実で、「神明社の存在」は既に確定されていますが、「深谷」に「柏紋の青木氏」が確認出来なかったのです。

奈良期末期には、「青木氏」(「桓武天皇の山部王」も「伊勢青木氏の出自」)に依って「20社程度」は既に建立されていました。(この時期の後半期に建立か)
その時からの、「柏紋様」は「青木氏の神職の象徴紋」であった事が云えるのです。

(注釈 この事から、奈良期から食事を作る者を「膳夫」(かしわで)と呼ばれる様に成りました。
そして、遂には、神社で手を合わせて叩く動作を「かしわで」と呼ばれる様に成ったのです。
この「食器]として用いられた事から、「神事」にも用いられる様に成りました。
そして、遂には奈良期末期には「神木」として扱われたのです。
つまり、この”「かしわで」”も「青木氏の由来」に関わっているのです。)

その事から、「神職」は、これを「神職の象徴文様](賜木)として「青木氏」が用いました。
「鎌倉期末期から室町期初期」の頃から、これを「高位の者が氏の文様」としたことから,室町期中期からは「周囲の氏」は使い始め、これを真似て、「姓族」から発祥したその豪族たちが「室町期末期」には「家紋化」したものです。

(注釈 「氏族」と「姓族」とは「家柄」が異なります。「禁令」で有る為に「類似紋」として許可を得ていたのです。
「氏族」とは、奈良期から平安期の朝廷が認めた氏で室町期中期以前にもルーツを持つ氏です。
「姓族」とは、農民や職人等から立身出世した勃興の姓で、室町期中期前のルーツを持たない姓、朝廷や幕府が認めていない姓です。「日本最初の姓族」は瀬戸内から出た「海部氏」)

この事から、他の神社系列の神職も,これに習って「柏紋」を変化させて「類似紋の柏紋」を用いました。
その「柏文様の原型」が「青木氏が用いた柏文様」です。
つまり、「お家の由緒ある文様」なのです。
結果として、この文様は、「132もの家紋」が出来上がりました。
その元は、お家の「象徴紋」からなのです。
この事から「青木氏」は、その立場から「総紋]である「笹竜胆紋様」を「家紋]とは呼ばずに、「青木氏」は「柏紋様」も含めて”[象徴紋」”と呼称していました。

そもそも、「皇族賜姓族青木氏」には、「子孫拡大」に依って「分家、傍流,支流」とその「枝葉末孫」の広がりで、普通は、”「家紋掟」”に依って「跡目」が「不継承」と成って「二代続きの養子」を迎えて仕舞うと、「養子先家紋」と成って仕舞います。
しかし、「青木氏」は、奈良期からの”「四家制度」”と云うシステムに依って”「純血性」”を保って、この「家紋の変化」を起こさない様にしていたのです。
従って、この「四家の末裔子孫」は「象徴紋(家紋)」であるので「青木氏」である限り変化しないのです。

全ての「四家(20家)に所属する末孫」は、「天智天皇」より賜紋の「笹竜胆紋」を、所謂、「家紋」では無く「象徴紋]として来たのです。
同じ「血統を持つ末裔子孫」である為に,「家」は原則的に無く、「氏」で纏まっていた事から、起こった「厳しい仕来り」でした。
従って、「姓族」が使う様な「家紋]とか「分家」とかは起こらないのです。
これは”「四家制度」”と云う「皇族系」に課せられた護らなければならないシステムで、「純血性」を護る厳しい「最大の宿命」でした。

但し、このお家の「神職の柏紋」だけは、”「神職」”と云う事からその「神に関わる氏」として、よりその「純血性」を保ち「特別な務め」を全うする事から「別扱い」とされました。
「笹竜胆紋」を「総紋」として、職柄から「柏紋」を示して、その「職域の重要性」を示した行為であったのです。
従って、尚更に、「家紋」では無く、且つ、「神職の特別な象徴紋」であったのです。
現在は、状況が変わっていますが、元は「氏の象徴紋(家紋)」が「笹竜胆紋」で、「職紋]が「柏紋]と云う考え方であったのです。
「職紋」を持つ氏は、日本の「氏姓」が8000もある中で、「青木氏」ただ一つです。

この「青木氏の仕来り」に真似て、「由緒ある悠久の歴史を持つ他の神社」は、この「柏紋の類似紋の使用」を特別に「朝廷」より許された「文様」なのです。

(徳川幕府初期に葵紋を始として「名家の家紋」に対して、「権威」を護る為に「類似紋の使用」を禁じた。)

例えば、「神明社」と同じ様に、奈良期から、平安初期からの「悠久の歴史」を持つ神社である「熱田神宮の千秋氏」、「宗像神社の宗像氏」、「吉田神道の吉田氏、卜部氏」、「吉備津宮の大守氏」等が許されて用いました。

さて、そこで、この「柏紋」の「祖先神」の[神明社」は、埼玉では次ぎの通りです。
この中で、直接的に「青木氏の柏紋の神職」の関わった「祖先神の神明社」は、「深谷の神明社]と、[所沢の神明社」と、「川越の神明社」で、特別に「所沢市中富の神明社]が加わり4社に成るのです。(後は、後に建立された「神明社系の分社」等です。

「深谷の神明社」は、「伊勢神宮」の「内宮の天照大神」と、「外宮の豊受大神」とを祭祀する純然とした「神明社」で、「伊勢神宮」は「天皇家の守護神の”皇祖神”」で、この”「子神」”と定められた「皇族賜姓族の守護神」を”「祖先神」”とします。
この”「子神」の「祖先神」”を祀るのが”「青木氏」の「神明社」”であるのです。

「皇祖神」の神を祭祀する「子神」であるので、この「深谷神明社」は、「親神」の「皇祖神]と、「子神]の「祖先神」の両方を祭祀する神社形式(神明造)に成っています。
この「祭祀形式」は、極めて古い形であって伊勢神宮を祭祀した頃の形式です。
この「古式の祭祀形式」から奈良期からの形式であるのです。

やや遅れて、「所沢神明社」は「天照大神]を「親神]として祭祀しますが、「祖先神の神明社」を「主神]として祭祀する「神社」です。
この事から、西域の「深谷神明社」を創建した後に、やや遅れて続けて、東域に建立した純然とした「神明社]の「所沢神明社」であるのです。

次に「川越神明社」は、その中間の地に建立された純然として、「皇祖神の子神形式」で「祖先神形式の神明社」として建立されています。
平安期中期までに続けて建立されたものと考えられます。

この深谷地域、所沢地域,川越地域の「三つの神明社」は、「柏紋の青木氏」が関わった神明社です。
中でも、お家のご先祖が深谷地域に定住していたとすると、この「奈良期形式の創建」とされる「最も古い神明社」に「伊勢]から配置された神職に任じられた「青木氏」である事が判ります。
この奈良期に「神職」を配置できるのは、未だ「青木氏部」を持つ「始祖施基皇子」の「伊勢青木氏」しかありませんでした。

関東には、上記しました様に、余り「青木氏の伝統資料」が遺されていない事もあって、お家のルーツがどの程度まで辿れるかは、興味のある処です。
恐らくは、辿れても、資料が無い為に江戸初期か室町期末期までのものであると思います。
所沢と川越の地理的な由来から、お家の子孫が、この「二つの神明社」に配置された可能性が考えられますが、お家の末裔の広がりにも関わりますので、判断の情報が無ければ確定は難しいと思います。
普通であれば、その様に成るのが順当ですが、この所沢と川越から観て、難しいかなとも思えます。しかし、この「二つの地域性」と、「二つの神明社の祭祀形式」と、この「武蔵の時代性」と、「三つの創建期」と「秀郷流青木氏の発祥期」(958年頃)から鑑みて、お家の同族の「柏紋の青木氏」を赴任させた可能性も高い事が伺えます。
この場合は、同じ「柏紋の神職」ですから、「信濃青木氏」からも送る事は可能に成っていましたので、他の神明社系は伊勢と限定する事は難しいのです。
この「三つの神明社」以降は、時代性から観ても、「伊豆地方」からも同族を赴任させる事は可能でしたので、お家の「深谷からの末裔」を配置したとは考え難いのです。
”お家の末裔だ”と判定させられる要素が「同じ柏紋の青木氏」であるので、お家に何か遺されたもの以外には判断が出来ません。
一応は、この事に付いて「状況証拠」としての研究は続けたいと思います。

ただ、ここで、その「状況証拠」として、他に「13の神明社系の神社」がありますが、これらの社の由来は比較的新しいものであり、系列ではありますが、本流としてのものが少ない事から、果たして、「創建時の時代性」から観て、中には伊勢や信濃から直接配置したと云い難いものがあり、これらの「神職」は必ずしも「柏紋]ではありませんので、「三つ乃至は五つの神明社」から「13の神明社系」にその弟子を配置していた事が考えられます。

この「16の神明社」、及び、「神明社系」は、埼玉域を万遍に配置している事や社名の統一性から観て、ある程度の計画性が有った事を物語っています。
恐らくは、「分社」としての扱いで「弟子」を配置していると観られます。

さて、ここで、上記しました「柳沢吉保」に付いて、「青木氏」である場合は知って置いて頂くべき、一つ興味深い事を記述します。
上記した事で、実は、江戸初期の”「柳沢吉保」”を御存じだと思いますが、彼は、元は由緒ある「甲斐国の武田氏系青木氏」です。

(注釈「五家五流皇族賜姓族」の「甲斐の青木氏」と「甲斐の武田氏」が血縁して、二代続きで跡目が継承されず、女系と成った為に「養子先の武田氏」に組み込まれた「青木氏」の事)

「柳沢の地」に住んでいた「青木氏の始祖」は、「曾祖父の青木信定」で、この子には、「三人の兄弟」が居て、「兄の正定]は「巨摩郡]に定住します。
そして、「次男の豊定(吉保の祖父)」は「柳沢の地」に定住します。
「三男の豊勝」は父親に可愛がられ「常光寺」の「親許」で暮らします。

甲斐の「武田氏系青木氏」のこの「青木豊定(吉保の祖父)」は、「跡目騒動」と「宗教改宗」と「武田氏系青木氏一族争い」と「父親(信定)との路線争い」の「四つの騒動」に巻き込まれ、結局、「父親の反発」を買い、「青木氏」を名乗る事が許されなかったのです。
そこで、仕方なく住んでいた地名を採って”「柳沢」”と名乗ったのです。
そこで、「武田氏」が滅んで、「甲斐武田氏系青木氏一族一門」は、「徳川氏の配下」に入り、一族全てが「埼玉の鉢形村」に移住させられます。
「吉保の父の安定」は「館林藩の下級武士」として仕えます。
そして、「150石の低い身分」に成りますが、その跡目は吉保は長男でありながら妾子であった為に腹違いの弟に譲り、下級武士としながらも勉学に励み、その才知で綱吉に仕えて出世して、最初にこの縁のある「所沢の藩主」に成ります。
この時に、この「所沢中富」に、「青木(柳沢)吉保」は「青木氏の守護神の神明社」をもう一つ建立したのです。(研究室の武田氏の花菱紋の論文に記載)
これが、「所沢中富の祖先神の神明社」の所縁です。
これが、「柳沢吉保」が、「神明社」を建てられる理由であったのです。
つまり、「青木氏」である事を認識して、この「青木氏の守護神である神明社」を建立したのです。

実は、この時に、もう一つの「所沢神明社」から由緒ある神職を廻した経緯があるのです。
従って、論理的には、所沢にも「柏紋の青木氏の末裔」、つまり、お家の親族が存在する筈ですが、現在は判っていません。
所沢は、入間地域は、「秀郷流青木氏のメッカ」ですので、「青木氏」が多すぎて「秀郷流青木氏」か「伊勢青木氏」かの判別が、最早、資料の消失で確定して云う事も出来ない事もあるのです。
然し、今回の事で確証は高まりました。

恐らくは、この様な「吉保の所沢中富の神明社」がある事から,お家のご先祖の神職との何らかの関係があった事が充分に考えられます。
「正式な青木氏の守護神の神明社」とする以上は、宮司も「正式な青木氏」からとなるでしょう。
そうすると、正式な「青木氏の柏紋の神職」を求める筈です。
況して、その由緒正しい「柏紋の青木氏」が近くに定住しているのですから、この事を見逃すわけにはいかない筈です。
面白い「青木氏のロマン」ですね。
これを証明する糸口は、残念ながらお家の「深谷の御本家」と成りますが、判らないとすると、難しかなとも考えられます。

そこで、次ぎに、この埼玉の神明社を記述します。

埼玉   神明社  深谷市西島(別名 瀧宮神社)
     神明社  所沢市中富
     神明社  川越市神明町
     神明社  所沢市
          
     神明宮  川越市鹿飼
     神明宮  さいたま市岩槻区釣上
     
     神明神社 飯能市
     神明神社 さいたま市西区塚本町
     神明神社 朝霞市田島
     神明神社 加須市川口
     神明神社 川越市今泉
     神明神社 志木市柏町
     神明神社 新座市野火止
     神明神社 ふじみ野市亀久保
     神明神社 南埼玉郡菖蒲町上栢山

     天照皇大神宮 久喜市上清久島

神明社 3 神明宮 2 神明神社 9 大神宮 1 神社   皇大神社   其の他 1

以上の事は、「青木氏の守護神と神明社」に詳しく記載しています。
尚、以上の表は、特に、シリーズの−20に記載しています。

以上が埼玉のお家の「柏紋の由来」です。
「深谷神明社」がお家の御先祖の神職であったのです。

更に、残りの「神明社系の神職」を配置するには、室町期中頃から江戸期に掛けて「伊勢と信濃」から配置するには難しく成り、室町期中期頃に武蔵の「特別賜姓族の秀郷流青木氏との融合族」を発祥させて、その子孫を「残りの社」に順次に配置した可能性が有ります。
これを「伊勢と信濃の青木氏」の協議と、「伊勢と信濃の融合族」の仲介で、「武蔵の秀郷一門」と「秀郷流青木氏」との血縁を進めた事が充分に考えられます。
「氏家制度」の社会の中では、「吊り合いの範囲」で血縁と成り、更には、「神明社の神職」の場合はより「純血性]を求められていた事から、他の地位と同じ様に、先ず間違いはないと考えられます。

「三つ程度の神明社」であれば、未だ何とか伊勢と信濃と深谷でも可能ですが、一国に16社もあるとなると、何らかの手を打つ以外には無い事が判ります。
各地では「神職の問題」だけでは無く、「宮大工等の職能部の問題」なども関わってきますので、「融合族」は「必須の課題」でした。
この「弟子説」も、「青木氏の仕来り」で、「女系の絆青木氏」として血縁させて、配置して居た事は充分に考えられます。
現在は、どの様に成っているかは、判りませんが、「融合族」である事とお家が分家である事から,その後に充分な子孫を拡げていますので、元の経緯は上記の経緯で辿った事が充分に考えられます。

これだけの埼玉の「神明社及び神明社系の社の神職」(全国約500社)を維持させて行くには、大変な事であり、可成り積極的に子孫を発祥させて配置したと考えられます。

以上の様に、お家の「柏紋」には、この様な大変貴重な歴史的史実を持っています。

是非、この情報を大事にされて、後世の末裔にロマンとして書き残して頂きたいと思います。
最早、系譜などは判らなくなっていますので、辿る事は出来ません。
系譜などよりは、ご「先祖の生き様」を伝統として未来のご子孫に伝える事が肝要では無いでしょうか。
現在の「真言宗勝輪寺」は、「氏の菩提寺手」は無く「檀家寺」でありますので、且つ、「顕教」ですので、お家のルーツの事は伝承されていません。
あったとしても、ルーツが明記されていない「租税管理]の為のその時代毎の「人別帳」が残っている程度です。「青木氏の菩提寺」でなければ「氏の系統性」はありません。
況して、お家はこの武蔵では、元は「神道」ですから、「菩提寺」も持っていなかった筈です。
あるとすれば、「伊勢の菩提寺」に遺る事に成る筈ですが、この「伊勢の青木氏」だけの「菩提寺」も何度か災難に遭遇して記録は消えています。

上記しました様に、この「深谷神明社」も「室町期の混乱」で記録は消えていると思いますが、一度、お参りに「深谷神明社」と「所沢神明社」と「川越神明社」にも”そっと”行かれては如何ですか。
それこそ電撃的な何かを感じるかも知れませんよ。
ご訪問された際には、是非にお便りを頂きます様に、お願いします。
「伊勢神宮]に今度は訪れる際は、もっと引き付ける何かがあるかも知れませんね。
有名な神宮参道に、「伊勢青木氏」の寄付した大きな「燈夜塔」が4基ありますよ。
参考として匿名としますが、お家の始祖と成る人の菩提寺は、松阪市多気郡にあります。

以上の事を配慮されて、ルーツ探究のご努力される事を期待します。
では、又お便りください。お待ちしています。


  [No.1050] Re:東京の青木です
     投稿者:東京の青木   投稿日:2015/05/08(Fri) 02:39:27

こんばんは。

ご返信に時間がかかり失礼致しました。
先ほど気づきまだ途中までしか読めておりませんが、
こんなにも色々とお教えいただきありがとうございました。

まず、深谷、所沢、川越の神明社に行ってみます。

しっかり読みこませていただきますが、
先に1つどうしても聞きたいことがありご返信致しました。

深谷の神明社のサイトを見たのですが、八坂神社の写真も乗っていました。
八坂神社は何か関係があるのでしょうか。
というのも、八坂神社は、天照大神ではなく、
祀っているのは素戔嗚尊だったはずです。

実は、会社の上司にこのサイトのことを話す機会があり、そこで以前の話から自分はお参りをする際
天照大神の祀っているところにお参りに行くべきだと思うという話をしたことがあります。

大変尊敬している上司であり、且つ神社に詳しく、表現が正しいかわかりませんが、スピリチュアルについて詳しいことから
上記のような話しました。

しかし
その上司から、青木は素戔嗚尊と何か関係があるので、とらわれる必要はないのではないか
と言われたことがあります。

上司が何故そんな話をしたかというと
私の今の家の近くには牛嶋神社があり、
子供の頃は家の近くに八坂神社がありどちらも、素戔嗚尊が祀られているからという理由です。

もはや、青木氏とは関係のない話なのでこの質問をずっとしようかどうか迷っていましたし、
天照大神が祀られている神明社にお参りする必要性を感じていたのですが
いただいた深谷の神明社に八坂神社があることから、驚きのあまり質問させていただきました。


  [No.1051] Re:東京の青木です
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/05/08(Fri) 09:21:09

東京の青木さん 今日は。
お久しぶりです。

お便りを読まして頂きました。
そうですか。是非、一度深谷にお参りしてください。

さて、早速ですが、お尋ねの件ですが、先ずお答えから致します。
全く、関係がありません。
それには、次ぎの様な理由がはっきりとあります。

1 この「八坂神社」は「産土神」です。「祖先神]ではありません。

「青木氏が守護神とする神」とは全くその出自が異なります。
研究室に「青木氏の守護神と神明社」の論文にもその根拠が記述していますのでお読みください。
「青木氏」は、「自然神」の系列の主系に所属する「皇祖神の子神」の「祖先神」を「主神」としています。

判り易くする為に簡単に云いますと、奈良期から平安初期頃には主に次ぎの「3つの神格」がありました。


(分類には他説もあるが、判り易くする為に次ぎの様に分類出来ます。)

A「自然神」系列の「皇祖神」−「祖先神」・・皇位の族が守護神とする神格
B「産土神」系列の「祇園社」等・・・・・・・・・・皇位外の族、又は、豪族等が守護神とする神格
C「道祖神」系列の「稲荷社・一般社」等・・・土豪とそれに所属する民等の者が守護神とする神格

以上の三つに分けられました。
(注釈 この三つは「社屋の建立方式」も三様式で異なっています。)

我々の「青木氏」は、「皇族賜姓族五家五流青木氏」でありますから、「自然神の伊勢神宮」に所属する「Aの継承族の主氏」で、且つ、「御師」で「氏上」です。
つまり、「祖先神の族」です。

2 「八坂神社」は元は「祇園神社」です。

イ 明治期の「神仏分離令」に依って改名されたものです。

何故、この様な「神明社」(自然神・皇祖神)の近くに「祇園社」(産土神)が祭祀される事に成ったのかですが、後にある「歴史的な経緯」があって、この様に「合祀状態の事」に成ったのです。
それは、前回にも記述しましたが、「神明社」は室町期末期頃から戦乱でその経営が難しく成り、止む無く対応策として「他の神格」を併呑する事で、”人を集めて”維持して来たのです。
中には、「神格」に「仏格」を「習合」させる事が頻繁に行われました。

然し、明治初期には社会体制が「武士階級の氏家制度の封建社会」から「庶民の自由社会」へと変化しました。

その為に、明治初期の「廃仏毀釈」の破壊運動が起こり、遂には、「神仏分離令」(1868年)と「大教宣布」(1870年)が出されました。
簡単に云えば、この現象が余りに酷かった為に、”「宗教」と云うものを訳解らなくなる事を避ける為にはっきりさせよ”と号令を掛けたのです。
この「深谷の神明社」も例外では無く、且つ、伊勢より遠くに位置する為に「守護神]とする「青木氏の保護」も受けられる事が無く、結局は「合祀・併呑・習合」の経緯を辿りました。
依って、「深谷の神明社」は、他に無い「悠久の歴史」を持つが故に、「祖先神」が「祖先神」で居られたかは別の問題で、大きな遍歴を持っているのです。
当然に、「神明社」で居られたかも同様であって、「お家のルーツの本元の郷」と成る「伊勢の青木氏」に執っては、”遠くに居る親族”を気遣う気持ちでいっぱいでした。

この様に「社の在り方」に「多少の遍歴」はあったものと考えられます。
その一つが、この「八坂神社(祇園社)の合祀」がも知れませんね。
室町期からの”京の祇園精舎の鐘の音・・・”で全国的にも有名を馳せた「八坂神社(祇園社)の影響」を強く受けていた事は否定は出来ません。
然し、お家の「青木氏」に執っては別物です。

ロ その前の江戸初期には、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は奈良期から建立を始めた500社近くにも成る「神明社系列」を協議の結果、一切を「青木氏」より「徳川氏」に引き渡しました。
この後に、「徳川氏」に成って、その管理が行き渡らずに荒廃し、中には無く成ると云う事も起こる始末でした。
この時にもこの現象が著しく起こったのです。
汎神的な「八坂神社の産土神」と違って、「神明社の祖先神」は独神的な「青木氏だけの守護神」であった事からも、平安期までの社会体制と異なり、「江戸期には氏家制度」は変化して、伊勢青木氏からの保護があったにせよ「生きて行く事」は難しかったと考えられます。
恐らくは、前回の記述でも書きましたが、「柳沢吉保が建立した神明社」も「別の配慮」からもこの事が在って、見兼ねて「伊勢青木氏」に執って代って別に二か所に建立したのではないかとも考えています。
つまり、この時期がこの「深谷の神明社」が最も荒廃していた事も考えられます。
殆どは、この苦しい時期に勢力を各地に「祇園社勢力」を「八坂神社(祇園社)」として拡げていた事もあって、殆どが「八坂神社(祇園社)」に成り得ていた事もあり得ます。
(八坂神社の呼称は明治期の事)
それを「甲斐の青木氏」の吉保がこの地の藩主に成った処で、「青木氏]から引き継いだが荒廃が続く状況を憂いて「江戸幕府の後押し」もあって別に「神明社」を建立した事とも考えられます。
何故、吉保が敢えて「神明社」を建立したかは、確かに彼は「青木氏」ではあったが、筆者の主説はこの説を採っています。

ハ 室町期の戦乱では、戦禍に晒されて「神社仏閣」は、その「戦いの戦略上の拠点」と成りましたので、消失し「荒廃の憂き目」を受けました。
この時、「庶民」たちは、その跡地に今度は「信仰の拠点」として、「祠等」を建立して「他の神格」(産土信仰・道祖信仰・毘沙門信仰・荒神信仰・稲荷信仰)を祭祀して信仰を維持しました。
「甲斐柳沢」の「青木吉保」は、この領民が尊厳し信仰する姿勢を観て、自らも「民の祠」だけで放置せず「幕府の建立許可」を得てでも「正規の神明社信仰」を呼び起こそうとしたと考えられます。
他の国に比べて多すぎる武蔵にこれだけの多くの江戸期の「神明社」(4)、或は「神明神社」(12)がある事がこれらの行為を物語っています。

況して、この悠久の歴史を刻むこの「深谷神明社」は、この武蔵の地域に前回にも記述しました様に、多くの「神明社」も建立されましたので、その経営は大変でしたし、秀郷流一門の中での在籍国で、更には、「柳沢吉保」(青木吉保)の「神明社」もあるのですから、武蔵は武蔵で大変でした。

これらの「多くの信仰体」は関西から発祥していますので、関西は関西でもその存立競争には「相当な財力」が必要でしたので、関東とはまた違った厳しさの現象が起こったのです。
幸いに「関西の近畿圏」では「青木氏の商いの莫大な財力」がありましたので、主な「神明社」は、社寺を建立し管理し修理する職能集団の「青木氏部」と云う者を独自に持っていた為に何とか保てる事が出来ましたが、「分社の神明神社」は残念乍ら同じ様な事が起こり難しかったのです。

「京の八坂神社」や「難波の住吉神社」の様に、この現象は何処でも起こっています。

兎も角も、「神社仏閣」の事を論じる場合には、長い悠久の時間の中で「大きな歴史的遍歴」を受けていますので、これを度外視して判断する事は避けなければなりません。
筆者も青木氏を研究する中で避けて通れなかった位に、これには一つの「宗教歴史論」が出来ているのです。
又、「氏族」の「青木氏の歴史観」は、他姓の「姓族」とは異なり単純閉殻には行きませんので、上記する「歴史的な遍歴」(歴史観)も強く受けています。
依って、以上の「三つの神格の区分け」と「仏格の区分け」をして考えてください。


以上の事は根本的に異なるところですが、3として前回にも記しましたが先ず、根本的にその「時代性」が異なっています。
又、その「祭祀格の氏族」が全く異なっています。
「八坂神社」は論評を避けますが、「祭祀格の姓族」が主格に成っています。
又、その「祭祀方法」も全く異なっています。
「神明社」も「八坂神社」も「神社」であるから”何もかも同じ”と云う事は無いのです。
分けて考えるのが通常です。

「上司の方」が云われている様に、「神社仏閣」に付いては、何処も同じく考える事は間違いなのです。
以上の様にこの経緯からしてもこの事は度外視してください。

先ずは、お便りを読破してご理解いただきます様に。
その中で今回の様にご質問が生まれましたらお便りください。その都度、詳しくご説明します。
「荒神」や「産土神」や「道祖神」等の事に付いても研究室でも詳しく論じていますので、是非お読みください。

最後に、お参りに関しての事ですが、どの様に解釈するかは自由ですが、ただ単に「氏の守護神」と云う事だけでは無く、「お家のルーツ元」であると云う事です。
「ルーツの家」であり、且つ、お家は「神道」なのですから、つまりは、「お家の墓所」になるところなのですよ。
”お墓にお参りに行くのと同じ意味”を宿命的に「お家」には他人と違って持っているのです。
そもそも、”関係ないから、或は、意識しないで”と「他人のお墓」にお参りに行く人はいないと思いますよ。

我々の祖先の「青木氏」は、そもそも、「日本のルーツ」が8000にも成る中で、その中で40にも満たない朝廷が認めた「氏族」で、且つ、その中でも「皇族賜姓族」でありますよ。
そして、お家はその中でも純然とした「柏紋一族の青木氏」です。
「青木氏と云う厳しい慣習」の中で生きて来た数少ない末裔です。
そもそも、「上司の方」の云う判断基準の「姓族」ではありませんよ。

では、又お便りをお待ちしています。


  [No.1061] Re:東京の青木です
     投稿者:東京の青木   投稿日:2015/09/21(Mon) 21:56:07

前回はご返信頂きましてありがとうございました。

ようやく深谷にいってまいりました。
瀧宮神社は神聖な感じがしました。
社務所も閉まっていたので、こそっと行って、
こそっと帰ってきました。

ただ、なんか違う気がしました。
感覚的な発言で恐縮ですが、
なんというか表現が難しいのですが、伊勢神宮で感じたものより
素朴で、その土地の全員に対してというか、青木氏だけではなくというか、少しだけ遠いというか。

その答えは、川越と所沢にいった時に何か感じるのかもしれません。
もしくは、それ以外に挙げていただいた、他のところで感じるのかもしれません。

この活動は続けてみます。

一つものすごく残念だったのが、
水が濁っていたことです。

先日の大雨の影響かもしれません。

水の綺麗な時にもう一度改めて行ってみようと思います。

木と水に何か関わりを感じます。
昔から木はとても好きです。そこにヒントがあるかもしれません。

一つ疑問に感じたのですが、神社は三巴の家紋でした。
これは気にする必要ないことなのでしょうか。


  [No.1062] Re:東京の青木です
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/09/22(Tue) 12:27:01

東京の青木さん 今日は。
お久しぶりです。

お家の「伊勢青木氏」の「柏紋のルーツ」と成る「深谷」に参詣されましたか。
それは良かったですね。

参詣された時に、何かを感じられたようですが、筆者も同じで、”感覚的”と云う言葉でしか人間は表現できないのはもどかしい気がしています。

然し、この感覚的と云うものを感じ取る事が出来る人と、出来ない人がいる様ですが、出来ない人から見ると、理解を得られないのは残念です。
一族であっても、”感じない”と云う人の方が多いのも又事実です。
実は、筆者も感じる方で、兄弟親族の中でも感じると云う者は居ません。
筆者の両親や兄弟が亡くなった時の葬儀の際の夜に、仏壇の処に行きました処、何か不思議な人の声がするし、その声が誰かと話しをしている声なのです。
その場所も特定できる部屋の処からでした。
この三回の葬儀共に聞こえたのです。この状況が一週間続きました。
一緒に居た者に今聞こえているが、聞こえるかと聞きましたが全く聞こえないと云う事でした。
そこで、その場所から外に出ましたが聞こえなく成り、再び入ると聞こえるのです。

恐らくは、生態学的に云うと、筆者の脳神経の感覚が人より敏で、親族が亡くなった事でより敏に成った右脳が働く事が起こっていて、その事で右脳からベータ波が出ていて、そのベータ波で第四次元との繋がりを持った事が論理づけられます。
それが一週間敏状態が続いた事だと思います。
話声にはその人の特徴ある声色も聞こえるのです。単なる話声では無いのです。
恐らくは、筆者が持っているその人の記憶データが引き出されて右脳が働いたのです。
普通は右脳から出るのはアルファ波ですが、人間には、原始脳と云うものが脳幹の近くに押し込まれています。
左右の脳が発達する前に類人猿に近い頃に使っていた「複眼機能」と連動して「原始脳」を人間は誰しも未だ持っているのです。額の中央にあった複眼機能も今は脳幹の近くに誰も未だ持っています。
このベータ波とこの原始脳とが繋がって、この様な現象を起こすのではないかと云われています。

”心頭滅却すれば火も又涼し”の時も、”座禅でも雑念を取り除いた無想無念時にもこの現象を起こさせる事だと云われています。
強ち、無根拠では無いのです。

この事は簡単な事で身近な事で起こっていますよ。
子供を産んだ母親は、見えない真後ろに居る赤子の様子が料理等をしながらも手に取る様に同時に認知する能力があります。
男性にはありません。
子供を産む事に依って母性本能が高まり、右脳が敏に成り、このベータ波を出して子供の右脳とやり取りをしている事で起こっています。この現象は子供が立ち上がる頃までで次第に低下して行きます。
長く続くと敏に成っている右脳は疲労してその能力が低下しますし、母体には大きな負担と成るのです。
これとほぼ良く似た事が起こるのです。

ただ男性の場合は、その人の性質にも依るので、女性ほどではありませんが、起こる人と起こらない人、感じる人と感じない人の差が出ます。
類人猿の前の頃には、この複眼機能と原始脳と小さい右脳を使って生きていたと考えられています。
未だ人間には少し遺っていると考えられていて、何時か消える可能性が有ります。
最近の女性には、この能力が低下している事が判っています。

論理的には、お家が感じたこの様な時に働く感覚は、この現象から来ている事が裏付けられています。
取り分け、その環境の自然さ、つまりは、その酸素量、オゾンの影響を右脳が刺激を受けていると云われています。
従って、ごみごみしたところではオゾン量の減少が起こり、浮遊物の障害でもベータ波が飛びにくく成り起こりにくいのです。

深谷が、「ご先祖の地」であると、その御霊の住む特定される”「自然」”に対して、お家の敏と成った右脳が反応していたと観られます。
問題は、右脳は常に「敏」ではありませんので、「敏]と成るかの問題ですね。
座禅してやっと敏に成り得る位の位置づけです。
場所や人や時の環境変化に依っても感じ方は違って来る事に成ります。
おっしゃる通り、何とも言えない表現しにくい感覚に捉われますよね。
お家が、深谷に居て、何故、敏に成ったかは、後ろの子供の様子が判る母親に似ている事に成ります。
「赤子の子供」が「深谷の自然」と云う事に成りますね。
自然から発する何か(ご先祖の御霊)を受け取ったのでしょう。

昔は「深谷の水」は「霊水」として崇められていましたのに残念ですね。
自然が乱れると、オゾン量が低下して右脳を働かせなくなりますね。
都会の様に、感じ取る事が低下して仕舞います。

「心の豊かさ」を示すものとして、誰にでも持ちあわせていないものですので大事にされます様に。

さて、ご質問ですが、
昔の慣習として、「左三つ巴紋」は、本来は、神社仏閣の格の格式に依って、朝廷より掲げる事を許された「象徴紋」の「式紋」でした。
最も高い格式の「式紋」は、「五三の桐紋」で、「天皇家の祭祀」の「式殿」に用いられているものです。

依って、この文様は「家紋」ではありませんで、格式を示す「式紋様」と云うもので、「象徴紋」の一種です。
「家紋」は、室町期中期以降に「姓族」に依って使われる様に成ったもので、それまでは数少ない「氏族の象徴紋」としての位置づけでした。

家紋化したのは、室町中期以降に「姓族」(海部氏が最初)が発祥して、この数多い「姓族」が使用する様に成って起こった事です。
我々青木氏は数少ない「氏族」(40程度 最大時は200 現在では20)で、その「氏族の最高位の氏族」、即ち、「侍の発祥源」です。

ところが、明治期に入ってこの「仕来り」とその拘束力の「縛り」が低下して、格式に関わらず、「左三つ巴紋」や、「五三の桐紋」の式紋類は何の関係ない者にも使われています。
中には室町期中期から発祥した「姓族」は、江戸初期にはこれを「家紋」とする者まで現れました。
況してや、禁令(「嵯峨期の青木氏の詔勅」と共に出された「青木氏の慣習仕来り掟の使用禁令」)であるのに、「右紋」などの類似紋まで数多く使う様に成ったのです。

江戸中期以降は、村の「神社祭り」の際に祭祀紋(式紋)として用いる等の事が起こり、この事が各地に広がり、遂には「祠の神紋」とするまでに広がって仕舞いました。
中には、江戸期には「格式紋」に発展していたので、その神社の「神職の家紋」にして仕舞うと云う事に成ったのです。
この事は、「左三つ巴紋」は、古来は、「神社の式紋」であったと云う事を庶民も知って居た事を物語ります。
挙句の果てには、この「禁令文様」は、一般化して「91文様」にまでに広がって仕舞いました。

この式紋の「左三つ巴紋」の由来は、その説には多くあり、殆どは、室町期後期から江戸初期からの「家紋」としての論説であって、「式紋」「象徴紋」「格式紋]としての説としてのものはありません。
筆者は、「青木氏の神明社等の資料」より ”「三種の神器」の「勾玉」”を表すものとして、尊れて用いられたものと考えています。
その起源は、「象徴紋」は、平安初期に用いられていますが、「式紋様」としては神器に相当する文様として奈良期からのものであったと観られます。
室町期中期頃までは少なくとも一般には使われていませんでした。

依って、「647年頃からの氏族」の「慣習」の中では、「青木氏」の「柏紋」と共に「式役」としてこの「二つの文様」を用いていた事からと共に使われていました。
その事から、「柏紋」は「神職紋」に、「三つ巴紋」は「式紋」にと変化したのです。
これが、平安初期からの「象徴紋」や、鎌倉期には「格式紋」として変化して行き、遂には、江戸初期には「家紋」として無断で使用される始末と成りました。

この「左三つ巴紋」は、「自然神」の考え方を引き継ぎ、この「自然神」を「教義の基礎」としている「皇祖神(天皇家の守護神)、その子神と成る「祖先神」(青木氏の守護神)がその「教義」を引き継いでいます。
この「三つから成る勾玉」は、次ぎの「祖先神の教義」(青木氏に伝わる教義)から成り立っています。

「勾玉」は、先ずは、”「人の原型」”と云う定義に基づいています。
「勾玉」から成る「人の体」は、次ぎの三つに依って構成されています。資料解析が実に難解で要約すると次ぎの様に成ります。

一つは「和」: 人は「和」を「支」として成り立ち、この「和」は「心」に依って「支」を築かれます。
二つは「理」: 人は「理」を「技」として成り立ち、この「理」は「技」に依って「糧」を創出します。
三つは「教」: 人は「教」を「経」として成り立ち、この「教」は「経」に依って「験」を蓄積します。

この「三つの輪廻」に依って「人の体」は構築されます。
この「三つの輪廻」は自然(左巻)に沿って起こります。
現在で云う、仏説の「心技体」の原型と成ったものと考えられます。

この「神明社の式紋の教義」は「青木氏家訓10訓」にもこの「教義」が色濃く反映しています。

取り分け、「教」とあることが、他神の教義と異なるところで、「教」は「経」(道)を教え悟り、その「道」は「理の経験」(正しい筋道や道理から得た経験)から生まれ、「理の経験」は[和」に依って築かれると云う教義です。
この「和」に依って「理」が生まれ、この「理」は「教」を作り出し、「教」は「和」を生み出すと云う「神義」なのです。
つまり、この「三つ」は「回転」をしている事ですから、即ち、「自然の輪廻」で起こっていると云う教義です。
この「自然神の教義」を「文様」にまとめて教えているものが、この「左三つ巴紋」の文様です。

「左三つ勾玉文様」が「本来の呼称文様」で、「格式紋」に成った頃から「左三つ巴文様」と成った様です。
「自然神−皇祖神−神明社」の「教義文様」として、当初は「神明社の式辞」には「式紋」(教義紋様)として、”「神明社を守護神とする青木氏」”に依って、この「式辞」を取り仕切る役目柄から用いられていたものなのです。
この伝統を引き継いだのが、「柏文様」を「象徴紋」とした「神職の専門職」と成った「青木氏」なのです。
その「柏紋様の総紋」は「笹竜胆紋」が象徴紋です。
「柏紋」は「専門職としての立場」での「役柄の場合」に用いた「文様」なのです。

この「柏紋」は、奈良期では、「柏の木」は「青木の木」と共に「神木」として用いられていましたので、「神職の文様」と定められたのです。
この「柏の木」は、その大葉は、当時(飛鳥期)は「民の食器」として用いられていたもので、”式辞に神に捧げる供え物”の「敷物」として用いられていました。

従って、「青木氏」の「奈良期からの古い仕来り」として、「左三つ勾玉文様」=「柏紋」=「笹竜胆文様」の関係にあったのてす。
そして、この立場にあった「青木氏」に執っては、「式紋−象徴紋−格式文様」として位置づけられていました。

これが、「青木氏の密教」として引き継いで来た「古代仏教−古代密教」の「密教の仏説教義」として「心技体」の仏説に詳しく論説して変革したのです。
この「古代密教」は、「古代密教浄土宗−密教浄土宗−浄土宗」と変化しても、この教義が引き継がれて来たのです。

「巴紋」には、多説あり、武具説 水渦説 鬼瓦説はその形から巴の字が似ているということから、「巴紋」と云われる様に成ったのです。
これはあくまでも室町期末期頃からの「家紋]と云う前提からの説です。
この「青木氏が使っていた式紋」の存在を知っていた「公家の西園寺氏」が、氏が名義している「四国の荘園」を自分の領地として奪取して「公家豪族」と成りましたが、この時に「家紋」として用いたのが最初です。
この室町期末期の「西園寺氏」は、50年程度で戦乱で滅亡しますが、これ以後、「西園寺氏」に肖って他の豪族が「家紋」として使い始めたのです。
「青木氏族」だけにしか使用を認められていなかったこの「禁令紋の式紋」をこの時から豪族に使われる様に成ったのです。

「天皇家の式紋」も「五三の桐紋」も秀吉が勝手に天皇家の許可を得ずに、「太閤」と云う「朝廷官位」を背景に、勲功のあった者にこの「天皇家式紋」も与える始末と成り、遂には「五七の桐紋」まで作り大名に与え、大名が家臣や農民に与える権限まで広がって行きました。
遂には、巴紋と同じ様に、162文様にも広がりました。

江戸初期の家紋の持たない武士が、明治期には家紋苗字の持たない庶民が、「式紋の権威」に似せて使う様に成ったのです。

江戸幕府は、「権威」を保つ為に、この全ての「式紋」と「象徴紋」と「格式紋」と「高位の家紋」に関わる文様に対し、使用と類似紋の使用を禁止しました。
徳川氏一族のある姫が嫁ぎ先で勝手に「葵紋」を使った事で厳しく罰せられる事件まで起こりました。
当初は其れだけ厳しかったのですが、ところが、江戸初期は庶民から武士と成った者が多く成った事で、社会に権威が無く成ったのです。
その事から、幕府は何とか「権威付け」の為に「家譜」を搾取でも良いから強引に作る事を命じました。
進まなかった為に、挙句は、「黒印状」を発行する事を条件で、命じました。
幕府の「黒印状」が得られなければ大名としての立場を認められませんから、強引に搾取して「偽家譜」を作りました。
同じく家臣もこの命に従い家禄を獲得する為に[偽家譜]を作って藩主より「黒印状」を獲得したのです。

この為に、「偽家譜搾取」の社会が起こり、、その結果、禁令にも関わらず勝手に、「偽搾取家譜」に沿った「名家の家紋や式紋象徴紋格式紋等の使用の流れ」が逆に起こって仕舞ったのです。
この為に「禁令紋や類似家紋等の作成使用等の幕府禁令」は有名無実と成り、庶民まで使う様に成りました。
唯、室町期末期以前は、「左三つ巴紋」は、秀郷一門の「青木氏族五氏」(下記)に繋がる豪族が、「式紋」「象徴紋」「格式紋」「副紋」として厳格に使っていましたので、他氏が使えなかったと云う事が在りました。
しかし、明治期にはこの「縛り」は全く無く成り、庶民まで勝手に使う事が起こったのです。

そこで、青木氏の管轄下にあった「深谷の神明社」が、これを「正当な形で式紋」として使っているとすれば、お家の「柏紋の神職」は、その「社の格式」からも、「お家の格式」を歴史的に証明するものと成ります。
そんな中でも、奈良期からの「正当な式紋、象徴紋、格式紋」として用いていたと観られます。
むしろ、大きなお家に関する発見と見做されます。

既に、お家が「伊勢青木氏」に繋がる「由緒ある柏紋」(柏紋=巴紋)で一致である事から、江戸期と明治期のものでは無い事を証明している訳ですから、偽紋や類似紋などの多い中でも「柏紋」が、「正当な式紋の巴紋」を証明しているのです。
むしろ珍しい事に成ります。

お家の近く武蔵国や下野国には、この「左三つ巴紋」の朝廷より正式に使用を許されたもう一つの「秀郷流青木氏」が在ります。
取り分け、一門の中でも「関東屋形」と呼ばれる大豪族と成った「青木氏族」の「結城氏」、「宇都宮氏」、「佐竹氏」、「小山氏」、「赤松氏」の五氏も、その氏が抱える神社仏閣には、「式紋」として使用を朝廷より特別に許されています。
その中でも宗家筋に当たる1000年以上の悠久の歴史を持つ「結城氏」は、この文様を盛んに使用していました。

「結城氏」は、一時、「京平家の貞盛」らに抑えられて衰退していましたが、平家滅亡で再び[結城氏」を再興する事を鎌倉幕府から許されて、朝廷も追随して、名籍を遺す為に、「青木氏の柏紋族」と同じくこの「左巴文様の使用」を許されたのです。
この「結城氏」から出た一族の者の4氏も「式紋」として、「格式紋」として「象徴紋」として使う事が許されたのです。
室町期には、これをこの「四氏の副紋」としても使う様にも成りました。

お家の「柏紋族」等の「皇族賜姓族青木氏」の補完族の母方族「秀郷流青木氏族」としての主要族である「永嶋氏」、「長沼氏」、「進藤氏」、「長谷川氏」も使う事が許されています。

その意味で、「深谷の三つ巴紋」の発見は、「柏紋」に対して「古来の慣習の根拠」に成ります。
つまり、「柏紋と巴紋」は、古来より共に「神職式次第」の「対の関係」にあったのです。
「巴紋」と来れば「柏紋」、「柏紋」と来れば「巴紋]と云う風に,「対の関係」を室町中期頃までは長く維持して来たのです。
「皇族賜姓族青木氏」の「深谷神明社」は、「最古の所縁」の証拠ですが、それを歴史的に更にこの「巴紋使用の発見」でより確実にしました。
「柏紋のお家と深谷神明社」は、「二つの全青木氏」に執って「歴史的存在の意義」を持っています。

これも「何かの御霊の導き」の発見と観られます。
何かを感じる時にこそ、この様な発見が起こるのです。
これはまさしく「導き」に外なりません。
この格式高い「二つの式紋」は、その「神社仏閣の式殿」の「格式」を象徴する「象徴紋」として利用されていたのです。


是非に、この「歴史的価値」を「お家の口伝」にして頂けるとありがたいと思います。

又、何かありましたらお便りをください。


  [No.1083] Re:東京の青木です
     投稿者:東京の青木   投稿日:2016/01/04(Mon) 16:58:15

あけましておめでとうございます。
昨年ははじめてこの掲示板に参加させていただきましたが、
大変多くのことを教えていただきありがとうございました。

一昨日お墓参りに行ってまいりました。
周りの家紋を色々見てみましたのでご報告致します。

場所は前にもお伝えしました児玉郡の勝輪寺です。

青木家は皆、丸に三つ柏でした。
父曰く、小さな青木家の集まりがおじいちゃんの実家にはあるとのことでしたが、
児玉郡の前がどこにいたかまではわかりませんでしたが、
皆同じところから出て集落を児玉郡に作ってたのでしょうか。
他の青木家は皆違う家紋かと思っていましたので大変驚きました。

また、それ以外の苗字は
内田家がいくつかあり、丸に十字の家紋
代々木家があり丸に八ツ矢車の家紋
後は、丸に鷹の羽が一つだけありました。

新し目のお墓は除外すると、
一番青木家が多く、丸に三つ柏、内田家、代々木家がついで多いという感じです。

まじまじと見たことは無かったのですが、青木家の家紋が同じだったことが衝撃的でした。
他に着目したほうがいい点などあればまた機会を改めて訪問した際に見てこようと思います。

昔からお墓参りは気持ちが落ち着くものです。
ここまで色々教えていただいたのもありますが、今回はより一層気持ちがすっとしました。

この事を家族に話しても中々耳を傾けようとしないので、
少なくとも私はこの事実を大事にしたいなと思っております。

明日から仕事も始まりますが、
会社の近くにある芝大神宮にお参りに行こうと思っております。


  [No.1084] Re:東京の青木です
     投稿者:福管理人   投稿日:2016/01/05(Tue) 16:21:47

新年、あけましておめでとう御座います。

本年も宜しくお願いします。

さて、「年始のお墓詣り」に出かけられたとの事ですが、最近は、「年始のお墓参り」も少なく成りました。地方に依っては年末にする習慣もあります。
青木氏は、古来より年始ですね。年末は「墓掃除」で行きますが、一族家族そろっての「本参詣り」は「年始」です。

>児玉郡の前がどこにいたかまではわかりませんでしたが、
>皆同じところから出て集落を児玉郡に作ってたのでしょうか。
>他の青木家は皆違う家紋かと思っていましたので大変驚きました。


お家は、以前お答えいたしました様に、元は「伊勢青木氏」の「祖先神の神明社」の「神職の家柄」で、その「分家筋」ですから、「ご本家の柏紋」から出自し、「支流の丸付き紋の柏紋」と成って栄えました。

従って、元は、伊勢松阪にある「青木氏菩提寺」が「柏紋の青木氏の元寺」と成ります。
歴史ある「深谷神明社」を護り続けた事から深谷に定住した「伊勢青木氏の末裔」です。

従って、お家一族のその後の「青木氏の分家墓所」は、「柏紋神職の青木氏」が持つ「神明社の社領の地権」の範囲の中で、別ら墓所を設けて深谷から分離している可能性が有ります。
「ご本家筋の墓所」は「神道の原則」を護っていますから、「深谷の神明社」の直ぐ近くの社領内にある筈です。

「深谷神明社」の「神道」ですので、その後、「普通の墓所」と異なり「本家の神道墓所」は、その性質上から、恐らくは手狭であったと観られます。
依って、本来は「丸付き紋」を用いない慣習に従っている「青木氏」ですから、慣習に従わず敢えて「丸付き紋」を付けて「分家支流族」を形成している「大きな子孫力」を持っている以上は、「神道の墓所」では到底狭い事に成りますので、「墓所」を別にする事が起こったと考えられます。
この時、当然に「神明社4社」が、深谷から児玉郡等に十数社に分社していますので、本家だけの墓所では手狭に成り、分社のある地域にも、その「分家の土地」(児玉郡美里域)として分け与えられた場所に一族が住める「居住地]と「分家墓所」を敢えて設けたと観られます。

しかし、その後、「神道」ですので住職では無くて「一族の代表の方]が管理していた事に成るのですが、その多く成った墓所には、何時しか維持管理の為に「小寺」を建立し住職を招いたと成ります。
其処から、お家一族の栄枯盛衰の変化で以て、その寺の維持管理も大変と成り無住職の寺の墓所と成った経緯を辿って現在の勝輪寺の檀家寺として権利を譲ったものと成ったと観られます。
依って、殆どは「柏紋の青木氏」の「一族で占める墓所」に成った事と成ります。

お家の「柏紋の神道」もこれに沿った経緯を持っている事に成ると思います。
500社に上る全国の「青木氏に関わる神明社」は、[青木氏の定住地」に建立しましたが、江戸初期に徳川幕府に全て引き渡しました。
この時、各地にある「神明社の神道の墓所」(柏紋)はそのままに成りました。
それまでは、「伊勢青木氏と信濃青木氏と甲斐青木氏」が「二足の草鞋策」に依って得られた財力で、この全国の500社の神明社を「独自の職能集団」の「青木氏部」が修理保全を担ってきました。

依って、その後は、この徳川幕府の管理に移行しましたので、一部はこの「神明社の神職」として残りました。
従って、その神職は「神明社の歴史の遍歴」に沿っていると思います。
この時、「柏紋の神職の青木氏」は、多くは伊勢か信濃か甲斐に戻りました。
他の一部は、「青木村」を形成する村に「独自の祠」を維持する神職として残りました。
お家は、恐らくは残留組と観られます。

その後、「幕府の財政難」と「神明社の人気の低下」で、大変、「神明社」は,例外なく荒廃し、衰退し、遂には、各藩に修理令が出る始末に成りましたが全く進みませんでした。
この時、「荒廃した神明社の神職」を離れた「柏紋の青木氏」が「各藩の家臣」等に成った経緯を持っています。

前回お答えしました様に、甲斐青木氏系柳沢吉保が所沢に神明社を建てたのもこの事から来ています。
「柏紋の青木氏」も吉保の家臣に成った者も居まして、その後、柳沢氏は奈良に移封しましたが、この時に付き従ったお家の一族の方が「柏紋の青木氏」が奈良に分布しています。

そこで、先ず「家紋掟」で家紋は長い間には変化するものですから、お家の分家が「柏紋や巴紋」に所縁があるとすると、「分家の位置づけ」はご本家にそう遠くない分家であった事に成ります。
現在の墓所が児玉郡とし、周囲にはお家の家紋を中心に別家紋と別氏があるとすると、「神道の墓所」ですから「二番目の墓所」であったと考えられます。
「分家筋の墓所」としたところではないかと考えられます。

「児玉郡」は、埼玉県北部域の「深谷神明社」から西隣接域の山手ですから、「分家の入所」としては充分に考えられます。
以前、お答えいたしました「武蔵神明4社」、つまり、「深谷の神明社]と、「所沢の神明社」と、「川越の神明社」で、特別に「所沢市中富の神明社]が加わり4社に成るのですが、後は、後に建立された「神明社系の分社」等がこの児玉郡域に建立されました。

恐らくは、この「分社域の神明社」をお家の分家筋が受け持たれたと観ています。
依って、「深谷の本宮」から「児玉郡の美里域」にお家の分家筋が移動されて、子孫を拡大させて「分家筋の墓所」を別に持たれたと考えられます。

依って、「児玉郡の美里町の勝輪寺」の前は、ご本家筋の深谷域に「本宮の神道の本墓所」があった事に成ります。
昔は、墓所や建物を建てる事等の「自由に出来る土地」は、「郷氏」や「庄屋]や「豪農」や[社領」や「寺領」などが「地権」と云う権利で補償されている地域、つまり、お家の場合は「社領」にしか持つ事は出来ませんでしたので、「児玉郡の美里」に「神明社の社領」の「地権」を持っていた事に成ります。
従って、「分家筋の墓所」を設けるには「児玉郡の美里」しか無かった事に成ります。

そのお家の「分家筋の墓所」であった「氏の家紋」から観て、寺に他氏の墓所がある件ですが、他のものは明治期ものでは無いでしょうか
>内田家の丸に十字の家紋
>代々木家の八ツ矢車の家紋
>丸に鷹の羽

先ず、この家紋の主家は、「丸に十字」は島津氏、「八矢車紋」は佐藤氏、「丸に鷹羽」は白須氏ですが、江戸期前にこの「姓族の墓所」が、此の寺処にある事は、「国元の墓所に埋葬する事」を前提としていますので、有るとすると「国抜け」と成りますので、江戸期までは「棲み分け」を原則としていますので明治期で無ければ先ずはあり得ません。
ただ、実は、この「矢車紋」には、「神職」が多いのです。
その事から、そもそも、この佐藤氏は、秀郷流一門で同門で、「第二の宗家」と呼ばれた「秀郷流青木氏」とは「同紋の縁籍関係」にあり、且つ、武蔵はその本領ですから、何かお家との所縁があると観られます。
考えられる事として、「神職関係」から養子縁組等が起こり、実家先の断絶家を嗣子に興して、その墓所をここに設けたとの見方も出来ます。

可能性として、普通は「家紋掟」に依り男子跡目が出来ず、先ず「養子先の家紋」に変化して行くものですが、全て「三つ柏紋]であったとすると、可成り後にまで「神職」を続けられていた事に成りますね。
普通なら、悠久の歴史を持つ「深谷神明社」からの時期から考えると、更に、その後に、「完全女系」が続き、「姓」まで変化した可能性も否定できない事も起こり得ますので、この血縁で家紋と墓所が同じに成るには、原則として普通は明治期以降の事に成ります。
然し、家紋が統一されている事は、一族が互いに助け合い「児玉郡」で纏まり「子孫繁栄」を図って居た事に成りますね。

場合に依っては、これ程長く家紋を変えずに居られる事は珍しく、「神職」であった出自先の「伊勢青木氏の四家制度」を採用していた可能性が有りますね。

他氏の左程墓所が多く無い所から観て、「檀家寺」に成った時点はそう昔の事では無く、明治初期と考えられます。

依って、「勝輪寺」の元は、古くはお家の「柏紋の神道」の「墓所」て、後に小寺を設けて「菩提寺」に成った事に成り、その菩提氏の経営等が成りゆかずに、明治期に世間の仕来りに従い「一般」の「檀家寺」に成ったものと観られます。
多くはこの経緯を辿りますが、明治期では経営が成りゆかずに全てが「檀家寺」に変えたのです。


さて、昔は「柏紋の青木氏」で「伊勢神宮の神職の御師様」と呼称される立場にあったので、一度、その大元に成る「伊勢神宮」をお参りされると良いと思います。

「神明社の神職(柏紋青木氏)」は、「自然神」の「伊勢神宮」の「皇祖神」の「子神の祖先神」の「神明社」の神職です。その中でも古い「深谷神明社」系ですのでお勧めします。

その際には、合わせて、JR松阪駅下車の駅前広場の前の大通りを隔てた右手一画の中ほどにある本寺があります。
ここは元は、「青木氏の菩提寺」でした。
二度、松阪大火で消失して、その後に「紀州藩の菩提寺」を経て現在は知恩院派の浄土宗檀家寺と成っています。
「寺名」は匿名としますが、御訪問になると良いと思います。必要な場合はメールで連絡します。
ここが「お家の本宮」であり「出自寺」と成ります。

中々、「伝統」は伝わりにくいものですね。
筆者も同じです。
親族が聞く耳を持つかは別にして、先ずはこの世に生を得た以上は”「伝える役目」”だけは果たしたいと考えています。
筆者がそうでした様に、何時か、必ず一族の中に「伝統や歴史」を重んじる者が必ず出てきます。

ではまた何かありましたらお便りください。お待ちしています。


  [No.1100] Re:東京の青木です
     投稿者:東京の青木   投稿日:2016/12/04(Sun) 16:40:57

大変ご無沙汰しております。
東京の青木です。

本日は父親と母親と龍宮神社を参拝してきました。
2度目は1度目と異なる感想で、神社全体から温かみがあり居心地の良さを感じました。

その後、勝輪寺にお墓参りもしてきました。

本日1点発見がありましたので、報告致します。
私の父親の父親(おじいちゃん)のお墓と別に、おじいちゃんの実家のお墓にもお線香をあげる機会がありまして、そこに過去の先祖の名前が刻んでありました。

名前の記載は致しませんが、墓碑の一番初めの年号は寛永でした。
歴史は詳しくはありませんが、改めて、青木氏の歴史を感じました。

そこに書かれていた先祖の名前を検索してみたところ、
児玉郡美里町の北向神社の御神燈に先祖の名前が刻まれていたとこのことでした。

こちらの祭神は大巳貴命、素盞嗚命、少彦名命とのことです。
住んでいた土地の神社なので、こちらに刻んだのでしょうか。

宜しくお願い致します。


  [No.1101] Re:東京の青木です
     投稿者:福管理人   投稿日:2016/12/05(Mon) 17:21:11

東京の青木さん 今日は。お久しぶりですね。
お元気で居られる様で何よりです。これからも宜しくお願いします。

お便り頂きました。ご先祖が埼玉の神明社の神職を務められ、柏紋をベースに子孫繁栄されている始祖を「伊勢青木氏」とする「青木さん」と記憶していましたのでお便りを読んですぐに判りました。

神社を参拝された様で、矢張り、御先祖が神職をされていた事もあり、何か遺伝子が心に引き付けるものが有るのだと思います。

私も良くそんな気分に成る事があります。何か「ベータ波のテレバシイ」が、未だ人間に持っていて脳幹の近くにしまわれている「原始脳」から発するのかも知れませんね。
これは「人」にもよる様ですが、私と同様に、お家もシナプスを「原始脳」に働かせる回路を未だお持ちなのかもしれませんね。

さて、お便り頂きました事に付いて、前回にも述べましたが、それを更に裏付ける事であると考えます。

>名前の記載は致しませんが、墓碑の一番初めの年号は寛永でした。
>歴史は詳しくはありませんが、改めて、青木氏の歴史を感じました。

>そこに書かれていた先祖の名前を検索してみたところ、
>児玉郡美里町の北向神社の御神燈に先祖の名前が刻まれていたとこのことでした。

>こちらの祭神は大巳貴命、素盞嗚命、少彦名命とのことです。
>住んでいた土地の神社なので、こちらに刻んだのでしょうか

「前回のお答えの要点」
「児玉郡」は、埼玉県北部域の「深谷神明社」から西隣接域の山手ですから、「分家の入所」としては充分に考えられます。
以前、お答えいたしました「武蔵神明4社」、つまり、「深谷の神明社]と、「所沢の神明社」と、「川越の神明社」で、特別に「所沢市中富の神明社」が加わり4社に成るのですが、後は、後に建立された「神明社系の分社」等がこの児玉郡域に建立されました。

恐らくは、この「分社域の神明社」をお家の分家筋が受け持たれたと観ています。
依って、「深谷の本宮」から「児玉郡の美里域」にお家の分家筋が移動されて、子孫を拡大させて「分家筋の墓所」を別に持たれたと考えられます。

依って、「児玉郡の美里町の勝輪寺」の前は、ご本家筋の深谷域に「本宮の神道の本墓所」があった事に成ります。
昔は、墓所や建物を建てる事等の「自由に出来る土地」は、「郷氏」や「庄屋]や「豪農」や[社領」や「寺領」などが「地権」と云う権利で補償されている地域、つまり、お家の場合は「社領」にしか持つ事は出来ませんでしたので、「児玉郡の美里」に「神明社の社領」の「地権」を持っていた事に成ります。
従って、「分家筋の墓所」を設けるには「児玉郡の美里」しか無かった事に成ります。

お家の家紋が統一されている事は、一族が互いに助け合い「児玉郡」で纏まり「子孫繁栄」を図って居た事に成りますね。

依って、「勝輪寺」の元は、古くはお家の「柏紋の神道」の「墓所」て、後に小寺を設けて「菩提寺」に成った事に成り、その[菩提寺の経営等]が成りゆかずに、明治期に世間の仕来りに従い「一般」の「檀家寺」に成ったものと観られます。
多くはこの経緯を辿りますが、明治期では経営が成りゆかずに全てが「檀家寺」に変えたのです。

「今回のお答え」
寛永期は1625年から20年間で、寛永期が刻まれている事は、徳川氏がやっと幕府を安定させた時期ですから、柳沢吉保が神明社を建立する直前の事に成ります。

前回のお答えの通り、お尋ねの件は次ぎの様になりますね。

>児玉郡美里町の北向神社の御神燈に先祖の名前が刻まれていたとこのことでした。

とすると、寛永期頃と成りますと、上記の前回のお答えを裏付ける事に成ります。
寛永前は「青木氏の財力」で「神明社系分寺」を維持していましたが、寛永期に神明社や寺等を江戸幕府に移行した時期で、その後幕府の財政が行き届かずに荒廃しました。
この時に、「特定の氏」が持つ神社や寺は禁止されました。
この例外に洩れず「美里町の守護神」としていた「神明社系の北向神社」も「分社」として周囲の氏子等ともに「社の維持」を図ったのです。
この時に、郷氏として分社の「総代的な立場」から、「御神燈」を寄贈した事に成ります。

「神社や寺等の寄贈燈」は、この総代(守護)等に依って行われたものです。
明治期以降は、「総代」だけでは無く、「地域の商人」なども加わり寄贈する事に成るのですが、寛永期では、庶民はこのような事に関わる事は出来ませんでしたので、刻まれている事は「総代」であった筈です。
神明社では、この「総代」を務める人を「御師(おし)」と呼称していました。

そもそも、「総代」とは、「神社の維持管理一切を取り仕切る責任者」の人の事を言います。
多くは、室町期では、「柏紋等の神社の関係者(氏上)」がこの「永年に総代」を務めました。
そうでない場合は、「氏子総代」と呼称し、現在と同じ様に交代制です。

次ぎに、「大巳貴命」とは、「大国主(おおくにぬし)」の事ですが、この「命」を祀ると云う事は、「自然神」に類する社であり、「皇祖神や祖先神」がそれにあたるものです。
主に「神明社」だけがこの「社神と仏神」を含む「古式型の合祀体」でした。

更に、「素盞嗚命」はその先代の倭国の初代大王で、、「大巳貴命」が倭国を引き継いだ二代目で自らを高める為に全国を行脚し、「農業の開発」が国を高めるとする考えを持ち、その開発の見本と成る拠点を紀州に求めたのです。
そして、中国の近代的な農業を会得していた「少彦名命」を重用し、その拠点とする社を紀州に築きます。
この拠点造りに「少彦名命」か活躍したのです。

現在もこの拠点と成った神社が紀州の若山から有田近郊に幾つもあります。
後に「最終の遷宮地」として「伊勢」に成ります。
これがわれらの青木氏を通じて「古い深谷」を始めとして全国500社に広まったのです。
その関東の一翼を担ったのがお家の御先祖です。

この拠点が、後の大和朝廷の「祖先神」であり、「神明社の役目」でもあるのです。
つまり、この「三者」が紀州では無く、関東にも祀られていると云う事は、まさしく「神明社」で全国に建立し「農業開発の拠点」とした事であり、「神明社系の合祀体」の証です。
きわめて古い「深谷の神明社」の「分社」である事を間違いなく証明しています。

依って、お家の「柏紋系」、「総代」、「御神燈」、「児玉郡美里の定住地」等の情報が一致してます。
名が刻まれていた事、寛永期の時期の事からも時代性に矛盾はありません。

つまり「土地の者」であったからだけでは無く、上記の経緯を持った「御神燈」であったと云う事です。
これで、よりお家の「御先祖の歴史観」が発掘された事に成りますね。
だから何か引き付けるものがあったのでしょう。

全国の青木さんの「青木氏の歴史観」としては大変に役に立つお便りでした。

何か判りましたらお便りください。


  [No.1111] Re:東京の青木です
     投稿者:東京の青木   投稿日:2017/02/06(Mon) 07:55:08

昨日お送りしました「美里町史」で他にきになった点を挙げさせて頂きます。


・北向神社(勝輪寺持ち)と記載されている。

寺が神社を持つとはどういう意味なのかが解りませんでした。

>「勝輪寺」の元は、古くはお家の「柏紋の神道」の「墓所」て、後に小寺を設けて「菩提寺」に成った事に成り

上記を指しているのでしょうか。


江戸時代前期の欄に以下記載がありました。

・勝輪寺 小茂田村、新義真言、児玉郡、本庄領、若泉庄、京都仁和寺の末寺

ここにも疑問を持ちます。
現在WEBサイトを見ると、真言宗豊山派:本尊 大日如来と記載されています。

wikiで仁和寺を調べると真言宗御室派:本尊 阿弥陀如来と記載されております。

同様に真言宗御室派を調べると、古義真言宗と記載されています。
本では新義真言宗と書かれていますので矛盾しています。

また阿弥陀如来を同様に調べると、信仰は浄土宗・浄土真宗と書かれています。
ここも何故真言宗御室宗が入っていないのでしょうか。

新義真言宗を調べると、豊山派の紹介がされています。

ぐるぐるとまわってしまいますが、
これはあまりヒントにはならないでしょうか。

本を読み進めて疑問になること・発見もありましたらここに載せさせて頂きます。


  [No.1112] Re:東京の青木です
     投稿者:東京の青木   投稿日:2017/02/06(Mon) 02:02:12

こんばんは。
前回頂いた返事で自分の祖先の行って来た役目をはっきりと理解できました。
本当にありがとうございました。

今、このタイミングで知ろうとしていたのが何故か。最近はそればかり考えています。
意味があるのではないかと思っています。

仕事柄最近では全国を回る機会があるのですが、去年から日本の大きな変化を感じています。
すごい波が来ており、新たな時代が来ている感覚を肌で感じています。
IT関係の仕事ですが、最近ではAIなども仕事で関わることもあり、その新たな、自由な、物理的な面を超越した文化に乗っていく経営者などと接していると、波を感じずにはいられません。

ちょうどこの掲示板に投稿させて頂きましたあたりから、その変化に気づき、その波に体を押されている感覚を覚えます。
このような時代生まれ、この様な祖先を知る機会を得て、この先自分の使命や役目が、今回知った神明社を広める役目ということと何かしらシンクロしていく様な気がしてます。

かなり抽象的な話で失礼いたしました。


さて、
名古屋に出張した際に、商談先の隣の古本屋にちらっと立ち寄ったのですが、
美里町史という1300ページにわたる本に出会いました。
不思議な運命です。まさか名古屋に埼玉の美里町の歴史のヒントがあるなんて。

まだまだ読めていませんが、いくつか気になるところを抜粋します。

坂上田村麻呂にまつわる伝説
将軍が蝦夷征伐の際に、身馴川十丈淵に住む大蛇が、付近住民に危害を加え、生活を脅かしていることを聞いた。
・・・近くの山で軍議を凝らした上、赤城大明神に祈願して神力をお借りするなど、苦心して末ら退治をした。
大蛇の祟りを静めるため、大蛇の尻尾を諏訪山に埋めてお寺を建てた。
それが安光寺と言われている。

武蔵国那珂郡古郡村日光山安光寺記に記載されている。

・・・

5社の明神と4仏の薬師

延暦の昔、坂上田村麻呂将軍がら上州赤城明神の本地仏薬師如来に祈誓して、見馴川十丈淵の大蛇退治をした後、古郡、阿奈那志ら北十条、沼上ら小茂田の五か村に明神を勧請し、同時に古郡ら阿那志ら北十条、沼上の四ヶ所に薬師を安置したお伝承されている。

なお、この5社の明神は何も赤城の方面、北向きに建てられている。いづれも赤城の方面、つまり北向きに建てられているので北向明神と称してる。

歴史の時系列からいうと、もともと神社が建てらています。
ここで浮かぶ疑問は
神明社ではなく赤城明神を向いてるのは何故か。
北向神社は何故赤城明神ではなく、天照大御神でもなく、大国主、素戔嗚さんを祀っているのは何故か
時代背景として、後から神明社が合併されたということになるのか。

他にもヒントになりそうなことがありましたので明日またお送りします


  [No.1113] Re:東京の青木です
     投稿者:福管理人   投稿日:2017/02/06(Mon) 17:23:17

さて、お判りになられたとの事で良かったです。

生物学的に、人には、ある時期を以って、遺伝子の部分までの自らの人の起源を知ろうとする本能があって、それが若い勢いでその本能が抑えられています。
ところがその若さのエネルギーが衰えると、この本能が強く成る仕組みに成っているのです。

例えば、性の欲は、男性は、本来は、生まれた元の処に戻ろうとする本能が変化して欲として出るのです。女性は、この逆に成ります。
元より性欲と云うものは人間には無いのです。
それは、男女の元は女性であったからです。
男には、4つのその証拠と成るものが遺っています。
その二つは、「へそ」と「乳」です。
全く機能していません。
あと二つは公で説明できませんが、人間は女性の体を4回に渡って変化させています。
その原型がミミズやカタツムリで、常態は女性で、子孫を増やす時は体の一部を男性に変えて子孫を増やすのです。

これは元に戻そうとする生物の遺伝的な本能の原理です。
「伝統」を知ろうとする気持ちが強くなるのはこの事から来ています。
弱い人もいますがね。
「原始脳」と云う部分がその様にさせています。

さて、質問です。

>坂上田村麻呂にまつわる伝説
>将軍が蝦夷征伐の際に、身馴川十丈淵に住む大蛇が、付近住民に危害を加え、生活を脅かしていることを聞いた。
>・・・近くの山で軍議を凝らした上、赤城大明神に祈願して神力をお借りするなど、苦心して末ら退治をした。
>大蛇の祟りを静めるため、大蛇の尻尾を諏訪山に埋めてお寺を建てた。
>それが安光寺と言われている。

>武蔵国那珂郡古郡村日光山安光寺記に記載されている。

利害性を含んだ「伝説」なので偽飾、脚色、詐称、偏纂があり信じ難い事もありますが、史実から観た事を延べます。

そもそも、「坂之上田村麿の伝説」(806年まで)は各地に多く在りますが、埼玉の美里町の身馴川公園のある処ですね。

利根川の支流ですが、平安期初期にこの一帯には、まだ朝廷に逆らう賊が多く全国を制圧する事の任務を負った田村麿は、北に向かって23年を掛けて制圧して行きますが、この時、武州と接するこの一帯に勢力を持っていた「武蔵七党の祖」を制圧した時の事を「勧善懲悪」で描いたのがこの説です。

この説には、実は「時代考証」が崩れているのです。

「諏訪山」とありますが、此処に信濃の諏訪族が定住して諏訪山と名づけられたのは、室町期の中期の事です。

坂上田村麿の阿多倍族と諏訪は奈良期の頃は縁籍関係にあったのです。
供に、610年頃に後漢から来た渡来人で、坂上はその父の阿多倍王の長男です。
諏訪族は君主の家臣でもあり縁籍族でした。

諏訪の一族はその縁籍の渡来人で馬を飼育する族で朝廷より信濃に配置された族です。
信濃諏訪族が室町期に武田氏に追われ逃げ込んだのが元に成っています。

「青木氏の歴史書」にも「諏訪族青木氏」が神奈川に一時定住し、その後、この諏訪の一部がこの地に定住した事のこの時のことが載っています。
(サイトにも詳しく記載)
これは、江戸初期の大ブームと成った「寺社の由来や系譜の詐称偏纂」の結果です。


>5社の明神と4仏の薬師

>延暦の昔、坂上田村麻呂将軍がら上州赤城明神の本地仏薬師如来に祈誓して、見馴川十丈淵の大蛇退治をした後、古郡、阿奈那志ら北十条、沼上ら小茂田の五か村に明神を勧請し、同時に古郡ら阿那志ら北十条、沼上の四ヶ所に薬師を安置したお伝承されている。

>なお、この5社の明神は何も赤城の方面、北向きに建てられている。いづれも赤城の方面、つまり北向きに建てられているので北向明神と称してる。

>歴史の時系列からいうと、もともと神社が建てらています。
>ここで浮かぶ疑問は
>神明社ではなく赤城明神を向いてるのは何故か。
>北向神社は何故赤城明神ではなく、天照大御神でもなく、大国主、素戔嗚さんを祀っているのは何故か
>時代背景として、後から神明社が合併されたということになるのか。

>他にもヒントになりそうなことがありましたので明日またお送りします

先ず、一つは「明神」と「神明」とは祭祀の源が違います。

よく間違われる事ではありますが、「神明社」は、本論の通りで、「皇祖神の子神」で、「祖先神」です。

「明神社」は、奈良期の前のその昔、「卑弥呼の時代」の少し後の「大阪の淀川域の湿地帯処に発祥した「庶民が信じる神」(道教や道祖神の元祖)として信じられていた「庶民の神」で、その形として奈良期には「稲荷大明神」として拡大し、全国に広がりました。
「伏見の稲荷大明神」が其のもとに成ります。

これを受けて「伊勢神宮」の「外宮の豊受大神宮」の基に成ったのが、伏見にあるこの「稲荷大明神社」です。
この「庶民の神」で「農業の神」の「豊宇気毘売姫神」が「外宮の豊受大神宮」として迎え入れて天武期に庶民も信仰する「伊勢神宮」としたのです。

従って、前回にもお答えした様に、全国に「農業の米造り」を最初に広めた「稲荷の神」(米の神)の「豊受の神」(豊かにした神)は「大国主」であるのです。

「稲荷の神」の「明神さん」は、全国に「農民の神」(豊受の神)として発達したのです。

これを後に、「伊勢神宮」は、「外宮」として「庶民の神」を「豊受の神」として招いたのです。

>神明社ではなく赤城明神を向いてるのは何故か。

この質問は、奈良期よりあった下記の「神仏の方位の掟」(自然神)に従っているのです。

>北向神社は何故赤城明神ではなく、天照大御神でもなく、大国主、素戔嗚さんを祀っているのは何故か

これは、下記にも書きました様に、江戸期初期には寺社は取り分け浄土宗徒と神明社系は元は密教であって信徒が少ない事から、其の経営管理維持が困難と成りました。
然し、この時に信徒を出来るだけ多く求める為にも、又、特定性が強く「浄土宗」では成り行かぬ為にも真言宗などに「宗派変え」をした事から起こった事から来ています。

この時節は、享保期前まで歴史にもある様に庶民の生活も侭ならない状況で寺社は荒廃したのです。
この時、そもそも「幕府の御蔵金」はたった「113両」しか無く成っていた事が記録にもある位でした。

>昨日お送りしました「美里町史」で他にきになった点を挙げさせて頂きます。

>・北向神社(勝輪寺持ち)と記載されている。

>寺が神社を持つとはどういう意味なのかが解りませんでした。

>「勝輪寺」の元は、古くはお家の「柏紋の神道」の「墓所」て、後に小寺を設けて「菩提寺」に成った事に成り

>上記を指しているのでしょうか。


さて、お答えはその通りです。

このご質問がお家のルーツの凄さを証明する事に成るのです。

実は、「法然の密教浄土宗」の前は、「古代密教浄土仏教」で、現在とは少し違っていました。
「仏教伝来」に依って、その「仏教」を広め帰依したのは、「青木氏等」の「朝臣族」や「宿禰族」等の「八色の姓制」に基づく「上位の氏族」でした。

「仏教伝来」の前は、大和は、「自然神」に基づく「神道」で信仰されていて、この環境の中で、同じ「氏族」が「仏教」も取り入れる事は、その教義に「矛盾」が生まれます。
そこで、この一族らが独自に「神道と仏教」とを調和させる努力を試みたのです。
それが、その「氏族」にしか適用されない教義から「密教」と云う結果で現れたのです。
当然に、この「密教」はそれぞれの「氏族の調和の仕方」で変わります。
故に、「氏独自の考え方」に基づく「教義」を確立させたのが「密教」なのです。

そして、「神と仏を融合させた教義」が、”「神仏同源」”という言葉で表されたのです。
その「神仏同源の考え方」を担ったのが、「朝廷の神紋」の「柏紋」と云う由緒ある「柏紋の青木氏」なのです。
これを広めたのが、「祖先神の神明社」であり、「柏紋」を引き継ぐ「青木氏の御師」であったのです。
つまり、お家のご先祖です。
従って、「法然の浄土宗」とは「密教」でありながらも、「青木氏の密教」は「神道が同源する密教」であったのです。
お家のご先祖の様に、「柏紋の神職」と「柏紋の住職」があるのはこの事から来ています。
(その元は伊勢青木氏信濃青木氏から配置されたご先祖で、筆者等の先祖と一致します。)


つまり、「神仏」に拘らない当に「皇祖神」が教義とする”「自然神」”なのです。
「自然の神」とは、「神」と「仏」が融合している「自然の状態」を指すのです。
これが「日本の宗教の基」に成っているのです。

故に、古社(古寺)には「神道、墓所、菩提寺」が存在するのです。

これを最後まで遺したのが、その「神仏融合」を意味する「密教の考え方」を布教する「祖先神の神明社」で最後は「青木氏」だけであったのです。
だから、朝廷は、全国に由緒ある「朝廷の神紋」である「柏紋」を与えた「青木氏」を配置して「500以上の神明社」を「青木氏」に建立させたのです。

これが、「賜姓五役」と云われる務めであったのです。
その最も古い「神明社]の一つとも云われるのが、「武蔵の神明社4社」であって、その「役務」を務めたのが「お家のご先祖」と云う事に成るのです。
(故に、青木氏族の柳沢吉保もこれを護ろうとしたのです。)

「北向」とは、江戸幕府の顕教令が出た後の時代に付けられた名称だと考えられます。
元は、「神明社の分社」を意味する社名であったと考えられ、江戸初期の「顕教令」で、「北向」(神仏が存在する方位)に特別に向いている事からの俗称が「北向神社」と成ったのです。

普通は「神仏同源」で「祖先神」でなくては向けられなかった「古式の決まり」があったので、その社も寺も正門を南側に向けられて建立されます。
人は、神と仏の坐す方位(北)に向いて拝する姿勢を採ります。

ところが、「神仏同源」としない「社や寺(顕教)」は、社は「護り本尊(山とか川)」を背にして建立されます。
寺は、「護り本尊」に向かって建立されます。
従って、「護り本尊」は千差万別の方向に依って決まりますので方位は南北東西決まりません。

この「北向き」は、「神明社」と「・・寺」(匿名)を除き「嵯峨期の詔勅の禁令」で、朝廷より「禁止された方位」であったのです。
ただ、「青木氏の神明社」だけは「皇祖神の子神」である事から認められていたのです。

つまり、「北向き」は「神仏同源」を示し、「古い」という事に成ります。
この言葉で、「神明社」である事が既に判るのです。

周囲の「顕教の社寺」と異なる事から、「北向きの神社」と云えばわかる事に成り「俗称」が「本名」に成ったという事だと思います。(江戸初期に)

昭和20年頃までは、この風習が庶民の中でもあって、家を建てる時は、不浄な場所やものは「北向き」にしないという風習があったのです。


>江戸時代前期の欄に以下記載がありました。

・勝輪寺 小茂田村、新義真言、児玉郡、本庄領、若泉庄、京都仁和寺の末寺

>ここにも疑問を持ちます。
>現在WEBサイトを見ると、真言宗豊山派:本尊 大日如来と記載されています。

>wikiで仁和寺を調べると真言宗御室派:本尊 阿弥陀如来と記載されております。

>同様に真言宗御室派を調べると、古義真言宗と記載されています。
>本では新義真言宗と書かれていますので矛盾しています。

>また阿弥陀如来を同様に調べると、信仰は浄土宗・浄土真宗と書かれています。
>ここも何故真言宗御室宗が入っていないのでしょうか。

>新義真言宗を調べると、豊山派の紹介がされています。

>ぐるぐるとまわってしまいますが、
>これはあまりヒントにはならないでしょうか。

>本を読み進めて疑問になること・発見もありましたらここに載せさせて頂きます。

実は、此処には知って置かねばならない「ある一つの歴史観」があるのです。

上記の記述は正しいのです。

「法然の密教浄土宗」に対して「空海の真言密教」は違っているのです。
同時に、「最澄の天台宗の密教」も、両者の密教とは異なっているのです。

これが、平安期に起こった有名な「三者の密教論争」です。
「密教」とは何なのかです。

「密教性」を強固に主張したのが「法然の浄土宗」 ><「密教性」を柔軟に主張したのが「空海の真言宗」
この中間を行くのが、「最澄の天台宗」でした。

つまり、「神仏同源」を基の影響を受けている「法然の浄土密教」は如何なる場合も元は「自然神」にあり、全て「密教」でなくてはならないと主張。「基本派」です。
従って、「帰依する信徒」は「氏族」が限定されます。

ところが、然し、「空海」は、この影響を受けていませんので、「密教性」は自由であるべきだとする教義で、「帰依する信徒」は、「氏族」を除く「姓族の武士」と「一般の民」と成りました。
基本は「顕教」です。

ところが「最澄」は、「密教]である事は基本とするも、時には、「顕教」でも良いとする教義を説きました。
従って、「集団を形成しない貴族などの密教族」や、逆に、「密教性を持たない集団」を形成する忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)等の「官僚族や武力集団」が帰依する宗派と成りました。
つまり「密教族」と「顕教族」が混在する。

さて、そこで、「密教族」は、「大日如来」を守護神とする教義で、「大日如来」が「神仏の教え」を伝え、直接、この世に降りて伝え導く教義です。

ところが、「顕教族」は、「阿弥陀仏」を守護神として、その教えを間接的に「釈迦」が伝え導く教義です。

従って、真言宗は、「大日如来」を帰依する族と、「阿弥陀仏」を帰依する族が出て来るのです。
場合によっては天台宗にも出て来ることに成ります。

処で、この「浄土宗寺」は、江戸初期に「顕教令」により「顕教」に成りましたので信徒を失う事に成り、荒廃します。
そこで、「浄土宗寺」の多くは、江戸初期には「神仏同源」を止め、「真言宗」に宗派して維持しようとしました。

念の為に、「神仏同源」と明治期に起こる「神仏習合」とは異なります。

これがお家の疑問と成っている現象です。

>ぐるぐるとまわってしまいますが、
>これはあまりヒントにはならないでしょうか。

>本を読み進めて疑問になること・発見もありましたらここに載せさせて頂きます。

ご遠慮なくお尋ねください。