青木ルーツ掲示板
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  [No.1195] Re:峡中家歴鑑 続(巻の三)青木與兵衛忠秀
     投稿者:副管理人   投稿日:2021/09/29(Wed) 11:56:12

山梨の青木さん 今日は。
早速のお便り感謝します。

さて、今回のお便りから読み解く事が出来ることが幾つかあります。
「青木氏」には「伝統と云う情報の足跡」を残していますので、それから読み込めばちょっとした情報から判る事が実は多いのです。
「調査項目の1356」から凡その事で「二つの武田氏系青木氏」が持つその「経緯と歴史観」から読み取れます。
兎も角も、「信長の長篠の戦い前後の戦いの掃討作戦・記録」は歴史に遺る激しいものがあり、甲斐に遺る一族郎党を悉く調べ上げ全てを抹殺する程のものでした。
取り分け、特別の立場にいた「二つの武田氏系青木氏」は伝統がある為に隠す事が出来ず生き残る事は先ず無理であったと考えられます。
「家康」もこれには驚き密かに救い出した「青木氏」を含む優秀な武田氏家臣を隠すのに必死となり、それが三つの記録にも詳細に遺されています。

「二つの武田氏系青木氏」に付いては「青木氏」と云う「特殊な氏名姓名とその伝統」を持っていた事で、芋づる的に発見されていまして、近江の領域まで歴史に遺る広範囲に掃討を受けた事が判っていて、中には、妾と成っていた甲賀者の娘までも掃討を受けた資料も遺っていますが、幸いにこれも唯一に甲賀者が救い出した事が判っています。
ですから、甲斐には「二つの武田氏系青木氏」は全滅とされている事は先ず間違いは無いと思います。
恐らくは、甲斐に青木さんがいるとすれば、「第三青木氏」は別として「前のお便り」にも書きました通り明治維新後に女系で繋いできた者の内に「青木氏」を別に興して「甲斐」に戻した事が殆どと成るのです。
維新期前は「国抜け」で移動移住は出来ない掟なのです。
ですから、「前提の根拠の部分」が途切れますので異なる事に成るのです。
取り分け、この事で「宗教」が先ず異なる事に成るでしょう。

そこで1の「曹洞宗」ですが、この宗派は1365年以後の鎌倉期の事で、本格的には江戸期初期の1615年に寺院法度により永平寺と總持寺が大本山と成った遅い経緯を持っていて、これ故にこれ以前には「青木氏の歴史観」には一致しません。
確かに、禅宗派であり「浄土宗の大日如来からの悟り」を前提とする点では一致する事から「室町期末期」には浄土宗でありながらも得度を受ける「青木氏」も出ましたので否定できません。
本来、「時宗」は「武田氏系青木氏全氏」に執っては重要で「時宗の常光寺・元浄土宗」を本山とし、一遍上人を開祖としてその教えを基に、「南無阿弥陀仏」を前提とする浄土宗一門の流派です。
然し、この「甲斐」では信長に占領され、これを前提にして見つけ出されて掃討されたので、甲斐では明治以降で無いとされます。故に「時宗」はあり得ません。
結論としては、「曹洞宗」はその教えから庶民の信仰の対象とは成り得ませんでしたので、「曹洞宗」とすると「男系からの青木氏」ではなく、上記の明治以後の甲斐に移動した青木氏で無くてはあり得ない事に成ります。

3の過去帳の件ですが、曹洞宗寺の廃寺と成っているとの事ですが、この時期と場所を教えてください。
そもそも「過去帳」は「氏族」だけのもので、氏が「存続維持管理運営される独善の氏寺での事」です。
故に「過去の青木氏の先祖の履歴」が「系譜」の様に遺されているのです。
つまり其れだけの「氏の財力」を持っていた事に成ります。
この「曹洞宗」だとすると、禅宗であり、氏寺ではあり得ませんね。
「甲斐の青木氏」ははっきりとしていて「常光寺」が「氏寺」です。
確かに甲斐には「5つの常光寺」があり、一時は「主寺」は戦国期には廃寺には成りましたが宗派は「時宗」です。
元は浄土宗であったのですが、一族内で勢力争いの揉め事が起こり宗派替えをしました。
その後に甲斐の領主と成った「家康」に依って再建されていて、仮にお家が「甲斐武田氏系青木氏2氏」の一つの子孫であるとすると、この「5つの内の氏寺」の内にある筈で、其の内、「韮崎市清哲町青木」の「分寺の常光寺」が「分家支流祖卑属の族の氏寺」と成っていた筈です。
「宋宗本家」は「甲府の本山常光寺」です。
現在は氏寺は「江戸期初期の顕教令」で無くなりましたが墓所はそのままです。
ですから、「高遠にあるとする墓」は、5の「高遠の戦い」での戦死1545年と成るとしていると、この墓は「氏墓の菩提寺」の墓では無く、戦死者を合祀する「統一墓の合祀墓の事」で、ルーツを確定する墓所とはならないでしょう。
戦死した場合はその骨などの遺品を「韮崎の常光寺の氏寺」に葬ってもらうのが習わしですが、江戸期にはまだ流石に常光寺に戻す事は出来なかったでしょう。
ですから、高遠の此処は「氏寺の菩提寺」では無く、「武田氏系青木氏」はそもそも甲斐に「菩提寺」を持つ氏であって、高遠は「氏寺」ではありませんので、高遠には青木氏の先祖を物語るものは無い筈です。
但し、下記説の「娘の嫁ぎ先の家筋から青木氏を興した」とする場合の墓氏とすれば別です。
「曹洞宗」とする前提と「丸付き紋の前提」ではあり得るかもしれません。

“一番古い墓石は殆ど読めませんが、かすかに慶長と読めます。”とありますが

次はこの6の件ですが、“一番古い墓石は殆ど読めませんが、かすかに慶長と読めます。”ですが、何処の墓を以て言っているのかが良く判りません。
教えて下さい。
又、江戸末期の「慶長」とすると、「菩提寺」では無く、顕教寺である事に成ります。
それ故に青木氏とする場合は「韮崎の氏寺」では無いと考えますが、仮に「韮崎の常光寺の氏寺」であったとして、この情報には、庶民は墓を持つ事を許可なく一般にはできませんでした。
精々に木の「卒塔婆」でした。
従って、江戸期以前の墓は、そこで「武士の墓」は「砂岩」を前提として掟が定められていました。
それは土に帰るを「仏教の前提」としていた為で、明治以降に使われ始めた大理石の墓はまだ在りませんでした。
当然に刻まれた戒名などは消えて行く事に成ります。
「江戸末期の慶長」とすれば、1545年からすれば320年程度後に成りますので読めなく成る事は当然です。
この時は「曹洞宗」でした筈ですが、「江戸期前の伝統ある武士の墓」は,通常は「3つの段階」に分かれていて、先ず50年毎に隣の墓に移され最後150年後には最終は「先祖墓」と云う「三段構えの墓」に移されて葬られて行くシステムです。
中には累代の先祖の戒名を書き並べた先祖墓がある筈てす。
ですから「伝統」としては「墓の字」では読み取れないので「過去帳」を造り記録し「氏寺の菩提寺」に保管し、家では「曼陀羅帳」を掲げて祀ります。
「浄土宗系一門の宗派」ではこの「過去帳」を「氏寺」で持ちますが、浄土真宗などの「顕教」は「過去帳」は無く顕教なので持ちません。
「氏寺」では無く顕教寺の場合は「人別帳・税などに利用する一種の戸籍簿」です。
「顕教」とは誰でもが帰依する事が出来る寺の事で独善性はありません。
これを「菩提寺」では無く「檀家寺」と云います。
「曹洞宗」も禅宗ですが「浄土系」ですので「過去帳」も「墓所」も「永代供養の願い込み」をすれば持ち得る事は可能ですが、代々に於いて「財力」が無いと出来ない事に成ります。
取り分け「曹洞宗」はその傾向にあります。
従って、「曹洞宗」であり、且つ、「高遠の戦い」でお家の先祖とする当主が戦死したと成れば、先祖の履歴を追い求める事は出来ないのでは無いかと思います。
つまり、仮に「韮崎の常光寺」で無いとすると、先祖を追い求める事は無理では無いかと思えます。
従って、「二つの武田氏系青木氏」の「男系子孫」であるかは「曹洞宗」である限り難しいものと考えます。

筆者は、そこでこれらの事から次の様に考えます。
上記した「高遠で戦死した事」で、「女系の出自の者・嫁に行っていた娘の家筋」が、その家の「男子の子供に青木氏を興させて継がせた事」に成ったのでは無いかと思います。
お家が云う墓の事は、この「女系の出自の者・嫁に行っていた娘の家筋」のものか、「男子の子供に青木氏を興させて継がせた事」の墓ではないでしょうか。
だから、「曹洞宗」であって、その後の「別の国」に住んでいて「信長の厳しい執拗で徹底した長期間の掃討作戦」でも生き延びられたのではないでしょうか。
この「織田氏の勢力の及ぶ範囲」に掃討作戦は長期間に専門隊を編成して、期間は「信長甲府凱旋」まで続いたとされています。
だから、伝統の最たる「家紋」でも掃討される筈ですが、「別の国説・娘らの嫁ぎ先の国」で「分家筋や支流族が使う丸付き紋」の「二つの武田氏系青木氏」の「三階菱紋」であったのでは無いかと思います。
然し、何処にいても「丸に三階菱紋」は信長の勢力の届くところでは無理で会った筈です。
少なくとも室町末期間での青木氏と曹洞宗と三階菱紋の使用は無理であったでしょう。
当主が高遠での戦士と成れば、「戦い」では一族の大きさに課せられた人数を集めなくてはならないので、治めている領地の村の農民の次男三男も駆り出し、当時は男子15歳で戦士として当主と共に戦いに出ます。
当時は「1騎2将50兵100傭兵の原則」であったので、恐らくは最低で300から400の数に成っていたので村ごと戦いに出た筈です。
甲斐武田氏系青木氏であれば「1騎」と云う事はあり得ないので「2騎」であればこの倍はあり当主と共に戦死した事に成ります。
「甲斐の「青木氏の領地」では、「山梨郡、八代郡、南北巨摩郡、南北都留郡の4郡」が設置されていて、最大時は南北の巨摩郡と甲府の中央と等5郡が領地であったとされていますので、最大でも「二つの武田氏系青木氏」では2騎の1000には成っていたと考えられます。軍議にも参加できる資格を持ちます。
従って、当主が戦死するとなると「跡目を継がせる男子」は全く無くなり遺された幼い子供の者も掃討作戦で無くなっている筈ですから、「嫁の嫁ぎ先からも男子を建てる事」は相当無理で、出来る限りは別の国に嫁がせるのは戦国時代は通常でした。
そうすれば「曹洞宗との矛盾」は解けます。

“また私の家の屋号は門口村と呼ばれております。現在の家の場所が一条氏館跡の正門があった場所に家を作ったからだそうです。”の件ですが、
つまり「一条信龍」は「武田信虎の八男」で「信玄」とは異母兄弟の事ですね。
この屋号は何時からの事でしょうか。
恐らくは「明治後の事」に成ると思いますが、こんな良い場所に家を建てられたとすると「青木氏」を興せるくらいの財が在った事に成りますね。
つまりは、上記の説も含めて「商人の可能性」がありますし、だとすれば「掃討作戦」から逃れられます。
だとすると、何故に「5つの常光寺」に、取り分け「韮崎の常光寺」か「甲府の常光寺」に「甲斐の青木氏」として辿り着かなかったのでしょうか。大いなる疑問です。
「時光系の武田氏系青木氏」であれば判っていた筈ですよね。
これは「丸付き紋」を使った「嫁の嫁ぎ先筋の曹洞宗の青木氏・女系族・支流卑属」を興したからではなかったとも考えられますが。
故に「氏寺」では無いとしていたからでしょう。
そうでなければ、普通は先祖が祭られている「韮崎の常光寺」に行くでしょうし、忘れると云う事には成らないでしょう。

さて「甲斐」は別にして、奈良期より「筆者等の伊勢と信濃の賜姓青木氏」は発祥の元来より「直系女系族で繋ぐ青木氏」です。
「女系族」を主流としてその中から代々跡目の男子を4人選び、四家を構成し、「四掟」と云う決められた範囲で「娘の嫁ぎ先」から「別の血筋」を入れて再び血で繋がる娘を取る「戻し方式」です。
仮に、「甲斐」でもこの上記の説が正しければ、この「女系方式」を一部で執っていた事が裏付けられます。
まだ記録は見つかっていませんがあり得る事です。
「甲斐の賜姓源光系青木氏」はこの女系制度を採っていた可能性が強いのですが、何せ嵯峨期よりほかの「四家の賜姓青木氏」との付き合いが全く無かった事から記録が見つからないのです。

それは「室町期の戦国時代」と「武田氏の壊滅的滅亡」で男子が壊滅的に無くなった事にあり、取り分け「二つの武田氏系青木氏」は上記の「掃討作戦」もあって男子のみならず子孫全体が壊滅しました。
ですから必然的に戦いに参加しなかった「娘の嫁ぎ先子孫の男子・出来るだけ遠くで、商人など」に密かに「青木氏」をほとぼりを覚めてから興させるしかなかったのです。
他の徳川氏等に味方したり「秀郷流青木氏」を頼って助かった「武田氏の血筋」を持つ「青木氏からの養子跡目の件」は、「賜姓源光系青木氏」を含み記録から観て犬猿の仲であった様で無かった様です。

因みに、生態学からこの「女系制度」は遺伝的に叶っていて、「人間の種の遺伝情報」は全て女性に依って引き継がれるのです。
娘から娘へと引き継いで行くのです。
つまり、人間は女性から生まれ男性を目的に応じて変化させたものなのです。ミミズやカタツムリの様にです。
その証拠が元女性であった事の証拠が男性に不必要な4つの器官が遺されています。
故に女系で繋ぐ制度は理にかなっている事に成ります。
5家5流は古来より記録に遺る長寿派で長寿にもなる理屈と成ります。
最後まで生き遺った「皇族臣下族の賜姓族の伊勢と信濃の青木氏」は古来よりこの「女系制度」を敷いて生き残りました。

因みに、「源光系青木氏」は甲斐の北巨摩郡の山奥で小さい村で生き延びていたのですが、信長甲府凱旋のおりに道端に皇族賜姓族として朝廷礼儀を正し白馬に載り白服の正装で出迎えたのですが、これを観た信長が怒り自ら馬から降りて心頭し引きづりおろしてまだ掃討したのに子孫遺していたとして死ぬほどに打ちのめしたのですが、家臣が何とか制して一難を得てた事が信頼できる記録として遺されています。
其の後は徳川氏に匿われて北巨摩郡の山奥に逃げ延びて隠れ住んでいて、明治まで子孫が生き延びた事が判っています。

この様な歴史観の1356から「上記の女系説」が生まれますが、247が判れば当時の戦国時代の武士の家では殆どであった「上記の女系説」が確定する筈です。
殆どは明治初期ですが、その後に安定した時点、つまり江戸期と明治初期の2期で「時光系青木氏」の正式な「青木氏の家紋や宗派や伝統」などは戻せませんが系統としては何時か男子に戻せばよい訳です。

抑々、「菱紋」は100紋あり、この内、主な青木氏を含む「武田氏系列の菱紋」は10紋あり、「三階菱紋」とその「分家支流族と卑属」が使うとされる「丸付き紋」もこの中にあります。
この上記の歴史観と家紋分析などの資料と江戸期に出された「国抜け」などの「当時の禁令」から明治初期では無いかと考えます。
そうでないとすると、甲斐でどの藩に仕えていたのかです。

つまり、「二つの武田氏系青木氏」が仮に生き抜けていたとして「甲斐」でどの様に生き抜いたのかですか、無理であった事が歴史的に判っています。
長篠等の戦いで信長の3000丁の弾幕で無力の武田家臣は試し撃ちの様に戦死者の原を造ったとされ15000人中の内500人程度を勝頼の護衛兵で生き残ったと云われ最終信濃に着いた時には50人程度と成っていたと両軍の記録が一致する様に複数遺されています。
全滅覚悟の「重臣全てが別れの盃の宴」を躱した事が残されています。
武田氏家臣は元よりその一族郎党は捕まり斬罪を受けた事が記録に在ります。
生き残る事は銃弾の弾幕の前と掃討作戦では少なくとも「二つの武田氏系青木氏の子孫」は絶対に無理で会ったでしょう。

前回のお便りの通り「家康の家臣と成って救われた甲斐の青木氏」では無くては生き抜けられなかったのです。
恐らくはこれ以外には可能なのは他国での武士出身の商人であったと観ています。
江戸期初期までは殆どと云っていい程は「武士出の商人」でした.
これらは「維新戸籍簿」で判りますよ。
江戸初期であれば、「家臣、媒臣、陪臣」などを問わず全武士は「国印状」を幕府や藩主から受けねばなりませんから難しい事だと思います。
国印状は伝わっていますか。無いと思います
勝手な移住も「国抜け制度」で禁令ですので藩に届けでないと無宿者の犯罪者になります。

今回のお便りから歴史観として少なくとも上記の事が読み取れます。

新しいちょっとした情報でも結構ですがお便りください。
意外と判る事が多いのでお待ちしています。



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