茨城の長嶋さん 今日は。始めまして。
藤原秀郷綜紋 下がり藤紋
よく本サイトにお越し頂きました。これからも宜しくお願いします。
長嶋さんは茨城の県南にお住まいとか。 家紋は「丸に桔梗紋」とのことですが、既に本サイトの何れかのレポートをお読みではと思いますので、詳細な所は藤原秀郷一門関係のレポートをお読みください。
提供されました情報が少ないので、家紋だけでの検証と成ります。 ルーツを探る手がかりとしては家紋は大変重要ですが、もし他に何か、ちょっとした先祖のこと等が聞き及びしている事、又、遺されているものなどありましたらお聞かせください。 今と違い当時のご先祖の時代は氏家制度のなかですのでほんの一寸した事が大きな手がかりに成ります。
さて、結論から申し上げると、藤原秀郷流永嶋氏です。
永嶋氏は殆ど藤原秀郷流青木氏とはルーツが同じです。 全くの親族です。 本サイトは青木氏のサイトですが、永嶋氏のサイトと全く同じ経緯を持っています。 つまり、内容は殆ど一致します。それ程にこの永嶋氏とは非常に親密に親戚付き合いをしていました。 その事も青木氏のところで永嶋氏とは「親戚」であるとレポートしてます。 全国の青木さんもこれらのレポートを読んで居られますので同様に「親戚」と思っています。 そして、お家が住んでおられる茨城、埼玉、栃木、群馬、千葉には埼玉入間を中心に横浜神奈川を半径として円状に取り囲んでいまして、一門を守る為に固く同族血縁を繰り返していた青木氏が定住しています。 青木氏は秀郷一門宗家が貴族に成りましたので武力を使えません。そこで青木氏がその宗家の護衛役を担っていたのです。 この方たちとは戦国の室町期末期までお家の付近に居られる青木さんとはスクラムを組んで深くご親類で付き合いをしていました。
しかし、永嶋氏や長沼氏の方の研究レポートが社会の中に少ないのでそれが伝わっていません。 そこで、本サイトはこれ等の情報を全国発信した訳です。「青木氏氏ブログ」を通じて。 ”親戚の皆さん集まってください。”と、幸い青木サイトが藤原秀郷流一門サイトを構成していますので企画しましたが、”出来うる事ならばコミニュケーション致しましょう”と。
ここで、お家のところに戻りますと、「永嶋氏」と書きましたが、「長嶋氏」も同じです。ただし、この永嶋氏は「二つの流」が出来ております。 「結城氏系永嶋氏」は判別する為に、一門は結城氏系は最初は酒井氏を名乗り、後に「長嶋氏」としました。 もうひとつの永嶋氏は「佐野氏系永嶋氏」です。 つまり、親類が二つの流れを作ったということです。 正しくは、「秀郷流兼光系結城氏系長嶋氏」が正しくその長嶋氏(永嶋氏)の主流と成りました。
そこで、結城氏は藤原秀郷の8代目(5世)の子孫で「藤原朝光」と云う者が居りました。 この者は下総の「結城」と言うところがありますが、ここを領地としていました。常陸の「結城」付近までその勢力を張っていました。 ところが32/66国の大勢力の平家に乗っ取られてしまいました。 この宗家の朝光は何とかして取り戻そうとして頑張りました。ところが、源の頼朝が鎌倉幕府を樹立する時に朝廷に仕えていた秀郷一門が離散失職してしまいした。 しかし、その逆境を跳ね除けて朝光は大変に頼朝に合力し、幕府の本領安堵策(昔の領地を取り戻す権利)で結城を取り戻したのです。 そして、この時改めて秀郷一門の判別の為に「結城氏」を名乗りました。 その後、酒井、長嶋と変名し、一部の親族は結城氏、酒井氏を名乗り遺します。
そこで子孫は、藤原秀郷一門24氏の中でも、「第2の宗家」であった青木氏と緊密な同族血縁関係を構築し「関東屋形」と呼ばれるほどに勢力を得て秀郷一門主要5氏の中に入りました。 そして、この時、同じ秀郷一門の佐野氏の流れを強く汲む「永嶋氏」と、結城氏の流を汲む「長嶋氏」とに分かれました。
お家は、この「結城氏系長嶋氏」です。 そこで、この結城氏系長嶋氏は室町期に二つに分流します。 一つは陸奥の白河の結城氏系長嶋氏です。 陸奥は元藤原秀郷の一門の代々の「鎮守府将軍」としての土地柄です。ところが渡来系阿多倍一門(京平家 平清盛の先祖)に奪い取られてしまいます。 そこで、結城氏長嶋氏はこの旧来の土地を取り戻します。そして、兄弟の一人に陸奥を護らせました。
お家は兄の系列の本家「下総結城氏長嶋氏」です。 茨城、千葉に分布しますので、県南付近に江戸期前の昔から住んで居られるのであればこの真にこのルーツです。 そこで、永嶋氏(長嶋氏)は34の家紋を持っていますが、つまり、子孫末裔が34氏に広がっていることですが、なかでも「丸に桔梗紋」は永嶋氏の中でも主要氏です。 この桔梗紋は美濃の大豪族土岐氏の家紋ですが、美濃は後にお家の結城氏系長嶋氏の最大勢力地に成りました。 この土岐氏の分家(丸付き紋)との血縁をしました。 本来はお家は藤原秀郷一門の朝光を元祖としていますので綜紋は「下がり藤紋」です。 しかし、お家のご先祖のどこかで、男の跡目に恵まれず娘に土岐氏分家から養子をとりました。しかし、この夫婦にも男系に恵まれず、結果は氏家制度に基づく「家紋掟」により男子側の養子先の家紋と成ったのです。 もし、ここで、養子に男子に恵まれていた場合は元の家紋(下がり藤紋)に戻る事に成りますが、2代続きで女系となり恵まれなかった事を意味します。 しかし、信濃、桔梗紋、茨城県南の常陸結城の土地柄、長嶋姓、下総結城から条件が一致しますので、それらから観て、総宗本家の藤原秀郷一門としての「永嶋氏」流の中の「長嶋氏」の本家としては、氏家制度の中では上位に居たと考えられます。 と言う事は青木氏と更なる親類付き合いをしていたことを意味します。
この事から、お家のご先祖は、平安末期に永嶋氏を発祥させた時期から考えても、朝光が結城永嶋氏を発祥させた時期は1190年頃としますと、室町期初期に滅亡した土岐氏との血縁が出来る時期としても、又更に、家紋が桔梗紋である事としても、朝光が平家に領地を奪われている間は下野と常陸付近に居ました時期としても、考え合わせると、朝光より直ぐ後の朝光より2ー3代後のところの長嶋氏と考えられます。
そうすると、朝光の孫の廣綱と祐廣の兄弟の時期と成ります。 (祐廣は陸奥白河の結城氏系長嶋氏になる)
多分、兄の廣綱の直系子孫です。 丁度、長嶋氏が勢力を盛り返してきた時期で、下総結城を兄(兄の一族は剣片喰紋 左三つ巴紋になる)に任して、祖父の居た常陸結城を守る為に配置されたその末裔(丸に桔梗紋)である事に成ります。
実は私の研究史からは長嶋氏=青木氏=長沼氏とも考えているのです。 ご先祖がどのように生きてきたかの「生き様」は青木氏と殆ど同じです。 その違いは「藤原秀郷主要5氏と家紋の研究」レポートで詳しく解説しています。 「藤原秀郷一門の生き方」(1-13)等のレポートがありますので参照して下さい。
青木では詳しく「生き様」などの史実に基づき色々と史料を提供していますので同じとしてお読みください。 更に詳しく長嶋氏の事も記述しています。
この結城氏系長嶋氏ルーツに関しての更なるルーツについては情報が有りませんので、ここまでです。
詳しくは本サイトの「青木氏氏 研究室」の秀郷一門のレポートを選んでお読みください。
当然、不明点やご質問等が出てきますのでそこから更に検証いたしましょう。
ですから、青木氏と同じく自分のサイトと思われて、情報やご質問ご不明点など有りましたらご遠慮なくお尋ねください。 自分のサイトとしてお使いください。 青木サイトというよりは藤原秀郷一門主要5氏サイトともいえますね。
念のため、系譜概容を添付いたします。 秀郷(藤原鎌足より8代目 最大勢力の北家一門)-千常-文脩-兼光-頼行*-兼行-成行-家綱-有綱-基綱-景綱-秀綱-行政*-行長(初代の永嶋氏発祥 その後、佐野永嶋氏になる)
頼行*-行尊-行政*-政光-朝光(結城長嶋氏発祥)-*-廣綱(お家の長嶋氏) (注意 重複する血縁により同一人物が別ルートに出て来る)
基綱の佐野氏からも血縁で佐野氏系永嶋氏を発祥する。 (重複血縁で永嶋氏の血筋を継ぐ)
参考 青木氏は千常(長男)の兄弟(3男)始祖として代々秀郷総宗本家から「宗家第3子跡目の掟」により跡目を入れて家と純血を守る為に「第2の宗家」として活躍した。 主要5氏は相互に同族血縁関係を繰り返していた。
「行政」と従兄弟関係にあった「行久」も青木氏跡目に入る。
史実保存の意味からもご親類やお知り合いの方々にもお伝えください。 本サイトはご親類として充分に対応させていただきます。 この青木サイトには秀郷一門以外の青木氏以外の方々も多く投稿されていますよ。
「青木ルーツ掲示板」には茨城、栃木、千葉付近のご親類付き合いをしていたはずの青木さんからの多くのお便りがありますので、これもご参考ください。
元は藤原秀郷流青木氏と親族で同族です。 4代目の文行系と兼光系があり、長嶋氏は兼光系です。 藤原秀郷一門の事に付いては本サイトに詳しくレポートしていますのでご参照ください。 大変長く詳細なレポートですので、少しづつ楽しんでゆっくりとお読みください。
では、お便りをここからお待ちしています。
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