青木ルーツ掲示板
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  [No.472] Re: 青木姓ではありませんが。(長嶋氏)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/03/01(Sun) 22:36:40

長嶋さん 今日は。

早速のお便りありがとう御座います。

さて、お便りによりますと大事な情報が5つあります。
一つは一番古いご先祖は文政の頃(1820年頃) 儀左衛門さんとの事。
二つは貴方は14代目である事。
三つは近所に土岐氏が居る事。
四つは常陸の河内(千葉県隣接地)である事。
五つは天台宗である事。
六つはお百姓では?との事。

先ず、先に、六つ目から。
百姓でありますと、文政の頃の「儀左衛門」を確認する事は出来ません。
というのは、農民であるとすると戸籍を持ちません。
封建社会の中、当時はある一定の身分以上で無いと菩提寺で過去帳に乗せません。
昔は戸籍は寺が担っていまして、過去帳が帳簿になるのです。
そして、庄屋、名主、郷士、郷氏、豪農、中級以上の武士階級が過去帳に乗せます。
庄屋、名主、豪農、郷士、郷氏、は殆どは元は武士です。
鎌倉幕府で藤原秀郷一門は失職離散した時に武士を捨て豪農の農民になりました。

次に、一つ目は「儀左衛門」の名前ですが、当時は普通の農民はこの様な名前を使いません。
「左衛門」は藤原秀郷一門の氏か皇族賜姓青木氏以外には使わないのです。特に文政の頃以前では。
「儀左衛門」を確認出来る事は普通の農民ではありません。
少なくとも、武士の証拠が確認できないのであれば、庄屋、名主、豪農、郷士、郷氏、のいずれかです。
この5つはもとより武士ですので「苗字と帯刀と家紋」を許されます。
「左衛門」は宮廷の左門を守っていた近衛兵の官職です。
藤原秀郷一門はこの官職に代々着いていました。このことは本サイトでレポートしています。
「藤原秀郷の官位と官職..」です。
江戸中期以降は中級武士以上は高額の金品で一代限りの官職名を天皇家から買いました。

次ぎに二つ目は14代目ですと、文政以前の歴史を持っている事に成ります。また、農民は上記しましたように過去帳に乗りませんので代目がわからないのが普通です。
14代目だとすると普通では550年位前後に成りますので、室町中期前後と成ります。
つまり、お家の長嶋氏の発祥期付近と成ります。
そもそも14代目であると、文政より190年も前に成ります。
従って、お家の本家筋の菩提寺の過去帳をお調べになる事です。
14代目というように代が判っているとすると、本家筋であるかの可能性があります。
本家で無いとすると、現在のお寺では出ないことが考えられます。本家の菩提寺です。
この本家の菩提寺は多分、浄土宗と思われます。茨城には浄土宗のお寺がありますのでご本家の菩提寺は見つかると思います。ただ、下克上と戦国時代で消失していることもあります。
現在の天台宗のお寺をお調べになり、ご本家筋の居所をお調べになる事をお勧めします。
多分、河内の浄土宗寺を先ず確認する必要がありますね。それから常陸結城市の付近の浄土宗寺と成ります。

次ぎに三つ目は土岐氏の家臣が土着した時期を江戸期としていますが、普通、余程のことが無いと「国抜け」と云って勝手に国を移ることは今と違って許しが無い限り「掟」で出来ないのです。
土岐氏は室町前期に完全滅亡していますので、一族の末孫が密かに逃げ延びた事に成ります。
もし、そうであると、その土地の者が許しません。その状態が出来るのは戦国時代の混乱期のころの室町中期前後と成ります。当然に逃亡者一族には過去帳は有りませんし、農民になる事に成ります。
それでも土岐氏の者達の一族が移動するのですから、可能なのは縁者親族を頼って匿われたことが考えられます。歴史上この事例は大変多くあります。青木氏でも起こっています。
そこで、この多分一族は美濃土岐氏の分家筋で縁者の長嶋氏を密かに頼った事に成ります。
ここでもその土岐氏とは時代性がほぼ一致しています。

次ぎに四つ目は常陸の河内ですが、下総結城から常陸結城の間の上総との国境です。
この河内文政のころからに長く住んでおられたとすると、結城市系長嶋氏の定住範囲の真ん中にありますので十分な証拠と成ります。
武士であった証拠は河内の明治維新の役所の戸籍簿に「士分」とか枯れていれば武士である事、もしかかれてなく「平民」と書かれていれば、庄屋、名主、地主、豪農、郷士、の可能性があります。
本家筋の菩提寺を確認される事をお伝えします。
14代目と言われているのであれば、何らかのこれ等の身分を示すものが遺されている可能性があります。場合に依っては本家筋にある筈です。農民であれば過去帳は有りませんので14代と計算する出来る事は先ず有りません。もとより農民には氏姓がないのですから過去帳は無理です。(人別帳です)

次ぎに五つ目は宗派ですが、上記しましたように本来は浄土宗ですが、江戸中期以降分家して移動で天台宗に宗変えする事もあります。しかし、天台宗は関西地方が主に成りますので、関東で天台宗であるとすると農民ではなく、武士の可能性が高く成ります。封建社会の中で天台宗は江戸初期までは武士の入信の宗派でした。農民は一部の浄土真宗や日蓮宗系列等です。
この天台宗か浄土宗のどちらかになると思いますが、御家が現在天台宗とすると、多分、元は浄土宗でしょう。もし、本家筋が浄土宗とすると、藤原秀郷一門の可能性がより高く成ります。
御家が本家筋とすると、赴任地で天台宗に入信した事が考えられます。
藤原秀郷一門一族は本来は浄土宗ですが、平安時代各地に赴任して末裔を遺してきましたので、浄土宗は特定の身分回帰優の者が入る為に限定された場所にしかなく、仕方なく、天台宗に入信しました。
徳川時代の初期に浄土宗を奨励しました。しかし、矢張り、中級以上の身分階級の武士しか入信する事は有りませんでした。明治にはいってから多くなったのです。

この二つの宗派のどちらかです。
天台宗である事が普通の農民でなかったことを示します。
農民になってもでも、先祖伝来の宗派を変えることは余程のことが無い限りしませんので天台宗を維持したものと考えます。藤原氏の赴任地から移動し戻った時も天台宗を維持したと考えられます。
というのも、長嶋氏の青木氏の補助役的に赴任地に護衛役として移動しています。伊勢長嶋までの域まで長嶋氏は赴任地に子孫を遺してきました。各地に大変多い長嶋の地名はこのことから来ています。
北九州にもありますょ。

これ等六つを考えても、藤原秀郷一門の条件は外れてはいません。

お調べになるときは、上記の時代の諸条件事を確認してください。氏家制度の封建社会での常識を先ず認識されて、現在の常識とは異なっています事をご理解ください。

例えば国抜け、宗派、名、身分、時代性、戦国時代の常識などを考えてお調べに成る事です。

なかなか、これ等の常識は余程マニアでなければ判らない事ですので、ご不明点はご質問ください。
又系譜などをお考えになる場合にも知っておか無ければならない常識がありますのでご注意ください。
本サイトにはこの様な常識がレポート中に多く出てきますので参考にされてお読みください。

では上記参考にされて、お調べください。

お便りを心からお待ちしています。



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