青木ルーツ掲示板
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  [No.635] 青木姓ではありませんが「伊早坂」です。
     投稿者:伊早坂 正美   投稿日:2009/10/17(Sat) 01:23:10

青木姓ではありませんがお尋ねいたします。

 はじめまして、群馬県高崎市の「伊早坂(イハヤサカ)」と申します。私の苗字は希少姓とされ、他界した父はルーツを知りたいと云いながらも病魔に倒れ、願いを果たすことなく死去いたしました。私自身還暦を迎え、子孫のためにも今の内にルーツを探しておこうと祖先探しを始めてみたのですが、未だにルーツも何も分からず寂しい思いをしています。
 
代々の生家は現在の富岡市一ノ宮町字本町(旧 北甘楽郡一ノ宮町大字一ノ宮甲)に在り、上野国一ノ宮貫前神社の鎮座する蓬が丘の斜面下に位置し、上州と信濃を結ぶ姫街道(現在の国道245号旧道)に面しています。
 
現在、遡って取得出来る閉鎖謄本には高祖父にあたる前戸主、長五郎と書かれ、隣村・宮崎村の伊早坂家より嘉永元年に長女(天保3年6月出生)が嫁してきており、その頃の住所は北甘楽郡一ノ宮町大字一ノ宮町213番地、現在の上州一ノ宮駅附近にあたるところです。
 
曾祖父、鉄五郎(慶應元年11月生)、祖父、初太郎(明治24年10月生)共にこの住所に生まれ、家督相続をしています。
 
曾祖父、鉄五郎の代、明治期に鉄道(現在の上信電鉄)の駅舎が敷設されたため、所有地内の現在地(一ノ宮町大字一ノ宮甲)に移転したものと聞いています。
 ここが、父と私の生家、姫街道(信州街道)に面した庭先には寛永年間に建立されたと伝わる「勲五等抜鉾大明神」「八宮大明神」と刻まれた高さ3m程の富士形の石積の上に三段の基壇があり、その上に1mほどの石祠が乗っており、基壇は五両と十両とに分けられ、それぞれ無数の名が刻まれていますが、風化が進み判読は出来ません。この石祠は現在も生家の庭先に立っています。
 
生家の古い母屋の入口の上には木剣が掛けられ、その下にはしめ縄、横には柊と鰯で組み合わされた鬼祓いが刺してあり、裏庭の奥には沢山の石祠が並んでおりました。
 
使用家紋は定紋に「丸に隅立て四つ目」、替紋に「丸に花菱」と「丸に違い鷹の羽」が伝わっています。
 
生家の仏壇の前には三つの家紋が並んでおり、納屋の奥には黒い木箱の中に朽ち果てた甲冑とボロボロの刀があり、私と弟が抜こうとしても抜けず、甲冑は触ると糸がグズグスに切れてしまいました。兜の前立は丸型のものがついていたと記憶しています。
祖父他界の折、大叔父が持ち帰ったと聞いていますが、現在の所在は不明です。

代々の墓地は一ノ宮貫前神社東参道大鳥居の近く、交差点角に位置し、お寺は富岡市宇田にあります曹洞宗宇田山神守寺。
 
この神守寺は慶長2年(1597)、宮崎城の奥平信昌により建立され、檀家の多くは古い時代に貫前神社の神官をしていた方々の子孫と聞いています。
 
なお、この奥平氏は甘楽郡吉井町奥平の発祥で、甘楽郡甘楽町小幡発祥の小幡氏と同族とされています。
 
文書類については、天明の大火災で一ノ宮全体の記録を失い、神守寺は江戸期と昭和初期の二度の火災で過去帳も失い、我が家の記録も昭和初期の貫前神社の丘麓の土砂崩れにより離屋数棟と母屋の半分以上を失い、すべて流失してしまっています。
 
この変わった姓のルーツを探ろうと、多くの姓氏家系に関する書籍を買い集め、またWebにて様々の検索をして参りましたが、ほとんどの場合、群馬県富岡市発祥か?姓氏未詳とあります。
 
太田亨博士の「姓氏家系大辞典」には「信濃にみえる」とあり、また、郷土史家の萩原進氏の著「上州の苗字と家紋」には、群馬の難姓・希少姓のひとつとして富岡市発祥の苗字であると書かれています。
 
子供の頃、大叔母より貫前神社に縁が深く、一ノ宮から西へ1キロ程の所、富岡市七日市にあります七日市前田藩とも縁があったと聞いていましたが、「難しいから大人になったら教えてあげるよ」と云われながらも、教えてもらうことなく他界されてしまいました。
 
群馬大学名誉教授 山田武磨氏の著「上州の諸藩」上巻の中で七日市前田藩についての記録が書かれており、元和2年(1616)前田利家の五男利孝が入封し藩祖となりますが、初代利孝の初代家老職四名と書かれ、齋藤権兵衛、藤井作右衛門、伊坂荘兵衛、大里半右衛門 が記されていますが、二代利意の時より、保坂庄兵衛、保坂茂左衛門、野尻彦右衛門(のち内藤)、鳥居金平の四名となり、これ以後の家老職は同じ家から出ている。と書かれています。
 
郷土史家 今井幹夫氏も同じ内容を用いて七日市藩の説明をしています。
 
ですが、初代の伊坂荘兵衛と伊早坂の間に関係があるのかどうかは分かりませんし、貫前神社との関係も分からなくなっています。
 
ただ、前述しましたように貫前神社の旧名である抜鉾神社の神を祀る祠が生家の庭にあるのは事実で、江戸時代には、祭祀が行われていたことが群馬県古文書目録の記録に見えます。
 
上野国甘楽郡一ノ宮周辺の歴史を見てみますと、
古い時代、信濃・上野・下野・常陸あたりには出雲神族・物部族・渡来族が多く移り住み中臣氏・藤原氏などの氏族も栄えていました。
 
たとえば上野国物部氏の分布を見てみますと、
物部君万呂 木簡学会『木簡研究』4-14頁-3(10)(奈良国立文化財研究所『平城宮発掘調査出土木簡概報』15-24上(136))
上野国甘楽郡 物部蜷淵 続日本紀天平神護元年十一月戊午
上野国甘楽郡 磯部牛麻呂等四人…賜姓物部公 続日本紀天平神護二年五月甲戌
上野国群馬郡下賛郷 物部君午足、蹄刀自、乙蹄刀自 金井沢碑(神亀三年二月高田里知識碑)
上野国緑野郡小野郷 物部鳥麻呂 奈良国立文化財研究所『平城宮木簡』2-2781(奈良国立文化財研究所『平城宮発掘調査出土木簡概報』3-10下(185))
と記録があり上野国甘楽郡一帯は渡来系氏族、物部姓磯部氏族、物部姓石上氏族の多い地域でした。
 
一ノ宮貫前神社には、俵藤太が平将門を討伐する際、手植えをしたと伝わる神木が残されています。

【貫前神社御由緒】社伝には鷺宮(さぎのみや:現在の安中市)に物部姓磯部氏が、氏神である経津主神を祀り、その鷺宮の南方、蓬ヶ丘綾女谷(よもぎがおか・あやめがたに:当地の古い呼称)に社を定めたのが安閑天皇の元年(531年)と云われ、これが創建にあたります。また、天武天皇の時代に初の奉幣(ほうべい)がありました。
 奉幣とは天皇の命により神社に幣帛を奉ることで、当時遠く奈良の都にまで貫前神社の存在が知られていたと云えます。
 醍醐天皇の時代に編纂の始まった『延喜式』のなかの『神名帳』にも記載され、上野国一之宮として朝野をとわず崇敬をあつめてきました。旧社格は国幣中社。と書かれ
 
【鷺宮・咲前神社御由緒】(さぎのみや・さきさきじんじゃ)社伝には、当鎮座地は神代、経津主大神(ふつぬしのおおかみ)が健御名方神(たけみなかたのかみ)を追って上野国と信濃国の国境の荒船山に御出陣の時の行在地であると伝わる。
 安閑天皇元年(534)6月、初の申の日に神石「雷斧石」三柱の御出現を仰ぎ、時の朝廷に上奏したところ、奉幣使、磯部朝臣小倉季氏と共に高椅貞長、峯越旧敬を伴い上毛野国に御下向があり、抜鉾(ぬきほこ)大神「健経津主命」をお祀りし、社を建てられた。
 それ以後、磯部朝臣が祭司を司った。敏達天皇元年(572)、第3代磯部朝臣小倉邦祝は磯部郷小崎の里に居を構え、以降小崎を名乗る。
 白鳳元年(650)、第11代小崎邦平は、神託により抜鉾大神を神楽の郡(甘楽郡)蓬丘綾女谷(一ノ宮の古称)に御遷座する。
 供奉の道筋では、七五三原(しめきはら)でまず神事があり、明戸坂で夜明けがあり、宇田(宇多)で御旅所となり御遷宮された。現在の一之宮貫前神社である。
 磯部郷前宮(さきのみや)跡は、先の宮として崇め咲前神社が祀られた。この時改めて香取神宮より経津主大神を勧請し大己貴命(おおなむちのみこと)、保食命(うけもちのみこと)が祀られた。以後の祭祀を藤原姓和太氏が司る。
 平安朝後期に成立したと思われる『上野国神名帳』には、「碓氷郡 従五位上咲前明神」と記され、ご分霊として「片岡郡従五位上咲前明神」が見える。
 室町期には、応永8年(1401)1月7日、足利満兼により新田庄平塚郷一町が寄進されている。 とあり、
 
6世紀後半、仏教受容をめぐって新興勢力蘇我氏は仏教を掲げ、それに古神道を掲げる物部氏、三輪氏、中臣氏(物部一族)が対抗し敗北、その物部氏の東方移住に伴い咲前神社と貫前神社が創建されたとあります。
 
群馬大学名誉教授 尾崎吉左雄 著「群馬の地名」によりますと蓬ケ丘には抜鉾神より先に貫前神が祀られており、その後、同地綾女谷に鷺宮から遷宮をされた抜鉾神が北向きに祀られ、後に二社二神を祀る貫前神社となるとあります。
 
明治以降、貫前神社は御祭神を「経津主神」(ふつぬしのかみ)と「姫大神」(ひめおおかみ)の二社二神としています。
 
神社名も平安期は貫前神社、それ以降江戸末期までは抜鉾神社、明治に入り貫前神社とされてきています。
 
鷺宮・咲前神社と一ノ宮貫前神社は4Km程しか離れていなく、物部姓磯部氏が抜鉾大神をお祀りし、後に近江・宇多源氏佐々木氏棟梁である佐々木秀義の三男、佐々木三郎盛綱(加地盛綱)が磯部・鷺宮に居城を定め、子孫は、磯部佐々木氏・加地佐々木氏・小崎(尾崎)佐々木氏を名乗り、祭司にあたるとあり、その家紋は三ツ目結・四ツ目結。

石部(磯部)氏は、天智天皇が近江に遷都する際、その世話をした功績で「沙々貴・ささき」の姓を賜ったと「沙々貴神社」の社伝は伝えている。これが後に宇多源氏佐々木氏を名乗ることになると、家紋は、ともに「三つ目結」「四つ目結」。
 佐々木盛綱の子孫は富岡市高瀬(一ノ宮大字高瀬)に代々住んでいます。
 
貫前神社宮司家の子孫、尾崎忠男家文書を見ますと、
貫前神社の主な神官の変遷について、江戸初期は正神官に磯部物部姓尾崎氏、権神主に小幡姓一宮氏、その下に社家があります。元禄4年以降の朱印地の時代、大宮司に一宮氏、大社家に尾崎氏。明治に入り大宮司に一宮氏、神主に尾崎氏その下に禰宜・杜家が多数おります。
 
また、新田義貞の二男、新田義興の母は抜鉾神社神主の天野時宣(禰宜時宣)の娘、義興は二男でありながら身分低き者の子として嫡流とされず、三男の義宗が嫡子として扱われ、義興は新田の歴史から消され、子孫については不明とあります。
 
尾崎吉左雄 著「群馬の地名」によりますと、和名抄には貫前郷、抜鉾郷、酒甘郷、丹生郷、那非郷、湍上郷、宗伎郷、有旦郷、那射郷、額部郷、新屋郷、小野郷の12郷が記載されており、一ノ宮の生家は抜鉾郷に位置し、北甘楽郡宮崎邑は貫前郷に位置します。

中世期以降は、抜鉾神社が一宮として崇拝されてきたが、明治に入り、貫前郷の貫前神社と抜鉾郷の抜鉾神社が二社二神の貫前神社として上野一ノ宮貫前神社となったとあります。
 
また、甘楽郡の章には、外来人たちは鏑川の谷口付近の山名から吉井のあたりに住み着いた。吉井を中心としてだんだんに谷の奥へと発展していったが、この上毛野の地の支配者(上毛野氏)は自分は中央にいて、武力のある物部を碓氷川の谷に配し、織物の生産者である渡来人を鏑川の谷に配したが、やがて七世紀のはじめ物部は勢力を拡大して鏑川の谷に進出し、渡来系の人々は、東の方に追いやられ、その後、この地の物部は南の山脈を越えて、神流川の谷に発展した。江戸時代には山中領と云われた地域である。この地に抜鉾神社(貫前神社)を祀った人々が移ってきて定住したものである。
「神流川」と書いて「かんながわ」と読む、「かんな」はもともと「かんら」であったのである。
 江戸時代に山中領といった村落には貫前(抜鉾)神社の分社が諸所に見えている。と書かれています。
 また、神川町の歴史を見ますと、近代、群馬県と隣接する神川町が、埼玉県の管轄下となったのは明治9年のことでした。昭和29年には丹荘村と青柳村が合併して神川村が誕生しました。とあります。
 
中世の貫前神社の周辺を見渡すと、ここを取り囲むように多くの中世城郭が配置され、これらの主な城主・藩主の変遷を見ていくと、丹生城(城主:新田氏、小幡氏)、宮崎城(城主:小幡氏、奥平氏)、宇田城(城主:新田氏、小幡氏)、国峰城(小幡氏)、前田藩(藩主:前田家)、小幡藩(藩主:奥平家、水野家、永井家、織田宗家、奥平松平家)となっています。
 
前田藩・小幡織田藩の両藩には織田信長に敗れ、下臣となった紀姓桓武平氏を名乗る大井氏の後裔、春日部姓伊坂氏もみえ、奥平氏が宇都宮藩主だった頃の紀姓桓武平氏族、井坂氏の名も見えますが、伊早坂との関係は分かりません。私の家系の古い親戚筋に伊坂氏・井坂氏を名乗る方々もおり、祖父の葬儀に参列していたと聞いていますが、その関係も分かりません。

 
伊早坂の全国分布を(2009.5現在)の電子電話帳より検索してみますと、
現在の電話帳に登録されている「伊早坂」は、計60件、その内訳を見ると群馬県富岡市の分布が12で最多となっています。

北海道 9 ( 小樽市 1 函館市 7 北斗市 1 )
埼玉県 7( 草加市 1 秩父市 3 所沢市 1 本庄市 1 児玉郡神川町 1 )
東京都 5( 荒川区 1 江戸川区 1 江東区 1 世田谷区 1 調布市 1)
愛知県 1( 北設楽郡東栄町 1 )
滋賀県 1( 大津市 1 )
大阪府 2( 寝屋川市 1 守口市 1 )
奈良県 1( 香芝市 1 )
茨城県 8 ( 稲敷市 1 つくば市 2 牛久市 1 ひたちなか市 1 水戸市 3 )
群馬県 18 ( 太田市 1 勢多郡富士見村 1 高崎市 2 富岡市 12 佐波郡玉村町 1 )
長野県 6 ( 岡谷市 1 南佐久郡佐久穂町 1 佐久市 3 )

また、類似の姓氏として以下の分布を見てみますと
伊早阪 1名 群馬県富岡市
伊佐坂 6名 熊本県中心
井早 16名 三重県中心
伊坂 397名 東京・埼玉・千葉・茨城・神奈川・三重・兵庫中心、全国に分布
井坂 2,220名 茨城中心
井阪 374名 大阪府中心
早坂   6,771名 宮城・秋田県中心
早阪 12名 京都・大阪府中心

手始めに同姓の方々に30通程の手紙を差し上げ、7家の伊早坂氏と連絡がとれました。

1.前橋市の伊早坂(イハヤサカ)氏
ご実家は、富岡市富岡、ご本家は、富岡市大字宮崎、家紋は「丸に花菱」
富岡市宮崎の伊早坂家には、富岡市一ノ宮の伊早坂とは流れが異なり、
宮崎の伊早坂の方がより歴史が古く、発祥は常陸国新治郡、藤原系伊達氏族、伊坂から伊早坂に変化したものであるとの伝承が伝わると、また、発音の難しさを嫌い、別姓とされたご親族もあるとのこと。

2.東京都江東区の伊早坂(イハヤサカ)様より
ご実家は、児玉郡神川町、家紋は、「丸に根笹」
 
3.東京都調布市の伊早坂(イハヤサカ)様より
ご実家は、児玉郡神川町、家紋は、「丸に根笹」
ご親族の中には「イハヤサカ」ではなく「イソサカ」と発音される方々も多くおられるとのこと。
 
4.埼玉県八潮市の伊早坂(イハヤサカ)様より
ご実家は、茨城県牛久市、ご本家は富岡市一ノ宮、家紋は、「丸に違い鷹羽」50年ほど前に一ノ宮から牛久に移られたのこと。また、戦後には、一ノ宮から北海道に移住されたご親戚もあるとのこと。
 
5.茨城県ひたちなか市の伊早坂(イハヤサカ)様より
ご実家は、長野県佐久市、ご本家は代々、佐久の庄屋、使用家紋は「丸に隅立て四ツ目」、 戦国時代は上杉氏に属し、川中島の合戦では戦功のあったことが記録されているとのこと。茨城県に分布する伊早坂の殆どは、ご親戚とのこと。
 また、昔は佐久・諏訪には多くの伊早坂姓が存在していたが発音の難しさを嫌い、別姓に変えた家が多いと、親族にも改姓が多いと伺いました。
 
6.長野県佐久市佐久穂町の伊早坂(イハヤサカ)様より
詳しいことは何もわからないし、墓所の紋についても覚えていないとのこと。
 
7.大阪市寝屋川市の伊早坂(イソサカ)様より
ご実家は、北海道函館市、ご本家筋は、富岡市一ノ宮と聞いている、函館の伊早坂は、ほとんどはこちらのご親戚とのこと。
 家紋については、確認したことがないので不明。愛知県の伊早坂(イソサカ)さんもご親戚であるとのこと。親戚の中には伊早坂(イサカ)と読む方もいるとのこと。
 
8.当家の墓所に埋葬されており、生家の回りにある伊早坂家4家の使用家紋は「丸に隅立て四ツ目」。なぜ本家筋だけ「丸に隅立て四ツ目」なのかと聞かれて困っています。
 現在、親戚付き合いはありませんが、明治の初めに当家から分かれた伊早坂の一家だと聞いています。
 
このように明確な資料の残された家もなく、家紋も異なりますが、富岡市在住の伊早坂の使用家紋は、すべて生家に伝わっています。しかし、これが何を意味するものなのか、知るすべもありません。
 
10年ほど以前、父が税理士をしていた関係で面識のありました方で、神社を研究している国税庁の税務官は、公務員は副業で、本業は古神道・神社の研究と豪語し、「伊早坂」についてお尋ねしてみましたところ、しばらくして、「出雲系の神を奉る神官の末裔であろう」と、「イハヤサカ」を古神道にあてはめると、「イハ」は「伊波」につうじ、「イハヤ」は「伊波夜・磐屋」につうじる。また「ヤサカ」は「八坂・弥栄」につうじ、「サカ」は「咲・作・佐久・崎・前」とも書き「ヨミノヒラサカ・イフヤサカ」にもつうじ、いずれも神を奉る者であろう。と。
 また、「イソサカ・イサカ」と読めば「五十坂・磯坂・石上・伊勢・石坂」とも書き「五十」は「イソ・イ・イハヤ」と発音し、海洋民族石族の末裔ではないか。
と云われ驚いたことがあります。
 
「伊早坂」の苗字はどこから発生したのか知りたく、各伊早坂氏使用の家紋を添えて日本家紋研究会に照会したところ、「伊早坂氏は、我が国では希少名字の部類に入り、富岡市に集中している。ルーツを調査するにも歴史上の文書がなく、近隣諸藩の家臣にも存在しない。土着の土豪または神官であるかも。ただ提出された他家の家紋を見るとその殆どが清和源氏族に関係深い家紋であるので、新田氏に関係があるのかもしれない。」との回答をいただきました。
 
さらに、古代姓氏の研究家、新免幸男氏に紹介しましたところ、東京大学史料編纂データベース検索では、「地名・人名・由来」は発見できず。国立国会図書館デジタルライブラリーでも「由来」は発見できず。ただ、「巖屋坂(イハヤサカ)・磯坂(イソサカ)」の地名は見える。

『古代に文字はなかったが「いはやさか」「いそさか」「いささか」と発音すると「石・巖」は「いし・いさ・いそ・いはや」とも読めるので、現在の漢字にすると伊早坂・伊早阪・五十坂・磯坂・伊佐坂・石作・石坂」と表せる。
「イサカ」と発音すれば「伊香・伊我・伊賀・石上・石河・五十川・石代・沙田・伊波田」とも表せる。
「イソカ」とすれば「石上・石川・石田五十河・石代・大春日」などとなる。
「イハヤサカ・イソサカ・イサカ」は古代姓に相違ない。との回答をいただきました。

「青木氏のルーツ&雑学研究」を拝見し、もしかしたら諏訪族と関係があるかも知れないと思い投稿させていただきました。よろしくお願いいたします



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