青木ルーツ掲示板
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  [No.652] Re:分かりましたら御教授願います。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/10/29(Thu) 11:00:04

関口さん 今日は。始めまして。
ようこそ青木サイトに御越し頂きました。全国の青木氏が集う歴史などで一時を楽しむサイトです。
当サイトには青木氏とその関連する氏の内容に付いてレポートしています。
これからも本サイトをよろしくお付き合い願います。

さて、お尋ねですが、関口氏の歴史的なことに付いては良く判りません。
しかし、折角お越し頂いてのお尋ねですので、青木氏を調べて知りえた知識でお答えしたいと思います。
お尋ねは、藤原秀郷一門ではないかとのものと考えます。
そこで、既に藤原秀郷流青木氏関連のレポートを多少お読みに成っているとしてのお答えとします。
未だお読みに成っていないところが有りましたら、都度お調べに成るかお尋ねください。
このお答えはREでお願いします。関口さんの専用投稿欄とします。

本文に入ります。
関口氏には5つの流れがあります。
一つ目は明治期の苗字令による発祥第3氏です。この氏は家紋を五山桐紋としています。
2つ目は美濃足利氏系関口氏で、清和源氏支流です。家紋は二引両紋です。
3つ目はその支流の木瓜紋です。
4つ目はその支流の一文字紋です。(江戸初期の未勘氏と観られます)
5つ目は秀郷傍系の関口氏です。(江戸期の未勘氏と観られます)

当サイトでは足利氏系青木氏がある処からの関連氏の調査で把握した結果の知識ですが、2番目の美濃の足利系の傍流支流の関口氏がこの関口氏の本流である事が判っています。しかし、家紋が綜紋の二引両紋とあるのは多少疑問です。関口氏が出ている事は確実ですが。

足利氏は元よりそのルーツは藤原秀郷一門の十二人の者が鎮守府将軍として陸奥に赴任した時に、その土地の土豪の花房氏と血縁して発祥した秀郷流花房氏で、秀郷一門が美濃に赴任地代えで護衛団として秀郷流青木氏と共に先ず武蔵に戻り足利に赴任しました。
そこでこの花房氏が定住し、力を付けて土豪となり足利の地名から土豪足利氏を名乗りました。
其処に、秀郷一門からこの土豪足利氏に対して発言権を増す為に、余り従わなかった血縁族の土豪足利氏の本家に対して、絶えた分家に一門から跡目を入れて分家を興し、後押しをして本家に対抗させ、この本家と決戦をして本家の土豪足利氏を追い払いました。この土豪足利氏は日本海沿岸路を伝わり米子、八頭に逃げ延びて末裔を遺しました。この時、この足利氏と土地の守護王で聖武天皇第6位皇子の賜姓青木氏との血縁族の足利系青木氏の一部も土豪足利氏と同行しました。
信濃には秀郷一門の跡目を入れたこの分家筋を本家として立て、足利氏を名乗りました。後に清和源氏と血縁をして足利氏が繁栄しました。この足利氏の室町幕府後、その第3支流として関口氏を名乗ったとされています。多分傍系であろうと考えています。
この秀郷一門の血筋を色濃く持つ足利系支流関口氏は一門分けで江戸初期に秀郷流関口氏を名乗ったと観られています。
その秀郷一門の秀郷流関口氏と言われる元は、秀郷一門の足利氏は「成行」を始祖とします。
その成行の孫の成俊が佐野氏の始祖と成ります。
成行の孫(成俊の弟)の足利の有綱の子供の基綱が佐野氏の元祖と成ります。
依って、秀郷一門の成行の足利氏は曾孫で佐野氏と成りますので、この秀郷流関口氏は佐野氏系とも言える事になるのです。

しかし、秀郷一門の主要5氏から本筋24氏となり第2支流の最終351氏となった一門から更に外れたところの傍系支流であります。
この佐野氏系関口氏と云われている氏は秀郷一門で確証される現存するこの351氏の中にはありません。

恐らくは、足利系の関口氏のルーツからのその一部がその経緯から読み佐野氏系として後に江戸期初期の頃に名乗った未勘氏であろうと考えられます。
この風潮は3期に起こっています。
第1期は室町末期の戦国混乱期、第2期は江戸初期の混乱期で最も氏を搾取偏纂して氏を発祥させた時期、第3期は明治初期の3年の苗字令と8年の督促令にて氏を持たない市民が名乗った時期の3つに成ります。夫々内容が異なります。

関口氏はこの江戸初期の家柄身分を重んじる風潮の最も盛んな時期に藤原秀郷一門の佐野氏を搾取偏纂して佐野氏の系譜の中にルーツの不明人物を創り上げてそれからの系譜を偏纂したものと観られます。徳川氏も有名な事実として、征夷大将軍の称号と幕府を開く根拠として、朝廷に圧力を掛けてこの系譜を認めさせるように系譜を偏纂した史実があります。豊臣秀吉の系譜も有名ですね。

各地に残されている系譜の殆どはこの搾取偏纂のもので、お調べに成られた史料もこの類ではと思えます。佐野氏の正しい正規系譜上に無い人物を創り上げる常道で別ルーツを繋いでいます。
搾取偏纂のルーツはこれを常道手段としています。

関口さんのお調べに成った佐野氏の時綱なる人物にその末裔が正規に繋がっているかの確認が私には残念ながら取れません。

当然ながら、矛盾点が出てきます。
先ず家紋です。佐野氏の支流を含む家紋群は明確に成っていますので、左三つ巴紋を含む家紋群からは関口氏は出てきません。
又、秀郷一門には家紋に関する掟があり、「下がり藤紋」の綜紋に対して、351氏は副紋方式を採用しています。
まして、下がり藤紋は武蔵入間に現存する藤原秀郷総宗本家とその一族だけが使える護っている家紋です。それを傍系が家紋として使うなど大いなる疑問です。ありえません。
秀郷一門の斎藤氏等もこの綜紋の下がり藤紋は使わず別の紋に成っているのに、支流で傍系が下がり藤紋とは。

後は、藤原氏は本流でもそれに藤紋の中に副紋を入れて使う掟に成っています。
各地24地方の藤原一門の本家筋だけが使える綜紋の副紋方式は正規に全て成っています。
先ずはこのことから観ても未勘氏か第3氏である事が明確に覗えます。
多分、江戸初期の未勘氏であろうと考えます。

恐らくは、次ぎの身分の者であったと考えられます。
庄屋、名主、豪農、郷士、郷氏、豪商の何れかでしょうが、このどれかはお家の情報が有りませんので判断が付きません。
恐らくは大きく土地を持っていたなどの内容から苗字、帯刀、家紋の保持を許されたこの6氏の前の三つのどれかと見られます。
その苗字などの許された相手はこの足利系関口氏の末裔からでは無いかと考えられます。この事は頻繁に行われたのです。

つまり、戦いの時には兵を集めなくてはなりませんが、家臣だけでは兵とはなりません。
そこで農兵をある契約で集めます。この時、足利系関口氏からこの6氏に依頼が来る仕組みに成っています。
そして、戦いの勝利した暁には、この6氏の前の3氏には、契約金、戦利品、褒美等と共に勲功として、苗字、帯刀、家紋の保持が許されたのです。
秀吉はこの農兵制度の禁止を令として発しますが護られませんでした。
恐らくは、足利系関口に配下に入った者であったと観られますから、矛盾点が出るのです。

その典型的な関口氏が在ります。
当初に述べた五三の桐紋です。
この紋は元は天皇の象徴紋です。
ところが天皇家には締め付けにより経済的余裕が有りませんでしたので、秀吉に褒美としてこの五三の桐紋の使用を許しました。そうすると今度は秀吉は自分は五七の桐紋を作り、大名に対しては恩着せがましくこの五三の桐紋の使用を勝手に許しました。例えば秀吉の家臣のその一人として、黒田藩は更にはこの五三の桐紋を家臣に使用を許しました。最後は、その家臣が農兵として参加した者の長に対して褒美でこの五三の桐紋の使用を許したのです。
したがって、北九州にはこの付近にはこの五三の桐紋が多いのです。
特に、ところが明治政府は初期にこの使用を禁止しましたが護られませんでした。
このことは大大名の国で全国的に起こりました。
この五三の桐紋の足利系関口氏の未勘氏はこのルーツなのです。同じく一文字紋も同様です。 
故に関口氏は足利系関口氏が本筋です。

尚、江戸初期頃までの墓石の藤原氏の文字は普通は刻み込みません。
その墓石は明治初期頃から流行った大理石の墓石では有りませんか。
江戸期の墓石は泥岩か砂岩が宗教的仕来りで使用していましたので大理石(御影石)は使用していません。
”人は死ぬと土に帰る河原に石になる”とのたとえ通りにこの様な路傍の河原の石を使用したのです。
これも判定の基準と成ります。

事程左様に、又、宗派も天台宗とありますので、自ら独自の菩提寺を持つ浄土宗寺があるので、藤原秀郷一門の綜紋「下がり藤紋」藤原氏の掟ではありえませんが、宗派と共にこの家紋を使用している事でも上に書いた史実事柄からも明確です。

念のためにご本家菩提寺の過去帳をお調べに成り、その時代の一番古い人とその人の戒名をご覧下さい。一目瞭然に判ります。藤原氏にはある一定の浄土宗の戒名と浄土宗仏壇を持っていますので判別が可能です。ここまでは未勘氏、第3氏は変える事は出来ませんので、調査される事をお勧めします。
何らかの形で遺されていますので。

では、この内容にご不明点並びにご質問がありましたらご遠慮なくお尋ねください。



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