青木ルーツ掲示板
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  [No.730] Re:讃岐の青木です。
     投稿者:福管理人   投稿日:2010/08/01(Sun) 19:48:55

讃岐の青木さん 今日は。 お久しぶりですね。
お元気ですか。 

本サイトも以前より大分拡がりまして、今は他氏からもお便りを頂くように成りました。
又、サイトの内容も充実させてきましたし、青木氏のレポートも膨大になりました。
ブログもヤフーで歴史カテゴリーで厳しい審査を受けまして今やトップテンに入るぐらいに成っています。
青木氏に関係する他氏の事もレポートを致しましたので、お便りも多岐にわたりまして、長年の研究の私の雑学記憶の限界に成ろうとしています。
サイトには青木氏のテーマソングや色々なメニューも追加されました。写真館等もあります。
ある事が切っ掛けでサイトを知る事となりまして、このブログサイトからのヒントで、NHKの番組に3度も放映されていまして、常にディレクターがチェックをしているとの事です。
管理人さんもお元気でこのサイト外にも多くのサイトを立ち上げられて活躍され、現在では実家の家業も成されているとの事で大変忙しくされています。

これも、初期の立ち上げ期に讃岐の青木さんたちに支えられて続けられた事がここまで全国の青木さんや多くの他氏の方に知られる事に成りました。
本当にありがとう御座います。
これからも、他氏にはみられない日本一の青木氏のサイトに仕上げられるように頑張りたいと思いますので、ご協力の程お願いします。そして、子孫に遺したいと思います。
土の匂いのする様ないつもお便りお話がありましたが、これからもよろしくお願いいたします。

さて、面白いお話ありがとう御座います。
弊家に関わるお話ですね。先祖の京綱に関係する事ですが、この叔母の「二条院讃岐」と云う人は昔確かに確認した事が有りまして、実は多くは研究されていません。
ただ、有名な歌人であった事くらいです。

我袖は 潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らぬ乾くまもなく

参考
二条氏とは弊家とは大正14年頃まで深い付き合いがあった様です。多くの手紙が遺されています。
恐らくは、歴史的にこの時の二条天皇(母 源よしこ)の頼光宗家の清和源氏系の天皇として、又叔母「二条院讃岐」頃の関係からの伊勢青木氏(甥の京綱)との付き合いであったのではと観ています。
「以仁王の乱」の以仁王は二条天皇の弟ですが、1180年のこの直ぐ後に乱が起こっています。
二条院讃岐は1189出家(鎌倉時代にも歌人を続けて1210頃没)していますし、1185年には源氏頼朝が平家に勝っています。源氏系の二条天皇(1165)末裔一派は弟の以仁王をして陰ながら応援していたと観ています。

お尋ねですが、この「二条院讃岐」は源忠清の女との間に出来た子供で、「二条院(天皇)]に長く側仕えし(中宮讃岐 夫人)、その後に藤原北家筋重頼の室になり結婚、若狭などにも赴任移動して2人の子供を産んでいます。院没後(1165)に、後鳥羽天皇の宣秋門院の中宮任子(姉)に仕えます。1189年出家しています。

この藤原重頼は葉室氏の顕能の孫ですが、「讃岐」の由来となれば探しましたが、公家の名家で北家の讃岐籐氏と何らかの強い繋がりの葉室氏系の氏しか出て出来ません。恐らくは、この讃岐を名乗ったと見られます。
実は、高位の家柄身分の氏では妻はこの様な「号」を使う習慣がありました。
それはこの様な氏では妻は4段階の身分に分かれていてその妻にはこの様なその家に関わる地名などの呼び名を付けるのです。幼名(・・子)ではその身分などが判りませんので判別を良くする為にもこの様な呼び方をしました。
特に、歌人の場合は「・・子」と云う風な幼名では風雅が有りませんので、「雅号」を付けて呼ばれるのです。門跡となった人には歌人が多いですが、多くは何らかのゆかりの地名を付けています。
そもそも、平安の侍の娘は幼名だけで成人の名前を持ちませんで、「源斉頼の娘(女)、藤原友実の娘(女)]と成ります。
成人の名前を持つ事が出来るのは天皇の皇女か妻かによります。

そこで、嫁いだ後の名前の使い方は天皇などが主宰する歌会で歌を読んでいますので「雅号」によります。現在でもこの「雅号」の習慣は歌会の中で残っています。
例えば、二条院讃岐の従姉は「宣秋門跡丹後 任子」(讃岐は後に使える)と呼ばれ「丹後」としています。
この様に国とか地名とかをつける習慣がありました。
良い例として、天智天皇の頃より皇子は生まれた地名、皇女は全てその母親の実家の地名を呼び名として使っています。
「二条院讃岐」は嫁ぎ先の藤原氏のルーツを又は藤原氏の中でも筋どころや家柄を明確にする意味合いも「二条院」門跡には合ったのではないかと見られます。
藤原氏の讃岐籐氏である事を。北家の葉室氏の勧州院流である事を。

お尋ねの「流罪」ではなく、讃岐は「藤原氏に関係する雅号」です。
では何故讃岐に伝説がとの疑問ですが、讃岐籐氏は藤原氏の中でも北家筋として高い立場にありましたので、この「二条院讃岐」は当時は超一流の歌人で万葉集や古今和歌集などの多くのものはこの「二条院讃岐」の作でした。その事から、讃岐では誉れとして崇め「歌聖」として呼ばれていましたので一族として何らかな伝説を作ったのではないかと考えられます。
藤原重頼は多くの赴任地に赴いていますが、若狭などにも赴任しているところからこの地にも赴任したのではないのでしょうか。大体平安時代は一人で10国、地方に出向き2−5年程度で変わっています。中には青木氏では14の土地に赴任したとする者もあります。
「二条院讃岐」は赴任地に同行したとされていますので、現在、確証は取れませんが、讃岐には必ず赴任している筈です。
当時、貴族が流罪になる場合はその身分家柄と積みの重さで異なります。
皇族4世族までは多くは藤原氏の権域の強いところに流罪と成ります。むしろ「預ける形」を採りました。
例えば、以仁王は乱の罪で讃岐籐氏の土佐に決まっていました。

若宮神社のことですが、神明系の神社として各地に多いですね。
若宮とする高知土佐の神明系の神社にはどの様な由来があるのでしょうか、何かあるから殆どの県にありますよね。神明神社は研究した事がありますので、その位置付けや由来やその土地にある理由など大体把握しているのですが、若宮は皇子或いは皇族の子供の神社となりますので、やはり、この神明系の由来に関わる神社となるのでしょうか。もしお判りでしたらお教えください。

ところで、若宮神社は讃岐には特別に多い所で調べた範囲では6つの神社があります。祠まで入れると10以上はあるのではないでしょうか。
徳島と静岡がこれに続きます。阿波の剣片喰族と三河駿河の州浜紋の藤原秀郷一門の勢力の最も強かった地域です。
これは愛媛讃岐は全国に比べて段突です。しかし、神明神社は皇族信濃青木氏とその支流の信濃足利氏系青木氏の末裔が讃岐の青木氏に保護されて逃げ込んだ国の土佐だけにありますが、讃岐には有りません。
とすると、讃岐には天皇家の皇祖神の神明神社が無いだけに、これは、「讃岐籐氏」の藤原氏と天皇家との繋がりが強く、藤原北家系の皇子皇女が多い所から、とりわけこの若宮を祀ることの強い習慣があった事を物語るものではないかと思います。
当然、若宮には藤原北家筋、平家筋、11代の源氏筋、少ないが橘氏筋等がありますので、讃岐籐氏派はより祭祀したと見られます。(阿波と尾張の藤原北家筋も)
もし、あるとすると、「二条院門跡」の子供等の祭る神社ともなりますね。それが「二条院讃岐」とどう繋がるのでしょうか、大いに興味が沸きますね。もしかすると、「二条院」との間に出来た若宮を祭祀する神社か。そうすると更に讃岐と繋がりますが。?

現在、推測の域を越えませんが、神明神社の皇祖神は天皇第4世族皇子までの守護神として扱われ、第5世以降の元皇子には、若宮(皇族関係の者)としての守護神の神社としたのではないでしょうか。
この様に考えると間尺が合います。配置されている土地柄を見ますと納得出来ます。確定する記録を探しています。(ただ江戸期以降の若宮神社とその祠はの2種は除く)
ただ、多くは「厄除けの神」として江戸時代に創建されたものが多く、創建と云う域まで達しない小さい祠の様なもの2種を除きますと、この推測に成るのではと研究しています。判り次第レポートします。
現在のところ、この2種を除いて観ると、第4世族までの皇祖神の神明社の分布と、第5世族の皇族系の皇子族の若宮神社の分布は平安鎌倉期までのものとしては重複しているところは見当たりません。

この事は、天智天皇は第7世までを皇子としていたのを大化改新で逸早く実行したのは財政難から皇族と皇位継承問題のこの改革から来ているものと考えます。
その改革では第7世族(6世族もある)は主に坂東を守護する臣下として配置しました。
第4世族では各地に配置するだけの人数が足りませんので、そこで6世族までを天皇が代わる度に出て来る皇族の処置として、「若宮」としての言葉で括り各地に配置して、そこに皇祖神の「神明神社」に代る皇族の第5世族皇子の「若宮」の「若宮神社」としたのではないでしょうか。それが何時からかは判りませんが、天智天武の伊勢神社創建からそう遠くは無いのではと推測します。
人時場所について文献などを調べましたが明確にしているものは有りませんので青木氏で更に研究します。全国殆どの県に2社から3社あり、恐らくは小さい祠も含めて100程度ある様に思います。現在調べただけでも70近くありますが、平安期からのものとすると20−30程度内に絞り込めるのでは。

参考ですが、女性の流罪の件ですが、無かった訳では無い様です。
記録によると、上流階級の女性が多くは男女間の問題を起こし、坂東方面に流罪となり、その搬送中に行方不明となる事が多く起こった様で、ある記録の中の話としてその不明の原因は多岐に渡っています。
当時の氏家制度の社会の慣習から、女性の流罪の問題を遺したくなかったのではないでしょうか。
中には逃亡か逃亡させたかとした形である村に助けられ、又は逃げて住み着き余生を送ったとする実話があります。
犯罪のみならず戦いに敗れた側の女は逃亡か人身売買になった事は戦国時代までの記録に多く残っています。例えば甲斐の武田氏が各地を制圧した時にでも、この事が常態化していたのを信玄が中止させた記録もあります。
源の義仲の巴御前は敗退して逃亡して村に密かに住み着いて生き延びたとする記録もあるくらいです。
流罪になる原因は多岐にあると思いますが、多くは記録ではこの2種ですね。
依って、記録に載らない載せない慣習が強く社会の中にあったと考えられます。

参考ですが、頼政の孫の京綱は清和源氏の血筋を絶やさないために伊勢青木氏に跡目に入れて「不入不倫の権」で助かり、宗綱、有綱と叔父の高綱は日向に流罪になります。そして、九州全土を支配していた大豪族の肝付氏の末孫の土地の豪族の廻氏を背景に城を築き、再び九州探題の平氏と戦いますが敗退し敗死します。その廻氏との間に遺した子孫を中心に薩摩の大口村に逃げ込みます。そして、寺に保護されますが、追手が近づき、住職に諭されて、嵯峨期の詔に基づき青木氏を名乗ります。そして、追手を回避するに成功します。その後、この青木氏は大口村で黒田藩での兵農を業として営みます。この頼政の子孫の日向薩摩に広がる日向青木氏です。
この子孫で超有名人がアスリートとして現存しています。伊勢青木氏とは元は親族関係にありました。

「下がり藤に雁金紋」の讃岐の青木さん 讃岐でのこの土地の伝説教えていただけないでしょうか。

お便りありがとう御座いました。 楽しいお便りお待ちしています。 



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