青木ルーツ掲示板
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  [No.745] Re:讃岐の青木です。
     投稿者:福管理人   投稿日:2010/08/29(Sun) 11:02:06

> つづきです。武田氏も青木氏のように阿波の小笠原氏、三好氏(阿波、畿内で活躍)と清和源氏義光系の同属ネットワークをたよってきたものなのでしょうか?讃岐も長曽我部氏の前は三好氏でした。現在も三好姓は近くに多いです。
> 武田勝頼土佐の会  http://katsuyori.seesaa.net/article/113340623.html                                                                                 讃岐の青木さん 今日は。
お元気ですか。
早速のお便り頂きましたが、楽しく読まして頂きました。

確かに四国には伝説が多い事は驚きますね。
何故でしょうね。先ず、この疑問を解消せねばなりませんね。

思うに、矢張り、1つは陸続きでは無い事、2つは島の大きさが大きい事、3つは京、奈良に近い事、4つはそのルーツに反映する島民性、では無いかと考えています。

1から3は地理性の有利性ですね。これは段突です。
確かに多くの島がありますが、では九州は比較としてどうなのか、この地域の伝説には然程に確固たる史実性に若干疑問視される傾向がありますね。
矢張り、都から遠い事、それとルーツとする傾向又は、日本の7つの民族の融合化でその民族の構成が関西と若干違う事があり、九州の育まれる島民性が違う事が上げられます。
昔は余りに都から遠いために政治が行き届かず、「遠の朝廷」と呼ばれ後漢の帰化人の200万人の首魁阿多倍一族の末裔の大蔵氏が入国以来、無戦で納め朝廷は「錦の御旗」を与えてまで「信任統治」してきた島です。
ですからなかなか、都と関連した伝説が地理、島民性、政治性などから生まれ難かったと考えられます。

しかし、この四国は適度に地理性に恵まれ、政治性にも、住民の種属性でも良い関係にあった事から伝説化が丁度良い環境に合ったと考えられ、そこに育まれた4の島民性が伝説のみならず平均的、標準的な環境にあった事から、特に、その人の生き様としての伝説にはその土壌が大きく占めていたのではないかと常々思っています。

例として、坂本竜馬と西郷隆盛の比較にある通りに。種族性の違いから島民性が異なり、だからこの2人のマッチングが明治維新の改革がなされたものと思うのです。竜馬のような人物の所以ではないでしょうか。

昔、これ等の事に疑問を持ち、大分前に若い頃に研究したことですが、既にレポートしている「日本民族の構成の研究」レポート投稿していますが、現在はこれは既に遺伝子的に学問的証明が成されています。
私は、四国にはこの「民族構成と地理性」が伝説化を促したと考えています。

飛鳥、奈良時代前、奈良時代から室町時代までの四国の氏の構成から観るとその「多くある伝説の真偽性」が高いと見ています。
先日のお便りの「若宮」や「神明」や今回の「武田氏」、当然に「藤原氏」やその「青木氏」や「源氏」や「平氏等」の事も考えると四国の伝説は歴史研究の宝庫となります。

例えば、その一つのきっかけは足利氏系青木氏や武田氏系青木氏の土佐へ導いた史実が、この讃岐籐氏の青木氏らの保護から出たなどとする結論はこの推理から研究して検証されたものです。
讃岐の青木さんのお考えの通りと思っています。
これは故に伝説が伝説を生み、又昔の人はその伝説に引き込まれて四国に渡ると云う連鎖が起こっていたのだと思っているのです。
そして、その伝説の結果から、上記した「地理性」と「古来からの島民性」が尚更マッチングしたと考えています。
例えば、平家の落人の多くはこの四国に逃げ込んだのもこの事からであり、本来ならば、平家のルーツの九州に逃げ込む筈ですね。しかし、四国に大半は逃げ込んだのです。
九州には源氏の基点はなかったのですからね。最も安全で彼等の古来からの基盤のあるところであり、平家の再起は充分にあった筈です。
彼等の先祖は九州を武力制圧したのではなく、「技能」を普及伝播させて、原住民の信頼を得ての征圧なのですからね。しかし、逃亡しなかったのです。
まして、「遠の朝廷」と「錦の御旗」の政情化と、大豪族の大蔵氏と阿部氏の地元なのです。何故か不思議です。

それでも、四国と和歌山の山奥に逃げ延びた事は、当時からあったこの「島民性」と「地理性」にあったから引き寄せられたのでしょう。
村上水軍や中国を制覇し毛利氏に最後潰された陶族の彼等平家の末裔が多くいるこの四国を選んだと観ています。
更に遡れば、四国は飛鳥の始めに渡来した応仁大王(天皇)の頃の帰化人の入島と、後漢の頃の第1陣、2陣からなる帰化人の入島がある処から観ればそちらを選んだとも考えられます。
私は歴史を紐解くには、この「日本民族の構成から来る種族性」とその「土地の歴史性地理性」の雑学が最も重要だと思っているのです。基本になると考えています。
そのために「日本民族の構成」などの関連レポートを投稿しているのです。
兎も角も、その意味からこの全ての条件が伝説を生む適度な環境を育む四国であると考えます。

その意味からも、その信頼性は高いと考えます。調べてみますと、武田氏の様に伝説に近い源氏支流を名乗る氏は「未勘氏」と云いますが、最も多いのもこの四国なのです。

そこに、日本を奈良時代から凡そ桃山、室町時代まで揺ぎ無く牛耳った天下の讃岐籐氏の藤原氏とか阿波の藤原氏が定住すれば、伝説が生まれない方がおかしいと思います。
その点で私の場合は、青木氏等の歴史を研究する時、雑学として、四国の伝説を色々調べる事が最大のヒントになっているのです。

実は、その要領があり、この場合の研究は何処の国、この場合は何処と割り振る事が出来るのです。
同じ島でも、佐渡が島等にもある意味の歴史史実があるのです。雑学として知っていると便利ですね。
島でなくても国でも出来るだけ「種属性」や「地理性」を雑学しています。

以前より何時か「源氏」と「地理性」「種属性」等のレポートを取りまとめたいと考えていますが今だ実現しません。

清和源氏の分家の頼信系列の義光系が四国との関係は大いにあり、これも「平治保元の乱」の逃亡先でもありますのであると見ています。(嫡男の義家系は関東東北地方に勢力を伸ばした。)
義朝、為朝などは四国に長く滞在した記録が有り末裔を遺したとあり、更には九州、沖縄に、遂には伊豆諸島大島に逃亡して、その子孫は最後の決戦を挑んで鎌倉に船団を率いて攻め入り頼朝軍は急所を突かれて敗退する寸前に、この伊豆諸島の末裔大島氏が黒潮を3日で渡り三浦半島沖で平家水軍と最後決戦をして救った記録があります。
又機会有りましたら青木氏との関係でレポートしたいと思います。

念のために、義光流系青木氏がありまして、近江甲賀郡照養寺には義光より16代青木下野守祐清は足利幕府に仕え、その末裔青木紀伊守8万石は豊臣に使え、更にその末裔の青木新吾郎の母は武田勝頼の嫡男信勝の妾となり、この者を産み豊臣に仕えて四国に任じたと記録があります。後に家康に叙封される。この子孫が四国阿波讃岐にいる事に成っていますが、この本家は現在は甲賀に住している事が判っています。

出来ましたら、又、今回の武田氏の勝頼の末裔や信虎の末裔の様な情報が有りましたら、お便りを頂けたらありがたく、ほかの青木氏の方にも興味が湧くものと思いますので、讃岐の青木さんの可能な範囲に於いてよろしくお願いします。

今回のお便りも全国の青木さんにも楽しく読まれた事と思います。
ありがとう御座いました。
                                             



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