青木ルーツ掲示板
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  [No.741] Re:すみません、私は永沼なのですが
     投稿者:福管理人   投稿日:2010/08/25(Wed) 13:11:18


永沼さん 今日は 始めまして。

ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。
青木サイトには青木氏とその関係する氏に関して研究レポートしています。

確かに、長沼氏と中沼氏に関して藤原秀郷流青木氏を含む藤原秀郷一門として詳しくレポートしています。このことを参考にされたと思います。
さて、早速ですが、ご質問に入りますが、お家は「永沼氏」ですね。

実は、長沼氏と中沼氏は同一氏である事が研究から判っています。
しかし、この過程で「永沼氏」の関係も同じ氏なのかを調べました。

実は、「長沼氏、中沼氏」とはルーツが別である事が判っています。
この藤原秀郷一門の長沼氏は「永沼氏」を江戸以前の確かな歴史的資料から確認出来ません。
しかし、、この「永沼氏」もはっきりとルーツを確認出来るのです。

結論から、申し上げますと、「永沼氏」は「織田氏族系永沼氏」です。

そこで、この「永沼氏」には2つの別のルーツが存在します。
一つは、上記した織田氏系の「永沼氏」、もう一つは島津氏族系中沼氏の「永沼氏」です。
島津氏系中沼氏の中に「永沼氏」を名乗った者の一族があります。
しかし、この「永沼氏」には時代性に問題が若干あり疑問です。

確実に信頼できる「永沼氏」は「織田氏族系永沼氏」です。
先ず、織田氏は家紋からも地理からも平家一門です。
織田氏の先祖は「たいら族」の平氏の支流末裔です。
北条氏などの「ひら族」の第7世族の坂東八平氏とは異なります。
後漢の渡来人の阿多倍王の末裔の国香から始まり貞盛より出世して5代目の清盛までの賜姓の桓武平氏系です。
詳しくは研究室の阿多倍関係レポートを検索してお読みください。
この平家一門の信長より17代前の「親真」から始まった氏で、丁度この「親真」から17代目が「宗康」が「永沼氏」を始めて名乗っています。
「永沼左馬進」からです。始祖となります。
これは確認される歴史的史実です。
ここでお気づきと思いますが、「信長」と17代で同じですから祖父が兄弟と成ります。

そこで、可能な範囲まで系譜を記述しますが、個人情報が絡みますので、この「永沼氏」の始祖の所までのものとします。

親真−権太郎新基−孫太郎−太郎兵衛行広−三郎太郎兵衛末広−三郎基実−三郎四郎広村−三郎右衛門真昌−次郎四郎常昌−助次郎常勝−次郎兵衛教広−次郎兵衛常任−三郎弾正左衛門勝久−弾正左衛門久長−三郎伊勢守敏定−彦次郎定宗−「永沼左馬進宗康」

信長は三郎伊勢守敏定−弾正忠信定−信秀−信長となります。

さて、この「永沼左馬進宗康」の始祖が全国の永沼氏となります。

お便りの藤原秀郷一門からは出ている事に付いては搾取偏纂の結果です。
明治初期又は江戸末期によく行われたルーツを持たない者、わからない者が専門業者に作ったもらったもので、その特長として、突然分派の人物を作り出しこれに別のルーツを貼り付ける手法です。
この種の系譜は全てこの手法に従っています。
お説のとおり突然分派して永沼氏のルーツが出来ている事に付いては、史実がありながらも、このパターンに一致します。

さて、お家がこの「永沼氏」であるかは先ず江戸期以前の氏家制度と封建社会の仕来りから、国の移動は自由に出来ません。不法の「国抜け」は一族郎党の斬罪を受けます。
依って、先ず地理的な問題も出てきます。
この「永沼左馬進宗康」の始祖は明治初期まで主に岐阜と愛知一帯に分布する一族でした。

この付近には、藤原秀郷流青木氏と藤原秀郷流永嶋氏が分布する地域です。

お家のお国は、”慶長五年、私の直系である九州福岡の筑前遠賀郡伊佐座村(現在は水巻町あたりだとおもいます)の永沼にたどり着きます。”と云う事ですと、当時の社会慣習から、時代と掟が一致しませんので、恐らくはお説の通り農民であったと考えられます。そして、明治3年苗字令と8年の督促令の強い指導に基づき何らかの環境と理由にて「永沼氏」を名乗ったものと思われます。

とすると、「永沼左馬進宗康」の始祖のルーツとは異なる事に成ろうかと思います。
一つは、島津氏族系の一部が何らかの理由で名乗った「永沼氏」の系列が覗えますね。

この2つのルーツ確認には、「ご本家の維新戸籍簿」と「氏寺の菩提寺」か「檀家寺にある過去帳」をお調べに成ればすぐに判る筈です。お家の「家紋」もお調べになってください。
また、前者の「永沼氏」と後者の「永沼氏」の「宗派」は異なります。お家は何宗ですか。
前者は浄土宗又は真宗 後者は主に臨在宗、曹洞宗系列の宗派となります。これ以外も明治期の「永沼氏」と考えられます。


明治以前は氏家制度の社会慣習で、この様な身分家柄により仕来りが決められていて、これから逃れる事は出来ませんでした。従って、系譜などを偏纂してもこの仕来りの矛盾が出てしまいます。
ご質問のお答えとしては他の確認要素を見る前に矛盾がありお説の通りと思います。
現在、お家の仕来りとの違いを確認されると直ぐに矛盾点がこの「永沼氏」のように出てきます。

ただ、明治期以降に、この「永沼左馬進宗康の始祖」の末裔が明治期以降に移動してお国に子孫を遺したとも考えられます。福岡の筑前遠賀郡伊佐座村がそれに当るかは不明確ですが、この2つの確認をなされれば村のことも判りますね。

ただ、例外として明治以前にしても、この地域には下級武士から立身出世して秀吉に取り立てられた黒田藩の移動により「永沼左馬進宗康の始祖」の末裔が兵庫播磨地域から住み着いたことも考えられます。黒田藩は家来を少なくし「農兵制度」を採用していましたので、農民でも先祖が氏名を持っていた事もあるのです。それが明治初期に名乗った事も史実として残っています。
農民であったとしても、この村が昔どの様な歴史を持つ村であったかもお調べになる経緯も判る事にも成ります。

恐らくは推測ですが、ご先祖が書き残したものを考慮に入れるとすると、この説が妥当な所ではないかとも思えます。だから、何とか伝え聞いたことを思い出し系譜を作ろうとして無理に継ぎ足しの系譜が出来上がったのかも知れません。
大変、この福岡付近、黒田藩付近には「兵農」を主体としていたのでこのパターンが実は多いのです。下級武士の兵で農民で、農民であって兵であったとするのが殆どです。
多くは、普通は庶民は家紋や墓紋は持たないのですが、戦いの勲功として黒田藩から貰った無秩序に成った天皇家の桐紋を戦いの褒美に与えて使用を許されそれを明治後に家紋や墓紋にしているのです。
これには一つの特長を持っています。

先ずは一度のこの村での上記の調査をされると直ぐに判りますよ。

ルーツの調査は雑学が大いに役に立ちます。この歴史知識が元になります。社会の時代の体制が異なりますので判断には注意してください。
例えば、士農工商の士を除く庶民9割は氏を形成するなどの明治初期以前のルーツの習慣がありませんでした。
氏名、家紋、墓などは江戸より前の時代には無かったなどの雑学が必要になります。
ただ、庄屋、名主、豪農、郷士、郷氏、豪商は苗字帯刀を許され、元は武士が殆どで、または「2足の草鞋策」を採用しています。

ご不明な点やご質問がありましたら、都度ご遠慮なくお尋ね下さい。青木氏はルーツ解明にご協力いたしますよ。



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