青木ルーツ掲示板
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  [No.747] Re:すみません、私は永沼なのですが
     投稿者:福管理人   投稿日:2010/08/29(Sun) 20:45:05

> こんにちは、つたない私の質問にここまで真摯にお答えいただき大変恐縮な思いです。
>
> 搾取編纂、やはりそうでしたか。
>
> 余談ではありますが、やはり現在でもルーツという縦のつながりをどこか自身のプライドのようなものとして認識していることが私にあることが伺えました。(現況はともかく)「うちは武家の出身」だと聞くと慢心し「農民だった」と聞くと落胆する、それの何が自分に影響するかなどといえばほとんどないにもかかわらず、です。歴史的な有名人や英雄がそのルーツに含まれていれば、自分まで少し偉くなった様な気がする。
> 昔も今も大して変わらないのかもしれません。
>
> 私が子供のときから実際に親から伝え聞いたことは、おそらく件の系図を基にしたものですから、長沼→永沼になったという記述が証明できないわけですね。
> だとすると、私がもつ資料からは何も出てこないと考えるべきですね。
> これは、大きな収穫といいましょうか、親族一同この系図を信じているので複雑な気分です(笑)
>
> そもそも武家出身説を補強する物的材料に長刀と短刀が数本祖父の家にあったからでありまして、無論その刀の年代を考察するには至っていないわけですが、祖父あたりの前戦時中に兵隊(仕官)として出たという話はありませんのでそれより古いものだということは確かです。これは一度改めて確認したいと思います。(第一、軍刀を二本差しなどしませんもんね)
>
> 家紋はよく珍しいと言われるのですが、菱に五本骨扇です。葬儀屋が父の葬儀のときに家紋のデータがないといって、現場で風呂敷を参考に自作しておりました。
>
> 福岡の水巻には永沼の姓が多く残っているとも聞きました。関係はないかもしれませんが福岡の重文として永沼家庄屋家屋というものが京都郡みやこ町犀川本庄 にあります。
>
>
> 藤原系から外れたとなると、もはや青木さん系列からも外れた結果になるかと思われ、手前勝手ですがこれもご縁と取っていただき、しばしお知恵を拝借できればと思います。

永沼さん 今日は。
ご返事をお読み頂けましたか。ありがとうございます。

青木サイトでの参考とするお答えですが、参考になれてよかったと思います。

さて、国民の九割は庶民で明治初期前のルーツを社会慣習から持っていません。
そもそもそう云う概念がなかったのです。又、社会もその必要性を持っていませんでした。
ですから、明治期の契約社会になった事から国民全員がその必要性に迫られたのです。そこで、1割の氏がいると羨望が生まれるは必然です。
しかし、有るものが無いのではなく、無いものが無いだけです。九割の人が。
論理的に辿りたくても辿れないのです。辿るためにはファクターとして経時的に氏名が必要です。
これはファクターの一つの墓も同じです。家紋も同じです。必要ないものを持つ必要も無かったのです。
宗派もある意味でその一つとして成り立っていたのです。
限定された3密教の宗派だけがファクターと成っていました。

心の持ち様は個人の責任の範囲であり個人の資質の範囲です。何時の世も。
ただ、武士であったからと云って良い悪いの問題では無いと思います。
武士であったからと云って氏や家紋や墓や宗派を持っていたのは中級以上の武士階級で、やや持つ様に成ったのは江戸の中期ころからの事です。
武士であったから良かったと云う事では有りませんでした。ただある程度の経済的幸運が保証されていたことだけの話でその必要とする伝統を維持するために命をかけることが頻繁であったからです。
武士の嫡子はよくっても後の嗣子は薄幸です。中には抹殺されるか僧になるか養子になるかの宿命しか有りませんでした。
世襲の中で氏を形成しないと武士としての支配権が獲得できないからで、その立場に居た中級武士の立場だけでした。氏家制度の中に、農工商の民は組み込まれていたからに依ります。
氏が構成する国が潰れればそこの民も潰れると云うシステムです。
私などは農工商の方が良いと思います。今でも伝統を維持する苦労は大変ですよ。それに苛まれて。

さて、珍しい家紋、宗派、明治期までのルーツ、地理的な事から本ルーツの永沼氏では無い事は間違いはないと思います。ただ、明治期に起こった九割の庶民の苗字では土地の土豪等の氏名や家紋を用いた、又は維新政府が用いさせた大方の経緯があるからで、同じ氏名であってもルーツを持つ持たないは別です。九州に見られる長沼氏又は中沼氏から永沼氏を名乗ったとする氏は末裔を広げた事は史実があり、又その氏名を以ってして明治期にも発祥した事も史実です。

専門外ですが、恐らく藤原秀郷一門から観ると、長沼氏又は中沼氏の九州の氏は蒙古襲来で福岡一帯に一時移動して襲来に備えした時に青木氏や永嶋氏や中沼氏や長谷川氏等の藤原秀郷一門は土地の豪族の菊地氏や肝付氏や大蔵氏や佐伯氏や島津氏と血縁関係を結んで子孫を遺しています。
この時の九州中沼氏または長沼氏の一部の者が何らかの理由で「長沼氏」を名乗れなかったのではないかと思います。それで止む無く別ルーツの「永沼氏」を名乗ったと観るのが筋で、その現存する「庄屋の永沼氏」の場合はその末裔ではないかと推測されます。恐らく、この場合の多くの場合は妾子であって宗家本家から氏名や家紋使用の許可が出なかったのではないかと推測します。


又、刀等の古物はその時に多くは自己の明治期の氏名を証明するものとして準備した事の流行がありました。系譜も作るなどの事の職業としてあり、金を出して頼めば家紋、系譜、刀、古物、氏名など全て準備するものが流行ったのです。寺や神社や専業者が連携してありました。現在でもあるのです。
ですから、当時の人は余計に家柄を意識しその様な口伝を遺そうとするのです。
しかし、氏寺、菩提寺、宗派や過去帳や戒名や墓、仏壇等、伝統古物までは代えられないことから矛盾が生まれて見破れるのです。
ただし、氏家制度の中で、政治的、経済的、地理的なその掟の中では庄屋、名主、豪農、郷士、郷氏、豪商だけは別です。多くは中級以上の支配武士階級以上であったからです。農民でも氏の伝統を持ちえていたのです。大変な思い押して伝統を護っているのです。元は平安期からの多くは豪族であったのです。
それが下克上の焼き討ちや戦国での敗退で退きました。
ですから、歴史的に観て庄屋等が永沼氏であるからと云ってそうでない永沼氏はそうであると云う論理は違うのです。
この様に過去の事には歴史的史観があります。

判別手段
そこで、刀の件は前回のお答えに書きましたが、黒田藩を含む北九州地方又は薩摩藩を含む九州全体は「農兵制度」を採用していましたので持っているのです。秀吉はこの刀狩をしてこの農兵制度を禁止しましたが、これ等の藩は守りませんでした。明治維新の立役者「鎮来さん」は伝統ある農兵ですよ。ですから幕府を倒したのです。上記の件かこの事の何れかです。歴史では刀だけではさして証にはなり得ないのです。家紋などの異なる永沼氏を名乗っている経緯から「農兵」であったと考えます。
その村や郡の農兵を取り仕切っていたのは「庄屋の永沼氏」で、戦いに勝つと農兵には永沼氏等の氏名や家紋を使用を許したのです。黒田藩などは秀吉から天皇家の桐紋の使用を許されていましたので、これを褒美に村人の農兵には特別な場合に於いて(祭祀、式典、登城、墓紋)桐紋の使用許可を与えたのです。誉を助長させたのです。
この桐紋は秀吉が頻繁に大名に与えたので、その全国の授与大名は又家臣や農兵に限定許可しました。全国に桐紋が多いのはこの理由なのです。
この様に歴史史実による雑学私観の判断が必要になるのです。ルーツ解明には。

其の他、判断が確実に出来るものとして、家紋を含む、氏寺、菩提寺、宗派や過去帳や戒名や墓、仏壇等、伝統古物を証しとして調べられるように。
先ず、戒名は3つの意味合いを含ませて寺は作りますが、その家柄身分で戒名の作りが異なるのです。一目瞭然で判ります。
過去帳の有無は九州ですので残っている筈です。下克上の嵐があまり起こりませんでしたから、江戸中期のご先祖の戒名が存在するかで決まります。
宗派はお家の場合全国氏の家紋8000の中にも有りませんから永沼氏の氏を構成するほどの大きさではない極めて小さい氏である個人家紋のことを意味します。
大きい氏は氏家制度ですので氏寺までとは云えませんが一定の決めた氏の菩提寺を持っていて一族の仏を一箇所に定めて祭ります。
墓の形や石でも判りますよ。花崗岩の墓石では明治以降の墓になります。江戸期の墓石は仏教の決まりでこの石は仏が安住して眠れないとの戒めがあり使用していません。多くは砂岩や泥岩から作ります。自然に戻るという教えに基づきます。
ご宗家に近い本家が判別できれば維新戸籍簿に詳細に記述されています。
墓処に付いては時期が問題です。江戸中期頃のもので、墓石の件は勿論、輪塔がある事です。
仏壇にはその身分家柄に相当する宗派の仏壇が置かれています。
伝統の年代古物には検定では難しい専門域ですがそれなりの歴史的背景の意味を持っています。

何はともあれ、如何なる口伝を護るもそれはそれなりに意味のあるところであり、それをどう扱うかはその口伝を聞いた者の如何で、ある意味で宿命です。それの扱い方です。信じるも良し信じないのも良し黙認するも良しその取り扱いに自己の度量の如何によるものと思います。
しかし、一面伝統あるも地獄ですよ。その人物の心得如何と成ります。

お答えは常に青木氏のサイトを青木氏の歴史資産として管理するに必要とする責任と考えています。
史実を遺して青木氏の人の責任に於いて史実を全てに明確に網羅せんとしています。それを「伝統」としてその生き様を振り返る事を後世に委ねて遺しています。

何か有りましたら、何なりとお尋ねください。青木氏に関わらず忌憚なくお答えします。



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