青木氏氏 研究室
このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

[研究室トップ(ツリー表示)] [新規順タイトル表示] [新着順記事] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

  [No.223] 青木氏ステイタス お仏像様 2
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/02/11(Wed) 08:34:27
青木氏ステイタス お仏像様 2 (画像サイズ: 283×213 29kB)

Re: 青木氏ステイタス お仏像様 2
副管理人さん 2007/06/24 (日) 09:45
青木氏ステイタスの仏像
(写真添付)

「青木氏ステイタス お仏像様 1」の続き。

小説やドラマのように直ぐ誰でもが商人に成って成功したではない。今の自由資本主義の社会ではないのである。異なる封建的氏家制度の仕組みの中での事である。兎角勘違いをする人が見られるが、決して誰でもが慣れる訳ではない。
この様な条件を備わっている者は1%にも満たないであろう。

そして、ここには、戦乱で衰退、離散、滅亡した一族が山や海岸渕などに逃げ込み村を形成して生活をしている。これ等の者の一族が生き延びるには裏社会の盗賊、山賊、海賊だけの潤いでは無理である。
これ等の者達を養うだけの力が必要である。それを実行出来る人物が二束の草鞋を採った豪商である。
彼らの経済的利益の幾分かは、彼らに回る仕組みが、事の善悪の問題ではなく、この当時の普通社会の仕組みなのである。
そして、この仕組みが、血縁関係で成り立った各地の豪商間の連携が成立して、益々と拡大膨張して行くのである。
これが伊勢青木氏を始めとして5家5流の青木氏とその24氏に広がり、更に藤原秀郷一門とその青木氏主要9氏と母方で連携が起こり、青木氏とその血縁族に関して、四国、中国、中部、関東、東北、北陸とその連携(シンジケート)は日本最大のものとして拡がるのである。これだけの仕組みを持つのは単独では他に無いのではないか。
だから、上記した最大「危機」にも子孫を遺せたのである。普通では滅亡である。
ここが、他の氏と異なる青木氏の古い歴史からなる所以でもある。

現に、源氏一族は11家11流ありながらも単独では本流、支流、分流、係流は完全滅亡である。この仕組み(二束の草鞋策)を作らなかったことに依る。それは、余りにも高位というものを全面に押し出した事によるものであろう。
むしろ、作ろうとしても出来なかった政治的なものがあったのであろう。
(注 江戸時代に源氏一族と名乗る氏は殆ど偽である)

その意味で、同じ同族であるが、伊勢の青木氏を棟梁として、5家5流の賜姓青木氏は、この一戦を踏み越えた決断があったからである。藤原氏も、この一線を越えて、同様である。

例えば、藤原氏として有名な豪商、即ち、「讃岐籐氏」と「讃岐青木氏」一門は、四国一帯と安芸、美作一帯の血縁一族と、出雲大社の亀甲紋で有名な氏子一族を束ねていた。
そして、その組織は、昭和20年ごろまで瀬戸内一帯の廻船問屋を束ねて続いて来たのである。
このシンジケートが、摂津より西側を陰の圏域として押さえ、四国への賜姓青木氏の逃亡を助けたのである。
むしろ、このシンジケートに組する人々が、「豪商」という大会社組織の社員として、構成していたとも言える。

そして、思い返せば、現在の我々が生存し子孫を残しているのである。もし、このこと即ち、助け合う「横の繋がり」(シンジケート)が無ければ、滅亡であった筈である。
敢えて、ここで「シンジケート」を力説したのは、余りにも現代感覚で簡単に生存を考えている人が多いかを憂いてのことであり、我々は青木氏に関しては、決してそう有ってもらっては困るのであり、敢えて史実を持ち出して力説して懇願しているのである。

これは言い換えれば、”人は何故にこのシンジケートに参集するか、そのものは何か”と云う事であり、それは青木氏で言えば、この青木氏のステイタスの”「お仏像様」の元に助けられた”と言えると考えるのである。

つまり、この「お仏像様」は、ただの木の物質では無く、古来よりの始祖、元祖、先祖の「御霊魂」そのものであり、そのステイタスの「お仏像様」は擬人化されたものなのである。
だから、「共通のシンボル」としてここに「人は参集する」のである。この「旗の下」に即ち「お仏像様の下」にである。
あくまでも、「お仏像様」は先祖人括りの「人」なのである。

ここで、場違いの感があるが、より理解を深めてもらう為に、観念論では無く、科学的な根拠を次に示す。

「人」とは遺伝子的に、脳の中で無意識の中に、その様な「深層思考」の原理が働き、その様な心根を持っているのである。
人の脳は、無意識の中で、「3つの思考原理」が先ず連続的に必ず働く様に成っている。
物事がおこった時、人の脳は、「計画」し、「判断」し、「実行」する様に必ず働くのである。
この時、この3つを思考する時のパターン(思考原理)は女性と男性では全く異なっている。
それは、夫々の「性」(さが)の目的に合ったように深層思考する。
このことは長くなるので、後日レポートするとして、この「3つの思考原理」の下で、人の脳、特に男性の脳には次のような現象が起こる。
現実に、現代医学では、上記のステイタス(お仏像様)様なものに執心する事が証明されているのである。

人の頭の左の耳の上にある「線状帯」と言う所があり、この中に「中紀帯」という15ミリ程度の部分がある。
ここで、男性だけに働く部分がある。この部分は、先の事を行動予測し、予期して、一つの心理の基に思考原理が働き、共感集中する働きを行う場所なのである。
この脳の働きは、人類化した時から、他の動物以上に進化し発達した部分で、人類は生活の糧を得るために猛爆たる自然の中に入り狩をする。これは食うか食われるかの生存競争である。現代でも形は違ってはいるが同じである。
従って、今起こす行動が、先にどの様なことをもたらすのかという事を予期する働きをして身を護るように成った。
人類は他の動物に比して攻撃的能力は弱い。
しかし、予期して、共感して、集中する事で対抗する事が出来ると無意識の内に考え、学習し、進化して本能化したのであり、線状帯(中紀帯)のここが働く様に成ったのである。あくまでも、この働きは、その様な目的行動をする男性にしか働かない。
女性は哺乳動物として、その「性」から起こる元来の目的、即ち、「子孫を産み育てる」と言う事から、この脳部分の進化は起こらなかった。余り必要性がその生理上の構造からなかった事を意味する。

ここは、情報を蓄積する左脳部分の上側面にあり、つまり、「学習の知恵」の蓄積部分である。人は弱い身を護るために、学習して知恵を出し、その働きを蓄積して進化したのがこの部分である。

そして、その為に、次第にその局部が進化して、本能として、「先を予期」し「一つに共感、集中する」能力が付いたのである。
では、この働きでは女性も多少なりともその行動をする事があるとすると、進化する筈であると考えるであろう。
ところが、この働きが起こらないように脳は出来ている。
この歯止めの働きをするのは、脳の後ろの大脳の上の左横(脳幹の左)に、丁度、餃子のような形をした脳部分がある。
ここは、「脳陵帯」という部分で、男性と女性の「思考原理の違い」と、「体の機能差違」をコントロールしている脳である。
従って、女性は男性に絶対に成れないのであり、当然に思考原理も絶対に女性は男性の思考原理を起こさないように出来ているところである。
つまり、この「脳陵帯」で歯止めが効いて、この「中紀帯」は、その「性」の目的で、男性にしか絶対に働かないのである。故に、男性には間違いなく、”先を予期、予測して、先祖の「御霊魂」に参集する”と言う「無意識の深層思考原理」が働く事が証明されるのである。
(注意 この事で、少しでも争いを避ける為に、女性と議論しても絶対に議論は、深層思考原理で管理されて、噛み合わないことを忠告する)

それでは、トレーニングで例えば、この時に、上記の信長に対してステイタスを持つ青木氏に問題が起こったとする。
その問題に付いて、3つの思考原理が無意識の内で起こる。
先ず、脳の中で、その問題の処理に付いてどうするか「計画」する様に働く。(男性では「理想」に基づく)
次に、その「計画」に基づいて、状況を見て如何に成せば良いか「判断」する。(男性では「合理」に基づく)
そして、最後に、その判断に基づいて、精神を共感共鳴して「実行」する。(男性では「現実」に基づく)
(男性は、「理想」「合理」「現実」で、3つの深層思考原理を無意識に脳は働かせる。)
この3つのことは瞬時に働く。
ここが「経験と頭のよさ」に基づくところで、それは早さ(脳の回転)に起因するのである。これが資質(個性 国民性)に拘る所となる。つまり、一番目が良く働く人、2番目が優れている人、3番目がすばやい人等が起こる。
3つを持ち備えた者が、「有能な人物」となる所である。これを経験が補うのである。

さて、「理想」には、武士として、尻尾を丸めて逃げる事はない。当然、抗戦する事が最善と決める。
次に、「判断」には、闇雲に戦うのかを状況を検証する。政治、軍事の力関係は劣る。しかし、前哨戦の経済的な力は劣らず、むしろ、優れている。経済力で対抗すると決める。
最後に、「現実」には、「経済力」の基と成っている「横の組織」(全国の血縁関係やシンジケート)がある。現実的には直ぐにでも「対抗力」として使える。しかし、「横の組織」の「共通意識」を求め無くては結集力にならない。
現実に1000年も生き残って来た血縁者共通の「青木氏の始祖、元祖、先祖」の「一括り」の「御霊魂」がある。
そこに、1000年も何よりも大事に護ってきた「お仏像様」がある。人の深層心理はこの下に結集しようと働く。
「横の組織」の心に語りかける。各人の脳では、「共感共鳴」が起こって、一致結束して抗戦開始である。
そして、この様に3つの思考原理は働き始めるのである。

「横の連携、関係、繋がり、集まり」は元より本能であり、必然的に働くものである。
現代化と多様化することで、人の脳は、この部分の動作が退化して、薄らぐのである。しかし、心根は本能として持っている。現代と異なり、氏家制度の社会の中では、この部分が敏感に働くのである。

この様にして、史実として過去の歴史の事件の検証の全ては、この条件に適合しているのである。
必然的に、これが人の「心で結ばれた勢力」であり、無意識の「心の集まり」になるのてある。この様に現代医学でもその行動思考パターンは証明されている。

故に、この皇族賜姓青木氏24氏のステイタスの「お仏像様」の元に、横の連携を取り参集すれば、必然的に起こる現象から「最高権力者」と言えどもうっかりと手が出せない。

話を戻す。
更に、徳川と豊臣との戦いでは、伊勢青木氏(250で参戦 食料と武器弾薬等の物資の供給と搬送)を始めとする5家は徳川方に味方した。

実は、家康はこの事を知っていた。
秀吉から学んでいる。また、自らも、この失敗と経験を3度していて命からがら滅亡寸前まで行って助かっている。

一つは、武田氏との三方が原の戦いである。武力による無理押しをして大軍に負けた。「楠木正成の戦略」を採らなかった。
二つ目は、信長が死んだときである。堺の町に居た。直ぐに、逃げたが追っ手に追いつかれた。
この時、堺のシンジケートと伊勢伊賀者が助けに入った。三河まで護られて何とか逃げた。この時、シンジケートの重要さ強さを知った。
三つ目は、真田幸村(昌幸)の戦略と陣形が読めなかった事である。これは次に述べる。
(幸村は信州の真田昌幸の子孫)

軍事物資の調達、伊勢道、中仙道の通過経路の安全確保、食料の調達、ゲリラ戦の排除、などが勝敗を決めると知っている。戦場は伊勢より西である。伊勢シンジケートと伊勢青木氏(青木長兵衛 紙屋長兵衛)の圏外である。
豊臣側はこの点について問題は無く成ったし、堺の豪商で大名の小西行長が居る。
軍事勢力は小早川軍を取り込むことである程度バランスが取れるが、この伊勢−信濃ラインの経済とゲリラのシンジケートを味方に引き入れる事が勝敗の分かれ目であった。
つまり、2つのキーワードがあった。
軍事的には、小早川軍の取り込み如何。経済的には、伊勢−信濃ラインの確保如何。 この二つである。

だから、家康は伊勢路の手前で名古屋で長期間留まったのである。江戸からの秀忠本軍の中仙道からの遅れを待つこともあり、この信濃路のシンジケートの安全確保の担保が遅れての所以である。
この間、家康も、同じく伊勢の青木氏に3度も合力し参戦するように説得して名古屋で待っていたのである。
というのも、伊勢青木氏の一部分家は豊臣側に参戦したのである。
結果は、250をもって合力で参戦する事に決まったのである。
(遅れながらも秀忠も成功して一つのキーワードは解決した事になる。)

ここで、余談だが、気になると思うので、小説ではないが、その状況を史実を基に描いてみる。
問題は、小早川の出方如何となった。しかし、ここで誤算が生まれた。それは真田氏の軍略であった。
陣形と戦法に読みの違いが出た。

青木氏の参戦で無事に伊勢路を青木長兵衛の伊勢シンジケートで側面保護されながら進んだ。そして、戦場に着いた陣構えをした。しかし、家康はこの二つの懸念が未解決で動けなくなったのである。
この懸念は戦いで出た。鶴翼の陣構えに中央に長く一線状に突き出た長い柵で覆われた櫓構えである。兵の影は無い。この意味が判らなかった。(六稲三略の鶴翼の陣は普通はこの頭の部分は小さい。)
徳川軍が攻めたが、崩せない。小早川軍を見方に引き入れて陣構えを崩した。一気に攻めた。
ところが、ここで誤算の結果が現れた。徳川軍は相手の陣に深く進入している。しかし、中央の丘の上まで突出したこの中央の櫓構えから、突然に数十の騎馬の一団が幸村(昌幸)を先頭に疾風の如く手薄に成った家康のいる徳川本陣に突っ込んできた。瞬く間に目の前まで来た。徳川軍は突っ込み真田兵は逆に走る。合わせるとと50キロ以上の速さになる。とても周囲の護衛は護れないで潰された。家康の周囲は数人になった。家康は一人で慌てて逃げた。草むらに隠れるが見付かる。逃げたが幸村(正幸)の馬が目の前に現れた。万事急須である。刀は振り下ろされた。しかし、突然、幸村の号令の下に騎馬団の幸村(昌幸)等は引き返した。(伊賀と甲賀のシンジケートはこの時は間に合わなかった。)
家康は、逃げた人家の納屋に潜んで隠れたが、戦いに負け勝負には徳川の戦勝となった。人が追いつき集まってきた。
武田氏との戦いの結末の命からがらと同じ事が、又、自分に起こったのである。

実は幸村は、家康を打つことが出来るのは2つの条件の時だけであると見抜いていたのである。
その一つは、戦列を作って移動する家康の居所を押さえて、一局集中の各個攻撃で数十騎馬団で直角に側面を弾丸の速さで突くことで可能に成る。
その二つは、戦場で徳川軍が総攻撃を掛けて全軍が突き出した櫓構えより手前に来たときに、敵の攻撃を防ぐ為に作られた柵道を疾風の如く走り、数十の騎馬団が櫓構えより走り出し、一局集中の各個攻撃で、手薄に成った家康本陣を着くことで家康を討ち取ること可能に成る。

一に付いて、戦列を作って移動中の側面は弱いのである。従って、この側面を地元の地理を知り抜いたシンジケートの一団が、掃討作戦を敷きながら家康の居る側面付近を陰になって移動するのが戦いの前哨戦の常道である。
この時は、伊賀、甲賀、伊勢シンジケートが司ったのである。
これを、疾風の如く騎馬で抜く事で可能に成る。しかし、失敗の危険率は全く無い事ではない。
二に付いて、戦略が見抜かれなければ、一よりは失敗危険率は少ない。周囲にはシンジケートは戦場であるので無い。
この二つ以外は兵力差で殆ど不可能である。

元々は幸村(昌行)は紀州九度山に居て、伊賀集団や甲賀集団や根来集団と雑賀集団の職業シンジケートと、楠木正成で知られる千早村などを含む青木氏等による伊勢シンジケートラインは地元であるので知っている。当然に、有名な真田十勇士を抱え、軍司でもある幸村(昌幸)は彼らの動きも逐次把握していた筈である。
先ずは戦略として、この幾つかのシンジケートを騙し交わす事が先決である。成功した。そして、戦場でこの鶴翼の「櫓構え」編み出したのである。

国元を九度山に配置換えされて冷遇された幸村の武士としての意地と目的は達成されたのである。幸村(昌幸)は、これからの時代は家康以外にないと思っていたから世の為に生かしたのである。生かさなければ更に戦乱は続くと見ていたからである。
後に、幕府を開いたときには、この真田氏の兄の本家を引き立てたのである。

家康は、反省して、後に堺や伊勢や摂津等の豪商の持つこのシンジケートを匠に使った。
しかし、上記のシンジケートの集団を積極的には使わず、陰に存在した柳生集団を用いたのである。


話を戻す。
このことから本領安堵策で復興をとげ、伊勢松阪は紀州徳川氏の飛地領として特別にさだめられて、天領地であったために大商いを営みながらもここを護る青木氏の安堵が許された。

以後、青木氏と紀州徳川氏とは初代頼宣より大正14年まで親交があった。徳川氏との関係では多くの口伝や逸話が遺されているし、多くの手紙などが遺されている。紙屋長兵衛、即ち青木長兵衛は、水墨画や漢詩を教授し、和歌や俳句や禅問答などの相手として親交を深めた。この為に長兵衛の一族に永年に12人扶持を与えられていた。(長兵衛は世襲)

第5番目には、明治に入り、政治軍事は無くなった。その後、明治35年にこの紙屋長兵衛は倉庫の火薬に火がつき伊勢松阪の大火の出火元となり全財産を賠償に当て1000年以上続いた紙問屋は遂には倒産した。
この時、紙屋は伊勢松阪の侍屋敷町90軒に大店を2店舗の権利を与えられ、隣の玉城町の80%を蔵群として保有し、別荘を新宮に置き、堺にも店を持ち、千石大船3隻を保有していたが、全部を吐き出した。
出火時、家財道具や先祖伝来の宝物史料などは外に持ち出されたが、この仏像と数点の宝物のみを残し、再び火の中に入れさしたとある。
それ程に、この「お仏像様」は青木氏にとって何に換えても最も大事なものであり、先祖を「無の一括人」として思考し、それに繋がる一族郎党を「有の一括人」として思考の原点に置いていたのである。
この「無有」の思考は、仏教の浄土宗で言う「色即是空 空即是色」の教えにあり、大きな違いはないのである。

大まかには、5つの滅亡に近い危機と遭遇しながらも復興している。普通は11家の源氏の様に完全滅亡しているはずである。しかし、生き残れたのは、この「お仏像様」の神通力にあった。
青木氏のステイタスとしてこれを崇めて、この仏像を護ろうとして一致団結して一族が頑張った力事によりその神通力となって現れるものであろう。

この「お仏像様」には言い伝えがある。
この「お仏像様」の下に青木氏が集まることから、その祭祀を司ろうとして宗家に近い者が祭祀するとその者が祭祀に値しない人格を持ちえていないときは、必ず病気や家が傾くか死亡する等災難が起こると代々口伝で言われていた。
私の知る範囲としては確かにその通りに成っている。

この「お仏像様」の「戒め」に添って、実は何時の時代からか判らないが、青木長兵衛の「青木氏家訓10訓」が口伝で伝えられている。
この「家訓10訓」も5家5流の青木氏の共通する家訓と成っていたのではと考えている。

信濃と甲斐の道筋の途中に、現代でも伊勢町という地名がある。この伊勢町付近にも青木氏が存在する。
これは、伊勢青木氏と信濃甲斐の青木氏との繋がりがあった事を意味する。
当時の時代性から、「横の繋がり」があり、当然に、全く同じと言わなくとも、この家訓も伝えられて「お仏像様」の先祖の「一括人」の「戒め」(心の拠り所)と共に、その「一括人」が発言する「先人の知恵」即ち「共通する戒め」として護られていたと考えるのが普通ではないか。
ここで、「お仏像様」と共に、「青木氏家訓10訓」を次の第2弾のレポートで紹介する。
この「二つの戒め」を合わせて、初めて「一括人」(お仏像様)を「一括戒め」として理解が出来ると考える。
「青木氏家訓10訓」(第2弾の次回のレポート参照)

この様な意味合いも持った「お仏像様」に対して、これを護り通す力が私にもこの先祖が言う範囲には明らかに無い。依って、この取り扱いには、危険でもあるので慎重を極めていた。

しかし、現代に於いて、20年昔までは考えられなかったインターネットと言う情報提供メディア−が存在する。
これであれば、この「お仏像様」(一括人 ご先祖)「戒め」は当らないと考える。
随分と躊躇したが、今、この青木氏のステイタスの「お仏像様」を過去に於いて繋がりの合った5家5流青木氏24氏と、母方で繋がる藤原秀郷流青木氏116氏に対しても、この存在の史実を知らしめると共に、インターネットを通じての過去の史実を理解し、そのつながりに近い親交を計るべきだと考えて、初めて紹介をしたものである。

恐らく、江戸初期頃までは、この青木氏ステイタスの「お仏像様」の存在は知られていて、この下に危機に於いて青木氏は共感共鳴していたたものであると考えている。そこから約く400年を経って、再び、その存在を改めて知らしめたつもりである。

実は、この「お仏像様」が江戸初期まで知られていた事が、判る証拠があるのであるのでそれを特に紹介する。

江戸幕府樹立後、家康は、息子の頼宣を紀州に配置し、天領地の伊勢松阪を飛び地領としたときに、頼宣は松阪城で紙問屋青木長兵衛と面会している。この事は伊勢松阪の有力勢力者でもあり、上記の豊臣との合戦に於いての合力の謝礼も含めてもあった事からの面会であったが、この時の「口伝」が伝えられているし、多くの手紙が存在する。

実は、この面会時に、それを示すハップニングが起こったのである。。
青木長兵衛は城に上がり、家来の余りにも丁重なる”もてなし”で大広間にて待った。
当時の作法では考えられないもてなしである。そして、一段高いところ上座の上段の間に頼宣は現れた。
ところが、突然、頼宣はその上段の上座から降りて、手招きして下座して座って待った。
驚いた青木長兵衛は、確かに家柄は数段に伊勢青木氏の方が上である事は知っているが、時の最高権力者である。
「お仏像様」をステイタスとし、紋付裃に綜紋の笹竜胆の家紋を着けた青木長兵衛は処置に困った。
その時、徳川頼宣は言った。”どうぞ上座にお座りください”と。青木長兵衛は赤面して慇懃に丁重に固持した。
再び、頼宣は言った。”伊勢青木氏は御世から伝え持つ御印のある朝臣の皇子の祖に有らせる。どうぞ上座に”と。止む無く青木長兵衛は、妥協案を申し上げた。上段に同座する事を。
そこで、頼宣も同意したが、これでも仕来りはまだあった。上段の上座をどちらにするかである。
再び、”先祖が如何にもであるが、今は徳川氏の御世である”。そして頼宣に上座を進言した。これは解決した。
しかし、未だ、変である。家来も押し黙って挨拶の礼から戻さない。頭を下にしたままである。
青木長兵衛は”あっ”と気が付いた。それは、座布団である。上段の二人が座布団を敷いていない。つまり、面会の仕来りの儀礼は出来ていないから家来は挨拶の作法を戻さないのである。
青木長兵衛はあくまでも下の者の儀礼を採っていたのである。しかし、相手は逆の儀礼を採っていたのである。ここが全て噛み合わないのである。
そこで、青木長兵衛は座布団を敷いた。とすると頼宣も敷いた。家来は頭を上げた。やっと、面会の作法は完了したのである。
この後、話好きな頼宣との話は弾み、以後、この作法に基づき親交を深めるに至るのである。この状態は大正14年までの、徳川慶喜と将軍の座を争った14代までの紀州藩主と代々親交は続いた。

この間には、8代将軍に成る吉宗に請われて、紀州藩から伊勢松阪の紙屋長兵衛の商法を見込まれて、一族の者(六左衛門?)が御家人となり江戸に同行し、「享保の改革」の中心人物として吉宗を勘定奉行として補佐した事もあったし、紀州徳川家の納戸役(経理)としても、家来としてではなく特別扱いで伊勢青木氏(紙屋長兵衛一族)は協力したのである。
江戸に同行した伊勢青木氏(紙屋長兵衛一族)は旗本として高禄を受けて代々納戸役として定住したと伝えられている。子孫は確認出来ないが、史料(青木氏の官位と職位の研究 参照)では勘定奉行、納戸役の青木氏が存在するが、この者であろうと推測する。

この様に、この「お仏像様」に関わる事は、江戸初期までは、青木氏のステイタスとして知られていた事を示すものである。
ここで、この「お仏像様」と書いたが、これは「生仏像様」であると考える。私の学力の無さで読み取れない。
確かに、”お”と”様”が二つある事はおかしい。これは、上記した口伝の総意の意味から後者で有ろう。
「一括人」の生きた先祖のステイタスを「生仏像様」と行書で記したと見ているのである。

既に、このレポートの目的は上記したが、このレポートでは書くことをためらう口伝もあり、「生仏像様」のステイタスが持つ総意を伝えられたかは疑問の域を脱していない。
次回は、この「生仏像様」に纏わる「青木家の家訓10訓」をレポートする事で、ご理解頂けるのではと推察する。

「青木氏ステイタス 生仏像様」の第2弾(家訓)のレポートにご期待ください。

写真添付



- 関連一覧ツリー (◆ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 削除キー