青木ルーツ掲示板
このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

[掲示板トップ(ツリー表示)] [新規順タイトル表示] [新着順記事] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

  [No.425] Re: 讃岐の青木です。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/23(Fri) 18:58:14

Re: 讃岐の青木です。
青木研究員 さん 2006/08/13 (日) 14:40
讃岐の青木さんの代理投稿です。

お世話になります。讃岐の青木です。里の大伯父に会って話しを聞いてきましたので、報告いたします。以下の文章省略。

讃岐の青木さん 今日は。
お便りありがとうございます。色々と調べられたようですね。努力のおかげでお家に関係する重要な情報が五つもありました。

一つは藤神様の祠です。
二つは獅子舞です。
三つは加茂神社です。
四つは奉納相撲です。
五つは岡山です。

では先ず、1番目の籐神様の祠です。
讃岐の藤原秀郷氏宗家の一門を『讃岐籐氏』と呼びます。例えば伊勢の藤原秀郷の一門(藤成、基経)の場合は『伊勢籐氏』と呼びます。そして、結局、その氏を『伊藤』と呼ぶようになったのです。そして、それらの青木氏を含むその一門を祀る神を『籐神』と呼びます。

場合に依っては讃岐の宗家の現在の姓は「讃藤」で”さとう氏”と呼んでいることも考えられます。
”さとう”には沢山の「さとう氏」があリます。「佐藤、左藤、讃籐」の様に前は2つは役職名を、後ろは土地名を採っていることが考えられます。このいずれかです。讃岐付近にはかたまってさとう氏なる氏が必ず存在します。それがお家が護衛役として同行した一門の藤原秀郷の一族の宗家に当ります。つまり、讃岐籐氏です。

参考までに、讃岐籐氏は次ぎの氏名が名乗っています。
西隆寺、豊田、柴野、平尾、有岡、竹田、成宗
この氏名は全て庶流です。本流宗家筋では有りません。

室町末期から江戸初期頃に武士になったものが仕官するに当り氏名と系譜と家紋が必要になりました。
少しでも何らかの関係があったりした場合にその一族だと名乗り氏名、系譜家紋を偏纂と搾取して名乗りました。出なければ仕官は無理と成ります。

参考に。
そもそも、徳川氏は史実としてこの偏纂と搾取で将軍になれたのですから。
任官するのに朝廷は大変抵抗しましたが勢力に負けました。
16代目の天皇の第7位以降の皇子で僧侶であつた者が、還俗して全国行脚して三河の小さい土豪の家の門前に立ち、そのまま松平の家に居着き、そこの娘の婿入りをしたとするのです。

この僧侶がもと皇子であるかは疑問ですが、であるので還俗する時は源氏と名乗る事になっていましたので源氏の血筋を引いていると主張。
しかし、この16代の源氏は室町期の南北朝の時代で源平時代は既に終わり3百年以上も経ち天皇が二人いて皇子も誰が居るか判らない状況の中での主張です。源氏を名乗る習慣とっくには終わっています。豊臣秀吉と同じです。

朝廷は認めませんでしたが生活費に事欠き、土塀が崩れ去れ悲惨なありさままで追い込んでやっと認めさせたのです。しかし、源氏系である事は認めましたが「源氏頭領」だけは認めませんでした。「源氏頭領」だけがなれる幕府を開ける「征夷大将軍」ですが、「源氏長者」として矛盾のある将軍を認める事で朝廷は妥協したのです。此れが現実です。

ですから、この下の御家人は氏名と系譜と家紋を殆ど偏纂し搾取したのです。

話は戻します。
藤原秀郷流主要5氏のように高位の家柄は自らの神社と神主を持っています。この祠も「籐神」さまですので、青木氏の「氏神」を持っていた事に成ります。
そして、その氏神様がお家の側にあるとすると、矢張り、お家は本家筋系の讃岐の「下がり藤紋」を綜紋を持つ青木氏であリます。以前のレポートにも書きましたが矢張りありました。朽ちて記録などがなくなっているのが残念ですが。

次に「獅子舞」ですが、この獅子舞は天皇家の守護神の熊野神社(紀州の和歌山県)系列の全ての神社に伝わる神にささげる舞です。
この「獅子舞」を奉納するところには神社の鳥居門よりはいった所に一対の必ず「獅子頭」の石堂または石碑があります。

この「獅子舞」は源氏系列の神社、特に清和源氏の八幡神社にも伝わっています。つまり、源の八幡太郎義家を祀る神社にもあります。

つまり、天皇家か皇族賜姓族かその一族と交わる藤原北家筋にこの舞が残っています。
特に、熊野神社系列の奉納舞として必ずあります。
この獅子舞は清和系の獅子舞と藤原系獅子舞とは舞い方が少し違っています。

此処でお家の「獅子舞」ですが、もうお判りと思いますが、藤原秀郷北家筋主要5氏の内の一門でもありますので、この「獅子舞」はあるはずです。
当然にその「獅子舞」の祠付近には「獅子頭の石堂」があった筈です。
赴任した時期の平安末期頃にこの祭祀に熊野系神社から招きいれた可能性が高いと見られます。
他の土地の「獅子舞」のと同じ様に其れが「加茂神社」につながっているのではと考えます。

それが更に、決定的な証拠になります。
それは次ぎの三つ目の「加茂神社」の存在なのです。
この「加茂神社」は熊野神社系列の神社でこの「加茂神社」は伊豆地方と千葉房総地方と三陸地方にも存在します。そして、この地方にも「獅子舞」が存在するのです。

では何故かというと、それには次ぎの理由があるのです。
この「加茂」という名の発祥は和歌山県の熊野神社に由来するからです。
熊野神社の社領は和歌山県海南市鳥居と言うところが最初でそこから南紀までがこの神社の社領です。
この鳥居というところに熊野神社の第一番目の鳥居があったのです。此処から此処からが正式な熊野古道です。世界遺産に登録された熊野古道は南紀にしていますが。
各平安期からむ炉町期までの天皇は毎年熊野神社参詣に出かけたのです。
後醍醐天皇は在任期間中24年間の内25回も参詣しています。

この時に天皇に「奉納舞」としてみせたのがこの「獅子舞」なのです。

その習慣が各源氏の守護神と藤原北家一門の守護神に慣例として用いられたものなのです。
つまり、高位で皇族との血縁ある氏の奉納舞なのです。

この第1番目の鳥居のある鳥居地区のところから南に1キロ程度上ったところに熊野神社の第1番目の神社の藤白神社があり、此処からこの獅子舞の奉納が始まります。
そこより一つ山を越えると「加茂郷」という村が有り、この村に「加茂神社」があるのです。ここが全国に広まった「加茂神社」の発祥の元なのです。

では何故広まったかというと、この村は同時に海に面していて漁業が盛んでした。
そして、この土地のものが黒潮に乗って黒潮筋に黒潮漁法を伝えたのです。
その子孫が各地に定住してその子孫の氏子達が守り神として加茂地区から迎え入れて「加茂神社」を造ったのです。

加茂だけでは有りません。勝浦や下津や田辺や由良や和歌山沿岸の土地の地名が各地に伝わっているのです。そして、この奉納舞を広めたのです。

四国の土佐や讃岐地方でもこの黒潮漁法が元で獅子舞も庶民にも広く伝わったのです。

この黒潮漁法とは、船の交尾より糸を出し10メータほどのところに広葉の形をした木の板を付けその30メータ後ろに針と疑似餌をつけて船を走らせる漁法です。
木の葉型した板は音を立て魚が跳ねた形になりますと魚の習性で音の周囲に集まるという事を利用した漁法です。
此れは太平洋のアモイ族が編み出した方法でこれを鯨やのマグロの遠洋漁法する紀州の漁民が物まねで会得し大漁高として有名になり平安期頃から各地に伝わったものなのです。

この様に「加茂神社」の「獅子舞」は「奉納舞」として上記の氏の一つとして皇族に縁のある藤原秀郷一門が定住する地域に広まったものなのです。
当然に讃岐の青木氏のもとにも。そして庶民の祭りなどに使う芸能舞としても。
瀬戸内海では水流が速く内海ですのでこの漁法は向きません。
単純に加茂神社からこの伝統を他の関西の藤原氏一門と同じく招き入れたものと考えられます。

上記した藤白神社でもつい最近までこの二つの行事が行われていました。
獅子舞は残っていますが、相撲は昨年なくなりました。

更に、此れだけでは済まないのです。

この「加茂神社」の「獅子舞」と同時に「奉納相撲」も行われたのです。
「獅子舞」と同じく上記の3つの系列ではこの「奉納相撲」も行われていました。
そもそも最初は「相撲」は神にささげ、楽しませるものであったのです。
特に相撲の中には面白おかしくする舞のようなしぐさでする相撲(ショッキリ相撲)があります。これが神にささげる最初の行事であり、当然、熊野詣で毎年来る天皇家の人々を楽しませたのです。

天皇にささげる相撲は舞と同じく神にささげる相撲でもあったのです。

此れも「獅子舞」と同じく皇族系の一門が住む讃岐の土地にも伝わっていたと云う事です。

そこで、もう一つ伝わっていないかお調べになると完璧に伝統が残っている事に成ります。

それは、「曲水の宴」です。
大きい庭に山から水を引き池にしてその池を庭中を取り囲む様に廻します。
そして、この池にところどころに座って歌を詠みそれを池に流します。
次ぎの人はその歌をとり、返歌して更にその返歌に対して次ぎの人が返歌を繰り返す。そして、その間毎に杯を流して飲み干すまでに返歌するという実に優雅な平安期の歌のゲームです。
これが当時の神にささげ天皇に報じるなどのこの伝統のセツトです。
武家ですので少ないかも知れませんが何らかの形で遺されては居ないでしょうか。

このことから、このような伝統を重んじたことで見えてくることは、讃岐の藤原秀郷流青木氏の「下がり藤紋に結び雁金紋」のお家の一族はこのような由緒ある伝統を現在までに伝えていたのは紛れも無く宗家筋の一門であり、且つ、藤原秀郷流青木氏の主要9氏(直系1氏と直流4氏と支流4氏)のうちの直流4氏のうちのかなり宗家筋の一門であったことが覗えます。

祠を建てたときにこれ等の奉納行事を熊野神社系から招き入れるだけの力があったことを意味します。

更に、間違いなく、讃岐では宗家本家筋から分流した末裔であろう事が覗えます。
そこで私は副紋を「結び雁金紋」としたことには一つの意味があると見ています。

結び雁金紋は前記レポートでも書きましたように土佐出身の土佐坊昌俊が元祖であり、1192年頃に源の頼朝に信頼されて重用された人物で、頼朝より与えられた家紋です。

この頃、讃岐のお家を始めとして藤原一門は鎌倉幕府が成立して全ての職を失い離散して生き残りに翻弄されていた最中であった時期です。

この時に生き残りさくとして、宗家本家筋として何とか一族一門を救おうとして奔走して居た筈です。これは自然の成り行きであり、生存の可否を決める行動ですから、渡りに船の土佐出身の日の出の勢いの頼朝につなぎの効く人物としてみて捉えて、接近し血縁を申し出たのではないかと思われます。

現に土佐坊の一族は元祖であるので元もは豪族ではないし、大きくは無いのだから、氏家制度の社会のもとでは血縁の釣り合いからもありえない家柄です。
結べる家では有りません。
その後も大きい一族では有りませんから同じ条件下であった筈です。

男系が絶えて養子縁組での跡目ではなく生残りとして養子を本家筋に入れて家を立ててその土佐の坊の勢力を見方に引き入れて他の族からの攻撃を避けたものでは無いかと見ます。
ですから、お家をはじめとして、他の藤原秀郷流青木氏と違い家紋を変紋せずに副紋使用としたのだと考えます。
直流4氏系列の多くは副紋使用しているのです。
藤原秀郷流青木氏の直流系の維持を図ったのではないかと思います。そうでなければ、姓をそのままに変紋することで生残れるのですから。
その宗家筋の維持の義務と伝統の維持の責任があつた事だと見ます。

その証拠に後に手広く商いをしていたことが伝えられていたわけですから。

そこで、最後の広島、岡山の地族の問題です。
広島、岡山には讃岐の一門が移動して定住して末裔を広げていることは史実ですが、この一族には下がり藤紋に結び雁金紋をはじめとして、家紋が丸に三階松紋、抱き若松紋、亀甲紋、五瓜紋、剣片喰紋などと血縁を結んでいます。
そして、これらの家紋に変紋しています。

これらは、お家の一族の末裔が広島、岡山に移動して藤原秀郷流青木氏として血縁を結んだ土地の豪族です。
特に2つの松紋の一族はこの讃岐籐氏の血筋を庶流に持つ一族とも血縁をしています。

つまり、遠縁の藤原一門の血縁族と再び結んだことを意味します。

松紋では研究室のレポートを一読ください。

以上で、5つの情報に付いてレポートしました。
此れでお家の一族の横の環境が更に詳しくなり、ルーツ解明が進みました。

一寸した遺された事がルーツにとって歴史上の大きな解明になるので、又、是非何か出ましたらお知らせください。

ルーツが縦横と拡がると楽しくなりますよね。
お待ちしています。



- 関連一覧ツリー (◆ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 削除キー