青木ルーツ掲示板
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  [No.430] Re: 讃岐の青木です。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/23(Fri) 19:11:18

Re: 讃岐の青木です。
青木研究員 さん 2006/09/07 (木) 10:16

岐の青木さん おはようございます。

早速の返礼有難う御座います。
早速ですが、お尋ねの件ですが、
先ず、「四つ結び雁金に違い鷹の羽紋」の件ですが、結び雁の頭を内側にして羽先で四角に繋ぎます。真ん中に隙間が出来ます。ここに違い鷹の羽を入れます。「違い鷹の羽」は浅野家の綜紋ですが、青木外のことですのでこの氏の詳細はわかりません。鷹の羽の違いの内容でどこの浅野家かがわかります。
この違い鷹羽は安芸です。

結び雁金紋の主要紋の氏は安芸寺田氏ですが以外に有りませんので讃岐安芸の範囲での血縁となれば寺田氏以外にないと思います。

寺田氏そのもののことはよく判りません。
青木氏と繋がる家紋元はどこかとの調べた範囲での記録ですので。

我が家の記録は3つの方法の口伝と記録帳と史書でつなげていますが、明治35年に出火して松阪の大火となり店は焼失して記録は少なくなりましたが、
判る範囲としては安芸に廻したものは艘と成りますので千石船と成ります。

祖父の代まで950年も続いた店であつたので口伝は多く遺されています。
脚本家のジェームス三木氏や司馬遼太郎氏や当時の5人の歴史小説家の記録から我が家のことが多く判明しています。
NHK大河ドラマに3度も出て来ました。

人員は別の記録から身内で250人を手配差配出来る数としたとされていますが、船に乗った数はわかりませんが。積荷や依頼主の記録は明治35年の時に焼失しましたので不明です。大石氏に家財買い上げの為に3艘廻したことまでです。
同じ事をどこで調べたのか判りませんがジェームス三木氏も調べています。

記録で一番古いものでS647年の事まで史書でわかっています。口伝と日本書紀や日本世記などからも。物的証拠もあります。
いま祖父の代になくしたものを私がもう一度我が家の歴史書を後継ぎとして焼失したものごとを再生しています。40年掛かっています。
その過程で青木氏全体のことも判明してきたのです。
同じ事を近江の佐々木氏の方も佐々木氏のことを調べられていて一部青木氏でで重なる部がありまして参考になりました。従って佐々木氏のことも把握しました。

参考に。
近江佐々木氏は天智天皇の第7位皇子の川島皇子ですが、第6位皇子は伊勢王の施基皇子(越の道君伊羅都女の子)で伊勢青木氏の元祖です。二人は異腹の兄弟です。

本来天皇の賜姓は第6位皇子までですが天智天皇は特別に第7位の皇子にも賜姓しました。近江王の川島皇子(忍海造小竜の色夫古娘の子)佐々木氏です。

此処で、繋がっていたのですが調査は合っていました。
このように色々調べてゆくうちに今回のように広がり始めて又資料も増えてゆきます。
直接の資料を求めるだけではなく関係する資料から広がりが見えてくるのもこのルーツの極意です。今回のように。

大野氏がご先祖でしたか。忠臣蔵で有名な方ですね。
このお家のことを調べるとまだ色々と出て来るかもしれませんね。
紐解きには私もずいぶん苦労しました。

それと寺田氏のことを何らかの方法で調べ出すことが先ず広がりを出す決め手かも知れません。藤原氏は判っていますから。郷土史を利用しては如何ですか

参考として、お家のルーツの推測案を立てていますが。
そのことに触れてみたいと思います。

四国伊予にも藤原秀郷の宗家子孫が赴任しています。
藤原行長が伊予に赴任していますがここの青木氏は充分に確認出来ません。

行長は永嶋氏の元祖ですので護衛は子供の永嶋氏が担ったのではないかと思いますが疑問が残ります。
場合に依っては讃岐の青木氏か、淡路の青木氏が護衛を担っていた事も考えられます。伊予にお家の末裔が瀬戸内だけではなくここにも存在していると思います。

行長が赴任しても子供が護衛としても初期にはまだ難しいと思いますのでこの地域にいる直系の青木氏のお家がカバーしている事が濃厚です。
伊予に青木氏か永嶋氏(青木氏と同じく大勢力を持っていました)が存在するかです。
永嶋氏は名古屋地方から以西に分布しています。地名として残っています。(九州の永嶋氏は別)

この事によって見えてくるものが沢山あります。
お家のご先祖の位置付けです。つまり伊予は土佐南部と共に雁金紋の本来のルーツですので、此処で雁金紋の分家筋の結び雁金紋の氏から跡目の養子を入れての血縁を結んでいることも考えられます。其れが寺田氏のルーツでは。そして後に安芸で子孫を広めたとも考えられます。

伊予に青木氏か寺田氏がいるかどうかです。
つまり、副紋を用いたのは安芸の寺田氏から跡目を入れたというよりも地理的に伊予から跡目を入れた可能性が高いと見ているからです。

お家の家紋が副紋に変紋を余儀なくされた時期は安芸の結び雁金紋を広めた寺田氏の時期ではないと見ています。
私はこの推論が極めて高いものと見ています。
そのルーツとすると時期が合うと見ます。室町末期から江戸期前の混乱期にわざわざ変紋をするかどうかです。
私はその前だと考えています。土佐坊の後の鎌倉後期から室町中期までの頃ではと推測します。

つまり、藤原氏が離散して少し落ち着きが出た少しあとの戦国時代の前の「下克上」の時期頃(1340頃)と見ています。
(この時、伊予は下克上の人物の河野氏が支配していた 国堺で讃岐籐氏等とも争っている)

一族を守る為に日の出の勢いのこの雁金紋の氏を利用したのではないかと見ます。そうすれば海向こうの氏ではなく地元の範囲の氏で勢いの有る氏と成ります。
お家は岡山、淡路、讃岐と広く子孫を持っています。もし、跡目が無ければこの大きい子孫の中の縁者から養子跡目を入れることで充分に済み家紋を副紋とすることは有りません。

それではすまない存続に関わる大危機に立ち至ったことを意味します。
其れは離職した経済的危機の中でも、更に「下克上」が起こってしまった。
「下克上」は藤原氏や青木氏や社会を牛耳っていた階級の撲滅ですから、泣き面に蜂です。(殆どの40ほど主要氏は壊滅した)
中級階級以下の反乱ですから足元からも起こる事も充分に考えられます。

此れに対抗するには鎌倉幕府の下級武士の出世頭の氏の地元の雁金紋一門との血縁を結ぶことで収まりがつくというものです。これで周りは襲う事は出来ないと成ります。

だから、変紋せずに副紋を主家一族一門として利用したものと見ます。
だから生き延びられたのではないでしょうか。

更に云えば本家は嫡子がありながら跡目を「結び雁金紋」の氏から入れたといえるのではないでしょうか。
このほうが当時の状況から自然と見ます。

その意味でも地元の当時の状況もわかることもありますのでその事を調べられると上記の推測が証明しやすいのではと思います。

讃岐の郷土史とか岡山の郷土史とか広島の郷土史とか阿波の郷土史とかに必ずお家に関係する事柄や場合に依っては直接出て来る場合も大いに有ると見ています。どこの地方公共団体でも出しています。役所に行くと売っています。
閲覧することも出来ると思います。県史や地方史として。

又何かわかりましたらお知らせください。
お待ちしています。



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