青木ルーツ掲示板
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  [No.433] Re: 讃岐の青木です。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/23(Fri) 19:17:58

Re: 讃岐の青木です。
副管理人さん 2008/07/14 (月) 11:48

讃岐の青木さん おひさしぶりですね。

お便りくださってありがとう御座います。

そうですね。こちらの方は讃岐の青木さん関係の事が多く出て来るようですね。シリーズのように偏る感じをしています。
いろいろとお便り頂き、史実が更に深まりますのでありがたく思っています。これからも宜しくお願いします。多分、讃岐の青木さんのお便りを参考にしている方が多く居られると思いますので、これからも宜しくお願いします。
私もその方向でレポートして居ます。情報が立体的になって大変重厚なレポートに成っております。

私も四国をルーツや由来を紐解きま良く調べてみました所、お家の讃岐青木氏は江戸時代まで四国全体と瀬戸内を支配していることが良く判ります。
多くは、讃岐籐氏一門の末裔といっても良いのではないのでしょうか。
そして、藤原秀郷流青木氏一門の多くと皇族賜姓青木氏などに軍事経済の面で歴史的に保護をしている事が浮かび上がってきます。
土佐の青木氏、阿波の青木氏、美作の青木氏、安芸の青木氏、備前の青木氏、米子青木氏、摂津青木氏、近江青木氏、滋賀青木氏、足利系青木氏、武田氏系諏訪族青木氏などを戦国時代に保護しているようですね。伊勢青木氏などと連携をしてつながりを持っていたようです。
伊予との勢力争いでの関係も出てきます。
信長も四国と関東に手を出せなかった一族の関東の藤原秀郷一門ともすごい勢力を誇っていたことを、裏付けています。

このことから、お便りのように、四国の「下がり藤紋」の青木さんは四国を占めていたのではないでしょうか。
秀郷主要5氏の一つの進藤氏は秀郷一門の進藤氏と利仁流の進藤氏がありますが、四国の進藤氏は利仁流の進藤氏ではないのではとも考えています。
讃岐籐氏の菩提寺のお寺で住職を代々勤められていたのではないでしょうか。

資延氏も結局、藤原秀郷氏の近衛氏の末裔ですが、この氏も讃岐青木氏を頼って定住してきたのではないでしょうか。
南北朝時代室町末期に公家が四国、伊予、讃岐と美作、安芸、周防に逃げ延びたのはこの讃岐青木氏の庇護を受けに逃亡したのではないでしょうか。

又、平家の落人の一番多い四国では、始祖千国の青木氏(平家の嶋崎氏より母方が入っている)とのつながりを求めて讃岐籐氏一門にある四国に逃げ延びたとも考えられます。
本拠地である九州や中国地方に逃亡せすに四国に多いのはこの庇護に入ったからではないでしょうか。
本家信州上田の真田氏も藤原秀郷一門ですので、当時でも最大勢力を誇り、信長、秀吉も四国攻めにはてこづったのはこのお家の讃岐青木氏のシンジケートがあったことでしょう。この為に四国に逃げたのではと考えます。
東でも藤原秀郷流青木氏を頼って、武田氏系青木氏、諏訪族青木氏、武田氏系諏訪族青木氏が信長の勢力の及ばない武蔵に逃げたのですからね。

青木氏の逃亡には、東西の藤原秀郷流青木氏がこの様に全てにかかわっているのです。
同じ伊勢青木氏では、伊勢シンジケートを持ちながらも青木氏のこの史実が余り見つかりませんのも、讃岐青木氏の勢力が如何に大きかったかを物語ります。

長く続いた2回の「相良騒動」の宇喜多氏のことも瀬戸内の讃岐青木氏の関わりからです。

加茂神社のことですが、京都の加茂神社をはじめとして、全国の加茂神社は殆ど藤原北家筋の秀郷一門の居る土地柄にあります。
そもそも、家紋神社の由来は、神武天皇が東征して紀州の森(後の熊野神社の社領)にはいり、道に迷い、そこで夢うつつに耶田烏の後を着いてゆけと御告げがあり、奈良に入れたとされていて、迷ったそこが紀州加茂郷というところであり、その時の耶田烏を熊野神社の御告げ鳥とされ、以後、江戸時代までその熊野神社の耶田烏の空かしの入った紙で書いたものを誓書としたとされています。
耶田烏は中国の吉兆鳥とされているもので、日本書紀にもこのことが書かれています。
紀州加茂郷では以来熊野詣の人たちを楽しませたこの伝統的なお祭り行事があり現在も続いています。
ここが全国にある賀茂神社の最初の加茂神社といわれいます。
加茂郷の加茂神社はこの由来もあり、紀州の人々の漁業と林業と紀州発祥の鈴木氏の移動からも各地に移動してひろまったとされている所です。

紀州を初めとして、伊豆、千葉など又ね鈴木氏の移動経路の奥羽北陸地方にある加茂郷にある加茂神社も、そこには藤原秀郷流青木氏の在所で、そこには青木村の地名も必ずあるくらいです。摂関家の藤原氏もこの伝統ある加茂神社をもちろん氏神にしていたのではないのでしょうか

次に始祖の千国ですが、北家藤原秀郷一門の氏には、「第3子」を「青木氏」として藤原秀郷の護衛隊とする事を定めています。嵯峨期の禁令で青木氏は皇族の朝臣と宿禰族の身分の者しか名乗れない氏として原則明治年まで続きました。この例外として、秀郷には、独立国を主張した「平将門の乱」を鎮圧した勲功で身分は貴族と武蔵の国を与えられます。この時、貴族に成った秀郷は武力を自ら持つ事が出来ないために、第6位皇子を臣下させ賜姓して護衛隊とする賜姓青木氏の慣例に習って、秀郷は第3子にこの役をになわしたのです。この時、秀郷には6人の子供が居ました。(本来は5人となっていますが、3代目に位置付けた千常の子の千万も子供であるとしています。)
第3子は千国(母は平家一門)と成ります。この千国から4代目の兼光流から更に跡目を引き継がれて、制度として護衛役としてなくてはならないために、判る範囲では3度も秀郷本家筋から第3子をこの青木氏に跡目をいれており、本流の総元締めの青木氏に跡目が耐える事の無いようにして居ますし、最後には秀郷本家から行久がこの時にも本家の青木氏を引き継いでいます。

藤原秀郷一門の戦略的目的から、秀郷本家筋の第3子が青木氏を代々名乗る仕組みであり、青木氏の跡目が絶えると入れて総本家の秀郷一門24氏の護衛役を担ってきました。
青木氏は、この為に、直系1氏、直流4氏(一門第3子系)、支流4氏(分家)の主要9氏で、前代未聞の数の116氏にも広がっています。これ程に末裔を広げているのは他にはありません。
長い間には、男系継承が出来ない事も起こりますが、この第3子システムで成り立ち、他の氏から養子を入れるのではなく、本家筋より跡目を入れて、常に直系1氏、直流4氏が男系継承で成り立つようにしている訳です。この為に、藤原秀郷流青木氏一門だけは、直系が常に存在し、千国ルートが繋がっているわけです。この主要氏の5氏にも跡目を入れているわけです。
中には、秀郷の親戚筋の利仁流からも青木氏の跡目を入れて保っている事さえあるのです。
江戸時代に成ってもそのつながりで大勢力の藤原秀郷24氏をまもる事が出来たのでしょう。
第3子システムが組織を固め、戦国時代の多くの青木氏を東西で庇護する事が出来たものと観ています。
私は皇族賜姓青木氏の5家5流の自らのつながりはもとより、この第3子システムの藤原秀郷流青木氏とのつながりもあって厳しい時代を2つの青木氏はの遺しえたものと見ています。
対照的なのは、母方で繋がる藤原氏とも同族の源氏が(11家11流もありながらも直系直流の)全く子孫を遺せなかったのはこのシステムのなさが原因していると見ています。
源の宗家の頼光系子孫が伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の青木氏に跡目を入れて遺すのが精一杯であったのです。第6位皇子筋の同族の青木氏に子孫を委ねたのが戦略であった事に成ります。

非常に限定されたこれ等のことを研究したこの史料は唯一非売品本で、全国の主要青木氏に配布されています。著者は超有名大学の民族歴史学名誉教授の佐々木氏です。著者佐々木氏ルーツは天智天皇の第7位皇子の近江佐々木氏の末裔です。(近江佐々木系青木氏も出ている)
つまり、佐々木氏は特別に近江の佐々木の地名から近江王として賜姓をうけたもので、賜姓を天智天皇の第6位皇子の始祖の施基皇子伊勢青木氏の弟に成ります。本来であれば青木氏で有ります。
本来は、後の嵯峨天皇期の詔からすると浄大2位の高位の朝臣族ですので、青木氏一門族と言う事に成ります。この事から民族学的に藤原秀郷流青木氏と皇族賜姓青木氏と嵯峨期からの皇族青木氏の3つに付いてと、第6位皇子の源氏一族の関係を歴史的史実を明記し網羅した書物です。
この研究書物は調査されて主要関係氏に有料で配布されたものです。当時としては販売しても限定されている氏である為に売れることは無かったのではと考えます。
他に関連する書物としは最近のもので、新しい「歴史フォットグラビヤ」と「古い後2つの書物」にも藤原秀郷の第3子の事が書かれています。公的なサイトですので、この程度としますが固有名詞は控えます。
我が家の口伝とともに当方の家宝となっています。
有名な3人の歴史家で小説家も対談単行本などでこの事に触れて書かれて居ます。外国史書籍を含む他古書籍の論文史実と書記紀と、そして、この書物からも伊勢青木氏等を端目とするの関連時事をも調べたものです。
いずれにしても、限定された青木氏のことは調べる人も少ないし本には成らないでしょうね。
この書物にもありますが、千国以降の藤原秀郷一門の系譜は公的にしたものがあります。
ただ、この歴史的史実書は下克上、戦国時代の打ちこわしと戦火で殆ど有りません。日本世記などの外国書の外交史籍に詳しく青木氏のことは記載されてのこっています。
各青木氏の遺された僅かな主要氏の史料と系譜系図を編集してこの様になるのではとしたものです。
従って一般に出回わるほどに有りませんので載っていません。研究論文です。
ですから、青木氏を研究して資料をまとめた研究者が少なく限定されているので無いので、本サイトに私の研究資料を遺そうとしています。
固有書籍名は法的なことから明記する事は出来ませんが、藤原秀郷流青木氏の事に付いての研究論文はこの書籍程度ではないかと考えられ、著名な歴史家も、「信頼性が高い事」から、どこかで入手獲得してこの非買品本から引用していると考えられます。

他のもの多くは江戸時代のもので、矛盾がありすぎて、手前味噌で搾取偏纂が全てで全く信用が出来ません。
信用し楽しみにするかはその人の自由ですが。徳川氏の系譜と系図を見ても判る様に。

兎も角も長くなりましたが、讃岐青木氏などのことを社会の成り立ちの現実的論理で史実と絡めて調べると如何に働いていたかが判るので歴史はおもしろいと私は考えます。

讃岐青木氏のことも、この様な史実と合わせて調べましたが、何故歴史的に四国に良く逃げるのかなどのテーマで大きな史実とつながりがあることが判ってきます。戦いで移動し逃げるにはそれなりの安全確実な根拠があるからですが、それを調べると面白い事つながりが見えてきて、”あっなるほど。”となります。

讃岐青木さんのお便りのことは同感です。楽しく読ませて頂きました。又、是非面白いお便りください。



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