青木ルーツ掲示板
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  [No.638] Re:青木姓ではありませんが「伊早坂」です。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/10/18(Sun) 08:35:56

群馬の伊早坂さん 今日は。始めまして。
ようこそ青木サイトに御越し頂きました。

大変珍しいお名前ですね。
長年色々とお家のルーツをお調べに成っていられる様ですね。
そのご努力には敬服いたします。

さて、折角、青木サイトにお越し頂きましたので、そのご努力に何もお応えする事が出来ないのも残念です。はっきりと申し上げまして全く判りません。
ただ、長年青木氏に付いて研究してきました事から、その歴史的な史実とかで参考になることがあるかも知れません。
そこで、提供されました情報から幾つか感じるところがありますので、それを参考になればと思い書き記します。

ルーツを調べる時に必要とする事は次ぎの事ではないかと思います。
先ず、「時系列」、つまり、時代性を揃える事、
次ぎに、「地域性又は地理性」をまとめる事、
3番目には、「人又は氏系列」を仕分けする事、
この3つが出来れば、次ぎの事を把握する事です。
これ等に伴なった「歴史的な史実」を集める事、
時代に応じた当時の「社会習慣」を把握する事、
この2つ知識が情報を正しく判断させてくれます。

特に、室町末期から明治初期に掛けての各種にある系譜や伝説や口伝には搾取偏纂や間違いが多いので2つの知識がその正否の判別をしてくれます。
ここが重要だと考えます。
この2つの知識の把握は当然に信頼できる学術的歴史書籍を読みあさり深く広くする事以外にありません。幾ら多くの史料を求めてもこの2つの知識が無ければ違った答えを出してしまいます。
青木氏を調べた2つの知識から観ても、伊早坂さんが提供された中にも、史料そのものに幾つかの間違いが見当たります。これでは正しい答えは見つかりません。

家紋、宗派、菩提寺、氏姓、地理、などには奈良時代からの時代ごとの「氏家制度」の習慣があります。しかし、兎角、人は現代感覚で見てしまう癖を持っています。それを防ぐ事が必要です。

そこで本題に入ります。
お尋ねは信濃の諏訪族との関わりのことですが、この事に付いて「時代性の問題」から入ります。
先ず、奈良時代孝徳天皇の前後に2次に渡り後漢の21代献帝の子供「石秋王」の孫の阿智使王と曾孫の阿多倍王が後漢滅亡後に17県民(200万人)の技能集団を引き連れて北九州に上陸しました。この一団は瞬く間に九州全土を無戦の状態で制圧しました。これは彼等の進んだ技能を日本人に伝え生活程度が向上させたので進んで民は配下に入りました。
その後、中国地方から関西の手前まで征圧しました。
当時は66国中32国を征圧しました。
この時、集団の首魁の阿多倍王は大隈地方に定住していました。そこで朝廷と和解し帰化をします。
どんどんと彼等の集団は入国してきます。
朝廷は、この技能集団の国内の貢献で第1次産業は著しく発展させので(現在の第1次産業は彼等の持ち込んだ生産技能です)、薩摩大隈地方を半国割譲し阿多倍王に与えます。
更に、朝廷は伊勢国の北部伊賀地方を割譲して阿多倍王を呼び寄せます。
そして、阿多倍王は敏達天皇の孫の芽淳王の孫娘を娶ります。阿多倍は王は准大臣に任じられます。
そして、3男を産み長男は朝廷軍の征夷大将軍の坂上氏を賜姓されます。次男は朝廷の政治機構の3蔵の一つ大蔵を担当し大蔵氏を賜姓を受けます。三男は内蔵を担当し、内蔵氏の賜姓を受けます。(斎蔵は中臣氏:藤原氏)
朝廷の官僚機構の6割は彼等の政治集団です。日本書紀は大半は彼等の仕事でした。天武天皇は一般から優秀な者を採用して彼等の指導を受けさせたほどです。この事は日本書紀に書かれています。
桓武天皇は律令国家を完成させた天皇ですが、殆どは彼等の進んだ政治知識による貢献です。
安倍氏、阿倍氏は阿多倍王のその分家支流末裔です。
彼等の民は「・・部」と着いた氏ですが全て彼等の民の末裔です。
陶氏(陶部)、秦氏(秦部)、司馬氏(司馬部)等 室町期の中国地方を全征圧していた陶氏はこの末裔です。瀬戸内海の村上水軍(平氏)等もこの陶氏の末裔です。
その後、阿多倍王の孫娘と光仁天皇の間に生まれた桓武天皇はこの一族を引き上げます。
そして、この一族に「たいら族」(桓武平氏)を賜姓します。
それまでは、賜姓は天智天皇から光仁天皇まで5代の第6位皇子が臣下して青木氏を賜姓して各地の天領地の守護王と成りました。これが5家5流青木氏の発祥です。
しかし、これを桓武天皇は中止しは母方を引き上げたのです。最後は太政大臣の5代目「平清盛」です。

さて、諏訪族は天智天皇の時、蘇我氏の専横で軍事政治経済ともに弱体していましたので大化改新の一つとして未開地であった信濃、甲斐、上野の山間部を開墾する為に、これらの後漢の渡来人の帰化人をこれ等の地に廻して、その専門的な技能で開墾をさせました。
ところが瞬く間に開墾が進み朝廷は経済的に潤いました。この開墾地の守護王として第6位皇子の賜姓青木氏を廻したのです。日本書紀にその貢献から都に呼び寄せて褒美を与えた事が書かれています。
この時、信濃や甲斐には外来大馬の「馬部」を廻して開墾をしたのです。
この子孫が信濃の諏訪族です。
この諏訪族と信濃守護王の青木氏とが血縁して諏訪族青木氏が発祥したのです。
この山間部の諏訪族は海産物を尾張や遠江や駿河から入手したのです。
この海産物の加工していた技能集団が「磯部」の磯部氏です。
海産物の加工技能の磯部氏が信濃、甲斐、上野に運搬して売さばいたのです。
これ等の地にも末裔を置いて商いをしたのです。

(「・・部」は平安時代の経済システムで「部制度」と呼ばれ、全ての第1次産業の物品を加工する職人集団を朝廷に所属させ、彼等を「海部」「服部」「物部」等と呼びます。
生産したものは一度朝廷に納めてそれから市場に払い下げるシステムです。「物部」は第1次に入国した軍事を担当する部(べ)です。この事柄について青木サイトに詳しくレポートしています。その後彼等の技能集団はその「部」を氏姓としました)
そこで、この磯部氏の末裔は馬部達の諏訪族に混じって信濃、甲斐、上野にも分布するのです。
奈良時代から平安初期までは、お家は上野の民であったとすると、原住民か或いは後漢の渡来人の末裔と言う事が考えられます。磯部氏であったかは史料が有りませんので奈良時代のものは確認出来ません。
諏訪族青木一門は後に信長に滅ぼされて藤原秀郷一門の青木氏を便りに保護されて神奈川から更に栃木まで逃げ延びました。その後、少ないですが福島域までの北に向かって末裔は広がります。
この諏訪族が諏訪氏と皇族賜姓族の青木氏と武田氏以外に名乗っていることは有りません。
宗派も異なっていますので諏訪族一門では有りません。

平安中期からは、この地は「平将門の乱」を平定した藤原秀郷が武蔵入間を中心に横浜神奈川を半径とする範囲を領し下野、上野にはこの一門主要24氏が多く分布しました。
この藤原秀郷一門には詳細が判っていますがお家のご先祖であるかは史料から確認出来ません。
しかし、恐らくはその藤原氏の特長から高い確率で違うと思われます
この地域には、この時期には「桓武平氏」が1185年まで末裔は定住していました。
しかし、この「桓武平氏」は最終は西国に一門が移動していますのでこの末裔の可能性は無いと思います。
また、この地域には天智天皇の大化の改革により皇族第7世族が平安期まで代々の天皇が代わる度に発祥しこの地域に配置されました。これが「坂東八平氏」(ひら族)です。この平氏の末裔の可能性が否定できません。しかし、史料は当然有りませんが八平氏の内容から低いと見られます。
平安末期にはこの地域に藤原一門24氏の末裔が大勢力を伸ばして定住しています。しかし、この一族24氏が拡大して351氏に成っていますが、この一族には氏の特別な判別方法を持ち採用して居る為に一族である事か判る様に成っています。伊早坂氏はその判別方法に適合しません。
鎌倉期から室町期には下克上、戦国時代となり氏を確定する事は困難なのですが、坂東八平氏か源氏3氏末裔かは家紋でも判別できますので適合しないと見られます。

室町末期から江戸初期まではこの地域に氏滅亡で移動して来た氏としては、武田氏の一門の武田氏系青木氏や武田氏系諏訪族青木氏や諏訪族青木氏が逃亡して来ています。しかし家紋から見た場合もこの末裔では有りません。
(鎌倉期からは家紋でも氏判別できます。平安期は家紋は未だ一部の氏しか使用していないので判断できます。)
次ぎに確かに、武田氏滅亡で江戸初期にこの末裔の花菱紋が武蔵鉢形に一族強制移動してきていますが、丸付き紋にはある種の問題がありまして、江戸中期以降にはこの地域に分布している可能性があります。
しかし、花菱紋の丸付き紋一族(特に青木氏)は本多氏(信濃)に仕えましたのでこの地域に分布の可能性があります。(花菱紋は徳川氏の旗本と成る。)しかし、それが青木氏から伊早坂氏に氏名を変えた経緯が全くありません。ただ宗派の曹洞宗は一致しています。

よく間違われている事として、国の自由移動が出来るとして書いた本などが見当たりますし、また現代感覚として間違えやすい事です。
しかし、元々は奈良時代から平安時代にかけては原則特別な国換え以外には民の移動は禁止です。
民は国に所属するものとして初期江戸初期以降は特別な場合を除いて国を自由に移動する事は厳しく取り締まりました。「国抜け」は一族打ち首の重罪です。

これ等時代性、由来、宗派の資料から観ると幾つかの氏末裔と観られますが、伊早坂氏は上野の土着民か土豪であった可能性が専門的立場から観て高いと見られます。
そこで、更に家紋から観てみますと(室町期には氏家制度の中で「家紋」が成育してその氏の由来を表すことが出来るシステムが構築されていた)、目結紋の内の「隅立て4つ目結紋」に丸付き紋ですので、旗本「矢島氏」の家紋です。丸付きですのでその支流とも見られます。
そこで佐々木氏等と書かれていましたが、目結紋は81の文様がありますので、佐々木氏の目結紋の家紋では本来は有りません。
そもそも、佐々木氏に付いては投稿内容に多く間違いがありますので、念のために、多くの資料でも間違いを起こしていますが、近江佐々木氏は天智天皇の第7位皇子の川島皇子が特別に天智天皇から賜姓を受けて土地の地名から佐々木氏を名乗った氏です。これが近江佐々木氏です。この事は日本世記や日本書紀や他の史料にも、また、5人の歴史家小説家の本にも書かれています。(他にもありました)
正式には皇族賜姓近江佐々木氏と呼びますが、青木氏と同じく家紋はもとより天智天皇より氏名、ステイタス仏像、氏木、賜物の5つのものを与えられています。
奈良時代(647年伊勢青木氏と5家5流)から皇族賜姓青木氏と同じく皇族賜姓源氏族は笹竜胆紋と成っています。鎌倉期前は家紋は皇族一門と大豪族だけが使える象徴紋として許されていましたので、現代感覚で観たものでは有りません(家紋経緯から故に新しい目結紋の佐々木氏は未勘氏と成るのです)
ずっと後の宇多天皇の賜姓佐々木氏は近江とされていますが、近江と滋賀は当時一体として観られていた事から近江佐々木氏と成っているのですが、本当は滋賀佐々木氏が正しいのです。
当時の氏家制度の習慣から皇族方末裔は同地域に同姓で定住する事は有りません。宇多天皇の佐々木氏は滋賀佐々木氏です。
近江佐々木氏と伊勢青木氏を始めとする5家5流の青木氏とは長い間同族として親族付き合いがあった事が記録されています。1185年の以仁王の乱の時はともに平氏と戦いをしました。
賜姓近江佐々木氏や賜姓青木氏には神官職が多いのもこのことから来ています。

宇多源氏、近江源氏が目結紋であるとするのは「未勘氏」です。近江賜姓佐々木氏は異なります。
そもそも宇多源氏の目結紋も家紋の時代性と家紋経緯からが明らかに異なります。
源氏は天智天皇の第6位皇子の伊勢王の青木氏を始めとして5家5流と同族の皇族賜姓族であり、その家紋は奈良時代からの特別象徴紋として天智天皇から使用を許された伊勢青木氏をはじめとする笹竜胆紋です。
(未勘氏とは源氏と勝手に名乗る氏で根拠の確認が取れない氏の事、豪族は家柄身分を良く見せるために源氏と名乗りましたが全てと云って良いほど搾取偏纂の未勘氏です。源氏は花山天皇まで11代続きました。青木氏とあわせて16代の第6位皇子の末裔です。しかし、源氏は最終3氏が遺しこの3氏も信長に完全滅亡させられてしまいました。最終3氏ともに信長の時代に滅ぼされて完全滅亡しています。
未勘氏が出るほどに彼等の皇族系はそんなに子孫を多く遺すほどに婚姻を広くしていません。また、そのその様な婚姻関係の慣習があり、氏家制度の中では皇族系は特に純血を守る為に同族血縁が主体でそんなに子孫を多く伸ばせるほどに血縁が出来なかったのです。
これは氏家制度の社会慣習を考慮していないもので、氏家制度ではこれ等の皇族系の氏は純血を守る為に血縁は全て皇族系との同族血縁が平安から江戸初期まで主でした。
この様に室町末期から起こった未勘氏である事を見分けるには家紋と宗派と地理と菩提寺で完全に判別できるのです。搾取偏纂しても社会慣習から偏纂出来ない事があるのです。

桓武天皇は第7世族の「ひら族」に習って「たいら族」を賜姓しましたが、子供の嵯峨天皇は天智天皇から始めた賜姓は皇族第6位皇子に戻して、それまでの賜姓青木氏から賜姓源氏と変名したのです。そして、青木氏は皇族の者が下族する際に名乗る氏名として他の者が名乗る事を嵯峨期の詔で禁止したのです。原則明治まで守られました。

さて、よって隅立て4つ目結紋に更に丸付き紋ですから、全く佐々木氏では有りません。
江戸初期の頃の矢島氏が使用した家紋ですが、家紋から観ると丸付き紋ですのでその分家か支流か、第3氏かです。つまり、矢島氏との何らかの関係を持つ氏でその分家と成ります。
矢島氏は江戸初期の旗本です。ただ、家紋から観たこの矢島氏と伊早坂氏との関係はわかりませんが先ず専門的に観て無いと考えます。

次ぎは宗派から見た検証です。
曹洞宗ですので、先ずは土豪か土着民であったことが覗えます。それ以上の氏では無いと観られます。
氏家制度の中では当時の宗派に依ってその氏の家柄身分などが判別できるのです。
江戸初期前までは氏家制度の慣習の中での宗派でしたので、厳しい宗教的慣習で縛られていました。
曹洞宗の宗派の特長から足軽などの下級武士や土豪、土着民の範囲です。
この様に氏の判別は江戸中期前での学術的史料で正しく少なくとも江戸初期の状況からの検証を必要とします。

恐らくは、古くは磯部氏か馬部氏かの後漢渡来人であって、平安期では上野の土着民であったと考えられます、室町期の戦国時代では立身出世して武士となり、土地の土豪と成り、江戸初期では一般武士としての家紋を持った事を意味します。
家紋、宗派、地理性、由来から判断してこの域を超える事は氏家制度慣習からは考え難いと観られます。
提供された情報の中でお調べに成った氏の各専門家の答えとほぼ一致します。
提供された調査結果からは正確にはお応えしていないようですね。
忌憚無く申し上げますと、第3氏か江戸初期前では土豪武士である事を意味しているところは一致します。
家紋から、特に丸に隅立て4つ目結紋と鷹の羽紋も一族の中にある事を考えますと、時代性では江戸初期前の両者ともに比較的新しいものですので、この家紋を使用した菊池氏、浅野氏から観ると、これ以前に家紋を持たない者と成ります。上記の検証となると思います。
丸に花菱紋に付いては花菱紋の経緯から疑問が大きい事なのです。花菱紋には特別な経緯があり青木氏以外には考え難いのです。それを副紋的に使用されているとなると、むしろ逆に第3氏の可能性を強くします。まして丸付き紋ですので確率は低く成ります。

中国地方に分布する丸に鷹の羽紋が関東にある事では、藤原秀郷一門の主要5氏との関係からしか有りませんので、この家紋を使用している事から観て、これも第3氏か未勘氏である事も考えられます。
この第3氏か未勘氏はそれなりの由来性を色々と創り上げて家柄を良く見せたことがブームとして3期の混乱期に起こりました。(室町末期、江戸初期、明治初期の3期です)
その時期は家紋から観て江戸初期と成ります。ただお家は限定した地域で且つ極めて小さい氏としますと、以上の他の専門家のお応えと同じく旧来より土豪か土着民を超えることは考え難いのではと考察します。よってルーツを採ることは出来ない事が大変に難しい事に成ります。
と云いますのは、当時は戸籍簿は特定の身分(中級武士以上)の氏の菩提寺が受け持つシステムでした。氏家制度では一部を除く土豪、土着民は戸籍簿が有りませんのでルーツを採ることは物理的に出来ません。個人に近い氏の史料が遺されていない事を意味します。
(江戸初期以降は庄屋、名主、豪農、豪商、郷士、郷氏等は苗字帯刀家紋を持つ事を許された)

第2信でのお尋ねですが、家紋が変わる理由として、氏家制度には「家紋掟」と云うものがありましてこれに従っていました。
先ず家紋が変化する理由として、男系跡目が出来ずに跡目養子か婿養子をとり、その養子にも男系が恵まれず、2代続きと成りましたので女系と成り養子先の家紋を使うことに成ります。
もし、養子に男系嫡子が出来れば家紋は元に戻す事が出来ます。
この時は養子はとりあえず養子先の家紋を使うことに成りますが、嫡子が出来なければ養子先の家紋のままで変紋する事に成ります。養子に嫡子が出来ればその子供は元の家紋を使うことになり戻る事に成ります。
他の四家が丸に鷹の羽紋を使われているとすると、先ずお家が変紋したことを意味するか、分家が男系跡目が出来ずに家紋掟により丸に鷹の羽紋に成った事を意味します。四家ともと云うのはありえないことですね。
もし、この分家は氏家制度では正妻子で分家が出来て同家紋を引き継ぐ事が宗家本家の許可を得て成立します。妾子では原則引き継げません。ただし正妻子が無く妾子を嫡子とした場合はこれを許可される仕組みです。分家と見られる丸に鷹の羽紋と成りますので、この何れかの分家と成ります。
もとより、ご本家が丸に隅立て4つ目結紋と成りますと、本来は縁者遠縁から養子婿を取り何とかして家紋を護るのが氏家制度の本家の掟です。そこをルーズにしたのか、護ったのか、女系となり変紋したのかは提供されている情報ではわかりません。
兎も角も、家紋掟の仕来りはありますが本来の分家と家紋が違う事が大きな疑問です。
とすると、第3氏か未勘氏である事を意味します。
鷹の羽紋は北九州から中国地方、関西以西に多く分布する事から観て、上野で何時から鷹の羽紋に成ったのかも問題です。(江戸では移動は禁止です。許可制です。)
更に問題は目結紋の丸付き紋です。主に丸付き紋は分家支流が本家に遠慮して丸付き紋とする、妾子であるので丸付き紋にした、未勘氏、第3氏が遠慮して丸付き紋にしたなどが考えられます。
この2つの家紋は江戸初期前後の事ですので、矢島氏か菊池氏か浅野氏の家紋時期と共に一致します。
どの様に矢島氏と菊池、浅野氏と繋がっているかは家紋、地理、由来等からは判別が困難です。
ところで、鷹の羽紋ですが、百以上もありますが、一つ羽根ですか、二つ羽根紋ですか。
この百以上の家紋のどれかによりルーツも大まかに判別できます。
「丸に一つ鷹の羽」ですか。ご確認ください。
最初の投稿には丸に違い鷹の羽紋とされていますがどちらですか。
第1信では「丸に違い鷹の羽」と書かれていますがこちらであれば又話も少しは変わることを意味します。

参考に伊早坂の氏名ですが、日本の国民が氏名をつけた専門的な知識がありますが、それから観ると地名タイプと観られ「早坂」の地名に対して「伊」に関係する物を附帯した最も多いタイプ方式に拠ります。
伊勢、伊達、伊豆、伊藤、伊東などの地名等を加えて室町期に氏名とした事も充分に考えられます。
この点からも調べられる事もお勧めします。伊と矢島氏、菊地氏、浅野氏との繋がりも見逃せません。
ただ室町期からの発祥にしては氏の拡大は余りにも地域限定しすぎている事が専門的に考えられます。

以上、青木氏を調べた経験からその情報判断の如何を参考にお答えとしました。
先ずは、2つの知識の習得から進められる事をお勧めします。
「氏家制度」の中での知識として、家紋、宗派、地理性、経緯(由来)等を判断史料として取り入れなければ、史料だけを集めるだけでは(史料を判別する能力を持たなければ)、エラーポケットに入り決して正しい答えは絶対に出ません。敢えて、アドバイスします。

参考として、早坂は福島を中心にして岩手、宮城、山形に多い地名であり氏名も多くあります。
群馬のお家は、この福島の早坂村から戦国時代に立身出世を夢見て戦乱で上野に移動して岩代の伊達から来たので、伊達の早坂として「伊早坂」と氏名をつけたとも考えられます。
立身出世した当時の者は地名からこの様な氏名をよくつける事をしました。
特に、8000ほどある氏名の内殆どは明治期の苗字令によるもので、その時の氏名の付け方はこの方式が多いのです。また周囲地域の豪族の氏名を使うなどの第3氏性が多いのです。

では、お答えに関しての不明点や何かのご質問が有りましたらご遠慮なくお尋ねください。



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