青木ルーツ掲示板
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  [No.1188] Re:続 豪商長島屋
     投稿者:副管理人   投稿日:2021/04/23(Fri) 16:21:04

イ 富士宮の件です。
ロ 高島屋の事です。
ハ 一色の件です
ニ 神光寺の件です。
ホ 神仏習合の件です。
へ 斎宮の件です。
ト 伊勢治の件です。
チ 明治13年の大火の件です。
リ 平将門の乱の件です。

さて、次はハの一色に付いてですが、伝統でも論じている様に一色は天皇から「施基皇子」が与えられた「天智天武持統」の3天皇から「伊勢の土地」の「大字名」です。
日本書紀の記載では、「合計5つの大字名と人民」を賜った様に成っています。
然し、その記載の表現から解釈すると未だ確認されない「小字名の土地」があった様です。
この面積を計算すると、伊勢の当時の有効耕作面積の8割を占めています。
要するに、当に「二代目伊勢王としての実績」を持っていた事に成ります。
これ等に、字の名を着けて呼んでいた一つが「一色」で、他に確認できる「大字名」には「4つの字名」が確認できます。
然し、「施基皇子」が「功績」を立てるたびに賜った可能性のある「小字名」では「数十の小字名」の数に及んでいます。
「施基皇子」は、「日本書紀」にも記載の通り、伝統で論じている様に、ある事件をきっかけに「額田部氏」とのタグを組み「員弁や桑名」等の当時沼地であった「不毛の地」を「干拓灌漑開墾」を施し、「肥沃な土地」にした事が記載されています。
この事で「額田部氏」も「罪」を許されて、「真人」、「朝臣」、「宿禰」、「忌寸」、「道師」、「臣」、「連」、の「連」であった官位が「宿禰」に成る破格も特別破格の「3階級特進の出世」をしました。
その「罪」とは、「桓武天皇」の行った「長岡京から平安京」の「遷都」に同行しなかった事に在ります。
「遷都」に最も重要な者は、「土木工事の専門集団」ですが、当時は「額田部氏と結城氏と和気氏」の特徴を以て三つがその役を「技能集団の官僚族」として務め、中でも「額田部氏」が「職種技量共」に郡を抜いていました。
頼りにしていた「倭人で技能集団と成った額田部氏一族」の「故郷の斑鳩」より離れる事を嫌い拒絶し、「斑鳩追放の罰」を受けたのです。
これを「天智―天武―持統」の葬儀一切と「墳墓築造」に共に携わった「施基皇子と伊勢青木氏の裔」が救い、長い間、「額田部社」と共に「伊勢の桑名」に隠します。
流石に、「出自元である伊勢青木氏」が隠している事を知っていても黙認していたのです。
其の後に「伊勢一帯や近江などの干拓灌漑開墾」に成功し、「伊勢と共に殖産」にも貢献します。
これが遂に評価されて上記の様に「額田」に土地を与えられ「額田部社・朝臣族では無い一氏では無い」も戻されて明治初期まで定住を許されたのです。
この員弁や桑田と額田も施基皇子の大字名でそれ地名と成ったものです。
この「賜姓臣下朝臣族の施基皇子・伊勢青木氏」の「大字名とその民」がその「格式を表す一つの呼び名・好字」と成って平安期には使われる様に成ったのです。
記録に遺る通りこれをある事情で悪用したのが「鎌倉幕府の源頼朝」です。
そのある事情とは「頼朝の鎌倉幕府」は、「地方政治」を「朝廷の守護職の政治」では無く幕府「幕府の地頭職政治」に置き換えて権力を掌握しようとしましたが「西の朝廷」はこれを認めませんでした。
そこで、先ず承認の得られ無い侭に強引に手始めに「伊賀」と「西尾」に地頭を置いたのです。
頼朝の格式も低く、その為に周囲から政治的に無視され「統治」は上手く行きませんでした。
そこで一計を案じたのです。
それがこの「施基皇子の格式」を匂わす「大字名の一色」を利用して恰も「施基皇子の伊勢の大字」と成ったかの様に見せる事で「朝廷の許可」を得たかの様に「格式」を持たしたのです。
この一計は先ず「伊賀」と「西尾」とで効を奏しました。
これを頼朝は盛んに各地で使ったのです。
時には家臣に姓として褒美に好字名として与えると云う事をします。
これが関西各地に広がりました。
同じ「河内源氏の関東の足利氏」の「室町幕府」も「格式」は「9つの縛り」を護らなかった為に世間から低く見られ、家臣等もこの「格式のある大字名」を「第二の姓名」にするという事が起こり、「足利幕府」も「家臣」に「諱号」として与えると云う習慣が起こりました。
「足利氏の家臣」の「一色氏」は当にこれです。
「足利泰氏の子」の「一色公深」は、「三河国吉良荘一色・現在の愛知県西尾市一色町」を出自として、「大字名の一色」を「好字名の姓」として名乗ったのも上記の「西尾の一色」です。
伊賀の足利氏の地頭の一色は出自元である事から無視され遺る事はありませんでしたし、結局、この地頭で赴任した「足利氏」は流石に居られずに「伊賀」から引き上げます。
既に、「西尾の一色」の前には直ぐ東の「美濃額田の一色」には「浄橋や飽浪」が「四家の桑名青木氏」から「三野王家・後の土岐氏」に嫁ぎ、「出自元の大字名の一色」を「地名」として平安期から着けていましたので、二番煎じでした。
この「好字名」は奈良期から平安期には「好字の統制をする為に「好字令」が出る始末で、結局はそれには「三つの目的」を含ませていて、続けても三代目までとする「仕来り」と変わりましたが、鎌倉期―室町期以降は全くこれを護られませんでした。
中でも酷かったのは、「格式の無かった徳川家康」などは無理に格式を高めようとして、「朝臣族」と搾称して、「源氏、藤原氏、平氏、橘氏等」を「時、場所、人」に依って使い分けて「背伸びの好字名と諱号」を使い分けましたし、それに習って重臣旗本までも使いました。
流石に徳川氏は「青木氏の氏名」だけは使った形跡はありませんでした。
「施基皇子の一色等の六つ大字名」は、当初は、資料から観ると「しきのみこ」の「色・しき」から発したものであった様で、この「色・しき」は「八色の姓」、即ち「八つの色」は「八つの草」であって、故に「やくさのかばね」であり、この「草」は「土地」を意味し、資料の語りでは「色」としたものであるとしています。
そして、それが何時しか「一色」と成ったとされ、その「一」は「八色の姓」の「最上位の真人」に位置していた事とされ、天皇が持つ冠位に継ぐ「浄大一位」の「一」に由来する事で「一色」とされたと「資料の流れ」から読み取れます。
故に、この「一色の大字名等」は「青木氏の格式」を「大字名」で表現し、その「土地」で最大限に表現したものであったのでしょう。
その論理で検証すれば他の遺る「五つの大字名」もこれに係わる近い表現から外れていません。
この様に、「諡号の姓族」と違って“「氏族の格式表現の手段」”として「大字名・好字名・ 諱号名」として並行して使われた事が判ります。
「近江の佐々木氏の始祖」の「川島皇子の大字名」も「4つの大字名」が「日本書紀」にも記載がありますが、上記の様に「格式表現」としては全く使われていませんし、他の姓族も「近江佐々木氏の大字名」を「一色」の様にして使われた形跡は遺されていません。
つまり、云わんとする処は、ここには「同族の重血縁族」にありながらも、「伊勢青木氏との違いの格式概念」が特別に奈良期からも世間にはあったと観られその「証拠」と成り得ます。

ニの「神光寺の件」です。

伊勢松阪の駅前の広場先の右側一帯は、「寺町」として「蒲生氏郷」に依って城郭の区画整理された地域です。

「信長の楽市楽座の思想」を受け継ぎ「伊勢」を蒲生氏郷が統一して松阪城を建設して「城町」を造りました。

この時の名残として「青木氏族の菩提寺の清光寺」の周りには室町期の当時は「4つの寺」が隣接していたとされます。
ところが、度々の火災で焼失して「江戸期」に入って「顕教令」に基づき「密教の菩提寺」の「氏寺の清光寺」は実質無く成り、江戸初期の火災でこの清光寺も焼失して、ここに「伊勢支藩の紀州徳川氏の菩提寺」として新たに建設される事に成り、元あった場所より「東2m横」に建設されたものです。
ここにそして寺名も「青木氏氏族の菩提寺名の清光寺」として名付けられた事が記録として遺されています。
この時に元の位置にあった「焼け跡の一切の青木氏の墓所」をこの位置に移動を許されたと伝わっていて、その元のその寺の名は「神光寺」であったとされ、移された事で「青木氏の菩提寺名」の「1000年以上の由緒ある清光寺」に着け直されたと伝わっています。
現在も「青木氏の主家の墓妾と共に四家の墓所」が女墓と共にここに多く存在します。
この時に一区画内に4つの宗派の違う寺が隣接していた事が記されていて現在もその様ですし、周囲には「光」の着く寺名が「伊勢秀郷流青木氏の菩提寺」であった「西光寺」を始めとして周囲には「光」の着く「6つの寺」があります。これは「伊勢郷士衆50氏の家人青木氏の菩提寺」であった事が伝えられています。
「平成10年10月」まで「伊勢松阪の主家・祖父の妹に継がせた松阪殿の家」は遂に「男女の跡目一切」が途絶え、「旧領地の尾鷲」に移住していた元々の主家の我家に主家が戻りました。
その為に、奈良期からの先祖伝来の賜仏の仏像はこの清光寺に移して祭司させてもらう事に成りました。
当家ではお仏像様と呼ばれていて当家の一室に1000年位上も祭司されていた「伝来の護り本尊とされる仏像・鞍作止利作・司馬達等の孫 作家の司馬遼太郎の祖先」の写真を本文に添付します。
当家に仏像の見学に訪れた歴史があります。

伊勢松阪の駅前の広場先の右側一帯は、この様に「寺町」として「蒲生氏郷」に依って城郭の区画整理された地域です。
「信長の楽市楽座の思想」を受け継ぎ「伊勢」を蒲生氏郷が統一して松阪城を建設して「城町」を造りました。
この時の名残として「青木氏族の菩提寺の清光寺」の周りには室町期の当時は「4つの寺」が隣接していたとされます。
ところが、度々の火災で焼失して「江戸期」に入って「顕教令」に基づき「密教の菩提寺」の「氏寺の清光寺」は実質無く成り、江戸初期の火災でこの清光寺も焼失して、ここに「伊勢支藩の紀州徳川氏の菩提寺」として新たに建設される事に成り、元あった場所より「東2m横」に建設されたものです。
ここにそして寺名も「青木氏氏族の菩提寺名の清光寺」として名付けられた事が記録として遺されています。
この時に元の位置にあった「焼け跡の一切の青木氏の墓所」をこの位置に移動を許されたと伝わっていて、その元のその寺の名は「神光寺」であったとされ、移された事で「青木氏の菩提寺名」の「1000年以上の由緒ある清光寺」に着け直されたと伝わっています。
現在も「青木氏墓所」がここに多く存在します。
この時に位置区画内に4つの宗派の違う寺が隣接していた事が記されていて現在もその様ですし、周囲には「光」の着く寺名が「伊勢秀郷流青木氏の菩提寺」であった「西光寺」を始めとして周囲には「6つの寺」があります。
「平成10年10月15日まで「伊勢松阪の主家・祖父の妹に継がせた松阪殿の家」は遂に「男女の跡目一切」が途絶え、「旧領地の尾鷲」に移住していた元々の主家の我家に主家が戻りました。
その為に、奈良期からの先祖伝来の「賜仏の仏像」はこの清光寺に移して祭司させてもらう事に成りました。
当家ではお仏像様と呼ばれていて当家の仏像部屋に安置され1000年位上も代々受け継ぎ祭司を続けていた「伝来の護り本尊とされる仏像・鞍作止利作」です。
写真館に記載しています。

次はホの件です。
実は、神明社と清光寺は奈良期からの歴史に於いて「守護神の神明社」を主体とした氏族で、清光寺は、表向きは「聖武、孝謙天皇」が「天皇家の守護神の皇祖神」を主体としながらも、「仏教」を取り入れて国の安寧を護るとする概念を取り入れました。
この時、「皇親族の賜姓臣下朝臣族」であった伊勢の青木氏もこのが五年に従い、これに従って清光寺を建立したのです。
この仏教とする処は、伝えられたばかりの「後漢の渡来人」の「造の部人」等に依って「古代密教浄土の古式概念」の独特の伝統を持つ仏教でした。
現在の浄土宗の原型と成るもので、「皇親族の賜姓臣下朝臣族」の立場を保たんが為に飛鳥より引き継ぐ「神道の神明社の古来概念」と「独特の古代密教浄土の古式概念」とを“融合”させて立場の保全を図ったのです。
当然に、この“「融合」”とは、“二つを一体とする概念”を確立させたのです。
習合とは、つまり、“ノリで接着した概念”では無く、どちらともない「宗教体」を「融合」として造り上げたのです。
従って、「青木氏」にしか通じない「青木氏の独特の密教」という事に成ります。
最初の「神明社の概念」の中に「古代密教浄土の古式概念」を溶け込した概念と成ったのです。
嵯峨期から賜姓された「源氏」が創り上げたのは「八幡社の概念」と「八幡菩薩の仏教概念」を「二つ貼り合わせ」とする「習合」とは異なる事に成ります。
それは「青木氏の融合」とは違い「賜姓の状況」が異なる事から来ています。
「源氏の場合」は「習合の構造」であって「密教・・・」とはならないのはここにあります。
従って、「天皇・朝廷」は「賜姓源氏」に対して嵯峨天皇が「皇位族系朝臣族」に求めた「格式」の「9つの縛り」を守らなかった事も合わせてあり、
その密教とするグループの「白旗」の「密教の仏教の旗印」を与えなかったのです。
頼朝は勝手にこの「白旗」とその「格式の印の笹竜胆紋の象徴紋」とその氏の「神木の青木の賜樹木」と前に論じた「賜姓仏」を与えなかったのです。
唯、「頼政の以仁王の乱」を引き継ぎ勝利した頼朝はこの頼政が持つ摂津源氏の「9つの縛りの格式」をある程度護った「摂津源氏」には象徴紋と白旗の御印」を朝廷の許可が下りなかったので、勝手に「頼政引き継ぎの政権」としてこれを以て「河内源氏」が無断使用したものです。
一切、この事からも「河内源氏」にはこの「三つの賜姓物」を賜った記録は有りません。
当然に、「釈迦八幡の習合の概念」と成るのです。
「青木氏族」は「密教」であって、「顕教を広めた釈迦」では無く、「密教の大日如来」なのです。
「釈迦」が「仏」に代わって「釈迦」がその「意」を「民に直接伝える」とする顕教とする、つまりは「習合」と、「大日如来の教え」を「悟りに依って伝える」とする「融合」とすると云う「概念の差」があるのです。
「顕教の習合」は当然に「伝達の間」があり、それが釈迦であり、悟りで大日如来の教えを直接伝える一体化した「密教の融合」とは「伝達の間」が在るのです。
お陰で、江戸初期では、この「密教」を解体するために顕教令を出し、その「神道の神明社」を幕府管轄にして荒廃させて解体しました。
「柳沢吉保」は「甲斐青木氏の出自」であった事から、密かに武蔵の神明社4社を修復して何とか遺しました。故に甲斐あって現在でも神官は青木氏です。
又、「伊勢と信濃の青木氏」では明治維新に「密教である事」に酷い迫害を受けたのです。

次はヘの斎宮の件です。
伝統で論じている通り、伊勢と信濃の青木氏は皇位から外れた皇子皇女の皇女だけを「生き延びる先」として「平安期中期頃・嵯峨期の賜姓族外し」までは引き取りましたが、これを機に天皇家との関係性は一切決別しました。
女系制度もその一つです。
「青木氏」の「女(むすめ)」として匿いましたが、それ以降は天智期の大火の改新で皇族より排除され第四世族外の皇子皇女等は坂東に配置されて生き残った「坂東八平氏・ひら族」を頼った様ですが危険な道中で殆どは行き着く事は無かった様です。
伊勢ではこれが「多気郡の斎王乃館」と云う場所です。
他には「青木氏の菩提寺の清光寺や来迎寺」等の寺にも「尼皇女」として匿いましたし、伊勢の数多くある「神明社」にも「斎宮」としても匿いました。
「若い皇女」は「青木氏」の「女(むすめ)」として「妻嫁制度」で養育されて「四掟」で「嫁家制度」に基づいて「秀郷一門等」に嫁ぎました。
「嫁いだ先の家娘」も「伊勢と信濃の青木氏の四家の嫁」として再び嫁いでくる「嫁家制度」の中で生きていたのです。
寧ろ、「皇族の中」よりも「伊勢や信濃の青木氏」に逃げて来る多くの皇女も居た様で、「青木氏」そのものが「女系族であった事」も左右したと考えられます。
中には、福家から「女系で繋がる伊勢郷士衆や信濃郷士衆」に嫁ぐ事もあった様です。
正式な記録には平安期中期まで32人ですが、これは「皇女とされる者」だけの数で、妾までの子供や王位を受けられなかった者や、後家とするとした「女(むすめ)」も含めると数百人と成るでしょう。
「伊勢青木氏で遺されている資料」では記録の表現として“数百”との書き方をしています。
恐らくは「正式な記録」があったと考えられますが、何度も起こった「伊勢大火」で「記録保存カ所の神明社や清光寺」などが焼けて消失しているのです。
中には一度は「伊勢屋から失火・放火」もあって、又、「伊勢騒動」に係わる明治維新頃の薩摩藩などからの「資料や記録の元」を消そうとして「打ち壊しや着け火」もあって消失している事もあります。
「伝統」も詳しく論じています。
トの江戸伊勢屋の件です。
最終は伊勢青木氏と吉宗の関係は信濃青木氏の聖域の約半分を没収しそれを四人の家臣に分け与え新藩を造り、殖産と職人の人を奪い幕府領として財源にしてしまいます。
裏切られた江戸の伊勢青木氏は危ないとして3日の内に200店舗もあった伊勢屋を無償譲渡して店子に渡し伊勢に船で帰り着き後は紀州藩に守られます。
全国と江戸に多く伊勢屋が広がった原因はこの事が原因です。
現在の「質屋」もこの時の事に成ります。
現在の「質屋」とは、「市民金融」を江戸に活発化させて「享保の改革」を推し進めた手段として少し違う形で営まれていました。
当初の「江戸の伊勢屋」が始めたのは、中国で古くから仏教メッカの金山寺が“市民を救う為の布施行”として行われていたもので、これを古くから「質・しち」と呼ばれていました。
これを「伊勢青木氏」が「令外官」として「仏教の寺」では無く、「神道の神明社500社の全国組織」を使って救済処置としました、人生過程で失敗し、いろいろな意味で失敗した「青木氏族」を救う為に「越前」に集めてこの「質」を「5か所」にして配置し救ったのが始まりで、明治初期まで続けられた「金融組織」です。
その大財源は、「伊勢青木氏の伊勢屋」から出ていましたが、「能力のある者」に「仕事」を与えて成功すると、「人」を雇い「職」を与えて「布施に当たる寄付」を受け付けて、それを「質」で回転させて、「一般の青木氏とその家人等に賃料として支払う「生活システム」を構築していたのです。
江戸でも伊勢屋は、「ハローワーク」と「銀行」と「賃貸業」と「物々交換業」の「四つの窓口」を持ち、これを一体化したものであったとしています。
それがその後に享保の末期に「伊勢屋と青木氏」が伊勢に引き上げた後に、四つがばらばらに成って独立した「伊勢屋」が出来て営まれたとされます。
これが初めての「日本の経済システムの始りの始り」であった事に成ります。

チの東京に12年と13年と続けて起こった「神田日本橋の商家の大火」ですね。
これが元でお家がお調べに成った「長島屋が引いたとする説」と成ると、前述した「仮説」では享保期からですから「90年間の衰退期間と時期」が長すぎる事も考えられますね。
「持ち堪えた事」もありますが、それにしても「幕府の享保期の影響」が無かった事に成りますね。
仮説が正しいとすると、それ程に「商いの上」では「伊勢屋との関係」が目立つものでは無かったとも成りますね。
「青木氏と伊勢屋」が身の危険を江戸と伊勢で史実として受けていた事は
から考えると「伊勢屋」との関係から間違いなく受ける筈ですが、矢張り、長島屋の「莫大な冥加金」が働いて失いたく無かった事もありますし、秀郷一門とすれば「官僚」として内部で抑え込まれた事もあり得ます。
では「衰退」は何であったのかという疑問が湧きます。
江戸でも貢献しているのに衰退させた要因は何かです。
「長島屋に代わる御用商人」が出て来たのかですね。
何時の世も「大火」があると「総合商社」は潤う筈ですね。
それが衰退したとなると何かが在った事に成りますね。
矢張り、普通は「御用商人」が入れ替わったと、当時に「長島屋を支えていた上級官僚」の「一門の者」がその座から去った事に成ります。
明治13年ですから秀郷一門では無く薩長の御用商人との入れ替わりの維新政府と成りますね。
仮説では、「享保期」とその後の「90年間」は何も無かった事に成りますね。
「伊勢」では、幕府との「戦いに似た軋轢」が以後も続いていて「山田奉行所との戦い寸前・伊勢シンジケートを動かして」の大変な事が起こっていたのですが、この「救い」は「紀州藩との付き合い・莫大な債権」と「朝廷への献納金」でした。
「秀郷流一門の歴史観」から来る「長島屋の屋号の件」とその「システム構築の財」は解決できませんが、お説の通りに「江戸期のその後の長島屋の貢献」にそもそも在ったのかも知れませんね。
豪商として総合商社として成りあがるには、荷駄を運ぶ事や物品を買い占める場合は、その“「組合持合株」”を買い取らなければならず不可能で許可は降りません。
この“「組合持合株」”は、「株を売る人」が無ければ買い取る事は出来ませんので大変な超高額になり、「売り」が無ければ結果としては殆どは「その株の持つ店」をそっくりと買い取る事に成ります。
「その財」が何処から出たのかであり「秀郷一門の長島氏」が出せたのかですが無理だと思います。
武士でも「武士株」と云う「格式」に従ってあって、上に成るにはこの株を買い取る必要があったのです。
それにしては「長島屋のお寺」が「西尾の足利氏一色」の「曹洞宗の寺」と同じという事は「顕教」であった事に成り、「秀郷一門の慣習仕来り掟の歴史観」とは少し肝心な事で外れていますね。
解決するかは別として「伊勢」から観れば「長島」は疑問が遺ります。

リの平の将門の件です。
この乱を沈めたのは一族の本家の「伊賀のたいら族の貞盛」と押領関東押領使の藤原秀郷・俵源太」でしたが、お便りの通り、貞盛だけの軍勢では一族が興した反乱を鎮める力はありませんでした。
念の為に良く間違われるのは、「坂東八平氏」の場合は「ひら族」です。
大化の改新で第4世族外で更に第7世族以上は坂東に配置され、これが「坂東八平氏」と呼ばれるひらに成った事からな名付けられた「ひら族」です。
これに対して「桓武天皇」が「後漢の渡来人の阿多倍王」の伊賀の子孫に与えたのが「たいら族」と呼ばれるその裔系が異なる族です。
そこで、「紀州と伊勢の惣国衆」を集めて臨んだのです。
その中に、紀州一帯の豪族で「傭兵衆の紀族」を集めました。
紀族には「飛鳥5大政権」の「紀族と巨勢族・葛飾族」の三つが存在していましたが、取り分け「紀族」は朝廷の要請で乱が起こると積極的に傭兵軍団として参戦したのです。
この「紀族」には特徴があって戦乱が終わってもその赴任先に子孫を遺して来る戦略を採っていたのです。
「紀の姓」を名乗るとか、「紀」に土地の名を着けて名乗るとかして子孫を遺してきました。
江戸初期や明治初期には「紀族の由来」も消えて別の姓名に変更した経緯を持っています。
お便りの通りこの「紀の族の子孫」が討伐軍を引いた後でもこの土地にも遺っている筈なのです。
恐らくはこの族の裔と考えられますね。

「研究中の仮設の長島屋の件」では伊勢だけの資料であり疑問が残りますが今後の資料発見に期待する以外に在りませんね。

以上お便りに参考の歴史観として記述しました。
大変に参考と成りました。
ではまた何か判りましたらお便りください。
お待ちしています。



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