青木ルーツ掲示板
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  [No.284] Re: 土佐の青木氏
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 14:03:26

Re: 土佐の青木氏
副管理人さん 2007/03/13 (火) 21:02
高知の青木さん 今日は。はじめまして。

良くこの青木サイトにお越し頂きました。
元のルーツを正せば親族でありますので、これからも度々お越しください。
青木さん同士でコミニケイション計りましょう。
何か質問や相談事有りましたら遠慮なくお尋ねください。

さて、ご質問ですが、
先ず確認したい事があります。武田菱紋は家紋掲示板に示している武田菱紋でしょうか。
ご確認下さい。

というのも、唐菱紋または唐花紋を武田菱紋と間違えている人が大変多いのです。
現在、日曜日に放映している大河ドラマの「風林火山」で武田の紋所をこの唐花紋を用いていて間違っておりましたが途中で、間違いの指摘を受けてか本来の「武田菱」に戻りました。

この唐花紋は中国の高級官僚が使用する文様で、これが後に、儀式の幔幕等に使用する儀式紋になりました。
これが、日本に入り、朝廷が儀式紋として幔幕や飾り紋に多く使用しました。
これが後に平安末期から鎌倉末期に高位の家柄(青木氏や藤原氏や平家や源氏とこれに血縁する大豪族)の氏が使用する様になりました。
この菱紋には真ん中に空間などあり花模様となっていますが、武田菱紋は菱形を4つあわせたものでシンプルです。
この事を確認ください。

つまり、この唐花紋は、江戸時代以降は庶民の儀式や礼服の文様として用いる様にもなりました。特に明治初期ごろからは家紋の待たない庶民の紋付の袖紋に使用しました。写真を撮るときなどに使用していました。
昔は、祝い事があると写真を撮りましたが、この時に使用されました。

ところで、武田菱紋であるとすると、結論から言いますと、武田氏系青木氏と成ります。

甲斐の国の守護の皇族賜姓青木氏の一族が甲斐の武田氏と血縁を結びました。
ところが、家に男子がなくこの武田氏より跡目婿養子をいれて血縁した皇族賜姓青木氏です。この家に男系の子供が生まれず、家紋掟により婿先の家紋となり、次ぎに、その子供に男子が生まれれば元の「笹竜胆紋」に戻りますが、男子が生まれず女系となつた事により、結局は武田菱紋となってしまった事によります。

この事で武田氏の系列に入った武田氏系青木氏です。

この皇族賜姓青木氏に付いては研究室の「皇族賜姓青木氏」のレポートを参照ください。
この皇族賜姓青木氏は5家5流青木氏があり、この氏より24氏に拡がっています。
この24氏の一つです。

5家5流は伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王となり、天智、天武、聖武、文武、光仁の5代の天皇の第6位皇子が臣下して侍となり、天皇より青木氏の氏を授けられました(賜姓)。

この甲斐王の青木氏です。綜紋は笹竜胆紋です。(賜姓源氏と同じで第6位皇子です)
この賜姓甲斐青木氏が地元の勢力を高めていた武田氏と血縁をしたものです。

当時の豪族は家柄をよくする為に上位の青木氏や源氏や藤原氏などと血縁をして家柄を上げてゆきました。
この武田氏は同時に源氏とも血縁しました。

源氏は5代の青木氏の後、桓武天皇が青木氏を賜姓せず、母元の渡来人の阿多倍の一族を賜姓(京平氏)しましたが、この息子の嵯峨天皇は第6位皇子に戻して青木氏から源氏に変名して続けました。
この5つの賜姓青木氏は天皇の親衛隊としての役目を担っていました。そして、上記の主要地に配置しました。

青木氏と源氏は同じです。青木氏は5代、源氏は11代であわせて16代です。
この皇族賜姓青木氏には自前の神社や自前の菩提寺を持っていました。
そして、この神社や寺社を身内の本家筋の青木氏が宮司や住職となつて守っていました。

もし、「神道」であるとしますと次ぎの事が言えます。
(但し、仏教の浄土真宗の”真宗”又は”真党”ではないこととします。)

武田氏系青木氏は、甲斐の皇族賜姓青木氏の本家筋の一族が宮司を務めていて、その一族の末裔が武田氏と血縁を結び、上記した結果、家紋掟で武田菱紋となったと考えられます。

この宮司の青木氏は多いのです。朝廷系の大きな神社の宮司には、佐々木氏と並んで現代でも青木氏が多いのです。
この5家5流の宮司筋の青木氏は、全て「神道」で、これが一つの皇族賜姓の青木氏のシンボルなのです。
この青木氏の住職は浄土宗です。浄土宗は江戸時代まで藤原氏と共に、この高位の身分家柄の氏が入る事が出来る宗派でした。

苗字帯刀で名主で大地主であると室町期に下克上にて滅ぼされてたか、室町期の戦国時代に潰されたかのどちらかで、子孫が生き延びて移動先で土地の郷氏になり、名主はこの郷氏が多いのです。そして、地主なのです。

郷氏と郷士とが有りますが、この郷氏にはこの青木氏や藤原秀郷一門や藤原秀郷流青木氏が多いのです。
郷士は普通の地方の地元小豪族侍です。

これ等の情報から間違いなくこの皇族賜姓青木氏の甲斐の青木氏の本家筋の末裔であると考えます。

この光仁天皇の第6位皇子の甲斐王を始祖とする皇族賜姓青木氏であると見られます。

もし、そうだとしますと、天智天皇の第6位皇子の施基皇子を始祖とする皇族賜姓伊勢青木氏とかなり近い親類と成ります。

光仁天皇は天智天皇の第6位皇子の施基皇子(しきのみこ)の子供です。同じルーツです。

実は筆者は、この日本の初代青木氏の伊勢の皇族賜姓青木氏の本家に当ります。御家とはルーツはかなり近い兄弟関係にある事に成ります。
御家は家紋が変化しましたが、ルーツの伊勢は現代も「笹竜胆紋」を保持しています。

そして、5家5流のステイタスシンボルの天智天皇から与えられた鞍作部止利の作「大日如来坐像」の大きな立派な仏像を伊勢賜姓青木氏の当家が保存しています。

やっと、甲斐の同じルーツの青木さんに会う事が出来ました。
甲斐には未だ沢山同じルーツの青木さんがいると思います。
御家は、下克上の時か室町末期の混乱期にご先祖のところに逃げ延びたものと考えます。
下克上は家来の中級武士達により、このような青木氏や藤原氏などの高位の家柄の尽く守護などが狙われたのです。

或いは、信長に滅ぼされた時に信長の勢力の届かない、親族のいる土佐付近に逃げ延びた可能性があります。
他の武田氏系青木氏と諏訪青木氏は関東の藤原秀郷流青木氏の所[神奈川横浜と栃木付近)に逃げ延びました。

伊勢青木氏は伊勢神宮の地元は「不入不倫の権」が与えられており保護されていました。
しかし、秀吉に攻められるまで無傷でしたが、統治した血縁関係の有る蒲生氏郷より保護されて伊勢で無事に残りました。

先ず間違いないと思いますが、唐花紋か武田菱紋か家紋掲示板で確認ください。

甲斐には、同じルーツを持つ諏訪族青木氏が存在します。

この諏訪族賜姓青木氏は甲斐の武田系諏訪族青木氏です。
隣の信濃では信濃皇族賜姓青木氏の神官は三つ柏紋の青木さんです。

そして、是非又お便りください。

研究室には沢山の青木氏に関係するレポートがありますが、一度、皇族賜姓青木氏の所を、先ず選んでゆっくりと楽しんでお読みください。
そして、多くのご親類の諏訪族青木氏や武田氏系青木氏などの人の投稿もありますのでお読みください。青木氏のことが良く判ると思います。

ご質問等有りましたら、ご遠慮なくお尋ねください。



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