青木ルーツ掲示板
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  [No.341] Re: 静岡の青木です
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 16:59:50

Re: 静岡の青木です
副管理人さん 2007/10/19 (金) 20:27
静岡の青木さん。こんばんわ。お久しぶりです。

よくお調べになりましたね。なかなか難しいので大変でしたでしょう。

そこで、さらに参考になる情報を提供しますが、地名地形データのところには、愛知の青木氏に関する情報がありますので参照してください。

実は、愛知には、5つの地方での青木氏があるのですが、この地方は大変多い一族の青木氏が混在している所でして、その青木氏は4つに成ります。

西側には、皇族賜姓青木氏の土岐氏系青木氏、更に、西側には、皇族賜姓伊勢青木氏、北側には、足利系青木氏、東側には、藤原秀郷流青木氏、南側には、御家が言う知多の阿久比付近の昔の渥美郡、額田郡の伊川津7党の青木氏、更に、北側の2つ目には、丹波大口付近と豊田には甲斐の武田系青木氏、存在して、ここに青木村を形成して住んでいました。
江戸時代中期以後には、この関係が多少混在します。
青木氏の出自を確定するに日本一大変難しい所なのです。

これ等の青木氏に付いては、家紋掲示板や研究室での「青木氏と血縁族」や研究室の検索でお調べになってください。詳細に記述しています。地名地形データでも簡単に記述しています。

さて、阿久比付近に存在する青木氏は伊川津7党の青木氏の末裔ですので、御家とは違っていると考えます。
もし、この小さい付近の小土豪となった伊川津7党の一つの青木氏であれば、江戸初期の混乱期の第3青木氏と言う事に成ります。(他説あり)

松平、水野氏、結城氏(後に結城氏を名乗る)も徳川時代の松平氏の一門と成ります。
土地の小土豪集団の伊川津の第3青木氏の青木氏が水野氏との血縁関係になると言う事は考え難いことです。

提供された今回の青木氏であれば、故に、西側2つの青木氏、北側2つの青木氏と、南側の伊川津7党の青木氏は適用されません。
ただ一つは、東側の藤原秀郷流青木氏と成りますが、御家の血縁族が住んでいた所と成りますと、この反対側に定住して村を形成していた藤原秀郷流青木氏とは当時の経緯から見て異なっています。

多分、藤原秀郷流の青木氏であると思いますが、この江戸の時期からすると、参勤交代で武士だけは移動していますので、一門の水野氏の上総の青木氏が赴任地にて、又は、養子などの縁組で移動したものと考えるのが妥当ではと思います。
そして、その後、松井氏との縁組が進んだとも考えられます。故に家紋が軸なしの星梅鉢紋と成ったと観られます。
松井氏は松平氏としてみて、その支流拡大期の氏と成りますので、江戸中期前後と考えられます。
(松平氏の主紋が軸なし星梅鉢紋ではありません。松井氏一族の家紋です。)
この5つの青木氏には、家紋などの夫々の特徴がありますので、「梅鉢紋」又は、星紋では可能性が少ないと見られます。

剣入り紋以外の梅鉢紋には、軸のある紋と、軸の無い紋と2種あり、この内、星梅鉢または、裏梅紋は、軸の無い家紋類です。この家紋は、松平の支流の松井氏の家紋で有ります。この氏は上記の5つの青木氏とは関係する記録が有りません。

家紋は松平と記述されていますが、この家紋は、松井氏だけですのでご注意ください。
松平流を受けていると主張する支流の松井氏は愛知三河からの出と成りますが、この氏の本家筋とされる松平氏の出自は、そもそも松平氏の系譜搾取偏纂から始まっていますので、上記の氏とは全く関係がありません。
結果として、調べると、松平氏そのものは10程度の家紋を持って居る事に成ります。この意味をご理解ください。
江戸時代から明治にかけて起こった家柄をよく見せるために、第3青木氏のように、松平氏も使われたのです。松平氏の支流と名乗る事で、出世、縁組をよくしようとした搾取偏纂です。
松平氏そのものが有名な搾取偏纂の例で、朝廷に見破られた有名な経緯があります。

御家は、幾つかの養子縁組から、家紋掟でこの家紋になったと確実に見られますので、御家の青木氏は私は上総が高いのではと考えます。
家紋は変わっても、氏は養子を受ける、出るとは関係有りませんから、仕官や縁組での移動し縁組で家紋変化したとみられます。
水野氏との関係での事かと考えます。
養子縁組などを繰り返している事から分家(どちらかというと分派、分流)となり、かなり難しい所でしょうね。

昔の青木村では、皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏などの氏は特定の村を形成を許されたのですが、逆に言えば、多氏のもの、又は他の青木氏は特別の理由が無い限り、入村できません。
江戸時代にはまだ無理でした。まだ、氏家制度の血筋を守ると言う慣習は残っていました。むしろ江戸初期から中期にかけて、むしろ、強くゆり戻しがおこった時代でした。だから、かもんもこの時期が一番増えた時期でした。その中でも、厳しいのは、「国抜け」で、これは縁者を含む末代まで死刑でした。この意味は他国者をも入れ無いと言う事です。どんな嫌疑を掛けられるか判りません。現代の仕来り慣習では考えられません。
従って、余程の理由が無くては、御家の移動形態や縁組では、この5つの氏には成りません。

もう一度、ご理解されてお調べになる場合は、本家筋の郷里の所の情報がこれを解決するのでは思います。それと時代の慣習で考察される事をお勧めします。それと、インターネットの有名な江戸時代の氏の系譜などは、100%に近い状態で搾取偏纂ですので、ご注意ください。

しかし、よくお調べになりました。
御礼ありがとう御座います。



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