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 隅切角に隅立て四つ目について   四方   2009年7月1日(水) 1:52     メール
修正
はじめまして。

私の家の家紋は「隅切角に隅立て四つ目」のようですが、この家紋について調べていますが
特に記載されたサイトがありません。

もしご存知でしたらこの家紋について教えていただけないでしょうか?

ちなみに所在は京都府北部地区になります。

よろしくお願いいたいします。

    福管理人   2015年8月11日(火) 9:21    修正
この「隅入り角に隅立て四ツ目結紋」は、目結紋81の中の一つです。

染め文様から発展した文様で、古くは奈良期末期に正倉院に遺されています。
目結紋は後に武家の家紋に発展させたものです。
奈良期から職能紋として使われてきました。
その主に使われたのは使用時期は江戸初期が主です。

家紋の持たない者で職能に携わっていた事から武士と成った事で、家紋として多く使われ81もの文様と成りました。

この文様は、矢島氏が主に使いました。
「青木氏」では,「伊勢と信濃の青木氏」と女系血縁で結ばれ「青木氏部の頭」の家筋がこの目結文様を採用しました。

詳細は不詳ですので、これ以上の事は書く事が出来ません。

    青木研究員   2006年1月23日(月) 9:53   
修正
第10/33番目の紋様です。
鷹の羽紋です。
この家紋の青木氏は4氏です。

1番目は並び鷹の羽紋です。
2番目は違い鷹の羽紋です。
3番目は丸に違い鷹の羽紋です。
4番目は五瓜に違い鷹の羽紋です。

1番目は菊地氏との血縁による藤原秀郷流青木氏です。筑前筑後国の豪族
2番目は浅野氏との血縁による藤原秀郷流青木氏です。安芸美作国の豪族
3番目は2番目のこの分家筋の当る藤原秀郷流青木氏です。
4番目は2番目の末裔と藤原系長良一族との血縁による藤原秀郷流青木氏です。

詳細は研究室のレポート参照して下さい。

鷹の羽紋は菊地氏が最初に使用した紋様でこの紋様は江戸時代に多くの大名や御家人が変紋して使用しました。下克上と戦国時代をへて新しく台頭した家紋などを持たない者が江戸の安定期に入り使用したものです。

藤原秀郷流青木氏は主要9氏から116氏に拡大しましたが、元はこの9氏の家紋から跡目問題で変紋して116氏の家紋に拡がったものです。
菊地氏血縁族を除く3氏は江戸期戦後の血縁族です。

五瓜に違い鷹の羽紋についてはデーターを保持していません。確保次第に掲載します。

(第4番目は次ぎ補足してもらいましたのでこの家紋類は完了です。)

    mあおき   2006年8月4日(金) 19:08    修正
『 五瓜に違い鷹の羽 』になります。

注:紋帳や地域により、微妙に違う場合があります

    青木隆志   2013年1月14日(月) 3:40    ウェブサイト 修正
我が家が3番目の家紋です。そして代々長男は名前の頭に「藤」の字を付けていました。
(私も長男ですが、お爺ちゃんが戦後共産主義にかぶれちゃったのでまったく関係ない名前です。)
糸島市志摩新町あたりの網元で、明治維新後没落したそうです。

    青木研究員   2006年6月25日(日) 15:56   
修正
第18/33番目の紋様です。

矢紋の紋様は36ありこの内青木氏に関わる紋様は次ぎの2つです。

1番目は丸に違い矢紋です。
2番目は六つ矢車紋です。

ともに家紋200選にあります。

この青木氏に付いては皇族賜姓青木氏か藤原秀郷流青木氏かは確定は出来ない。
その理由は地域性と2つの青木氏との関連性がつかめないからです。

しかし、皇族賜姓青木氏は5家5流の24氏は確定しているし、嵯峨期の詔の影響もあり末裔は限定し、確定しています
このことから、藤原秀郷流青木氏となるが、この一族との関連性も24地方の青木氏との繋がりも出てこない。この矢紋の一族の氏名から見て室町末期からの武士となつた可能性は高いので藤原氏との何らかの関係を先祖に持ち、それでこの青木氏の氏名を名乗った可能性が否定出来ないです。
そこで、明治と室町期の第3の青木氏となる。矢紋は武士の家紋とされているので、この家紋を持つ青木氏となると室町期の第3の青木氏とも見られます。

一つには藤原秀郷流青木氏の116の中に入れている説もあるが理由は明確ではありません。

詳細は研究室参照ください。

    座仏と立仏(海野) と申します。   2012年10月30日(火) 21:04     メール 修正
縁在って、丸に違い矢の家紋を継承しています。
家系図は無く数代前に宗派は“西本願寺派(成願寺)”から“真宗高田派(善性寺)”に移り代わって居ます。座仏から立仏です。
残されたのは、16紋菊の瓦(一枚)と宝蔵寺(藤原千方さん)と善性寺(転読さん)。
先日、犬の散歩中に雲出川で拾った丸に剣方喰の瓦(家紋のみ)。
藤原千方さんには縁が在るのか?お爺さんの出が“高雄”で…お婆さん筋も“高雄”関係し…現在に至りました。

 青木氏の家紋   青木研究員   2005年12月17日(土) 21:31   
修正
第8/33番目の紋様 片喰紋

青木氏の片喰紋は125紋様のうち6紋あります。
この6紋は片喰紋と剣片喰紋の2つに分けられます。
この2つは前者の中沢氏系との血縁氏と後者の酒井氏系との血縁族に分けられます。
この二つは藤原秀郷系青木氏である。
後者の剣片喰紋系の青木氏は関東の八王子付近に定住している本家筋と四国の阿波の国にて子孫を拡大した分家筋との二つに分けられる。
第1番目は片喰紋です。
第2番目は丸に片喰紋です。
第3番目は隅入り平角に片喰紋である。
第4番目は丸に剣片喰紋である。
第5番目は五瓜に剣片喰紋である。
第6番目は子持ち亀甲剣片喰紋である。

第6番目の子持ち亀甲剣片喰紋はデーターを保持していませんので判り次第掲載します。

    青木研究員   2005年12月30日(金) 23:43    修正
五瓜の剣片喰紋です。
第6番目の子持ち亀甲剣片喰紋はデーターは保持していませんので判り次第掲載します。

いずれも藤原秀郷流兼光系青木氏の支流である。
夫々は家系問題で中沢氏との血縁と酒井氏との血縁にて一族が分流して行ったものです。
その為に家紋が変化したのです。
5番目の家紋は家紋掲示板に掲載されている岐阜の青木さんの家紋です。
研究室に投稿されている八王子の青木さんと四国の青木さんの家紋も4番目と5番目の家紋です。

    mあおき   2006年9月28日(木) 13:32    修正
6番目の『 子持ち亀甲剣片喰 』です

  亀甲との違いは、内側の線が少し細い位です

 この家紋は何と呼んだらいいのでしょうか?   橋富   2010年7月23日(金) 12:59     メール
修正
ルーツ掲示板で上手く画像の添付が出来なかったので,
こちらで試させていただきます。

質問内容本文は,ルーツ掲示板の方へ投稿させて頂きました。
丸・中輪に,変わり六つ唐花といった感じでしょうか?
しかしこれを唐花と読んでいいのかどうか。
あまりに俄仕込みなので,見当違いな物言いでしたらすみません。
花弁の内側の模様,何と言うべきでしょうか?
この家紋全体の名前を教えて下さい。

    福管理人   2010年7月24日(土) 9:15    修正
ルーツ掲示板の方にご返事いたしました。
添付モードのご指摘の件ありがとうございます。直しました。

 お聞きしたいんです   あき   2010年7月21日(水) 11:05   
修正


私の家紋ではなく 先輩の家紋なのですが

先日、この家紋はなんだろうね という話をしていて
自分で「丸に〜の角字」というところまでわかったのですが
なんの角字だか わからないのです。

好奇心からの投稿ですが よろしくお願いします◎

    福管理人   2010年7月23日(金) 7:56    修正
お答えは青木ルーツ掲示板に移していますので、そちらをご覧ください。

 青木氏の家紋   青木研究員   2005年11月22日(火) 12:23   
修正
第3/33番目の紋様 藤紋

藤紋の家紋は全部で144紋あります。
この内、青木氏の家紋は6紋です。
この紋は藤原一門の家紋ですが、この藤紋のうち「下がり藤紋」は藤原氏の北家の家紋で藤原秀郷一族の家紋です。
この藤原秀郷流の青木氏がこの家紋を使用しています。
藤原秀郷流の直系の青木氏、即ち青木氏の宗家のこの紋と、直系の分家は主に揚羽蝶紋を使用しています。
この「下がり藤紋」は他に公家九条氏と二条氏が使用しています。
詳細は研究室のレポートを参照して下さい。
一番目は「下がり藤紋」です。
二番目は「上がり藤紋」です
三番目は「加藤藤紋」です。
四番目は「対い四つ藤紋」です
上り藤上一紋
下がり藤州浜紋
残りの二つは現在データーを保有していません。判明次第掲載します。

    青木研究員   2006年9月30日(土) 19:50   
修正
第25/33番目の紋様です。

研究室と同文掲載

この紋様は全部で26ある。

この紋様のうち青木氏に拘る紋様は次の1つの紋様である
「丸に三つ鱗紋」である。

この紋様は家紋200選にえらばれている。

この家紋は鎌倉時代の執権北条氏の家紋である。

この北条氏は前北条氏と後北条氏とがある。

この北条氏の末裔の分流は平野氏、江間氏、岡野氏である。

この北条氏は鎌倉幕府の執権として1333年まで維持したが、この北条氏は平家(たいらぞく)の清盛に追われ伊豆に流罪となつたほ清和源氏の源頼朝の引き受け先となつた氏である。

この北条氏は「坂東八平氏」として関東千葉地方からこの伊豆付近までを勢力範囲とする8族の平族(ひらぞく)である。

この「坂東八平氏」のルーツは奈良時代から天皇家の第7世以降の皇族から下俗した氏で天皇が代替わりするたびにその天皇から数えて7世以降になつた者が坂東の国々に移動させられた者で土地に根付き氏を発生させた元皇族の者であつた。
これ等のものは勢力を拡大して8つの族を形成した。この8つの族を「ひら族」と言う。つまり「ひら」に下がったことを意味する総称である。

ひら族の坂東八平氏に付いては研究室の「京平氏と坂東八平氏」のレポート参照

参考として、付帯すると
では平清盛らの「たいら族」の由来は次のとおりである。
大化の改新の時代に中国北東部と朝鮮を勢力範囲として国を樹立した中国の後漢国がありこの国が滅びた。

後漢は漢国が滅びたがこの中で光武帝という将軍がいた。この将軍は滅びた漢の民を集めて東部地域に引きこもり国を作りその勢いで三韓(馬韓、弁韓、辰韓)攻め落として後漢という国を樹立、この国は640年頃にまで21代続いた。「光武帝」より末帝の「献帝」までである。

献帝には阿智使王の子と孫の阿多倍王がいた。
この子孫を守る為に阿智使王と阿多倍王に後漢の国の17県の民(200万人)を引き連れさせて、北九州に上陸してきた。

この一団には武力集団から始まり技能、官僚、など全ての国を構成するに必要とする高く進んだ集団から構成されていた。

この集団の首長の阿智使王と阿多倍王は戦いを避けて帰化を朝廷に申し出た。
この集団は瞬く間に九州全土を無戦で制圧し引き続き中国地方をも制圧した。

大和国66国のうち32国を制圧した勢力をもち朝廷にその圧力を加えて認めさせます。

しかし、殆どは無戦で進んでその配下に入る地方の豪族が殆どでした。
その理由はこの集団の能力でした。
軍事、政治、経済での高く進んだ知識と技能を土地の者に普及させて生活力を高めさせたのです。
現代の第1次産業の殆どはこの集団が持ち込んだものです。

この集団の首長の阿多倍王らに付いては日本書紀にも度々出てきます。

この阿多倍王は敏達天皇の曾孫の子の娘を娶り3人の子供を生みます。
阿多倍は准大臣にもなり、子供の長男は朝廷の軍事の長として坂上氏の賜姓を受けます。次男は朝廷の財務関係の長として大蔵氏を、三男は天皇家の執事としての内蔵を担い内蔵氏の賜姓を受けます。
この当時の政治体制は「3蔵」と呼び2つまでをその高い進んだ官僚知識で担ったのです。

この阿多倍王には伊勢国を1/3にして伊賀北部の半国を与え「不入不倫の件」を与え半国司とします。

この阿多倍より3代目の貞盛が下野国の押領使(軍事と警察)として任務についていました。
この時、坂東平氏の5年間の「平の将門の乱」が起こり藤原の秀郷とともにこれを制圧します。
この勲功により出世して5代後には平清盛になり太政大臣まで上り詰めます。
これが桓武天皇の賜姓族の「たいら族」(ひら族扱いの意)です。

この集団の官僚の政治知識でやつと桓武天皇期に日本の律令国家が完成します。

このひら族が第6位皇子の皇族賜姓青木氏の後の嵯峨天皇期からの第6位皇子の賜姓源氏(桓武期の賜姓平家族に対して次の子供の嵯峨天皇)に戻します。
(この時青木氏は皇族関係者が下俗するときに名乗る氏としました。)

この嵯峨天皇から九代目の清和天皇の第6位皇子の経基王が清和源氏の賜姓を受けます。この3代目の宗家頼光より4代目の源三位の頼政がこの伊豆国の守護となります。この時にここを護衛した賜姓伊勢青木氏の子孫の一部がこの地に定住します。

また、頼光の弟の頼信が甲斐の国の守護を兄から譲られて守護となり、勢力を拡大するために坂東平氏を圧迫してその4代目の子孫は此処伊豆東部に坂東制圧の拠点を起きます。(坂東八平氏は関東東よりに圧迫される)
この時にも、甲斐の賜姓青木氏の一部が護衛してここに定住してきます。

この地より以東の神奈川横浜には藤原秀郷一族の青木氏が定住しています。
(1180―1195年代)

後には、神奈川横浜には甲斐の諏訪族青木氏も織田信長の追求を避けて落ち延びてきます。(1560年代)

この付近一帯には4つの青木氏が存在することに成ります。

そこで、この「丸に三つ鱗紋」の青木氏のルーツは次の検証です。

鱗紋は三つの鱗を組み合わせたものが主要紋です。
つまり、北条氏の「三つ鱗紋」です。「丸に三つ鱗紋」はこの分家ですから本家では有りませんので血縁するとしては氏家制度から本家筋かとの血縁に成るのがこの時代の慣習です。よって「三つ鱗紋」の青木氏がないのはこの慣習が乱れた時期であり、1330年代以降の10年余りの出来事と見られます。
つまり、清和源氏滅亡した後の北条氏滅亡直前で足利氏に移る間の時期に血縁を結んだことが考えられます。

上記上2つの賜姓族青木氏のいずれかがこの北条氏の末裔と血縁し2代続きの男系不継承で女系化して止む無く家紋掟で養子先の家紋継承となったものと見られます。この青木氏の村を形成している定住地から見ても充分に頷けるものです。

要するに北条氏の子孫が絶えない方策として滅亡の混乱期に血縁にて分家が賜姓青木氏を選んだと見られます。

北条氏の血筋を引き受けた賜姓青木氏であると見られます。
この家紋は鱗の数で紋様を変化させていますが、北条鱗紋の三つ鱗が元であります。


詳細は研究室の「京平氏と坂東八平氏」と「藤原秀郷と坂東八平氏」と「皇族賜姓青木氏」などレポートのところを参照してください。

    安部公良   2007年1月13日(土) 17:19     メール 修正
本籍 大分県の安部です。家紋は丸にミツウロコです。

阿多倍王→阿倍→安倍→安部と関係がありそうですが,
青木研究員の研究結果には 丸にミツウロコの家紋と

安部家の関係が記されていませんが 何か関係があれば
教えてください。

    青木研究員   2006年8月30日(水) 19:21   
修正
この紋様は22/33番目の紋様です。

この紋様は家紋200選には有りません。

この紋様は全部で79あリます。
この紋様の多くは江戸期のものです。

この内青木氏に関わる紋様は次ぎの2つです。

第1番目は「三つ銀杏紋」です。
第2番目は「二重亀甲に銀杏紋」です。

この紋様は使用されたのは古く平安末期ごろと見られます。
当初は公家の紋章として使用されたものです。
この公家は飛鳥氏または飛鳥井氏です。

この青木氏に関わる家紋の第1番目の「三つ銀杏」紋を使用している氏としては次ぎ通りです。

大石氏、土方氏、水島氏、間部氏、長谷部氏等です。
この氏を見ても明らかのように中国地方の小豪族の氏です。
この氏と血縁を持った青木氏で有ることと成ります。

では発祥はどこかですが、この青木氏は藤原秀郷流青木氏で、この一門は讃岐籐氏に同行した讃岐の青木氏と、近江から移動した藤原秀郷流青木氏の二つです。

第2番目の「二重亀甲に銀杏紋」を使用している氏は中国地方の小豪族の連合体です。
この紋様は「出雲大社」の神紋で出雲大社を中心に結束を固めた氏子の集合体です。
この氏と血縁を結んだ藤原秀郷流青木氏です。
讃岐から移動した青木氏がこの亀甲族との血縁を結んでいますので讃岐の青木氏との関連が強いと見られます。

ただし、この2つの家紋の氏は室町と江戸期の2度の混乱期を経ていますので確証を取ることは難しく断定は出来ませんが、第3の青木氏よりは可能性は高いとされます。

詳細は研究室の「青木氏と血縁族」の銀杏紋ところを参照して下さい。

「二重亀甲に銀杏紋」の正確なデーターを現在保持していませんので判り次第投稿します。

特にこの二つの家紋は新しく江戸期のものですので鎌倉期までのルーツ確認が資料不足等で繋がりません。

    mあおき   2006年9月21日(木) 21:28   
修正
=青木氏の家紋= よりデータの無かった紋です
次の三つは、名前により それぞれ組合わせて作りましたので、ご確認下さい。
パーツ的には間違いはありません。
左から
『 隅切り角に抱き角 』
『 隅切り角に扇 』 ※一般的な五本骨扇にしました
『 四方瓜に重ね菱 』
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