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 青木氏の家紋   青木研究員   2006年1月3日(火) 14:15   
修正
第9/33番目の家紋 州浜紋

1番目は州浜紋です。
2版目は丸に州浜紋です。1番目の分家筋に当ります。
3番目は三つ盛州浜紋です。
4番目は三つ盛蔭州浜紋です。分流一族です。
5番目は五瓜の州浜紋です。
6番目は下り藤州浜紋です。

藤原秀郷の4代目兼光が陸奥の守護に任じられて同行した青木氏がこの地に定住して土地の州浜紋の小田氏との血縁を結んだ一族です。
(詳細は研究室参照)

陸奥の小田氏との血縁族です。
1と2は藤原秀郷の4代目の兼光系の直流の一族が男系欠如により止む無く変紋を余儀なくされた事により家紋掟により変紋を行ったものです。

3と4番目はこれらの州浜紋一族との血縁による藤原秀郷の4代目の兼光系直流青木氏が陸奥の国で定住して土地の豪族の小田氏との血縁関係で生まれた青木氏の一族です。
家系継承上男系をなくした一族が小田氏との跡目継承で家紋を変紋を余儀なくされ、その後この一族が他の氏との同様の問題で更に変紋を行ったものです。
5番目は五瓜族の藤原一族の長良一族との血縁関係を持ち州浜紋に瓜紋を加えての変紋を実行した青木氏の州浜一門です。
室町から江戸初期にかけて発祥した一族です。

6番目の家紋のデータを保持していませんので確認出来次第掲載します。

    青木   2007年12月7日(金) 21:35    ウェブサイト メール 修正
ども、岐阜の青木です

実家のお墓にある家紋を参考に描きました
五瓜州浜紋です
では、(^^)ノノ"

 青木氏の家紋   青木研究員   2005年12月9日(金) 21:08   
修正
第5/33番目の紋様 木瓜紋

この青木氏の家紋は6つあります。
この6つの殆どは皇族賜姓青木氏系の血筋を持つ支流24氏の青木氏である。
皇族賜姓青木氏の血筋を持つ武田氏系、足利氏系、土岐氏系の3氏の青木氏の支流である。
この家紋は確定できませんが、分布やルーツの経緯から土岐氏系青木氏の支流家紋類と見られます。

この木瓜は美濃の土豪の土岐氏の家紋類である。
この土岐氏は皇族賜姓青木氏と清和源氏源の頼信の子孫との上位の跡目を受けて血縁を結んでいます。
したがって、清和源氏の支流一族と成ります。
その後、男系跡目が出来ず木瓜族から跡目を受けて変紋を余儀なくされた土岐氏系青木一族です。

この跡目を受けた一族は次のとおりです。

伴氏、紀氏 この2つは奈良時代初期からの氏である。(木瓜紋と分家筋の丸に木瓜紋)

下は室町末期から新しい氏として発祥した一族で第1と2の血筋を一部に持つ支流族である。
日下部氏、関口氏、平賀氏、野村氏、竹内氏、岸氏、堀氏、馬淵氏、
この氏は第1と2と6です。
第3と4と5は田中氏、大原氏、です。

一番目は木瓜紋です。
二番目は丸に木瓜紋です。一番目の分家筋である。
三番目は5つ木瓜または五つ葉木瓜紋または織田木瓜(織田うり)とも言う。
四番目は横木瓜または唐木瓜と云う。
五番目は丸に横木瓜または丸に唐木瓜と云う。
六番目は糸輪に陰木瓜と云う。

    青木研究員   2005年12月9日(金) 21:19    修正
木瓜紋の続き

丸に横木瓜と糸輪に陰木瓜です。
以上6つが青木氏の木瓜紋です。

この青木氏の家紋の詳細は研究室を参照して下さい。

    青木 大   2006年2月20日(月) 12:51     メール 修正
愛知の青木です。

当家の家紋 なかなか他のを見てもよく判りませんでした。

丸に木瓜紋ですが、多少わかりました。

もっと、詳しい情報が有りましたら、又お教え願います。

宜しくお願い申し上げます。

    mあおき   2006年8月4日(金) 20:12    修正
三番目の五つ木瓜についてなのですが

左の『 五瓜に唐花 』ごかにからはな
の事ではないでしょうか?

そう致しますと
右の『 織田瓜 』おだか
とは違います

少しの違いがご覧頂けると思いますが
いかがでしょう?

福管理人
答えは、この文様は木瓜或いはボケの花を紋様化したものとされます。
この文様の中央部は木瓜の芯やボケの花芯を紋様化したと考えがちなのですが、実は、この文様の中心は中国の高級官僚の服の袖に使用していたもので、朝廷がこれを儀式の服に用いて以後、唐花紋を細工して入れたものです。このパターンは菱紋など他にも多く用いられています。
従って、五つ木瓜紋の中心と織田木瓜紋の中心は同じです。
ただ、他の木瓜紋と違い織田木瓜紋の中心の唐花はややとんがり傾向にしています。

これが一番多い疑問で念の為に提起しました。

 青木氏 宗家 笹竜胆紋   副管理人   2007年6月2日(土) 20:46   
修正
青木氏の綜紋の笹竜胆紋
第33/33番目の文様の「笹竜胆紋」である。

この「竜胆文様」には47の文様がある。
この内、「笹竜胆紋」は、家紋200選に菊紋の次ぎにトップに上げられている文様である。

その中でも、「笹竜胆紋」は天智天皇から発祥し、光仁天皇までの5家5流の皇族賜姓青木氏と、同族の嵯峨天皇期から発祥し、花山天皇までの11家11流の源氏一族の「綜紋」でもある。
この皇族賜姓青木氏と、皇族賜姓源氏の二つは、次の経緯(概要)で発祥している。


これ等の以下の記述内容に付いての詳細は、研究室の右メニューから適切なものを選んで参照

[賜姓青木氏と賜姓源氏の発祥経緯]

先ず、「皇族賜姓青木氏」は、天智天皇より光仁天皇までの男性天皇(間に女性天皇あり)の5人の天皇から出ている。
各天皇の「第6位皇子」を、天皇の「親衛隊」として臣下(侍)させて、天皇より直接「青木氏」の賜姓を授けたものである。

この5人の天皇は、「天智天皇」、「天武天皇」、「聖武天皇」、「文武天皇」、「光仁天皇」(施基皇子の子 天智天皇の孫)である。

「賜姓と臣下の理由と目的」は、概ね次の通りである。
「大化改新」が起こり、「蘇我氏との反省」と「財政的改革」から、「天智天皇」は、手始めに天皇の「皇位継承制度の変更」を実施し、それまでの「第4世皇位第6世臣下」の「世」方式から、「第4位皇位継承第6位臣下方式」の「位」方式に厳しく変更した。
そして、天皇家の「財政的軽減」を図った。
この時、更に、66国に配置する「王位」に付いても、それまでの第6世(第7世は臣下 坂東に配置)までとしていたところを、第4世までとして厳しくして天皇家の負担軽減も図った。
これが第1の目的であった。

その理由として、天智、天武の両天皇の皇子は、総勢34人と、その他の皇子や上位王位を入れると、約50人以上にもなっていた。
これ等に掛かる費用は、天皇家の財政的な大負担の状況であって、これが天皇家を弱くしていた原因であつた事と、施政に対する財源の捻出がままならず、「大化改新」の改革のネックと成っていた。
つまり、天皇家の「内蔵」の財政が、朝廷の「大蔵」の財政を圧迫していたのである

又、更には、天皇を護る自らの護衛隊が無く無防備であった事が、蘇我氏の助長を招き、渡来人の軍事集団の漢氏(又は東漢氏)を支配されていた事などで天皇家が圧迫を受け、思いのままにされていた事。この反省により皇子を臣下させる方策(天皇の親衛隊)に出た。
これが第2の目的であった。

当時、後漢の民である帰化人が持ち込んだ技能集団(即ち、第一次産業の「部制度」)による経済的収入源は、朝廷の財源(大蔵)を大きく占めていた。これが蘇我氏の管理下に置かれていて、経済の実権(政治、軍事含む)を完全に握られていた事。これを「公地公民の制」を敷く事で天皇家に実権を集めて解決し、これを上位の王位等の守護王に監視させた。
これが第3の目的であった。


[初代青木氏の発祥]に付いて
それまで「伊勢王」であった「孝徳天皇」の皇子(2人の兄弟皇子は同日病死)から変えて、「第6位皇子」として、「中大兄皇子(天智天皇)」の皇子の「施基皇子」を臣下させて、伊勢国の王位を与えて護らせた。
そして、この王位には賜姓として青木氏を与え、そのステイタスとして「鞍作部止利」作(日本最初の仏師)の「大日如来坐像」の仏像を与えた。(青木氏のステイタス 仏像写真添付)
「天智天皇」は、ここに天皇家の守護神として「伊勢神宮」を置き定めて、祭祀を行ってここを伊勢国の天領地とした。
(その後、天武天皇が正式に守護神と定めた)
そして、「賜姓青木氏」を伊勢神宮(守護神)を護る伊勢の国の「守護王」としたのである。これが(藤原秀郷流青木氏を含む全ての青木氏)最初の伊勢の青木氏である。
伊勢青木氏は、天皇の補佐役を務める為に、伊勢に代理行政官である国司(三宅の連国造:みやけのむらじくにのみやつこ)を送る。

天智、天武天皇より後に、都として定めた近江国を除き、美濃と信濃と甲斐国は、未だ未開の土地であったが、この結果、進んだ技能により未開の地は、主に大きい外来馬の飼育等の目的で開墾が進み、大和国(後に日本国と定めた)の主要国と成りつつあった。
これ等の理由により、聖武天皇以降の天皇は、上記の賜姓青木氏による守護王を配置して、北部の未征圧の国の民族から彼等を護ったのである。
又、この5つ国は、更に、「国防、交通、穀倉」の地帯の要衝地でもあり、5人の天皇は「第6位皇子」に賜姓して青木氏を与えて、これを護る「守護王」としても配置したのが「5家5流の青木氏」の経緯である。
(後に賜姓源氏もこの5つの主要地の国司となる。)

この初代伊勢の国に続き、近江国、美濃国、信濃国、甲斐国に国府を置き、上位(八色の姓制 朝臣)の「守護王」として配置し、その5つ国に国司を派遣したのである。
これ等の国の賜姓青木氏は、後に5家5流は24氏と末裔を広げた。

しかし、その後、「桓武天皇」の施政で衰退し、「嵯峨天皇」は、これを嫌って「賜姓青木氏」より「賜姓源氏」として変名して皇族賜姓に戻したのである。
衰退の後、1185-1192には、源頼朝は北条氏らの反対を押し切って「平氏没官僚策」や2度の「本領安堵策」を実施して、賜姓青木氏や賜姓源氏らの一族の復興を計ったことで、これらの皇族賜姓族は、再び、勢力を盛り返した。(これが原因で頼朝暗殺計画は進む)

「皇族賜姓の経緯と綜紋」に付いて
この時、第4位皇子の皇位継承方式では、対象者がこの時代では不足し、天皇の皇位を保てなくなる事態の問題が発生し、嵯峨天皇期に詔を発して、「第4世皇位第6世臣下方式」に改め、第4世までの間の皇子の内、臣下の賜姓は、第6位皇子としたのである。これが源氏一族である。
これが11代の天皇に続いた11家11流(嵯峨天皇から花山天皇)の源氏一族である。

そして、「青木氏」は、第4世までの皇族の者が、臣下又は下族したときに名乗る氏名とした。
11代の天皇の中で17人の対象者が居たが、青木氏として氏名を遺したのは3氏に留まった。
3氏とは、島左大臣(真人族)の青木氏と、丹治党の青木氏(朝臣族)と、橘諸兄(宿禰族)の青木氏である。

5家5流の皇族賜姓青木氏は、後に、清和源氏との同族の血縁を結び、より一体化した。(1170-1185)
(当時の慣習で同等身分の血縁が主流であり、純血を保つ為に同族血族結婚が主流)

その中でも、初代の伊勢青木氏は、清和源氏の「源満仲」の嫡子の宗家「源頼光」より4代目の「源三位頼政」(以仁王の乱の首謀者)の孫の「源京綱(仲綱の三男)」が、宗家「伊勢青木氏」の跡目に入る。
以後(1150年頃)、伊勢青木氏を含む賜姓青木氏は同族の源氏一族と一体化する。


「笹竜胆紋の家紋」の経緯に付いて
文様の竜胆紋の内、「笹竜胆」の文様は12文様がある。
本来、賜姓青木、賜姓源氏の笹竜胆紋は、副紋、陰影紋、丸付き紋等は皇族系として使用していない。

室町期以降の乱世からこれ等の文様が用いられて12文様までに成った。

笹竜胆紋を使える一門としては、5家5流の賜姓青木氏と11家11流の賜姓源氏が使用できるものと成る。
特に、賜姓源氏は清和源氏の一族の頼信系一門が栄えて子孫を多く遺したが、後に、「京平氏」に圧迫されて子孫は衰退し殆ど抹殺された。
(11家11流の内、子孫を遺し得る者としては全17人となるが。結果的に清和、宇多、村上天皇の3天皇が子孫を遺した。その他は門跡院や比叡山僧侶となって子孫を遺す事は出来なかった。)

従って、史実から残存するこの直系5氏とは、賜姓青木氏、近江佐々木氏(天智天武)、滋賀佐々木氏(宇多)、伊豆大島氏(頼信系為朝)、伊勢北畠氏(村上)、摂津太田氏(頼光系頼政?)である。
ただし、北畠氏は、伊勢を始めとして、4代で勢力を高めての織田信長に潰された一族であるが、青森、千葉の等の4箇所にあるが、丸付き紋の笹竜胆紋と表示する書籍が多い。

「笹竜胆紋の由来」に付いて
そもそも、この家紋は、竜胆の花と葉で意匠したもので、葉が笹に似ている所から、笹竜胆と呼ばれている。
竜胆は、秋に咲く花で花色が藍の高位の色とされ、賜姓青木氏などの皇族氏の花とされた所から用いられたとされている。
この家紋の文様の記録は、村上天皇期ごろからの書物に出て来るようになり、その使用は、賜姓青木氏以外に、嵯峨天皇期の令により皇族系の者が、臣下する時の氏として青木氏を名乗る通例から、皇族方の公家や皇族賜姓青木氏などが用いる象徴文様とするものと成って行った。
このためにこの象徴文様が、家紋として「大要抄」等の史書に出る事となった。その後、象徴文様は、この文様を使っている賜姓青木氏や賜姓源氏が、統一の家紋としての「綜紋」として扱われるように成った。

「青木氏の氏名由来」に付いて
この青木という氏名は、”青木”と言う常緑樹から来ている。
樹の軸の色は濃青で、葉も同じく濃青であり、秋にも変色する事は無い。又、経年で著しく枝と葉は大きくなり茂り成長する。
そして、この樹には真紅の10ミリ程度の実を多く着実する。そして、この真紅の実は長期間に着実する。
この樹の特性から、榊などと同じく当時は「神木」として扱われていた。

その理由は、樹の常緑と成長は、永遠を意味し、軸と葉の濃青は、健康の体を意味し、真紅の実は命を意味し、その真紅は血を意味するとされ、このことから全ての「永遠の命」の樹木として「神木」として崇められていた。

天智天皇は、この樹の意味を採り、「第6位皇子」が臣下する際に氏名を青木氏として賜姓したのである。
そして、この”青木”樹の「神木」から民を正義の下に導く高位の者である事を示したのである。

次の嵯峨天皇は、賜姓青木氏を源氏として変名した事も、この意味合いを持たす事にあつた。
つまり、源、即ち、全ての「みなもと」を示し、上記の「神の木」は、「全ての物の源」を意味する事から、同じ意味を持たす事で、変名の賜姓を源としたのである。

今まで(八色の姓の制)第6位皇子を除く宿禰族までの皇位継承から外れた皇族の者が、全て門跡院や比叡山にて僧身したが、下族し臣下する際に使用する氏名が無かった事から、この時、「青木氏」は、これ等の者が、使用する氏名とする事を詔を発して統制した。そして、他の者が、使用する事を禁じたのである。
このことは、原則的に明治3年の苗字令まで原則維持されていたのである。
(ただし、室町末期と江戸初期の混乱期では、無視され、ルーツと家紋の持たない第3の青木氏が多く生まれた。)


以上、2つの青木氏に関わる家紋として、史実から33文様がこの氏の家紋となる。
本来は、総宗本家が維持する次の2つが綜紋と成る。
皇族賜姓青木氏は、「笹竜胆紋」を綜紋とする。
藤原秀郷流青木氏は、綜紋を「下がり藤紋」とする。

これが、次の通りに末裔を広げた。
「皇族賜姓青木氏」は24氏に血縁族を広げた。
「藤原秀郷流青木氏」は116氏に血縁族を広げた。

この二つの青木氏の氏の家紋は、33文様になるが、この内で、「桐紋」(1)と、「職業紋」(3)としての家紋を持つ第3の青木氏の4家紋も特別に意味があるとして記載して含んでいる。

 青木氏の家紋   青木研究員   2005年11月16日(水) 21:10   
修正
第2/33番目の紋様 菱紋

菱紋の青木氏でこの紋様は九氏の家紋があります。
101の菱に関係する家紋がありますが、青木氏はこの内の10の家紋です。

この菱紋は二つに分けられます。一つは武田氏の食物の菱紋様と、中国の図案としての大内氏系の唐花菱紋との二つです。
青木氏はこの食物の武田氏の菱紋です。
武田菱紋だけで5文様あります。
後は割れ菱紋と唐花紋です。

この青木氏は賜姓青木氏と武田氏との血縁による武田氏系青木氏とその分家、支流の青木氏です。

詳細は研究室の菱紋を参照ください。

一つ目は武田菱
二つ目は四つ割菱
三つ目は丸に三階菱
四つ目は三階菱
五つ目は松皮菱です。(五つ目は次に記載)

    青木研究員   2005年11月16日(水) 21:11    修正
五番目の松皮菱紋です
六番目の剣花菱紋
七番目の丸に剣花菱紋
八番目の丸に一つ目菱紋
九番目の四方瓜に重ね菱紋
十番目の花菱紋(丸付き紋)

残りの四家紋はデーターとして現在保有してませんので判明次第掲載します。

第6番目と7番目の武田氏系の家紋を補充してい頂きましたので残り2つの家紋と成ります。
第8番目と10番目までは補充されましたので全てが整いました。

詳細は研究室で参照して下さい。

花菱紋(丸付き含む)に付いては研究室の「山梨の青木さん」で検索して下さい。[青木信正ルーツ」でレポートしています。

    mあおき   2006年8月2日(水) 18:41    修正
『 剣花菱 』と

『 丸に剣花菱 』です

    mあおき   2006年8月4日(金) 19:12    修正
『 丸に一つ目菱 』になります

    四方瓜に重ね菱紋   2006年9月22日(金) 20:49    修正
四方瓜に重ね菱紋が掲載されていませんでしたが、サポーターから提供がありました。

次に掲載します。

    丸に花菱紋   2007年4月7日(土) 11:53    修正
丸に花菱紋

詳細は研究室の「山梨の青木さん」を検索して参照ください。

 第32/33番目の升紋   青木研究員   2007年2月4日(日) 12:29   
修正
第32/33番目の文様です。(研究室と同文:編集)

この文様は升紋です。
この文様は全部で22あります。
この文様は関東の「武蔵7党」の豪族集団の文様です。

この「升文様」に関わる青木氏の文様は2つあります。

この2つの文様は「升紋」と「丸に隅立て升紋」です。

家紋200選にはありません。(関東に根ざした古くからの小豪族の集団である事による)

この2つの文様のうち「丸に隅立て升紋」は「升紋」の分家です。

「升紋」は升を紋様化したものであるが、この升の「増す」に絡めて縁起を担いで家紋化したものです。

この「升紋」は関東の小豪族の集団で「武蔵7党」の家紋類で、特にその中の一つの丹党または丹治氏の家紋であるとされています。

先ずこの丹党は平安初期に数度に渡り武蔵守に任じられた「多治比氏」の末裔と言われています。

後に、「峯時」の時代に「秩父牧の別当」を任じられた時に、丹治氏または丹氏を名乗ったとされます。
この子孫は、武蔵国の秩父、比企地域周辺に広く分布しています。

この土地は後に藤原秀郷の領国になり入間を中心に神奈川横浜を半径として円を描く範囲に藤原秀郷流青木氏が分布しているが、この青木氏とは住み分けをしています。

このルーツの元祖は辿れば「左大臣島氏」(真人族:八色の姓の制の最上位の身分)とされ、これより第8世の孫「武信」が「陽成帝」の罪を得て配流となり、この地に住する事になつた。
そして、この「武信」の孫「峯時」の時に家を興し、その末の子葉の「繁行」が武蔵の地元豪族として丹党を起こした。これが武蔵7党の一つです。

つまり、配流中に地元の小豪族の娘との間に生まれた子供が跡目を継いだことを意味します。

この多治氏が後に嵯峨期の詔に基づき真人族「左大臣島氏」の枝葉の末子孫(遠祖)である事を理由に「基房」のとき「青木氏」を分流させたものとされます。

そして、この曾孫の「直時」の時に藤原秀郷流青木氏が多く住む入間に秩父より移り住み「丹治氏系皇族の「青木村」を形成したとあります。
この「直時」の父の「直兼」であるが、ただこの「直兼」を元祖としているとされます。

そこで、この遠祖といわれる「左大臣島氏」は第29代「宣化天皇」より発しているとされて、「十市王」の孫で「多治彦王」の子供であると云われているが確かではありません。

しかし、別の資料では異なる事がいくつかあります。
「基房」のときに秩父に住し、そりより4代目の「直時」に青木氏を分流させたとあり、秩父から入間に移動して青木村を形成したとする上記と異なります。

又、「基房」の分流説と「直時」の分流説の2説になります。

そして更に、「武信」の配流に対して「武平」が配流されています。

「武信」は「武平」より6代前の人物であり時代も大分に異なります。

この「武平」の配流の理由を調べると、秩父郡、加美郡、一井、加世を奪ったとの罪で配流されている。後に許されて上洛して戻ったとあります。

しかし、「武信」の配流の理由は「京」での「乱行」のことです。
つまり、二人の人物が「配流」されている事になります。

「武平」は秩父から京に戻されているので、何故4代後の「直時」が「青木氏」を秩父で興しているのか疑問が残ります。

更に、調べると、入間郡に青木村を形成したとありますが、しかし、地元資料では城は武蔵国高羅郡青木村にある。城名は泉ケ城で城跡があります。

ではこの二人のどちらが、この秩父で丹治党を興す子孫を遺したかです。

これは、後に江戸期の頃に系譜資料を作ったときに藤原秀郷流青木氏の住む「入間郡」に移ったとしたのではないか。故意か間違えたかとも云えます。

しかし、城と村が現存するので「高羅郡」が正しいと見られます。

更に、この丹治氏青木氏の末裔の地元は江戸期前は秩父と成っているのであるから間違いありません。
つまり、「入間の移動」説は、後の者がこの史実を知らないでより良く見せる為に藤原秀郷流青木氏のあるところに移ったとしたものでしょう。

次に、この子孫とされる末裔が、この秩父以外に江戸期に徳川幕府の御家人となり250石を得てその末裔は近江国甲賀郡に住している子孫があります。

ただ、この末裔の甲賀郡には甲賀城を構えた元は上山氏を名乗る青木氏が定住しています。

この上山氏の青木氏は、近江青木氏の分家を戦いの末に乗っ取り青木氏を名乗ったことは有名であります。
この戦いは秀吉公認立会いでの2度の戦いで勝利し、その末の青木氏である。この上山氏の青木氏は甲賀郡正福寺の人とされています。

ところが、この上山氏の青木氏は近江国氷上郡にあつた友政城とする説もあり、どちらが正しいのか疑問であります。

答えは上山氏の青木氏だと名乗る氏がいくつかあり、この2つの青木氏は別であるが、佐々木氏の家臣である方が正しく、他方がこの事について後に指摘されて「後勘に問う」として搾取改纂を認めました。
そこで、この上山氏は何処の出であるかを良く調べると「伊勢北部伊賀付近」に「一之瀬」というところ付近に館後(山城跡)があり、上山氏という小豪族がいて、その付近には現存して上山氏の末裔が多く住んでいます。
この分家末裔の一部が「近江の甲賀正福寺」に移動して「伊勢伊賀の上山氏」よりも勢力をあげたものと見られます。
従って、多治氏と上山氏は明らかに同族でありません。(発祥点が異なる。)

しかし、丹治氏の青木氏と上山氏の青木氏がこの甲賀に定住しているという疑問は解消しません。

更に疑問があります。
この丹治氏の青木氏はこの「升紋」であるが、別の多治氏青木氏は家紋が「丸に揚羽蝶と副紋」です。(上記した様に時代性はことなるが、多治氏と丹治氏と丹氏は同一である)

この域の確かな資料が消滅しているので確定はできないが、この「升紋」の多治氏から分流した青木氏は時代性(前期:930-950)と武蔵7党の「升紋類」の関連から見て、原流の多治氏分流の青木氏であると見られます。
そして、この原流は5分派したと見られる。この流が「升紋」の多治氏であると考えられます。

その後、この子孫末裔が1140-1180年代に「揚羽蝶紋」の坂東に配置された「京平家」の支流子孫との血縁により、更に6分派した氏であると見られます。
「家紋掟」により2代続きの男系不継承で変紋をしたものと見られます。この流が「揚羽蝶紋と副紋」の「丹治氏」である事が覗える。

合わせてこの多治氏と丹治氏とは11分派して更に末裔を広げています。

この二つの家紋の丹治氏青木氏としては、京平家の支流とする説と左大臣島氏を元祖とする説とは元祖はまったく異なるが「時代分派」と「家紋掟」とで枝葉末孫した血縁族であると見られる。
まったく搾取改纂とか別族とは考え難いです。
(京平家は渡来系阿多倍子孫である)

しかし、同じとすると1150年代に血縁して分流分派したことで納得できるが混乱期であるので確認資料はない。(揚羽蝶紋は京平家の綜紋です。丸付き紋は分家支流を意味する)

兎も角も、疑問が多いが、この「升紋」の本家と「丸に隅切立つ升紋」の分家の青木氏は武蔵7党の一つの多治氏系から分流した青木氏である事には、現状は(疑問が解けないが)間違いないとする説が通説とされるのです。
(分家紋は本家紋の丸付きである。)

上記した如くこの様に「矛盾と疑問」が解明できません。

 第31/33紋様の角紋   青木研究員   2007年1月12日(金) 8:36   
修正
第31/33番目の紋様である。(研究室と同文掲載)

「角紋」です。

この角紋様は全部で47紋様があります。この中で青木に関わる家紋は一つです。

隅切り角紋です。

角紋はそもそも幾何紋様を図案化したものです。

主に正方形を色々と工夫して紋様化したもので、角持ち、中抜き、四隅切り、反り角、中抜き、があります。
他に六角形、8角形、があります。
4辺組合わせ、2長方形組合わせ、正方形と円形組み合わせなどがあり、多数です。

この紋様は衣服や建物や家具に用いられたものが家紋化したものです。
明治以降の建物にはこの紋様が多く用いられており特に商家や職人の家などには白と黒の漆喰でこの紋様が描かれています。
玄関の入り口の板塀の上の壁とか「うだつ」等にもこの紋様が用いられています。

つまり、この紋様の使用の習慣はその職業の関係するところに用いられています。
この漆喰で形採る紋様を使用しているのはかなりの財産家の家などに見つけられるもので一般には余り見かけないです。
昭和では単純な紋様としての使用であったが明治初期前後付近からはその職業の集団のステイタスとを表すもので身分や位の象徴として用いられていました。
現代でも、田舎の豪邸の家の壁にはこの紋様の漆喰壁が見られます。

そもそも、漆喰は現代でも日本式建物でも佐官職がするが大変高価になりなかなかこの漆喰壁は見つけることは難しいです。日本の気候に合ったこの漆喰の壁は昔はお城の壁などに用いられていて其れも財力のある大名の城であり、多くは城の側面は「焼き杉板」でありました。
それだけに昔は更に高価でそこにこの紋様を描くだけでもそのステイタスはわかるものでありました。


この紋様と他の家紋を組あわせて紋様化したものでその下地になった紋様です。

必ずしも、「合わせ紋」であるので角紋と血縁化したという事ではなくおもに上記した様に下地紋として用いられました。

つまり、氏の発祥を意味する家紋には色々と意味を持たした紋様があるが、この紋様は単純な「文様タイプ」です。

この紋様は江戸中期から明治初期に掛けて家紋化したものです。
元より、室町期から出てきたこの紋様を利用した家紋があるがこの家紋から抜け出して一つの家紋化したもので、当然、明治初期の家紋ブームで生まれたものである傾向が強いのです。

特に、この家紋はその図案化した元から見て「職業紋」とした傾向が強く、その元は家紋としてではなく、そま職業のグループの集団のステイタスとして使われ、はっぴばんてん類に染めこんだものです。

この「はっぴ」や「ばんてん」等はその紋様を使えるにはその職業の匠などになれたときに使用を許されたものです。

これが、一つの伝統となりその者が遂には家紋化したものです。
そのグループを示すものとして正方形の形を変えて図案化したものをグループ化したものです。

家紋はその紋様に意味を持ち持たしているが、この紋様47には意味は有りません。
正方形パターンは26/47もあります。

この殆どの角紋にある文様の中に色々な紋様を入れて家紋化して「角に何々紋」としているが、このステイタスの職業紋は庶民がこの中の合わせ紋を外して外側だけを用いてステイタス紋として使用したものです。

この隅切り角紋のタイプの青木氏は第3青木氏です。
そのルーツは確認出来ないのです。
その理由としてその職業の親方か或いは長者や責任者などがこの紋様の家紋を維持していたが、その職業を他人の弟子の優れた者に譲り又譲るという形式を維持してきているので、そのルーツは確定できないのです。

一代限りという事もあるので、特定は困難です。
この青木氏は家紋と一致すると言う事ではないので、第3青木氏を苗字令で明治初期に青木氏を名乗ったものです。

「青字紋」等と同様に家紋の持つ意味が特異であるので、職業紋の例として記述しました。

 立ち梶の葉   青木研究員   2006年12月30日(土) 21:11   
修正
第30/33番目の紋様である。(研究室と同文)

この紋様は59もの紋様がある。

家紋200選には無い。

この59紋様の内青木氏に拘る家紋は1つである。
立ち梶の葉紋である。

史書によると諏訪明神の神紋とされていた事が覗える。
つまり、梶は古代布や紙の原料として使用され、梶の皮は白和幣(しらにぎて)を作ったり神様の幣に使用したりしてしているところから平安末期ごろから神紋と成ったのではと考えられる。

従って、諏訪地方の信濃と諏訪族が武田氏の系列に入った頃から甲斐地方の武士にも普及したものとされる。

この家紋は主に各地の諏訪系一門が使用したが高嶋の諏訪氏、信濃の諏訪氏、甲斐の諏訪氏、平戸の諏訪族(松浦氏)や安部の安部氏の支流諏訪氏のこれ等の血縁を持つ支流一族が使用した。この支流で例えば、保科氏、下条氏、丹比氏などがある。

この紋様は葉と幹と根から出来ている。葉は5葉が基本である。

この立ち梶の葉は5葉であるがこの5葉タイプは12家紋ある。

諏訪氏の三つ葉根有の梶紋とこの立ち梶の葉紋が主流である。

この諏訪族には諏訪族青木氏の抱き角紋があるが、この諏訪族青木氏は信濃王を元祖とする皇族賜姓青木氏と信濃の「抱き角紋」の諏訪氏との血縁で発祥した青木氏である。

信濃の諏訪地方と信濃よりの甲斐地方は勿論の事、信長に追われて藤原秀郷流の青木氏を頼って逃げ延びた一族が関東地方の横浜、神奈川、栃木、群馬、埼玉、茨城などの各地にこの末裔が子孫を拡大している。そして、同時に諏訪神社も移動させている。

現在でも、この諏訪地方の町長は代々この諏訪族青木氏が勤めている。

「立ち梶の葉紋」の諏訪族青木氏は武田系列には入った後に甲斐に定住した甲斐の諏訪族と甲斐王を元祖とする皇族賜姓青木氏との血縁で発祥した諏訪族青木氏である。
甲斐地方に子孫を維持している。

研究室にもこの抱き角紋の諏訪族青木氏は数人投稿されているが、この立ち梶の葉一門は武田氏盛隆時の甲斐での諏訪族であるので比較的に末裔は少ない。

この何らかの男系女系を問わず諏訪族の血縁を受けた梶の葉の一族では現代では30程度の家紋が確認出来る。


    貴島明美   2007年1月2日(火) 23:17     メール 修正
はじめまして。
先月、父親が他界し今月お墓を建てるのですが家紋が分からず探してます。
父親の兄弟に樫の葉を使った家紋だと図面も書いてもらったのですが
図鑑とかで調べても載ってません。
鷹の羽の家紋にも似てるんですが樫の葉を使ったものでありますか?


    かんりにん   2007年1月4日(木) 20:33    修正
貴島明美さん、はじめまして。
訪問ありがとうございます。副管理人さんがルーツ研究室にてご回答してくれていますので、そちらをご覧ください。

 立ち葵   青木研究員   2006年12月28日(木) 17:30   
修正
第29/33番目の紋様です。

この紋様は全体で85の紋様があります。

この紋様の内青木氏に関わる紋様は次の一つです。

立ち葵紋です。

この紋様は家紋200選に選ばれています。

元来、この葵紋は加茂神社系の神紋として用いられていました。
葵は葵科に属する植物でこの紋様は主に花と葉を紋様化したものが多いです。
全国的に存在する加茂神社は主に二重葵を神紋としているが、元はこの神事に用いたのが始まりとされていて一種の信仰的植物として崇められていた。榊や青木等の神木や仏木と同じです。

資料から観ると最初に家紋として使用したのは丹波の国の土豪の西田氏であるとされています。

これを戦国時代に徳川氏の元祖の三河の松平氏が用いたと成っていてその使用の背景を探るとその先祖は三河の加茂神社の神官であつた事から出世の際にこの神紋を家紋としたと成っています。
特にこの立ち葵紋は松平氏の一族の本多氏が最初に用いたとされ、その後に徳川氏の時代になってこの紋様が権勢の象徴と成って一族の家紋の綜紋となつたものです。

そして、この紋を理由許可なく使用する事を幕府は禁じたので流行はしなかつたが、関係する一門が統一して使用する事になり葉と花と芯の数で変化をつけて見分けがつくようになり85もの紋様となりました。

徳川氏の子女の婚家や養子先や一部親族に特別に使用を許したが一代限りの家紋とされました。

この立ち葵は本多氏の家紋であり、その出何処を調べると加茂神社の社紋であるが信濃の善光寺の寺紋でもあります。
他にはこの立ち葵紋を使用しているのは平井氏、山田氏です。

立ち葵紋にも種類(7)が多いのでどの立ち葵紋かはよく見なければ判断が付き難いほどです。
7/85種類あるます。

本多氏は丸付きの本多立ち葵紋である。更にこの分家筋もこの紋様に花紋をつけています。
この本多氏の丸つき紋は結局は信濃の善光寺の支流分家を意味するものです。

この青木氏の立ち葵紋は善光寺の寺紋や平井、山田氏の家紋と同じです。
この平井氏や山田氏は江戸期中期ごろの氏でこの氏の出生元はこの信濃の出である事から本多氏と同様にこの寺の親族関係者から出た一族の氏ではないかと見られます。

平井氏や山田氏はこの本多氏と葵の同紋種を使用していることから何らかの血縁関係にあるとみられます。
よってこの立ち葵の家紋を持つ青木氏はこの信濃の善光寺関係の氏との血縁で生まれた青木氏となる。そうなるとこの青木氏は信濃の青木氏です。5家5流の皇族賜姓青木氏の一つの信濃王の末裔のという事になります。

つまり、信濃には青木氏は3つの青木氏が北と中央と南に住み分けて存在します。
北の国境付近の青木氏は皇族賜姓青木氏と足利氏との血縁で出来た足利氏系青木氏であり、中央は皇族賜姓青木氏の本家筋の青木氏が、南の国境付近は藤原秀郷流青木氏が村を形成して定住してました。

一部諏訪地方には甲斐の武田氏系諏訪族青木氏となった皇族賜姓諏訪族青木氏が居るがこの氏は末裔を明確にしているのでこの青木氏ではないことは判ります。
しかし、善光寺寺紋とする事からこの寺に関係の薄い青木氏は藤原秀郷流青木氏で地理的にも離れています。

(平井氏や山田氏は藤原秀郷流一門の116氏からは室町期前において見つけることはできない。)

だとするとこの二つの氏のどちらかとの血縁関係を結んだ足利系青木氏か皇族賜姓青木氏かのものと成ります。

(此処でこの足利氏は本家と藤原秀郷一門の後押しを受け跡目をいれた分家筋とで本家争いが起こり本家筋が負ける事になったので止む無くこの一族郎党は西国に逃げ延びた履歴がある)

よつてこの事から考えて室町期から江戸期前にしてこの青木氏が山田、平井氏との血縁は確率として少ないのです。
このことから残るは皇族賜姓青木氏の分家と善光寺関係の主要氏子の山田、平井氏のどちらかと血縁を結び、この青木氏が男系跡目が出来ずに一時2代続きで女系となり、家紋掟から養子先の家紋に変紋を余儀なくされたものと考えられます。

この信濃では比較的少ない家紋の支流氏で新しいこともあり他の青木氏と異なり村的な存在は確認出来ません。

しかし、この立ち葵紋を変紋した家紋の青木氏が1つしかないのは青木氏は現在に於いても数少ない青木氏の子孫である事になります。

    青木研究員   2006年11月26日(日) 19:36   
修正
第29番目の紋様です。  

(研究室と同文掲載)

この文字紋の紋様は全部で391もあり家紋類の中では最も多い紋様での一つです。

この家紋類は家紋200選には選ばれていません。

この紋様のうち青木氏に関わる紋様はただ一つです。
其れは角字紋様の角青字紋です。

この角字紋様は文字紋様の半分を占めるもので180もの家紋があります。

この180の家紋の内の一つで「青」の字を角字で表現したものです。

そもそもこの文字紋様は最も最初に史書籍から確認出来るのは南北朝の室町中期ごろの書物から覗えます。
この時に使用された文字は「一」(いち)で物事のはじめを意味するものとして尚武的に用いられたものと言われています。
ここから「勝」を意味するものとして武具類の紋様として用いられ始めついには家紋となりました。
この意味合いと同様に「三」も書籍に出て来ます。

この文字紋様には大別すると12程度のパタ−ンがあります。
一文字、三文字(2)、八文字、九文字、十文字、卍、大字、山字、丸字、亞字、角字となります。
十文字紋までのものは古代から家紋とは別に紋様として家具類などに用いられたものですが、家紋化したのは室町末期からで江戸初期に掛けて頻繁に広まりました。
それ以外の家紋は江戸中期から明治初期にかけてであり新しいものです。

特にこの青木氏に関わる角紋を含む180の角字紋は江戸後期から明治の初期に出てきたもので、初期には家紋と言うよりは屋号紋として用いられ始めたもので明治初期の苗字令から家紋化したものです。
一種の職業紋として分類されます。

この職業紋の「角青字」の家紋は「姓」から家紋化したものというよりは職業の中で「青」に関わる職業、例えば木や野菜や染色や大工などの関係する職業から出たものとされています。

30年前ぐらいまではよく大工職のハンテンの背中の紋様で見かけました。
またこの角字は亞文字(ふつ文字)から変化した紋様であろうことは直ぐに判断がつきます。

この亞文字は中国の官服の袖などに使われていたが、日本では神社仏閣の欄間などの文様として一般的に使われるなどして用いられました。
ついには明治ごろから一般の家屋の欄間や敷戸などにも用いられた紋様であるが、後に角文字紋としても変化を遂げたものです。

この様に、角字の180の紋様は現代の相撲の四股名の字体と似ている様に庶民の家紋化の流行の流に乗ってでて来た物である事は明らかで、角字紋の角青字の青木氏は明治までの職業紋から苗字令にて「青」字から青木氏を名乗ったものです。

28番目の釘抜き紋の職業紋と同じであす。

この青木氏は江戸を中心に関東に確認出来るが、現代ではその住み分けは職業紋であることで村を形勢する氏的かかわりがないことも含めて確定は出来なません。
同紋であっても必ずしも縁者とは言えず氏を形成する家紋類ではありません。

一種の伝統を引き継ぐ職業であるので当時はこの角字の青紋はこのような庶民の伝統継承紋として扱われ、つまり、その職業の名誉紋でもありました。
現代と違いその伝統的職業は一種のシンジケート的枠組みのなかにあり伝統紋として扱われたものです。

明治以降には時にはその伝統の苗字を血縁的なもので無くても子弟的継承で名乗る事が多く起こったのです。
よって、そのルーツ確定の検証は出来ないのです。

このように、この青木氏は「釘抜き紋」と同様に確認出来る第3の青木氏でありますが、氏としての意味合いよりその出生の意味合いが特殊であるので此処に記しました。

第3の青木氏にも「釘抜き紋」や「角青字紋」やこれからレポートする幾つかの職業紋としての特殊性のある青木氏として確定できるものもある事なのでも此処に記することとします。


    青木研究員   2006年10月24日(火) 19:12   
修正
第27/33番目の紋様です。

「釘抜き紋様」です。

この紋様には20の家紋種があります。

この20紋様のうち青木氏に拘る紋様は1つです。

この紋様は「釘抜き紋」でありこの紋様は江戸時代に発祥したものです。

詳細は研究室の「青木氏と血縁族(家紋)」の28番を参照して下さい。

この紋様を使用している氏として次の氏が挙げられます。
松平大給氏です。
滋賀の宇多源氏佐々木氏の末裔の木村、池田、横田氏の3氏も使用しているとされているが江戸期の搾取偏纂の多い時期であるので佐々木氏が何故に木村氏、池田氏、横田氏に変名したかはその真偽は確かでない。
(通常はよほどのことでなければ佐々木氏からの変名は通常はない。)

佐々木氏についは近江の佐々木氏と滋賀の佐々木氏がある。
近江の佐々木氏は皇族賜姓青木氏の第6位皇子の伊勢の青木氏と同じく、天智天皇の第7位皇子で特別に賜姓を受けた近江王の皇族賜姓族であり、地名の佐々木を採って佐々木氏と賜姓を受けた氏です。宇多天皇期には滋賀王として佐々木氏を賜姓しました。

この青木氏は皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏との2つの流の青木氏とは異なり、江戸初期の家紋、系譜の混乱期に出た第3の青木氏と見られます。

つまり、農民や一般庶民や下級武士の家紋系譜の確かでない者が戦国時代の世を経て武士となり身を立て家を興した者が御家人や中級武士となり仕官することで家紋と系譜を必要となり作り上げたものです

特にこの青木氏は皇族賜姓族として高位氏である事から嵯峨期からの朝廷の禁令にもかかわらず無視して附けられた。この時、江戸幕府はこの使用を形式的に使用を禁止したが天皇家の象徴紋の桐紋と同様に守られなかつた。

特に、その使用は特長として、伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の地方の5家5流の皇族賜姓青木氏24氏の存在するところと藤原秀郷流青木氏のある24地方の所でも多く起こったものである。

これはその地方から出てきた者が土地の有力家紋を使用して神社仏閣に高額な金品を送り搾取偏纂したものです。

松平の支流の大給氏の家紋であるがこの一族と血縁して跡目を採り男系跡目が2代続きで女系となり松平の養子先の家紋と成ったとも考えられるが、この時期の家紋掟の遵守度合いから鑑みてわざわざ「笹竜胆」や「下がり藤紋」から変紋することをしたとは考え難い。

更に、宇多源氏の末裔として滋賀の佐々木系青木氏の末裔とも考えられますが、その氏の分布状況からしても考え難い。

この青木氏はその分布が特定し難いが、あえて記すると江戸期に(松平大給氏の分布する中部から関東付近に多い)藤原秀郷流青木氏の氏を搾取した傾向があり、家紋も釘抜きの職業紋としたと考えられます。

上記の2つの青木氏の特長としての青木村の存在が必ずあるが、この青木氏の族としての集団で住む青木村はありません。また、室町以前の存在は確認出来ません。
室町期の法秩序の乱れた戦国時代を除いて、民の移動は国の生産高の確保を図るために「国抜け」として堅く禁じられていたのであり、関所などを設けて自由に移動定住することは出来なかったのです。故に親族は固まって一箇所に定住する事になるのです。
つまり、「釘抜き紋」の青木村が存在しないのはこのことから上記2つの青木氏でないことの証にもなります。

又、当然にその村の青木氏には親族縁者関係の固定の宗派が出来ます。この「釘抜き紋」の青木氏はこの浄土宗か浄土真宗(藤原秀郷流青木氏の一部)以外の宗派である事からも上記2つの青木氏でないことの証であります。
上記2つの青木氏は各地に夫々一族の自らの菩提寺を持っているのです。
この釘抜き紋の青木氏には確認出来ないことも証に成らない一つです。

江戸幕府は特に特定氏の宗派であつた浄土宗を保護するために上級武士に対して入信することを許して奨励しました。

上記2つの青木氏の存在する青木村は合わせて集約するとその土地は史実と一致して70近い青木村を形成しています。この「釘抜き紋」の青木氏はこの中に含まれません。
この様にその根拠の検証を確定できるものがみつかりません。

この家紋は大工道具の釘抜きから家紋としたものですが、この紋様から観てもその前身の出生を予想できます。
他のこの20の家紋を使用しているご先祖にはその先祖はこの紋様に纏わる職種に携わる氏が明治以降の内容から多く確認出来ます。

この紋様には「九城抜き」として縁起を担いだとするものと、「釘抜き」として千金の意味をつけるものとして明治以降の言い伝えとしてあるが、全て後から託けてつけられた言い分とされています。

「升紋」や「角字紋」や「隅きり角」などと同様の江戸時代の「職業紋」の一つです。
この種の職業家紋は鎌倉期以前の上級武士の家紋を持つ氏にはないが、江戸期初期と明治初期の家紋類に多い事からもその出生は覗えます。

この氏の家紋の氏は比較的多いので此処に記しました。

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