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    青木研究員   2006年5月12日(金) 10:53   
修正
第16/33番目の紋様です。

この紋様は全部で61あります。

この紋様に関わる青木氏は3つの紋様です。

この3つの紋様は次ぎの通りです。

第1番目は抱き茗荷紋です。
第2番目は丸に抱き茗荷紋です。 第1番目の分家筋に当ります。
第3番目は抱き茗荷菱紋です。 第1番目の支流紋です。

この茗荷紋の系統は近江滋賀地方に多く分布する二宮氏の末裔に当ると見られています。
この根拠は最初に鎌倉末期に最初に使用したのはこの二宮氏であります。

そして、後に伊勢鳥羽地方の鳥羽氏が用いています。更に滋賀地方の稲垣氏、小沢氏なども抱き茗荷紋です。

近江滋賀地方の二宮氏が室町期の戦国時代に勢力を高め、この一族の一部が鳥羽地方に移りここで定住して勢力を持ち一族を繁栄させたものと見られますが確定は困難です。しかし、志摩地方には江戸期に二ノ宮氏の末裔の稲垣氏がここの伊勢志摩の領主を勤めていますので間違いないと考えます。

この伊勢地方には奈良時代から賜姓皇族青木氏が松阪地方を中心として西には名張から東には桑原までの帯状に勢力を持ち、東部永嶋地方では元半国司であつた北畠氏、北部は伊賀地方の半国司の伊賀氏が押さえていました。
しかし、伊賀、永嶋地方は秀吉に滅ぼされて弱体化し、此処に秀吉の命にて近江滋賀地方から二宮氏の一族が入り込み勢力を高めたとも見られていますが逆説もあります。

伊勢松阪地方は古来より朝廷の不可侵の土地でもあり、天領地でもあつたことから秀吉は蒲生氏郷に命じて大きな戦いも無く伊賀氏と青木氏を破り、ここに朝廷の禁を破り城を築きましたので、鳥羽氏らの侵入を防ぎました。

その後も徳川氏はここを紀州徳川氏の飛び地領として管理し、奈良期から存在する賜姓皇族青木氏を保護しておさめました。(この伊勢青木氏は1320年頃から商いを「二束の草鞋」ではじめ伊勢の豪商紙屋長兵衛としての顔もあり勢力を盛り返しました。)

近江滋賀地方の二宮氏の末裔は稲垣氏、小沢氏らの支流一門を出して更に勢力をかためました。
伊勢の皇族賜姓青木氏と二ノ宮氏の末裔の稲垣氏との血縁で発祥した青木氏と成ります。

詳しくは研究室の「青木氏と血縁族」の茗荷紋のところを参照してください。

家紋は次ぎの通りです。
第3番目はデーターは保持していません。

第3番目の抱き茗荷菱紋の家紋を次に補充して頂きました。

    mあおき   2006年8月2日(水) 18:34    修正
少し 見づらいかも知れませんが
『 抱き茗荷菱 』です

    青木研究員   2006年7月7日(金) 12:12   
修正
第19/33番目の沢瀉紋様です。

この紋様は全部で82あリます。
この内青木氏に関わる沢瀉紋様は継ぎの3つです。
下の家紋の左より
第1番目は立ち沢瀉紋です。
第2番目は丸に立ち沢瀉紋です。第1番目の分家です。
第3番目は抱き沢瀉紋です。

この3つの家紋は全て一地域に集中しています。

この紋様は家紋200選にも選ばれている紋様です。

この紋様は美濃、駿河、三河地域に分布しています。
そして、この家紋の氏は松平氏の家臣団です。
この家臣団は二つに分けられます。
重家臣団と中家臣団に分けられます。

この3つの家紋を使用している家臣団の主な氏名は松平氏、水野氏、堀氏、稲垣氏、酒井氏、水谷氏、土井氏、中村氏、椎名氏等です。
詳細は研究室の第20番のレポートを参照して下さい。

この3つの家紋の持つ青木氏のルーツはこの地に朝廷の命で赴任した藤原秀郷の子孫の藤原景頼(駿河権守)でこの護衛役として同行し定住した藤原秀郷流青木氏とその後藤原公則に同行した藤原秀郷流青木氏の子孫です。

これ等の子孫が土地の沢瀉紋の一族と血縁を結び男系跡目が不可能となつた結果で家紋を沢瀉紋に変紋を余儀なくされた一族です。

この沢瀉の紋様はこの地域によく生息する水草を鎧兜や直垂に用いたもので後に家紋とした者です。この82もの紋様の中で立ち沢瀉紋は主要紋です。又抱き沢瀉紋も継ぎに続く家紋です。

これ等の紋様は室町末期から江戸初期に掛けて用いられたもので松平の家臣団が用いています。
こ沢瀉紋は最初に用いたのは藤原秀郷一族末裔の椎名氏です。




    青木研究員   2006年5月26日(金) 21:22   
修正
第17/33番目の紋様である。

この紋様「揚羽蝶紋」は97も紋様がある。

この紋様の家紋は次ぎの2つ家紋です。

第1番目は「揚羽蝶紋」です。
第2番目は丸に揚羽蝶紋」です。 第1番目の分家です。

この紋様の詳細は研究室の「青木氏と血縁族」の「揚羽蝶紋」を参照して下さい。

この家紋は京平家の綜紋です。

最初に使用したのは平安初期頃に京平家の平貞盛で車紋と兜鎧に使用しました。
その後、この京平家が繁栄したことから家紋として使用しました。

この家紋には97もの紋様があるがこの紋様の違いは蝶の各所を変化させて支流の家紋としました。
この家紋ほどこの手法をはっきりさせています。
この氏の方針です。

平貞盛の末裔は太政大臣の平清盛です。
貞盛は「平将門の乱」を藤原秀郷と共に5年を架けて平定しました。
この乱については関東(坂東)に独立国を樹立したものでこれを平定出来る者はいなかつた。朝廷は困り果ててこの二人の条件を呑み指名した。この時の恩賞からこの貞盛一族は繁栄を遂げ、終には11代の各賜姓源氏を凌ぐ勢力をもつた。この繁栄は日本66国のうち33国を占め関西より西国と九州の全土を平定した。これが主な経緯です。

経緯と由来は、もとよりこの先祖の後漢の末帝の献帝の孫の阿多倍王が引き連れた漢の国の東の17県民を引き連れて九州北部に上陸した。(645年ころから)
殆ど無戦で平定掌握した。九州全土の民は積極的に配下にはいった。
そして、朝廷より「遠の朝廷」と呼ばれて九州全土の統治権の3権(政治経済軍事の権)を与えられて任された。

この様な背景があり、この子孫の繁栄の始まりは渡来人であるが桓武天皇の引き上げに始まりました。(桓武天皇の母は阿多倍の子孫)
平貞盛より3代目が一族のヤマト国に対する貢献度から恩賞として伊勢国を切り裂き北部伊賀地方を与えられ「不入と不倫の権」をもつ半国司になりました。
5代の清盛まで繁栄しました。

この一族の子孫と血縁を結んだ藤原秀郷はこの血筋を持つ第3番目の子供の千国に青木氏を発祥させました。(藤原秀郷の祖父の藤成が伊勢の国の半国司として赴任した時が縁で血縁)
後にこの血縁の平家側の一族の嶋崎と岡本氏は後にこの血縁で藤原氏の青木氏を名乗り支流となりました。
この一族が家紋の揚羽蝶紋を元に青木氏を名乗ったものです。
したがって、藤原秀郷流青木氏は直系1氏と直流4氏と支流4氏の主流があり、これが116氏もの末裔に広がったがこの内の支流4氏の一つです。

詳細は研究室の所の多くのレポートに記載していますので参照してください。
不明な点は遠慮なく研究室にお尋ねください。






    青木研究員   2006年4月27日(木) 10:29   
修正
第15/33番目の紋様です。

この「目結紋」(めゆい)は全部で81の紋様があります。

この紋様のうち青木氏に関わる紋様は3つです。

この紋様は次ぎのとおりです。
1番目は丸に隅立て4つ目結紋です。
2番目は隅切り角に4つ目結紋です。
3番目は丸に3つ目結紋です。

5家5流の皇族賜姓青木氏の支流一族です。

1番目には小島氏、鍋島氏の一族がこの紋様を使用しています。
2番目は不詳 (富永氏)
3番目は磯部氏、由井氏、飯井氏、二松氏、がこの紋様を使用しています。

この紋様は最初に使用したのは近江佐々木氏です。
次ぎに宇多天皇の滋賀の佐々木氏宗綱と高綱が用いました。
近江と滋賀の佐々木氏は共に皇族系です。

近江の佐々木氏は天智天皇の第7位の皇子の近江王川島皇子の末裔です。
この近江佐々木氏は天智天皇の第6位皇子が賜姓を受けることになりましたが、特別にこの川島皇子も第7位として土地の地名を採って賜姓を受けました。本来ならば、仏門に入るかの事に成りますが、日本書紀にも度々出て来る人物で天武天皇期には施基皇子とともに大変有能な皇子で大いに叔父の天武天皇を助けてはたらきました。このためには施基皇子の弟の川島皇子も近江の佐々木村に住んでいた事もあり地名を採って佐々木氏を授かりました。(近江賜姓源氏)

この末裔から皇族系青木氏が発祥しています。又、この佐々木氏と更に血縁を結び佐々木氏系青木氏が発祥しています。(平安初期)共に元は一族です。
この近江青木氏は後に何らかの理由でこの近江を出て二手に分かれて一方は摂津に、他方は滋賀の国に移動しています。そして、この滋賀に移動した青木氏は再び近江に戻っています。

宇多天皇(867-931)の時にこの佐々木氏の末裔の跡目を引き継ぐ形で滋賀王の佐々木氏を発祥させています。
初代は佐々木宗綱、高綱と成ります。この佐々木氏が滋賀の佐々木氏です。(宇多賜姓源氏)
この滋賀佐々木氏から佐々木氏系青木氏が発祥しています。
この青木氏には2つの系統の青木氏があり、元上山氏を名乗っていた者が出世とともに家柄を高める為に何らかの方法(政略結婚か)で青木氏を名乗りました。
そして後に元の佐々木氏系青木氏と家柄争奪の2度の戦いが起こり、結果、元上山氏が勝ちました。そして、この元上山氏の青木氏が大いに出世して子孫を多くのこしました。

したがってこの滋賀地方には皇族系の青木氏と宇多天皇の佐々木氏系青木氏と元上山氏系青木氏の3つの青木氏が末裔を残している事に成ります。

近江は天智天皇の佐々木氏系青木氏と皇族系青木氏(一部は摂津)が居る事に成ります。

この3つの家紋の氏はこの佐々木氏から出た青木氏であります。
しかし、この近江滋賀の青木氏がどの家紋であるかは不詳です。しかし、丸に3つ目結紋は宇多天皇の佐々木氏系青木氏の支流である事は書籍から間違いは有りません。

4つ目結い紋の支流二つは近江系の青木氏である事は六角氏や椎名氏などのからみて推測できます。

何れの青木氏も総宗本家は家紋は「笹竜胆紋」ですので男系継承不可にて支流一族になつた事と成ります。

    青木研究員   2006年3月29日(水) 19:41   
修正
第14/33番目の紋様です。

この紋は全部で127の紋様があり、この内、藤原秀郷流青木氏との紋様は3つです。

この3つの紋様は藤原秀郷流青木氏との九氏の直系1氏と直流4氏と支流4氏の中で支流4氏の一つです。

この一つから多くの末裔がひろがりました。

藤原秀郷流青木氏は116氏にも広がった一族です。藤原秀郷の子孫の主要5氏の中では最も栄えた一族です。
主要5氏は次ぎのとおりです。
進藤氏、長谷川氏  長沼氏、永嶋氏、青木氏

この理由は藤原秀郷一族の基本戦略とこの青木氏の任務に原因します。
これ等の詳細は研究室の藤原秀郷一族の生き方のレポートを参照して下さい。

この梅紋の青木氏は次ぎのとおりです。

第1番目は梅鉢紋です。
第2番目は丸に梅鉢紋です。第1番目の分家一族です。
第3番目は加賀梅鉢紋です。第1番目の支流一族です。戦国時代の比較的新しい前田藩の家紋です。

第1番目と2番目には次の氏があります。
菅原氏、佐々木氏、松任氏、筒井氏、堀氏と平氏です。

詳細は研究室の青木氏と血縁族の梅紋の所を参照して下さい。

この紋様の梅鉢紋は平安期に貴族の菅原氏の家紋として最初に使用されたとされています。

平氏に付いては藤原秀郷流青木氏の元祖の千国の母方が平氏一族です。この一族が後に藤原氏の系列に入り青木氏との縁者関係により青木氏を名乗ったと記録されています。
依ってこの一族の末裔が菅原氏との跡目縁組をしたことにより、家紋が揚羽蝶紋から梅鉢紋に変紋したものです。
したがって、藤原秀郷流青木氏の支流紋にはこの末裔の揚羽蝶紋が多いのです。

佐々木氏も古い高位な氏であり、この氏は研究室の皇族賜姓青木氏の所でも記述しましたが、(天智天皇の第6位の皇子の伊勢王の伊勢青木氏と同じく(特別に賜姓を受けた第7位の近江王の佐々木氏、後に宇多天皇の第6位皇子の跡目相続の佐々木氏がある)佐々木氏の末裔一族が菅原氏との血縁にて発祥した支流である。(佐々木氏は本来は笹竜胆)

この梅鉢紋の藤原秀郷流青木氏の支流は男系相続が出来ずこの菅原氏との血縁にて家紋掟により家紋を変紋する事になった一族である。



    青木研究員   2006年3月13日(月) 10:29   
修正
第13/33番目の紋様です。

この紋様には全部で34紋様です。
この内、青木氏にかかわる紋様は次ぎの4紋様です。

第1番目は丸に二つ引き両紋である。主家足利氏系の家紋です。
第2番目は丸に一つ引き両紋である。足利氏の一門で新田氏系の家紋です。
第3番目は丸に三つ引き両紋である。足利氏の一門の支流紋です。
第4番目は八角に木瓜二つ引き両紋である。第2番目の主家筋の分家が木瓜族との血縁を結んだ支流紋です。

この引き両紋は足利一門の家紋類であり、この一族との血縁を結んだ皇族賜姓青木氏の支流族です。

特に第1番目の丸に二つ引き両紋の青木氏は足利氏と同紋であり、皇族賜姓青木氏が土地の豪族の足利氏との男系相続が出来ずに足利氏の本家筋より跡目を入れて皇族賜姓青木氏の氏を維持したものです。
家柄と身分は賜姓青木氏は上位であるが家紋掟により主家足利氏の家紋を引き継いだものです。

他の青木氏はこの分家筋の男系跡目が出来ず同門筋との血縁を結んで血筋を保全したものです。
第4番目は第1番目の分家筋が同門外の木瓜族との血縁を結んだ青木氏です。
この場合は木瓜族の主家青木氏との2つの青木氏血縁を結んでいるかは不確定です。
しかし、当時の血筋の慣習は高く、まして皇族賜姓青木氏の血筋を持つ一族であるので同族間の血縁も十分考えられます。(木瓜族の青木氏を参照)
土地としては隣の美濃国の土岐氏系青木氏で同じく美濃国の守護を務めた皇族賜姓青木氏と土地の豪族の主家土岐氏との血縁を結んだ青木氏です。
この土岐氏系青木氏か直接に土岐氏との血縁かは確定は困難です。
筆者は土岐氏系青木氏の可能性が高いと見ています。

この第1番目の主家の足利氏系青木氏をはじめとして3つの足利系青木氏は皇族賜姓青木氏の5家5流の支流24氏の一つです。

足利系青木氏と成っていて家紋掟により足利氏の家紋を使用していますが、当時の身分はこの第2番目の青木氏がより足利氏より高い身分と家柄であったはずであり、丁重に扱われていたものです。
詳細は研究室の第14の項の13番目の引き両紋のレポートを参照してください。

家紋は次ぎの通りです。 第4番目の家紋を保持していませんので確保次第掲載します。

    青木研究員   2006年3月7日(火) 20:41   
修正
第12/33番目の紋様(竹笹紋)です。

この紋様は全体として141もあります。
この内青木氏に関わる紋様は4紋様です。

この4紋様は次ぎの通りです。

第1番目は丸に根笹紋です。
第2番目は三枚笹紋です。
第3番目は九枚笹紋です。(分家の丸付き紋含む)
第4番目は二階笹紋です。

この4つの家紋を持つ一族は関東系の一族で共通しています。
そこで、
第1番目は桜井氏と仁木氏です。
この一族との血縁を結び男系相続が叶わずこのどちらかの氏とから跡目を受け、家紋掟により、変紋を余儀なくされた結果、元の青木氏(藤原秀郷流青木氏の家紋九紋から変紋)の家紋から変わったものです。

この家紋は比較的新しい家紋で鎌倉末期から室町期に発祥した氏です。しかし、他の3つの家紋より最も古いものです。
又ルーツとしても検証が可能であり、その点で藤原秀郷流青木氏である事は確定できる。しかし、藤原秀郷流青木氏九氏のどの系列かは確定できない。

第2番目は野々山氏である。
この氏との血縁である。理由は上記と同じであるが、新しく江戸初期頃のものと見られます。
この時期は戦国は終わり安定期に入り、御家人制度の影響を受けて立身出世した多くの殆どの者が家紋を持たないために家紋を定めた時期です。

この氏との血縁をした者と見られる。
この青木氏は藤原秀郷流青木氏とみられるが、関東系である事以外に確定は困難です。
しかし、武士であった事は否めない。
しかし、皇族賜姓青木氏との関連は有りません。

第3番目は秋月氏の家紋です。
この氏との血縁です。
第2番目の検証と同じです。

第4番目は不明である。検証が困難です。

第2から4は第1のこの中でも最もルーツが古く確証が明確な第1の丸に根笹紋の青木氏の一族が更に各氏の血縁を重ねての氏と考えられます。

根笹紋の分家筋系の支流一族であると見られます。

根笹紋は室町初期から戦国時代に架けて、この家紋を使用した者が多いことが認められる。
家紋200選にも入る有力な一族であります。
この家紋を持つ一族の者が室町時代末期から豊臣時代の戦国時代に活躍した武将が多く福島氏などがあげられる。
したがってこの分家筋の青木氏の者の一族が江戸時期に上記の各氏との血縁を結んだものであると考えられます。

この紋様の竹と笹紋を最初に使用した氏は下総守千葉氏と東下総守の師氏であり、関東系の一族である。このルーツから検証をした一族です。
他に鎌倉期に2氏の公家が使用している。

家紋は次ぎの通りです。
第1は丸に根笹紋
第2は三枚笹紋
第3は九枚笹紋
第4は二階笹紋 (データを保持していませんので確保出来次第掲示します)


詳細は研究室のレポート参照して下さい。

 青木氏の家紋   青木研究員   2005年12月22日(木) 19:53   
修正
第7/33番目の紋様 柏紋

柏紋です。
この家紋はその紋様が柏の葉を図案化したもので、昔はこの葉で旅に出たときはこの葉に飯を盛って食べたました。神聖なものとして朝廷内で扱われ、そして、このことから神木として扱われました。
そのことからこの紋様は神官としての氏の紋様となったものです。

当然、この紋所の青木氏も勤めとして神官であるが、青木氏の場合は藤原氏と同様に自らの菩提寺と同じく神社も自らの専用の一族を祭るものとして持っていました。つまり氏寺と氏神です。

この5家5流の皇族賜姓青木氏の血筋を持つ神官族の青木氏が他の神官関係と血縁関係を持ちました。

江戸時代頃には家紋の持たない多くの御家人が自らのルーツの言伝えから神職の血筋を持つ者はこの事を理由にこの紋様の家紋を採用しました。
従って、主要紋類は別として殆どは江戸初期に132もの紋様に増えたのです。
この6つの紋所は平安初期からの古い時代の伝承です。

詳細は研究室を参照して下さい。

第1は三つ柏紋です。
第2は丸に三つ柏紋です。
第3は牧野柏紋です。
第4は違い柏紋です。

第5は丸に蔓柏紋です。下に掲載
第6は二つ葉蔓柏紋です。下に掲載

    青木研究員   2005年12月22日(木) 20:31    修正
第5は丸に三つ葉蔓柏紋です。
第6は二つ葉蔓柏紋です。

以上が青木氏の柏紋です。
この柏紋は神職の家紋です。
従って、ルーツは神職である事になります。
第6は青木氏だけの系統での神職ですが、他の青木氏は他氏の神職との血縁による氏です。元々は何れも神職関係の血縁の縁組で子孫を広げてきた氏です。
何れも皇族賜姓青木氏の血縁を5家5流の持つ支流氏です。

 我が家の家紋です。   岐阜の青木   2005年12月1日(木) 0:23   
修正
ルーツのコーナーでは細かく説明していただき、ありがとうございます。
これが我が家の家紋になります。(以前にサンプルとしてもらったものなのでもしかすると少し違うかもしれませんが。)
何か分かるでしょうか?よろしくお願いします。

    青木研究員   2005年12月6日(火) 8:23    修正
ルーツは藤原秀郷流青木氏です。この紋所は片喰紋様のうち6紋様が青木氏の紋様として使用されています。
この家紋は「五瓜に剣片喰紋」です。
四国阿波の国に守護として朝廷の命で赴任し此れに伴い護衛役の藤原系の青木氏が同行し、土地に定着して残り、五瓜紋の一族との婚姻関係を持ち嫡子の問題などで家紋を藤原一門の家紋からこの紋様とすることにしたと見られます。当初は関東の藤原秀郷の氏の国の武蔵の国付近を護衛していた青木氏の一族で八王子付近を定住地としていた剣片喰を家紋とした一族です。

後日、この片喰紋に付いては改めて研究室でレポートします。
宗家の公家の藤原秀郷の子孫の宗政とその子の時宗が阿波に入つたものです。そのご時代の変化に伴いなんらの理由で讃岐(仕官)に移動したものと思われます。
剣片喰紋も鎌倉前の時代には本来は藤原秀郷流青木氏の紋状から嫡子関係の問題等で家紋が変化したものと考えます。

    栃木の青木   2005年11月5日(土) 20:47     メール
修正
画像がありましたがちゃんと貼り付けられるか?
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