青木氏のルーツ & 雑学研究室

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◆-飛鳥京の防備と賜姓族氏Re: 飛鳥京の防備と賜姓族氏-1
  └Re: 飛鳥京の防備と賜姓族氏-2

No.105
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飛鳥京の防備と賜姓族氏
青木研究員 さん 2005/09/02 (金) 20:31
奈良時代の都は聖徳太子の飛鳥から天智天皇の近江大津宮、そして天武天皇の飛鳥浄御原宮と藤原宮と変化するが、この都に対する防備がどうであつたか、そしてその防備にあたたった者はだれであつたのかが気になる。
天智天皇の前は蘇我氏がこの防備に責任を持っていた。その防備は蘇我氏が自ら行っていた訳では有りません。
この防備を担当していた者の実力が余りにも大きかったことが、中大兄皇子の大化の改新の原因の一つなのです。
この集団は以前のレポートにも再三に出て来る一族、渡来系の阿多倍の引き連れてきた集団なのです。

この集団の事に付いてもう一度概略を述べて置くと、中国の後漢の光武帝の21代の末帝の献帝の石秋王の子供の阿智使王とその子の阿多倍王が後漢の滅亡で大和の国に帰化して来ました。そして、17県の人民200万人の多種多彩な高度な能力を持つた集団でした。
その集団は現代の日本の第1、2次産業に貢献し、この集団に依って殆どがもたらされたものであります。それは政治の知識、経済の知識、軍事の知識、生産の知識、加工の知識、などあらゆる面での貢献をしました。
この集団の軍事の知識の武装集団がいて、この集団を蘇我氏が管理管轄していたのです。だから、蘇我氏が天皇を凌ぐ勢力を持つた理由の一つなのです。
その集団を使って蘇我氏(馬子)が命じて崇峻天皇を暗殺させたのも、蘇我入鹿が命じて山背大兄王を滅ぼしたのもこの実行集団なのです。
その集団は周囲からの批判に対して、日本名を作り、漢(あや)氏と名乗りました。その後、更に非難を避ける為に、東漢(やまとのあや)氏と名乗りました。これでも危険視された一団は今度は文直氏と名乗りました。
この集団が飛鳥の宮を守っていたのです。
この集団を配下にして天皇までも暗殺する蘇我氏勢力に対して中大兄皇子の大化の改新劇なのです。
もう一つの大きな原因はこの集団のうちの生産と加工の集団を蘇我氏が管理管轄していたのです。
その集団は仕事種に応じて分団化してこの分団を「部」(べ)と呼称していました。服部、海部、磯部、織部、綾部、陶部、山部、馬部、鞍作部、鍛冶部などの沢山の「部」があります。
現代の姓に成っているのもこの渡来系の人たちなのです。

当時は市場経済ではなく「部」経済なのです。
一度この集団が作った物を、先ず、朝廷にいれて必要な分をとり、後は市場に出して利益を上げる方式なのです。これを担当していた官僚を「国造」(くにのみやつこ)と呼びました。
この集団を一手に管理管轄していたのは蘇我氏なのです。従って、膨大な財力を握られていたのです。

これを解決することも大化の改新の理由の一つなのです。
この理由の解決の一つの答えとして、中大兄皇子即ち、天智天皇が考え出したのが「皇族賜姓青木氏」の出現という事なのです。

第4世皇位第6世王臣下方式では、一族維持のために朝廷の財源を大きく左右するほどに圧迫をしていました。それが天皇家と朝廷の弱体の原因と中大兄皇子が考えたのです。
そこで、これを第2世皇位第6位皇子王臣下方式に変更しました。

これで34皇子皇女もいた親王皇子が著しく減り、第7位以降は臣下したので、財源の軽減を大きく図りました。其れだけではなく、
それに、この第6位の皇子に天皇自ら氏を与えて臣下させたのです。当時としては社会慣習から観ても画期的な断行です。朝廷内では大きな問題となったと推測されます。

そして、この身内の賜姓族に天皇を護衛させ身を守りました。
当時の社会慣習は、天皇は武力に関わらないと云う掟のようなものがありました。その慣習を破って天皇の指揮で動かせる武力集団を自分の周囲に置くということは考えられない事であった筈です。
だから、「大きく変化する新しい改革」、即ち「大化の改新」なのです。
現代から考えると、当然と見えるのですが。

又、各地の主要な土地にはこの一族を配置し防備体制を作り上げたのです。そして、宮の周囲を囲むように配置したのです。
これで、軍事的安定とに穀倉地の防御とで朝廷と天皇家の安定をはかりました。この役目を担ったのが皇族賜姓青木氏なのです。
この事も、皇子が侍になり、天皇の直接指示で、天領地を護る、と言う体制すら、周囲にとっては飛び上がらんばかりの出来事であった筈です。なにせ、社会慣習を破ったのですから。現代でさえ国会で慣習を破る改革をすると、反対が出てきて、国会の解散まで起こるのです。
このことを考えると、大変なことなのです。
信長の「楽市楽座」も今考えれば当然だけれど、社会はもめました。
この最初が天智天皇から伊勢国に配置した伊勢王なのです。そして、特別に第7位の皇子にも地名を賜姓して近江の佐々木村の佐々木氏を臣下させました。
(賜姓外の皇子や王は身分を失い比叡山とか門跡寺院に入山した)

飛鳥を中心に東の伊勢に伊勢王の賜姓青木氏を、西に近江の近江王の賜姓佐々木氏を配置したのです。
天智天武期の第6位皇子は施基皇子、第7位皇子は川島皇子です。
しかし、ここで疑問が残ります。
では、改新前は都は漢氏か東漢氏が守っていましたが、改新後は
一体どうなったのかという事です。
確かに東西に賜姓青木氏と賜姓佐々木氏に配置はしましたが。
中央の防備は戦略的、軍事的には絶対に必要です。
このことに付いて研究してみる事にしたい。
続く。
No.106
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Re: 飛鳥京の防備と賜姓族氏-1
青木研究員 さん 2005/09/03 (土) 20:55
蘇我氏の配下にあつた阿多倍の職業武装集団は中大兄皇子のが蘇我入鹿を暗殺してからは、この集団は天皇家に対して蘇我氏の意を受けても戦う事をしなかった。
この結果、大化の改新が実行できたのだが、もし、この集団が動いていたら中大兄皇子の計画は、その武力の差から絶対に失敗におわった筈である。
この原因は
一つは職業武装集団であった事。
二つはこの集団は一つの主の統制化にあつた事。
三つ目は同じ他の渡来系職業集団に対しての影響がでる事。
四つ目は天皇を敵にしては帰化しての全ての目的が無くなる事。
以上のことが考えられる。

彼等には蘇我氏に対して、職業人であるので上下関係が無いので時代を合理的に考えるし、物の考え方に付いても中国人的であるし、本当の主は同族の阿智使王か阿多倍王であり後漢からの主である。この集団には多種多様な分団で構成されている。当然朝廷にも入っている。多くのところで影響をうけるし、帰化して一族が安寧に生きていこうとする目的が消え去る事にも成りかねない。

安寧の事は、もし、そうでなくてないなら、武力で九州一国ぐらいは簡単に奪い取ることは出来た筈で、それを守り通すほどの超勢力があつた。しかし、戦わずして同化の戦略に動いている。
帰化して、直ぐに九州を勢力下にしたのは武力だけではなかつたのである。それは彼等が持つ進んだ技能の集団の地元に与えた影響から、進んで支配下に入ろうとして勢力が拡大したのである。
九州全土を短期間で掌握しているが、武力では短期間では無理というものです。彼等の前から居た朝廷の役人の伴氏(後に肝付氏になる)と戦わずして血縁を結んで同化している。

中国地方を支配した陶氏も彼等の技能集団の陶部の分団である。
この様に九州だけではないのである。短期間で九州と中国地方の全土を支配下に入れたのは武力だけではない事が判る。

暮らしが豊かになる優れた技能を地元にもたらされる利益は大和人にとっては、むしろ進んで支配下に入りその利益を受けようとするものだと考えます。現にも戦いの歴史の記録はすくないのです。

一方、中大兄皇子はこの集団の実力は十分に知っていた筈であるのに、計画を実行したのである。
彼等が敵対しないと踏んでいたのか、それとも一か八か架けたのか、この点については計画前に検討されている筈である。

この当時の歴史の記録が無いのは、記録を残すという習慣がまだなかつた事の事情の上からであるが、この計画に参画した中臣の鎌足や蘇我氏の一部の働きから、事前にこの職業集団に話を通していたと考える。
それも直接にではなくこの全集団の主の阿多倍か阿智使王にである。
つまり、阿多倍としてこの主からこの集団の東漢氏の長にである。
その証拠に、事件後、数日宮から丘の上の蘇我氏の館のこの集団の動きを見上げて待ったとされている。
(宮よりも高い位置の見上げる丘の上に館を作った事自体が天皇家を見下げた態度)
もし、この集団が阿多倍の意を受けていないとすると戦略上、早ければ早い程、中大兄皇子等を襲撃することが効果的である。
時間が経てば経つほど、形勢は天皇家に傾くはずである。
なぜなら、彼等は渡来人である。まだ、十分に身分の扱いは整っては居ないはずである。
周囲の豪族の紀伊氏や葛城氏や巨勢氏や平群氏が天皇家に傾く筈である。
現に、乙巳の事件の後、古人大兄皇子が”渡来人が”と叫んで逃げたとされる位に、まだ朝廷内では実力に反して大きい地位は殆ど獲得していなかった。(責任を渡来人に転化しようと叫んだ)
この数日の間の交渉の結論が、凶と出るか吉と出るか待ったのであろう。多分この時間が、この集団の主の阿智使王か子供の阿多倍王に指示を待ったのであろう。
その証拠に、数日後に入鹿の父の蝦夷が自刃するという事が興る。
つまり、この時に結論が出たのである。
蘇我氏でも到底相手に出来ないほどの渡来系集団の主の阿智使王や阿多倍に対しては管理管轄はしていたが、支配する程度の力はなかつたのであるとみれば理解できる。

その決定的証拠があるのです。
乙巳の事件後、この集団の動きと朝廷の動きを観る事で完全に上記の「事前交渉の説」が証明出来ると考えます。

その証拠が調べると沢山あるのでそれを次に記します。そうすれば、中央の護りをどの様な事情で、誰に任したかが判るのです。
No.109
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Re: 飛鳥京の防備と賜姓族氏-2
青木研究員 さん 2005/09/07 (水) 22:18
先ず、最初の乙巳の変の事前交渉説に対する証拠として、次に掲げる事柄が短期間の内に行われたのです。

1 全九州制圧、中国地方の制圧と及び朝廷は大隈の首魁阿多倍を京に呼び出し、伊勢の北部の伊賀地方を与え、不輪の権と不入の権、立ち入り禁止、調役の免と矢継ぎ早に恩賞を与える。
2 准大臣に任ずる。
3 敏達天皇の曾孫の芽淳王の娘を阿多倍に娶らす。
4 3人の男子に賜姓を授ける。(長男は坂上氏、次男は大蔵氏、三男は内蔵氏)
5 朝廷役職の3蔵のうち2蔵まで任す。(斎蔵、大蔵、内蔵で斎蔵は藤原氏、残りは阿多倍の一族、このことから藤原氏の1蔵に対して2蔵を持つ事からどれだけ大きく恩賞を与えたか判る)
6 高市の土地を与える。坂上氏を征夷大将軍に任ずる。
7 檜前国を与える。
8 宿禰の身分を与える。
9 対馬国の守護職に任ずる。
10 従五位下に任ずる。
11 「錦の御旗」を与える。
12 国刀を与える。
13 太宰大監に任ずる。九州の3権(軍事、政治、経済)を与える。「遠の朝廷」の称号を与える。
14 壱岐守に任ずる。
15 上総国の守護に任ずる 伊賀国を分国し国司として任ずる。

以上の様に次々と恩賞を与え優遇する。

これでも判る様に、藤原氏の栄華どころの話ではありません。
藤原氏はただこの時期は斎蔵の地位にあるだけである。
斎蔵とは朝廷の政務即ち、祭祀と政治に関係する仕事であつた。
大蔵は朝廷の政治以外の財務を中心とする仕事である。(経済と軍事の二権)
内蔵は天皇家の政治以外の財務を中心とする仕事である。(経済と親衛隊)
国体の律令や政治機構の立案と軍事等を担当する官僚であります。

これだけの恩賞は普通の武装集団の一事件の介入に対する恩賞とはどの様に考えてもおかしい。
また、この恩賞がその集団の主に対する恩賞である。
これは明らかに中大兄皇子との「事前交渉」に依る結果から来ることではないだろうか。

阿多倍一族の東漢氏(やまとのあや)の出方で決まる計画であり、この為に、中大兄皇子としては「天皇家の存亡」を賭けた戦いの結果に対する恩賞と考えれば何の不思議でもない。
まして、天皇家のこれからの必要とする高い知識を持っている。
そこで、この東漢氏の武装集団はこの恩賞の流れの中でどの様な動きをしたかであるが、全くの動きを示さなかったのです。
彼等は、温厚に主の名に従い、阿多倍の長男の坂上氏の支配下に戻ったのである。今や、坂上氏は朝廷との血縁関係を持つた一族となり、後漢から帰化したときの元の状態の主の下に入ったのである。
つまり、朝廷の正式な中央の軍隊となつた事を意味するのです。
そして、この軍隊の一部は大蔵氏の配下に入り、関西から以西の国の守護と九州全土の3権の軍事関係の役務に着くのです。
もう一体は内蔵氏の支配下に入り、関東以北の国の守護と征夷の見張りの役務に着くのです。
この武装集団は3つに分団して存続したのです。
従って、飛鳥の都の防備の役はこの様な経過を辿り、戦略的に決まるのです。
朝廷としては弱みを強みにして抱え込みなかなか強かであります。

ここで、賜姓青木氏のことに触れなければ、検証は意味をなさない。
元はと云えば、青木氏は天皇の親衛隊として第6位皇子を臣下させて賜姓して青木氏を造り、大化の改新の反省の対策としたのであります。
その最初が、天皇家の守護神の伊勢神宮の地域の護りとして伊勢の青木氏が赴任したものであります。
阿多倍の武装集団は朝廷の軍であり、青木氏は天皇の軍であるので天皇家に関する土地や社殿などの護りの役務に着いたのです。
滋賀近江の佐々木氏を始めとして、他の3地も天領地としての土地でありましたし、都の天皇家を防備する戦略的な土地でもあり、穀倉地であり、交通の要衝地としても、身内を自由に動かせる背くことのない親衛隊を配置したのです。
伊勢の賜姓青木氏の分布を考察すると、この意味が判るのです。

伊勢の飛鳥より国境の土地の名張地方に城を築き、そこから、東に伊勢神宮周囲の松阪、玉城、そして、員弁、桑名地方と帯状に分布しています。そして、西には賜姓佐々木氏を、東にはこの帯線上の延長には3地の青木氏が配置しているのです。
飛鳥の宮に戦略上に何時でも流れ込みやすく一族の青木村の分布を伊勢を中心に配置しいます。

こ員弁地方には定住地として青木村(古代呼称のおうき又はおおきの呼称で村が形勢されています。古い時代より賜姓又は皇族青木氏の定住した村は殆ど古代呼称で存在します。)即ち、大木村として現代も存在します。

この様に賜姓青木氏は天皇家の親衛隊としての役務を遂行したのです。当時は天皇家の一族が中心に政治を行う「皇親政治」を行いました。そしてこの政治形態は主に桓武天皇の「律令体制」が整うまでの平安初期まで続きました。

余談として、坂上氏の配下に入った東漢氏即ち、文直氏の軍は阿多倍の長男の坂上の田村麻呂として、征夷大将軍として征夷を討伐し、又各地の反乱の鎮圧や百済国の援軍として大活躍します。
後には、阿多倍の子孫からも阿倍と書いて”あべ”と呼称する一族も出てきます。後には、阿部と成ります。この阿部氏は後には東北の豪族として名を馳せますし、朝鮮の戦いに参戦して故郷に戻って帰って来なかった一族でもあります。

このように、蘇我氏の支配下にあつた職業武装集団は主の下にかえり、天皇家との血縁を持ち、且つ、藤原氏も凌ぐ朝廷の政治の根幹にも成り、朝廷軍となり防備の一役を担い、賜姓青木氏と並んで2軍が退治する形となつたのです。

その後のことは、この状態は250年程度続き、皇親政治が終わり、そして桓武天皇期の律令政治に入ったところで、2軍の対立が生まれてきます。
即ち、賜姓青木氏の牽制時代に入るのです。

桓武天皇の母は「高野新笠」というこの朝廷の軍と成った阿多倍の一族の娘であります。他にも青木氏を牽制する理由はいくつかありますが、この為に伊勢の賜姓青木を始めとする賜姓青木氏は衰退を余儀なくされるのです。逆に阿多倍軍は国香、貞盛、維衡、維盛、正盛、忠盛、清盛と続き栄華を謳歌するのです。
都の防備から賜姓青木氏は外れて行きます。

この青木氏に変わって出てきたのが、嵯峨天皇の反意を下に賜姓源氏に戻して11代(実質)も続き発祥するのです。

この賜姓源氏で都の周囲の防備は戻りつつも、桓武平氏即ち、阿多倍軍の末裔の京平家との対峙と成ります。

これに吊られて5家5流の賜姓青木氏も源氏と土着豪族との婚姻の巴戦略で息を吹き返してくるのです。

遂には、源平合戦となり、阿多倍の朝廷軍(坂上氏中心とした)の京平家軍の伝統は消え去るのです。
しかし、九州ではこの一族の大蔵氏の永嶋族が残り栄えます。
(東北では内蔵氏の末裔一族の阿部氏が奥州藤原氏に平定されて滅びます)
これで、飛鳥の防備の変化と青木氏の関わりは終わりです。

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