青木氏のルーツ & 雑学研究室

小中高校生の皆さんへ、難しい漢字の読み方 - 便利な裏技

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No.72
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藤原秀郷一族の生き方
青木研究員 さん 2005/07/13 (水) 22:35
皇族賜姓青木氏の弱点を記述しましたが、宿命的な立場から時代の変化に翻弄されて衰退と繁栄を繰り返し、遂には家柄と慣習と名誉を無視する「下克上」の時代で殆ど滅亡に落ち至った。
この3つのことが子孫を多く遺すということにも難しさがあつた。
必然的に、源氏などの同族との血縁を交わす事以外になかったことが時代に翻弄された原因なのである。幸いにして伊勢は天領地でもあり伊勢神宮という不可侵の地でもあつた事が幸いした事と、いち早くこの「3つのしがらみ」から脱皮して「族」に頼るのでは無く、「2足の草鞋」に切り替えたことが瀬戸際で生残れた二つの要件であつた。
他の近江、美濃、信濃、甲斐の賜姓青木氏は不幸にしてか現代から見ると最悪の状況を選んでしまったと云える。何か時代がその様に仕組んだかの様にドラマチックである。そのドラマチックな歴史上の人物の織田信長に4家全部が丁度申し合わせたかの様に、あの個性で打ち砕かれたのである。青木氏だけではなく、支流源氏の一族でさえ滅亡したのであるから。たとえ、伊勢の青木氏の様に「2足の草鞋」策で生き延びようとしても無理であっただろう。
ここで、信長の性格は比叡山の焼き討ちの例にもみる様に激しいものがあつたが、しかし、伊勢の地だけは無理であつたのではないかと想像する。
それは何故なのか。
一つは、大儀名文が立たなくなると見たのではないか。民衆の天皇と言うものに対しての感情がいくら「下克上」とは云えども許さなかったのではないか。現代に於いてでさえある事を思うと、仮に、幕府を作ったとしても支持が得られないと見ていたと考える。
その証拠に伊勢永嶋攻めの後の伊勢松阪攻めは信長の意を汲んだ秀吉であっも、蒲生氏郷なる人物を送り込んだという事も含めて、極めて温厚で緩やかであつたし、その後の扱いも含めて同様である。
この事が伊勢という土地柄の所以である。
そこで、この賜姓青木氏に対して、藤原秀郷流青木氏はどの様であったかに付いて興味を持つ。
そもそも、藤原鎌足から秀郷まで八代で315年程度の間であるが、誕生は大化改新という同じ時期である。
秀郷流青木氏の誕生は秀郷の子の第4子より青木氏を名乗らせると言う方式にしたのだが、この場合も賜姓青木氏と同じ理由による。
平の将門の乱の恩賞の一つの貴族にするという条件から自らが武装すると言うことは慣例より出来なくなる。
故に関東の藤原氏を護衛する武装集団を身内から作るという策から天智天武期の朝廷の方式の賜姓青木氏臣下策を同じ藤原氏の血筋を引くという事から、踏襲して生まれたものである。
つまり、どちらも時代は違えども同じ発祥源からである。
しかし、余りにも生き様は違う。この事に付いて次レポートから検証して見る。
続く。
No.73
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Re: 藤原秀郷一族の生き方-1
青木研究員 さん 2005/07/15 (金) 22:21
藤原秀郷の一族の内容を先ず検証して見る。

1 藤原秀郷流は主に5氏によるが、この5氏がなんと361氏に分流している事。
この内訳は秀郷から4代目の文行流と兼光流の二つに分けられる。
この2流は次の通りである。
文行流  進藤氏 長谷川氏 (進藤系が利仁流進藤に2分する)
兼光流  長沼氏 永嶋氏 青木氏
@進藤氏は48氏に分流
A長谷川氏は111氏に分流
B長沼氏は52氏に分流
C永嶋氏は34氏に分流
D青木氏は116氏に分流
これほど子孫一族を繁栄させた氏は日本全国を見ても少ない。
361氏の持つ意味はどのような事を示すのか。

2 次に秀郷の子孫が守護又はそれに近い役職にどれだけ関わっていたかという問題である。
この内容は次の通りである。
@相模、A武蔵 B睦奥 C美濃 D下野 E上野 F淡路 G加賀 H豊後 I備後 J駿河 K筑前 L能登 M飛騨 N伊予 
O対馬 P越中
秀郷本家は代々は鎮守府将軍である。
この守護先が17もあるという事は多くの意味を持つ。

3 次に上記の元祖は誰であるかという事を調べてみる。
@進藤氏は行景   6代目
A長谷川氏は宗重  16代目
B長沼氏は考綱   7代目
C永嶋氏は行長   14代目
D青木氏は行久   17代目
初代か跡目かは不明であるがこのように成っている。

余り多い氏なので主流だった氏を記する事にする。
秀忠-大屋 成俊-佐野 成行-足利 兼行-渕名 行尊-太田 
政光-小山 親実-松野 景頼-近藤 知弘-尾籐 公清-佐藤
朝光-結城 宗政-中沼 行義-下川辺 重光-滝口 叙用-斎藤
右は藤原の名前 左は支流
この361の支流が何倍と成って繁栄している事になるし、人口にしては大変な数であろう。
この意味は子孫繁栄にどのような意味を持つのか、大きなものを感じる。

4 家紋は色々な血縁のつながりや歴史の事実など重要な史実が判明する要素である。この家紋がどの様な傾向をもっているのか分析して見ると一つの答えが出て来るものである。
361の家紋がある事になるので此処に記することは出来ないが、綜紋は何であるのかを絞って調べる。綜紋とは大きい氏の統一した家紋又は氏紋と言うものである。それと家紋には表紋と裏紋とがあるので、この様な事を調べると血縁の歴史的な氏同士の戦略が見えてくる。

5 家紋と当時の時代性を合わせて検証を進める。
 時代性は都度書き込むことにする

このような事を分析して次のレポートから記する。続く
No.74
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Re: 藤原秀郷一族の生き方-2
青木研究員 さん 2005/07/18 (月) 23:47
藤原秀郷流の5氏は同時に分流したのではない。
1の問題に付いて検証する。
最初は青木氏である。秀郷が恩賞として貴族になり、下野国と武蔵国の守護となつた。(940年)この時点で、貴族が武力を使う事は出来ないし、2つの領国をもったために武装集団を強化しなくてはならない。そこで、5人の子供に対して第3子(第4子)より青木氏を与えて先ず護衛集団した。
5人は千時、千春、千国、千種、千常の5人男子である。

千時は鎮守府将軍に、千春は相模介に、千常は左衛門尉に、後に鎮守府将軍になつた。千国は父秀郷についで武蔵国守護になつた。

この千国系の一族が直系青木氏を名乗り、武蔵の国の入間郡青木村に住まいした。
千常からも7代目の行久が直流青木氏を出し、武蔵の国榛澤郡青木村に住まいした。
その行久から4代目行信が直流青木氏を出し、武蔵国北足立郡青木村に住まいした。
この青木氏は更に直流として4氏に広がり、2氏の青木氏が武蔵国横浜神奈川字青木に住まいしたと成っている。

このことでも判る様に、武蔵国を周囲から青木氏で固めているという事である。
他の長谷川氏、進藤氏、永嶋氏、長沼氏ではなく、116氏の最大氏を持つ青木氏が中心と成って本拠地を守っている事になる。如何に宗家本家が信頼し親衛隊の役目を持たしていたかが判る。
同じ親衛隊でも賜姓青木氏とは、本拠地の固め方が全く違う。
藤原氏は戦略的である。

賜姓青木氏は別レポートで述べた様に、藤原氏と異なり同族の源氏に頼りすぎたことが子孫を遺せなかった原因であることが判明する。一族から直流ないしは支流を出して守り固めるという戦略が無かった。ましてや、天皇の親衛隊であるのに疑問を感じるほどである。これでも同じ藤原氏とは家柄、慣習、名誉が同じ程度であるはずなのに、この3つに頼りすぎていたことを意味する。

現に、長谷川氏を始めとする4氏は秀郷一族の勢力の及ぶ範囲の鎮守府の地に又は、14の守護地に、更には各地の住居地に分散して配置している。
361氏という集団を持つ勢力全体を人口にすると大変な数になる。
そして、その人口を満遍なく武蔵を中心に関東と中部東、北は奥州の一部までを円を描く様に、守護又はその役職に近い形で固めて配置している。そしてその守護地に必ず子孫を残して来ている。
その最たるものとして挙げると遠方の福岡県福岡市付近の2ケ所に守護の任期の後に青木氏の子孫を残してきている。明らかにこれも戦略である。藤原氏流青木氏116の配置関係を調べると明確になる。
更に、この一族361氏には、次の家紋が目立つ。
直系直流の青木氏の家紋を見ると一つの流れが出て来る。
これ等の一族は副紋つき揚羽蝶、又は丸に揚羽蝶を家紋としている。
ここで注意すべき事は「揚羽蝶」は京平氏の綜紋であり、それが何故藤原氏の紋になるのかである。
そして、もう一つは家紋200選に出て来る紋に満遍なく361氏の家紋が存在すると言うことである。
このことは上記の戦略と同じ事がいえるのではないか。血縁による身内の固め策である。
最たるは青木氏の家紋の特徴である。平家の綜紋と同じ「揚羽蝶」であるので、950−1150年頃の時代の戦略の影響かと考える。後で述べる

青木氏のこの直系と直流から多くが分派して子孫の範囲を広げている。
支流系として時代は比較的に新しいが、更に4氏が存在する。
中には平氏の一族の者が嶋崎を名乗り、後に岡田を、最後には藤原青木氏を名乗った支流がある。揚羽蝶紋と関連があるのでは。
後に述べる。
全青木氏は合わせて9氏になる。
この9氏が更に時代と共に116の青木氏へと広がった。
武蔵国を中心に円を描くように配置されたこの青木氏は藤原氏のこの戦略の役割を同果たすか。
続く
No.75
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Re: 藤原秀郷一族の生き方-3
青木研究員 さん 2005/07/22 (金) 23:35
生き方-2では3つの条件(家柄、慣習、名誉)は賜姓青木氏に勝るとも劣らずありながらも、361氏もの子孫を増やし、領国の守りも身内で周囲を固め、尚且つ、役目柄の赴任地には子孫を残してくるという戦略がみられ、賜姓青木氏と大きく異なるところである。
何はともあれ361氏の本流支流は別にしてもこれだけの一族を抱えることだけで、どんなことがあっても子孫は十分に遺す事は確実である。

世に当時は、中小の豪族は、「源平藤橘」といわれてこの傘下に入る事で一族の安全を図ると云う戦略が採った。
当時の氏は最大で1800程度に氏が拡大した。その原因は上記した戦略に大きく原因している。
その方法とは、荘園公領制の下で中小の豪族は自らの力で荘園を開発した場合、この荘園を周囲の勢力から守る為に名義上、勢力の大きな「領家」に寄進し、その勢力で守ってもらう方法を採った。
これには大寺社や中央貴族に名意義上の領主になってもらう事をした。更に、この大寺社や中央貴族は更に上の「本家」に預けると云う二重の方法を採った。この本家には天皇家や摂関家や上記の「源平籐橘」(源氏、平氏、藤原氏、橘氏)等に頼った。
この様に、「寄進系荘園」を各地で多く出来て、不輪の権や不入の権を得て、中小の豪族は身を守ったのである。このために、「氏」の発生が一挙に拡大したのである。
このような背景の中で、藤原氏は大きく勢力を伸ばして来た。
361氏は大きくはこの戦略に関わったことが原因していると思われる。
それは、家紋を見てみると戦国時代の終焉期の家紋200選の殆どが存在する事、そして、それ以外の小族の家紋も目立つ。
その結果、守護地やそれに近い役職やこの寄進系荘園を守る為に出した武装勢力が関東地方中心に西は遠くは北九州の豊後国、北は陸奥国まで17地方に及んでいる。
この戦略は経済的にも恵まれ、いざ戦いの時は大きな軍事力にもなる。当然に、この軍事力を保持するために青木氏などの直系、直流の一族が各地に分散し、藤原秀郷流の5氏の中でも最大の勢力の116氏にもなったのである。全てが上手く発展のサイクルが働いている。賜姓青木氏の千変万化の呈ではない。
ここにも大きな違いがある。

秀郷流青木氏の初代の祖の秀郷の子供の千国に始まり、17代後には青木氏の跡目を継いだ行久の直流の青木氏と、その4代目の行信の直流の青木氏の計4家が存在する。
鎌倉中期以後に出来た支流の青木氏の4家が存在する。
この計5家の青木氏を中心に支流の青木氏とあわせて九氏の青木氏から上記の戦略に絡んで116氏の青木氏へと繋がったのである。
この116氏の青木氏に対して、他の4氏の発祥期は秀郷から数えて進藤氏と長沼氏は約120−150年程度の後であるので、氏の数は少ないのである。秀郷の持つ青木氏の信頼度が垣間見ることが出来る。
寄進系荘園制の政治的な動きを大いに利用する戦略がレポート2で記した赴任地に子孫を残してくる戦略とあわせて相乗的効果として働いたのである。続く
No.76
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Re: 藤原秀郷一族の生き方-4
青木研究員 さん 2005/07/25 (月) 23:03
寄進系荘園制に依って藤原氏のよこの関係がより大きく広がりを見せて、その結果361氏もの支流の裾野の広がりを作り上げた。
その中で、藤原秀郷流の青木氏と各氏の関係の内容を調べてみると面白い結果が見えてくる。

先ず、次のことに注目すると、
第1 直流青木氏の4氏の家紋が揚羽蝶紋か、丸に揚羽蝶に副紋がつく。
揚羽蝶紋は京平氏の共通紋つまり、綜紋である。
藤原氏の北家秀郷の青木氏が何で平氏の支流紋なのか。

第2 藤原秀郷(958)の子孫の14代目の行長(1210-1230年頃)が永嶋氏を名乗っている。
佐野氏族の永嶋氏と、結城氏族の永嶋氏の2流がある。(兼光系)

京平氏と同族の永嶋氏は、次のところから発祥している。
後漢の末裔の渡来系阿多倍は敏達天皇の曾孫芽淳王の娘を娶。その3人の子供は、天皇からその功績に対して賜姓を賜り坂上氏、大蔵氏、内蔵氏を名乗る。(研究室参照)
この大蔵氏の子孫(10代目種材)が九州の大宰大監となり、「遠の朝廷」として九州全体を統治していた。
(帰化後、九州を制圧しそこを元祖の阿多倍の基盤としていたのであった)
この子孫の初代大蔵氏より17代目の種秀(1200-1225年頃)が永嶋氏を名乗っている。
殆ど同時期に両者が永嶋氏を何故名乗っているのか。

第3 更に、調べると、次のことが判る
藤原秀郷一族の支流の青木氏の主流4氏のうちの一つに元は平氏であり、嶋崎氏を名乗り、後に、岡田氏最後には藤原青木氏を名乗っている。家紋は矢張り、丸に揚羽蝶と副紋である。
この一族は361氏の中でかなり多くの支流を増やしている。

第4 藤原秀郷より7代目の成行が足利氏(1100年頃)を名乗っている。(兼光系)
信濃国の足利氏である。
そして、この成行より7代目の広安が永嶋氏(1220-1240年頃)を名乗っている。(兼光系)

361もの氏族を持つ藤原秀郷の子孫一族は源平籐橘と云われるほどに大氏族であるが、他の大豪族との血縁も結んでいる。それも敵に相当する氏族とである。
天皇家はもとより、16源氏とはもとより藤原血筋縁である。
京平氏とは第3での血縁で結んでいるし、超大万能集団の渡来系阿多倍族となんらかの繋がりを以っている事は見逃せない。
ましてや、家紋までが藤原族の青木氏と同じである。
これらの事は寄進系荘園策の影響からなのか、何からなのか検証して見る必要はある。 続く
No.77
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Re: 藤原秀郷一族の生き方-5
青木研究員 さん 2005/07/30 (土) 10:59
藤原氏北家の藤原秀郷の生き方には前記した様に、一つの生き方がある。この生き方が361氏にもなる子孫を遺し、厳然たる勢力を誇っている。述べるまでもないが、渡来系京平氏の32/66領国を持つには及ばずとも、17の守護地又はそれに類する官職を保持し、関東と中部の一部を領するほどに勢力を持っていた。

実質は武蔵国と下野国を本領として居るが、多分にして、「源平籐橘」に例えられるように寄進系荘園制の影響を大きく受けたものではないかと考えられる。
しかし、この藤原氏も鎌倉前期には生き方の失敗から伸びた支流が領国を失うと言う事態が出ている。結果しては、源の鎌倉幕府の樹立後、「本領安堵策」で生き延びたと言う氏が多く居た。
全体としては安定した生き様ではあるが、中には消えた者もある。

賜姓青木氏の様に土台が衰退すると言うことは全くないのである。
このような藤原秀郷流一族に、特に、現代の位置から見た場合に青木氏に不思議な現象がみられるのである。
それは前レポートの記した4つの疑問点である。
この4つの疑問点を解決してみると藤原秀郷氏の生き方の元が見えてくるような感じがする。
レポート1に記する5つのテーマに対して生き方を進めて来て、4つの疑問に直面したのだが、この4つ疑問点をテーマ4、5と共に組み合わせて3回で解析する事にする。
(テーマ4、5は家紋と時代性である)

この種の文献や資料の史実は探したが全く見つからない。
そこで、この4つの疑問点が過去の当時の社会通念でこれを紐解きして見て、其処に疑問点や矛盾点が無ければ正解という答えが出て来る筈である。
先ず、この4つの疑問点を解くには当時の家紋と言うものに付いての考えとそこにある掟を解析してみる。
先ず、家紋を理解しておく必要があるので次に記する。
家紋であるが、家紋には次の言葉がある。
1 「綜紋」であるが、大きい氏の場合にどこの氏か判らないので   共通の家紋というものを決めている。
   例えば源氏は16源氏あるが、別々に家紋を持つと源氏一族   であると言うことが判らない。その場合に、共通紋を決めて   於けば判るので、同族の賜姓青木氏と共に「笹龍胆」として   いるのである。
   各家氏ごとに綜紋の一部に手を加えて、違いを出す方法であ
   る。皇族や貴族や大豪族の社会の中で奈良時代の古代より使   用されていた。
2 「通紋」であるが、全体として、家紋ではないが、家具や丁度   品などに模様として気にいった文様を入れていたが、それが   親族に広まり一般化した文様となり、これを家紋的扱いとし   たものを云う。氏を表す手段として確立していない時期の方   法方に用いられた家紋を云う。家紋を「令」として定めた    800年頃(桓武天皇期に)までの間の期間に豪族社会の中    で、皇族に見習って使い始めた。
3 「副紋」であるが、「通紋」を家紋扱いとして用いた時期か    ら、この方法に家氏を区別するために違う文様を主紋の上下   のいずれかに加えて違いを出す方法である。
   例えば多くの支流の出始めた頃の同じ藤原氏でも361氏も   あるどの流れの藤原氏か判らなくなって来た時期(1350年    頃)に用いたものである。
4 「表紋と裏紋」であるが、対外的には家紋として提示するが、   実態は敵味方がある氏家の場合、表紋を出すことで敵対する   他の族から責められると言うことが合っては困るようなう氏   家が、上手に使い分けをして中立的立場を保つと言う工夫の   ために主に使用された。又、表紋の氏家の違いを表す一つの   手段にもした。小さな地方豪族が生き延びる為にも多く用い   た。1800程度もの最も氏家の多くなった平安後期以降に   用いられ始めた。
このように家紋には4つの形式があるので、その紋がどの紋方式かでね何時の時代のどの程度氏で、どこの国の氏で、どの系列の下に居たのか等、このことを知る事で判明して行くのである。
更には、この形式の上に「家紋掟」という慣習があり、この慣習でどの様な歴史の経歴を持つ氏か判明もし、主支流の区別も着くなど深く判定が可能になるのです。次回はこの「家紋掟」と「家紋の歴史」について例をあげて記することにします。  続く。
No.78
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Re: 藤原秀郷一族の生き方-6
青木研究員 さん 2005/08/02 (火) 12:05
家紋は奈良時代から用いられていた。しかし、この時期まだ「氏家制度」のなかでの「氏」を現す手段と言うものではなかつた。

当時は、主に自ら使用する家具や調度品に趣味的に草花や昆虫などを一つの文様にして刻みこむ程度であり、それが次第に、夫々の親族も真似をして好きな文様を色々な道具や武具などに用いられた。
その内に、その文様が誰の物であるかという代名詞のような扱いになってきた。しかし、此処でこのような文様を刻みこむ技能のもった者が少なく一般には利用されず主に天皇やその周囲の皇族の一つのステイタスの手段としてのみに使用され楽しみの一つとして興されていた。
例えば、正倉院の宝物などには多くの「文様」が垣間見ることが出来る。
これはまだ、「家紋」としての扱いでもなく、単純な「文様」として使用されていたものである。

しかし、ここで大きな変革が起こった。450年から650年頃までに大和の国に入った中国の後漢の高武帝の21代目の末帝の石秋王の子の阿智使王と孫の阿多倍が帰化して来た。
(阿多倍一族のことは別レポートに詳細記載参照)
この集団は17県に(200万 殆ど一国)の人民が450年ごろから約200年にわたり続々と入国してきた。
(九州から中国地方へ関西へと一族を遺し入植移動し最終は信濃甲斐国に開拓民として入植)

この集団は、軍事、文化、技能、政治知識など世の成り立ちに必要とするあらゆる高い文化力を持った人たちで構成されていた。
現代の日本の第1、2次産業のみならず、国体を定める政治体制手法までもその基盤を作り上げたのは、取りも直さずこの集団の知識と力の所以である。
この集団の中には物を作る優れた技能の集団がいた。そして、その集団は「部」という形で構成され統制されていた。
全ては蘇我氏の管理管轄下にあり、この為に蘇我氏が天皇を凌ぐ勢力を保持したのである。(大化の改新の主な理由)

ちなみに、家紋を作るに必要とする者たちは次の通りである。
鍛冶部、金作部、鏡作部、石作部、玉作部、工部、土師部、陶部、弓削部、服部、綾部、錦織部、倭文部、麻績部、衣縫部、赤染部、茜部等の手工芸の職人集団が居た。(部の呼称は割愛する。後には姓となる)
この集団の技能が、家紋と言う文様を刻む能力を容易に高めて、一度にその文様が「氏家制度」の氏を表す手段へと爆発的に進んだ。
そして、蘇我氏の手から離れて「公地公民」となった大化改新期ごろから進んだ。
最終は、この爆発が更に「荘園公領制」の影響を受けて寄進系荘園制へと進行し、開発領主、領家、本家と云う荘園を元に集団的保護関係が成立する至り、「源平籐橘」の「本所」や「権門勢家」の天皇家や大神社仏閣の一連の形態が確立した頃からである。
このことで爆発的に大中小の氏(豪族)が生まれた。
そして、「本所」や「権門勢家」の保護下にある事を誇示する手段として、この「家紋」(通紋)が用いられてきたのである。
「家紋」を示す事でどの系列の保護下にあるかが判り、不輪の権と不入の権を基に多族から身を守ったのである。
平安初期の頃のこの時には奈良時代には40程度の「氏」しかなかったにも関わらず、1800の「氏」に爆発的に増大したのである。
この爆発の元と成ったのは、勢力権域を示す「家紋」が阿多倍の一族の技能集団の成せる技の所以なのである。

例えば、いくつかの例をあげて見ると次の様な経過を辿っている。天皇家の天子は当初は、「通紋」として、「龍紋」を使用していた。
その内、「桐紋」(五三の桐)を使用するに至り、その所以は桐は瑞鳥鳳凰の止まる木と云われて「瑞祥的意義」に基づいた。
「桐、竹、鳳凰」の一組の文様が天皇に用いられる様に成ったが、
後には「桐」だけとなり天皇家の家紋と成った。
又「菊紋」は「延命長寿の薬餌」であり、その効能を意味して「桓武天皇」が主に用い始めた事から「皇室紋」と成った。上記の天皇家の「権門勢家」の下にある「氏」は挙って、「桐紋や菊紋」の一部を変更して使用するように成った。
この様に、「菊や桐紋」の変紋が使用されている「氏」は、この天皇家の「有縁者」か保護下に有った大豪族氏を意味する事になる。
例えば、足利氏は天皇から「菊紋」の使用を許されたし、豊臣氏は「桐紋」の使用を許された。

天皇家の「権門勢家」の者は皇族系の血縁者が多かった。
「賜姓伊勢青木氏」は天智天皇より初代に「青木氏」を賜った「氏」であることから「通紋」として、「笹龍胆」を使用した。その後に5家5流に成った頃から、「綜紋」として必然的に定めた。
上記した様に、奈良時代には既に「龍紋」は「天子紋」として「通紋化」していたこともあり、この「龍」と「竜胆の花」とかけて、葉は笹に似ていることから、皇族の出自を意味する「家紋」として「賜姓紋」としたのが由縁である。
嵯峨天皇の源氏紋の「綜紋」も同じ意味を持つ同族の皇族紋として16代(賜姓青木氏を入れると21代)に渡り使用されるに至った。
これが、後には源氏だけの綜紋として見られ、あげくは清和源氏の「家紋」とのみ見られているふしがある。

「氏」を表す手段として「家紋」として多くの者が用い出したのは「桓武天皇」の天皇家の「紋所」を定めるに至った時期からである。

桓武天皇は阿多倍一族の力を借りて日本の律令体制を確立した偉大な天皇でもあり、この意味からも、氏家制度の社会体制の確固たる
確立を成し、画一する目的からも「家紋」の使用を率先して使用したものである。
この時、この家紋の使用にあたる秩序を帰する為にも「家紋掟」なるものを定めて、民に知ら占めた。

参考 桓武天皇の母は「高野新笠」という阿多倍の末裔であることから、賜姓青木氏の牽制もさることのみならず、より強い能力の持った母方の渡来系一族の引き上げが国体の完成により近づく事も考慮に入れて、桓武天皇は桓武平氏を賜姓した。
「揚羽蝶」のこの家紋は、当初、桓武平氏が好んで「通紋」としてよく調度品に使用していた事から、賜姓に及び「綜紋化」したものである。
「揚羽蝶」は奈良時代からよく用いられたもので、正倉院宝物に多く用いられている格式のある文様から、この渡来系の桓武平氏、即ち、京平氏が用いたものである。
この「家紋」方式そのものを広めたのも渡来系の先祖の技能集団の「技」の由縁とするところである。

「綜紋と通紋」が劇的に増えた時期にこの「家紋」について争いが生じるに至る。そこで、夫々の氏の「宗家」はこの問題の解決に「家紋掟」を使って厳しく「氏」の「正当性や純潔性」を守る為に動いた。
次は、「家紋掟」なるものを記することにする。続く
No.79
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Re: 藤原秀郷一族の生き方-7
青木研究員 さん 2005/08/03 (水) 12:43
奈良時代の始め頃から家具や調度品に一つの文様として用いられたのが始まりであり、正倉院の宝物にあるように草花や瑞祥的な文様が刻み込まれていた。
しかし、前6レポートでの2つの原因から爆発的に用いられるに至るのだが、家紋という形で当初は用いられたものではない。
文様を刻みこむ高い技能の取得と広まるに必要とする社会形態の変化、即ち、荘園公領制から来る寄進系荘園の発達により氏が増加して、より高度な氏家制度の完成が成されて、その一つの手段として用いられた事、この主に2つのことから「家紋」というものが氏の増加に伴い定着し始めた。
しかし、この家紋の発達は爆発的ではあつたが、スムーズではなかった。
それぞれが勝手に用いられたことから律令国家の国体に混乱が生じたのである。少なくとも、ある一定の統一性が必要である事から、桓武天皇は「家紋掟」なる指針を占めして事態の収拾を図ったのである。
それを要約して次に記する。
1 分家
「家」を継ぐ嫡子以外の男子が分家する場合は、家紋の一部に細工を施すか、丸付き紋とする。但しこの場合は「宗家」の承認を必要とする。任意の別家紋を用いる場合はこの限りにあらず。
普通はこの場合が多い。
2 跡目上位
上位の男子が養子に出て、養子先の家紋より実家の家紋を使用する場合は家紋に細工を施すか、丸付き紋を使用する。但し、この場合は「宗家」の承認を必要とする。
養子先の家紋の使用はこの限りにあらず。
3 跡目下位
下位の男子が養子に出て、養子先の家紋を使用せず、実家の家紋を使用する事と細工の施しは出来ない。
養子先の家紋を使用する場合は、宗家の承認はこの限りにあらず。
4 養子下位
娘が下位の婿を迎える場合は、娘の父方の家紋は使用できない。
この場合は、家紋の一部を変更して一時を凌ぐか、丸付き紋にするか、或いは通常は母方の家紋を一時使用する。
嫡子誕生により元の家紋に戻す。
この場合は「宗家」の承認はこの限りにあらず。
5 養子上位
娘が上位の婿を迎える場合は、娘の父方の家紋を使用する限りは問題はない。但し、婿実家先の家紋を使用するか、家紋の一部に細工を施して使用する場合は、或いは丸付き紋にする場合は宗家の承認を必要とする。
6 嫁先下位
上位の家から嫁ぎ、その先が嫁実家の家紋に変更する場合は、家紋の一部に細工を施すか、丸付き紋とする。但しこの場合は、誕生する嫡子がこれを正式に継ぐこととする。
但し、この場合は、「宗家」の承認を必要とする。
この場合は余程のことでなければ承認はない。
7 嫁先上位
下位の家から嫁ぎ、その先の家紋を引き継ぐ場合は、問題はない。

家紋を同じくするか、細工を施して使用するか、丸つき紋にするかは別として、宗家の「氏」の勢力傘下に入り、「氏」「家」を守り、家柄を誇示する事は頻繁に行われた。
しかし、これには、「宗家」の「承認」を必要とし、その獲得には「莫大な経済的見返り」と「軍事的な義務」の責任を果たす必要があつた。
現実には、小中豪族には不可能であった。
もとより、古代より鎌倉期までは「氏家制度」(男系家族制度)が守られていて、一家が変更しても親族は元より一族全体が変更していなければ意味は成さない。
宗家同士の話し合いになる。従って、大抵は別家紋にするのが普通である。
寄進系荘園制と共に、この事も「氏」が一挙(1800)に増加した原因にもなるのである。
「分家」しても「自領」を自力で獲得しなければ、「宗家」は家紋の使用は認めなかったのが普通である。
「宗家」とは実家の事とではない。氏家制度の「総元締め」である。つまり、本流中の本流の事である。「支流」の「本家」が「宗家」に伺いを立てるのであるから、大変なことである。
「本流家」の家紋は家柄と純血を維持する目的から容易く広げなかった。
ちなみに、足利(梅鉢紋)や武田(武田菱紋)は清和源氏の支流であるが、清和源氏の者が土着の豪族に跡目に入る事で支流源氏となる。つまり、この場合は、2或いは5であるが「笹竜胆」系の綜紋家紋ではないので、5番の血縁関係を結んだことになる。
明らかに、支流氏である。
笹竜胆に丸付き紋、「丸に笹竜胆」の家紋は1或いは2番であるが、大抵は2番である。例えば、村上源氏の北畠氏はこの2番の支流一族となる。足利などと違う所は土着かそうでないかの違いである事からこの様になる。北畠氏は朝廷の学問所であり、上位族からの出自である。
この様に、家紋掟や家紋や綜紋など、或いは家紋の細工などでその氏のルーツが詳細が判明するのである。
この様に、「宗家」は実に厳しく掟の維持に当った。「宗家」の指示に従わない、或いは、意にそぐわない行動を取るなどした場合は武力をもって攻め滅ぼすという手段に出たのである。
それが、親兄弟は元より、親族や支流の一族まで管理管轄して潰しに掛かった。保元、平治の乱は真にこの一例である。
次は、この家紋に関わる知識を元に藤原氏の事に話を戻す事にする。  続く。
No.81
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Re: 藤原秀郷一族の生き方-8
青木研究員 さん 2005/08/05 (金) 22:42
「家紋」は当初は、好みのものとして「文様」として使われ、次第に「氏」を示す「通紋」として扱われた。
最後は文様を刻む技能の発達や寄進系荘園制や氏家制度を確立する手段として扱われるように成って「氏」を示す「綜紋」として爆発的に使用されるように成った。

ここで、「氏」の正統性や氏家制度を守る為に、「氏」の宗家は厳しく取り締まる様に成った。
しかし、武門と貴族とでは家紋の扱いが少し違っている。

藤原氏の場合を見てみる。
藤原氏の家紋は「綜紋」としては、「下がり藤」紋である。
しかし、この「下がり藤」紋を使っている「藤原四家」で見てみると、直系の藤原氏はおよそ97氏あるがその内、この「下がり藤」紋を使用している「氏」は一割程度である。
その一割の殆どは北家の藤原秀郷の一族である。
更に、その傾向として、藤の字の前に役職名を付けた左藤、佐藤、工藤、斎藤、進藤、地名を付けた伊藤、近藤、遠藤、武藤、加藤、尾藤などである。
後は家紋が「下がり」である事などを嫌って家紋を「上り藤」にすることや、家紋に色々と細工を施して、「藤紋」の使用を行っている。
「綜紋」を嫌って「通紋」としているもの、四家として明確に違いを出しているもの等に分析される。
そして、この「家紋」は144紋になる。
「下がり藤」系は30紋 「上がり藤」系は28紋(藤原系皇族貴族) 「丸形の変化」系では40程度(支流系)である
秀郷流は直系、直流、支流合わせて361氏あるが、「下がり藤」紋は3%程度である。

ここでも他の「氏」と比べて、一つの特徴が見られる。
「綜紋」を中心に「氏」を守ろうとする傾向が少ない。
どちらかというと、「通紋」である。

秀郷系は正統に「下がり藤」紋を使用しているのは、貴族であるとは言え、元は武門の役職であったことから、直系は厳しくこれを使用しているが、3%から見れば僅かである。
源氏のように綜紋(武力)で厳しく取り締まるというよりは藤原氏と秀郷は子孫を増やして全体でこれを統制するという戦略に出ている。
奥州の藤原氏も一説では秀郷の子孫と言われている。
宗家以上の子孫が奥州に出来た位である。清和源氏の協力を得て東北6国を押さえたが、そして、この奥州藤原氏に対して、秀郷の一族は守護の派遣と言う点から見ても避けている。
(鎮守府将軍と陸奥を除く)
この様な子孫が出ると云う事は夫々の一族の「氏」に自由に働かしている。

史実を見ても、宗家が天下分け目の戦いに参加して一族を滅ぼすという事はなく、支流程度の一族が天下分け目の戦いに参加して滅亡の道を辿っているが、秀郷の一族の361から見ると一割に満たない。
この点に付いても賜姓青木一族は5家5流あったが、一時は大いに子孫は広げたが室町初期には支流にも及ぶ程になくなっている。

藤原秀郷とはこの「氏」を維持すると言う点でも戦略は大きく違う。
又、源氏は16流16家もありながらも夫々の宗家は滅亡し、直流子孫は無く支流のみの氏である。その支流も3源氏(清和、村上、醍醐)のみで13源氏の「氏」の影は見えない程である。

この様に「家紋」という視点から見ても、その戦略は共通している。次は史実から見た長島氏などとの関係から検証する。続く。
No.83
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Re: 藤原秀郷一族の生き方-9
青木研究員 さん 2005/08/08 (月) 22:15
家紋の使用に於いても、武門の賜姓青木氏や賜姓源氏と異なり、綜紋に依って一族を厳しく取り締まり「氏家制度」を守ろうとした事に対して、藤原秀郷一族は貴族である事もさる事ながら、宗家を守る361氏の秀郷系の武門の者等は自由闊達にして子孫を増やして氏を守る戦法を取っている。
ところが、この戦法は血縁という点でも特異の行動を採っている。

それは次の二つの例に依って物語る事が出来る。
先ず、足利氏の件である。
そもそも、下野の国足利郡足利庄におこる。
この地は、藤原秀郷より4代目の兼光流から祥して、7代目の成行が下野の西と上野の国堺にある地を足利の庄と称して、この地を開拓して足利太夫と称して足利氏を起した。

成行より3代目の成俊が佐野氏を分流して起し、成俊より更に3代目の基綱(佐野の藤原の基綱)の時、平氏に味方しての戦いに敗れて没落の憂き目をうけるが、清和源氏(頼信系)の義家の子義国が藤原基綱の(佐野氏の祖)娘との婚姻関係にて誕生した「義康」を跡目にいれて足利氏の再興を図った。(本家と分家の説有り)
この源氏の跡目を受けた足利氏はその後1183年以降再び土着の豪族として成長拡大したのです。
前レポートにも記した土着豪族足利氏と清和源氏との跡目とは藤原秀郷系の足利氏であつたのです。

ちなみに、同時期に「清和源氏」は5地方の「賜姓青木氏」との跡目戦略を採り、甲斐国では「武田氏」との跡目の関係を作りました。この跡目の武田氏は元は陸奥国の住人であつたものが、甲斐に移り、力を得て豪族となり、゜「清和源氏」との跡目の婚姻関係を結んだのです。
この武田氏も、秀郷より4代目の「兼光」が「陸奥の国」の守護を務めていますが、この「兼光」の陸奥の国での血縁の者ではないかと言う説もあります。
その根拠は、移り済んだ者がいきなりに豪族になる事はありません。それなりの時間と土地の武装勢力集団等を押さえ込む勢力が必要です。
この勢力は自力の勢力だけでは無理で、「寄進系荘園制」のように何らかの「権門勢家」の力が無くては絶対に「氏家制度」の中ではなし得ません。つまり、藤原の兼光一族の後ろ楯があって、土着の豪族となり得るのです。
文頭に記した様に、武田や足利の荘園は、次の様なことで出来たのです。

当時は、荘園制の下で互いの勢力争いで没落して放置した荘園とか、弱体化した荘園主から奪い、次から次えと増やして行く傾向があり、自ら、汗水流して荘園を開墾すると云うものは少なく、殆どこの形態が主で、初期のレポートでも記した様に、この奪った荘園に少し手を加えて、「領家、本家、権門勢家」の関係を作り上げていた時代でした。これが「寄進系荘園制」の実態でした。
当然、「源平籐橘」の一つ藤原氏の特に北家の傘下にある事を誇示することで、「奪取荘園」を正当化して国司や守護に届出して大きく成長して豪族となり得たのです。
そして、遂には、「権門勢家」との血縁関係を結ぶと云うのが普通のパターンでした。武田、足利の両氏はこの典型的パターンです。
これが当時の現実の「荘園公領制」の状況なのです。

「足利氏」もこの「藤原兼光の子孫」(成行−基綱)であります。
仮に、この「武田の兼光説」が正しいとするならば、つまり、゜藤原秀郷」一族はなんと「清和源氏の頼信系」の一族と「信濃と甲斐の国」の2国で網目のように血縁関係を結んび「4つ巴」、即ち、賜姓青木氏と賜姓清和源氏と土着の足利氏、武田氏と藤原氏(兼光流)の関係が出来ていたことになるのです。
この藤原氏は佐野氏系の祖の基綱であります。この佐野氏が継ぎのテーマの永嶋氏と関係があるのです。

この「4つ巴の説」は必ずしも時代性から見て矛盾がないのです。ほぼ間違いはないと考えられます。(別途記する)
この時代は前レポート記の「3つ巴」は10年程度の間に成立した戦略ですが、少し後には、平家が滅亡して鎌倉幕府が興り、北条得宗家の時代となり、坂東八平氏の御家人も次第に滅亡して行く政治状況の中でした。

奥州の藤原氏の滅亡、清和源氏の宗家(頼光系)も衰退、鎌倉幕府に実権が移り、朝廷の藤原摂関家も衰退、など次から次へと起こる不安定そのものの中で、北家の秀郷一族としては生き残りの策を実はこの「4つ巴の戦略」に架けていたのであった。

驚くかな、「4つ巴」では実はないのである。5つ巴となるのである。
だから、藤原は強かで、柔軟な生き方をしているのです。
次は永嶋氏との「5つ巴戦略」に付いて記する。続く。
No.84
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Re: 藤原秀郷一族の生き方-10
青木研究員 さん 2005/08/12 (金) 13:05
4つ巴の戦略を採っている藤原秀郷の一族であるが、此処で、史実をよく見ると2つの不思議なことが判明する。

その一つは、秀郷の第3子系の4氏の青木氏の一族は家紋は「揚羽蝶か丸に揚羽蝶」の副紋つきである事。
その二つは、秀郷の兼光流の子孫の一系列が「永嶋姓」を名乗っている事。

この二つの共通するキーポイントは京平氏である。
揚羽蝶紋は京平氏の「綜紋」である。
「永嶋氏」は京平氏の祖の阿多倍一族の「遠の朝廷」として九州を統治していた「大蔵氏」(阿多倍の次男の賜姓氏である)の末裔の種秀より変名した氏である。
永嶋氏の家紋は「左三つ巴」紋である。

先ず、秀郷流青木氏は116氏中の主流の直系1氏と直流4氏と支流4氏に分流している。直系と直流の5氏のうち3氏が「揚羽蝶の関係紋」である。
更に、支流の1氏が「揚羽蝶紋」である。あわせて主流4氏が「同紋か丸付き支流紋」である。

ほぼ同時期に平氏と同紋を使用しているのである。
明らかに家紋掟から見て、又、当時の慣習から見て同系列である。
これはどう云う意味を持つのか藤原氏の生き方を解明する上で解く必要がある。
ここには、時代性が働いていると考えられる。
それは、秀郷は「平の将門の乱」を京平氏の平の貞盛と共に、935−940年の5年間を協力して平定した。
つまり、無二の戦友である。
その後、貞盛の歴史は子供の維衡が伊勢北部伊賀国(朝廷より阿多倍にこの地を特別に与えられていたが、)を改めて正式に国司に任じられ、4代の後には太政大臣清盛の時代になる。

秀郷も、元は下野の押領使であつたが、この後に下野と武蔵の国を領国として与えられて、第3子(千国)を親衛隊として青木姓を与えて武門化させた。
この時、貞盛も父国香の領国の上総の国の守護を維持していた関係から、戦友として政略関係と血縁関係を持つ為に、貞盛の娘をこの秀郷の第3子に嫁がせたのではないか。
そして、誕生した嫡子に「下がり藤紋」ではなく、外父の家紋を継がせたのではないか。
その理由は、秀郷は恩賞により、貴族の仲間入りした事で、武門になった青木氏を名乗った孫には継げない家紋であるから、家紋掟により、母方の家紋を使用したものとされる。
秀郷側や貞盛側にも異論は無い筈である。
この結果、直系はもとより、直流の内の2氏が、直系の者がこの「揚羽蝶紋」を継ぎ、直流の者は分流したために「丸付き紋に揚羽蝶紋」と「丸付き紋に揚羽蝶紋に副紋付き」としたのではないか。
そして、此処で、これを証明する一族が出て来るのである。

「揚羽蝶紋」を使用しているもう一つの支流の1氏がポイントになる。

「平の正命」なる者の一族は、当初は祖先は、「嶋崎」を名乗り、又、岡田と名乗っていた。
しかし、江戸初期の頃に、兵右衛門利澄の時に旧縁の「藤原氏」と名乗り換えをし、「青木氏」を名乗った一族がある。平家血縁の藤原系青木一族である。
この一族の家紋は「丸に一文字、稲丸の内一文字、丸に揚羽蝶」の副紋付き家紋である。
時代性から見て、この一族の系譜は、貞盛の上記の青木氏に嫁いだ娘方の末裔一族と見られ、平の嶋崎、岡田と名乗り継ぎ、後に、それ故に、直ぐに縁者藤原氏に族換えして、同血筋から嫁ぎ先の青木氏を名乗ったものと見られる。
「平氏」が「藤原氏」に名乗りが換えするには「血縁」が無ければ当時の慣習として「平氏」を捨てて勝手には出来ない。

藤原秀郷は平氏とも血縁を持ち、子孫にはその家紋ところを継がせて、自らの親衛隊を務めさせている。
前レポートとあわせて考えると、主な種族と血縁を結び、小さくは各地に一族を定住させ、地方の豪族と血縁関係を持たせて文句のつけようのない戦略を敷いているのである。これでは、この一族は滅び去る事は無い。次は永嶋氏の関係について記する。 
続く。
No.97
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Re: 藤原秀郷一族の生き方-11
青木研究員 さん 2005/08/19 (金) 21:43
藤原秀郷の青木氏の4氏の家紋が平氏の綜紋の「揚羽蝶」関係の家紋である理由が判明したが、次は永嶋氏の氏に付いて記することにする。
実に不思議な現象である。
以前のレポートでも記したが、兼光流には、長沼氏、青木氏、永嶋氏の3氏が主な一族がある。この永嶋氏が何故に藤原秀郷流にあるのかという疑問である。何故疑問なのかを述べる前に永嶋氏の構成を検証する。
永嶋氏は次の3つに発祥から分かれる。
1つ目は、渡来系阿多倍と敏達天皇の曾孫の芽淳王の娘との間に出来た子供の次男は孝徳天皇より賜姓を受けて大蔵氏の氏を名乗る。
大蔵は朝廷の3大役職(3蔵)の一つの大蔵職から採って大蔵とした。(650―670年頃)
この大蔵氏が種秀より変名して大蔵氏から永嶋氏に変名した。
この時期は1200―1225年頃である。
阿多倍は帰化後、その絶大なる力で瞬くに九州全土を制圧し、その子孫は「遠の朝廷」と呼ばれて「錦の御旗」を与えられて3権(軍事、政治、経済)を以って「太宰大監」として統治した。
その後、中国地方、関西まで制圧して支配下にいれた。このことは軍事面のみならず技能、政治経済の面までも新しい知識を伝え国体の発展に大いに貢献した。遂に阿多倍は朝廷より呼び出されて伊勢北部伊賀の国を与えられた。桓武天皇から賜姓を受けて貞盛より始まるこの子孫が渡来系京平氏である。
(桓武天皇の母は高野新笠と言いこの阿多倍一族の出である)
この一族の大蔵氏、即ち、永嶋氏である。

2つ目は、平安時代の後期の朝廷より派遣されて、九州北部に勢力を張った「伴兼貞」(奈良時代の5大官僚の一つ)の子兼俊が大隈国肝付郡の弁済使(税務官)となり、在名を取って氏とした。
大隈国の首魁 阿多倍一族の永嶋氏と同じ国に定住したことから、
九州の融和策によりて、この肝付氏と上記の永嶋氏との血縁により誕生した「肝付氏族永嶋氏」である。
(肝付氏に付いては別途詳細を記する)
1450年頃、長年の宿敵であった島津氏に滅ぼされる。

3つ目は、藤原秀郷の兼光流の佐野氏(秀郷より10代目の基綱が祖)から出た行長(基綱より5代目)が祖の永嶋氏(1210年―1230年頃)である。
佐野氏は下野国安蘇郡佐野庄から出た藤原氏の豪族で初代は藤原基綱(秀郷より11代目)である。永嶋行長は基綱から7代目である。

4つ目は、藤原秀郷の兼光流の結城氏(秀郷より9代目の朝光が祖)から出た永嶋氏である。
この永嶋氏は結城氏から酒井氏となり永嶋氏に成った。(佐野氏流 1220年―1250年頃)
この結城氏は上野国の守護の時に、朝光の旧領の結城庄は平氏に奪われていたが、鎌倉側に味方したので、頼朝の鎌倉幕府の本領安堵策により、朝光に戻されてから下総の結城庄の結城氏を名乗る。

5つ目は仁徳天皇の皇子で「若日下王」より起こった者で、日下部氏から日下部姓永嶋氏が出た。永嶋氏の祖と年代は不明である。
日下部氏の子孫は朝倉氏である。
この子孫は武蔵国久良岐郡に住まいしていた事実がある。

以上5つの永嶋氏の発祥がある。しかし、この5つは3つに分けられる。1と2、3と4は夫々は同系列である。5は詳細は不詳だが、朝倉氏や江戸期に永嶋泥亀なる子孫が存在するところを見ると古代の皇族系永嶋氏であろう。

5の永嶋氏を除いて、二つの系流の永嶋氏には共通する者がある。
この共通することを調べることで、見えてくるものがあると考える。
次回はこのことに付いて、検証する。続く
No.98
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Re: 藤原秀郷一族の生き方-12
青木研究員 さん 2005/08/21 (日) 13:49
永嶋氏は結局、主には2つの発祥ですが、渡来系京平氏の一族の大蔵氏から出た一族系と、藤原氏の秀郷系から出た一族系の間にはなんらかの関係があり、そのためこの同時期に氏の変名を起している事を何とかして解き明かしたい。それにはまず、この時期の歴史的背景を調べ、その背景から、二つの氏がどの様な行動をとったのかを検証する事にする。
歴史的状況
藤原秀郷一族の存亡が起こり勢力に陰りが出るし、奥州藤原氏の滅亡が起こる。
頼朝にて「鎌倉幕府」が樹立し、「平家没官領」を実行した。
旧領の「本領安堵策」を実行し、源氏一族が息を吹き返す契機が起こるが坂東平氏の圧力で衰退。
「京平氏」の西国渡来系一族の衰退。
各地に「地頭制と荘園地頭制」を敷く。
御家人に「新恩給与策」の実行
「一所懸命」の現象が起こる。
莫大な平家の土地を権門勢家(院)と鎌倉幕府(将軍家)は獲得した。
「関東進止の地」で幕府は絶大な権力保持
「鎮西奉行」で九州の実権把握と奥州を取り締まる「奥州総奉行」の実権把握
清和源氏は滅亡し、「十三人の合議制」で北条執権強化で、「坂東八平氏」は衰退する。
「承久の乱」(1221年の後鳥羽上皇)幕府倒幕が起こる
「新補地頭」に上皇の所領3000箇所を「東国御家人」に地頭文として分ける
西に所領を得た「西遷御家人」が生まれる
六波羅探題で西国ににらみ効かす
評定衆、御成敗式目、先例制、年紀法、武家法、公家法、本所法(1225年頃)

この2氏に関わる1230年前後(20年)の歴史的状況は以上であるが、この状況から次のことが見えてくる。
藤原一族としては、一族の末裔である奥州の藤原氏の滅亡や武蔵や下野の周囲の国は平家の所領を分け与えて坂東八平氏の所領にかわり、心理的には追い詰められた境地で、他の勢力も衰退して行く中で何時、藤原一族も仕掛けられて滅び行くか、びくびくしていた筈である。
朝廷の摂関家も衰退し、自力では立ち向かう勢力はもはや
無く、頼るところ勢力も無かったという状況で合った筈。
其処に、関東には新たな地頭制を敷かれて新しい御家人が生まれて「新恩給与策」のような新しい税体制も確立して社会の機構も変わり、時代の変化が違ってきた事を感じていた時でもある。
この時期は殆どの土地は幕府御家人と朝廷の院のものとなり、藤原氏の所領は「東国御家人」などに押されて、以前の守護としての各地に散在する小さい範囲の所領のみとなつた。そして、御家人保護の「関東進止の地」策で奪う事も出来ず身動きが取れない今や古い一族藤原氏となつた様に他の氏にとっても「四面楚歌」であつた。

又、一方西国の超豪族であった渡来系の一族は、平安期は「遠の朝廷」と言われて3権を与えられて九州はおろか中国地方まで勢力圏としていた一族にとっては、同族の京平氏の滅亡からは実に脅威となっていた筈である。何時、わが身かの恐怖感を抱いていた。

しかし、いよいよ鎌倉幕府は西国にも勢力を及ぼしてきたのである。しかし、戦いはなかった。京平氏が滅亡したとしても、まだこの一族には結束した戦うだけの勢力はあつた筈である。
中国地方を制覇していた一族の陶氏もあり、九州は肝付氏や大蔵氏
等が依然として無傷である。
しかし、鎌倉幕府は「西遷御家人」と称して東国の者を西国に所領を与えて赴任させ、京平氏の所領であった土地を「本領安堵策」にて元の小さい旧領主の者の「一所懸命」に守ろうとする者たちを多く引き上げて味方に取り込み、九州の各地で周囲から締め上げる戦法に出た。これに対して、この九州の2豪族は動きが取れなかったのである。足元が旧領安堵の餌で崩れて戦う戦略はたたなかったのが現実である。
鎌倉幕府は政治的に、この2つの豪族を押さえ込むことに成功するやすかさず、「六波羅探題」を設けて西国ににらみを効かしたのである。これは実に大きな成果をあげた
しかし、何時の世も不満分子が立ち上がることは世の常である。
実権を完全に把握した執権鎌倉幕府にたいして、「後鳥羽上皇」はこれ等の「北面武士」ならず゜「西面武士」の「西国武士団」を募り、幕府討伐の令を発したのである。
所謂、「承久の乱」である。しかし、失敗して朝廷内も二つの統に分かれて乱れ、益々、北条得宗家は全権を握った。
元々も味方であつた坂東平氏もことごと潰し、関東や西国と藤原氏の一族が点在する奥州にも「奥州総奉行」を設けて東国の武士団も政治的に押さえ込んだのである。
そして、この乱を契機に「法的な整備」を行い、より平安期より進んだ「武力と法」による完全な秩序のある政治体制が確立したのである。そして、朝廷を中心とする今までと違った政治体制「武家社会」が確立して、朝廷の中で育った藤原氏と大蔵氏の一族は全く未知の社会体制に入り、戦う事を忘れる程に、どの様に生きて行けばも判らないほどに狼狽した筈である。
次はこの西国と東国の各2氏にはこの態勢の中でどの様な事情面での共通点があるのかを検証する。続く
No.99
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Re: 藤原秀郷一族の生き方-13
青木研究員 さん 2005/08/23 (火) 22:49
朝廷から鎌倉幕府の「武家政治」に移り、その「政治手法」が根底から変化した。このことに藤原秀郷の一族と九州の大蔵氏はその基盤の根底を根こそぎ浚われたのである。

両者とも、朝廷との関係が強く、その勢力基盤は朝廷の行く末に基いていた。
「賜姓青木氏」や「賜姓源氏」のように皇族と言う家柄と名誉と社会習慣に基いていたことで族間の勢力争いが起こる事でその基盤を失った。

藤原氏は平安時代は「摂関家」を中心として「朝廷政治」の下に巧みな生き残りを図ってきて361氏という子孫の裾野を広げてきた。これが万全であるかの様に見えた。

しかし、大きな落とし穴があつた。
「朝廷政治」の貴族中心の世界の中での生き残りである。
これが「武家政治」という全くそれまでの歴史の中で経験した事のない未知の世界が生まれたのである。
気がつくと藤原氏は「氏家制度、又は氏姓制度」のなかで保護されていたのである。そして、「桓武天皇」の「律令政治」即ち、「国体制度の完成」は正せば「貴族階級」を中心に成り立つ制度であつた。その中にどっぷりと浸かって自分の土台の種類が何であったのかをも意識は無かったのであろう。
多分当時の者誰一人も全く予想もつかなかったのではないか。現代の我々でも民主主義の中に居ると異なる社会制度の時代が突然来るとしたら、今予想が着くだろうか。
「平家の武士の時代」とは云え、それは矢張り、「朝廷政治」の代行であり社会体制は依然として貴族中心のものであつた。

それが、やつぎばやに、政治機構を次から次えと打ち立て変更して行ったのである。ゆっくりではない。約15-20年以内である。
そして、いままで、朝廷から任命された官僚は守護として赴任したが、「御家人」というものが地頭という役職で各地に配置された。
今まで守護であつた者は突然に一介の武士だけに成ってしまったのである。大勢の家来を抱えていた者が家来と同じ身分になるのである。一族と家来を抱えた彼等は逆転して地頭の家来になる以外に生きて行く道はない筈である。
その前に、子孫を増やして裾野又は基盤を強化する戦略に集中し過ぎてその目の前で起こっている現象が自らの土台基盤を壊す者である事を認識する事さえも忘れて、安穏とし、毅然と立ち向かう姿勢を忘れていたのである。そこが源氏や青木氏や平氏の様に武門ではない貴族の持つ欠点であったかも知れない。鎌倉幕府にとってはこの「藤原集団の結束」が一番恐れていたのではないか。
「結束」が起これば朝廷内に「摂関家」を持つ一族としては「錦の御旗」を与えられて、「大儀と武力と戦略」では「坂東八平氏」には十分に勝てる相手であった。「藤原氏」にその意が無いと見た鎌倉側は最も武門に近い考えのある秀郷一族の「奥州藤原氏」の「各個攻撃」に出た。そして、成功したことで他の秀郷一族は戦意を失ったのであろう。
秀郷のような指導者の欠いた優柔不断な藤原氏が立たない事を知った朝廷の天皇家は立ち上がったと見る。各地に散った源氏系の一族の西国武士集団を集めて苦肉にも立ち上がったのである。
上皇自ら起した「承久の乱」が起こっているのにさえ、秀郷一族は動かなかったのである。

これが貴族であるが所以の藤原氏の「栄華の末路」である。
期を逃した藤原氏には「自然の淘汰」以外に身を任す方法はもうないのである。

そして、結果は「自然淘汰」は起こり始めた。
実に多くの浪人集団が発生したのである。この武装集団が野や山にこもり互いに連携しあってシンジケートを各地に作り上げたのである。
この時期から「下克上」の原因基盤が出来てきたのである。
抱えきれなくなった家来が下野に隠れ、頼れない藤原氏を見限り、いつか再び帰り咲く時期を狙っていたのである。

このことは系譜の内容をよく見ると判る。
1230年前後を境にして、361氏を抱えるの藤原秀郷一族の系譜と大蔵氏の一族の系譜を見ると、全て役職は無くなっている。
支流の一族も増えていないし、更に、1250-1300年頃のこの付近で子孫の系譜がとまっているものが多い。この現象を見て取った両一族は、両者共に多くの氏流一族を持つが、全てに永嶋一族にほぼ統一されていて新たな氏は生まれていない。
永嶋氏を中心に「再編」を計つたのではないかと推測される。

足利氏との縁続きの2氏の佐野氏、結城氏は足利氏の家来になる以外に、藤原秀郷氏一族の23氏も同じ傾向であり、鎌倉の御家人か、殆どは地頭の家来になつて生残っている。

そして、1350年から1450年頃ころから滅亡し始めて(佐野氏、結城氏共に一度潰れている、そして足利氏に拾われて盛り返している)、1570-1590年台には藤原氏と藤原氏秀郷の一族の一氏で領国を治めている者はない。最後は記録では藤原氏の越前の国の守護が最後である。
(このころから下克上から戦国時代へと進む)

九州永嶋氏も大宰大監であつたが種秀以後は一族は役職から離れている。
一族の本流は全て永嶋氏を名乗り、農業や他の産業に切り替えて支流は消えている。
この九州地方は古来より江戸の終わりまで、豊臣秀吉の「兵農分離」の禁止令に関わらず、武士と農業の併用の習慣が長い間続いていたのであつた。
従って、本流以外は残らないという現象が起こったのである。
1570年以降の島津氏に成っても同じであつた。

そこで、この両者が何故に永嶋氏に変名したかとの疑問あるが、
1220年―1250年頃の時代性の変化と、それ以後の一族の行く末が一致する。
このことから九州の永嶋氏は一族の京平氏の滅亡から周囲の「あつれき」と官職と領国の無くなったことから、又、藤原秀郷の佐野、結城氏の永嶋氏も足利氏の庇護の下で生き延びたが、互いに「永嶋氏」を名乗る事で一体性を出し、全国的に散在することを利用して「永嶋氏」という族の大きさを示す事に依って「下克上と戦国時代」から結束して身を守ろうとしたのではないか。

各地の地名の永嶋氏(長嶋、永島、長島、34氏)は、名古屋以西は大蔵氏永嶋氏、以北は秀郷流永嶋氏である。

しかし、その話し合いとなる証拠は見つからない。
その鍵は仁徳天皇の末裔の日下部氏の古代永嶋氏の氏を統一の氏としたのではないか。
その証拠にこの末裔は武蔵の国久良岐郡に住まいしていたとされる。
もう一つの鍵は家紋である。この永嶋氏三者の家紋は「左三つ巴紋」に副紋つきである事で一致する。

日下部氏永嶋氏は一文字に五三桐の副紋付き、
九州長嶋氏と佐野氏永嶋氏は左三巴紋
結城氏永嶋氏は丸に剣鳩酸草の副紋付きとする。
勝手に名乗った偶然の一致とは思えない。

時代の変化に追いやられた両氏は最後の苦肉の策に出たのであろう。しかし、これも、1570年頃までのことで「下克上と戦国時代」の波には勝てなかったのである。

以上

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