青木氏のルーツ & 雑学研究室

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オススメレポート
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・日本書紀と青木氏
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・ルーツの姓の発祥
・青木姓の発祥源
・大化の改新
・皇族賜姓青木氏の背景
・皇族賜姓青木氏の背景1
・皇族賜姓青木氏の背景2
・皇族賜姓青木氏の背景3
・賜姓青木氏の弱体
・青木氏と血縁族
・藤原秀郷一族の生き方
・飛鳥京の防備と賜姓族氏
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・秀吉と家康の系譜偏算
・明治以降の第3の青木氏
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・信濃の諏訪の旅
・仮説 今年の温暖化は。

◆-アメリカのブレンダ−青木さん

No.1004
 引用付き返信 | 返信 | 削除 | 管理

アメリカのブレンダ−青木さん
副管理人さん 2007/09/03 (月) 12:56
ブレンダ−青木さん。今日は。
こちらに、追加として、概略をお答えしますので、それをお読みなって後に、雑談掲示板に書きました他の史料をお読みください。
そして、判らない所がありましたら、この研究室の投稿の返信(RE)でお訪ねください。

アメリカに渡られた青木さんのことは情報として知っていましたし、お話の事も少し衆知していました。
特に、長野県や栃木県などからの青木さんが多く渡ったと聞き及んでいました。
つまり、そうしますと、アメリカの青木さんは、多くは諏訪族の青木さん群となりますね。
日本の青木さんのもつとも古い伊勢青木氏の本家の者とアメリカの青木さんの基になる人とのお話ということですね。何かの神の成す縁ですね。
この機会にその人たちとこのサイトでお話が出来ることをうれしく思います。

さて、
雑談掲示板に引き続きまして、1165年と言うことですので、概ね次のルーツに成ります。

先ず、青木氏には2つのルーツがあります。
その簡単な経緯をご説明します
一つは、645年の「大化改新」という政治変革がありました。
この時に、天皇はその時代の政治状況(研究室の大化改新のレポート参照)を反省して、自らの子供(皇子)の第6番目の皇子を臣下(侍にする事)させて、天皇を守る親衛隊を造りました。そして、その子供に「青木氏」という姓を与えました。この慣習が、5代の天皇に引き継がれました。これが「皇族賜姓青木氏」であります。
天智天皇、天武天皇、聖武天皇、文武天皇、光仁天皇の5代です。
この皇子の皇族賜姓青木氏を5つの土地に守護王として配置しました。
それが、夫々の天皇の順に、初代の天智天皇の伊勢(三重県)、近江(京都、滋賀県)、美濃(愛知県)、信濃(長野県)、甲斐(山梨県)と成ります。
ここに、伊勢青木氏を始めとして、甲斐の青木氏までが生まれました。

この時、御家でありますと、そのルーツは信濃王であった青木氏であります。
この青木氏が、土地の豪族と成っていた諏訪族との間で血縁を結びました。
ところが、この青木氏の一族のうちで嫡子(男子の後継ぎ)に恵まれない事が起こりました。
やむなく、土地の諏訪族から男子の養子をもらいうけて娘との間で血縁を結びました。しかし、又、男子の嫡子に恵まれず、当時の社会制度の「氏家制度」の中に「家紋掟」と言うものがあり、これに従い、家紋を養子先の家紋となる事を余儀なくされました。
これが、抱き角紋です。抱き角紋に変紋を余儀なくされたのです。
元は、皇子である皇族賜姓族の身分の象徴紋として、5家5流の綜紋は天皇より授けられた「笹竜胆紋]でした。
本来であれば、次に生まれた子供に男子の嫡子が生まれれば、元の「笹竜胆」紋に戻りますが、更に嫡子に恵まれませんでした。つまり、一時的に変紋した「抱き角」紋が「笹竜胆」紋に戻ることなく女系と成りましたので、この「抱き角」紋に成ってしまったのです。
従って、この皇族賜姓族の分家一族は男系継承を決まりとしているので、諏訪族の一門となる事に成りました。
そこで、その後に、この抱き角紋となった一門の末裔が、分家しました。
分家する際は、本妻の子供は、本家筋からこの抱き角紋の使用を許されるのですが、側室の男子である事から、この抱き角紋に丸をつける等の「家紋掟」があり、「丸付き抱き角紋」となったのです。
この時代は、青木氏や藤原氏などの皇位血筋を引く一族は、子孫を残すために4種の妻(皇后、后、夫人、みめ)があり、この仕来りに従っていました。この他に、この妻で無い「妾」(うねめ)も有りました。
丸付き紋ですので、原則は后か夫人の子供という子とに成ります。
又は、本妻の子供でないが、何か特別な理由がある場合に於いてのみ、丸付きにして抱き角紋を本家筋が許して継承する事が出来ました。

この様に、信濃の諏訪族になった皇族賜姓青木氏であります。
現在も、この諏訪族の子孫は、この諏訪地方の西諏訪に多く住んでいます。そこの町長は代々今でも諏訪族の青木さんです。

参考に、更に、ルーツを遡ると諏訪族は基は、中国の後漢と言う国がありましたが、唐に滅ぼされたこの一族の(17県民200万)の民が逃げて九州に上陸して(600-650)揃って日本に帰化してきました。
この一族の一部が信濃の開墾にまわされます。この末裔が外来大馬を扱う民としての諏訪族でした。
この諏訪族の血筋も受けている事に成ります。
当時の慣習として、血縁は同等身分での血縁を原則としていますので、信濃王の皇族賜姓族の青木氏は中国系の諏訪族の中でも、首領格の家柄の諏訪族の家との血縁をしたことを意味します。

日本人は7つの民族の融合単一民族ですが、中国系の日本人は1/5-1/6にも成ります。
諏訪族系の人はこの一つです。(この事も詳しくレポートしていますので、研究室の「阿多倍一族」で検索してください)
この一族は日本の文化、政治、産業の大基礎を築きました。

「日本書紀」にも御家の信濃諏訪族のことが出てきます。
信濃開墾に大変貢献したとして、その勲功に愛でて天皇に呼び出され、信濃諏訪の「不入不倫の権」(他国が一切事に犯してはならない権利)を与えられます。
天皇にはっきりとものを申す諏訪族であった事のエピソードが書かれています。
多分、この頃の直ぐ後には「天皇拝謁」と「不入不倫の権」の栄で身分が高った諏訪族と信濃王の青木氏一族との間で、諏訪族青木氏が発祥していたと見られます。土地の守護王であった事が天皇にはっきりとものを申す事が来た事と、天皇に拝謁し、且つ発言できる事は当時の仕来りでは、守護王か藤原氏しかありませんので、身分の保障が認められた事を意味します。
又この時には、皇族皇位の信濃守護王の青木氏が同行していた事が書かれています。
(天皇に拝謁し発言できる身分は皇子身分の朝臣三位以上と成りますので)

この他に、信濃には皇族賜姓青木氏と血縁した足利系青木氏と、甲斐にもこの国の守護王の甲斐青木氏と土地の豪族の甲斐の武田氏との血縁を結んだ武田系青木氏と有ります。
又、この武田系青木氏(菱紋)と諏訪族の末裔と結んだ武田系諏訪族青木氏(角紋)があります。
つまり、諏訪族青木氏には御家の諏訪族青木氏(角紋)と武田系諏訪族青木氏とがある事に成ります。何れも濃い血縁関係にあります。そして、何れもが武田氏に組されました。
後に、信長に武田氏は滅ぼされますが、この時、この一族は信長の追手を逃れて、神奈川、横浜の藤原秀郷流青木氏を頼って逃げ延びています。(讃岐にも逃げ延びています)
更に、この一族の一部が栃木に逃れて子孫を大きく拡大しています。
(足利系青木氏等に付いては「皇族賜姓族」のレポート参照)

(藤原秀郷流青木氏については「藤原秀郷一族の生き方」等のレポートをお読みください。2つの青木氏の流の一つはこの藤原秀郷流青木氏です。母方で同族です。主要9氏で116氏に子孫を広げています。
源氏という言葉をお聞きになったと思いますが、光仁天皇の2代後の嵯峨天皇より11代の天皇は第6位皇子のこの青木氏を賜姓する事を止めて源氏と変名しました。その変わりに青木氏は皇族出身者の身分上位2位の宿禰族までのものが還俗、即ち、一般の人になる事ですが、この場合に名乗る氏とし他に使用の禁令を出しました。しかし、この氏は3家しかありません。
従って、源氏も同族です)


参考として、筆者は伊勢青木氏です。

これが大まかな所ですが、詳細は右のメニューや各ページのところの昔、御家の親族に当ります多くの諏訪族の方との質疑応答などのところを読まれる事も望みます。(検索)
そこには歴史の経緯や由来などもレポートしています。

全部読むには大変な時間が掛かりますが、ゆっくりと楽しんでお読みください。

外国で住まわれていますので、日本の歴史はご不明な点が多くあろうと思います。
ご遠慮なくお尋ねください。アメリカに帰られてもこのサイトに是非お便り下さい。どんなことでもご協力いたします。( http://www.aoki.cc/ )

では、お便りを楽しみにお待ちしています。

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青木氏氏を お知り合いの青木さんに 紹介してください。