青木氏のルーツ & 雑学研究室

小中高校生の皆さんへ、難しい漢字の読み方 - 便利な裏技

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No.1076
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静岡の青木です
青木 昇さん 2007/09/28 (金) 15:12 [ メール ]
このサイトを偶然見つけ、感心しました。
先祖の書いた日誌もあり、急にルーツを詳しく知りたいと思い調べました。
家紋:星梅鉢
昔の国:上総鶴牧藩水野家家臣。代々青木久兵衛○○と名乗っている。
菩提寺:浅草 敬覚寺 浄土真宗(東本願寺)但し、明治に日蓮宗に改宗し現在に至る。
過去帳も江戸中期以前のものは、火事にあったようで消失している。
我家は第3の青木氏と考えるのが妥当でしょうか。
よろしくお願いします。
No.1078
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Re: 静岡の青木です
副管理人さん 2007/09/28 (金) 20:58
>このサイトを偶然見つけ、感心しました。
>先祖の書いた日誌もあり、急にルーツを詳しく知りたいと思い調べました。
>家紋:星梅鉢
>昔の国:上総鶴牧藩水野家家臣。代々青木久兵衛○○と名乗っている。
>菩提寺:浅草 敬覚寺 浄土真宗(東本願寺)但し、明治に日蓮宗に改宗し現在に至る。
>過去帳も江戸中期以前のものは、火事にあったようで消失している。
>我家は第3の青木氏と考えるのが妥当でしょうか。
>よろしくお願いします。

静岡の青木さん 今日は。はじめまして。

今後ともよろしくお願いします。
文面から研究室のレポートをお読み頂居ているようですね。
たくさんのレポートや全国の青木さんとのルーツのやり取りなども準備されていますのでお読みください。特に右メニューに青木氏に関する事、家紋掲示板には青木氏の家紋、地形地名データには青木村などの事が史料として整えています。

さて、提供されています情報に付いて、判断するに必要とする質問がありますので、それをお答えいただけないでしょうか。

家紋の件ですが、家紋文様には独立して「星紋」と「梅鉢紋」の二つの文様がありますが、この2つは大変に良く似ています。中央部のところの有無で変わります。
家紋掲示板に星紋と梅鉢紋の両青木氏がありますので、一度ご確認ください。そして、この中に御家の家紋がありますかお知らせください。

昔の国に関して、何時頃時代でしょうか。過去帳では江戸中期となっているようですが、浅草の菩提寺での事でしょうか。出来ることなら江戸初期前後か以前の国がよいのですが。
水野家家臣と成りますとご先祖は少なくとも江戸初期前後になると思います。

国は上総でありながら、菩提寺は江戸浅草の敬覚寺と成っています。国が上総であれば菩提寺は上総にあるはずですが、なぜ江戸なのでしょうか。上総に浄土宗の寺が少なかったか無かったからでしょうか。上総には確かにすくないのですが、4つくらいの浄土宗の寺がありますが、それで江戸の浄土真宗に改宗したと言うことなのでしょうか。
敬覚寺は何時頃からでしょうか。
ご本家も浄土真宗でしょうか。(基本的にはご本家の情報を前提としてください)
火事にて過去帳が消えたとしていますが、そのお寺は、何宗で、何処にありましたか、何時頃でしょうか。
男系の跡目が出来ずに養子を取り2代続きの女系となりましたご先祖がありましたでしょうか。結果として家紋の変紋がありましたでしょうか。

青木久兵衛は世襲と見られますが、世襲する御家と成ると御家に先祖を物語る古物が有りませんか。

以上お判りの範囲でお答えください。

家紋掲示板を既にお読みに成っているでしょうか。未だであれば一度お読みください。

といいますのは、第3の青木氏と決め付けるにはきわどい所にありますので今の所ではお答えが難しいのです。

では、お調べいただいたところで、お便りください。
以上が全て判明は難しいかもしれませんね。判る範囲でお願いします。特に家紋と菩提寺の在所を明確にして下さい。
No.1082
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Re: 静岡の青木です
青木 昇さん 2007/09/29 (土) 18:08 [ メール ]
早速のご返事ありがとうございます。
お問合せの項目につき、ご回答申し上げます。
・家紋について
 家紋掲示板にはありません。
 掲示板の梅鉢紋で中心の小丸の周囲に印が無く、単純に大丸5個と小丸1個です。
 私の家では剣無し梅鉢と言っていました。
 星梅鉢紋は沢山の家紋が載っている雑誌にはあります。
 大名家では松下(久松)家で使用、水野家出身の徳川家康の母であるお大の方の再婚先です。
 掛川城、松山城の展示物に星梅鉢と表記されていました。
・昔の国および敬覚寺は何時頃かについて
 過去帳の1頁目は宝暦七丁丑年(1757年)で浅草敬覚寺です。
・菩提寺が上総でないことについて
 推定です。鶴牧藩水野家は、江戸時代初期からの大名でなく、旗本が幕府の要職を務め、
 徐々に加増され、結果として15000石の大名になった。
 旗本時代は浅草周辺に屋敷があったと思われます。
 鶴牧藩という名前も江戸の別邸があった早稲田鶴牧町に由来している。(インターネット情報)
・浄土宗について
 水野家は上総の浄土宗瑞安寺が菩提寺です。
 青木家からも水野家(多分、分家と思います)に養子に入っており、瑞安寺に葬られています。
・火事について
 安永元壬辰年2月大火 御屋敷消失
 (但し、達筆すぎて読めない字が多く抜粋です)
・養子について
 幕末に両貰いの養子縁組をしており、二人の男子が誕生しています。
 惣領は水野家の養子になり、二男が青木家を継ぎました。私の曽祖父にあたります。
・本家、宗派について
 我家は没落士族の典型で、現在ある過去帳記載以前のことは皆無です。
 従って、宗派は浅草敬覚寺が一番古く、他の親類筋の青木家も存在が不明です。
 過去帳を見ると男子は一人か二人で多くの分家が出来た様子もありません。
 これからは私が二男なので長男が本家となり私が分家となります。
・先祖の物語、古物について
 現在残っているものは家紋が入った裃、家紋が柄に付いた守り刀、幕末から明治にかけての
 日誌位です。
 過去帳も焼けこげている状態で、戦時に母親が必死で持ち出した言っていました。その頃は
 関心もありませんでした。
・別件
 ツリーの中に平野家のことが書かれていますので参考にご連絡いたします。
 前記の養子さんの実家作州北条県士族 旧松平右近将監家来平野登弥太長道 男となっています。
 (明治に書かれているので県になっています)
No.1083
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Re: 静岡の青木です
副管理人さん 2007/09/29 (土) 21:23
早速のご連絡ありがとうございました。
良くお調べになりましたね。

私の推測とほぼ一致しますので、大方の所のルーツを検証する事が出来ると思います。

ただ、江戸中期以後の情報ですので、青木氏のルーツの確定は少なくとも江戸初期前後以前のものが必要ですし、本家筋の宗家の情報が必要ですが、兎も角もこの情報の中で、一部繋がりましたので、それをお答えします。

その情報とは、水野家の菩提寺が上総国にある事、
その瑞安寺が浄土宗である事、
水野家が星梅鉢紋である事、
この水野家(分家)何度か養子に入って深く血縁している事、
確実に経緯の時代性見て江戸初期前後が武士であった事、
そして上総付近に住まいしていた事が予想できる事、
水野家に養子に入れるほどの立場であった事、
久兵衛の官職名を持ち襲名方式を採っていた事、
関東以外に移動していない事、
などの以上の情報の中に含まれる江戸の社会慣習と比較しての青木氏の特異性が考えられる事、
などが上げられます。

というのは、この情報を補足する裏には、
上総の国に藤原秀郷流青木氏が結城付近を中心に存在する事、この青木氏は浄土宗である事、
水野家と血縁するには当時の血縁の慣習として、その先祖の持つ家柄を重んじることがある事。
最終1万5千石の大名との吊りあいで血縁で出来る事。
この梅紋には、藤原秀郷流青木氏の上総の家紋であり、3つある梅紋の青木氏が存在する事、
この藤原秀郷流青木氏は、藤原秀郷宗家の藤原朝光という者がこの上総の付近の領主であった事
(平家に奪い取られる)。
後に源の頼朝の平家討伐に合力して上総結城を中心とした国を本領安堵された事、
等が附帯されます。

この経緯は、次の通りです。
鎌倉幕府樹立で朝廷に仕えた北家筋の藤原氏一門は、日本全国24国に国司としては赴任してましたが、その時のいた官職と領土を失う。
この時の武蔵国の宗家と共に藤原朝光は奮起して、この上総の領国安堵を許される。
この時、同じく離散したこの一族の青木氏も朝光のこの土地の護衛役を勤める。
後に結城氏と名乗る。
そして、この地に藤原秀郷流青木氏の上総青木氏の末裔が広がる。
その後、鎌倉幕府が倒れて室町幕府が樹立したが、下克上と戦国時代になり、2つの結城氏(陸奥、上総)は滅亡する。
この時、この護衛役のこの上総(結城)青木氏は徳川氏に味方した事は史実としてのこっている。
土地の縁から地元の上総青木氏は、後から入ったてきて上総付近に住した水野氏に仕官したと見られる。
その後、徳川幕府になった時に、この水野氏の分家筋との幾度もの血縁が成されて養子縁組が出来るほどの立場となった。
以上が予想されます。

(藤原朝光に付いては、藤原秀郷の青木氏が出た兼光系である。)

(藤原秀郷流青木氏の役目は、全ての藤原秀郷の宗家一族の護衛役を担って全国24地方に同行していて各地に子孫を残してきている)

この証拠として、御家のご先祖の襲名が証拠でありますが、久兵衛の官職を名乗るためには朝廷からこの官職名を名乗れるほどの力(大名などの推薦と金品の献納で受けられる)があつた事を意味するのです。江戸初期ごろには。
(ただ、この官職は、後に勝手に名乗るようになる。明治になっては庶民まで名乗った)

この官職は藤原秀郷流青木氏が朝廷から取得できる身分官職です。
この官職に付いては「青木氏の官職と職位」のレポートがありますので参照してください。
宮廷の3つある衛兵門の守備職で、兵衛と成ります。(身分によって異なる。)
この官職を江戸初期に名乗れる氏である事を証明します。だから、水野氏との血縁ができたものと思います。

藤原秀郷流青木氏は浄土宗です。当時の浄土宗は特定の高位(藤原氏や青木氏)の者が入信できる特定の宗派と成っていた。
従って、各地には藤原氏か青木氏が定住する土地以外には浄土宗の寺がなかったのです。
上総には、この藤原秀郷の宗家の末裔の朝光と、その護衛役の藤原秀郷流青木氏がいましたので、浄土宗があるのです。しかし、少なく、江戸幕府は上級の大名と武士と御家人と旗本に入信するように奨励しました。
御家が元は浄土宗であったと見られますが、江戸に移った時に寺が少ないが為に、浄土宗の流を組む浄土真宗にはいったものと見られます。

藤原秀郷流青木氏は各地に長く赴任し定住すると、寺がないために、真宗に入ったのです。
特に埼玉や栃木をのぞく関東付近と四国九州での青木氏は仕方なく真宗に改宗しました。
千葉は今でも昔結城という限定される所での藤原氏と青木氏なので寺は少ないのです。

藤原秀郷流青木氏に付いての詳細は、「藤原秀郷一族の生き方」1−13を参照してください。

御家のルーツは提供された情報から検証すると、武蔵の国の入間郡を中心に横浜神奈川を半径として円を書く範囲を領国としていました(元は藤原秀郷の一門の)藤原朝光を元祖とする結城氏に同行した上総の青木氏と見られます。(室町末期には結城から上総全体と下総にも青木氏の末裔は拡がる)

この内容を読まれて思いつく仔細名な事何でも、他に情報が有りましたらお伝えください。より検証が確定できますので。時代にはその時代の慣習があって思いも依らない簡単なことが決め手になる事が多いのです。

以上にご質問が有りましたらお尋ねください。
No.1138
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Re: 静岡の青木です
青木 昇さん 2007/10/19 (金) 15:17 [ メール ]
先日、お礼の返信をしたつもりでしたが、操作ミスか届いていないようなので、
改めてお礼申し上げます。
今までのご指導により、家紋の伝承が大切なことが分かり、主家水野家の沢瀉紋と青木家の星梅鉢紋に接点はないか、調べてみましたのでご報告いたします。
「インターネット等による調査」
・旗本の水野家(7千石)に伊勢桑名藩松平(久松)家から養子が入っていた。
・伊勢桑名藩松平(久松)家(11万石)は星梅鉢紋だった。
・松平(久松)家の先祖は、菅原道真が失脚したのに連座して、長孫の菅原雅規(幼名久松麿)が
尾張国阿久比に配流された。
・南北朝時代は後醍醐天皇に仕えた、菅原定長の子定範が尾張国知多郡目代に任ぜられ、
英比(阿久比)郷に土着した。
・久松の苗字は先祖の久松麿から取った。
・室町時代は尾張国守護の斯波家に属する国人領主だった。
・松平(久松)家から水野家に養子に入った水野忠定が、安房北条藩(1万5千石)を立藩して3代
続いた。
・水野忠韶の時に転封により、上総鶴牧藩(1万5千石)を立藩し、3代続いて明治になった。
・青木家の過去帳は水野忠定が水野家の養子になった年代頃から記載されている。
・明治2年に各藩の組織が複雑な為、藩政改革が行われ、青木家は鶴牧権大参事(家老)に任じら
れた。明治4年に廃藩置県になった。
・家族で笑って聞き流していた、我家の口伝が裏づけられた。
・松平(久松)家の知多郡阿久比と水野家の刈谷周辺に青木性が非常に多いと聞いた。
「考察」
・家格のうるさい時代に、主家に付随する家紋(星梅鉢)の使用が許されたり、分家に養子に入る
人がいたりして、ご指摘の通り相当緊密な間柄だった。
・青木家の先祖は松平(久松)家の家臣で、主家と一緒に転勤していた転勤族だった。。
「推論」
・現在の愛知県知多郡阿久比町周辺出身の青木家ではないかと思われます。
「お礼」
・このサイトに出会わなければここまで調べる事も無く、家にある資料も全て散逸していたと思わ
 れます。ありがとうございました。
No.1139
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Re: 静岡の青木です
副管理人さん 2007/10/19 (金) 20:27
静岡の青木さん。こんばんわ。お久しぶりです。

よくお調べになりましたね。なかなか難しいので大変でしたでしょう。

そこで、さらに参考になる情報を提供しますが、地名地形データのところには、愛知の青木氏に関する情報がありますので参照してください。

実は、愛知には、5つの地方での青木氏があるのですが、この地方は大変多い一族の青木氏が混在している所でして、その青木氏は4つに成ります。

西側には、皇族賜姓青木氏の土岐氏系青木氏、更に、西側には、皇族賜姓伊勢青木氏、北側には、足利系青木氏、東側には、藤原秀郷流青木氏、南側には、御家が言う知多の阿久比付近の昔の渥美郡、額田郡の伊川津7党の青木氏、更に、北側の2つ目には、丹波大口付近と豊田には甲斐の武田系青木氏、存在して、ここに青木村を形成して住んでいました。
江戸時代中期以後には、この関係が多少混在します。
青木氏の出自を確定するに日本一大変難しい所なのです。

これ等の青木氏に付いては、家紋掲示板や研究室での「青木氏と血縁族」や研究室の検索でお調べになってください。詳細に記述しています。地名地形データでも簡単に記述しています。

さて、阿久比付近に存在する青木氏は伊川津7党の青木氏の末裔ですので、御家とは違っていると考えます。
もし、この小さい付近の小土豪となった伊川津7党の一つの青木氏であれば、江戸初期の混乱期の第3青木氏と言う事に成ります。(他説あり)

松平、水野氏、結城氏(後に結城氏を名乗る)も徳川時代の松平氏の一門と成ります。
土地の小土豪集団の伊川津の第3青木氏の青木氏が水野氏との血縁関係になると言う事は考え難いことです。

提供された今回の青木氏であれば、故に、西側2つの青木氏、北側2つの青木氏と、南側の伊川津7党の青木氏は適用されません。
ただ一つは、東側の藤原秀郷流青木氏と成りますが、御家の血縁族が住んでいた所と成りますと、この反対側に定住して村を形成していた藤原秀郷流青木氏とは当時の経緯から見て異なっています。

多分、藤原秀郷流の青木氏であると思いますが、この江戸の時期からすると、参勤交代で武士だけは移動していますので、一門の水野氏の上総の青木氏が赴任地にて、又は、養子などの縁組で移動したものと考えるのが妥当ではと思います。
そして、その後、松井氏との縁組が進んだとも考えられます。故に家紋が軸なしの星梅鉢紋と成ったと観られます。
松井氏は松平氏としてみて、その支流拡大期の氏と成りますので、江戸中期前後と考えられます。
(松平氏の主紋が軸なし星梅鉢紋ではありません。松井氏一族の家紋です。)
この5つの青木氏には、家紋などの夫々の特徴がありますので、「梅鉢紋」又は、星紋では可能性が少ないと見られます。

剣入り紋以外の梅鉢紋には、軸のある紋と、軸の無い紋と2種あり、この内、星梅鉢または、裏梅紋は、軸の無い家紋類です。この家紋は、松平の支流の松井氏の家紋で有ります。この氏は上記の5つの青木氏とは関係する記録が有りません。

家紋は松平と記述されていますが、この家紋は、松井氏だけですのでご注意ください。
松平流を受けていると主張する支流の松井氏は愛知三河からの出と成りますが、この氏の本家筋とされる松平氏の出自は、そもそも松平氏の系譜搾取偏纂から始まっていますので、上記の氏とは全く関係がありません。
結果として、調べると、松平氏そのものは10程度の家紋を持って居る事に成ります。この意味をご理解ください。
江戸時代から明治にかけて起こった家柄をよく見せるために、第3青木氏のように、松平氏も使われたのです。松平氏の支流と名乗る事で、出世、縁組をよくしようとした搾取偏纂です。
松平氏そのものが有名な搾取偏纂の例で、朝廷に見破られた有名な経緯があります。

御家は、幾つかの養子縁組から、家紋掟でこの家紋になったと確実に見られますので、御家の青木氏は私は上総が高いのではと考えます。
家紋は変わっても、氏は養子を受ける、出るとは関係有りませんから、仕官や縁組での移動し縁組で家紋変化したとみられます。
水野氏との関係での事かと考えます。
養子縁組などを繰り返している事から分家(どちらかというと分派、分流)となり、かなり難しい所でしょうね。

昔の青木村では、皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏などの氏は特定の村を形成を許されたのですが、逆に言えば、多氏のもの、又は他の青木氏は特別の理由が無い限り、入村できません。
江戸時代にはまだ無理でした。まだ、氏家制度の血筋を守ると言う慣習は残っていました。むしろ江戸初期から中期にかけて、むしろ、強くゆり戻しがおこった時代でした。だから、かもんもこの時期が一番増えた時期でした。その中でも、厳しいのは、「国抜け」で、これは縁者を含む末代まで死刑でした。この意味は他国者をも入れ無いと言う事です。どんな嫌疑を掛けられるか判りません。現代の仕来り慣習では考えられません。
従って、余程の理由が無くては、御家の移動形態や縁組では、この5つの氏には成りません。

もう一度、ご理解されてお調べになる場合は、本家筋の郷里の所の情報がこれを解決するのでは思います。それと時代の慣習で考察される事をお勧めします。それと、インターネットの有名な江戸時代の氏の系譜などは、100%に近い状態で搾取偏纂ですので、ご注意ください。

しかし、よくお調べになりました。
御礼ありがとう御座います。
No.1186
 引用付き返信 | 返信 | 削除 | 管理

Re: 静岡の青木です
青木 昇さん 2007/12/01 (土) 10:37 [ メール ]
今年ももう12月になり、めっきり寒くなりましたがお変わりありませんか。
インフルエンザが流行しそうだとのこと、十分お気をつけください。

その後、少し分かったことがありましたので、ご報告いたします。

過去帳の先頭に書かれている先祖のところに、添書きが記載されていました。

それによると、生国本宮共に伊勢のよしとあり、妻は伊勢より江戸に同道、
里方伊勢山田佑 師 何集女とありました。

書物、系図は焼失したとも書かれていました。

推測になってしまいますが、
伊勢桑名藩主松平(久松)定重の十男忠定が江戸の旗本水野家に養子に入った時と、
時期的に一致しています。
従って、忠定のお付の家臣として同行したのでは思われます。

ルーツ&雑学研究室のなかに、伊勢のことが随分書かれていますが、
伊勢もなかなか大変な土地柄だったようなので、これ以上追跡することは、
困難なようです。

このサイトを見て伊勢周辺に住んでおられる方の過去帳に、
青木久兵衛何某と書かれているものが見つかり、教えていただくことを期待する以外
ないように思われます。

では失礼いたします。
No.1187
 引用付き返信 | 返信 | 削除 | 管理

Re: 静岡の青木です
副管理人さん 2007/12/01 (土) 20:22
>今年ももう12月になり、めっきり寒くなりましたがお変わりありませんか。
>インフルエンザが流行しそうだとのこと、十分お気をつけください。
>
>その後、少し分かったことがありましたので、ご報告いたします。
>
>過去帳の先頭に書かれている先祖のところに、添書きが記載されていました。
>
>それによると、生国本宮共に伊勢のよしとあり、妻は伊勢より江戸に同道、
>里方伊勢山田佑 師 何集女とありました。
>
>書物、系図は焼失したとも書かれていました。
>
>推測になってしまいますが、
>伊勢桑名藩主松平(久松)定重の十男忠定が江戸の旗本水野家に養子に入った時と、
>時期的に一致しています。
>従って、忠定のお付の家臣として同行したのでは思われます。
>
>ルーツ&雑学研究室のなかに、伊勢のことが随分書かれていますが、
>伊勢もなかなか大変な土地柄だったようなので、これ以上追跡することは、
>困難なようです。
>
>このサイトを見て伊勢周辺に住んでおられる方の過去帳に、
>青木久兵衛何某と書かれているものが見つかり、教えていただくことを期待する以外
>ないように思われます。
>
>では失礼いたします。
>
静岡の青木さん 今日は。お久しぶりです。

そうですね、もう12月ですね。
今年は異常に暑い夏でした。梅雨過ぎから雨も今まで降った日は10日も有りません。
果物は大変おいしいもの採れましたが、野菜類などは駄目でした。
このままで行くと東南アジアみたいな季節になりそうです。

さて、随分調査されて努力されているようですね。ご苦労様です。
ルーツは根気が必要ですね。
私も40年も掛かりました。
頑張ってください。

3つ気になる事があります。

伊勢の地名のこと。
桑名藩の松平氏の伊勢の菩提寺のこと。
系譜の消失のこと。

伊勢の青木氏は3つの流れが平安期からあります。
一つ目は賜姓伊勢青木氏です。(大化期)
二つ目は藤原秀郷流青木氏です。(平安期)
この2つが主流です。
三つ目は鳥羽稲垣氏と血縁した藤原系青木氏と賜姓青木氏との血縁の青木氏(江戸初期)
これら3つの流れは土地柄で区別できます。

伊勢と紀州の松平系の菩提寺は江戸初期に伊勢松阪のある浄土寺に有ります。
この寺は、元は賜姓伊勢青木氏の単独の菩提寺でした。3度の火災で消失して江戸期に徳川氏により新たに(伊勢と紀州)徳川氏(松平氏)寺として建立され収拾された。

系譜の消失時期と消失した災難の種類は何でしょうか。
伊勢は3度の大火に会っています。
1つは明治35年です。2つは室町中期、3つは江戸中期です。
この火災で、松阪付近にあった3度菩提寺が転々としました。

明治35年の伊勢の大火は賜姓青木氏の宗家より出火(950年続いた宗家の青木氏の紙屋長兵衛は倒産)しています。

お家の今回の情報では江戸中期の時期に当りますが、大火では3つ目と成ります。
もし、伊勢の1つ目か3つ目の大火であり、「本宮」と成りますと、一つ目の賜姓伊勢青木氏(筆者)の末裔と成りますが、家紋が異なります。
何かの理由で梅鉢紋になったことも有り得ますが、これを解決する必要があります。
桑名の松平氏となると、この地は桑名の伊勢青木氏の末裔と成ります。

(家紋に付いて、今までの投稿の所を読み直しましたが、松平氏にこの家紋の使用を許されたと書いていますので、2度の男系不継で女系となって変紋を余儀なくされたと異なります。
よって、元の家紋が笹竜胆紋か伊勢青木氏の家紋類に相当しているかによります。)

これで、家紋は原則解決出来る事になります。

この賜姓青木氏は名張、松阪、桑名、員弁のライン上の青木氏です。(筆者の伊勢青木氏の一族)

家紋を前提とすると、二つ目の藤原秀郷流の青木氏です。しかし、土地柄は永嶋域となり異なります

江戸時代の大名身分とすると、稲垣氏です。すくないですが、稲垣氏青木氏があり、この青木氏は四日市付近が地域と成ります。この青木氏が同じ伊勢の桑名藩の松平氏と関係していたことが考えられます。

ところで、伊勢から紀州徳川氏に特別に請われて、伊勢青木氏宗家は紙屋長兵衛の商いの知識を求められて、吉宗に付き従い、納戸頭、勘定奉行として「享保改革」を実行しました。
もう一人は、伊勢青木氏が紀州徳川氏の納戸役を請われて一時家臣として仕え、江戸に赴いて働いています。

参考
伊勢松阪は紀州徳川氏の飛地領でしたので、元伊勢守護の青木氏と大正14年まで親交していました。
それと、久兵衛の・・兵衛は賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏のこの2つの青木氏の専有の名誉官職です。
伊勢の藤原秀郷流青木氏は安土期では官職は大膳(大典)と玄審ですので、久兵衛となりません。

朝廷の宮廷の親衛隊で3つの宮門を守っていた衛兵役です。(北面武士、西面武士)
(天智天皇からこの役を担う)
青木氏は・・兵衛を名乗ります。これには2つのクラスと3つの階級に分かれています。
賜姓伊勢青木氏は、長兵衛が襲名でした。5家5流の賜姓青木氏は長や作や右や左等を使っています。
長と久の違いですが、伊勢青木氏では、この前の長を分家筋では変えていますから、久はありえます。久は長では有りませんか。再度確認ください。間違って系譜を作るときに草書体では似ていますので間違えた可能性があります。
長兵衛は一族宗家の襲名です。
系譜を作るとき、分家が元祖として、長兵衛と書いたのではないでしょうか。
伊勢の一族では4つ程度確認出来ますが、私の方でも調べてみます。(卯、萬、作、長、次郎)

但し、江戸中期から誰でもが金品を朝廷に払い推薦を得て獲得できるものとなってしまいました。

そこで、明治期に官職を得たとなっていますので、上総の青木氏と今回の伊勢の青木氏の可能性もあります。

そこで系譜消失の時期とその理由をもう一度お調べください。
まだ可能性はあります。
それにより、伊勢の賜姓青木氏か、伊勢の藤原秀郷流青木氏かの糸口が出て来ると思います。

伊勢出と本宮と桑名と官職(久兵衛)と系譜消失の5つもの情報が附合一致していますので大きく進展してきました。
長と久の違いと、久兵衛は襲名ですかもお調べください。
久兵衛の最初の先祖の時期と、家紋の件を解決すれば(家紋変更時期と元の家紋)、筆者の私と同じ伊勢青木氏である事も考えられます。

伊勢青木氏は天智天皇の第6位皇子(施基皇子)の子孫と成ります。
伊勢青木氏は、伊勢松阪に「2足の草鞋」で950年続いた紙問屋の豪商の青木長兵衛(名張の戦いで名張城で信長に勝った等歴史的に有名 2つの小説や歌舞伎がある。NHKの大河ドラマに3度も出て来る)
青蓮寺城(名張)と青木山城(度会)の2つの城持ちでした。(天正期まで)
松阪を経由して桑名から信濃の手前の伊勢町を通じて信濃の青木氏とも付き合いがあった。


綜紋は笹竜胆紋です。ステイタスは天智天皇から与えられた鞍作部止利作の大日像の仏像があります。
「青木氏の綜紋の笹竜胆紋」や「青木氏のステイタスの生仏像様」をお読みください。

以上ですが、もう少しです。

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