青木氏のルーツ & 雑学研究室

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◆-三つ盛り州浜Re: 三つ盛り州浜
  └Re: 三つ盛り州浜
   └周防大島
    └Re: 周防大島

No.415
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三つ盛り州浜
福岡在住青木さん 2007/03/11 (日) 23:27
こんばんは福岡在住の青木です。
私は山口県の東部出身ですが
先日五月人形を買いに行ったら案の定家紋がありませんでした。
丸のない三つ盛り州浜は珍しいとは聴いていましたが、ほんとに
珍しいようですね。

ちなみに私の青木家は青木肥後守という方が始祖となっているようです。
親戚のおばさんが毛利家のおつきの漢方医をしていたと言っていましたが
確認するすべはありません。ただし山城を持っていたようで由緒はあるようです。

ただなんとなく漢方医をしていたと言うのもあながちうわさだけでもなさそうで
曾爺さんの台までは薬屋をやっていたそうでその後も爺さんの兄弟が
薬のメーカーに勤めて、私のおじさんも薬のメーカーに勤めていて、
私もぜんぜんする気もなかったのに薬の卸に勤めていました。
現在も薬関係の仕事をしています。
わが家ではなんかあるんやないかー!と不思議に思っています
ただの偶然とは思うけど、私も就職活動ほとんどせず、大学の就職課の人に
無理やり進められて就職したところが薬の卸だったし・・・。

しかし青木肥後守という方は中々ネットで検索しても詳しい情報は
出てきません。
いったいどんな人か詳しく知りたいところです・・・。
No.416
 引用付き返信 | 返信 | 削除 | 管理

Re: 三つ盛り州浜
副管理人さん 2007/03/12 (月) 20:40
>こんばんは福岡在住の青木です。
>私は山口県の東部出身ですが
>先日五月人形を買いに行ったら案の定家紋がありませんでした。
>丸のない三つ盛り州浜は珍しいとは聴いていましたが、ほんとに
>珍しいようですね。
>
>ちなみに私の青木家は青木肥後守という方が始祖となっているようです。
>親戚のおばさんが毛利家のおつきの漢方医をしていたと言っていましたが
>確認するすべはありません。ただし山城を持っていたようで由緒はあるようです。
>
>ただなんとなく漢方医をしていたと言うのもあながちうわさだけでもなさそうで
>曾爺さんの台までは薬屋をやっていたそうでその後も爺さんの兄弟が
>薬のメーカーに勤めて、私のおじさんも薬のメーカーに勤めていて、
>私もぜんぜんする気もなかったのに薬の卸に勤めていました。
>現在も薬関係の仕事をしています。
>わが家ではなんかあるんやないかー!と不思議に思っています
>ただの偶然とは思うけど、私も就職活動ほとんどせず、大学の就職課の人に
>無理やり進められて就職したところが薬の卸だったし・・・。
>
>しかし青木肥後守という方は中々ネットで検索しても詳しい情報は
>出てきません。
>いったいどんな人か詳しく知りたいところです・・・。


青木さん 今日は。

ようこそお出でくださいました。これからも青木さん同士コミニケイションを計りましょう。

さて、ご質問ですが、
御家の家紋が「三つ盛州浜紋」ですが、この青木一族に付いての詳しい内容はこの研究室の「青木氏(家紋)と血縁族」の州浜紋のところのレポートをお読みください。詳しく書いています。
御家のルートは藤原秀郷流青木氏です。
この藤原秀郷流青木氏に付いてはこの研究室の「藤原秀郷一族の生き方」のところに詳しくレポートしていますので参照して下さい。
そして、これ等の関連のレポートを沢山研究室にありますし、多くの元親族の青木さんからのお問い合わせなどもレポートしていますのでゆっくりと楽しんで御読みください。青木氏のこと全てがわかります。
先ずは研究室のメインメニューあたりから読まれると良いと思います。

そこで、青木氏は主に2つのルーツから発祥しています。
一つは皇族賜姓青木氏です。
概略だけ書きますが、天智天皇の第6位皇子が天皇の親衛隊と成る為に臣下して侍となり、先ず初代の青木氏を発祥しました。これが施基皇子を始祖とする伊勢青木氏です。そして、その後、4代の男系天皇がこの仕来りに従い第6位皇子を臣下させ、侍とし、賜姓(天皇が自ら皇子に氏を授けること)し近江、美濃、信濃、甲斐の守護王として配置して守らせました。これが5家5流の賜姓青木氏です。この青木氏より24氏に分流しています。

もう一つは藤原秀郷流青木氏ですが、主要直系1氏、直流4氏、支流4氏の9氏からなり116氏にも拡がっています。

御家はこの中の一つで、直流4氏のうちの一つの一族です。大変古い名家の青木氏です。
藤原秀郷より4代目兼光くらいのところでこの三つ盛州浜紋の一族との血縁を結んでいます。
年代にすると概ね980−1000年頃位かと考えます。
少なくとも、約1000程度の歴史の有る御家と成ります。この御家の元親族の方の投稿がこのサイトにも多くありますのでお読みください。

さて、この2つの青木氏が「守」として成ったものを時代性無視で列記しますので参照ください。そこで筑後守のことに付いてご説明します。

青木氏の守護職

摂津守、伊豆守、豊前守、甲斐守、尾張守、伊勢守、信濃守、近江守、美濃守、下野守、武蔵守、遠江守、駿河守、出羽守、美作守、和泉守、志摩守、紀伊守、伊賀守、以上18です。

藤原秀郷の一門は全国66国の内の24国での守護職を務めています。

これは800年頃から江戸期までの青木氏が朝廷から任命された守護職です。
この武蔵守あたりまでは朝廷より確実にその土地の守護として政治を執り行っていました。

この守護職は確実にその職と統治と一致しているのは鎌倉期までの1期と、下克上と戦国時代の混乱期の2期と、江戸中期頃以後の3期とでは「守」の意味と内容が異なります。

第1期は守護と官職は一致していますが、
第2期は下克上で守護などが襲われて無くなり力の強いものが滅ぼした「守」等を勝手に名乗る混乱期でその正誤は明確ではありません。
第3期は衰退した朝廷に高額金品を渡して名誉職として得て、統治国とは全く関係の無い「守」を取得するなどの慣習が流行りました。江戸幕府はこれを黙認目視して朝廷の隠し収入として黙認しました。

さて、そこで御家の「三つ盛州浜紋」は大変古い藤原秀郷の兼光系一族ですが、由緒有る一族ですが、陸奥の小山氏や小田氏の系列ですので、陸奥から武蔵に帰り、鎌倉期で全藤原一族は崩壊しましたが、各地の藤原氏は仕官先を探して各地に分散しました。室町期と江戸前後の混乱期を経て肥後に移動して定住したと思います。
そこで仕官したのか、守護職になったのか判りませんが、「守」を名乗るとすれば大名ですから肥後国には青木氏の国は有りませんでした。
そこで、もし、肥後守を名乗ったとすると第3の「守」と成ります。
更に史実的に青木氏の「守」は肥後の守はありませんので、第3期代の名誉職としての「守」と成ります。

御家は医者であったとすると頷ける点です。当時の大名のお抱え医者だけは大名の権威を高める為にこの名誉職を衰退した朝廷に働きかけて名乗る事がありました。
江戸期の無力の朝廷は家の壁が剥れていても直すことが出来ない程度に幕府から押さえられていました。
江戸中期以降は、この状態を見越して多くの「守」が出てきたのです。

ですから、無規則に出したのです。中には紀伊守、伊賀守、伊豆守等の様に問題の起こらない様に天領地にたいしてダブって出したものもあるのです。

「三つ盛州浜紋」の家紋からも探してみましたが見つかりませんでした。

今の御家の情報ではこの程度の事しか判りません。
他に何かわかりましたら又ご遠慮なくお便りください。ではお待ちしています。
No.419
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Re: 三つ盛り州浜
福岡在住青木さん 2007/03/14 (水) 22:30
詳しく説明してくださって大変ありがとうございます。

私の家はかなり古い歴史があるのですね、びっくりしました。

五月人形には家紋を入れておきます。

私も守がつく人がなぜ家臣に当たる立場になるのか不思議に
思ってましたが、名誉職なら理解できます。
今後も歴史について調べてみたいと思います。

ちなみに掲示板やサイト内をよく見ればわかることもあったのですね、
お手数を掛けました。
No.421
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周防大島
福岡在住青木さん 2007/03/15 (木) 23:36

このあたりには青木という地名が多いですね。
気がつきませんでした。
私は周防大島出身ですが、毛利が関が原で負けて
外様になったときに、石高が減らされてやむなく
先祖が大島に移り住むことになったようです。
120年ぐらい前までは住んでいた地域の土地はほとんど
私の先祖の土地だったそうですが、相場で損したりと
次第に財産はなくなったようです。
ただ、調べてみると以外なことに登記の変更のないまま
他人がすんでいる土地があるようで、まあ地代も取って
ないまま数十年がすぎて実質その人の土地になっているようですが
かなりの名士だったことが想像できます。

また、曾爺さんの嫁、つまり曾ばあさんは大変な名家
だったようで、結婚してからも御付の人がいたらしいです。
晩年もおごうさまと言ってたまにうちに来ていたそうですが
私も小学生だったのでほとんど覚えておりません。

ちなみの曾ばあさん方の系列をたどると、岸家に嫁いだものがいるようで
今の総理大臣はかなり遠い親戚になるようです。
向うは知りませんでしょうが、私も結婚するときに
初めて聞いて、相手の父親の前でびっくりしたのを思い出します。
ちなみに私は普通のとりあえず正社員のサラリーマンで
古い血筋とは思えないただの人です。あしからず。
No.422
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Re: 周防大島
副管理人さん 2007/03/16 (金) 11:02
今日は。
周防では大変に資産家であったようですね。

当時は鎌倉幕府が出来て多くの氏家が朝廷からの職を失いました。特に、皇族賜姓青木氏や藤原氏の四家は大集団の一族でしたが、武士に代わった鎌倉幕府で完全に職を失い、各地に離散しました。

御家の場合も皇族賜姓甲斐の青木氏ですから、一時職を失いかけたと見られますが、この時、頼朝は本領安堵策という2つの政策を強引に北条等の反対を押し切り、実行に移しました。
つまり、清盛等の京平家に奪われた土地を元の青木氏や藤原氏に戻す政策を実行したのです。

これで頼朝の味方となる源氏の11家の一族と同族の青木氏5家の一族の各地の勢力が息を吹き返しました。この時、御家の甲斐の青木氏も息を吹き返し、一時衰退していた家を起こす事が出来て各地の安堵地を獲得したはずです。
この時に、肥後付近の自領地を取り戻したと考えられます。
その後、鎌倉幕府はこの独断専行した頼朝を3年後にトリカブトの毒草で暗殺します。北条氏に依って頼朝の子孫の一族も全て暗殺されます。その後、室町幕府になり下克上と戦国時代が起こり、信長と武田氏が台頭し武田氏は滅びます。
この時、御家はこの肥後付近の自領地に逃げ延びたものと考えられます。
そして、そこで土地の地主として生きて土着の郷氏となり、秀吉や家康の時代に土地の守護大名となったものに仕えたと見られます。
郷氏といえども、元は皇族賜姓の甲斐の青木氏ですから家柄身分はどの戦国大名より上ですから、御家の様に土地に力のある郷氏の仕官は政状安定から、当然に守護大名は雇い入れた筈です。

御家はこの時、薬草などを小作人に栽培させながら、これを売りさばく大店と組織を持っていた筈です。つまり、「二足の草鞋」策を採っていたのです。
これは大抵の5家の青木氏は、室町末期か江戸初期頃から、この方式で生き延びてきたのです。「二束の草鞋」と「郷氏」でです。
江戸時代までの全ての大店の家柄は、このような家柄の氏が営んでいたのです。
又、そのような力とシンジケートとの繋がりが無くてはこの時代は大店はできませんでしたのです。

だから御家は、薬と漢方の医者であったのです。それだけの背景があり、その身分と家柄から郷氏であって、家臣となりましたが、仕官先の大名の家柄より数段上であり、朝廷から「守」を受ける家柄であった事から朝廷より名誉職を与えられる資格適任氏であったのです。
誰でもが医者だから受けられると言う事は有りません。それなりの家柄にしか出しませんでした。

朝廷には、古来より「冠位制度」と「姓制度」とがあり、この規則の範囲で名誉職の種を出していました。いくら金品を積んでも、原則はこの方式に従いました。

例えば、徳川氏でも、朝廷は征夷大将軍の冠位を出す事を渋りました。この最高職の冠位は皇族賜姓青木氏か皇族賜姓源氏の2つの氏にしか出しません。そこで徳川氏は室町中期の天皇家の第6位皇子の先祖だと搾取偏纂して一切の生活費まで押さえて脅かしをかけて認めさしたのです。
室町中期は南北朝の時代で、既に、第6位皇子の賜姓は行っていませんでしたし、主張する皇子などいませんでした。作り上げて認めさしたのです。有名な事件です。

他に、その後、「源氏の頭領」という冠位がありますが、これも要求しましたが朝廷は譲りませんでした。又、朝廷は天領地を全て奪われ生活費を押さえられて食べるのも苦しいことになりました。
そこで、苦し紛れに、「源氏の長者」と言う冠位を作り与えたのです。

郷氏で抱え医者で、「守」が与えられるのは皇族賜姓青木氏の5家の家柄であった事が認められたのです。

実は私の家の伊勢青木氏も同じ二束草鞋策で生き延びてきたのです。
伊勢の豪商の紙屋長兵衛で、名張の小次郎の小説や歌舞伎やNHKの大河ドラマに3度も出て来るほどの商家です。祖父の明治35年まで約950年程度続きました。
私の家の伊勢青木氏は平安期から代々の冠位は「民部尉位」です。
天皇を守る親衛隊の侍の最高位の冠位です。伊勢青木氏の役目とおりの冠位です。

面白い話があります。
紀州初代徳川頼宣が伊勢の飛地領(元は天領地)の伊勢青木氏の我が家に会いに来ました。
お城の松坂城で会いました。その時、家康の子供のこの頼宣は一段高い殿様が座る上座から降りて下座に移り、上座に青木長兵衛を座らせました。この仕来りは祖父の代まで付き合いがあり大正14年まで続いたとの事です。
これで、同じ施基皇子を始祖とするルーツ御家もどのくらいであったかを物語る事が判ると思います。神官で医者として「守」が与えられたもので、本来は綜紋「笹竜胆紋」の「民部尉位」です。

元、施基皇子を始祖とする同じ従兄弟兄弟関係の青木氏ですが、その後の生き様もよくにていますね。

この様に、5家5流の青木氏はこのような郷氏が多く、大店とで「二束の草鞋策」で生きのびました。

当時は、相等の家柄身分で血縁をしていましたので、お説のような血縁が生まれるのです。

ぜひとも子孫を大事にお育て下さい。
それから、三つ柏紋が珍しいと書かれていましたが、珍しいのではなくそのような家柄身分なので少ないのです。

今は、三つ柏紋ですが、綜紋(一族の統一紋、元の紋)は私の家と同じ「笹竜胆紋」です。

三つ柏紋は大変に由緒有る日本でも10の指にも入る家紋で、家紋200選にもある文様ですので、
日本全国で家紋は8000ありますがその中のトップ10ですよ。

家紋掲示板の三つ柏紋の青木氏は6つあると思いますが、その宗家です。元を辿れば笹竜胆紋でそれも伊勢の青木氏と同じルーツですので、天皇の菊紋に継ぐ笹竜胆紋を綜紋とする三つ柏紋です。

そのお店に無い方がおかしいのです。家紋中の家紋なのです。だから、「守」が降りたのですから。

又ねお便りください。

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