青木氏のルーツ & 雑学研究室

小中高校生の皆さんへ、難しい漢字の読み方 - 便利な裏技

<-ホーム | 研究室トップ | 管理 | 新規投稿

ニックネーム登録 | ツリー | スレッド | 投稿順

スパム投稿がひどいため、この掲示板は御役御免となりました。
新掲示板はこちらです。⇒青木ルーツ掲示板
⇒青木氏氏 研究室雑談掲示板

オススメレポート
・藤原秀郷主要5氏と家紋の研究
・日本書紀と青木氏
・日本人の発祥
・ルーツの姓の発祥
・青木姓の発祥源
・大化の改新
・皇族賜姓青木氏の背景
・皇族賜姓青木氏の背景1
・皇族賜姓青木氏の背景2
・皇族賜姓青木氏の背景3
・賜姓青木氏の弱体
・青木氏と血縁族
・藤原秀郷一族の生き方
・飛鳥京の防備と賜姓族氏
・藤原秀郷と坂東八平氏
・青木氏の官位と職位の研究
・京平氏と坂東平氏の説
・秀吉と家康の系譜偏算
・明治以降の第3の青木氏
・鈴木氏のルーツと青木氏
・信濃の諏訪の旅
・仮説 今年の温暖化は。

◆-伊勢青木家 家訓1Re: 伊勢青木家 家訓2Re: 伊勢青木家 家訓3Re: 伊勢青木家 家訓4

No.955
 引用付き返信 | 返信 | 削除 | 管理

伊勢青木家 家訓1
副管理人さん 2007/07/21 (土) 09:39
伊勢青木氏の家訓 
「家訓10訓」

この「家訓10訓」を全国の青木さんに紹介し、「生仏像様」の存在と合わせて、人生の子孫繁栄の一助に成ればと思い、ここに投稿する。

前回のレポートで「生仏像様」が青木氏のステイタスとして、共鳴して一致結束の象徴として、人括りの先祖として、戒めの象徴として、擬人化された「生仏像様」として崇められてきた。
そして、この擬人化された「生仏像様」が発する「戒めの言」が、家訓として位置付けられていたのである。

しかし、本家訓の経緯を推察すると、いつの時代に纏められたかは定かではないが、大化期から1360年間の伊勢青木氏の宗家としての歴史の苦難の中で、自然に培われて、言伝えられたものであろう事がその内容からして判る。
それは、主にその皇族賜姓族としての立場にあった。
当時の氏家制度の習慣から、血縁関係も同等の範囲での狭い血縁を余儀なくされていた環境であった。
その環境の中で「家」を維持するという最大のテーマと5家5流の一族を取りまとめるべく目的から、この「生仏像様」と「家訓」という手段を利用せざるを得なかったのである。
現在の核家族した社会での常識では考えられないものであろう。確かに家訓の内容もその様なものが含まれている。
究極、突き詰めると、筆者はこれが真実ではないかと心得ている。それは現代社会が「消失した思考」であって、欠陥点では無いかと見ているのである。
そこで、このことに付いて、その論所を次に論じる事とする。

家訓は、それは次の二つに分類できる。
その中には、「忘備禄」の中に記述されているものと、「口伝」にて代々親から伝えられてきたものとある。

本来は守護や豪商であったことから、上に立つ者の心得として習得しなければならないし、長い期間その立場を保ってきた氏としての実績からは「家訓」は当然のことであった筈である。
そして、親族縁者や店の者を導く為に統一して誡めるためには、一つのものに書き記されていた可能性が高い。
しかし、それが無く成ったその原因は、明治35年に950年以上続いた伊勢松阪の紙問屋「紙屋長兵衛」が、出火倒産した際に全て記録が消失した。書籍的な記録が無く成ったことによる。

これ等の復元が、父の時代の大正と昭和の戦前戦後の混乱期の時代には無理であった。この事から、父から筆者に「青木氏の由来書」を復元し纏めるように頼まれていた。
以後40年間に渡り、「青木氏の由来」と「生仏像様」存在とあわせて調査した結果、この「家訓10訓」はその一つとして、次のものから出てきたものである。

祖父や両親から既に厳しく誡められていた「先祖口伝」による内容がある事から、別に何らかの形で何処かに遺されていると見て調査していた結果、紙屋の倒産後に、祖父が書き残した「忘備禄」(別名)等の中にその文面を発見し、そこに書かれていたものとを咀嚼して纏めた。父から聞いていた事とほぼ一致するので「10訓」として纏めたものである。

伊勢青木氏の「由来書」を復元する調査の際に、前期した「生仏像様」と関連して整理されたものであり、その基となったこの二つから来る「戒め」は、元は一つとして、何らかの形で纏められていたものである。

祖父に於いては、この「忘備禄」に書かれていた内容から判断して、日頃、伝えられている「口伝」以外に、是非に代々子孫に伝えられて来ていて、必ず伝えなくては成らないものを、明治35年以後の早い時期に、ここに書き記したものであろうと考える。それは祖父の代に倒産し消失した焦りから家を再興するに必要とする大事な事柄を書き残そうとしていたと文面内容から見られる。

以下の内容から見てみると、敢えて分類すると「家」を保つに必要とする「人生訓」と、「商」を維持するに必要とする「商訓」とに分けられる。
それが、「忘備禄」(別名)と「口伝」の差に依っているのではないかと考える。

「口伝」は家訓に関する言葉としても数多くある。
それらはこの家訓を裏打ちする平易で生活に密着した言葉で伝えられている。これに付いては関連するものを次の家訓の説明時に添えて説明する。

そして、これ等は、全て「生仏像様」(一括りの先祖)の「教え」として位置付けられていたものとされる。

家訓は禅問答的な表現方法で、漢文的にて表現されていて判り難いので、敢えて、現代用語として、書き改めて紹介をする。

伊勢青木氏の家訓10訓

以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。

家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。


解説
家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)

”青木の家は「女」が家を潰す。”(口伝1)
”自尊心の必要以上に強い女は不幸”(口伝2)
”妻はお釈迦様の掌で遊ばせる心を持て”(口伝3)
”夫は第一番目の子供である”(口伝4)
”大事な決め事は夫が決めよ”(口伝5)

簡単に意味する所は、次のとおりである。

「夫婦」として、夫が夫らしくなくて、又、その能力が無くても、妻は夫のそれを責めるのではなく、妻は本来あるべき妻の立場としての責務を全うするべきである。これは、「親子」にも言えることである。この考え方が「家」をまとめ、発展させる秘訣である。

このために、口伝では、この関係する「戒め」がある。
「関係口伝」として、”青木の家は「女」が家を潰す。”(口伝1) この言葉が代々言い伝えられていた。

”妻は妻にして足れ”が守られなければ、仮に、”夫は夫として足りていた”としても、「家」は「女」が「しっかり」していなければ”「家」は潰れる”と説いているのである。
つまり、「女」=「家」としているのである。

では、ここで言う「しっかりした女」とはどう云う意味であろうか。
現実には、「家」は男の夫が差配する社会であり仕来りである。なのに「しっかりした女」とはどう云うことなのか疑問が残る。
更に、別の口伝の中で、”自尊心の必要以上に強い女は不幸”(口伝2)はその「自尊心」が災いして「家」を乱す事から、結果として家を潰す”とある。
つまり、「しっかりした女」とは「自尊心」の強弱にある事になる。
このことから、普通は、「しっかりした女」とは、現代では「自尊心の強い女」を言う事になるであろう。しかし、違うと説いているのである。

これには、「伊勢青木氏の立場」と「250人を抱える商家」と「青木氏宗家」と言う3つの条件が働いているものと考える。
核家族時代の現代では、、「しっかりした女」=「自尊心の強い女」が普通は正しいのであろう。
しかし、筆者は、矢張り究極は、「夫婦」という単位集団からしても、「口伝」の説が正しいと考えている。
その根拠は、「家訓4」でも証明できている。

何はともあれ、検証して見る。
妻或いは女は、自尊心が強ければ、その自負心から夫の足りない所を攻めるであろう。さすれば夫婦間は乱れる。乱れれば、結果として子や周囲にその欠陥が現れて「家」は正しい方向に向かないで自然衰退の方向に向かう。
この家訓は言い換えれば、「夫は夫足れども」の場合は、「かかあ天下」の有るべき本質を言い表しているものであろう。
長い歴史のある「家」の中では、「夫は夫足れども」の場合は必ずある。この時の「妻の有るべき姿」を言い表しているのである。否、「夫は夫足れども」で無くても、この「家訓」は、これを主張しているのである。
現に、筆者の知る範囲では、この家訓通りの通称「かかあ天下」であり、伊勢松阪の紙屋長兵衛の時代の繁栄には到底は到達は出来ないが、総称の「家」を苦難を乗り越えて子孫を多く遺し「家」は旧家を並以上に維持してきている。

これでなくては、現代まで直系で宗家としての「家」は長く保ち得なかつたであろう。
昨今は、女性は自らのこの素晴らしい立場を自ら否定し、間違った女性の権利を固持し、必要以上の「自尊心」をさらけ出している。
筆者は、むしろ、女性がこの世を維持していると見ている。
長い歴史の中で「ひがみ」の心が脳の一部に学習記憶として残り、これが表に出て来るのであろう。
何故に、上記のこの家訓の本質を見ないのであろうか。これが疑問の一つである。
現代の最大の病巣であろう。

ともあれ、このことに付いては次からの家訓にても証明している。

又、青木氏の他の「口伝」にもある。 
”妻はお釈迦様の掌で遊ばせる心を持て”(口伝3)とある。

又、次の口伝の言葉もある。 
”夫は第一番目の子供である”(口伝4)とある。つまり、親から引き継いだ子育てを、妻が再び次の目的で引き継ぐ事を意味するのである。
つまり、”子供から成人するまでは親の務め”で、”成人から一人前の夫にするは妻の務め”であると説いているのである。
筆者はこの口伝の言葉に大賛成である。真に、男の共通心理の深層を言い当てている。

共通心理では、男は「母親への慕情」が大変強いのもこの深層心理があるからである。

変な話であるが、医学的には、子孫を遺す行為、又はその発露として女性の体を求める行為は、この「母親への慕情」の「深層心理」が変位しての本能であるといわれいるからである。
「母親への慕情」=妻の第2の「母親役への慕情」となるのである。
子孫を遺す本能として働くのである。

現に、遺伝子的には、面白い証拠がある。
女性の卵子には「人間種の遺伝子」が組み込まれているのである。男性の精子の尾の付け根にある遺伝子情報は人の個人遺伝子情報のみである。
遺伝子操作でそのルーツを探るのは卵子からである。その人の種を求めるには精子ではなく卵子、又は女性の遺伝子からである。この様に女性の本質は男性より基となる優位の物(母)を神が与えたのである。

事ほど左様に、遺伝子的に見ても神はこのことを定めているのであるから、明らかに「人の生」は、女性から発祥しているのである。この説は納得できる本質である。

別に生物的にも説明できる。
生物がこの世に現れたとき、単細胞(ミトコンドリア)であつた。然し、これでは、動物性プランクトンの様に、他の強い生物との生存競争に飲み込まれて子孫を遺せない。食われる事により単細胞の雌雄のバランスが狂い子孫を遺す事の確率が低下してしまう。
そこで、この人の単細胞は、互いの同じ種の単細胞の雄雌を合体させる事でより子孫を遺す確率の高い方を選んだ。それが雄雌が合体した方法であった。しかし、弱い生存競争力ではこれでは子孫の維持は出来ても「拡大」は望めない。
再び、分離して双方に共通の能力を保持させ、その子孫を引き継ぐ遺伝子を分離し、合体の部位を変異させて雌雄の目的にあわせて造り上げた。そのことで、弱い生存競争にても、子孫を増やして行くことが確実に可能に成った。

その例えの見本として、単細胞的なミミズは現在もこの原始的合体方式を保持している。太く大きいミミズの真ん中付近に繁殖期には白い部分が出来る。左右は雌雄である。ここからある時期に雌雄が分裂するのである。

他にも、樹木でもこの逆の方式が見られる。現代では多くは雌雄合体であるが、逆に、果物のキュウイ等のように雄雌の別樹があり、この二つの樹で受粉する事が可能にして子孫を遺すのである。

この様に、元は別々であったオスメスの単細胞の生き物が合体してミミズのような物体となり、再び共通式分離したのである。この時、主な重要な遺伝情報を雌に与えたのである。雄の遺伝情報は単に子孫拡大の繁殖情報のみとしたのである。

つまり、昨今、問題に成った”女性は産む機械発言”の逆である。雄はその本質は「繁殖機械」程度のものなのである。あの問題の間違いは、むしろ、雄が「繁殖機械」であって、雌は上記の優位性を持っているのである。だから、謝罪でなのである。

それは、別には、「繁殖機械」=「働く機械」でもある為にも、種の保全の危険性が高いことから、男性には、遺伝子的に負担を少なくしたのである。
従って、女性は多くの重要な遺伝子情報の負担が大きく、そのエネルギー負担が大きいので体格的には小さい事になり、又、生理的にも難しいのである。
この様に神は家訓どおりに本質を創り上げているのである。

時代が変化しても、この本質は神が決めた事なのであるから、故に、「家訓1」は現代にしても正しいのである。
男女の本質が「家訓1」であるとすると、当然に、この本質(理屈)は他の同等の関係にも適用される事は出来るはずである。
そうでなければ、”夫婦間だけに本質だ”とする事の説明はつかない。
親子の説にしても、この家訓1は同様であると説いている。

”親は親足れども、子は子足れ。”である。家族や家や氏の関係に於いてもこの様な関係はある。
この本質を、この関係に於いて心より務めれば、夫婦、家族、家、氏は正常な関係を保ち子孫繁栄は維持されると説いているのである。
少なくとも、上に立つ者はこの「本質の心」を養えとしているのである。
そして、これを悟らせる為に、仔細にした心得の口伝が存在するのである。

ここで、お読みに成った人は、疑問を持たれた筈である。
「口伝4」で「夫は第一番目の子供である」としている。そして、”夫を掌の中で育てよ”とある。、”成人から一人前の夫にするは妻の務め”ともある。
つまり、「家訓1」と矛盾するのではないかと言うことである。
この3つの言葉からすると”妻は夫を指図して思いのままにせよ”とも受け取れる。悪しき意味の「かかあ天下」である。
ここがこの家訓の意味のあるところである。「先祖」は、「生仏像様」は、”これを悟れ、成長せよ”としているのであろう。
”足りずとも、妻の務めとして、足りる夫に子供の感覚で掌の中で育てよ。育つ時間の余裕を与えて”。この「掌の中で育てよ」に大きな隠し意味を持たしているのであろう。

但し、それを裏付けるこの家訓には次の口伝5がある。
”「かかあ天下」で全てあれ”と言う事を言っていない。”大事な決め事は夫が決めよ”(口伝5)とあり、決事の事の良し悪しの如何に拘らず、夫が決めることだと言っている。
つまり、”事の良し悪しの是非は後の時代に判る事”であり、今に判っていたとしても、それは上辺のことで、”真の良し悪し”ではないと説いているのである。
だから、これは「性の定」により、男が決めるべきであるとしている。
これは「性の定」としてこの注釈が附帯されている。(この事は「家訓4」で詳しく述べる。)

この家訓の裏を返せば、次の事を言っている。
”この難しい立場の役目を、女の「母性本能」で遂行し、妻が成長する事が秘訣である。と説いている。
”妻は妻にして足れ”は、”大事な決め事は夫が決めよ”(口伝5)を「妻の心得」として、このことを意味するのであろう。

この意味からすると、上記したように、「家」は「妻」如何による事になる。

上記した「妻」=「家」の数式はここに起因するのである。
これが結果として、先ずは、長く「家」を維持する(子々孫々)秘訣と説いているのである。

この家訓1は、他の家訓でも立証できる本質であり、この「訓言」は他の家訓の基本に共通している。
この事は、随時、説明をして行く。

次には「家訓2」である。

家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
No.978
 引用付き返信 | 返信 | 削除 | 管理

Re: 伊勢青木家 家訓2
副管理人さん 2007/07/29 (日) 22:02
伊勢青木氏の家訓10訓

前回の「家訓1」に続き、今回は「家訓2」に付いて述べる。

この「家訓2」に付いては、「家訓1」の意味する所に付随しての内容となる。

「家訓1」の意味する所は、纏めると次の事となる。
「家訓1」 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)

「家訓1」の関係口伝
”青木の家は「女」が家を潰す。”(口伝1)
”自尊心の必要以上に強い女は不幸”(口伝2)
”妻はお釈迦様の掌で遊ばせる心を持て”(口伝3)
”夫は第一番目の子供である”(口伝4)
”大事な決め事は夫が決めよ”(口伝5)

”「口伝」の下に、神が与えた「女の本質」を理解して、「母性本能」で妻は成長して、「妻は妻にして足れ」で「家=妻」で務めよ”としているのであった。

以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。

「家訓2」 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。

「家訓2」の関係口伝
”教育とは学問にあり、教養とは経験にある”(口伝6)
”教育は個人の物(知識)”「素質と素養」(口伝7)
”父親は、「背中で育てよ」、母親は、「胸(肌)で育てよ」”(口伝8)

家訓3 主は正しき行為を導き成す為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

(家訓は禅問答的な表現方法で漢文的にて表現されていて判り難い、敢えて、現代用語として、書き改めて紹介をする)

解説
父のその能力で、その家の先頭にたって「家の事」を「仔細」に渡りすべて差配し考えを強要する家は、その子供は良い子供が育たず、又賢くならず、母が賢(家訓1)なれば家は纏まり、子供は良い子に育ち賢に育つ。
家訓1で言う「家」は妻が仕切る事の結果で、家は栄え、子供は賢い子供に育つとする。

それでは、ここで言う「賢い」とは、一体どう云う事か。
「賢」とは、「頭が良い」と言う事でなく、「総体的に優れた素質と素養」を身に付けた子供という事に成る。
その「素質と素養」は家訓1で言う「母の如何」に関わる事である。

それでは、父親が「賢」であっては成らないとするはどう云う事か。
父親という者は、その「賢」を家族の中では、決して曝け出しては成らないとしている。
子供は、曝け出したその父親の「賢」を見て、自らもその「賢」と成ろうとして無理をし、周囲との関係を無視し、偏りのある人物に成り、総体的な「素質と素養」が得られない。又、父親の「賢」を見て萎縮し、適性に成長せず、「素質と素養」を持つ事は出来ない。
この何れかの子供が育つとしている。
この結果、「家訓1」で言う「家」を継ぐ事と成った暁には、「家」は衰退させると説いているのである。

つまり、「賢」であっても良いが、曝け出しては決して成らないとしているのである。

では、家庭には、それを維持する芯なるものが必要である。では、どうして父親の存在や威厳を示せばよいかと云う事になる。
つまり、父親の「賢」は、直接見せるものではなく、[父の背中」で見せる事が肝要であるとしているのである。
父親が、(賢であろうが)、「愚」であろうが、子供はその「愚」を見て自らを律する子供になる事の方が、”総体的な「素質と素養」の持った子供に育つ”としているのである。


では、”父親が「愚」で有ればよいか””「愚」であっても良いのか”と云う事になる。
そう云う事だけを言っていない。あくまでも、「家訓1」の中にある「環境」の父親である事としているのである。
当然に、この「環境」とは、”大事な決め事は夫が決めよ”(口伝5)の範囲にある事である。

「賢愚」に於いて、曝け出しては成らないとしている。あくまでも、間接的な「背中で見せる行為」と「環境」の”大事な決め事は夫が決めよ”(口伝5)で家庭の「芯」なるものは維持出来るとしている。

父親の「賢」とは、同じく「頭が良い」と言うことを言っているのではない。「父親の賢」とは、「家訓6」で詳しく説明をする。
「家訓1」での補足では、男女の異なる「性(さが)の定」とする「家訓4」であるとしている。
「家訓2」での補足は、「家訓6」であるとしている。
(故に家訓4及び家訓6は相関するが、シリーズ中で解説する)

では次は、「父親の賢」とは、本質は何なのかと云う事になる。
つまり、家訓6に起因するので概容を述べる。
「父親の賢」とは、「教育」で得られた事ではなくて、「教養」を身に付けた事にあるとしているのである。
言い換えれば、(詳しくは「家訓6」で解説し説明する)”「教育」と「教養」は違う”と説いている。
「教養」は、「教育」を受けなくても自身の努力と経験にて得られるものとして「本質」は違うのである。

では、どう「本質」が違うのかと云う事になる。その差違は次の通りである。
この関係口伝では、主に、その主意は ”教育とは学問にあり、教養とは経験にある”(口伝6)としている。
つまり、”「教育」とは「育む」(はぐくむ)ものであり、「教養」とは「養う」(やしなう)ものである。”としている。

では、この事に付いて少し検証してみる。
必然的には、その論理的な差違は、人の社会では、次の様に定義付けられるのではないか。
定義
「育む」とは、学問的に得た「知識」で、更に「知識」を生伸し、「直線的拡大」を果たす事であり、大意は「枝葉」を伸ばす成長事を意味する。
「養う」とは、人生的に得た「経験」で、更に「徳識」を着実し、「増幅的拡大」を成す事にあり、大意は「果実」を着ける成長事を意味する。

故に、数式にすれば、教育=「育む」=学問=知識  教養=「養う」=経験=徳識  式−@ が成立する。


「家訓6」はこの「経験」(徳識)を重視しているのである。

父親の子供への影響は、関係口伝の”教育は個人の物(知識)”(口伝7)として、物(知識)は周囲(子供)には影響を与えないとしているのである。
父親の「知識」は、子供には、何らかの手段を用いなければ伝授できない。その手段とは「教育」でしか得られない。
何もしななければ、その「知識」は、子供には移らず「養う」事にもならず、その「着実」も成せない。

確かに個人のものである事が頷ける。だから、親は、この手段として、「教育機関」にて子供にも再び同じ「知識」を「個人の知識」として得させようとしてするのである。
しかし、その複雑な「経験」(教養 徳識)は、「父親の背中」で伝えることは可能である。
真にそれ以外に無いであろう。
人に依って異なる「経験」は、「教育」としてはこれは「教育機関」では得られない。あくまでも、「父親の背中」でしか伝えることは出来ないのである。
「言葉」で伝えてたとしても、しかし、「知識」は同じ量を記憶すれば、個人差が無くなる事から「即効果」であるが、「個人差のある経験」は、子供に取って「参考」にしかならないのである。

あくまでも、「経験」の滲み出る「父親の背中」で感じ取った「徳識」(教養)は、口伝の「環境」の中で、重厚な感覚として、無言で子供に充分な影響を与えるとしているのである。

故に、、「父親の賢」=「教育」+「教養」=「父親の背中」 式−A が成立する。

依って、(式−@)+(式−A)+「母親の賢」=「子供の賢」=「素質と素養」 式−B が成立する。

附帯して、「母親の賢」=「家訓1」=「母性本能」 式−C が成立する

三段論法ではあるが、「家訓2」の連立方程式の上式が成立するのである。

昨今は、この説に対して、昨今の唯物史観が余りにも横行し、その視野が「父親の背中」と云うものの観念史観を許容できないで、このために「教育は教養」として定義付けられている様な風潮がある。

しかし、これは間違っている。「家訓6」で詳しく述べるが、”教育に依って教養が身に着く”かの事としているが、これはおかしい。
「教育」は「知識」であり、「知識」が身に着いたからと言って、教養が身に付くとはならない。
例えば、受験勉強中の様に、「知識」は覚え詰め込めば出来る。受験勉強した者が、「教養」が身に着いたとはまさか誰も思わないであろう。又、大學の教授が全て「教養者」であるとは限らない。

しかし、現代はここが社会の間違いの点で有ろう。
例えば、世間では俗説として次の事が言われている。
特に、テレビなどでは、論説を証明するために、”...大學の教授が言っている”などと巧みな手を使って持論誘導をしいている場面がある。
つまり、”学者の言うとおりにしていて、上手く事が運んだ試しは無い”
 即ち”学者の説は、学者バカ”との説があるが、この様にそれを非難される点は、この「知識」での結論だけで、社会の「諸事」を論じるから言われる言葉であって、これは「教養」の不足に関わることから来ているのである。

つまり、総体的に優れた「素質と素養」の中から発する言ではない事に起因しているからである。

又、社会では、”父が家の先頭にたって「家の事」を仔細に渡りすべて差配し考えを強要する家”は、正論であるが如く言われる傾向がある。”これが何が悪い”と言う言葉が耳に入るが、全ては悪いと言う事ではないと考える。

しかし、この場合、ここに二つの問題があり、この点に関わると好ましくない。

一つ目は、”仔細に渡り”である。
「仔細」に事細かく口うるさく言うは、家訓1で言う「妻の立場」が無くなり、妻に依って育てられる「養育部分」が欠落し、偏った子供が育つ事になる。子供の育つ「養育部位」は殆どが母(妻)に依るところが大きいからである。
ゆわんや、”「母性本能」から来る愛情の部分が多い”とするのである。
この「養育部位」は「子供の基本部分」になると言うのである。 

つまりは、愛情の部分=子供の基本部分=「母性本能」 式−D が成立する。

故に、関係口伝では、母の愛情の発露である ”胸(肌)で育てよ”とされるのである。

”仔細に口うるさく言う”は、この式を欠落させた子供が育つとしているのであるから、子供は「賢」ではなくなるのである。

では、父親はどうすればよいかと言う事になる。
それは、家訓1の口伝5でも述べたが、「大事な決め事は夫(父親)が決めよ」と「背中で見せよ」の二つである。

関係口伝との結論は、父親は、「背中で育てよ」、母親は、「胸(肌)で育てよ」”(口伝8)と言う事に成る。

二つ目は、特に、男子を育てる場合にある。
昔では元服期(15歳頃)より18歳頃までの4年間の思春期は、父親の「指導」を必要とする。
これは、脳の中での「性(さが)の芽生え(目覚め)」により、「男子の自我」が生まれる。

これは女性としての母親の経験する思考範囲を越えているからである。
つまり、「母性本能」では処理しきれない「行動や思考」を示す事から来ている。(家訓4で詳しく解説し説明する。)

但し、この場合も、父親の”仔細口うるさく”では無く、あくまでも「背中で見せよ」であり、その「背中」が示す「人生経験」で、「強要」ではなく、「指導」する事にあるとする。

男子の子供には、父親で無くてはならない「特定の養育期間」があるとしているのである。
「世の中の成り立ち」や「男の性(さが)」に付いて経験を通して、「人生の先達、友人」として「指導」する事であるとしている。

参考 家訓4で説明するが、概略注釈する。
「男の性」には、意識でコントロールできない脳の中で起こる「深層思考の原理」の事であり、「理想、合理、現実」の三連鎖の思考原理が脳の中で無意識の内で起こる。
これを余りに追求する結果、「人間関係」の中で、「争いや問題」を誘発させる辛い性質を潜在させる。
因みに、「女の性」の「深層思考の原理」は、「感情、勘定、妥協」の三連鎖の思考原理が起こる。
これ等は、何れも良し悪しの問題ではない。各々の「性の仕組み」に合った思考原理に出来ているのである。

(参考 三連鎖の思考原理とは、物事に対して、脳は連鎖的に次の三つの反応で思考を纏める。
物事の処理に付いて、基本となる考え方[理想]を引き出し、それを基[合理的]に判断し、[現実思考]で実行しょうとして、瞬時に無意識の内で、綜合思考する脳の働きを云う。)

(但し、驚く事は、伊勢青木氏の「生仏像様」のご先祖が、現代の脳医学で解明されている事柄に近い人の仕組みを理解していた事である。この事柄に付いて調査した所、大概に合っているので、現代の解明されている仕組みで解説した。)

神が定めるこの世の全諸事に対応する6つの思考であり、この男女合わせて6つの思考で初めてこの世の1つの諸事が解決できるとしている。
故に夫婦は互いに持ち得ていない2種の思考を補い組み合わせて始めて1つと成る。
夫婦は、1種の思考の足りない所を補わせるのでは決してないのである。
(現代の世情はこの考えである所に問題の病巣がある。)
これは、「家訓1」のミトコンドリアのところで述べた神の成せる技である。
ゆわんや、「家訓1」にはこの点を補足しているのである。

だから、「家訓2」の特定期の男子にはこの「思考原理」が芽生える故に、父親の「背中と指導」が必要とされるのである。

この二つの問題事を、父親が上手く処理できれば、”何も言わない「愚」であると見えている父の姿が、それは「賢」と子供の心に残るのである”としている。

故に、必要以上に ”父親は「賢」を曝け出すな”としているのである。”「背中で見せる」だけでよい”としているのである。
つまり、”魑魅魍魎の世間で揉まれた後姿”で充分であるとしている。これは言い換えれば男の人生の「経験」である。

上記の(後姿=経験)であるならば、「教養」=「経験」であるとしていると、故に、「後姿」=「教養」 式−E である事になる。

何も、俳句や活花やお茶等のソフトな事だけが「教養」だけではない。ハードな「男の後姿」も立派な「教養」であるとしている。

ここでも、次の事が言える。
家訓1では、女性(妻)が優位の立場を認識していない現状を訴えた。現代の病巣であると。
家訓2でも、男性(父親)の「後姿」が「教養」であり、父親の本来のあるべき姿である事が、認識されていない事に痛感している。

父親が、この”認識の無さから口うるさく言うこと”が「子供を教育」していると勘違いしていることから、「賢」なる子供が育たない病巣であると考えている。
又、母親も、この4年間の間の養育期間は、「父親の指導」を強く求められる期間である事を知るべきである。

青木氏の家訓にある事から、何時の時代にも、この「勘違い」が、強い母性本能からこの勤を見誤り起こっていると言う事であろう。

家訓1でも、記述したように、成人になれば、今度は、子供の妻(嫁)が育ててくれる事になる。それまでの家訓2である。
(注意 家訓1の別意である永遠のテーマ「嫁姑の関係」は、この戒めを守っていないことから始まる)

ここで、丁度、「家訓2」を説明出来る様な自然界の法則が起こっている「木の事」に付いてその成長過程を述べてみる。
面白いことが、起こっているので最後に参考に注釈する。

但し、判りやすくするために下記の用語は次の意味を持たす。
「果実」:賢なる子供  「3又枝葉」:夫婦  「中枝葉」:父  「着実枝」:母  「成長枝葉」:「育む」  「成養期」:「養う」

「変態期」:子供成長期(15-18)  「深切り」:背中  「雑木態」:曝出環境  「剪定」:大事な決め事  「選定の習慣」:経験  

「着実」:素質ある子  「着果」:素養ある子  「葉色」:育と養  「記憶的学習」:知識  「木勢」:家庭  「木の経験則」:徳識

それは、この上記で説明した事柄の「家訓2」の「育む」「養う」等の過程が起こっているのである。

説明する。
木は、季節の春を得て芽を出す。この時、多くの木の木芽は「3又枝葉」を出す。つまり、5本の指の親指と小指を折った3本の形で枝葉を出す。この枝の真中の「中枝葉」は「成長枝葉」である。木を大きく伸ばしたい時は、この「成長枝葉」を残し、左右を剪定する。伸ばさずに将来に着実させたいときは、「成長枝葉」を切り落とす。そうすると着実のために「成養期」に入る。

この時期の「成長枝葉」を残すと勢力が「成長枝葉」に採られて、直線的に伸びる。余り着実せず収穫量が低くなる。これを続けると何時か、着実の悪い「木態」となる。
そして、この成長過程は7月/20日前後(「変態期」)を境にして、「生育」に突然に変化する。その変化は「3又枝葉」の何れもが「生育期」に入るのである。
そして、「中枝葉」を切り落とした場合は、残りの2本の「着実枝」は実を着ける為に枝を強くして準備する。

この時の「3又枝葉」の「葉色」は、左右の「着実枝」が次の年に実をつけるために出す「葉色」とは異なるのである。
この様に、木の「育と養の差違」は、「葉色で見分け」が外見でも出来る様にする。
木全体が来年、将来に向けて自らの木を大きくする。勢力は全てこの成長に向けられてしまって、枝葉の多過ぎる木態となり、次の年以降の着果は全体的に低下する。何時しか着実は殆ど無くなる。梅や柿はこの現象が顕著に表れる。

一度、この様な「雑木態」と成ると、「深切り」をして元の状態にしなければ成らないのである。この様に成ると、木は長い間の「記憶的学習」(年輪の記憶)を消されて、数年は元に戻るまで「着実」「着果」はしない。(最低は2年程度)
だから、この「変態期」までには必ず、「母性的な愛情」を掛け過ぎずに思い切って、「着実」の目的のために「父性愛的」な「剪定」をする事が必ず必要である。

そうすることで、「3又枝葉」の「着実枝」(左右枝葉)だけを養えば、次年度からは「熟実」が倍増的に拡大して行く。この枝に定量的に確実に着実する。

この二種の枝葉の「選定の習慣」で、「木の経験則」が起こり、そうすると見事な果実(賢なる子供)が出来る様に成る。
しかし、放置しては「木勢」は維持できず、着実しても着果せず自らの木態を守る為に実や葉を落とす。
但し、木には、成長過程の7/20(春)タイプと、逆の2/20(秋)タイプとがあり、木に応じて選択する必要がある。

真に、この「木の生態」は、「人の生態」(子供が賢に養育する様)と一致する。
この様に、自然界の神の成せる業であり、この「家訓2」は事の本質を意味する事になる。

この法則は木だけでは無い。筆者の専門域の自然界の鉄などを顕著として金属類にもこの法則の現象は起こっているのであるが、又、時間が有れば放談として何時か投稿したい。


兎も角も、「3つの口伝」を心得て、家訓2 ”父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。”を理解してもらい子孫繁栄の一助に成ればと考える次第である。

次は、「家訓3」である。

主は正しき行為を導き成す為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
No.1212
 引用付き返信 | 返信 | 削除 | 管理

Re: 伊勢青木家 家訓3
副管理人さん 2008/02/27 (水) 16:26
家訓1と2に続いて家訓3に入る。

青木氏の家訓10訓
家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導く為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

家訓3 主は正しき行為を導く為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)

関連訓
「三相の論」
「衆生の論」
「万物の輪廻」
「女子と小人養い難し」
摂理「5つの変化」(上限変化 微分変化 変曲点 積分変化 上限変化)
摂理[S字パターン」「N字パターン」(回帰法)

この家訓を理解する上で、伊勢青木氏の歴史的な経緯が大きく左右しているので、先ずそれを先に述べる。

歴史経緯
伊勢青木氏は大化改新で発祥し、1315ー20年頃から「2足の草鞋」で商いを営み明治35年まで「紙屋」として続き、男系継承は耐える事なく現在に至っている。
ステイタスも笹竜胆紋と生仏像様を維持している。又、後150年は孫の時代であるので確実に継承する事が約束されている。
この間には多くの波乱万丈の歴史を保持しているが、この過程では、伊勢青木氏の子孫繁栄の秘訣を家訓10訓として何時しか遺されている。此処まで来られたのはこの家訓のお陰げであり、これを先祖は人生の最大目的軌範として護り続けたものであろう。現代も護る軌範としている。

この歴史事から、侍として、商家としての長い歴史の経験から「戒め」としてのものが出来上がっているが、特に、この家訓3となった経緯が大きく左右している。

従って、最大の理解を得る為にその経緯を先ず優先して次に示す。

歴史的事件に直接関与
その由来を調べると、日本の歴史上の大きな出来事に直接的に殆ど大きく関わっていることが判る。

例えば、@ 647ー780年頃の大化期の大化改新で発祥(647)し、勢力拡大して皇親政治の主役となった

A その後、150年後の桓武天皇の母方の阿多倍一族の引き上げ事件とその一族との軋轢(781ー806頃)

B その阿多倍一族の末裔の京平氏と嵯峨期から発祥した同族の源氏の勢力争いの戦い「保元平治の乱」(1153--59頃)

C 青木氏と源氏が衰退する中での青木氏の遠祖の源頼政の「以仁王の乱」で合力(1178-80頃)

D それCを引き継いだ「治承寿永の乱」での一族一門の同族としての戦い(1180-85頃)

E 頼朝の旗揚げと「伊勢青木氏の本領安堵」、鎌倉幕府樹立後の北条氏との軋轢と「2足の草鞋策」の自立(1195-1235頃)

F 室町幕府の伊勢の国の半国割譲(伊勢北部伊賀と伊勢南部長島)での衰退(1465-73頃)

G 紙屋長兵衛が後ろで糸を引く伊勢の一向一揆から始まった信長の「伊勢長島攻め」(伊勢大河内城)での北畠氏への合力(1569-75頃)

H 台頭著しい信長の伊勢攻め「伊賀天正の乱」で名張城、度会の山城青木城での敵対(1573-77年頃)

I 蒲生氏郷(秀吉命)の伊勢青木氏(本拠地五日森の松阪城:平城松ヶ島城)の「松阪攻め」(1578ー82頃)

J 戦いでは最後となった家康の「大阪の役」の参戦(1614-15年頃)

K 明治の初期に「地租改正」が起こり三重から各地に伝播した「三重大一揆」(1870-72頃)

L 明治35年の(出火元)松阪の大火と600年以上続いた紙屋の倒産と賠償(この時期数年立て続けに悲劇が起こる)

これ等の主だった歴史上の大きな事件と戦いに直接的に巻き込まれた。

647年から1620年までの他の政治軍事の権力闘争の戦いではいくらかの関与はあったと見られるが、上記のこれ等が史実として明確に成っている青木氏の存亡としての大きな分かれ目の戦いであった。
この様な戦いの中でありながらも無事生き残れた。
(参考 1185-1300は安定期:1315-1325は「2足の草鞋策」期:1330-1573は下克上戦国で苦難期)

「2足の草鞋策」と「不入不倫の権」での生き残り
それは、商家として手広くしていた「2足の草鞋」と、古来奈良期よりお墨付き「不入不倫の権」で護られていて救われた青木氏始祖の「伊勢青木氏」があったからこそ、この二つ事で生き延びる事が出来たのである。
当然に、この様な経緯からその家訓は必然的にその影響を色濃く繁栄する事となろう。
この全家訓は、この事の背景を理解した上で、とりわけ家訓3にはその深意を汲み取る事が出来る。

「商家と武家」
家訓が出来る経緯の中で、ここには、”何故に商家なのか、何故に「2足の草鞋策」なのか”という疑問が残る。これを示す事件があるので特筆して紹介する。

天正の直接事件
この事件は信長と直接伊勢青木氏とが戦った有名な事件である。
900年間も護られてきた天皇家の本宮の伊勢には、天武期と嵯峨期に定められた「不入不倫の権」があった。
しかし、室町期の混乱期でありながらも護られてきた。然し、信長の「天下布武」の方針の下で、これ等の神社仏閣の既存権威は破壊された。
その護られてきた「比叡山焼き討ち」を始めとする一連の信長の禁断を押し切った「伊勢攻め」で、信長の一の家来の滝川三郎一益と信長の息子信雄を特別にこの伊勢攻めに差し向けた。
この時代では、周囲では信長の一斉討伐が行われていた。都に向かう掃討作戦の一環としてである。
先ず、この伊勢に於いては、それは信長が安心して京に進むには、最大の戦略課題であるこの伊勢路を確保する必要があったからである。
ここは青木氏の勢力圏と紙屋青木長兵衛の伊勢シンジケートのテリトリーである。
南北朝時代の楠木正成の10万の兵を打破した歴史的善戦でも知られるように、この域は伊勢シンジケートの膝元である。
この為に、伊賀に差し向けられたこの二人はこの為の拠点として伊賀の入り口の丘の上に山城(丸山城)を築こうとした。
しかし、材木が極端に不自然に高騰し入手できない。築城は全く進まない。
当然である。この域は伊勢青木氏で伊勢の豪商のテリトリーである。
紙屋長兵衛は、伊勢一帯を海の伊勢水軍と共に、戦乱で敗退した豪族を集め組織化し養いしたシンジケートで押さえている。それでなくては大きい商売は不可能である。
政治的、軍事的、経済的には、主に3つの護り城郭等を持ち、名張から桑田、員弁まで押さえている。
名張の青蓮寺城と度会の山城青木城と松阪郭館(五日の森の松阪城平城)で伊勢青木氏が押さえている。まして、大船を数隻を擁して海外を相手とする堺町にでも大店を出している。材木どころか搬送の船、人夫さえも確保できる筈は無い。
1年2年と全くと云って進まない。滝川氏は痺れを切らして紙屋長兵衛が密かに差し向けた人を頼りに、長兵衛と材木と人夫調達を頼む為に会う事となった。
商人としての顔も持つ長兵衛は誘いに入ったと見て、了解した。密かに、シンジケートに指令を出す。
材木は調達できた。城は長兵衛の意を汲んだ人夫達はゆっくりと建て始めたが、長期間の末に、やっと出来て天守閣がもう少しで建つというところで、念願の滝川氏と信雄はその城を見にきた。ところが、その時、爆発と共に城から火の手が上がったのである。長兵衛の伊勢ルートのシンジケートが仕組んだ作戦であった。
苦労の末に経済的に底をつく様なところで出来たが、水の泡と化した。一方、長兵衛とそのシンジケートは大もうけであり無傷の戦勝である。
再び元の状態に戻り、伊勢攻めは始まらない。この間、もう一方の武家の顔を持つ青木民部尉長兵衛信定と伊賀氏側では、名張(青蓮寺)城と青木本山城と伊賀城(柏原城)とで、次ぎの本戦に向けての作戦が着々と進められていたのである。この猶予期間を作りだす戦略であった。この二つの顔を持つ長兵衛であった。

これが滝川氏と織田信雄が「蟄居謹慎」に会った彼の有名な「信長烈怒」の史実である。
信長唯一の完敗である。それも影の商人に負けたものである。この後、信長は方針を変えて確固攻撃で無理押しの「伊賀攻め」に入った。
矢張り、本戦が出来ない伊賀特異のゲリラ作戦に入った。青木氏は、その信長の陣地を側面から崩す作戦に出た。つまり、2面の陽動作戦である。信長側は夜昼は無い。シンジケートの邪魔で食料は届かない。皆疲れ果てる。戦意は落ちる。
真に南北朝のこの地域で起こった「楠木正成の戦い」に類似する。
同じ紙屋長兵衛が指揮する伊勢のシンジケートが動いているのである。当然である。またもや長期戦である。
しかし、伊賀側でも消耗戦でありジリ貧である。最後は、青木氏の名張城から青木氏の本軍が伊賀城(柏原城)に入って共同決戦となった。
多勢に無勢である。結果は長期戦で伊賀城は落ちた。しかし、城は落ちたが伊勢青木氏は無傷である。
ところが信長は此処までが精一杯の戦いであった。伊勢青木氏の本拠地の伊勢松阪までは入る事は出来なかった。
その後、この前も秀吉をも同じ手で矢張り「伊勢長島攻め」で苦労するのである。そして、最後には秀吉の命を受けた蒲生氏郷の「松阪攻め」の青木氏の敗戦で終わる。

その後では、新宮に避けていた青木長兵衛は1年後に同族(清和)の血を引く氏郷の招きで紙屋長兵衛として再び松阪に戻る。
その後、秀忠を待つ為に名古屋に留まった「大阪夏冬の陣」の家康の要求に合力して、紙屋を中心とする全伊勢シンジケートを結集して伊勢路沿道警備として250人で参戦した。
徳川時代に入り、紀州徳川の松阪飛地領として青木氏と親交を続け、紙屋長兵衛では吉宗の「享保の改革」に依頼されて一族の者を同行させ勘定方として貢献する。親交は大正14年まで続いた。

(歌人でもある猛将の蒲生氏郷は、近江源氏で近江日野12万石から伊勢松ヶ島城(1584:元北畠氏の城で養子織田信雄の居城)に入り、松阪の四五百の森に石築の平城松阪城(1588:6万石)を築き近代的な商業都市を最初に築いた人物:伊勢青木氏と親交)

「伊勢で起こった2つの大一揆」
他に、伊勢国に長く関わり確固たる経済的基盤と権威を築いてきた1365年の歴史をこの地で持つ伊勢青木氏は、確たる証拠は失い無いが、1570の長島一向一揆に続き、1876年の2度目に起こった明治の「地租改正」に反対する住民の有名な大暴動の「三重大一揆」にも、立場上(伊勢国玉城町の面積の8割が長兵衛の蔵群であった事と松阪屋敷町2区画とその経済力)から考えると充分に裏で関与していたのではないかとも思われる。
実は、10年前の徳川時代に、この三重の豪族で紀州徳川氏の重臣で、伊勢を治めていた加納一族(吉宗の育親)との血縁がこの時期に伊勢の青木長兵衛の家とあった。
この加納家も青木氏と同じく「2足の草鞋策」で加納屋として大商いも営み地元の地主として君臨していたのである。
伊勢でこの二つの両氏が「地租改正」で土地を奪われるという事は氏の存亡に関わる一大事であり、伊勢で一ニを争う両者の経済力で、「伊賀天正の乱」の様に、この騒ぎの紐を操るとしても不思議は無い。又、一揆としても人間の成す事に変わりは無い。一時的な感情で動いたとしても続かないのが常である。経済的な裏づけがなければ長続きできない。当然、全国的な一揆としは繋がらない筈である。だとすると、証拠は遺さないであろうがこの推論は考えられるのではないか。

以上の1635年間で数多くの事件の三重付近で起こったこれらの史実事は、我が家の「口伝」内容を考察すると、上記の史実とがほぼ一致して伝わっている。

これは真に、「2足の草鞋」でなくては成し得ない生き残り策であり、この方策を先祖が時代の「三相」を見据えた深い判断で採った策であった事が判る。まぐれの1度や2度での事件の繰り抜けではない。「政治、経済、軍事」の3権を保持する事の明断であった事は疑う余地は無い。
それには欠けていたものとして、何度も繰り返される事件に対して、「武家としての権威による経済」では無く、実効の行動基盤の整った「商家としての実質の経済の力」の保持であった。その必要性を痛感し、自前であった「武家としての権威による経済」を活かし発展させて1315ー25年頃にこの策を判断したものであろう。

そこで、この事例でも見られる様に、この家訓3は「商家」と「武家」との両方での時の「生き抜く術」(人、時、場処に適時適切に動いた術)の結論であったものと見なされる。
故に、時の武力と政治の権威の信長を打ち負かす程の「力」を持ち得ていたのである。

そこで、これらの事を背景に生まれたこの家訓3を紐解いてみる。
簡単な文章の単語の全てに大きな意味を持っている事が判る。

「主の思考」
例えば、先ず、主語の「主」(あるじ)である。
「主」(あるじ)商家であろうと、武家であろうと、上に立つ者としての裁量の如何に依って氏や家の浮沈は決まる。
だから、「主」がしっかりとしていれば、1365年の間の上記の様な歴史を生き抜いてくる事が出来た。そして、何事もそのキーワードは”「主」に成る者の如何である”と結論付けたのは頷ける。
その重厚な経験から「主如何」と言えるからではないか。

私は、昨今では、それが全ての事件に欠けている様に思う。
もう少し、上に立つ者の「主」が、しっかりと「自覚」し、事細かに「目配」りをし、「厳しさ」を示し、「事の理」をわきまえて居れば防げた事件が多い。
確かに、世の中は一昔と較べて物事全てが「煩雑化」し「緊迫化」し「科学化」し「スピード化」している。
故に「主」の負担が大きい事が頷けるが、それで、適格者ではないと思えることが多いことも言える。

そこで、例えば、10の力で経済成長が進み、更に経済成長させようとすると10以上の力でなくては進まないのが道理である。
車に例えると判りやすい。車が40キロで走るとする。更に速度を上げようとすると、40キロ出力のパワーでは40キロ以上のスピードは出ない。当然に、出力をそれ以上に上げる必要がある。80キロで走るとすると一見倍の力だと思うだろう。
現代の日本はその域にあるから、我々の時代と異なり、その負担はより大きい。従って、組織を動かす者にとっては動力と思考の負担は格段に違っているだろう。だから指揮不足、不適格者とも思える事象が多く成っているのかも知れない。

と考えるのが普通であろうが、そうではない。私は少し違っているのではと思っている。
何故ならば、この思考には上限の「絶対値」というこの世の中に存在する生物、或いは動体には存在する思考が欠けているからだと考えているのである。
つまり、当然に、その社会になれば、指揮する者に課せられるそれなりの思考が存在するという事である。
それがこの家訓3にこめられた訓であると言うのである。

上記した先祖が遭遇した事件の「時代性」は、丁度、現代の社会の「時代性」と共通するものがあるからである。
その「時代性」とは、下記に述べる「5つの変化」のうちの「積分社会」の「上限域の変化」に遭遇していた事による。
当時の時代の基盤では成長の上限に到達していて、それに対する改革が成されなかった結果、上限に持つ特性の破壊、即ち、「下克上や戦国時代」と言う谷底に陥った「時代性」であったという事である。
故に、それを解決すべく長い期間の人間の葛藤が起こってしまったと云う事である。

現代もその谷底に落ちる手前に来て居ると観ている。化石燃料の枯渇や温暖化や世界の国格差などで、騒乱が起こる手前の時代性と一致する。(破壊に繋がるのは、私は論理的に矛盾を多く持った中国の結果次第が引き金と観ている)

この手前の社会の思考には、”無限に高一定率(「微分変化」)で伸び続ける動体は無い”と言う肝心な「自然摂理」の思考に欠けている事である。
現に、一般界、マスコミなどで、比較的、或いは殆どの「衆生」の判断には、この思考(微分変化だけではなく「5つの変化」域に限界値がある事)に欠けたのものが多い。
まだその認識に意識が至っていないことを意味する。安易な「衆生の論」に終始している。

此処で、時事放談をする。
先刻の選挙で民主党が大勝ちした。民主党は当初”「永田町 民意民意と せみが無く」”であった。
果たして、この「民意」は”「せみの声 正しい民意 民民ぜみ」(正しいせみの声)だろうか。
”「寒空に 民意ねじれて せみが死ぬ」”である。
”「せみの声 民(ミン)が悪くて 自民負け」”(ジーミン)でないのか。
”「せみ騒ぐ 感にさわるは 民(ミ-ン)の声」”
”「民意鳴く 好きと嫌いと せみの声」”(ミーンィ)
”「一つ鳴く 孤独の民意 せみの主」 
「民意」と言うが、国政が滞り適時適切に施策が実効されなくては本来の国会の目的はない。
この「民意」は「衆生の論」でなかったか。果たして「民意」を何でもかんでも政治には「民意」では無い。
もし、「民意」が何時も「真の民意」であれば政治家は要らない。アンケートすればよい。それを官僚が実行すればよい。
「民意」はとかく「衆生の論」である事が多い。「三相の論」と「5つの変化」(下記)から導かれた論でなくては世界を相手に打ち勝てない。そのために、「主」としての「政治家」を送っているのではないのか。
ただ、この「主」の政治家が「衆生の論」の見本の様な「おてて繋いで」「仲良しクラブ」に「主」に値しない資質の者を用いてしまったトップの「主」が居た事に寄るのではないか。
この様な人事をするトップの「主」の思考(資質)の低さ(三相の論)があったのではないか。
又、何も、「民主」が良くて「民意」が民主に傾いたという事ではあるまい。(どの世界にもこの様な人物が居る)
時に、「民意」に反して、「三相の論」と「5つの変化」から「主」の者は、一人孤独で思考を巡らして、国を導かなくては成らないのではないか。だから、国を委ねる大事な立場なのだ。「民意」(衆生の論)で出来れば苦労はしない。
真に西郷隆盛の「女子と小人養い難し」ではないか。「感情」で政治が出来れば政治家が要らない。
「民意」は兎角「感情」が主体と成っている事に、「主」たる者が知る事の「主の資質」なのだ。
政治は「歴史と現実」を背景とした読み取り論理である。これは、況や、「5つの変化」から「三相」を読み取る資質なのである。
即ち、下記の「色の理論」「波の原理」とする世情の「流」を読み取る資質である。
この見識なくして「正しい民意」を「衆生」が出来るというのか。

では、その「正しい」ものを導く思考(主の思考)とは、一体何なのかを次ぎに示す。

万事万物万象には摂理「5つの変化」なるものがある。


自然摂理「5つの変化」[万物の輪廻(りんね)]

「上限の限界値」
ものには、先ずその一つその主力の絶対値、つまり、「能力の限界」(出力限界:上限の限界値)があるからだ。その出力限界に近くなれば、エンジン過熱や、燃料の燃焼、各部品の耐力、環境条件、空気水分、等の条件が限界値に到達して比例的に出力は上がらないのである。

S字の上の曲線部の末端部である。(末端の短い部位は若干下向き線が多い)
この時の直前の変化は、「積分的変化」を起すのである。
この世の全てのものはこの変化を保持している。例外は無い。
従って、その出来事の評価、判断はこの摂理に従って行わなくてはならないのであるが、ところが、マスコミなどで示される評価、判断は殆ど「微分変化」だけの思考で、無限の「微分変化」は無い事を知らず、「積分変化」の有無も知るか知らずか、殊更に自慢げに自身を持って述べている。特に解説者やコメンテーターなどは100%である。
この上限の末端の特性はその物質を構成する分子の「破壊」の現象が起こる。

「積分変化」
つまり、上限の手前のその変化を曲線で現せば「積分曲線」(双曲線)と成る。
1のものに対して2乗分の1とか3乗分の1とかの変化しか起さない事を意味し、急激に出力は低下する。最後には、殆ど確認出来ない程度のものとなる。これが「積分変化」と言う。(1/Kの乗数:積分率)

S字の上の曲線部である。(この曲線部の末端前は上向き線が多い)
この域では変化率が低いので一定域が広い。その為その万物万象の特長を時系列的に明確に良く示す。
変化率が低い、その「時系列」が判り易い、下限から観て位置は高い、比較的に「微分変化」より「積分変化」の域が長いことも特長である、変曲点の右だから変曲点の特長に類似する等、特長を万物万象に適用して当て填めて思考する事で対処法が見出せる。

「微分変化」
比例的に変化する領域を「微分曲線」(直線)と云う。
僅かな曲線(変化)を示すが殆ど直線で出力した分だけ期待通りの比例的にほぼ変化する。人間であれば青年期の若い時の勢いである。自動車であれば80キロ程度以下のパワーとなる。この様なときに示す変化率が「微分変化」と言う。
この「微分変化」域(変曲点まで)では1に対して増加率が一定(K)で変化する。(1/K:微分係数)
S字の斜めの直線部である。(この斜めは実際は右上の逆斜めになる)
この域は比例的である、比例値が明確である、比較的この域は小さい、変曲点の左であるので特長を造り出す域である等で、特長の構成質が観える等万物万象に適用して当て填めて思考する事で対処法が見出せる。

「変曲点変化」(上)
ところが、この二つの変化の間には、必ず全てのこの世の物体には、このどちらとも云えない変化を示すところが生まれる。
S字の上の繋ぎ目(角部)のR部である。(このR部は笹波の短波線が多い 下側のR部は基本的に少ない)
これを「変曲点変化」と呼び、その曲線の変わり目の変化点を「変曲点」と呼ぶ。
この変曲点には、万事万物より、その呼び方は変わるが一般的にはこの呼び方となる。
この変曲点を確認出来ると、その万物万象の特長が大まかに把握できるポイントであり、その特質を調べるデーター採りをする際はこのポイントを見つけ出す事に重点を置く。ところがこの「変曲点」を見つけ出すのが難しいのである。
この点は全体の65ー70%に相当する所にある。
この世の万物万象のこの点を感覚的に把握するのが難しいのと同じである。
それは何故かと言うと、この点を以ってその以下の所(微分変化)で「行為と行動」をすれば、その全ての面で問題が起こらず都合が良い域事になる。
材力設計をする等場合にはこの以下の所で行うのもこの理由からである。
殆どデータを拡大しないと瞬間的でこの点が無いと言うものもある。
この点には、一定の短期間横ばいの波線を示すのが普通である。
(万事万物には本来、主に「5つの変化」を示すが、後一つは下記に述べる。)

この様に、夫々「5のつの変化」の曲線の特長を見つけ出し、それを万物万象に適用する事で思考する。

そこで、元に戻して、10の力で進めれば、現状維持となるだろう。この繰り返しが続けば続く程に、その10の努力は積分的に増加する事になる筈である。同様にその指揮者の能力も積分的に伸びなければ成長と指揮力とに差が出て来る。
同然、積分的に伸びるだけの力を、猿から進化した者にそんな力を神仏は与えず備わってはいない。
故に、その差のはけ口が事件となる事は必定である。

事程左様に、この世の成長では、例えを戻して、現在の経済成長も、中国の成長率と、日本の進んだ経済の成長率とを同じに比較することがよく発表されるが、あれは比例、即ち積分ではなく「微分比較」となる。
これは技術系の者としてはおかしいと何時も思う。文科系の数理論であろう。もし、技術屋がデーター採りでこの様なことを言うと相手にされないおかしな事である。

上記した様に、この世の中には「絶対値:臨界値:限界値」なるものがあり、これを考慮に不思議に入れていない。
考慮に入れると判らない人が殆どだからか、説明している人が苦手だからかであろうか。否。
本当は、この世の万事万物の変化の「摂理」で、「微分的」から「積分的」に事態は変化する。(間に変曲点が入る)

例えば、現在、日本と中国は経済的に約8-10倍の力の差がある。1の中国の経済成長18%と10の日本の経済成長3.8%は、同じではない。
普通の人の評価は、これでは日本は中国並に頑張っていない事を言うだろう。日本の経済力は落ちたと言うだろう。
普通は中国の経済成長の方が5倍で伸びたと判断するだろう。
これは「間違いの判断」である。況やこれが「衆生の論」の判断である。「三相の論」に準じていない。

日本は高度な経済成長を遂げ、高度な社会を維持している事に成るから、これは「積分社会」に到達していることを意味する。しかし、此処にこの「積分」の摂理を用いて正しく判断すると、多分、中国を日本のレベルで評価すると、概して4-5%程度に過ぎないのではないか。
つまり、日本が4%で中国は5%になる筈である。つまり、ほぼ同じ程度で伸びたとなる筈だ。
逆に、中国に合わせれば日本は17%程度と言う事に成る。(%計算には比と率がある)

判りやすく簡単に例をあげると、若い普通の野球選手の打率(比)が、若い経験の少ない普通投手から警戒されていないので、4割を維持した。卓越したイチローの様な選手が一流投手をあてがわれ警戒されて4割を維持したとする。
この二人の同じ4割は同じではない。
普通選手はイチローの環境で対したとすると1割、イチローが無警戒で普通選手の環境では10割と成るだろう。
イチローはその優れた資質を持ち「積分域」か「上限域」の人物(秀才)で、普通選手は「微分域」の初期であるからだ。
これが、先ずは普通は正しい判断となる。より「正しい判断」となる。「三相の論」は「人」と「時」と「場」を論じている。「衆生の論」では無く成っている。

ところが、又、違うのである。

というのは、これでは、厳しい社会を切り抜けていく事には、途中で問題が出て、「主」としての充分な指揮力ではないのである。

「下限の限界値の存在」
此処で、更に、上記した「上限の限界値」に対して、上記の5つ目の変化の「下限の限界値」なるものがある。

殆ど「外資」に頼る中国経済が、特に中国の日本からの「外資」に頼る経済は、その国(日本)以上の能力を示す事は物理的に、数理的にある事は無い。「下駄」を履いているのである。
つまり、判りやすく云うと「底力」と言うべきものが無いのである。(ファンダメンタルパワー)
「微分曲線」は、上の「変曲点」に入る手前までは、この「下限の限界値」が大きく左右し、次に、上「変曲点」を過ぎた時には、「積分曲線」に大きく左右する特長を持つのである。基になる影響点となる。

例を挙げて、判りやすく云うと、自動車でもエンジン出力の大きい方が小さいものより100キロ以上の能力は明らかに違ってくるだろう。この「下限」の品質程度が「積分変化」の時にも左右するという事なのである。

S字の左の末端部位で極めて緩い右上の短曲線を示す。
(微分変化の始まり点と下限線との接合部の変曲点(下)を示すものは少ない)
この「下限」で示される変化は、殆どのものをデーター化すると、直線に近い極めて小さい変化率の「積分変化」を示す。上向き曲線は小さい(ー)の放物線で、上限は下向き曲線で(+)の双曲線である。
この下限域の末端はその物体を構成している分子の停止現象が起こる。(上限の末端は破壊)

説明を戻す。
判り難いと思うので、例にあげると、次の様な事である。
自然界のものとして観ると、太陽から来る光(YMC)は可視光線としての波長のこの「下限変化」の色は、最初は太陽光に近い目にまぶしい白色域の色を呈する。
次に、次第に「ハーフトーン」と云い、人間の肌なのに現されるピンク色等の淡い「中間色」の域の色と成って行くのである。
そして、次に「微分変化」を起して、混合色はうす黒いグレー色に近づき、「変曲点変化」付近では短い平行線を示し標準グレー(18%K)となる。全色の中間の色である。この時点で全ての原色(BGR)は一点に集中する。
次に、「変曲点」(18%K)グレーから離れる頃には、紫色のグレー色に変化する(原色が影響してくる域)。
原色(BGR)は次第に夫々離れて行き、この離れ巾で原色の個性が出て来る。グレーからくっきりはっきりの原色の混合色と成り始める。
この付近から、次第に「積分変化」を起して、ゆっくり(双曲線)と成り、3原色のRGBはより離れ、1に対して複数分の一の影響で、3つのけばけばしい混合色に変化して行く。
そして、最後付近(上限の限界値)では、3色大きく分離した混合色は、ほぼ平行線に近い変化を占めし黒色と成って行くのである。(中には色以外には下向きのものもある)
これを「CCカーブ」という。

参考に、カラーフェリャー論の一例
ところがこの「5つの変化」にはカラーフェリャ−現象と言うものが起こる。
それが次ぎの通りである。

光の3原色=Y:イエロウ M:マゼンタ C:シアン  
色の3原色=B:ブルー G:グリーン R:レッド 
光と色は補色関係にある。
つまり、Yの補色(反色):B Mの補色(反色):G Cの補色(反色):R の関係にある。
Yの光は人間の可視光線の見える眼にはBの色に変化して観える。M、Cも同じ理屈である。
これでどう言うことが起こるかと言うと、黄色(Y)の光を放つ服を着ているとする。そうするとその光(Y)でその周りの色は、その元の色にBが引き込まれて、B傾向の色が出る。例えば顔にはBが入り顔らしい中間色の色と成らないのである。他のM、Cも同様である。
この様な理屈が摂理として起こる。
この原理の下限域末端の白は全てのYMC、BGRを含有しているので、この原理で「微分域」から「上限域」まで影響する理屈事に成るのである。

事程左様に、下限域から微分域までの間には、”Yと見えていたもの実はBであった”(逆も言える)と成る事が起こる。
これを万事万物万象に当てはめると、この下限域から微分域の変化を起す域では、よく洞察しないと実は全く違ったとする現象がよく起こると言う事である。
これが一つの「5つの変化」の特質を踏まえた応用思考である。

この下限の白色には沢山の白(ミルキーホワイト等)がある。この白に依って「微分域」から「上限域」までの混合色は変わるだろう。これが、全てに影響すると言う下限特有の資質なのである。
これが、自然界で起す「5つの変化」の典型的な現象である。
この「5つの変化」の夫々の変化には、万物万象に示すものと同じそれぞれの特徴を持っている。
(これを「カラーフェリャ−論」と言う。時間があれば詳しく別にレポートする)

これが理解できれば、4子(孔子孟子荘子老子)の論の書物の様に、この世の万物万象の出来事に少なくとも正しく対応する事が出来る。
仏法の「般若経」は「色即是空 空即是色」と「色」で人生訓を説いているが、真にこれである。何千年も前にこの理論の概容を感覚的に把握していたとは驚きの限りである。

この世の中の万事万物万象はこの摂理に従っていて例外はない。もし、例外があると思う事はその万事万物万象の洞察が甘い事を裏付けている。つまり、この思考は積分域に達していないと言うことである。まだ更に、悟らねば成らないと言う事である。
仏法の「般若経」の概意はこの事を説いているのではないか。
私は、特に、「見えない」は、その事を観る「方向性」にあると考えている。
事例のように人生は真にこの「5つの変化」を起す。

更に、例を上げると幾らでもあるが、鉄の強度も、この摂理に従う。
最初の「下限域」は短平行線で、直ぐに高い変化率で「微分変化」を直線的に示し、「変曲点」で「降伏点」(YP)という短小波の変化を示し、ここを過ぎると「積分変化」を起して、最後に「下限域」の平行線域を呈して、「上限域」で短い下向きのラインで急速破断(BP)する。

この「5つの変化」は夫々次ぎの変化に影響を与え特長を以って与えるのである。
これが、万事万物万象の摂理(自然法則)であり、これに従う。
これも、夫々の域でその域の特徴を持ち、その特徴は万物万象の事例と一致する。
(その特長を現す此処にも理論があり「FC状態図」と言う)

話を元に戻すと、経済科学の面に於いて、若い中国のファンダメンタルと、老練な日本のファンダメンタルとは明らかに違う。
中国のファンダメンタルには、「2律背反」の政治経済、他民族、自己資本力の不足、五行思想、多発暴動、低い民度等の危険性を多く孕んだ下限域のファンダメンタルを持っている。
この下限域の環境条件を考えずしての思考はきわめて危険で、将来の正しい判断と結果を導くには余りにも危険である。つまり、「白の色合い」如何である。

若い普通の選手とイチローとはファンダメンタルは異なる。
このファンダメンタルを考慮に入れての結果は、日本4%は12ー14%で、イチローの10は15と成る。

全ての万事万物万象には、この下限の「下限値」が「5つの変化」のどの域にも大きく影響する要素を保持しているのである。
「下限域の変化」はこの様な特質を持っている。

これ(「三相の論」)は、基となる「下限値」を考慮に入れた事になり、正しい判断と成る
これで、「衆生の論」から脱皮した「主」としての思考であり判断となる。この判断を以って指揮する事になる。これを「速やか」に判断出来る「思考訓練」が必要に成る。「主」としての孤独な厳しい務めである。


「摂理のS:N字パターン」(回帰法)
もし、これ等の変化が、繰り返したとした場合、S字は「上限域」での限界に達して破壊が起こり、急激に元の「下限域」に到達し繋がり、周期性を示し、N字パターンと成る。
この原理を法則にまとめて数式化したのが、統計や科学分析に用いる「回帰分析法」である。
つまり、全ての万事万物万象はS字パターンを起し、元に戻り、このサイクルを繰り返すと言う摂理を統計的に積分法により理論化したものである。「カラーフェリァ−論」や「FC状態図」と同じである。

このS字パターン(5つの変化)は歴史的に見れば大きい期間でも観られるが、決してそれだけでは無くスポット的に観てもこのS字パターン(5つの変化)は起こっているのである。
(下記の波理論)
上記の例を判りやすくする為に、複数の変化の比較による思考であったが、一つの変化の中でも、この摂理は適用する事も可能である。
この現象は摂理である。

「波」の原理と「5つの変化」の摂理
SとNのパターンに付いての大事な特質がある。
それは、例えば「波」に例えられる。
「波」は動いているとお考えであると思うが、実は「波」は動いていないのである。
「波」は3つの波で構成されている。
先ず、最初は外力で「波」が上側に凸に成る。そうするとこの凸の重みが引力で下に押しやられる。押しやられると隣りには凹になる。次ぎにその凹に成ったその勢いで上に押し上げられ、隣りに又凸が出来る。この繰り返しが「波」になる。
本来、一つの凸は重力で隣りに伝播するだけで、移動してはいないのが原理である。
海の波が移動しているのは潮の流れと月の引力に依って移動している。所謂、外力で移動しているのである。
宇宙から来る波は障害が少ないのでこの本来の原理で遠い地球まで届いている。

もし、エネルギーであるとすると、波の何処に地球まで届く莫大なエネルギーを潜ませているかと疑問が出るだろう。エネルギーであればこの遠い地球まで届かない。並みの線状の何処にエネルギーを潜ませるスペースがあるかと言う事に成る。
太陽光も同様である。光子と言う束の波の原理で届いている。

これはこの世の摂理にも働いている。
万物万事万象はこの波の原理で動いているのである。
一見エネルギーかの様に見えるが、決してそうではない。エネルギーと見えていると思考するは「衆生の論」であり、主たる者は波の摂理の原理で思考すべきのなのである。
つまり、事件、物事が起こる。その次に起こる物事は前の物事のエネルギーで次に出て来ると考えるのではなく、「波の原理」で押し出される様に移動して出て来ると思考する事が必要であり、それが正しい間違いの起さない指揮能力になるのである。
もし、エネルギーと思考すると、そのエネルギーの如何に捉われて、油断や判断ミスが生まれるのである。
歴史上の事件をこの思考基準で観察すると、間違いを起こし滅亡しているのは、エネルギー、例えば、判りやすく「相手の戦力」を見限って失敗したと云う事が起っているのである。
成功例のこれは、「主たる者」が「波の原理」として捉えて対処しなかった結果による。
例えば、その最たる主者の家康の判断は、この「波の原理」(流にも通ずる)の思考にあったからである。

次に、ところが、この線状「単波」だけではこの原理は起こらないのである。
この「波」の中を分析すると、この「波」の中にもう一つの「小波」がある。
つまり「波」の曲線の線上の中に同じ原理で「波」が起こっている。だから伝播が起こる。
巾の持たない線のそのままであれば、宇宙の磁場磁力や宇宙風や宇宙塵で歪み、伝播は引っ張られて壊されてしまう。この子の小波がある事で波の曲線が、太く成るだけではなく、生きた波巾を持つことに成る。
だから障害に左右されずに地球まで届くのである。
中にはこの子の小波が2つある事もある。そして、これ等の「波」は幾つか続くと周期的に「大波」が発生する。この原因は周期の微妙なズレが集積されて一つになり「大波」が生まれる。
この「大波」が又、波の伝播の動力源となるのである。
この周期のズレは障害に対する影響度で「大波」には差異が発生する。宇宙からの波はこの大波は殆ど無い。
これが「波の原理」である。

この世の万事万物万象も波に表される事が出来、この原理(摂理)に例外なく従っている。
S字からN字にパターンが移動していく過程はこの「波の原理」に従う。

この様に、ミクロ的に、局部的(スポット)にも、この5つの変化(S字パターン)は起こっているのである。
長い歴史の複数の「5つの変化」の繰り返しはこのN字パターンの摂理に依って起こっている。
つまり、俗に言う「歴史は繰り返す」と云う言葉がある。
この「繰り返す」はこの波のN字パターンであり、色の「波の原理」で起こっているのである。
ある大きな歴史事件の「積分域」の変化が起こり、遂にはその果ての「上限域」では戦いなどの破壊が起こる。そうするとその破壊のエネルギーで再び元の下限域の変化が起こり、その持ち得ていた力で「微分域」「変曲点域」「積分域」の変化へと進んで行く。
これは「波の原理」又は「色の原理」と同じである。
大宇宙のビックバーン(上限域末端)とブラックボックス(下限域末端)はこの現象(5つの変化)である。

ある出来事の短い期間の出来事に対しても、”今はどの域にあるのか”よく洞察して、その域の特質を駆使して対処する必要があるが、そこでこの「5つの変化」での「三相の論」は適用できるのである。

「流」と「5つの変化」(S字パターン)
更に、俗に言う「ものの流れ」とは、このS字パターン(5つの変化)であると考えている。
この「5つの変化」(下限変化ー微分変化−変曲点変化ー積分変化ー上限変化)として世の万事万物万象は動いている。この「流」を分析すると「5つの変化」が起こっているのである。
しかし、残念ながら、その「流の力」に打ち勝つだけの力を人間には神は与えていない。
だから、”「流」に逆らうと良くない”と言うのは、”逆らわず「流」を理解し適応せよ”との「戒め」である。
その「理解」とは、”「5つの変化」のどの位置にあるかを見据えて、その域にあった動きをせよ”と言う事である。
そして、その変化の特徴の把握にはより確率を高くする「訓練」が必要であるとしている。

このS字パターン(流)は真実摂理であるが故に、消滅する事無く、今まで言伝えられているのである。

「仏法 万物の輪廻」
余り一般の人には知られては居ないが、自然界に存在する「万事万物」はこの法則に従っているのである。
人間の指紋と同じく、その万事万物の特徴や個性を現す手段として、Sパターン(Nパターン)のデーターを採れば現されるのである。特に、この中間点の変曲点を見つける事が、大変難しいのだが、そのものの特長を掴む事が出来るのである。
仏教では、これ程には詳しくは論理的ではないが、この摂理を説いている。これが「万物の輪廻」であろう。
または、統計学で言う回帰法であろう。

「先祖の力:評価の応用例」
余談だが、イチローなどの野球選手などのトップクラスの談話を聞くと、この「匠」と言うか「真のプロ」と言うか、その域(積分変化域)に達した者の発言は、この摂理に従った思考をしている事に驚く。これが簡単に言えば、「プロの思考」条件と言うものであろう。
「5つの変化」の特質を把握すれば、選手が「微分変化」域の者か「積分変化」域の者か「変曲点」域かは判別できる。
素人域の者は「下限の変化」域で見極めることが出来る。「上限の変化」域は破壊であるので、無いか異質者(天才)であると観える。
何でもそうだと思う。テレビの解説者やコメンテーターや政治家や企業家や小説家の言を聞けば、その人物の到達域がどの程度のものかは判断が着くし、信用に値するかは判断が出来る。
私は常にこの「5つの変化」の思考で聞いて判断している。この者がどの域の者であるのかが見極める事が出来ると思っている。
この家訓3に従い余り間違っていない。

「経験則と自然の摂理」
先祖は、「経験則」でこの思考を獲得していた事が頷ける。
昔の先祖は此処までの科学根拠は知り得ていなかったであろうが、イチローと同じく「経験則」から習得した心得であったのであろう。
実は、私はこの家訓3は、現在では科学が進み知識として習得が容易に出来て、自分が納得できれば、自らのもの「思考原理」として用いて訓練(技術屋として)し、人生の生きる術として使う事が出来たが、別の意味で、先祖がこの「自然の法則」を知り得ていたことに驚いている。
家訓として遺している以上、この思考を駆使していたのであろう。
だから、一族家臣を統一させ、事に遭った結果、此処まで青木氏を生き遺させる事が出来たと見ている。この家訓3の理解が無ければ1365年も子孫繁栄は成されず、先ず他の氏のように消滅したのではと考える。
そして、その理解は「経験側」と「仏法の輪廻」の知恵から成したものであろう。上記する自然の摂理に叶っていたのである。つまり、我等青木氏の先祖はこの積分域に到達していたからこそ「主」としての孤独な思考が出来て、「衆生」を導いてき来たのであろう。

「思考評価例」
話を戻すが、この知識を下にせずに、中国の経済成長と単純比較して、”中国は将来日本を追い越すだろう”とする経済学者や政治家がいるが、この摂理の理論で見れば間違いとなる。
その者等の思考域は積分域ではないと言える。
中国のファンダメンタルは外資を頼りに伸びた故に日本より低い。又科学的にもない。
下限の限界能力での評価は、充分な分析史料はないが先ずは3-4%程度であろう。

中国はこの「変曲点」を越え、「積分社会」に入った時点で、その能力は明確になると観られる。それは4ー5年先の範囲であろう。現在は「微分変化」の社会である事には間違いはないだろう。

比例、即ち、「微分社会」が未来永劫続く事は物理的にあり得ない。必ず、歪み(オーバーヒート)が起こり破壊(バブル)する。
その内に、上手く行けば、必ず「変曲点社会」と「積分社会」が起こるが、まして、外資と共産国と他民族国家である。この2つの社会に移れるだろうかハンディはあり過ぎる。
このハンディを乗り越えられるかは、その「微分社会」の比例値の如何に関わる。
現在の「微分社会」は低い値の下限値に影響を受けている事からすると、何か大きな外部からの変革(産業革命のような)を受けないと可能性は低いと観ている。
もし、その影響を起す国があるとすると、多分、日米の何れかであろう。私は、日本であると考えている。
然し、日本も「積分社会」に突入している。苦しいが大きな鍵を日本が握っている事になる。
薬物やガス田などで逆らう中国はこのことを理解しているだろうか。

「積分社会の脱皮改革」

「下限の限界値ー微分曲線ー変曲点ー積分曲線ー上限の限界値」
この世の全てのもののパラメーターを曲線に現すと、「下限の限界値ー微分曲線ー変曲点ー積分曲線ー上限の限界値」に現す事が出来る。(応用物理学ではこれを「Sカーブ」と云う)
否、これ以外のものはこの世にはない。
あるとすると、大変な「世紀の大発見」である。ノーベル賞ものである。現在の物理理論ではエントロピー、エンタルピーの摂理理論に従っているが書き変えなければならなくなる。
つまり、言い換えると、この世の全てのものは、万事万物万象の何事に於いても、「下限の限界値」と「上限の限界値」とを持っていると言う事である。
従って、本来は正しく処理するには、本命である「微分思考」、「積分思考」が要求されるのである。特に、現代のこの様に社会の成長が進めば、むしろこの思考が必要である事になる。
しかし、その思考は遅れているか、時代性で欠けてしまったか、忘れられてしまったかのどちらかであろうが、私は歴史史実から遅れていると考えている。
何故ならば変化率の低い積分域の変化に入っているからである。
それは大きな歴史的事件(戦争の歪み)と、余りにも人間の進歩に対して、万事万物の摂理の変化よりも、相対的に科学的付加価値だけが増大した事に依ると見ている。
思考の意識がそこまで到達しないのであろう。つまり、余裕が無く成っていることを示すのであろう。
これは悪い事ではないと見ている。何故ならば、2000年代の産業革命的な変化の兆しを意味しているからである。
200年前の1800年代の産業革命時代も科学の進歩(科学的付加価値)だけが、同様に増大してたからである。

この様に、もし、人間の能力をこの理屈に当てはめると、成長が進み、変曲点以降、後になる程に「主」は負担が大きい理屈になる。指揮する者だけではない。される者も同じ理屈が適合される。
昔のサラリーマンより今のサラリーマンの方がこの摂理、理屈からしてハードであろう。
更に将来のサラリーマンはもっとハードと成る。例外ではない。
ただ指揮する者とされる者との負担の違いの差がある。イーブンでは無い筈で、だから指揮する者と呼ぶのだろう。同じであれば指揮する者と呼ぶことは同じだからない筈である。

「積分延命策の産業革命」
つまり、此処に来てその指揮能力が行き届かない事件が多発しているとすると、この辺が成長に対して、人間としての能力即ち、「上限の限界値」の限界に来ているのではないだろうか。
「人間社会の発展」に対して人間としての限界に来ている。自然環境も「温暖化」という事から見て地球が駄目になる所まで来ているとする例に示される。
そこで、何かこの「積分曲線」を「比例曲線」(微分曲線)に変える変化が故意的に起こさない限りに、この摂理は変わらない。それは温暖化の行く末に似て暗示している。

例えば、人間の知恵を最大限に伸ばして生き延びた「産業革命」のような出来事が、この世に再び起こらない限りに於いて「積分変化」に入り、延長は無くなる事を意味する。
一部に、医学界のES細胞や量子集積回路(CP)や宇宙産業の分野にその片鱗が見えてはいるが。さて、これが彼の産業革命のようなものに繋がるものか疑問点もある。
というのも、温暖化の「地球の存続」の問題や、上記の「科学進歩の片鱗」の偏り(日本アメリカに限定されている)はそのけん引役の「日本の積分変化」の社会に打ち勝つ事が出来るかに掛かっている。
そして、それは、この家訓3の意味するところの思考に、昔にあった思考の社会(微分社会)の蘇りが起こり、日本社会が入れるかにあると観ている。
しかし、兎も角は、時代は続く限りに、組織の「主」は依然として務めなくては成らない。
限界の「主」として務めなくては成らないのだから、この家訓3の昔の「主」と違い、更に上記する思考の革命に戻れるかにあり、その多くは「主」としての適格性を問われる事になると観ている。
この「限界社会」での指揮する「主」に課せられる思考(微分積分思考)はこの家訓3の意味する所となる。

「衆生の論」と「三相の論」(積分思考)
昔であれば、「微分社会」の緩やかに「人、時、場処」を思考していた指揮する姿は、「積分社会」の限界の時には、「人、時、場処」を思考し綿密に指揮しなければならなく成る事を、この家訓3は示すものである。
それだけにこの「三相」の重要性が増す事を意味する。
そうすると、当然に、この「三相」の理解の仕方如何に関わる事になる。
昔であれば、一次一局の単純明快な勧善懲悪で考える「三相」が、複雑極まる善悪で「三相」を考えなくては成らない。
況や、「微分思考」と「積分思考」(下限の限界値と上限の限界値)、更に「変曲点思考」の考察が要求される。

この様に、今はマスコミなどでは、単純思考(微分思考:二次元思考)即ち、「衆生の論」でものを評価思考しているが、今の社会では、正しく、且つ、間違いなく処理するには、「変曲点思考」や「積分思考」でものを判断する力が必要になると、平易な表現ではあるが、口伝や遺蹟文面から解釈すると説いている。

西郷隆盛は「女子と小人は養い難し」(衆生の論)と同じ事を言い遺している。
明治初期から観ると、江戸期3百年の安定期は積分変化の社会であったと観られ、その後に上限域末端期に入って日進日露から始まり第2次大戦等の戦争状態となったと見られる。
その直前の西郷隆盛は、この明治初期の時代(積分社会の特徴)の「衆生の論」に遭遇したと観られ、時代の「主」として苦しい孤独の立場に追い込まれてこの発言となったと見られる。
この言葉で通ずる様に、この時の西郷隆盛は「三相」(三相の論)をベースとする「5つの変化」の変化毎の「三相の思考」で判断していたのである。

この事は此処で言う家訓3が今にも通ずるものであると考える。

「正しさ」の理解
そこで、この上記の思考原理で行くと、問題に成るのは「正しき行為」とは何ぞやとなる。この理解に関わる。
普通の家庭として観た場合に、「衆生の論」である一次一局の感情的「勧善懲悪」だけを意味する「正しさ」では無く、子孫を遺し、滅亡を避け、「生き抜く」という目的に向かって、それが達成されたとき、その行為は「正しい」とする事を意味しているのではないか。

現代社会に於いて、「社会の付加価値」が進み、人の成す「行為と行動」は変化して、一次一局の「正しさ」は必ずしも、誰でも、何時でも、何処でも「正しい」と言うことでは無く成っている。
その事が社会の物事に増えているのではないか。

”「悪さ」がむしろ「正しい」という事の方が結果として良い。”と云う事象が多く成っている気がする。
「衆生の論」の一次一局の「正しさ」は「間違い」とは云わないが、「悪い」と云うことが多く成っていると考える。
この判断力は「積分社会」に入れば、その変化率の低さ(一つの事に敏感)から益々増大する筈である。
(微分社会では変化率が大きいので、少々のことも吸収して増大する勢いがある)
簡単に云えば、「積分社会」においては、その吸収力のキャパシティー(上限の限界値がある為)が小さいので、”「主」が思考する「正しさ」とは、「一次一局の感情的正しさ」であっては成らなず、摂理「5つの変化」の見極めの思考と「三相の論」であるべきだと”という事であろう。

(仏法「三相の論」は、「衆生の論」を対比させてのものであるので、この摂理「5つの変化」見極めの思考を含んでいる事にも成る)

これは、情報メディア−が取るどんなアンケートにも現れている。”どちらともいえない”と云う回答が30%以上を常に占めていることである。これは”「一次一局の正しさ」では判断できない”と応えているパラメーター(証拠)であろう。
この様に、「衆生の心理思考」が知らずがともに、「積分変化」の社会にある事を無意識の中で変化して来ている事であろう。
この傾向の増える事が、”衆生の多くは積分思考に入った”と認識するパラメータと観るべきであろう。
私は、誰でもが同じ方向を向いている「微分社会」よりは、「摂理理論」でみれば、この方が良い傾向に日本の衆生意識は傾いていると見ている。

上記のような列記した歴史的死闘事件や戦乱や、はたまた「伊勢一向一揆」や「三重大一揆」の紙屋青木長兵衛の背後での関わりを、勧善懲悪論で「悪行」とするのか「正行」とするのかは、その思考の如何であり、「衆生の論」の一次一局の思考の表面的な評価より、「三相の論」(摂理5つの変化含む)の人の営みから観た綜合的(多次多極)な評価が要求される事を意味しているのである。

その時が良くても、結果として、弊害になるという事はそれは正しくなかった事を意味する。「三相の論」を元にした「判断力」とは、この事が大事であるとしている。
これが直接的に戦い生き抜いてきた者が成し得る思考であろう。

究極の全ての「良悪の評価」は「子孫を遺す」と云う人間の目的を成し得て初めて意味を成すものである。
子孫が滅亡しては良し悪しどころの話ではない。人が居てこその「良悪」である。
それでなくてはこの長い年月を子孫を遺して生き抜いてくる事は不可能である。
判りやすく云えば、若干の誤幣があるが、「机上の論」や「学者論」、砕いて云えば「お手繋いで幼稚園の論」や「ホームルーム論」や「耳ざわりの良い論」であっては成し得ない事を意味しているだろう。
(現在のマスコミはこの傾向が強い:「衆生の論」)
従って、この「主」の意味する所の指揮能力、即ち、換言すれば重厚な判断力を保持する者でなくては成らないのである。
しかし、この場合はこの思考が下の者にも共通する思考ではないことを心得るべきとしている。

つまり、当然に「主」として此処に含まれるものは、「孤独な思考」であり、それに耐えられる「精神力」が要求される。
そして、衆生は安易なその場だけの「勧善懲悪論」である。最終的で複合的な目的の「良悪」論では決して無いことを知るべきであるとしている。
決して、「衆生の論」ではないことを意味している。そして、これを成しうる事が出来る者が「主」であるとしている。

「主」の質は「三相」の訓練
そこで、何故に、「衆生の論」では「主」ではないのかと言う疑問が出る。
それは、思考の中に「三相」の有無が左右していると云うのである。
つまり、「衆生」は兎角、「人間の性」、即ちその場の「感情的思考」に左右されての論であるからだ。感情論では瞬時的なもので、上記の混乱の中から生き延びてくる事は不可能である。
「感情的思考」はその感情を越えることが起こると人間の脳の思考は止まる。況やパニックである。これでは子孫を遺す事は出来ない。
そこで、”「主」とする者は、「人、時、場処」を総合的分析して、その事に対して瞬時に思考できる能力を着けよ”としている。しかし、”その「主」の質は直ちには得られず、「主」としての「訓練」に委ねよ”としている。

例えば、上記の様な「5つの変化」の中の戦乱の中で、”「人」は適切なのか、「時」は適切なのか、「場処」は適切なのかの3つの要素を考え合わせて、結論を出せ”としている。そして、”その思考を常とせよ”としていて”訓練せよ”としているのである。
これが「主」としての資格であり、この訓練のできる資質の有無があるので、出来ない者は「主」と成ってはならないとしている。つまり、資質のない者が「衆生」であるとしている。

そして、「三相思考」を、それは「衆生の思考」(感情的思考)ではなく、上記の「孤独な思考」を導き出す”「正しき行為」の基準とせよ”としているのである。
これを獲得できる「主」は「人としての目的」を達成し続ける事の出来る者であるとしているのである。

「積分変化の現代」
現在の世の中は、上記した「積分社会」の中で、この「主」としての資格を保持していない者が組織の上に立っている事から、物事に行き届かない社会現象が生まれているのであると観ている。
これが、「微分社会」であれば、その「成長出力」が強いことから、これでも「主」の資質の無い者でも何とか成る程度の社会である。
私は、現代は、「積分社会」と観ていて、人としての「資質の限界」に来ていると観ている。
それは「積分」に「相当する進歩」と「科学的付加価値の急速な増大」で起こっていると観ている。それを越える者が少ない事を露見している。
故に、この様な環境の中では、無意識的に起す人間の性(さが)で、無難にこなそうとして、人は、組織の「主」として選ぶ方法を自らの仲間うちの「仲良しクラブ」的選択から選ぼうと走る傾向が強くなるのが自然である。それが現代社会の歪みでもある。
「主」としての資質のある者を選ぼうとしていない社会となっていて、頻繁に倫理に欠ける事件を起しているのであろう。
「微分社会」では、社会の中に主としての「潜在的資質」を保有する者の量で、充分にこれに対応できていたが、しかしながら、「積分社会」では、、「主」条件の”その思考を常とせよ”としていて”訓練せよ”の事のより強い「訓練」をより要求される社会と成っていると見ている。
現在の日本は、その「微分社会」と「積分社会」と混在し、「積分社会」にやや入って変化して行く基点域(変曲点域)かやや入ったところに来ていると観ている。

故に、この家訓3の意味する所が大事となる社会と成っていると考えられる。
これは、企業の中や社会の中での指揮する立場の者に要求される資質であるとしている。

家訓3は青木氏の家訓として遺されているので、その生活環境と子孫の存続の範囲としての維持訓に過ぎなくなっているが、現在社会にも適応される大切な思考ではないかと考えている。

「結論」
纏めると、何はともあれ、家訓3は、”「主」としての「資質の確保と訓練」を怠らず、その基点となる「正しさ」は「衆生の論」に左右されず、多次多極での実質的正しさを極め、その思考は「5つの変化」の夫々の特質に対応して「人、時、場処」を以って事に当り処理せよ。”と説いている。
さすれば、”本来のあるべき適時適切の正しさが求められて、人本来の人生の目的の幸せは確保できる”としている。
そこで、”その思考の原点を「自然摂理」に基づき、「下限限界ー微分思考ー編曲思考ー積分思考ー上限限界」(5つの変化)に求めよ。”としている。
”衆生の所以でないが為に、「主」は孤独である。故に、この思考と共に「訓練せよ」”としている。
”その質に在らず場合は、「主」に留まらず速やかに辞せよ”としている。

家訓3に付いては、「結論」に示す通り、「事の処理」に対する思考原理で、重心を下げた「自己形成」の基盤となると考える。

注釈
伊勢青木氏家訓10訓は、祖先の時代に交流があり、同じ境遇にあった観られるところから、共通する5家5流の家訓とも考えられる。
この家訓は伊勢青木家の口伝と先祖の忘備禄なるものに伝え書かれた説明をもとに解釈し、筆者が現代の自然物理学の摂理とその経験で習得した同様の論理を加えてより判りやすく説明したものである。

この「思考を獲得」して「自己形成」により「時局」を違えず、「人の幸せは一定で絶対値があるの論」(青木氏の幸せの論)から「幸せ」を減少させる事は少なくなる。即ち、「幸せ」多く確保する=「子孫繁栄」の理屈が生まれる。
この「幸せ論」は別の家訓10で説明する。


参考
青木城は江戸初期まで伊勢には次の所に戦いの拠点となる館や山城や平城を含めて城があった。
戦国時代や信長の三大伊勢攻めで多くは消失した。
柏野、柏原、名張、伊賀、脇出、松阪、滝川、青蓮寺、中将、羽津、浜田、蒔田、福地
但し、藤原秀郷流青木氏の須賀川城(青木玄蕃)、信長の丸山城(信雄)などもある。

以上 次は家訓4である。
No.1290
 引用付き返信 | 返信 | 削除 | 管理

Re: 伊勢青木家 家訓4
副管理人さん 2008/06/29 (日) 14:18
伊勢青木氏の家訓10訓

以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。

家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

今回は、続きにより家訓4とする。

家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。[性(さが)の定]

(性[さが]とは、”男女の神から与えられた逃れ得ない異なる思考の差異の様の宿命”と定義する)

[序]
最近、社会では男女間の思考の違いが発展して争いが起こり、「不幸な出来事に」繋がっている事が多いと考えられる。多くはこの思考差の違いの無理解が起因していると見られるが、この家訓4は理解を得て、この解決の一助となればと敢えて多面的に検証して長文とした。
この家訓4の内容の事は、現代に於いては科学的に証明されているが、明治以前に於いては未だ解明されていなかった事である。(家訓2で概略を記述した)悩める若者に対して先人の教えとして漠然と言伝えられていた程度の訓であっただろう。
しかし、この青木氏の家訓4は「先人の教え」程度のものをもう少し掘り下げて仏教的意味合いも含めて「人生訓」として遺されて来たものと観られる。
そこで、この「家訓4」が摂理であるのかどうか若い頃に研究に取り掛かった。
動物進化論、脳医学、精神医学等の雑学の関連書を長い時間を掛けて読み漁った結果と、自分の体験則と合わせて未来の子孫に判りやすく家訓論に添え書きとしてまとめて観た。そうすると家訓4の理屈の内容がほぼ一致して納得出来たのである。
その結果の概容を取りまとめたのが、次に記述する検証結果となる。
先ずは雑学論で有る事をご理解頂き、それを、早速、次に論じる事とする。

「性」の検証
人は、進化して知恵を持った事により問題が起こると、人の脳は、「計画し、目標決め(取りまとめ処理)し、実行する」という「3つの働き」を瞬時に、「無意識」の中で行う仕組みと進化した。この脳の働きにて、より「性」(さが:以下”さが”とする)の進化は進んだ。
その進化の結果は上記の「性(さが)の思考」へと成った。
この男女個別の「性」の進化が起こり、「体の仕組み」、「心の仕組み」とその二つに付随する「仕種の仕組み」に決定的な変化が起こり、個別の働きをする様に進化したのである。そして、その結果、脳の一部にこの個別の「性の働き」を管理する「脳」が発達し出来た。それが「脳幹」の後ろ左にある餃子のような形をした「脳陵帯」であり、「管理脳」として独立したのである。
この「脳陵帯」が存在する限りに於いて、男女の上記する「3つの性」(体の仕組み、心の仕組み、仕種の仕組み)は管理される。その事で、「性」は絶対に逆転する事は無く成ったのであり、恒常的に多数子孫を遺す事が出来たのである。(他に、男性のみに左脳の一部が「中紀帯」と言うものに進化し独立脳が出来た)
この「体と心と仕種」を支配する脳に依って、男女の「深層思考の原理」では、夫々の「生きる目的」は同じでは無くなり、別目的を果たす「性」として決定付けられたのである。
そして、その思考(脳)の基本的経緯は次の様に変わったのである。

[基本経緯]
生物は神から「二つの性」に対して「子孫を遺す事」を主目的としてこの世に「生」を受けている。その子孫を遺す「目的要素」を二つに分離してその役目(男と女の性)を夫々に担わせたのである。そして「体、心と仕種」(3つの性)を管理する「脳の働き」(無意識の思考)にもその目的に合わせて変化を与えたのである。それが「深層思考の原理」である。
基本経緯の一つとして、この原理を理解するには先ず「進化の過程」を紐解くと事が必要であるとする。

「性」の「進化の過程」
ではその「進化の過程」を概略に辿って観る。
進化の過程として、この世にミネラルを持つ海に生物が生まれ、特に、動物の単細胞として生まれた「ミトコンドリア」は、動物性プランクトンの様に、他の動物の格好の餌食と成り、子孫を多く遺せない定めを負っていた。現代も昆虫類に見られる仕組みの様に、それは一つの体の中である環境において突然に「性の転換」を起し繁殖して子孫を遺す仕組みであったからで、生きることでの利点はあるが、他の生物の餌食に成る事は両性を無くす事に成り子孫を遺す事に不利であった。
そこで、「ミトコンドリア」はその「生存競争」に対してより確実に子孫を遺す為に進化を起し、次にはミミズに観られる様に、繁殖期に於いて一体の半分を「他の性」として「性の合体」をして一体と成り強くした。しかし、結局、これも競争に負けると「2つの性」を同時に無くす事となり、返って単細胞以上には子孫を遺す事が出来なかった。
そこで、「性の転換」「性の合体」の進化過程の極めて長い期間を経て、再び、どの生物にもある「生存本能」により、今度は夫々の子孫を遺す「目的」に合わせて分離して、それを「2つの性」にして「性の分離」方式とし「2体化」させた形で再び分離したのである。その事で、片方の「性」のバランスが生存競争に負けて大きく崩れても、全滅を防げれば、この中からも片方の「性」の一部が遺せる限りに於いて、交配にて他方との性のバランスを保つ事が出来る様に成り、絶滅を避けて生き遺す事が出来た。この仕組みが爆発的に子孫を拡大する事が出来る事と成り、終局、多くの動物、生物に観られる様に、これが最も「生存に適した進化」へと繋がりより「2つの性」はより発達した。
「2体化」とする「2つの性」である「性の分離」方式のその証拠には、動物の身体下部の「生殖機能」の「形状」では、その部位は全く同じである。その形状の機能もほぼ同じである。
男性(凸)が持っているものは女性(凹)にも持っていて、それが、凸に突き出るか凹に下がるかの差だけなのである。人の種は、女性(凹)の生殖機能部位より入口より9C程度の内部のところには親指1.0C弱程度の凸器官(医学名も同じ)を保持し、その周りに保護皮膚が覆っている形である。この凸器官が突き出れば同じと成る。同様に内外部の違いで卵巣精巣も同じである。異なる所は子宮の袋の存在だけである。
これが「性の合体」方式から「性の分離2体化」方式への進化の証拠(なごり)である。
又、これは「性の転換」方式でも、猿系には「なごり」の機能として存在する。その「なごり」は精子が卵子に進入後、細胞分裂が起こり、その40日後に突然、莫大なエネルギーを発しアルカリ性反応(海)を呈し男女の「性の決定」が起こる。
これは「ミトコンドリア」の2つの「性の進化の過程」即ち、「性の転換」と「性の分離」の「なごり」が遺されているものである。
その「性の転換」「性の合体」「性の分離」と過程を経て発達した「2つの性」はその知恵を以ってより安全な場所へと移動する事が出来、遂には、海と陸との間で生きられるように成り、これが「環境と適応機能」を発達させて順応して両生動物として進化と発達を遂げた事に成り、この域での天敵の減少も伴い大爆発的に繁殖が起こった。
進化した「ミトコンドリア」の原始動物は、この時、海に生存している時にはその必要性は無かったが、生存し続ける為には陸付近では海に居た最低条件(ミネラルの補充)を維持する事が必要に成ったのである。
ところが、この段階では未だ、「脳」と云う独立した機能帯は無く、「脳」で管理する部位の進化は大きくは起こっていなかった。この時点では現代呼称の「腸」が管理源として働いていたのである。つまり、現在に於いてでも、その「なごり」が厳然として遺されている。
人間に於いては「脳」は「腸」を管理していないのある。今だ「腸」は独自の「脳」に匹敵する管理力を保持している。つまり、余りにも大きい進化と発達の為に「腸」の一部が管理力を独立させ「新たに進化発達させたのであり、「体の機能の部位」を管理する「独立帯」を創造したのである。
これが「脳」なのである。但し、この「腸」より独立した「脳」で管理する「体の部位」には「海の条件」を保持させる3つの要素の必要性が起こった。
それは、先ず自らの独立した「脳」の機能を働かせる為にNaイオン(キャリパー)の補充を必要とした。次には、その「独立脳」で管理される「体の部位」への「栄養の搬送」とその「体の部位」を保持する「骨格」を維持する為にCaイオンを必要とした。
更には「独立脳」を働かせる為の栄養源(Naイオンとエネルギー)を含んだ搬送液(血液)が必要と成り、その為に「脳」はポンプ役としての「心臓筋」を働かせる為の刺激の電気信号を送り、刺激反応を受けるMgイオンを確保する「3つの進化」が必要と成った。
この「3つの進化」の「3要素」を陸で補充し確保する事で、大きく進化を起し長期に陸に上がる事が出来たのである。これらは所謂、海に居た「なごりの機能」である。この脳の発達に伴ない「3つの栄養源(NaCaMg)」を分解する酸素を供給する「肺機能」も発達進化したのである。この両生期の名残として肺機能を持った海洋動物は現在でも沢山存在する。
この様に、「腸」から「独立脳」へと進化し「ミネラル」の3要素の大進化が起こったのである。
更に、この結果で、「酸素吸入力」が増し「肺」「心臓」などの臓器がより拡大し進化したのである。そして、未だより安全であった陸にあがり、子孫を大きく伸ばした。
そして、「進化と良環境」による臓器拡大は、この時点で、陸では超小型「原始ネズミ」の様な小動物から進化分離して徐々に大型化し、その「拡大体力」と「陸環境」の適合に依って進化し得るエネルギーを確保出来て、超小型「原始ネズミ」からその2つに適した異なる分離が起こり多くの「種」が誕生したのである。
機能としては充分ではないが、「生存に適した肺臓等」と「2つに分離した生殖機能」を夫々の種は独特な発達と進化をさせた。より豊かな陸上には、今度はその「環境に合せた進化」が起こり多くの種の動物が生まれたのである。これ等の原始性機能を保持した超小型「原始ネズミ」から性機能を進化させ「原始猿」そして「猿系類人猿」へと進化したここが人間の単純な性機能の原点(基点)である。

「性の基点」
この時、「腸」から「独立脳」と進化した単純な管理をする「脳」は、更に、この家訓のテーマである「性の進化」へと発展して行った事に成る。「腸」を進化させ「独立脳」を保持して発達させ陸に上がった両生動物は、超小型「原始ネズミ」へと進化したのである。
その「原始ネズミ」の「なごり」として特有のものを保持している。それは、現代でも「三角耳」が原始猿等に観られる様に、人間にもその丸い耳の頂上部位の最上部に耳が尖っていた跡形が1箇所5ミリ程度のものとして小さく存在する。これがその名残の証拠なのである。
又、馬などはこの「原始ネズミ」が環境に適した形で大型化の「突然変異」が起こって生まれたもので、これが種として拡大したものである。所謂、「突然変異による進化」した「原始ネズミ」の直系子孫である。つまり、平易に云うと、「馬」と「人」は猿以前のルーツは親類であった事に成る。
これより、爆発的に増殖した種の動物は、陸に於いても夫々の生存競争が激しく成り、ここでも弱い小型猿類と成った種は、食の豊富な森から、食の欠乏と危険が多くある見晴らしの良い平原へと追い遣られた。ここで止む無く危険を察知し易い様に、より高い視界を得る為に「2足歩行」が始まり、目の位置は物体を立体的に捉えられる様に平行の位置に移る様に進化した。その結果、この二つの事で「脳の集約性」が高まり、他の動物に較べて急激な「猿類の進化」が始まった。
特に、他の動物に較べてその「脳の進化」、即ち上記の「性の分離と進化」の継続が続き、それに伴なう「2つの性」の完全分離の進化が起こった。
結局、「増大化し繊細化する性」の傾向に対して、「脳」はそれを「管理する独立した脳陵帯」というものを拡大創造したのである。そして、より確実に子孫を遺す仕組みへと進化した。
この「増大化し繊細化する性」から来る情報量と合わせて、リンクして「感情」と「理性」を司る「前頭葉」「側頭葉」が発達拡大し進化したのである。
当然、そこで起こる記憶を収納する部位の左脳には、この著しい「増大化繊細化」の「情報の収納化」が起こり、その記憶量に基づく「脳」はより「性の進化」と「性の分離」と「性の整理」をして進めたのである。
必然的に、その情報の種類は、「脳陵帯」に管理されて、夫々の「性」に由来する物が多くなり、結果として「脳」の整理方法は「3分轄の方法」と進化して、「体系化」が起こった。
その「体系化」、それは「計画的」な「基本思考」と、「処理的」な「標準思考」と、「実効的」な「現実思考」とに、3分離されて記憶保存する形(3段階の体系化)へと進化したのである。
当然に、女性はその「性の目的」から「感情的な情報量」が多くなり、必然的に「感情主観」を中心として「3段階の体系化」が成され、男性は「性の目的」から「理想的」なもの即ち「合理主観」を中心とする様に「3段階の体系化」が起こった。
ここで、この「脳陵帯」に管理された情報の「3段階の体系化」で、男女の思考原理が完全分離したのである。
生物に於いて、特に動物に於いて、この体系化の緩やかな種では思考原理の分離も緩やかになり違いが少ないと成ったのである。「脳」の変化要素(増大、拡大、発達、進化、変異)の差異、即ち「知恵」の差異で、この「思考原理」にも差異が生まれた。脳の変化要素の最も多くなった「猿系の人」はその最たるものと成ったのである。

更に、人間には、他にその最たるものとして、より優れた「独立脳」を創造させた。
陸に於いても海と同じく危険性は極めて増し、今度は「体の機能」からそれを「脳の進化」で対応したのである。「脳の進化」の最もその増大し拡大した左脳の「線状帯」の中間部に、「未来予測」する機能を持つ「中紀帯」という部位が、進化分離し「独立脳」を造り、それを進化させて「男の性」を守る為にだけに独立して出来上がり発達したのである。
当然、頭部も、目と耳と鼻と口と皮膚から入る情報源を管理し記憶する為に、「連鎖反応」が起こりその「五感の機能」は進化発達した。その結果、運動量も増大し、頭部は「大脳」を含めた「脳の拡大」が起こり、左右前後に拡大し大きくなった。
ところが、この時、「進化」に伴ない「退化」が起こった。
上記の「情報量と左脳の進化」がある一つの「原始機能」を低下させてしまったのである。
それまでは、額の中央部の「前頭葉」と連動する予知機能としての「第3の目」」(原始動物に存在する「複眼機能」:「テレパシー機能」)を発達させていたが、「前頭葉」と「側頭葉」が拡大するに従い、「前頭葉」の真後ろに追い遣られて「脳幹」の前の下側に小さく存在する事に成ってしまった。そして、必然的に奥域に移動したその「第3の目」の必要性が低下して、何時しか機能は低下したのである。それまでは、特に、女性はこの機能を「2つの目」と連動して「感情と理性」を司る「前頭葉」と「第3の目」」(複眼機能)を使って、その「性」(子孫を育てる)を護っていたのである。しかし、ある時期から、上記の進化と人間社会に起こる知恵により、科学による付加価値の増大が起こり、その奥に追い遣られた「第3の目」(複眼機能)は必然的に機能低下が起こった。
現在に於いても、この「複眼機能」を連動させられる「深層思考(感情)」を持つ女性に限り訓練すると、その能力をある程度まで復元出来る能力を未だ持っているのである。
女性にはその差はあるが、「テレパシー性」が強いのは、この「第3の目」の「複眼機能」から来る「なごり」ここから来たものである。
ところが、「感情」の精神を一点(元複眼のあった額の中央上)に集中させて「2つ目」と「前頭葉」と、この「脳」の奥の未だ死んでいる訳ではない「第3の目」との間にアルカリ性のNaイオンの「キャリパー」を飛ばし、「神経細胞」を繋ぐ訓練をする事で、神経回路が復元できて退化したこの「複眼機能」を復元出来る事が判っているのである。
古来から、邪馬台国の卑弥呼やこの占い師の巫女などの役目は女性が行っていたのはここから来るのである。迷信的なことではなく根拠あるもので、このトンボや原始的な動物に未だ存在する「第3の目」」(複眼機能)を使った能力なのである。
そして、機能低下したのはそんなに古い時代では無いのである。紀元前後はまだこの能力を保持していた女性は多く居たのである。
”原始的な方法として「占い」で全てを見極めていた”として、現代に於いて、その行為を現代的な視点から観て軽視する傾向があるが、実はこの様に「複眼機能」が未だあった事での自然な社会行為であった。この様に化学的根拠はあるのであるし、今だ、女性が占いを信じやすい事や、この詐欺まがいなものに騙されやすいのは、まだこの「なごり」が「性の遺伝子」の中に、左脳の記憶の中にあるからに過ぎない。
男性はその「深層思考」が「合理主観」に左右されているので、この様なものには納得しない傾向があり、従って、この「第3の目」」(複眼機能)は著しく低下、又は消滅に近い事に成っている。
その機能を「左脳データ」を使っての別の「中紀帯」の進化過程を採り、発達させた事による低下(退化)なのである。
ところが、最近は、科学の付加価値の増大による障害(ストレス)に依ってか、男性のこの「中紀帯」の活用の低下が起こっていると云われていて、この機能を活用している個人差が大きいとされている。男性の特有の未来を見据えた機能、即ち「性」が低下して、場当たり的な行動(フリーター、女性化)の様相を呈しているのはこの為であろうと考えられている。
男女に於いて同様の事(退化)が起こっている事に成る。
男性にはこの「中紀帯」、女性には「第3の目」の機能が存在し、その「訓練と活用」が必要となる。況や、「訓練と活用」の如何ではより「退化」へと進む事になる。
その事からすると、女性はその「性」の目的の「子孫を育て護る」という手段機能を一つ失いつつある事を意味する。科学進歩により護られて「第3の目」の必要性が低下して、機能低下が起った事であり、これも明らかに「科学の付加価値の増加」による弊害(ストレス)とも云うべきものであろう。
「性」と云う観点から見れば、「母性本能」の低下で、これも場当たり的な行動が目立ち、結婚願望の欠如、離婚、男性化などの様相を呈しているのもこのためであろうと思われる。
所謂「科学に適応した進化(退化)」であり、現代は未だその途中であろう。

「性」の「進化と退化」
事程左様に、上記した過程に示すように「生存に適した進化」と「環境に適した進化」と「科学に適した進化」による3つの「性の進化」は何れに於いても現代2000年代には例外では無い。
「家訓3」でも記述したが、直近の1800年代の「産業革命」をきっかけに、再び下限域から「Nパターン」のサイクルは繰り返されて、約200年毎に起こると云われている「Nパターの摂理」は、200年後のこの2000年代には積分域と上限域に既に到達しているだろうと考えられる。
その現代に於いては、そして、更なる「科学の付加価値の増加」は起こるだろう事が予測出来る。
それは集積回路(コンピータ)の論理的な進歩が起こり、特に更なる「時間の進歩」が起こるだろう。当然、それにより歴史に観る「進化と退化」は起こると観られる。
依って、女性の「性」の目的「子供を育て護る」と云う事で「育てる進歩」と、周囲の「時間の進歩」の差異が生まれ、上記の「テレパシー機能」とは別に、更に「性」の手段機能の一つの機能の低下を起すだろう事が予測されている。
その一つとして、「時間の進歩」の一つの現われであるファーストフードの様に、作る事無く何でも既に揃っている「食の進歩と進化」の時代により、女性だけが特別に保有する「育てる機能:乳房」の一つが低下するだろうと言われている。現在もそれが進んでいて、その「対の目的」は低下して傾向として対の片方が縮小していると云われている。これは体の一部の変化であるが、これに伴なって「心の性:本能」、つまり、その「母性本能」の低下と欠如が連動しているのである。その為に、最近、この「母性本能」低下欠如の事件が多発している。
女性は、その「感情主観」の「性」を持つ為に、「科学の付加価値の増加」のストレスに敏感に反応する。この事と合わせて、「退化」はこの原因である「性」の働き(3つの性の一つの「体」部の低下)からではと見られている。 
それに較べて、「中紀帯」があるからとしても、男性には、複雑でスピード化してより尖鋭な「合理思考」が要求され、且つ、その左脳の情報量より「時間の進化」が早く成り過ぎて、その経験側のデータが間に合わないと云う事が起こる。結果はその思考機能の限界に来ているとも云われているが、より「左脳」を大きくし、「中紀帯」を進化させ無い限りは同じくストレスで潰れることが予測できる。
現代ストレスにて女性と同様に、過労死の社会問題化しているのもこの現象から来ているのであろう。又、男性の寿命の延長も進まないのである。これは、現代の社会現象である自然を求め、自然に帰ろうとする傾向は、「脳」(前頭葉と左脳連動)の中に「性の限界」の「拒否反応」が無意識の内で起こっているのであろう。

「性」の機能の検証
そこで、では、その「性」がどの様に反応しているのか、更に、より詳しく「性」(さが)の機能に付いて検証して見る。
人間は先ず問題が起こった場合には、無意識の内に「脳」は次の3基本動作をする。
その先ず最初に動作する脳の「計画」思考とは、
男性では「理想的」に計画する。
女性では「感情的」に計画する。
この動作は「無意識」の中で行われる。それが出来ると、瞬時に「有意識」となる。
そして、それがまとまれば、再び「無意識」と成り、
次ぎは取りまとめの動作、即ち「処理」(目標)思考と移る。
男性では「理想」を「合理的」に取りまとめて考え動作する。
女性では「感情」を「勘定的」(数理的)に取りまとめて考え動作して「有意識」と成る。
この取りまとめられ動作した思考は、再び「無意識」と成る。
脳の動作は最終の思考として「実行」へと移る。
男性では合理的に「現実的環境」を洞察した上で、思考の行動は「実行」へと移り、「有意識」の中に入る。
同様に、女性では勘定的に「周囲環境」を洞察した上で、思考の行動は「妥協的」な実行へと移し、この段階で「有意識」の中に入るのである。
これが、「脳」が行う「深層思考」の「無意識」の「原則パターン」である。
そこで例を挙げてみると次の様に成る。

 「性」の思考の例
例1の場合
例えば、ある問題が目前で起こったとする。
男性は、その状況を観て、先ず「理想的な形」で解決すべきとして「無意識」に脳の中に描く。
そして、それをその「理想」から導き出される方法として、「無意識」に「合理的」な「解決目標」を引き出す。
その「目標」を達成する為に、周囲の実情を検証し考察して、「無意識」に「現実」の中であり得る手法を採用する。この段階で「有意識」の行動として働く。

文明の付加価値を除いた人間の一場面の問題として観てみると、次の様に成る。
ある男Aが居た。そこに他の部族の男Bが生存競争で直前に襲撃したとする。
男Aは、先ず、脳は「無意識」に働く。そして、先ず、男性は「理想的な形」での最も「戦いに叶う」とする解決方法を思考する。先ず絶対に避けられない生存競争であると認識する。敵の弱点を志向する、そして、衆敵を圧して自らの安全を確保する姿を描く。
次に、そのための具体的で合理的(目標:手段)な危険の少ない「捕縛」作戦を考えるように働く。そこで、それを実行する。行動は「状況判断」(過去と現実を対比洞察)をして、先ず身を隠す、引き込む。捕らえる等の戦術を実行する。そして、自らを「戦い」から護る。
女性は、何とか戦わず仲良くする「感情的な形」を思考する。戦わずして仲良くし犠牲(勘定)を少なくするには、先ず引いて可能の可否は別として、「相手との話」等と考える。そのまとめ方は「損得(勘定)」で計算する。そして、「道義、正義、勧善、懲悪」に拘らず「妥協」してまとめ様とする。
例2の場合
この思考原理の差異で起こる最たる例は「夫婦喧嘩」であろうが、これで観てみると判りやすい。
「計画段階」では、男性は「理想」を描くが、女性は「感情」で事を描こうとする。「理想と感情」では「次元」が異なる。これでは、性格が合うかどちらかが引くかしない限り、余程の事でなくては話は絶対に合わない。そこはどちらかが何とか逃げてたとする。
次ぎは「目標(処理)」の議論の段階と成る。
男性は「論理の合理」で思考する。女性は「数理(損得)の勘定」で思考する。
「合理」と「勘定」とは一見同じであるかに見えるが異なる。
男性の場合は、「理想」に基づく「論理性の合理」である。
女性の場合は、「感情」に基づく「数理性の勘定」である。
「論理」と「数理」との違いである。つまり、論理は縦と横と巾の立体(過去、現在、未来)で思考する3次元性、数理は+(縦)と−(横)の面(過去、現在)であり、+と−には巾に相当する要素が無い為に思考するものは2次元性である。

男性の場合の論理性は1次元多い思考範囲で処理するという事である。
この世の現実の出来事は「3次元要素」に依って起こっている。故に男性の「性」は「現実的な実行」となる。この世の現実の最良の状態を「理想」と描く事であるので、「理想」には中間の思考も最良のものであれば存在する。従って、「理想」のメカニズムは「思考の和」に依って生まれるのであるから、中間は含まれる。故に、思考の「理想」は現実の世の出来事(3次元)から生まれたものである事になる。
この事は、「現世の3次元」と「理想思考の3次元」の次元が一致して「理」が合う事になり、つまり「合理」で決める事となる。
(この事は上記した様に左脳の理想の経験則の記憶収納方式から起こる。)
因みに、この思考の「理想」には考えの個人差が生まれる為、この「理想」とは、「三相」(人、時、場所)の「3つの要素」が、同時に、合わせて、「最良の状態」を意味すると定義されるだろう。

そうすると、「3次元」の3つの要素と「三相」の3つの要素が絡まって思考される事に成る。
つまり、「脳」の中ではどの様に働いているのか、この事を解析してみると、次の様に複雑に働いている事に成るだろう。
「未来」の事に付いて決める議論が及ぶ場合、人間の脳の中では、「過去、現在」の2つの要素に合わせて、「三相」の3つの要素を絡めて思考している事に成る。

方程式であらわすと次の様に成るだろう。
「未来」の決定(C)=(「過去+現在」)*「三相」=「過去の三相(A)+「現在の三相」(B)
解説
「過去の三相」の理想(A)はこの様であった。「現在の三相」の理想(B)はこの様である。
故に(A)の理想と(B)の理想の2つの理想形から、未来の理想(C)は”この様にあるべきだ”と論理的に思考する。
「過去」と「現在」の決定の関係式も代替して同様に式が出来る。

男性の場合は式にすると次の様に成る。
思考関係式 「理想」=3つの対比する「思考の和」 故に「3思考和」=「論理」の構成=「合理」
(「3つの対比」とは「過去の三相」、「現在の三相」、「未来の三相」を言う)

この関係式からも「理想」を論理で描いたものである為に「目標(処理)」はその延長上の「合理」で決める事になるのは当然であり、これが「感情」や「勘定」で処理する訳は無い。もし、そうだとしたら、「精神分裂」とも成る。思考の面では「精神分裂」とはこの様な現象を示す事ではないだろうか。従って、「実行」の段階では「過去、現在」までのこの「世の現実」から来る「理想形」を描いた訳であるから、「現実的」に実行する事に以外には無いだろう。
只、男性の場合には、「理想」の中には「中間的思考」もあり得ると考える思考形態である筈で、故に、「戦略的」に「理想」を叶える為には「妥協」と云う一時的な「戦術」を採る事もあり得る。それも最良の三相「人、時、場所」の条件を整える為には、男性の思考には「現実的」と捉える思考形態を持っている。それは過去の歴史的史実を見てみると判りやすい。
この多くの史実の中で、古来より、この「世の処理」は「6つの戦術」と「3つの戦略」に依って分類されると考えられている。
「世の処理」=「3つの戦略」+「6つの戦術」と成る、その事を多くの人が知っている例として次の事が良く判る例ではと思う。
彼の有名な「諸葛孔明」は敵を「欺く手段」として良くこの手(妥協)を使ったと言われている。だから、敵は”何をするか判らないので、警戒して動かない”と言う行動を採り、良く勝利に導いた。
例えば、「諸葛孔明」が死んだ時、云い遺して、”全ての城壁の城門を開け放ちかがり火を焚けと。”
つまり、「戦い」の 理想の両極の「戦う事」、「退く事」のどちらとも取れないこの策は、軍師の居ない時の「妥協」の戦術である。敵は、結局”、何かの仕掛けであり、何が起こるか判らない”として警戒して引いてしまったのである。これこそ”戦わずして勝つ”の「理想」の戦いの達成である。
「理想、合理、現実」からでは、次にうつ手の戦略戦術は、”将棋の様に次にはこの様に来るだろう”と完全に読める。しかし、これでは軍師ではない。それを「妥協」と云う一時的手段で欺いて、「戦う事」と「退く事」の両極を、より効果的に「理想」(勝利)を導けるのである。
故に、この女性の思考の「妥協」は、男性にとっては「実行の補助手段」と認められるのである。
つまり、男性の「妥協」は「実行の補助手段」であるので、「諸葛孔明」の様に、有意識の中で「戦術の訓練」で補える。

逆に、男性の「現実」を女性が用いるとすると、元が「感情主観」であるが故に、「実行の補助手段」の思考としては「脳」の中で、無意識で拒絶して用い難いものであろう。
あくまでも、この「実行の補助手段」は論理性から来るものであるからだ。
例外的に、女性がこれを思考として用いるとすると「脳」の訓練で左脳に「合理と現実」で創り上げた経験則のデータを蓄積して引き出し、有意識の中で故意的に使う以外に無かろう。
同様に、男性が女性の「感情主観」を利用するとすると、かなり難しいものがあろうが、感情主観の経験則のデータを蓄積して引き出し、有意識の中で故意的に使う以外に無かろう。
あらゆる男性芸術家はこの域の例であろう。只、男性には3次元思考の形体であるが故に、描かれる芸術はより「豊」「深」をもつ事であろうから、芸術家は男性に多い事となるのであろう。

従って”誰でもが”と言う事ではなく例外的ではあろう。ここで云う論処は例外を含めてのものではない。例えば、女性では「6つの戦術」と「3つの戦略」を駆使する女性政治家の様な例外的なものであろう。
同様に、女性は好き嫌い良い悪いの「感情主観」であるので、「感情」には中間の思考は無い。”どちらでもない”と云うものは「感情」では基本的にないので、中間の思考には「感情」は生まれない事に成る。つまり、「感情」のメカニズムは2つの対比する「思考の差」に依って生まれるのであるから、中間との差は少ない。故に、「小さい感情」と成り、左脳の思考の保存には留めないものと成る。
故に、中間を含まない両極差の感情と成り、女性は「2次元要素」と成るのであり、現実の世の出来事(3次元)から一次元を差し引いた思考で主張する事と成る。
つまり、結局は「目標段階」では、結果としては、「思考差」の多い少ないの量的な「勘定」で決める以外に無くなる訳である。
(これは上記した様に左脳の感情の経験則の記憶収納方式から起こる。)

方程式で表すと次の様に成るだろう。
「未来」の決定(C)=「過去+現在」*「感情」=「過去の感情(A)」+「現在の感情(B)」
解説
「過去」の感情(A)はこの様であった。「現在」の感情(B)はこの様であった。
故に(A)の感情と(B)の感情の2つの感情形から、未来の感情(C)はこの様にある筈だと思考する。
「過去」と「現在」の決定の関係式も代替して同様に式が出来る。
ここで、女性の「三相」の取り扱いであるが、基本的には、「一相」(人)と成るであろう。
男性の場合は「理想」であるが故に「三相」の重要度は同等と考えられるが、女性の場合は「時、場所」の「二相」は「感情主観」であるが故に、「時、場所」の二相にはその主観は生まれ難いであろう。その重要度では「人」に較べて低いと考えられる。

思考関係式 「感情」=2つの対比する「思考の差」 故に「2思考差」=「数理」=「勘定」
(2つの対比とは過去の感情、現在の感情、を言う。未来への感情は論理性で無いことから低いと考えられる)
女性には、「左脳域」の未来を予測する「中紀帯」が存在しないのはこのことを証明している。

 性の相違の考え方(三相)
これは良し悪しの問題ではない。この世は3次元で思考しなければならない時、2次元で思考としなくては成らない場合もある。事は「人、時、場所」の「三相」に依ってその最適な処理方法は異なるであろう。だから夫婦の主張はここでも平行線と先ず間違いなく成る。
この「三相」を排除した思考ではどちらも正しいと思い込んでいる。「計画」「処理目標」の2段階の議論も平行であれば、両者の感情はどちらも高ぶるであろう。普通は殆どここで喧嘩となるであろうから話は次へは進まない。
しかし、そこで、無駄であるが、止む無く無理に「実行」の段階に話は移るとする。
男性は現実の環境から洞察して「左脳」から過去の「論理的経験則データ」を引き出し、類似的な「現実的データ」で実行しようとする。
女性は感情に基づく蓄積データの「数理的経験側データ」を引き出し、損得の「勘定思考」に基づき「妥協的」な計算方法を見出す。
「良い悪い」と「多い少ない」では中間の思考差は無い為に、2次元の「妥協」での実行以外に無くなる。例えば、この場合は本来は5:5であるが、感情論を持ち込んで6:4でまとめようとする。
ここでも平行線となる。
男女間の議論は適時適切に正しい判断を導くとすると、「三相」[人、時、場所]によりまとめる以外にはないが、しかし、この仏教説話でもある「三相」の考えは、男性の「論理思考」に基ずくものであって、女性には「感情主観」であるので、「不得手」とするものであろう。
多分、この段階で「感情主観」を超える思考と成り、パニックに近い状態(脳の思考停止状態)となるのが普通であるだろう。
この思考原理から考えれば、女性は「議論」そのものを受け付けなくなるだろう。

「家訓4」は、上記の関係式から、このポイントを深意として誡めている一つのものと考えられる。

[思考の傾向]
この様な男女の思考原理をある一つのものに当てはめて考えてみると次の様になるだろう。
例えば、この「思考原理」で「義」と云うものに対する思考採用度に付いて考えて観る。
この「義」は女性には理解され難い難物である。
男性では、「理想」を描き「合理的」に思考し「現実問題」として処理しようするため「義」が無くなることは論理的に考えれば人間としての「根幹」を失うと考えを重んじる。
人間は、他の動物と異なり、その「差」を「軌範」と云うものを以って「人」としている。
然し、女性では、「感情主観」を求め「勘定的」に思考し「丁度良い具合」で処理しようとするため「義」が人の根幹を占めているとは考えない。多少、「軌範」が崩れても、仲良く傷つかないように成るのであれば、譲り解決しようとし、「義」は思考の「根幹」としては女性は重んじない。
同様に「戦う」「争う」とか云う事に対しては、よりその思考原理の違いは顕著に現れる。
男性は解決する為には「戦う」[争う」も一つの解決手段としては決着がはっきりとする事から必要と考えるが、女性は、女性本能(母性)が働き醜い犠牲のある事を避けて「皆仲良く」とする「感情論」を引き出し、双方が傷がつかない手段として「妥協的」に納めようとするだろう。
結果的には抜本的な問題は解決していない訳だから、「一時的な手段」に過ぎないとして、合理的、論理的に考える為に男性は納得しないだろう。
(注 母性本能は子供が産む前に於いても、「思春期」という急激な経緯(体と心と仕種の変化)を経て以降は、母性本能は基本的に育つ事に成る。同時に女性のこの思考パターンも育つ。産む事に於いて「体の変化」で全て整う仕組みと成っているのである。)

男女の性を決める脳の「継電機能」
女性の性の代表的なものとして、「母性本能」がある。この医学的メカニズムは、次の様に成る。
「前頭葉」や「側頭葉」に対して、マイナス電位0の地球とその人の身長差分だけの電位が「脳幹」に働き、その結果「電源」と成った「脳幹」から発した電気信号は、回路となる「脳神経」を通じて流れ、「前頭葉」や「側頭葉」の直前で、この部位との神経の繋ぎ目にNaイオンから成るアルカリ性のキャリパーという呼称の液体が飛ぶ。この液体の+Naイオンに電気信号が載り、「前頭葉」や「側頭葉」に繋がる。通常は通電0.2秒間程度である。しかし、女性は一般的にこの通電時間が長く約2-3倍程度であり、この通電時間が長く繋がった状態に成るのが、「感情」の最たるものの「母性本能」である。「母性本能」は産む事だけで起こるとは限らず、それに近い状態の刺激が起これば通電状態と成り、「母性本能」は発生する事と成る。だから女性は、幼子でも、男性より「可愛い」と云う感情をより示すのはこの通電時間の長さに起因する。
他に、「うつ病」はこの繋がった状態である。次第にリードする神経が疲労し、「脳」も通電状態と成っているので、エネルギーが莫大に必要とし、それを補う為に、栄養素や、Naイオン等のミネラル分を多く必要となる。これは無意識の中で起こる現象なので、自己の意識能力では直せない事に成る。外部から電気信号を切る手立てを考えなくては成らない。最も良い方法は「環境」を変化させてこの信号を切るのが効果的である。
電気回路学では「自己保持回路」と云う方法である。別の神経回路から信号が入り、回路は目的とする負荷の脳の感情部を繋ぐ。するとこの刺激でこれと同時に感情部から自分で神経回路を作り、元入って来たの所に繋いで感情を維持させる方式である。元来た回路信号のON−OFFに関係なしに保持されてしまう方式である。
女性は男性に較べて脳医学的ではなく電気回路学的にも、この回路方式を強く持っている。だから「感情主観」が主体と成るのである。
女性は「感情主観」を原理としている以上、この現象になる可能性が高いのである。逆に言えば、この機能があるから、「感情主観」の証拠と成るとも云える。
男性では、これではその男性の「性」を達成できない為に、「側頭葉」で感情を抑える機能が働き、この自己保持回路の現象を出来る限り防いでいる。
「戦いの殺戮」を平然としてできるのは、この「抑制機能」が働くので、出来るのである。女性はこの「抑制機能」が無い為に「戦いの殺戮」等の行為は出来ないのであり、必然的にも、「体」も必要が無い為にそれに順応して筋肉質ではない。脂肪質である。男性はこの逆である。
ところが”男性のうつ病は何故起こるのか”と言う疑問がある。
回路としては同じ自己保持回路である。
しかし、ここで違う点がある。それは、男性の場合は同じ事を何度も繰り返すとその回路の保持状態が容易に成る。つまり、同じ事を悩んだりすると、何回もこの回路が入る。癖に成る。最後は自分の脳で事故保持が切れなく成る。これが男性の「うつ病」である。女性は「感情」の思考原理から、この回路が入る事を「性の機能」(産み育てる)として「心と体」の機能を維持するために本来出来ている。
もし、女性がこの自己保持回路の状態が「性」以外の所で起こったとすると、「妥協」と云う手段でこの回路を外す思考原理を持っているのである。その問題が合理的に完全解決にならずとも「妥協」という手段で逃げられるように脳の機能は出来ているのである。
男性から観ると、女性のこの意味の無い日常の「しゃべくり」がこの最たる行為であろう。この「シャベクリ」が「うつ」を抑える役目をしている。
男性のこの「うつ病」は厄介である。
「妥協」は解決もしていないのに、”中途半端で済ますのは卑怯だ”と男性は考えるだろう。それは男性の考え方であり、男女の共通の思考ではないのであり、「正悪」(性悪)の問題ではない。
それは、その様に「神」が創造したのである。文句をつけるのは「神」に文句をつけるが如くであり、人間として不尊そのものである。
男性の場合のように「論理、合理」とすれば、その問題の合理的に解決しない限り、回路は外れない。

「戦いの例」
男性にとっては、次ぎの様に考えるだろう。
この2000年の有史来、感情的にはそうあって欲しいが、「仲良く」で解決したものは無いし、「戦い」は常に起こっている。人間の生存競争はそもそも「戦い」である。種の「民族」がある限り民族間利害が起こる。「利害」は争いを起す根源である。この根源がなくならない限りは「戦い」の「仲良し」の解決方法では絶対に納まらないとして、以上の「経験則データ」を割り出して、論理的に納得しない様に脳が働くのである。
脳の働きは、兎も角としても、先ず、未来に於いても「戦い」はなくならないだろう。進化がどんなに進もうと、この「世の摂理」である「種」の存在は無くなる事は無い。依って、男性の論理的結論はこの摂理がある限りに於いて正しい事に成り、「現実的対応」が必要となる。故に、男性の「現実的対応」の思考原理は正しいことを意味する。
女性はこの「戦い」を最悪として考える。多くの感情が渦巻く最たるものであるからだ。
男性に於いても、「戦い」が好きな者はいないであろう。居るとすれはそれは思考錯乱者であろう。
男性の「戦い」は事の終局的解決の最終手段として「論理的な合理思考」の中に置いているに過ぎない。「戦争反対」と叫ぶ女性の多くは、自分を「正の位置」に置き、他を「悪の位置」に置いて他の責任を叫んでいる感情傾向がある。「思考原理」から止むを得ないのであるが、「戦争」に成る原因の一端も民族社会の中で同等に担っていることを忘れて叫んでいる。「叫ぶ」と云う事は、他の者が恣意的に「戦い」を選んで好んでしているとして、その「責任の所在」を叫んでいる事になる。
そんな人間は居るのか、自分の責任は何処にあるのかとなる。これが女性の感情主観の男性側から観た理解に苦しむ言い分となろう。
この様に「戦い」と云うキーでは「性による思考」の差は異なるのである。

思考データの体系化
つまり、男性は、今まで長い間の「遺伝と体験」で「会得し学習」した「知識:データー」を左脳に一つの形で「体系化:理想」して主体的に記憶して置くのである。
目標として、この記憶の「体系化(理想)」に沿って、一つの「構成要素(系列:ツリー)」の最も良いもの(合理)を導き出す事を行うのである。
得られた「合理の目標」を実現するために、「学習経験則:ウェーブ」に従って、その過去の類似する経験則を選択して、意識の中で事に当り行動するのである。
この思考パターンを採る事から”「皆仲良く」「傷がつかない手段」”と云う形では、過去の「遺伝子的データ」にも、「個人の経験則」からも系統化されていないので、割り出されたデーターで解決しない事と成る。多少の犠牲はあるとしても、男性思考は本来の抜本的な理想的な解決を求めようとする。
女性の場合は、この「理想」(計画)の記憶領域は、主体は「感情主観」として分類化、系統化されて「勘定理」(目標)に基づき収納されている。従って、論理的な思考は原則的には採らない。
採らなければならない時は、「訓練」してその経験側を左脳に記憶量を多くする以外にない事に成る。感情的で勘定的に処理しなければならない時は男性も同様である。
従って、女性はその感情思考のデータ以外の出来事(感情主観を超えて理解できない出来事:災害や悲惨事)が起こるとパニックになり易いのはこの事に成る。
この様に「深層思考の原理」が、元より下記の様に、元来、「脳の収納方式」そのものが異なるのであるから、「男女の思考」は完全一致は難しい。無理にまとめ様とすれば対立し、何とかまとめ様とすれば何れかが譲歩する以外にない。
何はともあれ、この世の神が創った摂理は、男女「6つの思考」があってこそ、この世の出来事に対応出来る様になっているのである。
神の成させる仕組みである。

「性」の差異の解決策
神仏が創ったこの解決策は「三相」(時、人、場所)を「適時適切」に採用する事以外に無いのである。
男女は「三相」を「理解、認識、訓練」し「性」の弊害を超える事が必要と成る。これに尽きる。
しかし、実生活ではこの事「三相の認識」が核家族で忘れ去られている。
昔は、三世帯家族が主体で有った事から、自然に「三相の認識」が教えられていたのである。
祖父母の年寄りは、口癖の様に日常生活の中で、「時が悪い」「相手が悪い」「場所が悪い」等を云ったものである。時には好んで、占い、八卦、方位、祈祷等を駆使して決めたものであった。
今でも遺されていて、結婚、建前、慶事、祝事にはこの「三相」を選んでいる筈である。
これは過去の「仕来り」の中に「性の弊害」を取り除く為に、「先人の知恵」として戦前まではこの「三相による解決策」が自然に生活の中に組み込まれていたのである。
不幸にしてかこの「先人の知恵」はアメリカナイズされて消えうせて行ったのである。
「家訓4」に遺されているのは、この「先人の知恵」として、上記の論理的根拠を得ずしても、それを忘れさせない為に、先祖は書き記していたのである。「自然の摂理」の弊害を克服する術として、人間の「性の弊害」を克服する術として、「深層思考と三相」を併用して教えているのである。
裏を返せば、今ほどではないが、先人達の時代にも徐々にではあるが、「性の弊害」が起こっていた事を意味している。
先人達の長い歴史の中にも有ったとすると、男女はこの上記する「性の深層思考」が有る事を認識し自覚する事、即ち、家訓4を知ること以外に無い事になる。
知らなければ、自然に男女の「対の相性」が合わない限り、又どちらかが引き下がる事をしない限り、「歪みの無い解決策」は有り得ない事に成る。

古来に於いての「日本的解決策」は、この”どちらかが引き下がる策(特に女性)”を「社会の掟」(謙譲の美徳)として採用されてきたが、現代に於いては、アメリカナイズされた社会でありながら、又、科学による付加価値も急激増大している社会でありながらも、未だ「男性の思考」に於いては、この「掟、慣習」が強く遺されている。地方によりその慣習、掟が遺されている気がする。否、全ての男性の心の奥底に持っているものであろう。表に出すか出さないかの違いであろう。
従って、この過渡期の社会では、男女はこの「家訓4」を知ること以外に無い。
そして、その「三相」を「採用する訓練」、男女の「人間性を磨く」必要がある事に成る。
先祖は、問題の発生原因は別として矢張り多くあったのであろう。
多分、先人は平安初期から江戸初期までの長い期間の「戦い」から来る問題、現在人は1800年代からの「付加価値の増大」から来る問題と成ろう。

どちらにしても。この思考形態を理解する事を根拠として、この家訓4はこれを説いているのである。

「脳の収納方式」
そこで、この事に付いてより理解を深める為に、「脳の収納方式」を解いて見るとよく判る。
人間の脳は進化して、脳の中は、判りやすく云うと、「幹、枝、葉」の形の3分類の形でデータ−化されて収納する仕組みと成っている。
(コンピータもトラック、クラスター、セクター、として最低8進法でこの仕組みを使っている。)
「幹」の収納庫は、論理的に組み立てられた形(理想:感情)で収納され、「枝」は幹を構成するものとしての要素群(合理:勘定)がまとめられて収納さる。幹枝を生かす「葉」に相当する収納庫(経験:個別データー)には内容別が収納される仕組みに成っている。
男性の場合は、この男性の「感情」(計画)の記憶領域は、経験側の領域、即ち、葉の部分に別々の収納庫に保存されていて幹枝として体系化されていない。

この様に、脳の動作原理は、先ずは無意識の中で起こり、次に意識へと戻る仕組みと成っている。
それは、「無意識の中」即ち、”人は自分の意識で「管理出来ない意識」がある”という事である。
そして、この「管理出来ない意識」は男女共に異なる意識を持っていると言う事である。
この意識の「有無」を認識しないで行動する事は、人生にとって「本道」を歩めないと言う事なのである。
つまり、究極、人間は他の動物と寸分違わずして、この世に生まれて来た目的は「子孫を遺す」事に有る。その過程での「喜怒哀楽」は目的ではない。
従って、この「管理出来ない意識」の存在有無を認識しない事は、人本来のこの世の目的の[子孫を遺す」と云う事に障害を生む結果と成るのである。その障害の過程は「喜怒哀楽」の「怒哀」の割合が人生の中で大きく占める事となり、結局、最終、「子孫を遺す」と事への確率は低下する事に成る。又、人生上の問題を起す事に成る。

最近、世情が近代化と科学化に依って付加価値が急激に増大して、人生を全とうする事に難しさが生じて来ている。そして、結果として人心に余裕が無くなり、且つ、人間性が低下する現象が生まれて来ている。
この様に成れば、思考に余裕が無くなり必然的に人の思考は仏教で云う「刹那思考」と成って来る。
この「刹那思考」から、人間本来の生の目的「子孫を遺す」と云う事よりは、「目先の喜楽」にその目的を見出そうとして来る。「刹那思考」つまり、「子孫を遺す」と云う長い目的ではなく、死を直前にして起こる「追い込まれた心情」と成り、人は「目先の享楽」とその継続を追い求める心情事に成る。
この様に成れば、必然的に人本来の目的から離れ、「歪みの人生」が生まれる。
特に、この様になれば、家訓4の云うその「深層思考」からすると、女性の思考が大きく左右される。
恐らく、未来はより近代化(付加価値の増大)が起こり、「人、時、場所」の「三相」の内、「時」が大きく変化するだろう。その「時」はより「加速度的な速度の進化」で起こるだろう。
必然的に、「科学」による「速度の進化」で有る事から、「合理の進化」と成るだろう。
そうすると、女性の「深層思考原理」の「感情主観」からすると、大きな「ストレス」が生まれるだろう。当然、女性に起こる以上、この影響が男性にも影響が出て来る事は必定だろう。
この事は、これからでなくても、家訓が遺された頃からも同じ事が云えたのではと思える。
つまり、「原始の生活環境」から男女の役割は、次第に「進化と付加価値の増大」が進み、より変化して女性側にストレスが掛かるものと成ったと見られる。故に、日本社会は女性側に対して女性の弱点を補う為に、且つ、本来の女性の幸が存在する場所を求める為に、「女性の慎み」を求めたのであろう。決して、女性蔑視から来るものでは無かったと「家訓4」の意味として理解している。

青木氏の「家訓10訓」の深意は概してはこの一点に通ずると理解している。
多分、主にこの「家訓4」は鎌倉末期頃の下克上と戦国時代の激しい「戦い」の中で生まれ追記されたと観ている。全体の家訓群は平安末期から鎌倉末期頃までの乱世の「訓や戒め」が追記されてきたものであろう。

その影響の典型的なパターンは、人間本来の目的とする子孫を遺すと云う行為「子育て」であろう。
「子を産み育てる」という事からすると、女性の思考原理ではなくては「産み育てる」は無理であろう。世の常として、災難や災害が起こると、先ず、女性と子供を助けると言う行為はこの事から来ている。男性が多くあっても子孫は遺せないが、女性が多く遺せれば子孫は再び蘇る摂理はここにある。昭和の大戦を始めとして、有史来2000の戦いの結末は男性が多く死するが、子孫は再び蘇っている。この摂理からすると、神は女性に「人間の本質」を与えたものであろう事が判る。遺伝子的にも卵子の中に人間の種の遺伝子を保持しているのはこの証明であろう。
決して蔑視差別から来る「慎み」では無い事が判る。神もこの「慎み」を以ってより安全に長く生き延びさせる「性」を与えたのであろう。

その証拠に、医学的にも女性には「女性ホルモン」で45歳程度まで病原体から体を保護する仕組みにも成っているし、「脂肪」で外的環境からその体を護っている。男性にはこの仕組みはまったく無い。神は”勝手にしろ”である。
それどころか、現代脳医学では、「側頭葉」には、「戦い」などの「人間の殺戮」の際には、この「感情」を司る部分の感情を停止する機能もある位である。つまり、「戦い−死」のシステムは本能的に出来ているのである。そのために神は更に重ねて、都合良く左脳の記憶集積回路と連動する「中紀帯」という小指の先ほどの「独立脳」を創り上げているのである。「戦い−死」と言う行為をより効率よくするために「未来を予測する脳」である。「原始社会」(食うか食われるか)の環境を「2足歩行」に成った事からより確実に生き抜く為に、この二つの脳は備えられた機能である。

男性が、養育期の子供を「育てる」と言う事に成ると、男性的な思考で「良悪、優厳、仲良く」の人間的な基本感情を教えると成ると無理が生まれる。逆に、成長期、思春期の子供に対する子育てとなると、女性には「良悪、優厳、仲良く」では厳しい世間を渡れる力を付けてやる事は無理であろう。
雑である男性ものと違い、女性の「心」細やかで伝えるものの養育でもこの様に成るだろうが、「体」の面でも「筋肉質」の男性では養育期の子供に伝わるものも本来のものとはならないだろう。同様にして「仕種」の「滑らかな仕種」でない男性のものは養育としては難しいものが一般的にある。
思春期(13歳頃)までの養育としては女性の「性(心、体、仕種)」でなくては成らないだろうし、15歳以上は男性の性が必要に成る。
昔の成人は寿命の関係もあるが、15歳と成っていたのは社会に出て鍛えられる「現実感覚」をこの時期から必要とされていたものであろう。
つまり、「養育」という言葉を分析すると2つに成るだろう。1つは「育てる」、2つは「鍛える」と成るであろう。そこで、女性は「性の思考」は「育てる」に有って、男性の「性の思考」は「鍛える」にあるとなる。本来2つの「性の思考」はもともとこれで「一対」なのである。
子孫を遺すと云う本来の「性」の目的はこの様に異なるのであり、神はそのように創造したのである。

家訓の活用具合例
事程左様に、あくまでも思考原理の「善悪の問題」ではなくて、「人、時、場処」の「三相」に対して、「適時(適切)」に、その「思考原理を保有する事の特長」で対処する事が必要である事に成ろう。
上記したが、現代に於いては、この「適時」(「適切」)が狂って来たと観られる。
言い換えれば、人間本来の目的「子孫を遺す」という前提に於いて、この世の「万事万象」に対して、この「二つの深層思考原理」が必要で、初めて「万事万象」に対応できる事に成り、”「合わせて一つの思考」”となる。
つまり、「男女の深層思考原理」は夫々が一つではないのである。その役割を分担しているのである。神はそのように定めたのである。
「家訓2」にも記述しているが、例えば、男性は成人まで母親に育てられ、父親に鍛えられて養育されるが、その後、嫁に引き渡されて婚姻後の養育を任す事に成る。
筆者は家訓の意を重んじて、かねがね嫁娘に3人の孫を含む「4人の子供」を育ててくれるように頼んでいる。そして、息子の結婚時には、”これからの社会に通じる養育は我々から、貴方が息子を自分の子供として孫と共に任せて育てるのであり、バトンタッチしたのだ”と、そして、”その心は「お釈迦様の掌の中で」としてお願いする”と、”決して一人の男性のみに偏らないでと、親としてお願いする”と懇願した。そうすれば、”貴方は貴方の育ての素晴らしい母親以上の「天下の母親」になる”と、”天下の本当のあるべき姿の女性になる”と付け足したのである。”何時しか貴方が我々の役目を果たす時がくるまで”と。いつも理解してくれて嫁はこの事(4人の子供)を云い笑い話に成っている。何よりも有り難きかな、そのように嫁は息子と孫の養育には社会に通じる様に育ててくれている。
我が家では、「家訓10訓」の前提として、”孫は息子夫婦だけのものではなく、先祖を含む家族のものである。息子夫婦はその養育に主責任を担っている。それに必要とする「経済的負担と精神的負担の軽減」は家族全体が担う。と云う考えにしている。
その考え方から、全ての思考が出ている。端的に云えば、孫が素直に元気に育ってるとすると、「ありがとう」と嫁に云う。
現在は、夫を只の男性と見なしている事に問題があり、女性のその人生での働きの重大さを認識していない所から来ていると思っている。
しかしながら、むしろ、本来は、男性よりは女性の方が難しい「人生負担」を担っていると考える。男性の難しさは本質は「単純無比」で、女性の方が「複雑繊細」であろう。
その思考原理から見ても、「産み育てる」と云う機能原理に思考形態が出来ているが故に。現在の社会では苦労が多いであろう。
先人も時代は異なれど、家訓10訓から観ても同じ考えに至っていたと思っている。

この言い分は「家訓1−4」を一まとめにした筆者の結論であった。

[結論]
ところが、この家訓4には、次ぎの事が簡単に書かれている。
”この家訓4に拘ってはならない”としている。
これを理解するには大変な時間を要した。
「性」に違いがあることは医学的にも調べても理解できたし、その解決策も理解できる。
知っておいて対処すれば、男女共に問題は無い筈だ。別に蔑視している訳ではない。
後で気がついた事であるが、大きな落とし穴があった。
先祖は科学的根拠は何も無いのにここまで摂理を的確に見抜いてまとめられたものであると驚いているのに、しかし、確かに拘っては成らない事である事が判った。
これは難しい。仏教禅宗の禅問答である。”家訓4は摂理である。しかし、摂理に在らず。これ如何に”である。昔は先祖は邸に禅僧が常に長投宿させていたし、代々漢詩や漢文による禅問答をしていたので”禅ボケか”とも感じたが違った。筆者は根からの理屈の技術屋だから、”それを理解しそれを「三相」を以って適応すれば、それはそれで良いのではないかとも思ったが。後は、個人の資質の問題であろう。”と考えていた。
”むしろ人を理解すると言う点では良い事で一歩も二歩も前進では。”とも考えた。
では”何故拘っていけないのか”を検証して見る。

1 仏教の説法の「色即是空、空即是色」から如何なるものに対しても「拘り」を誡めているのか。
2 「性」の摂理と解決策では何か問題が出るのか。
3 男女の何れかから不必要な反発を受けるのか。

究極は、1の答えとしては”「拘り」を誡めている”事に到達する訓であろうが、この2つの「深層思考」はともに脳に依る無意識の中での事であるのだから、例えば、男側が女性側に争いを避ける為に、この摂理の「理解」を受ける様に説得しても、男女にはそれぞれの思考を持ちえていないのだから、「理解」を得られる事は出来ない理屈となる。つまり、「永遠のテーマ」となる。
なにせ、「論理的思考」をベースにしている男の「性」と、「感情的思考」をベースにしている女の「性」では”根本的に相反する位置に”あるのだから、”「理解」を求めて一致させ様とする事態”が間違っている事になる。融通利かせる別脳があるのであればいざ知らず、無いのであるから、止む終えず少なくとも間違いであるだろう。
むしろ、この家訓4では、”一致させない事”が本来あるべき姿であり、”相反している事”で”物事が6つの思考から正しく導かれるのである”としているのだろう。
それを”如何にも正しい行為かの如く無理に「理解」という形の解決策に持ち込もうとする事”が”その行為に歪みを生む事になるのだ”としているのだろう。これが2の答えであろう。
この「行為」そのものが、過去の社会では「慎みの美徳」として女性側に求めていたが、何れかの「性」の方に「我慢、妥協、諦め」を生む事になり、それが何時しか「ストレスと成って爆発する事」(不必要な反発)の結果を生み、「営みに失敗を被る事」になるのだろう。これが3の答えであろう。

伊勢青木氏に於いては、この「慎みの美徳」を「社会の掟」の様に、当然の如くに求め理解を強いた結果、「900年も続いた紙問屋」や「伊勢青木氏の家柄」の大母体を維持する事に目が向き、”女が青木を潰す”という「一方的な戒め」として伝えられ来たのであろう。
明治35年に「慎みの美徳」の歪みが出たのか、”女が青木を潰す”(松阪大火の火元)の結果がまたもや出てしまったのであろうか。先祖伝来のステイタスの生仏像さまの戒めであろうか。
伊勢青木氏の失態は、家訓4がありながらも、この事に拘った為に、この訓の本質を見失っていたのかも知れない。
では、この「拘っては成らない」の本質とは、どの様に解せば良いのかということである。
幸い筆者の時代では、先人の失敗を繰り返したくない事から、この「性の摂理」の科学的根拠を探求して得ることが出来た事から、先人と違う「慎みの美徳」とは違う本質なるものを得たと見ている。
幸い時代と環境が違った事から得られたものであるが、未来に於いては、再びそのような環境が生まれて、「慎みの美徳」の方式に戻る事もあり得るだろうが。
何れが真実かは知り得ないが、兎も角も、”「拘り」の戒めの解釈”の答えは、現代では少し違うと考えている。

本「家訓4」の「拘りの誡め」の結論は、次の様に成るだろう。
そこで、つまり、”何れか一方が永遠に「理解」の得られない「性の摂理」がある事を知り、その「性の知識」を以ってして上手く処理せよ”という事であろう。

そして、現代に於いては、”過去の「慎みの美徳」環境から脱却して、その事により、「我慢、妥協、諦め」の環境をより少なくする様に努めよ”としているのであろう。

”世の「理解」というお題目は、「性の摂理」にだけは通用せず”と認識し、”「性の摂理」があるからと言って拘らず、””「性の摂理」を決して相手に求める事は相成らず。としている事になる。
兎角の「理解」の「衆生の論」は金科玉条の様にもてはやされるが、決して「家訓3」でも誡めている様に「性の摂理」に関しては惑わされては成らないものであろう。

「性の摂理」は上記した通りであるが、少なくとも、この「家訓4」の「性の知識」を知る事で、より相互に「求める理解」ではなく、「自然の理解」(「自然に生まれる理解」)が生まれるであろう事を期待する事であろう。

しかし、不幸にして、この「自然の理解」が得られにくい社会環境に成っている事は否めない。
まず、「性の摂理」の知識が、現代社会の相互間のコミニティーが低下して、伝わらなくなっている事で、この「自然の理解」が得られず、男女間のトラブルが多発しているのもこの原因であろう。
そして、再び、日本的という言葉を使い、「慎みの美徳」が短絡的に叫ばれる様に成っている事も事実であろうし、両極の「求める理解」もマスコミでは誠しやかに論じられているのには疑問を感じる。
そこで、少なくとも、「家訓1」から「家訓4」では、この知識の提供の一助になればとして家訓だけを期する事だけではなく、その理を論じている事に理解を得たい。

[重要ポイント]
「性」による深層思考
脳の無意識の3基本動作 「計画 処理(目標) 実行」

「性」の無意識の思考原理
女性の無意識思考 「感情 勘定 妥協」
男性の無意識思考 「理想 合理 現実」

「性」の働き
「3つの性」(体の仕組み、心の仕組み、仕種の仕組み)

「性」を管理する脳
「脳陵体」「中紀帯」

「合理」と「勘定」との差異
男性の場合は、「理想」に基づく「論理性の合理」である。
女性の場合は、「感情」に基づく「数理性の勘定」である。

「性」の目的
男性の目的は、子孫を「鍛える」にある。
女性の目的は、子孫を「育てる」にある。

「性」の進化
「生存に適した進化」
「環境に適した進化」
「科学に適した進化」
「突然変異による進化}

「性」の過程
「性の転換」
「性の合体」
「性の分離」

「性」の管理源
「腸の管理」
「脳の管理」

「性」(脳)の管理)
「性の進化」
「性の分離」
「性の整理」

「性」(脳)の3つの進化(栄養素)
「Naイオン」
「Caイオン」
「Mgイオン」

「脳」の性情報の体系化
「3段階の収納体系化」
「幹、枝、葉」の形の3分類

「性」の変化要素
「増大化」
「拡大化」
「発達化」
「変異化」
「進化」


次ぎは「家訓5」に続く。

← 前のツリー | ツリー一覧に戻る次のツリー →


<-ホーム | 研究室トップ | 管理 | かんりにんにメール
青木氏氏を お知り合いの青木さんに 紹介してください。