青木氏のルーツ & 雑学研究室

小中高校生の皆さんへ、難しい漢字の読み方 - 便利な裏技

<-ホーム | 研究室トップ | 管理 | 新規投稿

ニックネーム登録 | ツリー | スレッド | 投稿順

スパム投稿がひどいため、この掲示板は御役御免となりました。
新掲示板はこちらです。⇒青木ルーツ掲示板
⇒青木氏氏 研究室雑談掲示板

オススメレポート
・藤原秀郷主要5氏と家紋の研究
・日本書紀と青木氏
・日本人の発祥
・ルーツの姓の発祥
・青木姓の発祥源
・大化の改新
・皇族賜姓青木氏の背景
・皇族賜姓青木氏の背景1
・皇族賜姓青木氏の背景2
・皇族賜姓青木氏の背景3
・賜姓青木氏の弱体
・青木氏と血縁族
・藤原秀郷一族の生き方
・飛鳥京の防備と賜姓族氏
・藤原秀郷と坂東八平氏
・青木氏の官位と職位の研究
・京平氏と坂東平氏の説
・秀吉と家康の系譜偏算
・明治以降の第3の青木氏
・鈴木氏のルーツと青木氏
・信濃の諏訪の旅
・仮説 今年の温暖化は。

◆-嶋崎氏について。Re: 嶋崎氏について。

No.298
 引用付き返信 | 返信 | 削除 | 管理

嶋崎氏について。
井上 のり子さん 2006/10/05 (木) 19:14 [ メール ]
町田市小山の嶋崎について、尋ねさせて頂きます。
 津久井城落城の時、総代名主としていた嶋崎。城碑を私費で造った
嶋崎が居ます。この嶋崎は、どこの嶋崎なのでしょうか?
 常陸の嶋崎氏とは、関係無いのでしょうか。
家紋は、ゴサンノ桐、三を円で囲ったものです。
 ただいま、分かっている一番古い死亡日は、1536年死亡の方です。
何か分かりましたら、幸いでございます。
No.300
 引用付き返信 | 返信 | 削除 | 管理

Re: 嶋崎氏について。
青木研究員 さん 2006/10/05 (木) 23:47
>町田市小山の嶋崎について、尋ねさせて頂きます。
> 津久井城落城の時、総代名主としていた嶋崎。城碑を私費で造った
>嶋崎が居ます。この嶋崎は、どこの嶋崎なのでしょうか?
> 常陸の嶋崎氏とは、関係無いのでしょうか。
>家紋は、ゴサンノ桐、三を円で囲ったものです。
> ただいま、分かっている一番古い死亡日は、1536年死亡の方です。
>何か分かりましたら、幸いでございます。
井上さん 今日は。始めまして。

早速ですが、お尋ねの件についてこのサイトは青木氏にかかわるルーツ等の研究を中心としています。
よつて、このお尋ねの嶋崎氏に付いては責任ある回答が出来ません。
了解ください。

ただ、折角このサイトにお尋ねくださいましたので、私の知る範囲の事をお話する程度ですので参考にしてください。

先ず、第1点ですが、嶋崎氏のことに付いては藤原秀郷流青木氏のルーツに拘ることでもありますのでこの点から情報を提供します。
嶋崎氏の一部が藤原秀郷との血縁関係から藤原秀郷流の青木氏を名乗りましたがこの調査の範囲から嶋崎氏に付いて述べます。

嶋崎氏は元は平家の支流一門の氏です。
この嶋崎氏には家紋は3つあります。「丸に一文字紋」「稲丸に丸一文字」で綜紋が「丸に揚羽蝶紋」です。昔の神奈川郡横浜付近に分布しています。

次に、家紋ですが、「丸に五三の桐紋」ですが、この家紋に付いての由来に付いての詳細を研究室の桐紋の所か、家紋掲示板の桐紋のところにレポートしていますので参照してください。

結論はこの桐紋を家紋とする氏は特別な事情があり、江戸中期から明治以降につけた家紋です。従って、嶋崎氏がこの家紋をもつ事はありえません。

本来、この家紋は変紋して26あるのですが、この「五三の桐紋」だけは絶対に持つ事はありえません。天皇の家紋で象徴紋ですので。

しかし、明治以降はこの禁止令がとけましたので庶民が挙って家紋としました。
天皇の象徴紋ですので、遠慮して丸付き紋としました。
この紋には本来丸は有りません。つまり天皇の分家はないわけですから。
丸付き紋は分家紋です。

さて、この元平氏の嶋崎氏は藤原秀郷流青木氏の支流一門ですので、藤原秀郷一門の本家の兼光系の一族が、朝廷の命で陸奥の国の鎮守府将軍として代々務めましたので、護衛役として陸奥まで出向きました。
藤原秀郷一門の掟で必ず赴任地に子孫を残してきています。
この藤原秀郷の兼光系青木氏ですから元嶋崎氏(青木氏)も陸奥に赴いています。
ですから、鎌倉期まではこの嶋崎氏は陸奥にも子孫を残してきています。

常陸はその後移動でしよう。藤原秀郷一門(武蔵、下野、下総、常陸)の勢力圏ですので戻ったと考えられます。
藤原秀郷宗家を入間に置いて神奈川横浜までを半径として円を描く様に主要9氏の青木氏の本家筋が固めて守っています。常陸はこの一つです。

下克上と戦国時代の室町期と江戸時代の混乱期には法的根拠を無視して(国抜け)出世を夢見た苗字の持たない庶民の若者が各地に移動した時期がありました。この時期の氏のルーツ確定は困難です。

町田市ですから、神奈川郡域の東外れですから、この嶋崎氏は元はこの付近に定住していましたのでその子孫の陸奥と常陸の嶋崎氏ともいえます。後に常陸の領国にも子孫を当然遺したことに成ります。

しかし、家紋が丸付き紋の桐紋ですので矛盾が生まれます。

家紋が異なっていますので、苗字を持たない庶民(名主も含む)が明治初期に土地の豪族であつた嶋崎を名乗ったか、上記の室町江戸期の混乱期に嶋崎の氏名と家紋を保持したとも考えられます。しかし、家紋だけは同じにすることが出来ずに明治初期に大変はやったこの五三の桐紋に丸をつけたものと考えられます。

第一は明治初期には庄屋や名主など土地の名手は土地の豪族(嶋崎氏)であつた氏名を付けました。一族で合ったかのように家紋だけは別にしてなのりました。
神社仏閣に高額の金品を積み頼み込んで良い家柄の氏名をいかにも子孫であるかの如くして証明してもらい届け出ました。
明治以前までは当時は神社仏閣が戸籍簿の役割を担っていました。
維新後は条例にて政府が行う事になりこの現象がおこりました。

第二は江戸期には混乱から安定期にはいったので御家人なることや他に仕官するには家柄と家紋を必要としましたので、武士になったものは挙って他の氏名と家紋と系譜を偏纂と搾取したのです。

お尋ねの嶋崎氏はこの2つの時期のいずれかの嶋崎氏と見られます。

桐紋を無断で家紋とした時期のことから江戸初期前後の時期であるのと上記の混乱事と又この時期とお尋ねの嶋崎氏の一番古いご先祖との時期が一致しますが、郷士や名主か庄屋や豪農で合った事からしますと第二の氏と成ります。
名主は上記4つの者が交代でつかさどりました

理由はこの郷士や名主や庄屋や豪農はいずれもが土地の名主や庄屋にもなりましたので江戸期には苗字帯刀を許されていました。
近藤勇や坂本竜馬の実家などはこのルーツの氏です。

この元平氏の嶋崎氏のルーツは藤原秀郷流青木氏の主要9氏の一つとして116氏にも子孫を広げています。家紋と氏名と一致する嶋崎氏です。

第二の時期にこの氏名を出世した土地の者が名乗ったという事に成ります。
事態を経て名主までなったと成ります。

以上参考にしてください。
何かご質問が有りましたら青木氏以外のことですのでお答えが出来るかわかりませんが遠慮なくお尋ねください。

← 前のツリー | ツリー一覧に戻る次のツリー →


<-ホーム | 研究室トップ | 管理 | かんりにんにメール
青木氏氏を お知り合いの青木さんに 紹介してください。