青木氏氏 研究室
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  [No.126] Re: 先祖と宗教(キリスト教の教え−7 主題5)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 16:11:25

Re: 先祖と宗教(キリスト教の教え−7 主題5)
副管理人さん 2007/10/23 (火) 07:01
5「仏教とキリスト経の妥協の余地」
設問1−10は主題4に関わりますが、6からは主題5にも関わります。

では、キリスト教の設問として、6番の続き、7の問題の説明に入ります。
設問
1 他宗を少なくとも先ずは強く排他している事。
2 教えがかなり強引である事。
3 キリスト個人を神扱いにしている事。
4 兎に角にも、”先ずは信じよ”である事。
5 人は全て悪の子供であると否定する事。

5「仏教とキリスト経の妥協の余地」
6 中間的考え(柔軟性)は無い事。
7 全体が闘争的な発想に成っている事。
8 特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。
9 先祖に対する考えは全体として希薄である事。
10 「民族的」と言う考えを認めていない事



7番目の事です。(全体が闘争的な発想に成っている事)
この設問を説くには、仏教と対比しながら、教義より現代のキリスト教の行動を検証する事の方が明確に成ると考えます。

仏教の様に、他教の聖域に入り、積極的に布教をすると言う事は仏教には少ないと考えます。
。むしろ、インド(ブッタガヤ)から中国を経由して日本に伝教してくるまでの東中国(後漢)過程には、多くの弾圧があった事は史実であります。
そして、最初の伝導は、司馬氏の始祖(馬の鞍等の武具を製作する鞍作部の技能職人である)司馬達等が日本に帰化してきた時に、私伝として広げたのが最初(535-550年頃)であるとしています。その中国後漢(618年)が滅びて、阿多倍に率いられた17県民200万(帰化)に依って爆発的に広がったとされています。

(参考 阿多倍:後漢光武帝から末帝21代の献帝の子石秋王の子供阿智使王と孫阿多倍の二人が引き連れた200万の中国の民が九州へ上陸し全土を平定し、関西手前までの32/66国で征圧し帰化する。)

これが次第に周囲の中国(後漢)の渡来人の部技能職人以外に、彼らから技能を教わって恩恵を大きく受けている日本人にも自然の形で瞬く間に爆発的に(国32/66の範囲)伝わったものであります。
書籍的には、552年(538)百済から経典が入ったとされています。585年の物部氏と蘇我氏との戦いだけで伝導は決定します。594年の三法の詔に始まります。(後に神道と融合する)

この仏教の伝播の勢いは、この技能集団の部制度の影響が最も大きく、又、民族の融合もスムースに進んだ原因はただ伝わったと言うだけでは無く、技能集団の彼らがもたらした仏教の影響が大きかったのではと考えています。
現在、世界の民族の融合を観察するに、中東では民族戦争が多く起こっていて絶え間なく1000年経ったいまでも融合は余り進んでいないのが現状であります。
まして、日本は7つの民族が全て分離することなく、それも300年程度(史料的には阿多倍の孫娘を母に持つ桓武天皇期以降には出て来なく成る。この原因の詳細は研究室の阿多倍関係のレポートで参照)で一つになるには何か特別な要素がなければ出来るものではないと思います。
その要素とは、「天神文化」の「神道との融合」と、この「技能集団と仏教」の結びつきがもたらした結果であると考えています。
つまり、そして、その伝播の経緯は、「神道的仏教伝播」と「民族融合」が相互に関連して平行して進んだと観ています。
日本仏教、特に奈良期から鎌倉期までの「顕密仏教」では、この背景があったことを念頭に留意して比較評価して観るべきだと考えます。
これは「顕蜜仏教」と「新鎌倉仏教」とに日本仏教の違いを区分けされている一つの要因でもあります。
その仏教の姿や役割がこの境の時期を以って異なっている所以であろう事ははっきりしています。
民族と仏教の2つの融合過程はこの域を境に一度に変化した時でもある事が言えます。
これらの事が欠けての評価は判断に間違いを起すとも考えます。

そこで、先ず、上記の事を留意して、キリスト教では、この様な仏教の自然に近い伝来と言うよりは、歴史的には植民地侵略をベースとして政治的施策を施して爆発的に伝播して行ったのが、近代に於いての基本伝導の姿であろうと考えます。
この時、伝導や教義はその植民地の民族的背景を配慮してのものでは無かったであろうし(価値観の配慮と伝統の無視)、
むしろ、それを行うと、世界各地に異なる教義のキリスト教が出来てしまう事になります。
この事は、その民族間のキリスト教の争いともなり、キリスト教の存亡にも成りかねないことを意味するであろうと考えます。
主題4の所で記述したキリスト教の教義の矛盾がある事を論理的に充分に知りえながら、一つの教義を押し通す事を実行したのであろう事が覗えます。(強引で闘争的)

日本の仏教は主題4で記述した様に、「天神文化」と言う「神道と仏教との融合」と言う手段と「民族融合」も備わって伝導を成し得たのです。
仏教もキリスト教も同じ政治性を含む伝導ではあったが、仏教は融合と言う形でその対立を避けたのであるから、キリスト教とはその体質は異なります。
又、仏教伝来のほぼ直ぐ後に儒教が伝導しているが、この儒教も何処に教義の考えがあるのか判らない程に同化し融合しています。
しかし、儒教は大きく伝播せずに単独の形でのものは無ったのであります。
儒教は江戸時代にその社会情勢から突然に学問として世に出されたが江戸幕府の禁令で更に突然に消えました。
しかし、社会慣習の中には、儒教の慣習や作法や思考姿等の生活の慣習の中などに気づかずに多く残っています。
例えば、葬儀のときは儒教では正座や豪泣、仏教では胡座、不泣と宴の様に遺されているのです。つまり、これも小さい「融合」であります。

現在に於いても、世界各地で紛争が起こっています。
その紛争を武力とキリスト教で世界平和を大儀にして解決しようとしている様に見えます。
キリスト教の彼らにしてみれば、この二つの事で扮装は収まると真剣に思っているであろうと思いますが、しかし、そう簡単ではありません。ここに、「民族」(価値観の配慮と伝統の無視)という遺伝子に絡む大問題を無視している強引さが彼らキリスト教にはあります。
各民族には、その特異な妥協し得ない「事情や環境」がある事は否めません。当然に、必然的に、その特異性からそこには心の悩みを解決する為に独特の宗教が存在する筈であります。

キリスト教側では、その教義で民の安寧を計ろうとするでしょうが、結果は火を見るより明らかであります。
”宗教戦争”に変化して行き、中東の様に国と民を巻き込んでのイスラム教とキリスト教との益々の争いと発展して行く事は必定です。
イスラエル、イラン、イラク、アフガン、インドネシア、フィリピンの様に国をあげての宗教戦争に成っている事が証明しています。この全て裏にはキリスト教の浸透策が潜在しています。
先日の韓国のアフガン拉致問題は7の設問のその象徴的出来事です。

弱り目に祟り目でありますが、日本も例外では無く、大戦の敗戦後は、この危険性はあったのです。
しかし、神道仏教の融合教義の完成度が高い事により、明治初期の「廃仏毀釈」だけで、戦後の内乱は避けられたのであります。
確かに、我々から観ると、イスラム教にも強引とも攻撃的とも思われる「聖戦」や考え難い「宗教作法」などもあります。
しかし、キリスト教やイスラム教などにしても、それはその国の民が良し悪しに関わらず「良し」とするのであれば、それはそれで良い事であります。
「悪い」とするも、当然に、何処に於いてもその「攻撃的強引さ」は「宗教の代理戦」の形として現われて来る事になるでしょう。
この問題には、その特異な妥協し得ない「事情や環境」がある事は否めないし、解決出来ないからであります。
国民の一致団結(融合)を成し得なければ、その民の選択と決断に関わる事に成ります。

この様に、宗教だけを見るのではなく、政治の裏には必ず、現実には、この様な体質を持つキリスト教の動きが存在しているのです。(そもそも、”信じよ”には反意として攻撃的の語意を持ちます)

仮に、キリスト教の伝播と浸透のそれを成し得るには、日本の仏教と民族の融合過程のように、先ずは少なくとも「キリスト教と仏教の融合過程」が必要であります。
この論理で言うと、宗教界では、現在そのような教義を前提とする宗教団体(生長の家)があり、徐々に日本の国に浸透しています。
この教義の姿や前提が伝播過程の通るべき道として正しいのではないかと推理しています。
しかし、この手法ではローマ法庁のようなキリスト教の全体の形は採れずに、本体はいつかキリスト教の一括統治が働かなくなり出来ずに崩れることを意味します。従って現実には無理なのです。

しかし、私には、体質的に出来ることならば、避けたいキリスト教義とその否融合の手法と観ますが、皆さんは如何ですか



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