皇族賜姓青木氏の背景 1
青木研究員 さん 2005/06/25 (土) 11:48
写真は青木氏の発祥木 (木名 あおき 古代の神木 三象徴物の一つ)
前背景では青木氏は順調に150年も伸びてきたが、桓武天皇期にはそのいくつかの政治的施策(前記)により急に衰退へと追い込まれることになり、反面、藤原氏は勢いを伸ばしてきた。 生きる為、子孫を残すための戦略のズレがこの場面を引き起こしたのである。 少なくとも、桓武期には皇族賜姓青木氏は約35年程度の間には子孫を多く増やす程に力は無くなり、否、減らす方向へと進んだと見られる。 特に、藤原藤成氏に守護を奪われるなどして、伊勢青木氏は直接の影響を受けたと見られる。藤原秀郷流青木氏と違い、その子孫が少ないのはこの時の影響も働いている。 (5地に少なく関東伊豆付近に移動している傾向がある) 後には、次々と難題が降りかかる。検証では10の難題が降りかかっている。繰り返し来るこの難題は皇族賜姓族と言う宿命と地理的要因によると考える。 しかし、950年には又立ち上がれるほどの力を保持して来ていた事が清和源氏と藤原氏との3者連携のその動きで判断出きる。 多分、この時の影響で、近江の青木氏の末裔が極端に少ない原因に成ったと見られる。近江から離れたのは桓武天皇の青木氏への圧政であったと推測する。近江青木氏は再び戻るが佐々木流青木氏が存在するのはこの戻った時の生き残る妥協策であろう。 何故なら、近江佐々木氏は生き残っている。そして、丹波や大江にも佐々木氏の子孫が繁栄している事が証拠である。 ここで、近江佐々木氏のことに付いて多少述べる事とする。 近江佐々木氏には二つの流れがある。 1 天智天武期伊勢青木氏と同じくして第7位の川島の皇子が天武天皇により、地名の近江の佐々木村の名を採って、特別に賜姓を受けたとされている。本来は第7位からは賜姓をださない慣例になっていたので、伊勢王と兄弟の川島の皇子を天武期の朝廷に対する貢献を鑑み丁重に扱ったことが伺える。(日本書紀にも伊勢王に近いその貢献が多く出て来る) (参考 文武天皇以降と桓武期の賜姓青木氏以外の皇子はこの当時、神社仏閣門跡院などに入山した。還俗時は青木姓を名乗った。これが第三の青木氏で室町から江戸の初期までと明治初期の2回にわたり青木氏の名が利用された原因です。皇子にとっては厳しい定めであったことを追記する。当時は皇子はだれでも栄華を受けない事が子孫を少なくした原因の一つです) 他の文献では明確に佐々木氏を書いているものは少ない。 2 宇多天皇の時(867−931 位887−897)の末裔の者で臣下した佐々木盛綱を祖とする佐々木氏で、この佐々木氏は全国10国に及び守護を務め、この江州佐々木氏が全国に広がった。 (参考 盛綱は以仁王の乱で伊勢青木氏の跡目を継いだ「京綱」源の頼政一族に加担している) この佐々木氏から、上記の丹波佐々木流青木氏(元の姓は上山氏でこの系譜をなんらかの方法で引き継いだ)が誕生した。 1は 桓武期前の佐々木氏(近江)、 2は 後の佐々木氏(丹波) 後に戻った近江青木氏と佐々木流青 木氏系を造る。これを上山氏が城持ちになった時、この系譜を 買い取り引き継いだと思われる。 この様に近江丹波には桓武天皇期前には佐々木氏と青木氏とが住み着いていた。しかし、後に第2の佐々木氏が元祖佐々木氏の跡目を引き継いで、全国(北陸、越後、近江、山城、大和、淡路、阿波、土佐、伊予、石見)に佐々木氏の子孫を広めた。 もう一つの広めた理由はこの各地の佐々木氏の菩提寺の住職を務めたこともその一つである。 藤原秀郷流青木氏もこの菩提寺住職を務めたことに子孫を多く遺した理由でもある。 しかし、子孫の少ない理由のもう一つは賜姓青木氏にはこの努力が足りない事が伺える。(調査中) 賜姓族5家の青木氏は桓武天皇期頃(790−850)を境にして大きく変化している。そして、975年頃を境に再び、息を吹き返している。 次のレポートは嵯峨天皇期からの青木氏の行方源氏と平氏と藤原氏の絡み合いの中での事を記する事にします。
(参考 三つ象徴:笹竜胆の綜紋 生仏像様 青木の神木)
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